設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
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この帖の主な登場人物 | |||
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登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
薫 | かおる | 中納言源朝臣 中納言朝臣 源中納言 中納言 中納言の君 権大納言 右大将 大将殿 大将の君 |
源氏の子 |
匂宮 | におうのみや | 兵部卿宮 宮 三の宮 |
今上帝の第三親王 |
今上帝 | きんじょうてい | 帝 内裏 主上 |
朱雀院の第一親王 |
明石中宮 | あかしのちゅうぐう | 中宮 后 后の宮 |
源氏の娘 |
夕霧 | ゆうぎり | 右大臣 右大臣殿 右の大殿 大臣 |
源氏の長男 |
紅梅大納言 | こうばいのだいなごん | 按察使大納言 大納言 按察使 |
致仕大臣の二男 |
女三の宮 | おんなさんのみや | 母宮 尼宮 入道の宮 |
薫の母 |
麗景殿女御 | れいけいでんのにょうご | 藤壺 故左大臣殿の女御 女御 母女御 |
今上帝の女御 |
女二の宮 | おんなにのみや | 女宮 藤壺の宮 |
今上帝の第二内親王 |
六の君 | ろくのきみ | 六の君 女君 |
夕霧の娘 |
中君 | なかのきみ | 二条院の対の御方 兵部卿宮の北の方 宮の御方 対の御方 宮 |
八の宮の二女 |
第四十八帖 早蕨 薫君の中納言時代二十五歳春の物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
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第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活 |
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第一段 宇治の新春、山の阿闍梨から山草が届く |
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1.1.1 | 薮だからといって分け隔てして日光は差すものでないので、春の光を御覧になるにつけても、「どうしてこう生き永らえてきた月日なのだろう」と、夢のようにばかり思われなさる。 |
「日の光 |
【薮し分かねば、春の光を見たまふにつけても】- 『源氏釈」は「日の光薮し分かねば石上古りにし里に花も咲きけれ」(古今集雑上、八七〇、布留今道)を引歌として指摘。主語は中君。 【いかでかくながらへにける月日ならむ】- 中君の心中の思い。『完訳』は「大君を追って自分も死ぬべきだったのに、の気持」と注す。 |
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1.1.2 | 去っては迎える時節時節にしたがって、花や鳥の色をも声をも、同じ気持ちで起き臥し見ては、ちょっとした和歌を詠むことでも、上の句と下の句とをそれぞれ付け交わして、心細いこの世の悲しさも辛さも、語り合ってきたからこそ、慰むこともあったが、おもしろいことや、しみじみとしたことを、聞き知る人がいないままに、すべてまっくら闇で、心一つに思い悩んで、父宮がお亡くなりになった悲しさよりも、もう少しまさって恋しくわびしいので、どうしたらよいかと、明けるのも暮れるのも分からず茫然としていらっしゃるが、世に生きている間は、定めがあることだったので、死ぬことができないのもあきれたことだ。 |
四季時々の花の色も鳥の声も、明け暮れ共に見、共に聞き、それによって歌を作りかわすことをし、人生の心細さも苦しさも話し合うことで慰めを得ていた。それ以外に何の楽しみが自分にあったであろう、美しいとすることも、身にしむことも語って自身の感情を解してくれる姉君を、そのかたわらから死に奪われた人であったから、暗い気持ちをどうすることもできず、父宮のお |
【行き交ふ時々にしたがひ】- 『完訳』は「四季のめぐりの、その折その時に身をゆだねる受動的な人生であるとする」と注す。 【花鳥の色をも音をも】- 『異本紫明抄』は「花鳥の色をも音をもいたづらにもの憂かる身は過ぐすのみなり」(後撰集夏、二一二、藤原雅正)を引歌として指摘。 【はかなきことをも、本末をとりて言ひ交はし】- 和歌の上句と下句を付け合うこと。短連歌の詠み方。故大君と中君とで。 【心細き世の憂さもつらさも】- 父八宮死後の生活。 【宮のおはしまさずなりにし悲しさよりも】- 父八宮の死去の悲しみ。 【世にとまるべきほどは、限りあるわざなりければ】- 『集成』は「この世に生きる寿命のほどは前世からの定めのあることなので」と訳す。寿命は前世からの定め、とする仏教思想。 【死なれぬもあさまし】- 中君の心中に即した地の文。 |
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1.1.3 | 阿闍梨のもとから、 |
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1.1.4 | 「新年になってからは、いかがお過ごしでしょうか。 ご祈祷は、怠りなくお勤めいたしております。 今は、お一方の事を、ご無事にと祈念いたしております」 |
年が変わりましてのちどんな御様子でおいでになりますか。 |
【年改まりては】- 以下「念じきこえさする」まで、阿闍梨から中君への手紙文。 【今は、一所の御ことをなむ】- 中君の御身の上。 |
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1.1.5 | などと申し上げて、蕨、土筆を、風流な籠に入れて、「これは、童たちが献じましたお初穂です」といって、差し上げた。 筆跡は、とても悪筆で、和歌は、わざとらしく放ち書きにしてあった。 |
などという手紙を添え、 これは童子どもが山に捜して御仏にささげたものです、初物です。 とも書かれてあった。悪筆で次の歌などは |
【これは、童べの供養じてはべる初穂なり】- 使者の詞。 【手は、いと悪しうて、歌は、わざとがましくひき放ちてぞ書きたる】- 僧侶らしい仮名文字になじまぬ書き方。一字一字放ち書きにした。 |
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1.1.6 | 「わが君にと思って毎年毎年の春に摘みましたので 今年も例年どおりの初蕨です |
君にとてあまたの年をつみしかば 常を忘れぬ初蕨なり |
【君にとてあまたの春を摘みしかば--常を忘れぬ初蕨なり】- 阿闍梨から中君への贈歌。「君」は故八宮をさす。「摘み」「積み」の懸詞。 |
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1.1.7 | 御前でお詠み申し上げてください」 |
【御前に詠み申さしめたまへ】- 歌に添えた文。「御前」は中君をさす。『集成』は「姫君にご披露申し上げてください。手紙全体が側近の女房に宛てられている体裁。「しめたまふ」は尊敬表現。変体漢文に「令--給」の形で見え、男性用語」と注す。 |
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1.1.8 | とあり。 |
とある。 |
と女房あてにしてあった。 |
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第二段 中君、阿闍梨に返事を書く |
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1.2.1 | 大事と思って詠み出したのだろう、とお思いになると、歌の気持ちもまことにしみじみとして、いい加減で、そうたいしてお思いでないように見える言葉を、素晴らしく好ましそうにお書き尽くしなさる方のお手紙よりも、この上なく目が止まって、涙も自然とこぼれてくるので、返事を、お書かせになる。 |
一所懸命に考え出した歌であろうと想像されて、つたない中に言ってある心を身にしむように中の君は思い、筆任せに、それほど深くお思いにならぬことであろうと思われることを、多くの美しい言葉で飾ってお送りになる方の |
【大事と思ひまはして詠み出だしつらむ】- 中君の心中の思い。 【なほざりに、さしも思さぬなめりと見ゆる】- 『完訳』は「以下、匂宮の言葉巧みな艶書を対比的に想起し、あらためて阿闍梨の誠実さに感動する」と注す。 【返り事、書かせたまふ】- 返事を女房に書かせる。『集成』「女房に文言を書き取らせる形の、いわゆる仰せ書きである」と注す。 |
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1.2.2 | 「今年の春は誰にお見せしましょうか 亡きお方の形見として摘んだ峰の早蕨を」 |
この春はたれにか見せんなき人の かたみに摘める峰のさわらび |
【この春は誰れにか見せむ亡き人の--かたみに摘める峰の早蕨】- 中君の返歌。阿闍梨の贈歌から「春」「摘む」「蕨」の語句を用いて返す。「形見」に「筐」を響かせる。「誰」は大君、「亡き人」は父宮をさす。 |
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1.2.3 | 使者に禄を与えさせなさる。 |
使いには |
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1.2.4 | いと |
まことに盛りではなやいでいらっしゃる方で、いろいろなお悲しみに、少し面痩せしていらっしゃるのが、とても上品で優美な感じがまさって、故人にも似ていらっしゃった。 お揃いでいらっしゃったときは、それぞれ素晴らしく、全然似ていらっしゃるとも見えなかったが、ふと忘れては、その人かと思われるまで似ていらっしゃるのを、 |
盛りの美しさを備えた人が、いろいろな物思いのために少し |
【さまざまの御もの思ひに】- 姉大君の死去、夫匂宮の訪れのないことの心痛をさす。 【昔人にも】- 故人にも。大君をさす。 【さらに似たまへりとも見えざりしを】- 以下、女房の視点を通して語る。 |
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1.2.5 | 「中納言殿が亡骸だけでも残って拝見できるものであったらと、朝夕にお慕い申し上げていらっしゃるようだが、同じことなら、結ばれなさるご運命でなかったことよ」 |
【中納言殿の】- 以下「御宿世ならざりけむよ」まで、女房の詞。 【骸をだにとどめて見たてまつるものならましかば】- 「かくながら、虫の骸のやうにても見るわざならましかば」(「総角」第七章二段)とあった。 【恋ひきこえたまふめるに、同じくは】- 接続助詞「に」逆接の意。「同じくは」の下に、同じ結婚するなら匂宮よりも薫と結婚してほしかった、文意が省略。 |
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1.2.6 | と、 |
と、拝する女房たちは残念がっている。 |
と思い、女房たちは残念がっていた。 |
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1.2.7 | あの御あたりの人が通って来る便りに、ご様子は常にお互いにお聞きなさっていたのであった。 いつまでもぼうっとしていらして、「新年になっても相変わらず、悲しそうな涙顔に、なっていらっしゃる」とお聞きになっても、「なるほど、一時の浮ついたお心ではいらっしゃらなかったのだ」と、ますます今となって愛情も深かったのだと、思い知られる。 |
