第三十九帖 夕霧


39 YUHUGIRI (Ohoshima-bon)


光る源氏の准太上天皇時代
五十歳秋から冬までの物語



Tale of Hikaru-Genji's Daijo Tenno era, from fall to winter, at the age of 50

1
第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問


1  Tale of Yugiri  Yugiri visits a mountain villa in Ono

1.1
第一段 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る


1-1  Ochiba-no-Miya and her mother move in Ono

1.1.1   まめ人の名をとりて、さかしがりたまふ大将この一条の宮の御ありさまをなほあらまほしと心にとどめて、おほかたの人目には、昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねむごろにとぶらひきこえたまふ。下の心には、かくては止むまじくなむ、月日に添へて思ひまさりたまひける。
 堅物との評判を取って、こざかしそうにしていらっしゃる大将、この一条宮のご様子を、やはり理想的だと心に止めて、世間の人目には、昔の友情を忘れていない心遣いを見せながら、とても懇切にお見舞い申し上げなさる。内心では、このままではやめられそうになく、月日を経るに従って思いが募って行かれるのであった。
 一人の夫人の忠実な良人りょうじんという評判があって、品行方正を標榜ひょうぼうしていた源左大将であったが、今は女二にょにみやに心をかれる人になって、世間体は故人への友情を忘れないふうに作りながら、引き続いて一条ていをおたずねすることをしていた。しかもこの状態から一歩を進めないではおかない覚悟が月日とともに堅くなっていった。
  Mamebito no na wo tori te, sakasigari tamahu Daisyau, kono Itideu-no-Miya no ohom-arisama wo, naho aramahosi to kokoro ni todome te, ohokata no hitome ni ha, mukasi wo wasure nu youi ni mise tutu, ito nemgoro ni toburahi kikoye tamahu. Sita no kokoro ni ha, kakute ha yamu maziku nam, tukihi ni sohe te, omohi masari tamahi keru.
1.1.2   御息所も、「あはれにありがたき御心ばへにもあるかな」と、今はいよいよもの寂しき御つれづれを、絶えず訪づれたまふに、慰めたまふことども多かり。
 御息所も、「大変にもったいないご親切であることよ」と、今ではますます寂しく所在ないお暮らしを、絶えず訪れなさるので、お慰めになることがいろいろと多かった。
 一条の御息所みやすどころも珍しい至誠の人であると、近ごろになってますます来訪者が少なく、さびれてゆくやしきへしばしば足を運ぶ大将によって慰められていることが多いのであった。
  Miyasumdokoro mo, "Ahare ni arigataki mi-kokorobahe ni mo aru kana!" to, ima ha iyoiyo mono-sabisiki ohom-turedure wo, taye zu otodure tamahu ni, nagusame tamahu koto-domo ohokari.
1.1.3  初めより懸想びても聞こえたまはざりしに、
 初めから色めいたことを申し上げたりなさらなかったのだが、
 初めから求婚者として現われなかった自分が、
  Hazime yori kesaubi te mo kikoye tamaha zari si ni,
1.1.4  「 ひき返し懸想ばみなまめかむもまばゆし。ただ深き心ざしを見えたてまつりて、うちとけたまふ折もあらじやは」
 「打って変わって色めかしく艶めいた振る舞いをするのも気恥ずかしい。ただ深い愛情をお見せ申せば、心を許してくれる時がなくはないだろう」
 急に変わった態度に出るのはきまりが悪い、ただ真心で尽くしているところをお認めになったなら、自然に宮のお心は自分へ向いてくるに違いないから時を待とう
  "Hiki-kahesi kesaubami namameka m mo mabayusi. Tada hukaki kokorozasi wo miye tatematuri te, utitoke tamahu wori mo arazi yaha."
1.1.5  と思ひつつ、さるべきことにつけても、 宮の御けはひありさまを見たまふみづからなど聞こえたまふことはさらになし
 と思いながら、何かの用事にかこつけても、宮のご様子や態度をお伺いなさる。ご自身がお応え申し上げなさることはまったくない。
 と、こう大将は思って一日も早く宮と御接近する機会を得たいとうかがい歩いているのである。宮が御自身でお話をあそばすようなことはまだ絶対にない。
  to omohi tutu, sarubeki koto ni tuke te mo, Miya no ohom-kehahi arisama wo mi tamahu. Midukara nado kikoye tamahu koto ha sarani nasi.
1.1.6  「 いかならむついでに、思ふことをもまほに聞こえ知らせて、人の御けはひを見む」
 「どのような機会に、思っていることをまっすぐに申し上げて、相手のご様子を見ようか」
 いつか好機会をとらえて自分の持つ熱情を直接にお告げすることもし、御様子もよく見たい
  "Ikanara m tuide ni, omohu koto wo mo maho ni kikoye sirase te, hito no ohom-kehahi wo mi m."
1.1.7  と思しわたるに、 御息所、もののけにいたう患ひたまひて小野といふわたりに、山里持たまへるに渡りたまへり。早うより 御祈りの師に、もののけなど祓ひ捨てける律師、 山籠もりして里に出でじ誓ひたるを麓近くて、請じ下ろしたまふゆゑなりけり
 と、お考えになっていたところ、御息所が、物の怪にひどくお患いになって、小野という辺りに、山里を持っていらっしゃった所にお移りになった。早くから御祈祷師として、物の怪などを追い払っていた律師が、山籠もりして里には出まいと誓願を立てていたのを、麓近くなので、下山して頂くためなのであった。
 と大将は心に願っていた。御息所は物怪もののけで重くわずらって小野という叡山えいざんふもとへ近い村にある別荘へ病床を移すようになった。以前から祈祷きとうを頼みつけていて、物怪を追い払うのに得意な律師が叡山の寺にこもっていて、京へは当分出ない誓いを御仏みほとけにしたというのを招くのに都合がよかったからである。
  to obosi wataru ni, Miyasumdokoro, mononoke ni itau wadurahi tamahi te, Wono to ihu watari ni, yamazato mo' tamahe ru ni watari tamahe ri. Hayau yori ohom-inori no si ni, mononoke nado harahi sute keru Risi, yamagomori si te sato ni ide zi to tikahi taru wo, humoto tikaku te, sauzi orosi tamahu yuwe nari keri.
1.1.8  御車よりはじめて、御前など、大将殿よりぞたてまつれたまへるを、 なかなか昔の近きゆかりの君たちは、ことわざしげきおのがじしの世のいとなみに紛れつつ、えしも思ひ出できこえたまはず。
 お車をはじめとして、御前駆など、大将殿から差し向けなさったのであるが、かえって故人の親しい弟君たちは、仕事が忙しく自分の事にかまけて、お思い出し申し上げることができなかった。
 その日の幾つかの車とか前駆の人たちとかは皆大将からよこされた。かえって柏木かしわぎの弟たちなどは自身のせわしさに紛れてか、そうした気はつかないふうであった。
  Mi-kuruma yori hazime te, gozen nado, Daisyau-dono yori zo tatemature tamahe ru wo, nakanaka no mukasi no tikaki yukari no Kimi-tati ha, kotowaza sigeki onogazisi no yo no itonami ni magire tutu, e simo omohi ide kikoye tamaha zu.
1.1.9   弁の君、はた、思ふ心なきにしもあらで、けしきばみけるに、ことの外なる御もてなしなりけるには、しひてえ参でとぶらひたまはずなりにたり。
 弁の君、彼は彼で、気がないわけでもなくて、素振りを匂わせたのだが、思ってもみない程のおあしらいだったので、無理に参上してお世話なさることもできなくなっていた。
 左大将は兄の未亡人の宮を得たい心でそれとなく申し込んだ時に、もってのほかであるというような強い拒絶的な態度をとられて以来、羞恥しゅうち心から出入りもしなくなっているのである。
  Ben-no-Kimi, hata, omohu kokoronaki ni simo ara de, kesikibami keru ni, koto no hoka naru ohom-motenasi nari keru ni ha, sihite e ma'de toburahi tamaha zu nari ni tari.
1.1.10  この君は、いとかしこう、 さりげなくて聞こえ馴れたまひにためり。修法などせさせたまふと聞きて、僧の布施、浄衣などやうの、こまかなるものをさへたてまつれたまふ。 悩みたまふ人はえ聞こえたまはず
 この君は、とても賢く、何とはない様子で自然と馴れ親しみなさったようである。修法などをおさせになると聞いて、僧の布施、浄衣などのような、こまごまとした物まで差し上げなさる。病気でいらっしゃる方は、お書きになるとができない。
 それに比べて大将は非常に上手じょうずな方法をとったものといわねばならない。修法をさせていると聞いて大将は僧たちへ出す布施や浄衣の類までも細かに気をつけて山荘へ贈ったのであった。その際病人の御息所は返事を書くべくもない容体であったし、
  Kono Kimi ha, ito kasikou, sarigenaku te kikoye nare tamahi ni ta' meri. Suhohu nado se sase tamahu to kiki te, Sou no huse, zyaue nado yau no, komaka naru mono wo sahe tatemature tamahu. Nayami tamahu hito ha, e kikoye tamaha zu.
1.1.11  「 なべての宣旨書きは、ものしと思しぬべく、ことことしき御さまなり」
 「通り一遍の代筆は、けしからぬとお思いでしょう、重々しい身分のお方です」
 女房から挨拶あいさつ書きなどを出しておいては、先方の好意が徹底しなかったもののようにお思いになるであろうし、宮様がお高ぶりになりすぎるようにもお思われになるであろうから
  "Nabete no senzigaki ha, monosi to obosi nu beku, kotokotosiki ohom-sama nari."
1.1.12  と、人びと聞こゆれば、 宮ぞ御返り聞こえたまふ
 と、女房たちが申し上げるので、宮がお返事をさし上げなさる。
 と女房らがお願いしたために、宮が引き受けて礼状をお書きになった。
  to, hitobito kikoyure ba, Miya zo ohom-kaheri kikoye tamahu.
1.1.13  いとをかしげにて、 ただ一行りなど、おほどかなる書きざま、 言葉もなつかしきところ書き添へたまへるをいよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞こえ通ひたまふ
 とても美しく、ただ一くだりほど、おっとりとした筆づかいに、言葉も優しい感じを書き添えなさっているので、ますます見たく目がとまって、頻繁に手紙を差し上げなさる。
 美しい字のおおような短いお手紙ではあるが、なつかしい味のあるものであったから、いよいよ大将の心は傾いて、それ以後たびたびお手紙を差し上げるようになった。
  Ito wokasige nite, tada hito-kudari nado, ohodoka naru kaki zama, kotoba mo natukasiki tokoro kaki sohe tamahe ru wo, iyoiyo mi mahosiu me tomari te, sigeu kikoye kayohi tamahu.
1.1.14  「なほ、つひにあるやうあるべきやう御仲らひなめり」
 「やはり、いつかは事の起こるに違いないご関係のようだ」
 結局自分の疑いは疑いでなくなってゆきそうである
  "Naho, tuhini aru yau aru beki yau ohom-nakarahi na' meri."
1.1.15  と、 北の方けしきとりたまへれば、わづらはしくて、参うでまほしう思せど、とみにえ出で立ちたまはず。
 と、北の方は様子を察していられたので、めんどうに思って、訪問したいとはお思いになるが、すぐにはお出かけになることができない。
 と、雲井くもいかり夫人が早くも観察していることにはばかられて、大将は小野の山荘を訪ねたく思いながらも実行をしかねていた。
  to, Kitanokata kesiki tori tamahe re ba, wadurahasiku te, maude mahosiu obose do, tomini e idetati tamaha zu.
注釈1まめ人の名をとりて、さかしがりたまふ大将『集成』は「やや揶揄的な筆致。真木柱の巻に、髭黒が「名に立てるまめ人」とされており、同じ巻に、夕霧も「この世に目馴れぬまめ人」とされていた」。『完訳』は「夕霧は「まめ人」と称されてきたが、ここでは自らそれを意識して落葉の宮接近を合理化する。「さかしが」るのも、そのため。実直な男が盲目的な恋に陥る点で、鬚黒大将とも類似。『宇津保物語』の源実忠や藤原仲頼も、妻子を捨てて貴宮への恋に溺れる」と注す。1.1.1
注釈2この一条の宮の御ありさまを邸宅の雰囲気をさす表現。1.1.1
注釈3なほ副詞「なほ」は「思して」を修飾。『完訳』は「まめ人と言われながらやはり」と訳す。1.1.1
注釈4御息所も落葉宮の母一条御息所。1.1.2
注釈5ひき返し以下「あらじやは」まで、夕霧の心中。『集成』は「ここから夕霧の心」と注して、括弧にはくくらない。1.1.4
注釈6宮の御けはひありさまを見たまふ落葉の宮の雰囲気や様子を。「見たまふ」は、注意を払う、関心をもつ、意。几帳が間にあるので直接見ているのではない。1.1.5
注釈7みづからなど聞こえたまふことはさらになし落葉宮御自身が夕霧に直接返事をすること。1.1.5
注釈8いかならむついでに以下「けはひを見む」まで、夕霧の心中。1.1.6
注釈9御息所もののけにいたう患ひたまひて一条御息所は二年前から病気がちであった。「柏木」巻に語られている。1.1.7
注釈10小野といふわたりに山里持たまへるに二つの「に」格助詞、いずれも場所を表す。京都の北の郊外。修学院離宮のあたり。1.1.7
注釈11御祈りの師に大島本は「御いのりのしに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御祈りの師にて」と「て」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。1.1.7
注釈12山籠もりして里に出でじ律師の考え、間接話法、その要旨。1.1.7
注釈13誓ひたるを『集成』は「請願を立てているのを」。『完訳』は「誓いを立てているそのお方に」と訳す。「を」格助詞、目的格に解す。また接続助詞「を」順接、原因理由を表す、とも解せる。1.1.7
注釈14麓近くて請じ下ろしたまふゆゑなりけり『集成』は「近くに来て、下山して頂きなさるためなのだった」。『完訳』は「麓近くまで下りてもらうようお願いになるためなのだった」と訳す。集成は「麓近くて」を御息所が「麓近くに来て」の意に解している。1.1.7
注釈15なかなか昔の近きゆかりの君たちは大島本は「中/\むかしの」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「なかなかまことの昔の」と「まことの」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。柏木の弟たちをいう。もって回った言い方。1.1.8
注釈16弁の君はた思ふ心なきにしもあらでけしきばみけるにことの外なる御もてなし『完訳』は「一条の宮に出入りするうちに宮に求婚し、皇女降嫁に反対の母御息所に拒まれたか」と注す。
【けしきばみけるに】−接続助詞「に」逆接の意。
1.1.9
注釈17さりげなくて聞こえ馴れたまひにためり推量の助動詞「めり」主観的推量は、語り手の推量。1.1.10
注釈18悩みたまふ人は御息所をいう。1.1.10
注釈19え聞こえたまはず夕霧へのお礼の返事を書くことができない。1.1.10
注釈20なべての宣旨書きは以下「御さまなり」まで、女房の詞。その要旨、間接的話内容であろう。1.1.11
注釈21宮ぞ御返り聞こえたまふ落葉の宮が返事を書く。係助詞「ぞ」--「たまふ」連体形の係結び、強調のニュアンス。1.1.12
注釈22ただ一行りなど『完訳』は「和歌を一行書きにしたものか」と注す。1.1.13
注釈23言葉もなつかしきところ書き添へたまへるを『完訳』は「和歌に添えた言葉か」と注す。1.1.13
注釈24いよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞こえ通ひたまふ主語は夕霧。ますます落葉の宮に引きつけられていく。1.1.13
注釈25なほつひにあるやうあるべきやう御仲らひなめりと大島本は「あるへきやう」とあり、その右側に「此やうノ二字定家本ニ朱ニテ書入難心詞也<朱>」と紙片を貼付して注記する。『集成』『完本』は諸本に従って「あるべき」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。「定家本」には「やう」が有ると注記しているのが注目される。雲居雁の心中。『集成』は「やはり結局は何か事が起るに違いないお二人の仲なのだろう」。『完訳』は「こんな様子では、お二人がやはりしまいには特別の仲になってしまいかねないと」と訳す。大島本の「あるやうあるべきやう」という「やう」の重複はいかにもくどい拙文の感じだが、定家本にはそうあるのである。1.1.14
注釈26北の方けしきとり夕霧の北の方、すなわち雲居雁。1.1.15
1.2
第二段 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問


