第一帖 桐壺


01 KIRITUBO (Myouyu-rinmo-bon)

2
第二章 父帝悲秋の物語


2  Mikado's grief

2.1
第一段 父帝悲しみの日々


2-1  Mikado's grievous days

2.1.1  はかなく日ごろ過ぎて、 後のわざなどにもこまかにとぶらはせたまふ。ほど経るままに、せむ方なう悲しう思さるるに、御方がたの御宿直なども絶えてしたまはず、ただ 涙にひちて明かし暮らさせたまへば、見たてまつる人さへ 露けき秋なり。「 亡きあとまで、人の胸あくまじかりける人の御おぼえかな」とぞ、 弘徽殿などにはなほ許しなうのたまひける。一の宮を見たてまつらせたまふにも、 若宮の御恋しさのみ思ほし出でつつ、親しき女房、御乳母などを遣はしつつ、ありさまを聞こし召す。
 いつのまにか日数は過ぎて、後の法要などの折にも情愛こまやかにお見舞いをお遣わしあそばす。時が過ぎて行くにしたがって、どうしようもなく悲しく思われなさるので、女御更衣がたの夜の御伺候などもすっかりお命じにならず、ただ涙に濡れて日をお送りあそばされているので、拝し上げる人までが露っぽくなる秋である。「亡くなった後まで、人の心を晴ればれさせなかった御寵愛の方だこと」と、弘徽殿女御などにおかれては今もなお容赦なくおっしゃるのであった。一の宮を拝し上げあそばされるにつけても、若宮の恋しさだけがお思い出されお思い出されして、親しく仕える女房や 御乳母などをたびたびお遣わしになっては、ご様子をお尋ねあそばされる。
 時は人の悲しみにかかわりもなく過ぎて七日七日の仏事が次々に行なわれる、そのたびに帝からはお弔いの品々が下された。
 愛人の死んだのちの日がたっていくにしたがってどうしようもない寂しさばかりを帝はお覚えになるのであって、女御、更衣を宿直に召されることも絶えてしまった。ただ涙の中の御朝タであって、拝見する人までがしめっぽい心になる秋であった。
 「死んでからまでも人の気を悪くさせる御寵愛ぶりね」
 などと言って、右大臣の娘の弘徽殿の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇子を御覧になっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになって、親しい女官や、御自身のお乳母などをその家へおつかわしになって若宮の様子を報告させておいでになった。
  Hakanaku higoro sugi te, noti-no-waza nado ni mo komaka ni toburaha se tamahu. Hodo huru mama ni, semkatanau kanasiu obosa ruru ni, ohom-katagata no ohom-tonowi nado mo tayete si tamaha zu, tada namida ni hiti te akasi-kurasa se tamahe ba, mi tatematuru hito sahe tuyukeki aki nari. "Naki ato made, hito no mune aku mazikari keru hito no ohom-oboye kana!" to zo, Koukiden nado ni ha naho yurusi nau notamahi keru. Iti-no-miya wo mi tatematura se tamahu ni mo, Wakamiya no ohom-kohisisa nomi omohosi-ide tutu, sitasiki nyoubau, ohom-menoto nado wo tukahasi tutu, arisama wo kikosimesu.
注釈107後のわざ七日ごとの法事。四十九日忌まで続く。2.1.1
注釈108涙にひちて「漬 ヒタス ヒチテ」(図書寮本類聚名義抄)。清音で読む。涙に濡れて。2.1.1
注釈109露けき秋なり「露」は「秋」の縁語。「露」は涙を暗示する。帝の悲しみを秋を背景にして語る。2.1.1
注釈110亡きあとまで以下「御おぼえかな」まで、弘徽殿女御の詞と後からわかる。「御」があることによって、帝の寵愛、という意。2.1.1
注釈111弘徽殿「弘徽殿 コウクヰテン」(色葉字類抄)。明融臨模本の傍注に「コウ」とあるので「こうきでん」と読む。2.1.1
注釈112若宮の御恋しさ前には「御子」とあった。「一の宮」に対して「若宮」と呼称される。2.1.1
2.2
第二段 靫負命婦の弔問


2-2  The visit in Fall

2.2.1   野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。 夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、 御遊びなどせさせたまひしに、心ことなる物の音を掻き鳴らし、はかなく聞こえ出づる言の葉も、人よりは ことなりしけはひ容貌の、面影につと添ひて思さるるにも、 闇の現にはなほ劣りけり
 野分めいて、急に肌寒くなった夕暮どき、いつもよりもお思い出しになることが多くて、靫負命婦という者をお遣わしになる。夕月夜の美しい時刻に出立させなさって、そのまま物思いに耽ってておいであそばす。このような折には、管弦の御遊などをお催しあそばされたが、とりわけ優れた琴の音を掻き鳴らし、ついちょっと申し上げる言葉も、人とは格別であった雰囲気や顔かたちが、面影となってひたとわが身に添うように思し召されるにつけても、闇の中の現実にはやはり及ばないのであった。
 野分ふうに風が出て肌寒の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人がお思われになって、靫負の命婦という人を使いとしてお出しになった。夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深い物思いをしておいでになった。以前にこうした月夜は音楽の遊びが行なわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠む歌なども平凡ではなかった。彼女の幻は帝のお目に立ち添って少しも消えない。しかしながらどんなに濃い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。
  Nowakidati te, nihaka ni hada samuki yuhugure no hodo, tune yori mo obosi-iduru koto ohoku te, Yugehi-no-myaubu to ihu wo tukahasu. Yuhudukuyo no wokasiki hodo ni idasitate sase tamahi te, yagate nagame ohasimasu. Kauyau no wori ha, ohom-asobi nado se sase tamahi si ni, kokoro-koto naru mono-no-ne wo kaki-narasi, hakanaku kikoyeiduru kotonoha mo, hito yori ha koto nari si kehahi katati no, omokage ni tuto sohi te obosa ruru ni mo, yami-no-ututu ni ha naho otori keri.
2.2.2  命婦、かしこに 参で着きて、 門引き入るるより、けはひあはれなり。やもめ住みなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、めやすきほどにて過ぐしたまひつる、 闇に暮れて臥し沈みたまへるほどに、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ 八重葎にも障はらず差し入りたる。 南面に下ろして、母君も、とみにえものものたまはず。
 命婦は、あちらに参着して、門を潜り入るなり、しみじみと哀れ深い。未亡人暮らしであるが、娘一人を大切にお世話するために、あれこれと手入れをきちんとして、見苦しくないようにしてお暮らしになっていたが、亡き子を思う悲しみに暮れて臥せっていらっしゃったうちに、雑草も高くなり、野分のためにいっそう荒れたような感じがして、月の光だけが八重葎にも遮られずに差し込んでいた。寝殿の南面で車から下ろして、母君も、すぐにはご挨拶できない。
 命婦は故大納言家に着いて車が門から中へ引き入れられた刹那からもう言いようのない寂しさが味わわれた。末亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁を保って暮らしていたのであるが、子を失った女主人の無明の日が続くようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの野分の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさし込んだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人はすぐにもものが言えないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた。
  Myaubu, kasiko ni ma'de tuki te, kado hiki-iruru yori, kehahi ahare nari. Yamome-zumi nare do, hito hitori no ohom-kasiduki ni, tokaku tukurohi-tate te, meyasuki hodo nite sugusi tamahi turu, yami ni kure te husi sidumi tamahe ru hodo ni, kusa mo takaku nari, nowaki ni itodo are taru kokoti si te, tukikage bakari zo yahemugura ni mo sahara zu sasi-iri taru. Minami-omote ni orosi te, Hahagimi mo, tomi ni e mono mo notamaha zu.
2.2.3  「 今までとまりはべるがいと憂きを、かかる御使の 蓬生の露分け入りたまふにつけても、いと恥づかしうなむ」
 「今まで生きながらえておりましたのがとても情けないのに、このようなお勅使が草深い宿の露を分けてお訪ね下さるにつけても、とても恥ずかしうございます」
 「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅうございますのに、こうしたお使いが荒ら屋へおいでくださるとまたいっそう自分が恥ずかしくてなりません」
  "Ima made tomari haberu ga ito uki wo, kakaru ohom-tukahi no yomogihu no tuyu wake-iri tamahu ni tuke te mo, ito hadukasiu nam."
2.2.4  とて、 げにえ堪ふまじく泣いたまふ
 と言って、ほんとうに身を持ちこらえられないくらいにお泣きになる。
 と言って、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。
  tote, geni e tahu maziku nai tamahu.
2.2.5  「『 参りては、いとど心苦しう、心肝も 尽くるやうになむ』と、 典侍奏したまひしを、 もの思うたまへ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたうはべりけれ」
 「『お訪ねいたしたところ、ひとしおお気の毒で、心も魂も消え入るようでした』と、典侍が奏上なさったが、物の情趣を理解いたさぬ者でも、なるほどまことに忍びがとうございます」
 「こちらへ上がりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍は陛下へ申し上げていらっしゃいましたが、私のようなあさはかな人間でもほんとうに悲しさが身にしみます」
  "'Mawiri te ha, itodo kokorogurusiu, kokorogimo mo tukuru yau ni nam' to, Naisi-no-suke no sousi tamahi si wo, mono omou tamahe sira nu kokoti ni mo, geni koso ito sinobi-gatau haberi kere."
2.2.6  とて、 ややためらひて仰せ言伝へきこゆ。
 と言って、少し気持ちを落ち着かせてから、仰せ言をお伝え申し上げる。
 と言ってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。
  tote, yaya tamerahi te, ohosegoto tutahe kikoyu.
2.2.7  「『 しばしは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひ静まるにしも、覚むべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも、問ひあはすべき 人だになきを忍びては参りたまひなむや。若宮のいとおぼつかなく、露けき中に過ぐしたまふも、 心苦しう思さるるをとく参りたまへなど、はかばかしうものたまはせやらず、むせかへらせたまひつつ、かつは 人も心弱く見たてまつるらむと、思しつつまぬにしもあらぬ御気色の心苦しさに、 承り果てぬやうにてなむ、まかではべりぬる」
 「『しばらくの間は夢かとばかり思い辿られずにはいられなかったが、だんだんと心が静まるにつれてかえって、覚めるはずもなく堪えがたいのは、どのようにしたらよいものかとも、相談できる相手さえいないので、人目につかないようにして参内なさらぬか。若宮がたいそう気がかりで、湿っぽい所でお過ごしになっているのも、おいたわしくお思いあそばされますから、早く参内なさい』などと、はきはきとは最後まで仰せられず、涙に咽ばされながら、また一方では人びともお気弱なと拝されるだろうと、お憚りあそばされないわけではない御様子がおいたわしくて、最後まで承らないようなかっこうで、退出いたして参りました」
 「当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやく落ち着くとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですがそれもありません。目だたぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい」
 「こういうお言葉ですが、涙にむせ返っておいでになって、しかも人に弱さを見せまいと御遠慮をなさらないでもない御様子がお気の毒で、ただおおよそだけを承っただけでまいりました」
  "'Sibasi ha yume ka to nomi tadora re si wo, yauyau omohi-sidumaru ni simo, samu beki kata naku tahegataki ha, ikani su beki waza ni ka to mo, tohi-ahasu beki hito dani naki wo, sinobi te ha mawiri tamahi na m ya? Wakamiya no ito obotukanaku, tuyukeki naka ni sugusi tamahu mo, kokorogurusiu obosa ruru wo, toku mawiri tamahe!' nado, hakabakasiu mo notamaha se yara zu, musekahera se tamahi tutu, katuha hito mo kokoro-yowaku mi tatematuru ram to, obosi-tutuma nu ni simo ara nu mi-kesiki no kokorogurusisa ni, uketamahari hate nu yau nite nam, makade haberi nuru."
