第二十一帖 乙女


21 WOTOME (Ohoshima-bon)


光る源氏の太政大臣時代
三十三歳の夏四月から三十五歳冬十月までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo-Daijin era, from April in summer at the age of 33 to October in winter at the age of 35

7
第七章 光る源氏の物語 六条院造営


7  Tale of Hikaru-Genji  Construction of Rokujo-in

7.1
第一段 二月二十日過ぎ、朱雀院へ行幸


7-1  Mikado goes to Suzaku-in at twenty days after in February

7.1.1   朔日にも大殿は御ありきしなければ、のどやかにておはします。 良房の大臣と聞こえける、いにしへの例になずらへて、白馬ひき節会の日、内裏の儀式をうつして、昔の例よりも事添へて、いつかしき御ありさまなり。
 元旦にも、大殿は御参賀なさらないので、のんびりとしていっらしゃる。良房の大臣と申し上げた方の、昔の例に倣って、白馬を牽き、節会の日は、宮中の儀式を模して、昔の例よりもいろいろな事を加えて、盛大なご様子である。
 元日も源氏は外出の要がなかったから長閑のどかであった。良房よしふさの大臣の賜わった古例で、七日の白馬あおうまが二条の院へ引かれて来た。宮中どおりに行なわれた荘重な式であった。
  Tuitati ni mo, Ohotono ha, ohom-ariki si nakere ba, nodoyaka nite ohasimasu. Yosihusa-no-Otodo to kikoye keru, inisihe no rei ni nazurahe te, Awomuma hiki, setiwe no hi, Uti no gisiki wo utusi te, mukasi no tamesi yori mo koto sohe te, itukasiki ohom-arisama nari.
7.1.2   如月の二十日あまり、朱雀院に行幸あり。花盛りはまだしきほどなれど弥生は故宮の御忌月なり。とく開けたる桜の色もいとおもしろければ、院にも御用意ことにつくろひ磨かせたまひ、行幸に仕うまつりたまふ上達部、親王たちよりはじめ、心づかひしたまへり。
 二月の二十日余りに、朱雀院に行幸がある。花盛りはまだのころであるが、三月は故藤壷の宮の御忌月である。早く咲いた桜の花の色もたいそう美しいので、院におかれてもお心配りし特にお手入れあそばして、行幸に供奉なさる上達部や親王たちをはじめとして、十分にご用意なさっていた。
 二月二十幾日に朱雀すざく院へ行幸があった。桜の盛りにはまだなっていなかったが、三月は母后の御忌月おんきづきであったから、この月が選ばれたのである。早咲きの桜は咲いていて、春のながめはもう美しかった。お迎えになる院のほうでもいろいろの御準備があった。行幸の供奉ぐぶをする顕官も親王方もその日の服装などに苦心を払っておいでになった。
  Kisaragi no hatuka amari, Suzakuwin ni gyaugau ari. Hanazakari ha madasiki hodo nare do, Yayohi ha ko-Miya no ohom-kiduki nari. Toku hirake taru sakura no iro mo ito omosirokere ba, Win ni mo ohom-youi kotoni tukurohi migaka se tamahi, gyaugau ni tukaumaturi tamahu Kamdatime, Mikotati yori hazime, kokorodukahi si tamahe ri.
7.1.3   人びとみな、青色に、桜襲を着たまふ。帝は、赤色の御衣たてまつれり。召しありて、太政大臣参りたまふ。おなじ赤色を着たまへれば、いよいよひとつものとかかやきて見えまがはせたまふ。人びとの装束、用意、常にことなり。院も、いときよらにねびまさらせたまひて、 御さまの用意、なまめきたる方に進ませたまへり。
 お供の人々は皆、青色の袍に、桜襲をお召しになる。帝は、赤色の御衣をお召しあそばされた。お召しがあって、太政大臣が参上なさる。同じ赤色を着ていらっしゃるので、ますますそっくりで輝くばかりにお美しく見違えるほどとお見えになる。人々の装束や、振る舞いも、いつもと違っている。院も、たいそうおきれいにお年とともに御立派になられて、御様子や態度が、以前にもまして優雅におなりあそばしていた。
 その人たちは皆青色の下に桜襲さくらがさねを用いた。帝は赤色の御服であった。お召しがあって源氏の大臣が参院した。同じ赤色を着ているのであったから、帝と同じものと見えて、源氏の美貌びぼうが輝いた。御宴席に出た人々の様子も態度も非常によく洗練されて見えた。院もますます清艶せいえんな姿におなりあそばされた。
  Hitobito mina, awoiro ni, sakuragasane wo ki tamahu. Mikado ha, akairo no ohom-zo tatemature ri. Mesi ari te, Ohokiotodo mawiri tamahu. Onazi akairo wo ki tamahe re ba, iyoiyo hitotu mono to kakayaki te miye magaha se tamahu. Hitobito no sauzoku, youi, tune ni koto nari. Win mo, ito kiyora ni nebi masara se tamahi te, ohom-sama no youi, namameki taru kata ni susuma se tamahe ri.
7.1.4  今日は、わざとの文人も召さず、ただその才かしこしと聞こえたる学生十人を召す。式部の司の試みの題をなずらへて、御題賜ふ。大殿の太郎君の 試みたまふべきなめり。臆だかき者どもは、ものもおぼえず、繋がぬ舟に乗りて池に放れ出でて、いと術なげなり。
 今日は、専門の文人もお呼びにならず、ただ漢詩を作る才能の高いという評判のある学生十人をお呼びになる。式部省の試験の題になぞらえて、勅題を賜る。大殿のご長男の試験をお受けなさるようである。臆しがちな者たちは、ぼおっとしてしまって、繋いでない舟に乗って、池に一人一人漕ぎ出して、実に途方に暮れているようである。
 今日は専門の詩人はお招きにならないで、詩才の認められる大学生十人を召したのである。これを式部省しきぶしょうの試験に代えて作詞の題をその人たちはいただいた。これは源氏の長男のためにわざとお計らいになったことである。気の弱い学生などは頭もぼうとさせていて、お庭先の池に放たれた船に乗って出た水上で製作に苦しんでいた。
  Kehu ha, wazato no monnin mo mesa zu, tada sono zae kasikosi to kikoye taru gakusyau zihu nin wo mesu. Sikibunotukasa no kokoromi no dai wo nazurahe te, ohom-dai tamahu. Ohotono no Tarougimi no kokoromi tamahu beki na' meri. Okudakaki mono-domo ha, mono mo oboye zu, tunaga nu hune ni nori te ike ni hanare ide te, ito sube nage nari.
7.1.5  日やうやうくだりて、楽の舟ども漕ぎまひて、調子ども奏するほどの、山風の響きおもしろく吹きあはせたるに、冠者の君は、
 日がだんだんと傾いてきて、音楽の舟が幾隻も漕ぎ廻って、調子を整える時に、山風の響きがおもしろく吹き合わせているので、冠者の君は、
 夕方近くなって、音楽者を載せた船が池を往来して、楽音を山風に混ぜて吹き立てている時、若君は
  Hi yauyau kudari te, gaku no hune-domo kogi mahi te, teusi-domo sousuru hodo no, yamakaze no hibiki omosiroku huki ahase taru ni, Kwanza-no-Kimi ha,
7.1.6  「 かう苦しき道ならでも交じらひ遊びぬべきものを
 「こんなにつらい修業をしなくても皆と一緒に音楽を楽しめたりできるはずのものを」
 こんなに苦しい道を進まないでも自分の才分を発揮させる道はあるであろうが
  "Kau kurusiki miti nara de mo mazirahi asobi nu beki monowo!"
7.1.7  と、世の中恨めしうおぼえたまひけり。
 と、世の中を恨めしく思っていらっしゃった。
 と恨めしく思った。
  to, yononaka uramesiu oboye tamahi keri.
7.1.8  「春鴬囀」舞ふほどに、 昔の花の宴のほど思し出でて院の帝も
 「春鴬囀」を舞うときに、昔の花の宴の時をお思い出しになって、院の帝が、
 「春鶯囀しゅんおうてん」が舞われている時、昔の桜花の宴の日のことを院の帝はお思い出しになって、
  Syun'-au-den mahu hodo ni, mukasi no hananoen no hodo obosi ide te, Win-no-Mikado mo,
7.1.9  「また、さばかりのこと見てむや」
 「もう一度、あれの程が見られるだろうか」
 「もうあんなおもしろいことは見られないと思う」
  "Mata, sabakari no koto mi te m ya?"
7.1.10  とのたまはするにつけて、その世のことあはれに思し続けらる。舞ひ果つるほどに、大臣、院に御土器参りたまふ。
 と仰せられるにつけても、その当時のことがしみじみと次々とお思い出されなさる。舞い終わるころに、太政大臣が、院にお杯を差し上げなさる。
 と源氏へ仰せられたが、源氏はそのお言葉から青春時代の恋愛三昧ざんまいを忍んで物哀れな気分になった。源氏は院へ杯を参らせて歌った。
  to notamahasuru ni tuke te, sono yo no koto ahare ni obosi tuduke raru. Mahi haturu hodo ni, Otodo, Win ni ohom-kaharake mawiri tamahu.
7.1.11  「 鴬のさへづる声は昔にて
   睦れし花の蔭ぞ変はれる
 「鴬の囀る声は昔のままですが
  馴れ親しんだあの頃とはすっかり時勢が変わってしまいました
 うぐひすのさへづる春は昔にて
 むつれし花のかげぞ変はれる
