First updated 9/20/1996(ver.1-1)
Last updated 6/10/2010(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)

  

鈴虫

光る源氏の准太上天皇時代五十歳夏から秋までの物語

 [主要登場人物]

 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---六条の院・院・大殿の君、五十歳
 朱雀院<すざくいん>
呼称---院の帝・山の帝・院、源氏の兄
 女三の宮<おんなさんのみや>
呼称---入道の姫宮・宮、源氏の正妻
 薫<かおる>
呼称---若君、柏木と女三宮の密通の子
 蛍兵部卿宮<ほたるひょうぶきょうのみや>
呼称---兵部卿宮・親王、源氏の弟宮
 冷泉院<れいぜいいん>
呼称---院、桐壺院の子、実は源氏の子
 夕霧<ゆうぎり>
呼称---大将の君・大将、源氏の長男
 秋好中宮<あきこのむちゅうぐう>
呼称---中宮、冷泉院の后
 明石女御<あかしのにょうご>
呼称---春宮の女御、東宮の母

第一章 女三の宮の物語 持仏開眼供養

  1. 持仏開眼供養の準備---夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御持仏ども
  2. 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす---堂飾り果てて、講師参う上り、行道の人びと
  3. 持仏開眼供養執り行われる---例の、親王たちなども、いとあまた参りたまへり
  4. 三条宮邸を整備---今しも、心苦しき御心添ひて、はかりもなくかしづき
第二章 光る源氏の物語 六条院と冷泉院の中秋の宴
  1. 女三の宮の前栽に虫を放つ---秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を
  2. 八月十五夜、秋の虫の論---十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近う眺め
  3. 六条院の鈴虫の宴---今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮
  4. 冷泉院より招請の和歌---御土器二わたりばかり参るほどに、冷泉院より御消息
  5. 冷泉院の月の宴---人びとの御車、次第のままに引き直し、御前の人びと立ち混みて
第三章 秋好中宮の物語 出家と母の罪を思う
  1. 秋好中宮、出家を思う---六条の院は、中宮の御方に渡りたまひて、御物語など
  2. 母御息所の罪を思う---御息所の、御身の苦しうなりたまふらむありさま
  3. 秋好中宮の仏道生活---昨夜はうち忍びてかやすかりし御歩き、今朝は表はれ

【出典】
【校訂】

 

第一章 女三の宮の物語 持仏開眼供養

 [第一段 持仏開眼供養の準備]

 夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御持仏どもあらはしたまへる、供養ぜさせたまふ。

 このたびは、大殿の君の御心ざしにて、御念誦堂の具ども、こまかに調へさせたまへるを、やがてしつらはせたまふ。幡のさまなどなつかしう、心ことなる唐の錦を選び縫はせたまへり。紫の上ぞ、急ぎせさせたまひける。

 花机の覆ひなどのをかしき目染もなつかしう、きよらなる匂ひ、染めつけられたる心ばへ、目馴れぬさまなり。夜の御帳の帷を、四面ながら上げて、後ろの方に法華の曼陀羅かけたてまつりて、銀の花瓶に、高くことことしき花の色を調へてたてまつり、名香に、唐の百歩の薫衣香を焚きたまへり。

 阿弥陀仏、脇士の菩薩、おのおの白檀して作りたてまつりたる、こまかにうつくしげなり。閼伽の具は、例の、きはやかに小さくて、青き、白き、紫の蓮を調へて、荷葉の方を合はせたる名香、蜜を隠しほほろげて、焚き匂はしたる、一つ薫りに匂ひ合ひて、いとなつかし。

 経は、六道の衆生のために六部書かせたまひて、みづからの御持経は、院ぞ御手づから書かせたまひける。これをだに、この世の結縁にて、かたみに導き交はしたまふべき心を、願文に作らせたまへり。

 さては、阿弥陀経、唐の紙はもろくて、朝夕の御手慣らしにもいかがとて、紙屋の人を召して、ことに仰せ言賜ひて、心ことにきよらに漉かせたまへるに、この春のころほひより、御心とどめて急ぎ書かせたまへるかひありて、端を見たまふ人びと、目もかかやき惑ひたまふ。

 罫かけたる金の筋よりも、墨つきの上にかかやくさまなども、いとなむめづらかなりける。軸、表紙、筥のさまなど、いへばさらなりし。これはことに沈の花足の机に据ゑて、仏の御同じ台の上に飾らせたまへり。

 [第二段 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす]

