第七帖 紅葉賀


07 MOMIDI-NO-GA (Ohoshima-bon)


光る源氏の十八歳冬十月から十九歳秋七月までの宰相兼中将時代の物語


Tale of Hikaru-Genji's Konoe-Chujo era from October in winter at the age of 18 to July in fall at the age of 19

1
第一章 藤壺の物語 源氏、藤壺の御前で青海波を舞う


1  Tale of Fujitsubo  Genji dances in front of Fujitsubo

1.1
第一段 御前の試楽


1-1  Genji dances Seigaiha on the rehearsal

1.1.1   朱雀院の行幸は、神無月の十日あまりなり 世の常ならず、おもしろかるべきたびのことなりければ、 御方々、物見たまはぬことを 口惜しがりたまふ主上も藤壺の見たまはざらむを、飽かず 思さるれば試楽を御前にて、せさせたまふ
 朱雀院への行幸は、神無月の十日過ぎである。常の行幸とは違って、格別興趣あるはずの催しであったので、御方々、御覧になれないことを残念にお思いになる。主上も、藤壷が御覧になれないのを、もの足りなく思し召されるので、試楽を御前において、お催しあそばす。
 朱雀すざく院の行幸は十月の十幾日ということになっていた。その日の歌舞の演奏はことにりすぐって行なわれるという評判であったから、後宮こうきゅうの人々はそれが御所でなくて陪観のできないことを残念がっていた。みかど藤壺ふじつぼ女御にょごにお見せになることのできないことを遺憾に思召おぼしめして、当日と同じことを試楽として御前でやらせて御覧になった。
  Suzyakuwin no gyaugau ha, kamnaduki no towoka amari nari. Yo no tune nara zu, omosirokaru beki tabi no koto nari kere ba, ohom-katagata, mono mi tamaha nu koto wo kutiwosigari tamahu. Uhe mo, Huditubo no mi tamaha zara m wo, akazu obosa rure ba, sigaku wo gozen nite, se sase tamahu.
1.1.2   源氏中将は、青海波をぞ舞ひたまひける片手には 大殿の頭中将。容貌、用意、人にはことなるを、立ち並びては、なほ花のかたはらの深山木なり。
 源氏中将は、青海波をお舞いになった。一方の舞手には大殿の頭中将。容貌、心づかい、人よりは優れているが、立ち並んでは、やはり花の傍らの深山木である。
 源氏の中将は青海波せいがいはを舞ったのである。二人舞の相手は左大臣家の頭中将とうのちゅうじょうだった。人よりはすぐれた風采ふうさいのこの公子も、源氏のそばで見ては桜に隣った深山みやまの木というより言い方がない。
  Genzinotyuuzyau ha, Seigaiha wo zo mahi tamahi keru. Katate ni ha Ohotono no Tounotyuuzyau. Katati, youi, hito ni ha koto naru wo, tati narabi te ha, naho hana no katahara no miyamagi nari.
1.1.3  入り方の日かげ、さやかにさしたるに、楽の声まさり、もののおもしろきほどに、同じ舞の足踏み、おももち、世に見えぬさまなり。詠などしたまへるは、「これや、仏の御迦陵頻伽の声ならむ」と聞こゆ。おもしろくあはれなるに、 帝、涙を拭ひたまひ、 上達部、親王たちも、みな泣きたまひぬ。詠はてて、袖うちなほしたまへるに、待ちとりたる楽のにぎははしきに、顔の色あひまさりて、 常よりも光ると見えたまふ
 入り方の日の光、鮮やかに差し込んでいる時に、楽の声が高まり、感興もたけなわの時に、同じ舞の足拍子、表情は、世にまたとない様子である。朗唱などをなさっている声は、「これが、仏の御迦陵頻伽のお声だろうか」と聞こえる。美しくしみじみと心打つので、帝は、涙をお拭いになさり、上達部、親王たちも、皆落涙なさった。朗唱が終わって、袖をさっとお直しになると、待ち構えていた楽の音が賑やかに奏され、お顔の色が一段と映えて、常よりも光り輝いてお見えになる。
 夕方前のさっと明るくなった日光のもとで青海波は舞われたのである。地をする音楽もことにえて聞こえた。同じ舞ながらもおもてづかい、足の踏み方などのみごとさに、ほかでも舞う青海波とは全然別な感じであった。舞い手が歌うところなどは、極楽の迦陵頻伽かりょうびんがの声と聞かれた。源氏の舞の巧妙さに帝は御落涙あそばされた。陪席した高官たちも親王方も同様である。歌が終わってそでが下へおろされると、待ち受けたようににぎわしく起こる楽音に舞い手のほおが染まって常よりもまた光る君と見えた。
