設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
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この帖の主な登場人物 | |||
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登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
光る源氏 | ひかるげんじ | 源氏中将 中将の君 源氏の君 宰相の君 男君 |
十八歳から十九歳;参議兼近衛中将 |
頭中将 | とうのちゅうじょう | 頭中将 中将 頭の君 |
葵の上の兄 |
桐壺帝 | きりつぼのみかど | 帝 主上 内裏 |
光る源氏の父 |
弘徽殿女御 | こうきでんのにょうご | 春宮の女御 弘徽殿 女御 |
桐壺帝の女御;東宮の母 |
藤壺の宮 | ふじつぼのみや | 藤壺 宮 母宮 |
桐壺帝の后;光る源氏の継母 |
葵の上 | あおいのうえ | 大殿 妹君 姫君 |
光る源氏の正妻 |
紫の上 | むらさきのうえ | 若草 姫君 女君 |
兵部卿宮の娘;藤壺宮の姪 |
源典侍 | げんないしのすけ | 典侍 内侍 女 |
好色な老女 |
第六帖 末摘花 光る源氏の十八歳春正月十六日頃から十九歳春正月八日頃までの物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
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第一章 末摘花の物語 |
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第一段 亡き夕顔追慕 |
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1.1.1 | どんなに思ってもなお飽き足りなかった夕顔の露のように先立たれた時の悲しみを、年月を経てもお忘れにならず、いずれもいずれも気の置ける方ばかりで、気取って思慮深さを競い合っているのに対して、人なつこく気を許していたかわいらしさに、二人となく恋しくお思い出しなさる。 |
源氏の君の夕顔を失った悲しみは、月がたち年が変わっても忘れることができなかった。左大臣家にいる夫人も、六条の |
【思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を】- 五七五七七の和歌的リズムの地の文。『完訳』は「思へども身をし分けねば目に見えぬ心を君にたぐへてぞやる」(古今集、離別、三七三、伊香子淳行)「あかざりし袖の中にや入りにけむ我が魂のなき心地する」(古今集、雑下、九九二、陸奥)「時雨つつ梢々にうつるとも露に後れし秋な忘れそ」(朝忠集)を引歌として指摘、歌中の語句を引用して綴った文である。 【年月経れど】- 夕顔の死は、昨年の源氏十七歳秋八月のこと。 |
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1.1.2 | 何とかして、大層な評判はなく、とてもかわいらしげな女性で、気の置けないようなのを、見つけたいものだと、性懲りもなく思い続けていらっしゃるので、少しでも風流人らしく評判されるあたりには、漏れなくお耳を留めにならないことはないのに、それではと、お考え立たれるほどの人には、ちょっと手紙をおやりになるらしいが、お靡き申さずよそよそしく振る舞う人は、めったにいないらしいのには、まったく見飽きたことだ。 |
どうかしてたいそうな身分のない女で、 |
【ことことしき】- 『集成』『新大系』は清音に読むが、『古典セレクション』は「ことごとしき」と濁音に読む。 【こりずまに】- 性懲りもなく、の意。『河海抄』は「こりずまにまたもなき名は立ちぬべし人にくからぬ世にし住まへば」(古今集、恋三、六三一 、読人しらず)を指摘、その文句を使った表現。 【いと目馴れたるや】- 語り手の評言。『細流抄』が「草子地評して云也」と指摘、『全集』も「草子地。(中略)虚構された物語の語り手が、物語の内容をみずから批評する形をとった技法」と注す。 |
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1.1.3 | つれなう |
すげなく強情な人は、いいようのないほど情愛に欠けた真面目一方など、大して人情の機微を知らないようで、そのくせ最後までそれを貫き通せず、すっかり曲げて、いかにも平凡な男におさまったりなどする人もいるので、中途でやめておしまいになる人も多いのであった。 |
ある場合条件どおりなのがあっても、それは頭に欠陥のあるのとか、 |
【多かりける】- 大島本「おほかりける」とある。『集成』『新大系』は諸本に従って「多かりけり」と校訂するが、『古典セレクション』は底本のままとする。 |
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1.1.4 | かの おほかた、 |
あの空蝉を、何かの折節には、妬ましくお思い出しになる。 荻の葉も、適当な機会がある時は、気をお引きなさる時もあるのだろう。 燈火に照らされてしどけなかった姿は、もう一度そうして見たいものだとお思いになる。 総じて、すっかりお忘れになることは、できないご性分なのであった。 |
【かの空蝉を】- 伊予介の後妻、語り手は登場人物をこのような渾名で呼称する。「夕顔」巻でも同じ呼称がされている。 【荻の葉も】- 伊予介の先妻の娘、軒端荻と呼称される人。語り手は「荻の葉」と呼称する。 【風のたより】- 「荻の葉」と「風」は縁語。地の文に和歌の技法を用いて叙述する。 【火影の乱れたりしさまは】- 「空蝉」巻の空蝉と軒端荻が碁をうっていた場面をさす。 |
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第二段 故常陸宮の姫君の噂 |
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1.2.1 | いといたう |
左衛門の乳母といって、大弍の次に大切に思っていらっしゃる者の娘で、大輔の命婦といって、内裏に仕えている者は、皇族の血筋を引く兵部の大輔という人の娘であった。 とても大層な色好みの若女房であったのを、君も召し使ったりなどなさる。 母親は、筑前守と再婚して、赴任していたので、父君の家を里として通っている。 |
【左衛門の乳母】- 源氏の乳母の一人。 【大輔の命婦】- 源氏の乳母子に当たる。女性である。 【わかむどほりの兵部大輔なる女】- 父親は皇族の血筋をひく兵部大輔という人の娘。 【母は筑前守の妻にて】- 大輔命婦の母親である左衛門乳母は筑前守と再婚しての意。兵部大輔の生活ぶりは、あまりおもわしくなかったようである。財力のある地方官と再婚した中流の女房の実生活面をうかがわせる。 |
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1.2.2 | 故常陸親王が晩年に儲けて、大層大切にお育てなさったおん姫君が、心細く遺されて暮らしているのを何かの折に、お話申し上げたところ、気の毒なことだと、お心に留めてお尋ねなさる。 |
【故常陸親王の、末にまうけて】- この巻の女主人公、末摘花と呼称される人の紹介。 【語りきこえ】- 大輔命婦が源氏にお話し申し上げるの意。 |
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1.2.3 | 「気立てや器量など、詳しくは存じません。 控え目で、人と交際していらっしゃらないので、何か用のあった宵などに、物を隔ててお話しております。 琴を親しい話相手と思っています」と申し上げると、 |
「どんな性質でいらっしゃるとか |
【心ばへ容貌など】- 以下「なつかしき語らひ人と思へる」まで、命婦の詞、常陸宮の姫君について語る。「琴」(きん)は七絃琴をさし、当時は弾く人がまれであった絃楽器。この物語では源氏や皇族の一部の人々が弾く楽器である。 |
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1.2.4 | 「三つの友として、もう一つは不向きだろう」と言って、「わたしに聞かせよ。 父親王が、その方面でとても造詣が深くていらしたので、並大抵の手ではあるまい、と思う」とおっしゃると、 |
「それはいいことだよ。琴と詩と酒を三つの友というのだよ。酒だけはお嬢さんの友だちにはいけないがね」こんな |
【三つの友にて】- 途中、語り手の引用句「とて」をはさんで、「あらじとなむ思ふ」まで、源氏の詞。「三の友」とは、琴・酒・詩をさす。『白氏文集』巻第六十二「北窓三友」にもとづく。 【おしなべての手には】- 大島本「をしなへてのてにハ」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「おしなべての手づかひには」と校訂するが、『新大系』は底本のままとする。 【となむ思ふ】- 大島本「となむおもふ」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「と思ふ」と「なむ」を削除するが、『集成』『新大系』は底本のままとする。 【とのたまへば】- 大島本「との給へハ」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「と語らひたまふ」と校訂するが、『集成』『新大系』は底本のままとする。 |
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1.2.5 | 「そのようにお聞きあそばすほどのことではございませんでしょう」 |
「そんなふうに |
【さやうに】- 以下「あらずやはべらむ」まで、命婦の詞、源氏に姫君への気をもたせる。 【あらずやはべらむ】- 大島本「あらすや侍らむ」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「はべらずやあらむ」と校訂するが、『集成』『新大系』は底本のままとする。 |
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1.2.6 | と言うが、お心惹かれるようにわざと申し上げるので、 |
【と言へど】- 大島本「といへと」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「と言へば」と順接に校訂するが、『集成』『新大系』は底本のまま逆接とする。 【御心とまるばかり聞こえなすを】- 大島本「御心とまるはかりきこえなすを」とある。『古典セレクション』は諸本に従って削除するが、『集成』『新大系』は底本のままとする。 |
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1.2.7 | 「ひどくもったいぶるね。 このごろの朧月夜にこっそり行こう。 退出せよ」 |
「思わせぶりをしないでもいいじゃないか。このごろは |
【いたうけしきばましや】- 以下「まかでよ」まで、源氏の詞。命婦に姫君への手引を依頼する。 【このころ】- 「今来・比日・今属、コノゴロ」(名義抄)。「奈良時代にはコノコロと清音。平安時代以後コノゴロ」(岩波古語辞典)。『集成』は清音で読んでいる。 【おぼろ月夜】- 春の月のある夜。 【まかでよ】- わたしが常陸宮邸に行く夜は、そなたがそこに退出していてくれ、の意。 |
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1.2.8 | とのたまへば、わづらはしと |
とおっしゃるので、面倒なと思うが、内裏でものんびりとした春の所在ない折に退出した。 |
源氏が熱心に言うので、大輔の命婦は迷惑になりそうなのを恐れながら、御所も御用のひまな時であったから、春の |
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1.2.9 | 父親の大輔の君は他に住んでいるのであった。 ここには時々通って来るのであった。 命婦は、継母の家には住まず、姫君の家と懇意にして、ここには来るのであった。 |
父の大輔は宮邸には住んでいないのである。その継母の家へ出入りすることをきらって、命婦は祖父の宮家へ帰るのである。 |
【父の大輔の君は他にぞ住みける】- 父兵部大輔は新しい妻のもとに住んでいるのであった、の意。 【ここには時々ぞ通ひける】- 娘の命婦はここ常陸宮邸に時々出入りしていた、の意。 【命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりをむつびて、ここには来るなりけり】- 命婦は父親に従って継母のもとには住まず、こちらに来るのであったの意。以上から、『集成』は「兵部の大輔は宮家とよほど縁の深い人(末摘花の兄か)と考えられる」と解す。『完訳』は「宮家の縁者らしい。一説には宮の子、末摘花の兄とするが、未詳」と注す。 |
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第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く |
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1.3.1 | のたまひしもしるく、 |
おっしゃったとおりに、十六夜の月が美しい晩にいらっしゃった。 |
源氏は言っていたように |
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1.3.2 | 「とても、困りましたことですわ。 楽の音が冴え渡って聞こえる夜でもございませんようなので」と申し上げるが、 |
「困ります。こうした天気は決して音楽に適しませんのですもの」 |
【いと、かたはらいたき】- 以下「はべらざめるに」まで、命婦の詞。 |
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1.3.3 | 「もっと、あちらに行って、たった一声でも、お勧め申せ。 聞かないで帰るようなのが、癪だろうから」 |
「まあいいから御殿へ行って、ただ一声でいいからお |
【なほ、あなたに】- 以下「ねたかるべきを」まで、源氏の詞。 |
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1.3.4 | とおっしゃるので、くつろいだ部屋でお待ちいただいて、気がかりでもったいないと思うが、寝殿に参上したところ、まだ格子を上げたままで、梅の香の素晴らしいのを眺めていらっしゃる。 ちょうど良い折だと思って、 |
と |
【うちとけたる住み処】- 常陸宮邸で命婦が私用している部屋をさす。取り散らした部屋の意。 【うしろめたうかたじけなし】- 命婦の心配。源氏に対して、失礼はないか、恐れ多いという気持ち。 【寝殿に】- 常陸宮の姫君は寝殿に住んでいる。身分の高貴さを窺わせる。 【梅の香をかしきを見出だして】- 季節は一月下旬ころ。白梅が馥郁たる香を発している様子。 【よき折かな】- 命婦の心。 |
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1.3.5 | 「お琴の音は、どんなに聞き優ることでございましょうと、思わずにはいられません今夜の風情に、心惹かれまして。 気ぜわしくお伺いして、お聞かせ頂けないのが残念でございます」と言うと、 |
「琴の声が聞かせていただけましたらと思うような夜分でございますから、部屋を出てまいりました。私はこちらへ寄せていただいていましても、いつも時間が少なくて、伺わせていただく間のないのが残念でなりません」と言うと、 |
【御琴の音】- 以下「口惜しけれ」まで、命婦の姫君への詞。琴を弾かせようと下心のある発言。 【まさりはべらむ】- 梅の香の素晴らしい夜に、琴の音色が一段と趣深く聴かれようの意。 【思ひたまへらるる】- 「たまへ」(謙譲の補助動詞)「らるる」(自発の助動詞)、思わずにはいられませんの意。 【誘はれはべりてなむ】- 下に「参りつる」などの意が省略。 【心あわたたし】- 上に「常は」などの意が省略されている。 |
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1.3.6 | 「分かる人がいるというのですね。 宮中にお出入りしている人が聞くほどでも」 |
「あなたのような批評家がいては手が出せない。御所に出ている人などに聞いてもらえる芸なものですか」 |
【聞き知る人こそ】- 以下「聞くばかりやは」まで、姫君の詞。『異本紫明抄』は「琴の音を聞き知る人のありければ今ぞ立ち出でて緒をもすぐべき」(古今六帖、琴)を指摘。その和歌の言葉を引用して言ったもの。その下に中国の『列子』湯問篇の伯牙断絃の故事がある。教養あり素直で謙虚な発言である。 【やは】- 以下に「あらむ」などの意が省略。 |
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1.3.7 | と言って、取り寄せるので、人ごとながら、どのようにお聞きになるだろうかと、どきどきする。 |
こう言いながらも、すぐに女王が琴を持って来させるのを見ると、命婦がかえってはっとした。氏の聞いていることを思うからである。 |
【あいなう】- 他人ごとながらと心配する命婦の心。 【いかが聞きたまはむ】- 主語は源氏。命婦の心中。 |
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1.3.8 | かすかに掻き鳴らしなさるのが、趣あるように聞こえる。 特に上手といったほどでもないが、楽器の音色が他とは違って格式高い物なので、聞きにくいともお思いにならない。 |
女王はほのかな |
【何ばかり深き手ならねど】- 語り手と源氏の価値判断が一体化したような表現である。 【ものの音がらの筋ことなるものなれば】- 『集成』は「琴という特別格式の高い楽器の音なので」と注す。 |
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1.3.9 | 「いといたう かやうの |
「とてもひどく一面に荒れはた寂しい邸に、これほどの女性が、古めかしく、格式ばって、大切にお育てしていたのであろう面影もすっかりなくなって、どれほど物思いの限りを尽くしていらっしゃることだろう。 このような所にこそ、昔物語にもしみじみとした話がよくあったものだ」などと連想して、言い寄ってみようかしら、とお思いになるが、唐突だとお思いになるであろうかと、気がひけて、躊躇なさる。 |
この |
【いといたう荒れわたりて】- 以下、源氏の心をとおして叙述する。 【さばかりの人】- 常陸宮をさす。 【ものや言ひ寄らまし】- 源氏の心。 【うちつけにや思さむ】- 源氏の心。主語は姫君。 |
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1.3.10 | 命婦は、よく気の利く者で、たくさんお聞かせ申すまい、と思ったので、 |
命婦は才気のある女であったから、名手の域に遠い人の音楽を長く源氏に聞かせておくことは女王の損になると思った。 |
【いたう耳ならさせたてまつらじ】- 命婦の心。 |
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1.3.11 | 「曇りがちのようでございます。 お客が来ることになっておりました、嫌っているようにも受け取られては。 そのうち、 ゆっくりと。御格子を下ろし |
「雲が出て月が見えないがちの晩でございますわね。今夜私のほうへ訪問してくださるお約束の方がございましたから、私がおりませんとわざと避けたようにも当たりますから、またゆるりと聞かせていただきます。お格子をおろして行きましょう」 |
【曇りがちに】- 以下「参りなむ」まで、命婦の姫君への詞。曇ってきては琴の音色も冴えないと言って、琴を弾くのをやめさせようとする。 【客人の来むとはべりつる】- 自分の所に客人が来ることになっていましたの意。 【いとひ顔にもこそ】- 「も」「こそ」は危惧の念を表す。自分の部屋に居なくては嫌っているように思われるの意。 【御格子参りなむ】- 御格子を下ろしましょうの意。 |
