第一帖 桐壺


01 KIRITUBO (Myouyu-rinmo-bon)

3
第三章 光る源氏の物語


3  Tale of Hikaru-Genji

3.1
第一段 若宮参内(四歳)


3-1  Genji's return to the Court (age 4)

3.1.1   月日経て、若宮参りたまひぬ。いとどこの世のものならず清らに およすげたまへれば、いとゆゆしう思したり。
 月日がたって、若宮が参内なさった。ますますこの世の人とは思われず美しくご成長なさっているので、たいへん不吉なまでにお感じになった。
 幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。ごくお小さい時ですらこの世のものとはお見えにならぬ御美貌の備わった方であったが、今はまたいっそう輝くほどのものに見えた。
  Tukihi he te, Wakamiya mawiri tamahi nu. Itodo konoyo no mono nara zu kiyora ni oyosuge tamahe re ba, ito yuyusiu obosi tari.
3.1.2   明くる年の春、坊定まりたまふにもいと引き越さまほしう思せど、御後見すべき人もなく、また世のうけひくまじきことなりければ、なかなか危く思し憚りて、色にも出ださせたまはずなりぬるを、「 さばかり思したれど、限りこそありけれ」と、 世人も聞こえ、 女御も御心落ちゐたまひぬ
 翌年の春に、東宮がお決まりになる折にも、とても第一皇子を超えさせたく思し召されたが、ご後見すべき人もなく、また世間が承知するはずもないことだったので、かえって危険であるとお差し控えになって、顔色にもお出しあそばされずに終わったので、「あれほどおかわいがっていらっしゃったが、限界があったのだなあ」と、世間の人びともお噂申し上げ、弘徽殿女御もお心を落ち着けなさった。
 その翌年立太子のことがあった。帝の思召しは第二の皇子にあったが、だれという後見の人がなく、まただれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位は若宮の前途を危険にするものであるとお思いになって、御心中をだれにもお洩らしにならなかった。東宮におなりになったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子でもやはり太子にはおできにならないのだと世間も言い、弘徽殿の女御も安心した。
  Akuru-tosi no haru, bau sadamari tamahu ni mo, ito hikikosa mahosiu obose do, ohom-usiromi su beki hito mo naku, mata yo no ukehiku maziki koto nari kere ba, nakanaka ayahuku obosi-habakari te, iro ni mo idasa se tamaha zu nari nuru wo, "Sabakari obosi tare do, kagiri koso ari kere." to, yohito mo kikoye, Nyougo mo mi-kokoro oti-wi tamahi nu.
3.1.3   かの御祖母北の方、慰む方なく思し沈みておはすらむ所にだに尋ね行かむ願ひたまひししるしにや、つひに亡せたまひぬれば、 またこれを悲しび思すこと限りなし。 御子六つになりたまふ年なればこのたびは思し知りて恋ひ泣きたまふ。 年ごろ馴れ睦びきこえたまひつるを、見たてまつり置く悲しびをなむ、返す返すのたまひける
 あの祖母北の方は、悲しみを晴らすすべもなく沈んでいらっしゃって、せめて死んだ娘のいらっしゃる所にでも尋ねて行きたいと願っていらっしゃった現れか、とうとうお亡くなりになってしまったので、またこのことを悲しく思し召されることこの上もない。御子は六歳におなりのお年なので、今度はお分かりになって恋い慕ってお泣きになる。長年お親しみ申し上げなさってきたのに、後に残して先立つ悲しみを、繰り返し繰り返しおっしゃっていたのであった。
 その時から宮の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないと言って一心に御仏の来迎を求めて、とうとう亡くなった。帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。これは皇子が六歳の時のことであるから、今度は母の更衣の死に逢った時とは違い、皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。今まで始終お世話を申していた宮とお別れするのが悲しいということばかりを未亡人は言って死んだ。
  Kano ohom-oba Kitanokata, nagusamu kata naku obosi-sidumi te, ohasu ram tokoro ni dani taduneyuka m to negahi tamahi si sirusi ni ya, tuhini use tamahi nure ba, mata kore wo kanasibi-obosu koto kagirinasi. Miko mu-tu ni nari tamahu tosi nare ba, kono tabi ha obosi-siri te kohi-naki tamahu. Tosi-goro nare-mutubi kikoye tamahi turu wo, mi tatematuri oku kanasibi wo nam, kahesugahesu notamahi keru.
注釈257月日経て若宮参りたまひぬその年の冬ころか。3.1.1
注釈258およすげ「およすけ」と読む説(集成、古典セレクション等)と「およすげ」と読む説(完訳、新大系)がある(第一章第三節、参照)。3.1.1
注釈259明くる年の春坊定まりたまふにも若宮の母更衣が亡くなった翌年の春、源氏四歳。3.1.2
注釈260いと引き越さまほしう思せど帝は第一皇子を超えて第二皇子の若宮を春宮(皇太子)に立てたく思った、という地の文。3.1.2
注釈261さばかり思したれど限りこそありけれ世間の人びとの声。過去の助動詞「けれ」詠嘆の意。3.1.2
注釈262世人明融臨模本に「の口伝」とあり、大島本には「のもしをそへてよむ也 世人後宇多御諱」とある。後宇多天皇は、諱は世仁、亀山天皇の第二子、在位1284〜87年。天皇の諱を避けて「よのひと」と読んでいた。明融臨模本及び大島本の書入注記の時代が窺える。3.1.2
注釈263女御も御心落ちゐたまひぬ弘徽殿女御は自分の生んだ第一皇子が春宮に決まったので、安堵した。3.1.2
注釈264かの御祖母北の方慰む方なく思し沈みて桐壺更衣の母北の方。娘の死以来気持ちの晴れることなく沈みこんで、の意。孫の若宮が東宮につけなかったことを悲観するような思慮の浅い人ではない。3.1.3
注釈265おはすらむ所にだに尋ね行かむ推量の助動詞「らむ」(連体形、視界外推量の意)副助詞「だに」(最小限を挙げて実現を願う意)せめて娘のいらっしゃるところにだけでも行きたい、すなわち死にたい、の意。3.1.3
注釈266願ひたまひししるしにや「し」(過去の助動詞)、「に」(断定の助動詞)「や」(係助詞、疑問)、北の方の身近で見ていた語り手の推測というニュアンス。3.1.3
注釈267またこれを悲しび思す帝が北の方の死をお悲しみになること。3.1.3
注釈268御子六つになりたまふ年なれば若宮の六歳の年、祖母北の方死去する。3.1.3
注釈269このたびは思し知りて母親の死去した折は、まだ幼くて理解できなかったが、祖母の死去は六歳になっていたので、死の悲しみを理解した。3.1.3
注釈270年ごろ馴れ睦びきこえたまひつるを見たてまつり置く悲しびをなむ返す返すのたまひける「たまひつるを」の「を」は接続助詞、逆接の意。謙譲の補助動詞「きこえ」と「たてまつり」は祖母が孫の若宮に対する敬意。祖母北の方が孫の若宮に「長年お親しみ申し上げていらしたのに、後にお残し申す悲しみを、繰り返し繰り返しおっしゃるのであった」という意。3.1.3
3.2
第二段 読書始め(七歳)


3-2  A child prodigy (age 7)

3.2.1   今は内裏にのみさぶらひたまふ。 七つになりたまへば読書始めなどせさせたまひて、世に知らず聡う賢くおはすれば、あまり恐ろしきまで御覧ず。
 今は内裏にばかりお暮らしになっている。七歳におなりになったので、読書始めなどをおさせになったところ、この世に類を知らないくらい聡明で賢くいらっしゃるので、空恐ろしいまでにお思いあそばされる。
 それから若宮はもう宮中にばかりおいでになることになった。七歳の時に書初めの式が行なわれて学問をお始めになったが、皇子の類のない聡明さに帝はお驚きになることが多かった。
  Ima ha uti ni nomi saburahi tamahu. Nana-tu ni nari tamahe ba, humihazime nado se sase tamahi te, yo ni sira zu satou kasikoku ohasure ba, amari osorosiki made goranzu.
3.2.2  「今は誰れも誰れもえ憎みたまはじ。母君なくてだにらうたうしたまへ」とて、弘徽殿などにも渡らせたまふ御供には、 やがて御簾の内に入れたてまつりたまふいみじき武士、仇敵なりとも、見てはうち笑まれぬべきさまのしたまへれば、 えさし放ちたまはず女皇女たち二ところ、この御腹におはしませど、 なずらひたまふべきだにぞなかりける御方々も隠れたまはず、今よりなまめかしう恥づかしげにおはすれば、いとをかしう うちとけぬ遊び種に、誰れも誰れも思ひきこえたまへり。
 「今はどなたもどなたもお憎みなされまい。母君がいないということだけでもおかわいがりください」と仰せになって、弘徽殿などにもお渡りあそばすお供としては、そのまま御簾の内側にお入れ申し上げなさる。恐ろしい武士や 仇敵であっても、見るとつい微笑まずにはいられない様子でいらっしゃるので、放っておくこともおできになれない。姫皇女たちがお二方、この御方にはいらっしゃったが、お並びになりようもないのであった。他の女御がたもお隠れにならずに、今から優美で立派でいらっしゃるので、たいそう趣きがある一方で気のおける遊び相手だと、どなたもどなたもお思い申し上げていらっしゃった。
 「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。母親のないという点だけででもかわいがっておやりなさい」
 と帝は些言いになって、弘徽殿へ昼間おいでになる時もいっしょにおつれになったりしてそのまま御簾の中にまでもお入れになった。どんな強さ一方の武士だっても仇敵だってもこの人を見ては笑みが自然にわくであろうと思われる美しい少童でおありになったから、女御も愛を覚えずにはいられなかった。この女御は東宮のほかに姫宮をお二人お生みしていたが、その方々よりも第二の皇子のほうがおきれいであった。姫宮がたもお隠れにならないで賢い遊び相手としてお扱いになった。
  "Ima ha tare mo tare mo e nikumi tamaha zi. Hahagimi naku te dani rautau si tamahe." tote, Koukiden nado ni mo watara se tamahu ohom-tomo ni ha, yagate mi-su no uti ni ire tatematuri tamahu. Imiziki mononohu, ata kataki nari tomo, mi te ha uti-wema re nu beki sama no si tamahe re ba, e sasi-hanati tamaha zu. Womna-miko-tati huta-tokoro, kono ohom-hara ni ohasimase do, nazurahi tamahu beki dani zo nakari keru. Ohom-katagata mo kakure tamaha zu, ima yori namamekasiu hadukasige ni ohasure ba, ito wokasiu utitoke nu asobigusa ni, tare mo tare mo omohi kikoye tamahe ri.
3.2.3   わざとの御学問はさるものにて、 琴笛の音にも 雲居を響かしすべて言ひ続けば、ことごとしう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける
 本格的な御学問はもとよりのこと、琴や笛の才能でも宮中の人びとを驚かせ、すべて一つ一つ数え上げていったら、仰々しく嫌になってしまうくらい、優れた才能のお方なのであった。
 学問はもとより音楽の才も豊かであった。言えぼ不自然に聞こえるほどの天才児であった。
  Wazato no go-gakumon ha saru mono nite, koto hue no ne ni mo kumowi wo hibikasi, subete ihi-tuduke ba, kotogotosiu, utate zo nari nu beki hito no ohom-sama nari keru.
注釈271今は内裏にのみさぶらひたまふ主語は若宮。3.2.1
注釈272七つになりたまへば若宮七歳。祖母の死から一年を経過する。学問を始める年齢である。3.2.1
注釈273読書始め読書始(ふみはじ)めの儀式。「せさせたまひて」の「させ」(使役の助動詞)「たまひ」(尊敬の補助動詞)、帝が若宮にさせなさる意。3.2.1
注釈274今は以下「らうたうしたまへ」まで帝の詞。3.2.1
注釈275やがて御簾の内に入れたてまつりたまふ謙譲の補助動詞「たてまつり」は帝の若宮に対する敬意。「帝が若宮をそのまま妃方の部屋の中にお入れ申し上げなさる」。異例のかわいがりようである。3.2.2
注釈276いみじき武士仇敵なりとも若宮の愛くるしい美貌を語る。3.2.2
注釈277えさし放ちたまはず弘徽殿女御も若宮を放っておくことができない。3.2.2
注釈278女皇女たち二ところこの御腹に弘徽殿女御には二人の姫宮がいる。3.2.2
注釈279なずらひたまふべきだにぞなかりける比肩することさえできなかった。若宮の女御子以上に愛くるしく美しいさま。3.2.2
注釈280御方々も隠れたまはず「その他の妃方も姿をお隠しにならない」。普通は、姿を隠し顔は見せないのだが、若宮が幼少なのでお側近くでお相手している。3.2.2
注釈281うちとけぬ遊び種「ぬ」(打消の助動詞)、気づまり、気のおける遊び相手。幼少ではあるが成人同様に気のおける相手だというもの。3.2.2
注釈282わざとの御学問正式の御学問。漢籍をさす。「学門 ガクモン」(色葉字類抄)、「学文 ガクモン」(文明本節用集)。3.2.3
注釈283琴笛の音管弦の遊びの芸事。貴族にとって必要な嗜み。3.2.3
注釈284雲居を響かし「雲居」は天空と宮中の両意をひびかす。3.2.3
注釈285すべて言ひ続けばことごとしううたてぞなりぬべき人の御さまなりける『首書源氏物語』は「すべて」以下を「地也」と草子地であることを指摘。『紹巴抄』は「人の御さま」以下を「双地と見るべし」と指摘する。「すべて」と総括し、「言い続け」ると、「ことごとし」く「うたて」き感じがする、というのは、側で見ていた語り手の口吻がそのまま語られているのであるが、それは若宮があまりにも優れすぎていることとともに、そのような人もこの世にいたのだと、人物の現実性、存在感を確かなものとする。3.2.3
3.3
第三段 高麗人の観相、源姓賜わる