  Irigata no hikage, sayaka ni sasi taru ni, gaku no kowe masari, mono no omosiroki hodo ni, onazi mahi no asibumi, omomoti, yo ni miye nu sama nari. Ei nado si tamahe ru ha, "Kore ya, hotoke no ohom-Kareubinga no kowe nara m" to kikoyu. Omosiroku ahare naru ni, Mikado, namida wo nogohi tamahi, kamdatime, miko-tati mo, mina naki tamahi nu. Ei hate te, sode uti-nahosi tamahe ru ni, mati tori taru gaku no nigihahasiki ni, kaho no iroahi masari te, tune yori mo hikaru to miye tamahu.
1.1.4   春宮の女御、かくめでたきにつけても、ただならず思して、「 神など、空にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし」とのたまふを、 若き女房などは、心憂しと耳とどめけり。藤壺は、「 おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく見えまし」と思すに、夢の心地なむしたまひける。
 春宮の女御は、このように立派に見えるのにつけても、おもしろからずお思いになって、「神などが、空から魅入りそうな、容貌だこと。嫌な、不吉だこと」とおっしゃるのを、若い女房などは、厭味なと、聞きとがめるのであった。藤壷は、「大それた心のわだかまりがなかったならば、いっそう素晴らしく見えたろうに」とお思いになると、夢のような心地がなさるのであった。
 東宮の母君の女御は舞い手の美しさを認識しながらも心が平らかでなかったのである。「神様があの美貌びぼうに見入ってどうかなさらないかと思われるね、気味の悪い」こんなことを言うのを、若い女房などは情けなく思って聞いた。藤壺の宮は自分にやましい心がなかったらまして美しく見える舞であろうと見ながらも夢のような気があそばされた。
  Touguunonyougo, kaku medetaki ni tuke te mo, tada nara zu obosi te, "Kami nado, sora ni mede tu beki katati kana! Utate yuyusi." to notamahu wo, wakaki nyoubou nado ha, kokorousi to mimi todome keri. Huditubo ha, "Ohokenaki kokoro no nakara masika ba, masite medetaku miye masi." to obosu ni, yume no kokoti nam si tamahi keru.
1.1.5   宮は、やがて御宿直なりけり
 宮は、そのまま御宿直なのであった。
 その夜の宿直とのいの女御はこの宮であった。
  Miya ha, yagate ohom-tonowi nari keri.
1.1.6  「 今日の試楽は、青海波に事みな尽きぬな。いかが見たまひつる
 「今日の試楽は、青海波に万事尽きてしまったな。どう御覧になりましたか」
 「今日の試楽は青海波が王だったね。どう思いましたか」
  "Kehu no sigaku ha, Seigaiha ni koto mina tuki nu na! Ikaga mi tamahi turu?"
1.1.7  と、聞こえたまへば、 あいなう、御いらへ聞こえにくくて
 と、お尋ね申し上げあそばすと、心ならずも、お答え申し上げにくくて、
 宮はお返辞がしにくくて、
  to, kikoye tamahe ba, ainau, ohom-irahe kikoye nikuku te,
1.1.8  「 殊にはべりつ」とばかり聞こえたまふ。
 「格別でございました」とだけお返事申し上げなさる。
 「特別に結構でございました」とだけ。
  "Koto ni haberi tu." to bakari kikoye tamahu.
1.1.9  「 片手もけしうはあらずこそ見えつれ。舞のさま、手づかひなむ、家の子は殊なる。この世に名を得たる舞の男どもも、げにいとかしこけれど、ここしうなまめいたる筋を、えなむ見せぬ。試みの日、かく尽くしつれば、 紅葉の蔭やさうざうしくと思へど、見せたてまつらむの心にて、用意せさせつる」など聞こえたまふ。
 「相手役も、悪くはなく見えた。舞の様子、手捌きは、良家の子弟は格別であるな。世間で名声を博している舞の男どもも、確かに大したものであるが、大様で優美な趣きを、表すことができない。試楽の日に、こんなに十分に催してしまったので、紅葉の木陰は、寂しかろうかと思うが、お見せ申したいとの気持ちで、念入りに催させた」などと、お話し申し上げあそばす。
 「もう一人のほうも悪くないようだった。曲の意味の表現とか、手づかいとかに貴公子の舞はよいところがある。専門家の名人は上手じょうずであっても、無邪気なえんな趣をよう見せないよ。こんなに試楽の日に皆見てしまっては朱雀院の紅葉もみじの日の興味がよほど薄くなると思ったが、あなたに見せたかったからね」など仰せになった。
