設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
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この帖の主な登場人物 | |||
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登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
光る源氏 | ひかるげんじ | 六条の院 院 大殿の君 |
五十歳 |
朱雀院 | すざくいん | 院の帝 山の帝 院 |
源氏の兄 |
女三の宮 | おんなさんのみや | 入道の姫宮 宮 |
源氏の正妻 |
薫 | かおる | 若君 |
柏木と女三宮の密通の子 |
蛍兵部卿宮 | ほたるひょうぶきょうのみや | 兵部卿宮 親王 |
源氏の弟宮 |
冷泉院 | れいぜいいん | 院 |
桐壺院の子;実は源氏の子 |
夕霧 | ゆうぎり | 大将の君 大将 |
源氏の長男 |
秋好中宮 | あきこのむちゅうぐう | 中宮 |
冷泉院の后 |
明石女御 | あかしのにょうご | 春宮の女御 |
東宮の母 |
第三十七帖 横笛 光る源氏の准太上天皇時代四十九歳春から秋までの物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
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第一章 光る源氏の物語 薫の成長 |
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第一段 柏木一周忌の法要 |
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1.1.1 | 故権大納言があっけなくお亡くなりになった悲しさを、いつまでも残念なことに、恋い偲びなさる方々が多かった。 六条院におかれても、特別の関係がなくてさえ、世間に人望のある人が亡くなるのは、惜しみなさるご性分なので、なおさらのこと、この人は、朝夕に親しくいつも参上しいしい、誰よりもお心を掛けていらしたので、どうにもけしからぬと、お思い出しなさることはありながら、哀悼の気持ちは強く、何かにつけてお思い出しになる。 |
【故権大納言のはかなく亡せたまひにし悲しさを】- 柏木は権大納言に昇進してまもなく死去。 【いかにぞやと、思し出づることはありながら】- 大島本は「いかにそや」とある。いま、私に「と」を補訂した。『完訳』は「以下、源氏の愛憎半ばする気持」と注す。「いかにぞや」の下に引用の格助詞「と」が省略された形。 |
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1.1.2 | ご一周忌にも、誦経などを、特別おさせになる。 何事も知らない顔の幼い子のご様子を御覧になるにつけても、何といってもやはり不憫でならないので、内中密かに、また志立てられて、黄金百両を別にお布施あそばすのであった。 父大臣は、事情も知らないで恐縮してお礼を申し上げさせなさる。 |
四十九日の法事の際にも御厚志の見える |
【御果てにも】- 柏木の一周忌の法要。昨年の春二月に死去(花鳥余情)。 【よろづも知らず顔にいはけなき御ありさまを】- 薫、数え年二歳。 【御心のうちに、また心ざしたまうて】- 『集成』は「内心ひそかに、薫の分として別に追善供養を志されて」と注訳す。 【大臣は、心も知らで】- 致仕大臣は柏木の死亡の原因と薫の誕生の経緯を知らないで、の意。 |
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1.1.3 | かの |
大将の君も、供養をたくさんなさり、ご自身も熱心に法要のお世話をなさる。 あの一条宮に対しても、一周忌に当たってのお心遣いも深くお見舞い申し上げなさる。 兄弟の君たちよりも優れたお気持ちのほどを、とてもこんなにまでとはお思い申さなかったと、大臣、母上もお喜び申し上げなさる。 亡くなった後にも、世間の評判の高くていらっしゃったことが分かるので、ひどく残念がり、いつまでも恋い焦がれること、限りがない。 |
兄弟以上の親切を故人のために尽くす大将を大臣も夫人も、これほどまでの志があるとは思わなかったと喜んでいた。故人の持っていた勢力が法事の際にはなやかに現われたことなどからも両親はまた |
【かの一条の宮をも】- 柏木の未亡人落葉宮をさす。 |
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第二段 朱雀院、女三の宮へ山菜を贈る |
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1.2.1 | 山の帝は、二の宮も、このように人に笑われるような境遇になって物思いに沈んでいらっしゃるといい、入道の宮も、現世の普通の人らしい幸せは、一切捨てておしまいになったので、どちらも物足りなくお思いなさるが、総じてこの世の事を悩むまい、と我慢なさる。 御勤行をなさる時にも、「同じ道をお勤めになっているのだろう」などとお思いやりになって、このように尼になられてから後は、ちょっとしたことにつけても、絶えずお便りを差し上げなさる。 |
【山の帝は】- 朱雀院。西山に住む。 【二の宮も、かく人笑はれなるやうにて眺めたまふなり】- 連用中止形。「入道の宮も」と並立の構文をつくる。『集成』は「以下、朱雀院の心中の思い」。『完訳』は「臣下に降嫁したあげく未亡人となったので世間の物笑いだとする。母の御息所と同様、内親王の誇りを傷つけられた思い。被害者意識が強い」と注す。 【かけ離れたまひぬれば、さまざまに】- 心中文が地の文に融合。 【すべてこの世を思し悩まじ】- 朱雀院の心中を間接話法で語る。「悩まじ」の主語は朱雀院だが、「思し」という語り手の敬語が混入する。 【同じ道をこそは勤めたまふらめ】- 朱雀院の心中。「らめ」推量の助動詞、視界外推量の意。はるか西山から京の女三の宮を思いやっているニュアンス。 |
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1.2.2 | お寺近くの林に生え出した筍、その近辺の山で掘った山芋などが、山里の生活では風情があるものなので、差し上げようとなさって、お手紙を情愛こまやかにお書きになった端に、 |
御寺に近い林から抜いた竹の子と、その辺の山で掘られた |
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1.2.3 | 「春の野山は、霞がかかってはっきりしませんが、深い心をこめて掘り出させたものでございます。 |
春の野山は |
【春の野山、霞も】- 以下「いと難きわざになむある」まで、朱雀院から女三の宮への手紙。 【心ざし深く堀り出でさせてはべる】- 『集成』は「そなたに差し上げようと心をこめて深い土の中から掘り出させましたものを」。『完訳』は「あなたをお慰めしたく深い思いから掘り出させましたもの」と訳す。「深く」は「志深く」と「(地中)深く掘り出させ」の掛詞的表現。「させ」使役の助動詞。「て」完了の助動詞。人をして掘り出させた、の意。 【しるしばかりになむ】- 「なむ」係助詞の下に「はべる」などの語句が省略。 |
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1.2.4 | この世を捨ててお入りになった道はわたしより遅くとも 同じ極楽浄土をあなたも求めて来て下さい |
世を別れ入りなん道は 同じところを君も尋ねよ |
【世を別れ入りなむ道はおくるとも--同じところを君も尋ねよ】- 「野老(ところ)」を詠み込み、「野老」に「所」を懸ける。 |
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1.2.5 | とても難しい事ですよ」 |
それを成就させるためには、より多く仏の |
【いと難きわざになむある】- 歌に添えた言葉。極楽往生は難しいことをいう。 |
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1.2.6 | とお便り申し上げなさったのを、涙ぐんで御覧になっているところに、大殿の君がお越しになった。 いつもと違って、御前近くに櫑子がいくつもあるので、「何だろう、おかしいな」と御覧になると、院からのお手紙なのであった。 御覧になると、とても胸の詰まる思いがする。 |
法皇のお手紙を涙ぐみながら宮が読んでおいでになる所へ院がおいでになった。宮が平生に違って寂しそうに手紙を読んでおいでになり、漆器の |
【櫑子ども】- 櫑子、『和名抄』は酒器、『河海抄』は高坏の形をした菓子などを入れる器と注す。 【なぞ、あやし】- 源氏の心中。 |
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1.2.7 | 「わが命も今日か、明日かの心地がするのに、思うままにお会いすることができないのが辛いことです」 |
もう今日か明日かのように老衰をしていながら、逢うことが困難なのを飽き足らず思う |
【今日か、明日かの心地するを、対面の心にかなはぬこと】- 朱雀院の手紙の一節。 |
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1.2.8 | など、こまやかに この「 |
などと、情愛こまやかにお書きあそばしていらっしゃった。 この「同じ極楽浄土」へ御一緒にとのお歌を、特別に趣があるものではない、僧侶らしい言葉遣いであるが、「いかにも、そのようにお思いのことだろう。 自分までが疎略にお世話しているというふうをお目に入れ申して、ますます御心配あそばされることになろうことを、おいたわしい」とお思いになる。 |
というような章もある。この同じ所へ来るようにとのお言葉は何でもない僧もよく言うことであるが、この作者は御実感そのままであろうとお思いになると、法皇はそのとおりに思召すであろう、寄託を受けた自分が不誠実者になったことでもお気づかわしさが倍加されておいでになるであろうのがおいたわしいと院はお思いになった。 |
【げに、さぞ思すらむかし】- 以下「いといとほし」まで、源氏の心中。 【我さへおろかなるさまに見えたてまつりて】- 「疎かなるさま」は、女三の宮を出家させたことをさす。「見えたてまつりて」は朱雀院のお目に入れて、の意。 【いといとほし】- 朱雀院に対する憐愍の情。 |
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1.2.9 | お返事は恥ずかしげにお書きになって、お使いの者には、青鈍の綾を一襲をお与えなさる。 書き変えなさった紙が、御几帳の端からちらっと見えるのを、取って御覧になると、ご筆跡はとても頼りない感じで、 |
宮はつつましやかにお返事をお書きになって、お使いへは |
【御返りつつましげに書きたまひて】- 『完訳』は「恥ずかしげに。源氏への遠慮」と注す。 |
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1.2.10 | 「こんな辛い世の中とは違う所に住みたくて わたしも父上と同じ山寺に入りとうございます」 |
うき世にはあらぬところのゆかしくて |
【憂き世にはあらぬところのゆかしくて--背く山路に思ひこそ入れ】- 女三の宮の返歌。「野老」を受けてそのまま、「世」は「憂き世」、「道」は「山路」と言い換えて返す。「ところ」は「野老」と「所」の掛詞。 |
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1.2.11 | 「ご心配なさっているご様子なのに、ここと違う住み処を求めていらっしゃる、まことに嫌な、辛いことです」 |
とある。「あなたを御心配していらっしゃる所へ、あらぬ山路へはいりたいようなことを言っておあげになっては悪いではありませんか」 |
【うしろめたげなる御けしき】- 以下「心憂し」まで、源氏の詞。「うしろめたげなる御けしき」の主語は朱雀院。 【このあらぬ所求めたまへる】- 『完訳』は「この返歌は、六条院での世話を思う自分(源氏)の気持に背くとする。朱雀院への面目が立たない」と注す。 【いとうたて、心憂し】- 『集成』は「本当につらく情けないことです。六条の院の生活を厭うとはひどい、と恨む」と注す。 |