3-3  A prophecy by Koma-udo

3.3.1   そのころ高麗人の参れる中に、かしこき相人ありけるを 聞こし召して宮の内に召さむことは、宇多の帝の御誡めあれば、いみじう忍びて、この御子を 鴻臚館に遣はしたり。 御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに思はせて率てたてまつるに、相人驚きて、あまたたび傾きあやしぶ。
 その当時、高麗人が来朝していた中に、優れた人相見がいたのをお聞きあそばして、内裏の内に召し入れることは 宇多帝の御遺誡があるので、たいそう人目を忍んで、この御子を鴻臚館にお遣わしになった。後見役のようにしてお仕えする右大弁の子供のように思わせてお連れ申し上げると、人相見は目を見張って、何度も首を傾け不思議がる。
 その時分に高麗人が来朝した中に、上手な人相見の者が混じっていた。帝はそれをお聞きになったが、宮中へお呼びになることは亭子院のお誡めがあっておできにならず、だれにも秘密にして皇子のお世話役のようになっている右大弁の子のように思わせて、皇子を外人の旅宿する鴻臚館へおやりになった。
 相人は不審そうに頭をたびたび傾けた。
  Sonokoro, Komaudo no mawire ru naka ni, kasikoki saunin ari keru wo kikosimesi te, miya no uti ni mesa m koto ha, Uda-no-mikado no ohom-imasime are ba, imiziu sinobi te, kono Miko wo Kourokwan ni tukahasi tari. Ohom-usiromidati te tukau maturu Udaiben no ko no yau ni omoha se te wi te tatematuru ni, saunin odoroki te, amata tabi katabuki ayasibu.
3.3.2  「 国の親となりて、帝王の上なき位に昇るべき相おはします人の、そなたにて見れば、 乱れ憂ふることやあらむ朝廷の重鎮となりて、天の下を輔くる方にて見れば、またその相違ふべし」と言ふ。
 「国の親となって、帝王の最高の地位につくはずの相をお持ちでいらっしゃる方で、そういう人として占うと、国が乱れ民の憂えることが起こるかも知れません。朝廷の重鎮となって、政治を補佐する人として占うと、またその相ではないようです」と言う。
 「国の親になって最上の位を得る人相であって、さてそれでよいかと拝見すると、そうなることはこの人の幸福な道でない。国家の柱石になって帝王の輔佐をする人として見てもまた違うようです」
 と言った。
  "Kuni no oya to nari te, teiwau no kami naki kurawi ni noboru beki sau ohasimasu hito no, sonata nite mire ba, midare urehuru koto ya ara m? Ohoyake no katame to nari te, amenosita wo tasukuru kata nite mire ba, mata sono sau tagahu besi." to ihu.
3.3.3  弁も、いと才かしこき 博士にて、言ひ交はしたることどもなむ、いと興ありける。 文など作り交はして、今日明日帰り去りなむとするに、 かくありがたき人に対面したるよろこび、 かへりては悲しかるべき心ばへをおもしろく作りたるに、御子もいとあはれなる句を作りたまへるを、限りなうめでたてまつりて、いみじき贈り物どもを捧げたてまつる。朝廷よりも多くの物賜はす。
 右大弁も、たいそう優れた学識人なので、語り合った事柄は、たいへんに興味深いものであった。漢詩文などを作り交わして、今日明日のうちにも帰国する時に、このようにめったにない人に対面した喜びや、かえって悲しい思いがするにちがいないという気持ちを趣き深く作ったのに対して、御子もたいそう心を打つ詩句をお作りになったので、この上なくお褒め申して、素晴らしいいくつもの贈物を差し上げる。朝廷からもたくさんの贈物を御下賜なさる。
 弁も漢学のよくできる官人であったから、筆紙をもってする高麗人との問答にはおもしろいものがあった。詩の贈答もして高麗人はもう日本の旅が終わろうとする期に臨んで珍しい高貴の相を持つ人に逢ったことは、今さらにこの国を離れがたくすることであるというような意味の作をした。若宮も送別の意味を詩にお作りになったが、その詩を非常にほめていろいろなその国の贈り物をしたりした。
 朝廷からも高麗の相人へ多くの下賜品があった。
  Ben mo, ito zae kasikoki hakase nite, ihi-kahasi taru kotodomo nam, ito kyou ari keru. Humi nado tukuri kahasi te, kehu asu kaheri-sari na m to suru ni, kaku arigataki hito ni taimen si taru yorokobi, kaherite ha kanasikaru beki kokorobahe wo omosiroku tukuri taru ni, Miko mo ito ahare naru ku wo tukuri tamahe ru wo, kagiri nau mede tatematuri te, imiziki okurimono-domo wo sasage tatematuru. Ohoyake yori mo ohoku no mono tamahasu.
3.3.4  おのづから事広ごりて、漏らさせたまはねど、 春宮の祖父大臣など、いかなることにかと 思し疑ひてなむありける
 自然と噂が広がって、お漏らしあそばさないが、東宮の祖父大臣などは、どのようなわけでかとお疑いになっているのであった。
 その評判から東宮の外戚の右大臣などは第二の皇子と高麗の相人との関係に疑いを持った。好遇された点が腑に落ちないのである。
  Onodukara koto hirogori te, morasa se tamaha ne do, Touguu no ohodi Otodo nado, ikanaru koto ni ka to obosi-utagahi te nam ari keru.
3.3.5  帝、かしこき御心に、 倭相を仰せて、思しよりにける筋なれば、今まで この君を親王にも なさせたまはざりけるを、「 相人はまことにかしこかりけり」と思して、「 無品の親王の外戚の寄せなきにては漂はさじ。 わが御世もいと定めなきをただ人にて朝廷の御後見をするなむ、行く先も頼もしげなめること」と思し定めて、いよいよ道々の才を習はさせたまふ。
 帝は、畏れ多い考えから、倭相をお命じになって、既にお考えになっていたところなので、今までこの若君を親王にもなさらなかったが、「相人はほんとうに優れていた」とお思いになって、「無品の親王で外戚の後見のない状態で彷徨わすまい。わが御代もいつまで続くか分からないものだから、臣下として朝廷のご補佐役をするのが、将来も頼もしそうに思われることだ」とお決めになって、ますます諸道の学問を習わせなさる。
 聡明な帝は高麗人の言葉以前に皇子の将来を見通して、幸福な道を選ぼうとしておいでになった。それでほとんど同じことを占った相人に価値をお認めになったのである。四品以下の無品親王などで、心細い皇族としてこの子を置きたくない、自分の代もいつ終わるかしれぬのであるから、将来に最も頼もしい位置をこの子に設けて置いてやらねばならぬ、臣下の列に入れて国家の柱石たらしめることがいちばんよいと、こうお決めになって、以前にもましていろいろの勉強をおさせになった。
  Mikado, kasikoki mi-kokoro ni, yamatosau wo ohose te, obosiyori ni keru sudi nare ba, ima made kono Kimi wo miko ni mo nasa se tamaha zari keru wo, "Saunin ha makotoni kasikokari keri." to obosi te, "Mu-hon-no-sinwau no gesyaku no yose naki nite ha tadayohasa zi. Waga mi-yo mo ito sadamenaki wo, tadaudo nite ohoyake no ohom-usiromi wo suru nam, yukusaki mo tanomosige nameru koto." to obosi-sadame te, iyoiyo mitimiti no zae wo narahasa se tamahu.
3.3.6   際ことに賢くて、ただ人にはいとあたらしけれど、親王となりたまひなば、 世の疑ひ負ひたまひぬべくものしたまへば、 宿曜の賢き道の人に勘へさせたまふにも同じさまに申せば、 源氏になしたてまつるべく思しおきてたり
 才能は格別聡明なので、臣下とするにはたいそう惜しいけれど、親王とおなりになったら、世間の人から立坊の疑いを持たれるにちがいなさそうにいらっしゃるので、宿曜道の優れた人に占わせなさっても、同様に申すので、源氏にして上げるのがよいとお決めになっていた。
 大きな天才らしい点の現われてくるのを御覧になると人臣にするのが惜しいというお心になるのであったが、親王にすれば天子に変わろうとする野心を持つような疑いを当然受けそうにお思われになった。上手な運命占いをする者にお尋ねになっても同じような答申をするので、元服後は源姓を賜わって源氏の某としようとお決めになった。
  Kiha kotoni kasikoku te, tadaudo ni ha ito atarasikere do, miko to nari tamahi na ba, yo no utagahi ohi tamahi nu beku monosi tamahe ba, sukuyeu no kasikoki miti no hito ni kamgahe sase tamahu ni mo, onazi sama ni mause ba, Genzi ni nasi tatematuru beku obosi-okite tari.
注釈286そのころ若宮七歳、学問を始めたころ。3.3.1
注釈287高麗人高麗人(こまうど)。実際は渤海国の使節。3.3.1
注釈288聞こし召して帝が「お耳にあそばして」。3.3.1
注釈289宮の内に召さむことは宇多の帝の御誡めあれば『寛平御遺誡』に「外蕃之人、必可召見、在簾中見之、不可直対耳」<外蕃の人は、必ず召見すべきときは、簾中に在りて之を見よ、直対すべからざるのみ>とあるのをさす。正しくは、「宮の内」に召すことを禁じたのではなく、御簾を隔てず直接対面することを禁じたのである。3.3.1
注釈290鴻臚館外国使節の宿泊施設。七条朱雀にある。3.3.1
注釈291御後見だちて仕うまつる右大弁の子のやうに「御後見だちて仕うまつる」は「右大弁」を修飾する。「御子の御後見役としてお仕えしている右大弁」の意。右大弁は、太政官の三等官、従四位上相当。漢学に秀で実務にたけた者がなる。そのような右大弁が若宮の実質的後見役に任じられている。高麗人には、その右大弁の子供のように思わせての意。もちろん、高麗人は右大弁が御子の御後見役であることは知らない。物語の文章は、享受者には予め知らせておき、いっぽう物語中の人物は知らないでいることを並行して語ろうとする時、ままこのような表現をとることになる。3.3.1
注釈292国の親となりて以下「またその相違ふべし」まで、相人の占い。「国の親」は国の元首、日本国の場合、天皇をさす。「帝王の上なき位」の「の」は同格。「帝王としてこれ以上ない上の位」。「べき」(推量の助動詞、当然)、「きっと上るはずの相」。「おはします人の」の「の」も同格。「--でいらっしゃる方で」。「そなたにて見れば」の「そなた」は今まで見てきた「国の親となりて帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人」をさす。「見れば」は順接の確定条件を表わす。「占ってみると」。3.3.2
注釈293乱れ憂ふることやあらむ「乱れ憂ふること」は、若宮の一身上に起こる乱れ憂え事とする説(対校、大系)と国家が乱れ人民が苦しむこととする説(講話、集成、完訳)がある。3.3.2
注釈294朝廷の重鎮となりて天の下を輔くる方にて見れば朝廷の柱石となって国政を補佐する人とは、臣下の重鎮の人。皇族は補佐される側の人である。「見れば」は順接の既定条件。「またその相違ふべし」の「また」は「前者同様に」の意。「その相」とは「朝廷の重鎮となりて、天の下を輔くる方」の相、「べし」(推量の助動詞、当然)、「きっと--であろう」。結局、相人は二通り観相したが、両方とも違うと否定した。3.3.2
注釈295博士学識のある人。大学寮に諸道の博士がいるが、ここは普通名詞的に使われたもの。3.3.3
注釈296文など漢詩文をさす。3.3.3
注釈297かくありがたき人若宮をさす。3.3.3
注釈298かへりては「却って」に「帰りて」をひびかす。お会いできてうれしかっただけに、かえって悲しい、の意。3.3.3
注釈299春宮の祖父大臣一の親王の祖父。右大臣。弘徽殿女御の父親。3.3.4
注釈300思し疑ひてなむありける以上で高麗人の相人の予言の段は終了。文末は「なむありける」で閉じられる。3.3.4
注釈301倭相を仰せて「帝が日本流の観相をしかるべき人にお命じになって」。具体的にどのようなものか不明。「思しよりにける筋なれば」というように、帝は高麗人の観相以前に既に日本流の観相を行って考えを決めていた。3.3.5
注釈302この君を親王にもここの「みこ」は親王をさす。今までの「みこ」は御子である。3.3.5
注釈303なさせたまはざりけるを「を」接続助詞、順接の意。3.3.5
注釈304相人はまことにかしこかりけり帝の心、高麗人の相人に対する感想。3.3.5
注釈305無品の親王の外戚の寄せなきにては以下「頼もしげなめること」まで帝の心。親王の位は一品から四品まであり、それに叙せられない親王を「無品親王」という。母親の身分によって決まる。「外戚」は母方の親戚。3.3.5
注釈306わが御世もいと定めなきを「を」接続助詞、順接、原因理由の意。わが治世もいつまで続くかわからないので。3.3.5
注釈307ただ人にて朝廷の御後見をする「臣下として朝廷の御補佐をする」。「ただ人」は皇族以外の人、すなわち源氏に降籍することをさす。3.3.5
注釈308際ことに賢くて主語は若宮。3.3.6
注釈309世の疑ひ負ひたまひぬべく親王は皇位継承の資格があるので、皇太子になるのではとの疑いを抱かれる。3.3.6
注釈310宿曜の賢き道の人に勘へさせたまふにも占星術の専門家に占わせる。3.3.6
注釈311同じさま高麗人の相人、倭相の占いと同様。3.3.6
注釈312源氏になしたてまつるべく思しおきてたり「たてまつる」(謙譲の補助動詞)は、本来語り手の若宮に対する敬意であるのが、帝が若宮を処遇することなので、帝の若宮に対する敬意の表れのようになったものであろう。源氏は臣下であり、皇族から見れば下ることである。帝がそのような地位に下すことを「--して上げる」とはおかしな言い方である。語り手の地位から見れば、源氏も皇族圏の人なので、--して上げる」といってもおかしくない。「思しおきて」は「思し掟つ」(他タ下二、連用形)。「帝は若宮を源氏にして差し上げるのが良いとお決めになっていた」。源氏降籍が決定した。3.3.6
3.4
第四段 先帝の四宮(藤壺)入内