    "Uguhisu no saheduru kowe ha mukasi nite
    muture si hana no kage zo kahare ru
7.1.12  院の上、
 院の上は、
 院は、
  Win-no-Uhe,
7.1.13  「 九重を霞隔つるすみかにも
   春と告げくる鴬の声
 「宮中から遠く離れた仙洞御所にも
  春が来たと鴬の声が聞こえてきます
 九重をかすみへだつる住処すみかにも
 春と告げくる鶯の声
    "Kokonohe wo kasumi hedaturu sumika ni mo
    haru to tugekuru uguhisu no kowe
7.1.14  帥の宮と聞こえし、今は兵部卿にて、今の上に御土器参りたまふ。
 帥宮と申し上げた方は、今では兵部卿となって、今上帝にお杯を差し上げなさる。
 とお答えになった。太宰帥だざいのそつの宮といわれた方は兵部卿ひょうぶきょうになっておいでになるのであるが、陛下へ杯を献じた。
  Sotinomiya to kikoye si, ima ha Hyaubukyau nite, Ima-no-Uhe ni ohom-kaharake mawiri tamahu.
7.1.15  「 いにしへを吹き伝へたる笛竹に
   さへづる鳥の音さへ変はらぬ
 「昔の音色そのままの笛の音に
  さらに鴬の囀る声までもちっとも変わっていません
 いにしへを吹き伝へたる笛竹に
 さへづる鳥の音さへ変はらぬ
    "Inisihe wo huki tutahe taru huetake ni
    saheduru tori no ne sahe kahara nu
7.1.16  あざやかに奏しなしたまへる、用意ことにめでたし。取らせたまひて、
 巧みにその場をおとりなしなさった、心づかいは特に立派である。杯をお取りあそばして、
 この歌を奏上した宮の御様子がことにりっぱであった。帝は杯をお取りになって、
  Azayaka ni sousi nasi tamahe ru, youi koto ni medetasi. Torase tamahi te,
7.1.17  「 鴬の昔を恋ひてさへづるは
   木伝ふ花の色やあせたる
 「鴬が昔を慕って木から木へと飛び移って囀っていますのは
  今の木の花の色が悪くなっているからでしょうか
 鶯の昔を恋ひてさへづるは
 づたふ花の色やあせたる
    "Uguhisu no mukasi wo kohi te saheduru ha
    kodutahu hana no iro ya ase taru
7.1.18  とのたまはする御ありさま、こよなくゆゑゆゑしくおはします。 これは御私ざまに、うちうちのことなれば、あまたにも流れずやなりにけむ、また書き落してけるにやあらむ。
 と仰せになる御様子、この上なく奥ゆかしくいらっしゃる。このお杯事は、お身内だけのことなので、多数の方には杯が回らなかったのであろうか、または書き洩らしたのであろうか。
 と仰せになるのが重々しく気高けだかかった。この行幸は御家庭的なお催しで、儀式ばったことでなかったせいなのか、官人一同が詞歌を詠進したのではなかったのかその日の歌はこれだけより書き置かれていない。
  to notamahasuru ohom-arisama, koyonaku yuweyuwesiku ohasimasu. Kore ha ohom-watakusizama ni, utiuti no koto nare ba, amata ni mo nagare zu ya nari ni kem, mata kakiotosi te keru ni ya ara m?
7.1.19  楽所遠くておぼつかなければ、御前に御琴ども召す。兵部卿宮、琵琶。内大臣、和琴。箏の御琴、院の御前に参りて、 琴は、例の太政大臣に賜はりたまふ。せめきこえたまふ。さるいみじき上手のすぐれたる御手づかひどもの、尽くしたまへる音は、たとへむかたなし。唱歌の殿上人あまたさぶらふ。「 安名尊」遊びて、次に「 桜人」。月おぼろにさし出でてをかしきほどに、中島のわたりに、ここかしこ篝火ども灯して、大御遊びはやみぬ。
 楽所が遠くてはっきり聞こえないので、御前にお琴をお召しになる。兵部卿宮は、琵琶。内大臣は和琴。箏のお琴は、院のお前に差し上げて、琴の琴は、例によって太政大臣が頂戴なさる。お勧め申し上げなさる。このような素晴らしい方たちによる優れた演奏で、秘術を尽くした楽の音色は、何ともたとえようがない。唱歌の殿上人が多数伺候している。「安名尊」を演奏して、次に「桜人」。月が朧ろにさし出して美しいころに、中島のあたりにあちこちに篝火をいくつも灯して、この御遊は終わった。
 奏楽所が遠くて、細かい楽音が聞き分けられないために、楽器が御前へ召された。兵部卿の宮が琵琶びわ、内大臣は和琴わごん、十三げんが院のみかどの御前に差し上げられて、きんは例のように源氏の役になった。皆名手で、絶妙な合奏楽になった。歌う役を勤める殿上役人が選ばれてあって、「安名尊あなとうと」が最初に歌われ、次に桜人さくらびとが出た。月がおぼろに出て美しい夜の庭に、中島あたりではそこかしこに篝火かがりびかれてあった。そうしてもう合奏が済んだ。
  Gakuso tohoku te obotukanakere ba, omahe ni ohom-koto-domo mesu. Hyaubukyaunomiya, biha. Utinootodo, wagon. Syau no ohom-koto, Win no omahe ni mawiri te, kin ha, rei no Ohokiotodo ni tamahari tamahu. Seme kikoye tamahu. Saru imiziki zyauzu no sugure taru ohom-tedukahi-domo no, tukusi tamahe ru ne ha, tatohe m kata nasi. Sauga no Tenzyaubito amata saburahu. Ana-tahuto asobi te, tugi ni Sakura-bito. Tuki oboro ni sasiide te wokasiki hodo ni, nakazima no watari ni, koko kasiko kagaribi-domo tomosi te, ohomi-asobi ha yami nu.
注釈441朔日にも源氏三十四歳の春正月元旦。7.1.1
注釈442大殿は御ありきしなければ太政大臣の源氏は宮中参賀はしなくてもよい。7.1.1
注釈443良房の大臣と聞こえけるいにしへの例になずらへて白馬ひき藤原良房(八〇四〜八七二)、諡忠仁公。人臣として初の摂政関白となる。白馬を私邸で牽いたという例は記録に見えないが、それを真似て源氏の二条院に白馬を牽くとする。7.1.1
注釈444節会の日大島本は「せちゑの日」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「節会の日々」と校訂する。『集成』は「正月の節会には、元日の節会、七日の白馬の節会、十四日の男踏歌、十六日の女踏歌がある」と注す。7.1.1
注釈445如月の二十日あまり朱雀院に行幸あり花盛りはまだしきほどなれど仲春二月二十日過ぎの朱雀院行幸。この年の桜の花盛りはまだであるという。7.1.2
注釈446弥生は故宮の御忌月なり藤壺は一昨年の源氏三十二歳の春三月に崩御した。7.1.2
注釈447人びとみな青色に桜襲を着たまふ行幸に供奉する人々の服装は麹塵の袍に桜の下襲。麹塵の袍は常は天皇が着用するが、晴れの儀式の折には、諸臣に麹塵の袍を賜り、帝は赤色の袍をお召しになる。また最上席の公卿も同じ赤色を着用するという(西宮記・河海抄)。7.1.3
注釈448御さまの用意大島本は「御さまのようい」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御さま、用意」と「の」を削除する。7.1.3
注釈449試みたまふべきなめり大島本は「心ミ給へきなめり」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「試みたまふべきゆゑなめり」と「ゆゑ」を補訂する。「なめり」は語り手の言辞。7.1.4
注釈450かう苦しき道ならでも交じらひ遊びぬべきものを夕霧の心中。7.1.6
注釈451昔の花の宴のほど思し出でて「花宴」巻、源氏十九歳春のこと。7.1.8
注釈452院の帝も大島本は「院のみかとも」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「院の帝」と「も」を削除する。7.1.8
注釈453鴬のさへづる声は昔にて--睦れし花の蔭ぞ変はれる源氏の詠歌。桐壺帝の代から朱雀帝の代を経て冷泉帝の代へという時勢の推移変化をいう。7.1.11
注釈454九重を霞隔つるすみかにも--春と告げくる鴬の声朱雀院の唱和歌。「鴬」の語句を用いる。今日の行幸に感謝。お礼歌。7.1.13
注釈455いにしへを吹き伝へたる笛竹に--さへづる鳥の音さへ変はらぬ兵部卿宮の唱和歌。源氏の「変はれる」を、昔の聖代を引き継ぎ「変はらぬ」と寿ぐ。7.1.15
注釈456鴬の昔を恋ひてさへづるは--木伝ふ花の色やあせたる今上帝の唱和歌。『集成』は「朱雀院のさびしい気持を汲んで、卑下したもの」と注す。7.1.17
注釈457これは御私ざまに以下「また書き落してけるにやあらむ」まで、語り手のことわり。『集成』は「これ以上作中人物の歌を紹介しないことについての語り手(作者)のことわり。草子地」。『完訳』は「以下、歌の唱和について語り手の省筆の弁」と注す。7.1.18
注釈458琴は例の太政大臣に賜はりたまふ。せめきこえたまふ大島本は「おほきおとゝに給ハりたまふ・せめきこえ給」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「太政大臣賜りたまふ」と「に」と「せめきこえたまふ」を削除する。7.1.19
注釈459安名尊催馬楽、呂。「あな尊今日の尊さやいにしへもはれいにしへもかくやありけむや今日の尊さあはれそこよしや今日の尊さ」。7.1.19
注釈460桜人催馬楽、呂。「桜人その船止め島つ田を十町作れる見て帰り来むやそよや明日帰り来むそよや/言をこそ明日とも言はめ遠方に妻ざる夫は明日もさね来じやそよやさ明日もさね来じやそよや」。7.1.19
出典14 安名尊 あな尊と 今日の尊とさ や いにしへも はれ かくやありけむ や 今日の尊とさ あはれそこよしや 今日の尊とさ 催馬楽-あな尊と 7.1.19
出典15 桜人 桜人 その舟止め 島つ田を 十町作れる 見て帰り来むや そよや 明日帰り来む そよや 言をこそ 明日とも言はめ 遠方に 妻ざる夫は 明日さね来じや そよや さ明日もさね来じや そよや 催馬楽-桜人 7.1.19
7.2
第二段 弘徽殿大后を見舞う


