第十三帖 明石


13 AKASI (Ohoshima-bon)


光る源氏の二十七歳春から二十八歳秋まで、明石の浦の別れと政界復帰の物語


Tale of Hikaru-Genji's parting and comeback, from March at the age of 27 to in fall at the age of 28

1
第一章 光る源氏の物語 須磨の嵐と神の導きの物語


1  Tale of Hikaru-Genji  A storm in Suma and Sumiyoshi-no-Kami's lead

1.1
第一段 須磨の嵐続く


1-1  Storm goes on in Suma

1.1.1   なほ雨風やまず、雷鳴り静まらで、日ごろになりぬ。いとどものわびしきこと、数知らず、来し方行く先、悲しき御ありさまに、心強うしもえ思しなさず、「 いかにせましかかりとて、都に帰らむことも、まだ世に許されもなくては、人笑はれなることこそまさらめ。 なほ、これより深き山を求めてや、あと絶えなまし」と思すにも、「 波風に騒がれて など、人の言ひ伝へむこと、後の世まで、いと 軽々しき名や流し果てむ」と思し乱る。
 依然として雨風が止まず、雷も鳴り静まらないで、数日がたった。ますます心細いこと、数限りなく、過去も未来も、悲しいお身の上で、気強くもお考えになることもできず、「どうしよう。こうだからといって、都に帰るようなことも、まだ赦免がなくては、物笑いになることが増そう。やはり、ここより深い山を求めて、姿をくらましてしまおうか」とお思いになるにつけても、「波風に脅かされてなど、人が言い伝えるようなこと、後世にまで、たいそう軽率な浮名を流してしまうことになろう」とお迷いになる。
 まだ雨風はやまないし、雷鳴が始終することも同じで幾日かたった。今は極度にわびしい須磨すまの人たちであった。今日までのことも明日からのことも心細いことばかりで、源氏も冷静にはしていられなかった。どうすればいいであろう、京へ帰ることもまだ免職になったままで本官に復したわけでもなんでもないのであるから見苦しい結果を生むことになるであろうし、まだもっと深い山のほうへはいってしまうことも波風に威嚇いかくされて恐怖した行為だと人に見られ、後世に誤られることも堪えられないことであるからと源氏は煩悶はんもんしていた。
  Naho ame kaze yama zu, Kami nari sidumara de, higoro ni nari nu. Itodo mono-wabisiki koto, kazu sira zu, kisikata yukusaki, kanasiki ohom-arisama ni, kokoroduyou simo e obosi nasa zu, "Ikani se masi? Kakari tote, miyako ni kahera m koto mo, mada yo ni yurusa re mo naku te ha, hitowarahare naru koto koso masara me. Naho, kore yori hukaki yama wo motome te ya, ato taye na masi." to obosu ni mo, "Nami kaze ni sawaga re te nado, hito no ihitutahe m koto, notinoyo made, ito karogarosiki na ya nagasi hate m." to obosi midaru.
1.1.2   夢にも、ただ同じさまなる物のみ 来つつ、まつはしきこゆと見たまふ。 雲間なくて、明け暮るる日数に添へて、京の方もいとどおぼつかなく、「 かくながら身をはふらかしつるにや」と、心細う思せど、頭 さし出づべくもあらぬ空の乱れに、出で立ち参る 人もなし
 夢にも、まるで同じ恰好をした物ばかりが現れては現れて、お引き寄せ申すと御覧になる。雲の晴れ間もなくて、明け暮らす日数が過ぎていくと、京の方面もますます気がかりになって、「こうしたまま身を滅ぼしてしまうのだろうか」と、心細くお思いになるが、頭をさし出すこともできない空の荒れ具合に、やって参る者もいない。
 このごろの夢は怪しい者が来て誘おうとする初めの夜に見たのと同じ夢ばかりであった。幾日も雲の切れ目がないような空ばかりをながめて暮らしていると京のことも気がかりになって、自分という者はこうした心細い中で死んで行くのかと源氏は思われるのであるが、首だけでも外へ出すことのできない天気であったから京へ使いの出しようもない。
  Yume ni mo, tada onazi sama naru mono nomi ki tutu, matuhasi kikoyu to mi tamahu. Kumoma naku te, ake kururu hikazu ni sohe te, Kyau no kata mo itodo obotukanaku, "Kaku nagara mi wo hahurakasi turu ni ya?" to, kokorobosou obose do, kasira sasi-idu beku mo ara nu sora no midare ni, idetati mawiru hito mo nasi.
1.1.3   二条院よりぞ、あながちにあやしき姿にて、そほち参れる。 道かひにてだに、人か何ぞとだに 御覧じわくべくもあらず、まづ 追ひ払ひつべき賤の男の、 むつましうあはれに思さるるも我ながらかたじけなく、屈しにける心のほど思ひ知らる。御文に、
 二条院から、無理をしてみすぼらしい姿で、ずぶ濡れになって参ったのだ。道ですれ違っても、人か何物かとさえ御覧じ分けられない、早速追い払ってしまうにちがいない賤しい男を、慕わしくしみじみとお感じになるのも、自分ながらももったいなくも、卑屈になってしまった心の程を思わずにはいられない。お手紙に、
 二条の院のほうからその中を人が来た。ねずみになった使いである。雨具で何重にも身を固めているから、途中で行き逢っても人間か何かわからぬ形をした、まず奇怪な者として追い払わなければならない下侍に親しみを感じる点だけでも、自分はみじめな者になったと源氏はみずから思われた。夫人の手紙は、
  Nideunowin yori zo, anagati ni ayasiki sugata nite, sohoti mawire ru. Mitikahi nite dani, hito ka nani zo to dani goranzi waku beku mo ara zu, madu ohiharahi tu beki sidunowo no, mutumasiu ahare ni obosa ruru mo, ware nagara katazikenaku, ku'si ni keru kokoro no hodo omohi sira ru. Ohom-humi ni,
1.1.4  「 あさましくを止みなきころのけしきに、いとど 空さへ閉づる心地して、眺めやる 方なくなむ
 「驚くほどの止むことのない日頃の天気に、ますます空までが塞がってしまう心地がして、心の晴らしようがなく、
 申しようのない長雨は空までもなくしてしまうのではないかという気がしまして須磨の方角をながめることもできません。
  "Asamasiku woyami naki koro no kesiki ni, itodo sora sahe toduru kokoti si te, nagame yaru kata naku nam.
1.1.5    浦風やいかに吹くらむ思ひやる
   袖うち濡らし波間なきころ
  須磨の浦ではどんなに激しく風が吹いていることでしょう
  心配で袖を涙で濡らしている今日このごろです
 浦風やいかに吹くらん思ひやる
 そでうち濡らし波間なきころ
    Urakaze ya ikani huku ram omohiyaru
    sode uti-nurasi namima naki koro
1.1.6  あはれに悲しきことども書き集めたまへり。 いとど汀まさりぬべく 、かきくらす心地したまふ。
 しみじみとした悲しい気持ちがいっぱい書き連ねてある。ますます涙があふれてしまいそうで、まっ暗になる気がなさる。
 というような身にしむことが数々書かれてある。開封した時からもう源氏の涙は潮時しおどきが来たような勢いで、内からき上がってくる気がしたものであった。
  Ahare ni kanasiki koto-domo kaki atume tamahe ri. Itodo migiha masari nu beku, kaki-kurasu kokoti si tamahu.
1.1.7  「 京にも、この雨風あやしき物のさとしなり とて、 仁王会など行はるべしなむ聞こえはべりし。内裏に参りたまふ上達部なども、すべて道閉ぢて、政事も 絶えてなむはべる
 「京でも、この雨風は、不思議な天の啓示であると言って、仁王会などを催す予定だと噂していました。宮中に参内なさる上達部なども、まったく道路が塞がって、政道も途絶えております」
 「京でもこの雨風は天変だと申して、なんらかを暗示するものだと解釈しておられるようでございます。仁王会にんおうえを宮中であそばすようなことも承っております。大官方が参内さんだいもできないのでございますから、政治も雨風のために中止の形でございます」
