第十三帖 明石


13 AKASI (Ohoshima-bon)


光る源氏の二十七歳春から二十八歳秋まで、明石の浦の別れと政界復帰の物語


Tale of Hikaru-Genji's parting and comeback, from March at the age of 27 to in fall at the age of 28

3
第三章 明石の君の物語 結婚の喜びと嘆きの物語


3  Tale of Akashi  Happiness and grief in marriage

3.1
第一段 明石の侘び住まい


3-1  Lonely life in Akashi

3.1.1   明石には、例の、秋、浜風のことなるに、一人寝もまめやかにものわびしうて、入道にも 折々語らはせたまふ
 明石では、例によって、秋、浜風が格別で、独り寝も本当に何となく淋しくて、入道にも時々話をおもちかけになる。
 明石ではまた秋の浦風のはげしく吹く季節になって、源氏もしみじみ独棲ひとりずみの寂しさを感じるようであった。入道へ娘のことをおりおり言い出す源氏であった。
  Akasi ni ha, rei no, aki, hamakaze no koto naru ni, hitorine mo mameyaka ni mono-wabisiu te, Nihudau ni mo woriwori kataraha se tamahu.
3.1.2  「 とかく紛らはして、こち参らせよ
 「何とか人目に立たないようにして、こちらに差し向けなさい」
 「目だたぬようにしてこちらのやしきへよこさせてはどうですか」
  "Tokaku magirahasi te, koti mawira se yo."
3.1.3  とのたまひて、 渡りたまはむことをばあるまじう思したるを正身はた、さらに思ひ立つべくもあらず。
 とおっしゃって、いらっしゃることは決してないようにお思いになっているが、娘は娘でまた、まったく出向く気などない。
 こんなふうに言っていて、自分から娘の住居すまいへ通って行くことなどはあるまじいことのように思っていた。女にはまたそうしたことのできない自尊心があった。
  to notamahi te, watari tamaha m koto wo ba aru maziu obosi taru wo, sauzimi hata, sarani omohitatu beku mo ara zu.
3.1.4  「 いと口惜しき際の 田舎人こそ、仮に下りたる人のうちとけ言につきて、さやうに軽らかに語らふ わざをもすなれ、 人数にも思されざらむものゆゑ、我はいみじき もの思ひをや添へむ
 「とても取るに足りない身分の田舎者は、一時的に下向した人の甘い言葉に乗って、そのように軽く良い仲になることもあろうが、一人前の夫人として思ってくださらないだろうから、わたしはたいへんつらい物思いの種を増すことだろう。
 田舎いなかの並み並みの家の娘は、仮に来て住んでいる京の人が誘惑すれば、そのまま軽率に情人にもなってしまうのであるが、自身の人格が尊重されてかかったことではないのであるから、そのあとで一生物思いをする女になるようなことはいやである。
  "Ito kutiwosiki kiha no winakabito koso, kari ni kudari taru hito no utitokegoto ni tuki te, sayauni karoraka ni katarahu waza womo su nare, hitokazu ni mo obosa re zara m mono yuwe, ware ha imiziki monoomohi wo ya sohe m.
3.1.5 かく及びなき心を思へる親たちも、 世籠もりて過ぐす年月こそ、あいな頼みに、 行く末心にくく思ふらめなかなかなる心をや尽くさむ」と思ひて、「 ただこの浦におはせむほどかかる御文ばかりを聞こえかはさむこそ、おろかならね。年ごろ音にのみ聞きて、いつかはさる人の御ありさまをほのかにも見たてまつらむなど、思ひかけざりし御住まひにて、まほならねどほのかにも見たてまつり、世になきものと聞き伝へし御琴の音をも風につけて聞き、明け暮れの御ありさまおぼつかなからで、 かくまで世にあるものと思し尋ぬるなどこそ、かかる海人のなかに朽ちぬる身にあまることなれ」
あのように及びもつかぬ高望みをしている両親も、未婚の間で過ごしているうちは、当てにならないことを当てにして、将来に希望をかけていようが、かえって心配が増ることであろう」と思って、「ただこの浦にいらっしゃる間は、このようなお手紙だけをやりとりさせていただけるのは、並々ならぬこと。長年噂にだけ聞いて、いつの日にかそのような方のご様子をちらっとでも拝見しようなどと、思いもしなかったお住まいで、よそながらもちらと拝見し、世にも素晴らしいと聞き伝えていたお琴の音をも風に乗せて聴き、毎日のお暮らしぶりもはっきりと見聞きし、このようにまでわたしに対してご関心いただくのは、このような海人の中に混じって朽ち果てた身にとっては、過分の幸せだわ」
不つりあいの結婚をありがたいことのように思って、成り立たせようと心配している親たちも、自分が娘でいる間はいろいろな空想も作れていいわけなのであるが、そうなった時から親たちは別なつらい苦しみをするに違いない。源氏が明石に滞留している間だけ、自分は手紙を書きかわす女として許されるということがほんとうの幸福である。長い間うわさだけを聞いていて、いつの日にそうした方を隙見すきみすることができるだろうと、はるかなことに思っていた方が思いがけなくこの土地へおいでになって、隙見ではあったがお顔を見ることができたし、有名な琴の音を聞くこともかない、日常の御様子も詳しく聞くことができている、その上自分へお心をお語りになるような手紙も来る。もうこれ以上を自分は望みたくない。こんな田舎に生まれた娘にこれだけの幸いのあったのは確かに果報のあった自分と思わなければならない
Kaku oyobi naki kokoro wo omohe ru oyatati mo, yogomori te sugusu tosituki koso, ainadanomi ni, yukusuwe kokoronikuku omohu rame, nakanaka naru kokoro wo ya tukusa m." to omohi te, "Tada kono ura ni ohase m hodo, kakaru ohom-humi bakari wo kikoye kahasa m koso, oroka nara ne. Tosigoro oto ni nomi kiki te, ituka ha saru hito no ohom-arisama wo honoka ni mo mi tatematura m nado, omohikake zari si ohom-sumahi nite, maho nara ne do honoka ni mo mi tatematuri, yo ni naki mono to kiki tutahe si ohom-koto no ne wo mo kaze ni tuke te kiki, akekure no ohom-arisama obotukanakara de, kaku made yo ni aru mono to obosi tadunuru nado koso, kakaru ama no naka ni kuti nuru mi ni amaru koto nare."
3.1.6  など思ふに、いよいよ恥づかしうて、つゆも気近きことは思ひ寄らず。
 などと思うと、ますます気後れがして、少しもお側近くに上がることなどは考えもしない。
