第九帖 葵


09 AHUHI (Ohoshima-bon)


光る源氏の二十二歳春から二十三歳正月まで近衛大将時代の物語


Tale of Hikaru-Genji's Konoe-Daisho era from January at the age of 22 to January at the age of 23

3
第三章 紫の君の物語 新手枕の物語


3  Tale of Murasaki  Genji gets married to Murasaki

3.1
第一段 源氏、紫の君と新手枕を交わす


3-1  Genji gets married to Murasaki

3.1.1   二条院には、方々払ひみがきて、男女、待ちきこえたり。上臈ども皆参う上りて、我も我もと装束き、化粧じたるを見るにつけても、かのゐ並み屈じたりつるけしきどもぞ、あはれに思ひ出でられたまふ。
 二条院では、あちこち掃き立て磨き立てて、男も女も、お待ち申し上げていた。上臈の女房どもは、皆参上して、我も我もと美しく着飾り、化粧しているのを御覧になるにつけても、あの居並んで沈んでいた様子を、しみじみかわいそうに思い出されずにはいらっしゃれない。
 二条の院はどの御殿もきれいに掃除そうじができていて、男女が主人の帰りを待ちうけていた。身分のある女房も今日は皆そろって出ていた。はなやかな服装をしてきれいによそおっているこの女房たちを見た瞬間に源氏は、気をめいらせはてた女房が肩を連ねていた、左大臣家を出た時の光景が目に浮かんで、あの人たちが哀れに思われてならなかった。
  Nideu no win ni ha, katagata harahi migaki te, wotoko womna, mati kikoye tari. Zyaurau-domo mina maunobori te, ware mo ware mo to sauzoki, kesauzi taru wo miru ni tuke te mo, kano winami kunzi tari turu kesiki-domo zo, ahare ni omohiide rare tamahu.
3.1.2  御装束たてまつり替へて、西の対に渡りたまへり。衣更への御しつらひ、くもりなくあざやかに見えて、よき若人童女の、形、姿めやすくととのへて、「 少納言がもてなし、心もとなきところなう、心にくし」と見たまふ。
 お召物を着替えなさって、西の対にお渡りになった。衣更えしたご装飾も、明るくすっきりと見えて、美しい若い女房や童女などの、身なり、姿が好ましく整えてあって、「少納言の采配は、行き届かないところがなく、奥ゆかしい」と御覧になる。
 源氏は着がえをしてから西のたいへ行った。残らず冬期の装飾に変えた座敷の中がはなやかに見渡された。若い女房や童女たちの服装も皆きれいにさせてあって、少納言の計らいに敬意が表されるのであった。
  Ohom-sauzoku tatematuri kahe te, nisinotai ni watari tamahe ri. Koromogahe no ohom-siturahi, kumori naku azayaka ni miye te, yoki wakaudo warahabe no, nari, sugata meyasuku totonohe te, "Seunagon ga motenasi, kokoromotonaki tokoro nau, kokoronikusi." to mi tamahu.
3.1.3   姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。
 姫君は、とてもかわいらしく身繕いしていらっしゃる。
 紫の女王にょおうは美しいふうをしてすわっていた。
  Himegimi, ito utukusiu hiki-tukurohi te ohasu.
3.1.4  「 久しかりつるほどに、いとこよなうこそ大人びたまひにけれ」
 「久しくお目にかからなかったうちに、とても驚くほど大きくなられましたね」
 「長くおいしなかったうちに、とても大人になりましたね」
  "Hisasikari turu hodo ni, ito koyonau koso otonabi tamahi ni kere!"
3.1.5  とて、小さき御几帳ひき上げて見たてまつりたまへば、 うちそばみて笑ひたまへる 御さま、飽かぬところなし。
 と言って、小さい御几帳を引き上げて拝見なさると、横を向いて笑っていらっしゃるお姿、何とも申し分ない。
 几帳きちょうれ絹を引き上げて顔を見ようとすると、少しからだを小さくして恥ずかしそうにする様子に一点の非も打たれぬ美しさが備わっていた。
  tote, tihisaki mikityau hiki-age te mi tatematuri tamahe ba, uti-sobami te warahi tamahe ru ohom-sama, aka nu tokoro nasi.
3.1.6  「 火影の御かたはらめ、頭つきなど、 ただかの心尽くしきこゆる人に、 違ふところなくなりゆくかな
 「火影に照らされた横顔、頭の恰好など、まったく、あの心を尽くしてお慕い申し上げている方に、少しも違うところなく成長されていくことだなあ」
 に照らされた側面、頭の形などは初恋の日から今まで胸の中へ最もたいせつなものとしてしまってある人の面影と、これとは少しの違ったものでもなくなった
  "Hokage no ohom-kataharame, kasiratuki nado, tada, kano kokoro tukusi kikoyuru hito ni, tagahu tokoro naku nari yuku kana!"
3.1.7  と見たまふに、いとうれし。
 と御覧になると、とても嬉しい。
 と知ると源氏はうれしかった。
  to mi tamahu ni, ito uresi.
3.1.8  近く寄りたまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなど聞こえたまひて、
 お近くに寄りなさって、久しく会わず気がかりでいた間のことなどをお話し申し上げになって、
 そばへ寄って逢えなかった間の話など少ししてから、
  Tikaku yori tamahi te, obotukanakari turu hodo no koto-domo nado kikoye tamahi te,
3.1.9  「 日ごろの物語、のどかに聞こえまほしけれど、忌ま忌ましうおぼえはべれば、しばし他方にやすらひて、参り来む。今は、とだえなく見たてまつるべければ、厭はしうさへや思されむ」
 「最近のお話を、ゆっくりと申し上げたいが、縁起が悪く思われますので、しばらく他の部屋で休んでから、また参りましょう。今日からは、いつでもお会いできましょうから、うるさくまでお思いになるでしょう」
 「たくさん話はたまっていますから、ゆっくりと聞かせてあげたいのだけれど、私は今日までいみにこもっていた人なのだから、気味が悪いでしょう。あちらで休息することにしてまた来ましょう。もうこれからはあなたとばかりいるのだから、しまいにはあなたからうるさがられるかもしれませんよ」
  "Higoro no monogatari, nodoka ni kikoye mahosikere do, imaimasiu oboye habere ba, sibasi kotokata ni yasurahi te, mawiri ko m. Ima ha, todaye naku mi tatematuru bekere ba, itohasiu sahe ya obosa re m."
3.1.10  と、語らひきこえたまふを、少納言はうれしと聞くものから、なほ危ふく思ひきこゆ。「 やむごとなき忍び所多うかかづらひたまへれば、またわづらはしきや立ち代はりたまはむ」と思ふぞ、 憎き心なるや
 と、こまやかにお話し申し上げなさるのを、少納言は嬉しいと聞く一方で、やはり不安に思い申し上げる。「高貴なお忍びの方々が大勢いらっしゃるので、またやっかいな方が代わって現れなさるかも知れない」と思うのも、憎らしい気の廻しようであるよ。
 立ちぎわにこんなことを源氏が言っていたのを、少納言は聞いてうれしく思ったが、全然安心したのではない、りっぱな愛人の多い源氏であるから、また姫君にとっては面倒めんどうな夫人が代わりに出現するのではないかと疑っていたのである。
  to, katarahi kikoye tamahu wo, Seunagon ha uresi to kiku monokara, naho ayahuku omohi kikoyu. "Yamgotonaki sinobidokoro ohou kakadurahi tamahe re ba, mata wadurahasiki ya tati-kahari tamaha m." to omohu zo, nikuki kokoro naru ya!
3.1.11  御方に渡りたまひて、 中将の君といふ、御足など参りすさびて、大殿籠もりぬ。
 お部屋にお渡りになって、中将の君という者に、お足などを気楽に揉ませなさって、お寝みになった。
 源氏は東の対へ行って、中将という女房に足などをでさせながら寝たのである。
  Ohom-kata ni watari tamahi te, Tyuuzyaunokimi to ihu, miasi nado mawiri susabi te, ohotonogomori nu.
3.1.12  朝には、若君の 御もとに御文たてまつりたまふ。あはれなる御返りを見たまふにも、尽きせぬことどものみなむ。
 翌朝には、若君のお元にお手紙を差し上げなさる。しみじみとしたお返事を御覧になるにつけても、尽きない悲しい思いがするばかりである。
 翌朝はすぐにまた大臣家にいる子供の乳母めのとへ手紙を書いた。あちらからは哀れな返事が来て、しばらく源氏を悲しませた。
  Asita ni ha, Wakagimi no ohom-moto ni ohom-humi tatematuri tamahu. Ahare naru ohom-kaheri wo mi tamahu ni mo, tuki se nu koto-domo nomi nam.