2.2.8  とて、 御文奉る
 と言って、お手紙を差し上げる。
 と言って、また帝のお言づてのほかの御消息を渡した。
  tote, ohom-humi tatematuru.
2.2.9  「 目も見えはべらぬに、かくかしこき仰せ言を光にてなむ」とて、見たまふ。
 「目も見えませんが、このような畏れ多いお言葉を光といたしまして」と言って、御覧になる。
 「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分なかたじけない仰せを光明にいたしまして」
 未亡人はお文を拝見するのであった。
  "Me mo miye habera nu ni, kaku kasikoki ohosegoto wo hikari nite nam." tote, mi tamahu.
2.2.10  「ほど経ばすこしうち紛るることもやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきはわりなきわざになむ。いはけなき人をいかにと思ひやりつつ、もろともに育まぬ おぼつかなさを。今は、なほ 昔のかたみになずらへて、ものしたまへ」
 「時がたてば少しは気持ちの紛れることもあろうかと、心待ちに過す月日がたつにつれて、たいそうがまんができなくなるのはどうにもならないことである。幼い人をどうしているかと案じながら、一緒にお育てしていない気がかりさよ。今は、やはり故人の形見と思って、参内なされよ」
 時がたてば少しは寂しさも紛れるであろうかと、そんなことを頼みにして日を送っていても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。どうしているかとばかり思いやっている小児も、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子の代わりとして面倒を見てやってくれることを頼む。
  "Hodo he ba sukosi uti-magiruru koto mo ya to, mati sugusu tukihi ni sohe te, ito sinobigataki ha warinaki waza ni nam. Ihakenaki hito wo ikani to omohiyari tutu, morotomoni hagukuma nu obotukanasa wo. Ima ha, naho mukasi no katami ni nazurahe te, monosi tamahe."
2.2.11  など、こまやかに書かせたまへり。
 などと、心こまやかにお書きあそばされていた。
 などこまごまと書いておありになった。
  nado, komayaka ni kaka se tamahe ri.
2.2.12  「 宮城野の露吹きむすぶ風の音に
   小萩がもとを思ひこそやれ
 「宮中の萩に野分が吹いて露を結ばせたり散らそうとする風の音を聞くにつけ、
  幼子の身が思いやられる
  宮城野の露吹き結ぶ風の音に
  小萩が上を思ひこそやれ
    "Miyagino no tuyu huki musubu kaze no oto ni
    kohagi ga moto wo omohi koso yare
2.2.13  とあれど、え見たまひ果てず。
 とあるが、最後までお読みきれになれない。
 という御歌もあったが、未亡人はわき出す涙が妨げて明らかには拝見することができなかった。
  to are do, e mi tamahi hate zu.
2.2.14  「 命長さの、いとつらう 思うたまへ知らるるに、 松の思はむことだに、恥づかしう 思うたまへはべれば百敷に行きかひはべらむことは、ましていと憚り多くなむ。 かしこき仰せ言をたびたび承りながら、みづからはえなむ思ひたまへたつまじき。
 「長生きが、とても辛いことだと存じられますうえに、高砂の松がどう思うかさえも、恥ずかしう存じられますので、内裏にお出入りいたしますことは、さらにとても遠慮いたしたい気持ちでいっぱいです。畏れ多い仰せ言をたびたび承りながらも、わたし自身はとても思い立つことができません。
 「長生きをするからこうした悲しい目にもあうのだと、それが世間の人の前に私をきまり悪くさせることなのでございますから、まして御所へ時々上がることなどは思いもよらぬことでございます。もったいない仰せを伺っているのですが、私が伺候いたしますことは今後も実行はできないでございましょう。
  "Inoti nagasa no, ito turau omou tamahe sira ruru ni, matu no omoha m koto dani, hadukasiu omou tamahe habere ba, momosiki ni yukikahi habera m koto ha, masite ito habakari ohoku nam. Kasikoki ohosegoto wo tabitabi uketamahari nagara, midukara ha e nam omohi tamahe tatu maziki.
2.2.15 若宮は、いかに思ほし知るにか、参りたまはむことをのみなむ思し 急ぐめればことわりに悲しう見たてまつりはべるなど、うちうちに 思うたまふるさまを奏したまへ。 ゆゆしき身にはべれば、 かくておはしますも、忌ま忌ましうかたじけなくなむ」
若宮は、どのようにお考えなさっているのか、参内なさることばかりお急ぎになるようなので、ごもっともだと悲しく拝見しておりますなどと、ひそかに存じております由をご奏上なさってください。不吉な身でございますので、こうして若宮がおいでになるのも、忌まわしくもあり畏れ多いことでございます」
 若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますものと見えて、御所へ早くおはいりになりたい御様子をお見せになりますから、私はごもっともだとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに申し上げてくださいませ。良人も早く亡くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ずくめの私が御いっしょにおりますことは、若宮のために縁起のよろしくないことと恐れ入っております」
Wakamiya ha, ikani omohosi siru ni ka, mawiri tamaha m koto wo nomi nam obosi-isogu mere ba, kotowari ni kanasiu mi tatematuri haberu nado, utiuti ni omou tamahuru sama wo sousi tamahe. Yuyusiki mi ni habere ba, kakute ohasimasu mo, imaimasiu katazikenaku nam."
2.2.16  とのたまふ。 宮は大殿籠もりにけり
 とおっしゃる。若宮はもうお寝みになっていた。
 などと言った。そのうち若宮ももうお寝みになった。
  to notamahu. Miya ha ohotonogomori ni keri.
2.2.17  「 見たてまつりて、くはしう 御ありさまも奏しはべらまほしきを、 待ちおはしますらむに夜更けはべりぬべしとて急ぐ
 「拝見して、詳しくご様子も奏上いたしたいのですが、帝がお待ちあそばされていることでしょうし、夜も更けてしまいましょう」と言って急ぐ。
 「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしく御様子も陛下へ御報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それではあまりおそくなるでございましょう」
 と言って命婦は帰りを急いだ。
  "Mi tatematuri te, kuhasiu mi-arisama mo sousi habera mahosiki wo, mati ohasimasu ram ni, yo huke haberi nu besi." tote isogu.
2.2.18  「 暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだに、はるくばかりに 聞こえまほしうはべるを、私にも心のどかにまかでたまへ。年ごろ、 うれしく面だたしきついでにて 立ち寄りたまひしものを、かかる御消息にて見たてまつる、返す返すつれなき命にもはべるかな。
 「子を思う親心の悲しみの堪えがたいその一部だけでも、晴らすほどに申し上げとうございますので、個人的にでもゆっくりとお出くださいませ。数年来、おめでたく晴れがましい時にお立ち寄りくださいましたのに、このようなお悔やみのお使いとしてお目にかかるとは、返す返すも情けない運命でございますこと。
 「子をなくしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公のお使いでなく、気楽なお気持ちでお休みがてらまたお立ち寄りください。以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとは何ということでしょう。返す返す運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます。
  "Kure-madohu kokoro-no-yami mo tahe gataki katahasi wo dani, haruku bakari ni kikoye mahosiu haberu wo, watakusi ni mo kokoro nodoka ni makade tamahe. Tosigoro, uresiku omodatasiki tuide nite tatiyori tamahi si mono wo, kakaru ohom-seusoko nite mi tatematuru, kahesugahesu turenaki inoti ni mo haberu kana!
2.2.19   生まれし時より思ふ心ありし人にて故大納言、いまはとなるまで、『 ただ、この人の宮仕への本意、かならず遂げさせたてまつれ。我れ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、返す返す諌めおかれはべりしかば、はかばかしう 後見思ふ人もなき交じらひは、なかなかなるべきことと思ひたまへながら、ただかの遺言を違へじとばかりに、出だし立てはべりしを、身に余るまでの御心ざしの、よろづにかたじけなきに、人げなき恥を隠しつつ、交じらひたまふめりつるを、人の嫉み深く積もり、安からぬこと多くなり添ひはべりつるに、 横様なるやうにて、つひにかくなりはべりぬれば、かへりてはつらくなむ、かしこき御心ざしを思ひたまへられはべる。これもわりなき心の闇になむ」
 生まれた時から、心中に期待するところのあった人で、亡き夫大納言が、臨終の際となるまで、『ともかく、わが娘の宮仕えの宿願を、きっと実現させ申しなさい。わたしが亡くなったからといって、落胆して挫けてはならぬ』と、繰り返し戒め遺かれましたので、これといった後見人のない宮仕え生活は、かえってしないほうがましだと存じながらも、ただあの遺言に背くまいとばかりに、出仕させましたところ、身に余るほどのお情けが、いろいろともったいないので、人にあるまじき恥を隠し隠ししては、宮仕え生活をしていられたようでしたが、人の嫉みが深く積もり重なり、心痛むことが多く身に添わってまいりましたところ、横死のようなありさまで、とうとうこのようなことになってしまいましたので、かえって辛いことだと、その畏れ多いお情けを存じております。このような愚痴も理屈では割りきれない親心の迷いです」
 故人のことを申せば、生まれました時から親たちに輝かしい未来の望みを持たせました子で、父の大納言はいよいよ危篤になりますまで、この人を宮中へ差し上げようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、確かな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましてはただ遺言を守りたいばかりに陛下へ差し上げましたが、過分な御寵愛を受けまして、そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、皆さんの御嫉妬の積もっていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいたしましたのですから、陛下のあまりに深い御愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」
  Umare si toki yori, omohu kokoro ari si hito nite, ko-Dainagon, imaha to naru made, 'Tada, kono hito no miyadukahe no ho'i, kanarazu toge sase tatemature. Ware nakunari nu tote, kutiwosiu omohi kuduhoru na.' to, kahesugahesu isame-oka re haberi sika ba, hakabakasiu usiromi omohu hito mo naki mazirahi ha, nakanaka naru beki koto to omohi tamahe nagara, tada kano yuigon wo tagahe zi to bakari ni, idasi-tate haberi si wo, mi ni amaru made no mi-kokorozasi no, yorodu ni katazikenaki ni, hitogenaki hadi wo kakusi tutu, mazirahi tamahu meri turu wo, hito no sonemi hukaku tumori, yasukara nu koto ohoku nari sohi haberi turu ni, yokosama naru yau nite, tuhi ni kaku nari haberi nure ba, kaherite ha turaku nam, kasikoki mi-kokorozasi wo omohi tamahe rare haberu. Kore mo warinaki kokoro-no-yami ni nam."
