第五帖 若紫(大島本) |
1 | 1.1 | 1.1.1 | 1.1.2 | 1.1.3 | 1.1.4 | 1.1.5 | 1.1.6 | 1.1.7 | 1.2 | 1.2.1 | 1.2.2 | 1.2.3 | 1.2.4 | 1.2.5 | 1.2.6 | 1.2.7 | 1.2.8 | 1.2.9 | 1.2.10 | 1.2.11 | 1.2.12 | 1.2.13 | 1.2.14 | 1.2.15 | 1.2.16 | 1.2.17 | 1.2.18 | 1.2.19 | 1.2.20 | 1.2.21 | 1.2.22 | 1.2.23 | 1.2.24 | 1.2.25 | 1.2.26 | 1.2.27 | 1.2.28 | 1.2.29 | 1.2.30 | 1.2.31 | 1.2.32 | 1.2.33 | 1.2.34 | 1.2.35 | 1.2.36 | 1.2.37 | 1.2.38 | 1.2.39 | 1.2.40 | 1.2.41 | 1.2.42 | 1.3 | 1.3.1 | 1.3.2 | 1.3.3 | 1.3.4 | 1.3.5 | 1.3.6 | 1.3.7 | 1.3.8 | 1.3.9 | 1.3.10 | 1.3.11 | 1.3.12 | 1.3.13 | 1.3.14 | 1.3.15 | 1.3.16 | 1.3.17 | 1.3.18 | 1.3.19 | 1.3.20 | 1.3.21 | 1.3.22 | 1.4 | 1.4.1 | 1.4.2 | 1.4.3 | 1.4.4 | 1.4.5 | 1.4.6 | 1.4.7 | 1.4.8 | 1.4.9 | 1.4.10 | 1.4.11 | 1.4.12 | 1.4.13 | 1.4.14 | 1.4.15 | 1.4.16 | 1.4.17 | 1.4.18 | 1.4.19 | 1.4.20 | 1.4.21 | 1.4.22 | 1.4.23 | 1.4.24 | 1.4.25 | 1.4.26 | 1.4.27 | 1.4.28 | 1.4.29 | 1.4.30 | 1.4.31 | 1.4.32 | 1.4.33 | 1.4.34 | 1.4.35 | 1.4.36 | 1.4.37 | 1.4.38 | 1.4.39 | 1.4.40 | 1.4.41 | 1.4.42 | 1.4.43 | 1.4.44 | 1.4.45 | 1.4.46 | 1.4.47 | 1.4.48 | 1.4.49 | 1.4.50 | 1.4.51 | 1.4.52 | 1.4.53 | 1.5 | 1.5.1 | 1.5.2 | 1.5.3 | 1.5.4 | 1.5.5 | 1.5.6 | 1.5.7 | 1.5.8 | 1.5.9 | 1.5.10 | 1.5.11 | 1.5.12 | 1.5.13 | 1.5.14 | 1.5.15 | 1.5.16 | 1.5.17 | 1.5.18 | 1.5.19 | 1.5.20 | 1.5.21 | 1.5.22 | 1.5.23 | 1.5.24 | 1.5.25 | 1.5.26 | 1.5.27 | 1.5.28 | 1.5.29 | 1.5.30 | 1.5.31 | 1.5.32 | 1.5.33 | 1.5.34 | 1.6 | 1.6.1 | 1.6.2 | 1.6.3 | 1.6.4 | 1.6.5 | 1.6.6 | 1.6.7 | 1.6.8 | 1.6.9 | 1.6.10 | 1.6.11 | 1.6.12 | 1.6.13 | 1.6.14 | 1.7 | 1.7.1 | 1.7.2 | 1.7.3 | 1.7.4 | 1.7.5 | 1.7.6 | 1.7.7 | 1.7.8 | 1.7.9 | 1.7.10 | 1.7.11 | 1.7.12 | 1.7.13 | 1.7.14 | 1.7.15 | 1.7.16 | 1.7.17 | 1.7.18 | 1.7.19 | ||||||||
第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語 |
第一段 三月晦日、加持祈祷のため、北山に出向く |
瘧病にわづらひたまひて、よろづにまじなひ加持など参らせたまへど、しるしなくて、あまたたびおこりたまひければ、ある人、 |
「北山になむ、なにがし寺といふ所に、かしこき行ひ人はべる。去年の夏も世におこりて、人びとまじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひ、あまたはべりき。ししこらかしつる時はうたてはべるを、とくこそ試みさせたまはめ」 |
など聞こゆれば、召しに遣はしたるに、「老いかがまりて、室の外にもまかでず」と申したれば、「いかがはせむ。いと忍びてものせむ」とのたまひて、御供にむつましき四、五人ばかりして、まだ暁におはす。 |
やや深う入る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花盛りはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、かかるありさまもならひたまはず、所狭き御身にて、めづらしう思されけり。 |
寺のさまもいとあはれなり。峰高く、深き巖屋の中にぞ、聖入りゐたりける。登りたまひて、誰とも知らせたまはず、いといたうやつれたまへれど、しるき御さまなれば、 |
|
「あな、かしこや。一日、召しはべりしにやおはしますらむ。今は、この世のことを思ひたまへねば、験方の行ひも捨て忘れてはべるを、いかで、かうおはしましつらむ」 |
と、おどろき騒ぎ、うち笑みつつ見たてまつる。いと尊き大徳なりけり。さるべきもの作りて、すかせたてまつり、加持など参るほど、日高くさし上がりぬ。 |
第二段 山の景色や地方の話に気を紛らす |
すこし立ち出でつつ見渡したまへば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる、ただこのつづら折の下に、同じ小柴なれど、うるはしくし渡して、清げなる屋、廊など続けて、木立いとよしあるは、 |
「何人の住むにか」 |
と問ひたまへば、御供なる人、 |
「これなむ、なにがし僧都の、二年籠もりはべる方にはべるなる」 |
「心恥づかしき人住むなる所にこそあなれ。あやしうも、あまりやつしけるかな。聞きもこそすれ」などのたまふ。 |
清げなる童などあまた出で来て、閼伽たてまつり、花折りなどするもあらはに見ゆ。 |
「かしこに、女こそありけれ」 |
「僧都は、よも、さやうには、据ゑたまはじを」 |
「いかなる人ならむ」 |
と口々言ふ。下りて覗くもあり。 |
「をかしげなる女子ども、若き人、童女なむ見ゆる」と言ふ。 |
君は、行ひしたまひつつ、日たくるままに、いかならむと思したるを、 |
「とかう紛らはさせたまひて、思し入れぬなむ、よくはべる」 |
と聞こゆれば、後への山に立ち出でて、京の方を見たまふ。はるかに霞みわたりて、四方の梢そこはかとなう煙りわたれるほど、 |
「絵にいとよくも似たるかな。かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし」とのたまへば、 |
「これは、いと浅くはべり。人の国などにはべる海、山のありさまなどを御覧ぜさせてはべらば、いかに、御絵いみじうまさらせたまはむ。富士の山、なにがしの嶽」 |
など、語りきこゆるもあり。また西国のおもしろき浦々、磯の上を言ひ続くるもありて、よろづに紛らはしきこゆ。 |
「近き所には、播磨の明石の浦こそ、なほことにはべれ。何の至り深き隈はなけれど、ただ、海の面を見わたしたるほどなむ、あやしく異所に似ず、ゆほびかなる所にはべる。 |
かの国の前の守、新発意の、女かしづきたる家、いといたしかし。大臣の後にて、出で立ちもすべかりける人の、世のひがものにて、交じらひもせず、近衛の中将を捨てて、申し賜はれりける司なれど、 |
かの国の人にもすこしあなづられて、『何の面目にてか、また都にも帰らむ』と言ひて、頭も下ろしはべりにけるを、すこし奥まりたる山住みもせで、さる海づらに出でゐたる、ひがひがしきやうなれど、げに、かの国のうちに、さも、人の籠もりゐぬべき所々はありながら、深き里は、人離れ心すごく、若き妻子の思ひわびぬべきにより、かつは心をやれる住まひになむはべる。 |
先つころ、まかり下りてはべりしついでに、ありさま見たまへに寄りてはべりしかば、京にてこそ所得ぬやうなりけれ、そこらはるかに、いかめしう占めて造れるさま、さは言へど、国の司にてし置きけることなれば、残りの齢ゆたかに経べき心構へも、二なくしたりけり。後の世の勤めも、いとよくして、なかなか法師まさりしたる人になむはべりける」と申せば、 |
「さて、その女は」と、問ひたまふ。 |
「けしうはあらず、容貌、心ばせなどはべるなり。代々の国の司など、用意ことにして、さる心ばへ見すなれど、さらにうけひかず。 |
『我が身のかくいたづらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり。もし我に後れてその志とげず、この思ひおきつる宿世違はば、海に入りね』と、常に遺言しおきてはべるなる」 |
と聞こゆれば、君もをかしと聞きたまふ。人びと、 |
「海龍王の后になるべきいつき女ななり」 |
「心高さ苦しや」とて笑ふ。 |
かく言ふは、播磨守の子の、蔵人より、今年、かうぶり得たるなりけり。 |
「いと好きたる者なれば、かの入道の遺言破りつべき心はあらむかし」 |
「さて、たたずみ寄るならむ」 |
と言ひあへり。 |
「いで、さ言ふとも、田舎びたらむ。幼くよりさる所に生ひ出でて、古めいたる親にのみ従ひたらむは」 |
「母こそゆゑあるべけれ。よき若人、童など、都のやむごとなき所々より、類にふれて尋ねとりて、まばゆくこそもてなすなれ」 |
「情けなき人なりて行かば、さて心安くてしも、え置きたらじをや」 |
など言ふもあり。君、 |
「何心ありて、海の底まで深う思ひ入るらむ。底の「みるめ」も、ものむつかしう」 |
などのたまひて、ただならず思したり。かやうにても、なべてならず、もてひがみたること好みたまふ御心なれば、御耳とどまらむをや、と見たてまつる。 |
「暮れかかりぬれど、おこらせたまはずなりぬるにこそはあめれ。はや帰らせたまひなむ」 |
とあるを、大徳、 |
「御もののけなど、加はれるさまにおはしましけるを、今宵は、なほ静かに加持など参りて、出でさせたまへ」と申す。 |
「さもあること」と、皆人申す。君も、かかる旅寝も慣らひたまはねば、さすがにをかしくて、 |
「さらば暁に」とのたまふ。 |
第三段 源氏、若紫の君を発見す |
人なくて、つれづれなれば、夕暮のいたう霞みたるに紛れて、かの小柴垣のほどに立ち出でたまふ。人びとは帰したまひて、惟光朝臣と覗きたまへば、ただこの西面にしも、仏据ゑたてまつりて行ふ、尼なりけり。簾すこし上げて、花たてまつるめり。中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、いと白うあてに、痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと、あはれに見たまふ。 |
清げなる大人二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。中に十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなる容貌なり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。 |
|
「何ごとぞや。童女と腹立ちたまへるか」 |
とて、尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、「子なめり」と見たまふ。 |
「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを」 |
とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、 |
「例の、心なしの、かかるわざをして、さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ」 |
とて、立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とこそ人言ふめるは、この子の後見なるべし。 |
尼君、 |
「いで、あな幼や。言ふかひなうものしたまふかな。おのが、かく、今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひたまふほどよ。罪得ることぞと、常に聞こゆるを、心憂く」とて、「こちや」と言へば、ついゐたり。 |
つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。「ねびゆかむさまゆかしき人かな」と、目とまりたまふ。さるは、「限りなう心を尽くしきこゆる人に、いとよう似たてまつれるが、まもらるるなりけり」と、思ふにも涙ぞ落つる。 |
尼君、髪をかき撫でつつ、 |
「梳ることをうるさがりたまへど、をかしの御髪や。いとはかなうものしたまふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れたまひしほど、いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし。ただ今、おのれ見捨てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」 |
とて、いみじく泣くを見たまふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。 |
「生ひ立たむありかも知らぬ若草を おくらす露ぞ消えむそらなき」 |
またゐたる大人、「げに」と、うち泣きて、 |
「初草の生ひ行く末も知らぬまに いかでか露の消えむとすらむ」 |
と聞こゆるほどに、僧都、あなたより来て、 |
「こなたはあらはにやはべらむ。今日しも、端におはしましけるかな。この上の聖の方に、源氏の中将の瘧病まじなひにものしたまひけるを、ただ今なむ、聞きつけはべる。いみじう忍びたまひければ、知りはべらで、ここにはべりながら、御とぶらひにもまでざりける」とのたまへば、 |
「あないみじや。いとあやしきさまを、人や見つらむ」とて、簾下ろしつ。 |
「この世に、ののしりたまふ光る源氏、かかるついでに見たてまつりたまはむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の憂へ忘れ、齢延ぶる人の御ありさまなり。いで、御消息聞こえむ」 |
とて、立つ音すれば、帰りたまひぬ。 |
第四段 若紫の君の素性を聞く |
「あはれなる人を見つるかな。かかれば、この好き者どもは、かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなることを見るよ」と、をかしう思す。「さても、いとうつくしかりつる児かな。何人ならむ。かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや」と思ふ心、深うつきぬ。 |
うち臥したまへるに、僧都の御弟子、惟光を呼び出でさす。ほどなき所なれば、君もやがて聞きたまふ。 |
「過りおはしましけるよし、ただ今なむ、人申すに、おどろきながら、さぶらべきを、なにがしこの寺に籠もりはべりとは、しろしめしながら、忍びさせたまへるを、憂はしく思ひたまへてなむ。草の御むしろも、この坊にこそ設けはべるべけれ。いと本意なきこと」と申したまへり。 |
「いぬる十余日のほどより、瘧病にわづらひはべるを、度重なりて堪へがたくはべれば、人の教へのまま、にはかに尋ね入りはべりつれど、かやうなる人の験あらはさぬ時、はしたなかるべきも、ただなるよりは、いとほしう思ひたまへつつみてなむ、いたう忍びはべりつる。今、そなたにも」とのたまへり。 |
すなはち、僧都参りたまへり。法師なれど、いと心恥づかしく人柄もやむごとなく、世に思はれたまへる人なれば、軽々しき御ありさまを、はしたなう思す。かく籠もれるほどの御物語など聞こえたまひて、「同じ柴の庵なれど、すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせむ」と、せちに聞こえたまへば、かの、まだ見ぬ人びとにことことしう言ひ聞かせつるを、つつましう思せど、あはれなりつるありさまもいぶかしくて、おはしぬ。 |
げに、いと心ことによしありて、同じ木草をも植ゑなしたまへり。月もなきころなれば、遣水に篝火ともし、灯籠なども参りたり。南面いと清げにしつらひたまへり。そらだきもの、いと心にくく薫り出で、名香の香など匂ひみちたるに、君の御追風いとことなれば、内の人びとも心づかひすべかめり。 |
僧都、世の常なき御物語、後世のことなど聞こえ知らせたまふ。我が罪のほど恐ろしう、「あぢきなきことに心をしめて、生ける限りこれを思ひ悩むべきなめり。まして後の世のいみじかるべき」。思し続けて、かうやうなる住まひもせまほしうおぼえたまふものから、昼の面影心にかかりて恋しければ、 |
「ここにものしたまふは、誰れにか。尋ねきこえまほしき夢を見たまへしかな。今日なむ思ひあはせつる」 |
と聞こえたまへば、うち笑ひて、 |
「うちつけなる御夢語りにぞはべるなる。尋ねさせたまひても、御心劣りせさせたまひぬべし。故按察使大納言は、世になくて久しくなりはべりぬれば、えしろしめさじかし。その北の方なむ、なにがしが妹にはべる。かの按察使かくれて後、世を背きてはべるが、このごろ、わづらふことはべるにより、かく京にもまかでねば、頼もし所に籠もりてものしはべるなり」と聞こえたまふ。 |
「かの大納言の御女、ものしたまふと聞きたまへしは。好き好きしき方にはあらで、まめやかに聞こゆるなり」と、推し当てにのたまへば、 |
「女ただ一人はべりし。亡せて、この十余年にやなりはべりぬらむ。故大納言、内裏にたてまつらむなど、かしこういつきはべりしを、その本意のごとくもものしはべらで、過ぎはべりにしかば、ただこの尼君一人もてあつかひはべりしほどに、いかなる人のしわざにか、兵部卿宮なむ、忍びて語らひつきたまへりけるを、本の北の方、やむごとなくなどして、安からぬこと多くて、明け暮れ物を思ひてなむ、亡くなりはべりにし。物思ひに病づくものと、目に近く見たまへし」 |
など申したまふ。「さらば、その子なりけり」と思しあはせつ。「親王の御筋にて、かの人にもかよひきこえたるにや」と、いとどあはれに見まほし。「人のほどもあてにをかしう、なかなかのさかしら心なく、うち語らひて、心のままに教へ生ほし立てて見ばや」と思す。 |
「いとあはれにものしたまふことかな。それは、とどめたまふ形見もなきか」 |
と、幼かりつる行方の、なほ確かに知らまほしくて、問ひたまへば、 |
「亡くなりはべりしほどにこそ、はべりしか。それも、女にてぞ。それにつけて物思ひのもよほしになむ、齢の末に思ひたまへ嘆きはべるめる」と聞こえたまふ。 |
「さればよ」と思さる。 |
「あやしきことなれど、幼き御後見に思すべく、聞こえたまひてむや。思ふ心ありて、行きかかづらふ方もはべりながら、世に心の染まぬにやあらむ、独り住みにてのみなむ。まだ似げなきほどと常の人に思しなずらへて、はしたなくや」などのたまへば、 |
「いとうれしかるべき仰せ言なるを、まだむげにいはきなきほどにはべるめれば、たはぶれにても、御覧じがたくや。そもそも、女人は、人にもてなされて大人にもなりたまふものなれば、詳しくはえとり申さず、かの祖母に語らひはべりて聞こえさせむ」 |
と、すくよかに言ひて、ものごはきさましたまへれば、若き御心に恥づかしくて、えよくも聞こえたまはず。 |
「阿弥陀仏ものしたまふ堂に、することはべるころになむ。初夜、いまだ勤めはべらず。過ぐしてさぶらはむ」とて、上りたまひぬ。 |
君は、心地もいと悩ましきに、雨すこしうちそそき、山風ひややかに吹きたるに、滝のよどみもまさりて、音高う聞こゆ。すこしねぶたげなる読経の絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろなる人も、所からものあはれなり。まして、思しめぐらすこと多くて、まどろませたまはず。 |
初夜と言ひしかども、夜もいたう更けにけり。内にも、人の寝ぬけはひしるくて、いと忍びたれど、数珠の脇息に引き鳴らさるる音ほの聞こえ、なつかしううちそよめく音なひ、あてはかなりと聞きたまひて、ほどもなく近ければ、外に立てわたしたる屏風の中を、すこし引き開けて、扇を鳴らしたまへば、おぼえなき心地すべかめれど、聞き知らぬやうにやとて、ゐざり出づる人あなり。すこし退きて、 |
|
「あやし、ひが耳にや」とたどるを、聞きたまひて、 |
「仏の御しるべは、暗きに入りても、さらに違ふまじかなるものを」 |
とのたまふ御声の、いと若うあてなるに、うち出でむ声づかひも、恥づかしけれど、 |
「いかなる方の、御しるべにか。おぼつかなく」と聞こゆ。 |
「げに、うちつけなりとおぼめきたまはむも、道理なれど、 |
初草の若葉の上を見つるより 旅寝の袖も露ぞ乾かぬ |
と聞こえたまひてむや」とのたまふ。 |
「さらに、かやうの御消息、うけたまはりわくべき人もものしたまはぬさまは、しろしめしたりげなるを。誰れにかは」と聞こゆ。 |
「おのづからさるやうありて聞こゆるならむと思ひなしたまへかし」 |
とのたまへば、入りて聞こゆ。 |
「あな、今めかし。この君や、世づいたるほどにおはするとぞ、思すらむ。さるにては、かの『若草』を、いかで聞いたまへることぞ」と、さまざまあやしきに、心乱れて、久しうなれば、情けなしとて、 |
「枕結ふ今宵ばかりの露けさを 深山の苔に比べざらなむ |
乾がたうはべるものを」と聞こえたまふ。 |
「かうやうのついでなる御消息は、まださらに聞こえ知らず、ならはぬことになむ。かたじけなくとも、かかるついでに、まめまめしう聞こえさすべきことなむ」と聞こえたまへれば、尼君、 |
「ひがこと聞きたまへるならむ。いとむつかしき御けはひに、何ごとをかは答へきこえむ」とのたまへば、 |
「はしたなうもこそ思せ」と人びと聞こゆ。 |
「げに、若やかなる人こそうたてもあらめ、まめやかにのたまふ、かたじけなし」 |
とて、ゐざり寄りたまへり。 |
「うちつけに、あさはかなりと、御覧ぜられぬべきついでなれど、心にはさもおぼえはべらねば。仏はおのづから」 |
とて、おとなおとなしう、恥づかしげなるにつつまれて、とみにもえうち出でたまはず。 |
「げに、思ひたまへ寄りがたきついでに、かくまでのたまはせ、聞こえさするも、いかが」とのたまふ。 |
「あはれにうけたまはる御ありさまを、かの過ぎたまひにけむ御かはりに、思しないてむや。言ふかひなきほどの齢にて、むつましかるべき人にも立ち後れはべりにければ、あやしう浮きたるやうにて、年月をこそ重ねはべれ。同じさまにものしたまふなるを、たぐひになさせたまへと、いと聞こえまほしきを、かかる折はべりがたくてなむ、思されむところをも憚らず、うち出ではべりぬる」と聞こえたまへば、 |
「いとうれしう思ひたまへぬべき御ことながらも、聞こしめしひがめたることなどやはべらむと、つつましうなむ。あやしき身一つを頼もし人にする人なむはべれど、いとまだ言ふかひなきほどにて、御覧じ許さるる方もはべりがたげなれば、えなむうけたまはりとどめられざりける」とのたまふ。 |
「みな、おぼつかなからずうけたまはるものを、所狭う思し憚らで、思ひたまへ寄るさまことなる心のほどを、御覧ぜよ」 |
と聞こえたまへど、いと似げなきことを、さも知らでのたまふ、と思して、心解けたる御答へもなし。僧都おはしぬれば、 |
「よし、かう聞こえそめはべりぬれば、いと頼もしうなむ」とて、おし立てたまひつ。 |
暁方になりにければ、法華三昧行ふ堂の懺法の声、山おろしにつきて聞こえくる、いと尊く、滝の音に響きあひたり。 |
「吹きまよふ深山おろしに夢さめて 涙もよほす滝の音かな」 |
「さしぐみに袖ぬらしける山水に 澄める心は騒ぎやはする |
耳馴れはべりにけりや」と聞こえたまふ。 |
第五段 翌日、迎えの人々と共に帰京 |
明けゆく空は、いといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなうさへづりあひたり。名も知らぬ木草の花どもも、いろいろに散りまじり、錦を敷けると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くも、めづらしく見たまふに、悩ましさも紛れ果てぬ。 |
聖、動きもえせねど、とかうして護身参らせたまふ。かれたる声の、いといたうすきひがめるも、あはれに功づきて、陀羅尼誦みたり。 |
御迎への人びと参りて、おこたりたまへる喜び聞こえ、内裏よりも御とぶらひあり。僧都、世に見えぬさまの御くだもの、何くれと、谷の底まで堀り出で、いとなみきこえたまふ。 |
「今年ばかりの誓ひ深うはべりて、御送りにもえ参りはべるまじきこと。なかなかにも思ひたまへらるべきかな」 |
など聞こえたまひて、大御酒参りたまふ。 |
「山水に心とまりはべりぬれど、内裏よりもおぼつかながらせたまへるも、かしこければなむ。今、この花の折過ぐさず参り来む。 |
宮人に行きて語らむ山桜 風よりさきに来ても見るべく」 |
とのたまふ御もてなし、声づかひさへ、目もあやなるに、 |
「優曇華の花待ち得たる心地して 深山桜に目こそ移らね」 |
と聞こえたまへば、ほほゑみて、「時ありて、一度開くなるは、かたかなるものを」とのたまふ。 |
聖、御土器賜はりて、 |