3-4  Fujitsubo enters the Court

3.4.1   年月に添へて、御息所の御ことを思し忘るる折なし。「 慰むや」と、 さるべき人びと参らせたまへど、「 なずらひに思さるるだにいとかたき世かな」と、疎ましうのみよろづに思しなりぬるに、 先帝の四の宮の、御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはします、母后世になく かしづききこえたまふを、主上にさぶらふ典侍は、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しう参り馴れたりければ、いはけなくおはしましし時より見たてまつり、今もほの見たてまつりて、
 年月がたつにつれて、御息所のことをお忘れになる折がない。「心慰めることができようか」と、しかるべき婦人方をお召しになるが、「せめて準ずる程に思われなさる人さえめったにいない世の中だ」と、厭わしいばかりに万事が思し召されていたところ、先帝の四の宮で、ご容貌が優れておいでであるという評判が高くいらっしゃる方で、母后がまたとなく大切にお世話申されていられる方を、主上にお仕えする典侍は、先帝の御代からの人で、あちらの宮にも親しく参って馴染んでいたので、ご幼少でいらっしゃった時から拝見し、今でもちらっと拝見して、
 年月がたっても帝は桐壼の更衣との死別の悲しみをお忘れになることができなかった。慰みになるかと思召して美しい評判のある人などを後宮へ召されることもあったが、結果はこの世界には故更衣の美に準ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけである。そうしたころ、先帝−帝の従兄あるいは叔父君−の第四の内親王でお美しいことをだれも言う方で、母君のお后が大事にしておいでになる方のことを、帝のおそばに奉仕している典侍は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りしていて、内親王の御幼少時代をも知り、現在でもほのかにお顔を拝見する機会を多く得ていたから、帝へお話しした。
  Tosituki ni sohe te, Miyasumdokoro no ohom-koto wo obosi-wasururu wori nasi. "Nagusamu ya?" to, sarubeki hitobito mawira se tamahe do, "Nazurahi ni obosa ruru dani ito kataki yo kana!" to, utomasiu nomi yorodu ni obosi-nari nuru ni, Sendai no Si-no-miya no, ohom-katati sugure tamahe ru kikoye takaku ohasimasu, Haha-gisaki yoni naku kasiduki kikoye tamahu wo, Uhe ni saburahu Naisi-no-suke ha, Sendai no ohom-toki no hito nite, kano miya ni mo sitasiu mawiri nare tari kere ba, ihakenaku ohasimasi si toki yori mi tatematuri, ima mo hono-mi tatematuri te,
3.4.2  「 亡せたまひにし御息所の御容貌に似たまへる人を、 三代の宮仕へに 伝はりぬるにえ見たてまつりつけぬを、后の宮の姫宮こそ、いとようおぼえて生ひ出でさせたまへりけれ。ありがたき御容貌人になむ」と奏しけるに、「 まことにや」と、御心とまりて、 ねむごろに聞こえさせたまひけり
 「お亡くなりになった御息所のご容貌に似ていらっしゃる方を、三代の帝にわたって宮仕えいたしてまいりまして、一人も拝見できませんでしたが、后の宮の姫宮さまは、たいそうよく似てご成長あそばしていますわ。世にもまれなご器量よしのお方でございます」と奏上したところ、「ほんとうにか」と、お心が止まって、丁重に礼を尽くしてお申し込みあそばしたのであった。
 「お亡れになりました御息所の御容貌に似た方を、三代も宮廷におりました私すらまだ見たことがございませんでしたのに、后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていらっしゃいますことにはじめて気がつきました。非常にお美しい方でございます」
 もしそんなことがあったらと大御心が動いて、先帝の后の宮へ姫宮の御入内のことを懇切にお申し入れになった。
  "Use tamahi ni si Miyasumdokoro no ohom-katati ni ni tamahe ru hito wo, sam-dai no miyadukahe ni tutahari nuru ni, e mi tatematuri tuke nu wo, Kisai-no-miya no Himemiya koso, ito you oboye te ohi-ide sase tamahe ri kere. Arigataki ohom-katatibito ni nam." to sousi keru ni, "Makoto ni ya?" to, mi-kokoro tomari te, nemgoro ni kikoye sase tamahi keri.
3.4.3  母后、「 あな恐ろしや春宮の女御のいとさがなくて、 桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされにし例もゆゆしう」と、思しつつみて、すがすがしうも思し立たざりけるほどに、后も亡せたまひぬ。
 母后は、「まあ怖いこと。東宮の母女御がたいそう意地が悪くて、桐壺の更衣が、露骨に亡きものにされてしまった例も不吉で」と、おためらいなさって、すらすらとご決心もつかなかったうちに、母后もお亡くなりになってしまった。
 お后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の女御が並みはずれな強い性格で、桐壷の更衣が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、と思召して話はそのままになっていた。そのうちお后もお崩れになった。
  Haha-gisaki, "Ana osorosi ya! Touguu-no-nyougo no ito saganaku te, Kiritubo-no-kaui no, araha ni hakanaku motenasa re ni si tamesi mo yuyusiu." to, obosi-tutumi te, sugasugasiu mo obosi-tata zari keru hodo ni, Kisaki mo use tamahi nu.
3.4.4   心細きさまにておはしますに、「 ただ、わが女皇女たちの同じ列に思ひきこえむ」と、いとねむごろに聞こえさせたまふ。さぶらふ人びと、御後見たち、御兄の 兵部卿の親王など、「 かく心細くておはしまさむよりは、内裏住みせさせたまひて、御心も慰むべく」など思しなりて、参らせたてまつりたまへり。
 心細い有様でいらっしゃるので、「ただ、わが姫皇女たちと同列にお思い申そう」と、たいそう丁重に礼を尽くしてお申し上げあそばす。お仕えする女房たちや、御後見人たち、ご兄弟の兵部卿の親王などは、「こうして心細くおいでになるよりは、内裏でお暮らしあそばして、きっとお心が慰むように」などとお考えになって、参内させ申し上げなさった。
 姫宮がお一人で暮らしておいでになるのを帝はお聞きになって、
 「女御というよりも自分の娘たちの内親王と同じように思って世話がしたい」
 となおも熱心に入内をお勧めになった。こうしておいでになって、母宮のことばかりを思っておいでになるよりは、宮中の御生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、お付きの女房やお世話係の者が言い、兄君の兵部卿親王もその説に御賛成になって、それで先帝の第四の内親王は当帝の女御におなりになった。
  Kokoro-bosoki sama nite ohasimasu ni, "Tada, waga Womnamiko-tati no onazi tura ni omohi kikoye m." to, ito nemgoro ni kikoyesase tamahu. Saburahu hitobito, ohom-usiromi-tati, ohom-seuto no Hyaubukyau-no-miko nado, "Kaku kokorobosoku te ohasimasa m yori ha, utizumi se sase tamahi te, mi-kokoro mo nagusamu beku." nado obosi-nari te, mawira se tatematuri tamahe ri.
3.4.5   藤壺と聞こゆげに、御容貌ありさま、あやしきまでぞおぼえたまへるこれは、人の御際まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめきこえたまはねば、うけばりて飽かぬことなし。
 藤壺と申し上げる。なるほど、ご容貌や姿は 不思議なまでによく似ていらっしゃった。この方は、ご身分も一段と高いので、そう思って見るせいか素晴らしくて、お妃方もお貶み申すこともおできになれないので、誰に憚ることなく何も不足ない。
 御殿は藤壼である。典侍の話のとおりに、姫宮の容貌も身のおとりなしも不思議なまで、桐壼の更衣に似ておいでになった。この方は御身分に批の打ち所がない。すべてごりっぱなものであって、だれも貶める言葉を知らなかった。
  Huditubo to kikoyu. Geni, ohom-katati arisama, ayasiki made zo oboye tamahe ru. Kore ha, hito no ohom-kiha masari te, omohinasi medetaku, hito mo e otosime kikoye tamaha ne ba, ukebari te aka nu koto nasi.
3.4.6   かれは、人の許しきこえざりしに、御心ざしあやにくなりしぞかし思し紛るとはなけれど、おのづから御心移ろひて、こよなう思し慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり
 あの方は、周囲の人がお許し申さなかったところに、御寵愛が憎らしいと思われるほど深かったのである。ご愛情が紛れるというのではないが、自然とお心が移って行かれて、格段にお慰みになるようなのも、人情の性というものであった。
 桐壼の更衣は身分と御愛寵とに比例の取れぬところがあった。お傷手が新女御の宮で癒されたともいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しい御生活がかえってきた。あれほどのこともやはり永久不変でありえない人間の恋であったのであろう。
  Kare ha, hito no yurusi kikoye zari si ni, mi-kokorozasi ayaniku nari si zo kasi. Obosi-magiru to ha nakere do, onodukara mi-kokoro uturohi te, koyonau obosi-nagusamu yau naru mo, ahare naru waza nari keri.
注釈313年月に添へて再び帝の故桐壺更衣思慕の物語が語られる。帝にとって桐壺更衣は「年月に添へて御息所の御ことを思し忘るる折なし」という故人である。3.4.1
注釈314慰む気が紛れる。忘れられない気持ちを忘れさせること。3.4.1
注釈315さるべき人びと帝の気持ちを紛らす適当な姫君たち。3.4.1
注釈316なずらひに思さるるだにいとかたき世かな帝の心。「故御息所に比肩できそうな人さえめったにいない世の中だな」。3.4.1
注釈317先帝の四の宮の明融臨模本「帝」の傍注に朱書で「タイ」とあり、さらに墨筆で濁点符号があるので、「せんだい」と読む。大島本の傍注には「光孝」とある。三番目の「の」は格助詞、同格を表す。「四の宮で」の意。下の「御容貌すぐれたまへる聞こえ高くおはします」と「母后世になくかしづききこえたまふ」は並列の構文。先帝と桐壺の帝との系譜は不明。「先帝」は桐壺の帝の直前の帝という意ではない。「先帝」という呼称に先の世の優れた帝、というニュアンスが込められている。3.4.1
注釈318かしづききこえたまふを「を」格助詞、目的格を表す。前の並列の構文を受ける。「--方で、--方を」の意。3.4.1
注釈319亡せたまひにし御息所の御容貌に以下「御容貌人になむ」まで、典侍の帝への奏上の詞。桐壺更衣との容貌の酷似をいう。3.4.2
注釈320三代の宮仕へに典侍は先帝の時に任命された(集成)。桐壺の帝との間にもう一人の帝がいたことになる。『古典セレクション』では、先々代の時に任命された、とする。3.4.2
注釈321伝はりぬるに「に」接続助詞、順接の意。3.4.2
注釈322え見たてまつりつけぬを「を」接続助詞、逆接の意。3.4.2
注釈323まことにや「本当かしら」。帝は、最初気持ちを紛らしてくれる人を求めていたが、今や故桐壺更衣に生き写しだという人に関心を寄せている。3.4.2
注釈324ねむごろに聞こえさせたまひけり「丁重に礼儀を尽くして入内を申し入れあそばすのであった」。正式な入内の要請である。3.4.2
注釈325あな恐ろしや以下「例もゆゆしう」まで、母后の詞。3.4.3
注釈326春宮の女御弘徽殿の女御は今は東宮の母なので、母后は「春宮の女御」呼称する。「いとさがなくて」という評判を聞いている。3.4.3
注釈327桐壺の更衣母后は、故桐壺更衣のことを「桐壺の更衣」と呼称している。これが当時の一般的な呼称のしかたであった。「あらはにはかなくもてなされし例」というように聞いている。3.4.3
注釈328心細きさまにて先帝は既に崩御されており、今母后も崩じられた。3.4.4
注釈329ただ、わが女皇女たちの同じ列に思ひきこえむ皇女同様に後見の心配はいらない、帝がすべて世話しようの主旨。実質的な入内要請。3.4.4
注釈330兵部卿の親王『源氏物語』では、蛍兵部卿親王、匂兵部卿親王等、風流な親王が兵部卿になっている。3.4.4
注釈331かく心細くておはしまさむよりは以下「御心も慰むべく」まで、四の宮の周囲の人びとの考え。地の文と融合して語られている。「べく」の下に「奉らむ」などの語句が省略されている。3.4.4
注釈332藤壺と聞こゆ「藤壺と申し上げる」。この前に「御局は」などの語句が省略されているのであろう。先帝の四の宮をただ「藤壺」と呼ぶのはおかしい。他では「宮」が付けられて呼称されている。藤壺は飛香舎、清涼殿の北側、弘徽殿の西側にある。『源氏物語』では、この先帝の四の宮(後の藤壺中宮)、その異腹の妹(藤壺女御)など、先帝の四の宮ゆかりの王族の女御が住む。3.4.5
注釈333げに御容貌ありさまあやしきまでぞおぼえたまへる「げに」(なるほど)とは帝の感想と語り手の感想が一致した表現である。桐壺の桐は薄紫の花をつける。また藤壺の藤も紫色の花をつける。後の紫の上も、その名のとおり「紫」である。なお葵の上との結婚の折の和歌にも「紫」の語句が出てくる。「紫」(高貴な色であるとともに褪せやすい色でもある)が隠された主題となっている。3.4.5
注釈334これは人の御際まさりて藤壺をさす。後に「かれは人の許しきこえざりしに」と対比して語る。語り手の両者批評の文章である。3.4.5
注釈335かれは人の許しきこえざりしに御心ざしあやにくなりしぞかし『岷江入楚』所引の三光院説に「草子地批判也」と指摘。「あやにくなり」「し」(過去の助動詞)「ぞ」「かし」という批評の言は語り手の意見である。しかし、草子地と指摘するなら、「これは」から以下をそうと指摘すべきである。3.4.6
注釈336思し紛るとはなけれどおのづから御心移ろひてこよなう思し慰むやうなるもあはれなるわざなりけり『紹巴抄』は「双地なるへし」と指摘。帝の故桐壺更衣を愛情が薄らいでいくのを人間の自然の心のなせるわざとする、語り手の諦観がある。作者の言葉を選んだ微妙な表現である。「思し」「紛る」(自動詞)であって、「紛らす」(他動詞)とはない。更衣を思う気持ち、愛情が紛れる。「とはなけれど」、帝自身もちろん、周囲の人の目からもそのように見えるが。「おのづから」、自然と。「御心」「移ろひて」、元の人(故桐壺更衣)に対する御愛情が薄れて他の新しい人(藤壺)に移ってゆくようになって、「こよなく」は、以前の「慰むやとさるべき人びとを参らせたまへど」と比較して格段にの意。「思し」「慰む」、悲しみの気持ちが紛れる、また愛情が紛れる。「あはれなる」「わざ」「なりけり」、人情の自然というものであった、いかんともしがたい人間の心であるよ、という作者の気持ち。このような人間把握が人間の行動の底流に見据えられて物語は展開していく。3.4.6
3.5
第五段 源氏、藤壺を思慕


