第五十一帖 浮舟


51 UKIHUNE (Meiyu-rinmo-bon)


薫君の大納言時代
二十六歳十二月から二十七歳の春雨の降り続く三月頃までの物語



Tale of Kaoru's Dainagon era, from December at the age of 26 to rainy days in March at the age of 27

2
第二章 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む


2  Tale of Ukifune and Niou-no-miya  Niou-no-miya creeps into Ukifune's bedroom imitating Kaoru's voice

2.1
第一段 匂宮、宇治行きを大内記に相談


2-1  Niou-no-miya talks with Dainaiki how to go to Uji

2.1.1  ただそのことを、このころは思ししみたり。 賭弓、内宴など過ぐして、心のどかなるに、 司召など言ひて、人の心尽くすめる方は、 何とも思さねば、宇治へ忍びておはしまさむことをのみ思しめぐらす。この内記は、望むことありて、夜昼、いかで御心に入らむと思ふころ、例よりはなつかしう召し使ひて、
 ただそのことを、最近は考え込んでいらっしゃった。賭弓や、内宴などが過ぎて、のんびりとした時に、司召などといって、皆が夢中になっていることは、何ともお思いにならないで、宇治へこっそりとお出かけになることばかりをご思案なさる。この大内記は、期待するところがあって、昼夜、何とかお気に入ってもらおうと思っているとき、いつもよりは親しく召し使って、
 それ以来兵部卿ひょうぶきょうの宮は宇治の女のことばかりがお思われになった。宮中の賭弓のりゆみ、内宴などが終わるとおひまになって、一月の除目じもくなどという普通人の夢中になって奔走してまわることには何のかかわりもお持ちにならないのであるから、微行で宇治へ行ってみることをどう実現さすべきであるかとばかり腐心しておいでになった。大内記は除目に得たい官があってどうかして宮の御歓心を得ておこうと夜昼心を使っているころであったのを、宮はまた好意をお見せになって、おそばの用に始終お使いになり、ある時、
  Tada sono koto wo, konokoro ha obosi simi tari. Noriyumi, Naien nado sugusi te, kokoronodoka naru ni, tukasamesi nado ihi te, hito no kokoro tukusu meru kata ha, nani to mo obosa ne ba, Udi he sinobi te ohasimasa m koto wo nomi obosi megurasu. Kono Naiki ha, nozomu koto ari te, yoru hiru, ikade mi-kokoro ni ira m to omohu koro, rei yori ha natukasiu mesitukahi te,
2.1.2  「 いと難きことなりとも、わが言はむことは、たばかりてむや
 「たいへん難しいことではあるが、わたしの言うことを、何とかしてくれないか」
 「どんな困難なことでも私の言うことに骨を折ってくれるだろうか」
  "Ito kataki koto nari tomo, waga iha m koto ha, tabakari te m ya?"
2.1.3  などのたまふ。 かしこまりてさぶらふ
 などとおっしゃる。恐縮して承る。
 とお言いだしになった。内記はかしこまって頭を下げていた。
  nado notamahu. Kasikomari te saburahu.
2.1.4  「 いと便なきことなれど、かの宇治に住むらむ人は、はやうほのかに見し人の、行方も知らずなりにしが、大将に尋ね取られにける、 と聞きあはすることこそあれ。たしかには知るべきやうもなきを、ただ、 ものより覗きなどして、それかあらぬかと見定めむ、となむ思ふ。いささか人に知るまじき構へは、いかがすべき」
 「たいそう不都合なことだが、あの宇治に住んでいるらしい人は、早くにちらっと会った女で、行く方が分からなくなったのが、大将に捜し出された人と、思い当たるところがあるのだ。はっきりとは知る手立てもないが、ただ、物の隙間から覗き見して、その女か違うかと確かめたい、と思う。まったく誰にも知られない方法は、どうしたらよいだろうか」
 「この間の話の大将の宇治に置いてある人ね、それは以前に私の情人だった女で、ある時から行くえ不明になっているのが、大将に愛されてどこかへ囲われているという話をこの間聞いてね、確かにその人かどうかをほかに分明にする手段はないから、あそこへ行って、ちょっとした隙間すきまからのぞくようにして見定めたいと思うのだ。それを少しも人にどらせないでする方法はどういうふうにすればいいだろう」
  "Ito binnaki koto nare do, kano Udi ni sumu ram hito ha, hayau honokani mi si hito no, yukuhe mo sira zu nari ni si ga, Daisyau ni tadunetora re ni keru, to kikiahasuru koto koso are. Tasikani ha siru beki yau mo naki wo, tada, mono yori nozoki nado si te, sore ka ara nu ka to misadame m, to nam omohu. Isasaka hito ni siru maziki kamahe ha, ikaga su beki?"
2.1.5  とのたまへば、「 あな、わづらはし」と思へど、
 とおっしゃるので、「何と、やっかいな」と思うが、
 宮はこうお言いになるのであった。めんどうの多い仰せであるとは思うのであるが、
  to notamahe ba, "Ana, wadurahasi!" to omohe do,
2.1.6  「 おはしまさむことは、いと荒き山越えになむはべれど、ことにほど遠くはさぶらはずなむ。夕つ方出でさせおはしまして、亥子の時にはおはしまし着きなむ。さて、暁にこそは帰らせたまはめ。 人の知りはべらむことは、ただ御供にさぶらひはべらむこそは。それも、深き心はいかでか知りはべらむ」
 「お出かけになることは、たいへん険しい山越えでございますが、格別遠くはございません。夕方お出かけあそばして、亥子の刻にはお着きになるでしょう。そうして、早朝にはお帰りあそばせましょう。誰か気づくとすれば、ただお供する者だけでございしょう。それも、深い事情はどうして分かりましょう」
 「宇治へおいでになりますのには荒い山越しのみちを行かねばなりませんが、距離にいたせばさほど遠いわけではございません。夕方お出ましになれば夜の十時ごろにはお着きになることができましょう。そして夜明けにお帰りになればよろしいでしょう。人に秘密を悟られますのは供の口かられるのが多いのでございますが、それも侍たちの性質などはちょっとわかりかねますから、人選がむずかしいのでございます」
  "Ohasimasa m koto ha, ito araki yamagoye ni nam habere do, kotoni hodo tohoku ha saburaha zu nam. Yuhutukata ide sase ohasimasi te, wi ne no toki ni ha ohasimasi tuki na m. Sate, akatuki ni koso ha kahera se tamaha me. Hito no siri habera m koto ha, tada ohom-tomo ni saburahi habera m koso ha. Sore mo, hukaki kokoro ha ikadeka siri habera m."
2.1.7  と申す。
 と申し上げる。
 と申した。
  to mausu.
2.1.8  「 さかし。昔も、一度二度、通ひし道なり。軽々しきもどき負ひぬべきが、ものの聞こえのつつましきなり」
 「そうだ。昔も一、二度は、通ったことのある道だ。軽々しいと非難されるのが、その評判が気になるのだ」
 「そうだ。宇治へは昔も一、二度行った経験がある。軽率なことをすると言われることで遠慮がされるのだよ」
  "Sakasi. Mukasi mo, hitotabi hutatabi, kayohi si miti nari. Karogarosiki modoki ohi nu beki ga, mono no kikoye no tutumasiki nari."
2.1.9  とて、返す返すあるまじきことに、わが御心にも思せど、かうまでうち出でたまへれば、え思ひとどめたまはず。
 と言って、繰り返しとんでもないことだと、自分自身反省なさるが、このようにまでお口に出されたので、お思い止めなさることはできない。
 とお言いになりながら返す返すもしてよい行動ではないと自身のお心をおさえようとされたのであるが、もうこんなことまで言っておしまいになったあとではおやめになることができなくなり、
  tote, kahesu gahesu arumaziki koto ni, waga mi-kokoro ni mo obose do, kau made utiide tamahe re ba, e omohi todome tamaha zu.
注釈115賭弓内宴など過ぐして賭弓は正月十八日、内宴は正月二十一、二、三頃の行事。2.1.1
注釈116司召など正月の中旬から下旬に行われる。2.1.1
注釈117何とも思さねば主語は匂宮。2.1.1
注釈118いと難きことなりともわが言はむことはたばかりてむや匂宮の詞。2.1.2
注釈119かしこまりてさぶらふ主語は大内記。2.1.3
注釈120いと便なきことなれど以下「いかがすべき」まで、匂宮の詞。2.1.4
注釈121と聞きあはすることこそあれ『完訳』は「大内記の話で思いあたったとして、下心を見抜かれぬよう装う」と注す。2.1.4
注釈122ものより覗きなどして主語は自分匂宮が。2.1.4
注釈123あなわづらはし大内記の心中。2.1.5
注釈124おはしまさむことは以下「知りはべらむ」まで、大内記の詞。2.1.6
注釈125人の知りはべらむことはただ御供にさぶらひはべらむこそは匂宮の微行を供人以外誰も知らない、意。2.1.6
注釈126さかし昔も以下「つつましきなり」まで、匂宮の詞。2.1.8
2.2
第二段 宮、馬で宇治へ赴く


2-2  Niou-no-miya goes on horseback to Uji

2.2.1  御供に、昔もかしこの案内知れりし者、二、三人、この内記、さては御乳母子の蔵人よりかうぶり得たる若き人、睦ましき限りを選りたまひて、「大将、 今日明日よにおはせじ」など、内記によく案内聞きたまひて、出で立ちたまふにつけても、 いにしへを思し出づ
 お供に、昔もあちらの様子を知っている者、二、三人と、この内記、その他には乳母子で蔵人から五位になった若い者で、親しい者ばかりをお選びになって、「大将の、今日明日はよもやいらっしゃるまい」などと、内記によく調べさせなさって、ご出立なさるにつけても、昔を思い出す。
 お供には昔もよく使いに行き、宇治の山荘の勝手をよく知った者二、三人、それから内記、乳母めのとの子で蔵人くろうどから五位になった若い男と、特に親しい者だけをお選びになり、大将は今日明日宇治へ行くことはないというころを、薫の家の内部の消息のよくわかる内記に聞いてお置きになってお出かけになる兵部卿の宮であったが、覚えのあるみちをおとりになるにつけても昔がお思い出されになり、
  Ohom-tomo ni, mukasi mo kasiko no anai sire ri si mono, ni, samnin, kono Naiki, sateha ohom-menotogo no Kuraudo yori kauburi e taru wakaki hito, mutumasiki kagiri wo eri tamahi te, "Daisyau, kehu asu yo ni ohase zi." nado, Naiki ni yoku anai kiki tamahi te, idetati tamahu ni tuke te mo, inisihe wo obosiidu.
2.2.2  「 あやしきまで心を合はせつつ率てありきし人のために、うしろめたきわざにもあるかな」と、思し出づることもさまざまなるに、京のうちだに、むげに人知らぬ御ありきは、 さはいへど、えしたまはぬ御身にしも、あやしきさまのやつれ姿して、御馬にておはする心地も、もの恐ろしくややましけれど、もののゆかしき方は進みたる御心なれば、山深うなるままに、「 いつしか、いかならむ、見あはすることもなくて帰らむこそ、さうざうしくあやしかるべけれ」と思すに、心も騷ぎたまふ。
 「不思議なまでに心を合わせて連れて行ってくれた人に対して、後ろめたいことをするなあ」と、お思い出しになることもいろいろであるが、京の中でさえ、まるきり人の知らないお忍び歩きは、そうはいっても、おできになれないご身分でいて、粗末な恰好に身をやつして、お馬でお出かけになる気持ちも、何となく恐ろしく気が咎めるが、知りたい気持ちは強いご性質なので、山深く入って行くにつれて、「早く着きたい、どうであろうか、確かめることもなくて帰るようでは、物足りなく変なものであろう」とお思いになると、気が気でない思いがなさる。
 あやしいまでに何事も打ちあけ合う友情を持ち、自分を伴って恋人の家へ入れてくれたほどの好意を知らず顔に、その人へ済まぬ心を起こして同じ宇治へ行くと、悩ましい気持ちを覚えておいでになった。京の中でも、浮気うわきな方とは申せ、極端な微行は経験しておいでにならないのであるが、簡単なお身なりをあそばして、大部分はお馬でおいでになることになっていた。お気持ちも無気味で、恐ろしくさえおありになるのであるが、好奇心の人一倍多い方であったから、山路やまみちを深く進んでおいでになったころには、こうして行ってその人を見ることができたらどんなにうれしいであろう、のぞくだけで自分の行ったことを知らせる方法がなかったら物足らぬ気がするであろうとお思いになるとまた胸が鳴った。
  "Ayasiki made kokoro wo ahase tutu wi te ariki si hito no tame ni, usirometaki waza ni mo aru kana!" to, obosiiduru koto mo samazama naru ni, kyau no uti dani, mugeni hito sira nu ohom-ariki ha, saha ihe do, e si tamaha nu ohom-mi ni simo, ayasiki sama no yature sugata site, ohom-muma nite ohasuru kokoti mo, mono-osorosiku yayamasikere do, mono no yukasiki kata ha susumi taru mi-kokoro nare ba, yama hukau naru mama ni, "Itusika, ikanara m, mi ahasuru koto mo naku te kahera m koso, sauzausiku ayasikaru bekere." to obosu ni, kokoro mo sawagi tamahu.
2.2.3   法性寺のほどまでは御車にて、それよりぞ御馬にはたてまつりける。急ぎて、宵過ぐるほどにおはしましぬ。内記、案内よく知れる かの殿の人に問ひ聞きたりければ、宿直人ある方には寄らで、葦垣し籠めたる西表を、やをらすこしこぼちて入りぬ。
 法性寺の付近まではお車で、そこから先はお馬にお乗りになったのであった。急いで、宵を過ぎたころにお着きになった。大内記が、様子をよく知っているあの邸の人に尋ねて知っていたので、宿直人がいる方には寄らないで、葦垣をめぐらした西面を、静かにすこし壊してお入りになった。
 法性寺のあたりまではお車で、それから馬をお用いになったのである。急いでおいでになったため、宮は九時ごろに宇治へお着きになった。内記は山荘の中のことをよく知った右大将家の人から聞いていたので、宿直とのいの侍の詰めているほうへは行かずに、葦垣あしがきで仕切ってある西の庭のほうへそっとまわって、垣根を少しこわして中へはいった。
  Hohusauzi no hodo made ha mi-kuruma nite, sore yori zo ohom-muma ni ha tatematuri keru. Isogi te, yohi suguru hodo ni ohasimasi nu. Naiki, anai yoku sire ru kano Tono no hito ni tohi kiki tari kere ba, tonowibito aru kata ni ha yora de, asigaki si kome taru nisiomote wo, yawora sukosi koboti te iri nu.
2.2.4   我もさすがにまだ見ぬ御住まひなれば、たどたどしけれど、人しげうなどしあらねば、寝殿の南表にぞ、火ほの暗う見えて、そよそよとする音する。 参りて
 大内記自身も何といってもまだ見たことのないお住まいなので、不案内であるが、女房なども多くはいないので、寝殿の南面に燈火がちらちらとほの暗く見えて、そよそよと衣ずれの音がする。戻って参って、
 聞いただけは知っていたが、まだ来たことのない家であって、たよりない気はしながら、人の少ない所であるため、庭をまわり、寝殿の南に面した座敷にのほのかにともり、そこにそよそよと絹の触れ合う音を聞いて行き、宮へそう申し上げた。
  Ware mo sasugani mada mi nu ohom-sumahi nare ba, tadotadosikere do, hito sigeu nado si ara ne ba, sinden no minamiomote ni zo, hi hono-gurau miye te, soyosoyo to suru oto suru. Mawiri te,
2.2.5  「 まだ、人は起きてはべるべし。ただ、これよりおはしまさむ」
 「まだ、人は起きているようでございます。直接、ここからお入りください」
 「まだ人は起きているようでございます。ここからいらっしゃいまし」
  "Mada, hito ha oki te haberu besi. Tada, kore yori ohasimasa m."
2.2.6  と、しるべして入れたてまつる。
 と、案内してお入れ申し上げる。
 と内記は言い、自身の通った路へ宮をお導きして行った。
  to, sirube site ire tatematuru.
注釈127今日明日よにおはせじ明融臨模本は「けふあす(す+ハ)よに(に$モ)おはせし」とある。すなわち「は」を補入し「に」をミセケチにして「も」と訂正する。『集成』は底本の本行本文に従う。『完本』『新大系』は訂正本文に従って「今日明日はよも」とする。2.2.1
注釈128いにしへを思し出づ宇治の中君に通った往時。2.2.1
注釈129あやしきまで以下「わざにもあるかな」まで、匂宮の心中の思い。『完訳』は「心を合せては自分を伴ってくれた人、薫に対して。以下、浮舟に近づいて薫を裏切る、自責の念」と注す。2.2.2
注釈130さはいへどいかに好色の人とはいえ。2.2.2
注釈131いつしか以下「あるべけれ」まで、匂宮の心中の思い。2.2.2
注釈132法性寺のほどまでは「東屋」巻に既出。九条河原付近の寺。2.2.3
注釈133かの殿の人に薫邸の人に。2.2.3
注釈134我も大内記自身も、の意。2.2.4
注釈135参りて大内記が偵察から匂宮のもとに帰ってきて、の意。2.2.4
注釈136まだ人は起きて以下「おはしまさむ」まで、大内記の報告。2.2.5
2.3
第三段 匂宮、浮舟とその女房らを覗き見る