2.2.20  と、言ひもやらずむせかへりたまふほどに、夜も更けぬ。
 と、最後まで言えないで涙に咽んでいらっしゃるうちに、夜も更けてしまった。
 こんな話をまだ全部も言わないで未亡人は涙でむせ返ってしまったりしているうちにますます深更になった。
  to, ihi mo yara zu musekaheri tamahu hodo ni, yo mo huke nu.
2.2.21  「 主上もしかなむ。『 我が御心ながら、あながちに人目おどろくばかり 思されしも長かるまじきなりけりと、今は つらかりける人の契りになむ世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、ただこの人のゆゑにて、あまた さるまじき人の恨みを負ひし果て果ては、かううち捨てられて、心をさめむ方なきに、いとど人悪ろうかたくなになり果つるも、 前の世ゆかしうなむ』とうち返しつつ、御しほたれがちにのみおはします」と 語りて尽きせず。泣く泣く、「 夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず、御返り奏せむ」と 急ぎ参る
 「主上様もご同様でございまして。『御自分のお心ながら、強引に周囲の人が目を見張るほど御寵愛なさったのも、長くは続きそうにない運命だったからなのだなあと、今となってはかえって辛い人との宿縁であった。決して少しも人の心を傷つけたようなことはあるまいと思うのに、ただこの人との縁が原因で、たくさんの恨みを負うなずのない人の恨みをもかったあげくには、このように先立たれて、心静めるすべもないところに、ますます体裁悪く愚か者になってしまったのも、前世がどんなであったのかと知りたい』と何度も仰せられては、いつもお涙がちばかりでいらっしゃいます」と話しても尽きない。泣く泣く、「夜がたいそう更けてしまったので、今夜のうちに、ご報告を奏上しよう」と急いで帰参する。
 「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながらあまりに穏やかでないほどの愛しようをしたのも前生の約束で長くはいっしょにおられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁でつながれていたのだ、自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信を持っていたが、あの人によって負ってならぬ女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって湿っぽい御様子ばかりをお見せになっています」
 どちらも話すことにきりがない。命婦は泣く泣く、
 「もう非常に遅いようですから、復命は今晩のうちにいたしたいと存じますから」
 と言って、帰る仕度をした。
  "Uhe mo sika nam. 'Waga mi-kokoro nagara, anagati ni hitome odoroku bakari obosare si mo, nagakaru maziki nari keri to, ima ha turakari keru hito-no-tigiri ni nam. Yoni isasaka mo hito no kokoro wo mage taru koto ha ara zi to omohu wo, tada kono hito no yuwe nite, amata sarumaziki hito no urami wo ohi si hatehate ha, kau uti-sute rare te, kokoro wosame m kata naki ni, itodo hito warou katakuna ni nari haturu mo, saki-no-yo yukasiu nam.' to uti-kahesi tutu, ohom-sihotaregati ni nomi ohasimasu." to katari te tuki se zu. Nakunaku, "Yo itau huke nure ba, koyohi sugusa zu, ohom-kaheri souse m." to isogi mawiru.
2.2.22   月は入り方の、空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの 虫の声ごゑもよほし顔なるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。
 月は入り方で、空が清く澄みわたっているうえに、風がとても涼しくなって、草むらの虫の声ごえが涙を誘わせるようなのも、まことに立ち去りがたい庭の風情である。
 落ちぎわに近い月夜の空が澄み切った中を涼しい風が吹き、人の悲しみを促すような虫の声がするのであるから帰りにくい。
  Tuki ha irigata no, sora kiyou sumi-watare ru ni, kaze ito suzusiku nari te, kusamura no musi no kowegowe moyohosi-gaho naru mo, ito tati hanare nikuki kusa no moto nari.
2.2.23  「 鈴虫の声の限りを尽くしても
   長き夜あかずふる涙かな
 「鈴虫が声をせいいっぱい鳴き振るわせても
  長い秋の夜を尽きることなく流れる涙でございますこと
  鈴虫の声の限りを尽くしても
  長き夜飽かず降る涙かな
    "Suzumusi no kowe no kagiri wo tukusi te mo
    nagaki yo akazu huru namida kana
2.2.24   えも乗りやらず
 お車に乗りかねている。
 車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。
  E mo nori-yara zu.
2.2.25  「 いとどしく虫の音しげき浅茅生に
   露置き添ふる雲の上人
 「ただでさえ虫の音のように泣き暮らしておりました荒れ宿に
  さらに涙をもたらします内裏からのお使い人よ
 「いとどしく虫の音しげき浅茅生に
  露置き添ふる雲の上人
    "Itodosiku musi no ne sigeki asadihu ni
    tuyu oki sohuru kumo no uhebito
2.2.26   かごとも聞こえつべくなむ」
 恨み言もつい申し上げてしまいそうで」
 かえって御訪問が恨めしいと申し上げたいほどです」
  Kagoto mo kikoye tu beku nam."
2.2.27  と 言はせたまふ。をかしき御贈り物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、かかる用もやと残したまへりける御装束一領、 御髪上げ調度めく物添へたまふ
 と言わせなさる。趣きのあるような御贈物などあらねばならない時でもないので、ただ亡き更衣のお形見にと、このような入用もあろうかとお残しになった御衣装一揃いに、御髪上げの調度のような物をお添えになる。
 と未亡人は女房に言わせた。意匠を凝らせた贈り物などする場合でなかったから、故人の形見ということにして、唐衣と裳の一揃えに、髪上げの用具のはいった箱を添えて贈った。
  to iha se tamahu. Wokasiki ohom-okurimono nado aru beki wori ni mo ara ne ba, tada kano ohom-katami ni tote, kakaru you mo ya to nokosi tamahe ri keru ohom-sauzoku hito-kudari, mi-gusiage no teudo-meku mono sohe tamahu.
2.2.28   若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはむことを そそのかしきこゆれど、「 かく忌ま忌ましき身の 添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、 見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」思ひきこえたまひて、 すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり
 若い女房たちは、悲しいことは言うまでもない、内裏の生活を朝な夕なと馴れ親しんでいるので、たいそう物足りなく、主上のご様子などをお思い出し申し上げると、早く参内なさるようにとお勧め申し上げるが、「このように忌まわしい身が付き随って参内申すようなのも、まことに世間の聞こえが悪いであろうし、また、しばしも拝さずにいることも、気がかりに」お思い申し上げなさって、気分よくさっぱりとは参内させなさることがおできになれないのであった。
 若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住まいをしなれていて、寂しく物足らず思われることが多く、お優しい帝の御様子を思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにと促すのであるが、不幸な自分がごいっしょに上がっていることも、また世間に批難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛にも堪えきれる自信がないと未亡人は思うので、結局若宮の宮中入りは実行性に乏しかった。
  Wakaki hitobito, kanasiki koto ha sarani mo iha zu, uti watari wo asayuhu ni narahi te, ito sauzausiku, Uhe no ohom-arisama nado omohi-ide kikoyure ba, toku mawiri tamaha m koto wo sosonokasi kikoyure do, "Kaku imaimasiki mi no sohi tatematura m mo, ito hitogiki ukaru besi, mata, mi tatematura de sibasi mo ara m ha, ito usirometau." omohi kikoye tamahi te, sugasuga to mo e mawira se tatematuri tamaha nu nari keri.
