帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
02 | 帚木 |
02 | 1 | 62 | 37 | 第一章 雨夜の品定めの物語 |
02 | 1.1 | 63 | 38 | 第一段 長雨の時節 |
02 | 1.1.1 | 64 | 39 |
光る源氏、名のみことことしう、言ひ消たれたまふ咎多かなるに、いとど、かかる好きごとどもを、末の世にも聞き伝へて、軽びたる名をや流さむと、忍びたまひける隠ろへごとをさへ、語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ。 |
ひかるげんじ、なのみことことしう、いひけたれたまふとがおほかなるに、いとど、かかるすきごとどもを、すゑのよにもききつたへて、かろびたるなをやながさんと、しのびたまひけるかくろへごとをさへ、かたりつたへけんひとのものいひさがなさよ。 |
02 | 1.1.2 | 65 | 40 |
さるは、いといたく世を憚り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野少将には笑はれたまひけむかし。 |
さるは、いといたくよをはばかり、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて、かたののせうしゃうにはわらはれたまひけんかし。 |
02 | 1.1.3 | 66 | 41 |
まだ中将などにものしたまひし時は、内裏にのみさぶらひようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ。忍ぶの乱れやと、疑ひきこゆることもありしかど、さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にて、まれには、あながちに引き違へ心尽くしなることを、御心に思しとどむる癖なむ、あやにくにて、さるまじき御振る舞ひもうち混じりける。 |
まだちゅうじゃうなどにものしたまひしときは、うちにのみさぶらひようしたまひて、おほいどのにはたえだえまかでたまふ。しのぶのみだれやと、うたがひきこゆることもありしかど、さしもあだめきめなれたるうちつけのすきずきしさなどはこのましからぬごほんじゃうにて、まれには、あながちにひきたがへこころづくしなることを、みこころにおぼしとどむるくせなん、あやにくにて、さるまじきおほんふるまひもうちまじりける。 |
02 | 1.2 | 67 | 42 | 第二段 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将 |
02 | 1.2.1 | 68 | 43 |
長雨晴れ間なきころ、内裏の御物忌さし続きて、いとど長居さぶらひたまふを、大殿にはおぼつかなく恨めしく思したれど、よろづの御よそひ何くれとめづらしきさまに調じ出でたまひつつ、御息子の君たちただこの御宿直所の宮仕へを勤めたまふ。 |
ながあめはれまなきころ、うちのおほんものいみさしつづきて、いとどながゐさぶらひたまふを、おほいどのにはおぼつかなくうらめしくおぼしたれど、よろづのおほんよそひなにくれとめづらしきさまにてうじいでたまひつつ、おほんむすこのきみたちただこのおほんとのゐどころのみやづかへをつとめたまふ。 |
02 | 1.2.2 | 69 | 44 |
宮腹の中将は、なかに親しく馴れきこえたまひて、遊び戯れをも人よりは心安く、なれなれしく振る舞ひたり。右大臣のいたはりかしづきたまふ住み処は、この君もいともの憂くして、好きがましきあだ人なり。 |
みやばらのちゅうじゃうは、なかにしたしくなれきこえたまひて、あそびたはぶれをもひとよりはこころやすく、なれなれしくふるまひたり。みぎのおとどのいたはりかしづきたまふすみかは、このきみもいとものうくして、すきがましきあだびとなり。 |
02 | 1.2.3 | 70 | 45 |
里にても、わが方のしつらひまばゆくして、君の出で入りしたまふにうち連れきこえたまひつつ、夜昼、学問をも遊びをももろともにして、をさをさ立ちおくれず、いづくにてもまつはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、心のうちに思ふことをも隠しあへずなむ、睦れきこえたまひける。 |