2-3  Niou-no-miya peeps Ukifune and her maids in Uji

2.3.1  やをら昇りて、格子の隙あるを見つけて寄りたまふに、伊予簾はさらさらと鳴るもつつまし。新しうきよげに造りたれど、さすがに粗々しくて隙ありけるを、誰れかは来て見むとも、うちとけて、穴も塞たがず、几帳の帷子うちかけておしやりたり。
 静かに昇って、格子の隙間があるのを見つけて近寄りなさると、伊予簾はさらさらと鳴るのが気が引ける。新しくこぎれいに造ってあるが、やはり荒っぽい造りで隙間があったが、誰も来て覗き見はしまいかと、気を許して、穴も塞がず、几帳の帷子をうち懸けて押しやっていた。
 静かに縁側へお上がりになり、格子に隙間すきまの見える所へ宮はお寄りになったが、中の伊予簾いよすだれがさらさらと鳴るのもつつましく思召おぼしめされた。きれいに新しくされた御殿であるが、さすがに山荘として作られた家であるから、普請ふしんが荒くて、戸に穴のすきなどもあったのを、だれが来てのぞくことがあろうと安心してふさがないでおいたものらしい。几帳きちょう垂帛たれを上へ掛けて、それがまた横へ押しやられてあった。
  Yawora nobori te, kausi no hima aru wo mituke te yori tamahu ni, Iyosu ha sarasara to naru mo tutumasi. Atarasiu kiyogeni tukuri tare do, sasugani araarasiku te hima ari keru wo, tare kaha ki te mi m to mo, utitoke te, ana mo hutaga zu, kityau no katabira uti-kake te osiyari tari.
2.3.2  火明う灯して、もの縫ふ人、三、四人居たり。童のをかしげなる、糸をぞ縒る。これが顔、まづ かの火影に見たまひしそれなり。うちつけ目かと、なほ疑はしきに、 右近と名のりし若き人もあり君は、腕を枕にて、火を眺めたるまみ、髪のこぼれかかりたる額つき、いとあてやかになまめきて、 対の御方にいとようおぼえたり。
 燈火を明るく照らして、何か縫物をしている女房が、三、四人座っていた。童女でかわいらしいのが、糸を縒っている。この子の顔は、まずあの燈火で御覧になった顔であった。とっさの見間違いかと、まだ疑われたが、右近と名乗った若い女房もいる。女主人は、腕を枕にして、燈火を眺めている目もとや、髪のこぼれかかっている額つき、たいそう上品に優美で、対の御方にとてもよく似ていた。
 灯を明るくともして縫い物をしている女が三、四人いた。美しい童女は糸をっていたが、宮はその顔にお見覚えがあった。あの夕べの灯影ほかげで御覧になった者だったのである。思いなしでそう見えるのかとお疑われにもなったが、また右近とその時に呼ばれていた若い女房も座に見えた。主君である人の、かいなまくらにしてをながめたつき、髪のこぼれかかった額つきが貴女きじょらしくえんで、西の対の夫人によく似ていた。
  Hi akau tomosi te, mono nuhu hito, sam, yonin wi tari. Waraha no wokasige naru, ito wo zo yoru. Kore ga kaho, madu kano hokage ni mi tamahi si sore nari. Utitukeme ka to, naho utagahasiki ni, Ukon to nanori si wakaki hito mo ari. Kimi ha, kahina wo makura nite, hi wo nagame taru mami, kami no kobore kakari taru hitahituki, ito ateyaka ni namameki te, Tai-no-Ohomkata ni ito you oboye tari.
2.3.3  この右近、 物折るとて
 この右近が、衣類を折り畳もうとして、
 宮のお見つけになった右近は服地に折り目をつけるために身をかがめながら、
  Kono Ukon, mono woru tote,
2.3.4  「 かくて渡らせたまひなば、とみにしもえ帰り渡らせたまはじを、 殿は、『この司召のほど過ぎて、 朔日ころにはかならずおはしましなむ』と、昨日の御使も申しけり。 御文には、いかが聞こえさせたまへりけむ」
 「こうしてお出かけあそばしたら、すぐにはお帰りあそばすわけにはいきませんが、殿は、『今度の司召の間が終わって、朔日ころにはきっといらっしゃる』と、昨日のお使いも申していました。お手紙には、どのように申し上げなさいましたのでしょうか」
 「お宅へお帰りになりましたら、早くおもどりになることは容易ではございませんでしょうが、殿様は除目じもくにお携わりになったあとで、来月の初めには必ずおいでになりましょうと、昨日の使いも申しておりました。お手紙にはどう書いていらっしったのでございますか」
  "Kaku te watara se tamahi na ba, tomini simo e kaheri watara se tamaha zi wo, Tono ha, 'Kono tukasamesi no hodo sugi te, tuitatikoro nihaka nara zu ohasimasi na m.' to, kinohu no ohom-tukahi mo mausi keri. Ohom-humi ni ha, ikaga kikoyesase tamahe ri kem?"
2.3.5  と言へど、いらへもせず、いともの思ひたるけしきなり。
 と言うが、返事もせずに、たいそう物思いに沈んでいる様子である。
 と言っていたが、姫君は返辞もせず物思わしいふうをしている。
  to ihe do, irahe mo se zu, ito mono omohi taru kesiki nari.
2.3.6  「 折しも、はひ隠れさせたまへるやうならむが、見苦しさ」
 「来訪の折しも、身を隠していらっしゃるようなのは、困ったことです」
 「おいでになります時にわざとおはずしになったようになりましてもよろしくございません」
  "Wori simo, hahi-kakure sase tamahe ru yau nara m ga, migurusisa."
2.3.7  と言へば、 向ひたる人
 と言うと、向かいにいた女房が、
 と、また言うと、それと向き合っている女が、
  to ihe ba, mukahi taru hito,
2.3.8  「 それは、かくなむ渡りぬると御消息聞こえさせたまへらむこそよからめ。軽々しう、 いかでかは、音なくては、はひ隠れさせたまはむ。 御物詣での後は、 やがて渡りおはしましねかし。かくて心細きやうなれど、心にまかせてやすらかなる御住まひにならひて、 なかなか旅心地すべしや
 「それでは、このようにお出かけになったと、お手紙を差し上げなさるのがよいでしょう。軽々しく、どうして、何も言わずに、お隠れあそばせましょう。ご参詣の後は、そのままこちらにお帰りあそばしませ。こうして心細いようですが、思い通りに気楽なお暮らしに馴れて、かえって本邸の方が旅心地がするのではないでしょうか」
 「そう申し上げてお置きになりませんではいけませんね。おまいりをなさいますことをね。軽々しくそっとお外出をなさいますことも今はもうよろしくないと思います。そしてお詣りが済めばすぐにおもどりなさいまし。ここは心細いお住居すまいのようですが、気楽で、のんびりとした日送りにれましたから、お宅はかえって旅の宿のような気がして苦しゅうございましょうよ」
  "Sore ha, kaku nam watari nuru to, ohom-seusoko kikoyesase tamahe ram koso yokara me. Karogarosiu, ikadekaha, oto naku te ha, hahi-kakure sase tamaha m. Ohom-monomaude no noti ha, yagate watari ohasimasi ne kasi. Kakute kokorobosoki yau nare do, kokoro ni makase te yasuraka naru ohom-sumahi ni narahi te, nakanaka tabigokoti su besi ya!"
2.3.9  など言ふ。またあるは、
 などと言う。また他の女房は、
 とも言う。また一人が、
  nado ihu. Mata aru ha,
2.3.10  「 なほ、しばし、かくて 待ちきこえさせたまはむぞ、のどやかにさまよかるべき。京へなど 迎へたてまつらせたまへらむ後、おだしくて親にも見えたてまつらせたまへかし。 このおとどの、いと急にものしたまひて、 にはかにかう聞こえなしたまふなめりかし。昔も今も、もの念じしてのどかなる人こそ、幸ひは見果てたまふなれ」
 「やはり、しばらくの間、こうしてお待ち申し上げなさるのが、落ち着いていて体裁がよいでしょう。京へなどとお迎え申されてから後、ゆっくりとして母君にもお会い申されませ。あの乳母が、とてもせっかちでいられて、急にこのような話を申し上げなさるのでしょうよ。昔も今も、我慢してのんびりとしている人が、しまいには幸福になるということです」
 「まあ当分はお動きにならずに、殿様の思召しのままここでごしんぼうをしていらっしゃるのがおおようで、お品のいいことではないでしょうか。京へお呼び寄せになりましたあとで穏やかに親御様にもおいあそばすことになさいませよ。ままさんが性急せっかちですからね、急にお詣りをおさせしてお宅のほうへもお寄りさせようと、こんなことをひとりぎめにきめてお宅へ言ってあげたのがよくないと思います。昔の人だって今の人だってもよくしんぼうをして気のゆるやかに持てる人が最後の勝利を占めていると私は思うのですよ」
  "Naho, sibasi, kakute mati kikoye sase tamaha m zo, nodoyaka ni sama yokaru beki. Kyau he nado mukahe tatematura se tamahe ra m noti, odasiku te oya ni mo miye tatematurase tamahe kasi. Kono Otodo no, ito kihuni monosi tamahi te, nihakani kau kikoye nasi tamahu nameri kasi. Mukasi mo ima mo, mono-nenzi si te nodoka naru hito koso, saihahi ha mi hate tamahu nare."
2.3.11  など言ふなり。右近、
 などと言うようである。右近は、
 こんなことも言っている。
  nado, ihu nari. Ukon,
2.3.12  「 などて、この乳母を とどめたてまつらずなりにけむ。老いぬる人は、むつかしき心のあるにこそ」
 「どうして、この乳母をお止め申さずになってしまったのでしょう。年老いた人は、やっかいな性質があるものですから」
 「どうしてままをここまで来させたのでしょう。あちらへ置いて来るべき人をね。老人というものはよけいなことまでも考え出すものだのに」
  "Nadote, kono Mama wo todome tatematura zu nari ni kem? Oyi nuru hito ha, mutukasiki kokoro no aru ni koso."
2.3.13  と憎むは、 乳母やうの人をそしるなめり「げに、憎き者ありかし」と思し出づるも、夢の心地ぞする。かたはらいたきまで、うちとけたることどもを言ひて、
 と憎むのは、乳母のような女房を悪く言うようである。「なるほど、憎らしい女房がいた」とお思い出しになるのも、夢のような気がする。側で聞いていられないほど、うちとけた話をして、
 右近のにがにがしそうにこう言うのは、乳母というような人の悪口かとも聞こえた。そうだ、差し出者がいたのだったとお思い出しになる宮は夢を見ている気があそばされた。女たちは聞く者が恥ずかしくなるようなことまで言い合って、
  to nikumu ha, Menoto yau no hito wo sosiru na' meri. "Geni, nikuki mono ari kasi." to obosiiduru mo, yume no kokoti zo suru. Kataharaitaki made, utitoke taru koto-domo wo ihi te,
2.3.14  「 宮の上こそ、いとめでたき御幸ひなれ。 右の大殿の、さばかりめでたき御勢ひにて、いかめしうののしりたまふなれど、若君生れたまひて後は、こよなくぞおはしますなる。 かかるさかしら人どものおはせで、御心のどかに、かしこうもてなしておはしますにこそはあめれ」
 「宮の上は、とてもめでたくご幸福でいらっしゃる。右の大殿が、あれほど素晴らしいご威勢で、仰々しく大騒ぎなさるようだが、若君がお生まれになって後は、この上なくいらっしゃるようです。このような出しゃばり者がいらっしゃらなくて、お心ものんびりと、賢明に振る舞っていらっしゃることでありましょう」
 「二条の院の奥様はほんとうに御幸福な方ね。左大臣様は権力にまかせて大騒ぎになるのだけれど、若様がお生まれになってからは女王にょおう様の御寵愛ちょうあいが図抜けてきたのですもの。ままのようなうるさい人がおそばにいないでゆったりと上品に奥様らしく皆がおさせしているのがいい効果を見せたのですよ」
  "Miya-no-Uhe koso, ito medetaki ohom-saihahi nare. Migi-no-Ohotono no, sabakari medetaki ohom-ikihohi nite, ikamesiu nonosiri tamahu nare do, WakaGimi mumare tamahi te noti ha, koyonaku zo ohasimasu naru. Kakaru sakasirabito-domo no ohase de, mi-kokoro nodokani, kasikou motenasi te ohasimasu ni koso ha a' mere."
2.3.15  と言ふ。
 と言う。