 と思っているのであって、源氏の情人になる夢などは見ていないのである。
  nado omohu ni, iyoiyo hadukasiu te, tuyu mo kedikaki koto ha omohiyora zu.
3.1.7  親たちは、ここらの年ごろの祈りの 叶ふべきを思ひながら
 両親は、長年の念願が今にも叶いそうに思いながら、
 親たちは長い間祈ったことの事実になろうとする時になったことを知りながら、
  Oyatati ha, kokora no tosigoro no inori no kanahu beki wo omohi nagara,
3.1.8  「 ゆくりかに見せたてまつりて、思し数まへざらむ時、いかなる嘆きをかせむ」
 「不用意にお見せ申して、もし相手にもしてくださらなかった時は、どんなに悲しい思いをするだろうか」
 結婚をさせて源氏の愛の得られなかった時はどうだろうと、」
  "Yukurika ni mise tatematuri te, obosi kazumahe zara m toki, ika naru nageki wo ka se m?"
3.1.9  と思ひやるに、ゆゆしくて、
 と想像すると、心配でたまらず、
 悲惨な結果も想像されて、
  to omohiyaru ni, yuyusiku te,
3.1.10  「 めでたき人と聞こゆとも、つらういみじうもあるべきかな。 目にも見えぬ仏、神を頼みたてまつりて、 人の御心をも、宿世をも知らで
 「立派な方とは申しても、辛く堪らないことであるよ。目に見えない仏、神を信じ申して、君のお心や、娘の運命をも分からないままに」
 どんなりっぱな方であっても、その時は恨めしいことであろうし、悲しいことでもあろう、目に見ることもない仏とか神とかいうものにばかり信頼していたが、それは源氏の心持ちも娘の運命も考えに入れずにしていたことであった
  "Medetaki hito to kikoyu tomo, turau imiziu mo aru beki kana! Me ni mo miye nu Hotoke, Kami wo tanomi tatematuri te, hito no mikokoro wo mo, sukuse wo mo sira de."
3.1.11  など、うち返し思ひ乱れたり。君は、
 などと、改めて思い悩んでいた。君は、
 などと、今になって二の足が踏まれ、それについてする煩悶はんもんもはなはだしかった。源氏は、
  nado, uti-kahesi omohi midare tari. Kimi ha,
3.1.12  「 このころの波の音に、かの物の音を聞かばや。さらずは、かひなくこそ
 「この頃の波の音に合わせて、あの琴の音色を聴きたいものだ。それでなかったら、何にもならない」
 「この秋の季節のうちにお嬢さんの音楽を聞かせてほしいものです。前から期待していたのですから」
  "Konokoro no nami no oto ni, kano mono no ne wo kika baya! Sarazuha, kahinaku koso."
3.1.13  など、常はのたまふ。
 などと、いつもおっしゃる。
 などとよく入道に言っていた。
  nado, tune ha notamahu.
注釈408明石には、例の、秋、浜風のことなるに一人寝もまめやかにものわびしうて【明石には、例の、秋、浜風の】−源氏、明石の君を呼び寄せようとするが、明石の君は動じない。第十二段。
【秋浜風のことなるに一人寝もまめやかにものわびしうて】−大島本は「秋」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「秋は」と「は」を補訂する。「に」格助詞、時また添加。また接続助詞、順接。
3.1.1
注釈409折々語らはせたまふ「せ」尊敬の助動詞。また使役の助動詞とも解せる。「たまふ」尊敬の補助動詞。『集成』は「話をおもちかけさせなさる」と使役の意に。『完訳』は「話をもちかけられる」と尊敬の意に訳す。3.1.1
注釈410とかく紛らはしてこち参らせよ源氏の詞。娘を源氏のもとに差し出せという趣旨。3.1.2
注釈411渡りたまはむことをばあるまじう思したるを主語は源氏。「む」推量の助動詞、仮定また婉曲。「まじう」打消の推量、意志の打消。「たる」完了の助動詞、存続。「を」接続助詞、逆接。3.1.3
注釈412正身はたさらに明石の君をさす。「さらに」副詞、下に打消の語に係って、全然の意を表す。また比較の意で、源氏以上に、の意も含もう。3.1.3
注釈413いと口惜しき際の以下「心をや尽くさむ」まで、明石の君の心中。3.1.4
注釈414田舎人こそ「こそ」係助詞、「わざをもす」「なれ」に係る。逆接用法。3.1.4
注釈415人数にも思されざらむものゆゑ明石の君の身の程意識。「思さ」は「思ふ」の尊敬語。主体そのものは源氏。「れ」受身の助動詞、源氏から思われるの意。「む」推量の助動詞、推量。3.1.4
注釈416もの思ひをや添へむ「を」格助詞、目的。「や」間投助詞、詠嘆。「む」推量の助動詞、推量。『集成』は「物思いの種を加えるだけのことだろう」。『完訳』は「たいへんな苦労を背負いこむにちがいない」。「や」を係助詞、疑問の意と解することも可能だろう。3.1.4
注釈417世籠もりて過ぐす年月こそ「こそ」係助詞、「らめ」推量の助動詞、視界外推量に係り、逆接用法で下文に続く。明石の君の未婚時代、源氏が眼前に現れる以前をいう。3.1.5
注釈418行く末心にくく思ふらめ『集成』は「将来立派にと望みをいだいてもいようが」。『完訳』「行く末を楽しみにしているのだろうが」と訳す。3.1.5
注釈419なかなかなる心をや尽くさむ結婚したら、かえって今まで以上に、の意。「や」間投助詞、詠嘆。「む」推量の助動詞。「や」を係助詞、疑問の意と解することも可能だろう。3.1.5
注釈420ただこの浦におはせむほど以下「身にあまることなれ」まで、再び明石の君の心中。3.1.5
注釈421かかる御文ばかりを聞こえかはさむこそおろかならね「ばかり」副助詞、程度。「む」推量の助動詞、婉曲。「こそ」係助詞、「ね」打消の助動詞、已然形に係る。3.1.5
注釈422かくまで世にあるものと思し尋ぬるなどこそ「こそ」係助詞、「なれ」断定の助動詞、已然形に係り、強調のニュアンス。『集成』は「こうまで人並みにお心にかけてお声をかけて下さるなどということは」と訳す。3.1.5
注釈423叶ふべきを思ひながら「べき」推量の助動詞、当然。「ながら」接続助詞、逆接の意を含む。3.1.7
注釈424ゆくりかに見せたてまつりて以下「いかなる嘆きをかせむ」まで、明石入道夫妻の心中。間接叙述。もしもの場合の娘の身を心配。3.1.8
注釈425めでたき人と聞こゆとも以下「宿世をも知らで」まで、主として入道の心中。『完訳』は「直接話法による心内叙述」と注す。3.1.10
注釈426目にも見えぬ仏神大島本は「めにも」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「目に」と「も」を削除する。3.1.10
注釈427人の御心をも宿世をも知らで「人」は「御」があるので源氏、「宿世」は娘のをさす。3.1.10
注釈428このころの波の音にかの物の音を聞かばやさらずはかひなくこそ源氏の詞。「このころ」は秋の季節をいう。「波」「貝」(効)は縁語、一種の言葉遊び。「ばや」終助詞、願望。「ずは」連語(「ず」打消の助動詞、連用形+「は」係助詞)、順接の仮定条件。「こそ」係助詞、下に「あれ」已然形、などの語句が省略された文。「波の音に合わせて」。3.1.12
校訂40 わざ わざ--は(は/$わ)さ 3.1.4
3.2
第二段 明石の君を初めて訪ねる


