設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
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この帖の主な登場人物 | |||
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登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
薫 | かおる | 大将殿 大将 大将の君 殿 君 |
源氏の子 |
匂宮 | におうのみや | 兵部卿宮 宮 親王 |
今上帝の第三親王 |
今上帝 | きんじょうてい | 帝 内裏 主上 |
朱雀院の第一親王 |
明石中宮 | あかしのちゅうぐう | 大宮 后の宮 后 宮 |
源氏の娘 |
夕霧 | ゆうぎり | 左大臣殿 左の大殿 右の大殿 父大臣 |
源氏の長男 |
女一の宮 | おんないちのみや | 姫宮 一品の宮 |
今上帝の第一内親王 |
女二の宮 | おんなにのみや | 二の宮 女宮 帝の御女 |
今上帝の第二内親王 |
中君 | なかのきみ | 宮の上 御二条の北の方 対の御方 女君 |
八の宮の二女 |
宮の君 | みやのきみ | 御女 姫君 女君 |
蜻蛉宮の姫君 |
浮舟 | うきふね | 守の娘 御妹 上 女君 君 女 |
八の宮の三女 |
常陸介 | ひたちのすけ | 常陸守 常陸前守 守 |
浮舟の継父 |
中将の君 | ちゅうじょうのきみ | 母君 御母 親 母 |
浮舟の母 |
右近 | うこん | 右近 |
浮舟の乳母子 |
時方 | ときかた | 御使 大夫 |
匂宮の従者 |
大蔵大輔 | おおくらのたいふ | 御使 大蔵大夫 |
薫の家司;道定の妻の父親 |
第五十一帖 浮舟 薫君の大納言時代二十六歳十二月から二十七歳の春雨の降り続く三月頃までの物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
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第一章 匂宮の物語 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を聞き知る |
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第一段 匂宮、浮舟を追想し、中君を恨む |
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1.1.1 | 「ことことしきほどにはあるまじげなりしを、 |
宮は、今もなお、あのちらっと御覧になった夕方をお忘れになる時とてない。 「たいした身分ではけっしてなさそうであったが、人柄が誠実で魅力的であったなあ」と、とても浮気なご性分にとっては、「残念なところで終わってしまったことだ」と、悔しく思われなさるままに、女君に対しても、 |
【宮、なほ、かのほのかなりし夕べを】- 匂宮。二条院で浮舟をちらった見たことをさす。 【ことことしきほどには】- 以下「ありしかな」まで、匂宮の心中の思い。浮舟に対する感想。 【女君をも】- 中君に対しても。 |
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1.1.2 | 「あのように、ちょっとしたことぐらいで、むやみに、このような方面の嫉妬をなさるなあ。 思いがけなく情けない」 |
「何でもない恋の遊戯をしようとするくらいのことにもあなたはよく |
【かう、はかなきことゆゑ】- 以下「思はずに心憂し」まで、匂宮の心中。『完訳』は「自分が女房ふぜいの女とかかわるぐらい何でもないことなのに、中の君がむやみに嫉妬するとは意外だ、の気持。嫉妬して浮舟の素姓や所在を明かさぬのだと恨んだ」と注す。 |
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1.1.3 | と、悪口言って恨み申し上げなさる時々は、とてもつらくて、「ありのままに申し上げてしまおうかしら」とお思いになるが、 |
こんなふうにお言いになり、 |
【いと苦しうて】- 主語は中君。 【ありのままにや聞こえてまし】- 中君の心中。 |
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1.1.4 | 「重々しい様子にはお扱いなさらないようだが、いいかげんでない扱いに、心とめて人が隠していらっしゃる女を、おしゃべりに申し上げてしまうようなのも、そのまま聞き流しなさるようなご性分の方ではいらっしゃらないようだ。 |
妻の一人としての待遇はしていないにもせよ軽々しい情人とは思わずに愛して、世間の目にはつかぬようにと宇治へ隠してある妹の姫君のことを、お話ししても宮の御性情ではそのままにしてお置きにはなれまい、 |
【やむごとなきさまには】- 以下「もてそこなはじ」まで、中君の心中の思い。 【もてなしたまはざなれど】- 主語は薫。薫が浮舟を。 【人の隠し置きたまへる人を】- 薫が浮舟を。 【聞き過ぐしたまふべき御心ざまにもあらざめり】- 匂宮の性分。 |
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1.1.5 | さぶらふ |
仕えている女房の中でも、ちょっと何かおっしゃり関係を持とうとお思いになった者にはすべて、身分柄あってはならない実家までお尋ねあそばすご体裁の良くないご性分なので、あれほど月日を経ても、お思い込んでいらっしゃるあたりの女は、女房の場合以上にきっと見苦しいことを引き起こしなさるだろう。 他から伝え聞きなさるのはどうすることもできない。 |
女房にでもそうした関係を結びたくおなりになった人の所へは無反省にそうした人の実家へまでもお出かけになるような多情さがおありになるのであるから、これはまして相当に月日もたつ今になっても思い込んでお忘れになれない相手であっては、必ず醜い事件をお起こしになるであろう、ほかから聞いておしまいになればそれはしかたがない、 |
【あるまじき里まで尋ねさせたまふ】- 親王という身分柄あってはならない、女房ふぜいの実家まで尋ねていく匂宮の性分。 【さばかり月日を経て、思ししむめるあたりは】- 『完訳』は「匂宮が浮舟に迫ったのは八月。三、四か月後の今も忘れられない」と注す。「あたり」は浮舟をさす。 【ましてかならず】- 『完訳』は「女房に手出しする以上に」と注す。 【見苦しきこと取り出でたまひてむ】- 『集成』は「薫との間に悶着が起るだろう、の意」と注す。 【他より伝へ聞きたまはむは】- 主語は匂宮。浮舟に関する情報を。 |
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1.1.6 | どちらにとってもお気の毒ではあっても、それを防げる方のご性分でないので、他人の場合よりは聞きにくいなどとばかりに思われるだろう。 どうなるにせよ、自分からの過失にはするまい」 |
大将のためにも姫君のためにも不幸になるのを知っておいでになっても、それに遠慮のおできになる方ではないから、そうした場合に姫君が他人でない点で、自分は多く恥を覚えることであろう、何にもせよ自分のあやまりから悪いほうへ運命の進む動機は作るまい |
【いづ方ざまにも】- 薫と浮舟。 【防ぐべき人の御心ありさまならねば】- 匂宮の性分。 【よその人よりは】- 匂宮の浮気の相手が他人でなく自分の妹であること。 |
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1.1.7 | と思い返しなさっては、お気の毒には思うが申し上げなさらず、嘘をついてもっともらしく言いつくろうことは、おできになれないので、黙りとおして嫉妬する、世の常の女になっていらっしゃった。 |
と反省して、宮の恋に同情はしながらも姫君の現在の境遇を語ろうとしなかった。 |
【異ざまにつきづきしく】- 『集成』は「ありもしない嘘をついて、もっともらしく言い繕ったりはおできにならないので」と注す。 |
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第二段 薫、浮舟を宇治に放置 |
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1.2.1 | かの されど、 |
あの方は、たとえようもなくのんびりと構えていらっしゃって、「待ち遠しいと思っているだろう」と、お気の毒にはお思いやりになりながら、窮屈な身の上を、適当な機会がなくては、たやすくお通いになれる道ではないので、神が禁じている以上に困っている。 けれども、 |
【かの人は】- 薫。 【待ち遠なりと思ふらむ】- 薫の心中。宇治にいる浮舟が。 【かやしく通ひたまふべき】- 明融臨模本には「かやし(し=スイ)く」とある。すなわち「し」の傍らに異本「す」と傍記する。『集成』『完本』は傍記と諸本に従って「かやすく」と校訂する。『新大系』は底本(明融臨模本)のまま「かやしく」とする。 【神のいさむるよりもわりなし】- 『源氏釈』は「恋しくは来てもみよかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに」(伊勢物語)を指摘。 |
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1.2.2 | 「 さて、しばしは |
「いずれはたいそうよく扱ってやろう、と思う。 山里の慰めと思っていた考えがあるが、少し日数のかかりそうな事柄を作り出して、のんびりと出かけて行って逢おう。 そうして、しばらくの間は誰も知らない住処で、だんだんとそのようなことで、あの女の気持ちも馴れさせて、自分にとっても、他人から非難されないように、目立たぬようにするのがよいだろう。 |
そのうちに自分は十分にその人をいたわる方法を考えている、宇治へ行って見る時に覚える |
【今いとよくもてなさむ、とす】- 以下「いと本意なし」まで、薫の心中の思い。浮舟の処遇について。『集成』は「以下、地の文から自然に薫の心中の叙述に移る」と注す。 【日数も経ぬべきことども作り出でて】- 『完訳』は「日数のかかりそうな法会などにかこつけて浮舟を訪う心づもり」と注す。 【かの心を】- 浮舟の心。 |
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1.2.3 | 急に迎えて、誰だろう、いつからだろう、などと取り沙汰されるのも、何となく煩わしく、当初の考えと違ってこよう。 また、宮の御方がお聞きになってご心配になることも、もとの場所をきっぱりと離れて連れ出し、昔を忘れてしまったような顔なのも、まことに不本意だ」 |
にわかにだれの娘か、いつからというようなことを私議されるのも煩わしく初めの精神と違ってくる、また二条の院の |
【初めの心に違ふべし】- 亡き大君の身代わりとして求めた心。 【宮の御方の聞き思さむことも】- 『完訳』は「中の君。彼女から、大君追慕の心を喪ったかと思われたくない」と注す。 【もとの所を】- 大君ゆかりの宇治の地を。 |
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1.2.4 | などと冷静に考えなさるのも、例によって、のんびりと構え過ぎた性分からであろう。 引っ越しさせる所をお考えおいて、こっそりと造らせなさるのであった。 |
と思い、恋しい心をおさえているのも、例の恋に |
【例の、のどけさ過ぎたる心からなるべし】- 『細流抄』は「草子地也」と指摘。『全集』は「薫は、常に人目を顧慮している。「例の、のどけさ過ぎたる心から--」に語り手の揶揄の口調がうかがえるゆえん。薫のこの性格は後の破綻を招く原因ともなる」と注す。 【渡すべきところ思しまうけて】- 浮舟を京に迎えて。 |
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第三段 薫と中君の仲 |
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1.3.1 | すこしいとまなきやうにもなりたまひにたれど、 |
少し暇がないようにおなりになったが、宮の御方に対しては、やはりたゆまずお心寄せ申し上げなさることは以前と同じようである。 拝見する女房も不思議なまでに思っているが、世の中をだんだんとお分かりになってきて、他人の様子を見たり聞いたりなさるにつけて、「この人こそは本当に昔を忘れない心長さが、引き続いて浅くない例のようだ」と、感慨も少なくない。 |
少し心の暇が少なくなったようであるがなお二条の院の夫人に尽くすことは怠らなかった。これを知っている女房などは不思議にも思うのであったが、世の中というものがようやくわかってきた中の君にはこうした薫の誠意が認識できるようになり、これこそ恋した人を死後までも長く忘れない深い愛の例にもすべき志であると哀れを覚えさせられることも少なくないのであった。 |
【世の中をやうやう思し知り】- 『完訳』は「中の君は。以下、心中叙述」と注す。 |
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1.3.2 | 成人なさっていくにつれて、人柄も評判も、格別でいらっしゃるので、宮のお気持ちがあまりに頼りなさそうな時には、 |
世の信望を得ていることも多くて、官位の昇進の目ざましい薫であったから、宮があまりにも真心のない態度をお見せになったりする時には、 |
【ねびまさりたまふままに】- 主語は薫。 |
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1.3.3 | 「思いもかけなかった運命であったわ。 亡き姉君がお考えおいたとおりでもなく、このように悩みの多い結婚をしてしまったことよ」 |
不運な自分である、姉君の心にきめたままにはなっていないで、陰で多くの |
【思はずなりける宿世かな】- 以下「かかりそめけむよ」まで、中君の心中の思い。 【故姫君の思しおきてしままにもあらで】- 「故姫君」は、大君。大君は中君と薫の結婚を望んでいた。 【かくもの思はしかるべき方に】- 悩み事の多い結婚生活をさす。 |
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1.3.4 | とお思いになる時々も多かった。 けれども、 |
と、こんなことも思われた。けれども逢って話などをすることはもうあまりできないようになっていた。 |
【思す折々多くなむ】- 下に「ありける」などの語句が省略。 【対面したまふことは難し】- 中君が薫に会うことをさす。 |
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1.3.5 | 年月もあまりに昔から遠ざかってきて、内々のご事情を深く知らない女房は、普通の身分の人なら、これくらいの縁者を求めて親交を忘れないのも、ふさわしいが、かえって、このように高い身分では、一般と違った交際も、気がひけるので、宮が絶えずお疑いになっているのも、ますますつらくご遠慮なさりながら、自然と疎遠になってゆくのを、それでも絶えず、同じ気持ちがお変わりにならないのであった。 |
宇治時代と今とはあまりにも年月が隔たり過ぎ、どんな |
【うちうちの御心を深う知らぬ人は】- 『集成』は「宇治以来の事情を知らぬ新参の女房が増えているのである」と注す。 【なほなほしきただ人こそ】- 『集成』は「以下、女房の心中」と注す。 【なかなか、かう】- 『集成』は「女房の心中からいつか中の君の心中叙述になる」と注す。 【思し憚りたまひつつ】- 主語は中君。地の文にもどる。 【おのづから疎きさまになりゆくを】- 中君と薫の関係が。 【同じ心の変はりたまはぬなりけり】- 薫の心をいう。 |
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1.3.6 | 宮も、浮気っぽいご性質は、厭わしいところも混じっているが、若君がとてもかわいらしく成長なさってゆくにつれて、「他にはこのような子も生まれないのではないかしら」と、格別大事にお思いになって、気のおけぬ親しい夫人としては、正室にまさってご待遇なさるので、以前よりは少し悩み事も落ち着いて過ごしていらっしゃる。 |
宮も多情な御性質がわざわいして情けなく夫人をお思わせになるようなことも時々はまじるが若君がかわいく成長してくるのを御覧になっては、他の人から自分の子は生まれないかもしれぬと思召し、夫人を尊重あそばすようになり、隔てのない妻としてはだれよりもお愛しになるため、以前よりは少し物思いをすることの少ない日を中の君は送っていた。 |
【他にはかかる人も出で来まじきにや】- 匂宮の思い。 【人にまさりて】- 正室の六君以上に。 |
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第四段 正月、宇治から京の中君への文 |
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1.4.1 | 正月の上旬が過ぎたころにお越しになって、若君が一つ年齢をおとりになったのを、相手にしてかわいがっていらっしゃる昼ころ、小さい童女が、緑の薄様の包紙で大きいのに、小さい鬚籠を小松に結びつけてあるのや、また、きちんとした立文とを持って、無邪気に走って参る。 女君に差し上げると、宮は、 |
正月の元日の過ぎたあとで宮は二条の院へ来ておいでになって、 |
【渡りたまひて】- 主語は匂宮。『集成』は「上旬は、朝廷、大臣家等での儀式、宴会が多い上、正室の六の君のもとで過さねばならなかったのであろう」と注す。 【若君の年まさりたまへるを】- 若君、二歳になる。 【緑の薄様なる包み文の】- 浮舟から中君への手紙。「包み文」は、結び文をさらに薄様で包んだもの。後朝の文などに用いる。 【すくすくしき立文】- 正式の手紙の形式。右近から大輔に宛てた手紙。 【女君に】- 中君に。 |
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1.4.2 | 「それは、どこからのですか」 |
「それはどこからよこしたのか」 |
【それは、いづくよりぞ】- 匂宮の詞。 |
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1.4.3 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
とお言いになった。 |
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1.4.4 | 「宇治から大輔のおとどにと言ったが、いないので困っていましたのを、いつものように、御前様が御覧になるだろうと思って、受け取りました」 |
「宇治から |
【宇治より大輔のおとどに】- 以下「取りはべりぬる」まで、女童の返事。 【もてわづらひはべりつるを】- 主語は使者。大輔のおとどがいなくてまごついていた。 【例の】- 「御覧ぜむ」にかかる。女童の不用意な失言。 |
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1.4.5 | と |
と言うのも、とても落ち着きのないふうなので、 |
せかせかと早口で申した。 |
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1.4.6 | 「この籠は、金属で作って色を付けた籠でしたのだわ。 松もとてもよく本物に似せて作ってある枝ですよ」 |
「この籠は金の |
【この籠は】- 以下「枝ぞとよ」まで、女童の詞。 |
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1.4.7 | と、 |
と、笑顔で言い続けるので、宮もにっこりなさって、 |
うれしそうな顔で言うのを御覧になって、宮もお笑いになり、 |
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1.4.8 | 「それでは、わたしも鑑賞しようかね」 |
「では私もどんなによくできているかを見よう」 |
【いで、我ももてはやしてむ】- 匂宮の詞。 |
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1.4.9 | と |
とお取り寄せになると、女君は、とても見ていられない気持ちがなさって、 |
と言い、受け取ろうとあそばされたのを、夫人は困ったことと思い、 |
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1.4.10 | 「手紙は、大輔のもとにやりなさい」 |
「手紙だけは大輔の所へ持ってお行き」 |
【文は、大輔がりやれ】- 中君の詞。 |
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1.4.11 | とおっしゃる。 お顔が赤くなっているので、宮は、「大将がさりげなくよこした手紙であろうか、宇治からと名乗るのもいかにもらしい」とお思いつきになって、この手紙をお取りになった。 |
こういう顔が少し赤くなっていたのを宮はお見とがめになり、大将がさりげなくして送って来た |
【大将のさりげなく】- 以下「つきづきし」まで、匂宮の心中。手紙を薫からかと疑う。 |
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1.4.12 | とはいえ、「もし本当にそれであったら」とお思いになると、たいそう気がひけて、 |
さすがにそれであったならどんなことになろう、夫人はどんなに恥じて苦しがるであろうとお思いになると |
【それならむ時に】- 匂宮の心中。もし薫からの手紙だったら。 |
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1.4.13 | 「開けてみますよ。 お恨みになりますか」 |
「あけて私が読みますよ。恨みますか、あなたは」 |
【開けて見むよ。怨じやしたまはむとする】- 匂宮の詞。 |
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1.4.14 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
とお言いになると、 |
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1.4.15 | 「みっともありません。 どうして、女房どうしの間でやりとりしている気を許した手紙を、御覧になるのでしょう」 |
「そんなもの、女房どうしで書き合っています平凡な手紙などを御覧になってもおもしろくも何ともないでしょう」 |
【見苦しう】- 以下「御覧ぜむ」まで、中君の詞。匂宮をたしなめる。 |
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1.4.16 | とおしゃるが、あわてない様子なので、 |
夫人は騒がぬふうであった。 |
【騒がぬけしきなれば】- 主語は中君。 |
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1.4.17 | 「それでは、見ますよ。 女性の手紙とは、どんなものかな」 |
「じゃあ見よう。女仲間の手紙にはどんなことが書かれてあるものだろう」 |
【さは、見むよ。女の文書きは、いかがある】- 匂宮の詞。 |
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1.4.18 | と言ってお開けになると、とても若々しい筆跡で、 |
とお言いになり、あけてお見になると、若々しい字で、 |
【いと若やかなる手にて】- 『集成』は「ひどく若々しい筆跡で。書き馴れぬ体。浮舟の手紙である」と注す。 |
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1.4.19 | 「ご無沙汰のまま、年も暮れてしまいました。 山里の憂鬱さは、峰の霞も絶え間がなくて」 |
その後お目にかかることもできませんままで年も暮れたのでございました。山里は寂しゅうございます。峰から |
【おぼつかなくて】- 以下「絶え間なくて」まで、浮舟の手紙。 【山里のいぶせさこそ、峰の霞も絶え間なくて】- 『新釈』『大系』は「山隠す春の霞ぞうらめしきいづれの都の境なるらむ」(古今集羇旅、四一三、おと)「都人いかにと問はば山高みはれぬ雲居にわぶと答へよ」(古今集雑下、九三七、小野貞樹)を指摘。 |
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1.4.20 | とて、 |
とあって、 |
などとある奥に、 |
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1.4.21 | 「これも若宮様の御前に。 不出来でございますが」 |
これを若君に差し上げます。つまらぬものでございますが。 |
【これも若宮の御前に。あやしうはべるめれど】- 浮舟の手紙。「これ」は卯槌をさす。 |
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1.4.22 | と |
と書いてある。 |
と書いてある。 |
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第五段 匂宮、手紙の主を浮舟と察知す |
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1.5.1 | 特に才気があるようには見えないが、心当たりがないので、お目を凝らして、この立文を御覧になると、なるほど女性の筆跡で、 |
ことに貴女らしいふうも見えぬ手紙ではあるが、心当たりのおありにならぬために、また立文のほうを御覧になると、いかにも女房らしい字で、 |
【おぼえなき】- 明融臨模本は「おほえなき」とある。『完本』は諸本に従って「おぼえなきを」と「を」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「おぼえなき」とする。 【この立文を】- 右近から大輔の君への手紙。 |
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1.5.2 | 「年が改まりましたが、いかがお過しでしょうか。 あなた様ご自身におかれましても、どんなに楽しくお喜びが多いことでございましょう。 |
新年になりまして、そちら様はいかがでいらっしゃいますか。御主人様、また皆様がたにもお喜びの多い春かと存じ上げます。 |
【年改まりて】- 以下「御覧ぜさせたまへ」まで、右近の手紙。 【御私にも】- 「私」は、主人筋に対して私的なこと。 |
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1.5.3 | ここには、いとめでたき かくてのみ、つくづくと |
こちらでは、とても結構なお住まいで行き届いておりますが、やはり、不似合いに存じております。 こうしてばかり、つくづくと物思いにお耽りあそばすより他には、時々そちらにお伺いなさって、お気持ちをお慰めあそばしませ、と存じておりますが、気がねして恐ろしい所とお思いになって、嫌なこととお嘆きになっているようです。 |
ここはごりっぱな風流なお |
【なほ、ふさはしからず】- 浮舟にとって。 【眺めさせたまふよりは】- 主語は浮舟。 【時々は渡り参らせたまひて】- 浮舟を中君のもとに参上あそばして。「せたまひて」は二重敬語。 【思しとりて】- 主語は浮舟。 |
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1.5.4 | 若宮の御前にと思って、卯槌をお贈り申し上げなさいます。 ご主人様が御覧にならない時に御覧下さいませ、とのことでございます」 |
若君様へこちらから |
【大き御前の】- 匂宮をさしていう。 |
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1.5.5 | と、こまごまと言忌もできずに、もの悲しい様子が見苦しいのにつけても、繰り返し繰り返し、変だと御覧になって、 |
こまごまと、年の初めの縁起も忘れて、主人のことを哀訴している、かたくならしい心も見える手紙を、宮は何度となく読んで御覧になり、怪しく思召して、 |
【言忌もえしあへず】- 『集成』は「(正月だというのに)縁起でもない言葉を慎むことも忘れて。「ふさはしからず」「つつましく恐ろしきものに」「もの憂きことに嘆かせたまふ」など」と注す。 |
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1.5.6 | 「今はもう、おっしゃいなさい。 誰からのですか」 |
「もう言ってもいいでしょう、だれの手紙ですか」 |
【今は、のたまへかし。誰がぞ】- 匂宮の詞。 |
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1.5.7 | とのたまへば、 |
とお尋ねになると、 |
と夫人へお言いになった。 |
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1.5.8 | 「昔、あの山里に仕えておりました女の娘が、ある事情があって、最近あちらにいると聞きました」 |
「以前あの山荘にいました人の娘が、訳があってこのごろあそこにいるということを聞いていました。それでしょう」 |
【昔、かの山里に】- 以下「なむ聞きはべりし」まで、中君の詞。 |
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1.5.9 | と申し上げなさると、普通にお仕えする女とは見えない書き方を心得ていらっしゃるので、あの厄介なことがあると書いてあったのでお察しになった。 |
この答えをお聞きになった宮は、普通の二人の女房が同じ階級の者として一人のことの言われてある文章でもないし、めんどうが起こったと書いてあるのは、あの時のことをさして言うに違いないとお悟りになった。 |
【かのわづらはしきことあるに】- 二条院で匂宮が浮舟に迫った事件。 |
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1.5.10 | またぶりに、 |
卯槌が見事な出来で、所在ない人が作った物だと見えた。 松の二股になったところに、山橘を作って、それを貫き通した枝に、 |
卯槌が美しい細工で作られてあるのは、 |
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1.5.11 | 「まだ古木にはなっておりませんが、 若君様のご成長を心から深くご期待申 |
まだふりぬものにはあれど君がため 深き心にまつとしらなん |
【まだ古りぬ物にはあれど君がため--深き心に待つと知らなむ】- 浮舟の詠歌。「まだ古り」に「またぶり」を響かせ、「松」「待つ」「先づ」は懸詞。「君」は若君をさす。若君の長寿と弥栄を予祝する歌。 |
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1.5.12 | と、特にたいした歌でないなので、「あのずっと思い続けている女のか」とお思いになると、お目が止まって、 |
こんな平凡な歌であったが、常に心にかかっている人の作であるかもしれぬということで興味をお覚えになった。 |
【かの思ひわたる人のにや】- 匂宮の心中。 |
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1.5.13 | 「お返事をなさい。 返事しなくては情愛がない。 隠さなければならない手紙でもあるまいに。 どうして、ご機嫌が悪いのですか。 去りましょうよ」 |
「返事を書いてあげなさい。無情じゃありませんか。隠す必要もない手紙を私が見ただけだのに、なぜ |
【返り事したまへ】- 以下「まかりなむよ」まで、匂宮の詞。 【まかりなむよ】- 主語は自分匂宮。 |
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1.5.14 | と言って、お立ちになった。 女君は、少将などに向かって、 |
こんな言葉を残して宮は夫人の居間から出てお行きになった。中の君は少将などに、 |
【少将などして】- 「などして」は、などに向かっての意。「少将」は中君付きの女房。「宿木」「東屋」巻に登場。 |
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1.5.15 | 「お気の毒なことになってしまいましたね。 幼い童女が受け取ったのを、他の女房はどうして気づかなかったのでしょう」 |
「宮様に見られてしまって、あの人がかわいそうだったね。小さい子が使いから受け取ったのだろうけれど、だれも気がつかなかったのかねえ」 |
【いとほしくもありつるかな】- 以下「見ざりつるぞ」まで、中君の詞。浮舟の手紙を匂宮に見られてしまったことを後悔する。 【人は】- 他の女房。 |
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1.5.16 | など、 |
などと、小声でおっしゃる。 |
ひそかにこんなことを言っていた。 |
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1.5.17 | 「拝見しましたら、どうして、こちらへお届けしたりしましょうか。 ぜんたい、 この子は思慮が浅く出過ぎています。将来性がうかがえて、女の子は、おっとり |
「私どもが気がついておりましたなら、どうして持たせて差し上げなどするものでございますか、全体この子はあさはかに出過ぎる子でございます。将来のことは子供の時を見てよく想像されるものですが、おっとりとしています子には見込みがございますけれど」 |
【見たまへましかば】- 以下「をかしけれ」まで、少将君の詞。「ましかば--参らせまし」反実仮想の構文。 【人は】- 女子一般をさす。 |
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1.5.18 | など |
などと叱るので、 |
などと憎むのを見て、 |
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1.5.19 | 「お静かに。 幼い子を、叱りなさいますな」 |
「まあそんなに言わないでね。子供に腹をたてるものではない」 |
【あなかま。幼き人、な腹立てそ】- 中君の詞。 |
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1.5.20 | とおっしゃる。 去年の冬、ある人が奉公させた童女で、顔がとてもかわいらしかったので、宮もとてもかわいがっていらっしゃるのだった。 |
と夫人は制した。去年の冬にある人から童女として奉公させた子であるが、顔のきれいなために宮もかわいがっておいでになった。 |
【去年の冬】- 以下「したまふなりけり」まで、語り手の補足説明的叙述。三光院「注にかけり」と指摘。 |
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第六段 匂宮、大内記から薫と浮舟の関係を知る |
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1.6.1 | わが |
ご自分のお部屋にお帰りになって、 |
御自身の居間のほうへおいでになった宮は、 |
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1.6.2 | 「あやしうもあるかな。 |
「不思議なことであったな。 宇治に大将がお通いになることは、何年も続いていると聞いていた中でも、こっそりと夜お泊まりになる時もある、と人が言ったが、実にあまりな故人の思い出の土地だからとて、とんでもない所に旅寝なさるのだろうこと、と思ったのは、あのような女を隠して置きなさったからなのだろう」 |
不思議なことでないか、あれからのちも宇治へ行くことを大将はやめないと聞いていたが、そっと泊まる夜もあると人が言った時に、深い恋をした人の面影の残る山荘だからといっても、ああした所に宿泊までするのかと思ったのは、こうした新しい情人を隠していたためなのであろう |
【あやしうもあるかな】- 以下「隠しおきたまへるなるべし」まで、匂宮の心中の思い。 【忍びて夜泊りたまふ時もあり】- 匂宮の耳に入る風聞。 【人の形見】- 大君の思いでの土地。 |
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1.6.3 | と合点なさることもあって、ご学問のことでお使いになる大内記である者で、あちらの邸に親しい縁者がいる者を思い出しなさって、御前にお召しになる。 参上した。 |
と、思い合わされることもおありになって、学問のほうの用で自邸でもお使いになる大内記が、薫の家の人によるべのあることをお思い出しになり、居間へお呼びになった。 |
【御書のこと】- 「書」は学問の意。 【かの殿に】- 薫の邸。 |
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1.6.4 | 「韻塞をしたいのだが、詩集などを選び出して、こちらにある厨子に積むように」 |
【韻塞すべきに】- 以下「積むべきこと」まで、匂宮の命じた詞の内容。間接的話法。 |
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1.6.5 | などのたまはせて、 |
などとお命じになって、 |
などをお命じになったあとで、 |
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1.6.6 | 「右大将が宇治へ行かれることは、相変わらず続いていますか。 寺を、とても立派に造ったと言うね。 何とか見られないかね」 |
「右大将が宇治へ行かれることは今でも同じかね。寺をりっぱに作ったそうだね。一度見たいものだ」 |
【右大将の宇治へ】- 以下「いかでか見るべき」まで、匂宮の詞。 |
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1.6.7 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
こんな話をおしかけになった。 |
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1.6.8 | 「寺をたいそう立派に、荘厳にお造りになって、不断の三昧堂など、大変に尊くお命じになった、と聞いております。 お通いになることは、去年の秋ごろからは、以前よりも、頻繁に行かれると言います。 |
「たいへんなものでございます。不断の |
【寺いとかしこく】- 以下「申すと聞きたまへし」まで、大内記の詞。 【となむ--申す、と聞きたまへし】- 『集成』は「大内記は、「下の人々」の噂を更に聞き伝えた体」と注す。 |
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1.6.9 | 下々の人びとがこっそりと申した話では、『女を隠し据えていらっしゃり、憎からずお思いになっている女なのでしょう。 あの近辺に所領なさる所々の人が、皆ご命令に従ってお仕えしております。 宿直を担当させたりしては、京からもたいそうこっそりと、しかるべき事などお尋ねになります。 どのような幸い人で、幸せながらも心細くおいでなのでしょう』と、ちょうどこの十二月のころに申していた、とお聞き致しました」 |
下の者のそっと申しておりますのを聞きますと、愛人を隠しておいておありになるようでございます。かなり大事にしていられる人らしゅうございます。大将のあのへんのあちらこちらの荘園の者が皆仰せで山荘の御用を勤めております。代る代る |
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1.6.10 | と |
と申し上げる。 |
と大内記は言った。 |
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第七段 匂宮、薫の噂を聞き知り喜ぶ |
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1.7.1 | 「いとうれしくも |
「とても嬉しいことを聞いたなあ」とお思いになって、 |
すべてがこれで明らかになったと宮はお喜びになった。 |
【いとうれしくも聞きつるかな】- 匂宮の心中の思い。 |
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1.7.2 | 「はっきりと名前を、言わなかったか。 あちらに以前から住んでいた尼を、お訪ねになると聞いていたが」 |
「どういう人と言っていなかったかね、あの山荘にもとからいる尼のめんどうを大将は見てやっていると聞いたが、そのまちがいではないだろうね」 |
【たしかにその人とは】- 以下「と聞きし」まで、匂宮の詞。 |
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1.7.3 | 「尼は、渡廊に住んでおりますと言います。 この女は、今度建てられた所に、こぎれいな女房なども大勢して、結構な具合で住んでおります」 |
「尼さんは廊の座敷に住んでおります。その方は今度建ちました御殿のほうに、きれいな女房などもたくさん使って、品よく住んでおいでになるようでございます」 |
【尼は、廊になむ】- 以下「けはひにてゐてはべる」まで、大内記の詞。 【この人は】- 噂の人。浮舟をさす。 |