3.1.13  いとつれづれに眺めがちなれど、何となき御歩きも、もの憂く思しなられて、思しも立たれず。
 とても所在なく物思いに耽りがちだが、何でもないお忍び歩きも億劫にお思いになって、ご決断がつかない。
 つれづれな独居生活であるが源氏は恋人たちの所へ通って行くことも気が進まなかった。
  Ito turedure ni nagamegati nare do, nani to naki ohom-ariki mo, monouku obosi nara re te, obosi mo tata re zu.
3.1.14  姫君の、何ごともあらまほしうととのひ果てて、いとめでたうのみ見えたまふを、 似げなからぬほどに、はた、見なしたまへれば、 けしきばみたることなど、折々聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬけしきなり。
 姫君が、何事につけ理想的にすっかり成長なさって、とても素晴らしくばかり見えなさるのを、もう良い年頃だと、やはり、しいて御覧になっているので、それを匂わすようなことなど、時々お試みなさるが、まったくお分りにならない様子である。
 女王がもうりっぱな一人前の貴女きじょに完成されているのを見ると、もう実質的に結婚をしてもよい時期に達しているように思えた。おりおり過去の二人の間でかわしたことのないような戯談じょうだんを言いかけても紫の君にはその意が通じなかった。
  Himegimi no, nanigoto mo aramahosiu totonohi hate te, ito medetau nomi miye tamahu wo, nigenakara nu hodo ni, hata, minasi tamahe re ba, kesikibami taru koto nado, woriwori kikoye kokoromi tamahe do, mi mo siri tamaha nu kesiki nari.
3.1.15  つれづれなるままに、ただ こなたにて碁打ち、偏つぎなどしつつ、日を暮らしたまふに、心ばへのらうらうじく愛敬づき、はかなき戯れごとのなかにも、うつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださるかたのらうたさのみはありつれ、しのびがたくなりて、 心苦しけれど、いかがありけむ人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに、男君はとく起きたまひて、女君はさらに起きたまはぬ朝あり。
 所在ないままに、ただこちらで碁を打ったり、偏継ぎしたりして、毎日お暮らしになると、気性が利発で好感がもて、ちょっとした遊びの中にもかわいらしいところをお見せになるので、念頭に置かれなかった年月は、ただそのようなかわいらしさばかりはあったが、抑えることができなくなって、気の毒だけれど、どういうことだったのだろうか、周囲の者がお見分け申せる間柄ではないのだが、男君は早くお起きになって、女君は一向にお起きにならない朝がある。
 つれづれな源氏は西の対にばかりいて、姫君と扁隠へんかくしの遊びなどをして日を暮らした。相手の姫君のすぐれた芸術的な素質と、頭のよさは源氏を多く喜ばせた。ただ肉親のように愛撫あいぶして満足ができた過去とは違って、愛すれば愛するほど加わってくる悩ましさは堪えられないものになって、心苦しい処置を源氏は取った。そうしたことの前もあとも女房たちの目には違って見えることもなかったのであるが、源氏だけは早く起きて、姫君が床を離れない朝があった。
  Turedure naru mama ni, tada konata nite go uti, hentugi nado si tutu, hi wo kurasi tamahu ni, kokorobahe no raurauziku aigyauduki, hakanaki tahaburegoto no naka ni mo, utukusiki sudi wo si ide tamahe ba, obosi hanati taru tosituki koso, tada saru kata no rautasa nomi ha ari ture, sinobi gataku nari te, kokorogurusikere do, ikaga ari kem, hito no kedime mi tatematuri waku beki ohom-naka ni mo ara nu ni, Wotokogimi ha toku oki tamahi te, Womnagimi ha sarani oki tamaha nu asita ari.
3.1.16  人びと、「 いかなれば、かくおはしますならむ。御心地の例ならず思さるるにや」と見たてまつり嘆くに、君は渡りたまふとて、御硯の箱を、御帳のうちにさし入れておはしにけり。
 女房たちは、「どうして、こうしていらっしゃるのだろうかしら。ご気分がすぐれないのだろうか」と、お見上げ申して嘆くが、君はお帰りになろうとして、お硯箱を、御帳台の内に差し入れて出て行かれた。
 女房たちは、「どうしておやすみになったままなのでしょう。御気分がお悪いのじゃないかしら」とも言って心配していた。源氏は東の対へ行く時にすずりの箱を帳台の中へそっと入れて行ったのである。
  Hitobito, "Ika nare ba, kaku ohasimasu nara m? Mikokoti no rei nara zu obosa ruru ni ya?" to mi tatematuri nageku ni, Kimi ha watari tamahu tote, ohom-suzuri no hako wo, mityau no uti ni sasi-ire te ohasi ni keri.
3.1.17  人まに からうして頭もたげたまへるに、引き結びたる文、御枕のもとにあり。何心もなく、ひき開けて見たまへば、
 人のいない間にやっと頭を上げなさると、結んだ手紙、おん枕元にある。何気なく開いて御覧になると、
 だれもそばへ出て来そうでない時に若紫は頭を上げて見ると、結んだ手紙が一つまくらの横にあった。なにげなしにあけて見ると、
  Hitoma ni karausite kasira motage tamahe ru ni, hiki-musubi taru humi, ohom-makura no moto ni ari. Nanigokoro mo naku, hiki-ake te mi tamahe ba,
3.1.18  「 あやなくも隔てけるかな夜をかさね
   さすがに馴れし夜の衣を
 「どうして長い間何でもない間柄でいたのでしょう
  幾夜も幾夜も馴れ親しんで来た仲なのに
  あやなくも隔てけるかな夜を重ね
  さすがにれし中の衣を
    "Ayanaku mo hedate keru kana yo wo kasane
    sasuga ni nare si yoru no koromo wo
3.1.19  と、書きすさびたまへるやうなり。「かかる御心おはすらむ」とは、かけても思し寄らざりしかば、
 と、お書き流しになっているようである。「このようなお心がおありだろう」とは、まったくお思いになってもみなかったので、
 と書いてあるようであった。源氏にそんな心のあることを紫の君は想像もして見なかったのである。
  to, kaki susabi tamahe ru yau nari. "Kakaru mikokoro ohasu ram." to ha, kakete mo obosi yora zari sika ba,
3.1.20  「 などてかう 心憂かりける御心を、うらなく頼もしきものに思ひきこえけむ」
 「どうしてこう嫌なお心を、疑いもせず頼もしいものとお思い申していたのだろう」
 なぜ自分はあの無法な人を信頼してきたのであろう
  "Nado te kau kokoroukari keru mikokoro wo, uranaku tanomosiki mono ni omohi kikoye kem."
3.1.21  と、あさましう思さる。
 と、悔しい思いがなさる。
 と思うと情けなくてならなかった。
  to, asamasiu obosa ru.
3.1.22  昼つかた、 渡りたまひて、
 昼ころ、お渡りになって、
 昼ごろに源氏が来て、
  Hirutukata, watari tamahi te,
3.1.23  「 悩ましげにしたまふらむは、いかなる御心地ぞ。今日は、碁も打たで、 さうざうしや
 「ご気分がお悪いそうですが、どんな具合ですか。今日は、碁も打たなくて、張り合いがないですね」
 「気分がお悪いって、どんなふうなのですか。今日は碁もいっしょに打たないで寂しいじゃありませんか」
  "Nayamasige ni si tamahu ram ha, ikanaru mikokoti zo? Kehu ha, go mo uta de, sauzausi ya!"
3.1.24  とて、覗きたまへば、いよいよ御衣ひきかづきて臥したまへり。人びとは 退きつつさぶらへば、寄りたまひて、
 と言って、お覗きになると、ますますお召物を引き被って臥せっていらっしゃる。女房たちは退いて控えているので、お側にお寄りになって、
 のぞきながら言うとますます姫君は夜着を深くかずいてしまうのである。女房が少し遠慮をして遠くへ退いて行った時に、源氏は寄り添って言った。
  tote, nozoki tamahe ba, iyoiyo ohom-zo hiki-kaduki te husi tamahe ri. Hitobito ha sirizoki tutu saburahe ba, yori tamahi te,
3.1.25  「 など、かく いぶせき御もてなしぞ。思ひのほかに 心憂くこそおはしけれな。人もいかにあやしと思ふらむ」
 「どうして、こう気づまりな態度をなさるの。意外にも冷たい方でいらっしゃいますね。皆がどうしたのかと変に思うでしょう」
 「なぜ私に心配をおさせになる。あなたは私を愛していてくれるのだと信じていたのにそうじゃなかったのですね。さあ機嫌きげんをお直しなさい、皆が不審がりますよ」
  "Nado, kaku ibuseki ohom-motenasi zo? Omohi no hoka ni kokorouku koso ohasi kere na! Hito mo ikani ayasi to omohu ram."