3-2  The first visit to Akashi-no-Kimi

3.2.1   忍びて吉しき日見て、母君のとかく思ひわづらふを聞き入れず、 弟子どもなどにだに知らせず、心一つに立ちゐ、かかやくばかりしつらひて、 十三日の月のはなやかにさし出でたるに、ただ「 あたら夜の」と聞こえたり。
 こっそりと吉日を調べて、母君があれこれと心配するのには耳もかさず、弟子たちにさえ知らせず、自分の一存で世話をやき、輝くばかりに整えて、十三日の月の明るくさし出た時分に、ただ「あたら夜の」と申し上げた。
 入道はそっと婚姻の吉日を暦で調べさせて、まだ心の決まらないように言っている妻を無視して、弟子でしにも言わずに自身でいろいろと仕度したくをしていた。そうして娘のいる家の設備を美しく整えた。十三日の月がはなやかに上ったころに、ただ「あたら夜の」(月と花とを同じくば心知られん人に見せばや)とだけ書いた迎えの手紙を浜のやかたの源氏の所へ持たせてやった。
  Sinobi te yorosiki hi mi te, Hahagimi no tokaku omohi wadurahu wo kiki ire zu, desi-domo nado ni dani sirase zu, kokoro hitotu ni tatiwi, kakayaku bakari siturahi te, zihusamniti no tuki no hanayaka ni sasi-ide taru ni, tada "Atara yo no" to kikoye tari.
3.2.2  君は、「 好きのさまや」と思せど、 御直衣たてまつりひきつくろひて、 夜更かして出でたまふ。御車は二なく作りたれど、所狭しとて、御馬にて出でたまふ。 惟光などばかりをさぶらはせたまふ。やや遠く入る所なりけり。道のほども、四方の浦々見わたしたまひて、 思ふどち見まほしき入江の月影にも まづ恋しき人の御ことを思ひ出できこえたまふにやがて馬引き過ぎて、赴きぬべく思す
 君は、「風流ぶっているな」とお思いになるが、お直衣をお召しになり身なりを整えて、夜が更けるのを待ってお出かけになる。お車はまたとなく立派に整えたが、仰々しいと考えて、お馬でお出かけになる。惟光などばかりをお従わせになる。少し遠く奥まった所であった。道すがら、四方の浦々をお見渡しになって、恋人どうしで眺めたい入江の月影を見るにつけても、まずは恋しい人の御ことをお思い出し申さずにはいらっしゃれないので、そのまま馬で通り過ぎて、上京してしまいたく思われなさる。
 風流がりな男であると思いながら源氏は直衣のうしをきれいに着かえて、夜がふけてから出かけた。よい車も用意されてあったが、目だたせぬために馬で行くのである。惟光これみつなどばかりの一人二人の供をつれただけである。山手の家はやや遠く離れていた。途中の入り江の月夜の景色けしきが美しい。紫の女王にょおうが源氏の心に恋しかった。この馬に乗ったままで京へ行ってしまいたい気がした。
  Kimi ha, "Suki no sama ya!" to obose do, ohom-nahosi tatematuri hiki-tukurohi te, yo hukasi te ide tamahu. Mikuruma ha ninaku tukuri tare do, tokorosesi tote, ohom-muma nite ide tamahu. Koremitu nado bakari wo saburaha se tamahu. Yaya tohoku iru tokoro nari keri. Miti no hodo mo, yomo no ura ura miwatasi tamahi te, omohudoti mi mahosiki irie no tukikage ni mo, madu kohisiki hito no ohom-koto wo omohi ide kikoye tamahu ni, yagate muma hiki-sugi te, omomuki nu beku obosu.
3.2.3  「 秋の夜の月毛の駒よ我が恋ふる
   雲居を翔れ時の間も見む
 「秋の夜の月毛の駒よ、わが恋する都へ天翔っておくれ
  束の間でもあの人に会いたいので
  秋の夜の月毛のこまよ我が恋ふる
  雲井にけれ時の間も見ん
    "Aki no yo no tukige no koma yo waga kohuru
    kumowi wo kake re toki no ma mo mi m
3.2.4  と、 うちひとりごたれたまふ
 とつい独り口をついて出る。
 と独言ひとりごとが出た。
  to, uti-hitorigota re tamahu.
3.2.5   造れるさま、木深く、いたき所まさりて、見どころある住まひなり。海のつらはいかめしうおもしろく、 これは心細く住みたるさま、「ここにゐて、 思ひ残すことはあらじ」と思しやらるるに、ものあはれなり。三昧堂近くて、鐘の声、松風に響きあひて、もの悲しう、 岩に生ひたる松の根ざしも、心ばへあるさまなり前栽どもに 虫の声を尽くしたり。ここかしこのありさまなど御覧ず。
 造りざまは、木が深く繁って、ひどく感心する所があって、結構な住まいである。海辺の住まいは堂々として興趣に富み、こちらの家はひっそりとした住まいの様子で、「ここで暮らしたら、どんな物思いもし残すことはなかろう」と自然と想像されて、しみじみとした思いにかられる。三昧堂が近くにあって、鐘の音、松風に響き合って、もの悲しく、巌に生えている松の根ざしも、情趣ある様子である。いくつもの前栽に虫が声いっぱいに鳴いている。あちらこちらの様子を御覧になる。
 山手の家は林泉の美が浜のやしきにまさっていた。浜のやかた派手はでに作り、これは幽邃ゆうすいであることを主にしてあった。若い女のいる所としてはきわめて寂しい。こんな所にいては人生のことが皆身にしむことに思えるであろうと源氏は恋人に同情した。三昧堂さんまいどうが近くて、そこで鳴らす鐘の音が松風に響き合って悲しい。岩にはえた松の形が皆よかった。植え込みの中にはあらゆる秋の虫が集まって鳴いているのである。源氏は邸内をしばらくあちらこちらと歩いてみた。
  Tukure ru sama, kobukaku, itaki tokoro masari te, midokoro aru sumahi nari. Umi no tura ha ikamesiu omosiroku, kore ha kokorobosoku sumi taru sama, "Koko ni wi te, omohi nokosu koto ha ara zi." to, obosiyara ruru ni, mono-ahare nari. Sammaidau tikaku te, kane no kowe, matukaze ni hibiki ahi te, mono-kanasiu, iha ni ohi taru matu no nezasi mo, kokorobahe aru sama nari. Sensai-domo ni musi no kowe wo tukusi tari. Koko kasiko no arisama nado goranzu.
3.2.6 娘住ませたる方は、心ことに磨きて、 月入れたる真木の戸口、けしきばかり押し開けたり
娘を住ませている建物は、格別に美しくしてあって、月の光を入れた真木の戸口は、ほんの気持ちばかり開けてある。
娘の住居すまいになっている建物はことによく作られてあった。月のさし込んだ妻戸が少しばかり開かれてある。
Musume suma se taru kata ha, kokoro koto ni migaki te, tuki ire taru maki no toguti, kesiki bakari osi-ake tari.
3.2.7   うちやすらひ、何かとのたまふにも、「 かうまでは見えたてまつらじ」と深う思ふに、もの嘆かしうて、 うちとけぬ心ざまを、「 こよなうも人めきたるかなさしもあるまじき際の人だに、かばかり言ひ寄りぬれば、心強うしもあらずならひたりしを、 いとかくやつれたるにあなづらはしきにや」とねたう、さまざまに思し悩めり。「 情けなうおし立たむも、ことのさまに違へり。心比べに負けむこそ、人悪ろけれ」など、乱れ怨みたまふさま、 げにもの思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ
