第一帖 桐壺


01 KIRITUBO (Myouyu-rinmo-bon)

1
第一章 光る源氏前史の物語


1  Opening of the tale of Hikaru-Genji

1.1
第一段 父帝と母桐壺更衣の物語


1-1  Father and mother's tragic love

1.1.1   いづれの御時にか女御、更衣あまた さぶらひたまひけるなかにいとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めきたまふありけり
 どの帝の御代であったか、女御や 更衣が大勢お仕えなさっていたなかに、たいして高貴な身分ではない方で、きわだって御寵愛をあつめていらっしゃる方があった。
 どの天皇様の御代であったか、女御とか更衣とかいわれる後宮がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深い御愛寵を得ている人があった。
  Idure no ohom-toki ni ka, nyougo, kaui amata saburahi tamahi keru naka ni, ito yamgotonaki kiha ni ha ara nu ga, sugurete tokimeki tamahu ari keri.
1.1.2   はじめより我はと 思ひ上がりたまへる御方がためざましきものにおとしめ嫉みたまふ同じほど、それより下臈の更衣たちは、 ましてやすからず。
 最初から自分こそはと気位い高くいらっしゃった女御方は、不愉快な者だと見くだしたり嫉んだりなさる。同じ程度の更衣や、その方より下の更衣たちは、いっそう心穏やかでない。
 最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力に恃む所があって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬の焔を燃やさないわけもなかった。
  Hazime yori ware ha to omohiagari tamahe ru ohom-katagata, mezamasiki mono ni otosime sonemi tamahu. Onazi hodo, sore yori gerahu no kaui-tati ha, masite yasukara zu.
1.1.3 朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、 恨みを負ふ積もり にやありけむ、いと 篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、 いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人の そしりをも え憚らせたまはず、世のためしにも なりぬべき御もてなしなり。
朝晩のお側仕えにつけても、他の妃方の気持ちを不愉快ばかりにさせ、嫉妬を受けることが積もり積もったせいであろうか、とても病気がちになってゆき、何となく心細げに里に下がっていることが多いのを、ますますこの上なく不憫な方とおぼし召されて、誰の非難に対してもおさし控えあそばすことがおできになれず、後世の語り草にもなってしまいそうなお扱いぶりである。
夜の御殿の宿直所から退る朝、続いてその人ばかりが召される夜、目に見耳に聞いて口惜しがらせた恨みのせいもあったかからだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へ下がっていがちということになると、いよいよ帝はこの人にばかり心をお引かれになるという御様子で、人が何と批評をしようともそれに御遠慮などというものがおできにならない。御聖徳を伝える歴史の上にも暗い影の一所残るようなことにもなりかねない状態になった。
Asayuhu no miyadukahe ni tuke te mo, hito no kokoro wo nomi ugokasi, urami wo ohu tumori ni ya ari kem, ito adusiku nari yuki, mono-kokorobosoge ni satogati naru wo, iyoiyo akazu ahare naru mono ni omohosi te, hito no sosiri wo mo e habakara se tamaha zu, yo no tamesi ni mo nari nu beki ohom-motenasi nari.
1.1.4   上達部、上人なども、 あいなく目を側めつつ、「 いとまばゆき 人の御おぼえなり
 上達部や 殿上人なども、人ごとながら目をそらしそらしして、「とても眩しいほどの御寵愛である。
 高官たちも殿上役人たちも困って、御覚醒になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどの御寵愛ぶりであった。
  Kamdatime, uhebito nado mo, ainaku me wo sobame tutu, "Ito mabayuki hito no ohom-oboye nari.
1.1.5 唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ」と、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、 楊貴妃の例引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、 かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにて まじらひたまふ
唐国でも、このようなことが原因となって、国も乱れ、悪くなったのだ」と、しだいに国中でも困ったことの、人々のもてあましの種となって、楊貴妃の例までも引き合いに出されそうになってゆくので、たいそういたたまれないことが数多くなっていくが、もったいない御愛情の類のないのを頼みとして宮仕え生活をしていらっしゃる。
唐の国でもこの種類の寵姫、楊家の女の出現によって乱が醸されたなどと蔭ではいわれる。今やこの女性が一天下の煩いだとされるに至った。馬嵬の駅がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気の中でも、ただ深い御愛情だけをたよりにして暮らしていた。
Morokosi ni mo, kakaru koto no okori ni koso, yo mo midare, asikari kere" to, yauyau amenosita ni mo adikinau, hito no motenayamigusa ni nari te, Yaukihi no tamesi mo hikiide tu beku nari yuku ni, ito hasitanaki koto ohokare do, katazikenaki mi-kokorobahe no taguhinaki wo tanomi nite mazirahi tamahu.
1.1.6   父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしあるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにも いたう劣らず、なにごとの儀式をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき 後見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。
 父親の大納言は亡くなって、母親の北の方が古い家柄の人の教養ある人なので、両親とも揃っていて、今現在の世間の評判が勢い盛んな方々にもたいしてひけをとらず、どのような事柄の儀式にも対処なさっていたが、これといったしっかりとした後見人がいないので、こと改まった儀式の行われるときには、やはり頼りとする人がなく心細い様子である。
 父の大納言はもう故人であった。母の未亡人が生まれのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢カのある派手な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者を持たぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。