  "Kyau ni mo, kono ame kaze, ayasiki mononosatosi nari tote, Ninwauwe nado okonaha ru besi to nam kikoye haberi si. Uti ni mawiri tamahu Kamdatime nado mo, subete miti todi te, maturigoto mo taye te nam haberu."
1.1.8  など、はかばかしうもあらず、かたくなしう語りなせど、京の方のことと思せばいぶかしうて、 御前に召し出でて、問はせたまふ
 などと、はきはきともせず、たどたどしく話すが、京のこととお思いになると知りたくて、御前に召し出して、お尋ねあそばす。
 こんな話を、はかばかしくもなく下士級の頭で理解しているだけのことを言うのであるが、京のことに無関心でありえない源氏は、居間の近くへその男を呼び出していろいろな質問をしてみた。
  nado, hakabakasiu mo ara zu, katakunasiu katari nase do, Kyau no kata no koto to obose ba ibukasiu te, omahe ni mesi ide te, toha se tamahu.
1.1.9  「ただ、例の雨のを止みなく降りて、 風は時々吹き出でて 、日ごろになりはべるを、例ならぬことに 驚きはべるなり。いとかく、地の底徹るばかりの氷降り、雷の静まらぬことは はべらざりき
 「ただ、例によって雨が小止みなく降って、風は時々吹き出して、数日来になりますのを、ただ事でないと驚いているのです。まことにこのように、地の底に通るほどの雹が降り、雷の静まらないことはございませんでした」
 「ただ例のような雨が少しの絶え間もなく降っておりまして、その中に風も時々吹き出すというような日が幾日も続くのでございますから、それで皆様の御心配が始まったものだと存じます。今度のように地の底までも通るような荒いひょうが降ったり、雷鳴の静まらないことはこれまでにないことでございます」
  "Tada, rei no ame no woyami naku huri te, kaze ha tokidoki huki ide te, higoro ni nari haberu wo, rei nara nu koto ni odoroki haberu nari. Ito kaku, ti no soko tohoru bakari no hi huri, ikaduti no sidumara nu koto ha habera zari ki."
1.1.10  など、いみじきさまに驚き懼ぢてをる顔のいとからきにも、 心細さまさりける
 などと、大変な様子で驚き脅えて畏まっている顔がとてもつらそうなのにつけても、心細さがつのるのだった。
 などと言う男の表情にも深刻な恐怖の色の見えるのも源氏をより心細くさせた。
  nado, imiziki sama ni odoroki wodi te woru kaho no ito karaki ni mo, kokorobososa masari keru.
注釈1なほ雨風やまず「須磨」巻末の三月上巳の日の暴風雨を直接受けた語り出し。『河海抄』は『尚書』金縢篇の周公旦の故事を指摘。1.1.1
注釈2いかにせまし以下「あと絶えなまし」まで、源氏の心中。長徳二年(九六六)藤原伊周が大宰帥に左遷されて播磨国に留まっていたが、許可なく密かに上京したことが露顕して、遂に大宰府に流された例がある。1.1.1
注釈3かかりとて風雨雷鳴の脅威をさす。1.1.1
注釈4なほこれより完訳「「なほ」は、今までも考えてきた意」と注す。1.1.1
注釈5波風に騒がれて以下「流し果てむ」まで、源氏の心中。1.1.1
注釈6軽々しき名や流し果てむ大島本は「名や」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「名をや」と「を」を補訂する。「流し果つ」複合語。「や」(係助詞、疑問)「む」(推量の助動詞、推量)係結び、強調のニュアンス。1.1.1
注釈7夢にもただ同じさまなる物のみ大島本は「夢」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御夢」と「御」を補訂する。「須磨」巻の源氏の夢に現れた異形の物をいう。1.1.2
注釈8来つつ「つつ」接続助詞、反復の意。異形の物が繰り返し現れた。1.1.2
注釈9雲間なくて大島本は「雲まなくて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「雲間もなくて」と「も」を補訂する。1.1.2
注釈10かくながら身をはふらかしつるにや源氏の心中。「つる」完了の助動詞、確述。「に」断定の助動詞。「や」(疑問の終助詞)。〜してしまうのであろうかのニュアンス。1.1.2
注釈11さし出づべくもあらぬ「べく」推量の助動詞、可能。「も」(係助詞、強調)。1.1.2
注釈12人もなし「も」(係助詞、強調)。1.1.2
注釈13二条院よりぞ「ぞ」(係助詞)「そほち参れる」、係結び、強調。1.1.3
注釈14道かひにてだに--御覧じわくべくもあらず「だに」副助詞、下に打消や反語の表現を伴って、述語の表す動作・状態に対して、例外的、逆接的な事物、事態であることを示す。「べく」推量の助動詞、可能。「も」係助詞、強調。道ですれちがってでさえも--まったくお見分けになれないの意。主語は源氏。1.1.3
注釈15追ひ払ひつべき「つ」完了の助動詞、確述。「べき」推量の助動詞、当然。当然追い返してしまうにちがいないのニュアンス。1.1.3
注釈16むつましうあはれに思さるるも源氏の心中を叙述。「るる」自発の助動詞。「も」係助詞、一例を挙げて他を暗示する。自然そのような気持ちになるにつけても。1.1.3
注釈17我ながらかたじけなく屈しにける心のほど思ひ知らる源氏の心中を叙述。『完訳』は「高貴な自分がこんな下々の者にまで親しみを感ずるとは、という気持」「源氏の気持をそのまま地の文として書いているので、「思ひ知らる」と敬語がない」と注す。1.1.3
注釈18あさましくを止みなきころの以下「波間なきころ」まで、紫君の文。1.1.4
注釈19空さへ『完訳』は「胸の中はもちろん、空までも」と注す。1.1.4
注釈20方なくなむ「なむ」係助詞、結びの省略。言いさした形、余情表現。1.1.4
注釈21浦風やいかに吹くらむ思ひやる--袖うち濡らし波間なきころ紫君の独詠歌。「浦風」「波間」は縁語。「らむ」推量の助動詞、視界外推量。紫君が都から須磨の浦の源氏を思いやるニュアンス。1.1.5
注釈22いとど汀まさりぬべく大島本は「ひきあくるより(ひきあくるより$<朱墨>)いとゝみきはまさりぬへく」とあり「ひきあくるより」を墨筆と朱筆でミセケチにする。『新大系』は底本に従って「ひきあくる」を削除する。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「ひきあくる」を生かした本文とする。「君惜しむ涙落ち添ひこの川の汀まさりて流るべらなり」(古今六帖・別れ)による。「ぬ」完了の助動詞、確述。「べく」推量の助動詞、推量。涙があふれてしまいそうにの意。1.1.6
注釈23京にもこの雨風以下「絶えてなむはべる」まで、使者の詞。1.1.7
注釈24あやしき物のさとしなり大島本は「いと(いと$<朱墨>)あやしき物のさとしなり」とあり「いと」を墨筆と朱筆でミセケチにする。『新大系』は底本に従って「いと」を削除する。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「いと」を生かした本文とする。「なり」は断定の助動詞。1.1.7
注釈25仁王会など行はるべし国家鎮護・七難即滅のために「仁王護国般若経」を宮中で講じる。これは春秋の臨時の仁王会以外の特に行われるもの。「る」(受身の助動詞)「べし」(推量の助動詞)、行われる予定であるの意。1.1.7
注釈26なむ聞こえはべりし「なむ」係助詞。「し」過去の助動詞。係結び、強調。1.1.7
注釈27絶えてなむはべる「なむ」係助詞。「侍る」丁寧語。係結び。強調のニュアンス。1.1.7
注釈28御前に召し出でて問はせたまふ「せ」尊敬の助動詞。「たまふ」尊敬の補助動詞。二重敬語。身分の差異を表現したもの。1.1.8
注釈29風は時々吹き出でて大島本は「風ハ時/\吹いて(て+て)つゝ(つゝ$)」と「て」を補訂し「つゝ」をミセケチにする。『新大系』は底本の訂正に従って「吹き出でて」とする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「吹き出でつつ」とする。1.1.9
注釈30驚きはべるなり「なり」断定の助動詞。1.1.9
注釈31はべらざりき「き」過去の助動詞。自ら体験したことがないというニュアンス。1.1.9
注釈32心細さまさりける主語は供人たち。大島本は「心ほそさまさりける」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「心細さぞ」と係助詞「ぞ」を補訂する。1.1.10
校訂1 騒がれて 騒がれて--さはかさ(さ/$<朱>)れて 1.1.1
校訂2 いとど いとど--(ひきあくるより/$<朱>)いとど 1.1.6
校訂3 あやしき あやしき--(いと/$<朱>)あやしき 1.1.7
校訂4 吹き出でて 吹き出でて--吹いてつゝ(て/+て、つゝ/$) 1.1.9
1.2
第二段 光る源氏の祈り