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1.7.4 | と |
と申し上げる。 |
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1.7.5 | 「興味深いことだね。 どのような考えがあって、どのような女を、そのように据えていらしゃるのだろうか。 やはり、とても好色なところがあって、普通の人と似ていないお心なのだろうか。 |
「おもしろい話だね、どういうつもりで、どこの婦人をそうして隠しているのだろう。なんといってもあの人のすることは特色があるね、 |
【をかしきことかな】- 以下「隈ある構へよ」まで、匂宮の詞。 |
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1.7.6 | なほ、かの |
右大臣などが、『この人があまりに仏道に進んで、山寺に、夜までややもすればお泊まりになるというが、軽々しい行為だ』と非難なさると聞いたが、なるほど、どうしてそんなにも仏道にこっそり行かれるのだろう。 やはり、あの思い出の地に心を惹かれていると聞いたが、このようなわけがあったのだ。 |
左大臣などはあの人があまりに宗教に傾き過ぎて、山の寺などに夜さえも泊まることをするのは、身分柄軽率な |
【この人の】- 以下「軽々し」まで、夕霧の詞を引用。 |
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1.7.7 | どうだ、誰よりも真面目だと分別顔をする人の方がかえって、ことさら誰も考えつかないようなところがあるものだよ」 |
だれよりも自分はまじめな人間であると |
【いづら】- 相手に呼びかける語。 |
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1.7.8 | とおっしゃって、たいそうおもしろいとお思いになった。 この人は、あちらの邸でたいそう親しくお仕えしている家司の婿であったので、隠していらっしゃることも聞いたのであろう。 |
と宮はおかしそうにお言いになった。大内記は右大将の家に古くから使っている |
【隠したまふことも】- 主語は薫。 【聞くなるべし】- 語り手の推量。 |
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1.7.9 | ご心中では、「何とかして、この女を、前に会ったことのある女かどうか確かめたい。 あの君が、あのように据えているのは、平凡で普通の女ではあるまい。 こちらでは、どうして親しくしているのだろう。 しめし合わせて隠していらっしゃったというのも、とても悔しい」と思われる。 |
宮のお心の中では、どんな策を用いてその |
【いかにして、この人を】- 以下「いとねたう」あたりまで、匂宮の心中の思い。末尾は地の文に流れる。 【かの君の】- 薫。 【このわたりには】- 中君をさす。 【心を交はして】- 中君と薫が。 |
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第二章 浮舟と匂宮の物語 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む |
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第一段 匂宮、宇治行きを大内記に相談 |
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2.1.1 | ただそのことを、最近は考え込んでいらっしゃった。 賭弓や、内宴などが過ぎて、のんびりとした時に、司召などといって、皆が夢中になっていることは、何ともお思いにならないで、宇治へこっそりとお出かけになることばかりをご思案なさる。 この大内記は、期待するところがあって、昼夜、何とかお気に入ってもらおうと思っているとき、いつもよりは親しく召し使って、 |
それ以来 |
【賭弓、内宴など過ぐして】- 賭弓は正月十八日、内宴は正月二十一、二、三頃の行事。 【司召など】- 正月の中旬から下旬に行われる。 【何とも思さねば】- 主語は匂宮。 |
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2.1.2 | 「たいへん難しいことではあるが、わたしの言うことを、何とかしてくれないか」 |
「どんな困難なことでも私の言うことに骨を折ってくれるだろうか」 |
【いと難きことなりとも、わが言はむことは、たばかりてむや】- 匂宮の詞。 |
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2.1.3 | などとおっしゃる。 恐縮して承る。 |
とお言いだしになった。内記はかしこまって頭を下げていた。 |
【かしこまりてさぶらふ】- 主語は大内記。 |
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2.1.4 | 「いと たしかには いささか |
「たいそう不都合なことだが、あの宇治に住んでいるらしい人は、早くにちらっと会った女で、行く方が分からなくなったのが、大将に捜し出された人と、思い当たるところがあるのだ。 はっきりとは知る手立てもないが、ただ、物の隙間から覗き見して、その女か違うかと確かめたい、と思う。 まったく誰にも知られない方法は、どうしたらよいだろうか」 |
「この間の話の大将の宇治に置いてある人ね、それは以前に私の情人だった女で、ある時から行くえ不明になっているのが、大将に愛されてどこかへ囲われているという話をこの間聞いてね、確かにその人かどうかをほかに分明にする手段はないから、あそこへ行って、ちょっとした |
【いと便なきことなれど】- 以下「いかがすべき」まで、匂宮の詞。 【と聞きあはすることこそあれ】- 『完訳』は「大内記の話で思いあたったとして、下心を見抜かれぬよう装う」と注す。 【ものより覗きなどして】- 主語は自分匂宮が。 |
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2.1.5 | とおっしゃるので、「何と、やっかいな」と思うが、 |
宮はこうお言いになるのであった。めんどうの多い仰せであるとは思うのであるが、 |
【あな、わづらはし】- 大内記の心中。 |
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2.1.6 | 「おはしまさむことは、いと さて、 それも、 |
「お出かけになることは、たいへん険しい山越えでございますが、格別遠くはございません。 夕方お出かけあそばして、亥子の刻にはお着きになるでしょう。 そうして、早朝にはお帰りあそばせましょう。 誰か気づくとすれば、ただお供する者だけでございしょう。 それも、深い事情はどうして分かりましょう」 |
「宇治へおいでになりますのには荒い山越しの |
【おはしまさむことは】- 以下「知りはべらむ」まで、大内記の詞。 【人の知りはべらむことは、ただ御供にさぶらひはべらむこそは】- 匂宮の微行を供人以外誰も知らない、意。 |
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2.1.7 | と |
と申し上げる。 |
と申した。 |
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2.1.8 | 「そうだ。 昔も一、二度は、通ったことのある道だ。 軽々しいと非難されるのが、その評判が気になるのだ」 |
「そうだ。宇治へは昔も一、二度行った経験がある。軽率なことをすると言われることで遠慮がされるのだよ」 |
【さかし。昔も】- 以下「つつましきなり」まで、匂宮の詞。 |
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2.1.9 | とて、 |
と言って、繰り返しとんでもないことだと、自分自身反省なさるが、このようにまでお口に出されたので、お思い止めなさることはできない。 |
とお言いになりながら返す返すもしてよい行動ではないと自身のお心をおさえようとされたのであるが、もうこんなことまで言っておしまいになったあとではおやめになることができなくなり、 |
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第二段 宮、馬で宇治へ赴く |
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2.2.1 | お供に、昔もあちらの様子を知っている者、二、三人と、この内記、その他には乳母子で蔵人から五位になった若い者で、親しい者ばかりをお選びになって、「大将の、今日明日はよもやいらっしゃるまい」などと、内記によく調べさせなさって、ご出立なさるにつけても、昔を思い出す。 |
お供には昔もよく使いに行き、宇治の山荘の勝手をよく知った者二、三人、それから内記、 |
【今日明日よにおはせじ】- 明融臨模本は「けふあす(す+ハ)よに(に$モ)おはせし」とある。すなわち「は」を補入し「に」をミセケチにして「も」と訂正する。『集成』は底本の本行本文に従う。『完本』『新大系』は訂正本文に従って「今日明日はよも」とする。 【いにしへを思し出づ】- 宇治の中君に通った往時。 |
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2.2.2 | 「不思議なまでに心を合わせて連れて行ってくれた人に対して、後ろめたいことをするなあ」と、お思い出しになることもいろいろであるが、京の中でさえ、まるきり人の知らないお忍び歩きは、そうはいっても、おできになれないご身分でいて、粗末な恰好に身をやつして、お馬でお出かけになる気持ちも、何となく恐ろしく気が咎めるが、知りたい気持ちは強いご性質なので、山深く入って行くにつれて、「早く着きたい、どうであろうか、確かめることもなくて帰るようでは、物足りなく変なものであろう」とお思いになると、気が気でない思いがなさる。 |
あやしいまでに何事も打ちあけ合う友情を持ち、自分を伴って恋人の家へ入れてくれたほどの好意を知らず顔に、その人へ済まぬ心を起こして同じ宇治へ行くと、悩ましい気持ちを覚えておいでになった。京の中でも、 |
【あやしきまで】- 以下「わざにもあるかな」まで、匂宮の心中の思い。『完訳』は「心を合せては自分を伴ってくれた人、薫に対して。以下、浮舟に近づいて薫を裏切る、自責の念」と注す。 【さはいへど】- いかに好色の人とはいえ。 【いつしか】- 以下「あるべけれ」まで、匂宮の心中の思い。 |
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2.2.3 | 法性寺の付近まではお車で、そこから先はお馬にお乗りになったのであった。 急いで、宵を過ぎたころにお着きになった。 大内記が、様子をよく知っているあの邸の人に尋ねて知っていたので、宿直人がいる方には寄らないで、葦垣をめぐらした西面を、静かにすこし壊してお入りになった。 |
法性寺のあたりまではお車で、それから馬をお用いになったのである。急いでおいでになったため、宮は九時ごろに宇治へお着きになった。内記は山荘の中のことをよく知った右大将家の人から聞いていたので、 |
【法性寺のほどまでは】- 「東屋」巻に既出。九条河原付近の寺。 【かの殿の人に】- 薫邸の人に。 |
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2.2.4 | 大内記自身も何といってもまだ見たことのないお住まいなので、不案内であるが、女房なども多くはいないので、寝殿の南面に燈火がちらちらとほの暗く見えて、そよそよと衣ずれの音がする。 戻って参って、 |
聞いただけは知っていたが、まだ来たことのない家であって、たよりない気はしながら、人の少ない所であるため、庭をまわり、寝殿の南に面した座敷に |
【我も】- 大内記自身も、の意。 【参りて】- 大内記が偵察から匂宮のもとに帰ってきて、の意。 |
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2.2.5 | 「まだ、人は起きているようでございます。 直接、 |
「まだ人は起きているようでございます。ここからいらっしゃいまし」 |
【まだ、人は起きて】- 以下「おはしまさむ」まで、大内記の報告。 |
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2.2.6 | と、しるべして |
と、案内してお入れ申し上げる。 |
と内記は言い、自身の通った路へ宮をお導きして行った。 |
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第三段 匂宮、浮舟とその女房らを覗き見る |
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2.3.1 | やをら |
静かに昇って、格子の隙間があるのを見つけて近寄りなさると、伊予簾はさらさらと鳴るのが気が引ける。 新しくこぎれいに造ってあるが、やはり荒っぽい造りで隙間があったが、誰も来て覗き見はしまいかと、気を許して、穴も塞がず、几帳の帷子をうち懸けて押しやっていた。 |
静かに縁側へお上がりになり、格子に |
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2.3.2 | これが うちつけ |
燈火を明るく照らして、何か縫物をしている女房が、三、四人座っていた。 童女でかわいらしいのが、糸を縒っている。 この子の顔は、まずあの燈火で御覧になった顔であった。 とっさの見間違いかと、まだ疑われたが、右近と名乗った若い女房もいる。 女主人は、腕を枕にして、燈火を眺めている目もとや、髪のこぼれかかっている額つき、たいそう上品に優美で、対の御方にとてもよく似ていた。 |
灯を明るくともして縫い物をしている女が三、四人いた。美しい童女は糸を |
【かの火影に見たまひしそれなり】- 二条院で浮舟と一緒にいたのを見た童女。「東屋」巻には「火影」云々の描写はなかった。 【右近と名のりし若き人もあり】- 『新大系』は「あの時、右近と名のったのは、中君づきの侍女。ここは浮舟づき。同名の別人か、匂宮の思い違い」と注す。 【君は】- 浮舟。 【対の御方に】- 中君。 |
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2.3.3 | この右近が、衣類を折り畳もうとして、 |
宮のお見つけになった右近は服地に折り目をつけるために身をかがめながら、 |
【物折るとて】- 『完訳』は「裁縫で反物に折り目をつける」と注す。 |
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2.3.4 | 「こうしてお出かけあそばしたら、すぐにはお帰りあそばすわけにはいきませんが、殿は、『今度の司召の間が終わって、朔日ころにはきっといらっしゃる』と、昨日のお使いも申していました。 お手紙には、どのように申し上げなさいましたのでしょうか」 |
「お宅へお帰りになりましたら、早くおもどりになることは容易ではございませんでしょうが、殿様は |
【かくて渡らせたまひなば】- 以下「聞こえさせたまへりけむ」まで、右近の詞。主語は浮舟。物詣での話。 【殿は】- 薫。 【朔日ころには】- 二月の初めころ。 【御文には】- 薫への返書。 |
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2.3.5 | と |
と言うが、返事もせずに、たいそう物思いに沈んでいる様子である。 |
と言っていたが、姫君は返辞もせず物思わしいふうをしている。 |
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2.3.6 | 「来訪の折しも、身を隠していらっしゃるようなのは、困ったことです」 |
「おいでになります時にわざとおはずしになったようになりましてもよろしくございません」 |
【折しも】- 以下「見苦しさ」まで、右近の詞。薫が来訪した折に、の意。 |
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2.3.7 | と言うと、向かいにいた女房が、 |
と、また言うと、それと向き合っている女が、 |
【向ひたる人】- 後文によれば侍従。 |
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2.3.8 | 「それは、かくなむ かくて |
「それでは、このようにお出かけになったと、お手紙を差し上げなさるのがよいでしょう。 軽々しく、どうして、何も言わずに、お隠れあそばせましょう。 ご参詣の後は、そのままこちらにお帰りあそばしませ。 こうして心細いようですが、思い通りに気楽なお暮らしに馴れて、かえって本邸の方が旅心地がするのではないでしょうか」 |
「そう申し上げてお置きになりませんではいけませんね。お |
【それは、かくなむ渡りぬると】- 以下「旅心地すべしや」まで、侍従の詞。 【御消息】- 薫への手紙。 【いかでかは】- 「はひ隠れさせたまはむ」に係る。反語表現。 【御物詣で】- 後文によれば石山詣で。 【やがて渡りおはしましねかし】- この宇治の山荘に。京の母の邸にではなく、の意。 【なかなか旅心地すべしや】- 京の母の邸はかえって他人の家の心地。 |
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2.3.9 | など またあるは、 |
などと言う。 また他の女房は、 |
とも言う。また一人が、 |
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2.3.10 | 「なほ、しばし、かくて このおとどの、いと |
「やはり、しばらくの間、こうしてお待ち申し上げなさるのが、落ち着いていて体裁がよいでしょう。 京へなどとお迎え申されてから後、ゆっくりとして母君にもお会い申されませ。 あの乳母が、とてもせっかちでいられて、急にこのような話を申し上げなさるのでしょうよ。 昔も今も、我慢してのんびりとしている人が、しまいには幸福になるということです」 |
「まあ当分はお動きにならずに、殿様の思召しのままここでごしんぼうをしていらっしゃるのがおおようで、お品のいいことではないでしょうか。京へお呼び寄せになりましたあとで穏やかに親御様にもお |
【なほ、しばし、かくて】- 以下「幸ひ見果てたまふなれ」まで、女房の詞。 【待ちきこえさせたまはむぞ】- 浮舟が薫を。 【迎へたてまつらせたまへらむ】- 薫が浮舟を。 【このおとどの】- 乳母をさす。 【にはかにかう聞こえなしたまふ】- 参詣を母君に勧めたこと。 |
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2.3.11 | など |
などと言うようである。 右近は、 |
こんなことも言っている。 |
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2.3.12 | 「どうして、この乳母をお止め申さずになってしまったのでしょう。 年老いた人は、やっかいな性質があるものですから」 |
「どうしてままをここまで来させたのでしょう。あちらへ置いて来るべき人をね。老人というものはよけいなことまでも考え出すものだのに」 |
【などて、この乳母を】- 以下「あるにこそ」まで、右近の詞。『集成』は「「まま」は、乳母を親しみ呼ぶ語」と注す。 【とどめたてまつらずなりにけむ】- 上京を。後悔する気持ち。 |
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2.3.13 | と憎むのは、乳母のような女房を悪く言うようである。 「なるほど、憎らしい女房がいた」とお思い出しになるのも、夢のような気がする。 側で聞いていられないほど、うちとけた話をして、 |
右近のにがにがしそうにこう言うのは、乳母というような人の悪口かとも聞こえた。そうだ、差し出者がいたのだったとお思い出しになる宮は夢を見ている気があそばされた。女たちは聞く者が恥ずかしくなるようなことまで言い合って、 |
【乳母やうの人をそしるなめり】- 「なめり」は匂宮の推測。 【げに、憎き者ありかし」と思し出づるも】- 「げに」は匂宮の納得の気持ち。二条院で浮舟を見つけた折のことを想起。 |
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2.3.14 | 「 かかるさかしら |
「宮の上は、とてもめでたくご幸福でいらっしゃる。 右の大殿が、あれほど素晴らしいご威勢で、仰々しく大騒ぎなさるようだが、若君がお生まれになって後は、この上なくいらっしゃるようです。 このような出しゃばり者がいらっしゃらなくて、お心ものんびりと、賢明に振る舞っていらっしゃることでありましょう」 |
「二条の院の奥様はほんとうに御幸福な方ね。左大臣様は権力にまかせて大騒ぎになるのだけれど、若様がお生まれになってからは |
【宮の上こそ】- 以下「こそはあめれ」まで、右近の詞。 【右の大殿】- 夕霧。 【かかるさかしら人どもの】- 乳母をさす。 |
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2.3.15 | と |
と言う。 |
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2.3.16 | 「せめて殿さえ、真実愛してくださるお気持ちが変わらなかったら、負けることがありましょうか」 |
「殿様さえ奥様を深くお愛しになれば、こちらもお劣りになるものですか」 |
【殿だに、まめやかに】- 以下「たまふべきことかは」まで、女房の詞。「殿」は薫。 【劣りきこえ】- 浮舟が中君に。 |
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2.3.17 | と言うのを、女君は、少し起き上がって、 |
こんなことの言われた時、姫君は少し起き上がって、 |
【君、すこし起き上がりて】- 浮舟。 |
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2.3.18 | 「とても聞きにくいこと。 他人であったら、負けまいとも何とも思いましょうが、あのお方のことは口に出してはいけません。 漏れ聞こえるようなことがあったら、申し訳ありません」 |
「醜いことは言わないでね。よその人には劣らない人になりたいとか何とか思っても、女王様のことに私などを引き合いに出して言わないでね。もしあちらへ聞こえることがあれば恥ずかしい」 |
【いと聞きにくきこと】- 以下「かたはらいたからむ」まで、浮舟の詞。 【かの御こと】- 中君の事。 |
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2.3.19 | など |
などと言う。 |
と言った。 |
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第四段 匂宮、薫の声をまねて浮舟の寝所に忍び込む |
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2.4.1 | 「どの程度の親族であろうか。 とてもよく似ている様子だな」と思い比べると、「恥ずかしくなるほどの上品なところは、あの君はとてもこの上ない。 この人はただかわいらしくきめこまやかな顔だちがとても魅力的だ」。 普通程度の、不十分なところを見つけたような場合でさえも、あれほど会いたいとお思い続けてきた人を、その人だと見つけて、そのままお止めになるようなご性分でないので、その上すっかり御覧になったので、「何とかしてこの女を自分のものにしたい」と、心もうわの空におなりになって、依然として見つめていらっしゃると、右近が、 |
どんな血族にあたる人なのであろう、よく似た様子をしているではないかと宮は比べてお思いになるのであった。気品があって |
【何ばかりの】- 以下「けはひかな」まで、匂宮の心中の思い。 【心恥づかしげにて】- 以下「いとをかしき」まで、匂宮の心中の思い。末尾は地の文に流れる。 【かれは--これは】- 「かれ」は中君、「これ」は浮舟をさす。 【さばかりゆかしと思ししめたる人を】- 浮舟をさす。 【これを】- 浮舟。 |
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2.4.2 | 「とても眠い。 昨夜も何となしに夜明かししてしまった。 明朝早くにも、これは縫ってしまおう。 お急ぎあそばしても、お車は日が高くなってから来るでしょう」 |
「眠くなりましたよ。昨晩はとうとう徹夜をしてしまったのですもの、明日早く起きてもこれだけは縫えましょう。どんなに急いでお迎いが京を出て来ましても、八、九時にはなることでしょうから」 |
【いとねぶたし】- 以下「日たけてぞあらむ」まで、右近の詞。 【急がせたまふとも】- 主語は薫。 |
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2.4.3 | と言って、作りかけていた縫物を持って、几帳に懸けたりなどして、うたた寝の状態で寄り臥した。 女君も少し奥に入って臥す。 右近は北面に行って、しばらくして再び来た。 女君の後ろ近くに臥した。 |
と言い、皆も縫いさした物をまとめて |
【君も】- 浮舟。 |
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2.4.4 | 眠たいと思っていたので、とても早く寝入ってしまった様子を御覧になって、他にどうしようもないので、こっそりとこの格子を叩きなさる。 右近が聞きつけて、 |
眠がっていた人たちであったから、皆すぐに寝入った様子を見てお置きになった宮は、そのほかに手段はないことであったから、そっと今まで立っておいでになった前の格子をおたたきになった。右近は聞きつけて、 |
【見たまひて】- 主語は匂宮。 【この格子をたたきたまふ】- 主語は匂宮。 |
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2.4.5 | 「 |
「どなたですか」 |
「だれですか」 |
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2.4.6 | と言う。 咳払いをなさったので、高貴な方の咳払いと気づいて、「殿がいらっしゃったのか」と思って、起きて出た。 |
と言った。咳払いをあそばしただけで貴人らしい |
【声づくりたまへば】- 匂宮が薫の声色を使った。 【殿の】- 薫。 |
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2.4.7 | 「まづ、これ |
「とりあえず、 |
「ともかくもこの戸を早く」 |
【まづ、これ開けよ】- 匂宮の詞。 |
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2.4.8 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
とお言いになると、 |
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2.4.9 | 「変ですわ。 思いがけない時刻でございますこと。 夜はたいそう更けましたものを」 |
「思いがけません時間においでになったものでございますね。もうよほど夜がふけておりましょうのに」 |
【あやしう】- 以下「はべりぬらむものを」まで、右近の返事。 |
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2.4.10 | と |
と言う。 |
右近はこう言った。 |
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2.4.11 | 「どこそこへ外出なさる予定であると、仲信が言ったので、驚いてすぐ出て来て。 まことに困ったことであった。 とりあえず開けなさい」 |
「どこかへ行かれるのだと |
【ものへ渡りたまふべかなりと】- 以下「まづ開けよ」まで、匂宮の詞。 【仲信】- 薫の家司。匂宮は薫を装う。 |
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2.4.12 | とおっしゃる声、たいそうよくお似せになって、ひっそりと言うので、別人とは思いも寄らず、格子を開けた。 |
声を薫によく似せてお使いになり、低く言っておいでになるのであったから、違った人であることなどは思いも寄らずに格子をあけ放した。 |
【かい放つ】- 右近は格子を。 |
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2.4.13 | 「途中で、とてもひどい目に遭ったので、みっともない姿になっている。 燈火を暗くしなさい」 |
「道でひどい災難にあってね、恥ずかしい姿になっている。 |
【道にて】- 以下「火暗うなせ」まで、匂宮の詞。『完訳』は「途中で盗賊にでも出会ったような物言い。見苦しい姿を見せたくないから灯を暗くせよとは、顔を見られたくないための作り事」と注す。 |
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2.4.14 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
とお言いになったので、 |
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2.4.15 | 「あな、いみじ」 |
「まあ、大変」 |
【あな、いみじ】- 右近の詞。 |
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2.4.16 | とあわてまどひて、 |
とあわて騒いで、燈火は隠した。 |
右近はあわてて灯を遠くへやってしまった。 |
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2.4.17 | 「わたしを、他の人には見せるな。 来たからと言って、誰も起こすな」 |
「私を人に見せぬようにしてくれ。私が来たと言って、寝ている人を起こさないように」 |
【我、人に】- 以下「人驚かすな」まで、匂宮の詞。 |
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2.4.18 | と、とてもたくみなお方なので、もともとわずかに似ているお声を、まったくあの方のご様子に似せてお入りになる。 「ひどい目に遭った姿だとおっしゃったが、どのようなお姿なのだろう」とお気の毒で、自分も隠れて拝見する。 |
賢い方はもとから少し似たお声をすっかり薫と聞こえるようにしてものをお言いになり、寝室へおはいりになった。ひどい災難とお言いになったのはどんな姿にされておしまいになったのであろうと右近は同情して、自身も隠れるようにしながらのぞいて見た。 |
【いとらうらうじき御心にて】- 『完訳』は「実に知恵のまわるお方。嘘つきを皮肉る、語り手の評言」と注す。 【ゆゆしきことのさま】- 以下「御姿ならむ」まで、右近の心中の思い。 |
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2.4.19 | とてもほっそりとなよなよと装束をお召しになって、香の芳しいことも劣らない。 近くによって、お召物を脱ぎ、馴れた顔でお臥せりになったので、 |
繊細ななよなよとした姿は持っておいでになったし、かんばしいにおいも劣っておいでにならなかった。 |
【いと細やかに】- 匂宮の姿態。 |
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2.4.20 | 「 |
「いつものご座所に」 |
「そこではあまりに端近でございます。いつものお床へ」 |
【例の御座にこそ】- 右近の詞。 |
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2.4.21 | などと言うが、何もおっしゃらない。 寝具を差し上て、寝ていた女房たちを起こして、少し下がって皆眠った。 お供の人などは、いつものように、こちらでは構わない慣例になっているので、 |
などと右近は言ったのであるが、何とも答えはなかった。上へ夜着を掛けて、仮寝をしていた人たちを起こし、皆少し遠くへさがって寝た。薫の従者たちはいつでもすぐに荘園のほうへ行ってしまったので、女房などはあまり顔を知らなんだから、宮のお言葉をそのままに信じて、 |
【ものものたまはず】- 主語は匂宮。 【御衾参りて】- 主語は右近。 【知らぬならひにて】- 『集成』は「薫の家来は、いつも、浮舟方では接待せぬことになっているので。弁の尼のいる廊の方で世話をする習慣なのであろう」と注す。 |
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2.4.22 | 「お志の深い、夜のご訪問ですこと」 |
「深いお志からの御微行でしたわね。 |
【あはれなる、夜の】- 以下「御覧じ知らぬよ」まで、女房の詞。 |
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2.4.23 | 「かかる |
「このようなご様子を、ご存知ないのよ」 |
ひどい目におあいになったりあそばしてお気の毒なんですのに、お姫様は事情をご存じないようですね」 |
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2.4.24 | など、さかしらがる |
などと、利口ぶる女房もいるが、 |
などと賢がっている女もあった。 |
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2.4.25 | 「お静かに。 夜の声は、ささやく声が、かえってうるさいのです」 |
「静かになさいよ。夜は小声の話ほどよけいに目に立つものですよ」 |
【あなかま】- 以下「かしがましき」まで、右近の詞。 |
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2.4.26 | など |
などと言いながら眠った。 |
こんなふうに仲間に注意もされてそのまま寝てしまった。 |
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2.4.27 | 女君は、「違う人だわ」と思うと、びっくりし大変だと思うが、声も出させないようになさる。 とても憚られる所でさえ、理不尽であったお心なので、何ともいいようがない仕儀だ。 初めから別人だと知っていたら、何とかあしらうすべもあったろうが、夢のような気がするので、だんだんと、あの時のつらかった、いく年月もの間を思い続けていた有様をおっしゃるので、その宮だと分かった。 |
姫君は夜の男が薫でないことを知った。あさましさに驚いたが、相手は声も立てさせない。あの二条の院の秋の夕べに人が集まって来た時でさえ、この人と恋を成り立たせねばならぬと狂おしいほどに思召した方であるから、はげしい |
【女君は】- 浮舟。 【あらぬ人なりけり】- 浮舟の心中。薫ではない人だ。 【いとつつましかりし所にてだに】- 二条院。中君の手前。 【ひたぶるにあさまし】- 『完訳』は「何の気がねもない放埒ぶりだ。語り手の評言」と注す。 【いかが】- 『完訳』は「「いかが」の語法やや不審」と注す。 【夢の心地するに】- 浮舟の心地。また下文の匂宮の心地の意としても機能。 【その折のつらかりし】- 匂宮の気持ち。匂宮が周囲の女房から妨げられたこと。 【年月ごろ】- 匂宮が浮舟に迫ったのは昨年の秋八月、現在その翌年の一月下旬。年を越しているので「年ごろ」また「年月ごろ」。 |
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2.4.28 | ますます恥ずかしくなって、あの上の御ことなどを思うと、またどうすることもできないので、限りなく泣く。 宮も、なまじ逢ったのがかえってつらく、たやすく逢えそうにないことをお思いになって、お泣きになる。 |
いよいよ |
【かの上の御ことなど】- 中君。 |
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第五段 翌朝、匂宮、京へ帰らず居座る |
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2.5.1 | ただ |
夜は、どんどん明けて行く。 お供の人が来て咳払いをする。 右近が聞いて参上した。 お出になる気持ちもなく、心からいとしく思われて、再びいらっしゃることも難しいので、「京では捜し求めて大騒ぎしようとも、今日一日だけはこうしていたい。 何事も生きている間だけのことなのだ」。 今すぐにお出になることは、本当に死んでしまいそうにお思いになるので、この右近を呼び寄せて、 |
夜はずんずんと明けていく。お供の人たちが注意を申し上げるように咳払いなどをする。右近がそれを聞いて用をするためにおいでになる所の近くへ来た。宮は別れて出てお行きになるお気持ちにはなれず、どこまでもお心の |
【出でたまはむ心地もなく】- 主語は匂宮。 【京には求め騒がるとも】- 以下「ためこそあれ」あたりまで、匂宮の心中の思い。末尾は地の文に流れる。 【生ける限りのためこそあれ】- 『源氏釈』は「恋死なむ後は何せむ生ける日のためこそ人は見まくほしけれ」(拾遺集恋一、六八五、大伴百世)を指摘。 【まことに死ぬべく思さるれば】- 『新釈』は「恋しとは誰が名づけけむ事ならむ死ぬとぞ唯にいふべかりけり」(古今集恋四、六九八、清原深養父)を指摘。 |
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2.5.2 | 「まことに無分別と思われようが、今日はとても出て行くことができそうにない。 男たちは、この近辺の近い所に、適当に隠し控させなさい。 時方は、京へ行って、『山寺に人目を忍んで行っている』とつじつまが合うように、返事などさせよ」 |
「思いやりのないことと思うだろうが、今日は帰りたくない。従者らはここに近いどこかでよく人目を避けて時間を送るように。それから |
【いと心地なしと】- 以下「いらへなどせよ」まで、匂宮の詞。 【時方は】- 匂宮の乳母子。 【山寺に忍びてなむ】- 虚偽の口実。 |
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2.5.3 | とおっしゃるので、とても驚きあきれて、気づかなかった昨夜の過失を思うと、気も動転してしまいそうなのを、落ち着けて、 |
と仰せられた。右近はあさましさにあきれて、何の気なしに大将であると思い、戸をあけてお入れした昨夜の過失を思うと、気も失うばかりになったが、しいて冷静になろうとした。 |
【いとあさましくあきれて】- 主語は右近。初めて匂宮であったことを知る。 |
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2.5.4 | 「今となっては、どのようにあたふた騒いだところで、効ないし、また失礼である。 困った時にも、たいそう深く愛してくださったのも、このような逃れがたかったご運命なのであろう。 誰がしたということでない」 |
もう今になってはどんなに騒ぎ立てても |
【今は、よろづに】- 以下「人のしたるわざかは」まで、右近の心中の思い。 【かう逃れざりける御宿世にこそ】- 『完訳』は「人の力を超えた宿世と諦め、自らの責任を回避しようとする」と注す。 |
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2.5.5 | と |
と思い慰めて、 |
とみずから慰めて、 |
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2.5.6 | 「 かう なほ、 |
「今日、お迎えにとございましたが、どのようにあそばす御ことでしょうか。 このように逃れることがおできになれないご運命は、まことに申し上げようもございません。 あいにく日が悪うございます。 やはり、今日はお帰りあそばして、ご愛情がございましたら、改めてごゆっくりと」 |
「今日は御自宅のほうからお迎いの車がまいることになっておりますのに、姫君はどうあそばすおつもりでいらっしゃるのでございましょう。こういたしました運命の現われにつきましては、私らが何を申すことができましょう。ただこの場合がよろしくございません。今日はお帰りあそばしまして、お志がございましたなら、また別なよい日をお待ちくださいまし」 |
【今日、御迎へにとはべりしを】- 以下「のどかにも」まで、右近の詞。浮舟の母が京から迎えに来る予定であった。 |
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2.5.7 | と申し上げる。 「生意気なことを言うな」とお思いになって、 |
と申し上げた。世なれたふうに言うものであると思召して、 |
【およすけても言ふかな】- 匂宮の感想。 |
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2.5.8 | 「わたしは、いく月も物思いしたので、すっかり呆然としてしまって、人が非難するのも注意することも分別できず、一途に思いつめているのだ。 少しでも身の上を憚るような人が、このような出歩きは思い立ちましょうか。 お返事には、『今日は物忌です』などと言いなさい。 人に知られてはならないことを、誰のためにも思いなさい。 他のことは問題でない」 |