  Titi no Dainagon ha nakunari te, haha kitanokata nam inisihe no hito no yosi aru nite, oya uti-gusi, sasiatari te yo no oboye hanayaka naru ohom-katagata ni mo itau otora zu, nanigoto no gisiki wo mo motenasi tamahi kere do, toritate te hakabakasiki usiromi si nakere ba, koto aru toki ha, naho yoridokoro naku kokorobosoge nari.
注釈1いづれの御時にか「御」は「おほむ」と読む。「御 オヽム オホム」(色葉字類抄〔院政期〕)。「御時」は、ご治世の意味。「帝の」の意が省略されている。係助詞「か」(疑問の意、自問のニュアンス)は下に「ありけむ」などの語句が省略された形。1.1.1
注釈2女御更衣この物語では、「女御(にようご)」は大臣(従二位)や親王の娘が、「更衣(かうい)」には大納言(正三位)以下の殿上人(昇殿を許された五位及び六位蔵人)以上の娘がなる。皇后または中宮について触れられていないことは、まだそれが空位であることをほのめかす。1.1.1
注釈3さぶらひたまひけるなかに「さぶらふ」は「あり」の謙譲語。お仕えする。伺候する。尊敬の補助動詞「たまふ」(四段)は「女御」にあわせて付けられたもの。1.1.1
注釈4いとやむごとなき際にはあらぬが「いと---ぬ」(打消の助動詞)は、「たいして--ではない」の意になる。「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形。「が」(格助詞)は主格の意で、以下の「時めきたまふ」の主語となるので、その間に「方」などの語が省略された形。文脈上、「--で」と同格のようになる。1.1.1
注釈5時めきたまふありけり「たまふ」(連体形)の下には、「方」などの語が省略されている。『新大系』は「「ありけり」は竹取物語や伊勢物語の冒頭部にも見え、「おったという」あるいは「今にありきたる」と、人物の登場を示す言い回し。桐壺更衣の紹介である」と注す。「けり」(過去の助動詞)は、同じく過去の助動詞「き」がその事象が過去にあったことまたはその人にとって過去に体験されたことなどを表すことに重点があるのに対して、過去の事象や記憶というものを現在に呼び起こし、それをそうと認識するとともにまた他人の前にそれをそうと提示しようとする意識の反映があることに重点のある表現である。「寵愛を蒙っていらっしゃる人がいたのである」というニュアンス。そして、以下の文章は、「けり」の付かない、いわゆる現在時制で語られていくというしくみである。1.1.1
注釈6はじめより入内当初から。1.1.2
注釈7思ひ上がりたまへる御方がた「思ひ上がる」は「古くは、自惚れる、つけ上がるの意はなく、誇りを高く持って、低俗なるものを排し、より高貴であろうとする意欲を持つ意に用いられた」(小学館古語大辞典)。「御方がた」は女御たちをさす。1.1.2
注釈8めざましきものにおとしめ嫉みたまふ目的語は「いとやむごとなき際にはあらぬがすぐれて時めきたまふ」方を。以下、助動詞「けり」を伴わない文が続き、一気に物語の渦中に入る。1.1.2
注釈9同じほど、それより下臈の更衣たちこの物語の女主人公は中臈以上の更衣と知られる。1.1.2
注釈10まして「やすからず」の度合についていう。女御たち以上に心穏やかでない。女御たちのような寵愛を期待できないからである。1.1.2
注釈11朝夕の宮仕へにつけても「明ければ退下、暮れればまた参上とお側仕へをするにつけても」(今泉忠義訳)。帝の寝所に侍ること。「入内」(宮中に入ること、すなわち結婚)を「宮仕へ」といった。1.1.3
注釈12恨みを負ふ積もり「負ふ」(連体形)+「積もり」(名詞)。「恨みを負うことが、積もり積もった」という意。『休聞抄』は「あしかれと思はぬ山の峰にだにおふなる物を人の嘆きは」(悪いやつだと思ってもいない山の峰にさえ人の嘆き(=木)は生えると言いうのに)(詞花集雑上 三三二 和泉式部)を指摘したが、別本の陽明文庫本には「うらみ」に対して「なけき」という異文があり、それならばことばが一致する。1.1.3
注釈13にやありけむ「に」(断定の助動詞)、「や」(係助詞、疑問)、「けむ」(過去推量の助動詞)、「積もり積もったのであろうか」の推量する人は、語り手。前の「恨みを負う」までが、物語の伝承的事実。「にやありけむ」は、この物語筆記編集者の物語世界に対する推量。読点で区切って文意の相違を示した。1.1.3
注釈14篤しく衰弱がひどいさま。明融臨模本は「異例也」という注記と「つ」の左下に後世の筆になる濁点を表す二つの丸印が付いている。『岩波古語辞典』では、「金剛般若経集験記」の平安初期訓「アツシ」の他に院政期の「三蔵法師伝点」と『名義抄』の訓点「アヅシ」を掲載し、「その頃、アヅシの形もあった」と指摘。『小学館古語大辞典』でも「当時第二音節は濁音であったようだ」と記す。『集成』『古典セレクション』では「あつしく」と清音で読むが、『新大系』では「あづしく」と濁音で読む。1.1.3
注釈15いよいよあかずあはれなるものに思ほして主語は帝。1.1.3
注釈16え憚らせたまはず副詞「え」は下に打消の語を伴って、不可能の意を表す。「せたまはず」は帝に対して用いられた最高敬語。1.1.3
注釈17なりぬべき「ぬ」(完了の助動詞、確述)+「べし」(推量の助動詞、推量)、「きっとなってしまいそうな」の意。予想される結果や事態が無作為的・自然的に起こるニュアンス。1.1.3
注釈18上達部上人「上達部(かんだちめ)」は大臣・大中納言・参議および三位以上の人。「上人(うへびと)」は殿上人のことで、清涼殿の殿上の間に上がることを許された人。さらに院の御所・春宮御所に上がることを許された人をもいう。普通、上達部以外の四位・五位の者の一部、六位の蔵人をいう。1.1.4
注釈19あいなく目を側めつつ「あいなく」(本来何の関係もないのに、の意)は、この物語筆記編集者の感想が交えられた表現。『異本紫明抄』は「目を側め」の表現に「京師長吏為之側目」<京師の長吏之が為に目を側む>(白氏文集巻第十二 長恨歌伝 陳鴻)を指摘。「そばめ」は、横目で睨む意と視線を逸らす意とがある。ここでは横目でちらりと注視したり、あるいは目を逸らしたり、という両義があろう。1.1.4
注釈20いとまばゆき以下「悪しかりけれ」まで、上達部や殿上人の噂。1.1.4
注釈21人の御おぼえなり「御おぼえの人なり」と同じだが、特に「御おほえ」を強調させた表現。1.1.4
注釈22唐土にもかかる事の起こりにこそ世も乱れ悪しかりけれ『源氏釈』は、唐の玄宗皇帝と楊貴妃との故事を指摘。青表紙本の「あしかりけれ」は、やや不安定な感じを残す表現である。別本の御物本は「あしかりけれは」、陽明文庫本は「あしきこともいてきけれともてなやむほとに」、国冬本は「あしくはなりけれと」とある。「出で来」または「なる」などの語があると落ち着く。『源氏釈』所引「源氏物語」本文でも「もろこしにもかゝることにこそよはみたれあしきこともいてくれ」(冷泉家本)、「もろこしにもかゝることにてこそ世はみたれあしき事はいてきけれ」(前田家本)などとある。1.1.5
注釈23楊貴妃の例先に「唐土(もろこし)にも」とあったが、ここで初めて「楊貴妃」の名を明かす。1.1.5
注釈24引き出でつべく「つ」(完了の助動詞、確述)+「べし」(推量の助動詞、推量)、「きっと引き合いに出されそうな」の意。予想される結果や事態が作為的・人為的に起こるニュアンス。1.1.5
注釈25かたじけなき御心ばへのたぐひなきを「かたじけなき御心ばへ」と「たぐひなき(御心ばへ)を」は同格の構文。1.1.5
注釈26まじらひたまふ宮仕え生活。帝の妃としての朝晩のお側仕え、他の女御更衣たちや廷臣たちとの社交生活をさす。1.1.5
注釈27父の大納言は亡くなりて母北の方なむいにしへの人のよしあるにて桐壺更衣の家系は、父親が大納言。大臣に次ぐ、太政官の次官。正三位相当。しかし既に没している。母親は、由緒ある旧家の出で、教養のある人。兄弟について語られていないのは、はかばかしい人がいなかったことによる。「にしへの人のよしあるにて」は「にしへの人のよしある(人)にて」の文脈で「にしへの人」と「よしある(人)」は同格の構文。「にて」連語(断定の助動詞「なり」の連用形「に」+接続助詞「て」)なので、の意。『新大系』は「何氏か不明。大納言で亡くなったことは没落を暗示するか。のちに出る紫上の故母の父も亡き大納言である点が類型的である」と注す。1.1.6
注釈28いたう劣らず「いたく」副詞。下に打消、または禁止の語を伴って、それほど、たいして、の意を表す。「いたく」は平安時代から鎌倉時代にかけての和文に用いられた(小学館古語大辞典)。1.1.6
注釈29後見しなければ副助詞「し」強調の意。形容詞「なけれ」已然形+接続助詞「ば」は順接の確定条件を表す。後見人がいないので。1.1.6
校訂1 そしりをも そしりをも--そしりをも(も/#も) 1.1.3
1.2
第二段 御子誕生(一歳)