「奥山の松のとぼそをまれに開けて まだ見ぬ花の顔を見るかな」 |
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と、うち泣きて見たてまつる。聖、御まもりに、独鈷たてまつる。見たまひて、僧都、聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子の数珠の、玉の装束したる、やがてその国より入れたる筥の、唐めいたるを、透きたる袋に入れて、五葉の枝に付けて、紺瑠璃の壺どもに、御薬ども入れて、藤、桜などに付けて、所につけたる御贈物ども、ささげたてまつりたまふ。 |
君、聖よりはじめ、読経しつる法師の布施ども、まうけの物ども、さまざまに取りにつかはしたりければ、そのわたりの山がつまで、さるべき物ども賜ひ、御誦経などして出でたまふ。 |
内に僧都入りたまひて、かの聞こえたまひしこと、まねびきこえたまへど、 |
「ともかくも、ただ今は、聞こえむかたなし。もし、御志あらば、いま四、五年を過ぐしてこそは、ともかくも」とのたまへば、「さなむ」と同じさまにのみあるを、本意なしと思す。 |
御消息、僧都のもとなる小さき童して、 |
「夕まぐれほのかに花の色を見て 今朝は霞の立ちぞわづらふ」 |
御返し、 |
「まことにや花のあたりは立ち憂きと 霞むる空の気色をも見む」 |
と、よしある手の、いとあてなるを、うち捨て書いたまへり。 |
御車にたてまつるほど、大殿より、「いづちともなくて、おはしましにけること」とて、御迎への人びと、君達などあまた参りたまへり。頭中将、左中弁、さらぬ君達も慕ひきこえて、 |
「かうやうの御供には、仕うまつりはべらむ、と思ひたまふるを、あさましく、おくらさせたまへること」と恨みきこえて、「いといみじき花の蔭に、しばしもやすらはず、立ち帰りはべらむは、飽かぬわざかな」とのたまふ。 |
岩隠れの苔の上に並みゐて、土器参る。落ち来る水のさまなど、ゆゑある滝のもとなり。頭中将、懐なりける笛取り出でて、吹きすましたり。弁の君、扇はかなううち鳴らして、「豊浦の寺の、西なるや」と歌ふ。人よりは異なる君達を、源氏の君、いといたううち悩みて、岩に寄りゐたまへるは、たぐひなくゆゆしき御ありさまにぞ、何ごとにも目移るまじかりける。例の、篳篥吹く随身、笙の笛持たせたる好き者などあり。 |
僧都、琴をみづから持て参りて、 |
「これ、ただ御手一つあそばして、同じうは、山の鳥もおどろかしはべらむ」 |
と切に聞こえたまへば、 |
「乱り心地、いと堪へがたきものを」と聞こえたまへど、けに憎からずかき鳴らして、皆立ちたまひぬ。 |
飽かず口惜しと、言ふかひなき法師、童べも、涙を落としあへり。まして、内には、年老いたる尼君たちなど、まださらにかかる人の御ありさまを見ざりつれば、「この世のものともおぼえたまはず」と聞こえあへり。僧都も、 |
「あはれ、何の契りにて、かかる御さまながら、いとむつかしき日本の末の世に生まれたまへらむと見るに、いとなむ悲しき」とて、目おしのごひたまふ。 |
この若君、幼な心地に、「めでたき人かな」と見たまひて、 |
「宮の御ありさまよりも、まさりたまへるかな」などのたまふ。 |
「さらば、かの人の御子になりておはしませよ」 |
と聞こゆれば、うちうなづきて、「いとようありなむ」と思したり。雛遊びにも、絵描いたまふにも、「源氏の君」と作り出でて、きよらなる衣着せ、かしづきたまふ。 |
第六段 内裏と左大臣邸に参る |
君は、まづ内裏に参りたまひて、日ごろの御物語など聞こえたまふ。「いといたう衰へにけり」とて、ゆゆしと思し召したり。聖の尊かりけることなど、問はせたまふ。詳しく奏したまへば、 |
「阿闍梨などにもなるべき者にこそあなれ。行ひの労は積もりて、朝廷にしろしめされざりけること」と、尊がりのたまはせけり。 |
大殿、参りあひたまひて、 |
「御迎へにもと思ひたまへつれど、忍びたる御歩きに、いかがと思ひ憚りてなむ。のどやかに一、二日うち休みたまへ」とて、「やがて、御送り仕うまつらむ」と申したまへば、さしも思さねど、引かされてまかでたまふ。 |
我が御車に乗せたてまつりたまうて、自らは引き入りてたてまつれり。もてかしづききこえたまへる御心ばへのあはれなるをぞ、さすがに心苦しく思しける。 |
殿にも、おはしますらむと心づかひしたまひて、久しく見たまはぬほど、いとど玉の台に磨きしつらひ、よろづをととのへたまへり。 |
女君、例の、はひ隠れて、とみにも出でたまはぬを、大臣、切に聞こえたまひて、からうして渡りたまへり。ただ絵に描きたるものの姫君のやうに、し据ゑられて、うちみじろきたまふこともかたく、うるはしうてものしたまへば、思ふこともうちかすめ、山道の物語をも聞こえむ、言ふかひありて、をかしういらへたまはばこそ、あはれならめ、世には心も解けず、うとく恥づかしきものに思して、年のかさなるに添へて、御心の隔てもまさるを、いと苦しく、思はずに、 |
「時々は、世の常なる御気色を見ばや。堪へがたうわづらひはべりしをも、いかがとだに、問ひたまはぬこそ、めづらしからぬことなれど、なほうらめしう」 |
と聞こえたまふ。からうして、 |
「問はぬは、つらきものにやあらむ」 |
と、後目に見おこせたまへるまみ、いと恥づかしげに、気高ううつくしげなる御容貌なり。 |
「まれまれは、あさましの御ことや。訪はぬ、など言ふ際は、異にこそはべるなれ。心憂くものたまひなすかな。世とともにはしたなき御もてなしを、もし、思し直る折もやと、とざまかうさまに試みきこゆるほど、いとど思ほし疎むなめりかし。よしや、命だに」 |
とて、夜の御座に入りたまひぬ。女君、ふとも入りたまはず、聞こえわづらひたまひて、うち嘆きて臥したまへるも、なま心づきなきにやあらむ、ねぶたげにもてなして、とかう世を思し乱るること多かり。 |
この若草の生ひ出でむほどのなほゆかしきを、「似げないほどと思へりしも、道理ぞかし。言ひ寄りがたきことにもあるかな。いかにかまへて、ただ心やすく迎へ取りて、明け暮れの慰めに見む。兵部卿宮は、いとあてになまめいたまへれど、匂ひやかになどもあらぬを、いかで、かの一族におぼえたまふらむ。ひとつ后腹なればにや」など思す。ゆかりいとむつましきに、いかでかと、深うおぼゆ。 |
第七段 北山へ手紙を贈る |
またの日、御文たてまつれたまへり。僧都にもほのめかしたまふべし。尼上には、 |
「もて離れたりし御気色のつつましさに、思ひたまふるさまをも、えあらはし果てはべらずなりにしをなむ。かばかり聞こゆるにても、おしなべたらぬ志のほどを御覧じ知らば、いかにうれしう」 |
などあり。中に、小さく引き結びて、 |
「面影は身をも離れず山桜 心の限りとめて来しかど |
夜の間の風も、うしろめたくなむ」 |
とあり。御手などはさるものにて、ただはかなうおし包みたまへるさまも、さだすぎたる御目どもには、目もあやにこのましう見ゆ。 |
「あな、かたはらいたや。いかが聞こえむ」と、思しわづらふ。 |
「ゆくての御ことは、なほざりにも思ひたまへなされしを、ふりはへさせたまへるに、聞こえさせむかたなくなむ。まだ「難波津」をだに、はかばかしう続けはべらざめれば、かひなくなむ。さても、 |
嵐吹く尾の上の桜散らぬ間を 心とめけるほどのはかなさ |
いとどうしろめたう」 |
とあり。僧都の御返りも同じさまなれば、口惜しくて、二、三日ありて、惟光をぞたてまつれたまふ。 |
「少納言の乳母と言ふ人あべし。尋ねて、詳しう語らへ」などのたまひ知らす。「さも、かからぬ隈なき御心かな。さばかりいはけなげなりしけはひを」と、まほならねども、見しほどを思ひやるもをかし。 |
わざと、かう御文あるを、僧都もかしこまり聞こえたまふ。少納言に消息して会ひたり。詳しく、思しのたまふさま、おほかたの御ありさまなど語る。言葉多かる人にて、つきづきしう言ひ続くれど、「いとわりなき御ほどを、いかに思すにか」と、ゆゆしうなむ、誰も誰も思しける。 |
御文にも、いとねむごろに書いたまひて、例の、中に、「かの御放ち書きなむ、なほ見たまへまほしき」とて、 |
「あさか山浅くも人を思はぬに など山の井のかけ離るらむ」 |
御返し、 |
「汲み初めてくやしと聞きし山の井の 浅きながらや影を見るべき」 |
惟光も同じことを聞こゆ。 |
「このわづらひたまふことよろしくは、このごろ過ぐして、京の殿に渡りたまひてなむ、聞こえさすべき」とあるを、心もとなう思す。 |
渋谷栄一校訂(C) |
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瘧病みに罹りなさって、いろいろと呪術や加持などして差し上げさせなさるが、効果がなくて、何度も発作がお起こりになったので、ある人が、 |
「北山に、某寺という所に、すぐれた行者がございます。去年の夏も世間に流行して、人々がまじないあぐねたのを、たちどころに治した例が、多数ございました。こじらせてしまうと厄介でございますから、早くお試しあそばすとよいでしょう」 |
などと申し上げるので、呼びにおやりになったところ、「老い曲がって、室の外にも外出いたしません」と申したので、「しかたない。ごく内密に行こう」とおっしゃって、お供に親しい者四、五人ほど連れて、まだ夜明け前にお出かけになる。 |
やや山深く入った所なのであった。三月の晦日なので、京の花盛りはみな過ぎてしまっていた。山の桜はまだ盛りで、入って行かれるにつれて、霞のかかった景色も趣深く見えるので、このような山歩きもご経験なく、窮屈なご身分なので、珍しく思われなさるのであった。 |
寺の有様も実にしんみりと趣深い。峰高く、深い岩屋の中に、聖は入っているのだった。お登りになって、誰ともお知らせなさらず、とてもひどく粗末な身なりをしていらっしゃるが、はっきり誰それと分かるご風采なので、 |
「ああ、恐れ多いことよ。先日、お召しになった方でいらっしゃいましょうか。今は、現世のことを考えておりませんので、修験の方法も忘れておりますのに、どうして、このようにわざわざお越しあそばしたのでしょうか」 |
と、驚き慌てて、にっこりしながら拝する。まことに立派な大徳なのであった。しかるべき薬を作って、お呑ませ申し、加持などして差し上げるうちに、日が高くなった。 |
少し外に出て見渡しなさると、高い所なので、あちこちに、僧坊どもがはっきりと見下ろされる、ちょうどこのつづら折の道の下に、同じような小柴垣であるが、きちんとめぐらして、こざっぱりとした建物に、廊などを建て続けて、木立がとても風情あるのは、 |
「どのような人が住んでいるのか」 |
とお尋ねになると、お供である人が、 |
「これが、某僧都が、二年間籠もっております所だそうでございます」 |
「気おくれするほど立派な人が住んでいるという所だな。何とも、あまりに粗末な身なりであったなあ。聞きつけたら困るな」などとおっしゃる。 |
美しそうな童女などが、大勢出て来て、閼伽棚に水をお供えしたり、花を折ったりなどするのも、はっきりと見える。 |
「あそこに、女がいるぞ」 |
「僧都は、まさか、そのようには、囲って置かれまいに」 |
「どのような女だろう」 |
と口々に言う。下りて覗く者もいる。 |
「きれいな女の子たちや、若い女房、童女が見える」と言う。 |
源氏の君は、勤行なさりながら、日盛りになるにつれて、どうだろうかとご心配なさるのを、 |
「何かとお紛らわしあそばして、お気になさらないのが、よろしうございます」 |
と申し上げるので、後方の山に立ち出でて、京の方角を御覧になる。遠くまで霞がかかっていて、四方の梢がどことなく霞んで見える具合、 |
「絵にとてもよく似ているなあ。このような所に住む人は、心に思い残すことはないだろうよ」とおっしゃると、 |
「これは、まことに平凡でございます。地方などにございます海、山の景色などを御覧に入れましたならば、どんなにか、お絵も素晴らしくご上達あそばしましょう。富士の山、何々の嶽」 |
などと、お話し申し上げる者もいる。また、西国の美しい浦々や、海岸辺りについて話し続ける者もいて、何かとお気を紛らし申し上げる。 |
「近い所では、播磨国の明石の浦が、やはり格別でございます。どこといって奥深い趣はないが、ただ、海の方を見渡しているところが、不思議と他の海岸とは違って、ゆったりと広々した所でございます。 |
あの国の前国司で、出家したての人が、娘を大切に育てている家は、まことにたいしたものです。大臣の後裔で、出世もできたはずの人なのですが、たいそうな変わり者で、人づき合いをせず、近衛の中将を捨てて、申し出て頂戴した官職ですが、 |
あの国の人にも少し馬鹿にされて、『何の面目があって、再び都に帰られようか』と言って、剃髪してしまったのでございますが、少し奥まった山中生活もしないで、そのような海岸に出ているのは、間違っているようですが、なるほど、あの国の中に、そのように、人が籠もるにふさわしい所々は方々にありますが、深い山里は、人気もなくもの寂しく、若い妻子がきっと心細がるにちがいないので、一方では気晴らしのできる住まいでございます。 |
最近、下向いたしました機会に、様子を拝見するために立ち寄ってみましたところ、都でこそ不遇のようでしたが、はなはだ広々と、豪勢に占有して造っている様子は、そうは言っても、国司として造っておいたことなので、余生を豊かに過ごせる準備も、またとなくしているのでした。後世の勤行も、まことによく勤めて、かえって出家して人品が上がった人でございました」と申し上げると、 |
「ところで、その娘は」と、お尋ねになる。 |
「悪くはありません、器量や、気立てなども結構だということでございます。代々の国司などが、格別懇ろな態度で、結婚の申し込みをするようですが、全然承知しません。 |
『自分の身がこのようにむなしく落ちぶれているのさえ無念なのに、この娘一人だけだが、特別に考えているのだ。もし、わたしに先立たれて、その素志を遂げられず、わたしの願っていた運命と違ったならば、海に入ってしまえ』と、いつも遺言をしているそうでございます」 |
と申し上げると、源氏の君もおもしろい話だとお聞きになる。供人たちは、 |
「きっと海龍王の后になる大切な娘なのだろう」 |
「気位いの高いことも、困ったものだね」と言って笑う。 |
このように話すのは、播磨守の子で、六位蔵人から、今年、五位に叙された者なのであった。 |
「大変な好色者だから、あの入道の遺言をきっと破ってしまおうという気なのだろうよ」 |
「それで、うろうろしているのだろう」 |
と言い合っている。 |
「いやもう、そうは言っても、田舎びているだろう。幼い時からそのような所に成長して、古めかしい親にばかり教育されていたのでは」 |
「母親はきっと由緒ある家の出なのだろう。美しい若い女房や、童女など、都の高貴な家々から、縁故を頼って探し集めて、眩しく育てているそうだ」 |
「心ない人が国司になって赴任して行ったら、そんなふうに安心して、置いておけないのでは」 |
などと言う者もいる。源氏の君は、 |
「どのような考えがあって、海の底まで深く思い込んでいるのだろうか。海底の「海松布」も 何となく見苦しい」 |
などとおっしゃって、少なからず関心をお持ちになっている。このような話でも、普通以上に、一風変わったことをお好みになるご性格なので、お耳を傾けられるのだろう、と拝見する。 |
「暮れかけてきましたが、ご発作がおこりあそばさなくなったようでございます。早くお帰りあそばされのがよいでしょう」 |
と言うのを、大徳は、 |
「おん物の怪などが、憑いている様子でいらっしゃいましたが、今夜は、やはり静かに加持などをなさって、お帰りあそばされませ」と申し上げる。 |
「それも、もっともなこと」と、供人皆が申し上げる。源氏の君も、このような旅寝もご経験ないことなので、何と言っても興味があって、 |
「それでは、早朝に」とおっしゃる。 |
人もいなくて、何もすることがないので、夕暮のたいそう霞わたっているのに紛れて、あの小柴垣の付近にお立ち出でになる。供人はお帰しになって、惟光朝臣とお覗きになると、ちょうどこの西面に、仏を安置申して勤行している、それは尼なのであった。簾を少し上げて、花を供えているようである。中の柱に寄り掛かって座って、脇息の上にお経を置いて、とても大儀そうに読経している尼君は、普通の人とは見えない。四十過ぎくらいで、とても色白で上品で、痩せてはいるが、頬はふっくらとして、目もとのぐあいや、髪がきれいに切り揃えられている端も、かえって長いのよりも、この上なく新鮮な感じだなあ、と感心して御覧になる。 |
小綺麗な女房二人ほど、他には童女が出たり入ったりして遊んでいる。その中に、十歳くらいかと見えて、白い袿の上に、山吹襲などの、糊気の落ちた表着を着て、駆けてきた女の子は、大勢見えた子供とは比べものにならず、たいそう将来性が見えて、かわいらしげな顔かたちである。髪は扇を広げたようにゆらゆらとして、顔はとても赤く手でこすって立っている。 |
「どうしたの。童女とけんかをなさったのですか」 |
と言って、尼君が見上げた顔に、少し似ているところがあるので、「その子どもなのだろう」と御覧になる。 |
「雀の子を、犬君が逃がしちゃったの。伏籠の中に、閉じ籠めておいたのに」 |
と言って、とても残念がっている。ここに座っていた女房が、 |
「いつもの、うっかり者が、このようなことをして、責められるとは、ほんと困ったことね。どこへ飛んで行ってしまいましたか。とてもかわいらしく、だんだんなってきましたものを。烏などが見つけたら大変だわ」 |
と言って、立って行く。髪はゆったりととても長く、見苦しくない女のようである。少納言の乳母と皆が呼んでいるらしい人は、この子のご後見役なのだろう。 |
尼君が、 |
「何とまあ、幼いことよ。聞き分けもなくいらっしゃることね。わたしが、このように、今日明日にも思われる寿命を、何ともお考えにならず、雀を追いかけていらっしゃることよ。罪を得ることですよと、いつも申し上げていますのに、情けなく」と言って、「こちらへ、いらっしゃい」と言うと、ちょこんと座った。 |
顔つきがとてもかわいらしげで、眉のあたりがほんのりとして、子供っぽく掻き上げた額つきや、髪の生え際は、大変にかわいらしい。「成長して行くさまが楽しみな人だなあ」と、お目がとまりなさる。それと言うのも、「限りなく心を尽くし申し上げている方に、とてもよく似ているので、目が引きつけられるのだ」と、思うにつけても涙が落ちる。 |
尼君が、髪をかき撫でながら、 |
「梳くことをお嫌がりになるが、美しい御髪ですね。とても子供っぽくいらっしゃることが、かわいそうで心配です。これくらいの年になれば、とてもこんなでない人もありますものを。亡くなった母君は、十歳程で父殿に先立たれなさった時、たいそう物事の意味は弁えていらっしゃいましたよ。この今、わたしがお残し申して逝ってしまったら、どのように過ごして行かれるおつもりなのでしょう」 |
と言って、たいそう泣くのを御覧になると、何とも言えず悲しい。子供心にも、やはりじっと見つめて、伏し目になってうつむいているところに、こぼれかかった髪が、つやつやとして素晴らしく見える。 |
「これからどこでどう育って行くのかも分からない若草のようなあなたを 残してゆく露のようにはかないわたしは死ぬに死ねない思いです」 |
もう一人の座っている女房が、「本当に」と、涙ぐんで、 |
「初草のように若い姫君のご成長も御覧にならないうちに どうして尼君様は先立たれるようなことをお考えになるのでしょう」 |
と申し上げているところに、僧都が、あちらから来て、 |
「ここは人目につくのではないでしょうか。今日に限って、端近にいらっしゃいますね。この上の聖の坊に、源氏中将が瘧病のまじないにいらっしゃったのを、たった今、聞きつけました。ひどくお忍びでいらっしゃったので、知りませんで、ここにおりながら、お見舞いにも上がりませんでした」とおっしゃると、 |
「まあ大変。とても見苦しい様子を、誰か見たでしょうかしら」と言って、簾を下ろしてしまった。 |
「世間で、大評判でいらっしゃる光源氏を、この機会に拝見なさいませんか。俗世を捨てた法師の気持ちにも、たいそう世俗の憂えを忘れ、寿命が延びるご様子の方です。どれ、ご挨拶を申し上げよう」 |
と言って、立ち上がる音がするので、お帰りになった。 |
「しみじみと心惹かれる人を見たなあ。これだから、この好色な連中は、このような忍び歩きばかりをして、よく意外な人を見つけるのだな。まれに外出しただけでも、このように思いがけないことに出会うことよ」と、興味深くお思いになる。「それにしても、とてもかわいかった少女であるよ。どのような人であろう。あのお方の代わりとして、毎日の慰めに見たいものだ」という考えが、強く起こった。 |
横になっていらっしゃると、僧都のお弟子が、惟光を呼び出させる。狭い所なので、源氏の君もそのままお聞きになる。 |
「お立ち寄りあそばしていらっしゃることを、たった今、人が申したので、聞いてすぐに、ご挨拶に伺うべきところを、拙僧がこの寺におりますことを、ご存知でいらっしゃりながらも、お忍びでいらしていることを、お恨みに存じまして。旅のお宿も、拙僧の坊でお支度致しますべきでしたのに。残念至極です」と申し上げなさった。 |
「去る十何日のころから、瘧病を患っていますが、度重なって我慢できませんので、人の勧めに従って、急遽訪ねて参りましたが、このような方が効験を現さない時は、世間体の悪いことになるにちがいないのも、普通の人の場合以上に、お気の毒と遠慮致しまして、ごく内密に参ったのです。今、そちらへも」とおっしゃった。 |
折り返し、僧都が参上なさった。法師であるが、とても気がおけて人品も重々しく、世間からもご信頼されていらっしゃる方なので、軽々しいお姿を、きまり悪くお思いになる。このように籠っている間のお話などを申し上げなさって、「同じ草庵ですが、少し涼しい遣水の流れも御覧に入れましょう」と、熱心にお勧め申し上げなさるので、あの、まだ自分を見ていない人々に大げさに吹聴していたのを、気恥ずかしくお思いになるが、かわいらしかった有様も気になって、おいでになった。 |
なるほど、とても格別に風流を凝らして、同じ木や草を植えていらっしゃった。月もないころなので、遣水に篝火を照らし、灯籠などにも火を灯してある。南面はとてもこざっぱりと整えていらっしゃる。空薫物が、たいそう奥ゆかしく薫って来て、名香の香などが、匂い満ちているところに、源氏の君のおん追い風がとても格別なので、奥の人々も気を使っている様子である。 |
僧都は、この世の無常のお話や、来世の話などを説いてお聞かせ申し上げなさる。ご自分の罪障の深さが恐ろしく、「どうにもならないことに心を奪われて、一生涯このことを思い悩み続けなければならないようだ。まして来世は大変なことになるにちがいない」。お考え続けて、このような出家生活もしたく思われる一方では、昼間の面影が心にかかって恋しいので、 |
「ここにおいでの方は、どなたですか。お尋ね申したい夢を拝見しましたよ。今日、思い当たりました」 |
と申し上げなさると、にっこり笑って、 |
「唐突な夢のお話というものでございますな。お知りあそばされたても、きっとがっかりあそばされることでございましょう。故按察使大納言は、亡くなってから久しくなりましたので、ご存知ありますまい。その北の方が 拙僧の妹でございます。あの按察使が亡くなって後、出家しておりますのが、最近、患うことがございましたので、こうして京にも行かずにおりますので、頼り所として籠っているのでございます」とお申し上げになる。 |
「あの大納言のご息女が、おいでになると伺っておりましたのは。好色めいた気持ちからではなく、真面目に申し上げるのです」と 当て推量におっしゃると、 |
「娘がただ一人おりました。亡くなって、ここ十何年になりましょうか。故大納言は、入内させようなどと、大変大切に育てていましたが、その本願のようにもなりませず、亡くなってしまいましたので、ただこの尼君が一人で苦労して育てておりましたうちに、誰が手引をしたものか、兵部卿宮が こっそり通って来られるようになったのですが、本妻の北の方が、ご身分の高い人であったりして、気苦労が多くて、明け暮れ物思いに悩んで、亡くなってしまいました。物思いから病気になるものだと、目の当たりに拝見致しました次第です」 |
などとお申し上げなさる。「それでは、その人の子であったのだ」とご理解なさった。「親王のお血筋なので、あのお方にもお似通い申しているのであろうか」と、ますます心惹かれて世話をしたい。「人柄も上品でかわいらしくて、なまじの小ざかしいところもなく、一緒に暮らして、自分の理想通りに育ててみたいものだなあ」とお思いになる。 |
「とてもお気の毒なことでいらっしゃいますね。その方には、後に遺して行かれた人はいないのですか」 |
と、幼なかった子の将来が、もっとはっきりと知りたくて、お尋ねになると、 |
「亡くなりますころに、生まれました。それも、女の子で。それにつけても心配の種として、余命少ない年に思い悩んでおりますようでございます」と申し上げなさる。 |
「やはりそうであったか」とお思いになる。 |
「変な話ですが、その少女のご後見とお思い下さるよう、お話し申し上げていただけませんか。考えるところがあって、通い関わっています所もありますが、本当にしっくりいかないのでしょうか、独り暮らしばかりしています。まだ不似合いな年頃だと世間並の男同様にお考えになっては、体裁が悪い」などとおっしゃると、 |
「たいそう嬉しいはずの仰せ言ですが、まだいっこうに幼い年頃のようでございますので、ご冗談にも、お世話なさるのは難しいのでは。もっとも、女性というものは、人に世話されて一人前にもおなりになるものですから、詳しくは申し上げられませんが、あの祖母に相談しまして、お返事申し上げさせましょう」 |
と、無愛想に言って、こわごわとした感じでいらっしゃるので、若いお心では恥ずかしくて、上手にお話し申し上げられない。 |
