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渋谷栄一注釈(C)
  

帚 木


 [底本]
東海大学蔵 桃園文庫影印叢書『源氏物語(明融本)』1 一九九〇年 東海大学
 [参考文献]
池田亀鑑編著『源氏物語大成』第一巻「校異篇」一九五六年 中央公論社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『古典セレクション 源氏物語』第一巻 一九九八年 小学館
柳井 滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『新日本古典文学大系 源氏物語』第一巻 一九九三年 岩波書店
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『完訳日本の古典 源氏物語』第一巻 一九八三年 小学館
石田穣二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語』第一巻 一九七六年 新潮社
今泉忠義著『源氏物語 現代語訳』第一巻 一九七四年 桜楓社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛校注・訳『日本古典文学全集 源氏物語』第一巻 一九七〇年 小学館
待井新一著『文法全解 源氏物語』第一巻 一九六八年・一九九一年重版 旺文社
玉上琢弥著『源氏物語評釈』第一巻 一九六四年 角川書店
山岸徳平校注『日本古婬文学大系 源氏物語』第一巻 一九五八年 岩波書店
池田亀鑑校注『日本古典全書 源氏物語』第一巻 一九四六年 朝日新聞社
伊井春樹編『源氏物語引歌索引』一九七七年 笠間書院
榎本正純篇著『源氏物語の草子地 諸注と研究』一九八二年 笠間書院
 [本文について]
 本文は、前帖の「桐壺」同様に、江戸時代の古筆鑑定家の琴山による「上冷泉殿為和卿御息明融 琴山」という極札をもつ定家自筆本「帚木」帖の臨模本である。
 帖末に「まとのうちなるほと」という本文を抄出して、「長恨歌」の詩句を指摘したのちに世尊寺伊行の『源氏釈』の注釈を「伊行注」として掲載し、再び「風俗」「催馬楽」「秦中吟」等の長文にわたる出典を掲載する。引き歌及び引詩等の短い和歌や詩句は、本文中に付箋の形で二枚添付している。
 本文中には、定家自筆本の書き入れを忠実に書承しているものがわずかに見られる。しかし、その他の多くの書き入れは後人の手になるものである。原本及び写真複製本によってそれが分かる。
 なお、この巻の大島本は、藤原定家が校訂した青表紙本系統本中、この明融臨模本に最も近似した内容である。特に両本にそれぞれ行間に注記されたもの内容の一部に一致が見られることは注目される。
 [注釈]
第一章 雨夜の品定めの物語
  1. 長雨の時節---光源氏、名のみことごとしう
  2. 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将---長雨晴れ間なきころ
  3. 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる---「なり上れども、もとよりさるべき筋ならぬは
  4. 女性論、左馬頭の結論---「今は、ただ、品にもよらじ。容貌をばさらにも言はじ
第二章 女性体験談
  1. 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語)---「はやう、まだいと下臈にはべりし時
  2. 左馬頭の体験談(浮気な女の物語)---「さて、また同じころ
  3. 頭中将の体験談(常夏の女の物語)---中将、「なにがしは、痴者の物語をせむ
  4. 式部丞の体験談(畏れ多い女の物語)---「式部がところにぞ、気色あることはあらむ
第三章 空蝉の物語
  1. 天気晴れる---からうじて今日は日のけしきも直れり
  2. 紀伊守邸への方違へ---「にはかに」とわぶれど、人も聞き入れず
  3. 空蝉の寝所に忍び込む---君は、とけても寝られたまはず
  4. それから数日後---さて、五六日ありて
 

第一章 雨夜の品定めの物語

 [第一段 長雨の時節]
【光る源氏名のみことことしう】−以下「語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ」まで、物語筆記編集者のそれまでの物語伝承者に対する批評。「光る源氏」という呼称は、これが初見。これより先には「桐壺」巻に「光る君」と二度あった。ところで、この下に「と」という引用の格助詞があるべきところ、省筆されているのは、その表現性を重視すべきであろう。別本の陽明文庫本に「ひかる源氏の名のみ」(「光る源氏」の名前だけ)というように格助詞「の」を伴う異本があるが、別のニュアンスが出て来る。ここは、巻頭、「光源氏」とずばり提示して、読者をびっくりさせ、しばし間を置き、改めて享受者に、その経緯を語っていこうとした筆運びである。文章上無駄を省いて格調高く語り出すことにも成功した。それにしても、ここに物語られる内容は、「桐壺」巻の主人公像とはあまりにかけ離れた意外な一面であり、享受者をして驚かせる。この物語の成立の問題や表現性を考えさせる。参考、和辻哲郎「源氏物語について」(『日本精神史研究』所収、全集第四巻)。
【ことことしう】−形容詞「ことことし」は清音(日葡辞書)。『集成』『新大系』は清音で読むが、『古典セレクション』は濁音「ことごとしう」と濁音で読んでいる。下文に係らない。連用中止法で、逆接の意味で続く。本居宣長が「此下にてもじをそへて心得べし」(玉の小櫛、五)と指摘する。
【言ひ消たれたまふ】−「光」の縁語で「言ひ消つ」と表現した(島津久基『講話』)。
【多かなるに】−形容詞「多し」の連体形の活用語尾「る」が「ん」と撥音化されて無表記されたという説と、終止形「多かり」の「り」がナ行音の前で撥音化して無表記になったという説とがある。「なり」は、伝聞推定の助動詞。「に」は、接続助詞。下文の「いとど」との文脈から添加の意である。別本の陽明文庫本の「おほかめるに」(多いように見えるのに)は、語り手の視覚による推量となる。『全書』『集成』『完訳』に「多いそうだのに」「多いようだのに」「多いということだのに」とある。聞く人は物語享受者であるともに、源氏自身もまた聞き知って、「名をや流さむと忍びたまひける」という文脈。なお、『対訳』『大系』は「たくさんあるのに」「多くあるのに」という「なり」のニュアンスを訳出せず、『評釈』は「多いのだのに」という「なり」を断定の意味で訳出する。
【いとどかかる好きごとどもを】−以下「名をや流さむ」まで全体を、源氏の自戒の念とも解釈しうる。その場合、「いとど」は「流さむ」に係る。また、「かかる好きごとども」とは、源氏が心中密かに思っている内容をさす。地の文とすれば、「いとど」は「聞き伝へて」に係り、物語伝承者の行為をいうことになる。「かかる好きごとども」は世の中に知られた源氏の色恋沙汰をさす。それは、いまだ語られていないが、物語伝承者と物語筆記編集者をそれを知っているので、このような語り方をしたことになる。両方に解釈しうるところは、両方に解釈して、その幅と含みをもって読んでいく。いずれにしても、物語享受者に期待感を抱かせる表現である。
【軽びたる名をや流さむ】−源氏の心。「や」(係助詞、疑問)、「む」(推量の助動詞)の主体者は源氏。それを、物語筆記編集者が間接的に伝える。
【語り伝へけむ人】−物語伝承者。「けむ」は過去推量の助動詞。伝承を伝え聞いての想像。
【もの言ひさがなさよ】−物語筆記編集者の物語伝承者のおしゃべりに対する非難。古注『河海抄』他に「ここにしも何匂ふらむ女郎花人の物言ひさがにくき世に」(拾遺集、雑秋、一〇九八、僧正遍昭)の和歌が指摘される。
【さるはいといたく】−「笑はれたまひけむかし」まで、物語筆記編集者の主人公光る源氏に対する批評。
【交野少将】−交野少将は昔物語に色好みの人物として有名。しかし、当時の物語享受者は、物語中の人物も歴史上の人物も厳密に区別していなかった。
【笑はれたまひけむかし】−物語筆記編集者がこの物語の主人公の行状に対して想像し(「けむ」)、かつ物語享受者に対し、同感を求め念を押した(「かし」)表現。
【まだ中将などにものしたまひし時は】−源氏が中将であることが初めて紹介される。中将は、従四位下相当官(定員、左右各一名)。「桐壺」巻では元服後でも「君」とあって、特に官職名で呼ばれていない。慣例によれば侍従となったか。「まだ」という語り方は、後の大将の物語を前提にした表現。古注『弄花抄』以下の注釈書に「まだ中将などに」から「うちまじりけり」までを草子地とする指摘(『孟津抄』)があるが、「まだ」「よう」「さしも」「あながちに」「あやにくにて」という表現には、物語筆記編集者の物語享受者を想定した語り方や物語の主人公に対する主観的判断が感じられなくもないが、物語伝承者と物語筆記編集者とを峻別することは難しい。「し」は、過去助動詞「き」(連体形)で、ここから、「けり」に代わって「き」が使われ出す。「ありしかど」にもある。物語筆記編集者の実際見聞した内容というニュアンスに近くなる。いよいよ物語の本題に入る。地の文(物語伝承者の話をそのまま筆記編集した文章)と考えてよい。
【内裏】−宮中。そこには父桐壺帝と憧れの継母藤壺がいる。
【大殿】−左大臣邸。そこには正妻の葵の上がいる。当時の結婚形態は夫が妻の家へ通うという通い婚形態であった。
【忍ぶの乱れや】−底本の明融臨模本には朱合点有り。「春日野の若紫の摺衣忍の乱れ限り知られず」(『伊勢物語』初段)の語句を引用。『源氏釈』が初指摘。『伊勢物語』初段の元服したばかりの色好みの主人公の世界を踏まえる。
【癖】−「さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性」と「まれにはあながちに引き違へ心尽くしなることを御心に思しとどむる癖」の相背反する性格づけが好色人の伝統を継承するこの物語の主人公固有性をかたどっている。参考、秋山虔「好色人と生活者」(『王朝の文学空間』所収)。
【あやにくにて】−「おりもおりというときに望ましからぬ方向に物事が起こって迷惑する状態」「おり悪く困ったことに」(小学館古語大辞典)。語り手の感想が言い込められている。挿入句。
【うち混じりける】−過去の助動詞「けり」で、序段を語り上げる。
 [第二段 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将]
【長雨晴れ間なきころ】−物語が具体的に展開し始める。時は夏の五月雨の季節、宮中の物忌みも多く、外出するのも億劫になる折柄、何かと気晴しを考えたくなるころ。物語の主題と季節的背景が有効に働いている。
【調じ出でたまひつつ】−接続助詞「つつ」は上に「よろづの」「何くれと」があるので、「調じ出づ」という動作の反復の意を表すと共に下文の御息子の君たちの「勤めたまふ」という動作も平行して行われている様子を表す。
【この御宿直所の】−源氏の御宿直所、淑景舎(桐壺)。源氏を「この」という近称で呼称する。なお、青表紙本の大島本、伝冷泉為秀本には「御とのゐ所に」(御宿直所で)とある。その他の青表紙本、河内本、別本はすべて「--の」とある。『全集』『完訳』『新大系』が「に」とある本文を採用する。
【宮腹の中将は】−頭中将。母が桐壺帝の妹宮(三の宮)である。前の「桐壺」巻には「宮の御腹は蔵人少将にて」とあった。今は中将に昇進。
【好きがましきあだ人なり】−地の文とも読めるが、語り手の頭中将に対する批評が言い込められた表現。「あだ人」の語句について、『異本紫明抄』は「秋と言へばよそにぞ聞きしあだ人の我をふるせる名にこそありけれ」(古今集、恋五、八二四 、読人しらず)「あだ人もなきにはあらずありながら我が身にはまだ聞きぞ習はぬ」(後撰集、恋三、一一九七、左大臣)を指摘する。
【里にてもわが方】−ここの里は左大臣邸の源氏の部屋。
【うち連れきこえたまひつつ】−主語は頭中将。接続助詞「つつ」は同じ動作の反復・継続の意。
【学問】−「学門 ガクモン」(『色葉字類抄』)「学文 ガクモン」(『文明本節用集』)。
【をさをさ立ちおくれず】−副詞「をさをさ」は下の打消の助動詞「ず」と呼応して、少しも--ない、の意を表す。
【かしこまりもえおかず】−副詞「え」は下の打消の助動詞「ず」と呼応して、--できない、の意を表す。
【つれづれと降り暮らしてしめやかなる宵の雨に】−再び物語の現在に戻る。夏の雨の夜、場所は淑景舎(桐壺)の源氏の部屋。
【書どもなど見たまふ】−主語は源氏。『新大系』は「手紙類をいろいろと。書物ではあるまい」と注す。
【御宿直所】−宮中の淑景舎(桐壺)、源氏の部屋
【書どもなど見たまふ】−主語は源氏。この「書(ふみ)」は漢籍類。
【色々の紙なる文どもを引き出でて】−主語は頭中将。この「文(ふみ)」は恋文。当時の恋文は美しい色の紙に仮名文字の連綿体散らし書きで書かれていた。
【ゆかしがれば】−「ゆかし」は、見たい、の意。頭中将は手紙の上包みを見ていたので、その中身を見たいのである。
【さりぬべき】−以下「かたはなるべきもこそ」まで、源氏の詞。連語「さりぬべし」は、動詞「さり」+完了の助動詞「ぬ」+推量の助動詞「べし」、そうなっても差し支えない、の意。
【かたはなるべきもこそ】−連語「もこそ」は、係助詞「も」+係助詞「こそ」は危惧・懸念を表す。下に「あれ」などの語が省略。
【そのうちとけて】−以下「見所はあらめ」まで、頭中将の詞。
【数ならねど】−頭中将が謙遜して自分のことをいう。
【書き交はしつつ】−接続助詞「つつ」は動作の反復・継続。
【やむごとなくせちに】−以下「心安きなるべし」まで、語り手の推量。推量の助動詞「べし」(当然の意)四度、「めり」(視覚による推量の意)一度、いずれも、語り手の源氏の行為に対する推量である。『帚木別注』他では、草子地と指摘する。
【おほぞうなる】−明融臨模本・大島本共に「おほそうなる」と表記する。「古写本の本文ではみな「おほぞう」で、「おほざう」ではない。」(岩波古語辞典)。『集成』は「おほざう」としている。
【片端づつ見るに】−以下、再び物語の現在に戻って語る。主語は頭中将。「づつ」は接尾語、また副助詞とも。手紙の一部分ずつを見ていく。
【かくさまざまなる物どもこそはべりけれ】−頭中将の詞。大島本を含め諸本「よく」とあるが、明融臨模本では「かく」と読める字形。「はべり」(動詞、丁寧の意を含む)+「けれ」(過去の助動詞、詠嘆の意、「こそ」を受け已然形)。「ございますなあ」という驚きのニュアンス。
【心あてに】−『河海抄』は「心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花」(古今集、秋下、二七七 、凡河内躬恒)を指摘する。
【それかかれか】−頭中将の詞。その手紙は誰々からのものか、あの手紙は誰々からのものか。
【をかしと思せど】−主語は源氏。
【とかく紛らはしつつ】−接続助詞「つつ」は動作の反復・継続。何かとごまかしごまししては、の意。
【そこにこそ】−以下「開くべき」まで、源氏の詞。「そこ」は懇意な間柄で使う二人称の代名詞。源氏は頭中将と従兄弟、かつその妹を正妻に迎え入れており、大変に親密な間柄であることは既に語られている。年齢は、頭中将が上であるが、血筋、身分の上では、源氏が上である。
【すこし見ばや】−終助詞「ばや」は、話者の願望の意を表す。
【御覧じ所あらむこそ】−以下途中に「など聞こえたまふついでに」という地の文を介在させて、「なくなむあるべき」まで、頭中将の詞。「御覧ず」の主格は、あなた源氏。
【難くはべらめ】−係助詞「こそ」の結び「はべらめ」已然形。強調のニュアンスを添える。ほとんどないでしょう。
【聞こえたまふついでに】−申し上げる、その機会に、の意。
【女のこれはしもと】−「女(をんな)」は、「男(をとこ)」の対。「女(め)」はやや卑しめられたニュアンスを伴う。「をんな」は、成人女性一般をさす。とくに結婚適齢期に達した女性、結婚関係を持つ女性に対して使われる。ここは、女性一般をさす。副助詞「しも」は強調の意。下に「めでたし」などの語が省略。頭中将の女性論。最初に結論を述べ、以下詳細に語るというのが、当時の論法である。
【見たまへ知る】−「たまふ」は謙譲の補助動詞(下二段活用)。
【随分によろしきも多かり】−「随分」は身分相応に、の意。「よろし」は、まあまあ良い、の意。「良し」よりは劣る。「わろし」よりは上。
【見たまふれど】−「たまふ」は謙譲の補助動詞(下二段活用)已然形。
【かならず漏るまじきは】−副詞「かならず」は下に打消し推量の助動詞「まじ」と呼応して、必ずしも--とは限らない、の意を表す。
【生ひ先籠れる窓の内なるほどは】−明融臨模本は「まとの」に朱合点あり。『奥入』(自筆本)は「楊家有女初長成養在深窓人未識」(白氏文集、長恨歌)を指摘する(明融臨模本・大島本は「深宮」、流布本「白氏文集」では「深閨」とある)を指摘する。
【心を動かすこともあめり】−「あめり」は「あるめり」が撥音便化して「あんめり」となり「ん」が無表記化された形。推量の助動詞「めり」(主観的推量のニュアンス)は話者である頭中将の推測。
【容貌をかしく】−「をかし」は動詞「を(招)く」の形容詞形、好意をもって招き寄せたい、意。容貌に対しては、美しく心ひかれる、魅力的である、の意。
【見る人】−世話をする人。乳母や女房など。
【さてありぬべき方】−「さ」は、人に話してもよさそうな内容、「ぬ」(完了の助動詞、確述)、「べき」(推量の助動詞、当然)、「人に話しても確実に請け合えそうな」という、ニュアンス。
【なくなむあるべき】−係助詞「なむ」は「べき」(連体形)に係り強調のニュアンスを添える。「べき」(推量の助動詞、推量)、頭中将の確信に満ちた推量、「きっと--であろう」。
【恥づかしげなれば】−源氏が頭中将の自信満々なのを見て、気後れする。
【われ思し合はすることやあらむ】−明融臨模本「我(我+モ)」の「モ」は後人の補入。大島本には「も」ナシ。『新大系』は大島本を底本として「我おぼしあはすること」とするが、『集成』『古典セレクション』は他本に拠って「我も思しあはする」と「も」を補っている。「われ」は源氏をさす。「思し合はする」の主語は、源氏。「や」(終助詞、疑問)、「む」(推量の助動詞)の疑問や推量の言語主体者は語り手。ここは語り手の源氏の心理を推量した挿入句。
【その片かどもなき人はあらむや】−源氏の問い。
【いとさばかりならむあたりには】−以下「ことに耳たたずかし」まで、頭中将の詞。源氏の問いに対する答え。「さばかり」は「片かどもなき人」をさす。
【誰れかはすかされ寄りはべらむ】−反語表現の構文。誰がだまされ寄り付きましょうか、誰も騙されはしないの意。
【品高く生まれぬれば】−「ぬれば」は(完了の助動詞「ぬ」已然形+接続助詞「ば」)順接の確定条件。以下、女性を「上の品(かみのしな)」「中の品(なかのしな)」「下の品(しものしな)」の三階層に分ける。
【いと隈なげなる気色】−頭中将の様子。
【ゆかしくて】−主語は源氏。さらに聞きたい気持ち。
【その品々やいかに】−以下「いかが分くべき」まで、源氏の問い。没落貴族と成り上がり貴族とはどうなるのか。その身分身分の相違はどのように考えたらよいのか、の意。
【人げなき】−以下の「劣らじと思へる」とは並立。「--人げなき人と、--劣らじと思へる人との、そのけじめは」という構文。
【直人】−平凡な家柄の人、ここでは五位あるいは六位くらいの人を想定してよいか。なお、五位にも従五位下、従五位上、正五位下、正五位上の四段階がある。
【上達部】−大臣・大中納言・参議及び三位以上の人。
【藤式部丞】−青表紙本の明融臨模本、伝冷泉為秀本は「藤しきふのせう」、大島本は「藤式部のせ(そ)う」(「せ」を「そ」と訂正)。なお別本の国冬本には「藤式部大輔」(藤原の式部大輔、式部省の次官)とある。なお、八省の次官(すけ)は、大輔(たいふ)・少輔(せう、「せうふ」の転、「せふ」とも)、三等官の判官(ぞう、発音はジョウの直音化)は、大丞(だいぞう)・少丞(せうぞう)である。令の規定では、三等官は一般に「ぞう、ジョウ」と呼称され、役所によって「祐」(神祇官)「丞」(八省)「允」(寮)「佑」(司)「尉」(衛門府、兵衛府、検非遺使庁)「六位蔵人」(蔵人所)「判官」(勘解由使、斎院司)「掾」(国司)「掌侍」(女官)など、漢字の当て方はさまざまであるが、読み方は「じょう」である。たまたま、八省の場合、「少輔」(せう)と「判官」(そう)と「丞」(しよう)との仮名遣いが紛らわしいので、ここは、その誤りから生じた異文である。
【いと聞きにくきこと多かり】−語り手の登場人物たちの話の内容に対する評語。『一葉抄』他が草子地と指摘する。
 [第三段 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる]