1-2  Hikaru-Genji's prayer for Sumiyoshi-no-Kami

1.2.1  「 かくしつつ世は尽きぬべきにや」と 思さるるに、そのまたの日の暁より、風いみじう吹き、潮高う満ちて、波の音荒きこと、巌も山も残るまじきけしきなり。雷の鳴りひらめくさま、さらに言はむ方なくて、「 落ちかかりぬ」とおぼゆるに、 ある限りさかしき人なし。
 「こうしながらこの世は滅びてしまうのであろうか」と思わずにはいらっしゃれないでいると、その翌日の明け方から、風が激しく吹き、潮が高く満ちきて、波の音の荒々しいこと、巌も山をも無くしてしまいそうである。雷の鳴りひらめく様子、さらに言いようがなくて、「そら、落ちてきた」と思われると、その場に居合わせた者でしっかりした人はいない。
 こんなことでこの世は滅んでいくのでないかと源氏は思っていたが、その翌日からまた大風が吹いて、海潮が満ち、高く立つ波の音は岩も山もくずしてしまうように響いた。雷鳴と電光のさすことのはげしくなったことは想像もできないほどである。この家へ雷が落ちそうにも近く鳴った。もう理智りちで物を見る人もなくなっていた。
  "Kaku si tutu yo ha tuki nu beki ni ya?" to obosa ruru ni, sono mata no hi no akatuki yori, kaze imiziu huki, siho takau miti te, nami no oto araki koto, ihaho mo yama mo nokoru maziki kesiki nari. Kami no nari hirameku sama, sarani ihamkatanaku te, "Oti kakari nu." to oboyuru ni, aru kagiri sakasiki hito nasi.
1.2.2  「 我はいかなる罪を犯して、かく悲しき目を 見るらむ父母にもあひ見ず、かなしき 妻子の顔をも見で、 死ぬべきこと
 「自分はどのような罪を犯して、このような悲しい憂き目に遭うのだろう。父母にも互いに顔を見ず、いとしい妻や子どもにも会えずに、死なねばならぬとは」
 「私はどんな罪を前生で犯してこうした悲しい目にうのだろう。親たちにも逢えずかわいい妻子の顔も見ずに死なねばならぬとは」
  "Ware ha ikanaru tumi wo wokasi te, kaku kanasiki me wo miru ram? Titi haha ni mo ahi mi zu, kanasiki meko no kaho wo mo mi de, sinu beki koto."
1.2.3  と嘆く。君は御心を静めて、「 何ばかりのあやまちにてか 、この渚に命をば極めむ」と、強う思しなせど、いともの騒がしければ、色々の 幣帛ささげさせたまひて
と嘆く。君は、お心を静めて、「どれほどの過失によって、この海辺に命を落とすというのか」と、気を強くお持ちになるが、ひどく脅え騒いでいるので、色とりどりの幣帛を奉らせなさって、
 こんなふうに言って歎く者がある。源氏は心を静めて、自分にはこの寂しい海辺で命を落とさねばならぬ罪業ざいごうはないわけであると自信するのであるが、ともかくも異常である天候のためにはいろいろの幣帛へいはくを神にささげて祈るほかがなかった。
  to nageku. Kimi ha mikokoro wo sidume te, "Nani bakari no ayamati nite ka, kono nagisa ni inoti wo ba kihame m." to, tuyou obosi nase do, ito mono-sawagasi kere ba, iroiro no mitegura sasage sase tamahi te,
1.2.4  「 住吉の神、近き境を鎮め守りたまふ。まことに迹を垂れたまふ神ならば、助けたまへ」
 「住吉の神、この近辺一帯をご鎮護なさる。真に現世に迹を現しなさる神ならば、我らを助けたまえ」
 「住吉すみよしの神、この付近の悪天候をおしずめください。真実垂跡すいじゃくの神でおいでになるのでしたら慈悲そのものであなたはいらっしゃるはずですから」
  "Sumiyosi-no-Kami, tikaki sakahi wo sidume mamori tamahu. Makoto ni ato wo tare tamahu Kami nara ba, tasuke tamahe!"
1.2.5  と、多くの大願を立てたまふ。おのおのみづからの命をば、さるものにて、かかる御身のまたなき例に 沈みたまひぬべきことの いみじう悲しき、心を起こして、すこしものおぼゆる限りは、「 身に代へてこの御身一つを救ひたてまつらむ」と、 とよみて、諸声に仏、神を念じたてまつる。
 と、数多くの大願を立てなさる。各自めいめいの命は、それはそれとして、このような方がまたとない例にお命を落としてしまいそうなことがひどく悲しい、心を奮い起こして、わずかに気を確かに持っている者は皆、「わが身に代えて、この御身ひとつをお救い申し上げよう」と、大声を上げて、声を合わせて仏、神をお祈り申し上げる。
 と源氏は言って多くの大願を立てた。惟光これみつ良清よしきよらは、自身たちの命はともかくも源氏のような人が未曾有みぞうな不幸に終わってしまうことが大きな悲しみであることから、気を引き立てて、少し人心地ひとごこちのする者は皆命に代えて源氏を救おうと一所懸命になった。彼らは声を合わせて仏神に祈るのであった。
  to, ohoku no daigwan wo tate tamahu. Onoono midukara no inoti wo ba, saru mono nite, kakaru ohom-mi no mata naki rei ni sidumi tamahi nu beki koto no imiziu kanasiki, kokoro wo okosi te, sukosi mono oboyuru kagiri ha, "Mi ni kahe te kono ohom-mi hitotu wo sukuhi tatematura m." to, toyomi te, morogowe ni Hotoke, Kami wo nenzi tatematuru.
1.2.6  「 帝王の深き宮に 養はれたまひて、いろいろの楽しみにおごりたまひしかど、 深き御慈しみ、大八洲にあまねく、沈める輩をこそ多く浮かべたまひしか。今、 何の報いにか、ここら横様なる波風には 溺ほれたまはむ。天地、ことわりたまへ。 罪なくて罪に当たり、官、位を取られ、家を離れ、境を去りて、明け暮れ安き空なく、 嘆きたまふに、かく 悲しき目をさへ 命尽きなむとするは、前の世の報いか、 この世の犯しか、神、仏、明らかにましまさば、この愁へやすめたまへ」
 「帝王の、深宮に育てられなさって、さまざまな楽しみをほしいままになさったが、深い御仁徳は、大八洲にあまねく、沈淪していた人々を数多く浮かび上がらせなさった。今、何の報いによってか、こんなに非道な波風に溺れ死ななければならないのか。天地の神々よ、ご判断ください。罪なくして罪に当たり、官職、爵位を剥奪され、家を離れ、都を去って、日夜お心の安まる時なく、お嘆きになっていらっしゃる上に、このような悲しい憂き目にまで遭い、命を失ってしまいそうになるのは、前世からの報いか、この世での犯しによるのかと、神、仏、確かにいらっしゃるならば、この災いをお鎮めください」
 「帝王の深宮に育ちたまい、もろもろの歓楽におごりたまいしが、絶大の愛を心に持ちたまい、慈悲をあまねく日本国じゅうにれたまい、不幸なる者を救いたまえること数を知らず、今何の報いにて風波のにえとなりたまわん。この理を明らかにさせたまえ。罪なくして罪に当たり、官位を剥奪はくだつされ、家を離れ、故郷を捨て、朝暮歎きに沈淪ちんりんしたもう。今またかかる悲しみを見て命の尽きなんとするは何事によるか、前生の報いか、この世の犯しか、神、仏、明らかにましまさばこのうれいをやすめたまえ」
  "Teiwau no hukaki miya ni yasinaha re tamahi te, iroiro no tanosimi ni ogori tamahi sika do, hukaki ohom-utukusimi, Ohoyasima ni amaneku, sidume ru tomogara wo koso ohoku ukabe tamahi sika. Ima, nani no mukuyi ni ka, kokora yokosama naru nami kaze ni ha obohore tamaha m? Ametuti, kotowari tamahe. Tumi naku te tumi ni atari, tukasa, kurawi wo tora re, ihe wo hanare, sakahi wo sari te, akekure yasuki sora naku, nageki tamahu ni, kaku kanasiki me wo sahe mi, inoti tuki na m to suru ha, sakinoyo no mukuyi ka, konoyo no wokasi ka, Kami, Hotoke, akiraka ni masimasa ba, kono urehe yasume tamahe."
1.2.7   と、御社の方に向きて、さまざまの願を立てたまふ。
 と、お社の方を向いて、さまざまな願を立てなさる。
 住吉すみよし御社みやしろのほうへ向いてこう叫ぶ人々はさまざまの願を立てた。
  to, Miyasiro no kata ni muki te, samazama no gwan wo tate tamahu.
1.2.8  また、 海の中の龍王、よろづの神たちに願を 立てさせたまふにいよいよ鳴りとどろきておはしますに続きたる廊に 落ちかかりぬ。炎燃え上がりて、廊は焼けぬ。心魂なくて、ある限り惑ふ。 後の方なる 大炊殿とおぼしき屋に 移したてまつりて、上下となく立ち込みて、いとらうがはしく泣きとよむ声、雷にも劣らず。空は墨をすりたるやうにて、 日も暮れにけり
 また、海の中の龍王、八百万の神々に願をお立てさせになると、ますます雷が鳴り轟いて、いらっしゃるご座所に続いている廊に落ちてきた。炎が燃え上がって、廊は焼けてしまった。生きた心地もせず、皆が皆あわてふためく。後方にある大炊殿とおぼしい建物にお移し申して、上下なく人々が入り込んで、ひどく騒がしく泣き叫ぶ声、雷鳴にも負けない。空は黒墨を擦ったようで、日も暮れてしまった。
 また竜王りゅうおうをはじめ大海の諸神にも源氏は願を立てた。いよいよ雷鳴ははげしくとどろいて源氏の居間に続いた廊へ落雷した。火が燃え上がって廊は焼けていく。人々は心もきもも皆失ったようになっていた。後ろのほうのくりやその他に使っている建物のほうへ源氏を移転させ、上下の者が皆いっしょにいて泣く声は一つの大きな音響を作って雷鳴にも劣らないのである。空は墨をったように黒くなって日も暮れた。
  Mata, umi no naka no Riuwau, yorodu no Kami-tati ni gwan wo tate sase tamahu ni, iyoiyo nari todoroki te, ohasimasu ni tuduki taru rau ni oti kakari nu. Honoho moye agari te, rau ha yake nu. Kokorotamasihi naku te, aru kagiri madohu. Usiro no kata naru ohohidono to obosiki ya ni utusi tatematuri te, kami simo to naku tati-komi te, ito raugahasiku naki toyomu kowe, ikaduti ni mo otora zu. Sora ha sumi wo suri taru yau nite, hi mo kure ni keri.
注釈33かくしつつ世は尽きぬべきにや源氏の思念。「ぬ」完了の助動詞、確述。「べき」推量の助動詞、推量。「に」断定の助動詞。「や」終助詞、疑問。きっと滅びてしまうのであろうかの意。1.2.1
注釈34思さるるに「るる」自発の助動詞。「に」接続助詞、順接。1.2.1
注釈35落ちかかりぬ「ぬ」完了の助動詞、完了。『完訳』は「落ちかかってきた」と訳す。1.2.1
注釈36ある限りその場にい合わせる者みな、の意。1.2.1
注釈37我はいかなる罪を以下「死ぬべきこと」まで、供人の詞。1.2.2
注釈38見るらむ「らむ」推量の助動詞、原因推量。どうして酷い目に遭うのであろうかの意。1.2.2
注釈39父母にも--妻子の顔をも「も」副助詞、最初は強調と次は類例の意。1.2.2
注釈40死ぬべきこと「べき」推量の助動詞、当然。死なねばならないこと、の意。1.2.2
注釈41何ばかりのあやまちにてか以下「命をば極めむ」まで、源氏の心中。悲運の不当を訴える。「か」(係助詞、疑問)--「極め」「む」推量の助動詞。反語表現。命を落とそうか、そのようなことはけっしてない、の意。『完訳』は「源氏の無実の主張」と注す。1.2.3
注釈42幣帛ささげさせたまひて「させ」使役の助動詞。「たまひ」尊敬の補助動詞。供人をして幣帛を奉らせなさる。1.2.3
注釈43住吉の神以下「助けたまへ」まで、源氏の祈りの詞。神は一定の地域を支配するという神道思想と神は仏の垂迹であるという本地垂迹思想とが見られる。『完訳』は「神が畏怖の対象であっても、仏の垂迹であるなら助けてくれるはず、の意」と注す。1.2.4
注釈44沈みたまひぬべきことの「ぬ」完了の助動詞、確述。「べき」推量の助動詞。「の」格助詞、主格。命を落としてしまいそうな事が、の意。1.2.5
注釈45いみじう悲しき大島本は「かなしき」とある。青表紙諸本「かなしきに」。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「に」を補訂する。「に」接続助詞、原因・理由。悲しいので、の意。1.2.5
注釈46身に代へてこの御身一つを救ひたてまつらむ供人の心中。「たてまつら」謙譲の補助動詞、源氏に対する敬意。「む」推量の助動詞、意志。お救い申そうの意。1.2.5
注釈47とよみて下の「念じたてまつる」に掛かる。1.2.5
注釈48帝王の深き宮に以下「この愁へやすめたまへ」まで、供人の祈りと訴えの詞。ただし、後半「かく悲しき」あたりから源氏の詞に変わっている。1.2.6
注釈49養はれたまひて「れ」受身の助動詞。「たまひ」尊敬の補助動詞。育てられなさっての意。源氏の仁徳と身の潔白を訴える。1.2.6
注釈50深き御慈しみ源氏の御仁徳。1.2.6
注釈51何の報いにか--溺ほれたまはむ「か」(係助詞、疑問)--「む」(推量の助動詞)、係結び、反語表現。なんで波風に溺れ死ななければならないのか、そんなことがあってよいはずがないというニュアンス。1.2.6
注釈52罪なくて罪に当たり『完訳』は「以下、源氏への敬語が不統一。「罪なくて--嘆きたまふに」を地の文とする説、また「かく悲しき--やすめたまへ」を源氏の言葉とする説などもある」と指摘。初め、供人たちが唱え、途中から源氏も一緒に唱え出した。1.2.6
注釈53嘆きたまふに「に」接続助詞、添加の意。1.2.6
注釈54悲しき目をさへ「さへ」副助詞、添加の意。1.2.6
注釈55命尽きなむと「な」完了の助動詞、確述。「む」推量の助動詞。命が尽きてしまいそうになるというニュアンス。1.2.6
注釈56この世の犯しか大島本は「此世のをかしか」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「この世の犯しかと」と「と」を補訂する。1.2.6
注釈57と御社の方に向きて『集成』は「次に「立てたまふ」と敬語があるから主語は源氏。前の祈願の言葉、後半は敬語がなく源氏自身の言葉のように読める。源氏もともに和した趣であろうか」と注す。1.2.7
注釈58海の中の龍王『集成』は「仏経における異類。嵐をその所為かとも見ている」と注す。1.2.8
注釈59立てさせたまふに「させ」使役の助動詞。「たまふ」尊敬の補助動詞。「に」接続助詞、順接。願をお立てさせなさると。1.2.8
注釈60いよいよ鳴りとどろきて『完訳』は「神々の感応とみられる」と注す。1.2.8
注釈61おはしますに「に」格助詞、体言「所」「寝殿」などの語句が省略されている。1.2.8
注釈62落ちかかりぬ「ぬ」完了の助動詞、確述。雷が落ちてきた。『完訳』は「無実の罪のまま死んで雷となり寝殿を焼いたという、菅原道真の伝説も投影しているか」と注す。1.2.8
注釈63後の方なる「なる」断定の助動詞、存在。後方にある。1.2.8
注釈64大炊殿とおぼしき屋に「おぼしき」(形容詞)は、語り手の想像を交えた臨場感ある表現。大炊殿らしい家屋に。1.2.8
注釈65移したてまつりて「たてまつり」(謙譲の補助動詞)、源氏の君をお移し申し上げて。1.2.8
注釈66日も暮れにけり「に」(完了の助動詞)「けり」(過去の助動詞)。日も暮れてしまったのであるというニュアンス。1.2.8
校訂5 あやまちにて あやまちにて--あやまち(ち/+に)て 1.2.3
校訂6 見--(/+み) 1.2.6
1.3
第三段 嵐収まる