【かの御あたりの人の】- 薫の家人。 【御ありさまは絶えず聞き交はしたまひけり】- 薫と中君との間で消息を交換しあっていた、の意。過去の助動詞「けり」、語り手の説明的叙述。 【尽きせず思ひほれたまひて、「新しき年ともいはず、いや目になむ、なりたまへる】- 薫の様子。中君の耳に入ってくる情報。 【げに、うちつけの心浅さにはものしたまはざりけり】- 中君の心中の思い。薫の大君への愛情の深さを理解する。『完訳』は「中の君は夫匂宮の薄情さを念頭に、薫の誠実さを思う。「げに--けり」は気づき納得する語法」と注す。 【いとど今ぞあはれも深く、思ひ知らるる】- 『集成』は「ひとしお、(大君の亡くなった)今になると、薫の気持も身に沁みて思い知られる。自分の悲しみに照らして、薫の気持の深さを思い知る。中の君の気持をそのまま地の文とした書き方」と注す。 |
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1.2.8 | 宮は、お越しになることがまことに自由に振る舞えず機会がないので、「京にお移し申そう」とご決意なさっていた。 |
【宮は】- 匂宮。 【思し立ちにたり】- 完了の助動詞「に」完了の意、完了の助動詞「たり」存続の意。既に決意なさっていた、のニュアンス。 |
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第三段 正月下旬、薫、匂宮を訪問 |
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1.3.1 | 内宴など、何かと忙しい時期を過ごして、中納言の君が、「心におさめかねていることを、また他に誰に話せようか」とお思い余って、兵部卿宮の御方に参上なさった。 |
御所の内宴などがあって騒がしいころを過ごしてから薫は、心一つに納めかねるような |
【内宴など】- 正月二十一、二十二、二十三日ころの、子の日に仁寿殿で催される帝の私宴。 【心にあまることをも、また誰れにかは語らはむ】- 薫の心中の思い。匂宮以外にはいない、意。 【兵部卿宮の御方に参りたまへり】- 六条院内での匂宮の御殿へ。薫も六条院の内に仮住まい中である。 |
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1.3.2 | しめやかなる |
しんみりとした夕暮なので、宮は物思いに耽っておいでになって、端近くにいらっしゃった。 箏のお琴を掻き鳴らしながら、いつものように、お気に入りの梅の香を賞美しておいでになる、その下枝を手折って参上なさったが、匂いがたいそう優雅で素晴らしいのを、折柄興あることにお思いになって、 |
しめやかな早春の夕べの空の見える所に宮は出ておいでになった。十三 |
【下枝】- 「下枝(しづえ)」歌語。 【押し折りて参りたまへる】- 主語は薫。 |
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1.3.3 | 「折る人の心に通っている花なのだろうか 表には現さないで内に匂いを含んでいる」 |
折る人のこころに通ふ花なれや 色にはいでず下ににほへる |
【折る人の心にかよふ花なれや--色には出でず下に匂へる】- 匂宮から薫への贈歌。『完訳』は「「花」は白梅。「折る人」薫が密かに中の君を慕うのかと、その下心を疑う歌」と注す。 |
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1.3.4 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
とお言いになると、 |
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1.3.5 | 「見る人に言いがかりをつけられる花の枝は 注意して折るべきでした |
「見る人にかごと寄せける花の枝を 心してこそ折るべかりけれ |
【見る人にかこと寄せける花の枝を--心してこそ折るべかりけれ】- 薫の返歌。匂宮の「折る」「人」「心」「花」の語句を用いて返す。 |
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1.3.6 | 迷惑なことです」 |
私が困ります」 |
【わづらはしく】- 歌に添えた詞。 |
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1.3.7 | と冗談を言い交わしなさっているが、実にも仲好いお二方である。 |
薫も |
【いとよき御あはひなり】- 『岷江入楚』は「草子地歟」と指摘。『全集』は「匂宮と薫は中の君をめぐって対立しかねない動機をはらんでいるが、語り手はそれを否定し、戯れ睦びあう仲のよさだとする」と注す。 |
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1.3.8 | こまやかなる |
こまごまとしたお話になってからは、あの山里の御事を、まずはどうしているかと、宮はお尋ね申し上げなさる。 中納言も、亡くなった方のことが諦めようもなく悲しいことを、その当時から今日までの思いの断ち切れないことを、四季折々につけて、悲しいことや風流なことを、悲喜こもごもとか言うように、申し上げなさると、それ以上にあれほど色っぽく涙もろいご性癖は、人のお身の上のことでさえ、袖をしぼるほどになって、話しがいがあるようにお答えなさっているようである。 |
しんみりとした話になっていって、どうしているかと宇治のことをまず宮はお聞きになった。薫も恋人に死なれた悲しみを言い、初めから今までのその人に関する物思いの連続を、そのおりあのおりと、身にしむようにも、美しくも泣きながら、笑いながらというように話し出したのを、聞いておいでになって、繊細な感情に富んでおいでになり、涙もろい癖の宮は、他人のことながらも、 |
【山里の御ことをぞ、まづはいかにと、宮は聞こえたまふ】- 『集成』は「宇治での大君逝去の折のことを、何よりも気がかりなこととお尋ね申し上げる。弔いの気持」と注す。 【過ぎにし方の】- 『集成』は「今までのことが」。『完訳』は「姫宮の亡くなられたのが」と訳す。 【そのかみより今日まで】- 『集成』は「その当時から亡くなった今日に至るまで、(中略)橋姫の巻の秋に薫がはじめて大君の姿を垣間見してから、総角の巻の去年冬に大君が亡くなるまで、三年ほどの付き合いであった」と注す。 【人の御上にてさへ】- 『異本紫明抄』は「我が身から憂き世の中と名づけつつ人のためさへ悲しかるらむ」(古今集雑下、九六〇、読人しらず)を引歌として指摘。 【かひがひしくぞあひしらひきこえたまふめる】- 推量の助動詞「めり」。主観的推量のニュアンスは、語り手の推量である。 |
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第四段 匂宮、薫に中君を京に迎えることを言う |
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1.4.1 | 空の様子もまた、なるほど心を知っているかのように霞わたっていた。 夜になって烈しく吹き出した風の様子、まだ冬らしくてまこと寒そうで、大殿油も消え消えし、闇は梅の香を隠せず匂っているが、互いにそのままお話をやめることもなさらず、尽きないお話を心ゆくまでお話しきれないで、夜もたいそう更けてしまった。 |
天もまた哀愁の人に同情するかのように、空を |
【空のけしきもまた、げにぞあはれ知り顔に霞みわたれる】- 『完訳』は「初春の外景を取り込み、心象風景として形象。「霞」が涙を象徴」と注す。 【夜になりて、烈しう吹き出づる風のけしき、まだ冬めきていと寒げに】- 『完訳』は「以下も、悲嘆をかたどる心象風景。「内宴」を過ぎたばかりの一月末で、春まだ浅い荒涼たる風景」と注す。 【闇はあやなきたどたどしさなれど】- 『源氏釈』は「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる」(古今集春上、四一、凡河内躬恒)を引歌として指摘。 |
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1.4.2 | さりながらも、ものに |
世にも稀な二人の仲のよさを、「さあ、そうはいっても、とてもそんなばかりではなかったでしょう」と、隠しているものがあるようにお尋ねになるのは、理不尽なご性癖のせいである。 そうは言っても、物事をよくお分かりになって、悲しい心の中を晴れるように、一方では慰めもし、また悲しみを忘れさせ、いろいろとお語らいになる、そのご様子の魅力にお引かれ申して、なるほど、心に余るほどに鬱積していたことがらを、少しずつお話し申し上げなさるのは、この上なく心が晴れ晴れする気がなさる。 |
世の中にまたたぐいもないような精神的愛に止まったという薫の話を、必ずしも終わりまでそうではなかったであろうと宮のお思いになるのも、御自身から割り出してお考えになるからであろう。そうではあるが他の点では御想像が |
【世にためしありがたかりける仲の睦びを】- 薫と大君との仲。 【いで、さりとも、いとさのみはあらざりけむ】- 匂宮の詞。肉体関係はあったのだろう、と疑う。 【わりなき御心ならひなめるかし】- 『湖月抄』は「草子地」と指摘。『完訳』は「語り手の評。匂宮の、好色者らしい勘ぐりだとする」と注す。 【さりながらも】- 『完訳』は「反転して、匂宮の薫への配慮」と注す。 【げに、心にあまるまで思ひ結ぼほるることども】- 薫の気持ちに即した叙述。 |
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1.4.3 | 宮も、あの方を近々お移し申そうとすることについて、ご相談申し上げなさるのを、 |
宮も近日に中の君を京へお迎えになろうとすることで中納言へ御相談をあそばされると、 |
【かの人近く渡しきこえてむとするほどのことども】- 中君を近々に京に移すこと。 |
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1.4.4 | 「いとうれしきことにもはべるかな。 あいなく、みづからの |
「まことに嬉しいことでございますね。 不本意ながら、わたしの過失と存じておりました。 諦め切れない故人の縁者を、また他に訪ねるべき人もございませんので、後見一般としては、どのようなことでも、お世話申し上げるべき人と存じておりますが、もし不都合なこととお思いになりましょうか」 |
「非常にけっこうなことでございます。あのままになりましては私の責任になりますことと苦しく思っておりました。昔の人の |
【いとうれしきことにもはべるかな】- 以下「思し召さるべき」まで、薫の詞。 【みづからの過ちとなむ思うたまへらるる。飽かぬ昔の名残を】- 『集成』は「たまへらるる飽かぬ」と続けて「薫は、自分の失敗から、大君にいらざる心配をかけて死なせたと自責している」と注す。『完訳』は「たまへらるる。飽かぬ」と文を切って「中の君に匂宮を導いたことを、前にも自分の過失とした」と注す。「過ち」の内容について二説ある。 【心寄せきこゆべき人となむ】- 薫が中君を。 |
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1.4.5 | とて、かの、「 「さても、おはしまさむにつけても、まことに |
