第三十七帖 横笛


37 YOKOBUE (Ohoshima-bon)


光る源氏の准太上天皇時代
四十九歳春から秋までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from spring to fall, at the age of 49

2
第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛


2  Tale of Yugiri  A flute of the late Kashiwagi loved

2.1
第一段 夕霧、一条宮邸を訪問


2-1  Yugiri visits Ichijo-miya residence

2.1.1  大将の君は、かの今はのとぢめにとどめし一言を、心ひとつに 思ひ出でつつ、「 いかなりしことぞ」とは、いと聞こえまほしう、 御けしきもゆかしきをほの心得て思ひ寄らるることもあれば、なかなかうち出でて聞こえむもかたはらいたくて、「 いかならむついでに、この 事の詳しきありさまも明きらめ、また、かの人の思ひ入りたりしさまをも 聞こしめさむ」と、思ひわたりたまふ。
 大将の君は、あの臨終の際に言い遺した一言を、心ひそかに思い出し思い出ししては、「どういうことであったのか」と、とてもお尋ね申し上げたく、お顔色も伺いたいのだが、うすうす思い当たられる節もあるので、かえって口に出して申し上げるのも具合が悪くて、「どのような機会に、この事の詳しい事情をはっきりさせ、また、あの人の思いつめていた様子をお耳に入れようか」と、思い続けていらっしゃる。
 大将は柏木かしわぎが命の終わりにとどめた一言を心一つに思い出して何事であったかいぶかしいと院に申し上げて見たく思い、その時の御表情などでお心も読みたいと願っているが、うすくほのかに想像のつくこともあるために、かえって思いやりのないお尋ねを持ち出して不快なお気持ちにおさせしてはならない、きわめてよい機会を見つけて自分は真相も知っておきたいし、故人が煩悶はんもんしていた話もお耳に入れることにしたいと常に思っていた。
  Daisyau-no-Kimi ha, kano imaha no todime ni todome si hitokoto wo, kokoro hitotu ni omohi ide tutu, "Ikanari si koto zo?" to ha, ito kikoye mahosiu, mi-kesiki mo yukasiki wo, hono-kokoroe te omohiyora ruru koto mo are ba, nakanaka uti-ide te kikoye m mo kataharaitaku te, "Ikanara m tuide ni, kono koto no kuhasiki arisama mo akirame, mata, kano hito no omohi iri tari si sama wo mo kikosimesa m?" to, omohi watari tamahu.
2.1.2  秋の夕べのものあはれなるに、一条の宮を思ひやりきこえたまひて、渡りたまへり。うちとけ、しめやかに、 御琴どもなど弾きたまふほどなるべし。深くもえ取りやらで、やがてその南の廂に入れたてまつりたまへり。端つ方なりける人の、ゐざり入りつる けはひどもしるく、衣の音なひも、おほかたの匂ひ香うばしく、心にくきほどなり。
 秋の夕方の心寂しいころに、一条の宮をどうしていられるかとご心配申し上げなさって、お越しになった。くつろいで、ひっそりとお琴などを弾いていらっしゃったところなのであろう。奥へ片づけることもできず、そのままその南の廂間にお入れ申し上げなさった。端の方にいた人たちが、いざって入って行く様子がはっきり分かって、衣ずれの音や、あたりに漂う香の匂いも薫り高く、奥ゆかしい感じである。
 物哀れな気のする夕方に大将は一条の宮をおたずねした。柔らかいしめやかな感じがまずして宮は今まで琴などをいておいでになったものらしかった。来訪者を長く立たせておくこともできなくて、人々はいつもの南の中の座敷へ案内した。今までこの辺の座敷に出ていた人が奥へいざってはいった気配けはいが何となく覚えられて、衣擦きぬずれの音と衣の香が散り、えんな気分を味わった。
  Aki no yuhube no mono-ahare naru ni, Itideu-no-Miya wo omohiyari kikoye tamahi te, watari tamahe ri. Utitoke, simeyaka ni, ohom-koto-domo nado hiki tamahu hodo naru besi. Hukaku mo e tori yara de, yagate sono minami no hisasi ni ire tatematuri tamahe ri. Hasi tu kata nari keru hito no, wizari iri turu kehahi-domo siruku, kinu no otonahi mo, ohokata no nihohi kaubasiku, kokoronikuki hodo nari.
2.1.3   例の、御息所、対面したまひて、昔の物語ども聞こえ交はしたまふ。 わが御殿の、明け暮れ人しげくて、もの騒がしく、幼き君たちなど、すだきあわてたまふにならひたまひて、いと静かにものあはれなり。うち荒れたる心地すれど、あてに気高く住みなしたまひて、前栽の花ども、 虫の音しげき野辺と 乱れたる夕映えを、見わたしたまふ。
 いつものように、御息所がお相手なさって、昔話をあれこれと交わし合いなさる。ご自分の御殿は、明け暮れ人が大勢出入りして、もの騒がしく、幼い子供たちが、大勢寄って騒々しくしていらっしゃるのにお馴れになっているので、とても静かで心寂しい感じがする。ちょっと手入れも行き届いてない感じがするが、上品に気高くお暮らしになって、前栽の花々、虫の音のたくさん聞こえる野原のように咲き乱れている夕映えを、見渡しなさる。
 いつもの御息所みやすどころが出て来て柏木の話などを双方でした。自身の所は人出入りも多く幾人もの子供が始終家の中を騒がしくしているのにれている大将には御殿の中の静かさがことさら身にしむように思われた。以前よりもまた荒れてきたような気はするが、さすがに貴人の住居すまいらしい品は備わっていた。植え込みの花草が虫の音に満ちた野のように乱れた夕明りのもとの夜を大将はながめていた。
  Rei no, Miyasumdokoro, taimen si tamahi te, mukasi no monogatari-domo kikoye kahasi tamahu. Waga ohom-tono no, akekure hito sigeku te, mono-sawagasiku, wosanaki Kimi-tati nado, sudaki awate tamahu ni narahi tamahi te, ito siduka ni mono-ahare nari. Uti-are taru kokoti sure do, ate ni kedakaku sumi nasi tamahi te, sensai no hana-domo, musi no ne sigeki nobe to midare taru yuhubaye wo, mi watasi tamahu.
注釈53思ひ出でつつ接続助詞「つつ」同じ動作の繰り返し。2.1.1
注釈54いかなりしことぞ夕霧の心中。2.1.1
注釈55御けしきもゆかしきを源氏の顔色。2.1.1
注釈56ほの心得て思ひ寄らるることもあれば夕霧は薄々そうではないかと自然思い当たることもあるので、の意。2.1.1
注釈57いかならむついでに以下「聞こしめさむ」まで、夕霧の心中。2.1.1
注釈58聞こしめさむ『完訳』は「柏木は源氏の勘気の解けるよう夕霧にとりなしを遺言。その約束も果せば柏木の霊も浮ばれよう」と注す。2.1.1
注釈59御琴どもなど弾きたまふほどなるべし接尾語「ども」複数を表す。弦楽器類による合奏をしていたもの。「べし」推量の助動詞。『完訳』は「夕霧の心に即した推測」と注す。2.1.2
注釈60けはひどもしるく、衣の音なひも、おほかたの匂ひ香うばし『完訳』は「「けはひ」「音なひ」「匂ひ」と、夕霧の神経が女宮の周辺に集中」と注す。2.1.2
注釈61例の御息所対面したまひて「例の」は「対面したまひて」に係る。落葉宮の母一条御息所が常に応対に出ている。2.1.3
注釈62わが御殿の明け暮れ人しげくてもの騒がしく幼き君たちなどすだきあわてたまふにならひたまひて夕霧自邸の様子を思い比べる。『集成』は「以下、夕霧の思い」と注す。2.1.3
注釈63虫の音しげき野辺と「君が植ゑし一むら薄虫の音しげき野辺ともなりにけるかな」(古今集哀傷、八五三、御春有助)。「柏木」巻に「一村薄も頼もしげに広ごりて虫の音添へむ秋思ひやらるる」(第五章五段)とあった。2.1.3
出典3 虫の音しげき野辺 君が植ゑし一村薄虫の音しげき野辺ともなりにけるかな 古今集哀傷-八五三 三春有助 2.1.3
校訂7 事の 事の--こと(と/+の<朱>) 2.1.1
2.2
第二段 柏木遺愛の琴を弾く


