第五十四帖 夢浮橋


54 YUME-NO-UKIHASI (Ohoshima-bon)


薫君の大納言時代
二十八歳の夏の物語



Tale of Kaoru's Dainagon era, in summer at the age of 28

2
第二章 浮舟の物語 浮舟、小君との面会を拒み、返事も書かない


2  Tale of Ukifune  Ukifune refused to meet her brother and to reply to Kaoru

2.1
第一段 薫、浮舟のもとに小君を遣わす


2-1  Kaoru sends Ko-gimi to meet his sister Ukifune

2.1.1   かの殿は、「この子をやがてやらむ」と思しけれど、人目多くて便なければ、殿に帰りたまひて、またの日、ことさらにぞ出だし立てたまふ。 睦ましく思す人の、ことことしからぬ二、三人、送りにて、昔も常に遣はしし 随身添へたまへり。人聞かぬ間に呼び寄せたまひて、
 あの殿は、「この子をそのまま遣わそう」とお思いになったが、人目が多くて不都合なので、殿にお帰りになって、翌日、特別に出発させなさる。親しくお思いになる人で、大した身分でない者を二、三人、付けて、昔もいつも使者としていた随身をお加えになった。人が聞いていない間にお呼び寄せになって、
 薫は常陸の子を帰途にすぐ小野の家へやろうと思ったのであるが、従えている人の多いために避けてやしきへ帰り、翌朝になってから僧都の手紙を持たせてやることにして、きわめて親しく思う人で、おおぎょうにならぬもの二、三人だけを付け、昔も宇治の使いをよくさせた随身も添えてやるのであった。聞く人のない時に、その子を薫はそばへ呼んで、
  Kano Tono ha, "Kono ko wo yagate yara m." to obosi kere do, hitome ohoku te binnakere ba, tono ni kaheri tamahi te, matanohi, kotosarani zo idasi tate tamahu. Mutumasiku obosu hito no, kotokotosikara nu ni, samnin, okuri nite, mukasi mo tuneni tukahasi si zuizin sohe tamahe ri. Hito kika nu ma ni yobiyose tamahi te,
2.1.2  「 あこが亡せにし姉の顔は、おぼゆや。今は世に亡き人と思ひ果てにしを、いと確かにこそ、ものしたまふなれ。疎き人には聞かせじと思ふを、行きて尋ねよ。母に、いまだしきに言ふな。なかなか驚き騒がむほどに、 知るまじき人も知りなむ。その親の御思ひのいとほしさにこそ、かくも尋ぬれ」
 「そなたの亡くなった姉の顔は、覚えているか。今はこの世にいない人と諦めていたが、まことに確かに、生きていらっしゃると言うのだ。他人には聞かせまいと思うので、行って確かめよ。母にも、まだ言ってはならない。かえって驚いて大騒ぎするうちに、知ってはならない人まで知ってしまおう。その母親のお嘆きがおいたわしいので、このようにして確かめるのだ」
 「おまえの亡くなった姉様の顔は覚えているか、もう死んだ人だとあきらめていたのだが、確かに生きていられるのだよ。ほかの人たちには知らしたくないと思っているのだから、おまえが行って逢って来るがいい。母にはまだ今のうちは言わないほうがいい。驚いて大騒ぎをするだろうから、そんなことはかえって知らない人にまでいろいろなことを知らせてしまうことになるよ。母の悲しみを思って私はあの人を捜し出すのにこんなに骨を折っているのだ。ある時までは口外するな」
  "Ako ga use ni si imouto no kaho ha, oboyu ya? Ima ha yo ni naki hito to omohi hate ni si wo, ito tasikani koso, monosi tamahu nare. Utoki hito ni ha kika se zi to omohu wo, iki te tadune yo. Haha ni, imadasiki ni ihu na. Nakanaka odoroki sawaga m hodo ni, siru maziki hito mo siri na m. Sono oya no mi-omohi no itohosisa ni koso, kaku mo tadunure."
2.1.3  と、まだきにいと口固めたまふを、幼き心地にも、 姉弟は多かれどこの君の容貌をば、似るものなしと 思ひしみたりしに、亡せたまひにけりと聞きて、いと悲しと思ひわたるに、かくのたまへば、うれしきにも涙の落つるを、恥づかしと思ひて、
 と、今からもう厳重に口封じなさるのを、子供心にも、姉弟は多いが、この姉君の器量を、他に似る者がないと思い込んでいたので、お亡くなりになったと聞いて、とても悲しいと思い続けていたが、このようにおっしゃるので、嬉しさに涙が落ちるのを、恥ずかしいと思って、
 といましめるのを聞いて、子供心にも、兄弟は多いが上の姫君の美に及ぶ人はだれもないと思い込んでいたところが、死んでしまったと聞き非常に悲しいことであるといつもいつも思っているのに、こんなうれしい話を知ったのであるから感激して涙もこぼれてくるのを、恥ずかしいと思い、
  to, madaki ni ito kutigatame tamahu wo, wosanaki kokoti ni mo, harakara ha ohokare do, kono Kimi no katati wo ba, niru mono nasi to, omohisimi tari si ni, use tamahi ni keri to kiki te, ito kanasi to omohi wataru ni, kaku notamahe ba, uresiki ni mo namida no oturu wo, hadukasi to omohi te,
2.1.4  「 を、を
 「はい、はい」
 「はあい」
  "Wo, wo."
2.1.5  と 荒らかに聞こえゐたり
 とぶっきらぼうに申し上げた。
 と荒々しい声を出して紛らした。
  to ararakani kikoye wi tari.
2.1.6  かしこには、まだつとめて、僧都の御もとより、
 あちらでは、まだ早朝に、僧都の御もとから、
 小野の家へはまだ早朝に僧都の所から、
  Kasiko ni ha, mada tutomete, Soudu no ohom-moto yori,
2.1.7  「 昨夜、大将殿の御使にて、小君や参うでたまへりし。 ことの心承りしにあぢきなく、かへりて臆しはべりてなむ、と 姫君に聞こえたまへ。みづから聞こえさすべきことも多かれど、今日明日過ぐしてさぶらふべし」
 「昨夜、大将殿のお使いで、小君が参られたでしょうか。事情をお聞き致しまして、困ったことで、かえって気後れしておりますと、姫君に申し上げてください。拙僧自身で申し上げなければならないことも多いが、今日明日が過ぎてから伺いましょう」
 昨夜大将のお使いで小君こぎみがおいでになりましたか。お家のことなどくわしいお話を伺って茫然ぼうぜんとなり、恐縮しておりますと姫君に申し上げてください。私自身がまいって申し上げたいこともたくさんあるのですが、今日明日を過ごしてから伺います。
  "Yobe, Daisyau-dono no ohom-tukahi nite, KoGimi ya maude tamahe ri si. Koto no kokoro uketamahari si ni, adikinaku, kaherite okusi haberi te nam, to HimeGimi ni kikoye tamahe. Midukara kikoyesasu beki koto mo ohokare do, kehu asu sugusi te saburahu besi."
2.1.8  と書きたまへり。「 これは何ごとぞ」と尼君驚きて、 こなたへもて渡りて 見せたてまつりたまへば面うち赤みて、「 ものの聞こえのあるにや」と苦しう、「もの隠ししける」と 恨みられむを思ひ続くるに、いらへむ方なくてゐたまへるに、
 と書いていらっしゃった。「これはどうしたことか」と尼君は驚いて、こちらに持って来てお見せ申し上げなさると、顔が赤くなって、「世間に知られたのではないか」とつらく、「隠し事をしていた」と恨まれることを思い続けると、答えようもなくてじっとしていらっしゃると、
 こんな手紙が尼君へ来た。驚いて姫君の所へ持って来て見せるとその人は顔を赤くして、自分のことが明らかに知れてしまったのであろうか、物隠しをし続けたと尼君に恨まれてもしかたのない義理の立たぬことであると思うと、返辞のしようもなくそのまま黙っていると、
  to kaki tamahe ri. "Kore ha nanigoto zo?" to AmaGimi odoroki te, konata he mote watari te mise tatematuri tamahe ba, omote uti-akami te, "Mono no kikoye no aru ni ya?" to kurusiu, "Mono kakusi si keru." to urami rare m wo omohi tudukuru ni, irahe m kata naku te wi tamahe ru ni,
2.1.9  「 なほ、のたまはせよ。心憂く思し隔つること
 「やはり、おっしゃってください。情けなく他人行儀ですこと」
 「今でもいいのですから言ってください。恨めしいお心ですね、私に隔てをお持ちになって」
  "Naho, notamaha se yo. Kokorouku obosi hedaturu koto."
2.1.10  と、いみじく恨みて、ことの心を知らねば、あわたたしきまで思ひたるほどに、
 と、ひどく恨んで、事情を知らないので、慌てるばかりの騷ぎのところに、
 と恨めしがるのであるが、何がどうであるかの理解はまだできないで、尼君はただわくわくとしているうちに、
  to, imiziku urami te, koto no kokoro wo sira ne ba, awatatasiki made omohi taru hodo ni,
2.1.11  「 山より、僧都の御消息にて、参りたる人なむある」
 「山から、僧都のお手紙といって、参上した人が来ました」
 「山の僧都のお手紙を持っておいでになった方があります」
  "Yama yori, Soudu no ohom-seusoko nite, mawiri taru hito nam aru."
2.1.12   と言ひ入れたり
 と申し入れた。
 と女房がしらせに来た。
  to ihi ire tari.
注釈76かの殿はこの子をやがてやらむと薫は小君を帰途の際に草庵に遣わそうと考えてみる。2.1.1
注釈77睦ましく思す人のことことしからぬ二三人薫の腹心の家来二、三人を小君のお供をさせる。格助詞「の」同格を表す。2.1.1
注釈78随身「浮舟」巻に登場した随身。かつて薫の手紙を浮舟に届けた人物。2.1.1
注釈79あこが亡せにし姉の以下「かくも尋ぬれ」まで、薫の詞。2.1.2
注釈80知るまじき人も知りなむ『完訳』は「真相を知ってはならぬ人。匂宮を念頭に置いていよう」と注す。2.1.2
注釈81姉弟は多かれど小君の姉弟。2.1.3
注釈82この君の容貌をば浮舟の美貌を。2.1.3
注釈83思ひしみたりしに主語は小君。2.1.3
注釈84をを『集成』は「「唯唯」の字を当てる。目上に対して応諾の旨を応える言葉」。『完訳』は「かしこまった態度での返事」と注す。2.1.4
注釈85荒らかに聞こえゐたり『集成』は「ぶっきらぼうに。涙を隠す気持からわざわざ乱暴に言う」と注す。2.1.5
注釈86昨夜大将殿の御使にて以下「さぶらふべし」まで、僧都から妹尼君への手紙文。僧都は昨夜の帰途中に小君を遣わしたかと推測して言う。2.1.7
注釈87ことの心承りしにことの真相。浮舟の失踪から入水。2.1.7
注釈88あぢきなくかへりて臆しはべりてなむ『集成』は「浮舟を出家させたことを、功徳になることであるにもかかわらず後悔している趣」と注す。2.1.7
注釈89姫君に聞こえたまへあなた妹尼君から浮舟へ。2.1.7
注釈90これは何ごとぞ妹尼君の心中。驚きと疑問。2.1.8
注釈91こなたへ浮舟のもとへ。ただし、妹尼君と浮舟は同じ対の屋に生活している。2.1.8
注釈92見せたてまつりたまへば妹尼君が浮舟に。2.1.8
注釈93面うち赤みて主語は浮舟。2.1.8
注釈94ものの聞こえのあるにや以下、浮舟の心中に即した叙述。2.1.8
注釈95恨みられむを「られ」受身の助動詞。浮舟が妹尼君から。2.1.8
注釈96なほのたまはせよ心憂く思し隔つること妹尼君の詞。2.1.9
注釈97山より僧都の以下「人なむある」まで、小君に同行した従者の、案内を乞う口上。2.1.11
注釈98と言ひ入れたりと言って差し入れた、の意。訪問者の詞であることがわかる。2.1.12
2.2
第二段 小君、小野山荘の浮舟を訪問