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1.3.12 | とて、いたうもそそのかさで |
と言って、あまりお勧めしないで帰って来たので、 |
命婦は琴を長く |
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1.3.13 | 「中途半端な所で終わってしまったね。 十分聞き分けられる間もなくて、残念に」 |
「あれだけでは聞かせてもらいがいもない。どの程度の名手なのかわからなくてつまらない」 |
【なかなかなるほどにて】- 以下「ねたう」まで、源氏の詞。「ねたう」は連用中止法。余情を残した物の言い方。 |
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1.3.14 | とのたまふけしき、をかしと |
とおっしゃる様子は、ご関心をお持ちである。 |
源氏は女王に好感を持つらしく見えた。 |
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1.3.15 | 「同じことなら、もっと近い所で立ち聞きさせよ」 |
「できるなら近いお座敷のほうへ案内して行ってくれて、よそながらでも女王さんの |
【同じくは】- 以下「立ち聞きせさせよ」まで、源氏の詞。さらに身近で聴かせよという要請。 |
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1.3.16 | とおっしゃるが、「もっと聞きたいと思うところで」と思うので、 |
と言った。命婦は近づかせないで、よりよい想像をさせておきたかった。 |
【心にくくて】- 命婦の心。源氏がもっと聴きたいと思う所でという意。 |
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1.3.17 | 「さあ、いかがなものでしょうか、とてもひっそりとした様子に思い沈んで、気の毒そうでいらっしゃるようなので、案じられまして」 |
「それはだめでございますよ。お気の毒なお暮らしをして、めいりこんでいらっしゃる方に、男の方を御紹介することなどはできません」 |
【いでや】- 以下「うしろめたきさまにや」まで、命婦の詞。 |
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1.3.18 | と言うと、「なるほど、それももっともだ。 急に自分も相手も親しくなるような身分の人は、その程度の者なのだ」などと、お気の毒に思われるご身分のお方なので、 |
と命婦の言うのが道理であるように源氏も思った。男女が思いがけなく会合して語り合うというような階級にははいらない、ともかくも貴女なんであるからと思ったのである。 |
【げに、さもあること】- 以下「際とこそあれ」まで、源氏の心中文。 【うちとけて語らふべき人の際は、際とこそあれ】- すぐに互いに親しくなる身分とは別であるとする考え。皇族出身どうしの気位高い身分意識が窺える。 |
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1.3.19 | 「やはり、気持ちをそれとなく伝えてくれよ」と、言い含めなさる。 |
「しかし、将来は交際ができるように私の話をしておいてくれ」 こう命婦に頼んでから、 |
【なほ】- 以下「ほのめかせ」まで、源氏の命婦への詞。 |
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1.3.20 | 他に約束なさった所があるのだろうか、とてもこっそりとお帰りになる。 |
源氏はまた今夜をほかに約束した人があるのか帰って行こうとした。 |
【また契りたまへる方やあらむ】- 他に約束している女がいるのだろうか、という語り手の挿入句。源氏のそわそわした態度をいうのであろう。 |
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1.3.21 | 「お上が、き真面目でいらっしゃると、お困りあそばさしていらっしゃるのが、おかしく存じられる時々がございます。 このようなお忍び姿を、どうして御覧になれましょう」 |
「あまりにまじめ過ぎるからと陛下がよく困るようにおっしゃっていらっしゃいますのが、私にはおかしくてならないことがおりおりございます。こんな |
【主上の】- 以下「御覧じつけむ」まで、命婦の詞。帝を「主上」と呼称する。源氏への軽い揶揄を含む。 |
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1.3.22 | と |
と申し上げると、引き返して来て、ちょっと微笑んで、 |
と命婦が言うと、源氏は二足三足帰って来て、笑いながら言う。 |
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1.3.23 | 「他人が言うように、欠点を言い立てなさるな。 これを好色な振る舞いと言ったら、どこかの女の有様は、弁解できないだろう」 |
「何を言うのだね。品行方正な人間でも言うように。これを |
【異人の】- 以下「苦しからむ」まで、源氏の詞。 【女のありさま】- 『完訳』は「「女」は、暗に命婦をさす」と注す。源氏の皮肉な揶揄。 |
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1.3.24 | とおっしゃるので、「あまりに好色めいているとお思いになって、時々このようにおっしゃるのを、恥ずかしい」と思って、何とも言わない。 |
多情な女だと源氏が決めていて、おりおりこんなことを面と向かって言われるのを命婦は恥ずかしく思って何とも言わなかった。 |
【あまり色めいたり】- 以下「恥づかし」まで、命婦の心中。「あまり色めいたり」とは命婦自身の態度をさす。 |
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1.3.25 | 「 |
寝殿の方に、姫君の様子が聞けようかとお思いになって、静かにお立ち下がりになる。 透垣がわずかに折れ残っている物蔭に、お立ち添いになると、以前から立っている男がいるのであった。 「誰だろう。 懸想している好色人がいたのだなあ」とお思いになって、蔭に寄って隠れなさると、頭中将なのであった。 |
女暮らしの家の座敷の物音を聞きたいように思って源氏は静かに庭へ出たのである。大部分は朽ちてしまったあとの少し残った |
【人のけはひ聞くやうもや】- 源氏の心。「人」は常陸宮の姫君をさす。 【誰れならむ】- 以下「ありけり」まで、源氏の心中。 【頭中将なりけり】- 語り手の読者への説明。源氏はこの時まだ誰とも分かっていない。『評釈』は「「頭中将なりけり」という判断は、作者が読者に明したもので、源氏自身は、頭中将に話しかけられるまで、それと気づかなかったのである」と注す。以下「下待つなりけり」まで、「なりけり」の叙述で、当日の頭中将の行動を説明する文章が続く。 |
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1.3.26 | この あやしき |
この夕方、内裏から一緒に退出なさったが、そのまま大殿にも寄らず、二条の院でもなく、別の方角に行ったのを、どこへ行くのだろうと、好奇心が湧いて、自分も行く所はあるが、後を付けて窺うのであった。 粗末な馬で、狩衣姿の身軽な恰好で来たので、お気付きにならないが、予想と違って、あのような別の建物にお入りになったので、合点が行かずにいた時に、琴の音に耳をとられて立っていたが、帰りにはお出になるだろうかと、心待ちしているのであった。 |
【いづちならむ】- 頭中将の心。源氏はいったいどこの女のもとへ行くのだろうの意。 【あやしき馬に】- 以下、頭中将の姿。 【え知りたまはぬに】- 源氏は着替えて身なりをやつしている頭中将を彼と見抜けないでいる。 【異方に入りたまひぬれば】- 頭中将は源氏が姫君のいる寝殿に入らず女房の部屋に入って行ったことを不審に思う。『新大系』「意外な所。源氏の入った末摘花邸をさす」と注す。 |
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1.3.27 | 君は、誰ともお分かりにならず、自分と知られまいと、抜き足に通ろうとなさると、急に近寄って来て、 |
源氏はまだだれであるかに気がつかないで、顔を見られまいとして抜き足をして庭を離れようとする時にその男が近づいて来て言った。 |
【歩みたまふに】- 大島本「あゆミ給ふに」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「歩みのきたまふに」と「のき」を補入するが、『新大系』は底本のままとする。 【ふと寄りて】- 主語は頭中将。 |
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1.3.28 | 「置いてきぼりあそばされた悔しさに、お見送り申し上げたのですよ。 |
「私をお |
【ふり捨てさせたまへる】- 以下「いさよひの月」まで、頭中将の詞と和歌。 |
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1.3.29 | ご一緒に宮中を退出しましたのに 行く先を晦ましてしまわれる十六夜の月ですね」 |
もろともに大内山は 入る方見せぬいざよひの月」 |
【もろともに大内山は出でつれど--入る方見せぬいさよひの月】- 頭中将の贈歌。「大内山」は内裏の意。「山」「月」「入る」は縁語。行く方を晦ました源氏を月に喩えて恨んだ歌。 |
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1.3.30 | と恨まれるのが癪だが、この君だとお分かりになると、少しおかしくなった。 |
さも秘密を見現わしたように得意になって言うのが腹だたしかったが、源氏は頭中将であったことに安心もされ、おかしくなりもした。 |
【ねたけれど】- 源氏の気持ち。 【この君】- 頭中将をさす。 【見たまふ】- 大島本「見給ふ」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「見たまふに」と「に」を補入するが、『新大系』は底本のままとする。 |
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1.3.31 | 「 |
「人が驚くではないか」と憎らしがりながら、 |
「そんな失敬なことをする者はあなたのほかにありませんよ」憎らしがりながらまた言った。 |
【人の思ひよらぬことよ】- 源氏の詞。 |
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1.3.32 | 「どの里も遍く照らす月は空に見えても その月が隠れる山まで尋ねる人はいませんよ」 |
「里分かぬかげを見れども行く月の いるさの山を |
【里わかぬかげをば見れどゆく月の--いるさの山を誰れか尋ぬる】- 源氏の返歌。贈歌の「入る」「月」の語句を用いて返す。「里」は頭中将の「大内山」(宮中)に対して用いた。「かげ」は月の光の意。自分を月に、山を女の家に喩える。「里わかぬかげ」とはどの女性にも遍く情をかける自分だというユーモアをまじえたのろけを見せる。「いるさ」は「入るさ(時)」と「入佐」の掛詞。また「入佐の山」は但馬国の歌枕。女の家まで後を付ける者がいるかと難じた歌。 |
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1.3.33 | 「このように後を付け廻したら、どうあそばされますか」とお尋ねなさる。 |
こんなふうに私が始終あなたについて歩いたらお困りになるでしょう、あなたはね」 |
【かう慕ひありかば、いかにせさせたまはむ】- 頭中将の詞。 |
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1.3.34 | 「本当は、このようなお忍び歩きには、随身によって埒も開こうというものです。 置いてきぼりあそばさないのがよいでしょう。 身をやつしてのお忍び歩きには、軽率なことも出て来ましょう」 |
「しかし、恋の成功はよい随身をつれて行くか行かないかで決まることもあるでしょう。これからはごいっしょにおつれください。お一人歩きは危険ですよ」 |
【まことは】- 以下「出で来なむ」まで、頭中将の詞。 【随身】- 宰相中将である源氏は規定により朝廷から四人の随身を賜っている。 【あるべけれ】- 『集成』『新大系』は句点。『完訳』は読点で、逆接の意で文を続ける。 【出で来なむ」--と】- 大島本「いてきなと」とある。諸本「いてきなむと」とある。『集成』『古典セレクション』は「出で来なむと」と「む」を補訂する。『新大系』も「ん」を補入する。「ん」の無表記化による脱字と判断する。 |
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1.3.35 | と、反対にご忠告申し上げる。 このようにしかと見つけられたのを、悔しくお思いになるが、あの撫子は見つけ出せないのを、大きな手柄だと、ご内心お思い出しになる。 |
頭中将はこんなことを言った。頭中将に得意がられていることを源氏は残念にも思ったが、あの |
【かうのみ見つけらるるを】- いつもこのようにばかり見つけられてしまうのをの意。源氏と頭中将のこれまでを窺わせる表現。『完訳』は「源氏の忍び歩きが頭中将に発見される話はこれまで語られていない。この物語の語り口の一つ」と注す。 【かの撫子は】- 夕顔の遺児をさす。「帚木」巻で頭中将がこう呼称していた。 |
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第四段 頭中将とともに左大臣邸へ行く |
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1.4.1 | おのおの |
お二方とも約束した女の所にも、照れくさくて、別れて行くこともおできになれず、一台の車に乗って、月の風情ある雲に隠れた道中を、笛を合奏して大殿邸にお着きになった。 |
源氏にも頭中将にも第二の行く先は決まっていたが、 |
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1.4.2 | つれなう、 いと |
先払いなどおさせになさらず、こっそりと入って、人目につかない渡殿にお直衣を持って来させて、お召し替えになる。 何食わぬ顔で、今来たようなふうをして、お笛を吹き興じて合っていらっしゃると、大臣が、いつものようにお聞き逃さず、高麗笛をお取り出しになって来た。 大変に上手でいらっしゃるので、大層興趣深くお吹きになる。 お琴を取り寄せて、簾の内でも、この方面に堪能な女房たちにお弾かせになる。 |
前駆に声も立てさせずに、そっとはいって、人の来ない廊の部屋で |
【内にも】- 葵の上のいる御簾の内側をさす。 |
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1.4.3 | 中務の君、特に琵琶はよく弾くが、頭の君が思いを寄せていたのを振り切って、ただこのたまにかけてくださる情愛の慕わしさを、お断り申し上げられないでいると、自然と人の知るところとなって、大宮などもけしからぬことだとお思いになっているので、何となく憂鬱で、その場に居ずらい気持ちがして、おもしろくなさそうに寄り伏している。 まったくお目にかかれない所に、暇をもらって行ってしまうのも、やはり心細く思い悩んでいる。 |
【中務の君】- 葵の上づきの女房。琵琶を上手に弾くと紹介されるが、その女房名といい、この物語で他に琵琶を弾く女性として明石御方がいるが、その本来の血筋のよさを思わせる。 【頭の君】- 地の文中、頭中将をさしてこう呼称する。 【このたまさかなる御けしき】- 源氏の愛情をさす。 【え背ききこえぬに】- 源氏の愛情を拒み切れないでいると紹介されるが、いわゆるお手つきの女房。召人(情交関係のある女房)と呼ばれる女房である。 【大宮】- 左大臣の北の方、葵の上の母親。桐壷帝の妹三の君なので、大宮と呼称される。 【見たてまつらぬ所に】- 中務の君が源氏にお目にかかれない所の意。 【かけ離れなむも】- 左大臣邸から暇を出されることをいう。 |
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1.4.4 | 君たちは、先程の七絃琴の音をお思い出しになって、見すぼらしかった邸宅の様子なども、一風変わって興趣あると思い続け、「もし仮に、とても美しくかわいい女が、寂しく年月を送っているような時、結ばれて、ひどくいじらしくなったら、世間の評判になるほどなのは、自分ながら体裁の悪いことだろう」などとまで、中将は思うのであった。 この君がこのように懸想しあるいていらっしゃるのを、「とても、あのままで、お済ましになれようか」と、小憎らしく心配するのであった。 |
楽音の中にいながら二人の貴公子はあの荒れ邸の琴の音を思い出していた。ひどくなった家もおもしろいもののようにばかり思われて、空想がさまざまに伸びていく。 |
【ありつる琴の音を】- 常陸宮邸の姫君が弾いていた七絃琴の音色。 【あらましごとに】- 以下「さま悪しからむ」まで、頭中将の心中。「あらましごとに」について、『完訳』は「「思ひけり」にかかる。まさかそんなこともあるまいが、とする語り手の気持」と注す。 【この君】- 源氏をさす。 【まさに、さては、過ぐしたまひてむや】- 頭中将の心中。「て」(完了の助動詞、強調)「む」(推量の助動詞)「や」(係助詞、反語)。とてもあのままでお済ましになられようか、そんなことはないの意。 |
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1.4.5 | その いづれも さやうなる |
その後、こちらからもあちらからも、恋文などおやりになるようだ。 どちらへもお返事がなく、気になっていらいらするので、「あまりにもひどいではないか。 あのような生活をしている人は、物の情趣を解する風情や、ちょっとした木や草、空模様につけても、かこつけたりなどして、気立てが自然と推量される折々もあるようなのが、かわいらしいというものであろうに、重々しいといっても、とてもこうあまりに引っ込み思案なのは、おもしろくなく、よろしくない」と、中将は、君以上にやきもきするのであった。 いつものように、お隔て申し上げなさらない性格から、 |
それからのち二人の貴公子が |
【その後、こなたかなたより、文などやりたまふべし】- 『細流抄』は「草子地也」と注す。「こなた」は源氏方、「かなた」は頭中将方をさす。 【あまりうたてもあるかな】- 以下「悪びたり」まで、頭中将の心中。『集成』は「源氏と頭の中将の心中」と注す。二人の共通した心境だが、「と中将はまして」とあるので、頭中将の心中に重点がある。 【まいて】- 頭中将は源氏以上にの意。 |
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1.4.6 | 「これこれしかじかのお返事は御覧になりますか。 試しにちょっと手紙を出してみたが、中途半端で、終わってしまった」 |
「常陸の宮の返事が来ますか、私もちょっとした手紙をやったのだけれど何にも言って来ない。侮辱された形ですね」 |
【しかしかの】- 以下「なくて止みにしか」まで、頭中将の詞。「しかしか」は『集成』は「作者が省略した形で言ったもの」と解し、『完訳』は「語り手の、ぼかした表現」と解す。語り手の間接話法的言い方がまじっている。なお、『集成』『新大系』は清音、『古典セレクション』は「しかじか」と濁音に読む。江戸時代以後、濁音化したとされる。 |
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1.4.7 | と、残念がるので、「やっぱりそうか、懸想文を贈ったのだな」と、つい微笑まれて、 |
自分の想像したとおりだ、頭中将はもう手紙を送っているのだと思うと源氏はおかしかった。 |
【さればよ、言ひ寄りにけるをや】- 源氏の心中。 |
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1.4.8 | 「さあ、しいて見たいとも思わないからか、見ることもない」 |