「自分は長い物思いに頭がぼけているから、人がどんな非難をしてもかまわぬ気になっている。どうしても別れて帰れないのだ。少しでも自重心が残っていれば自分のような身分の者が、これはできることと思うか。どこかへ行く迎えの車が来た時には急に謹慎日になったとでも言えばいいではないか。秘密はだれのためにも |
【我は、月ごろ思ひつるに】- 明融臨模本は「思つるに」とある。『完本』は諸本に従って「もの思ひつるに」と「もの」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「思ひつるに」とする。以下「異事はかひなし」まで、匂宮の詞。 【異事はかひなし】- 『集成』は「ほかの事は一切無用だ」。『完訳』は「何があっても退かぬ、の気持」と注す。 |
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2.5.9 | とおっしゃって、この人が、世にも稀なくらいかわいく思われなさるままに、どのような非難もお忘れになったのであろう。 |
こうお言いになり。この相手から覚えさせられる愛着の強さをみずからお悟りになる宮は、非難も正義も皆お忘れになった。 |
【この人の】- 浮舟。 【忘れたまひぬべし】- 『孟津抄』は「地也」と指摘。いわゆる草子地、の意。 |
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第六段 右近、匂宮と浮舟の密事を隠蔽す |
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2.6.1 | 右近が出て来て、この声を出した人に、 |
右近がお帰りを促している人らのほうへ出て行き、宮はこうこうお言いになると言い、 |
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2.6.2 | 「かくなむのたまはするを、なほ、いとかたはならむ、とを あさましうめづらかなる いかで、かう なめげなることを |
「これこれとおっしゃっていますが、やはり、とても見苦しいなさりようです、と申し上げてください。 驚くほど目にもあまるようなお振る舞いは、どんなにお思いになっても、あなた方お供の人びとの考えでどうにでもなりましょう。 どうして、こう無分別にも宮をお連れ申し上げなさったのですか。 無礼な行ないを致す山賊などが途中で現れましたら、どうなりましょう」 |
「そんなことはおよろしくないことですということをあなたがたからまた申し上げてみてください。こうした無理なことを最初仰せになりました時に、あなたがたがそれをお |
【かくなむのたまはするを】- 以下「いかならまし」まで、右近の詞。 【御供人どもの御心にこそあらめ】- 供人たちの考えしだいだ、の意。「御心」は相手供人を前にした敬語。 【率てたてまつりたまふこそ】- 明融臨模本は「ゐてたてまつり給こそ」とある。『完本』は諸本に従って「たまひしぞ」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「たまふこそ」とする。 |
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2.6.3 | と言う。 内記は、「なるほど、とてもやっかいなことであるなあ」と思って立っている。 |
とたしなめた。内記は予想したとおりに事態がめんどうになったと思いながら立っていた。 |
【げに、いとわづらはしくもあるかな】- 時方の心中。 |
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2.6.4 | 「時方とおっしゃる方は、どなたですか。 これこれとおっしゃっています」 |
「時方とおっしゃるのはどなたですか」 |
【時方と仰せらるるは、誰れにか。さなむ】- 右近の詞。「さなむ」の下に「仰せらる」などの語句が省略。匂宮の詞を伝える。 |
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2.6.5 | と |
と伝える。 笑って、 |
「私です」大内記時方は笑いながら、 |
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2.6.6 | 「お叱りなさることが恐ろしいので、ご命令がなくても逃げ出しましょう。 本当のところを申し上げますと、並々でないご愛情を拝見しますと、皆が皆、身を捨てて参ったのです。 よいよい、宿直人も、皆起きたようです」 |
「ひどいお |
【勘へたまふことどもの】- 以下「皆起きぬなり」まで、大内記時方の詞。「勘へ」の主語は右近。 【身を捨ててなむ】- 係助詞「なむ」の下に「参りつる」などの語句が省略。 |
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2.6.7 | とて |
と言って急いで出て行った。 |
と言い、すぐに去って行った。 |
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2.6.8 | 右近は、「人に知られないようにするには、どうだましたらよいものか」と困りきっている。 女房たちが起きたので、 |
右近は宮がとどまっておいでになるのをどう取り繕えばいいだろうと苦しんだ。起き出して来た女房たちに、 |
【人びと起きぬるに】- 女房たち。 |
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2.6.9 | 「殿は、ある理由があって、ひどくこっそりといらっしゃっています様子を拝見しますと、道中で大変なことがあったようです。 お召物などを、夜になってこっそりと持参するように、お命じになっています」 |
「殿様は |
【殿は、さるやうありて】- 以下「仰せられつる」まで、右近の詞。「殿」は薫。 |
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2.6.10 | など |
などと言う。 御達は、 |
などと言った。女房の一人が、 |
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2.6.11 | 「まあ、気味が悪い。 木幡山は、とても恐ろしいという山ですよ。 いつものように、お先も払わせなさらず、身を簡略にしていらっしゃったので、まあ、大変なこと」 |
「まあこわいこと。 |
【あな、むくつけや】- 以下「あないみじや」まで、御達の詞。 |
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2.6.12 | と |
と言うので、 |
と言うのを、 |
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2.6.13 | 「お静かに、お静かに。 下衆どもが、少しでも聞きつけたら、とても大変なことになりましょう」 |
「まあ静かにお言いなさいよ。ここの下の侍衆が聞けば、それからまたどんなことを起こすかしれませんから」 |
【あなかま、あなかま】- 以下「いといみじからむ」まで、右近の詞。 |
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2.6.14 | と言っているが、嘘をつくのが恐ろしい。 具合悪く、殿のお使いが来た時にはどのように言おうと、 |
こうまた言う右近の心の中では |
【殿の御使の】- 薫の使者。 |
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2.6.15 | 「初瀬の観音様、今日一日がご無事で暮らせますように」 |
【初瀬の観音、今日事なくて暮らしたまへ】- 『集成』は「今日一日を無事におすませ下さい」。『完訳』は「「暮らさせたまへ」の意か」「今日一日無事に過させてくださいまし」と注す。 |
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2.6.16 | と、 |
と、大願を立てるのであった。 |
と大願を立てた。 |
【大願をぞ立てける】- 『完訳』は「語り手の、揶揄する気持」と注す。 |
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2.6.17 | 石山寺に今日参詣させようとして、母君が迎えに来るのであった。 この邸の女房たちも皆精進潔斎をし、身を清めていたが、 |
石山寺へ |
【石山に今日--迎ふるなりけり】- 『細流抄』は「訓釈していへり」と指摘。語り手の説明的叙述。 |
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2.6.18 | 「それでは、今日は、お出かけあそばすわけにはゆかないでしょう。 とても残念なこと」 |
「では今日はおいでになれなくなったのですわね。残念なことですね」 |
【さらば、今日は】- 以下「いと口惜しき」まで、女房の詞。 |
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2.6.19 | と |
と言う。 |
とも言っていた。 |
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第七段 右近、浮舟の母の使者の迎えを断わる |
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2.7.1 | 日が高くなったので、格子などを上げて、右近は近くにお仕えしていた。 母屋の簾はみな下ろして、「物忌」などと書かせて貼っておいた。 母君もご自身でお出でになるかも知れないと思って、「夢見が悪かったので」と理由をつけるのであった。 御手水などを差し上げる様子は、いつものようであるが、介添えを不満にお思いになって、 |
八時ごろになって格子などを上げ、右近が姫君の居間の用を一人で勤めた。その室の |
【母君もやみづからおはする】- 右近の心中。 【夢見騒がしかりつ】- 右近の詞。周囲の人に言った。 【まかなひめざましう思されて】- 主語は匂宮。右近一人の介添えを不満に思う。 |
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2.7.2 | 「あなたが先にお洗いあそばしたら」 |
「あなたがお洗いになったあとの水で私は洗おう。こちらのは使いたくない」 |
【そこに洗はせたまはば】- 匂宮の詞。「そこ」は浮舟をさす。『集成』は「あなたがお洗いになったら(そのあとで私が)」。『完訳』は「あなたが先に、と譲る。その心やさしさが、浮舟を感動させる」と注す。 |
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2.7.3 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 女は、たいそう体裁よく奥ゆかしい人を見慣れていたので、束の間も逢わないでいると死んでしまいそうだと恋い焦がれている宮を、「ご愛情が深いとは、このような方を言うのであるろうか」と思い知られるにつけても、「不思議な運命だわ。 皆が、噂をきいたら、どのようにお思いになるだろう」と、まずはあの宮の上のお気持ちを思い出し申し上げるが、 |
とお言いになった。今まで感情をおさえて冷静なふうを作る薫に |
【女】- 『完訳』は「恋の場面を強調する呼称。以下、この呼称の多出する点に注意」と注す。 【いとさまよう心にくき人を】- 薫をいう。『集成』は「一分の隙もなく奥ゆかしい人」。『完訳』は「好ましく奥ゆかしい人」と訳す。 【見ざらむに】- 明融臨模本は「見さらむ(む+は)に(に$)」とある。すなわち「は」を補訂し、「に」をミセケチにする。『集成』『完本』は諸本と底本の訂正前本文に従って「見ざらむに」と校訂する。『新大系』は底本の訂正に従って「見ざらむは」とする。 【思し焦がるる人】- 匂宮。 【心ざし深しとは、かかるを言ふにやあらむ】- 浮舟の心中の思い。 【あやしかりける身かな】- 以下「いかに思さむ」まで、浮舟の心中の思い。 【いかに思さむ】- 主語は中君、薫、母親たち。 【まづかの上の御心を】- 『完訳』は「真っ先に中の君を思い起す点に注意。匂宮の妻であり、自分を世話してくれた義理もある」と注す。 |
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2.7.4 | 「素性を知らないので、返す返すもとても情けない。 やはり、ありのままにおっしゃってください。 ひどく身分の低い人だと言っても、ますますいとおしく思われましょう」 |
「あなたがだれの子であるかを私の知らないことは返す返すも遺憾だ。ねえ、ありのままに言っておしまいなさいよ。悪い家であってもそんなことで私の愛が動揺するものでも何でもない。いよいよ愛するようになるでしょう」 |
【知らぬを】- 以下「あはれなるべき」まで、匂宮の詞。浮舟の素姓を知らないので。なお、『集成』は「返す返す」から匂宮の詞とする。 |
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2.7.5 | と、無理やりにお尋ねになるが、そのお返事は全然しない。 他のことでは、とてもかわいらしく親しみやすい様子にお返事申し上げたりなどして、言うままになるのを、とてもこの上なくかわいらしいとばかり御覧になる。 |
とお言いになり、しいて |
【わりなう問ひたまへど、その御いらへは絶えてせず】- 『完訳』は「光源氏と夕顔との恋に類似」と注す。 |
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2.7.6 | 日が高くなったころに、迎えの人が来た。 車二台、乗馬の人びとが、いつものように、荒々しい者が七、八人。 男連中が大勢、例によって、下品な感じで、ぺちゃくちゃしゃべりながら入って来たので、女房たちは体裁悪がりながら、 |
九時ごろに石山行きの迎えの人たちが山荘へ着いた。車を二台持って来たのであって、例の東国の荒武者が、七、八人、多くの |
【迎への人】- 浮舟の母からの迎え。 |
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2.7.7 | 「あなたに |
「あちらに隠れなさい」 |
見えぬ所へはいっているよう |
【あなたに隠れよ】- 迎えの人々に対して言った詞。 |
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2.7.8 | と言わせたりする。 右近は、「どうしよう。 殿がおいでになっている、と言った時、京にはそれほどの身分の方がいらっしゃる、いらっしゃらないというのは、自然と知られていて、隠せないことかも知れない」と思って、この女房たちにも、特に相談せずに、返事を書く。 |
に言ってやりなどしていた。右近はどうすればいいことであろう、殿様が来ておいでになると言っても、あれほどの大官が京から離れていることはだれの耳にもはいっていることであろうからと思い、他の女房と相談することもせず手紙を |
【言はせなどす】- 『集成』は「女房が直接言うのでなく、下働きの者を通じて伝えさせるので、こう言う」と注す。 【いかにせむ】- 以下「こそあれ」まで、右近の心中の思い。 【殿なむおはする】- 「殿」は薫をさす。 【おはし、おはせず】- いらっしゃる、いらっしゃらないは、の意。 |
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2.7.9 | 「 |
「昨夜から穢れなさって、とても残念なこととお嘆きになっていらっしゃったのですが、昨夜、悪い夢を御覧あそばしたので、今日一日はお慎みなさいと言って、物忌をいたしております。 返す返すも、残念で、悪夢が邪魔しているように拝見いたしております」 |
昨夜からお |
【昨夜より穢れさせたまひて】- 以下「見たてまつりはべる」まで、右近の手紙。「穢れ」は、生理の意。血を穢れとして忌んだ。 |
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2.7.10 | と |
と書いて、人びとに食事をさせてやった。 尼君にも、 |
これが済んでから右近は常陸家の人々に食事をさせたりした。弁の尼のほうにも |
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2.7.11 | 「今日は物忌で、お出かけなさいません」 |
にわかに |
【今日は物忌にて、渡りたまはぬ】- 右近の詞。浮舟の母君への伝言。 |
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2.7.12 | と |
と言わせた。 |
ということを言ってやった。 |
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第八段 匂宮と浮舟、一日仲睦まじく過ごす |
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2.8.1 | いつもは時間のたつのも長く感じられ、霞んでいる山際を眺めながら物思いに耽っていたのに、日の暮れて行くのが侘しいとばかり思い焦がれていらっしゃる方に惹かれ申して、まことにあっけなく暮れてしまった。 誰に妨げられることのない長い春の日を、いくら見てもいて見飽きず、どこがと思われる欠点もなく、愛嬌があって、慕わしく魅力的である。 |
平生はつれづれで退屈で、かすんだ山ぎわの空ばかりをながめて時のたつのをもどかしがる姫君であるが、時のたち日の暮れていくのを真底からわびしがっておいでになる方のお気持ちが反映して、はかなく日の暮れてしまった気もした。ただ二人きりでおいでになって、春の一日の間見ても飽かぬ恋人を宮はながめてお暮らしになったのである。欠点と思われるところはどこにもない |
【思し焦らるる人】- 匂宮。 【見れども見れども飽かず】- 『湖月抄』は「春霞たなびく山の桜花見れどもあかぬ君にもあるかな」(古今集恋四、六八四、紀友則)を引歌として指摘。 |
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2.8.2 | その実は、 あの対の御方には見劣りがするのである。大殿の姫君の女盛りで美しくいらっしゃる方に比べたら、お話にもならないほどの女なのに、二人といないと思っていらっしゃる時なので、「こんなによい女は他に |
そうは言っても二条の院の女王には劣っているのである。まして |
【さるは、かの対の御方には似劣りなり】- 明融臨模本は「にをとりなり」とある。『完本』は諸本と底本の訂正前本文に従って「劣りたり」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「似劣りなり」とする。『全集』は「語り手の言葉。恋に盲いた匂宮の心に即した叙述をひるがえし、その主観的偏向を読者に気づかせる筆づかい」。『完訳』は「前述から翻った語り手の評言」と注す。 【大殿の君の盛りに匂ひたまへるあたり】- 夕霧の娘六の君。匂宮の正室。 【こよなかるべきほどの人を】- 『集成』は「お話にもならない人なのに」。『完訳』は「比べられぬほど浮舟は劣るとする」と注す。 |
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2.8.3 | 女はまた一方、大将殿を、とても美しそうで他にこのような方がいるだろうかと思っていたが、「情愛こまやかで輝くような美しさは、この上なくいらっしゃるなあ」と思う。 |
姫君はまた |
【いときよげに、またかかる人あらむや】- 浮舟の薫に対する感想。 【こまやかに】- 以下「おはしけり」まで、浮舟の匂宮に対する感想。「おはしけり」の「けり」は詠嘆の意。 |
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2.8.4 | 硯を引き寄せて、手習などをなさる。 たいそう美しそうに書き遊んで、絵などを上手にたくさんお描きになるので、若い女心には、愛情も移ることであろう。 |
【手習などしたまふ】- 主語は匂宮。 【若き心地には、思ひも移りぬべし】- 『岷江入楚』は「草子の地なり」と指摘。『完訳』は「浮舟は二十二歳」と注す。十分な成人である。 |
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2.8.5 | 「思うにまかせず、お逢いになれない時は、この絵を御覧なさい」 |
「逢いに来たくても私の来られない間はこれを見ていらっしゃいよ」 |
【心より外に】- 以下「見たまへよ」まで、匂宮の詞。 |
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2.8.6 | とて、いとをかしげなる |
と言って、とても美しそうな男と女が、一緒に添い臥している絵を描きなさって、 |
とお言いになり、美しい男と女のいっしょにいる絵をお |
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2.8.7 | 「いつもこうしていたいですね」 |
「いつもこうしていたい」 |
【常にかくてあらばや】- 匂宮の詞。 |
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2.8.8 | などとおっしゃるのにも、涙が落ちた。 |
とお言いになると同時に涙をおこぼしになった。 |
【涙落ちぬ】- 『集成』は「匂宮は」。『完訳』は「女は涙がこぼれた」と注す。 |
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2.8.9 | 「末長い仲を約束してもやはり悲しいのは ただ明日を知らない命であるよ |
「長き世をたのめてもなほ悲しきは ただ明日知らぬ命なりけり |
【長き世を頼めてもなほ悲しきは--ただ明日知らぬ命なりけり】- 匂宮から浮舟への贈歌。 |
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2.8.10 | まことにこのように思うのは、縁起でもないことだ。 思いのままに訪ねることがまったくできず、万策めぐらすうちに、ほんとうに死んでしまいそうに思われる。 つらかったご様子を、かえってどうして探し出したりしたのだろうか」 |
こんなにまであなたが恋しいことから前途が不安に思われてなりませんよ。意志のとおりの行動ができないで、どうして来ようかと苦心を重ねる間に死んでしまいそうな気がします。あの冷淡だったあなたをそのままにしておかずに、どうして捜し出して再会を遂げたのだろう、かえって苦しくなるばかりだったのに」 |
【いとかう思ふこそ】- 以下「尋ね出でけむ」まで、歌に続けた匂宮の詞。 |
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2.8.11 | などのたまふ。 |
などとおっしゃる。 女は、濡らしていらっしゃる筆を取って、 |
女は宮が墨をつけてお渡しになった筆で、 |
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2.8.12 | 「心変わりなど嘆いたりしないでしょう 命だけが定めないこの世と思うのでしたら」 |
心をば歎かざらまし命のみ 定めなき世と思はましかば |
【心をば嘆かざらまし命のみ--定めなき世と思はましかば】- 浮舟の返歌。「命」「世」の語句を受けて返す。『完訳』は「「--ましかば--まし」の反実仮想の構文で、倒置法。命の移ろいやすいだけの世だとしたら、として、宮の不訪の言い訳を恨む歌」と注す。 |
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2.8.13 | とあるを、「 |
とあるのを、「心変わりするのを恨めしく思うようだ」と御覧になるにつけても、まことにかわいらしい。 |
と書いた。自分の恋の変わることを恐れる心があるらしいと、宮はこれを御覧になっていよいよ可憐にお思われになった。 |
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2.8.14 | 「どのような人の心変わりを見てなのか」 |
「どんな人の変わりやすかったのに懲りたのですか」 |
【いかなる人の心変はりを見ならひて】- 匂宮の詞。暗に薫をさして言う。 |
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2.8.15 | など、ほほ |
などと、にっこりして、大将がここに連れて来なさった当時のことを、繰り返し知りたくなって、お尋ねになるのを、つらく思って、 |
などとほほえんでお言いになり、 |
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2.8.16 | 「申し上げられませんことを、このようにお尋ねになるとは」 |
「私の申せませんことをなぜそんなにしつこくお |
【え言はぬことを、かうのたまふこそ】- 浮舟の詞。 |
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2.8.17 | と、恨んでいる様子も、若々しい。 自然とそれは聞き出そう、とお思いになる一方で、言わせたく思うのも困ったことだ。 |
と恨みを言うのも若々しく見えた。そのうちわかることであろうと思召しながら、直接今この人に言わせて見たいお気持ちになっておいでになるのであった。 |
【言はせまほしきぞわりなきや】- 『休聞抄』は「双」と指摘。『集成』は「本人の口から言わせたいとは、困ったものです。匂宮の蕩児ぶりをからかい気味に言う草子地」。『完訳』は「語り手の評言。無理強いをする匂宮の好色ぶりを強調」と注す。 |
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第九段 翌朝、匂宮、京へ帰る |
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2.9.1 | 夜になって、京へ遣わした大夫が帰参して、右近に会った。 |
夜になってから京へいったんお帰しになった |
【大夫参りて】- 大夫時方。前に「(六位)蔵人よりかうぶり得たる」と五位になった大内記時方である。 |
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2.9.2 | 「 |
「后の宮からもご使者が参って、右の大殿もご不満を申されて、『誰にも知らせあそばさぬお忍び歩きは、まことに軽々しく、無礼な行為に遭うこともあるのを、総じて、帝などがお耳にあそばすことも、わが身にとってもまことにつらい』とひどくおっしゃっていました。 東山に聖僧にお会に行ったと、皆には申しておきました」 |
「 |
【后の宮よりも】- 以下「ものしはべりつる」まで、時方の詞。 |
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2.9.3 | など |
などと話して、 |
こう宮へ取り次がせることを述べたあとで、 |
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2.9.4 | 「女というものは罪深くいらっしゃるものです。 何でもない家来までうろうろさせなさって、嘘までつかせなさるよ」 |
「女の方は罪の深いものですね。私のようなきまじめな者さえその圏内へお引き入れになって作り事までお言わせになりますからね」 |
【女こそ】- 以下「せさせたまふよ」まで、引き続き時方の詞。 【ものはあれ】- 明融臨模本は「もの(の+に)はあれ」とある。すなわち「に」を補訂する。『集成』『完本』は諸本と底本の訂正前本文に従って「ものは」と校訂する。『新大系』は底本の補入に従って「ものには」と校訂する。 |
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2.9.5 | と |
と言うと、 |
と時方は右近へ言った。 |
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2.9.6 | 「 まことに、いとあやしき かねてかうおはしますべしと |
「聖と呼んでくださったのは、とても結構な。 あなた個人の嘘をついた罪も、その功徳で帳消しなさりましょう。 ほんとうに、とても困ったご性質で、おっしゃるとおり、いったいどうしてそのような癖がおつきになったのでしょう。 前々からこのようにいらっしゃると聞いておりましたら、とても恐れ多いことですから、うまくお取り計らい申し上げましたでしょうに。 無分別なご外出ですこと」 |
「上人にしてお置きになったのはよろしゅうございましたわね、あなたの |
【聖の名をさへ】- 以下「御ありきにこそは」まで、右近の詞。『完訳』は「浮舟を「聖」とまで読んでくれたとは上出来、とからかう」と注す。 【私の罪も】- 『集成』は「ご家来の嘘つきの罪。仏教では、殺生、偸盗、邪淫、妄語、飲酒を五悪とする。ここでは軽口」と注す。 【それにて滅ぼしたまふらむ】- 『完訳』は「時方が嘘をついた罪障も、浮舟を聖扱いした功徳で消えよう」と注す。 【あやしき御心の】- 匂宮の性分。 |
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2.9.7 | と、 |
と、お困り申す。 |
【扱ひきこゆ】- 『集成』は「とやかく口出し申し上げる」。『完訳』は「お相手申している」と訳す。 |
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2.9.8 | 帰参して、「これこれです」と申し上げると、「なるほど、どんなに騒いでいるだろう」と、ご想像になって、 |
右近は礼儀としての好意を表して言った。そして居間のほうへ行き、聞いたとおりを宮へ申し上げた。中宮の御心配あそばされること、左大臣の言葉も道理にお思われになり、姫君へ、 |
【参りて、「さなむ」とまねびきこゆれば】- 右近が匂宮のもとに参上して時方が言ったことをそのまま、の意。 【げに、いかならむ】- 匂宮の心中。都ではどんなに騒いでいるだろう、の意。 |
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2.9.9 | 「窮屈な身分はつらいものだ。 軽い身分の殿上人などで、しばらくいたいものだ。 どうしたらよいだろうか。 このように慎むべき外聞も、構ってはいられない。 |
「私は窮屈そのもののような身の上がわびしくてならない。軽い殿上役人級の地位にしばらく置いてほしい。これからどうすればいいのでしょう。このうるさいことをはばかって出て来ないでおられる私とは思われない。 |
【所狭き身こそ】- 以下「率て離れたてまつらむ」まで、匂宮の詞。 【わびしけれ】- 明融臨模本は「わるしけれ」とある。『集成』『完本』『新大系』は諸本に従って「わびしけれ」と校訂する。「る」(留)は「ひ」(日)からの誤写であろう。 |
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2.9.10 | 大将もどのように思うであろうか。 親しくて当然と言ってよいながら、不思議なまでに昔から親しい仲で、このような秘密が知られた時は、恥ずかしく、またどんなであろうか。 |
大将も聞けばどんなに感情を害することだろう。濃い |
【さるべきほどとは】- 『集成』は「親しいのは当然の叔父甥の間柄とはいえ」と注す。 |
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2.9.11 | 世のたとえに言うこともあるので、待ち遠しがらせている自分の怠慢を顧みずに、あなたが恨まれなさるだろうとまで心配になります。 まったく誰にも知られぬ状態で、ここではない所にお連れ申し上げよう」 |
それからまた男は身勝手で自己の不誠意は |
【世のたとひに言ふことも】- 『集成』は「以下の文意によれば、「自分のことは棚に上げて他人の行為を咎める」といったこと」と注す。 【わがおこたりをも知らず、怨みられたまはむを】- 「わがおこたり」は薫のそれ。「怨みられ」の「られ」は受身の助動詞、薫から浮舟が恨まれる。「給ふ」は浮舟に対する敬意。 |
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2.9.12 | とおっしゃる。 今日までもここにじっとしていらっしゃるわけにはいかないので、お出になろうとするにも、魂は女の袖の中にお残しになって行くのであろう。 |
とお言いになった。次の日もとどまっておいでになることはできなかったから、帰ろうとあそばすのであったが、魂は恋人の |
【今日さへかくて】- 『完訳』は「今日で三日目になる」と注す。 【袖の中にぞ留めたまひつらむかし】- 『源氏釈』は「あかざりし袖の中にや入りにけむ我が魂のなき心地する」(古今集雑下、九九二、陸奥)を指摘。明融臨模本も付箋で同歌を指摘。三光院「草子地に推してかけり」と指摘。 |
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2.9.13 | すっかり明けない前にと、供人たちは咳払いをしてお促し申す。 妻戸まで一緒に連れてお出でになって、とても外にお出になれない。 |
せめて明るくならぬうちにとお供の人たちは |
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2.9.14 | 「いったいどうしてよいか分からない 先に立つ涙が道を真暗にするので」 |
世に知らず惑ふべきかな 先に立つ涙も道をかきくらしつつ |
【世に知らず惑ふべきかな先に立つ--涙も道をかきくらしつつ】- 匂宮から浮舟への贈歌。「世」「夜」の懸詞。「夜」「惑ふ」「立つ」「道」は縁語。 |
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2.9.15 | 女も、限りなく悲しいと思った。 |
女も限りなく別れを悲しんだ。 |
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2.9.16 | 「涙も狭い袖では抑えかねますので どのように別れを止めることができましょうか」 |
涙をもほどなき いかに別れをとどむべき身ぞ |
【涙をもほどなき袖にせきかねて--いかに別れをとどむべき身ぞ】- 浮舟の返歌。「涙」の語句を受けて返す。 |
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2.9.17 | 風の音もとても荒々しく、霜の深い早朝に、お互いの衣装も冷たくなった気がして、お馬にお乗りになるとき、引き返す気持ちのようで驚くほどつらいが、お供の人々が、「まったく冗談ではない」と思って、ひたすら急がして出発させたので、魂の抜けた思いでお出になった。 |
風の音も荒くなっていた霜の深い暁に、衣服さえも冷やかな触感を与えるとお覚えになり、宮は馬へお乗りになったものの、何度となく引き返したくおなりになったのを、お供の人がしいて冷酷に心を持ちお馬を急がせてまた歩ませたために、お心でもなく山荘を後ろにあそばすことになった。 |
【霜深き暁に、おのが衣々も】- 『源氏釈』は「しののめのほがらほがらと明けゆけばおのが衣ぎぬなるぞ悲しき」(古今集恋三、六三七、読人しらず)を指摘。 【戯れにくし」と思ひて】- 『評釈』は「ありぬやと心見がてらあひ見ねばたはぶれにくきまでぞ恋しき」(古今集俳諧、一〇二五、読人しらず)を指摘。 |
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2.9.18 | この さかしき みぎはの |
この五位の二人が、お馬の口取りとして仕えた。 険しい山道をすっかり越えて、それぞれの馬に乗る。 水際の氷を踏みならす馬の足音までが、心細く何となく悲しい。 以前もこの道だけは、このような山歩きもなさったので、「不思議な宿縁の山里だなあ」とお思いになる。 |
時方ともう一人の五位が馬の口を取っていたのである。けわしい所を越えてから自身らも馬に乗った。宇治川の |
【この五位二人】- 大内記と時方。 【昔もこの道に】- 中君のもとに通ったころ。 【あやしかりける里の契りかな】- 匂宮の感想。 |
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第三章 浮舟と薫の物語 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す |
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第一段 匂宮、二条院に帰邸し、中君を責める |
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3.1.1 | 二条の院にお着きになって、女君がたいそう水臭くお隠しになっていたことが情けないので、気楽な方の部屋でお寝みになったが、眠ることがおできになれず、とても寂しく物思いがまさるので、心弱く対の屋にお渡りになった。 |
二条の院へお帰りになった |
【心やすき方に】- 自分の部屋。寝殿にある。 【対に渡りたまひぬ】- 西の対。中君の部屋。 |
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3.1.2 | 「めづらしくをかしと |
何があったとも知らずに、とても美しそうにしていらっしゃる。 「又となく魅力的だと御覧になった人よりも、またこの人はやはり類稀な様子をしていらっしゃった」と御覧になる一方で、とてもよく似ているのを思い出しなさるにも、胸が塞がる思いがして、ひどく物思いをなさっている様子で、御帳台に入ってお寝みになる。 女君もお連れ申してお入りになって、 |
何も知らぬふうで中の君はきれいな顔をしていた。まれな美女であると御覧になった人よりもこれはまた一段まさった容姿であるとお認めになりながら、夫人の顔からよく似ていた恋人がお思い出されになった |
【めづらしく】- 以下「たまへりかし」まで、匂宮の心中。浮舟と比較。 |
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3.1.3 | 「気分がとても悪い。 どうなるのだろうかと、心細い気がする。 わたしは、どんなにも深く愛していても先立ってしまったら、お身の上はまことすぐに変わってしまうでしょうね。 人の思いは、きっと通るものですからね」 |
「私は |
【心地こそいと悪しけれ】- 以下「かなふなれば」まで、匂宮の詞。 【いみじくあはれと見置いたてまつるとも】- あなた中君を。 【御ありさまはいととく変はりなむかし】- 『完訳』は「薫と結婚するかと、いやみに言う」と注す。 |
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3.1.4 | とおっしゃる。 「ひどいことを、真面目になっておっしゃるわ」と思って、 |
とお言いになった。こんな奇怪なことを至極まじめにお言いになるではないかと中の君は思い、 |
【けしからぬことをも、まめやかにさへのたまふかな】- 中君の心中の思い。 |
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3.1.5 | 「このように聞きずらいことが漏れ聞こえたら、どのように申し上げたのかと、あちらもお考えになりましょうことが、たまりません。 不運の身には、いい加減な冗談もとてもつらいので」 |
「こうした醜い疑いを持っておいでになることを大将がお聞きになれば、何か中傷をしたかと私の思われますのがあさましゅうございます。薄幸な私はただいじめるために言っていらっしゃることでも重大なことのように苦しみます」 |
【かう聞きにくきことの】- 以下「いと苦しく」まで、中君の詞。 【漏りて聞こえたらば】- 薫の耳に。 【人も】- 薫。 |
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3.1.6 | とて、 |
と言って、横をお向きになった。 宮も、真面目になって、 |
と言って、夫人はあちらへ顔を向けた。宮も真剣なふうにおなりになって、 |
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3.1.7 | 「ほんとうにつらいとお思い申し上げることがあるのは、どのようにお思いになるでしょう。 わたしは、 あなたにとっていい加減な人でしょうか。誰もが、めったにい ない人だなどと、言い立てるくらいです。誰か に比べてこの上なく見下しなさるようだ。誰もそのような運命なのだろうと、自然と理解されるが、隔てなさる |
「いじめるためなどでなく、真底からあなたを恨んでいることが私にあったらどうしますか。私はあなたのために決して薄情な |
【まことにつらしと】- 以下「いと心うき」まで、匂宮の詞。 【おろかなる人かは】- 反語表現。いい加減な男ではない、大事な夫だ。 【人も、ありがたしなど】- 世間の人も私のことをめったにいないほどの人だという。 【人にはこよなう】- 薫と比較して。 【誰れもさべきにこそはと】- 明融臨模本は「た(た=ソ)れも」とある。すなわち「た」に「そ」を傍記する。『完本』は諸本と底本の傍記に従って「それも」と校訂する。『集成』『新大系』は本行本文に従って「たれも」と校訂する。 |
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3.1.8 | とおっしゃるにつけても、「宿世が並々でなく、探し出したのだ」と思い出されると、自然と涙ぐまれた。 真剣なお姿を、「お気の毒で、どのようなことをお聞きになったのだろう」とはっとさせられるが、お答え申し上げなさる言葉もない。 |