2-2  Kogimi calls on the Ono villa to meet Ukifune

2.2.1   あやしけれど、「 これこそは、さは、確かなる御消息ならめ」とて、
 不思議に思うが、「これこそは、それでは、確かなお手紙であろう」と思って、
 怪しく尼君は思うのであるが、今度のがものを分明にしてくれる兄の手紙であろう、使いでもあろうと思い、
  Ayasikere do, "Kore koso ha, saha, tasika naru ohom-seusoko nara me." tote,
2.2.2  「 こなたに
 「こちらに」
 「こちらへ」
  "Konata ni."
2.2.3  と言はせたれば、いときよげにしなやかなる童の、えならず装束きたるぞ、歩み来たる。円座さし出でたれば、簾のもとについゐて、
 と言わせなさると、とても小ぎれいでしなやかな童で、何とも言えないような着飾った者が、歩いて来た。円座を差し出すと、簾の側にちょこんと座って、
 と言わせると、きれいなきゃしゃな姿で美装したわらべが縁を歩いて来た。円座を出すと、御簾みすの所へひざをついて、
  to ihase tare ba, ito kiyogeni sinayaka naru waraha no, e nara zu sauzoki taru zo, ayumi ki taru. Warahuda sasi-ide tare ba, sudare no moto ni tui-wi te,
2.2.4  「 かやうにては、さぶらふまじくこそは、僧都は、のたまひしか」
 「このような形では、お持てなしを受けることはないと、僧都は、おっしゃっていました」
 「こんなふうなお取り扱いは受けないでいいように僧都はおっしゃったのでしたが」
  "Kayau nite ha, saburahu maziku koso ha, Soudu ha, notamahi sika."
2.2.5  と言へば、尼君ぞ、いらへなどしたまふ。文取り入れて見れば、
 と言うので、尼君が、お返事などなさる。手紙を中に受け取って見ると、
 その子はこう言った。尼君が自身で応接に出た。持参された僧都の手紙を受け取って見ると、
  to ihe ba, AmaGimi zo, irahe nado si tamahu. Humi tori ire te mire ba,
2.2.6  「 入道の姫君の御方に、山より
 「入道の姫君の御方へ、山から」
 入道の姫君の御方へ、山より
  "Nihudau-no-Himegimi no ohom-kata ni, yama yori."
2.2.7  とて、 名書きたまへり。あらじなど、あらがふべきやうもなし。
 とあって、署名なさっていた。人違いだ、などと否定することもできない。
 として署名が正しくしてあった。まちがいではないかということもできぬ気がして姫君は奥のほうへ引っ込んで、
  tote, na kaki tamahe ri. Ara zi nado, aragahu beki yau mo nasi.
2.2.8  いとはしたなくおぼえて、いよいよ引き入られて、人に顔も見合はせず。
 とても体裁悪く思えて、ますます後ずさりされて、誰にも顔を見せない。
 人に顔も見合わせない。平生も晴れ晴れしくふるまう人ではないが、こんなふうであるために、
  Ito hasitanaku oboye te, iyoiyo hikiira re te, hito ni kaho mo mi ahase zu.
2.2.9  「 常にほこりかならずものしたまふ人柄なれど、いとうたて、心憂し」
 「いつも控え目でいらっしゃる人柄だが、とても嫌な、情ない方」
 「どうしたことでしょう」
  "Tuneni hokorika nara zu monosi tamahu hitogara nare do, ito utate, kokorousi."
2.2.10  など言ひて、僧都の御文見れば、
 などと言って、僧都の手紙を見ると、
 などと言い、尼君が僧都の手紙を開いて読むと、
  nado ihi te, Soudu no ohom-humi mire ba,
2.2.11  「 今朝、ここに大将殿のものしたまひて御ありさま尋ね問ひたまふに、初めよりありしやう詳しく聞こえはべりぬ。御心ざし深かりける御仲を背きたまひて、あやしき山賤の中に出家したまへること、 かへりては、仏の責め添ふべきことなるをなむ、承り驚きはべる。
 「今朝、こちらに大将殿がおいでになって、ご事情をお尋ねになるので、初めからの有様を詳しく申し上げてしまいました。ご愛情の深いお二方の仲を背きなさって、賤しい山家の中で出家なさったことは、かえって、仏のお叱りを受けるはずのことを、うかがって驚いています。
 今朝けさこの寺へ右大将殿がおいでになりまして、あなたのことをお聞きになりましたため、初めからのことをくわしく皆お話しいたしました。深い相思の人をお置きになって、いやしい人たちの中にまじり、出家をされましたことは、かえって仏がお責めになるべきことであるのを、お話から承知し、驚いております。
  "Kesa, koko ni Daisyau-dono no monosi tamahi te, ohom-arisama tadune tohi tamahu ni, hazime yori ari si yau kuhasiku kikoye haberi nu. Ohom-kokorozasi hukakari keru ohom-naka wo somuki tamahi te, ayasiki yamagatu no naka ni suke si tamahe ru koto, kaheri te ha, Hotoke no seme sohu beki koto naru wo nam, uketamahari odoroki haberu.
2.2.12  いかがはせむ。 もとの御契り過ちたまはで、愛執の罪をはるかしきこえたまひて 一日の出家の功徳は、はかりなきものなればなほ頼ませたまへとなむ。ことごとには、みづからさぶらひて申しはべらむ。かつがつ、 この小君聞こえたまひてむ
 しようがありません。もともとのご宿縁を間違いなさらず、愛執の罪をお晴らし申し上げなさって、一日の出家の功徳は、無量のものですから、やはりご期待なさいませと。詳細は、拙僧自身お目にかかって申し上げましょう。とりあえず、この小君が申し上げなさることでしょう」
 しかたのないことです。もとの夫婦の道へお帰りになって、一方が作る愛執の念を晴らさせておあげになり、なお一日の出家の功徳は無量とされているのですから、もとに帰られたあとも御仏をおたよりになされるがよろしいと私は申し上げます。いろいろのことはまた自身でまいって申し上げましょう。また十分ではなくてもこの小君が今日のことをあなたに通じてくださるかと思います。
  Ikagaha se m? Moto no ohom-tigiri ayamati tamaha de, aisihu no tumi wo harukasi kikoye tamahi te, hitohi no suke no kudoku ha, hakari naki mono nare ba, naho tanoma se tamahe to nam. Kotogotoni ha, midukara saburahi te mausi habera m. Katugatu, kono KoGimi kikoye tamahi te m."
2.2.13  と書いたり。
 と書いてあった。