3-5  Genji falls in love with Fujitsubo

3.5.1   源氏の君は御あたり去りたまはぬを、まして しげく渡らせたまふ御方は、え恥ぢあへたまはず。いづれの御方も、 われ人に劣らむと思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、 うち大人びたまへるに、 いと若ううつくしげにて、切に隠れたまへど、 おのづから漏り見たてまつる
 源氏の君は、お側をお離れにならないので、誰より頻繁にお渡りあそばす御方は、恥ずかしがってばかりいらっしゃれない。どのお妃方も 自分が人より劣っていると思っていらっしゃる人があろうか、それぞれにとても素晴らしいが、お年を召しておいでになるのに対して、とても若くかわいらしい様子で、頻りにお姿をお隠しなさるが、自然と漏れ拝見する。
 源氏の君−まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であるから筆者はこう書く。−はいつも帝のおそばをお離れしないのであるから、自然どの女御の御殿へも従って行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は藤壼であって、お供して源氏のしばしば行く御殿は藤壼である。宮もお馴れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。どの後宮でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、皆それぞれの美を備えた人たちであったが、もう皆だいぶ年がいっていた。その中へ若いお美しい藤壼の宮が出現されてその方は非常に恥ずかしがってなるべく顔を見せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が見ることになる場合もあった。
  Genzi-no-kimi ha, ohom-atari sari tamaha nu wo, masite sigeku watara se tamahu ohom-kata ha, e hadi-ahe tamaha zu. Idure no ohom-kata mo, ware hito ni otora m to oboi taru yaha aru, toridori ni ito medetakere do, uti-otonabi tamahe ru ni, ito wakau utukusige nite, seti ni kakure tamahe do, onodukara mori mi tatematuru.
3.5.2  母御息所も、 影だにおぼえたまはぬを、「 いとよう似たまへり」と、典侍の聞こえけるを、若き御心地に いとあはれと思ひきこえたまひて、 常に参らまほしく、「なづさひ見たてまつらばや」とおぼえたまふ。
 母御息所は、顔かたちすらご記憶でないのを、「大変によく似ていらっしゃる」と、典侍が申し上げたのを、幼心にとても慕わしいとお思い申し上げなさって、いつもお側に参りたく、「親しく拝見したい」と思われなさる。
 母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍が言ったので、子供心に母に似た人として恋しく、いつも藤壼へ行きたくなって、あの方と親しくなりたいという望みが心にあった。
  Haha-Miyasumdokoro mo, kage dani oboye tamaha nu wo, "Ito you ni tamahe ri" to, Naisi-no-suke no kikoye keru wo, wakaki mi-kokoti ni ito ahare to omohi kikoye tamahi te, tune ni mawira mahosiku, "Nadusahi mi tatematura baya!" to oboye tamahu.
3.5.3   主上も限りなき 御思ひどちにて、「 な疎みたまひそ。あやしく よそへきこえつべき心地なむする。 なめしと思さで、らうたくしたまへ。 つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑかよひて見えたまふも似げなからずなむ」など聞こえつけたまへれば、幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見えたてまつる。 こよなう心寄せきこえたまへれば、弘徽殿の女御、またこの宮とも御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。
 主上もこの上なくおかわいがりのお二方なので、「お疎みなさいますな。不思議と若君の母君となぞらえ申してもよいような気持ちがする。失礼だとお思いなさらず、いとおしみなさい。顔だちや、目もとなど、大変によく似ているため、母君のようにお見えになるのも、母子として似つかわしくなくはない」などとお頼み申し上げなさっているので、幼心にも、ちょっとした花や紅葉にことつけても、お気持ちを表し申す。この上なく好意をお寄せ申していらっしゃるので、弘徽殿の女御は、またこの宮ともお仲が好ろしくないので、それに加えて、もとからの憎しみももり返して、不愉快だとお思いになっていた。
 帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。
 「彼を愛しておやりなさい。不思議なほどあなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だと思わずにかわいがってやってください。この子の目つき顔つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がします」
 など帝がおとりなしになると、子供心にも花や紅葉の美しい枝は、まずこの宮へ差し上げたい、自分の好意を受けていただきたいというこんな態度をとるようになった。現在の弘徽殿の女御の嫉妬の対象は藤壼の宮であったからそちらへ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた旧怨も再燃して憎しみを持つことになった。
  Uhe mo kagirinaki ohom-omohidoti nite, "Na utomi tamahi so. Ayasiku yosohe kikoye tu beki kokoti nam suru. Namesi to obosa de, rautaku si tamahe. Turatuki, mami nado ha, ito you ni tari si yuwe, kayohi te miye tamahu mo, nigenakara zu nam." nado kikoyetuke tamahe re ba, wosanagokoti ni mo, hakanaki hana momidi ni tuke te mo kokorozasi wo miye tatematuru. Koyonau kokoro-yose kikoye tamahe re ba, Koukiden-no-Nyougo, mata kono Miya to mo ohom-naka sobasobasiki yuwe, uti-sohe te, motoyori no nikusa mo tati-ide te, monosi to obosi tari.
3.5.4  世にたぐひなしと 見たてまつりたまひ名高うおはする宮の御容貌にも、 なほ匂はしさはたとへむ方なく、うつくしげなるを、 世の人、「光る君」と聞こゆ。藤壺ならびたまひて、御おぼえもとりどりなれば、「 かかやく日の宮」と聞こゆ
 世の中にまたとないお方だと拝見なさり、評判高くおいでになる宮のご容貌に対しても、やはり照り映える美しさにおいては比較できないほど 美しそうなので、世の中の人は、「光る君」とお呼び申し上げる。藤壺もお並びになって、御寵愛がそれぞれに厚いので、「輝く日の宮」とお呼び申し上げる。
 女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内親王方の美を遠くこえた源氏の美貌を世間の人は言い現わすために光の君と言った。女御として藤壼の宮の御寵愛が並びないものであったから対句のように作って、輝く日の宮と一方を申していた。
  Yo ni taguhi nasi to mi tatematuri tamahi, nadakau ohasuru Miya no ohom-katati ni mo, naho nihohasisa ha tatohe m kata naku, utukusige naru wo, yonohito, "Hikarukimi" to kikoyu. Huditubo narabi tamahi te, ohom-oboye mo toridori nare ba, "Kakayakuhinomiya" to kikoyu.
注釈337源氏の君は臣下に降ったので「源氏」という呼称で呼ばれる。3.5.1
注釈338御あたり帝のお側。3.5.1
注釈339しげく渡らせたまふ御方帝が頻繁にお渡りになるお方、すなわち藤壺。3.5.1
注釈340われ人に劣らむと思いたるやはある挿入句。語り手の意見感想を間に入れて、後宮の妃方がいずれも気位い高く自負していらっしゃる方々であることを強調。3.5.1
注釈341うち大人びたまへる他の妃方は既に年をめしている。3.5.1
注釈342いと若ううつくしげにて藤壺は若々しくかわいらしげである。3.5.1
注釈343おのづから漏り見たてまつる主語は源氏。自然と漏れ拝見する。先にも「おのづから御心移ろひて」とあったように、ここでも「おのづから」と語られている。父桐壺帝や子の光源氏の心の動きを、人情の自然、という趣旨で語っている。3.5.1
注釈344影だにおぼえたまはぬを母桐壺更衣が亡くなったのは、源氏三歳(数え年)の夏。「影」「だに」(副助詞)と強調されている。母の死去を理解できなかったことが、六歳の折の祖母死去の折に語られていた。3.5.2
注釈345いとよう似たまへり典侍の詞には、容貌がとはないが、前後の文脈からそのように読める表現。3.5.2
注釈346いとあはれ源氏の心。なつかしい、慕わしい、といったニュアンスが込められる。3.5.2
注釈347常に参らまほしくなづさひ見たてまつらばや源氏の心。地の文から心内文に自然変化した文章表現。客観描写から主観描写へと心の高まりを感じさせる。3.5.2
注釈348主上も帝を「うへ」と呼称する。3.5.3
注釈349御思ひどちにて帝にとってもこの上なく大切なお二人なので。3.5.3
注釈350な疎みたまひそ以下「似げなからずなむ」まで帝の藤壺への詞。3.5.3
注釈351よそへきこえつべき「あなたを若君の母君にお見立てしてよいような気がする」。藤壺にはこの言葉を聞いただけでは何のことか事情がわからないだろう。3.5.3
注釈352なめしと思さで帝の唐突な発言を、また源氏が母君のようにお慕い申すことを、前後の文脈に掛かる両意を含んだ「なめし」であろう。3.5.3
注釈353つらつきまみなどはいとよう似たりしゆゑ「似」「たり」「し」(過去の助動詞)は帝の実感を伝える。敬語のないことに注意すべきである。桐壺更衣が藤壺に似ている、という意である。若君と更衣はよくにているので(集成)、とする説もある。3.5.3
注釈354かよひて見えたまふも若君にとってあなたが母親のようにお見えになるのも。3.5.3
注釈355似げなからずなむ母子の関係として見ても不似合いではない、意。3.5.3
注釈356こよなう心寄せきこえたまへれば源氏が藤壺に。3.5.3
注釈357見たてまつりたまひ帝が藤壺を拝見なさる。『古典セレクション』では弘徽殿女御が東宮をとする。また『新大系』では源氏が藤壺をとする。3.5.4
注釈358名高うおはする宮の藤壺の宮、評判高くおいでになる宮。「にも」は「に対しても」。藤壺と源氏の容貌の美しさが対比して語られる。3.5.4
注釈359なほ匂はしさは「なほ」と「は」があることに注意。やはり、源氏の生き生きとした美しさは。3.5.4
注釈360世の人光る君と聞こゆ世の中の人びとは「光る君」と申し上げる。後に「光る君といふ名は高麗人のめできこえてつけたてまつりける」とも語られる。3.5.4
注釈361かかやく日の宮と聞こゆ「かかやく」は近世初期まで清音(日本霊異記、訓釈・新撰字鏡・日葡辞書)。「かかやく日の宮」。こうして、この物語のヒーロー、ヒロインが並び揃う。3.5.4
3.6
第六段 源氏元服(十二歳)


3-6  Genji grows up (age 12)

