第十八帖 松風


18 MATUKAZE (Ohoshima-bon)


光る源氏の内大臣時代
三十一歳秋の大堰山荘訪問の物語



Tale of Hikaru-Genji's Nai-Daijin era, to visit Ohoi-villa in fall at the age of 31

1
第一章 明石の物語 上洛と老夫婦の別れの秋


1  Tale of Akashi  Going up to Kyouto and parting old married couple in fall

1.1
第一段 二条東院の完成、明石に上洛を促す


1-1  Genji urges Akashi to go up to Kyouto, as a result of built Hingashi-no-In

1.1.1   東の院造りたてて、花散里と聞こえし、移ろはしたまふ。西の対、渡殿などかけて、 政所、家司など、あるべきさまにし置かせたまふ
 東の院を建築して、花散里と申し上げた方を、お移しになる。西の対、渡殿などにかけて、政所、家司など、しかるべき状態にお設けになる。
 東の院が美々しく落成したので、花散里はなちるさとといわれていた夫人を源氏は移らせた。西の対から渡殿わたどのへかけてをその居所に取って、事務の扱い所、家司けいしの詰め所なども備わった、源氏の夫人の一人としての体面を損じないような住居すまいにしてあった。
  Himgasinowin tukuri tate te, Hanatirusato to kikoye si, uturohasi tamahu. Nisinotai, watadono nado kake te, Ma'dokoro, Keisi nado, aru beki sama ni sioka se tamahu.
1.1.2  東の対は、明石の御方と思しおきてたり。
 東の対は、明石の御方をとお考えになっていた。
 東の対には明石あかしの人を置こうと源氏はかねてから思っていた。
  Himgasinotai ha, Akasi-no-Ohomkata to obosi oki te tari.
1.1.3  北の対は、ことに広く造らせたまひて、 かりにても、あはれと思して、行く末かけて契り頼めたまひし人びと集ひ住むべきさまに、隔て隔てしつらはせたまへるしも、なつかしう 見所ありてこまかなる
 北の対は、特別に広くお造りになって、一時的にせよ、ご愛情をお持ちになって、将来までもと約束なさり心頼りにおさせにった女性たちが一緒に住めるようにと、部屋部屋を仕切ってお造りになっているのも、感じがよく、見所があって、行き届いている。
 北の対をばことに広く立てて、かりにも源氏が愛人と見て、将来のことまでも約束してある人たちのすべてをそこへ集めて住ませようという考えをもっていた源氏は、そこを幾つにも仕切って作らせた点で北の対は最もおもしろい建物になった。
  Kitanotai ha, kotoni hiroku tukura se tamahi te, kari ni te mo, ahare to obosi te, yukusuwe kake te tigiri tanome tamahi si hitobito tudohi sumu beki sama ni, hedate hedate situraha se tamahe ru simo, natukasiu midokoro ari te komaka naru.
1.1.4  寝殿は塞げたまはず、時々渡りたまふ御住み所にして、さるかたなる御しつらひどもし置かせたまへり。
 寝殿はお当てがいなさらず、時々ごお渡りになる時のお住まいにして、そのような設備をなさっていた。
 中央の寝殿しんでんはだれの住居すまいにも使わせずに、時々源氏が来て休息をしたり、客を招いたりする座敷にしておいた。
  Sinden ha hutage tamaha zu, tokidoki watari tamahu ohom-sumidokoro ni si te, saru kata naru ohom-siturahi-domo sioka se tamahe ri.
1.1.5   明石には御消息絶えず今はなほ上りたまひぬべきことをばのたまへど、女は、なほ、わが身のほどを思ひ知るに、
 明石にはお便りを絶えず遣わして、今はもうぜひとも上京なさるようにとおっしゃるが、女は、やはり、わが身のほどが分かっているので、
 明石へは始終手紙が送られた。このごろは上京を促すことばかりを言う源氏であった。女はまだ躊躇ちゅうちょをしているのである。
  Akasi ni ha ohom-seusoko taye zu, ima ha naho nobori tamahi nu beki koto wo ba notamahe do, Womna ha, naho, waga minohodo wo omohi siru ni,
1.1.6  「 こよなくやむごとなき際の人びとだに、なかなかさてかけ離れぬ御ありさまのつれなきを見つつ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして、 何ばかりのおぼえなりとてか、さし出でまじらはむ。この若君の 御面伏せに、数ならぬ身のほどこそ現はれめ。たまさかにはひ渡りたまふついでを待つことにて、人笑へに、はしたなきこと、いかにあらむ」
 「この上なく高貴な身分の女性でさえ、縁がすっかり切れるでないご様子の冷淡さを見ながら、かえって、物思いを募らせていると聞くのに、まして、どれほども世間から重んじられているわけでもない者が、その中へ入って行けようか。この若君の不面目になり、賤しい身の上が現れてしまおう。まれまれにこっそりお渡りになる機会を待つことになって、物笑いの種になり、引っ込みがつかなくなること、どんなであろう」
 わが身の上のかいなさをよく知っていて、自分などとは比べられぬ都の貴女きじょたちでさえ捨てられるのでもなく、また冷淡でなくもないような扱いを受けて、源氏のために物思いを多く作るといううわさを聞くのであるから、どれだけ愛されているという自信があってその中へ出て行かれよう、姫君の生母の貧弱さを人目にさらすだけで、
  "Koyonaku yamgotonaki kiha no hitobito dani, nakanaka sate kakehanare nu ohom-arisama no turenaki wo mi tutu, mono-omohi masari nu beku kiku wo, masite, nani bakari no oboye nari tote ka, sasiide maziraha m? Kono Wakagimi no ohom-omotebuse ni, kazu nara nu minohodo koso arahare me. Tamasaka ni hahiwatari tamahu tuide wo matu koto nite, hitowarahe ni, hasitanaki koto, ikani ara m?"
1.1.7  と思ひ乱れても、 また、さりとて、かかる所に生ひ出で、数まへられたまはざらむも、いとあはれなれば、ひたすらにもえ恨み背かず。親たちも、「げに、ことわり」と思ひ嘆くに、なかなか、心も尽き果てぬ。
 と思い乱れても、又一方では、そうかといって、このような明石の田舎の地に生まれて、お子として認めてもらえないのも、ひどくかわいそうなので、一途に恨んだり背いたりすることもできない。両親も、「なるほど、もっともなことだ」と嘆いて、かえって、気苦労の限りをし尽くすのであった。
 たまさかの訪問を待つにすぎない京の暮らしを考えるほど不安なことはないと煩悶はんもんをしながらも明石は、そうかといって姫君をこの田舎いなかに置いて、世間から源氏の子として取り扱われないような不幸な目にあわせることも非常に哀れなことであると思って、出京は断然しないとも源氏へ答えることはできなかった。両親も娘の煩悶するのがもっともに思われて歎息たんそくばかりしていた。
  to omohi midare te mo, mata, saritote, kakaru tokoro ni ohiide, kazumahe rare tamaha zara m mo, ito ahare nare ba, hitasura ni mo e urami somuka zu. Oyatati mo, "Geni, kotowari." to omohi nageku ni, nakanaka, kokoro mo tuki hate nu.
注釈1東の院造りたてて花散里と聞こえし移ろはしたまふ「澪標」巻で語られた二条東院が完成して、花散里などを移り住まわせる。1.1.1
注釈2政所家司などあるべきさまにし置かせたまふ『集成』は「花散里の支配下に置かれ、東の院全体の家政をつかさどるので、花散里に対する夫人の一人としての重い処遇を物語る」と注す。1.1.1
注釈3かりにてもあはれと思して行く末かけて契り頼めたまひし人びと『新大系』は「空蝉、末摘花、五節などをさす。末摘花については蓬生巻に既出」と注す。1.1.3
注釈4見所ありてこまかなる大島本は「こまかなる」とある。『新大系』は底本のままとするが、脚注には「諸本「なり」に従うべきか」とする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「こまかなり」と校訂する。1.1.3
注釈5明石には御消息絶えず源氏は明石の君の上京を促す手紙を送る。1.1.5
注釈6今はなほ上りたまひぬべき大島本は「のほり給ぬへき」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「上りぬべき」と「たまひ」を削除する。『完訳』は「「なほ」に、源氏は幾度となく上京を促してきた意をこめる」と注す。1.1.5
注釈7こよなくやむごとなき際の人びとだになかなか以下「いかにあらむ」まで、明石の君の心中。「だに」--「まして」という文脈。「なかなか」は「もの思ひまさりぬべく」に係る。1.1.6
注釈8何ばかりのおぼえなりとてか『集成』は「〔自分が〕どれほどの身分の者だとうぬぼれて」。『完訳』は「自分はどれほども世間から重んじられているわけでもないのに」と訳す。1.1.6
注釈9またさりとて上京を躊躇する一方で、母親として姫君の将来を考えずにはいられない。以下の明石の心中は地の文で語る。1.1.7
校訂1 御面伏せ 御面伏せ--御(御/+お)もてふせ 1.1.6
1.2
第二段 明石方、大堰の山荘を修理