  to ihu.
2.3.16  「 殿だに、まめやかに思ひきこえたまふこと変はらずは、 劣りきこえたまふべきことかは」
 「せめて殿さえ、真実愛してくださるお気持ちが変わらなかったら、負けることがありましょうか」
 「殿様さえ奥様を深くお愛しになれば、こちらもお劣りになるものですか」
  "Tono dani, mameyakani omohi kikoye tamahu koto kahara zu ha, otori kikoye tamahu beki koto kaha."
2.3.17  と言ふを、 君、すこし起き上がりて
 と言うのを、女君は、少し起き上がって、
 こんなことの言われた時、姫君は少し起き上がって、
  to ihu wo, Kimi, sukosi okiagari te,
2.3.18  「 いと聞きにくきこと。よその人にこそ、劣らじともいかにとも思はめ、 かの御ことなかけても言ひそ。漏り聞こゆるやうもあらば、かたはらいたからむ」
 「とても聞きにくいこと。他人であったら、負けまいとも何とも思いましょうが、あのお方のことは口に出してはいけません。漏れ聞こえるようなことがあったら、申し訳ありません」
 「醜いことは言わないでね。よその人には劣らない人になりたいとか何とか思っても、女王様のことに私などを引き合いに出して言わないでね。もしあちらへ聞こえることがあれば恥ずかしい」
  "Ito kikinikuki koto. Yoso no hito ni koso, otora zi to mo ikani to mo omoha me, kano ohom-koto na kakete mo ihi so. Mori kikoyuru yau mo ara ba, kataharaitakara m."
2.3.19  など言ふ。
 などと言う。
 と言った。
  nado ihu.
注釈137かの火影に見たまひしそれなり二条院で浮舟と一緒にいたのを見た童女。「東屋」巻には「火影」云々の描写はなかった。2.3.2
注釈138右近と名のりし若き人もあり『新大系』は「あの時、右近と名のったのは、中君づきの侍女。ここは浮舟づき。同名の別人か、匂宮の思い違い」と注す。2.3.2
注釈139君は浮舟。2.3.2
注釈140対の御方に中君。2.3.2
注釈141物折るとて『完訳』は「裁縫で反物に折り目をつける」と注す。2.3.3
注釈142かくて渡らせたまひなば以下「聞こえさせたまへりけむ」まで、右近の詞。主語は浮舟。物詣での話。2.3.4
注釈143殿は薫。2.3.4
注釈144朔日ころには二月の初めころ。2.3.4
注釈145御文には薫への返書。2.3.4
注釈146折しも以下「見苦しさ」まで、右近の詞。薫が来訪した折に、の意。2.3.6
注釈147向ひたる人後文によれば侍従。2.3.7
注釈148それはかくなむ渡りぬると以下「旅心地すべしや」まで、侍従の詞。2.3.8
注釈149御消息薫への手紙。2.3.8
注釈150いかでかは「はひ隠れさせたまはむ」に係る。反語表現。2.3.8
注釈151御物詣で後文によれば石山詣で。2.3.8
注釈152やがて渡りおはしましねかしこの宇治の山荘に。京の母の邸にではなく、の意。2.3.8
注釈153なかなか旅心地すべしや京の母の邸はかえって他人の家の心地。2.3.8
注釈154なほしばしかくて以下「幸ひ見果てたまふなれ」まで、女房の詞。2.3.10
注釈155待ちきこえさせたまはむぞ浮舟が薫を。2.3.10
注釈156迎へたてまつらせたまへらむ薫が浮舟を。2.3.10
注釈157このおとどの乳母をさす。2.3.10
注釈158にはかにかう聞こえなしたまふ参詣を母君に勧めたこと。2.3.10
注釈159などてこの乳母を以下「あるにこそ」まで、右近の詞。『集成』は「「まま」は、乳母を親しみ呼ぶ語」と注す。2.3.12
注釈160とどめたてまつらずなりにけむ上京を。後悔する気持ち。2.3.12
注釈161乳母やうの人をそしるなめり「なめり」は匂宮の推測。2.3.13
注釈162「げに、憎き者ありかし」と思し出づるも「げに」は匂宮の納得の気持ち。二条院で浮舟を見つけた折のことを想起。2.3.13
注釈163宮の上こそ以下「こそはあめれ」まで、右近の詞。2.3.14
注釈164右の大殿夕霧。2.3.14
注釈165かかるさかしら人どもの乳母をさす。2.3.14
注釈166殿だにまめやかに以下「たまふべきことかは」まで、女房の詞。「殿」は薫。2.3.16
注釈167劣りきこえ浮舟が中君に。2.3.16
注釈168君すこし起き上がりて浮舟。2.3.17
注釈169いと聞きにくきこと以下「かたはらいたからむ」まで、浮舟の詞。2.3.18
注釈170かの御こと中君の事。2.3.18
2.4
第四段 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む


2-4  Niou-no-miya creeps into Ukifune's bedroom imitating Kaoru's voice

2.4.1  「 何ばかりの親族にかはあらむ。いとよくも似かよひたるけはひかな」と思ひ比ぶるに、「 心恥づかしげにてあてなるところは、 かれはいとこよなし。 これはただらうたげにこまかなるところぞいとをかしき」。よろしう、なりあはぬところを見つけたらむにてだに、 さばかりゆかしと思ししめたる人を、それと見て、さてやみたまふべき御心ならねば、まして隈もなく見たまふに、「いかでか これをわがものにはなすべき」と、心も空になりたまひて、なほまもりたまへば、右近、
 「どの程度の親族であろうか。とてもよく似ている様子だな」と思い比べると、「恥ずかしくなるほどの上品なところは、あの君はとてもこの上ない。この人はただかわいらしくきめこまやかな顔だちがとても魅力的だ」。普通程度の、不十分なところを見つけたような場合でさえも、あれほど会いたいとお思い続けてきた人を、その人だと見つけて、そのままお止めになるようなご性分でないので、その上すっかり御覧になったので、「何とかしてこの女を自分のものにしたい」と、心もうわの空におなりになって、依然として見つめていらっしゃると、右近が、
 どんな血族にあたる人なのであろう、よく似た様子をしているではないかと宮は比べてお思いになるのであった。気品があってえんなところはあちらがまさっていた。この人はただ可憐かれんで、こまごまとしたところに美が満ちているのである。たとえ欠点があっても、あれほど興味を持って捜し当てたいとおねがいになった人であれば、その人をお見つけになった以上あとへお退きになるはずもない御気性であって、まして残るくまもなく御覧になるのは、まれな美貌びぼうの持ち主なのであったから、どんなにもしてこれが自分のものになる工夫くふうはないであろうかと無我夢中になっておしまいになった。物詣ものもうでに行く前夜であるらしい、親の家というものもあるらしい、今ここでこの人を得ないでまた逢いうる機会は望めない、実行はもう今夜に限られている、どうすればよいかと宮はお思いになりながら、なおじっとのぞいておいでになると、右近が、
  "Nani bakari no sizoku ni kaha ara m? Ito yoku mo nikayohi taru kehahi kana!" to omohi kuraburu ni, "Kokorohadukasige nite ate naru tokoro ha, kare ha ito koyonasi. Kore ha tada rautageni komaka naru tokoro zo ito wokasiki." Yorosiu, nariaha nu tokoro wo mituke tara m nite dani, sabakari yukasi to obosi sime taru hito wo, sore to mi te, sate yami tamahu beki mi-kokoro nara ne ba, masite kuma mo naku mi tamahu ni, "Ikadeka kore wo waga mono ni ha nasu beki." to, kokoro mo sora ni nari tamahi te, naho mamori tamahe ba, Ukon,
2.4.2  「 いとねぶたし。昨夜もすずろに起き明かしてき。明朝のほどにも、これは縫ひてむ。 急がせたまふとも、御車は日たけてぞあらむ」
 「とても眠い。昨夜も何となしに夜明かししてしまった。明朝早くにも、これは縫ってしまおう。お急ぎあそばしても、お車は日が高くなってから来るでしょう」
 「眠くなりましたよ。昨晩はとうとう徹夜をしてしまったのですもの、明日早く起きてもこれだけは縫えましょう。どんなに急いでお迎いが京を出て来ましても、八、九時にはなることでしょうから」
  "Ito nebutasi. Yobe mo suzuroni oki akasi te ki. Tutomete no hodo ni mo, kore ha nuhi te m. Isogase tamahu tomo, mi-kuruma ha hi take te zo ara m."
2.4.3  と言ひて、しさしたるものどもとり具して、几帳にうち掛けなどしつつ、うたた寝のさまに寄り臥しぬ。 君もすこし奥に入りて臥す。右近は北表に行きて、しばしありてぞ来たる。君のあと近く臥しぬ。
 と言って、作りかけていた縫物を持って、几帳に懸けたりなどして、うたた寝の状態で寄り臥した。女君も少し奥に入って臥す。右近は北面に行って、しばらくして再び来た。女君の後ろ近くに臥した。
 と言い、皆も縫いさした物をまとめて几帳きちょうの上にけたりなどして、そのままそこへうたた寝のふうに横たわってしまった。姫君も少し奥のほうへはいって寝た。右近は北側の室へはいって行ったがしばらくして出て来た。そして姫君のねやすそのほうで寝た。
  to ihi te, si sasi taru mono-domo tori gusi te, kityau ni uti-kake nado si tutu, utatane no sama ni yorihusi nu. Kimi mo sukosi oku ni iri te husu. Ukon ha kitaomote ni yuki te, sibasi ari te zo ki taru. Kimi no ato tikaku husi nu.
2.4.4  ねぶたしと思ひければ、いととう寝入りぬるけしきを 見たまひて、またせむやうもなければ、忍びやかに この格子をたたきたまふ。右近聞きつけて、
 眠たいと思っていたので、とても早く寝入ってしまった様子を御覧になって、他にどうしようもないので、こっそりとこの格子を叩きなさる。右近が聞きつけて、
 眠がっていた人たちであったから、皆すぐに寝入った様子を見てお置きになった宮は、そのほかに手段はないことであったから、そっと今まで立っておいでになった前の格子をおたたきになった。右近は聞きつけて、
  Nebutasi to omohi kere ba, ito tou neiri nuru kesiki wo mi tamahi te, mata se m yau mo nakere ba, sinobiyakani kono kausi wo tataki tamahu. Ukon kikituke te,
2.4.5  「誰そ」
 「どなたですか」
 「だれですか」
  "Taso?"
2.4.6  と言ふ。 声づくりたまへば、あてなるしはぶきと聞き知りて、「 殿のおはしたるにや」と思ひて、起きて出でたり。
 と言う。咳払いをなさったので、高貴な方の咳払いと気づいて、「殿がいらっしゃったのか」と思って、起きて出た。
 と言った。咳払いをあそばしただけで貴人らしい気配けはいを知り、かおるの来たと思った右近が起きて来た。
  to ihu. Kowadukuri tamahe ba, ate naru sihabuki to kiki siri te, "Tono no ohasi taru ni ya?" to omohi te, oki te ide tari.
2.4.7  「 まづ、これ開けよ
 「とりあえず、ここを開けなさい」
 「ともかくもこの戸を早く」
  "Madu, kore ake yo."
2.4.8  とのたまへば、
 とおっしゃるので、
 とお言いになると、
  to notamahe ba,
2.4.9  「 あやしう。おぼえなきほどにもはべるかな。夜はいたう更けはべりぬらむものを」
 「変ですわ。思いがけない時刻でございますこと。夜はたいそう更けましたものを」
 「思いがけません時間においでになったものでございますね。もうよほど夜がふけておりましょうのに」
  "Ayasiu. Oboye naki hodo ni mo haberu kana! Yo ha itau huke haberi nu ram mono wo."
2.4.10  と言ふ。
 と言う。
 右近はこう言った。
  to ihu.
2.4.11  「 ものへ渡りたまふべかなりと仲信が言ひつれば、驚かれつるままに出で立ちて。いとこそわりなかりつれ。まづ開けよ」
 「どこそこへ外出なさる予定であると、仲信が言ったので、驚いてすぐ出て来て。まことに困ったことであった。とりあえず開けなさい」
 「どこかへ行かれるのだと仲信なかのぶが言ったので、驚いてすぐに出て来たのだが、よくないことに出あったよ。ともかくも早く」
  "Mono he watari tamahu beka' nari to, Nakanobu ga ihi ture ba, odoroka re turu mama ni idetati te. Ito koso warinakari ture. Madu ake yo."
2.4.12  とのたまふ声、いとようまねび似せたまひて、忍びたれば、思ひも寄らず、 かい放つ
 とおっしゃる声、たいそうよくお似せになって、ひっそりと言うので、別人とは思いも寄らず、格子を開けた。
 声を薫によく似せてお使いになり、低く言っておいでになるのであったから、違った人であることなどは思いも寄らずに格子をあけ放した。
  to notamahu kowe, ito you manebi nise tamahi te, sinobi tare ba, omohi mo yora zu, kai-hanatu.
2.4.13  「 道にて、いとわりなく恐ろしきことのありつれば、あやしき姿になりてなむ。火暗うなせ」
 「途中で、とてもひどい目に遭ったので、みっともない姿になっている。燈火を暗くしなさい」
 「道でひどい災難にあってね、恥ずかしい姿になっている。を暗くするように」
  "Miti nite, ito warinaku osorosiki koto no ari ture ba, ayasiki sugata ni nari te nam. Hi kurau nase."
2.4.14  とのたまへば、
 とおっしゃるので、
 とお言いになったので、
  to notamahe ba,
2.4.15  「 あな、いみじ
 「まあ、大変」

