| 設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
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| この帖の主な登場人物 | |||
|---|---|---|---|
| 登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
| 薫 | かおる | 大将殿 殿 |
源氏の子 |
| 女一の宮 | おんないちのみや | 一品の宮 |
今上帝の第一内親王 |
| 浮舟 | うきふね | 入道の姫君 姫君 |
八の宮の三女 |
| 中将の君 | ちゅうじょうのきみ | 親 母 |
浮舟の母 |
| 小君 | こぎみ | 小君 御弟の童 童 |
浮舟の異父弟 |
| 母尼 | ははのあま | 朽尼 |
横川僧都の母 |
| 妹尼 | いもうとのあま | 故衛門督の北の方 尼君 妹 主人 |
横川僧都の妹 |
第五十三帖 手習 薫君の大納言時代二十七歳三月末頃から二十八歳の夏までの物語 |
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# |
本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
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第一章 浮舟の物語 浮舟、入水未遂、横川僧都らに助けられる |
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第一段 横川僧都の母、初瀬詣での帰途に急病 |
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| 1.1.1 | そのころ、横川に、某僧都とか言って、たいそう尊い人が住んでいた。 八十歳過ぎの母と、五十歳ほどの妹とがいたのであった。 昔からの願があって、初瀬に詣でたのであった。 |
そのころ |
【そのころ、横川に、なにがし僧都とか言ひて】- 『完訳』は「「そのころ--けり」の常套的な巻頭形式で、新たな話題を拓く」。横川は比叡山三塔の一つ。「なにがし僧都」は実名をぼかした呼称。『河海抄』は源信(『往生要集』の著者、恵信僧都)を指摘、その妹願西(願証尼・安養尼)も著名。 |
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| 1.1.2 | 親しく重んじている弟子の阿闍梨を連れて、仏やお経を供養することを行うのであった。 いろいろなことをたくさんして帰る道中で、奈良坂という山を越えたころから、この母の尼君が、気分が悪くなったので、「こんなでは、どうして帰りの道を行きつけようか」と大騒ぎして、宇治の辺りに知っていた人の家があったので、そこにとどめて、今日一日お休め申したが、依然としてひどく苦しがっているので、横川に消息を出した。 |
僧都は親しくてよい |
【奈良坂と言ふ山越えけるほどより】- 奈良街道の大和国と山城国の境にある山。 【かくては、いかでか】- 以下「おはし着かむ」まで、妹尼一行の心配。 |
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| 1.1.3 | 山籠もりの本願が強く、今年は下山しまいと思っていたが、「晩年の状態の母親が、道中で亡くなるのだろうか」と驚いて、急いでいらっしゃった。 惜しむほどでもない年齢の人だが、自分自身でも、弟子の中でも効験のある者をして、加持し大騒ぎするのを、家の主人が聞いて、 |
僧都は |
【山籠もりの本意深く】- 源信の山籠もりの故事として、九年の山籠もりの後、母親を見取った話(今昔物語集)や千日籠もりで妹を蘇生させた話(古事談)などが知られている。 【限りのさまなる親の】- 以下「亡くやならむ」まで、横川僧都の心中の思い。 【人ざまを】- 大島本は「人さまを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「人のさま」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま「人ざま」とする。 |
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| 1.1.4 | 「御嶽精進をしたが、たいそう高齢でおいでの方が、重病でいらっしゃるのは、どうしたものか」 |
その人は |
【御獄精進しけるを】- 以下「いかが」まで、家主の詞。 |
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| 1.1.5 | とうしろめたげに |
と不安そうに思って言ったので、そうも言うにちがいないことを、気の毒に思って、ひどく狭くむさ苦しい所なので、だんだんお連れ申せるほどになったが、中神の方角が塞がって、いつも住んでいらっしゃる所は避けなければならなかったので、「故朱雀院の御領で、宇治院といった所が、この近辺だろう」と思い出して、院守を、僧都は知っていらっしゃったので、「一、二日泊まりたい」と言いにおやりになったところ、 |
と不安がり、迷惑そうに |
【さも言ふべきことぞ】- 大島本は「ことそ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ことと」と校訂する。『新大系』は底本のまま「ことぞ」とする。僧都の心中の思い。 【例住みたまふ方は忌むべかりければ】- 大島本は「すミ給方ハいむへかりけれは」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「所は忌むべかりけるを」と校訂する。『新大系』は底本のまま「方は忌むべかりければ」とする。 【故朱雀院の】- 以下「このわたりならむ」まで、僧都の推量。『完訳』は「源氏の兄。実在の朱雀院も重ねた表現。宇治院は朱雀院の別荘として伝領」と注す。 【宇治の院】- 『集成』は「史上の朱雀院が行幸した記録があり、実在した邸宅である」と注す。 【一、二日宿らむ】- 僧都の伝言の主旨。 |
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| 1.1.6 | 「初瀬に、昨日皆詣でてしまいました」 |
ちょうど昨日初瀬へ家族といっしょに行った |
【初瀬になむ、昨日皆詣りにける】- 大島本は「まいりに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「詣でに」と校訂する。『新大系』は底本のまま「まいりに」とする。院守の返事。使者が伝える。 |
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| 1.1.7 | とて、いとあやしき |
と言って、ひどくみすぼらしい宿守の老人を呼んで連れて来た。 |
と言い、貧相な番人の |
【呼びて率て来たり】- 僧都の使者が院守のもとで留守を預かっている宿守を呼び出して連れて帰ってきた。 |
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| 1.1.8 | 「いらっしゃるなら、早いほうがよい。 誰も使っていない院の寝殿でございますようです。 物詣での方は、いつもお泊まりになります」 |
「おいでになるのでございましたらがらっとしております寝殿をお使いになるほかはございませんでしょう。初瀬や奈良へおいでになる方はいつもそこへお泊まりになります」 |
【おはしまさば、はや】- 以下「宿りたまっふ」まで、宿守の詞。 |
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| 1.1.9 | と |
と言うので、 |
と翁は言った。 |
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| 1.1.10 | 「実に結構なことだ。 公の建物だが、誰もいなくて気楽な所だから」 |
「それでけっこうだ。官有の |
【いとよかなり】- 以下「心やすきを」まで、僧都の詞。 【公所なれど】- 朱雀院の別荘なので公領、初瀬詣での人々が宿泊した。蜻蛉日記の作者右大将道綱母も利用している。公共的宿泊所となっている。 |
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| 1.1.11 | と言って、様子を見におやりになる。 この老人、いつもこのように泊まる人を見慣れていたので、簡略な設営などをして戻って来た。 |
僧都はこう言って、また弟子を検分に出した。番人の翁はこうした旅人を迎えるのに |
【おろそかなるしつらひ】- 一通りの設営。 |
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第二段 僧都、宇治の院の森で妖しい物に出会う |
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| 1.2.1 | まず、僧都がお越しになる。 「とてもひどく荒れて、恐ろしそうな所だな」と御覧になる。 |
僧都は尼君たちよりも先に行った。非常に荒れていて恐ろしい気のする所であると僧都はあたりをながめて、 |
【いといたく荒れて、恐ろしげなる所かな】- 僧都の感想。 【見たまふ】- 大島本は「見給」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見たまひて」と「て」を補訂する。『新大系』は底本のまま「見給」とする。 |
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| 1.2.2 | 「大徳たち、読経せよ」 |
「坊様たち、お経を読め」 |
【大徳たち、経読め】- 僧都の詞。 |
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| 1.2.3 | などとおっしゃる。 この初瀬に付いていった阿闍梨と同じような者が、何事があったのか、お供するにふさわしい下臈の法師に、松明を灯させて、人も近寄らない建物の後ろの方に行った。 森かと見える木の下を、「気持ち悪い所だ」と見ていると、白い物が広がっているのが見える。 |
などと言っていた。初瀬へついて行った阿闍梨と、もう一人同じほどの僧が何を |
【何事のあるにか】- 『完訳』は「挿入句。後述の内容を先取りする」と注す。 【うしろの方に】- 宇治院の建物の後方。 |
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| 1.2.4 | 「かれは、 |
「あれは、何だ」 |
あれは何であろう |
【かれは、何ぞ】- 僧の詞。 |
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| 1.2.5 | と、 |
と、立ち止まって、松明を明るくして見ると、何かが座っているような格好である。 |
と立ちどまって炬火を明るくさせて見ると、それはすわった人の姿であった。 |
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| 1.2.6 | 「狐が化けた物だ。 憎い。 正体を暴いてやろう」 |
「 |
【狐の変化】- 以下「見現はさむ」まで、僧の詞。 |
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| 1.2.7 | とて、 |
と言って、一人はもう少し近寄る。 もう一人は、 |
と言った一人の阿闍梨は少し白い物へ近づきかけた。 |
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| 1.2.8 | 「まあ、よしなさい。 よくない物であろう」 |
「およしなさい。悪いものですよ」 |
【あな、用な。よからぬ物ならむ】- もう一人の僧の詞。 |
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| 1.2.9 | と |
と言って、そのような物が引き下がるような印を作りながら、そうは言ってもやはり見つめている。 頭の髪があったら太くなりそうな気がするが、この松明を灯した大徳は、恐れもせず、深い考えもなく様子で、近寄ってその様子を見ると、髪は長く艶々として、大きな木の根がとても荒々しくある所に寄りかかって、ひどく泣いている。 |
もう一人の阿闍梨はこう言ってとめながら、 |
【さやうの物退くべき印を作りつつ】- 大島本は「しりそくへき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「退(しぞ)くべき」と「り」を削除する。『新大系』は底本のまま「退(しりぞ)くべき」とする。『完訳』は「変化退散には、不動の印を結び、陀羅尼などを読む」と注す。 【頭の髪あらば太りぬべき心地するに】- 恐怖感をいう。僧侶は髪を剃っているので、諧謔を交えた表現。 【大きなる木の】- 大島本は「おほきなる木の」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「大きなる木の根の」と「根の」を補訂する。『新大系』は底本のまま「大きなる木の」とする。 【寄りゐて】- 木の根にもたれかかって座っているさま。 |
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| 1.2.10 | 「珍しいことでございますな。 僧都の御坊に御覧に入れましょう」 |
「珍しいことですね。僧都様のお目にかけたい気がします」 |
【珍しきことにもはべるかな】- 以下「たてまつらばや」まで、僧の詞。 |
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| 1.2.11 | と |
と言うと、 |
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| 1.2.12 | 「なるほど、不思議な事だ」 |
「そう、不思議千万なことだ」 |
【げに、妖しき事なり】- 僧の詞。 |
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| 1.2.13 | と言って、一人は参上して、「これこれしかじかです」と申し上げる。 |
と言い、一人の阿闍梨は師へ報告に行った。 |
【かかることなむ】- 僧の詞。間接話法。 |
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| 1.2.14 | 「狐が人に化けるということは昔から聞いたが、まだ見たことがないものだ」 |
「狐が人に化けることは昔から聞いているが、まだ自分は見たことがない」 |
【狐の人に】- 以下「見ぬものなり」まで、僧都の詞。 |
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| 1.2.15 | とて、わざと |
と言って、わざわざ下りていらっしゃる。 |
こう言いながら僧都は庭へおりて来た。 |
【わざと下りておはす】- 主語は僧都。『完訳』は「寝殿から裏庭へ。高徳の僧ながら好奇心旺盛で、柔軟な人柄」と注す。 |
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| 1.2.16 | かの |
あちらにお越しになろうとしたところで、下衆どもで、役に立ちそうな者は皆、御厨子所などで、準備すべきことをいろいろと、こちらではかかりきりでいたので、ひっそりしていたので、わずか四、五人で、ここにいる物を見るが、変化する様子も見えない。 |
尼君たちがこちらへ移って来る用意に召使の男女がいろいろの物を運び込む騒ぎの済んだあとで、ただ四、五人だけがまた庭の怪しい物を見に出たが、さっき見たのと少しも変わっていない。 |
【かの渡りたまはむとすることによりて】- 尼君一行が宇治院に移ってくるということで。 |
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| 1.2.17 | 不思議に思って、一時の移るまで見る。 「早く夜も明けてほしい。 人か何物か、正体を暴こう」と、心中でしかるべき真言を読み、印を作って試みると、はっきり見極めがついたのであろうか、 |
怪しくてそのまま次の刻に移るまでもながめていた。「早く夜が明けてしまえばいい。人か何かよく見きわめよう」と言い、心で |
【時の移るまで】- 一時は二時間。ここは長い時間の意。 【疾く夜も】- 以下「見現はさむ」まで、僧たちの心中の思い。『完訳』は「妖怪変化は、夜明けとともに、退散するか、力を失うとされる」と注す。 【しるくや思ふらむ】- 挿入句。語り手の想像を介入した叙述。 |
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| 1.2.18 | 「これは、人である。 まったく異常なけしからぬ物ではない。 近寄って問え。 死んでいる人ではないようだ。 もしや死んだ人を捨てたのが、生き返ったのだろうか」 |
「これは人だ。決して怪しいものではない。そばへ寄って聞いてみるがよい。死んではいない。あるいはまた死んだ者を捨てたのが |
【これは、人なり】- 以下「蘇りたるか」まで、僧都の詞。 【死にたりける人】- 大島本は「しにたりける人」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「死にたる」と「りけ」を削除する。『新大系』は底本のまま「死にたりける」とする。 |
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| 1.2.19 | と |
と言う。 |
と言った。 |
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| 1.2.20 | 「どうして、そのような人を、この院の邸内に捨てましょうか。 たとい、ほんとうに人であったとしても、狐や木霊のようなものが、たぶらかして連れて来たのでございましょうと、不都合なことでございますなあ。 穢れのある所のようでございます」 |
「そんなことはないでしょう。この院の中へ死人を人の捨てたりすることはできないことでございます。真実の人間でございましても、狐とか |
【何の、さる人をか】- 以下「こそはべめれ」まで、僧の詞。 【この院の内に】- 宇治院の邸内。 【はべらめと】- 大島本は「侍らめと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべらめ」と「と」を削除する。『新大系』は底本のまま「侍らめと」とする。 【不便にもはべりけるかな】- 『完訳』は「病気の尼を連れて来ようとしているのに、この女が死んだら死の穢れに触れて不都合」と注す。 |
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| 1.2.21 | と |
と言って、先程の宿守の男を呼ぶ。 山彦が答えるのも、まことに恐ろしい。 |
と一人の阿闍梨は言い、番人の翁を呼ぼうとすると |
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第三段 若い女であることを確認し、救出する |
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| 1.3.1 | 変な恰好に、烏帽子を額の上に押し上げて出て来た。 |
翁は変な |
【額おし上げて】- 『完訳』は「烏帽子を上へずり上げた恰好。宿守の老人のやや滑稽なさまが、緊張した雰囲気をやわらげる」と注す。 |
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| 1.3.2 | 「ここには、 かかることなむある」 |
「ここには、若い女などが住んでいるのか。 このようなことがある」 |
「ここに若い女の方が住んでおられるのですか。こんなことが起こっているが」 |
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| 1.3.3 | とて |
と言って見せると、 |
と言って、見ると、 |
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| 1.3.4 | 「狐がしたことだ。 この木の下に、時々変なことをします。 一昨年の秋も、ここに住んでいました人の子で、二歳ほどになったのを、さらって参ったが、驚きもしませんでした」 |
「狐の |
【狐の仕うまつるなり】- 大島本は「つかうまつる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「仕まつる」と「う」を削除する。『新大系』は底本のまま「仕うまつる」とする。以下「見驚かずはべりき」まで、宿守の詞。 【わざなむしはべる】- 大島本は「わさなむ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「わざ」と「なむ」を削除する。『新大系』は底本のまま「わざなむ」とする。 【ここにはべる人の子の】- 『集成』は「この院に仕えています人の子で」。『完訳』は「この辺におります者の子供で」と注す。 【まうで来たりしかど】- 大島本は「きたりしかと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「来たりしかども」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のまま「来たりしかど」とする。 |
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| 1.3.5 | 「それでは、その子は死んでしまったのか」 |
「その子供は死んでしまったのか」 |
【さて、その稚児は死にやしにし】- 僧の詞。 |
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| 1.3.6 | と |
と問うと、 |
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| 1.3.7 | 「生きております。 狐は、そのように人を脅かすが、何ということもないやつです」 |
「いいえ、生き返りました。狐はそうした人騒がせはしますが無力なものでさあ」 |
【生きてはべり】- 以下「あらぬ奴」まで、宿守の詞。 【人を脅かせど】- 大島本は「人を」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「人は」と校訂する。『新大系』は底本のまま「人を」とする。 |
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| 1.3.8 | と言う態度は、とても物慣れたさまである。 あちらの深夜に食事の準備している所に、気を取られているのであろう。 僧都は、 |
なんでもなく思うらしい。「夜ふけに召し上がりましたもののにおいを |
【いと馴れたり】- ありふれたさまでいる。 【夜深き参りものの所に】- 深夜の食事の準備をしている御厨子所。 【心を寄せたるなるべし】- 語り手の推測を交えた叙述。 |
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| 1.3.9 | 「それでは、そのような物がしたことかどうか。 やはり、よく見よ」 |
「ではそんなものの仕事かもしれん。まあとっくと見るがいい」 |
【さらば、さやうの】- 以下「よく見よ」まで、僧都の詞。 |
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| 1.3.10 | とて、このもの |
と言って、この恐いもの知らずの法師を近づけると、 |
僧都は弟子たちにこう命じた。初めから |
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| 1.3.11 | 「鬼か神か狐か木霊か。 これほどの天下第一の験者がいらっしゃるのには、隠れ申すことはできまい。 正体を名のりなさい。 正体を名のりなさい」 |
「 |
【鬼か神か】- 以下「名のりたまへ」まで、僧の詞。 |
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| 1.3.12 | と、 |
と、衣を取って引くと、顔を隠してますます泣く。 |
と言って着物の端を手で引くと、その者は顔を |
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| 1.3.13 | 「さてもまあ、何と、たちの悪い木霊の鬼だ。 正体を隠しきれようか」 |
「聞き分けのない |
【いで、あな】- 以下「隠れなむや」まで、僧の詞。 |
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| 1.3.14 | と言いながら、顔を見ようとすると、「昔いたという目も鼻もなかった女鬼であろうか」と、気味悪いが、頼もしく威勢のよいところを人に見せようと思って、衣を脱がせようとすると、うつ臥して声を立てるほどに泣く。 |
こう言いながら顔を見ようとするのであったが、心では昔話にあるような目も鼻もない |
【目も鼻もなかりける】- 大島本は「なかりける」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「なかりけん」と校訂する。『新大系』は底本のまま「なかりける」とする。 |
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| 1.3.15 | 「何にあれ、このような不思議なことは、普通、世間にはない」 |
何にもせよこんな不思議な現われは世にない |
【何にまれ】- 以下「世にあらじ」まで、僧の心中の思い。 |
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| 1.3.16 | とて、 |
と言って、見極めようと思っていると、 |
ことであるから、どうなるかを最後まで見ようと皆の思っているうちに |
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| 1.3.17 | 「雨がひどく降って来そうだ。 こうしておいたら、死んでしまいましょう。 築地塀の外に出しましょう」 |
雨になり、次第に強い降りになってきそうであった。「このまま置けば死にましょう。 |
【雨いたく降りぬべし】- 以下「出ださめ」まで、僧の詞。 【垣の下にこそ出ださめ】- 宇治院の築地塀の外に捨てよう、そうすれば死の穢れに触れずにすむ。 |
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| 1.3.18 | と |
と言う。 僧都は、 |
と一人が言う。 |
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| 1.3.19 | 「まことの その |
「ほんとうに人の姿だ。 その命が今にも絶えてしまいそうなのを見ながら放っておくことは、もっての外のことだ。 池で泳ぐ魚、山で鳴く鹿でさえ、人に捕えられて死にそうなのを見て、助けないのは、まことに悲しいことだろう。 人の命は長くはないものだが、残りの命の、一、二日を惜しまないものはない。 鬼にもあれ神にもあれ、取り憑かれたり、人に追出されたり、人に騙されたりしても、これらは横死をするにちがいないものだが、仏が必ずお救いになるはずの人である。 |
「真の人間の姿だ。人間の命のそこなわれるのがわかっていながら捨てておくのは悲しいことだ。池の魚、山の |
【まことの人の形なり】- 「言ふ限りにあらず」まで、僧都の詞。 【いといみじきことなり】- 大島本は「いといみしき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いみじき」と「いと」を削除する。『新大系』は底本のまま「いといみじき」とする。 【池に泳ぐ魚、山に鳴く鹿をだに】- 典拠未詳。深い慈悲心をいう。 【死なむとするを見て】- 大島本は「しなむとするをみて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見つつ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「見て」とする。 【残りの命、一、二日をも惜しまずはあるべからず】- 『完訳』は「母の重病に駆けつけたゆえん」と注す。 【人に逐はれ、人に謀りごたれても】- 『集成』は「悪人とか継母の奸計といったことが想像される」と注す。 【ものにこそあんめれ】- 大島本は「こそあんめれ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「こそはあめれ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「こそあんめれ」とする。 |
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| 1.3.20 | なほ、 つひに、 |
やはり、試みに、しばらく薬湯を飲ませたりして、助けてみよう。 結局、死んでしまったら、しかたのないことだ」 |
生きうるか、どうかもう少し手当をして湯を飲ませなどもして試みてみよう。それでも死ねばしかたがないだけだ」 |
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| 1.3.21 | とのたまひて、この |
とおっしゃって、この大徳に抱いて中に入れさせなさるのを、弟子どもは、 |
と |
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| 1.3.22 | 「不都合なことだなあ。 ひどく患っていらっしゃる方のお側近くに、よくないものを近づけて、穢れがきっと出て来よう」 |
「よけいなことだがなあ。重い病人のおられる所へ、えたいの知れないものをつれて行くのでは |
【たいだいしきわざかな】- 以下「出で来なむとす」まで、僧の詞。 【いたうわづらひたまふ人】- 僧都の母尼。 【よからぬ物を】- 「物」は霊力をもったもの、の意。 |
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| 1.3.23 | と、もどくもあり。 また、 |
と、非難する者もいる。 また、 |
と非難する者もあった。また、 |
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| 1.3.24 | 「変化の物であれ、目前に見ながら、生きている人を、このような雨に打たれ死なせるのは、よくないことなので」 |
「 |
【物の変化にもあれ】- 以下「いみじきことなれば」まで、僧の詞。 |
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| 1.3.25 | など、 |
などと、思い思いに言う。 下衆などは、たいそう騒がしく、口さがなく言い立てるものなので、人の大勢いない隠れた所に寝かせたのであった。 |
こう言う者もあった。 |
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第四段 妹尼、若い女を介抱す |
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| 1.4.1 | お車を寄せてお下りになる時、ひどくお苦しがりなさると言って、大騒ぎする。 少し静まって、僧都が、 |
尼君たちの車が着き、大尼君がおろされる時に苦しがると言って皆は騒いだ。少し静まってから僧都は弟子に、 |
【御車寄せて降りたまふほど】- 尼君一行が宇治院に。 【いたう苦しがりたまふ】- 主語は母尼。 |
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| 1.4.2 | 「先程の人は、どのようになった」 |
「あの婦人はどうなったか」 |
【ありつる人、いかがなりぬる】- 大島本は「ありつる人」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ありつる人は」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のまま「ありつる人」とする。僧都の詞。 |
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| 1.4.3 | と |
とお尋ねになる。 |
と問うた。 |
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| 1.4.4 | 「なよなよとして何も言わず、息もしません。 いやなに、魔性の物に正体を抜かれた者でしょう」 |
「なよなよとしていましてものも申しません。確かによみがえったとも思われません。何かに魂を取られている人なのでしょう」 |
【なよなよとして】- 以下「人にこそ」まで、僧の詞。 【もの言はず】- 大島本は「物いはす」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ものも言はず」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のまま「物言はず」とする。 【何か、物に--人にこそ】- 『集成』は「軽くあしらってみせる語気」と注す。 |
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| 1.4.5 | と |
と言うのを、妹の尼君がお聞きになって、 |
こう答えているのを僧都の妹の尼君が聞いて、 |
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| 1.4.6 | 「 |
「何事ですか」 |
「何でございますの」 |
【何事ぞ】- 妹尼の詞。 |
||||||||||||||||||||||
| 1.4.7 | と |
と尋ねる。 |
と尋ねた。こんなことがあったのだと僧都は語り、 |
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| 1.4.8 | 「これこれしかじかの事を、六十歳を過ぎた年齢になって、珍しい物を拝見しました」 |
「自分は六十何年生きているがまだ見たこともないことにあった」 |
【しかしかのことなむ】- 大島本は「ことなむ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ことをなむ」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のまま「ことなむ」とする。以下「見たまへつる」まで、僧都の詞。 【六十に余る年】- 僧都自身の年齢。 |
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| 1.4.9 | とのたまふ。 うち |
とおっしゃる。 それを聞くなり、 |
と言うのを聞いて、尼君は、 |
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| 1.4.10 | 「わたしが寺で見た夢がありました。 どのような人ですか。 早速その様子を見たい」 |
「まあ、私が |
【おのが寺にて】- 以下「そのさま見む」まで、妹尼の詞。長谷寺に参籠中に見た夢。 |
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| 1.4.11 | と |
と泣いておっしゃる。 |
泣きながら尼君は言うのであった。 |
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| 1.4.12 | 「ちょうどこの東の遣戸の所におります。 早く御覧なさい」 |
「すぐその |
【ただこの】- 以下「御覧ぜよ」まで、僧都の詞。 |
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| 1.4.13 | と いと |
と言うので、急いで行って見ると、誰も側近くにおらずに、放置してあった。 とても若くかわいらしげな女で、白い綾の衣一襲に、紅の袴を着ている。 香はたいそう芳ばしくて、上品な感じがこの上ない。 |
兄の言葉を聞いて尼君は急いでそのほうへ行った。だれもそばにいず打ちやられてあった人は若くて美しく、白い |
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| 1.4.14 | 「まるで、わたしが恋い悲しんでいた娘が、帰っていらしたようだ」 |
自分の恋い悲しんでいる死んだ娘が帰って来たのであろう |
【ただ、わが恋ひ悲しむ】- 以下「おはしたるなめり」まで、妹尼の詞。 |
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| 1.4.15 | と言って、泣きながら年配の女房たちを使って、抱き入れさせる。 どうしたことかとも、事情を知らない人は、恐がらずに抱き入れた。 生きているようでもなく、それでも目をわずかに開けたので、 |
と尼君は言い、女房をやって自身の |
【御達を出だして】- 妹尼に仕えている年配の女房を遣戸口の外に。 |
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| 1.4.16 | 「何かおっしゃいなさい。 どのようなお人か、こうして、いらっしゃるのは」 |
「何かおっしゃいよ。どんなことでこんなふうになっていらっしゃるのですか」 |
【もののたまへや】- 以下「ものしたまへる」まで、妹尼の詞。 |
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| 1.4.17 | と |
と尋ねるが、何も分からない様子である。 薬湯を取って、ご自身ですくって飲ませなどするが、ただ弱って死にそうだったので、 |
と尼君は言ってみたが、依然失心状態が続く。湯を持って来させて自身から口へ注ぎ入れなどするが、衰弱は加わっていくばかりと見えた。 |
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| 1.4.18 | 「かえって大変な事になりました」と言って、「この人は死にそうです。 加持をしなさい」 |
「この人を拾うことができて、そしてまた死なせてしまう悲しみを味わわなければならぬだろうか」と尼君は言い、「この人は死にそうですよ。加持をしてください」 |
【なかなかいみじきわざかな】- 妹尼の詞。『集成』は「なまじこれは大変な心配をしょいこみました。亡き娘の身代りと喜んでみたものの、この人の命を危ぶむ」と注す。 【この人亡くなりぬべし。加持したまへ】- 妹尼の詞。 |
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| 1.4.19 | と、 |
と、験者の阿闍梨に言う。 |
と初瀬へ行った |
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| 1.4.20 | 「それだから言ったのに。 つまらないお世話です」 |
「だからむだな世話焼きをされるものだと言ったことだった」 |
【さればこそ。あやしき御もの扱ひ】- 大島本は「御ものあつかひ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御ものあつかひなり」と「なり」を補訂する。『新大系』は底本のまま「御ものあつかひ」とする。僧の詞。 |
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| 1.4.21 | とは言うが、神などの御ためにお経を読みながら祈る。 |
この人はつぶやいたが、 |
【神などのために経読みつつ】- 大島本は「ために」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御ために」と「御」を補訂する。『新大系』は底本のまま「ために」とする。『集成』は「神分といって、祈祷の前に『般若心経』を読む。悪神邪神を退け、善神の加護を願う趣旨」と注す。 |
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第五段 若い女生き返るが、死を望む |
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| 1.5.1 | 僧都もちょっと覗いて、 |
僧都もそこへちょっと来て、 |
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| 1.5.2 | 「どうですか。 何のしわざかと、よく調伏して問え」 |
「どうかね。何がこうさせたかをよく |
【いかにぞ】- 以下「調じて問へ」まで、僧都の詞。 |
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| 1.5.3 | とのたまへど、いと |
とおっしゃるが、ひどく弱そうに死んで行きそうなので、 |
と言っていたが、女は弱々しく今にも消えていく命のように見えた。 |
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| 1.5.4 | 「生きられそうにない。 思いがけない穢れに籠もって、厄介なことになりますこと」 |
「むずかしいらしい。思いがけぬ |
【え生きはべらじ】- 以下「見苦しきわざかな」まで、僧たちの詞。 【すぞろなる穢らひに籠もりて】- 大島本は「すそろ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「すずろ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「すぞろ」とする。死穢は三十日間の忌籠もりとなる。 |
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| 1.5.5 | 「さすがに、いとやむごとなき |
「そうは言っても、とても高貴な方でございましょう。 死んだとしても、普通の人のようにはお捨て置きになることはできまい。 面倒なことになったな」 |
われわれはここから出られなくなるだろうし、身分のある人らしく思われるから、死んでもそのまま捨てることはならないだろう。困ったことにかかり合ったものだ」 |
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| 1.5.6 | と |
と言い合っていた。 |
弟子たちはこんなことを言っているのである。 |
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| 1.5.7 | 「お静かに。 人に聞かせるな。 厄介なことでも起こったら大変です」 |
「まあ静かにしてください。人にこの人のことは言わないでくださいよ。めんどうが起こるといけませんから」 |
【あなかま】- 以下「こともぞある」まで、妹尼の詞。 |
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| 1.5.8 | など さすがに、 |
などと口封じしながら、尼君は、親が患っていらっしゃるのよりも、この人を生き返らせてみたく惜しんで、もうすっかりこちらに付きっきりになっていた。 知らない人であるが、顔容姿がこの上なく美しいので、死なせまいと、見る人びとも皆でお世話した。 そうは言っても、時々、目を開けたりなどして、涙が止まらず流れるのを、 |
と口固めをしておいて、尼君は親の病よりもこの人をどんなにしても生かせたいということで夢中になり、親身の者のようにじっと添っていた。知らない人であったが、 |
【うちつけに添ひゐたり】- 『集成』は「もうすっかりこちらに付ききりでいる。「うちつけ」は、唐突の意。態度を豹変させて、という感じ」と注す。 【をかしげなれば】- 大島本は「おかしけなれハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「をかしければ」と「な」を削除する。『新大系』は底本のまま「おかしければ」とする。 【見る限り】- 尼君一行の女房たち。『集成』「その場の人は皆」と注す。 |
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| 1.5.9 | 「まあ、お気の毒な。 たいそう悲しいと思う娘の代わりに、仏がお導きなさったとお思い申し上げていたのに。 亡くなってしまわれたら、かえって悲しい思いが加わることでしょう。 こうなるはずの宿縁で、こうしてお会い申したのでしょう。 ぜひ、少しは何とかおっしゃってください」 |
「まあ悲しい。私の恋しい死んだ子の代わりに仏様が私の所へ導いて来てくだすった方だと思って私は喜んでますのに、このままになってはかえって以前にました物思いをする私になるでしょう。宿縁があればこそこうして出逢うことになったあなたと私に違いないのですよ。なんとか少しでもものをお言いなさいよ」 |
【あな、心憂や】- 以下「もののたまへ」まで、妹尼の詞。 【人の代はりに】- 亡き娘の代わりに。 【仏の導きたまへると】- 長谷寺の観音。 【かく見たてまつらめ】- 大島本は「みたてまつらめ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見たてまつるらめ」と「る」を補訂する。『新大系』は底本のまま「見たてまつらめ」とする。 |
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| 1.5.10 | と |
と言い続けるが、やっとのことで、 |
こう長々と言われたあとで、やっと、 |
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| 1.5.11 | 「生き返ったとしても、つまらない無用の者です。 誰にも見せないで、夜にこの川に投げ込んでくださいまし」 |
「生きることができましても、私はもうこの世にいらない人間でございます。人に見せないでこの川へ落としてしまってください」 |
【生き出でたりとも】- 以下「落とし入れたまひてよ」まで、浮舟の詞。 |
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| 1.5.12 | と、 |
と、息の下に言う。 |
低い声で病人は言った。 |
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| 1.5.13 | 「やっとのこと何かおっしゃるのを嬉しいと思ったら、まあ、大変な。 どうして、そのようなことをおっしゃるのですか。 なぜ、あのような所にいらっしゃったのですか」 |
何にもせよ珍しくものを言いだしたことをうれしく尼君は思った。「悲しいことを、まあどうしてそんなことをお言いになりますの、どうしてそんな所に来ておいでになったの」 |
【まれまれ物のたまふを】- 以下「おはしつるぞ」まで、妹尼の詞。 |