7-2  Genji visits Kokiden-no-oho-Gisaki in Suzaku-in

7.2.1  夜更けぬれど、かかるついでに、大后の宮おはします方を、よきて訪らひきこえさせたまはざらむも、情けなければ、帰さに渡らせたまふ。大臣もろともにさぶらひたまふ。
 夜は更けてしまったが、このような機会に、太后宮のいらっしゃる方を、避けてお伺い申し上げなさらないのも、思いやりがないので、帰りにお立ち寄りになる。大臣もご一緒に伺候なさる。
 夜ふけになったのであるが、この機会に皇太后を御訪問あそばさないことも冷淡なことであると思召おぼしめして、お帰りがけに帝はそのほうの御殿へおまわりになった。源氏もお供をして参ったのである。
  Yo huke nure do, kakaru tuide ni, Ohokisai-no-Miya ohasimasu kata wo, yoki te toburahi kikoye sase tamaha zara m mo, nasakenakere ba, kahesa ni watara se tamahu. Otodo morotomoni saburahi tamahu.
7.2.2  后待ち喜びたまひて、御対面あり。 いといたうさだ過ぎたまひにける御けはひにも故宮を思ひ出できこえたまひて、「 かく長くおはしますたぐひもおはしけるものを」と、口惜しう思ほす。
 大后宮はお待ち喜びになって、ご面会なさる。とてもたいそうお年を召されたご様子にも、故宮をお思い出し申されて、「こんなに長生きされる方もいらっしゃるものを」と、残念にお思いになる。
 太后は非常に喜んでお迎えになった。もう非常に老いておいでになるのを、御覧になっても帝は御母宮をお思い出しになって、こんな長生きをされる方もあるのにと残念に思召された。
  Kisaki mati yorokobi tamahi te, ohom-taimen ari. Ito itau sada sugi tamahi ni keru ohom-kehahi ni mo, ko-Miya wo omohiide kikoye tamahi te, "Kaku nagaku ohasimasu taguhi mo ohasi keru monowo!" to, kutiwosiu omohosu.
7.2.3  「 今はかく古りぬる齢に、よろづのこと忘られはべりにけるを、いとかたじけなく渡りおはしまいたるになむ、さらに 昔の御世のこと思ひ出でられはべる」
 「今ではこのように年を取って、すべての事柄を忘れてしまっておりましたが、まことに畏れ多くもお越し戴きましたので、改めて昔の御代のことが思い出されます」
 「もう老人になってしまいまして、私などはすべての過去を忘れてしまっておりますのに、もったいない御訪問をいただきましたことから、昔の御代みよが忍ばれます」
  "Ima ha kaku huri nuru yohahi ni, yorodu no koto wasurare haberi ni keru wo, ito katazikenaku watari ohasi mai taru ni nam, sarani mukasi no miyo no koto omohiide rare haberu."
7.2.4  と、うち泣きたまふ。
 と、お泣きになる。
と太后は泣いておいでになった。
  to, uti-naki tamahu.
7.2.5  「 さるべき御蔭どもに後れはべりてのち、春のけぢめも思うたまへわかれぬを、今日なむ慰めはべりぬる。またまたも」
 「頼りになるはずの人々に先立たれて後、春になった気分も知らないでいましたが、今日初めて心慰めることができました。時々はお伺い致します」
 「御両親が早くおかくれになりまして以来、春を春でもないように寂しく見ておりましたが、今日はじめて春を十分に享楽いたしました。また伺いましょう」
  "Sarubeki ohom-kage-domo ni okure haberi te noti, haru no kedime mo omou tamahe waka re nu wo, kehu nam nagusame haberi nuru. Mata mata mo."
7.2.6  と聞こえたまふ。大臣もさるべきさまに聞こえて、
 と御挨拶申し上げあそばす。太政大臣もしかるべくご挨拶なさって、
 と陛下は仰せられ、源氏も御挨拶あいさつをした。
  to kikoye tamahu. Otodo mo sarubeki sama ni kikoye te,
7.2.7  「 ことさらにさぶらひてなむ
 「また改めてお伺い致しましょう」
 「また別の日に伺候いたしまして」
  "Kotosarani saburahi te nam."
7.2.8  と聞こえたまふ。のどやかならで帰らせたまふ響きにも、后は、なほ胸うち騒ぎて、
 と、申し上げなさる。ゆっくりなさらずにお帰りあそばすご威勢につけても、大后は、やはりお胸が静まらず、
 還幸の鳳輦ほうれんをはなやかに百官の囲繞いにょうして行く光景が、物の響きに想像される時にも、太后は過去の御自身の態度の非を悔いておいでになった。源氏はどう自分の昔を思っているであろうと恥じておいでになった。一国を支配する人の持っている運は、
  to kikoye tamahu. Nodoyaka nara de kahera se tamahu hibiki ni mo, Kisaki ha, naho mune uti-sawagi te,
7.2.9  「 いかに思し出づらむ。世をたもちたまふべき御宿世は、消たれぬものにこそ」
 「どのように思い出していられるのだろう。結局、政権をお執りになるというご運勢は、押しつぶせなかったのだ」
 どんなのろいよりも強いものである
  "Ikani obosi idu ram? Yo wo tamoti tamahu beki ohom-sukuse ha, keta re nu mono ni koso."
7.2.10  と、いにしへを悔い思す。
 と昔を後悔なさる。
 とお悟りにもなった。
  to, inisihe wo kuyi obosu.
7.2.11   尚侍の君も、のどやかに思し出づるに、あはれなること多かり。今もさるべき折、 風のつてにもほのめききこえたまふこと絶えざるべし
 尚侍の君も、ゆったりした気分でお思い出しになると、しみじと感慨無量な事が多かった。今でも適当な機会に、何かの伝で密かに便りを差し上げなさることがあるのであろう。
 朧月夜おぼろづきよ尚侍ないしのかみも静かな院の中にいて、過去を思う時々に、源氏とした恋愛の昔が今も身にしむことに思われた。近ごろでも源氏は好便に託して文通をしているのであった。
  Naisi-no-Kam-no-Kimi mo, nodoyaka ni obosi iduru ni, ahare naru koto ohokari. Ima mo sarubeki wori, kaze no tute ni mo honomeki kikoye tamahu koto taye zaru besi.