1-2  Yugiri visits a mountain villa in Ono about August 20

1.2.1   八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきもをかしきころなるに、山里のありさまのいとゆかしければ、
 八月二十日のころなので、野辺の様子も美しい時期だし、山里の様子もとても気になるので、
 八月の二十日ごろで、野のながめも面白いころなのであるから、山荘住まいをしておいでになる恋人を大将はお訪ねしたい心がしきりに動いて、
  Hatigwatu naka no towoka bakari nare ba, nobe no kesiki mo wokasiki koro naru ni, yamazato no arisama no ito yukasikere ba,
1.2.2  「 なにがし律師のめづらしう 下りたなるに、せちに語らふべきことあり。御息所の 患ひたまふなるもとぶらひがてら、参うでむ」
 「何某律師が珍しく下山していると言うので、是非に相談したいことがある。御息所が病気でいらっしゃると言うのもお見舞いがてら、お伺いしよう」
 「珍しく山から下っていられる某律師にぜひって相談をしなければならぬことがあったし、御病気の御息所の別荘へお見舞いもしがてらに小野へ行こうと思う」
  "Nanigasi Risi no medurasiu ori ta' naru ni, setini katarahu beki koto ari. Miyasumdokoro no wadurahi tamahu naru mo toburahi gatera, maude m."
1.2.3  と、 おほかたにぞ聞こえて出でたまふ。 御前、ことことしからで、親しき限り五、六人ばかり、狩衣にてさぶらふ。ことに深き道ならねど、 松が崎の小山の色なども、さる巌ならねど、秋のけしきつきて、 都に二なくと尽くしたる家居には、なほ、あはれも興も まさりてぞ見ゆるや
 と、さりげない用件のように申し上げてお出かけになる。御前駆、大げさにせず、親しい者だけ五、六人ほどが、狩衣姿で従う。特別深い山道ではないが、松が崎の小山の色なども、それほどの岩山ではないが、秋らしい様子になって、都で又となく善美を尽くした住居より、やはり、情趣も風情も立ち勝って見えることであるよ。
 と何げなく言って大将はやしきを出た。前駆もたいそうにはせず親しい者五、六人を狩衣かりぎぬ姿にさせて大将は伴ったのである。たいして山深くはいる所ではないが、松がさきの峰の色なども奥山ではないが、紅葉もみじをしていて、技巧を尽くした都の貴族の庭園などよりも美しい秋を見せていた。
  to, ohokata ni zo kikoye te ide tamahu. Gozen, kotokotosikara de, sitasiki kagiri go, roku-nin bakari, kariginu nite saburahu. Kotoni hukaki miti nara ne do, Matugasaki no woyama no iro nado mo, saru ihaho nara ne do, aki no kesiki tuki te, miyako ni ninaku to tukusi taru ihewi ni ha, naho, ahare mo kyou mo masari te zo miyuru ya!
1.2.4  はかなき小柴垣もゆゑあるさまにしなして、かりそめなれどあてはかに住まひなしたまへり。寝殿とおぼしき東の放出に、修法の檀塗りて、北の廂におはすれば、西面に宮はおはします。
 ちょっとした小柴垣も風流な様に作ってあって、仮のお住まいだが品よくお暮らしになっていらっしゃった。寝殿と思われる東の放出に、修法の壇を塗り上げて、北の廂の間にいらっしゃるので、西表の間に宮はいらっしゃる。
 そこは簡単な小柴垣こしばがきなども雅致のあるふうにめぐらせて、仮居ではあるが品よく住みなされた山荘であった。寝殿ともいうべき中央の建物の東の座敷のほうに祈祷の壇はできていて、北側の座敷が御息所の病室となっているために、西向きの座敷に宮はおいでになった。
  Hakanaki kosibagaki mo yuwe aru sama ni si nasi te, karisome nare do atehaka ni sumahi nasi tamahe ri. Sinden to obosiki himgasi no hanatiide ni, suhohu no dan nuri te, kita no hisasi ni ohasure ba, nisiomote ni Miya ha ohasimasu.
1.2.5  御もののけむつかしとて、 とどめたてまつりたまひけれどいかでか離れたてまつらむと、慕ひわたりたまへるを、人に移り散るを懼ぢて、すこしの隔てばかりに、 あなたには渡したてまつりたまはず
 御物の怪が厄介だからと言って、お止め申し上げなさったが、どうしてお側を離れ申そうと、慕ってお移りになったのだが、物の怪が他の人に乗り移るのを恐れて、わずかの隔てを置く程度にして、そちらにはお入れ申し上げなさらない。
 物怪を恐れて御息所は宮を京の邸へおとどめしておこうとしたのであるが、どうしてもいっしょにいたいとついておいでになった宮を、物怪のほかへ散るのを恐れて少しの隔てではあるが病室へはお近づけ申し上げないのである。
  Ohom-mononoke mutukasi tote, todome tatematuri tamahi kere do, ikadeka hanare tatematura m to, sitahi watari tamahe ru wo, hito ni uturi tiru wo odi te, sukosi no hedate bakari ni, anata ni ha watasi tatematuri tamaha zu.
1.2.6  客人のゐたまふべき所のなければ、 宮の御方御簾の前に入れたてまつりて、上臈だつ人びと、御消息聞こえ伝ふ。
 客人のお座りになる所がないので、宮の御方の簾の前にお入れ申して、上臈のような女房たちが、ご挨拶をお伝え申し上げる。
 客を通す座敷がないために、宮のおいでになる室とは御簾みすで隔てになった西の縁側についた座敷へ大将を入れて、上級の女房らしい人たちが御息所との話の取り次ぎに出て来た。
  Marauto no wi tamahu beki tokoro no nakere ba, Miya no ohom-kata no misu no mahe ni ire tatematuri te, zyaurahu-datu hitobito, ohom-seusoko kikoye tutahu.
1.2.7  「 いとかたじけなく、かうまでのたまはせ渡らせたまへるをなむ。もしかひなくなり果てはべりなば、 このかしこまりをだに 聞こえさせでやと、思ひたまふるをなむ、今しばしかけとどめまほしき心つきはべりぬる」
 「まことにもったいなく、こんなにまで遠路はるばるお見舞いにお越し下さいまして。もしこのままはかなくなってしまいましたならば、このお礼をさえ申し上げることができないのではないかと、存じておりましたが、もう暫く生きていたいという気持ちになりました」
 「まことにもったいなく存じます。御親切にたびたびお尋ねくださいました上に、御自身でまたお見舞いくださいますあなた様に対して、もうくなってしまいますれば自分でお礼を申し上げることができないと考えますことで、もう少し生きようといたします努力をしますことになりました」
  "Ito katazikenaku, kau made notamaha se watara se tamahe ru wo nam. Mosi kahinaku nari hate haberi na ba, kono kasikomari wo dani kikoyesase de ya to, omohi tamahuru wo nam, ima sibasi kake-todome mahosiki kokoro tuki haberi nuru."
1.2.8  と、聞こえ出だしたまへり。
 と、奥から申し上げなさった。
 これが御息所からの挨拶あいさつである。
  to, kikoye idasi tamahe ri.
1.2.9  「 渡らせたまひし御送りにもと思うたまへしを、 六条院に承りさしたることはべりしほどにてなむ。日ごろも、そこはかとなく紛るることはべりて、思ひたまふる心のほどよりは、こよなくおろかに御覧ぜらるることの、苦しうはべる」
 「お移りあそばした時のお供を致そうと存じておりましたが、六条院から仰せつけられていた事が中途になっていまして。このところも、何かと忙しい雑事がございまして、案じておりました気持ちよりも、ずっと誠意がない者のように御覧になられますのが、辛うございます」
 「こちらへお移りになります日に、私もお送りをさせていただきたかったのですが、あやにく六条院の御用の残ったものがありましたものですから失礼をいたしました。その以後も何かと忙しいことがあったものですから、お案じいたしております心だけのことができておらないのを、不本意に心苦しく存じております」
  "Watara se tamahi si ohom-okuri ni mo to omou tamahe si wo, Rokudeu-no-Win ni uketamahari sasi taru koto haberi si hodo nite nam. Higoro mo, sokohakatonaku magiruru koto haberi te, omohi tamahuru kokoro no hodo yori ha, koyonaku oroka ni goranze raruru koto no, kurusiu haberu."
1.2.10  など、聞こえたまふ。
 などと、申し上げなさる。
 などと大将は取り次がせている。
  nado, kikoye tamahu.
注釈27八月中の十日ばかりなれば野辺のけしきもをかしきころなるに八月二十日ころ、中秋をや過ぎたころ。1.2.1
注釈28なにがし律師の以下「とぶらひがてら参でむ」まで、夕霧の詞。「某律師」は雲居雁の前では実名で言ったのを、語り手が読者には「某」とぼかして表現したもの。『完訳』は「語り手が固有名詞をぼかした」と注す。1.2.2
注釈29下りたなるに「た」は完了の助動詞「たる」の「る」が撥音便化し無表記。「なる」伝聞推定の助動詞。接続助詞「に」順接の意。1.2.2
注釈30患ひたまふなるも「なる」伝聞推定の助動詞。1.2.2
注釈31おほかたにぞ聞こえて大島本は「きこえて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「聞こえごちて」と「ごち」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。『集成』は「さりげない用件のように申し上げて」。『完訳』は「一通りの訪問のようにお申し出になって」と訳す。1.2.3
注釈32御前ことことしからで親しき限り五六人ばかり大将の公式の前駆は定員十二名。それを親しい者五、六名に限って追従させている。1.2.3
注釈33松が崎の小山の色など『集成』は「尾山」と宛て、「歌枕。修学院の対岸、高野川の右岸に張り出した形の山。所々に岩盤が露出し、松の木が多い。「尾山」の「尾」は、峯の意」と注す。1.2.3
注釈34都に二なくと尽くしたる家居には『完訳』は「六条院の秋の町と対比して、小野の秋の美しさを称揚」と注す。連語「には」比較を表す。1.2.3
注釈35まさりてぞ見ゆるや「や」詠嘆の終助詞。語り手の言辞。臨場感ある措辞。視点が夕霧と一体化して語られている。1.2.3
注釈36とどめたてまつりたまひけれど落葉の宮を京の邸に留めたが、の意。1.2.5
注釈37いかでか離れたてまつらむ落葉の宮の心中。間接的叙述。「いかでか」--「む」反語表現。1.2.5
注釈38あなたには渡したてまつりたまはず落葉の宮を御息所のいる北廂の間にはお入れしない、の意。1.2.5
注釈39宮の御方落葉の宮。1.2.6
注釈40御簾の前に大島本は「みす」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「簾(す)」と「み」を削除する。『新大系』は底本のままとする。1.2.6
注釈41いとかたじけなく以下「心つきはべりぬる」まで、御息所の詞。1.2.7
注釈42このかしこまりをだに副助詞「だに」最小限の意。1.2.7
注釈43聞こえさせでや「聞こえさす」謙譲表現。接続助詞「で」否定の意。「や」間投助詞、詠嘆の意。1.2.7
注釈44渡らせたまひし以下「ことの苦しうはべる」まで、夕霧の詞。1.2.9
注釈45六条院に承りさしたることはべりしほどにてなむ『完訳』は「口実である。雲居雁の嫉妬で訪問できなかったのが真相」と注す。
【ほどにてなむ】−係助詞「なむ」の下に、できなかった、という意の言葉が省略された形。
1.2.9
1.3
第三段 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる


1-3  Yugiri offers to meet with Ochiba-no-Miya

1.3.1  宮は、奥の方にいと忍びておはしませど、 ことことしからぬ旅の御しつらひ、浅きやうなる御座のほどにて、 人の御けはひおのづからしるし。いとやはらかにうちみじろきなどしたまふ御衣の音なひ、 さばかりななりと、聞きゐたまへり。
 宮は、奥の方にとてもひっそりとしていらっしゃるが、おおげさでない仮住まいのお設備で、端近な感じのご座所なので、宮のご様子も自然とはっきり伝わる。とても物静かに身じろぎなさる時の衣ずれの音、あれがそうなのだろうと、聞いていらっしゃった。
 奥のほうに静かにして宮はおいでになるのであるが、簡単な山荘のことであるから、奥といっても深いことはないのであって、若い内親王様がそこにおいでになる気配けはいはよく大将にわかるのである。柔らかに身じろぎなどをあそばす衣擦きぬずれの音によって、宮のおすわりになったあたりが想像された。
  Miya ha, oku no kata ni ito sinobi te ohasimase do, kotokotosikara nu tabi no ohom-siturahi, asaki yau naru omasi no hodo nite, hito no ohom-kehahi onodukara sirusi. Ito yaharaka ni uti-miziroki nado si tamahu ohom-zo no otonahi, sabakari na' nari to, kiki wi tamahe ri.
1.3.2  心も空におぼえて、 あなたの御消息通ふほどすこし遠う隔たる隙に例の少将の君など、さぶらふ人びとに物語などしたまひて、
 心も上の空になって、あちらへのご挨拶を伝えている間、少し長く手間取っているうちに、例の少将の君などの、伺候している女房たちにお話などなさって、
 魂はそこへ行ってしまったようなうつろな気になりながら、御息所の病室とここを通う取り次ぎの女房の往復の暇どる間を、これまでから話し相手にする少将とかそのほかの宮の女房とかを相手にして大将は語っているのであった。
  Kokoro mo sora ni oboye te, anata no ohom-seusoko kayohu hodo, sukosi tohou hedataru hima ni, rei no Seusyau-no-Kimi nado, saburahu hitobito ni monogatari nado si tamahi te,
1.3.3  「 かう参り来馴れ承ることの、 年ごろといふばかりになりにけるを、こよなうもの遠うもてなさせたまへる 恨めしさなむ。かかる御簾の前にて、人伝ての御消息などの、ほのかに聞こえ伝ふることよ。まだこそならはね。 いかに古めかしきさまに人びとほほ笑みたまふらむとはしたなくなむ
 「このように参上して親しくお話を伺うことが、何年という程になったが、まったく他人行儀にお扱いなさる恨めしさよ。このような御簾の前で、人伝てのご挨拶などを、ほのかにお伝え申し上げるとはね。いまだ経験したことがないね。どんなにか古くさい人間かと、宮様方は笑っていらっしゃるだろうと、きまりの悪い思いがする。
 「宮様のほうへ伺うようになりましてから、もう何年と年で数えなければならないほどになりますが、まだきわめてよそよそしいお取り扱いを受けておりますことで、恨めしい気がしますよ。こうした御簾みすの前で、人づてのお言葉をほのかに承りうるだけではありませんか。私はまだこんな冷たい御待遇というものを知りませんよ。どんなに古風な気のきかない男に皆さんは私を思っておられるだろうと恥ずかしく思います。
  "Kau mawiri ki nare uketamaharu koto no, tosigoro to ihu bakari ni nari ni keru wo, koyonau mono tohou motenasa se tamahe ru uramesisa nam. Kakaru misu no mahe nite, hitodute no ohom-seusoko nado no, honoka ni kikoye tutahuru koto yo. Mada koso naraha ne. Ikani hurumekasiki sama ni, hitobito hohowemi tamahu ram to, hasitanaku nam.
1.3.4   齢積もらず軽らかなりしほどに、ほの好きたる方に 面馴れなましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし。さらに、かばかりすくすくしう、 おれて年経る人は、たぐひあらじかし
 年齢も若く身分も低かったころに、多少とも色めいたことに経験が豊かであったら、こんな恥ずかしい思いはしなかったろうに。まったく、このように生真面目で、愚かしく年を過ごして来た人は、他にいないだろう」
 青年で気楽な位置におりましたころから、続いて恋愛を生活の一部にして来ていますれば、こんなに不器用な恋の悩みをしないでも済んだろうと思います。私のように長く心の病気をおさえている人はないでしょう」
  Yohahi tumora zu karuraka nari si hodo ni, hono-suki taru kata ni omonare na masika ba, kau uhiuhisiu mo oboye zara masi. Sarani, kabakari sukusukusiu, ore te tosi huru hito ha, taguhi ara zi kasi."
1.3.5  とのたまふ。 げに、いとあなづりにくげなるさましたまひつればさればよと、
 とおっしゃる。なるほど、まことに軽々しくお扱いできないご様子でいらっしゃるので、やはりそうであったかと、
 大将はこの言葉のとおりにもう軽々しい多情多感な青年ではない重々しい風采ふうさいを備えているのであるから、その人の切り出して言ったことがこれであるのを、女房たちはこんなことになるかともかねてあやぶんでいたと、途方に暮れた気がするのであった。
  to notamahu. Geni, ito anaduri nikuge naru sama si tamahi ture ba, sarebayo to,
1.3.6  「 なかなかなる御いらへ聞こえ出でむは、恥づかしう
 「中途半端なお返事を申し上げるのは、気が引けます」
 「私がまずい御挨拶あいさつなどをしてはかえっていけませんから、あなたが」
  "Nakanaka naru ohom-irahe kikoye ide m ha, hadukasiu."
1.3.7  などつきしろひて、
 などとつっ突き合って、
 こんなことを皆ひそかに言い合っていて、
  nado tukisirohi te,
1.3.8  「 かかる御愁へ聞こしめし知らぬやうなり」
 「このようなご不満に対し情趣を解さないように思われます」
 「あんなにもお言いになります方に、あまり無関心らしくあそばさないほうがよろしゅうございましょう。何とかおっしゃってくださいませ」
  "Kakaru ohom-urehe kikosimesi sira nu yau nari."
1.3.9  と、宮に聞こゆれば、
 と、宮に申し上げると、
 と宮へ申し上げると、
  to, Miya ni kikoyure ba,
1.3.10  「 みづから聞こえたまはざめるかたはらいたさに代はりはべるべきを、いと恐ろしきまでものしたまふめりしを、見あつかひはべりしほどに、 いとどあるかなきかの心地になりてなむ、え聞こえぬ」
 「ご自身で直接申し上げなさらないようなご無礼につき、代わって致さねばならないところですが、大変に恐いほどのご病気でいらっしゃったようなのを、看病致しておりましたうちに、ますます生きているのかどうなのか分からない気分になって、お返事申し上げることができません」
 「病人が自身でお話を申し上げることのできませんような失礼な際に、私でも代わりをいたしましてお逢い申し上げたいのでございますが、病人が一時非常に悪うございましたために、私までも健康を害しまして、それでよんどころなく」
  "Midukara kikoye tamaha za' meru katahara itasa ni, kahari haberu beki wo, ito osorosiki made monosi tamahu meri si wo, mi atukahi haberi si hodo ni, itodo arukanakika no kokoti ni nari te nam, e kikoye nu."
1.3.11  とあれば、
 とおっしゃるので、
 こうお取り次がせになった。
  to are ba,
1.3.12  「 こは、宮の御消息か」とゐ直りて、「 心苦しき御悩みを、身に代ふばかり 嘆ききこえさせはべるも何のゆゑにか。かたじけなけれど、 ものを思し知る御ありさまなど、はればれしき方にも見たてまつり直したまふまでは、平らかに過ぐしたまはむこそ、誰が御ためにも頼もしきことにははべらめと、 推し量りきこえさするによりなむただあなたざまに思し譲りて、積もりはべりぬる心ざしをも知ろしめされぬは、 本意なき心地なむ
 「これは、宮のお返事ですか」と居ずまいを正して、「お気の毒なご病気を、わが身に代えてもとご心配申し上げておりましたのも、他ならぬあなたのためです。恐れ多いことですが、物事のご判断がお出来になるご様子などを、ご快復を御覧になられるまでは、平穏にお過ごしになられるのが、どなたにとっても心強いことでございましょうと、ご推察申し上げるのです。ただ母上様へのご心配ばかりとお考えになって、積もる思いをご理解下さらないのは、不本意でございます」
 「それは宮様のお言葉ですか」と大将は居ずまいを正した。「御息所の御容体を、私自身の病などと比較にもなりませんほどお案じいたしておりますのも何の理由からでございましょう。もったいない話ではございますが、御憂鬱ゆううつな御気分が朗らかになられますまで、あの方様が御健康でおいでくださいますことは願わしいことだと存じ上げるからでございます。あの方様へお尽くしいたすだけのものとして、私のあなた様へ持ちます真心をお認めくださいませんことはお恨めしいことでございます」
  "Koha, Miya no ohom-seusoko ka?" to wi nahori te, "Kokorogurusiki ohom-nayami wo, mi ni kahu bakari nageki kikoyesase haberu mo, nani no yuwe ni ka? Katazikenakere do, mono wo obosi siru ohom-arisama nado, harebaresiki kata ni mo mi tatematuri nahosi tamahu made ha, tahiraka ni sugusi tamaha m koso, taga ohom-tame ni mo tanomosiki koto ni ha habera me to, osihakari kikoye sasuru ni yori nam. Tada anata zama ni obosi yuduri te, tumori haberi nuru kokorozasi wo mo sirosi mesa re nu ha, ho'i naki kokoti nam."
1.3.13  と聞こえたまふ。「げに」と、人びとも聞こゆ。
 と申し上げなさる。「おっしゃる通りだ」と、女房たちも申し上げる。
 と大将は言う。「ごもっともでございます」と女房らが言う。
  to kikoye tamahu. "Geni" to, hito-bito mo kikoyu.
注釈46ことことしからぬ旅の御しつらひ小野の山荘の様子。1.3.1
注釈47人の御けはひ落葉の宮。1.3.1
注釈48さばかりななり連語「ななり」断定の助動詞+推量の助動詞。『集成』は「あれが宮なのだろう」。『完訳』は「あのあたりらしい」と訳す。1.3.1
注釈49あなたの御消息通ふほど格助詞「の」は、御息所への、の意。1.3.2
注釈50すこし遠う隔たる隙に「少し遠う隔たる」は空間の理由を説明して「隙」を修飾、時間的な間合のあることをいう。1.3.2
注釈51例の少将の君などさぶらふ人びとに『完訳』は「落葉の宮づきの女房。小少将。御息所の姪で、その養女格。大和守の妹」と注す。1.3.2
注釈52かう参り来馴れ以下「たぐひあらじかし」まで、夕霧の詞。『完訳』は「宮に聞えよがしに言う」と注す。1.3.3
注釈53年ごろといふばかりに柏木が亡くなって足掛け三年になる。その間、夕霧は落葉の宮に援助し続けてきた。1.3.3
注釈54恨めしさなむ係助詞「なむ」の下に、辛く思われる、などの意が省略。1.3.3
注釈55いかに古めかしきさまに『完訳』は「私を野暮な人間と。自分を貶めながら、好色とは無縁であるかのように言い、相手を安心させる」と注す。1.3.3
注釈56人びとほほ笑みたまふらむと『集成』は「あなた方がおかしがっておいでだろうと」。『完訳』は「落葉の宮や御息所など」と注す。1.3.3
注釈57はしたなくなむ係助詞「なむ」の下に「はべる」などの語句が省略、強調のニュアンス。1.3.3
注釈58齢積もらず軽らかなりしほどに『完訳』は「「軽らか」は身分について。ここでも自嘲的でありながら、若年からの律儀さを強調し、相手を安心させる」と注す。1.3.4
注釈59面馴れなましかば「ましかば」--「まし」反実仮想の構文。1.3.4
注釈60おれて年経る人はたぐひあらじかし『集成』は「いつまでもうかうかと過す人間は、またといまいと思われます。もういい加減に、親しい扱いをしてほしい、と言う」と注す。1.3.4
注釈61げにいとあなづりにくげなるさましたまひつれば大島本は「給つれは」とある。「つ」と「へ」は紛らわしい字体である。『集成』『完本』は諸本に従って「たまへれば」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。「げに」は語り手の納得の意。女房の気持と一体化した表現。1.3.5
注釈62さればよ女房の心中。『集成』は「やはり、ただではすまないことだと。宮の挨拶がなくては事がすむまいという気持」。『完訳』は「夕霧の宮への恋情に気づく」と注す。1.3.5
注釈63なかなかなる御いらへ聞こえ出でむは恥づかしう女房の詞。連体中止法。余意余情効果がある。1.3.6
注釈64かかる御愁へ以下「知らぬやうなり」まで、女房の詞。「御愁へ」は夕霧のそれ。「聞こしめし知らぬ」は人情や情趣を解さない意。主語は落葉の宮なので敬語表現が使用されている。1.3.8
注釈65みづから聞こえたまはざめるかたはらいたさに「みづから」は母御息所ご自身が、の意。下に「たまふ」という敬語表現があるので。1.3.10
注釈66代はりはべるべきを主語は落葉の宮。丁寧語表現。1.3.10
注釈67いとどあるかなきかの心地になりて『完訳』は「恐ろしいほど物の怪に病むような御息所を看病するうちに、自分も人心地が失せた。口実である」と注す。1.3.10
注釈68こは宮の御消息か夕霧の詞。または心中、いづれか不明。1.3.12
注釈69心苦しき御悩みを以下「本意なき心地なむ」まで、夕霧の詞。「御悩み」は御息所の病気。『完訳』は「以下、宮に直接話しかける趣。宮の居場所の近さを知っている」と注す。1.3.12
注釈70嘆ききこえさせはべるも「聞こえさす」最も丁重な謙譲表現。1.3.12
注釈71何のゆゑにか『完訳』は「ほかならぬ、あなたのため」と訳す。1.3.12
注釈72ものを思し知る御ありさまなど『集成』は「物の怪は、おうおうにして明晰な理解、判断を狂わせる症状を呈するので、「ものをおぼし知る御ありさまなど」と、日頃の御息所の聰明さを特に言う」。『完訳』は「何かと思いにひたっていらっしゃる宮の日々のお暮しなどが」「憂愁に沈む落葉の宮が晴れ晴れしくなるまで、御息所が生きていてほしい、の意。暗に、宮は自分と結ばれて幸福になる、と主張」と注す。1.3.12
注釈73推し量りきこえさするによりなむ係助詞「なむ」の下に「侍る」などの語句が省略。1.3.12
注釈74ただあなたざまに思し譲りて主語は落葉の宮。あなたは、わたしの訪問をただ母御息所へのご心配とばかりお思いになって、の意。1.3.12
注釈75本意なき心地なむ係助詞「なむ」の下に「する」などの語句が省略。1.3.12
1.4
第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意