【なり上れども】−以下「多かりかし」まで、話者を(1)左馬頭とする説(講話・全書・対訳・対校・大系・評釈・全集・集成)と、(2)頭中将とする説(完訳・新大系・古典セレクション)がある。物語の経緯(左馬頭は今参上したばかり)、三階級説の提示と未説明部分を残すこと、話中の人物に対する身分意識(話者は身分のある人)などから、頭中将の三階級説として読んでみたい。
【時世に移ろひて】−時勢に流されて、の意。
【出でくるわざなめれば】−「なめれ」は「なるめれ」の「る」が撥音便化して「なんめれ」となり、さらに「ん」が無表記化された形。話者の断定と主観的推量のニュアンス。
【けしうはあらぬ】−悪くはない者を。すなわち相当によい者、かなりの者。
【なまなまの上達部よりも非参議の四位どもの】−「なまじっかの上達部(三位)よりも非参議の四位連中で」という発言は、左馬頭などの発言としてはやや不遜な言い方になろう。頭中将なら許容されよう。
【はたなかめるままに】−副詞「はた」は、また、やはり、の意。「なかめる」は「なかるめる」が撥音便化して「ん」が無表記化した形。推量の助動詞「めり」は話者の主観的推量のニュアンスを表す。
【宮仕へに出で立ちて】−「宮仕へ」には、女房として出仕するというばかりでなく、帝の妃として仕えるという意もある。ここは後者の意。例えば、桐壺更衣の例などがある。
【など言へば】−以上の話者には敬語が付いていない。
【すべてにぎははしきによるべきななり】−源氏の間の手。「ななり」は「なるなり」(断定の助動詞+推量の助動詞)が撥音便化して「ん」が無無表記化した形。
【笑ひたまふを】−源氏の動作には「たまふ」という尊敬の補助動詞が付いて他の人々と区別される。
【異人の言はむやうに、心得ず仰せらる】−頭中将の詞。源氏の君らしからぬ発言だ、という意。
【中将憎む】−頭中将には、敬語が付かない。他者と区別するときは、「中将」と明記している。
【元の品】−以下「捨てがたきものをば」まで、左馬頭の詞。『新大系』は「引き続き頭中将の言か。それとも左馬頭の言か。複数の発言からなる議論とも取れる」と注す。一般的には左馬頭の詞とする。
【さらにも言はず】−副詞「さらに」は舌の「ず」と呼応して、まったく--ない、の意。全然論外である。
【さるべきこととおぼえて】−「さる」は「すぐれたらむ」をさす。
【なにがしが及ぶべきほどならねば】−「なにがし」は、謙遜の自称。左馬頭の詞と知られる。
【葎の門】−『伊勢物語』『宇津保物語』などに、零落した人の家に意外に美しい女を見つけ出した話がある。それらをふまえる。
【いかではたかかりけむと】−「いかで--けむ」疑問表現の構文。「かかり」は、このような場所にこのような女性が、という内容をさす。「けむ」(過去推量の助動詞、「いかで」を受けて連体形)、どうして、このような場所にこのような素晴しい女性がいたのだろうと。
【思ひやりことなることなき閨の内に】−「思ひやり」は、よそから想像して、の意。格別すばらしいとも思われない家の奥に。
【いといたく思ひあがり】−「思ひあがり」は、気位が高い、誇り高い、の意で、貴族としては賞賛される態度。
【いかが思ひの外にをかしからざらむ】−「いかが--む」反語表現の構文。意外にも興味が惹かれる、の意。
【すぐれて疵なき方の選びにこそ】−「すぐれて」は、副詞「すぐれて」特に、とりわけ、ひときわ、の意と動詞「すぐれ」+接続助詞「て」、優れていて、の意と解せる。前者の意で解す。『新大系』は「正妻に決定する場合には及第しないにせよ、その程度の女としては、の意」と注す。
【さる方にて】−父親は老人で見苦しく太り過ぎ、兄弟も憎々しげな様子、思っても大したことのなさそうな家に、誇り高く暮らして、書、和歌、琴などの芸事なども雅趣ありげにこなし、生かじりの才能が窺える女性をさす。
【捨てがたきものをは】−「をは」は、間投助詞「を」+終助詞「は」、共に詠嘆の意を表す。捨てたものではないなあ、の意。「をば」を格助詞「を」目的格+係助詞「は」濁音化(動作の対象を取り立てて強調する意)と解すると、「捨てたものではない人をば」どうするのか、それを受ける語句がない。『古典セレクション』は「「を」は間投助詞で詠嘆、「は」は係助詞で感動を表す。「をは」として文末にあるときは詠嘆を表す」と注す(待井新一も同説)。
【わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにやとや心得らむ】−「わが」は式部丞をさす。式部丞の娘たちが結構な評判であるのを。「思ひてののたまふ」の主語は左馬頭。「に」(断定の助動詞)「や」(間投助詞、疑問)、下に「あらむ」などの語句が省略された形。式部丞の心中。「心得」の、左馬頭の動作を断定し疑問に思う主体者は、式部丞。左馬頭は思っておっしゃるのだろうかと式部丞は合点する。「と」(格助詞、引用)の下接の「や」(間投助詞、疑問)の疑問の主体は、語り手の疑問でる。「らむ」(推量の助動詞、視界外)の推量する主体者も、語り手。「--のであろう」。この文全体の最後は、語り手による登場人物式部丞の態度に対する推量が言い込められた表現で統括されている。
【いでや上の品と思ふにだに難げなる世をと君は思すべし】−「いでや」は「君」(源氏)の反発をこめた気持ちの発語。「思す」は「思ふ」の尊敬語。「べし」(推量の助動詞、推量)の推量する人は語り手。「確かに--と思っているようだ」のニュアンス。『首書源氏物語所引或抄』は「源氏の心を地より云なり」と指摘した。
【白き御衣どもの】−以下、源氏の服装や態度を描写する。
【なよらか】−明融臨模本では本文「なよか」とあり、「ら」と「よ」がそれぞれ朱筆で左右行間に補入されている。右側に朱筆で補入された「ら」を採用した。『集成』『新大系』『古典セレクション』は「なよよか」とする。踊り字「ゝ」と「ら」の字体は大変よく似ている。『岩波古語辞典』は「なよよか」「なよらか」両語を掲出している。
【しどけなく着なしたまひて】−わざとだらしなくお召しになって、の意。
【女にて見たてまつらまほし】−主語は一座の男たち。源氏を女性として拝見したい。源氏は中性的な容貌姿態をしていたのであろう。
【この御ためには】−源氏をさす。
【語り合はせつつ】−「語り合はす」は比較しながら議論する、意。接続助詞「つつ」は動作の反復の意。議論し合い議論し合いして、の意。
【おほかたの世につけて】−以下「出でばえするやうもありかし」まで、左馬頭の詞。理想的な女性は少ないことを説く。「世」は男女の仲、「見る」は男女の交りをする、結婚する、の意であるから、ここは、世間一般の男女の仲についていうのではなく、自分の身の上に、通り一遍の男と女の仲としての付き合っていくには、の意。
【えなむ思ひ定むまじかりける】−副詞「え」--打消推量の助動詞「まじかり」で不可能の意。係助詞「なむ」--過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意。係結びの法則、強調のニュアンスを表す。
【男の朝廷に】−以下、男性官吏の国政の運営の難しさを例にあげて、やがて家政の運営の難しさへと進めていく論法である。
【世のかためとなるべきもまことの器ものとなるべき】−「--べき、--べき」という並立の文章表現である。「世の固め」は世の中を治めること。国家の柱石。男性官吏でも国家の柱石となり大器を見つけ出すのは難しいと、結論から述べる。
【上は下に輔けられ下は上になびきてこと広きに譲ろふらむ】−「広きに」の「に」は接続助詞、順接、原因理由を表す。広いので、の意。「譲ろふ」は「譲る」に「ひ」(接尾語)が付いて、反復継続の意を表す動詞。『古典セレクション』は「ゆつろふ」と清音で読み、「「ゆつる」(移る、の意)に継続の「ふ」がついた形、規格をゆるくして、それで何とか(融通して)都合をつけてゆくのであろう」と注す。推量の助動詞「らむ」視界外推量のニュアンス。推量者は話者左馬頭。『評釈』は「十七条憲法」の「上行下靡」を指摘した。すなわち「三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。(中略)是以君言臣承。上行下靡」<三に曰く。詔を承りては必ず謹め。君をば天とす。臣をば地とす。(中略)是を以て君言ふをば臣承る。上行ふときは下靡>(訓読は『日本思想大系』による)。漢籍には、『論語』「顔淵」に「君子之徳風也、小人之徳草也。草尚之風必偃」<君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草は之の風を尚びて必ず偃す>、『説苑』「君道」に「上之化下、猶風靡草」<上の下を化するは、猶風の草を靡かすがごとし>などとある。
【狭き家の内】−以下、国政の運営に対して、家庭経営と女性について述べて行く。
【とあればかかりあふさきるさにて】−明融臨模本は「あふさきるさにて」に朱合点有り。『源氏釈』は「そゑにとてとすればかかりかくすればあないひしらずあふさきるさに」(古今集、俳諧、一〇六〇、読人しらず)を指摘した(ただし、第一句が「しかありと」または「しかあれは」とある)。『古今集』の本文は「とすればかかり」であるが、『源氏物語』の本文では「とあればかかり」とするものが多い。「あふさきるさ」は、一方が良ければ一方が悪いこと、行き違って物事がうまく行かないさま。
【なのめにさてもありぬべき】−【なのめにさても】−十分とは言えなくても、不十分ながらも、の意。
【さてもありぬべき】−「さ」は家庭の主婦として。「ぬ」(完了の助動詞、確述)+「べき」(推量の助動詞、可能)、家庭の主婦として必ずやって行けるだろう、のニュアンス。
【少なきを】−接続助詞「を」原因理由を表す。--ので、の意。
【見そめつる契りばかりを捨てがたく思ひとまる人】−「契り」は前世からの約束。後に登場する光る源氏の息子である夕霧がその典型的な人。
【推し量らるるなり】−「るる」自発の助動詞。「なり」断定の助動詞。自然と想像されるのです、の意。
【されど何か】−「何か」は下に係っていく語がない。よって、「何か」は感動詞、なんの、なあに、の意。「いやなあに、どうしてどうして。上のことを軽く打消し、反対のことを述べるときに用いる語」(待井新一)。
【君達の】−ここでは、源氏や頭中将を念頭において言った表現である。
【足らひたまはむ】−明融臨模本「たら(ら=く)ひ」とある。「く」は後人の筆。大島本は「たくひ」とある。『集成』『新大系』『古典セレクション』は「たぐひ」と校訂する。明融臨模本の本行本文のままとする。推量の助動詞「む」連体形、推量の意。「いかばかりの人かは」と呼応して、疑問の意となる。反語とまではいえまい。
【若やかなるほどの】−格助詞「の」同格を表す。若々しい年頃で、の意。
【思はせつつ】−接続助詞「つつ」動作の反復・継続を表す。
【言少ななるが】−「少な」形容詞、語幹、断定の助動詞「なる」連体形。以上の文の主語となっている。
【もて隠すなりけり】−過去の助動詞「けり」詠嘆を表す。
【とりなせばあだめく】−「とりなせば」の主語は男、「あだめく」の主語は相手の女。相手の情趣に合わせて機嫌をとっていると、女はますます色っぽい態度をとるようになってくる、の意。
【事が中に】−妻の仕事の中で。
【もののあはれ知り過ぐし】−風流性に傾き過ぎるタイプの女性評。
【見えたるに】−接続助詞「に」逆接の意。
【まめまめしき筋を立てて】−家事一点張りのタイプの女性評。
【ばかりをして】−これを受ける述語がない。したがって、ここで文が切れる。こうした女も困ったものだ、の意が下に略されている。
【朝夕の出で入りにつけても】−以下、「まめまめしき筋を立てて耳はさみがちに美さうなき家刀自」の具体的な振る舞いの例。
【疎き人にわざとうちまねばむやは】−係助詞「やは」反語の意を表す。親しくない他人にわざわざそっくり話して聞かせようか、そのようなことはしない、親しい妻と思えばこそ聞かせようとするのだ、意。
【見む人】−妻をいう。
【おほやけ腹立たしく】−(1)「おほやけはらだたしき」(集成・新大系)、(2)「おほやけばら立たしき」(古典セレクション)。「公腹立つ」の語例は、『枕草子』二六八段にある。その形容詞形の「公腹立たし」であるが、どう連濁するか判然としない。『岩波古語辞典』『古語大辞典』では「おほやけはらだたし」を見出し語とする。
【何にかは聞かせむ】−反語表現。「聞きわき思ひ知らぬ」妻であったら、の文意が省略されている。理解のない妻に、何で聞かせようか、聞かせてもしかたがない、の意。
【うち独りごたるるに】−「るる」自発の助動詞。接続助詞「に」順接の意。
【いかがは口惜しからぬ】−反語表現。どうして残念に思わないことがあろうか、そう思わずにはいられない、の意。以上、実務一点張りの妻の場合、家事や日常生活に埋没している妻の論。後に、夕霧の妻である雲居雁の例がこれに近い(「横笛」「夕霧」巻)。
【ただひたふるに子めきて】−『色葉字類抄』(院政期)には「ヒタフル」と清音である。以下、まだ型にはまっていない女性についての論。紫の上の例がこれに近いであろう。
【などか見ざらむ】−反語表現。「見る」は結婚する意。どうして結婚しないでいられようか、そうするのも悪くないことだ、の意。
【さてもらうたき方に】−連語「さても」の「さ」は「心もとなくとも」をさす。
【をりふし】−「時節 ヲリフシ」(『名義抄』)。
【隈なきもの言ひも】−『河海抄』は「思ふてふ人の心のくまごとに立ち隠れつつ見る由もがな」(古今集、俳諧、一〇三八、読人しらず)を指摘した。「隈なき」の語から連想される和歌である。
 [第四段 女性論、左馬頭の結論]
【今はただ】−以下「さははべらぬか」まで、左馬頭の詞。夫婦間の寛容と知性を説く。
【さらにも言はじ】−副詞「さらに」--打消推量の助動詞「じ」、決して--ない、少しも--ない、の意を表す。
【ねぢけがましきおぼえだになくは】−副助詞「だに」は下に打消しの語を伴って、最低限・最小限のニュアンスを添える。「なくは」(形容詞、連用形+係助詞「は」)は仮定条件を表す。「--さえなければ」の意。『河海抄』は「奈良山の児の手柏のふたおもてとににもかくにもねぢけ人かも」(古今六帖六、かしは、四三〇三)を指摘した。「ねぢけ」の語から連想される和歌である。
【よるべをぞつひの頼み所には思ひおくべかりける】−係助詞「ぞ」は「べかりける」(推量の助動詞「べし」当然の意、連用形+過去の助動詞「けり」連体形、詠嘆の意)に係る。
【あまりのゆゑよし心ばせ】−「あまり」は余分の意。「ゆゑ」は教養・趣味の意。「よし」は情趣・風情の意。「ゆゑよし」は趣きを解する洗練された様子、奥ゆかしいさま。「心ばせ」の語に関して、青表紙本系の池田本、伝冷泉為秀本、三条西家本、別本群の陽明文庫本は「心はえ」とする。「心ばせ」は、機知、機転、気づかい、気立て、といったニュアンスが強い。「心ばへ」は、性質、心づかい、趣向、趣味、といったニュアンスが強い。
【うち添へたらむをば】−推量の助動詞「む」連体形、仮定・婉曲の意味。下に「女」などの語が省略されている。格助詞「を」目的格+係助詞「は」濁音化した形、動作の対象を取り立てて強調するニュアンスを表す。加わっているような女をば、の意。「よろこびに思ひ」に係る。
【後れたる方あらむをも】−推量の助動詞「む」仮定・婉曲の意味。少し劣っている方面があるようでも、の意。係助詞「も」は同類を表す。「求め加へじ」に係る。
【所だに強くは】−副助詞「だに」は最低限・最小限の希望ぼ意を表す。「強く」(連用形)+係助詞「は」仮定条件を表す。「おのづからもてつけつべき」に係る。
【もてつけつべきわざをや】−「もてつけ」+「つ」(完了の助動詞、確述)+「べき」(推量の助動詞、可能)+「わざ」+「をや」(間投助詞+終助詞、詠嘆、強い感動の意を表す)。身に付けることがきっとできるものだからな、の意。
【はひ隠れぬるをり】−完了の助動詞「ぬる」連体形のと動詞「をり」の間に「女」などの語が省略されている。青表紙本系の明融臨模本、松浦本、池田本、伝冷泉為秀本は「はひかくれぬるおり」とあり、一方、大島本は「はひかくれぬるおりかし」とあり、三条西家本や書陵部本、河内本系は「はひかくれぬるかし」とある。別本群の陽明文庫本は「はひかくれぬるをり」、国冬本は「はひかくれぬるを」とある。ただ、明融臨模本には「ぬる」と「おり」との間の右傍らに墨筆で「かし」とあり、早くから本文の混乱があったようである。
【童にはべりし時】−「はべり」は自動詞ラ変活用。丁寧語。過去の助動詞「し」(「き」連体形)は、自らの体験を表す。以下、左馬頭の子供のころの体験談。
【女房などの物語読みしを聞きて】−国宝『源氏物語絵巻』「東屋」第一段に、一人の女房が物語を読み上げているのを、浮舟は絵を見ながら、また中君は髪を梳かせながら、周囲の女房らとともに聞いている様子が描かれている。
【涙をさへ】−副助詞「さへ」は添加の意を表す。
【見る目の前につらきことありとも】−挿入句として置かれている。接続助詞「とも」は仮定条件を表す。たとえ--ても、の意。
【心を見むとするほどに】−下に、夫婦の縁が切れて、の意が省略されている。
【やがて尼になりぬかし】−副詞「やがて」は、そのままの意。「ぬかし」(完了の助動詞「ぬ」確述+終助詞「かし」念押し)
【返り見すべくも思へらず】−係助詞「も」強調の意。「思へらず」に係る。「思へ」已然形+完了の助動詞「ら」未然形+打消の助動詞「ず」。
【いであな悲しかくはた思しなりにけるよ】−知り合いの人の同情したことば。
【あへなく心細ければ】−尼削ぎして髪が短くなっているので。
【折々ごとにえ念じえず】−副詞「え」は打消の助動詞「ず」と呼応して不可能の意を表す。「念ず」は堪える、我慢する、意。
【濁りにしめるほどよりもなま浮かびにては】−明融臨模本は「にこりに」に朱合点有り。『源氏釈』は「はちす葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(古今集、夏、一六五、僧正遍正)を指摘した。生半可な悟りようではかえって悪道に堕ちることになる、の意。光る源氏(作者紫式部のと言ってもよい)の出家観は「御法」巻(第一章一段)に語られている。
【尋ね取りたらむも】−推量の助動詞「む」仮定・婉曲の意。係助詞「も」は「契り深くあはれならめ」に係る。
【やがて】−青表紙本系の大島本と別本群の国冬本には、この語の次に「そのおもひいてうらめしきふしあらんやあしくもよくも」(その時の思い出に恨めしいことがあるのだろうか、良くも悪くも)の句がある。
【見過ぐしたらむ仲こそ】−係助詞「こそ」は「契り深くあはれならめ」に係る。推量の助動詞「め」已然形、下文に続く逆接用法。下の文との間に、それにも関わらず家出したりすると、の意が省略されている。
【心おかれじやは】−自発の助動詞「れ」未然形、打消推量の助動詞「じ」終止形、係助詞「やは」反語の意。自然と気をつかわずにいられましょうか、気をつかわずにはいられません、の意。また、自然と気まずくならないでしょうか、気まずくならずにはいられません、の意。
【気色ばみ背かむ】−推量の助動詞「む」連体形、仮定・婉曲の意。下に「ことは」などの語句が省略されている。
【はたをこがましかりなむ】−副詞「はた」は、「ある一面についを認めながら、それとは別の一面について述べる語」(小学館古語大辞典)の用法。それはそれとしてまた、の意。完了の助動詞「な」未然形、確述の意。推量の助動詞「む」推量の意。
【心は移ろふ方ありとも】−接続助詞「とも」は、動詞の終止形に接続して逆接の仮定条件を表す。--があったとしても、の意。
【見そめし心ざしいとほしく思はば】−接続助詞「ば」は未然形の下に接続して仮定条件を表す。
【さる方のよすが】−「さる方」は「見そめし心ざし」をさす。
【思ひてもありぬべきに】−係助詞「も」強調の意、「ありぬべき」に係る。完了の助動詞「ぬ」確述の意、推量の助動詞「べき」当然の意、接続助詞「に」逆接の意を表す。きっとあるでしょうに、の意。
【さやうならむたぢろきに】−「さやうならむ」は「人の心を見知らぬやうに逃げ隠れて、人をまどはし」や「あはれ進みぬれば、やがて尼になりぬ」、「移ろふ方あらむ人を恨みて、気色ばみ背かむ」など、女の態度をさす。
【すべて、よろづのこと】−以下、左馬頭の結論。夫の浮気に対する妻の賢い身の処し方が述べられる。
【わが心も見る人から】−「わが心」は夫の浮気心、「見る人」は妻をさす。
【軽き方にぞおぼえはべるかし】−妻が軽く見られる、意。
【繋がぬ舟の浮きたる例】−明融臨模本は「つなかぬふねの」に朱合点有り。『源氏釈』は「観身岸額離根草論命江頭不繋船」(和漢朗詠集、無常、七九〇 、羅維)を指摘。なお、『文選』に「泛乎若不繋之船」(巻十三)、『荘子』に「汎若不繋之舟」(列禦寇)ともある。
【げにあやなし】−副詞「げに」は「繋がぬ舟の浮きたる例」を受ける。なるほど繋がない舟の喩えどおり、の意。