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| 1.5.14 | と尋ねるが、何もおっしゃらなくなってしまった。 「身体にもしやおかしなところなどがあろうか」と思って見たが、これと思える所はなくかわいらしいので、驚き呆れて悲しく、「ほんとうに、人の心を惑わそうとして出て来た仮の姿をした変化の物か」と疑う。 |
と尋ねても、もうそれきり何も言わなかった。 |
【身にもし傷などやあらむ】- 妹尼の心中の思い。『集成』は「からだにあるいは不具のところでもあるのか。若い女のことなので気をまわす。「疵」は、欠陥の意」。『完訳』は「身体的欠陥。一説には怪我」と注す。 【まことに】- 以下「仮のものにや」まで、妹尼の思い。 |
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第六段 宇治の里人、僧都に葬送のことを語る |
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| 1.6.1 | 二日ほど籠もっていて、二人の女性を祈り加持する声がひっきりなしで、不思議な事件だと思ってあれこれ言う。 その近辺の下衆などで、僧都にお仕え申していた者が、こうしてお出でになっていると聞いて、挨拶に出て来たが、世間話などして言うのを聞くと、 |
一行は二日ほどここに滞留していて、老尼と拾った若い |
【二人の人を】- 母尼と浮舟。 【あやしきことを思ひ騒ぐ】- 『集成』は「奇妙ないきさつに心を痛める。身許の知れぬ意識不明の女までかかえ込んで、一喜一憂するといった感じ」と注す。 【かくておはしますなり】- 僧都がここに滞在している。「なり」伝聞推定の助動詞。 |
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| 1.6.2 | 「故八の宮の姫君で、右大将殿がお通いになっていた方が、特にご病気になったということもなくて、急にお亡くなりになったと言って、大騒ぎしております。 そのご葬送の雑事類にお仕え致しますために、昨日は参上することができませんでした」 |
「以前の八の宮様の姫君で、右大将が通って来ておいでになった方が、たいした御病気でもなしににわかにお |
【故八の宮の御女】- 以下「参りはべらざりし」まで、下衆の詞。『完訳』は「ここで瀕死の女が浮舟であることが明確となる」と注す。 【仕うまつりはべりとて】- 大島本は「侍り」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「侍り」とする。 |
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| 1.6.3 | と言う。 「そのような人の魂を、鬼が取って持って来たのであろうか」と思うにも、一方では見ながら、「生きている人とも思えず、危なっかしく恐ろしい」とお思いになる。 人びとは、 |
こんなことも言っている。そうした貴女の霊魂を鬼が奪って持って来たのがこの人ではあるまいかと思われた尼君は、今は目に見ているが跡形もなく消えてしまう人のように思われ、危うくも恐ろしくも拾った姫君を思った。女房らが、 |
【さやうの人の】- 以下「取りもて来たるにや」まで、僧都の心中の思い。 【あるものともおぼえず、危ふく恐ろし】- 僧都の心中の思い。 |
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| 1.6.4 | 「昨夜見やられた火は、そのように大げさなふうには見えませんでしたが」 |
「昨夜ここから見えた |
【昨夜見やられし火は】- 以下「見えざりしを」まで、尼君一行の人々の詞。 |
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| 1.6.5 | と |
と言う。 |
と言うと、 |
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| 1.6.6 | 「格別に簡略にして、盛大ではございませんでした」 |
「わざわざ簡単になすったのですよ」 |
【ことさら事削ぎて、いかめしうもはべらざりし】- 下衆の詞。 |
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| 1.6.7 | と言う。 死穢に触れた人だからというので、立ったままで帰らせた。 |
こんな説明をした。死穢に触れた男であるから病人の家に近づかせてはならないと言い、立ち話をさせただけで追い返した。 |
【穢らひたる人とて】- 死穢に触れた人ということで。 【立ちながら追ひ返しつ】- 死穢に触れないため、庭先に立たせたままで、室内に上げない、座らせない。「追ひ返す」は早々に帰らせた意。 |
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| 1.6.8 | 「大将殿は、宮の姫君をお持ちになっていたのは、お亡くなりになって、何年にもなったが、誰を言うのでしょうか。 姫宮をさし置き申しては、まさか浮気心はおありでない」 |
「大将さんが八の宮の姫君を奥様にしていらっしゃったのは、お |
【大将殿は】- 以下「よに異心おはせじ」まで、女房たちの詞。 【宮の御女持ちたまへりしは】- 宇治八宮の大君。 【年ごろになりぬる】- 死後三年目。『集成』は「亡くなったのは年立の上では四年前(通説、三年前)のこと」と注す。 【姫宮をおきたてまつり】- 女二宮。薫の正室。 |
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| 1.6.9 | など |
などと言う。 |
とも尼君は言っていた。 |
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第七段 尼君ら一行、小野に帰る |
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| 1.7.1 | 尼君がよくおなりになった。 方角も開いたので、「このような嫌な所に長く逗留されるのも不都合である」と言って帰る。 |
大尼君の病気は |
【方も開きぬれば】- 方塞がりも解けた。 |
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| 1.7.2 | 「この人は、依然としてとても弱々しそうだ。 道中もいかがでいらっしゃろうかと、おいたわしいこと」 |
拾った貴女はまだ弱々しく見えた。途中が心配である、いたいたしいことである |
【この人は】- 以下「心苦しきこと」まで、女房たちの詞。 【いかがものしたまはむと】- 大島本は「いかゝ物し給ハんと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ものしたまはん」と「と」を削除する。『新大系』は底本のまま「物し給はんと」とする。 |
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| 1.7.3 | と話し合っていた。 車二台で、老人がお乗りになったのには、お仕えする尼が二人、次のにはこの人を寝かせて、側にもう一人付き添って、道中もはかどらず、車を止めて薬湯などを飲ませなさる。 |
と女房たちは言い合っていた。二つの車の一台の僧都と大尼君の乗ったのにはその人に奉仕している尼が二人乗り、次の車には尼夫人が病の人を自身とともに乗せ、ほかに一人の女房を乗せて出た。車をやり通させずに所々でとめて病人に湯を飲ませたりした。 |
【仕うまつる尼二人】- 母尼と女房の尼二人が乗る。 【いま一人乗り添ひて】- 浮舟と妹尼の他にもう一人の女房の尼が乗る。 |
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| 1.7.4 | 比叡の坂本で、小野という所にお住みになっていた。 そこにお着きになるまで、まことに遠い。 |
【比叡坂本に、小野といふ所】- 比叡山の西坂本の小野。 |
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| 1.7.5 | 「休憩所を準備すべきであった」 |
途中で休息する所を考えておけばよかった |
【中宿りを設くべかりける】- 一行の詞。普通の旅では不要。病人が出たので必要性を感じた。 |
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| 1.7.6 | など |
などと言って、夜が更けてお着きになった。 |
と言いながらも小野の家へ夜ふけになって帰り着いた。 |
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| 1.7.7 | 僧都は、母親を世話し、娘の尼君は、この知らない女を介抱して、みな抱いて降ろし降ろしして休む。 老人の病気はいつということもないが、苦しいと思っていた遠路のせいで、少しお疲れになったが、だんだんとよくおなりになったので、僧都は山にお登りになった。 |
僧都は母を、尼君はこの知らぬ人を世話して皆抱きおろして休ませた。老いた尼君はいつもすぐれた健康を持っているのではない上、遠い旅をしたあとであったから、その後しばらくはわずらっていたもののようやく |
【はぐくみて】- 『集成』は「「はぐくむ」は、親が子を大事に育てる意。妹尼の気持が出ている」と注す。 【僧都は登りたまひぬ】- 僧都は比叡山の横川に帰山。 |
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| 1.7.8 | 「かかる 「いかで、さる |
「このような女を連れて来た」などと、法師の間ではよくないことなので、知らなかった人には事情を話さない。 尼君も、みな口封じをさせたが、「もしや探しに来る人もいようか」と思うと、気が落ち着かない。 「何とか、そのような田舎者の住む辺りに、このような方がさまよっていたのだろうか。 物詣でなどした人で、気分が悪くなったのを、継母などのような人が、だまして置いていったのであろうか」と推測してみるのだった。 |
身もとの知れない若い女の病人を伴って来たというようなことは僧としてよい |
【かかる人なむ率て来たる】- 瀕死の女を連れて来た、ということ。 【見ざりし人には】- 宇治院での出来事を知らない僧侶には。過去助動詞「き」、体験的ニュアンス。『完訳』は「立ち会っていなかった者には」と注す。 【まねばず】- 『集成』は「事情を話さない」と注す。 【いかで、さる田舎人の】- 以下「置かせたるにや」まで、妹尼の心中の思い。 【かかる人】- 『集成』は「こんな身分ありげな美しく若い女性がみじめな姿でいたのだろう」と注す。 |
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| 1.7.9 | 「 |
「川に流してください」と言った一言以外に、何もまったくおっしゃらないので、とても分からなく思って、「はやく人並みの健康にしよう」と思うと、ぐったりとして起き上がる時もなく、まことに心配な容態ばかりしていらっしゃるので、「結局は生きられない人であろうか」と思いながら、放っておくのもお気の毒でたまらない。 夢の話もし出しては、最初から祈祷させた阿闍梨にも、こっそりと芥子を焼くことをおさせになる。 |
【川に流してよ】- 浮舟が前に言った詞。 【ものもさらにのたまはねば】- 主語は浮舟。『完訳』は「女への敬語の初出。身分ある女と察する妹尼の気持の反映。逆に妹尼に敬語がつかないのは、彼女の心中に即した語り口による」と注す。 【いつしか人にもなしてみむ】- 妹尼の心中の思い。 【つくづくとして】- 浮舟の様子。 【つひに生くまじき人にや】- 妹尼の心中の思い。 【夢語りもし出でて】- 長谷寺で見た夢の話。妹尼がなぜこんなに大切に世話をするのか理由が人々に初めて明かされる。 【芥子焼くこと】- 『集成』は「密教の修法で護摩を焚くこと。その火で一切の悪業を焼き滅ぼすという」と注す。 |
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第二章 浮舟の物語 浮舟の小野山荘での生活 |
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第一段 僧都、小野山荘へ下山 |
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| 2.1.1 | ずっとこうしてお世話するうちに、四月、五月も過ぎた。 まことに心細く看護の効のないことに困りはてて、僧都のもとに、 |
それでもはかばかしくないことに気をもんで尼君は僧都の所へ手紙を書いた。 |
【四、五月も過ぎぬ】- 浮舟の入水未遂事件は三月末、それから小野で二月を経過した。季節は夏、猛暑のころとなる。 |
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| 2.1.2 | 「もう一度下山してください。 この人を、助けてください。 何といっても今日まで生きていたのは、死ぬはずのない運命の人に、取り憑いて離れない物の怪が去らないのにちがいありません。 どうかあなた様、京にお出になるのは無理でしょうが、ここまでは来てください」 |
ぜひ下山してくださいまして私の病人を助けてくださいまし。重態なようでしかも今日まで死なずにいることのできた人には、何かがきっと |
【なほ下りたまへ】- 以下「あへなむ」まで、妹尼から兄僧都への手紙文。 【憑きしみ領じたるものの】- 物の怪が深くとり憑いて正気を失わせている。 【あが仏】- 僧都に対して懇願した呼びかけ。 【こそはあらめ】- 大島本は「こそハあらめ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「こそあらめ」と「は」を削除する。『新大系』は底本のまま「こそはあらめ」とする。 |
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| 2.1.3 | などと、切なる気持ちを書き綴って、差し上げなさると、 |
などと、切な願いを言い続けたものであった。 |
【奉りたまへれば】- 大島本は「たてまつり給へれハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「奉れ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「奉り」とする。 |
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| 2.1.4 | 「まことに不思議なことだな。 こんなにまで生きている人の命を、そのまま見捨ててしまったら。 そうなるはずの縁があって、わたしが見つけたのであろう。 ためしに最後まで助けてやろう。 それでだめなら、命数が尽きたのだと思おう」 |
不思議なことである、今までまだ死なずにおられた人を、あの時うちやっておけばむろん死んだに違いない、前生の因縁があったからこそ、自分が見つけることにもなったのであろう、試みにどこまでも助けることに骨を折ってみよう、それでとめられない命であったなら、その人の業が尽きたのだとあきらめてしまおう |
【いとあやしきことかな】- 以下「と思はむ」まで、僧都の心中の思い。 【とり捨ててましかば】- 大島本は「とりすてゝ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「うち棄てて」と校訂する。『新大系』は底本のまま「とり捨てて」とする。 【それに止まらずは】- 大島本は「とゝまらすハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「とまらずは」と「ゝ」を削除する。『新大系』は底本のまま「とどまらずは」とする。 |
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| 2.1.5 | とて、 |
と思って、 |
と僧都は思って山をおりた。 |
【下りたまひけり】- 大島本は「おり給けり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「下りたまへり」と校訂する。『新大系』は底本のまま「下り給けり」とする。 |
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| 2.1.6 | 喜んで拝して、いく月日の間の様子を話す。 |
うれしく思った尼君は僧都を拝みながら今までの経過を話した。 |
【よろこび拝みて】- 主語は妹尼。 |
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| 2.1.7 | 「このように長い間患っている人は、見苦しい感じが、自然と出て来るものですが、少しも衰弱せず、とても美しげで、ひねくれたところもなくいらっしゃって、最期と見えながらも、こうして生きていることです」 |
「こんなに長わずらいをする人というものはどこかしら病人らしい気味悪さが自然にでてくるものですが、そんなことはないのでございますよ。少しも衰えたふうはなくて、きれいで清らかなのですよ。そうした人ですから危篤にも見えながら生きられるのでしょうね」 |
【かく久しう】- 以下「わざなりけり」まで、妹尼の詞。 【むつかしきこと】- 『集成』は「むさくるしい感じ」。『完訳』は「疎ましい感じ」と注す。 |
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| 2.1.8 | など、おほなおほな |
などと、本気になって泣きながらおっしゃるので、 |
尼君は真心から病人を愛して泣く泣く言うのであった。 |
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| 2.1.9 | 「見つけた時から、めったにいないご様子の方であったな。 さあ」 |
「はじめ見た時から珍しい |
【見つけしより】- 以下「いで」まで、僧都の詞。 |
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| 2.1.10 | とて、さしのぞきて |
と言って、さし覗いて御覧になって、 |
と言い、僧都は病室をのぞいた。 |
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| 2.1.11 | 「なるほど、まことに優れたご容貌の方であるなあ。 功徳の報恩で、このような器量にお生まれになったのであろう。 どのような行き違いで、ひどいことにおなりになったのであろう。 もしや、それか、と思い当たるような噂を聞いたことはありませんか」 |
「実際この人はすぐれた麗人だね。前生での |
【げに、いと警策なりける】- 以下「こともなしや」まで、僧都の詞。 【いかなる違ひめにて】- 『完訳』は「どんなまちがいで。本来の宿世にはよらぬ不幸だとする」と注す。 【損はれたまひけむ】- 大島本は「そこなはれ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「かくそこなはれ」と「かく」を補訂する。『新大系』は底本のまま「損はれ」とする。 |
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| 2.1.12 | と |
と尋ねなさる。 |
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| 2.1.13 | 「まったく聞いたことありません。 何の、初瀬の観音が授けてくださった人です」 |
「少しもございません。そんなことを考える必要はないと思います。私へ |
【さらに聞こゆることもなし】- 以下「人なり」まで、妹尼の詞。そうした噂を一向に聞かない。 |
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| 2.1.14 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
と尼君は言う。 |
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| 2.1.15 | 「いや何。 宿縁によってお導きくださったものでしょう。 因縁のないことはどうして起ころうか」 |
「それにはそれの順序がありますよ。虚無から人の出てくるものではないからね」 |
【何か。それ縁に】- 以下「いかでか」まで、僧都の詞。 【いかでか】- 反語表現。下に「導きたまはむ」などの語句が省略。 |
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| 2.1.16 | などと、おっしゃるのが、不思議がりなさって、修法を始めた。 |
などと |
【のたまふが】- 大島本は「の給か」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「のたまひ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「の給が」とする。 |
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第二段 もののけ出現 |
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| 2.2.1 | 「朝廷のお召しでさえお受けせず、深く籠もっている山をお出になって、わけもなくこのような人のために修法をなさっていると、噂が聞こえた時には、まことに聞きにくいことであろう」とお思いになり、弟子どももそう意見して、「人に聞かせまい」と隠す。 僧都、 |
宮中からのお召しさえ辞退して山にこもっている自分が、だれとも知らぬ女のために自身で |
【朝廷の召しにだに】- 以下「いと聞きにくかるべし」まで、妹尼の心中の思い。 【すぞろに】- 大島本は「すそろに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「すずろに」と校訂する。『新大系』は底本のまま「すぞろに」とする。 |
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| 2.2.2 | 「まあ、お静かに。 大徳たち。 わたしは破戒無慚の法師で、戒律の中で、破った戒律は多かろうが、女の方面ではまだ非難されたことなく、過ったこともない。 年齢も六十を過ぎて、今さら人の非難を受けるのは、前世の因縁なのであろう」 |
「静かにするがよい。自分は |
【いで、あなかま】- 以下「こそはあらめ」まで、僧都の詞。 【六十に余りて】- 大島本は「六十にあまりて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「齢六十にあまりて」と「齢」を補訂する。『新大系』は底本のまま「六十にあまりて」とする。 |
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| 2.2.3 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と言った。 |
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| 2.2.4 | 「口さがない連中が、何か不都合な事にとりなして言いました時には、仏法の恥となりますことです」 |
「悪口好きな人たちに悪く解釈され、評判が立ちますればそれが根本の仏法の |
【よからぬ人の】- 以下「ことなり」まで、弟子の詞。 【仏法の瑕となりはべることなり】- 『完訳』は「僧都が世間に知名の高僧だけに、仏法の恥になるという」と注す。 |
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| 2.2.5 | と、 |
と、不機嫌に思って言う。 |
快く思っていない弟子はこんな答えをした。 |
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| 2.2.6 | 「この修法によって効験が現れなかったら」 |
自分のする修法の間に効験のない場合には |
【この修法のほどにしるし見えずは】- 僧都の詞。『完訳』は「二度と加持祈祷はすまい、ぐらいの非常の決意で修法にあたる」と注す。 |
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| 2.2.7 | と、いみじきことどもを |
と、非常な決意をなさって、夜一晩中、加持なさった翌早朝に、人に乗り移らせて、「どのような物の怪がこのように人を惑わしていたのであろう」と、様子だけでも言わせたくて、弟子の阿闍梨が、交替で加持なさる。 何か月もの間、少しも現れなかった物の怪が、調伏されて、 |
と非常な決心までもして夜明けまで続けた加持のあとで、他の人に |
【人に駆り移して】- 物の怪を憑坐に駆り移す。 【何やうのもの、かく人を惑はしたるぞ】- 大島本は「なにやうのもの」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「何やうのものの」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま「何やうのもの」とする。僧都の心中の思い。 |
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| 2.2.8 | 「自分は、ここまで参って、このように調伏され申すべき身ではない。 生前は、修業に励んだ法師で、わずかにこの世に恨みを残して、中有にさまよっていたときに、よい女が大勢住んでいられた辺りに住み着いて、一人は失わせたが、この人は、自分から世を恨みなさって、自分は何とかして死にたい、ということを、昼夜おっしゃっていたのを手がかりと得て、まことに暗い夜に、一人でいらした時に奪ったのである。 けれども、観音があれやこれやと加護なさったので、この僧都にお負け申してしまった。 今は、立ち去ろう」 |
「自分はここへまで来て、こんなに懲らされるはずの者ではない。生きている時にはよく仏の勤めをした僧であったが、少しの |
【おのれは】- 以下「今はまかりなむ」まで、物の怪の詞。 【昔は行ひせし法師の】- 物の怪が生前の正体を語る。 【恨みをとどめて】- 『完訳』は「女人への執着でもあったか」と注す。 【よき女のあまた住みたまひし所に】- 宇治の八宮邸。 【かたへは失ひてしに】- 『集成』は「大君のこと。大君に物の怪のとりついた形跡はない。この巻で、事情をこの物の怪の言ったようなことに作りかえたのである」と注す。 【この人は、心と】- 浮舟は自分から。 【たよりを得て】- 手がかりを得て。物の怪が付け入る理由。 【観音】- 長谷寺の観音。 |
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| 2.2.9 | とののしる。 |
と声を立てる。 |
叫ぶようにこれは言われたのである。 |
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| 2.2.10 | 「こう言うのは、何者だ」 |
「そう言う者はだれか」 |
【かく言ふは、何ぞ】- 僧都の詞。 |
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| 2.2.11 | と |
と問うが、乗り移らせた人が、力のないせいか、はっきりとも言わない。 |
と問うたが、移してあった人が単純な者でわきまえの少なかったせいか、それをつまびらかに言うことをなしえなかった。 |
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第三段 浮舟、意識を回復 |
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| 2.3.1 | ご本人の気分はさわやかになって、少し意識がはっきりして見回すと、一人も見たことのある顔はなくて、皆、老法師か腰の曲がった者ばかり多いので、知らない国に来たような気がして、実に悲しい。 |
【正身の心地は】- 浮舟の気分。 【者のみ多かれば】- 大島本は「物のミ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「者どものみ」と「ども」を補訂する。『新大系』は底本のまま「物のみ」とする。 【知らぬ国に来にける心地して】- 『完訳』は「別世界に蘇生した不安な感じ」と注す。 |
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| 2.3.2 | 以前のことを思い出すが、住んでいた所、何という名前であったかさえ、確かにはっきりとも思い出せない。 ただ、 |
以前のことを思い出そうとするが、どこに住んでいたとも、何という人で自分があったかということすらしかと記憶から呼び出すことができないのであった。ただ |
【誰れと言ひし人とだに】- 自分が何という名であったかさえ。 |
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| 2.3.3 | 「自分は、最期と思って身を投げた者である。 どこに来たのか」と無理に思い出すと、 |
自分は |
【我は】- 以下「来にたるにか」まで、浮舟の心中の思い。 |
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| 2.3.4 | 「いといみじと、ものを おのがもとへ』と |
「とてもつらいことよと、悲しい思いを抱いて、皆が寝静まったときに、妻戸を開けて外に出たが、風が烈しく、川波も荒々しく聞こえたが、独りぼっちで恐かったので、過去や将来も分からず、簀子の端に足をさし下ろしながら、行くはずの所も迷って、引き返すのも中途半端で、気強くこの世から消えようと決心したが、『馬鹿らしく人に見つけられるよりは鬼でも何でも喰って亡くしてくれよ』と言いながら、つくづくと座っていたが、とても美しそうな男が近寄って来て、『さあ、いらっしゃい。 わたしの所へ』と言って、抱く気がしたが、宮様と申し上げた方がなさる、と思われた時から、意識がはっきりしなくなったようだ。 知らない所に置いて、この男は消えてしまった、と見えたが、とうとうこのように目的も果たせずになってしまった、と思いながら、ひどく泣いている、と思ったときから、その後のことはまったく、何もかも覚えていない。 |
生きていることがもう堪えがたく悲しいことに思われて、家の人の寝たあとで妻戸をあけて外へ出てみると、風が強く吹いていて川波の音響も荒かったため、一人であることが恐ろしくなり、前後も考えて見ず縁側から足を下へおろしたが、どちらへ向いて行ってよいかもわからず、今さら家の中へ帰って行くこともできず、気強く自殺を思い立ちながら、人に見つけられるような恥にあうよりは鬼でも何でも自分を食べて死なせてほしいと口で言いながらそのままじっと縁側によりかかっていた所へ、きれいな男が出て来て、「さあおいでなさい私の所へ」と言い、抱いて行く気のしたのを、宮様と申した方がされることと自分は思ったが、そのまま失心したもののようであった。知らぬ所へ自分をすわらせてその男は消えてしまったのを見て、自分はこんなことになって、目的とした自殺も遂げられなかったと思い、ひどく泣いていたと思うがそれからのことは何も記憶にない。 |
【いといみじと】- 以下「かくて生き返りぬるか」まで、浮舟の心中の思い。当夜の経緯を回想。 【来し方行く先もおぼえで】- 大島本は「きしかたゆくさき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「行く末」と校訂する。『新大系』は底本のまま「行く先」とする。 【足をさし下ろしながら】- 『完訳』は「決行しかねて、しばらく躊躇」と注す。 【帰り入らむも中空にて】- 部屋に引き返すのも中途半端な気持。 【鬼も何も食ひ失へ】- 大島本は「くいうしなへ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「食ひて失ひてよ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「食い失へ」とする。 【つくづくと居たりしを】- 『完訳』は「行動に踏み切れぬ心に、次の幻覚が浮ぶ。前の物の怪が女に憑いた話とも照応しよう」と注す。 【抱く心地のせしを、宮と聞こえし人の】- 『集成』は「「宮と聞こえし人」という言い方は、浮舟の記憶がまだ完全にもどっていないことを示す」。『完訳』は「浮舟には、匂宮が宇治川を渡って連れ出した時の、官能的な陶酔感が鮮やかに残っている。誘う美男を幻視するゆえん」と注す。 【知らぬ所に据ゑ置きて、この男は消え失せぬ、と見しを】- 美しい男が自分を誘い出して知らない所に置き去りにした、と見た。宇治院の大きな樹木の下。 【本意のこともせずなりぬる】- 入水の目的。 【いみじう泣く、と思ひしほどに】- 樹木の下で泣いていた様。自分の中にもう一人の自分がそのさまを見ている、心中思惟の叙述。 |
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| 2.3.5 | 人が言うのを聞くと、たくさんの日数を経てしまった。 どのように嫌な様子を、知らない人にお世話されたのであろう、と恥ずかしく、とうとうこうして生き返ってしまったのか」 |
今人々の語っているのを聞くとそれから多くの日がたったようである。どんなに醜態を人の前にさらした自分で、どんなに知らぬ人の |
【多くの日ごろも経にけり】- 失踪したのが三月の末、その後、小野で四月五月が過ぎた。 【いかに憂きさまを、知らぬ人に】- 『完訳』は「記憶のないまま他人に介抱されてきた身を恥ずかしく思う。若い女らしい羞恥心」と注す。 【つひにかくて生き返りぬるか】- 浮舟の思い。 |
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| 2.3.6 | と思うのも残念なので、ひどく悲しく思われて、かえって、沈んでいらした日ごろは、正気もない様子で、何か食物も少し召し上がることもあったが、露ほどの薬湯でさえお飲みにならない。 |
と思われるのが残念で、かえって失心状態であった今日までは意識してではなくものもときどきは食べてきた浮舟の姫君であったが、今は少しの湯さえ飲もうとしない。 |
【沈みたまひつる】- 大島本は「給ひつる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまへりつる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「給ひつる」とする。 【ものいささか参る事】- 大島本は「まいること」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「まゐるをり」と校訂する。『新大系』は底本のまま「まいること」とする。 |
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第四段 浮舟、五戒を受く |
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| 2.4.1 | 「どうして、このように頼りなさそうにばかりいらっしゃるのですか。 ずっと熱がおありだったのは下がりなさって、さわやかにお見えになるので、嬉しくお思い申し上げていましたのに」 |
「どうしてそんなにたよりないふうをばかりお見せになりますか。もうずっと発熱することもなくなって、病苦はあなたから去ったように見えるのを私は喜んでいますのに」 |
【いかなれば、かく】- 以下「思ひきこゆるを」まで、妹尼の詞。 |
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| 2.4.2 | と、 ある いつしかとうれしう |
と、泣きながら、気を緩めることなく付き添ってお世話申し上げなさる。 仕える女房たちも、惜しいお姿や容貌を見ると、誠心誠意惜しんで看病したのであった。 内心では、「やはり何とかして死にたい」と思い続けていらしたが、あれほどの状態で、生き返った人の命なので、とてもねばり強くて、だんだんと頭もお上げになったので、食物を召し上がりなさるが、かえって容貌もひきしまって行く。 はやく好くなってほしいと嬉しくお思い申し上げていたところ、 |
こう言って、尼夫人という緊張した看病人がそばを離れず世話をしていた。他の女房たちも惜しい |
【ある人びとも】- 妹尼のもとに仕えている人々。 【心には、「なほいかで死なむ」とぞ】- 浮舟は親切に感謝しながらも、やはり内心では死を切望する。 【思ひわたりたまへど】- 『完訳』は「このあたりから、浮舟に敬語が多用。妖怪じみた風姿が消えて、あらためて女主人公を印象づける」と注す。 【さばかりにて】- 呆然とした状態で二か月以上を経過。 【いと執念くて】- 『完訳』は「若い生命力の強さで回復。このころは食事もとる」と注す。 【なかなか面痩せもていく】- 『集成』は「かえって顔がほっそりなってゆく。回復期の人の様子がよく写されている」と注す。 【いつしかとうれしう思ひきこゆるに】- 主語は妹尼。 |
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| 2.4.3 | 「尼にしてください。 そうしたら生きて行くようもありましょう」 |
「尼にしてくださいませ、そうなってしまえば生きてもよいという気になれるでしょうから」 |
【尼になしたまひてよ】- 以下「生くやうもあるべき」まで、浮舟の詞。出家を懇願。 |
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| 2.4.4 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
と言い、浮舟は出家を望んだ。 |
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| 2.4.5 | 「あたら惜しいお身を。 どうして、そのように致せましょう」 |
「いたいたしいあなたをどうしてそんなことにされますか」 |
【いとほしげなる御さまを】- 以下「なしたてまつらむ」まで、妹尼の詞。 |
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| 2.4.6 | と言って、ただ頂の髪だけを削いで、五戒だけを受けさせ申し上げる。 不安であるが、もともとはきはきしない性分で、さし出て強くもおっしゃらない。 僧都は、 |
と尼君は言い、頭の頂の髪少しを切り、五戒だけを受けさせた。それだけで安心はできないのであるが、 |
【ただ頂ばかりを削ぎ、五戒ばかりを受けさせたてまつる】- 『集成』は「正式の尼は髪を肩を過ぎるあたりまでに切る」。『完訳』は「延命のためで、正式の出家ではない」。「五戒」は在家の人が受ける戒律。殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒。 【もとよりおれおれしき人の心にて】- 浮舟の性分。 |
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| 2.4.7 | 「今はもう、このくらいにしておいて、看病して差し上げなさい」 |
「もう大丈夫です。このくらいのところで快癒を御仏におすがりすることはやめたらいいでしょう」 |
【今は、かばかりにて】- 以下「たてまつりたまへ」まで、僧都の詞。 |
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| 2.4.8 | と |
と言い置いて、山へ登っておしまいになった。 |
と言い残して寺へ帰った。 |
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第五段 浮舟、素性を隠す |
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| 2.5.1 | 「 さばかりあさましう、ひき |
「夢に見たような人をお世話申し上げることだわ」と尼君は喜んで、無理に起こして座らせながら、お髪をご自身でお梳かしになる。 あのように驚きあきれ、結んでおいたが、ひどくは乱れず、解き放ってみると、つやつやとして美しい。 白髪の人の多い所なので、目もあざやかに、美しい天人が地上に下りたのを見たように思うのも、不安な気がするが、 |
予期もせぬ夢のような人が現われたものであるというように尼君は恢復期の浮舟を喜んで、しいて勧めて起こし、髪を自身で |
【夢のやうなる人を見たてまつるかな】- 妹尼の心中の思い。『集成』は「思いもかけぬ人を」。『完訳』は「夢のお告げさながらの人を」と注す。 【さばかりあさましう、ひき結ひて】- 病臥中は髪を元結で束ねておき、櫛けずることもしない。 【一年足らぬ九十九髪】- 『源氏釈』は「百年に一年たらぬつくも髪我を恋ふらし面影に見ゆ」(伊勢物語)を指摘。 |
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| 2.5.2 | 「どうして、とても情けなく、こんなにたいそうお世話申し上げていますのに、強情をはっていらっしゃるのですか。 どこの誰と申し上げた方が、そのような所にどうしておいでになったのですか」 |
「なぜあなたに人情がわからないのでしょう。私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、物隠しをしてばかりおいでになりますね。どこの何という家の方で、なぜ宇治というような所へ来ておいでになりましたの」 |
【などか、いと心憂く】- 以下「おはせしぞ」まで、妹尼の詞。 【いづくに誰れと聞こえし人の】- 浮舟に対していう。どこのどなた。 |
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| 2.5.3 | と、せめて |
と、しいて尋ねるのを、とても恥ずかしいと思って、 |
尼君から熱心に聞かれて浮舟の姫君は恥ずかしく思った。 |
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| 2.5.4 | 「あやしかりしほどに、 ただ、ほのかに それより |
「意識を失っている間に、すっかり忘れてしまったのでしょうか、以前の様子などもまったく覚えておりません。 ただ、かすかに思い出すこととしては、ただ、何とかしてこの世から消えたいと思いながら、夕暮になると端近くで物思いをしていたときに、前の近くにある大きな木があった下から、人が出て来て、連れて行く気がしました。 それ以外のことは、自分自身でも、誰とも思い出すことができません」 |
「重くわずらっておりましたうちに皆忘れてしまったのでしょうか、どんなふうにどこにいたかを少しも覚えていないのですよ。ただね、私は夕方ごとに庭へ近い所に出て寂しい |
【あやしかりしほどに】- 以下「え思ひ出でられはべらず」まで、浮舟の詞。 【ただ、ほのかに思ひ出づることとては】- 『完訳』は「以下、前の記憶とやや異なる。素姓を知られたくなく、昇天近いころのかぐや姫が端近に出て物思いに屈したのを装う」と注す。 【我ながら、誰れともえ思ひ出でられはべらず】- 自分ながら自分が誰であるか思い出せない。 |
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| 2.5.5 | と、いとらうたげに |
と、とてもかわいらしげに言って、 |
と姫君は |
【いとらうたげに言ひなして】- 『集成』は「いかにも無邪気そうな口ぶりで言って。記憶がはっきりしないという嘘を見破られまいとする用意」。『完訳』は「実は浮舟の記憶はもとに戻っている」と注す。 |
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| 2.5.6 | 「この世に、やはり生きていたと、何とか人に知られたくない。 聞きつける人がいたら、とても悲しい」 |
「私がまだ生きているということをだれにも知られたくないと思います。それを人が知ってしまっては悲しゅうございます」 |
【世の中に】- 以下「いみじうこそ」まで、浮舟の詞。 |
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| 2.5.7 | と言ってお泣きになる。 あまり尋ねるのを、つらいとお思いなので、尋ねることもできない。 かぐや姫を見つけた竹取の翁よりも、珍しい気がするので、「どのような何かの機会に姿が消え失せてしまうのか」と、落ち着かない気持ちでいた。 |
と告げて泣いた。あまり聞かれるのが苦しいふうであったから尼君はそれ以上を尋ねようとしなかった。かぐや姫を竹の中に見つけた |
【かぐや姫を】- 『完訳』は「かぐや姫は天上で罪を得て地上に降った神女。浮舟は、地上の愛執の罪に傷ついた女。彼女の消失を危惧する妹尼の意識を超えて、浮舟はかぐや姫に照応し合う」と注す。 |
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第六段 小野山荘の風情 |
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| 2.6.1 | この |
ここの主人も高貴な方であった。 娘の尼君は、上達部の北の方であったが、その方がお亡くなりになって後、娘をただ一人大切にお世話して、立派な公達を婿に迎えて大切にしていたが、その娘が亡くなってしまったので、情けない、悲しい、と思いつめて、尼姿になって、このような山里に住み始めたのであった。 |
この家の人も貴族であった。若いほうの尼君は高級官吏の妻であったが、 |
【この主人も】- 小野山荘の主人、老母尼君。 【娘の尼君は】- 横川僧都の妹尼。 【住み始めたりけるなり】- 大島本は「たりける也」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たるなりけり」と校訂する。『新大系』は底本のまま「たりける也」とする。 |
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| 2.6.2 | 「歳月とともに恋い慕っていた娘の形見にでも、せめて思いよそえられるような人を見つけたい」と、所在ない心細い思いで嘆いていたところ、このように、思いがけない人で、器量や感じも優っているような人を得たので、現実のこととも思われず、不思議な気がしながらも、嬉しいと思う。 年は召しているが、とても美しそうで嗜みがあり、態度も上品である。 |
忘れる時もなく恋しい娘の形見とも思うことのできる人を見つけたいとつれづれなあまりに願っていた人が、意外な、 |
【世とともに】- 以下「心地しながらうれし」あたりまで、妹尼の心中に即した叙述。 【恋ひわたる人の形見にも】- 妹尼の亡き娘。 【見出でてしがな】- 大島本は「見いてゝしかな」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見出でてしがなと」と「と」を補訂する。『新大系』は底本のまま「見出でてしかな」とする。「かな」を清音とする。 【おぼえぬ人の】- 浮舟。 【まさりざまなる】- 浮舟がわが亡き娘以上に。 【ねびにたれど】- 妹尼。五十歳ほど。 |