1-3  Storm stops

1.3.1  やうやう風なほり、雨の脚しめり、星の光も 見ゆるにこの御座所のいとめづらかなるも、いと かたじけなくて、寝殿に 返し移したてまつらむとするに
 だんだん風が弱まり、雨脚が衰え、星の光も見えるので、このご座所もひどく見慣れないのも、まことに恐れ多いので、寝殿にお戻りいただこうとするが、
 そのうち風が穏やかになり、雨が小降りになって星の光も見えてきた。そうなるとこの人々は源氏の居場所があまりにもったいなく思われて、寝殿のほうへ席を移そうとしたが、
  Yauyau kaze nahori, amenoasi simeri, hosi no hikari mo miyuru ni, kono omasidokoro no ito meduraka naru mo, ito katazikenaku te, sinden ni kahesi utusi tatematura m to suru ni,
1.3.2  「 焼け残りたる方も疎ましげに、 そこらの人の踏みとどろかし惑へるに、御簾などもみな 吹き散らしてけり
 「焼け残った所も気味が悪く、おおぜいの人々が踏み荒らした上に、御簾などもみな吹き飛んでしまった」
 そこも焼け残った建物がすさまじく見え、座敷は多数の人間が逃げまわった時に踏みしだかれてあるし、御簾みすなども皆風に吹き落とされていた。
  "Yake nokori taru kata mo utomasige ni, sokora no hito no humi todorokasi madohe ru ni, misu nado mo mina huki tirasi te keri."
1.3.3  「 夜を明してこそは
 「夜を明かしてからは」
 今夜夜通しに
  "Yo wo akasi te koso ha."
1.3.4  と たどりあへるに、君は 御念誦したまひて思しめぐらすに、いと心あわたたし。
 とあれこれしている間に、君は御念誦を唱えながら、いろいろお考えめぐらしになるが、気持ちが落ち着かない。
 後始末あとしまつをしてからのことに決めて、皆がそんなことに奔走している時、源氏は心経しんぎょうを唱えながら、静かに考えてみるとあわただしい一日であった。
  to tadori ahe ru ni, Kimi ha ohom-nenzu si tamahi te, obosi megurasu ni, ito kokoro awatatasi.
1.3.5  月さし出でて、潮の近く満ち来ける跡もあらはに、名残なほ寄せ返る波荒きを、柴の戸押し開けて、眺めおはします。近き世界に、ものの心を知り、来し方行く先のことうちおぼえ、 とやかくやとはかばかしう悟る人もなし。あやしき海人どもなどの、貴き人おはする所とて、集り参りて、 聞きも知りたまはぬことどもを さへづりあへるも、いとめづらかなれど、 え追ひも払はず
 月が出て、潮が近くまで満ちてきた跡がはっきりと分かり、その後も依然として寄せては返す波の荒いのを、柴の戸を押し開けて、物思いに耽りながら眺めていらっしゃる。この界隈には、ものの道理をわきまえ、過去将来のことを判断して、あれこれとはっきりと理解する者もいない。賤しい海人どもなどが、高貴な方のいらっしゃるところといって、集まって参って、お聞きになっても分からないようなことがらをぺちゃくちゃしゃべり合っているのも、ひどく珍しいことであるが、追い払うこともできない。
 月が出てきて海潮の寄せた跡があらわにながめられる。遠く退いてもまだ寄せ返しするなみの荒い海べのほうを戸をあけて源氏はながめていた。今日までのこと明日からのことを意識していて、対策を講じ合うに足るような人は近い世界に絶無であると源氏は感じた。漁村の住民たちが貴人の居所を気にかけて、集まって来て訳のわからぬ言葉でしゃべり合っているのも礼儀のないことであるが、それを追い払う者すらない。
  Tuki sasi-ide te, siho no tikaku miti ki keru ato mo araha ni, nagori naho yose kaheru nami araki wo, siba no to osiake te, nagame ohasimasu. Tikaki sekai ni, mono no kokoro wo siri, kisikata yukusaki no koto uti-oboye, toya kakuya to hakabakasiu satoru hito mo nasi. Ayasiki ama-domo nado no, takaki hito ohasuru tokoro tote, atumari mawiri te, kiki mo siri tamaha nu koto-domo wo saheduri ahe ru mo, ito meduraka nare do, e ohi mo haraha zu.
1.3.6  「 この風、今しばし止まざらましかば、潮上りて残る所なからまし。神の助けおろかならざりけり」
 「この風が、今しばらく止まなかったら、潮が上がって来て、残るところなく攫われてしまったことでしょう。神のご加護は大変なものであった」
 「あの大風がもうしばらくやまなかったら、潮はもっと遠くへまで上って、この辺なども形を残していまい。やはり神様のお助けじゃ」
  "Kono kaze, ima sibasi yama zara masika ba, siho nobori te nokoru tokoro nakara masi. Kami no tasuke oroka nara zari keri."
1.3.7  と言ふを 聞きたまふもいと心細しといへばおろかなり
 と言うのをお聞きになるのも、とても心細いといったのでは言い足りないくらいである。
 こんなことの言われているのも聞く身にとっては非常に心細いことであった。
  to ihu wo kiki tamahu mo, ito kokorobososi to ihe ba oroka nari.
1.3.8  「 海にます神の助けにかからずは
   潮の八百会にさすらへなまし
 「海に鎮座まします神の御加護がなかったならば
  潮の渦巻く遥か沖合に流されていたことであろう
 海にます神のたすけにかからずば
 潮の八百会やほあひにさすらへなまし
    "Umi ni masu Kami no tasuke ni kakara zu ha
    siho no yahoahi ni sasurahe na masi
1.3.9  ひねもすにいりもみつる雷の 騷ぎにさこそいへ、いたう 困じたまひにければ、心にもあらずうちまどろみたまふ。かたじけなき御座所なれば、ただ 寄りゐたまへるに故院、ただおはしまししさまながら立ちたまひて、
 一日中、激しく物を煎り揉みしていた雷の騷ぎのために、そうはいっても、ひどくお疲れになったので、思わずうとうととなさる。恐れ多いほど粗末なご座所なので、ちょっと寄り掛かっていらっしゃると、故院が、まるで御生前おいであそばしたお姿のままお立ちになって、
 と源氏は口にした。終日風のみ抜いた家にいたのであるから、源氏も疲労して思わず眠った。ひどい場所であったから、横になったのではなく、ただ物によりかかって見る夢に、おくなりになった院がはいっておいでになったかと思うと、すぐそこへお立ちになって、
  Hinemosu ni irimomi turu Kami no sawagi ni, sakoso ihe, itau kouzi tamahi ni kere ba, kokoro ni mo ara zu uti-madoromi tamahu. Katazikenaki omasidokoro nare ba, tada yoriwi tamahe ru ni, ko-Win, tada ohasimasi si sama nagara tati tamahi te,
1.3.10  「 など、かくあやしき所にものするぞ
 「どうして、このような見苦しい所にいるのだ」
 「どうしてこんなひどい所にいるか」
  "Nado, kaku ayasiki tokoro ni monosuru zo?"
1.3.11  とて、御手を取りて引き立てたまふ。
 と仰せになって、お手を取って引き立てなさる。
 こうお言いになりながら、源氏の手を取って引き立てようとあそばされる。
  tote, ohom-te wo tori te hikitate tamahu.
1.3.12  「 住吉の神の導きたまふままには、はや舟出して、この浦を去りね」
 「住吉の神がお導きになるのに従って、早く船出して、この浦を去りなさい」
 「住吉の神が導いてくださるのについて、早くこの浦を去ってしまうがよい」
  "Sumiyosi-no-Kami no mitibiki tamahu mama ni ha, haya hunade si te, kono ura wo sari ne."
1.3.13  と のたまはす。いとうれしくて、
 と仰せあそばす。とても嬉しくなって、
 と仰せられる。源氏はうれしくて、
  to notamahasu. Ito uresiku te,
1.3.14  「 かしこき御影に 別れたてまつりにしこなた、さまざま 悲しきことのみ多くはべれば、今はこの渚に 身をや捨てはべりなまし
 「畏れ多い父上のお姿にお別れ申して以来、さまざまな悲しいことばかり多くございますので、今はこの海辺に命を捨ててしまいましょうかしら」
 「陛下とお別れいたしましてからは、いろいろと悲しいことばかりがございますから私はもうこの海岸で死のうかと思います」
  "Kasikoki mikage ni wakare tatematuri ni si konata, samazama kanasiki koto nomi ohoku habere ba, ima ha kono nagisa ni mi wo ya sute haberi na masi."
1.3.15  と 聞こえたまへば
 と申し上げなさると、