1-2  Genji's birth (age 1)

1.2.1   先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる 玉の男御子さへ生まれたまひぬいつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、 めづらかなる稚児の御容貌なり
 前世でも御宿縁が深かったのであろうか、この世にまたとなく美しい玉のような男の御子までがお生まれになった。早く早くとじれったくおぼし召されて、急いで参内させて御覧あそばすと、たぐい稀な嬰児のお顔だちである。
 前生の縁が深かったか、またもないような美しい皇子までがこの人からお生まれになった。寵姫を母とした御子を早く御覧になりたい思召しから、正規の日数が立つとすぐに更衣母子を宮中へお招きになった。小皇子はいかなる美なるものよりも美しいお顔をしておいでになった。
  Sakinoyo ni mo ohom-tigiri ya hukakari kem, yo ni naku kiyora naru tama no wonoko-miko sahe mumare tamahi nu. Itusika to kokoro-motonagara se tamahi te, isogi mawirase te goranzuru ni, meduraka naru tigo no ohom-katati nari.
1.2.2   一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて寄せ重く疑ひなき儲の君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、 おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし。
 第一皇子は、右大臣の娘の女御がお生みになった方なので、後見がしっかりしていて、正真正銘の皇太子になられる君だと、世間でも大切にお扱い申し上げるが、この御子の輝く美しさにはお並びになりようもなかったので、一通りの大切なお気持ちであって、この若君の方を、自分の思いのままにおかわいがりあそばされることはこの上ない。
 帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生まれになって、重い外戚が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子として大事にあそばされ、これは御自身の愛子として非常に大事がっておいでになった。
  Iti-no-miko ha, Udaizin-no-nyougo no ohom-hara nite, yose omoku, utagahi naki mauke-no-kimi to, yo ni mote-kasiduki kikoyure do, kono ohom-nihohi ni ha narabi tamahu beku mo ara zari kere ba, ohokata no yamgotonaki ohom-omohi nite, kono Kimi woba, watakusimono ni omohosi kasiduki tamahu koto kagiri nasi.
1.2.3   初めよりおしなべての上宮仕へ したまふべき際にはあらざりきおぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、 さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参う上らせたまふ。ある時には 大殿籠もり過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、「 坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。人より先に参りたまひて、 やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう心苦しう 思ひきこえさせたまひける
 最初から女房並みの帝のお側用をお勤めなさらねばならない身分ではなかった。評判もとても高く、上流人の風格があったが、むやみにお側近くにお召しあそばされ過ぎて、しかるべき管弦の御遊の折々や、どのような催事でも雅趣ある催しがあるたびごとに、まっさきに参上させなさる。ある時にはお寝過ごしなされて、そのまま伺候させておきなさるなど、むやみに御前から離さずに御待遇あそばされたうちに、自然と身分の低い女房のようにも見えたが、この御子がお生まれになって後は、たいそう格別にお考えおきあそばされるようになっていたので、「東宮坊にも、ひょっとすると、この御子がおなりになるかもしれない」と、第一皇子の母女御はお疑いになっていた。誰よりも先に御入内なされて、大切にお考えあそばされることは一通りでなく、皇女たちなども生まれていらっしゃるので、この御方の御諌めだけは、さすがにやはりうるさいことだが無視できないことだとお思い申し上げあそばされるのであった。
 更衣は初めから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった。ただお愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女と言ってよいほどのりっぱな女ではあったが、始終おそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催し事をあそばす際には、だれよりもまず先にこの人を常の御殿へお呼びになり、またある時はお引き留めになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができずそのまま昼も侍しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生まれになって以後目に立って重々しくお扱いになったから、東宮にもどうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子の御生母の女御は疑いを持っていた。この人は帝の最もお若い時に入内した最初の女御であった。この女御がする批難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御へ済まないという気も十分に持っておいでになった。
  Hazime yori osinabete no uhemiyadukahe si tamahu beki kiha ni ha ara zari ki. Oboye ito yamgotonaku, zyauzu-mekasi kere do, warinaku matuhasa se tamahu amari ni, sarubeki ohom-asobi no woriwori, nanigoto ni mo yuwe aru koto no husibusi ni ha, madu maunobora se tamahu. Arutoki ni ha ohotonogomori sugusi te, yagate saburaha se tamahi nado, anagati ni o-mahe sara zu motenasa se tamahi si hodo ni, onodukara karoki kata ni mo miye si wo, kono Miko umare tamahi te noti ha, ito kokoro koto ni omohosi-oki te tare ba, "Bau ni mo, yousezuha, kono Miko no wi tamahu beki nameri." to, Iti-no-miko no Nyougo ha obosi-utagahe ri. Hito yori saki ni mawiri tamahi te, yamgotonaki ohom-omohi nabete nara zu, miko-tati nado mo ohasimase ba, kono ohom-kata no ohom-isame wo nomi zo, naho wadurahasiu kokoro-gurusiu omohi kikoye sase tamahi keru.
1.2.4   かしこき御蔭をば頼みきこえながら、落としめ 疵を求めたまふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。
 もったいない御庇護をお頼り申してはいるものの、軽蔑したり落度を探したりなさる方々は多く、ご自身はか弱く何となく頼りない状態で、なまじ御寵愛を得たばっかりにしなくてもよい物思いをなさる。
 帝の深い愛を信じながらも、悪く言う者と、何かの欠点を捜し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無カな家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。
  Kasikoki mi-kage wo-ba tanomi kikoye nagara, otosime kizu wo motome tamahu hito ha ohoku, wagami ha kayowaku mono-hakanaki arisama nite, nakanaka naru mono-omohi wo zo si tamahu.