1-2  Akashi's father makes repairs on his Ohoi-villa in suburb of Kyouto

1.2.1  昔、 母君の御祖父、中務宮と聞こえけるが領じたまひける所、大堰川のわたりにありけるを、その御後、はかばかしうあひ継ぐ人もなくて、年ごろ荒れまどふを思ひ出でて、かの時より伝はりて 宿守のやうにてある人を呼び取りて語らふ。
 昔、母君の祖父で、中務宮と申し上げた方が所領なさっていた所が、大堰川の近くにあったのを、その後は、しっかりと引き継ぐ人もいなくて、長年荒れていたのを思い出して、あの当時から代々留守番のような役をしていた人を呼び迎えて相談する。
 入道夫人の祖父の中務卿なかつかさきょう親王が昔持っておいでになった別荘が嵯峨さがの大井川のそばにあって、宮家の相続者にしかとした人がないままに別荘などもそのままに荒廃させてあるのを思い出して、親王の時からずっと預かり人のようになっている男を明石へ呼んで相談をした。
  Mukasi, hahagimi no ohom-Ohodi, Nakatukasa-no-Miya to kikoye keru ga rauzi tamahi keru tokoro, Ohowigaha no watari ni ari keru wo, sono ohom-noti, hakabakasiu ahi tugu hito mo naku te, tosigoro are madohu wo, omohiide te, kano toki yori tutahari te yadomori no yau nite aru hito wo yobitori te katarahu.
1.2.2  「 世の中を今はと思ひ果てて、かかる住まひに沈みそめしかども、末の世に、思ひかけぬこと出で来てなむ、さらに都の住みか求むるを、にはかにまばゆき人中、いとはしたなく、田舎びにける心地も静かなるまじきを、古き所尋ねて、となむ思ひ寄る。 さるべき物は上げ渡さむ。修理などして、かたのごと人住みぬべくは繕ひなされなむや」
 「この世はこれまでだと見切りをつけて、このような土地に落ちぶれた生活になじんでしまったが、老年になって、思いがけないことが起こったので、改めて都の住居を求めるのだが、急に眩しい都人の中に出るのは、きまりが悪いので、田舎者になってしまった心地にも落ち着くまいから、昔の所領を探し出して、と考えたのだ。必要な費用はお送りしよう。修理などして、どうにか住めるように修繕してくださらないか」
 「私はもう京の生活を二度とすまいという決心で田舎へ引きこもったのだが、子供になってみるとそうはいかないもので、その人たちのためにまた一軒京に家を持つ必要ができたのだが、こうした静かな所にいて、にわかに京の町中の家へはいって気も落ち着くものでないと思われるので、古い別荘のほうへでもやろうかと思う。そちらで今まで使っているだけの建物は君のほうへあげてもいいから、そのほかの所を修繕して、とにかく人が住めるだけの別荘にこしらえ上げてもらいたいと思うのだが」
  "Yononaka wo ima ha to omohi hate te, kakaru sumahi ni sidumi some sika domo, suwenoyo ni, omohikake nu koto ideki te nam, sarani miyako no sumika motomuru wo, nihaka ni mabayuki hitonaka, ito hasitanaku, winakabi ni keru kokoti mo siduka naru maziki wo, huruki tokoro tadune te, to nam omohiyoru. Sarubeki mono ha age watasa m. Suri nado si te, kata no goto hito sumi nu beku ha tukurohi nasa re na m ya?"
1.2.3  と言ふ。預り、
 と言う。宿守りは、
 と入道が言った。
  to ihu. Adukari,
1.2.4  「 この年ごろ、領ずる人もものしたまはず、 あやしきやうになりてはべれば、下屋にぞ繕ひて宿りはべるを、この春のころより、内の大殿の造らせたまふ御堂近くて、かのわたりなむ、いと気 騷がしうなりにてはべる。いかめしき御堂ども建てて、多くの人なむ、造りいとなみはべるめる。 静かなる御本意ならば、それや違ひはべらむ
 「長年、ご領主様もいらっしゃらず、ひどいようになっておりますので、下屋を繕って住んでおりますが、今年の春頃から、内大臣殿がご建立なさっている御堂が近いので、あの近辺は、とても騒々しくなっております。立派な御堂をいくつも建立して、大勢の人々が造営にあたっているようでございます。静かなのがご希望ならば、あそこは適当ではございません」
 「もう長い間持ち主がおいでにならない別荘になって、ひどく荒れたものですから、私たちは下屋しもやのほうに住んでおりますが、しかし今年の春ごろから内大臣さんが近くへ御堂みどうの普請をお始めになりまして、あすこはもう人がたくさん来る所になっておりますよ、たいした御堂ができるのですから、工事に使われている人数だけでもどんなに大きいかしれません。静かなお住居すまいがよろしいのならあすこはだめかもしれません」
  "Kono tosigoro, rauzuru hito mo monosi tamaha zu, ayasiki yau ni nari te habere ba, simoya ni zo tukurohi te yadori haberu wo, kono haru no koro yori, Uti-no-Ohotono no tukura se tamahu midau tikaku te, kano watari nam, ito ke-sawagasiu nari ni te haberu. Ikamesiki midau-domo tate te, ohoku no hito nam, tukuri itonami haberu meru. Siduka naru ohom-ho'i nara ba, sore ya tagahi habera m."
1.2.5  「 何か。それも、かの殿の御蔭に、かたかけてと思ふことありて。おのづから、おひおひに内のことどもはしてむ。まづ、急ぎておほかたのことどもをものせよ」
 「何、かまわぬ。このことも、あの殿のご庇護に、お頼りしようと思うことがあってのことだ。いずれ、おいおいと内部の修理はしよう。まずは、急いでだいたいの修理をしてほしい」
 「いや、それは構わないのだ。というのは内大臣家にも関係のあることでそこへ行こうとしているのだからね。家の中の設備などは追い追いこちらからさせるが、まず急いで大体の修繕のほうをさせてくれ」
  "Nani ka! Sore mo, kano Tono no ohom-kage ni, katakake te to omohu koto ari te. Onodukara, ohiohi ni uti no koto-domo ha si te m. Madu, isogi te ohokata no koto-domo wo monose yo."
1.2.6  と言ふ。