  to kikoye tamahe ba,
1.3.16  「 いとあるまじきことこれは、ただいささかなる物の報いなり。 我は、位に在りし時、あやまつことなかりしかど、おのづから犯しありければ、その罪を 終ふるほど暇なくて、この世を 顧みざりつれどいみじき愁へに沈むを見るに、堪へがたくて、 海に入り、渚に上り、いたく 困じにたれどかかるついでに内裏に 奏すべきことの あるにより なむ、急ぎ上りぬる
 「実にとんでもないことだ。これは、ちょっとしたことの報いである。朕は、在位中に、過失はなかったけれど、知らず知らずのうちに犯した罪があったので、その罪を償うのに暇がなくて、この世を顧みなかったが、大変な難儀に苦しんでいるのを見ると、堪え難くて、海に入り渚に上がり、たいそう疲れたけれど、このような機会に、奏上しなければならないことがあるので、急いで上るのだ」
 「とんでもない。これはね、ただおまえが受けるちょっとしたことの報いにすぎないのだ。私は位にいる間に過失もなかったつもりであったが、犯した罪があって、その罪のつぐないをする間はせわしくてこの世を顧みる暇がなかったのだが、おまえが非常に不幸で、悲しんでいるのを見ると堪えられなくて、海の中を来たり、海べを通ったりまったく困ったがやっとここまで来ることができた。このついでに陛下へ申し上げることがあるから、すぐに京へ行く」
  "Ito aru maziki koto. Kore ha, tada isasaka naru mono no mukuyi nari. Ware ha, kurawi ni ari si toki, ayamatu koto nakari sika do, onodukara wokasi ari kere ba, sono tumi wo wohuru hodo itoma naku te, kono yo wo kaherimi zari ture do, imiziki urehe ni sidumu wo miru ni, tahe gataku te, umi ni iri, nagisa ni nobori, itaku kouzi ni tare do, kakaru tuide ni Uti ni sousu beki koto no aru ni yori nam, isogi nobori nuru."
1.3.17  とて、立ち去りたまひぬ。
 と言って、お立ち去りになってしまった。
 と仰せになってそのまま行っておしまいになろうとした。
  tote, tatisari tamahi nu.
1.3.18   飽かず悲しくて、「御供に 参りなむ」と泣き入りたまひて、 見上げたまへれば人もなく、月の顔のみきらきらとして、夢の心地もせず、御けはひ止まれる心地して、空の雲あはれに たなびけり
 名残惜しく悲しくて、「お供して参りたい」とお泣き入りになって、お見上げなさると、人影もなく、月の面だけが耿々として、夢とも思えず、お姿が残っていらっしゃるような気がして、空の雲がしみじみとたなびいているのであった。
 源氏は悲しくて、「私もお供してまいります」と泣き入って、父帝のお顔を見上げようとした時に、人は見えないで、月の顔だけがきらきらとして前にあった。源氏は夢とは思われないで、まだ名残なごりがそこらに漂っているように思われた。空の雲が身にしむように動いてもいるのである。
  Akazu kanasiku te, "Ohom-tomo ni mawiri na m." to naki iri tamahi te, miage tamahe re ba, hito mo naku, tuki no kaho nomi kirakira to si te, yume no kokoti mo se zu, ohom-kehahi tomare ru kokoti si te, sora no kumo ahare ni tanabike ri.
1.3.19  年ごろ、 夢のうちにも見たてまつらで、恋しうおぼつかなき御さまを、 ほのかなれど、さだかに見たてまつりつるのみ面影におぼえたまひて、「 我かく悲しびを極め命尽きなむとしつるを、助けに 翔りたまへる」と、あはれに思すに、「 よくぞかかる騷ぎもありける」と、 名残頼もしう、うれしうおぼえたまふこと、限りなし
 ここ数年来、夢の中でもお会い申さず、恋しくお会いしたいお姿を、わずかな時間ではあるが、はっきりと拝見したお顔だけが、眼前にお浮かびになって、「自分がこのように悲しみを窮め尽くし、命を失いそうになったのを、助けるために天翔っていらした」と、しみじみと有り難くお思いになると、「よくぞこんな騷ぎもあったものよ」と、夢の後も頼もしくうれしく思われなさること、限りない。
 長い間夢の中で見ることもできなかった恋しい父帝をしばらくだけではあったが明瞭めいりょうに見ることのできた、そのお顔が面影に見えて、自分がこんなふうに不幸の底に落ちて、生命いのちも危うくなったのを、助けるために遠い世界からおいでになったのであろうと思うと、よくあの騒ぎがあったことであると、こんなことを源氏は思うようになった。なんとなく力がついてきた。
  Tosigoro, yume no uti ni mo mi tatematura de, kohisiu obotukanaki ohom-sama wo, honoka nare do, sadaka ni mi tatematuri turu nomi, omokage ni oboye tamahi te, "Waga kaku kanasibi wo kihame, inoti tuki na m to si turu wo, tasuke ni kakeri tamahe ru." to, ahare ni obosu ni, "Yoku zo kakaru sawagi mo ari keru." to, nagori tanomosiu, uresiu oboye tamahu koto, kagiri nasi.
1.3.20  胸つとふたがりて、 なかなかなる御心惑ひに、うつつの悲しきこともうち忘れ、「 夢にも御応へを今すこし聞こえずなりぬること」と いぶせさに、「またや見えたまふ」と、ことさらに寝入りたまへど、 さらに御目も合はで、暁方になりにけり。
 胸がぴたっと塞がって、かえってお心の迷いに、現実の悲しいこともつい忘れ、「夢の中でお返事をもう少し申し上げずに終わってしまったこと」と残念で、「再びお見えになろうか」と、無理にお寝みになるが、さっぱりお目も合わず、明け方になってしまった。
 その時は胸がはっとした思いでいっぱいになって、現実の悲しいことも皆忘れていたが、夢の中でももう少しお話をすればよかったと飽き足らぬ気のする源氏は、もう一度続きの夢が見られるかとわざわざ寝入ろうとしたが、眠りえないままで夜明けになった。
  Mune tuto hutagari te, nakanaka naru mikokoromadohi ni, ututu no kanasiki koto mo uti-wasure, "Yume ni mo ohom-irahe wo ima sukosi kikoye zu nari nuru koto." to ibusesa ni, "Mata ya miye tamahu?" to, kotosara ni neiri tamahe do, sarani ohom-me mo aha de, akatukigata ni nari ni keri.
注釈67見ゆるに「に」接続助詞、順接、原因・理由。見えるので。1.3.1
注釈68この御座所大炊殿をさす。1.3.1
注釈69かたじけなくて「て」接続助詞、順接。恐れ多いので。1.3.1
注釈70返し移したてまつらむとするに「たてまつら」謙譲の補助動詞。「む」推量の助動詞、意志。「に」接続助詞、逆接。源氏の君を寝殿にお戻らせ申し上げようとするが。1.3.1
注釈71焼け残りたる方も以下「夜を明かしてこそは」まで、供人たちの詞。『完訳』は「吹ちらしてけり」までと「夜を」以下の二つの詞文に分ける。1.3.2
注釈72そこらの人の踏みとどろかし惑へるに『集成』は「「とどろかし」は、雷の縁でこう言った」と注す。散文における縁語表現。「る」完了の助動詞。「に」接続助詞、添加。踏み鳴らして右往左往した上に。1.3.2
注釈73吹き散らしてけり「て」完了の助動詞、完了。「けり」過去の助動詞。吹き飛んでしまったというニュアンス。1.3.2
注釈74夜を明してこそは供人の詞。下に「移したてまつらめ」などの語句が省略。1.3.3
注釈75たどりあへるに「る」完了の助動詞、存続。「に」接続助詞、順接、時間。供人が戸惑っている間。1.3.4
注釈76御念誦したまひて「て」接続助詞、動作の並行。御念誦を唱えながら。1.3.4
注釈77思しめぐらすに主語は源氏。「に」接続助詞、逆接。あれこれ御思案なさるが。すっきり解明できない、というニュアンスを含む。1.3.4
注釈78とやかくやとはかばかしう悟る人もなし『集成』は「あれこれとたしかにこの天変の意味を解き明かせる人もいない。当時の政治家が求める賢人である」と注す。『完訳』は「陰陽師や、宿曜道の人」と注す。1.3.5