3.6.1  この君の御童姿、いと変へまうく思せど、 十二にて御元服したまふ居起ち思しいとなみて、限りある事に事を添へさせたまふ。
 この君の御童子姿を、とても変えたくなくお思いであるが、十二歳で御元服をなさる。御自身お世話を焼かれて、作法どおりの上にさらにできるだけの事をお加えあそばす。
 源氏の君の美しい童形をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよいよ十二の歳に元服をおさせになることになった。その式の準備も何も帝御自身でお指図になった。
  Kono Kimi no ohom-warahasugata, ito kahe-ma-uku obose do, zihuni nite ohon-genpuku si tamahu. Wi-tati obosi-itonami te, kagiri aru koto ni koto wo sohe sase tamahu.
3.6.2   一年の春宮の御元服、南殿にてありし 儀式、よそほしかりし御響きに落とさせたまはず。 所々の饗など内蔵寮、穀倉院など、公事に仕うまつれる、 おろそかなることもぞと、とりわき仰せ言ありて、清らを尽くして仕うまつれり。
 先年の東宮の御元服が、紫宸殿で執り行われた儀式が、いかめしく立派であった世の評判にひけをおとらせにならない。各所での饗宴などにも、内蔵寮や 穀倉院など、規定どおり奉仕するのでは、行き届かないことがあってはいけないと、特別に勅命があって、善美を尽くしてお勤め申した。
 前に東宮の御元服の式を紫宸殿であげられた時の派手やかさに落とさず、その日官人たちが各階級別々にさずかる饗宴の仕度を内蔵寮、穀倉院などでするのはつまり公式の仕度で、それでは十分でないと思召して、特に仰せがあって、それらも華麗をきわめたものにされた。
  Hitotose no Touguu no ohon-genpuku, Naden nite ari si gisiki, yosohosikari si ohom-hibiki ni otosa se tamaha zu. Tokorodokoro no kyau nado, kuradukasa, kokusauwin nado, ohoyakegoto ni tukaumature ru, orosoka naru koto mozo to, toriwaki ohosegoto ari te, kiyora wo tukusi te tukaumature ri.
3.6.3   おはします殿の東の廂、東向きに椅子立てて冠者の御座引入の大臣の御座御前にあり申の時にて源氏参りたまふ。角髪結ひたまへるつらつき、顔のにほひ、さま変へたまはむこと惜しげなり。 大蔵卿、蔵人仕うまつる。いと清らなる御髪を削ぐほど、心苦しげなるを、主上は、「 御息所の見ましかば」と、思し出づるに、堪へがたきを、心強く念じかへさせたまふ。
 おいでになる清涼殿の東廂の間に、東向きに椅子を立てて、元服なさる君のお席と 加冠役の大臣のお席とが、御前に設けられている。儀式は申の時で、その時刻に源氏が参上なさる。角髪に結っていらっしゃる顔つきや、童顔の色つやは、髪形をお変えになるのは惜しい感じである。大蔵卿が 理髪役を奉仕する。たいへん美しい御髪を削ぐ時、いたいたしそうなのを、主上は、「亡き母の御息所が見たならば」と、お思い出しになると、涙が抑えがたいのを、思い返してじっとお堪えあそばす。
 清涼殿は東面しているが、お庭の前のお座敷に玉座の椅子がすえられ、元服される皇子の席、加冠役の大臣の席がそのお前にできていた。午後四時に源氏の君が参った。上で二つに分けて耳の所で輸にした童形の礼髪を結った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくことが不可能なのであろうかと惜しまれた。理髪の役は大蔵卿である。美しい髪を短く切るのを惜しく思うふうであった。帝は御息所がこの式を見たならばと、昔をお思い出しになることによって堪えがたくなる悲しみをおさえておいでになった。
  Ohasimasu den no himgasi no hisasi, himgasi-muki ni isi tate te, kwanza no go-za, Hikiire-no-Otodo no go-za, o-mahe ni ari. Saru no toki nite Genzi mawiri tamahu. Midura yuhi tamahe ru turatuki, kaho no nihohi, sama kahe tamaha m koto wosige nari. Ohokurakyau, kurabito tukaumaturu. Ito kiyora naru mi-gusi wo sogu hodo, kokorogurusige naru wo, Uhe ha, "Miyasumdokoro no mi masika ba." to, obosi-iduru ni, tahe gataki wo, kokoro-duyoku nenzi-kahesa se tamahu.
3.6.4  かうぶりしたまひて、御休所にまかでたまひて、 御衣奉り替へて、下りて拝したてまつりたまふさまに、皆人涙落としたまふ。 はた、ましてえ忍びあへたまはず、 思し紛るる折もありつる昔のこととりかへし悲しく思さるいとかうきびはなるほどは、あげ劣りやと疑はしく思されつるを、あさましううつくしげさ添ひたまへり。
 加冠なさって、御休息所にお下がりになって、ご装束をお召し替えなさって、東庭に下りて拝舞なさる様子に、一同涙を落としなさる。帝は帝で、誰にもまして堪えきれなされず、お悲しみの紛れる時もあった一時のことを、立ち返って悲しく思われなさる。たいそうこのように幼い年ごろでは、髪上げして見劣りをするのではないかと御心配なさっていたが、驚くほどかわいらしさも加わっていらっしゃった。
 加冠が終わって、いったん休息所に下がり、そこで源氏は服を変えて庭上の拝をした。参列の諸員は皆小さい大宮人の美に感激の涙をこぼしていた。帝はまして御自制なされがたい御感情があった。藤壼の宮をお得になって以来、紛れておいでになることもあった昔の哀愁が今一度にお胸へかえって来たのである。まだ小さくて大人の頭の形になることは、その人の美を損じさせはしないかという御懸念もおありになったのであるが、源氏の君には今驚かれるほどの新彩が加わって見えた。
  Kauburi si tamahi te, ohom-yasumidokoro ni makade tamahi te, ohom-zo tatematuri-kahe te, ori te haisi tatematuri tamahu sama ni, minahito namida otosi tamahu. Mikado hata, masite e sinobi-ahe tamaha zu, obosi-magiruru wori mo ari turu mukasi no koto, torikahesi kanasiku obosa ru. Ito kau kibiha naru hodo ha, ageotori ya to utagahasiku obosare turu wo, asamasiu utukusigesa sohi tamahe ri.
3.6.5   引入の大臣の 皇女腹にただ一人かしづきたまふ御女春宮よりも御けしきあるを思しわづらふことありける、この君に奉らむの御心なりけり。
 加冠役の大臣が皇女でいらっしゃる方との間に儲けた一人娘で大切に育てていらっしゃる姫君を、東宮からも御所望があったのを、ご躊躇なさることがあったのは、この君に差し上げようとのお考えからなのであった。
 加冠の大臣には夫人の内親王との間に生まれた令嬢があった。東宮から後宮にとお望みになったのをお受けせずにお返辞を躊躇していたのは、初めから源氏の君の配偶者に擬していたからである。
  Hikiire-no-Otodo no Miko-bara ni tada hitori kasiduki tamahu ohom-musume, Touguu yori mo mi-kesiki aru wo, obosi-wadurahu koto ari keru, kono Kimi ni tatematura m no mi-kokoro nari keri.
3.6.6  内裏にも、 御けしき賜はらせたまへりければ、「 さらば、この折の後見なかめるを、添ひ臥しにも」と もよほさせたまひければ、さ思したり。
 帝からの 御内意を頂戴させていただいたところ、「それでは、元服の後の後見する人がいないようなので、その添い臥しにでも」とお促しあそばされたので、そのようにお考えになっていた。
 大臣は帝の御意向をも伺った。
 「それでは元服したのちの彼を世話する人もいることであるから、その人をいっしょにさせればよい」
 という仰せであったから、大臣はその実現を期していた。
  Uti ni mo, mi-kesiki tamahara se tamahe ri kere ba, "Saraba, kono wori no usiromi naka' meru wo, sohibusi ni mo." to moyohosa se tamahi kere ba, sa obosi tari.
3.6.7  さぶらひにまかでたまひて、人びと 大御酒など参るほど、親王たちの御座の末に源氏着きたまへり。 大臣気色ばみきこえたまふことあれど、 もののつつましきほどにて、ともかくもあへしらひきこえたまはず。
 御休息所に退出なさって、参会者たちが御酒などをお召し上がりになる時に、親王方のお席の末席に源氏はお座りになった。大臣がそれとなく仄めかし申し上げなさることがあるが、気恥ずかしい年ごろなので、どちらともはっきりお答え申し上げなさらない。
 今日の侍所になっている座敷で開かれた酒宴に、親王方の次の席へ源氏は着いた。娘の件を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏は何とも返辞をすることができないのであった。
  Saburahi ni makade tamahi te, hitobito ohomiki nado mawiru hodo, mikotati no ohom-za no suwe ni Genzi tuki tamahe ri. Otodo kesikibami kikoye tamahu koto are do, mono no tutumasiki hodo nite, tomokakumo ahe-sirahi kikoye tamaha zu.
3.6.8  御前より、 内侍、宣旨うけたまはり伝へて、大臣参りたまふべき召しあれば、参りたまふ。御禄の物、主上の命婦取りて賜ふ。白き大袿に御衣一領、例のことなり。
 御前から 掌侍が 宣旨を承り伝えて、大臣に御前に参られるようにとのお召しがあるので、参上なさる。御禄の品物を、主上づきの命婦が取りついで賜わる。白い大袿に御衣装一領、例のとおりである。
 帝のお居間のほうから仰せによって内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った。加冠役としての下賜品はおそばの命婦が取り次いだ。白い大袿に帝のお召し料のお服が一襲で、これは昔から定まった品である。