と言っておいでになりながら、その宿縁が並み並みでなかったから思う人に再会することができたとお思われになることで涙ぐまれたもう宮であった。いつものように |
【宿世のおろかならで、尋ね寄りたるぞかし】- 匂宮の心中の思い。浮舟との宿縁の深さを思う。 【いかやうなることを聞きたまへるならむ】- 中君の心中の思い。 |
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3.1.9 | 「ものはかなきさまにて すずろなる |
「ちょっとした関係で結婚なさったので、どんなことも軽い気持ちで推量なさるのであろう。 縁故もない人を頼みにして、その好意を受け入れたりしたのが過ちで、軽く扱われる身なのだ」とお思い続けるのも、何かと悲しくて、ますます可憐なご様子である。 |
初めがあんなことであった自分は |
【ものはかなきさまにて】- 以下「おぼえ劣る身にこそ」まで、中君の心中の思い。匂宮との結婚が正式な結婚でなかったことを思う。 【思し続くるも】- 主語は中君。 |
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3.1.10 | 「かの ありやなしやを |
「あの人を見つけたことは、しばらくの間はお知らせ申すまい」とお思いなので、「他の事に思わせて恨みなさるのを、ひたすらこの大将の事を真剣になっておっしゃる」とお思いになると、「誰かが嘘を真実のように申し上げたのだろう」などとお思いになる。 事実か否かを確かめない間は、お会い申すのも恥ずかしい。 |
あの恋人を発見したとはなおしばらくの間知らせずにおこうとお思いになるために、ほかのことに思わせて宮は |
【かの人見つけたることは、しばし知らせたてまつらじ】- 匂宮の考え。「かの人」は浮舟、「知らせたてまつらじ」の対象は中君に。 【異ざまに思はせて怨みたまふを】- 主語は匂宮。 【ただこの大将の御ことを】- 以下、中君の心中に即した叙述。 |
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第二段 明石中宮からと薫の見舞い |
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3.2.1 | 内裏から大宮のお手紙が来たので、驚きなさって、やはり釈然としないご様子で、あちらにお渡りになった。 |
御所から中宮のお手紙の使いがまいったと申し上げられた時に、驚いてお起きになった宮は、まだ解けないお気持ちのままで御自身の室のほうへ行っておしまいになった。 |
【内裏より大宮の御文あるに】- 匂宮の母、明石中宮からの手紙。 【なほ心解けぬ御けしきにて】- 『集成』は「まだご機嫌の直らぬご様子で」と注す。 【あなたに渡りたまひぬ】- 西の対から寝殿へ。 |
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3.2.2 | 「昨日の心配したことよ。 ご気分悪くいらっしゃったそうですが、悪くないようでしたら参内なさい。 久しく見えませんこと」 |
お手紙の内容は昨日お逢いになれなかったことで御心配をあそばしたことが言われてあるのであった。気分がよろしければおいでなさい。久しくお逢いしないでいるのですから。 |
【昨日のおぼつかなさを】- 以下「なりにけるを」まで、明石中宮からの手紙。 |
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3.2.3 | などというように申し上げなさったので、大げさに心配していただくのもつらいけれど、ほんとうにご気分も正気でないようで、その日は参内なさらない。 上達部などが、大勢参上なさったが、御簾の中でその日はお過ごしになる。 |
などと言うものであったから、御心配をおさせ申すのは苦しいと思召しながら、実際病気らしい御気分であったためその日は参内されなかった。高官たちが幾人も伺候したが皆 |
【参りたまへど】- 二条院に。 |
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3.2.4 | 夕方、右大将が参上なさった。 |
夕方に源大将が出て来た。 |
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3.2.5 | 「こなたにを」 |
「こちらに」 |
こちらへ |
【こなたにを】- 匂宮の詞。 |
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3.2.6 | とて、うちとけながら |
と言って、寛いだ恰好でお会いなさった。 |
とお言いになって、御自身のそばへこの時はお迎えになった。 |
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3.2.7 | 「ご気分がお悪い、ということでございましたので、宮におかれましてもとてもご心配あそばされています。 どのようなご病気すか」 |
「御病気でいらせられますそうで、中宮様もお逢いあそばせないのを寂しく思召すふうでございました。どんな御症状ですか」 |
【悩ましげに】- 以下「御悩みに」まで、薫の詞。 |
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3.2.8 | とお尋ね申し上げなさる。 お会いしただけで、お胸がどきどき高まってくるので、言葉少なくて、「聖めいているというが、途方もない山伏心だな。 あれほどかわいい女を、そのままにして置いて、何日も何日も待ちわびさせているとは」とお思いになる。 |
と薫はお尋ねした。顔を御覧になった時から胸騒ぎのひどくなったため、言葉少なに宮は相手をしておいでになった。僧がかった人とはいいながらも、人間的な感情を人の学びがたいまでにも殺している男ではないか。あれほど可憐な人に寂しい山荘住まいをさせ、日々待ち暮らさせているようなこともこの人にはできるのであるなどと宮はお思いになり、平生はそんな話でない時にさえ、まじめ男であることを薫は |
【聖だつと言ひながら】- 以下「わびさすらむよ」まで、匂宮の心中。『完訳』は「薫の宇治の山里通いを皮肉って、山野に修行する山伏だとする」と注す。 【あはれなる人を】- 浮舟。 |
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3.2.9 | されど、さやうの |
いつもは、ほんの些細な機会でさえ、自分はまじめ人間だと振る舞い自称していらっしゃるのを、悔しがりなさって、何かと文句をおつけになるのを、このような事を発見したのを、どうしておっしゃっらないだろうか。 けれども、そのような冗談もおっしゃらず、とてもつらそうにお見えになるので、 |
こんなことがあるではないかなどと微細なことまでもあげてお責めになる宮でおありになったから、宇治の人を発見された以上は、どんなにそれでおからかいになるかもしれないのに、今日は |
【例は、さしもあらぬことのついでに】- 以下「いかにのたまはまし」まで、『細流抄』は「草子地也」と指摘。 【我はまめ人と】- 薫が。 【ねたがりたまひて】- 主語は匂宮。 【いかにのたまはまし】- 反実仮想。『完訳』は「どんなに言い立てたことだろう。しかし、今はそれも憚る気持」と注す。 |
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3.2.10 | 「お気の毒なことです。 大したご病気ではなくても、やはり何日も続くのは、とてもよくないことでございます。 お風邪を充分ご養生なさいませ」 |
「困ったことでございますね。たいしてお悪いのではなくて、しかも同じような容体の続きますのは悪い兆候でございます。 |
【不便なるわざかな】- 以下「よくつくろはせたまへ」まで、薫の詞。 |
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3.2.11 | などと、心からお見舞い申し述べてお出になった。 「気のひけるほど立派な人である。 わたしの態度を、どのように比較しただろう」などと、いろいろな事柄につけて、ひたすらあの女を、束の間も忘れずお思い出しになる。 |
などとまじめに見舞いを言いおいて薫は帰った。上品な男である、あの人と自分をどんなふうにあの恋人は比較して見ることだろうなどと、何事も宇治の人を離れては思うことのおできにならない心に宮はなっておいでになった。 |
【恥づかしげなる人なりかし】- 以下「いかに思ひ比べけむ」まで、匂宮の心中。薫の態度と自分を比較。 【いかに思ひ比べけむ】- 主語は浮舟。 【この人を】- 浮舟。 |
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3.2.12 | あちらでは、石山詣でも中止になって、まことに何もすることない。 お手紙には、とてもつらい思いをたくさんお書きになってお遣りになる。 それでさえ気が落ち着かず、「時方」と言って召し出した大夫の従者で、事情を知らない者をして遣わしたのであった。 |
宇治の山荘の人たちは石山 |
【かしこには】- 宇治をさす。 |
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3.2.13 | 「私め右近が古くから知っていた人で、殿のお供で訪ねて来まして、昔に縒りを戻して懇意になろうとするのです」 |
右近を以前知っていた人が大将の供をして行って、話などをした時から、またしきりに好意を運んでくるのである |
【右近が古く】- 以下「ねむごろがる」まで、右近の詞。 |
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3.2.14 | と、女房仲間には言い聞かせていた。 何かと右近は、嘘をつくことになったのであった。 |
と右近は他の |
【よろづ右近ぞ、虚言しならひける】- 『集成』は「何もかも、右近は嘘ばかりつく破目になるのだった。からかい気味の草子地」。『完訳』は「諧謔味のある評言」と注す。 |
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第三段 二月上旬、薫、宇治へ行く |
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3.3.1 | 月が替わった。 このようにお分かりになるが、お出かけになることはとても無理である。 「こうして物思いばかりしていたら、生きてもいられないようなわが身だ」と、心細さが加わってお嘆きになる。 |
二月になった。逢いたいとこがれ続けておいでになる宮でおありになるが宇治へお出かけになることは困難であった。こう |
【月もたちぬ】- 二月となる。 【かう思し知らるれど】- 明融臨模本は「おほしゝらるれと(ゝらるれと=イラルレト イ)」とある。すなわち「しらるれと」の傍らに異本「いらるれと」を傍記する。『集成』『完本』は諸本と底本の傍記に従って「焦らるれど」と校訂する。『新大系』は本行本文に従って「知らるれど」と校訂する。 【かうのみ】- 以下「身なめり」まで、匂宮の心中。 |
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3.3.2 | 大将殿は、少しのんびりしたころ、いつものように、人目を忍んでお出でになった。 寺で仏などを拝みなさる。 御誦経をおさせになる僧に、お布施を与えたりして、夕方に、こちらには人目を忍んでだが、この人はひどく身を簡略になさるでもない。 烏帽子に直衣姿が、たいそう理想的で美しそうで、歩んでお入りになるなり、こちらが恥ずかしくなりそうで、心づかいが格別である。 |
薫は公務の少しひまになったころ例のように微行で宇治へ出かけた。寺へ行き仏に謁し、 |
【ここには】- 浮舟のもと。 【これは】- 薫。匂宮のやつし姿に対していう。 |
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3.3.3 | 女は、どうしてお会いできようかと、空にまで目があって恐ろしく思われるので、激しく一途であった方のご様子が、自然と思い出されると、一方で、この方にお会いすることを想像すると、ひどくつらい。 |
姫君は罪を犯した身で薫を迎えることが苦しく天地に恥じられて恐ろしいにもかかわらず、不条理な恋を持って接近しておいでになった人のことが忘れられない心もあって、またこの人に貞操な女らしくして逢うことが非常に情けなかった。 |
【女】- 浮舟。 【いかで見えたてまつらむとすらむと】- 浮舟の懊悩の心中。匂宮に逢ったうしろめたさ。 【あながちなりし人】- 匂宮。 |
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3.3.4 | 「『われは |
「『私は今まで何年も会っていた女の思いが、皆あなたに移ってしまいそうだ』とおっしゃったのを、なるほど、その後はご気分が悪いと言って、どの方にもどの方にも、いつものようなご様子ではなく、御修法などと言って騒いでいるというのを聞くと、また、どのようにお聞きになってどのようにお思いになるだろうか」と、思うにつけてまことにつらい。 |
自分は今まで愛していた人への情けも皆捨てるほかはない気がすると宮はお語りになったのであったが、そのお言葉どおりに御病気に託してどちらの夫人の所へもおいでになることはなくて、おそばで始終修法ばかりを行なわせておいでになるというそうであるのに、自分が大将と夫婦らしくしていたということをお聞きになればどんなふうにお憎みになるであろうと思われるのも苦しかった。 |
【われは年ごろ見る人をも】- 以下「いかに聞きて思さむ」まで、浮舟の心中。また「心地なむする」まで、『完訳』は「浮舟の心に刻印された匂宮の言葉」と注す。 【げに、そののち】- 浮舟の納得の気持ち。『完訳』は「匂宮は病気と騒がれたが、中の君にも六の君にも会わぬと噂が宇治に伝わる。それを根拠に宮の言葉に「げに」と納得」と注す。 【いづくにもいづくにも】- 中君や六君。 【いかに聞きて思さむ】- 主語は匂宮。浮舟が薫を逢うことを。 |
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3.3.5 | この |
この方はこの方で、たいそう感じが格別で、愛情深く、優美な態度で、久しく会わなかったご無沙汰のお詫びをおっしゃるのも、言葉数多くなく、恋しい愛しいと直接には言わないが、いつも一緒にいられない恋の苦しい気持ちを、体裁よくおっしゃるのが、ひどく言葉を尽くして言うよりもまさって、たいそうしみじみと誰もが思うにちがいないような感じを身につけていらっしゃる人柄である。 やさしく美しい方面は無論のこと、将来末長く信頼できる性格などが、この上なくまさっていらっしゃった。 |
薫はまた別箇の存在と見えて優美なふうで、ながく来られなかった言いわけなどをするにも多くの言葉は用いない。恋しい悲しいとひたひたと迫って言うことはないが、常に逢いがたい人に持つ恋の苦しさを品よく言う効果は、誇張された多くの言葉がもたらすそれにまさって、心を |
【この人はた】- 薫。 【言ふにはまさりて】- 明融臨模本、朱合点。『源氏釈』は「心には下行く水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる」(古今六帖五、言はで思ふ)を指摘。 【人の思ひぬべきさまを】- 『集成』は「相手の女が思いそうな感じを」。『完訳』は「誰しもまったく感にたえるほかないような風格を」と注す。 【艶なる方は--まさりたまへり】- 『湖月抄』は「草子地に薫のさまをいふ也」と注す。 |
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3.3.6 | 「 あやしううつし この つれづれなる |
「心外なと思われる様子の気持ちなどが、漏れてお耳に入った時は、とても大変なことになるであろう。 不思議なほど正気もなく恋い焦がれている方を、恋しいと思うのも、それはとてもとんでもなく軽率なことだわ。 この方に嫌だと思われて、お忘れになるってしまう」心細さは、とても深くしみこんでいたので、思い乱れている様子を、「途絶えていたこの幾月間に、すっかり男女の情理をわきまえ、成長したものだ。 何もすることのない住処にいる間に、あらゆる物思いの限りを尽くしたのだろうよ」と御覧になるにつけても、気の毒なので、いつもより心をこめてお語らいになる。 |
自分が意外な恋をしていることをこの人が知れば、真心からどんなに歎くことであろう、狂おしいようにも自分を熱愛する人に自分も愛は覚えるが、それはまじめな人間の心とは言えない、 |
【思はずなるさまの心ばへなど】- 浮舟が匂宮に逢ったこと。それが薫にとっては心外な浮舟のこころ映るだろうこと。以下、浮舟の心情にそった叙述。 【思し焦らるる人】- 匂宮。 【月ごろに】- 以下「あらじかし」まで、薫の心中。浮舟の変化に対する感動。昨年の秋以来の再会。 |
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第四段 薫と浮舟、それぞれの思い |
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3.4.1 | 「造らせている所は、だんだんと出来上がって来た。 先日、見に行ったが、ここよりはやさしい感じの川があって、花も御覧になれましょう。 三条宮邸も近い所です。 毎日会わないでいる不安も、自然と消えましょうから、この春のころに、差し支えなければお連れしよう」 |
「新築させている家がどうやら形にはなりましたよ。この間見に行ったのですが、ここよりは水のある場所に近くて、桜なども相当にあります。三条の宮とも距離は遠くないのです。そこへ来れば毎日でも逢えないことはないのですから、この春のうちに都合さえよければあなたを移そうと思う」 |
【造らする所】- 以下「渡してむ」まで、薫の詞。浮舟を迎えるために造っている京の邸。 【三条の宮も】- 薫の本邸。 |
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3.4.2 | と |
と思っておっしゃるのにつけても、「あの方が、のんびりとした所を考えついたと、昨日もおっしゃっていたが、このようなことをご存知なくて、そのようにお考えになっていることよ」と、心が痛みながらも、「そちらに靡くべきではないのだ」と思うその一方で、先日のお姿が、面影に現れるので、「自分ながらも嫌な情けない身の上だわ」と、思い続けて泣いた。 |
と薫の言うのを聞いていて、隠れてのどかに住む家の用意をさせているとは |
【かの人の】- 以下「さ思すらむよ」まで、浮舟の心中。「かの人」は匂宮。 【昨日ものたまへりしを】- 『集成』は「昨日も匂宮から手紙が来た趣」と注す。 【そなたになびくべきにはあらずかし】- 浮舟の心中。「そなた」は匂宮。 【と思ふからに】- 『集成』は「と思うその下から」。『完訳』は「と思うとすぐさまに」と訳す。 【ありし御さまの、面影に】- 先日逢った折の匂宮の姿。 【我ながらも、うたて心憂の身や】- 浮舟の心中。 |
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3.4.3 | 「お気持ちが、このようでなくおっとりとしていたのが、のんびりと嬉しかった。 誰かが何か言い聞かせたことがあるのですか。 少しでも並々の愛情であったら、こうしてわざわざやって来ることができる身分ではないし、道中でもないのですよ」 |
「あなたがこんなふうでなくおおようだったら、私も心配がなくておられたのですよ。だれか中傷をした者でもあったのですか、少しでもあなたをおろそかに思っていれば、こんなにして逢いに来られる私の身分でも |
【御心ばへの、かからで】- 以下「ありさまもあらぬを」まで、薫の詞。薫は浮舟が薫の不訪を恨んで嫉妬するものと思っていた。 |
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3.4.4 | などと言って、初旬ころの夕月夜に、少し端に近い所に臥して外を眺めていらっしゃった。 男は、亡くなった姫君のことを思い出しなさって、女は、今から加わった身のつらさを嘆いて、お互いに物思いする。 |
などと薫は言い、月初めの夕月夜に少し縁へ近い所へ出て横になりながら二人は外を見ていた。薫は昔の人を思い、女は新しい物思いになった恋に苦しみ、双方とも離れ離れのことを考えていた。 |
【朔日ごろ】- 二月初旬。 【男は、過ぎにし方のあはれをも思し出で】- 薫は故大君を追慕。 |
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第五段 薫と浮舟、宇治橋の和歌を詠み交す |
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3.5.1 | 山の方は霞が隔てて、寒い洲崎に立っている鵲の姿も、場所柄かとても興趣深く見えるが、宇治橋がはるばると見渡されるところに、柴積み舟があちこちで行き交っているのなどが、他の場所では見慣れないことばかりがあれやこれやある所なので、御覧になる度ごとに、やはりその当時のことがまるで今のような気がして、ほんとにそうでもない女を相手にする時でさえ、めったにない逢瀬の情が多いにちがいないところである。 |
山のほうは霞がぼんやりと隠していて、寒い |
【山の方は霞隔てて】- 以下の景色について、『異本紫明抄』は「蒼茫たる霧雨の霽の初めに寒汀に鷺立てり重畳せる煙嵐の断えたる処に晩寺に僧帰る」(和漢朗詠集、僧)を指摘。 【そのかみのことの】- 大君在世当時。 【いとかからぬ人を】- 『集成』は「ほんとに、大君ゆかりの人といった筋合ではない女と向い合ったにしても、ざらにはない逢瀬の風情が多かろうというものである。それほど趣深い背景」。『完訳』は「亡き大君にゆかりのない女を相手にする場合でさえ。「--だに」を受け、「まして」浮舟は、と続く」と注す。 |
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3.5.2 | まいて、 |
それ以上に、恋しい女に似ているのもこの上なく、だんだんと男女の情理を知り、都の女らしくなってゆく様子がかわいらしいのも、すっかり良くなった感じがなさるが、女は、あれこれ物思いする心中に、いつの間にかこみ上げてくる涙、ややもすれば流れ出すのを、慰めかねなさって、 |
まして恋しい人に似たところが多く、かわりとして見てもそう格段な価値の相違もない人が、ようやく思想も成熟してき、都なれていく様子の美しさも時とともに加わる人であるからと薫は満足感に似たものを覚えて相手を見ていたが、女はいろいろな煩悶のために、ともすれば涙のこぼれる様子であるのを大将はなだめかねていた。 |
【恋しき人に】- 故大君に。主語「浮舟は」が省略されている。 |
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3.5.3 | 「宇治橋のように末長い約束は朽ちないから 不安に思って心配なさるな |
「宇治橋の長き契りは朽ちせじを あやぶむ方に心騒ぐな |
【宇治橋の長き契りは朽ちせじを--危ぶむ方に心騒ぐな】- 薫から浮舟への贈歌。 |
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3.5.4 | やがてお分かりになりましょう」 |
そのうち私の愛を理解できますよ」 |
【今見たまひてむ】- 歌に添えた詞。 |
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3.5.5 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
と言った。 |
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3.5.6 | 「絶え間ばかりが気がかりでございます宇治橋なのに 朽ちないものと依然頼りにしなさいとおっしゃるのですか」 |
絶え間のみ世には危ふき宇治橋を 朽ちせぬものとなほたのめとや |
【絶え間のみ世には危ふき宇治橋を--朽ちせぬものとなほ頼めとや】- 浮舟の返歌。「宇治橋」「朽ち」の語句を受けて「なほ頼めとや」と切り返す。『全集』は「忘らるる身を宇治橋の中絶えて人も通はぬ年ぞへにける」(古今集恋五、八二五、読人しらず)を指摘。 |
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3.5.7 | さきざきよりもいと 「いとようもおとなびたりつるかな」と、 |
以前よりもまことに見捨てがたく、暫くの間も逗留していたくお思いになるが、世間の噂がうるさいので、「今さら長居をすべきでもない。 気楽に会える時になったら」などとお考えになって、早朝にお帰りになった。 「とても素晴らしく成長なさったな」と、おいたわしくお思い出しになること、今まで以上であった。 |
と女は言う。今まで来て逢っていた時よりも別れて行くのがつらく、少しの時間でも多くそばにいたい気のする薫であったが、世間はいろいろな批評をしたがるものであるから、今まで事もなく隠すことのできた愛人との間のことが、今になって暴露することになってはまずい、よい時節に公表もできるのを待とうと思い夜明けに帰った。感情の豊かに備わった女になったと薫は宇治の人のことを思い、哀れに思い出されることは以前に倍した。 |
【今さらなり。心やすきさまにてこそ】- 薫の心中。『完訳』は「いまさら長居すべきでもない、京に引き取ってから気楽な所でゆっくり逢おう。匂宮とは対照的」と注す。 【いとようもおとなびたりつるかな】- 薫の感想。浮舟の成長を思う。 【ありしにまさりけり】- 明融臨模本、朱合点あり。『紫明抄』は「出でていなばいなば誰か別れの難からむありしにまさる今日は悲しも」(伊勢物語)を指摘。 |
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第四章 浮舟と匂宮の物語 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す |
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第一段 二月十日、宮中の詩会催される |
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4.1.1 | 二月の十日ころに、内裏で作文会を開催あそばすということで、この宮も大将も参内なさった。 季節に適った楽器の響きに、宮のお声は実に素晴らしく、「梅が枝」などを謡いなさる。 何事も誰よりもこの上なく上手でいらっしゃるご様子で、つまらないことに熱中なさることだけが、罪深いことであった。 |
二月の十日に宮中で詩会があって、 |
【何ごとも】- 以下、『一葉抄』は「草子詞也」と指摘。『評釈』は「何もかもすぐれている宮、と、改めて作者はほめる。それでいて女のことで乱れるのが困りもの、と。--このところ余りひどすぎる宮さまのおんふるまいと、読者が思うであろう。それを、さきまわりして弁解しておくのである」と注す。 【すずろなること思し焦らるるのみなむ、罪深かりける】- 『完訳』は「語り手の評」と注す。 |
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4.1.2 | この もの |
雪が急に降り乱れ、風などが烈しく吹いたので、御遊会は早く終わりになった。 この宮の御宿直部屋に、人びとがお集まりになる。 食事を召し上がったりして、休んでいらっしゃった。 |
にわかに雪が大降りになって、風もはげしく出てきたので、音楽遊びは予定より早く終わりを告げた。兵部卿の宮の |
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4.1.3 | 大将、誰かに何かおっしゃろうとして、少し端近くにお出になったが、雪がだんだんと降り積もったのが、星の光ではっきりとしないので、「闇はわけが分からない」と思われる匂いや姿で、 |
右大将は部下の者か何かに命じることがあって少し縁側に近い所へ出ていたが、やや深く積もった雪が星の光にほのめいている夜であって「春の夜の |
【闇はあやなし」と】- 明融臨模本、朱合点、付箋「春のよのやみはあやなし梅のはな色こそみえね香やはかくるる」(古今集春上、四一、凡河内躬恒)を指摘。 |
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4.1.4 | 「小さい筵に衣を独り敷いて今夜も宇治の姫君はで待っていることだろう」 |
「衣かたしきこよひもや」(われを待つらん宇治の橋姫) |
【衣片敷き今宵もや」--と】- 『源氏釈』、明融臨模本、朱合点、付箋「さむしろに衣かたしき今夜もやわれを待らんうちの橋姫」(古今集恋四、六八九、読人しらず)を指摘。 |
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4.1.5 | と、ふと口ずさみなさったのも、ちょっとしたことを口ずさんだのだが、妙にしみじみとした情感をそそる人柄なので、たいそう奥ゆかしく見える。 |
と口ずさんでいるのがしめやかな世界へ人を誘う力があった。 |
【はかなきことを】- 『集成』は「漢詩に対して、和歌を「はかなきこと」という」と注す。 |
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4.1.6 | 他に歌はいくらでもあろうに、宮は寝入っていたようだが、お心が騒ぐ。 |
宇治の橋姫を言っているではないかと、さっきから |
【言しもこそあれ】- 『全集』は「語り手の短評」と注す。 |
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4.1.7 | 「いい加減には思っていないようだ。 独り寂しくいるだろうと、わたしだけが思いやっていると思ったのに、同じ気持ちでいるとは憎らしい。 やるせない話だ。 あれほどの元からの人をおいて、自分の方にいっそうの愛情を、どうして向けることができようか」 |
深く愛していないことはないらしい、橋姫の |
【おろかには思はぬなめりかし】- 以下「いかでつくべきぞ」まで、匂宮の心中の思い。「おろかには思はぬ」の主語は薫。 【片敷く袖を】- 「古今集」歌の歌語。独り寝の寂しい気持ち。 【かばかりなる本つ人をおきて】- 薫をさす。 |
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4.1.8 | とねたう |
と悔しく思わずにはいらっしゃれない。 |
同じ思いを運ぶ人もあるのかと身に |
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4.1.9 | かの 「 |
早朝、雪が深く積もったので、詩文を献上しようとして、御前に参上なさったご器量は、最近特に男盛りで美しそうに見える。 あの君も同じくらいの年齢で、もう二、三歳年長の違いからか、少し老成した態度や心配りなどは、特別に作り出したような、上品な男の手本のようでいらっしゃる。 「帝の婿君として不足がない」と、世間の人も判断している。 詩文の才能なども、政治向きの才能も、誰にも負けないでいらっしゃったのだろう。 |
わびしいことである、これほどりっぱな男を持っている女が、自分のほうへ多く好意をもってくれようとは信じられないと、ねたましくもまた |
【文たてまつりたまはむとて】- 昨夜賜った詩題について作った漢詩。帝の御前に献上する。 【かの君も同じほどにて、今二つ、三つまさるけぢめ】- 『集成』は「実は、薫は匂宮より年下のはず。匂宮誕生は、源氏四十七歳以前。薫は、源氏四十八歳の時の子である。老成した薫の人物像を強調しようとしてわざとこうしたのであろう」。『完訳』は「薫の老成のイメージを強調するために不用意に誤ったか」と注す。 【才なども、おほやけおほやけしき方も、後れずぞおはすべき】- 『集成』は「女の語り手らしい語尾」と注す。 |
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4.1.10 | 詩文の披講がすっかり終わって、参会者皆が退出なさる。 宮の詩文を「優れていた」と朗誦して誉めるが、何ともお感じにならず、「どのような気持ちで、こんなことをしているのか」と、ぼんやりとばかりしていらっしゃった。 |
各人の詩がどれも講じられ参会者は皆退散した。兵部卿の宮の詩が、ことに傑作であったと人々の |
【何とも聞き入れたまはず】- 詩文のことは念頭になく、浮舟のことばかりを思っている。 【いかなる心地にて、かかることをもし出づらむ】- 匂宮の心中。 |
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第二段 匂宮、雪の山道の宇治へ行く |
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4.2.1 | あの方のご様子からも、ますますはっとなさったので、無理な算段をしてお出かけになった。 京では、わずかばかり消え残っている雪が、山深く入って行くにつれて、だんだんと深く積もって道を埋めていた。 |
薫に宇治の人を思うふうの見えたことで驚かされたようにも思っておいでになるのであったから、無理な策をあそばして宇治へお出かけになることになった。京の中ではあとから来る仲間を待っているほどに消え残った雪も、山路に深くおはいりになるにしたがって厚く積もっているのに気がおつきになった。 |
【かの人の御けしきにも】- 薫。 【京には、友待つばかり消え残りたる雪】- 『全集』は「白雪の色わきがたき梅が枝に友待つ雪ぞ消え残りたる」(家持集)。『集成』は「梅の花咲くとも知らずみ吉野の山に友待つ雪の見ゆるらむ」(貫之集)を指摘。 |
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4.2.2 | しるべの いづ |
いつもよりひどい人影も稀な細道を分け入って行きなさるとき、お供の人も、泣き出したいほど恐ろしく、厄介なことが起こる場合まで心配する。 案内役の大内記は、式部少輔を兼官していた。 どちらの官も重々しくしていなければならない官職であるが、とても似合わしく指貫の裾を引き上げたりしている姿はおかしかった。 |
平生以上に見わけがたい細路をおいでになるのであったから、供の人たちも泣き出さんばかりに恐ろしがっていて、山賊の出ることなどをあやぶんでいた。案内役の内記は式部 |
【まれの細道】- 冬ごもり人も通はぬ山里のまれの細道ふたぐ雪かな(賀茂保憲女-一二三)(text51.html 出典12から転載) 【いづ方もいづ方も】- 本官の大内記も兼官の式部少輔も。 【いとつきづきしく、引き上げなどしたる姿もをかしかりけり】- 『完訳』は「不似合いな恋の案内訳を、逆説的に似合いと評して皮肉った。学者のかいがいしく仕える滑稽さ」と注す。 |
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4.2.3 | かしこには、おはせむとありつれど、「かかる 「あさましう、あはれ」と、 |
あちらでは、いらっしゃるという知らせはあったが、「このような雪ではまさか」と気を許していたところに、夜が更けてから右近に到着の旨を伝えた。 「驚いたわ、まあ」と、女君までが感動した。 右近は、「どのようにしまいにはおなりになるお身の上であろうか」と、一方では心配だが、今夜は人目を憚る気持ちも忘れてしまいそうだ。 お断りするすべもないので、同じように親しくお思いになっている若い女房で、思慮も浅くない者と相談して、 |
山荘では宮のほうから出向くからというおしらせを受けていたが、こうした深い雪にそれは御実行あそばせないことと思って気を許していると、夜がふけてから、右近を呼び出して従者が宮のおいでになったことを伝えた。うれしいお志であると姫君は感激を覚えていた。右近はこんなことが続出して、行く末はどうおなりになるかと姫君のために苦しくも思うのであるが、こうした夜によくもと思う心はこの人にもあった。お断わりのしようもないとして、自身と同じように姫君から |
【君も思へり】- 浮舟。係助詞「も」は、右近はもとより浮舟も、というニュアンス。 【今宵はつつましさも忘れぬべし】- 『湖月抄』は「地」と指摘。『完訳』は「語り手の推測による」と注す。 【同じやうに睦ましくおぼいたる若き人】- 浮舟が右近同様に親しく思っている若い女房。敬語「思す」とあるので、主語は浮舟。 |
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4.2.4 | 「大変に困りましたこと。 同じ気持ちで、秘密にしてください」 |
「少しめんどうな問題なのですが、その秘密を私といっしょに姫君のために隠すことに骨を折ってくださいな」 |
【いみじく】- 以下「もて隠したまへ」まで、右近の詞。 |
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4.2.5 | と言ったのであった。 一緒になってお入れ申し上げる。 道中で雪にお濡れになった薫物の香りが、あたりせましと匂うのも、困ってしまいそうだが、あの方のご様子に似せて、ごまかしたのであった。 |
と言ったのであった。そして二人で宮を姫君の所へ御案内した。途中で濡れておいでになった宮のお衣服から立つ高いにおいに困るわけであったが、大将のにおいのように紛らわせた。 |
【かの人の御けはひに】- 薫。 |
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第三段 宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す |
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4.3.1 | 夜のうちにお帰りになるのも、かえって来なかったほうがましなくらいだから、こちらの人目もとても憚れるので、時方に計略をめぐらせなさって、「川向こうの人の家に連れて行こう」と考えていたので、先立って遣わしておいたのが、夜の更けるころに参上した。 |
夜のうちにお帰りになることは、逢いえぬ悲しさに別れの苦しさを加えるだけのものになるであろうからと思召した宮は、この家にとどまっておいでになる窮屈さもまたおつらくて、 |
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4.3.2 | 「とてもよく準備してございます」 |
「すべて整いましてございます」 |
【いとよく用意してさぶらふ】- 時方の詞。 |
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4.3.3 | と申し上げさせる。 「これは、どうなさることか」と、右近もとても気がそぞろなので、寝惚けて起きている気持ちも、ぶるぶると震えて、正体もない。 子供が雪遊びをしている時のように、震え上がってしまった。 |
と時方は取り次がせた。にわかに何事を起こそうとあそばすのであろうと右近の心は騒いで、不意に眠りからさまされたのでもあったから身体がふるえてならなかった。子供が雪遊びをしているようにわなわなとふるえていた。 |
【と申さす】- 時方が右近をして匂宮に。 【こは、いかにしたまふことにか】- 右近の心中。 |
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4.3.4 | 「いかでか」 |
「どうしてそのようなことが」 |
どうしてそんなことを |
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4.3.5 | などという余裕もお与えにならず、抱いてお出になった。 右近はこちらの留守居役に残って、侍従をお供申させる。 |
と異議をお言わせになるひまもお与えにならず宮は姫君を抱いて外へお出になった。右近はあとを繕うために残り、侍従に供をさせて出した。 |
【右近はこの後見にとまりて】- 明融臨模本は「このうしろみにとまりて」とある。『完本』は諸本に従って「ここの後見にとどまりて」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「この後見にとまりて」とする。 |
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4.3.6 | 実に頼りないものと、毎日眺めている小さい舟にお乗りになって、漕ぎ渡りなさるとき、遥か遠い岸に向かって漕ぎ離れて行ったような心細い気持ちがして、ぴたりとくっついて抱かれているのを、とてもいじらしいとお思いになる。 |
はかないあぶなっかしいものであると山荘の人が毎日ながめていた小舟へ宮は姫君をお乗せになり、船が岸を離れた時にははるかにも知らぬ世界へ伴って行かれる気のした姫君は、心細さに堅くお胸へすがっているのも可憐に宮は思召された。 |
【いとらうたしと思す】- 匂宮の感想。 |
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4.3.7 | 有明の月が澄み上って、川面も澄んでいるところに、 |
【有明の月澄み昇り】- 『集成』は「陰暦二十日以後の月で、夜半に出る。これによれば、匂宮の宇治来訪は、宮中詩宴(二月十日頃)の十日ほど後となる」と注す。 |
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4.3.8 | 「これが、橘の小島です」 |
「これが |
【これなむ、橘の小島】- 船頭の詞。『河海抄』は「今もかも咲き匂ふらむ橘の小島の崎の山吹の花」(古今集春下、一二一、読人しらず)を指摘。 |
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4.3.9 | と申して、お舟をしばらくお止めになったので御覧になると、大きな岩のような恰好をして、しゃれた常磐木が茂っていた。 |
と言い、船のしばらくとどめられた所を御覧になると、大きい岩のような形に見えて |