注釈79聞きも知りたまはぬ「も」係助詞、強調。「給は」尊敬の補助動詞。聞いてもお分かりにならない。1.3.5
注釈80さへづりあへるも「る」完了の助動詞、存続。ぺちゃくちゃしゃべっているのも。1.3.5
注釈81え追ひも払はず主語は供人。「も」係助詞、強調。追い払うこともできない。1.3.5
注釈82この風、今しばし止まざらましかば以下「おろかならざりけり」まで、供人の詞。『集成』は「『細流抄』に「あまどものいふなり」とするが、地元の漁師たちの話を聞いて語る供人の言葉であろう」と注す。『完訳』は海人の詞とする。「ましかば--まし」反実仮想。風が止まなかったら--残る所がなかったでろうに、止んだので残ったの意。1.3.6
注釈83聞きたまふも「も」係助詞、一例を挙げて他を暗示。1.3.7
注釈84いと心細しといへばおろかなり言葉では言い表せない、という語り手の寸評。1.3.7
注釈85海にます神の助けにかからずは--潮の八百会にさすらへなまし源氏の独詠歌。「ます」「潮の八百会」は祝詞の用語。「は」係助詞、仮定条件。「な」完了の助動詞、確述。「まし」推量の助動詞、反実仮想。もし助けがなかったら行方知れずになっていただろうに、助けがあったのでそうならずにすんだ、の意。住吉の神に感謝を述べる。1.3.8
注釈86騷ぎに「に」格助詞、原因・理由。騷ぎのために。1.3.9
注釈87さこそいへ源氏の落ち着いて念誦を唱えたり、戸の外を眺めていた態度をさす。1.3.9
注釈88困じたまひにければ「に」完了の助動詞、完了。「けれ」過去の助動詞。「ば」接続助詞、確定条件。疲れてしまったので。1.3.9
注釈89寄りゐたまへるに「る」完了の助動詞、存続。「に」接続助詞、順接。物に寄り掛かって座っていらっしゃると、の意。1.3.9
注釈90故院ただおはしまししさまながら以下、源氏の夢の中の出来事。「おはします」は「おはす」よりさらに重い最高敬語。「し」過去の助動詞。「ながら」接尾語。故院がまるで生前おいであそばした姿そのままで。1.3.9
注釈91などかくあやしき所にものするぞ大島本は「所に」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「所には」と「は」を補訂する。院の詞。「ぞ」係助詞、文全体を強調。どうしてこのような賤しい所にいるのだ、というユアンス。1.3.10
注釈92住吉の神の導きたまふままには大島本は「まゝにハ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「ままに」と「は」を削除する。以下「この浦を去りね」まで、院の詞。「ね」完了の助動詞、完了。去ってしまいなさい。1.3.12
注釈93のたまはす「のたまふ」よりさらに重い最高敬語。1.3.13
注釈94かしこき御影に以下「身をや捨てはべりなまし」まで、源氏の詞。1.3.14
注釈95別れたてまつりにしこなた「たてまつり」謙譲の補助動詞。「に」完了の助動詞。「し」過去の助動詞。お別れ申し上げて以来。1.3.14
注釈96悲しきことのみ「のみ」副助詞、限定と強調。悲しい事だけそればかりが、の意。1.3.14
注釈97身をや捨てはべりなまし「や」係助詞、疑問。「はべり」丁寧の補助動詞。「な」完了の助動詞。「まし」推量の助動詞、仮想。身を捨ててしまおうかしら、どうしたらよいものだろうか、という非現実的な仮想とためらいのニュアンス。『集成』は「命を終わろうかと存じます」。『完訳』は「身を捨ててしまいとうございます」。1.3.14
注釈98聞こえたまへば「聞こえ」は「言う」の謙譲語。「たまへ」尊敬の補助動詞。源氏が院に申し上げなさると。1.3.15
注釈99いとあるまじきこと以下「急ぎ上りぬる」まで、院の詞。1.3.16
注釈100これは天変地異をさす。1.3.16
注釈101我は位に在りし時あやまつことなかりしかどおのづから犯しありければ『北野天神縁起』に醍醐天皇は生前犯した五つの罪によって地獄に落ちたという説話がある。「し」「しか」過去の助動詞、自己の体験を語るニュアンス。「けれ」過去の助動詞、過去から現在まで継続している事実の回想、また地獄に落ちて初めて伝聞した過去の事実を回想した婉曲的表現というニュアンス。1.3.16
注釈102顧みざりつれど「つれ」完了の助動詞、完了。顧みなかったが。1.3.16
注釈103いみじき愁へに沈むを源氏の難儀をいう。敬語は付けない。1.3.16
注釈104海に入り渚に上り桐壺院の霊魂がやって来た道程、海上の彼方からという思想。1.3.16
注釈105困じにたれど「に」完了の助動詞、完了。「たれ」完了の助動詞、存続。「ど」接続助詞、逆接の確定条件。疲れてしまっているけれど。1.3.16
注釈106かかるついでに天変地異の折をさす。1.3.16
注釈107奏すべきことの大島本は「ことの」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「こと」と「の」を削除する。「べき」推量の助動詞、当然。帝に奏上しなければならない事が。1.3.16
注釈108あるにより「に」断定の助動詞、「より」格助詞、原因・理由。あるために。1.3.16
注釈109なむ急ぎ上りぬる「なむ」係助詞、「ぬる」完了の助動詞、完了。係結び、強調のニュアンスを添える。『完訳』は「急いで京へ上るところだ」と訳す。1.3.16
注釈110飽かず悲しくて『完訳』は「以下、夢から現実に戻る」と注す。1.3.18
注釈111参りなむ「な」完了の助動詞、完了。「む」推量の助動詞、意志。連語で意志を強調確述する。参ってしまいたい。「参ら」「なむ」(終助詞、他者に対する希望)とはいわない。「参ら」「ばや」(終助詞、自身の希望)より、「参りなむ」の方が、強いニュアンスを表す。「ばや」は実現可能のことを願望するが、連語「な」「む」は不可能なことまで含む。1.3.18
注釈112見上げたまへれば「れ」完了の助動詞、完了。「ば」接続助詞、順接。「たまたま--したところ」というニュアンス。お見上げなさったところ。『集成』は「ここからが、夢からさめた趣」と注す。1.3.18
注釈113人もなく月の顔のみ「も」係助詞、強調。「月の顔」は擬人法。「人」の縁で「月の顔」と表現。「のみ」副助詞、限定と強調のニュアンスを添える。いったい人はいず、月の顔だけ、それだけが。1.3.18
注釈114たなびけり「けり」過去の助動詞、過去から現在まで継続している事実の回想。たなびいていたのである。1.3.18
注釈115夢のうちにも見たてまつらで「も」副助詞、強調。「たてまつら」謙譲の補助動詞、源氏の桐壺院に対する敬意。「で」接続助詞、打消。現実では不可能だが、夢の中でさえお目にかかれないというニュアンス。1.3.19
注釈116ほのかなれどさだかに見たてまつりつるのみ「つる」完了の助動詞、完了、確述のニュアンスも添う。下に「顔」「姿」等の語句が省略。「のみ」副助詞、限定と強調。確かに拝見したことだけ、そればかりがというニュアンス。『完訳』は「「ほのか」は、夢に見る時間の短さ。「さだか」は、夢の中の故院の映像の鮮明さ」と注す。1.3.19
注釈117面影におぼえたまひて『集成』は「ありありと心にお残りになって」。『完訳』は「いつまでも目先に幻となって感じられ」と訳す。1.3.19
注釈118我かく悲しびを極め以下「翔りたまへる」まで、源氏の心中。1.3.19
注釈119命尽きなむとしつるを「な」完了の助動詞、完了。「む」推量の助動詞。「つる」完了の助動詞。「を」格助詞、目的格。もうすんでのところで命が尽きようとしたところを。1.3.19
注釈120翔りたまへると「たまへ」尊敬の補助動詞、故院に対する敬意。「る」完了の助動詞、完了、連体形中止。下に「事」「なり」等の語句が省略。言外に余情余韻を表す。1.3.19
注釈121よくぞかかる騷ぎもありける源氏の心中。「かかる騷ぎ」は天変地異をさす。「ぞ」係助詞。「も」係助詞、強調。「ける」過去の助動詞、詠嘆。係結び、強調。1.3.19
注釈122名残頼もしううれしうおぼえたまふこと限りなし「おぼえ」動詞、自然そう思われるというニュアンス。源氏は夢の中の院の詞に期待感と希望を抱く。『完訳』は「このあたり、源氏救助の故院の霊力が、天変地異の「物のさとし」であったとも了解されよう」と注す。1.3.19
注釈123なかなかなる御心惑ひに現実では忘れていたが、夢で院に会ったばかりにかえって悲しみに心乱れるというニュアンス。1.3.20
注釈124夢にも御応へを今すこし聞こえずなりぬること源氏の心中。「も」係助詞、願望・仮定を控え目に例示。仮に夢であるにせよどうしてというニュアンス。「聞こえ」謙譲の動詞、院に対する敬意。「ぬる」完了の助動詞。体言止め、余情余韻を残す。1.3.20
注釈125いぶせさに『集成』は「みたされぬ思いで」と注す。1.3.20
注釈126さらに御目も合はで「さらに」副詞、「で」接続助詞、打消し、全然お目も合わないでというニュアンス。1.3.20
校訂7 え--(/+え<朱>) 1.3.5
校訂8 払はず 払はず--はゝ(ゝ/$ら<朱>)はす 1.3.5
校訂9 終ふる 終ふる--ゝ(ゝ/$お)ふる 1.3.16
1.4
第四段 明石入道の迎えの舟