 と言う。
 と入道が言う。
  to ihu.
1.2.7  「 みづから領ずる所にはべらねど、また知り伝へたまふ人もなければ、かごかなるならひにて、年ごろ隠ろへはべりつるなり。御荘の田 などいふことの、いたづらに荒れはべりしかば、 故民部大輔の君に申し賜はりて、さるべき物などたてまつりてなむ、領じ作りはべる」
 「自分自身が所領している所ではございませんが、また他にご相続なさる方もなかったので、閑静な土地柄に従って、長年ひっそり過ごしてきたのでございます。ご領地の田や畑などというものが、台無しに荒れはてておりましたので、故民部大輔様のお許しを得て、しかるべきものどもをお支払い申して、作らせていただいております」
 「私の所有ではありませんが、持っていらっしゃる方もなかったものですから、一軒家のような所を長く私が守って来たのです。別荘についた田地なども荒れる一方でしたから、おくなりになりました民部大輔みんぶだゆうさんにお願いして、譲っていただくことにしましてそれだけの金は納めたのでした」
  "Midukara rauzuru tokoro ni habera ne do, mata siri tutahe tamahu hito mo nakere ba, kagoka naru narahi nite, tosigoro kakurohe haberi turu nari. Misau no ta hatake nado ihu koto no, itadura ni are haberi sika ba, ko-Minbu-no-Taihu-no-Kimi ni mausi tamahari te, sarubeki mono nado tatematuri te nam, rauzi tukuri haberu."
1.2.8   など、そのあたりの貯へのことどもを危ふげに 思ひて、髭がちに つなしにくき顔を、鼻などうち赤めつつ、 はちぶき言へば
 などと、その収穫したものを心配そうに思って、髭だらけの憎々しい顔をして、鼻などを赤くしいしい、口をとがらせて言うので、
 預かり人は自身の物のようにしている田地などを回収されないかと危うがって、権利を主張しておかねばというように、ひげむしゃな醜い顔の鼻だけを赤くしながらあごを上げて弁じ立てる。
  nado, sono atari no takuhahe no koto-domo wo ayahuge ni omohi te, hige-gati ni tunasi nikuki kaho wo, hana nado uti-akame tutu, hatibuki ihe ba,
1.2.9  「 さらに、その田などやうのことは、ここに知るまじ。ただ年ごろのやうに思ひてものせよ。券などはここになむあれど、すべて世の中を捨てたる身にて、年ごろともかくも尋ね知らぬを、そのことも 今詳しくしたためむ
 「まったく、その田畑などのようなことは、こちらでは問題にするつもりはない。ただこれまで通りに思って使用するがよい。証書などはここにあるが、まったく世を捨てた身なので、長年どうなっていたか調べなかったが、そのことも今詳しくはっきりさせよう」
 「私のほうでは田地などいらない。これまでどおりに君は思っておればいい。別荘その他の証券は私のほうにあるが、もう世捨て人になってしまってからは、財産の権利も義務も忘れてしまって、留守居るすい料も払ってあげなかったが、そのうち精算してあげるよ」
  "Sarani, sono ta nado yau no koto ha, koko ni siru mazi. Tada tosigoro no yau ni omohi te monose yo. Ken nado ha koko ni nam are do, subete yononaka wo sute taru mi nite, tosigoro tomokakumo tadune sira nu wo, sono koto mo ima kuhasiku sitatame m."
1.2.10  など言ふにも、大殿のけはひをかくれば、わづらはしくて、その後、 物など多く受け取りてなむ、急ぎ造りける。
 などと言うのにも、大殿との関係をほのめかすので、厄介になって、その後は、品物などを多く受け取って、急いで修築したのであった。
 こんな話も相手は、入道が源氏に関係のあることをにおわしたことで気味悪く思って、私慾しよくをそれ以上たくましくはしかねていた。それからのち、入道家から金を多く受け取って大井の山荘は修繕されていった。
  nado ihu ni mo, Ohotono no kehahi wo kakure ba, wadurahasiku te, sono noti, mono nado ohoku uketori te nam, isogi tukuri keru.
注釈10母君の御祖父中務宮醍醐天皇の親王である前中書王兼明親王を準拠とする。1.2.1
注釈11宿守のやうにてある人を『完訳』は「管理人としての資格も不明確」と注す。留守番役のような人。1.2.1
注釈12世の中を今はと以下「繕ひなされなむや」まで、明石入道の詞。大堰山荘の管理人に修理を命じる。1.2.2
注釈13さるべき物は上げ渡さむ『新大系』は「必要な経費は明石から京へ届けよう」と注す。1.2.2
注釈14この年ごろ以下「違ひはべらむ」まで、宿守の詞。1.2.4
注釈15あやしきやうになりてはべれば大島本は「あやしきや(△&や)うに」とある。すなわち元の文字(不明)を擦り消してその上に「や」と重ね書き訂正している。『新大系』は底本の訂正に従う。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「薮に」と校訂する。『完訳』は「以下、丁寧語「はべり」の多用で、下人らしい口調」と注す。1.2.4
注釈16静かなる御本意ならばそれや違ひはべらむ『集成』は「入道の申し入れを警戒して、口実を設けて婉曲にことわろうとする」と注す。1.2.4
注釈17何かそれも以下「ものせよ」まで、入道の詞。『完訳』は「以下、高飛車で命令的な口吻」と注す。1.2.5
注釈18みづから領ずる所にはべらねど以下「領じ作りはべる」まで、宿守の詞。1.2.7
注釈19故民部大輔の君兼明親王の第二子伊行(従四位上東宮学士兼民部大輔)を準拠とする。1.2.7
注釈20つなしにくき顔『集成』は「語義明らかでないが、不逞なというほどの意味であろう」。『完訳』は「憎たらしげな」と訳す。1.2.8
注釈21はちぶき言へば『集成』は「口をとがらせて言うので」。『完訳』は「ふくれっ面で文句を言うものだから」と訳す。1.2.8
注釈22さらにその田などやうのことは以下「今詳しくしたためむ」まで、入道の詞。1.2.9
注釈23今詳しくしたためむ『集成』は「いずれきちんと処置しよう」。『完訳』は「近いうちに細かく始末をつけよう」と訳す。1.2.9
注釈24物など多く受け取りて『集成』は「代償の物」。『完訳』は「修理費」と注す。1.2.10
校訂2 騷がしう 騷がしう--さ(さ/+は)かしう 1.2.4
校訂3 畠--はたけ(はたけ/$畠<朱>) 1.2.7
校訂4 など など--なん(ん/$<朱>)と 1.2.8
校訂5 思ひて 思ひて--思て(て/$ひて) 1.2.8
1.3
第三段 惟光を大堰に派遣