「返事を格別見たいと思わない女だからですか、来たか来なかったかよく覚えていませんよ」 |
【いさ】- 以下「見るともなし」まで、源氏の返事。 |
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1.4.9 | と、 |
と、お返事なさるのを、「分け隔てしたな」と思うと、まことに悔しい。 |
源氏は中将をじらす気なのである。返事の来ないことは同じなのである。中将は、そこへ行きこちらへは来ないのだと |
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1.4.10 | したり |
君は、必ずしも深く思い込んでいるのではないが、このようにつれないのを、興醒めにお思いになったが、このようにこの中将がしきりに言い寄っているのを、「言葉数多く懸想文を贈った者の方に靡くだろう。 得意顔して、最初の関係を振ったような恰好をされたら、まことおもしろくなかろう」とお思いになって、命婦に真剣に相談なさる。 |
源氏はたいした執心を持つのでない女の冷淡な態度に |
【君は】- 源氏をさす。 【この中将】- 頭中将をさす。 【言多く言ひなれたらむ方】- 以下「憂はしかるべけれ」まで、源氏の心中。「言多く言ひなれたらむ方」は頭中将をさす。『集成』は「女は言葉数の多い、恋文を書き馴れている方になびくであろう」と注す。 【もとのこと】- 自分が最初に懸想したことをさす。『完訳』は「もともと、源氏が、頭中将よりも先に姫君に懸想しはじめたこと」と注す。 |
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1.4.11 | 「おぼつかなく、もて さりとも、 |
「はっきりせずに、よそよそしいご様子なのが、まことにたまらない。 浮気心とお疑いなのだろう。 いくら何でも、すぐ変わる心は持ちあわせていないのに。 相手の気持ちがゆったりとしたところがなくて、心外なことばかりあるので、自然とわたしの方の落度のようにもなってしまいそうだ。 気長に、親兄弟などのお世話をしたり恨んだりする者もなく、気兼ねのいらない人は、かえってかわいらしかろうに」とおっしゃると、 |
「いくら手紙をやっても冷淡なんだ。私がただ一時的な |
【おぼつかなく、もて離れたる御けしきなむ、いと心憂き】- 大島本「おほつかなく」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「おぼつかなう」とウ音便形に改める。『新大系』は底本のまま。以下「らうたかるべきを」まで、源氏の詞。 『集成』は「(私の気持をどう思っているのか)さっぱり事情が分からず、(私の文にも)見向きもなさらぬご様子が、とても情けない。末摘花から反応のないことをいう」と注す。 【さりとも】- 大島本「さりと」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「さりとも」と「も」を補訂する『新大系』も「も」を補う。底本「も」の脱字と判断する。 【人の心の】- 以下「なりぬべき」まで、『完訳』は「相手のほうでいつまでもわたしを信じようという気持がないと、結局不本意なことにばかりなる、それでしぜんこちらの落度ということにもなってしまうのだろう」と訳す。 |
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1.4.12 | 「さあ、おっしゃるように興趣あるお立ち寄り所には、とてもどうかしらと、お相応しくなく見えます。 ひたすら恥ずかしがって、内気な点では、世にも珍しいくらいのお方です」 |
「いいえ、そんな、あなた様が十分にお愛しになるようなお相手にあの方はなられそうもない気がします。非常に内気で、おとなしい点はちょっと珍らしいほどの方ですが」 |
【いでや】- 以下「人になむ」まで、命婦の返事。 【御笠宿り】- 源氏の立ち寄り所という意を優雅に言ったもの。催馬楽「妹が門」の「妹が門夫が門行き過ぎかねてや我が行かば肱笠の肱笠の雨もや降らなむしでたをさ雨やどり笠やどり宿りてまからむしでたをさ」の歌句。 |
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1.4.13 | と、見た様子をお話し申し上げる。 「気が利いていて、才覚だったところはないようだ。 とても子供のようにおっとりしているのが、かわいいものだ」とお忘れにならず、お頼みになる。 |
命婦は自分の知っているだけのことを源氏に話した。「貴婦人らしい |
【らうらうじう】- 以下「あるべけれ」まで、源氏の心。 |
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1.4.14 | 瘧病みをお患いになったり、秘密の恋愛事件があったりして、お心にゆとりのないような状態で、春夏が過ぎた。 |
その後源氏は |
【瘧病みにわづらひたまひ、人知れぬもの思ひの紛れも、御心のいとまなきやうにて、春夏過ぎぬ】- 「若紫」巻冒頭の三月晦日の源氏の北山行きや夏の短夜の藤壷との密通事件などをさす。この巻は「夕顔」巻の夕顔の死(秋八月)の後、「若紫」と同年の春正月から始まる物語である。 |
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第五段 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う |
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1.5.1 | 秋のころ、静かにお思い続けになって、あの砧の音も耳障りであったのまでが、自然に恋しくお思い出されるにつけて、常陸宮邸には度々お手紙を差し上げなさるが、相変わらず一向にお返事がないばかりなので、世間知らずで、おもしろくなく、負けてはなるものかという意地まで加わって、命婦をご催促なさる。 |
秋になって、夕顔の五条の家で聞いた |
【かの砧の音】- 「夕顔」巻の夕顔の宿に泊まって聞いた砧の音。 |
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1.5.2 | 「どういうことか。 いったいこのようなことは、今までにない」 |
「どんなふうに思っているのだろう。私はまだこんな態度を取り続ける女に出逢ったことはないよ」 |
【いかなるやうぞ】- 以下「まだ知らね」まで、源氏の詞。 |
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1.5.3 | と、いとものしと |
と、とても不愉快に思っておっしゃるので、お気の毒に思って、 |
不快そうに源氏の言うのを聞いて命婦も気の毒がった。 |
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1.5.4 | 「かけ離れて、不釣り合いなご縁だとも、申し上げたことはありません。 ただ、万事につけて内気な性格が強すぎて、お返事なさらないのだろうと存じます」と申し上げると、 |
「私は格別この御縁はよろしくございませんとも言っておりませんよ。ただあまり内気過ぎる方で男の方との交渉に手が出ないのでしょうと、お返事の来ないことを私はそう解釈しております」 |
【もて離れて】- 以下「見たまふる」まで、命婦の返事。 |
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1.5.5 | 「それが世間知らずというものだ。 分別のつけられない年頃や、親がかりで自分では身を処せられない間は、もっともなことだが、何事もじっくりお考えになられるのだろう、と思うからだ。 どことなく、所在なく心細くばかり思われるのを、同じような気持ちでお返事下さったら、願いが叶った気がしよう。 何やかやと、色めいたことではなくて、あの荒れた簀子に佇んでみたいのだ。 とても嫌な理解できない思いがするから、あの方のお許しがなくても、うまく計らってくれ。 気がせいて、けしからぬ振る舞いは、決してせぬ」 |
「それがまちがっているじゃないか。とても年が若いとか、また親がいて自分の意志では何もできないというような人たちこそ、それがもっともだとは言えるが、あんな一人ぼっちの心細い生活をしている人というものは、異性の友だちを作って、それから優しい慰めを言われたり、自分のことも人に聞かせたりするのがよいことだと思うがね。私はもう |
【それこそは】- 以下「よもあらじ」まで、源氏の詞。 【ことわりなれ】- 大島本「事ハりなれ」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「さやうにかかやかしきもことわりなれ」と補訂する。『新大系』は底本のままとする。 【いとうたて心得ぬ】- 大島本「いとうたて心えぬ」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「いとおぼつかなう心得ぬ」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。 【御許しなくとも】- 大島本「御ゆるしなう(う$く)とも」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御ゆるしなうとも」とウ音便形にする。『新大系』は底本のミセケチ訂正に従う。 【心苛られし】- 『完訳』は「「心いられ」の主語は命婦、「もてなし」の主語は源氏。この動作主体を逆にとる説などもある」と注す。いずれも源氏ともとれる。 【うたてあるもてなしには、よもあらじ】- 主語は源氏、自分自身。相手が嫌がるような振る舞いは決してしないの意。 |
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1.5.6 | など、 |
などと、ご相談なさる。 |
などと源氏は言うのであった。 |
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1.5.7 | やはり世間一般の女性の様子を、一通りのこととして聞き集め、お耳を留めなさる癖がついていらっしゃるので、もの寂しい夜の席などで、ちょっとした折に、このような女性がと申し上げたことに、このように殊更におっしゃり続けるので、「何となく気が重く、女君のご様子も、恋愛の経験や、風流らしくもないのに、かえって手引したことによって、きっと気の毒なことになりはしないか」と思ったが、君がこのように本気になっておっしゃるので、「聞き入れないのも、いかにも変わり者のようだろう。 父親王が生きていらしたころでさえ、時代遅れの所だと言って、ご訪問申し上げる人もなかったのだが、まして、今となっては浅茅生を分けて訪ねて来る人もまったく絶えているのに」。 |
女の |
【なほ世にある人の】- 以下、源氏の性癖について語り、時間は末摘花を知るようになる以前に遡って語られる。萩原広道『源氏物語評釈』は「命婦が媒をうけがへる心と末摘花の返事し給はぬ故とを草子地に説あらはしたる文の法也」と注す。 【宵居など】- 大島本「よひゐなとに(に$<朱墨>)」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「宵居などに」と「に」を補訂する。『新大系』は底本のミセケチ訂正に従う。 【さる人こそと】- 故常陸宮の姫君をさす。 【なまわづらはしく】- 以下「いとほしき事や見えむ」まで、命婦の心中。 【見えむなむ」と】- 大島本「みえむなむと」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「見えむなど」と「む」を削除する。『新大系』は底本のままとする。 【聞き入れざらむも】- 以下「跡絶えたるに」まで、再び命婦の心中が続く。しかし、それを受ける引用句はない。しかし『完訳』は「命婦の心に即した語り手の感想」と解す。 【まして、今は】- 『首書源氏物語』所引「或抄」は「命婦か心より物語の地にうつる也」と指摘し、以下、地の文と解す。 |
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1.5.8 | このように世にも珍しいお方から、時々お手紙が届くのを、なま女房どもも笑顔をつくって、「やはりお返事をなさいませ」と、お勧め申し上げるが、あきれるくらい内気なご性格で、全然御覧になろうともなさらないのであった。 |
その家へ光源氏の手紙が来たのであるから、女房らは一陽来復の夢を作って、女王に返事を書くことも勧めたが、世間のあらゆる内気の人の中の最も引っ込み思案の女王は、手紙に語られる源氏の心に触れてみる気も何もなかったのである。 |
【かく世にめづらしき御けはひの】- 源氏をさす。 【なほ聞こえたまへ】- 女房の末摘花への詞。 【あさましう】- 語り手の感情移入された表現。 |
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1.5.9 | また、さるべきにて、 |
命婦は、「それでは、適当な機会に、物越しにお話申し上げなさって、お気に召さなかったら、そのまま終わってしまってよし。 また、ご縁があって、一時的にでもお通いになるとしても、誰もお咎めなさるはずの方もいない」などと、色事にかけては軽率な性分でふと考えて、父君にも、このようなことなど、話さなかったのであった。 |
命婦はそんなに源氏の望むことなら、自分が手引きして物越しにお逢わせしよう、お気に入らなければそれきりにすればいいし、また縁があって情人関係になっても、それを干渉して止める人は宮家にないわけであるなどと、命婦自身が恋愛を軽いものとして考えつけている若い心に思って、女王の兄にあたる自身の父にも話しておこうとはしなかった。 |
【さらば】- 以下「人なし」まで、命婦の心中。 【父君にも、かかる事なども言はざりけり】- 『集成』は「命婦の父、兵部の大輔。この書き方から、兵部の大輔は末摘花の兄かとも考えられる」と注す。 |
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1.5.10 | 「いとよき |
八月二十日過ぎ、夜の更けるまで待ち遠しい月の出の遅さに、星の光ばかりさやかに照らし、松の梢を吹く風の音も心細くて、昔のことをお話し出しなさって、お泣きになったりなどなさる。 「ちょうど良い機会だ」と思って、ご案内を差し上げたのだろうか、いつものようにお忍びでいらっしゃった。 |
八月の二十日過ぎである。八、九時にもまだ月が出ずに星だけが白く見える夜、古い |
【八月二十余日】- 季節は、中秋八月の下旬となる。 【待たるる月の心もとなきに】- 『源氏釈』は「下にのみ恋ふれば苦し山の端に出で来る月のあらはればいかに」(古今六帖第一、雑の月)、第四句「またるる月の」とある和歌を引歌として指摘する。 【いにしへの事語り出でて、うち泣きなどしたまふ】- 主語は末摘花。 【いとよき折かな】- 命婦の心。 【御消息や聞こえつらむ】- 語り手の挿入句。命婦が源氏にご案内を差し上げたのだろうかの意。 |
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1.5.11 | 月がようやく出て、荒れた垣根の状態を気味悪く眺めていらっしゃると、琴を勧められて、かすかにお弾きになるのは、悪くはない。 「もう少し、親しみやすい、今風の感じを加えたいものだ」と、蓮っ葉な性分から、じれったく思っていた。 人目のない邸なので、安心してお入りになる。 命婦をお呼ばせになる。 今初めて、 |
その時分になって |
【琴】- 大島本「きむ」と仮名表記。七絃琴をさす。 【そそのかされて】- 「れ」(受身の助動詞)。末摘花が命婦から琴を勧められての意。 【けしうはあらず】- 源氏と語り手の感想が一体化した表現。『完訳』は「源氏の感想」と解す。 【すこし、け近う】- 以下「気をつけばや」まで、命婦の感想。『完訳』は「以下、命婦の評」と注す。 【命婦を呼ばせたまふ】- 「せ」(使役の助動詞)。源氏が取次の女房をして命婦を呼ばせなさる意。 |
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1.5.12 | 「いとかたはらいたきわざかな。 しかしかこそ、おはしましたなれ。 いかが なみなみのたはやすき |
「とても困りましたわ。 これこれということで、お越しあそばしたそうですわ。 いつも、このようにお恨み申していらっしゃったが、一存ではまいらぬ旨ばかり、お断り申しておりますので、『自身でお話をおつけ申し上げよう』と、かねておっしゃっていたのです。 どのようにお返事申し上げましょうか。 並大抵の軽いお出ましではありませんので、困ったことで。 物越しにでも、おっしゃるところを、お聞きあそばしませ」 |
「いらっしったお客様って、それは源氏の君なんですよ。始終御交際をする紹介役をするようにってやかましく言っていらっしゃるのですが、そんなことは私にだめでございますってお断わりばかりしておりますの、そしたら自分で直接お話しに行くってよくおっしゃるのです。お帰しはできませんわね。ぶしつけをなさるような方なら何ですが、そんな方じゃございません。物越しでお話をしておあげになることだけを許してあげてくださいましね」 |
【いとかたはらいたきわざかな】- 以下「聞こしめせ」まで、命婦の詞。 【しかしかこそ】- 命婦が姫君に説明した内容、実際には詳しく説明したのだが、語り手が省略して「しかしか」と言ったもの。『古典セレクション』は「しかじか」と濁音で読む。「江戸時代以後シカジカと濁音化した」(岩波古語辞典)。 【心にかなはぬ】- 命婦の一存ではいかないの意。 【いなびきこえはべれば】- 命婦が源氏にお断り申し上げておりますとの意。 【みづからことわりも聞こえ知らせむ】- 源氏の詞を引用。 【聞こえたまはむこと、聞こしめせ】- 源氏が末摘花に申し上げなさるところをお聞き入れあそばしませの意。 |
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1.5.13 | と |
と言うと、とても恥ずかしい、と思って、 |
と言うと女王は非常に恥ずかしがって、 |
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1.5.14 | 「人とお話する仕方などは知らないのに」 |
「私はお話のしかたも知らないのだから」 |
【人にもの聞こえむやうも知らぬを】- 末摘花の詞。 |
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1.5.15 | と言って、奥の方へいざってお入りになる態度は、とてもうぶな様子である。 微笑んで、 |
と言いながら部屋の奥のほうへ |
【いとうひうひしげなり】- 語り手の末摘花に対するうぶだという評言。『集成』は「いかにもぎこちない」と解す。 【うち笑ひて】- 主語は命婦。 |
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1.5.16 | 「いと |
「とても、子供じみていらっしゃいますのが、気がかりですわ。 ご身分の高い方も、ご両親様が生きていらっして、手を掛けてお世話申していらっしゃる間なら、子供っぽくいらっしゃるのも結構ですが、このような心細いお暮らし向きで、相変わらず世間を知らずに引っ込み思案でいらっしゃるのは、よろしうございません」とお教え申し上げる。 |
「あまりに子供らしくいらっしゃいます。どんな貴婦人といいましても、親が十分に保護していてくださる間だけは子供らしくしていてよろしくても、こんな寂しいお暮らしをしていらっしゃりながら、あまりあなたのように |
【いと若々しう】- 以下「つきなうこそ」まで、命婦の詞。「若々し」は幼稚、心幼い、等の意。 【世を尽きせず思し憚る】- 「世」は男女の仲をさす。「尽きせず思し憚る」とはどこまでも引っ込み思案に振る舞うこと。 |
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1.5.17 | さすがに、 |
何と言っても、人の言うことには強く拒まないご性質なので、 |
人の言うことにそむかれない内気な性質の女王は、 |
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1.5.18 | 「お返事申さずに、ただ聞いていよ、というのであれば。 格子など閉めてお会いするならいいでしょう」とおっしゃる。 |