【されたる常磐木の蔭茂れり】- 『岷江入楚』は「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜置けまして常磐木」(出典未詳、万葉集に類歌あり)を指摘。 |
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4.3.10 | 「あれをご覧なさい。 とても頼りなさそうですが、千年も生きるにちがいない緑の深さです」 |
「あれを御覧なさい。川の中にあってはかなくは見えますが千年の命のある緑が深いではありませんか」 |
【かれ見たまへ】- 以下「緑の深さを」まで、匂宮の詞。 |
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4.3.11 | とのたまひて、 |
とおっしゃって、 |
とお言いになり、 |
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4.3.12 | 「何年たとうとも変わりません 橘の小島の崎で約束するわたしの気持ちは」 |
年 小嶋の |
【年経とも変はらむものか橘の--小島の崎に契る心は】- 匂宮の浮舟への贈歌。 |
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4.3.13 | 女も、珍しい所へ来たように思われて、 |
とお告げになった。女も珍しい楽しい |
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4.3.14 | 「橘の小島の色は変わらないでも この浮舟のようなわたしの身はどこへ行くのやら」 |
橘の小嶋は色も変はらじを この浮舟ぞ行くへ知られぬ |
【橘の小島の色は変はらじを--この浮舟ぞ行方知られぬ】- 浮舟の返歌。「橘の小島」「変はる」の語句を受けて返す。 |
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4.3.15 | 折柄、女も美しいので、ただもう素晴らしくお思いになる。 |
こんなお返辞をした。月夜の美と恋人の |
【人のさまに】- 『集成』は「女も美しいので」と注す。 |
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4.3.16 | かの |
あちらの岸に漕ぎ着いてお降りになるとき、供人に抱かせなさるのは、とてもつらいので、お抱きになって、助けられながらお入りになるのを、とても見苦しく、「どのような人を、こんなに大騒ぎなさっているのだろう」と拝見する。 時方の叔父で因幡守である人が所領する荘園に、かりそめに建てた家なのであった。 |
対岸に着いた時、船からお上がりになるのに、 時方の |
【かの岸に】- 対岸。 【何人を、かくもて騷ぎたまふらむ】- 供人たちの感想。『集成』は「大したこともない山里の女なのに、という気持」と注す。 【見たてまつる】- 主語は供人。 【時方が叔父の因幡守なるが領ずる荘に、はかなう造りたる家なりけり】- 『岷江入楚』は「此家の注なり」と指摘。『集成』は「用意した家の説明」と注す。語り手の説明的叙述。 |
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4.3.17 | まだいと |
まだとても手入れが行き届いていず、網代屏風など、御覧になったこともない飾り付けで、風も十分に防ぎきれず、垣根のもとに雪がまだらに消え残っていて、今でも曇っては雪が降る。 |
まだよく家の中の装飾などもととのっていず、 |
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第四段 匂宮、浮舟に心奪われる |
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4.4.1 | ひきつくろふこともなくうちとけたるさまを、「いと |
日が差し出て、軒の氷柱が光り合っていて、宮のご容貌もいちだんと立派に見える気がする。 宮も、人目を忍ぶやっかいな道中で、身軽なお召物である。 女も、上着を脱がさせなさっていたので、ほっそりとした姿つきがたいそう魅力的である。 身づくろいすることもなくうちとけている様子を、「とても恥ずかしく、眩しいほどに美しい方に向かい合っていることだわ」と思うが、隠れる所もない。 |
そのうち日が雲から出て軒の |
【人の御容貌も】- 『集成』は「二人のお顔立ちのお美しさも」。『完訳』は「浮舟の目にする匂宮の容姿」と注す。 【女も、脱ぎすべさせたまひてしかば】- 「脱ぎさせ給ひて」の主語は匂宮。「させ」は使役の助動詞、「たまふ」は匂宮に対する敬意。 【まばゆきまで】- 以下「さしむかひたるよ」まで、浮舟の心中。 |
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4.4.2 | なつかしきほどなる |
やさしい感じの白い衣だけを五枚ほど、袖口、裾のあたりまで優美で、色とりどりにたくさん重ねたのよりも美しく着こなしていた。 いつも御覧になっている方でも、こんなにまでうちとけている姿などは御覧になったことがないので、こんなことまでが、やはり珍しく興趣深く思われなさるのであった。 |
少し着 |
【なつかしきほどなる白き限りを】- 手触りも柔らかい白い衣だけを。 【常に見たまふ人】- 主語は匂宮。中君や六君をさす。 |
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4.4.3 | 侍従も、大して悪くはない若い女房なのであった。 「この人までが、このような姿をすっかり見ているわ」と、女君は、たまらなく思う。 宮も、 |
侍従もきれいな若女房であった。右近だけでなくこの人にまで自分の秘密を残りなく見られることになったのを浮舟は苦しく思った。宮も右近のほかのこの女房のことを、 |
【これさへ、かかるを残りなう見るよ】- 浮舟の思い。匂宮だけでなく侍従までが、のニュアンス。 |
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4.4.4 | 「この人は誰ですか。 わたしの名前を漏らしてはなりませんよ」 |
「何という名かね。自分のことを言うなよ」 |
【これはまた誰そ。わが名漏らすなよ】- 匂宮の詞。『源氏釈』は「犬上の鳥篭の山なるいさや川いさと答えよ我が名洩らすな」(古今集、墨滅歌、一一〇八、読人しらず)を指摘。 |
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4.4.5 | と ここの |
と口がためなさるのを、「とても素晴らしい」と思い申し上げていた。 ここの宿守として住んでいた者、時方を主人と思ってお世話してまわるので、このいらっしゃるところの遣戸を隔てて、得意顔をして座っている。 声を緊張させて、恐縮して話しているのを、返事もできないで、おかしいと思うのであった。 |
と仰せられた。侍従はこれを身に余る喜びとした。別荘 |
【いとめでたし」と思ひきこえたり】- 主語は侍従。 【物語しをるを】- 『完訳』は「「--をり」はさげすむ気持を表す語法」と注す。 【いらへもえせず、をかしと思ひけり】- 主語は時方。『完訳』は「宮への遠慮から返事できない」と注す。 |
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4.4.6 | 「たいそう恐ろしい占いが出た物忌によって、京の内をさえ避けて慎むのだ。 他の人を、近づけるな」 |
「恐ろしいような占いを出されたので、京を出て来てここで謹慎をしているのだから、だれも来させてはならないよ」 |
【いと恐ろしく】- 以下「他の人寄すな」まで、時方の詞。 |
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4.4.7 | と |
と言っていた。 |
と内記は命じていた。 |
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第五段 匂宮、浮舟と一日を過ごす |
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4.5.1 | 「かの かの |
人目も絶えて、気楽に話し合って一日お過ごしになる。 「あの方がいらっしゃったときに、このようにお会いになっているのだろう」と、ご想像になって、ひどくお恨みになる。 二の宮をとても大切に扱って、北の方としていらっしゃるご様子などもお話しになる。 あのお耳に止めなさった一言は、おっしゃらないのは憎いことであるよ。 |
だれも来ぬ所で宮はお気楽に浮舟と時をお過ごしになった。この間大将が来た時にもこうしたふうにして逢ったのであろうとお思いになり、宮は恨みごとをいろいろと仰せられた。夫人の |
【かの人の】- 以下「見えてむかし」まで、匂宮の心中。「かの人」は薫。 【二の宮をいとやむごとなくて、持ちたてまつりたまへるありさまなども語りたまふ】- 匂宮は薫が女二宮を北の方として大切にしているのを話す。『集成』は「浮舟との仲に水を差したい気持」と注す。 【かの耳とどめたまひし一言は、のたまひ出でぬぞ憎きや】- 詩会の夜、薫を浮舟を思って、「衣かたしき今宵もや」と古歌を誦したことをさす。『細流抄』は「草子地也」と指摘。『完訳』は「語り手の匂宮評」と注す。 |
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4.5.2 | 時方が、御手水や、果物などを、取り次いで差し上げるのを御覧になって、 |
時方がお |
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4.5.3 | 「たいそう大切にされている客人は、そのような姿を他人に見られるでないぞ」 |
「大事にされているお客の |
【いみじくかしづかるめる】- 以下「さてな見えそや」まで、匂宮の詞。『集成』は「時方を冷やかしての言葉。「主」は軽い敬称」と注す。 |
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4.5.4 | と |
と戒めなさる。 侍従は、好色っぽい若い女の考えから、とても素晴らしいと思って、この大夫と話をして一日暮らしたのであった。 |
と宮はお言いになった。侍従は若い色めかしい心から、こうした日をおもしろく思い、内記と話をばかりしていた。 |
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4.5.5 | 雪が降り積もっているので、あのご自分が住む家の方を眺望なさると、霞の絶え間に梢だけが見える。 山は鏡を懸けたように、きらきらと夕日に輝いているところに、昨夜、踏み分けて来た道のひどさなどを、同情を誘うようにお話しになる。 |
浮舟の姫君は雪の深く積もった中から自身の |
【かのわが住む方を】- 明融臨模本、朱合点有り。『河海抄』は「晴るる夜の星か河辺の螢かも我が住む方の海人のたく火か」(伊勢物語)を指摘。 |
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4.5.6 | 「峰の雪や水際の氷を踏み分けて あなたに心は迷いましたが、 |
峰の雪 君にぞ惑ふ道にまどはず |
【峰の雪みぎはの氷踏み分けて--君にぞ惑ふ道は惑はず】- 匂宮の浮舟への贈歌。 |
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4.5.7 | 木幡の里に馬はあるが」 |
「 |
【木幡の里に馬はあれど】- 匂宮の歌に続けて書いた文句。明融臨模本、朱合点と付箋「山しろのこわたの里に馬はあれと君をおもへはかちよりそゆく」(拾遺集雑恋、一二四三、人麿)を指摘。『源氏釈』も同文指摘。「拾遺集」は、初句「山科の」、下句「徒歩よりぞ来る君を思へば」とある。 |
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4.5.8 | などと、見苦しい硯を召し出して、手習いなさる。 |
などと、別荘に備えられてあるそまつな |
【手習ひたまふ】- 『集成』は「お心に浮ぶままに、歌などをお書きになる」と注す。 |
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4.5.9 | 「降り乱れて水際で凍っている雪よりも はかなくわたしは中途で消えてしまいそうです」 |
降り乱れ |
【降り乱れみぎはに凍る雪よりも--中空にてぞ我は消ぬべき】- 浮舟の返歌。「氷」「雪」の語句を受けて返す。 |
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4.5.10 | と この「 「げに、 さらでだに |
と書いて消した。 この「中空」をお咎めになる。 「なるほど、憎いことを書いたものだわ」と、恥ずかしくて引き破った。 そうでなくても見る効のあるご様子を、ますます感激して素晴らしいと、相手が心に思い込むようにと、あらん限りの言葉を尽くすご様子、態度は、何とも表現のしようがない。 |
とその上へ浮舟は書いた。中空という言葉は一方にも |
【この「中空」をとがめたまふ】- 『集成』は「匂宮と薫の中に立って迷っているように聞えることを咎める」と注す。 【げに、憎くも書きてけるかな】- 浮舟の心中。匂宮の詞に納得する気持ち。 【さらでだに--言はむ方なし】- 『湖月抄』は「草子地にいふ也」と指摘する。 【御ありさまを】- 匂宮の風姿。 【人の心に】- 浮舟の心に。 |
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第六段 匂宮、京へ帰り立つ |
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4.6.1 | 御物忌を、二日とおだましになっていたので、のんびりとしたまま、お互いに愛しいとばかり、深くご愛情がまさって行く。 右近は、いろいろと例によって、言い紛らして、お召物などを差し上げた。 今日は、乱れた髪を少し梳かせて、濃い紫の袿に紅梅の織物などを、ちょうどよい具合に着替えていらっしゃった。 侍従も、見苦しい褶を着ていたが、美しいのに着替えたので、その裳をお取りになって、女君にお着せになって、御手水の世話をおさせになる。 |
謹慎日を二日間ということにしておありになったので、あわただしいこともなくゆっくりと暮らしておいでになるうちに相思の情は深くなるばかりであった。右近は例のように姫君のためにその場その場を取り繕い、言い紛らして衣服などを持たせてよこした。次の日は乱れた髪を少し解かさせて、深い紅の上に紅梅色の厚織物などの取り合わせのよい服装を浮舟はしていた。侍従も |
【右近は、よろづに例の、言ひ紛らはして、御衣など】- 留守居役の右近は周囲の女房に言い繕って、浮舟のもとに着替えを差し上げた。 【その裳を取りたまひて、君に着せたまひて】- 『集成』は「(匂宮は)その褶をお取りになって、浮舟に着せられて、宮のご洗面のお世話をおさせになる。身近に世話をさせて玩弄したい気持。女房扱いになる」と注す。 |
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4.6.2 | 「姫宮にこの女を出仕させたら、どんなにか大事になさるだろう。 とても高貴な身分の女性が多いが、これほどの様子をした女性はいないのではないか」 |
【姫宮にこれを】- 以下「さましたるは難くや」まで、匂宮の心中の思い。。「姫宮」は女一宮、匂宮の姉宮をさす。『集成』は「浮舟に対する薫の気持との、基本的な相違を示すところ」。『完訳』は「女一の宮に浮舟を出仕させて、召人として情交を保とうと考える」と注す。 【いみじきものにしたまひてむかし】- 主語は女一の宮。『集成』は「きっと秘蔵の女房になさるだろう」。『完訳』は「どんなにか大事に扱ってくださることだろう」と訳す。 |
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4.6.3 | と かたはなるまで 「そのほど、かの |
と御覧になる。 みっともないほど遊び戯れながら一日お過ごしになる。 こっそりと連れ出して隠そうということを、繰り返しおっしゃる。 「その間に、あの方に逢ったら承知しない」と、厳しいことを誓わせなさるので、「実に困ったこと」と思って、返事もできず、涙までが落ちる様子、「全然目の前にいるときでさえもわたしに愛情が移らないようだ」と胸が痛く思われなさる。 恨んだり泣いたり、いろいろとおっしゃって夜を明かして、夜深く連れてお帰りになる。 例によって、お抱きになる。 |
と、裳を着けた姿からふとこんなことも宮はお思いになった。見苦しいまでに戯れ暮らしておいでになり、忍んでほかへ隠してしまう計画について繰り返し繰り返し宮はお話しになるのである。それまでに大将が来ても兄弟以上の親しみを持たぬというようなことを誓えとお言いになるのを、女は無理なことであると思い、返辞をすることができず、涙までもこぼれてくる様子を御覧になり、自分の目前ですらその人に引かれる心を隠すことができぬかと胸の痛くなるようなねたましさも宮はお覚えになった。恨み言も言い、御自身のお心もちを泣いてお告げになりもしたあとで、第三日めの未明に北岸の山荘へおもどりになろうとして、例のように抱いて船から姫君をお伴いになるのであったが、 |
【かの人に】- 薫をさす。 【いみじきことどもを】- 『集成』は「とても無理なことを」。『完訳』は「薫に逢ったら承知しない意」と注す。 【さらに目の前にだに思ひ移らぬなめり】- 匂宮の心中の思い。『集成』は「いくら自分が目の前にいても、(薫から)心を移そうとしないようだ。匂宮の思い」と注す。 【怨みても泣きても】- 『源氏釈』は「恨みても泣きても言はむ方ぞなき鏡に見ゆる影ならずして」(古今集恋五、八一四、藤原興風)を指摘。 【夜深く率て帰りたまふ】- 宇治川対岸の隠れ家から浮舟の邸へ。 |
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4.6.4 | 「大切にお思いの方は、このようには、なさるまいよ。 お分かりになりましたか」 |
「あなたが深く愛している人も、こんなにまで奉仕はしないでしょう。わかりましたか」 |
【いみじく思すめる人は】- 以下「見知りたまひたりや」まで、匂宮の詞。「いみじく思す人」は、浮舟が愛する人、すなわち薫をさす。 |
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4.6.5 | とのたまへば、げに、と やがて、これより |
とおっしゃると、お言葉のとおりだ、と思って、うなずいて座っているのは、たいそういじらしげである。 右近が、妻戸を開け放ってお入れ申し上げる。 そのまま、ここで別れてお帰りになるのも、あかず悲しいとお思いになる。 |
とお言いになると、そうであったというように思って、浮舟がうなずいているのが |
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第七段 匂宮、二条院に帰邸後、病に臥す |
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4.7.1 | このような時の帰りは、やはり二条院においでになる。 とても気分が悪くおなりになって、食事なども召し上がらず、日がたつにつれて青くお痩せになって、ご様子も変わるので、帝におかせられてもどちら様におかれても、お嘆きになり、ますます大騒ぎになって、お手紙さえこまごまと書くことがおできになれない。 |
こんなお帰りの場合などはやはり二条の院へおはいりになるのが例であった。宮はそれ以来健康をおそこねになり、召し上がり物などは少しもおとりにならなかった。日がたつにしたがいお顔色が青んでゆき、お |
【かやうの帰さは】- 忍び歩きの後の帰り。 【内裏にもいづくにも】- 『集成』は「帝后をはじめどちらにも。夕霧方でも、の意」と注す。 |
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4.7.2 | かしこにも、かのさかしき かくあやしき |
あちらでも、あの利口ぶった乳母は、その娘が子供を産む所に行っていたのが、帰って来たので、気安く手紙を見ることもできない。 このように見すぼらしい生活を、ただあの殿がお世話くださるのを期待することで、母君も思い慰めていたが、日蔭の存在ながらも、近くにお移しになることをお考えになっていたので、とても安心で嬉しかろうことと思って、だんだんと女房を求め、童女の無難な者などを迎えてお寄越しになる。 |
山荘のほうでもあのやかましやの |
【かしこにも】- 宇治の浮舟方。 【かの殿のもてなし】- 薫。 【ゆかしく待つことにて】- 主語は乳母。 【母君も】- 浮舟の母。 【忍びたるさまながらも、近く渡してむことを】- 『完訳』は「表だった結婚の扱いではないとしても、薫の本邸三条宮近くに」と注す。 |
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4.7.3 | 自分自身でも、「それこそが、理想だと、初めからずっと待っていた」とは思いながらも、無理をなさる方のお事を思い出すと、お恨みになった様子、おっしゃった言葉などが、面影にぴったりと添ったまま、わずかにお寝みになると、夢に現れなさって、とても嫌なまでに思われる。 |
浮舟自身もようやく開かれていく光明の運命の見えだしたことで、初めから望んだのはこのほかのことではなかった、この日を待ち続けていたのであると思いながらも、一方で熱情をお寄せになる宮のことを思い出し、愛が足らぬとお恨みになったこと、その時あの時のお言葉と面影が始終つきまとって離れず、少し眠るともう夢に見る、困ったことであると思った。 |
【わが心にも】- 浮舟。 【あながちなる人の】- 匂宮。 【夢に見え】- 思ひつつ寝(ぬ)ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを(古今集恋二-五五二 小野小町)(text51.html 出典17から転載) |
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第五章 浮舟の物語 浮舟、恋の板ばさみに、入水を思う |
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第一段 春雨の続く頃、匂宮から手紙が届く |
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5.1.1 | 雨が降り止まないで、日数が重なるころ、ますます山路通いはお諦めになって、たまらない気がなさるので、「親が大切にする子は窮屈なもの」とお思いになるのも恐れ多いことだ。 尽きない思いの丈をお書きになって、 |
雨が幾日も降り続いたころ、いっそう宇治は通って行くべくもない世界になったように宮は思召され、恋しさに堪えられなくおなりになり「たらちねの親のかふこの繭ごもりいぶせくもあるか |
【雨降り止まで】- 『集成』は「雨が降り止まず、日数も重なる頃。三月の長雨であろう。月も変った趣」と注す。 【親のかふこは所狭きものにこそ】- 匂宮の心中。明融臨模本、朱合点。『源氏釈』は「たらちねの親のかふ蚕の繭ごもりいぶせくもあるか妹に逢はずて」(拾遺集恋四、八九五、柿本人麿)を指摘。 【と思すもかたじけなし】- 『一葉抄』は「双紙詞なるへし云々」と指摘。 |
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5.1.2 | 「眺めやっているそちらの方の雲も見えないくらいに 空までが真っ暗になっている今日このごろの侘しさです」 |
ながめやるそなたの雲も見えぬまで 空さへくるる |
【眺めやるそなたの雲も見えぬまで--空さへ暮るるころのわびしさ】- 匂宮から浮舟への贈歌。「眺め」「長雨」の懸詞。 |
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5.1.3 | 筆にまかせて書きすさびなさったのも、見所があって、美しそうである。 特に大して重々しくはない若い気持ちでは、 |
こんな歌もお添えになった筆まかせの書体もみごとであった。高い見識があるのでもない若い浮舟はこれにさえ多く動かされ、 |
【いと重くなどはあらぬ若き心地に】- 浮舟の思慮。 |
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5.1.4 | 「いとかかる |
「とてもこのような気持ちに惹かれるにちがいないが、初めから約束なさった様子も、やはり何といっても、あの方は、やはりとても思慮深く、人柄が素晴らしく思われたのなども、男女の仲を知った初めのうちだからであろうか、このような情けないことを聞きつけて、お疎みになったら、どうして生きていられようか。 |
その人と同じ恋しさも覚えたのであるが、初めに永久の愛の告げられた大将の言葉にはさすがに奥深いものがあり、他に優越した人格の備わっていることなども思われ、異性として親しんだ最初の人であるためか、今も一方へ没頭しきれぬ感情はあった。自分の醜聞が耳にはいって、あの人にうとまれては生きておられぬ気がする、 |
【いとかかる心を】- 以下「やうはありなむや」まで、浮舟の心中。 【初めより契りたまひしさまも】- 『完訳』は「薫とはじめて契り交したこと。以下、浮舟の心に即し、「かかるうきこと」あたりから直接話法」と注す。 【かかる憂きこと】- 匂宮との関係。 |
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5.1.5 | いつしかと かく よろづ |
早く殿に迎えられるようにと気を揉んでいる母親は、思いもかけないことで、気にくわないと、困ることであろう。 このように熱心になっていらっしゃる方は、また一方で、とても浮気なご性質とばかり聞いていたので、今は熱心であっても、またこのような状態で、京にお隠し据えなさっても、末長く情けをかける一人として思ってくださることにつけては、あの上がどのようにお思いになることやら。 何事も隠しきれない世の中なのだから、不思議な事のあった夕暮の縁だけで、このようにお尋ねになるようだ。 |
自分が幸福な女性になることを待ち続ける母も、不行跡な娘であったと幻滅を覚え、世間体を恥じることであろう、また現在は火の恋をお持ちになる方も、多情なお生まれつきを聞いているのであるから、どうお心が変わるかしれない、またそうにもならず京のどこかへ隠されて |
【かく心焦られしたまふ人】- 匂宮。 【いとあだなる御心本性】- 匂宮の好色な性癖。 【かかるほどこそあらめ】- 「こそあらめ」係結び、逆接用法。『完訳』は「熱中している間はともかく、やがて冷めてしまうだろう」と注す。 【かうながらも】- 秘密の関係のまま。 【かの上の思さむこと】- 中君。 |
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5.1.6 | まして、自分が宮にかくまわれることになっても、殿がお知りにならないことがあろうか」 |
姉である方に、自分がどうしているか、どんな恋愛からどうなったかが知れていかないはずはない |
【ともかくもあらむを】- 匂宮の隠妻の状態。 |
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5.1.7 | と次々と考えると、「自分ながら、まちがいがあって、あの殿に疎まれ申すのも、やはりつらいことであろう」とちょうど思い乱れている時、あの殿からお使者がある。 |
と、考えをたどっていけば、宮の御手へ将来をゆだねてしまうのは善事を行なうことでない、大将に愛されなくなるほうがどんなに苦痛であるかしれぬと煩悶している時に薫からの使いが山荘へ来た。 |
【わが心も】- 以下「いみじかるべし」まで、浮舟の心中。 【かの殿より】- 薫。 |
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第二段 その同じ頃、薫からも手紙が届く |
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5.2.1 | あれこれと見るのも嫌な気がするので、やはり長々とあった方を見ながら、臥せっていらっしゃると、侍従と、右近とが、顔を見合わせて、 |
かわるがわるに二人の男の消息を読むことは気恥ずかしくて、浮舟はまださっきの宮のほうの長い手紙ばかりを寝ながら見ていると、それと知って侍従と右近は顔を見合わせて、 |
【これかれと見るも】- 匂宮と薫との手紙。 【言多かりつるを】- 匂宮の手紙。 |
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5.2.2 | 「なほ、 |
「やはり、心が移ったわ」 |
姫君の心はのちの情人に移った |
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5.2.3 | など、 |
などと、声に出さないで目で言っている。 |
と言わないようで言っていた。 |
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5.2.4 | 「無理もないことです。 殿のご器量を、他にいらっしゃらないと見たが、こちらの宮のご容姿は大変なものでした。 おふざけになっていらした愛嬌は。 わたしならば、これほどのご愛情を見ては、とてもこうしていられません。 后の宮様にでも出仕して、いつも拝見していたい」 |
「ごもっともですわ。殿様は二人とない美男でいらっしゃると思っていましたのは前のことで、宮様はなんと申してもすぐれていらっしゃいますもの、お部屋着になっておいでになった時の |
【ことわりぞかし】- 以下「見たてまつりてむ」まで、侍従の詞。 【この御ありさまは】- 匂宮のご器量。 【后の宮にも参りて】- 明石中宮のもとに女房として出仕してでも常に拝していたい。 |
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5.2.5 | と |
と言う。 右近は、 |
こう言っているのは侍従である。 |
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5.2.6 | 「安心できないお方ですよ。 殿のご様子に勝る方は、誰がいらっしゃいましょうか。 器量などは知りませんが、お心づかいや感じなどがね。 やはり、このご関係は、とても見苦しいことですね。 どのようにおなりあそばそうとするのでしょうか」 |
「危険な人ね、あなたは。殿様よりすぐれた |
【うしろめたの御心のほどや】- 以下「いかがならせたまはむとすらむ」まで、右近の詞。 【誰れかあらむ】- 反語表現。右近は薫を称揚。 【容貌などは知らず、御心ばへけはひなどよ】- 薫の心配りや感じを強調。 【この御ことは】- 浮舟と匂宮との関係。 |
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5.2.7 | と、二人で相談する。 独りで考えるよりは、嘘をつくにもよい助けが出て来たのであった。 |
右近はこう言っていた。今まで一人で苦心をしていた時よりも侍従という仲間が一人できて、 |
【心一つに思ひしよりは】- 『完訳』は「右近一人より、嘘をつくにも好都合。右近が侍従をまきこむ」と注す。『湖月抄』は「草子地也」と指摘。『全集』は「諧謔的な語り口で、読者の緊張をときほぐす効果がある」と注す。 |
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5.2.8 | 後者のお手紙には、 |
あとから来たほうの手紙には、 |
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5.2.9 | 「思い続けながら幾日にもなったこと。 時々は、そちらからもお手紙をお書きになることが、理想的でしょう。 並々には思っていません」 |
思いながら行きえないで日を送っています。ときどきはあなたのほうから手紙で私を責めてくださるほうがうれしい。私の愛は決して浅いものではないのですよ。 |
【思ひながら】- 以下「おろかなるにやは」まで、薫の手紙。 |
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5.2.10 | など、 |
などと、端に、 |
などと書かれ、端のほうに、 |
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5.2.11 | 「川の水が増す宇治の里人はどのようにお過ごしでしょうか 晴れ間も見せず長雨が降り続き、 |
ながめやる はれぬながめにかきくらすころ |
【水まさる遠方の里人いかならむ--晴れぬ長雨にかき暮らすころ】- 薫から浮舟への贈歌。「をち」(宇治にある地名)と「遠方」、「眺め」と「長雨」の懸詞。浮舟の寂しさを思いやる。 |
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5.2.12 | いつもよりも、思うことが多くて」 |
平生以上にあなたの恋しく思われるころです。 |
【常よりも】- 以下「まさりてなむ」まで、歌に続けた手紙。 |
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5.2.13 | と、白い色紙で立文である。 ご筆跡もこまやかで美しくはないが、書き方は教養ありげに見える。 宮は、とても言葉数多いのを、小さく結んでいらっしゃるのは、それぞれに興趣深い。 |
とも書かれてあった。白い色紙を |
【白き色紙にて立文なり】- 白色の料紙、立文の形式は、恋文には用いない。『集成』は「儀礼や普通の用件の時の形式」と注す。 |
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5.2.14 | 「とりあえず、あれを。誰も見ていないうちに」 |
「さきのほうのお返事を、だれも見ませんうちにお書きなさいまし」 |
【まづ、かれを、人見ぬほどに】- 侍従の詞。先に匂宮に返事を書くように勧める。 |
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5.2.15 | と |
とお促し申す。 |
と右近は言ったが、 |
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5.2.16 | 「今日は、お返事申し上げることができません」 |
「宮様へ今日は何も申し上げる気はしない」 |
【今日は、え聞こゆまじ】- 浮舟の詞。 |
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5.2.17 | と恥じらって、手習に、 |
と恥じたふうで |
【手習に】- 『完訳』は「相手への返歌よりも、自らの思いを独詠的に書きつける趣」と注す。 |
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5.2.18 | 「里の名をわが身によそえると 山城の宇治の辺りはますます住みにくいことよ」 |
里の名をわが身に知れば山城の 宇治のわたりぞいとど住みうき |
【里の名をわが身に知れば山城の--宇治のわたりぞいとど住み憂き】- 浮舟の独詠歌。『細流抄』は「わが庵は都の巽しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」(古今集雑下、九八二、喜撰法師)を指摘。 |
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5.2.19 | 宮がお描きになった絵を、時々見ては自然涙がこぼれた。 「このまま末長く続くものではない」と、あれやこれやと考えてみるが、他には関係をすっかり断ってお逢いしないのは、とても耐えられなく思われるのであろう。 |
と書いていた。浮舟は宮の |
【ながらへてあるまじきことぞ】- 浮舟の思い。匂宮との関係は長く続くはずのないのも、の意。 【他に絶え籠もりてやみなむは、いとあはれにおぼゆべし】- 「おぼゆ」の主語は浮舟。「べし」の推量の主体は語り手。『完訳』は「以下、匂宮への断ちがたい執心。「--べし」は語り手の推測」と注す。 |
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5.2.20 | 「真っ暗になって晴れない峰の雨雲のように 空にただよう煙となってしまいたい |
かきくらし晴れせぬ峰のあま雲に 浮きて世をふる身ともなさばや |
【かき暮らし晴れせぬ峰の雨雲に--浮きて世をふる身をもなさばや】- 浮舟の匂宮への返歌。 |
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5.2.21 | 雲に混じったら」 |
【混じりなば】- 明融臨模本、朱合点。『源氏釈』は「行く舟の跡なき波にまじりなば誰かは水の泡とだに見む(新勅撰集恋四、九四一、読人しらず)。『異本紫明抄』は「白雲の晴れぬ雲居にまじりなばいづれかそれと君は尋ねむ」(出典未詳)を指摘。『玉の小櫛』は「ほととぎす峯の雲にやまじりにしありとは聞けど見るよしもなし」(古今集物名、四四七、平篤行)を指摘。 |
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5.2.22 | と申し上げたので、宮は、声を上げて泣かれる。 「死にたいとはいえ、恋しいと思っているらしい」とご想像なさるにも、物思いに沈んでいる様子ばかりが面影にお見えになる。 |
こう浮舟が書いてきたのを御覧になり、 |
【さりとも、恋しと思ふらむかし】- 匂宮の思い。 |
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5.2.23 | 真面目人間は、のんびりと御覧になりながら、「ああ、どのような思いでいるのだろう」と想像して、たいそう恋しい。 |
薫は余裕のある気持ちで浮舟から来た返事を読み、かわいそうにどんなに物思いをしているであろうと恋しく思った。 |
【まめ人は】- 薫。 【あはれ、いかに眺むらむ】- 薫の思い。 |
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5.2.24 | 「寂しくわが身を知らされる雨が小止みもなく降り続くので 袖までが涙でますます濡れてしまいます」 |
つれづれと身を知る雨のをやまねば 袖さへいとど |
【つれづれと身を知る雨の小止まねば--袖さへいとどみかさまさりて】- 浮舟から薫への返歌。明融臨模本、朱合点。『異本紫明抄』は「数々に思ひ思はず問ひがたみ身をしる雨は降りぞまされる」(古今集恋四、七〇五、在原業平)。『湖月抄』は「つれづれと長雨にまさる涙川袖のみ濡れて逢ふよしもなし」(古今集恋三、六一七、藤原敏行)を指摘。 |
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5.2.25 | とあるを、うちも |
とあるのを、下にも置かず御覧になる。 |
という歌を長く手から放たずながめ入っていたのであった。 |
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第三段 匂宮、薫の浮舟を新築邸に移すことを知る |
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5.3.1 | 女宮にお話などを申し上げた機会に、 |
薫は夫人の宮とお話をしていたついでに、 |
【女宮に】- 薫の正室の女二宮。 |
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5.3.2 | 「なめしともや |
「失礼なとお思いになるやもと、気がひけますが、そうはいっても古くからの女がございましたが、賤しい所に放って置いて、ひどく物思いに沈んでいるというのが気の毒なので、近くに呼び寄せて、と思っております。 昔から人とは異なった考えがございまして、世の中を、普通の人とは違って過ごそうと思っておりましたが、このようにご結婚申して、一途には世を捨てがたいので、そんな女がいるとは知らせなかった身分の低い者でさえ、気の毒で、罪障になりそうな気がいたしまして」 |
「無礼だとあなたがお思いにならぬかと不安に思いながら、ずっと以前から愛していました女が一人あるのです。京の |
【なめしともや】- 以下「罪得ぬべき心地して」まで、薫の詞。 【年経ぬる人】- 浮舟。長年付き合ってきた、の意。 【昔より異やうなる心ばへはべりし身にて】- 薫自身の性癖についていう。『完訳』は「「異やうなる心ばへ」「例の人ならで」は、現世に否定的な世捨人の姿勢。薫独自の自己主張」と注す。 【かく見たてまつるにつけて】- 女二宮との結婚生活をさす。 |
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5.3.3 | と、 |
と、申し上げなさると、 |
と浮舟のことを言い、また、 |
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5.3.4 | 「どのようなことをお考えおいていらっしゃるとも存じませんが」 |
「あなたのどんなことが私の苦痛になるものかまだ私は知らないのですもの」 |
【いかなることに心置くものとも知らぬを】- 女二宮の返事。『完訳』は「どんなことに気がねすべきものか分らぬ。嫉妬心はないとする。高貴な女性の常套的な応答」と注す。 |
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5.3.5 | と、いらへたまふ。 |
と、お返事なさる。 |
宮はこうお言いになった。 |