 堂飾り果てて、講師参う上り、行道の人びと参り集ひたまへば、院もあなたに出でたまふとて、宮のおはします西の廂にのぞきたまへれば、狭き心地する仮の御しつらひに、所狭く暑げなるまで、ことことしく装束きたる女房、五、六十人ばかり集ひたり。

 北の廂の簀子まで、童女などはさまよふ。火取りどもあまたして、煙たきまで扇ぎ散らせば、さし寄りたまひて、

 「空に焚くは、いづくの煙ぞと思ひ分かれぬこそよけれ。富士の嶺よりもけに、くゆり満ち出でたるは、本意なきわざなり。講説の折は、おほかたの鳴りを静めて、のどかにものの心も聞き分くべきことなれば、憚りなき衣の音なひ、人のけはひ、静めてなむよかるべき」

 など、例の、もの深からぬ若人どもの用意教へたまふ。宮は、人気に圧されたまひて、いと小さくをかしげにて、ひれ臥したまへり。

 「若君、らうがはしからむ。抱き隠したてまつれ」

 などのたまふ。

 北の御障子も取り放ちて、御簾かけたり。そなたにびとは入れたまふ。静めて、宮にも、ものの心知りたまふべき下形を聞こえ知らせたまふ、いとあはれに見ゆ。御座を譲りたまへる仏の御しつらひ、見やりたまふも、さまざまに、

 「かかる方の御いとなみをも、もろともに急がむものとは思ひ寄らざりしことなり。よし、後の世にだに、かの花の中の宿りに隔てなく、とを思ほせ」

 とて、うち泣きたまひぬ。

 「蓮葉を同じ台と契りおきて
  露の分かるる今日ぞ悲しき」

 と、御硯にさし濡らして、香染めなる扇に書きつけたまへり。宮、

 「隔てなく蓮の宿を契りても
  君が心や住まじとすらむ」

 と書きたまへれば、

 「いふかひなくも思ほし朽たすかな」

 と、うち笑ひながら、なほあはれとものを思ほしたる御けしきなり。

 [第三段 持仏開眼供養執り行われる]

 例の、親王たちなども、いとあまた参りたまへり。御方々より、我も我もと営み出でたまへる捧物のありさま、心ことに、所狭きまで見ゆ。七僧の法服など、すべておほかたのことどもは、皆紫の上せさせたまへり。綾のよそひにて、袈裟の縫目まで、見知る人は、世になべてならずとめでけりとや。むつかしうこまかなることどもかな。

 講師のいと尊く、ことの心を申して、この世にすぐれたまへる盛りを厭ひ離れたまひて、長き世々に絶ゆまじき御契りを、法華経に結びたまふ、尊く深きさまを表はして、ただ今の世の、才もすぐれ、豊けきさきらを、いとど心して言ひ続けたる、いと尊ければ、皆人、しほたれたまふ。

 これは、ただ忍びて、御念誦堂の初めと思したることなれど、内裏にも、山の帝も聞こし召して、皆御使どもあり。御誦経の布施など、いと所狭きまで、にはかになむこと広ごりける。

 院にまうけさせたまへりけることどもも、削ぐと思ししかど、世の常ならざりけるを、まいて、今めかしきことどもの加はりたれば、夕べの寺に置き所なげなるまで、所狭き勢ひになりてなむ、僧どもは帰りける。

 [第四段 三条宮邸を整備]

 今しも、心苦しき御心添ひて、はかりもなくかしづききこえたまふ。院の帝は、この御処分の宮に住み離れたまひなむも、つひのことにて、目やすかりぬべく聞こえたまへど、

 「よそよそにては、おぼつかなかるべし。明け暮れ見たてまつり、聞こえ承らむこと怠らむに、本意違ひぬべし。げに、あり果てぬ世いくばくあるまじけれど、なほ生ける限りの心ざしをだに失ひ果てじ」

 と聞こえたまひつつ、この宮をもいとこまかにきよらに造らせたまひ、御封の物ども、国々の御荘、御牧などより奉る物ども、はかばかしきさまのは、皆かの三条の宮の御倉にめさせたまふ。またも、建て添へさせたまひて、さまざまの御宝物ども、院の御処分に数もなく賜はりたまへるなど、あなたざまの物は、皆かの宮に運び渡し、こまかにいかめしうし置かせたまふ。

 明け暮れの御かしづき、そこらの女房のことども、上下の育み、おしなべてわが御扱ひにてなど、急ぎ仕うまつらせたまひける。

 

第二章 光る源氏の物語 六条院と冷泉院の中秋の宴

 [第一段 女三の宮の前栽に虫を放つ]

 秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に作らせたまへり。閼伽の棚などして、その方にしなさせたまへる御しつらひなど、いとなまめきたり。

 御弟子に従ひきこえたる尼ども、御乳母、古人どもは、さるものにて、若き盛りのも、心定まり、さる方にて世を尽くしつべき限りは選りてなむ、なさせたまひける。

 さるきほひは、我も我もときしろひけれど、大殿の君聞こしめして、

 「あるまじきことなり。心ならぬ人すこしも混じりぬれば、かたへの人苦しう、あはあはしき聞こえ出で来るわざなり」

 と諌めたまひて、十余人ばかりのほどぞ、容貌異にてはさぶらふ。

 この野に虫ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮に、渡りたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたまへば、

 「例の御心はあるまじきことにこそはあなれ」

 と、ひとへにむつかしきことに思ひきこえたまへり。

 人目にこそ変はることなくもてなしたまひしか、内には憂きを知りたまふけしきしるく、こよなう変はりにし御心を、いかで見えたてまつらじの御心にて、多うは思ひなりたまひにし御世の背きなれば、今はもて離れて心やすきに、

 「なほ、かやうに」

 など聞こえたまふぞ苦しうて、「人離れたらむ御住まひにもがな」と思しなれど、およすけてえさも強ひ申したまはず。

 [第二段 八月十五夜、秋の虫の論]

 十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦したまふ。若き尼君たち二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽坏の音、水のけはひなど聞こゆる、さま変はりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに、例の渡りたまひて、

 「虫の音いとしげう乱るる夕べかな」

 とて、われも忍びてうち誦じたまふ阿弥陀の大呪、いと尊くほのぼの聞こゆ。げに、声々聞こえたる中に、鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかし。

 「秋の虫の声、いづれとなき中に、松虫なむすぐれたるとて、中宮の、はるけき野辺を分けて、いとわざと尋ね取りつつ放たせたまへる、しるく鳴き伝ふるこそ少なかなれ。名には違ひて、命のほどはかなき虫にぞあるべき。

 心にまかせて、人聞かぬ奥山、はるけき野の松原に、声惜しまぬも、いと隔て心ある虫になむありける。鈴虫は、心やすく、今めいたるこそらうたけれ」

 などのたまへば、宮、

 「おほかたの秋をば憂しと知りにしを
  ふり捨てがたき鈴虫の声」

 と忍びやかにのたまふ。いとなまめいて、あてにおほどかなり。

 「いかにとかや。いで、思ひの外なる御ことにこそ」とて、

 「心もて草の宿りを厭へども
  なほ鈴虫の声ぞふりせぬ」

 などこえたまひて、琴の御琴召して、珍しく弾きたまふ。宮の御数珠引き怠りたまひて、御琴になほ心入れたまへり。

 月さし出でて、いとはなやかなるほどもあはれなるに、空をうち眺めて、世の中さまざまにつけて、はかなく移り変はるありさまも思し続けられて、例よりもあはれなる音に掻き鳴らしたまふ。

 [第三段 六条院の鈴虫の宴]

 今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮渡りたまへり。大将の君、殿上人のさるべきなど具してりたまへれば、こなたにおはしますと、御琴の音を尋ねて、やがて参りたまふ。

 「いとつれづれにて、わざと遊びとはなくとも、久しく絶えにたるめづらしき物の音など、聞かまほしかりつる独り琴を、いとよう尋ねたまひける」

 とて、宮も、こなたに御座よそひて入れたてまつりたまふ。内裏の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに、この院に人びと参りたまふと聞き伝へて、これかれ上達部なども参りたまへり。虫の音の定めをしたまふ。

 御琴どもの声々掻き合はせて、おもしろきほどに、

 「月見る宵の、いつとてものあはれならぬ折はなきなかに、今宵の新たなる月の色は、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ。故権大納言、何の折々にも、亡きにつけていとど偲ばるること多く、公、私、ものの折節のにほひ失せたる心地こそすれ。花鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」

 などのたまひ出でて、みづからも掻き合はせたまふ御琴の音にも、袖濡らしたまひつ。御簾の内にも、耳とどめてや聞きたまふらむと、片つ方の御心には思しながら、かかる御遊びのほどには、まづ恋しう、内裏などにも思し出でける。

 「今宵は鈴虫の宴にて明かしてむ」

 と思しのたまふ。

 [第四段 冷泉院より招請の和歌]

 御土器二わたりばかり参るほどに、冷泉院より御消息あり。御前の御遊びはかにとまりぬるを口惜しがりて、左大弁、式部大輔、また人びと率ゐて、さるべき限り参りたれば、大将などは六条の院にさぶらひたまふ、と聞こししてなりけり。