「返辞をしないでただ聞いてだけいてもいいというのなら、格子でもおろしてここにいていい」と言った。 |
【答へきこえで】- 以下「ありなむ」まで、末摘花の詞。 【格子など鎖してはありなむ】- 「な」(完了の助動詞、確述)「む」(推量の助動詞)、閉めてならいいでしょうの意。末摘花は源氏を格子の向こう側、すなわち、簀子に迎えようと言う。 |
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1.5.19 | 「簀子などでは失礼でございましょう。 強引で、軽薄なお振る舞いは、間違っても」 |
「縁側におすわらせすることなどは失礼でございます。無理なことは決してなさいませんでしょう」 |
【簀子などは】- 以下「などはよも」まで、命婦の詞。簀子では失礼である、庇の間に迎え入れるべきことを言う。 |
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1.5.20 | など、いとよく |
などと、うまく言い含めて、二間の端にある障子を、自分で固く錠鎖して、お座蒲団を敷いて整える。 |
体裁よく言って、次の室との間の |
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1.5.21 | いとつつましげに よろしき |
とても恥ずかしくお思いになっているが、このような方に応対する心得なども、まったくご存じなかったので、命婦がこのように言うのを、そういうものなのであろうと思って任せていらっしゃる。 乳母のような老女などは、部屋に入って横になってうつらうつらしている時分である。 若い女房、二、三人いるのは、世間で評判高いお姿を、見たいものだとお思い申し上げて、期待して緊張し合っている。 結構なご衣装にお召し替え申し、身繕い申し上げると、ご本人は、何の頓着もなくいらっしゃる。 |
源氏は少し恥ずかしい気がした。人としてはじめて |
【いとつつましげに思したれど】- 主語は末摘花。 【乳母だつ老い人】- 『完訳』は「乳母の代りのような老女。身辺を世話し教育する乳母はいない」と注す。 【若き人、二、三人】- 若い女房である。 【世にめでられたまふ御ありさま】- 源氏をさす。 【何の心げさうもなくておはす】- 先に若い女房が「心げさうしあへり」とあり、当のご本人は「何の心げさうもなく」というように対照的に語られる。 |
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1.5.22 | 男は、まことこの上ないお姿を、お忍びで心づかいしていらっしゃるご様子、何とも優美で、「風流を解する人にこそ見せたいが、見栄えもしない邸で、ああ、お気の毒な」と、命婦は思うが、ただおっとりしていらっしゃるのを、「安心で、出過ぎたところはお見せ申さるまい」と思うのであった。 「自分がいつも責められ申していた責任逃れに、気の毒な姫の物思いが生じてきはしまいか」などと、不安に思っている。 |
男はもとよりの |
【男は】- 源氏をさす。恋の場面になって、「男」と呼称される。『集成』は「男女対座の場面ではしばしばこう呼ぶ」と注す。 【見知らむ人に】- 以下「いとほし」まで、命婦の心中。 【あな、いとほし】- 源氏への同情。 【うしろやすう】- 以下「見えたてまつりたまはじ」まで、命婦の心中。 【わが常に】- 以下「出でこむ」まで、命婦の心中。 |
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1.5.23 | 「わりなのわざや」と、うち |
君は、相手のご身分を推量なさると、「しゃれかえった当世風の風流がりやよりは、この上なく奥ゆかしい」と思い続けていたところ、たいそう勧められて、いざり寄っていらっしゃる様子、もの静かで、えびの薫香がとてもやさしく薫り出して、おっとりとしてしているので、「やはり思ったとおりであった」とお思いになる。 長年恋い慕っている胸の中など、言葉巧みにおっしゃり続けるが、なおさら身近な所でのお返事はまったくない。 「どうにも困ったことだ」と、つい嘆息なさる。 |
源氏は相手の身柄を尊敬している心から |
【されくつがへる】- 以下「奥ゆかしう」まで、源氏の心中。 【奥ゆかしう」と思さるるに、いたう】- 『古典セレクション』は諸本に従って「奥ゆかし思しわたるにとかう」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする 【さればよ】- 源氏の心。 【わりなのわざや】- 『集成』は括弧で括り、「弱りましたね」と詞に解す。『完訳』等は地の文にする。 |
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1.5.24 | 「何度あなたの沈黙に負けたことでしょう ものを言うなとおっしゃらないことを頼みとして |
「いくそ 物な |
【いくそたび君がしじまにまけぬらむ--ものな言ひそと言はぬ頼みに】- 源氏の姫君への贈歌。「しじま」は法華八講の論議の折、鐘を合図に沈黙することを「しじま」と言ったことにもとづく語。 |
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1.5.25 | 嫌なら嫌とおっしゃってくださいまし。 玉だすきでは苦しい」 |
言いきってくださいませんか。私の恋を受けてくださるのか、受けてくださらないかを」 |
【のたまひも捨ててよかし】- 以下「苦し」まで、歌に添えた詞。「のたまひ」「捨て」は、嫌だとおっしゃるの意。 【玉だすき苦し】- 『源氏釈』は「ことならば思はずとやはいひ果てむなぞ世の中の玉だすきなる」(古今集、俳諧、一〇三七、読人しらず)を指摘。はっきりおっしゃってくださらなくてはつらいの意。 |
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1.5.26 | とおっしゃる。 女君の御乳母子で、侍従といって、才気走った若い女房は、「とてもじれったくて、見ていられない」と思って、お側によって、お返事申し上げる。 |
女王の乳母の娘で侍従という気さくな若い女房が、見かねて、女王のそばへ寄って女王らしくして言った。 |
【いと心もとなう、かたはらいたし】- 侍従の心中。 |
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1.5.27 | 「鐘をついて論議を終わりにするように 何も言うなとはさすがに言いかねます(ただお答えしにくいのが、 |
鐘つきてとぢめんことはさすがにて 答へまうきぞかつはあやなき |
【鐘つきてとぢめむことはさすがにて--答へまうきぞかつはあやなき】- 侍従の代作した返歌。「鐘つきて」とは、源氏が「しじま」と詠み贈ったことに対する連想から。 |
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1.5.28 | とても若々しい声で、格別重々しくないのを、人伝てではないように装って申し上げると、「ご身分の割には馴れ馴れしいな」とお聞きになるが、 |
若々しい声で、重々しくものの言えない人が代人でないようにして言ったので、 |
【ほどよりはあまえて】- 姫君のご身分の割には馴れ馴れしいの意。 |
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1.5.29 | 「珍しいことなのが、かえって言葉に窮しますよ。 |
「こちらが何とも言えなくなります、 |
【めづらしきが】- 以下「わざかな」まで、源氏の詞。横山本、池田本、三条西家本は「めつらしきに」とある。肖柏本、書陵部本は大島本と同文。河内本は大島本と同文。別本の御物本は「めつらしき」、陽明文庫本は横山本等と同文である。『集成』は「めづらしきに」を採り、「はじめてのお返事なので」と解し、『完訳』は「めづらしきが」を採り、「この珍しいご返事は」と主格に解す。「に」の連用修飾が文意は通りやすいが、「が」の主格でも解せないことはない。『集成』『新大系』は「めづらしきに」までを地の文とし、「なかなか」以下を源氏の詞と解す。『完訳』は「めづらしきが」以下を「源氏の心に即した語り手の言葉」と解す。 |
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1.5.30 | 何もおっしゃらないのは口に出して言う以上なのだとは知っていますが、 やはりずっと黙っていらっしゃるのは辛いものですよ |
押しこめたるは苦しかりけり」 |
【言はぬをも言ふにまさると知りながら--おしこめたるは苦しかりけり】- 源氏の返歌。『源氏物語古注』は「心には下行く水の湧き返り言はで思ふぞ言ふにまされる」(古今六帖五)を指摘。 |
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1.5.31 | 何やかやと、とりとめのないことであるが、関心を引くようにも、まじめなようにもおっしゃるが、何の反応もない。 |
いろいろと、それは実質のあることではなくても、誘惑的にもまじめにも源氏は語り続けたが、あの歌きりほかの返辞はなかった、 |
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1.5.32 | 「まことにこんなに言うにも、態度が変わっていて、思う人が別にいらっしゃるのだろうか」と、癪になって、そっと押し開けて中に入っておしまいになった。 |
こんな態度を男にとるのは特別な考えをもっている人なんだろうかと思うと、源氏は自身が軽侮されているような |
【いとかかるも】- 以下「人にや」まで、源氏の心中。 【思ふ方ことにものしたまふ人にや】- 『集成』は「世間の女とは違った考えの(男のことなど問題にしない)人かと」の意に解す。『完訳』は「気持が他の男にある意。一説には、考えることが普通とは異なる」の意に解す。二者択一というより両義性をもった表現。 【押し開けて入りたまひにけり】- 前に「二間の際なる障子手づからいと強く鎖して」とあったのと矛盾するようであるが、必ずしも施錠したわけではなかったと考えられる。 |
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1.5.33 | 命婦、「まあ、ひどい。 油断させていらっしゃって」と、気の毒なので、知らない顔をして、自分の部屋の方へ行ってしまった。 先程の若い女房連中、言うまでもない、世に例のない美しいお姿の評判の高さに、お咎め申し上げず、大げさに嘆くこともせず、ただ、思いも寄らず急なことで、何のお心構えもないのを、案じるのであった。 |
命婦はうかうかと油断をさせられたことで女王を気の毒に思うと、そこにもおられなくて、そしらぬふうをして自身の部屋のほうへ帰った。侍従などという若い女房は光源氏ということに好意を持っていて、主人をかばうことにもたいして力が出なかったのである。こんなふうに何の心の用意もなくて結婚してしまう女王に同情しているばかりであった。 |
【あな、うたて。たゆめたまへる】- 命婦の心。源氏が今まで油断させていらっしゃったの意。 【いとほしければ、知らず顔にて】- 命婦は、姫君に対して同情しながらも知らぬ顔をして、その場を逃げる。 【さる御心もなきをぞ】- 姫君のお心構えのないのをいう。 |
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1.5.34 | ご本人は、まったく無我夢中で、恥ずかしく身の竦むような思いの他は何も考えられないので、「最初はこのようなのがかわいいのだ。まだ世間ずれしていない人で、大切に育てられているのが」と、大目に見られる一方で、合点がゆかず、どことなく気の毒な感じに思われるご様子である。 どのようなところにお心が惹かれるのだろうか、つい溜息をつかれて、夜もまだ深いうちにお出になった。 |
女王はただ |
【今は】- 以下「かしづかれたる」まで、源氏の心中。 【まだ世馴れぬ人】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「まだ世馴れぬ人の」と「の」を補入する。『新大系』は底本のままとする。 【御さまなり】- 姫君のご様子である。 【何ごとにつけてかは御心のとまらむ】- 語り手の挿入句。「かは」は反語の意を表す。姫君のどのようなところに、源氏のお心が惹かれましょうか、何もないの意。『集成』は「語り手の感想」と注す。『完訳』は「源氏の心に即した語り手の推測」と注す。「御心」は源氏の気持ち。 【うちうめかれて】- 主語は源氏。『完訳』は「これまでの大きな期待が萎えて、ついため息がでる」と注す。大きな落胆失望の気持ち。 【夜深う出でたまひぬ】- 「夜深く」帰るのは異例なこと。気持ちが十分進まなかった証拠である。 |
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1.5.35 | 命婦は、「どうなったのだろう」と、目を覚まして、横になって聞き耳を立てていたが、「知らない顔していよう」と考えて、「お見送りを」と、指図もしない。 君も、そっと目立たぬようにお帰りになったのであった。 |
命婦はどうなったかと一夜じゅう心配で眠れなくて、この時の物音も知っていたが、黙っているほうがよいと思って、「お送りいたしましょう」と |
【知り顔ならじ】- 命婦の心。『完訳』は「ここは源氏の失望を察し、ばつが悪くて、そら寝している」意と解す。 【御送りに】- 姫君の側近の女房は男君の帰りの際には他の女房たちに声をかけるもの。しかし、命婦は実際にはそれを口に出して言わない。 |
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第六段 その後、訪問なく秋が過ぎる |
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1.6.1 | 二条の院にお帰りになって、横におなりになっても、「やはり思うような女性に巡り合うことは難しいものだ」と、お思い続けになって、軽々しくないご身分のほどを、気の毒にお思いになるのであった。 あれこれと思い悩んでいらっしゃるところに、頭中将がいらして、 |
二条の院へ帰って、源氏は |
【二条院におはして】- 場面は二条院に変わる。 【なほ思ふにかなひがたき世にこそ】- 源氏の心。『集成』は「末摘花に夕顔の面影を求めたが失敗だったと」の意と注す。『完訳』は「姫君の身分の高さから、その関係をすぐに絶つのを不憫に思う」と注す。 【軽らかならぬ人】- 末摘花をさす。故常陸宮の姫君という身分である。 |
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1.6.2 | 「ずいぶんな朝寝ですね。 きっと理由があるのだろうと、存じられますが」 |
「たいへんな朝寝なんですね。なんだかわけがありそうだ」 |
【こよなき】- 以下「思ひたまへらるれ」まで、頭中将の源氏へのからかいを交えた詞。 |
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1.6.3 | と |
と言うと、起き上がりなさって、 |
と言われて源氏は起き上がった。 |
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1.6.4 | 「気楽な独り寝のため、寝過ごしてしまった。 内裏からか」 |
「気楽な |
【心やすき】- 以下「内裏よりか」まで、源氏の詞。 |
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1.6.5 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
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1.6.6 | 「ええ。 退出して来たところです。 朱雀院への行幸は、今日、楽人や、舞人が決定される旨、昨晩承りましたので、大臣にもお伝え申そうと思って、退出して来たのです。 すぐに帰参しなければなりません」 |
「そうです。まだ |
【しか】- 以下「参りぬべうはべり」まで、頭中将の返事。 【朱雀院の行幸】- 桐壷帝の朱雀院への行幸。「若紫」巻に「神無月に朱雀院の行幸あるべし」とあったのと同じ行幸をさす。行幸は「ぎやうがう」と濁音で読む。 【今日なむ、楽人、舞人定めらるべきよし】- 大島本「かく人」に「ヒト」と振り仮名がある。「若紫」巻に「舞人など、やむごとなき家の子ども、上達部、殿上人どもなども、そのかたにつきづきしきは、みな選らせたまへれば」とあったのと重なる記事である。 |
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1.6.7 | と、いそがしげなれば、 |
と、急いでいるようなので、 |
頭中将は忙しそうである。 |
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1.6.8 | 「それでは、ご一緒に」 |
「じゃあいっしょに行きましょう」 |
【さらば、もろともに】- 源氏の詞。一緒に宮中へ行こう、の意 |
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1.6.9 | と言って、お粥や、強飯を召し上がって、客人にも差し上げなさって、お車を連ねたが、一台に相乗りなさって、 |
こう言って、源氏は |
【客人】- 頭中将をさす。「まらうと」と清音で読む。 【引き続けたれど、一つにたてまつりて】- 車をさす。車を二台連ねて引かせているが、一台に相乗りした。 |
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1.6.10 | 「まだ、とても眠そうだ」 |
あなたは眠そうだ |
【なほ、いとねぶたげなり】- 頭中将の源氏をからかった詞。 |
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1.6.11 | と、とがめ |
と咎め咎めして、 |
などと中将は言って、 |
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1.6.12 | 「お隠しになっていることがたくさんあるのでしょう」 |
「私に隠すような秘密をあなたはたくさん持っていそうだ」 |
【隠いたまふこと多かり】- 頭中将の恨み詞。 |
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1.6.13 | とぞ、 |
と、お恨み申し上げなさる。 |
とも恨んでいた。 |
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1.6.14 | 事柄が多く取り決められる日なので、一日中宮中においでになった。 |
その日御所ではいろんな決定事項が多くて源氏も終日宮中で暮らした。 |
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1.6.15 | あちらには、せめて後朝の文だけでもと、お気の毒にお思い出しになって、夕方にお出しになった。 雨が降り出して、面倒な上に、雨宿りしようとは、とてもなれなかったのであろうか。 あちらでは、後朝の文の来る時刻も過ぎて、命婦も、「とてもお気の毒なご様子だ」と、情けなく思うのであった。 ご本人は、お心の中で恥ずかしくお思いになって、今朝のお文が暮れてしまってから来たのも、かえって、非礼ともお気づきにならないのであった。 |
新郎はその翌朝に早く手紙を送り、第二夜からの訪問を忠実に続けることが一般の礼儀であるから、自身で出かけられないまでも、せめて手紙を送ってやりたいと源氏は思っていたが、 |