3.1.26  とて、御衾をひきやりたまへれば、汗におしひたして、額髪もいたう濡れたまへり。
 と言って、お衾を引き剥ぎなさると、汗でびっしょりになって、額髪もひどく濡れていらっしゃった。
 夜着をめくると、女王は汗をかいて、額髪もぐっしょりとれていた。
  tote, ohom-husuma wo hiki-yari tamahe re ba, ase ni osi-hitasi te, hitahigami mo itau nure tamahe ri.
3.1.27  「 あな、うたて。これはいとゆゆしきわざぞよ」
 「ああ、嫌な。これはとても大変なことですよ」
 「どうしたのですか、これは。たいへんだ」
  "Ana, utate! Kore ha ito yuyusiki waza zo yo."
3.1.28  とて、よろづにこしらへきこえたまへど、まことに、いとつらしと思ひたまひて、つゆの御いらへもしたまはず。
 と言って、いろいろと慰めすかし申し上げなさるが、本当に、とても辛い、とお思いになって、一言もお返事をなさらない。
 いろいろと機嫌をとっても、紫の君は心から源氏を恨めしくなっているふうで、一言もものを言わない。
  tote, yorodu ni kosirahe kikoye tamahe do, makoto ni, ito turasi to omohi tamahi te, tuyu no ohom-irahe mo si tamaha zu.
3.1.29  「 よしよし。さらに見えたてまつらじ。いと恥づかし」
 「よしよし。もう決して致しますまい。とても恥ずかしい」
 「私はもうあなたの所へは来ない。こんなに恥ずかしい目にあわせるのだから」
  "Yosi yosi. Sarani miye tatematura zi. Ito hadukasi."
3.1.30  など怨じたまひて、御硯開けて見たまへど、物もなければ、「 若の御ありさまや」と、らうたく見たてまつりたまひて、日一日、 入りゐて、慰めきこえたまへど、解けがたき御けしき、いとどらうたげなり。
 などとお怨みになって、お硯箱を開けて御覧になるが、何もないので、「なんと子供っぽいご様子か」と、かわいらしくお思い申し上げなさって、一日中、お入り居続けになって、お慰め申し上げなさるが、打ち解けないご様子、ますますかわいらしい感じである。
 源氏は恨みを言いながら硯箱をあけて見たが歌ははいっていなかった。あまりに少女おとめらしい人だと可憐かれんに思って、一日じゅうそばについていて慰めたが、打ち解けようともしない様子がいっそうこの人をかわゆく思わせた。
  nado wenzi tamahi te, ohom-suzuri ake te mi tamahe do, mono mo nakere ba, "Waka no ohom-arisama ya!" to, rautaku mi tatematuri tamahi te, hi hitohi, iri wi te, nagusame kikoye tamahe do, toke gataki mikesiki, itodo rautage nari.
注釈463二条院には源氏、二条院に帰宅す。3.1.1
注釈464少納言がもてなし、心もとなきところなう、心にくし源氏の感想。3.1.2
注釈465姫君紫の君をいう。3.1.3
注釈466久しかりつるほどに以下「大人びたまひにけれ」まで、源氏の詞。3.1.4
注釈467うちそばみて笑ひたまへる大島本「うち(ち+そ)はミて・は(は#わ)らひ給へる」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「うち側みて恥ぢらひたまへる」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。3.1.5
注釈468火影の御かたはらめ以下「なりゆくかな」まで、源氏の心中。3.1.6
注釈469かの心尽くしきこゆる人藤壺をさす。3.1.6
注釈470違ふところなくなりゆくかな『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「なくも」と「も」を補入する。『新大系』は底本のまま。『完訳』は「紫の上を藤壺の形代に思う願望が実現しつつある」と注す。3.1.6
注釈471日ごろの物語以下「思されむ」まで、源氏の詞。3.1.9
注釈472やむごとなき以下「立ち代はりたまはむ」まで、少納言の心。3.1.10
注釈473憎き心なるや語り手の批評。『評釈』は「本妻がなくなったので、その代わりの方がまたできることだろう。姫君はどうなることやらと思いめぐらす。こんな少納言の心は、作者(物語の語り手)の立場からすれば、「憎き心なるや」と評されるのである」と注す。『集成』は「草子地」と注す。『完訳』は「源氏の心を的確に捉える乳母への語り手の評言」と注す。3.1.10
注釈474中将の君といふ大島本「中将の君といふ」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「に」を補入する。『新大系』も括弧を付けて「に」を補入する。源氏づきの女房、召人。3.1.11
注釈475似げなからぬほどにはた『集成』は「(夫婦の契りを結んでも)もう似合わしくないことはないと、源氏はご覧になっているので」と注す。3.1.14
注釈476けしきばみたること『集成』は「結婚を匂わすようなこと」と注す。3.1.14
注釈477こなたにて紫の君のいる西の対をさす。3.1.15
注釈478心苦しけれど、いかがありけむ語り手の紫の君に対する同情と推測。「男君はとく起きたまひて女君は--朝あり」に掛かる。『孟津抄』は「草子地也」と指摘。『完訳』は「紫の上の無心さへの憐憫。不審がる語り手の評言を挿入。詳細を省き、「男君は--朝あり」と、二人の結婚の事実を語る」と注す。3.1.15
注釈479人のけぢめ見たてまつりわくべき御仲にもあらぬに挿入句。これまでも一緒に寝起きしていた仲であることをいう。3.1.15
注釈480いかなれば以下「思さるるにや」まで、女房の心。3.1.16
注釈481からうして『古典セレクション』は濁音「からうじて」と読む。『集成』『新大系』は清音に読む。3.1.17
注釈482あやなくも隔てけるかな夜をかさね--さすがに馴れし夜の衣を源氏の贈歌。「綾」「隔て」「重ね」「馴れ」は「衣」の縁語。肖柏本と書陵部本は「中の」。河内本と別本の陽明文庫本も「中の」とある。3.1.18
注釈483などてかう以下「思ひきこえけむ」まで、紫の君の心。3.1.20
注釈484心憂かりける御心『完訳』は「源氏のいやなお心。「ける」は、それが初めて分った、の気持」と注す。3.1.20
注釈485悩ましげに以下「さうざうしや」まで、源氏の詞。3.1.23
注釈486さうざうしや『集成』は「退屈なことだ」の意に解し、『完訳』は「つまらないな」の意に解す。3.1.23
注釈487など、かく以下「思ふらむ」まで、源氏の詞。3.1.25
注釈488いぶせき御もてなし『集成』は「何も言って下さらないのですか」の意に解す。『完訳』は「「いぶせし」は、気持がふさいで晴れない気分。私をふさぎこませる、あなたの態度だ、とする」と注し、「気まずいお仕向けをなさるのですか」の意に解す。3.1.25
注釈489あなうたてこれはいとゆゆしきわざぞ源氏の詞。『集成』は「おやいけない。こんなに汗になっては大変だ」の意に解す。3.1.27
注釈490よしよし以下「いと恥づかし」まで、源氏の詞。3.1.29
注釈491若の御ありさまや源氏の感想。『集成』は「新婚の作法も知らないものだな、と紫の上をかわいらしく思う」と注す。3.1.30
注釈492入りゐて御帳台の中に入って。3.1.30
校訂37 うちそばみ うちそばみ--うち(ち/+そ)はみ 3.1.5
校訂38 笑ひ 笑ひ--は(は/$わ)らひ 3.1.5
校訂39 ただ ただ--たし(し/$た<朱>) 3.1.6
校訂40 御もとに 御もとに--御とも(御/+も<朱>、も/$<朱>)に 3.1.12
校訂41 渡り 渡り--に(に/$わ<朱>)たり 3.1.22
校訂42 退きつつ 退きつつ--しりそきて(て/$) 3.1.24
校訂43 心憂く 心憂く--心(心/+う)く 3.1.25
3.2
第二段 結婚の儀式の夜


3-2  Ceremony in the marriaged night

3.2.1   その夜さり亥の子餅参らせたり。 かかる御思ひのほどなれば、 ことことしきさまにはあらで、こなたばかりに、をかしげなる桧破籠などばかりを、 色々にて参れるを見たまひて、君、南のかたに出でたまひて、惟光を召して、
 その晩、亥の子餅を御前に差し上げた。こうした喪中の折なので、大げさにはせずに、こちらだけに美しい桧破籠などだけを、様々な色の趣向を凝らして持参したのを御覧になって、君は、南面にお出になって、惟光を呼んで、
 その晩はの子のもちを食べる日であった。不幸のあったあとの源氏に遠慮をして、たいそうにはせず、西の対へだけ美しい檜破子詰ひわりごづめの物をいろいろに作って持って来てあった。それらを見た源氏が、南側の座敷へ来て、そこへ惟光これみつを呼んで命じた。
  Sono yosari, winokomotihi mawira se tari. Kakaru ohom-omohi no hodo nare ba, kotokotosiki sama ni ha ara de, konata bakari ni, wokasige naru hiwarigo nado bakari wo, iroiro nite mawire ru wo mi tamahi te, Kimi, minami no kata ni ide tamahi te, Koremitu wo mesi te,
3.2.2  「 この餅、かう数々に所狭きさまにはあらで、 明日の暮れに参らせよ。 今日は忌ま忌ましき日なりけり」
 「この餅を、このように数多くあふれるほどにはしないで、明日の暮れに参上させよ。今日は日柄が吉くない日であった」
 「餠をね、今晩のようにたいそうにしないでね、明日の日暮れごろに持って来てほしい。今日は吉日じゃないのだよ」
  "Kono motihi, kau kazu kazu ni tokoroseki sama ni ha ara de, asu no kure ni mawira se yo. Kehu ha imaimasiki hi nari keri."