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1.2.12 | と |
と申し上げなさる。 |
こう院はお言いになるのであった。 |
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1.2.13 | 今では、まともにお顔をお合わせ申されず、とても美しくかわいらしいお額髪、お顔の美しさ、まるで子供のようにお見えになって、たいそういじらしいのを拝見なさるにつけては、「どうして、このようになってしまったことか」と、罪悪感をお感じになるので、御几帳だけを隔てて、また一方でたいそう隔たった感じで、他人行儀にならない程度に、お扱い申し上げていらっしゃるのだった。 |
出家後は前にいても顔をなるべく見られぬようにと宮はしておいでになった。美しい額の髪、きれいな顔つきも、全く子供のように見えて非常に |
【今は、まほにも見えたてまつりたまはず】- 出家後の女三の宮は源氏とは几帳越しに対面する生活となっている。 【など、かうはなりにしことぞ】- 源氏の心中。『集成』は「なぜ尼になってしまったのか、と悔やむ気持」と注す。 【罪得ぬべく思さるれば】- 『完訳』は「宮が出家に追い込まれたのは、わが至らなさかと罪悪感を抱く」と注す。 |
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第三段 若君、竹の子を噛る |
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1.3.1 | 若君は、乳母のもとでお寝みになっていたが、起きて這い出しなさって、お袖を引っ張りまとわりついていらっしゃる様子、とてもかわいらしい。 |
若君は |
【若君は】- 薫。 【御袖を引きまつはれたてまつりたまふさま】- 「御袖」は源氏の袖をさす。 |
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1.3.2 | 白い羅に、唐の小紋の紅梅のお召し物の裾、とても長くだらしなく引きずられて、お身体がすっかりあらわに見えて、後ろの方だけが着ていらっしゃる恰好は、幼児の常であるが、とてもかわいらしく色白ですんなりとして、柳の木を削って作ったようである。 |
白い |
【例のことなれど】- 『集成』は「幼児の常ではあるが」と訳す。 |
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1.3.3 | 頭は露草で特別に染めたような感じがして、口もとはかわいらしく艶々として、目もとがおっとりと、気がひけるほど美しいのなどは、やはりとてもよく思い出さずにはいられないが、 |
頭は露草の |
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1.3.4 | 「かれは、いとかやうに |
「あの人は、とてもこのようにきわだった美しさはなかったが、どうしてこんなに美しいのだろう。 母宮にもお似申さず、今から気品があり立派で、格別にお見えになる様子などは、自分が鏡に映った姿にも似てはいないこともないな」というお気持ちになる。 |
彼はこれほどまでにすぐれた |
【かれは、いとかやうに】- 以下「似げなからず」まで、源氏の心中。『完訳』は「以下、「にげなからず」まで、源氏の心中。直接話法による」と注す。 【似げなからず」見なされたまふ】- 引用の格助詞「と」がなく、心中文が地の文に流れる形。 |
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1.3.5 | やっとよちよち歩きをなさる程である。 この筍が櫑子に、何であるのか分からず近寄って来て、やたらにとり散らかして、食いかじったりなどなさるので、 |
立っても二足三足踏み出すほどになっているのである。この竹の子の置かれた |
【わづかに歩みなどしたまふほどなり】- 薫、この時満一歳一か月。 |
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1.3.6 | 「まあ、お行儀の悪い。 いけません。 あれを片づけなさい。 食べ物に目がなくていらっしゃると、口の悪い女房が言うといけない」 |
「行儀が悪いね。いけない。あれをどちらへか隠させるといい。食い物に目をつけると言って、口の悪い女房は黙っていませんよ」 |
【あな、らうがはしや】- 以下「女房もこそ言ひなせ」まで、源氏の詞。 |
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1.3.7 | とて、 かき |
と言って、お笑いになる。 お抱き寄せになって、 |
とお笑いになる。若君を御自身の |
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1.3.8 | 「この |
「若君の目もとは普通と違うな。 小さい時の子を、多く見ていないからだろうか、これくらいの時は、ただあどけないものとばかり思っていたが、今からとても格別すぐれているのが、厄介なことだ。 女宮がいらっしゃるようなところに、このような人が生まれて来て、厄介なことが、どちらにとっても起こるだろうな。 |
「この子の |
【この君のまみの】- 以下「花の盛りはありなめど」まで、源氏の詞。 【いとけしきあるかな】- 『集成』は「なんと非凡なことよ」と訳す。『完訳』は「以下、源氏は薫の美しさを逆説的に賞賛。心中には密通事件を回顧しつつ、この子の将来を懸念」と注す。 【今よりいとけはひ異なるこそ、わづらはしけれ】- 『完訳』は「異様なまでもの美しさが厄介」と注す。 【女宮ものしたまふめるあたりに、かかる人生ひ出でて、心苦しきこと、誰がためにもありなむかし】- 「女宮」は明石女御腹の女一の宮をさし、「誰がため」は女一の宮と薫をさす。紫の上の養女となって六条院に住んでいる。『集成』は「冗談ながら、暗に柏木のような恋愛事件を起すのではないか、という含みがある」と注す。 |
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1.3.9 | ああ、この人たちが育って行く先までは、見届けることができようか。 花の盛りにめぐり逢うことは、寿命あってのことだ」 |
しかし皆のその遠い将来は私の見ることのできないものなのだ。『花の盛りはありなめど』(逢ひ見んことは命なりけり)だね」 |
【見果てむとすらむやは】- 「やは」反語表現。 【花の盛りは、ありなめど」--と】- 大島本は「ありなめと」とある。『集成』『完本』『新大系』は「…ありなめど」と」と引用の格助詞「と」を補訂する。「春ごとに花の盛りはありなめどあひ見むことは命なりけり」(古今集春下、九七、読人しらず)。 |
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1.3.10 | と、うちまもりきこえたまふ。 |
と言って、じっとお見つめ申していらっしゃる。 |
こうお言いになって若君の顔を見守っておいでになった。 |
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1.3.11 | 「何とまあ、 |
「縁起のよろしくございませんことを、まあ」 |
【うたて、ゆゆしき御ことにも】- 女房たちの詞。 |
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1.3.12 | と、 |
と、女房たちは申し上げる。 |
と女房たちは言っていた。 |
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1.3.13 | 歯の生えかけたところに噛み当てようとして、筍をしっかりと握り持って、よだれをたらたらと垂らしてお齧りになっているので、 |
若君は歯茎から出始めてむずがゆい気のする歯で物が |
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1.3.14 | 「いとねぢけたる |
「変わった色好みだな」とおっしゃって、 |
「変わった風流男だね」と院は |
【いとねぢけたる色好みかな】- 源氏の詞。『新大系』は「えらく曲がりくねった物好きであるよな。色好みは色好みでも、食べ物好みとはねじけている、との冗談」と注す。 |
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1.3.15 | 「いやなことは忘れられないがこの子は かわいくて捨て難く思われることだ」 |
子は捨てがたき物にぞありける |
【憂き節も忘れずながら呉竹の--こは捨て難きものにぞありける】- 源氏の独詠歌。「憂き節」は女三の宮と柏木の密通事件をさす。「こは」は「これは」の意と「子は」の掛詞。「節」と「竹」は縁語。「今さらに何生ひ出づらむ竹の子の憂き節しげき世とは知らずや」(古今集雑下、九五七、凡河内躬恒)。 |
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1.3.16 | と、 |
と、引き離して連れて来て、お話しかけになるが、にこにことしていて、何とも分からず、とてもそそくさと、這い下りて動き回っていらっしゃる。 |
こんなことをお言いかけになるが、若君は笑っているだけで何のことであるとも知らない。そそくさと院のお |
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1.3.17 | 月日が経つにつれて、この君がかわいらしく不吉なまでに美しく成長なさっていくので、本当に、あの嫌なことが、すべて忘れられてしまいそうである。 |
月日に添って顔のかわいくなっていくこの人に院は愛をお感じになって、過去の不祥事など忘れておしまいになりそうである。 |
【この憂き節、皆思し忘れぬべし】- 『細流抄』は「草子地也」と指摘。 |
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1.3.18 | 「この人がお生まれになるためのご縁で、あの思いがけない事件も起こったのだろう。 逃れられない宿命だったのだ」 |
この愛すべき子を自分が得る因縁の過程として意外なことも起こったのであろう。すべて前生の約束事なのであろうと |
【この人の出でものしたまふべき契りにて、さる思ひの外の事もあるにこそはありけめ。逃れ難かなるわざぞかし】- 源氏の心中。『集成』は「こんな立派な子が生まれていらっしゃる因縁があって、あのような慮外な出来事(密通事件)もあったのだろう」。『完訳』は「薫を出生させる密通の宿世と捉え直すと、咎めだてもできない」と注す。 |
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1.3.19 | と、少しはお考えが改まる。 ご自身の運命にもやはり不満のところが多かった。 |
ことに少しの慰めが見いだされた。自分の宿命というものも必ずしも完全なものではなかった。 |
【みづからの御宿世も、なほ飽かぬこと多かり】- 『完訳』は「宿世といえば、自分の宿世もまた、として憂愁の人生を顧みる。若菜上の述懐とも照応」と注す。 |
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1.3.20 | 「大勢集っていらっしゃるご夫人方の中でも、この宮だけは、不足に思うところもなく、宮ご自身のご様子も、物足りないと思うところもなくていらっしゃるはずなのに、このように思いもかけない尼姿で拝見するとは」 |
幾人かの |
【あまた集へたまへる中にも】- 以下「見たてまつること」まで、源氏の心中。 |
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1.3.21 | とお思いになるにつけて、過去の二人の過ちを許し難く、今も無念に思われるのであった。 |
とお思いになると、今もなお誘惑にたやすく負けておしまいになった宮がお恨めしかった。 |
【過ぎにし罪許し難く、なほ口惜しかりける】- 『完訳』は「密通の罪。前の「すこしは思し直さる」から反転、無念に思う」と注す。 |