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| 2.6.3 | 昔の山里よりは、川の音も物やわらかである。 家の造りは、風流な所の、木立も趣があり、前栽なども興趣あり、風流をし尽くしている。 秋になって行くと、空の様子もしみじみとしている。 門田の稲を刈ろうとして、その土地の者の真似をしては、若い女房たちが、民謡を謡いながらおもしろがっていた。 引板を鳴らす音もおもしろく、かつて見た東国のことなども思い出されて。 |
ここは浮舟のいた宇治の山荘よりは水の音も静かで優しかった。庭の作りも雅味があって、木の姿が皆よく、前の植え込みの |
【昔の山里よりは】- 宇治山荘。『完訳』は「以下、浮舟の目と心に即した叙述」と注す。 【水の音も】- 高野川の川音。 【ゆゑある所】- 大島本は「ゆへある所」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ゆゑある所の」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま「ゆへある所」とする。 【前栽もをかしく】- 大島本は「せむさいも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「前栽なども」と「など」を補訂する。『新大系』は底本のまま「前栽も」とする。 【秋になりゆけば】- 暦は七月、初秋、物思う季節となる。 【空のけしきもあはれなり】- 大島本は「あはれなり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「あはれなるを」と校訂する。『新大系』は底本のまま「あはれなり」とする。 【ものまねびしつつ】- 農民の真似をして。 【若き女どもは】- 小野草庵に仕えている若い女たち。 【引板ひき鳴らす音もをかしく】- 大島本は「おかしく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「をかし」と「く」を削除する。『新大系』は底本のまま「おかしく」とする。 【見し東路のことなども思ひ出でられて】- 『完訳』は「昔暮した常陸国。傷心の今になって、幼時が懐かしまれる趣」と注す。下文に続かず、余情を残して文が切れる。 |
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| 2.6.4 | あの夕霧の御息所がおいでになった山里よりは、もう少し奥に入って、山の斜面に建ててある家なので、松の木蔭が鬱蒼として、風の音もまことに心細いので、することもなく勤行ばかりして、いつとなくひっそりとしている。 |
同じ小野ではあるが夕霧の |
【かの夕霧の御息所のおはせし山里よりは】- 『集成』は「夕霧の巻で亡くなったので、こう呼んだもの。落葉の宮の母、一条の御息所」と注す。『弄花抄』は「双紙の詞なるへし浮舟の事を云ことはにはつゝかす」と指摘。 【松蔭茂く】- 大島本は「まつかせしけく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「松蔭」と校訂する。『新大系』は底本のまま「松風」とする。 【いつとなく】- 大島本は「いつとなく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いつともなく」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のまま「いつとなく」とする。 |
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第七段 浮舟、手習して述懐 |
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| 2.7.1 | 尼君は、月などの明るい夜は、琴などをお弾きになる。 少将の尼君などという女房は、琵琶を弾いたりして遊ぶ。 |
尼君は月の明るい夜などに琴を |
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| 2.7.2 | 「このようなことはなさいますか。 何もすることがないので」 |
「音楽をなさいますか。でなくては退屈でしょう」 |
【かかるわざはしたまふや。つれづれなるに】- 妹尼の詞。 |
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| 2.7.3 | など |
などと言う。 昔も、賤しかった身の上で、のんびりと、「そのようなことをする境遇でもなかったので、少しも風流なところもなく成長したことよ」と、このように盛りを過ぎた人が、心を晴らしているような時々につけては、思い出すが、「何とも言いようのない身の上であった」と、自分ながら残念なので、手習いに、 |
と尼君は姫君に言っていた。昔も母の行く国々へつれまわられていて、静かにそうしたものの |
【昔も、あやしかりける身にて】- 以下地の文が次第に心中文へと競り上がっていく。「生ひ出でにけるかな」まで、浮舟の心中の思い。 【思ひ出づるを】- 大島本は「思ひいつるを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思ひ出づ」と「るを」を削除する。『新大系』は底本のまま「思ひ出づるを」とする。 【あさましくものはかなかりける】- 浮舟の心中の思い。 |
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| 2.7.4 | 「涙ながらに身を投げたあの川の早い流れを 堰き止めて誰がわたしを救い上げたのでしょう」 |
身を投げし涙の川の早き瀬に しがらみかけてたれかとどめし |
【身を投げし涙の川の早き瀬を--しがらみかけて誰れか止めし】- 浮舟の独詠歌。『異本紫明抄』は「流れ行く我は水屑となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ」(大鏡)を指摘。 |
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| 2.7.5 | 思いがけないことに情けないので、将来も不安で、疎ましいまでに思われる。 |
こんな歌を書いていた。よいことの拾い出せない過去から思えば将来も同じ薄命道を続けて歩んで行くだけであろうと自身がうとましくさえなった。 |
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| 2.7.6 | 月の明るい夜毎に、老人たちは優雅に和歌を詠み、昔を思い出しながら、いろいろな話などをするが、答えることもできないので、つくづくと物思いに沈んで、 |
月の明るい夜ごとに老いた女たちは気どった歌を |
【月の明かき夜な夜な】- 『完訳』は「「夕暮ごとに--」「月など明き夜は--」とともに、昇天近いかぐや姫を思わせる」と注す。 【老い人どもは艶に歌詠み、いにしへ思ひ出でつつ】- 妹尼や少将の尼君ら。『集成』は「これも彼女たちの昔の生活の名残」と注す。 【さまざま物語】- 大島本は「さま/\物かたり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「さまざまの」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま「さまざま」とする。 |
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| 2.7.7 | 「わたしがこのように嫌なこの世に生きているとも 誰が知ろうか、 |
われかくて浮き世の中にめぐるとも たれかは知らん月の都に |
【我かくて憂き世の中にめぐるとも--誰れかは知らむ月の都に】- 浮舟の独詠歌。「めぐる」「月」縁語。「月の都」はかぐや姫をも連想させる。 |
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| 2.7.8 | 今を最期と思い切ったときは、恋しい人が多かったが、その他の人びとはそれほども思い出されず、ただ、 |
こんな歌も詠まれた。自殺を決意した時には、もう一度逢いたく思った人も多かったが、他の人々のことはそう思い出されもしない。 |
【今は限りと思ひしほどは】- 大島本は「思し程ハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思ひはてしほどは」と「はて」を補訂する。『新大系』は底本のまま「思し程は」とする。 |
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| 2.7.9 | 「母親がどんなにお嘆きになったろう。 乳母が、いろいろと、何とか一人前にしようと一生懸命であったが、どんなにがっかりしたろう。 どこにいるのだろう。 わたしが、生きていようとはどうして知ろう」 |
母がどんなに悲しんだことであろう。 |
【親いかに】- 以下「いかでか知らむ」まで、浮舟の心中の思い。母親や乳母の悲嘆を思う。 【いづくにあらむ】- 大島本は「いつく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いづこ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「いづく」とする。 【いかでか知らむ】- 『完訳』は「ここまでの心中叙述が、直接、地の文に連なる文脈」と注す。 |
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| 2.7.10 | 同じ気持ちの人もいなかったが、何事も隠すことなく相談し親しくしていた右近なども、時々は思い出される。 |
気の合った人もないままに、主従とはいえ隔てのない友情を持ち合ったあの |
【右近なども、折々は思ひ出でらる】- 『集成』は「浮舟の乳母子。この右近の思い出は、地の文の形で結ばれる。ただ「思ひ出でらる」と敬語がなく、浮舟の心事に密着した書き方」と注す。「らる」は自発の助動詞。 |
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第八段 浮舟の日常生活 |
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| 2.8.1 | それらが |
若い女で、このような山里に、もうこれまでと思いを断ち切って籠もるのは、難しいことなので、ただひどく年をとった尼、七、八人が、いつも仕えていた人であった。 その人たちの娘や孫のような者たちで、京で宮仕えするものや、結婚している者が、時々行き来するのであった。 |
若い女がこうした山の家に世の中をあきらめて暮らすことは不可能なことであったから、そうした女房はいず、長く使われている尼姿の七、八人だけが常の女房であった。その人たちの娘とか孫とかいう人らで、京で宮仕えをしているのも、また普通の家庭にいるのも時々出て来ることがあった。 |
【若き人の】- 浮舟をさす。 【山里に、今はと思ひ絶え籠もる】- 住みわびぬ今は限りと山里につま木こるべき宿を求めてむ(後撰集雑一-一〇八三 在原業平)住みわびぬ今は限りと山里につま木こるべき宿を求めてむ(後撰集雑一-一〇八三 在原業平)(text53.html 出典2から転載) 【異ざまにてあるも】- 女房生活以外、すなわち結婚生活など。 |
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| 2.8.2 | 「このような人がいることにつけて、以前見た近辺に出入りして、自然と、生きていたとどちら様にも聞かれ申すことは、ひどく恥ずかしいことであろう。 どのような様子でさすらっていていたのだろう」 |
そうした人が宇治時代の関係者の所へ出入りすることもあって、自分の生きていることが宮にも大将にも知れることになったならきわめて恥ずかしいことである、 |
【かやうの人につけて】- 以下「あやしかるべき」まで、浮舟の心中の思い。地の文が浮舟の心中文へと競り上がっていく叙述。『完訳』は「見しわたりに」以下を、「浮舟の心中に即した文脈」と注す。 【誰れにも誰れにも聞かれたてまつらむこと】- 匂宮や薫に。 |
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| 2.8.3 | など、 ただ みめも |
などと、想像されて並外れたみすぼらしい有様を思うにちがいないのを思うと、このような人びとに、少しも姿を見せない。 ただ、侍従と、こもきといって、尼君が私的に使っている二人だけを、この御方に特別に言って分けておいたのだった。 容貌も気立ても、昔見た都人に似た者はいない。 何事につけても、「世の中で身を隠す所はここであろうか」と、一方では思われるのであった。 |
ここへ来た経路についてどんな悪い想像をされるかもしれぬ、過去において正しく踏みえた人の道ではなかったのであるからと思う |
【思ひやり世づかずあやしかるべきを】- 『集成』は「(薫や匂宮が)想像されることも、並みはずれたみじめな有様を考えられるにちがいないと思うので。身分卑しい男とのかかわりなど想像されては、という女らしい気遣い」と注す。 【侍従、こもきとて】- 侍従は女房、こもきは女童。 【わが人にしたりける】- 大島本は「したりける」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「したる」と「りけ」を削除する。『新大系』は底本のまま「したりける」とする。 【この御方に】- 浮舟に。 【言ひ分けたりける】- 大島本は「いひわけたりける」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「言ひわきたる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「言ひわけたりける」とする。 【みめも心ざまも】- 侍従とこもき。 【昔見し都鳥に】- 『異本紫明抄』は「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人ありやなしやと」(古今集羇旅、四一一、在原業平)を指摘。都の女房と比較。 【似たるはなし】- 大島本は「ゝ(に)たるハなし」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「似たることなし」と校訂する。『新大系』は底本のまま「似たるはなし」とする。 【世の中にあらぬ所はこれにや】- 大島本は「これにや」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「これにやあらむ」と「あらむ」を補訂する。『新大系』は底本のまま「これにや」とする。浮舟の心中の思い。『花鳥余情』は「世の中にあらぬところも得てしがな年ふりにたるかたち隠さむ」(拾遺集雑上、五〇六、読人しらず)を指摘。 |
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| 2.8.4 | こうしてばかり、人には知られまいと隠れていらっしゃるので、「ほんとうに厄介な理由のある人でいらっしゃるのだろう」と思って、詳しいことは、仕えている女房にも知らせない。 |
こんなふうに人にかくれてばかりいる浮舟を、この人の言うとおりにめんどうなつながりを世間に持っていて、それからのがれたい |
【まことにわづらはしかるべきゆゑある人にもものしたまふらむ】- 妹尼の心中の思い。 |
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第三章 浮舟の物語 中将、浮舟に和歌を贈る |
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第一段 尼君の亡き娘の婿君、山荘を訪問 |
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| 3.1.1 | 尼君の亡き娘の婿の君で、今は中将におなりになっていたが、その弟の禅師の君は、僧都のお側にいらっしゃったが、その山籠もりなさっているのを尋ねるために、兄弟の公達がよく山に登るのであった。 |
尼君の昔の婿は現在では中将になっていた。弟の禅師が僧都の弟子になって山にこもっているのを |
【尼君の昔の婿の君】- 妹尼の娘婿、中将。 【弟の禅師の君】- 中将の弟。 【兄弟の君たち】- 中将の弟たち。 |
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| 3.1.2 | 横川に通じる道のついでにかこつけて、中将がここにいらした。 前駆が先払いして、身分高そうな男が入ってくるのを見出して、ひっそりとしていらしたあの方のご様子が、くっきりと思い出される。 |
【ここに】- 小野の草庵。 【見出だして】- 主語は浮舟。内から外を見出だす。 【忍びやかにおはせし人の御さまけはひぞ】- 大島本は「しのひやかに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「忍びやかにて」と「て」を補訂する。『新大系』は底本のまま「しのびやかに」とする。『集成』は「人目を忍ぶようにして(宇治に)通っていらした方(薫)のご様子、振舞いが、ありありと思い出される」と注す。 |
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| 3.1.3 | これもいと |
ここもまことに心細い住まいの所在なさであるが、住み馴れた人びとは、どことなくこぎれいに興趣深くして、垣根に植えた撫子が美しく、女郎花や、桔梗などが咲き初めたところに、色とりどりの狩衣姿の男どもの若い人が大勢して、君も同じ装束で、南面に迎えて座らせたので、あたりを眺めていた。 年齢は二十七、八歳くらいで、すっかり立派になって、嗜みのなくはない態度が身についていた。 |
心細い家ではあるが住みなれた人は満足して、きれいにあたりが作ってあって、 |
【垣ほに植ゑたる撫子も】- 『異本紫明抄』は「あな恋し今も見てしが山がつの垣ほに咲ける大和撫子」(古今集恋四、六九五、読人しらず)を指摘。「垣ほ」は「垣根」の歌語。 【君も】- 中将。 【南面に】- 寝殿の南廂。正客を迎える作法。 【年二十七、八のほどにて】- 『完訳』は「薫や匂宮とほぼ同年齢」と注す。 |
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| 3.1.4 | 尼君、襖障子口に几帳を立てて、お会いなさる。 何より先に泣き出して、 |
尼君は隣室の |
【障子口に几帳立てて】- 母屋と南廂の間の襖障子を開けて、中将との間に几帳を立てて会う。 |
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| 3.1.5 | 「何年にもなりますと、過ぎ去った当時がますます遠くなるばかりでございますが、山里の光栄としてやはりお待ち申し上げております気持ちが、忘れず続いておりますのが、一方では不思議に存じられます」 |
「過ぎた月日の長くなりましたことで、あの時代といいますものが遠い世のような気がいたされながら、おいでくださいますのを山里に添えられる光明のように思われまして、今でもあなたをお待ちすることが心から離れませんのを不思議に思っております」 |
【年ごろの積もるには】- 大島本は「つもる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「積もり」と校訂する。『新大系』は底本のまま「積もる」とする。以下「思ひたまふる」まで、妹尼の詞。 【いとど気遠くのみなむ】- 妹尼の娘が亡くなって五六年を経過。 【うち忘れず止みはべらぬを】- 主語は妹尼。中将の訪問を待ち続ける気持ち。 |
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| 3.1.6 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と言うのを聞いて、中将は湿った気持ちになり、 |
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| 3.1.7 | 「 |
「心の中ではしみじみと、過ぎ去った当時のことが、思い出されないことはないが、ひたすら俗世を離れたご生活なので、ついご遠慮申し上げまして。 山籠もり生活も羨ましく、よく出かけてきますので、同じことならなどと、同行したがる人びとに、邪魔されるような恰好でおりました。 今日は、すっかり断って参りました」 |
「昔のことの思われない時もないのですが、世の中から離脱したことを |
【心のうちあはれに】- 以下「ものしたまへる」まで、中将の詞。 【山籠もりもうらやましう】- 弟の禅師の君の出家生活。『完訳』は「亡妻の冥福を祈る気持のあることをも暗に言う」と注す。 【ものしたまへる】- 大島本は「物し給へる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ものしはべりつる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「物し給へる」とする。 |
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| 3.1.8 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
と言っていた。 |
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| 3.1.9 | 「山籠もり生活のご羨望は、かえって当世風の物真似のようです。 故人をお忘れにならないお気持ちも、世間の風潮にお染まりにならなかったと、一方ならず厚く存じられます折がたびたびです」 |
「山ごもりをおうらみになったりしては、かえって近ごろの流行かぶれに思われますよ。昔をお忘れにならないお志は現代の風潮と変わったありがたいことと、お |
【山籠もりの】- 以下「折多く」まで、妹尼の詞。 【今様だちたる御ものまねびに】- 『完訳』は「山籠りは今日ではかえって軽薄な流行、と軽くからかう言辞」と注す。 【昔を思し忘れぬ御心ばへ】- 故人すなわち妹尼の娘を。 |
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| 3.1.10 | など |
などと言う。 |
などと言うのは尼君であった。 |
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第二段 浮舟の思い |
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| 3.2.1 | 供の人びとに水飯などのような物を食べさせ、君にも蓮の実などのような物を出したので、昵懇の所なので、そのようなことにも遠慮のいらない気がして、村雨が降り出したのに引き止められて、お話をひっそりとなさる。 |
ついて来た人々に |
【人びとに】- 中将の供人たち。 【蓮の実などやうのもの】- 『集成』は「間食ないし酒の肴とする。いわゆる「くだもの」と総称される中に入る」と注す。 【馴れにしあたりにて】- 『集成』は「昔なじみの所なので」。『完訳』は「昔は通いなれていた妻の里方のこととて」と訳す。 【さやうのことも】- 食事や酒肴の接待をさす。 【村雨の降り出づるに--しめやかに】- 『完訳』は「涙をも暗示するか」と注す。 【止められて】- 大島本は「とめられて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「とどめられて」と校訂する。『新大系』は底本のまま「とめられて」とする。 |
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| 3.2.2 | 「亡くなってしまった娘のことよりも、この婿君のお気持ちなどが、実に申し分なかったので、他人と思うのが、とても悲しい。 どうして、せめて子供だけでもお残しにならなかったのだろう」 |
娘を失ったことよりも情のこまやかであったこの婿君を家の人でなくしてしまったことが、より以上尼君に悲痛なことであって、娘はなぜ忘れ形見でも残していかなかったか |
【言ふかひなくなりにし人よりも】- 以下「なりにけむ」まで、妹尼の心中の思い。亡き娘よりも。 【この君の御心ばへ】- 中将の厚志。 【忘れ形見を】- 中将と娘の間に子供を。『集成』は「「忘れ難み」に「形見」を掛けた語。歌語であろう」と注す。 |
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| 3.2.3 | と、恋い偲ぶ気持ちなので、たまたまこのようにお越しになったのにつけても、珍しくしみじみと思われるような問わず語りもしてしまいそうである。 |
とそれを歎いている心から、たまさかにこうして中将の訪問を受けるのは非常な |
【問はず語りもし出でつべし】- 『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の推測による」と注す。 |
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| 3.2.4 | 姫君は、わたしはわたしと、思い出されることが多くて、外を眺めていらっしゃる様子、とても美しい。 白い単衣で、とても風情もなくさっぱりとしたものに、袴も桧皮色に見倣ったのか、色艶も見えない黒いのをお着せ申していたので、「このようなことなども、昔と違って不思議なことだ」と思いながらも、ごわごわとした肌触りのよくないのを何枚も着重ねていらっしゃるのが、実に風情ある姿なのである。 御前の女房たちも、 |
浮舟の姫君は昔について尼君とは異なった悲しみを多く覚え、庭のほうをながめ入っている顔が非常に美しい。同じ白といってもただ白い一方でしかない、目に情けなく見える |
【姫君は】- 『集成』は「中将の相手役に偽せられているこの場面にふさわしい呼び方」。『完訳』は「浮舟の呼称として「姫君」は初出。恋物語の女主人公の趣」と注す。 【我は我と】- 世の中に身をし変へつる君なれば我は我にもあらずとや思ふ(朝光集-七二)(text53.html 出典5から転載) 【ならひたるにや】- 語り手の推測を交えた叙述。 【かかることどもも】- 以下「あるかな」まで、浮舟の心中の思い。 |
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| 3.2.5 | 「亡き姫君が生き返りなさった気ばかりがしますので、中将殿までを拝見すると、とても感慨無量です。 同じことなら、昔のようにおいで願いたいものですね。 とてもお似合いのご夫婦でしょう」 |
「このごろはお |
【故姫君の】- 以下「御あはひならむかし」まで、女房の詞。 【おはしたる】- 大島本は「おハしたる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「おはしまいたる」と「まい」を補訂する。『新大系』は底本のまま「おはしたる」とする。 【しはべりつるに】- 大島本は「侍つるに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべるに」と校訂する。『新大系』は底本のまま「侍つるに」とする。 |
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| 3.2.6 | と |
と話し合っているのを、 |
こんなことを言っているのも浮舟の耳にはいった。 |
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| 3.2.7 | 「まあ、大変な。 生き残って、どのようなことがあっても、男性と結婚するようなことは。 それにつけても昔のことが思い出されよう。 そのようなことは、すっかり断ち切って忘れよう」と思う。 |
思いも寄らぬことである、普通の女の生活に帰って、どんな人とにもせよ結婚をすることなどはしようと思わない、それによって自分はただ昔を思うばかりの人になるであろうから、もうそうした身の上には絶対になるまい、そして昔を忘れたいと浮舟の姫君は思った。 |
【あな、いみじや】- 以下「忘れなむ」まで、浮舟の心中の思い。 【人に見えむこそ】- 結婚すること。係助詞「こそ」の下に「あるまじけれ」などの語句が省略。 |
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第三段 中将、浮舟を垣間見る |
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| 3.3.1 | 尼君が奥にお入りになる間に、客人は、雨の様子に困って、少将といった女房の声を聞き知って、呼び寄せなさった。 |
尼君が内へ引っ込んだあとで、中将は降りやまぬ雨をながめることに退屈を覚え、少将といった人の声に聞き覚えがあってそばへ呼び寄せた。 |
【客人】- 中将。 【少将と言ひし人の】- かつて少将の君という女房名で仕えていた尼女房。 |
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| 3.3.2 | 「昔見た女房たちは、みなここにいられようか、と思いながらも、このようにやって参ることも難しくなってしまったのを、薄情なように、皆がお思いになりましょう」 |
「昔のなじみの人たちは今も皆ここにおられるのであろうかと、思ってみる時があっても、こうした御訪問も自然できなくなってしまっている私を、薄情なようにも皆さんは思っておられるでしょう」 |
【昔見し人びとは】- 以下「見なしたまふらむ」まで、中将の詞。見知っている女房たち。 【心浅きにや、誰れも誰れも見なしたまふらむ】- 『完訳』は「自分(中将)が薄情な男ゆえと。こう言って相手の考えをさぐる」と注す。 |
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| 3.3.3 | などとおっしゃる。 親しくお世話してくれた女房なので、恋しかった当時のことが思い出される折に、 |
こんなことを中将は言った。親しく中将にも仕えていた女房であったから、昔の妻についての思い出話をしたあとで、 |
【思ひ出でたるついでに】- 主語は中将。 |
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| 3.3.4 | 「あの渡廊の端の所で、風が烈しかった騷ぎに、簾の隙間から、並々の器量ではなかった人で、打ち垂れ髪が見えたのは、出家なさった家に、いったい誰なのかと驚かされました」 |
「私がさっき廊の端を通ったころに、風がひどく吹いていて、 |
【かの廊のつま入りつるほど】- 以下「見おどろかれつる」まで、中将の詞。 【なべてのさまにはあるまじかりつる人】- 浮舟。 |
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| 3.3.5 | とおっしゃる。 「姫君が立って出て行かれた後ろ姿を、御覧になったようだ」と思って、「これ以上に詳細に見せたら、きっとお心がお止まりになろう。 故人は、とても格段に劣っていらっしゃったのさえ、今だに忘れがたく思っていらっしゃるようだから」と、独り決めにして、 |
と中将が言いだした。姫君が立って隣室へお行きになった後ろ姿を見たのであろうと少将は思い、まして細かに見せたなら多大に心の |
【姫君の】- 以下「なめり」まで、少将尼の心中の思い。 【立ち出でたまへる】- 大島本は「たちいて給へる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまへりつる」と「りつ」を補訂する。『新大系』は底本のまま「給へる」とする。 【思ひ出でて】- 大島本は「おもひいてゝ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思ひて」と「いて」を削除する。『新大系』は底本のまま「思ひ出でて」とする。 【ましてこまかに】- 以下「たまふめるを」まで、少将尼の心中の思い。 【昔人は】- 亡き姫君。 【劣りたまへりし】- 亡き姫君は浮舟に数段劣る。 |
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| 3.3.6 | 「亡くなったお方のことを忘れがたく、慰めかねていらっしゃるようだったころ、思いがけない女性をお手に入れ申されて、明け暮れの慰めにお思い申し上げていらっしゃったようですが、寛いでいらっしゃるご様子を、どうして御覧になったのでしょうか」 |
「お |
【過ぎにし御ことを】- 以下「御覧じつらむ」まで、少将尼の詞。 【忘れがたく、慰めかねたまふめりし】- 主語は妹尼君。 【おぼえぬ人を】- 浮舟。 【うちとけたまへる御ありさまを】- 浮舟のくつろいでいる姿を。 【いかで御覧じつらむ】- 大島本は「いかて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いかでか」と「か」を補訂する。『新大系』は底本のまま「いかで」とする。 |
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| 3.3.7 | と言う。 「このようなことがあるものだ」と興味深くて、「どのような人なのだろう。 なるほど、実に美しかった」と、ちらっと垣間見たのを、かえって思い出す。 詳しく尋ねるが、すっかりとは答えず、 |
こう語った。そんなおもしろい事実があったのかと興味のわいてきた中将は、どうした家の娘であろう、それとなく今少将が言うとおりに美しい人らしくほのかに見ただけの人からかえって深い印象の与えられたのを中将は感じた。くわしく聞こうとするのであるが、少将は事実をそのまま告げようとはせずに、 |
【かかることこそはありけれ】- 中将の心中の思い。過去助動詞「けれ」詠嘆の意。『完訳』は「以下、中将の心に即した叙述。意外な所に意外な美女が、の思い」と注す。 【何人ならむ。げに、いとをかしかりつ】- 中将の心中の思い。 |
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| 3.3.8 | 「自然とお分かりになりましょう」 |
「そのうちおわかりになるでしょう」 |
【おのづから聞こし召してむ】- 少将尼の詞。 |
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| 3.3.9 | とのみ |
とばかり言うので、急に詮索するのも、体裁の悪い気がして、 |
とだけ言っているのに対して、にわかに質問をしつこくするのも恥ずかしくなり、従者が、 |
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| 3.3.10 | 「雨も止んだ。 日も暮れそうだ」 |
「雨もやみました。日が暮れるでしょうから」 |
【雨も止みぬ。日も暮れぬべし】- 供人の詞。 |
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| 3.3.11 | と |
と言うのに促されて、お帰りになる。 |
と |
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第四段 中将、横川の僧都と語る |
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| 3.4.1 | お庭先の女郎花を手折って、「どうしてここにいらっしゃるのだろう」と口ずさんで、独り言をいって立っていた。 |
縁側を少し離れた所に咲いた |
【何匂ふらむ】- 中将の詞。『源氏釈』は「ここにしも何匂ふらむ女郎花人のものいひさがにくき世に」(拾遺集雑秋、一〇九八、僧正遍昭)を指摘。 |
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| 3.4.2 | 「人の噂を、さすがに気になさるとは」 |
「人から何とか言われるのをさすがに恐れておいでになるのですね」 |
【人のもの言ひを】- 以下「とがむるこそ」まで、老尼女房の詞。 |
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| 3.4.3 | など、 |
などと、古風な老人たちは、誉めあっていた。 |
などと古めかしい人らはそれをほめていた。 |
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| 3.4.4 | 「とても美しげで、理想的にご成人なさったことよ。 同じことなら、昔のようにお世話したいものだ」と思って、 |
「ますますきれいにおなりになってりっぱだね。できることなら昔どおりの間柄になってつきあいたい」と尼君も言っているのであった。 |
【いときよげに】- 以下「見たてまつらばや」まで、『集成』は、尼たちの詞、『完訳』は、妹尼君の詞とする。 |
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| 3.4.5 | 「藤中納言のお所には、今も通っていらっしゃるようだが、ご執心でもなく、親の邸にいらっしゃりがちだと言っているようだが」 |
「 |
【藤中納言の】- 以下「こそ言ふなれ」まで、妹尼君の詞。中将は現在、藤中納言の娘のもとに婿として通っている。この藤中納言は系図不詳の人。 【絶えず通ひたまふやうなれど】- 『完訳』は「夫婦仲の絶えない程度に」と注す。 |
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| 3.4.6 | と、 |
と、尼君もおっしゃって、 |
こんな話も女房相手にしてから、浮舟へ、 |
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| 3.4.7 | 「 この よろづのこと、さし |
「情けなく、よそよそしくしてばかりいらっしゃるのが、とてもつらい。 今はもう、やはり、これも宿縁だとお思いになって、気を晴れやかになさってください。 この五年、六年、束の間も忘れず、恋しく悲しいと思っていた娘のことも、こうしてお目にかかって後は、すっかり悲しみも忘れております。 ご心配申し上げなさる方々がいらっしゃっても、今はもう亡くなったのだと、だんだんお諦めになりましょう。 どのような事でも、その当座のようには、必ずしも思わないものです」 |
「あなたはまだ私に隔て心を持っておいでになるのが恨めしくてなりませんよ。もう何事も宿命によるのだとあきらめておしまいになって、晴れ晴れしくなってくださいよ。この五、六年片時も忘れることができなくて悲しい悲しいと思っていた人のことも、あなたという方をそばで見るようになってからは忘れてしまいましたよ私は。あなたをお愛しになった方がたがこの世においでになっても、もうあなたはお |
【心憂く、ものをのみ】- 以下「わざになむ」まで、妹尼君の詞。浮舟に向かって言う。 【思し隔てたるなむ】- 主語は浮舟。 【さるべきなめりと】- これも前世の宿縁だろうと。 【この五年、六年、時の間も忘れず】- 妹尼君の娘が亡くなって、五六年を経過。 【恋しく悲しと思ひつる人】- 亡き娘。 【かく見たてまつりて後】- 浮舟を。 【思ひきこえたまふべき人びと】- 浮舟の親兄弟など。 |
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| 3.4.8 | と言うにつけても、ますます涙ぐんで、 |
と言うのを聞くうちにも姫君は涙ぐまれてくるのであった。 |
【いとど涙ぐみて】- 『集成』は「親のことなど言われて、悲しみがこみ上げる体」と注す。 |
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| 3.4.9 | 「 あらぬ ひたみちにこそ、 |
「よそよそしくお思い申し上げる気持ちは、ございませんが、不思議に生き返ったうちに、すべての事が夢のようにはっきり分からなくなりまして。 違った世界に生まれた人は、このような気がするものだろうか、と思われておりますので、今は、知っている人がこの世に生きていようとも思い出されません。 ひたすらに、慕わしく存じ上げております」 |
「私は何も隔てをお置きする気などはないのですけれども、不思議な |
【隔てきこゆる心は】- 大島本は「心ハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心も」と校訂する。『新大系』は底本のまま「心は」とする。以下「思ひきこゆれ」まで、浮舟の詞。 【夢の世にたどられて】- 大島本は「夢の世に」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「夢のやうに」と校訂する。『新大系』は底本のまま「夢の世に」とする。 【睦ましく思ひきこゆれ】- あなた尼君を。 |
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| 3.4.10 | とのたまふさまも、げに、 |
とおっしゃる様子も、なるほど、無心でかわいらしく、にっこりとして見つめていらっしゃった。 |
と言う |
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| 3.4.11 | 中将は、山にお着きになって、僧都も珍しく思って、世間の話をなさる。 その夜は泊まって、声の尊い僧たちに読経などさせて、一晩中、管弦の遊びをなさる。 禅師の君が、うちとけた話をした折に、 |
山の寺へ着いた中将を僧都も喜んで迎え、いろいろと世上の話を聞いたりした。その夜は宿泊することにして尊い声の出る僧たちに経を読ませて遊び明かした。弟の禅師とこまやかな話をしているうちに中将は、 |
【その夜は泊りて】- 中将は横川の僧坊に宿泊して。 【声尊き人に】- 大島本は「人に」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「人々に」と校訂する。『新大系』は底本のまま「人に」とする。 【経など読ませて、夜一夜、遊びたまふ】- 『集成』は「声明で、当時のいわば声楽」。『完訳』は「声明として経を謡うこと」「僧都の心配りで、山ではめったにしない管弦の遊びをする」と注す。 |
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| 3.4.12 | 「小野に立ち寄って、しみじみと感慨深いことがあったね。 世を捨てているが、やはり、あれほど嗜みの深い方は、めったにいらっしゃらないものだ」 |
「小野へ寄って来たがね、身にしむ思いを味わわせられた。出家したあとまであれだけ高雅な趣味のある生活のできる人は少ないだろうね」 |
【小野に立ち寄りて】- 以下「難うこそ」まで、中将の詞。 【心ばせある人は】- 尼君をさす。 |
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| 3.4.13 | などとおっしゃるついでに、 |
こんなことを言い、続いて、 |
【などあるついでに】- 大島本は「なとある」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「などのたまふ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「などある」とする。 |
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| 3.4.14 | 「 あらはなりとや さやうの おのづから |
「風が吹き上げた御簾の隙間から、髪がたいそう長く、美しそうな女性が見えた。 人目につくと思ったのだろうか、立ってあちらに入って行く後ろ姿は、並の女性とは見えなかった。 あのような所に、身分のある女性を住まわせておくべきではないでしょう。 明け暮れ目にするものは法師だ。 自然と見慣れてそれが普通と思われよう。 不都合なことだ」 |
「風が |
【風の吹き開けたりつる】- 以下「不便なることぞかし」まで、中将の詞。 【よき女は置きたるまじきものに】- 『集成』は「身分のある女性は住まわせてはいけないものだとおもわれます」と訳す。 【おのづから目馴れておぼゆらむ】- 主語は浮舟。『集成』は「女らしさを失ってしまうだろうという気持」と注す。 【不便なることぞかし】- 大島本は「ことそかし」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ことなりかし」と校訂する。『新大系』は底本のまま「ことぞかし」とする。若い女性にとっては不都合なことだ、の意。 |
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| 3.4.15 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 禅師の君は、 |
こんな話をした。 |
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| 3.4.16 | 「この春、初瀬に参詣して、不思議にも発見した女性だ、と聞きました」 |
「この春 |
【この春】- 以下「聞きはべりし」まで、禅師の詞。 |
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| 3.4.17 | とて、 |
と言って、見てないことなので、詳しくは言わない。 |
禅師は自身の携わった事件でなく知るはずもなかったから細かには言わない。 |
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| 3.4.18 | 「興味深い話だね。 どのような人であろうか。 世の中を厭って、そのような所に隠れていたのだろう。 昔物語にあったような気がするね」 |
「かわいそうな人なのだね、どんな家の人だろう。世の中が悲しくなったればこそそうした寺へ来て隠れていたのだろうからね。昔の小説の中のことのようだ」 |
【あはれなりけることかな】- 以下「心地もするかな」まで、中将の詞。 【さる所には】- 宇治の山里をさす。 |
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| 3.4.19 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
と中将は言った。 |
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第五段 中将、帰途に浮舟に和歌を贈る |
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| 3.5.1 | 翌日、お帰りになる時、「素通りできにくくて」と言っていらっしゃった。 しかるべき用意などしていたので、昔が思い出されるお世話の少将の尼なども、袖口の色は異なっているが、趣がある。 ますます涙がちの目で、尼君はいらっしゃる。 話のついでに、 |
翌日山からの帰途にもまた、「通り過ぎることができぬ気になって」こんなことを言って小野の家へ立ち寄った。ここでは迎えることを期していて食事の |
【過ぎがたくなむ】- 中将の詞。 【おはしたり】- 小野の草庵に。 【さるべき心づかひ】- 中将が帰途に立ち寄ることを予測しての食事の準備など。 【袖口さま異なれども】- 尼姿の鈍色の袖口。 |
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| 3.5.2 | 「こっそりと姿を隠していらっしゃるような方は、どなたですか」 |
「このお |
【忍びたるさまにものしたまふらむは、誰れにか】- 中将の詞。若い女性について尋ねる。 |