と言って、あの、「他人とお思いくださるな」と、お譲りになったお心向けをも、少しお話し申し上げなさるが、岩瀬の森の呼子鳥めいた夜のことは、話さずにいたのであった。 心の中では、「このように慰めがたい形見にも、なるほど、おっしゃったように、このようにお世話申し上げるべきであった」と、悔しさがだんだんと高じてゆくが、今では甲斐のないゆえに、「常にこのようにばかり思っていたら、とんでもない料簡が出て来るかもしれない。 誰にとってもつまらなく、馬鹿らしいことだろう」と思い諦める。 「それにしても、お移りになるにしても、ほんとうにご後見申し上げる人は、わたし以外に誰がいようか」とお思いになるので、お引越しの準備を用意おさせになる。 |
と薫は言い、なお故人が以前に、自分と同じものと思えと言い、中の君と自分の結婚を望んだことも少しお話ししたが、あの中の君と |
【異人とな思ひわきそ】- 大君が中君を薫に託した遺言。「総角」巻に語られていた。 【岩瀬の森の呼子鳥めいたりし夜のことは】- 『源氏釈』は「恋しくは来ても見よかし人づてに岩瀬の森の呼子鳥かも」(出典未詳)を引歌として指摘。『河海抄』は「神奈備の岩瀬の森の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる」(古今六帖二、呼子鳥)を引歌として指摘する。『集成』は「古注に「恋しくは来ても見よかし人づてに磐瀬の森の呼子鳥かな」を挙げるが、しっくりしない。この歌『玄々集』には儒者孝宣とする。紫式部とほぼ同時代の人である」と注す。大君に逃げられて中君に逢った夜のことをさす。 【かく慰めがたき形見にも】- 以下「きこゆべかりけれ」まで、薫の心中の思い。 【常にかうのみ思はば】- 以下「をこがましからむ」まで、薫の心中の思い。『集成』は「中の君への横恋慕といった事態を危懼する」と注す。 【さても、おはしまさむにつけても】- 以下「また誰れかは」まで、薫の心中の思い。反転して、中君の後見は自分以外にはいないと思い直す。 |
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第五段 中君、姉大君の服喪が明ける |
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1.5.1 | かしこにも、よき |
あちらでも、器量の良い若い女房や童女などを雇って、女房たちは満足げに準備しているが、今を最後とこの伏見ならぬ宇治を荒らしてしまうのも、たいそう心細いので、お嘆きになること尽きないが、だからといって、また気負い立って強情を張って、閉じ籠もっていてもどうしようもなく、「浅くない縁が、絶え果ててしまいそうなお住まいなのに、どういうおつもりですか」とばかり、お恨み申し上げなさるのも、少しは道理なので、どうしたらよいだろう、と思案なさっていた。 |
宇治でもきれいな若女房、童女などを捜して雇い入れ、女房たちは幸福感に浸っているのであるが、いよいよ父宮の遺愛の宇治の山荘を離れて行くことになるのかと中の君は心細くて歎かればかりする、そうかといって寂しさに堪えてここに独居する決心もできそうになかった。宮から熱愛はしていながらもこのままでは自然に遠い仲になっていくかもしれぬのをどう思っているかと恨んでおよこしになるのも少しお道理に思われるところもあったので、どうすればよいかとばかり |
【かしこにも】- 宇治をさす。 【よき若人童など】- きれいな若い女房や女の童など。 【今はとて】- 以下、中君の心中に即した叙述。心中文と地の文が交錯しながら叙述されていく。 【伏見を荒らし果てむも】- 『花鳥余情』は「いざここにわが世は経なむ菅原や伏見の里の荒れまくも惜し」(古今集雑下、九八一、読人しらず)を引歌として指摘。 【浅からぬ仲の契りも】- 以下「いかに思しえたまるぞ」まで、匂宮の手紙文の主旨。 【絶え果てぬべき御住まひを】- 宇治の住まいをさす。 【いかがすべからむ】- 中君の心中。 |
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1.5.2 | 二月の上旬頃にというので、間近になるにつれて、花の木の蕾みがふくらんでくるのもその後が気になって、「峰に霞が立つのを見捨てて行くことも、自分の常住の住まいでさえない旅寝のようで、どんなに体裁悪く物笑いになっては」などと、万事に気がひけて、一人思案に暮れて過ごしていらっしゃる。 |
二月になったらすぐということであったから、近づくにしたがい咲く花の |
【如月の朔日ごろ】- 中君の京への移転の予定。匂宮が言ってよこした日取り。 【峰の霞の立つを見捨てむことも】- 『源氏釈』は「春霞立つを見捨てて行く雁は花なき里に住みやならへる」(古今集春上、三一、伊勢)を引歌として指摘。雁に我が身をよそえる。地の文が自然と心中文に移っていく叙述。以下「人笑はれなることもこそ」まで、中君の心中。 |
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1.5.3 | その |
御服喪も、期限があることなので、脱ぎ捨てなさるのに、禊も浅い気がする。 母親は、お顔を存じ上げていないので、恋しいとも思われない。 そのお代わりにも、今回の喪服の色を濃く染めようと、心にお思いになりおっしゃりもしたが、はやり、そのような理由もないことなので、物足りなく悲しいことは限りがない。 |
姉の服喪の期間は三月であって、除服の |
【御服も、限りあることなれば】- 姉妹の服喪は軽服で、三ケ月。大君の死は昨年の十一月。 【親一所は、見たてまつらざりしかば】- 母北の方は中君の出産直後に死去して、中君は顔を知らない。以下、地の文が自然と中君の心中文に移っていく叙述。 【この度の衣を深く染めむ】- 姉の死去に際しての喪服の色を濃く、の意。 |
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1.5.4 | 中納言殿から、お車や、御前の供人や、博士などを差し向けなさった。 |
禊の日の女王の車、前駆を勤める人々、守刀などが薫のほうから送られた。 |
【博士など】- 陰陽博士。 |
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1.5.5 | 「早いものですね、 霞の衣を作ったばかりなのにも |
はかなしや 花の |
【はかなしや霞の衣裁ちしまに--花のひもとく折も来にけり】- 薫から中君への贈歌。「霞の衣」は喪服。「立ち」と「断ち」の懸詞。「来」は「着」を響かす。「断ち」「紐解く」「着」は「衣」の縁語。 |
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1.5.6 | げに、 |
なるほど、色とりどりにたいそう美しくして差し上げなさった。 お引越しの時のお心づけなど、仰々しくない物で、それぞれの身分に応じていろいろと考えて、とても多かった。 |
添えられたこの歌のように、春の花のいろいろに似た衣服も贈られたのであった。京へ移って行った日に入り用な |
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1.5.7 | 「何かにつけて、忘れず気のつくご好意をありがたく、兄弟などでさえ、とてもこうまではいらっしゃらないことだ」 |
何かのおりには親身な志を見せる薫を喜んで、女房たちは、 「こんなにまでは御兄弟だってなさるものではございませんよ」 |
【折につけては】- 以下「おはせぬわざぞ」まで、女房の詞。 |
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1.5.8 | など、 あざやかならぬ |
などと、女房たちはお教え申し上げる。 ぱっとしない老女房連中の考えとしては、このような点を身にしみて申し上げる。 若い女房は、時々拝見し馴れているので、今を限りに縁遠くおなりになるのを、物足りなく、「どんなに恋しくお思いなされるでしょう」とお噂し合っていた。 |
などと中の君に教えるのであった。こうした老いた女の心には物質的の補助ほどありがたいものはないと深く思われるので、自然これを 「いよいよ姫君がほかの方の所へ行っておしまいになっては、どんなにあの方様が恋しく と同情していた。 |
【今はと異ざまになりたまはむを】- 中君が匂宮と結婚することによって、薫との関係がが縁遠くなることをさす。 【いかに恋しくおぼえさせたまはむ】- 女房たちの詞。「おぼえ」の主語は薫。 |
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第六段 薫、中君が宇治を出立する前日に訪問 |
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1.6.1 | ご自身は、お移りになることが明日という日の、まだ早朝においでになった。 いつものように、客人席にお通りになるにつけても、今は、だんだん何にも馴れて、「自分こそ、誰よりも先に、このように思っていたのだ」などと、生前のご様子や、おっしゃったお気持ちをお思い出しになって、「それでも、よそよそしく、思いの外になどとは、おあしらいなさらなかったが、自分のほうから、妙に他人で終わることになってしまったな」と、胸痛くお思い続けなさる。 |
【みづからは】- 薫自身は、の意。直前の女房たちの噂を受けて「みづらは」とある。 【例の、客人居の方に】- 薫はいつもの通りに客間に控える。 【我こそ、人より先に】- 以下「思ひそめしかな」まで、薫の心中。 【ありしさま、のたまひし心ばへを】- 大君の生前の面影や打ち明けた気持ち。 【さすがに、かけ離れ】- 以下「隔たりにしかな」まで、薫の心中の思い。自分の悠長さを悔やむ。 |
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1.6.2 | 垣間見した襖障子の穴も思い出されるので、近寄って御覧になるが、部屋の中が閉めきってあるので、何にもならない。 |
父宮の喪中にここから仏間にいるのをのぞいて見た北の |
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1.6.3 | 部屋の中でも、女房たちはお思い出し申し上げながら涙ぐんでいた。 中の宮は、女房たち以上に、催される涙の川で、明日の引っ越しもお考えになれず、茫然として物思いに沈んで臥せっておいでになるので、 |
女房も薫の来たことによって昔を思い出して泣いていた。中の君はましてとめどもなく流れる涙のために |
【思ひ出できこえつつ】- 女房たちが故大君を。 【御涙の川に、明日の渡りもおぼえたまはず】- 「涙の川」歌語。「川」の縁で「渡り」の語句を用いる。 |
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1.6.4 | 「幾月ものご無沙汰の間に積もりましたお話も、何ということございませんが、鬱々としておりましたので、少しでもお晴らし申し上げて、気を紛らわせたく存じます。 いつものように、きまり悪く他人行儀なさらないでください。 ますます知らない世界に来た気が致します」 |
「伺うことのできませんでした間に、何をどうしたということはありませんが、絶えぬ思いの続きました一端でもお話をいたして心の慰めにさせていただきたいと思います。例のように他人らしくお扱いにならないでください。いよいよ今と昔の相違を深く覚えることになって悲しいでしょうから」 |