  to kai tari.
注釈99あやしけれど『完訳』は「少し前に僧都からの消息が届いたばかりなのにと、不審な気持」と注す。2.2.1
注釈100これこそは以下「御消息ならめ」まで、妹尼君の心中の思い。2.2.1
注釈101こなたに妹尼君の詞。小君を中に招じ入れる。2.2.2
注釈102かやうにては以下「のたまひしか」まで、小君の詞。『集成』は「簀子の座というよそよそしい扱いに不満を述べる趣」と注す。2.2.4
注釈103入道の姫君の御方に山より手紙の上包の宛名と差出人名。2.2.6
注釈104名書きたまへり僧都の法名が書かれている。2.2.7
注釈105常にほこりかならず以下「うたて心憂し」まで、妹尼君の詞。2.2.9
注釈106今朝ここに大将殿のものしたまひて以下「小君聞こえたまひてむ」まで、僧都の手紙文。「今朝」とは昨日のこと。2.2.11
注釈107御ありさまあなた浮舟の身上について。2.2.11
注釈108かへりては仏の責め添ふべきことなる『集成』は「「かへりて」は、仏のおほめにあずかるどころではなく、かえって、の意。薫に愛執の思いの断ちがたいものがあることをいう」。『完訳』は「浮舟が薫の愛執を処理せずに出家したから」と注す。2.2.11
注釈109もとの御契り過ちたまはで愛執の罪をはるかしきこえたまひて『集成』は「もともとの(薫との)夫婦のご縁をお損いになることなく、(薫の)愛執の罪をお晴らし申し上げなさって。浮舟の還俗をすすめる趣旨」。『完訳』は「薫と結ばれるご縁をそこなわず、薫が浮舟を思う愛執の罪を晴らし申されて。「もとの御契り」は一説に、浮舟の前世依頼の宿縁」と注す。2.2.12
注釈110一日の出家の功徳ははかりなきものなれば『心地観経』他に見える。2.2.12
注釈111なほ頼ませたまへとなむ『集成』は「(還俗しても)なお安んじて(その功徳に)おすがりなさるようにと存じます」と注す。2.2.12
注釈112この小君聞こえたまひてむこの小君があなたに申し上げましょう、の意。2.2.12
校訂6 はるかし はるかし--はるか(か/+し<朱>) 2.2.12
2.3
第三段 浮舟、小君との面会を拒む