 少しためらいがちに、何かと言葉をおかけになるが、「こんなにまでお側近くには上がるまい」と深く決心していたので、何となく悲しくて、気を許さない態度を、「ずいぶんと貴婦人ぶっているな。容易に近づきがたい高貴な身分の女でさえ、これほど近づき言葉をかけてしまえば、気強く拒むことはないのであったが、このように落ちぶれているので、見くびっているのだろうか」としゃくで、いろいろと悩んでいるようである。「容赦なく無理じいするのも、意向に背くことになる。根比べに負けたりしたら、体裁の悪いことだ」などと、千々に心乱れてお恨みになるご様子、本当に物の情趣を理解する人に見せたいものである。
 そこの縁へ上がって、源氏は娘へものを言いかけた。これほどには接近して逢おうとは思わなかった娘であるから、よそよそしくしか答えない。貴族らしく気どる女である。もっとすぐれた身分の女でも今日までこの女に言い送ってあるほどの熱情を見せれば、皆好意を表するものであると過去の経験から教えられている。この女は現在の自分をあなどって見ているのではないかなどと、焦慮の中には、こんなことも源氏は思われた。力で勝つことは初めからの本意でもない、女の心を動かすことができずに帰るのは見苦しいとも思う源氏が追い追いに熱してくる言葉などは、明石の浦でされることが少し場所違いでもったいなく思われるものであった。
  Uti-yasurahi, nanika to notamahu ni mo, "Kau made ha miye tatematura zi." to hukau omohu ni, mono-nagekasiu te, utitoke nu kokorozama wo, "Koyonau mo hito meki taru kana! Sasimo aru maziki kiha no hito dani, kabakari ihiyori nure ba, kokoroduyou simo ara zu narahi tari si wo, ito kaku yature taru ni, anadurahasiki ni ya?" to netau, samazama ni obosi nayame ri. "Nasakenau ositata m mo, koto no sama ni tagahe ri. Kokorokurabe ni make m koso, hitowarokere." nado, midare urami tamahu sama, geni monoomohi sira m hito ni koso mise mahosikere.
3.2.8   近き几帳の紐に、箏の琴の弾き鳴らされたるもけはひしどけなく、うちとけながら掻きまさぐりけるほど見えてをかしければ、
 近くの几帳の紐に触れて、箏の琴が音をたてたのも、感じが取り繕ってなく、くつろいだ普段のまま琴を弄んでいた様子が想像されて、興趣あるので、
 几帳きちょうひもが動いて触れた時に、十三げんの琴のが鳴った。それによってさっきまで琴などをいていた若い女の美しい室内の生活ぶりが想像されて、源氏はますます熱していく。
  Tikaki kityau no himo ni, saunokoto no hiki-narasa re taru mo, kehahi sidokenaku, utitoke nagara kaki-masaguri keru hodo miye te wokasikere ba,
3.2.9  「 この、聞きならしたる琴をさへや
 「この、噂に聞いていた琴までも聴かせてくれないのですか」
 「今音が少ししたようですね。琴だけでも私に聞かせてくださいませんか」
  "Kono, kiki narasi taru koto wo sahe ya."
3.2.10  など、よろづにのたまふ。
 などと、いろいろとおっしゃる。
 とも源氏は言った。
  nado, yorodu ni notamahu.
3.2.11  「 むつごとを語りあはせむ人もがな
   憂き世の夢もなかば覚むやと
 「睦言を語り合える相手が欲しいものです
  この辛い世の夢がいくらかでも覚めやしないかと
  むつ言を語りあはせん人もがな
  うき世の夢もなかばむやと
    "Mutugoto wo katari ahase m hito mo gana
    ukiyo no yume mo nakaba samu ya to
3.2.12  「 明けぬ夜にやがて惑へる心には
   いづれを夢とわきて語らむ
 「闇の夜にそのまま迷っておりますわたしには
  どちらが夢か現実か区別してお話し相手になれましょう
  明けぬ夜にやがてまどへる心には
  いづれを夢ときて語らん
    "Ake nu yo ni yagate madohe ru kokoro ni ha
    idure wo yume to waki te katara m
3.2.13   ほのかなるけはひ、伊勢の御息所にいとようおぼえたり。何心もなくうちとけてゐたりけるを、 かうものおぼえぬにいとわりなくて、近かりける曹司の内に入りて、 いかで固めけるにか、いと強きを、しひてもおし立ちたまはぬさまなり。 されど、さのみもいかでかあらむ
 かすかな感じは、伊勢の御息所にとてもよく似ていた。何も知らずにくつろいでいたところを、こう意外なお出ましとなったので、たいそう困って、近くにある曹司の中に入って、どのように戸締りしたものか、固いのだが、無理して開けようとはなさらない様子である。けれども、いつまでもそうしてばかりいられようか。
 前のは源氏の歌で、あとのは女の答えたものである。ほのかに言う様子は伊勢いせ御息所みやすどころにそっくり似た人であった。源氏がそこへはいって来ようなどとは娘の予期しなかったことであったから、それが突然なことでもあって、娘は立って近い一つの部屋へはいってしまった。そしてどうしたのか、戸はまたあけられないようにしてしまった。源氏はしいてはいろうとする気にもなっていなかった。しかし源氏が躊躇ちゅうちょしたのはほんの一瞬間のことで、結局は行く所まで行ってしまったわけである。
  Honoka naru kehahi, Ise-no-Miyasumdokoro ni ito you oboye tari. Nanigokoro mo naku utitoke te wi tari keru wo, kau mono oboye nu ni, ito warinaku te, tikakari keru zausi no uti ni iri te, ikade katame keru ni ka, ito tuyoki wo, sihite mo ositati tamaha nu sama nari. Saredo, sa nomi mo ikadeka ara m?
3.2.14   人ざま、いとあてに、そびえて、心恥づかしきけはひぞしたるかうあながちなりける契りを思すにも、 浅からずあはれなり。御心ざしの、近まさりするなるべし、 常は厭はしき夜の長さも、とく明けぬる心地すれば、「 人に知られじ」と思すも、心あわたたしうて、こまかに語らひ置きて、出でたまひぬ。
 人柄は、とても上品で、すらりとして、気後れするような感じがする。このような無理に結んだ契りをお思いになるにつけても、ひとしおいとしい思いが増すのである。情愛が、逢ってますます思いが募るのであろう、いつもは嫌でたまらない秋の夜の長さも、すぐに明けてしまった気持ちがするので、「人に知られまい」とお思いになると、気がせかれて、心をこめたお言葉を残して、お立ちになった。
 女はやや背が高くて、気高けだかい様子の受け取れる人であった。源氏自身の内にたいした衝動も受けていないでこうなったことも、前生の因縁であろうと思うと、そのことで愛がいてくるように思われた。源氏から見て近まさりのした恋と言ってよいのである。平生は苦しくばかり思われる秋の長夜もすぐ明けていく気がした。人に知らせたくないと思う心から、誠意のある約束をした源氏は朝にならぬうちに帰った。