1-3  Genji sends Koremitsu to Ohoi-villa

1.3.1  かやうに思ひ寄るらむとも知りたまはで、上らむことをもの憂がるも、心得ず思し、「 若君の、さてつくづくとものしたまふを、後の世に人の言ひ伝へむ、 今一際、人悪ろき疵にや」と思ほすに、造り出でてぞ、「 しかしかの所をなむ思ひ出でたる」と聞こえさせける。「 人に交じらはむことを苦しげにのみものするは、かく思ふなりけり」と心得たまふ。「 口惜しからぬ心の用意かな」と思しなりぬ。
 このように考えついていようともご存知なくて、上京することを億劫がっているのも、わけが分からずお思いになって、「若君が、あのようなままひっそり淋しくしていらっしゃるのを、後世に人が言い伝えては、もう一段と、外聞の悪い欠点になりはしないか」とお思いになっていたところに、完成させて、「しかじかの所を思い出しました」と申し上げたのであった。「人なかに出て来ることを嫌がってばかりいたのは、このように考えてのことであったのか」と合点が行きなさる。「立派な心がまえであるよ」とお思いになった。
 そんなことは源氏の想像しないことであったから、上京をしたがらない理由は何にあるかと怪しんでは、姫君がそのまま田舎に育てられていくことによって、のちの歴史にも不名誉な話が残るであろうと源氏は歎息たんそくされるのであったが、大井の山荘ができ上がってから、はじめて昔の母の祖父の山荘のあったことを思い出して、そこを家にして上京するつもりであると明石から知らせて来た。東の院へ迎えて住ませようとしたことに同意しなかったのは、そんな考えであったのかと源氏は合点した。聡明そうめいなしかただとも思ったのであった。
  Kayau ni omohiyoru ram to mo siri tamaha de, nobora m koto wo mono-ugaru mo, kokoroe zu obosi, "Wakagimi no, sate tukuduku to monosi tamahu wo, noti no yo ni hito no ihitutahe m, ima hitokiha, hitowaroki kizu ni ya?" to omohosu ni, tukuri ide te zo, "Sikasika no tokoro wo nam omohiide taru." to kikoye sase keru. "Hito ni maziraha m koto wo kurusige ni nomi monosuru ha, kaku omohu nari keri." to kokoroe tamahu. "Kutiwosikara nu kokoro no youi kana!" to obosi nari nu.
1.3.2  惟光朝臣、例の忍ぶる道は、いつとなくいろひ仕うまつる人なれば、遣はして、さるべきさまに、ここかしこの用意などせさせ たまひけり。
 惟光朝臣、例によって、内緒事にはいつに限らず関係してお勤めする人なので、お遣わしになって、しかるべきさまにあれこれの準備などをおさせになるのであった。
 惟光これみつが源氏の隠し事に関係しないことはなくて、明石の上京の件についても源氏はこの人にまず打ち明けて、さっそく大井へ山荘を見にやり、源氏のほうで用意しておくことは皆させた。
  Koremitu-no-Asom, rei no sinoburu miti ha, itu to naku irohi tukaumaturu hito nare ba, tukahasi te, sarubeki sama ni, kokokasiko no youi nado se sase tamahi keri.
1.3.3  「 あたり、をかしうて、海づらに通ひたる所のさまになむはべりける」
 「付近一帯、趣のある所で、海辺に似た感じの所でございました」
 「ながめのよい所でございまして、やはりまた海岸のような気のされる所もございます」
  "Atari, wokasiu te, umidura ni kayohi taru tokoro no sama ni nam haberi keru."
1.3.4  と聞こゆれば、「 さやうの住まひに、よしなからずはありぬべし」と思す。
 と申し上げると、「そのような住まいとしては、ふさわしくないこともあるまい」とお思いになる。
 と惟光は報告した。そうした山荘の風雅な女主人になる資格のある人であると源氏は思っていた。
  to kikoyure ba, "Sayau no sumahi ni, yosi nakara zu ha ari nu besi." to obosu.
1.3.5   造らせたまふ御堂は、大覚寺の南にあたりて滝殿の心ばへなど、劣らずおもしろき寺なり。
 ご建立なさっている御堂は、大覚寺の南に当たって、滝殿の趣なども、それに負けないくらい素晴らしい寺である。
 源氏の作っている御堂は大覚寺の南にあたる所で、滝殿たきどのなどの美術的なことは大覚寺にも劣らない。
  Tukura se tamahu midau ha, Daikakuzi no minami ni atari te, takidono no kokorobahe nado, otora zu omosiroki tera nari.
1.3.6   これは、川面に、えもいはぬ松蔭に、何のいたはりもなく建てたる寝殿のことそぎたるさまも、おのづから山里のあはれを見せたり。内のしつらひなどまで 思し寄る
 こちらは、大堰川に面していて、何とも言えぬ風趣ある松蔭に、何の工夫も凝らさずに建てた寝殿の簡素な様子も、自然と山里のしみじみとした情趣が感じられる。内部の装飾などまでご配慮なさっている。
 明石の山荘は川に面した所で、大木の松の多い中へ素朴そぼくに寝殿の建てられてあるのも、山荘らしい寂しい趣が出ているように見えた。源氏は内部の設備までも自身のほうでさせておこうとしていた。
  Kore ha, kahadura ni, e mo iha nu matukage ni, nani no itahari mo naku tate taru sinden no kotosogi taru sama mo, onodukara yamazato no ahare wo mise tari. Uti no siturahi nado made obosiyoru.
注釈25若君のさて以下「人悪ろき疵にや」まで、源氏の心中。1.3.1
注釈26今一際『集成』は「母の出自が低い上に田舎育ちということなので「今一際」という」と注す。1.3.1
注釈27しかしかの所をなむ思ひ出でたる明石から文の主旨。「しかしか」は語り手が言い換えたもの。1.3.1
注釈28人に交じらはむことを以下「かく思ふなりけり」まで、源氏の心中。明石の君が上京を渋っていたことに、その文によって合点がゆく。1.3.1
注釈29口惜しからぬ心の用意かな源氏の心中。その配慮に感心する。1.3.1
注釈30あたりをかしうて以下「なむはべりける」まで、惟光の詞。大堰の山荘を見てきた報告。『集成』は「明石の上を住まわせて源氏が通うにふさわしい所だと、源氏の気持をのみ込んだ、いかにも惟光らしい言い分」と注す。1.3.3
注釈31さやうの住まひによしなからずはありぬべし源氏の心中。それを聞いた源氏の感想。『完訳』は「そうした住いであれば、きっと風情がなくはあるまい」と訳す。「さやうの」は都の人目を避ける、の意。1.3.4
注釈32造らせたまふ御堂は大覚寺の南にあたりて源融の別荘であった栖霞観を後に寺とした栖霞寺、今の清涼寺を準拠とする。1.3.5
注釈33滝殿の心ばへなど「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけり」(千載集雑上、一〇三五、藤原公任)。その詞書に「嵯峨大覚寺にまかりて、これかれ歌よみはべりけるによみはべりける」とある。長保元年(九九九)九月、藤原道長嵯峨遊覧の折の歌。拾遺集(雑上、四四九、初句「滝の糸は」、詞書「大覚寺に人々あまたまかりたりけるに、古き滝をよみはべりける」とある)に既出。大覚寺の滝殿は景勝で知られた。1.3.5
注釈34これは川面に明石の大堰山荘の所在をいう。1.3.6
注釈35思し寄る主語は源氏。1.3.6
校訂6 たまひ たまひ--給へ(へ/$ひ) 1.3.2
1.4
第四段 腹心の家来を明石に派遣