  O-mahe yori, Naisi, senzi uketamahari tutahe te, Otodo mawiri tamahu beki mesi are ba, mawiri tamahu. Ohom-roku no mono, Uhe-no-Myaubu tori te tamahu. Siroki ohoutiki ni ohom-zo hito-kudari, rei no koto nari.
3.6.9   御盃のついでに
 お盃を賜る折に、
 酒杯を賜わる時に、次の歌を仰せられた。
  Ohom-sakaduki no tuide ni,
3.6.10  「 いときなき初元結ひに長き世を
   契る心は結びこめつや
 「幼子の元服の折、末永い仲を
  そなたの姫との間に結ぶ約束はなさったか
  いときなき初元結ひに長き世を
  契る心は結びこめつや
    "Itokinaki hatu-motoyuhi ni nagaki yo wo
    tigiru kokoro ha musubi kome tu ya?
3.6.11  御心ばへありて、 おどろかさせたまふ
 お心づかいを示されて、はっとさせなさる。
 大臣の女との結婚にまでお言い及ぼしになった御製は大臣を驚かした。
  Mi-kokorobahe ari te, odoroka sase tamahu.
3.6.12  「 結びつる心も深き元結ひに
   濃き紫の色し褪せずは
 「元服の折、約束した心も深いものとなりましょう
  その濃い紫の色さえ変わらなければ
  結びつる心も深き元結ひに
  濃き紫の色しあせずば
    "Musubi turu kokoro mo hukaki motoyuhi ni
    koki murasaki no iro si ase zuha!
3.6.13  と奏して、 長橋より下りて舞踏したまふ。
 と奏上して、長橋から下りて拝舞なさる。
 と返歌を奏上してから大臣は、清涼殿の正面の階段を下がって拝礼をした。
  to sousi te, nagahasi yori ori te butahu si tamahu.
3.6.14  左馬寮の御馬、蔵人所の鷹据ゑて 賜はりたまふ御階のもとに親王たち上達部つらねて、禄ども品々に 賜はりたまふ
 左馬寮の御馬、蔵人所の鷹を留まり木に据えて頂戴なさる。御階のもとに親王方や上達部が立ち並んで、禄をそれぞれの身分に応じて頂戴なさる。
 左馬寮の御馬と蔵人所の鷹をその時に賜わった。そのあとで諸員が階前に出て、官等に従ってそれぞれの下賜品を得た。
  Hidari-no-tukasa no ohom-muma, kuraudo-dokoro no taka suwe te tamahari tamahu. Mi-hasi no moto ni mikotati kamdatime turane te, roku-domo sinazina ni tamahari tamahu.
3.6.15  その日の御前の折櫃物、籠物など、 右大弁なむ承りて仕うまつらせける。屯食、禄の唐櫃どもなど、ところせきまで、春宮の御元服の折にも数まされり。 なかなか限りもなくいかめしうなむ
 その日の御前の折櫃物や、籠物などは、右大弁が仰せを承って調えさせたのであった。屯食や 禄用の唐櫃類など、置き場もないくらいで、東宮の御元服の時よりも数多く勝っていた。かえっていろいろな制限がなくて盛大であった。
 この日の御饗宴の席の折り詰めのお料理、籠詰めの菓子などは皆右大弁が御命令によって作った物であった。一般の官吏に賜う弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多かったことは、東宮の御元服の時以上であった。
  Sono hi no o-mahe no woribitumono, komono nado, U-daiben nam uketamahari te tukaumatura se keru. Tonziki, roku no karabitu-domo nado, tokoroseki made, Touguu no ohon-genpuku no wori ni mo kazu masare ri. Nakanaka kagiri mo naku ikamesiu nam.
注釈362十二にて御元服したまふ源氏十二歳で元服する。当時の一般的年齢である。明融臨模本「御」の右傍に「ン」とあるので「おほんげんぷく」と読む。3.6.1
注釈363居起ち思しいとなみて帝御自身で。3.6.1
注釈364一年の春宮の御元服南殿にてありし儀式「一年(ひととせ)」は先年、或る年の意。東宮の御元服の儀式が南殿(紫宸殿)で行われた様子は語られない。3.6.2
注釈365儀式『古典セレクション』では「儀式の」と校訂するが、明融臨模本・大島本「きしき」とあり格助詞「の」はナシ。3.6.2
注釈366所々の饗など宮中の諸所の殿舎で賜るごちそう。3.6.2
注釈367内蔵寮穀倉院などこの前後、地の文からやがて心内文に移る。3.6.2
注釈368おろそかなることもぞ連語「もぞ」(係助詞「も」+係助詞「ぞ」)は将来起こる事態に対する危惧の意を表す。「行き届かないことがあってはいけない」、帝の心の表出である。3.6.2
注釈369おはします殿の東の廂、東向きに椅子立てて帝が常時おいでになるお常御殿、すなわち清涼殿。東向きの殿である。その東廂の間に東向きに帝が座る御椅子を据えて。3.6.3
注釈370冠者の御座冠者のお席、すなわち源氏の席。3.6.3
注釈371引入の大臣の御座加冠役の大臣のお席。3.6.3
注釈372御前にあり帝の御前に冠者の席と加冠役の大臣の席とがあるという配置。3.6.3
注釈373申の時にて儀式は申の時で、の意。午後四時ころ。3.6.3
注釈374大蔵卿蔵人仕うまつる大蔵卿が理髪係をお勤めする。「蔵人」は、ここでは官職名ではなく、帝の理髪係を勤めるので、こう呼んだもの。3.6.3
注釈375御息所の見ましかば帝の心。故桐壺の更衣が生きていて、この儀式を見たならばどんなに嬉しく思ったことであろうに、の意。「ましかば」は反実仮想。3.6.3
注釈376御衣奉り替へて「奉る」は動詞、「着る」の尊敬語。3.6.4
注釈377この物語では、帝の呼称が場面によって「帝(みかど)」「主上(うへ)」「内裏(うち)」などと呼称し分けられている。「帝」は公的イメージ。3.6.4
注釈378思し紛るる折もありつる昔のこと先に「思し紛るとはなけれとおのづから御心移ろひてこよなく思し慰むやうなるもあはれなるわざなりけり」をさす。しばし藤壺寵愛によって桐壺更衣を失った悲しみを忘れていたこと。3.6.4
注釈379とりかへし悲しく思さる帝は今再び昔に帰った気持ちになって悲しみを新たにする。と共に、みずからの「御心移ろひ」を認めるものでもある。3.6.4
注釈380いとかう以下「あげ劣りや」まで帝の心。3.6.4
注釈381引入の大臣の以下「御心なりけり」まで、地の文からやがて語り手が大臣の躊躇していた心境の理由説明する文に変わっている。物語の時間もここから「さ思したり」まで、過去に遡って語られる。3.6.5
注釈382皇女腹にただ一人かしづきたまふ御女大臣の北の方である皇女がお生みになった大切な一人娘。『源氏物語』では臣下に降嫁した例は、後に准太上天皇光源氏に朱雀院の皇女三の宮や太政大臣の嫡男柏木衛門督にその姉の女二の宮がいる。3.6.5
注釈383春宮よりも御けしきあるを東宮からの入内の要請をさす。3.6.5
注釈384思しわづらふことありける明融臨模本「おほしわつらふ事ありけるは」の「は」は後人の補入。大島本も「覚しわつらふ事ありける」とある。3.6.5
注釈385御けしき賜はらせたまへりければ「御けしき」は帝の御内意、「賜ら」(「与える」の尊敬語、また「もらう」の謙譲語、為手受手の立場によって変わる)、「せ」(尊敬の助動詞)「たまへ」(尊敬の補助動詞)は最高敬語で帝の行為に対して使われた表現であるが、ここは受手側からの申し出であるので、大臣の最高にへりくだった表現、「帝の御内意を頂戴させていただく」というニュアンス。「帝からも御内諾を左大臣にいただかせてお置きになったことなので」(今泉忠義訳)という、帝を主導者にした解釈もあるが、下文の「さらばこの折の後見なかめるを添臥にも」という繋がりが不自然である。「りければ」の完了の助動詞「り」完了の意、過去の助動詞「けり」で、左大臣は元服の儀式前に既に御内意を得ていた、の意味。3.6.6
注釈386さらばこの折の後見なかめるを添ひ臥しにも帝の引入の大臣に対する詞。「さらば」は大臣の源氏を婿にとの希望をさす。「添ひ臥にも」の下に「せよ」などの語句が省略されたかたち。3.6.6
注釈387もよほさせたまひければ帝は、源氏と加冠役の大臣家の娘との結婚を表向きには「お促しあそばしたので」というかたちをとる。3.6.6
注釈388大御酒など参る「参る」は「呑む」の尊敬語。3.6.7
注釈389大臣気色ばみきこえたまふこと「気色ばみ」は源氏に対してわが娘婿にと結婚をほのめかしたこと。3.6.7
注釈390もののつつましきほど気恥ずかしい年頃。3.6.7
注釈391内侍掌侍(内侍司の三等官)をいう。3.6.8
注釈392御盃のついでに帝が左大臣に盃を廻す折に、和歌を一首詠んで廻す。3.6.9
注釈393いときなき初元結ひに長き世を--契る心は結びこめつや帝から大臣への贈歌。「初元結ひ」は元服のこと。「初元結ひ」の縁語「結ぶ」に「髻を結ぶ」意と「契りを結ぶ」意とを掛ける。結婚の約束をなさったか、という問い掛け。3.6.10
注釈394おどろかさせたまふ大臣をはっとさせなさる、気づかせなさるということだが、つまり、念を押しなさるという意である。3.6.11
注釈395結びつる心も深き元結ひに--濃き紫の色し褪せずは「ずは」連語、順接の仮定条件を表す。もしも、--ならば、の意。大臣の帝の歌に対する返歌。「濃き紫」に元結の紐の「紫」色と源氏の深い愛情の意をこめる。大臣は帝の「結びこめつや」という問い掛けに対して、第一句冒頭に「結びつる」と答えている。「色し褪せずは」(愛情が薄れなければ)は、そのようであってほしいと言葉に表した念願、言霊信仰とみてよいだろう。しかしまた、紫の色は褪色しやすい色、そのような親心の懸念は、物語の中で不吉な予言となってしまっている。3.6.12
注釈396長橋明融臨模本「か」に濁点符号あり。長橋、紫宸殿と清涼殿をつなぐ渡殿。3.6.13
注釈397賜はりたまふ「鷹据ゑて」の「賜はり」は帝に対する敬語、「たまふ」は源氏に対する敬語。「品々に」の「賜はり」は帝に対する敬語、「たまふ」は親王たち上達部に対する敬語。3.6.14
注釈398御階清涼殿の東庭に下りる階段。3.6.14
注釈399右大弁なむ承りて仕うまつらせける先に「御後見だちて仕うまつる右大弁」とあった。「仕うまつら」「せ」(使役の助動詞)「ける」(過去の助動詞)、右大弁が帝の仰せを承って人々に整えさせたのであった、の意。3.6.15
注釈400なかなか限りもなくいかめしうなむ下に「ありける」などの語句が省略されている。語り手の口吻が感じられる文章。3.6.15
3.7
第七段 源氏、左大臣家の娘(葵上)と結婚