1-4  Yugiri decides to stay at the mountain villa in Ono

1.4.1  日入り方になり行くに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、 山の蔭は小暗き心地するに、 ひぐらしの鳴きしきりて垣ほに生ふる撫子の うちなびける色もをかしう見ゆ。
 日も入り方になるにつれて、空の様子もしんみりと霧が立ち籠めて、山の蔭は薄暗い感じがするところに、蜩がしきりに鳴いて、垣根に生えている撫子が、風になびいている色も美しく見える。
 日は落ちて行く刻で、空も身にしむ色に霧が包んでいて、山のかげはもう小暗おぐらい気のする庭にはしきりにひぐらしが鳴き、垣根かきね撫子なでしこが風に動く色も趣多く見えた。
  Hi irikata ni nariyuku ni, sora no kesiki mo ahare ni kiri watari te, yama no kage ha woguraki kokoti suru ni, higurasi no naki sikiri te, kakiho ni ohuru nadesiko no, uti-nabike ru iro mo wokasiu miyu.
1.4.2  前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされなどして、不断の経読む、時変はりて、鐘うち鳴らすに、立つ声もゐ変はるも、一つにあひて、いと尊く聞こゆ。
 前の前栽の花々が、思い思いに咲き乱れているところに、水の音がとても涼しそうに聞こえて、山下ろしの風がぞっとするように、松風の響きが奥にこもってそこらじゅう聞こえたりなどして、不断の経を読むのが、交替の時刻になって、鐘を打ち鳴らすと、立つ僧の声も変って座る僧の声も、一緒になって、まことに尊く聞こえる。
 植え込みの灌木かんぼくや草の花が乱れほうだいになった中を行く水の音がかすかに涼しい。一方ではすごいほどに山おろしが松のこずえを鳴らしていたりなどして、不断経の僧の交替の時間が来て鐘を打つと、終わって立つ僧の唱える声と、新しい手代わりの僧の声とがいっしょになって、一時に高く経声の起こるのも尊い感じのすることであった。
  Mahe no sensai no hana-domo ha, kokoro ni makase te midare ahi taru ni, midu no woto ito suzusige nite, yamaorosi kokorosugoku, matu no hibiki kobukaku kikoye watasa re nado si te, hudan no kyau yomu, toki kahari te, kane uti-narasu ni, tatu kowe mo wi kaharu mo, hitotu ni ahi te, ito tahutoku kikoyu.
1.4.3  所から、よろづのこと心細う見なさるるも、あはれに もの思ひ続けらる。出でたまはむ心地もなし。律師も、加持する音して、陀羅尼いと尊く 読むなり
 場所柄ゆえ、あらゆる事が心細く思われるのも、しみじみと感慨が湧き起こる。お帰りなる気持ちも起こらない。律師の加持する声がして、陀羅尼を大変に尊く読んでいる様子である。
 所が所だけにすべてのことが人に心細さを思わせるのであったから、恋する大将の物思わしさはつのるばかりであった。帰る気などには少しもなれない。律師が加持をする音がして、陀羅尼だらに経をびた声で読み出した。
  Tokorokara, yorodu no koto kokorobosou minasa ruru mo, ahare ni mono-omohi tuduke raru. Ide tamaha m kokoti mo nasi. Risi mo, kadi suru oto si te, Darani ito tahutoku yomu nari.
1.4.4   いと苦しげにしたまふなりとて、人びともそなたに集ひて、おほかたも、かかる旅所に あまた参らざりけるに、いとど人少なにて、宮は眺めたまへり。しめやかにて、「 思ふこともうち出でつべき折かな」と思ひゐたまへるに、霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、
 たいそうお苦しそうでいらっしゃるということで、女房たちもそちらの方に集まって、大体が、このような仮住まいに大勢はお供しなかったので、ますます人少なで、宮は物思いに耽っていらっしゃった。ひっそりしていて、「思っていることも話し出すによい機会かな」と思って座っていらっしゃると、霧がすぐこの軒の所まで立ち籠めたので、
 御息所の病苦が加わったふうであると言って、女房たちはおおかたそのほうへ行っていて、もとから療養の場所で全部をつれて来ておいでになるのでない女房が、宮のおそばに侍しているのは少なくて、宮は寂しく物思いをあそばされるふうであった。非常に静かなこんな時に自分の心もお告げすべきであると大将が思っていると、外では霧が軒にまで迫ってきた。
  Ito kurusige ni si tamahu nari tote, hitobito mo sonata ni tudohi te, ohokata mo, kakaru tabidokoro ni amata mawira zari keru ni, itodo hitozukuna nite, Miya ha nagame tamahe ri. Simeyaka nite, "Omohu koto mo uti-ide tu beki wori kana!" to omohi wi tamahe ru ni, kiri no tada kono noki no moto made tati-watare ba,
1.4.5  「 まかでむ方も見えずなり行くは、いかがすべき」とて、
 「帰って行く方角も分からなくなって行くのは、どうしたらよいでしょうか」と言って、
 「私の帰る道も見えなくなってゆきますようなこんな時に、どうすればいいのでしょう」と大将は言って、
  "Makade m kata mo miye zu nariyuku ha, ikaga su beki?" tote,
1.4.6  「 山里のあはれを添ふる夕霧に
   立ち出でむ空もなき心地して
 「山里の物寂しい気持ちを添える夕霧のために
  帰って行く気持ちにもなれずおります
  山里の哀れを添ふる夕霧に
  立ちでんそらもなきここちして
    "Yamazato no ahare wo sohuru yuhugiri ni
    tatiide m sora mo naki kokoti si te
1.4.7  と聞こえたまへば、
 と申し上げなさると、
 と申し上げると、
  to kikoye tamahe ba,
1.4.8  「 山賤の籬をこめて立つ霧も
   心そらなる人はとどめず
 「山里の垣根に立ち籠めた霧も
  気持ちのない人は引き止めません
  山がつのまがきをこめて立つ霧も
  心空なる人はとどめず
    "Yamagatu no magaki wo kome te tatu kiri mo
    kokoro sora naru hito ha todome zu
1.4.9  ほのかに聞こゆる御けはひに慰めつつ、まことに帰るさ忘れ果てぬ。
 かすかに申し上げるご様子に慰めながら、ほんとうに帰るのを忘れてしまった。
 こうほのかにお答えになる優美な宮の御様子がうれしく思われて、大将はいよいよ帰ることを忘れてしまった。
  Honoka ni kikoyuru ohom-kehahi ni nagusame tutu, makoto ni kaherusa wasure hate nu.
1.4.10  「 中空なるわざかな。家路は見えず、霧の籬は、立ち止るべうもあらず遣らはせたまふ。 つきなき人は、かかることこそ
 「どうしてよいか分からない気持ちです。家路は見えないし、霧の立ち籠めたこの家には、立ち止まることもできないようにせき立てなさる。物馴れない男は、こうした目に遭うのですね」
 「どうすることもできません。道はわからなくなってしまいましたし、こちらはお追い立てになる。だれも経験することを少しも経験せずに始めようとする者は、すぐこうした目にあいます」
  "Nakazora naru waza kana! Ihedi ha miye zu, kiri no magaki ha, tatitomaru beu mo ara zu yarahase tamahu. Tukinaki hito ha, kakaru koto koso."
1.4.11  などやすらひて、 忍びあまりぬる筋もほのめかし聞こえたまふに、 年ごろもむげに見知りたまはぬにはあらねど、知らぬ顔にのみもてなしたまへるを、かく言に出でて怨みきこえたまふを、わづらはしうて、いとど御いらへもなければ、いたう嘆きつつ、心のうちに、「 また、かかる折ありなむや」と、思ひめぐらしたまふ。
 などとためらって、これ以上堪えられない思いをほのめかして申し上げなさると、今までも全然ご存知でなかったわけではないが、知らない顔でばかり通して来なさったので、このように言葉に出されてお恨み申し上げなさるのを、面倒に思って、ますますお返事もないので、たいそう嘆きながら、心の中で、「再び、このような機会があるだろうか」と、思案をめぐらしなさる。
 などと言って、もうここに落ち着くふうを見せ、忍び余る心もほのめかしてお話しする大将を、宮は今までからもその気持ちを全然お知りにならないのでもなかったが、気づかぬふうをしておいでになったのを、あらわに言葉にして言うのをお聞きになっては、ただ困ったこととお思われになって、いっそうものを多くお言いにならぬことになったのを、大将は歎息たんそくしていて、心の中ではこんな機会はまたとあるわけもない、思い切ったことは今でなければ実行が不可能になろうとみずからを励ましていた。
  nado yasurahi te, sinobi amari nuru sudi mo honomekasi kikoye tamahu ni, tosigoro mo mugeni misiri tamaha nu ni ha ara ne do, sira nu kaho ni nomi motenasi tamahe ru wo, kaku koto ni ide te urami kikoye tamahu wo, wadurahasiu te, itodo ohom-irahe mo nakere ba, itau nageki tutu, kokoro no uti ni, "Mata, kakaru wori ari na m ya?" to, omohi megurasi tamahu.
1.4.12  「 情けなうあはつけきものには 思はれたてまつるともいかがはせむ。思ひわたるさまをだに知らせたてまつらむ」
 「薄情で軽薄な者と思われ申そうとも、どうすることもできない。せめて思い続けて来たことだけでもお打ち明け申そう」
 同情のない軽率な人間であるとお思われしてもしかたがない、せめて長く秘めてきた苦しい思いだけでもおささやきしたい
  "Nasakenau ahatukeki mono ni ha omoha re tatematuru tomo, ikagaha se m? Omohi wataru sama wo dani sirase tatematura m."
1.4.13  と思ひて、 人を召せば御司の将監よりかうぶり得たる、睦ましき人ぞ参れる。忍びやかに召し寄せて、
 と思って、供人をお呼びになると、近衛府の将監から五位になった、腹心の家来が参った。人目に立たないように呼び寄せなさって、
 と思った大将は、従者を呼ぶと、もとは右近衛府うこんえふ将監しょうげんであって、五位になった男が出て来た。大将は近く招いて、
  to omohi te, hito wo mese ba, ohom-tukasa no Zou yori kauburi e taru, mutumasiki hito zo mawire ru. Sinobiyaka ni mesiyose te,
1.4.14  「 この律師にかならず言ふべきことのあるを。護身などに暇なげなめる、ただ今はうち休むらむ。今宵このわたりに泊りて、初夜の時果てむほどに、かのゐたる方にものせむ。これかれ、さぶらはせよ。 随身などの男どもは栗栖野の荘近からむ、秣などとり飼はせて、ここに人あまた声なせそ。かやうの旅寝は、軽々しきやうに人もとりなすべし」
 「この律師に是非とも話したいことがあるのだが。護身などに忙しいようだが、ちょうど今は休んでいるだろう。今夜はこの近辺に泊まって、初夜の時刻が終わるころに、あの控えている所に参ろう。誰と誰とを、控えさせておけ。随身などの男たちは、栗栖野の荘園が近いから、秣などを馬に食わせて、ここでは大勢の声を立てるではない。このような旅寝は、軽率なように人が取り沙汰しようから」
 「こちらへ来ておられる律師にぜひって話すことがあるのだが、御病人の護身の法などをしておられて疲れておられる律師は休息もしなければならないことと思うから、私はこちらで泊まって、初夜のお勤めを終わられたころに律師のいるほうへ行こうと思う。二、三人だけはこの山荘のほうへ人を残しておいて、そのほか随身などの者は栗栖野くるすのしょうが近いはずだから、そのほうへ皆やって、馬に糧秣まぐさをやったりさせることにして、ここで騒がしく人声などは立てさせぬようにしてくれ。こんな外泊は人の中傷の種になるのだから気をつけてくれるように」
  "Kono Risi ni kanarazu ihu beki koto no aru wo. Gosin nado ni itoma nage na' meru, tada ima ha uti-yasumu ram. Koyohi kono watari ni tomari te, soya no zi hate m hodo ni, kano wi taru kata ni monose m. Kore kare, saburaha se yo. Zuizin nado no wonoko-domo ha, Kurusuno no sau tikakara m, magusa nado tori-kahase te, koko ni hito amata kowe na se so. Kayau no tabine ha, karugarusiki yau ni hito mo torinasu besi."
1.4.15  とのたまふ。 あるやうあるべしと心得て、承りて立ちぬ。
 とお命じになる。何かきっと子細があるのだろうと理解して、仰せを承って立った。
 と命じた。訳のあることに相違ないと思ってその男は去った。
  to notamahu. Aru yau aru besi to kokoroe te, uketamahari te tati nu.
注釈76ひぐらしの鳴きしきりて大島本は「ひくらしの」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ひぐらし」と「の」を削除する。『新大系』は底本のままとする。「ひぐらしの鳴きつるなべに日は暮れぬと思ふは山の蔭にぞありける」(古今集秋上、二〇四、読人しらず)。1.4.1
注釈77垣ほに生ふる撫子の「あな恋し今も見てしが山賤の垣ほに咲ける大和撫子」(古今集恋四、六九五、読人しらず)。「日入方になり行くに--山の蔭は--垣ほに生ふる撫子の」の情景は右の古今集歌二首にもとづく。1.4.1
注釈78うちなびける色も『集成』は「くびをかしげた花の淡い紅色も」。『完訳』は「風に揺れなびいている色合いも」と訳す。1.4.1
注釈79もの思ひ続けらる「らる」自発の助動詞。1.4.3
注釈80読むなり「なり」伝聞推定の助動詞。語り手の言辞。臨場感のある表現。1.4.3
注釈81いと苦しげにしたまふなりとて主語は御息所。「なり」伝聞推定の助動詞。1.4.4
注釈82あまた参らざりけるに接続助詞「に」順接、原因理由を表す。1.4.4
注釈83思ふこともうち出でつべき折かな夕霧の心中。1.4.4
注釈84まかでむ方も見えずなり行くは、いかがすべき夕霧の詞。『完訳』は「霧で帰れない。恋の常套句」と注す。1.4.5
注釈85山里のあはれを添ふる夕霧に--立ち出でむ空もなき心地して夕霧から落葉の宮への贈歌。「霧」「立ち」「空」が縁語。「夕霧に衣は濡れて草枕旅寝するかも逢はぬ君ゆゑ」(古今六帖、霧)。1.4.6
注釈86山賤の籬をこめて立つ霧も--心そらなる人はとどめず落葉の宮の返歌。「山」「立つ」「霧」「心」「空」の語句を受けて、「霧」を落葉の宮自身に、「心そらなる人」を夕霧に喩えて、「とどめず」と切り返す。1.4.8
注釈87中空なるわざかな以下「かかることこそ」まで、夕霧の詞。「中空」「家路」「籬」など宮の和歌の中の語句の歌語を使用して優美にいう。1.4.10
注釈88つきなき人はかかることこそ夕霧自身をいう。恋に馴れない人は、の意。『集成』は「不馴れな男は、こんな目に会うのですね」。『完訳』は「こうしたことの不似合いな男でしたらこのお仕打ちももっともなことでしょうが」と訳す。係助詞「こそ」の下に「あらめ」などの語句が省略された形。1.4.10
注釈89忍びあまりぬる筋も『集成』は「もはや抑えがたい胸の内も」。『完訳』は「これ以上包みきれない胸の中をも」と訳す。1.4.11
注釈90年ごろもむげに見知りたまはぬにはあらねど知らぬ顔にのみもてなしたまへるを主語は落葉の宮。宮自身も実は夕霧の気持ちを知っていたのだがという解説的叙述。1.4.11
注釈91またかかる折ありなむや夕霧の心中。連語「なむや」は、「な」完了の助動詞、確述の意と「む」推量の助動詞、推量の意。「や」係助詞、疑問の意。強い疑問の推量のニュアンスを表す。1.4.11
注釈92情けなうあはつけきものには以下「知らせたてまつらむ」まで、夕霧の心中。1.4.12
注釈93思はれたてまつるとも自分が思われ申す、という謙譲表現。1.4.12
注釈94いかがはせむ反語表現。仕方のないことだ、の意。1.4.12
注釈95人を召せば夕霧の供人。1.4.13
注釈96御司の将監よりかうぶり得たる睦ましき人「御司」は左近衛府をさす。「将監」は近衛府第三等官で従六位下相当官。「かうぶり得たる」は五位に叙せられた、の意。1.4.13
注釈97この律師に以下「人もとりなすべし」まで、夕霧の詞。1.4.14
注釈98随身などの男どもは随身たちは栗栖野に遣って人少なにさせる。1.4.14
注釈99栗栖野の荘小野の近くにある夕霧の荘園。1.4.14
注釈100あるやうあるべし将監の心中。1.4.15
出典1 山の蔭 ひぐらしの鳴きつるなへに日は暮れぬと思ふは山の蔭にぞありける 古今集秋上-二〇四 読人しらず 1.4.1
出典2 垣ほに生ふる撫子 あな恋ひし今も見てしか山賤の垣ほに咲ける大和撫子 古今集恋四-六九五 読人しらず 1.4.1
1.5
第五段 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む