「阿弥陀仏のおいでになるお堂で、勤行のございます時刻です。初夜のお勤めを、まだ致しておりません。済ませて参りましょう」と言って、お上りになった。 |
源氏の君は、気分もとても悩ましいところに、雨が少し降りそそいで、山風が冷やかに吹いてきて、滝壺の水嵩も増して、音が大きく聞こえる。少し眠そうな読経が途絶え途絶えにぞっとするように聞こえるなども、何でもない人も、場所柄しんみりとした気持ちになる。まして、いろいろとお考えになることが多くて、お眠りになれない。 |
初夜と言ったが、夜もたいそう更けてしまった。奥でも、人々の寝ていない様子がよく分かって、とても密かにしているが、数珠の脇息に触れて鳴る音がかすかに聞こえ、ものやさしくそよめく衣ずれの音を、上品だとお聞きになって、広くなく近いので、外側に立てめぐらしてある屏風の中を、少し引き開けて、扇を打ち鳴らしなさると、意外な気がするようだが、聞こえないふりもできようかということで、いざり出て来る人がいるようだ。少し後戻りして、 |
「おかしいわ、聞き違いかしら」と不審がっているのを、お聞きになって、 |
「仏のお導きは、暗い中に入っても、決して間違うはずはありませんが」 |
とおっしゃるお声が、とても若く上品なので、お返事する声づかいも、気がひけるが、 |
「どのお方への、ご案内でしょうか。分かりかねますが」と申し上げる。 |
「なるほど、唐突なことだとご不審になるのも、ごもっともですが、 |
初草のごときうら若き少女を見てからは わたしの旅寝の袖は恋しさの涙の露ですっかり濡れております |
と申し上げて下さいませんか」とおっしゃる。 |
「まったく、このようなお言葉を、頂戴して分かるはずの人もいらっしゃらない有様は、ご存知でいらっしゃりそうなのに。どなたに」と申し上げる。 |
「自然と、しかるべきわけがあって申し上げているのだろうとお考え下さい」 |
とおっしゃるので、奥に行って申し上げる。 |
「まあ、華やいだことを。この姫君を、年頃でいらっしゃると、お思いなのだろうか。それにしては、あの『若草を』と詠んだのを、どうしてご存知でいらっしゃることか」と、あれこれと不思議なので、困惑して、遅くなっては、失礼になると思って、 |
「今晩だけの旅の宿で涙に濡れていらっしゃるからといって 深山に住むわたしたちのことを引き合いに出さないでくださいまし |
乾きそうにございませんのに」とご返歌申し上げなさる。 |
「このような機会のご挨拶は、まだまったく致したことがなく、初めてのことです。恐縮ですが、このような機会に、真面目にお話させていただきたいことがあります」と申し上げなさると、尼君、 |
「聞き違いをなさっていらっしゃるのでしょう。まことに厄介なお方に、どのようなことをお返事申せましょう」とおっしゃると、 |
「きまりの悪い思いをおさせになってはいけません」と女房たちが申す。 |
「なるほど、若い人なら嫌なことでしょうが、真面目におっしゃっているのは、恐れ多い」 |
と言って、いざり寄りなさった。 |
「突然で、軽薄な振る舞いと、きっとお思いになられるにちがいないような機会ですが、わたし自身にはそのように思われませんので。仏はもとよりお見通しでいらっしゃいましょう」 |
と言ったが、落ち着いていて、気の置ける様子に気後れして、すぐにはお切り出しになれない。 |
「おっしゃるとおり、思い寄りも致しませぬ機会に、こうまでおっしゃっていただいたり、お話させていただけますのも、どうして浅い縁と申せましょう」とおっしゃる。 |
「お気の毒な身の上と承りましたご境遇を、あのお亡くなりになった方のお代わりと、わたしをお思いになって下さいませんか。わたしも幼いころに、かわいがってくれるはずの母親に先立たれましたので、妙に頼りない有様で、年月を送っております。同じような境遇でいらっしゃるというので、お仲間にしていただきたいと、心から申し上げたいのですが、このような機会がめったにございませんので、どうお思いになられるかもかまわずに、申し出たのでございます」と申し上げなさると、 |
「とても嬉しく存じられるはずのお言葉ですが、お聞き違えていらっしゃることがございませんでしょうかと、憚られるのです。年寄一人を頼りにしている孫がございますが、とてもまだ幼い年頃で、大目に見てもらえるところもございませんようなので、お承りおくこともできないのでございます」とおっしゃる。 |
「みな、はっきりと承知致しておりますから、窮屈にご遠慮なさらず、深く思っております格別な心のほどを、御覧下さいませ」 |
と申し上げなさるが、まだとても不似合いなことを、そうとも知らないでおっしゃる、とお思いになって、打ち解けたご返事もない。僧都がお戻りになったので、 |
「それでは、このように申し上げましたので、心丈夫です」と言って、屏風をお閉てになった。 |
暁方になったので、法華三昧を勤めるお堂の懺法の声が、山下ろしの風に乗って聞こえて来るのが、とても尊く、滝の音に響き合っていた。 |
「深山おろしの懺法の声に煩悩の夢が覚めて 感涙を催す滝の音であることよ」 |
「不意に来られてお袖を濡らされたという山の水に 心を澄まして住んでいるわたしは驚きません |
耳慣れてしまったからでしょうか」と申し上げなさる。 |
明けて行く空は、とてもたいそう霞んで、山の鳥どもがどこかしことなく囀り合っている。名も知らない木や草の花々が、色とりどりに散り混じり、錦を敷いたと見える所に、鹿があちこちと立ち止まったり歩いたりしているのも、珍しく御覧になると、気分の悪いのもすっかり忘れてしまった。 |
聖は、身動きも不自由だが、やっとのことで護身法をして差し上げなさる。しわがれた声で、とてもひどく歯の間から洩れて聞きにくいのも、しみじみと年功を積んだようで、陀羅尼を誦していた。 |
お迎えの人々が参って、ご回復されたお祝いを申し上げ、帝からもお見舞いがある。僧都は、見慣れないような果物を、あれこれと、谷の底から採ってきては、ご接待申し上げなさる。 |
「今年いっぱいの誓いが固うございまして、お見送りに参上できませぬ次第。かえって残念に存じられてなりません」 |
などと申し上げなさって、お酒を差し上げなさる。 |
「山や谷川に心惹かれましたが、帝にご心配あそばされますのも、恐れ多いことですので。そのうち、この花の時期を過ごさずに参りましょう。 |
大宮人に帰って話して聞かせましょう、この山桜の美しいことを 風の吹き散らす前に来て見るようにと」 |
とおっしゃる態度や、声づかいまでが、眩しいくらい立派なので、 |
「三千年に一度咲くという優曇華の花の 咲くのにめぐり逢ったような気がして深山桜には目も移りません」 |
と申し上げなさると、君は微笑みなさって、「その時節に至って、一度咲くという花は、難しいといいますのに」とおっしゃる。 |
聖は、お杯を頂戴して、 |
「奥山の松の扉を珍しく開けましたところ まだ見たこともない花のごとく美しいお顔を拝見致しました」 |
と、ちょっと感涙に咽んで君を拝し上げる。聖は、ご守護に、独鈷を差し上げる。それを御覧になって、僧都は、聖徳太子が百済から得られた金剛子の数珠で、玉の飾りが付いているのを、そのままその国から入れてあった箱で、唐風なのを、透かし編みの袋に入れて、五葉の松の枝に付けて、紺瑠璃の壺々に、お薬類を入れて、藤や 桜などに付けて、場所柄に相応しいお贈物類を、捧げて差し上げなさる。 |
源氏の君は、聖をはじめとして、読経した法師へのお布施類、用意の品々を、いろいろと京へ取りにやっていたので、その近辺の樵人にまで、相応の品物をお与えになり、御誦経の布施をしてお出になる。 |
室内に僧都はお入りになって、あの君が申し上げなさったことを、そのままお伝え申し上げなさるが、 |
「何ともこうとも、今すぐには、お返事申し上げようがありません。もし、君にお気持ちがあるならば、もう四、五年たってから、ともかくも」とおっしゃると、「しかじか」と同じようにばかりあるので、つまらないとお思いになる。 |
お手紙は、僧都のもとに仕える小さい童にことづけて、 |
「昨日の夕暮時にわずかに美しい花を見ましたので 今朝は霞の空に立ち去りがたい気がします」 |
お返事、 |
「本当に花の辺りを立ち去りにくいのでしょうか そのようなことをおっしゃるお気持ちを見たいものです」 |
と、教養ある筆跡で、とても上品であるのを、無造作にお書きになっている。 |
お車にお乗りになるころに、左大臣邸から、「どちらへ行くともおっしゃらなくて、お出かけあそばしてしまったこと」と言って、お迎えの供人、ご子息たちなどが大勢参上なさった。頭中将、左中弁、その他のご子息もお慕い申して、 |
「このようなお供には、お仕え申しましょうと、存じておりますのに、あまりにも、お置き去りあそばして」とお怨み申して、「とても美しい桜の花の下に、しばしの間も足を止めずに、引き返しますのは、もの足りない気がしますね」とおっしゃる。 |
岩蔭の苔の上に並び座って、お酒を召し上がる。落ちて来る水の様子など、風情のある滝のほとりである。頭中将は、懐にしていた横笛を取り出して、吹き澄ましている。弁の君は、扇を軽く打ち鳴らして、「豊浦の寺の、西なるや」と謡う。普通の人よりは優れた公達であるが、源氏の君の、とても苦しそうにして、岩に寄り掛かっておいでになるのは、またとなく不吉なまでに美しいご様子に、他の何人にも目移りしそうにないのであった。いつものように、篳篥を吹く随身、笙の笛を持たせている風流人などもいる。 |
僧都は、七絃琴を自分で持って参って、 |
「これで、ちょっとひと弾きあそばして、同じことなら、山の鳥をも驚かしてやりましょう」 |
と熱心にご所望申し上げなさるので、 |
「気分が悪いので、とてもできませんのに」とお答え申されるが、ことに無愛想にはならない程度に琴を掻き鳴らして、一行はお立ちになった。 |
名残惜しく残念だと、取るに足りない法師や、童子も、涙を落とし合っていた。彼ら以上に、室内では、年老いた尼君たちなどは、まだこのようにお美しい方の姿を見たことがなかったので、「この世の人とは思われなさらない」とお噂申し上げ合っていた。僧都も、 |
「ああ、どのような因縁で、このような美しいお姿でもって、まことにむさ苦しい日本国の末世にお生まれになったのであろうと思うと、まことに悲しい」と言って、目を押し拭いなさる。 |
この若君は、子供心に、「素晴らしい人だわ」と御覧になって、 |
「父宮のお姿よりも、優れていらっしゃいますわ」などとおっしゃる。 |
「それでは、あの方のお子様におなりあそばせな」 |
と申し上げると、こっくりと頷いて、「とてもすてきなことだわ」とお思いになっている。お人形遊びにも、お絵描きなさるにも、「源氏の君」と作り出して、美しい衣装を着せ、お世話なさる。 |
源氏の君は、まず内裏に参内なさって、ここ数日来のお話などを申し上げなさる。「とてもひどくお痩せになってしまったものよ」とおっしゃって、ご心配あそばした。聖の霊験あらたかであったことなどを、お尋ねあそばす。詳しく奏上なさると、 |
「阿闍梨などにも任ぜられてもよい人であったのだな。修行の功績は大きいのに、朝廷からご存知になられなかったことよ」と、尊重なさりたく仰せられるのであった。 |
大殿が、参内なさっておられて、 |
「お迎えにもと存じましたが、お忍びの外出なので、どんなものかと遠慮して。のんびりと、一、二日、お休みなさい」と言って、「このまま、お供申しましょう」と申し上げなさるので、そうしたいとはお思いにならないが、連れられて退出なさる。 |
ご自分のお車にお乗せ申し上げなさって、自分は遠慮してお乗りになる。大切にお世話申し上げなさるお気持ちの有り難いことを、やはり胸のつまる思いがなさるのであった。 |
大殿邸でも、おいであそばすだろうとご用意なさって、久しくお見えにならなかった間に、ますます玉の台のように磨き上げ飾り立て、用意万端ご準備なさっていた。 |
女君は、例によって、物蔭に隠れて、すぐには出ていらっしゃらないのを、父大臣が、強くご催促申し上げなさって、やっと出ていらっしゃった。まるで絵に描いた姫君のように、座らされて、ちょっと身体をお動かしになることも難しく、きちんと行儀よく座っていらっしゃるので、心の中の思いを話したり、北山行きの話をもお聞かせたりするにも、話のしがいがあって、興味をもってお返事をなさって下さろうものなら、情愛もわこうが、少しも打ち解けず、源氏の君をよそよそしく気づまりな相手だとお思いになって、年月を重ねるにつれて、お気持ちの隔たりが増さるのを、とても辛く、心外なので、 |
「時々は、世間並みの妻らしいご様子を見たいですね。私がひどく苦しんでおりました時にも、せめてどうですかとだけでも、お見舞い下さらないのは、今に始まったことではありませんが、やはり残念で」 |
と申し上げなさる。ようやくのことで、 |
「『尋ねないのは、辛いものなの』でしょうか」 |
と、流し目に御覧になっている目もとは、とても気後れがしそうで、気品高く美しそうなご容貌である。 |
「たまさかにおっしゃるかと思えば、心外なお言葉ですね。訪ねない、などという間柄は、他人が使う言葉でございましょう。嫌なふうにおっしゃいますね。いつまでたっても変わらない体裁の悪い思いをさせるお振る舞いを、もしや、お考え直しになるときもあろうかと、あれやこれやとお試し申しているうちに、ますますお疎んじなられたようですね。仕方ない、長生きさえしたら」 |
と言って、夜のご寝所にお入りになった。女君は、すぐにもお入りにならず、お誘い申しあぐねなさって、溜息をつきながら横になっているものの、何となくおもしろくないのであろうか、眠そうなふりをなさって、あれやこれやと夫婦仲を思い悩まれることが多かった。 |
この若草の君が成長していく間がやはり気にかかるので、「まだ相応しくない年頃と思っているのも、もっともである。申し込みにくいものだなあ。何とか手段を講じて、ほんの気楽に迎え取って、毎日の慰めとして一緒に暮らしたい。父兵部卿宮は、とても上品で優美でいらっしゃるが、つややかなお美しさはないのに、どうして、あの一族に似ていらっしゃるのだろう。父宮が同じお后様からお生まれになったからだろうか」などとお考えになる。血縁がとても親しく感じられて、何とかしてと、深く思われる。 |
翌日、お手紙を差し上げなさった。僧都にもそれとなくお書きになったのであろう。尼上には、 |
「取り合って下さらなかったご様子に気がひけますので、思っておりますことをも、十分に申せずじまいになりましたことを。これほどに申し上げておりますことにつけても、並々ならぬ気持ちのほどを、お察しいただけたら、どんなに嬉しいことでしょうか」 |
などと書いてある。中に、小さく結んで、 |
「あなたの山桜のように美しい面影はわたしの身から離れません 心のすべてをそちらに置いて来たのですが |
夜間に吹く風が、心配に思われまして」 |
と書いてある。ご筆跡などはさすがに素晴らしくて、ほんの無造作にお包みになった様子も、年配の人々のお目には、眩しいほどに素晴らしく見える。 |
「まあ、困ったこと。どのようにお返事申し上げましょう」と、お困りになる。 |
「行きがかりのお話は、ご冗談ごとと存じられましたが、わざわざお手紙を頂戴いたしましたのに、お返事の申し上げようがなくて。まだ「難波津」をさえ、ちゃんと書き続けませんようなので、お話になりません。それにしても、 |
激しい山風が吹いて散ってしまう峰の桜に その散る前にお気持ちを寄せられたように頼りなく思われます |
ますます気がかりでございまして」 |
とある。僧都のお返事も同じようなので、残念に思って、二、三日たって、惟光を差し向けなさる。 |
「少納言の乳母という人がいるはずだ。その人を尋ねて、詳しく相談せよ」などとお言い含めなさる。「何とも、どのようなことにもご関心を寄せられる好き心だなあ。あれほど子供じみた様子であった様子なのに」と、はっきりとではないが、少女を見た時のことを思い出すとおかしい。 |
わざわざ、このようにお手紙があるので、僧都も恐縮の由申し上げなさる。少納言の乳母に申し入れて面会した。詳しく、お考えになっておっしゃったご様子や、日頃のご様子などを話す。多弁な人なので、もっともらしくいろいろ話し続けるが、「とても無理なお年なのに、どのようにお考えなのか」と、大変心配なことと、どなたもどなたもお思いになるのであった。 |
お手紙にも、とても心こめてお書きになって、例によって、その中に、「あの一字一字のお書きなのを、やはり拝見したいのです」とあって、 |
「浅香山のように浅い気持ちで思っているのではないのに どうしてわたしからかけ離れていらっしゃるのでしょう」 |
お返事、 |
「うっかり薄情な人と契りを結んで後悔したと聞きました山の井のような 浅いお心のままどうして孫娘を御覧に入れられましょう」 |
惟光も同じ意味のご報告を申し上げる。 |
「このご病気が多少回復したら、しばらく過ごして、京のお邸にお帰りになってから、改めてお返事申し上げましょう」とあるのを、待ち遠しくお思いになる。 |
渋谷栄一訳(C)(ver.1-3-2) |
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源氏は瘧病にかかっていた。いろいろとまじないもし、僧の加持も受けていたが効験がなくて、この病の特徴で発作的にたびたび起こってくるのをある人が、 |
「北山の某という寺に非常に上手な修験僧がおります、去年の夏この病気がはやりました時など、まじないも効果がなく困っていた人がずいぶん救われました。病気をこじらせますと癒りにくくなりますから、早くためしてごらんになったらいいでしょう」 |
こんなことを言って勧めたので、源氏はその山から修験者を自邸へ招こうとした。 「老体になっておりまして、岩窟を一歩出ることもむずかしいのですから」 僧の返辞はこんなだった。 「それではしかたがない、そっと微行で行ってみよう」 こう言っていた源氏は、親しい家司四、五人だけを伴って、夜明けに京を立って出かけたのである。 |
郊外のやや遠い山である。これは三月の三十日だった。京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りで、山路を進んで行くにしたがって渓々をこめた霞にも都の霞にない美があった。窮屈な境遇の源氏はこうした山歩きの経験がなくて、何事も皆珍しくおもしろく思われた。 |
修験僧の寺は身にしむような清さがあって、高い峰を負った巌窟の中に聖人ははいっていた。 源氏は自身のだれであるかを言わず、服装をはじめ思い切って簡単にして来ているのであるが、迎えた僧は言った。 |
「あ、もったいない、先日お召しになりました方様でいらっしゃいましょう。もう私はこの世界のことは考えないものですから、修験の術も忘れておりますのに、どうしてまあわざわざおいでくだすったのでしょう」 |
驚きながらも笑を含んで源氏を見ていた。非常に偉い僧なのである。源氏を形どった物を作って、瘧病をそれに移す祈祷をした。加持などをしている時分にはもう日が高く上っていた。 |
源氏はその寺を出て少しの散歩を試みた。その辺をながめると、ここは高い所であったから、そこここに構えられた多くの僧坊が見渡されるのである。螺旋状になった路のついたこの峰のすぐ下に、それもほかの僧坊と同じ小柴垣ではあるが、目だってきれいに廻らされていて、よい座敷風の建物と廊とが優美に組み立てられ、庭の作りようなどもきわめて凝った一構えがあった。 |
「あれはだれの住んでいる所なのかね」 |
と源氏が問うた。 |
「これが、某僧都がもう二年ほど引きこもっておられる坊でございます」 |
「そうか、あのりっぱな僧都、あの人の家なんだね。あの人に知れてはきまりが悪いね、こんな体裁で来ていて」 などと、源氏は言った。 |
美しい侍童などがたくさん庭へ出て来て仏の閼伽棚に水を盛ったり花を供えたりしているのもよく見えた。 |
「あすこの家に女がおりますよ。 |
あの僧都がよもや隠し妻を置いてはいらっしゃらないでしょうが、 |
いったい何者でしょう」 |
こんなことを従者が言った。崖を少しおりて行ってのぞく人もある。 |
美しい女の子や若い女房やら召使の童女やらが見えると言った。 |
源氏は寺へ帰って仏前の勤めをしながら昼になるともう発作が起こるころであるがと不安だった。 |
「気をお紛らしになって、病気のことをお思いにならないのがいちばんよろしゅうございますよ」 |
などと人が言うので、後ろのほうの山へ出て今度は京のほうをながめた。ずっと遠くまで霞んでいて、山の近い木立ちなどは淡く煙って見えた。 |
「絵によく似ている。こんな所に住めば人間の穢い感情などは起こしようがないだろう」 と源氏が言うと、 |
「この山などはまだ浅いものでございます。地方の海岸の風景や山の景色をお目にかけましたら、その自然からお得になるところがあって、絵がずいぶん御上達なさいますでしょうと思います。富士、それから何々山」 |
こんな話をする者があった。また西のほうの国々のすぐれた風景を言って、浦々の名をたくさん並べ立てる者もあったりして、だれも皆病への関心から源氏を放そうと努めているのである。 |
「近い所では播磨の明石の浦がよろしゅうございます。特別に変わったよさはありませんが、ただそこから海のほうをながめた景色はどこよりもよく纏っております。 |
前播磨守入道が大事な娘を住ませてある家はたいしたものでございます。二代ほど前は大臣だった家筋で、もっと出世すべきはずの人なんですが、変わり者で仲間の交際なんかをもきらって近衛の中将を捨てて自分から願って出てなった播磨守なんですが、 |
国の者に反抗されたりして、こんな不名誉なことになっては京へ帰れないと言って、その時に入道した人ですが、坊様になったのなら坊様らしく、深い山のほうへでも行って住めばよさそうなものですが、名所の明石の浦などに邸宅を構えております。播磨にはずいぶん坊様に似合った山なんかが多いのですがね、変わり者をてらってそうするかというとそれにも訳はあるのです。若い妻子が寂しがるだろうという思いやりなのです。そんな意味でずいぶん賛沢に住居なども作ってございます。 |
先日父の所へまいりました節、どんなふうにしているかも見たいので寄ってみました。京にいますうちは不遇なようでしたが、今の住居などはすばらしいもので、何といっても地方長官をしていますうちに財産ができていたのですから、生涯の生活に事を欠かない準備は十分にしておいて、そして一方では仏弟子として感心に修行も積んでいるようです。あの人だけは入道してから真価が現われた人のように見受けます」 |
「その娘というのはどんな娘」 |
「まず無難な人らしゅうございます。あのあとの代々の長官が特に敬意を表して求婚するのですが、入道は決して承知いたしません。 |
自分の一生は不遇だったのだから、娘の未来だけはこうありたいという理想を持っている。自分が死んで実現が困難になり、自分の希望しない結婚でもしなければならなくなった時には、海へ身を投げてしまえと遺言をしているそうです」 |
源氏はこの話の播磨の海べの変わり者の入道の娘がおもしろく思えた。 |
「竜宮の王様のお后になるんだね。 |
自尊心の強いったらないね。困り者だ」 などと冷評する者があって人々は笑っていた。 |
話をした良清は現在の播磨守の息子で、さきには六位の蔵人をしていたが、位が一階上がって役から離れた男である。ほかの者は、 |
「好色な男なのだから、その入道の遺言を破りうる自信を持っているのだろう。 |
それでよく訪問に行ったりするのだよ」 |
とも言っていた。 |
「でもどうかね、どんなに美しい娘だといわれていても、やはり田舎者らしかろうよ。小さい時からそんな所に育つし、頑固な親に教育されているのだから」 |
こんなことも言う。 「しかし母親はりっぽなのだろう。若い女房や童女など、京のよい家にいた人などを何かの縁故からたくさん呼んだりして、たいそうなことを娘のためにしているらしいから、 |
それでただの田舎娘ができ上がったら満足していられないわけだから、私などは娘も相当な価値のある女だろうと思うね」 |
だれかが言う。源氏は、 |
「なぜお后にしなければならないのだろうね。それでなければ自殺させるという凝り固まりでは、ほかから見てもよい気持ちはしないだろうと思う」 |
などと言いながらも、好奇心が動かないようでもなさそうである。平凡でないことに興味を持つ性質を知っている家司たちは源氏の心持ちをそう観察していた。 |
「もう暮れに近うなっておりますが、今日は御病気が起こらないで済むのでございましょう。もう京へお帰りになりましたら」 |
と従者は言ったが、寺では聖人が、 |
「もう一晩静かに私に加持をおさせになってからお帰りになるのがよろしゅうございます」 と言った。 |
だれも皆この説に賛成した。源氏も旅で寝ることははじめてなのでうれしくて、 |
「では帰りは明日に延ばそう」 こう言っていた。 |
山の春の日はことに長くてつれづれでもあったから、夕方になって、この山が淡霞に包まれてしまった時刻に、午前にながめた小柴垣の所へまで源氏は行って見た。ほかの従者は寺へ帰して惟光だけを供につれて、その山荘をのぞくとこの垣根のすぐ前になっている西向きの座敷に持仏を置いてお勤めをする尼がいた。簾を少し上げて、その時に仏前へ花が供えられた。室の中央の柱に近くすわって、脇息の上に経巻を置いて、病苦のあるふうでそれを読む尼はただの尼とは見えない。四十ぐらいで、色は非常に白くて上品に痩せてはいるが頬のあたりはふっくりとして、目つきの美しいのとともに、短く切り捨ててある髪の裾のそろったのが、かえって長い髪よりも艶なものであるという感じを与えた。 |
きれいな中年の女房が二人いて、そのほかにこの座敷を出たりはいったりして遊んでいる女の子供が幾人かあった。その中に十歳ぐらいに見えて、白の上に淡黄の柔らかい着物を重ねて向こうから走って来た子は、さっきから何人も見た子供とはいっしょに言うことのできない麗質を備えていた。将来はどんな美しい人になるだろうと思われるところがあって、肩の垂れ髪の裾が扇をひろげたようにたくさんでゆらゆらとしていた。顔は泣いたあとのようで、手でこすって赤くなっている。尼さんの横へ来て立つと、 |