【かしこには】- 末摘花邸をさす。 【文をだに】- 後朝の文をさす。「だに」(副助詞)によって、せめて手紙だけでも、という源氏の末摘花に気乗りしない気持ちが表されている。 【夕つ方ぞありける】- 後朝の文としては遅過ぎる時刻。夕方に手紙があるということは、その夜は行けないので、手紙で済ますというわけである。新婚三日間は毎夜通い続けるのが当時の習俗、源氏はそれを第一夜限りでやめた。 【笠宿りせむと】- 『源氏釈』は「婦が門夫が門行き過ぎかねてや我が行かば肱笠の肱笠の雨もや降らなむ郭公雨やどり笠やどり舎りてまからむ郭公」(催馬楽「婦が門」)を指摘する。前に命婦が「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿りには、えしもや」と言ったのと呼応させた表現。 【はた、思されずやありけむ】- 語り手の感情移入をこめた挿入句。『孟津抄』は「草子地也」と指摘。 【咎とも】- 『集成』『新大系』は「作法に外れているとも」の意に解し、『完訳』は「気になさる」という意に解す。 |
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1.6.16 | 「夕霧が晴れる気配をまだ見ないうちに さらに気持ちを滅入らせる宵の雨まで降ることよ |
夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬに いぶせさ添ふる |
【夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬに--いぶせさそふる宵の雨かな】- 源氏の贈歌。「夕霧の晴るる気色」は末摘花の気持ちを喩える。 |
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1.6.17 | 雲の晴れ間を待つ間は、何とじれったいことでしょう」 |
この晴れ間をどんなに私は待ち遠しく思うことでしょう。 |
【雲間】- 以下「心もとなう」まで、和歌に添えた文。相手が心を開くのを待つもどかしさ。 |
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1.6.18 | とあり。 おはしますまじき |
とある。 いらっしゃらないらしいご様子を、女房たちは失望して悲しく思うが、 |
と源氏の手紙にはあった。来そうもない様子に女房たちは悲観した。 |
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1.6.19 | 「やはり、お返事は差し上げあそばしませ」 |
返事だけはぜひお書きになるように |
【なほ、聞こえさせたまへ】- 女房たちの詞。やはりお返事をなさいませ、の意。 |
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1.6.20 | と、お勧めしあうが、ますますお思い乱れていらっしゃる時で、型通りにも返歌がおできになれないので、「夜が更けてしまいます」と言って、侍従が、いつものようにお教え申し上げる。 |
と勧めても、まだ昨夜から頭を混乱させている女王は、形式的に言えばいいこんな時の返歌も作れない。夜が |
【いとど思ひ乱れたまへるほど】- 主語は末摘花。 【夜更けぬ】- 女房の催促の詞。「ぬ」(完了の助動詞、確述)、夜が更けてしまいそうですの意。 【侍従ぞ、例の教へきこゆる】- 侍従がいつものとおり姫君に返歌を教え申し上げるの意だが、この場合は、歌の文句だけを教えて、紙の選び方や筆法までは関知しなかったようである。 |
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1.6.21 | 「雨雲の晴れない夜の月を待っている人を思いやってください わたしと同じ気持ちで眺めているのでないにしても」 |
晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ 同じ心にながめせずとも |
【晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ--同じ心に眺めせずとも】- 末摘花の返歌。源氏の「晴るる」を踏まえて「晴れぬ夜の」と詠み返す。「月」は源氏を譬え、「里」は自分を喩える。「ながめ」は「眺め」と「長雨」の掛詞。贈答歌の作法にかなった技巧的な和歌である。 |
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1.6.22 | 口々に責められて、紫色の紙で、古くなったので灰の残った古めいた紙に、筆跡は何といっても文字がはっきりと書かれた、一時代前の書法で、天地を揃えてお書きになっている。 見る張り合いもなくお置きになる。 |
書くことだけは自身でなければならないと皆から言われて、紫色の紙であるが、古いので灰色がかったのへ、字はさすがに力のある字で書いた。中古の書風である。一所も散らしては書かず上下そろえて書かれてあった。失望して源氏は手紙を手から捨てた。 |
【灰おくれ】- 紫の紙は灰を交ぜて作るので、古くなった紙面に灰が残っている状態をいう。 【文字強う、中さだの筋にて、上下等しく】- 一時代前の書法で、文字は強くしっかりと、紙の天地を等しく揃えて改行して書いた書法。 【見るかひなううち置きたまふ】- 場面は一転して、源氏の居所。主語は源氏。 |
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1.6.23 | どのように思っているだろうか、と想像するにつけても、気が落ち着かない。 |
今夜自分の行かないことで女はさぞ |
【いかに思ふらむ】- 源氏の心。今夜行かないことを姫君はどうお思いであろうかの意。 【思ひやるも、安からず】- 主語は源氏。 |
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1.6.24 | 「このようなことを、後悔されるなどと言うのであろうか。 そうかといってどうすることもできない。 自分は、それはそれとしてともかくも、気長に最後までお世話しよう」と、お思いになるお気持ちを知らないので、あちらではひどく嘆くのであった。 |
けれども今さらしかたのないことである、いつまでも捨てずに愛してやろうと、源氏は結論としてこう思ったのであるが、それを知らない |
【かかることを】- 以下「見果ててむ」まで、源氏の心。 【いかがはせむ】- 反語表現。どうしよう、どうすることもできないの意。 【さりとも】- 『集成』は「何があっても」の意と解し、『完訳』は「そう考えてみたところで」の意と解す。 【見果ててむ】- 末摘花を生涯お世話しよう、結婚関係を続けよう、の意。 【と、思しなす御心を知らねば】- 主語は末摘花に切り替わる。源氏の「--なす」という気持ちを末摘花は知らない。 |
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1.6.25 | 大臣が、夜になって退出なさるのに、伴われなさって、大殿にいらっしゃった。 行幸の事をおもしろいとお思いになって、ご子息達が集まって、お話なさったり、それぞれ舞いをお習いになったりするのを、そのころの日課として日が過ぎて行く。 |
夜になってから退出する左大臣に伴われて源氏はその家へ行った。行幸の日を楽しみにして、若い |
【引かれたてまつりて】- 「たてまつり」(謙譲の補助動詞)、源氏が左大臣に敬意を表した表現。 |
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1.6.26 | いろいろな楽器の音が、いつもよりもやかましくて、お互いに競争し合って、いつもの合奏とは違って、大篳篥、尺八の笛の音などが大きな音を何度も吹き上げて、太鼓までを高欄の側にころがし寄せて、自ら打ち鳴らして、演奏していらっしゃる。 |
左大臣の子息たちも、平生の楽器のほかの |
【耳かしかましくて】- 『集成』『新大系』は清音に読む。『古典セレクション』は「耳かしがましくて」と濁音に読んでいる。「カシカマシイ(和英語林集成)」(岩波古語辞典)。 |
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1.6.27 | お暇もないような状態で、切に恋しくお思いになる所だけには、暇を盗んでお出掛けになったが、あの辺りには、すっかり御無沙汰で、秋も暮れてしまった。 相変わらず頼りない状態で月日が過ぎて行く。 |
こんなことで源氏も毎日 |
【盗まはれたまへれ】- 大島本「ぬすまはれ給へ(へ+れ)」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「盗まはれたまへ」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。 【かのわたり】- 末摘花邸をさす。 【秋暮れ果てぬ】- 晩秋の九月もすっかり終わる。 【頼み来しかひなくて過ぎゆく】- 末摘花邸では源氏の来訪の期待もむなしく月日が過ぎて行くの意。 |
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第七段 冬の雪の激しく降る日に訪問 |
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1.7.1 | 行幸が近くなって、試楽などで騒いでいるころ、命婦は参内していた。 |
それでいよいよ行幸の日が近づいて来たわけで、試楽とか何とか大騒ぎするころに |
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1.7.2 | 「どうであるか」などと、お尋ねになって、気の毒だとはお思いになっていた。 様子を申し上げて、 |
「どうしているだろう」源氏は不幸な相手をあわれむ心を顔に見せていた。 |
【ありさま聞こえて】- 主語は命婦。 |
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1.7.3 | 「とてもこのように、お見限りのお気持ちは、側でお仕えしている者たちまでが、お気の毒で」 |
「あまりに御冷淡です。その方でなくても見ているものがこれではたまりません」 |
【いとかう】- 以下「心苦しく」まで、命婦の詞。「見たまふる」(下二段、謙譲の補助動詞)の主語は命婦。 |
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1.7.4 | などと、今にも泣き出しそうに思っている。 「奥ゆかしく思っているところで止めておこうとしたのを、台無しにしてしまったのを、思いやりがないとこの人は思っているだろう」とまでお思いになる。 ご本人が、何もおっしゃらないで、思い沈んでいらっしゃるだろう有様、ご想像なさるにつけても、お気の毒なので、 |
泣き出しそうにまでなっていた。悪い感じも源氏にとめさせないで、きれいに結末をつけようと願っていたこの女の意志も尊重しなかったことで、どんなに恨んでいるだろうとさえ源氏は思った。またあの人自身は例の無口なままで物思いを続けていることであろうと想像されてかわいそうであった。 |
【心にくくもてなして】- 以下「思ふらむ」まで、源氏が命婦の考えを忖度した文。しかしそれを受ける引用句はなく地の文に続く。「止みなむと」の主語は命婦。命婦が源氏に末摘花を奥ゆかしいと思わせた程度のところでやめにしたいと考えていたの意。 【くたいてける】- 「くたいて」は「腐して」の音便形、清音。台無しにするの意。読点で切り、目的格となって、下文に続く。 【この人】- 命婦をさす。 |
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1.7.5 | 「忙しい時だよ。 やむをえない」と、嘆息なさって、「人情というものを少しも理解してないような気性を、懲らしめようと思っているのだよ」 |
「とても忙しいのだよ。恨むのは無理だ」 |
【いとまなきほどぞや。わりなし】- 源氏の詞。『集成』は「忙しい時なのだ。弱るね」のニュアンスに解し、『完訳』は「忙しくて暇な時がないのでね。困ったな」のニュアンスに解す。 【もの思ひ知らぬ】- 以下「思ふぞかし」まで、源氏の冗談を交えた詞。「物思ひ」について『集成』は「恋の道」と注し、『完訳』は「人の情け」と訳す。 |
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1.7.6 | と、にこりなさっているのが、若々しく美しそうなので、自分もつい微笑まれる気がして、「困った、人に恨まれなさるお年頃だ。 相手の気持ちを察することが足りなくて、ご自分のお気持ち次第というのも、もっともだ」と思う。 |
こう言って源氏は微笑を見せた。若い美しいこの源氏の顔を見ていると、命婦も自身までが |
【我も】- 命婦をさす。 【わりなの】- 以下「ことわり」まで、命婦の心中。 【人に】- 女性にの意。 【恨みられたまふ】- 主語は源氏。「られ」(受身の助動詞)「たまふ」(尊敬の補助動詞)、女性から恨まれなさるの意。 |
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1.7.7 | この |
この行幸のご準備の時期を過ぎてから、時々お越しになるのであった。 |
この行幸準備の用が少なくなってから時々源氏は常陸の宮へ通った。 |
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1.7.8 | あの紫のゆかり、手に入れなさってからは、そのかわいがりを一心になさって、六条辺りにさえ、一段と遠のきなさるらしいので、ましてや荒れた邸は、気の毒と思う気持ちは絶えずありながらも、億劫になるのはしかたのないことであったと、大げさな恥ずかしがりやの正体を見てやろうというお気持ちも、特別なくて過ぎて行くのを、又一方では、思い返して、「よく見れば良いところも現れて来はしまいか。 手だ触った感触でははっきりしないので、妙に、腑に落ちない点があるのだろうか。 見てみたいものだ」とお思いになるが、あからさまに見るのも気が引ける。 気を許している宵時に、静かにお入りになって、格子の間から御覧になったのであった。 |
そのうち若紫を二条の院へ迎えたのであったから、源氏は小女王を愛することに没頭していて、六条の貴女に逢うことも少なくなっていた。人の所へ通って行くことは始終心にかけながらもおっくうにばかり思えた。常陸の女王のまだ顔も見せない深い |
【かの紫のゆかり】- 「若紫」巻の紫の君をさす。「紫のゆかり」という呼称は藤壺の縁者という意である。 【尋ねとりたまひて】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「尋ねとりたまひては」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のまま。 【六条わたりにだに】- 「夕顔」巻の六条辺りの御方をさす。 【わりなかりけると】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「わりなかりける」と「と」を削除する。『新大系』は底本のまま。 【見まさりするやうも】- 以下「見てしがな」まで、源氏の心。 【格子のはさまより見たまひけり】- 以下、源氏の目を通して語る。 |
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1.7.9 | けれども、 ご本人の姿はお見えになるはずもない。几帳など、ひどく破れてはいたが、昔ながらに置き場所を変えず、動かしたりなど乱れてないので、よく見え なくて、女房たち四、五人座っている。お膳、青磁らしい食器は舶来物だが、みっともなく古ぼけて、お食事もこれといった料理もなく貧弱なのを |
けれど姫君はそんな所から見えるものでもなかった。 |
【みづから】- 姫君をさす。 【心もとなくて】- 見えなくての意。 【御台、秘色】- 御台はお膳、秘色の食器とは青磁の器をいう。 【何のくさはひもなく】- これといった料理の品数がない意。 【まかでて人びと食ふ】- 女房たちが姫君の側から下がって食べている。 |
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1.7.10 | 隅の間の方に、とても寒そうな女房が、白い着物で譬えようもなく煤けた上に、汚らしい褶を纏っている腰つき、いかにも不体裁である。 それでも、櫛を前下がりに挿している額つきは、内教坊、内侍所辺りに、このような連中がいたことよと、おかしい。 夢にも、宮家でお側にお仕えしているとはご存知なかった。 |
皆寒そうであった。白い服の何ともいえないほど |
【かたくなしげなり】- 『集成』は「いかにも旧弊である」の意に解す。『完訳』は「物語制作時代には日常生活で裳や褶を着用しないのが一般的。「かたくなしげ」は、そうした古風を頑固に守っている不体裁をいう」と注す。 【さすがに】- いかにみすぼらしいとはいっても宮家らしくのニュアンス。 【櫛おし垂れて挿したる額つき】- 櫛押し垂れて。櫛をずり落ちそうに挿している恰好をいう。これも古式を守っている宮家の風習。しかし時代遅れの不体裁な様子。 【かかる者ども】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「かかる者どもの」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま。 【あるはやと、をかし】- 「はや」は、源氏の感動。地の文がいつの間にか源氏の心内文に変わって文が結ばれる。 |
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1.7.11 | 「ああ、何とも寒い年ですね。 長生きすると、このような辛い目にも遭うのですね」 |
「まあ寒い年。長生きをしているとこんな冬にも |
【あはれ、さも寒き年かな】- 以下「世にもあふものなりけり」まで、女房の詞。「夕顔」巻に夕顔の宿の隣の卑しい男たちが「あはれ、いと寒しや」「今年こそ、なりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」(第四章二段)と言っていたのが想起される。冬季の寒さだけでない、貧しい生活の様子。 【命長ければ】- 長生きをすると辛い思いをすることが多い。『荘子』の「寿ければ則ち辱多し」が古来指摘されている。 |
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1.7.12 | とて、うち |
と、言って泣く者もいる。 |
そう言って泣く者もある。 |
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1.7.13 | 「故宮様が生きていらしたころを、どうして辛いと思ったのでしょう。 このように頼りない状態でも生きて行けるものなのですね」 |
「宮様がおいでになった時代に、なぜ私は心細いお |
【故宮おはしましし世を】- 以下「すくる物なりけり」(5行)まで、女房の詞。 |
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1.7.14 | とて、 |
と言って、飛び上がりそうにぶるぶる震えている者もいる。 |
その女は両 |
【飛び立ちぬべくふるふもあり】- 『河海抄』は「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(万葉集、貧窮問答歌、山上憶良)を指摘。 |
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1.7.15 | さまざまに |
あれこれと体裁の悪いことを、愚痴こぼし合っているのをお聞きになるのも、気が咎めるので、退いて、ちょうど今お越しになったようにして、お叩きになさる。 |
生活についての |
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1.7.16 | 「それ、それ」などと言って燈火の向きを変え、格子を外してお入れ申し上げる。 |
「さあ、さあ」などと言って、 |
【そそや】- 女房の詞。注意を促す言葉。それそれ、殿のお来しですよの意。 |
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1.7.17 | 侍従は、斎院にお勤めする若い女房なので、最近はいないのであった。 ますます奇妙で野暮ったい者ばかりで、勝手の違った感じがする。 |
侍従は一方で |
【斎院】- 系図不明の人。 【見ならはぬ心地ぞする】- 主語は源氏。 |