2-3  Ukifune refused to meet her brother

2.3.1  まがふべくもあらず、書き明らめたまへれど、異人は心も得ず。
 疑う余地もなく、はっきりお書きになっているが、他の人には事情が分からない。
 書面を見れば事が明瞭めいりょうになるはずであっても、姫君のほかの人はまだわけがわからぬとばかり思っていた。
  Magahu beku mo ara zu, kaki akirame tamahe re do, kotohito ha kokoro mo e zu.
2.3.2  「 この君は、誰れにかおはすらむ。なほ、いと心憂し。今さへ、かくあながちに隔てさせたまふ」
 「この君は、どなたでいらっしゃのだろう。やはり、とても情けない。今になってさえ、このようにひたすらお隠しになっている」
 「あの小君は何にあたる方ですか、恨めしい方、今になってもお隠しなさるのね」
  "Kono Kimi ha, tare ni ka ohasu ram? Naho, ito kokorousi. Ima sahe, kaku anagatini hedate sase tamahu."
2.3.3  と 責められて、すこし外ざまに向きて見たまへば、この子は、 今はと世を思ひなりし夕暮れに、いと恋しと思ひし人なりけり。 同じ所にて見しほどは、いと性なく、あやにくにおごりて憎かりしかど、母のいとかなしくして、宇治にも時々率ておはせしかば、すこしおよすけしままに、 かたみに思へり
 と責められて、少し外の方を向いて御覧になると、この子は、これが最期と思った夕暮れにも、とても恋しいと思った人なのであった。一緒の所に住んでいたときは、とても意地悪で、妙に生意気で憎らしかったが、母親がとてもかわいがって、宇治にも時々連れておいでになったので、少し大きくなってからは、お互いに仲好くしていた。
 と尼君に責められて、少し外のほうを向いて見ると、来た小君は自殺の決心をした夕べにも恋しく思われた弟であった。同じ家にいたころはまだわんぱくで、両親の愛におごっていて、憎らしいところもあったが、母が非常に愛していて、宇治へもときどきつれて来たので、そのうち少し大きくもなっていて双方で姉弟きょうだいの愛を感じ合うようになっていた
  to seme rare te, sukosi tozama ni muki te mi tamahe ba, kono ko ha, ima ha to yo wo omohi nari si yuhugure ni, ito kohisi to omohi si hito nari keri. Onazi tokoro nite mi si hodo ha, ito saganaku, ayanikuni ogori te nikukari sika do, haha no ito kanasiku si te, Udi ni mo tokidoki wi te ohase sika ba, sukosi oyosuke si mama ni, katami ni omohe ri.
2.3.4  童心を思ひ出づるにも、夢のやうなり。まづ、母のありさま、いと問はまほしく、「 異人びとの上は、おのづからやうやうと聞けど、親のおはすらむやうは、ほのかにもえ聞かずかし」と、なかなかこれを見るに、いと悲しくて、ほろほろと泣かれぬ。
 子供心を思い出すにつけても、夢のようである。真先に、母親の様子を、とても尋ねたく、「その他の人びとについては自然とだんだん聞くが、母親がどうしていらっしゃるかは、少しも聞くことができない」と、なまじこの子を見たばかりに、とても悲しくなって、ぽろぽろと涙がこぼれた。
 子であると思い出してさえ夢のようにばかり浮舟には思われた。何よりも母がどうしているかと聞きたく思われるのであった。他の人々のことは近ごろになってだれからともなくうわさが耳にはいるのであったが、母の消息はほのかにすらも知ることができなかったと思うと、弟を見たことでいっそう悲しくなり、ほろほろ涙をこぼして姫君は泣いた。
  Warahagokoro wo omohi-iduru ni mo, yume no yau nari. Madu, haha no arisama, ito toha mahosiku, "Kotohitobito no uhe ha, onodukara yauyau to kike do, oya no ohasu ram yau ha, honokani mo e kika zu kasi." to, nakanaka kore wo miru ni, ito kanasiku te, horohoro to naka re nu.
2.3.5  いとをかしげにて、 すこしうちおぼえたまへる心地もすれば
 たいそう可憐で、少し似ていらっしゃるところがあるように思われるので、
 小君は美しくて少し似たところもあるように他人の目には思われるのであったから、
  Ito wokasige nite, sukosi uti-oboye tamahe ru kokoti mo sure ba,
2.3.6  「 御兄弟にこそおはすめれ。聞こえまほしく思すこともあらむ。 内に入れたてまつらむ」
 「ご姉弟でいらっしゃるようだ。お話し申し上げたくお思いでいることもあろう。内にお入れ申そう」
 「御姉弟きょうだいなのでしょう。お話ししたく思っていらっしゃることもあるでしょうから、座敷の中へお通ししましょう」
  "Ohom-harakara ni koso ohasu mere. Kikoye mahosiku obosu koto mo ara m. Uti ni ire tatematura m."
2.3.7  と言ふを、「 何か、今は世にあるものとも思はざらむに、あやしきさまに面変りして、ふと見えむも恥づかし」と思へば、とばかりためらひて、
 と言うのを、「どうして、今はもう生きている者と思っていないのに、尼姿に身を変えて、急に会うのも気がひける」と思うと、しばらくためらって、
 と尼君が言う。それには及ばぬ、もう自分は死んだものとだれも思ってしまったのであろうのに、今さら尼という変わった姿になって、身内の者に逢うのは恥ずかしいと浮舟は思い、しばらく黙っていたあとで、
  to ihu wo, "Nanika, ima ha yo ni aru mono to mo omoha zara m ni, ayasiki sama ni omogahari si te, huto miye m mo hadukasi." to omohe ba, to bakari tamerahi te,
2.3.8  「 げに、隔てありと、思しなすらむが苦しさに、ものも言はれでなむ。 あさましかりけむありさまは、珍かなることと見たまひてけむを、うつし心も失せ、魂などいふらむものも、あらぬさまになりにけるにやあらむ。いかにもいかにも、過ぎにし方のことを、我ながらさらにえ思ひ出でぬに、 紀伊守とかありし人の、世の物語すめりし中になむ、 見しあたりのことにやと、ほのかに思ひ出でらるることある心地せし。
 「おっしゃるとおり、隠し事があると、お思いになるのがつらくて、何も申すことができません。情けなかった姿は、珍しいことだと御覧になったでしょうが、正気も失い、魂などと申すものも、以前とは違ったものになってしまったのでしょうか、何ともかとも、過ぎ去った昔のことを、自分ながら全然思い出すことができないところに、紀伊守とかいった人が、世間話をした中で、知っていた方のことかと、わずかに思い出される気がしました。
 「身の上をくらましておきますために、いろいろなことを言うかとお思いになるのが恥ずかしくて、何もこれまでは申されなかったのですよ。想像もできませんような生きたしかばねになっておりました私を、御覧になったのはあなたですが、どんなに醜いことだったでしょう。私の無感覚で久しくおりましたうちに精神というものもどうなってしまったのですか、過去のことは自身のことでありながら思い出せないでいますうち、紀伊守きいのかみとお言いになる人が世間話をしておいでになったうちに、私の身の上ではないかとほのかに記憶の呼び返されることがございました。
  "Geni, hedate ari to, obosi nasu ram ga kurusisa ni, mono mo iha re de nam. Asamasikari kem arisama ha, meduraka naru koto to mi tamahi te kem wo, utusigokoro mo use, tamasihi nado ihu ram mono mo, ara nu sama ni nari ni keru ni ya ara m? Ikanimo ikanimo, sugi ni si kata no koto wo, ware nagara sarani e omohiide nu ni, Kii-no-Kami to ka arisi hito no, yo no monogatari su meri si naka ni nam, mi si atari no koto ni ya to, honokani omohiide raruru koto aru kokoti se si.