【月ごろの積もりも】- 以下「心地しはべり」まで、薫の詞。 【いぶせく思うたまへらるるを】- 主語は薫。「たまへ」謙譲の補助動詞。「らるる」自発の助動詞。 【いとどあらぬ世の心地しはべり】- 『集成』は「ますます何か違った世界に身を置く気持がいたします。大君亡き今となっては--という気持」と注す。 |
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1.6.5 | と |
と申し上げなさると、 |
と薫から中の君へ取り次がせてきた。 |
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1.6.6 | 「体裁が悪いとお思い申されようとは思いませんが、それでも、気分もいつものようでなく、心も乱れ乱れて、ますますはきはきしない失礼を申し上げてはと、気がひけまして」 |
「失礼だとは思われたくはないけれど、私は今気分も普通でなくて、何だか苦しいのだから、いっそうそんなことでわからぬお返辞を申し上げたりすることになってはならないと御遠慮がされる」 |
【はしたなしと】- 以下「つつましうてなむ」まで、中君の詞。取り次ぎの女房に漏らしたもの。 |
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1.6.7 | などと、つらそうにお思いになっているが、「お気の毒です」などと、あれこれ女房が申し上げるので、中の襖障子口でお会いなさった。 |
と言い、中の君は気の進まぬふうであったが、御好意に対してそれではと女房らに |
【いとほし】- 女房の詞。薫に同情して、中君が対面するよう勧める。 【中の障子】- 薫のいる西廂と母屋の西面の境の襖。 |
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1.6.8 | いと |
たいそうこちらが気恥ずかしくなるほど優美で、また「今度は、一段と立派におなりになった」と、目も驚くほどはなやかに美しく、「誰にも似ない心ばせなど、何とも、素晴らしい方だ」とばかりお見えになるのを、姫宮は、面影の離れない方の御事までお思い出し申し上げなさると、まことにしみじみとお会い申し上げなさる。 |
気品よく艶で、今度はまた以前よりもひときわまさったと女房たちの目も驚くほど美しさがあって、だれにもない |
【いと心恥づかしげに】- 以下、薫の容姿や振る舞い。女房の目と心に即した叙述。 【人にも似ぬ用意など】- 『集成』は「並はずれたたしなみ深さなど」と注す。 【あな、めでたの人や】- 女房の感想。薫の素晴らしさに感動。 【姫宮は】- 『完訳』は「中の君。前巻までは大君の呼称。ここでは、大君死後の、宮家を代表する主人格という呼称か」と注す。 【面影さらぬ人の御ことを】- 故大君のこと。 【いとあはれと見たてまつりたまふ】- 主語は中君。「見たてまつりたまふ」とは几帳越しに対面することであろうか。 |
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1.6.9 | 「つきないお話なども、今日は言忌みしましょうね」 |
「取り返しがたい方のことも、今日は縁起を祝わねばなりませんからお話をさし控えたほうがよろしいでしょう」 |
【尽きせぬ御物語なども】- 以下、途中地の文を挟んで「思ひはべらね」まで、薫の中君への詞。 【今日は言忌すべくや】- 門出という慶事なので、死者を回想する不吉な言動を避けようという言霊信仰。 |
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1.6.10 | などと言いさして、 |
と中納言は言い、ややしばらくして、また、 |
【など言ひさしつつ】- 地の文を挿入。 |
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1.6.11 | 「 |
「お移りになるはずの所の近くに、もう幾日かして移ることになっていますので、夜中も早朝もと、親しい間柄の人が言いますように、どのような機会にも、親しくお考えくださりおっしゃっていただければ、この世に生きております限りは、申し上げもし承りもして過ごしとうございますが、どのようにお考えでしょうか。 人の考えはいろいろでございます世の中なので、かえって迷惑かなどと、独り決めもしかねるのです」 |
「今度おいでになるお |
【渡らせたまふべき所近く】- 中君が迎え入れられる二条院と薫の三条院は距離的に近い。 【このころ過ぐして移ろひはべるべければ】- 薫は焼失した三条院を新築中であった。 【夜中暁と】- 当時の諺か。親しい者どうしは時刻を問わず行き来する、意。 【あいなくや】- 『集成』は「かえって迷惑かなど」「中の君に対する遠慮の気持を述べる」と注す。 |
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1.6.12 | と |
と申し上げなさると、 |
こう言うと、 |
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1.6.13 | 「邸を離れまいと思う考えは強うございますが、近くに、などとおっしゃって下さるにつけても、いろいろと思い乱れまして、お返事の申し上げようもなくて」 |
「この家を永久に離れたくないように思われます私は、近くへ来るなどとおっしゃるのを承っていますだけでも心が乱れまして、何とお返辞を申し上げてよろしいかもわかりません」 |
【宿をばかれじと】- 以下「方もなくなむ」まで、中君の詞。『源氏釈』は「今ぞ知る苦しきものと人待たむ里をば離れずとふべかりけり」(古今集雑下、九六九、在原業平)を引歌として指摘。「里」を「宿」と言い換えて言ったもの。 |
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1.6.14 | など、 |
などと、言葉とぎれとぎれに言って、ひどく心に感じ入っていらっしゃる様子など、ひどくよく似ていらっしゃるのを、「自分から他人の妻にしてしまった」と思うと、とても悔しく思っていらっしゃるが、言っても効ないので、あの夜のことは何も言わず、忘れてしまったのかと見えるまで、きれいさっぱりと振る舞っていらっしゃった。 |
所々は言おうとする言葉も消して、非常に物悲しく思っている様子の見えるところなどもよく大姫君に似ているのを知って、自身の心からこの人を他へやることになったとくちおしく思われてならぬ薫であったが、 |
【いみじくものあはれと思ひたまへるけはひなど】- 中君の様子。几帳越しなので「けはひ」と薫には看取される。以下、薫の目と心に即した叙述。 【いとようおぼえたまへるを】- 中君が大君に大変よく似ている。 【心からよそのものに見なしつる】- 『完本』(底本は定家本)は諸本に従って「見るなしつると思ふに」と「思ふに」を補訂する。『集成』(底本は定家本)、『新大系』(底本は大島本)は底本のままとする。自分から中君を匂宮の妻にしてしまった、と後悔。 【その夜のこと】- 大君に逃げられて中君と共寝をした夜のこと。「総角」巻(第二章五段)に語られている。 【忘れにけるにやと見ゆるまで】- 中君と語り手が一体化した気持ち。 |
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第七段 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す |
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1.7.1 | 「つれづれの |
お庭前近い紅梅が、花も香もなつかしいので、鴬でさえ見過ごしがたそうに鳴いて飛び移るようなので、まして、「春や昔の」と心を惑わしなさるどうしのお話に、折からしみじみと心を打つのである。 風がさっと吹いて入ってくると、花の香も客人のお匂いも、橘ではないが、昔が思い出されるよすがである。 「所在ない気の紛らわしにも、世の嫌な慰めにも、心をとめて賞美なさったものを」などと、胸に堪えかねるので、 |
近い庭の紅梅の色も香もすぐれた木は、 |
【春や昔の」と】- 薫の心中。亡き大君を思う。『源氏釈』は「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして」(古今集恋五、七四七、在原業平)を引歌として指摘する。 【折あはれなりかし】- 「渡るめればまして」以下、この前後の文脈は語り手の主観と批評の混じった叙述。 【橘ならねど、昔思ひ出でらるるつまなり】- 『奥入』は「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今集夏、一三九、読人しらず)を引歌として指摘。「昔」は故人の大君をさす。 【つれづれの紛らはしにも】- 以下「あそびたまひしものを」まで、中君の心中。大君とのありし日を回想。 |
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1.7.2 | 「花を見る人もいなくなってしまいましょうに、 嵐に吹き乱れる山里に昔を思い出させる |
見る人もあらしにまよふ山里に 昔覚ゆる花の香ぞする |
【見る人もあらしにまよふ山里に--昔おぼゆる花の香ぞする】- 中君の詠歌。「あらし」に「あらじ」を掛ける。 |
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1.7.3 | 言うともなくかすかに、とぎれとぎれに聞こえるのを、やさしそうにちょっと口ずさんで、 |
と言うともなくほのかに絶え絶えに言うのを、薫はなつかしそうに自身の口にのせてから、 |
【言ふともなく】- 定家本は「いふとてなく」(校異源氏物語・源氏物語大成1685-⑩)とあるよし。「青表紙本」の中で、定家本が独自異文。『集成』(底本は定家本)と『完本』(底本は定家本)は諸本に従って「言ふともなく」と校訂する。『新大系』(底本は大島本)は底本のまま「言ふともなく」とする。 【なつかしげにうち誦じなして】- 中君の詠歌を薫が反唱する。 |
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1.7.4 | 「昔賞美された梅は今も変わらぬ匂いですが 根ごと移ってしまう邸は他人の所なのでしょうか」 |
ねごめうつろふ宿やことなる |
【袖ふれし梅は変はらぬ匂ひにて--根ごめ移ろふ宿やことなる】- 薫の返歌。『全書』は「色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも」(古今集春上、三三、読人しらず)を引歌として指摘。 |
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1.7.5 | 止まらない涙を体裁よく拭い隠して、言葉数多くもなく、 |
と自作を告げた。絶えない涙をぬぐい隠して、あまり多くは言わぬ薫であった。 |
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1.7.6 | 「またやはり、このように、何事もお話し申し上げたいものです」 |
「またこんなふうにして何のお話も申し上げようと思います」 |
【またもなほ】- 以下「よかるべき」まで、薫の詞。 |
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1.7.7 | など、 |
などと、申し上げおいてお立ちになった。 |
と最後に言って立って行った。 |
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1.7.8 | この |