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1.7.18 | ますます、辛いと言っていた雪が、空を閉ざして激しく降って来た。 空模様は険しく、風が吹き荒れて、大殿油が消えてしまったのを点し直す人もいない。 あの、魔物に襲われた時を自然とお思い出しになられて、荒れた様子は劣らないようだが、邸の狭い感じや、人気が少しあるなどで安心していたが、ぞっとするように怖く、寝つかれそうにない夜の有様である。 |
先刻老人たちの |
【愁ふなりつる雪】- 「なり」(伝聞推定の助動詞)「つる」(完了の助動詞)、前の「あはれさも寒き年かな」と言っていた女房たちの詞をうける。『完訳』は「以下、屋内外の暗くわびしい心象風景に転ずる」と注す。闇、雪、風などが描かれる。 【ものに襲はれし折】- 「夕顔」巻の某院での夕顔がもののけにとり殺された怪事件をさす。 【荒れたるさまは】- 以下「人気のすこしある」まで、源氏の心内文とも地の文とも解せるような文章が続く。 【劣らざめるを】- 「める」(推量の助動詞、視界内推量)、源氏の体験にもとづく推量。源氏と語り手の判断が一体化した表現。劣らないようなのをの意。 |
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1.7.19 | 趣がありしみじみと胸を打つものがあり、普通とは違って、心に印象深く残るはずの風情なのに、ひどく引っ込み思案ですげないので、何の張り合いもないのを、残念にお思いになる。 |
こんなことはかえって女への愛を深くさせるものなのであるが、心を |
【いと埋れすくよかにて、何の栄えなきを】- 『集成』は「ただもう殻を閉ざすばかりで、愛嬌がなく、何の張合いもないのを」の意に解し、『完訳』は「ただ引込み思案で風流気がなく、まるでぱっとしないのを」の意に解す。 |
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第八段 翌朝、姫君の醜貌を見る |
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1.8.1 | やっと夜が明けた気配なので、格子をお手づから上げなさって、前の前栽の雪を御覧になる。 踏みしめた跡もなく、広々と荒れわたって、ひどく寂しそうなので、振り捨てて帰って行くのも気の毒なので、 |
やっと夜が明けて行きそうであったから、源氏は自身で格子を上げて、近い庭の雪の |
【からうして】- 『古典セレクション』は「からうじて」と濁音で読む。『集成』『新大系』は清音に読む。「カラウシテ(日葡辞書)」「古くはカラウシテと清音か」(岩波古語辞典)。 【格子手づから上げたまひて】- 主語は源氏。上半分の蔀格子だから、「上げたまひて」と濁音で読む。 【踏みあけたる跡もなく】- 常陸宮邸では出入りの貴族や下人などがいない。それゆえに雪も踏みしめられたり片付けられていない様子。「若紫」巻に紫の上が二条院に迎え取られて初めて目にした朝の様子が「立ち出でて、庭の木立、池の方など覗きたまへば、霜枯れの前栽、絵に描けるやうにおもしろくて、見も知らぬ四位、五位こきまぜに、隙なう出で入りつつ」(第三章三段)とあった。両邸の相違が顕著である。 【ふり出でて行かむことも】- 「ふり」に「降り」を掛ける。「降り」は「雪」の縁語。後朝の別れの場面。 |
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1.8.2 | 「風情のある空を御覧なさい。 いつまでも打ち解けて下さらないお心が、困ります」 |
「夜明けのおもしろい空の色でもいっしょにおながめなさい。いつまでもよそよそしくしていらっしゃるのが苦しくてならない」 |
【をかしきほどの】- 以下「わりなけれ」まで、源氏の詞。 【尽きせぬ御心の隔てこそ、わりなけれ】- 「尽きせぬ隔て」は「いつまでもうちとけない心、態度」。「わりなけれ」は「困る、わけが分からない」の意。 |
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1.8.3 | と、お恨み申し上げなさる。 まだほの暗いが、雪の光にますます美しく若々しくお見えになるのを、年老いた女房どもは、喜色満面に拝し上げる。 |
まだ空はほの暗いのであるが、積もった雪の光で常よりも源氏の顔は若々しく美しく見えた。老いた女房たちは目の楽しみを与えられて幸福であった。 |
【いとどきよらに若う見えたまふ】- 主語は源氏。 |
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1.8.4 | 「早くお出であそばしませ。 いけませんわ。 素直なのが」 |
「さあ早くお出なさいまし、そんなにしていらっしゃるのはいけません。素直になさるのがいいのでございますよ」 |
【はや出でさせたまへ】- 以下「心うつくしきこそ」まで、女房の詞。素直なのがなによりだと姫君の行動を促す。 |
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1.8.5 | などとお教え申し上げると、何と言っても、人の申すことをお拒みになれないご性質なので、何やかやと身繕いして、いざり出でなさった。 |
などと注意をすると、この極端に内気な人にも、人の言うことは何でもそむけないところがあって、姿を繕いながら |
【さすがに、人の聞こゆることをえいなびたまはぬ御心】- 末摘花の性質。前にも「さすがに人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて」(第五段)とあった。 |
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1.8.6 | 見ないようにして、外の方を御覧になっていらっしゃるが、横目は尋常でない。 「どんなであろうか、馴れ親しんで見たときに、少しでも良いところを発見できれば嬉しかろうが」と、お思いになるのも、身勝手なお考えというものであるよ。 |
源氏はその方は見ないようにして雪をながめるふうはしながらも横目は使わないのでもない。どうだろう、この人から美しい所を発見することができたらうれしかろうと源氏の思うのは無理な望みである。 |
【見ぬやうにて】- 主語は源氏。 【うちとけまさりの、いささかもあらば】- 馴れ親しんで見たときに少しでも良い点があったらの意。 【あながちなる御心なりや】- 語り手の源氏の身勝手な態度に対する批評。『岷江入楚』所引三光院実枝説に「草子地也」とある。 |
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1.8.7 | まず第一に、座高が高くて、胴長にお見えなので、「やはりそうであったか」と、失望した。 引き続いて、ああみっともないと見えるのは、鼻なのであった。 ふと目がとまる。 普賢菩薩の乗物と思われる。 あきれて高く長くて、先の方がすこし垂れ下がって色づいていること、特に異様である。 顔色は、雪も恥じるほど白くまっ青で、額の具合がとても広いうえに、それでも下ぶくれの容貌は、おおよそ驚く程の面長なのであろう。 痩せ細っていらっしゃること、気の毒なくらい骨ばって、肩の骨など痛々しそうに着物の上から透けて見える。 「どうしてすっかり見てしまったのだろう」と思う一方で、異様な恰好をしているので、そうはいっても、ついつい目が行っておしまいになる。 |
すわった背中の線の長く伸びていることが第一に目へ映った。はっとした。その次に並みはずれなものは鼻だった。注意がそれに引かれる。 |
【まづ、居丈の】- 以下、源氏の目を通して語る末摘花の容姿。「ゐだけ」(居丈)と濁音で読む。 【さればよ】- やはりそうであったか、と合点した気持ち。前に、最初の夜のその折に「心得ずなまいとほしとおぼゆる御さまなり」、またそれを回想した折に「手さぐりのたどたどしきに怪しう心得ぬこともあるにや」とあった文と呼応する。暗闇なかで手で触れた時に異様に感じていた。 【普賢菩薩の乗物】- 「普賢菩薩---白象に乗る---象の鼻華有り、其の茎譬へば赤真珠色の如し」(観普賢菩薩行法経)。 【肩のほどなどは】- 『古典セレクション』は諸本に従って「肩のほどなど」と「は」を削除する。『集成』『新大系』は底本のまま。 【何に残りなう見あらはしつらむ】- 源氏の心。後悔の気持ち。 【見やられたまふ】- 「られ」(自発の助動詞)、ついつい目が行っておしまいになる。 |
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1.8.8 | 頭の恰好、髪の垂れ具合は、美しく素晴らしいとお思い申していた人々にも、少しも引けを取らず、袿の裾にたくさんあって引きずっている部分は、一尺ほど余っているだろうと見える。 着ていらっしゃる物まで言い立てるのも、口が悪いようだが、昔物語にも、人のお召し物についてはまっ先に述べているようだ。 |
頭の形と、髪のかかりぐあいだけは、平生美人だと思っている人にもあまり劣っていないようで、 |
【頭つき、髪のかかりはしも】- 頭の格好(絵巻で見るような後から見た折の小さい三角形の形)と髪の長く豊かなことが末摘花の唯一の美点。「しも」(副助詞)は強調のニュアンスを添える。 【めでたしと思ひきこゆる人びと】- 主語は源氏。源氏が関係した女性たち中で。 【着たまへるものどもを】- 以下「まづ言ひためれ」まで、語り手の挿入文。『休聞抄』は「紫式部かきつる心也」と指摘。『評釈』は「紫式部は、昔物語と違った方法で物語を書きたいと思っていた(中略)しかし、ここでは、断わり書をしてまでもどうしても書かざるを得なかった。それほどに姫君の衣装は世間離れしたものであった」と注す。 【もの言ひさがなきやうなれど】- 『完訳』は「口が悪すぎるとして、読者の反発を封じこめる語り口」と注す。 |
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1.8.9 | 聴し色のひどく古びて色褪せた一襲に、すっかり黒ずんだ袿を重ねて、上着には黒貂の皮衣、とてもつやつやとして香を焚きしめたのを着ていらっしゃる。 昔風の由緒ある御装束であるが、やはり若い女性のお召し物としては、似つかわしくなく仰々しいことが、まことに目立つ。 しかし、なるほど、この皮衣がなくては、さぞ寒いことだろう、と見えるお顔色なのを、お気の毒とご覧になる。 |
桃色の変色してしまったのを重ねた上に、何色かの |
【聴し色】- 薄紅色。「禁色」の対。「禁色」は天皇・皇族に限られる濃い紫や紅色。「聴し色」はそれらの薄い色。 【黒貂の皮衣】- 黒貂の毛皮で作った衣服。.渤海国などからもたらされた舶来品。高貴な男性用物。一条朝には古風となる。 【げに】- 以下「寒からまし」まで、源氏の感想。 【はた、寒からまし】- 「はた」(副詞)、「まし」(反実仮想の助動詞)。さぞ、寒いであろうの意。 |
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1.8.10 | いとほしくあはれにて、いとど |
何もおっしゃれず、自分までが口が利けなくなった気持ちがなさるが、いつもの沈黙を開かせようと、あれこれとお話かけ申し上げなさるが、ひどく恥じらって、口を覆っていらっしゃるのまでが、野暮ったく古風に、大げさで、儀式官が練り歩く時の臂つきに似て、それでもやはりちょっと微笑んでいらっしゃる表情、中途半端で落ち着かない。 お気の毒でかわいそうなので、ますます急いでお出になる。 |
何ともものが言えない。相手と同じように無言の人に自身までがなった気がしたが、この人が初めからものを言わなかったわけも明らかにしようとして何かと尋ねかけた。 |
【何ごとも言はれたまはず】- 主語は源氏。「れ」(可能の助動詞)、源氏は何ともおっしゃることができずの意。あまりの気の毒さに言葉を失った。 【我さへ】- 源氏をさす。「さへ」(副助詞)は、末摘花のみならず、自分までがのニュアンスを添える。 【例のしじまも心みむ】- 「しじま」は源氏の「いくそたび」歌にもとづく言葉。沈黙の口を開かせようの意。 【儀式官の練り出でたる臂もちおぼえて】- 末摘花の姿が朝廷の儀式を司る太政官の役人が儀式の際に笏を持って肘を張っている様子に似ていることを思う。 【さすがにうち笑みたまへるけしき】- 末摘花の表情をいう。 【はしたなうすずろびたり】- 『集成』は「ちぐはぐで板についていない」意に解し、『完訳』は「取って付けたようで、どうにも落ち着かない感じである」の意に解す。 【いとど急ぎ出でたまふ】- 前回の訪問の夜(「夜深う出でたまひぬ」)よりもいっそう早くお帰りになる意。といって、その別れ際を以下に詳しく語る。 |
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1.8.11 | 「頼りになる人がいないご境遇ですから、縁を結んだわたしには、心を隔てず打ち解けて下さいましたら、本望な気がします。 打ち解けて下さらないご態度なので、情けなくて」などと、姫君のせいにして、 |
「どなたもお世話をする人のないあなたと知って結婚した私には何も御遠慮なんかなさらないで、必要なものがあったら言ってくださると私は満足しますよ。私を信じてくださらないから恨めしいのですよ」などと、早く出て行く口実をさえ作って、 |
【頼もしき人】- 以下「つらう」まで、源氏の詞。「頼もしき人」は親兄弟などをさす。 【見そめたる人】- 源氏をさす。結婚した相手。 【疎からず思ひむつびたまはむ】- 主語は末摘花。 |
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1.8.12 | 「朝日がさしている軒のつららは解けましたのに どうして氷は解けないでいるのでしょう」 |
朝日さす軒のたるひは解けながら などかつららの結ぼほるらん |
【朝日さす軒の垂氷は解けながら--などかつららの結ぼほるらむ】- 源氏の贈歌。「とけ」に「垂氷」(つらら)が解ける意と心が解けるの意を掛け、「むすぼほる」に「つらら」(氷)が張り詰める意と心を閉ざす意とを掛ける。 |
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1.8.13 | とおっしゃるが、ただ「うふふっ」とちょっと笑って、とても容易に返歌も詠めそうにないのもお気の毒なので、お出になった。 |
と言ってみても、「むむ」と口の中で笑っただけで、返歌の出そうにない様子が気の毒なので、源氏はそこを出て行ってしまった。 |
【むむ】- 大島本は「むく」とあり、「く」をミセケチにして「む」と訂正する。はじめオドリ字「ゝ」を「く」と誤写したものであろう。 【うち笑ひて】- 照れ隠しの笑い。 【いと口重げなるもいとほしければ、出でたまひぬ】- 本来は姫君から返歌があるところ。しかし、なかなか返歌もできないことを気の毒に思って源氏は帰る。 |
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1.8.14 | お車を寄せてある中門が、とてもひどく傾いていて、夜目にこそ、それとはっきり分かっていながら何かと目立たないことが多かったが、とてもお気の毒に寂しく荒廃しているなかで、松の雪だけが暖かそうに降り積もっている、山里のような感じがして、物哀れに思われるが、「あの人たちが言っていた荒れた宿とは、このような所だったのだろう。 なるほど、気の毒でかわいらしい女性をここに囲っておいて、気がかりで恋しいと思いたいものだ。 大それた恋は、そのことで気が紛れるだろう」と、「理想的な荒れた宿に不似合いなご器量は、取柄がない」と思う一方で、「自分以外の人は、なおさら我慢できようか。 わたしがこのように通うようになったのは、故親王が心配に思って結び付けた霊の導きによるようである」とお思いになる。 |
中門の車寄せの所が曲がってよろよろになっていた。夜と朝とは荒廃の度が違って見えるものである、どこもかしこも目に見える物はみじめでたまらない姿ばかりであるのに、松の木へだけは暖かそうに雪が積もっていた。 |
【御車寄せたる中門】- 対の屋から南へ延びた廊の途中にある。中門に牛車を寄せ着けて乗り降りする。 【松の雪のみ暖かげに】- 松が雪におおわれて暖かそうだとは、雪を真綿に見立てた擬人法である。 【かの人びとの】- 以下「取るべきかたなし」まで、源氏の心中。「かの人びと」とは「帚木」巻の雨夜の品定めの折の人々をさす。 【あるまじきもの思ひ】- 藤壷思慕をさす。 【紛れなむかし」と、「思ふやうなる】- 『完訳』は「と」を地の文とし、その前後を源氏の心中文と解す。 【我ならぬ人は】- 以下「しるべなめり」まで、源氏の心中。 【故親王】- 故常陸宮。 |
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1.8.15 | 橘の木が埋もれているのを、御随身を呼んで払わせなさる。 羨ましそうに、松の木が独りで起き返って、ささっとこぼれる雪も、「名に立つ末の」と見えるのなどを、「さほど深くなくとも、多少分かってくれる人がいたらなあ」と御覧になる。 |
うずめられている |
【うらやみ顔に、松の木の】- 擬人法。 【名に立つ末の」と】- 『源氏釈』は「我が袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし」(後撰集、恋二、六八四、土左)を指摘。『完訳』はさらに「浦ちかく降りくる雪は白波の末の松山越すかとぞ見る」(古今集、冬、三二六、藤原興風)をも指摘する。 【いと深からずとも】- 以下「人もがな」まで、源氏の心中。 |
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1.8.16 | お車が出るはずの門は、まだ開けてなかったので、鍵の番人を探し出すしたところ、老人でとてもひどく年とった者が出て来た。 その娘だろうか、孫であろうか、どちらともつかない大きさの女が、着物は雪に映えて黒くくすみ、寒がっている様子、たいそうで、奇妙な物に火をわずかに入れて、袖で覆うようにして持っていた。 老人が、中門を開けられないので、近寄って手伝うのが、いかにも不体裁である。 お供の人が、近寄って開けた。 |
車の通れる門はまだ |
【翁のいといみじきぞ】- 老人でひどく年とったのがの意。 【寄りてひき助くる】- 主語は女。 【いとかたくななり】- 『集成』は「不器用である」の意に解し、『完訳』は「不体裁で見苦しい」の意に解す。 |
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1.8.17 | 「老人の白髪頭に積もった雪を見ると その人以上に、 |
ふりにける 劣らずぬらす朝の袖かな |
【降りにける頭の雪を見る人も--劣らず濡らす朝の袖かな】- 源氏の独詠歌。「ふり」は雪が「降り」と翁の「古り」の意を掛け、「頭の雪」は実際の雪と白髪の意をこめる。 |
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1.8.18 | 『 |
『幼い者は着る着物もなく』」 |
と歌い、また、「 |
【幼き者は形蔽れず】- 『白氏文集』「秦中吟 重賦」の「歳暮れて天地閉じ、陰風破村に生ず、夜けて煙火尽きぬ、霰雪白し紛々たり、幼き者は形蔽れず、老いたる者は躰に温なること無し、悲喘と寒気と併ら入りて鼻の中にして辛し」とある詩句による。 |
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1.8.19 | と口ずさみなさっても、鼻の色に現れて、とても寒いと見えたおん面影が、ふと思い出されて、微笑まれなさる。 「頭中将に、これを見せた時には、どのような譬えを言うだろう。いつも探りに来ているので、やがて見つけられるだろう」と、しかたなくお思いになる。 |
と吟じていたが、白楽天のその詩の終わりの句に鼻のことが言ってあるのを思って源氏は微笑された。頭中将があの自分の新婦を見たらどんな批評をすることだろう、何の |
【鼻の色に出でて】- 寒さで翁の娘か孫娘が鼻を赤くしているのを見て、末摘花の鼻を思い出す。 【頭中将に】- 以下「見つけられなむ」まで、源氏の心中。 |
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1.8.20 | 世間並の、平凡な顔立ちならば、忘れてしまってもよいのだが、はっきりと御覧になった後は、かえってひどく気の毒で、暮らし向きの事に、常にお心をかけておやりになる。 |
女王が普通の |