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5.3.6 | 「帝になど、良くないようにお耳に入れ申す人がございましょう。 世間の人の噂は、まことにつまらない良くないものでございますよ。 けれども、その女は、それほど問題にもならない女でございます」 |
「お |
【内裏になど】- 以下「はべるまじ」まで、薫の詞。 【それは】- 浮舟。 |
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5.3.7 | など |
などと申し上げなさる。 |
などと薫は言っていた。 |
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5.3.8 | 「 |
「新築した所に移そう」とお決めになったが、「このようなための家だったのだ」などと、ぱあっと言い触らす人がいようかなどと、困るので、たいそう人目に立たないようにして、襖障子を張らせることなど、人もあろうに、この大内記の妻の父親で、大蔵大輔という者に、親しいので気安く思って、命令なさっていたので、妻を介して聞き知って、宮にすっかり申し上げた。 |
新築させた |
【造りたる所に渡してむ】- 薫が京に新築中の邸。 【かかる料なりけり】- 女を迎えるための邸であったのか、の意。 【人しもこそあれ】- 『完訳』は「他にも人はあろうに。事の経緯に対する、語り手の評言」と注す。 【この内記が知る人の親、大蔵大輔なるものに】- 大内記の妻の父親で大蔵大輔という者。大蔵大輔は薫の家司。しかし、婿の大内記は匂宮の腹心の家来。 【聞きつぎて】- 主語は大内記。 |
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5.3.9 | 「絵師連中なども、御随身の中にいる者で、親しい家人などを選んで、隠れ家とはいっても特別にお気をつけてなさっています」 |
「絵師も大将の御随身の中にいますものとか、御従属しております人の中とかからお選びになりまして、さすがに歴としたお |
【絵師どもなども】- 以下「わざとなむせさせたまふ」まで、大内記の詞。 【御随身どもの】- 右大将薫の随身は六人。 【さすがに】- 隠れ家とはいっても、の意。 |
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5.3.10 | と申すので、ますます胸騷ぎがなさって、ご自分の乳母で、遠国の受領の妻となって下る家で、下京の方にあるのを、 |
と申すのをお聞きになって、いっそう宮はおあせりになり、御自身の |
【いとど思し騷ぎて】- 主語は匂宮。 【遠き受領の妻にて下る家】- 遠国の受領の妻となって下る予定の家。 |
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5.3.11 | 「ごくごく内密の女を、しばらく隠して置きたい」 |
「自分が世間へ知らせずに隠して置きたい女のためにしばらくその家を借りたい」 |
【いと忍びたる人、しばし隠いたらむ】- 匂宮の詞。 |
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5.3.12 | とご相談があったので、「どのような女であろうか」とは思うが、重大事とお思いでいられるのが恐れ多いので、「それではどうぞ」と申し上げた。 この家を準備なさって、少しお心が安心なさる。 今月の晦日頃に、下向する予定なので、「すぐその日に女を移そう」とご計画なさる。 |
と御相談になると、女とはどんな人なのであろうと乳母は思ったが、熱心に仰せられることであったから、お否み申し上げるのはもったいないように思われて承諾した。この家がお見つかりになったために宮は少し御安心をあそばされた。三月の末日に乳母は家を出るはずであったから、その日に宇治から恋人を移そうと計画をしておいでになるのであった。 |
【いかなる人にかは】- 受領の思い。 【さらば】- 受領の詞。 【この月の晦日方に】- 受領らは三月末方に下向の予定。 |
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5.3.13 | 「これこれと思っている。 決して他人に気づかれてはならぬ」 |
こう思っている、秘密に秘密にしてお置きなさい |
【かくなむ思ふ。ゆめゆめ】- 匂宮の詞。他言を禁じる。 |
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5.3.14 | と |
と言いやりなさっては、ご自身がお出向きになることは、とても難しいところに、こちら宇治でも、乳母がとてもうるさいので、難しい旨をお返事申し上げる。 |
と書いておやりになったのであるが、御自身で宇治へおいでになることは至難のことになっていた。山荘のほうからも乳母は気のはしこくつく女であるからお迎えすることは不可能であると右近が書いてきた。 |
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第四段 浮舟の母、京から宇治に来る |
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5.4.1 | 「 |
大将殿は、四月の十日とお決めになっていた。 「誘ってくれる人がいたらどこへでも」とは思わず、とても変で、「どうしたらよい身の上だろうか」と浮いたような気持ちばかりがするので、「母親のもとにしばらく出かけていたら、思案する時間があろう」とお思いになるが、少将の妻が、子供を産む時期が近づいたということで、修法や、読経などでひっきりなしに騒がしいので、石山寺にも出かけるわけにゆかず、母親がこちらにお越しになった。 乳母が出て来て、 |
薫からは四月十日と移転の日をきめて来た。「誘ふ水あらばいなんとぞ思ふ」とは思われないで、女はいかに進退すべきかに迷い、不安さに母の所へしばらく行ってよく考えを定めればいいであろうと思われたが、少将の妻になっている |
【誘ふ水あらば」とは】- 明融臨模本、朱合点。『源氏釈』は「わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」(古今集雑下、九三八、小野小町)を指摘。 【浮きたる心地のみすれば】- 浮舟の心理。 【少将の妻、子産むべきほど近くなりぬ】- 左近少将の妻。浮舟の異父妹。昨年の八月頃に結婚。この五月頃に出産予定。 |
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5.4.2 | 「殿から、女房の衣装なども、こまごまとご心配いただきました。 何とかきれいに何事も、と存じておりますが、乳母独りのお世話では、不十分なことしかできませんでございましょう」 |
「殿様のほうから、女房たちの衣装をこまごまと気をおつけになりましてたくさんな材料をくださいましたから、どうかしてきれいな体裁をととのえたいと思っておりますけれど、私の頭で考えますことではろくなことはできそうにございません」 |
【殿より、人びとの】- 以下「はべらむかし」まで、乳母の詞。 |
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5.4.3 | などとはしゃいでいるのが、気持ちよさそうなのを御覧になるにつけても、女君は、 |
などと得意そうに語る。母もうれしそうであった。 |
【見たまふにも】- 主語は浮舟。 |
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5.4.4 | 「けしからぬことどもの あやにくにのたまふ なほ、 |
「とんでもない事がいろいろと起こって、物笑いになったら、誰も彼もがどのように思うであろう。 無理無体におっしゃる方は、また、幾重にも山深い所に隠れても、必ず探し出して、自分も宮も身を破滅してしまうだろう。 やはり、気楽な所に隠れることを考えなさいと、今日もおっしゃっているが、どうしたらよいだろう」 |
浮舟の姫君は逃亡というような意外なことを自分が起こして問題になれば、この人たちはどんなにかなしむことであろう。一方の宮はまたどんな深い山へはいろうとも必ずお捜し出しになり、しまいには自分もあの方も社会的に葬られる結果になるであろう、自分の手へ来て隠れるようにとは |
【けしからぬことども】- 以下「いかにせむ」まで、浮舟の心中。 【あやにくにのたまふ人】- 匂宮。 【八重立つ山に】- 明融臨模本、朱合点。『源氏釈』は「白雲の絶えずたなびく峯にだに住めば住みぬる世にこそありけれ」(古今集雑下、九四五、惟喬親王)。『異本紫明抄』は「白雲の八重立つ山にこもるとも思ひ立ちなば尋ねざらめやは」(出典未詳)を指摘。 【我も人も】- 自分も匂宮も。 【なほ、心やすく隠れなむことを思へ】- 匂宮からの文面の主旨。匂宮の隠れ家に移すことをいう。 |
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5.4.5 | と、 |
と、気分が悪くて臥せっていらっしゃった。 |
と思い、気分までも悪くなり横になっていた。 |
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5.4.6 | 「どうして、このようにいつもと違って、ひどく青く痩せていらっしゃるのでしょうか」 |
「どうしてそんなに平生と違って顔色が悪く、 |
【などか、かく】- 以下「青み痩せたまへる」まで、浮舟母の詞。 |
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5.4.7 | と |
と驚きなさる。 |
と母は浮舟を見て驚いていた。 |
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5.4.8 | 「ここ幾日も妙な具合ばかりです。 ちょっとした食事も召し上がらず、苦しそうにおいであそばします」 |
「このごろずっとそんなふうでいらっしゃいまして、物は召し上がりませんし、お苦しそうにばかりしていらっしゃるのでございます」 |
【日ごろあやしくのみなむ】- 以下「悩ましげにせさせたまふ」まで乳母の詞。 |
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5.4.9 | と言うと、「不思議なことだわ。 物の怪などによるのであろうか」と、 |
乳母はこう告げた。「怪しいことね。 |
【あやしきことかな。もののけなどにやあらむ】- 浮舟母の心中。 |
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5.4.10 | 「どのようなご気分かと心配ですが、石山詣でもお止めになった」 |
あるいはと思うこともあるけれど、石山 |
【いかなる御心地ぞ】- 以下「たまひにきかし」まで、浮舟母の詞。 |
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5.4.11 | と |
と言うのも、いたたまれない気がするので、まともに目を合わせられない。 |
と言われている時片腹痛さで伏し目になっている姫君だった。 |
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第五段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う |
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5.5.1 | 日が暮れて月がたいそう明るい。 有明の空を思い出すと、「涙がますます抑えがたいのは、まことにけしからぬ心がけだ」と思う。 母君、昔話などをして、あちらの尼君を呼び出して、亡くなった姫君のご様子、思慮深くいらして、しかるべき事柄をお考えになっていた間に、目の前でお亡くなりになったことなどを話す。 |
夜になって月が明るく出た。川の上の |
【有明の空を思ひ出づる】- 橘の小島での思い出。 【あなたの尼君】- 渡廊にいる弁尼。 【故姫君の御ありさま】- 故大君の生前の様子。 |
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5.5.2 | 「生きていらっしゃったら、宮の上などのように、親しくお話し合いさって、心細かった方々のご境遇が、とてもこの上なくお幸せでございましたでしょうに」 |
「生きておいでになりましたら、宮の奥様の所と同じにおつきあいをあそばすことができまして、ただ今まで御苦労の多うございましたのを、お取り返しになれますほどおしあわせにおなりあそばされたのでしょうに」 |
【おはしまさましかば】- 以下「はべらましかまし」まで、弁尼の詞。『完訳』は「存命ならば中の君同様に薫と結ばれていたろうと推量。これが、浮舟の運命に過敏な母を刺激する」と注す。 【宮の上】- 中君。 |
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5.5.3 | と言うにつけても、「自分の娘とて他人ではない。 思い通りの運命がお続きになったら、負けるまいに」と思い続けて、 |
尼のこの言葉を常陸夫人は喜ばなかった。自分の娘も八の宮の王女である、これから願っていたような幸福の道を進んで行ったならば二人の女王に劣る人とは見えぬはずであるなどという空想をして、 |
【わが娘は】- 以下「劣らじを」まで、浮舟母の心中。 |
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5.5.4 | 「 かかる |
「いつもいつも、この君の事では、何かと心配ばかりしてきましたが、様子が少しよくなって、このように京にお移りなるようですから、こちらにやって参ること、特別にわざわざ思い立つこともございますまい。 このようなお目にかかった折々に、昔の話を、のんびりと承りたく存じます」 |
「ずっとこの方では苦労をし続けてきたのですが、少しそれがゆるんで大将さんのところへ迎えられて行くことになりましたら、ここへ私の出てまいるようなこともあまりできますまい。まあ今のうちに昔のお話をゆるりとしておくことだと思うのですがね」 |
【世とともに】- 以下「まほしけれとも」まで、浮舟母の詞。 |
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5.5.5 | など |
などと話す。 |
などと言っていた。 |
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5.5.6 | 「ゆゆしき |
「縁起でもない身の上とばかり存じておりましたので、こまごまとお目にかかってお話し申し上げますのも、どんなものかしらと、遠慮して過ごしてまいりましたが、見捨てて、お移りになりましたら、とても心細くございましょうが、このようなお住まいは、不安にばかり拝見してましたので、嬉しいことでございますね。 又となく重々しくいらっしゃるらしい殿のご様子で、このようにお訪ね申し上げなさったのも、並々な愛情ではないと申し上げたことがございましたが、いい加減なことで、ございましたでしょうか」 |
「私などは縁起でもない |
【ゆゆしき身とのみ】- 以下「ことにやははべりける」まで、弁尼の詞。 【こまやかに見えたてまつり聞こえさせむも】- 弁尼が浮舟に。 【かかる御住まひは】- 宇治での生活。 【聞こえおきはべりにし】- 『完訳』は「弁は、薫の意向の伝達役であった。彼女は母君に、浮舟の幸運が誰のおかげかと言いたい気持」と注す。 |
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5.5.7 | など |
などと言う。 |
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5.5.8 | 「 |
「先の事は分かりませんが、ただ今は、このようにお見捨てになることなくおっしゃるにつけても、ただお導きによるものと思い出し申し上げております。 宮の上が、もったいなくもお目をかけてくださいましたのも、遠慮されることなどが、自然とございましたので、中途半端で身の置き所のない方だ、と嘆きまして」 |
「まああとのことはわかりませんが、現在はまあこうした御親切をお見せくださるものですから、最初いろいろとお骨を折ってくださいましたあなたの御恩が思われます。宮の奥様はもったいないほどこの方を愛してあげてくださいましたのですが、あちらではめんどうが少し起こりかけましてね、ごやっかいにならせてお置きすることもできませんで、行きどころのないような孤独の方になっておいでになったので私は心配しておりましたがねえ」 |
【後は知らねど】- 以下「思ひ嘆きはべりて」まで、浮舟母の詞。 【ただ御しるべを】- 弁尼の導き。 【宮の上の】- 中君。 【つつましきことなどの】- 二条院で匂宮が浮舟に言い寄ったこと。 【中空に所狭き御身なり】- 浮舟の身。 |
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5.5.9 | と |
と言う。 尼君はにっこりして、 |
尼は笑って、 |
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5.5.10 | 「この宮の、とてもうるさいほどに好色でいらっしゃるので、分別のある若い女房は、お仕えにくそうで。 だいたいは、とても素晴らしいご様子ですが、その方面のことで、上が失礼なとお思いになるのが困ったことだと、大輔の娘が話しておりました」 |
「あの宮様は騒がしいくらい御多情な方でね、 |
【この宮の】- 以下「語りはべりし」まで、弁尼の詞。 【大輔が娘】- 『集成』は「大輔は中の君づきの女房。その娘の右近である。この巻の右近とは別人」と注す。 |
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5.5.11 | と言うにつけても、「やはりそうか、それ以上にわたしは」と、女君は臥せって聞いていらっしゃった。 |
こう言うのを、女房ですらその遠慮はするのである、まして自分は夫人の妹でないかと思いながら、横たわった浮舟は聞いていた。 |
【さりや、まして】- 浮舟の心中。『集成』は「女房でさえ中の君を憚るのだから、血を分けた妹はまして、と思う」と注す。 |
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第六段 浮舟、母と尼の話から、入水を思う |
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5.6.1 | 「あな、むくつけや。 よからぬことをひき |
「まあ、嫌らしいこと。 帝のお姫様をお持ちになっていらっしゃる方ですが、他人なので、良いとも悪いともお咎めがあろうとなかろうと、しかたのないことと、恐れ多く存じております。 良くない事件を引き起こしなさったら、すべてわが身にとっては悲しく大変なことだとお思い申し上げても、二度とお世話しないでしょう」 |
「まあこわい話ですね。大将さんは内親王様を奥様に持っておいでになりましても、この方とは縁の遠い奥様ですもの、悪くお思われになっても、よくても、それはどちらでもともったいないことですが思っています。二条の院の奥様に苦労をおかけ申すようなことをこの方がなさいましたら、私はどんなにこの方がかわいそうでも二度と逢うことはいたしますまい、他人になりますよ」 |
【あな、むくつけや】- 以下「見たてまつらざらまし」まで、浮舟母の詞。 【帝の御女を持ちたてまつりたまへる人】- 薫。女二宮と結婚。 【よからぬことをひき出でたまへらましかば】- 二条院での匂宮との一件を念頭に言う。「ましかば--まし」反実仮想の構文。もし匂宮との関係が生じたら母娘の縁を切るというニュアンス。 |
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5.6.2 | などと話し合っている内容に、ますます胸も潰れる思いがした。 「やはり、自殺してしまおう。 最後は聞きにくいことがきっと出て来ることだろう」と思い続けると、この川の水の音が恐ろしそうに響いて流れて行くのを、 |
母が尼に話すこの言葉で肝も砕かれたように浮舟の姫君は思った。やはり自殺をすることにしよう。このままでは自分の醜聞が広がってしまうに違いない、どんなことが自分のために起こるかもしれぬなどと、姫君が胸をおさえて思っている山荘の外には宇治川が恐ろしい水音を響かせて流れて行くのを、常陸夫人は聞いて、 |
【いとど心肝もつぶれぬ】- 主語は浮舟。 【なほ、わが身を失ひてばや。つひに聞きにくきことは出で来なむ】- 浮舟の心中の思い。『完訳』は「死ぬほかないと、はじめて決意。「なほ」は、今までも死が脳裏をかすめていたが、の気持」と注す。 |
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5.6.3 | 「こんな恐ろしくない流れもありますのにね。 又となく荒々しい川の所に、歳月をお過ごしになるのを、不憫とお思いになるのも当然のこと」 |
「川といってもこんなこわい気のするものばかりでもありませんのにね、ひどくすごい所に長く置いておおきになったのですもの、大将さんが同情して京へ迎えてくださるのがもっともですよ」 |
【かからぬ流れも】- 以下「わざになむ」まで、浮舟母の詞。 【あはれと思しぬべき】- 主語は薫。 |
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5.6.4 | など、 |
などと、母君は得意顔で言っていた。 昔からこの川の早くて恐ろしいことを言って、 |
そう言う常陸夫人は得意そうであった。女房たちも川の水勢の荒いことなどを言い合い、 |
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5.6.5 | 「最近、渡守の孫の小さい子が、棹を差し損ねて川に落ちてしまいました。 ぜんたい命を落とす人が多い川でございます」 |
「先日も |
【先つころ】- 以下「水にはべり」まで、女房の詞。 |
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5.6.6 | と、 |
と、女房も話し合っていた。 女君は、 |
などと言っていた。 |
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5.6.7 | 「それにしても、わが身の行く方が分からなくなったら、誰も彼もが、あっけなく悲しいと、しばらくの間はお思いになるであろうが、生き永らえて物笑いになって嫌な思いをするのは、いつ物思いがなくなるというのだろう」 |
浮舟の姫君は今思っているように自分が行くえを不明にして死んでしまえば、親もだれも当分は力を落として悲しがるであろうが、生きていて世間の物笑いに自分がされるようであればその時の悲しみは短時日で済まず永久に続くことであろう、 |
【さても、わが身】- 以下「もの思ひの絶えむとする」まで、浮舟の心中の思い。 |
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5.6.8 | と、死を考えつくと、何の支障もないように、さっぱりと何事も思われるが、また考え直すと実に悲しい。 母親がいろいろと心配し言っている様子に、寝たふうをしながらつくづくと思い心乱れる。 |
死ぬほうがよいと考えてみると、そのほうには故障があるとは思えず快く決行のできる気になるもののまた悲しくはあった。母の愛情から出る言葉を寝たようにして聞きながら浮舟は思い乱れていた。 |
【障りどころもあるまじく】- 『完訳』は「死ぬのに何の支障もなさそう」と注す。 |
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第七段 浮舟の母、帰京す |
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5.7.1 | 悩ましそうに臥せっていらっしゃるのを、乳母にも言って、 |
いたましいふうに痩せてしまったことを乳母にも言い、適当な |
【悩ましげにて】- 浮舟の様子。 |
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5.7.2 | 「しかるべき御祈祷などをなさいませ。 祭や祓などもするように」 |
「恋せじと |
【さるべき御祈りなど】- 以下「すべきやう」まで、浮舟母の詞の主旨。 |
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5.7.3 | などと言う。 御手洗川で禊をしたい恋の悩みなのに、そうとも知らずにいろいろと言い騒いでいる。 |
そんな禊もさせたい人であるのを知らない人たちがいろいろに言って騒いでいるのである。 |
【御手洗川に禊せまほしげなるを】- 明融臨模本、朱合点。『源氏釈』は「恋せじと御手洗河にせし禊神はうけずもなりにけるかな」(古今集恋一、五〇一、読人しらず)を指摘。 |
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5.7.4 | 「 よくさるべからむあたりを やむごとなき |
「女房が少ないようだ。 よい適当な所から尋ねて。 新参者は残しなさい。 高貴な方とのご交際は、ご本人は何事もおっとりとお思いでしょうが、良くない仲になってしまいそうな女房どうしは、厄介な事もきっとありましょう。 表立たず控え目にして、そのような用心をなさい」 |
「女房の数が少ないようですね。確かに信用のできる人を捜しておくことですね。見ず知らずの女は当分雇わないことにしなさいよ。りっぱな方の奥様どうしというものは、御本人たちは寛大な態度をとっていらっしゃっても、 |
【人少ななめり】- 以下「さる心したまへ」まで、浮舟母の詞。 |
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5.7.5 | など、 |
などと、気のつかないことがないまでに注意して、 |
などと、注意のし残しもないように言い置いてから、 |
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5.7.6 | 「あちらで病んでおります人も、気がかりです」 |
「家で寝ている人も気がかりだから」 |
【かしこにわづらひはべる人も、おぼつかなし】- 浮舟母の詞。 |
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5.7.7 | と言って帰るのを、とても物思いとなり、何事につけ悲しいので、「再びと会わずに、死んでしまうのか」と思うと、 |
と言い、母の帰ろうとするのを、物思いの多い心細い浮舟は、もうこれかぎり逢うこともできないで死ぬのかと悲しんだ。 |
【またあひ見でもこそ、ともかくもなれ】- 浮舟の心中の思い。再び母親に逢えないのでないか、という気持ち。 |
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5.7.8 | 「気分が悪うございましても、お目にかかれないのが、とても不安に思われますので、少しの間でもお伺いしていたく存じます」 |
「 |
【心地の悪しくはべるにも】- 以下「参り来まほしくこそ」まで、浮舟の詞。 【参り来まほしくこそ】- 主語は浮舟。 |
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5.7.9 | と |
と慕う。 |
別れにくそうに言うのであった。 |
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5.7.10 | 「そのように思いましても、あちらもとても何かと騒がしくございます。 こちらの女房たちも、ちょっとしたことなどできそうもない、狭い所でございますので。 武生の国府にお移りになっても、こっそりとお伺いしますから。 人数ならぬ身の上では、このようなお方のために、お気の毒でございます」 |
「私もそうさせたいのだけれど、 |
【さなむ思ひはべれど】- 以下「いとほしくはべれ」まで、浮舟母の詞。 【武生の国府に】- 明融臨模本、朱合点。『源氏釈』は「道の口 武生のこふに 我はありと 親に申したべ 心あひの風や さきむだちや」(催馬楽、道口)を指摘。 |
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5.7.11 | など、うち |
などと、泣きながらおっしゃる。 |
と母は泣きながら言っていた。 |
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第六章 浮舟と薫の物語 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う |
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第一段 薫と匂宮の使者同士出くわす |
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6.1.1 | 殿のお手紙は今日もある。 気分が悪いと申し上げていたので、「いかがな具合ですか」と、お見舞いくださった。 |
【殿の御文は】- 薫からの手紙。 |
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6.1.2 | 「自分自身でと思っておりますが、止むを得ない支障が多くありまして。 待っている間の身のつらさが、かえって苦しい」 |
自身で行きたいのですが、いろいろな用が多くて実行もできません。近いうちにあなたを迎えうることになって、かえって時間のたつことのもどかしさに気のあせるのを覚えます。 |
【みづからと思ひはべるを】- 以下「なかなか苦しく」まで、薫の手紙。 |
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6.1.3 | などあり。 |
などとある。 宮は、昨日のお返事がなかったのを、 |
こんなことも書かれてあった。 |
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6.1.4 | 「どのようにお迷いになっているのか。 思わぬ方に靡くのかと気がかりです。 ますますぼうっとして物思いに耽っております」 |
まだ迷っているのですか、「風の |
【いかに思しただよふぞ】- 以下「眺めはべる」まで匂宮の手紙。 【風のなびかむ方も】- 明融臨模本、朱合点。『異本紫明抄』は「浦風になびきにけりな里のあまのたくもの煙心弱さに」(後拾遺集恋二、七〇六、藤原実方)。『弄花抄』は「須磨のあまの塩焼く煙風をいたみ思はぬ方にたなびきにけり」(古今集恋四、七〇八、読人しらず)を指摘。 |
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6.1.5 | など、これは |
などと、こちらはたくさんお書きになっていた。 |
などとこのほうは長かった。 |
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6.1.6 | 雨が降った日、来合わせたお使い連中が、今日も来たのであった。 殿の御随身は、あの少輔の家で時々見る男なので、 |
この前の前、雨の降った日に山荘で落ち合った使いがまたこの日出逢うことになって、大将の随身は式部 |
【雨降りし日、来合ひたりし御使どもぞ】- 前に「雨降りやまで日頃多くなるころ」とあった、晩春三月の春雨の中、来合わせた使者たち。 【殿の御随身、かの少輔が家にて時々見る男なれば】- 薫の随身は、相手が式部少輔兼大内記道定の家で時々会う下男だったので、の意。 |
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6.1.7 | 「あなたは、何しに、こちらに度々参るのですか」 |
「あんたは何の用でたびたびここへ来るのかね」 |
【真人は、何しに、ここにはたびたびは参るぞ】- 薫の使者随身の詞。 |
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6.1.8 | と |
と尋ねる。 |
と |
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6.1.9 | 「私用で尋ねる人のもとに参るのです」 |
「自分の知った人に用があるもんだから」 |
【私に訪らふべき人のもとに参うで来るなり】- 匂宮の使者の詞。 |
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6.1.10 | と |
と答える。 |
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6.1.11 | 「私用の相手に、恋文を届けるとは、不思議な方ですね。 隠しているのはなぜですか」 |
「自分の知った人に |
【私の人にや】- 以下「もの隠しはなぞ」まで、随身の詞。 |
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6.1.12 | と |
と尋ねる。 |
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6.1.13 | 「本当は、わたしの主人の守の君が、お手紙を、女房に差し上げなさるのです」 |
「 |
【まことは、この守の君の】- 以下「たてまつりたまふ」まで、使者の詞。「守の君」は、主人の国司(出雲権守)の君の意、時方。 |
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6.1.14 | と |
と言うので、返事が次々変わるので変だと思うが、ここではっきりさせるのも変なので、それぞれが参上した。 |
随身は想像と違ったこの答えをいぶかしく思ったがどちらも山荘を辞して来た。 |
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第二段 薫、匂宮が女からの文を読んでいるのを見る |
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6.2.1 | かどかどしき |
才覚のある者なので、供に連れている童を、 |
随身は |
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6.2.2 | 「この男に、気づかれないように後をつけよ。 左衛門大夫の家に入るかどうか」 |
「あの男のあとを知らぬ顔でつけて行け、どの |
【この男に】- 以下「家にや入る」まで、随身の詞。 【左衛門大夫の家】- 左衛門大夫、時方の家。 |
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6.2.3 | と |
と跡付けさせたところ、 |
と命じてやった。 |
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6.2.4 | 「宮邸に参って、式部少輔に、お手紙を渡しました」 |
さきの使いは兵部卿の宮のお邸へ行き、式部少輔に返事の手紙を渡していた |
【宮に参りて、式部少輔に】- 以下「取らせはべりつる」まで、童の詞。匂宮邸に参上して、式部少輔兼大内記道定に。 |
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6.2.5 | と言う。 そこまで調べるものとは、身分の低い下衆は考えず、事情を深く知らなかったので、随身に発見されたのは、情けない話である。 |
と小侍は帰って来て報告した。それほどにしてうかがわれているとも宮のほうの侍は気がつかず、またどんな秘密があることとも知らなかったので |
【さまで尋ねむものとも】- 以下「口惜しきや」まで、語り手の評言。『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。 【舎人の人に】- 『集成』は「薫の使者の随身のこと。「舎人」は、近衛の舎人、また近衛府の将監(三等官)以下が勤める。「舎人の人」は「劣りの下衆」に対して、いっぱしの舎人、といった気持。以下「くちをしきや」まで、草子地」と注す。 |
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6.2.6 | 殿に参上して、今お出かけになろうとするときに、お手紙を差し上げさせる。 直衣姿で、六条の院に、后宮が里下がりあそばしている時なので、お伺いなさるものだから、仰々しく、御前駆など大勢はいない。 お手紙を取り次ぐ人に、 |
随身は大将の邸へ行き、ちょうど出かけようとしている薫に、返事を人から渡させようとした。今日は |
【殿に参りて】- 随身が薫邸に。 【今出でたまはむとするほどに】- 薫が自邸を。 【六条の院】- 明融臨模本は「六条の院」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「六条の院に」と「に」を補訂する。『新大系』は底本のまま「六条の院」とする。 【后の宮】- 明石中宮。 |
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6.2.7 | 「不思議な事がございました。 はっきりさせようと思って、今までかかりました」 |
「妙なことがあったものですから、よく調べてと思いましてただ今までかかりました」 |
【あやしきことの】- 以下「さぶらひつる」まで、随身の詞。 |
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6.2.8 | と |
と言うのを、ちらっとお聞きになって、お歩きになりながら、 |
と言っているのを片耳にはさみながら、乗車するために出て来た薫が、 |
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6.2.9 | 「 |
「どのような事か」 |
「何かあったか」 |
【何ごとぞ】- 薫の詞。 |
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6.2.10 | とお尋ねになる。 この取り次ぎが聞くのも憚れると思って、遠慮している。 殿もそうとお察しになって、お出かけになった。 |
と聞いた。取り次いだ人もいることであったから随身は黙ってかしこまってだけいた。様子のありそうなことであると見たが薫はこのまま出かけてしまった。 |
【この人の】- 取次の人。 |
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6.2.11 | 后宮は、御不例でいらっしゃるということで、親王方もみな参上なさっていた。 上達部など大勢お見舞いに参っていて、騒がしいけれど、格別変わった御容態でもない。 |
【宮、例ならず】- 明石中宮。 【宮たちも】- 明石中宮腹の親王たち。 |
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6.2.12 | かの この |
あの大内記は太政官の役人なので、後れて参った。 あのお手紙を差し上げるのを、匂宮が、台盤所にいらして、戸口に呼び寄せてお取りになるのを、大将は、御前の方からお下がりになる、その横目でお眺めになって、「熱中なさっている手紙の様子だ」と、その興味深さに目がお止まりになった。 |
内記は太政官の吏員であったから、役向きのことが忙しかったのかおそくなって出て来た。そして宇治の返事の来たのを宮に、 |
【かの内記は、政官なれば】- 『集成』は「あの大内記は太政官の役人なので(公務多端のため)遅くなって参上した。浮舟の返書を届けるのが遅れて、今に到ったことの説明」と注す。 【この御文も】- 浮舟からの返書。大内記は前に使者から渡されていたもの。 【大将】- 薫。 【せちにも思すべかめる文のけしきかな】- 薫の匂宮を見ての感想。 |
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6.2.13 | 「 |
「開いて御覧になっているのは、紅の薄様に、こまごまと書いてあるらしい」と見える。 手紙に夢中になって、すぐには振り向きなさらないので、大臣も席を立って外に出てにいらっしゃるので、この君は、襖障子からお出になろうとして、「大臣がお出になります」と咳払いをして、ご注意申し上げなさる。 |
宮は引きあけて読んでおいでになる、紅の |
【引き開けて見たまふ】- 匂宮は浮舟からの手紙を。 【紅の薄様に、こまやかに書きたるべし】- 薫の推測。「紅の薄様」は恋文の体裁。 【大臣も】- 夕霧。係助詞「も」は同類、薫に続いての意。 【この君は】- 薫。 【驚かいたてまつりたまふ】- 薫は匂宮に。 |
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6.2.14 | ちょうどお隠しになったところへ、大臣が顔をお出しになった。 驚いて襟元の入紐をお差しになる。 殿は膝まずきなさって、 |
これで宮がお隠しになったあとへ都合よく大臣は来ることになった。宮は驚いたふうに |
【殿つい居たまひて】- 夕霧は匂宮に敬意を表して膝まずく。 |
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6.2.15 | 「退出いたしましょう。 御物の怪が久しくお起こりになりませんでしたが、恐ろしいことですね。 山の座主を、さっそく呼びにやりましょう」 |
「私はもう下がってまいろうと思います。いつもの |
【まかではべりぬべし】- 以下「遣はさむ」まで、夕霧の詞。 【山の座主】- 比叡山の天台座主。 |
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6.2.16 | と、 |