注釈113野分立ちて「野分たちて」と清音で読む説(大系・新大系)と読む説と「野分だちて」(講話、全書、対訳、対校、評釈、全集、集成、完訳、古典セレクション)と濁音で読む説がある。明融臨模本は後人の朱筆で「た」の左下に濁点符号と「清濁両説」とある。大島本では「達也野分ノヤウナル風也」とある。意味は同じく、野分めいて吹く風、の意。「風立つ」「気色立つ」などと同じく、様子が現れる、意。「野分」と「立つ」の連語であるから濁音で読む。季節は「野分」のころ。古来「野分の章段」の叙情的文章として名高い。2.2.1
注釈114夕月夜のをかしきほどに夕月は、七日ころから十日の月までの夜半には沈む月。時刻の推移は月の位置で表現されている。2.2.1
注釈115御遊びなどせさせたまひしに過去の助動詞「し」が使用されていることに注意。以下にも出てくる。前の「かやうの折は」以下「なほ劣りけり」までの文章は、語り手の客観的な地の文ではない。帝の直接体験、追懐の気持ちが織り混ぜられた表現で、帝の心中に即した表現となっている。2.2.1
注釈116ことなりしけはひ容貌ここにも、過去の助動詞「し」が使用されている。帝が実感や体験に即したニュアンスである。2.2.1
注釈117闇の現にはなほ劣りけり『源氏釈』は「むば玉の闇のうつつは定かなる夢にいくらもまさらざりけり」(真っ暗闇の中での逢瀬ははっきりと見た夢にいくらもまさっていなかった)(古今集恋三、六四七 、読人しらず)を指摘。明融臨模本は付箋でこの引歌を指摘。更衣の幻影は、その真っ暗闇の中の現し身にはやはり劣った、夢同様にはかなかったの意。2.2.1
注釈118参で青表紙本系の池田本は「う」を補入、横山本は「か」を補入、肖柏本と三条西家本は書陵部本は「まかて」、大島本は「まて」。河内本系諸本と別本諸本は「まうて」とある。「参うづ」と「罷かづ」との相違。「参うで着く」といえば、参上し到着するの意。更衣の邸を敬った表現。「罷かで着く」といえば、宮中を退出して目的地に到着するの意。宮中を敬った表現になる。2.2.2
注釈119門引き入るるより「より」(格助詞)は、「門を入るやいなや」の意を添える。2.2.2
注釈120闇に暮れて「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(子を持つ親心は暗闇ではないが、わが子のことを思うとどうしてよいかわからなくなる)(後撰集雑一、一一〇二、兼輔朝臣)を指摘。藤原兼輔は紫式部の曾祖父に当る人。『源氏物語』中の引歌として最も多く引用される和歌である。2.2.2
注釈121八重葎にも障はらず『源氏釈』は「八重葎茂れる宿の寂しきに人こそ見えね秋は来にけり」(拾遺集秋、一四〇、恵慶法師)を指摘。『奥入』は「訪ふ人もなき宿なれどくる春は八重葎にもさはらざりけり」(古今六帖二、宿、一三〇六)を指摘。『異本紫明抄』は「今更に訪ふべき人も思ほえず八重葎してかどさせりてへ」(古今集雑下、九七五、読人しらず)を指摘。2.2.2
注釈122南面に下ろして普通の人は中門で下車するが、帝の使者なので、寝殿の正面の階段のもとに車を着けて下車した。寝殿の南廂間に迎え入れる。2.2.2
注釈123今までとまりはべるが以下「いと恥づかしうなむ」まで、母北の方の挨拶。「はべる」は丁寧語。会話文中に使用される。「なむ」の下には「侍る」また「思ひたまふる」などの語句が省略。言いさした形である。以下の母北の方の会話にも、言いさした形が多く見られる。2.2.3
注釈124蓬生の露分け入りたまふにつけても『河海抄』は「いかでかは尋ね来つらむ蓬生の人も通はぬわが宿の道」(拾遺集、雑賀、一二〇三、読人しらず)を指摘。「露」は「蓬生」の縁語。2.2.3
注釈125げにえ堪ふまじく泣いたまふ「げに」(なるほど)という語には、語り手の感想が交えられた表現で、直接見てきて語っているような印象を与える。『湖月抄』は「草子地ともいふべき歟」と指摘した。2.2.4
注釈126参りては以下「尽くるやうになむ」まで、典侍の詞を引用。「忍びがたうはべりけれ」まで命婦の詞。今までに帝の使者として、典侍が弔問に訪れたことがあったことが明かされる。2.2.5
注釈127尽くるやうになむ下に「はべりき」「思ひたまへき」などの語句が省略された形。2.2.5
注釈128典侍内侍司の次官、定員四名。長官は「尚侍」で、定員二名。2.2.5
注釈129奏したまひし「奏す」は天皇に奏上する。後の「し」(過去の助動詞)は、命婦は典侍が帝に奏上した場面に立ち会っていた、というニュアンスである。2.2.5
注釈130もの思うたまへ知らぬ心地にも命婦自身をいう。明融臨模本「おもふ(ふ$ひ<朱>)たまへ」とある。大島本も「おもふたまへ」とある。語法としては連用形「たまひ」+「たまへ」(下二段活用)であるが、ここは会話文中の用例であるから、ウ音便化した「思うたまへ」とする。2.2.5
注釈131ややためらひて帝の伝言を伝える前に悲しみに乱れる心を落ち着かせた。2.2.6
注釈132仰せ言帝からのお言伝て。2.2.6
注釈133しばしは以下「とく参りたまへ」まで帝の仰せ言。命婦の詞は、「まかではべりぬる」まで。「たどられしを」の「し」(過去の助動詞)は、帝の直接体験を表す。2.2.7
注釈134人だになきを「を」は原因・理由を表す順接の接続助詞。2.2.7
注釈135忍びては参りたまひなむや帝は母北の方にこっそりと参内なさらないかと促した。「たまひ」は、帝の母北の方に対する敬意。「な」(完了の助動詞、確述)、「む」(推量の助動詞、勧誘)、「や」(終助詞、呼び掛け)、親しく呼び掛けたニュアンス。2.2.7
注釈136心苦しう思さるるを帝が自分の「思う」ことを尊敬語で表現した形になっているが、伝言文であるために、命婦の帝に対する敬意がこのような形で現れ出たもの。「を」は原因・理由を表す順接の接続助詞。2.2.7
注釈137とく参りたまへ帝の母北の方への命令のようだが、まだ喪中であるので、やや実現性の困難な話である。2.2.7
注釈138など以下「まかではべりぬる」まで、命婦はその時の帝の状況を故桐壺更衣の母北の方に語る。2.2.7
注釈139人も心弱く見たてまつるらむ帝の気持ちを代弁したような文章。帝が自分を「見奉るらむ」というのもおかしな敬語表現になるので、命婦の帝に対する敬意が現れ出た表現。2.2.7
注釈140承り果てぬやうに明融臨模本には「うけたまり(り+も<朱>)はてぬやうに」とあるが、「も」は後人の補入で、明融臨模本本来の本文ではない。大島本にも「も」は無い。『集成』『新大系』は「うけたまはり」と校訂する。『古典セレクション』は「うけたまはりも」と後人の補入を採用して校訂する。2.2.7
注釈141御文奉る帝のお手紙を北の方に差し上げる。命婦の動作行為には敬語は使われていない。2.2.8
注釈142目も見えはべらぬに以下「光にてなむ」まで北の方の詞。「目も見えはべらぬ」(子を亡くした心の闇で)といったのに関連して、「光にて」といった。縁語表現である。以下に「見侍る」などの語句が省略されている。2.2.9
注釈143おぼつかなさを「を」は間投助詞、詠嘆の意。また格助詞「を」目的格の意とし、「かたみになずらへて」に係るとも。例えば、「一緒に育てない不安さを(残念に思っているから)」(待井新一)。また接続助詞、順接の意とする説がある。例えば「二人で育てたいのだが、それができないのが気がかりだから」(今泉忠義)。2.2.10
注釈144昔のかたみになずらへてわたし(帝)を故人の縁者と思って、の意。また「若宮を亡き更衣の形見と見なす」(待井新一)。さらに母君を形見と見なす説。例えば「娘の身代りに立つつもりになって」(今泉忠義)などがある。2.2.10
注釈145宮城野の露吹きむすぶ風の音に--小萩がもとを思ひこそやれ帝の歌。我が子の身を案じる意の歌。「宮城野」は歌枕。宮城県仙台市東部の野、萩の名所として名高い。ここは宮中の意。「露吹きむすぶ風」は、野分が吹いて急に寒くなり萩に露が置くようになり、また風が吹いてはその露を散らそうとする気掛かりなさま。「小萩」は歌語。子供を暗喩する。「結ぶ」は「露」の縁語。「露」は涙を暗喩する。「嵐吹く風はいかにと宮城野の小萩が上を人の問へかし」(激しい風が吹いているがいかがですかと宮中の小萩の身の上を見舞いなさい)(新古今集雑下、一八一九、赤染衛門)、「宮城野のもとあらの小萩露を重み風を待つごと君をこそ待て」(宮中の根本もまばらな小萩は露が重いので風を待つようにあなたを待っています)(古今集恋四、六九四、読人しらず)。2.2.12
注釈146命長さの以下「かたじけなく」まで、北の方の詞。
『紫明抄』は「寿則多辱」(荘子、外篇、天地第十二)を指摘。
2.2.14
注釈147思うたまへ明融臨模本「思給へ」送り仮名無し。大島本「思ふたまへ」と表記する。「ふ」はウ音便形の誤表記と見て、「思うたまへ」と校訂する。2.2.14
注釈148松の思はむことだに恥づかしう「松」は長寿で名高い高砂の松。『源氏釈』は「いかでなほありと知らせじ高砂の松の思はむことも恥ずかし」(何とかして今でも生きていると知らせまい、長寿で有名な高砂の松にまだ生きているのかと思われるのも恥ずかしいから)(古今六帖五、名を惜しむ、三〇五七)を指摘。『源氏物語新釈』は「いたづらに世にふる物と高砂の松も我をや友と見るらむ」(無為に生きている者だと高砂の松もわたしのことを友達と思うことだろうか)(拾遺集雑上、四六三 、紀貫之)を指摘する。2.2.14
注釈149思うたまへはべれば明融臨模本「思給へ侍れは」、大島本「おもふたまへ侍れは」。語法的には「おもひたまへ」であるが、明融臨模本は送り仮名、無し。大島本では「おもふ」と仮名遣いを誤った表記(正しくはウ音便形「う」)である。会話文中の用例であるので、「思う」と校訂する。「たまへ」(謙譲の補助動詞)、「はべれ」(丁寧の補助動詞)、「恥ずかしく存じられますので」の意。2.2.14
注釈150百敷に行きかひはべらむことは「百敷」は歌語。「はべら」(丁寧の補助動詞)は謙譲の意と考える。「む」(推量の助動詞、婉曲)。2.2.14
注釈151かしこき仰せ言をたびたび承りながら今回の命婦の訪問以前にも、北の方に対して帝からの度々の参内の勧誘があったことがわかる。2.2.14
注釈152急ぐめれば「めり」(推量の助動詞、視界内推量)は北の方が若宮の態度を直接見て推量するニュアンス。接続助詞「ば」の受ける文脈がないので、文はここで切ってもよい。2.2.15
注釈153ことわりに悲しう若宮の参内を急ぐ気持ちは、北の方からみれば「いかに思ほし知るにか」であるが、この「ことわり(道理)」は若宮の父親(帝)を恋しがる全般的な態度をさして「ことわりに悲しう」(もっともなことだと、悲しく)といっているのである。2.2.15
注釈154思うたまふる明融臨模本には「思たまふ(ふ$へ<朱>)る」とあり、後人の朱筆で「ふ」を「へ」と訂正する。本来の本文は「たまふる」。一方、大島本は「おもふたまへる」とある。大島本「桐壺」帖は、他の飛鳥井雅康筆の帖とは違って、後写の道増筆であるので、明融臨模本の訂正後の本文に従ったものか。なお他の定家本系の池田本は「思たまふる」とあり、明融臨模本の表記と同じ。定家本系の本来の本文。その他の定家本系では、横山本は大島本と同じく「おもふたまへる」とある。肖柏本も「思ひたまへる」。三条西家本と書陵部本は「思給へる」と表記する。定家本の校訂過程の反映(第二次本)と想像する。その他に「思」の送り仮名の有無と「ふ」のウ音便形の誤表記の異同の問題があるが、会話文中の用例なので「思う」と校訂する。なお、河内本系諸本と別本諸本は「思たまふる」とある。ここは、「たまふる」(謙譲の補助動詞、連体形)かまたは「たまへる」(謙譲の補助動詞+完了の助動詞、存続の意)かの相違がある。後者には母北の方が以前から思っていたというニュアンスが出てくる。2.2.15
注釈155ゆゆしき身娘に先立たれた逆縁の不吉な身の上。2.2.15
注釈156かくておはしますも主語は若宮。敬語の存在によってわかる。2.2.15
注釈157宮は大殿籠もりにけり「に」(完了の助動詞)「けり」(過去の助動詞)。訪問が長時間に及んだため、若宮はすでにお寝みになってしまわれていた、というニュアンス。2.2.16
注釈158見たてまつりてくはしう以下「夜ふけ侍ぬへし」まで命婦の詞。命婦が若宮を。2.2.17
注釈159御ありさま明融臨模本「御」の傍注に「ミ」とある。「みありさま」と読む。2.2.17