7.2.12  后は、朝廷に奏せさせたまふことある時々ぞ、御たうばりの年官年爵、何くれのことに触れつつ、御心にかなはぬ時ぞ、「 命長くてかかる世の末を見ること」と、取り返さまほしう、 よろづ思しむつかりける
 大后は朝廷に奏上なさることのある時々に、御下賜された年官や年爵、何かにつけながら、ご意向に添わない時には、「長生きをしてこんな酷い目に遭うとは」と、もう一度昔の御代に取り戻したく、いろいろとご機嫌悪がっているのであった。
 太后は政治に御註文ちゅうもんをお持ちになる時とか、御自身の推薦権の与えられておいでになる限られた官爵の運用についてとかに思召しの通らない時は、長生きをして情けない末世に苦しむというようなことをお言い出しになり、御無理も仰せられた。
  Kisaki ha, Ohoyake ni souse sase tamahu koto aru tokidoki zo, ohom-taubari no tukasa kauburi, nanikure no koto ni hure tutu, mi-kokoro ni kanaha nu toki zo, "Inoti nagaku te kakaru yo no suwe wo miru koto." to, torikahesa mahosiu, yorodu obosi mutukari keru.
7.2.13  老いもておはするままに、さがなさもまさりて、院もくらべ苦しう、 たとへがたくぞ思ひきこえたまひける。
 年を取っていかれるにつれて、意地の悪さも加わって、院ももてあまして、例えようもなくお思い申し上げていらっしゃるのだった。
 年を取っておいでになるにしたがって、強い御気質がますます強くなって院もお困りになるふうであった。
  Oyi mote ohasuru mama ni, saganasa mo masari te, Win mo kurabe kurusiu, tatohe gataku zo omohi kikoye tamahi keru.
7.2.14  かくて、大学の君、その日の文うつくしう作りたまひて、進士になりたまひぬ。年積もれるかしこき者どもを 選らばせたまひしかど、及第の人、わづかに三人なむありける。
 さて、大学の君は、その日の漢詩を見事にお作りになって、進士におなりになった。長い年月修業した優れた者たちをお選びになったが、及第した人は、わずかに三人だけであった。
 源氏の公子はその日の成績がよくて進士になることができた。碩学せきがくの人たちが選ばれて答案の審査にあたったのであるが、及第は三人しかなかったのである。
  Kakute, Daigaku-no-Kimi, sono hi no humi utukusiu tukuri tamahi te, sinzi ni nari tamahi nu. Tosi tumore ru kasikoki mono-domo wo eraba se tamahi sika do, kihudai no hito, waduka ni sam nin nam ari keru.
7.2.15  秋の司召に、かうぶり得て、侍従になりたまひぬ。かの人の御こと、忘るる世なけれど、大臣の切にまもりきこえたまふもつらければ、わりなくてなども対面したまはず。御消息ばかり、さりぬべきたよりに聞こえたまひて、かたみに心苦しき御仲なり。
 秋の司召に、五位に叙されて、侍従におなりになった。あの人のことを、忘れる時はないが、内大臣が熱心に監視申していらっしゃるのも恨めしいので、無理をしてまでもお目にかかることはなさらない。ただお手紙だけを適当な機会に差し上げて、お互いに気の毒なお仲である。
 そして若君は秋の除目じもくの時に侍従に任ぜられた。雲井くもいかりを忘れる時がないのであるが、大臣が厳重に監視しているのも恨めしくて、無理をして逢ってみようともしなかった。手紙だけは便宜を作って送るというような苦しい恋を二人はしているのであった。
  Aki no tukasamesi ni, kauburi e te, Zizyuu ni nari tamahi nu. Kano hito no ohom-koto, wasururu yo nakere do, Otodo no setini mamori kikoye tamahu mo turakere ba, warinaku te nado mo taimen si tamaha zu. Ohom-seusoko bakari, sarinubeki tayori ni kikoye tamahi te, katami ni kokorogurusiki ohom-naka nari.
注釈461いといたうさだ過ぎたまひにける御けはひにも弘徽殿大后は、この時、五十七、八歳ぐらい。7.2.2
注釈462故宮を思ひ出できこえたまひて故入道宮藤壺。7.2.2
注釈463かく長くおはしますたぐひもおはしけるものを源氏の心中。7.2.2
注釈464今はかく以下「思ひ出でられはべる」まで、弘徽殿大后の詞。『完訳』は「かつて敵視した相手への、ばつの悪い物言いであろう」と注す。7.2.3
注釈465昔の御世のこと桐壺院時代をさす。7.2.3
注釈466さるべき御蔭どもに以下「またまたも」まで、帝の詞。父桐壺院や母藤壺に先立たれたことをいう。7.2.5
注釈467ことさらにさぶらひてなむ源氏の詞。7.2.7
注釈468いかに思し出づらむ以下「消たれぬものにこそ」まで、弘徽殿大后の心中。『集成』は「(源氏を憎んだ)昔のことをどのようにお思い出しのことだろう。草子地」。完訳「以下、大后の心中。かつての迫害を源氏はどう思っているか」と注す。7.2.9
注釈469尚侍の君も朧月夜尚侍、朱雀院と同居。7.2.11
注釈470風のつてにもほのめききこえたまふこと絶えざるべし語り手の推量。源氏が朧月夜に手紙を差し上げるこの意。7.2.11
注釈471命長くてかかる世の末を見ること弘徽殿大后の心中。「寿則辱多」(荘子、外篇、天地)、長生きをすると辛いことが多いの慣用句。7.2.12
注釈472よろづ思しむつかりける大島本は「よろつ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「よろづを」と「を」を補訂する。7.2.12
注釈473たとへがたくぞ大島本は「たとへ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「堪へがたく」と「と」を削除する。7.2.13
注釈474選らばせたまひしかど大島本は「えらハせ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「選らせ」と「は」を削除する。7.2.14
7.3
第三段 源氏、六条院造営を企図す