お引越しに必要な支度を、人びとにお指図おきなさる。 この邸の留守番役として、あの鬚がちの宿直人などが仕えることになっているので、この近辺の御荘園の者どもなどに、そのことをお命じになるなど、生活面の事まで定めおきなさる。 |
薫は中の君の出京について心得ておくことを女房たちに言い、山荘の |
【人びとに】- 女房たちに。 【この宿守に】- この邸の留守番役として、の意。 【かの鬚がちの宿直人】- 「椎本」巻に初登場。 【このわたりの近き御荘どもなどに】- 宇治の近くの薫の荘園の人々に、の意。 【こまやかなる】- 宇治の山荘に残る人々の生活面の事。 |
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第八段 薫、弁の尼と対面 |
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1.8.1 | 弁は、 |
弁は |
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1.8.2 | 「このようなお供にも、思いもかけず長生きがつらく思われますが、人も不吉に見たり思ったりするにちがいないでしょうから、今は世に生きている者とも人に知られますまい」 |
中の君の移る二条の院へ従って行こうとも思わず、さまざまのことに出あって自身の長生きするのを恨めしい気がするし、人が見ても無気味な老女と思うであろうから、もう自分は存在しないものと思われるように |
【かやうの御供にも】- 以下「人に知られじ」まで、弁の尼の詞。 |
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1.8.3 | と言って、出家をしていたのを、しいて召し出して、まことにしみじみと御覧になる。 いつものように、昔の思い出話などをおさせになって、 |
と言って、尼になっていた。そして引きこもっていた |
【容貌も変へてけるを】- 弁が出家したことは初出。 |
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1.8.4 | 「ここには、やはり、時々参りましょうが、まことに頼りなく心細いので、こうしてお残りになるのは、まことにしみじみとありがたく嬉しいことです」 |
「ここへは今後も時々私は来るつもりなのですが、知った人がいなくなっては心細いのに、あなたがあとへ残ってくれるのは非常にうれしい」 |
【ここには、なほ】- 以下「ことになむ」まで、薫の詞。 【時々は参り来べきを】- 定家本は「とき/\はまいりくへきを」(校異源氏物語・源氏物語大成1686-⑦)とある。大島本は「とき/\はまいりくへき」とある。『完本』は諸本に従って「時々参り来べきを」と「は」を削除する。『集成』は「時々は参り来べきを」と底本(定家本)のままとする。『新大系』は底本(大島本)のまま「時々は参り来べき」とする。 |
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1.8.5 | など、えも |
などと、最後まで言い終わらずにお泣きになる。 |
など皆も言うことができず泣いてしまった。 |
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1.8.6 | 「厭わしく思えば思うほど長生きをする寿命がつらく、またどう生きよといって、先に逝っておしまいになったのか、と恨めしく、この世のすべてを情けなく思っておりますので、罪もどんなにか深い事でございましょう」 |
「世の中をいとえばいとうほど延びてまいります命も恨めしゅうございますし、また私をどうなれとお思いになって、捨ててお死にになったのかと |
【厭ふにはえて】- 『源氏釈』は「憎さのみ益田の池のねぬなはは厭ふにはゆるものにぞありける」(出典未詳)を引歌として指摘。『河海抄』は「あやしくも厭ふにはゆる心かないかにしてかは思ひやむべき」(後撰集恋二、六〇八、読人しらず)を引歌として指摘。 【うち捨てさせたまひけむ】- 主語は故大君。 【なべての世を思ひたまへ沈むに】- 『源氏釈』は「大方の我が身一つの憂きからになべての世をば恨みつるかな」(拾遺集恋五、九五三、紀貫之)を引歌として指摘。 |
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1.8.7 | と、思っていたことをお訴え申し上げるのも、愚痴っぽいが、とてもよく言い慰めなさる。 |
と、尼になるまでの気持ちを弁の訴えるのも老いた女らしく一徹に聞こえるのであったが、薫はよく言い慰めていた。 |
【かたくなしげなれど】- 『完訳』は「薫の悲嘆を慰めるどころか、逆に憂愁を訴える態度をさす」と注す。 【いとよく言ひ慰めたまふ】- 主語は薫。 |
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1.8.8 | たいそう年をとっているが、昔、美しかった名残の黒髪を削ぎ落としたので、額の具合、変わった感じに少し若くなって、その方面の身としては優美である。 |
非常に年は取っているが、昔の日に美しかった |
【さる方に】- 出家の姿としては、の意。 |
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1.8.9 | 「思いあぐねた果てに、どうしてこのような尼姿にして差し上げなかったのだろう。 それによって寿命が延びるようなこともあったろうに。 そうして、どんなに親密に語らい申し上げられたろうに」 |
故人の恋しさに堪えない心から、なぜあの人の望みどおりに尼にさせなかったのであろう、そしたならあるいは命が助かっていたかもしれぬではないか、そして二人して |
【思ひわびては、などかかる様にも】- 以下「語らひきこえてあらまし」まで、薫の心中の思い。大君を生前に出家させなかったことへの後悔。 【延ぶるやうもやあらまし】- 推量の助動詞「まし」反実仮想。下文にも「あらまし」と反実仮想の構文が続く。 |
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1.8.10 | などと、一方ならず思われなさると、この人までが羨ましいので、隠れている几帳を少し引いて、こまやかに語らいなさる。 なるほど、すっかり悲しみに暮れている様子だが、何か言う態度、心づかいは、並々でなく、嗜みのあった女房の面影が残っていると見えた。 |
とこんなことさえ思われる薫には、弁の尼姿さえうらやまれてきて、 |
【この人さへ】- 弁の尼をさす。 【こまかにぞ】- 定家本と大島本は「こまかにそ」とある。『完本』は諸本に従って「こまやかにぞ」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。 【口惜しからず】- 『集成』は「並々でなく」。『完訳』は「いやみがなく」と注す。 |
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1.8.11 | 「先に立つ涙の川に身を投げたら 死に後れしなかったでしょうに」 |
さきに立つ涙の川に身を投げば 人におくれぬ命ならまし |
【さきに立つ涙の川に身を投げば--人におくれぬ命ならまし】- 弁の尼の詠歌。『完訳』は「「--ば--まし」の反実仮想の構文。死なぬ身の悲しみと大君との死別を嘆く」と注す。 |
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1.8.12 | と、うちひそみ |
と、泣き顔になって申し上げる。 |
悲しそうな表情で弁の尼は言った。 |
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1.8.13 | 「それもとても罪深いことです。 彼岸に辿り着くことは、どうしてできようか。 それ以外のことであってさえも、深い悲しみの底に沈んで生きてゆくのもつまらない。 すべて、皆無常だと悟るべき世の中なのです」 |
「それも罪の深いことになるのですよ、そんな死に方をしては極楽へ行けることがまれで、そして暗い |
【それもいと】- 以下「思ひとまるべき世になむ」まで、薫の詞。「それ」は川に身を投げることをさしていう。 |
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1.8.14 | などのたまふ。 |
などとおっしゃる。 |
とも薫は教えた。 |
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1.8.15 | 「身を投げるという涙の川に沈んでも 恋しい折々を忘れることはできまい |
「身を投げん涙の川に沈みても 恋しき瀬々に忘れしもせじ |
【身を投げむ涙の川に沈みても--恋しき瀬々に忘れしもせじ】- 薫の返歌。「涙の川」「身を投ぐ」の語句を用いて返す。『花鳥余情』は「涙川底の水屑となり果てて恋しき瀬々に流れこそすれ」(拾遺集恋四、八七七、源順)を引歌として指摘。『集成』は「「瀬々」は折々というほどの意」と注す。「瀬」「川」縁語。 |
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1.8.16 | いつになったら、少しは思いが慰むことがあろうか」 |
どんな時が来れば少しでも心の慰むことが発見されるのだろう」 |
【いかならむ世に】- 以下「ことありなむ」まで、歌に続けた薫の詞。 |
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1.8.17 | と、 |
と、終わりのない気がなさる。 |
と薫は言い、終わりもない哀愁をいだかせられる気持ちがした。 |
【果てもなき心地したまふ】- 『全集』は「我が恋は行方も知らず果てもなし逢ふを限りと思ふばかりぞ」(古今集恋二、六一一、凡河内躬恒)を引歌として指摘。 |
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1.8.18 | 帰る気にもなれず物思いに沈んで、日も暮れてしまったが、わけもなく外泊するのも、人が咎めることであろうかと、仕方ないので、お帰りになった。 |
帰って行く気もせず物思いを続けているうちに日も暮れたが、このまま泊まっていくことは人の疑いを招くことになりやすいからと思い帰京した。 |
【人のとがむることやと】- 匂宮が自分と中君の関係を邪推しはせぬかと。 |
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第九段 弁の尼、中君と語る |
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1.9.1 | お悲しみなっておっしゃっていたご様子を話して、弁は、ますます慰めがたく悲しみに暮れていた。 女房たちは満足そうな様子で、衣類を縫い用意しながら、年老いた容貌も気にせず、身づくろいにうろうろしている中で、ますます質素にして、 |
源中納言の悲しんでいた様子を中の君に語って、弁はいっそう慰めがたいふうになっていた。他の女房たちは楽しいふうで、明日の用意に物を縫うのに夢中になっていたり、老いて醜くなった顔に化粧をして座敷の中を行き歩いていたりしている一方で弁は、いよいよ世捨て人らしいふうを見せて、 |
【思ほしのたまへるさまを】- 主語は薫。 【皆人は心ゆきたるけしきにて】- 他の女房たち。京の匂宮邸への移転に心はずんでいる。 【いよいよやつして】- 主語は弁尼。 |