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第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛 |
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第一段 夕霧、一条宮邸を訪問 |
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2.1.1 | 大将の君は、あの臨終の際に言い遺した一言を、心ひそかに思い出し思い出ししては、「どういうことであったのか」と、とてもお尋ね申し上げたく、お顔色も伺いたいのだが、うすうす思い当たられる節もあるので、かえって口に出して申し上げるのも具合が悪くて、「どのような機会に、この事の詳しい事情をはっきりさせ、また、あの人の思いつめていた様子をお耳に入れようか」と、思い続けていらっしゃる。 |
大将は |
【思ひ出でつつ】- 接続助詞「つつ」同じ動作の繰り返し。 【いかなりしことぞ】- 夕霧の心中。 【御けしきもゆかしきを】- 源氏の顔色。 【ほの心得て思ひ寄らるることもあれば】- 夕霧は薄々そうではないかと自然思い当たることもあるので、の意。 【いかならむついでに】- 以下「聞こしめさむ」まで、夕霧の心中。 【聞こしめさむ】- 『完訳』は「柏木は源氏の勘気の解けるよう夕霧にとりなしを遺言。その約束も果せば柏木の霊も浮ばれよう」と注す。 |
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2.1.2 | うちとけ、しめやかに、 |
秋の夕方の心寂しいころに、一条の宮をどうしていられるかとご心配申し上げなさって、お越しになった。 くつろいで、ひっそりとお琴などを弾いていらっしゃったところなのであろう。 奥へ片づけることもできず、そのままその南の廂間にお入れ申し上げなさった。 端の方にいた人たちが、いざって入って行く様子がはっきり分かって、衣ずれの音や、あたりに漂う香の匂いも薫り高く、奥ゆかしい感じである。 |
物哀れな気のする夕方に大将は一条の宮をお |
【御琴どもなど弾きたまふほどなるべし】- 接尾語「ども」複数を表す。弦楽器類による合奏をしていたもの。「べし」推量の助動詞。『完訳』は「夕霧の心に即した推測」と注す。 【けはひどもしるく、衣の音なひも、おほかたの匂ひ香うばし】- 『完訳』は「「けはひ」「音なひ」「匂ひ」と、夕霧の神経が女宮の周辺に集中」と注す。 |
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2.1.3 | わが うち |
いつものように、御息所がお相手なさって、昔話をあれこれと交わし合いなさる。 ご自分の御殿は、明け暮れ人が大勢出入りして、もの騒がしく、幼い子供たちが、大勢寄って騒々しくしていらっしゃるのにお馴れになっているので、とても静かで心寂しい感じがする。 ちょっと手入れも行き届いてない感じがするが、上品に気高くお暮らしになって、前栽の花々、虫の音のたくさん聞こえる野原のように咲き乱れている夕映えを、見渡しなさる。 |
いつもの |
【例の、御息所、対面したまひて】- 「例の」は「対面したまひて」に係る。落葉宮の母一条御息所が常に応対に出ている。 【わが御殿の、明け暮れ人しげくて、もの騒がしく、幼き君たちなど、すだきあわてたまふにならひたまひて】- 夕霧自邸の様子を思い比べる。『集成』は「以下、夕霧の思い」と注す。 【虫の音しげき野辺と】- 「君が植ゑし一むら薄虫の音しげき野辺ともなりにけるかな」(古今集哀傷、八五三、御春有助)。「柏木」巻に「一村薄も頼もしげに広ごりて虫の音添へむ秋思ひやらるる」(第五章五段)とあった。 |
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第二段 柏木遺愛の琴を弾く |
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2.2.1 | 和琴をお引き寄せになると、律の調子に調えられていて、とてもよく弾きこんであるのが、人の移り香がしみこんでいて、心惹かれる感じがする。 |
そこに出たままになっていた |
【和琴を引き寄せたまへれば】- 主語は夕霧。 【律に調べられて】- 律は秋に相応しい調べ。 【なつかしうおぼゆ】- 『集成』は「女らしい感じがする」。『完訳』は「何か思いをそそらずにはいられない感じである」と訳す。 |
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2.2.2 | 「このようなところに、慎みのない好き心のある人は、心を抑えることができなくて、見苦しい振る舞いにでも出て、あってはならない評判を立てるものだ」 |
こんな趣味の美しい女 |
【かやうなるあたりに】- 以下「立つるぞかし」まで、夕霧の心中。 【好き心ある人は】- 『完訳』は「夕霧は自らを「すき心」とは無縁とするが、好色めいてもくる」と注す。 |
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2.2.3 | など、 |
などと、思い続けながら、お弾きになる。 |
とこんなことも心に思いながら大将は和琴を弾いていた。 |
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2.2.4 | 故君がいつもお弾きになっていた琴であった。 風情のある曲目を一つ二つ、少しお弾きになって、 |
これは柏木が生前よく弾いていた楽器である。ある曲のおもしろい一節だけを弾いたあとで、大将は、 |
【故君の常に弾きたまひし琴なりけり】- 柏木。柏木は和琴の名手。 |
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2.2.5 | 「ああ、まことにめったにない素晴らしい音色をお弾きになったものだがな。 このお琴にも故人の名残が籠もっておりましょう。 お聞かせ願いたいものだ」 |
「ことに和琴は名手というべき人でしたがね。忘れがたいあの人の芸術の妙味は宮様へお伝わりしているでしょうから、私はそれを承りたいのですが」 |
【あはれ、いとめづらかなる音に】- 以下「承りあらはしてしがな」まで、夕霧の詞。 【掻き鳴らしたまひしはや】- 主語は柏木。「はや」連語、感動の意。 【承りあらはしてしがな】- 落葉宮の弾奏によって柏木の名残の籠もっている音色を聴きたい、の意。 |
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2.2.6 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と言うと、 |
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2.2.7 | 「 |
「主人が亡くなりまして後より、昔の子供遊びの時の記憶さえ、思い出しなさらなくなってしまったようです。 院の御前で、女宮たちがそれぞれ得意なお琴を、お試し申されました時にも、このような方面は、しっかりしていらっしゃると、ご判定申されなさったようでしたが、今は別人のようにぼんやりなさって、物思いに沈んでいらっしゃるようなので、悲しい思いを催す種というように拝見しております」 |
「あの不幸のございましてからは、全くこうしたことに無関心におなりあそばしまして、お小さいころのお |
【琴の緒絶えにし後より】- 以下「見たまふる」まで、一条御息所の詞。伯牙絶絃の故事(呂氏春秋・蒙求)。和琴の名手柏木が亡くなって以来、の意。「亡き人は訪れもせで琴の緒を絶ちし月日ぞかへり来にける」(蜻蛉日記)。 【思ひ出でたまはずなむなりにてはべめる】- 主語は落葉宮。「はべめる」は一条御息所の推測と丁寧表現。 【院の御前にて】- 朱雀院の御前。 【かやうの方は】- 琴の腕前。 【定めきこえたまふめりしを】- 落葉宮を高く評価した。主語は判然としないが、朱雀院御前の高貴な方々であろう。 【世の憂きつまにといふやうに】- 『源氏釈』は「浅茅生の小篠が原に置く露ぞ世の憂きつまと思ひ乱るる」(出典未詳)を指摘。 |
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2.2.8 | と |
とお答え申し上げなさると、 |
と御息所は言う。 |
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2.2.9 | 「まことにごもっともなお気持ちです。 せめて終わりがあれば」 |
「ごもっともなことですよ。『恋しさの限りだにある世なりせば』(つらきをしひて歎かざらまし)」 |
【いとことわりの御思ひなりや。限りだにある】- 夕霧の詞。「恋しさの限りだにある世なりせば年へてものは思はざらまし」(古今六帖五、二五七一、坂上是則)を引く。 |
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2.2.10 | と、うち |
と、物思いに沈んで、琴は押しやりなさったので、 |
大将は |
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2.2.11 | 「あの琴を、やはりそういうことなら、音色の中に伝わることもあろうかと、聞いて分かるように弾いて下さい。 何やら気も晴れずに物思いに沈み込んでいる耳だけでも、せめてさっぱりさせましょう」 |
「楽器に故人の音がついているかどうかが、私どもにわかりますほどお弾きになって見てくださいませ。みじめにめいっておりますわれわれの耳だけでも助けてくださいませ」 |
【かれ、なほさらば】- 以下「耳をだに明きらめはべらむ」まで、一条御息所の詞。「かれ」は和琴をさす。 【声に伝はることもやと、聞きわくばかり】- 『集成』は「夕霧と柏木は知友であったので、こう言う」と注す。 【耳をだに、明きらめはべらむ】- 『完訳』は「仙楽ヲ聴クが如ク耳暫ク明サム」(白氏文集、琵琶引)を指摘。 |
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2.2.12 | と |
と申し上げなさるので、 |
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2.2.13 | 「ご夫婦の仲に伝わる琴の音色は、特別でございましょう。 それを伺いたいと申し上げているのです」 |
「私よりも御縁の深い方のあそばすものにこそ故人の芸術のうかがわれるものがあるでしょうから、ぜひ宮様のを承りたい」 |
【しか伝はる中の緒は】- 以下「聞こえつれ」まで、夕霧の詞。「中の緒」は琴の第二絃に夫婦仲の意をこめる。 |
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2.2.14 | とおっしゃって、御簾の側近くに和琴を押し寄せなさるが、すぐにはお引き受けなさるはずもないことなので、無理にお願いなさらない。 |
【御簾のもと近く押し寄せたまへど】- 夕霧が落葉宮の御簾の近くに和琴を押しやる。 |
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第三段 夕霧、想夫恋を弾く |
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2.3.1 | 月が出て雲もない空に、羽をうち交わして飛ぶ雁も、列を離れないのを、羨ましくお聞きになっているのであろう。 風が肌寒く感じられ、何となく寂しさに心動かされて、箏の琴をたいそうかすかにお弾きになっているのも、深みのある音色なので、ますます心を引きつけられてしまって、かえって物足りない思いがするので、琵琶を取り寄せて、とても優しい音色に「想夫恋」をお弾きになる。 |
月が上ってきた。秋の澄んだ空を幾つかの |
【羽うち交はす雁がねも】- 「白雲に羽うち交はし飛ぶ雁の数さへ見ゆる秋の夜の月」(古今集秋上、一九一、読人しらず)による表現。 【聞きたまふらむかし】- 語り手の推測。『細流抄』は「夕霧の心也」。『評釈』は「夕霧の想像か、作者また語り手の言葉か」と注す。 【箏の琴をいとほのかに掻き鳴らしたまへるも】- 主語は落葉宮。 【琵琶を取り寄せて】- 主語は夕霧。 |