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| 3.5.3 | とお尋ねになる。 厄介なことだが、ちらっと見つけたのを、隠しているようなのも変だと思って、 |
と尋ねた。めんどうになるような気はするのであったが、すでに |
【見つけてけるを】- 大島本は「見つけてける」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見つけたまひてける」と「たまひ」を補訂する。『新大系』は底本のまま「見つけてける」とする。 |
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| 3.5.4 | 「忘れかねまして、ますます罪深くばかり思われましたその慰めに、ここ数か月お世話している人です。 どのような理由でか、とても悲しみの深い様子で、この世に生きていると誰からも知られることを、つらいことに思っておいでなので、このような山あいの奥深くまで誰がお尋ね求めよう、と思っておりましたが、どうしてお聞きつけあそばしたのですか」 |
「昔の人のことをあまり心に持っていますのは罪の深いことになると思いまして、ここ幾月か前から娘の代わりに家へ住ませることになった人のことでしょう。どういう理由か沈んだふうでばかりいまして、自分の存在が、人に知れますことをいやがっておりますから、こんな谷底へだれがあなたを捜しに来ますかと私は慰めて隠すようにしてあげているのですが、どうしてその人のことがおわかりになったのでしょう」 |
【忘れわびはべりて】- 以下「あらはさせたまひつらむ」まで、妹尼君の詞。 【谷の底】- 春や来る花や咲くとも知らざりき谷の底なる埋れ木なれば(和泉式部集-七二六)(text53.html 出典7から転載) 【尋ね聞かむ】- 大島本は「尋きかん」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「尋ね聞こえむ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「尋聞かん」とする。 |
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| 3.5.5 | といらふ。 |
と答える。 |
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| 3.5.6 | 「一時の物好きな心があってやって来るのでさえ、山深い道の恨み言は申し上げましょう。 まして、亡き姫君の代わりとお思いなさっていることでは、まったく関係ないこととお隔てになることでしょうか。 どのようなことで、 この世を厭いなさる人な |
「かりに突然求婚者になって現われた私としましても、遠い |
【うちつけ心ありて】- 以下「きこえばや」まで、中将の詞。 【思しよそふらむ方】- 主語は尼君。尼君の娘、中将の亡き妻。 |
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| 3.5.7 | など、ゆかしげにのたまふ。 |
などと、関心深そうにおっしゃる。 |
好奇心の隠せぬふうで中将は言った。 |
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| 3.5.8 | お帰りになるに当たって、畳紙に、 |
帰りぎわに懐紙へ、 |
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| 3.5.9 | 「浮気な風に靡くなよ、 女郎花わたしのものとなっ |
あだし野の風になびくな われしめゆはん |
【あだし野の風になびくな女郎花--我しめ結はむ道遠くとも】- 中将から浮舟への贈歌。「女郎花」は浮舟を喩える。 |
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| 3.5.10 | と |
と書いて、少将の尼を介して入れた。 尼君も御覧になって、 |
と書いて、少将の尼に姫君の所へ持たせてやった。尼君もそばでいっしょに読んだ。 |
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| 3.5.11 | 「このお返事をお書きあそばせ。 とても奥ゆかしいところのおありの方だから、不安なことはありますまい」 |
「返しを書いておあげなさい。紳士ですから、それがあとのめんどうを起こすことになりますまいからね」 |
【この御返り書かせたまへ】- 以下「うしろめたくもあらじ」まで、妹尼君の詞。 |
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| 3.5.12 | とそそのかせば、 |
と促すと、 |
こう勧められても、 |
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| 3.5.13 | 「ひどく醜い筆跡を、どうして」 |
「まずい字ですから、どうしてそんなことが」 |
【いとあやしき手をば、いかでか】- 浮舟の詞。尼君への返事。 |
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| 3.5.14 | とて、さらに |
と言って、まったく承知なさらないので、 |
と言い、浮舟の聞き入れないのを見て、 |
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| 3.5.15 | 「体裁の悪きことです」 |
失礼になることだから |
【はしたなきことなり】- 妹尼君の詞。 |
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| 3.5.16 | とて、 |
と言って、尼君が、 |
と尼君が、 |
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| 3.5.17 | 「申し上げましたように、世間知らずで、普通の人とは違っておりますので。 |
お話しいたしましたように、世間 |
【聞こえさせつるやうに】- 以下「草の庵に」まで、妹尼君の詞と返歌。 |
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| 3.5.18 | ここに移し植えて困ってしまいました、 女郎花です嫌な世の中を逃れた |
移し植ゑて思ひ乱れぬ女郎花 浮き世をそむく草の |
【移し植ゑて思ひ乱れぬ女郎花--憂き世を背く草の庵に】- 妹尼君の返歌。「女郎花」の語句を用いて返す。 |
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| 3.5.19 | とある。 「今回は、きっとそういうことだろう」と大目に見て帰った。 |
と書いて出した。はじめてのことであってはこれが普通であろうと思って中将は帰った。 |
【こたみは、さもありぬべし】- 中将の心中の思い。浮舟の返歌はもらえないことをさす。 |
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第六段 中将、三度山荘を訪問 |
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| 3.6.1 | 手紙などをわざわざやるのは、何といっても不慣れな感じで、ちらっと見た様子は忘れず、何を悩んでいるのか知らないが、心を惹かれるので、八月十日過ぎに、小鷹狩のついでにいらっしゃった。 いつものように、尼を呼び出して、 |
中将は小野の人に手紙を送ることもさすがに今さら若々しいことに思われてできず、しかもほのかに見た姿は忘れることができずに苦しんでいた。 |
【八月十余日のほどに】- 中秋の明月に近いころ。 【小鷹狩のついでに】- 『河海抄』は「秋の野に狩ぞ暮れぬる女郎花今宵ばかりの宿はかさなむ」(古今六帖二、小鷹狩)を指摘。 |
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| 3.6.2 | 「先日ちらっと見てから、心が落ち着かなくて」 |
「お姿を少し隙見で知りました時から落ち着いておられなくなりました」 |
【一目見しより、静心なくてなむ】- 中将の詞。 |
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| 3.6.3 | とおっしゃった。 お答えなさるはずもないので、尼君は、 |
と取り次がせた。浮舟の姫君は返辞をしてよいことと認めず黙っていると、尼君が、 |
【いらへたまふべくもあらねば】- 主語は浮舟。 |
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| 3.6.4 | 「待乳の山の、誰か他に思う人がいるように拝します」 |
「 |
【待乳の山、となむ見たまふる】- 大島本は「まつちの山となん」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「待乳の山の」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま「待乳の山」とする。妹尼君の詞。『異本紫明抄』は「誰をかも待乳の山の女郎花秋と契れる人ぞあるらし」(小町集)を指摘。『完訳』は「誰か他に思う人がいるか」と注す。 |
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| 3.6.5 | と中から言い出させなさる。 お会いなさっても、 |
と言わせた。それから昔の |
【対面したまへるにも】- 主語は妹尼君。尼君が中将に。 |
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| 3.6.6 | 「 もの |
「お気の毒な様子でいらっしゃると伺いました方のお身の上が、もっと詳しく知りたく存じます。 何事も思った通りにならない気ばかりがしますので、出家生活をしたい考えはありながら、お許しなさるはずのない方々に妨げられて過ごしております。 いかにも屈託なげな今の妻のことは、このように沈みがちな身の上のせいか、似合わないのです。 悩んでいらっしゃるらしい方に、思っている気持ちを申し上げたい」 |
「気の毒な様子で暮らしておいでになるとお話しになりました方のことをくわしく承りたく思います。満足のできない生活が続くものですから、山寺へでもはいってしまいたくなるのですが、同意されるはずもない両親を思いまして、そのままにしています私は、幸福な人には自分の沈んだ心から親しんでいく気になれませんが、不幸な人には慰め合うようになりたく思われてなりません」 |
【心苦しきさまにて】- 以下「聞こえばや」まで、中将の詞。 【はべりつる】- 大島本は「侍つる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「侍つる」とする。 【許いたまふまじき人びと】- 両親であろう、とされる。 【心地よげなる人の上は】- 現在の妻、藤中納言の娘。屈託なげに楽しそうにしている性格の人。 【屈じたる人の心からにや】- 大島本は「くんしたる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「屈したる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「屈じたる」とする。中将自身の性格についていう。 【もの思ひたまふらむ人に】- 浮舟に。 |
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| 3.6.7 | など、いと |
などと、とてもご執心なさってようにお話なさる。 |
中将は熱心に言う。 |
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| 3.6.8 | 「 |
「もの思わしげな方をとのご希望は、いろいろお話し合いなさるに、不似合いではないように見えますが、普通の人のようにはありたくないと、実に嫌に思われるくらい世の中を厭っていらっしゃるようなので。 残り少ない寿命のわたしでさえ、今を最後と出家します時には、とても何となく心細く思われましたものを。 将来の長い盛りの時では、最後まで出家生活を送れるかどうかと、心配でおります」 |
「不しあわせをお話しになろうとなさいますのには相当したお相手だと思いますけれど、あの方はこのまま俗の姿ではもういたくないということを始終言うほどにも悲観的になっています。私ら年のいった人間でさえいよいよ出家する時には心細かったのですから、春秋に富んだ人に、それが実行できますかどうかと私はあぶながっています」 |
【心地よげならぬ】- 以下「見たまへはべる」まで、妹尼の詞。『集成』は「このあたり、この中将の人物像はさながら矮小化された薫であろう」と注す。 【例の人にてはあらじと】- 大島本は「例の人にてハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「例の人にて」と「は」を削除する。『新大系』は底本のまま「例の人にては」とする。浮舟の出家の決意。 【いとうたたあるまで】- 『河海抄』は「花と見て折らむとすれば女郎花うたたあるさまの名にこそありけれ」(古今集雑体、一〇一九、読人しらず)を指摘。 【残りすくなき齢どもだに】- 大島本は「よはひともたに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「齢の人」と校訂する。『新大系』は底本のまま「齢ども」とする。尼君自身をいう。 【盛りには】- 大島本は「さかりにハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「盛りにては」と「て」を補訂する。『新大系』は底本のまま「盛りには」とする。 |
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| 3.6.9 | と、 |
と、親ぶって言う。 奥に入って行っても、 |
尼君は親がって言うのであった。姫君の所へ行ってはまた、 |
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| 3.6.10 | 「思いやりのないこと。 やはり、少しでもお返事申し上げなさい。 このようなお暮らしは、ちょっとしたつまらないことでも、人の気持ちを汲むのは世間の常識というものです」 |
「あまり冷淡な人だと思われますよ。少しでも返辞を取り次がせておあげなさいよ。こんなわび住まいをしている人たちというものは、自尊心は陰へ隠して人情味のある交際をするものなのですよ」 |
【情けなし】- 以下「世の常のことなれ」まで、妹尼君の詞。浮舟に返事をするように促す。 |
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| 3.6.11 | など、こしらへても |
などと、なだめすかして言うが、 |
などと言うのであるが、 |
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| 3.6.12 | 「人にものを申し上げるすべも知らず、何事もお話にならないわたしで」 |
「私は人とどんなふうにものを言うものなのか、その方法すら知らないのですもの。私は何の点でも人並みではございません」 |
【人にもの聞こゆらむ】- 以下「いふかひなくのみこそ」まで、浮舟の詞。 |
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| 3.6.13 | と、いとつれなくて |
と、とてもそっけなく臥せっていらっしゃった。 |
浮舟の姫君はそのまま横になってしまった。 |
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| 3.6.14 | 客人は、 |
中将はあちらで、 |
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| 3.6.15 | 「どうでしたか。 何と、 情けない。秋になったらとお約束したのは、おだましになったの |
「どちらへおいでになったのですか、御冷遇を受けますね。『秋を |
【いづら。あな、心憂】- 以下「こそありけれ」まで、中将の詞。『集成』は「返事をうながす気持」と注す。 【秋を契れるは】- 尼君の「待乳の山の」の引歌「誰をかも待乳の山の女郎花秋と契れる人ぞあるらし」(小町集)の下句を受けた表現。 |
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| 3.6.16 | など、 |
などと、恨みながら、 |
などと尼君を恨めしそうに言い、 |
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| 3.6.17 | 「松虫の声を尋ねて来ましたが 再び萩原の露に迷ってしまいました」 |
松虫の声をたづねて来しかども また |
【松虫の声を訪ねて来つれども--また萩原の露に惑ひぬ】- 大島本は「萩ハら」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「荻原」と校訂する。『新大系』は底本のまま「萩原」とする。中将の贈歌。「松虫」「待つ」の懸詞。「萩原」は浮舟を喩える。 |
|||||||||||||||||||||||
| 3.6.18 | 「まあ、お気の毒な。 せめてこのお返事だけでも」 |
と歌いかけた。「まあおかわいそうに、歌のお返しでもなさいよ」 |
【あな、いとほし。これをだに】- 妹尼君の詞。浮舟に言う。 |
|||||||||||||||||||||||
| 3.6.19 | などと責めると、そのような色恋めいた事に返事するのもたいそう嫌で、また一方、いったん返歌をしては、このような折々に責められるのも、厄介に思われるので、返歌をさえなさらないので、あまりにいいようもなく思い合っていた。 尼君は、出家前は当世風の方であった気が残っているのであろう。 |
尼夫人はこう姫君に迫るのであったが、そんな恋愛の遊戯めいたことをする気はなく、また一度歌を |
【など責むれば】- 大島本は「なとせむれハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「と責むれば」と「など」を削除する。『新大系』は底本のまま「などせむれば」とする。 【さやうに世づいたらむこと】- 『集成』は「以下、浮舟の心中」。『完訳』は「以下、浮舟の心に即した叙述」と注す。 【思ひあへり】- 主語は妹尼君と女房たち。 【尼君、早うは--名残なるべし】- 『紹巴抄』は「双地」と指摘。語り手の推測を交えた叙述。 |
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| 3.6.20 | 「秋の野原の露を分けて来たため濡れた狩衣は 葎の茂ったわが宿のせいになさいますな |
「秋の野の露分け来たる狩りごろも |
【秋の野の露分け来たる狩衣--葎茂れる宿にかこつな】- 尼君の返歌。浮舟が詠んだようにとりつくろって詠む。「露」の語句を用いて返す。 |
|||||||||||||||||||||||
| 3.6.21 | と、わずらわしがり申していらっしゃるようです」 |
迷惑がっておられます」 |
【となむ、わづらはしがりきこえたまふめる】- 歌に続けた詞。主語は浮舟。『完訳』は「浮舟の返歌として取り次ぐ趣」と注す。 |
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| 3.6.22 | と言うのを、簾中でも、やはり「このように思いの外にこの世に生きていると知られ出したのを、とてもつらい」とお思いになる心中を知らないで、男君のことをも尽きせず思い出しては、恋い慕っている人びとなので、 |
と言っているのを、浮舟は聞きながら、こうしたことからまだ自分の世の中にいることが昔の人々に知れ始めることにならないであろうかと苦しく思っていた。姫君の気持ちも知らずに、昔の姫君と同じくこの婿君をもなつかしがることの多い女房たちは、 |
【内にも、なほ】- 『完訳』は「以下、簾中の尼たちの反応。「知らで、男君も--」に続く」と注す。 【いと苦し」と思す心のうち】- 浮舟の苦悩の心中。 【男君をも】- 亡き姫君はもちろんのこと婿の中将をも、の意。 |
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| 3.6.23 | 「このような、ちょっとした機会にも、お話し合い申し上げなさるのも、お気持ちにそむいて、油断ならないことはなさらない方ですから。 世間並の色恋とお思いなさらなくても、人情のわかる程度に、お返事を申し上げなさいませ」 |
「ただちょっと深い意味でもなくお立ち寄りになった方ですから、お話をなすってもよろしくない方へ進出しようなどとは大丈夫なさいませんから、御結婚問題などは別にして、好意のある程度のお返辞だけはしておあげなさいまし」 |
【かく、はかなき】- 以下「聞こえたまへかし」まで、女房の詞。 【うち語らひきこえたまはむに】- 大島本は「きこえ給ハんに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「きこえたまへらむに」と校訂する。『新大系』は底本のまま「きこえ給はんに」とする。 【筋には】- 大島本は「すちにハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「筋に」と「は」を削除する。『新大系』は底本のまま「筋には」とする。 |
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| 3.6.24 | など、ひき |
などと、引き動かさんばかりに言う。 |
などと言い、 |
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第七段 尼君、中将を引き留める |
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| 3.7.1 | そうはいっても、このような古風な気質とは不似合いに、当世風に気取っては、下手な歌を詠みたがって、はしゃいでいる様子は、とても不安に思われる。 |
さすがに年を取った女たちは尼君が柄にもなく若々しく歌らしくもない歌をいい気で |
【さすがに、かかる古代の心どもには--いとうしろめたうおぼゆ】- 『一葉抄』は「古めきたる尼に似合すいまめく也双紙詞也」と指摘。【いとうしろめたうおぼゆ】-『完訳』は「浮舟は、誰かが強引に中将を手引しかねないと不安である。以下、己が悲運の身を思う」と注す。 |
|||||||||||||||||||||||
| 3.7.2 | 「この上なく嫌な身の上であった、と見極めた命までが、あきれるくらい長くて、どのようなふうにさまよって行くのだろう。 ひたすら亡くなった者として誰からもすっかり忘れられて終わりたい」 |
なんという不幸な自分であろう、捨てるのに |
【限りなく】- 以下「やみなばや」まで、浮舟の心中の思い。 【と見果ててし命さへ、あさましう長くて】- 浮舟の心中思惟の語句。自分で自分の気持ちを反省する。 |
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| 3.7.3 | と思って臥せっていらっしゃるのに、中将は、およそ何か物思いの種があるのだろうか。 とてもひどく嘆き、ひっそりと笛を吹き鳴らして、 |
と思い悩んで、横になったままの姿で |
【おほかたもの思はしきことのあるにや】- 挿入句、語り手が中将の心中を推測した句。『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。 【うち嘆き】- 大島本は「打なけき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「うち嘆きつつ」と「つつ」を補訂する。『新大系』は底本のまま「打嘆き」とする。 |
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| 3.7.4 | 「 |
「鹿の鳴く声に」 |
「 |
【鹿の鳴く音に】- 中将の詞。和歌を口ずさむ。『源氏釈』は「山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴く音に目を覚ましつつ」(古今集秋上、二一四、壬生忠岑)を指摘。 |
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| 3.7.5 | などと独り言をいう感じは、ほんとうに弁えのない人ではなさそうである。 |
などと口ずさんでいる様子は相当な男と見えた。 |
【まことに心地なくはあるまじ】- 『評釈』は「地の文であるから、ここの場面では、作者は中将をひどく冷たく見ていることになる」。『集成』は「確かにわきまえのない人ではなさそうだ」。『完訳』は「真実、わきまえのない人ではなさそうである」と注す。打消推量の助動詞「まじ」は語り手の推量。 |
|||||||||||||||||||||||
| 3.7.6 | 「過ぎ去った昔が思い出されるにつけても、かえって心尽くしに、今初めて慕わしいと思ってくれるはずの人も、またいそうもないので、つらいことのない山奥とは思うことができません」 |
「ここへまいっては昔の思い出に心は苦しみますし、また新しく私をあわれんでくだすってよい方はその心になってくださらないし『世のうき目見えぬ山路』とも思われません」 |
【過ぎにし方の】- 以下「え思ひなすまじうなむ」まで、中将の詞。 【あはれと思すべき人はた、難げなれば】- 『完訳』は「今から思いを寄せてくれそうな方とて、いそうにないので。暗に、浮舟の冷淡さをいう」と注す。 【見えぬ山路にも】- 『源氏釈』は「世の憂きめ見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今集雑下、九五五、物部吉名)を指摘。 |
|||||||||||||||||||||||
| 3.7.7 | と、恨めしそうにしてお帰りになろうとする時に、尼君が、 |
と恨めしそうに言い、帰ろうとした時に、尼君が、 |
【出でなむとするに】- 大島本は「いてなむと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「出でたまひなむと」と「たまひ」を補訂する。『新大系』は底本のまま「出でなむと」とする。 |
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| 3.7.8 | 「どうして、せっかくの素晴らしい夜を御覧になりませぬ」 |
「あたら夜を(あたら夜の月と花とを同じくは心知れらん人に見せばや)お帰りになるのですか」 |
【など、あたら夜を御覧じさしつる】- 妹尼君の詞。『源氏釈』は「あたら夜の月と花とを同じくは心知れらむ人に見せばや」(後撰集春下、一〇三、源信明)を指摘。 |
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| 3.7.9 | とて、ゐざり |
と言って、膝行して出ていらっしゃった。 |
と言って、 |
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| 3.7.10 | 「いえ。 あちらのお気持ちも、分かりましたので」 |
「もうたくさんですよ。山里も悲しいものだということがわかりましたから」 |
【何か。遠方なる里も、試みはべれば」--など】- 大島本は「心ミ侍れハなと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「こころみはべりぬればと」と校訂する。『新大系』は底本のまま「心み侍ればなど」とする。中将の詞。「遠方なる里」は宇治の地名。引歌がありそうだが未詳。 |
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| 3.7.11 | など いとほのかに |
と軽く言って、「あまり好色めいて振る舞うのも、やはり不都合だ。 ほんのちらっと見えた姿が、目にとまったほどで、所在ない心の慰めに思い出したが、あまりによそよそしくて、奥ゆかしい感じ過ぎるのも場所柄にも似合わず興醒めな感じがする」と思ので、帰ろうとするのを、笛の音まで物足りなく、ますます思われて、 |
などと中将は言い、新しい姫君へむやみに接近したいふうを見せることもしたくない、ほのかに少し見た人の印象のよかったばかりに、空虚で退屈な心の補いに恋をし始めたにすぎない相手があまりに冷淡に思い上がった態度をとっているのは場所柄にもふさわしくないことであると不快に思われる心から、帰ろうとするのであったが、尼君は笛の音に別れることすらも惜しくて、 |
【いたう好きがましからむも】- 以下「すさまじ」まで、中将の心中の思い。 【所のさまにあはずすさまじ】- 『集成』は「風雅な環境の手狭な山里住まい、そこにしかるべき男女のやりとり、といった期待があったという趣」と注す。 【飽かず、いとどおぼえて】- 主語は妹尼君。 |
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| 3.7.12 | 「夜更けの月をしみじみと御覧にならない方が 山の端に近いこの宿にお泊まりになりませんか」 |
深き夜の月を哀れと見ぬ人や 山の |
【深き夜の月をあはれと見ぬ人や--山の端近き宿に泊らぬ】- 妹尼君から中将への贈歌。前の「あたら夜の」歌を踏まえた詠歌。「月」を浮舟に喩える。『完訳』は「中将の求婚を受諾しようとする歌」と注す。 |
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| 3.7.13 | と、なまかたはなることを、 |
と、どこか整わない歌を、 |
と奥様は仰せられますと |
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| 3.7.14 | 「このように、申し上げていらっしゃいます」 |
取り次ぎで言わせたのを聞くと |
【かくなむ、聞こえたまふ】- 妹尼君の詞。『集成』は「(浮舟が)こう申し上げていられます。浮舟の詠んだ歌だと、とっさにいつわって言う」と注す。 |
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| 3.7.15 | と |
と言うと、心をときめかして、 |
またときめくものを覚えた。 |
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| 3.7.16 | 「山の端に隠れるまで月を眺ましょう その効あってお目にかかれようかと」 |
山の端に入るまで月をながめ見ん |
【山の端に入るまで月を眺め見む--閨の板間もしるしありやと】- 中将の返歌。「山の端」「月」「見る」の語句を用いて返す。「宿」を「閨の板間」とずらして返す。『完訳』は「閨の隙間からさし込む月光の風情。月を眺め続け、閨に近づきたい気持」と注す。 |
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| 3.7.17 | などと言っていると、この大尼君、笛の音をかすかに聞きつけたので、老齢ではいてもやはり心惹かれて出て来た。 |
こんな返しを伝えさせている時、この家の大尼君が、さっきから笛の音を聞いていて、心の |
【大尼君】- 横川僧都や妹尼君の母尼君。 【さすがにめでて】- 『完訳』は「八十余歳の老齢なのに」と注す。 |
|||||||||||||||||||||||
| 3.7.18 | 話のあちこちで咳をし、呆れるほどの震え声で、かえって昔のことなどは口にしない。 誰であるかも分からないのであろう。 |
間で |
【ここかしこうちしはぶき】- 『集成』は「物を言うたびに咳をまじえ」。『完訳』は「話のあちことで咳をし、聞き苦しいほどの震え声で」と注す。老人特有のしぐさ。 【誰れとも思ひ分かぬなるべし】- 中将が誰であるか。「なかなか--言はず。--なるべし」は、語り手の思い入れと推測を交えた叙述。『岷江入楚』は「草子の地なり」と指摘。 |
|||||||||||||||||||||||
| 3.7.19 | 「さあ、その琴の琴をお弾きなさい。 横笛は、月にはとても趣深いものです。 どこですか、 そなたたち。琴を持 |
「さあそこの琴をあなたはお |
【いで、その琴の琴】- 以下「琴取りて参れ」まで、老母尼君の詞。 【御達】- 大島本は「こたち」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「くそたち」と校訂する。『新大系』は底本のまま「御達」とする。「くそ」は二人称の代名詞。古風な語句。 |
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| 3.7.20 | と言うので、母尼君らしい、と推察して聞くが、「どのような所に、このような老人が、どうして籠もっているのだろう。 無常の世だ」と、このことにつけても感慨無量である。 盤渉調をたいそう趣深く吹いて、 |
と言っている。さっきから大尼君らしいと中将は察して聞いていたのであるが、この家のどこにこうした大年寄が無事に暮らしていたのであろうと思い、 |
【それなめり】- 大島本は「それなめり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「それななり」と校訂する。『新大系』は底本のまま「それなめり」とする。中将の心中。老母尼君であるらしい、の意。 【いかなる所に】- 以下「定めなき世ぞ」まで、中将の心中の思い。末尾は地の文に流れる。『集成』は「老少不定のこの世が、これにつけてもしみじみ思われる。自分の妻だった孫娘は早く死に、八十を越えたこの尼君がまだ存命なのに感慨をもよおす。中将の心事に密着した書き方」と注す。 【盤渉調】- 冬の季節にふさわしい調子。 |
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| 3.7.21 | 「いづら、さらば」 |
「どうですか。さあ」 |
「さあ、それではお合わせください」 |
【いづら、さらば】- 中将の詞。演奏を促す。 |
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| 3.7.22 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
と言う。 |
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| 3.7.23 | 娘尼君は、この方も相当な風流人なので、 |
これも相応に風流好きな尼夫人は、 |
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| 3.7.24 | 「昔聞きましたときよりも、この上なく素晴らしく思われますのは、山風ばかりを聞き馴れていました耳のせいでしょうか」と言って、「それでは、わたしのはでたらめになっていましょう」 |
「あなたのお笛は昔聞きましたよりもずっと巧妙におなりになったように思いますのも、平生山風以外に聞くもののないせいかもしれません。私のはまちがいだらけになっているでしょう」 |
【昔聞きはべりしよりも】- 以下「耳からにや」まで、妹尼君の詞。 【いでや、これもひがことになりてはべらむ】- 大島本は「これも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「これは」と校訂する。『新大系』は底本のまま「これも」とする。妹尼君の詞。謙遜して言う。 |
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| 3.7.25 | と |
と言いながら弾く。 当世風では、ほとんど普通の人は、今は好まなくなって行くものなので、かえって珍しくしみじみと聞こえる。 松風も実によく調和する。 吹き合わせた笛の音に、月も調子を合わせて澄んでいる気がするので、ますます興趣が乗って、眠気も催さず、起きていた。 |
と言いながら琴を弾いた。現代の人はあまり琴の器楽を好まなくなって、弾き手も少なくなったためか、珍しく身にしむように思って、中将は相手の |
【今様は、をさをさなべての人の、今は好まずなりゆく】- 琴の琴について言う。近年では七弦琴が好まれなくなっている、の意。 【松風もいとよくもてはやす】- 『集成』は「琴の音に峯の松風かよふらしいづれのをより調べそめけむ」(拾遺集雑上、四五一、斎宮女御)を指摘。 【吹きて合はせたる】- 大島本は「ふきてあハせたる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「吹きあはせたる」と「て」を削除する。『新大系』は底本のまま「吹きて合はせたる」とする。 【宵惑ひ】- 老人の習性。宵から眠くなること。 |
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第八段 母尼君、琴を弾く |
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| 3.8.1 | 「 この さるは、いとよく |
「お婆は、昔は、東琴を、簡単に弾きましたが、今の世では、変わったのでしょうか。 息子の僧都が『聞きにくい。 念仏以外のつまらないことはするな』と叱られましたので、それならと、もう弾かないのでございます。 それにしても、 |
「昔はこの年寄りも和琴をうまく弾きこなしたものですがねえ、今は弾き方も変わっているかしれませんね。 |
【女は、昔は】- 大島本は「むかしは」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「昔」と「は」を削除する。『新大系』は底本のまま「むかしは」とする。以下「琴もはべり」まで、老母尼の詞。 【変はりにたるにやあらむ】- 東琴の奏法が。 |
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| 3.8.2 | と言い続けて、とても弾きたく思っているので、たいそうこっそりとほほ笑んで、 |
大尼君はこんなふうに言い続けて弾きたそうに見えた。中将は忍び笑いをして、 |
【いと忍びやかにうち笑ひて】- 主語は中将。 |
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| 3.8.3 | 「まことに変なことをお制止申し上げなさった僧都ですね。 極楽という所には、菩薩なども皆このようなことをして、天人なども舞い遊ぶのが尊いものだと言います。 勤行を怠り、罪を得ることだろうか。 今夜はお聞き致したい」 |
「僧都がおとめになるのはどうしたことでしょう。極楽という所では |
【いとあやしきことをも】- 以下「聞きはべらばや」まで、中将の詞。 【尊かなれ】- 「尊かる」(連体形)の「る」が撥音便化して無表記。「なれ」伝聞推定の助動詞。 |
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| 3.8.4 | とすかせば、「いとよし」と |
とお世辞を言うと、「とても嬉しい」と思って、 |
とからかう気で言った言葉に、大尼君は満足して、 |
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| 3.8.5 | 「さあ、主殿の君さん、東琴を取って」 |
「さあ座敷がかりの童女たち、 |
【いで、主殿のくそ、東取りて】- 老母尼の詞。主殿の女房に東琴を取り寄せさせる。 |
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| 3.8.6 | と言うにも、咳は止まらない。 女房たちは、見苦しいと思うが、僧都をまで、憎らしく不平を言って聞かせるので、お気の毒なのでそのままにしていた。 東琴を取り寄せて、今の笛の調子もおかまいなしに、ただ自分勝手に弾いて、東の調子を爪弾きさわやかに調べる。 他の楽器の演奏をみな止めてしまったので、「これにばかり聞きほれているのだ」と思って、 |
この短い言葉の間にも |
【取り寄せて】- 東琴を。 【東の調べ】- 『集成』は「未詳。和琴の調子の一つともいう」と注す。 【声を止めつるを】- 大島本は「こゑをやめつるを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「声やめつるを」と「を」を削除する。『新大系』は底本のまま「声をやめつるを」とする。 【これをのみ】- 大島本は「これをのミ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「これにのみ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「これをのみ」とする。 |
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| 3.8.7 | 「たけふ、ちちりちちり、たりたんな」 |
ちりふり、ちりちり、たりたり |
【たけふ、ちちりちちり、たりたむな】- 老母尼の詞。催馬楽「道口」の歌詞を口ずさむ。『花鳥余情』は「笛の音の春おもしろく聞こゆるは花散りたりと吹けばなりけり」(後拾遺集俳諧、一一九八、読人しらず)を指摘。『完訳』は「この催馬楽の歌詞には漂泊の女が暗示され、浮舟には母親が想起されもする」と注す。 |
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| 3.8.8 | など、 |
などと、撥を掻き返し、さっそうと弾いている、その言葉などは、やたらと古めかしい。 |
などとかき返してははしゃいだ言葉もつけて言うのも古めかしいことのかぎりであった。 |
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| 3.8.9 | 「実に素晴らしく、今の世には聞かれぬ歌を、お弾きになりました」 |
「おもしろいですね。ただ今では聞くことのできないような言葉がついていて」 |
【いとをかしう】- 以下「弾きたまひけれ」まで、中将の詞。 |
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| 3.8.10 | と |
と褒めると、耳も遠くなっているので、側にいる女房に尋ね聞いて、 |
などと中将がほめるのを、耳の遠い老尼はそばの者に聞き返して、 |
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| 3.8.11 | 「今風の若い人は、このようなことをお好きでないね。 ここに何か月もいらっしゃる姫君は、容貌はとても美しくいらっしゃるようだが、もっぱら、このようなつまらない遊びはなさらず、引き籠もっていらっしゃるようです」 |
「今の若い者はこんなことが好きでなさそうですよ。この |
【今様の若き人は】- 以下「ものしたまふめる」まで、老母尼の詞。 【姫君】- 浮舟。 【容貌いとけうらに】- 大島本は「かたちいとけうらに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「容貌はいときよらに」と校訂する。『新大系』は底本のまま「かたちいとけうらに」とする。 【かやうなるあだわざなどしたまはず】- 大島本は「かやうなる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「かかる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「かやうなる」とする。『完訳』は「浮舟への軽い皮肉であろう」と注す。 |
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| 3.8.12 | と、得意顔に大声で笑って話すのを、尼君などは、聞き苦しいとお思いである。 |
と、 |
【うちあざ笑ひて】- 『集成』は「高笑いして」。『完訳』は「大声で笑う意。嘲笑の意ではない」と注す。 |
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第九段 翌朝、中将から和歌が贈られる |
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| 3.9.1 | これによってすっかり興醒めして、お帰りになる途中も、山下ろしが吹いて、聞こえて来る笛の音も、とても素晴らしく聞こえて、起き明かしていた翌朝、 |
大老人のあずま琴で興味のしらけてしまった席から中将の帰って行く時も山おろしが吹いていた。それに混じって聞こえてくる笛の音が美しく思われて人々は寝ないで夜を明かした。翌日中将の所から、 |
【聞こえ来る笛の音】- 中将が帰途に吹く笛の音。 |
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| 3.9.2 | 「昨夜は、あれこれと心が乱れましたので、急いで帰りました。 |
昨日は昔と今の歎きに心が乱されてしまいまして、失礼な帰り方をしました。 |
【昨夜は】- 以下「何かは」まで、中将の文。 |
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| 3.9.3 | 忘れられない昔の人のことやつれない人のことにつけ 声を立てて泣いてしまいました |
忘られぬ昔のことも笛竹の 継ぎし |
【忘られぬ昔のことも笛竹の--つらきふしにも音ぞ泣かれける】- 中将の妹尼君への贈歌。「事」「琴」の懸詞。「琴」「笛」「音」の縁語。「竹」「節」「根」の縁語。「昔」は亡き妻を、「つらきふし」は浮舟を比喩。 |
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| 3.9.4 | やはり、もう少し気持ちをご理解いただけるよう説得申し上げてください。 堪えきれるものでしたら、好色がましい態度にまで、どうして出ましょうか」 |
あの方へ私の誠意を認めてくださるようにお教えください。内に忍んでいるだけで足る心でしたならこんな軽はずみ男と見られますようなことまでは決して申し上げないでしょう。 |
【何かは】- 反語表現。下に「言はむ」などの語句が省略。 |
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| 3.9.5 | とあるので、ますます困っている尼君は、涙を止めがたい様子で、お書きになる。 |
と言う消息が尼君へあった。これを見て昔の婿君をなつかしんでいる尼夫人は泣きやむことができぬふうに涙を流したあとで返事を書いた。 |
【いとどわびたるは】- 妹尼君。「人」を省略した形。 |
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| 3.9.6 | 「笛の音に昔のことも偲ばれまして お帰りになった後も袖が濡れました |
笛の音に昔のことも忍ばれて 帰りしほども袖ぞ |
【笛の音に昔のことも偲ばれて--帰りしほども袖ぞ濡れにし】- 尼君の返歌。「笛」「音」「昔」「琴」の語句を用いて返す。「泣く」は「濡れ」とずらして返す。 |
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| 3.9.7 | 不思議なことに、人の情けも知らないのではないか、と見えました様子は、年寄の問わず語りで、お聞きあそばしたでしょう」 |