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1.9.2 | 「人びとは皆準備に忙しく繕い物をしているようですが 一人藻塩を垂れて涙に暮れている尼の私です」 |
人は皆いそぎ立つめる袖のうらに 一人もしほをたるるあまかな |
【人はみないそぎたつめる袖の浦に--一人藻塩を垂るる海人かな】- 弁の尼の詠歌。「袖の浦」は出羽国の歌枕(最上川の河口、酒田市)。「発つ」と「裁つ」、「浦」と「裏」、「海人」と「尼」の懸詞。「裏」「裁つ」は「袖」の縁語。「藻塩」「海人」は「浦」の縁語。技巧的な詠歌。 |
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1.9.3 | と |
と訴え申し上げると、 |
と中の君へ訴えた。 |
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1.9.4 | 「藻塩を垂れて涙に暮れるあなたと同じです 浮いた波に涙を流しているわたしは |
「しほたるるあまの衣に異なれや うきたる波に |
【塩垂るる海人の衣に異なれや--浮きたる波に濡るるわが袖】- 中君の返歌。弁の尼の「袖」「尼」の語句を用いて返す。『河海抄』は「心から浮きたる舟に乗りそめて一日も波に濡れぬ日ぞなき」(後撰集恋三、七七九、小野小町)を引歌として指摘。 |
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1.9.5 | かかる |
結婚生活に入ることも、とてもできそうにないことと思われるので、事情によっては、ここを荒れはてさせまいと思うが、そうしたらお会いすることもありましょうが、暫くの間も、心細くお残りになるのを見ていると、ますます気が進みません。 このような尼姿の人も、必ずしも引き籠もってばかりいないもののようですので、やはり世間一般の人のように考えて、時々会いに来てください」 |
世間へ出て人並みな幸福な生活が続けていけるとは思われないのだから、ことによってはここをまた最後の隠れ家として私は帰って来るつもりだから、そうなればまたあなたに |
【世に住みつかむことも】- 以下「時々も見えたまへ」まで、歌に続けた中君の詞。匂宮との結婚に対する不安をいう。 【さまに従ひて、ここをば荒れ果てじと】- 事情によっては、ここに帰ってくることがあるかもしれないので、この山荘を荒れ果てさせまい、の意。 【心もゆかずなむ】- 係助詞「なむ」の下に「はべる」などの語句が省略。京へ移る気が進まない、の意。 【時々も見えたまへ】- 時々は京の邸へ出ていらっしゃい、の意。 |
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1.9.6 | などと、とてもやさしくお話しになる。 亡き姉君がお使いになったしかるべきご調度類などは、みなこの尼にお残しになって、 |
などと女王はなつかしいふうに話していた。大姫君の使っていて、なお用に立つような手道具類は皆この人へのこしておくことに中の君はした。 |
【昔の人の】- 故大君をさす。 |
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1.9.7 | 「このように、誰よりも深く悲しんでおいでなのを見ると、前世からも、特別の約束がおありだっただろうかと思うのまでが、慕わしくしみじみ思われます」 |
「だれよりも深くお姉様を悲しんでいてくれるあなたを見ると、深い縁が前生からあったのではなかろうかと、こんなことも思われて特別なものにあなたが見えます」 |
【かく、人より深く】- 以下「あはれになむ」まで、中君の詞。 【前の世も、取り分きたる契りもや】- 弁の尼と故大君との間に、前世からの深い宿縁があったのではないかと。 |
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1.9.8 | とのたまふに、いよいよ |
とおっしゃると、ますます子供が親を慕って泣くように、気持ちを抑えることができず涙に沈んでいた。 |
こんなことを言われて、いよいよ弁の尼は子供が母を恋しがって泣くように泣く。自身の気持ちをおさえる力も今はないように見えた。 |
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第二章 中君の物語 匂宮との京での結婚生活が始まる |
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第一段 中君、京へ向けて宇治を出発 |
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2.1.1 | すっかり掃除し、何もかも始末して、お車を何台も寄せて、ご前駆の供人は、四位五位がたいそう多かった。 ご自身でも、ひどくおいでになりたかったが、仰々しくなって、かえって不都合なことになるので、ただ内密に計らって、気がかりにお思いになる。 |
山荘の中はきれいに片づき、荷物はできて、中の君の乗用車、その他の車が廊に寄せられた。前駆を勤める人の中に四位や五位が多かった。 |
【御車ども寄せて】- 匂宮からの迎えの牛車。簀子の階段の所に。 【御みづからも】- 匂宮をいう。 【ただ忍びたるさまに】- 『完訳」は「人目を避ける点に注意。匂宮は東宮候補にものぼり、帝と中宮からは忍び歩きを禁止され、夕霧の六の君との縁談も進行中である。中の君は、宮家の姫君ながら、匂宮には召人に近い相手でしかない」と注す。 |
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2.1.2 | 中納言殿からも、ご前駆の供人を、数多く差し上げなさっていた。 だいたいのことは、宮からの指示があったようだが、こまごまとした内々のお世話は、ただこの殿から、気のつかないことのなくお計らい申し上げなさる。 |
源中納言のほうからも前駆を多人数よこしてあった。だいたいのことだけは兵部卿の宮が手落ちなくお計りになったのであるが、こまごまとした入り用の物、費用などは皆 |
【おほかたのことをこそ】- 係助詞「こそ」は「思しおきつめれ」に係る逆接用法。 |
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2.1.3 | 日が暮れてしまいそうだと、内からも外からも、お促し申し上げるので、気ぜわしく、京はどちらの方角だろうと思うにも、まことに頼りなく悲しいとばかり思われなさる時に、お車に同乗する大輔の君という女房が言うには、 |
出立が早くできないでは日が暮れると女房らも言い、迎えの人たちも促すために、中の君はあわただしくて、今から行く所がどんな所かと思うことで不安な落ち着かぬ悲しい気持ちを抱きながら車上の人になった。 |
【日暮れぬべし】- 女房や供人の詞。 【いづちならむと思ふにも】- 中君の旅立ちの不安。 【大輔の君】- 中君付きの年老いた女房。初出。 |
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2.1.4 | 「生きていたので嬉しい事に出合いました 身を厭いて宇治川に投げてしまいましたら」 |
ありふればうれしき瀬にも 身を宇治川に投げてましかば |
【ありふればうれしき瀬にも逢ひけるを--身を宇治川に投げてましかば】- 大輔君の詠歌。「身を憂」の「う」は「宇治川」の「う」と懸詞。「ましかば」反実仮想。『異本紫明抄』は「こころみになほおり立たむ涙川うれしき瀬にも流れ逢ふやと」(後撰集恋二、六一二、橘俊仲)。『河海抄』は「祈りつつ頼みぞ渡る初瀬川うれしき瀬にも流れ逢ふやと」(古今六帖三、川)「かかる瀬もありけるものをとまりゐて身を宇治川と思ひけるかな」(九条右丞相集)を引歌として指摘。 |
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2.1.5 | ほほ笑んでいるのを、「弁の尼の気持ちと比べて、何という違いだろうか」と、気にくわなく御覧になる。 もう一人の女房が、 |
と言って、 |
【弁の尼の心ばへに】- 『完訳』は「宇治にとどまる弁と、手放しに上京を喜ぶ大輔の君とを対比」と注す。 【いま一人】- もう一人の女房。名は不詳。 |
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2.1.6 | 「亡くなった方を恋しく思う気持ちは忘れませんが 今日は何をさしおいてもまず嬉しく存じられます」 |
過ぎにしが恋しきことも忘れねど 今日はた |
【過ぎにしが恋しきことも忘れねど--今日はたまづもゆく心かな】- 女房の唱和歌。「過ぎにしが」は故大君をさす。 |
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2.1.7 | どちらも年老いた女房たちで、みな亡くなった方に、好意をお寄せ申し上げていたようなのに、今はこのように気持ちが変わって言忌するのも、「世の中は薄情な」と思われなさると、何もおっしゃる気になれない。 |
この二人はどちらも長くいた年寄りの女房で、皆大姫君付きになるのを希望した者であったが、利己的に主人を変えて、今日は縁起のよいことより言ってはならぬと言葉を慎んでいるのもいやな世の中であると思う中の君はものも言われなかった。 |
【かの御方をば】- 故大君をさす。 【心寄せまほしく】- 定家本は「心よせまし」(校異源氏物語・源氏物語大成1689⑪)とある。大島本は「心よせま(ま+ほ<朱>)し(し+く<朱>)」とある。『集成』は底本(定家本)のままとする。『完本』は諸本に従って「心よせ」とし「まし」を削除する。『新大系』は大島本の訂正に従って「心寄せまほしく」と補訂する。 【言忌するも】- 故大君に心寄せてい女房たちが、それにふれず、祝意を表すること。 |
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2.1.8 | 道中は、遠く険しい山道の様子を御覧になると、つらくばかり恨まれた方のお通いを、「しかたのない途絶えであった」と、少しは理解されなさった。 七日の月が明るく照り出した光が、美しく霞んでいるのを御覧になりながら、たいそう遠いので、馴れないことでつらいので、つい物思いなさって、 |
道の長くてけわしい山路であるのをはじめて知り、恨めしくばかり思った宮の通い路の途絶えも無理のない点もあるように思うことができた。白く出た七日の月の |
【道のほどの】- 定家本と大島本は「みちのほとの」とある。『完本』は諸本に従って「道のほど」と「の」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。 【つらきにのみ思ひなされし人の御仲の通ひを】- 匂宮の宇治への通い。 【ことわりの絶え間なりけり】- 中君の心中。山道の険しさから匂宮の途絶えを少し理解する。 【七日の月のさやかにさし出でたる影、をかしく霞みたるを】- 二月七日の月。半月で将来的希望を象徴。 |
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2.1.9 | 「考えると山から出て昇って行く月も この世が住みにくくて山に帰って行くのだろう」 |
ながむれば山より 世に住みわびて山にこそ入れ |
【眺むれば山より出でて行く月も--世に住みわびて山にこそ入れ】- 中君の独詠歌。「澄み」に「住み」を掛ける。『集成』は「わが身のことから思うと、山から出て空を渡る月も、結局、この世に住むに堪えかねて再び山に沈んでゆくのでした」。『完訳』は「山の端から昇り山の端に沈む月に、宇治に帰るかもしれぬ運命を思う」と注す。 |