1-5  Yugiri steals into Ochiba-no-Miya's room

1.5.1  さて、
 そうしてから、
 それから大将は女房に、
  Sate,
1.5.2  「 道いとたどたどしければ 、このわたりに 宿借りはべる。同じうは、この御簾のもとに 許されあらなむ。阿闍梨の下るるほど まで
 「帰り道が霧でまことにはっきりしないので、この近辺に宿をお借りしましょう。同じことなら、この御簾の側をお許し下さい。阿闍梨が下がって来るまでは」
 「道もわからなくなりましたからここでごやっかいになりましょう、かないますならこの御簾みすの前を拝借させてください。阿闍梨あじゃりの御用が済むまでです」
  "Miti ito tadotadosikere ba, kono watari ni yado kari haberu. Onaziu ha, kono misu no moto ni yurusa re ara nam. Azari no oruru hodo made."
1.5.3  など、 つれなくのたまふ例は、かやうに長居して、あざればみたるけしきも見えたまはぬを、「うたてもあるかな」と、宮思せど、ことさらめきて、軽らかにあなたにはひ渡りたまふは、人もさま悪しき心地して、ただ音せでおはしますに、とかく聞こえ寄りて、 御消息聞こえ伝へにゐざり入る人の影につきて、入りたまひぬ。
 などと、さりげなくおっしゃる。いつもは、このように長居して、くだけた態度もお見せなさらないのに、「嫌なことだわ」と、宮はお思いになるが、わざとらしくして、さっさとあちらにお移りになるのは、人の体裁の悪い気がなさって、ただ音を立てずにいらっしゃると、何かと申し上げて、お言葉をお伝えに入って行く女房の後ろに付いて、御簾の中に入っておしまいになった。
 と落ち着いたふうで言うのであった。これまではこんなに長居をしたこともなく、浮薄な言葉も出した人ではなかったのに、困ったことであると宮はお思いになったが、わざとがましく隣室へ行ってしまうことも体裁のよいものでないような気があそばされるので、ただ音をたてぬようにしてそのままおいでになると、思ったことを吐露し始めた大将は、お心の動くまでというように、いろいろと言葉を尽くすのであったが、宮へお取り次ぎにいざり入る人の後ろからそっと御簾をくぐって来た。
  nado, turenaku notamahu. Rei ha, kayau ni nagawi si te, azarebami taru kesiki mo miye tamaha nu wo, "Utate mo aru kana!" to, Miya obose do, kotosarameki te, karuraka ni anata ni hahi-watari tamahu ha, hito mo sama asiki kokoti si te, tada oto se de ohasimasu ni, tokaku kikoye yori te, ohom-seusoko kikoye tutahe ni wizari iru hito no kage ni tuki te, iri tamahi nu.
1.5.4  まだ夕暮の、霧に閉ぢられて、内は暗くなりにたるほどなり。 あさましうて見返りたるに、宮はいとむくつけうなりたまうて、 北の御障子の外にゐざり出でさせたまふをいとようたどりて、ひきとどめたてまつりつ
 まだ夕暮のころで、霧に閉じ籠められて、家の内は暗くなった時分である。驚いて振り返ると、宮はとても気味悪くおなりになって、北の御障子の外にいざってお出あそばすが、実によく探し当てて、お引き止め申した。
 夕霧が盛んに家の中へ流れ込むころで、座敷の中が暗くなっているのである。その女房は驚いて後ろを見返ったが、宮は恐ろしくおなりになって、北側の襖子からかみの外へいざって出ようとあそばされたのを、大将は巧みに追いついて手でお引きとめした。
  Mada yuhugure no, kiri ni todi rare te, uti ha kuraku nari ni taru hodo nari. Asamasiu te mikaheri taru ni, Miya ha ito mukutukeu nari tamau te, kita no mi-sauzi no to ni wizari ide sase tamahu wo, ito you tadori te, hiki-todome tatematuri tu.
1.5.5  御身は入り果てたまへれど、御衣の裾の残りて、 障子は、あなたより鎖すべき方なかりければ、引きたてさして、水のやうにわななきおはす。
 お身体はお入りになったが、お召し物の裾が残って、襖障子は、向側から鍵を掛けるすべもなかったので、閉めきれないまま、総身びっしょりに汗を流して震えていらっしゃる。
 もうお身体からだは隣の間へはいっていたのであるが、お召し物のすそがまだこちらに引かれていたのである。襖子は隣の室の外からかぎのかかるようにはなっていないために、それをおしめになったままで、水のように宮はふるえておいでになった。
  Ohom-mi ha iri hate tamahe re do, ohom-zo no suso no nokori te, sauzi ha, anata yori sasu beki kata nakarikere ba, hiki-tate sasi te, midu no yau ni wananaki ohasu.
1.5.6  人びともあきれて、いかにすべきことともえ思ひえず。 こなたよりこそ鎖す錠などもあれ、いとわりなくて、荒々しくは、え引きかなぐるべくはたものしたまはねば、
 女房たちも驚きあきれて、どうしたらよいかとも考えがつかない。こちら側からは懸金もあるが、困りきって、手荒くは、引き離すことのできるご身分の方ではないので、
 女房たちも呆然ぼうぜんとしていていかにすべきであるかを知らない。こちらの室には鍵があっても、この場合をどうすればよいかに皆当惑したのである。無理やりに荒々しく手を宮のお召し物から引き放させるようなこともできる相手ではなかった。
  Hitobito mo akire te, ikani su beki koto to mo e omohi e zu. Konata yori koso sasu kane nado mo are, ito warinaku te, araarasiku ha, e hiki-kanaguru beku hata monosi tamaha ne ba,
1.5.7  「 いとあさましう。思たまへ寄らざりける御心のほどになむ」
 「何ともひどいことを。思いも寄りませんでしたお心ですこと」
 「御尊敬申し上げておりますあなた様がこんなことをなさいますとは思いもよらぬことでございます」
  "Ito asamasiu. Omo tamahe yora zari keru mi-kokoro no hodo ni nam."
1.5.8  と、泣きぬばかりに聞こゆれど、
 と、今にも泣き出しそうに申し上げるが、
 と言って、泣かんばかりに退去を頼むのであるが、
  to, naki nu bakari ni kikoyure do,
1.5.9  「 かばかりにてさぶらはむが、人よりけに疎ましう、めざましう思さるべきにやは。 数ならずとも、御耳馴れぬる年月も重なりぬらむ
 「この程度にお側近くに控えているのが、誰にもまして疎ましく、目障りな者とお考えになるのでしょうか。人数にも入らないわが身ですが、お耳馴れになった年月も長くなったでしょう」
 「これほどの近さでお話を申し上げようとするのを、なぜあなたがたは不思議になさるのでしょう。つまらぬ私ですが、真心をお見せすることになって長い年月も重なっているはずです」
  "Kabakari nite saburaha m ga, hito yori keni utomasiu, mezamasiu obosa ru beki ni ya ha! Kazu nara zu tomo, ohom-mimi nare nuru tosituki mo kasanari nu ram."
1.5.10  とて、 いとのどやかにさまよくもてしづめて、思ふことを聞こえ知らせたまふ。
 とおっしゃって、とても静かに体裁よく落ち着いた態度で、心の中をお話し申し上げなさる。
 と女房らに答えてから、大将は優美な落ち着きを失わずに、美しいこの恋を成り立たせなければならぬことを宮へお説きするのであった。
  tote, ito nodoyaka ni sama yoku mote-sidume te, omohu koto wo kikoye sira se tamahu.
注釈101道いとたどたどしければ以下「下るるほどまでなむ」まで、夕霧の詞。1.5.2
注釈102宿借りはべる連体中止法、余意余情表現。1.5.2
注釈103許されあらなむ「なむ」終助詞、願望の意。1.5.2
注釈104まで--など大島本は「まてなと」とある。『完本』は諸本に従って「までなむと」と「む」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。1.5.2
注釈105つれなくのたまふ『完訳』は「さりげなく。一方的な態度」と注す。1.5.3
注釈106例はかやうに以下「うたてもあるかな」まで、落葉の宮の心中と地の文が融合した形。1.5.3
注釈107御消息聞こえ伝へにゐざり入る人夕霧から落葉の宮へのご口上を伝えるために膝行して中へ入っていく女房の意。1.5.3
注釈108あさましうて見返りたるに主語は女房。1.5.4
注釈109北の御障子の外にゐざり出でさせたまふを母屋から母御息所のいる北廂間に通じる襖障子の向う側へ、の意。「出でさせたまふ」という最高敬語表現。1.5.4
注釈110いとようたどりて、ひきとどめたてまつりつ主語は夕霧。夕霧には敬語表現のないことに注意。1.5.4
注釈111障子はあなたより鎖すべき方なかりければ落葉の宮は母屋の外側に出たので、外側からは錠が掛けられない。1.5.5
注釈112こなたよりこそ鎖す錠などもあれ係助詞「こそ」--「あれ」已然形、逆接用法。1.5.6
注釈113いとあさましう以下「御心のほどになむ」まで、女房の詞。「あさましう」連体中止法、余意余情表現。下に「なむある」などの語句が省略。1.5.7
注釈114かばかりにて以下「重なりぬらむ」まで、夕霧の詞。1.5.9
注釈115数ならずとも、御耳馴れぬる年月も重なりぬらむ『完訳』は「夕霧のいやみな自卑。多年、この邸に昵懇を重ねてきた、の気持のみならず、権勢家としての自分の名声を誇る気持もこめる」と注す。1.5.9
注釈116いとのどやかにさまよくもてしづめて『集成』は「とてももの静かにたしなみよく落着いた態度で」と訳す。『完訳』は「簾中に入ってもまるであわてない。夕霧らしい態度というべき」「まことにもの静かな様子で、見苦しからず落ち着いて」と注す。1.5.10
出典3 道いとたどたどしけれ 夕闇は道たどたどし月待ちて帰れ我が背子その間にも見む 古今六帖一-三七一 1.5.2
1.6
第六段 夕霧、落葉宮をかき口説く