1-4  Akashi-no-Nyudo comes to Genji by a boat

1.4.1   渚に小さやかなる舟寄せて人二、三人ばかり、この旅の 御宿りをさして参る何人ならむと問へば
 渚に小さい舟を寄せて、人が二、三人ほど、この旅のお館をめざして来る。何者だろうと尋ねると、
 なぎさのほうに小さな船を寄せて、二、三人が源氏の家のほうへ歩いて来た。だれかと山荘の者が問うてみると、
  Nagisa ni tihisayaka naru hune yose te, hito ni, samnin bakari, kono tabi no ohom-yadori wo sasi te mawiru. Nanibito nara m to tohe ba,
1.4.2  「 明石の浦より前の守新発意の、御舟装ひて 参れるなり源少納言、さぶらひたまはば、対面してことの心 とり申さむ
 「明石の浦から、前の播磨守の新発意が、お舟支度して参上したのです。源少納言、伺候していらしたら、面会して事の子細を申し上げたい」
 明石あかしの浦から前播磨守さきのはりまのかみ入道が船でたずねて来ていて、その使いとして来た者であった。
げん少納言さんがいられましたら、お目にかかって、お訪ねいたしました理由を申し上げます」
  "Akasi no ura yori, saki no kami siboti no, mihune yosohi te mawire ru nari. Gen-Seunagon, saburahi tamaha ba, taimen si te, koto no kokoro tori mausa m."
1.4.3  と言ふ。良清、おどろきて、
 と言う。良清、驚いて、
 と使いは入道の言葉を述べた。驚いていた良清よしきよは、
  to ihu. Yosikiyo, odoroki te,
1.4.4  「 入道は、かの国の得意にて 年ごろあひ語らひはべりつれど 、私に、いささかあひ恨むることはべりて、 ことなる消息をだに通はさで、久しうなりはべりぬるを、波の紛れに、いかなることかあらむ」
 「入道は、あの国での知人として、長年互いに親しくお付き合いしてきましたが、私事で、いささか恨めしく思うことがございまして、特別の手紙でさえも交わさないで、久しくなっておりましたが、この荒波に紛れて、何の用であろうか」
 「入道は播磨での知人で、ずっと以前から知っておりますが、私との間には双方で感情の害されていることがあって、格別に交際つきあいをしなくなっております。それが風波の害のあった際に何を言って来たのでしょう」
  "Nihudau ha, kano kuni no tokui nite, tosigoro ahi katarahi haberi ture do, watakusi ni, isasaka ahi uramuru koto haberi te, koto naru seusoko wo dani kayohasa de, hisasiu nari haberi nuru wo, nami no magire ni, ikanaru koto ka ara m?"
1.4.5  と、 おぼめく君の、御夢なども思し合はすることもありて、「はや会へ」とのたまへば、舟に 行きて会ひたり。「 さばかり激しかりつる波風に、いつの間にか舟出しつらむ」と、 心得がたく思へり
 と言って、不審がる。君が、お夢などもご連想なさることもあって、「早く会え」とおっしゃるので、舟まで行って会った。「あれほど激しかった波風なのに、いつの間に船出したのだろう」と、合点が行かず思っていた。
 と言って訳がわからないふうであった。源氏は昨夜の夢のことが胸中にあって、「早くってやれ」と言ったので、良清よしきよは船へ行って入道に面会した。あんなにはげしい天気のあとでどうして船が出されたのであろうと良清はまず不思議に思った。
  to, obomeku. Kimi no, ohom-yume nado mo obosi ahasuru koto mo ari te, "Haya ahe." to notamahe ba, hune ni iki te ahi tari. "Sabakari hagesikari turu nami kaze ni, itu no ma ni ka hunade si tu ram?" to, kokoroe gataku omohe ri.
1.4.6  「 去ぬる朔日の日、夢にさま異なるものの告げ知らすることはべりしかば、信じがたきことと思うたまへしかど、『 十三日にあらたなるしるし見せむ舟装ひまうけて、かならず、雨風止まば、 この浦にを寄せよ』と、かねて 示すことのはべりしかば
 「去る上旬の日の夢に、異形のものが告げ知らせることがございましたので、信じがたいこととは存じましたが、『十三日にあらたかな霊験を見せよう。舟の準備をして、必ず、この雨風が止んだら、この浦に寄せ着けよ』と、前もって告げていたことがございましたので、
 「この月一日の夜に見ました夢で異形いぎょうの者からお告げを受けたのです。信じがたいこととは思いましたが、十三日が来れば明瞭になる、船の仕度したくをしておいて、必ず雨風がやんだら須磨の源氏の君の住居すまいへ行けというようなお告げがありましたから、
  "Inuru tuitati no hi, yume ni sama koto naru mono no tuge sirasuru koto haberi sika ba, sinzi gataki koto to omou tamahe sika do, 'Zihusam niti ni arata naru sirusi mise m. Hune yosohi mauke te, kanarazu, ame kaze yama ba, kono ura ni wo yose yo.' to, kanete simesu koto no haberi sika ba,
1.4.7 試みに舟の装ひをまうけて待ちはべりしに、 いかめしき雨、風、雷のおどろかしはべりつれば人の朝廷にも、夢を信じて国を助くるたぐひ多うはべりけるを用ゐさせたまはぬまでもこのいましめの日を過ぐさず、このよしを告げ申しはべらむとて、舟出だしはべりつるに、 あやしき風細う吹きてこの浦に着きはべること、まことに 神のしるべ違はずなむここにも、もししろしめすことや はべりつらむ、とてなむ。いと憚り多くはべれど、この よし申したまへ
試しに舟の用意をして待っておりましたところ、激しい雨、風、雷がそれと気づかせてくれましたので、異国の朝廷でも、夢を信じて国を助けるた例が多くございましたので、お取り上げにならないにしても、この予告の日をやり過さず、この由をお知らせ申し上げましょうと思って、舟出しましたところ、不思議な風が細く吹いて、この浦に着きましたこと、ほんとうに神のお導きは間違いがございません。こちらにも、もしやお心あたりのこともございましたでしょうか、と存じまして。大変に恐縮ですが、この由、お伝え申し上げてください」
試みに船の用意をして待っていますと、たいへんな雨風でしょう、そして雷でしょう、支那しななどでも夢の告げを信じてそれで国難を救うことができたりした例もあるのですから、こちら様ではお信じにならなくても、示しのあった十三日にはこちらへ伺ってお話だけは申し上げようと思いまして、船を出してみますと、特別なような風が細く、私の船だけを吹き送ってくれますような風でこちらへ着きましたが、やはり神様の御案内だったと思います。何かこちらでも神の告げというようなことがなかったでしょうか、と申すことを失礼ですがあなたからお取り次ぎくださいませんか」
kokoromi ni hune no yosohi wo mauke te mati haberi si ni, ikamesiki ame, kaze, ikaduti no odorokasi haberi ture ba, hito no mikado ni mo, yume wo sinzi te kuni wo tasukuru taguhi ohou haberi keru wo, motiwi sase tamaha nu made mo, kono imasime no hi wo sugusa zu, kono yosi wo tuge mausi habera m tote, hune idasi haberi turu ni, ayasiki kaze hosou huki te, kono ura ni tuki haberu koto, makoto ni kami no sirube tagaha zu nam. Koko ni mo, mosi sirosimesu koto ya haberi tu ram, tote nam. Ito habakari ohoku habere do, kono yosi, mausi tamahe."
1.4.8  と言ふ。良清、忍びやかに伝へ申す。
 と言う。良清、こっそりとお伝え申し上げる。
 と入道は言うのである。良清はそっと源氏へこのことを伝えた。
  to ihu. Yosikiyo, sinobiyaka ni tutahe mausu.
1.4.9  君、思しまはすに、夢うつつさまざま静かならず、さとしのやうなることどもを、来し方行く末思し合はせて、
 君、お考えめぐらすと、夢や現実にいろいろと穏やかでなく、もののさとしのようなことを、過去未来とお考え合わせになって、
 源氏は夢も現実も静かでなく、何かの暗示らしい点の多かったことを思って、
  Kimi, obosi mahasu ni, yume ututu samazama siduka nara zu, satosi no yau naru koto-domo wo, kisikata yukusuwe obosi ahase te,
1.4.10  「 世の人の聞き伝へむ後のそしりもやすからざるべきを憚りて、まことの 神の助けにもあらむを、背くものならば、また これよりまさりて、人笑はれなる目をや見む。 うつつざまの人の心だになほ苦し 。はかなきことをもつつみて、我より齢まさり、もしは位高く、時世の寄せ 今一際まさる人には、なびき従ひて、その心むけをたどるべきものなりけり。 退きて咎なしこそ昔、さかしき人言ひ置きけれ
 「世間の人々がこれを聞き伝えるような後世の非難も穏やかではないだろうことを恐れて、本当の神の助けであるのに、背いたものなら、またそれ以上に、物笑いを受けることになるだろうか。現実の世界の人の意向でさえ背くのは難しい。ちょっとしたことでも慎重にして、自分より年齢もまさるとか、もしくは爵位が高いとか、世間の信望がいま一段まさる人とかには、言葉に従って、その意向を考え入れるべきである。謙虚に振る舞って非難されることはないと、昔、賢人も言い残していた。
 世間のそしりなどばかりを気にかけ神の冥助みょうじょにそむくことをすれば、またこれ以上の苦しみを見る日が来るであろう、人間を怒らせることすら結果は相当に恐ろしいのである、気の進まぬことも自分より年長者であったり、上の地位にいる人の言葉にはしたがうべきである。退いてとがなしと昔の賢人も言った、あくまで謙遜けんそんであるべきである。
  "Yo no hito no kiki tutahe m noti no sosiri mo yasukara zaru beki wo habakari te, makoto no Kami no tasuke ni mo ara m wo, somuku mono nara ba, mata kore yori masari te, hitowarahare naru me wo ya mi m. Ututuzama no hito no kokoro dani naho kurusi. Hakanaki koto wo mo tutumi te, ware yori yohahi masari, mosiha kurawi takaku, tokiyo no yose ima hitokiha masaru hito ni ha, nabiki sitagahi te, sono kokoromuke wo tadoru beki mono nari keri. Sirizoki te toga nasi to koso, mukasi, sakasiki hito mo ihi oki kere.
1.4.11 げに、かく命を極め 、世にまたなき 目の限りを見尽くしつ。 さらに後のあとの名をはぶくとても、たけきこともあらじ。夢の中にも父帝の御教へありつれば、 また何ごとか疑はむ
なるほど、このような命の極限まで辿り着き、この世にまたとないほどの困難の限りを体験し尽くした。今さら後世の悪評を避けたところで、たいしたこともあるまい。夢の中にも父帝のお導きがあったのだから、また何を疑おうか」
もう自分は生命いのちあぶないほどの目を幾つも見せられた、臆病おくびょうであったと言われることを不名誉だと考える必要もない。夢の中でも父帝は住吉すみよしの神のことを仰せられたのであるから、疑うことは一つも残っていない
Geni, kaku inoti wo kihame, yo ni mata naki me no kagiri wo mi tukusi tu. Sarani noti no ato no na wo habuku tote mo, takeki koto mo ara zi. Yume no naka ni mo titi-Mikado no ohom-wosihe ari ture ba, mata nanigoto ka utagaha m."
1.4.12  と思して、御返りのたまふ。
 と思いになって、お返事をおっしゃる。
 と思って、源氏は明石へ居を移す決心をして、入道へ返辞を伝えさせた。
  to obosi te, ohom-kaheri notamahu.
1.4.13  「 知らぬ世界に、めづらしき愁への限り見つれど、都の方よりとて、言問ひおこする人もなし。ただ行方なき空の月日の光ばかりを、故郷の友と眺めはべるに、 うれしき釣舟をなむ 。かの浦に、静やかに 隠ろふべき隈はべりなむや」