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2.1.10 | 生活が変わって、結局はどのようになるのだろうかとばかり、不安で、将来が気になるにつけても、今までの物思いは何を思っていたのだろうと、昔を取り返したい思いであるよ。 |
と口ずさまれるのであった。変わった境遇へこうして移って行ってそのあとはどうなるであろうとばかり |
【様変はりて】- 以下、中君の心中に即した叙述。 【取り返さまほしきや】- 『集成』は「取り返すものにもがなや世の中をありしながらのわが身と思はむ」(出典未詳)を引歌として指摘し、「中の君の思いに即した書き方」と注す。 |
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第二段 中君、京の二条院に到着 |
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2.2.1 | 宵が少し過ぎてお着きになった。 見たこともない様子で、光り輝くような殿造りで、三棟四棟と建ち並んだ邸内にお車を引き入れて、宮は、早く早くとお待ちになっていたので、お車の側に、ご自身お寄りあそばしてお下ろし申し上げなさる。 |
十時少し過ぎごろに二条の院へ着いた。まぶしい見も知らぬ宮殿の幾つともなく |
【殿造りの、三つば四つばなる中に】- 『源氏釈』は「催馬楽」此殿を指摘。 【引き入れて】- 牛車を邸内に引き入れて。 【宮、いつしかと待ちおはしましければ】- 匂宮に対する敬語が最高敬語。このあたり宮の身分の高さ、中君との相違を印象づけるものであろう。 |
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2.2.2 | いかばかりのことにかと |
お部屋飾りなども、善美を尽くして、女房の部屋部屋まで、お心配りなさっていらしたことがはっきりと窺えて、まことに理想的である。 どの程度の待遇を受けるのかとお考えになっていたご様子が、急にこのようにお定まりになったので、「並々ならないご愛情なのだろう」と、世間の人びともどのような人かと驚いているのであった。 |
夫人の居間の装飾の輝くばかりであったことは言うまでもないが、女房の部屋部屋にまで宮の御注意の行き届いた跡が見え、理想的な新婦の 宮がどの程度に愛しておいでになるのか、 |
【あるべき限りして】- 『集成』は「これ以上はない見事さで」と訳す。 【いかばかりのことにかと見えたまへる御ありさまの】- 『集成』は「(匂宮が)どのような人を得て、身をお固めになることかと世間注視の的であられたのに」。『完訳』は「どの程度の扱いを受けるのかと危ぶまれておられた中の君が。零落の姫君ゆえ厚遇がされまいと、当の中の君も思っていたろう」と注す。 【定まりたまへば】- 『完訳』は「「定まり」とはあるが、正妻になったのではない」と注す。 【おぼろけならず思さるることなめり】- 世間の人の噂。『集成』は「世間の人も、中の君をよほどのお方なのだろうと目を見張る思いをしたのだった」と注す。 |
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2.2.3 | 中納言は、三条宮邸に、今月の二十日過ぎにお移りになろうとして、最近は毎日いらっしゃっては御覧になっているが、この院が近い距離なので、様子も聞こうとして、夜の更けるまでいらっしゃったが、差し向けなさっていた御前の人々が帰参して、有様などをお話し申し上げる。 |
源中納言はこの二十日ごろに三条の宮へ移ることにしたいと思い、このごろは毎日そこへ来ていろいろな |
【日々におはしつつ見たまふに】- 新築中の三条宮邸に出掛けていろいろと指図をする。 【この院近きほどなれば】- 中君のいる匂宮邸が薫の三条宮邸から近い。 【夜更くるまでおはしけるに】- 三条宮邸に。薫は六条院を仮住まいにしている。 |
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2.2.4 | ひどくお気に召して大切にしていらっしゃるというのをお聞きになるにつけても、一方では嬉しく思われるが、やはり、自分の考えながら馬鹿らしく、胸がどきどきして、「取り返したいものだ」と、繰り返し独り言が出てきて、 |
兵部卿の宮が御満足なふうで新婦を御大切にお扱いになる御様子であるということを聞く薫は、うれしい気のする一方ではさすがに、自身の心からではあったが得べき人を他へ行かせてしまったことの後悔が苦しいほど胸につのってきて、取り返し得ることはできぬものであろうかと、こんなうめきに似た |
【いみじう御心に入りてもてなしたまふなるを】- 匂宮が中君を。「なる」伝聞推定の助動詞。 【うれしきものから、さすがに】- 薫の心中の両面を描き出す。 【ものにもがなや】- 薫の心中。『源氏釈』は「取り返す物にもがなや世の中をありしながらの我が身と思はむ」(出典未詳)を引歌として指摘。 |
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2.2.5 | 「しなてる琵琶湖の湖に漕ぐ舟のように まともではないが一夜会ったこともあったのに」 |
しなてるやにほの湖に |
【しなてるや鳰の湖に漕ぐ舟の--まほならねどもあひ見しものを】- 薫の独詠歌。「しなてるや」は「鳰の海」の枕詞。「しなてるや」から「舟の」までの上句は「真帆」に懸かる序詞。「真帆」は「まほ」(副詞)との懸詞。中君と同衾したことを回想する。『原中最秘抄』は「しなてるや鳰の湖に漕ぐ舟のまほにも妹にあひ見てしがな」(出典未詳)を引歌として指摘。 |
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2.2.6 | とけちをつけたくもなる。 |
とあの夜のことでちょっと悪く言ってみたい気もした。 |
【とぞ言ひくたさまほしき】- 語り手の薫の心中に対する批評。『完訳』は「中の君の幸運を願いつつも動揺する薫を評す」と注す。 |
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第三段 夕霧、六の君の裳着を行い、結婚を思案す |
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2.3.1 | 右の大殿は、六の君を宮に差し上げなさることを、今月にとお決めになっていたのに、このように意外な人を、婚儀より先にと言わんばかりに大事にお迎えになって、寄りつかずにいらっしゃるので、「たいそうご不快でおいでだ」とお聞きになるのも、お気の毒なので、お手紙は時々差し上げなさる。 |
左大臣は六の君を兵部卿の宮に奉るのを、この二月にと思っていた所へ、こうした意外な人をそれより先にというように夫人として堂々とお迎えになり、二条の院にばかりおいでになるようになったのを見て、不快がっているということをお聞きになっては、また気の毒にお思われになる兵部卿の宮は手紙だけを時々六の君へ送っておいでになった。 |
【この月にと】- 二月をさす。 【いとものしげに思したり】- 夕霧の態度を風聞する。 【と聞きたまふも、いとほしければ、御文は時々たてまつりたまふ】- 六君を気の毒に思って、匂宮は時々手紙をだす。 |
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2.3.2 | 御裳着の儀式を、世間の評判になるほど盛大に準備なさっているのを、延期なさるのも物笑いになるにちがいないので、二十日過ぎにお着せ申し上げなさる。 |
【御裳着のこと】- 女子の成人式。 |
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2.3.3 | 同じ一族で変わりばえがしないが、この中納言を他人に譲るのが残念なので、 |
一家の内輪どうしの中の縁組みは感心できぬものであるが、薫の中納言だけは他家の婿に取らせることは惜しい、 |
【同じゆかりに】- 夕霧と薫の関係は、表面上兄弟である。 |
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2.3.4 | 「婿君としようか。 長年人知れず恋い慕っていた人を亡くして、何となく心細く物思いに沈んでいらっしゃるというから」 |
六の君を改めてその人に |
【さもやなしてまし】- 以下「ながめゐたまふなるを」まで、夕霧の心中。 【思ひけむ人】- 宇治の大君をさす。 |
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2.3.5 | などとお考えつきになって、しかるべき人を介して様子を窺わせなさったが、 |
と左大臣は思って、ある人に薫の意向を聞かせてみたが、 |
【けしきとらせたまひけれど】- 薫の意向をさぐること。 |
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2.3.6 | 「世の無常を目の前に見たので、まことに気が塞いで、身も不吉に思われますので、何としても何としても、そのようなことは気が進みません」 |
人生のはかなさを実証したことに最近 |
【世のはかなさを】- 以下「もの憂くなむ」まで、薫の夕霧への返事。 |
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2.3.7 | と、すさまじげなるよし |
と、その気のない旨をお聞きになって、 |
と相手にせぬ様子を聞き、 |
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2.3.8 | 「どうして、この君までが、真剣になって申し出る言葉を、気乗りしなくあしらってよいものか」 |
どうして中納言までが懇切に自分のほうから言いだしたことに気のないような返辞をするのであろう |
【いかでか、この君さへ】- 以下「もてなすべきぞ」まで、夕霧の詞。反語表現。副助詞「さへ」添加の意。匂宮に加えて薫までが、の意。 |
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2.3.9 | と |
と恨みなさったが、親しいお間柄ながらも、人柄がたいそう気のおける方なので、無理にお勧め申し上げなさることができなかった。 |
と、一時は恨んだものの、兄弟ではあっても敬服せずにおられぬところの備わった薫に、しいて六の君を娶らせることは断念した。 |
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第四段 薫、桜の花盛りに二条院を訪ね中君と語る |
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2.4.1 | 花盛りのころ、二条院の桜を御覧になると、主人のいない山荘がさっそく思いやられなさるので、「気兼ねもなく散るのではないか」などと、独り口ずさみ思い余って、宮のお側に参上なさった。 |
陽春の花盛りになって、薫は近い二条の院の桜の |
【花盛りのほど、二条の院の桜を】- 『集成』は「三月の上旬と思われる。薫は新築の三条の宮にすでに移っている趣」と注す。 【主なき宿の】- 『源氏釈』は「植ゑて見し主なき宿の梅の花色かはりこそむかしなりけれ」(出典未詳)を引歌として指摘。『異本紫明抄』は「浅茅原主なき宿の桜花心やすくや風に散るらむ」(拾遺集春、六二、恵慶法師)を引歌として指摘する。 【心やすくや】- 「浅茅原主なき宿の桜花心やすくや風に散るらむ」(拾遺集春、六二、恵慶法師)の第四句。 【宮の御もとに参りたまへり】- 二条院内での移動。 |