2-2  Yugiri plays koto that is the late Kashiwagi loved

2.2.1   和琴を引き寄せたまへれば律に調べられて、いとよく弾きならしたる、人香にしみて、 なつかしうおぼゆ
 和琴をお引き寄せになると、律の調子に調えられていて、とてもよく弾きこんであるのが、人の移り香がしみこんでいて、心惹かれる感じがする。
 そこに出たままになっていた和琴わごんを引き寄せてみると、それは律の調子に合わされてあって、よく弾きらされて人間の香にんだなつかしいものであった。
  Wagon wo hikiyose tamahe re ba, riti ni sirabe rare te, ito yoku hiki narasi taru, hitoga ni simi te, natukasiu oboyu.
2.2.2  「 かやうなるあたりに、思ひのままなる 好き心ある人は、静むることなくて、さま悪しきけはひをもあらはし、さるまじき名をも立つるぞかし」
 「このようなところに、慎みのない好き心のある人は、心を抑えることができなくて、見苦しい振る舞いにでも出て、あってはならない評判を立てるものだ」
 こんな趣味の美しい女住居ずまいに放縦な癖のついた男が来たなら、自制もできずに醜態を見せることがあるのであろう、
  "Kayau naru atari ni, omohi no mama naru sukigokoro aru hito ha, sidumuru koto naku te, sama asiki kehahi wo mo arahasi, sarumaziki na wo mo taturu zo kasi."
2.2.3  など、思ひ続けつつ、掻き鳴らしたまふ。
 などと、思い続けながら、お弾きになる。
 とこんなことも心に思いながら大将は和琴を弾いていた。
  nado, omohi tuduke tutu, kaki narasi tamahu.
2.2.4   故君の常に弾きたまひし琴なりけり。をかしき手一つなど、すこし弾きたまひて、
 故君がいつもお弾きになっていた琴であった。風情のある曲目を一つ二つ、少しお弾きになって、
これは柏木が生前よく弾いていた楽器である。ある曲のおもしろい一節だけを弾いたあとで、大将は、
  Ko-Kimi no tune ni hiki tamahi si koto nari keri. Wokasiki te hitotu nado, sukosi hiki tamahi te,
2.2.5  「 あはれ、いとめづらかなる音に 掻き鳴らしたまひしはや。この御琴にも籠もりてはべらむかし。 承りあらはしてしがな
 「ああ、まことにめったにない素晴らしい音色をお弾きになったものだがな。このお琴にも故人の名残が籠もっておりましょう。お聞かせ願いたいものだ」
 「ことに和琴は名手というべき人でしたがね。忘れがたいあの人の芸術の妙味は宮様へお伝わりしているでしょうから、私はそれを承りたいのですが」
  "Ahare, ito meduraka naru ne ni kaki narasi tamahi si haya! Kono ohom-koto ni mo komori te habera m kasi. Uketamahari arahasi te si gana!"
2.2.6  とのたまへば、
 とおっしゃると、
 と言うと、
  to notamahe ba,
2.2.7  「 琴の緒絶えにし後より 、昔の御童遊びの名残をだに、 思ひ出でたまはずなむなりにてはべめる院の御前にて、女宮たちのとりどりの御琴ども、試みきこえたまひしにも、 かやうの方は、おぼめかしからずものしたまふとなむ、 定めきこえたまふめりしを、あらぬさまにほれぼれしうなりて、眺め過ぐしたまふめれば、 世の憂きつまにといふやうに なむ見たまふる」
 「主人が亡くなりまして後より、昔の子供遊びの時の記憶さえ、思い出しなさらなくなってしまったようです。院の御前で、女宮たちがそれぞれ得意なお琴を、お試し申されました時にも、このような方面は、しっかりしていらっしゃると、ご判定申されなさったようでしたが、今は別人のようにぼんやりなさって、物思いに沈んでいらっしゃるようなので、悲しい思いを催す種というように拝見しております」
 「あの不幸のございましてからは、全くこうしたことに無関心におなりあそばしまして、お小さいころのお稽古弾けいこびきと申し上げるほどのこともあそばしません。院の御前で内親王様がたにいろいろの芸事のお稽古をおさせになりましたころには、音楽の才はおありになるというような御批評をお受けあそばした宮様ですが、あれ以来はぼんやりとしておしまいになりまして、毎日なさいますことはお物思いだけでございますから、音楽も結局寂しさを慰めるものではないという気が私にいたされます」
  "Koto no wo taye ni si noti yori, mukasi no ohom-warahaasobi no nagori wo dani, omohi ide tamaha zu nam nari ni te habe' meru. Win no omahe nite, WomnaMiya-tati no toridori no ohom-koto-domo, kokoromi kikoye tamahi si ni mo, kayau no kata ha, obomekasikara zu monosi tamahu to nam, sadame kikoye tamahu meri si wo, ara nu sama ni horeboresiu nari te, nagame sugusi tamahu mere ba, yo no uki tuma ni to ihu yau ni nam mi tamahuru."
2.2.8  と聞こえたまへば、
 とお答え申し上げなさると、
 と御息所は言う。
  to kikoye tamahe ba,
2.2.9  「 いとことわりの御思ひなりや。限りだにある
 「まことにごもっともなお気持ちです。せめて終わりがあれば」
 「ごもっともなことですよ。『恋しさの限りだにある世なりせば』(つらきをしひて歎かざらまし)」
  "Ito kotowari no ohom-omohi nari ya! Kagiri dani aru."
2.2.10  と、うち眺めて、琴は押しやりたまへれば、
 と、物思いに沈んで、琴は押しやりなさったので、
 大将は歎息たんそくをして楽器を前へ押しやった。
  to, uti nagame te, koto ha osiyari tamahe re ba,
2.2.11  「 かれ、なほさらば声に伝はることもやと、聞きわくばかり鳴らさせたまへ。ものむつかしう思うたまへ沈める 耳をだに、明きらめはべらむ
 「あの琴を、やはりそういうことなら、音色の中に伝わることもあろうかと、聞いて分かるように弾いて下さい。何やら気も晴れずに物思いに沈み込んでいる耳だけでも、せめてさっぱりさせましょう」
 「楽器に故人の音がついているかどうかが、私どもにわかりますほどお弾きになって見てくださいませ。みじめにめいっておりますわれわれの耳だけでも助けてくださいませ」
  "Kare, naho saraba, kowe ni tutaharu koto mo ya to, kikiwaku bakari nara sase tamahe. Mono mutukasiu omou tamahe sidume ru mimi wo dani, akirame habera m."
2.2.12  と聞こえたまふを、
 と申し上げなさるので、