注釈160待ちおはしますらむに青表紙本系の明融臨模本、池田本、横山本、大島本は「まちおはしますらんに」。肖柏本、三条西家本、書陵部本は「まちおはしますらんを」。河内本系諸本、別本諸本は「まちおはしますらんに」。「らむ」は、推量の助動詞、視界外推量。帝が宮中で待っているだろうことを、命婦の推測するニュアンス。「に」は接続助詞、順接の意、「お待ちあそばしていることであろうから」。しかし、順接といっても下に直接受ける語句はない。並列の構文。2.2.17
注釈161夜更けはべりぬべし「ぬ」(完了の助動詞、確述)「べし」(推量の助動詞、推量)、「夜が更けてしまいましょう」の意で、夜が更けてしまったのではない。2.2.17
注釈162とて急ぐ「急ぐ」には、せく、急ぐ、意と、準備する意とがある。「といひながら帰り支度を始める」(今泉忠義)。2.2.17
注釈163暮れまどふ心の闇も以下「心の闇になむ」まで、北の方の詞。冒頭の「暮れまどふ心の闇も堪へがたき片端をだにはるくばかりに」は五七五七七の和歌の形式である。会話の中に和歌がひっそりと織り込められている。『源氏釈』は「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)を指摘。「闇」は「暮れ」の縁語。古歌の語を引用して親心のぐちを語る。その中に更衣の宮仕えの理由も語られる。2.2.18
注釈164聞こえまほしうはべるを北の方が命婦に。「まほし」(希望の助動詞)「はべる」(丁寧の補助動詞)「を」(接続助詞、順接)、「申し上げとうございますので」の意。2.2.18
注釈165うれしく面だたしきついで若宮誕生、若宮御袴着の祝いなどの折をさす。2.2.18
注釈166立ち寄りたまひしものを「し」(過去助動詞)、過去の体験が北の方にとって思い出される。「を」は、接続助詞の逆接とも、終助詞の詠嘆とも、特定できにくい。2.2.18
注釈167生まれし時より以下、更衣の宮仕えの理由を語る。2.2.19
注釈168思ふ心ありし人にて望みをかけていた娘で、の意。具体的に当時における娘をもった親の望みといえば、宮中に入内させて、寵愛をうけて御子をもうけ、帝や皇室との関係をいっそう深め、家門一族の繁栄につながることを願うこと。2.2.19
注釈169故大納言この巻では、「大納言」としか呼称されていない。後の「須磨」巻で、明石入道の口から叔父の「按察使大納言」という紹介がなされる。大納言の兄は、大臣であったという。この巻を読むかぎりでは、大納言の娘として入内すれば、更衣から始まって、女御、さらにあわよくば、父が健在で大臣の地位にまで上れば、中宮という可能性も開けてこよう、という家柄。2.2.19
注釈170ただこの人の宮仕への本意かならず遂げさせたてまつれ我れ亡くなりぬとて口惜しう思ひくづほるな故大納言の北の方に対する遺言の内容。副詞「ただ」は命令や意志を表す語句と呼応して、「何でもいいから」「ともかく」の意を表す。『集成』『新大系』は「ただ」以下を故大納言の遺言とする。一方『古典セレクション』では「ただ」を「と返す返す諌めおかれはべりしかば」に係る語と解して「この人の」以下を故大納言の遺言とする。入内(結婚)を「宮仕え」という。「この人の宮仕えの本意」とは、娘自身の意志ではなく、父大納言の意志、宿願である。「させ」(使役の助動詞、娘をして)「たてまつれ」(謙譲の補助動詞、命令形)。2.2.19
注釈171後見思ふ人明融臨模本の本行本文には「ゝしろみ思へき人」とあり、「へき」をやや細めの斜線二本で上からミセケチにする。後人のミセケチと考えられる他のミセケチが文字の左側に「ヒ」とあるのとは方法を異にする。大島本には「うしろみ思ふ人」とある。よって、ここは明融臨模本の親本(定家本)の書本には「へき」があったのだが、定家はそれをミセケチにしたものと推測する。明融臨模本では定家の校訂跡をそのままに書承したものと判断し、「へき」を削除する。2.2.19
注釈172横様なるやうにて「横 ヨコサマ」(北野本日本書紀・最勝王経古点)。清音で読む。横死のようなかたちで、寿命を全うすることなく、の意。2.2.19
注釈173主上もしかなむ以下「おはします」まで、命婦の詞。命婦は帝のことを「主上(うへ)」と呼称する。副詞「しか」は、北の方の「かへりてはつらく」を受けて、「なむ」の下に省略された「ある」などの語にかかる。北の方と同じようにある、という意。2.2.21
注釈174我が御心ながら以下「前の世ゆかしうなむ」まで、帝の詞を引用。ただし「我が御心」という言い方は、命婦が帝の言葉を伝えるにあたって帝に対する敬意が混じり込んだ表現である。体言の下に続く接続助詞「ながら」は逆接の意。2.2.21
注釈175思されしも「思す」は「思う」の尊敬表現。ここも命婦の帝に対する敬意が紛れ込んだもの。「れ」(自発の助動詞)「し」(過去の助動詞)、帝が自らの体験に基づいて語っている。2.2.21
注釈176長かるまじきなりけり「まじき」(打消し推量の助動詞、連体形)と「なり」(断定の助動詞)の間に「契り」「宿世」などの語が省略。「けり」過去の助動詞、詠嘆の意。2.2.21
注釈177つらかりける人の契りになむ「人の契り」で一語。「人」は桐壺更衣をさすが特に意味はなく「契り」に意味がある。「因縁」「約束事」の意。2.2.21
注釈178世にいささかも「世に」副詞は下の否定語「あらじ」に係る。決して--ない、少しも--ない、の意を表す。2.2.21
注釈179さるまじき人の恨み連語「さるまじき」の「さ」は「恨みを負う」をさす。2.2.21
注釈180前の世ゆかしうなむ現世のことはすべて前世からの因縁によるとする仏教思想。係助詞「なむ」の下に「おぼゆる」(連体形)などの語が省略。2.2.21
注釈181語りて尽きせず泣く泣く命婦の会話の途中に地の文が挿入されているので、ナレーターの文章のなような印象を与える。2.2.21
注釈182夜いたう更けぬれば以下「御返り奏せむ」まで命婦の詞の続き。2.2.21
注釈183急ぎ参る「急いで帰参する」とあっても、すぐに場面が変わるわけでない。物語は、その辞去の場面を以下に詳細に語るのである。2.2.21
注釈184月は入り方の空清う澄みわたれるに「月は入り方」の格助詞「の」は、同格を表し、ここで一呼吸おいて読むのが正しいのだろうが、最初音読した折には「入り方の空」というような連続した文章の印象を与えることも無視できない。ここの「の」には同格と時間の意の二重の表現性がある。接続助詞「に」は添加の意。なお大島本「月はいりかたに」とある。独自異文である。「夕月夜のをかしき程に」「夜更けぬべし」「夜も更けぬ」そして「月は入り方の」というように時間の経過が語られている。2.2.22
注釈185虫の声ごゑもよほし顔なるも擬人法である。「もよほす」の目的語は「涙」を。2.2.22
注釈186鈴虫の声の限りを尽くしても--長き夜あかずふる涙かな命婦の歌。「ふる」は「振る」と「降る」との掛詞。「振る」は「鈴虫」の「鈴」と縁語。なお、「鈴虫」は今の「松虫」。虫の声そのものよりも、「ふる(涙を流しながらずっと暮して来た)」という語句を呼び起こすために、その縁語である「鈴」すなわち「鈴虫」が出てくる、という小道具の使われ方なのである。2.2.23
注釈187えも乗りやらず副詞「え」は否定語「ず」(打消し助動詞)と呼応して不可能の意を表す。補助動詞「やる」は下に否定語を伴って、「--しきれない」の意を表す。2.2.24
注釈188いとどしく虫の音しげき浅茅生に--露置き添ふる雲の上人北の方の返歌。相手の歌の語の「鈴虫」を「虫」、「声」を「音」、「涙」を「露」と言い替えて詠み返す。「雲の上人」とは命婦をいう。『紫明抄』は「五月雨に濡れし袖にいとどしく露置き添ふる秋のわびしさ」(後撰集秋中、二七七 、近衛更衣)を指摘。『全集』は「わが宿や雲の中にも思ふらむ雨も涙もふりにこそ降れ」(伊勢集)も指摘する。2.2.25
注釈189かごと「カコト [Cacoto] カゴト [Cagoto]」(日葡辞書)「カゴト [Cagoto] 仮初ノ事」(日葡辞書補遺)。「かごと」(古典セレクション等)「かこと」(集成・新大系等)両方ある。恨み言、愚痴の意。2.2.26
注釈190言はせたまふ「せ」(使役の助動詞)、北の方が女房をして、「言わせなさる」意。使者は帰参のため座をたち車の方に移動しかけている。2.2.27
注釈191御髪上げ明融臨模本の傍注に「ミ」とあるので「みぐしあげ」と読む。2.2.27
注釈192調度めく物添へたまふ「調度」は「てうど」(古典セレクション・新大系等)、「でうど」(集成)。「古くは「でうど」、色葉字類抄の雑物類に「調」「度」ともに濁点があり「畳字」の部には「調」に清、「度」に濁の点があって清濁は定まらない。あるいは呉音デウから漢音テウへの推移という一般的傾向を反映した現象(漢音読みのときの「度」は連濁)かと思われるが定かでない」(小学館古語大辞典)。命婦は形見の品を受け取って、ここで辞去した。2.2.27
注釈193若き人びと悲しきことは視点は命婦が辞去した後の若い女房たちの素直で率直な気持ちを語り、また一方で、そうとも決断できない北の方の複雑な心境を語る。2.2.28
注釈194そそのかしきこゆれど主語は若宮付きの若い女房たち。2.2.28
注釈195かく忌ま忌ましき身の以下「いとうしろめたう」まで北の方の心内文が後半は地の文に融合している。「人聞き憂かるべし」は北の方の憂慮。「後ろめたう思ひきこえて」というように地の文の「思う」を連用修飾した表現になっている。2.2.28
注釈196添ひたてまつらむも我身が若宮にお付き添い申しての意。2.2.28
注釈197見たてまつらで北の方が若宮を。2.2.28
注釈198すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり「すがすが(清清)と」(副詞)は心境的に迷いやためらいを捨てたすっきりした状態」(小学館古語大辞典)。若宮を今回はもちろんんのこと暫く先まで参内させなかったというニュアンスである。以上で、更衣の邸を舞台とした物語は切り上げられる。2.2.28
出典2 闇の現 むば玉の闇の現は定かなる夢にいくらもまさらざりけり 古今集恋三-六四七 読人しらず 2.2.1
出典3 八重葎にも障はらず 訪ふ人もなき宿なれど来る春は八重葎にもさはらざりけり 古今六帖二-一三〇六 読人しらず 2.2.2
出典4 松の思はむこと いかでなほありと知らせじ高砂の松の思はむことも恥づかし 古今六帖五-三〇五七 読人しらず 2.2.14
出典5 暮れまどふ心の闇も 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな 後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔 2.2.18
校訂2 後見思ふ人 後見思ふ人--後見思へき(へき/$)人 2.2.19
2.3
第三段 命婦帰参


2-3  Messenger reports to Mikado

2.3.1   命婦は、「まだ大殿籠もらせたまはざりける」と、あはれに見たてまつる。 御前の壺前栽のいとおもしろき盛りなるを御覧ずるやうにて、忍びやかに心にくき限りの女房四五人さぶらはせたまひて、 御物語せさせたまふなりけり
 命婦は、「まだお寝みあそばされなかったのだわ」と、しみじみと拝し上げる。御前にある壺前栽がたいそう美しい盛りに咲いているのを御覧あそばされるようにして、しめやかにおくゆかしい女房ばかり四、五人を伺候させなさって、お話をさせておいであそばすのであった。
 御所へ帰った命婦は、まだ宵のままで御寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして凡庸でない女房四、五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。
  Myaubu ha, "Mada ohotonogomora se tamaha zari keru!" to, ahare ni mi tatematuru. O-mahe no tubosenzai no ito omosiroki sakari naru wo goranzuru yau nite, sinobiyaka ni kokoronikuki kagiri no nyoubau sigo-nin saburaha se tamahi te, ohom-monogatari se sase tamahu nari keri.