「どうしたの、童女たちのことで憤っているの」 |
こう言って見上げた顔と少し似たところがあるので、この人の子なのであろうと源氏は思った。 |
「雀の子を犬君が逃がしてしまいましたの、伏籠の中に置いて逃げないようにしてあったのに」 |
たいへん残念そうである。そばにいた中年の女が、 |
「またいつもの粗相やさんがそんなことをしてお嬢様にしかられるのですね、困った人ですね。雀はどちらのほうへ参りました。だいぶ馴れてきてかわゆうございましたのに、外へ出ては山の鳥に見つかってどんな目にあわされますか」 |
と言いながら立って行った。髪のゆらゆらと動く後ろ姿も感じのよい女である。少納言の乳母と他の人が言っているから、この美しい子供の世話役なのであろう。 |
|
「あなたはまあいつまでも子供らしくて困った方ね。私の命がもう今日明日かと思われるのに、それは何とも思わないで、雀のほうが惜しいのだね。雀を籠に入れておいたりすることは仏様のお喜びにならないことだと私はいつも言っているのに」 と尼君は言って、また、 「ここへ」 と言うと美しい子は下へすわった。 |
顔つきが非常にかわいくて、眉のほのかに伸びたところ、子供らしく自然に髪が横撫でになっている額にも髪の性質にも、すぐれた美がひそんでいると見えた。大人になった時を想像してすばらしい佳人の姿も源氏の君は目に描いてみた。なぜこんなに自分の目がこの子に引き寄せられるのか、それは恋しい藤壼の宮によく似ているからであると気がついた刹那にも、その人への思慕の涙が熱く頬を伝わった。 |
尼君は女の子の髪をなでながら、 |
「梳かせるのもうるさがるけれどよい髪だね。あなたがこんなふうにあまり子供らしいことで私は心配している。あなたの年になればもうこんなふうでない人もあるのに、亡くなったお姫さんは十二でお父様に別れたのだけれど、もうその時には悲しみも何もよくわかる人になっていましたよ。私が死んでしまったあとであなたはどうなるのだろう」 |
あまりに泣くので隙見をしている源氏までも悲しくなった。子供心にもさすがにじっとしばらく尼君の顔をながめ入って、それからうつむいた。その時に額からこぼれかかった髪がつやつやと美しく見えた。 |
生ひ立たんありかも知らぬ若草を おくらす露ぞ消えんそらなき |
一人の中年の女房が感動したふうで泣きながら、 |
初草の生ひ行く末も知らぬまに いかでか露の消えんとすらん |
と言った。この時に僧都が向こうの座敷のほうから来た。 |
「この座敷はあまり開けひろげ過ぎています。今日に限ってこんなに端のほうにおいでになったのですね。山の上の聖人の所へ源氏の中将が瘧病のまじないにおいでになったという話を私は今はじめて聞いたのです。ずいぶん微行でいらっしゃったので私は知らないで、同じ山にいながら今まで伺侯もしませんでした」 と僧都は言った。 |
「たいへん、こんな所をだれか御一行の人がのぞいたかもしれない」 尼君のこう言うのが聞こえて御簾はおろされた。 |
「世間で評判の源氏の君のお顔を、こんな機会に見せていただいたらどうですか、人間生活と絶縁している私らのような僧でも、あの方のお顔を拝見すると、世の中の歎かわしいことなどは皆忘れることができて、長生きのできる気のするほどの美貌ですよ。私はこれからまず手紙で御挨拶をすることにしましょう」 |
僧都がこの座敷を出て行く気配がするので源氏も山上の寺へ帰った。 |
源氏は思った。自分は可憐な人を発見することができた、だから自分といっしょに来ている若い連中は旅というものをしたがるのである、そこで意外な収穫を得るのだ、たまさかに京を出て来ただけでもこんな思いがけないことがあると、それで源氏はうれしかった。それにしても美しい子である、どんな身分の人なのであろう、あの子を手もとに迎えて逢いがたい人の恋しさが慰められるものならぜひそうしたいと源氏は深く思ったのである。 |
寺で皆が寝床についていると、僧都の弟子が訪問して来て、惟光に逢いたいと申し入れた。狭い場所であったから惟光へ言う事が源氏にもよく聞こえた。 |
「手前どもの坊の奥の寺へおいでになりましたことを人が申しますのでただ今承知いたしました。すぐに伺うべきでございますが、私がこの山におりますことを御承知のあなた様が素通りをあそばしたのは、何かお気に入らないことがあるかと御遠慮をする心もございます。御宿泊の設けも行き届きませんでも当坊でさせていただきたいものでございます」と言うのが使いの伝える僧都の挨拶だった。 |
「今月の十幾日ごろから私は瘧病にかかっておりましたが、たびたびの発作で堪えられなくなりまして、人の勧めどおりに山へ参ってみましたが、もし効験が見えませんでした時には一人の僧の不名誉になることですから、隠れて来ておりました。そちらへも後刻伺うつもりです」 と源氏は惟光に言わせた。 |
それから間もなく僧都が訪問して来た。尊敬される人格者で、僧ではあるが貴族出のこの人に軽い旅装で逢うことを源氏はきまり悪く思った。二年越しの山籠りの生活を僧都は語ってから、 「僧の家というものはどうせ皆寂しい貧弱なものですが、ここよりは少しきれいな水の流れなども庭にはできておりますから、お目にかけたいと思うのです」 僧都は源氏の来宿を乞うてやまなかった。源氏を知らないあの女の人たちにたいそうな顔の吹聴などをされていたことを思うと、しりごみもされるのであるが、心を惹いた少女のことも詳しく知りたいと思って源氏は僧都の坊へ移って行った。 |
主人の言葉どおりに庭の作り一つをいってもここは優美な山荘であった、月はないころであったから、流れのほとりに篝を焚かせ、燈籠を吊らせなどしてある。南向きの室を美しく装飾して源氏の寝室ができていた。奥の座敷から洩れてくる薫香のにおいと仏前に焚かれる名香の香が入り混じって漂っている山荘に、新しく源氏の追い風が加わったこの夜を女たちも晴れがましく思った。 |
僧都は人世の無常さと来世の頼もしさを源氏に説いて聞かせた。源氏は自身の罪の恐ろしさが自覚され、来世で受ける罰の大きさを思うと、そうした常ない人生から遠ざかったこんな生活に自分もはいってしまいたいなどと思いながらも、夕方に見た小さい貴女が心にかかって恋しい源氏であった。 |
「ここへ来ていらっしゃるのはどなたなんですか、その方たちと自分とが因縁のあるというような夢を私は前に見たのですが、なんだか今日こちらへ伺って謎の糸口を得た気がします」 |
と源氏が言うと、 |
「突然な夢のお話ですね。それがだれであるかをお聞きになっても興がおさめになるだけでございましょう。前の按察使大納言はもうずっと早く亡くなったのでございますからご存じはありますまい。その夫人が私の姉です。未亡人になってから尼になりまして、それがこのごろ病気なものですから、私が山にこもったきりになっているので心細がってこちらへ来ているのです」 僧都の答えはこうだった。 |
「その大納言にお嬢さんがおありになるということでしたが、それはどうなすったのですか。私は好色から伺うのじゃありません、まじめにお尋ね申し上げるのです」 少女は大納言の遺子であろうと想像して源氏が言うと、 |
「ただ一人娘がございました。亡くなりましてもう十年余りになりますでしょうか、大納言は宮中へ入れたいように申して、非常に大事にして育てていたのですがそのままで死にますし、未亡人が一人で育てていますうちに、だれがお手引きをしたのか兵部卿の宮が通っていらっしゃるようになりまして、それを宮の御本妻はなかなか権力のある夫人で、やかましくお言いになって、私の姪はそんなことからいろいろ苦労が多くて、物思いばかりをしたあげく亡くなりました。物思いで病気が出るものであることを私は姪を見てよくわかりました」 |
などと僧都は語った。それではあの少女は昔の按察使大納言の姫君と兵部卿の宮の間にできた子であるに違いないと源氏は悟ったのである。藤壼の宮の兄君の子であるがためにその人に似ているのであろうと思うといっそう心の惹かれるのを覚えた。身分のきわめてよいのがうれしい、愛する者を信じようとせずに疑いの多い女でなく、無邪気な子供を、自分が未来の妻として教養を与えていくことは楽しいことであろう、それを直ちに実行したいという心に源氏はなった。 |
「お気の毒なお話ですね。その方には忘れ形見がなかったのですか」 |
なお明確に少女のだれであるかを知ろうとして源氏は言うのである。 |
「亡くなりますころに生まれました。それも女です。その子供が姉の信仰生活を静かにさせません。姉は年を取ってから一人の孫娘の将来ばかりを心配して暮らしております」 |
聞いている話に、夕方見た尼君の涙を源氏は思い合わせた。 |
「妙なことを言い出すようですが、私にその小さいお嬢さんを、託していただけないかとお話ししてくださいませんか。私は妻について一つの理想がありまして、ただ今結婚はしていますが、普通の夫婦生活なるものは私に重荷に思えまして、まあ独身もののような暮らし方ばかりをしているのです。まだ年がつり合わぬなどと常識的に判断をなすって、失礼な申し出だと思召すでしょうか」 と源氏は言った。 |
「それは非常に結構なことでございますが、まだまだとても幼稚なものでございますから、仮にもお手もとへなど迎えていただけるものではありません。まあ女というものは良人のよい指導を得て一人前になるものなのですから、あながち早過ぎるお話とも何とも私は申されません。子供の祖母と相談をいたしましてお返辞をするといたしましょう」 |
こんなふうにてきぱき言う人が僧形の厳めしい人であるだけ、若い源氏には恥ずかしくて、望んでいることをなお続けて言うことができなかった。 |
「阿弥陀様がいらっしゃる堂で用事のある時刻になりました。初夜の勤めがまだしてございません。済ませましてまた」 こう言って僧都は御堂のほうへ行った。 |
病後の源氏は気分もすぐれなかった。雨がすこし降り冷ややかな山風が吹いてそのころから滝の音も強くなったように聞かれた。そしてやや眠そうな読経の声が絶え絶えに響いてくる、こうした山の夜はどんな人にも物悲しく寂しいものであるが、まして源氏はいろいろな思いに悩んでいて、眠ることはできないのであった。 |
初夜だと言ったが実際はその時刻よりも更けていた。奥のほうの室にいる人たちも起きたままでいるのが気配で知れていた。静かにしようと気を配っているらしいが、数珠が脇息に触れて鳴る音などがして、女の起居の衣摺れもほのかになつかしい音に耳へ通ってくる。貴族的なよい感じである。 源氏はすぐ隣の室でもあったからこの座敷の奥に立ててある二つの屏風の合わせ目を少し引きあけて、人を呼ぶために扇を鳴らした。先方は意外に思ったらしいが、無視しているように思わせたくないと思って、一人の女が膝行寄って来た。襖子から少し遠いところで、 |
「不思議なこと、聞き違えかしら」 と一言うのを聞いて、源氏が、 |
「仏の導いてくださる道は暗いところもまちがいなく行きうるというのですから」 |
という声の若々しい品のよさに、奥の女は答えることもできない気はしたが、 |
「何のお導きでございましょう、こちらでは何もわかっておりませんが」 と言った。 |
「突然ものを言いかけて、失敬だとお思いになるのはごもっともですが、 |
初草の若葉の上を見つるより 旅寝の袖も露ぞ乾かぬ |
と申し上げてくださいませんか」 |
「そのようなお言葉を頂戴あそばす方がいらっしゃらないことはご存じのようですが、どなたに」 |
「そう申し上げるわけがあるのだとお思いになってください」 |
源氏がこう言うので、女房は奥へ行ってそう言った。 |
まあ艶な方らしい御挨拶である、女王さんがもう少し大人になっているように、お客様は勘違いをしていられるのではないか、それにしても若草にたとえた言葉がどうして源氏の耳にはいったのであろうと思って、尼君は多少不安な気もするのである。しかし返歌のおそくなることだけは見苦しいと思って、 |
「枕結ふ今宵ばかりの露けさを 深山の苔にくらべざらなん |
とてもかわく間などはございませんのに」 と返辞をさせた。 |
「こんなお取り次ぎによっての会談は私に経験のないことです。失礼ですが、今夜こちらで御厄介になりましたのを機会にまじめに御相談のしたいことがございます」 と源氏が言う。 |
「何をまちがえて聞いていらっしゃるのだろう。源氏の君にものを言うような晴れがましいこと、私には何もお返辞なんかできるものではない」 尼君はこう言っていた。 |
「それでも冷淡なお扱いをするとお思いになるでございましょうから」 と言って、人々は尼君の出るのを勧めた。 |
「そうだね、若い人こそ困るだろうが私など、まあよい。丁寧に言っていらっしゃるのだから」 |
尼君は出て行った。 |
「出来心的な軽率な相談を持ちかける者だとお思いになるのがかえって当然なような、こんな時に申し上げるのは私のために不利なんですが、誠意をもってお話しいたそうとしておりますことは仏様がご存じでしょう」 |
と源氏は言ったが、相当な年配の貴女が静かに前にいることを思うと急に希望の件が持ち出されないのである。 |
「思いがけぬ所で、お泊まり合わせになりました。あなた様から御相談を承りますのを前生に根を置いていないこととどうして思えましょう」 と尼君は言った。 |
「お母様をお亡くしになりましたお気の毒な女王さんを、お母様の代わりとして私へお預けくださいませんでしょうか。私も早く母や祖母に別れたものですから、私もじっと落ち着いた気持ちもなく今日に至りました。女王さんも同じような御境遇なんですから、私たちが将来結婚することを今から許して置いていただきたいと、私はこんなことを前から御相談したかったので、今は悪くおとりになるかもしれない時である、折りがよろしくないと思いながら申し上げてみます」 |
「それは非常にうれしいお話でございますが、何か話をまちがえて聞いておいでになるのではないかと思いますと、どうお返辞を申し上げてよいかに迷います。私のような者一人をたよりにしております子供が一人おりますが、まだごく幼稚なもので、どんなに寛大なお心ででも、将来の奥様にお擬しになることは無理でございますから、私のほうで御相談に乗せていただきようもございません」 と尼君は言うのである。 |
「私は何もかも存じております。そんな年齢の差などはお考えにならずに、私がどれほどそうなるのを望むかという熱心の度を御覧ください」 |
源氏がこんなに言っても、尼君のほうでは女王の幼齢なことを知らないでいるのだと思う先入見があって源氏の希望を問題にしようとはしない。僧都が源氏の部屋のほうへ来るらしいのを機会に、 |
「まあよろしいです。御相談にもう取りかかったのですから、私は実現を期します」 と言って、源氏は屏風をもとのように直して去った。 |
もう明け方になっていた。法華の三昧を行なう堂の尊い懺法の声が山おろしの音に混じり、滝がそれらと和する響きを作っているのである。 |
吹き迷ふ深山おろしに夢さめて 涙催す滝の音かな これは源氏の作。 |
「さしぐみに袖濡らしける山水に すめる心は騒ぎやはする |
もう馴れ切ったものですよ」 と僧都は答えた。 |
夜明けの空は十二分に霞んで、山の鳥声がどこで啼くとなしに多く聞こえてきた。都人には名のわかりにくい木や草の花が多く咲き多く地に散っていた。こんな深山の錦の上へ鹿が出て来たりするのも珍しいながめで、源氏は病苦からまったく解放されたのである。 |
聖人は動くことも容易でない老体であったが、源氏のために僧都の坊へ来て護身の法を行なったりしていた。嗄々な所々が消えるような声で経を読んでいるのが身にしみもし、尊くも思われた。経は陀羅尼である。 |
京から源氏の迎えの一行が山へ着いて、病気の全快された喜びが述べられ、御所のお使いも来た。僧都は珍客のためによい菓子を種々作らせ、渓間へまでも珍しい料理の材料を求めに人を出して饗応に骨を折った。 |
「まだ今年じゅうは山籠りのお誓いがしてあって、お帰りの際に京までお送りしたいのができませんから、かえって御訪問が恨めしく思われるかもしれません」 |
などと言いながら僧都は源氏に酒をすすめた。 |
「山の風景に十分愛着を感じているのですが、陛下に御心配をおかけ申すのももったいないことですから、またもう一度、この花の咲いているうちに参りましょう、 |
宮人に行きて語らん山ざくら 風よりさきに来ても見るべく」 |
歌の発声も態度もみごとな源氏であった、僧都が、 |
優曇華の花まち得たるここちして 深山桜に目こそ移らね |
と言うと源氏は微笑しながら、 「長い間にまれに一度咲くという花は御覧になることが困難でしょう。私とは違います」 と言っていた。 |
巌窟の聖人は酒杯を得て、 |
奥山の松の戸ぼそを稀に開けて まだ見ぬ花の顔を見るかな |
と言って泣きながら源氏をながめていた。聖人は源氏を護る法のこめられてある独鈷を献上した。それを見て僧都は聖徳太子が百済の国からお得になった金剛子の数珠に宝玉の飾りのついたのを、その当時のいかにも日本の物らしくない箱に入れたままで薄物の袋に包んだのを五葉の木の枝につけた物と、紺瑠璃などの宝石の壼へ薬を詰めた幾個かを藤や桜の枝につけた物と、山寺の僧都の贈り物らしい物を出した。 |
源氏は巌窟の聖人をはじめとして、上の寺で経を読んだ僧たちへの布施の品々、料理の詰め合わせなどを京へ取りにやってあったので、それらが届いた時、山の仕事をする下級労働者までが皆相当な贈り物を受けたのである。なお僧都の堂で誦経をしてもらうための寄進もして、 |
山を源氏の立って行く前に、僧都は姉の所に行って源氏から頼まれた話を取り次ぎしたが、 |
「今のところでは何ともお返辞の申しようがありません。御縁がもしありましたならもう四、五年して改めておっしゃってくだすったら」 と尼君は言うだけだった。源氏は前夜聞いたのと同じような返辞を僧都から伝えられて自身の気持ちの理解されないことを歎いた。 |
手紙を僧都の召使の小童に持たせてやった。 |
夕まぐれほのかに花の色を見て 今朝は霞の立ちぞわづらふ |
という歌である。返歌は、 |
まことにや花のほとりは立ち憂きと 霞むる空のけしきをも見ん |
こうだった。貴女らしい品のよい手で飾りけなしに書いてあった。 |
ちょうど源氏が車に乗ろうとするころに、左大臣家から、どこへ行くともなく源氏が京を出かけて行ったので、その迎えとして家司の人々や、子息たちなどがおおぜい出て来た。頭中将、左中弁またそのほかの公達もいっしょに来たのである。 |
「こうした御旅行などにはぜひお供をしようと思っていますのに、お知らせがなくて」 などと恨んで、 「美しい花の下で遊ぶ時間が許されないですぐにお帰りのお供をするのは惜しくてならないことですね」 とも言っていた。 |
岩の横の青い苔の上に新しく来た公達は並んで、また酒盛りが始められたのである。前に流れた滝も情趣のある場所だった。頭中将は懐に入れてきた笛を出して吹き澄ましていた。弁は扇拍子をとって、「葛城の寺の前なるや、豊浦の寺の西なるや」という歌を歌っていた。この人たちは決して平凡な若い人ではないが、悩ましそうに岩へよりかかっている源氏の美に比べてよい人はだれもなかった。いつも篳篥を吹く役にあたる随身がそれを吹き、またわざわざ笙の笛を持ち込んで来た風流好きもあった。 |
僧都が自身で琴(七絃の唐風の楽器)を運んで来て、 |
「これをただちょっとだけでもお弾きくだすって、それによって山の鳥に音楽の何であるかを知らせてやっていただきたい」 |
こう熱望するので、 |
「私はまだ病気に疲れていますが」 と言いながらも、源氏が快く少し弾いたのを最後として皆帰って行った。 |
名残惜しく思って山の僧俗は皆涙をこぼした。家の中では年を取った尼君主従がまだ源氏のような人に出逢ったことのない人たちばかりで、その天才的な琴の音をも現実の世のものでないと評し合った。僧都も、 |
「何の約束事でこんな未世にお生まれになって人としてのうるさい束縛や干渉をお受けにならなければならないかと思ってみると悲しくてならない」 と源氏の君のことを言って涙をぬぐっていた。 |
兵部卿の宮の姫君は子供心に美しい人であると思って、 |
「宮様よりも御様子がごりっぱね」 などとほめていた。 |
「ではあの方のお子様におなりなさいまし」 |
と女房が言うとうなずいて、そうなってもよいと思う顔をしていた。それからは人形遊びをしても絵をかいても源氏の君というのをこしらえて、それにはきれいな着物を着せて大事がった。 |
帰京した源氏はすぐに宮中へ上がって、病中の話をいろいろと申し上げた。ずいぶん痩せてしまったと仰せられて帝はそれをお気におかけあそばされた。聖人の尊敬すべき祈祷カなどについての御下問もあったのである。詳しく申し上げると、 |
「阿闍梨にもなっていいだけの資格がありそうだね。名誉を求めないで修行一方で来た人なんだろう。それで一般人に知られなかったのだ」 と敬意を表しておいでになった。 |
左大臣も御所に来合わせていて、 |
「私もお迎えに参りたく思ったのですが、御微行の時にはかえって御迷惑かとも思いまして違慮をしました。しかしまだ一日二日は静かにお休みになるほうがよろしいでしょう」 と言って、また、 「ここからのお送りは私がいたしましょう」 とも言ったので、その家へ行きたい気もなかったが、やむをえず源氏は同道して行くことにした。 |
自分の車へ乗せて大臣自身はからだを小さくして乗って行ったのである。娘のかわいさからこれほどまでに誠意を見せた待遇を自分にしてくれるのだと思うと、大臣の親心なるものに源氏は感動せずにはいられなかった。 |
こちらへ退出して来ることを予期した用意が左大臣家にできていた。しばらく行って見なかった源氏の目に美しいこの家がさらに磨き上げられた気もした。 |
源氏の夫人は例のとおりにほかの座敷へはいってしまって出て来ようとしない。大臣がいろいろとなだめてやっと源氏と同席させた。絵にかいた何かの姫君というようにきれいに飾り立てられていて、身動きすることも自由でないようにきちんとした妻であったから、源氏は、山の二日の話をするとすればすぐに同感を表してくれるような人であれば情味が覚えられるであろう、いつまでも他人に対する羞恥と同じものを見せて、同棲の歳月は重なってもこの傾向がますます目だってくるばかりであると思うと苦しくて、 |
「時々は普通の夫婦らしくしてください。ずいぶん病気で苦しんだのですから、どうだったかというぐらいは問うてくだすっていいのに、あなたは問わない。今はじめてのことではないが私としては恨めしいことですよ」 |
と言った。 |
「問われないのは恨めしいものでしょうか」 |
こう言って横に源氏のほうを見た目つきは恥ずかしそうで、そして気高い美が顔に備わっていた。 |
「たまに言ってくださることがそれだ。情けないじゃありませんか。訪うて行かぬなどという間柄は、私たちのような神聖な夫婦の間柄とは違うのですよ。そんなことといっしょにして言うものじゃありません。時がたてばたつほどあなたは私を露骨に軽蔑するようになるから、こうすればあなたの心持ちが直るか、そうしたら効果があるだろうかと私はいろんな試みをしているのですよ。そうすればするほどあなたはよそよそしくなる。まあいい。長い命さえあればよくわかってもらえるでしょう」 |
と言って源氏は寝室のほうへはいったが、夫人はそのままもとの座にいた。就寝を促してみても聞かぬ人を置いて、歎息をしながら源氏は枕についていたというのも、夫人を動かすことにそう骨を折る気にはなれなかったのかもしれない。ただくたびれて眠いというふうを見せながらもいろいろな物思いをしていた。 |
若草と祖母に歌われていた兵部卿の宮の小王女の登場する未来の舞台がしきりに思われる。年の不つりあいから先方の人たちが自分の提議を問題にしようとしなかったのも道理である。先方がそうでは積極的には出られない。しかし何らかの手段で自邸へ入れて、あの愛らしい人を物思いの慰めにながめていたい。兵部卿の宮は上品な艶なお顔ではあるがはなやかな美しさなどはおありにならないのに、どうして叔母君にそっくりなように見えたのだろう、宮と藤壷の宮とは同じお后からお生まれになったからであろうか、などと考えるだけでもその子と恋人との縁故の深さがうれしくて、ぜひとも自分の希望は実現させないではならないものであると源氏は思った。 |
源氏は翌日北山へ手紙を送った。僧都へ書いたものにも女王の問題をほのめかして置かれたに違いない。尼君のには、 |
問題にしてくださいませんでしたあなた様に気おくれがいたしまして、思っておりますこともことごとくは言葉に現わせませんでした。こう申しますだけでも並み並みでない執心のほどをおくみ取りくださいましたらうれしいでしょう。 |
などと書いてあった。別に小さく結んだ手紙が入れてあって、 |
「面かげは身をも離れず山ざくら、 心の限りとめてこしかど |
どんな風が私の忘れることのできない花を吹くかもしれないと思うと気がかりです」 |
内容はこうだった。源氏の字を美しく思ったことは別として、老人たちは手紙の包み方などにさえ感心していた。、 |
困ってしまう。こんな問題はどうお返事すればいいことかと尼君は当惑していた。 |
あの時のお話は遠い未来のことでございましたから、ただ今何とも申し上げませんでもと存じておりましたのに、またお手紙で仰せになりましたので恐縮いたしております。まだ手習いの難波津の歌さえも続けて書けない子供でございますから失礼をお許しくださいませ、それにいたしましても、 |
嵐吹く尾上のさくら散らぬ間を、 心とめけるほどのはかなさ |
こちらこそたよりない気がいたします。というのが尼君からの返事である。 |
僧都の手紙にしるされたことも同じようであったから源氏は残念に思って二、三日たってから惟光を北山へやろうとした。 |