1-6  Yugiri tries to win Ochiba-no-Miya's affection

1.6.1  聞き入れたまふべくもあらず、 悔しう、かくまでと思すことのみ、やる方なければ、のたまはむことはたましておぼえたまはず。
 お聞き入れになるはずもなく、悔しい、こんな事にまでと、お思いになることばかりが、心を去らないので、返事のお言葉はまったく思い浮かびなさらない。
 宮は御同意をあそばすべくもない。こんな侮辱までも忍ばねばならぬかというお気持ちばかりがき上がるのであるから何を言うこともおできにならない。
  Kiki ire tamahu beku mo ara zu, kuyasiu, kaku made to obosu koto nomi, yarukatanakere ba, notamaha m koto hata masite oboye tamaha zu.
1.6.2  「 いと心憂く、若々しき御さまかな。人知れぬ心にあまりぬる好き好きしき罪ばかりこそはべらめ、これより馴れ過ぎたることは、さらに 御心許されでは御覧ぜられじ。いかばかり、 千々に砕けはべる思ひに堪へぬぞや
 「まことに情けなく、子供みたいなお振る舞いですね。人知れない胸の中に思いあまった色めいた罪ぐらいはございましょうが、これ以上馴れ馴れし過ぎる態度は、まったくお許しがなければ致しません。どんなにか、千々に乱れて悲しみに堪え兼ねていますことか。
 「あまりに少女おとめらしいではありませんか。思い余る心から、しいてここまで参ってしまったことは失礼に違いございませんが、これ以上のことをお許しがなくてしようとは存じておりません。この恋に私はどれだけ煩悶はんもんに煩悶を重ねてきたでしょう。
  "Ito kokorouku, wakawakasiki ohom-sama kana! Hito sire nu kokoro ni amari nuru sukizukisiki tumi bakari koso habera me, kore yori nare sugi taru koto ha, sarani mi-kokoro yurusa re de ha goranze rare zi. Ikabakari, tidi ni kudake haberu omohi ni tahe nu zo ya!
1.6.3  さりともおのづから御覧じ知るふしもはべらむものを、しひておぼめかしう、け疎うもてなさせたまふめれば、聞こえさせむ方なさに、 いかがはせむ、心地なく憎しと思さるとも、かうながら朽ちぬべき愁へを、さだかに聞こえ 知らせはべらむとばかりなり。言ひ知らぬ御けしきの辛きものから、 いとかたじけなければ
 いくらなんでも自然とご存知になる事もございましょうに、無理に知らぬふりに、よそよそしくお扱いなさるようなので、申し上げるすべもないので、しかたがない、わきまえもなくけしからぬとお思いなさっても、このままでは朽ちはててしまいかねない訴えを、はっきりと申し上げて置きたいと思っただけです。言いようもないつれないおあしらいが辛く思われますが、まことに恐れ多いことですから」
 私が隠しておりましても自然お目にとまっているはずなのですが、しいて冷たくお扱いになるものですから、私としてはこのほかにいたしようがないではございませんか。思いやりのない行動として御反感をお招きしても、片思いの苦しさだけは聞いていただきたいと思います。それだけです。御冷淡な御様子はお恨めしく思いますが、もったいないあなた様なのですから、決して、決して」
  Saritomo onodukara goranzi siru husi mo habera m mono wo, sihite obomekasiu, keutou motenasa se tamahu mere ba, kikoye sase m kata nasa ni, ikagaha se m, kokoti naku nikusi to obosa ru tomo, kau nagara kuti nu beki urehe wo, sadakani kikoye sira se habera m to bakari nari. Ihi sira nu mi-kesiki no turaki monokara, ito katazikenakere ba."
1.6.4  とて、 あながちに情け深う、用意したまへり
 と言って、努めて思いやり深く、気をつかっていらっしゃった。
 と言って、大将はしいて同情深いふうを見せていた。
  tote, anagati ni nasake hukau, youi si tamahe ri.
1.6.5   障子を押さへたまへるは、いとものはかなき固めなれど、 引きも開けず
 襖を押さえていらっしゃるのは、頼りにならない守りであるが、あえて引き開けず、
 あるところまでよりしまらぬ襖子からかみを宮がおさえておいでになるのは、これほど薄弱な防禦ぼうぎょもないわけなのであるが、それをしいてあけようとも大将はしないのである。
  Sauzi wo osahe tamahe ru ha, ito mono-hakanaki katame nare do, hiki mo ake zu.
1.6.6  「 かばかりのけぢめをと、しひて思さるらむこそあはれなれ」
 「この程度の隔てをと、無理にお思いになるのがお気の毒です」
 「これだけで私の熱情が拒めると思召おぼしめすのが気の毒ですよ」
  "Kabakari no kedime wo to, sihite obosa ru ram koso ahare nare."
1.6.7  と、うち笑ひて、うたて心のままなるさまにもあらず。 人の御ありさまの、なつかしうあてになまめいたまへること、 さはいへどことに見ゆ。世とともにものを思ひたまふけにや、痩せ痩せにあえかなる心地して、 うちとけたまへるままの御袖のあたりもなよびかに、 気近うしみたる匂ひなど、取り集めてらうたげに、やはらかなる心地したまへり。
 と、ついお笑いになって、思いやりのない振る舞いはしない。宮のご様子の、優しく上品で優美でいらっしゃること、何と言っても格別に思える。ずっと物思いに沈んでいらっしゃったせいか、痩せてか細い感じがして、普段着のままでいらっしゃるお袖の辺りもしなやかで、親しみやすく焚き込めた香の匂いなども、何もかもがかわいらしく、なよなよとした感じがしていらっしゃった。
 と笑っていたが、やがておそばへ近づいた。しかも御意志を尊重して無理はあえてできない大将であった。宮はなつかしい、柔らかみのある、貴女きじょらしいえんなところを十分に備えておいでになった。続いてあそばされたお物思いのせいかほっそりとせておいでになるのが、お召し物越しに接触している大将によく感ぜられるのである。しめやかな薫香くんこうにおいに深く包まれておいでになることも、柔らかに大将の官能を刺激しげきする、きわめて上品な可憐かれんさのある方であった。
  to, uti-warahi te, utate kokoro no mama naru sama ni mo ara zu. Hito no ohom-arisama no, natukasiu ate ni namamei tamahe ru koto, saha ihe do koto ni miyu. Yo to tomoni mono wo omohi tamahu ke ni ya, yase yase ni ayeka naru kokoti si te, utitoke tamahe ru mama no ohom-sode no atari mo nayobika ni, kedikau simi taru nihohi nado, tori-atume te rautage ni, yaharaka naru kokoti si tamahe ri.
注釈117悔しうかくまで落葉の宮の心中。『集成』は「不覚だった、こんなにまでこの人を近づけてしまってと、悔む気持ばかり先立って、やり場のない思いなので。皇女としての誇りが深く傷つけられた思い」。『完訳』は「こうまでもご自分をお見下しになるのかと」「夕霧のぶしつけな態度に自尊心が傷つけられた思い」と注す。1.6.1
注釈118いと心憂く以下「いとかたじけなければ」まで、夕霧の詞。1.6.2
注釈119御心許されでは御覧ぜられじ主語は落葉の宮。「で」接続助詞、打消の意。「られ」受身の助動詞。「じ」打消推量の助動詞。1.6.2
注釈120千々に砕けはべる思ひに堪へぬぞや「堪へ」未然形。「ぬ」打消の助動詞。係助詞「ぞ」。間投助詞「や」詠嘆の意。『集成』は「君恋ふと心は千々にくだくるをなど数ならぬわが身なるらむ」(曽丹集)を指摘。『完訳』は「君恋ふる心は千々にくだくれど一つも失せぬものにぞありける」(後拾遺集恋四、八〇一、和泉式部)を指摘。1.6.2
注釈121いかがはせむ反語表現。もはやどうすることもできない、の意。1.6.3
注釈122知らせはべらむとばかりなり「む」推量の助動詞、意志。副助詞「ばかり」限定のニュアンス。1.6.3
注釈123いとかたじけなければ『集成』は「これ以上のことには及ばぬ、という含意」と注す。1.6.3
注釈124あながちに情け深う用意したまへり『完訳』は「無作法な態度を省みて自己を抑制」と注す。1.6.4
注釈125障子を押さへたまへるは主語は落葉の宮。1.6.5
注釈126引きも開けず副助詞「も」強調のニュアンス。開けようと思えば簡単に開けられるのに開けないで、の意。1.6.5
注釈127かばかりのけぢめをと以下「あはれなれ」まで、夕霧の詞。1.6.6
注釈128人の御ありさま落葉の宮をいう。1.6.7
注釈129さはいへどことに見ゆ『集成』は「そうは言っても(そう美しい方ではないといっても)格段にすぐれている。宮様だけのことはある」。『完訳』は「夫柏木の情の薄さから宮の容貌が劣ると推測した。それを受けて「さはいへど」」と注す。1.6.7
注釈130うちとけたまへるままのくつろいだ姿、すなわち普段着のままの姿。1.6.7
注釈131気近うしみたる匂ひなど「気近し」は親しみやすい意。1.6.7
出典4 千々に砕け 君恋ふる心は千々に砕くれど一つも失せぬものにぞありける 後拾遺集恋四-八〇一 和泉式部 1.6.2
1.7
第七段 迫りながらも明け方近くなる