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2.3.2 | 「お気持ちを察してのようなのは、恐縮ですが、この曲目なら、何かおっしゃって下さるかと思いまして」 |
「自信のあるものらしく見えますのが恥ずかしゅうございますが、この曲だけはごいっしょにあそばしてくだすってよい理由のあるものですから」 |
【思ひ及び顔なるは】- 以下「こと問はせたまふべくや」まで、夕霧の詞。 【こと問はせたまふべくや】- 『集成』は「「こと」に「琴」を掛ける。柏木への追慕から、合奏して頂けるのではないかと、暗にすすめる」。『完訳』は「亡夫を偲んで、その親友に何か言いかけてくれるだろうかと」と注す。 |
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2.3.3 | とて、 |
とおっしゃって、しきりに御簾の中に向かって催促申し上げなさるが、和琴を所望された以上に、気が引けるお相手なので、宮はただ悲しいとばかりお思い続けていらっしゃるので、 |
と大将は |
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2.3.4 | 「言葉に出しておっしゃらないのも、 おっしゃる以上に深 |
ことに 人に恥ぢたる |
【ことに出でて言はぬも言ふにまさるとは--人に恥ぢたるけしきをぞ見る】- 夕霧から落葉宮への贈歌。「言」「琴」の掛詞。「心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」(古今六帖五、二六四八)を引歌とする。 |
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2.3.5 | と申し上げなさると、わずかに終わりの方を少しお弾きになる。 |
と大将が言った時、宮はただ想夫恋の末のほうだけを合わせてお弾きになった。 |
【ただ末つ方をいささか弾きたまふ】- 主語は落葉宮。「想夫恋」の曲の終わりの部分を弾く。 |
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2.3.6 | 「趣深い秋の夜の情趣はぞんじておりますが、 靡き顔に琴をお弾き申したでしょうか |
深き夜の哀ればかりは聞きわけど ことよりほかにえやは言ひける |
【深き夜のあはればかりは聞きわけど--ことより顔にえやは弾きける】- 落葉宮の返歌。「琴」の語句を受けて返す。「琴」「言」の掛詞。「えやは」反語表現。大島本は「ことよりかほに」「ひきける」とある。大島本の独自異文。他本「ことよりほかに」「いひける」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ほかに」「言ひ」と校訂する。『新大系』は底本のままとし、脚注に「下の句、青表紙他本多く「ことよりほかにえやはいひける」。これだと「琴以外で何か言うことができましたか」」と注す。『完訳』は「迷惑な言いがかりと切り返す」と注す。 |
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2.3.7 | もっと聞いていたいほどであるが、そのおっとりした音色によって、昔の人が心をこめて弾き伝えてきた、同じ調子の曲目といっても、しみじみとまたぞっとする感じで、ほんの少し弾いてお止めになったので、恨めしいほどに思われるが、 |
ともお言いになるのであった。非常におもしろいお |
【飽かずをかしきほどに】- 「片端を掻き鳴らして」以下に係る。「さるおほどかなる」から「心すごきものの」まで、落葉宮の琴の音色を説明する挿入句。 【古き人の心しめて弾き伝へける、同じ調べのものといへど】- 『集成』は「昔の人が心をこめて弾き伝えた、同じ調子(律の調べ)のものではあるが」。『完訳』は「昔の人が心をこめて弾き伝えてきたものだけに、誰が弾いても同じ曲とはいえ」と訳す。 |
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2.3.8 | 「 またことさらに |
「物好きな心を、いろいろな琴を弾いてお目に掛けてしまいました。 秋の夜に遅くまでおりますのも、故人の咎めがあろうかとご遠慮致して、退出致さねばなりません。 また改めて失礼のないよう気をつけてお伺い致そうと思いますが、このお琴の調子を変えずにお待ち下さいませんか。 とかく思いもよらぬことが起こる世の中ですから、気掛かりでなりません」 |
「風流狂じみましたことをいろいろお目にかけてしまいました。秋の夜を無限におじゃまいたしておりましては故人からとがめられる気もいたしますから、もうお |
【好き好きしさを】- 以下「うしろめたくこそ」まで、夕霧の詞。 【さまざまにひき出でて】- 和琴や琵琶を弾いたことをいう。「ひきいでて」は「弾き出でて」と「引き出でて」の掛詞的表現。 【昔の咎めやと】- 故人柏木が咎めようかと、の意。「咎めや」の下に「あらむ」などの語句が省略された形。 【この御琴どもの調べ変へず待たせたまはむや】- 『完訳』は「今宵の調べは宮が自分に好意を寄せてくれた証と解し、後日も変らぬ心でいてほしいと懇願する」と注す。 【弾き違ふることもはべりぬべき世なれば】- 『完訳』は「「琴」の縁で「弾き」をひびかす。期待を裏切らぬようの意をこめる」と注す。 |
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2.3.9 | など、まほにはあらねど、うち |
などと、あらわにではないが、心の内をほのめかしてお帰りになる。 |
などと言って、正面から恋を告げようとはしないのであるが、におわせるほどには言葉に盛って大将は帰ろうとした。 |
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第四段 御息所、夕霧に横笛を贈る |
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2.4.1 | 「今夜の風流なお振る舞いについては、誰もがお許し申すはずのことでございます。 これということもない昔話にばかり紛らわせなさって、寿命が延びるまでお聞かせ下さらなかったのが、とても残念です」 |
「今夜の御風流は非難いたす者もございませんでしょう。昔の日の話をお補いくださいます程度にしかお聞かせくださいませんでしたのが残り多く思われてなりません」 |
【今宵の御好きには】- 以下「残り多くなむ」まで、一条御息所の詞。 【人許しきこえつべく】- 「人」について、『集成』は「誰もがごもっともと」。『完訳』は「「人」は亡き柏木」と注す。 【玉の緒にせむ心地もしはべらぬ、残り多くなむ】- 「玉の緒」は延命の意。また「琴」の縁語。「片糸をこなたかなたに縒りかけてあはずは何を玉の緒にせむ」(古今集恋一、四八三、読人しらず)を踏まえる。 【心地もしはべらぬ残り多くなむ】-「心地もしはべらぬ」が主語、下に格助詞「が」などが省略された形。 |
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2.4.2 | とて、 |
と言って、御贈り物に笛を添えて差し上げなさる。 |
と言い、御息所は大将への贈り物へ笛を添えて出した。 |
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2.4.3 | 「この笛には、実に古い由緒もあるように聞いておりましたが、このような蓬生の宿に埋もれているのは残念に存じまして、御前駆の負けないほどにお吹き下さる音色を、ここからでもお伺いしたく存じます」 |
「この笛のほうは古い伝統のあるものと伺っておりました。こんな女 |
【これになむ、まことに】- 以下「いぶかしうはべる」まで、一条御息所の詞。 【御前駆に競はむ声なむ】- 御前駆に負けないほどの夕霧の笛の音色、の意。 【よそながらもいぶかしうはべる】- 聴きたい、の意。 |
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2.4.4 | と |
と申し上げなさると、 |
と御息所は言った。 |
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2.4.5 | 「似つかわしくない随身でございましょう」 |
「つたない私がいただいてまいることは似合わしくないことでしょう」 |
【似つかはしからぬ随身にこそははべるべけれ】- 夕霧の詞。「随身」は笛を喩えて言う。『集成』は「御息所の言葉に「御前駆」とあったのに対する当座の洒落」。『完訳』は「先駆」の縁で、笛を随身に見立てた表現。この貴重な笛は無風流な自分には似合わぬとする」と注す。 |
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2.4.6 | とて、 |
とおっしゃって、御覧になると、この笛もなるほど肌身離さず愛玩しては、 |
こう言いながら大将は手に取って見た。これも始終柏木が使っていて、 |
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2.4.7 | 「自分でも、まったくこの笛の音のあらん限りは、吹きこなせない。 大事にしてくれる人に何とか伝えたいものだ」 |
自分もこの笛を生かせるほどには吹けない。自分の愛する人に与えたい |
【みづからも、さらに】- 以下「いかで伝へてしがな」まで、柏木の詞を想起。 |
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2.4.8 | と、をりをり |
と、柏木が時々愚痴をこぼしていらっしゃったのをお思い出しなさると、さらに悲しみが胸に迫って、試みに吹いてみる。 盤渉調の半分ばかりでお止めになって、 |
とこんなことを柏木の言うのも聞いたことのある大将であったから、故人の琴に対した時よりもさらに多くの感情が動いた。試みに大将は吹いてみるのであったが、 |
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2.4.9 | 「故人を偲んで和琴を独り弾きましたのは、下手でも何とか聞いて戴けました。 この笛はとても分不相応です」 |
「故人を忍んで琴を弾きましたことはとにかく、これは晴れがましいまばゆい気がいたされます」 |
【昔を偲ぶ独り言は】- 以下「まばゆくなむ」まで、夕霧の詞。「ひとりごと」は「独り言」と「独り琴」との掛詞的表現。 |
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2.4.10 | とて、 |
と言って、お出になるので、 |
こう |
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2.4.11 | 「涙にくれていますこの荒れた家に昔の 秋と変わらない笛の音を聞かせて戴きました」 |
露しげき 秋に変はらぬ虫の声かな |
【露しげきむぐらの宿にいにしへの--秋に変はらぬ虫の声かな】- 一条御息所から夕霧への贈歌。 |
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2.4.12 | と、 |
と、内側から申し上げなさった。 |
と御息所が言いかけた。 |
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2.4.13 | 「横笛の音色は特別昔と変わりませんが 亡くなった人を悼む泣き声は尽きません」 |
横笛の調べはことに変はらぬを むなしくなりし |
【横笛の調べはことに変はらぬを--むなしくなりし音こそ尽きせね】- 夕霧の返歌。「声」を「音」と変えて詠み返す。「こと」に「琴」を響かす。 |
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2.4.14 | 出て行きかねていらっしゃると、夜もたいそう更けてしまった。 |
返歌をしてもまだ去りがたくて大将がためらっているうち深更になった。 |
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第五段 帰宅して、故人を想う |
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2.5.1 | 殿にお帰りになると、格子などを下ろさせて、皆お寝みになっていた。 |