3-7  Genji gets married to Sadaijin's daughter

3.7.1  その夜、大臣の御里に源氏の君 まかでさせたまふ作法世にめづらしきまで、もてかしづききこえたまへり。いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと思ひきこえたまへり。女君は すこし過ぐしたまへるほどにいと若うおはすれば似げなく恥づかし思いたり
 その夜、大臣のお邸に源氏の君を退出させなさる。婿取りの儀式は世に例がないほど 立派におもてなし申し上げなさった。とても若くおいでなのを、不吉なまでにかわいいとお思い申し上げなさった。女君は少し年長でおいでなのに対して、婿君がたいそうお若くいらっしゃるので、似つかわしくなく恥ずかしいとお思いでいらっしゃった。
 その夜源氏の君は左大臣家へ婿になって行った。この儀式にも善美は尽くされたのである。高貴な美少年の婿を大臣はかわいく思った。姫君のほうが少し年上であったから、年下の少年に配されたことを、不似合いに恥ずかしいことに思っていた。
  Sono yo, Otodo no ohom-sato ni Genzi-no-kimi makade sase tamahu. Sahohu yo ni medurasiki made, mote-kasiduki kikoye tamahe ri. Ito kibiha nite ohasi taru wo, yuyusiu utukusi to omohi kikoye tamahe ri. Womnagimi ha sukosi sugusi tamahe ru hodo ni, ito wakau ohasure ba, nigenaku hadukasi to oboi tari.
3.7.2  この大臣の御おぼえいとやむごとなきに、 母宮、内裏の一つ后腹になむおはしければいづ方につけても いとはなやかなるに、この君さへ かくおはし添ひぬれば、春宮の御祖父にて、つひに世の中を知りたまふべき右大臣の御勢ひは、 ものにもあらず圧されたまへり
 この大臣は帝のご信任が厚い上に、姫君の母宮が 帝と同じ母后のお生まれでいらっしゃったので、どちらから言っても立派な上に、この君までがこのように婿君としてお加わりになったので、東宮の御祖父で、最後には天下を支配なさるはずの右大臣のご威勢も、敵ともなく圧倒されてしまった。
 この大臣は大きい勢力を持った上に、姫君の母の夫人は帝の御同胞であったから、あくまでもはなやかな家である所へ、今度また帝の御愛子の源氏を婿に迎えたのであるから、東宮の外祖父で未来の関白と思われている右大臣の勢カは比較にならぬほど気押されていた。
  Kono Otodo no ohom-oboye ito yamgotonaki ni, Hahamiya, Uti no hito-tu-kisaibara ni nam ohasi kere ba, idukata ni tuke te mo ito hanayaka naru ni, kono Kimi sahe kaku ohasi sohi nure ba, Touguu no ohom-ohodi nite, tuhini yononaka wo siri tamahu beki Migi-no-otodo no ohom-ikihohi ha, mono ni mo ara zu osa re tamahe ri.
3.7.3   御子どもあまた腹々にものしたまふ宮の御腹は、蔵人少将にて いと若うをかしきを右大臣の、御仲はいと好からねど、え見過ぐしたまはで、かしづきたまふ 四の君にあはせたまへり。 劣らずもてかしづきたるは、あらまほしき 御あはひどもになむ。
 ご子息たちが大勢それぞれの夫人方にいらっしゃる。宮がお生みの方は、蔵人少将でたいそう若く美しい方なので、右大臣が、左大臣家とのお間柄はあまりよくないが、他人として放っておくこともおできになれず、大切になさっている四の君に婿取りなさっていた。劣らず大切にお世話なさっているのは、両家とも理想的な婿舅の間柄である。
 左大臣は何人かの妻妾から生まれた子供を幾人も持っていた。内親王腹のは今蔵人少将であって年少の美しい貴公子であるのを左右大臣の仲はよくないのであるが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、大事にしている四女の婿にした。これも左大臣が源氏の君をたいせつがるのに劣らず右大臣から大事な婿君としてかしずかれていたのはよい一対のうるわしいことであった。
  Miko-domo amata harabara ni monosi tamahu. Miya no ohom-hara ha, Kuraudo-no-seusyau nite ito wakau wokasiki wo, Migi-no-otodo no, ohom-naka ha ito yokara ne do, e mi-sugusi tamaha de, kasiduki tamahu Si-no-kimi ni ahase tamahe ri. Otora zu mote-kasiduki taru ha, aramahosiki ohom-ahahi-domo ni nam.
3.7.4  源氏の君は、主上の常に召しまつはせば、心安く里住みもえしたまはず。心のうちには、ただ藤壺の御ありさまを、類なしと思ひきこえて、「 さやうならむ人をこそ見め。似る人なくもおはしけるかな。大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかず」おぼえたまひて、幼きほどの心一つにかかりて、 いと苦しきまでぞおはしける
 源氏の君は、主上がいつもお召しになって放さないので、気楽に私邸で過すこともおできになれない。心中では、ひたすら藤壺のご様子を、またといない方とお慕い申し上げて、「そのような女性こそ妻にしたいものだ。似た方もいらっしゃらないな。大殿の姫君は、たいそう興趣ありそうに大切に育てられている方だと思われるが、少しも心惹かれない」というように感じられて、幼心一つに思いつめて、とても苦しいまでに悩んでいらっしゃるのであった。
 源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。源氏の心には藤壼の宮の美が最上のものに思われてあのような人を自分も妻にしたい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢は大事にされて育った美しい貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壼の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。
  Genzi-no-kimi ha, Uhe no tune ni mesi-matuhase ba, kokoro-yasuku satozumi mo e si tamaha zu. Kokoro no uti ni ha, tada Huditubo no ohom-arisama wo, taguhinasi to omohi kikoye te, "Sayau nara m hito wo koso mi me. Niru hito naku mo ohasi keru kana! Ohoidono-no-kimi, ito wokasige ni kasiduka re taru hito to ha miyure do, kokoro ni mo tuka zu." oboye tamahi te, wosanaki hodo no kokoro hito-tu ni kakari te, ito kurusiki made zo ohasi keru.
注釈401まかでさせたまふ「させ」(使役の助動詞)「たまふ」(尊敬の補助動詞)、帝の行為に対して使われている。帝が源氏を大臣邸にご退出させなさる。現在形の文末表現。3.7.1
注釈402作法世にめづらしきまでもてかしづききこえたまへり「作法」、「きこえ」(謙譲の補助動詞)「たまへ」(尊敬の補助動詞)「り」(完了の助動詞、存続)。大臣の源氏婿取りの作法は世に前例がないほど立派にお整え申し上げなさっていた。以下、その夜以後の内容を語るので、文末は「り」「たり」(完了の助動詞、存続)で語られる。3.7.1
注釈403すこし過ぐしたまへるほどに女君の年齢が源氏よりも少し年長でいらしたのに対して。3.7.1
注釈404いと若うおはすれば主語は源氏。挿入句。源氏がたいそうお若くいらっしゃるので、という理由。3.7.1
注釈405似げなく恥づかし女君の心。年齢が合わず恥ずかしい。あまりに若い婿を迎えた成人女性の恥じらいの気持ち。3.7.1
注釈406思いたり女君はお思いでいらっしゃった。以上、婿取りの夜の儀式からそれ以後、現在までの大臣や女君の思いを語った。完了の助動詞、存続形の文末表現。3.7.1
注釈407母宮内裏の一つ后腹になむおはしければ女君の母宮は帝と同腹の兄妹でいらしたので。3.7.2
注釈408いづ方につけても大臣は帝の信任が厚く、また一方でその妻は帝の同腹の妹宮。3.7.2
注釈409いとはなやかなるに「に」接続助詞、そのうえ、という意を表す。3.7.2
注釈410かくおはし添ひぬれば帝の御子が婿として左大臣家にお加わりになったので。3.7.2
注釈411ものにもあらず圧されたまへり完了の助動詞「り」(存続)は、源氏結婚後の帝と引入の左大臣家との結び付きが強まり、それ以後、一の親王の東宮を擁する右大臣家が圧倒されていることを語る。3.7.2
注釈412御子どもあまた腹々にものしたまふ主語は引入の大臣。その大臣の正妻北の方は帝と同腹の宮であるが、その他の夫人方との間にも大勢の子供たちがいるということを語る。現在形の文末表現。3.7.3
注釈413宮の御腹は蔵人少将にて先の「女君」の他に男子もいて、蔵人兼少将(正五位下相当)であった。源氏には従兄弟でもある。3.7.3
注釈414いと若うをかしきを接続助詞「を」は、順接の確定条件、原因・理由を表す。--なので。3.7.3
注釈415右大臣の格助詞「の」主格を表す。「御仲はいと好からねど」は挿入句。3.7.3
注釈416四の君右大臣家の四の君に蔵人兼少将は婿取りされる。一の親王の母弘徽殿女御の妹君に当たる。3.7.3
注釈417劣らず左大臣家の婿扱いに比較して劣らない。3.7.3
注釈418御あはひども接尾語「ども」複数の意は、左大臣家と右大臣家をさす。3.7.3
注釈419さやうならむ人をこそ以下「心にもつかず」まで源氏の心。「心にもつかず」の下にいずれの諸本にも引用の格助詞「と」がなく、「心にもつかず」が「おぼえたまひて」を修飾する構文になっている。源氏の心をわざと韜晦させたものだろうか。心中文の文末が地の文に融合した形になっている。3.7.4
注釈420いと苦しきまでぞおはしける係助詞「ぞ」と「おはしける」の間に「悩み」などの語が省略されている。3.7.4
3.8
第八段 源氏、成人の後