2.3.2 このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵亭子院の描かせたまひて伊勢、貫之に詠ませたまへる、大和言の葉をも、唐土の詩をも、ただ その筋をぞ、枕言にせさせたまふ。 いとこまやかにありさま問はせたまふ。あはれなりつること忍びやかに奏す。御返り御覧ずれば、
最近、毎日御覧なさる「長恨歌」の御絵、それは亭子院がお描きあそばされて、伊勢や 貫之に和歌を詠ませなさったものだが、わが国の和歌や 唐土の漢詩などをも、ひたすらその方面の事柄を、日常の話題にあそばされている。たいそう詳しく里の様子をお尋ねあそばす。しみじみとした趣きをひそかに奏上する。お返事を御覧になると、
 このごろ始終帝の御覧になるものは、玄宗皇帝と楊貴妃の恋を題材にした白楽天の長恨歌を、亭子院が絵にあそばして、伊勢や貫之に歌をお詠ませになった巻き物で、そのほか日本文学でも、支那のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家の様子をお聞きになった。身にしむ思いを得て来たことを命婦は外へ声をはばかりながら申し上げた。未亡人の御返事を帝は御覧になる。
Konogoro, akekure goranzuru Tyaugonka no ohom-we, Teizi-no-win no kaka se tamahi te, Ise, Turayuki ni yoma se tamahe ru, yamato-kotonoha wo mo, morokosi no uta wo mo, tada sono sudi wo zo, makuragoto ni se sase tamahu. Ito komayaka ni arisama toha se tamahu. Ahare nari turu koto sinobiyaka ni sousu. Ohom-kaheri goranzure ba,
2.3.3  「 いともかしこきは置き所もはべらず。 かかる仰せ言につけても、かきくらす乱り心地になむ。
 「たいへんに畏れ多いお手紙を頂戴いたしましてはどうしてよいか分かりません。このような仰せ言を拝見いたしましても、心の中はまっくら闇に思い乱れておりまして。
 もったいなさをどう始末いたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せを承りましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。
  "Ito mo kasikoki ha okidokoro mo habera zu. Kakaru ohosegoto ni tuke te mo, kaki-kurasu midarigokoti ni nam.
2.3.4   荒き風ふせぎし蔭の枯れしより
  小萩がうへぞ静心なき
 荒い風を防いでいた木が枯れてからは
 小萩の身の上が気がかりでなりません
  荒き風防ぎし蔭の枯れしより
  小萩が上ぞしづ心無き
    Araki kaze husegi si kage no kare si yori
    Kohagi ga uhe zo sidugokoro naki
2.3.5   などやうに乱りがはしきを、心をさめざりけるほどと御覧じ許すべしいとかうしも見えじと、思し静むれど、 さらにえ忍びあへさせたまはず、御覧じ初めし年月のことさへかき集め、よろづに 思し続けられて、「 時の間もおぼつかなかりしを、 かくても月日は経にけり」と、あさましう思し召さる。
 などと言うようにやや不謹慎なのを、気持ちが静まらない時だからとお見逃しになるのであろう。決してこう取り乱した姿を見せまいと、お静めなさるが、まったく堪えることがおできあそばされず、初めてお召しあそばした年月のことまであれこれと思い出され、何から何まで自然とお思い続けられて、「片時の間も離れてはいられなかったのに、よくこうも月日を過せたものだ」と、あきれてお思いあそばされる。
 というような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのために落ち着かない心で詠んでいるのであるからと寛大に御覧になった。帝はある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それが御困難であるらしい。はじめて桐壼の更衣の上がって来たころのことなどまでがお心の表面に浮かび上がってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。
  nado yau ni midarigahasiki wo, kokoro wosame zari keru hodo to goranzi yurusu besi. Ito kau simo miye zi to, obosi sidumure do, sarani e sinobiahe sase tamaha zu, goranzi hazime si tosituki no koto sahe kakiatume, yorodu ni obosi tuduke rare te, "Toki no ma mo obotukanakari si wo, kaku te mo tukihi ha he ni keri." to, asamasiu obosimesa ru.
2.3.6  「 故大納言の遺言あやまたず、宮仕への本意深くものしたりしよろこびは、 かひあるさまにとこそ 思ひわたりつれ 。言ふかひなしや」とうちのたまはせて、いとあはれに思しやる。「 かくても、おのづから若宮など生ひ出でたまはば、 さるべきついでもありなむ。 命長くとこそ思ひ念ぜめ
 「故大納言の遺言に背かず、宮仕えの宿願をよく果たしたお礼には、その甲斐があったようにと思い続けていたが。詮ないことだ」とふと仰せになって、たいそう気の毒にと思いを馳せられる。「そうではあるが、いずれ若宮がご成長されたならば、しかるべき機会がきっとあろう。長生きをしてそれまでじっと辛抱するがよい」
 「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人への酬いは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかも皆夢になった」
 とお言いになって、未亡人に限りない同情をしておいでになった。
 「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日が来れば、故人に后の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」
  "Ko-Dainagon no yuigon ayamata zu, miyadukahe no hoi hukaku monosi tari si yorokobi ha, kahi aru sama ni to koso omohiwatari ture. Ihukahinasi ya!" to uti-notamahase te, ito ahare ni obosi-yaru. "Kaku te mo, onodukara Wakamiya nado ohi-ide tamaha ba, sarubeki tuide mo ari na m. Inoti nagaku to koso omohi-nenze me."
2.3.7  などのたまはす。 かの贈り物御覧ぜさす。「 亡き人の住処尋ね出でたりけむしるしの釵ならましかば」と思ほすも いとかひなし
 などと仰せになる。あの贈物を帝のお目に入れる。「亡くなった人の住処を探し当てたという証拠の釵であったならば」とお思いあそばしても まったく甲斐がない。
 などという仰せがあった。命婦は贈られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に逢って得て来た玉の簪であったらと、帝はかいないこともお思いになった。
  nado notamahasu. Kano okurimono goranze sasu. "Naki hito no sumika tadune-ide tari kem sirusi no kamzasi nara masika ba." to omohosu mo ito kahinasi.
2.3.8  「 尋ねゆく幻もがなつてにても
   魂のありかをそこと知るべく
 「亡き更衣を探し行ける幻術士がいてくれればよいのだがな、人づてにでも
  魂のありかをどこそこと知ることができるように
  尋ね行くまぼろしもがなつてにても
  魂のありかをそこと知るべく
    "Tadune yuku maborosi mogana tute nite mo
    tama no arika wo soko to siru beku
2.3.9   絵に描ける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。 大液芙蓉未央柳も げに通ひたりし容貌を唐めいたる装ひは うるはしうこそ ありけめ なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき。
 絵に描いてある楊貴妃の容貌は、上手な絵師と言っても、筆力には限界があったのでまったく生気が少ない。「大液の芙蓉、未央の柳」の句にも、なるほど似ていた容貌だが、唐風の装いをした姿は端麗ではあったろうが、慕わしさがあって愛らしかったのをお思い出しになると、花や鳥の色や音にも喩えようがない。
 絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現は限りがあって、それほどのすぐれた顔も持っていない。太液の池の蓮花にも、未央宮の柳の趣にもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣の持った柔らかい美、艶な姿態をそれに思い比べて御覧になると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであった。
  We ni kake ru Yaukihi no katati ha, imiziki wesi to ihe do mo, hude kagiri ari kere ba ito nihohi sukunasi. 'Taieki-no-huyou Biyau-no-yanagi' mo, geni kayohi tari si katati wo, karamei taru yosohi ha uruhasiu koso ari keme, natukasiu rautage nari si wo obosi-iduru ni, hana tori no iro ni mo ne ni mo yosohu beki kata zo naki.
2.3.10   朝夕の言種に、「 翼をならべ、枝を交はさむ」と 契らせたまひしに、かなはざりける命のほどぞ、 尽きせず恨めしき
 朝夕の口癖に、「比翼の鳥となり、連理の枝となろう」とお約束あそばしていたのに、思うようにならなかった人の運命が、永遠に尽きることなく恨めしかった。
 お二人の間はいつも、天に在っては比翼の鳥、地に生まれれば連理の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。
  Asayuhu no koto-gusa ni, "Hane wo narabe, eda wo kahasa m." to tigira se tamahi si ni, kanaha zari keru inoti no hodo zo, tukise zu uramesi ki.