  "Katate mo kesiu ha ara zu koso miye ture. Mahi no sama, tedukahi nam, ihenoko ha koto naru. Kono yo ni na wo e taru mahi no wonoko-domo mo, geni ito kasikokere do, kokosiu namamei taru sudi wo, e nam mise nu. Kokoromi no hi, kaku tukusi ture ba, momidi no kage ya sauzausiku to omohe do, mise tatematura m no kokoro nite, youi se sase turu." nado kikoye tamahu.
注釈1朱雀院の行幸は神無月の十日あまりなりこの「朱雀院行幸」は「若紫」「末摘花」巻に予告されたもの。「行幸 ギャウガウ」(文明本節用集)、「ぎょうごう」と濁音に読む。この巻は新年立によれば、源氏十八歳の秋から十九歳の秋までの宰相中将時代の物語。まず、源氏、その試楽に青海波を舞う。1.1.1
注釈2世の常ならず恒例の朱雀院行幸とは違って。朱雀院にいられる上皇(一院)の算賀の行幸であろう。『完訳』は「一院の四十賀か五十賀かを行うための行幸」「この一院は桐壺帝の父か」と注す。1.1.1
注釈3御方々桐壺帝の後宮の妃方。1.1.1
注釈4口惜しがりたまふ主語は御方々。1.1.1
注釈5主上も帝を「主上」と呼称する。「も」(係助詞)は、並列を表す。御方々同様に主上ものニュアンス。1.1.1
注釈6藤壺の見たまはざらむを藤壺の女御を殿舎名で「藤壺」と呼称する。1.1.1
注釈7思さるれば「るれ」(自発の助動詞)、お思いにならずにはいらっしゃれないのニュアンス。1.1.1
注釈8試楽を御前にてせさせたまふ試楽は予行演習。御前は清涼殿の東庭をさす。「させ」(尊敬の助動詞)「たまふ」(尊敬の補助動詞)、最高敬語。帝は試楽を清涼殿の東庭でお催しあそばすの意。「御前にて」、横山本と陽明文庫本「御まへにて」とある。1.1.1
注釈9源氏中将は青海波をぞ舞ひたまひける公の場では「源氏中将」と呼称される。「ける」(過去の助動詞)は過去の事件を伝承的に現在の人の前に語る。源氏の中将は青海波をお舞いになったということである。1.1.2
注釈10片手には青海波は二人一対になって舞うので、その相手方にはの意。1.1.2
注釈11大殿の頭中将大殿は左大臣、その子息頭中将、源氏の正妻葵上の兄。1.1.2
注釈12帝涙を地の文では「帝」と呼称される。1.1.3
注釈13上達部親王たちもここでは上達部、親王の順に紹介される。1.1.3
注釈14常よりも光ると見えたまふ「光る」は当時の最高の美の形容。1.1.3
注釈15春宮の女御春宮の母女御の意。一宮の母女御、弘徽殿の女御。1.1.4
注釈16神など空にめでつべき容貌かなうたてゆゆし弘徽殿女御の詞。周囲の女房に洩らした独白であろう。1.1.4
注釈17若き女房などは心憂しと耳とどめけり弘徽殿女御方に仕える若女房か。1.1.4
注釈18おほけなき心のなからましかば、ましてめでたく見えまし藤壺の心中。「おほけなき心」を『集成』は「藤壺に対する源氏の思慕の情をさす」というように、源氏の心と解し、源氏がそのような大それた気持ちを抱かずに青海波を舞ったのであったら一層すばらしく見えるであろうにの意に解す。それに対して、『完訳』は「帝に寵愛されながらも源氏と密通したという畏れ多い気持」「自分に大それた心のわだかまりがなかったら、この舞姿がいっそうすばらしく見えようものを」というように、藤壺自身の心と解す。一見相反するような両者の読みもそれぞれに可能なところが源氏物語独特の表現性の豊さであり深さでもある。和歌でいえば掛詞的表現の手法である。両意を汲んで以下読み進める。1.1.4
注釈19宮はやがて御宿直なりけり「宮」は藤壺をさす。ただ「宮」とだけ呼称することによって、春宮の女御に対し血筋の高貴さを引き立たせる。清涼殿広廂の間から夜の御殿に移動し帝の御寝に侍することになる。それを「御宿直」と表現する。1.1.5
注釈20今日の試楽は青海波に事みな尽きぬないかが見たまひつる帝の藤壺への詞。青海波の感想の問いかけ。場面は夜の御殿の寝所での会話。1.1.6
注釈21あいなう御いらへ聞こえにくくて「あいなく」は心ならずもの意。『集成』は「ばつが悪く」と注し、『完訳』は「心ならずも、の意。帝の問いに対応すべきなのに、の気持」と注す。語り手自身の感想が言いこめられた用語。1.1.7
注釈22殊にはべりつ藤壺の返事。「結構でございました」また「格別でございました」の意。無難に答えたもの。1.1.8
注釈23片手も以下「用意せさせつる」まで、帝の詞。1.1.9
注釈24紅葉の蔭朱雀院行幸当日の紅葉の下での舞を「紅葉の蔭」と表現。1.1.9
校訂1 神無月の 神無月の--神な月(月/+の<朱>) 1.1.1
1.2
第二段 試楽の翌日、源氏藤壺と和歌を贈答