  to kikoye tamahu wo,
2.2.13  「 しか伝はる中の緒は、異にこそははべらめ。それをこそ承らむとは聞こえつれ」
 「ご夫婦の仲に伝わる琴の音色は、特別でございましょう。それを伺いたいと申し上げているのです」
 「私よりも御縁の深い方のあそばすものにこそ故人の芸術のうかがわれるものがあるでしょうから、ぜひ宮様のを承りたい」
  "Sika tutaharu nakanowo ha, koto ni koso ha habera me. Sore wo koso uketamahara m to ha kikoye ture."
2.2.14  とて、 御簾のもと近く押し寄せたまへど、とみにしも受けひきたまふまじきことなれば、しひても聞こえたまはず。
 とおっしゃって、御簾の側近くに和琴を押し寄せなさるが、すぐにはお引き受けなさるはずもないことなので、無理にお願いなさらない。
 御簾みすのそばに近く和琴を押し寄せて大将はこう言うのであるが、すぐに気軽く御承引あそばすものでないことを知っている大将は、しいても望みはしなかった。
  tote, misu no moto tikaku osiyose tamahe do, tomi ni simo ukehiki tamahu maziki koto nare ba, sihite mo kikoye tamaha zu.
注釈64和琴を引き寄せたまへれば主語は夕霧。2.2.1
注釈65律に調べられて律は秋に相応しい調べ。2.2.1
注釈66なつかしうおぼゆ『集成』は「女らしい感じがする」。『完訳』は「何か思いをそそらずにはいられない感じである」と訳す。2.2.1
注釈67かやうなるあたりに以下「立つるぞかし」まで、夕霧の心中。2.2.2
注釈68好き心ある人は『完訳』は「夕霧は自らを「すき心」とは無縁とするが、好色めいてもくる」と注す。2.2.2
注釈69故君の常に弾きたまひし琴なりけり柏木。柏木は和琴の名手。2.2.4
注釈70あはれいとめづらかなる音に以下「承りあらはしてしがな」まで、夕霧の詞。2.2.5
注釈71掻き鳴らしたまひしはや主語は柏木。「はや」連語、感動の意。2.2.5
注釈72承りあらはしてしがな落葉宮の弾奏によって柏木の名残の籠もっている音色を聴きたい、の意。2.2.5
注釈73琴の緒絶えにし後より以下「見たまふる」まで、一条御息所の詞。伯牙絶絃の故事(呂氏春秋・蒙求)。和琴の名手柏木が亡くなって以来、の意。「亡き人は訪れもせで琴の緒を絶ちし月日ぞかへり来にける」(蜻蛉日記)。2.2.7
注釈74思ひ出でたまはずなむなりにてはべめる主語は落葉宮。「はべめる」は一条御息所の推測と丁寧表現。2.2.7
注釈75院の御前にて朱雀院の御前。2.2.7
注釈76かやうの方は琴の腕前。2.2.7
注釈77定めきこえたまふめりしを落葉宮を高く評価した。主語は判然としないが、朱雀院御前の高貴な方々であろう。2.2.7
注釈78世の憂きつまにといふやうに『源氏釈』は「浅茅生の小篠が原に置く露ぞ世の憂きつまと思ひ乱るる」(出典未詳)を指摘。2.2.7
注釈79いとことわりの御思ひなりや限りだにある夕霧の詞。「恋しさの限りだにある世なりせば年へてものは思はざらまし」(古今六帖五、二五七一、坂上是則)を引く。2.2.9
注釈80かれなほさらば以下「耳をだに明きらめはべらむ」まで、一条御息所の詞。「かれ」は和琴をさす。2.2.11
注釈81声に伝はることもやと聞きわくばかり『集成』は「夕霧と柏木は知友であったので、こう言う」と注す。2.2.11
注釈82耳をだに明きらめはべらむ『完訳』は「仙楽ヲ聴クが如ク耳暫ク明サム」(白氏文集、琵琶引)を指摘。2.2.11
注釈83しか伝はる中の緒は以下「聞こえつれ」まで、夕霧の詞。「中の緒」は琴の第二絃に夫婦仲の意をこめる。2.2.13
注釈84御簾のもと近く押し寄せたまへど夕霧が落葉宮の御簾の近くに和琴を押しやる。2.2.14
出典4 琴の緒絶えにし後 呂氏春秋曰、鍾子期善聴 (中略) 鍾子期死、伯牙破琴絶絃 蒙求-伯牙絶絃 2.2.7
出典5 世の憂きつま 浅茅生の小笹が原に置く露ぞ世の憂きつまと思ひ乱るる 源氏釈所引-出典未詳 2.2.7
出典6 限りだにある 恋しさの限りだにある世なりせば年経ば物は思はざらまし 古今六帖五-二五七一 2.2.9
出典7 耳をだに、明きらめ 如聴仙楽耳暫明 白氏文集-六〇三「琵琶行」 2.2.11
2.3
第三段 夕霧、想夫恋を弾く