  "Ana, imizi!"
2.4.16  とあわてまどひて、火は取りやりつ。
 とあわて騒いで、燈火は隠した。
 右近はあわてて灯を遠くへやってしまった。
  to awate madohi te, hi ha toriyari tu.
2.4.17  「 我、人に見すなよ。来たりとて、人驚かすな」
 「わたしを、他の人には見せるな。来たからと言って、誰も起こすな」
 「私を人に見せぬようにしてくれ。私が来たと言って、寝ている人を起こさないように」
  "Ware, hito ni misu na yo. Ki tari tote, hito odorokasu na."
2.4.18  と、 いとらうらうじき御心にて、もとよりもほのかに似たる御声を、ただかの御けはひにまねびて入りたまふ。「 ゆゆしきことのさまとのたまひつる、いかなる御姿ならむ」といとほしくて、我も隠ろへて見たてまつる。
 と、とてもたくみなお方なので、もともとわずかに似ているお声を、まったくあの方のご様子に似せてお入りになる。「ひどい目に遭った姿だとおっしゃったが、どのようなお姿なのだろう」とお気の毒で、自分も隠れて拝見する。
  賢い方はもとから少し似たお声をすっかり薫と聞こえるようにしてものをお言いになり、寝室へおはいりになった。ひどい災難とお言いになったのはどんな姿にされておしまいになったのであろうと右近は同情して、自身も隠れるようにしながらのぞいて見た。
  to, ito raurauziki mi-kokoro nite, moto yori mo honokani ni taru ohom-kowe wo, tada kano ohom-kehahi ni manebi te iri tamahu. "Yuyusiki koto no sama to notamahi turu, ikanaru ohom-sugata nara m?" to itohosiku te, ware mo kakurohe te mi tatematuru.
2.4.19   いと細やかになよなよと装束きて、香の香うばしきことも劣らず。近う寄りて、御衣ども脱ぎ、馴れ顔にうち臥したまへれば、
 とてもほっそりとなよなよと装束をお召しになって、香の芳しいことも劣らない。近くによって、お召物を脱ぎ、馴れた顔でお臥せりになったので、
 繊細ななよなよとした姿は持っておいでになったし、かんばしいにおいも劣っておいでにならなかった。うその大将は姫君に近く寄って上着を脱ぎ捨て、良人おっとらしく横へ寝たのを見て、
  Ito hosoyakani nayonayo to sauzoki te, kano kaubasiki koto mo otora zu. Tikau yori te, ohom-zo-domo nugi, naregaho ni uti-husi tamahe re ba,
2.4.20  「 例の御座にこそ
 「いつものご座所に」
 「そこではあまりに端近でございます。いつものお床へ」
  "Rei no omasi ni koso."
2.4.21  など言へど、 ものものたまはず御衾参りて、寝つる人びと起こして、すこし退きて皆寝ぬ。御供の人など、例の、ここには 知らぬならひにて
 などと言うが、何もおっしゃらない。寝具を差し上て、寝ていた女房たちを起こして、少し下がって皆眠った。お供の人などは、いつものように、こちらでは構わない慣例になっているので、
 などと右近は言ったのであるが、何とも答えはなかった。上へ夜着を掛けて、仮寝をしていた人たちを起こし、皆少し遠くへさがって寝た。薫の従者たちはいつでもすぐに荘園のほうへ行ってしまったので、女房などはあまり顔を知らなんだから、宮のお言葉をそのままに信じて、
  nado ihe do, mono mo notamaha zu. Ohom-husuma mawiri te, ne turu hitobito okosi te, sukosi sizoki te mina ne nu. Ohom-tomo no hito nado, rei no, koko ni ha sira nu narahi nite,
2.4.22  「 あはれなる、夜のおはしましざまかな」
 「お志の深い、夜のご訪問ですこと」
 「深いお志からの御微行でしたわね。
  "Ahare naru, yo no ohasimasi zama kana!"
2.4.23  「かかる御ありさまを、御覧じ知らぬよ」
 「このようなご様子を、ご存知ないのよ」
 ひどい目におあいになったりあそばしてお気の毒なんですのに、お姫様は事情をご存じないようですね」
  "Kakaru ohom-arisama wo, goranzi sira nu yo."
2.4.24  など、さかしらがる人もあれど、
 などと、利口ぶる女房もいるが、
 などと賢がっている女もあった。
  nado, sakasiragaru hito mo are do,
2.4.25  「 あなかま、たまへ。夜声は、ささめくしもぞ、かしかましき」
 「お静かに。夜の声は、ささやく声が、かえってうるさいのです」
 「静かになさいよ。夜は小声の話ほどよけいに目に立つものですよ」
  "Anakama, tamahe. Yogowe ha, sasameku simo zo, kasikamasiki."
2.4.26  など言ひつつ寝ぬ。
 などと言いながら眠った。
 こんなふうに仲間に注意もされてそのまま寝てしまった。
  nado ihi tutu ne nu.
2.4.27   女君は、「 あらぬ人なりけり」と思ふに、あさましういみじけれど、声をだにせさせたまはず。 いとつつましかりし所にてだに、わりなかりし御心なれば、 ひたぶるにあさまし。初めよりあらぬ人と知りたらば、 いかがいふかひもあるべきを、 夢の心地するに、やうやう、 その折のつらかりし年月ごろ思ひわたるさまのたまふに、この宮と知りぬ。
 女君は、「違う人だわ」と思うと、びっくりし大変だと思うが、声も出させないようになさる。とても憚られる所でさえ、理不尽であったお心なので、何ともいいようがない仕儀だ。初めから別人だと知っていたら、何とかあしらうすべもあったろうが、夢のような気がするので、だんだんと、あの時のつらかった、いく年月もの間を思い続けていた有様をおっしゃるので、その宮だと分かった。
 姫君は夜の男が薫でないことを知った。あさましさに驚いたが、相手は声も立てさせない。あの二条の院の秋の夕べに人が集まって来た時でさえ、この人と恋を成り立たせねばならぬと狂おしいほどに思召した方であるから、はげしい愛撫あいぶの力でこの人を意のままにあそばしたことは言うまでもない。初めからこれは闖入ちんにゅう者であると知っていたならば今少し抵抗のしかたもあったのであろうが、こうなれば夢であるような気がするばかりの姫君であった。女のやや落ち着いたのを御覧になって、あの秋の夕べの恨めしかったこと、それ以来今日まで狂おしくあこがれていたことなどをお告げになることによって、兵部卿ひょうぶきょうの宮でおありになることを姫君は知った。
  WomnaGimi ha, "Aranu hito nari keri." to omohu ni, asamasiu imizikere do, kowe wo dani se sase tamaha zu. Ito tutumasikari si tokoro nite dani, warinakari si mi-kokoro nare ba, hitaburuni asamasi. Hazime yori aranu hito to siri tara ba, ikaga ihukahi mo aru beki wo, yume no kokoti suru ni, yauyau, sono wori no turakari si, tositukigoro omohi wataru sama notamahu ni, kono Miya to siri nu.
2.4.28  いよいよ恥づかしく、 かの上の御ことなど思ふに、またたけきことなければ、限りなう泣く。宮も、なかなかにて、たはやすく逢ひ見ざらむことなどを思すに、泣きたまふ。
 ますます恥ずかしくなって、あの上の御ことなどを思うと、またどうすることもできないので、限りなく泣く。宮も、なまじ逢ったのがかえってつらく、たやすく逢えそうにないことをお思いになって、お泣きになる。
 いよいよ羞恥しゅうちを覚えて、姉の女王がどうお思いになるであろうと思うともうどうしようもなくなった人はひどく泣いた。宮も今後会見することは不可能であろうと思召おぼしめされるためにお泣きになるのであった。
  Iyoiyo hadukasiku, kano Uhe no ohom-koto nado omohu ni, mata takeki koto nakere ba, kagirinau naku. Miya mo, nakanaka nite, tahayasuku ahi mi zara m koto nado wo obosu ni, naki tamahu.
注釈171何ばかりの以下「けはひかな」まで、匂宮の心中の思い。2.4.1
注釈172心恥づかしげにて以下「いとをかしき」まで、匂宮の心中の思い。末尾は地の文に流れる。2.4.1
注釈173かれは--これは「かれ」は中君、「これ」は浮舟をさす。2.4.1
注釈174さばかりゆかしと思ししめたる人を浮舟をさす。2.4.1
注釈175これを浮舟。2.4.1
注釈176いとねぶたし以下「日たけてぞあらむ」まで、右近の詞。2.4.2
注釈177急がせたまふとも主語は薫。2.4.2
注釈178君も浮舟。2.4.3
注釈179見たまひて主語は匂宮。2.4.4
注釈180この格子をたたきたまふ主語は匂宮。2.4.4
注釈181声づくりたまへば匂宮が薫の声色を使った。2.4.6
注釈182殿の薫。2.4.6
注釈183まづこれ開けよ匂宮の詞。2.4.7
注釈184あやしう以下「はべりぬらむものを」まで、右近の返事。2.4.9
注釈185ものへ渡りたまふべかなりと以下「まづ開けよ」まで、匂宮の詞。2.4.11
注釈186仲信薫の家司。匂宮は薫を装う。2.4.11
注釈187かい放つ右近は格子を。2.4.12
注釈188道にて以下「火暗うなせ」まで、匂宮の詞。『完訳』は「途中で盗賊にでも出会ったような物言い。見苦しい姿を見せたくないから灯を暗くせよとは、顔を見られたくないための作り事」と注す。2.4.13
注釈189あないみじ右近の詞。2.4.15
注釈190我人に以下「人驚かすな」まで、匂宮の詞。2.4.17
注釈191いとらうらうじき御心にて『完訳』は「実に知恵のまわるお方。嘘つきを皮肉る、語り手の評言」と注す。2.4.18
注釈192ゆゆしきことのさま以下「御姿ならむ」まで、右近の心中の思い。2.4.18
注釈193いと細やかに匂宮の姿態。2.4.19
注釈194例の御座にこそ右近の詞。2.4.20
注釈195ものものたまはず主語は匂宮。2.4.21
注釈196御衾参りて主語は右近。2.4.21
注釈197知らぬならひにて『集成』は「薫の家来は、いつも、浮舟方では接待せぬことになっているので。弁の尼のいる廊の方で世話をする習慣なのであろう」と注す。2.4.21
注釈198あはれなる夜の以下「御覧じ知らぬよ」まで、女房の詞。2.4.22
注釈199あなかま以下「かしがましき」まで、右近の詞。2.4.25
注釈200女君は浮舟。2.4.27
注釈201あらぬ人なりけり浮舟の心中。薫ではない人だ。2.4.27
注釈202いとつつましかりし所にてだに二条院。中君の手前。2.4.27
注釈203ひたぶるにあさまし『完訳』は「何の気がねもない放埒ぶりだ。語り手の評言」と注す。2.4.27
注釈204いかが『完訳』は「「いかが」の語法やや不審」と注す。2.4.27
注釈205夢の心地するに浮舟の心地。また下文の匂宮の心地の意としても機能。2.4.27
注釈206その折のつらかりし匂宮の気持ち。匂宮が周囲の女房から妨げられたこと。2.4.27
注釈207年月ごろ匂宮が浮舟に迫ったのは昨年の秋八月、現在その翌年の一月下旬。年を越しているので「年ごろ」また「年月ごろ」。2.4.27
注釈208かの上の御ことなど中君。2.4.28
2.5
第五段 翌朝、匂宮、京へ帰らず居座る