1-4  Genji sends his close men to Akashi

1.4.1   親しき人びと、いみじう忍びて下し遣はす。逃れがたくて、今はと思ふに、年経つる浦を離れなむこと、あはれに、入道の心細くて一人止まらむことを思ひ乱れて、よろづに悲し。「 すべて、など、かく、心尽くしになりはじめけむ身にか」と、露のかからぬたぐひうらやましくおぼゆ。
 親しい側近たちを、たいそう内密にお下し遣わしなさる。断わりようもなくて、いよいよ上京と思うと、長年住み慣れた明石の浦を去ること、しみじみとして、入道が心細く独り残るだろうことを思い悩んで、いろいろと悲しい気がする。「何につけても、どうして、こう、心をくだくことになったわが身の上なのだろうか」と、お恵みのかからない人々が羨ましく思われる。
 親しい人たちをもまたひそかに明石へ迎えに立たせた。免れがたい因縁に引かれていよいよそこを去る時になったのであると思うと、女の心は馴染なじみ深い明石の浦に名残なごりが惜しまれた。父の入道を一人ぼっちで残すことも苦痛であった。なぜ自分だけはこんな悲しみをしなければならないのであろうと、朗らかな運命を持つ人がうらやましかった。
  Sitasiki hitobito, imiziu sinobi te kudasi tukahasu. Nogare gataku te, ima ha to omohu ni, tosi he turu ura wo hanare na m koto, ahare ni, Nihudau no kokorobosoku te hitori tomara m koto wo omohimidare te, yorodu ni kanasi. "Subete, nado, kaku, kokorodukusi ni nari hazime kem mi ni ka?" to, tuyu no kakara nu taguhi urayamasiku oboyu.
1.4.2  親たちも、かかる御迎へにて上る幸ひは、年ごろ寝ても覚めても、願ひわたりし心ざしのかなふと、いとうれしけれど、 あひ見で過ぐさむいぶせさの堪へがたう悲しければ、夜昼思ひほれて、同じことをのみ、「 さらば、若君をば見たてまつらでは、はべるべきか」と言ふよりほかのことなし。
 両親も、このようなお迎えを受けて上京する幸いは、長年寝ても覚めても、願い続けていた本望が叶うのだと、たいそう嬉しいけれど、お互いに一緒に暮らせない気がかりが堪えきれず悲しいので、昼夜ぼんやりして、同じようなことばかり、「そうなると、若君にお目にかかれず、過すことになるのか」と言うこと以外、言葉がない。
 両親も源氏に迎えられて娘が出京するというようなことは長い間寝てもさめても願っていたことで、それが実現される喜びはあっても、その日を限りに娘たちと別れて孤独になる将来を考えると堪えがたく悲しくて、夜も昼も物思いに入道はぼうとしていた。言うことはいつも同じことで、「そして私は姫君の顔を見ないでいるのだね」そればかりである。
  Oya-tati mo, kakaru ohom-mukahe nite noboru saihahi ha, tosigoro ne te mo same te mo, negahi watari si kokorozasi no kanahu to, ito uresikere do, ahi-mi de sugusa m ibusesa no tahe gatau kanasikere ba, yoru hiru omohihore te, onazi koto wo nomi, "Saraba, Wakagimi wo ba mi tatematura de ha, haberu beki ka." to ihu yori hoka no koto nasi.
1.4.3  母君も、いみじうあはれなり。年ごろだに、同じ庵にも住まずかけ離れつれば、 まして誰れによりてかはかけ留まらむ。ただ、あだにうち見る人のあさはかなる語らひだに、 見なれそなれて、別るるほどは、ただならざめるを、まして、もてひがめたる頭つき、心おきてこそ 頼もしげなけれど、またさるかたに、「これこそは、世を限るべき住みかなれ」と、 あり果てぬ命を限りに 思ひて、 契り過ぐし来つるを、にはかに 行き離れなむも心細し。
 母君も、たいそう切ない気持ちである。今まででさえ、同じ庵に住まずに離れていたので、まして誰を頼りとして留まっていられようか。ただ、かりそめの契りを交わした人の浅い関係であってさえ、いったん馴染んだ末に、別れることは、一通りのものでないようだが、まして、変な恰好の頭や、気質は頼りになりそうにないが、またその方面で、「この土地こそは、一生を終える住まいだ」と、永遠ではない寿命を待つ間の限りを思って、夫婦で暮らして来たのに、急に別れ去るのも、心細い気がする。
 夫人の心も非常に悲しかった。これまでもすでに同じ家には住まず別居の形になっていたのであるから、明石が上京したあとに自分だけが残る必要も認めてはいないものの、地方にいる間だけの仮の夫婦の中でも月日が重なって馴染なじみの深くなった人たちは別れがたいものに違いないのであるから、まして夫人にとっては頑固がんこな我意の強い良人おっとではあったが、明石に作った家で終わる命を予想して、信頼して来た妻なのであるからにわかに別れて京へ行ってしまうことは心細かった。
  Hahagimi mo, imiziu ahare nari. Tosigoro dani, onazi ihori ni mo suma zu kakehanare ture ba, masite tare ni yori te kaha, kake todomara m. Tada, ada ni uti-miru hito no asahaka naru katarahi dani, minare sonare te, wakaruru hodo ha, tada nara za' meru wo, masite, mote-higame taru kasiratuki, kokorookite koso tanomosige nakere do, mata saru kata ni, "Kore koso ha, yo wo kagiru beki sumika nare." to, arihate nu inoti wo kagiri ni omohi te, tigiri sugusi ki turu wo, nihaka ni yuki hanare na m mo kokorobososi.
1.4.4   若き人びとの、いぶせう思ひ沈みつるは、うれしきものから、見捨てがたき浜のさまを、「または、えしも帰らじかし」と、寄する波に添へて、袖濡れがちなり。
 若い女房たちで、憂鬱な気持ちで塞ぎこんでいた者は、嬉しく思う一方で、見捨て難い浜辺の風景を、「もう再びと、帰ってくることもあるまい」と、寄せては返す波に思いを寄せて、涙に袖が濡れがちである。
 光明を見失った人になって田舎いなかの生活をしていた若い女房などは、蘇生そせいのできたほどにうれしいのであるが、美しい明石の浦の風景に接する日のまたないであろうことを思うことで心のめいることもあった。
  Wakaki hitobito no, ibuseu omohi sidumi turu ha, uresiki monokara, misute gataki hama no sama wo, "Mata ha, e simo kahera zi kasi." to, yosuru nami ni sohe te, sode nure-gati nari.
注釈36親しき人びと、いみじう忍びて下し遣はす源氏、迎えの人々を明石に遣わす。1.4.1
注釈37すべてなどかく以下「なりはじめけむ身にか」まで、明石の君の心中。1.4.1
注釈38あひ見で過ぐさむいぶせさの入道について語る。1.4.2
注釈39さらば若君をば見たてまつらでははべるべきか入道の独り言。若君は孫の姫君をさす。1.4.2
注釈40まして誰れによりてかは主語は母君。『集成』は「まして娘が上京する今となっては、誰のためにこの明石に留まろうか。娘とともに上京するのである」と注す。1.4.3
注釈41かけ留まらむ大島本は「かけとゝまらむ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「かけとまらむ」と「と」を削除する。1.4.3
注釈42見なれそなれて「みなれ木の見慣れそなれて離れなば恋しからじや恋しからむや」(源氏釈)による。別れるにどんな事情があるにせよ、長年連れ添った仲であるならば、やはり恋しいものだろう、という歌意。1.4.3
注釈43頼もしげなけれど大島本は「たのもしけなれと」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「頼もしげなれど」と「け」を削除する。1.4.3
注釈44あり果てぬ命を限りに「あり果てぬ命待つ間のほどばかり憂きことしげく思はずもがな」(古今集雑下、九六五、平貞文)を踏まえる。1.4.3
注釈45契り過ぐし来つるを大島本は「契すくしきつるを」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「契り過ぐしつるを」と「き」を削除する。1.4.3
注釈46行き離れなむも大島本は「ゆきはなれなむも」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「行き離れむも」と「な」を削除する。1.4.3
注釈47若き人びとの「の」格助詞、同格。若い女房たちで。1.4.4
出典1 見なれそなれて みなれ木のみなれそなれて離れなば恋しからじや恋しからむや 源氏釈所引、出典未詳 1.4.3
出典2 あり果てぬ命 あり果てぬ命待つ間のほどばかり憂きことしげく思はずもがな 古今集雑下-九六五 平貞文 1.4.3
1.5
第五段 老夫婦、父娘の別れの歌