3-8  Genji's life

3.8.1   大人になりたまひて後はありしやうに御簾の内にも入れたまはず。御遊びの折々、 琴笛の音に聞こえかよひほのかなる御声を慰めにて、内裏住みのみ好ましうおぼえたまふ。五六日さぶらひたまひて、大殿に二三日など、絶え絶えにまかでたまへど、ただ今は幼き御ほどに、 罪なく思しなして、いとなみかしづききこえたまふ。
 元服なさってから後は、かつてのように御簾の内側にもお入れにならない。管弦の御遊の時々、琴と笛の音に心通わし合い、かすかに漏れてくるお声を慰めとして、内裏の生活ばかりを好ましく思っていらっしゃる。五、六日は内裏に伺候なさって、大殿邸には二、三日程度、途切れ途切れに退出なさるが、まだ今はお若い年頃であるので、つとめて咎めだてすることなくお許しになって、婿君として大切にお世話申し上げなさる。
 元服後の源氏はもう藤壼の御殿の御簾の中へは入れていただけなかった。琴や笛の音の中にその方がお弾きになる物の声を求めるとか、今はもう物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって宮中の宿直ばかりが好きだった。五、六日御所にいて、二、三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変わらず婿君のかしずき騒ぎをしていた。
  Otona ni nari tamahi te noti ha, arisi yau ni mi-su no uti ni mo ire tamaha zu. Ohom-asobi no woriwori, koto hue no ne ni kikoye kayohi, honoka naru ohom-kowe wo nagusame nite, utizumi nomi konomasiu oboye tamahu. Itu-ka muyi-ka saburahi tamahi te, Ohoidono ni hutu-ka mi-ka nado, tayedaye ni makade tamahe do, tada ima ha wosanaki ohom-hodo ni, tumi naku obosi-nasi te, itonami kasiduki kikoye tamahu.
3.8.2   御方々の人びと、世の中におしなべたらぬを選りととのへすぐりて さぶらはせたまふ御心につくべき御遊びをし、 おほなおほな思しいたつく
 お二方の女房たちは、世間から並々でない人たちをえりすぐってお仕えさせなさる。お気に入りそうなお遊びをし、せいいっぱいにお世話していらっしゃる。
 新夫婦付きの女房はことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな遊びを催したり、一所懸命である。
  Ohom-katagata no hitobito, yononaka ni osinabe tara nu wo eri totonohe suguri te saburaha se tamahu. Mi-kokoro ni tuku beki ohom-asobi wo si, ohonaohona obosi itatuku.
3.8.3   内裏には、もとの淑景舎を御曹司にて、母御息所の御方の人びと まかで散らずさぶらはせたまふ
 内裏では、もとの淑景舎をお部屋にあてて、母御息所にお仕えしていた女房を退出して散り散りにさせずに引き続いてお仕えさせなさる。
 御所では母の更衣のもとの桐壼を源氏の宿直所にお与えになって、御息所に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった。
  Uti ni ha, moto no Sigeisa wo ohom-zausi nite, Haha-miyasumdokoro no ohom-kata no hitobito makade tira zu saburaha se tamahu.
3.8.4   里の殿は、修理職、内匠寮に宣旨下りて、二なう改め造らせたまふ。もとの木立、山のたたずまひ、 おもしろき所なりけるを、池の心広くしなして、めでたく造りののしる。
 実家のお邸は、修理職や 内匠寮に宣旨が下って、またとなく立派にご改造させなさる。もとからの木立や、築山の様子、趣きのある所であったが、池をことさら広く造って、大騷ぎして立派に造営する。
 更衣の家のほうは修理の役所、内匠寮などへ帝がお命じになって、非常なりっぱなものに改築されたのである。もとから築山のあるよい庭のついた家であったが、池なども今度はずっと広くされた。二条の院はこれである。
  Sato no tono ha, surisiki, takumi-dukasa ni senzi kudari te, ninau aratame tukura se tamahu. Moto no kodati, yama no tatazumahi, omosiroki tokoro nari keru wo, ike no kokoro hiroku sinasi te, medetaku tukuri nonosiru.
3.8.5  「 かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや」と のみ、嘆かしう思しわたる
 「このような所に理想とするような女性を迎えて一緒に暮らしたい」とばかり、胸を痛めてお思い続けていらっしゃる。
 源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮らすことができたらと思って始終歎息をしていた。
  "Kakaru tokoro ni omohu yau nara m hito wo suwe te suma baya!" to nomi, nagekasiu obosi wataru.
3.8.6  「 光る君といふ名は、高麗人のめできこえてつけたてまつりける」とぞ、言ひ伝へたるとなむ
 「光る君という名前は、高麗人がお褒め申してお付けしたものだ」と、言い伝えているとのことである。
 光の君という名は前に鴻臚館へ来た高麗人が、源氏の美貌と天才をほめてつけた名だとそのころ言われたそうである。
  "Hikarukimi to ihu na ha, Komaudo no mede kikoye te tuke tatematuri keru." to zo, ihitutahe taru to nam.
注釈421大人になりたまひて後は以下の文末は現在形で語られる。3.8.1
注釈422ありしやうに御簾の内にも入れたまはず帝は以前のように源氏を御簾の内側にお入れにならない。成人したからである。3.8.1
注釈423琴笛の音に聞こえかよひ源氏の吹く笛の音色に御簾の内側から藤壺が琴の音を合わせて弾くことによって気持ちを通じ合わせている。音楽が源氏の心を通わす経路となっている。3.8.1
注釈424ほのかなる御声藤壺のかすかなお声。3.8.1
注釈425罪なく思しなして左大臣は咎めだてすることなくお許しになって、「なして」には無理してそうするというニュアンスがある。3.8.1
注釈426御方々の人びと源氏と女君に仕える女房たち。3.8.2
注釈427さぶらはせたまふ主語は左大臣。「せ」使役の助動詞。3.8.2
注釈428御心につくべき御遊び源氏の気持ちに。3.8.2
注釈429おほなおほな思しいたつく主語は左大臣。副詞「おほなおほな」は、我身を忘れて一生懸命に、の意。「いたつく(労)」は、古くは清音(日本書紀)、後世に濁音「いたづく」(日葡辞書)となる。3.8.2
注釈430内裏にはもとの淑景舎を御曹司にて内裏では源氏にゆかりのある淑景舎(桐壺)をお部屋にあてて。3.8.3
注釈431まかで散らずさぶらはせたまふ主語は帝である。以下、帝の指示によって「里の殿」の修繕などもなされる。3.8.3
注釈432里の殿桐壺更衣の邸。後に「二条院」と呼ばれる。3.8.4
注釈433おもしろき所なりけるを接続助詞「を」順接の意。--であったのをさらに、の文脈。3.8.4
注釈434かかる所に思ふやうならむ人を据ゑて住まばや源氏の心。「思うやうならむ人を据えて住まばや」という願望は、当時の政略的な婿取り結婚が一般的な世の中で清新でロマンチックな願望である。3.8.5
注釈435のみ嘆かしう思しわたる既に正妻がありながらそれとの夫婦仲がうまくゆかず、さらに理想的な女性を求めて彷徨してゆくこの物語の主人公像が語られている。文末は現在形で結ばれる。以上、語り手が語られてきた物語世界に対して恣意を交えずに客観的にたんたんと語ったという印象を残す。3.8.5
注釈436光る君といふ名は高麗人のめできこえてつけたてまつりけるとぞ言ひ伝へたるとなむ『万水一露』所引「宗碩説」は「光る君」以下を「注の詞也」と指摘し、また『岷江入楚』は「高麗人の」以下をいわゆる草子地と認め、『一葉抄』は「言ひ伝へたる」以下を、さらに『細流抄』は「となむ」だけを、いわゆる草子地と認めている。物語の主人公の名前の由来について、語り手は「高麗人のめできこえてつけたてまつりける」という別の伝承を「とぞ言い伝えたる」と紹介して、「となむ」と結ぶ。下に「ある」または「聞く」などの語が省略された形。この物語の筆記編集者である私(作者)は、そのように言い伝えていると聞くという体裁である。3.8.6
Last updated 12/05/2008(ver.2-1)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 12/29/2008(ver.2-1)
渋谷栄一注釈
Last updated 6/25/2003
渋谷栄一訳(C)(ver.1-4-1)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経

2003年8月14日

Last updated 12/13/2008 (ver.2-1)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
このページは再編集プログラムによって2015/1/12に出力されました。
源氏物語の世界 再編集プログラム Ver 3.38: Copyright (c) 2003,2015 宮脇文経