2-3  Yugiri plays koto that is the late Kashiwagi loved

2.3.1  月さし出でて曇りなき空に、 羽うち交はす雁がねも 、列を離れぬ、うらやましく 聞きたまふらむかし。風肌寒く、ものあはれなるに誘はれて、 箏の琴をいとほのかに掻き鳴らしたまへるも、奥深き声なるに、いとど心とまり果てて、なかなかに思ほゆれば、 琵琶を取り寄せて、いとなつかしき音に、「想夫恋」を弾きたまふ。
 月が出て雲もない空に、羽をうち交わして飛ぶ雁も、列を離れないのを、羨ましくお聞きになっているのであろう。風が肌寒く感じられ、何となく寂しさに心動かされて、箏の琴をたいそうかすかにお弾きになっているのも、深みのある音色なので、ますます心を引きつけられてしまって、かえって物足りない思いがするので、琵琶を取り寄せて、とても優しい音色に「想夫恋」をお弾きになる。
 月が上ってきた。秋の澄んだ空を幾つかのかりの通って行くことも宮のお心には孤独でないものとしておうらやましいことであろうと思われた。冷ややかな風の身にしむように吹き込んでくるのにお誘われになって、宮は十三絃をほのかにおき鳴らしになるのであった。この情趣に大将の心はいっそうかれて、より多くを望む思いから、琵琶びわを借りて想夫恋そうふれんを弾き出した。
  Tuki sasiide te kumori naki sora ni, hane uti-kahasu karigane mo, tura wo hanare nu, urayamasiku kiki tamahu ram kasi. Kaze hada samuku, mono-ahare naru ni sasoha re te, syaunokoto wo ito honoka ni kaki narasi tamahe ru mo, oku hukaki kowe naru ni, itodo kokoro tomari hate te, nakanaka ni omohoyure ba, biha wo toriyose te, ito natukasiki ne ni, Sauhuren wo hiki tamahu.
2.3.2  「 思ひ及び顔なるは、かたはらいたけれど、これは、 こと問はせたまふべくや
 「お気持ちを察してのようなのは、恐縮ですが、この曲目なら、何かおっしゃって下さるかと思いまして」
 「自信のあるものらしく見えますのが恥ずかしゅうございますが、この曲だけはごいっしょにあそばしてくだすってよい理由のあるものですから」
  "Omohi oyobi gaho naru ha, kataharaitakere do, kore ha, koto toha se tamahu beku ya?"
2.3.3  とて、切に簾の内をそそのかしきこえたまへど、まして、つつましきさしいらへなれば、宮はただものをのみあはれと思し続けたるに、
 とおっしゃって、しきりに御簾の中に向かって催促申し上げなさるが、和琴を所望された以上に、気が引けるお相手なので、宮はただ悲しいとばかりお思い続けていらっしゃるので、
 と大将は御簾みすの奥へ合奏をお勧めするのであるが、他のものよりも多く羞恥しゅうちの感ぜられる曲に宮はお手を出そうとあそばさない。ただ琵琶の音に深く身にしむ思いを覚えてだけおいでになる宮へ、
  tote, setini su no uti wo sosonokasi kikoye tamahe do, masite, tutumasiki sasiirahe nare ba, Miya ha tada mono wo nomi ahare to obosi tuduke taru ni,
2.3.4  「 ことに出でて言はぬも言ふにまさるとは
   人に恥ぢたるけしきをぞ見る
 「言葉に出しておっしゃらないのも、おっしゃる以上に
  深いお気持ちなのだと、慎み深い態度からよく分かります
  ことにで言はぬを言ふにまさるとは
  人に恥ぢたる気色けしきとぞ見る
    "Koto ni ide te iha nu mo ihu ni masaru to ha
    hito ni hadi taru kesiki wo zo miru
2.3.5  と聞こえたまふに、 ただ末つ方をいささか弾きたまふ
 と申し上げなさると、わずかに終わりの方を少しお弾きになる。
 と大将が言った時、宮はただ想夫恋の末のほうだけを合わせてお弾きになった。
  to kikoye tamahu ni, tada suwe tu kata wo isasaka hiki tamahu.
2.3.6  「 深き夜のあはればかりは聞きわけど
   ことより顔にえやは弾きける
 「趣深い秋の夜の情趣はぞんじておりますが、
  靡き顔に琴をお弾き申したでしょうか
  深き夜の哀ればかりは聞きわけど
  ことよりほかにえやは言ひける
    "Hukaki yo no ahare bakari ha kiki wake do
    koto yori gaho ni e yaha hiki keru
2.3.7   飽かずをかしきほどに、さるおほどかなるものの音がらに、 古き人の心しめて弾き伝へける、同じ調べのものといへど、あはれに心すごきものの、片端を掻き鳴らして止みたまひぬれば、恨めしきまでおぼゆれど、
 もっと聞いていたいほどであるが、そのおっとりした音色によって、昔の人が心をこめて弾き伝えてきた、同じ調子の曲目といっても、しみじみとまたぞっとする感じで、ほんの少し弾いてお止めになったので、恨めしいほどに思われるが、
 ともお言いになるのであった。非常におもしろいお爪音つまおとであって、おおまかなの楽器ではあるが、芸の洗練された名手が熱心におきになるのであるから、すごい気分のような透徹した音を、美しく少しだけお聞かせになっておやめになったのを、大将は恨めしいまでに飽き足らず思うのであるが、
  Aka zu wokasiki hodo ni, saru ohodoka naru mono-no-negara ni, huruki hito no kokoro sime te hiki tutahe keru, onazi sirabe no mono to ihe do, ahare ni kokorosugoki mono no, katahasi wo kaki narasi te yami tamahi nure ba, uramesiki made oboyure do,
2.3.8  「 好き好きしさをさまざまにひき出でても御覧ぜられぬるかな。秋の夜更かしはべらむも、 昔の咎めやと憚りてなむ、まかではべりぬべかめる。またことさらに心してなむさぶらふべきを、 この御琴どもの調べ変へず待たせたまはむや弾き違ふることもはべりぬべき世なれば、うしろめたくこそ」
 「物好きな心を、いろいろな琴を弾いてお目に掛けてしまいました。秋の夜に遅くまでおりますのも、故人の咎めがあろうかとご遠慮致して、退出致さねばなりません。また改めて失礼のないよう気をつけてお伺い致そうと思いますが、このお琴の調子を変えずにお待ち下さいませんか。とかく思いもよらぬことが起こる世の中ですから、気掛かりでなりません」
 「風流狂じみましたことをいろいろお目にかけてしまいました。秋の夜を無限におじゃまいたしておりましては故人からとがめられる気もいたしますから、もうおいとまをいたしましょう。また別の日に新しい気持ちで御訪問をいたします。この楽器をこのままにしてお待ちくださるでしょうか。意外なことが起こらないともかぎらない人生のことですから不安なのです」
  "Sukizukisisa wo, samazama ni hiki ide te mo goranze rare nuru kana! Aki no yo hukasi habera m mo, mukasi no togame ya to habakari te nam, makade haberi nu beka' meru. Mata kotosara ni kokoro site nam saburahu beki wo, kono ohom-koto-domo no sirabe kahe zu mata se tamaha m ya? Hiki tagahuru koto mo haberi nu beki yo nare ba, usirometaku koso."
2.3.9  など、まほにはあらねど、うち匂はしおきて出でたまふ。
 などと、あらわにではないが、心の内をほのめかしてお帰りになる。
 などと言って、正面から恋を告げようとはしないのであるが、におわせるほどには言葉に盛って大将は帰ろうとした。
  nado, maho ni ha ara ne do, uti-nihohasi oki te ide tamahu.
注釈85羽うち交はす雁がねも「白雲に羽うち交はし飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月」(古今集秋上、一九一、読人しらず)による表現。2.3.1
注釈86聞きたまふらむかし語り手の推測。『細流抄』は「夕霧の心也」。『評釈』は「夕霧の想像か、作者また語り手の言葉か」と注す。2.3.1
注釈87箏の琴をいとほのかに掻き鳴らしたまへるも主語は落葉宮。2.3.1
注釈88琵琶を取り寄せて主語は夕霧。2.3.1
注釈89思ひ及び顔なるは以下「こと問はせたまふべくや」まで、夕霧の詞。2.3.2
注釈90こと問はせたまふべくや『集成』は「「こと」に「琴」を掛ける。柏木への追慕から、合奏して頂けるのではないかと、暗にすすめる」。『完訳』は「亡夫を偲んで、その親友に何か言いかけてくれるだろうかと」と注す。2.3.2
注釈91ことに出でて言はぬも言ふにまさるとは--人に恥ぢたるけしきをぞ見る夕霧から落葉宮への贈歌。「言」「琴」の掛詞。「心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」(古今六帖五、二六四八)を引歌とする。2.3.4
注釈92ただ末つ方をいささか弾きたまふ主語は落葉宮。「想夫恋」の曲の終わりの部分を弾く。2.3.5
注釈93深き夜のあはればかりは聞きわけど--ことより顔にえやは弾きける落葉宮の返歌。「琴」の語句を受けて返す。「琴」「言」の掛詞。「えやは」反語表現。大島本は「ことよりかほに」「ひきける」とある。大島本の独自異文。他本「ことよりほかに」「いひける」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ほかに」「言ひ」と校訂する。『新大系』は底本のままとし、脚注に「下の句、青表紙他本多く「ことよりほかにえやはいひける」。これだと「琴以外で何か言うことができましたか」」と注す。『完訳』は「迷惑な言いがかりと切り返す」と注す。2.3.6
注釈94飽かずをかしきほどに「片端を掻き鳴らして」以下に係る。「さるおほどかなる」から「心すごきものの」まで、落葉宮の琴の音色を説明する挿入句。2.3.7
注釈95古き人の心しめて弾き伝へける同じ調べのものといへど『集成』は「昔の人が心をこめて弾き伝えた、同じ調子(律の調べ)のものではあるが」。『完訳』は「昔の人が心をこめて弾き伝えてきたものだけに、誰が弾いても同じ曲とはいえ」と訳す。2.3.7
注釈96好き好きしさを以下「うしろめたくこそ」まで、夕霧の詞。2.3.8
注釈97さまざまにひき出でて和琴や琵琶を弾いたことをいう。「ひきいでて」は「弾き出でて」と「引き出でて」の掛詞的表現。2.3.8
注釈98昔の咎めやと故人柏木が咎めようかと、の意。「咎めや」の下に「あらむ」などの語句が省略された形。2.3.8
注釈99この御琴どもの調べ変へず待たせたまはむや『完訳』は「今宵の調べは宮が自分に好意を寄せてくれた証と解し、後日も変らぬ心でいてほしいと懇願する」と注す。2.3.8
注釈100弾き違ふることもはべりぬべき世なれば『完訳』は「「琴」の縁で「弾き」をひびかす。期待を裏切らぬようの意をこめる」と注す。2.3.8
出典8 羽うち交はす雁がね 白雲に羽うち交し飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月 古今集秋上-一九一 読人しらず 2.3.1
出典9 ことに出でて言はぬも言ふにまさる 此時無声勝有声 白氏文集-六〇三「琵琶行」 2.3.4
心には下行く水の湧き返り言はで思ふぞ言ふに勝れる 古今六帖五-二六四八
2.4
第四段 御息所、夕霧に横笛を贈る