1-5  Akashi's family make waka at their parting

1.5.1   秋のころほひなれば、もののあはれ取り重ねたる心地して、その日とある暁に、秋風涼しくて、虫の音もとりあへぬに、海の方を見出だしてゐたるに、入道、例の、 後夜より深う起きて、鼻すすりうちして、 行なひいましたり。いみじう言忌すれど、誰も誰もいとしのびがたし。
 秋のころなので、もの悲しい気持ちが重なったような心地がして、上京という日の暁に、秋風が涼しく吹いて、虫の声もあわただしく鳴く折柄、海の方を眺めていると、入道が、いつものように、後夜より早く起き出して、鼻をすすりながら、勤行していらっしゃる。ひどく言葉に気をつけているが、誰も誰もたいそう堪え難い。
 これは秋のことであったからことに物事が身にんで思われた。出立の日の夜明けに、涼しい秋風が吹いていて、虫の声もする時、明石の君は海のほうをながめていた。入道は後夜ごやに起きたままでいて、鼻をすすりながら仏前の勤めをしていた。門出の日は縁起を祝って、不吉なことはだれもいっさい避けようとしているが、父も娘も忍ぶことができずに泣いていた。小さい姫君は非常に美しくて、夜光のたまと思われる麗質の備わっているのを、これまでどれほど入道が愛したかしれない。
  Aki no korohohi nare ba, mono no ahare tori-kasane taru kokoti si te, sono hi to aru akatuki ni, akikaze suzusiku te, musi no ne mo toriahe nu ni, umi no kata wo mi idasi te wi taru ni, Nihudau, rei no, goya yori hukau oki te, hana susuri uti si te, okonahi imasi tari. Imiziu kotoimi sure do, tare mo tare mo ito sinobi gatasi.
1.5.2  若君は、いともいともうつくしげに、夜光りけむ玉の心地して、 袖よりほかに放ちきこえざりつるを、見馴れてまつはしたまへる心ざまなど、ゆゆしきまで、かく、 人に違へる身をいまいましく思ひながら、「 片時見たてまつらでは、いかでか過ぐさむとすらむ」と、つつみあへず。
 若君は、とてもとてもかわいらしい感じで、あの夜光ったという玉のような心地がして、袖から外にお放し申さなかったが、見慣れてつきまとっていらっしゃる心根など、不吉なまでに、こう、通常の人と違ってしまった身をいまいましく思いながら、「片時も拝見しなくては、どのようにして過ごしてゆけようか」と、我慢しきれない。
 祖父の愛によく馴染んでいる姫君を入道は見て、「僧形そうぎょうの私が姫君のそばにいることは遠慮すべきだとこれまでも思いながら、片時だってお顔を見ねばいられなかった私は、これから先どうするつもりだろう」と泣く。
  Wakagimi ha, ito mo ito mo utukusige ni, yoru hikari kem tama no kokoti si te, sode yori hoka ni hanati kikoye zari turu wo, minare te matuhasi tamahe ru kokorozama nado, yuyusiki made, kaku, hito ni tagahe ru mi wo imaimasiku omohi nagara, "Katatoki mi tatematura de ha, ikadeka sugusa m to su ram?" to, tutumi ahe zu.
1.5.3  「 行く先をはるかに祈る別れ路に
   堪へぬは老いの涙なりけり
 「姫君の将来がご幸福であれと祈る別れに際して
  堪えきれないのは老人の涙であるよ
  「行くさきをはるかに祈る別れ
  たへぬは老いの涙なりけり
    "Yukusaki wo haruka ni inoru wakaredi ni
    tahe nu ha oyi no namida nari keri
1.5.4  いともゆゆしや」
 まったく縁起でもない」
 不謹慎だ私は」
  ito mo yuyusi ya!"
1.5.5  とて、おしのごひ隠す。 尼君
 と言って、涙を拭って隠す。尼君、
 と言って、落ちてくる涙をぬぐい隠そうとした。尼君が、京時代の左近中将の良人おっとに、
  tote, osi-nogohi kakusu. Ama-Gimi,
1.5.6  「 もろともに都は出で来このたびや
   ひとり野中の道に惑はむ
 「ご一緒に都を出て来ましたが、今度の旅は
  一人で都へ帰る野中の道で迷うことでしょう
  「もろともに都はできこのたびや
  一人野中の道に惑はん」
    "Morotomo ni miyako ha ide ki kono tabi ya
    hitori nonaka no miti ni madoha m
1.5.7  とて、泣きたまふさま、いとことわりなり。ここら契り交はして積もりぬる年月のほどを思へば、かう浮きたることを頼みて、捨てし世に帰るも、 思へばはかなしや御方
 と言って、お泣きになる様子、まことに無理はない。長年契り交わしてきた年月のほどを思うと、このように当てにならないことを当てにして、捨てた都の生活に帰るのも、考えてみると頼りないことである。御方、
 と言って泣くのも同情されることであった。信頼をし合って過ぎた年月を思うと、どうなるかわからぬ娘の愛人の心を頼みにして、見捨てた京へ帰ることが尼君をはかなくさせるのであった。明石が、
  tote, naki tamahu sama, ito kotowari nari. Kokora tigiri kahasi te tumori nuru tosituki no hodo wo omohe ba, kau uki taru koto wo tanomi te, sute si yo ni kaheru mo, omohe ba hakanasi ya! Ohom-kata,
1.5.8  「 いきてまたあひ見むことをいつとてか
   限りも知らぬ世をば頼まむ
 「京へ行って生きて再びお会いできることをいつと思って
  限りも分からない寿命を頼りにできましょうか
  「いきてまた逢ひ見んことをいつとてか
  限りも知らぬ世をば頼まん
    "Iki te mata ahi mi m koto wo itu tote ka
    kagiri mo sira nu yo wo ba tanoma m
1.5.9   送りにだに
 せめて都まで送ってください」
 送ってだけでもくださいませんか」
  okuri ni dani."
1.5.10  と切にのたまへど、方々につけて、えさるまじきよしを言ひつつ、さすがに道のほども、いと うしろめたなきけしきなり。
 と一生懸命にお頼みになるが、あれやこれやと、そうはできないことを言いながらも、そうはいっても、道中のことがたいそう気がかりな様子である。
 と父に頼んだが、それは事情が許さないことであると入道は言いながらも途中が気づかわれるふうが見えた。
  to seti ni notamahe do, katagata ni tuke te, e sarumaziki yosi wo ihi tutu, sasuga ni miti no hodo mo, ito usirometanaki kesiki nari.
注釈48秋のころほひなれば秋の離別の物語。季節と物語の類同的発想の一例。明石の浜辺を舞台に、秋風、虫の声を配し、父娘また老夫婦の別れを語る。1.5.1
注釈49後夜より深う起きて大島本は「こやより」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「後夜よりも」と「も」を補訂する。1.5.1
注釈50行なひいましたり「います」敬語表現。『完訳』は「例外的な敬語で入道を揶揄」と注す。1.5.1
注釈51袖よりほかに大島本は「袖よりほかに」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「袖よりほかには」と「は」を補訂する。1.5.2
注釈52人に違へる身を出家した姿をいう。1.5.2
注釈53片時見たてまつらではいかでか過ぐさむとすらむ入道の心中。1.5.2
注釈54行く先をはるかに祈る別れ路に--堪へぬは老いの涙なりけり入道の歌。姫君の将来と一行の旅路の安全を祈る歌。『集成』は「堪へぬ」と校訂。『完訳』は「絶えぬ」のまま、「「絶えぬ」「堪へぬ」の掛詞」と注す。1.5.3
注釈55尼君明石の君の母君。初めて「尼君」と呼称され、出家していたことが知らされる。1.5.5
注釈56もろともに都は出で来このたびや--ひとり野中の道に惑はむ尼君の歌。「古る道に我や惑はむいにしへの野中の草は茂りあひにけり」(拾遺集物名、三七五、藤原輔相)を踏まえる。「この旅」と「この度」との掛詞。老夫との過去を回顧し別れを惜しむ歌。1.5.6
注釈57思へばはかなしや『集成』は「尼君の気持を代弁するような草子地」。『完訳』は「尼君の心に即した語り手の評」と注す。1.5.7
注釈58御方『完訳』は「源氏の妻妾の一人と確認されたが、終生、「上」の尊称では呼ばれることがなかった」と注す。1.5.7
注釈59いきてまたあひ見むことをいつとてか--限りも知らぬ世をば頼まむ明石の君の歌。「行き」「生き」の掛詞。再会を期しがたい父との離別を惜しむ歌。1.5.8
注釈60送りにだに歌に添えた言葉。父入道に対して、せめて都まで見送りに来てほしいと懇願する。当時の見送りは、目的地まで同道した。1.5.9
注釈61うしろめたなき「なし」は状態を表す接尾語。「うしろめたし」と意味は同じ。1.5.10
出典3 野中の道に惑はむ 古道に我や惑はむいにしへの野中の道の草は茂りあひにけり 拾遺集物名-三七五 藤原輔相 1.5.6
1.6
第六段 明石入道の別離の詞