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2.4.2 | ここがちにおはしましつきて、いとよう されど、 |
こちらにばかりおいでになって、たいそうよく住みなれていらっしゃるので、「安心ことだ」と拝見するものの、例によって、どうかと思われる心が混じるのは、妙なことであるよ。 けれども、本当のお気持ちは、とてもうれしく安心なことだとお思い申し上げなさるのであった。 |
宮はおおかたここにおいでになるようになって、貴人の夫人らしく中の君も住み |
【見たてまつるものから】- 薫の心の両面性をかたる。 【例の、いかにぞやおぼゆる心の添ひたるぞ、あやしきや】- 『休聞抄』は「双」と指摘。『集成』は「薫の気持に密着した書き方の草子地」。『完訳』は「「例の」以下、薫の心に即しながらの語り手の評。薫の屈曲する心の動揺が習慣的になっているとする」と注す。 【されど、実の御心ばへは】- 引き続き語り手の介入した叙述。 |
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2.4.3 | 何やかやとお話を申し上げなさって、夕方、宮は宮中へ参内なさろうして、お車の設えをさせて、お供の人びとが大勢集まって来たりなどしたので、お出になって、対の御方へ参上なさった。 |
宮と薫は何かとお話をし合っていたが、夕方に宮は御所へおいでになろうとして、車の |
【何くれと御物語聞こえ交はしたまひて】- 薫と匂宮。 【立ち出でたまひて】- 主語は薫。 【対の御方へ】- 西の対の中君の方へ。 |
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2.4.4 | 山里の様子とは、うって変わって、御簾の中で奥ゆかしく暮らして、かわいらしい童女の、透影がちらっと見えた子を介して、ご挨拶申し上げなさると、お褥を差し出して、昔の事情を知っている人なのであろう、出て来てお返事を申し上げる。 |
山荘の寂しい生活をしていた時に変わり、 |
【ほの見ゆるして】- ちらっと見えた子をして。 【昔の心知れる人なるべし】- 挿入句。語り手の想像を挿入させた叙述。宇治から付き従って来た女房。 |
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2.4.5 | 「 |
「朝夕の区別もなくお訪ねできそうに存じられます近さですが、特に用事もなくてお邪魔いたすのも、かえってなれなれしいという非難を受けようかと、遠慮しておりましたところ、世の中が変わってしまった気ばかりがしますよ。 お庭先の梢も霞を隔てて見えますので、胸の一杯になることが多いですね」 |
「始終お近い所に住んでおりながら、何と申す用がなくて伺いますことは、なれなれしすぎたことだとかえってお |
【朝夕の隔てもあるまじう】- 以下「多くもはべるかな」まで、薫の詞。 【御前の梢も霞隔てて見えはべるに】- 『集成』は「かえって中の君に近づきにくいことを言う」。『完訳』は「宇治の思い出が遠のく気持を言いこめる」と注す。 |
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2.4.6 | と |
と申し上げて、物思いに耽っていらっしゃる様子、お気の毒なのを、 |
と取り次がせた、物思わしそうにしている薫の姿の気の毒なのを中の君は見て、 |
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2.4.7 | 「おっしゃるとおり、生きていらしたら、何の気兼ねもなく行き来して、お互いに花の色や、鳥の声を、季節折々につけては、少し心をやって過すことができたのに」 |
あの人が惜しむどおりに大姫君が生きていて、あの人の所に迎えられておれば、近い家のことで、始終消息ができ、花鳥につけても少し |
【げに、おはせましかば】- 以下「心ゆきて過ぐしつべかりける世を」まで、中君の心中の思い。『完訳』は「大君存命なら薫の妻となり、姉妹が夫人同士として親交できたろうとする」と注す。 |
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2.4.8 | などと、お思い出しなさるにつけて、一途に引き籠もって生活していらした心細さよりも、ひたすら悲しく、残念なことが、いっそうつのるのであった。 |
などと、姉君を思い出すと、忍耐そのものが生活であったような宇治の時のほうが、かえって悲しみも忍びよかったように思われ、故人の恋しさのつのるばかりであった。 |
【思し出づるにつけては】- 姉大君のことを。 【絶え籠もりたまへりし住まひの心細さ】- 宇治での生活。 |
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第五段 匂宮、中君と薫に疑心を抱く |
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2.5.1 | 女房たちも、 |
女房たちも、 |
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2.5.2 | 「世間一般の人のように、仰々しくお扱い申し上げなさいますな。 この上ないご好意を、今こそ、拝見しご存知あそばしている様子を、お見せ申し上げる時です」 |
「世間の習いどおりに、うとうとしくあの方様をお扱いになってはなりませぬ。今こうおなりあそばしてからこそ、あの方様の御親切の並み並みでないことがおわかりになった御感謝の心をお見せあそばすべきでございます」 |
【世の常に、ことことしく】- 定家本は「うと/\しく」とある。大島本は「こと/\しく」とある。『集成』『完本』は底本(定家本)のまま。『新大系』は底本(大島本)のままとする。大島本は独自異文。以下「見えたてまつらせたまふべけれ」まで、女房の詞。薫に対する接し方について忠告。 【限りなき御心のほどをば】- 薫の厚意。 【見たてまつり知らせたまふさまをも】- 「たてまつり」は中君の薫に対する敬意。「せたまへる」二重敬語、女房の中君に対する敬意。以下の「見えたてまつらせたまふべけれ」の「たてまつる」「せたまふ」も同じ。 |
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2.5.3 | などと申し上げるが、人を介してではなく、直にお話し申し上げることは、やはり気が引けるので、ためらっていらっしゃるところに、宮が、お出かけになろうとして、お暇乞いの挨拶にお渡りになった。 たいそう美しく身づくろいし化粧なさって、見栄えのするお姿である。 |
こう言って勧めているのであったが、にわかに自身で話に出るようなことはなお恥ずかしくて中の君が |
【宮、出でたまはむとて】- 匂宮が宮中へ出かけようとして。前に「夕つ方宮は内裏へ参りたまはむとて」(第二章四段)とあった。 |
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2.5.4 | 中納言はこちらに来ているのであった、と御覧になって、 |
薫のこちらに来ていたのを御覧になり、 |
【中納言はこなたになりけり】- 匂宮が薫を視覚で認めた。 |
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2.5.5 | 「などか、むげにさし わがためはをこがましきこともや、とおぼゆれど、さすがにむげに |
「どうして、無愛想に遠ざけて、外にお座らせになっているのか。 あなたには、あまりにどうかと思われるまでに、行き届いたお世話ぶりでしたのに。 自分には愚かしいこともあろうか、と心配されますが、そうはいってもまったく他人行儀なのも、罰が当たろう。 近い所で、昔話を語り合いなさい」 |
「どうしてあんなによそよそしい席を与えていらっしゃるのですか。あなたがたの所へはあまりにしすぎると思うほどの親切を見せていた人なのだからね。私のためには多少それは危険を感ずべきことではあっても、あんなに冷遇すれば男はかえって反発的なことを起こすものですよ。近くへお呼びになって昔話でもしたらいいでしょう」 |
【などか、むげにさし放ちては】- 以下「うち語らひたまへかし」まで、匂宮の詞。どうして薫をむやみに遠ざけて御簾の外に座らせているのだ、の意。 【出だし据ゑたまへる】- 御簾の外、すなわち簀子に。 【御あたりには、あまりあやしと思ふまで】- 「御あたり」は、あなたの意。「あやしと思ふまで」には、嫉妬や厭味にニュアンスをともなう。 【わがためはをこがましきこともや、とおぼゆれど】- 『集成』は「私にとっては物笑いなことであろうか、と思われますが。暗に中の君と薫の間柄を疑う体に諷する」と注す。 【近やかにて】- 御簾の内の廂間に招じ入れて、の意。 |
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2.5.6 | などと、申し上げなさるものの、 |
こんなことを夫人に言われたのであるが、また、 |
【など、聞こえたまふものから】- 好意的に言う一方で。 |
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2.5.7 | 「そうはいっても、あまり気を許すのも、またどんなものかしら。 疑わしい下心があるかもしれない」 |
「しかしあまり気を許して話し合うことはどうだろう。疑わしい心が下に見えますからね」 |
【さはありとも】- 以下「心にぞあるや」まで、匂宮の詞。薫には聞こえない小さい声で言ったものであろう。 【疑はしき下の心にぞあるや】- 薫の下心を疑う。中君を横取りするやも知れない、の気持ち。 |
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2.5.8 | と、うち |
と、言い直しなさるので、どちらの方に対しても厄介だけれども、自分の気持ちも、しみじみありがたく思われた方のお心を、今さらよそよそしくすべきことでもないので、「あの方が思いもしおっしゃりもするように、故姉君の身代わりとお思い申して、このように分かりましたと、お表し申し上げる機会があったら」とはお思いになるが、やはり、何やかやと、さまざまに心安からぬことを申し上げなさるので、つらく思われなさるのだった。 |
ともお言いになったので、どうすればよいかわからぬようなめんどうさを中の君は感じた。自分にもまれな好意の寄せられたのを知っているのであったから、今の身になったからといって、うとうとしくできるものでない、あの人も言うように、姉君の代わりと見て、感謝している自分の心をあの人に見せうる機会があればよいと願っているがと中の君は思うものの、さすがに宮がとやかくと |
【一方ならずわづらはしけれど】- 『集成』は「どちらに対しても(匂宮に対しても薫に対しても)厄介なことと思われるけれども。中の君の心」と注す。 【かの人も】- 以下「見えたてまつるふしもあらばや」まで、中君の心中の思い。薫に対する気持ちと今後の接し方を思案。 【いにしへの御代はりとなずらへきこえて】- 姉のお身代わりとお思い申し上げて。 【かう思ひ知りけりと】- このように薫の厚意を理解しているのだと。 【かたがたにやすからず聞こえなしたまへば】- 匂宮が中君と薫の仲を疑って何かにつけて、穏やかならず言いがかりをつけるように申し上げなさる。 |
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