不思議なほど普通の若い人と違った人のことは老人の問わず語りからも御承知のできたことと思います。 |
【あやしう】- 以下「聞こし召しけむかし」まで、妹尼君の歌に続く文。 【ありさま】- 浮舟の様子。返歌もせず音楽の合奏に加わろうとしなかったことをさす。 【老い人の問はず語り】- 老母尼の話。 |
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| 3.9.8 | とある。 珍しくもない見栄えのしない気がして、つい読み捨てたことであろう。 |
と言うのである。恋しく思う人の字でなく、見なれた昔の |
【見所なき心地して】- 主語は中将。浮舟の返事を期待していた。 【うち置かれけむ】- 大島本は「うちをかれけん」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「うち置かれけむかあし」と「かし」を補訂する。『新大系』は底本のまま「うちをかれけん」とする。『一葉抄』は「此段双紙詞也」と指摘。『完訳』は「語り手の推測による」と注す。 |
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| 3.9.9 | 荻の葉に秋風が訪れるのに負けないくらい頻繁に便りがあるのが、「とても煩わしいことよ。 男の心はむてっぽうなものだ」と分かった時々のことも、だんだん思い出すにつれて、 |
【荻の葉に劣らぬほどほどに訪れわたる】- 『源注拾遺』は「秋風の吹くにつけても訪はぬかな荻の葉ならば音はしてまし」(後撰集恋四、八四六、中務)を指摘。『集成』は「以下、浮舟の心」と注す。 【いとむつかしうもあるかな】- 以下「ものなりけり」まで、浮舟心中の思い。地の文から心中文に移る。『完訳』は「以下、浮舟の心中」と注す。 【人の心はあながちなるもの】- 『完訳』は「「あながち」な人であった匂宮との体験を通して、一途な男心に懲りたという気持」と注す。 |
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| 3.9.10 | 「やはり、このような方面のことは、相手にも諦めさせるように、早くしてくださいませ」 |
もう自分に恋愛をさせぬよう、また人からもその思いのかからぬように早くしていただきたい |
【なほ、かかる筋のこと】- 以下「疾くなしたまひてよ」まで、浮舟の心中の思い。中将の求婚を断ちたい。 |
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| 3.9.11 | とて、 かくよろづにつけて すこしうち |
と言って、お経を習って読んでいらっしゃる。 心中でも祈っていらっしゃった。 このように何かにつけて世の中を捨てているので、「若い女だといっても華やかなところも特になく、陰気な性格なのだろう」と思う。 器量が見飽きず、かわいらしいので、他の欠点はすべて大目に見て、明け暮れの心の慰めにしていた。 少しにっこりなさるときには、めったになく素晴らしい方だと思っていた。 |
と仏へ頼む意味で経を習って姫君は読んでいた。心の中でもそれを念じていた。こんなふうに寂しい道を選んでいる浮舟を、若い人でありながらおもしろい空気も格別作らず、うっとうしいのがその性質なのであろうと周囲の人は思った。 |
【若き人とて】- 以下「本性なめり」まで、妹尼君たちの目に映る浮舟の姿。 |
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第四章 浮舟の物語 浮舟、尼君留守中に出家す |
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第一段 九月、尼君、再度初瀬に詣でる |
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| 4.1.1 | 九月になって、この尼君は、初瀬に参詣する。 長年とても心細い身の上で、恋しい娘の身の上も諦めきれなかったが、このように他人とも思われない女性を心の慰めに得たので、観音のご霊験が嬉しいと、お礼参りのような具合で、参詣なさるのであった。 |
九月になって尼夫人は |
【九月になりて】- 浮舟、小野草庵に移って約半年経過。 【恋しき人の上も】- 亡き娘。 【かくあらぬ人】- 浮舟。 |
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| 4.1.2 | 「さあ、ご一緒に。 誰に知られたりするものですか。 同じ仏様ですが、あのような所で勤行するのが、霊験あらたかで、良いことが多いのです」 |
「さあいっしょに行きましょう。だれにわかることがあるものですか。同じ仏様でもあのお寺などにこもってお願いすることは |
【いざ、たまへ】- 以下「多かる」まで、妹尼君の詞。長谷寺参詣に浮舟を誘う。 |
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| 4.1.3 | と |
と言って促すが、「昔、母君や、乳母などが、このように言って聞かせては、たびたび参詣させたが、何にもその効がなかったようだ。 死のうと思ったことも思う通りにならず、又とないひどい目を見るとは」と、ひどく厭わしい心中にも、「知らない人と一緒に、そのような遠出をするとは」と、何となく恐ろしく思う。 |
と言って、尼君は姫君に同行を勧めるのであったが、昔母や |
【昔、母君、乳母などの】- 以下「いみじきめを見るは」まで、浮舟の心中の思い。 【命さへ心にかなはず】- 死のうとしたことまでも叶わなかった。 【知らぬ人に具して】- 以下「したらむよ」まで、浮舟の心中の思い。 |
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| 4.1.4 | 強情なふうにはあえて言わないで、 |
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| 4.1.5 | 「気分がとてもすぐれませんので、そのような遠出もどんなものかしらなどと、気がひけまして」 |
「私は気分が始終悪うございますから、そうした |
【心地のいと悪しう】- 以下「つつましうなむ」まで、浮舟の詞。同行を断る。 |
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| 4.1.6 | とおっしゃる。 「恐がる気持ちは、きっとそうなさるにちがいない方だ」と思って、無理にも誘わない。 |
と断わっていた。いかにもそうした物恐れをしそうな人であると思って、尼君はしいても言わなかった。 |
【物懼ぢはさもしたまふべき人ぞかし】- 妹尼君の心中の思い。『完訳』は「宇治で物の怪に襲われた人だから、恐怖心も無理からぬとする」と注す。 |
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| 4.1.7 | 「はかないままにこの世につらい思いをして生きているわが身は あの古川に尋ねて行くことはいたしません、 |
はかなくて世にふる川のうき瀬には 訪ねも行かじ |
【はかなくて世に古川の憂き瀬には--尋ねも行かじ二本の杉】- 浮舟の独詠歌。『異本紫明抄』は「初瀬川古川野辺に二本ある杉年を経てまたもあひ見む二本ある杉」(古今集旋頭歌、一〇〇九、読人しらず)を指摘。 |
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| 4.1.8 | と |
と手習いに混じっているのを、尼君が見つけて、 |
と書いた歌が手習い紙の中に混じっていたのを尼君が見つけて、 |
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| 4.1.9 | 「二本とは、再びお会い申したいと思っていらっしゃる方がいるのでしょう」 |
「 |
【二本は】- 以下「人あるべし」まで、妹尼君の詞。引歌の下句による推測。 |
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| 4.1.10 | と、冗談に言い当てたので、胸がどきりとして、顔を赤くなさったのも、とても魅力的でかわいらしげである。 |
と |
【面赤めたまへる】- 大島本は「あかめ給へる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「赤めたまへるも」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のまま「赤め給へる」とする。 |
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| 4.1.11 | 「あなたの昔の人のことは存じませんが わたしはあなたを亡くなった娘と思っております」 |
ふる川の杉の 過ぎにし人によそへてぞ見る |
【古川の杉のもとだち知らねども--過ぎにし人によそへてぞ見る】- 妹尼君の返歌。「古川」「杉」の語句を用いて返す。「古川の杉」は浮舟を喩える。「過ぎにし人」は亡き娘。 |
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| 4.1.12 | 格別すぐれたのでもない返歌をすばやく言う。 人目を忍んで、と言うが、皆がお供したがって、こちらが人少なにおなりになることを気の毒がって、気の利いた少将の尼と左衛門という大人の女房と、童女だけを残したのであった。 |
平凡なものであるが尼君は考える間もないほどのうちにこんな歌を告げた。目だたぬようにして行くことにしていたのであるが、だれもかれもが行きたがり、 |
【左衛門とてある大人しき人】- 初出の女房。『完訳』は「中将の訪問を予測しての用意である」と注す。 |
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第二段 浮舟、少将の尼と碁を打つ |
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| 4.2.1 | 皆が出立したのを見送って、わが身のやりきれなさを思いながらも、「今さらどうしようもない」と、「頼りに思う人が一人もいらっしゃらないのは、心細いことだわ」と、とても所在ないところに、中将からのお手紙がある。 |
皆が出立して行く影を |
【皆出で立ちけるを】- 大島本は「いてたちける越」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「出で立ちぬるを」と校訂する。『新大系』は底本のまま「出で立ちけるを」とする。 【あさましきことを思ひながらも】- 『完訳』は「物思いのうちに、わが身の上の情けなさを思う。失踪以来のあまりにも心外ななりゆき」と注す。 【今はいかがせむ】- 大島本は「いかゝせむ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いかがはせむ」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のまま「いかがせむ」とする。浮舟の思い。 【頼もし人に思ふ人】- 以下「心細うもあるかな」まで、浮舟の心中の思い。 |
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| 4.2.2 | 「御覧ください」と言うが、聞き入れなさらない。 いっそう女房も少なくて、何もするこなく過去や将来を考え沈み込んでいらっしゃる。 |
「お読みあそばせよ」と言うが、浮舟は聞きも入れなかった。そして常よりもまた寂しくなった家の庭をながめ入り、過去のこと、これからあとのことを思っては歎息ばかりされるのであった。 |
【御覧ぜよ】- 少将尼の詞。 |
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| 4.2.3 | 「つらいほど物思いに沈んでいらっしゃること。 御碁をお打ちなさい」 |
「拝見していましても苦しくなるほどお |
【苦しきまでも】- 以下「打たせたまへ」まで、少将尼の詞。 |
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| 4.2.4 | と |
と言う。 |
と少将が言う。 |
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| 4.2.5 | 「とても下手でした」 |
「 |
【いとあやしうこそはありしか】- 浮舟の詞。碁は下手だったという。 |
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| 4.2.6 | とはおっしゃるが、打とうとお思いになったので、碁盤を取りにやって、自分こそはと思って先手をお打たせ申したが、たいそう強いので、また先手後手を変えて打つ。 |
と言いながらも打つ気に浮舟はなった。盤を取りにやって少将は自信がありそうに先手を姫君に打たせたが、さんざんなほど自身は弱くて負けた。それでまた次の勝負に移った。 |
【打たむと思したれば】- 主語は浮舟。 【我はと思ひて】- 主語は少将尼。『集成』は「自分の方が強いだろうと思って、浮舟に先手でお打たせ申してみると。少将の尼が白、浮舟が黒」と注す。 【いとこよなければ】- 主語は浮舟。たいそう碁が強い。 【また手直して打つ】- 先手後手を変えて打ち直す。 |
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| 4.2.7 | 「 この かの あな、いみじ」 |
「尼上が早くお帰りあそばしたらよいに。 この御碁をお見せ申し上げよう。 あの方の御碁は、とても強かったわ。 僧都の君は、若い時からたいそうお好みになって、まんざらではないとお思いになっていたが、ほんと碁聖大徳気取りで、『出しゃばって打つ気はないが、あなたの御碁にはお負けしませんでしょうね』と申し上げなさったが、とうとう僧都が二敗なさった。 碁聖の碁よりもお強くいらっしゃるようです。 まあ、強い」 |
「尼奥様が早くお帰りになればよい、姫君の碁をお見せしたい。あの方はお強いのですよ。僧都様はお若い時からたいへん碁がお好きで、自信たっぷりでいらっしゃいましたところがね、尼奥様は |
【尼上疾う】- 以下「あないみじ」まで、少将尼の詞。 【けしうはあらず】- 碁の腕前はまんざらではない。 【さし出でてこそ打たざらめ、御碁には負けじかし】- 僧都の詞を引用。 【御碁には負けじかし】-妹尼の御碁には負けまい。 【二つ負けたまひし】- 三番勝負のうち二敗。 【棋聖が碁には勝らせたまふべきなめり】- 浮舟の碁の腕前の方が僧都に勝るだろう、の意。 |
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| 4.2.8 | とおもしろがるので、盛りを過ぎた尼額が見苦しいのに、遊びに熱中するので、「厄介なことに手を出してしまったわ」と思って、「気分が悪い」と言って横におなりになった。 |
と少将はおもしろがって言うのであった。昔はたまにより見ることのなかった年のいった |
【むつかしきこともしそめてけるかな】- 浮舟の心中の思い。『集成』は「対人関係の総てをうとましく思う気持」と注す。 【心地悪し】- 浮舟の詞。 |
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| 4.2.9 | 「時々は、気分が晴々するようにお振る舞いなさいませ。 あたら若いお身を。 ひどく沈んでおいであそばすのは残念で、玉の瑕のような気がいたします」 |
「時々は晴れ晴れしい気持ちにもおなりあそばせよ。惜しいではございませんか、青春を沈んでばかりおいでになりますことは。ほんとうに玉に |
【時々、晴れ晴れしう】- 以下「心地しはべれ」まで、少将尼の詞。 |
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| 4.2.10 | と言う。 夕暮の風の音もしみじみとして、思い出すことが多くて、 |
などと少将は言った。夕風の音も身に |
【思ひ出づることも】- 大島本は「ことも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「こと」と「も」を削除する。『新大系』は底本のまま「ことも」とする。 |
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| 4.2.11 | 「わたしには秋の情趣も分からないが 物思いに耽るわが袖に露がこぼれ落ちる」 |
心には秋の夕べをわかねども ながむる |
【心には秋の夕べを分かねども--眺むる袖に露ぞ乱るる】- 浮舟の独詠歌。「露」に涙を、「乱るる」に自分の心を比喩する。 |
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第三段 中将来訪、浮舟別室に逃げ込む |
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| 4.3.1 | 月が出て美しいころに、昼に手紙のあった中将がおいでになった。 「まあ、嫌な。 これは、どうしたことか」と思われなさって、奥深いところにお入りになるのを、 |
月が出て |
【あな、うたて。こは、なにぞ】- 大島本は「こハなにそ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「こはなぞ」と「に」を削除する。『新大系』は底本のまま「こは何ぞ」とする。浮舟の心中の思い。 |
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| 4.3.2 | 「そうなさるとは、 あまりのお振る舞いでいらっしゃいますわ。ご厚志も 、ひとしお身にしむときでございましょう。ちらっとでも 申し上げなさるお言葉をお聞きなさいませ。それだけでも深い仲に |
「それはあまりでございますよ。あちらのお志もこんなおりからにはことに深さのまさるものですもの、ほのかにでもお話しになることを聞いておあげなさいませ。あちらのお言葉が |
【さも、あまりにも】- 以下「思したるこそ」まで、少将尼の詞。 【おはしますものかな】- 大島本は「おハします物かな」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「おはしますかな」と「もの」を削除する。『新大系』は底本のまま「おはします物かな」とする。 【聞こえたまはむことも】- 主語は中将。 【しみつかむことのやうに】- 『集成』は「(お言葉を聞くだけで)もう何か深い仲になるかのようにお思いなのですね」と注す。 |
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| 4.3.3 | などと言うので、とても不安に思われる。 いらっしゃらない旨を言うが、昼の使者が、一人残っていると尋ね聞いたのであろう、とても長々と恨み言をいって、 |
少将にこんなふうに言われれば言われるほど不安になる姫君であった。姫君もいっしょに旅に出かけたと少将は客へ言ったのであるが、昼間の使いが一人は残っておられる、というようなことを聞いて行ったものらしくて中将は信じない。いろいろと言葉を尽くして姫君の無情さを恨み、 |
【はしたなく】- 大島本は「ハしたなく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「うしろめたく」と校訂する。『新大系』は底本のまま「はしたなく」とする。 【おはせぬよし】- 妹尼君が。 【昼の使の、一所など問ひ聞きたるなるべし】- 挿入句。語り手の推測を挿入。 |
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| 4.3.4 | 「お声も聞かなくて結構です。 ただ、お側近くで申し上げることを、聞きにくいとも何なりとも、どうぞご判断くださいませ」 |
「お話をしいて聞かせてほしいとは申しません。ただお近い所で、私のする話をお聞きくだすって、その結果私に好意を持つことがおできにならぬならそうと言いきっていただきたいのです」 |
【御声も聞きはべらじ】- 以下「思しことわれ」まで、中将の詞。返事は結構、ただ自分の言うことを聞いてほしい、と言う。 【聞きにくしともいかにとも】- 大島本は「きゝ(ゝ$き)にくしともいかにとも」とある。すなわち「ゝ」をミセケチにして「き」と訂正する。『集成』『完本』は諸本に従って「聞きにくしとも」と「いかにとも」を削除する。『新大系』は底本のまま「聞きにくしともいかにとも」とする。 |
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| 4.3.5 | と、よろづに |
と、あれこれ言いあぐねて、 |
こんなことをどれほど言っても答えのないのでくさくさした中将は、 |
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| 4.3.6 | 「まことに情けない。 場所に応じてこそ、物のあわれもまさるものです。 これではあんまりです」 |
「情けなさすぎます。この場所は人の繊細な感情を味わってくださるのに最も適した所ではありませんか。こんな扱いをしておいでになって何ともお思いにならないのですか」 |
【いと心憂く】- 以下「あまりかかるは」まで、中将の詞。 |
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| 4.3.7 | など、あはめつつ、 |
などと、非難しながら、 |
とあざけるようにも言い、 |
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| 4.3.8 | 「山里の秋の夜更けの情趣を 物思いなさる方はご存知でしょう |
「山里の秋の夜深き哀れをも 物思ふ人は思ひこそ知れ |
【山里の秋の夜深きあはれをも--もの思ふ人は思ひこそ知れ】- 中将から浮舟への贈歌。 |
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| 4.3.9 | 自然とお心も通じ合いましょうに」 |
御自身の寂しいお心持ちからでも御同情はしてくだすっていいはずですが」 |
【おのづから御心も通ひぬべきを】- 歌に続けた詞。 |
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| 4.3.10 | などあれば、 |
などと言うので、 |
と姫君へ取り次がせたのを伝えたあとで、少将が、 |
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| 4.3.11 | 「尼君がいらっしゃらないので、うまく取り繕い申し上げる者もいません。 とても世間知らずのようでしょう」 |
「尼奥様がおいでにならない時ですから、紛らしてお返しをしておいていただくこともできません。何とかお言いあそばさないではあまりに人間離れのした方と思われるでしょう」 |
【尼君おはせで】- 以下「世づかぬやうならむ」まで、少将尼の詞。 【紛らはしきこゆべき人】- うまく取り繕って返歌を差し上げる人。 |
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| 4.3.12 | と |
と責めるので、 |
こう責めるために、 |
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| 4.3.13 | 「情けない身の上とも分からずに暮らしているわたしを 物思う人だと他人が分かるのですね」 |
うきものと思ひも知らで過ぐす身を 物思ふ人と人は知りけり |
【憂きものと思ひも知らで過ぐす身を--もの思ふ人と人は知りけり】- 浮舟の返歌。「もの思ふ人」の語句を用いて返す。自分では物思いをしているのかいないのか分からないでいるのに、あなたは物思いをしている人だというのですね、と切り返す。 |
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| 4.3.14 | 特に返歌というのでもないのを、聞いてお伝え申し上げると、とても感激して、 |
と浮舟が返しともなく口へ上せたのを聞いて、少将が伝えるのを中将はうれしく聞いた。 |
【わざといらへとも】- 大島本は「わさといらへとも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「わざと言ふとも」と校訂する。『新大系』は底本のまま「わざといらへとも」とする。 【聞きて伝へきこゆれば】- 主語は少将尼。 |
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| 4.3.15 | 「もっと、もう少しだけでもお出でください、とお勧め申せ」 |
「ほんの少しだけ近くへ出て来てください」 |
【なほ、ただ】- 以下「動かせ」まで、中将の詞。 |
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| 4.3.16 | と、この |
と、この女房たちを困り果てるまで恨み言をおっしゃる。 |
と中将が言ったと言い、少将らは姫君の心を動かそうとするのであるが、姫君はこの人々を恨めしがっているばかりであった。 |
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| 4.3.17 | 「変なまでに、冷淡にお見えになることです」 |
「あやしいほどにも御冷淡になさるではありませんか」 |
【あやしきまで、つれなくぞ見えたまふや】- 少将尼の詞。「や」間投助詞、詠嘆の意。 |
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| 4.3.18 | と言って、奥に入って見ると、いつもは少しもお入りにならない老人のお部屋にお入りになっていたのであった。 驚きあきれて、「これこれです」と申し上げると、 |
と言いながら女房がまた忠告を試みにはいって来た時に、姫君はもう座にはいなくて、平生はかりにも行って見ることのなかった大尼君の |
【かくなむ】- 浮舟が老母尼君の部屋に引き篭もってしまっている、という内容。 【聞こゆれば】- 少将尼が中将に。 |
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| 4.3.19 | 「かかる それ なほ、いかなるさまに |
「このような所で物思いに耽っていらっしゃる方のご心中がお気の毒で、世間一般の様子などにつけても情けの分からない方ではないはずなのに、まるで情けを分からない人よりも、冷淡なおあしらいなさるようです。 それも何かひどい経験をなさってのことだろうか。 やはり、どのようなことで世の中を厭って、いつまでここにいらっしゃる予定の方ですか」 |
「こんな |
【かかる所に】- 以下「おはすべき人ぞ」まで、中将の詞。 【情けなかるまじき人の】- 格助詞「の」同格の意。 【それ物懲り】- 大島本は「それ物こり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「それももの懲り」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のまま「それ物懲り」とする。 |
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| 4.3.20 | などと、様子を尋ねて、たいそう知りたげにお思いになっているが、詳細なことはどうして申し上げられよう。 ただ、 |
などと言って聞きたがる中将であったが、細かい事実を女房も話すはずはない。 |
【いかでかは言ひ聞かせむ】- 語り手の思い入れをこめた叙述。 |
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| 4.3.21 | 「お世話申し上げなさらねばならない方で、長年、疎遠な関係で過していらっしゃったのを、互いに初瀬に参詣なさって、お探し申し上げなさったのです」 |
「思いがけず奥様が |
【知りきこえたまふべき人の】- 以下「尋ねきこえたまひつる」まで、少将尼の詞。『完訳』は「遠縁にあたるぐらいの趣」と注す。 【年ごろは、疎々しきやうにて】- 長年疎遠であった、の意。出会う以前のこと。 【尋ねきこえたまひつる】- 大島本は「尋きこえ給つる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまへる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「給つる」とする。 |
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| 4.3.22 | とぞ |
と言う。 |
とだけ言っていた。 |
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第四段 老尼君たちのいびき |
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| 4.4.1 | いと |
姫君は、「とても気味悪い」とばかり聞いている老人の所に横になって、眠ることもできない。 夕方から眠くなるのは、何とも言えないほど大きな鼾をしいしい、その前にも、似たような老尼どもが二人横になっていて、負けじ劣らじと鼾をかき合っていた。 たいそう恐ろしく、「今夜、この人たちに喰われてしまうのではないか」と思うのも、惜しい身の上ではないが、いつもの心弱さは、一本橋を危ながって引き返したという者のように、心細く思われる。 |
浮舟の姫君はめんどうな性質の人であると聞いていた老尼の所でうつ伏しになっているのであったが、 |
【今宵、この人びとにや食はれなむ】- 『集成』は「地獄草子に老婆の姿をした鬼が見える」。『完訳』は「老尼を鬼かと恐れる。鬼が老女に化ける話は、説話集に散見」と注す。 【一つ橋危ふがりて】- 『細流抄』は「本縁たしかならず。心はただ、身を投げんとせし人の、行く道に一橋の危ふきを見て、道より帰りたるといふことあるべし」と指摘。出典未詳。 |
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| 4.4.2 | こもきを、供に連れて行かれたが、色気づく年頃で、このめずらしい男性が優雅に振る舞っていらっしゃる方に帰って行ってしまった。 「今戻って来ようか、今戻って来ようか」と待っていらしたが、まことに頼りないお付であるよ。 中将は、言いあぐねて帰ってしまったので、 |
童女のこもきを従えて来ていたのであるが、ませた少女は珍しい異性が風流男らしく気どってすわっているあちらの座敷のほうに心が |
【こもき、供に率て】- 浮舟に仕える女童を一緒に老母尼の部屋に。 【艶だちゐたる方に】- 大島本は「えんたちゐたる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「艶だちゐたまへる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「艶だちゐ」とする。 【今や来る、今や来る」と】- 浮舟の心中の思い。こもきの帰りを。 【いとはかなき頼もし人なりや】- 『紹巴抄』は「双地てならひの心中をかけり」と指摘。 |
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| 4.4.3 | 「まことに情けなく、引き籠もっていらっしゃること。 あたら惜しいご器量を」 |
「人情がわからない方ね。引っ込み思案でばかりいらっしゃる。あれだけの |
【いと情けなく】- 以下「あたら御容貌を」まで、少将尼や左衛門女房たちの不満の詞。 |
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| 4.4.4 | などそしりて、 |
などと悪口を言って、一同一緒に寝た。 |
などと姫君を |
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| 4.4.5 | 「夜半になったか」と思うころに、尼君が咳こんで寝惚けて起き出した。 灯火の光で、頭の具合はまっ白い上に、黒いものを被って、この君が横になっているのを、変に思って、鼬とかいうものが、そのようなことをする、額に手を当てて、 |
夜中時分かと思われるころに大尼君はひどい |
【この君】- 浮舟。 【臥したまへる】- 大島本は「ふし給へる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「臥したまへるを」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のまま「臥し給へる」とする。 |
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| 4.4.6 | 「おや。 これは、誰ですか」 |
「怪しい、これはだれかねえ」 |
【あやし。これは、誰れぞ】- 母尼君の詞。 |
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| 4.4.7 | と、 「いかさまにせむ」とおぼゆるむつかしさにも、「いみじきさまにて |
と、しつこそうな声で見やっているのが、その上、「今すぐにでも取って喰ってしまおうとする」かのように思われる。 鬼が取って連れて来た時は、何も考えられなかったので、かえって安心であった。 「どうするのだろう」と思われる不気味さにも、「みじめな姿で生き返り、人並に戻って、再び以前のいろいろな嫌なことに悩み、厭わしいとか恐ろしいとか、物思いすることよ。 死んでしまっていたら、これよりも恐ろしそうなものの中にいたことだろうか」と想像される。 |
としつこそうな声で言い姫君のほうを見越した時には、今自分は食べられてしまうのであるという気が浮舟にした。幽鬼が自分を伴って行った時は失心状態であったから何も知らなかったが、それよりも今が恐ろしく思われる姫君は、長くわずらったあとで |
【鬼の取りもて来けむほどは】- 入水しようとしていた時に物の怪に連れ出されたことを回想。 【物のおぼえざりければ】- 大島本は「物の」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「もの」と「の」を削除する。『新大系』は底本のまま「物の」とする。 【いかさまにせむ】- どうしたらよかろう。意識が働いているので、かえって不気味。 【いみじきさまにて】- 以下「あらましか」まで、浮舟の心中の思い。 【ありしいろいろの憂きことを】- 匂宮や薫とのことで悩んだこと。 【死なましかば--あらましか】- 反実仮想の構文。係助詞「か」疑問の意。『完訳』は「鬼と見える尼君から、鬼たちによる地獄の責め苦を連想」と注す。 |
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第五段 浮舟、悲運のわが身を思う |
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| 4.5.1 | 昔からのことを、眠れないままに、いつもよりも思い続けていると、 |
昔からのことが眠れないままに次々に思い出される浮舟は、 |
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| 4.5.2 | 「いと ただ、この |
「とても情けなく、父親と申し上げた方のお顔も拝し上げず、遥か遠い東国で代わる代わる年月を過ごして、たまたま探し求めて、嬉しく頼もしくお思い申し上げた姉君のお側を、不本意のままに縁が切れてしまい、しかるべき方面にとお考えくださった方によって、だんだんと身の不運から抜け出そうとした矢先に、驚きあきれたように身を過ったのを考えて行くと、宮を、わずかにいとしいとお思い申し上げた心が、まことに良くないことであった。 ただ、あの方に巡り合った御縁で流れ流れて来たのだ」 |
自分は悲しいことに満たされた |
【いと心憂く】- 以下「などてをかしと思ひきこえけむ」まで、浮舟の心中の思い。途中「と思へば」の地の文を鋏む。「親」は父親の宇治八宮をさす。 【姉妹の御あたりをも】- 大島本は「御あたりをも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「御あたりも」と「を」を削除する。『新大系』は底本のまま「御あたりも」とする。異母姉の中君。 【さる方に思ひ定めたまひし人に】- 大島本は「給し」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまへりし」と校訂する。『新大系』は底本のまま「給し」とする。薫。『集成』は「北の方ではないにしても妻の一人に、という薫の思惑をいう」と注す。 【宮を、すこしもあはれと】- 匂宮。係助詞「も」強調の意。 |
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| 4.5.3 | と 「かくてこそありけれ」と、 さすがに、「この かくだに |
と思うと、「橘の小島の色を例にお誓いなさったのを、どうしてすてきだと思ったのだろう」と、すっかり熱もさめたような気がする。 初めから、深い愛情ではなかったがゆったりとした方のことは、この折あの折になどと、思い出すことは比べものにならなかった。 「こうして生きていたのだ」と、お耳にされ申すときの恥ずかしさは、誰よりも一番であろう。 何といっても、「この世では、以前のご様子を他人ながらでもいつかは見ようと、ふと思うのは、やはり、悪い考えだ。 それさえ思うまい」などと、自分独りで思い直す。 |
【契りたまひしを】- 主語は匂宮。 【薄きながらものどやかにものしたまひし人は】- 薫をさす。『河海抄』は「夏衣薄きながらぞ頼まるる一重なるしも身に近ければ」(拾遺集恋三、八二三、読人しらず)を指摘。 【こよなかりける】- 匂宮と比較して。 【かくてこそありけれ」と】- 以下「かくだに思はじ」まで、浮舟の心中に添った叙述。心中文と地の文が交錯。 【聞きつけられたてまつらむ】- 薫に。 【ありし御さまを】- 薫の姿。 【いつか見むずる】- 大島本は「いつか」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いつかは」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のまま「いつか」とする。 【うち思ふ、なほ、悪ろの心や】- 『完訳』は「彼(薫)への憧れが心をかすめるが、それを打ち消す」と注す。 |
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| 4.5.4 | やっとのことで鶏が鳴くのを聞いて、とても嬉しい。 「母親のお声を聞いた時には、それ以上にどんな気がするだろう」と思って夜を明かして、気分もとても悪い。 付人としてあちらに行くはずの人もすぐには来ないので、依然として臥せっていらっしゃると、鼾の老婆は、たいそう早く起きて、粥など見向きもしたくない食事を大騒ぎして、 |
ようやく鶏の鳴く声が聞こえてきた。浮舟は非常にうれしかった。母の声を聞くことができたならましてうれしいことであろうと、こんなことを姫君は思い明かして気分も悪かった。あちらへ帰るのに付き添って来てくれるものは早く来てもくれないために、そのままなお横たわっていると前夜の |
【鶏の鳴くを聞きて】- 『集成』は「鶏鳴で魔の跳梁する夜の支配が終る。まだ暗い時刻である。次の「思ひ明かして」のところで明るい朝を迎える」と注す。 【母の御声を】- 以下「いかならむ」まで、浮舟の心中の思い。『花鳥余情』は「山鳥のほろほろと鳴く声けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」(玉葉集釈教、二六二七、行基菩薩)を指摘。 【供にて渡るべき人】- 女童のこもき。 【なほ臥したまへるに】- 大島本は「給つる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまへる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「給つる」とする。 |
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| 4.5.5 | 「あなたも、早くお召し上がれ」 |
「姫君も早く召し上がりませ」 |
【御前に、疾く聞こし召せ】- 老母尼の詞。 |
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| 4.5.6 | などと寄って来て言うが、給仕役もまこと気に入らず、嫌な見知らない気がするので、 |
などとそばへ来て世話のやかれるのも気味が悪かった。こうした朝になれない気がして、 |
【いとど心づきなく】- 大島本は「いとゝ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いと」と「ゝ」を削除する。『新大系』は底本のまま「いとど」とする。 |
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| 4.5.7 | 「 |
「気分が悪いので」 |
「 |
【悩ましくなむ】- 浮舟の詞。 |
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| 4.5.8 | と、さりげなく断りなさるのを、無理に勧めるのもとても気がきかない。 |
と穏やかな言葉で断わっているのに、しいて勧めて食べさせようとされるのもうるさかった。 |
【いとこちなし】- 語り手の批評の言。 |
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第六段 僧都、宮中へ行く途中に立ち寄る |
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| 4.6.1 | 身分の低いらしい法師どもなどが大勢来て、 |
下品な姿の僧がこの家へおおぜい来て、 |
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| 4.6.2 | 「僧都が、今日下山あそばしますでしょう」 |
「 |
【僧都、今日下りさせたまふべし】- 僧の詞。 |
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| 4.6.3 | 「などにはかには」 |
「どうして急に」 |
「なぜにわかにそうなったのですか」 |
【などにはかに】- 女房の詞。 |
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| 4.6.4 | と |
と尋ねるようなので、 |
【問ふなれば】- 「なれ」伝聞推定の助動詞。浮舟の耳に聞こえてくる趣。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.6.5 | 「 |
「一品の宮が、御物の怪にお悩みあそばしたのを、山の座主が、御修法をして差し上げなさったが、やはり、僧都が参上なさらなくては効験がないといって、昨日、二度お召しがございました。 右大臣殿の四位少将が、昨夜、夜が更けて登山あそばして、后宮のお手紙などがございましたので、下山あそばすのです」 |
「 |
【一品の宮の】- 以下「下りさせたまふなり」まで、僧の詞。明石中宮腹の女一宮の病気。 【僧都参らせたまはでは】- 大島本は「まいらせ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「参り」と校訂する。『新大系』は底本のまま「まいらせ」とする。 |
||||||||||||||||||||||
| 4.6.6 | などと、とても得意になって言う。 「恥ずかしくても、お目にかかって、尼にしてください、と言おう。 口出しする人も少なくて、ちょうどよい機会だ」と思うと、起きて、 |
などと自慢げに言っている。ここへ僧都の立ち寄った時に、恥ずかしくても逢って尼にしてほしいと願おう、とがめだてをしそうな尼夫人も留守で他の人も少ない時で都合がよいと考えついた浮舟は起きて、 |
【恥づかしうとも】- 以下「よき折にこそ」まで、浮舟の心中の思い。出家を決意。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.6.7 | 「気分が悪くばかりいますので、僧都が下山あそばしますときに、受戒をしていただこうと思っておりますが、そのように申し上げてください」 |
「僧都様が山をお |
【心地のいと悪しうのみはべるを】- 以下「聞こえたまへ」まで、浮舟の詞。老母尼君に言う。 【忌むこと受けはべらむ】- 蘇生の折には五戒だけを受けた。今度は本格的な出家を考える。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.6.8 | と相談なさると、惚けた感じで、ちょっとうなずく。 |
と大尼君に言うと、その人はぼけたふうにうなずいた。 |
【ほけほけしう、うちうなづく】- 大島本は「打うなつく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「うなづく」と「打」を削除する。『新大系』は底本のまま「打うなづく」とする。主語は老母尼君。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.6.9 | いたうわづらひしけにや、 |
いつもの部屋のいらして、髪は尼君だけがお梳きになるのを、他人に手を触れさせるのも嫌に思われるが、自分自身では、できないことなので、ただわずかに梳きおろして、母親にもう一度こうした姿をお見せすることがなくなってしまうのは、自分から望んだこととはいえ、とても悲しい。 ひどく病んだせいだろうか、髪も少し抜けて細くなってしまった感じがするが、それほども衰えていず、たいそう多くて、六尺ほどある末などは、とても美しかった。 髪の毛などもたいそうこまやかで美しそうである。 |
常の居間へ帰った浮丹は、尼君がこれまで髪を自身以外の者に |
【例の方におはして】- 主語は浮舟。母尼君の部屋から自分の部屋へ。 【髪は尼君のみ削りたまふを】- 浮舟の髪は妹尼君だけが梳る。 【親に今一度】- 以下「悲しけれ」あたりまで、浮舟の心中の思い。引用句がなく、末尾は心中文から地の文に流れる叙述。 【かうながらのさまを】- 出家前の姿。 【いたうわづらひしけにや】- 浮舟の目、心中に即した叙述。 【落ち細りたる】- 大島本は「おちほそりたる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「落ち細りにたる」と「に」を補訂する。『新大系』は底本のまま「落ち細りたる」とする。 【いとうつくしかりける】- 大島本は「いとうつくしかりける」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「うつくしかりける」と「いと」を削除する。『新大系』は底本のまま「いとうつくしかりける」とする。『集成』は「「うつくし」は、愛撫したい感じ。自らの髪をいとおしむ気持」。『完訳』は「次行に「うつくしげ」と繰り返され、削ぎ捨てがたい豊かな黒髪」と注す。 |
||||||||||||||||||||||
| 4.6.10 | 「かかれとてしも」 |
「こうなれと思って髪の世話はしなかったろうに」 |