1-7  It becomes daybreak while Yugiri is trying it

1.7.1  風いと心細う、更けゆく夜のけしき、虫の音も、鹿の鳴く音も、滝の音も、一つに乱れて、艶あるほどなれど、 ただありのあはつけ人だに、寝覚めしぬべき空のけしきを、 格子もさながら、入り方の月の山の端近きほど、 とどめがたう、ものあはれなり。
 風がとても心細い感じで、更けて行く夜の様子、虫の音も、鹿の声も、滝の音も、一つに入り乱れて、風情をそそるころなので、まるで情趣など解さない軽薄な人でさえ、寝覚めするに違いない空の様子を、格子もそのまま、入方の月が山の端に近くなったころ、涙を堪え切れないほど、ものあわれである。
 吹く風が人を心細くさせる山の夜ふけになり、虫の声も鹿しかくのも滝の音も入り混じってえんな気分をつくるのであるから、ただあさはかな人間でも秋の哀れ、山の哀れに目をさまして身にしむ思いを知るであろうと思われる山荘に、格子もおろさぬままで落ち方になった月のさし入る光も大将の心に悲しみを覚えさせた。
  Kaze ito kokorobosou, huke yuku yoru no kesiki, musi no ne mo, sika no naku ne mo, taki no oto mo, hitotu ni midare te, en aru hodo nare do, tada ari no ahatuke bito dani, nezame si nu beki sora no kesiki wo, kausi mo sanagara, irikata no tuki no yamanoha tikaki hodo, todome gatau, mono ahare nari.
1.7.2  「 なほ、かう思し知らぬ御ありさまこそ、かへりては浅う御心のほど知らるれ。かう 世づかぬまでしれじれしきうしろやすさなども 、たぐひあらじとおぼえはべるを、何事にもかやすきほどの人こそ、かかるをば痴者などうち笑ひて、つれなき心もつかふなれ。
 「やはり、このようにお分かりになって頂けないご様子は、かえって浅薄なお心底と思われます。このような世間知らずなまで愚かしく心配のいらないところなども、他にいないだろうと思われますが、どのようなことでも手軽にできる身分の人は、このような振る舞いを愚か者だと笑って、同情のない心をするものです。
 「まだ私の心持ちを御理解くださらないのを拝見しますと、私はかえってあなた様に失望いたしますよ。こんなに愚かしいまでに自己を抑制することのできる男はほかにないだろうと思うのですが、御信用くださらないのですか。何をいたしても責任感を持たぬ種類の男には、私のようなのをばかな態度だとして、直ちに同情もなく力で解決をはかってしまうのです。
  "Naho, kau obosi sira nu ohom-arisama koso, kaherite ha asau mi-kokoro no hodo sira rure. Kau yoduka nu made sireziresiki usiroyasusa nado mo, taguhi ara zi to oboye haberu wo, nanigoto ni mo kayasuki hodo no hito koso, kakaru wo ba siremono nado uti-warahi te, turenaki kokoro mo tukahu nare.
1.7.3  あまりこよなく思し貶したるに、 えなむ静め果つまじき心地しはべる。世の中をむげに思し知らぬにしもあらじを」
 あまりにひどくお蔑みなさるので、もう抑えてはいられないような気が致します。男女の仲というものを全くご存知ないわけではありますまいに」
 あまりに私の恋の価値を軽く御覧になりますから、知らず知らず私も危険性がはぐくまれてゆく気がいたします。男性とはどんなものかを過去にまだご存じでなかったあなた様でもないでしょう」
  Amari koyonaku obosi otosi taru ni, e nam sidume hatu maziki kokoti si haberu. Yononaka wo mugeni obosi sira nu ni simo arazi wo!"
1.7.4  と、 よろづに聞こえせめられたまひて、いかが言ふべきと、わびしう思しめぐらす。
 と、いろいろと言い迫られなさって、どのようにお答えしたらよいものかと、困り切って思案なさる。
 こう責められておいでになる宮は、どう返辞をしてよいかと苦しく思っておいでになる。
  to, yorodu ni kikoye seme rare tamahi te, ikaga ihu beki to, wabisiu obosi megurasu.
1.7.5   世を知りたる方の心やすきやうに、折々ほのめかすも、めざましう、「げに、たぐひなき身の憂さなりや」と、思し続けたまふに、死ぬべくおぼえたまうて、
 結婚した経験があるから気安いように、時々口にされるのも、不愉快で、「なるほど、又とない身の不運だわ」と、お思い続けていらっしゃると、死んでしまいそうに思われなさって、
 もう処女でないからということを言葉にほのめかされるのを残念に宮はお思いになった。薄命とは自分のような女性をいうのであろうともお悲しまれになって、大将のいどんで来るのを死ぬほど苦しく思召された。
  Yo wo siri taru kata no kokoroyasuki yau ni, woriwori honomekasu mo, mezamasiu, "Geni, taguhi naki mi no usa nari ya!" to, obosi tuduke tamahu ni, sinu beku oboye tamau te,
1.7.6  「 憂きみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思ひなすべきにかはあらむ」
 「情けない我が身の過ちを知ったとしても、とてもこのようなひどい有様を、どのように考えたらよいものでしょうか」
 「私のこれまでの運命はどんなにまずいものでございましても、それだからといって、これを肯定しなければならないとは思われない」
  "Uki midukara no tumi wo omohi siru tote mo, ito kau asamasiki wo, ikayau ni omohi nasu beki ni kaha ara m?"
1.7.7  と、いとほのかに、あはれげに泣いたまうて、
 と、とてもかすかに、悲しそうにお泣きになって、
 と、ほのかに可憐な泣き声をお立てになって、
  to, ito honoka ni, aharege ni nai tamau te,
1.7.8  「 我のみや憂き世を知れるためしにて
   濡れそふ袖の名を朽たすべき
 「わたしだけが不幸な結婚をした女の例として
  さらに涙の袖を濡らして悪い評判を受けなければならないのでしょうか
  われのみや浮き世を知れるためしにて
  れ添ふそでの名をたすべき
    "Ware nomi ya ukiyo wo sire ru tamesi nite
    nure sohu sode no na wo kutasu beki
1.7.9  とのたまふともなきを、 わが心に続けて、忍びやかにうち誦じたまへるもかたはらいたくいかに言ひつることぞと、思さるるに、
 とおっしゃるともないのに、わが気持ちのままに、ひっそりとお口ずさみなさるのも、いたたまれない思いで、どうして歌など詠んだのだろうと、悔やまずいらっしゃれないでいると、
 ほかへお言いになるともなくお言いになったのを、大将がさらに自身の口にのせて歌うのさえ宮は苦痛にお思いになった。
  to notamahu to mo naki wo, waga kokoro ni tuduke te, sinobiyaka ni uti-zuzi tamahe ru mo, kataharaitaku, ikani ihi turu koto zo to, obosa ruru ni,
1.7.10  「 げに、悪しう聞こえつかし
 「おっしゃるとおり、悪い事を申しましたね」
 「誤解をお受けしやすいようなことを私が申したものですから」
  "Geni, asiu kikoye tu kasi."
1.7.11  など、ほほ笑みたまへるけしきにて、
 などと、微笑んでいらっしゃるご様子で、
 などと言って、微笑するふうで、
  nado, hohowemi tamahe ru kesiki nite,
1.7.12  「 おほかたは我濡衣を着せずとも
   朽ちにし袖の名やは隠るる
 「だいたいがわたしがあなたに悲しい思いをさせなくても
  既に立ってしまった悪い評判はもう隠れるものではありません
  「おほかたはわが濡れ衣をきせずとも
  朽ちにし袖の名やは隠るる
    "Ohokata ha ware nureginu wo kise zu tomo
    kuti ni si sode no na yaha kakururu
1.7.13   ひたぶるに思しなりねかし
 一途にお心向け下さい」
 もうしかたがないと思召してくだすったらどうですか」
  Hitaburu ni obosi nari ne kasi."
1.7.14  とて、月明き方に誘ひきこゆるも、 あさまし、と思す心強うもてなしたまへどはかなう引き寄せたてまつりて
 と言って、月の明るい方にお誘い申し上げるのも、心外な、とお思いになる。気強く応対なさるが、たやすくお引き寄せ申して、
  こう言って、月の光のあるほうへいっしょに出ようと大将はお勧めするのであるが、宮はじっと冷淡にしておいでになるのを、大将はぞうさなくお引き寄せして、
  tote, tuki akaki kata ni izanahi kikoyuru mo, asamasi, to obosu. Kokoroduyou motenasi tamahe do, hakanau hikiyose tatematuri te,
1.7.15  「 かばかりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。御許しあらでは、 さらに、さらに
 「これほど例のない厚い愛情をお分かり下さって、お気を楽になさって下さい。お許しがなくては、けっして、けっして」
 「安価な恋愛でなく、最も高い清い恋をする私であることをお認めになって、御安心なすってください。お許しなしに決して、無謀なことはいたしません
  "Kabakari taguhi naki kokorozasi wo goranzi siri te, kokoroyasuu motenasi tamahe. Ohom-yurusi ara de ha, sarani, sarani."
1.7.16  と、いとけざやかに聞こえたまふほど、明け方近うなりにけり。
 と、たいそうはっきりと申し上げなさっているうちに、明け方近くなってしまった。
 こうきっぱりとしたことを大将が言っているうちに明け方に近くもなった。
  to, ito kezayaka ni kikoye tamahu hodo, akegata tikau nari ni keri.
注釈132ただありのあはつけ人だに『集成』は「何の趣味もない間抜けな人でも」。『完訳』は「情趣など解せぬ軽薄な人でさえ」と訳す。1.7.1
注釈133格子もさながら格子を上げたままの状態。1.7.1
注釈134とどめがたう涙を留めがたく、の意。1.7.1
注釈135なほかう思し知らぬ以下「思し知らぬにしもあらじを」まで、夕霧の詞。1.7.2
注釈136世づかぬまでしれじれしきうしろやすさなども夕霧自身の態度振る舞いをいう。『完訳』は「相手(女)に安心な男とする」と注す。1.7.2
注釈137えなむ静め果つまじき心地しはべる『集成』は「「つれなき心もつかふ」かもしれないとおどす」。『完訳』は「自分も薄情に強引に出るか、と反転」と注す。「やすきほどの人」と同様に「つれなき心を使」おうか、と脅しに出る。1.7.3
注釈138よろづに聞こえせめられたまひて主語は落葉の宮。「られ」受身の助動詞。1.7.4
注釈139世を知りたる方の心やすきやうに以下「身の憂さなりや」まで、落葉の宮の心中に沿った叙述と心中文。『集成』は「夫を持ったことがあるから組みしやすいと言わんばかりに、時折夕霧が匂わすのも、不愉快で。落葉の宮の気持。「世」は、前の「世の中」とともに、男女の仲の意」。『完訳』は「結婚の経験があるので言い寄りやすいといわんばかりに。以下、宮の心中に転ずる」と注す。1.7.5
注釈140憂きみづからの罪を以下「思ひなすべきにかはあらむ」まで、落葉の宮の詞。不本意にも柏木と結婚したことをいう。1.7.6
注釈141我のみや憂き世を知れるためしにて--濡れそふ袖の名を朽たすべき落葉宮の歌。『完訳』は「夕霧の「世の中を--あらじを」に対応。「濡れ添ふ」は、柏木との結婚で流した涙に、夕霧との仲で流す涙を添える意。「くたす」は評判を朽たす、涙で袖を朽たす、の両意。己が身の不幸を痛恨する歌」と注す。係助詞「や」疑問の意は「朽たすべき」連体形に係る。1.7.8
注釈142わが心に続けて忍びやかにうち誦じたまへるも主語は夕霧。よく聞き取れないないところを推測して補い一首に仕立て上げて口ずさんだ。1.7.9
注釈143かたはらいたく落葉宮の心中。1.7.9
注釈144いかに言ひつることぞとどうして歌など詠んだのだろうと、後悔の気持ち。1.7.9
注釈145げに悪しう聞こえつかし夕霧の詞。1.7.10
注釈146おほかたは我濡衣を着せずとも--朽ちにし袖の名やは隠るる夕霧の返歌。「濡れ添ふ袖」「名を朽たす」の語句を受けて、「濡衣」「朽ちにし袖」と返す。「名やは隠るる」反語表現、汚名は歴然としているではないか、と切り返した。『完訳』は「すでに汚名を立てたのだから、自分との間に悪評を立てても構わぬではないか、の意。宮を傷つける歌だが、宮の微妙な心の動きを顧慮しない」と注す。1.7.12
注釈147ひたぶるに思しなりねかし夕霧の歌に添えた詞。『集成』は「何もかも捨てた気持におなり下さい」と訳す。1.7.13
注釈148あさましと思す主語は落葉宮。1.7.14
注釈149心強うもてなしたまへど主語は落葉宮。1.7.14
注釈150はかなう引き寄せたてまつりて主語は夕霧に変わる。1.7.14
注釈151かばかりたぐひなき以下「さらにさらに」まで、夕霧の詞。1.7.15
注釈152さらにさらに『集成』は「無体な振舞には及ばないと誓う」。『完訳』は「ぶしつけな言葉である」と注す。1.7.15
校訂1 うしろやすさ うしろやすさ--うしろやすき(き/$さ<朱>) 1.7.2
1.8
第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る