「少納言の乳母という人がいるはずだから、その人に逢って詳しく私のほうの心持ちを伝えて来てくれ」 などと源氏は命じた。どんな女性にも関心を持つ方だ、姫君はまだきわめて幼稚であったようだのにと惟光は思って、真正面から見たのではないが、自身がいっしょに隙見をした時のことを思ってみたりもしていた。 |
今度は五位の男を使いにして手紙をもらったことに僧都は恐縮していた。惟光は少納言に面会を申し込んで逢った。源氏の望んでいることを詳しく伝えて、そのあとで源氏の日常の生活ぶりなどを語った。多弁な惟光は相手を説得する心で上手にいろいろ話したが、僧都も尼君も少納言も稚い女王への結婚の申し込みはどう解釈すべきであろうとあきれているばかりだった。 |
手紙のほうにもねんごろに申し入れが書かれてあって、 一つずつ離してお書きになる姫君のお字をぜひ私に見せていただきたい。 ともあった。例の中に封じたほうの手紙には、 |
浅香山浅くも人を思はぬに、 など山の井のかけ離るらん |
この歌が書いてある。返事、 |
汲み初めてくやしと聞きし山の井の、 浅きながらや影を見すべき 尼君が書いたのである。、 |
惟光が聞いて来たのもその程度の返辞であった。 |
「尼様の御容体が少しおよろしくなりましたら京のお邸へ帰りますから、そちらから改めてお返事を申し上げることにいたします」 と言っていたというのである。源氏はたよりない気がしたのであった。 |
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【瘧病にわづらひたまひて】- 大島本「わらハやミに・わ(わ+つ<朱>)らひ給て」とある。今から見れば明らかな「つ」の脱字であるが、大島本「若紫」にはもう1例「わらハやみにわ(わ+つ<朱墨>)らひ侍る越」(12丁表2行)と「つ」の脱字がある。大島本「若紫」の親本には「わらひたまひて」とあったものか。それを忠実に書写しながらも「つ」の誤脱と考えて朱筆で後から補入したものであろう。大島本「若紫」の親本の性格と朱筆訂正を考える上で重要な事例となる。主語は源氏。以下、途中会話文を挿入して、「まだ暁におはす」まで、くどくどと経緯を述べた冒頭文である。空蝉や夕顔と会った翌年の春三月晦。 【わづらひ】- わづらひ--わ(わ/+つ<朱>)らひ 【参らせたまへど】- 「参ら」未然形(して差し上げる、謙譲の意を含む動詞)、使役の助動詞「せ」連用形、尊敬の補助動詞「たまへ」已然形。受手(源氏)尊敬で、おさせなさるが、の意になる。 【ある人】- 以下会話文が挿入され、「など聞こゆれば」に係る。 |
【北山になむ、なにがし寺といふ所に】- 以下「試みさせたまはめ」まで、「ある人」の言葉。実際は「何々寺」と実名を言ったものを、語り手がおぼめかして表現したもの。古来鞍馬寺や何々寺かとモデルが詮索されてきたが、漠然と北山方面にある行者が住んでいる寺というぐらいの意。わざと読む人それぞれが勝手にイメージしたり想定したりするように配慮した語り方。係助詞「なむ」は「はべる」連体形に係る、係結びの法則。 【まじなひわづらひしを】- 過去の助動詞「し」連体形は「ある人」の身近な体験を語るニュアンス。 【あまたはべりき】- 過去の助動詞「き」終止形も同じく身近な体験を語るニュアンス。 【ししこらかし】- ししこらかし--しゝこらう(う/$か<朱>)し 【うたてはべるを】- 丁寧の補助動詞「はべる」連体形+接続助詞「を」順接、原因理由を表す。やっかいでございますから。 【とくこそ試みさせたまはめ】- 係助詞「こそ」は推量の助動詞「め」已然形、適当の意に係る、係結びの法則。尊敬の助動詞「させ」連用形+尊敬の補助動詞「たまは」未然形、二重敬語。会話文中の用例。 |
【聞こゆれば】- 聞こゆれば--きこゆ(こゆ/#こゆ&<朱墨>)れは 【召しに遣はしたるに】- 主語は源氏にもどる。源氏が「かしこき行ひ人」を。完了の助動詞「たる」連体形+接続助詞「に」弱い順接。--すると。 【老いかがまりて、室の外にもまかでず】- 「かしこき行ひ人」の言葉を、使者が伝える。 【まかでず】-「まかづ」は「出る」の謙譲語。外出いたしません、というニュアンス。 【申したれば】- 主語は使者。完了の助動詞「たれ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。この段は「たり」(完了の助動詞)を基調にして語られる。 【いかがはせむ。いと忍びてものせむ】- 源氏の詞。「ものせむ」は、行こう、の意。 |
【やや深う入る所なりけり】- 場面は北山に変わる。断定の助動詞「なり」連用形+過去の助動詞「けり」終止形。一転して簡潔な文章で情景描写も鮮明な表現へと変わる。 【三月のつごもりなれば】- 季節が語られる。三月晦、晩春の山景。 【京の花盛りはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて】- 「京の花」と「山の桜」とが対比された対句じたての文。完了の助動詞「に」連用形+過去の助動詞「けり」終止形。『異本紫明抄』は引歌として、「里はみな散り果てにしを足引の山の桜はまだ盛りなりけり」(玉葉集春下 二二七 躬恒)を指摘する。 【入りもておはするままに】- 主語は源氏。「おはす」は「行く」の尊敬語。 【霞のたたずまひ】- 春の景物として霞が描かれる。 【をかしう見ゆれば】- 「をかしう見ゆれば」は「めづらしう思されけり」に続く。「かかるありさまも」から「御身にて」までは、源氏の体験や日常の生活状況を説明した挿入句。 【所狭き御身にて】- 断定の助動詞「に」連用形。 【めづらしう思されけり】- 「思さ」未然形は「思ふ」の尊敬表現。自発の助動詞「れ」連用形。過去の助動詞「けり」終止形。 |
【巖屋の中にぞ】- 大島本は「いは(は+屋)の中にそ」とあり、墨筆による「屋」の補入がある。『大成』は「やハ補入シテミセケチニセリ」と注す。確かにDVD-ROMでその箇所を拡大して見れば「屋」の文字上に朱色が確認できる。指摘どおりミセケチであれば後に削除したとなろう。またあるいは最初朱書したのを再度重ねて「屋」と墨書したものであっても補入の意義は変わらない。御物本と横山本は「いはのなかにそ」とある。 【巖屋】- 巖屋--いは(は/+や) 【聖入りゐたりける】- 大島本は「ゐ」と表記する。完了の助動詞「たり」連用形。過去の助動詞「ける」連体形、係助詞「ぞ」の係結びの法則。強調を表す。聖は岩屋の中に座っていたのであった、というニュアンス。源氏たち一行が見た描写。 【登りたまひて、誰とも知らせたまはず】- 主語は源氏。 |
【あな、かしこや】- 以下「おはしましつらむ」まで、聖の詞。 【召しはべりしにやおはしますらむ】- 「召しはべりし方にや」の意。断定の助動詞「に」連用形、係助詞「や」疑問の意、推量の助動詞「らむ」連体形に係る、係結びの法則。「おはします」は「おはす」よりさらに高い敬語表現。源氏の姿を眼前にしながら「らむ」(視界外推量)というのは、心理的距離感を表す。 【思ひたまへねば】- 謙譲の補助動詞「たまへ」未然形+打消の助動詞「ね」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。 【捨て忘れてはべるを】- 丁寧の補助動詞「はべる」連体形+接続助詞「を」逆接。 【いかで、かうおはしましつらむ】- 「おはします」は「おはす」より高い敬語表現。完了の助動詞「つ」終止形。推量の助動詞「らむ」連体形(原因推量)は、上に副詞「いかで」疑問の意があるので。 |
【うち笑みつつ見たてまつる】- 主語は聖。源氏の姿を。 【いと尊き大徳なりけり】- 『首書源氏物語』は「地」といわゆる「草子地」であると指摘。『評釈』も「男君の美を認める目は持ち続けたこの老僧に、作者は、読者とともに讃辞を呈している」と注す。 【すかせたてまつり】- 『古典セレクション』は諸本に従って「すかせたてまつる」と終止形に改める。『集成』『新大系』は底本のまま。 |
【すこし立ち出でつつ】- 主語は源氏。「つつ」は単に前件を後件につなぐ接続助詞。以下、再び長文が続く。ここは源氏一行の視点を通して語る。あたかもカメラの眼が移動しながら流れていくような描写である。 【見おろさるる】- 語り手と源氏の目とが一体化した表現。可能の助動詞「るる」連体形。 【ただこのつづら折の下に】- 以下「何人の住むにか」までを源氏の詞とみる説もある。 【うるはしくし渡して】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「うるわしう」とウ音便形に改める。『新大系』は底本のまま。 |
【何人の住むにか】- 源氏の詞。しかし、前の文章との関係から、源氏の詞を間接話法的に要約したものか。直接話法ならば、「ただこのつづら折の下に」からを源氏の詞とすべきだが、やや冗長で、語り手の説明的な感じが交じる。いずれにしても、地の文と会話文とが融合したような文章が続き、最後にはっきりと会話文的な文があるというもの。地の文がだんだんとせりあがっていき、ついに本人の詞となるという表現法。「住む」連体形、断定の助動詞「に」連用形、係助詞「か」疑問の意。 |
【御供なる人】- 断定の助動詞「なる」連体形。「御供人」といわず「御供なる人」とわざわざもってまわった言い方をしている。 |
【これなむ、なにがし僧都の】- 以下「方にはべるなる」まで、供人の返事。榊原家本と池田本は「なにかしのそうつ」とある。実際には実名を答えているのであるが、語り手がそれを「なにがし」と言い換えた。係助詞「なむ」は「なる」連体形に係る、係結びの法則。 【二年】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「この二年」と改める。『新大系』は底本のままとする。 【籠もりはべる方にはべるなる】- 前者の「はべる」は丁寧の補助動詞、連体形。後者の「はべる」は丁寧の動詞、連体形+伝聞推定の助動詞「なる」連体形、係結びの法則。 |
【心恥づかしき人】- 以下「聞きもこそすれ」まで、源氏の詞。「心恥づかし」はこちらが気おくれするほど相手が立派だ、の意。 【住むなる所にこそあなれ】- マ四動詞「住む」終止形+伝聞推定の助動詞「なる」連体形。「あなれ」の「あ」はラ変動詞「ある」連体形の「る」が撥音便化しさらに無表記+伝聞推定の助動詞「なれ」已然形、係結びの法則。 【聞きもこそすれ】- 連語「もこそ」(助詞「も」+係助詞「こそ」)懸念を表す。聞き付けられたら大変だ、困ったな、というニュアンス。サ変動詞「すれ」已然形。係結びの法則。 |
【かしこに、女こそありけれ】- 以下「いかなる人ならむ」まで、供人たちの詞。係助詞「こそ」、過去の助動詞「けれ」已然形、詠嘆の意、係結び。山奥の僧坊に女人がいることに対する驚きのニュアンスを表す。 |
【僧都は、よも、さやうには、据ゑたまはじを】- 副詞「よも」下に打消推量の語を伴って、まさか--まい、の意を表す。断定の助動詞「に」連用形。ワ下二動詞「据ゑ」連用形。尊敬の補助動詞「たまは」未然形。打消推量の助動詞「じ」連体形。接続助詞「を」逆接を表す。 |
【いかなる人ならむ】- 断定の助動詞「なら」未然形、推量の助動詞「む」連体形、推量の意。 |
【をかしげなる】- 以下「なむ見ゆる」まで、供人の詞。間接話法的にその要旨を述べたものか。『集成』は括弧を付けない。 【童女なむ見ゆる】- 係助詞「なむ」--ヤ下二動詞「見ゆる」連体形、係結びの法則。 |
【行ひしたまひつつ】- 接続助詞「つつ」動作の並行を表す。--しながらの意。「いかならむと思したるを」に続く。 【日たくるままに】- 前に「日高くさし上がりぬ」とあった。時間の推移を表す。 【いかならむと思したるを】- 完了の助動詞「たる」連体形、存続の意。接続助詞「を」弱い順接。 |
【とかう紛らはさせたまひて】- 以下「なむよくはべる」まで、供人の詞。尊敬の助動詞「せ」連用形+尊敬の補助動詞「たまひ」連用形。二重敬語、会話文中の使用。 【思し入れぬなむ】- 打消の助動詞「ぬ」連体形。係助詞「なむ」は「はべる」連体形に係る、係結び。 |
【と聞こゆれば】- ヤ下二「聞こゆれ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。--ので。 【はるかに霞みわたりて】- 以下「あらじかし」までを、源氏の詞とみる説(待井『文法全解』)もある。地の文から会話文(源氏の発言)へと移っていく文章である。 |
【絵にいとよくも似たるかな】- 以下「あらじかし」まで源氏の、源氏の詞。『古典セレクション』『新大系』はここから詞とする。一方『集成』は「かかる所に住む人」以下を源氏の詞とし、「絵にいとよくも似たるかな」は地の文と解し「「かな」は、普通地の文には使われないが、ここは、見渡している源氏の気持をそのまま地の文としたものであろう」と注す。この絵は大和絵。神護寺蔵山水屏風などが参考になる。 【あらじかし】- ラ変「あら」未然形+打消推量の助動詞「じ」終止形+終助詞「かし」念押し、を表す。 |
【これは、いと浅くはべり】- 以下「なにがしの嶽」まで、供人の詞。 【御覧ぜさせてはべらば】- 使役の助動詞「させ」連用形+接続助詞「て」+丁寧の補助動詞「はべら」未然形+接続助詞「ば」順接の仮定条件を表す。人をして(誰かが)源氏に(それらの景色を)御覧に入れさせましたならば、の意。 【させて】- させて--させ(せ/+て) 【富士の山、なにがしの嶽】- 「なにがしの嶽」は、古来浅間山かとされる。とすると、いずれも当時は噴煙を上げていた活火山である。 |
【西国】- 底本の大島本には仮名表記で「にしくに」とある。 【紛らはしきこゆ】- 主語は供人。謙譲の補助動詞「きこゆ」終止形。 【紛らはし】- 紛らはし--まきゝ(ゝ/$ら<朱>)はし |
【近き所には】- 以下「人になむはべりける」まで、供人の詞。その内容から良清と呼ばれる人。 【明石の浦こそ、なほことにはべれ】- 係助詞「こそ」--「はべれ」已然形、係結びの法則。強調の意。副詞「なほ」やはり。『古典セレクション』は「もともと名所だが、やはり格別で」と注す。「明石」は播磨国の歌枕。「あまさかる鄙(ひな)の長道(ながぢ)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より大和島見ゆ」(万葉集巻三)「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」(古今集、羇旅)などが有名。 【ゆほびかなる】- ゆほびかなる--ゆほひる(る/#か)なる |
【女かしづきたる家】- 完了の助動詞「たる」連体形、存続の意。娘を大切に育てているの意。娘の年齢に問題があるが、良清が求婚した経緯から、過去から今現在に続く話と解す。後に明石の御方と呼ばれる人。 【大臣の後にて】- 後に、源氏の祖父按察使大納言(母桐壺更衣の父親)の兄に当たる人であることが「明石」巻で判明する。しかし、この巻でその構想があれば、源氏の縁者にあたる人の噂を以下に語るように何の考慮せずに語ったろうか、不審。 【出で立ちもすべかりける人の】- サ変「す」終止形+推量の助動詞「べかり」連用形、可能+過去の助動詞「ける」連体形、格助詞「の」主格を表す。できたはずの人がの意。「世のひがものにて」を挿入句として、以下の文の総主語のような形になっている。いかにも会話文的表現である。 【近衛の中将】- 従四位下相当の官職。若い貴公子の京官(太政官)出世コース。一方、播磨守は従五位上相当の地方官(受領)。ただし、大国であり、物質的利益には大変に恵まれた国。実益は大いに期待できる。 【申し賜はれりける司なれど】- 主語は「かの国の前の守」。「申し」連用形、謙譲語、「賜はれ」已然形、謙譲語、完了の助動詞「り」連用形、過去の助動詞「ける」連体形。断定の助動詞「なれ」已然形+接続助詞「ど」逆接の確定条件を表す。自分から申し出て頂戴した官職であるが、の意。 【司】- 司--つる(る/$か<朱>)さ |
【かの国の人にもすこしあなづられて】- 係助詞「も」同類を表す。都の人のみならず明石の住人からも。受身の助動詞「られ」連用形。 【何の面目にてか、また都にも帰らむ】- 前播磨守の詞を引用。「何の--か--帰らむ」は反語表現。再び都には帰れないの意。 【頭も下ろしはべりにけるを】- 丁寧の補助動詞「はべり」連用形、完了の助動詞「に」連用形、過去の助動詞「ける」連体形、接続助詞「を」逆接を表す。髪を下ろしてしまった、すなわち出家してしまった、のでございますが、の意。 【さる海づらに出でゐたる】- 完了の助動詞「たる」連体形。上文を受け、それは、と下文に続ける。 【げに】- 語り手の入道の出家生活に納得する気持ち。 【さも】- 「さ」は「すこし奥まりたる山住み」をさす。 【籠もりゐぬべき所々はありながら】- 完了の助動詞「ぬ」終止形、確述+推量の助動詞「べき」連体形、適当の意。籠もってしまうに相応しい所々はのニュアンス。 【思ひわびぬべきにより】- 完了の助動詞「ぬ」終止形、確述、推量の助動詞「べき」連体形、当然の意。格助詞「に」起点を表す、ラ四「より」連用形。きっと心細がるにちがいないことによって、の意。 |
【見たまへに寄りてはべりしかば】- 謙譲の補助動詞「たまへ」連用形、格助詞「に」動作の目的を表す。拝見するためにの意。過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ば」--したところ、--であった、という構文。 【京にてこそ】- 係助詞「こそ」は「やうなりけれ」已然形に係るが、係結びの逆接用法で、下文に続く。 【そこらはるかに】- 『新大系』は「見渡す限りいっぱい大規模に土地を所有して造営しているさまは、の意。長者屋敷の感じがある」と注す。 【そこら】- そこら--そこえ(え/#ら) 【さは言へど】- 「さ」は「かの国の人にもすこしあなづられ」をさす。 |
【さて、その女は】- 源氏の問い。接続詞「さて」話題転換を表す。 |
【けしうはあらず】- 以下「遺言しおきてはべるなる」まで、良清の答え。 【容貌、心ばせなどはべるなり】- 「はべる」連体形(ラ変型活用)+伝聞推定の助動詞「なり」終止形。『例解古語辞典』ではこの例文をあげて「明石の入道という人物の娘の話を、光源氏に、家来が申しあげていることば。娘の容貌などが「けしうはあらず」とか、父入道が「遺言しおきて侍る」とかいうことは、直接知っていることではなくて、女房などからの話などで得ているものだということが、それぞれ「なり」「なる」を添えるということで明らかにされている。話し手はこれで責任のがれにもなるわけである。もし、「けしうはあらず侍り」とか、「遺言しおきて侍る」とか言えば、ことばの上では、直接知っている事がらと理解され、その言に責任をおわされてもやむをえないはずのところ」と解説する。「容貌心ばせなどけしうはあらずはべるなり」の倒置表現。 【代々の国の司など】- 明石入道が国司を辞して後、播磨国の国司が二、三代交替する。国司の任期は四年だが必ずしも任期満了とは限らない。 【さる心ばへ見すなれど】- 「さる心ばへ」とは求婚の意志をいう。伝聞推定の助動詞「なれ」已然形。 【さらにうけひかず】- 副詞「さらに」は打消の助動詞「ず」終止形と呼応して、全然承知しないの意。 |
【我が身の】- 以下「海に入りね」まで、前国司の詞を引用。 【かくいたづらに沈めるだにあるを】- 連語「だにある」は副助詞「だに」+ラ変「ある」連体形の形。「ある」の前に無念であるなど語が省略されている形。落ちぶれているのさえ無念であるのに、の意。『新大系』は「明石巻、さらには若菜巻で明かされる大きな構想が早くもここにあるらしい」と指摘。しかし、それにしては明石の君の年齢や明石の入道の系譜などの点で不自然さがある。 【この人ひとりにこそあれ】- 前の副助詞「だに」を受けて、「まして」の気持ちが加わる。「この人」は娘をさす。子供はこの娘一人だの意。期待するところの大きさをいう。『集成』『新大系』はこの文を、前後読点で、はさみ込まれた挿入句のごとく解す。『完訳』は前後句点で、独立した一文と解すが、『古典セレクション』では読点に改める。 【思ふさまことなり】- 断定の助動詞「なり」終止形。 【宿世違はば、海に入りね】- 「違は」未然形+接続助詞「ば」仮定条件を表す。完了の助動詞「ね」命令形。 【遺言】- 遺言--*ゆいこ 【しおきてはべるなる】- 丁寧の補助動詞「はべる」連体形(ラ変型活用)+伝聞推定の助動詞「なる」連体形。連体中止法、余情表現。まだ話の続きがあるというニュアンス。 |
【海龍王の后になるべきいつき女ななり】- 供人の詞。海龍王の后とは、からかった表現。「ななり」は断定の助動詞「なる」連体形「る」が撥音便化しさらに無表記形(ラ変型活用)+伝聞推定の助動詞「なり」終止形。大切な娘なのでしょうの意。 |
【心高さ苦しや】- 「人びと」とあるので、別人の詞とみる。「苦しや」について『集成』と『古典セレクション』は「つらいものよ」と解す。『新大系』は「厄介なことよ」と解す。 |
【かく言ふは、播磨守の子の、蔵人より、今年、かうぶり得たるなりけり】- 「須磨」巻で良清という名であることがわかる。六位蔵人から従五位下に叙された。『湖月抄』は「草子地」と注す。 |
【いと好きたる者なれば】- 以下「さてたたずみ寄るならむ」まで、供人たちの詞。断定の助動詞「なれ」+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。--なので。--だから。 【破りつべき心はあらむかし】- 連語「つべき」(完了の助動詞「つ」終止形、確述の意+推量の助動詞「べき」連体形、当然の意)確実な推量を表す。きっと--するにちがいない。ラ変「あら」未然形+推量の助動詞「む」終止形+終助詞「かし」念押し。 |
【さて、たたずみ寄るならむ】- 接続詞「さて」それで。「たたずみ寄る」連体形+断定の助動詞「なら」未然形+推量の助動詞「む」終止形。それで、うろうろしているのであろう。 |
【いで、さ言ふとも】- 以下「従ひたらむは」まで、供人の詞。『集成』は「いでや、さいふとも」と本文を改め、『古典セレクション』は「いで、なにしに。さいふとも」と本文を改める。『新大系』は底本のままとする。感動詞「いで」さあ、いやもう。 【田舎びたらむ】- バ上二「田舎び」連用形+完了の助動詞「たら」未然形+推量の助動詞「む」終止形。 【親にのみ従ひたらむは】- 副助詞「のみ」限定・強調、完了の助動詞「たら」未然形+推量の助動詞「む」連体形+終助詞「は」詠嘆の意、また「従ひたらむは、田舎びたらむ」という倒置法による係助詞「は」とも解せる。 |
【母こそゆゑあるべけれ】- 以下「もてなすなれ」まで、良清の詞。係助詞「こそ」、ラ変「ある」連体形+推量の助動詞「べけれ」已然形、係結びの法則。強調のニュアンス。 【まばゆくこそもてなすなれ】- 係助詞「こそ」、「もてなす」終止形+伝聞推定の助動詞「なれ」已然形、係結びの法則。強調のニュアンス。 |
【情けなき人なりて行かば】- 御物本は「人に(に-補入)なりて(て-ミセケチ)ゆかは」、横山本、榊原家本、三条西家本は「人になりてゆかは」、池田本は「人になりて(て-ミセケチ)ゆかは」、肖柏本は「人に成ゆかは」とある。河内本も七毫源氏と鳳来寺本は「人になりゆかは」、高松宮家本と尾州家本は「人になりてゆかは」、河内本の大島本は「人なりてゆかは」とある。『集成』は「人になりてゆかば」に本文を改め、「娘が風情のない人間に育っていったなら」と解し、同じ供人の詞とする。『古典セレクション』『新大系』は「人なりてゆかば」で、「心ない人が国司になって赴任したら」と解す。 【え置きたらじをや】- 副詞「え」は打消推量の助動詞「じ」終止形と呼応して不可能の意を表す。連語「をや」(間投助詞「を」詠嘆+間投助詞「や」詠嘆)強い感動を表す。 |
【何心ありて】- 以下「ものむつかしう」まで、源氏の詞。 【海の底まで深う思ひ入るらむ】- 「深う」連用形「く」のウ音便形。ラ四「入る」終止形+推量の助動詞「らむ」終止形、原因推量の意。なぜ--なのだろうか。 【底の「みるめ】- 「みるめ」に「見る目」と「海松布」を掛ける。ちゃかした言い方。 【底の「みるめ」も、】- 海人の住む底のみるめも恥づかしく磯に生ひたるわかめをぞ摘む 【もの】- もの--も(も/#)もの |
【ただならず】- ただならず--たゝなら△(△/#す) 【かやうにても】- 以下「とどまらむをや」まで、供人の心中。 【もてひがみたること好みたまふ御心なれば】- 『古典セレクション』は「風変りを好む性癖があるとして、語り手が源氏の関心を強調する」と注す。 【御耳とどまらむをや】- 推量の助動詞「む」終止形+連語「をや」(間投助詞「を」詠嘆+間投助詞「や」詠嘆)強い感動を表す。 |
【暮れかかりぬれど】- 以下「帰らせたまひなむ」まで、供人の詞。完了の助動詞「ぬれ」已然形+接続助詞「ど」逆接を表す。 【おこらせたまはずなりぬるにこそはあめれ】- 「せたまは」は尊敬の助動詞「せ」連用形+「尊敬の補助動詞「たまは」未然形の最高敬語、会話文中の使用。打消の助動詞「ず」連用形。ラ四「なり」連用形、完了の助動詞「ぬる」連体形、格助詞「に」動作の帰着を表す。係助詞「こそ」、係助詞「は」、「あめれ」はラ変「ある」連体形「る」が撥音便化しさらに無表記形+推量の助動詞「めれ」已然形、主観的推量の意、係結びの法則。強調のニュアンス。 【はや帰らせたまひなむ】- 副詞「はや」。「たまひ」は尊敬の助動詞「せ」連用形+尊敬の補助動詞「たまひ」連用形、二重敬語。「なむ」は完了の助動詞「な」未然形+推量の助動詞「む」終止形、適当の意。 |
【とあるを、大徳】- ラ変「ある」連体形+格助詞「を」目的格を表す。 |
【御もののけなど】- 以下「いでさせたまへ」まで、行者(大徳)の詞。 【御もののけ】- 御もののけ--御もの(の/+の)け 【加はれる】- 加はれる--くはら(ら/$は<朱>)れる 【加持など参りて、出でさせたまへ】- 「参り」は尊敬語。加持などを奉仕させる、加持などなさる。「させたまへ」は尊敬の助動詞「させ」連用形+尊敬の補助動詞「たまへ」命令形、二重敬語。 |