自宅に帰ってみると、もう格子などは皆おろされてだれも寝てしまっていた。 |
【殿に帰りたまへれば】- 夕霧の自邸三条殿。 |
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2.5.2 | 「この宮にご執心申されて、あのようにご熱心でいらっしゃるのだ」 |
一条の宮に恋をして親切がった訪問を常にするというようなことを、 |
【この宮に心かけきこえたまひて、かくねむごろがり聞こえたまふぞ】- 雲居雁付きの女房の詞。 |
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2.5.3 | などと、誰かがご報告したので、このように夜更けまで外出なさるのも憎らしくて、お入りになったのも知っていながら、眠ったふりをしていらっしゃるのであろう。 |
夫人へ言う者があったために、今夜のようにほかで夜ふかしをされるのが不愉快でならない夫人は、 |
【聞こえ知らせければ】- 大島本は「けれハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たれば」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。女房が雲居雁に。 【ものしたまふなるべし】- 推量の助動詞「べし」は語り手の推測。 |
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2.5.4 | 「いい人とわたしと一緒に入るあの山の」 |
「 |
【妹と我といるさの山の】- 夕霧の口ずさみ。「妹(いも)と我と いるさの山の 山蘭(やまあららぎ) 手な取り触れそ や 顔まさるがに や とくまさるがに や」(催馬楽、妹と我)の一節。 |
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2.5.5 | と、 |
と、声はとても美しく独り歌って、 |
と美しい声で歌いながらはいって来た大将は、 |
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2.5.6 | 「これは、またどうして、こう固く鍵を閉めているのだ。 何とまあ、 うっとうしいことよ。今夜の月を見ない |
「どうしてこんなに早く戸を皆しめてしまったのだろう。引っ込み思案な人ばかりなのだね。こんな月夜の |
【こは、など、かく】- 以下「里もありけり」まで、夕霧の詞。 |
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2.5.7 | と、不満げにおっしゃる。 格子を上げさせなさって、御簾を巻き上げなどなさって、端近くに横におなりになった。 |
と |
【格子上げさせたまひて、御簾巻き上げなどしたまひて】- 「させ」使役の助動詞。格子は女房などをして上げさせ、御簾は自分で巻き上げる。 |
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2.5.8 | 「このように素晴らしい月なのに、気楽に夢を見ている人が、あるものですか。 少しお出になりなさい。 何と嫌な」 |
「こんなよい晩に眠ってしまう人があるものですか。少し出ていらっしゃい。つまらないじゃありませんか」 |
【かかる夜の月に】- 以下「あな心憂」まで、夕霧の詞。「かくばかり惜しと思ふ夜をいたづらに寝て明かすらむ人さへぞ憂き」(古今集秋上、一九〇、躬恒)を踏まえる。 |
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2.5.9 | などと申し上げなさるが、面白くない気がして、知らぬ顔をなさっている。 |
などと夫人へ言うのであるが、おもしろく思っていない夫人は何とも言わないのである。 |
【心やましううち思ひて、聞き忍びたまふ】- 主語は雲居雁。 |
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2.5.10 | 若君たちが、あどけなく寝惚けている様子などが、あちらこちらにして、女房も混み合って寝ている、とてもにぎやかな感じがするので、さきほどの所の様子が、思い比べられて、多く違っている。 この笛をちょっとお吹きになりながら、 |
子供が寝おびれて何か言っている声があちこちにして、女房もその辺の |
【寝おびれたるけはひなど】- 『集成』は「夢におびえて声をあげる気配など」。『完訳』は「寝ぼけている声などが」と訳す。 【ありつる所のありさま、思ひ合はするに、多く変はりたり】- 『完訳』は「一条邸での感興が残響するだけに、日常性に埋没しきったような自邸への無感動が際だつ」と注す。 【この笛】- 一条御息所から夕霧に贈られた柏木遺愛の笛。 |
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2.5.11 | 「どのように、わたしが立ち去った後でも、物思いに耽っていらっしゃることだろう。 お琴の合奏は、調子を変えずなさっていらっしゃるのだろう。 御息所も、和琴の名手であった」 |
自分の去ったあとの御母子がどんなに寂しく月明の景色をながめておられるだろう、自分の弾いた楽器も宮の合わせてくだすったものもそのままで二人の女性にもてあそばれているであろう、御息所も和琴が |
【いかに、名残も】- 以下「和琴の上手ぞかし」まで、夕霧の心中。 |
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2.5.12 | など、 |
などと、思いをはせて臥せっていらっしゃった。 |
などと思いやりながら寝ているのである。 |
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2.5.13 | 「どうして、故君は、ただ表向きの気配りは、大切にお扱い申し上げていながら、大して深い愛情はなかったのだろう」 |
どうしてあんなにりっぱな宮様を |
【いかなれば、故君】- 以下「けしきなかりけむ」まで、夕霧の心中。「故君」は柏木をさす。『完訳』は「亡き柏木は宮を、表面的には皇女の北の方として厚遇したものの。以下、宮への柏木の情愛の薄かった事情に不審を抱く」と注す。 |
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2.5.14 | と、それにつけても、いといぶかしうおぼゆ。 |
と、考えるにつけても、大変いぶかしく思わずにはいらっしゃれない。 |
と大将は不思議に思われてならない。 |
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2.5.15 | 「実際会って見て器量がよくないとなると、たいそうお気の毒なことだな。 世間一般の話でも、最高に素晴らしいという評判の人は、きっとそんなこともあるものだ」 |
お顔を見て美しく想像したのと違ったところがあっては不幸な結果をもたらすことにもなろう、ほかのことでも空想をし過ぎたことには必然的に幻滅が起こるものである |
【見劣りせむこそ】- 大島本は「見をとりせむこそ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見劣りせむことこそ」と「こと」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。以下「さぞあるかし」まで、夕霧の心中。 【さぞあるかし】- 「さ」は「見劣りせむ」をさす。 |
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2.5.16 | などと思うにつけ、ご自分の夫婦仲が、その気持ちを顔に出して相手を疑うこともなくて、仲睦まじくなった歳月のほどを数えると、しみじみと感慨深く、とてもこう我が強くなって勝手に振る舞うようにおなりになったのも、無理もないことと思われなさった。 |
など思いながらも、大将は自身たち夫婦の仲を考えて、なんらの |
【うちけしきばみたる思ひやりもなくて】- 『集成』は「ご自分たちの夫婦仲が、お互い恋のかけひきなど気にすることもなく仲むつまじくなった、今までの年月を数えてみると、しみじみ感慨深く。幼な馴染みだった当初の二人のいきさつをいう」と注す。 【睦びそめたる年月のほどを数ふるに】- 主語は夕霧。夕霧は雲居雁と結婚して十年を経過。さらにそれ以前の年月を数えれば、二十年になんなんとする。 【押したちておごりならひたまへるも】- 主語は雲居雁。 【ことわりにおぼえたまひけり】- 主語は夕霧。『完訳』は「自分(夕霧)が浮気心を起さぬので妻の癖も道理とする。落葉の宮思慕を合理化する心もひそむ」と注す。 |
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第六段 夢に柏木現れ出る |
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2.6.1 | 少し寝入りなさった夢に、あの衛門督が、まるで生前の袿姿で、側に座って、この笛を取って見ている。 夢の中にも、故人が、厄介にも、この笛の音を求めて来たのだ、と思っていると、 |
少し寝入ったかと思うと故人の衛門督がいつか病室で見た時の |
【すこし寝入りたまへる夢に】- 主語は夕霧。 【かの衛門督、ただありしさまの袿姿にて、かたはらにゐて、この笛を取りて見る】- 夕霧の夢の中の描写。 【夢のうちにも、亡き人の、わづらはしう、この声を尋ねて来たる、と思ふに】- 「夢の中にも」は「思ふに」に係る。夕霧は夢と知る知る見ているというのではない。『完訳』は「柏木が中有に迷っており、厄介にもこの笛を求めて来たとする」と注す。 |
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2.6.2 | 「この笛の音に吹き寄る風は同じことなら わたしの子孫に伝えて欲しいものだ |
「笛竹に吹きよる風のごとならば 末の世長き |
【笛竹に吹き寄る風のことならば--末の世長きねに伝へなむ】- 柏木の霊が詠んだ歌。「根」「音」、「世」「節(よ)」の掛詞。「竹」「根」「「節(よ)」は縁語。「根」は子孫の意。「なむ」願望の終助詞。この笛をわが子(薫)に伝えたい、という主旨。 |
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2.6.3 | その伝えたい人は違うのだった」 |
私はもっとほかに望んだことがあったのです」 |
【思ふ方異にはべりき】- 歌に続けた柏木の詞。自分がこの笛を伝えたいと思うのは、夕霧ではなかった、という意。 |
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2.6.4 | と言うので、尋ねようと思った時に、若君が寝おびえて泣きなさるお声に、目が覚めておしまいになった。 |
と柏木は言うのである。望みということをよく聞いておこうとするうちに、若君が寝おびれて泣く声に目がさめた。 |
【と言ふを、問はむと思ふほどに】- 「を」接続助詞、順接の意、原因理由を表す。「問はむと思ふ」の主語は夢の中の夕霧。「に」格助詞、時間を表す。 |
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2.6.5 | この若君がひどく泣きなさって、乳を吐いたりなさるので、乳母も起き騷ぎ、母上も御殿油を近くに取り寄せさせなさって、額髪を耳に挟んで、せわしげに世話して、抱いていらっしゃった。 とてもよく太って、ふっくらとした美しい胸を開けて、乳などをお含ませになる。 子供もとてもかわいらしくいらっしゃる若君なので、色白で美しく見えるが、お乳はまったく出ないのを、気休めにあやしていらっしゃる。 |
この子が長く泣いて乳を吐いたりなどするので、 |
【いとよく肥えて】- 以下、雲居雁の描写。 【白くをかしげなるに】- 「に」接続助詞、逆接の意。しかし、この文脈を受ける語句がない。為家本等は「御乳白くをかしげなるに」とするが、すると上の「おはする君なれば」の受ける語句が無くなる。 |