と、忙しそうにお立ちになった。 |
とだけ言い、忙しそうに立って行った。 |
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第三段 薫、随身から匂宮と浮舟の関係を知らされる |
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6.3.1 | 夜が更けて、みな退出なさった。 大臣は、宮を先にお立て申し上げになって、大勢のご子息の上達部や、若君たちを引き連れて、あちらにお渡りになった。 この殿は遅れてお出になる。 |
夜のふけたころだれも皆六条院から退出した。左大臣は宮をお先立てして幾人もの子息の高官、殿上人を率いていて東の御殿へ行った。右大将はそれに少し遅れて自邸へ帰るのであった。 |
【あなたに渡りたまひぬ】- 同じ六条院の東北の町に。 【この殿は】- 薫。 |
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6.3.2 | 随身がいわくありげな顔をしていたのを、何かあるとお思いになったので、御前駆たちが引き下がって松明を燈すころに、随身を呼び寄せる。 |
随身が告げることのありそうなふうであったのを怪しく思っていたから、前駆の人たちなどが馬からおりて |
【御前など下りて火灯すほどに】- 前駆の者が御前を引き下がって松明の用意をする。 |
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6.3.3 | 「先程申したことは、何事か」 |
「さっきの話はどんなことか」 |
【申しつるは、何ごとぞ】- 薫の詞。 |
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6.3.4 | と |
とお尋ねになる。 |
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6.3.5 | 「 |
「今朝、あの宇治に、出雲権守時方朝臣のもとに仕えている男が、紫の薄様で、桜に付けた手紙を、西の妻戸に近寄って、女房に渡しました。 それを拝見しまして、これこれしかじかと尋ねましたら、返事がころころと変わり、嘘のような返事を申しましたので、どうしてそう申すのかと、子どもを使って後をつけさせましたところ、兵部卿宮邸に参りまして、式部少輔道定朝臣に、その返事を渡しました」 |
「 |
【今朝、かの宇治に】- 以下「取らせはべりける」まで、随身の詞。 【出雲権守時方朝臣のもとにはべる男の】- 出雲権守時方朝臣に仕える下男。時方は左衛門大夫兼出雲権守であることが初めて記される。 |
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6.3.6 | と |
と申す。 君は、変だとお思いになって、 |
と言う。薫は不思議なことであると思い、 |
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6.3.7 | 「その返事は、どのようにして、返したか」 |
「その返事をあちらではどんなふうにして出したか」 |
【その返り事は、いかやうにしてか、出だしつる】- 薫の詞。 |
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6.3.8 | 「それは拝見できませんでした。 別の方から出しました。 下人の申したことでは、赤い色紙で、とても美しいもの、と申しました」 |
「それは見なかったのでございます。別の戸口から出して渡したらしいのでございます。下人から聞きますと赤い色紙のきれいなものだったと申すことです」 |
【それは見たまへず】- 以下「申しはべりつる」まで、随身の詞。 |
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6.3.9 | と申し上げる。 お考え合わせになると、ぴったりである。 そこまで見届けさせたのを、気が利いているとお思いになるが、人びとが近くにいるので、詳しくはおっしゃらない。 |
この言葉から思い合わせると、宮の見ておいでになった文がそれに相違ないと薫は思った。そんなにまで苦心をして調べ出して来たのは気のきいた男であると思ったが、人がすでに集まって来ていたからそれ以上の細かいことは言わせずに済ませた。 |
【思し合はするに】- 先程見た匂宮が手にしていた「紅の薄様」とこの「赤き色紙」を比較。 |
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第四段 薫、帰邸の道中、思い乱れる |
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6.4.1 | いかなりけむついでに、さる いかで さても、 |
帰途、「やはり、実に油断のならない、抜け目なくいらっしゃる宮であるよ。 どのような機会に、そのような人がいるとお聞きになったのだろう。 どのようにして言い寄りなさったのだろう。 田舎めいた所だから、このような方面の過ちは、けっして起こるまい、と思っていたのが浅はかだった。 それにしても、わたしに関わりのない女には、そのような懸想をなさってもよいが、昔から親しくして、おかしいまでに手引して、お連れ申して歩いた者に、裏切ってそのような考えを持たれてよいものであろうか」 |
薫は車で来る |
【なほ、いと恐ろしく】- 以下「思し寄るべしや」まで薫の心中の思い。 【田舎びたるあたりにて】- 宇治は都から遠い田舎なので。 【知らぬあたりにこそ】- 自分に関わりのない女。係助詞「こそ」は「のたまはめ」に係る、逆接用法。 【うしろめたく思し寄るべしや】- 『集成』は「人を裏切ってそんな考えを持たれてよいものか」。『完訳』は「やましい了簡を起されてよいものか」と訳す。 |
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6.4.2 | と |
と思うと、まことに気にくわない。 |
と思うと不快でならなかった。 |
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6.4.3 | 「 さるは、それは、 もとよりのたよりにもよれるを、ただ |
「対の御方のことを、たいそういとしく思いながらも、そのまま何年も過ごして来たのは、自分の慎重さが、深かったからだ。 また一方では、それは今始まった不体裁な恋情ではない。 もともとの経緯もあったのだが、ただ心の中に後ろ暗いところがあっては、自分としても苦しいことになると思ってこそ、遠慮していたのも愚かなことであった。 |
西の対の夫人を非常に恋しく思いながら、ある線を越えて行かない自分はりっぱでないか、しかも親密にするのは宮家へはいってからの夫人としてではない、宮に対してやましい思いをお持ちするのがいやで、恋しい心を抑制しているのは愚かなことであったかも知れぬ、 |
【対の御方の】- 以下「いといとほしげなりきかし」まで、薫の心中の思い。 【今初めてさま悪しかるべきほどにもあらず】- 『完訳』は「今始った不体裁な恋でなく」と訳す。 【もとよりのたよりにもよれるを】- 故大君が中君を結婚相手に譲り、また中君と一夜を共にしたこともある、という意。 |
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6.4.4 | このころかく おはしやそめにけむ。 いと あやしくて、おはし さやうのことに |
最近このように具合悪くなさって、不断よりも人の多い取り込み中に、どのようにしてはるばる遠い宇治までお書きやりになったのだろうか。 通い初めなさったのだろうか。 たいそう遠い恋の通い路だな。 不思議に思って、いらっしゃる所を尋ねられる日もあった、と聞いたことだ。 そのようなことにお苦しみになって、どこそことなく悩んでいらっしゃるのだろう。 昔を思い出すにつけても、お越しになれなかったときの嘆きは、実にお気の毒であった」 |
ずっとこのごろ宮は御病気のようで始終お見舞いの人々に取り巻かれておいでになりながら、どうして宇治へのお手紙は書かれたのであろう、またどうしてお通いになることができたのであろう、遠くはるかな恋の道ではないか、だれにも想像のつかぬ所へ行ってお泊まりになることがあり、所在を捜されておいでになる時があるという御評判も聞いた、罪な恋におぼれて御 |
【このころかく悩ましくしたまひて】- 匂宮の病気。恋わずらい。 【おはし所尋ねられたまふ日もあり】- 匂宮の所在。「られ」は受身助動詞。「たまふ」は匂宮に対する敬意。 【聞こえきかし】- 『集成』は「耳にしたこともあったな」。『完訳』は「噂にも聞いたことがある」と注す。 【昔を思し出づるに】- 主語は薫。『集成』は「ここからは地の文」。『完訳』は「薫の心内語に、語り手による尊敬語がまじる」と注す。 |
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6.4.5 | と、つくづくと思うと、女がひどく物思いしている様子であったのも、事情の一端がお分かり始めになると、あれこれと思い合わせると、実につらい。 |
と薫は思い、またいろいろと思い合わせてみると、女が非常に物思いをしていたこともこの理由があってのことであったと、一つが明らかになると次々にうなずかれていくことも多くて女がうとましく思われた。 |
【女のいたくもの思ひたるさま】- 浮舟。 |
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6.4.6 | 「難しいものは、人の心だな。 かわいらしくおっとりしているとは見えながら、浮気なところがある人であった。 この宮の相手としては、まことによい似合いだ」 |
完全な人というものは少ないものである、 |
【ありがたきものは】- 以下「いとよきあはひなり」まで、薫の心中の思い。 【いとよきあはひなり】- 『完訳』は「似合いの二人と、皮肉る」と注す。 |
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6.4.7 | と |
と譲ってもよい気持ちになり、身を引きたくお思いになるが、 |
すべて今からお譲りしてしまいたい気も薫はしたが、 |
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6.4.8 | 「北の方にする気持ちの女ならともかくも、やはり今まで通りにしておこう。 これを限りに会わなくなるのも、はたまた、恋しい気がするであろう」 |
正妻として結婚した女にそうした過失をされたというのでなく、今後も愛人としての彼女を失ってしまっては恋しくなるであろうと、 |
【やむごとなく】- 以下「恋しかるべし」まで、薫の心中の思い。正妻にする女であったら、の意。 【なほさるものにて置きたらむ】- 『集成』は「匂宮の女でもよい、と思う」。『完訳』は「やはり今までどおり、慰み相手として。彼女への執着を合理化」と注す。 |
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6.4.9 | と |
と体裁悪いほど、いろいろと心中ご思案なさる。 |
未練らしく思われないこともなかった。 |
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第五段 薫、宇治へ随身を遣わす |
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6.5.1 | 「自分が、嫌気がさしたといって、見捨てたら、きっと、あの宮が、呼び迎えなさろう。 相手にとって、将来がお気の毒なのも、格別お考えなさるまい。 そのように寵愛なさる女は、一品宮の御方のもとに女房を、二、三人出仕させなさったという。 そのように、出仕させたのを見たり聞いたりするのも、気の毒なことだ」 |
自分が捨ててしまえば必ず宮はどこかへ呼び寄せてお置きになるであろう、女がどんな不名誉なことになろうとも思いやりはおできになるまい、今までからそんな人を二、三人も |
【我、すさまじく】- 以下「いとほしく」まで、薫の心中の思い。 【たどりたまふまじ】- 主語は匂宮。『完訳』は「匂宮は、浮舟の将来など考えぬ刹那的で自己本意の人、の意」と注す。 【人こそ】- 「参らせたまひたなれ」に係る逆接用法。 |
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6.5.2 | など、なほ |
などと、やはり見捨てがたく、様子を見たくて、お手紙を遣わす。 いつもの随身を呼んで、ご自身で直接人のいない間に呼び寄せた。 |
捨てる気は起こらないで、どうするつもりかも見たく思い、家へ帰った。薫は手紙を宇治へ書いた。大将は例の随身を使いに選び、自身で人のない時にそば近くへ呼んだ。 |
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6.5.3 | 「道定朝臣は、今でも仲信の家に通っているのか」 |
「時方朝臣は今でも |
【道定朝臣は】- 以下「家にや通ふ」まで、薫の詞。『集成』は「道定の朝臣(大内記)は、今でも仲信の家に通っているのか。仲信の女との夫婦仲について問う。匂宮と女を張り合っているとは、あくまで隠したく、道定自身が浮舟に懸想していると思わせるための用意」と注す。 |
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6.5.4 | 「さなむはべる」と |
「そのようでございます」と申す。 |
「そうでございます」 |
【さなむはべる】- 随身の詞。 |
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6.5.5 | 「宇治へは、いつもあの先程の男を使いにやるのか。 ひっそり暮らしている女なので、道定も思いをかけるだろうな」 |
「宇治へいつもその使いをやるのだね。零落をしていた女だから時方も恋をしていたことがあるかもしれないね」 |
【宇治へは】- 以下「思ひかくらむかし」まで、薫の詞。 【かすかにて居たる人なれば】- 浮舟をさす。 【道定も思ひかくらむかし】- 『集成』は「仲信の女をさし措いて、浮舟に思いを寄せたか、と推察する体の発言」と注す。 |
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6.5.6 | と、うちうめきたまひて、 |
と、溜息をおつきになって、 |
と歎息をして見せ、 |
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6.5.7 | 「人に見られないように行け。 馬鹿らしいからな」 |
「人に見られないようにして行け、見られれば恥ずかしいよ」 |
【人に見えでをまかれ。をこなり】- 薫の詞。 |
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6.5.8 | とおっしゃる。 緊張して、少輔がいつもこの殿の事を探り、あちらの事を尋ねたことも思い合わされるが、なれなれしくは申し出ることもできない。 君も、「下衆に詳しくは知らせまい」とお思いになったので、尋ねさせなさらない。 |
と言った。時方が始終大将のことをいろいろと |
【もの馴れて】- 明融臨模本は「物なれて(て+も)」とある。すなわち「も」を補入する。『集成』『完本』は諸本と訂正以前本文に従って「もの馴れて」と校訂する。『新大系』は底本の補入に従って「物馴れても」と校訂する。 |
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6.5.9 | あちらでは、お使いがいつもより頻繁にあるのにつけても、あれこれ物思いをする。 ただこのようにおっしゃっていた。 |
山荘では大将家からの使いが平生よりもたびたび来ることでも不安が覚えられる浮舟の君であった。手紙はただ、 |
【ただかくぞのたまへる】- 薫の手紙。 |
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6.5.10 | 「心変わりするころとは知らずにいつまでも 待ち続けていらっしゃるものと思っていました |
末の松まつらんとのみ思ひけるかな |
【波越ゆるころとも知らず末の松--待つらむとのみ思ひけるかな】- 薫から浮舟への贈歌。明融臨模本「すゑの松」に朱合点。『花鳥余情』は「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波も越えなむ」(古今集東歌、一〇九三)。『異本紫明抄』は「越えにける波をば知らで末の松千代までとのみ頼みけるかな」(後拾遺集恋二、七〇五、藤原能通)を指摘。『完訳』は「他者の心を移したと詰問」と注す。 |
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6.5.11 | 世間の物笑いになさらないでください」 |
人にこの歌をお話しになって笑ってはいけませんよ。 |
【人に笑はせたまふな】- 歌に続けた文。 |
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6.5.12 | とあるを、いとあやしと |
とあるのを、とても変だと思うと、胸が真っ暗になった。 お返事を理解したように申し上げるのも気がひける、何かの間違いだっら具合が悪いので、お手紙はもとのように直して、 |
と書かれてあるだけであったが、いぶかしいと思った瞬間から姫君の胸はふさがってしまった。相手の言おうとしていることを知っているような返事を書くことも恥ずかしく、誤聞であろうと言いわけをするのもやましく思われて、手紙をもとのように巻き、 |
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6.5.13 | 「宛先が違うように見えますので。 妙に気分がすぐれませんので、何事も申し上げられません」 |
どこかほかへのお手紙かと存じます、 |
【所違へのやうに】- 以下「何事も」まで、浮舟の返事。薫からの手紙に書き添える。 |
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6.5.14 | と書き添えて差し上げた。 御覧になって、 |
と書き添えて返した。 |
【見たまひて】- 主語は薫。 |
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6.5.15 | 「そうはいっても、うまく言い逃れたな。 少しも思ってもみなかった機転だな」 |
【さすがに】- 以下「心ばへよ」まで、薫の感想。 |
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6.5.16 | とにっこりなさるのも、憎いとは、お恨み切れないのであろう。 |
微笑をしているのは、どこまでも憎いというような気にはなっていないからであろう。 |
【憎しとは、え思し果てぬなめり】- 『休聞抄』は「双也」と指摘。 |
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第六段 右近と侍従、右近の姉の悲話を語る |
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6.6.1 | 正面きってではないが、それとなくおっしゃった様子を、あちらではますます物思いが加わる。 「結局は、わが身は良くない妙な結果になってしまいそうだ」と、ますます思っているところに、右近が来て、 |
正面からではないが薫がほのめかして来たことで |
【かしこには】- 浮舟をさす。 【つひにわが身は】- 以下「なりぬべきなめり」まで、浮舟の心中の思い。 |
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6.6.2 | 「殿のお手紙は、どうしてお返しなさったのですか。 不吉にも、忌むものでございますものを」 |
「殿様のお手紙をなぜお返しになったのでございますか。縁起の悪いことでございますのに」と言った。 |
【殿の御文は】- 以下「忌みはべるなるものを」まで、右近の詞。 【ゆゆしく、忌みはべるなるものを】- 『完訳』は「手紙を返すのは禁物とされる。相手を傷つけ、絶交を意味する」と注す。 |
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6.6.3 | 「間違いがあるように見えたので、宛先が違うのかと思いまして」 |
「私に |
【ひがことのあるやうに見えつれば、所違へかとて】- 浮舟の詞。 |
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6.6.4 | とおっしゃる。 変だと思ったので、道で開けて見たのであった。 良くない右近の態度ですこと。 見たとは言わないで、 |
浮舟から聞くまでもなく、不思議に思ってすでに手紙は使いへ渡す前に右近が読んであったのである。意地悪な右近ではないか。見たとは姫君へ言わずに、 |
【あやしと見ければ--よからずの右近がさまやな】- 『一葉抄』は「双紙か詞也」と指摘。 |
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6.6.5 | 「まあ、お気の毒な。 難儀なお事でございます。 殿は事情をお察しになったのでしょう」 |
「あなた様はほんとうにお気の毒でございます。お苦しいのはお三人ともですけれどね。殿様は秘密をお悟りになったらしゅうございますね」 |
【あな、いとほし】- 以下「御覧じたるべし」まで、右近の詞。 |
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6.6.6 | と |
と言うと、顔がさっと赤くなって、何もおっしゃらない。 手紙を見たとは思わないので、「別のことで、あの方のご様子を見た人が話したこと」と思うが、 |
と言われて、浮舟の顔はさっと赤くなり、ものを言うこともしなかった。手紙を見たとは思わずに、来た使いなどから薫の様子が伝えられたのであろうと思っても、 |
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6.6.7 | 「 |
「誰が、そのように言ったのか」 |
だれがそう言っているか |
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6.6.8 | などとも尋ねることはできない。 この女房たちが見たり思ったりすることも、ひどく恥ずかしい。 自分の考えから始まったことではないが、「嫌な運命だなあ」と思い入って寝ていると、侍従と二人で、 |
とも問えなかった。右近と侍従がどう想像しているであろう、恥ずかしいことである、自発的に |
【心憂き宿世かな】- 浮舟の心中の思い。 |
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6.6.9 | 「右近めの姉で、常陸国で、男二人と結婚しましたが、身分は違っても、このようなものでございます。 それぞれ負けない愛情なので、思い迷っておりました時に、女は、新しい男の方に少し気持ちが動いたのでございました。 それを嫉妬して、結局新しい男を殺してしまったのです。 |
「私の姉は |
【右近が姉の】- 以下「いとほしけれ」まで、右近の詞。 【これもかれも】- 新しい男も前の男も。 【思ひ惑ひて】- 主語は浮舟の姉。 |
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6.6.10 | さて また、この |
そうして自分も住んでいられなくなったのでした。 常陸国でも、大変惜しい兵士を一人失った。 また、過ちを犯した男も、良い家来であったが、このような過ちを犯した者を、どうしてそのまま使うことができようか、ということで、国内を追放され、すべて女がよろしくないのだと言って、館の内にも置いてくださらなかったので、東国の人となって、乳母も、今でも恋い慕って泣いておりますのは、罪深いものと拝見されます。 |
そして自身も姉を捨ててしまいました。お |
【乳母も】- 右近の母。浮舟の乳母。右近は浮舟と乳母子の関係。 【罪深くこそ見たまふれ】- 往生の妨げとなること。「たまふれ」は謙譲補助動詞。 |
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6.6.11 | ゆゆしきついでのやうにはべれど、 |
縁起でもない話のついでのようでございますが、身分の上の方も下の者も、このようなことで、お悩みになるのは、とても悪いことです。 お命までには関わらなくても、それぞれの方のご身分に関わることでございます。 死ぬことにまさる恥ということも、身分の高い方には、かえってございますことです。 お一方にお決めなさい。 |
悪い話のついでに申すようでございますが、貴族の方でも低い身分の者でも二つに愛を分けて |
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6.6.12 | さばかり |
宮もご愛情がまさって、せめて真面目にさえご求婚なさるならば、そちらに従いなさって、ひどくお嘆きなさるな。 痩せ衰えなさるのもまことにつまらない。 あれほど母上が大切に思ってお世話なさっているのを、乳母がこの上京のご準備に熱心になって、大騒ぎしておりますにつけても、あちらよりもこちらに、とおっしゃってくださる宮のことが、とてもつらく、お気の毒です」 |
宮様も殿様以上に誠意を持っておいでになるのでしたら、それでもよろしいではありませんか。さっぱりとお気持ちを清算しておしまいになりまして、あまり煩悶はせぬようになさいませ。 |
【乳母が】- 浮舟の乳母。右近の母。 【それよりこなたに、と聞こえさせたまふ御こと】- 薫に迎えられる前に匂宮の方に、の意。主語は匂宮。「きこえ」の対象は浮舟に。 |
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6.6.13 | と言うと、もう一人は、 |
またままがかわいそうにも思われます」と右近が言う横から、侍従が、 |
【いま一人】- 侍従。 |
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6.6.14 | 「うたて、 ただ いでや、いとかたじけなく、いみじき しばしは |
「まあ嫌な、 恐ろしいことまでを申し上げな さいますな。何事もすべてご運命でしょう。ただお心の中で、少しでも気持ちの傾く 方を、そうなるご運だとお考えなさいませ。それにしても、まことに恐れ多く、たいそうなご執心であったので、殿があのように何かとご準備なさ っているらしいことにもお心が動きません。しばらくは隠れてでも、お気持ちがお傾きになる |
「まあそんなこわい気もするほどのことを申し上げないでお置きなさいよ。こうなりましたのも皆宿命というものですよ。ただお心の中で少しでも多く愛のお感じられになる方の所へお行きになることになさいませ。ほんとうにあの御身分の方があんなにまで思い込んだふうでいらっしゃったのですもの、お引っ越しの御用意だと言って皆が騒いでいます仕事を私はいっしょにする気もしないのですよ。しばらくは隠れたままのことにしてお置きになりましても、お心のお |
【うたて、恐ろしきまで】- 以下「思ひえはべる」まで、侍従の詞。 【人のかく】- 薫。 |
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6.6.15 | と、 |
と、宮をたいそうお誉め申し上げる者なので、一途に言う。 |
と宮の御 |
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第七段 浮舟、右近の姉の悲話から死を願う |
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6.7.1 | 「さあね。 右近は、どちらにしても、ご無事にお過ごしなさいと、長谷寺や、石山寺などに願を立てています。 この大将殿のご荘園の人びとという者は、たいそうな不埒な者どもで、一族がこの里にいっぱいいると言います。 だいたい、この山城国、大和国に、殿がお持ちになっている所々の人は、みなこの内舎人という者の縁につながっているそうでございます。 |
「なにも私はぜひ大将様のほうにと言うのではありません、どちらでもよろしゅうございますから、事が起こらずにこの問題が解決されますようにと、 |
【いさや。右近は】- 以下「いといみじくなむ」まで、右近の詞。 |
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6.7.2 | それが よき |
それの婿の右近大夫という者を首領として、すべての事を決めて命令するそうです。 身分の高い方のお間柄では、思慮のないことを仕出かすよ、とお思いにならなくても、考えのない田舎者連中が、宿直人として交替で勤めていますので、自分の番に当たって、ちょっとしたことも起こさせまいとなどと、間違いも起こしましょう。 |
内舎人の婿の右近の |
【それが婿の右近大夫といふ者】- 内舎人の婿で右近大夫という者。薫は右大将なので、その直属の部下。 【よろづのことをおきて】- 警護の万端を指図しおいて。 【よき人の御仲どちは】- 身分の高い匂宮と薫の間柄では、の意。 |
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6.7.3 | ありし |
先夜のご外出は、ほんとうに気味が悪く存じられました。 宮は、どこまでも人目をお避けになろうとして、お供の人も連れていらっしゃらず、お忍び姿ばかりでいらっしゃるのを、そのような者がお見つけ申したときには、とても大変なことになりましょう」 |
せんだっての時のことなどほんとうに今思ってもこわいようでございます。宮様のほうでは人目を思召してお付きもたくさんおつれにならないで、だれかわからぬようにしていらっしゃいますから、あの荒男どもがお見つけしましたらどんなことが起こりますかと心配ばかりいたしました」 |
【ありし夜の御ありきは】- 匂宮と橘小島で過ごしたことをさす。 |
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6.7.4 | と、 いと ただ げに、よからぬことも |
と、言い続けるのを、女君、「やはり、わたしを、宮に心寄せ申していると思って、この女房たちが言っている。 とても恥ずかしく、気持ちの上ではどちらとも思っていない。 ただ夢のように茫然として、ひどくご執着なさっているのを、どうしてこんなにまで、と思うが、お頼り申し上げて長い間になる方を、今になって裏切ろうとは思わないからこそ、このように大変だと思って悩むのだ。 なるほど、よくない事でも起こったときには」と、つくづくと思っていた。 |
浮舟の姫君は、自分が宮に多く心を |
【君】- 浮舟。 【なほ、我を】- 以下「出で来たらむとき」まで、浮舟の心中の思い。 【いづれとも思はず】- 匂宮とも薫とも。 【いみじく焦られたまふを】- 主語は匂宮。 【頼みきこえて年ごろになりぬる人を】- 薫。薫の保護を受けて足かけ二年めになる。 |
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6.7.5 | 「わたしは、 何とかして死にたい。世間並に生きられな いつらい身の上だわ。このような、嫌なことのある例は、下衆の中で |
「私はどうしてでも死にたい、人並みでない情けない私になったのだもの、こんな情けないことは低い身分の人たちにだってたくさんないはずね」 |
【まろは、いかで死なばや】- 以下「おほくやはある」まで、浮舟の詞。 【多くやはあなる】- 反語表現。 |
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6.7.6 | とて、うつぶし |
と言って、うつ臥しなさると、 |
こう言って姫君はうつ伏しになって泣く。 |
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6.7.7 | 「かくな やすらかに |
「そんなに思い詰めなさいますな。 お心安く思いなさいませ、と思って申し上げたのでございます。 お苦しみになることを、何げないふうにばかり、のんびりとお見えになるのを、この事件の後は、ひどくいらいらしていらっしゃるので、とても変だと拝見しております」 |
「そんなに御心配をなさるものではありません。お心を少しでも楽にお持ちあそばすようにと思って申し上げたことでございますよ。お心に苦しいことがありましてもお気にとめておいであそばさないようにおおようにしておいでになりましたあなた様が、この問題が起こりました時からいらいらとなさいますふうの見えますのはどうしたことでしょう」 |
【かくな思し召しそ】- 以下「見たてまつる」まで、右近の詞。 【聞こえさせはべれ】- 右近の浮舟に対する丁重な謙譲表現。 【心焦られをせさせたまへば】- 主語は浮舟。 |
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6.7.8 | と、事情を知っている者だけは、みな心配しているのだが、乳母は、自分一人満足そうにして、染物などをしていた。 新参の童女などで無難なのを呼んでは、 |
とも右近はなだめていた。この人たちも思い乱れているのである。乳母は得意になって染めたり裁ったりしていた。新しく来た童女のかわいい顔をしたのを姫君のそばへ呼んで、 |
【乳母、おのが心をやりて】- 事情を知らない乳母は満足げに京の薫邸に移るための準備に余念がない。 |
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6.7.9 | 「このような方を御覧なさい。 変なことばかりに臥せっていらっしゃるのは、物の怪などが、お邪魔申し上げようとするのでしょう」と嘆く。 |
「まあこんな人でもお慰めに御覧なさいましよ。いつもお気分がすぐれないようにお |
【かかる人御覧ぜよ】- 以下「するにこそ」まで、乳母の詞。『完訳』は「浮舟への言葉。気晴らしに女童でも相手になさい、の意」と注す。 |
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第七章 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す |
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第一段 内舎人、薫の伝言を右近に伝える |
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7.1.1 | 殿からは、あの先日の返事をさえおっしゃらずに、幾日も過ぎた。 この恐ろしがらせた内舎人という者が来た。 なるほど、たいそう荒々しく不格好に太った様子をした老人で、声も嗄れ、何といっても凄そうなのが、 |
大将からはあの返した手紙に対して言ってくることもなくそのまま幾日かたった。右近が姫君をおどすために話した内舎人という者が山荘へ現われて来た。 |
【この脅しし】- 右近の話で浮舟を恐がらせた、の意。 |
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7.1.2 | 「女房に、お話申し上げたい」 |
「もののわかる女房衆にお話がしたい」 |
【女房に、ものとり申さむ】- 内舎人の案内を乞う詞。 |
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7.1.3 | と |
と言わせたので、右近が会った。 |
と取り次がせたために、右近が出て行った。 |
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7.1.4 | 「 |
「殿からお呼び出しがございましたので、今朝参上しまして、たった今、帰って参りました。 雑事などをお命じになった折に、こうしてここにいらっしゃる間は、夜中、早朝の間も、わたくしどもがこうしてお勤め申している、とお思いになって、宿直人を特にお差し向け申し上げることもなかったが、最近お耳になさるには、 |
「殿様からお召しがありましたので、今朝から京へまいって今が帰りです。いろいろと御用を仰せつけられましたついでに、こうしてここに奥様をお置きになっていらっしゃって、夜中でも夜明けでも御用には私らが宇治にいるのであるからと思召して、京のお邸から宿直の侍などはおよこしにならなかったところが、このごろになって、 |
【殿に召しはべりしかば】- 以下「恐れ申しはんべる」まで、内舎人の詞。 【わざとさしたてまつらせたまふこと】- 主語は薫。浮舟に対する敬意。 【聞こしめせば】- 主語は薫。内舎人の薫に対する敬意。 |
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7.1.5 | 『女房のもとに、素性の知れない者供が通っているようにお聞きになったことがある。 不届きなことである。 宿直に仕える者供は、その事情を聞いていよう。 知らないでは、どうしていられよう』 |
こちらの女房衆の所へよその人が通って来る話を聞いた、不届きだ、宿直に行っている者は出入りの人の名を聞いたはずだ、知らないで門を通すはずはないではないか、 |
【女房の御もとに】- 以下「いかがさぶらふべき」まで、薫の詞を伝える。 【聞こし召すことある】- 話者の内舎人の薫に対する敬意が混じった表現。 |
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7.1.6 | とお尋ねあそばしたのが、全然知らないことなので、 |
何という人が来たのかとこうお尋ねになったのですが、私は何も承知しないことですから、 |
【問はせたまひつるに】- 内舎人の薫に対する敬意。 |
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7.1.7 | 『なにがしは さるべき |
『わたくしは病気が重くございまして、宿直いたしますことは幾月も致しておりませんので、事情を知ることができません。 しかるべき男どもは、怠けることなく警護させておりますのに、そのようなもってのほかのことがございますのを、どうして知らないでいられましょう』 |
私は重い病気をしておりまして、そんなことのありましたのも、来た人はだれかということも存じません。ただしお役にたつような男はかわるがわる差し上げてあるのですから、ただ今お話のようなとんでもない事件がありますれば私の耳にはいっていぬはずはございません |
【なにがしは】- 以下「やうははべらむ」まで、薫への答弁。 |
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7.1.8 | と申し上げさせました。 気をつけてお仕えなさい。 不都合なことがあったら、厳重に処罰なさる旨のご命令がございますので、どのようなお考えなのかと、恐ろしく存じております」 |
とお取り次ぎをもって申していただいて来ました。気をつけて別荘を守れ、悪いことが起これば重い罰を加えるからという仰せがあったので、どんな罰にあうのかと恐れていますよ」 |
【いかなる仰せ言にかと、恐れ申しはんべる】- 『完訳』は「薫の意図が分らぬとして安心させながら右近の了解を求める」と注す。 |
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7.1.9 | と いらへもやらで、 |
と言うのを聞くと、梟が鳴くのよりも、とても恐ろしい。 返事もしないで、 |
これを聞いていて右近は、 |
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7.1.10 | 「そうか。 申し上げたことに違わないことをお聞きあそばせ。 事の真相をお察しになったようです。 お手紙もございませんよ」 |
「とうとうこんなことになりました。私が申していたとおりのことをお聞きになることになりました。大将様はあの秘密を皆お知りになったのですよ。お手紙もあれからまいりませんね」 |
【さりや】- 以下「はべらぬよ」まで、右近の詞。 【聞こえさせしに】- 右近が浮舟に。 【もののけしき御覧じたる】- 主語は薫。真相を知ったらしい。 |
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7.1.11 | と |
と嘆く。 乳母は、ちらっと聞いて、 |
などと姫君に言って歎息をした。乳母は内舎人の話を少し聞いていて、 |
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7.1.12 | 「とても嬉しいことをおっしゃった。 盗賊が多いという所で、宿直人も最初のころのようではありません。 みな、代理だと言っては、変な下衆ばかりを差し向けていたので、夜回りさえできなかったが」と喜ぶ。 |
「よく御注意をしてくださいましたわね。 |
【いとうれしく仰せられたり】- 以下「夜行をだにせぬに」まで乳母の詞。勘違いして喜ぶ。 |
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第二段 浮舟、死を決意して、文を処分す |
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7.2.1 | 女君は、「なるほど、今はまことに悪くなってしまった身の上のようだ」とお思いになっているところに、宮からは、 |
浮舟はこうして寂しい運命のきわまっていくことを感じている時、宮から決心ができたはずであるとお言いになり、 |
【げに、ただ今いと悪しくなりぬべき身なめり】- 浮舟の心中の思い。 |
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7.2.2 | 「いかに、いかに」 |