7-3  Genji plans on construction Rokujo-in

7.3.1  大殿、 静かなる御住まひを、同じくは広く見どころありて、ここかしこにておぼつかなき山里人などをも、集へ住ませむの御心にて、 六条京極のわたりに、中宮の御古き宮のほとりを四町をこめて造らせたまふ。
 大殿は、静かなお住まいを、同じことなら広く立派にして、あちこちに別居して気がかりな山里人などをも、集め住まわせようとのお考えで、六条京極の辺りに、中宮の御旧居の近辺を、四町をいっぱいにお造りになる。
 源氏は静かな生活のできる家を、なるべく広くおもしろく作って、別れ別れにいる、たとえば嵯峨さがの山荘の人などもいっしょに住ませたいという希望を持って、六条の京極の辺に中宮ちゅうぐうの旧邸のあったあたり四町四面を地域にして新邸を造営させていた。
  Ohotono, siduka naru ohom-sumahi wo, onaziku ha hiroku midokoro ari te, koko kasiko nite obotukanaki yamazato-bito nado wo mo, tudohe suma se m no mi-kokoro nite, Rokudeu-Kyaugoku no watari ni, Tyuuguu no ohom-huruki Miya no hotori wo, yo mati wo kome te tukura se tamahu.
7.3.2   式部卿宮、明けむ年ぞ五十になりたまひける御賀のこと、対の上思しまうくるに、大臣も、「 げに、過ぐしがたきことどもなり」と思して、「さやうの御いそぎも、 同じくめづらしからむ御家居にて」と、 いそがせたまふ
 式部卿宮が、明年五十歳におなりになる御賀のことを、対の上がお考えなので、大臣も、「なるほど、見過ごすわけにはいかない」とお思いになって、「そのようなご準備も、同じことなら新しい邸で」と、用意させなさる。
 式部卿の宮は来年が五十におなりになるのであったから、紫夫人はその賀宴をしたいと思って仕度したくをしているのを見て、源氏もそれはぜひともしなければならぬことであると思い、そうした式もなるべくは新邸でするほうがよいと、そのためにも建築を急がせていた。
  Sikibukyaunomiya, ake m tosi zo gozihu ni nari tamahi keru ohom-ga no koto, Tainouhe obosi-maukuru ni, Otodo mo, "Geni, sugusi gataki koto-domo nari." to obosi te, "Sayau no ohom-isogi mo, onaziku medurasikara m ohom-ihewi nite." to, isogase tamahu.
7.3.3   年返りて、ましてこの御いそぎのこと、御としみのこと、楽人、舞人の定めなどを、御心に入れていとなみたまふ。経、仏、 法事の日の装束、禄などをなむ、上はいそがせたまひける。
 年が改まってからは、昨年以上にこのご準備の事、御精進落としの事、楽人、舞人の選定などを、熱心に準備させなさる。経、仏像、法事の日の装束、禄などを、対の上はご準備なさるのだった。
 春になってからは専念に源氏は宮の五十の御賀の用意をしていた。おといみ饗宴きょうえんのこと、その際の音楽者、舞い人の選定などは源氏の引き受けていることで、付帯して行なわれる仏事の日の経巻や仏像の製作、法事の僧たちへ出す布施ふせの衣服類、一般の人への纏頭てんとうの品々は夫人が力を傾けて用意していることであった。
  Tosi kaheri te, masite kono ohom-isogi no koto, ohom-tosimi no koto, gakunin, mahibito no sadame nado wo, mi-kokoro ni ire te itonami tamahu. Kyau, Hotoke, hohuzi no hi no sauzoku, roku nado wo nam, Uhe ha isogase tamahi keru.
7.3.4   東の院に、分けてしたまふことどもあり。御なからひ、ましていとみやびかに聞こえ交はしてなむ、過ぐしたまひける。
 東の院で、分担してご準備なさることがある。ご間柄は、いままで以上にとても優美にお手紙のやりとりをなさって、お過ごしになっているのであった。
 東の院でも仕事を分担して助けていた。花散里はなちるさと夫人と紫の女王にょおうとは同情を互いに持って美しい交際をしているのである。
  Himgasinowin ni, wake te si tamahu koto-domo ari. Ohom-nakarahi, masite ito miyabika ni kikoye kahasi te nam, sugusi tamahi keru.
7.3.5  世の中響きゆすれる御いそぎなるを、式部卿宮にも聞こしめして、
 世間中が大騒ぎしているご準備なので、式部卿宮のお耳にも入って、
 世間までがこのために騒ぐように見える大仕掛けな賀宴のことを式部卿の宮もお聞きになった。
  Yononaka hibiki yusure ru ohom-isogi naru wo, Sikibukyaunomiya ni mo kikosi mesi te,
7.3.6  「 年ごろ、世の中にはあまねき御心なれど、このわたりをばあやにくに情けなく、事に触れてはしたなめ、 宮人をも御用意なく、愁はしきことのみ多かるに、つらしと思ひ置きたまふことこそはありけめ」
 「長年の間、世間に対しては広大なお心であるが、わたくしどもには理不尽にも冷たくて、何かにつけて辱め、宮人に対してもお心配りがなく、嫌なことばかり多かったのだが、恨めしいと思うことがあったのだろう」
 これまではだれのためにも慈父のような広い心を持つ源氏であるが御自身と御自身の周囲の者にだけは冷酷な態度を取り続けられておいでになるのを、源氏の立場になってみれば、恨めしいことが過去にあったのであろう
  "Tosigoro, yononaka ni ha amaneki mi-kokoro nare do, kono watari wo ba ayaniku ni nasakenaku, koto ni hure te hasitaname, miyabito wo mo ohom-youi naku, urehasiki koto nomi ohokaru ni, turasi to omohioki tamahu koto koso ha ari keme."
7.3.7  と、いとほしくもからくも思しけるを、 かくあまたかかづらひたまへる人びと多かるなかに、取りわきたる御思ひすぐれて、世に心にくくめでたきことに、 思ひかしづかれたまへる御宿世をぞ、わが家まではにほひ来ねど、面目に思すに、また、
 と、お気の毒にもまたつらくもお思いであったが、このように数多くの女性関係の中で、特別のご寵愛があって、まことに奥ゆかしく結構な方として、大切にされていらっしゃるご運命を、自分の家までは及んで来ないが、名誉にお思いになると、また、
 と、その時代の源氏夫婦を今さら気の毒にもお思いになり、こうした現状を苦しがっておいでになったが、源氏の幾人もある妻妾さいしょうの中の最愛の夫人で女王があって、世間から敬意を寄せられていることも並み並みでない人が娘であることは、その幸福が自家へわけられぬものにもせよ、自家の名誉であることには違いないと思っておいでになった。それに今度の賀宴が、
  to, itohosiku mo karaku mo obosi keru wo, kaku amata kakadurahi tamahe ru hitobito ohokaru naka ni, toriwaki taru ohom-omohi sugure te, yo ni kokoronikuku medetaki koto ni, omohi kasiduka re tamahe ru ohom-sukuse wo zo, waga ihe made ha nihohi ko ne do, meiboku ni obosu ni, mata,
7.3.8  「 かくこの世にあまるまで、響かし営みたまふは、おぼえぬ齢の末の栄えにもあるべきかな」
 「このように世間の評判となるまで、大騒ぎしてご準備なさるのは、思いがけない晩年の慶事だ」
 源氏の勢力のもとでかつてない善美を尽くした準備が調えられているということをお知りになったのであるから、思いがけぬ老後の光栄を受ける
  "Kaku kono yo ni amaru made, hibikasi itonami tamahu ha, oboye nu yohahi no suwe no sakaye ni mo aru beki kana!"
7.3.9  と喜びたまふを、 北の方は、「心ゆかず、ものし」とのみ思したり。 女御、御まじらひのほどなどにも、大臣の御用意なきやうなるを、いよいよ恨めしと 思ひしみたまへるなるべし
 と、お喜びになるのを、北の方は、「おもしろくなく、不愉快だ」とばかりお思いであった。王女御の、ご入内の折などにも、大臣のご配慮がなかったようなのを、ますます恨めしいと思い込んでいらっしゃるのであろう。
 と感激しておいでになるが、宮の夫人は不快に思っていた。女御にょごの後宮の競争にも源氏が同情的態度に出ないことで、いよいよ恨めしがっているのである。
  to yorokobi tamahu wo, Kitanokata ha, "Kokoroyuka zu, monosi." to nomi obosi tari. Nyougo, ohom-mazirahi no hodo nado ni mo, Otodo no ohom-youi naki yau naru wo, iyoiyo uramesi to omohi simi tamahe ru naru besi.
注釈475静かなる御住まひを「造らせたまふ」に続く。7.3.1
注釈476六条京極のわたりに中宮の御古き宮のほとりを秋好中宮が母六条御息所から伝領した旧宮。六条院はそれを含めて四町の敷地に造営される。7.3.1
注釈477四町をこめて大島本は「こめて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「占めて」と校訂する。7.3.1
注釈478式部卿宮明けむ年ぞ五十になりたまひける大島本は「なり給ける」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「なりたまひけるを」と「を」を補訂する。紫の上の父宮、明年五十歳になる。7.3.2
注釈479げに過ぐしがたきことどもなり源氏の心中。「げに」は紫の上に賛同する気持ち。7.3.2
注釈480同じくめづらしからむ大島本は「おなしく」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「同じくは」と「は」を補訂する。7.3.2
注釈481いそがせたまふ六条院の造営を急がせる。7.3.2
注釈482年返りて大島本は「年かへりて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「年かへりては」と「は」を補訂する。源氏三十五歳春を迎える。7.3.3
注釈483法事の日の装束禄など大島本は「法事の日のさうそくろくなと」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「法事の日の御装束、禄どもなど」と「御」と「ども」を補訂する。7.3.3
注釈484東の院に大島本は「ひんかしの院に」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「東の院にも」と「も」を補訂する。二条東院の女主人花散里をさす。7.3.4
注釈485年ごろ世の中には以下「ことこそはありけめ」まで、式部卿宮の心中。7.3.6
注釈486宮人をも式部卿宮家に仕える人々をさす。7.3.6
注釈487かくあまた以下「面目に」まで、式部卿宮の心中と地の文が融合した形。「面目と」とあれば「思す」で受ける心中文となる。7.3.7
注釈488思ひかしづかれたまへる御宿世をぞ娘の紫の上の運勢をいう。7.3.7
注釈489かくこの世に以下「あるべきかな」まで、式部卿宮の心中。7.3.8
注釈490北の方は式部卿宮の北の方、紫の上の継母。7.3.9
注釈491女御大島本は「女御」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「女御の」と「の」を補訂する。式部卿宮の娘中の君、王女御をさす。7.3.9
注釈492思ひしみたまへるなるべし語り手の推測。7.3.9
7.4
第四段 秋八月に六条院完成