  Hitozama, ito ate ni, sobiye te, kokorohadukasiki kehahi zo si taru. Kau anagati nari keru tigiri wo obosu ni mo, asakara zu ahare nari. Mikokorozasi no, tikamasari suru naru besi, tune ha itohasiki yoru no nagasa mo, toku ake nuru kokoti sure ba, "Hito ni sira re zi." to obosu mo, kokoroawatatasiu te, komaka ni katarahi oki te, ide tamahi nu.
3.2.15   御文、いと忍びてぞ今日はあるあいなき御心の鬼なりやここにもかかることいかで漏らさじとつつみて、御使 ことことしうももてなさぬを、 胸いたく思へり
 後朝のお手紙、こっそりと今日はある。つまらない良心の呵責であるよ。こちらでも、このようなことを何とか世間に知られまいと隠して、御使者を仰々しくもてなさないのを、残念に思った。
 その翌日は手紙を送るのに以前よりも人目がはばかられる気もした。源氏の心の鬼からである。入道のほうでも公然のことにはしたくなくて、結婚の第二日の使いも、そのこととして派手はでに扱うようなことはしなかった。こんなことにも娘の自尊心は傷つけられたようである。
  Ohom-humi, ito sinobi te zo kehu ha aru. Ainaki mikokoronooni nari ya! Koko ni mo, kakaru koto ikade morasa zi to tutumi te, ohom-tukahi kotokotosiu mo motenasa nu wo, mune itaku omohe ri.
3.2.16  かくて後は、忍びつつ時々おはす。「 ほどもすこし離れたるに、おのづからもの言ひさがなき海人の子もや立ちまじらむ」と 思し憚るほどを、「 さればよ」と 思ひ嘆きたるを、「 げに、いかならむ」と、入道も極楽の願ひをば忘れて、ただ この御けしきを待つことにはす今さらに心を乱るも、いといとほしげなり
 こうして後は、こっそりと時々お通いになる。「距離も少し離れているので、自然と口さがない海人の子どもがいるかも知れない」とおためらいになる途絶えを、「やはり、思っていたとおりだわ」と嘆いているので、「なるほど、どうなることやら」と、入道も極楽往生の願いも忘れて、ただ君のお通いを待つことばかりである。今さら心を乱すのも、とても気の毒なことである。
 それ以後時々源氏は通って行った。少し道程みちのりのある所でもあったから、土地の者の目につくことも思って間を置くのであるが、女のほうではあらかじめうれえていたことが事実になったように取って、煩悶はんもんしているのを見ては親の入道も不安になって、極楽の願いも忘れたように、仏勤めはなまけて、源氏の君の通って来ることを大事だと考えている。入道からいえば事が成就しているのであるが、その境地で新しく物思いをしているのがあわれであった。
  Kakute noti ha, sinobi tutu tokidoki ohasu. "Hodo mo sukosi hanare taru ni, onodukara monoihi saganaki ama no ko mo ya tatimazira m." to obosi habakaru hodo wo, "Sarebayo!" to omohi nageki taru wo, "Geni, ika nara m?" to, Nihudau mo gokuraku no negahi wo ba wasure te, tada kono mikesiki wo matu koto ni hasu. Imasara ni kokoro wo midaru mo, ito itohosige nari.
注釈429忍びて吉しき日見て明石入道、吉日を占って、八月十三夜に源氏を招く。3.2.1
注釈430弟子どもなどにだに「だに」副助詞、最小限の程度。腹心となって下働きをする弟子にさえの意。3.2.1
注釈431十三日の月青表紙本諸本は「十二三日の月」(横陽)「十二三日の月の月の」(池)とある。河内本も「十二三日の月」。大島本と肖柏本、書陵部本、三条西家本が同文。『集成』『新大系』は底本のままとする。『古典セレクション』は「十二三日の月」と校訂する。3.2.1
注釈432あたら夜の入道の文。「あたら夜の月と花とを同じくは心知れらむ人に見せばや」(後撰集春下、一〇三、源信明)を踏まえる。『集成』は「娘を許す意をほのめかす」と注す。3.2.1
注釈433好きのさまや源氏の心中。入道を批評。『集成』は「風流ぶったものよ」と訳す。3.2.2
注釈434御直衣たてまつり「たてまつり」は「着る」の尊敬語。3.2.2
注釈435夜更かして出でたまふ夜の更けるのを待って。『完訳』は「噂や良清の思惑を憚るためか」と注す。3.2.2
注釈436惟光などばかりをさぶらはせたまふ「など」副助詞、婉曲。「ばかり」副助詞、範囲。「せ」使役の助動詞。「たまふ」尊敬の補助動詞。3.2.2
注釈437思ふどち見まほしき入江の月影にも「思ふどちいざ見に行かむ玉津島入江の底に沈む月影」(源氏釈所引、出典未詳)の語句を踏まえる。『集成』は「いとしい人と一緒に眺めたい入江に映る月影につけても」。『完訳』は「古歌にいうように「思ふどち」で行って見たいような入江の月影を御覧になるにつけても」と訳す。3.2.2
注釈438まづ恋しき人の御ことを思ひ出できこえたまふに「まづ」副詞、「思ひ出できこえたまふ」に係る。「に」接続助詞、順接。紫の君のことがまっさきに思い出されるので。3.2.2
注釈439やがて馬引き過ぎて、赴きぬべく思す「やがて」副詞、「赴きぬべく」に係る。「引き過ぎて」は明石の君の家を通り過ぎて都への意。「ぬべく」連語(「ぬ」完了の助動詞+「べく」推量の助動詞)、強い当然のニュアンス。行ってしまいそうに。3.2.2
注釈440秋の夜の月毛の駒よ我が恋ふる--雲居を翔れ時の間も見む源氏の独詠歌。紫の君を恋うる歌。「雲居を」の格助詞「を」は空間の移動を表す。「む」推量の助動詞、源氏の意志。見たい。「月毛の駒」に「月」という名を負うなら、天翔って都まで行き、しばしの間でもよいから紫の君に一目逢いたい。3.2.3
注釈441うちひとりごたれたまふ「うち」接頭語、つい、思わずというニュアンス。「れ」自発の助動詞、源氏の心情の底流を語る。3.2.4
注釈442造れるさま、木深く、いたき所まさりて場面変わって明石の君のいる岡辺の家。3.2.5
注釈443これは心細く住みたるさま海辺の家と岡辺の家を比較。『完訳』は「「ものあはれなり」に続く」と注す。3.2.5
注釈444思ひ残すことはあらじと大島本は「あらしと」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は「あらじとすらむと」と「すらむと」を補訂する。諸本には視界外推量の助動詞「らむ」がある。3.2.5
注釈445思しやらるるに「るる」自発の助動詞。「に」接続助詞、順接。『集成』は「娘の人柄がしのばれて」。『完訳』は「おもいやらずにはいらっしゃれないにつけても」と注す。3.2.5
注釈446岩に生ひたる松の根ざしも心ばへあるさまなり岩に生えていえう松の根も風情のあるさまだの意。3.2.5
注釈447虫の声を尽くしたり『集成』は「あらゆる虫を放って鳴かせている」。『完訳』は「秋の虫がいっせいに鳴きたてている」と訳す。3.2.5
注釈448月入れたる真木の戸口けしきばかり押し開けたり大島本は「月いれたるま木の戸くちけしきこと(こと#)/に(に#はかり)をしあけたり」とある。すなわち「ことに」を抹消して「はかり」と訂正している。他の青表紙本諸本は「けしきことに」(横陽三)「けしきはかり」(池肖)と大別される。河内本は「気色ことに」とする。古注釈書『源氏釈』(冷泉家本)『河海抄』所引本文は「けしきことに」とする。一条兼良『花鳥余情』は「けしきことに」の本文を引用して「定家卿の青表紙にはけしきはかりをしあけたりとあり」といい、続けて「明石入道源氏を引導申につきてけしきはかりといふは源氏にこのとくちより入らせ給へと思へる心むけにことさらはかりあけたる也」と解説し、それに対して「けしきことにといふはもとよりみちひきたてまつるうへはこれより入らせ給へとわさとかましくをしあけたるへし」と解説する。そして「両説ともに其謂なきにあらす人の所存にしたかふへし」と結論づけ、「この月入たるまきの戸口は源氏第一の詞と定家卿は申侍るとかや」(松永本)と伝えている。大島本の傍注にも「月いれたる槙戸口ハ源氏第一詞と定家卿ハ申侍ると也」と伝える。『集成』『新大系』は底本の訂正に従う。『古典セレクション』は諸本に従って「けしきことに」と校訂する。引き歌「君や来む我や行かむのいさよひに真木の板戸もささず寝にけり」(古今集恋四、六九〇、読人しらず)。『集成』は「月のさし入った妻戸の出入口が、ほんのわずか押し開けてある。「月入れたる」の措辞に、あたかも源氏を閨に誘うかのように、という感じが表されている」「この戸口を木戸口とするのは当たらない」と注す。『完訳』は「月の光のさしこんだ木戸口がおもわせぶりに押し開けてある」と注す。『新大系』は「源氏の訪れに備えて少し開けてある妻戸から月光がさし込んでいる情景」と注す。3.2.6