2.3.9  その後、とざまかうざまに思ひ続くれど、さらにはかばかしくもおぼえぬに、 ただ一人ものしたまひし人のいかでとおろかならず思ひためりしを、まだや世におはすらむと、そればかりなむ心に離れず、悲しき折々はべるに、今日見れば、この童の顔は、小さくて見し心地するにも、いと忍びがたけれど、今さらに、かかる人にも、ありとは知られでやみなむ、となむ思ひはべる。
 その後は、あれやこれやと考え続けましたが、いっこうにはっきりと思い出されませんが、ただ一人おいでになった方の、何とか幸福にと並々ならず思っていらしたような母親が、まだ生きておいでかと、そのことばかりが脳裏を離れず、悲しい時々がございますので、今日見ると、この童の顔は、小さい時に見たことのある気がするのにつけても、とても堪えがたい気がするが、今さら、このような人に、生きていると知られないで終わりたいと、存じております。
 それからのちにいろいろと考えてみましても、はかばかしく心によみがえってくる事実はないのですが、私のために一人の親であった母は今どうしておられるだろうとそればかりは始終思われて恋しくも悲しくもなるのでしたが、今日見ますと、この少年は小さい時に見た顔のように思われまして、それによって忍びがたい気持ちはしますが、そんな人たちにも私の生きていることは知られたくないと思いますから、逢わないことにしたいと思います。
  Sono noti, tozama kauzama ni omohi tudukure do, sarani hakabakasiku mo oboye nu ni, tada hitori monosi tamahi si hito no, ikade to oroka nara zu omohi ta' meri si wo, mada ya yo ni ohasu ram to, sore bakari nam kokoro ni hanare zu, kanasiki woriwori haberu ni, kehu mire ba, kono waraha no kaho ha, tihisaku te mi si kokoti suru ni mo, ito sinobi gatakere do, imasara ni, kakaru hito ni mo, ari to ha sira re de yami na m, to nam omohi haberu.
2.3.10   かの人、もし世にものしたまはば、それ一人になむ、対面せまほしく思ひはべる。 この僧都の、のたまへる人などには、さらに知られたてまつらじ、とこそ思ひはべりつれ。かまへて、ひがことなりけりと聞こえなして、もて隠したまへ」
 あの母親が、もしこの世に生きておいででしたら、その方お一人だけには、お目にかかりたく存じております。この僧都が、おっしゃっている方などには、まったく知られ申すまいと、存じております。何とか工夫して、間違いであると申し上げて、隠してくださいませ」
 もし生きておりましたならば今申しました母にだけは逢いとうございます。僧都そうず様が手紙にお書きになりました人などには断然私はいないことにしてしまいたいと思うのでございます。なんとか上手じょうずにお言いくだすって、まちがいだったというようにおっしゃって、お隠しくださいませ」
  Kano hito, mosi yo ni monosi tamaha ba, sore hitori ni nam, taimen se mahosiku omohi haberu. Kono Soudu no, notamahe ru hito nado ni ha, sarani sira re tatematura zi, to koso omohi haberi ture. Kamahe te, higakoto nari keri to kikoye nasi te, mote-kakusi tamahe."
2.3.11  とのたまへば、
 とおっしゃるので、
 と浮舟の姫君は言った。
  to notamahe ba,
2.3.12  「 いと難いことかな。僧都の御心は、聖といふなかにも、あまり隈なくものしたまへば、まさに残いては、聞こえたまひてむや。後に隠れあらじ。 なのめに軽々しき御ほどにもおはしまさず
 「まことに難しいことですね。僧都のお考えは、聖と申すなかでも、あまりにに正直一途の方でいらっしゃいますから、まさに何も残さずに申し上げなさったことでしょう。後で分かってしまいましょう。いい加減な軽々しいご身分でもいらっしゃらないし」
 「むずかしいことだと思いますね。僧都さんの性質は僧というものはそんなものであるという以上に公明正大なのですからね、もう何の虚偽もまじらぬお話をお伝えしてしまいなすったでしょうよ。隠そうとしましてもほかからずんずん事実が証明されてゆきますよ。それに御身分が並み並みのお姫様ではいらっしゃらないのだし」
  "Ito katai koto kana! Soudu no mi-kokoro ha, hiziri to ihu naka ni mo, amari kumanaku monosi tamahe ba, masani nokoi te ha, kikoye tamahi te m ya? Noti ni kakure ara zi. Nanome ni karogarosiki ohom-hodo ni mo ohasimasa zu."
2.3.13  など言ひ騷ぎて、
 などと言い騒いで、
 この尼君から聞き、姫君が女王にょおう様であったということにだれも興奮していて、
  nado ihi sawagi te,
2.3.14  「 世に知らず心強くおはしますこそ
 「見たこともないほど強情でいらっしゃること」
 「ひどく気のお強いことになりますから」
  "Yo ni sira zu kokoroduyoku ohasimasu koso."
2.3.15  と、皆言ひ合はせて、母屋の際に几帳立てて 入れたり
 と、皆で話し合って、母屋の際に几帳を立てて入れた。
 皆で言い合わせて浮舟のいるへやとの間に几帳きちょうを立てて少年を座敷に導いた。
  to, mina ihi ahase te, moya no kiha ni kityau tate te ire tari.
注釈113この君は、誰れにか以下「隔てさせたまふ」まで、妹尼君の詞。2.3.2
注釈114責められて「られ」受身の助動詞。主語は浮舟。2.3.3
注釈115今はと世を思ひなりし夕暮れに大島本は「夕暮に」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「夕暮にも」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のまま「夕暮に」とする。浮舟が入水を決意した折に。2.3.3
注釈116同じ所にて見しほどは幼少時を回想。常陸介邸で弟の小君と一緒だったころ。2.3.3
注釈117かたみに思へり大島本は「かたみにおもへり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思へりし」と「し」を補訂して文を続ける。『新大系』は底本のまま「思へり」とする。2.3.3
注釈118異人びとの上は以下「え聞かずかし」まで、浮舟の心中を叙述。薫や匂宮については。2.3.4
注釈119すこしうちおぼえたまへる心地もすれば主語は妹尼君。小君が浮舟に似ている。2.3.5
注釈120御兄弟にこそ以下「入れたてまつらむ」まで、妹尼君の詞。2.3.6
注釈121内に御簾の内側、廂間の中へ。2.3.6
注釈122何か今は以下「恥づかし」まで、浮舟の心中の思い。2.3.7
注釈123げに隔てありと以下「もて隠したまへ」まで、浮舟の詞。2.3.8
注釈124あさましかりけむありさまは宇治院で発見された当時の浮舟の姿。2.3.8
注釈125紀伊守とかありし人の「手習」巻に登場。妹尼君の甥の紀伊守。小野草庵を訪問して薫の法事に衣装を調達することを依頼する。2.3.8
注釈126見しあたりのことにやと薫をさす。2.3.8
注釈127ただ一人ものしたまひし人の母親をさす。2.3.9
注釈128いかでと何とか幸福にしてあげたい、の意。2.3.9
注釈129かの人母親をさす。2.3.10
注釈130この僧都ののたまへる人薫をさす。2.3.10
注釈131いと難いことかな以下「おはしまさず」まで、妹尼君の詞。2.3.12
注釈132なのめに軽々しき御ほどにもおはしまさず薫の身分についていう。2.3.12
注釈133世に知らず心強くおはしますこそ女房たちの詞。浮舟の強情さを非難する。2.3.14
注釈134入れたり小君を廂間に。2.3.15
2.4
第四段 小君、薫からの手紙を渡す