1.2.5 御局は桐壺なり。あまたの御方がたを過ぎさせたまひて、 ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふも、 げにことわりと見えたり参う上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、 御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。またある時には、え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、 はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。
お局は桐壺である。おおぜいのお妃方の前をお素通りあそばされて、そのひっきりなしのお素通りあそばしに、お妃方がお気をもめ尽くしになるのも、なるほどごもっともであると見えた。参上なさるにつけても、あまり度重なる時々には、打橋や、渡殿のあちこちの通路に、けしからぬことをたびたびして、送り迎えの女房の着物の裾が、がまんできないような、とんでもないことがある。またある時には、どうしても通らなければならない馬道の戸を鎖して閉じ籠め、こちら側とあちら側とで示し合わせて、進むも退くもならないように困らせなさることも多かった。
住んでいる御殿は御所の中の東北の隅のような桐壼であった。幾つかの女御や更衣たちの御殿の廊を通い路にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直をする更衣が上がり下がりして行く桐壼であったから、始終ながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量んでいくのも道理と言わねばならない。召されることがあまり続くころは、打ち橋とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪い仕掛けがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾が一度でいたんでしまうようなことがあったりする。またある時はどうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしが言い合わせて、桐壼の更衣の通り路をなくして辱しめるようなことなどもしばしばあった。
Mi-tubone ha Kiritubo nari. Amata no ohom-katagata wo sugi sase tamahi te, himanaki o-mahewatari ni, hito no mi-kokoro wo tukusi tamahu mo, geni kotowari to miye tari. Mau-nobori tamahu ni mo, amari utisikiru woriwori ha, utihasi, watadono no koko-kasiko no miti ni, ayasiki waza wo si tutu, ohom-okuri-mukahe no hito no kinu no suso, tahe gataku, masanaki koto mo ari. Mata aru toki ni ha, e saranu medau no to wo sasi-kome, konata-kanata kokoro wo ahase te, hasitaname wadurahase tamahu toki mo ohokari.
1.2.6 事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司を他に移させたまひて、上局に賜はす。その恨みましてやらむ方なし。
何かにつけて数知れないほど辛いことばかりが増えていくので、たいそうひどく思い悩んでいるのを、ますますお気の毒におぼし召されて、後凉殿に以前から伺候していらっしゃった更衣の部屋を他に移させなさって、上局として御下賜あそばす。その方の恨みはなおいっそうに晴らしようがない。
数え切れぬほどの苦しみを受けて、更衣が心をめいらせているのを御覧になると帝はいっそう憐れを多くお加えになって、清涼殿に続いた後涼殿に住んでいた更衣をほかへお移しになって桐壼の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮よりもまた深くなった。
Koto ni hure te kazu sira zu kurusiki koto nomi masare ba, ito itau omohi-wabi taru wo, itodo ahare to goranzi te, Kourauden ni motoyori saburahi tamahu kaui no zausi wo hoka ni utusa se tamahi te, uhetubone ni tamaha su. Sono urami masite yaramkata-nasi.
注釈30先の世にも御契りや深かりけむ「や」(係助詞、疑問)、「けむ」(過去推量の助動詞)、疑問の主体者は語り手。語り手の物語登場人物たちへの推測が挿入されている。1.2.1
注釈31玉の男御子さへ生まれたまひぬ「さへ」(副助詞)、語り手の驚嘆が言い込められた表現。「玉」は当時の最高の美的形容。また「魂」とも通じて呪術的な霊力をもった意味もこめられている。1.2.1
注釈32いつしかと心もとながらせたまひて主語は帝。「いつしか」(連語、代名詞「いつ」+副助詞「し」強調の意+係助詞「か」疑問の意)は、これから起こることを待ち望む気持ち、を表す。「せたまひて」は帝に対して用いられた最高敬語。1.2.1
注釈33めづらかなる稚児の御容貌なり「めづらかなる御容貌の稚児なり」の語順を変えて、「御容貌」を強調した表現。1.2.1
注釈34一の皇子は右大臣の女御の御腹にて第一親王は、右大臣の娘の弘徽殿女御がお産みになった、の意。この物語の主人公の兄。三歳年長(若菜下)。1.2.2
注釈35寄せ重く「寄せ」は心を寄せること、望みを託すこと。後見、支持の意。「重し」は行き届いて十分であるさま。右大臣の娘ということで後見がしっかりしていて、それゆえ世間の信望も厚い、という状況。1.2.2
注釈36疑ひなき儲の君とこの時点では、まだ皇太子は決定していない。「正真正銘の皇太子として」の意。帝も即位してまだ歳月の浅いことが想像される。1.2.2
注釈37おほかたのやむごとなき御思ひにて主語は帝。第一皇子に対する思い。1.2.2
注釈38初めよりおしなべての上宮仕へ主語は第二御子の母更衣。「上宮仕へ」は帝のお側近くに仕えて日常の身の回りの世話を勤める女房の仕事。妃たちにはそれぞれ妃付きの女房がいる。1.2.3
注釈39したまふべき際にはあらざりきこの前後の文脈は、いわゆる現在形や断定の助動詞「なり」で文末が結ばれているように、語り手の直接体験談または見聞談的な表現になって、臨場感を盛り上げている。ここの過去の助動詞「き」もそのような一つである。以下の文章にも、「き」が多用される。1.2.3
注釈40おぼえいとやむごとなく宮廷人からの評判である。帝からの場合には「御」がつく。前に「まばゆき人の御おぼえなり」とあったのと区別される。1.2.3
注釈41さるべき御遊びの折々「長恨歌」に「承歓侍寝無閑暇春従春遊夜専夜」<歓を承け寝に侍して閑かなる暇無し春は春の遊びに従ひ夜は夜を専らにす>(白氏文集巻第十二、感傷、五九六)とあるのを踏まえる。1.2.3
注釈42大殿籠もり過ぐして「春宵苦短日高起従此君王不早朝」<春の宵苦短くして日高けて起く此より君王早朝したまはず>を踏まえる。1.2.3
注釈43坊にもようせずはこの御子の居たまふべきなめり弘徽殿女御の心中。「べき」(推量の助動詞、推量)、「な(る)」(断定の助動詞)、「めり」(推量の助動詞、視界内推量)、見ている目の前でそれが実現しそうな推量のニュアンス。1.2.3
注釈44やむごとなき御思ひ帝の弘徽殿女御に対する待遇。1.2.3
注釈45思ひきこえさせたまひける過去の助動詞「けり」を使って、弘徽殿女御と帝との話題を切り上げる。1.2.3
注釈46かしこき御蔭をば頼みきこえながら話題は更衣の方に転じる。1.2.4
注釈47疵を求めたまふ人『紫明抄』は「なほき木に曲がれる枝もあるものを毛をふき疵を言ふがわりなさ」(まっすぐな木にも曲がった枝があるものなのに、髪の毛を吹いてまで疵を探し出すとはこまったこと)(後撰集、雑二、一一五六、高津内親王)と「有司吹毛求疵」<有司毛を吹きて疵を求む>(漢書、中山靖王伝)を指摘。漢籍では他にも『韓非子』大体に「不吹毛而求小疵」<毛を吹きて小疵を求めず>、『白氏文集』巻十三に「吹毛遂得疵」<毛を吹きて遂に疵を得たり>などとある。わが国では、和歌に詠まれるほど、広く知られたことわざ。1.2.4
注釈48御局は桐壺なり局の名を端的に表現した。「桐壷」とは中庭に桐が植えられていたこに因む呼称。正式名称は淑景舎という。帝の御殿である清涼殿からは最も遠い東北の隅にあった。1.2.5
注釈49ひまなき御前渡りに挿入句。主語は帝。文意は直前の「過ぎさせたまひて」と同じだが、さらに追い討ちをかけるように「ひっきりなしのお素通りに」と畳み重ねた表現をしている。1.2.5
注釈50げにことわりと見えたり登場人物たちと語り手が一体化した評言である。萩原広道『源氏物語評釈』は「作者の自評なり」と指摘した。1.2.5
注釈51参う上りたまふにも主語は桐壺更衣。帝のもとに参上するというので、尊敬の補助動詞「たまふ」が使われている。帝のお側や寝所に伺候するために参上する。1.2.5
注釈52御送り迎への人桐壺更衣は彼女付きの女房たちを従えて帝のもとに参上し退下した。1.2.5
注釈53はしたなめわづらはせたまふ「わづらふ」は自動詞。「わづらふ」人は桐壺更衣であるが、下に「せ」という使役の助動詞と尊敬の補助動詞「たまふ」が付いているので、女御たちが桐壺更衣を「わづらはせたまふ」ということである。実際は女御付きの女房たちをしていじわるをさせたのである。1.2.5
注釈54事にふれて以下、視点は、桐壺更衣の様子から、帝の態度へと変じてゆき、上局の部屋を他に変えさせられた別の更衣の恨みが語られる。1.2.6
1.3
第三段 若宮の御袴着(三歳)