1-6  Akashi-nyudo says good-bye

1.6.1  「 世の中を捨てはじめしに、かかる人の国に 思ひ下りはべりしことども、ただ君の御ためと、思ふやうに明け暮れの御かしづきも心にかなふやうもやと、思ひたまへ立ちしかど、 身のつたなかりける際の思ひ知らるること多かりしかばさらに、都に帰りて、古受領の沈めるたぐひにて、 貧しき家の蓬葎、元のありさま改むることもなきものから、公私に、をこがましき名を広めて、 親の御なき影を恥づかしめむことのいみじさになむ、やがて世を捨てつる門出なりけりと人にも知られにしを、その方につけては、よう思ひ放ちてけりと思ひはべるに、君のやうやう大人びたまひ、もの思ほし知るべきに添へては、など、かう口惜しき世界にて 錦を隠しきこゆらむと、 心の闇晴れ間なく 嘆きわたりはべりしままに、仏神を頼みきこえて、さりとも、かうつたなき身に引かれて、山賤の庵には混じりたまはじ、と思ふ心一つを頼みはべりしに、
 「世の中を捨てた当初に、このような見知らぬ国に決意して下って来ましたことども、ただあなたの御ためにと、思いどおりに朝晩のお世話も満足にできようかと、決心致したのですが、わが身の不運な身分が思い知らされることが多かったので、絶対に、都に帰って、古受領の落ちぶれた類となって、貧しい家の蓬や葎の様子が、元の状態に改まることもないものから、公私につけて、馬鹿らしい名を広めて、亡き親の名誉を辱めることの堪らなさに、そのまま世を捨てる門出であったのだと、世間の人にも知られてしまったが、そのことについては、よく思い切ったと思っていましたが、あなたがだんだんとご成長なさり、物ごとが分かってくるようになると、どうして、こんなつまらない田舎に錦をお隠し申しておくのかと、親の心の闇の晴れる間もなくずっと嘆いておりましたが、仏神にご祈願申して、いくら何でも、このように不甲斐ない身の上に巻き添えになって、田舎の生活を一緒にはなさるまい、と思う心を独り持って期待していましたが、
 「私は出世することなどを思い切ろうとしていたのだが、いよいよその気になって地方官になったのは、ただあなたに物質的にだけでも十分尽くしてやりたいということからだった。それから地方官の仕事も私に適したものでないことをいろんな形で教えられたから、これをやめて地方官の落伍らくご者の一人で、京で軽蔑けいべつされる人間にこの上なっては親の名誉を恥ずかしめることだと悲しくて出家したがね、京を出たのが世の中を捨てる門出だったと、世間からも私は思われていて、よく潔くそれを実行したと私自身にも満足感はあったが、あなたが一人前の少女になってきたのを見ると、どうしてこんな珠玉を泥土でいどに置くような残酷なことを自分はしたかと私の心はまた暗くなってきた。それからは仏と神を頼んで、この人までが私の不運に引かれて一地方人となってしまうようなことがないようにと願った。
  "Yononaka wo sute hazime si ni, kakaru hitonokuni ni omohi kudari haberi si koto-domo, tada Kimi no ohom-tame to, omohu yau ni akekure no ohom-kasiduki mo kokoro ni kanahu yau mo ya to, omohi tamahe tati sika do, mi no tutanakari keru kiha no omohisira ruru koto ohokari sika ba, sarani, miyako ni kaheri te, huru zuryau no sidume ru taguhi nite, madusiki ihe no yomogi mugura, moto no arisama aratamuru koto mo naki monokara, ohoyake watakusi ni, wokogamasiki na wo hirome te, oya no ohom-naki kage wo hadukasime m koto no imizisa ni nam, yagate yo wo sute turu kadode nari keri to hito ni mo sira re ni si wo, sono kata ni tuke te ha, you omohihanati te keri to omohi haberu ni, Kimi no yauyau otonabi tamahi, mono omohosi siru beki ni sohe te ha, nado, kau kutiwosiki sekai nite nisiki wo kakusi kikoyu ram to, kokoro no yami harema naku nageki watari haberi si mama ni, Hotoke Kami wo tanomi kikoye te, saritomo, kau tutanaki mi ni hika re te, yamagatu no ihori ni ha maziri tamaha zi, to omohu kokoro hitotu wo tanomi haberi si ni,
1.6.2 思ひ寄りがたくて、うれしきことどもを見たてまつりそめても、なかなか身のほどを、とざまかうざまに悲しう嘆きはべりつれど、若君のかう出でおはしましたる御宿世の頼もしさに、かかる渚に月日を過ぐしたまはむも、いとかたじけなう、契りことにおぼえたまへば、見たてまつらざらむ心惑ひは、静めがたけれど、この身は長く世を捨てし心はべり。 君達は、世を照らしたまふべき光しるければ、しばし、かかる山賤の心を乱りたまふばかりの御契りこそはありけめ。 天に生まるる人の、あやしき三つの途に帰るらむ一時に思ひなずらへて、今日、長く別れたてまつりぬ。命尽きぬと聞こしめすとも、 後のこと思しいとなむな。 さらぬ別れに、御心動かし たまふな」 と言ひ放つものから、「 煙ともならむ夕べまで、若君の御ことをなむ、六時の勤めにも、なほ心ぎたなく、うち交ぜはべりぬべき」
思いがけなく、嬉しいことを拝見しましてこのかたも、かえって身の程を、あれこれと悲しく嘆いていましたが、若君がこのようにお生まれになったご因縁の頼もしさに、このような海辺で月日を送っていらっしゃるのも、たいそうもったいなく、宿縁も格別に存じられますので、お目にかかれない悲しさは、鎮めがたい気がするが、わが身は永遠に世を捨てた覚悟がございます。あなたたちは、世の中をお照らしになる光明がはっきりしているので、しばらくの間、このような田舎者の心をお乱しになるほどのご宿縁があったのでしょう。天上界に生まれる人でも、いまわしい三悪道に帰るようなのも一時のことと思いなぞらえて、今日、永遠にお別れ申し上げます。寿命が尽きたとお聞きになっても、死後のこと、お考えくださるな。逃れられない別れに、お心を動かしなさるな」と言い切る一方で、「煙となろう夕べまで、若君のことを、六時の勤めにも、やはり未練がましく、きっとお祈りにお加え申し上げることであろう」
 思いがけず源氏の君を婿に見る日が来たのであるが、われわれには身分のひけ目があって、よいことにも悲しみが常に添っていた。しかし姫君がお生まれになったことで私もだいぶ自信ができてきた。姫君はこんな土地でお育ちになってはならない高い宿命を持つ方に違いないのだから、お別れすることがどんなに悲しくても私はあきらめる。何事ももうとくにあきらめた私は僧じゃないか。姫君は高い高い宿命の人でいられるが、暫時ざんじの間私に祖父と孫の愛を作って見せてくださったのだ。天に生まれる人も一度は三途さんずの川まで行くということにあたることだとそれを思って私はこれで長いお別れをする。私が死んだと聞いても仏事などはしてくれる必要はない。死に別れた悲しみもしないでおおきなさい」
  omohiyori gataku te, uresiki koto-domo wo mi tatematuri some te mo, nakanaka mi no hodo wo, tozamakauzama ni kanasiu nageki haberi ture do, Wakagimi no kau ide ohasimasi taru ohom-sukuse no tanomosisa ni, kakaru nagisa ni tukihi wo sugusi tamaha m mo, ito katazikenau, tigiri koto ni oboye tamahe ba, mi tatematura zara m kokoromadohi ha, sidume gatakere do, kono mi ha nagaku yo wo sute si kokoro haberi. Kimitati ha, yo wo terasi tamahu beki hikari sirukere ba, sibasi, kakaru yamagatu no kokoro wo midari tamahu bakari no ohom-tigiri koso ha ari keme. Ten ni mumaruru hito no, ayasiki mitu no miti ni kaheru ram hitotoki ni omohi nazurahe te, kehu, nagaku wakare tatematuri nu. Inoti tuki nu to kikosimesu tomo, noti no koto obosi itonamu na. Saranu wakare ni, mikokoro ugokasi tamahu na." to ihihanatu monokara, "Keburi to mo nara m yuhube made, Wakagimi no ohom-koto wo nam, rokuzi no tutome ni mo, naho kokorogitanaku, uti-maze haberi nu beki."
1.6.3  とて、 これにぞ、うちひそみぬる。
 と言って、自分の言葉に、涙ぐんでしまった。
 と入道は断言したのであるが、また、「私は煙になる前の夕べまで姫君のことを六時の勤行ごんぎょうに混ぜて祈ることだろう。恩愛が捨てられないで」と悲しそうに言うのであった。
  tote, kore ni zo, uti-hisomi nuru.
注釈62世の中を捨てはじめしに以下「御心動かしたまふな」まで、入道の詞。1.6.1
注釈63思ひ下りはべりしことども大島本は「ことゝも」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「ことも」と「ゝ」を削除する。1.6.1
注釈64身のつたなかりける際の思ひ知らるること多かりしかば『集成』は「播磨の守としても志を得なかったことをいう」と注す。1.6.1
注釈65さらに『集成』は「下に打消しを受けるが、言葉を続けるうちに、脈絡が消えている」。『完訳』は「「ものから」まで挿入句」と注す。1.6.1
注釈66貧しき家の蓬葎、元のありさま大島本は「よもきむくらもとのありさま」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「蓬葎ども」と校訂する。1.6.1
注釈67親の御なき影を恥づかしめむ父は大臣であった(「明石」第二章六段参照)。1.6.1
注釈68錦を隠しきこゆらむ「富貴にして故郷に帰らざるは繍を衣て夜行くが如し」(史記、項羽本紀)に基づく故事。1.6.1
注釈69心の闇晴れ間なく「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」(後撰集雑一、一一〇二、藤原兼輔)を踏まえた表現。1.6.1
注釈70君達は世を照らしたまふべき光しるければ後に「みづから須弥の山を、右の手に捧げたり。山の左右より、月日の光さやかにさし出でて世を照らす」(「若菜上」第十一章二段参照)と語られる。1.6.2
注釈71天に生まるる人のあやしき三つの途に帰るらむ一時に思ひなずらへて『完訳』は「『正法念経』に「果報若シ尽クレバ三悪道ニ還リ随フ」。天上界に生まれる人が、その果報の尽きたとき、地獄・餓鬼・畜生の三悪道に帰る。入道はそれにこの別離をなぞらえ、天上界に生まれる自分の一時の悲しみとあきらめる」と注す。1.6.2
注釈72後のこと入道の死後のこと。葬儀や法事をいう。1.6.2
注釈73さらぬ別れに「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もとなげく人の子のため」(古今集雑上、九〇一、在原業平)を踏まえた表現。1.6.2
注釈74と言ひ放つものから「ものから」は逆接の意。心理描写また人間性の自然なありかたを描く点ですぐれているところ。1.6.2
注釈75煙ともならむ夕べまで以下「うち交ぜはべりぬべき」まで、入道の詞。1.6.2
注釈76これにぞ『完訳』は「ここまで言うとさすがに」と注す。1.6.3
出典4 心の闇 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな 後撰集雑一-一一〇二 藤原兼輔 1.6.1
出典5 さらぬ別れに 世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もと嘆く人の子のため 古今集雑上-九〇一 在原業平 1.6.2
校訂7 たまふな」と たまふな」と--給ふなとと(と/#) 1.6.2
1.7
第七段 明石一行の上洛