3.2.3  と、うちほほ笑みてのたまふ御けしきを、心とき者にて、ふと思ひ寄りぬ。惟光、たしかにも承らで、
 と、ほほ笑んでおっしゃるご様子から、機転の働く者なので、ふと気がついた。惟光、詳しいことも承らずに、
 微笑しながら言っている様子で、利巧りこうな惟光はすべてを察してしまった。
  to, uti-hohowemi te notamahu mikesiki wo, kokorotoki mono nite, huto-omohi yori nu. Koremitu, tasika ni mo uketamahara de,
3.2.4  「 げに、愛敬の初めは、日選りして聞こし召すべきことにこそ。さても、 子の子はいくつか仕うまつらすべうはべらむ」
 「なるほど、おめでたいお祝いは、吉日を選んでお召し上がりになるべきでしょう。ところで子の子の餅はいくつお作り申しましょう」
 「そうでございますとも、おめでたい初めのお式は吉日を選びませんでは。それにいたしましても、今晩の亥の子でない明晩のの子餠はどれほど作ってまいったものでございましょう」
  "Geni, aigyau no hazime ha, hi eri si te kikosimesu beki koto ni koso. Sate mo, nenoko ha ikutu ka tukaumaturasu beu habera m?"
3.2.5  と、まめだちて申せば、
 と、真面目に申すので、
 まじめな顔で聞く。
  to, mamedati te mause ba,
3.2.6  「 三つが一つかにてもあらむかし
 「三分の一ぐらいでよいだろう」
 「今夜の三分の一くらい」
  "Mitu ga hitotu ka nite mo ara m kasi."
3.2.7  とのたまふに、心得果てて、立ちぬ。「 もの馴れのさまや」と君は思す。 人にも言はで、手づからといふばかり、里にてぞ、作りゐたりける。
 とおっしゃるので、すっかり呑み込んで、立ち去った。「物馴れた男よ」と、君はお思いになる。誰にも言わないで、手作りと言ったふうに実家で作っていたのだった。
 と源氏は答えた。心得たふうで惟光は立って行った。きまりを悪がらせない世馴よなれた態度が取れるものだと源氏は思った。だれにも言わずに、惟光はほとんど手ずからといってもよいほどにして、主人の結婚の三日の夜の餠の調製を家でした。
  to notamahu ni, kokoroe hate te, tati nu. "Mono-nare no sama ya!" to Kimi ha obosu. Hito ni mo iha de, tedukara to ihu bakari, sato nite zo, tukuri wi tari keru.
3.2.8  君は、こしらへわびたまひて、今はじめ盗みもて来たらむ人の心地するも、いとをかしくて、「 年ごろあはれと思ひきこえつるは、片端にもあらざりけり。 人の心こそうたてあるものはあれ。今は一夜も隔てむことのわりなかるべきこと」と思さる。
 君は、ご機嫌をとりかねなさって、今初めて盗んで来たような人の感じがするのも、とても興趣が湧いて、「数年来かわいいとお思い申していたのは、片端にも当たらないくらいだ。人の心というものは得手勝手なものだなあ。今では一晩離れるのさえ堪らない気がするに違いないことよ」とお思いになる。
 源氏は新夫人の機嫌きげんを直させるのに困って、今度はじめて盗み出して来た人を扱うほどの苦心を要すると感じることによっても源氏は興味を覚えずにいられない。人間はあさましいものである、もう自分は一夜だってこの人と別れていられようとも思えないと源氏は思うのであった。
  Kimi ha, kosirahe wabi tamahi te, ima hazime nusumi mote ki tara m hito no kokoti suru mo, ito wokasiku te, "Tosigoro ahare to omohi kikoye turu ha, katahasi ni mo ara zari keri. Hito no kokoro koso utate aru mono ha are! Ima ha hitoyo mo hedate m koto no warinakaru beki koto." to obosa ru.
3.2.9  のたまひし餅、忍びて、いたう夜更かして持て参れり。「 少納言はおとなしくて、恥づかしくや 思さむ」と、思ひやり深く心しらひて、 娘の弁といふを呼び出でて、
 お命じになった餅、こっそりと、たいそう夜が更けてから持って参った。「少納言は大人なので、恥ずかしくお思いになるだろうか」と、思慮深く配慮して、娘の弁という者を呼び出して、
 命ぜられた餠を惟光はわざわざ夜ふけになるのを待って持って来た。少納言のような年配な人に頼んではきまり悪くお思いになるだろうと、そんな思いやりもして、惟光は少納言の娘の弁という女房を呼び出した。
  Notamahi si motihi, sinobi te, itau yo hukasi te mote mawire ri. "Seunagon ha otonasiku te, hadukasiku ya obosa m?" to, omohiyari hukaku kokorosirahi te, musume no Ben to ihu wo yobi ide te,
3.2.10  「 これ、忍びて参らせたまへ
 「これをこっそりと、差し上げなさい」
 「これは
  "Kore, sinobi te mawira se tamahe."
3.2.11  とて、香壺の筥を一つ、さし入れたり。
 と言って、香壷の箱を一具、差し入れた。
 
  tote, kaugo no hako wo hitotu, sasi-ire tari.
3.2.12  「 たしかに、御枕上に参らすべき祝ひの物にはべる。あな、かしこ。あだにな」
 「確かに、お枕元に差し上げなければならない祝いの物でございます。ああ、勿体ない。あだや疎かに」
 まちがいなく御寝室のおまくらもとへ差し上げなければならない物なのですよ。お頼みします。たしかに」
  "Tasika ni, ohom-makuragami ni mawirasu beki ihahi no mono ni haberu. Ana, kasiko! Ada ni na."
3.2.13  と言へば、「あやし」と思へど、
 と言うと、「おかしいわ」と思うが、
 弁はちょっと不思議な気はしたが、
  to ihe ba, "Ayasi" to omohe do,
3.2.14  「 あだなることは、まだならはぬものを
 「浮気と言うことは、まだ知りませんのに」
 「私はまだ、いいかげんなごまかしの必要なような交渉をだれともしたことがありませんわ」
  "Ada naru koto ha, mada naraha nu mono wo."
3.2.15  とて、取れば、
 と言って、受け取ると、
 と言いながら受け取った。
  tote, tore ba,
3.2.16  「 まことに、今はさる文字忌ませたまへよ。よも混じりはべらじ」
 「本当に、今はそのような言葉はお避けなさい。決して使うことはあるまいが」
 「そうですよ、今日はそんな不誠実とか何とかいう言葉を慎まなければならなかったのですよ。私ももう縁起のいい言葉だけをって使います」
  "Makoto ni, ima ha saru mozi ima se tamahe yo. Yomo maziri habera zi."
3.2.17  と言ふ。若き人にて、けしきもえ深く思ひ寄らねば、持て参りて、御枕上の御几帳よりさし入れたるを、 君ぞ、例の聞こえ知らせたまふらむかし。
 と言う。若い女房なので、事情も深く悟らないので、持って参って、お枕元の御几帳の下から差し入れたのを、君が、例によって餅の意味をお聞かせ申し上げなさるのであろう。
 と惟光は言った。若い弁は理由のわからぬ気持ちのままで、主人の寝室のまくらもとの几帳きちょうの下から、三日の夜の餠のはいった器を中へ入れて行った。この餠の説明も新夫人に源氏が自身でしたに違いない。
  to ihu. Wakaki hito nite, kesiki mo e hukaku omohiyora ne ba, mote mawiri te, ohom-makuragami no mikityau yori sasi-ire taru wo, Kimi zo, rei no kikoye sira se tamahu ram kasi.