「たらちねはかかれとてしも」(うば玉のわが黒髪を |
【かかれとてしも】- 浮舟の独り言。『源氏釈』は「たらちめはかかれとてしもうばたまのわが黒髪を撫でずやありけむ」(後撰集雑三、一二四〇、僧正遍昭)を指摘。 |
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| 4.6.11 | と、 |
と、独り言をおっしゃっていた。 |
||||||||||||||||||||||||
| 4.6.12 | 暮れ方に、僧都がおいでになった。 南面を片づけ準備して、丸い頭の恰好が、あちこち行ったり来たりしてがやがやしているのも、いつもと違って、とても恐ろしい気がする。 母尼のお側に参上なさって、 |
夕方に僧都が寺から来た。南の座敷が |
【まろなる頭つき】- 大島本は「まろなるかしらつき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「頭つきども」と「ども」を補訂する。『新大系』は底本のまま「頭つき」とする。 【母の御方に参りたまひて】- 主語は僧都。老母尼君のもとに。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.6.13 | 「いかがですか、このごろは」 |
「あれから |
【いかにぞ、月ごろは】- 僧都の詞。母尼君に加減を問う。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.6.14 | など |
などと言う。 |
などと尋ねていた。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.6.15 | 「東の御方は物詣でをなさったとか。 ここにいらっしゃった方は、今でもおいでになりますか」 |
「東の夫人は |
【東の御方は】- 以下「ものしたまふや」まで、僧都の詞。妹尼君は東の対を居所としている。 【このおはせし人】- 浮舟。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.6.16 | など |
などとお尋ねになる。 |
||||||||||||||||||||||||
| 4.6.17 | 「ええ。 ここに残っています。 気分が悪いとおっしゃって、受戒をお授かり申したい、とおっしゃいました」 |
「そうですよ。 |
【しか。ここにとまりてなむ】- 以下「とのたまひつる」まで、母尼君の詞。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.6.18 | と |
と話す。 |
と大尼君は語った。 |
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第七段 浮舟、僧都に出家を懇願 |
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| 4.7.1 | 立ってこちらにいらして、「ここに、いらっしゃいますか」と言って、几帳の側にお座りになると、遠慮されるが、膝行して近寄って、お返事をなさる。 |
そこを立って僧都は姫君の居間へ来た。「ここにいらっしゃるのですか」と言い、 |
【立ちてこなたにいまして】- 主語は僧都。『集成』は「妹尼と一緒にいた東の対であろう」と注す。 【ここにや、おはします】- 僧都の詞。 【つつましけれど、ゐざり寄りて、いらへしたまふ】- 主語は浮舟。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.7.2 | 「 いとあやしきさまに、 |
「思いもよらずお目にかかったのも、こうなるはずの前世からの宿縁があったのだ、と存じられまして。 御祈祷なども、親身にお仕えいたしましたが、法師は、特別の用件もなく、お手紙を差し上げたり頂戴したりするのは不都合なので、自然と御無沙汰が続いてしまいました。 実に見苦しい様子で、出家をなさっている方のお側に、どのようにしておいででしたか」 |
「あの時偶然あなたをお助けすることになったのも前生の約束事と私は見ていて、 |
【不意にて】- 以下「おはしますらむ」まで、僧都の詞。『集成』は「「不意にて」は男性用語」。『完訳』は「思いもよらず。宇治院での邂逅をさす。僧侶らしい表現」と注す。 【いとあやしきさまに】- 『集成』は「とても不似合いと思われますのに」。『完訳』は「なんとも見苦しい有様で」と訳す。 【世を背きたまへる人の御あたり】- 大島本は「御あたり」とある。『完本』は諸本に従って「御あたりに」と「に」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のまま「御あたり」とする。老母尼君や妹尼君をさす。 |
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| 4.7.3 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
こう僧都は言った。 |
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| 4.7.4 | 「 |
「この世に生きていまいと決心いたしました身が、とても不思議にも今日まで生きておりましたが、つらいと思います一方で、あれこれとお世話いただいたご厚志を、何とも申し上げようもないわが身ながら、深く存じられますが、やはり、世間並のようには生きて行けず、とうとうこの世になじめそうになく存じられますので、尼にしてくださいませ。 この世に生きていましても、普通の人のように長生きできない身の上です」 |
「私はもう生きていまいと思った者ですが、不思議なお救いを受けまして |
【世の中にはべらじと】- 以下「はべらぬ身になむ」まで、浮舟の詞。 【今まではべりつるを】- 大島本は「侍つるを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべるを」と校訂する。『新大系』は底本のまま「侍つるを」とする。 【よろづにせさせ】- 大島本は「よろつに(に+物イ)せさせ」とある。すなわち「物」を補入する。『集成』『完本』は諸本と底本の補入に従って「ものせさせ」と校訂する。『新大系』は底本の補入以前のまま「せさせ」とする。 【なほ、世づかずのみ、つひにえ止まるまじく】- 『完訳』は「やはり世間並のようにはいかず、所詮はこの世に生きてはいられまい。出家以外にないと訴える」と注す。 |
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| 4.7.5 | と |
と申し上げなさる。 |
と姫君は言う。 |
|||||||||||||||||||||||
| 4.7.6 | 「まだ、いと かへりて |
「まだ、たいそう将来の長いお年なのに、どうして一途にそのように、ご決心なさったのですか。 かえって罪を作ることになります。 思い立って、決心なさった時は強くお思いになっても、年月がたつと、女のお身の上というものは、まことに不都合なものなのです」 |
「まだ若いあなたがどうしてそんなことを深く思い込むのだろう。かえって罪になることですよ。決心をした時は強い信念があるようでも、年月がたつうちに女の身をもっては罪に |
【まだ、いと行く先遠げなる御ほどに】- 以下「たいだいしきものになむ」まで、僧都の詞。 【女の御身といふもの、いとたいだいしきものになむ】- 『集成』は「将来、不慮の間違いでもあってはと危ぶむ」。『完訳』は「女の身は実に不都合。前に妹尼も若い女の出家には疑問を抱いていた」と注す。 |
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| 4.7.7 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
などと僧都は言うのであったが、 |
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| 4.7.8 | 「 まして、すこしもの |
「子供の時から、物思いばかりをしているような状態で、母親なども、尼にして育てようか、などと思いおっしゃいました。 ましてや、少し物心がつきまして後は、普通の人と違って、せめて来世だけでも、と思う考えが深かったが、死ぬ時がだんだん近くなりましたのでしょうか、気分がとても心細くばかりなりましたが、やはり、どうか出家を」 |
「私は子供の時から物思いをせねばならぬ運命に置かれておりまして、母なども尼にして世話がしたいなどと申したことがございます。まして少し大人になりまして人生がわかりかけてきましてからは、普通の人にはならずにこの世でよく仏勤めのできる境遇を選んで、せめて |
【幼くはべりしほどより】- 以下「なほいかで」まで、浮舟の詞。 【もの思ひ知りて後は】- 大島本は「もの思しりて後ハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「もの思ひ知りはべりてのちは」と「はべり」を補訂する。『新大系』は底本のまま「もの思知りてのちは」とする。 【心深かりしを】- 大島本は「心ふかゝりしを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「深くはべりしを」と「はべり」を補訂する。『新大系』は底本のまま「深かりしを」とする。 【なほ、いかで】- 下に「尼になさせたまひてよ」の意が省略。出家を懇願。 |
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| 4.7.9 | とて、うち |
と、泣きながらおっしゃる。 |
浮舟の姫君はこう泣きながら頼むのであった。 |
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第八段 浮舟、出家す |
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| 4.8.1 | 「あやしく、かかる もののけもさこそ |
「不思議な、このような器量とお姿なのに、どうして身を厭わしく思い始めなさったのだろうか。 物の怪もそのように言っていたようだが」と思い合わせると、「何か深い事情があるのだろう。 今までも生きているはずもなかった人なのだ。 悪霊が目をつけ始めたので、とても恐ろしく危険なことだ」とお思いになって、 |
不思議なことである、人に優越した容姿を得ている人が、どうして世の中をいとわしく思うようになったのだろう、しかしいつか現われてきた |
【あやしく】- 以下「言ふなりしか」まで、僧都の心中の思い。「なり」伝聞推定の助動詞。 【さるやうこそはあらめ】- 大島本は「さるやうこそハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「さるやうこそ」と「は」を削除する。『新大系』は底本のまま「さるやうこそは」とする。以下「危ふきことなり」まで、僧都の心中の思い。 【生きたるべき人かは】- 反語表現。 |
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| 4.8.2 | 「とまれ、かくまれ、 |
「ともあれ、かくもあれ、ご決心しておっしゃるのを、三宝がたいそう尊くお誉めになることだ。 法師の身として反対申し上げるべきことでない。 御受戒は、実にたやすくお授けいたしましょうが、急ぎの用事で下山したので、今夜は、あちらの宮に参上しなければなりません。 明日から、御修法が始まる予定です。 その七日間の修法が終わって帰山する時に、お授け申しましょう」 |
「ともかくも思い立って望まれることは御仏の善行として最もおほめになることなのです。私自身僧であって反対などのできることではありません。尼の戒を授けるのは簡単なことですが、御所の急な御用で山を出て来て、今夜のうちに宮中へ出なければならないことになっていますからね、そして明日から |
【とまれ、かくまれ】- 以下「仕まつらむ」まで、僧都の詞。 【三宝】- 仏宝・法宝・僧宝。 【ことにあらず】- 大島本は「ことにあらす」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ことならず」と校訂する。『新大系』は底本のまま「ことにあらず」とする。 【急なることにまかんでたれば】- 大島本は「きふなることにまかんてたれハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「急なることにてまかでたれば」と校訂する。『新大系』は底本のまま「急なることにまかんでたれば」とする。 【七日果てて】- 七日間祈祷する一七日の御修法。 |
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| 4.8.3 | とおっしゃると、「あの尼君がおいでになったら、きっと反対するだろう」と、とても残念なので、 |
僧都はこう言った。尼夫人がこの家にいる時であれば必ずとめるに違いないと思うと、遂行が不可能になるのが残念に思われる浮舟の君は、 |
【かの尼君おはしなば、かならず言ひ妨げてむ】- 浮舟の心中の思い。 |
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| 4.8.4 | 「あの気分が悪かったときと同じようで、ひどく悪うございますので、重くなったら、受戒を授かってもその効がなくなりましょう。 やはり、今日は嬉しい機会だと存じられます」 |
「ただ病気のためにそういたしましたようになりましては効力が少のうございましょう。私はかなり |
【乱り心地の】- 以下「思ひはべれ」まで、浮舟の詞。 【思ひはべれ】- 大島本は「思ひ侍れ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思うたまへつれ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「思ひ侍れ」とする。 |
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| 4.8.5 | とて、いみじう |
と言って、ひどくお泣きになるので、聖心にもたいそう気の毒に思って、 |
と言って、姫君は非常に泣いた。単純な僧の心にはこれがたまらず哀れに思われて、 |
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| 4.8.6 | 「 |
「夜が更けてしまいましょう。 下山しますことは、昔は何とも存じませんでしたが、年をとるにつれて、つらく思われましたので、ひと休みして内裏へは参上しよう、と思いましたが、そのようにお急ぎになることならば、今日お授けいたしましょう」 |
「もう夜はだいぶふけたでしょう。山から下って来ることを、昔は何とも思わなかったものだが、年のいくにしたがって疲れがひどくなるものだから、休息をして御所へまいろうと私は思ったのだが、そんなにも早いことを望まれるのならさっそく戒を授けましょう」 |
【夜や更けはべりぬらむ】- 以下「仕うまつりてむ」まで、僧都の詞。 【おぼえたまはざりしを】- 大島本は「おほえ給ハさりしを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思うたまへられざりしを」と校訂する。『新大系』は底本のまま「おぼえ給はざりしを」とする。 【しか思し急ぐこと】- 主語は浮舟。出家を急ぐ意。 |
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| 4.8.7 | とのたまふに、いとうれしくなりぬ。 |
とおっしゃるので、とても嬉しくなった。 |
と言うのを聞いて浮舟はうれしくなった。 |
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| 4.8.8 | 鋏を取って、櫛の箱の蓋を差し出すと、 |
【鋏取りて】- 以下の動作の主体は浮舟。 |
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| 4.8.9 | 「どこですか、 大徳たち。こ |
「どこにいるかね、坊様たち。こちらへ来てくれ」 |
【いづら、大徳たち。ここに】- 僧都の詞。 |
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| 4.8.10 | と |
と呼ぶ。 最初にお見つけ申した二人がそのままお供していたので、呼び入れて、 |
僧都は |
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| 4.8.11 | 「お髪を下ろし申せ」 |
「髪をお切り申せ」 |
【御髪下ろしたてまつれ】- 僧都の詞。 |
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| 4.8.12 | と げに、いみじかりし |
と言う。 なるほど、あの大変であった方のご様子なので、「普通の人としては、この世に生きていらっしゃるのも嫌なことなのであろう」と、この阿闍梨も道理と思うので、几帳の帷子の隙間から、お髪を掻き出しなさったのが、たいそう惜しく美しいので、しばらくの間、鋏を持ったまま躊躇するのであった。 |
と言った。道理である、まれな |
【げに、いみじかりし人の】- 阿闍梨の感慨。発見当時を想起。 【うつし人にては】- 以下「こそあらめ」まで、阿闍梨の心中の思い。俗人のままでの生き方。 【御髪をかき出だしたまひつるが】- 大島本は「給つるか」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまへるが」と校訂する。『新大系』は底本のまま「給つるが」とする。 |
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第五章 浮舟の物語 浮舟、出家後の物語 |
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第一段 少将の尼、浮舟の出家に気も動転 |
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| 5.1.1 | このような間に、少将の尼は、兄の阿闍梨が来ていたのと会って、下の方にいた。 左衛門は、自分の知り合いに応対するということで、このような所ではと、みなそれぞれに、好意をもっている人たちが久しぶりにやって来たので、簡単なもてなしをし、あれこれ気を配っていたりしたところに、こもきただ一人が、「これこれです」と少将の尼に知らせたので、驚いて来て見ると、ご自分の法衣や、袈裟などを、形式ばかりとお着せ申して、 |
座敷でこのことのあるころ、少将の尼は、それも師の供をして下って来た兄の阿闍梨と話すために自室に行っていた。 |
【下にゐたり】- 自分の部屋にいた。 【あひしらふとて】- 大島本は「あいしらふとて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「あへしらふ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「あいしらふ」とする。 【かかる所にとりては】- 大島本は「とりてハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「つけては」と校訂する。『新大系』は底本のまま「とりては」とする。以下「しけるほど」まで、挿入句。補足説明的叙述。 【かかることなむ】- こもきの詞。浮舟が出家してしまった、という趣旨。 【わが御上の衣、袈裟など】- 僧都ご自身の法衣や袈裟を。 【ことさらばかりとて】- 僧都の法衣で形式的に間に合わせる。 |
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| 5.1.2 | 「親のいられる方角をお拝み申し上げなされ」 |
「お母様のおいでになるほうにと向かって拝みなさい」 |
【親の御方拝みたてまつりたまへ】- 僧都の詞。『完訳』は「出家に先立って、四恩(父母・国王・衆生・三宝)を拝する儀」と注す。 |
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| 5.1.3 | と |
と言うと、どの方角とも分からないので、堪えきれなくなって、泣いてしまわれなさった。 |
と言っていた。方角の見当もつかないことを思った時に、忍びかねて浮舟は泣き出した。 |
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| 5.1.4 | 「まあ、何と情けない。 どうして、このような早まったことをあそばしたのですか。 尼上が、お帰りあそばしたら、何とおっしゃることでしょう」 |
「まあなんとしたことでございますか。思慮の欠けたことをなさいます。奥様がお帰りになりましてどうこれをお言いになりましょう」 |
【あな、あさましや】- 以下「のたまはせむ」まで、少将尼の詞。 【帰りおはしては】- 大島本は「かへりおハしてハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「おはしましては」と「まし」を補訂する。『新大系』は底本のまま「おはしては」とする。 |
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| 5.1.5 | と言うが、これほど進んでしまったところで、とかく言って迷わせるのもよくないと思って、僧都が制止なさるので、近寄って妨げることもできない。 |
少将はこう言って止めようとするのであったが、信仰の境地に進み入ろうと一歩踏み出した人の心を騒がすことはよろしくないと思った僧都が制したために、少将もそばへ寄って妨げることはできなかった。 |
【かばかりにしそめつるを】- 『集成』は「これほどまでに出家の儀式に手をつけたのを、はたからとやかく言うのもおもしろくないと思って。僧都の気持」と注す。 【ものしと思ひて】- 主語は僧都。 【僧都諌めたまへば、寄りてもえ妨げず】- 僧都が少将尼を諌めたので尼は出家の儀式の進行を制止することができない。 |
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| 5.1.6 | 「 |
「流転三界中」 |
「 |
【流転三界中】- 僧都の詞。『集成』は「前(四恩を拝する儀)の礼拝に続いて、師僧がまず唱え、出家者に唱えさせる偈」と注す。逸経「清信士度人経」の偈。「諸経要集」「法苑殊林」に引かれる。 |
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| 5.1.7 | などと言うのにも、「既に断ち切ったものを」と思い出すのも、さすがに悲しいのであった。 お髪も削ぎかねて、 |
と教える言葉には、もうすでにすでに自分はそれから |
【断ち果ててしものを】- 浮舟の心中の思い。既に入水まで決意したことをさす。 |
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| 5.1.8 | 「ゆっくりと、尼君たちに、直していただきなさい」 |
「またあとでゆるりと尼君たちに直させてください」 |
【のどやかに、尼君たちして、直させたまへ】- 阿闍梨の詞。 |
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| 5.1.9 | と |
と言う。 額髪は僧都がお削ぎになる。 |
と言っていた。額髪の所は |
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| 5.1.10 | 「このようなご器量を剃髪なさって、後悔なさるなよ」 |
「この花の姿を捨てても後悔してはなりませんぞ」 |
【かかる御容貌やつしたまひて、悔いたまふな】- 僧都の詞。 |
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| 5.1.11 | などと、有り難いお言葉を説いて聞かせなさる。 「すぐにも許していただけそうもなく、皆が言い利かせていらしたことを、嬉しいことに果たしたこと」と、このことだけを生きている甲斐があったように思われなさるのであった。 |
などと言い、尊い御仏の御弟子の道を説き聞かせた。出家のことはそう簡単に行くものでないと尼君たちから言われていたことを、自分はこうもすみやかに済ませてもらった。生きた仏はかくのごとく効験を |
【尊きことども説き聞かせたまふ】- 三帰の功徳を説き十善戒を授ける。 【とみにせさすべくもあらず】- 大島本は「へくもあらす」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「べくもなく」と校訂する。『新大系』は底本のまま「べくもあらず」とする。以下「しつるかな」まで、浮舟の心中の思い。『完訳』は「以下、浮舟の心に即す」と注す。 【仏は生けるしるしありてと】- 大島本は「仏ハいけるしるしありてと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「生けるしるしありて」と「仏は」と「と」を削除する。『新大系』は底本のまま「仏は生けるしるしありてと」とする。 |
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第二段 浮舟、手習に心を託す |
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| 5.2.1 | 僧都一行の人びとが出て行って静かになった。 夜の風の音に、この人びとは、 |
僧都の一行の出て行ったあとはまたもとの静かな家になった。夜の風の鳴るのを聞きながら尼女房たちは、 |
【皆人びと】- 僧都の一行。 【この人びとは】- 少将尼たち女房ら。 |
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| 5.2.2 | 「 |
「心細いご生活も、もうしばらくの間のことだ。 すぐにとても素晴らしい良縁がおありになろう、と期待申していたお身の上を、このようになさって、生い先長いご将来を、どのようになさろうとするのだろうか。 老いて弱った人でさえ、今は最期と思われて、とても悲しい気がするものでございます」 |
「この心細い家にお住みになるのもしばらくの御 |
【心細き御住まひも】- 以下「悲しきわざにはべる」まで、女房の詞。 【今いとめでたくなりたまひなむ】- 『集成』は「やがてすばらしい良縁にお恵まれになりましょう」と注す。 |
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| 5.2.3 | と言って聞かせるが、「やはり、ただ今は、気が楽になって嬉しい。 この世に生きて行かねばならないと、考えずにすむようになったことは、とても結構なことだ」と、胸がほっとした気がなさるのであった。 |
なおも惜しんで言うのであったが、「私の心はこれで安静が得られてうれしいのですよ。人生と隔たってしまったのはいいことだと思います」こう浮舟は答えていて、はじめて胸の開けた気もした。 |
【なほ、ただ今は、心やすくうれし】- 『集成』は「浮舟の心を直叙したもの」と注す。 【世に経べきものとは】- 以下「いとめでたきことなれ」まで、浮舟の心中の思い。「世」は俗世の意。 【心地ぞ】- 大島本は「心ちそ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心地」と「ぞ」を削除する。『新大系』は底本のまま「心ちぞ」とする。 |
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| 5.2.4 | 翌朝は、何といっても人の認めない出家なので、尼姿を見せるのもとても恥ずかしく、髪の裾が、急にばらばらになったように、しかもだらしなく削がれているのを、「うるさいことを言わないで、繕ってくれる人がいたら」と、何事につけても、気がねされて、あたりをわざと暗くしていらっしゃる。 思っていることを人に詳しく説明するようなことは、もともと上手でない身なのに、まして親しく事の経緯を説明するにふさわしい人さえいないので、ただ硯に向かって、思い余る時は、手習いだけを、精一杯の仕事として、お書きになる。 |
翌朝になるとさすがにだれにも同意を求めずにしたことであったから、その人たちに変わった姿を見せるのは恥ずかしくてならぬように思う姫君であった。髪の |
【むつかしきことども言はで、つくろはむ人もがな】- 浮舟の心中の思い。 【暗うしなして】- あたりをわざと暗くして。 【人に言ひ続けむ】- 他人に詳しく話す。 【なつかしうことわるべき人さへなければ】- 『集成』は「親しくことを分けて話せる相手もいないことなので」。『完訳』は「親しく事の経緯を申し開きできる相手もいないので」と訳す。 【折には】- 大島本は「おりにハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「をりは」と「に」を削除する。『新大系』は底本のまま「おりには」とする。 【たけきこととは】- 大島本は「ことゝハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ことにて」と校訂する。『新大系』は底本のまま「こととは」とする。 |
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| 5.2.5 | 「死のうとわが身をも人をも思いながら 捨てた世をさらにまた捨てたのだ |
なきものに身をも人をも思ひつつ 捨ててし世をぞさらに捨てつる |
【なきものに身をも人をも思ひつつ--捨ててし世をぞさらに捨てつる】- 浮舟の独詠歌。「捨ててし」は入水の折。人間関係のいっさいを断つ決意。 |
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| 5.2.6 | 今は、こうしてすべてを終わりにしたのだ」 |
もうこれで終わったのである。 |
【今は、かくて限りつるぞかし】- 歌に続けた文。 |
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| 5.2.7 | と書いても、やはり、自然としみじみと御覧になる。 |
こんな文字を書いてみずから身にしむように見ていた。 |
【なほ、みづからいとあはれと見たまふ】- 『完訳』は「恩愛を断ち切ったとしながらも、なおも断ちきれぬ感情が去来する」と注す。 |
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| 5.2.8 | 「最期と思い決めた世の中を 繰り返し背くことになったわ」 |
限りぞと思ひなりにし世の中を かへすがへすもそむきぬるかな |
【限りぞと思ひなりにし世の中を--返す返すも背きぬるかな】- 浮舟の独詠歌。 |
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第三段 中将からの和歌に返歌す |
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| 5.3.1 | 同じような内容を、あれこれ気の向くまま書いていらっしゃるところに、中将からのお手紙がある。 何かと騒がしくあきれて動転しているときなので、「これこれしかじかの事でした」などと返事したのだった。 たいそうがっかりして、 |
こうした考えばかりが歌にも短文にもなって、筆を動かしている時に中将から手紙が来た。一家は |
【もの騒がしう呆れたる心地しあへるほどにて】- 女房たちは浮舟の出家で気が動転しているところ。 【かかること】- 浮舟が出家したこと。 【いとあへなしと思ひて】- 主語は中将。使者から浮舟の出家を聞いて。 |
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| 5.3.2 | 「このような考えが深くあった人だったので、ちょっとした返事も出すまいと、思い離れていたのだなあ。 それにしてもがっかりしたなあ。 たいそう美しく見えた髪を、はっきりと見せてくださいと、先夜も頼んだところ、適当な機会に、と言っていたものを」 |
宗教に傾いた心から自分の恋の言葉に少しの答えを与えることもし始めては煩いになると避けていたものらしい、それにしても惜しいことである。美しいように少し見た髪を、確かに見せてくれぬかと女房に先夜も頼むと、よい時にと約束をしてくれたのであったが |
【かかる心の】- 以下「言ひしものを」まで、中将の心中の思い。 【さるべからむ折に】- 『完訳』は「少将の尼も、折を見て浮舟に手引することを約束していたか」と注す。 |
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| 5.3.3 | と、いと |
と、たいそう残念で、すぐ折り返して、 |
と残念で、二度目の使いを出した。 |
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| 5.3.4 | 「 |
「何とも申し上げようのない気持ちは、 |
御 |
【聞こえむ方なきは】- 中将から浮舟への手紙。 |
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| 5.3.5 | 岸から遠くに漕ぎ離れて行く海人舟に わたしも乗り後れまいと急がれる気がします」 |
岸遠く 乗りおくれじと急がるるかな |
【岸遠く漕ぎ離るらむ海人舟に--乗り遅れじと急がるるかな】- 中将から浮舟への贈歌。「岸遠く」は此岸から彼岸へ、の意。「海人」「尼」の懸詞、「乗り」に「法」、「急ぐ」に「磯」を響かす。「岸」「漕ぐ」「海人舟」「乗り」縁語。 |
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| 5.3.6 | いつもと違って取って御覧になる。 何となくしみじみとした時に、これで終わりと思うのも感慨深いが、どのようにお思いなさったのだろう、とても粗末な紙の端に、 |
平生に変わって姫君はこの手紙を手に取って読んだ。もの哀れなふうに心のなっていた時であったから、書く気になったものか、ほんの紙の端に、 |
【例ならず取りて見たまふ】- 主語は浮舟。 【いかが思さるらむ】- 挿入句。語り手の推測。『完訳』は「これまで返歌を拒んできた浮舟が返歌を詠む理由を語り手も知らぬとする。実は、出家後の心の余裕がそうさせたのであろう」と注す。 |
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| 5.3.7 | 「心は厭わしい世の中を離れたが その行く方もわからず漂っている海人の浮木です」 |
こころこそ浮き世の岸を離るれど 行くへも知らぬあまの浮き木ぞ |
【心こそ憂き世の岸を離るれど--行方も知らぬ海人の浮木を】- 浮舟の返歌。「岸」「離る」「海人」の語句を用いて返す。「海人」「尼」の懸詞。 |
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| 5.3.8 | と、 |
と、いつもの、手習いなさっていたのを、包んで差し上げる。 |
と例の手習い書きにした。これを少将の尼は包んで中将へ送ることにした。 |
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| 5.3.9 | 「せめて書き写して」 |
「せめて清書でもしてあげてほしい」 |
【書き写してだにこそ】- 浮舟の詞。 |
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| 5.3.10 | とのたまへど、 |
とおっしゃるが、 |
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| 5.3.11 | 「かえって書き損じましょう」 |
「どういたしまして、かえって書きそこねたり悪くしてしまうだけでございます」 |
【なかなか書きそこなひはべりなむ】- 少将尼の詞。 |
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| 5.3.12 | とてやりつ。 めづらしきにも、 |
と言って送った。 珍しいにつけても、何とも言いようなく悲しく思われるのだった。 |
こんなことで中将の手もとへ来たのであった。恋しい人の珍しい返事が、うれしいとともに、今は取り返しのならぬ身にあの人はなったのであると悲しく思われた。 |
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| 5.3.13 | 物詣での人はお帰りになって、悲しみ驚きなさること、この上ない。 |
【物詣での人】- 妹尼。 |
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| 5.3.14 | 「このような尼の身としては、お勧め申すのこそが本来だ、と思っていますが、将来の長いお身の上を、どのようにお過ごしなさるのでしょうか。 わたしが、この世に生きておりますことは、今日、明日とも分からないのに、何とか安心してお残し申してゆこうと、いろいろと考えまして、仏様にもお祈り申し上げておりましたのに」 |
「私が尼になっているのですから、お勧めもすべきことだったとしいて思おうとしますが、若いあなたがこれからどうおなりになることでしょう。私はもう長くは生きていられない年で、 |
【かかる身にては】- 以下「祈りきこえつれ」まで、妹尼の詞。「かかる身」は妹尼君、尼の身としては、の意。 【見たてまつらむと】- 大島本は「見たてまつらむと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「見おきたてまつらむと」と「おき」を補訂する。『新大系』は底本のまま「見たてまつらむと」とする。 |
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| 5.3.15 | と、 |
と、泣き臥し倒れながら、ひどく悲しげに思っていらっしゃるので、実の母親が、あのまま亡骸さえないものよと、お嘆き悲しみなさったろうことが推量されるのが、まっさきにとても悲しかった。 いつものように、返事もしないで背を向けていらっしゃる様子、とても若々しくかわいらしいので、「とても頼りなくいらっしゃるお心だこと」と、泣きながら御法衣のことなど準備なさる。 |
と泣きまろんで悲しみに堪えぬふうの尼君を見ても、実母が |
【まことの親の】- 以下、浮舟の心中に即した叙述。 【推し量るるぞ】- 大島本は「おしはからるゝそ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「推しはかるぞ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「推しはからるるぞ」とする。 【いとものはかなくぞおはしける御心なれ】- 妹尼君の詞。『完訳』は「無謀の出家と惜しむ気持」と注す。 【御衣のことなど】- 浮舟の尼衣。 |
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| 5.3.16 | 鈍色の法衣は手馴れたことなので、小袿や、袈裟などを仕立てた。 仕えている女房たちも、このような色を縫ってお着せ申し上げるにつけても、「まことに思いがけず、嬉しい山里の光明だと、明け暮れ拝しておりましたものを、残念なことだわ」 |
【いとおぼえず】- 以下「わざかな」まで、女房たちの詞。 |
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| 5.3.17 | と、あたらしがりつつ、 |
と惜しがりながら、僧都を恨み非難するのであった。 |
と惜しがり、 |
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第四段 僧都、女一宮に伺候 |
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| 5.4.1 | 一品の宮のご病気は、なるほど、あの弟子が言っていたとおりに、はっきりした効験があって、ご平癒あそばしたので、ますますまことに尊い方だと大騒ぎする。 病後も油断ならないとして、御修法を延長させなさったので、すぐにも帰山することができず伺候なさっていたが、雨などが降って、ひっそりとした夜、お召しがあって、夜居に伺候させなさる。 |
【一品の宮の御悩み】- 明石中宮腹の女一宮の病気。 【いと尊きものに】- 僧都を。 【御修法延べさせたまへば】- 『集成』は「主として母の明石の中宮のお指図であろう」と注す。 【召して、夜居にさぶらはせたまふ】- 主語は明石中宮。「させ」使役の助動詞。僧都を。 |
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| 5.4.2 | 何日もの看病に疲れた女房は、みな休みをとって、御前には人少なで、近くに起きている女房も少ないときに、一品の宮と同じ御帳台においであそばして、 |
御病中の奉仕に疲れの出た人などは皆 |
【さぶらひ極じたる人】- 看病に伺候して疲れた女房たち。 【同じ御帳におはしまして】- 中宮が病気の女一宮の御帳台に一緒にいる意。 |
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| 5.4.3 | 「昔からご信頼申し上げていらっしゃる中でも、今度のことでは、ますます来世もこのように救ってくれるものと、頼もしさが一段と増しました」 |
「昔からずっとあなたに信頼を続けていましたが、その中でも今度見せてくださいましたお祈りの力によって、あなたさえいてくだされば |
【昔より】- 以下「まさりぬる」まで、中宮の詞。僧都への感謝の言葉。 【後の世もかくこそはと】- 来世もこのように救っていただき極楽往生も疑いない。 |
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| 5.4.4 | などのたまはす。 |
などと仰せになる。 |
こんなお言葉を賜わった。 |
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| 5.4.5 | 「 |
「この世に長く生きていられそうにないように、仏もお諭しになっていることどもがございます中で、今年、来年は、過ごしがたいようでございますので、仏を一心にお祈り申しっましょうと思って、深く籠もっておりましたが、このような仰せ言で、下山して参りました」 |
「もう私の |
【世の中に】- 以下「出ではべりにし」まで、僧都の詞。『完訳』は「仏のお告げで命終の時期を予知する話は、高僧伝などに多い。朝廷の召しにも容易に出仕しなかった言い訳でもある」と注す。 【過ぐしがたきやうになむはべれば】- 大島本は「侍れハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべりければ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「侍れば」とする。 |
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| 5.4.6 | など |
などと申し上げなさる。 |
などと僧都は申し上げていた。 |
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第五段 僧都、女一宮に宇治の出来事を語る |
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| 5.5.1 | 御物の怪の執念深いことや、いろいろと正体を明かすのが恐ろしいことなどをおっしゃるついでに、 |
お |
【執念きことを】- 大島本は「しふねきことを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「執念きこと」と「を」を削除する。『新大系』は底本のまま「執念きことを」とする。 【恐ろしきことなどのたまふついでに】- 主語は明石中宮。『集成』は「今度の経験から、自然に浮舟のことに話が及ぶ体」。『完訳』は「物の怪について話す中宮の言葉に、僧都は浮舟に憑いた物の怪を想起。浮舟紹介の契機」と注す。 |
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| 5.5.2 | 「まことに不思議な、珍しいことを拝見しました。 この三月に、年老いております母が、願があって初瀬に参詣しましたが、その帰りの休憩所に、宇治院といいます所に泊まりましたが、あのように、人が住まなくなって何年もたった大きな邸は、けしからぬものが必ず通い住んで、重病の者にとっては不都合なことが、と存じておりましたのも、そのとおりで」 |
「怪しい経験を私はいたしました。今年の三月に年をとりました母が願のことで初瀬へまいったのでございましたが、帰り |
【いとあやしう】- 以下「思ひたまへしもしるく」まで、僧都の詞。 【希有】- 「希有」漢語。男性用語。 【かくのごと】- 漢文訓読語。男性用語。 【病者】- 「病者」漢語。男性用語。 【悪しきことども、と】- 大島本は「あしき事ともと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「あしきことどもやと」と「や」を補訂する。『新大系』は底本のまま「あしき事どもと」とする。 |
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| 5.5.3 | とて、かの |
と言って、あの見つけた女のことなどをお話し申し上げなさる。 |
と、あの宇治で浮舟の姫君を発見した当時のことを申し上げた。 |
【かの見つけたりしことどもを】- 浮舟発見のこと。 |
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| 5.5.4 | 「なるほど、まことに珍しいこと」 |
「ほんとうに不思議なことがあるものね」 |
【げに、いとめづらかなることかな】- 中宮の詞。 |
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| 5.5.5 | とて、 おどろかさせたまふ |
と言って、近くに伺候する女房たちがみな眠っているので、恐ろしくお思いになって、お起こしあそばす。 大将が親しくなさっている宰相の君がおりしも、このことを聞いたのであった。 目を覚まさせた女房たちは、何の関心も示さない。 僧都は、恐がっておいであそばすご様子なので、「つまらないことを申し上げてしまった」と思って、詳しくその時のことを申し上げることは言い止めた。 |
と仰せになって、気味悪く思召す中宮は近くに眠っていた女房たちをお起こさせになった。大将と友人になっている宰相の君は初めからこの話を聞いていた。起こされた人たちには少しく話の筋がわからなかった。僧都は中宮が恐ろしく思召すふうであるのを知って、不謹慎なことを申し上げてしまったと思い、その夜のことだけは細説するのをやめた |
【宰相の君しも、このことを聞きけり】- 小宰相の君。「蜻蛉」巻に初出。女一宮づきの女房。『完訳』は「「しも」と強調される点に注意。薫にこの情報の伝わる可能性が拓けた」と注す。 【おどろかさせたまふ人びと】- 大島本は「おとろかさせ給」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「おどろかさせたまひける」と「ける」を補訂する。『新大系』は底本のまま「おどろかさせ給」とする。主語は中宮。後から起こした女房たち。 【懼ぢさせたまへる】- 明石中宮が。 【心もなきこと啓してけり】- 僧都の心中の思い。 |