2.3.11   風の音、虫の音につけて、もののみ悲しう思さるるに、弘徽殿には、久しく 上の御局にも参う上りたまはず、月のおもしろきに、夜更くるまで 遊びをぞしたまふなる。いとすさまじう、ものしと聞こし召す。このごろの御気色を見たてまつる上人、女房などは、かたはらいたしと聞きけり。 いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ御方にて、 ことにもあらず思し消ちて もてなしたまふなるべし月も入りぬ
 風の音や、虫の音を聞くにつけて、何とはなく一途に悲しく思われなさるが、弘徽殿女御におかれては、久しく上の御局にもお上がりにならず、月が美しいので、夜が更けるまで管弦の遊びをなさっているようである。実に興ざめで、不愉快だとお聞きあそばす。最近のご様子を拝する殿上人や 女房などは、はらはらする思いで聞いていた。たいへんに気が強くてとげとげしい性質をお持ちの方なので、何ともお思いなさらず無視して振る舞っていらっしゃるのであろう。月も沈んでしまった。
 秋風の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになる時、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿の宿直にもお上がりせずにいて、今夜の月明に更けるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このころの帝のお心持ちをよく知っている殿上役人や帝付きの女房なども皆弘徽殿の楽音に反感を持った。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。
 月も落ちてしまった。
  Kaze no oto, musi no ne ni tuke te, mono nomi kanasiu obosa ruru ni, Koukiden ni ha, hisasiku uhe-no-mi-tubone ni mo maunobori tamaha zu, tuki no omosiroki ni, yo hukuru made asobi wo zo si tamahu naru. Ito susamaziu, monosi to kikosimesu. Konogoro no mi-kesiki wo mi tatematuru uhebito, nyoubau nado ha, kataharaitasi to kiki keri. Ito ositati kadokadosiki tokoro monosi tamahu ohom-kata nite, koto ni mo ara zu obosi-keti te motenasi tamahu naru besi. Tuki mo iri nu.
2.3.12  「 雲の上も涙にくるる秋の月
   いかですむらむ浅茅生の宿
 「雲の上の宮中までも涙に曇って見える秋の月だ
  ましてやどうして澄んで見えようか、草深い里で
  雲の上も涙にくるる秋の月
  いかですむらん浅茅生の宿
    "Kumo no uhe mo namida ni kururu aki no tuki
    ikade sumu ram asadihu no yado
2.3.13  思し召しやりつつ、 灯火をかかげ尽くして起きおはします。 右近の司の宿直奏の声聞こゆるは、 丑になりぬるなるべし。人目を思して、夜の御殿に入らせたまひても、 まどろませたまふことかたし
 お思いやりになりながら、灯芯をかき立てて油の尽きるまで起きておいであそばす。右近衛府の官人の宿直申しの声が聞こえるのは、丑の刻になったのであろう。人目をお考えになって、夜の御殿にお入りあそばしても、うとうととまどろみあそばすことも難しい。
 命婦が御報告した故人の家のことをなお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。
 右近衛府の士官が宿直者の名を披露するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人目をおはばかりになって御寝室へおはいりになってからも安眠を得たもうことはできなかった。
  Obosimesi-yari tutu, tomosibi wo kakage-tukusi te oki ohasimasu. Ukon-no-tukasa no tonowimausi no kowe kikoyuru ha, usi ni nari nuru naru besi. Hitome wo obosi te, yorunootodo ni ira se tamahi te mo, madoroma se tamahu koto katasi.
2.3.14   朝に起きさせたまふとても、「 明くるも知らで」と 思し出づるにも、なほ朝政は 怠らせたまひぬべかめり
 朝になってお起きあそばそうとしても、「夜の明けるのも分からないで」とお思い出しになられるにつけても、やはり政治をお執りになることは怠りがちになってしまいそうである。
 朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに語り合った昔の御追憶がお心を占めて、寵姫の在った日も亡いのちも朝の政務はお怠りになることになる。
  Asita ni oki sase tamahu tote mo, "Akuru mo sira de." to obosi-iduru ni mo, naho asamaturigoto ha okotara se tamahi nu bekameri.
2.3.15  ものなども聞こし召さず、 朝餉のけしきばかり触れさせたまひて、 大床子の御膳などは、いと遥かに思し召したれば、陪膳にさぶらふ限りは、心苦しき御気色を見たてまつり嘆く。すべて、近うさぶらふ限りは、男女、「 いとわりなきわざかな」と言ひ合はせつつ嘆く。「 さるべき契りこそはおはしましけめ。そこらの人の誹り、恨みをも憚らせたまはず、この御ことに触れたることをば、道理をも失はせたまひ、今はた、かく世の中のことをも、思ほし捨てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり」と、 人の朝廷の例まで引き出でささめき嘆きけり
 お食物などもお召し上がりにならず、朝餉には形だけお箸をおつけになって、大床子の御膳などは、まったくお心に入らぬかのように手をおつけあそばさないので、お給仕の人たちは皆、おいたわしいご様子を拝して嘆く。総じて、お側近くお仕えする人たちは、男も女も、「たいそう困ったことですね」とお互いに言い合っては溜息をつく。「こうなるはずの前世からの宿縁がおありあそばしたのでしょう。大勢の人びとの非難や 嫉妬をもお憚りあそばさず、あの方の事に関しては、御分別をお失いあそばされ、今は今で、このように政治をお執りになることも、お捨てになったようになって行くのは、たいへんに困ったことである」と、唐土の朝廷の例まで引き合いに出して、ひそひそと嘆息するのであった。
 お食欲もない。簡単な御朝食はしるしだけお取りになるが、帝王の御朝餐として用意される大床子のお料理などは召し上がらないものになっていた。それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人は皆この状態を歎いていた。すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると歎いた。よくよく深い前生の御縁で、その当時は世の批難も後宮の恨みの声もお耳には留まらず、その人に関することだけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない、国家のためによろしくないことであるといって、支那の歴朝の例までも引き出して言う人もあった。
  Mono nado mo kikosimesa zu, asagarehi no kesiki bakari hure sase tamahi te, daisyauzi no o-mono nado ha, ito haruka ni obosimesi tare ba, haizen ni saburahu kagiri ha, kokorogurusiki mi-kesiki wo mi tatematuri nageku. Subete, tikau saburahu kagiri ha, wotoko womna, "Ito warinaki waza kana!" to ihiahase tutu nageku. "Sarubeki tigiri koso ha ohasimasi keme. Sokora no hito no sosiri, urami wo mo habakara se tamaha zu, kono ohom-koto ni hure taru koto wo ba, dauri wo mo usinaha se tamahi, ima hata, kaku yononaka no koto wo mo, omohosi-sute taru yau ni nari-yuku ha, ito taidaisiki waza nari." to, hito-no-mikado no tamesi made hiki-ide, sasameki nageki keri.
注釈199命婦はまだ大殿籠もらせたまはざりけると場面は宮中の清涼殿に変わる。「まだ」以下「ざりける」まで、命婦の心内文、驚きの意。主語は帝。2.3.1
注釈200御前の壺前栽清涼殿と後凉殿との間にある前栽。2.3.1
注釈201御物語せさせたまふなりけり「させ」(尊敬の助動詞)と解し「お話をしていらっしゃのであった」(古典セレクション等)、「させ」(使役の助動詞)と解し「お話しをさせていらっしゃることだ」(新大系)。帝は主に聞き役に回っている場面であろう。2.3.1
注釈202このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌の御絵以下「枕言にせさせたまふ」までは帝の最近の日常生活を語った文章が挿入されている。「長恨歌の御絵」は、『白氏文集』巻十二「長恨歌」の内容を屏風絵に描いたもの。2.3.2
注釈203亭子院の描かせたまひて以下「伊勢、貫之に詠ませたまへる」まで「長恨歌の御絵」に対する説明を挿入。亭子院は宇多天皇(八八七年〜八九七年まで在位)。「せ」(尊敬の助動詞)「たまふ」(尊敬の補助動詞)、最高敬語。実際は宇多天皇が絵師に命じて描かせたものでもこのように表現する。2.3.2
注釈204伊勢貫之に詠ませたまへる大和言の葉をも唐土の詩をも伊勢は宇多天皇の皇后付きの女房、著名な歌人。『源氏物語』でも伊勢の名前とその引歌は女流歌人の中で最も多く出てくる。作者が意識していた歌人である。紀貫之は『古今和歌集』の撰者としても有名な歌人。貫之の歌も『源氏物語』に男性歌人中最も多く出てくる。「大和言の葉」は和歌のこと。「唐土の詩」は漢詩のこと。2.3.2
注釈205その筋長恨歌の玄宗皇帝が愛妃楊貴妃に死別したような愛する人に先立たれた悲しい話題。2.3.2
注釈206いとこまやかに以下再び物語の現時点に戻って語る。2.3.2
注釈207いともかしこきは以下和歌の「静心なき」まで北の方の文。「かしこき」の下に「御手紙を賜りて」のような語句が省略されているとみてよい。2.3.3
注釈208かかる仰せ言前に「ほど経ばすこしうち紛るることもやと」から「小萩がもとを思ひこそやれ」とあった帝の手紙の文と和歌に示された、北の方に参内せよという言葉と若君を心配している内容をさす。2.3.3
注釈209荒き風ふせぎし蔭の枯れしより--小萩がうへぞ静心なき北の方の返歌。帝の和歌にあった「風」「小萩」を詠み込んで返す。「蔭」は母桐壺更衣、「小萩」は若宮をさす。「ふせぎし蔭の枯れしより」とは母更衣の死をさすが、それ以後「静心なき」とは、父帝の存在を軽んじたと非難されかねない詠み方である。「静心」は連語なので「しづごころ」と濁音で読む。『集成』『新大系』は清音「いづこころ」と読む。2.3.4