2-4  Ko-gimi hands a Kaoru's mail to Ukifune

2.4.1  この子も、 さは聞きつれど、幼ければ、ふと言ひ寄らむもつつましけれど、
 この子も、そうは聞いていたが、子供なので、唐突に言葉かけるのも気がひけるが、
 この子も姉君は生きているのだと聞かされてきているが、姉弟らしくものを言いかけるのに羞恥しゅうちも覚えて、
  Kono ko mo, saha kiki ture do, wosanakere ba, huto ihiyora m mo tutumasikere do,
2.4.2  「 またはべる御文、いかでたてまつらむ。僧都の御しるべは、確かなるを、かくおぼつかなくはべるこそ」
 「もう一通ございますお手紙を、ぜひ差し上げたい。僧都のお導きは、確かなことでしたのに、このようにはっきりしませんとは」
 「もう一つ別なお手紙も持って来ているのですが、僧都のお言葉によってすべてが明らかになっていますのに、どうしてこんなに白々しくお扱いになりますか」
  "Mata haberu ohom-humi, ikade tatematura m? Soudu no ohom-sirube ha, tasika naru wo, kaku obotukanaku haberu koso."
2.4.3  と、伏目にて言へば、
 と、伏目になって言うと、
 とだけ伏し目になって言った。
  to, husime nite ihe ba,
2.4.4  「 そそや。あな、うつくし
 「それそれ。まあ、かわいらしい」
 「まあ御覧なさい、かわいらしい方ね」
  "Soso ya! Ana, utukusi!"
2.4.5  など言ひて、
 などと言って、
 などと尼君は女房に言い、
  nado ihi te,
2.4.6  「 御文御覧ずべき人は、ここにものせさせたまふめり。見証の人なむ、いかなることにかと、心得がたくはべるを、なほのたまはせよ。幼き御ほどなれど、かかる御しるべに頼みきこえたまふやうもあらむ」
 「お手紙を御覧になるはずの人は、ここにいらっしゃるようです。はたの者は、どのようなことかと分からずにおりますが、さらにおっしゃってください。幼いご年齢ですが、このようなお使いをお任せになる理由もあるのでしょう」
 「お手紙を御覧になる方はここにいらっしゃるとまあ申してよいのですよ。こうしてあつかましく出ていますわれわれはまだ何がどうであったのかも理解できないでおります。だからあなたから私たちに話してください。お小さい方をこうしたお使いにお選びになりましたのにはわけもあることでしょう」
  "Ohom-humi goranzu beki hito ha, koko ni monose sase tamahu meri. Ke'sou no hito nam, ikanaru koto ni ka to, kokoroe gataku haberu wo, naho notamaha se yo. Wosanaki ohom-hodo nare do, kakaru ohom-sirube ni tanomi kikoye tamahu yau mo ara m."
2.4.7  など言へど、
 などと言うので、
 と少年に言った。
  nado ihe do,
2.4.8  「 思し隔てて、おぼおぼしくもてなさせたまふには、 何事をか聞こえはべらむ。疎く思しなりにければ、聞こゆべきこともはべらず。ただ、この御文を、 人伝てならで奉れ、とてはべりつる、いかでたてまつらむ」
 「よそよそしくなさって、はっきりしないお持てなしをなさるのでは、何を申し上げられましょう。他人のようにお思いになっていたら、申し上げることもございません。ただ、このお手紙を、人を介してではなく差し上げなさい、とございましたので、ぜひとも差し上げたい」
 「知らない者のようにお扱いになる方の所ではお話のしようもありません。お愛しくださらなくなった私からはもう何も申し上げません。ただこのお手紙は人づてでなく差し上げるようにと仰せつけられて来たのですから、ぜひ手ずからお渡しさせてください」
  "Obosi hedate te, oboobosiku motenasa se tamahu ni ha, nanigoto wo ka kikoye habera m. Utoku obosi nari ni kere ba, kikoyu beki koto mo habera zu. Tada, kono ohom-humi wo, hitodute nara de tatemature, tote haberi turu, ikade tatematura m."
2.4.9  と言へば、
 と言うと、
 こう小君が言うと、
  to ihe ba,
2.4.10  「 いとことわりなり。なほ、いとかくうたてなおはせそ。さすがにむくつけき御心にこそ」
 「まことにごもっともです。やはり、とてもこのように情けなくいらっしゃらないで。いくら何でも気味悪いほどのお方ですこと」
 「もっともじゃありませんか、そんなに意地をかたく張るものではありませんよ。あなたは優しい方だのに、一方では手のつけられぬ方ですね」
  "Ito kotowari nari. Naho, ito kaku utate na ohase so. Sasugani mukutukeki mi-kokoro ni koso."
2.4.11  と聞こえ動かして、 几帳のもとに押し寄せたてまつりたれば、あれにもあらでゐたまへるけはひ、異人には似ぬ 心地すれば、そこもとに寄りて奉りつ。
 とお促し申して、几帳の側に押し寄せ申したので、人心地もなく座っていらっしゃるその感じは、他人ではない気がするので、すぐそこに近寄って差し上げた。
 と尼君は言い、いろいろに言葉を変えて勧め、几帳のきわへ押し寄せたのを知らず知らずそのままになってすわっている人の様子が、他人でないことは直感されるために、そこへ手紙を差し入れた。
  to kikoye ugokasi te, kityau no moto ni osiyose tatematuri tare ba, are ni mo ara de wi tamahe ru kehahi, kotohito ni ha ni nu kokoti sure ba, sokomoto ni yori te tatematuri tu.
2.4.12  「 御返り疾く賜はりて、参りなむ
 「お返事を早く頂戴して、帰りましょう」
 「お返事を早くいただいて帰りたいと思います」
  "Ohom-kaheri toku tamahari te, mawiri na m."
2.4.13  と、かく疎々しきを、心憂しと思ひて急ぐ。
 と、このようにすげない態度を、つらいと思って急ぐ。
 うといふうを見せられることが恨めしく、少年は急ぐように言う。
  to, kaku utoutosiki wo, kokorousi to omohi te isogu.
2.4.14  尼君、御文ひき解きて、 見せたてまつる。ありしながらの御手にて、紙の香など、例の、世づかぬまでしみたり。ほのかに見て、例の、 ものめでのさし過ぎ人、いとありがたくをかしと思ふべし
 尼君は、お手紙を開いて、お見せ申し上げる。以前と同じようなご筆跡で、紙の香なども、いつもの、世にないまで染み込んでいた。ちらっと見て、例によって、何にでも感心するでしゃばり者は、ほんとめったになく素晴らしいと思うであろう。
 尼君は大将の手紙を解いて姫君に見せるのであった。昔のままの手跡で、紙のにおいは並みはずれなまでに高い。ほのかにのぞき見をして風流好きな尼君は美しいものと思った。
  AmaGimi, ohom-humi hikitoki te, mise tatematuru. Arisi nagara no ohom-te nite, kami no ka nado, rei no, yoduka nu made simi tari. Honokani mi te, rei no, mono-mede no sasisugi-bito, ito arigataku wokasi to omohu besi.
2.4.15  「 さらに聞こえむ方なくさまざまに罪重き御心をば、僧都に思ひ許しきこえて、今はいかで、あさましかりし世の夢語りをだに、と急がるる心の、我ながらもどかしきになむ。まして、人目はいかに」
 「まったく申し上げようもなく、いろいろと罪障の深いお身の上を、僧都に免じてお許し申し上げて、今は何とかして、驚きあきれたような当時の夢のような思い出話なりとも、せめてと、せかれる気持ちが、自分ながらもどかしく思われることです。まして、傍目にはどんなに見られることでしょうか」
 尼におなりになったという、なんとも言いようのない、私にとっては罪なお心も、僧都の高潔な心に逢って、私もお許しする気になって、そのことにはもう触れずに、過去のあの時の悲しみがどんなものであったかということだけでも話し合いたいとあせる心はわれながらもあき足らず見えます。まして他人の目にはどんなふうに映るでしょう。
  "Sarani kikoye m kata naku, samazama ni tumi omoki mi-kokoro wo ba, Soudu ni omohi yurusi kikoye te, ima ha ikade, asamasikari si yo no yumegatari wo dani, to isoga ruru kokoro no, ware nagara modokasiki ni nam. Masite, hitome ha ikani?"
2.4.16  と、書きもやりたまはず。
 と、お心を書き尽くしきれない。
 と書きも終わっていないで次の歌がある。
  to, kaki mo yari tamaha zu.
2.4.17  「 法の師と尋ぬる道をしるべにて
   思はぬ山に踏み惑ふかな
 「仏法の師と思って尋ねて来た道ですが、それを道標としていたのに
  思いがけない山道に迷い込んでしまったことよ
  のりの師をたづぬる道をしるべにて
  思はぬ山にふみまどふかな
    "Nori no si to tadunuru miti wo sirube nite
    omoha nu yama ni humi madohu kana
2.4.18   この人は、見や忘れたまひぬらむ。ここには、行方なき御形見に見る物にてなむ」
 この子は、お忘れになったでしょうか。わたしは、行方不明になったあなたのお形見として見ているのです」
 この人をお見忘れになったでしょうか。私は行くえを失った方の形見にそば近く置いて慰めにながめている少年です。
  Kono hito ha, mi ya wasure tamahi nu ram? Koko ni ha, yukuhe naki ohom-katami ni miru mono nite nam."
2.4.19  など、こまやかなり。
 などと、とても愛情がこもっている。
 とも書かれてあった。
  nado, komayaka nari.
注釈135さは聞きつれど姉の浮舟がここにいると、薫から聞かされていたが。2.4.1
注釈136またはべる御文以下「おぼつかなくはべるこそ」まで、小君の詞。もう一通の手紙。薫から浮舟への手紙。2.4.2
注釈137そそやあなうつくし妹尼の詞。2.4.4
注釈138御文御覧ずべき人は以下「やうもあらむ」まで、妹尼君の詞。2.4.6
注釈139思し隔てて以下「いかでたてまつらむ」まで、小君の詞。2.4.8
注釈140何事をか聞こえはべらむ反語表現。何も申し上げられない。2.4.8
注釈141人伝てならで奉れ薫の詞を引用。2.4.8
注釈142いとことわりなり以下「むくつけき御心にこそ」まで、妹尼君の詞。2.4.10
注釈143几帳のもとに押し寄せたてまつりたれば浮舟を母屋と廂間の間の几帳のもとに。2.4.11
注釈144心地すれば主語は小君。姉の浮舟であることを実感。2.4.11
注釈145御返り疾く賜はりて参りなむ小君の詞。2.4.12
注釈146見せたてまつる薫の手紙を浮舟に。2.4.14
注釈147ものめでのさし過ぎ人いとありがたくをかしと思ふべし『細流抄』は「草子地也」。『完訳』は「以下、浮舟の心内とは無縁の妹尼を揶揄する語り手の評言」と注す。2.4.14
注釈148さらに聞こえむ方なく以下「人目はいかに」まで、薫の手紙文。2.4.15
注釈149さまざまに罪重き御心をば浮舟の、匂宮との密通、失踪入水未遂、無断出家等。2.4.15
注釈150法の師と尋ぬる道をしるべにて--思はぬ山に踏み惑ふかな薫から浮舟への贈歌。「法の師」は横川の僧都、「思はぬ山」は恋の山、をさす。2.4.17
注釈151この人は以下「見る物にてなむ」まで、薫の手紙文の続き。「この人」は小君をさす。2.4.18
校訂7 賜はりて 賜はりて--*給て 2.4.12
2.5
第五段 浮舟、薫への返事を拒む