1-2  Genji and Fujitsubo compose and exchange waka the next day

1.2.1   つとめて、中将君
 翌朝、中将の君、
 翌朝源氏は藤壺の宮へ手紙を送った。
  Tutomete, Tyuuzyaunokimi,
1.2.2  「 いかに御覧じけむ。世に知らぬ乱り心地ながらこそ
 「どのように御覧になりましたでしょうか。何とも言えないつらい気持ちのままで。
 どう御覧くださいましたか。苦しい思いに心を乱しながらでした。
  "Ikani goranzi kem? Yo ni sira nu midarigokoti nagara koso.
1.2.3    もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の
   袖うち振りし心知りきや
  つらい気持ちのまま立派に舞うことなどはとてもできそうもないわが身が
  袖を振って舞った気持ちはお分りいただけたでしょうか
  物思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の
  袖うち振りし心知りきや
    Mono omohu ni tati mahu beku mo ara nu mi no
    sode uti-huri si kokoro siri ki ya
1.2.4   あなかしこ
 恐れ多いことですが」
 失礼をお許しください。
  Ana kasiko."
1.2.5   とある御返り、目もあやなりし御さま、容貌に、見たまひ忍ばれずやありけむ
 とあるお返事、目を奪うほどであったご様子、容貌に、お見過ごしになれなかったのであろうか、
 とあった。目にくらむほど美しかった昨日の舞を無視することがおできにならなかったのか、宮はお書きになった。
  to aru ohom-kaheri, me mo ayanari si ohom-sama, katati ni, mi tamahi sinoba re zu ya ari kem,
1.2.6  「 唐人の袖振ることは遠けれど
   立ち居につけてあはれとは見き
 「唐の人が袖振って舞ったことは遠い昔のことですが
  その立ち居舞い姿はしみじみと拝見いたしました
  から人の袖ふることは遠けれど
  につけて哀れとは見き
    "Karahito no sode huru koto ha tohokere do
    tatiwi ni tuke te ahare to ha mi ki
1.2.7   大方には
 並々のことには」
 一観衆として。
  Ohokata ni ha."
1.2.8  とあるを、限りなうめづらしう、「 かやうの方さへ、たどたどしからず、ひとの朝廷まで思ほしやれる御后言葉の、かねても」と、ほほ笑まれて、持経のやうにひき広げて見ゐたまへり。
 とあるのを、この上なく珍しく、「このようなことにまで、お詳しくいらっしゃり、唐国の朝廷まで思いをはせられるお后としてのお和歌を、もう今から」と、自然とほほ笑まれて、持経のように広げてご覧になっていた。
 たまさかに得た短い返事も、受けた源氏にとっては非常な幸福であった。支那しなにおける青海波の曲の起源なども知って作られた歌であることから、もう十分にきさきらしい見識を備えていられると源氏は微笑して、手紙を仏の経巻のようにひろげて見入っていた。
  to aru wo, kagirinau medurasiu, "Kayau no kata sahe, tadotadosikara zu, hito no mikado made omohosi yare ru ohom-kisakikotoba no, kanete mo." to, hohowema re te, dikyau no yau ni hiki hiroge te mi wi tamaheri.
注釈25つとめて中将君以下、試楽の翌日、源氏と藤壺、和歌の贈答をしあう。「中将の君」は源氏。1.2.1
注釈26いかに御覧じけむ世に知らぬ乱り心地ながらこそ源氏の手紙文。係助詞「こそ」の下に「舞ひつれ」などの語句が省略された形。1.2.2
注釈27もの思ふに立ち舞ふべくもあらぬ身の--袖うち振りし心知りきや源氏の手紙に添えた贈歌。「立ち舞ふ」は舞を舞う意と立派に立ち振る舞うの両意がこめられる。「袖うち振りし」には舞の袖を振るしぐさの意と、袖振る動作が相手の魂を招き寄せるという信仰に基づく愛情を示すことの両意がこめられている。1.2.3
注釈28あなかしこ手紙の結語。当時は男性でも使用した。おそれ多いことですがの意。1.2.4
注釈29とある御返り目もあやなりし御さま容貌に見たまひ忍ばれずやありけむ「とある御返り」は、とある源氏の贈歌に対する藤壺の御返歌はの意。それが緊密かつ簡潔に表現されている。「目もあやなりし」以下、挿入句。『完訳』は「藤壺が返歌した理由を語り手が推測」と注す。なお『細流抄』他の旧注は「御返り」以下を「草子の地のことはる也」と指摘するが、「とある」以下全体が語り手の意の介入された句とも見られなくもない。1.2.5
注釈30唐人の袖振ることは遠けれど--立ち居につけてあはれとは見き藤壺の返歌。「ふる」は「振る」と「古」の掛詞。青海波は唐楽なので「唐人」と詠んだ。「あはれとは見き」という点にこの返歌の主旨がある。1.2.6
注釈31大方には大体のところには、一通りにはの意。『完訳』は「「おほかたにはあらず」の意。一説には、「おほかたにはあはれと見き」」と注すが、どちらとも解せるような含みのある表現をあえて選んで答えたもので、二者択一的に判断するのは正しくない。感情を率直かつ直線的表現するようなことはしない。1.2.7
注釈32かやうの方さへ以下「かねても」まで、源氏の心中。「かやうの方」は青海波の舞が唐土から舶来した唐楽であるという故事来歴をいう。1.2.8
校訂2 見たまひ 見たまひ--見給ひ(ひ/#ひ) 1.2.5
1.3
第三段 十月十余日、朱雀院へ行幸