【常に訪れたまふ】- 『集成』は「始終気をつけておやりになる」の意に解し、『完訳』は「しじゅうお訪ねになる」の意に解す。しかし、源氏が頻繁に末摘花邸に訪問するとは考えられず、遣いの者が差し向けられたものと思われる。「訪れ」は手紙による安否の気づかいであろう。 |
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1.8.21 | かやうのまめやかごとも |
黒貂の皮衣ではない、絹、綾、綿など、老女房たちが着るための衣類、あの老人のための物まで、召使の上下をお考えに入れて差し上げなさる。 このような暮らし向きのことを世話されても恥ずかしがらないのを、気安く、「そのような方面の後見人としてお世話しよう」とお考えになって、一風変わった、普通ではしないところまで立ち入ったお世話もなさるのであった。 |
【かやうのまめやかごとも恥づかしげならぬを】- 「恥づかしげならぬ」の主語は末摘花。『集成』は「こんな暮し向きの贈り物をしても失礼に当りそうでないので」の意に解し、『完訳』は「このような暮し向きの援助も、姫君は恥ずかしがったりなさらないので」の意に解す。 【さる方の後見にて育まむ】- 源氏の心。実生活上の後見者として、の意。 【思ほしとりて】- 『完訳』は「熟考の末に姫君援助を決意」と注す。 【さならぬ】- 普通ではしないの意。 【うちとけわざ】- 立ち入った細かな世話など。 |
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1.8.22 | 「かの げに |
「あの空蝉が、気を許していた宵の横顔は、かなりひどかった容貌ではあるが、身のもてなしに隠されて、悪くはなかった。 劣る身分の人であろうか。 なるほど身分によらないものであった。 気立てがやさしくて、いまいましかったが、根負けしてしまったなあ」と、何かの折ふしにはお思い出しになられる。 |
【かの空蝉の】- 以下「止みにしかな」まで、源氏の心中。 【劣るべきほどの人なりやは】- 「に」(断定の助動詞)「やは」(係助詞、反語)。末摘花は空蝉の身分に劣ろうか、いやそれ以上の身分の人であるの意。 【げに品にもよらぬわざなりけり】- 「帚木」巻の左馬頭の言葉「今はただ品にもよらじ、容貌をばさらにも言はじ」を受けて、なるほど、言う通りの意。 【心ばせの】- 空蝉の人柄をいう。 【なだらかに、ねたげなりしを】- 『集成』は「やさしくて芯のある人だったが」の意に解し、『完訳』は「いまいましい程の魅力。源氏は、しばしば「ねたし」と回顧していた」と注して「いまいましいほどにしっかりしていたので」と訳す。 |
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第九段 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる |
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1.9.1 | 年も暮れた。 内裏の宿直所にいらっしゃると、大輔の命婦が参上した。 お櫛梳きなどの折には、色恋めいたことはなく、気安いとはいえ、やはりそれでも冗談などをおっしゃって、召し使っていらっしゃるので、お呼びのない時にも、申し上げるべき事がある時には、参上するのであった。 |
その年の暮れの押しつまったころに、源氏の御所の |
【年も暮れぬ】- 季節は歳末となる。 【おはします】- 主語は源氏。 【御梳櫛などには、懸想だつ筋なく、心やすきものの、さすがにのたまひたはぶれなどして、使ひならしたまへれば】- 異性の乳母子である大輔命婦と源氏との日常生活のありようを語る。 【聞こゆべき事】- 命婦が源氏に申し上げるべきこと。 |
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1.9.2 | 「妙な事がございますが、申し上げずにいるのもいけないようなので、思慮に困りまして」 |
「変なことがあるのでございますがね。申し上げないでおりますのも意地が悪いようにとられることですし、困ってしまって上がったのでございます」 |
【あやしきことの】- 以下「わづらひて」まで、命婦の詞。 【聞こえさせざらむも】- 命婦が源氏の耳に。「聞こえさす」は「聞こゆ」よりさらに丁重な謙譲語。もったい間った言い方をする。 |
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1.9.3 | と、ほほ |
と、微笑みながら全部を申し上げないのを、 |
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1.9.4 | 「どのような事だ。 わたしには隠すこともあるまいと、思うが」とおっしゃると、 |
「なんだろう。私には何も隠すことなんかない君だと思っているのに」 |
【何ざまの】- 以下「なむ思ふ」まで、源氏の詞。 |
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1.9.5 | 「どういたしまして。 自分自身の困った事ならば、恐れ多くとも、まっ先に。 これは、とても申し上げにくくて」 |
「いいえ、私自身のことでございましたら、もったいないことですがあなた様に御相談に上がって申し上げます。この話だけは困ってしまいました」 |
【いかがは】- 以下「聞こえさせにくくなん」まで、命婦の詞。 |
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1.9.6 | と、いたう |
と、ひどく口ごもっているので、 |
なお言おうとしないのを、 |
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1.9.7 | 「 |
「例によって、様子ぶっているな」とお憎みになる。 |
源氏は例のようにこの女がまた思わせぶりを始めたと見ていた。 |
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1.9.8 | 「あちらの宮からございましたお手紙で」と言って、取り出した。 |
「常陸の宮から参ったのでございます」こう言って命婦は手紙を出した。 |
【かの宮よりはべる御文】- 命婦の詞。常陸宮邸の末摘花からの手紙。 |
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1.9.9 | 「なおいっそう、 |
「じゃ何も君が隠さねばならぬわけもないじゃないか」 |
【まして、これは取り隠すべきことかは】- 源氏の詞。『完訳』は「めったに手紙をくれない姫君からの手紙だから、まして」と注す。 |
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1.9.10 | と言って、お取りになるにつけても、どきりとする。 |
こうは言ったが、受け取った源氏は当惑した。 |
【取りたまふも、胸つぶる】- 「取りたまふ」は源氏。「胸つぶる」は命婦。 |
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1.9.11 | 陸奥紙の厚ぼったい紙に、薫香だけは深くたきしめてある。 とてもよく書き上げてある。 和歌も、 |
もう古くて厚ぼったくなった |
【陸奥紙の厚肥えたるに】- 檀紙、白く厚ぼったい紙で、恋文には用いない。普通は薄様を用いる。 |
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1.9.12 | 「あなたの冷たい心がつらいので わたしの袂は涙でこんなにただもう濡れております」 |
【唐衣君が心のつらければ--袂はかくぞそぼちつつのみ】- 末摘花の贈歌。「唐衣」は「着」に掛かる枕詞。「君」は「着る」の「き」と「君」の「き」の掛詞、「衣」「袂」は縁語。 |
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1.9.13 | 合点がゆかず首を傾けていらっしゃると、上包みに、衣装箱の重そうで古めかしいのを置いて、押し出した。 |
何のことかと思っていると、おおげさな包みの |
【心得ず】- 源氏は、末摘花がどうしてこのような和歌を詠み贈ってきたのか理解できない。 |
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1.9.14 | 「これを、どうして、見苦しいと存ぜずにいられましょう。 けれども、元日のご衣装にと言って、わざわざございましたようなを、無愛想にはお返しできません。 勝手にしまい込んで置きますのも、姫君のお気持ちに背きましょうから、御覧に入れた上で」と申し上げると、 |
「これがきまり悪くなくてきまりの悪いことってございませんでしょう。お正月のお |
【これを】- 以下「御覧ぜさせてこそは」まで、命婦の詞。 【朔日の御よそひ】- 正月の衣装。末摘花はしきたりを守り夫の正月の衣装の世話をしようとした。 【人の御心】- 末摘花をさす。 |
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1.9.15 | 「しまい込んでしまったら、つらいことだったろうよ。 袖を抱いて乾かしてくれる人もいないわたしには、 |
「君の所へ留めて置かれたらたいへんだよ。着物の世話をしてくれる家族もないのだからね、御親切をありがたく受けるよ」 |
【引き籠められなむは】- 以下「心ざしにこそは」まで、源氏の詞。 【袖まきほさむ人もなき】- 『源氏釈』は「あは雪は今朝はな降りそ白妙の袖まきほさむ人もあらなくに」(古今六帖)を指摘、万葉集にも同歌があるが、「今日はな」とある。また『源氏釈』所引の歌には「白雪は」とある。 |
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1.9.16 | とのたまひて、ことにもの 「さても、あさましの これこそは また、 |
とおっしゃって、他には何ともおっしゃれない。 「それにしても、 何とまあ、あきれた詠みぶりであ ることか。これがご自身の精一 杯のようだ。侍従が直すべきところだろう。他に、手を取って教える先生はいないのだろ う」と、何とも言いようなくお思いになる。精 |
とは言ったが、もう |
【さても、あさましの】- 以下「博士ぞなかべき」まで、源氏の心中。 【詠み出でたまひつらむ】- 大島本「よミいて給つらむ」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「詠み出でたまへらむ」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。仮名文字「へ」と「つ」の字体から発生した異同である。 |
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1.9.17 | 「まことに恐れ多い歌とは、きっとこのようなのを言うのであろうよ」 |
「もったいない貴婦人と言わなければならないのかもしれない」 |
【いともかしこき方】- 以下「言ふべかりけり」まで、源氏の心中。 |
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1.9.18 | と、ほほ |
と、苦笑しながら御覧になるのを、命婦、赤面して拝する。 |
と言いながら源氏は微笑して手紙と贈り物の箱をながめていた。命婦は |
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1.9.19 | 流行色だが、我慢できないほどの艶の無い古めいた直衣で、裏表同じく濃く染めてあり、いかにも平凡な感じで、端々が見えている。 「あきれた」とお思いになると、この手紙を広げながら、端の方にいたずら書きなさるのを、横から見ると、 |
【今様色】- 『集成』は「流行色(濃い紅梅色)の、我慢できないほど艶のない古めかしい直衣で。「えゆるすまじく」は色が濃くて、禁色(濃い紅)に近いので、「禁色」に対する「聴し色」にひっかけた洒落」と注すが、『完訳』は「流行色。後の「紅の」の歌から薄紅色と分る。「聴色」とも。次に「えゆるすまじく」とあるゆえん。禁色ではなく、がまんできない古さ」と注す。『新大系』でも薄紅色。 【側目に見れば】- 主語は命婦。 |
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1.9.20 | 「格別親しみを感じる花でもないのに どうしてこの末摘花を手にすることになったのだろう |
なつかしき色ともなしに何にこの |
【なつかしき色ともなしに何にこの--すゑつむ花を袖に触れけむ】- 源氏の独詠歌。「すゑつむ花」は紅花、「はな」に「花」と「鼻」の意を掛ける。本巻の巻名となる。 |
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1.9.21 | 色の濃い「はな」だと思っていたのだが」 |
色濃き花と見しかども、とも読まれた。 |
【色濃き花と見しかども】- 歌に添えた言葉。『源氏釈』は「紅を色濃き花と見しかども人を飽くだにうつろひにけり」(出典未詳)を指摘。なお下句には諸注釈書によって異同がある。 |
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1.9.22 | などと、お書き汚しなさる。 紅花の非難を、やはりわけがあるのだろうと、思い合わされる折々の、月の光で見た容貌などを、気の毒に思う一方で、またおかしくも思った。 |
花という字にわけがありそうだと、月のさし込んだ夜などに時々見た女王の顔を命婦は思い出して、源氏のいたずら書きをひどいと思いながらもしまいにはおかしくなった。 |
【月影などを】- 月の光で見た姫君の容貌などをの意。「まだほの暗けれど、雪の光に」(第八段)とあった。 |
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1.9.23 | 「紅色に一度染めた衣は色が薄くても どうぞ悪い評判をお立てなさることさえなければ |
「くれなゐのひとはな ひたすら朽たす名をし立てずば |
【紅のひと花衣うすくとも--ひたすら朽す名をし立てずは】- 命婦の唱和歌。「花」に「花」と「鼻」の意を掛ける。 |
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1.9.24 | お気の毒なこと」 |
その我慢も人生の勤めでございますよ」 |
【心苦しの世や】- 歌に添えた言葉。 |
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1.9.25 | と、とてももの馴れたように独り言をいうのを、上手ではないが、「せめてこの程度に通り一遍にでもできたならば」と、返す返すも残念である。 身分が高い方だけに気の毒なので、名前に傷がつくのは何といってもおいたわしい。 女房たちが参ったので、 |
理解があるらしくこんなことを言っている命婦もたいした女ではないが、せめてこれだけの才分でもあの人にあればよかったと源氏は残念な気がした。身分が身分である、自分から捨てられたというような気の毒な名は立てさせたくないと思うのが源氏の真意だった。ここへ伺候して来る人の足音がしたので、 |
【かうやうのかいなでにだにあらましかば】- 源氏の心。 |
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1.9.26 | 「隠すとしようよ。 このようなことは、 |
「これを隠そうかね。男はこんな |
【取り隠さむや】- 以下「ものにやあらむ」まで、源氏の詞。 |
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1.9.27 | と、つい呻きなさる。 「どうして、御覧に入れてしまったのだろうか。 自分までが思慮のないように」と、とても恥ずかしくて、静かに下がった。 |
源氏はいまいましそうに言った。なぜお目にかけたろう、自分までが浅薄な人間に思われるだけだったと恥ずかしくなり命婦はそっと去ってしまった。 |
【何に御覧ぜさせつらむ。我さへ心なきやうに】- 命婦の心。 |
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1.9.28 | 翌日、出仕していると、台盤所にお立ち寄りになって、 |
翌日命婦が清涼殿に出ていると、その |
【上にさぶらへば】- 主語は命婦。「上」は清涼殿をいう。 【さしのぞきたまひて】- 主語は源氏。 |
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1.9.29 | 「そらよ。 昨日の返事だ。 妙に心づかいされてならないよ」 |
「さあ返事だよ。どうも晴れがましくて堅くなってしまったよ」 |
【くはや】- 以下「過ぐさるる」まで、源氏の詞。 |
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1.9.30 | とて、 |
と言って、お投げ入れになった。 女房たち、何事だろうかと、見たがる。 |
と手紙を投げた。おおぜいいた女官たちは源氏の手紙の内容をいろいろに想像した。 |
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1.9.31 | 「ちょうど紅梅の色のように、三笠の山の少女は捨ておいて」 |
「たたらめの花のごと、 |
【ただ梅の花の色のごと】- 『集成』は「風俗歌「たたらめの花のごと掻練好むや減紫の色好むや」の一句か。「ただうめ」は、「たたらめ」の誤写かといわれている。「たたらめ」は、植物の名で、今の何に当るかは不詳。花の色が赤かったのであろう。「滅紫」は、青黒い感じの紫色」と注す。『完訳』は「『花鳥余情』は「たたらめの花のごと掻練好むやげに紫の色好むや」(政事要略・衛門府風俗歌)を掲げる。「たたらめの鼻」(鍛冶の炉をつかさどる巫女の赤鼻)から「ただ梅の花」に転じたか。また「三笠の山」の春日神社が常陸の鹿島神社と同じ祭神ゆえ、常陸宮の姫君を連想」と注す。 【三笠の山の】- 『源氏釈』は「東遊の求子に、春日の御神楽に謡ふ哥なり。賀茂八幡春日、所に依りて謡ふなり。かやうにて三笠の山の少女をば棄ててとは謡ふなり」と指摘。宗祇の『源氏物語不審抄出』に「三笠の山の少女をば棄ててと言へる、常陸宮の少女と言はんためなり。末摘は常陸宮の姫君なればなり。まづ三笠の山といふことは、求子の歌によりて言へるなり。もとめ子の歌は、諸社にて謡ふ時、その所のなを言ふことあり。春日にては三笠の山の少女と謡ふべき事なり。ただ三笠の山の少女を棄てて、常陸の少女と言はまほしきの心なり。されど、あまりに合はぬ事にては言はるまじきを、春日の明神は常陸より出で給ひたる御神なり。三笠も鹿島も同じ御神三社なれば、その便りあるにより、斯く言へるなり」と指摘。古注・旧注は「求め子」の詞章と指摘。しかし、『集成』は「右(衛門府)の風俗歌に、このような詞章があったものか」と注す。 |
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1.9.32 | と、 |
と、口ずさんでお出になったのを、命婦は「とてもおかしい」と思う。 事情を知らない女房たちは、 |
という歌詞を歌いながら源氏は行ってしまった。また赤い花の歌であると思うと、命婦はおかしくなって笑っていた。理由を知らない女房らは口々に、 |
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1.9.33 | 「どうして、独り笑いなさって」と、口々に非難しあっている。 |
「なぜひとり笑いをしていらっしゃるの」と言った。 |
【なぞ、御ひとりゑみは】- 女房の詞。 |
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1.9.34 | 「何でもありません。 寒い霜の朝に、掻練り好きの鼻の色がお目に止まったのでしょうよ。 ぶつぶつとお歌いになるのが、 |
「いいえ寒い霜の朝にね、『たたらめの花のごと |
【あらず】- 以下「いとほしき」まで、命婦の詞隠 【掻練好める花の色あひ】- 先の風俗歌に引っ掛けた表現だが、寒がって赤い鼻をしている人の意を裏にこめる。 |