2-4  Miyasudokoro presents a flute that is the late Kashiwagi loved

2.4.1  「 今宵の御好きには人許しきこえつべくなむありける。そこはかとなきいにしへ 語りにのみ紛らはさせたまひて、 玉の緒にせむ心地もしはべらぬ、残り多くなむ
 「今夜の風流なお振る舞いについては、誰もがお許し申すはずのことでございます。これということもない昔話にばかり紛らわせなさって、寿命が延びるまでお聞かせ下さらなかったのが、とても残念です」
 「今夜の御風流は非難いたす者もございませんでしょう。昔の日の話をお補いくださいます程度にしかお聞かせくださいませんでしたのが残り多く思われてなりません」
  "Koyohi no ohom-suki ni ha, hito yurusi kikoye tu beku nam ari keru. Sokohakatonaki inisihegatari ni nomi magiraha sase tamahi te, tama no wo ni se m kokoti mo si habera nu, nokori ohoku nam."
2.4.2  とて、御贈り物に笛を添へてたてまつりたまふ。
 と言って、御贈り物に笛を添えて差し上げなさる。
 と言い、御息所は大将への贈り物へ笛を添えて出した。
  tote, ohom-okurimono ni hue wo sohe te tatematuri tamahu.
2.4.3  「 これになむ、まことに古きことも伝はるべく聞きおきはべりしを、かかる蓬生に埋もるるもあはれに見たまふるを、 御前駆に競はむ声なむよそながらもいぶかしうはべる
 「この笛には、実に古い由緒もあるように聞いておりましたが、このような蓬生の宿に埋もれているのは残念に存じまして、御前駆の負けないほどにお吹き下さる音色を、ここからでもお伺いしたく存じます」
 「この笛のほうは古い伝統のあるものと伺っておりました。こんな女住居ずまいに置きますことも、有名な楽器のために気の毒でございますから、お持ちくださいましてお吹きくださいませば、前駆の声に混じります音を楽しんで聞かせていただけるでしょう」
  "Kore ni nam, makoto ni huruki koto mo tutaharu beku kikioki haberi si wo, kakaru yomogihu ni udumoruru mo ahare ni mi tamahuru wo, ohom-saki ni kihoha m kowe nam, yoso nagara mo ibukasiu haberu."
2.4.4  と聞こえたまへば、
 と申し上げなさると、
 と御息所は言った。
  to kikoye tamahe ba,
2.4.5  「 似つかはしからぬ随身にこそははべるべけれ
 「似つかわしくない随身でございましょう」
 「つたない私がいただいてまいることは似合わしくないことでしょう」
  "Nitukahasikara nu zuizin ni koso ha haberu bekere."
2.4.6  とて、見たまふに、これもげに世とともに身に添へてもてあそびつつ、
 とおっしゃって、御覧になると、この笛もなるほど肌身離さず愛玩しては、
 こう言いながら大将は手に取って見た。これも始終柏木が使っていて、
  tote, mi tamahu ni, kore mo geni yo to tomoni mi ni sohe te moteasobi tutu,
2.4.7  「 みづからも、さらにこれが音の限りは、え吹きとほさず。思はむ人にいかで伝へてしがな」
 「自分でも、まったくこの笛の音のあらん限りは、吹きこなせない。大事にしてくれる人に何とか伝えたいものだ」
 自分もこの笛を生かせるほどには吹けない。自分の愛する人に与えたい
  "Midukara mo, sarani kore ga ne no kagiri ha, e huki tohosa zu. Omoha m hito ni ikade tutahe te si gana."
2.4.8  と、をりをり聞こえごちたまひしを思ひ出でたまふに、今すこしあはれ多く添ひて、試みに吹き鳴らす。盤渉調の半らばかり吹きさして、
 と、柏木が時々愚痴をこぼしていらっしゃったのをお思い出しなさると、さらに悲しみが胸に迫って、試みに吹いてみる。盤渉調の半分ばかりでお止めになって、
 とこんなことを柏木の言うのも聞いたことのある大将であったから、故人の琴に対した時よりもさらに多くの感情が動いた。試みに大将は吹いてみるのであったが、盤渉ばんしき調を半分ほど吹奏して、
  to, woriwori kikoyegoti tamahi si wo omohi ide tamahu ni, ima sukosi ahare ohoku sohi te, kokoromi ni huki narasu. Bansikideu no nakara bakari huki sasi te,
2.4.9  「 昔を偲ぶ独り言は、さても罪許されはべりけり。これはまばゆくなむ」
 「故人を偲んで和琴を独り弾きましたのは、下手でも何とか聞いて戴けました。この笛はとても分不相応です」
 「故人を忍んで琴を弾きましたことはとにかく、これは晴れがましいまばゆい気がいたされます」
  "Mukasi wo sinobu hitorigoto ha, sate mo tumi yurusa re haberi keri. Kore ha mabayuku nam."
2.4.10  とて、出でたまふに、
 と言って、お出になるので、
 こう挨拶あいさつして立って行こうとする時に、
  tote, ide tamahu ni,
2.4.11  「 露しげきむぐらの宿にいにしへの
   秋に変はらぬ虫の声かな
 「涙にくれていますこの荒れた家に昔の
  秋と変わらない笛の音を聞かせて戴きました
  露しげきむぐらの宿にいにしへの
  秋に変はらぬ虫の声かな
    "Tuyu sigeki mugura no yado ni inisihe no
    Aki ni kahara nu musi no kowe kana
2.4.12  と、聞こえ出だしたまへり。
 と、内側から申し上げなさった。
 と御息所が言いかけた。
  to, kikoye idasi tamahe ri.
2.4.13  「 横笛の調べはことに変はらぬを
   むなしくなりし音こそ尽きせね
 「横笛の音色は特別昔と変わりませんが
  亡くなった人を悼む泣き声は尽きません
  横笛の調べはことに変はらぬを
  むなしくなりしこそ尽きせね
    "Yokobue no sirabe ha kotoni kahara nu wo
    munasiku nari si ne koso tuki se ne
2.4.14  出でがてにやすらひたまふに、夜もいたく更けにけり。
 出て行きかねていらっしゃると、夜もたいそう更けてしまった。
 返歌をしてもまだ去りがたくて大将がためらっているうち深更になった。
  Ide-gate ni yasurahi tamahu ni, yoru mo itaku huke ni keri.
注釈101今宵の御好きには以下「残り多くなむ」まで、一条御息所の詞。2.4.1
注釈102人許しきこえつべく「人」について、『集成』は「誰もがごもっともと」。『完訳』は「「人」は亡き柏木」と注す。2.4.1
注釈103玉の緒にせむ心地もしはべらぬ残り多くなむ「玉の緒」は延命の意。また「琴」の縁語。「片糸をこなたかなたに縒りかけてあはずは何を玉の緒にせむ」(古今集恋一、四八三、読人しらず)を踏まえる。
【心地もしはべらぬ残り多くなむ】−「心地もしはべらぬ」が主語、下に格助詞「が」などが省略された形。
2.4.1
注釈104これになむ、まことに以下「いぶかしうはべる」まで、一条御息所の詞。2.4.3
注釈105御前駆に競はむ声なむ御前駆に負けないほどの夕霧の笛の音色、の意。2.4.3
注釈106よそながらもいぶかしうはべる聴きたい、の意。2.4.3
注釈107似つかはしからぬ随身にこそははべるべけれ夕霧の詞。「随身」は笛を喩えて言う。『集成』は「御息所の言葉に「御前駆」とあったのに対する当座の洒落」。『完訳』は「先駆」の縁で、笛を随身に見立てた表現。この貴重な笛は無風流な自分には似合わぬとする」と注す。2.4.5
注釈108みづからもさらに以下「いかで伝へてしがな」まで、柏木の詞を想起。2.4.7
注釈109昔を偲ぶ独り言は以下「まばゆくなむ」まで、夕霧の詞。「ひとりごと」は「独り言」と「独り琴」との掛詞的表現。2.4.9
注釈110露しげきむぐらの宿にいにしへの--秋に変はらぬ虫の声かな一条御息所から夕霧への贈歌。2.4.11
注釈111横笛の調べはことに変はらぬを--むなしくなりし音こそ尽きせね夕霧の返歌。「声」を「音」と変えて詠み返す。「こと」に「琴」を響かす。2.4.13
出典10 玉の緒にせむ 片糸をこなたかなたに撚りかけて逢はずは何を玉の緒にせむ 古今集恋一-四三八 読人しらず 2.4.1
校訂8 語り 語り--かたる(る/$り) 2.4.1
2.5
第五段 帰宅して、故人を想う