2-5  Niou-no-miya as stays as ever in Uji

2.5.1  夜は、ただ明けに明く。御供の人来て声づくる。右近聞きて参れり。 出でたまはむ心地もなく、飽かずあはれなるに、またおはしまさむことも難ければ、「 京には求め騒がるとも、今日ばかりはかくてあらむ。何事も 生ける限りのためこそあれ 」。ただ今出でおはしまさむは、 まことに死ぬべく思さるれば、この右近を召し寄せて、
 夜は、どんどん明けて行く。お供の人が来て咳払いをする。右近が聞いて参上した。お出になる気持ちもなく、心からいとしく思われて、再びいらっしゃることも難しいので、「京では捜し求めて大騒ぎしようとも、今日一日だけはこうしていたい。何事も生きている間だけのことなのだ」。今すぐにお出になることは、本当に死んでしまいそうにお思いになるので、この右近を呼び寄せて、
 夜はずんずんと明けていく。お供の人たちが注意を申し上げるように咳払いなどをする。右近がそれを聞いて用をするためにおいでになる所の近くへ来た。宮は別れて出てお行きになるお気持ちにはなれず、どこまでもお心のかれるのをお覚えになったが、そうかといってこのままでおいでになることもおできにならないことであった。京で捜されまわるようなことはあっても、今日だけはここに隠れていよう、世間をはばかるということもよく生きようがためである、自分は今別れて行けば死ぬことになるとお心をおきめになった宮は、右近を近くへお呼びになって、
  Yo ha, tada ake ni aku. Ohom-tomo no hito ki te kowadukuru. Ukon kiki te mawire ri. Ide tamaha m kokoti mo naku, akazu ahare naru ni, mata ohasimasa m koto mo katakere ba, "Kyau ni ha motome sawaga ru tomo, kehu bakari ha kaku te ara m. Nanigoto mo ike ru kagiri no tame koso are." Tadaima ide ohasimasa m ha, makoto ni sinu beku obosa rure ba, kono Ukon wo mesiyose te,
2.5.2  「 いと心地なしと思はれぬべけれど、今日はえ出づまじうなむある。男どもは、このわたり近からむ所に、よく隠ろへてさぶらへ。 時方は、京へものして、『 山寺に忍びてなむ』とつきづきしからむさまに、いらへなどせよ」
 「まことに無分別と思われようが、今日はとても出て行くことができそうにない。男たちは、この近辺の近い所に、適当に隠し控させなさい。時方は、京へ行って、『山寺に人目を忍んで行っている』とつじつまが合うように、返事などさせよ」
 「思いやりのないことと思うだろうが、今日は帰りたくない。従者らはここに近いどこかでよく人目を避けて時間を送るように。それから時方ときかたは京へ行って山寺へ忍んで参籠さんろうしていると上手じょうずにとりなしをしておけと言ってくれるがいい」
  "Ito kokoti nasi to omoha re nu bekere do, kehu ha e idu maziu nam aru. Wonoko-domo ha, kono watari tikakara m tokoro ni, yoku kakurohe te saburahe. Tokikata ha, kyau he monosi te, 'Yamadera ni sinobi te nam.' to tukidukisikara m sama ni, irahe nado se yo."
2.5.3  とのたまふに、 いとあさましくあきれて、心もなかりける夜の過ちを思ふに、心地も惑ひぬべきを、思ひ静めて、
 とおっしゃるので、とても驚きあきれて、気づかなかった昨夜の過失を思うと、気も動転してしまいそうなのを、落ち着けて、
 と仰せられた。右近はあさましさにあきれて、何の気なしに大将であると思い、戸をあけてお入れした昨夜の過失を思うと、気も失うばかりになったが、しいて冷静になろうとした。
  to notamahu ni, ito asamasiku akire te, kokoro mo nakari keru yo no ayamati wo omohu ni, kokoti mo madohi nu beki wo, omohi sidume te,
2.5.4  「 今は、よろづにおぼほれ騒ぐとも、かひあらじものから、なめげなり。あやしかりし折に、いと深う思し入れたりしも、 かう逃れざりける御宿世にこそありけれ。人のしたるわざかは」
 「今となっては、どのようにあたふた騒いだところで、効ないし、また失礼である。困った時にも、たいそう深く愛してくださったのも、このような逃れがたかったご運命なのであろう。誰がしたということでない」
 もう今になってはどんなに騒ぎ立ててもかいのないことであって、しかも御身分に対して失礼である。あの二条の院の短い時間にさえ深い御執心をあそばすふうの見えたのも、こんなにならねばならぬ二人の宿縁というものであろう、人間のした過失とは言えないことである
  "Ima ha, yoroduni oboho re sawagu tomo, kahi ara zi mono kara, namege nari. Ayasikari si wori ni, ito hukau obosiire tari si mo, kau nogare zari keru ohom-sukuse ni koso ari kere. Hito no si taru waza kaha."
2.5.5  と思ひ慰めて、
 と思い慰めて、
 とみずから慰めて、
  to omohi nagusame te,
2.5.6  「 今日、御迎へにとはべりしを、いかにせさせたまはむとする御ことにか。かう逃れきこえさせたまふまじかりける御宿世は、いと聞こえさせはべらむ方なし。折こそいとわりなくはべれ。なほ、今日は出でおはしまして、御心ざしはべらば、のどかにも」
 「今日、お迎えにとございましたが、どのようにあそばす御ことでしょうか。このように逃れることがおできになれないご運命は、まことに申し上げようもございません。あいにく日が悪うございます。やはり、今日はお帰りあそばして、ご愛情がございましたら、改めてごゆっくりと」
 「今日は御自宅のほうからお迎いの車がまいることになっておりますのに、姫君はどうあそばすおつもりでいらっしゃるのでございましょう。こういたしました運命の現われにつきましては、私らが何を申すことができましょう。ただこの場合がよろしくございません。今日はお帰りあそばしまして、お志がございましたなら、また別なよい日をお待ちくださいまし」
  "Kehu, ohom-mukahe ni to haberi si wo, ikani se sase tamaha m to suru ohom-koto ni ka. Kau nogare kikoye sase tamahu mazikari keru ohom-sukuse ha, ito kikoyesase habera m kata nasi. Wori koso ito warinaku habere. Naho, kehu ha ide ohasimasi te, mi-kokorozasi habera ba, nodokani mo."
2.5.7  と聞こゆ。「 およすけても言ふかな」と思して、
 と申し上げる。「生意気なことを言うな」とお思いになって、
 と申し上げた。世なれたふうに言うものであると思召して、
  to kikoyu. "Oyosuke te mo ihu kana!" to obosi te,
2.5.8  「 我は、月ごろ思ひつるに、ほれ果てにければ、人のもどかむも 言はむも知られず、ひたぶるに思ひなりにたり。すこしも身のことを思ひ憚からむ人の、かかるありきは思ひ立ちなむや。御返りには、『今日は物忌』など言へかし。人に知らるまじきことを、誰がためにも思へかし。 異事はかひなし
 「わたしは、いく月も物思いしたので、すっかり呆然としてしまって、人が非難するのも注意することも分別できず、一途に思いつめているのだ。少しでも身の上を憚るような人が、このような出歩きは思い立ちましょうか。お返事には、『今日は物忌です』などと言いなさい。人に知られてはならないことを、誰のためにも思いなさい。他のことは問題でない」
 「自分は長い物思いに頭がぼけているから、人がどんな非難をしてもかまわぬ気になっている。どうしても別れて帰れないのだ。少しでも自重心が残っていれば自分のような身分の者が、これはできることと思うか。どこかへ行く迎えの車が来た時には急に謹慎日になったとでも言えばいいではないか。秘密はだれのためにもまもらなければならないと考えてくれ。それよりほかのことは皆自分にできないことなのだよ」
  "Ware ha, tukigoro omohi turu ni, hore hate ni kere ba, hito no modoka m mo iha m mo sira re zu, hitaburuni omohi nari ni tari. Sukosi mo mi no koto wo omohi habakara m hito no, kakaru ariki ha omohitati na m ya. Ohom-kaheri ni ha, 'Kehu ha monoimi.' nado ihe kasi. Hito ni sira ru maziki koto wo, taga tame ni mo omohe kasi. Kotogoto ha kahinasi."
2.5.9  とのたまひて、 この人の、世に知らずあはれに思さるるままに、よろづのそしりも 忘れたまひぬべし
 とおっしゃって、この人が、世にも稀なくらいかわいく思われなさるままに、どのような非難もお忘れになったのであろう。
 こうお言いになり。この相手から覚えさせられる愛着の強さをみずからお悟りになる宮は、非難も正義も皆お忘れになった。
  to notamahi te, kono hito no, yo ni sira zu ahareni obosa ruru mama ni, yorodu no sosiri mo wasure tamahi nu besi.
注釈209出でたまはむ心地もなく主語は匂宮。2.5.1
注釈210京には求め騒がるとも以下「ためこそあれ」あたりまで、匂宮の心中の思い。末尾は地の文に流れる。2.5.1
注釈211生ける限りのためこそあれ『源氏釈』は「恋死なむ後は何せむ生ける日のためこそ人は見まくほしけれ」(拾遺集恋一、六八五、大伴百世)を指摘。2.5.1
注釈212まことに死ぬべく思さるれば『新釈』は「恋しとは誰が名づけけむ事ならむ死ぬとぞ唯にいふべかりけり」(古今集恋四、六九八、清原深養父)を指摘。2.5.1
注釈213いと心地なしと以下「いらへなどせよ」まで、匂宮の詞。2.5.2
注釈214時方は匂宮の乳母子。2.5.2
注釈215山寺に忍びてなむ虚偽の口実。2.5.2
注釈216いとあさましくあきれて主語は右近。初めて匂宮であったことを知る。2.5.3
注釈217今はよろづに以下「人のしたるわざかは」まで、右近の心中の思い。2.5.4
注釈218かう逃れざりける御宿世にこそ『完訳』は「人の力を超えた宿世と諦め、自らの責任を回避しようとする」と注す。2.5.4
注釈219今日御迎へにとはべりしを以下「のどかにも」まで、右近の詞。浮舟の母が京から迎えに来る予定であった。2.5.6
注釈220およすけても言ふかな匂宮の感想。2.5.7
注釈221我は月ごろ思ひつるに明融臨模本は「思つるに」とある。『完本』は諸本に従って「もの思ひつるに」と「もの」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「思ひつるに」とする。以下「異事はかひなし」まで、匂宮の詞。2.5.8
注釈222異事はかひなし『集成』は「ほかの事は一切無用だ」。『完訳』は「何があっても退かぬ、の気持」と注す。2.5.8
注釈223この人の浮舟。2.5.9
注釈224忘れたまひぬべし『孟津抄』は「地也」と指摘。いわゆる草子地、の意。2.5.9
出典2 生ける限りのため 恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ人の見まくほしけれ 拾遺集恋一-六八五 大伴百世 2.5.1
校訂6 言はむも 言はむも--(/+いはんも) 2.5.8
2.6
第六段 右近、匂宮と浮舟の密事を隠蔽す


2-6  Ukon hides that Niou-no-miya has crept into Ukifune's bedroom

2.6.1  右近出でて、このおとなふ人に、
 右近が出て来て、この声を出した人に、
 右近がお帰りを促している人らのほうへ出て行き、宮はこうこうお言いになると言い、
  Ukon ide te, kono otonahu hito ni,
2.6.2  「 かくなむのたまはするを、なほ、いとかたはならむ、とを申させたまへ。あさましうめづらかなる御ありさまは、さ思しめすとも、かかる 御供人どもの御心にこそあらめ。いかで、かう心幼うは 率てたてまつりたまふこそ。なめげなることを聞こえさする山賤などもはべらましかば、いかならまし」
 「これこれとおっしゃっていますが、やはり、とても見苦しいなさりようです、と申し上げてください。驚くほど目にもあまるようなお振る舞いは、どんなにお思いになっても、あなた方お供の人びとの考えでどうにでもなりましょう。どうして、こう無分別にも宮をお連れ申し上げなさったのですか。無礼な行ないを致す山賊などが途中で現れましたら、どうなりましょう」
 「そんなことはおよろしくないことですということをあなたがたからまた申し上げてみてください。こうした無理なことを最初仰せになりました時に、あなたがたがそれをおいさめにならなかったとはどうしたことでしょう。愚かしくどうしてお言葉どおりに御案内しておいでになったのでしょう。途中でもここでも失礼なことを申し上げる人間が出て来ましたらどんなことになったでしょう」
  "Kaku nam notamahasuru wo, naho, ito kataha nara m, to wo mausa se tamahe. Asamasiu meduraka naru ohom-arisama ha, sa obosimesu tomo, kakaru ohom-tomo hito-domo no mi-kokoro ni koso ara me. Ikade, kau kokorowosanau ha wi te tatematuri tamahu koso. Namege naru koto wo kikoyesasuru yamagatu nado mo habera masika ba, ikanara masi."
2.6.3  と言ふ。内記は、「 げに、いとわづらはしくもあるかな」と思ひ立てり。
 と言う。内記は、「なるほど、とてもやっかいなことであるなあ」と思って立っている。
 とたしなめた。内記は予想したとおりに事態がめんどうになったと思いながら立っていた。
  to ihu. Naiki ha, "Geni, ito wadurahasiku mo aru kana!" to omohi tate ri.
2.6.4  「 時方と仰せらるるは、誰れにか。さなむ
 「時方とおっしゃる方は、どなたですか。これこれとおっしゃっています」
 「時方とおっしゃるのはどなたですか」
  "Tokikata to ohose raruru ha, tare ni ka? Sa nam."
2.6.5  と伝ふ。笑ひて、
 と伝える。笑って、
 「私です」大内記時方は笑いながら、
  to tutahu. Warahi te,
2.6.6  「 勘へたまふことどもの恐ろしければ、さらずとも逃げてまかでぬべし。まめやかには、おろかならぬ御けしきを見たてまつれば、誰れも誰れも、 身を捨ててなむ。よしよし、宿直人も、皆起きぬなり」
 「お叱りなさることが恐ろしいので、ご命令がなくても逃げ出しましょう。本当のところを申し上げますと、並々でないご愛情を拝見しますと、皆が皆、身を捨てて参ったのです。よいよい、宿直人も、皆起きたようです」
 「ひどいおしかりですから恐ろしくて、私でないと言って逃げ出そうかと思いました。それは冗談じょうだんですが、まじめに申し上げれば、あまりにも恋いこがれておいでになりますお気の毒な宮様をお見上げしては、だれだって自身のことなどはどうなってもいいという気になりますよ。宮様のお言いつけはよくわかりました。宿直とのいの人も皆起きましたから」
  "Kaugahe tamahu koto-domo no osorosikere ba, sa'razu tomo nige te makade nu besi. Mameyakani ha, oroka nara nu mi-kesiki wo mi tatemature ba, taremo taremo, mi wo sute te nam. Yosi yosi, tonowibito mo, mina oki nu nari."
2.6.7  とて急ぎ出でぬ。
 と言って急いで出て行った。
 と言い、すぐに去って行った。
  tote isogi ide nu.
2.6.8  右近、「人に知らすまじうは、いかがはたばかるべき」とわりなうおぼゆ。 人びと起きぬるに
 右近は、「人に知られないようにするには、どうだましたらよいものか」と困りきっている。女房たちが起きたので、
 右近は宮がとどまっておいでになるのをどう取り繕えばいいだろうと苦しんだ。起き出して来た女房たちに、
  Ukon, "Hito ni sirasu maziu ha, ikagaha tabakaru beki?" to wari nau oboyu. Hitobito oki nuru ni,
2.6.9  「 殿は、さるやうありて、いみじう忍びさせたまふけしき見たてまつれば、道にていみじきことのありけるなめり。御衣どもなど、夜さり忍びて持て参るべくなむ、仰せられつる」
 「殿は、ある理由があって、ひどくこっそりといらっしゃっています様子を拝見しますと、道中で大変なことがあったようです。お召物などを、夜になってこっそりと持参するように、お命じになっています」
 「殿様は理由わけがあって、今日は絶対にお姿をだれにもお見せになりたくない思召しなんですよ。途中で災難におあいになったらしい。お召し物などを今夜になってからそっとお届けさせるようにお供へお命じになるお取り次ぎを今私はしましたよ」
  "Tono ha, saru yau ari te, imiziu sinobi sase tamahu kesiki mi tatemature ba, miti nite imiziki koto no ari keru na' meri. Ohom-zo-domo nado, yosari sinobi te mote mawiru beku nam, ohose rare turu."
2.6.10  など言ふ。御達、
 などと言う。御達は、
 などと言った。女房の一人が、
  nado ihu. Gotati,
2.6.11  「 あな、むくつけや。木幡山は、いと恐ろしかなる山ぞかし。例の、御前駆も追はせたまはず、やつれておはしましけむに、あな、いみじや」
 「まあ、気味が悪い。木幡山は、とても恐ろしいという山ですよ。いつものように、お先も払わせなさらず、身を簡略にしていらっしゃったので、まあ、大変なこと」
 「まあこわいこと。木幡こばた山という所はそんな所ですってね。いつものように先払いもさせずにお忍びでお出かけになったからですよ。たいへんなことだったのですね。お気の毒な」
  "Ana, mukutuke ya! Kohatayama ha, ito osorosika' naru yama zo kasi. Rei no, ohom-saki mo oha se tamaha zu, yature te ohasimasi kem ni, ana, imizi ya!"
2.6.12  と言へば、
 と言うので、
 と言うのを、
  to ihe ba,
2.6.13  「 あなかま、あなかま。下衆などの、ちりばかりも聞きたらむに、いといみじからむ」
 「お静かに、お静かに。下衆どもが、少しでも聞きつけたら、とても大変なことになりましょう」
 「まあ静かにお言いなさいよ。ここの下の侍衆が聞けば、それからまたどんなことを起こすかしれませんから」
  "Anakama, anakama! Gesu nado no, tiri bakari mo kiki tara m ni, ito imizikara m."
2.6.14  と言ひゐたる、心地恐ろし。あやにくに、 殿の御使のあらむ時、いかに言はむと、
 と言っているが、嘘をつくのが恐ろしい。具合悪く、殿のお使いが来た時にはどのように言おうと、
 こうまた言う右近の心の中ではうそを語るのが恐ろしかった。あやにくにこんな時に大将からの使いが来たなら、家の中の人へどうまた自分は言うべきであろうと右近は思い、
  to ihi wi taru, kokoti osorosi. Ayaniku ni, Tono no ohom-tukahi no ara m toki, ikani iha m to,
2.6.15  「 初瀬の観音、今日事なくて暮らしたまへ
 「初瀬の観音様、今日一日がご無事で暮らせますように」
 初瀬はせの観音様、今日一日が無事で過ぎますように
  "Hatuse no kwanon, kehu koto naku te kurasi tamahe."
2.6.16  と、 大願をぞ立てける
 と、大願を立てるのであった。
 と大願を立てた。
  to, taigwan wo zo tate keru.
2.6.17   石山に今日詣でさせむとて、母君の 迎ふるなりけり。この人びともみな精進し、きよまはりてあるに、
 石山寺に今日参詣させようとして、母君が迎えに来るのであった。この邸の女房たちも皆精進潔斎をし、身を清めていたが、
 石山寺へ参詣さんけいさせようとして母の夫人から迎えがよこされることになっている日なのである。右近をはじめ供をして行く者は前日から精進潔斎しょうじんけっさいをしていたので、
  Isiyama ni kehu maude sase m tote, HahaGimi no mukahuru nari keri. Kono hitobito mo mina sauzin si, kiyomahari te aru ni,
2.6.18  「 さらば、今日は、え渡らせたまふまじきなめり。いと口惜しきこと」
 「それでは、今日は、お出かけあそばすわけにはゆかないでしょう。とても残念なこと」
 「では今日はおいでになれなくなったのですわね。残念なことですね」
  "Saraba, kehu ha, e watara se tamahu maziki na' meri. Ito kutiwosiki koto."
2.6.19  と言ふ。
 と言う。
 とも言っていた。
  to ihu.
注釈225かくなむのたまはするを以下「いかならまし」まで、右近の詞。2.6.2
注釈226御供人どもの御心にこそあらめ供人たちの考えしだいだ、の意。「御心」は相手供人を前にした敬語。2.6.2
注釈227率てたてまつりたまふこそ明融臨模本は「ゐてたてまつり給こそ」とある。『完本』は諸本に従って「たまひしぞ」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「たまふこそ」とする。2.6.2
注釈228げにいとわづらはしくもあるかな時方の心中。2.6.3
注釈229時方と仰せらるるは誰れにかさなむ右近の詞。「さなむ」の下に「仰せらる」などの語句が省略。匂宮の詞を伝える。2.6.4
注釈230勘へたまふことどもの以下「皆起きぬなり」まで、大内記時方の詞。「勘へ」の主語は右近。2.6.6
注釈231身を捨ててなむ係助詞「なむ」の下に「参りつる」などの語句が省略。2.6.6
注釈232人びと起きぬるに女房たち。2.6.8
注釈233殿はさるやうありて以下「仰せられつる」まで、右近の詞。「殿」は薫。2.6.9
注釈234あなむくつけや以下「あないみじや」まで、御達の詞。2.6.11
注釈235あなかまあなかま以下「いといみじからむ」まで、右近の詞。2.6.13
注釈236殿の御使の薫の使者。2.6.14
注釈237初瀬の観音今日事なくて暮らしたまへ『集成』は「今日一日を無事におすませ下さい」。『完訳』は「「暮らさせたまへ」の意か」「今日一日無事に過させてくださいまし」と注す。2.6.15
注釈238大願をぞ立てける『完訳』は「語り手の、揶揄する気持」と注す。2.6.16
注釈239石山に今日--迎ふるなりけり『細流抄』は「訓釈していへり」と指摘。語り手の説明的叙述。2.6.17
注釈240さらば今日は以下「いと口惜しき」まで、女房の詞。2.6.18
校訂7 今日 今日--けけ(け<後出>/#)ふ 2.6.15
2.7
第七段 右近、浮舟の母の使者の迎えを断わる