1-3  Mikado goes to Suzaku-in at 10 something in October

1.3.1   行幸には、親王たちなど、世に残る人なく仕うまつりたまへり。春宮もおはします。例の、楽の舟ども漕ぎめぐりて、唐土、高麗と、尽くしたる舞ども、種多かり。楽の声、鼓の音、世を響かす。
 行幸には、親王たちなど、宮廷を挙げて一人残らず供奉なさった。春宮もお出ましになる。恒例によって、楽の舟々が漕ぎ廻って、唐楽、高麗楽のと、数々を尽くした舞は、幾種類も多い。楽の声、鼓の音、四方に響き渡る。
 行幸の日は親王方も公卿くぎょうもあるだけの人が帝の供奉ぐぶをした。必ずあるはずの奏楽の船がこの日も池をぎまわり、唐の曲も高麗こうらいの曲も舞われて盛んな宴賀えんがだった。
  Gyaugau ni ha, Miko-tati nado, yo ni nokoru hito naku tukaumaturi tamahe ri. Touguu mo ohasimasu. Rei no, gaku no hune-domo kogi meguri te, Morokosi, Koma to, tukusi taru mahi-domo, kusa ohokari. Gaku no kowe, tudumi no oto, yo wo hibikasu.
1.3.2   一日の源氏の御夕影ゆゆしう思されて、御誦経など所々にせさせたまふを、聞く人もことわりとあはれがり聞こゆるに、 春宮の女御は、あながちなりと、憎みきこえたまふ。
 先日の源氏の夕映えのお姿、不吉に思し召されて、御誦経などを方々の寺々におさせになるのを、聞く人ももっともであると感嘆申し上げるが、春宮の女御は、大仰であると、ご非難申し上げなさる。
 試楽の日の源氏の舞い姿のあまりに美しかったことが魔障ましょう耽美心たんびしんをそそりはしなかったかと帝は御心配になって、寺々で経をお読ませになったりしたことを聞く人も、御親子の情はそうあることと思ったが、東宮の母君の女御だけはあまりな御関心ぶりだとねたんでいた。
  Hitohi no Genzi no ohom-yuhukage, yuyusiu obosa re te, mizyukyau nado tokorodokoro ni se sase tamahu wo, kiku hito mo kotowari to aharegari kikoyuru ni, Touguunonyougo ha, anagati nari to, nikumi kikoye tamahu.
1.3.3  垣代など、殿上人、地下も、心殊なりと世人に思はれたる有職の限りととのへさせたまへり。 宰相二人、左衛門督、右衛門督、左右の楽のこと行ふ。舞の師どもなど、世になべてならぬを 取りつつ、おのおの籠りゐてなむ習ひける。
 垣代などには、殿上人、地下人でも、優秀だと世間に評判の高い精通した人たちだけをお揃えあそばしていた。宰相二人、左衛門督、右衛門督が、左楽と右楽とを指揮する。舞の師匠たちなど、世間で一流の人たちをそれぞれ招いて、各自家に引き籠もって練習したのであった。
 楽人は殿上役人からも地下じげからもすぐれた技倆を認められている人たちだけがり整えられたのである。参議が二人、それから左衛門督さえもんのかみ、右衛門督が左右の楽を監督した。舞い手はめいめい今日まで良師を選んでした稽古けいこの成果をここで見せたわけである。
  Kaisiro nado, tenzyaubito, dige mo, kokoro koto nari to yohito ni omohare taru iusoku no kagiri totonohe sase tamahe ri. Saisyau hutari, Sawemonnokami, Uwemonnokami, hidari migi no gaku no koto okonahu. Mahi no si-domo nado, yo ni nabete nara nu wo tori tutu, onoono komori wi te nam narahi keru.
1.3.4  木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、言ひ知らず吹き立てたる物の音どもにあひたる松風、まことの 深山おろしと聞こえて吹きまよひ、色々に散り交ふ木の葉のなかより、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまで見ゆ。かざしの紅葉いたう 散り過ぎて、顔のにほひにけおされたる心地すれば、御前なる菊を折りて、 左大将さし替へたまふ