2-5  Yugiri recollects the late Kashiwagi after comming his home

2.5.1   殿に帰りたまへれば、格子など下ろさせて、皆寝たまひにけり。
 殿にお帰りになると、格子などを下ろさせて、皆お寝みになっていた。
 自宅に帰ってみると、もう格子などは皆おろされてだれも寝てしまっていた。
  Tono ni kaheri tamahe re ba, kausi nado orosa se te, mina ne tamahi ni keri.
2.5.2  「 この宮に心かけきこえたまひて、かくねむごろがり聞こえたまふぞ
 「この宮にご執心申されて、あのようにご熱心でいらっしゃるのだ」
 一条の宮に恋をして親切がった訪問を常にするというようなことを、
  "Kono Miya ni kokoro kake kikoye tamahi te, kaku nemgorogari kikoye tamahu zo."
2.5.3  など、人の 聞こえ知らせければ、かやうに夜更かしたまふもなま憎くて、入りたまふをも聞く聞く、寝たるやうにて ものしたまふなるべし
 などと、誰かがご報告したので、このように夜更けまで外出なさるのも憎らしくて、お入りになったのも知っていながら、眠ったふりをしていらっしゃるのであろう。
 夫人へ言う者があったために、今夜のようにほかで夜ふかしをされるのが不愉快でならない夫人は、良人おっと室内へやへはいって来たことも知りながら寝入ったふうをしているものらしい。
  nado, hito no kikoye sirase kere ba, kayau ni yo hukasi tamahu mo nama nikuku te, iri tamahu wo mo kiku kiku, ne taru yau nite monosi tamahu naru besi.
2.5.4  「 妹と我といるさの山の
 「いい人とわたしと一緒に入るあの山の」
 「いもとわれといるさの山の山あららぎ」(手をとりふれぞや、かほまさるかにや)
  "Imo to ware to Irusa-no-yama no"
2.5.5  と、声はいとをかしうて、独りごち歌ひて、
 と、声はとても美しく独り歌って、
 と美しい声で歌いながらはいって来た大将は、
  to, kowe ha ito wokasiu te, hitorigoti utahi te,
2.5.6  「 こは、など、かく鎖し固めたる。あな、埋れや。今宵の月を見ぬ里もありけり」
 「これは、またどうして、こう固く鍵を閉めているのだ。何とまあ、うっとうしいことよ。今夜の月を見ない所もあるのだなあ」
 「どうしてこんなに早く戸を皆しめてしまったのだろう。引っ込み思案な人ばかりなのだね。こんな月夜の景色けしきをだれも見ようとしないなど」
  "Koha, nado, kaku sasi katame taru? Ana, mumore ya! Koyohi no tuki wo mi nu sato mo ari keri."
2.5.7  と、うめきたまふ。 格子上げさせたまひて、御簾巻き上げなどしたまひて、端近く臥したまへり。
 と、不満げにおっしゃる。格子を上げさせなさって、御簾を巻き上げなどなさって、端近くに横におなりになった。
 と歎息たんそくして格子を上げさせ、御簾みすを巻き上げなどして縁に近く出て横たわっていた。
  to, umeki tamahu. Kausi age sase tamahi te, misu makiage nado si tamahi te, hasi tikaku husi tamahe ri.
2.5.8  「 かかる夜の月に、心やすく夢見る人は、あるものか。すこし出でたまへ。あな心憂」
 「このように素晴らしい月なのに、気楽に夢を見ている人が、あるものですか。少しお出になりなさい。何と嫌な」
 「こんなよい晩に眠ってしまう人があるものですか。少し出ていらっしゃい。つまらないじゃありませんか」
  "Kakaru yo no tuki ni, kokoroyasuku yume miru hito ha, aru mono ka! Sukosi ide tamahe. Ana kokorou!"
2.5.9  など聞こえたまへど、 心やましううち思ひて、聞き忍びたまふ
 などと申し上げなさるが、面白くない気がして、知らぬ顔をなさっている。
 などと夫人へ言うのであるが、おもしろく思っていない夫人は何とも言わないのである。
  nado kikoye tamahe do, kokoroyamasiu uti-omohi te, kiki sinobi tamahu.
2.5.10  君たちの、いはけなく 寝おびれたるけはひなど、ここかしこにうちして、女房もさし混みて臥したる、人気にぎははしきに、 ありつる所のありさま、思ひ合はするに、多く変はりたりこの笛をうち吹きたまひつつ、
 若君たちが、あどけなく寝惚けている様子などが、あちらこちらにして、女房も混み合って寝ている、とてもにぎやかな感じがするので、さきほどの所の様子が、思い比べられて、多く違っている。この笛をちょっとお吹きになりながら、
 子供が寝おびれて何か言っている声があちこちにして、女房もその辺の部屋へやにたくさん寝ている、このにぎわしい自宅の夜と、一条邸の夜とのあまりにも相違しているのを大将は思い比べていた。贈られた笛を吹きながら
  Kimitati no, ihakenaku neobire taru kehahi nado, koko kasiko ni uti si te, nyoubau mo sasikomi te husi taru, hitoke nigihahasiki ni, arituru tokoro no arisama, omohi ahasuru ni, ohoku kahari tari. Kono hue wo uti-huki tamahi tutu,
2.5.11  「 いかに、名残も、眺めたまふらむ。御琴どもは、調べ変はらず遊びたまふらむかし。御息所も、和琴の上手ぞかし」
 「どのように、わたしが立ち去った後でも、物思いに耽っていらっしゃることだろう。お琴の合奏は、調子を変えずなさっていらっしゃるのだろう。御息所も、和琴の名手であった」
 自分の去ったあとの御母子がどんなに寂しく月明の景色をながめておられるだろう、自分の弾いた楽器も宮の合わせてくだすったものもそのままで二人の女性にもてあそばれているであろう、御息所も和琴が上手じょうずなはずである
  "Ikani, nagori mo, nagame tamahu ram? Ohom-koto-domo ha, sirabe kahara zu asobi tamahu ram kasi. Miyasumdokoro mo, wagon no zyauzu zo kasi."
2.5.12  など、思ひやりて臥したまへり。
 などと、思いをはせて臥せっていらっしゃった。