2-7  Ukon declines to come for Ukifune from her mother's

2.7.1  日高くなれば、格子など上げて、右近ぞ近くて仕うまつりける。母屋の簾は皆下ろしわたして、「物忌」など書かせて付けたり。 母君もやみづからおはするとて、「 夢見騒がしかりつ」と言ひなすなりけり。御手水など参りたるさまは、例のやうなれど、 まかなひめざましう思されて
 日が高くなったので、格子などを上げて、右近は近くにお仕えしていた。母屋の簾はみな下ろして、「物忌」などと書かせて貼っておいた。母君もご自身でお出でになるかも知れないと思って、「夢見が悪かったので」と理由をつけるのであった。御手水などを差し上げる様子は、いつものようであるが、介添えを不満にお思いになって、
 八時ごろになって格子などを上げ、右近が姫君の居間の用を一人で勤めた。その室の御簾みすを皆下げて、物忌ものいみと書いた紙をつけたりした。母夫人自身も迎えに出て来るかと思い、姫君が悪夢を見て、そのために謹慎をしているとその時には言わせるつもりであった。寝室へ二人分の洗面盥せんめんだらいの運ばれたというのは普通のことであるが、宮はそんな物にも嫉妬しっとをお覚えになった。薫が来て、こうした朝の寝起きにこの手盥で顔を洗うのであろうとお思いになるとにわかに不快におなりになり、
  Hi takaku nare ba, kausi nado age te, Ukon zo tikaku te tukaumaturi keru. Moya no sudare ha mina orosi watasi te, "Mono-imi" nado kaka se te tuke tari. HahaGimi mo ya midukara ohasuru tote, "Yumemi sawagasikari tu." to ihinasu nari keri. Mi-teudu nado mawiri taru sama ha, rei no yau nare do, makanahi mezamasiu obosa re te,
2.7.2  「 そこに洗はせたまはば
 「あなたが先にお洗いあそばしたら」
 「あなたがお洗いになったあとの水で私は洗おう。こちらのは使いたくない」
  "Soko ni araha se tamaha ba."
2.7.3  とのたまふ。 いとさまよう心にくき人を見ならひたるに、時の間も 見ざらむに死ぬべしと 思し焦がるる人を、「 心ざし深しとは、かかるを言ふにやあらむ」と思ひ知らるるにも、「 あやしかりける身かな。誰れも、ものの聞こえあらば、 いかに思さむ」と、 まづかの上の御心を思ひ出できこゆれど、
 とおっしゃる。女は、たいそう体裁よく奥ゆかしい人を見慣れていたので、束の間も逢わないでいると死んでしまいそうだと恋い焦がれている宮を、「ご愛情が深いとは、このような方を言うのであるろうか」と思い知られるにつけても、「不思議な運命だわ。皆が、噂をきいたら、どのようにお思いになるだろう」と、まずはあの宮の上のお気持ちを思い出し申し上げるが、
 とお言いになった。今まで感情をおさえて冷静なふうを作る薫にれていた姫君は、しばらくでもいっしょにいることができねば死ぬであろうと激情をおおわずお見せになる宮を、熱愛するというのはこんなことを言うのであろうと思うのであったが、奇怪な運命を負った自分である、このあやまちが外へ知れた時、どんなふうに思われる自分であろうとまず第一に宮の夫人が不快に思うであろうことを悲しんでいる時、恋人が何人なにびとの娘であるのかおわかりにならぬ宮が、
  to notamahu. Womna, ito sama you kokoronikuki hito wo minarahi taru ni, toki no ma mo mi zara m ni sinu besi to obosi kogaruru hito wo, "Kokorozasi hukasi to ha, kakaru wo ihu ni ya ara m?" to omohi sira ruru ni mo, "Ayasikari keru mi kana! Tare mo, mono no kikoye ara ba, ikani obosa m." to, madu kano Uhe no mi-kokoro wo omohiide kikoyure do,
2.7.4  「 知らぬを、返す返すいと心憂し。なほ、あらむままにのたまへ。いみじき下衆といふとも、いよいよなむあはれなるべき」
 「素性を知らないので、返す返すもとても情けない。やはり、ありのままにおっしゃってください。ひどく身分の低い人だと言っても、ますますいとおしく思われましょう」
 「あなたがだれの子であるかを私の知らないことは返す返すも遺憾だ。ねえ、ありのままに言っておしまいなさいよ。悪い家であってもそんなことで私の愛が動揺するものでも何でもない。いよいよ愛するようになるでしょう」
  "Sira nu wo, kahesugahesu ito kokorousi. Naho, ara m mama ni notamahe. Imiziki gesu to ihu tomo, iyoiyo nam ahare naru beki."
2.7.5  と、 わりなう問ひたまへど、その御いらへは絶えてせず。異事は、いとをかしくけぢかきさまにいらへきこえなどして、なびきたるを、いと限りなうらうたしとのみ見たまふ。
 と、無理やりにお尋ねになるが、そのお返事は全然しない。他のことでは、とてもかわいらしく親しみやすい様子にお返事申し上げたりなどして、言うままになるのを、とてもこの上なくかわいらしいとばかり御覧になる。
 とお言いになり、しいてこうとあそばすのに対しては絶対に口をつぐんでいる姫君が、そのほかのことでは美しい口ぶりで愛嬌あいきょうのある返辞などもして、愛を受け入れたふうの見えるのを宮は限りなく可憐かれんにお思いになった。
  to, warinau tohi tamahe do, sono ohom-irahe ha taye te se zu. Kotogoto ha, ito wokasiku kedikaki sama ni irahe kikoye nado si te, nabiki taru wo, ito kagirinau rautasi to nomi mi tamahu.
2.7.6  日高くなるほどに、 迎への人来たり。車二つ、馬なる人びとの、例の、荒らかなる七、八人。男ども多く、例の、品々しからぬけはひ、さへづりつつ入り来たれば、人びとかたはらいたがりつつ、
 日が高くなったころに、迎えの人が来た。車二台、乗馬の人びとが、いつものように、荒々しい者が七、八人。男連中が大勢、例によって、下品な感じで、ぺちゃくちゃしゃべりながら入って来たので、女房たちは体裁悪がりながら、
 九時ごろに石山行きの迎えの人たちが山荘へ着いた。車を二台持って来たのであって、例の東国の荒武者が、七、八人、多くのしもべを従えていた。下品な様子でがやがやと話しながら門をはいって来たのを、女房らは片腹痛がり、
  Hi takaku naru hodo ni, mukahe no hito ki tari. Kuruma hutatu, muma naru hitobito no, rei no, araraka naru siti, hatinin. Wonoko-domo ohoku, rei no, sinazinasikara nu kehahi, saheduri tutu iriki tare ba, hitobito kataharaitagari tutu,
2.7.7  「 あなたに隠れよ
 「あちらに隠れなさい」
 見えぬ所へはいっているよう
  "Anata ni kakure yo."
2.7.8  と 言はせなどす。右近、「 いかにせむ殿なむおはする、と言ひたらむに、京にさばかりの人の おはし、おはせず、おのづから聞きかよひて、隠れなきこともこそあれ」と思ひて、この人びとにも、ことに言ひ合はせず、返り事書く。
 と言わせたりする。右近は、「どうしよう。殿がおいでになっている、と言った時、京にはそれほどの身分の方がいらっしゃる、いらっしゃらないというのは、自然と知られていて、隠せないことかも知れない」と思って、この女房たちにも、特に相談せずに、返事を書く。
 に言ってやりなどしていた。右近はどうすればいいことであろう、殿様が来ておいでになると言っても、あれほどの大官が京から離れていることはだれの耳にもはいっていることであろうからと思い、他の女房と相談することもせず手紙を常陸ひたち夫人へ書くのであった。
  to ihase nado su. Ukon, "Ikani se m? Tono nam ohasuru, to ihi tara m ni, kyau ni sabakari no hito no ohasi, ohase zu, onodukara kiki kayohi te, kakure naki koto mo koso are." to omohi te, kono hitobito ni mo, koto ni ihiahase zu, kaherigoto kaku.
2.7.9  「 昨夜より穢れさせたまひて、いと口惜しきことを思し嘆くめりしに、今宵、夢見騒がしく見えさせたまひつれば、今日ばかり慎ませたまへとてなむ、物忌にてはべる。返す返す、口惜しく、ものの妨げのやうに見たてまつりはべる」
 「昨夜から穢れなさって、とても残念なこととお嘆きになっていらっしゃったのですが、昨夜、悪い夢を御覧あそばしたので、今日一日はお慎みなさいと言って、物忌をいたしております。返す返すも、残念で、悪夢が邪魔しているように拝見いたしております」
 昨夜からおけがれのことが起こりまして、おまいりがおできになれなくなりましたことで残念に思召おぼしめすのでございましたが、その上昨晩は悪いお夢を御覧になりましたそうですから、せめて今日一日を謹慎日になさいませと申しあげましたのでお引きこもりになっておられます。返す返すお詣りのやまりましたことを私どもも残り惜しく思っております。何かの暗示でこれはあるいは実行あそばさないほうがよいのかとも存ぜられます。
  "Yobe yori kegare sase tamahi te, ito kutiwosiki koto wo obosi nageku meri si ni, koyohi, yumemi sawagasiku miye sase tamahi ture ba, kehu bakari tutusima se tamahe tote nam, monoimi nite haberu. Kahesugahesu, kutiwosiku, mono no samatage no yau ni mi tatematuri haberu."
2.7.10  と書きて、人びとに物など食はせてやりつ。尼君にも、
 と書いて、人びとに食事をさせてやった。尼君にも、
 これが済んでから右近は常陸家の人々に食事をさせたりした。弁の尼のほうにも
  to kaki te, hitobito ni mono nado kuhase te yari tu. AmaGimi ni mo,
2.7.11  「 今日は物忌にて、渡りたまはぬ
 「今日は物忌で、お出かけなさいません」
 にわかに物忌ものいみになって出かけぬ
  "Kehu ha monoimi nite, watari tamaha nu."
2.7.12  と言はせたり。
 と言わせた。
 ということを言ってやった。
  to ihase tari.
注釈241母君もやみづからおはする右近の心中。2.7.1
注釈242夢見騒がしかりつ右近の詞。周囲の人に言った。2.7.1
注釈243まかなひめざましう思されて主語は匂宮。右近一人の介添えを不満に思う。2.7.1
注釈244そこに洗はせたまはば匂宮の詞。「そこ」は浮舟をさす。『集成』は「あなたがお洗いになったら(そのあとで私が)」。『完訳』は「あなたが先に、と譲る。その心やさしさが、浮舟を感動させる」と注す。2.7.2
注釈245『完訳』は「恋の場面を強調する呼称。以下、この呼称の多出する点に注意」と注す。2.7.3
注釈246いとさまよう心にくき人を薫をいう。『集成』は「一分の隙もなく奥ゆかしい人」。『完訳』は「好ましく奥ゆかしい人」と訳す。2.7.3
注釈247見ざらむに明融臨模本は「見さらむ(む+は)に(に$)」とある。すなわち「は」を補訂し、「に」をミセケチにする。『集成』『完本』は諸本と底本の訂正前本文に従って「見ざらむに」と校訂する。『新大系』は底本の訂正に従って「見ざらむは」とする。2.7.3
注釈248思し焦がるる人匂宮。2.7.3
注釈249心ざし深しとはかかるを言ふにやあらむ浮舟の心中の思い。2.7.3
注釈250あやしかりける身かな以下「いかに思さむ」まで、浮舟の心中の思い。2.7.3
注釈251いかに思さむ主語は中君、薫、母親たち。2.7.3
注釈252まづかの上の御心を『完訳』は「真っ先に中の君を思い起す点に注意。匂宮の妻であり、自分を世話してくれた義理もある」と注す。2.7.3
注釈253知らぬを以下「あはれなるべき」まで、匂宮の詞。浮舟の素姓を知らないので。なお、『集成』は「返す返す」から匂宮の詞とする。2.7.4
注釈254わりなう問ひたまへどその御いらへは絶えてせず『完訳』は「光源氏と夕顔との恋に類似」と注す。2.7.5
注釈255迎への人浮舟の母からの迎え。2.7.6
注釈256あなたに隠れよ迎えの人々に対して言った詞。2.7.7
注釈257言はせなどす『集成』は「女房が直接言うのでなく、下働きの者を通じて伝えさせるので、こう言う」と注す。2.7.8
注釈258いかにせむ以下「こそあれ」まで、右近の心中の思い。2.7.8
注釈259殿なむおはする「殿」は薫をさす。2.7.8
注釈260おはしおはせずいらっしゃる、いらっしゃらないは、の意。2.7.8
注釈261昨夜より穢れさせたまひて以下「見たてまつりはべる」まで、右近の手紙。「穢れ」は、生理の意。血を穢れとして忌んだ。2.7.9
注釈262今日は物忌にて渡りたまはぬ右近の詞。浮舟の母君への伝言。2.7.11
2.8
第八段 匂宮と浮舟、一日仲睦まじく過ごす