3.2.18   人はえ知らぬに、翌朝、この筥をまかでさせたまへるにぞ、親しき限りの人びと、思ひ合はすることどもありける。 御皿どもなど、 いつのまにかし出でけむ。花足いときよらにして、餅のさまも、ことさらび、いとをかしう調へたり。
 女房たちは知り得ずにいたが、翌朝、この箱を下げさせなさったので、側近の女房たちだけは、合点の行くことがあったのだった。お皿類なども、いつの間に準備したのだろうか。花足はとても立派で、餅の様子も、格別にとても素晴らしく仕立ててあった。  だれも何の気もつかなかったが、翌朝その餠の箱が寝室から下げられた時に、側近している女房たちにだけはうなずかれることがあった。皿などもいつ用意したかと思うほど見事な華足けそく付きであった。餠もことにきれいに作られてあった。
  Hito ha e sira nu ni, tutomete, kono hako wo makade sase tamahe ru ni zo, sitasiki kagiri no hitobito, omohi ahasuru koto-domo ari keru. Ohom-sara-domo nado, itu no ma ni ka si ide kem. Kesoku ito kiyora ni si te, motihi no sama mo, kotosarabi, ito wokasiu totonohe tari.
3.2.19  少納言は、「 いと、かうしもや」と こそ思ひきこえさせつれ、あはれにかたじけなく、思しいたらぬことなき御心ばへを、まづうち泣かれぬ。
 少納言は、「とてもまあ、これほどまでも」とお思い申し上げたが、身にしみてもったいなく、行き届かない所のない君のお心配りに、何よりもまず涙が思わずこぼれた。
 少納言は感激して泣いていた。結婚の形式を正しく踏んだ源氏の好意がうれしかったのである。
  Seunagon ha, "Ito, kau simo ya!" to koso omohi kikoye sase ture, ahare ni katazikenaku, obosi itara nu koto naki mikokorobahe wo, madu uti-naka re nu.
3.2.20  「 さても、うちうちにのたまはせよな。 かの人も、いかに思ひつらむ
 「それにしてもまあ、内々にでもおっしゃって下さればよいものを。あの人も、何と思ったのだろう」
 「それにしても私たちへそっとお言いつけになればよろしいのにね。あの人が不思議に思わなかったでしょうかね」
  "Sate mo, utiuti ni notamahase yo na! Kano hito mo, ikani omohi tu ram?"
3.2.21  と、 ささめきあへり。
 と、ひそひそ囁き合っていた。
 とささやいていた。
  to, sasameki ahe ri.
3.2.22   かくて後は、内裏にも院にも、あからさまに参りたまへるほどだに、静心なく、面影に恋しければ、「 あやしの心や」と、我ながら思さる。通ひたまひし所々よりは、うらめしげにおどろかしきこえたまひなどすれば、いとほしと思すもあれど、 新手枕の心苦しくて、「夜をや隔てむ 」と、思し わづらはるれば、いともの憂くて、悩ましげにのみ もてなしたまひて
 それから後は、内裏にも院にも、ちょっとご参内なさる折でさえ、落ち着いていられず、面影に浮かんで恋しいので、「妙な気持ちだな」と、自分でもお思いになられる。お通いになっていた方々からは、お恨み言を申し上げなさったりなどするので、気の毒だとお思いになる方もあるが、新妻がいじらしくて、「一夜たりとも間を置いたりできようか」と、つい気がかりに思わずにはいらっしゃれないので、とても億劫に思われて、悩ましそうにばかり振る舞いなさって、
 若紫と新婚後は宮中へ出たり、院へ伺候していたりする間も絶えず源氏は可憐かれんな妻の面影を心に浮かべていた。恋しくてならないのである。不思議な変化が自分の心に現われてきたと思っていた。恋人たちの所からは長い途絶えを恨めしがった手紙も来るのであるが、無関心ではいられないものもそれらの中にはあっても、新婚の快い酔いに身を置いている源氏に及ぼす力はきわめて微弱なものであったに違いない。厭世えんせい的になっているというふうを源氏は表面に作っていた。
  Kakute noti ha, Uti ni mo Win ni mo, akarasama ni mawiri tamahe ru hodo dani, sidukokoro naku, omokage ni kohisikere ba, "Ayasi no kokoro ya!" to, ware nagara obosa ru. Kayohi tamahi si tokorodokoro yori ha, uramesige ni odorokasi kikoye tamahi nado sure ba, itohosi to obosu mo are do, nihitamakura no kokorogurusiku te, "Yo wo ya hedate m?" to, obosi waduraha rure ba, ito mono-uku te, nayamasige ni nomi motenasi tamahi te,
3.2.23  「 世の中のいと憂くおぼゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき」
 「世の中がとても嫌に思えるこの時期を過ぎてから、どなたにもお目にかかりましょう」
 いつまでこんな気持ちが続くかしらぬが、今とはすっかり別人になりえた時にいたいと思う
  "Yononaka no ito uku oboyuru hodo sugusi te nam, hito ni mo miye tatematuru beki."
3.2.24  とのみいらへたまひつつ、過ぐしたまふ。
 とばかりお返事なさりなさりして、お過ごしになる。
 と、こんな返事ばかりを源氏は恋人にしていたのである。
  to nomi irahe tamahi tutu, sugusi tamahu.
3.2.25   今后は御匣殿なほこの大将にのみ心つけたまへるを、
 今后は、御匣殿がなおもこの大将にばかり心を寄せていらっしゃるのを、
 皇太后は妹の六の君がこのごろもまだ源氏の君を思っていることから父の右大臣が、
  Imagisaki ha, Mikusigedono naho kono Daisyau ni nomi kokorotuke tamahe ru wo,
3.2.26  「 げにはた、かくやむごとなかりつる方も失せたまひぬめるを、 さてもあらむに、などか口惜しからむ」
 「なるほどやはり、あのように重々しかった方もお亡くなりになったようだから、そうなったとしても、どうして残念なことがあろうか」
 「それもいい縁のようだ、正夫人がくなられたのだから、あの方も改めて婿にすることは家の不名誉では決してない」
  "Geni hata, kaku yamgotonakari turu kata mo use tamahi nu meru wo, satemo ara m ni, nadoka kutiwosikara m."
3.2.27  など、大臣のたまふに、「 いと憎し」と、思ひきこえたまひて、
 などと、大臣はおっしゃるが、「とても憎い」と、お思い申し上げになって、
 と言っているのに憤慨しておいでになった。
  nado, Otodo notamahu ni, "Ito nikusi" to, omohi kikoye tamahi te,
3.2.28  「 宮仕へもをさをさしくだにしなしたまへらば、などか悪しからむ」
 「宮仕えを、重々しくお勤め続けなさるだけでも、どうして悪いことがあろうか」
 「宮仕えだって、だんだん地位が上がっていけば悪いことは少しもないのです」
"Miyadukahe mo, wosawosasiku dani si nasi tamahe ra ba, nadoka asikara m?"
3.2.29  と、参らせたてまつらむことを思しはげむ。
 と、ご入内おさせ申すことを熱心に画策なさる。
 こう言って宮廷入りをしきりに促しておいでになった。
  to, mawira se tatematura m koto wo obosi hagemu.
3.2.30  君も、おしなべてのさまにはおぼえざりしを、 口惜しとは思せど、ただ今はことざまに分くる御心もなくて、
 君も、並々の方とは思っていらっしゃらなかったが、残念だとはお思いになるが、目下は他の女性にお心を分ける間もなくて、
 そのうわさの耳にはいる源氏は、並み並みの恋愛以上のものをその人に持っていたのであるから、残念な気もしたが、現在では紫の女王のほかに分ける心が見いだせない源氏であって、六の君が運命に従って行くのもしかたがない。
  Kimi mo, osinabe te no sama ni ha oboye zari si wo, kutiwosi to ha obose do, tadaima ha kotozama ni wakuru mikokoro mo naku te,
3.2.31  「 何かは、かばかり短かめる世に。かくて思ひ定まりなむ。人の怨みも負ふまじかりけり
 「どうしてこんなに短い一生なのに。このまま落ち着くことしよう。人の恨みも負べきでないことだ」
 短い人生なのだから、最も愛する一人を妻に定めて満足すべきである。恨みを買うような原因を少しでも作らないでおきたい
  "Nanikaha, kabakari mizika' meru yo ni. Kakute omohi sadamari na m. Hito no urami mo ohu mazikari keri."
3.2.32  と、 いとど 危ふく思し懲りにたり
 と、ますます案じられお懲りになっていらっしゃった。
 と、こう思っていた。
  to, itodo ayahuku obosi kori ni tari.