 などと思いやりながら寝ているのである。
  nado, omohiyari te husi tamahe ri.
2.5.13  「 いかなれば、故君、ただおほかたの心ばへは、やむごとなくもてなしきこえながら、いと深きけしきなかりけむ」
 「どうして、故君は、ただ表向きの気配りは、大切にお扱い申し上げていながら、大して深い愛情はなかったのだろう」
 どうしてあんなにりっぱな宮様を衛門督えもんのかみは形式的に大事がっただけで、ほんとうに愛してはいなかったのであろう
  "Ikanare ba, ko-Kimi, tada ohokata no kokorobahe ha, yamgotonaku motenasi kikoye nagara, ito hukaki kesiki nakari kem?"
2.5.14  と、それにつけても、いといぶかしうおぼゆ。
 と、考えるにつけても、大変いぶかしく思わずにはいらっしゃれない。
 と大将は不思議に思われてならない。
  to, sore ni tuke te mo, ito ibukasiu oboyu.
2.5.15  「 見劣りせむこそ、いといとほしかるべけれ。おほかたの世につけても、限りなく聞くことは、かならず さぞあるかし
 「実際会って見て器量がよくないとなると、たいそうお気の毒なことだな。世間一般の話でも、最高に素晴らしいという評判の人は、きっとそんなこともあるものだ」
 お顔を見て美しく想像したのと違ったところがあっては不幸な結果をもたらすことにもなろう、ほかのことでも空想をし過ぎたことには必然的に幻滅が起こるものである
  "Miotori se m koso, ito itohosikaru bekere. Ohokata no yo ni tuke te mo, kagirinaku kiku koto ha, kanarazu sa zo aru kasi."
2.5.16  など思ふに、わが御仲の、 うちけしきばみたる思ひやりもなくて睦びそめたる年月のほどを数ふるに、あはれに、いとかう 押したちておごりならひたまへるもことわりにおぼえたまひけり
 などと思うにつけ、ご自分の夫婦仲が、その気持ちを顔に出して相手を疑うこともなくて、仲睦まじくなった歳月のほどを数えると、しみじみと感慨深く、とてもこう我が強くなって勝手に振る舞うようにおなりになったのも、無理もないことと思われなさった。
 など思いながらも、大将は自身たち夫婦の仲を考えて、なんらの見栄みえも気どりも知らぬ少年少女の時に知った恋の今日まで続いて来た年月を数えてみては、夫人が強い驕慢きょうまんな妻になっているのに無理でないところがあるとも思われた。
  nado omohu ni, waga ohom-naka no, uti- kesikibami taru omohiyari mo naku te, mutubi some taru tosituki no hodo wo kazohuru ni, ahare ni, ito kau ositati te ogori narahi tamahe ru mo, kotowari ni oboye tamahi keri.
注釈112殿に帰りたまへれば夕霧の自邸三条殿。2.5.1
注釈113この宮に心かけきこえたまひてかくねむごろがり聞こえたまふぞ雲居雁付きの女房の詞。2.5.2
注釈114聞こえ知らせければ大島本は「けれハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たれば」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。女房が雲居雁に。2.5.3
注釈115ものしたまふなるべし推量の助動詞「べし」は語り手の推測。2.5.3
注釈116妹と我といるさの山の夕霧の口ずさみ。「妹(いも)と我と いるさの山の 山蘭(やまあららぎ) 手な取り触れそ や 顔まさるがに や とくまさるがに や」(催馬楽、妹と我)の一節。2.5.4
注釈117こはなどかく以下「里もありけり」まで、夕霧の詞。2.5.6
注釈118格子上げさせたまひて御簾巻き上げなどしたまひて「させ」使役の助動詞。格子は女房などをして上げさせ、御簾は自分で巻き上げる。2.5.7
注釈119かかる夜の月に以下「あな心憂」まで、夕霧の詞。「かくばかり惜しと思ふ夜をいたづらに寝て明かすらむ人さへぞ憂き」(古今集秋上、一九〇、躬恒)を踏まえる。2.5.8
注釈120心やましううち思ひて聞き忍びたまふ主語は雲居雁。2.5.9
注釈121寝おびれたるけはひなど『集成』は「夢におびえて声をあげる気配など」。『完訳』は「寝ぼけている声などが」と訳す。2.5.10
注釈122ありつる所のありさま思ひ合はするに多く変はりたり『完訳』は「一条邸での感興が残響するだけに、日常性に埋没しきったような自邸への無感動が際だつ」と注す。2.5.10
注釈123この笛一条御息所から夕霧に贈られた柏木遺愛の笛。2.5.10
注釈124いかに名残も以下「和琴の上手ぞかし」まで、夕霧の心中。2.5.11
注釈125いかなれば故君以下「けしきなかりけむ」まで、夕霧の心中。「故君」は柏木をさす。『完訳』は「亡き柏木は宮を、表面的には皇女の北の方として厚遇したものの。以下、宮への柏木の情愛の薄かった事情に不審を抱く」と注す。2.5.13
注釈126見劣りせむこそ大島本は「見をとりせむこそ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見劣りせむことこそ」と「こと」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。以下「さぞあるかし」まで、夕霧の心中。2.5.15
注釈127さぞあるかし「さ」は「見劣りせむ」をさす。2.5.15
注釈128うちけしきばみたる思ひやりもなくて『集成』は「ご自分たちの夫婦仲が、お互い恋のかけひきなど気にすることもなく仲むつまじくなった、今までの年月を数えてみると、しみじみ感慨深く。幼な馴染みだった当初の二人のいきさつをいう」と注す。2.5.16
注釈129睦びそめたる年月のほどを数ふるに主語は夕霧。夕霧は雲居雁と結婚して十年を経過。さらにそれ以前の年月を数えれば、二十年になんなんとする。2.5.16
注釈130押したちておごりならひたまへるも主語は雲居雁。2.5.16
注釈131ことわりにおぼえたまひけり主語は夕霧。『完訳』は「自分(夕霧)が浮気心を起さぬので妻の癖も道理とする。落葉の宮思慕を合理化する心もひそむ」と注す。2.5.16
出典11 妹と我といるさの山の (いも)と我と いるさの山の 山蘭(やまあららぎ) 手な取り触れそや 顔優るがにや ()く優るがにや 催馬楽-妹と我 2.5.4
出典12 かかる夜の月に、心やすく夢見る かくばかり惜しと思ふ夜をいたづらに寝て明かすらむ人さへぞ憂き 古今集秋上-一九〇 凡河内躬恒 2.5.8
校訂10 あるかし あるかし--あるは(は/$か<朱>)し 2.5.15
2.6
第六段 夢に柏木現れ出る