1-3  Hakama-gi (age 3)

1.3.1   この御子三つになりたまふ年、御袴着のこと 一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮、納殿の物を尽くして、 いみじうせさせたまふ。それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子の およすげもておはする 御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふをえ嫉みあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、「 かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかしたまふ。
 この御子が三歳におなりの年に、御袴着の儀式を一宮がお召しになったのに劣らず、内蔵寮や 納殿の御物をふんだんに使って、大変に盛大におさせあそばす。そのことにつけても、世人の非難ばかりが多かったが、この御子が成長なさって行かれるお顔だちやご性質が世間に類なく素晴らしいまでにお見えになるので、お憎みきれになれない。ものごとの情理がお分かりになる方は、「このような方もこの末世にお生まれになるものであったよ」と、驚きあきれる思いで目を見張っていらっしゃる。
 第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着の式が行なわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手な準傭の費用が宮廷から支出された。それにつけても世問はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聡明さとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生まれてくるものかと皆驚いていた。
  Kono Miko mi-tu ni nari tamahu tosi, ohom-hakamagi no koto Iti-no-miya no tatematuri si ni otora zu, kuradukasa, wosamedono no mono wo tukusi te, imiziu se sase tamahu. Sore ni tuke te mo, yo no sosiri nomi ohokare do, kono Miko no oyosuge mote-ohasuru ohom-katati kokorobahe arigataku medurasiki made miye tamahu wo, e sonemiahe tamaha zu. Mono no kokoro siri tamahu hito ha, "Kakaru hito mo yo ni ide ohasuru mono nari keri." to, asamasiki made me wo odorokasi tamahu.
注釈55この御子三つになりたまふ年その後二年が経過し、御子三歳の物語が語られる。1.3.1
注釈56一の宮のたてまつりしに劣らず以下、さまざまな儀式が兄一宮と比較されながら語られていく。「たてまつる」は「着る」の尊敬語。1.3.1
注釈57いみじうせさせたまふ帝主催の袴着の儀式である。「せさせたまふ」は最高敬語。実際には官人をしてさせたもの。1.3.1
注釈58およすげ「耆 オヨス」(類聚名義抄)。「およす」に様子や気配などの意を表す「気」(け、「げ」にも転じる)が付いた語。活用語尾の清濁は不明。『河海抄』には濁付がある。『集成』『古典セレクション』は「およすけ」とし、『新大系』は「およすげ」とする。1.3.1
注釈59御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを赤児から三歳(幼児)に成長した容貌や性質の類まれな素晴らしさが語られる。「を」を接続助詞の確定条件「ので」と見る説(今泉忠義・古典セレクション)と格助詞の目的格「を」と見る説(待井新一)とがある。1.3.1
注釈60え嫉みあへたまはず「え--ず」(打消の助動詞)、「敢へ」は、「すっかり〜する」の意。それに、不可能の意が加わる。尊敬語「たまふ」があるので、主語は三位以上の高貴な男性貴族や女御たちである。1.3.1
注釈61かかる人も世に出でおはするものなりけり「なり」(断定の助動詞)、「けり」(過去の助動詞、詠嘆)。物の情理が分かる人の、詞とも心とも考えらる。いずれにしても直接引用、直接話法的な一文である。1.3.1
1.4
第四段 母御息所の死去