【さもあること】- 供人の詞。 【慣らひたまはねば】- 尊敬の補助動詞「たまは」未然形、打消の助動詞「ね」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。 |
【さらば暁に】- 源氏の詞。以下に「帰らむ」などの語句が省略。行者や供人の言葉に同意する。「さらば」接続詞、それならばの意。 |
【人なくて】- 大島本と伏見天皇本は「人なくて」とある。他の青表紙本諸本は「日もいとなかきに」とある。『評釈』『集成』『古典セレクション』等は「日もいと長きに」と本文を改める。『新大系』は「人なくて」のまま、「相手になる人もなくて」と注す。 【霞み】- 霞み--かす(す/+み<朱>) 【かの小柴垣のほどに】- 前に「同じ小柴なれどうるはしくし渡して」とあったのをさす。『集成』『古典セレクション』は「かの小柴垣のもとに」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。 【人びとは帰したまひて】- 供人を京に帰す。 【惟光朝臣と】- 榊原家本、池田本、三条西家本は「これみつはかり御ともにて」とある。河内本も「惟光はかり御ともにて」とある。源氏の乳母子。「夕顔」巻に初出。 【ただこの西面にしも】- 以下、源氏の目を通して語られる叙述。 【仏据ゑたてまつりて行ふ、尼なりけり】- 『集成』『古典セレクション』は「持仏すゑたてまつりて」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。「行ふ」連体形は、間合いを置いて下文に続く。それは、--なのであったという構文。断定の助動詞「なり」連用形、過去の助動詞「けり」終止形、詠嘆の意。源氏の目を通して語られた描写。驚きの気持ち。敬語が省略され臨場感がある。『首書源氏物語』所引或抄は「地よりことはりたる也」と注す。『完訳』は「源氏の視覚にもとづく推量。「けり」「めり」「見えず」は源氏の視線にそう表現。「あはれに見たまふ」などは語り手を通した表現。両様の視点の重層によって、かいま見の奥行が深められる」と注す。 【花たてまつるめり】- 推量の助動詞「めり」終止形、視界内推量。源氏の主観的推量のニュアンス。 【と、あはれに見たまふ】- 源氏の視点から語り手の視点に戻る。 |
【清げなる大人】- 以下、再び源氏の目を通して語られる描写。 【さては童女ぞ出で入り遊ぶ】- 接続詞「さては」そして、その他には。係助詞「ぞ」「遊ぶ」連体形、係結びの法則。 【中に十ばかりやあらむと見えて】- 後の紫の上の初登場。 【あらむと】- あらむと--あらむ(む/+と<朱>) 【萎えたる】- 『集成』は「なれたる」と本文を改め「糊気の落ちた表着を着て。ふだん着の感じである」と注し、『完訳』は「萎えたる」とし「「萎ゆ」は糊気が落ちる意」と注す。 |
【何ごとぞや】- 以下「腹立ちたまへるか」まで、尼君の詞。 |
【とて、尼君の見上げたるに】- 尼君が紫の君を見上げる。紫の君は立っているので、座っている尼君よりも背が高い。格助詞「に」対象を示す。見上げた顔に、少女の顔が少し似ている、という文意。 【子なめり】- 「なめり」は断定の助動詞「なる」連体形「る」が撥音便化しさらに無表記+推量の助動詞「めり」終止形、主観的推量を表す。源氏の推測である。 |
【雀の子を】- 以下「籠めたりつるものを」まで、紫の君の詞。 【犬君が逃がしつる】- 童女の名。完了の助動詞「つる」連体形、連体中止法。余意余情表現。 【籠めたりつるものを】- 完了の助動詞「たり」連用形、存続の意+完了の助動詞「つる」連体形、完了の意+終助詞「ものを」。ずっと閉じ籠めておいたのになあ、の意。 |
【このゐたる大人】- 少納言の乳母。後から名が明かされる。 |
【例の、心なしの】- 以下「見つくれ」まで、少納言乳母の詞。格助詞「の」主格を表す。 【さいなまるるこそ、いと心づきなけれ】- 受身の助動詞「るる」連体形。係助詞「こそ」「心づきなけれ」已然形、係結びの法則。 【いづ方へかまかりぬる】- 係助詞「か」疑問、完了の助動詞「ぬる」連体形、係結びの法則。 【いとをかしう、やうやうなりつるものを】- 「やうやういとをかしうなりつるものを」という文を「いとをかしう」を強調した倒置表現。完了の助動詞「つる」連体形、完了の意+終助詞「ものを」。 【烏などもこそ見つくれ】- 係助詞「も」+係助詞「こそ」--カ下二「見つくれ」已然形、危惧の念を表す。烏などが見つけたら大変だ。 |
【髪ゆるるかに】- 髪ゆるるかに--かみの(の/$ゆ)るゝかに 【めやすき人なめり】- 源氏の視覚を通じて語る描写。「なめり」は断定の助動詞「なる」連体形の「る」が撥音便化しさらに無表記の形+推量の助動詞「めり」主観的推量を表す。 【少納言の乳母とこそ人言ふめるは、この子の後見なるべし】- 源氏の推量。物語には語られていないが、周囲の人たちがこの人を少納言の乳母と呼んでいるのを源氏は耳にしていて、今眼前の人をその人かと判断した。係助詞「こそ」は結びの流れ。断定の助動詞「なる」連体形+推量の助動詞「べし」終止形は、源氏の推測。なお大島本のみ「とこそ」とある。『集成』『古典セレクション』共に諸本に従って「とぞ」と本文を改める。『新大系』は底本のままとする。 |
【いで、あな幼や】- 以下「心憂く」まで、尼君の詞。感動詞「いで」何とまあ。形容詞「幼し」の語幹+間投助詞「や」詠嘆の意。 【おのが、かく】- 『新大系』は「重々しい尼君らしい言い方。夕顔巻に出てきた物の怪が「おのがいとめでたしと見たてまつるをば尋ね思ほさで」と言うのと似るところがある言いざまである」と注す。 【罪得ることぞと】- 生き物を捕えることは仏教の教えからは罪に当る。 【常に聞こゆるを、心憂く】- 接続助詞「を」逆接で続ける。--なのに、残念なことです。 【こちや】- 尼君の詞。間投助詞「や」詠嘆。 【ついゐたり】- 主語は紫の君。完了の助動詞「たり」終止形。膝をついて座った、の意。 |
【眉のわたりうちけぶり】- 成人女性の引き眉ではなくまだ剃り落してない眉毛の様。 【ねびゆかむさまゆかしき人かな】- 源氏の感想。 【さるは】- 接続詞「さるは」下の文や句が補足的説明をする。それと言うのも。語り手の、その実は、という文脈。少女の将来像を想像すると、それが自然と藤壺の姿に重なってくるという意識の流れ。地の文からスライドして源氏の心内に立ち入った語り口。 【限りなう心を尽くしきこゆる人に】- 藤壺をさす。以下、源氏の心内。 【まもらるる】- 大島本のみ「まもらる」とある。断定の助動詞「なり」連用形が下接するので、「まもらるる」と連体形に本文を改める。ラ四「まもら」未然形+自発の助動詞「るる」連体形。過去の助動詞「けり」終止形、詠嘆の意。自らそうだったからなのだなあと気づくニュアンス。 【まもらるる】- まもらるる--*まもらる 【思ふにも涙ぞ落つる】- 係助詞「も」強調のニュアンス。係助詞「ぞ」--タ上二「落つる」連体形、係結びの法則。強調のニュアンス。 |
【梳ることをうるさがりたまへど】- 以下「おはせむとすらむ」まで、尼君の詞。 【故姫君は】- 自分の娘でありまた幼い紫の君の母君をさしていう。当時は自分の娘に対しても「君」「たまふ」などと敬語を使う。 【十ばかりにて】- 榊原家本、肖柏本、三条西家本と書陵部本は「十二にて」とある。池田本は「十二(二、ミセケチ、はかりト訂正)にて」とある。御物本と横山本が大島本と同文。河内本も「とをはかりにて」とある。 【殿に後れたまひしほど】- 尼君の夫。故姫君の父親。紫の君の祖父。 【おのれ見捨てたてまつらば】- 謙譲の補助動詞「たてまつら」未然形+接続助詞「ば」仮定条件を表す。 【いかで世におはせむとすらむ】- サ変「おはせ」未然形+推量の助動詞「む」終止形、意志の意。サ変「す」終止形+推量の助動詞「らむ」連体形、視界外推量を表す。 |
【見たまふも、すずろに悲し】- 視点が源氏に戻り、源氏の心内を語る。 【うつぶしたるに、こぼれかかりたる髪】- 完了の助動詞「たる」連体形+格助詞「に」場所を表す。 |
【生ひ立たむありかも知らぬ若草を--おくらす露ぞ消えむそらなき】- 尼君の歌。「若草」は少女を、「露」は自分をそれぞれ喩える。それぞれ歌語。「若草」には「若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに」(万葉集巻十)「うら若みねよげに見ゆる若草を人の結ばむことをしぞ思ふ」(伊勢物語・四十九段)等の若い女性、乙女のイメージがある。「露」には「濡れてほす山路の菊の露の間にいつか千歳を我は経にけむ」(古今集秋下・素性法師)「侘びわたる我が身は露と同じくは君が垣根の草に消えなむ」(後撰集恋一)等のはかない寿命というイメージがある。また「草」と「露」と「おく」は縁語。少女の将来が不安で死ぬに死ねないの意。 |
【初草の生ひ行く末も知らぬまに--いかでか露の消えむとすらむ】- 女房の返歌。「若草」を「初草」と変え、「生ふ」「露」「消ゆ」の語を受けて応じる。「初草」は姫君を、「露」は尼君を喩える。ともに歌語。「初草のなどめづらしき言の葉ぞうらなく物を思ひけるかな」(伊勢物語・四十九段)、若い女性の意。連語「いかでか」(副詞「いかで」+係助詞「か」)--サ変「す」終止形+推量の助動詞「らむ」連体形、原因推量の意。反語表現。長生きあそばしませ、の意。 |
【こなたはあらはにやはべらむ】- 以下「までざりける」まで、僧都の詞。係助詞「や」、丁寧の補助動詞「はべら」未然形、推量の助動詞「む」連体形、係結びの法則。 【源氏の中将の】- 僧都は「源氏の中将」「光る源氏」と呼称する。 【ただ今なむ、聞きつけはべる】- 係助詞「なむ」、丁寧の補助動詞「はべる」連体形、係結びの法則。 【までざりける】- 「まで」はダ下二「まうで」未然形の縮。他の青表紙諸本は「まうて」とある。『古典セレクション』は「まうで」と改める。『集成』『新大系』は底本のまま。 |
【あないみじや】- 以下「人や見つらむ」まで、尼君の詞。 【人や見つらむ】- 係助詞「や」疑問、マ上一「見」連用形、完了の助動詞「つ」終止形、推量の助動詞「らむ」連体形、視界外推量。係結びの法則。 |
【この世に】- 以下「聞こえむ」まで、僧都の詞。 【見たてまつりたまはむや】- 謙譲の補助動詞「たてまつり」連用形、源氏に対する敬語表現。尊敬の補助動詞「たまは」未然形、尼君に対する敬語表現。推量の助動詞「む」終止形、勧誘の意。終助詞「や」疑問。拝見なさいませんかの意。 【世の憂へ忘れ、齢延ぶる人】- 源氏のすぐれた魅力の一つ。その姿を拝見すると、世の物思いは消え寿命も延びる気持ちになる。あたかも仏様のような人柄。 |
【とて、立つ音すれば、帰りたまひぬ】- 僧都の立ち上がる音がするので、源氏は庵室にお戻りになった、の意。 |
【あはれなる人を】- 以下「思ひのほかなることを見るよ」まで、源氏の心内。 【さるまじき人】- 普通なら見つけられないような人、すなわち意外な人。 【たまさかに立ち出づるだに】- 副助詞「だに」最小限を表す。--だけでも。 【さても】- 以下「慰めにも見ばや」まで、再び源氏の心内。 【かの人の御代はりに】- 藤壺宮をさす。 【明け暮れの慰めにも見ばや】- 「明け暮れ」は毎日の意。「慰め」は気持ちを紛らしたり慰めたりする意だが、藤壺に対する思いが叶えられない代償行為として。「見ばや」は結婚する、一緒に暮らす意。 |
【うち臥したまへるに】- 源氏が庵室で横になっていらっしゃると。尊敬の補助動詞「たまへ」已然形、完了の助動詞「る」連体形、接続助詞「に」順接。 【惟光を呼び出でさす】- 使役の助動詞「さす」終止形。惟光を呼び出させる意。 |
【過りおはしましけるよし】- 以下「いと本意なきこと」まで、僧都の詞。「過り」は、古くは「よきり」と清音、室町以後「よぎり」と濁音化する。平安末期の『名義抄』には「過、ヨキル」、室町時代の『和玉篇』では「過、ヨギル」とある。『完古典セレクション』『新大系』は「よきり」と清音のルビを付ける。 【ただ今なむ、人申すに】- 係助詞「なむ」は「申す」に係るが、接続助詞「に」が続き、結びの流れとなっている。 【おどろきながら、さぶらべきを】- 主語は自分。僧都。接続助詞「ながら」一つの動作と同時に他の動作を行うことを表す。接続助詞「を」逆接。気がつくと同時にさっそく伺うべきところを。 【しろしめしながら、忍びさせたまへるを】- 主語は源氏。御存知でいらっしゃりながら。尊敬の助動詞「させ」連用形+尊敬の補助動詞「たまへ」已然形、二重敬語。完了の助動詞「る」連体形+格助詞「を」目的格を表す。 【憂はしく思ひたまへてなむ】- 主語は僧都に変わる。謙譲の補助動詞「たまへ」連用形、接続助詞「て」、係助詞「なむ」、結びの省略。お恨みに存じまして。下に、今まで控えておりましたの意をこめる。 【草の御むしろも】- お宿泊の御座所を、という意を、旅にかけて風流にかつ謙虚に申し出たもの。 【この坊にこそ設けはべるべけれ】- 係助詞「こそ」--推量の助動詞「べけれ」已然形、当然の意。係結びの法則。こちらで御準備いたすべきでした。実際は、しなかったの意。 【申したまへり】- 「申し」(「言う」の謙譲語、源氏に対する敬意)連用形、尊敬の補助動詞「たまへ」已然形、僧都に対する敬意、完了の助動詞「り」終止形。敬語が付いていることによって、僧都の伝言という趣。 |
【いぬる十余日のほどより】- 以下「今そなたにも」まで、源氏が惟光をして言わせた詞。あたかも直接話法のような表現(「はべり」「たまへ」、丁寧の補助動詞、謙譲の補助動詞)であるが、伝言である。 【瘧病にわづらひはべるを】- 接続助詞「を」弱い順接。 【わづらひ】- わづらひ--わ(わ/+つ)らひ 【堪へがたく】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「堪えがたう」と改める。『新大系』は底本のまま。 【人の教へのまま】- 。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「人の教へのままに」と改める。『新大系』は底本のまま。 【かやうなる人】- 源氏に験方の行をした聖をさす。 【ただなるよりは】- 普通の行者。 |
【世に思はれたまへる人なれば】- 受身の助動詞「れ」連用形+尊敬の補助動詞「たまへ」已然形+完了の助動詞「る」連体形、存続の意。断定の助動詞「なれ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。 【軽々しき御ありさまを、はしたなう思す】- 主語は源氏。 【同じ柴の庵なれど】- 以下「御覧ぜさせむ」まで、僧都の詞。「柴の庵」は、自分の庵を謙って言った表現。 【御覧ぜさせむ】- サ変「御覧ぜ」未然形+使役の助動詞「させ」未然形+推量の助動詞「む」終止形、意志を表す。 【かの、まだ見ぬ人びと】- まだ源氏の姿を見てない尼君や女房たちの意。 【ことことしう】- 『集成』『新大系』は清音に読むが、『古典セレクション』は「ことごとしう」と濁音に読む。 【言ひ聞かせつるを、つつましう思せど】- 完了の助動詞「つる」連体形+格助詞「を」目的格を表す。「思せ」已然形(「思ふ」の尊敬語)+接続助詞「ど」逆接を表す。 |
【いと心ことによしありて、同じ木草をも植ゑなしたまへり】- 語順転換がある。「同じ木草をも心ことによしありて植ゑなしたまへり」が普通の語順。「心ことによしありて」を強調した表現である。 【月もなきころなれば】- 前に「三月の晦なれば」とあった。旧暦では月のないころである。 【灯籠なども】- 大島本「とゝ(ゝ$う<朱>)ろなとも」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「灯籠などにも」と「に」を補う。『新大系』は底本のまま。 【灯籠】- 灯籠--とこ(こ/+う<朱>)ろ 【いと心にくく】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「心にくく」と「いと」を削除する。『新大系』は底本のまま。 【心づかひすべかめり】- サ変「す」終止形+「べかめり」は推量の助動詞「べかる」連体形の「る」が撥音便化しさらに無表記形+推量の助動詞「めり」終止形、視界内推量の意。語り手の推量。 |
【常なき】- 常なき--つほ(ほ/$)ねなき 【後世のこと】- 大島本「のち世の事」と表記する。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「後の世のこと」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま「のち世のこと」とする。 【我が罪のほど】- 以下「いみじかるへきこと」まで、源氏の心内を間接的に叙述。「我が罪」とは、継母である藤壺の宮を恋慕することをさす。 【あぢきなきことに心をしめて、生ける限りこれを思ひ悩むべきなめり】- 「あぢきなきこと」とは継母の藤壺恋慕の不可能な恋。愛執の罪。源氏は「生ける限りこれを思ひ悩む」「べき」(推量の助動詞)「な」(断定の助動詞)「めり」(推量の助動詞、視界内推量)と自制自覚する。 【ことに】- ことに--こゝ(ゝ/$と<朱>)に 【いみじかるべき】- 推量の助動詞「べき」連体形の下に、御物本は「ことゝ」があり、横山本は「を」を補入。河内本は「ことゝ」とある。「こと」は「を」に誤写される可能性もある。大島本等はナシ。源氏の心内文が地の文に融合して続く。『古典セレクション』は「源氏の心内語。その末尾が切れ目なく地の文に続く」と注す。『源氏物語』には心内文が自然と地の文に変化したり、逆に地の文が競り上がって心内文になっていく叙述法がある。そうした表現世界として鑑賞すべき。 【かうやうなる住まひ】- 物思いを断ち切った出家生活、草庵生活。 【おぼえたまふものから】- 逆接の接続助詞「ものから」によって、源氏の心の両面を語る叙述。この語句によって理不尽複雑な人間心理を語り、この物語に深みを出すことに成功。 |
【ここにものしたまふは、誰れにか】- 以下「思ひあはせつる」まで、源氏の問い。断定の助動詞「に」連用形、係助詞「か」疑問。下に「おはする」などの語が省略。夢の話は源氏の虚偽であろう。 【尋ねきこえまほしき夢を見たまへしかな】- 謙譲の補助動詞「きこえ」未然形。マ上一「見」連用形+謙譲の補助動詞「たまへ」連用形+過去の助動詞「し」連体形+終助詞「かな」詠嘆。 【今日なむ思ひあはせつる】- 係助詞「なむ」--完了の助動詞「つる」連体形、係結びの法則。強調のニュアンス。 |
【うちつけなる御夢語りにぞはべるなる】- 以下「ものしはべるなり」まで、僧都の返事。断定の助動詞「に」連用形、係助詞「ぞ」、丁寧の動詞「はべる」連体形+断定の助動詞「なる」連体形、係結びの法則。 【うちつけ】- うちつけ--うち(ち/+つ<朱>)け 【尋ねさせたまひても】- 尊敬の助動詞「させ」連用形+尊敬の補助動詞「たまひ」連用形、二重敬語。接続助詞「て」+係助詞「も」含みをもたせて表現を和らげる。逆接的文脈となる。 【御心劣りせさせたまひぬべし】- サ変「せ」未然形+尊敬の助動詞「させ」連用形+尊敬の補助動詞「たまひ」連用形、二重敬語、完了の助動詞「ぬ」終止形、確述の意+推量の助動詞「べし」終止形。 【えしろしめさじかし】- 副詞「え」は打消推量の助動詞「じ」終止形と呼応して不可能の意を表す。「しろしめす」は「知る」の尊敬語。 【世を背きてはべるが】- この「が」は格助詞とも接続助詞とも解せる。 【このごろ】- 『集成』は「このころ」と清音、『古典セレクション』『新大系』は「このごろ」と濁音で読む。『岩波古語辞典』には「奈良時代にはコノコロと清音。平安時代にはコノゴロ」とあり、『名義抄』に「今来・比日・今属、コノゴロ」とあるのを典拠とする。 【かく京にもまかでねば】- 主語は僧都。期限を限って山籠もりしている最中。 |
【かの大納言の御女】- 以下「聞こゆるなり」まで、源氏の問い。「御女」は大島本「ミむすめ」と仮名表記する。 【聞きたまへしは】- 謙譲の補助動詞「たまへ」連用形+過去の助動詞「し」連体形。下に「方はこの姫君か」という内容が省略。『古典セレクション』は「源氏は例の少女を、尼君の娘であると思っているから、このように聞き尋ねる」と注す。 |
【女ただ一人はべりし】- 以下「近く見たまへし」まで、僧都の返事。過去助動詞「し」連体形、連体形止めで文をいったん中止して、かつ、「その者が」の意をこめて、下文の主語となってつながる構文。話者の口調をよく表している。 【この十余年にやなりはべりぬらむ】- 断定の助動詞「に」連用形+係助詞「や」疑問。完了の助動詞「ぬ」終止形、推量の助動詞「らむ」視界外推量。 【過ぎはべりにしかば】- 丁寧の補助動詞「はべり」連用形、完了の助動詞「に」連用形、過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。亡くなってしまいましたので。 【兵部卿宮なむ】- 藤壺の宮の兄。「桐壺」巻に初出。係助詞「なむ」は「語らひつきたまへりける」に係るが、下に接続助詞「を」弱い逆接が続き、結びの流れとなっている。 【なむ、亡くなりはべりにし】- 係助詞「なむ」--過去の助動詞「し」連体形、係結びの法則。丁寧の補助動詞「はべり」連用形、完了の助動詞「に」連用形。 【目に近く見たまへし】- 過去の助動詞「し」連体形、連体中止法。下に体言または感動を表す終助詞「かな」などを言いさした余韻を残した言い方。 |
【さらば、その子なりけり】- 源氏の心内。断定の助動詞「なり」連用形+過去の助動詞「けり」終止形、詠嘆の意。尼君の孫娘、兵部卿宮の娘で藤壺の宮には姪に当たる女の子と感動をもって理解。 【親王の御筋にて】- 以下「かよひきこえたるにや」まで、源氏の心内。「かの人」は藤壺の宮をさす。 【見まほし】- 「見る」は異性を世話する、結婚する意。マ上一「見」未然形+希望の助動詞「まほし」終止形。養女としたいまたは妻としたいの意。 【人のほども】- 以下「うち語らひて心のままに教へ生ほし立てて見ばや」まで、源氏の心内。マ上一「見」未然形+終助詞「ばや」願望を表す。地の文が自然と心中文に移っていく。 【さかしら】- さかしら--さかしゝ(ゝ/$ら<朱>) |
【いとあはれに】- 以下「形見もなきか」まで、源氏の問い。兵部卿宮が尼君の娘に通うようになったことまではわかった。しかし、昼間見た少女がその子どもなのか否かまではまだ聞いていない。そこで確認のために尋ねる。 |
【亡くなりはべりしほどに】- 以下「嘆きはべるめる」まで、僧都の返事。「し」「しか」共に過去の助動詞。「はべりしか」の「はべり」は生まれるの意、死ぬと同時に生まれたというニュアンス。出産後まもなく亡くなったの意。 【女にてぞ】- 係助詞「ぞ」、下に「ものせ」「し」連体形などの語句が省略。 【なむ、齢の末に思ひたまへ嘆きはべるめる】- 係助詞「なむ」--推量の助動詞「める」連体形、主観的推量の意、係結びの法則。謙譲の補助動詞「たまへ」連用形、丁寧の補助動詞「はべる」連体形。『古典セレクション』は「謙譲の「たまふ」が、第三者の尼君の動作につけて用いられているのは、僧都が尼君の立場に身をおいて代弁しているから」と注す。 |
【さればよ】- 源氏の心内。予想が適中したときに用いる。後見人のない女の子の不幸なことを思う。 |
【あやしきことなれど】- 以下「はしたなくや」まで、源氏の詞。「幼き御後見に思すべく」とは、養女とする、または妻とする、ということを意味する。 【聞こえたまひてむや】- あなたから尼君に。「聞こえ」は「言ふ」の謙譲語。尊敬の補助動詞「たまひ」連用形、完了の助動詞「て」未然形、確述の意、推量の助動詞「む」終止形、勧誘の意、係助詞「や」疑問の意。お話し申し上げてくださいませんか。 【思ふ心ありて】- 「独り住みにてのみなむ」に係る。途中「行きかかづらふ方もはべりながら世に心の染まぬにやあらむ」は挿入句。妻(左大臣家の娘の葵の上)はいるが、意に添わない、の意。 【まだ似げなきほどと】- 女の子の年齢(十歳くらい)が結婚にはまだ早すぎる意。 【はしたなくや】- 主語は自分、源氏をさす。結婚するにはまだ幼い十歳くらいの女の子を迎え取るなど、中途半端なことであろうか、そうではない、親代りになるつもりだ、という決意。『岩波古語辞典』は「ナシは甚だしいの意。落度や失礼・欠点などがあって無作法・ぶしつけであるの意。その結果、体裁がわるくて引込みがつかない状態。また、まともな愛想や情が欠けている意」と解説する。『評釈』は「いても立ってもいられない、穴があったら入りたい、という気持」と注す。 【はしたなくや】- はしたなくや--はしたなし(し/$く<朱>)や |
【いとうれしかるべき仰せ言なるを】- 以下「聞こえさせむ」まで、僧都の返事。推量の助動詞「べき」連体形、当然の意。断定の助動詞「ねる」連体形、接続助詞「を」逆接を表す。 【いはきなき】- 大島本「いはきなき」とあり。他の青表紙諸本「いはけなき」とある。多くの校訂本は「いはけなき」とするが、『新大系』は「いはきなき」のままとする。 【御覧じがたくや】- 接尾語ク型「がたく」連用形+係助詞「や」疑問の意。下に「あらむ」(連体形)などの語句が省略。 【そもそも、女人は、人にもてなされて大人にもなりたまふものなれば】- 大島本「そも/\女人は」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「そもそも女は」と「人」を削除する。『新大系』は底本のままとする。女性は男性(父親または夫)に世話されて一人前の人(女)となる、という当時の考えを引く。断定の助動詞「なれ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。 【詳しくはえとり申さず】- 副詞「え」打消の助動詞「ず」終止形と呼応して不可能の意を表す。わたしは僧侶の手前男女関係の事柄には立ち入ることはできないが、という意。挿入句。 【かの祖母に語らひはべりて聞こえさせむ】- 「祖母(おば)」は「おほば」の約。使役の助動詞「させ」未然形、推量の助動詞「む」終止形。祖母からお返事をさせましょう、の意。 |