「いかがですか、 |
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7.2.3 | と、苔が乱れるような無理なことをおっしゃるのが、とても厄介である。 |
「君に逢はんその日はいつぞ松の木の |
【苔の乱るるわりなさを】- 明融臨模本、朱合点、付箋。「君に逢はむその日をいつと松の木の苔の乱れて物をこそ思へ」(新勅撰集恋二、七三四、読人しらず)。『異本紫明抄』は「逢ふことをいつかその日と松の木の苔の乱れて恋ふるこのころ」(古今六帖六、こけ)を指摘。 |
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7.2.4 | 「どちらにしても、それぞれの方につけて、とても嫌なことが出て来よう。 自分一人がいなくなるのが最もよいようだ。 昔は、懸想する男の気持ちが、どちらとも決められないのに思いわずらって、それだけで身を投げた例もあった。 生き永らえたら、きっと嫌な目に遭ってしまいそうな身で、死ぬのに、どうして惜しい身であろう。 親も少しの間は嘆きなさろうが、大勢の子供の世話で、自然と忘れよう。 生きながら間違いを犯し、物笑いな様子でうろうろしては、それ以上の物思いになろう」 |
どちらへ行っても残る一人に |
【とてもかくても】- 以下「もの思ひなるべし」まで、浮舟の心中の思い。 【昔は、懸想する人の】- 『万葉集』の真間の手児奈、うない処女、桜児・縵児の説話。 【忘草摘みてむ】- 「忘草摘む」は歌語的表現。 |
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7.2.5 | など |
などと思うようになる。 子供っぽくおっとりとして、たおやかに見えるが、気品高く貴族社会の様子を知ることも少なくて育った人なので、少し乱暴なことを、考えついたのであろう。 |
子供らしくおおようで、なよなよと柔らかな姫君と見えるが、人生の意義というものを悟るだけの学識も与えられずに成長した人であるから自殺というような思いきったこともする気になったらしい。 |
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7.2.6 | むつかしき |
厄介な反故などを破って、大げさになるような一度には始末せず、灯台の火で焼いたり、川に投げ入れさせたりなど、だんだん少なくして行く。 事情を知らない御達は、「京へお引っ越しになるので、退屈な日々を送るうちに、いつしか書き集めなさった手習などを、お破り捨てになるのだろう」と思う。 侍従などは、見つけた時には、 |
あとで人の迷惑になりそうな |
【ものへ渡りたまふべければ】- 以下「破りたまひなめり」まで、御達の思い。 |
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7.2.7 | 「など、かくはせさせたまふ。 あはれなる さばかりめでたき |
「どうして、このようなことをあそばします。 愛し合っていらっしゃるお間柄で、心をこめてお書き交わしなさった手紙は、他人にはお見せあそばさなくても、何かの箱底におしまいあそばして御覧になるのが、身分相応に、とても感慨深いものでございます。 あれほど立派な紙を使い、恐れ多いお言葉のあらん限りをお尽くしになったのを、あのようにばかりお破りあそばすのは、情けないこと」 |
「なぜそんなことをなさいますか。思い合った中でお取りかわしになったお手紙は、人にはお見せになるものではありませんでも、箱の底へでもしまってお置きになりまして、時々出して御覧になりますのが、どの女性にも共通した楽しいことになっておりますよ。この上もないお紙をお使いになりまして、美しい御文章でおしたためになったものを、そんなに皆お破りになりますのは情けないことではございませんか」 |
【など、かくは】- 以下「情けなきこと」まで、侍従の詞。 【人にこそ見せさせたまはざらめ】- 「こそ--め」係結び、逆接用法。 |
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7.2.8 | と |
と言う。 |
こんなふうに言ってとめる。 |
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7.2.9 | 「いいえどうして。 厄介な。 長生きできそうにない身の上のようです。 落ちぶれ残って、相手の方にとってもお気の毒でしょう。 利口ぶってお手紙を残しておいたものよなどと、漏れ聞きなされたら、恥ずかしい」 |
「いいのよ。私にはもう長い命はないようだからね。あとへ残ってはお書きになった方の迷惑にもなって気の毒よ。悪い趣味だ、愛人の手紙などをしまっておくなどとまたお思いになる方があっても恥ずかしいしね」 |
【何か。むつかしく】- 以下「恥づかしけれ」まで、浮舟の詞。 |
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7.2.10 | などとおしゃる。 心細いことを思い続けていくと、再び決心ができなくなるのであった。 親を残して先立つ人は、とても罪障深いと言うものをなどと、やはり、かすかに聞いたことを思う。 |
などと浮舟は言うのであった。死というものの心細い本質を思ってはまだ自殺の決行はできないらしいのももっともである。親よりも先に死んで行く人は罪が深くなるそうであるがなどとさすがに仏教の教理も聞いていて思いもするのである。 |
【親をおきて】- 以下「罪深かなるものを」まで、浮舟の心中の思い。逆縁となり、恩を受けた子が親の追善供養できないため。 【さすがに】- 『集成』は「世間知らずに育ったものの」。『完訳』は「貴族社会の常識もなく育ったものの」と訳す。 |
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第三段 三月二十日過ぎ、浮舟、匂宮を思い泣く |
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7.3.1 | 二十日過ぎにもなった。 あの家の主人が、二十八日に下向する予定である。 宮は、 |
二十日過ぎにもなった。宮が交渉しておありになった家の住み主が二十八日に家をあけて立つことになっていて、 |
【二十日あまりにもなりぬ】- 三月二十日余。 |
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7.3.2 | 「その夜にきっと迎えよう。 下人などに、様子を気づかれないように注意なさい。 こちらの方からは、絶対漏れることはない。 疑いなさるな」 |
その二十八日の夜に必ず迎えに行きます。下人などに出かけるのを悟らせぬように気をおつけなさい。自分のほうから秘密のもれるようなことは絶対にありません。疑いを持たずにいてください。 |
【その夜かならず】- 以下「疑ひたまふな」まで、匂宮の浮舟への手紙。 |
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7.3.3 | などのたまふ。 「さて、あるまじきさまにておはしたらむに、 また、 かひなく |
などとおっしゃる。 「そうして、無理をしておいでになったとしても、もう一度何も申し上げることができず、お目にかかれぬままお帰し申し上げることよ。 また、束の間でも、どうしてここにお近づけ申し上げることができよう。 効なく恨んでお帰りになろう」その様子を想像すると、いつものように、面影が離れず、始終悲しくて、このお手紙を顔に押し当てて、しばらくの間は我慢していたが、とてもひどくお泣きになる。 |
というようなお手紙が来た。そうした無理な工作をしておいでになっても、もう一度お話をすることすら不可能でそのままお帰しすることになるのは悲しい。またどんな短時間でもこの家へお入れすることはできるものでないと思う |
【さて、あるまじきさまにて】- 以下「怨みて帰りたまはむ」あたりまで、浮舟の心中の思い。末尾は地の文に流れる。 |
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7.3.4 | 右近は、 |
右近が、 |
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7.3.5 | 「あが やうやう、あやしなど かうかかづらひ |
「姫君様、このようなご様子に、終いには周囲の人もお気づき申そう。 だんだんと、変だなどと思う女房がございますようです。 このようにくよくよなさらずに、適当にご返事申し上げなさいませ。 右近がおります限りは、大それたこともうまく処理いたしましたら、これほどお小さい身体一つぐらいは、空からお連れ申し上げなさいましょう」 |
「お姫様はこんなふうにしていらっしゃいますと人が皆悟ってしまいます。近ごろは不審を起こしかけた人たちもあるようでございます。こんなに一つのことを断ち切れない御心配になさいませんで、宮様へは御同意なさいましたことを書いておあげなさいましよ。私がおります以上、どんな大それたことでございましても取り繕いまして、こんなお小さいお |
【あが君】- 以下「率てたてまつらせたまひなむ」まで、右近の詞。 |
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7.3.6 | と とばかりためらひて、 |
と言う。 しばし躊躇して、 |
と言うのを聞いて、 |
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7.3.7 | 「かくのみ さもありぬべきこと、と |
「このようにばかり言うのが、とても情けない。 たしかにそうなってもよいこと、と思っているならともかくも、とんでもないことだ、とすっかり分かっているのに、無理に、このようにばかり期待しているようにおっしゃるので、どのようなことをし出かしなさろうとするのかなどと、思うにつけても、身がとてもつらいのです」 |
「そんなふうに私の心を解釈されるのが苦しい。そうしたいと私が望んでいるのならそれでいいけれど、してはならないことだと、どんなことも皆私は否定しているのに、このお手紙のように信じていらっしゃるのかと思うと、あの方はこれからのちにまたどんなことをあそばすだろうと不安でならなくて、私は今運命を悲しんでいるのよ」 |
【かくのみ言ふこそ】- 以下「心憂きなり」まで、浮舟の詞。右近が自分を匂宮に惹かれているということ。 【さもありぬべきこと】- 匂宮に靡いてもよいこと。 【こそあらめ】- 係結びの法則、逆接用法。反語的口調。 【頼みたるやうにのたまへば】- 浮舟が匂宮を頼っているように匂宮が言うので、の意。 |
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7.3.8 | とて、 |
と言って、お返事も差し上げないでしまわれた。 |
と浮舟は言い、お返事は書かなかった。 |
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第四段 匂宮、宇治へ行く |
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7.4.1 | 宮は、「こうしてばかり、依然として承知する様子もなくて、返事までが途絶えがちになるのは、あの人が、適当に言い含めて、少し安心な方に心が落ち着いたのだろう。 もっともなことだ」とはお思いになるが、たいそう残念で悔しく、 |
【かくのみ、なほ】- 以下「ことわり」あたりまで、匂宮の心中の思い。末尾は地の文と融合。 【かの人の】- 薫をさす。 |
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7.4.2 | 「それにしても、わたしを慕っていたものを。 逢わない間に、女房が説き聞かせた方に傾いたのであろう」 |
今の態度はこうであっても、確かに自分をあの人は愛していたのだ、逢わないうちに周囲の者からよけいな忠告をされて、そのほうへ心が傾いたのであろう |
【さりとも、我をば】- 以下「寄るならむかし」まで、匂宮の心中の思い。 |
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7.4.3 | などと物思いなさると、恋しさは晴らしようもなく、むなしい空にいっぱい満ちあふれた気がなさるので、いつものように、大変なご決意でおいでになった。 |
と物思いをしておいでになると、「わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行き方のなき」というふうにもなっていくため、例の無理をあそばして宇治へおいでになった。 |
【むなしき空に】- 明融臨模本、朱合点・付箋。『源氏釈』は「わが恋はむなしき空に満ちぬらし思ひやれども行く方もなし」(古今集恋一、四八八、読人しらず)を指摘。 |
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7.4.4 | 葦垣の方を見ると、いつもと違って、 |
【葦垣の方を見るに】- 匂宮の従者。後文により時方と知られる。 |
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7.4.5 | 「あれは、 |
「あれは、誰だ」 |
「そこへ来るのはだれだ」 |
【あれは、誰そ】- 浮舟の夜番の人。 |
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7.4.6 | と わづらはしくて、 |
と言う声々が、目ざとげである。 いったん退いて、事情を知っている男を入れたが、その男までを尋問する。 以前の様子と違っている。 やっかいになって、 |
と緊張した声でとがめる者が幾人もあった。そこからやや遠ざかっておいでになり、行きなれた侍だけをおやりになったが、それをさえ |
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7.4.7 | 「京から急のお手紙です」 |
「京から急用のお手紙を持って来たのです」 |
【京よりとみの御文あるなり】- 男の詞。浮舟の母からの手紙、の意。 |
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7.4.8 | と いとわづらはしく、いとどおぼゆ。 |
と言う。 右近は従者の名を呼んで会った。 とても煩わしく、ますますやっかいに思う。 |
と侍は言った。右近の使っている侍の名を言って呼んでもらった。右近はこの上にもまた難儀なことが起こってくると思った。 |
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7.4.9 | 「全然、 今夜はだめです。まことに恐 |
「どうしても今夜はだめでございます。非常に恐縮しておりますが」 |
【さらに、今宵は】- 以下「かたじけなきこと」まで、右近の詞。 |
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7.4.10 | と言わせた。 宮は、「どうして、こんなによそよそしくするのだろう」とお思いになると、たまらなくなって、 |
と宮へ申し上げさせた。宮はどうしてこんな冷淡な取り扱いをするのであろうと、途方にくれたように思召して、 |
【など、かくもて離るらむ】- 匂宮の心中の思い。 |
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7.4.11 | 「まず、時方が入って、侍従に会って、しかるべくはからえ」 |
「ともかくも |
【まづ、時方入りて】- 以下「たばかれ」まで、匂宮の詞。 |
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7.4.12 | とて かどかどしき |
と言って遣わす。 才覚ある人で、あれこれ言い繕って、探し出して会った。 |
とお言いになり、内記をまたおやりになった。時方は才子であったから上手に宇治侍を |
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7.4.13 | 「いかなるにかあらむ。 かの さらに、 やがて、さも |
「どうしたわけでありましょう。 あの殿がおっしゃることがあると言って、宿直にいる者どもが、出しゃばっているところで、まことに困っているのです。 御前におかれても、深く思い嘆いていらっしゃるらしいのは、このようなご訪問のもったいなさを、悩んでいらっしゃるのだ、とお気の毒に拝しております。 全然、 今晩はだめです。誰かが様子に気づきましたら、かえってまことに悪いこと になりましょう。そのまま、そのようにお考えあそばしている夜には、こちらでも誰にも知られず計画しまして、ご案内申し |
「どうしたのでしょうか、大将様から仰せがあったのだと言いまして、 |
【いかなるにか】- 以下「聞こえさすべかめる」まで、侍従の詞。 【さらに、今宵は】- 下に、例えば「不用なり」などが省略。 【さも御心づかひせさせたまひつべからむ夜】- 三月二十八日の夜、匂宮が浮舟を連れ出すという計画。 【ここにも人知れず思ひ構へて】- こちら浮舟側でもこっそり匂宮の計画に示し合わせて、の意。 |
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7.4.14 | 乳母が目ざといことなども話す。 大夫、 |
と侍従は言い、 |
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7.4.15 | 「おいでになった道中が大変なことで、ぜひにもというお気持ちなので、はりあいもなくお返事申し上げるのは、具合が悪い。 それでは、さあ、いらっしゃい。 一緒に詳しく申し上げましょう」と誘う。 |
「並みたいていの道をおいでになったのではありませんからね、よくよくお逢いになりたい御様子なんですから、失望をおさせいたすようなお返辞はもったいなくて私からできません。それではあなたがそこまで来てくだすって、私も言葉を添えますが、あなたからお断わりを申し上げるようにしてください」と言って、誘い出そうとした。 |
【おはします道の】- 以下「聞こえさせたまへ」まで、時方の詞。 【いざ、たまへ】- 侍従に同行を求める。 |
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7.4.16 | 「いとわりなからむ」 |
「とても無理です」 |
それは無理である、 |
【いとわりなからむ】- 侍従の詞。 |
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7.4.17 | と |
と言い合いをしているうちに、夜もたいそう更けて行く。 |
ぜひそうしてと言い合っているうちにも夜もずっとふけてきた。 |
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第五段 匂宮、浮舟に逢えず帰京す |
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7.5.1 | 宮は、御馬で少し遠くに立っていらっしゃったが、里めいた声をした犬どもが出て来て吠え立てるのも、たいそう恐ろしく、供回りが少ないうえに、たいそう簡略なお忍び歩きなので、「おかしな者どもが襲いかかって来たら、どうしよう」と、お供申している者たちはみな心配していたのであった。 |
馬上の宮は少し遠くへ立っておいでになるのであったが、 |
【犬どもの出で来てののしる】- 守家一犬迎人吠 放野群牛引犢休(家を守る犬は人を迎へて吠ゆ 野に放てる群牛は犢(こうし)を引いて休む)(和漢朗詠集下-五六六 都良香)(text51.html 出典31から転載) 【人少なに】- 供回りの少ないこと。 【すずろならむものの】- 以下「いかさまに」まで、供人たちの心配。 |
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7.5.2 | 「もっと、早く早く参ろう」 |
「どうしても来てくださることですよ。早く、早く」 |
【なほ、とくとく参りなむ】- 時方の詞。侍従を促す。 |
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7.5.3 | とうるさく言って、この侍従を連れて上がる。 髪は、脇の下から前に出して、姿がとても美しい人である。 馬に乗せようとしたが、どうしても聞かないので、衣の裾を持って、歩いて付いて来る。 自分の沓を履かせて、自分は供人の粗末なのを履いた。 |
とせきたてて時方は侍従をつれて来るのであった。髪を右の |
【衣の裾をとりて】- 時方が侍従の衣の裾を取って、の意。 【わが沓を履かせ】- 時方の沓を侍従に。 |
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7.5.4 | わが かかる |
参上して、「これこれです」と申し上げると、相談しようにも適当な場所がないので、山家の垣根の茂った葎のもとに、障泥という物を敷いて、お下ろし申し上げる。 ご自身のお気持ちにも、「変な恰好だな。 このような道につまずいて、これといった、将来とても期待できそうにない身の上のようだ」と、お思い続けると、お泣きになることこの上ない。 |
自身の |
【参りて】- 遠方で待っていた匂宮のもとに参上して。 【語らひたまふべきやうだになければ】- 馬上の匂宮とは相談しにくい。 【降ろしたてまつる】- 匂宮を馬から。 【あやしきありさまかな】- 以下「えあるまじき身なめり」まで、匂宮の心中の思い。 【泣きたまふこと限りなし】- 主語は匂宮。 |
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7.5.5 | 気弱な女は、それ以上にほんとうに悲しいと拝見する。 大変な敵を鬼にしたとしても、いいかげんには見捨てることのできないご様子の人である。 躊躇なさって、 |
心の弱い者はましてきわめて悲しいことであるとお見上げしていた。どんな |
【心弱き人は】- 侍従をさす。 【いみじき仇を】- 以下、侍従の目に映った匂宮の姿。 【ためらひたまひて】- 主語は匂宮。 |
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7.5.6 | 「たった一言でも申し上げることはできないのか。 どうして、今さらこうなのだ。 やはり、女房らが申し上げたことがあるのだろう」 |
「ちょっとひと言だけ話をすることもできないのだろうか。どうして今になってそんなに厳重に見張るのだろう。そばの者がどんなことを言ってあの方の自由意志を曲げさせたのか」 |
【ただ一言も】- 以下「やうあるべし」まで、匂宮の詞。 |
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7.5.7 | とのたまふ。 ありさま |
とおっしゃる。 事情を詳しく申し上げて、 |
と侍従へ仰せられた。山荘内のことをくわしく申し上げて、 |
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7.5.8 | 「いずれ、そのようにお考えになっている日を、事前に漏れないように、計らいなさいませ。 このように恐れ多いことを拝見いたしておりますと、身を捨ててでもお取り計らい申し上げましょう」 |
「またおいでの思召しのございます前からおっしゃってくださいまして、私どもにできますことをさせてくださいませ。こんなもったいない御様子を拝見いたします以上、私は自分を喜んで犠牲にもいたしまして、よろしい計らいをいたします」 |
【やがて、さ思し召さむ日を】- 以下「思うたまへたばかりはべらむ」まで、侍従の詞。 |
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7.5.9 | と申し上げる。 ご自身も人目をひどくお気になさっているので、一方的にお恨みになることもできない。 |
と侍従は申した。御自身も人目をはばかっておいでになるのであるから、恋人をだけお恨みになることもおできにならなかった。 |
【我も人目を】- 匂宮自身。 |
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7.5.10 | 夜はたいそう更けて行くが、この怪しんで吠える犬の声が止まず、供人たちが追い払いなどするために、弓を引き鳴らし、賤しい男どもの声がして、 |
夜はふけにふけてゆく。初めから吠えかかった犬はそれなりも声も休めずに騒がしく |
【人びと追ひさけなど】- 匂宮の供人。 |
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7.5.11 | 「 |
「火の用心」 |
「火の用心」 |
【火危ふし】- 夜回りの声。 |
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7.5.12 | など |
などと言うのも、たいそう気が気でないので、お帰りになる時のお気持ちは、言葉では言い尽くせない。 |
などと呼ぶ。落ち着かぬお心から帰ろうとあそばしながらも、宮のお心は非常に悲しかった。 |
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7.5.13 | 「どこに身を捨てようかと捨て場も知らない、 白雲がかからない山とてない山道を泣く泣く帰って |
「いづくにか身をば捨てんとしら雲の かからぬ山もなく泣くぞ行く |
【いづくにか身をば捨てむと白雲の--かからぬ山も泣く泣くぞ行く】- 匂宮の独詠歌。「白雲」と「知ら(ぬ)」、「無く」と「泣く」の懸詞。『異本紫明抄』は「いづくとも所定めぬ白雲のかからぬ山はあらじとぞ思ふ」(拾遺集雑恋、一二一七、読人しらず)。『一葉抄』は「いづくにか世をば厭はむ心こそ野にも山にも惑ふべらなれ」(古今集雑下、九四七、素性)。『源注拾遺』は「白雲のかかる空言する人を山のふもとに寄せてけるかな」(拾遺集雑恋、一二一八、読人しらず)を指摘。 |
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7.5.14 | それでは、早く」 |
ではもう別れて行こう」 |
【さらば、はや】- 歌に続けた匂宮の詞。それでは早く、の意。 |
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7.5.15 | と言って、この人をお帰しになる。 ご様子が優雅で胸を打ち、夜深い露にしめったお香の匂いなどは、他にたとえようもない。 泣く泣く帰って来た。 |
とお言いになり、侍従をお帰しになった。宮の御様子は |
【泣く泣くぞ帰り来たる】- 主語は侍従。匂宮の歌「泣く泣くぞ行く」による修辞。 |
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第六段 浮舟の今生の思い |
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7.6.1 | ものはかなげに 「 |
右近が、きっぱり断った旨を言っていると、君は、ますます思い乱れることが多くて臥せっていらっしゃるが、入って来て、先程の様子を話すので、返事もしないが、だんだんと泣けてしまったのを、一方ではどのように見るだろう、と気がひける。 翌朝も、みっともない目もとを思うと、いつまでも臥していた。 頼りなさそうに掛け帯などかけて経を読む。 「親に先立つ罪障を無くしてください」とばかり思う。 |
右近が宮のおいでをお断わり申し上げたことを言ってから浮舟はいよいよ煩悶を深くして寝ていたが、侍従のはいって来て、外での様子を話すのに対して返辞はしないながら |
【君は】- 浮舟。 【入り来て、ありつるさま語るに】- 主語は侍従。 【いらへもせねど】- 主語は浮舟。 【枕のやうやう浮きぬるを】- 「枕浮く」は「泣く」の歌語的表現。 【帯などして経読む】- 掛け帯をして経を読む。読経の作法。 【親に先だちなむ罪失ひたまへ】- 浮舟の心中の思い。親に先立つ不孝の罪を仏に許しをこう。 |
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7.6.2 | ありし 「かの、 |
先日の絵を取り出して見て、お描きになった手つき、お顔の美しさなどが、向かい合っているように思い出されるので、昨夜、一言も申し上げずじまいになったことは、やはりもう一段とまさって、悲しく思われる。 「あの、のんびりとした邸で逢おう、と末長い約束をおっしゃり続けていた方も、どのようにお思いになるだろう」とお気の毒である。 |
宮のお |
【ありし絵を】- 匂宮が描いた男女共寝の絵。 【かの、心のどかなるさまにて見む、と】- 薫の言ったことを思い出す。 【のたまひわたる人】- 薫。 |
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7.6.3 | 嫌なことに噂する人もあるだろうことを、想像すると恥ずかしいが、「浅薄で、けしからぬ女だと物笑いになるのを、お聞かれ申すよりは」などと思い続けて、 |
初めから同じように永久愛して変わるまいと言っていた大将も、自分が死んだあとではどんなに歎くことであろうと思い、その人への恋を忘れて心の変わったために死んだと自殺後に言う人もあろうことの想像されるのも恥ずかしかったが、軽薄な女と思われ、宮のほうへ |
【憂きさまに言ひなす人もあらむこそ】- 一般の人。 |
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7.6.4 | 「嘆き嘆いて身を捨てても亡くなった後に 嫌な噂を流すのが気にかかる」 |
歎きわび身をば捨つとも 浮き名流さんことをこそ思へ |
【嘆きわび身をば捨つとも亡き影に--憂き名流さむことをこそ思へ】- 浮舟の独詠歌。 |
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7.6.5 | 親もとても恋しく、いつもは、特に思い出さない姉妹の醜いのも、恋しい。 宮の上をお思い出し申し上げるにつけても、何から何までもう一度お会いしたい人が多かった。 女房は皆、それぞれの衣類の染物に精を出し、何やかやと言っているが、耳にも入らず、夜となると、誰にも見つけられず、出て行く方法を考えながら、眠れないままに、気分も悪く、すっかり人が変わったようである。 夜が明けると、川の方を見やりながら、羊の足取りよりも死に近い感じがする。 |
と |
【親もいと恋しく】- 主語は浮舟。 【弟妹の】- 浮舟の異父弟妹。 【皆違ひにたり】- すっかり人が変わってしまった。 【羊の歩みよりも】- 明融臨模本、朱合点。『源氏釈』は「けふもまた午の貝こそ吹きつなれ羊の歩み近づきぬらむ」(千載集雑下、一一九七、赤染衛門)、また「是寿命(中略)囚の市に趣きて歩歩死に近づくが如く、牛羊を牽いて屠所に詣るが如し」(涅槃経三十八)を指摘。 |
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第七段 京から母の手紙が届く |
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7.7.1 | 宮は、たいそうな恨み言をおっしゃっていた。 今さらに、誰が見ようかと思うと、このお返事をさえ、気持ちのままに書かない。 |
宮からは悲しかった夜のことをお言いになり激情にあふれたお手紙を贈られた。死期に人の見るかもしれぬものであるからと思うと、このお返事にも浮舟は思うだけのことを書かなかった。 |
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7.7.2 | 「亡骸をさえ嫌なこの世に残さなかったら どこを目当てにと、 |
からをだにうき世の中にとどめずば いづくをはかと君も恨みん |
【からをだに憂き世の中にとどめずは--いづこをはかと君も恨みむ】- 浮舟の匂宮への返歌。『異本紫明抄』は「今日過ぎばしなましものを夢にてもいづこをはかと君がとはまし」(後撰集恋二、六四〇、中将更衣)を指摘。 |
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7.7.3 | とだけ書いて出した。 「あちらの殿にも、最後の様子をお見せ申し上げたいが、お二方に書き残しては、親しいお間柄なので、いつかは聞き合わせなさろうことは、とても困ることだどう。 まるきり、どうなったのかと、誰からも分からないようにして死んでしまおう」と思い返す。 |
とだけ書いて出した。姫君は大将へも遺書としてのものを書いておきたく思ったが、あちらへもそちらへも書いておいて、親友でおありになる人たちの話に上ることがあれば、情操のないことと思われるかもしれぬ、 |
【かの殿にも】- 以下「おぼつかなくてやみなむ」まで、浮舟の心中。 【離れぬ御仲なれば】- 匂宮と薫は親しい間柄。 |
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7.7.4 | 京から、母親のお手紙を持って来た。 |
京の使いが母の手紙を持って来た。 |
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7.7.5 | 「昨晩の夢に、とても物騒がしくお見えになったので、誦経をあちこちの寺にさせたりなどしましたが、そのまま、その夢の後で、眠れなかったせいか、たった今、昼寝をして見ました夢に、世間で不吉とするようなことが、お現れになったので、目を覚ますなり差し上げました。 十分に慎みなさい。 |
昨夜の悪夢の中であなたを見たものですから、ほうぼうの寺へ |
【寝ぬる夜の夢に】- 以下「御誦経せさせたまへ」まで、浮舟母の手紙。『全集』は「ねぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな」(古今集恋三、六四四、在原業平)を指摘。 【見えたまひつれば】- 明融臨模本は「みたまひつれは」とある。『集成』『完本』『新大系』は諸本に従って「見えたまひつれば」と「え」を補訂する。「見ゆ」は現れる、意。「見る」と「見ゆ」とではその主体者が異なる。 |
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7.7.6 | 人里離れたお住まいで、時々お立ち寄りになる方のご正室のお恨みがとても恐ろしく、気分悪くいらっしゃるときに、夢がこのようなのを、いろいろと案じております。 |
寂しいそのお |
【時々立ち寄らせたまふ人の御ゆかりも】- 薫の正室、女二宮の嫉妬。 |
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7.7.7 | 参上したいが、少将の北の方が、やはり、とても心配で、物の怪めいて患っていますので、少しの間も離れることは、いけないときつく言われていますので。 そちらの近くの寺にも御誦経をさせなさい」 |
私が行きたいのだけれど、少将の妻の産前の容体が不安で、 |
【少将の方の、なほ、いと心もとなげに】- 少将の北の方の出産が近い。 【いみじく言はれはべりてなむ】- 夫の常陸介から。 |
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7.7.8 | とて、その |
とあって、そのお布施の物や、手紙などを書き添えて、持って来た。 最期と思っている命のことも知らないで、このように書き綴ってお寄越しになったのも、とても悲しいと思う。 |
と書いて、寺へ納めるべき物、寺への依頼状も添えて持たせて来たのであった。もう死ぬ覚悟をしている自分とも知らずに、こんなに心をつかっているかと |
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第八段 浮舟、母への告別の和歌を詠み残す |
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7.8.1 | 寺へ使者をやった間に、返事を書く。 言いたいことはたくさんあるが、気がひけて、ただ、 |
寺へその使いをやった間に、母への返事を姫君は書くのであった。言いたいことは多かったが気恥ずかしくて、ただ、 |
【返り事書く】- 主語は浮舟。母への返事。 |
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7.8.2 | 「来世で再びお会いすることを思いましょう この世の夢に迷わないで」 |
のちにまた逢ひ見んことを思はなん このよの夢に心まどはで |
【後にまたあひ見むことを思はなむ--この世の夢に心惑はで】- 浮舟の母への返歌。来世での再会をいう。「この世」の「この」には「子の」の意を響かす。 |
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7.8.3 | 誦経の鐘の音が風に乗って聞こえて来るのを、つくづくと聞き臥していらっしゃる。 |
とだけ書いた。誦経の初めの鐘の音が川風に混じって聞こえてくるのをつくづくと聞いて浮舟は寝ていた。 |
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7.8.4 | 「鐘の音が絶えて行く響きに、 泣き声を添えてわたしの命も終わったと母上 |
鐘の わが世尽きぬと君に伝へよ |
【鐘の音の絶ゆる響きに音を添へて--わが世尽きぬと君に伝へよ】- 『完訳』は「最期には母との血肉の縁の断ちがたさを思う辞世の歌」と注す。 |
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7.8.5 | 僧の所から持って来た手紙に書き加えて、 |
これは寺から使いがもらって来た経巻へ書きつけた歌であるが、 |
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7.8.6 | 「今夜は、帰ることはできまい」 |
使いは朝になってから帰る |
【今宵は、え帰るまじ】- 使者の詞。今夜は京へは帰れない。 |
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7.8.7 | と言うので、何かの枝に結び付けておいた。 乳母が、 |
というために木の枝へ結びつけて渡すようにしておいた。 |
【物の枝に結ひつけて】- 何かの木の枝に巻数と一緒に歌を結び付けた。 |
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7.8.8 | 「妙に、胸騷ぎのすることだわ。 夢見が悪い、とおっしゃった。 宿直人、十分注意するように」 |
「何だか胸騒ぎがしてならない。奥様も悪夢をたくさん見ると書いておよこしになったのだから、 |
【あやしく】- 以下「よくさぶらへ」まで、乳母の詞。 【のたまはせたりつ】- 主語は浮舟の母。 |
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7.8.9 | と |
などと言わせるのを、苦しいと聞きながら臥していらっしゃった。 |
と言っているのを、今夜脱出して川へ行こうとする浮舟は迷惑に思って聞いていた。 |
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7.8.10 | 「何もお召し上がりにならないのは、とてもいけません。 お湯漬けを」 |
「お食事の進みませんのはどうしたことでしょう。お |
【物聞こし召さぬ】- 以下「御湯漬け」まで、乳母の詞。 |
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7.8.11 | などといろいろと言うのを、「よけいなおせっかいのようだが、とても醜く年とって、わたしが死んだら、どうするのだろう」とご想像なさるのも、とても不憫である。 「この世には生きていられないことを、ちらっと言おう」などとお思いになるが、何より先に涙が溢れてくるのを、隠しなさって、何もおっしゃれない。 右近は、お側近くに横になろうとして、 |
などと世話をやくのを、 |
【さかしがるめれど】- 以下「いづくにかあらむ」まで、浮舟の心中の思い。自分の死後の乳母の身のふりについて心配する。 【世の中に】- 以下「言はむ」まで、浮舟の思い。 【まづ驚かされて】- 言葉より先に涙がこみあげて、の意。 |
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7.8.12 | 「このようにばかり物思いをなさると、物思う人の魂は、抜け出るものと言いますから、夢見も悪いのでしょう。 どちらの方かとお決めになって、どうなるにもこうなるにも、思う通りになさってください」 |
「あんまり物思いをあそばすと、物思いする魂は |
【かくのみものを】- 以下「おはしまさなむ」まで、右近の詞。 【もの思ふ人の魂は、あくがる】- 物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る(後拾遺集神祇-一一六二 和泉式部)(text51.html 出典36から転載) 【いづ方と思し定まりて】- 匂宮または薫のどちらか一方と。 |
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7.8.13 | と溜息をつく。 柔らかくなった衣を顔に押し当てて、臥せっていらっしゃった、とか。 |
と歎息もしつつ告げた。柔らかい着物を顔に押し当てるようにして浮舟の姫君は寝たそうである。 |
【顔におしあてて】- 主語は浮舟。 【臥したまへり、となむ】- 『全集』は「語りの伝聞形式をとった結び方」と注す。 |
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