1-4  Mother's death

1.4.1   その年の夏御息所はかなき心地にわづらひてまかでなむとしたまふを暇さらに許させたまはず
 その年の夏、御息所が、頼りない感じに落ち入って、退出しようとなさるのを、お暇を少しもお許しあそばさない。
 その年の夏のことである。御息所−皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである−はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが帝はお許しにならなかった。
  Sono tosi no natu, Miyasumdokoro, hakanaki kokoti ni wadurahi te, makade na m to si tamahu wo, itoma sarani yurusa se tamaha zu.
1.4.2 年ごろ、 常の篤しさになりたまへれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々に重りたまひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、 まかでさせたてまつりたまふ
ここ数年来、いつもの病状になっていらっしゃるので、お見慣れになって、「このまましばらく様子を見よ」とばかり仰せられるているうちに、日々に重くおなりになって、わずか五、六日のうちにひどく衰弱したので、母君が涙ながらに奏上して、退出させ申し上げなさる。
どこかからだが悪いということはこの人の常のことになっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、
 「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」
 と言っておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五、六日のうちに病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇を願って帰宅させることにした。
Tosigoro, tune no adusisa ni nari tamahe re ba, ohom-me nare te, "Naho sibasi kokoromi yo." to nomi notamahasuru ni, hibi ni omori tamahi te, tada itu-ka muyi-ka no hodo ni ito yowau nare ba, Hahagimi nakunaku sousi te, makade sase tatematuri tamahu.
1.4.3 かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ。
このような時にも、あってはならない失態を演じてはならないと配慮して、御子はお残し申して、人目につかないようにして退出なさる。
こんな場合にはまたどんな呪詛が行なわれるかもしれない、皇子にまで禍いを及ぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宮中にとどめて、目だたぬように御息所だけが退出するのであった。
Kakaru wori ni mo, arumaziki hadi mo koso to kokorodukahi si te, Miko wo ba todome tatematuri te, sinobi te zo ide tamahu.
1.4.4   限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。 いとにほひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、 言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを 御覧ずるに、来し方行く末思し召されず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。 輦車の宣旨などのたまはせても、 また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。
 決まりがあるので、お気持ちのままにお留めあそばすこともできず、お見送りさえままならない心もとなさを、言いようもなく無念におぼし召される。たいそう照り映えるように美しくかわいらしい人が、ひどく顔がやつれて、まことにしみじみと物思うことがありながらも、言葉には出して申し上げることもできずに、生き死にもわからないほどに息も絶えだえでいらっしゃるのを御覧になると、あとさきもお考えあそばされず、すべてのことを泣きながらお約束あそばされるが、お返事を申し上げることもおできになれず、まなざしなどもとてもだるそうで、常よりいっそう弱々しくて、意識もないような状態で臥せっていたので、どうしたらよいものかとお惑乱あそばされる。輦車の宣旨などを仰せ出されても、再びお入りあそばしては、どうしてもお許しあさばされることができない。
 この上留めることは不可能であると帝は思召して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬ御尊貴の御身の物足りなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。
 はなやかな顔だちの美人が非常に痩せてしまって、心の中には帝とお別れして行く無限の悲しみがあったがロヘは何も出して言うことのできないのがこの人の性質である。あるかないかに弱っているのを御覧になると帝は過去も未来も真暗になった気があそばすのであった。泣く泣くいろいろな頼もしい将来の約束をあそばされても更衣はお返辞もできないのである。目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心を襲うた。更衣が宮中から輦車で出てよい御許可の宣旨を役人へお下しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると今行くということをお許しにならない。
  Kagiri are ba, sa nomi mo e todome sase tamaha zu, goranzi dani okura nu obotukanasa wo, ihukatanaku omohosa ru. Ito nihohiyaka ni utukusige naru hito no, itau omo yase te, ito ahare to mono wo omohisimi nagara, koto ni ide te mo kikoyeyara zu, arukanakika ni kiyeiri tutu monosi tamahu wo goranzuru ni, kisikata yukusuwe obosimesa re zu, yorodu no koto wo nakunaku tigiri notamaha sure do, ohom-irahe mo e kikoye tamaha zu, mami nado mo ito tayuge nite, itodo nayonayo to, wareka no kesiki nite husi tare ba, ikasama ni to obosimesi madoha ru. Teguruma no senzi nado notamahase te mo, mata ira se tamahi te, sarani e yurusa se tamaha zu.
1.4.5  「 限りあらむ道にも、後れ先立たじと、 契らせたまひけるをさりとも、うち捨てては、 え行きやらじ
 「死出の旅路にも、後れたり先立ったりするまいと、お約束あそばしたものを。いくらそうだとしても、おいてけぼりにしては、行ききれまい」
 「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」
  "Kagiri ara m miti ni mo, okure-sakidata zi to, tigira se tamahi keru wo. Saritomo, uti-sute te ha, e yukiyara zi."
1.4.6  とのたまはするを、 女もいといみじと、見たてまつりて、
 と仰せになるのを、女もたいそう悲しいと、お顔を拝し上げて、
 と、帝がお言いになると、そのお心持ちのよくわかる女も、非常に悲しそうにお顔を見て、
  to notamahasuru wo, Womna mo ito imizi to, mi tatematuri te,
1.4.7  「 限りとて別るる道の悲しきに
   いかまほしきは命なりけり
 「人の命には限りがあるものと、今、別れ路に立ち、悲しい気持ちでいますが、
  わたしが行きたいと思う路は、生きている世界への路でございます。
 「限りとて別るる道の悲しきに
  いかまほしきは命なりけり
    "Kagiri tote wakaruru miti no kanasiki ni
    ika mahosiki ha inoti nari keri
1.4.8   いとかく思ひたまへましかば
 ほんとうにこのようにと存じておりましたならば」
 死がそれほど私に迫って来ておりませんのでしたら」
  Ito kaku omohi tamahe masika ba."
1.4.9  と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、 かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに、「 今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながら まかでさせたまふ
 と、息も絶えだえに、申し上げたそうなことはありそうな様子であるが、たいそう苦しげに気力もなさそうなので、このままの状態で、最期となってしまうようなこともお見届けしたいと、お考えあそばされるが、「今日始める予定の祈祷などを、しかるべき僧たちの承っておりますのが、今宵から始めます」と言って、おせき立て申し上げるので、やむを得なくお思いあそばしながら退出させなさる。
 これだけのことを息も絶え絶えに言って、なお帝にお言いしたいことがありそうであるが、まったく気カはなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷も高僧たちが承っていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申し上げて方々から更衣の退出を促すので、別れがたく思召しながらお帰しになった。
  to, iki mo taye tutu, kikoye mahosige naru koto ha arige nare do, ito kurusige ni tayuge nare ba, kaku nagara, tomokakumo nara m wo goranzi-hate m to obosimesu ni, "Kehu hazimu beki inori-domo, sarubeki hitobito uketamahare ru, koyohi yori." to, kikoye isogase ba, warinaku omohosi nagara makade sase tamahu.
1.4.10   御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使の行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「 夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召しわかれず、籠もりおはします。
 お胸がひしと塞がって、少しもうとうとなされず、夜を明かしかねあそばす。勅使が行き来する間もないうちに、しきりに気がかりなお気持ちをこの上なくお漏らしあそばしていらしたところ、「夜半少し過ぎたころに、お亡くなりになりました」と言って泣き騒ぐので、勅使もたいそうがっかりして帰参した。お耳にあそばす御心の転倒、どのような御分別をも失われて、引き籠もっておいであそばす。
 帝はお胸が悲しみでいっぱいになってお眠りになることが困難であった。帰った更衣の家へお出しになる尋ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ち遠しいであろうと仰せられた帝であるのに、お使いは、
 「夜半過ぎにお卒去になりました」
 と言って、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると力が落ちてそのまま御所へ帰って来た。
 更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引きこもっておいでになった。
  Ohom-mune tuto hutagari te, tuyu madoroma re zu, akasi-kane sase tamahu. Ohom-tukahi no yukikahu hodo mo naki ni, naho ibusesa wo kagirinaku notamahase turu wo, "Yonaka uti-suguru hodo ni nam, taye hate tamahi nuru." tote naki sawage ba, ohom-tukahi mo ito ahenaku te kaheri mawiri nu. Kikosimesu mi-kokoromadohi, nanigoto mo obosimesi-waka re zu, komori ohasimasu.
1.4.11  御子は、 かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、 例なきことなればまかでたまひなむとす。何事かあらむとも思したらず、さぶらふ人びとの泣きまどひ、 主上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるをよろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、 ましてあはれに言ふかひなし