2-8  Niou-no-miya and Ukifune have a harmonious day

2.8.1  例は暮らしがたくのみ、霞める山際を眺めわびたまふに、暮れ行くはわびしくのみ 思し焦らるる人 に惹かれたてまつりて、いとはかなう暮れぬ。紛るることなくのどけき春の日に、 見れども見れども飽かず、そのことぞとおぼゆる隈なく、愛敬づきなつかしくをかしげなり。
 いつもは時間のたつのも長く感じられ、霞んでいる山際を眺めながら物思いに耽っていたのに、日の暮れて行くのが侘しいとばかり思い焦がれていらっしゃる方に惹かれ申して、まことにあっけなく暮れてしまった。誰に妨げられることのない長い春の日を、いくら見てもいて見飽きず、どこがと思われる欠点もなく、愛嬌があって、慕わしく魅力的である。
 平生はつれづれで退屈で、かすんだ山ぎわの空ばかりをながめて時のたつのをもどかしがる姫君であるが、時のたち日の暮れていくのを真底からわびしがっておいでになる方のお気持ちが反映して、はかなく日の暮れてしまった気もした。ただ二人きりでおいでになって、春の一日の間見ても飽かぬ恋人を宮はながめてお暮らしになったのである。欠点と思われるところはどこにもない愛嬌あいきょうの多い美貌びぼうで女はあった。
  Rei ha kurasi gataku nomi, kasume ru yamagiha wo nagame wabi tamahu ni, kure yuku ha wabisiku nomi obosi ira ruru hito ni hika re tatematuri te, ito hakanau kure nu. Magiruru koto naku nodokeki haru no hi ni, mire domo mire domo aka zu, sono koto zo to oboyuru kuma naku, aigyauduki natukasiku wokasige nari.
2.8.2   さるは、かの対の御方には似劣りなり大殿の君の盛りに匂ひたまへるあたりにては、 こよなかるべきほどの人を、たぐひなう思さるるほどなれば、「また知らずをかし」とのみ見たまふ。
 その実は、あの対の御方には見劣りがするのである。大殿の姫君の女盛りで美しくいらっしゃる方に比べたら、お話にもならないほどの女なのに、二人といないと思っていらっしゃる時なので、「こんなによい女は他に知らない」とばかり思っていらっしゃる。
 そうは言っても二条の院の女王には劣っているのである。まして派手はでな盛りの花のような六条の夫人に比べてよいほどの容貌ではないが、たぐいもない熱情で愛しておいでになるお心から、まだ過去にも現在にも見たことのないような美人であると宮は思召した。
  Saru ha, kano Tai-no-Ohomkata ni ha ni otori nari. Ohotono-no-Kimi no sakari ni nihohi tamahe ru atari nite ha, koyonakaru beki hodo no hito wo, taguhi nau obosa ruru hodo nare ba, "Mata sira zu wokasi." to nomi mi tamahu.
2.8.3  女はまた、大将殿を、 いときよげに、またかかる人あらむやと見しかど、「 こまやかに匂ひきよらなることは、こよなくおはしけり」と見る。
 女はまた一方、大将殿を、とても美しそうで他にこのような方がいるだろうかと思っていたが、「情愛こまやかで輝くような美しさは、この上なくいらっしゃるなあ」と思う。
 姫君はまた清楚せいそ風采ふうさいの大将を良人おっとにして、これ以上の美男はこの世にないであろうと信じていたのが、どこもどこもきれいでおありになる宮は、その人にまさった美貌の方であると思うようになった。
  Womna ha mata, Daisyau-dono wo, ito kiyoge ni, mata kakaru hito ara m ya to mi sika do, "Komayaka ni nihohi kiyora naru koto ha, koyonaku ohasi keri." to miru.
2.8.4  硯ひき寄せて、 手習などしたまふ。いとをかしげに書きすさび、絵などを見所多く描きたまへれば、 若き心地には、思ひも移りぬべし
 硯を引き寄せて、手習などをなさる。たいそう美しそうに書き遊んで、絵などを上手にたくさんお描きになるので、若い女心には、愛情も移ることであろう。
 すずりを引き寄せて宮は紙へ無駄むだ書きをいろいろとあそばし、上手じょうずな絵などをいてお見せになったりするため、若い心はそのほうへ多く傾いていきそうであった。
  Suzuri hikiyose te, tenarahi nado si tamahu. Ito wokasige ni kaki susabi, we nado wo midokoro ohoku kaki tamahe re ba, wakaki kokoti ni ha, omohi mo uturi nu besi.
2.8.5  「 心より外に、え見ざらむほどは、これを見たまへよ」
 「思うにまかせず、お逢いになれない時は、この絵を御覧なさい」
 「逢いに来たくても私の来られない間はこれを見ていらっしゃいよ」
  "Kokoro yori hoka ni, e mi zara m hodo ha, kore wo mi tamahe yo."
2.8.6  とて、いとをかしげなる男女、もろともに添ひ臥したる画を描きたまひて、
 と言って、とても美しそうな男と女が、一緒に添い臥している絵を描きなさって、
 とお言いになり、美しい男と女のいっしょにいる絵をおきになって、
  tote, ito wokasige naru wotoko womna, morotomoni sohihusi taru kata wo kaki tamahi te,
2.8.7  「 常にかくてあらばや
 「いつもこうしていたいですね」
 「いつもこうしていたい」
  "Tuneni kakute ara baya!"
2.8.8  などのたまふも、 涙落ちぬ
 などとおっしゃるのにも、涙が落ちた。
 とお言いになると同時に涙をおこぼしになった。
  nado notamahu mo, namida oti nu.
2.8.9  「 長き世を頼めてもなほ悲しきは
   ただ明日知らぬ命なりけり
 「末長い仲を約束してもやはり悲しいのは
  ただ明日を知らない命であるよ
  「長き世をたのめてもなほ悲しきは
  ただ明日知らぬ命なりけり
    "Nagaki yo wo tanome te mo naho kanasiki ha
    tada asu sira nu inoti nari keri
2.8.10   いとかう思ふこそ、ゆゆしけれ。心に身をもさらにえまかせず、よろづにたばからむほど、まことに死ぬべくなむおぼゆる。つらかりし御ありさまを、なかなか何に尋ね出でけむ」
 まことにこのように思うのは、縁起でもないことだ。思いのままに訪ねることがまったくできず、万策めぐらすうちに、ほんとうに死んでしまいそうに思われる。つらかったご様子を、かえってどうして探し出したりしたのだろうか」
 こんなにまであなたが恋しいことから前途が不安に思われてなりませんよ。意志のとおりの行動ができないで、どうして来ようかと苦心を重ねる間に死んでしまいそうな気がします。あの冷淡だったあなたをそのままにしておかずに、どうして捜し出して再会を遂げたのだろう、かえって苦しくなるばかりだったのに」
  Ito kau omohu koso, yuyusikere. Kokoro ni mi wo mo sarani e makase zu, yoroduni tabakara m hodo, makoto ni sinu beku nam oboyuru. Turakari si ohom-arisama wo, nakanaka nani ni tadune ide kem."
2.8.11  などのたまふ。女、濡らしたまへる筆を取りて、
 などとおっしゃる。女は、濡らしていらっしゃる筆を取って、
 女は宮が墨をつけてお渡しになった筆で、
  nado notamahu. Womna, nurasi tamahe ru hude wo tori te,
2.8.12  「 心をば嘆かざらまし命のみ
   定めなき世と思はましかば
 「心変わりなど嘆いたりしないでしょう
  命だけが定めないこの世と思うのでしたら
  心をば歎かざらまし命のみ
  定めなき世と思はましかば
    "Kokoro wo ba nageka zara masi inoti nomi
    sadame naki yo to omoha masika ba
2.8.13  とあるを、「変はらむをば恨めしう思ふべかりけり」と見たまふにも、いとらうたし。
 とあるのを、「心変わりするのを恨めしく思うようだ」と御覧になるにつけても、まことにかわいらしい。
 と書いた。自分の恋の変わることを恐れる心があるらしいと、宮はこれを御覧になっていよいよ可憐にお思われになった。
  to aru wo, "Kahara m wo ba uramesiu omohu bekari keri." to mi tamahu ni mo, ito rautasi.
2.8.14  「 いかなる人の心変はりを見ならひて
 「どのような人の心変わりを見てなのか」
 「どんな人の変わりやすかったのに懲りたのですか」
  "Ikanaru hito no kokorogahari wo mi narahi te."
2.8.15  など、ほほ笑みて、大将のここに渡し初めたまひけむほどを、返す返すゆかしがりたまひて、問ひたまふを、苦しがりて、
 などと、にっこりして、大将がここに連れて来なさった当時のことを、繰り返し知りたくなって、お尋ねになるのを、つらく思って、
 などとほほえんでお言いになり、かおるがいつからここへ伴って来たのかと、その時を聞き出そうとあそばすのを女は苦しがって、
  nado, hohowemi te, Daisyau no koko ni watasi hazime tamahi kem hodo wo, kahesugahesu yukasigari tamahi te, tohi tamahu wo, kurusigari te,
2.8.16  「 え言はぬことを、かうのたまふこそ
 「申し上げられませんことを、このようにお尋ねになるとは」
 「私の申せませんことをなぜそんなにしつこくおきになりますの」
  "E iha nu koto wo, kau notamahu koso."
2.8.17  と、うち怨じたるさまも、若びたり。おのづからそれは聞き出でてむ、と思すものから、 言はせまほしきぞわりなきや
 と、恨んでいる様子も、若々しい。自然とそれは聞き出そう、とお思いになる一方で、言わせたく思うのも困ったことだ。
 と恨みを言うのも若々しく見えた。そのうちわかることであろうと思召しながら、直接今この人に言わせて見たいお気持ちになっておいでになるのであった。
  to, uti-wenzi taru sama mo, wakabi tari. Onodukara sore ha kiki ide te m, to obosu monokara, ihase mahosiki zo warinaki ya!
注釈263思し焦らるる人匂宮。2.8.1
注釈264見れども見れども飽かず『湖月抄』は「春霞たなびく山の桜花見れどもあかぬ君にもあるかな」(古今集恋四、六八四、紀友則)を引歌として指摘。2.8.1
注釈265さるはかの対の御方には似劣りなり明融臨模本は「にをとりなり」とある。『完本』は諸本と底本の訂正前本文に従って「劣りたり」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「似劣りなり」とする。『全集』は「語り手の言葉。恋に盲いた匂宮の心に即した叙述をひるがえし、その主観的偏向を読者に気づかせる筆づかい」。『完訳』は「前述から翻った語り手の評言」と注す。2.8.2
注釈266大殿の君の盛りに匂ひたまへるあたり夕霧の娘六の君。匂宮の正室。2.8.2
注釈267こよなかるべきほどの人を『集成』は「お話にもならない人なのに」。『完訳』は「比べられぬほど浮舟は劣るとする」と注す。2.8.2
注釈268いときよげにまたかかる人あらむや浮舟の薫に対する感想。2.8.3
注釈269こまやかに以下「おはしけり」まで、浮舟の匂宮に対する感想。「おはしけり」の「けり」は詠嘆の意。2.8.3
注釈270手習などしたまふ主語は匂宮。2.8.4
注釈271若き心地には思ひも移りぬべし『岷江入楚』は「草子の地なり」と指摘。『完訳』は「浮舟は二十二歳」と注す。十分な成人である。2.8.4
注釈272心より外に以下「見たまへよ」まで、匂宮の詞。2.8.5
注釈273常にかくてあらばや匂宮の詞。2.8.7
注釈274涙落ちぬ『集成』は「匂宮は」。『完訳』は「女は涙がこぼれた」と注す。2.8.8
注釈275長き世を頼めてもなほ悲しきは--ただ明日知らぬ命なりけり匂宮から浮舟への贈歌。2.8.9
注釈276いとかう思ふこそ以下「尋ね出でけむ」まで、歌に続けた匂宮の詞。2.8.10
注釈277心をば嘆かざらまし命のみ--定めなき世と思はましかば浮舟の返歌。「命」「世」の語句を受けて返す。『完訳』は「「--ましかば--まし」の反実仮想の構文で、倒置法。命の移ろいやすいだけの世だとしたら、として、宮の不訪の言い訳を恨む歌」と注す。2.8.12
注釈278いかなる人の心変はりを見ならひて匂宮の詞。暗に薫をさして言う。2.8.14
注釈279え言はぬことをかうのたまふこそ浮舟の詞。2.8.16
注釈280言はせまほしきぞわりなきや『休聞抄』は「双」と指摘。『集成』は「本人の口から言わせたいとは、困ったものです。匂宮の蕩児ぶりをからかい気味に言う草子地」。『完訳』は「語り手の評言。無理強いをする匂宮の好色ぶりを強調」と注す。2.8.17
出典3 見れども見れども飽かず 春霞たなびく山の桜花見れども飽かぬ君にもあるかな 古今集恋四-六八四 紀友則 2.8.1
校訂8 思し焦らるる 思し焦らるる--おほしはゝか(はゝか/$いら)るゝ 2.8.1
2.9
第九段 翌朝、匂宮、京へ帰る


2-9  Next morning, Niou-no-miya goes back to Kyoto

2.9.1  夜さり、京へ遣はしつる 大夫参りて、右近に会ひたり。
 夜になって、京へ遣わした大夫が帰参して、右近に会った。
 夜になってから京へいったんお帰しになった時方ときかたが来て右近に面会した。
  Yosari, kyau he tukahasi turu Taihu mawiri te, Ukon ni ahi tari.
2.9.2  「 后の宮よりも御使参りて、右の大殿もむつかりきこえさせたまひて、『人に知られさせたまはぬ御ありきは、いと軽々しく、なめげなることもあるを、すべて、内裏などに聞こし召さむことも、身のためなむいとからき』といみじく申させたまひけり。東山に聖御覧じにとなむ、人にはものしはべりつる」
 「后の宮からもご使者が参って、右の大殿もご不満を申されて、『誰にも知らせあそばさぬお忍び歩きは、まことに軽々しく、無礼な行為に遭うこともあるのを、総じて、帝などがお耳にあそばすことも、わが身にとってもまことにつらい』とひどくおっしゃっていました。東山に聖僧にお会に行ったと、皆には申しておきました」
 「中宮ちゅうぐう様からもお使いがまいっておりました。左大臣も機嫌きげんを悪くなさいまして、だれにもお行き先をお言いにならぬような微行をなさるのは軽率で、無礼者にどこでお逢いになるかもしれぬことになって、おかみの耳にはいれば自分の落ち度になるからとやかましくおっしゃいました。東山にえらい上人しょうにんがあるという話をお聞きになって逢いにおいでになったのですと、私は披露ひろうしておきました」
  "Kisai-no-Miya yori mo ohom-tukahi mawiri te, Migi-no-Ohotono mo mutukari kikoyesase tamahi te, 'Hito ni sira re sase tamaha nu ohom-ariki ha, ito karogarosiku, namege naru koto mo aru wo, subete, Uti nado ni kikosimesa m koto mo, mi no tame nam ito karaki' to imiziku mausa se tamahi keri. Himgasiyama ni hiziri goranzi ni to nam, hito ni ha monosi haberi turu."
2.9.3  など語りて、
 などと話して、
 こう宮へ取り次がせることを述べたあとで、
  nado katari te,
2.9.4  「 女こそ罪深うおはする ものはあれ。すずろなる眷属の人をさへ惑はしたまひて、虚言をさへせさせたまふよ」
 「女というものは罪深くいらっしゃるものです。何でもない家来までうろうろさせなさって、嘘までつかせなさるよ」
 「女の方は罪の深いものですね。私のようなきまじめな者さえその圏内へお引き入れになって作り事までお言わせになりますからね」
  "Womna koso tumi hukau ohasuru mono ha are. Suzuro naru kenzoku no hito wo sahe madohasi tamahi te, soragoto wo sahe se sase tamahu yo!"
2.9.5  と言へば、
 と言うと、
 と時方は右近へ言った。
  to ihe ba,
2.9.6  「 聖の名をさへつけきこえさせたまひてければ、いとよし。 私の罪もそれにて滅ぼしたまふらむ。まことに、いと あやしき御心の、げに、いかでならはせたまひけむ。かねてかうおはしますべしと承らましにも、いとかたじけなければ、たばかりきこえさせてましものを。奥なき御ありきにこそは」
 「聖と呼んでくださったのは、とても結構な。あなた個人の嘘をついた罪も、その功徳で帳消しなさりましょう。ほんとうに、とても困ったご性質で、おっしゃるとおり、いったいどうしてそのような癖がおつきになったのでしょう。前々からこのようにいらっしゃると聞いておりましたら、とても恐れ多いことですから、うまくお取り計らい申し上げましたでしょうに。無分別なご外出ですこと」
 「上人にしてお置きになったのはよろしゅうございましたわね、あなたのうその罪もそれで消滅することになるでしょう。ほんとうに意外なことを意外な時に宮様はお思いつきになったものでございますわね。前からおいでになりたいという思召しをらしてお置きくださいましたら、もったいない方でいらっしゃるのですもの、どうにかいい取り計らいようもありましたのに、御思案の足らない御行動でございましたわね」
  "Hiziri no na wo sahe tuke kikoyesase tamahi te kere ba, ito yosi. Watakusi no tumi mo, sore ni te horobosi tamahu ram. Makoto ni, ito ayasiki mi-kokoro no, geni, ikade naraha se tamahi kem. Kanete kau ohasimasu besi to uketamahara masi ni mo, ito katazikenakere ba, tabakari kikoyesase te masi mono wo. Aunaki ohom-ariki ni koso ha."
2.9.7  と、 扱ひきこゆ
 と、お困り申す。