【すくよかに言ひて】- 僧侶らしい振る舞い。 【ものごはきさましたまへれば】- 『集成』は「取りつく島もないご様子なので」と解し、『古典セレクション』は「堅苦しい様子をしておられるので」と解す。尊敬の補助動詞「たまへ」已然形、完了の助動詞「れ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。 |
【阿弥陀仏ものしたまふ堂に】- 以下「過ぐしてさぶらはむ」まで、僧都の詞。中座する挨拶。 【することはべるころになむ】- 係助詞「なむ」下に「なりぬ」(連体形)などの語句が省略、係結びの結びの省略。 【初夜、いまだ勤めはべらず】- 「初夜」の勤行は、午後六時頃から十時頃までに行う勤行。 |
【君は、心地もいと悩ましきに】- 係助詞「は」題目を提示。源氏の君はどうかといえば、のニュアンス。格助詞「に」時間を表す。 【雨すこしうちそそき】- 時は弥生の晦、月のないころ、しかも雨が降り出した夜。外は漆黒の闇。外の滝の音に混じって室内のかすかな物音が源氏の耳に入ってくる。 【そそき】-清音。『岩波古語辞典』に「江戸時代初期頃からソソギと濁音化した」という。 【山風ひややかに吹きたるに】- 格助詞「に」時間を表す。 【滝のよどみもまさりて】- 『河海抄』は「滝つ瀬の中にも淀はありてふをなど我が恋の淵瀬ともなき」(古今集、恋一、四九三 読人しらず)を指摘する。『完訳』も引歌として引用する。 【読経】- 読経--(/+と)経 【すずろ】- すずろ--する(る/$す<朱>)ろ 【所からものあはれなり】- 「所から」は『易林本節用集』に「所柄 トコロカラ」とあり、『日葡辞書』には「トコロカラ トコロガラ」の両方がある。なお『古典セレクション』はこの句、読点。「神妙な思いにもなるが、まして君は」と文を続けて訳す。『集成』『新大系』は清音に読むが、『古典セレクション』は「所がら」と濁音に読んでいる。 【まして】- 以下、主語は源氏。 【まどろませたまはず】- 尊敬の助動詞「せ」連用形+尊敬の補助動詞「たまは」未然形、二重敬語。他の青表紙諸本「まとろまれ給はす」。『集成』『古典セレクション』は「まどろまれたまはず」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。 |
【初夜と言ひしかども】- 先程、僧都が「初夜」と言ったがの意。 【人の寝ぬけはひ】- ナ下二「寝」未然形+打消の助動詞「ぬ」連体形。まだ寝ていない様子。なお「ぬ」が完了の助動詞ならば、「けはひ」(名詞)の前は連体形「ぬる」となる。 【扇を鳴らしたまへば】- 主語は源氏。人を呼ぶ合図。 【おぼえなき心地すべかめれど】- 主語は奥の女房。「べかめれ」は推量の助動詞「べかる」連体形の「る」が撥音便化しさらに無表記+推量の助動詞「めれ」已然形、視界内推量。源氏側からの推量。語り手と源氏の気持ちが一体化している表現。 【おぼえなき】- おぼえなき--おほえ(え/+なき<朱>) 【聞き知らぬやうにや】- 打消の助動詞「ぬ」連体形、断定の助動詞「に」連用形、係助詞「や」疑問、下に「ものせむ」などの語句が省略。反語表現。知らないふりはできない、の意。語り手が奥の女房の気持ちを推測した挿入句的表現。 【ゐざり出づる人あなり】- 「あなり」はラ変「ある」連体形の「る」が撥音便化しさらに無表記+推定の助動詞「なり」終止形。源氏側からの推量。語り手と源氏の気持ちが一体化している表現。 【すこし退きて】- 主語は奥の女房。出てきた女房が誰も見えないので戻ろうとしたところ。 |
【あやし、ひが耳にや】- 女房の詞。断定の助動詞「に」連用形+係助詞「や」疑問の意。下に「あらむ」などの語句が省略。 【ひが耳】- ひが耳--い(い/$ひ<朱>)かみゝ |
【仏の御しるべは】- 以下「なるものを」まで、源氏の詞。 【仏の御しるべは、暗きに入りても】- 従冥入於冥 永不聞仏名 【暗きに入りても】- 『源氏釈』は『法華経』の「従冥入於冥、永不聞仏名(冥きより冥きに入りて、永く仏名を聞かざりしなり)」(化城喩品)を指摘する。『古典セレクション』は「案内を頼む女房を釈尊に見立てる」と注す。 【さらに違ふまじかなるものを】- 副詞「さらに」は打消推量の助動詞「まじか」と呼応して、決して--ない、全然--ない、の意を表す。「まじかなる」は打消推量の助動詞「まじかる」連体形の「る」が撥音便化しさらに無表記形+断定の助動詞「なる」連体形。接続助詞「ものを」逆接の意。下文を言いさした余意・余情表現。 |
【いかなる方の、御しるべにか】- 大島本「いかなるかたのをん(をん$御<朱>)しるへにか」とある。『集成』は「どういうご案内をいたせばよろしいものやら」と解し、『古典セレクション』は「どちらへのご案内でございましょう」と解す。いずれも諸本に従って「御しるべにかは」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。「いかなる方」は方角や手立ての意、「しるべ」は案内や手引の意。断定の助動詞「に」連用形+係助詞「か」疑問の意。下に「はべらむ」などの語句が省略。 【御】- 御--をん(をん/$御<朱>) |
【げに、うちつけなりと】- 以下「と聞こえたまひてむや」まで、源氏の詞と和歌。 【おぼめきたまはむも】- 尊敬の補助動詞「たまは」未然形+推量の助動詞「む」連体形、婉曲の意。 |
【初草の若葉の上を見つるより--旅寝の袖も露ぞ乾かぬ】- 源氏の贈歌。「初草の若葉の上」は少女の身の上、後の紫の上をさす。「旅寝の袖」は自分を喩える。「初草」「若」「露」は、先の尼君と女房の贈答歌の語句を引用したもの。「つゆ」は「露」と副詞「つゆ」、打消の助動詞「ぬ」連体形と呼応して、まったく--ない、の意の掛詞。 |
【と聞こえたまひてむや】- 歌に添えた源氏の詞。「てむ」は完了の助動詞「て」未然形+推量の助動詞「む」終止形の連語。終助詞「や」疑問、強い希望を述べたニュアンス。 |
【さらに、かやうの】- 以下「誰れにかは」まで、女房の詞。副詞「さらに」は「ものしたまはぬ」に係り、全然--ない、の意を表す。 【わくべき】- わくべき--わゝ(ゝ/$く<朱>)へき 【しろしめしたりげなるを】- 「しろしめしたりげ」は「しろしめし」連用形(「知る」の尊敬語)+完了の助動詞「たり」終止形+接尾語「げ」。断定の助動詞「なる」連体形+間投助詞「を」詠嘆。 【誰れにかは】- 係助詞「か」疑問+係助詞「は」。下に「とりつがむ」などの語句が省略。どなたに取り次いだらよろしいのでしょうか、の意。 |
【おのづから】- 以下「思ひなしたまへかし」まで、源氏の詞。 【聞こゆるならむと】- 断定の助動詞「なら」未然形+推量の助動詞「む」終止形。 【ならむ】- ならむ--な(な/+ら)ん |
【入りて聞こゆ】- 女房が奥の尼君に伝える。 |
【あな、今めかし】- 以下「聞いたまへることぞ」まで、『集成』は「以下、尼君の心中である」と解し、『古典セレクション』は「」で括るが、心内とも詞とも注してない。「今めかし」について『集成』は「源氏の大胆さに驚く気持」と注し、『古典セレクション』は「隅におけない」と訳す。「今めかし」とは当世風なの意だが、ここは源氏の大胆な態度が今風だという意。尼君の価値観や時代差を窺わせる評言。 【この君や】- 係助詞「や」疑問、「おはする」連体形に係る、係結びの法則。 【とぞ、思すらむ】- 係助詞「ぞ」、推量の助動詞「らむ」連体形、係結びの法則。 【ことぞ」と】- ことぞ」と--こそ(そ/$と<朱>)そと |
【枕結ふ今宵ばかりの露けさを--深山の苔に比べざらなむ】- 尼君の返歌。「枕結ふ」は源氏の旅寝をさし、「深山の苔」は自分をさしていう。源氏の上句の恋の心を無視し、下句の「露」だけを受けて応える。打消の助動詞「ざら」未然形+終助詞「なむ」相手に対する願望。あなたの今夜だけの寂しさとわたしどもの寂しさを同じようにお考えにならないで下さい。『花鳥余情』は「奥山の苔の衣に比べ見よいづれか露の置きはまさると」(多武峯少将物語)を指摘し、『古典セレクション』でも引歌として指摘する。 |
【乾がたうはべるものを】- 歌に添えた詞。『細流抄』は「夕さればいとど干難き我が袖に秋の露さへ置き添はりつつ」(古今集 恋一 五四五 読人しらず)を指摘、『古典セレクション』も引歌として指摘する。返歌のあとに古歌の文句を添えるのは教養ある人。終助詞「ものを」詠嘆の気持ち。 |
【かうやうのついでなる】- 以下「聞こえさすべきことなむ」まで、源氏の詞。なお大島本は「つゐてなる」とあるが、他の青表紙諸本の多くは「つて」とある。『集成』は明融本に従って「人伝(ひとづて)なる」は校訂し、『古典セレクション』も「伝(つて)なる」と校訂するが、『新大系』は底本のままとする。 【ならはぬことになむ】- 係助詞「なむ」。下に「はべる」連体形などの語が省略。 |
【ひがこと聞きたまへるならむ】- 以下「答へきこえむ」まで、尼君の詞。尊敬の補助動詞「たまへ」已然形、完了の助動詞「る」連体形、断定の助動詞「なら」未然形、推量の助動詞「む」終止形。 【むつかしき】- 大島本は「むつかしき」とある。その他の青表紙諸本は「はつかしき」とある。『評釈』『集成』『古典セレクション』等は「はづかしき」と本文を改める。『新大系』は底本のままとする。 【何ごとをかは答へきこえむ】- 連語「かは」(係助詞「か」+係助詞「は」)推量の助動詞「む」連体形、反語表現の構文。どうお答えしてよいかわからない、の意。 |
【はしたなうもこそ思せ】- 女房の詞。連語「もこそ」(係助詞「も」+係助詞「こそ」)「思せ」已然形、係結びの法則。懸念・危惧を表す。尼君に応対することを勧める。 |
【げに、若やかなる人こそ】- 以下「かたじけなし」まで、尼君の詞。 【うたてもあらめ】- 係助詞「こそ」の係結び「あらめ」已然形。『集成』は読点。『古典セレクション』は句点。あなたがた若い人が応対するのは嫌でしょうが、年老いたわたしなら構わないでしょう、の気持ち。下文が省略。 【まめやかにのたまふ、かたじけなし】- 源氏が真剣におっしゃているのは畏れ多い、応対しなければ、の気持ち。 |
【ゐざり寄りたまへり】- 几帳のもとにいざり寄りなさった、の意。 |
【うちつけに】- 以下「仏はおのづから」まで、源氏の詞。 【御覧ぜられぬべきついでなれど】- 完了の助動詞「ぬ」終止形、確述+推量の助動詞「べき」連体形、当然の意。 【心にはさもおぼえはべらねば】- 丁寧の補助動詞「はべら」未然形、打消の助動詞「ね」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。 【仏はおのづから】- 下に「見知りたまひぬらむ」などの語句が省略された形。 |
【とて】- と言ったが、と言ってはみたものののニュアンス。『完訳』は「と言いさして」と訳す。 【おとなおとなしう】- 尼君の態度。 【つつまれて】- 遠慮されて。主語は源氏。 【とみにもえうち出でたまはず】- 主語は源氏。副詞「え」は打消の助動詞「ず」終止形と呼応して不可能の意を表す。この後、少し間合いがあって、尼君の方から切り出す。 |
【げに、思ひたまへ寄り】- 以下「聞こえさするもいかが」まで、尼君の詞。 【のたまはせ、聞こえさするも】- 「のたまはせ」の主語は源氏、「聞こえさする」の主語は尼君。それぞれ「言ふ」の最も高い敬語表現、「言ふ」の最も謙った謙譲表現。 【いかが】- 榊原家本、池田本、肖柏本、三条西家本は「あさくはいかゝ」とある。横山本は「あさくは」を補入する。御物本と書陵部本が大島本と同文。「あさくは思はむ」(反語表現)などの語句が省略されている。『集成』は「浅くはいかが」と本文を改める。『古典セレクション』は「いかが」のままとし「浅くはいかが思ひたまへむ」ぐらいの意と注す。 |
【あはれにうけたまはる御ありさまを】- 以下「うち出ではべりぬる」まで、源氏の詞。格助詞「を」目的格を表す。「思しないて」の下に「譲りたまひて」などの語句が省略され、文脈のねじれとなっている。『古典セレクション』は「「御ありさまなるを」の意」と注し「を」接続助詞「身の上なのですから」と順接の原因理由を表す文脈に解す。 【かの過ぎたまひにけむ御かはりに】- 少女の亡き母親の代りに。過去推量の助動詞「けむ」連体形の下に「人の」などの語句が省略。母親代りの後見を申し出る。 【思しないてむや】- 「思しない」の「い」は「し」のイ音便化。完了の助動詞「て」未然形、確述の意+推量の助動詞「む」終止形+係助詞「や」疑問。相手の意向を問う。 【言ふかひなきほどの齢】- 源氏自身の体験をいう。三歳の時に母親に死別。 【立ち後れはべりにければ】- 丁寧の補助動詞「はべり」連用形、完了の助動詞「に」連用形、過去の助動詞「けれ」已全然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。先立たれてしまったので、というニュアンス。 【年月をこそ重ねはべれ】- 係助詞「こそ」、丁寧の補助動詞「はべれ」已然形、係結びの法則。強調のニュアンスを添える。 【同じさまにものしたまふなるを】- 尊敬の補助動詞「たまふ」終止形、伝聞推定の助動詞「なる」連体形、接続助詞「を」順接、原因理由を表す。いらっしゃるというので、の意。 【たぐひになさせたまへと】- 尊敬の助動詞「せ」連用形、尊敬の補助動詞「たまへ」命令形、二重敬語。会話文中での用法。 【いと聞こえまほしきを】- 接続助詞「を」逆接を表す。 |
【いとうれしう思ひたまへぬべき御ことながらも】- 以下「とどめられざりける」まで、尼君の返答。謙譲の補助動詞「たまへ」連用形、完了の助動詞「ぬ」終止形、確述の意、推量の助動詞「べき」連体形、陶然の意。接続助詞「ながら」逆接を表す。係助詞「も」表現を和らげるニュアンスを添える。 【御こと】- 御こと--(/+御)事 【がらも、聞こしめしひがめたることな】- がらも、聞こしめしひがめたることな--(/+からもきこしめしひかめたる事な) 【つつましうなむ】- 係助詞「なむ」。下に「思ふたまふる」などの語句が省略。 【あやしき身一つを頼もし人にする人】- 「あやしき身一つ」は尼君、自ら謙った表現。「頼もし人にする人」は孫の姫君、紫の君。 【御覧じ許さるる方もはべりがたげなれば】- 「御覧じ」の主体は源氏。受身の助動詞「るる」連体形。断定の助動詞「なれ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。あなた様から大目に見てもらえるところもございませんようなので。 【はべりがたげなれば】-大島本「侍りかたけなれハ」とある。御物本は「侍かたな〔な-補入〕けれは」、横山本、榊原家本、池田本、三条西家本は書陵部本は「侍りかたけれは」。肖柏本が大島本と同文。『集成』『新大系』は底本のまま。『古典セレクション』は「はべりがたければ」と本文を改める。 【えなむうけたまはりとどめられざりける】- 副詞「え」は打消の助動詞「ざり」連用形と呼応して不可能の意を表す。係助詞「なむ」は過去の助動詞「ける」連体形に係る、係結びの法則。強調のニュアンスを添える。可能の助動詞「られ」未然形。 |
【みな、おぼつかなからず】- 以下「御覧ぜよ」まで、源氏の詞。 【うけたまはるものを】- 接続助詞「ものを」順接、原因理由を表す。ので、のだから。 【思ひたまへ寄るさま】- 謙譲の補助動詞「たまへ」連用形。 |
【いと似げなきことを、さも知らでのたまふ】- 尼君の心中。源氏の申し出について。連語「さも」(「さ」+係助詞「も」)そのようにも。 |
【よし】- 以下「頼もしうなむ」まで、源氏の詞。 【おし立てたまひつ】- 「おし立て」は、「外に立てわたしたる屏風少し引き開けて」を受ける。屏風を閉めた。 |
【暁方になりにければ】- 時刻の推移を表す。 【聞こえくる】- 「来る」(連体形)、文の連体中止であるとともに、以下の文の主語ともなる。余情を湛えて次に係ってゆく構文。 |
【吹きまよふ深山おろしに夢さめて--涙もよほす滝の音かな】- 源氏の歌。「深山」は前の尼君の「深山の苔」とあったのを踏まえる。迷いの夢から覚める気持ちがする。『古典セレクション』は「「夢」に、煩悩の意をも含める。暁方の懺法の声をのせた音響に、紫の上への執心の浄化される思いを詠んだ歌」と注す。 |
【さしぐみに袖ぬらしける山水に--澄める心は騒ぎやはする】- 僧都の返歌。「さしぐみ」は不意にの意と、涙が「さし汲み」の意を響かせる。「すめる」は「住める」と「澄める」の両意を掛ける。「汲み」「濡らし」「山水」「澄める」は縁語。連語「やは」(係助詞「や」+係助詞「は」)反語、サ変「する」連体形、係結びの法則。『異本紫明抄』は「古の野中の清水見るからにさしぐむものは涙なりけり」(後撰集 恋四 八一四 読人しらず)を指摘するが、『完訳』は「昔より山水にこそ袖ひづれ君がぬるらむ露はものかは」(多武峯少将物語)を引歌として指摘する。 |
【耳馴れはべりにけりや】- 僧都の歌に添えた詞。丁寧の補助動詞「はべり」連用形、完了の助動詞「ける」連体形、間投助詞「や」詠嘆の意。 |
【明けゆく空は】- 夜の明けていく様子と源氏の心が晴れやかになっていくのが象徴的に重なって描かれている景情一致の表現。 【そこはかとなう】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「そこはかとなく」と校訂する。『新大系』は底本のまま。 【木草の花どもも】- 大島本「はなとも・ゝ」とある。・(朱点)は後のものである。踊り字(ゝ)と読める文字が存在する。『集成』『古典セレクション』『新大系』は「ゝ」を無視して「木草の花ども」と校訂する。 【錦を敷けると見ゆるに】- 格助詞「に」場所を表す。「見ゆる」と「に」の間に「所」などの語が省略。 【めづらしく見たまふに】- 接続助詞「に」順接を表す。御覧になると、の意。 |
【動きもえせねど】- 副詞「え」、打消の助動詞「ね」已然形と呼応して不可能の意を表す。 【かれたる声の】- 格助詞「の」同格を表す。しわがれた声で、の意。 |
【御迎への人びと参りて】- 源氏邸の家臣たち。 【世に見えぬ】- 大島本「世にみえぬ」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「見えぬ」と「世に」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。 |
【今年ばかりの誓ひ】- 以下「思ひたまへらるべきかな」まで、僧都の詞。前に「某僧都のこの二年籠りはべるかたに」とあった。とすると、もう一年、すなわち、千日籠もりの修業である。 【なかなかにも思ひたまへらるべきかな】- 『集成』は「かえって執心が残りそうにおもわれることでございます」と解し、『完訳』は「なまじ源氏と会ったために、かえって別れがたくつらい気持」と注し、「かえってお名残り惜しゅう存ぜられるしだいでございます」と解す。「たまへ」(下二段、謙譲の補助動詞)「らる」(自発の助動詞)「べき」(推量の助動詞)「かな」(詠嘆の終助詞)。 |
【大御酒参りたまふ】- 「大御酒」(接頭語「大御」)は神や天皇・主君に差し上げる酒。 |
【山水に】- 以下「来ても見るべく」まで、源氏の詞と歌。 【心とまりはべりぬれど】- 丁寧の補助動詞「はべり」連用形、完了の助動詞「ぬれ」已全然形+接続助詞「ど」逆接を表す。 【内裏よりもおぼつかながらせたまへるも】- 「内裏」は帝をさす。格助詞「より」起点を表す。係助詞「も」同類を表す。尊敬の助動詞「せ」連用形+尊敬の補助動詞「たまふ」連体形、最高敬語。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「内裏より」と「も」を削除する。『新大系』は底本のままとする。 【かしこければなむ】- 係助詞「なむ」の下に「まからむ」連体形などの語句が省略。帰らねばなりません、の意が省略。 【今、この花の折過ぐさず参り来む】- 辞去の挨拶。改めてお礼に参りましょうという意であるが、本人自身がではなく使者が代わって参上することであろう。 |
【宮人に行きて語らむ山桜--風よりさきに来ても見るべく】- 源氏の贈歌。当山の桜の美しさを讃えて、もう一度訪れたいという当地を讃える挨拶の歌。 |
【とのたまふ御もてなし】- 以下、源氏の様子。 【声づかひさへ、目もあやなるに】- 副助詞「さへ」添加の意。断定の動詞「なる」連体形+接続助詞「に」順接、原因理由を表す。 |
【優曇華の花待ち得たる心地して--深山桜に目こそ移らね】- 僧都の唱和歌。源氏の和歌中より「山桜」の語句を用いて返す。いえ、あなたさまは山桜ではなく優曇華の花のように美しいという挨拶の歌。係助詞「こそ」、打消の助動詞「ね」已然形、係結びの法則。強調のニュアンス。 |
【時ありて】- 以下「かたかなるものを」まで、源氏の詞。『集成』『完訳』共に『法華経』「方便品」の「かくの如きの妙法は諸仏如来の、時に乃ち之を説きたまふこと、優曇鉢華の時に一たび現るるが如きのみ」を踏まえた当意即妙の返答と指摘する。『集成』は「時あって一度咲くというその花は、めったに出会えぬということですのに」、『完訳』は「時あって、ただ一度咲くと言いますが、それはめったにないことだそうですのに」と、「なる」を共に伝聞推定の助動詞と解す。 【かたかなるものを】- 「かたか」は形容詞「かたかる」連体形の「る」が撥音便化しさらに無表記の形。伝聞推定の助動詞「なる」連体形+接続助詞「ものを」逆接を表す。難しいというのに。 |
【聖、御土器賜はりて】- 聖が源氏から素焼きの盃に酒をいただく、意。上位の者から下位の者へと順に流れていく。 【賜はりて】- 賜はりて--*給て |
【奥山の松のとぼそをまれに開けて--まだ見ぬ花の顔を見るかな】- 聖の唱和歌。源氏の和歌中の言葉「山」「見る」、僧都の和歌中の言葉「花」を引用して詠む。聖も僧都同様に源氏を讃美する。 |
【御まもりに、独鈷たてまつる】- 「独鈷」は真言密教で用いる煩悩を払い悟りを求める仏具。 【聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子の数珠の】- 「聖徳太子の」の「の」は格助詞、主格を表し、「数珠の」の「の」は格助詞、同格を表す。『岩波古語辞典』に「室町時代までクタラと清音か」とあり、図書寮本「類聚名義抄」に「百済瑟、久太良古度」とあり明確に清点があるという。なお、書陵部本は「くたらく」とある。御物本も書陵部本同様に「くたらく」とあり後出の「く」をミセケチにする。一方、横山本は「くたらく」と後出の「く」を補入、榊原家本、池田本、三条西家本は「ふたらく」とある。 【やがてその国より入れたる筥の】- 「筥の」の「の」は格助詞、同格を表す。 【五葉の枝に付けて】- 「藤、桜などに付けて」と共に贈り物を時節や場所柄に応じて植物の枝に結んで贈る。 |
【聖よりはじめ】- 格助詞「より」起点を表す。 【しつる】- しつる--しつか(か/$る<朱>) 【法師の布施ども、まうけの物ども、さまざまに取りにつかはしたりければ】- 語られてはいないが、源氏は昨日京に帰した供人に迎えに来るときに、お礼のお布施の品々を持参するよう申し伝えていた。『古典セレクション』は「さまざまに取り遣はしたりければ」としている。 【出でたまふ】- いったん「出でたまふ」といってからその間の内容を後から詳しく語る。 |
【かの聞こえたまひしこと】- 源氏が僧都に少女を後見したいと言ったこと。「聞こえ」は「言ふ」の謙譲語。 【まねびきこえたまへど】- 謙譲の補助動詞「聞こえ」連用形、尊敬の補助動詞「たまへ」已然形+接続助詞「ど」逆接を表す。僧都がそっくりそのまま尼君に申し上げなさるが。 |
【ともかくも】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「ともかうも」とウ音便形表記。『新大系』は底本のまま。以下「ともかくも」まで、尼君の詞。兄の僧都に対して言った詞。 【いま四、五年を過ぐしてこそは】- 大島本「四五年」と表記。尼君の詞中の語句なので、「よとせ、いつとせ」と読んでおく。係助詞「こそ」、「ともかくも」の下に「考えめ」已然形などの語句が省略。 【さなむ】- 尼君の詞を源氏に伝言。語り手がそれを省略して「さなむ」と表現したもの。係助詞「なむ」、下に「はべりき」連体形などの語句が省略。 【本意なしと思す】- 『集成』は「がっかりなさる」と解し、『完訳』は「はがゆい気持」と解す。 |
【御消息、僧都のもとなる小さき童して】- 源氏から尼君への手紙。 |
【夕まぐれほのかに花の色を見て--今朝は霞の立ちぞわづらふ】- 源氏の贈歌。「黄昏 ユフマクレ」(名義抄)「ユウマグレ [Yumagure] 夕暮れと着あるいは夜の初め」(日葡辞書)「花の色」は少女を喩える。「霞」「立ち」は縁語。「立ちぞわづらふ」は「霞立つ」を響かす。 |
【御返し】- 「御」は客体の源氏に対する敬語表現。 |
【まことにや花のあたりは立ち憂きと--霞むる空の気色をも見む】- 尼君の返歌。「花」「霞」「立つ」の語句を用いて返す。「花」に孫娘を、「霞むる空」に源氏を喩える。なお下二段「霞むる」連体形の用例は中古では珍しい。下二段の「かすむ」は「掠むる」なので(「帚木」に用例がある)、源氏が少女を奪おうとする、の意が響かされている。源氏の真意を確かめたいという返歌。 |