 御子は、それでもとても御覧になっていたいが、このような折に宮中に伺候していらっしゃるのは、先例のないことなので、退出なさろうとする。何事があったのだろうかともお分かりにならず、お仕えする人々が泣き惑い、父主上もお涙が絶えずおこぼれあそばしているのを、変だなと拝し上げなさっているのを、普通の場合でさえ、このような別れの悲しくないことはない次第なのを、いっそうに悲しく何とも言いようがない。
 その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服中の皇子が、穢れのやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるのだけを不思議にお思いになるふうであった。父子の別れというようなことはなんでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心持ちほどお気の毒なものはなかった。
  Miko ha, kakute mo ito goranze mahosikere do, kakaru hodo ni saburahi tamahu, rei naki koto nare ba, makade tamahi na m to su. Nanigoto ka ara m to mo obosi tara zu, saburahu hitobito no naki madohi, Uhe mo ohom-namida no hima naku nagare ohasimasu wo, ayasi to mi tatematuri tamahe ru wo, yorosiki koto ni dani, kakaru wakare no kanasikara nu ha naki waza naru wo, masite ahare ni ihukahinasi.
注釈62その年の夏御子の袴着の儀式が行われた年、すなわち、御子三歳の夏。物語は、初めて季節を背景として語られ出す。意識の中に、御子の袴着の儀式が春に盛大に催されたことが遡源され、その折の一情景が再現される。1.4.1
注釈63御息所「みやすみどころ」の撥音便「みやすんどころ」が撥音便が無表記化され「みやすどころ」と表記される。読みは「みやすンどころ」か「みやすどころ」か不明。両用可か。桐壺更衣。帝の御子を出産したので、こう呼ばれる。1.4.1
注釈64はかなき心地にわづらひて病気の様子を夏を季節背景にして語ることは、この物語の常套手段の一つで、主題と季節との類同的発想である。1.4.1
注釈65まかでなむとしたまふを主語は桐壺更衣。「まかづ」は退出する、意。謙譲の意を含む語。「な」(完了の助動詞、確述)「む」(推量の助動詞、意志)は、きっと退出しようというニュアンス。1.4.1
注釈66暇さらに許させたまはず主語は帝。「せたまはず」最高敬語。冒頭には「もの心細げに里がちなるを」(第一章第一段)とあった。御子出産後は里への退出も許さなくなった。1.4.1
注釈67常の篤しさ『新大系』は「あづしさ」と濁音で読む。『集成』『古典セレクション』は「あつしさ」と清音で読む。1.4.2
注釈68まかでさせたてまつりたまふ「まかで」(謙譲語、宮中、帝に対する敬意)、「させ」(使役の助動詞、母北の方が更衣をして)、「たてまつり」(謙譲の補助動詞、母北の方が更衣にして差し上げる)、「たまふ」(尊敬の補助動詞、母北の方に対する敬意)。「母北の方が、娘の更衣を宮中からお下がらせ申し上げなさる」という意。母親が自分の娘に対して敬語を用いるのは、今日では奇異な感じがするが、娘とは言え、今や帝の御妻である。そうした敬意がはたらいている。1.4.2
注釈69かかる折にもあるまじき恥もこそと心づかひして御子をば留めたてまつりてこの後に「あれ」(已然形)などが省略された形。「もこそ(あれ)」は将来良くないことが起こることへの危惧の気持ちを表す。『集成』は「病気退出という折にも、(行列などに嫌がらせををされ)とんでもない恥を受けるかもしれないと用心して。御子が同行していれば、その体面がつけられる」、また『新大系』も「退出の行列が妨害されるようなことか」と解する。しかし、帝秘蔵っ子の御子が同行していれば、更衣の退出に対してかえっていじわるや妨害というのは仕掛けにくいのではないか。『古典セレクション』は「神聖な宮中を更衣の死で穢すような不面目があっては大変」と解する。病気重態による退出時に、あってはならない失態--すなわち、宮中を死で穢すこと--を冒すまい、という母北の方の考えである。宮中のみならず、退出中に御子にも死の穢れが及ぶかも知れないことを危惧して宮中に残してきたのだろう。1.4.3
注釈70限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず「限り」は宮中における掟。病状が篤い場合には死の穢れを憚って退出させるのが決まり。以下、帝の更衣に対する執心を語る。似たような表現は後に、「限りあれば例の作法にをさめたてまつるを」(第一章第五段)と出てくる。1.4.4
注釈71いとにほひやかに以下の長文「ものしたまふを」までは、語り手の視点から桐壺更衣の容態について語る。そして「御覧ずるに」以下は帝の視点へと自然と移り変わってゆく叙述の仕方である。1.4.4
注釈72言に出でても聞こえやらず「言に出でても」は歌語。「言に出でて言はばゆゆしみ朝顔のほには咲きでて恋をするかな」(古今六帖第五「人知れぬ」二六七〇、万葉集巻十 二二七九)、「言に出でて言はばゆゆしみ山川のたぎつ心は塞きあへにけり」(古今六帖第五「いはで思ふ」二六五二、万葉集巻十一 二四三六、柿本集 一八四)陰「言に出でて言はぬばかりぞ水無瀬川下に通ひて恋しきものを」(古今集恋二 六〇七 友則、古今六帖第五「いはで思ふ」二六五一 友則、友則集 四八)などの和歌がある。1.4.4
注釈73御覧ずるに主語は帝。語り手の視点が移る。1.4.4
注釈74輦車の宣旨勅許によって親王、大臣、女御、僧侶などが輦車で宮城門内を通ることが許される。桐壺更衣は更衣の身分であるにもかかわらず、それらの人と同等の破格の待遇を受けた。1.4.4
注釈75また入らせたまひて桐壺更衣の臥せっている部屋に。上局か。1.4.4
注釈76限りあらむ道にも後れ先立たじ以下「え行きやらじ」まで、帝の詞。「それぞれに寿命の定められた人生であっても、あなたに先立たれ残されたり、また自分が先立ったりすることは、お互いにするまい、死ぬ時は一緒にと、お約束なさったのに。いくら何でも、わたし独りを残しては逝かすまい」の意。偕老同穴を契った。なお、『新大系』は「契らせたまひけるを」までを地の文と解する。1.4.5
注釈77契らせたまひけるを「せたまひ」最高敬語。桐壺更衣の行為に対して使用。最高敬語は会話文の場合には帝以外の人(女房どうしの場合でも)に対しても使用される。なお『新大系』では地の文として、帝の行為に対する敬語とする。「を」について、接続助詞、順接の意(約束してをられたのだから)と解する説(今泉忠義・待井新一・新大系)、逆接の意(お約束なさったのに)と解する説(集成)、間投助詞、詠嘆の意(お約束なさったのだもの)と解する説(玉上琢弥・古典セレクション)等がある。会話文中の「を」なので、間投助詞、詠嘆の意が最も適切であろう。1.4.5
注釈78さりとも接続詞。「さ」は更衣の重体をさす。1.4.5
注釈79え行きやらじ「え」(副詞)--「じ」(打消の助動詞、意志)で不可能の意を表す。「やる」は補助動詞、その動作を最後までやり終える意を表す。下に打消の語を伴うと、最後まで--しきれない、完全に--できない、の意を表す。「行(ゆ)く」には、「里へ行く」意と、「逝く」意とが重ねられている。明融臨模本「えゆきやらし」とある。「えいきやらし」だと「行き」に「生き」を響かすことになってしまう。1.4.5
注釈80女も桐壺更衣を「女」と表現した。この物語では、身分を超越した男と女との恋の場面に、「男」「女」という呼称が使用される。1.4.6
注釈81限りとて別るる道の悲しきに--いかまほしきは命なりけり更衣の歌。「限りとて」は、帝の詞「限りあらむ道」に応えたもの。「人の寿命は定めがあるものと諦めてはみても」。「別るる道の」は、「里下がりのために別れる道」と「死出の道」との両意を掛ける。辞世の歌である。格助詞「の」は、同時に二つの機能をはたす。主格を表して、「別路が悲しいこと」。連体格を表して、「別路の悲しさ」。そして、第二句と第三句とを結び付けてゆく働きをもする。「悲しきに」の接続助詞「に」は、前者の文脈では、原因・理由の意を含んだ順接の働きをして、「別路が悲しいことなので」の意。後者の文脈では、逆接の働きをして、「別路の悲しさがあるけれども」の意となる。助詞の「の」や「に」の機能は、最後まで読まないと判断できない。上の句までの段階では、どちらとも判断できない。したがって、両意を合わせて読んでいくのが正しい読み方である。さて、両意の文脈を呼び込みながら、下句へと繋がっていくと、第四句「行(い)かまほしきは」の「行く」は、「行(い)く」と、「生(い)く」との両意を掛ける。明融臨模本「いかまほしき」とある。ここは「ゆかまほしき」ではない。「まほし」は希望・願望の助動詞。「わたしが生きて行きたいと思うのは」。第一句第二句で既に、この別れが永遠の別れになることを悟っている更衣が、再びここで「いかまほし」というのは、限りない生への願望と執着が表されている。したがって、上句と下句は、逆接の文脈と考えられる。「悲しいけれど、それはわかっているが、やはり、わたしの生きて行きたいと思う道は」となる。第五句「いのちなりけり」は、「寿命であることよ」「最期であることよ」「運命であることよ」等、さまざまな意がこめられている。一つのことばで表現してしまったら、この句がもっている豊かな表現性が削がれてしまう。「生きて行きたいのは、生の道なのでございます」、「生きて行きたいのは、生の道なのですが、それも叶わぬ寿命なのでございます」等。『全集』は「別れ路はこれや限りの旅ならむさらにいくべき心地こそせね」<別れはこれが最期の死出の旅路の別れとなろう、まったく生きていけそうな気がしません>(新古今集、離別、八七二、道命法師)を指摘する。1.4.7
注釈82いとかく思ひたまへましかばと「いとかく」について、「ほんとにこんなことになろうと存じておりましたならば。(もっと申しあげておくことがたくさんございましたのに。)」「かく」は歌の意味(死別すること)をさす」(待井新一・今泉忠義・玉上琢弥・集成)、「ここでは初めからこうなることが分っていたら、なまじ帝のご寵愛をいただかなければよかったろうに、の意か。」(古典セレクション)などあるが、「まことにこのように(右の歌のごとくに)考えさせていただいてよいのであったら--。「かく」は歌の中の生きたいという思いを指す。生きる希望を満たされるのらうれしかろうに、そうでないのは悲しく無念だ、と万感を言いさす」(新大系)とあるように、「かく思ひたまへ」は右の歌の主旨をさし、「いかまほしきは命なりけり」がその直接的内容である。「ましか」は反実仮想の助動詞。「--ならば」。この後に、「--すべきであった」という内容の述語が省略されている。なお、青表紙本の肖柏本は、「ましかばと」の「と」がナシ、大島本は「と」を補入している。「ほんとうに、生きていたいと存じておりましたならば、もっと、気持ちを強く持ち、そして帝の御愛情にお応えすべきであったのに。それもできずにまことに無念です」というような内容である。1.4.8
注釈83かくながらともかくもならむを御覧じはてむと「かく」は、更衣を宮中に置いたままの状態をさす。「ともかくもならむ」とは、最悪の状況を想定している。宮中は死穢を忌む場所である。その死の禁忌も憚らない帝の悲壮な気持ちが窺える。帝の心と地の文が融合した形。1.4.9
注釈84今日始むべき以下「今宵より」まで、更衣の里邸からの使者の伝言。詞の語順が整っていなところに、緊迫感が表出されている。1.4.9
注釈85まかでさせたまふ「させ」使役の助動詞。帝が桐壺更衣を退出おさせになる。1.4.9
注釈86御胸つとふたがりて以下、後に残された帝の様子。「御使の行き交ふ」とあるから、最初に遣わされた使者が帰って来るのが待ちきれずにまた次の使者を発するというように、次々と使者が派遣されたことがわかる。明融臨模本には「御むねのみ」とあるが、「のみ」は後人の補入で、明融臨模本本来の本文ではない。大島本にも「のみ」は無い。『集成』『新大系』は「御胸つと」と校訂する。『古典セレクション』は後人の補入語を採用して「御胸のみつと」としている。校訂付記には掲載せず。1.4.10
注釈87夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる更衣の里邸の人々の詞。更衣の死去を告げる。1.4.10
注釈88かくても「かくても」「かかるほど」は御子の母桐壺更衣の死とその服喪期間中をさす。1.4.11
注釈89例なきことなれば延喜七年以後、七歳以下の子供は親の喪に服すに及ばないということになった。したがって、この物語は延喜七年以前を時代設定していることになる。1.4.11
注釈90まかでたまひなむとす主語は御子。使役の助動詞「させ」はない。視点を帝から御子に移して叙述する。1.4.11
注釈91主上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを「見たてまつる」という御子の視点と語り手の地の文とが融合した叙述で語られる。この前後の「流れおはしますを」や「わざなるを」とともに「を」は目的格を表す格助詞。これら三つの文章が語り手の評言「ましてあはれに言ふかひなし」に収束される。1.4.11
注釈92よろしきことにだに「普通の親子の死別の場合でさえ」の意。以下に「まして」と呼応する。三歳の幼児ゆえ、母親の死去した意味を理解せず、いっそう悲しく何とも言いようがない、という、語り手の感情移入の込められた叙述。1.4.11
注釈93ましてあはれに言ふかひなし「まして」は母を亡くした悲しみがわかれば、それなりに悲しいと言うこともできように、その悲しみさえわからないがゆえに、いっそう痛々しくも気の毒で、何とも言いようがない、という意。1.4.11
1.5
第五段 故御息所の葬送