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2.6.6 | 男君も側にお寄りになって、「どうしたのだ」などとおっしゃる。 魔除の撤米をし米を散らかしなどして、とり騒いでいるので、夢の情趣もどこかへ行ってしまうことであろう。 |
大将もそのそばへ来て、「どう」などと言っていた。夜の魔を追い散らすために米なども |
【いかなるぞ】- 夕霧の詞。 【うちまきし散らし】- 魔除の散米。国宝『源氏物語絵巻』「横笛」段にこの様子が描かれている。『完訳』は「ここでは、乳児のむずかるのを物の怪のせいとみての処置」と注す。 【夢のあはれも紛れぬべし】- 『集成』は「草子地の文」と注す。 |
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2.6.7 | 「苦しそうに見えますわ。 若い人のような恰好でうろつきなさって、夜更けのお月見に、格子なども上げなさったので、例の物の怪が入って来たのでしょう」 |
「この子は病気になったらしい。はなやかな方に夢中になっていらっしって、おそくなってから月をながめたりなさるって格子をあけさせたりなさるものだから、また |
【悩ましげにこそ見ゆれ】- 以下「入り来たるなめり」まで、雲居雁の詞。 【今めかしき御ありさまのほどに】- 『集成』は「落葉の宮にうつつを抜かして、深夜帰宅したことを皮肉る」。『完訳』は「雲居雁は、一条邸からの帰りと知っている。以下は、その情趣にふける夫へのいやみ」と注す。 |
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2.6.8 | など、いと |
などと、とても若く美しい顔をして、恨み言をおっしゃるので、にっこりして、 |
と若々しい顔をした夫人が恨むと、 |
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2.6.9 | 「妙な、物の怪の案内とは。 わたしが格子を上げなかったら、道がなくて、おっしゃる通り入って来られなかったでしょう。 大勢の子持ちの母親におなりになるにつれて、思慮深く立派なことをおっしゃるようにおなりになった」 |
「変にこじつけて私の罪にするのですね。私が格子を上げさせなかったらなるほど物怪ははいる道がなかったろうね。おおぜいの人のお母様になったあなただから、たいした考え方ができるようになったものだ」 |
【あやしの、もののけの】- 以下「のたまふなりにたれ」まで、夕霧の詞。 【あまたの人の親になりたまふままに】- 雲居雁をさす。『完訳』は「思慮深く、結構な物言いができた。妻へのいやみで切り返す」と注す。 |
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2.6.10 | と言って、ちらりと御覧になる目つきが、たいそう気後れするほど立派なので、それ以上は何ともおっしゃらず、 |
こう言っても妻をながめる大将の美しい目つきはさすがに恥ずかしがって、続けて恨みも言わずに、 |
【いと恥づかしげなれば、さすがに】- 『恥づかしげ」について、『集成』は「気おくれするほど美しいので」。『完訳』は「女君からすればきまりがわるいので、さすがにそれ以上は」と訳す。 |
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2.6.11 | 「さあ、もうお止めなさいまし。 みっともない恰好ですから」 |
「あちらへいらっしゃい。人が見ます。見苦しい」 |
【出でたまひね。見苦し】- 雲居雁の詞。「見苦し」は後文により、自分自身の姿とわかる。 |
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2.6.12 | とて、 まことに、この |
と言って、明るい灯火を、さすがに恥ずかしがっていらっしゃる様子も憎くない。 ほんとうに、この若君は苦しがって、一晩中泣きむずかって夜をお明かしになった。 |
とだけ言った。明るい |
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第三章 夕霧の物語 匂宮と薫 |
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第一段 夕霧、六条院を訪問 |
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3.1.1 | 大将の君も、夢を思い出しなさると、 |
大将は夢を思うと贈られた横笛ももてあまされる気がした。 |
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3.1.2 | 「この いかが この かかればこそは、 |
「この笛は厄介なものだな。 故人が執着していた笛の、行くべき所ではなかったのだ。 女方から伝わっても意味のなことだ。 どのように思ったことだろう。 この世に、物の数にも入らない些事も、あの臨終の際に、一心に恨めしく思ったり、または愛情を持ったりしては、無明長夜の闇に迷うということだ。 そうだからこそ、どのようなことにも執着は持つまいと思うのだ」 |
故人の強い愛着の |
【この笛のわづらはしくもあるかな】- 以下「と思ふ世なれ」まで、夕霧の心中。 【人の心とどめて】- 「人」は柏木をさす。夢の中の柏木の言葉を想起。 【女の御伝へはかひなきをや】- 横笛は男性の吹く楽器。『完訳』は「女は笛を吹かないので、女からの伝授はありえない」と注す。 【いかが思ひつらむ】- 主語は柏木。 【一念の恨めしきも】- 大島本は「うらめしきも」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『完本』は諸本に従って「恨めしきにも」と「に」を補訂する。 【長き夜の闇にも惑ふわざななれ】- 無明長夜の闇に苦しむ、意。「なれ」は伝聞推定の助動詞。 |
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3.1.3 | などと、お考え続けなさって、愛宕で誦経をおさせになる。 また、故人が帰依していた寺にもおさせになって、 |
のであると、こんなことを思って大納言のために |
【愛宕に誦経せさせたまふ】- 愛宕は当時の火葬場。「桐壺」巻の桐壺更衣が火葬にふされた場所も同じ。 【かの心寄せの寺にもせさせたまひて】- 左大臣家の菩提寺である極楽寺か。 |
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3.1.4 | 「この笛を、わざわざ御息所が特別の遺品として、譲り下さったのを、すぐにお寺に納めるのも、供養になるとは言うものの、あまりにあっけなさぎよう」 |
この笛を歴史的価値のある物として、好意で自分へ贈った人に対しては、それがどんな尊いことであっても寺へ納めたりしてしまうことも不本意なことである |
【この笛をば、わざと】- 以下「あへなかるべし」まで、夕霧の心中。『集成』は「以下、ふたたび夕霧お思い」と注す。『完訳』は「わざと」以下を夕霧の心中とする。 【人の】- 『完訳』は「「人」は御息所。一説には宮」と注す。 【仏の道におもむけむも、尊きこと】- 笛を寺に寄進するのも故人の供養になる、という意。 |
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3.1.5 | と |
と思って、六条院に参上なさった。 |
と思って、大将は六条院へ参った。 |
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3.1.6 | 女御の御方にいらっしゃる時なのであった。 三の宮は、三歳ほどで、親王の中でもかわいらしくいらっしゃるのを、こちらではまた特別に引き取ってお住ませなさっているのであった。 走っておいでになって、 |
その時院は姫君の |
【女御の御方におはしますほどなりけり】- 主語は源氏。女御は明石女御、里下がり中。『集成』は「源氏は、常は紫の上方(東の対)にいるので、夕霧はまずそこを訪れる」と注す。 【三の宮、三つばかりにて】- 匂宮、三歳。 【こなたにぞまた取り分きて】- 紫の上が女一宮の他にもまた三の宮を特別に引き取って、の意。 |
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3.1.7 | 「大将よ、宮をお抱き申して、あちらへ連れていらっしゃい」 |
「大将さん、私を抱いてあちらの御殿へつれて行ってちょうだい」 |
【大将こそ、宮抱きたてまつりて、あなたへ率ておはせ】- 匂宮の詞。「こそ」係助詞、呼び掛け。「宮」は自分自身。「抱きたてまつりて」「率ておはせ」という言い方には敬語の使い方として、自分で自分を敬った言い方をしている。そにに、いかにもあどけなくまた宮さまらしい高貴さがうかがえる。「あなた」は母明石女御のいる寝殿。 |
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3.1.8 | と、自分に敬語をつけて、とても甘えておっしゃるので、ほほ笑んで、 |
うやうやしい態度で、そしてお小さい方らしくお言いになると、大将は笑って、 |
【うち笑ひて】- 主語は夕霧。 |
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3.1.9 | 「いらっしゃい。 どうして御簾の前を行けましょうか。 たいそう無作法でしょう」 |
「いらっしゃいませ。けれど女王様のお |
【おはしませ】- 以下「軽々ならむ」まで、夕霧の詞。さあ、いらっしゃい、の意。 【御簾の前】- 紫の上のいる御簾の前。 |
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3.1.10 | とて、 |
と言って、お抱き申してお座りになると、 |
こう言いながらすわった |
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3.1.11 | 「誰も見ていません。 わたしが、顔を隠そう。 さあさあ」 |
「だれも見ないよ。いいよ。私顔を隠して行くから」 |
【人も見ず。まろ、顔は隠さむ。なほなほ】- 匂宮の詞。『集成』は「わたしが顔を隠してあげよう。顔を隠せば、人に見えないと思っている。幼い精一杯の知恵」。『完訳』は「夕霧の顔を。一説には宮自身の顔を。幼児らしい知恵」と注す。 |
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3.1.12 | とて、 |
と言って、お袖で顔をお隠しになるので、とてもかわいらしいので、お連れ申し上げなさる。 |
宮が |
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第二段 源氏の孫君たち、夕霧を奪い合う |
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3.2.1 | こちら方にも、二の宮が、若君とご一緒になって遊んでいらっしゃるのを、かわいがっておいであそばすのであった。 隅の間の所にお下ろし申し上げなさるのを、二の宮が見つけなさって、 |
こちらの御殿のほうでも院が宮の若君と二の宮がいっしょに遊んでおいでになるのをかわいく思ってながめておいでになるのであった。かどのお座敷の前で三の宮をお |
【こなたにも】- 明石女御方をさす。 【二の宮の、若君とひとつに混じりて】- 二の宮は後の式部卿宮。音楽の才能が期待された(若菜下)。若君は薫。 【遊びたまふ】- 大島本は「あそひ給ふ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「遊びたまふを」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。 【うつくしみておはしますなりけり】- 主語は源氏。 |
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3.2.2 | 「わたしも大将に抱かれたい」 |
「私も大将に抱いていただくのだ」 |
【まろも大将に抱かれむ】- 二の宮の詞。 |
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3.2.3 | とのたまふを、 |
とおっしゃるのを、三の宮は、 |