  to, atukahi kikoyu.
2.9.8   参りて、「さなむ」とまねびきこゆれば、「 げに、いかならむ」と、思しやるに、
 帰参して、「これこれです」と申し上げると、「なるほど、どんなに騒いでいるだろう」と、ご想像になって、
 右近は礼儀としての好意を表して言った。そして居間のほうへ行き、聞いたとおりを宮へ申し上げた。中宮の御心配あそばされること、左大臣の言葉も道理にお思われになり、姫君へ、
  Mawiri te, "Sa nam." to manebi kikoyure ba, "Geni, ikanara m?" to, obosiyaru ni,
2.9.9  「 所狭き身こそ わびしけれ。軽らかなるほどの殿上人などにて、しばしあらばや。いかがすべき。かうつつむべき人目も、え憚りあふまじくなむ。
 「窮屈な身分はつらいものだ。軽い身分の殿上人などで、しばらくいたいものだ。どうしたらよいだろうか。このように慎むべき外聞も、構ってはいられない。
 「私は窮屈そのもののような身の上がわびしくてならない。軽い殿上役人級の地位にしばらく置いてほしい。これからどうすればいいのでしょう。このうるさいことをはばかって出て来ないでおられる私とは思われない。
  "Tokoroseki mi koso wabisikere. Karoraka naru hodo no Tenzyaubito nado nite, sibasi ara baya! Ikaga su beki? Kau tutumu beki hitome mo, e habakari ahu maziku nam.
2.9.10  大将もいかに思はむとすらむ。 さるべきほどとは言ひながら、あやしきまで、昔より睦ましき仲に、かかる心の隔ての知られたらむ時、恥づかしう、またいかにぞや。
 大将もどのように思うであろうか。親しくて当然と言ってよいながら、不思議なまでに昔から親しい仲で、このような秘密が知られた時は、恥ずかしく、またどんなであろうか。
 大将も聞けばどんなに感情を害することだろう。濃い親戚しんせき関係とはいうものの不思議なくらい少年時代から仲よくつきあってきた人に、こうした秘密が知れれば恥ずかしいことだろうと思う。
  Daisyau mo ikani omoha m to su ram? Sarubeki hodo to ha ihi nagara, ayasiki made, mukasi yori mutumasiki naka ni, kakaru kokoro no hedate no sira re tara m toki, hadukasiu, mata ikani zo ya?
2.9.11   世のたとひに言ふこともあれば、待ち遠なる わがおこたりをも知らず、怨みられたまはむをさへなむ思ふ。夢にも人に知られたまふまじきさまにて、ここならぬ所に率て離れたてまつらむ」
 世のたとえに言うこともあるので、待ち遠しがらせている自分の怠慢を顧みずに、あなたが恨まれなさるだろうとまで心配になります。まったく誰にも知られぬ状態で、ここではない所にお連れ申し上げよう」
 それからまた男は身勝手で自己の不誠意はたなへ上げて女の変心したのを責めるものだというから、自身の愛の足りなかったことは反省せずに、あなたが恨まれることになりはしないかということまで心配されますよ。夢にも人に知られないようにして、ここでない所へあなたをつれて行ってしまおうと私は考えていますよ」
  Yo no tatohi ni ihu koto mo are ba, matidoho naru waga okotari wo mo sira zu, urami rare tamaha m wo sahe nam omohu. Yume ni mo hito ni sira re tamahu maziki sama nite, koko nara nu tokoro ni wi te hanare tatematura m."
2.9.12  とぞのたまふ。 今日さへかくて籠もりゐたまふべきならねば、出でたまひなむとするにも、 袖の中にぞ留めたまひつらむかし
 とおっしゃる。今日までもここにじっとしていらっしゃるわけにはいかないので、お出になろうとするにも、魂は女の袖の中にお残しになって行くのであろう。
 とお言いになった。次の日もとどまっておいでになることはできなかったから、帰ろうとあそばすのであったが、魂は恋人のそでの中にとどめてお置きになるように見えた。
  to zo notamahu. Kehu sahe kakute komori wi tamahu beki nara ne ba, ide tamahi na m to suru ni mo, sode no naka ni zo todome tamahi tu ram kasi.
2.9.13  明け果てぬ前にと、人びとしはぶき驚かしきこゆ。妻戸にもろともに率ておはして、え出でやりたまはず。
 すっかり明けない前にと、供人たちは咳払いをしてお促し申す。妻戸まで一緒に連れてお出でになって、とても外にお出になれない。
 せめて明るくならぬうちにとお供の人たちはせき払いをしてお促しするのであった。妻戸の所へ女をいっしょにつれておいでになって、さてそこから別れてお行きになることがおできにならない。
  Ake hate nu saki ni to, hitobito sihabuki odorokasi kikoyu. Tumado ni morotomoni wi te ohasi te, e ide yari tamaha zu.
2.9.14  「 世に知らず惑ふべきかな先に立つ
   涙も道をかきくらしつつ
 「いったいどうしてよいか分からない
  先に立つ涙が道を真暗にするので
  世に知らず惑ふべきかな
  先に立つ涙も道をかきくらしつつ
    "Yo ni sira zu madohu beki kana saki ni tatu
    namida mo miti wo kaki-kurasi tutu
2.9.15  女も、限りなくあはれと思ひけり。
 女も、限りなく悲しいと思った。
 女も限りなく別れを悲しんだ。
  Womna mo, kagirinaku ahare to omohi keri.
2.9.16  「 涙をもほどなき袖にせきかねて
   いかに別れをとどむべき身ぞ
 「涙も狭い袖では抑えかねますので
  どのように別れを止めることができましょうか
  涙をもほどなきそでにせきかねて
  いかに別れをとどむべき身ぞ
    "Namida wo mo hodo naki sode ni seki kane te
    ikani wakare wo todomu beki mi zo
2.9.17  風の音もいと荒ましく、 霜深き暁に、おのが衣々も 冷やかになりたる心地して、御馬に乗りたまふほど、引き返すやうにあさましけれど、御供の人びと、「いと 戯れにくし」と思ひて 、ただ急がしに急がし出づれば、我にもあらで出でたまひぬ。
 風の音もとても荒々しく、霜の深い早朝に、お互いの衣装も冷たくなった気がして、お馬にお乗りになるとき、引き返す気持ちのようで驚くほどつらいが、お供の人々が、「まったく冗談ではない」と思って、ひたすら急がして出発させたので、魂の抜けた思いでお出になった。
 風の音も荒くなっていた霜の深い暁に、衣服さえも冷やかな触感を与えるとお覚えになり、宮は馬へお乗りになったものの、何度となく引き返したくおなりになったのを、お供の人がしいて冷酷に心を持ちお馬を急がせてまた歩ませたために、お心でもなく山荘を後ろにあそばすことになった。
  Kaze no oto mo ito aramasiku, simo hukaki akatuki ni, onoga kinuginu mo hiyayaka ni nari taru kokoti si te, ohom-muma ni nori tamahu hodo, hikikahesu yau ni asamasikere do, ohom-tomo no hitobito, "Ito tawaburenikusi." to omohi te, tada isogasi ni isogasi idure ba, ware ni mo ara de ide tamahi nu.
2.9.18   この五位二人なむ、御馬の口にはさぶらひける。さかしき山越え出でてぞ、おのおの馬には乗る。みぎはの氷を踏みならす馬の足音さへ、心細くもの悲し。 昔もこの道にのみこそは、かかる山踏みはしたまひしかば、「 あやしかりける里の契りかな」と思す。
 この五位の二人が、お馬の口取りとして仕えた。険しい山道をすっかり越えて、それぞれの馬に乗る。水際の氷を踏みならす馬の足音までが、心細く何となく悲しい。以前もこの道だけは、このような山歩きもなさったので、「不思議な宿縁の山里だなあ」とお思いになる。
 時方ともう一人の五位が馬の口を取っていたのである。けわしい所を越えてから自身らも馬に乗った。宇治川のみぎわの氷を踏み鳴らす馬の足音すらも宮のお心を悲しませた。昔もこの道だけで山踏みをした自分である、不思議な因縁の続く宇治の道ではないかと思召おぼしめした。
  Kono Gowi hutari nam, ohom-muma no kuti ni ha saburahi keru. Sakasiki yamagoye ide te zo, onoono muma ni ha noru. Migiha no kohori wo humi narasu muma no asioto sahe, kokorobosoku mono-ganasi. Mukasi mo kono miti ni nomi koso ha, kakaru yamabumi ha si tamahi sika ba, "Ayasikari keru sato no tigiri kana!" to obosu.
注釈281大夫参りて大夫時方。前に「(六位)蔵人よりかうぶり得たる」と五位になった大内記時方である。2.9.1
注釈282后の宮よりも以下「ものしはべりつる」まで、時方の詞。2.9.2
注釈283女こそ以下「せさせたまふよ」まで、引き続き時方の詞。2.9.4
注釈284ものはあれ明融臨模本は「もの(の+に)はあれ」とある。すなわち「に」を補訂する。『集成』『完本』は諸本と底本の訂正前本文に従って「ものは」と校訂する。『新大系』は底本の補入に従って「ものには」と校訂する。2.9.4
注釈285聖の名をさへ以下「御ありきにこそは」まで、右近の詞。『完訳』は「浮舟を「聖」とまで読んでくれたとは上出来、とからかう」と注す。2.9.6
注釈286私の罪も『集成』は「ご家来の嘘つきの罪。仏教では、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒を五悪とする。ここでは軽口」と注す。2.9.6
注釈287それにて滅ぼしたまふらむ『完訳』は「時方が嘘をついた罪障も、浮舟を聖扱いした功徳で消えよう」と注す。2.9.6
注釈288あやしき御心の匂宮の性分。2.9.6
注釈289扱ひきこゆ『集成』は「とやかく口出し申し上げる」。『完訳』は「お相手申している」と訳す。2.9.7
注釈290参りてさなむとまねびきこゆれば右近が匂宮のもとに参上して時方が言ったことをそのまま、の意。2.9.8
注釈291げにいかならむ匂宮の心中。都ではどんなに騒いでいるだろう、の意。2.9.8
注釈292所狭き身こそ以下「率て離れたてまつらむ」まで、匂宮の詞。2.9.9
注釈293わびしけれ明融臨模本は「わるしけれ」とある。『集成』『完本』『新大系』は諸本に従って「わびしけれ」と校訂する。「る」(留)は「ひ」(日)からの誤写であろう。2.9.9
注釈294さるべきほどとは『集成』は「親しいのは当然の叔父甥の間柄とはいえ」と注す。2.9.10
注釈295世のたとひに言ふことも『集成』は「以下の文意によれば、「自分のことは棚に上げて他人の行為を咎める」といったこと」と注す。2.9.11
注釈296わがおこたりをも知らず怨みられたまはむを「わがおこたり」は薫のそれ。「怨みられ」の「られ」は受身の助動詞、薫から浮舟が恨まれる。「給ふ」は浮舟に対する敬意。2.9.11
注釈297今日さへかくて『完訳』は「今日で三日目になる」と注す。2.9.12
注釈298袖の中にぞ留めたまひつらむかし『源氏釈』は「あかざりし袖の中にや入りにけむ我が魂のなき心地する」(古今集雑下、九九二、陸奥)を指摘。明融臨模本も付箋で同歌を指摘。三光院「草子地に推してかけり」と指摘。2.9.12
注釈299世に知らず惑ふべきかな先に立つ--涙も道をかきくらしつつ匂宮から浮舟への贈歌。「世」「夜」の懸詞。「夜」「惑ふ」「立つ」「道」は縁語。2.9.14
注釈300涙をもほどなき袖にせきかねて--いかに別れをとどむべき身ぞ浮舟の返歌。「涙」の語句を受けて返す。2.9.16
注釈301霜深き暁におのが衣々も『源氏釈』は「しののめのほがらほがらと明けゆけばおのが衣ぎぬなるぞ悲しき」(古今集恋三、六三七、読人しらず)を指摘。2.9.17
注釈302戯れにくしと思ひて『評釈』は「ありぬやと心見がてらあひ見ねばたはぶれにくきまでぞ恋しき」(古今集俳諧、一〇二五、読人しらず)を指摘。2.9.17
注釈303この五位二人大内記と時方。2.9.18
注釈304昔もこの道に中君のもとに通ったころ。2.9.18
注釈305あやしかりける里の契りかな匂宮の感想。2.9.18
出典4 袖の中にぞ留め 飽かざりし袖の中にや入りにけむわが魂のなき心地する 古今集雑下-九九二 陸奥 2.9.12
出典5 おのが衣々 しののめのほがらほがらと明け行けばおのがきぬぎぬなるぞ悲しき 古今集恋三-六三七 読人しらず 2.9.17
出典6 戯れにくし ありぬやとこころみがてら逢ひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき 古今集俳諧歌-一〇二五 読人しらず 2.9.17
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渋谷栄一校訂(C)
Last updated 8/8/2011(ver.2-2)
渋谷栄一注釈(ver.1-1-2)
Last updated 4/30/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
柳沢成雄(青空文庫)

2005年2月23日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年9月15日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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