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| 5.5.6 | 「その女人は、今度下山しました機会に、小野におります僧尼たちを訪ねようと思って、立ち寄ったところ、泣く泣く出家の念願の強い旨を、熱心に頼まれましたので、髪を下ろしてやりました。 |
「その女の人が今度のお召しに出仕いたします時、途中で小野に住んでおります母と妹の尼の所へ立ち寄りますと、出てまいりまして、私に泣く泣く出家の希望を述べて授戒を求めましたので落飾させてまいりました。 |
【その女人】- 以下「何人にかはべりけむ」まで、僧都の詞。「女人」漢語。男性用語。浮舟についていう。 【出家の志し】- 大島本は「出家の心さし」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「出家の本意」と校訂する。『新大系』は底本のまま「出家の心ざし」とする。 |
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| 5.5.7 | なにがしが げにぞ、 |
わたしの妹は、故衛門督の妻でございました尼で、亡くなった娘の代わりにと、思って喜びまして、随分大切にお世話しましたが、このように出家してしまったので、恨んでいるのでございます。 なるほど、器量はまことによく整って美しくて、勤行のため身をやつすのもお気の毒でございました。 どのような人であったのでしょうか」 |
私の妹で以前の |
【故衛門督の妻にはべりし尼】- 妹尼は故衛門監督の妻であった。 【随分に】- 「随分」漢語。男性用語。 【かくなりたれば】- 大島本は「なりたれハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「なりにたれば」と「に」を補訂する。『新大系』は底本のまま「なりたれば」とする。 【恨みはべるなり】- 自分拙僧を。「なり」伝聞推定の助動詞。 |
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| 5.5.8 | と、ものよく |
と、よくしゃべる僧都なので、話し続けて申し上げなさるので、 |
能弁な人であったから、あの長話を休まずすると、 |
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| 5.5.9 | 「どうして、そのような所に、身分のある人を連れて行ったのでしょうか。 いくら何でも、今では素性は知られたでしょう」 |
「どうしてそんな所へ美しいお姫様を取って行ったのでしょう」 |
【いかで、さる所に】- 大島本は「いかて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いかでか」と「か」を補訂する。『新大系』は底本のまま「いかで」とする。以下「知られぬらむ」まで、小宰相の君の詞。 |
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| 5.5.10 | など、この |
などと、この宰相の君が尋ねる。 |
宰相の君がこう尋ねた。 |
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| 5.5.11 | 「分かりません。 でもそのように、 ひそかに打ち明けているかも知れません。ほんとうに高貴な方ならば、ど うして、分からないままでいましょうか。田舎者の娘も、そ のような恰好をした者はございましょう。龍の中から、仏がお生 まれにならないことがございましょうか。普通の人としては、まことに前世の罪 |
「いや、それは知らない。あるいは妹の尼などに話しているかもしれません。実際に貴族の家の人であれば、行くえの知れなくなったことが |
【知らず。さもや】- 以下「人になむはべりける」まで、僧都の詞。 【語らひたまふらむ】- 大島本は「かたらひ給らん」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「語らひはべらん」と校訂する。『新大系』は底本のまま「語らひ給らん」とする。 【隠れもはべらじをや】- 分からないままではいまい。 【龍の中より、仏生まれたまはずはこそはべらめ】- 反語表現。挿入句。『法華経』「提婆達多品」にみえる龍女成仏の話。 |
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| 5.5.12 | など |
などと申し上げなさる。 |
などと僧都は言っていた。 |
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| 5.5.13 | そのころ、あの近辺で消えていなくなった人をお思い出しになる。 この御前に伺候する女房も、姉君の伝聞で、不思議に亡くなった人とは聞いていたので、「その人であろうか」とは思ったが、はっきりしないことである。 僧都も、 |
そのころに宇治で自殺したと言われている人を中宮は考えておいでになった。宰相の君も実家の姉の話に行くえを失ったと聞いた宇治の姫君のことが胸に浮かび、それではないかと思ったのであるが、 |
【かのわたりに消え失せにけむ人を】- 中宮は浮舟が行方不明になったという話を聞き知っている。「蜻蛉」巻にある。 【思し出づ】- 主語は明石中宮。 【この御前なる人も】- 「御前」は女一宮をさし、「人」は小宰相君。 【姉の君の伝へに】- 大島本は「あねの君」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「姉君」と「の」を削除する。『新大系』は底本のまま「姉の君」とする。小宰相君の姉から聞いて、の意。 【それにやあらむ】- 小宰相君の心中の思い。浮舟であろうかと思う。 |
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| 5.5.14 | 「あの人は、この世に生きていると知られまいと、よからぬ敵のような人でもいるようにほのめかして、こっそり隠れておりますのを、事の様子が異常なので、申し上げたのです」 |
「その人も生きていると人に知らせたくない、知れればよろしくないようなことを起こしそうな人のあるように、それとなく言っているふうなのでございますから、どこまでも秘密として私も黙しているべきでしたが、あまりに不思議な事実でございますからその点だけをお耳に入れましたわけでございます」 |
【かかる人、世にあるものと】- 大島本は「かゝる人」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「かの人」と校訂する。『新大系』は底本のまま「かかる人」とする。以下「啓しはべるなり」まで、僧都の詞。 |
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| 5.5.15 | と、何か隠している様子なので、誰にも話さない。 中宮は、 |
と言い、隠そうとするふうであったから宰相はだれにもそのことは言わなかった。中宮はこの人にだけ、 |
【なま隠すけしきなれば】- 小宰相君の目に映った僧都の態度。 |
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| 5.5.16 | 「その人であろうか。 大将に聞かせたい」 |
「僧都のした話は宇治の姫君のことらしい、大将に聞かせてやりたい」 |
【それにもこそあれ。大将に聞かせばや】- 明石中宮の詞。浮舟のことかと思う。 |
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| 5.5.17 | と、この人におっしゃったが、どちらの方も隠しておきたいはずのことを、確かにそうとも分からないうちに、気恥ずかしい方に、話し出すのも気がひけて思われなさって、そのままになった。 |
とお言いになったが、その人のためにも女のためにも恥として隠すはずであることを、決定的にそれとすることもできないままで人格の高い弟に言いだすのも恥ずかしいことであると思召されて沈黙しておいでになった。 |
【この人にぞ】- 小宰相君。 【いづ方にも】- 以下「つつましく」まで、中宮の心中の思い。末尾は自然地の文に流れる叙述。薫も浮舟も。 【恥づかしげなる人に】- 薫。 |
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第六段 僧都、山荘に立ち寄り山へ帰る |
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| 5.6.1 | 姫宮がすっかりよくおなりになったので、僧都も帰山なさった。 あちらにお寄りになると、ひどく恨んで、 |
姫宮が |
【僧都も登りぬ】- 大島本は「のほりぬ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「登りたまひぬ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「登りぬ」とする。 【かしこに】- 小野草庵。 |
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| 5.6.2 | 「かえって、このようなお姿になっては、罪障を受くることになりましょうに、ご相談もなさらずじまいだったとは、何ともおかしなこと」 |
「かえってこんなふうになっておしまいになっては、将来のことで、罪にならぬことも罪を得る結果になるでしょうのに、相談もしてくださらなかったのが不満足に思われてなりません」 |
【なかなか、かかる御ありさまにて】- 以下「いとあやしき」まで、妹尼君の詞。 【のたまひもあはせず】- 相談もせず。 【いとあやしき】- 『集成』は「ほんとにおかしなこと」。『完訳』は「ほんとに不都合なことです」と訳す。 |
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| 5.6.3 | などのたまへど、かひもなし。 |
などとおっしゃるが、どうにもならない。 |
と言ったが、もうかいのないことであった。 |
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| 5.6.4 | 「今はもう、ひたすらお勤めをなさいませ。 老人も、若い人も、生死は無常の世です。 はかないこの世とお悟りになっているのも、ごもっともなお身の上ですから」 |
「今後はもう仏のお勤めだけを専心になさい。老い人も若い人も無常の差のないのが人生ですよ。はかないものであるとお悟りになったのも、まして道理に思われるあなたですからね」 |
【今は、ただ】- 以下「御身をや」まで、僧都の詞。 【ことわりなる御身をや】- 『集成』は「意識もなく生死の境をさまよったことをいう」。『完訳』は「浮舟の物の怪に取り憑かれる運命を思い、出家を当然とする」と注す。 |
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| 5.6.5 | とのたまふにも、いと |
とおっしゃるにつけても、たいそう恥ずかしく思われるのであった。 |
この僧都の言葉も浮舟は恥ずかしく聞いた。宇治で発見された時からのことを思えばそれに違いないからである。 |
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| 5.6.6 | 「御法服を新しくなさい」 |
「法服を新しくなさい」 |
【御法服新しくしたまへ】- 僧都の詞。 |
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| 5.6.7 | とて、 |
と言って、綾、羅、絹などという物を、差し上げ置きなさる。 |
僧都はこう言って、御所からの賜わり物の |
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| 5.6.8 | 「拙僧が生きております間は、お世話いたしましょう。 何をご心配なさることがありましょう。 この世に生まれ来て、俗世の栄華を願い執着している限りは、不自由で世を捨てがたく、誰も彼もお思いのことのようです。 このような林の中でお勤めなさる身の上は、何事に不満を抱いたり引けめを感じることがありましょうか。 人の寿命は、葉の薄いようなものです」 |
「私の生きています間は、あなたに十分尽くします。何も心配することはありません。無常の世に生まれて人間の言う栄華にまとわれていては、これを自身のためにも人のためにも快く捨てることができなくなるものです。この寂しい林の中にお勤めの生活をしていては、何に恨めしさの起こることがありますか、何を恥ずかしく思うことをしますか、人間の命のある間は木の葉の薄さほどのものですよ」 |
【なにがしが】- 大島本は「なにかしか」とある。『完本』は諸本に従って「なにがし」と「が」を削除する。『集成』『新大系』は底本のまま「なにがしが」とする。以下「葉の薄きがごとし」まで、僧都の詞。 【所狭く捨てがたく】- 身の自由もきかずこの世を捨てがたい。出離しがたい。 【思すべかめることなめる】- 大島本は「おほすへかめることなめる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思すべかめる」と「めることな」を削除する。『新大系』は底本のまま「おぼすべかめることなめる」とする。 【何事かは--思すべき】- 反語表現。 【このあらむ命は、葉の薄きがごとし】- 『源氏釈』は「顔色は花の如く命は葉の如し、命葉の如くに薄きを将に奈如にせむ」(白氏文集、陵園妾)を指摘。 |
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| 5.6.9 | と |
と説教して、 |
こう説き聞かせて、 |
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| 5.6.10 | 「松の門に暁となって月が徘徊す」 |
「 |
【松門に暁到りて月徘徊す】- 僧都の詞。『源氏釈』は『白氏文集』「陵園妾」を指摘、前句の続き。 |
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| 5.6.11 | と、法師であるが、たいそう風流で気恥ずかしい態度におっしゃることどもを、「期待していたとおりにおっしゃってくださることだ」と聞いていた。 |
と僧であるが文学的の素養の豊かな人は添えて聞かせてもくれた。唐の詩で陵園を守る後宮人を歌ったものである。かねて願っていたようなよい師であると思って姫君は感激していた。 |
【思ふやうにも言ひ聞かせたまふかな】- 浮舟の心中の思い。 |
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第七段 中将、小野山荘に来訪 |
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| 5.7.1 | 今日は、一日中吹いている風の音もとても心細いうえに、お立ち寄りになった僧都も、 |
ある日風がひねもす吹きやまず、寂しい音が立っていたから、心細くなっている時に、来ていた僧の一人が、 |
【ひねもすに吹く風の音もいと心細きに】- 『河海抄』は「栢城尽日風蕭瑟たり」(白氏文集、陵園妾)を指摘。 【おはしたる人も】- 僧都。 |
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| 5.7.2 | 「ああ、山伏は、このような日には、声を出して泣けるということだ」 |
「 |
【あはれ、山伏は】- 以下「泣かるなるかし」まで、僧都の詞。 |
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| 5.7.3 | と言うのを聞いて、「わたしも今では山伏と同じである。 もっともなことで涙が止まらないのだ」と思いながら、端の方に立ち出て見ると、遥か遠く軒端から、狩衣姿が色とりどりに混じって見える。 山へ登って行く人だといっても、こちらの道は、行き来する人もたまにしかいないのである。 黒谷とかいう方面から歩いて来る法師の道だけが、まれには見られるが、俗世の人の姿を見つけたのは、場違いに珍しいが、あの恨みあぐねていた中将なのであった。 |
と言っているのを聞き、姫君は自分ももう山伏になったのである、だから涙がとまらないのであろうと思いながら、縁側に近い所へ出て外を見ると、軒の向こうの |
【我も今は】- 以下「涙なりけり」まで、浮舟の心中の思い。 【と思ひつつ】- 『完訳』は「このあたり、浮舟の心に密着した文体。浮舟にも僧都にも敬語がつかぬのは心境の直叙のためか」と注す。 【遥かなる軒端より】- 『集成』は「夢浮橋の「谷の軒端」と同義。谷のはずれというほどの意味であろう」。『完訳』は「軒端を通してはるかに遠望」と注す。 【こなたの道には】- 『完訳』は「小野を通って比叡山に登る道。険しい長谷出坂あたりか。途中で黒谷(西塔の北方)への道が分れる」と注す。 【例の姿】- 世俗人の姿。狩衣姿の一行。 |
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| 5.7.4 | かひなきことも 「ここに、いと |
今さら言ってもはじまらないことを言おうと思ってやって来たのだが、紅葉がたいそう美しく、他の紅葉よりいっそう色染めているのが色鮮やかなので、入って来るなり感慨深いのであった。 「ここに、とても屈託なさそうな人を見つけたら、奇妙な気がするだろう」などと思って、 |
もうかいのないこととしても、自分の心を告げておきたいと思って来たのであるが、 |
【他の紅に染めましたる色々なれば】- 『集成』は「他所の紅葉よりもひとしお美しく色づいたさまざまな色どりなので」と訳す。 【ここに】- 以下「おぼゆべき」まで、中将の心中の思い。『完訳』は「中将は物思う浮舟に魅了された」と注す。 |
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| 5.7.5 | 「暇があって、何もすることのない気がしましたので、紅葉もどのようなものかしらと存じまして。 やはり、昔に返って泊まって行きたい紅葉の木の下ですね」 |
「少し閑散になりまして、退屈なものですから、こちらの紅葉も見ごろになっていようと思って出かけて来ました。いつもここはいい所ですね。なつかしい一夜の宿が借りたくなる所です」 |
【暇ありて】- 以下「木の下にこそ」まで、中将の詞。 【立ち返りて】- 大島本は「立かへりて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「立ち返り」と「て」を削除する。『新大系』は底本のまま「立かへりて」とする。 |
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| 5.7.6 | とて、 |
と言って、外を見やっていらっしゃる。 尼君が、例によって、涙もろくて、 |
こう言って中将は庭をながめていた。感じやすい涙を持った尼君はもう泣いていた。 |
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| 5.7.7 | 「木枯らしが吹いた山の麓では もう姿を隠す場所さえありません」 |
木がらしの吹きにし山の 立ち隠るべき |
【木枯らしの吹きにし山の麓には--立ち隠すべき蔭だにぞなき】- 大島本は「かくす」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「隠る」と校訂する。『新大系』は底本のまま「かくす」とする。妹尼の中将への贈歌。『集成』は「浮舟も出家してしまったので、あなたをお泊めするすべもございません」と注す。 |
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| 5.7.8 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と言うと、 |
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| 5.7.9 | 「待っている人もいないと思う山里の 梢を見ながらもやはり素通りしにくいのです」 |
待つ人もあらじと思ふ山里の |
【待つ人もあらじと思ふ山里の--梢を見つつなほぞ過ぎ憂き】- 中将の返歌。「山」の語句を用いて返す。「あらじ」に「嵐」を響かす。 |
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| 5.7.10 | 言ってもはじまらないお方のことを、やはり諦めきれずにおっしゃって、 |
と中将は返しをした。尼になった人のことをまだあきらめきれぬように言い、 |
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| 5.7.11 | 「出家なさった姿を、少し見せよ」 |
「お変わりになった姿を少しだけのぞかせてください」 |
【さま変はり】- 以下「見せよ」まで、中将の詞。 |
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| 5.7.12 | と、 |
と、少将の尼におっしゃる。 |
と少将の尼に求めた。 |
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| 5.7.13 | 「せめてそれだけでも、以前の約束の証とせよ」 |
それだけのことでも約束してくれた義務としてしなければならぬ |
【それをだに、契りししるしにせよ】- 中将の詞。 |
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| 5.7.14 | と |
と責めなさるので、入って見ると、わざわざとでも人に見せてやりたいほどの美しいお姿をしていらっしゃる。 薄鈍色の綾、その下には萱草などの、澄んだ色を着て、とても小柄な感じで、姿形が美しく、はなやかなお顔だちで、髪は五重の扇を広げたように、豊かな裾である。 |
と責められて、少将が姫君の室へはいってみると、人に見せないのは惜しいような美しい |
【入りて見るに】- 主語は少将尼。 【ことさら人にも見せまほしきさまして】- 大島本は「ことさら人にも」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ことさらにも人に」と校訂する。『新大系』は底本のまま「ことさら人にも」とする。少将尼が浮舟を見た印象。 【薄き鈍色】- 大島本は「うすきにひ色」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「薄鈍色」と「き」を削除する。『新大系』は底本のまま「薄き鈍色」とする。 【五重の扇を】- 桧扇は七、八枚の薄板からなる。それを五組重ねた扇。「花宴」巻に「桜の三重がさね」の桧扇が出てくる。 |
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| 5.7.15 | こまやかに美しい顔だちで、化粧をたいそうしたように、明るくかがやいていた。 お勤めなどをなさるにも、やはり数珠は近くの几帳にちょっと懸けて、お経を一心に読んでいらっしゃる様子は、絵にも描きたいほどである。 |
濃厚に化粧をした顔のように素顔も見えてほの赤くにおわしいのである。仏勤めはするのであるがまだ |
【数珠は近き几帳にうち懸けて】- 『集成』は「常に手にしているはずの数珠を手離しているのは、まだ初心のさまをいうのであろう」と注す。 |
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| 5.7.16 | ちらっと見るたびに涙が止めがたい気がするのを、「まして懸想をなさっている男は、どのように拝見なさっていようか」と思って、ちょうどよい機会だったのか、障子の掛金の側に開いている穴を教えて、邪魔になる几帳などを取り除けた。 |
少将は自身でも見るたびに涙のとどめがたい姫君の姿を、恋する男の目にはどう映るであろうと思い、よいおりでもあったのか |
【うち見るごとに】- 主語は少将尼。少将尼が浮舟を。 【まいて心かけたまはむ男は】- 以下「たてまつりたまはむ」まで、少将尼の心中の思い。 【さるべき折にやありけむ】- 挿入句。語り手の想像を交えた叙述。 【押しやりたり】- 大島本は「おしやりたり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「引きやりたり」と校訂する。『新大系』は底本のまま「押しやりたり」とする。 |
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| 5.7.17 | 「とてもこれほど美しい人だとは思わなかった。 ひどく物思いに沈んでいるような人であったが」と、自分が出家させた過ちのように、惜しく悔しく悲しいので、抑えることもできず、気も狂わんばかりの、気持ちを感づかれては困るので、引き下がった。 |
これほどの美貌の人とは想像もしなかった、自分の理想に合致した麗人であったものをと思うと、尼にさせてしまったことが自身の過失であったように残念にくちおしく思われる心を、これをよくおさえることができなくっては、静かにすべき |
【いとかくは】- 以下「さまなりける人を」まで、中将の浮舟を見た感想。 【我がしたらむ過ちのやうに】- 『完訳』は「浮舟の出家が自分の犯した過ちででもあるかのように」と注す。 【もの狂はしきまで】- 大島本は「物くるハしき」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「もの狂ほしき」と校訂する。『新大系』は底本のまま「物ぐるはしき」とする。 |
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第八段 中将、浮舟に和歌を贈って帰る |
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| 5.8.1 | 「かばかりのさましたる また、その |
「これほどの器量をした人を失って、探さない人があったりしようか。 また、誰それの人の娘が、行く方知れずに見えなくなったとか、もしくは何か恨んで、出家してしまったなど、自然と知れてしまうものだが」などと、不思議と繰り返し思う。 |
こんな美女を失った人が捜さずに済ませる法があろうか、まただれそれ、だれの娘の行くえが知れぬとか、または人を |
【かばかりの】- 以下「隠れなかるべきを」まで、中将の心中の思い。 |
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| 5.8.2 | 「尼であっても、このような様子をしたような人は嫌な感じもするまい」などと、「かえって一段と見栄えがしてお気の毒なはずが、人目を忍んでいる様子なので、やはり自分の物にしてしまおう」と思うと、真剣に話しかける。 |
尼になってもこんな美しい人は決して愛人にして |
【尼なりとも】- 以下「おぼえじ」まで、中将の心中の思い。 【なかなか見所まさりて】- 以下「語らひとりてむ」まで、中将の心中の思い。 【まめやかに語らふ】- 中将が妹尼君に。 |
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| 5.8.3 | 「 さやうに |
「普通の人の時にはご遠慮なさることもあったでしょうが、このような尼姿におなりになっては、気がねなく申し上げられそうでございます。 そのようにお諭し申し上げてください。 過去のことが忘れがたくて、このようにやって参ったのですが、さらにまた、もう一つの気持ちも加わりまして」 |
「俗の人でおいでになった間は、私と御交際くださるにもいろいろさしさわりがあったでしょうが、落飾されたあとでは気楽につきあっていただける気がします。そんなふうにあなたからもお話しになっておいてください。昔のことが忘られないために、こんなふうに御訪問をしていますが、またもう一つ友情というものを持ち合う相手がふえれば幸福になりうるでしょう」 |
【世の常のさまには】- 以下「心ざしを添へてこそ」まで、中将の詞。 【来し方の忘れがたくて】- 亡き妻のこと。 【今一つ心ざしを添へてこそ】- 浮舟のこと。 |
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| 5.8.4 | などのたまふ。 |
などとおっしゃる。 |
などと言った。 |
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| 5.8.5 | 「まことに将来が心細く、不安な様子でございますので、真剣な態度でお忘れにならずお訪ねくださることは、とても嬉しく、存じておきましょう。 亡くなりました後は、不憫に存じられましょう」 |
「将来がどうなるかと心細く、気がかりでなりませんのに、厚い御友情でお世話をくださる方があるのはうれしいことでございます。亡くなりましたあとのこともそう承って安心されます」 |
【いと行く末】- 以下「思ひたまへらるべき」まで、妹尼君の詞。 【ありさまにはべるに】- 大島本は「侍に」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべるめるに」と「める」を補訂する。『新大系』は底本のまま「侍に」とする。 【はべらざらむ後】- 自分が亡くなってのち。 【あはれに思ひたまへらるべき】- 浮舟の身の上を。 |
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| 5.8.6 | と言って、お泣きになるので、「この尼君も遠縁に当たる人なのであろう。 誰なのだろう」と思い当たらない。 |
と言って尼君は泣くのであった。こんな様子を見せるのはよほど濃い尼君の血族に違いないがだれであろうと中将はなおいぶかしがった。 |
【この尼君も】- 以下「誰れならむ」まで、中将の心中の思い。浮舟と尼君を遠い縁戚関係かと思う。 |
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| 5.8.7 | 「 さやうのことのおぼつかなきになむ、 |
「将来のご後見は、寿命も分からず頼りない身ですが、このように申し上げました以上は、けっして変わりません。 お探し申し上げなさるはずの方は、本当にいらっしゃらないのですか。 そのようなことがはっきりしませんので、気がねすべきことでもございませんが、やはり水くさい気がしてなりません」 |
「将来のお世話は命も |
【行く末の御後見は】- 以下「心地しはべるべき」まで、中将の詞。 【さ聞こえそめはべるなれば】- 大島本は「侍なれハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべりなば」と校訂する。『新大系』は底本のまま「侍なれば」とする。 【尋ねきこえたまふべき人は】- 浮舟を捜し出す人。『集成』は「浮舟のもとの男。浮舟を尼君の縁類と見ているので、敬語を使う」と注す。 【憚るべきことにははべらねど】- 『完訳』は「色恋なしの後援なら、何も気がねせずともよいが、の気持」と注す。 |
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| 5.8.8 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
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| 5.8.9 | 「人に知られるような恰好で、暮らしていらっしゃったら、もしや探し出す人もございましょう。 今は、このような生活を、決意した様子です。 気持ちの向きも、そのようにばかり見えます」 |
「普通の形でおいでになれば、いつまたそんな人が来られるかもしれませんが、もう |
【人に知らるべきさまにて】- 以下「見えはべりつるを」まで、妹尼君の詞。『完訳』は「もしも浮舟が都の人と接触するように暮しているのなら、の意」と注す。 【思ひきりつる】- 大島本は「思きりつる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思ひかぎりつる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「思きりつる」とする。 【見えはべりつるを】- 大島本は「侍つるを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべるを」と校訂する。『新大系』は底本のまま「侍つるを」とする。 |
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| 5.8.10 | など |
などとお話しになる。 |
こんなふうに話し合った。 |
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| 5.8.11 | こなたにも |
こちらにも言葉をお掛けになった。 |
中将は姫君のほうへも次の歌を書いて送るのであった。 |
【こなたにも】- 浮舟をさす。 |
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| 5.8.12 | 「一般の俗世間をお捨てになったあなた様ですが わたしをお厭いなさるのにつけ、 |
おほかたの世をそむきける君なれど |
【おほかたの世を背きける君なれど--厭ふによせて身こそつらけれ】- 中将の浮舟への贈歌。 |
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| 5.8.13 | 心をこめて親切に申し上げなさることなどを、たくさん取り次ぐ。 |
誠意をもって将来までも力になろうと言っていることなども尼君は伝えた。 |
【言ひ伝ふ】- 大島本は「いひつたふ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「多く言ひ伝ふ」と「多く」を補訂する。『新大系』は底本のまま「言ひ伝ふ」とする。 |
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| 5.8.14 | 「兄弟とお考えください。 ちょっとした世間話なども申し上げて、お慰めしましょう」 |
「兄弟だと思っておいでなさいよ。人生のはかなさなどを話し合ってみれば慰みになるでしょう」 |
【兄妹と】- 以下「慰めむ」まで、中将の詞。 |
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| 5.8.15 | など |
などと言い続ける。 |
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| 5.8.16 | 「むつかしいお話など、分かるはずもないのが残念です」 |
「見識のある方のお話などを伺っても、私にはよく理解できないのが残念でございます」 |
【心深からむ】- 以下「口惜しけれ」まで、浮舟の詞。 |
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| 5.8.17 | と答えて、この嫌っているということへの返事はなさらない。 「思いもかけなかった情ないことのあった身の上なので、ほんとうに厭わしい。 まったく枯木などのようになって、世間から忘れられて終わりたい」とおあしらいになる。 |
とだけ言っても、世を |
【思ひよらず】- 以下「見捨てられて止みなむ」まで、浮舟の心中。『完訳』は「以下、浮舟の心中に即す」と注す。 【あさましきこともありし身なれば】- 『集成』は「匂宮とのこと」。『完訳』は「過往の薫・匂宮との三角関係をさす」と注す。 |
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| 5.8.18 | されば、 |
だから、今まで鬱々とふさぎこんで、物思いばかりしていらしたのも、出家の念願がお叶いになって後は、少し気分が晴れ晴れとして、尼君とちょっと冗談を言い交わし、碁を打ったりなどして、毎日お暮らしになっている。 お勤めも実に熱心に行って、法華経は言うまでもない。 他の教典なども、とてもたくさんお読みになる。 雪が深く降り積もって、人目もなくなったころは、ほんとうに心のやりばがなかった。 |
そうした気持ちから、今までは |
【本意のことしたまひてより、後】- 大島本は「し給てよりのち」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「したまひて後より」と校訂する。『新大系』は底本のまま「し給てよりのち」とする。 【雪深く降り積み、人目絶えたるころぞ】- 小野は雪深い土地。『伊勢物語』第八十三段。(松門到暁月徘徊 柏城尽日風蕭瑟(松門に暁到りて月徘徊す 柏城に尽日風蕭瑟たり)(白氏文集巻四-一六一「陵園妻」):text53.html 出典23から転載) 【げに思ひやる方なかりける】- 『岷江入楚』は「白雪の降りて積れる山里は住む人さへや思ひ消ゆらむ(古今集冬、三二八、壬生忠岑)」を指摘。 |
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第六章 浮舟の物語 薫、浮舟生存を聞き知る |
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第一段 新年、浮舟と尼君、和歌を詠み交す |
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| 6.1.1 | 年が改まった。 春の兆しも見えず、氷が張りつめた川の水が音を立てないのまでが心細くて、「あなたに迷っています」とおっしゃった方は、嫌だとすっかり思い捨てていたが、やはりその当時のことなどは忘れなていない。 |
年が明けた。しかし小野の |
【凍りわたれる水の音せぬさへ心細くて】- 『完訳』は「浮舟の荒涼たる心象」と注す。 【君にぞ惑ふ」とのたまひし人は】- 宇治川の対岸で過ごした匂宮との思い出。 |
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| 6.1.2 | 「降りしきる野山の雪を眺めていても 昔のことが今日も悲しく思い出される」 |
かきくらす野山の雪をながめても ふりにしことぞ今日も悲しき |
【かきくらす野山の雪を眺めても--降りにしことぞ今日も悲しき】- 浮舟の独詠歌。「降り」「古り」懸詞。『完訳』は「空を暗くして降る野山の雪に、捨て切れぬ過往の執着の悲しみを自覚」と注す。 |
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| 6.1.3 | などと、いつもの、慰めの手習いを、お勤めの合間になさる。 「わたしがいなくなって、年も変わったが、思い出す人もきっといるだろう」などと、思い出す時も多かった。 若菜を粗末な籠に入れて、人が持って来たのを、尼君が見て、 |
などと書いたりする手習いは仏勤めの合い間に今もしていた。自分のいなくなった春から次の春に移ったことで、自分を思い出している人もあろうなどと去年の思い出されることが多かった。そまつな |
【我世になくて年隔たりぬるを、思ひ出づる人もあらむかし】- 浮舟の心中の思い。 |
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| 6.1.4 | 「山里の雪の間に生えた若菜を摘み祝っては やはりあなたの将来が期待されます」 |
山里の雪間の若菜摘みはやしなほ |
【山里の雪間の若菜摘みはやし--なほ生ひ先の頼まるるかな】- 妹尼君の浮舟への贈歌。「摘み」「積み」懸詞。 |
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| 6.1.5 | とて、こなたにたてまつれたまへりければ、 |
と言って、こちらに差し上げなさったので、 |
という歌を添えて姫君の所へ尼君は持たせてよこした。 |
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| 6.1.6 | 「雪の深い野辺の若菜も今日からは あなた様のために長寿を祈って摘みましょう」 |
雪深き野べの若菜も今よりは 君がためにぞ年もつむべき |
【雪深き野辺の若菜も今よりは--君がためにぞ年も摘むべき】- 浮舟の返歌。「雪」「若菜」「摘む」の語句を用いて返す。『評釈』は「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣でに雪は降りつつ」(古今集春上、二一、光孝天皇)を指摘。 |
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| 6.1.7 | とあるのを、「きっとそのようにお思いであろう」と感慨深くなるのも、「これがお世話しがいのあるお姿と思えたら」と、本気でお泣きになる。 |
と書いて来た返しを見て、実感であろうと哀れに思うのであった。尼姫君などでなく、宝とも花とも見て大事にしたかった人であるのにと真心から尼君は悲しがって泣いた。 |
【さぞ思すらむ】- 妹尼君の心中。 【あはれなるにも】- 『集成』は「不憫に思われるにつけても」。『完訳』は「しみじみといたわしくなるにつけても」と訳す。 【見るかひあるべき御さまと思はましかば】- 妹尼君の心中の思い。反実仮想の構文。浮舟の出家姿を悔やむ。 |
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| 6.1.8 | 寝室の近くの紅梅が色も香も昔と変わらないのを、「春や昔の」と、他の花よりもこの花に愛着を感じるのは、はかなかった宮のことが忘れられなかったからあろうか。 後夜に閼伽を奉りなさる。 身分の低い尼で少し若いのがいるのを、呼び出して折らせると、恨みがましく散るにつけて、ますます匂って来るので、 |
寝室の縁に近い紅梅の色の香も昔の花に変わらぬ木を、ことさら姫君が愛しているのは「春や昔の」(春ならぬわが身一つはもとの身にして)と忍ばれることがあるからであろう。御仏に |
【春や昔の」と】- 『源氏釈』は「月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして」(古今集恋五、七四七、在原業平・伊勢物語、四段)を指摘。 【飽かざりし匂ひのしみにけるにや】- 『異本紫明抄』は「飽かざりし君が匂ひの恋しさに梅の花をぞ今朝は折りつる」(拾遺集雑春、一〇〇五、具平親王)を指摘。『湖月抄』は「地」と指摘。『集成』は「はかない逢瀬だった匂宮のことが忘れられないのだろうか。浮舟の心事を忖度する体の草子地」と注す。 【閼伽奉らせたまふ】- 「せ」使役の助動詞。下文の下臈の尼に花を折らせたことと一連の叙述。 【かことがましく散るに】- 浮舟の感情移入による叙述。接続助詞「に」--の一方で、というニュアンス。 |
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| 6.1.9 | 「袖を触れ合った人の姿は見えないが、 花の香があの人の香と同じように |
袖ふれし人こそ見えね花の香の それかとにほふ春のあけぼの |
【袖触れし人こそ見えね花の香の--それかと匂ふ春のあけぼの】- 浮舟の独詠歌。『全書』は「色よりも香こそあはれと思ほゆれたが袖触れし宿の梅ぞも」(古今集春上、三三、読人しらず)を指摘。匂宮を思い出す。 |
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第二段 大尼君の孫、紀伊守、山荘に来訪 |
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| 6.2.1 | 大尼君の孫で紀伊守であった者が、このころ上京して来た。 三十歳ほどで、容貌も美しげで誇らしい様子をしていた。 |
大尼君の孫で |
【孫の紀伊守なりける】- 大島本は「きのかみなりける」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「紀伊守なりけるが」と「が」を補訂する。『新大系』は底本のまま「紀伊守なりける」とする。大尼君の孫、妹尼君の甥。 |
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| 6.2.2 | 「いかがでしたか、去年や、一昨年は」 |
大尼君の所で去年のこととか、 |
【何ごとか、去年、一昨年】- 紀伊守の詞。 |
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| 6.2.3 | などとお尋ねになるが、耄碌した様子なので、こちらに来て、 |
ぼけてしまったふうであったから、そこを辞して |
【こなたに来て】- 妹尼の部屋。浮舟も同居。 |
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| 6.2.4 | 「いとこよなくこそ、ひがみたまひにけれ。 あはれにもはべるかな。 |
「とてもすっかり、耄碌しておしまいになった。 お気の毒なことですね。 残り少ないご様子を、拝し上げることもむずかしくて、遠い所で年月を過ごしておりますことよ。 両親がお亡くなりになって以後は、祖母お一方を、親代わりにお思い申し上げておりました。 常陸介の北の方は、お便り差し上げなさいますか」 |
「非常に老いぼれておしまいになりましたね。気の毒ですね。御老体のお世話をすることもできずに遠い国で年を送っていますのは相済まぬことだと思っているのですよ。両親のいなくなりましてからは、お |
【いとこよなくこそ】- 以下「訪れきこえたまふや」まで、紀伊守の詞。 【遠きほどに年月を過ぐしはべるよ】- 紀伊守として赴任していたことをさす。 【親たちものしたまはで】- 紀伊守の両親。ともに死去。大尼君の子。 【一所をこそ、御代はりに】- 大尼君を親代わりに。 【常陸の北の方は】- 紀伊守の妹、常陸介の妻となっている。浮舟の継父の常陸介とは別人。 |
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| 6.2.5 | と言うのは、その妹なのであろう。 |
と言うのはこの人の女の兄弟のことらしい。 |
【と言ふは、いもうとなるべし】- 浮舟の耳を通しての叙述。 |
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| 6.2.6 | 「年月のたつにつれて、することもないままに悲しいことばかりが増えて。 常陸は、長いことお便り申し上げなさらないようです。 お待ち申し上げることもできないようにお見えになります」 |
「歳月がたつにしたがって周囲が寂しくなりますよ。常陸は久しく手紙をよこしませんよ。上京するまでお |
【年月に添へては】- 以下「見えたまふ」まで、妹尼君の詞。 【久しう訪れ】- 大島本は「ひさしう」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いと久しく」と「いと」を補訂する。『新大系』は底本のまま「久しう」とする。 【え待ちつけたまふまじきさまに】- 『完訳』は「守の北の方の帰京を待てずに母尼が死ぬのではないかと危ぶむ」と注す。 |