【と言へば】−主語は左馬頭。敬語は使われない。
【中将うなづく】−頭中将の納得する様子。
【さしあたりて】−以下「あるまじかりけり」まで、頭中将の詞、寛大さと忍耐が大切と理解する。
【をかしともあはれとも心に入らむ人】−夫とも妻ともとれる。両説ある。「「人」は妻。通説は夫」(古典セレクション)。『集成』も「女」説。『新大系』は「男」説。いま、夫の方に浮気をしているような疑いがある場合と解釈して読む。暗に「夫」を妹の夫である源氏のこととして読むと、下の頭中将の「わが妹の姫君は、この定めにかなひたまへりと思へば」や源氏にとって耳の痛い話なので「君のうちねぶりて言葉まぜたまはぬ」ことによく整合する。
【わが心あやまちなくて見過ぐさば】−妻が夫の浮気の疑いに取り乱したり乱心したりせずに、知らないふりする、の意と解す。
【さし直してもなどか見ざらむ】−主語は妻。「さし直す」は、気持ちを入れ直すこと。「など」(副詞)+「か」(係助詞、反語)、「む」(推量の助動詞、推量)に係る。どうしてか、心を入れ変えて添い遂げることがないだろうか、きっと添い遂げるだろう、の意。
【それさしもあらじ】−「それ」は「などか見ざらむ」をさす。副詞「さしも」は打消・反語の表現を伴って、そうとばかり、そのようには、の意を表す。打消推量の助動詞「じ」終止形、推量の意。
【違ふべきふしあらむを】−推量の助動詞「む」連体形、仮定・婉曲の意。格助詞「を」目的格を表す。
【あるまじかりけり】−ラ変動詞「ある」連体形+打消推量の助動詞「まじかり」連用形+過去の助動詞「けり」詠嘆の意。ないようですなあ。
【わが妹の姫君】−頭中将の妹、葵の上をさす。源氏の妻である。
【この定めにかなひたまへり】−「たまへ」尊敬の補助動詞。自分の妹ではあるが、源氏の妻であるため敬語を用いている。多少嫉妬し忍耐と寛容をもっていること。
【君のうちねぶりて】−源氏は議論に退屈して居眠りしたふりをしているが、実は源氏夫婦に当てはまる耳の痛い話なので寝たふりをしている。
【心やましと思ふ】−主語は頭中将。
【ひひらき】−「囀 サヘヅル カマビスシ ヒヒラク」(『名義抄』)。清音である。
【あへしらひゐたまへり】−尊敬の補助動詞「たまへ」は頭中将の態度・動作に対する敬語。
【よろづのことによそへて】−以下「申しはべらむ」まで、左馬頭の詞、芸道の技に喩える。
【木の道の匠】−指物師。木製の家具調度類を作る職人。
【作り出だすも】−係助詞「も」は「をかしきもあり」に係る。
【臨時のもてあそび物の】−「もてあそび物の」の格助詞「の」同格を表す。--で、の意。
【跡も定まらぬは】−係助詞「は」は「そばつきさればみたる」に係る。
【そばつきさればみたるも】−係助詞「も」は「かうもしつべかりけり」に係る。
【うるはしき人の調度の飾りとする】−「人の」の格助詞「の」所有格、「調度の」の格助詞「の」同格。「--飾りとする」は下に「物を」が省略されている。次の「定まれるやうある物」と並列。「難なくし出づる」に続く。
【し出づることなむ】−係助詞「なむ」は「見え分かれはべる」(連体形)に係る。
【絵所】−宮中の絵画を扱う役所。令制の画工司。
【墨がきに選ばれて】−墨で構図などの下絵を描く人。集団で製作する時の中心的役割をする人。彩色などは弟子が行った。なお『新大系』では「選はれて」と清音表記。『岩波古語辞典』では「えらひ」<金光明最勝王経 平安初期点>の用例を挙げ、「奈良時代にハ行の活用をした動詞は、オモヒ(思)のように、平安中期以後ワ行に発音するのが普通だったが、シノヒ(偲)がシノビと変化したように、稀にバ行に発音したものがある。エラビもその一つ」と指摘する。
【次々にさらに】−「次々に」の下に「見るに」または「書くに」などの語句が省略されている。副詞「さらに」は「見え分かれず」に係る。打消の助動詞「ず」と呼応して、全然--ない、の意を表す。
【魚】−「魚、ウヲ、俗云、イヲ」(『名義抄』)、「魚、宇乎<ウヲ>、俗云、伊遠<イヲ>」(『和名抄』)。
【目に見えぬ鬼の顔などの】−「顔などの」の格助詞「の」同格を表す。鬼の顔などで、の意。『古今和歌集』仮名序の「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」の表現を下に敷く。
【さてありぬべし】−唐絵は唐絵としてそれで結構でしょう、の意。
【世の常の山のたたずまひ】−以下、倭絵について論じる。神護寺蔵の国宝「山水屏風」が参考になる。
【げにと見え】−なるほど、見慣れた風景らしいと見えて、の意。
【け近き籬の内をば】−『完訳』は「下に「描くに」ぐらいを補う」と指摘。この語句は、「上手は」と「悪ろ者は」に係る。
【手を書きたるにも】−以下、書道について論じる。
【ここかしこの】−格助詞「の」主格を表す、あちらこちらが、の意。「気色ばめるは」に続く。
【点長に走り書き】−挿入句。点を続けるような感じに筆を走らせて書く気取った書き方。
【気色ばめるは】−係助詞「は」は「気色だちたれど」に係る。
【書き得たるは】−係助詞「は」は「消えて見ゆれど」に係る。
【とり並べて見れば】−接続助詞「ば」は已然形に付いて順接の確定条件を表す。
【実になむよりける】−係助詞「なむ」、過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意。係結びの法則、強調のニュアンスを添える。本物が良いものですなあ、の意。
【はかなきことだにかくこそはべれ】−「だに---まして」の構文。副助詞「だに」は最低限、限定を表し、--でさえ、の意。結論へと導く。係助詞「こそ」「はべれ」已然形、係結びの法則。強調のニュアンスを添える。
【まして人の心の】−「心の」の格助詞「の」は同格を表す。「見る目の情けをば」と共に「え頼むまじく思うたまへ得てはべる」に続く。
【え頼むまじく思うたまへ得てはべる】−副詞「え」は打消推量の助動詞「まじく」連用形と呼応して不可能の意を表す。「思う」は「思ひ」連用形のウ音便形。「たまへ」下二段活用の謙譲の補助動詞。丁寧語「はべる」連体形、連体中止法。含みをもたせた余情的表現。
【そのはじめのこと好き好きしくとも申しはべらむ】−以上、左馬頭の芸能に喩えた論。以下、体験談に移る。「そのはじめのこと」は、女性を知り始めたころのこと。
【とて近くゐ寄れば】−左馬頭がにじり寄るので。興味深々の話をしようという態度。
【君も目覚ましたまふ】−源氏の君も目をお覚ましになる。再び興味をもって聞こうとする。
【中将いみじく信じて】−頭中将はひどく本気になって。
【法の師の世のことわり説き聞かせむ所の心地するも】−法師が説法をしている所の気がするのも。『花鳥余情』は、雨夜品定めの段の構成を『法華経』の三周説法による、と指摘する。すなわち、「法説一周」(方便品)、上根の者に直接仏の教えを説く。「ますことあるまじかりけり」まで、女性論の結論を述べる。次に「譬説一周」(譬喩品から薬草喩品)、中根の者に譬えをもって仏の教えを説く。「よろづのことによそへて思せ」以下「え頼むまじく思うたまへてはべる」まで、芸能の譬えをもって論じたところ。最後に「因縁説一周」(化城喩品)、下根の者に過去の因縁をもって仏の教えを説く。「そのはじめのこと好き好きしくとも申しはべらむ」以下に語られる体験談がそれに当る。
【かかるついではおのおの睦言もえ忍びとどめずなむありける】−語り手の評言。
 

第二章 女性体験談

 [第一段 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語)]
【はやうまだいと下臈にはべりし時】−以下「うるさくなむはべりし」まで、左馬頭の体験談。過去の助動詞「し」(「き」連体形)は自らの体験を表す。この人びとの中で、最年長者。しかし、位階や官職では、若い源氏や頭中将に劣る。語り方は、「侍り」を頻出した丁重な語り方であるとともに、経験豊な者の語り方である。「嫉妬深い女」の物語。
【聞こえさせつるやうに】−実務一点張りの女、「まめまめしき筋を立てて耳はさみがちに美さうなき家刀自のひとへにうちとけたる後見ばかりして」をさす。
【若きほどの好き心】−青表紙本系の明融臨模本と大島本は「すき心」、その他の青表紙本系の松浦本、池田本、伝冷泉為秀本、三条西家本、書陵部本と別本の国冬本は「すき心地」。河内本系諸本は「すさひ心」。別本群の陽明文庫本は「すさひ心」。すなわち、A「好き心」(明大)、B「好き心地」(松池秀三証・国)、C「すさび心」(河・陽)となる。Aは青表紙本系統内の単独共通異文、Bは青表紙本系諸本と別本の両方にわたる複数共通異文。Cは河内本系諸本と別本の両方にわたる共通異文である。『集成』『新大系』は「すき心」のまま、『古典セレクション』は「すき心地」と校訂する。
【とまりにとも思ひとどめはべらずよるべとは思ひながら】−「とまり」は生涯の伴侶、正妻。「よるべ」は通い妻、側室。
【とかく紛れはべりしを】−接続助詞「を」順接を表す。他の女性に浮気しておりましたところ、の意。
【おいらかならましかばと思ひつつ】−反実仮想の助動詞「ましか」未然形、下に「うれしからまし」または「良からまし」などの語句が省略されている。接続助詞「つつ」は動作の反復を表す。
【かく数ならぬ身を】−以下「思ふらむ」まで、左馬頭の自問自答の心。主語は女。『花鳥余情』は「かつ見つつ影離れ行く水の面にかく数ならぬ身をいかにせむ」(拾遺集、恋四、八七九、斎宮女御)を指摘。
【などかくしも思ふらむ】−副助詞「しも」強調のニュアンスを添える。推量の助動詞「らむ」原因推量を表す。なぜこんなにも愛しているのだろうか、の意。
【心苦しき折々】−左馬頭が女を気の毒と思う時々。
【いかでこの人のためにはと】−左馬頭をさす。
【なき手を出だし後れたる筋の心をも】−無理な算段をして、不得手な方面も。
【思ひはげみつつ】−接続助詞「つつ」動作の反復を表す。
【つゆにても心に違ふことはなくもがな】−左馬頭が見たところの女の心。終助詞「もがな」願望を表す。夫の気持ちを損ねることがなければいいなあと、の意。
【進める方】−「強 ススム」(名義抄)。気の強い意。
【この人に見や疎まれむと】−「この人」は、このわたしにの意。係助詞「や」疑問、受身の助動詞「れ」未然形、推量の助動詞「む」連体形、係り結びの法則。夫に嫌われやしないかと、の意。
【わりなく思ひつくろひ】−『集成』は「いじらしくお化粧をし」、『完訳』は「懸命に化粧し」と訳す。「わりなく」のニュアンスは微妙。理屈に合わない、が原義。すると、化粧してもしがいのないのに化粧する、という、やや冷やかなニュアンスがあろうか。
【疎き人に見えば面伏せにや思はむと】−「見え」未然形+接続助詞「ば」仮定条件を表す。係助詞「や」疑問、「思はむ」の主語は夫。女の心。なお、「思はむと」の箇所について、青表紙本系の明融臨模本、大島本、松浦本、伝冷泉為秀本は「思はんと」。池田本は「みえんと」。三条西家本と書陵部本は「思はれんと」。河内本系や別本群の国冬本も明融臨模本等と同文。陽明文庫本は「をもはれむと」とある。すなわち、A「思はんと」(明大松秀・河・国)、B「思はれんと」(三証・陽)、C「見えんと」(池)となる。Cは独自異文。Aは青表紙本系統、河内本系統、別本群の三系統にわたって見られる本文であるのに対して、Bは青表紙本系統と別本群にわたる本文である。『集成』は「(私が)恥ずかしく思いはせぬかと」と注す。しかし、自分が思いはせぬか、とは、やや不可解。『完訳』は「夫の面目をつぶすことにならぬかと」と注し、その主体者を女に訳すが、意訳である。Bの受身の助動詞が付加した本文は、「面目をつぶすように思われよう」となる。文意はもっとも通りよい。底本は、親しくない来客があったような折に、この醜い顔をその人の前に曝したら、夫が恥だと思うだろうか、という意。下級官人の妻などは客人の前に出て顔を見せるようなこともあったのであろう。
【ただこの憎き方一つ】−嫉妬深い欠点。
【かうあながちに従ひ怖ぢたる人なめり】−以下「さがなさもやめむ」まで、左馬頭の心。
「あながち」について、『岩波古語辞典』では「自分の内部的な衝動を止め得ず、やむにやまれないさま、相手の迷惑や他人の批評などに、かまうゆとりを持たないさまを言うのが原義。自分勝手の意から、むやみに程度をはずれて、の意」と注す。「従ひ怖ぢ」は、夫に従い、おどおどしている、の意。断定の助動詞「な」連体形が撥音便化して「ん」が無表記化した形。推量の助動詞「めり」話者の主観的推量を表す。
【さがなさもやめむと思ひて】−「やめ」ヤ行下二段、他動詞。推量の助動詞「む」意志を表す。やめさせよう、と思っての意
【まことに憂しなども】−以下「思ひ懲りなむ」まで、左馬頭の心。
【絶えぬべき気色ならば】−完了の助動詞「ぬ」連用形、確述、推量の助動詞「べき」当然の意。断定の助動詞「なら」未然形+接続助詞「ば」仮定条件を表す。
【思ひ懲りなむと】−完了の助動詞「な」未然形、確述、推量の助動詞「む」推量の意。主語は女。女はきっと懲りるだろう、の意。
【思うたまへ得て】−「思う」は「思ひ」連用形のウ音便化。「たまへ」下二段活用の謙譲の補助動詞。存じまして、の意。
【さまを見せて】−「見せ」下二段活用、連用形、他動詞。接続助詞「て」順接を表す。態度を見せて、の意。「かくおぞましくは」云々の詞に続く。「見せますと」「見せたところ」と訳す説がある(今泉忠義・古典セレクション)。しかし「見すれば」(已然形+接続助詞「ば」)ではない。
【例の腹立ち怨ずるに】−連語「例の」は「怨ずる」を修飾する。主語は女。「に」を接続助詞と解して「恨んでかかって来ましたので」「恨みかかってきますので」(今泉忠義・古典セレクション)と訳す説がある。しかし、上の「見せて」が「態度を見せて」の意であると、続きがよくない。「に」を格助詞、時間を表す。「折」などの語が省略されている形と見ておく。
【かくおぞましくは】−以下「あるべき」まで、左馬頭の女への詞。しかし、引用句の「と」がない。
【絶えてまた見じ】−副詞「絶えて」は打消推量の助動詞「じ」意志と呼応して、すっかり二度と逢うまいの意。
【念じてなのめに思ひなりて】−女がいいかげんにあきらめるようになって、の意。
【かかる心だに失せなば】−副助詞「だに」最小限を表す。せめて嫉妬心さえなくなったなら、の意。
【また並ぶ人なくあるべきやうなど】−正妻としての地位を与えようの意。『集成』は「あるべきやう」までを左馬頭の詞とするが、『完訳』では「あるべき」までを左馬頭の詞とし、「やう」に「直接話法から間接話法へと転換」と注す。
【思ひたまへて】−「たまへ」謙譲の補助動詞。存じましての意。
【言ひそしはべるに】−「に」接続助詞、順接を表す。
【すこしうち笑ひて】−女が、少し微笑んで。冷笑のニュアンス。
【よろづに見立てなく】−以下「きざみになむある」まで、女の詞。「よろづに見だてなく」は、自分のことではなく、夫の左馬頭が万事に見すぼらしく、と嫌味を言う。
【いとのどかに思ひなされて】−「れ」可能の助動詞。思いなすことができる、意。
【心やましくもあらず】−夫の出世が遅いのは苦にならない、という。
【つらき心を忍びて】−「つらき心」は夫の浮気心をさす。
【いと苦しくなむあるべければ】−夫の浮気心がいつまでも直らないのがつらい、という。
【ねたげに言ふに】−主語は女。接続助詞「に」原因・理由を表す。憎らしげに言うので、の意。
【女もえをさめぬ筋】−係助詞「も」同類を表す。わたし同様に、の意。「筋」は性格。『集成』は「黙っていられない問題なので」と解す。『完訳』は「黙っていられない性分で」と訳す。
【喰ひてはべりしを】−接続助詞「て」が介在。「はべり」は「あり」の丁寧語。噛みついてまいりましたので、の意。
【おどろおどろしくかこちて】−「かこつ」は口実にする意。
【かかる疵さへつきぬれば】−以下「世を背きぬべき身なめり」まで、左馬頭の詞。副助詞「さへ」添加を表す。「よろづに見立てなく」の上に傷までが付いてしまったので、の意。
【交じらひ】−朝廷での官人どうしの交際。
【何につけてかは人めかむ】−係助詞「かは」反語を表す。推量の助動詞「む」推量、連体形。
【世を背きぬべき身なめり】−女の「かたみに背きぬべき」を受ける。売り言葉に買い言葉。離縁どころか、わたしは出家するしかない、と大袈裟に言う。
【さらば今日こそは限りなめれ】−左馬頭の捨て台詞。係助詞「こそ」、推量の助動詞「めれ」已然形、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。
【まかでぬ】−「まかで」連用形、「出る」の謙譲語。女の家を出てきました、の意。
【手を折りてあひ見しことを数ふれば--これひとつやは君が憂きふし】−左馬頭の歌。結婚生活を指折り数えてみると、これ一つだけがあなたの嫌なところであろうか、の意。「これ一つ」は、先程噛まれた指を折り曲げて見せた指。「やは」は反語。その他にもある、という気持ち。「ふし」(節)は、指(「手」)の縁語。『伊勢物語』第十六段に「手を折りてあひ見しことを数ふれば十といひつつ四は経にけり」とある歌の上の句をそのまま引用した歌。その歌も夫婦離縁の歌。
【えうらみじ】−副詞「え」は打消推量の助動詞「じ」推量と呼応して不可能を表す。歌に添えたことば。
【さすがにうち泣きて】−形容動詞「さすがに」そうはいうものの、の意。そうは真実離縁すること。
【憂きふしを心ひとつに数へきて--こや君が手を別るべきをり】−女の返歌。係助詞「や」疑問を表す。左馬頭の歌の語句、「憂きふし」「ひとつ」「数へ」「こ(れ)」「や」「君」「手」「折」などを受けて、詠み返す。相手の歌の語句を多く引用して返すのは未練のある気持ちの表出。
【臨時の祭の調楽】−賀茂の臨時の祭、陰暦十一月下の酉の日に行われる。調楽はその奏楽の練習。明融臨模本には「でうがく」と濁点が記されている。『集成』『古典セレクション』は「でうがく」と振り仮名を付ける。『新大系』は「てうがく」と振り仮名を付けている。『岩波古語辞典』では「でうがく」、『古語大辞典』では「てうがく」とある。
【これかれまかりあかるる所にて】−「これかれ」は調楽の仲間。「まかり」は宮中を退出する意。
【またなかりけり】−過去の助動詞「けり」詠嘆を表す。「なかりき」ではない。
【内裏わたりの旅寝】−以下「そぞろ寒くや」まで、左馬頭の思案。
【気色ばめるあたり】−後に出てくる浮気な女の家。
【そぞろ寒くや】−情愛よりも風流を優先するゆえに寒い思いをさせられるだろうと想像する。
【思ひたまへられしかば】−謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、未然形。「られ」受身の助動詞、また自発を表すとも考えられる。過去の助動詞「しか」已然形。存じられましたので、の意。
【恨みは解けなむ】−「解け」は前の「雪」の縁語。言葉の洒落。完了の助動詞「な」未然形、確述、推量の助動詞「む」推量。きっと解けるだろう、の意。
【思うたまへしに】−「思う」は「思ひ」連用形のウ音便形、謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形、過去の助動詞「し」連体形、接続助詞「に」順接。存じましたところ、の意。
【火ほのかに壁に背け】−『白氏文集』「上陽人」の「耿々たる残灯壁に背ける影」を踏まえた表現。寝室用にほの暗くしていた。
【引き上ぐべきものの帷子などうち上げて】−夫を迎える時は、帷子の垂れ絹を引き上げておくのが、通例であったらしい。『完訳』では「使わぬ際は引き上げておく」と注すが、下に「今宵ばかりや、と、待ちけるさまなり」とあるので、女は男の来訪を支度して待っていたと解釈すべき。
【今宵ばかりやと】−係助詞「や」の下に「来らむ」等の語句が省略。女の心をを勝手に左馬頭が推測したもの。
【さればよ】−やはりそうであったよ。『集成』『完訳』は「それ見たことよ」というニュアンスで訳す。
【心おごりするに】−接続助詞「に」逆接。
【さるべき女房どもばかりとまりて】−夫の世話をすべき女房。夫を迎える準備をしておきながら本人がことさらいないというのは、女側のまだ夫を許していない意思表示。
【親の家にこの夜さりなむ渡りぬる】−女房の詞。係助詞「なむ」完了の助動詞「ぬる」連体形、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。この女は親とは別の家に夫を通わせていた。
【ひたや籠もり】−家の中に閉じ籠もりきり、というのが原義。『集成』は「まったく無愛想で」と訳し、『完訳』『新大系』では原義のまま「まったく家に閉じこもったきりで」と訳す。
【我を疎みねと思ふ方の心やありけむ】−「疎み」連用形、完了の助動詞「ね」命令形、確述。係助詞「や」は過去推量の助動詞「けむ」連体形に係る。左馬頭、女の心を推察。女の方から自分を嫌いになってください、という思いがあったのか、と左馬頭は解釈する。
【さしも見たまへざりしことなれど】−挿入句。左馬頭の判断を加える。