1-8  Yugiri changes waka and leaves from there

1.8.1  月隈なう澄みわたりて、霧にも紛れずさし入りたり。浅はかなる廂の軒は、ほどもなき心地すれば、月の顔に向かひたるやうなる、あやしうはしたなくて、紛らはしたまへるもてなしなど、いはむかたなくなまめきたまへり。
 月は曇りなく澄みわたって、霧にも遮られず光が差し込んでいる。浅い造りの廂の軒は、奥行きもない感じがするので、月の顔と向かい合っているようで、妙にきまり悪くて、顔を隠していらっしゃる振る舞いなど、言いようもなく優美でいらっしゃった。
 澄み切った月の、霧にも紛れぬ光がさし込んできた。短いひさしの山荘の軒は空をたくさんに座敷へ入れて、月の顔と向かい合っているようなのが恥ずかしくて、その光から隠れるように紛らしておいでになる宮の御様子が非常にえんであった。
  Tuki kumanau sumi watari te, kiri ni mo magire zu sasi-iri tari. Asahaka naru hisasi no noki ha, hodo mo naki kokoti sure ba, tuki no kaho ni mukahi taru yau naru, ayasiu hasitanaku te, magirahasi tamahe ru motenasi nado, ihamkatanaku namameki tamahe ri.
1.8.2   故君の御こともすこし聞こえ出でて、さまようのどやかなる物語をぞ聞こえたまふ。さすがになほ、かの 過ぎにし方に思し貶すをば、恨めしげに怨みきこえたまふ。御心の内にも、
 亡き君のお話も少し申し上げて、当たり障りのない穏やかな話を申し上げなさる。それでもやはり、あの故人ほどに思って下さらないのを、恨めしそうにお恨み申し上げなさる。お心の中でも、
 故人の話も少ししだして、閑雅な態度で大将は語っているのであった。しかもその中で故人に対してよりも劣ったお取り扱いを恨めしがった。宮のお心の中でも、
  Ko-Kimi no ohom-koto mo sukosi kikoye ide te, sama you nodoyaka naru monogatari wo zo kikoye tamahu. Sasugani naho, kano sugi ni si kata ni obosi otosu wo ba, uramesige ni urami kikoye tamahu. Mi-kokoro no uti ni mo,
1.8.3  「 かれは、位などもまだ及ばざりけるほどながら、 誰れ誰れも御許しありけるに、おのづからもてなされて、 見馴れたまひにしを、それだにいとめざましき心のなりにしさま、ましてかうあるまじきことに、 よそに聞くあたりにだにあらず大殿などの聞き思ひたまはむことよ。なべての世のそしりをばさらにもいはず、 院にもいかに聞こし召し思ほされむ
 「かの亡き君は、位などもまだ十分ではなかったのに、誰も彼もがお許しになったので、自然と成り行きに従って、結婚なさったのだが、それでさえ冷淡になって行ったお心の有様は、ましてこのようなとんでもないことに、まったくの他人というわけでさえないが、大殿などがお聞きになってどうお思いになることか。世間一般の非難は言うまでもなく、父の院におかれてもどのようにお聞きあそばしお思いあそばされることだろうか」
 故人はこの人に比べて低い地位にいた人であるが、院も御息所みやすどころも御同意のもとでおとつがせになって自分はその人の妻になったのである、その良人おっとすら自分に対していだいていた愛はいささかなものであった、ましてこうしてあるまじい恋にちては、しかも知らぬ中でなく、故人の妹を妻に持つこの人との名が立っては、太政大臣家ではどう自分を不快に思うことであろう、世間でそしられることも想像されるが、それよりも院がお聞きになってどう思召すであろう、必ずお悲しみあそばすであろう
  "Kare ha, kurawi nado mo mada oyoba zari keru hodo nagara, tare tare mo ohom-yurusi ari keru ni, onodukara motenasa re te, minare tamahi ni si wo, sore dani ito mezamasiki kokoro no nari ni si sama, masite kau aru maziki koto ni, yoso ni kiku atari ni dani ara zu, Ohotono nado no kiki omohi tamaha m koto yo. Nabete no yo no sosiri wo ba sarani mo iha zu, Win ni mo ikani kikosimesi omohosa re m?"
1.8.4  など、離れぬここかしこの御心を思しめぐらすに、いと口惜しう、 わが心一つに
 などと、ご縁者のあちらこちらの方々のお心をお考えなさると、とても残念で、自分の考え一つに、
 などと、切り離すことのできぬ関係の所々のことをお考えになると、このことが非常に情けなくお思われになって、
  nado, hanare nu koko kasiko no mi-kokoro wo obosi megurasu ni, ito kutiwosiu, waga kokoro hitotu ni,
1.8.5  「かう強う思ふとも、人のもの言ひいかならむ。御息所の知りたまはざらむも、罪得がましう、かく聞きたまひて、心幼く、と思しのたまはむ」もわびしければ、
 「このように強く思っても、世間の人の噂はどうだろうか。母御息所がご存知でないのも、罪深い気がするし、このようにお聞きになって、考えのないことだと、お思いになりおっしゃろうこと」が辛いので、
 自分はやましいところもなく、大将の情人では断じてなくともうわさはどんなふうに立てられることか、御息所が少しも関与しておいでにならぬことが子として罪であるように思召され、こんなことをあとでお聞きになり、幼稚な心からときがたい誤解の原因を作ったとお言いになろうこともわびしく御想像あそばされる宮は、
  "Kau tuyou omohu tomo, hito no monoihi ikanara m? Miyasumdokoro no siri tamaha zara m mo, tumi e gamasiu, kaku kiki tamahi te, kokoro wosanaku, to obosi notamaha m." mo wabisikere ba,
1.8.6  「 明かさでだに出でたまへ
 「せめて夜を明かさずにお帰り下さい」
 「せめて朝までおいでにならずにお帰りなさい」
  "Akasa de dani ide tamahe."
1.8.7  と、やらひきこえたまふより外の言なし。
 と、せき立て申し上げなさるより他ない。
 と大将をお促しになるよりほかのことはおできにならないのである。
  to, yarahi kikoye tamahu yori hoka no koto nasi.
1.8.8  「 あさましやことあり顔に分けはべらむ朝露の思はむところよ。なほ、さらば思し知れよ。 をこがましきさまを見えたてまつりて、賢うすかしやりつと思し離れむこそ、その際は心もえ収めあふまじう、 知らぬことと 、けしからぬ心づかひもならひはじむべう思ひたまへらるれ」
 「驚いたことですね。意味ありげに踏み分けて帰る朝露が変に思うでしょうよ。やはり、それならばお考え下さい。愚かな姿をお見せ申して、うまく言いくるめて帰したとお見限り考えなさるようなら、その時はこの心もおとなしくしていられない、今までに致した事もない、不埒な事どもを仕出かすようなことになりそうに存じられます」
 「悲しいことですね。恋の成り立った人のように分けて出なければならない草葉の露に対してすら私は恥ずかしいではありませんか。ではお言葉どおりにいたしますから、私の誠意だけはおくみとりください。馬鹿正直に仰せどおりにして帰ります私に、若し、上手じょうずに追いやってしまったのだというふうを今後お見せになることがありましたなら、その時にはもう自制の力をなくして情熱のなすがままに自分をまかせなければならなくなることと思いますよ」
  "Asamasi ya! Kotoarigaho ni wake habera m asatuyu no omoha m tokoro yo. Naho, saraba obosi sire yo. Wokogamasiki sama wo miye tatematuri te, kasikou sukasi yari tu to obosi hanare m koso, sono kiha ha kokoro mo e wosame ahu maziu, sira nu koto to, kesikara nu kokorodukahi mo narahi hazimu beu omohi tamahe rarure."
1.8.9  とて、いとうしろめたく、なかなかなれど、ゆくりかにあざれたることの、まことにならはぬ御心地なれば、「いとほしう、わが御みづからも心劣りやせむ」など思いて、誰が御ためにも、あらはなるまじきほどの霧に立ち隠れて出でたまふ、心地そらなり。
 と言って、とても後が気がかりで、中途半端な逢瀬であったが、いきなり色めいた態度に出ることが、ほんとうに馴れていないお人柄なので、「お気の毒で、ご自身でも見下げたくならないか」などとお思いになって、どちらにとっても、人目につきにくい時分の霧に紛れてお帰りになるのは、心も上の空である。
 大将は心残りを多く覚えるのであるが、放縦な男のような行為は、言っているごとく過去にも経験したことがなく、またできない人であって、恋人の宮のためにもおかわいそうなことであり、自分自身の思い出にも不快さの残ることであろうなどと思って、自他のために人目を避ける必要を感じ、深い霧に隠れて去って行こうとしたが、魂がもはや空虚うつろになったような気持ちであった。
  tote, ito usirometaku, nakanaka nare do, yukurika ni azare taru koto no, makoto ni naraha nu mi-kokoti nare ba, "Itohosiu, waga ohom-midukara mo kokorootori ya se m?" nado oboi te, taga ohom-tame ni mo, araha naru maziki hodo no kiri ni tati-kakure te ide tamahu, kokoti sora nari.
1.8.10  「 荻原や軒端の露にそぼちつつ
   八重立つ霧を分けぞ行くべき
 「荻原の軒葉の荻の露に濡れながら幾重にも
  立ち籠めた霧の中を帰って行かねばならないのでしょう
  「萩原はぎはら軒端のきばの露にそぼちつつ
  八重立つ霧を分けぞ行くべき
    "Wogihara ya nokiba no tuyu ni soboti tutu
    yahe tatu kiri wo wake zo yuku beki
1.8.11   濡衣はなほえ干させたまはじ 。かうわりなうやらはせたまふ御心づからこそは」
 濡れ衣はやはりお免れになることはできますまい。このように無理にせき立てなさるあなたのせいですよ」
 あなたも濡衣ぬれぎぬをおしになれないでしょう。それも無情に私をお追いになった報いとお思いになるほかはないでしょう」
  Nuregoromo ha naho e hosa se tamaha zi. Kau warinau yaraha se tamahu mi-kokorodukara koso ha."
1.8.12  と聞こえたまふ。 げに、この御名のたけからず漏りぬべきを、「 心の問はむにだに 、口ぎよう答へむ」と思せば、いみじうもて離れたまふ。
 と申し上げなさる。なるほど、ご自分の評判が聞きにくく伝わるに違いないが、「せめて自分の心に問われた時だけでも、潔白だと答えよう」とお思いになると、ひどくよそよそしいお返事をなさる。
 と大将が言った。そのとおりである。名はどうしても立つであろうが、自分自身をせめてやましくないものにしておきたいと思召す心から、宮は冷ややかな態度をお示しになって、
  to kikoye tamahu. Geni, kono ohom-na no takekara zu mori nu beki wo, "Kokoro no toha m ni dani, kuti giyou kotahe m." to obose ba, imiziu mote-hanare tamahu.
1.8.13  「 分け行かむ草葉の露をかことにて
   なほ濡衣をかけむとや思ふ
 「帰って行かれる草葉の露に濡れるのを言いがかりにして
  わたしに濡れ衣を着せようとお思いなのですか
  「わけ行かん草葉の露をかごとにて
  なほ濡衣をかけんとや思ふ
    "Wake yuka m kusaba no tuyu wo kakoto nite
    naho nureginu wo kake m to ya omohu
1.8.14   めづらかなることかな
 心外なことですわ」
 ひどい目に私をおあわせになるのですね」
  Meduraka naru koto kana!"
1.8.15  と、あはめたまへるさま、いとをかしう恥づかしげなり。 年ごろ、人に違へる 心ばせ人になりて、さまざまに情けを見えたてまつる、名残なく、うちたゆめ、好き好きしきやうなるが、いとほしう、心恥づかしげなれば、おろかならず思ひ返しつつ、「 かうあながちに従ひきこえても、後をこがましくや」と、さまざまに思ひ乱れつつ出でたまふ。 道の露けさも、いと所狭し
 と、お咎めになるご様子、とても風情があり気品がある。長年、人とは違った人情家になって、いろいろと思いやりのあるところをお見せ申していたのに、それとうって変わって、油断させ、好色がましいのが、おいたわしく、気恥ずかしいので、少なからず反省し反省しては、「このように無理をしてお従い申したとしても、後になって馬鹿らしく思われないか」と、あれこれと思い乱れながらお帰りになる。帰り道の露っぽさも、まことにいっぱいある。
 と批難をあそばすのが、非常に美しいことにも、貴女らしいふうにもお見えになった。今まで古い情誼じょうぎを忘れない親切な男になりすまして、好意を見せ続けて来た態度を一変して好色漢になってしまうことが宮にお気の毒でもあり、自身にも恥ずかしいと、大将は心に燃え上がるものをおさえていたが、またあまり過ぎた謙抑けんよくは取り返しのつかぬ後悔を招くことではないかともいろいろに煩悶はんもんをしながら帰って行くのであった。
  to, ahame tamahe ru sama, ito wokasiu hadukasige nari. Tosigoro, hito ni tagahe ru kokorobasebito ni nari te, samazama ni nasake wo miye tatematuru, nagori naku, uti-tayume, sukizukisiki yau naru ga, itohosiu, kokorohadukasige nare ba, oroka nara zu omohi kahesi tutu, "Kau anagati ni sitagahi kikoye te mo, noti wokogamasiku ya!" to, samazama ni omohi midare tutu ide tamahu. Miti no tuyukesa mo, ito tokorosesi.
注釈153故君の御こともすこし聞こえ出でて柏木のこと。主語は夕霧。1.8.2
注釈154過ぎにし方に思し貶すをば落葉宮が柏木よりも夕霧を軽く思うこと。1.8.2
注釈155かれは位なども以下「思ほされむ」まで、落葉宮の心中。1.8.3
注釈156誰れ誰れも大島本は「たれ/\も」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「誰も誰も」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。1.8.3
注釈157見馴れたまひにしを『集成』は「「たまふ」と敬語があるのは、地の文の気持が混入したもの」。『完訳』は「宮の心中叙述ながら、語り手の宮への尊敬「たまふ」が混入」と注す。1.8.3
注釈158よそに聞くあたりにだにあらず夕霧は柏木の異母妹雲居雁を北の方にしている、という縁者。1.8.3
注釈159大殿などの聞き思ひたまはむことよ故夫柏木の父致仕の大臣。1.8.3
注釈160院にもいかに聞こし召し思ほされむ落葉宮の父朱雀院。1.8.3
注釈161わが心一つに以下、落葉の宮の心中に即した地の文。初めは心中文、文末の「わびしければ」が地の文に融合。1.8.4
注釈162明かさでだに出でたまへ落葉宮の詞。1.8.6
注釈163あさましや以下「思ひたまへらるれ」まで、夕霧の詞。1.8.8
注釈164ことあり顔に分けはべらむ朝露の思はむところよ『集成』は「実際は、逢って帰るわけでもないので、言う」。『完訳』は「契り交したかのように」「朝露が一晩中起きていた二人を変に思うだろう。「露」の縁で、「置く」「起く」を連想させる」と注す。1.8.8
注釈165をこがましきさまを大島本は「おこかましきさまを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「かうをこがましきを」と「かう」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。『集成』は「手出しをしなかったことを言う」と注す。1.8.8
注釈166知らぬことと大島本は「し(し$<朱>)か(か$し<朱>)らぬことゝ」とある。すなわち初め「し」を朱筆でミセケチにし次いで「か」を朱筆でミセケチにして「し」と訂正する。『集成』『完本』は諸本に従って「知らぬことこと」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。1.8.8
注釈167荻原や軒端の露にそぼちつつ--八重立つ霧を分けぞ行くべき夕霧から落葉宮への贈歌。『完訳』は「露と霧の中を涙ながらに帰る自分に同情を引こうとする歌」と注す。「夕霧に衣は濡れて草枕旅寝するかも逢はぬ君ゆゑ」(古今六帖一)。1.8.10
注釈168濡衣はなほえ干させたまはじ以下「御心づからこそは」まで、歌に続けた夕霧の詞。1.8.11
注釈169げにこの御名の以下「口ぎよう答へむ」まで、落葉宮の心中に沿った叙述。語り手の落葉の宮への敬語が混入して「御名」とある。1.8.12
注釈170心の問はむにだに「なき名ぞと人には言ひてありぬべし心の問はばいかが答へむ」(後撰集恋三、七二六、読人しらず)。1.8.12
注釈171分け行かむ草葉の露をかことにて--なほ濡衣をかけむとや思ふ落葉宮の返歌。「露」の語句を受けて返す。1.8.13
注釈172めづらかなることかな歌に添えた詞。『完訳』は「心外な。非難めく気持」と注す。1.8.14
注釈173年ごろ人に違へる以下、夕霧の心中に沿った叙述。1.8.15
注釈174心ばせ人になりて『集成』は「よく気を配る人というほどの意」と注す。1.8.15
注釈175かうあながちに以下「をこがましくや」まで、夕霧の心中。1.8.15
注釈176道の露けさもいと所狭し『集成』は「帰り路の露けさも一方ならぬものがある。歩みなずむ気持と悲しみを同時に言う」。『異本紫明抄』は「帰るさの路やは変はる変はらねど解くるに惑ふ今朝の沫雪」(後拾遺集恋二、六七一、藤原道信)を指摘。朝帰りは同じ趣向だが、露と雪との違いがある。1.8.15
出典5 濡衣 夕霧に衣は濡れて草枕旅寝するかも逢はぬ君ゆゑ 古今六帖一-六三三 1.8.11
出典6 心の問はむ なき名ぞと人には言ひてありぬべし心の問はばいかが答へむ 後撰集恋三-七二五 読人しらず 1.8.12
校訂2 知らぬ 知らぬ--しか(しか/$し<朱>)らぬ 1.8.8
Last updated 9/22/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 7/20/2010(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(C)
Last updated 1/31/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
柳沢成雄(青空文庫)

2003年5月16日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年7月20日

Last updated 7/20/2010 (ver.2-2)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C) (ver.1-3-2)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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