とお言いになると、三の宮が、 |
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3.2.4 | 「あが |
「わたしの大将なのだから」 |
「いけない、私の大将だもの」 |
【あが大将をや】- 匂宮の詞。「を」間投助詞、詠嘆。「や」係助詞、詠嘆。 |
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3.2.5 | とて、 |
と言って、お放しにならない。 院も御覧になって、 |
と言って |
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3.2.6 | 「まことにお行儀の悪いお二方ですね。 朝廷のお身近の警護の人を、自分の随身にしようと争いなさるとは。 三の宮が、特にいじわるでいらっしゃいます。 いつも兄宮に負けまいとなさる」 |
「お行儀のないことですよ。お |
【いと乱りがはしき】- 以下「競ひ申したまふ」まで、源氏の詞。 |
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3.2.7 | と、 |
と、おたしなめ申して仲裁なさる。 大将も笑って、 |
とお |
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3.2.8 | 「二の宮は、すっかりお兄様らしく弟君に譲って上げるお気持ちが十分におありのようです。 お年のわりには、こわいほどご立派にお見えになります」 |
「二の宮様はずいぶんお兄様らしくて、お小さい方によくお譲りになったり、思いやりのあることをなさいます。大人でも恥ずかしくなるほどでございます」 |
【二の宮は、こよなく】- 以下「見えさせ給ふ」まで、夕霧の詞。 【御年のほどよりは】- 二の宮は四、五歳。 |
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3.2.9 | などと申し上げなさる。 ほほ笑んで、どちらもとてもかわいらしいとお思い申し上げあそばしていらっしゃった。 |
こんなことを言っていた。院は微笑を顔にお浮かべになって、お |
【うち笑みて、いづれもいとうつくしと思ひきこえさせたまへり】- 大島本は「いつれも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いづれをも」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。主語は源氏。「させたまへり」最高敬語。 |
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3.2.10 | 「見苦しく失礼なお席だ。 あちらへ」 |
「 |
【見苦しく】- 以下「あなたにこそ」まで、源氏の詞。 【公卿の御座なり】- 大島本に仮名で「みさ」とある。「御座」を「みざ」と読む例。 【あなたにこそ】- 東の対をさす。 |
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3.2.11 | とて、 |
とおっしゃって、お渡りになろうとすると、宮たちがまとわりついて、まったくお離れにならない。 宮の若君は、宮たちとご同列に扱うべきではないと、ご心中にはお考えになるが、かえってそのお気持ちを、母宮が、心にとがめて気を回されることだろうと、これもまたご性分で、お気の毒に思われなさるので、とても大切にお扱い申し上げなさる。 |
とお言いになって、立とうとあそばされるのであるが、宮たちがまつわってお離れにならない。宮の若君は宮たちと同じに扱うべきでないとお心の中では |
【宮の若君は、宮たちの御列にはあるまじきぞかし】- 源氏の心中。「宮の若君」は女三の宮の若君、すなわち薫。『集成』は「臣下の分際だから、公私の別をつけるべきだと、内心は考える」と注す。 【なかなかその御心ばへを、母宮の、御心の鬼にや思ひ寄せたまふらむ】- 源氏の心中。間接的に語る。したがって源氏の「心ばへ」を「御心ばへ」という敬語が混入する。『完訳』は「もしも薫を低く扱えば、女三の宮が不義の子ゆえとひがむだろう、と考える」と注す。 【いとほしう思さるれば】- 女三の宮を。 【いとらうたきものに】- 薫を。 |
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第三段 夕霧、薫をしみじみと見る |
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3.3.1 | 大将は、この若君を「まだよく見ていないな」とお思いになって、御簾の間からお顔をお出しになったところを、花の枝が枯れて落ちているのを取って、お見せ申して、お呼びなさると、走っていらっしゃった。 |
大将はこの若君をまだよく今までに顔を見なかったと思って、 |
【まだえよくも見ぬかな】- 夕霧の心中。 【御簾の隙よりさし出でたまへるに】- 主語は薫。 |
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3.3.2 | なま |
二藍の直衣だけを着て、たいそう色白で光輝いてつやつやとかわいらしいこと、親王たちよりもいっそうきめこまかに整っていらっしゃって、まるまると太りおきれいである。 何となくそう思って見るせいか、目つきなど、この子は少しきつく才走った様子は衛門督以上だが、目尻の切れが美しく輝いている様子など、とてもよく似ていらっしゃった。 |
【皇子たちよりも】- 二の宮や三の宮よりも。 【なま目とまる心も添ひて見ればにや】- 大島本は「ところ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。語り手の夕霧の心中を忖度した挿入句。『完訳』は「何となくそう思い見るせいか」と訳す。以下、夕霧の目を通した描写。 【まさりたれど】- 「これは」「今すこし」などと共に、父柏木との比較を前提にした構文。 【いとよくおぼえたまへり】- 父柏木そっくりである意。 |
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3.3.3 | 口もとが、特別にはなやかな感じがして、ほほ笑んでいるところなどは、「自分がふとそう思ったせいなのか、大殿はきっとお気づきであろう」と、ますますご心中が知りたい。 |
美しい口もとの笑う時にことさらはなやかに見えることなどは自分の心に潜在するものがそう思わせるのかもしらぬが、院のお目には必ずお思い合わせになることがあろうと考えられるほど似ていると、大将は異母弟を見ながらも、いよいよ院が柏木に対してどう思っておいでになるかを早く知りたくなった。 |
【わが目のうちつけなる】- 以下「かならず思し寄すらむ」まで、夕霧の心中。 【大殿はかならず思し寄すらむ】- 推量の助動詞「らむ」視界外推量のニュアンス。 【いよいよ御けしきゆかし】- 『完訳』は「夕霧は柏木死去の由因を確かめたい。ここで薫が柏木の子であることをほとんど確信し、いよいよ秘密の核心をつかみたい」と注す。 |
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3.3.4 | 宮たちは、親王だと思うせいから気高くもみえるものの、世間普通のかわいらしい子供とお見えになるのだが、この君は、とても上品な一方で、特別に美しい様子なので、ご比較申し上げながら、 |
宮がたは自然に |
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3.3.5 | 「何と、 かわいそうな。もし自分の疑いが本当なら、父大臣が、あれほどすっかり気落ち |
何ものにも優越した美の備わっているのを、大将は比べて思いながら、哀れなことである、自分の推測が真実であれば柏木の父の大臣は故人を切に思う心から、 |
【いで、あはれ】- 以下「罪得がましさ」まで、夕霧の心中。 【父大臣の】- 柏木の父、致仕太政大臣。 |
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3.3.6 | 『子供だと名乗って出て来る人さえいないことよ。 形見と思って世話する者でもせめて遺してくれ』 |
柏木の子供であると名のって来る者の出て来ないことに失望して、それだけの形見をすら不幸な親に残してくれなかった |
【子と名のり出でくる人だに】- 以下「とどめよかし」まで、致仕大臣の言葉を引用。「柏木」巻に同趣旨の言葉がある。 |
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3.3.7 | と、泣き焦がれていらしたのに、お知らせ申し上げないのも罪なことではないか」などと思うが、「いや、どうしてそんなことがありえよう」 |
と言って泣きこがれているのであるから、知らせないでいるのは罪作りなことになろうと考えられて来るうちにまた、そんなことはありうることではないと否定もされる。 |
【聞かせたてまつらざらむ罪得がましさ】- 『集成』は「仏教では、親子の縁を重んじるからである」と注す。 【いで、いかでさはあるべきことぞ】- 夕霧の心中。 |
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3.3.8 | と、やはり納得がゆかず、推測のしようもない。 気立てまでが優しくおとなしくて、じゃれていらっしゃるので、とてもかわいらしく思われる。 |
ますます不可解な問題であると大将は思った。性質もなつかしく優しい子で、大将に |
【心ばへさへなつかしうあはれにて】- 薫は美貌の上に気立てまでがやさしい。副助詞「さへ」添加の意。「あはれ」の意について、『集成』は「おとなしくて」、『完訳』は「しみじみ好ましく」と解す。 【睦れ遊びたまへば】- 夕霧になついてじゃれる。 |
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第四段 夕霧、源氏と対話す |
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3.4.1 | あはれなる |
対へお渡りになったので、のんびりとお話など申し上げていらっしゃるうちに、日も暮れかかって来た。 昨夜、あの一条宮邸に参った時に、おいでになっていたご様子などを申し上げなさったところ、ほほ笑んで聞いていらっしゃる。 気の毒な故人の話、関係のある話の節々には、あいずちなどを打ちなさって、 |
院が対のほうへおいでになったのでお供をして行って大将がお話をかわしているうちに日も暮れかかってきた。昨夜一条の宮をお |
【対へ渡りたまひぬれば、のどやかに御物語など聞こえておはするほどに、日暮れかかりぬ】- 大島本は「日くれかゝりぬ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「日も」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。源氏が東の対に移動なさったので、夕霧も源氏に従って移動し、東の対でゆっくりとお話し申し上げているうちに、日が暮れかかってきた、という意。 【おはせしありさまなど】- 御息所や落葉宮の様子。 【あはれなる昔のこと】- 「昔」は故人柏木をさす。 |
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3.4.2 | 「あの想夫恋を弾いた気持ちは、なるほど、昔の風流の例として引き合いに出してもよさそうなところであるが、女は、やはり、男が心を動かす程度の風流があっても、いい加減なことでは表わすべきではないことだと、考えさせられることが多いな。 |
「想夫恋を少しお合わせになったということなどは非常におもしろくて文学的ではあるが、しかし自分の意見として言えば女は異性を知らず知らず興奮させるような結果までを考慮してどこまでも避けねばならぬことだと思うがね、 |
【かの想夫恋の心ばへは】- 以下「なからむとなむ思ふ」まで、源氏の詞。『集成』は「夕霧の話を聞いて、以下に落葉の宮を批判する。女三の宮のこともつねに意識下にあるからであろう」と注す。 【女は、なほ、人の心移るばかりのゆゑよしをも、おぼろけにては漏らすまじうこそありけれ】- 『完訳』は「女は、相手の男が心を動かすような嗜みがあっても、並々のことでは見せてはならぬもの。宮は想夫恋を弾くべきでなかったと訓戒」と注す。 |