 「雲の上をかけ離れたるすみかにも
  もの忘れせぬ秋の夜の月
 同じくは

 と聞こえたまへれば、

 「何ばかり所狭き身のほどにもあらずながら、今はのどやかにおはしますに、参り馴るることもをさをさなきを、本意なきことに思しあまりて、おどろかさせたまへる、かたじけなし」

 とて、にはかなるやうなれど、参りたまはむとす。

 「月影は同じ雲居に見えながら
  わが宿からの秋ぞ変はれる」

 異なることなかめれど、ただ昔今の御ありさまの思し続けられけるままなめり。御使に盃賜ひて、禄いと二なし。

 [第五段 冷泉院の月の宴]

 人びとの御車、次第のままに引き直し、御前の人びと立ち混みて、静かなりつる御遊び紛れて、出でたまひぬ。院の御車に、親王たてまつり、大将、左衛門督、藤宰相など、おはしける限り皆参りたまふ。

 直衣にて、軽らかなる御よそひどもなれば、下襲ばかりたてまつり加へて、月ややさし上がり、更けぬる空おもしろきに、若き人びと、笛などわざとなく吹かせたまひなどして、忍びたる御参りのさまなり。

 うるはしかるべき折節は、所狭くよだけき儀式を尽くして、かたみに御覧ぜられたまひ、また、いにしへのただ人ざまに思し返りて、今宵は軽々しきやうに、ふとかく参りたまへれば、いたう驚き、待ち喜びきこえたまふ。

 ねびととのひたまへる御容貌、いよいよ異ものならず。いみじき御盛りの世を、御心と思し捨てて、静かなる御ありさまに、あはれ少なからず。

 その夜の歌ども、唐のも大和のも、心ばへ深うおもしろくのみなむ。例の、言足らぬ端は、まねぶもかたはらいたくてなむ。明け方に文など講じて、とく人びとまかでたまふ。

 

第三章 秋好中宮の物語 出家と母の罪を思う

 [第一段 秋好中宮、出家を思う]

 六条院は、中宮の御方に渡りたまひて、御物語など聞こえたまふ。

 「今はかう静かなる御住まひに、しばしばも参りぬべく、何とはなけれど、過ぐる齢に添へて、忘れぬ昔の御物語など、承り聞こえまほしう思ひたまふるに、何にもつかぬ身のありさまにて、さすがにうひうひしく、所狭くもはべりてなむ。

 我より後の人びとに、方々につけて後れゆく心地しはべるも、いと常なき世の心細さの、のどめがたうおぼえはべれば、世離れたる住まひにもやと、やうやう思ひ立ちぬるを、残りの人びとのものはかなからむ、漂はしたまふな、と先々も聞こえけし心違へず、思しとどめてものせさせたまへ」

 など、まめやかなるさまに聞こえさせたまふ。

 例の、いと若うおほどかなる御けはひにて、

 「九重の隔て深うはべりし年ごろよりも、おぼつかなさのまさるやうに思ひたまへらるるありさまを、いと思ひの外に、むつかしうて、皆人の背きゆく世を、厭はしう思ひなることもはべりながら、その心の内を聞こえさせうけたまはらねば、何事もまづ頼もしき蔭には聞こえさせならひて、いぶせくはべる」

 と聞こえたまふ。

 「げに、公ざまにては、限りある折節の御里居も、いとよう待ちつけきこえさせしを、今は何事につけてかは、御心にまかせさせたまふ御移ろひもはべらむ定めなき世と言ひながらも、さして厭はしきことなき人の、さはやかに背き離るるもありがたう、心やすかるべきほどにつけてだに、おのづから思ひかかづらふほだしのみはべるを、などか、その人まねにきほふ御道心は、かへりてひがひがしう推し量りきこえさする人もこそはべれ。かけてもいとあるまじき御ことになむ」

 と聞こえたまふを、「深うも汲みはかりたまはぬなめりかし」と、つらう思ひきこえたまふ。

 [第二段 母御息所の罪を思う]

 御息所の、御身の苦しうなりたまふらむありさま、いかなる煙の中に惑ひたまふらむ、亡き影にても、人に疎まれたてまつりたまふ御名のりなどの出で来けること、かの院にはいみじう隠したまひけるを、おのづから人の口さがなくて、伝へ聞こし召しける後、いと悲しういみじくて、なべての世の厭はしく思しなりて、仮にても、かののたまひけむありさまの詳しう聞かまほしきを、まほにはえうち出で聞こえたまはで、ただ、