注釈449うちやすらひ何かとのたまふにも主語は源氏。ためらいながら話かける。3.2.7
注釈450かうまでは見えたてまつらじ明石の君の心中。「かうまで」このように近々との意。「じ」打消推量の助動詞。明石の君の意志。3.2.7
注釈451うちとけぬ心ざまを「ぬ」打消の助動詞。気を許さない態度を。3.2.7
注釈452こよなうも人めきたるかな以下「あなづらはしきにや」まで、源氏の心中。『集成』は「なんとまあいっぱしの貴婦人めいた振舞であることか」と訳す。3.2.7
注釈453さしもあるまじき際の人だに「さしも」副詞(「さ」副詞+「しも」副助詞)は明石の君をさす。「まじ」打消推量の助動詞。「だに」副助詞、最低限を表す。『集成』は「そんな態度をとりそうもない(簡単に男になびきそうもない)高い身分の女性でも」。『完訳』は「容易に近寄りがたい高貴な身の女でさえも」と注す。3.2.7
注釈454いとかくやつれたるに源氏の流離の身をさす。「に」接続助詞、原因理由。3.2.7
注釈455あなづらはしきにや「に」断定の助動詞、「や」係助詞、疑問。『集成』は「見くびっているのだろうか」と訳す。3.2.7
注釈456情けなう以下「人悪ろけれ」まで、源氏の心中。3.2.7
注釈457げにもの思ひ知らむ人にこそ見せまほしけれ語り手の批評。『集成』「前の「あたら夜の」という入道の誘いを受けて「げに」という」。3.2.7
注釈458近き几帳の紐に、箏の琴の弾き鳴らされたるも『完訳』は「几帳の紐が、女君の身動きで、箏の絃にふれ音をたてる。彼女の心の琴線がふれる感じである」と注す。3.2.8
注釈459けはひしどけなくうちとけながら『集成』は「取り片付けた様子もなく、くつろいだふだんのまま」。『完訳』は「「けはひしどけなく」は、上からは述語、下へは連用修飾で続く」「取り散らかしたままうちくつろいだ格好で」と注す。3.2.8
注釈460この聞きならしたる琴をさへや源氏の詞。「聞きならす」は入道から常日頃聞かされていたという意。「たる」完了の助動詞、存続。「こと」は「事」と「琴」の掛詞、言葉遊び。琴が巧みだという話と琴そのもの。「さへ」副助詞、言葉はもちろん琴までもの意。「や」係助詞、疑問。下に「聞かせたまはぬ」などの語句が省略。最後まで明言しないところに余意余情が生まれる。3.2.9
注釈461むつごとを語りあはせむ人もがな--憂き世の夢もなかば覚むやと源氏の贈歌。「憂き世の夢」は現実世界の流浪の身をいう。『集成』は「「むつごと」「夢」は縁語」。『完訳』は「「うき世の夢」は、現在の流離の身を夢ととらえた表現。あなたと親しく語り合えば、その夢から覚められる、と親交を訴えた歌。なお逢瀬の歌の「夢」は、情交を暗示する」と注す。3.2.11
注釈462明けぬ夜にやがて惑へる心には--いづれを夢とわきて語らむ明石の君の返歌。源氏の「夢」を受けて、それを「明けぬ夜に」「惑へる」を自分の「夢」として返す。3.2.12
注釈463ほのかなるけはひ『集成』は「ほのかに言う様子」。『完訳』は「暗闇の中で想像される様子」と注す。3.2.13
注釈464かうものおぼえぬに「に」接続助詞、順接、原因理由。このように意外な事なので。3.2.13
注釈465いとわりなくて『完訳』は「源氏の直接行動を無我夢中の女の心に即していう表現」と注す。3.2.13
注釈466いかで固めけるにか「いかで」副詞、方法、どのように。「に」完了の助動詞。「か」係助詞、疑問。源氏の心中、また語り手の疑問。どのように鎖してしまったのか。3.2.13
注釈467されど、さのみもいかでかあらむ「さ」明石の君が曹司の内側から固く閉めたことさす。「のみ」副助詞、限定・強調。そうとばかり。「も」係助詞、強調のニュアンス。「いかでかは」連語(「いかで」副詞+「か」係助詞+「は」係助詞)、反語。やや強調のニュアンス。「む」推量の助動詞、推量。語り手の事態の推量。どうしていつまでそうしてばかりいられようか、ついには開けてしまった。3.2.13
注釈468人ざまいとあてにそびえて心恥づかしきけはひぞしたる閨房の中の明石の君の容姿や態度。「ぞ」係助詞、「たる」完了の助動詞、存続、連体形、係結び、強調のニュアンス。3.2.14
注釈469かうあながちなりける契りを源氏の心に即して語る表現。『集成』は「こんな結ばれるはずもない二人がむすばれたという深い縁をお思いになるにつけても」。『完訳』は「こうして無理強いして一方的に結んだ二人の仲をお思いになるにつけても」と訳す。3.2.14
注釈470浅からずあはれなり「なり」断定の助動詞、語り手の批評。御心さしのちかまさりするなるへし−「なる」断定の助動詞、「べし」推量の助動詞。源氏の心を語り手が推量した表現。集成「草子地」。集成、句点で文を完結。完訳、読点で文を下に続ける。3.2.14
注釈471常は厭はしき夜の長さもとく明けぬる心地すれば季節は秋(八月十三日)、夜が長く感じられるころ。3.2.14
注釈472人に知られじ源氏の心中。3.2.14
注釈473御文いと忍びてぞ今日はある「御文」は後朝の文。「は」係助詞、区別、強調のニュアンス。『集成』は「今までの文通は大っぴらだったのである」と注す。3.2.15
注釈474あいなき御心の鬼なりや「あいなき」形容詞。「なり」断定の助動詞。「や」間投助詞、詠嘆。語り手の批評。『集成』は「草子地。源氏としては京への聞えを憚るのである」。『完訳』は「語り手の評。紫の上など気にせずともよい、無用の良心の呵責」と注す。3.2.15
注釈475ここにも明石入道方をさす。3.2.15
注釈476かかることいかで漏らさじ明石入道の心中。娘と源氏の結婚をさす。源氏の意向に従って、内密にする。3.2.15
注釈477ことことしうも「コトコトシイ」(日葡辞書)。3.2.15
注釈478胸いたく思へり『集成』は「入道は残念に思っている。結婚第一夜の後朝の文の使いは盛大にもてなすしきたりであった」。3.2.15
注釈479ほどもすこし離れたるに以下「立ちまじらむ」まで、源氏の心中。「に」接続助詞、順接、原因理由。3.2.16
注釈480思し憚るほどを「程」名詞、時間・程度を表す。具体的には途絶え。3.2.16
注釈481さればよ明石の君の心中。出来心を想像していた。3.2.16
注釈482思ひ嘆きたるを「を」、『集成』は「悲しむのを」と格助詞に解し、『完訳』は「嘆いているので」と接続助詞、順接に解す。3.2.16
注釈483げにいかならむ入道の心中。『集成』は「げに」を、本当に、全くの意に解し、また「いかならむ」を事態の成り行きを心配する意に解し、「ほんとにどうなることかと」と訳す。『完訳』は「げに」を娘の気持ちを受けて、なるほど、娘が嘆いているように、の意に解し、「いかならむ」を源氏の真意を推測する意に解し、「いかにも、源氏のお気持ちはどうなのだろうと」と訳す。いずれにも解せる両義を含んだ表現。3.2.16
注釈484この御けしきを待つことにはす「御けしき」は源氏の通って来ることをさす。「に」断定の助動詞。「は」係助詞、強調のニュアンス。3.2.16
注釈485今さらに心を乱るもいといとほしげなり語り手の入道に対する同情。3.2.16
出典10 あたら夜の あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや 後撰集春下-一〇三 源信明 3.2.1
出典11 思ふどち見まほしき 思ふどちいざ見に行かむ玉津島入り江の底に沈む月影 源氏釈所引、出典未詳 3.2.2
出典12 月毛の駒 久方の月毛の駒をうち早め来ぬらむとのみ君を待つかな 古今六帖二-一四三〇 3.2.3
校訂41 前栽どもに虫の声を尽くしたり 前栽どもに虫の声を尽くしたり--(/+前栽ともに虫のこゑをつくしたり) 3.2.5
校訂42 ばかり ばかり--ことに(ことに/#はかり) 3.2.6
校訂43 胸--む(む/+ね) 3.2.15
3.3
第三段 紫の君に手紙