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3.4.3 | 故人への情誼を忘れず、このように末長い好意を、先方も知られたとならば、同じことなら、きれいな気持ちで、あれこれとかかわり合って、面白くない間違いを起こさないのが、どちらにとっても奥ゆかしく、世間体も穏やかなことであろうと思う」 |
故人への |
【過ぎにし方の心ざしを忘れず】- 故人柏木への情誼。 【人に知られぬとならば】- 「人」は相手落葉宮をさす。「られ」受身の助動詞、連用形。「ぬ」完了の助動詞。 【ゆかしげなき乱れなからむや】- 『完訳』は「おもしろみのない間違い。女三の宮の姉宮に、夕霧までが関わり父院に迷惑の及ぶのを恐れる」と注す。 |
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3.4.4 | とおっしゃるので、「そのとおりだ。 他人へのお説教だけはしっかりしたものだが、このような好色の道はどうかな」と、拝見なさる。 |
と院はお言いになった。大将は心に、このお言葉は承服されない、人をお教えになるのには賢いことを仰せられても、御自身がこの場合に処して御冷静でありうるであろうかと思っていた。 |
【さかし。人の上の】- 以下「かかる好きはいでや」まで、夕霧の心中。『集成』は「一人の男性として源氏を見る夕霧の心中」。『完訳』は「源氏の日常を見て、こちらも同感だ、とする皮肉な反応。他人への説教だけはしっかりしたものだが、ご自分の色恋沙汰はどんなものか。この反発が、以下の父への冷たい観察へと転ず」と注す。 |
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3.4.5 | 「何の間違いがございましょう。 やはり、無常の世の同情から世話をするようになりました方々に、当座だけのいたわりで終わったら、かえって世間にありふれた疑いを受けましょうと思ってです。 |
「あやまちなどの起こりようはありません。人生の無常に直面されたかたがたを宗教的な気持ちで慰めて差し上げる義務があるように思いましてお |
【何の乱れかはべらむ】- 以下「ものしたまひける」まで、夕霧の詞。 【心短くはべらむこそ】- 当座のいたわり。 【世の常の嫌疑あり顔に】- 『集成』は「未亡人に言い寄ってみたが、はねつけられたので、手を引いたのだとおもわれはしないか、の意」と注す。 |
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3.4.6 | 想夫恋は、ご自分の方から弾き出しなさったのなら、非難されることにもなりましょうが、ことのついでに、ちょっとお弾きになったのは、あの時にふさわしい感じがして、興趣がございました。 |
想夫恋をお |
【こと出でたまはむや、憎きことにはべらまし】- 推量の助動詞「まし」反実仮想の意。読点で、逆接で文脈は続く。 |
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3.4.7 | おほかたなつかしうめやすき |
何事も、人次第、事柄次第の事でございましょう。 年齢なども、だんだんと、若々しいお振る舞いが相応しいお年頃ではいらっしゃいませんし、また、冗談を言って、好色がましい態度を見せることに、馴れておりませんので、お気を許されるでしょうか。 大体が優しく無難なお方のご様子でいらっしゃいました」 |
どんなこともその女性次第だと思います。御年齢などもきらきらとする若さを少し越えていらっしゃいます方が、好色漢のような態度をお見せするはずもない私に、親しい友情が生じまして、私の願ったことが聞いていただけたというようなことは恥ずかしいこととは思われません。御観察申し上げるところでは非常に女らしい優しい御性質のようです」 |
【齢なども】- 落葉宮の年齢不詳。女三の宮が二十三、四歳だから、それより上のはず。 【また、あざれがましう】- 以下、夕霧自身についていう。 【うちとけたまふにや】- 主語は落葉宮。係助詞「や」反語表現。 |
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3.4.8 | などと申し上げなさっているうちに、ちょうどよい機会を作り出して、少し近くに寄りなさって、あの夢のお話を申し上げなさると、すぐにはお返事をなさらずに、お聞きあそばして、お気づきあそばすことがある。 |
こんな話をしていた大将は、かねて願っている機会が到来したように思い、少し院のお座へ近づいて |
【いとよきついで作り出でて】- 『集成』は「うまく話のきっかけを作り出して」と訳す。 【かの夢語り】- 柏木が夕霧の夢の中で、笛の相伝が間違っている、夕霧ではなく別の人に伝えたのだ、といったこと。 |
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第五段 笛を源氏に預ける |
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3.5.1 | 「その かれは それを |
「その笛は、わたしが預からねばならない理由がある物だ。 それは陽成院の御笛だ。 それを故式部卿宮が大事になさっていたが、あの衛門督は、子供の時から大変上手に笛を吹いたのに感心して、故式部卿宮が萩の宴を催された日、贈り物にお与えになったものだ。 女の考えで深い由緒もよく知らず、そのように与えたのだろう」 |
「その笛は私の所へ置いておく因縁があるものなのだよ。昔は |
【その笛は、ここに見るべきゆゑあるものなり】- 以下「ものしたるなり」まで、源氏の詞。『集成』は「内心、薫に伝えるべきだと判断しての発言」と注す。 【陽成院の御笛なり】- 陽成院、歴史上の天皇(八六八~九四九)。 【故式部卿宮の】- 物語中の朝顔斎院の父桃園式部卿宮。陽成天皇の弟に南院式部卿宮貞保親王(八七〇~九二四)がいる。柏木は右将軍藤原保忠(九三六年死去)に準えられているので(「柏木」巻)、史実と虚構との不即不離の関係が見られる。 【かの宮の萩の宴せられける日】- 物語中には語られていない催し事。 【ものしたるななり】- 「ななり」は断定の助動詞+伝聞推定の助動詞の省約形。 |
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3.5.2 | などのたまひて、 |
などとおっしゃって、 |
院はこうお言いになるのであった。 |
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3.5.3 | 「子孫に伝えたいということは、また他に誰と間違えようか。 そのように考えたのだろう」などとお考えになって、「この君も思慮深い人なので、気づくこともあろうな」とお思いになる。 |
御心中ではまず手もとへ置こう、死後にもとの持ち主の譲らせたい人は分明であると |
【末の世の伝へ】- 大島本は「つたへ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「伝へは」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のままとする。以下「思ふなりけむかし」まで、源氏の心中。 【さやうに思ふ】- 柏木は笛を薫に伝えたい、ということ。 【この君も】- 以下「ことあらむかし」まで、源氏の心中。 |
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3.5.4 | そのご表情を見ていると、ますます遠慮されて、すぐにはお話し申し上げなされないが、せめてお聞かせ申そうとの思いがあるので、ちょうど今この機会に思い出したように、はっきり分からないふりをして、 |
すべてを察しになった院のお顔色を見てはいっそう大将は打ち出しにくくなるのであるが、ぜひ伺ってみたい気持ちがあって、ただこの瞬間に心へ浮かんできたというようにして、思い出し思い出し申すように言う、 |
【その御けしきを見るに】- 夕霧が源氏の表情を見ると。接続助詞「に」順接の意。 【うち出で聞こえたまはねど】- 主語は夕霧。 |
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3.5.5 | 「 |
「臨終となった折にも、お見舞いに参上いたしましたところ、亡くなった後の事を遺言されました中に、これこれしかじかと、深く恐縮申している旨を、繰り返し言いましたので、どのようなことでしょうか、今に至までその理由が分かりませんので、気に掛かっているのでございます」 |
「もう衛門督が |
【今はとせしほどにも】- 以下「おぼつかなくはべる」まで、夕霧の詞。 【しかしかなむ深くかしこまり申すよしを】- 『集成』は「「しかしかなむ」は、夕霧の実際に発言した内容を省略した書き方」。『完訳』は「柏木が実際には詳しく述べたが、ここは「しかじか」と省筆」と注す。「かしこまり申す」は柏木が源氏に対してお詫び申す意。 |
||||||||||||||||||||||
3.5.6 | と、いとたどたどしげに |
と、いかにも腑に落ちないように申し上げなさるので、 |
自分が感じたように |
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3.5.7 | 「さればよ」 |
「やはり知っているのだな」 |
大将はあの秘密の |
【さればよ】- 源氏の心中。『集成』は「やっぱり知っているのだな、と(源氏は)お思いになるが、いやなに、その時のことをありのままにおっしゃるべきことではないので。源氏の心中の思いと地の文が交錯し、重なる文脈」と注す。 |
||||||||||||||||||||||
3.5.8 | と |
とお思いになるが、どうして、そのような事柄をお口にすべきではないので、暫くは分からないふりをして、 |
と院はお悟りになったのであるが、くわしくお語りになるべきことでもないので、しばらくは突然いぶかしい話を聞くというような御表情を見せておいでになったあとで、 |
|||||||||||||||||||||||
3.5.9 | 「そのような、人に恨まれるような事は、いつしただろうかと、自分自身でも思い出す事ができないな。 それはそれとして、そのうちゆっくり、あの夢の事は考えがついてからお話し申そう。 夜には夢の話はしないものだとか、女房たちが言い伝えているようだ」 |
「そんなに死んで行く時にまで人の気にかけるようなことはいつ自分が言ったりしたりしたのだろう。私にもわからない、思い出せないよ。いずれ静かな時を見て君の夢に関する細かな説明はしてあげよう。夢の話を夜はしてならないものだとか、迷信だろうが女の人などは言うものだよ」 |
【しか、人の恨み】- 以下「言ふなり」まで、源氏の詞。「人」は柏木をさす。 【何のついでにかは漏り出でけむと、みづからもえ思ひ出でずなむ】- 『完訳』は「六条院の試楽で、柏木に皮肉をあびせたこともあるが、それらにはあえてふれない」と注す。 【夜語らずとか、女房の伝へに】- 大島本は「女はう」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「女ばら」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。夢の話は夜には語らないという言い伝え。「孫真人云フ、夜、夢ハ須ラク説クベカラズ」(紫明抄)。 |
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3.5.10 | とおっしゃって、ろくにお返事もないので、お耳に入れてしまったことを、どのように考えていらっしゃるのかと、きまり悪くお思いであった、とか。 |
と院は言っておいでになって、あの不思議な問題にはあまり触れようとあそばさないのを見て、大将は自分の言い出したということがお気に入らないのではないかと、きまり悪く思ったのである。 |
【つつましく思しけり、とぞ】- 『弄花抄』は「紫式部が作と見せしと也」と指摘。『集成』は「事実を伝え聞いた語り手の口ぶり」。『完訳』は「語り手が伝聞した形で閉じる」と注す。 |
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