 「知らない世界で、珍しい困難の極みに遭ってきたが、都の方からといって、安否を尋ねて来る人もいない。ただ茫漠とした空の月と日の光だけを、故郷の友として眺めていますが、うれしい釣舟と思うぞ。あちらの浦で、静かに隠れていられる所がありますか」
 「知るべのない所へ来まして、いろいろな災厄さいやくにあっていましても、京のほうからは見舞いを言い送ってくれる者もありませんから、ただ大空の月日だけを昔馴染なじみのものと思ってながめているのですが、今日船を私のために寄せてくだすってありがたく思います。明石には私の隠栖いんせいに適した場所があるでしょうか」
  "Sira nu sekai ni, medurasiki urehe no kagiri mi ture do, miyako no kata yori tote, kototohi okosuru hito mo nasi. Tada yukuhe naki sora no tukihi no hikari bakari wo, hurusato no tomo to nagame haberu ni, uresiki turibune wo nam. Kano ura ni, siduyaka ni kakurohu beki kuma haberi na m ya?"
1.4.14  とのたまふ。限りなくよろこび、かしこまり申す。
 とおっしゃる。この上なく喜んで、お礼申し上げる。
 入道は申し入れの受けられたことを非常によろこんで、恐縮の意を表してきた。
  to notamahu. Kagiri naku yorokobi, kasikomari mausu.
1.4.15  「 ともあれ、かくもあれ、夜の明け果てぬ先に 御舟にたてまつれ
 「ともかくも、夜のすっかり明けない前にお舟にお乗りください」
 ともかく夜が明けきらぬうちに船へお乗りになるがよい
  "Tomoare, kakumoare, yo no ake hate nu saki ni ohom-hune ni tatemature."
1.4.16  とて、 例の親しき限り、四、五人ばかりして、たてまつりぬ。
 ということで、いつもの側近の者だけ、四、五人ほど供にしてお乗りになった。
 ということになって、例の四、五人だけが源氏をまもって乗船した。
  tote, rei no sitasiki kagiri, si, gonin bakari site, tatematuri nu.
1.4.17   例の風出で来て、飛ぶやうに明石に着きたまひぬ。 ただはひ渡るほどに片時の間といへど、なほあやしきまで見ゆる 風の心なり
 例の不思議な風が吹き出してきて、飛ぶように明石にお着きになった。わずか這って行けそうな距離は時間もかからないとはいえ、やはり不思議にまで思える風の動きである。
 入道の話のような清い涼しい風が吹いて来て、船は飛ぶように明石へ着いた。それはほんの短い時間のことであったが不思議な海上の気であった。
  Rei no kaze ide ki te, tobu yau ni Akasi ni tuki tamahi nu. Tada hahi wataru hodo ni katatoki no ma to ihe do, naho ayasiki made miyuru kaze no kokoro nari.
注釈127渚に小さやかなる舟寄せて明石入道の使者、源氏を迎えに来る。1.4.1
注釈128人二三人ばかり「ばかり」副助詞、程度。人が二、三人ほど。1.4.1
注釈129御宿りをさして参る大島本は「まいる」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「来」と校訂する。1.4.1
注釈130何人ならむと問へば「問ふ」の主語は供人。1.4.1
注釈131明石の浦より以下「とり申さむ」まで、使者の詞。1.4.2
注釈132前の守新発意の御舟装ひて「の」格助詞、主格。「御」は源氏を乗せるべき舟という意で用いた敬語。1.4.2
注釈133参れるなり「参れ」は「来る」の謙譲語。源氏に対する敬意。「る」完了の助動詞。「なり」断定の助動詞。参上したのである。1.4.2
注釈134源少納言さぶらひたまはば対面して良清をさしていう。「さぶらふ」は「あり」の謙譲語、また丁寧語。「たまは」尊敬の補助動詞、良清に対する敬意。1.4.2
注釈135とり申さむ「申さ」は「言ふ」の謙譲語。「む」推量の助動詞、意志。説明申し上げたい。1.4.2
注釈136入道はかの国の得意にて以下「いかなることかあらむ」まで良清の詞。丁寧の補助動詞「はべり」が使用されている。「に」断定の助動詞。「て」接続助詞。1.4.4
注釈137年ごろあひ語らひはべりつれど大島本は「侍れ(れ+つれイ)と」と「つれ」を異本に拠って補入する。『新大系』は本行本文のままとする。『集成』『古典セレクション』は異本に従って「はべりつれど」とする。「はべり」丁寧の補助動詞、「つれ」完了の助動詞。長年互いに交際しておりましたが。1.4.4
注釈138ことなる消息をだに通はさで「だに」副助詞、打消しの語句と呼応して例外的・逆接的意味を表す。普通の消息はもちろんのこと、これぞという特別の消息でさえも通わさないで。1.4.4
注釈139おぼめく『集成』は「不審がる」。『完訳』は「入道の誘いに浮き立つ心を、源氏に気づかれまいと、とぼける」と注す。1.4.5
注釈140君の「の」格助詞、主格。「のたまへば」に続く。「御夢なども」以下「ありて」までは挿入句。1.4.5
注釈141行きて会ひたり「たり」完了の助動詞。主語は良清。1.4.5
注釈142さばかり激しかりつる波風に以下「舟出しつらむ」まで、良清の心中。「つる」完了の助動詞。「つ」完了の助動詞。「らむ」推量の助動詞、視界外推量。1.4.5
注釈143心得がたく思へり「り」完了の助動詞、存続。1.4.5
注釈144去ぬる朔日の日夢に大島本は「ついたちのひ夢に」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「朔日の日の夢に」と「の」を補訂する。以下「このよし申したまへ」まで、入道の詞。三月上旬の日、源氏が海に出て祓いをしたころ。1.4.6
注釈145十三日にあらたなるしるし見せむ以下「この浦にを寄せよ」まで、夢の告げ。「あらた」は霊験あらたかなの意。「む」推量の助動詞、推量また神の意志。1.4.6
注釈146舟装ひまうけて大島本は「舟よそひまうけて」とある。『新大系』『集成』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「舟を」と「を」を補訂する。1.4.6
注釈147この浦にを寄せよ大島本は「この浦にを」とある。『新大系』『集成』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「この浦に」と「を」を削除する。1.4.6
注釈148示すことのはべりしかば「の」格助詞、主格。「はべり」は「有り」の丁寧語。「しか」過去の助動詞。示すことがございましたので。1.4.6
注釈149いかめしき雨風雷のおどろかしはべりつれば『集成』は「大変な雨や風、雷が、それと思い当らせてくれましたので。この天変地異が源氏の身の上にかかわることだと悟った、の意」と注す。1.4.7
注釈150人の朝廷にも夢を信じて国を助くるたぐひ多うはべりけるを中国の『史記』殷本紀に武丁が夢に傅説(ふえつ)を得た話が指摘される。1.4.7
注釈151用ゐさせたまはぬまでも主語は源氏。「させ」尊敬の助動詞。「給は」尊敬の補助動詞。最高敬語。「ぬ」打消の助動詞。「まで」副助詞、「も」係助詞と複合。打消の語の下につき、--にしても、の意。お取り上げあそばされぬしても。1.4.7
注釈152このいましめの日を十三日をいう。1.4.7
注釈153あやしき風細う吹きて『集成』は「「細う」は、入道の舟の行路にあたる所だけ順風が吹いたさまをいう」と注す。1.4.7
注釈154この浦に着きはべること大島本は「侍ること」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「はべりつること」と完了助動詞「つる」を補訂する。1.4.7
注釈155神のしるべ違はずなむ「ず」打消の助動詞。「なむ」係助詞、結びの省略。余情余意をこめた表現。1.4.7
注釈156はべりつらむとてなむ「はべり」は「有り」の丁寧語。「つ」完了の助動詞。「らむ」推量の助動詞、視界外推量。「とて」連語(格助詞+接続助詞)。「なむ」係助詞、下に「参りぬる」などの語句が省略。余情・余意を表す。ございましたでしょうかと存じまして参りました。1.4.7
注釈157申したまへ「申し」は源氏に対する敬意。「たまへ」は良清に対する敬意。1.4.7
注釈158世の人の聞き伝へむ後のそしりも以下「また何ごとか疑はむ」まで、源氏の心中。最初、入道の言葉に盲従することを躊躇、やがて入道の言葉に従うことを決意する。1.4.10
注釈159神の助けにもあらむを「に」断定の助動詞。「も」係助詞、強調。「む」推量の助動詞、仮想・婉曲。「を」接続助詞、逆接。神の御加護であるかもしれないのに。1.4.10
注釈160これより『完訳』は「入道に従っての明石移住を、後人に笑われる以上に」と注す。1.4.10
注釈161うつつざまの人の心だになほ苦し大島本は「うつゝ(+さま<朱>)の」と朱筆で「さま」を補入する。『新大系』は朱筆補訂に従う。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「現の」と校訂する。「だに」副助詞、最小限の限定。『完訳』は「人間にそむくことさえつらい。まして神慮にそむくのは、の意」と注す。1.4.10
注釈162今一際まさる人明石入道をさす。1.4.10
注釈163退きて咎なし『河海抄』に「孝経に曰く、退かざれば咎あり」とあるが、現存本『孝経』には見えない語句。『完訳』は「「退キテ謗言ナカリキ」(春秋左氏伝・哀公二十)などによるか」。『新大系』は「老子「富貴にして驕れば自ら其の咎を遺す。功成り名遂げて身退くは天の道なり」(運夷第九)などに由来する言か」と注す。1.4.10
注釈164こそ--言ひ置きけれ「こそ」係助詞、「けれ」過去助動詞、係結び。強調のニュアンス。源氏の得心した気持ち。1.4.10
注釈165昔さかしき人大島本は「昔さかしき人」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「昔のさかしき人」と「の」を補訂する。1.4.10
注釈166げにかく命を極め大島本は「けふ(ふ$に)かく」と「ふ」をミセケチにして「に」と訂正する。『新大系』『集成』は訂正に従って「げに」と校訂する。『古典セレクション』は諸本に従って「けふ」と校訂する。1.4.11
注釈167さらに後のあとの名をはぶくとても『集成』は「今さら後世に残る悪評を避けたところで(入道の迎えに応じなかったところで)たいしたこともあるまい。これ以上の悪評を受けることもあるまい、の意」と注す。1.4.11
注釈168また何ごとか疑はむ大島本は「なにことかハ(ハ#)」と「ハ」を抹消する。『新大系』は訂正に従って「何ごとか」と校訂する。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「何ごとをか」と「を」を補訂する。「か」係助詞、反語。「む」推量。また一方で何事を疑おうか、疑うものはない。強い決意。1.4.11
注釈169知らぬ世界に以下「隈はべりなむや」まで、源氏の詞。1.4.13
注釈170うれしき釣舟をなむ「波にのみ濡れつるものを吹く風のたよりうれしき海人の釣舟」(後撰集雑三、一二二四、紀貫之)を踏まえる。好意に感謝する。「を」格助詞、目的格。また間投助詞、感動。「なむ」係助詞。結びの省略。余情・余意を残す。1.4.13
注釈171隠ろふべき隈「べき」推量の助動詞、当然。ひっそり暮らすことのできる隠棲場所。1.4.13
注釈172ともあれ以下「たてまつれ」まで、供人の詞。1.4.15
注釈173御舟にたてまつれ--とて「たてまつれ」は「乗る」の尊敬語。「とて」連語(格助詞+接続助詞)、理由・動機。お舟にお乗りなさい、ということで。1.4.15
注釈174例の親しき限り四五人ばかりして「ばかり」副助詞、程度・限定。「し」動詞、供としての意。「て」接続助詞、順接。須磨に随行したのは七、八人であった(須磨)。そのうち四、五人が身辺に仕えていた。1.4.16
注釈175例の風前に「あやしき風細く吹きて」とあった風をいう。1.4.17
注釈176ただはひ渡るほどに大島本は「たゝはひわたる程に」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「ほどは」と校訂する。1.4.17
注釈177風の心なり『完訳』は「擬人法で、神慮を強調」と注す。1.4.17
出典1 うれしき釣舟 浪にのみ濡れつるものを吹く風の便りうれしき海人の釣舟 後撰集雑三-一二二四 紀貫之 1.4.13
校訂10 かの国の かの国の--かの(の/+国の) 1.4.4
校訂11 はべりつれど はべりつれど--侍れ(れ/+つれイ)と 1.4.4
校訂12 ここにも ここにも--こゝに(に/+も) 1.4.7
校訂13 よし よし--よしを(を/$<朱>) 1.4.7
校訂14 うつつざま うつつざま--うつゝ(ゝ/+さま<朱>) 1.4.10
校訂15 げに げに--けふ(ふ/$に) 1.4.11
校訂16 目の 目の--め(め/+の) 1.4.11
校訂17 何ごとか 何ごとか--なにことかは(は/#) 1.4.11
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現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
鈴木厚司(青空文庫)

2003年7月16日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2006年1月6日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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