3.2.33  「 かの御息所は、いといとほしけれど、まことのよるべと頼みきこえむには、かならず心おかれぬべし。年ごろのやうにて見過ぐしたまはば、さるべき折ふしにもの聞こえあはする人にてはあらむ」など、さすがに、ことのほかには思し放たず。
 「あの御息所は、とてもお気の毒だが、生涯の伴侶としてお頼り申し上げるには、きっと気の置けることだろう。今までのように大目に見て下さるならば、適当な折々に何かとお話しを交わす相手として相応しいだろう」などと、そう言っても、見限ってしまおうとはなさらない。
 六条の御息所みやすどころと先夫人の葛藤かっとうが源氏を懲りさせたともいえることであった。御息所の立場には同情されるが、同棲どうせいして精神的の融和がそこに見いだせるかは疑問である。これまでのような関係に満足していてくれれば、高等な趣味の友として自分は愛することができるであろうと源氏は思っているのである。これきり別れてしまう心はさすがになかった。
  "Kano Miyasumdokoro ha, ito itohosikere do, makoto no yorube to tanomi kikoye m ni ha, kanarazu kokorooka re nu besi. Tosigoro no yau nite misugusi tamaha ba, sarubeki worihusi ni mono kikoye ahasuru hito nite ha ara m." nado, sasugani, koto no hoka ni ha obosi hanata zu.
3.2.34  「 この姫君を、今まで世人もその人とも知りきこえぬも、物げなきやうなり。父宮に知らせきこえてむ」と、思ほしなりて、御裳着のこと、人にあまねくはのたまはねど、なべてならぬさまに思しまうくる御用意など、いとありがたけれど、女君は、こよなう疎みきこえたまひて、「 年ごろよろづに頼みきこえて、まつはしきこえけるこそ、あさましき心なりけれ」と、悔しうのみ思して、さやかにも見合はせたてまつりたまはず、聞こえ戯れたまふも、 苦しうわりなきものに思しむすぼほれて、ありしにもあらずなりたまへる御ありさまを、をかしうもいとほしうも思されて、
 「この姫君を、今まで世間の人も誰とも存じ上げないのも、身分がないようだ。父宮にお知らせ申そう」と、お考えになって、御裳着のお祝い、人に広くお知らせにはならないが、並々でなく立派にご準備なさるお心づかいなど、いかにも類のないくらいだが、女君は、すっかりお疎み申されて、「今まで万事ご信頼申して、おまつわり申し上げていたのは、我ながら浅はかな考えであったわ」と、悔しくばかりお思いになって、はっきりとも顔をお見合わせ申し上げようとはなさらず、ご冗談を申し上げになっても、苦しくやりきれない気持ちにお思い沈んで、以前とはすっかり変わられたご様子を、かわいらしくもいじらしくもお思いになって、
 二条の院の姫君が何人なにびとであるかを世間がまだ知らないことは、実質を疑わせることであるから、父宮への発表を急がなければならないと源氏は思って、裳着もぎの式の用意を自身の従属関係になっている役人たちにも命じてさせていた。こうした好意も紫の君はうれしくなかった。純粋な信頼を裏切られたのは自分の認識が不足だったのであると悔やんでいるのである。目も見合わないようにして源氏を避けていた。戯談じょうだんを言いかけられたりすることは苦しくてならぬふうである。鬱々うつうつと物思わしそうにばかりして以前とはすっかり変わった夫人の様子を源氏は美しいこととも、可憐なこととも思っていた。
  "Kono Himegimi wo, ima made yohito mo sono hito to mo siri kikoye nu mo, monogenaki yau nari. Titimiya ni sirase kikoye te m." to, omohosi nari te, ohom-mogi no koto, hito ni amaneku ha notamaha ne do, nabete nara nu sama ni obosi-maukuru ohom-youi nado, ito arigatakere do, Womnagimi ha, koyonau utomi kikoye tamahi te, "Tosigoro yorodu ni tanomi kikoye te, matuhasi kikoye keru koso, asamasiki kokoro nari kere!" to, kuyasiu nomi obosi te, sayaka ni mo mi ahase tatematuri tamaha zu, kikoye tahabure tamahu mo, kurusiu warinaki mono ni obosi-musubohore te, arisi ni mo ara zu nari tamahe ru ohom-arisama wo, wokasiu mo itohosiu mo obosa re te,
3.2.35  「年ごろ、思ひきこえし本意なく、 馴れはまさらぬ御けしきの、心憂きこと」と、怨みきこえたまふほどに、 年も返りぬ
 「今まで、お愛し申してきた甲斐もなく、打ち解けて下さらないお心が、辛いこと」と、お恨み申していられるうちに、年も改まった。
 「長い間どんなにあなたを愛して来たかもしれないのに、あなたのほうはもう私がきらいになったというようにしますね。それでは私がかわいそうじゃありませんか」恨みらしく言ってみることもあった。こうして今年が暮れ、新しい春になった。
  "Tosigoro, omohi kikoye si ho'i naku, nare ha masara nu mikesiki no, kokorouki koto." to, urami kikoye tamahu hodo ni, tosi mo kaheri nu.
注釈493その夜さり新婚二日目の夜をさす。3.2.1
注釈494亥の子餅陰暦十月の最初の亥の日亥の刻に、無病息災と子孫繁栄を祝って食べる餅。したがって、今、十月最初の亥の日の夜。紫の君との新枕の昨夜は戌の日の夜。3.2.1
注釈495かかる御思ひのほど喪中であることをさす。3.2.1
注釈496ことことしき『古典セレクション』は濁音「ことごとしき」と読む。『集成』『新大系』は清音に読む。3.2.1
注釈497色々にて「亥の子餅」は、大豆・小豆・ささげ・胡麻・栗・柿・糖の七種類の粉で作るという。3.2.1
注釈498この餅以下「忌ま忌ましき日なりけり」まで、源氏の詞。3.2.2
注釈499明日の暮れ明日の夜は新婚三日目の夜に当たり、「三日夜の餅」を食べる風習。この餅は、白一色で作るという。3.2.2
注釈500今日は忌ま忌ましき日陰陽道では、亥の日と巳の日を「重日」(じゅうにち)といい、事をなせば百事重なるといって忌んだ。3.2.2
注釈501げに愛敬の初めは以下「すべうはべらむ」まで、惟光の詞。3.2.4
注釈502子の子当座の機知で、今夜が「亥(ゐ)の子(こ)」だから、明日の夜を「子(ね)の子(こ)」といったもの。3.2.4
注釈503三つが一つかにてもあらむかし大島本「ミつかひとつかにても」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「三つが一つにても」と「か」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。源氏の返事。三分の一程度でよいの意。3.2.6
注釈504もの馴れのさまや源氏の感想。3.2.7
注釈505人にも言はで主語は惟光。3.2.7
注釈506年ごろあはれと以下「わりなかるべきこと」まで、源氏の心中。3.2.8
注釈507人の心こそうたてあるものはあれ『完訳』は「紫の上と契ってはじめて抱く感動から、移ろいやすいのが人間の心であると、一般化した表現」と注す。3.2.8
注釈508少納言は以下「思さむ」まで、惟光の心中。3.2.9
注釈509思さむ「思す」(「思ふ」の尊敬語)の主語は紫の君。「む」(推量の助動詞)は惟光の推量。3.2.9
注釈510娘の弁といふを少納言の娘。3.2.9
注釈511これ忍びて参らせたまへ惟光の詞。3.2.10
注釈512たしかに御枕上に以下「あだにな」まで、惟光の詞。3.2.12
注釈513あだなることはまだならはぬものを弁の詞。『集成』は「あだ・浮気なんてことはまだ知りませんのに。惟光の用いた同じ言葉を別の意味に生かして、言い返したもの。女房の応答によくある例」と注す。3.2.14
注釈514まことに以下「よも混じりはべらじ」まで、惟光の詞。3.2.16
注釈515君ぞ例の聞こえ知らせたまふらむ「らむ」(推量の助動詞、視界外推量)は語り手の推測。『集成』は「草子地」と注す。『完訳』は「語り手の推量で、詳細を省く」と注す。3.2.17
注釈516人はえ知らぬに女房をさす。3.2.18
注釈517いつのまにかし出でけむ「けむ」(過去推量の助動詞)、語り手の推量。挿入句。3.2.18
注釈518いとかうしもや少納言の心。『集成』は「とてもこうまで(三日の夜の餅の儀式を行うほど)正式な扱いをしては下さるまいとお思い申していたのに」の意に解す。『完訳』は「以下、源氏の想外なまでの寵遇に対する、驚きに満ちた感動」と注す。3.2.19
注釈519こそ思ひきこえさせつれ「こそ--つれ」(係結び)は逆接用法。3.2.19
注釈520さてもうちうちに以下「いかに思ひつらむ」まで、女房たちの囁き。『完訳』は「さしおかれた不満」と注す。3.2.20