2-5  Ukifune refused to reply to Kaoru

2.5.1  かくつぶつぶと書きたまへるさまの、紛らはさむ方なきに、さりとて、 その人にもあらぬさまを、思ひの外に見つけられきこえたらむほどの、はしたなさなどを思ひ乱れて、いとど晴れ晴れしからぬ心は、言ひやるべき方もなし。
 このようにこまごまとお書きになっている様子が、紛れようもないので、そうかといって、昔の自分とも違う姿を、意外にも見つけられ申したときの、体裁の悪さなどを思い乱れて、今まで以上に晴れ晴れしくない気持ちは、何ともいいようがない。
 こう詳細に知って書いてある人に存在の紛らしようもない自分ではないか、そうかといってその人にも、願わぬことにもかかわらず変わった姿を見つけられた時の恥ずかしさはどうであろうと浮舟うきふねは煩悶して、もともと弱々しい性質のこの人はなすことも知らないふうになっていた。
  Kaku tubutubu to kaki tamahe ru sama no, magirahasa m kata naki ni, saritote, sono hito ni mo ara nu sama wo, omohi no hoka ni mituke rare kikoye tara m hodo no, hasitanasa nado wo, omohi midare te, itodo harebaresikara nu kokoro ha, ihiyaru beki kata mo nasi.
2.5.2  さすがにうち泣きて、ひれ臥したまへれば、「 いと世づかぬ御ありさまかな」と、 見わづらひぬ
 そうはいってもふと涙がこぼれて、臥せりなさったので、「まことに世間知らずのなさりようだ」と、扱いかねた。
 さすがに泣いてひれ伏したままになっているのを、「あまりに並みをはずれた御様子ね」と言い、尼君は困っていた。
  Sasugani uti-naki te, hirehusi tamahe re ba, "Ito yoduka nu ohom-arisama kana!" to, mi wadurahi nu.
2.5.3  「 いかが聞こえむ
 「どのように申し上げましょう」
 どうお返事を言えばいいのか
  "Ikaga kikoye m?"
2.5.4  など 責められて
 などと責められて、
 と責められて、
  nado seme rare te,
2.5.5  「 心地のかき乱るやうにしはべるほど、ためらひて、今聞こえむ。昔のこと思ひ出づれど、さらにおぼゆることなく、あやしう、いかなりける夢にかとのみ、心も得ずなむ。すこし静まりてや、この御文なども、見知らるることもあらむ。今日は、なほ 持て参りたまひね。所違へにもあらむに、いとかたはらいたかるべし」
 「気分がとても苦しゅうございますのを、おさまりましてから、やがて差し上げましょう。昔のことを思い出しても、まったく思い当たることがなく、不思議で、どのような夢であったのかとばかり、分かりません。少し気分が静まったら、このお手紙なども、分かるようなこともありましょうか。今日は、やはりお持ち帰りください。人違いであったら、とても体裁悪いでしょうから」
 「今は心がかき乱されています。少し冷静になりましてから返事をいたしましょう。昔のことを思い出しましても少しもお話しするようなことは見いだせません。ですから落ち着きましたらこのお手紙の心のわかることがあるかもしれません。今日はこのまま持ってお帰しください。ひょっといただく人が違っていたりしては片腹痛いではございませんか」
  "Kokoti no kaki-midaru yau ni si haberu hodo, tamerahi te, ima kikoye m. Mukasi no koto omohiidure do, sarani oboyuru koto naku, ayasiu, ikanari keru yume ni ka to nomi, kokoro mo e zu nam. Sukosi sidumari te ya, kono ohom-humi nado mo, mi sira ruru koto mo ara m. Kehu ha, naho mote mawiri tamahi ne. Tokorotagahe ni mo ara m ni, ito kataharaitakaru besi."
2.5.6  とて、 広げながら、尼君にさしやりたまへれば、
 と言って、広げたまま、尼君にお渡しになったので、
 と姫君は言い、手紙はひろげたままで尼君のほうへ押しやった。
  tote, hiroge nagara, AmaGimi ni sasiyari tamahe re ba,
2.5.7  「 いと見苦しき御ことかな。あまりけしからぬは、 見たてまつる人も、罪さりどころなかるべし」
 「とても見苦しいなさりようですこと。あまり不作法なのは、世話している者どもも、咎を免れないことでしょう」
 「それでは困るではありませんか。あまりに失礼な態度をお見せになるのでは、そばにいる人も申しわけがありません」
  "Ito migurusiki ohom-koto kana! Amari kesikara nu ha, mi tatematuru hito mo, tumi sari dokoro nakaru besi."
2.5.8  など言ひ騒ぐも、うたて聞きにくくおぼゆれば、顔も引き入れて臥したまへり。
 などと言って騒ぐのも、嫌で聞いていられなく思われるので、顔を引き入れてお臥せりになった。
 多くの言葉でこんなことの言われるのも不快で、顔までも上に着た物の中へ引き入れて浮舟は寝ていた。
  nado ihi sawagu mo, utate kiki nikuku oboyure ba, kaho mo hikiire te husi tamahe ri.
2.5.9  主人ぞ、この君に物語すこし聞こえて、
 主人の尼が、この君にお話を少し申し上げて、
 主人の尼君は少年の話し相手に出て、
  Aruzi zo, kono Kimi ni monogatari sukosi kikoye te,
2.5.10  「 もののけにやおはすらむ。例のさまに見えたまふ折なく、悩みわたりたまひて、御容貌も異になりたまへるを、 尋ねきこえたまふ人あらばいとわづらはしかるべきこと、と見たてまつり嘆きはべりしも、しるく、かくいとあはれに、心苦しき御ことどもはべりけるを、今なむ、いとかたじけなく思ひはべる。
 「物の怪のせいでしょうか。いつもの様子にお見えになる時もなく、ずっと患っていらっしゃって、お姿も尼姿におなりになったが、お探し申し上げなさる方がいたら、とても厄介なことになりましょうことよと、拝見し嘆いておりましたのも、その通りに、このようにまことにおいたわしく、胸打つご事情がございましたのを、今は、まことに恐れ多く存じております。
 「物怪もののけ仕業しわざでしょうね。普通のふうにお見えになる時もなくて始終御病気続きでね。それで落飾もなすったのを、御縁のある方が訪ねておいでになった時に、これでは申しわけがないとそばにいて気をもんでおりましたとおりに、大将さんの奥様でおありになったのでございますってね。それをはじめて承知いたしまして、なんともおびのしかたもないように思います。
  "Mononoke ni ya ohasu ram? Rei no sama ni miye tamahu wori naku, nayami watari tamahi te, ohom-katati mo koto ni nari tamahe ru wo, tadune kikoye tamahu hito ara ba, ito wadurahasikaru beki koto, to mi tatematuri nageki haberi si mo, siruku, kaku ito ahareni, kokorogurusiki ohom-koto-domo haberi keru wo, ima nam, ito katazikenaku omohi haberu.
2.5.11  日ごろも、うちはへ悩ませたまふめるを、いとど かかることどもに思し乱るるにや、常よりもものおぼえさせたまはぬさまにてなむ」
 常日頃も、ずっとご病気がちでいらしたようなのを、ますますこのようなお手紙にお思い乱れなさったのか、いつも以上に分別がなくおいでです」
 ずっと御気分は晴れ晴れしくないのですが、思いがけぬ御消息のございましたことでまたお心も乱れるのでしょう。平生以上に今日はお気むずかしくなっていらっしゃるようですよ」
  Higoro mo, utihahe nayama se tamahu meru wo, itodo kakaru koto-domo ni obosi midaruru ni ya, tune yori mo mono oboye sase tamaha nu sama nite nam."
2.5.12  と聞こゆ。
 と申し上げる。
 などと語っていた。
  to kikoyu.
注釈152その人にもあらぬさまを昔の自分の姿と変わった出家姿。2.5.1
注釈153いと世づかぬ御ありさまかな妹尼君の心中。浮舟を見ての感想。2.5.2
注釈154見わづらひぬ主語は妹尼君。2.5.2
注釈155いかが聞こえむ妹尼君の詞。2.5.3
注釈156責められて「られ」受身の助動詞。浮舟は妹尼君から返事を催促される。2.5.4
注釈157心地のかき乱るやうに以下「かたはらいたかるべし」まで、浮舟の詞。2.5.5
注釈158持て参りたまひね薫の手紙をそのまま持ち帰るように言う。2.5.5
注釈159広げながら手紙を広げたまま。2.5.6
注釈160いと見苦しき御ことかな以下「さりどころなかるべし」まで、妹尼君の詞。2.5.7
注釈161見たてまつる人も浮舟を世話する人、僧都や自分妹尼君たちをさす。2.5.7
注釈162もののけにや以下「さまにてなむ」まで、妹尼君の詞。今までの経緯を小君に語る。2.5.10
注釈163尋ねきこえたまふ人あらば浮舟を。2.5.10
注釈164いとわづらはしかるべきこと出家を。『完訳』は「浮舟を捜し求める人々が、浮舟の尼姿に失望するだろうと、妹尼らは懸念したとする。自分たちも出家には反対だった、の気持」と注す。2.5.10
注釈165かかることどもに薫からの手紙をさす。2.5.11
2.6
第六段 小君、空しく帰り来る