注釈210などやうに乱りがはしきを心をさめざりけるほどと御覧じ許すべし『一葉集』は「乱りがはしきを」からを「草子のことは也」と指摘。『湖月抄』は「などやうに」からを「草子地」と指摘する。「などやうに」という引用要約のしかたや「乱りがはし」という批評批判、そして「許すべし」という推量表現には、語り手の口調と意見が言い込められている。2.3.5
注釈211いとかうしも見えじと「かう」は取り乱した姿をさす。2.3.5
注釈212さらにえ忍びあへさせたまはず副詞「さらに」は否定語「ず」と呼応して、「全然、決して、少しも--ない」の意を表す。副詞「え」は可能の意を表す。2.3.5
注釈213思し続けられて「られ」自発の助動詞。自然と思い浮かんできて、の意。2.3.5
注釈214時の間も以下「月日は経にけり」まで帝の心。「時の間」は片時の間、「おぼつかなかりし」は気掛かりであった、の意で、その間に「見ずには」などの語句が省略されている。過去助動詞「し」(連体形)は帝の過去の体験、過去の助動詞「けり」は詠嘆の意。2.3.5
注釈215かくても更衣が亡くなった後をさす。2.3.5
注釈216故大納言の遺言以下「言ふかひなしや」まで帝の詞。入内することも「宮仕え」といった。「よろこび」はお礼を言うこと、お礼の気持ちを表すこと、の意。2.3.6
注釈217かひあるさまにとこそ思ひわたりつれ入内した甲斐。女御への引き立て。ずっとそう考え続けていたという。2.3.6
注釈218思ひわたりつれ明融臨模本「思わたりつれ」の「わたり」は本文と一筆の補入。大島本には「思ひわたりつれ」とある。2.3.6
注釈219かくても以下「思ひ念ぜめ」まで帝の詞。命婦を前にして述べた詞であるが、北の方に対して述べたような内容になっている。したがって、この内容は再び北の方にも伝えられたものであろう。「かくて」は更衣が亡くなったことをさす。2.3.6
注釈220さるべきついで更衣の出仕に報いるしかるべき機会、具体的にどのようなことか不明。もし立坊ということであれば、まず第一皇子に譲位をして、同時にその春宮にこの第二皇子の若宮を就けることになろう。右大臣の娘弘徽殿女御腹の第一皇子を飛び越えて、後見のない更衣腹の第二皇子を春宮に立たせることは不可能である。2.3.6
注釈221命長くとこそ思ひ念ぜめ係助詞「こそ」「め」(推量の助動詞、已然形)係結び。強調のニュアンス。「思ひ念ず」は心でじっとこらえる、がまんする、意。推量の助動詞「め」(已然形)は適当の意。--するのがよい、の意。2.3.6
注釈222かの贈り物御覧ぜさす命婦が帝のお目にかける。「さす」は使役の助動詞。主上の女房をして。「をかしき御贈り物」をさす。2.3.7
注釈223亡き人の住処尋ね出でたりけむしるしの釵ならましかば『白氏文集』「長恨歌」の方術士が楊貴妃の霊魂のありかを探し当てて、その証拠に金釵鈿合を持って帰ったという故事をふまえる。「ましか」反実仮想の助動詞。2.3.7
注釈224いとかひなし副詞「いと」は下に打消しの語を伴って「全然--ない」の意を表す。2.3.7
注釈225尋ねゆく幻もがなつてにても--魂のありかをそこと知るべく帝の独詠歌。「幻」は幻術士、『長恨歌』の原文には「方士」とある。終助詞「もがな」願望の意を表す。「知るべく」の推量の助動詞「べく」(連用形、可能の意)は倒置法で「尋ねゆく幻もがな」に係る。2.3.8
注釈226絵に描ける以下「よそふべき方ぞなき」まで帝の心内文と地の文とが融合したような性格の文章である。したがって、過去の助動詞「し」が二度使用されている。ここに示される感想や価値判断は帝の眼を通して語られたものである。2.3.9
注釈227大液芙蓉未央柳も「長恨歌」に「大液芙蓉未央柳対此如何不涙垂」<大液の芙蓉未央の柳此に対ひて如何にしてか涙垂れざらむ>とあるのをふまえる。なお、『原中最秘抄』に「未央柳」について、藤原行成自筆本にはミセケチになっているという指摘がある。青表紙本系諸本にはすべて存在するが、河内本系諸本、別本の御物本、陽明文庫本、国冬本は「未央柳」の句がない。また『源氏釈』の一伝本の「源氏或抄物」所引の源氏物語の本文にもその句がない。2.3.9
注釈228げに通ひたりし容貌を過去の助動詞「し」は、帝が「長恨歌」の屏風絵の楊貴妃の顔形を見て、それが詩に「大液芙蓉未央柳」と歌われていたのによく似ていたというニュアンス。「を」は逆接の接続助詞。2.3.9
注釈229唐めいたる以下「ありけめ」までを挿入句とみて、「通ひたりし容貌」は「なつかしう」以下に続くとみる説(完訳)もある。2.3.9
注釈230うるはしうこそありけめ過去推量の助動詞「けめ」は、実際の楊貴妃の姿を想像して「端麗であったろう」というのである。文脈は、楊貴妃の容貌から桐壺更衣の人柄へと比較され転じていくのであるから、逆接的な流れであるが、終止形とみてもよいだろう。2.3.9
注釈231ありけめ明融臨模本「ありけめありけめ」とあり、後出の「ありけめ」を細い斜線三本でその上からミセケチにする。親本に存在した訂正跡をそのまま書承したものと判断する。同様の訂正跡「思へき」に見られる。明らかな衍字の訂正。2.3.9
注釈232なつかしうらうたげなりしを以下桐壺更衣を思い出し比較する。過去の助動詞「し」は、帝が生前の桐壺更衣を思い出している。河内本系諸本には、「らうたけなりし」の下に「ありさまはをみなへしの風になひきたるよりもなよひてなてしこの露にぬれたるよりもらうたくなつかしかりしかたちけはひを」とあり、別本の陽明文庫本、国冬本も、同様の文章がある(若干の異同を含む)。2.3.9
注釈233朝夕の言種に帝の日常生活の様子が挿入されて語られる。2.3.10
注釈234翼をならべ枝を交はさむと「長恨歌」に「在天願作比翼鳥在地願為連理枝」<天に在らば願はくは比翼の鳥作らむ地に在らば願はくは連理の枝為らむ>とあるのをふまえる。ここから「尽きせず恨めしき」までも帝の心内文。「言種」とあるのでむしろ詞文に近い。それと地の文が融合したような文章である。視点は帝の心と語り手の地の文とを融通無碍に行き来し、心境も一体化している。2.3.10
注釈235尽きせず恨めしき「長恨歌」に「此恨綿綿無絶期」<此の恨み綿綿として絶ゆる期無けむ>とあるのをふまえる。2.3.10
注釈236風の音虫の音につけて物語は再び現在にもどる。2.3.11
注釈237上の御局清涼殿の夜の御殿のすぐ北隣にある弘徽殿の上局の間。2.3.11
注釈238遊びをぞしたまふなる「なる」は伝聞推定の助動詞。帝の耳に入ってくるのである。2.3.11
注釈239いとおし立ち以下「なるべし」まで、『首書源氏物語』は「地」と草子地であることを指摘。『岷江入楚』は「ことにもあらず」以下を「草子地なり」と指摘する。弘徽殿女御の強い性格を語る。2.3.11
注釈240ことにもあらず思し消ちて主語は弘徽殿女御。桐壺更衣の死や帝の悲嘆を。問題にもせず無視する、意。2.3.11
注釈241もてなしたまふなるべし「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)の主体者は語り手である。2.3.11
注釈242月も入りぬ前に「夕月夜のをかしきほどに」とあった。十日頃までの月が沈んだ。時刻は夜半を回った。2.3.11
注釈243雲の上も涙にくるる秋の月--いかですむらむ浅茅生の宿帝の独詠歌。「雲の上」は宮中をさす。「月」と縁語。「すむ」は「住む」と「澄む」の掛詞。「らむ」(推量の助動詞、視界外推量)は、帝が遠く離れて思いを馳せているニュアンス。「浅茅生の宿」は若宮のいる里邸をさす。2.3.12
注釈244灯火をかかげ尽くして「長恨歌」に「秋燈挑尽未能眠」<秋の燈挑げ尽して未だ眠ること能はず>とあるのをふまえる。2.3.13
注釈245右近の司の宿直奏の声宮中の夜警は近衛府が勤める。まず、左近衛府が亥の一刻(午後九時)から子の四刻(午前一時)まで勤め、次いで、右近衛府が丑一刻(午前一時)から寅四刻(午前五時)まで勤める。なお、子の刻は午前〇時を中心にした前後二時間。一刻はそれを四等分した三十分である。したがって、子の四刻は午前〇時三十分から午前一時まで、丑一刻は午前一時から午前一時三十まで。2.3.13
注釈246丑になりぬるなるべし丑の刻は午前二時を中心にした前後二時間。「なる」(断定の助動詞)「べし」(推量の助動詞)、物語中の人物と語り手が一体化した推量。2.3.13
注釈247まどろませたまふことかたし「長恨歌」に「秋燈挑尽未能眠」<秋の燈挑げ尽して未だ眠ること能はず>とあるのをふまえる。2.3.13
注釈248朝に起きさせたまふとても帝の日常生活を語る。2.3.14
注釈249明くるも知らでと『源氏釈』は「玉簾明くるも知らで寝しものを夢にも見じと思ひけるかな」<夜が明けたことも知らずに寝ていたが、夢の中にさえ逢えなくなろうとは思ってもみなかったのに>(伊勢集)を指摘。更衣在世中は、夜の明けるのも知らずに一緒に寝ていたのにの意。さらに、夢の中でさえ逢えなくなったという意も含むか。2.3.14
注釈250怠らせたまひぬべかめり「ぬ」(完了の助動詞、確述)「べか」(推量の助動詞、連体形「べかる」の「る」が撥音便化して無表記化した形)「めり」(推量の助動詞、視界内推量)、物語中の人物と語り手が一体化した推量。語り手の位置は、帝に非常に近いところにいる。2.3.14
注釈251朝餉朝餉(あさがれい)の間で女房の配膳によって食べる簡単な食事。2.3.15
注釈252大床子の御膳昼の御座で殿上人の配膳によって食べる正式な食事。2.3.15
注釈253いとわりなきわざかな帝の身辺にお仕えする男女の詞。2.3.15
注釈254さるべき契りこそ以下「いとたいだいしきわざなり」まで帝の身辺にお仕えする男女の詞。複数の人びとの詞であるが、対話というより噂の引用であるから、全体を一つの詞としておく。2.3.15
注釈255人の朝廷の例まで引き出で先に「楊貴妃の例も引き出でつべうなりゆく」と、そこでは「つべくなりゆく」(--しそうになってゆく)という未来形で、地の文で語られていたが、ここでは物語中の人びとが、はっきり異国の朝廷の例、すなわち玄宗皇帝が楊貴妃に溺れて政治を顧みなくなったことを口に出して噂しているということで、それが現実のものとなったことをいう。2.3.15
注釈256ささめき嘆きけり以上で、更衣の亡くなった年の秋の野分ころのある一夜を中心とした帝の日常生活を語った野分の章段が終わる。2.3.15
出典6 大液芙蓉未央柳 大液芙蓉未央柳 対此如何不涙垂 白氏文集巻十二 長恨歌 2.3.9
出典7 翼をならべ、枝を交はさむ 在天願作比翼鳥 在地願為連理枝 白氏文集巻十二 長恨歌 2.3.10
出典8 灯火をかかげ尽くして起き 夕殿蛍飛思悄然 秋灯挑尽未能眠 白氏文集巻十二 長恨歌 2.3.13
出典9 「明くるも知らで」 春宵苦短日高起 従此君王不早朝 白氏文集巻十二 長恨歌 2.3.14
玉簾明くるも知らで寝しものを夢にも見じと思ひけるかな 伊勢集-五五
校訂3 思ひわたりつれ 思ひわたりつれ--思(思/+わたり)つれ 2.3.6
校訂4 ありけめ ありけめ--ありけめありけめ(ありけめ<後出>/$) 2.3.9
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渋谷栄一校訂(C)
Last updated 12/29/2008(ver.2-1)
渋谷栄一注釈
Last updated 6/25/2003
渋谷栄一訳(C)(ver.1-4-1)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経

2003年8月14日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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