注釈521かの人もいかに思ひつらむ惟光をさす。『完訳』は「気の利かない女房と見られていないかと思う」と注す。3.2.20
注釈522かくて後は紫の君と結婚の後。3.2.22
注釈523あやしの心や源氏の自省。3.2.22
注釈524新手枕の心苦しくて、「夜をや隔てむ」『奥入』は「若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎からなくに」(古今六帖一、夜隔てる)を指摘。3.2.22
注釈525わづらはるれば「るれ」(自発の助動詞)、思わずにはいられないの意。3.2.22
注釈526もてなしたまひて『完訳』は「お見せかけになり」の意に解す。3.2.22
注釈527世の中の以下「見えたてまつるべき」まで、源氏の返事。要旨であろう。3.2.23
注釈528今后は弘徽殿大后。御代替わりにともなって皇太后となったので「今后」と呼称。文脈は「いとにくしと思きこえたまひて」に続く。3.2.25
注釈529御匣殿弘徽殿大后の妹六の君(朧月夜)。御匣殿に任官。初見記事。3.2.25
注釈530げにはた、かくやむごとなかりつる方も以下「などか口惜しからむ」まで、右大臣の詞。「げに」は「さてもあらむに」にかかる。3.2.26
注釈531さてもあらむ六の君が葵の上の死後に源氏の正妻になることをさす。3.2.26
注釈532いと憎し弘徽殿大后の心中。3.2.27
注釈533宮仕へも以下「などか悪しからむ」まで、弘徽殿大后の詞。3.2.28
注釈534をさをさしくだにしなしたまへらば『集成』は「(御匣殿の別当としての)宮仕えでも、立派にさえお勤めなさるなら」の意に解す。『完訳』は「宮仕えでも重々しい地位にさえなれば」の意に解す。
【しなしたまへらば】−「ら」(完了の助動詞、存続)。お勤め続けていらしたら、というニュアンス。
3.2.28
注釈535口惜しとは思せど源氏の心。朧月夜の君が御匣殿になったことをさす。3.2.30
注釈536何かは、かばかり 短かめる世に。かくて思ひ定まりなむ。人の怨みも負ふまじかりけり大島本「みし△ゝ(△ゝ#か<朱>)め(め=覧歟)世に」とある。『集成』『古典セレクション』『新大系』は諸本に従って「短(みじか)かめる世に」と校訂する。源氏の思念。『集成』は「浮気してみたところで何になろう。葵の上が若くて逝ったように、長くもない人生なのだから。このまま紫の上を妻と決めよう、女の怨みを負うのもつまらないことだった」の意に解す。『完訳』は「なんの、これでよいではないか。さほど永くもない人生なのだから。自分は今のままで落ち着くことにしよう。女の恨みを受けてはならないのだ」の意に解す。3.2.31
注釈537いとど『完訳』は「御息所の生霊事件を念頭においた感懐。次に「かの御息所は--」と続くゆえん」と注す。3.2.32
注釈538危ふく思し懲りにたり『完訳』は「ひとしお臆病になり、こりごりのお気持になっていらっしゃるのであった」の意に解す。3.2.32
注釈539かの御息所は以下「人にはあらむ」まで、源氏の心中。六条御息所のような人は生涯の伴侶とするには息苦しい、互いに風流を解する愛人関係ならよいという考え。3.2.33
注釈540この姫君を以下「知らせきこえてむ」まで、源氏の心。3.2.34
注釈541年ごろよろづに以下「心なりけれ」まで、紫の君の心。3.2.34
注釈542苦しう『古典セレクション』は諸本に従って「いと苦しう」と副詞「いと」を補入する。『集成』『新大系』は底本のまま。3.2.34
注釈543年ごろ以下「心憂きこと」まで、源氏の詞。その要旨。3.2.34
注釈544馴れはまさらぬ『源氏釈』は「み狩する雁場の小野の楢柴の馴れはまさらで恋こそまされ」(万葉集巻十二、三〇四八)を指摘。3.2.35
注釈545年も返りぬ源氏、二十三歳となる。3.2.35
出典20 夜をや隔てむ 若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎からなくに 古今六帖五-二七四九 3.2.22
出典21 馴れはまさらぬ御けしきの み狩する雁羽の小野の楢柴の馴れはまさらで恋ひぞまされる 新古今集恋一-一〇五〇 柿本人麿 3.2.35
校訂44 御皿 御皿--御さえ(え/$ら<朱>) 3.2.18
校訂45 ささめき ささめき--さら(ら/$さ<朱>)めき 3.2.21
校訂46 短かめる 短かめる--*みし△め(し/+か<朱>) 3.2.31
3.3
第三段 新年の参賀と左大臣邸へ挨拶回り


3-3  New Year greeting to Court and Sadaijin's residence

3.3.1   朔日の日は、例の、院に参りたまひてぞ、内裏、春宮などにも参りたまふ。 それより大殿にまかでたまへり。大臣、新しき年ともいはず、 昔の御ことども 聞こえ出でたまひて、さうざうしく悲しと思すに、いとどかくさへ渡りたまへるにつけて、念じ返したまへど、堪へがたう思したり。
 元日には、例年のように、院に参賀なさってから、内裏、春宮などにも参賀に上がられる。そこから大殿に退出なさった。大臣、新年の祝いもせず、故人の事柄をお話し出しなさって、物寂しく悲しいと思っていられるところに、ますますこのようにまでお越しになられたのにつけても、気を強くお持ちになるが、堪えきれず悲しくお思いになった。
 元日には院の御所へ先に伺候してから参内をして、東宮の御殿へも参賀にまわった。そして御所からすぐに左大臣家へ源氏は行った。大臣は元日も家にこもっていて、家族と故人の話をし出しては寂しがるばかりであったが、源氏の訪問にあって、しいて、悲しみをおさえようとするのがさも堪えがたそうに見えた。
  Tuitati no hi ha, rei no, Win ni mawiri tamahi te zo, Uti, Touguu nado ni mo mawiri tamahu. Sore yori Ohotono ni makade tamahe ri. Otodo, atarasiki tosi to mo iha zu, mukasi no ohom-koto-domo kikoye ide tamahi te, sauzausiku kanasi to obosu ni, itodo kaku sahe watari tamahe ru ni tuke te, nenzi kahesi tamahe do, tahe gatau obosi tari.
3.3.2   御年の加はるけにや、ものものしきけさへ添ひたまひて、ありしよりけに、きよらに見えたまふ。立ち出でて、 御方に入りたまへれば、人びともめづらしう見たてまつりて、忍びあへず。
 お年をとられたせいか、堂々たる風格までがお加わりになって、以前よりもことに、お綺麗にお見えになる。立ち上がって出られて、故人のお部屋にお入りになると、女房たちも珍しく拝見申し上げて、悲しみを堪えることができない。
 重ねた一歳は源氏の美に重々しさを添えたと大臣家の人は見た。以前にもまさってきれいでもあった。大臣の前を辞して昔の住居すまいのほうへ行くと、女房たちは珍しがって皆源氏を見に集まって来たが、だれも皆つい涙をこぼしてしまうのであった。
  Ohom-tosi no kuhaha ru ke ni ya, monomonosiki ke sahe sohi tamahi te, arisi yori keni, kiyora ni miye tamahu. Tati-ide te, ohom-kata ni iri tamahe re ba, hitobito mo medurasiu mi tatematuri te, sinobi ahe zu.
3.3.3  若君見たてまつりたまへば、こよなうおよすけて、笑ひがちにおはするも、 あはれなり。まみ、口つき、ただ春宮の御同じさまなれば、「 人もこそ見たてまつりとがむれ」と見たまふ。
 若君を拝見なさると、すっかり大きく成長して、にこにこしていらっしゃるのも、しみじみと胸を打つ。目もと、口つきは、まったく春宮と同じご様子でいらっしゃるので、「人が見て不審にお思い申すかも知れない」と御覧になる。
 若君を見るとしばらくのうちに驚くほど大きくなっていて、よく笑うのも哀れであった。目つき口もとが東宮にそっくりであるから、これを人が怪しまないであろうかと源氏は見入っていた。
  Wakagimi mi tatematuri tamahe ba, koyonau oyosuke te, warahi-gati ni ohasuru mo, ahare nari. Mami, kutituki, tada Touguu no ohom-onazi sama nare ba, "Hito mo koso mi tatematuri togamure." to mi tamahu.
3.3.4  御しつらひなども変はらず、御衣掛の御装束など、例のやうに し掛けられたるに、女のが並ばぬこそ、 栄なくさうざうしく栄なけれ
 お部屋の装飾なども昔に変わらず、御衣掛のご装束なども、いつものようにして掛けてあるが、女のご装束が並んでないのが、見栄えがしないで寂しい。
 夫人のいたころと同じように初春の部屋が装飾してあった。衣服掛けのさおに新調された源氏の春着が掛けられてあったが、女の服が並んで掛けられてないことは見た目だけにも寂しい。
  Ohom-siturahi nado mo kahara zu, mizokake no ohom-sauzoku nado, rei no yau ni si kake rare taru ni, Womna no ga naraba nu koso, haye naku sauzausiku haye nakere.