【心やましきままに思ひはべりしに】−接続助詞「に」逆接。『完訳』は「腹立ちまぎれに勘ぐったが」というニュアンスの注を付ける。
【わが見捨ててむ後をさへ】−わたしの方から女を見捨てたのに、女は今でもわたしのために、という左馬頭の思い上がり。「わが」について『古典セレクション』は「喧嘩別れしているとはいえ、自分(女)が見限った後の私(左馬頭)のことまでも、気づかって世話をしていてくれていた。女に自分への愛情がまだあるとの観察である」と注す。
【さりとも絶えて思ひ放つやうはあらじ】−左馬頭の期待。副詞「絶えて」は打消推量の助動詞「じ」と呼応して、すっかり愛想をつかすようなことはあるまい、の意。
【とかく言ひはべりしを】−その後、縒りを戻そうとあれこれ言ってみましたが、の意。時間的経過がある。
【背きもせずと】−青表紙本系の明融臨模本、大島本、松浦本、伝冷泉為秀本は「せすと」。池田本、三条西家本、書陵部本は「せす」とある。引用の格助詞「と」がない。明融臨模本は後人が朱筆で「と」をミセケチにしている。『集成』『古典セレクション』は「せず」の本文を採用する。『新大系』は底本の大島本「せずと」に従う。
【かかやかしからず答へつつ】−接続助詞「つつ」動作の反復・継続を表す。
【ありしながらは】−以下「あひ見るべき」まで、女の詞。夫に浮気の改心を求める。
【えなむ見過ぐすまじき】−副詞「え」、係助詞「なむ」打消推量の助動詞「まじき」連体形。とても我慢できません、の意。
【いたく綱引きて】−明融臨模本には「ひ」に朱濁点有り。『源氏釈』は「引き寄せばただには寄らで春駒の綱引きするぞ名は立つと聞く」(拾遺集、雑賀、一一五八、平定文)を指摘する。
【はかなくなりはべりにしかば】−「はかなく」は亡くなる意。
【戯れにくく】−『異本紫明抄』は「有りぬやと心見がてら逢ひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき」(古今集、俳諧、一〇二五、読人しらず)を指摘する。冗談もほどほどにすべきであった、という後悔。
【ありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる】−係助詞「なむ」、自発の助動詞「らるる」連体形、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。
【言ひあはせたるにかひなからず】−接続助詞「に」順接。相談してもしがいがあって、の意。
【龍田姫】−龍田姫は春の佐保姫に対して、秋の女神。紅葉を染めることから、染色の神様と見られていた。「見る毎に秋にもなるかな龍田姫紅葉染むとや山も霧るらむ」(後撰集、秋下、三七八、 読人しらず)。
【織女の手】−織姫の技術。裁縫の神様と見られていた。
【思ひ出でたり】−完了の助動詞「たり」存続を表す。
【中将】−頭中将。
【その織女の】−以下「定めかねたるぞや」まで、頭中将の詞。
【長き契りにぞあえまし】−『異本紫明抄』は「逢ふ事は七夕姫に等しくて裁ち縫ふわざはあえずぞありける」(後撰集、秋上、二二五、閑院)を指摘する。係助詞「ぞ」、推量の助動詞「まし」連体形、反実仮想、係り結びの法則。あやかりたいものだったね。
【またしくものあらじ】−『完訳』は「その女への男の尽くし方全般をさす」と注し、「「如く」に「敷く」をひびかし、「錦」の縁語とした」とも注す。
【露のはえなく消えぬるわざなり】−「露」は副詞「つゆ」の意を懸ける。「消え」は「露」の縁語。
 [第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語)]
【さてまた同じころ】−以下「立てつべきものなり」まで、左馬頭の体験談。その二。「風流な女」の物語。
【このさがな者を】−嫉妬深い女。
【いかがはせむ】−反語表現。どうしましょう、どうすることもできません、の意。
【目につかぬ所あるに】−気に入らないところ。接続助詞「に」順接を表す。『完訳』は「しだいに女への熱がさめてくる」と注す。
【かれがれにのみ見せはべるほどに】−副助詞「のみ」限定を表す。途絶えがちにばかり顔を見せておりましたうちに。
【人ぞありけらし】−係助詞「ぞ」、推量の助動詞「らし」連体形、係り結びの法則。「けらし」は「ける」(連体形)「らし」の「る」が撥音便化(「ん」)してさらに無表記化した形。
【神無月のころほひ月おもしろかりし夜】−陰暦では初冬。二十四節気では立冬前後の晩秋から初冬の季節で、紅葉の美しい時節。
【ある上人】−ある殿上人。この男が左馬頭が通っていた風流な女の「忍びて心交はせる人」。
【大納言の家】−系図不明の人。『河海抄』は左馬頭の父親かとする。
【今宵人待つらむ宿なむあやしく心苦しき】−上人(殿上人)の詞。推量の助動詞「らむ」視界外推量を表す。係助詞「なむ」は形容詞「心苦しき」連体形に係る、係り結びの法則。
【この女の家はた避きぬ道なりければ】−風流な女の家。副詞「はた」は下に打消の助動詞「ぬ」連体形に係って、これを強める。なんといっても避けられない道であったので、の意。『古典セレクション』は「この下に脱文があるとする説もあるが、会話の文には、この種の破格・省略が多い」と注す。
【荒れたる崩れ】−風流な女の家の築地塀の崩れ。
【月だに宿る】−副助詞「だに」最小限を表す。美しい夜には月でさえ宿ります、まして心ある人間は宿るのが当然です、の意を含む。『異本紫明抄』は「雲居にて相語らはぬ月だにも我が宿過ぎて行く時はなし」(拾遺集、雑上、四三七、伊勢)を指摘する。
【過ぎむもさすがにて】−通り過ぎるの気がきかない、無風流なので。『古典セレクション』は「いろいろ事情はあるにせよ、素通りするのはやはり心ないしわざということで」と注す。
【下りはべりぬかし】−主語はわたし左馬頭。「はべり」は自分の動作「下り」につけられた丁寧の補助動詞。まず殿上人が車から下りてわたしも下りた、という趣旨。終助詞「かし」念押しのニュアンス。車から降りたのでございます。二人して、下りて、邸内に入り込んだ。『新大系』は「月でさえ泊まる住みかを通り過ぎるようなのはいくらなんでも(無風流だ)という次第で、車をおりてしまうことでござるぞ。その殿上人が口実を言いながら、ほかでもない左馬頭の女の家のわきで下りてしまうという場面か。その人がその折に口ずさむ歌があるとすれば「雲ゐにてあひ語らはぬ月だにもわが宿過ぎてゆく時はなし」(拾遺集・雑上・伊勢)。左馬頭も下車して様子を見て取る、という垣間見に似る展開」と注す。
【もとよりさる心を交はせるにやありけむ】−左馬頭の想像。係助詞「や」疑問、推量の助動詞「けむ」連体形、過去の推量を表す。係り結びの法則。同車してきた殿上人がこの屋敷の女と。
【この男】−以下、左馬頭の目を通して、この男(殿上人)と女のやりとりを語る。
【門近き廊の簀子だつものに】−「門」は中門であろう。大路に面した表門ではなかろう。中門は渡廊に繋がっておりその簀子に腰掛けたのであろう。
【菊いとおもしろく移ろひわたり風に競へる紅葉の乱れ】−明融臨模本「うつろひわたり(り+て)」とある。「て」は朱書による後人の補入。大島本は「うつろひわたり」とある。『集成』『新大系』は「うつろひわたり」のまま。『古典セレクション』は諸本に拠って「うつろひわたりて」と校訂する。『全集』は「秋をおきて時こそありけれ菊の花うつろふからに色のまされば」(古今集、秋下、二七九、平定文)と「秋の夜に雨と聞こえて降りつるは風に乱るる紅葉なりけり」(後撰集、秋下、四〇七、読人しらず)を指摘する。景情一致の描写。浮気な女、軽い女という性格を、変色(心変り)した菊や風に散る紅葉を描くことによって象徴し、この場の情調をつくる。
【懐なりける笛取り出でて】−男は懐にあった横笛を取り出して。
【蔭もよし】−催馬楽の「飛鳥井」の一節。「飛鳥井に 宿りはすべし や おけ 蔭もよし みもひも寒し 御秣もよし」。ここに泊まりたい、の意。
【つづしり謡ふ】−『集成』は「ぽつりぽつり歌う」と解し、『完訳』は「笛を吹きつつ合い間に歌う」と解す。「小食 ツヅシル」(『名義抄』)。
【調べととのへたりける】−挿入句。既に調子が調整されていたもので、の意。男がいつやってきてもよいように準備していたもの。
【律の調べは】−係助詞「は」は、「今めきたる物の声なれば」に係る。わが国固有の俗楽的音階、ややくだけた感じの調子。
【庭の紅葉こそ踏み分けたる跡もなけれ】−この男の詞。係助詞「こそ」形容詞「なけれ」已然形、係り結びの法則。誰も訪ねて来ませんねという、女への揶揄。『異本紫明抄』は「秋は来ぬ紅葉は宿にふりしきぬ道ふみ分けて訪ふ人はなし」(古今集、秋下、二八七、読人しらず)を指摘する。
【などねたます】−「す」は使役の助動詞。などと言って、女を悔しがらせる、意。
【琴の音も月もえならぬ宿ながら--つれなき人をひきやとめける】−男の歌。係助詞「や」は反語、「つれなき人」は第三者をの男をさす。「引き止めることができたでしょうか、できなかったようですね」の意。『新大系』は「この風情に引きとめられない男は冷淡だ、の意。自分はそうではないという気持を含ませる」と注す。「ひく」は「引く」と「弾く」の掛詞。「弾く」は「琴」の縁語。
【悪ろかめり】−「悪ろかるめり」の「る」が撥音便化(「ん」)してさらに無表記化された形。「めり」は推量の助動詞、主観的推量を表す。悪いことを言ったようですね、のニュアンス。『集成』は「不体裁なことのようですな。訪ねて来る男もないとはと、からかった冗談」と注し、『古典セレクション』は「ぱっとしませんねえ。珍しく来たのは私のような者でお気の毒でした、の意か」と注す。『新大系』「不釣合いのようです。せっかく引きとめられても、と自分の笛を謙遜するか。難解」と注す。
【今ひと声】−以下「手な残いたまひそ」まで、引き続き、この男の詞。
【聞きはやすべき人】−自分のこと。
【手な残いたまひそ】−副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。
【木枯に吹きあはすめる笛の音を--ひきとどむべき言の葉ぞなき】−女の返歌。男の「引きや止める」を受けて、「ひき」に「引き」と「弾き」を掛け、「こと」に「言」と「琴」を掛け、「弾く」と「琴」、「木枯」と「葉」は縁語。わたしはあなたを引き止めようとはしません、と切り返す。
【憎くなるをも知らで】−自分が聞いていて、憎らしく思っているのも、女は知らないで、の意。左馬頭はこの男と女のやりとりがだんだん癪に障ってきた。
【箏の琴を盤渉調に調べて】−「箏 シャウ」(色葉字類抄)。呉音。「盤渉調」は「色葉字類抄には「盤」に濁符、「渉」に清符があって、バンシキと読んでいる。「調」については色葉字類抄には声点がなく不明であるが、運歩色葉集では濁音であり、楽家禄にも「浪牟志気伝宇」。調字濁」とあるので、古くから連濁仕手板と思われる」(小学館古語大辞典)。冬の調子。神無月(陰暦の冬)のころの曲としてふさわしい。
【まばゆき心地なむしはべりし】−主語は左馬頭。「なむ」係助詞、「し」サ変動詞、連用形、「はべり」丁寧の補助動詞、「し」過去の助動詞、連体形。係り結びの法則。
【宮仕へ人などの】−格助詞「の」同格を表す。宮仕え人などで、の意。
【さても見る限りは】−風流で浮気な女と知ったうえで付き合うぶんには、の意。
【時々にてもさる所にて】−通い婚であったので、このような表現が出てくる。
【思ひたまへむには】−謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、未然形、推量の助動詞「む」婉曲を表す。
【ことつけてこそまかり絶えにしか】−係助詞「こそ」、過去の助動詞「しか」已然形、係り結びの法則。
【この二つのこと】−嫉妬深い女の例と風流好みの女の例。
【思うたまへあはするに】−「思う」は「思ひ」のウ音便形、謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形、動詞「あはする」下二段、連体形、接続助詞「に」順接を表す。
【若き時の心にだに】−副助詞「だに」最小限を表す。「今より後はまして」に続く構文。
【さやうにもて出でたることは】−風流好みの女の例をさす。係助詞「は」は「頼もしげなくおぼえはべりき」に係る。
【さのみなむ思ひたまへらるべき】−副助詞「のみ」限定を表す。係助詞「なむ」は推量の助動詞「べき」連体形、当然の意に係る、係り結びの法則。謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、未然形、自発の助動詞「らる」終止形。そのように思うほかございません、の意。
【御心のままに】−源氏や頭中将のお気持ちのままに、という意。敬語「御」が付いている。
【折らば落ちぬべき萩の露】−『異本紫明抄』は「折りてみば落ちぞしぬべき秋萩の枝もたわわにおける白露」(古今集、秋上、二二三、読人しらず)を指摘する。
【拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰】−明融臨模本「み(み+ゆ)る」とある。「ゆ」は朱書による後人の補入。大島本は「見る」とある。『新大系』は「見る」のまま。『集成』『古典セレクション』は「見ゆる」と校訂する。『源氏釈』は「いづこにか宿りとるらむあさひこがさすや岡辺の玉笹の上に」(古今六帖一、照日、二六九)を指摘する。
【好き好きしさのみこそをかしく思さるらめ】−副助詞「のみ」限定を表す。係助詞「こそ」は「らめ」已然形に係る係り結びの法則、読点、逆接で下文に続く。「る」尊敬の助動詞、終止形。
【七年あまりがほどに思し知りはべなむ】−「はべなむ」は「はべりなむ」の「り」が撥音便化してさらに無表記化された形。完了の助動詞「な」確述、推量の助動詞「む」推量を表す。左馬頭は源氏より七歳年長のようである。
【心おかせたまへ】−「せ」「たまへ」二重敬語。会話文中での用法。
【過ちして見む人の】−「過ちして」の主語は女。「見む人」は交際相手の男性。
【さることとは思すべかめり】−語り手が源氏の心を推察した文。『岷江入楚』は「物語の作者のいふ詞なり」と注す。
【いづ方につけても】−以下「身物語かな」まで、源氏の詞。嫉妬深い女の話と浮気な女の話をさす。
【身物語】−明融臨模本と大島本は「み物かたり」と表記する。話者源氏の「身」と「御」を掛けた発言だろう。「身物語」は身の上を語った物語の意。
 [第三段 頭中将の体験談(常夏の女の物語)]
【なにがしは痴者の物語をせむ】−頭中将の詞。「痴者」を男(頭中将)とする説と女(夕顔)とする説がある。愚か者の話を語ろう、の意。二者択一とは言いがたい。両義性をもった言い方。自分としてはやや自嘲気味にかつ相手の女としては気の毒にという微妙なニュアンスを含んだ複雑な心理表現。『集成』は「阿呆な男の話」と解し、『新大系』は「愚か者の話であると称して頭中将の体験談を語る。先に左馬頭によって落としめられた逃げ隠れする女の例なので「痴者」というか。順送りの二人目」と注す。なお、頭中将には右大臣家の娘で正妻の四君がいる。
【いと忍びて見そめたりし人の】−以下「撫子の花を折りておこせたりし」まで、頭中将の物語。格助詞「の」同格を表す。常夏の女(のちの夕顔)の物語。
【さても見つべかりしけはひなりしかば】−「さ」は、通い妻(側室)をさす。完了の助動詞「つ」確述、終止形、推量の助動詞「べかり」適当、連用形、過去の助動詞「し」連体形。断定の助動詞「なり」連用形、過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ば」、順接の確定条件を表す。側室の一人としてもよかった様子だったので、の意。「馴れゆくままに」に続く。
【ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど】−挿入句。推量の助動詞「べき」当然、連体形、副助詞「しも」強調、謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、未然形、打消の助動詞「ざり」連用形、過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ど」逆接。
【さばかりになれば】−「馴れゆくままに」から「忘れぬものに思ひたまへし」までの内容をさす。
【うち頼めるけしき】−女が頭中将を頼りにする様子。
【恨めしと思ふこともあらむと】−頭中将が女の心中を推測。動詞「あら」ラ変、未然形、推量の助動詞「む」終止形。例えば、途絶えがちに通っているさまなど。
【見知らぬやうにて】−女は気に掛けない態度で。恨めしさを表面に出さない。
【朝夕にもてつけたらむありさま】−朝に夕なに従順な態度。夫を、送り出し、出迎える、従順な妻の態度をいう。
【心苦しかりしかば】−形容詞「心苦しかり」連用形、過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ば」、順接の確定条件。
【頼めわたることなどもありきかし】−末長く側室の一人として処遇するという約束などもした、という意。
【さらばこの人こそはと】−「さ」は頭中将が約束したことをさす。頭中将を頼りにしよう、という意。
【この見たまふるわたりより】−わたしの妻(右大臣の四君)の辺りから。右大臣家から。
【情けなくうたてあることをなむ】−正妻側から側室への脅迫。係助詞「なむ」は過去の助動詞「ける」連体形に係る係り結びの法則。
【さるたよりありてかすめ言はせたりける】−女に伝えるのに適当な機会、便宜。完了の助動詞「たり」連用形、過去の助動詞「ける」連体形、伝聞を表す。人づてに聞いた状況が現れている。
【後にこそ聞きはべりしか】−係助詞「こそ」は、過去の「助動詞「しか」已然形に係る、係り結びの法則。丁寧の補助動詞「はべり」連用形。自身の直接体験であることを示す。
【さる憂きことやあらむとも知らず】−係助詞「や」は推量の助動詞「む」連体形に係る。「この見たまふるわたりより情けなくうたてあることをなむさるたよりありてかすめ言はせたりける」をさす。
【幼き者なども】−頭中将と常夏の女の間にできた子。後の玉鬘をいう。
【撫子の花を】−「撫子」は幼い子供を連想させる歌ことば。
【さてその文の言葉は】−源氏の頭中将に対する問い。尊敬語「たまふ」が付いている。
【いさや】−以下「わびしかりぬべけれ」まで、頭中将の詞。「いさや」は、さあね。いや。否定のことば。
【ことなることもなかりきや】−形容詞「なかり」連用形、過去の助動詞「き」終止形、間投助詞「や」詠嘆を表す。
【山がつの垣ほ荒るとも折々に--あはれはかけよ撫子の露】−女の贈歌。「山がつ」は自分を謙称。「撫子」は、幼い子供をさす。「露」は愛情をいう。動詞「荒る」終止形+接続助詞「とも」逆接を表す。『源氏釈』は「あな恋し今も見てしが山がつの垣ほに咲ける大和撫子」(古今集、恋四、六九五、読人しらず)を指摘する。
【まかりたりしかば】−「まかり」は「行く」の謙譲語。完了の助動詞「たり」連用形、完了の意、過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。行きましたところ、の意。
【うらもなきものから】−係助詞「も」強調のニュアンス、接続助詞「ものから」逆接の確定条件を表す。信じきっているようでいてその一面では、という表現。
【荒れたる家の露しげきを眺めて】−格助詞「の」所有格。「露」は涙を暗示する。「しげき」の下に「庭」などの語が省略されている。
【虫の音に競へるけしき】−泣くさま。虫の音と泣き競っているかの様子。
【昔物語めきておぼえはべりし】−「はべり」丁寧の補助動詞、「過去の助動詞「し」連体形止め、余情を残した表現。作品としての昔物語。陋屋に悲しみに暮れている姫君といった趣向の物語。
【咲きまじる色はいづれと分かねども--なほ常夏にしくものぞなき】−頭中将の返歌。動詞「分か」未然形、打消の助動詞「ね」已然形+接続助詞「ども」逆接を表す。動詞「しく」は漢文訓読系の語彙。男性的語彙のニュアンス。係助詞「ぞ」は形容詞「なき」連体形に係る、係り結びの法則、強調のニュアンスを添える。「常夏」は「撫子」の異名。歌語である。「常」は「床」を連想させ、夫婦を連想させる。子供をさす言葉から親をさす言葉へと、すり変える。母と娘とどちらがと言われても、やはり、あなたが一番です、という主旨。
【大和撫子をばさしおきて】−「大和撫子」は「子」を譬喩する。子供のことは、差し置いて。
【まづ塵をだに】−『源氏釈』は「塵をだに据ゑじとぞ思ふ咲きしより妹と我がぬる常夏の花」(古今集、夏、一六七、凡河内躬恒)を指摘する。床に塵が積もるようにはしません、これからは訪れますよ、の意。『新大系』は「床の塵を払うと男が訪ねてくるとの俗信(万葉集以下に見える)が背景にある歌」と注す。