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| 6.2.7 | とおっしゃるので、「自分の親の名前だ」と、無関係ながらも耳にとまったが、また言うことには、 |
浮舟の姫君は自身の親と同じ名の呼ばれていることにわけもなく耳がとまるのであったが、また客が、 |
【わが親の名」と】- 浮舟の心中。継父は常陸介、同じ呼び名。 |
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| 6.2.8 | 「まかり |
「上京して何日にもなりましたが、公務がたいそう忙しくて、面倒なことばかりにかかずらっておりまして。 昨日もお伺いしようと存じておりましたのに、右大将殿が宇治へお出かけになるお供にお仕えしまして、故八の宮がお住まいになっていた所にいらして、一日中お過ごしになりました。 |
「京へ出てまいってもすぐに伺えませんでした。地方官としてこちらでする仕事がたくさんでめんどうなことも中にはあるのです。それに |
【まかり上りて】- 以下「急ぎせさせはべりなむ」まで、紀伊守の詞。 【右大将殿の】- 薫。 【故八の宮の住みたまひし】- 故宇治八宮の邸。 |
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| 6.2.9 | その |
故宮の娘にお通いになっていたが、まずお一方は先年お亡くなりになりました。 その妹に、再びこっそりと住まわせ申していらしたが、去年の春またお亡くなりになったので、その一周忌のご法事をあそばしますことを、あの寺の律師に、しかるべき事柄をお命じになって、わたしも、その女装束一領を、調製しなければならないのですが、こちらで作ってくださいませんでしょうか。 織る材料は、急いで準備させましょう」 |
宮の姫君の所へ通っておられたのですが、最初の方は前にお |
【故宮の御女に通ひたまひしを】- 故大君。 【その御おとうと】- 浮舟をさす。 【なにがしも】- 自称、紀伊守。 【せさせたまひてむや】- 妹尼君に調製を依頼。 |
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| 6.2.10 | と言うのを聞くと、どうして胸を打たないことがあろう。 「人が変だと見るだろう」と気がひけて、奥の方を向いて座っていた。 尼君が、 |
こう言うのを姫君が聞いていて身にしまぬわけもない、人に不審を起こさせまいと奥のほうに向いていた。尼君が、 |
【いかでかあはれならざらむ】- 大島本は「いかてか」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いかでかは」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のまま「いかでか」とする。挿入句。語り手の浮舟の心中を忖度。 【人やあやしと見む】- 浮舟の心中の思い。 |
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| 6.2.11 | 「あの聖の親王の姫君は、お二方と聞いていたが、兵部卿宮の北の方は、どちらですか」 |
「あの |
【かの聖の親王の】- 以下「いづれぞ」まで、妹尼君の詞。 |
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| 6.2.12 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と問うた。 |
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| 6.2.13 | 「この大将殿の二人目の方は、妾腹なのでしょう。 特に表立った扱いをしなかったのですが、ひどくお悲しみになっているのです。 最初の方は、また大変なお悲しみようでした。 もう少しのところで出家なさってしまいそうなところでした」 |
「大将さんのあとのほうの御愛人は八の宮の庶子でいらっしゃったのでしょう。正当な奥様という待遇はしておいでにならなかったのですが、今では非常に悲しがっておいでになります。初めの方にお別れになった時もたいへんで、もう少しで出家もされるところでした」 |
【この大将殿の】- 以下「したまひつべかりきかし」まで、紀伊守の詞。 【初めのはた】- 大君の死去に際しては。 |
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| 6.2.14 | など |
などと話す。 |
こんなことも語っている。 |
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第三段 浮舟、薫の噂など漏れ聞く |
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| 6.3.1 | 「あの方の親しい人であった」と見るにつけても、やはり恐ろしい。 |
大将の家来の一人であるらしいと思うと、さすがに恐ろしく思われる姫君であった。 |
【かのわたりの親しき人なりけり】- 浮舟の心中。紀伊守を薫の家来と知る。 【さすが恐ろし】- 『完訳』は「薫には知られぬとは思うが、やはり恐ろしい」と注す。 |
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| 6.3.2 | 「不思議と、二人も同じように、あそこでお亡くなりなったことだ。 昨日も、たいそうおいたわしゅうございました。 宇治川に近い所で、川の水を覗き込みなさって、ひどくお泣きになった。 上の部屋にお上りになって、柱にお書きつけなさった、 |
「しかもお二人とも同じ宇治でお |
【あやしく】- 以下「過ぐしはべりぬる」まで、紀伊守の詞。 【昨日も、いと不便にはべりしかな】- 『集成』は「薫の取り乱しようを言う」と注す。 【上にのぼりたまひて】- 宇治の邸の上の部屋。 |
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| 6.3.3 | あの人は跡形もとどめず、 身を投げたその川の面にいっしょに落ちるわたしの涙が |
見し人は影もとまらぬ水の上に 落ち添ふ涙いとどせきあへず |
【見し人は影も止まらぬ水の上に--落ち添ふ涙いとどせきあへず】- 薫の独詠歌。「涙」に「波」を響かす。「影」「水」「波」縁語。 |
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| 6.3.4 | とございました。 言葉に現しておっしゃることは少ないが、ただ、態度には、まことにおいたわしいご様子にお見えでした。 女は、たいそう賞賛するにちがいないほどでした。 若うございました時から、ご立派でいらっしゃるとすっかり拝見していましたので、世の中の第一の権力者のところも、何とも思いませんで、ただ、この殿だけを信頼申し上げて、過ごして参りました」 |
というのでした。口にはあまりお出しにならない方ですが、御様子でお悲しいことがよくうかがえるのです。女だったらどんなに心が |
【女は、いみじくめでたてまつりぬべくなむ】- 『完訳』は「女なら誰しも、薫の心やさしさを賞讃するに違いないとする」と注す。 【若くはべりし時より】- 主語は紀伊守。自分の体験をいう。 【優におはします】- 大島本は「おハします」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「おはす」と校訂する。『新大系』は底本のまま「おはします」とする。 【世の中の一の所も】- 当代の最高権力者。夕霧をさすか。 【頼みきこえて】- 大島本は「たのミきこえて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「頼みきこえさせて」と「させ」を補訂する。『新大系』は底本のまま「頼みきこえて」とする。 |
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| 6.3.5 | と話すので、「特別に深い思慮もなさそうなこのような人でさえ、ご様子はお分かりになったのだ」と思う。 尼君は、 |
この話を聞いていて、高い見識を備えたというのでもないこうした人さえ |
【ことに深き】- 以下「見知りにけり」まで、浮舟の心中の思い。『完訳』は「主人の秘密まで軽率に言う様子から、浮舟が守をも評す」と注す。 |
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| 6.3.6 | 「光る君と申し上げた故院のご様子には、お並びになることはできまいと思われますが、ただ今の世で、この一族が賞賛されているそうですね。 右の大殿とはどうですか」 |
「それでも、光源氏と初めはお言われになったお父様の六条院の御容姿にはかなうまいと思うがねえ。まあ何にもせよ現在の世の中でほめたたえられる方というのは六条院の御子孫に限られてますね。まず左大臣」 |
【光君と聞こえけむ】- 以下「右の大殿と」まで、妹尼君の詞。 【並びたまはじ】- 大島本は「ならひ給ハし」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「え並びたまはじ」と「え」を補訂する。『新大系』は底本のまま「並び給はじ」とする。 |
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| 6.3.7 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
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| 6.3.8 | 「あの方は、器量もまことに凛々しく美しくて、貫祿があって、身分が格別なようでいらっしゃいます。 兵部卿宮が、たいそう美しくいらっしゃいますね。 女の身として親しくお仕えいたしたい、と思われます」 |
「そうです。御容貌がりっぱでおきれいで、いかにも重臣らしい |
【それは、容貌も】- 以下「なむおぼえはべる」まで、紀伊守の詞。 【けうらに】- 大島本は「けうらに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「きよらに」と校訂する。『新大系』は底本のまま「けうらに」とする。 |
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| 6.3.9 | などと、誰かが教えたように言い続ける。 感慨深く興味深くも聞くにつけ、わが身の上もこの世のことと思われない。 すっかり話しおいて出て行った。 |
などと今の世間を多く知らぬ |
【教へたらむやうに】- 『集成』は「誰かが(浮舟に聞かせるように)教えたかのようにしゃべり続ける」と注す。 【身の上も】- 浮舟自身の身の上。 【語りおきて出でぬ】- 主語は紀伊守。 |
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第四段 浮舟、尼君と語り交す |
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| 6.4.1 | 「 かの |
「お忘れになっていないのだ」としみじみと思うが、ますます母君のご心中が推し量られるが、かえって何とも言いようのない姿をお見せ申し上げるのは、やはりとても気がひけるのであった。 あの人が言ったことなど、衣装の染める準備をするのを見るにつけても、不思議な有りえないような気がするが、とても口にはお出しになれない。 物を裁ったり縫ったりなどするのを、 |
浮舟の姫君はおかしくも聞き、身にしむ |
【忘れたまはぬにこそは】- 浮舟の心中。薫は自分浮舟のことを。 【あはれに思ふにも】- 大島本は「あハれに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「あはれと」と校訂する。『新大系』は底本のまま「あはれに」とする。 【つつましくぞ】- 大島本は「つゝましくそ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いとつつましくぞ」と「いと」を補訂する。『新大系』は底本のまま「つつましくぞ」とする。 【かの人の】- 紀伊守。 【ことどもを】- 大島本は「事ともを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ことなど」と校訂する。『新大系』は底本のまま「事どもを」とする。 |
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| 6.4.2 | 「これを手伝ってください。 とても上手に折り曲げなされるから」 |
「これはいかがでございますか。あなた様はきれいに端がお |
【これ御覧じ入れよ】- 以下「ひねらせたまへば」まで、妹尼君の詞。『集成』は「「御覧入る」は、「見入る」(注視する、世話する)の敬語」。『完訳』は「手伝ってください、の意」と注す。 【ひねらせたまへば】- 『完訳』は「反物の縁を折り曲げてくけずにおくこと」と注す。 |
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| 6.4.3 | と言って、小袿の単衣をお渡し申すのを、嫌な気がするので、「気分が悪い」と言って、手も触れず横になっていらっしゃった。 尼君は、急ぐことを放って、「どのようなお加減か」などと心配なさる。 紅に桜の織物の袿を重ねて、 |
と言って |
【心地悪し】- 浮舟の詞。 【いかが思さるる】- 妹尼君の詞。 |
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| 6.4.4 | 「御前様には、このような物をお召しになるのがよいでしょうに。 あさましい墨染ですこと」 |
「姫君にはこんなのをお着せしたいのに、情けない墨染めの姿におなりになって」 |
【御前には】- 以下「墨染めなりや」まで、女房の詞。「御前」は浮舟をさす。 |
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| 6.4.5 | と |
と言う女房もいる。 |
と言う女房があった。 |
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| 6.4.6 | 「尼衣に変わった身の上で、 昔の形見としてこの華やかな |
あま衣変はれる身にやありし世の かたみの |
【尼衣変はれる身にやありし世の--形見に袖をかけて偲ばむ】- 浮舟の独詠歌。「や--偲ばむ」疑問形。 |
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| 6.4.7 | と書いて、「お気の毒に、亡くなった後に、隠し通すこともできない世の中なので、聞き合わせたりなどして、疎ましいまでに隠していた、と思うだろうか」などと、いろいろと思いながら、 |
と浮舟の姫君は書き、行くえの知れぬことになって人々を悲しませた自分の噂はいつか伝わって来ることであろうから、真実のことを尼君のさとる日になって、憎いほどにも隠し続けたと自分を思うかもしれぬと知った心から、 |
【いとほしく】- 以下「とや思はむ」まで、浮舟の心中の思い。 【疎ましきまでに】- 大島本は「うとましきま(ま$ま<朱>)てに」とある。すなわち「ま」を朱筆で「ま」と訂正する。『集成』『完本』は諸本に従って「まで」と「に」を削除する。『新大系』は底本のまま「までに」とする。浮舟が素姓を隠していたことを尼君は。 【隠しけるなどや】- 大島本は「なとや」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「とや」と「な」を削除する。『新大系』は底本のまま「などや」とする。 |
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| 6.4.8 | 「過ぎ去ったことは、すっかり忘れてしまいましたので、このようなことをお急ぎになることにつけ、何かしらしみじみと感じられるのです」 |
「昔のことは皆忘れていましたけれども、こうしたお仕立て物などをなさいますのを見ますとなんだか悲しい気になるのですよ」 |
【過ぎにし方のことは】- 以下「あはれなれ」まで、浮舟の詞。 【ほのかにあはれなれ】- 『完訳』は「漠然とした懐旧の念、の趣」と注す。 |
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| 6.4.9 | とおっとりとおっしゃる。 |
とおおように尼君へ言った。 |
【おほどかにのたまふ】- 心の動揺を見透かされないように。 |
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| 6.4.10 | 「さりとも、 しか やがて、 |
「そうはおっしゃっても、お思い出しになることは多くありましょうが、いつまでもお隠しになっているのが情けないですわ。 わたしは、このような世俗の人の着る色合いなどは、長いこと忘れてしまったので、平凡にしかできませんので、亡くなった娘が生きていたら、などと思い出されます。 そのようにお世話申し上げなさった母君は、この世においでですか。 そのまま、娘を亡くした母でさえ、やはりどこかに生きていようか、その居場所だけでも尋ね聞きたく思われますのに、その行く方も分からず、ご心配申し上げていらっしゃる方々がございましょう」 |
「どんなになっておいでになっても、昔のことはいろいろ恋しくお思い出しになるに違いないのに、今になってもそうした話を聞かせてくださらないのが恨めしくてなりませんよ。この |
【さりとも】- 以下「はべらむかし」まで、妹尼君の詞。 【身には】- 大島本は「身にハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「ここには」と校訂する。『新大系』は底本のまま「身には」とする。 【昔の人あらましかば】- 妹尼の亡き娘。 【しか扱ひきこえたまひけむ人】- 同じようにあなたをお世話申し上げなさった方、すなわち、浮舟の母、の意。 【世におはすらむ。やがて】- 大島本は「よにおハすらんやかて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「世におはすらむや。かく」と校訂する。『新大系』は底本のまま「世におはすらむ。やがて」とする。 【亡くなして見はべりしだに】- 娘を亡くした母親のわたしでさえ。 【行方知らで】- 浮舟は行方不明となって。 【思ひきこえたまふ人びと】- ご心配申し上げていらっしゃる方々。 |
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| 6.4.11 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
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| 6.4.12 | 「俗世にいた時は、片親ございました。 ここ数か月の間にお亡くなりなったかも知れません」 |
「あの時まで両親の一人だけはおりました。あれからのち死んでしまったかもしれません」 |
【見しほどまでは】- 以下「したまひぬらむ」まで、浮舟の詞。「見しほど」とは俗世にいた時の意。 【一人はものしたまひき】- 母親という意。 |
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| 6.4.13 | とて、 |
と言って、涙が落ちるのを紛らわして、 |
こう言ううちに涙の落ちてくるのを紛らして、浮舟は、 |
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| 6.4.14 | 「かえって思い出しますことにつけて、嫌に思われますので、申し上げることができません。 隠し事はどうしてございましょうか」 |
「思い出しましてはかえって苦しくばかりなるものですから、お話ができなかったのでございますよ。少しの隔て心もあなたにお持ちしておりません」 |
【なかなか】- 以下「残しはべらむ」まで、浮舟の詞。 【何ごとにか--はべらむ】- 反語表現。何も隠していない、意。 |
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| 6.4.15 | と、 |
と、言葉少なにおっしゃった。 |
と簡単に言うのであった。 |
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第五段 薫、明石中宮のもとに参上 |
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| 6.5.1 | 大将は、この一周忌の法事なをおさせにになって、「あっけなくて、終わってしまったな」としみじみとお思いになる。 あの常陸の子どもは、元服した者は、蔵人にして、ご自分の近衛府の将監に就けたりなど、面倒を見ておやりになった。 「童であるが、中に小綺麗なのを、お側近くに召し使おう」とお思いになっていたのであった。 |
薫は一周忌の仏事を営み、はかない結末になったものであると |
【この果てのわざなど】- 浮舟の一周忌。三月末。 【はかなくて、止みぬるかな】- 大島本は「はかなくて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はかなくても」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のまま「はかなくて」とする。薫の感想。 【かの常陸の子ども】- 浮舟の継父の子供。 【蔵人になして】- 大島本は「くら人になして」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「蔵人になし」と「て」を削除する。『新大系』は底本のまま「蔵人になして」とする。 【わが御司の将監】- 右近衛府の将監(三等官)。 |
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| 6.5.2 | 雨などが降ってひっそりとした夜に、后の宮に参上なさった。 御前はのんびりとした日なので、お話などを申し上げるついでに、 |
雨が降りなどしてしんみりとした夜に大将は |
【后の宮】- 明石中宮。 【御物語など聞こえたまふついでに】- 薫が中宮に。 |
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| 6.5.3 | 「辺鄙な山里に、何年も通っておりましたところ、人の非難もございましたが、そのようになるはずの運命であったのでしょう。 誰でも気に入った向きのことは、同じなのだ、と納得させながら、やはり時々逢っておりましたところ、場所柄のせいかと、嫌に思うことがございまして以後は、道のりも遠くに感じられまして、長いこと通わないでいましたが、最近、ある機会に行きまして、はかないこの世の有様を重ね重ね存じられましたので、ことさらにわが道心を起こすために造っておかれた、聖の住処のように思われました」 |
「ずっと引っ込みました山里に、以前から愛していた人を置いてございましたのを、人から何かと言われましたが、前生の因縁でこの人が好きになったのだ、だれも心の |
【あやしき山里に】- 以下「おぼえはべりし」まで、薫の詞。宇治の話。 【人の誹りはべりしも】- 『完訳』は「正室女二の宮の側近者が非難がましかったか」と注す。 【所のさがにや】- 宇治の地名は「憂し」に通じる。 【はかなき世のありさまとり重ねて】- 大君の死と浮舟の死を体験。 【道心】- 大島本は「道心」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「道心を」と「を」を補訂する。『新大系』は底本のまま「道心」とする。 【聖の住処】- 故八宮の邸をいう。 |
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| 6.5.4 | と申し上げなさるので、あのことをお思い出しになって、とてもお気の毒なので、 |
薫のこの言葉から中宮は |
【かのこと】- 横川僧都が話したこと。浮舟のこと。 |
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| 6.5.5 | 「そこには、恐ろしいものが住んでいるのでしょうか。 どのようにして、その方は亡くなったのですか」 |
「そのお |
【そこには、恐ろしき物や】- 以下「亡くなりにし」まで、中宮の詞。 |
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| 6.5.6 | とお尋ねあそばすのを、「やはり、引き続いての死去をお考えになってか」と思って、 |
とお尋ねになったのを、二人までも恋人の死んだことを知っておいでになって、幽鬼のせいと思召してのお言葉であろうと大将は解釈した。 |
【なほ、続きを思し寄る方】- 大島本は「つゝきを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「うちつづきたるを」と「うち」と「たる」を補訂する。『新大系』は底本のまま「つづきを」とする。薫の心中。主語は中宮。 |
|||||||||||||||||||||||
| 6.5.7 | 「そうかも知れません。 そのような人里離れた所には、けしからぬものがきっと住みついているのでしょうよ。 亡くなった様子も、まことに不思議でございました」 |
「そんなこともございましょう。そうした人けのまれな所には必ず悪いものが来て住みつきますから。それに亡くなりようも普通ではございませんでした」 |
【さもはべらむ】- 以下「あやしくはべる」まで、薫の詞。 【亡せはべりにしさまも】- 浮舟の死。失踪入水と推測。 |
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| 6.5.8 | とて、 「なほ、かく |
と言って、詳しくは申し上げなさらない。 「やはり、このように隠している事柄を、すっかり聞き出してるのだわ」とお思いなさるようなのが、実に気の毒にお思いになり、宮が、物思いに沈んで、その当時病気におなりになったのを、思い合わせなさると、やはり何といっても心が痛んで、「どちらの立場からも口出しにくい方の話だ」とおやめになった。 |
薫はくわしく申し上げることはしなかった。こうして隠そうとしている話に触れてゆくのはよろしくないし、事実を自分に知られたと思うのはいたましいと思召されて、兵部卿の宮が |
【なほ、かく忍ぶる筋を、聞きあらはしけり】- 中宮の心遣い。「忍ぶる筋」の主語は薫。「聞きあらはしてけり」の主語は中宮。 【思ひたまはむが】- 主語は薫。 【いとほしく思され】- 主語は中宮。 【宮の、ものをのみ思して】- 匂宮が浮舟失踪当時。 【思し合はするにも】- 主語は中宮。 【かたがたに口入れにくき人の上】- 中宮の心中。薫にも匂宮にも。「人」は浮舟をさす。 |
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| 6.5.9 | 小宰相に、こっそりと、 |
中宮は小宰相にそっと、 |
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| 6.5.10 | 「大将は、あの人のことを、とてもしみじみと思ってお話になったが、お気の毒で、打ち明けてしまいそうだったが、その人かどうかも分からないからと、気がひけてね。 あなたは、あれこれ聞いていたわね。 不都合と思われるようなことは隠して、こういうことがあったと、世間話のついでに、僧都が言ったことを話しなさい」 |
「大将があの人のことを今も恋しいふうに話したからかわいそうで、私はあの話をしてしまうところだったけれど、確かにそれときめても言えないことでもあったから、気がひけて言うことができなかった。あなたは僧都にいろいろ質問もして聞いていたのだから、恥に感じさせるようなことは言わずに、こんなことがあったとほかの話のついでに僧都の言ったことを話してあげなさいね」 |
【大将、かの人のことを】- 以下「言ひしことを語れ」まで、中宮の詞。「かの人」は浮舟。 【かたはならむことは】- 薫にとって不都合なこと。 【言ひしことを】- 大島本は「ことを」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「こと」と「を」を削除する。『新大系』は底本のまま「ことを」とする。 |
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| 6.5.11 | とのたまはす。 |
と仰せになる。 |
とお言いになった。 |
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| 6.5.12 | 「御前様でさえ遠慮あそばしているようなことを。まして、他人のわたしにはお話しできません」 |
「宮様でさえお言いにくく思召すことを他人の私がそれをお話し申し上げますことは」 |
【御前に】- 以下「いかでか」まで、小宰相君の詞。 【いかでか】- 反語表現。下に「聞こえむ」などの語句が省略。 |
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| 6.5.13 | と |
申し上げるが、 |
小宰相はこう申すのであったが、 |
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| 6.5.14 | 「時と場合によります。 また、わたしには不都合な事情があるのですよ」 |
「それはまたそれでいいのよ。私にはまた気の毒で言いにくいわけもあってね」 |
【さまざまなる】- 以下「ことぞあるや」まで、中宮の詞。『完訳』は「匂宮の横恋慕を念頭に言う」と注す。 |
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| 6.5.15 | とのたまはするも、 |
と仰せになるが、真意を理解して、素晴らしい心遣いだと拝する。 |
これは兵部卿の宮がかかわりを持っておいでになるために仰せられるのであろうと小宰相はさとった。 |
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第六段 小宰相、薫に僧都の話を語る |
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| 6.6.1 | 「 などか、のたまはせ |
立ち寄ってお話などなさるついでに、言い出した。 珍しくも不思議なことだと、どうして驚かないことがあろう。 「宮がお尋ねあそばしたことも、このようなことを、ちらっとお聞きあそばしてのことだったのだ。 どうして、すっかり話してくださらなかったのだろう」とつらい思いがするが、 |
小宰相の |
【立ち寄りて】- 薫が小宰相君のもとに。 【珍かに--たまはざらむ】- 『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。語り手が薫の心中を憶測。 【宮の問はせたまひしも】- 以下「のたまはせ果つまじき」まで、薫の心中の思い。 |
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| 6.6.2 | 「 うつつの |
「自分もまた初めからの様子を申し上げなかったのだから、こうして聞いた後にも、やはり馬鹿らしい気がして、他人には全部話さないのを、かえって他では聞いていることもあろう。 現実の人びとの中で隠していることでさえ、隠し通せる世の中だろうか」 |
自身もあの人の死の真相を初めから聞かされなかったために、知ってからも疑いが解けないで人に自殺したなどとは言わなかった。かえって他へは真実のことが |
【我もまた】- 以下「世の中かは」まで、薫の心中の思い。 【聞こえそめざりしかば】- 『完訳』は「下に、中宮が話してくれぬのもいたしかたない、ぐらいの意」と注す。 【人にすべて漏らさぬを】- 主語は自分薫。 |
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| 6.6.3 | などと考え込んで、「この人にも、これこれであった」などと、打ち明けなさることは、やはり話にくい気がして、 |
と思い続け、小宰相にも自殺する目的のあった人だったとは言いだすことにまだ口重い気がして薫はならない。 |
【この人にも】- 小宰相君。 |
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| 6.6.4 | 「やはり、不思議に思った女の身の上と、似ていた人の様子ですね。 ところで、その人は、今も無事でいますか」 |
「まだ今日さえ不審の晴れない人のことに似た話ですね。それで、その人はまだ生きていますか」 |
【なほ、あやしと】- 以下「なほあらむや」まで、薫の詞。 |
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| 6.6.5 | とのたまへば、 |
とお尋ねになると、 |
と言うと、 |
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| 6.6.6 | 「あの僧都が山から下りた日に、尼にしました。 ひどく病んでいた時には、世話する人が惜しんでさせなかったが、ご本人が深い念願だと言ってなってしまったのだ、ということでございました」 |
「あの僧都が山から出ました日に尼になすったそうです。重くわずらっています間にも、人が皆惜しんで尼にはさせなかったのでありましたが、その人自身がぜひそうなりたいと言ってなってしまったと僧都はお言いになりました」 |
【かの僧都の】- 以下「はべるなりしか」まで、小宰相君の詞。 |
|||||||||||||||||||||||
| 6.6.7 | と言う。 場所も違わず、その当時のありさまなどを思い合わせると、違うところがないので、 |
小宰相はこう答えた。場所も宇治であり、そのころのことを考えてみれば皆符合することばかりであるために、 |
【思ひあはするに】- 主語は薫。 |
|||||||||||||||||||||||
| 6.6.8 | 「本当にその女だと探し出したら、とても嫌な気がするだろうな。 どうしたら、確実なことが聞けようか。 自分自身で直接訪ねて行くのも、愚かしいなどと人が言ったりしようか。 また、あの宮が聞きつけなさったら、きっと思い出しなさって、決心なさっていた仏道もお妨げなさることであろう。 |
どうすればもっとくわしく聞くことができるであろう、自分自身が一所懸命になってその人を捜し求めるのも、人から単純過ぎた男と見られるであろう。またあの宮のお耳にはいることがあれば必ず捨ててはお置きにならずお近づきになり、いったんはいった仏の |
【まことにそれと】- 以下「また使はじ」まで、薫の心中の思い。 【かの宮も】- 匂宮。 【思ひ入りにけむ道も】- 浮舟が決心して入った出家生活。 |
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| 6.6.9 | さて、『さなのたまひそ』など、 |
そのようなわけで、『そのようなことをおっしゃるな』などと、申し上げおきなさったせいであろうか、わたしには、そのようなことを聞いたと、そのような珍しいことをお聞きあそばしながら、仰せにならなかったのであろうか。 宮も関係なさっていては、せつなくいとしいと思いながらも、きっぱりと、そのまま亡くなってしまったものと思い諦めよう。 |
もうすでに宮は知っておいでになって、その話を大将へくわしくはあそばさぬようにと頼んでお置きになったために、こうした珍しい話がお耳にはいっていながら、御自身では中宮が言ってくださらなかったのかもしれぬ。宮がまだあの関係を続けようとしておいでになるのであれば、どんなにあの人を愛していても、自分はもうあの時のまま死んだ人と思うことにしてしまおう、 |
【さて】- 『集成』は「(匂宮は)そんなお積りで」。『完訳』は「匂宮はそのつもりで、中宮に、薫にはおっしゃるななどと申しおかれたので。このあたり、中宮が薫に詳しく言わなかった理由を推測しようとする」と注す。 【聞こえおきたまひければや】- 薫は、匂宮が中宮に申し上げおかれたのだろうか、と疑う。 【のたまはせぬにや】- 薫は、中宮が私にはおっしゃらないのか、と疑う。 【いみじうあはれと思ひながらも】- 『集成』は「せつないほいどいとしく思われるものから」。『完訳』は「自分は、浮舟をせつなくいとしいと思いながらも、以下、浮舟を死んだものと諦めようとする」と注す。 |
||||||||||||||||||||||
| 6.6.10 | この世の人として立ち戻ったならば、いつの日にか、黄泉のほとりの話を、自然と話し合える時もきっとあろう。 自分の女として取り戻して世話するような考えは、二度と持つまい」 |
生死の線が隔てた二人と思い、いつかは黄色の泉のほとりで風の吹き寄せるままに逢いうることがあるかもしれぬのを待とう、愛人として取り返すために心をつかうことはしないほうがよかろう |
【うつし人になりて】- 『集成』は「(浮舟が)再びこの世の人になったとあれば」と注す。接続助詞「て」仮定の文意。 【末の世には】- 遠い将来には。薫はかすかな期待を漠然と思い描く。 【黄なる泉のほとりばかりを】- 「黄泉」、来世の話を語り合える機会を期待。 【心地】- 大島本は「心ち」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心は」と校訂する。『新大系』は底本のまま「心ち」とする。 |
|||||||||||||||||||||||
| 6.6.11 | などと思い乱れて、「やはり、仰せにならないだろう」という気はするが、ご様子が気にかかるので、大宮に、適当な機会を作り出して、申し上げなさる。 |
などと |
【なほ、のたまはずやあらむ】- 薫の心中の思い。 【おぼゆれど】- 大島本は「おほゆれと」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思へど」と校訂する。『新大系』は底本のまま「おぼゆれど」とする。 【大宮に】- 中宮に。 【作り出だしてぞ】- 大島本は「いたしてそ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「出でてぞ」と校訂する。『新大系』は底本のまま「出だしてぞ」とする。 |
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第七段 薫、明石中宮に対面し、横川に赴く |
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| 6.7.1 | 「あさましうて、 いかでか、さることははべらむ、と |
「思いがけないことで、亡くなってしまったと存じておりました女が、この世に落ちぶれて生きているように、人が話してくれました。 どうして、そのようなことがございましょうか、と存じますが、自分から大胆なことをして、離れて行くようなことはしないであろうか、とずっと思い続けていた女の様子でございますので、人の話してくれたような事情では、そのようなこともございましょうかと、似ているように存じられました」 |
「突然死なせてしまったと私の思っていました人が |
【あさましうて】- 以下「思ひたまへらるる」まで、薫の詞。 【心とおどろおどろしう】- 浮舟が自分から進んで入水ということをして。 【もて離るることは】- 浮舟が私薫から離れていくこと。 【語りはべしやう】- 大島本は「侍へしやう」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「はべりしやう」と「り」を補訂する。『新大系』は底本のまま「侍(は)べしやう」とする。 【さるやうもやはべらむと、似つかはしく思ひたまへらるる】- 『完訳』は「気弱な性分から投身はありえないが、物の怪のせいというのなら合点」と注す。 |
||||||||||||||||||||||
| 6.7.2 | と言って、もう少し申し上げなさる。 宮のお身の上の事を、とても憚りあるように、そうはいっても恨んでいるようにはおっしゃらないで、 |
と言い、その話を以前よりも細かに申し上げ、 |
【宮の御ことを】- 匂宮のこと。 【いと恥づかしげに】- 『集成』は「いかにも毅然とした態度で。匂宮の介入は許さぬといった面持」。『完訳』は「いかにも憚りありげに、それでも恨んでいる言い方はされず」と注す。 |
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| 6.7.3 | 「あのことを、またこれこれとお耳になさいましたら、頑固で好色なようにお思いなさるでしょう。 まったく、そうして生きていたとしても、知らない顔をして過ごしましょう」 |
「拾われて生きていますことがあの方のお耳にはいっているのでございましたら、私が女を疑って見る能力の欠けた愚か者に見えることでございますから、なお生きているとも知らぬふうにしてそのまま置こうかとも思います」 |
【かのこと】- 以下「過ぐしはべりなむ」まで、薫の詞。浮舟のこと。 【さなむと】- 私薫が浮舟を探し出したということ。 【聞きつけたまへらば】- 主語は匂宮。 【さてありけりとも、知らず顔にて過ぐしはべりなむ】- 『集成』は「ことを秘密にしておきたいと婉曲に釘をさす」と注す。 |
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| 6.7.4 | と |
と申し上げなさると、 |
と申すのであった。 |
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| 6.7.5 | 「 かかる |
「僧都が話したことですが、とても気味の悪かった夜のことで、耳も止めなかったことなのです。 宮は、どうしてご存知でしょう。 何とも申し上げようのないご料簡だ、と思いますので、ましてその話をお聞きつけなさるのは、まことに困ったことです。 このようなことにつけて、まことに軽々しく困った方だとばかり、世間にお知られになっているようなので、情けなく思っています」 |
「僧都が宇治の話をした晩はね、こわいような気のする晩でしたからね、くわしくは聞かなかったあのことですね。兵部卿の宮が知っておいでになるはずは絶対にありません。何とも批評のしようのない性質だと私もよく歎息させられる方なのだから、ましてその話を聞かせてはめんどうをお起こしになるでしょう。恋愛問題では軽薄な多情男だとばかり言われておいでになる方だから、私は悲しんでいます」 |
【僧都の語りしに】- 以下「心憂くなむ」まで、中宮の詞。 【宮は、いかでか聞きたまはむ】- 反語表現。匂宮は知らない。 【聞こえむ方なかりける御心のほどかな、と聞けば】- 『完訳』は「匂宮の了簡を論外とする。母として詫びる気持」と注す。 【聞きつけたまはむこそ】- 主語は匂宮。 【心憂く】- 大島本は「心うく」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心憂くなむ」と「なむ」を補訂する。『新大系』は底本のまま「心憂く」とする。 |
||||||||||||||||||||||
| 6.7.6 | などと仰せになる。 「とても慎重なお人柄なので、必ずしも、気安い世間話であっても、誰かがこっそりと申し上げたことを、お漏らしあそばすまい」などとお思いになる。 |
中宮はこう仰せになった。 |
【などのたまはす】- 大島本は「なとの給ハす」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「とのたまはす」と校訂する。『新大系』は底本のまま「などの給はす」とする。 【いと重き御心なれば】- 以下「漏らさせたまはじ」まで、薫の心中。中宮の人柄について思う。 |
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| 6.7.7 | 「その住んでいるという山里はどの辺であろうか。 どのようにして、体裁悪くなく探し出せようか。 僧都に会って、確かな様子を聞き合わせたりして、ともかく訪ねるのがよかろう」などと、ただ、このことばかりを寝ても覚めてもお考えになる。 |
住んでいる家は小野のどこにあるのであろう。どんなふうに世間体を作ってあの人にまた逢おう、何よりも僧都にまず逢ってみてくわしいことをともかくも知っておく必要があると薫は明け暮れこのことをばかり思い悩んだ。 |
【住むらむ山里は】- 以下「問ふべかめれ」まで、薫の心中の思い。 【いづこにかは】- 大島本は「いつこにかハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いづこにか」と「は」を削除する。『新大系』は底本のまま「いづこにかは」とする。 |
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| 6.7.8 | それよりやがて 「その ありさまにぞ さすがに、「その |
毎月の八日は、必ず仏事をおさせになるので、薬師仏にご寄進申し上げなさろうとお出かけになるついでに、根本中堂には、時々お参りになった。 そこからそのまま横川においでになろうとお考えになって、あの弟の童である者を、連れておいでになる。 「その人たちには、すぐには知らせまい。 その時の状況を見てからにしよう」とお思いになるが、再会した時の夢のような心地の上につけて、しみじみとした感慨を加えようというつもりであったのだろうか。 そうはいっても、「その人だと分かったものの、みすぼらしい姿で、尼姿の人たちの中に暮らしていて、嫌なことを耳にしたりするのは、ひどくつらいことであろう」と、いろいろと道すがら思い乱れなさったことだろうか。 |
毎月八の日には必ず何かの仏事を行なう習慣になっていて、薬師仏の供養をその時にすることもあるので |
【月ごとの八日は】- 毎月八日は、六斎日の初日。薬師仏の縁日。 【もてなしたまへる】- 大島本は「給つる」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「たまへる」と校訂する。『新大系』は底本のまま「給つる」とする。ここは「へ」と「つ」の誤写と考えて、改める。 【中堂に】- 大島本は「中たうに」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「中堂には」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のまま「中堂に」とする。比叡山延暦寺の根本中堂。本尊は薬師仏。 【かのせうとの童なる、率ておはす】- 『集成』は「すでに叡山に向け出立の体。五月の月末に近い頃かと思われる」と注す。 【その人びとには】- 以下「従がはむ」まで、薫の心中の思い。「その人びと」とは浮舟の家族をさす。 【うち見む夢の心地にも、あはれをも加へむとにやありけむ】- 『集成』は「肉親の一人を伴った薫の気持を忖度する体の草子地」と注す。 【その人とは】- 以下「いみじかるべかれ」まで、薫の心中の思い。 【形異なる人】- 尼姿の人。 【憂きことを】- 『集成』は「失踪後、何か男関係でもあったというようなこと」と注す。 【よろづに道すがら思し乱れけるにや】- 『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。『集成』は「巻を閉じる形の草子地」と注す。 |
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