2-6  The ghost of the late Kashiwagi appears in Yugiri's dream

2.6.1   すこし寝入りたまへる夢にかの衛門督、ただありしさまの袿姿にて、かたはらにゐて、この笛を取りて見る夢のうちにも、亡き人の、わづらはしう、この声を尋ねて来たる、と思ふに
 少し寝入りなさった夢に、あの衛門督が、まるで生前の袿姿で、側に座って、この笛を取って見ている。夢の中にも、故人が、厄介にも、この笛の音を求めて来たのだ、と思っていると、
 少し寝入ったかと思うと故人の衛門督がいつか病室で見た時のうちぎ姿でそばにいて、あの横笛を手に取っていた。夢の中でも故人が笛に心をかれて出て来たに違いないと思っていると、
  Sukosi neiri tamahe ru yume ni, kano Wemon-no-Kami, tada arisi sama no utikisugata nite, katahara ni wi te, kono hue wo tori te miru. Yume no uti ni mo, naki hito no, wadurahasiu, kono kowe wo tadune te ki taru, to omohu ni,
2.6.2  「 笛竹に吹き寄る風のことならば
   末の世長きねに伝へなむ
 「この笛の音に吹き寄る風は同じことなら
  わたしの子孫に伝えて欲しいものだ
  「笛竹に吹きよる風のごとならば
  末の世長きに伝へなん
    "Huetake ni huki yoru kaze no koto nara ba
    suwe no yo nagaki ne ni tutahe nam
2.6.3   思ふ方異にはべりき
 その伝えたい人は違うのだった」
 私はもっとほかに望んだことがあったのです」
  Omohu kata kotoni haberi ki."
2.6.4   と言ふを、問はむと思ふほどに、若君の寝おびれて泣きたまふ御声に、覚めたまひぬ。
 と言うので、尋ねようと思った時に、若君が寝おびえて泣きなさるお声に、目が覚めておしまいになった。
 と柏木は言うのである。望みということをよく聞いておこうとするうちに、若君が寝おびれて泣く声に目がさめた。
  to ihu wo, toha m to omohu hodo ni, WakaGimi no neobire te naki tamahu ohom-kowe ni, same tamahi nu.
2.6.5  この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母も起き騷ぎ、上も大殿油近く取り寄せさせたまて、耳挟みして、そそくりつくろひて、抱きてゐたまへり。 いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸を開けて、乳などくくめたまふ。稚児もいとうつくしうおはする君なれば、 白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。
 この若君がひどく泣きなさって、乳を吐いたりなさるので、乳母も起き騷ぎ、母上も御殿油を近くに取り寄せさせなさって、額髪を耳に挟んで、せわしげに世話して、抱いていらっしゃった。とてもよく太って、ふっくらとした美しい胸を開けて、乳などをお含ませになる。子供もとてもかわいらしくいらっしゃる若君なので、色白で美しく見えるが、お乳はまったく出ないのを、気休めにあやしていらっしゃる。
 この子が長く泣いて乳を吐いたりなどするので、乳母めのとが起きて世話をするし、夫人もを近くへ持って来させて、顔にかかる髪を耳の後ろにはさみながら子を抱いてあやしなどしていた。色白な夫人が胸をひろげて泣く子に乳などをくくめていた。子供も色の白い美しい子であるが、出そうでない乳房ちぶさを与えて母君は慰めようとつとめているのである。
  Kono Kimi itaku naki tamahi te, tudami nado si tamahe ba, Menoto mo oki sawagi, Uhe mo ohotonabura tikaku toriyose sase tama te, mimihasami si te, sosokuri tukurohi te, idaki te wi tamahe ri. Ito yoku koye te, tubutubu to wokasige naru mune wo ake te, ti nado kukume tamahu. Tigo mo ito utukusiu ohasuru Kimi nare ba, siroku wokasige naru ni, ohom-ti ha ito kaharaka naru wo, kokoro wo yari te nagusame tamahu.
2.6.6  男君も寄りおはして、「 いかなるぞ」などのたまふ。 うちまきし散らしなどして、乱りがはしきに、 夢のあはれも紛れぬべし
 男君も側にお寄りになって、「どうしたのだ」などとおっしゃる。魔除の撤米をし米を散らかしなどして、とり騒いでいるので、夢の情趣もどこかへ行ってしまうことであろう。
 大将もそのそばへ来て、「どう」などと言っていた。夜の魔を追い散らすために米などもかれる騒がしさに夢の悲しさも紛らされてゆく大将であった。
  WotokoGimi mo yori ohasi te, "Ikanaru zo?" nado notamahu. Uti-maki si tirasi nado si te, midarigahasiki ni, yume no ahare mo magire nu besi.
2.6.7  「 悩ましげにこそ見ゆれ今めかしき御ありさまのほどにあくがれたまうて、夜深き御月愛でに、格子も上げられたれば、例のもののけの入り来たるなめり」
 「苦しそうに見えますわ。若い人のような恰好でうろつきなさって、夜更けのお月見に、格子なども上げなさったので、例の物の怪が入って来たのでしょう」
 「この子は病気になったらしい。はなやかな方に夢中になっていらっしって、おそくなってから月をながめたりなさるって格子をあけさせたりなさるものだから、また物怪もののけがはいって来たのでしょう」
  "Nayamasige ni koso miyure. Imamekasiki ohom-arisama no hodo ni akugare tamau te, yobukaki ohom-tuki mede ni, kausi mo age rare tare ba, rei no mononoke no iriki taru na' meri."
2.6.8  など、いと若くをかしき顔して、かこちたまへば、うち笑ひて、
 などと、とても若く美しい顔をして、恨み言をおっしゃるので、にっこりして、
 と若々しい顔をした夫人が恨むと、良人おっとは笑って、
  nado, ito wakaku wokasiki kaho si te, kakoti tamahe ba, uti-warahi te,
2.6.9  「 あやしの、もののけのしるべや。まろ格子上げずは、道なくて、げにえ入り来ざらまし。 あまたの人の親になりたまふままに、思ひいたり深くものをこそのたまひなりにたれ」
 「妙な、物の怪の案内とは。わたしが格子を上げなかったら、道がなくて、おっしゃる通り入って来られなかったでしょう。大勢の子持ちの母親におなりになるにつれて、思慮深く立派なことをおっしゃるようにおなりになった」
 「変にこじつけて私の罪にするのですね。私が格子を上げさせなかったらなるほど物怪ははいる道がなかったろうね。おおぜいの人のお母様になったあなただから、たいした考え方ができるようになったものだ」
  "Ayasi no, mononoke no sirube ya! Maro kausi age zu ha, miti naku te, geni e iri ko zara masi. Amata no hito no oya ni nari tamahu mama ni, omohi itari hukaku mono wo koso notamahi nari ni tare."
2.6.10  とて、うち見やりたまへるまみの、 いと恥づかしげなれば、さすがに物ものたまはで、
 と言って、ちらりと御覧になる目つきが、たいそう気後れするほど立派なので、それ以上は何ともおっしゃらず、
 こう言っても妻をながめる大将の美しい目つきはさすがに恥ずかしがって、続けて恨みも言わずに、
  tote, uti-miyari tamahe ru mami no, ito hadukasige nare ba, sasugani mono mo notamaha de,
2.6.11  「 出でたまひね。見苦し
 「さあ、もうお止めなさいまし。みっともない恰好ですから」
 「あちらへいらっしゃい。人が見ます。見苦しい」
  "Ide tamahi ne. Migurusi."
2.6.12  とて、明らかなる火影を、さすがに恥ぢたまへるさまも憎からず。まことに、この君なづみて、泣きむつかり明かしたまひつ。
 と言って、明るい灯火を、さすがに恥ずかしがっていらっしゃる様子も憎くない。ほんとうに、この若君は苦しがって、一晩中泣きむずかって夜をお明かしになった。
 とだけ言った。明るいに顔を見られるのをいやがるのも可憐かれんな妻であると大将は思った。若君は夜通しむずかって寝なかった。
  tote, akiraka naru hokage wo, sasugani hadi tamahe ru sama mo nikukara zu. Makotoni, kono Kimi nadumi te, naki mutukari akasi tamahi tu.
注釈132すこし寝入りたまへる夢に主語は夕霧。2.6.1
注釈133かの衛門督ただありしさまの袿姿にてかたはらにゐてこの笛を取りて見る夕霧の夢の中の描写。2.6.1
注釈134夢のうちにも亡き人のわづらはしうこの声を尋ねて来たると思ふに「夢の中にも」は「思ふに」に係る。夕霧は夢と知る知る見ているというのではない。『完訳』は「柏木が中有に迷っており、厄介にもこの笛を求めて来たとする」と注す。2.6.1
注釈135笛竹に吹き寄る風のことならば--末の世長きねに伝へなむ柏木の霊が詠んだ歌。「根」「音」、「世」「節(よ)」の掛詞。「竹」「根」「「節(よ)」は縁語。「根」は子孫の意。「なむ」願望の終助詞。この笛をわが子(薫)に伝えたい、という主旨。2.6.2
注釈136思ふ方異にはべりき歌に続けた柏木の詞。自分がこの笛を伝えたいと思うのは、夕霧ではなかった、という意。2.6.3
注釈137と言ふを問はむと思ふほどに「を」接続助詞、順接の意、原因理由を表す。「問はむと思ふ」の主語は夢の中の夕霧。「に」格助詞、時間を表す。2.6.4
注釈138いとよく肥えて以下、雲居雁の描写。2.6.5
注釈139白くをかしげなるに「に」接続助詞、逆接の意。しかし、この文脈を受ける語句がない。為家本等は「御乳白くをかしげなるに」とするが、すると上の「おはする君なれば」の受ける語句が無くなる。2.6.5
注釈140いかなるぞ夕霧の詞。2.6.6
注釈141うちまきし散らし魔除の散米。国宝『源氏物語絵巻』「横笛」段にこの様子が描かれている。『完訳』は「ここでは、乳児のむずかるのを物の怪のせいとみての処置」と注す。2.6.6
注釈142夢のあはれも紛れぬべし『集成』は「草子地の文」と注す。2.6.6
注釈143悩ましげにこそ見ゆれ以下「入り来たるなめり」まで、雲居雁の詞。2.6.7
注釈144今めかしき御ありさまのほどに『集成』は「落葉の宮にうつつを抜かして、深夜帰宅したことを皮肉る」。『完訳』は「雲居雁は、一条邸からの帰りと知っている。以下は、その情趣にふける夫へのいやみ」と注す。2.6.7
注釈145あやしのもののけの以下「のたまふなりにたれ」まで、夕霧の詞。2.6.9
注釈146あまたの人の親になりたまふままに雲居雁をさす。『完訳』は「思慮深く、結構な物言いができた。妻へのいやみで切り返す」と注す。2.6.9
注釈147いと恥づかしげなればさすがに『恥づかしげ」について、『集成』は「気おくれするほど美しいので」。『完訳』は「女君からすればきまりがわるいので、さすがにそれ以上は」と訳す。2.6.10
注釈148出でたまひね見苦し雲居雁の詞。「見苦し」は後文により、自分自身の姿とわかる。2.6.11
校訂11 来たる 来たる--きた(た/+る) 2.6.1
Last updated 6/4/2010(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 6/4/2010(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 1/18/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kumi(青空文庫)

2003年10月4日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年7月20日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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