1-5  The funeral

1.5.1   限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣きこがれたまひて、 御送りの女房の車に 慕ひ乗りたまひて愛宕といふ所にいといかめしうその作法したるに、 おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、 灰になりたまはむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしうのたまひつれど、車よりも落ちぬべう まろびたまへば、 さは思ひつかしと、人びともてわづらひきこゆ。
 しきたりがあるので、先例の葬法どおりにお営み申すのを、母北の方は、娘と同じく煙となって死んでしまいたいと、泣きこがれなさって、御葬送の女房の車に後を追ってお乗りになって、愛宕という所でたいそう厳かにその葬儀を執り行っているところに、お着きになったお気持ちは、どんなであったであろうか。「お亡骸を見ながら、なおも生きていらっしゃるものと思われるのが、たいして何にもならないので、遺灰におなりになるのを拝見して、今はもう死んだ人なのだと、きっぱりと思い諦めよう」と、分別あるようにおっしゃっていたが、車から落ちてしまいそうなほどにお取り乱しなさるので、やはり思ったとおりだと、女房たちも手をお焼き申す。
 どんなに惜しい人でも遺骸は遺骸として扱われねばならぬ、葬儀が行なわれることになって、母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣きこがれていた。そして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗って愛宕の野にいかめしく設けられた式場へ着いた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう。
 「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷いをさますために行く必要があります」
 と賢そうに言っていたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。
  Kagiri are ba, rei no sahohu ni wosame tatematuru wo, Haha-kitanokata, onazi keburi ni nobori na m to, naki kogare tamahi te, ohom-okuri no nyoubau no kuruma ni sitahi nori tamahi te, Otagi to ihu tokoro ni ito ikamesiu sono sahohu si taru ni, ohasi tuki taru kokoti, ikabakari ka ha ari kem. "Munasiki ohom-kara wo miru-miru, naho ohasuru mono to omohu ga, ito kahinakere ba, hahi ni nari tamaha m wo mi tatematuri te, ima ha naki hito to, hitaburu ni omohi nari na m." to, sakasiu notamahi ture do, kuruma yori mo oti nu beu marobi tamahe ba, saha omohi tu kasi to, hitobito mote-wadurahi kikoyu.
1.5.2  内裏より御使あり。 三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。 女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階の位をだにと、贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人びと多かり。もの思ひ知りたまふは、 様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。 さま悪しき御もてなしゆゑこそ、すげなう嫉みたまひしか、人柄のあはれに情けありし御心を、主上の女房なども恋ひしのびあへり。 なくてぞとは 、かかる折にやと見えたり。
 内裏からお勅使が参る。従三位の位を追贈なさる旨を、勅使が到着してその宣命を読み上げるのが、悲しいことであった。せめて女御とだけでも呼ばせずに終わったのが、心残りで無念に思し召されたので、せめてもう一段上の位階だけでもと、御追贈あそばすのであった。このことにつけても非難なさる方々が多かった。人の情理をお分かりになる方は、姿態や 容貌などが素晴しかったことや、気立てがおだやかで欠点がなく、憎み難い人であったことなどを、今となってお思い出しになる。見苦しいまでの御寵愛ゆえに、冷たくお妬みなさったのだが、性格がしみじみと情愛こまやかでいらっしゃったご性質を、主上づきの女房たちも互いに恋い偲びあっていた。亡くなってから人はと言うことは、このような時のことかと思われた。
 宮中からお使いが葬場へ来た。更衣に三位を贈られたのである。勅使がその宣命を読んだ時ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。三位は女御に相当する位階である。生きていた日に女御とも言わせなかったことが帝には残り多く思召されて贈位を賜わったのである。こんなことででも後宮のある人々は反感を持った。同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさなどで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壼の更衣の真価を思い出していた。あまりにひどい御殊寵ぶりであったからその当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていた。優しい同情深い女性であったのを、帝付きの女官たちは皆恋しがっていた。「なくてぞ人は恋しかりける」とはこうした場合のことであろうと見えた。
  Uti yori ohom-tukahi ari. Mi-tu-no-kurawi okuri tamahu yosi, tyokusi ki te sono senmyau yomu nam, kanasiki koto nari keru. Nyougo to dani iha se zu nari nuru ga, akazu kutiwosiu obosa rure ba, ima hito-kizami no kurawi wo dani to, okura se tamahu nari keri. Kore ni tuke te mo nikumi tamahu hitobito ohokari. Mono omohi-siri tamahu ha, sama, katati nado no medetakari si koto, kokorobase no nadaraka ni meyasuku, nikumi gatakari si koto nado, ima zo obosi-iduru. Sama asiki ohom-motenasi yuwe koso, sugenau sonemi tamahi sika, hitogara no ahare ni nasake ari si mi-kokoro wo, uhe-no-nyoubau nado mo kohi sinobiahe ri. Naku te zo to ha, kakaru wori ni ya to miye tari.
注釈94限りあれば例の作法にをさめたてまつるを「限り」について、「いくら惜しんでもゐても限りもないので」(今泉忠義・町井新一)と解する説と「葬儀の定まった作法があるので。特別にあつく葬ろうとしてもできない」(古典セレクション)また「遺骸をいつまでもとどめておきたいのだが、という気持ち」(集成)などと解する説がある。「限りあれば」は多義性をもった表現である。「例の作法」とは、火葬に収めること。場所は、愛宕の火葬場である。1.5.1
注釈95御送り野辺送りの葬送。夕刻から始まる。1.5.1
注釈96慕ひ乗りたまひて「慕ふ」は後を追う、意。普通、女親は火葬場に行かなかった。男親や夫、兄弟たちが行った。1.5.1
注釈97愛宕といふ所当時の火葬場のあった所。京都市東山区鳥辺野付近とも左京区修学院白河一帯ともいう。『新大系』は「今の東山区轆轤町あたり珍皇寺のことらしい」と注す。「愛宕 於多木」(和名抄)。『集成』『新大系』は「おたぎ」と振り仮名を付ける。『古典セレクション』は「をたぎ」と振り仮名を付けるが適切でない。1.5.1
注釈98おはし着きたる心地いかばかりかはありけむ「いかばかりかは」「けむ」(過去推量の助動詞)。『湖月抄』は「草子地に察していへり」と指摘。この過去推量は語り手が母北の方の心中を推測したものである。1.5.1
注釈99灰になりたまはむを『紫明抄』は「燃え果てて灰となりなむ時にこそ人を思ひのやまむ期にせめ」(すっかり焼ききって灰となった時に死んだ人と諦める時としよう)(拾遺集、恋五、九二九 、読人しらず)を指摘。1.5.1
注釈100まろび「転 マロブ」(名義抄)。なお、青表紙本系の明融臨模本、池田本、大島本、河内本系諸本、別本の御物本は、「まろび」(転げる)とある。青表紙本系のまた一方の横山本、肖柏本、三条西家本、書陵部本と別本の陽明文庫本、国冬本、麦生本は「まどひ」(惑乱する)ある。1.5.1
注釈101さは思ひつかし女房の心。「つ」(完了の助動詞)、火葬場に出かける以前に思ったこと。1.5.1
注釈102三位の位明融臨模本は「三位」に「ミツ」という訓点あり。また河内本系諸本に「みつのくらゐ」とある。正四位上であった更衣に従三位の位を追贈した。1.5.2
注釈103女御とだに以下「贈らせたまふなりけり」まで、従三位の位を追贈した帝の胸中を補足説明した語り手の文章である。『弄花抄』は「そのいはれを釈したる詞也」と指摘し、『紹巴抄』は「双地の注也」と指摘。「后(皇后・中宮)どころか、女御とさえよばせないでしまったことが。「だに」は、軽いものをあげて重いものを言外に類推させる語で、「--さえ」の意」(待井新一)。1.5.2
注釈104様容貌などのめでたかりしこと心ばせのなだらかにめやすく憎みがたかりしこと「--こと」「--こと」という並列の構文。桐壺更衣の美点である。姿形の美しさ、気立てのよさを挙げる。1.5.2
注釈105さま悪しき以下「御心を」まで、主上付きの女房の詞と見ることも可能である。「こそ」--「しか」(過去助動詞)の係結びがあり、見聞者たちの発言のニュアンスである。ただ、末尾の「を」は詠嘆の終助詞であるとともに、以下の文がうける格助詞でもあり、地の文になるという構造である。1.5.2
注釈106なくてぞとは『源氏釈』は「ある時は有りのすさびに憎かりきなくてぞ人は恋しかりける」(生きていた時は生きているというだけで憎らしかったが、死んでみると恋しく思い出されるものだ)(出典未詳、源氏釈所引)を指摘。明融臨模本は付箋でこの引歌を指摘する。類歌に「ある時は有りのすさびに語らはで恋しきものと別れてぞ知る」(生きていた時はいいかげんに親しくしなかったが恋しい人だと別れてから知った)(古今六帖第五、物語、二八〇五)というのがある。以下「見えたり」まで、『岷江入楚』は「前を釈しめして物語の作者の評したる詞歟」と指摘する。「見えたり」と判断するのは語り手である。1.5.2
出典1 なくてぞ ある時はありのすさびに憎かりき亡くてぞ人は恋しかりける 源氏釈所引-出典未詳 1.5.2
Last updated 12/05/2008(ver.2-1)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 12/29/2008(ver.2-1)
渋谷栄一注釈
Last updated 6/25/2003
渋谷栄一訳(C)(ver.1-4-1)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経

2003年8月14日

Last updated 12/13/2008 (ver.2-1)
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by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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