【うち払ふ袖も露けき常夏に--あらし吹きそふ秋も来にけり】−女の返歌。相手の「常夏」を用いて返す。「うち払ふ」は頭中将の引歌「塵をだに」を踏まえた表現。「常夏」は自分をいう。来ないあなたを待ちながら床に積もる塵を払って涙しているわたしに、の意。「あらし吹きそふ」は頭中将の北の方あたりからの脅迫を暗示する。「秋」には「飽き」を掛ける。愛情が冷めたのですね、という恨みを含む。初めて、恨み言めいたことをいう。
【とはかなげに言ひなして】−以下、頭中将から見た女の様子や態度。
【つらきをも思ひ知りけりと見えむはわりなく苦しきものと思ひたりしかば】−「思ひ知りけり」の主語は女。「見えむ」は見える、表れる、の意。頭中将から知られること。「思ひたりしかば」の主語は女。女は、頭中将の薄情を恨めしく思っているのだと、男から知られることを、ひどく苦にしていた、の意。
【心やすくて】−主語は頭中将。
【跡もなくこそかき消ちて失せにしか】−係助詞「こそ」は過去の助動詞「しか」已然形に係る、係り結びの法則。動詞「失せ」下二段、連用形、完了の助動詞「に」完了の意。跡形もなく姿を隠していなくなってしまった、行方不明となってしまった、の意。
【まだ世にあらば】−動詞「あら」ラ変、未然形+接続助詞「ば」、仮定条件を表す。
【はかなき世にぞさすらふらむ】−係助詞「ぞ」は推量の助動詞「らむ」視界外推量、連体形に係る、係り結びの法則。
【けしき見えましかばかくもあくがらさざらまし】−「ましかば--まし」の反実仮想の構文。態度が見えたらあのように行方不明にはさせなかったろうに、の意。
【さるものにしなして】−側室の中でも相当な地位の人として待遇しよう、の意。
【長く見るやうもはべりなまし】−「はべり」連用形は「有り」の丁寧語。完了の助動詞「な」未然形、完了の意、推量の助動詞「まし」反実仮想。反実仮想の構文。
【かの撫子】−のちの玉鬘のこと。女が「撫子」と詠んできたことばを受けて、用いる。
【いかで尋ねむと思ひたまふるを】−副詞「いかで」、推量の助動詞「む」意志、謙譲の補助動詞「たまふる」下二段、連体形、接続助詞「を」逆接。
【今もえこそ聞きつけはべらね】−係助詞「も」強調のニュアンスを添える。副詞「え」は打消の助動詞「ね」已然形と呼応して不可能の意を表す。係助詞「こそ」は「ね」已然形に係る、係り結びの法則。
【これこそのたまへるはかなき例なめれ】−「のたまへる」の主語は左馬頭。前の「艶にもの恥ぢして、恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍びて」から「海づらなどにはひ隠れぬるをり」をさす。係助詞「こそ」、尊敬の補助動詞「のたまへ」已然形、完了の助動詞「る」連体形、完了の意。断定の助動詞「な」連体形は「る」が撥音便化(「ん」)してさらに無表記化された形、推量の助動詞「めれ」已然形、主観的推量の意、係り結びの法則。
【つれなくてつらしと思ひけるも知らで】−「つれなくて」の主語は女。「知らで」の主語は自分頭中将。
【あはれ絶えざりしも】−「絶え」下二段、未然形、打消の助動詞「ざり」連用形、過去の助動詞「し」連体形、係助詞「も」。
【かれはたえしも思ひ離れず】−副詞「はた」一面を認めながら別の一面を述べる、意。副詞「え」は打消の助動詞「ず」と呼応して不可能の意、副助詞「しも」強調。女は女で、またわたしのことを忘れられず。
【あらむとおぼえはべり】−「あら」ラ変、未然形、推量の助動詞「む」推量。丁寧の補助動詞「はべり」終止形。
【これなむえ保つまじく頼もしげなき方なりける】−係助詞「なむ」は過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意に係る、係り結びの法則。副詞「え」は打消推量の助動詞「まじく」連用形と呼応して不可能の意を表す。
【さればかのさがな者】−以下を左馬頭の詞とする説もある。『新大系』は「以下、頭中将の言のほか、左馬頭らの言をも交えた会話文かもしれない」と注す。
【かのさがな者】−左馬頭の体験談中の嫉妬深い女の例。
【わづらはしくよよくせずは】−明融臨模本には「よ」が二つある。大島本は「わつらハしくよくせすは」とある。前の「よ」に後人の朱筆でミセケチにするが、訂正以前本文の形を採用。これらの「よ」は行末と行頭にあるので、行移りの際の衍字か。終助詞また間投助詞「よ」とみた場合、その接続も連体形であってほしい所。
【飽きたきこともありなむや】−完了の助動詞「な」確述。推量の助動詞「む」推量、間投助詞「や」詠嘆。嫌になることもきっとありましょうよ、の意。
【琴の音すすめけむ】−左馬頭の体験談中の風流好みの浮気な女の例。
【この心もとなきも】−頭中将の体験談中の常夏の女の例。
【思ひ定めずなりぬるこそ世の中やただかくこそ】−二つの係助詞「こそ」はいずれも受ける語句がない。そこで文は切れる。初めの「こそ」の下には「わりなけれ」などの語が省略。後の「こそ」の下には「あれ」などの語が省略。
【比べ苦しかるべき】−連体中止法。余韻余情を表す。
【いづこにかはあらむ】−反語表現。どこにもいない、の意。
【吉祥天女を思ひかけむ】−『日本霊異記』中巻第十三や『古本説話集』巻下第六十二に吉祥天女に恋をした男の話がある。
【くすしからむこそ】−「霊異 クスシキ」(西域記長寛点)。係助詞「こそ」は推量の助動詞「べけれ」已然形に係る、係り結びの法則。
【とて皆笑ひぬ】−頭中将の物語が終わって、一同どっと笑った。
 [第四段 式部丞の体験談(畏れ多い女の物語)]
【式部がところにぞ】−以下「語り申せ」まで、頭中将の詞。副助詞「づつ」は反復の意味を表す。「申す」は謙譲語。相手の動作に対して用いている。尊大な言葉づかいである。いくつかの話の少しずつを申し上げよ、というニュアンス。
【責めらる】−「らる」は受身の助動詞。主語は藤式部丞。『古典セレクション』は「頭中将が催促される」と尊敬の助動詞とする。しかし下文に頭中将の動作には「責めたまへば」という尊敬の補助動詞「たまふ」が使用されているので、ここは受身の助動詞と解す。
【下が下の中にはなでふことか聞こし召しどころはべらむ】−藤式部丞の詞。式部丞は、従六位上から正六位下相当官。連体詞「なでふ」は「何でふ」の撥音便無表記化。反語表現。係助詞「か」推量の助動詞「む」推量、連体形に係る、係り結びの法則。何のお聞きあそばす話がありましょうか、ありません、の意。
【頭の君】−頭中将のこと。近衛府の中将(次官)で蔵人所の頭(長官)を兼任。
【何事をとり申さむ】−藤式部丞の心、思案。
【まだ文章生にはべりし時】−以下「仔細なきものははべめる」まで、藤式部丞の体験談。学者の娘の物語。
【文章生】−伝冷泉為秀筆本には仮名表記で「もんしやうのしやう」とある。
【かしこき女】−『新大系』は「「かしこし」は、畏怖すべきだ。「賢い」という意味の原義である」と注す。
【見たまへし】−謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形。過去の助動詞「し」連体形、係助詞「なむ」の係り結びの法則。自己の体験を語るニュアンス。
【馬頭】−左馬頭のこと。話の中では、こう呼んでいる。
【申したまへるやうに】−「公私の人のたたずまひ善き悪しきこと」云々をさす。源氏や頭中将を意識して左馬頭の発言を「申す」という謙譲語を用い、左馬頭に対しては「たまふ」という尊敬の補助動詞を用いている。
【学問などしはべるとて】−丁寧の補助動詞「はべる」。謙譲の意を表す。
【聞きたまへて】−謙譲の補助動詞「ためへ」下二段、連用形。
【わが両つの途歌ふを聴け】−『白氏文集』秦中吟「議婚」の「聴我歌両途」の句。自分は貧しいが、貧家には姑に孝行を尽くす良い嫁がいる、と結婚を積極的に勧める意。式部丞の将来性を見込んでいるか、またはこの博士の家より少しは家柄や身分が高かったのでもあろうか。
【聞こえごちはべりしかど】−丁寧の補助動詞「はべり」が第三者(博士)の動作に対して使用されている。こちらにはその気もなく、迷惑な、というニュアンスがある。
【をさをさうちとけてもまからず】−副詞「をさをさ」は打消しの語と呼応して、少しも、ほとんど、の意。少しも気を許して通っていない。結婚してもよいという気持ちのないこと。
【いとあはれに思ひ後見】−博士の娘が藤式部丞を。
【仮名といふもの】−仮名文字という物を。当時、仮名は女性が多く使うものという考えがあり、男同士の話なので、「と言ふもの」と言っている。
【むべむべしく言ひまはし】−正式な漢文体で表現する。
【腰折文】−稚拙な漢詩文。謙遜して言ったもの。
【恩】−学者の物言いとして、以下「妻子」「無才」「仔細」などの漢語が続出する。なお「妻子」の「子」には意味はなく「妻」の意。
【うち頼まむには】−明融臨模本「は」の文字上に朱筆で「ヒ」とミセケチにする。後人の筆である。大島本にも「うちたのまむにハ」とある。『集成』『新大系』は「うち頼まむには」だが、『古典セレクション』では「うち頼まむに」と校訂する。
【見えむに】−無才の人、すなわち、わたしがみっともない振る舞いをし出かすだろう、の意。
【恥づかしくなむ見えはべりし】−係助詞「なむ」、過去の助動詞「し」連体形、係り結びの法則。わたしには思われました。
【何にかせさせたまはむ】−係助詞「か」反語、動詞「せ」サ変、未然形、尊敬の助動詞「させ」連用形、尊敬の補助動詞「たまは」未然形、最高敬語。推量の助動詞「む」連体形、係助詞「なむ」の係り結びの法則。何の必要がおありあそばしましょうか、何の必要もございますまい。
【宿世の引く方はべるめれば】−丁寧語「はべる」連体形、推量の助動詞「めれ」主観的推量、已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。
【男しもなむ仔細なきものははべめる】−副助詞「しも」強調。係助詞「なむ」は推量の助動詞「める」主観的推量、連体形に係る、係り結びの法則。「はべめる」は「はべるめる」の撥音便無表記化。『古典セレクション』は「「ものははべる」は、慣用的語法。「ものにはあれ」と同意の「ものはあれ」に准ずるか」と注す。
【残りを言はせむとて】−頭中将の心。
【さてさてをかしかりける女かな】−頭中将の詞。頭中将の動作には「すかいたまふ」と敬語表現がある。藤式部丞をおだてる。
【鼻のわたりをこづきて語りなす】−『古典セレクション』は「をこつきて」と清音に読む。『集成』は「うごめかせて」、『完訳』は「おどけて見せながら」と解す。おだてられていると十分承知していながら、調子に乗って話し続けている様子か。
【さていと久しくまからざりしに】−過去の助動詞「し」連体形+接続助詞「に」逆接。以下「口疾くなどははべりき」まで、藤式部丞の詞。
【物越しにてなむ逢ひてはべる】−係助詞「なむ」、完了のの助動詞「て」連用形、確述の意、丁寧の補助動詞「はべる」連体形、係り結びの法則。いつもと違うことを強調するニュアンス。
【よきふしなりとも思ひたまふるに】−謙譲の補助動詞「たまふる」下二段、連体形+接続助詞「に」逆接。別れるのにちょうどよい機会だと存じましたが、の意。
【世の道理を】−男女の仲。
【月ごろ風病重きに堪へかねて】−以下「雑事らは承らむ」まで、博士の娘の詞。藤式部丞以上に漢語的または男性的な言い回しが頻出する。
【え対面賜はらぬ】−副詞「え」、打消の助動詞「ぬ」連体形と呼応して不可能の意。係助詞「なむ」「ぬ」の係り結びの法則。
【答へに何とかは】−係助詞「かは」下に「言はむ」などの語句が省略。反語表現。
【承りぬ】−男の詞。
【さうざうしくやおぼえけむ】−主語は女。藤式部丞の推測。係助詞「や」疑問、過去推量の助動詞「けむ」連体形に係る、係り結びの法則。
【この香失せなむ時に立ち寄りたまへ】−女の詞。「高やかに言ふ」のは、たしなみのある女性の物言いでない。また、口臭も現れ出よう。「失せ」下二段、連用形、完了の助動詞「な」未然形、推量の助動詞「む」連体形。
【逃げ目をつかひて】−『集成』は「目つきもうろうろと」、『完訳』は「どうやって逃げだそうかと様子をうかがう」と解す。
【ささがにのふるまひしるき夕暮れに--ひるま過ぐせといふがあやなさ】−男の贈歌。『異本紫明抄』は「わがせこが来べき宵なり笹がにの蜘蛛の振る舞ひかねてしるしも」(古今集、墨滅歌、衣通姫)を指摘する。「ひる」に「昼」と「蒜」とを掛ける。夫のわたしが来るというのはかねて知っていながら、「昼間」(蒜の臭っている間)は待て、というのが分からない、の意。蜘蛛がしきりに動くのは男が来訪することの前兆という俗信があった。
【いかなることつけぞや】−歌に添えた言葉。
【言ひも果てず走り出ではべりぬるに】−「言ひ果つ」の間に係助詞「も」が挿入された形。完了の助動詞「ぬる」連体形+接続助詞「に」順接。
【追ひて】−主語は女。女が男の後を追って、の意。
【逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならば--ひる間も何かまばゆからまし】−女の返歌。「ひるま」に「昼間」と「蒜」とを掛ける。夫婦なら昼間(蒜の臭っている間)に逢ったからとて、何の恥ずかしいことがありましょうか、という応酬。断定の助動詞「なら」未然形+接続助詞「ば」仮定条件、連語「なにか」(代名詞「何」+係助詞「か」)強い反語を表す。形容詞「まがゆから」未然形+推量の助動詞「まし」ためらいを表す。何の恥ずかしいことがありましょうか、少しも恥ずかしいことはない、の意。
【さすがに口疾くなどははべりき】−男の批評。「さすがに」は、歌の内容は感心しないが、返歌だけは早かったの意。係助詞「は」は「口疾くなど」を取り立てて強調するニュアンス。
【いづこのさる女かあるべき】−以下「むくつけきこと」まで、三つの文に分けられるが、誰の詞かまた何人の詞か、判然としない。代名詞「いづこ」、係助詞「か」、推量の助動詞「べき」連体形、反語表現。どこにそのような女がいようか、どこにもいまい。「おいらか」は「老い+らか」。
【鬼とこそ向かひゐたらめ】−係助詞「こそ」、完了の助動詞「たら」未然形、推量の助動詞「め」已然形。鬼と向かい合っていよう、そのほうがましだ、の意。
【爪弾きをして】−『新大系』は「不愉快な気持を晴らすしぐさ。いま話題に「鬼」が出たのでそれに向けられる除祓でもあろう」と注す。
【すこしよろしからむことを申せ】−頭中将の詞。「よろし」は満足できる程度、まあまあ良い意。下文に尊敬の補助動詞「たまへ」があるので、話者は頭中将。
【これよりめづらしきことはさぶらひなむや】−藤式部丞の詞。完了の助動詞「な」確述、推量の助動詞「む」推量、係助詞「や」反語を表す。これ以上珍しい話がございましょうか、もうありません、の意。
【すべて男も女も】−以下「過ぐすべくなむあべかりける」まで、左馬頭の詞。女性論のまとめを言う。
【三史五経】−『史記』『漢書』『後漢書』と『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』をさす。当時の大学寮で教えていた標準的な教科書類。
【悟り明かさむこそ愛敬なからめ】−係助詞「こそ」、推量の助動詞「め」已然形、係り結び、逆接用法で下文に続く。
【などかは女といはむからに】−連語「などかは」(副詞「など」+係助詞「か」+係助詞「は」)は、「あらむ」に係る、反語表現。動詞「いは」未然形、推量の助動詞「む」連体形、仮定の意、格助詞「から」、接続助詞「に」。「む」と「から」の間には「こと」などの語が省略。
【さるままに】−「さ」は、上文の内容、自然に漢字を聞いたり見たりして覚えた状態をさす。
【あなうたてこの人のたをやかならましかば】−左馬頭の感想を挿入。推量の助動詞「ましか」未然形、仮想の意+接続助詞「ば」、下に「よからまし」などの語句が省略。反実仮想の構文。
【おのづからこはごはしき声に】−漢字が混じった手紙文を声を出して読むと、自然と重々しくこわばった感じに読み上げられてしまう、という意。
【多かることぞかし】−連語「ぞかし」(係助詞「ぞ」+終助詞「かし」)念押し、の意。
【歌詠むと思へる人の】−和歌を詠むことを得意に思っている人。格助詞「の」主格を表す。
【取り込みつつ】−接続助詞「つつ」動作の反復・継続を表す。
【すさまじき折々】−『集成』は「こちらが迷惑するような時」と解し、『古典セレクション』は「場違いで歌を詠む気持になれないとき」と注す。
【詠みかけたるこそものしきことなれ】−係助詞「こそ」、断定の助動詞「なれ」已然形、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。
【えせざらむ人】−『集成』は「できない事情にある人」と解す。副詞「え」は打消の助動詞「ざら」未然形と呼応して不可能の意を表す。推量の助動詞「む」連体形、婉曲を表す。
【さるべき節会】−天皇が臨席し、群臣に宴を賜る宴会。
【五月の節】−五月の節句、すなわち、端午の節会。
【何のあやめも】−五月の節会にちなんで、「文目」に「菖蒲(あやめ)」を掛けた言葉のしゃれ。
【九日の宴】−九月九日の宴、すなわち、重陽の節会。
【思ひめぐらして】−明融臨模本「思めくらし・て(て$)」とある。ミセケチは朱筆で「ヒ」とあるので、後人の訂正。句点もその時に付けられたもの。大島本は「思めくらし」とある。『集成』は「思ひめぐらして」、『新大系』『古典セレクション』は「思ひめぐらし」とする。
【げに後に思へば】−副詞「げに」は「あべかりける」にかかる。
【あべかりけることの】−「あるべかり」の「る」が撥音便化しさらに無表記の形。
【などかはさても】−どうしてそんなことをするのか、そうしなくともよいに、の意。
【よしばみ情け立たざらむなむ目やすかるべき】−打消の助動詞「ざら」未然形、推量の助動詞「む」連体形、係助詞「なむ」は、推量の助動詞「べき」連体形、推量に係る、係り結びの法則。
【心に知れらむことをも】−「知れ」已然形、完了の助動詞「ら」未然形、存続の意、推量の助動詞「む」連体形、婉曲の意。下の「言はまほしからむことをも」と対句表現。
【言はまほしからむことをも】−希望の助動詞「まほしから」未然形、推量の助動詞「む」連体形、婉曲の意。
【過ぐすべくなむあべかりける】−推量の助動詞「べく」連用形、適当の意、係助詞「なむ」は過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意に係る、係り結びの法則。「あべかり」は「あるべかり」(「ある」連体形+推量の助動詞「べかり」連用形、当然の意)の「る」が撥音便化しそれが無表記の形。言わないでおくのが良いのである。以上、雨夜の品定めの議論が終わる。
【君は人一人の御ありさまを】−源氏の君は、お一方の御様子を。藤壺宮をさす。「桐壺」巻の「心のうちには、ただ藤壺の御ありさまを、たぐひなしと思ひきこえて、さやうならむ人をこそ見め、似る人なくもおはしけるかな、大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかずおぼえたまひて、幼きほどの心ひとつにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける」(第三章七段)を受ける。
【これに足らず】−以下「ものしたまひけるかな」まで、源氏の心。「これ」は左馬頭の意見をさす。
【ものしたまひけるかな】−主語は藤壺宮。過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意。終助詞「かな」詠嘆の意。
【いづ方により果つともなく】−『完訳』は「明確な結論がでなかったとする」と注す。
【あやしきことどもになりて】−『集成』は「要領を得ない話になって」と注し、『完訳』は「埒もない話の数々になって」と訳す。『新大系』は「怪談やとりとめない世間話その他に落ちて行った感じ。夜を徹しての語りあいやその批評である」と注す。
【明かしたまひつ】−主語は源氏の君たち。
 

第三章 空蝉の物語

 [第一段 天気晴れる]
【からうして】−「からうして Caroxite」(『日葡辞書』)。『岩波古語辞典』には「カラクシテの音便形。古くはカラウシテと清音か」とある。『集成』『新大系』は清音。『古典セレクション』は「からうじて」と濁音に読む。梅雨が明けた趣。『新大系』は「かつがつ。長い雨期をようやく越えて」と注す。
【大殿の御心】−左大臣をさす。
【人のけはひ】−姫君の様子、雰囲気。葵の上。
【けざやかにけ高く、乱れたるところまじらず】−葵の上の性格。はっきりと、端麗で気品高く見え、何事にもきちんとしている、という、源氏の目から見た鮮明な印象。「桐壺」巻の楊貴妃と桐壺更衣とを比較した「絵に描ける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。「太液芙蓉未央柳」も、げに通ひたりし容貌を、唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ、(桐壺更衣の)なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき」(第二章三段)を想起すれば、源氏が思慕する母桐壺更衣のイメージとは違った個性の人物である。