 木高い紅葉の下に、四十人の垣代、何とも言い表しようもなく見事に吹き鳴らしている笛の音に響き合っている松風、本当の深山颪と聞こえて吹き乱れ、色とりどりに散り乱れる木の葉の中から、青海波の光り輝いて舞い出る様子、何とも恐ろしいまでに見える。插頭の紅葉がたいそう散って薄くなって、顔の照り映える美しさに圧倒された感じがするので、御前に咲いている菊を折って、左大将が差し替えなさる。
 四十人の楽人が吹き立てた楽音に誘われて吹く松の風はほんとうの深山みやまおろしのようであった。いろいろの秋の紅葉もみじの散りかう中へ青海波の舞い手が歩み出た時には、これ以上の美は地上にないであろうと見えた。かざしにした紅葉が風のために葉数の少なくなったのを見て、左大将がそばへ寄って庭前の菊を折ってさし変えた。
  Kodakaki momidi no kage ni, yoso bito no kaisiro, ihi sira zu huki tate taru mononone-domo ni ahi taru matukaze, makoto no miyamaorosi to kikoye te huki mayohi, iroiro ni tiri kahu konoha no naka yori, Seigaiha no kakayaki ide taru sama, ito osorosiki made miyu. Kazasi no momidi itau tiri sugi te, kaho no nihohi ni keosare taru kokoti sure ba, omahe naru kiku wo wori te, Sadaisyau sasi-kahe tamahu.
1.3.5  日暮れかかるほどに、けしきばかりうちしぐれて、空のけしきさへ見知り顔なるに、さるいみじき姿に、菊の色々移ろひ、えならぬをかざして、今日はまたなき手を尽くしたる 入綾のほど、そぞろ寒く、この世のことともおぼえず。もの見知るまじき下人などの、木のもと、岩隠れ、山の木の葉に埋もれたるさへ、すこしものの心知るは涙落としけり。
 日の暮れかかるころに、ほんの少しばかり時雨が降って、空の様子までが感涙を催しているのに、そうした非常に美しい姿で、菊が色とりどりに変色し、その素晴らしいのを冠に插して、今日は又とない秘術を尽くした入綾の舞の時には、ぞくっと寒気がし、この世の舞とは思われない。何も分るはずのない下人どもで、木の下、岩の陰、築山の木の葉に埋もれている者までが、少し物の情趣を理解できる者は感涙に咽ぶのであった。
 日暮れ前になってさっと時雨しぐれがした。空もこの絶妙な舞い手に心を動かされたように。美貌の源氏が紫を染め出したころの白菊をかむりして、今日は試楽の日にえて細かな手までもおろそかにしない舞振りを見せた。終わりにちょっと引き返して来て舞うところなどでは、人が皆清い寒気をさえ覚えて、人間界のこととは思われなかった。物の価値のわからぬ下人げにんで、木のかげや岩の蔭、もしくは落ち葉の中にうずもれるようにして見ていた者さえも、少し賢い者は涙をこぼしていた。
  Hi kure kakaru hodo ni, kesiki bakari uti-sigure te, sora no kesiki sahe misiri gaho naru ni, saru imiziki sugata ni, kiku no iroiro uturohi, e nara nu wo kazasi te, kehu ha matanaki te wo tukusi taru iriaya no hodo, sozorosamuku, kono yo no koto to mo oboye zu. Mono mi siru maziki simobito nado no, ko no moto, iha gakure, yama no konoha ni udumore taru sahe, sukosi mono no kokoro siru ha namida otosi keri.
1.3.6   承香殿の御腹の四の御子、まだ童にて、秋風楽舞ひたまへるなむ、さしつぎの見物なりける。これらにおもしろさの尽きにければ、こと事に目も移らず、 かへりてはことざましにやありけむ
 承香殿の女御の第四皇子、まだ童姿で、秋風楽をお舞いになったのが、これに次ぐ見物であった。これらに興趣も尽きてしまったので、他の事には関心も移らず、かえって興ざましであったろうか。
 承香殿じょうきょうでんの女御を母にした第四親王がまだ童形どうぎょうで秋風楽をお舞いになったのがそれに続いての見物みものだった。この二つがよかった。あとのはもう何の舞も人の興味をかなかった。ないほうがよかったかもしれない。