3.3.5  宮の御消息にて、
 宮からのご挨拶として、
  宮様の挨拶あいさつを女房が取り次いで来た。
  Miya no ohom-seusoko nite,
3.3.6  「 今日は、いみじく思ひたまへ忍ぶるを、かく渡らせたまへるになむ、なかなか」
 「今日は、たいそう堪えておりますが、このようにお越し下さいましたので、かえって」
 「今日だけはどうしても昔を忘れていなければならないと辛抱しんぼうしているのですが、御訪問くださいましたことでかえってその努力がむだになってしまいました」
  "Kehu ha, imiziku omohi tamahe sinoburu wo, kaku watara se tamahe ru ni nam, nakanaka."
3.3.7  など聞こえたまひて、
 などとお申し上げになって、
 それから、また、
  nado kikoye tamahi te,
3.3.8  「 昔にならひはべりにける御よそひも、月ごろは、いとど涙に霧りふたがりて、色あひなく御覧ぜられはべらむと思ひたまふれど、今日ばかりは、なほ やつれさせたまへ
 「今まで通りの習わしで新調しましたご衣装も、ここ幾月は、ますます涙に霞んで、色合いも映えなく御覧になられましょうかと存じますが、今日だけは、やはり粗末な物ですが、お召し下さいませ」
 「昔からこちらで作らせますお召し物も、あれからのちは涙で私の視力も曖昧あいまいなんですから不出来にばかりなりましたが、今日だけはこんなものでもお着かえくださいませ」
  "Mukasi ni narahi haberi ni keru ohom-yosohi mo, tukigoro ha, itodo namida ni kiri hutagari te, iroahi naku goranze rare habera m to omohi tamahure do, kehu bakari ha, naho yature sase tamahe."
3.3.9  とて、いみじくし尽くしたまへるものども、また重ねてたてまつれたまへり。かならず今日たてまつるべき、と思しける御下襲は、色も織りざまも、世の常ならず、心ことなるを、 かひなくやはとて、着替へたまふ。 来ざらましかば、口惜しう思さましと、心苦し。 御返りに
 と言って、たいそう丹精こめてお作りになったご衣装類、またさらに差し上げになさった。必ず今日お召しになるように、とお考えになった御下襲は、色合いも織り方も、この世の物とは思われず、格別な品物なので、ご厚意を無にしてはと思って、お召し替えになる。来なかったら、さぞかし残念にお思いであったろう、とおいたわしい。お返事には、
 と言って、掛けてある物のほかに、非常に凝った美しい衣裳いしょうそろいが贈られた。当然今日の着料になる物としてお作らせになった下襲したがさねは、色も織り方も普通の品ではなかった。着ねば力をお落としになるであろうと思って源氏はすぐに下襲をそれに変えた。もし自分が来なかったら失望あそばしたであろうと思うと心苦しくてならないものがあった。お返辞の挨拶は、
  tote, imiziku si tukusi tamahe ru mono-domo, mata kasane te tatemature tamahe ri. Kanarazu kehu tatematuru beki, to obosi keru ohom-sitagasane ha, iro mo orizama mo, yo no tune nara zu, kokoro koto naru wo, kahinaku yaha tote, kigahe tamahu. Ko zara masika ba, kutiwosiu obosa masi to, kokorogurusi. Ohom-kaheri ni,
3.3.10  「 春や来ぬるとも、まづ御覧ぜられになむ、参りはべりつれど、思ひたまへ出でらるること多くて、え聞こえさせはべらず。
 「春が来たかとも、まずは御覧になっていただくつもりで、参上致しましたが、思い出さずにはいられない事柄が多くて、十分に申し上げられません。
 「春の参りましたしるしに、当然参るべき私がお目にかかりに出たのですが、あまりにいろいろなことが思い出されまして、お話を伺いに上がれません。
  "Haru ya ki nuru to mo, madu goranze rare ni nam, mawiri haberi ture do, omohi tamahe ide raruru koto ohoku te, e kikoye sase habera zu.
3.3.11    あまた年今日改めし色衣
   着ては涙ぞふる心地する
  何年来も元日毎に参っては着替えをしてきた晴着だが
  それを着ると今日は涙がこぼれる思いがする
  あまたとし今日改めし色ごろも
  きては涙ぞ降るここちする
    Amata tosi kehu aratame si irogoromo
    ki te ha namida zo huru kokoti suru
3.3.12  えこそ思ひたまへしづめね」
 どうしても抑えることができません」
 自分をおさえる力もないのでございます」
  e koso omohi tamahe sidume ne."
3.3.13  と聞こえたまへり。御返り、
 と、お申し上げなさった。お返歌は、
 と取り次がせた。宮から、
  to kikoye tamahe ri. Ohom-kaheri,
3.3.14  「 新しき年ともいはずふるものは
   ふりぬる人の涙なりけり
 「新年になったとは申しても降りそそぐものは
  老母の涙でございます
  新しき年ともいはず降るものは
  ふりぬる人の涙なりけり
    "Atarasiki tosi to mo iha zu huru mono ha
    huri nuru hito no namida nari keri
3.3.15   おろかなるべきことにぞあらぬや
 並々な悲しみではないのですよ。
 という御返歌があった。どんなにお悲しかったことであろう。
  Oroka naru beki koto ni zo ara nu ya.
注釈546朔日の日は例の院に参りたまひて妻の服喪は三ケ月。源氏は昨年十一月半ばに除服している。3.3.1
注釈547それより大殿に春宮御所から左大臣邸へ。3.3.1
注釈548昔の御ことども亡き娘の葵の上の御事。3.3.1
注釈549聞こえ出でたまひて左大臣が大宮に。『完訳』は「源氏来邸の前までのこと」と注す。3.3.1
注釈550御年の加はるけにや源氏についていう。3.3.2
注釈551御方に入りたまへれば葵の上の部屋をさす。3.3.2
注釈552あはれなり『完訳』は「明るく無邪気な表情が、源氏に、母のない子の悲しみを惹起」と注す。3.3.3
注釈553人もこそ見たてまつりとがむれ源氏の心中。『完訳』は「「もこそ」は懸念の語法。藤壺との秘事を気どられては大変、の気持」と注す。3.3.3
注釈554し掛けられ『完訳』は「「られ」は自発と解される。その有様がいかにも自然なものとして受け取られる趣」と注す。3.3.4
注釈555栄なくさうざうしく栄なけれ大島本「はへなくさう/\しけれ(けれ$く<朱>)はへなけれ」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「はえなくさうざうしけれ」と後出の「はへなし」を削除する。『新大系』は底本のまま「はへなくさうざうしくはへなけれ」とする。3.3.4
注釈556今日はいみじく以下「なかなか」まで、大宮の消息。「なかなな」は、かえって涙が催される、の意。3.3.6
注釈557昔にならひはべりにける以下「やつれさせたまへ」まで、大宮の消息。3.3.8
注釈558やつれさせたまへ謙辞。粗末な物ですがお召し下さいの意。『完訳』は「「色あひなく」に照応し、喪の悲しみをこめた表現」と注す。3.3.8
注釈559かひなくやは底本「は」補入。源氏の心。「やは」は反語。3.3.9
注釈560来ざらましかば、口惜しう思さまし源氏の心。「ましかば--まし」は反実仮想。3.3.9
注釈561御返りに『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御返りには」と「は」を補入する。『新大系』は底本のまま。3.3.9
注釈562春や来ぬるとも以下「思ひたまへしづめね」まで、源氏の文。『源氏釈』は「新しく明くる今年を百年の春や来ぬると鴬ぞ鳴く」(出典未詳)を指摘。3.3.10
注釈563あまた年今日改めし色衣--着ては涙ぞふる心地する源氏の贈歌。「きて」は「来て」と「着て」、「ふる」は「降る」と「古る」との掛詞。3.3.11
注釈564新しき年ともいはずふるものは--ふりぬる人の涙なりけり大宮の返歌。贈歌中の「年」「涙」「ふる」の語句を用いて返す。「ふる」に「降る」と「古る」とを掛ける。3.3.14
注釈565おろかなるべきことにぞあらぬや語り手の評言。『林逸抄』は「双紙の詞也」と指摘。『集成』は「(どなたのお悲しみも)並々なことであるはずはないのです。草子地」と注す。『完訳』は「並一通りの悲しみでないとする語り手の評言。贈答歌への感想であるとともに、悲嘆の物語を語りおさめる言辞でもある」と注す。3.3.15
出典22 春や来ぬるとも 新しく明くる年をば百年の春の初めと鴬ぞ鳴く 古今六帖一-一六 3.3.10
Last updated 5/16/2009(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 5/16/2009(ver.2-1)
渋谷栄一注釈
Last updated 5/6/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)

2003年7月12日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年10月22日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
このページは再編集プログラムによって2015/1/12に出力されました。
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