【なほこれこそは】−以下「頼まれぬべけれ」まで、源氏の心。「これ」は正妻の葵の上をさす。
【かの人びとの捨てがたく取り出でし】−左馬頭たちが高く評価した。
【あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへる】−源氏の目から見た葵の上。度を過ぎて端麗な態度で、心が打ち解けず、こちらが気づまりに感じるばかりに相手はとり澄ましていらっしゃる、という印象。
【さうざうしくて】−源氏は、そのような妻に物足りなさを感じる。
【中納言の君中務などやうの】−女房であるが、源氏のお手つきの女房。召人(めしうど)という。
【戯れ言などのたまひつつ】−接続助詞「つつ」動作の反復・継続を表す。
【暑さに乱れたまへる御ありさま】−暑さのためにお召物をくつろげていらっしゃる源氏の様子。
【見るかひありと思ひきこえたり】−主語は女房たち。
【うちとけたまへれば】−主語は源氏。
【御几帳隔てて】−くつろいでいるところに直接対座するのは不躾であろうと、左大臣と源氏の間に御几帳を立てて会った。舅である左大臣の聟である源氏に対する大変な気のつかいようが窺われる。
【御物語聞こえたまふを】−左大臣が源氏に。源氏の官職は宰相兼中将。その人に左大臣が「聞こえたまふ」という敬意表現を用いるのは、桐壺帝の御子だからである。
【暑きにとにがみたまへば人びと笑ふ】−源氏が苦々しい顔をすると、女房たちが笑う、というように、源氏は女房たちに囲まれた中にいる。
【あなかま】−源氏の詞。
【おはす】−前の「おはします」よりやや敬意は低い敬語である。左大臣より低く語られているが、次の批評の言葉と連動してであろう。
【いとやすらかなる御振る舞ひなりや】−断定の助動詞「なり」終止形、係助詞「や」詠嘆の意。源氏の態度に対する語り手の感想。『岷江入楚』は「草子の評也」と注す。『古典セレクション』は「貴人らしいおおような源氏の態度についての、語り手の賞賛」と注す。
【今宵中神内裏よりは塞がりてはべりけり】−女房の詞。「中神」は陰陽道で説く天一神の神様。六十日を一周期として、癸巳の日から天上にいること十六日間、この間は人はどの方向へ行っても良い。残り四十四日を己酉の日から八方に遊行し廻り、五または六日で次の方角に移る。その間を、「方塞がり」といって、その方向を忌み避け、「方違へ」をする。過去の助動詞「けり」詠嘆の意、今初めて気付いたというニュアンス。内裏から見て、左大臣邸は今夜はその方塞がりになっている、という。
【さかし例は忌みたまふ方なりけり】−女房の詞。「忌みたまふ」という敬語表現があるので、別の女房の詞と解しておく。『集成』は女房の詞。『古典セレクション』は「語り手の言葉」と注す。『新大系』は源氏の詞とする。とすると「忌みたまふ」は、源氏自身の動作ではななく、中神に対する敬語の意か。
【二条の院にも同じ筋にて】−源氏の詞。左大臣邸と源氏の二条院邸が内裏から同じ方角にあった。当時の摂関家の邸宅は左京二条大路に面して建てられていた。内裏から東南の方角に当たる。
【いと悪しきことなり】−女房の詞だが、語り手が要約し引用した間接話法であろう。
【紀伊守にて親しく仕うまつる人の】−これは男の侍者の詞であろう。左大臣家に仕えている家司か。御簾の外から中の女房に取り次いで申し上げたのであろう。紀伊守は上国の国守。従五位下相当官。受領であるがこの時は任国に赴任していなくて京にいる。「人の」所有格は「家なむ」に続く。
【中川のわたりなる家なむ】−二条以北の京極川の呼称。内裏からは東の方角に当たる。係助詞「なむ」は「はべる」連体形に係る、係り結びの法則。
【水せき入れて】−京極川から水を邸内に堰き入れて。
【いとよかなり】−以下「所を」まで、源氏の詞。御簾の中から答えたもの。侍者は、その言葉を女房から受けて、さっそく、紀伊守を呼びに行ったろう。
【牛ながら引き入れつべからむ】−接尾語「ながら」、牛車のまま、の意。
【忍び忍びの御方違へ所はあまたありぬべけれど】−完了の助動詞「ぬ」確述、推量の助動詞「べし」当然、意。語り手の思い入れが窺える表現。「三光院実枝説」は「草子の地なるへし」と注す。
【久しくほど経て渡りたまへるに】−接続助詞「に」逆接を表す。源氏が左大臣邸へいらっしゃったのに。
【と思さむはいとほしきなるべし】−左大臣が、とお思いになるのは、お気の毒だと源氏は思われたのであろう、の意。「なる」「べし」は語り手が源氏の心を推測した表現。『古典セレクション』は「なるべし」の下に読点を打つ。語り手の挿入句と解する。
【紀伊守に仰せ言賜へば】−主語は源氏。源氏のご意向を男の侍者が紀伊守に命じる。
【承りながら退きて】−接続助詞「ながら」逆接を表す。『新大系』は「(直接に)お下しになると、承諾しつつ(源氏のもとから)退出して。以下は紀伊守の嘆き」と注す。場面は源氏のいる所とは離れた所で。
【伊予守の朝臣の家に】−以下「ことやはべらむ」まで、紀伊守の詞。丁寧語「はべる」は源氏に対しての敬意表現。伊予守は上国の国守。しかし、後文によると、「介」とあり、次官である。おそらく守が赴任せず、次官のこの介が赴任しているので、会話の中では「守」と言ったのであろう。紀伊守の父親。
【女房なむまかり移れるころにて】−係助詞「なむ」は「移れる」に係るが、下文に続くため、結びの流れ。
【なめげなることやはべらむ】−係助詞「や」疑問、推量の助動詞「む」連体形に係る、係り結びの法則。
【と下に嘆くを聞きたまひて】−主語は源氏。紀伊守の困惑の詞は間接的に聞いたものであろう。
【その人近からむなむ】−以下「几帳のうしろに」まで、源氏の詞。係助詞「なむ」は形容詞「うれしかる」連体形+「べき」連体形、当然の意に係る、係り結びの法則。この詞の主旨も取次ぎを通じて紀伊守に伝えられたものであろう。
【もの恐ろしき心地すべきを】−推量の助動詞「べき」当然の意、間投助詞「を」詠嘆を表す。
【げによろしき御座所にも】−源氏の従者の詞か。源氏の習性、性癖を知っている者の発言であろう。『評釈』は侍女たちの詞と解す。『新大系』は「紀伊守の受け答え。ごもっとも。悪くないご座所としてでも。源氏との何らかの合意が成り立った感じで自宅に使いの者を走らせる」と注す。
【人走らせやる】−主語は紀伊守。使いの者を邸に遣わして源氏来訪の旨を伝えその準備をさせる。
【ことさらにことことしからぬ所をと】−源氏の心。「ことことし」清音。「コトコトシイ Cotocotoxij」(日葡辞書)。『古典セレクション』は「ことごとし」と濁音に読む。
【大臣にも聞こえたまはず】−お暇乞いの挨拶を。行く先は告げずとも状況からして自ずと判断されたろう。
【御供にも睦ましき限りしておはしましぬ】−紀伊守邸に御到着になった、という意。「おはします」という最高敬語は源氏と紀伊守との身分格差を印象づける。
 [第二段 紀伊守邸への方違へ]
【にはかにと】−青表紙本系の明融臨模本、大島本、松浦本は「にはかにと」。池田本、伝冷泉為秀筆本、書陵部本と河内本や別本の陽明文庫本、国冬本は「守にはかにと」。三条西家本は「かみ」を補入。紀伊守邸の人々。まだ源氏を迎え入れる準備が十分に整っていない。
【人も聞き入れず】−「人」は源氏の供人たち。係助詞「も」強調のニュアンス。
【田舎家だつ柴垣して】−京都神護寺蔵国宝「山水屏風」に似た風景が描かれている。
【前栽】−「平安時代はセンサイと清音」(岩波古語辞典)。『集成』『新大系』『古典セレクション』は「せんざい」と濁音に読む。
【人びと】−源氏一行の人々。
【主人も肴求むとこゆるぎのいそぎありくほど君は】−『源氏釈』は「玉垂れの 小瓶を中に据ゑて あるじはも や 肴まぎに 肴りに こゆるぎの磯の 若布と(わかめ)刈り上げに」(風俗歌 玉垂れ)を指摘する。その歌句によった表現である。「主人も」の係助詞「も」は、家人たちだけでなく主人も、の意。紀伊守が肩を揺すって忙しそうに接待に追われているのに対し、「君は」というように、源氏は一人悠然と構えている様子が対比されて語られる。
【かの中の品に】−以下「この並ならむかし」まで、源氏の心。昨夜の議論を想起する。「かの」は、あの人たちが、の意。
【この並ならむかしと】−断定の助動詞「なら」未然形、推量の助動詞「む」終止形、終助詞「かし」念押しを表す。。
【思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば】−空蝉のことをさす。源氏は、すでにこの邸に来ている女について知っていたという語り方である。前の紀伊守の「伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて、女房なむまかり移れるころにて」という「女房」の中に空蝉のことも含まれていたのである。当時は「女(むすめ)」は既婚女性でも若ければ「むすめ」と言った。
【この西面にぞ人のけはひする】−「この」は源氏のいる場所を軸にして。寝殿の西面。係助詞「ぞ」は「する」連体形に係る、係り結びの法則。強調のニュアンス。
【衣の音なひ】−以下の描写は、源氏の耳を通して語った表現。
【若き声どもにくからず】−若い女たちの声が愛らしい。源氏の感情を交えて語った表現。
【さすがに忍びて】−活発で若い女房とはいえ客人に遠慮して、というニュアンス。
【ことさらびたり】−来客を意識した振る舞い、と源氏は思う。
【格子を上げたりけれど】−日中は金具で釣り下げてあった蔀格子。
【心なし】−紀伊守の詞。
【障子の上より漏りたるに】−障子は襖のこと。「上(かみ)」は、上長押の上から光が漏れてくるのであろう。「かみ」を「紙」と解する説もある。『評釈』は「障子の紙よりもりたるに」とし、「「障子の紙」は「障子の上」と解する説もある。「上」説の理由は、襖障子の紙を透して火影がもれるはずがないからというのである。「紙より」と解して「障子の紙の間より漏る(障子ノ紙スナワチ襖ノ間カラ漏ル)」というのを、「障子の紙より漏る」と慣用句的に言ったのではないか、「襖の閉めてある合せ目から火影が漏れ出るのであろう」という島津久基博士説に従う」と注す。
【見ゆや】−源氏の心。
【この近き母屋に集ひゐたるなるべし】−源氏の耳からの推察。完了の助動詞「たる」連体形、存続の意、断定の助動詞「なる」連体形、推量の助動詞「べし」推量の意は、源氏の判断。語り手と登場人物の視点が一体化している。
【うちささめき言ふことどもを聞きたまへば】−地の文。源氏に添った表現である。
【わが御上なるべし】−源氏の耳からの推察。伝聞推定の助動詞「なる」連体形、推量の助動詞「べし」推量の意は、前同様に源氏の判断。自分で自分の事を「わが御上」という敬語の使い方は、今ではおかしいが、語り手の源氏に対する敬意が表れたものである。
【いといたう】−以下「隠れ歩きたまふなれ」まで、女たちの詞。二人の会話とみる。「いといたう」以下「さうさうしかめれ」まで、最初の女。しかし、『集成』は区別しない。この巻の冒頭にあったような源氏の性格の一面をいう。「されど」以下、もう一人の女の詞。別の噂も聞いているという。
【定まりたまへるこそさうざうしかめれ】−完了の助動詞「る」連体形、係助詞「こそ」。形容詞「さうざうしかる」連体形「る」が撥音便化し無表記の形。推量の助動詞「めれ」已然形、主観的推量のを表す。係り結びの法則。
【よくこそ隠れ歩きたまふなれ】−係助詞「こそ」、尊敬の補助動詞「たまふ」終止形+伝聞推定の助動詞「なれ」已然形、係り結びの法則。
【思すことのみ心にかかりたまへば】−明融臨模本「心にかゝり給へ(へ+レ)は」とある。「レ」は後人の補入。大島本には「心にかゝり給へハ」とある。藤壺のことをさす。『集成』『新大系』は「心にかかりたまへば」。『新大系』は「心にかかりたまへれば」と校訂する。
【かやうのついでにも】−以下「聞きつけたらむ時」まで、源氏の心。女房どうしの所在ない時の世間話。前に宿直の夜に男どうしの女性体験談が語られていた。
【人の言ひ漏らさむを】−女房などが、藤壺と自分との関係を言い漏らすようなのを。
【聞きつけたらむ時】−主語は他人と解す。完了の助動詞「たら」未然形、推量の助動詞「む」仮定の意。
【式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌】−この話は物語に語られていない。噂話として語られる。明融臨模本には傍書(後人注記)に「槿斎院ナリ源氏ニ心ツヨクテヤミニシ人也」とある。
【すこしほほゆがめて語る】−動詞「頬歪め」下二段、連用形。事実を歪める、意。少し歌の文句を違えて語る。
【くつろぎがましく】−以下「しなむかし」まで、源氏の心。明融臨模本の傍書に「カルカルシクシトケナキ也」とある。『集成』は「有閑婦人気取りで」と解し、『完訳』は「気楽な世間話の歌語り」と解す。
【歌誦じがちにもあるかな】−何かと機会あれば、歌を口ずさむことよ、の意。
【なほ見劣りはしなむかし】−完了の助動詞「な」未然形、確述、推量の助動詞「む」推量、終助詞「かし」念押し、の意。『古典セレクション』は「風流めかしていてもしょせん中流と見てとる。この軽蔑が、以下の好色の行動をたやすくさせる」と注す。
【守出で来て、灯籠掛け添へ、灯明くかかげなどして】−「灯籠」は「とうろう」「とうろ」の両方ある。明融臨模本では「とうろ」とある。紀伊守登場。源氏のいる部屋の前の軒先に釣り灯籠を掛け加え、室内の灯台の芯を引き出し、さらに明るくする。「添へ」は数を増やしたことを意味し、「かかげ」は「掻き上げ」の意で、芯を引き出すこと。時間の経過したことをも表す。
【御くだものばかり参れり】−菓子、果物類。紀伊守は酒の肴類だけを差し上げる。副助詞「ばかり」は程度を表す。言外にこの程度では不足であるというニュアンスが下文の源氏の詞を導き出す。「参る」謙譲語は、差し上げる。
【とばり帳もいかにぞは】−以下「めざましき饗応ならむ」まで、源氏の詞。『源氏釈』は「我家<わいへん>は 帷帳<とばりちやう>も垂れたるを 大君来ませ 聟にせむ 御肴<みさかな>に何よけむ 鮑<あはび> 栄螺<さだをか>か 石陰子<かせ>よけむ 鮑 栄螺か 石陰子よけむ」(催馬楽、我家)を指摘する。鮑はその形が女陰に似ている。源氏は、催馬楽「我家」の文句を引用して、女の準備はどうなっているかと紀伊守に要求。
【さる方の心もとなくては】−明融臨模本「心もとなくては」とある。大島本には「心もなくてハ」とある。明融臨模本のままとするが、『集成』『新大系』『古典セレクション』は「心もなくては」と校訂する。「さる方」は女のもてなし、の意。
【何よけむともえうけたまはらず】−紀伊守の返答。「よけむ」は「よからむ」の古い形。副詞「え」、打消の助動詞「ず」と呼応して不可能の意を表す。何がお気に召しますやら、分かりませんのでと言うが、実はその「我家」の文句「何よけむ」を引用して答えているので、十分にわかっております、という意になる。
【主人の子ども】−以下、源氏の目と語り手の目とが重なった描写である。紀伊守の子ども。時間は遡って、「端つ方の御座に仮なるやうにて大殿籠もれば人びとも静まりぬ」となる前までのこと。
【童なる殿上のほどに】−殿上童のこと。貴族の子弟で容姿端麗な子どもが殿上間で小間使いを努める。
【伊予介の子もあり】−紀伊守の弟たち。
【十二三ばかりなるもあり】−後文から、小君、故衛門督の子で空蝉の弟と知れる。
【いづれかいづれ】−源氏の詞。紀伊守に尋ねる。
【これは】−以下「はべらざめる」まで、紀伊守の返答。前の十二、三歳くらいの男の子をさして言う。
【故衛門督の末の子にて】−衛門府の長官。従四位下相当。後に柏木が衛門督として有名。名門の貴族子弟が着任している。
【姉なる人のよすがに】−その子の姉が伊予介と結婚した縁で、ここに一緒にいる。
【え交じらひはべらざめる】−副詞「え」、打消の助動詞「ざる」と呼応して不可能の意。丁寧の補助動詞「はべら」未然形。打消の助動詞「ざ」は「ざる」連体形の「る」が撥音便化して無表記の形。推量の助動詞「める」連体形、主観的推量を表す。言い切らずに余情を残した連体中止法。
【と申す】−明融臨模本は「申す」の次に朱筆で「ニ」を補入する。後人の筆であろう。大島本には「申」とある。
【あはれのことやこの姉君やまうとの後の親】−源氏の問い。気の毒なことだ、すると、その姉君があなたの継母になるわけか、という確認の問い。
【さなむはべる】−紀伊守の返答。
【似げなき親をも】−以下「定めなきものなれ」まで、源氏の詞。年齢にふさわしくない若い継母だという意。
【宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし】−衛門督は、その娘を入内させようと、内々に帝に奏上していた、それを源氏は聞き知っていたという経緯である。「宮仕へ」は更衣として入内させること。推量の助動詞「む」意志を表す。「奏す」は天皇に申し上げる。
【世こそ定めなきものなれ】−係助詞「こそ」「、断定の助動詞「なれ」已然形、係り結びの法則。強調のニュアンス。
【いとおよすけのたまふ】−『集成』『古典セレクション』は「およすけ」と清音で読み、『新大系』は「およすげ」と濁音で読む。『河海抄』には濁符がある。『全集』は「不自然の感を免れるための作者の弁解でもある」と注す。
【不意にかくて】−以下「あはれにはべる」まで、紀伊守の詞。
【さのみこそ今も昔も定まりたることはべらね】−係助詞「こそ」、打消の助動詞「ね」已然形、係り結びの法則。
【女の宿世は浮かびたるなむあはれにはべる】−明融臨模本「うかひ(ひ=ミ)たる」とある。大島本は「いとうかひたる」と副詞「いと」がある。『集成』は「浮かびたる」のまま。『新大系』『古典セレクション』は「いと浮くかびたる」と校訂する。完了の助動詞「たる」連体形、主格となる。係助詞「なむ」は丁寧の補助動詞「はべる」連体形に係る、係り結びの法則。
【聞こえさす】−「さす」は、中途で止める意。紀伊守は、少しでしゃばって物を言い過ぎたと感じたか、源氏の顔色を見て、議論を言いさした。
【伊予介はかしづくや君と思ふらむな】−源氏の詞。推量の助動詞「らむ」視界外推量、終助詞「な」念押しを表す。宮中に入内するはずだった女性なので、伊予介はその女を主君と思って大切にしているだろうな、という高飛車な言い方。
【いかがは】−以下「うけひきはべらずなむ」まで、紀伊守の返答。反語表現。もちろんです、の意。老父の女好みを苦々しく思っている、という意。
【私の主とこそは思ひてはべるめるを】−明融臨模本「こそは(は$)」とあるが、「は」の左側に朱筆で「ヒ」と記された後人のミセケチ。大島本にも「こそハ」とある。『古典セレクション』は「こそ」と校訂。係助詞「こそ」は、「はべる」にかかるが、下文に続くため、結びの流れとなっている。推量の助動詞「める」連体形、話者の主観的推量を表す。接続助詞「を」逆接を表す。
【なにがしよりはじめて】−自分をはじめとして兄弟一同、の意。
【うけひきはべらずなむ】−係助詞「なむ」は結びの省略。
【さりとも】−以下「けしきばめるをや」まで、源氏の詞。
【おろしたてむやは】−推量の助動詞「む」推量、連語「やは」(「や」係助詞「は」係助詞)反語を表す。伊予介は後妻の空蝉を子の紀伊守に譲ろうか、譲るまい、の意。
【かの介はいとよしありて気色ばめるをや】−連語「をや」(終助詞「を」終助詞「や」)感動を表す。紫式部が結婚した相手の藤原宣孝も晩年に息子たちと同年齢の紫式部を後添えに迎えている。その彼も風流人であったエピソードが伝わっている。
【いづかたにぞ】−源氏の詞。係助詞「ぞ」の下に「ある」連体形、などの語が省略。真意は、その女はどこに、の意。だが、漠然と含みのある尋ね方をする。
【皆下屋に】−以下「下りあへざらむ」まで、紀伊守の返答。ややずらして答えているが、用意してありますという含みのある表現をする。『新大系』は「母屋に女が残してあるとの暗示にも聞こえる」と注す。
【おろしはべりぬるを】−完了の助動詞「ぬる」連体形、完了の意、接続助詞「を」逆接を表す。
【えやまかりおりあへざらむ】−副詞「え」は打消の助動詞「ざら」と呼応して不可能の意を表す。係助詞「や」疑問の意、推量の助動詞「む」連体形、推量の意を表す。身分卑しい女たちは皆下屋に下ろしたが、全員は下ろしきれず、やや高い女は残っている、という意。
【酔ひすすみて皆人びと簀子に臥しつつ静まりぬ】−時間は前に「端つ方の御座に仮なるやうにて大殿籠もれば人びとも静まりぬ」とあった時点に戻る。接続助詞「つつ」は同じ動作の繰り返しのニュアンスを添える。めいめい臥せっている意。
 [第三段 空蝉の寝所に忍び込む]
【とけても寝られたまはず】−可能の助動詞「られ」連用形。
【いたづら臥しと思さるるに】−源氏の心。自発の助動詞「るる」連体形。接続助詞「に」順接、原因理由を表す。