  Syoukyauden no ohom-hara no Sinomiko, mada waraha nite, Siuhuuraku mahi tamahe ru nam, sasitugi no mimono nari keru. Korera ni omosirosa no tuki ni kere ba, kotogoto ni me mo utura zu, kaheri te ha kotozamasi ni ya ari kem.
1.3.7  その夜、 源氏中将、正三位したまふ。頭中将、正下の加階したまふ。上達部は、皆さるべき限りよろこびしたまふも、この君にひかれたまへるなれば、人の目をもおどろかし、心をもよろこばせたまふ、 昔の世ゆかしげなり
 その夜、源氏の中将、正三位になられる。頭中将、正四位下に昇進なさる。上達部は、皆しかるべき人々は相応の昇進をなさるのも、この君の昇進につれて恩恵を蒙りなさるので、人の目を驚かし、心をも喜ばせなさる、前世が知りたいほどである。
 今夜源氏は従三位じゅさんみから正三位に上った。頭中将は正四位下が上になった。他の高官たちにも波及して昇進するものが多いのである。当然これも源氏の恩であることを皆知っていた。この世でこんなに人を喜ばしうる源氏は前生ぜんしょうですばらしい善業ぜんごうがあったのであろう。
  Sono yo, Genzinotyuuzyau, zyauzamwi si tamahu. Tounotiuzyau, zyauge no kakai si tamahu. Kamdatime ha, mina sarubeki kagiri yorokobi si tamahu mo, kono Kimi ni hika re tamahe ru nare ba, hito no me wo mo odorokasi, kokoro wo mo yorokoba se tamahu, mukasi no yo yukasige nari.
注釈33行幸には、親王たちなど、世に残る人なく仕うまつりたまへり以下、神無月十日過ぎの朱雀院行幸の当日の物語。舞台は朱雀院。1.3.1
注釈34一日の源氏の御夕影試楽の日の源氏の夕日を浴びた姿。1.3.2
注釈35ゆゆしう思されて主語は帝。1.3.2
注釈36春宮の女御弘徽殿の女御をここでは「春宮の女御」と呼称。後宮の妃の一人というより東宮の母である妃というニュアンスを強調。1.3.2
注釈37宰相二人左衛門督右衛門督左右の楽のこと行ふ参議兼左衛門督一人と参議兼右衛門督一人の計二名が左の唐楽と右の高麗楽の指揮をおこなったものか。1.3.3
注釈38取りつつ「つつ」は同じ動作の繰り返しを表す。それぞれの家で舞の師匠を迎え取っての意。1.3.3
注釈39散り過ぎて『古典セレクション』は「散りすきて」と読み「紅葉が散って透けている意」と解す。『集成』『新大系』は「散り過ぎて」と解す。1.3.4
注釈40左大将さし替へたまふ系図不明の人物。従三位相当官、源氏は中将だからその上司。その上司がわざわざ部下の源氏のために菊を挿し替えた、ということを強調。1.3.4
注釈41入綾の横山本「いりあひ(や)の」、陽明文庫本「いりいりあひの」とある。「入綾」(舞楽の退場の際、舞う舞)を「入相」(日没)に誤る。別本の御物本も「いりあひ」と誤る。1.3.5
注釈42承香殿の御腹の四の御子まだ童にてこの巻だけに登場。桐壺帝の後宮承香殿女御の第四親王。なお第一御子は弘徽殿女御の子で春宮(のちの朱雀院)、第二御子は桐壺更衣の子の源氏、第三御子は不明、という設定。さらにいえば、その後に螢兵部卿宮、帥宮、宇治八宮、冷泉帝(第十御子)という源氏の弟たちが登場する。今、第四親王が「童」で、第十親王が妊娠中ということになる。1.3.6
注釈43かへりてはことざましにやありけむ語り手の評言。かえって興ざましであったろうかの意。1.3.6
注釈44源氏中将正三位したまふ頭中将正下の加階したまふ中将は従四位下相当官、源氏の現在の位階は不明だが、正四位下から一階を飛び越して正三位に昇進したものであろう。頭中将は従四位上から正四位下に昇進した。なお「正三位」に『古典セレクション』は「じようさむゐ」と清音の振り仮名を付ける。『集成』『新大系』は「じやうざむゐ」と連濁の振り仮名を付ける。「じょうざんみ」、また「正下」は、「じょうげ」と読む。1.3.7
注釈45昔の世ゆかしげなり前世をさす。源氏の善根を積んだ前世が知りたい、の意。1.3.7
校訂3 深山 深山--(/+み)山 1.3.4
1.4
第四段 葵の上、源氏の態度を不快に思う