2-6  Ko-gimi came back to no purpose

2.6.1  所につけてをかしき饗応などしたれど、幼き心地は、そこはかとなくあわてたる心地して、
 山里らしい趣のある饗応などをしたが、子供心には、どことなくいたたまれないような気がして、
 山里相応な饗応きょうおうをするのであったが、少年の心は落ち着かぬらしかった。
  Tokoro ni tuke te wokasiki aruzi nado si tare do, wosanaki kokoti ha, sokohakatonaku awate taru kokoti si te,
2.6.2  「 わざと奉れさせたまへるしるしに、何事をかは聞こえさせむとすらむ。ただ一言をのたまはせよかし」
 「わざわざお遣わしあそばされたそのしるしに、何とお返事申し上げたらよいのでしょう。ただ一言でもおっしゃってください」
 「私がお使いに選ばれて来ましたことに対しても何かひと言だけは言ってくださいませんか」
  "Wazato tatemature sase tamahe ru sirusi ni, nanigoto wo kaha kikoyesase m to su ram? Tada hitokoto wo notamahase yo kasi."
2.6.3  など言へば、
 などと言うと、

  nado ihe ba,
2.6.4  「 げに
 「ほんとうですこと」
 「ほんとうに」
  "Geni."
2.6.5  など言ひて、かくなむ、と移し語れど、ものものたまはねば、かひなくて、
 などと言って、これこれです、とそのまま伝えるが、何もおっしゃらないので、しかたなくて、
 と言い、それを伝えたが、姫君はものも言われないふうであるのに、尼君は失望して、
  nado ihi te, kaku nam, to utusi katare do, mono mo notamaha ne ba, kahinaku te,
2.6.6  「 ただ、かく、おぼつかなき御ありさまを聞こえさせたまふべきなめり。 雲の遥かに隔たらぬほどにも はべるめるを、山風吹くとも、またもかならず立ち寄らせたまひなむかし」
 「ただ、あのように、はっきりしないご様子を申し上げなさるのがよいのでしょう。雲が遥かに遠く隔たった場所でもないようでございますので、山の風が吹いても、またきっとお立ち寄りなさいまし」
 「ただこんなようにたよりないふうでおいでになったと御報告をなさるほかはありますまい。はるかに雲が隔てるというほどの山でもないのですから、山風は吹きましてもまた必ずお立ち寄りくださるでしょう」
  "Tada, kaku, obotukanaki ohom-arisama wo kikoyesase tamahu beki na' meri. Kumo no harukani hedatara nu hodo ni mo haberu meru wo, yamakaze huku tomo, mata mo kanara zu tatiyora se tamahi na m kasi."
2.6.7  と言へば、 すずろにゐ暮らさむもあやしかるべければ、帰りなむとす。人知れずゆかしき御ありさまをも、え見ずなりぬるを、おぼつかなく口惜しくて、心ゆかずながら参りぬ。
 と言うので、用もないのに日暮れまでいるのも妙な具合なので、帰ろうとする。心ひそかにお会いしたいご様子なのに、会うこともできずに終わったのを、気がかりで残念で、不満足のまま帰参した。
 と小君こぎみに言った。期待もなしに長くとどまっていることもよろしくないと思って少年は去ろうとした。恋しい姿の姉に再会する喜びを心にいだいて来たのであったから、落胆して大将邸へまいった。
  to ihe ba, suzuroni wi kurasa m mo ayasikaru bekere ba, kaheri na m to su. Hitosirezu yukasiki ohom-arisama wo mo, e mi zu nari nuru wo, obotukanaku kutiwosiku te, kokoroyuka zu nagara mawiri nu.
2.6.8   いつしかと待ちおはするに、かくたどたどしくて帰り来たれば、すさまじく、「 なかなかなり」と、思すことさまざまにて、「 人の隠し据ゑたるにやあらむ」と、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、落とし置きたまへりしならひに、 とぞ本にはべめる
 早く早くとお待ちになっていたが、このようにはっきりしないまま帰って来たので、期待が外れて、「かえって遣らないほうがましだった」と、お思いになることがいろいろで、「誰かが隠し置いているのであろうか」と、ご自分の想像の限りを尽くして、放ってお置きになった経験からも、と本にございますようです。
 大将は少年の帰りを今か今かと思って待っていたのであったが、こうした要領を得ないふうで帰って来たのに失望し、その人のために持つ悲しみはかえって深められた気がして、いろいろなことも想像されるのであった。だれかがひそかに恋人として置いてあるのではあるまいかなどと、あのころ恨めしいあまりに軽蔑けいべつしてもみた人であったから、その習慣で自身でもよけいなことを思うとまで思われた。
  Itusika to mati ohasuru ni, kaku tadotadosiku te kaheri ki tare ba, susamaziku, "Nakanaka nari." to, obosu koto samazama nite, "Hito no kakusi suwe taru ni ya ara m?" to, wa ga mi-kokoro no omohiyora nu kumanaku, otosi oki tamahe ri si narahi ni, to zo hon ni habe' meru.
注釈166わざと奉れさせたまへるしるしに以下「のたまはせよかし」まで、小君の詞。2.6.2
注釈167げに妹尼君の詞。2.6.4
注釈168ただかく以下「立ち寄らせたまひなむかし」まで、妹尼君の詞。2.6.6
注釈169雲の遥かに隔たらぬほどにも『源氏釈』は「逢ふことは雲居遥かになる神の音に聞きつつ恋ひわたるかな」(古今集恋一、四八二、紀貫之)を指摘。『紹巴抄』は「引歌不及」と否定。2.6.6
注釈170すずろにゐ暮らさむも主語は小君。『完訳』は「待っていても返事を得られそうにない状態。用もなく日暮れまで長居するのを避けた」と注す。2.6.7
注釈171いつしかと待ちおはするに主語は薫。2.6.8
注釈172なかなかなり薫の心中の思い。なまじ使いなど出さねばよかった。『完訳』は「浮舟との再縁を希求するのではない、薫の本心が透視されよう」と注す。2.6.8
注釈173人の隠し据ゑたるにやあらむ薫の心中の思い。かつて自分が浮舟を宇治に隠し置いた経験から、今度も誰かが隠しているのではないか、と邪推する。2.6.8
注釈174とぞ本にはべめる『一葉抄』は「例の記者のわかかゝぬよしのことは也」と指摘。『全書』は「写した人の注記で、鎌倉時代以後古形を示す意図から屡々慣用された」。『大系』は「後人の書入れである。「本に侍る」の如く、地の文に「侍る」を用いたのは、大体は鎌倉に入ってからの用例で、紫式部時代には、このように地の文に、「侍り」は使わない。「とぞ」で終っているのが正しいのである」。『集成』は「写本の筆者が、原本にはこうあった、とする注記であるが、物語の大尾を示す常套句であったと考えられる」と注す。2.6.8
出典1 雲の遥かに 逢ふことは雲居遥かに鳴る神の音に聞きつつ恋ひわたるかな 古今集恋一-四八二 紀貫之 2.6.6
Last updated 9/29/2011(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
Last updated 9/29/2011(ver.2-2)
渋谷栄一注釈
Last updated 5/19/2002
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
現代語訳
与謝野晶子
電子化
上田英代(古典総合研究所)
底本
角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
柳沢成雄(青空文庫)

2003年3月23日

渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経

2005年10月13日

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Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya(C)
Picture "Eiri Genji Monogatari"(1650 1st edition)
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