 「亡き人の御ありさまの、罪軽からぬさまに、ほの聞くことのはべりしを、さるしるしあらはならでも、推し量り伝へつべきことにはべりけれど、後れしほどのあはればかりを忘れぬことにて、もののあなた思うたまへやらざりけるがものはかなさを、いかでよう言ひ聞かせむ人の勧めをも聞きはべりて、みづからだに、かの炎をも冷ましはべりにしがなと、やうやう積もるになむ、思ひ知らるることもありける」

 など、かすめつつぞのたまふ。

 「げに、さも思しぬべきこと」と、あはれに見たてまつりたまうて、

 「その炎なむ、誰も逃るまじきことと知りながら、朝の露のかかれるほどは、思ひ捨てはべらぬになむ。目蓮が仏に近き聖の身にて、たちまちに救ひけむ例にも、え継がせたまはざらむものから、玉のてさせたまはむも、この世には恨み残るやうなるわざなり。

 やうやうさる御心ざしをしめたまひて、かの御煙晴るべきことをせさせたまへ。しか思ひたまふることはべりながら、もの騒がしきやうに、静かなる本意もなきやうなるありさまに明け暮らしはべりつつ、みづからの勤めに添へて、今静かにと思ひたまふるも、げにこそ、心幼きことなれ」

 など、世の中なべてはかなく、厭ひ捨てまほしきことを聞こえ交はしたまへど、なほ、やつしにくき御身のありさまどもなり。

 [第三段 秋好中宮の仏道生活]

 昨夜はうち忍びてかやすかりし御歩き、今朝は表はれたまひて、上達部ども、参りたまへる限りは皆御送り仕うまつりたまふ。

 春宮の女御の御ありさま、並びなく、いつきたてたまへるかひがひしさも、大将のまたいと人に異なる御さまをも、いづれとなくめやすしと思すに、なほ、この冷泉院を思ひきこえたまふ御心ざしは、すぐれて深くあはれにぞおぼえたまふ院も常にいぶかしう思ひきこえたまひしに、御対面のまれにいぶせうのみ思されけるに、急がされたまひて、かく心安きさまにと思しなりけるになむ。

 中宮ぞ、なかなかまかでたまふこともいと難うなりて、ただ人の仲のやうに並びおはしますに、今めかしう、なかなか昔よりもはなやかに、御遊びをもしたまふ。何ごとも御心やれるありさまながら、ただかの御息所の御事を思しやりつつ、行なひの御心進みにたるを、人の許しきこえたまふまじきことなれば、功徳のことを立てて思しいとなみ、いとど心深う、世の中を思し取れるさまになりまさりたまふ。

 【出典】
出典1 いつとても月見ぬ秋はなきものをわきて今宵の珍しきかな(後撰集秋中-三二五 藤原雅正)(戻)
出典2 三五夜中新月色 二千里外故人心(白氏文集巻十四-七二四)(戻)
出典3 あたら夜の月と花とを同じくはあはれ知れらむ人に見せばや(後撰集春下-一〇三 源信明)(戻)

 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 さらなり--さゝ(ゝ/$ら<朱>)なり(戻)
校訂2 御同じ--御(御/+お)なを(を/#)し(戻)
校訂3 そなたに--それ(れ/#な)たに(戻)
校訂4 宿りに--やとり(り/+に)(戻)
校訂5 香染めなる--かうそめの(の/$なる)(戻)
校訂6 御倉に--みく(く/+ら<朱>)にも(も/$<朱>)(戻)
校訂7 育み--はゝ(ゝ/$)くみ(戻)
校訂8 さるきほひ--さか(か/$る<朱>)きほひ(戻)
校訂9 など--なえ(え/$と<朱>)(戻)
校訂10 具して--ゝ(ゝ/$く<朱>)して(戻)
校訂11 御遊び--(/+御<朱>)あそひ(戻)
校訂12 たまふ、と聞こし--給(給/+ふ<朱>)時(時/とき<朱>)こし(戻)
校訂13 足らぬ--たゝ(ゝ/$ら<朱>)ぬ(戻)
校訂14 聞こえ--き(き/+こえ<朱>)(戻)
校訂15 はべらむ--あ(あ/$侍<朱>)らむ(戻)
校訂16 簪--かんか(か/$さ<朱>)し(戻)
校訂17 御心ざしは、すぐれて深くあはれにぞおぼえたまふ--(/+御心さしはすくれてふかく哀にそおほえ給<朱>)(戻)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
注釈
大島本
自筆本奥入