7-4  Rokujo-in has completed in August

7.4.1   八月にぞ、六条院造り果てて渡りたまふ未申の町は、中宮の御古宮なれば、やがておはしますべし。辰巳は、殿のおはすべき町なり。丑寅は、東の院に住みたまふ対の御方、戌亥の町は、明石の御方と思しおきてさせたまへり。もとありける池山をも、便なき所なるをば崩し変へて、水の趣き、山のおきてを改めて、さまざまに、御方々の御願ひの心ばへを造らせたまへり。
 八月に、六条院が完成してお引っ越しなさる。未申の町は中宮の御旧邸なので、そのままお住まいになる予定である。辰巳は、殿のいらっしゃる予定の区画である。丑寅は、東の院にいらっしゃる対の御方、戌亥の区画は、明石の御方とお考えになって造営なさった。もとからあった池や山を、不都合な所にあるものは造り変えて、水の情緒や、山の風情を改めて、いろいろと、それぞれの御方々のご希望どおりにお造りになった。
 八月に六条院の造営が終わって、二条の院から源氏は移転することになった。南西は中宮の旧邸のあった所であるから、そこは宮のお住居すまいになるはずである。南の東は源氏の住む所である。北東の一帯は東の院の花散里、西北は明石あかし夫人と決めて作られてあった。もとからあった池や築山つきやまも都合の悪いのはこわして、水の姿、山の趣も改めて、さまざまに住み主の希望を入れた庭園が作られたのである。
  Haduki ni zo, Rokudeunowin tukuri hate te watari tamahu. Hituzisaru no mati ha, Tyuuguu no ohom-hurumiya nare ba, yagate ohasimasu besi. Tatumi ha, Tono no ohasubeki mati nari. Usitora ha, Himgasinowin ni sumi tamahu Tai-no-Ohomkata, Inuwi no mati ha, Akasi-no-Ohomkata to obosioki te sase tamahe ri. Moto ari keru ike yama wo mo, binnaki tokoro naru wo ba kudusi kahe te, midu no omomuki, yama no okite wo aratame te, samazama ni, ohom-katagata no ohom-negahi no kokorobahe wo tukura se tamahe ri.
7.4.2   南の東は、山高く、春の花の木、数を尽くして植ゑ、池のさまおもしろくすぐれて、御前近き前栽、五葉、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などやうの、春のもてあそびを わざとは植ゑで、秋の前栽をば、むらむらほのかに混ぜたり。
 東南の町は、山を高く築き、春の花の木を、無数に植えて、池の様子も趣深く優れていて、お庭先の前栽には、五葉の松、紅梅、桜、藤、山吹、岩躑躅などといった、春の楽しみをことさらには植えないで、秋の前栽を、ひとむらずつ混ぜてあった。
 南の東は山が高くて、春の花の木が無数に植えられてあった。池がことに自然にできていて、近い植え込みの所には、五葉ごよう、紅梅、桜、ふじ山吹やまぶき岩躑躅いわつつじなどを主にして、その中に秋の草木がむらむらに混ぜてある。
  Minami no himgasi ha, yama takaku, haru no hana no ki, kazu wo tukusi te uwe, ike no sama omosiroku sugure te, omahe tikaki sensai, goehu, koubai, sakura, hudi, yamabuki, ihatutudi nado yau no, haru no moteasobi wo wazato ha uwe de, aki no sensai wo ba, muramura honoka ni maze tari.
7.4.3   中宮の御町をば、もとの山に、紅葉の色濃かるべき 植木どもを添へて泉の水遠く澄ましやり、水の音まさるべき巌立て加へ、滝落として、秋の野をはるかに作りたる、そのころにあひて、盛りに咲き乱れたり。嵯峨の大堰のわたりの野山、無徳にけおされたる秋なり。
 中宮の御町は、もとからある山に、紅葉の色の濃い植木を幾本も植えて、泉の水を清らかに遠くまで流して、遣水の音がきわだつように岩を立て加え、滝を落として、秋の野を広々と作ってあるが、折柄ちょうどその季節で、盛んに咲き乱れていた。嵯峨の大堰あたりの野山も、見るかげもなく圧倒された今年の秋である。
 中宮のお住居すまいの町はもとの築山に、美しく染む紅葉もみじを植え加えて、泉の音の澄んで遠く響くような工作がされ、流れがきれいな音を立てるような石が水中に添えられた。滝を落として、奥には秋の草野が続けられてある。ちょうどその季節であったから、嵯峨さがの大井の野の美観がこのために軽蔑けいべつされてしまいそうである。
  Tyuuguu no ohom-mati wo ba, moto no yama ni, momidi no iro kokaru beki uweki-domo wo sohe te, idumi no midu tohoku sumasi yari, midu no oto masaru beki ihaho tate kuhahe, taki otosi te, aki no no wo haruka ni tukuri taru, sono koro ni ahi te, sakari ni saki midare tari. Saga no Ohowi no watari no noyama, mutoku ni keosa re taru aki nari.
7.4.4   北の東は、涼しげなる泉ありて、夏の蔭によれり。前近き前栽、呉竹、下風涼しかるべく、木高き森のやうなる木ども木深くおもしろく、山里めきて、卯の花の垣根ことさらにしわたして、 昔おぼゆる花橘、撫子、薔薇、 苦丹などやうの花、草々を植ゑて、春秋の木草、そのなかにうち混ぜたり。 東面は、分けて馬場の御殿作り、埒結ひて、五月の御遊び所にて、水のほとりに菖蒲植ゑ茂らせて、向かひに御厩して、世になき上馬どもをととのへ立てさせたまへり。
 北東の町は、涼しそうな泉があって、夏の木蔭を主としていた。庭先の前栽には、呉竹があり、下風が涼しく吹くようにし、木高い森のような木は奥深く趣があって、山里めいて、卯花の垣根を特別に造りめぐらして、昔を思い出させる花橘、撫子、薔薇、くたになどといった花や、草々を植えて、春秋の木や草を、その中に混ぜていた。東面は、割いて馬場殿を造って、埒を結って、五月の御遊の場所として、水のほとりに菖蒲を植え茂らせて、その向かい側に御厩舎を造って、またとない素晴らしい馬を何頭も繋がせていらっしゃった。
 北の東は涼しい泉があって、ここは夏の庭になっていた。座敷の前の庭には呉竹くれたけがたくさん植えてある。下風の涼しさが思われる。大木の森のような木が深く奥にはあって、田舎いなからしい花垣はながきなどがわざと作られていた。昔の思われる花橘はなたちばな撫子なでしこ薔薇そうび木丹くたになどの草木を植えた中に春秋のものも配してあった。東向いた所は特に馬場殿になっていた。庭にはらちが結ばれて、五月の遊び場所ができているのである。菖蒲しょうぶが茂らせてあって、向かいのうまやには名馬ばかりが飼われていた。
  Kita no himgasi ha, suzusige naru idumi ari te, natu no kage ni yore ri. Mahe tikaki sensai, kuretake, sitakaze suzusikaru beku, kodakaki mori no yau naru ki-domo kobukaku omosiroku, yamazato meki te, unohana no kakine kotosarani si watasi te, mukasi oboyuru hanatatibana, nadesiko, saubi, kutani nado yau no hana, kusagusa wo uwe te, haru aki no ki kusa, sono naka ni uti-maze tari. Himgasi omote ha, wake te mumaba no otodo tukuri, rati yuhi te, Satuki no ohom-asobidokoro nite, midu no hotori ni saubu uwe sigera se te, mukahi ni ohom-mumaya si te, yo ni naki zyaume-domo wo totonohe tate sase tamahe ri.
7.4.5   西の町は、北面築き分けて、御倉町なり。隔ての垣に松の木茂く、雪をもてあそばむたよりによせたり。冬のはじめの朝、霜むすぶべき菊の籬、 われは顔なる柞原、をさをさ名も知らぬ深山木どもの、木深きなどを移し植ゑたり。
 西北の町は、北面は築地で区切って、御倉町である。隔ての垣として松の木をたくさん植えて、雪を鑑賞するのに都合よくしてある。冬の初めの朝、霜が結ぶように菊の籬、得意げに紅葉する柞の原、ほとんど名も知らない深山木などの、木深く茂っているのを移植してあった。
 北西の町は北側にずっと倉が並んでいるが、隔てのかきには唐竹からたけが植えられて、松の木の多いのは雪を楽しむためである。冬の初めに初霜のとまる菊の垣根、朗らかな柞原ははそはら、そのほかにはあまり名の知れていないような山の木の枝のよくしげったものなどが移されて来てあった。
  Nisi no mati ha, kita omote tuki wake te, mi-kuramati nari. Hedate no kaki ni matu no ki sigeku, yuki wo mote-asoba m tayori ni yose tari. Huyu no hazime no asa, simo musubu beki kiku no magaki, ware-ha-gaho naru hahasohara, wosawosa na mo sira nu miyamagi-domo no, kobukaki nado wo utusi uwe tari.
注釈493八月にぞ六条院造り果てて渡りたまふ昨年の秋に造営に着工して一年で完成。7.4.1
注釈494未申の町は東南の町は秋好中宮、以下方位でその主人を紹介していく。東南の町は源氏と紫の上、東北の町は花散里、西北の町は明石御方である。7.4.1
注釈495南の東は東南の町、すなわち紫の上の御殿は春の趣の町。7.4.2
注釈496わざとは植ゑで『集成』は「わざとは植ゑて」と清音で「特に選んで植えて」と訳す。7.4.2
注釈497中宮の御町をば秋好中宮の御殿は秋の趣の町。7.4.3
注釈498植木どもを添へて大島本は「そへて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「植ゑ」と校訂する。7.4.3
注釈499泉の水遠く澄ましやり、水の音まさるべき巌立て加へ「すましやり水」の「やり」は上文と下文の両方にかかる掛詞。「澄ましやり、遣水の」の意。『集成』は「すましやり、水の」と整定し、『新大系』『古典セレクション』は「すまし、遣水の」と整定する。7.4.3
注釈500北の東は花散里の御殿は夏の趣の町。7.4.4
注釈501昔おぼゆる花橘「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今集夏、一三九、読人しらず)を踏まえる。7.4.4
注釈502苦丹などやうの花大島本は「花」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「花の」と「の」を補訂する。7.4.4
注釈503東面は花散里の御殿のある夏の町の東半分は馬場殿及び厩舎となっている。7.4.4
注釈504西の町は北面築き分けて御倉町なり明石御方の御殿のある冬の町。その北半分は築地で区切られて御倉町となっている。7.4.5
注釈505われは顔なる柞原擬人法。『集成』は「わがもの顔に紅葉する柞の原」と訳す。『古典セレクション』は「姫君の「母」をひびかすか」と注す。さらにいえば、「母ぞ腹」の意がこめられているといえよう。7.4.5
出典16 昔おぼゆる花橘 五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする 古今集夏-一三九 読人しらず 7.4.4
7.5
第五段 秋の彼岸の頃に引っ越し始まる