1-7  Akashi and her mother and her daughter go up to Kyouto

1.7.1   御車は、あまた続けむも所狭く、片へづつ分けむもわづらはしとて、御供の人びとも、あながちに隠ろへ忍ぶれば、舟にて忍びやかにと定めたり。辰の時に舟出したまふ。 昔の人もあはれと言ひける 浦の朝霧隔たりゆくままに、いともの悲しくて、入道は、 心澄み果つまじく、あくがれ眺めゐたり。 ここら年を経て、今さらに帰るも、なほ思ひ尽きせず、尼君は泣きたまふ。
 お車は、多数続けるのも仰々しいし、一部分ずつ分けてやるのも厄介だといって、お供の人々も、できるだけ目立たないようにしているので、舟でこっそりと行くことに決めた。辰の時刻に舟出なさる。昔の人も「あわれ」と言った明石の浦の朝霧の中を遠ざかって行くにつれて、たいそう物悲しくて、入道は、煩悩も断ち切れがたく、ぼうっと眺めていた。長年住みなれて、今さら都に帰るのも、やはり感慨無量で、尼君はお泣きになる。
 車の数の多くなることも人目を引くことであるし、二度に分けて立たせることも面倒めんどうなことであるといって、迎えに来た人たちもまた非常に目だつことを恐れるふうであったから、船を用いてそっと明石親子は立つことになった。午前八時に船が出た。昔の人も身にしむものに見た明石の浦の朝霧に船の隔たって行くのを見る入道の心は、仏弟子ぶつでしの超越した境地に引きもどされそうもなかった。ただ呆然ぼうぜんとしていた。長い年月を経て都へ帰ろうとする尼君の心もまた悲しかった。
  Ohom-kuruma ha, amata tuduke m mo tokoroseku, katahe dutu wake m mo wadurahasi tote, ohom-tomo no hitobito mo, anagati ni kakurohe sinobure ba, hune nite sinobiyaka ni to sadame tari. Tatu no toki ni hunade si tamahu. Mukasi no hito mo ahare to ihi keru ura no asagiri hedatari yuku mama ni, ito monoganasiku te, Nihudau ha, kokoro sumi hatu maziku, akugare nagame wi tari. Kokora tosi wo he te, imasara ni kaheru mo, naho omohi tuki se zu, Amagimi ha naki tamahu.
1.7.2  「 かの岸に心寄りにし海人舟の
   背きし方に漕ぎ帰るかな
 「彼岸の浄土に思いを寄せていた尼のわたしが
  捨てた都の世界に帰って行くのだわ
  かの岸に心寄りにし海人船あまぶね
  そむきし方にぎ帰るかな
    "Kano kisi ni kokoro yori ni si amabune no
    somuki si kata ni kogi kaheru kana
1.7.3  御方、
 御方は、
 と言って尼君は泣いていた。明石は、
  Ohom-kata,
1.7.4  「 いくかへり行きかふ秋を過ぐしつつ
   浮木に乗りてわれ帰るらむ
 「何年も秋を過ごし過ごしして来たが
  頼りない舟に乗って都に帰って行くのでしょう
  いくかへり行きかふ秋を過ごしつつ
  浮き木に乗りてわれ帰るらん
    "Iku kaheri yukikahu aki wo sugusi tutu
    ukigi ni nori te ware kaheru ram
1.7.5  思ふ方の風にて、限りける日違へず入りたまひぬ。人に 見咎められじの心もあれば、 路のほども軽らかにしなしたり
 思いどおりの追い風によって、予定していた日に違わずお入りになった。人に気づかれまいとの考えもあったので、道中も簡素な旅姿に装っていた。
 と言っていた。追い風であって、予定どおりに一行の人は京へはいることができた。車に移ってから人目を引かぬ用心をしながら大井の山荘へ行ったのである。
  Omohu kata no kaze nite, kagiri keru hi tagahe zu iri tamahi nu. Hito ni mitogame rare zi no kokoro mo are ba, miti no hodo mo karoraka ni si nasi tari.
注釈77御車はあまた続けむも所狭く明石の浦を出立し、大堰山荘に移り住む。1.7.1
注釈78昔の人大島本は「むかし(し+の<朱>)人」とある。すなわち朱筆で「の」を補入する。『新大系』は底本の補訂に従う。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「昔人」と校訂する。1.7.1
注釈79浦の朝霧「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」(古今集羈旅、四〇九、読人しらず)。『集成』は「一行の船を入道が見送る気持をいう」と注す。1.7.1
注釈80心澄み果つまじく『集成』は「「澄み」に「住み」を掛け、いつまでも明石に残っていられそうもなく、の意を響かせる」と注す。1.7.1
注釈81ここら年を経て今さらに帰るも尼君について語る。1.7.1
注釈82かの岸に心寄りにし海人舟の--背きし方に漕ぎ帰るかな尼君の歌。「岸」に彼岸と明石の岸との意を掛け、「海人」と「尼」を掛ける。世捨人が再び都へ帰る感慨を詠む。1.7.2
注釈83いくかへり行きかふ秋を過ぐしつつ--浮木に乗りてわれ帰るらむ明石の君の唱和歌。『完訳』は「「浮き木」は水中の浮木。前途の不安を象徴。「憂き」をひびかす」と注す。「天の川浮き木に乗れる我なれやありしにもあらず世はなりにけり」(俊頼髄脳)。張騫が漢の武帝の命によって、槎に乗って天の川の源を尋ねて帰ったという故事を踏まえた歌で、すでによく知られていた故事。1.7.4
注釈84見咎められじ「られ」受身の助動詞。「じ」打消の助動詞、意志の打消し。1.7.5
注釈85路のほども軽らかにしなしたり『集成』は「道中も、さして身分高からぬ一行のようによそおった」。『完訳』は「道中も粗略な装いであった」と訳す。1.7.5
出典6 浦の朝霧 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ 古今集羈旅-四〇九 読人しらず 1.7.1
出典7 浮木に乗りて 天の川浮き木に乗れる我なれやありしにもあらず世はなりにけり 俊頼髄脳所引、出典未詳 1.7.4
校訂8 昔の人 昔の人--むかし(し/+の<朱>)人 1.7.1
Last updated 10/20/2009(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 10/20/2009(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 7/8/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kumi(青空文庫)

2003年6月9日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2008年3月22日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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