【こなたや】−以下「あはれや」まで、源氏の心。「あはれや」を、『集成』は「どうしているだろう」と解し、『完訳』は「かわいそうな」と訳す。『新大系』は「老受領の後妻になっている女への哀れみである。中の品に転じているらしい女への興味がかきたてられて様子を窺う」と注す。
【立ち聞きたまへば】−以下、源氏の耳を通して語る描写。
【ものけたまはる】−以下「おはしますぞ」まで、小君の詞。姉の空蝉に言う。「ものけたまはる」は「物承る」の約。
【かれたる声の】−格助詞「の」同格を表す。変声期ころの少年。
【ここにぞ臥したる】−以下「け遠かりける」まで、姉君の返答。係助詞「ぞ」、完了の助動詞「たる」連体形、存続の意。係り結びの法則。
【客人は寝たまひぬるか】−「客人」は源氏の君をさす。完了の助動詞「ぬる」連体形、係助詞「か」疑問の意。
【いかに近からむと思ひつるを】−副詞「いかに」、推量の助動詞「む」終止形、完了の助動詞「つる」連体形、完了の意。接続助詞「を」逆接を表す。
【け遠かりけり】−接頭語「け」は、なんとなく、いくらか、などのニュアンスを添える。過去の助動詞「けり」詠嘆の意。
【声のしどけなき】−格助詞「の」同格を表す。「しどけなき」連体形は主格となる。声で取り繕わないのが、の文意。
【いもうとと聞きたまひつ】−「いもうと」は男からみた異性の姉妹。ここは姉をいう。男の子(小君)の姉と理解。
【廂にぞ】−以下「めでたかりけれ」まで、小君の詞。源氏の君は、廂の間にお寝みになりましたという。廂の間は、女の寝ている母屋の外側になる。係助詞「ぞ」、完了の助動詞「ぬる」連体形、係り結びの法則。
【見たてまつりつる】−完了の助動詞「つる」連体形、下に接続助詞「に」順接などの語が省略。
【げにこそめでたかりけれ】−係助詞「こそ」過去の助動詞「けれ」已然形、詠嘆の意。係り結びの法則。
【昼ならましかば覗きて見たてまつりてまし】−姉君の詞。推量の助動詞「ましか」未然形、仮想の意+接続助詞「ば」順接の仮定条件、推量の助動詞「まし」終止形、反実仮想の構文。
【ねたう心とどめても問ひ聞けかし】−源氏の心。「問ひ聞け」命令形。終助詞「かし」念押し。聞いていろよ、の意。小君と姉の空蝉の会話をもっと聞いていたい気持ち。
【まろは端に寝はべらむあなくるし】−小君の詞。明融臨模本「まろはゝし(ゝし=こゝ)に」とある。傍書の「こゝ」は後人の朱書である。大島本には「まろはハしに」とある。「端(はし)に」について、青表紙本系の明融臨模本、大島本、三条西家本は「はしに」とあり、一方、松浦本、池田本、伝冷泉為秀本と書陵部本は「こゝに」とある。『集成』『新大系』は「端に」。『古典セレクション』は「ここに」と校訂する。また「くるし」について、明融臨模本は「くるし」とある。大島本は「くら」とある。『新大系』は「あな暗」。『集成』『古典セレクション』は「あな苦し」。青表紙本系の明融臨模本、松浦本、伝冷泉為秀筆本は「あなくるし」(ああ、疲れた)とあり、大島本、三条西家本と書陵部本は「あなくら」(ああ、暗い)とある。池田本は「あなくらるし」とある。定家本原本は「あなくるし」とあったのであろう。
【灯かかげなどすべし】−副助詞「など」、推量の助動詞「べし」推量の意、などの推量表現は源氏の耳に添った表現である。次の「中将の君は」の文との間には、小君が端の方に出て行って後、少し時間の経過があろう。
【ほどにぞ臥したるべき】−係助詞「ぞ」、推量の助動詞「べき」連体形、係り結びの法則。
【中将の君は】−以下「もの恐ろし」まで、女(空蝉)の詞。「中将の君」は女房名。その女房を呼ぶ。
【いづくにぞ】−係助詞「ぞ」の下に「をる」連体形、などの語が省略。
【言ふなれば】−「言ふ」終止形、伝聞推定の助動詞「なれ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。ある事態を契機として、たまたま以下の事態が起きた、という接続。--たところ、--と、という文意。を表す。源氏の耳を通してかたる描写。「ば」は単なる継起的前後関係を表す。言うらしい、するとの意。
【答へすなり】−「す」終止形、伝聞推定の助動詞「なり」終止形。源氏の耳を通して語る描写。
【下に湯におりてただ今参らむとはべる】−女房の返答。「はべる」について、明融臨模本・大島本「侍」と表記する。『集成』は「はべる」(連体形)と読む。『新大系』『古典セレクション』は「はべり」(終止形)と読む。「ただ今参らむ」という中将の君の詞を引用して答える。当時の入浴法は沐浴で、湯を浴びて体を清めた。
【引きあけたまへれば】−「たまへ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。ある事態を契機として、たまたま以下の事態が起きた、という接続。
【あなたよりは鎖さざりけり】−過去の助動詞「けり」詠嘆の意。その意外さに驚く。源氏の驚きの気持ちと語り手の気持ちが一体化したような表現。紀伊守が外しておいたものであろう。
【灯はほの暗きに】−「暗き」連体形+接続助詞「に」逆接。
【なまわづらはしけれど】−『集成』は「何となく気が咎めるけれども」と、源氏の君の心中と解す。『古典セレクション』は「うとうとししかけたところを寄り添われた女の意識」と解す。『新大系』も同じ。ここまで、源氏の耳、目を通して語ってきたが、ここで主語(語り手の視点)が女に転じたとみる。
【求めつる人】−空蝉が召した人、女房の中将の君。
【中将召しつればなむ】−以下「心地して」まで、源氏の詞。係助詞「なむ」の下に「まゐりぬ」などの語句が省略。女が呼んだのは、女房の「中将の君」であった。源氏も近衛府の中将であった。それで「中将召しつれば」と言った。
【顔に衣のさはりて】−源氏の直衣の袖が空蝉の顔に触れて。『古典セレクション』は顔に衾がかぶさって、と解す。
【うちつけに】−以下「思ひなしたまへ」まで、源氏の詞。
【見たまふらむ】−主語はあなた(空蝉)が。「たまふ」終止形+推量の助動詞「らむ」視界外推量を表す。下に「ことは」などの語句が省略、主格となって下文に続く。
【年ごろ思ひわたる心のうち】−源氏の女を口説くときの常套句。
【聞こえ知らせむとてなむ】−推量の助動詞「む」意志、係助詞「なむ」の下に「まゐりぬ」などの語句が省略。
【さらに浅くはあらじ】−前の「深からぬ心のほど」と照応するが、またあなたとわたしの縁が浅くはない、の意も込められている。両義性をもった掛詞的な表現。副詞「さらに」は打消の助動詞「じ」と呼応して、決して、少しも、全然、の意を表す。
【鬼神も荒だつまじきけはひなれば】−係助詞「も」強調を表す。猛々しく恐ろしい鬼神でさえも源氏の物腰には手荒なことができない、まして弱い女人の身では、のニュアンス。
【えののしらず】−副詞「え」打消の助動詞「ず」と呼応して不可能の意を表す。大声を出すことができない。
【あるまじきこと】−空蝉は人妻である。他の男性との逢瀬はあってはならないこと。
【人違へにこそはべるめれ】−女の詞。係助詞「こそ」、推量の助動詞「めれ」已然形、主観的推量の意。係り結びの法則。強調のニュアンス。
【消えまどへる気色いと心苦しくらうたげなればをかし】−源氏は、こうした状況下にある女とその態度に対して「いと心苦し」と思いやる一方で、自身「らうたげ」だと思いながら、そうした女に「をかし」と心惹かれていく。
【違ふべくもあらぬ】−以下「聞こゆべきぞ」まで、源氏の詞。
【心のしるべを】−格助詞「を」目的格を表す。
【思はずにもおぼめいたまふかな】−「思はずにも」は、意外にも、理解せずに、の両義性をもった掛詞的表現。終助詞「かな」詠嘆を表す。
【よに見えたてまつらじ】−副詞「よに」は下に打消推量の助動詞「じ」終止形、意志と呼応して、決して、の意を表す。
【聞こゆべきぞ】−係助詞「ぞ」、文末にある場合、文全体を強調する。
【いと小さやかなれば】−女の体つき。当時は小柄を美人とした。
【障子のもと出でたまふにぞ】−「もと」の次に格助詞「に」場所が省略。係助詞「ぞ」は完了の助動詞「たる」連体形に係る、係り結びの法則。
【ややとのたまふに】−源氏が中将の君に、もしもし、と声を掛けた。
【あやしくて探り寄りたるにぞ】−完了の助動詞「たる」連体形+接続助詞「に」順接+係助詞「ぞ」。「ぞ」は「心地する」に係るが、下文に続いて、結びの流れ。中将の君は不審に思って手探りで近付いたところ、の意。
【思ひ寄りぬ】−その声の主が源氏であると理解した。
【こはいかなることぞ】−中将の君の心。係助詞「ぞ」、文末にある場合、文全体を強調する。源氏の君がわが主人の空蝉を抱いて部屋から連れ出そうとしているので。
【並々の人ならばこそ】−以下「いかがはあらむ」まで、中将の君の心。係助詞「こそ」は「引きかなぐらめ」に係る、下文に続く逆接用法。
【それだに人のあまた知らむは】−副助詞「だに」最小限を表す。推量の助動詞「む」婉曲を表す。
【動もなくて】−主語は源氏。源氏の君の平然とした態度。
【奥なる御座】−『評釈』は「端つ方の御座」に対して「母屋に設けられた源氏の寝所」と注す。『新大系』は「東の廂にある奥の座所。正式の寝所がしつらえられていたのだろうと言う」と注す。『古典セレクション』は「障子口の向こうの源氏の寝室にあてられた母屋の南半分」と注す。いずれにしても、紀伊守は源氏のために、「端つ方の御座」とは別に正式の寝所を準備していた。
【暁に御迎へにものせよ】−源氏から中将の君への詞。「暁」は明朝早くの意。
【女はこの人の思ふらむことさへ】−「女」は空蝉、「この人」は中将の君。推量の助動詞「らむ」視界外推量、副助詞「さへ」添加を表す。
【いと悩ましげなる】−断定の助動詞「なる」連体中止法で下文に続く。
【例の】−以下「べかめれど」まで、「例の」「にかあらむ」(疑問、推量)「べかめれど」(推量)は、語り手が源氏の態度に対して発したものである。挿入句。『湖月抄』は「地」と記して、いわゆる草子地であることを指摘する。
【なほいとあさましきに】−主語は女に転じる。接続助詞「に」順接、原因理由を表す。やはりまことに情けないので。
【現ともおぼえずこそ】−以下「はべるなれ」まで、女の詞。係助詞「こそ」の下に「あれ」などの語が省略。
【思しくたしける】−「くたす」は清音、「腐す」意。「下す」ではない。
【いかが浅くは思うたまへざらむ】−反語表現。浅くは思わない、すなわち深く思う、の意。ただしかし、源氏の愛情を深く理解するというのではなく、源氏が私(空蝉)を蔑んだ気持ちが深い、というもの。『新大系』は「人数にも入らぬいやしいわが身のままであれ、その私を心から見下してこられた、あなたさまのお気持の程度につけてもどうして浅いと思い申さずにはいられよう。前頁に「さらに浅くはあらじ」とあった源氏の言葉を受けて、あなたの私への見下す心もまた浅からぬとせいいっぱい言い返す」と注す。『古典セレクション』でも「前文に源氏が「さらに浅くはあらじ」と言ったのを受けて、「心ばへ」の内容を自分に対する軽蔑にすりかえて、切り返したもの」と注す。
【かやうなる際は際とこそはべなれ】−「はべなれ」は「はべる」連体形の「る」が撥音便化してさらに無表記の形。断定の助動詞「なれ」已然形、係結びの法則。このようなしがない身分のわたしには、わたしらなりの、生き方というものがございます、源氏の君のような高貴な方とは無縁は世界の女です、の意。
【げにいとほしく】−源氏と語り手の気持ちが一体化した表現。
【心恥づかしきけはひなれば】−女(空蝉)の態度。こちらが恥じ入るほど立派な態度。
【その際々を】−以下「あやしきまでなむ」まで、源氏の詞。
【初事ぞや】−係助詞「ぞ」文末におかれて強調の意、間投助詞「や」詠嘆を表す。
【あながちなる好き心】−「帚木」巻冒頭部に源氏の本性について、「さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にてまれにはあながちに引き違へ心尽くしなることを御心に思しとどむる癖なむあやにくにて」とあった。源氏は口では否定しても性分では「あながちなる好き心」の人間である。
【さるべきにや】−前世からの宿縁であろうか、の意。
【あはめられたてまつるも】−あなたからわたしが「あはめられ」、軽蔑される、見下される。謙譲の補助動詞「たてまつる」、いただく。「見下されいただく」とはおかしな言い方だが、語法としては適っている。嫌味な言い方をしたもの。
【あやしきまでなむ】−係助詞「なむ」の下に「ある」連体形などの語が省略。
【いとたぐひなき御ありさまの】−源氏の姿をさす。主語は女に転じる。格助詞「の」同格を表す。以下、空蝉の視点から語られていく。
【すくよかに】−以下「過ぐしてむ」まで、女の心。
【さる方の言ふかひなきにて】−「さる方」は「くよかに心づきなし」をさす。
【つれなくのみ】−本心を隠してただそっけなくのみ振る舞っているというニュアンス。
【なよ竹の心地して】−源氏には女がしなやかな竹のように感じられて。主語は源氏に転じる。『古典セレクション』は「次の「まことに--」の文文との間に、それまで拒み続けた女との間に、強姦に近い形で契りが果されたことが省かれている」と注す。
【まことに心やましくて】−主語は女。「まことに」は、心底からのニュアンス。「心やまし」は、不愉快、辛いのニュアンス。
【あながちなる御心ばへ】−源氏の無理無体ななされようをさす。
【言ふ方なしと思ひて泣くさまなどいとあはれなり】−女に諦め折れたさまが読み取れる。『紹巴抄』は「空心を双地」と、空蝉の心を草子地で表現した、と指摘する。「あはれなり」は、空蝉に対する語り手の評言である。
【心苦しくはあれど見ざらましかば】−主語は源氏。女に対する同情に気持ちはあるが、自己満足を優先させている。「ましかば」は下文の「まし」と呼応して、反実仮想の意を表す。
【慰めがたく憂しと思へれば】−女の態度。
【などかく】−以下「いとつらき」まで、源氏の詞。
【疎ましきものにしも思す】−副助詞「しも」強調。あなたはわたしを嫌な男とお思いになる。
【契りあるとは思ひたまはめ】−推量の助動詞「め」已然形、「こそ」の係り結び。
【世を思ひ知らぬやうに】−「世」は男女の仲。既に人妻であり男を知っていながらそれを知らない生娘のように、の意。
【おぼほれ】−『集成』は「悲しみに沈んで」と訳し、『完訳』は「ぼんやりして」と訳す。『古典セレクション』『新大系』は「とぼけていらっしゃる」と訳す。涙にむせんで、何もわからなくなっているさま、というニュアンスであろう。
【恨みられて】−マ上二段動詞「恨む」未然形、受身の助動詞「られ」連用形。源氏の君から恨まれて、の文意。
【いとかく憂き身の】−以下「見きとなかけそ」まで、女の詞。
【ありしながらの身にて】−『異本紫明抄』は「取り返すものにもがなや世の中をありしながらのわが身と思はむ」<昔の時代に戻りたいものだ、そうしたら今のあなたとの関係も昔のままのわたしでと思おう、できぬことで残念だ>(出典未詳)を指摘する。
【かかる御心ばへを見ましかば】−反実仮想の助動詞「ましか」未然形+接続助詞「ば」、「慰めまし」に係る。
【あるまじき我が頼みにて】−挿入句。
【後瀬をも】−『源氏釈』は「若狭なる後瀬の山の後に逢はむわが思ふ人にけふならずとも」(古今六帖二、国、一二七二)を指摘する。「若狭なる後瀬の山の」は「後に」に係る序詞。
【思ひたまへ慰めましを】−謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形。反実仮想の助動詞「まし」連体形+接続助詞「を」逆接。
【たぐひなく思うたまへ惑はるるなり】−「おもう」は「思ひ」連用形のウ音便形。謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形、自発の助動詞「るる」連体形、断定の助動詞「なり」終止形。
【よし今は見きとなかけそ】−副詞「よし」。『源氏釈』は「それをだに思ふこととて我が宿を見きとないひそ人の聞かくに」(古今集、恋五、八一一、読人しらず)を指摘する。過去の助動詞「き」終止形。副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。
【げにいとことわりなり】−「げに」と同意し、「ことわりなり」と断定するのは、語り手の評言。『一葉抄』は「双紙の地也」と指摘し、『新釈』は「作者の空蝉の態度に対する批判であり、同情である。紫式部も人妻として当然なことをいつてゐるのである」と評す。
【おろかならず】−以下「多かるべし」までの一文は、語り手の推量。『万水一露』は「双紙の批判の詞也」と指摘する。語り手は、その現場は見ていないが、きっとそうであったろう、という表現。
【鶏も鳴きぬ】−夜が明けた。人目に付かぬうちに別れなばならない。
【など言ふなり】−「言ふ」終止形+伝聞推定の助動詞「なり」。語り手の位置は部屋の中で、外の声を聞いているというふうである。
【女などの】−以下「急がせたまふへきかは」まで、紀伊守の詞。係助詞「こそ」の下に「急がめ」などの語句が省略されている。女性の方違えと男性の方違えでは帰る時刻が相違したものか、未詳。『集成』は「女などの」以下を紀伊守の詞とする。しかし『新大系』『古典セレクション』は下の「御方違へこそ」以下を、女房の詞と解す。
【急がせたまふべきかは】−「せ」「たまふ」最高敬語。連語「かは」反語表現。
【君は】−「思すに」に係る。その間に、源氏の心が挿入される。
【またかやうの】−以下「いとわりなき」まで、源氏の心。
【さしはへてはいかでか】−「さしはへて」の下に「訪れむこと」などの語句が省略。「いかでか」反語表現。
【いとわりなきを】−「わりなき」までが源氏の心。それを「を」で受けて、地の文に続ける。したがって、現行の括弧では括れない、心と地とが融合した源氏物語特有の表現構造である。
【奥の中将】−女房の中将の君。奥から出てきてのニュアンスを「奥の」と表す。語り手の位置もわかる。
【許したまひてもまた引きとどめたまひつつ】−「桐壺」巻の「輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず」という帝が更衣の里下がりをなかなか許そうとしない態度に類似する。
【いかでか】−以下「例かな」まで、源氏の詞。
【世に知らぬ】−副詞「世に」程度のはなはだしいさまを表す。ほんとうに
【御心のつらさもあはれも】−『古典セレクション』は「あなたのつれなさにつけ、またわたしのせつなさにつけ」と訳す。
【浅からぬ世の思ひ出で】−「浅からぬ世」は、男女の縁が浅くないという意と、夏の夜の短さを背後に響かせた表現となっている。
【鶏もしばしば鳴くに】−前に「鶏も鳴きぬ」とあった。それからの時刻の経過と次の和歌を詠み出す契機となる。
【つれなきを恨みも果てぬしののめに--とりあへぬまでおどろかすらむ】−源氏の贈歌。「しののめ」は東の空の明らむ時刻、歌語。「とりあへぬ」に「鶏」と「取りあへぬ」を掛ける。推量の助動詞「らむ」原因推量を表す。どうして--するのだろうか、の意。第一句「つれなきを」の詠嘆の間投助詞「を」、第二句「恨みも果てぬ」の「ぬ」(打消の助動詞、終止形)というように、いずれも句が切れるかなり強い恨み言と詠嘆を詠み込んだ歌である。
【いとつきなくまばゆき心地して】−源氏を前にして感じた女の境遇や身分や容貌などのいずれも格段に劣ったみすぼらしさをいう表現である。「まばゆき心地」は恥ずかしくて顔を合せられない意。
【伊予の方の思ひやられて】−明融臨模本「いよのかたの(の+ミ)」とあるが、「ミ」は後人による朱書の補入。大島本は「いよのかたの」とある。『集成』『新大系』は「伊予のかたの」。『古典セレクション』は「伊予の方のみ」と校訂。自発の助動詞「れ」連用形。
【夢にや見ゆらむ】−空蝉の心中の思い。係助詞「や」疑問、推量の助動詞「らむ」連体形、視界外推量を表す。当時はものを思えば魂があくがれ出てその人の前に現れると信じられていた。「見ゆ」は現れる、意。わたしが伊予介の夢の中に。
【身の憂さを嘆くにあかで明くる夜は--とり重ねてぞ音もなかれける】−女の返歌。係助詞「ぞ」は「詠嘆の助動詞「ける」連体形に係る、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。自発の助動詞「れ」連用形。源氏の「とりあへぬまで」の語句を受けて、「とりかさねてぞ」と返す。「とりかさね」に「鶏」と「取り重ね」を掛ける。
【引き立てて】−襖障子を引き閉めて。
【隔つる関】−『源氏釈』は「逢坂の名をば頼みてこしかども隔つる関のつらくもあるかな」(新勅撰集、恋二、七三三、読人しらず)を指摘する。『伊勢物語』にも「彦星に恋はまさりぬ天の川隔つる関を今はやめてよ」(九十五段)とある。歌語である。
【南の高欄に】−格助詞「に」場所を表す。高欄の側で、高欄に寄り掛かって、の意。
【人びと覗くべかめる】−推量の助動詞「べか」連体形は「る」が撥音便化しさらに無表記の形。推量の助動詞「める」連体形は主観的推量を表す。語り手と源氏の目が一体になった推量、判断の表現。連体中止法で余情表現。