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1.9.35 | 「あまりなお言葉ですこと。 ここには赤鼻の人はいないようですのに」 |
「わざわざあんな歌をお歌いになるほど赤い鼻の人もここにはいないでしょう。 |
【あながちなる御こと】- 以下「混らひつらむ」まで、女房たちの詞。 『集成』は「苦しいこじつけですこと」の意に解し、『完訳』は「いい気なおっしゃりかたじゃありませんか」の意に解す。 |
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1.9.36 | 「左近の命婦や、肥後の采女が交じっているでしょうか」 |
【左近の命婦、肥後の采女】- 左近の命婦、肥後の采女、いずれも女房名。 |
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1.9.37 | など、 |
などと、合点がゆかず、言い合っている。 |
などと、その人たちは源氏の |
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1.9.38 | お返事を差し上げたところ、宮邸では、女房たちが集まって、感心して見るのであった。 |
命婦が持たせてよこした源氏の返書を、 |
【御返りたてまつりたれば】- 場面は変わって常陸宮邸。 |
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1.9.39 | 「逢わない夜が多いのに間を隔てる衣とは ますます重ねて見なさいということですか」 |
重ねていとど身も |
【逢はぬ夜をへだつるなかの衣手に--重ねていとど見もし見よとや】- 源氏の返歌隠「隔つる」は夜を隔てる意と仲を隔てる意を掛け、「重ねて」は逢わない夜を重ねる意と衣を重ねる意とを掛ける。『源氏物語古注』は「逢はぬ夜を」について「衣だに中にありしはうとかりき逢はぬ夜をさへ隔てつるかな」(拾遺集、恋三、七九八、読人しらず)を指摘。 |
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1.9.40 | 白い紙に、さりげなくお書きになっているのは、かえって趣きがある。 |
ただ白い紙へ |
【白き紙に】- 末摘花の「陸奥紙の厚肥えたる」紙に応じたもの。 【捨て書いたまへる】- さりげない、また、無造作な書きぶり。 |
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1.9.41 | 大晦日の日、夕方に、あの御衣装箱に「御料」と書いて、人が献上した御衣装一具、葡萄染めの織物の御衣装、他に山吹襲か何襲か、色さまざまに見えて、命婦が差し上げた。 「先日差し上げた衣装の色合いを良くないと思われたのだろうか」と思い当たるが、「あれだって、紅色の重々しい色だわ。 よもや見劣りはしますまい」と、老女房たちは判断する。 |
三十日の夕方に宮家から贈った衣箱の中へ、源氏が他から贈られた白い |
【晦日の日】- 大晦日の日。 【御衣一領】- 大島本「御そひとく(く+たり)」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御衣一具」と校訂する。『新大系』は底本の補入に従う。 【ありし色あひ】- 以下「見たまひけむ」まで、老女房の心。 【かれはた】- 以下「消えじ」まで、老女房の心。「紅」の色の縁語で「消えじ」という。 |
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1.9.42 | 「お歌も、こちらからのは、筋が通っていて、手抜かりはありませんでした」 |
「お歌だって、こちらのは意味が強く徹底しておできになっていましたよ。 |
【御歌も】- 以下「をかしき方にこそ」まで、老女房たちの詞。 |
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1.9.43 | 「 |
「ご返歌は、ただ面白みがあるばかりです」 |
御返歌は技巧が勝ち過ぎてますね」 |
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1.9.44 | など、 |
などと、口々に言い合っている。 姫君も、並大抵のわざでなく詠み出したもとなので、手控えに書き付けて置かれたのであった。 |
これもその連中の言うことである。 |
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第十段 正月七日夜常陸宮邸に泊まる |
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1.10.1 | 正月の数日も過ぎて、今年、男踏歌のある予定なので、例によって、家々で音楽の練習に大騷ぎなさっているので、何かと騒々しいが、寂しい邸が気の毒にお思いやらずにはいられっしゃれないので、七日の日の節会が終わって、夜になって、御前から退出なさったが、御宿直所にそのままお泊まりになったように見せて、夜の更けるのを待って、お出かけになった。 |
元三日が過ぎてまた今年は |
【朔日のほど過ぎて】- 正月の数日間が過ぎての意。新年立によれば、源氏十九歳。 【男踏歌】- 正月十四日夜に行われる。天元六年(九八三)以後廃絶。 【七日の日の節会】- 白馬の節会をさす。 【御宿直所】- 源氏の宿直所は淑景舎(桐壷)にある。 |
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1.10.2 | いつもの様子よりは、感じが活気づいており、世間並みに見えた。 君も、少しもの柔らかな感じを身につけていらっしゃる。 「どうだろうか、もし去年までと違っていたら」と、自然と思い続けられる。 |
これまでに変わってこの家が普通の家らしくなっていた。女王の姿も少し女らしいところができたように思われた。すっかり見違えるほどの人にできればどんなに犠牲の払いがいがあるであろうなどとも源氏は思っていた。 |
【君も】- 末摘花の姫君をさす。 【いかにぞ、改めてひき変へたらむ時】- 源氏の心。「む」(推量の助動詞、仮定)、もし今までと違っていたらその時はの意。 |
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1.10.3 | 日が昇るころに、わざとゆっくりしてから、お帰りになる。 東の妻戸、押し開けてあるので、向かいの渡殿の廊が、屋根もなく壊れているので、日の脚が、近くまで射し込んで、雪が少し積もった反射で、とてもはっきりと奥まで見える。 |
日の出るころまでもゆるりと翌朝はとどまっていたのである。東側の妻戸をあけると、そこから向こうへ続いた廊がこわれてしまっているので、すぐ戸口から日がはいってきた。少しばかり積もっていた雪の光も混じって室内の物が皆よく見えた。 |
【廊の、上もなく】- 渡廊の屋根もなくの意。 【日の脚、ほどなくさし入りて】- 日脚が寝殿の中の人の近くまで射し込んでの意。 【見入れらる】- 「らる」(可能の助動詞)、雪の光の反射で寝殿の奥まで見ることができるの意。 |
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1.10.4 | お直衣などをお召しになるのを物蔭から見て、少しいざり出て、お側に臥していらっしゃる頭の恰好、髪の掛かった様子、とても見事である。 「成長なさったのを見ることができたら」と自然とお思いになって、格子を引き上げなさった。 |
源氏が |
【見出だして】- 主語は姫君。 |
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1.10.5 | いとほしかりしもの わりなう さすがに、 |
気の毒に思った苦い経験から、全部はお上げにならないで、脇息を寄せて、ちょっとかけて、鬢の乱れているのをお繕いなさる。 めっぽう古めかしい鏡台で、唐の櫛匣、掻上げの箱などを、取り出してきた。 何と言っても、夫のお道具までちらほらとあるのを、風流でおもしろいと御覧になる。 |
かつてこの人を残らず見てしまった雪の夜明けに後悔されたことも思い出して、ずっと上へは格子を押し上げずに、 |
【男の御具】- 夫の化粧道具。 |
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1.10.6 | 女の御装束、「今日は世間並みになっている」と見えるのは、先日の衣装箱の中身を、そのまま着ていたからであった。 そうともご存知なく、しゃれた模様のある目立つ上着だけを、妙なとお思いになるのであった。 |
末摘花が現代人風になったと見えるのは三十日に贈られた衣箱の中の物がすべてそのまま用いられているからであるとは源氏の気づかないところであった。よい模様であると思った |
【ありし筥の】- 大晦日の夕方源氏が贈った箱。 【さも思しよらず】- 主語は源氏。源氏は自分で贈っておいてそれと気づかない。 |
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1.10.7 | 「せめて今年は、お声を少しはお聞かせ下さい。 待たれる鴬はさしおいても、お気持ちの改まるのが、待ち遠しいのです」と、おっしゃると、 |
「春になったのですからね。今日は声も少しお聞かせなさいよ、 |
【今年だに】- 以下「ゆかしき」まで、源氏の詞。 【侍たるるものは】- 『奥入』は「あらたまの年立ちかへる朝より待たるるものは鴬の声」(拾遺集、春、五、素性法師)を指摘。「待たるるもの」とは末摘花の姫君の声、返歌をさす。 |
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1.10.8 | 「さへづる |
「囀る春は」 |
「さへづる春は」( |
【さへづる春は】- 末摘花の返答の詞。『源氏釈』は「百千鳥囀る春はものごとにあらたまれども我ぞふりゆく」(古今集、春上、二八、読人しらず)を指摘。「我ぞふりゆく」というところに主旨がある。源氏の薄い愛情のままわたしは年をとってゆきますの意。 |
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1.10.9 | と、からうしてわななかし |
と、ようやくのことで、震え声に言い出した。 |
とだけをやっと小声で言った。 |
【からうして】- 『集成』『新大系』は清音に読む。『古典セレクション』は「からうじて」と濁音に読む。「カラウシテ(日葡辞書)」「古くはカラウシテ」と清音か」(岩波古語辞典)。 |
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1.10.10 | 「そうよ。 年を取った甲斐があったよ」と、お微笑みなさって、「夢かと思います」 |
「ありがとう。二年越しにやっと報いられた」と笑って、「忘れては夢かとぞ思ふ」 |
【さりや。年経ぬるしるしよ】- 源氏の詞。「我ぞふりゆく」を受けて切り返した。 【夢かとぞ見る】- 源氏の詞。『源氏釈』は「忘れては夢かとぞ思ふ雪踏み分けて君を見むとは」(古今集、雑下、九七〇、業平朝臣)を指摘。「夢かとぞ思ふ」の一部を即興で「夢かとぞ見る」と、より驚きを表すために改変したのであろう。 |
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1.10.11 | と、うち |
と、口ずさんでお帰りになるのを、見送って物に添い臥していらっしゃる。 口を覆っている横顔から、やはり、あの「末摘花」が、とても鮮やかに突き出している。 「みっともない代物だ」とお思いになる。 |
という古歌を口にしながら帰って行く源氏を見送るが、口を |
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第二章 若紫の物語 |
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第一段 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる |
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2.1.1 | 「 かく |
二条の院にお帰りになると、紫の君、とてもかわいらしい幼な娘で、「紅色でもこうも慕わしいものもあるものだ」と見える着物の上に、無紋の桜襲の細長、しなやかに着こなして、あどけない様子でいらっしゃる姿、たいそうかわいらしい。 古風な祖母君のお躾のままで、お歯黒もまだであったのを、お化粧をさせなさったので、眉がくっきりとなっているのも、かわいらしく美しい。 「自ら求めて、どうして、こうもうっとうしい事にかかずらっているのだろう。 こんなにかわいい人とも一緒にいないで」と、お思いになりながら、例によって、一緒にお人形遊びをなさる。 |
二条の院へ帰って源氏の見た、半分だけ大人のような姿の若紫がかわいかった。 |
【二条院におはしたれば】- 場面変わって、二条院、源氏と紫の君対座。 【紫の君】- 紫の上の現在の呼称は「紫の君」。 【紅はかうなつかしきもありけり】- 源氏の心。 【なよらかに】- 『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「なよゝか」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。 【心から】- 以下「ゐたらで」まで、源氏の心。 |
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2.1.2 | よろづにをかしうすさび わが |
絵などを描いて、色をお付けになる。 いろいろと美しくお描き散らしになるのであった。 自分もお描き加えになる。 髪のとても長い女性をお描きになって、鼻に紅を付けて御覧になると、絵に描いても見るのも嫌な感じがした。 ご自分の姿が鏡台に映っているのが、たいそう美しいのを御覧になって、自分で紅鼻に色づけして、赤く染めて御覧になると、これほど美しい顔でさえ、このように赤い鼻が付いているようなのは当然醜いにちがいないのであった。 姫君、見て、ひどくお笑いになる。 |
紫の君は絵をかいて彩色したりもしていた。何をしても美しい性質がそれにあふれて見えるようである。源氏もいっしょに絵をかいた。髪の長い女をかいて、鼻に紅をつけて見た。絵でもそんなのは醜い。源氏はまた鏡に写る美しい自身の顔を見ながら、筆で鼻を赤く塗ってみると、どんな |
【赤鼻を描きつけ】- 『集成』は「赤い鼻を」の意に解すが、『完訳』は「紅花からとった染料。絵具にも用いる。「赤鼻」をひびかす」と注して、「この紅粉を塗りつけ赤く染めてごらんになると」の文意に解す。 |
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2.1.3 | 「わたしが、もしこのように不具になってしまったら、どうですか」と、おっしゃると、 |
「私がこんな不具者になったらどうだろう」と言うと、 |
【まろが、かく】- 以下「いかならむ」まで、源氏の詞。源氏は自称を「まろ」という。 |
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2.1.4 | 「うたてこそあらめ」 |
「嫌ですわ」 |
「いやでしょうね」 |
【うたてこそあらめ】- 紫の君の返答。 |
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2.1.5 | と言って、そのまま染み付かないかと、心配していらっしゃる。 うそ拭いをして、 |
と言って、しみ込んでしまわないかと紫の君は心配していた。源氏は |
【さもや染みつかむ】- 紫の君の心。 |
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2.1.6 | 「少しも、白くならないぞ。 つまらないいたずらをしたものよ。 帝にはどんなにお叱りになられることだろう」 |
「どうしても白くならない。ばかなことをしましたね。陛下はどうおっしゃるだろう」 |
【さらにこそ】- 以下「すらむ」まで、源氏の詞。 【内裏に】- 源氏は帝を「内裏」と呼称する。 |
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2.1.7 | と、とても真剣におっしゃるのを、本気で気の毒にお思いになって、近寄ってお拭いになると、 |
まじめな顔をして言うと、かわいそうでならないように同情して、そばへ寄って |
【いといとほしと思して】- 主語は紫の君。 |
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2.1.8 | 「平中のように墨付けなさるな。 赤いのはまだ我慢できましょうよ」 |
「 |
【平中がやうに】- 以下「あへなむ」まで、源氏の詞。 【色どり添へたまふな】- 赤い色の上にさらに墨を付け加えなさるなの意。 |
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2.1.9 | と、ふざけていらっしゃる様子、とても睦まじい兄妹とお見えである。 |
こんなことをしてふざけている二人は若々しく美しい。 |
【をかしき妹背】- 『集成』は「夫婦」。『完訳』は「兄妹の仲。夫婦の仲とする説はとらない」と注す。源氏と紫の君はまだ結婚の儀を経ていない。「若紫」巻に「後の親」とあったが、世話をする人という立場である。 |
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2.1.10 | 日がとてもうららかで、もうさっそく一面に霞んで見える梢などは、花の待ち遠しい中でも、梅は蕾みもふくらみ、咲きかかっているのが、特に目につく。 階隠のもとの紅梅、とても早く咲く花なので、もう色づいていた。 |
初春らしく |
【日のいとうららかなるに】- 「に」(格助詞、時または添加)、『完訳』は「日がじつにうららかなうえに」の意に解す。 【いつしかと霞みわたれる】- 『集成』は「昨日こそ年は暮れしか春霞春日の山にはや立ちにけり」(拾遺集、春上、三、山部赤人)「吉野山峯の白雪いつ消えて今朝は霞の立ちかはるらむ」(同、四、源重之)等の『拾遺集』巻第一の春上の巻頭歌数首を指摘する。 |
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2.1.11 | 「紅の花はわけもなく嫌な感じがする 梅の立ち枝に咲いた花は慕わしく思われるが |
くれなゐの花ぞあやなく 梅の |
【紅の花ぞあやなくうとまるる--梅の立ち枝はなつかしけれど】- 源氏の独詠歌。「はな」は「花」と「鼻」の意を掛ける。「たち」には梅の「立ち枝」と末摘花の長く垂れ下がった鼻を想像させる。末摘花には好意を感じるがその赤鼻だけは妙に嫌だの意。 |
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2.1.12 | いでや」 |
いやはや」 |
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2.1.13 | と、あいなくうちうめかれたまふ。 |
と、不本意に溜息をお吐かれになる。 |
そんなことをだれが予期しようぞと源氏は |
【あいなく】- 関係のないことながらの意。『集成』は「(梅に文句をいっても)どうにもならないことながら」の意に解し、『完訳』は「紫の上の前では関係ないのに」の意に解す。 |
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2.1.14 | このような人たちの将来は、どうなったことだろうか。 |
末摘花、若紫、こんな人たちはそれからどうなったか。 |
【かかる人びとの末々、いかなりけむ】- 『花鳥余情』は「物語の作者の詞」と指摘。『集成』は「物語の語り手が読者に期待を持たせようとしていう言葉」。『完訳』は「読者の興味を誘う語り手の言」と指摘。「かかる人びと」は、末摘花、空蝉、軒端荻などの「帚木」「空蝉」「夕顔」の諸巻に登場した人々。これらの物語は一応ここで終了という体裁をとる。 |
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