7-5  Removal to Rokjo-in about the autumnal equinox

7.5.1   彼岸のころほひ渡りたまふ。ひとたびにと定めさせたまひしかど、騒がしきやうなりとて、中宮はすこし延べさせたまふ。例のおいらかにけしきばまぬ花散里ぞ、その夜、添ひて移ろひたまふ。
 彼岸のころにお引っ越しになる。一度にとお決めあそばしたが、仰々しいようだといって、中宮は少しお延ばしになる。いつものようにおとなしく気取らない花散里は、その夜、一緒にお引っ越しなさる。
 秋の彼岸のころ源氏一家は六条院へ移って行った。皆一度にと最初源氏は思ったのであるが、仰山ぎょうさんらしくなることを思って、中宮のおはいりになることは少しお延ばしさせた。おとなしい、自我を出さない花散里を同じ日に東の院から移転させた。
  Higan no korohohi watari tamahu. Hitotabi ni to sadame sase tamahi sika do, sawagasiki yau nari tote, Tyuuguu ha sukosi nobe sase tamahu. Rei no oiraka ni kesikibama nu Hanatirusato zo, sono yo, sohi te uturohi tamahu.
7.5.2  春の御しつらひは、このころに合はねど、いと心ことなり。 御車十五、御前四位五位がちにて、六位殿上人などは、さるべき限りを選らせたまへり。こちたきほどにはあらず、世のそしりもやと省きたまへれば、何事もおどろおどろしういかめしきことはなし。
 春のお庭は、今の秋の季節には合わないが、とても見事である。お車十五台、御前駆は四位五位の人々が多く、六位の殿上人などは、特別な人だけをお選びあそばしていた。仰々しくはなく、世間の非難があってはと簡略になさっていたので、どのような点につけても大仰に威勢を張ることはない。
 春の住居すまいは今の季節ではないようなもののやはり全体として最もすぐれて見えるのがここであった。車の数が十五で、前駆には四位五位が多くて、六位の者は特別な縁故によって加えられたにすぎない。たいそうらしくなることは源氏が避けてしなかった。
  Haru no ohom-siturahi ha, kono koro ni aha ne do, ito kokoro koto nari. Ohom-kuruma zihugo, gozen siwi gowi gati nite, rokuwi Tenzyaubito nado ha, sarubeki kagiri wo era se tamahe ri. Kotitaki hodo ni ha ara zu, yo no sosiri mo ya to habuki tamahe re ba, nanigoto mo odoroodorosiu ikamesiki koto ha nasi.
7.5.3   今一方の御けしきも、をさをさ落としたまはで、 侍従君添ひて、そなたはもてかしづきたまへば、げに かうもあるべきことなりけりと見えたり
 もうお一方のご様子も、大して劣らないようになさって、侍従の君が付き添って、そちらはお世話なさっているので、なるほどこういうこともあるのであったと見受けられた。
 もう一人の夫人の前駆その他もあまり落とさなかった。長男の侍従がその夫人の子になっているのであるからもっともなことであると見えた。
  Ima hitokata no mi-kesiki mo, wosawosa otosi tamaha de, Zizyuu no kimi sohi te, sonata ha mote-kasiduki tamahe ba, geni kau mo aru beki koto nari keri to miye tari.
7.5.4  女房の曹司町ども、当て当てのこまけぞ、おほかたのことよりもめでたかりける。
 女房たちの曹司町も、それぞれに細かく当ててあったのが、他の何よりも素晴らしく思われるのであった。
 女房たちの部屋の配置、こまごまと分けて部屋数の多くできていることなどが新邸の建築のすぐれた点である。
  Nyoubau no zousimati-domo, ate ate no komake zo, ohokata no koto yori mo medetakari keru.
7.5.5  五、六日過ぎて、中宮まかでさせたまふ。この御けしきはた、さは言へど、いと所狭し。御幸ひのすぐれたまへりけるをばさるものにて、 御ありさまの心にくく重りかにおはしませば、世に重く思はれたまへること、すぐれてなむおはしましける。
 五、六日過ぎて、中宮が御退出あそばす。その御様子はそれは、簡略とはいっても、まことに大層なものである。御幸運の素晴らしいことは申すまでもなく、お人柄が奥ゆかしく重々しくいらっしゃるので、世間から重んじられていらっしゃることは、格別でおいであそばした。
 五、六日して中宮が御所から退出しておいでになった。その儀式はさすがにまた派手はでなものであった。源氏を後援者にしておいでになる方という幸福のほかにも、御人格の優しさと高潔さが衆望を得ておいでになることがすばらしいおきさき様であった。
  Ituka, muika sugi te, Tyuuguu makade sase tamahu. Kono mi-kesiki hata, sahaihedo, ito tokorosesi. Ohom-saihahi no sugure tamahe ri keru wo ba saru mono nite, ohom-arisama no kokoronikuku omorika ni ohasimase ba, yo ni omoku omoha re tamahe ru koto, sugure te nam ohasimasi keru.
7.5.6  この町々の中の隔てには、塀ども廊などを、とかく行き通はして、気近くをかしきあはひにしなしたまへり。
 この町々の間の仕切りには、塀や廊などを、あちらとこちらとが行き来できるように作って、お互いに親しく風雅な間柄にお造りになってあった。
 この四つに分かれた住居すまいは、へいを仕切りに用いた所、廊で続けられた所などもこもごもに混ぜて、一つの大きい美観が形成されてあるのである。
  Kono mati mati no naka no hedate ni ha, hei-domo rau nado wo, tokaku yuki kayohasi te, kedikaku wokasiki ahahi ni si nasi tamahe ri.
注釈506彼岸のころほひ渡りたまふ秋の彼岸。秋分の日を中心とする前後七日間。7.5.1
注釈507御車十五御前四位五位がちにて六位殿上人などはさるべき限りを選らせたまへり紫の上の二条院から六条院への引っ越し。一台の車は定員四人。約四、五十人の女房が付き従ったものか。四位五位の前駆及び特別の関係ある六位の殿上人が警護した。7.5.2
注釈508今一方の御けしきも花散里をいう。7.5.3
注釈509侍従君添ひて侍従の君すなわち夕霧。7.5.3
注釈510かうもあるべきことなりけりと見えたり『完訳』は「諸説ある。夕霧の花散里への世話ぶりとも、夕霧を花散里に付き添わせた源氏の扱いぶりとも。いずれにせよ、申し分ない様子」と注す。7.5.3
注釈511御ありさまの心にくく重りかに人柄についていう。7.5.5
7.6
第六段 九月、中宮と紫の上和歌を贈答