1-4  Aoi is disleased for Genji's flighty behavior

1.4.1   宮は、そのころまかでたまひぬれば、例の、隙もやとうかがひありきたまふをことにて、 大殿には騒がれたまふ。いとど、 かの若草たづね取りたまひてしを、「 二条院には人迎へたまふなり 」と人の聞こえければ、いと 心づきなしと思いたり
 宮は、そのころご退出なさったので、例によって、お会いできる機会がないかと窺い回るのに夢中であったので、大殿では穏やかではいらっしゃれない。その上、あの若草をお迎えになったのを、「二条院では、女の人をお迎えになったそうだ」と、誰かが申し上げたので、まことに気に食わないとお思いになっていた。
 それがあってから藤壺の宮は宮中から実家へお帰りになった。逢う機会をとらえようとして、源氏は宮邸の訪問にばかりかかずらっていて、左大臣家の夫人もあまり訪わなかった。その上紫の姫君を迎えてからは、二条の院へ新たな人を入れたと伝えた者があって、夫人の心はいっそう恨めしかった。
  Miya ha, sonokoro makade tamahi nure ba, rei no, hima mo ya to ukagahi ariki tamahu wo koto nite, Ohoidono ni ha sawaga re tamahu. Itodo, kano Wakakusa tadune tori tamahi te si wo, "Nideunowin ni ha hito mukahe tamahu nari." to hito no kikoye kere ba, ito kokorodukinasi to oboi tari.
1.4.2  「 うちうちのありさまは知りたまはず、さも思さむはことわりなれど、心うつくしく、例の人のやうに怨みのたまはば、我もうらなくうち語りて、慰めきこえてむものを、思はずにのみとりないたまふ心づきなさに、 さもあるまじきすさびごとも出で来るぞかし。人の御ありさまの、かたほに、そのことの 飽かぬとおぼゆる疵もなし。人よりさきに見たてまつりそめてしかば、あはれにやむごとなく思ひきこゆる心をも、知りたまはぬほどこそあらめ、つひには思し直されなむ」と、「 おだしく軽々しからぬ御心のほども、おのづから」と、頼まるる方はことなりけり。
 「内々の様子はご存知なく、そのようにお思いになるのはごもっともであるが、素直で、普通の女性のように恨み言をおっしゃるのならば、自分も腹蔵なくお話して、お慰め申し上げようものを、心外なふうにばかりお取りになるのが不愉快なので、起こさなくともよい浮気沙汰まで起こるのだ。相手のご様子は、不十分で、どこが不満だと思われる欠点もない。誰よりも先に結婚した方なので、愛しく大切にお思い申している気持ちを、まだご存知ないのであろうが、いつかはお思い直されよう」と、「安心できる軽率でないご性質だから、いつかは」と、期待できる点では格別なのであった。
 真相を知らないのであるから恨んでいるのがもっともであるが、正直に普通の人のように口へ出して恨めば自分も事実を話して、自分の心持ちを説明もし慰めもできるのであるが、一人でいろいろな忖度そんたくをして恨んでいるという態度がいやで、自分はついほかの人に浮気うわきな心が寄っていくのである。とにかく完全な女で、欠点といっては何もない、だれよりもいちばん最初に結婚した妻であるから、どんなに心の中では尊重しているかしれない、それがわからない間はまだしかたがない。将来はきっと自分の思うような妻になしうるだろうと源氏は思って、その人が少しのことで源氏から離れるような軽率な行為に出ない性格であることも源氏は信じて疑わなかったのである。永久に結ばれた夫婦としてその人を思う愛にはまた特別なものがあった。
  "Utiuti no arisama ha siri tamaha zu, samo obosa m ha kotowari nare do, kokoroutukusiku, rei no hito no yau ni urami notamaha ba, ware mo uranaku uti-katari te, nagusame kikoye te m mono wo, omoha zu ni nomi tori-nai tamahu kokorodukinasa ni, samo arumaziki susabigoto mo idekuru zo kasi. Hito no ohom-arisama no, kataho ni, sono koto no aka nu to oboyuru kizu mo nasi. Hito yori saki ni mi tatematuri some te sika ba, ahare ni yamgotonaku omohi kikoyuru kokoro wo mo, siri tamaha nu hodo koso ara me, tuhini ha obosi nahosa re nam." to, "Odasiku karugarusikara nu mikokoro no hodo mo, onodukara." to, tanoma ruru kata ha koto nari keri.
注釈46宮はそのころまかでたまひぬれば藤壺の宮をさす。里邸の三条宮邸に退出。1.4.1
注釈47大殿には騒がれたまふ「れ」(自発の助動詞)、左大臣家では穏やかでにはいらっしゃれない。1.4.1
注釈48かの若草たづね取り紫の君をさす。地の文で「若草」と呼称。1.4.1
注釈49二条院には人迎へたまふなり人の噂。二条院では女の人をお迎えになったそうだの意。1.4.1
注釈50心づきなしと思いたり主語は葵の上。1.4.1
注釈51うちうちのありさまは以下「思し直されむ」まで、源氏の心内。1.4.2
注釈52さもあるまじきすさびごとも出で来るぞかし「ついよろしくない浮気沙汰も引き起すといったことになるのだ」と自己弁解めいた感想。1.4.2
注釈53おだしく軽々しからぬ御心のほどもおのづから源氏の心。葵の上の人柄を想像して、いずれは打ち解けてくれようと期待する。1.4.2
校訂4 たまふ たまふ--給へ(へ/&ふ) 1.4.1
校訂5 飽かぬと 飽かぬと--あかぬに(に/&と<朱>) 1.4.2
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渋谷栄一校訂(C)
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渋谷栄一注釈
Last updated 5/1/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-1)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)

2003年7月12日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年10月19日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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