【好き心どもあめり】−「ある」連体形の「る」が溌音便化してさらに無表記化された形。推量の助動詞「めり」主観的推量を表す。語り手と源氏の視覚が一体化して捉えた推量の表現。
【月は有明にて】−西の空に残っている月。時刻の経過をも表す。
【かげけざやかに見えて】−明融臨模本「かほ(ほ=け歟、ほ$)けさやかにみえて」とある。傍書の「け歟」は本文と一筆と見られる。ただしミセケチ「ヒ」は後人の朱筆。大島本は「かけさやかに見えて」とある。『集成』は「かほけざやかに見えて」(月のおもてはくっきりと)と校訂、『新大系』『古典セレクション』は「影さやかに見えて」と校訂する。明融臨模本の本文一筆の「け歟」に従う。
【艶にもすごくも見ゆる】−『集成』は「色めかしい感じにも、またもの悲しい感じにも」と解し、『新大系』は「華やかにも殺風景にも」と解し、『古典セレクション』は「ほのぼのと美しくも、あるいは恐ろしくも」と解す。
【言伝てやらむよすがだになきをと】−推量の助動詞「む」婉曲、副助詞「だに」最小限、間投助詞「を」詠嘆を表す。手紙を遣る手段さえない、まして直接逢うことは、というニュアンス。
【殿に帰りたまひても】−二条院に。
【まどろまれたまはず】−可能の助動詞「れ」連用形。
【あひ見るべき方なきを】−接続助詞「を」逆接を表す。
【ましてかの人の】−以下「いかならむ」まで、地の文から源氏の心の文へと融合したような表現。
【すぐれたることはなけれど】−以下「げに」まで、源氏の心。
【隈なく見集めたる人】−左馬頭をいう。
【思し合はせられけり】−自発の助動詞「られ」連用形、詠嘆の助動詞「けり」。
【このほどは】−紀伊守邸から帰宅して以後の生活。場面は変わる。
【大殿に】−左大臣邸。正妻の葵の上のもとに。
【なほいとかき絶えて】−副詞「なほ」は「御心にかかりて」に係る。「かき絶えて」は挿入句。副詞「いと」は「苦しく思しわびて」に係る。
【かのありし中納言の子は】−以下「我奉らむ」まで、源氏の詞。「中納言の子」は、前に「衛門督の末の子」とあった子。父は中納言兼衛門督であった。従三位相当官である。主上にもわたしから殿上童として差し上げたい、の意。
【得させてむや】−使役の助動詞「させ」連用形、完了の助動詞「て」連用形、推量の助動詞「む」、係助詞「や」疑問を表す。
【らうたげに見えしを】−過去の助動詞「し」連体形、間投助詞「を」詠嘆を表す。
【いとかしこき】−以下「のたまひみむ」まで、紀伊守の詞。仰せ言をお伝えしてみましょう、の意。
【姉なる人にのたまひみむ】−尊敬の動詞「のたまふ」四段は、「上位者との対話において、話者自身の支配下の身内をまたは目下に言い聞かせる意」(小学館古語大辞典)。
【胸つぶれて思せど】−その女のことが話題に出るだけで、源氏は胸がどきりとする。源氏のうぶさを表す。
【その姉君は朝臣の弟や持たる】−源氏の問い。係助詞「や」疑問。「持たる」は「持ちたる」が約った語形。完了の助動詞「たる」連体形、係り結び。伊予介との夫婦間に子供がいるか、という問いを、あなたの異母弟がいるかと遠回しに尋ねた。「朝臣」は、あなたの意。敬称。
【さもはべらず】−以下「聞きたまふる」まで、紀伊守の答え。
【親のおきて】−前に「宮仕へに出だしたてむと漏らし奏せし」とあったことをさす。
【聞きたまふる】−謙譲の補助動詞「たまふる」連体形、係助詞「なむ」と係り結びの法則。
【あはれのことや】−以下「よしや」まで、源氏の詞。
【よろしく聞こえし人ぞかし】−連語「ぞかし」文末に用いられて強く念を押す意。まずまずの器量よしとの評判の人であった、の意。しかし、空蝉の容貌は、『源氏物語』の中ではむしろ不器量の部類に入る人である。ここは、実際以上のお世辞を使って尋ねたものか。
【まことによしや】−「よし」は「よろし」よりも良い意。『古典セレクション』は「ほの暗い所で逢ったので、源氏はよく見ていない。先夜女との間に何事もなかったと思わせ、かつ小君についての斡旋の底意を、守に勘づかせないための用意もあろう」と注す。
【けしうははべらざるべし】−以下「睦びはべらず」まで、紀伊守の詞。悪くはないでございましょう、の意。源氏に合わせた答え方。また、紀伊守の価値基準から見た答えであろう。源氏やこの物語の作者の評価基準とは異なる。
【世のたとひにて】−継母と継子の関係は疎遠であるという世間一般の道理。
 [第四段 それから数日後]
【さて五六日ありて】−逢瀬から五、六日後。
【この子率て参れり】−主語は紀伊守。
【なまめきたるさましてあて人と見えたり】−源氏の目から見た判断である。小君が中納言兼衛門督の子という高貴な血筋の家柄であることを思わせる。
【いもうとの君】−小君の姉君。
【恥づかしげにしづまりたれば】−源氏が気恥ずかしくなるほど相手の小君が畏まっているので、の意。
【いとよく言ひ知らせたまふ】−小君に彼の姉と源氏の間を手引きさせるべく言葉巧みに言い聞かせる意。
【かかることこそはと】−小君の心。「こそは」の下に「ありけれ」などの語句が省略。源氏と姉君の間に何らかの関係が前々からあったのだ、という意。
【御文を持て来たれば】−小君が源氏のもとから姉君の所へ。
【あさましきに涙も出で来ぬ】−『新大系』は「激しい動揺や悔悟の念いから」と注す。
【見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに--目さへあはでぞころも経にける】−源氏の贈歌。「あふ」に「夢が合う」(正夢となる)と「あなたに逢ふ」を掛け、次の「あはで」に「目が合はない」(眠れない)と「あなたに逢えない」を掛ける。「あう」を二度用いた執念き歌である。
【寝る夜なければ】−歌に添えたことば。明融臨模本は朱合点と「恋しさのなにゝつけてかなくさまん夢たにもみえすぬるよなけれは」という付箋あり。『源氏釈』は「恋しきを何につけてか慰めむ夢だに見えず寝る夜なければ」(拾遺集、恋二、七三五、源順)を指摘する。現実はもちろんのこと、夢の中でさえあなたに会えない、の意。
【霧り塞がりて】−譬喩表現。涙に目が曇って、の意。
【身を思ひ続けて臥したまへり】−明融臨模本は「ふし給へりける」とあり、「ける」にミセケチ符号が付いている。女の態度に対して初めて敬語が付く。『評釈』は「この女とても自分の邸では多くの人にかしずかれる女主人公である。こういう敬語の出てくる場合、自邸内での女主人公としての女を、読者は感ずるのであろう、と思う」と注す。今や源氏の愛人の一人になったことによる待遇の変化であろう。
【またの日小君召したれば参るとて御返り乞ふ】−翌日、源氏が小君を呼び寄せていたので、小君は源氏のもとへ参上しようとして、その前に姉君に源氏への返事を催促した、という経緯。
【かかる御文見るべき人もなしと聞こえよ】−姉君の詞。
【のたまへば】−女の行為に対する敬語。二例め。
【うち笑みて】−小君の表情。自信ある顔つき。
【違ふべくも】−以下「さは申さむ」まで、小君の詞。源氏の君がお間違いになっておっしゃるはずもない、の意。『新大系』は「人違いでもあるように(君は)おっしゃらなかったのに」と訳す。
【心やましく】−弟小君の小生意気な言い方に対する感情。
【残りなくのたまはせ知らせてける】−女の心。源氏の君は弟の小君に自分と源氏の君との関係を。
【いで】−以下「な参りたまひそ」まで、姉君の詞。感動詞「いで」は他者の言動に対して否定する気持ちを表す。
【さは】−接続詞「さは」それならばの意。『古典セレクション』では「さば」と濁音に読む。
【な参りたまひそ】−副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。
【むつかられて】−動詞「むつから」未然形+尊敬の助動詞「れ」連用形。
【召すにはいかでか】−小君のぶつぶつ言った詞。連語「いかでか」(副詞「いかで」+係助詞「か」)反語表現。下に「参らざらむ」などの語句が省略。どうして参上しないでいられましょう、の意。返事も持たないで参上する。
【率てありく】−紀伊守が小君を連れて行く。「紀伊守好き心に」以下「率てありく」まで、「参りぬ」の、補足説明的文が挿入されたもの。
【君召し寄せて】−源氏の君は小君を召し寄せて、の意。
【昨日】−以下「なめり」まで、源氏の詞。「あひ」は源氏と小君の相互をさし、わたしはおまえを思っているのにおまえはわたしを思ってくれないようだ、の意。同性愛的関係の物言い。
【待ち暮らししを】−「暮らし」連用形、過去の助動詞「し」連体形、接続助詞「を」逆接を表す。
【あひ思ふまじきなめり】−打消推量の助動詞「まじき」連体形、「なめり」は断定の助動詞「なる」連体形+推量の助動詞「めり」の「る」が撥音便化してさらに無表記の形、「めり」は主観的推量を表す。
【顔うち赤めてゐたり】−主語は小君に変わる。
【いづら】−源氏の詞。返事はどこに、の意。
【しかしか】−小君の詞。語り手が言い換えた表現。これこれしかじかの理由でいただけませんでした、の意。『岩波古語辞典』に「江戸時代以後シカジカと濁音化した」とある。『古典セレクション』は「しかじか」と濁音に読む。
【言ふかひなのことやあさまし】−源氏の詞。「言ふかひなし」の約。間投助詞「や」詠嘆。
【またも賜へり】−再び手紙をお与えになった。係助詞「も」は強調のニュアンスを添える。
【あこは知らじな】−以下「短かりなむ」まで、源氏の詞。「あこ」は目下の者に対する親愛の情をこめた呼びかけ。打消推量の助動詞「じ」終止形+終助詞「な」詠嘆を表す。
【先に見し人ぞ】−「見し」(動詞「見」連用形+過去の助動詞「し」連体形)は、関係をもった、契りを結んだ、の意。係助詞「ぞ」文末にあって文全体を強調する。
【頼もしげなく頚細し】−空蝉が源氏を評した言として、源氏が引用した文である。首が細い。頼りない、の意のニュアンスがある。源氏の容貌姿態を表現とすれば珍しい箇所である。
【かく侮りたまふなめり】−主語は空蝉。「なめり」は断定の助動詞「なる」連体形の「る」が撥音便化してさらに無表記の形+推量の助動詞「めり」主観的推量。
【あこはわが子にてをあれよ】−間投助詞「を」詠嘆、間投助詞「よ」呼びかけの意を表す。
【行く先短かりなむ】−形容詞「短かり」連用形+完了の助動詞「な」未然形、確述の意+推量の助動詞「む」推量。どうせこの先長いことないでしょうよ、の意。
【さもやありけむいみじかりけることかな】−小君の心中の思い。係助詞「や」、過去推量の助動詞「けむ」連体形。終助詞「かな」詠嘆を表す。
【と思へるをかしと思す】−完了の助動詞「る」連体中止法、そのまま下文の目的格になる。
【この子をまつはしたまひて】−主語は源氏。
【御匣殿】−摂関家などの上流貴族の家では裁縫する建物を自前で持っていた。それを宮中の貞観殿にあった裁縫所の呼び名に倣って同様に呼称した。
【装束などもせさせ】−童殿上の装束。使役の助動詞「させ」連用形。
【まことに親めきて】−「まことに」は「あこはわが子にてあれよ」を受ける。語り手の感想を交えた表現である。
【御文は常にあり】−空蝉の側に立った語り。
【この子もいと幼し】−以下「いとつきなかるべく」まで、女の心。しかし、冒頭は「されど」「この子も」云々というように、地の文と空蝉の心の文が融合したような表現で始まる。
【心よりほかに散りもせば】−源氏への返事を。サ変動詞「せ」未然形+接続助詞「ば」順接の仮定条件。
【軽々しき名さへとり添へむ】−副助詞「さへ」添加は、身を受領の後妻に落とした上に源氏の君との不倫の噂まで立てたら、意。推量の助動詞「む」について、『集成』は、連体中止法。『古典セレクション』と『新大系』は連体形で「身」に係けて読む。
【つきなかるべく思へば】−「つきなかるべく」が「思へば」を修飾しているように、心の文が地の文に融合した表現。いわば間接話法的心の文である。
【めでたきこともわが身からこそ】−女の心。「わが身からこそ」について、『集成』は「結構なことも自分の身分次第のことなのだ」と解す。自分の身分が相手の身分に適う意であろう。
【ほのかなりし御けはひ】−女の目や体験を通しての叙述。源氏の様子や態度について。過去の助動詞「し」連体形は自らの直接体験を表す助動詞。
【げになべてにやは】−副詞「げに」は世間の噂通りだと納得する女の気持ちの現れ。女の心を語る。係助詞「やは」反語を表す。下に「おはせむ」などの語句が省略。
【をかしきさまを見えたてまつりても】−源氏の愛情に対して、自分の気持ちをお応え申し上げたとしても、というニュアンス。
【何にかはなるべき】−係助詞「かは」反語表現を表す。
【君は思しおこたる時の間もなく】−以下は源氏についての語り。
【思へりし気色などのいとほしさも】−空蝉がつらそうに悩んでいた様子を。形容詞「いとほし」は、かわいい、いじらしい、気の毒だ、不憫だ、などの幅広い意味がある。一義的には現代語訳できない。
【人目しげからむ所に】−以下「いとほしく」まで、源氏の心を語る。しかし、その前の「這ひ紛れ立ち寄り」あたりから源氏の心のような文であるが、「立ち寄りたまはむも」と敬語があるので、地の文である。源氏の心に添った描写である。
【あらはれむと】−明融臨模本「あら(ら+はれ)むと」とある。「補入「はれ」は本文と一筆みられ、親本の定家本にも補入の形で存在したものと思われる。大島本も「あらハれんと」とある。『古典セレクション』は他本に従って「あらはれむ」と校訂する。『集成』『新大系』は「あらはれむと」。
【例の内裏に日数経たまふころ】−「例の」は「帚木」冒頭の「内裏にのみさぶらひようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ」という源氏の生活態度をさす。
【さるべき方の忌み待ち出でたまふ】−『評釈』によれば「中神」は中央に十六日間、次に四方に五日間ずつ、四隅に六日間ずつ遊行し、六十日で一巡するという。宮中から左大臣邸が方塞がりとなり紀伊守邸に方違えするのに都合の良い日。『古典セレクション』は「前の紀伊守邸への方違え後、暦のうえからいえば、中神の巡行周期の約六十日がたっているはずで、陰暦七月、初秋のころとなるが、文の内容からいえばやはり夏で、やや不審」と注す。
【にはかにまかでたまふまねして】−源氏は左大臣邸へ行くように見せて、途中から中川の紀伊守邸へ行く。
【遣水の面目】−遣水がお気に召した光栄、実は女を提供したこと、の意。
【かくなむ思ひよれる】−源氏の詞を間接話法的に表現した。紀伊守邸に行き女に再び逢うつもりでいることを告げる。
【さる御消息】−源氏が小君に言った内容、すなわち今夜訪れるという事。この文遣いをしたのは小君である。
【思したばかりつらむほどは】−主語は源氏。完了の助動詞「つ」終止形、完了の意+推量の助動詞「らむ」連体形、視界外推量の意。正妻の葵の上を欺いてやって来る源氏の気持ち。
【浅くしも思ひなされねど】−主語は空蝉。副助詞「しも」強調、可能の助動詞「れ」未然形、打消の助動詞「ね」已然形+接続助詞「ど」逆接。
【さりとて】−以下「またや加へむ」まで、女の心を語る。「さりとて」は接続詞。
【あぢきなく】−「またや加へむ」に係る。
【なほさて】−「なほ」は「まばゆければ」に係る。「さて」は、源氏の手紙に言いなりにの意。
【いとけ近ければ】−以下「ほど離れてを」まで、空蝉の詞。周囲の女房に言ったもの。客人の源氏の御座所と大変に近い位置なので、の意。
【ほど離れてを】−間投助詞「を」詠嘆の意。
【中将といひしが局したる隠れに】−「中将」は前出の女房。過去の助動詞「し」連体形、下に「者」などの語が省略。格助詞「が」主格。
【さる心して】−源氏は空蝉に逢う魂胆で。
【からうして】−「カラウシテ[Caroxite]」(日葡辞書補遺)。『集成』と『新大系』は清音。『古典セレクション』は「からうじて」と濁音に読む。
【いとあさましくつらし】−小君の心。
【いかにかひなしと思さむ】−小君の詞。「思す」の主語は源氏。
【かくけしからぬ心ばへは】−以下「忌むなるものを」まで、姉君の詞。小君を戒める。
【つかふものか】−動詞「つかふ」連体形+終助詞「ものか」反語表現。諌める気持ちを表す。
【忌むなるものを】−「忌む」終止形+伝聞推定の助動詞「なる」連体形+接続助詞「ものを」逆接の意を表す。
【心地悩ましければ】−以下「見るらむ」まで、姉君の詞。途中「おさへさせてなむ」まで、小君に源氏へ言わせた伝言。
【人びと避けず】−女房たちを側に置いての意。
【おさへさせてなむ】−使役の助動詞「させ」連用形、接続助詞「て」、係助詞「なむ」、下に「はべる」連体形などの語が省略。
【聞こえさせよ】−源氏に申し上げなさい。「聞こえさす」は「聞こゆ」より一段と謙った謙譲語。
【あやしと誰も誰も見るらむ】−『集成』は「お前がこんな所にうろうろしていては」と注す。「見るらむ」について、明融臨模本、大島本、松浦本は「みるらむ」とある。池田本、伝冷泉為秀筆本と書陵部本は「思らん」とある。三条西家本は「みる」をミセケチにして「思」と訂正する。
【言ひ放ちて】−接続助詞「て」は、逆接の文脈で使われている。
【いとかく】−以下「思すらむ」まで、空蝉の心。
【をかしうもやあらまし】−間投助詞「や」詠嘆を表す。「まし」反実仮想の助動詞。
【心ながらも】−空蝉が自分から思い決めたことながら、の意。
【とてもかくても】−以下「止みなむ」まで、空蝉の心。
【無心に】−明融臨模本「し」の左側に朱筆で濁点を付けている。『集成』『古典セレクション』は濁音「むじん」と読む。『新大系』は清音「むしん」と読む。
【いかにたばかりなさむ】−小君がどのように手筈を整えるだろうか。源氏の心。
【身もいと恥づかしくこそなりぬれ】−源氏の心。面目丸つぶれだ、の意。
【帚木の心を知らで園原の--道にあやなく惑ひぬるかな】−源氏から空蝉への贈歌。「帚木」は歌語。信濃国の園原の伏屋に生えていたという箒を逆さにしたような恰好をした木で、遠くから見ると見えるが、側に近づくと消えてしまうという伝説上の木。『異本紫明抄』は「園原や伏屋に生ふる帚木のありとは見えて逢はぬ君かな」(古今六帖五、くれどあはず、三〇一九、坂上是則)を指摘する。空蝉を喩える。
【聞こえむ方こそなけれ】−歌に添えた言葉。
【女も】−係助詞「も」は源氏と同様の気持ちでいることを表す。
【数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに--あるにもあらず消ゆる帚木】−空蝉から源氏への返歌。贈歌の「帚木」の語句を受け、「園原」の原歌にちなむ「伏屋」の語句を用いて答える。空蝉の教養の高さを示す。『新大系』は「低い身分のうちにはかなく消えてゆく自分を嘆く」と注す。
【いといとほしさに】−源氏の君を気の毒に思って。
【まどひ歩く】−源氏と姉君との間をうろうろと往復する。
【人あやしと見るらむ】−空蝉の心。「人」は女房たち。推量の助動詞「らむ」視界外推量を表す。
【わびたまふ】−主語は空蝉。「たまふ」という敬語が付く。源氏の愛人の一人としての待遇であろう。
【人びとはいぎたなきに】−形容詞「いぎたなき」連体形+接続助詞「に」逆接を表す。
【一所すずろにすさまじく思し続けらるれど】−「一所」は下に「かつは思しながら」と敬語表現があるので、源氏とわかる。自発の助動詞「らるれ」已然形。以下、源氏の心に添った叙述となる。
【人に似ぬ心ざまの】−以下「上れりける」まで、源氏の心。空蝉の心ばえを賞賛。
【消えず立ち上れりける】−「消えず」は女の返歌の「消ゆる」の語句を受ける。「立ち上る」は「消えず」の縁語。気位高く構えていたこと。
【かかるにつけてこそ心もとまれ】−源氏の心。係助詞「こそ」「とまれ」已然形、係り結びの法則。強調のニュアンス。女の魅力が顧みられる。
【隠れたらむ所になほ率て行け】−源氏の小君への詞。
【いとむつかしげに】−以下「かしこげに」まで、小君の詞。できない旨を答える。
【人あまたはべるめれば】−「人」は女房たち。推量の助動詞「めれ」主観的推量を表す。
【かしこげに】−下に「はべり」などの語が省略。
【いとほしと思へり】−主語は小君。
【よしあこだにな捨てそ】−源氏の詞。副助詞「だに」最小限を表す。副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。
【御かたはらに臥せたまへり】−「臥せ」は他動詞。源氏がお側に小君を横にならせなさるの意。
【若くなつかしき御ありさま】−源氏の様子。
【うれしくめでたしと思ひたれば】−主語は小君。
【つれなき人よりは】−空蝉をさす。主語は源氏に移る。
【なかなかあはれに思さるとぞ】−女よりは、かえって小君のほうを可愛くお思われなさる、の意。「とぞ」は、この巻、この空蝉物語の語り収めの言葉。「とぞ」の下に「ある」などの語が省略されたかたち。『一葉集』は「紫式部か詞也」と注す。『評釈』では「以上は、ある人が語った話だ、というのである。この巻の冒頭にいう「語り伝へけむ」人の話はこうだったという、とことわるのである」とある。
源氏物語の世界ヘ
本文
ローマ字版
現代語訳
明融臨模本
大島本
自筆本奥入