3-3  Mail to Murasaki-no-Kimi

3.3.1   二条の君の、風のつてにも漏り聞きたまはむことは、「 たはぶれにても、心の隔てありけると、 思ひ疎まれたてまつらむ心苦しう恥づかしう」思さるるもあながちなる御心ざしのほどなりかし。「 かかる方のことをば さすがに、心とどめて 怨みたまへりし折々、などて、 あやなきすさびごとにつけてもさ思はれたてまつりけむ 」など、取り返さまほしう、 人のありさまを見たまふにつけても、恋しさの慰む方なければ 、例よりも御文こまやかに書きたまひて、
 二条院の君が、風の便りにも漏れお聞きなさるようなことは、「冗談にもせよ、隠しだてをしたのだと、お疎み申されるのは、申し訳なくも恥ずかしいことだ」とお思いになるのも、あまりなご愛情の深さというものであろう。「こういう方面のことは、穏和な方とはいえ、気になさってお恨みになった折々、どうして、つまらない忍び歩きにつけても、そのようなつらい思いをおさせ申したのだろうか」などと、昔を今に取り戻したく、女の有様を御覧になるにつけても、恋しく思う気持ちが慰めようがないので、いつもよりお手紙を心こめてお書きになって、
 二条の院の女王にょおうにこのうわさが伝わっては、恋愛問題では嫉妬しっとする価値のあることでないとわかっていても、秘密にしておく自分の態度を恨めしがられては苦しくもあり、気恥ずかしくもあると思っていた源氏が紫夫人をどれほど愛しているかはこれだけでも想像することができるのである。女王も源氏を愛することの深いだけ、他の愛人との関係に不快な色を見せたそのおりおりのことを今思い出して、なぜつまらぬことで恨めしい心にさせたかと、取り返したいくらいにそれを後悔している源氏なのである。新しい恋人は得ても女王へこがれている心は慰められるものでもなかったから、平生よりもまた情けのこもった手紙を源氏は京へ書いたのであるが、奥に今度のことを書いた。
  Nideu-no-Kimi no, kaze no tute ni mo mori kiki tamaha m koto ha, "Tahabure ni te mo, kokoro no hedate ari keru to, omohi utoma re tatematura m, kokorogurusiu hadukasiu" obosa ruru mo, anagati naru mikokorozasi no hodo nari kasi. "Kakaru kata no koto wo ba, sasugani, kokoro todome te urami tamahe ri si woriwori, nadote, ayanaki susabigoto ni tuke te mo, sa omoha re tatematuri kem?" nado, torikahesa mahosiu, hito no arisama wo mi tamahu ni tukete mo, kohisisa no nagusamu kata nakere ba, rei yori mo ohom-humi komayaka ni kaki tamahi te,
3.3.2  「 まことや、我ながら心より外なるなほざりごとにて、疎まれたてまつりし節々を、思ひ出づるさへ胸いたきに、また、あやしうものはかなき夢をこそ見はべりしか。かう聞こゆる問はず語りに、隔てなき心のほどは思し合はせよ。『 誓ひしことも』」など書きて、
 「ところで、そうそう、自分ながら心にもない出来心を起こして、お恨まれ申した時々のことを、思い出すのさえ胸が痛くなりますのに、またしても、変なつまらない夢を見たのです。このように申し上げます問わず語りに、隠しだてしない胸の中だけはご理解ください。『誓ひしことも』」などと書いて、
 私は過去の自分のしたことではあるが、あなたを不快にさせたつまらぬいろいろな事件を思い出しては胸が苦しくなるのですが、それだのにまたここでよけいな夢を一つ見ました。この告白でどれだけあなたに隔てのない心を持っているかを思ってみてください。「誓ひしことも」(忘れじと誓ひしことをあやまたば三笠みかさの山の神もことわれ)という歌のように私は信じています。と書いて、また、
  "Makoto ya, ware nagara kokoro yori hoka naru nahozarigoto nite, utoma re tatematuri si husibusi wo, omohi-iduru sahe mune itaki ni, mata, ayasiu mono-hakanaki yume wo koso mi haberi sika. Kau kikoyuru tohazugatari ni, hedate naki kokoro no hodo ha obosi ahase yo. 'Tikahi si koto mo'." nado kaki te,
3.3.3  「 何事につけても
 「何事につけても、
  何事も、
  "Nanigoto ni tuke te mo,
3.3.4    しほしほとまづぞ泣かるるかりそめの
   みるめは海人のすさびなれども
  あなたのことが思い出されて、さめざめと泣けてしまいます
  かりそめの恋は海人のわたしの遊び事ですけれども
  しほしほとづぞ泣かるるかりそめの
  みるめは海人あまのすさびなれども
    Sihosiho to madu zo naka ruru karisome no
    mirume ha ama no susabi nare domo
3.3.5   とある御返り、何心なく らうたげに書きて
 とあるお返事、何のこだわりもなくかわいらしげに書いて、
 と書き添えた手紙であった。京の返事は無邪気な可憐かれんなものであったが、それも奥に源氏の告白による感想が書かれてあった。
  to aru ohom-kaheri, nanigokoro naku rautage ni kaki te,
3.3.6  「 忍びかねたる 御夢語りにつけても、 思ひ合はせらるること多かるを
 「隠しきれずに打ち明けてくださった夢のお話につけても、思い当たることが多くございますが、
 お言いにならないではいらっしゃれないほど現在のお心を占めていますことをおらせくださいまして承知いたしましたが、私には新しい恋人に傾倒していらっしゃる御様子が昔のいろいろな場合と思い合わせて想像することもできます。
  "Sinobi kane taru ohom-yumegatari ni tuke te mo, omohi-ahase raruru koto ohokaru wo,
3.3.7    うらなくも思ひけるかな契りしを
   松より波は越えじものぞと
  固い約束をしましたので、何の疑いもなく信じておりました
  末の松山のように、心変わりはないものと
  うらなくも思ひけるかな契りしを
  松より波は越えじものぞと
    Uranaku mo omohi keru kana tigiri si wo
    matu yori nami ha koye zi mono zo to
3.3.8  おいらかなるものから、ただならずかすめたまへるを、いとあはれに、うち置きがたく見たまひて、 名残久しう、忍びの旅寝もしたまはず
 鷹揚な書きぶりながら、お恨みをこめてほのめかしていらっしゃるのを、とてもしみじみと思われ、下に置くこともできず御覧になって、その後は、久しい間忍びのお通いもなさらない。
 おおようではあるがくやしいと思う心も確かにかすめて書かれたものであるのを、源氏は哀れに思った。この手紙を手から離しがたくじっとながめていた。この当座幾日は山手の家へ行く気もしなかった。
  oiraka naru monokara, tada nara zu kasume tamahe ru wo, ito ahare ni, uti-oki gataku mi tamahi te, nagori hisasiu, sinobi no tabine mo si tamaha zu.
注釈486二条の君紫の君。3.3.1
注釈487たはぶれにても以下「恥づかしう」まで、源氏の心中。自然と心中文に移り、再び引用句がなく地の文に流れる。3.3.1
注釈488思ひ疎まれたてまつらむ大島本は「たてまつらん」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「たてまつらむは」と「は」を補訂する。「れ」受身の助動詞、「たてまつら」謙譲の補助動詞。源氏が紫の君から疎まれ申す、と自卑した表現。「む」推量の助動詞、仮定・婉曲のニュアンス。『集成』は「不愉快な思いをおさせ申すことになるのは」、「れ」尊敬の助動詞に解し、紫の君を主体にした解釈。『完訳』は「お疎まれ申すようなことがあっては」、「れ」受身の助動詞に解し、源氏自身を主体にした解釈。3.3.1
注釈489心苦しう恥づかしう思さるるも「心苦し」は紫の君に対する源氏の気持ち、「恥づかし」は源氏自身に対する気持ち。3.3.1
注釈490あながちなる御心ざしのほどなりかし語り手の源氏の紫の君を思う気持ちの厚いことについての批評。3.3.1
注釈491かかる方のことをば以下「思はれたてまつりけむ」まで、源氏の心中。「かかる方のこと」とは源氏の浮気沙汰をいう。3.3.1
注釈492さすがに温厚な紫の君とはいえというニュアンス。3.3.1
注釈493怨みたまへりし折々「し」過去の助動詞。『完訳』は「紫の上の嫉妬の事実は、これまで具体的には語られていない」と注す。ここが初見。紫の君の人間性を増幅。3.3.1
注釈494あやなきすさびごとにつけても過去の浮気沙汰をさす。3.3.1
注釈495さ思はれたてまつりけむ「さ」、『完訳』「つらい思い」。嫉妬ともとれる。「れ」尊敬の助動詞と解せば、辛い思い。受身の助動詞と解せば、嫉妬されること。前の「思ひ疎まれたてまつらむ」と同じ表現。3.3.1
注釈496人のありさまを見たまふにつけても恋しさの慰む方なければ明石の君と逢うにつけ紫の君を恋しく思われるの意。源氏の心情。3.3.1
注釈497まことや以下「誓ひし事ことも」まで、源氏の紫の君への手紙。「心より外なる」「なほざりごと」「疎まれ」「思ひ出づるさへ」と続け「また」「あやしうものはかなき夢をこそ見はべりしか」と明石の地の女との情交をほのめかす。3.3.2
注釈498誓ひしことも「忘れじと誓ひし事を過たず三笠の山の神もことわれ」(出典未詳)を踏まえる。3.3.2
注釈499何事につけても手紙文が「しほしほと」の和歌に係る。3.3.3
注釈500しほしほとまづぞ泣かるるかりそめの--みるめは海人のすさびなれども源氏の紫の君への贈歌。掛詞、「しほしほと」(擬態語)と「塩」、「見る目」(女に逢う)と「海松布」(海草)。縁語、「塩」「刈り」「海松布」「海人」。大変に技巧的な和歌。他の女と逢った後ろめたさの自己韜晦がある。3.3.4
注釈501とある御返り間髪を入れず一続きに続ける。3.3.5
注釈502らうたげに書きて大島本は「かきて・はてに(はてに#)」と「はてに」を抹消している。『集成』『新大系』はその抹消に従う。『古典セレクション』は諸本に従って「書きて、はてに」とする。3.3.5
注釈503忍びかねたる以下「波は越えじものぞと」まで、紫の君の返信。3.3.6
注釈504御夢語り源氏の「問はず語り」の「夢を見はべりし」を「夢語り」とし、源氏の告白を合点する。3.3.6
注釈505思ひ合はせらるること多かるをこれも次の和歌の「うらなくも」に係る。手紙の地の文から和歌へ直接続く表現。源氏と同じ手法を用いる。「を」接続助詞は、順接・逆接、いづれにも解せる表現。3.3.6
注釈506うらなくも思ひけるかな契りしを--松より波は越えじものぞと紫の君の返歌。「君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ」(古今集、一〇九三、陸奥歌)。「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」(後拾遺集恋四、七七〇、清原元輔)などを踏まえる。「うらなく」(思慮なくの意)に「浦」を響かす。「浦」「波」縁語。3.3.7
注釈507名残久しう忍びの旅寝もしたまはずその後、明石の君を訪うことが久しくなくなったの意。3.3.8
出典13 誓ひしことも 忘れじと誓ひしことをあやまたば三笠の山の神もことわれ 源氏釈所引、出典未詳 3.3.2
出典14 松より波は越えじ 君をおきてあだし心をわが持たば末の松山波も越えなむ 古今集東歌-一〇九三 陸奥歌 3.3.7
契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは 元輔集-二一八
校訂44 ことをば ことをば--ことをを(を/#)は 3.3.1
校訂45 さ--(/+さ) 3.3.1
校訂46 なければ なければ--なけれ(れ/+は) 3.3.1
校訂47 書きて 書きて--かきてはてに(はてに/#) 3.3.5
3.4
第四段 明石の君の嘆き