【と、よしある手の】- 格助詞「の」同格を表す。 【いとあてなるを】- 『集成』『古典セレクション』は「気品のある文字を」と格助詞「を」目的格で訳す。接続助詞「を」逆接、とても上品であるが、とも訳せよう。 |
【御車にたてまつるほど】- 「たてまつる」は「乗る」の尊敬表現。主語は源氏。 【いづちともなくて、おはしましにけること】- 左大臣の詞を迎えの人々が言上した間接話法的詞。「おはします」は「おはす」よりさらに一段高い尊敬語。 【頭中将、左中弁】- 頭中将は「桐壺」巻に蔵人少将として初出、「帚木」巻に頭中将、「夕顔」巻に三位中将。左中弁は「夕顔」巻に蔵人弁として初出。頭中将の異母の弟。 |
【かうやうの御供には】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御供は」と「に」を削除する。『新大系』は底本のままとする。以下「させたまへること」まで、迎えの公達の詞。 【と思ひたまふるを】- 謙譲の補助動詞「たまふる」連体形、接続助詞「を」逆接を表す。 【おくらさせたまへること】- 大島本「おくらせ」の「ら」と「せ」の間に朱筆で「さ」を補入。なお「後る」は自ラ下二段動詞であって、四段動詞ではない。その他動詞形は「後(おく)らす」(他サ四)「後(おく)らかす」(他サ四)である。よって「後らさ」未然形+尊敬の助動詞「せ」連用形+尊敬の補助動詞「たまへ」已然形+完了の助動詞「る」連体形。 【おくらさせ】- おくらさせ--おくら(ら/+さ<朱>)せ 【いといみじき花の蔭に】- 以下「飽かぬわざかな」まで、迎えの公達の詞。「花の蔭」は歌語。桜の花の咲いている木の蔭。『新大系』は「いざ今日は春の山辺にまじりなむ暮れなばなげの花の蔭かは」(古今集・春下・素性)を参考として指摘。他に「春来れば木隠れ多き夕月夜おぼつかなしも花蔭にして」(後撰集・春中・読人しらず)などがある。 【立ち帰りはべらむは】- 丁寧の補助動詞「はべら」未然形+推量の助動詞「む」連体形、仮定の意を表す。 |
【土器参る】- 「参る」は「呑む」の尊敬語。 【「豊浦の寺の、西なるや」】- 葛城の 寺の前なるや 豊浦の寺の 西なるや 榎の葉井に 白璧沈くや 真白璧沈くや おおしとど おしとど しかしてば 国ぞ栄えむや 我家らぞ 富せむや おおしとど としとんど おおしとど としとんど 【豊浦の寺の、西なるや】- 催馬楽「葛城」の一節。「葛城(かづらき)の 寺の前なるや 豊浦(とよら)の寺の 西なるや 榎(え)の葉井に 白璧(しらたま)沈(しづ)くや 真白璧沈くや おおしとと おしとど しかしては 国ぞ栄えむや 我家(わいへ)らぞ 富せむや おおしとと としとんど おおしとんど としとんど」。源氏の資質を讃美した。 【人よりは異なる君達を】- 接続助詞「を」逆接を表す。この二人は普通の公達以上に優れた方であるが、それでも源氏の君の素晴しさには、という文脈。 【源氏の君、いといたううち悩みて、岩に寄りゐたまへる】- 国宝『源氏物語絵巻』「若紫」断簡(東京国立博物館蔵)に描かれている。 【たぐひなくゆゆしき御ありさまにぞ】- この世にまたとなく不吉なまでに美しいお姿なのでの意。 【何ごとにも】- 何ごとにも--なに事に(に/+も<朱>) 【笛】- 笛--ふえ(え/$え<朱>) |
【琴】- 大島本「きむ」とある。七絃琴をさす。 【持て参りて】- 「持て」は「持ちて」の約。 |
【これ、ただ御手一つ】- 以下「おどろかしはべらん」まで、僧都の詞。 |
【と切に聞こえたまへば】- 「聞こえ」は「言ふ」の謙譲語。尊敬の補助動詞「たまへ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。 |
【乱り心地、いと堪へがたきものを】- 源氏の詞。「乱り心地」の下に格助詞「に」などの語が省略。接続助詞「ものを」逆接の意を表す。 【けに憎からず】- 大島本は「けにゝ(ゝ+く<朱>)からす」とある。『集成』『古典セレクション』共に「けにくからず」と本文を改める。『新大系』は「げににくからず」と整定する。 【けに憎からず】- けに憎からず--けにゝ(ゝ/+く<朱>)からす 【皆立ちたまひぬ】- 一行は北山を出発なさった。 |
【飽かず口惜しと】- 以下、場面変わって残った人々の様子を語る。 【この世のものともおぼえたまはず】- 尼君たちの噂の詞。「たまふ」(四段尊敬の補助動詞)は、源氏に対する敬語表現。思われなさらないの意。仏菩薩の化身かと思う、という意。 |
【あはれ、何の契りにて】- 以下「悲しき」まで、僧都の源氏賛嘆の詞。 【かかる御さまながら】- 接続助詞「ながら」連用修飾をする。そのままで、の意。 【生まれたまへらむと】- 尊敬の補助動詞「たまへ」已然形+完了の助動詞「ら」未然形+推量の助動詞「む」連体形、推量の意。 |
【この若君】- 紫の君をさす。 【見たまひ】- 見たまひ--みた(た/+ま)ひて |
【宮の御ありさまよりも】- 以下「まさりたまへるかな」まで、紫の君の詞。宮は父兵部卿宮をさす。紫の君は「宮」とだけいうが、それで当事者には、父宮をさすことが分かる。 【かな」など】- かな」など--かなら(ら/$な<朱>)と |
【さらば、かの人の】- 以下「おはしませよ」まで、女房の詞。接続詞「さらば」それでは。「かの人」は源氏をさす。 【なりておはしませよ】- 接続助詞「て」順接、「おはしませ」命令形+終助詞「よ」強調のニュアンス。 |
【いとようありなむ】- 紫の君の心中。「よう」は形容詞「よく」連用形のウ音便形。ラ変「あり」連用形+完了の助動詞「な」未然形+推量の助動詞「む」終止形。 |
【君は、まづ内裏に参りたまひて】- 段落変わって、京に帰ってからの物語。 【いといたう衰へにけり】- 桐壺帝の詞。「いたう」は形容詞「いたく」連用形のウ音便形。完了の助動詞「に」連用形+過去の助動詞「けり」終止形、詠嘆の意。 【ゆゆしと思し召したり】- 「思し召し」は「思ふ」の最高敬語。 【尊かり】- 尊かり--たうと(と/$と<朱>)かり 【問はせたまふ】- 尊敬の助動詞「せ」連用形+尊敬の補助動詞「たまふ」終止形、二重敬語。 |
【阿闍梨などにも】- 以下「しろしめされざりけること」まで、帝の詞。 【なるべき者にこそあなれ】- 推量の助動詞「べき」連体形、適当の意。断定の助動詞「に」連用形、係り助詞「こそ」。「あなれ」は「あるなれ」の「る」が撥音便化しさらに無表記の形。推定の助動詞「なれ」已然形、係結びの法則。強調のニュアンス。 【行ひの労は積もりて】- 接続助詞「て」逆接の意。 【朝廷にしろしめされざりけること】- 「しろしめさ」未然形は「知る」の最高敬語。受身の助動詞「れ」未然形+打消の助動詞「ざり」連用形+過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意。 【尊がりのたまはせけり】- 「のたまはせ」連用形は「言ふ」の最高敬語。 |
【大殿、参りあひたまひて】- 左大臣がちょうど出仕していて来合わせなさっての意。 |
【御迎へにもと】- 以下「うち休みたまへ」まで、左大臣の詞。源氏の来訪を勧める。 【思ひたまへつれど】- 謙譲の補助動詞「たまへ」連用形+完了の助動詞「つれ」已然形+接続助詞「ど」逆接を表す。 【忍びたる御歩きに】- 格助詞「に」事の起こるもとを示す。によって、の意。 【いかがと思ひ憚りてなむ】- 係助詞「なむ」、下に「はべり」+過去の助動詞「き」連体形などの語句が省略。 【一、二日】- 大島本に「一二日」と漢字表記である。いま「いち、ににち」と字音で読んでおく。和読み「ひとひ、ふつか」。 【やがて、御送り仕うまつらむ】- 左大臣の詞。ラ四動詞「仕うまつら」未然形+推量の助動詞「む」終止形、意志。 【さしも思さねど】- 主語は源氏。副詞「さしも」。「思さ」未然形+打消の助動詞「ね」已然形+接続助詞「ど」確定逆接。 【引かされてまかでたまふ】- ラ下二動詞「引かされ」連用形+接続助詞「て」。 |
【我が御車に乗せたてまつりたまうて】- 左大臣は源氏を。謙譲の補助動詞「たてまつり」連用形、尊敬の補助動詞「たまう」は「たまひ」連用形のウ音便形、接続助詞「て」。 【自らは引き入りてたてまつれり】- 男性の場合、牛車の最上席は前方右側である。第二席がその向かいの左側、第三席は左側後ろ、第四席は右側後ろ席となる。時計の反対回り。女性の場合は、前方左側の席が最上席で、反対の時計回りの順。男女相乗りの場合は前方右側が男性、左側が女性となる。ラ四「たてまつれ」已然形(「乗る」の尊敬語)+完了の助動詞「り」終止形。 【さすがに】- やはりの意。『完訳』は「葵の上には気がすすまないが、それでも左大臣に対しては」と解す。 【心苦しく思しける】- 胸のつまる思い、気の毒なの意。『古典セレクション』は「おいたわしくお思いになるのだった」と訳す。 |
【おはしますらむと心づかひしたまひて】- 「おはします」終止形は最高敬語。推量の助動詞「らむ」終止形、視界外推量を表す。尊敬の助動詞「たまひ」連用形+接続助詞「て」。 【久しく見たまはぬほど】- 主語は源氏。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「久しう」とウ音便形に改める。『』は底本のまま。 |
【女君、例の、はひ隠れて】- 正妻の葵の上。「例の」とあるように習慣化している。 【とみにも出でたまはぬを】- 係助詞「も」強調のニュアンス。格助詞「を」目的格を表す。 【からうして】- 『集成』『新大系』は「からうして」と清音、『古典セレクション』は「からうじて」と濁音で読む。『岩波古語辞典』は「古くは清音か」といい、語源と『日葡辞書』の用例を典拠にあげる。 【渡りたまへり】- 主語は葵の上。大殿邸の源氏の部屋に葵の上のほうが出て来たという意。『完訳』は「女君の部屋から源氏の前へ」と解す。 【ただ絵に描きたるものの姫君のやうに】- 当時の物語絵の中の姫君のように美しく着飾られているがじっとしていて動かない。 【し据ゑられて】- ワ下二動詞「し据ゑ」未然形+受身の助動詞「られ」連用形、接続助詞「て」。 【思ふこともうちかすめ】- 以下「御心の隔てもまさるを」まで、源氏の心中と地の文とが融合したような叙述である。その長文が源氏の屈曲した心の綾を表現する。「思ふこともうちかすめ」と「山道の物語をも聞こえむ」は並列の構文。 【言ふかひありて、をかしういらへたまはばこそ、あはれならめ】- 挿入句。係助詞「こそ」推量の助動詞「め」已然形、係結びの法則、逆接用法で下文に続く。 【言ふかひ】- 言ふかひ--は(は/$い<朱>)ふかひ 【世には心も解けず】- 『古典セレクション』「「世には」は強調の語法。じつにまあ、ことのほかに、の意」と注す。副詞「世に」実に。 【解けず】- 解けず--とけ(け/$け<朱>)す 【うとく恥づかしきものに思して】- 主語は葵の上。 【思して】- 思して--おほし(し/+て<朱>) 【年のかさなるに添へて】- 源氏と葵の上の結婚は「桐壺」巻の源氏十二歳の元服の夜であった。当「若紫」巻は、新年立によれば、源氏十八歳。六年の歳月が流れる。 【いと苦しく、思はずに】- 主語は源氏。「思はずに」は連語「思はず」連用形、意外だの意+断定の助動詞「に」連用形。いわゆる形容動詞「思はずなり」の連用形。 |
【時々は】- 以下「めづらしう」まで、源氏の詞。 【世の常なる御気色を見ばや】- 「世」は夫婦仲。終助詞「ばや」話者の願望を表す。 【いかがとだに】- 副助詞「だに」最小限を表す。せめて--だけでも。 【問ひたまはぬこそ】- 御物本、榊原家本、池田本、三条西家本は「とはせ給はぬこそ」という二重敬語表現。横山本は「とうたまはぬこそ」、肖柏本は「とふらひ給はぬこそ」とある。書陵部本が大島本と同文。河内本は「とはせ給はぬも」とある。『集成』は「とはせ給はぬこそ」と本文を改める。『古典セレクション』『新大系』は底本のままとする。係助詞「こそ」は断定の助動詞「なれ」已然形に係るが、下に接続助詞「ど」逆接が続いたために、結びの流れとなっている。 【なほうらめしう】- 「うらめしく」のウ音便形。言いさした形で余意余情表現。 |
【問はぬは、つらきものにやあらむ】- 葵の上の詞。『源氏釈』は「君をいかで思はむ人に忘らせてとはぬはつらきものとしらせむ」(源氏釈所引、出典未詳)を指摘。その他「とはぬはつらきもの」という句を含む和歌として、「忘れねと言ひしにかなふ君なれど問はぬはつらきものにぞありける」(後撰集 恋五 九二八 本院のくら)、「言も尽きほどはなけれど片時も問はぬはつらきものにぞありける」(古今六帖五)などもある。尋ねないというのは本当に辛いことなのでしょうか、もしそうなら、訪ねてくださらないわたしの辛い気持ちもお分かりでしょう、と「問ふ(見舞う)」を「訪ふ」の意に変えて切り返した。『古典セレクション』は「心を開いて素直に源氏を待ち迎えることのできない葵の上は、かろうじて古歌によりつつ恨みを述べる」と注す。 【問はぬは、つらきものにや】- 君をいかで思はむ人に忘らせて訪はぬはつらきものと知らせむ |
【後目に】- 後目に--しりめかり(かり/$に<朱>) 【いと恥づかしげに】- 『集成』は「近づきがたい感じ」と解す。 |
【まれまれは】- 以下「よしや命だに」まで、源氏の詞。「まれまれは」は、たまさかにおっしゃるかと思えばの意。 【御こと】- 御こと--(/+御<朱>)事 【訪はぬ、など言ふ際は】- 葵の上の「問はぬはつらき」を受けて切り返す。『古典セレクション』は「「問はぬはつらき」などという言葉は、忍んで通う程度の関係ならともかく、世間公認の夫婦である源氏と葵の上との仲で言うべきことではない、といなした」と注す。 【異にこそはべるなれ】- 「異」は他の夫婦。係助詞「こそ」、丁寧語「はべる」連体形、断定の助動詞「なれ」已然形、係結びの法則。強調のニュアンス。 【はしたなき御もてなし】- 『集成』は「取り付く島もないお仕打ち」と解す。 【とざまかうさまに】- 「左之右之、トザマカウサマ、自由自在義也(文明本節用集)」(岩波古語辞典)。 【試みきこゆるほど】- 試みきこゆるほど--心みきこゆるを(を/$ほ)と 【いとど思ほし疎むなめりかし】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「思し」と校訂。『新大系』は底本のまま。「思ほし」のまま。「なめり」は断定の助動詞「なる」連体形の「る」が撥音便化しさらに無表記形+推量の助動詞「めり」終止形、主観的推量、終助詞「かし」念押し。 【よしや、命だに】- 『奥入』は「命だに心にかなふものならば何か別れの悲しからまし」(古今集 離別 三八七 しろめ)を指摘する。生きているうちにいつか直る時があろうの意。『集成』は「引歌があろうが、明らかでない」と注す。『完訳』は「やや不審」という。 |
【聞こえわづらひたまひて、うち嘆きて臥したまへるも】- 主語は源氏。『集成』は「〔源氏は〕誘いあぐねなさって」「よこになられたが」と解すが、『古典セレクション』は「「聞こえ…臥したまへるも」は、葵の上の動作と解す」と注し、「申し上げる言葉もさがしあぐねられて、ため息をついて横におなりになるが」と訳す。 【なま心づきなきにやあらむ】- 語り手が源氏の心情を想像した挿入句。『休聞抄』に「双也」とあり草子地と指摘。 【ねぶたげにもてなして】- 『古典セレクション』は「源氏の、葵の上を避ける態度」と注す。 【とかう】- とかう--と(と/+か<朱>)う |
【この】- 横山本、榊原家本、池田本、三条西家本は「かの」とある。御物本と肖柏本、書陵部本が大島本と同文。河内本は「かの」とある。 【この若草の】- 『集成』は「以下、源氏の心中」と解す。「この若草」という呼び方は源氏の心中に即したような表現。『完訳』は「似げないほど」以下「ひとつ后腹なればにや」までを源氏の心中と解す。 【なほゆかしきを】- 接続助詞「を」順接、原因理由を表す。ので。 【似げないほどと思へりしも】- 主語は尼君。尼君の態度に対して特に敬語を使っていない。 【匂ひやかになどもあらぬを】- 接続助詞「を」逆接を表す。 【かの一族】- 先帝の一族。具体的には叔母の藤壺宮。大島本「ひとそう」と訓読した仮名表記。 【おぼえたまふらむ】- 主語は紫の上。「おぼえ」は、似る意。 【ひとつ后腹なればにや】- 主語は兵部卿宮。断定の助動詞「なれ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。断定の助動詞「に」連用形+係助詞「や」疑問を表す。 |
【またの日】- 北山から帰っての翌日。 【御文たてまつれたまへり】- 他下二「たてまつれ」連用形。人をして手紙を差し上げ、の意。尊敬の補助動詞「たまへ」已然形、完了の助動詞「り」終止形。 【僧都にもほのめかしたまふべし】- 推量の助動詞「べし」終止形、語り手の想像。 |
【もて離れたりし】- 以下「いかにうれしう」まで、源氏の手紙文。相手の態度に対して特に敬語を付けていない。 【思ひたまふるさまをも】- 主語は源氏。謙譲の補助動詞「たまふる」連体形。 【えあらはし果てはべらずなりにしをなむ】- 副詞「え」は打消の助動詞「ず」連用形と呼応して不可能の意を表す。丁寧の補助動詞「はべら」未然形、手紙文中の用例。官僚の助動詞「に」連用形+過去の助動詞「し」連体形+格助詞「を」目的格+係助詞「なむ」。下に「口惜しう思ひ給ふる」などの語句が省略。言いさした形で、余意余情表現。 【おしなべたらぬ志のほどを】- バ下二「おしなべ」連用形+完了の助動詞「たら」未然形+打消の助動詞「ぬ」連体形。並々ならない、の意。 【御覧じ知らば】- 「知ら」未然形+接続助詞「ば」順接の仮定条件を表す。 【いかにうれしう】- 「うれしう」連用中止法。下に「思はむ」などの語句が省略。 |
【小さく引き結びて】- 尼君への正式な立て文の書状の中に結び文を鋏み込んだもの。結び文は恋文の形式。少女宛てなので小さく結んだ。 |
【面影は身をも離れず山桜--心の限りとめて来しかど】- 源氏の贈歌。「面影」は少女の面影、「山桜」に喩える。「とめて」は「止めて」の意。大島本は仮名表記「こしかと」。カ変「来(こ)」未然形+過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ど」逆接。過去の助動詞「き」は本来連用形に続くが、カ変「来」の場合、「し」連体形及び「しか」已然形は「こし」「こしか」、「きし」「きしか」と、未然形「こ」と連用形「き」の両方に続く。中世になると「こし」「こしか」が普通となる。 【離れず】- 離れず--はな(な/+れ<朱>)す |
【夜の間の風も、うしろめたくなむ】- 和歌に添えた言葉。『異本紫明抄』は「朝まだき起きてぞ見つる梅の花夜の間の風の後めたさに」(拾遺集 春 二九 元良親王)を指摘。『古典セレクション』は「山桜にたとえられる紫の上が今にもどこかへ引き取られはせぬかと危惧する気持」と注す。 【夜の間の風も、うしろめたく】- 浅まだき起きてぞ見つる梅の花夜の間の風のうしろめたさに |
【さだ】- 大島本は「また」とある。大島本の独自異文。変体仮名の字母「左」と「万」の類似から生じた誤写であろう。諸本によって改める。 【さだ】- さだ--*ま(ま/=さイ) |
【あな、かたはらいたや。いかが聞こえむ】- 尼君の心中。「かたはらいた」は形容詞「かたはらいたし」の語幹。間投助詞「や」詠嘆。推量の助動詞「む」連体形。 |
【ゆくての御ことは】- 以下「うしろめたう」まで、尼君の返書。「ゆくて」は行きががりの意。 【思ひたまへなされしを】- 謙譲の補助動詞「たまへ」連用形、自発の助動詞「れ」連用形、過去の助動詞「し」連体形+接続助詞「を」逆接を表す。 【まだ「難波津」をだに】- 『紫明抄』は「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」(古今集仮名序)を指摘。初心者の手習い歌である。副助詞「だに」最小限を表す。 【「難波津」】- 難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花 【はかばかしう続けはべらざめれば】- 仮名文字を連綿体で書くこと。「ざめれ」は「打消の助動詞「ざる」連体形「る」が撥音便化しさらに無表記形+推量の助動詞「めれ」已然形、主観的推量+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。 【かひなくなむ】- 係助詞「なむ」、下に「はべる」連体形などの語が省略。 【さても】- 連語(副詞「さて」+係助詞「も」)そんな状態でもやはり。 |
【嵐吹く尾の上の桜散らぬ間を--心とめけるほどのはかなさ】- 尼君の返歌。源氏の歌に添えた「夜の間の風」を「嵐吹く」と受け、また「山桜」を「尾の上の桜」と受けて応える。束の間の心寄せではないかとして切り返す。 |
【いとどうしろめたう」--とあり】- 【いとどうしろめたう】-歌に添えた言葉。源氏が気掛かりに思う以上にこちらは一層心配だ、の意。形容詞「うしろめたう」連用形、ウ音便形。連用中止法。言い切らない余意余情表現。 【うしろめたう」--と】- うしろめたう」と--うしろめたかう(か/$<朱>、う/+と<朱>) |
【いとどうしろめたう」--とあり】- 【いとどうしろめたう】-歌に添えた言葉。源氏が気掛かりに思う以上にこちらは一層心配だ、の意。形容詞「うしろめたう」連用形、ウ音便形。連用中止法。言い切らない余意余情表現。 【うしろめたう」--と】- うしろめたう」と--うしろめたかう(か/$<朱>、う/+と<朱>) 【二、三日ありて】- 大島本は漢字表記で「二三日」とある。字音で「にさむにち」と読んでおく。 【惟光をぞたてまつれたまふ】- 係助詞「ぞ」は尊敬の補助動詞「たまふ」連体形に係る、係結びの法則。強調のニュアンス。下二「たてまつれ」連用形、使者を差し上げる、意。 |
【少納言の乳母】- 以下「詳しう語らへ」まで、源氏の詞。前に「少納言の乳母とぞ人いふめるはこの子の後見なるべし」とあった。 【と言ふ人あべし】- 「あべし」はラ変「ある」連体形「る」が撥音便化しさらに無表記形+推量の助動詞「べし」終止形。 【さも、かからぬ隈なき】- 以下「いはけなげなかりしけはひを」まで、惟光の心中。副詞「さも」まったく、いかにも。「かから」未然形は「関る・係る・懸る・掛る」の意+打消の助動詞「ぬ」連体形。抜け目ない。 【さばかりいはけなげなりしけはひを】- 副詞「さばかり」。過去の助動詞「し」連体形。接続助詞「を」逆接を表す。あれほど幼げな様子だったのに。 |
【かう御文あるを】- 接続助詞「を」順接を表す。お手紙があったので。 【詳しく、思しのたまふさま、おほかたの御ありさまなど語る】- 主語は惟光。「詳しく」は「語る」に掛かる。「思しのたまふさま」と「おほかたの御ありさま」は並列の構文。 【言葉多かる人にて】- 惟光の人柄。『集成』は「多弁な人物で」と解し、『完訳』は「口の達者な男」と解す。 【いとわりなき御ほどを、いかに思すにか】- 尼君と僧都の心中。源氏の心を思う。 【誰も誰も思しける】- 「誰も誰も」は「思す」という敬語表現なので、僧都と尼上のこと。過去の助動詞「ける」連体形、係助詞「なむ」の係結びの法則。 |
【かの御放ち書き】- 尼君の返書に「まだ「難波津」をだにはかばかしう続けはべらざめれば」とあったのを受ける。 【なほ見たまへまほしき】- 謙譲の補助動詞「たまへ」連用形、希望の助動詞「まほしき」連体形、係助詞「なむ」の係結びの法則。 |
【あさか山浅くも人を思はぬに--など山の井のかけ離るらむ】- 源氏の贈歌。『紫明抄』は「浅香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」(古今集仮名序)を指摘。尼君の「難波津」に寄せて、和歌の手習い歌である「浅香山」の歌を踏まえた歌を贈った。「かけ離る」は「影離る」との掛詞。当時は濁音表記がないので文字表記だけから見れば共に「かけはなれ」となる。 【あさか山浅くも人を思はぬに】- あさ山影さへ見ゆる山の井の浅くは人を思ふものかは |
【汲み初めてくやしと聞きし山の井の--浅きながらや影を見るべき】- 尼君の返歌。『異本紫明抄』は「悔しくぞ汲みそめてける浅ければ袖のみ濡るる山の井の水」(古今六帖二 山の井)を指摘。係助詞「や」、推量の助動詞「べき」連体形、係結びの法則。反語表現。「影」は孫娘をさす。孫娘をお見せすることができましょうか、いえできませんの意。 【汲み初めてくやし】- 悔しくぞ汲みそめてける浅ければ袖のみ濡るる山の井の水 |
【このわづらひたまふことよろしくは】- 以下「聞こえさすべき」まで、少納言の乳母の詞。「この」は尼君をさす。「よろしく」未然形+接続助詞「は」、順接の仮定条件を表す。多少よくなったら。 【このごろ】- 『古典セレクション』は「このごろ」と濁音に読む。『集成』『新大系』は清音に読んでいる。「今来・比日・今属、コノゴロ」(名義抄)。「奈良時代にはコノコロと清音。平安時代以後コノゴロ」(岩波古語辞典)。 【聞こえさすべき】- 「聞こえさす」終止形は「言ふ」の最も丁重な謙譲語。推量の助動詞「べき」連体形、係助詞「なむ」と係結びの法則。 【とあるを、心もとなう思す】- 助詞「を」について、『今泉忠義訳』は「と少納言からの口上なので」と接続助詞、順接の意に、『古典セレクション』は「少納言の乳母の返事があるのを」と格助詞、目的格の意に、それぞれ訳す。 |
| 表示設定 | 行番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈等の記述 | 見出し | 絵入源氏物語の挿絵 | 著作権 | 罫線 | ||||
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