7-6  Chugu and Murasaki compose and exchange waka in September

7.6.1   長月になれば、紅葉むらむら色づきて、宮の御前えも言はずおもしろし。風うち吹きたる夕暮に、御箱の蓋に、色々の花紅葉をこき混ぜて、 こなたにたてまつらせたまへり
 九月になると、紅葉があちこちに色づいて、中宮のお庭先は何ともいえないほど素晴らしい。風がさっと吹いた夕暮に、御箱の蓋に、色とりどりの花や紅葉をとり混ぜて、こちらに差し上げになさった。
 九月にはもう紅葉もみじがむらむらに色づいて、中宮の前のお庭が非常に美しくなった。夕方に風の吹き出した日、中宮はいろいろの秋の花紅葉を箱のふたに入れて紫夫人へお贈りになるのであった。
  Nagatuki ni nare ba, momidi muramura iroduki te, Miya no omahe e mo iha zu omosirosi. Kaze uti-huki taru yuhugure ni, ohom-hako no huta ni, iroiro no hana momidi wo kokimaze te, konata ni tatematura se tamahe ri.
7.6.2  大きやかなる童女の、濃き衵、紫苑の織物重ねて、赤朽葉の羅の汗衫、いと いたうなれて、廊、渡殿の反橋を渡りて参る。うるはしき儀式なれど、童女のをかしきをなむ、え思し捨てざりける。さる所にさぶらひなれたれば、もてなし、ありさま、他のには似ず、このましうをかし。御消息には、
 大柄な童女が、濃い紫の袙に、紫苑の織物を重ねて、赤朽葉の羅の汗衫、とてももの馴れた感じで、廊や、渡殿の反橋を渡って参上する。格式高い礼儀作法であるが、童女の容姿の美しいのを捨てがたくてお選びになったのであった。そのようなお所に伺候し馴れていたので、立居振舞、姿つき、他家の童女とは違って、好感がもてて風情がある。お手紙には、
 やや大柄な童女が深紅しんくあこめを着、紫苑しおん色の厚織物の服を下に着て、赤朽葉くちば色の汗袗かざみを上にした姿で、廊の縁側を通り渡殿わたどの反橋そりはしを越えて持って来た。お后が童女をお使いになることは正式な場合にあそばさないことなのであるが、彼らの可憐かれんな姿が他の使いにまさると宮は思召したのである。御所のお勤めにれている子供は、外の童女と違った洗練された身のとりなしも見えた。お手紙は、
  Ohokiyaka naru waraha no, koki akome, siwon no orimono kasane te, akakutiba no usumono no kazami, ito itau nare te, rau, watadono no sorihasi wo watari te mawiru. Uruhasiki gisiki nare do, waraha no wokasiki wo nam, e obosi sute zari keru. Saru tokoro ni saburahi nare tare ba, motenasi, arisama, hoka no ni ha ni zu, konomasiu wokasi. Ohom-seusoko ni ha,
7.6.3  「 心から春まつ園はわが宿の
   紅葉を風のつてにだに見よ
 「お好みで春をお待ちのお庭では、せめてわたしの方の
  紅葉を風のたよりにでも御覧あそばせ
 心から春待つ園はわが宿の
 紅葉を風のつてにだに見よ
    "Kokorokara haru matu sono ha waga yado no
    momidi wo kaze no tute ni dani mi yo
7.6.4  若き人びと、御使もてはやす さまどもをかし。
 若い女房たちが、お使いを歓待する様子は風雅である。
 というのであった。若い女房たちはお使いをもてはやしていた。
  Wakaki hitobito, ohom-tukahi motehayasu sama-domo wokasi.
7.6.5  御返りは、この御箱の蓋に苔敷き、巌などの心ばへして、五葉の枝に、
 お返事には、この御箱の蓋に苔を敷き、巌などの感じを出して、五葉の松の枝に、
 こちらからはその箱の蓋へ、下にこけを敷いて、岩をえたのを返しにした。五葉の枝につけたのは、
  Ohom-kaheri ha, kono ohom-hako no huta ni koke siki, ihaho nado no kokorobahe si te, goehu no eda ni,
7.6.6  「 風に散る紅葉は軽し春の色を
   岩根の松にかけてこそ見め
 「風に散ってしまう紅葉は心軽いものです、春の変わらない色を
  この岩にどっしりと根をはった松の常磐の緑を御覧になってほしいものです
 風に散る紅葉は軽し春の色を
 岩根の松にかけてこそ見め
    "Kaze ni tiru momidi ha karosi haru no iro wo
    ihane no matu ni kake te koso mi me
7.6.7  この岩根の松も、こまかに 見れば、えならぬ作りごとどもなりけり。 とりあへず思ひ寄りたまひつるゆゑゆゑしさなどを、 をかしく御覧ず。御前なる人びともめであへり。大臣、
 この岩根の松も、よく見ると、素晴らしい造り物なのであった。このようにとっさに思いつきなさった趣向のよさを、感心して御覧あそばす。御前に伺候している女房たちも褒め合っていた。大臣は、
 という夫人の歌であった。よく見ればこの岩は作り物であった。すぐにこうした趣向のできる夫人の才に源氏は敬服していた。女房たちも皆おもしろがっているのである。
  Kono ihane no matu mo, komaka ni mire ba, e nara nu tukurigoto-domo nari keri. Toriahezu omohiyori tamahi turu yuweyuwesisa nado wo, wokasiku goranzu. Omahe naru hitobito mo mede ahe ri. Otodo,
7.6.8  「 この紅葉の御消息いとねたげなめり。春の花盛りに、この御応へは聞こえたまへ。このころ紅葉を言ひ朽さむは、龍田姫の思はむこともあるを、さし退きて、 花の蔭に立ち隠れてこそ、強きことは出で来め
 「この紅葉のお手紙は、何とも憎らしいですね。春の花盛りに、このお返事は差し上げなさい。この季節に紅葉を貶すのは、龍田姫がどう思うかということもあるので、ここは一歩退いて、花を楯にとって、強いことも言ったらよいでしょう」
 「紅葉の贈り物は秋の御自慢なのだから、春の花盛りにこれに対することは言っておあげなさい。このごろ紅葉を悪口することは立田たつた姫に遠慮すべきだ。別な時に桜の花を背景にしてものを言えば強いことも言われるでしょう」
  "Kono momidi no ohom-seusoko, ito netage na' meri. Haru no hanazakari ni, kono ohom-irahe ha kikoye tamahe. Konokoro momidi wo ihi kutasa m ha, Tatutahime no omoha m koto mo aru wo, sasi-sizoki te, hana no kage ni tati kakure te koso, tuyoki koto ha ide ko me."
7.6.9  と聞こえたまふも、 いと若やかに尽きせぬ御ありさまの見どころ多かるに、いとど思ふやうなる御住まひにて、 聞こえ通はしたまふ
 と申し上げなさるのも、とても若々しくどこまでも素晴らしいお姿で魅力にあふれていらっしゃる上に、いっそう理想的なお邸で、お手紙のやりとりをなさる。
 こんなふうにいつまでも若い心の衰えない源氏夫婦が同じ六条院の人として中宮と風流な戯れをし合っているのである。
  to kikoye tamahu mo, ito wakayaka ni tuki se nu ohom-arisama no midokoro ohokaru ni, itodo omohu yau naru ohom-sumahi nite, kikoye kayohasi tamahu.
7.6.10   大堰の御方は、「 かう方々の御移ろひ定まりて、数ならぬ人は、いつとなく紛らはさむ」と思して、 神無月になむ渡りたまひける。御しつらひ、ことのありさま劣らずして、 渡したてまつりたまふ姫君の御ためを思せば、おほかたの作法も、けぢめこよなからず、いとものものしくもてなさせたまへり。
 大堰の御方は、「このように御方々のお引っ越しが終わってから、人数にも入らない者は、いつか分からないようにこっそりと移ろう」とお考えになって、神無月にお引っ越しになるのであった。お部屋の飾りや、お引っ越しの次第は他の方々に劣らないようにして、お移し申し上げなさる。姫君のご将来をお考えになると、万事についての作法も、ひどく差をつけず、たいそう重々しくお扱いなさった。
 大井の夫人は他の夫人のわたましがすっかり済んだあとで、価値のない自分などはそっと引き移ってしまいたいと思っていて、十月に六条院へ来たのであった。住居すまいの中の設備も、移って来る日の儀装のことも源氏は他の夫人に劣らせなかった。それは姫君の将来のことを考えているからで迎えてからも重々しく取り扱った。
  Ohowi-no-Ohomkata ha, "Kau katagata no ohom-uturohi sadamari te, kazu nara nu hito ha, itu to naku magirahasa m." to obosi te, Kamnaduki ni nam watari tamahi keru. Ohom-siturahi, koto no arisama otora zu si te, watasi tatematuri tamahu. Himegimi no ohom-tame wo obose ba, ohokata no sahohu mo, kedime koyonakara zu, ito monomonosiku motenasa se tamahe ri.
注釈512長月になれば紅葉むらむら色づきて晩秋九月である。7.6.1
注釈513こなたにたてまつらせたまへり秋好中宮が紫の上に。前に「御箱」とあり、ここに「せたまへり」という最高敬語が使用されている。7.6.1
注釈514いたうなれて『集成』は「まことに落着いた態度で」。『完訳』は「たいそう物慣れた身のこなしで」と訳す。7.6.2
注釈515心から春まつ園はわが宿の--紅葉を風のつてにだに見よ秋好中宮から紫の上への贈歌。秋の町の素晴らしさを言ってよこした。7.6.3
注釈516風に散る紅葉は軽し春の色を--岩根の松にかけてこそ見め紫の上の返歌。秋よりも春が素晴らしいと、応酬する。7.6.6
注釈517とりあへず思ひ寄りたまひつる大島本は「とりあへすおもひより給つる」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「かくとりあへず思ひよりたまへる」と校訂する。7.6.7
注釈518をかしく御覧ず主語は秋好中宮。7.6.7
注釈519この紅葉の御消息以下「強きことは出で来め」まで、源氏の詞。7.6.8
注釈520いとねたげなめり『集成』は「なんともしゃくに思われますね」と訳す。『完訳』は「中宮にしてやられた感じ」と注す。7.6.8
注釈521花の蔭に立ち隠れてこそ強きことは出で来め『集成』は「春になって、花の美しさを頼みにしてこそ、勝ち目のある歌もできましょう」。『完訳』は「春になってから、花を押し立ててこそ強いことも言えましょう」と訳す。「胡蝶」巻にこの返歌がある。7.6.8
注釈522いと若やかに尽きせぬ御ありさまの源氏の変わらぬ若々しさをいう。7.6.9
注釈523聞こえ通はしたまふ主語は六条院の女君たち。『集成』は「理想的な六条院の生活ぶり」。『完訳』は「源氏には、自らの管理のもとでの女君同士の適度な交流も理想であった。六条院経営はそれを可能にしようとしている」と注す。7.6.9
注釈524大堰の御方は明石御方をさす。7.6.10
注釈525かう方々の以下「紛らはさむ」まで、明石御方の心中。7.6.10
注釈526神無月になむ渡りたまひける初冬十月。冬の町の主人公にふさわしい設定。7.6.10
注釈527渡したてまつりたまふ主語は源氏。明石御方に対する重々しい待遇である。7.6.10
注釈528姫君の御ためを思せば『完訳』は「明石の姫君を将来の国母にと意図する源氏は、身分低い母君の格式を高めようとする」と注す。7.6.10
校訂64 さまども さまども--さまに(に/$と)も 7.6.4
校訂65 見れば 見れば--見れ(れ/+は<朱>) 7.6.7
Last updated 9/21/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 11/10/2009(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 8/5/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)

2004年2月4日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2008年3月22日

Last updated 11/10/2009 (ver.2-2)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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