3-4  Akashi-no-Kimi's grief

3.4.1   女、思ひしもしるきに今ぞまことに身も投げつべき心地する
 女は、予想通りの結果になったので、今こそほんとうに身を海に投げ入れてしまいたい心地がする。
 女は長い途絶えを見て、この予感はすでに初めからあったことであるとなげいて、この親子の間では最後には海へ身を投げればよいという言葉が以前によく言われたものであるが、いよいよそうしたいほどつらく思った。
  Womna, omohi si mo siruki ni, ima zo makoto ni mi mo nage tu beki kokoti suru.
3.4.2  「 行く末短げなる親ばかりを頼もしきものにて、いつの世に 人並々になるべき身と思はざりしかど、ただ そこはかとなくて過ぐしつる年月は、 何ごとをか心をも悩ましけむ、かういみじうもの思はしき 世にこそありけれ
 「老い先短い両親だけを頼りにして、いつになったら人並みの境遇になれる身の上とは思っていなかったが、ただとりとめもなく過ごしてきた年月の間は、何事に心を悩ましたろうか、このようにひどく物思いのする結婚生活であったのだ」
 年取った親たちだけをたよりにして、いつ人並みの娘のような幸福が得られるものとも知れなかった過去は、今に比べて懊悩おうのうの片はしも知らない自分だった。世の中のことはこんなに苦しいものなのであろうか、恋愛も結婚も処女の時に考えていたより悲しいものであると、
  "Yukusuwe mizikage naru oya bakari wo tanomosiki mono nite, itu no yo ni hito naminami ni naru beki mi to omoha zari sika do, tada sokohakatonaku te, sugusi turu tosituki ha, nanigoto wo ka kokoro wo mo nayamasi kem, kau imiziu mono-omohasiki yo ni koso ari kere."
3.4.3  と、かねて推し量り思ひしよりも、よろづに悲しけれど、 なだらかにもてなして、憎からぬさまに見えたてまつる
 と、以前から想像していた以上に、何事につけ悲しいけれど、穏やかに振る舞って、憎らしげのない態度でお会い申し上げる。
 女は心に思いながらも源氏には平静なふうを見せて、不快を買うような言動もしない。
  to, kanete osihakari omohi si yori mo, yorodu ni kanasikere do, nadaraka ni motenasi te, nikukara nu sama ni miye tatematuru.
3.4.4   あはれとは月日に添へて思しませどやむごとなき方の、おぼつかなくて 年月を過ぐしたまひただならずうち思ひおこせたまふらむが、いと心苦しければ、独り臥しがちにて過ぐしたまふ。
 いとしいと月日がたつにつれてますますお思いになっていくが、れっきとした方が、いつかいつかと帰りを待って年月を送っていられるのが、一方ならずご心配なさっていらっしゃるだろうことが、とても気の毒なので、独り寝がちにお過ごしになる。
 源氏の愛は月日とともに深くなっていくのであるが、最愛の夫人が一人京に残っていて、今の女の関係をいろいろに想像すれば恨めしい心が動くことであろうと思われる苦しさから、浜のやかたのほうで一人寝をする夜のほうが多かった。
  Ahare to ha tukihi ni sohe te obosimase do, yamgotonaki kata no, obotukanaku te tosituki wo sugusi tamahi, tadanarazu uti-omohiokose tamahu ram ga, ito kurusikere ba, hitori husi-gati nite sugusi tamahu.
3.4.5   絵をさまざま描き集めて、思ふことどもを書きつけ、返りこと聞くべきさまにしなしたまへり見む人の心に染みぬべきもののさまなり いかでか、空に通ふ御心ならむ、二条の君も、ものあはれに慰む方なくおぼえたまふ折々、 同じやうに絵を描き集めたまひつつ、やがて我が御ありさま、日記のやうに書きたまへりいかなるべき御さまどもにかあらむ
 絵をいろいろとお描きになって、思うことを書きつけて、返歌を聞かれるようにという趣向にお作りなった。見る人の心にしみ入るような絵の様子である。どうして、お心が通じあっているのであろうか、二条院の君も、悲しい気持ちが紛れることなくお思いになる時々は、同じように絵をたくさんお描きになって、そのままご自分の有様を、日記のようにお書きになっていた。どうなって行かれるお二方の身の上であろうか。
 源氏はいろいろに絵をいて、その時々の心を文章にしてつけていった。京の人に訴える気持ちで描いているのである。女王の返辞がこの絵巻から得られる期待で作られているのであった。感傷的な文学および絵画としてすぐれた作品である。どうして心が通じたのか二条の院の女王もものの身にしむ悲しい時々に、同じようにいろいろの絵をいていた。そしてそれに自身の生活を日記のようにして書いていた。この二つの絵巻の内容は興味の多いものに違いない。
  We wo samazama kaki atume te, omohu koto-domo wo kaki tuke, kaherikoto kiku beki sama ni si nasi tamahe ri. Mi m hito no kokoro ni simi nu beki mono no sama nari. Ikadeka, sora ni kayohu mikokoro nara m, Nideu-no-Kimi mo, mono-ahare ni nagusamu kata naku oboye tamahu woriwori, onazi yau ni we wo kaki atume tamahi tutu, yagate waga ohom-arisama, ni'ki no yau ni kaki tamahe ri. Ikanaru beki ohom-sama-domo ni ka ara m?
注釈508女思ひしもしるきに明石の君の嘆き。女という呼称に変わる。3.4.1
注釈509今ぞまことに身も投げつべき心地する明石の君の深い絶望感。3.4.1
注釈510行く末短げなる親ばかりを以下「世にこそありけれ」まで、明石の君の心中。3.4.2
注釈511人並々になるべき身と大島本は「身と」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「身とは」と「は」を補訂する。3.4.2
注釈512そこはかとなくて過ぐしつる年月明石の君の娘時代。3.4.2
注釈513何ごとをか心をも悩ましけむ「か」係助詞、「けむ」過去推量の助動詞、連体形、係結び。反語表現。読点で下文に続く。3.4.2
注釈514世にこそありけれ「こそ」係助詞、「けれ」過去の助動詞、詠嘆、已然形、係結び。強調のニュアンス。3.4.2
注釈515なだらかにもてなして憎からぬさまに見えたてまつる明石の君のたしなみのある態度。3.4.3
注釈516あはれとは月日に添へて思しませど主語は源氏。明石の君に対し月日とともに愛情が増してゆく。「ど」接続助詞、逆接の確定条件。3.4.4
注釈517やむごとなき方の都の紫の君をさす。3.4.4
注釈518年月を過ぐしたまひ大島本は「すくし給ひ(△&ひ)」と元の文字(判読不明)の上に重ねて「ひ」と書く。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「過ぐしたまふが」と校訂する。3.4.4
注釈519ただならずうち思ひおこせたまふらむが『集成』は「心おだやかでなくこちらのことをお思いであろうが」。『完訳』は「ひとかたならず自分に思いを寄せていらっしゃるか」と訳す。「らむ」視界外推量、源氏が都の紫の君を想像しているニュアンス。3.4.4
注釈520絵をさまざま描き集めて、思ふことどもを書きつけ、返りこと聞くべきさまにしなしたまへり絵の余白に和歌を書きつけ、さらにその絵や歌に対する紫の君の返歌も載せるべく余白を残した体裁。3.4.5
注釈521見む人の心に染みぬべきもののさまなり語り手の批評。3.4.5
注釈522いかでか空に通ふ御心ならむ語り手の推量の挿入句。『集成』は「どうしてお話し合いもないのにお互いのお気持が通じ合うのであろうか」と注す。「雲居にもかよふ心のおくれねば別ると人に見ゆばかりなり」(古今集離別、三七八、清原深養父)。3.4.5
注釈523同じやうに絵を描き集めたまひつつやがて我が御ありさま日記のやうに書きたまへり紫の君も源氏同様に、絵の余白に歌日記のような体裁に書きつけた。3.4.5
注釈524いかなるべき御さまどもにかあらむ語り手の推量。『集成』は「草子地。どんな二人の身の上が絵日記に書かれてゆくのだろうか、の意」。『完訳』は「語り手の、今後の源氏と紫の上に期待を抱かせる言辞」と注す。3.4.5
校訂48 なり なり--(/+なり) 3.4.5
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現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
鈴木厚司(青空文庫)

2003年7月16日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2006年1月6日

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by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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