さとにても、わがかたのしつらひまばゆくして、きみのいでいりしたまふにうちつれきこえたまひつつ、よるひる、がくもんをもあそびをももろともにして、をさをさたちおくれず、いづくにてもまつはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおかず、こころのうちにおもふことをもかくしあへずなん、むつれきこえたまひける。 |
02 | 1.2.4 | 71 | 47 |
つれづれと降り暮らして、しめやかなる宵の雨に、殿上にもをさをさ人少なに、御宿直所も例よりはのどやかなる心地するに、大殿油近くて書どもなど見たまふ。近き御厨子なる色々の紙なる文どもを引き出でて、中将わりなくゆかしがれば、 |
つれづれとふりくらして、しめやかなるよひのあめに、てんじゃうにもをさをさひとずくなに、おほんとのゐどころもれいよりはのどやかなるここちするに、おほとなぶらちかくてふみどもなどみたまふ。ちかきみづしなるいろいろのかみなるふみどもをひきいでて、ちゅうじゃうわりなくゆかしがれば、 |
02 | 1.2.5 | 72 | 48 |
「さりぬべき、すこしは見せむ。かたはなるべきもこそ」 |
"さりぬべき、すこしはみせん。かたはなるべきもこそ。" |
02 | 1.2.6 | 73 | 49 |
と、許したまはねば、 |
と、ゆるしたまはねば、 |
02 | 1.2.7 | 74 | 50 |
「そのうちとけてかたはらいたしと思されむこそゆかしけれ。おしなべたるおほかたのは、数ならねど、程々につけて、書き交はしつつも見はべりなむ。おのがじし、恨めしき折々、待ち顔ならむ夕暮れなどのこそ、見所はあらめ」 |
"そのうちとけてかたはらいたしとおぼされんこそゆかしけれ。おしなべたるおほかたのは、かずならねど、ほどほどにつけて、かきかはしつつもみはべりなん。おのがじし、うらめしきをりをり、まちがほならんゆふぐれなどのこそ、みどころはあらめ。" |
02 | 1.2.8 | 75 | 51 |
と怨ずれば、やむごとなくせちに隠したまふべきなどは、かやうにおほぞうなる御厨子などにうち置き散らしたまふべくもあらず、深くとり置きたまふべかめれば、二の町の心安きなるべし。片端づつ見るに、「かくさまざまなる物どもこそはべりけれ」とて、心あてに「それか、かれか」など問ふなかに、言ひ当つるもあり、もて離れたることをも思ひ寄せて疑ふも、をかしと思せど、言少なにてとかく紛らはしつつ、とり隠したまひつ。 |
とゑんずれば、やんごとなくせちにかくしたまふべきなどは、かやうにおほぞうなるみづしなどにうちおきちらしたまふべくもあらず、ふかくとりおきたまふべかめれば、にのまちのこころやすきなるべし。かたはしづつみるに、"かくさまざまなるものどもこそはべりけれ。"とて、こころあてに"それか。かれか。"などとふなかに、いひあつるもあり、もてはなれたることをもおもひよせてうたがふも、をかしとおぼせど、ことずくなにてとかくまぎらはしつつ、とりかくしたまひつ。 |
02 | 1.2.9 | 76 | 52 |
「そこにこそ多く集へたまふらめ。すこし見ばや。さてなむ、この厨子も心よく開くべき」とのたまへば、 |
"そこにこそおほくつどへたまふらめ。すこしみばや。さてなん、このづしもこころよくひらくべき。"とのたまへば、 |
02 | 1.2.10 | 77 | 53 |
「御覧じ所あらむこそ、難くはべらめ」など聞こえたまふついでに、「女の、これはしもと難つくまじきは、難くもあるかなと、やうやうなむ見たまへ知る。ただうはべばかりの情けに、手走り書き、をりふしの答へ心得て、うちしなどばかりは、随分によろしきも多かりと見たまふれど、そもまことにその方を取り出でむ選びにかならず漏るまじきは、いと難しや。わが心得たることばかりを、おのがじし心をやりて、人をば落としめなど、かたはらいたきこと多かり。 |
"ごらんじどころあらんこそ、かたくはべらめ。"などきこえたまふついでに、"をんなの、これはしもとなんつくまじきは、かたくもあるかなと、やうやうなんみたまへしる。ただうはべばかりのなさけに、てはしりかき、をりふしのいらへこころえて、うちしなどばかりは、ずいぶんによろしきもおほかりとみたまふれど、そもまことにそのかたをとりいでんえらびにかならずもるまじきは、いとかたしや。わがこころえたることばかりを、おのがじしこころをやりて、ひとをばおとしめなど、かたはらいたきことおほかり。 |
02 | 1.2.11 | 78 | 54 |
親など立ち添ひもてあがめて、生ひ先籠れる窓の内なるほどは、ただ片かどを聞き伝へて、心を動かすこともあめり。容貌をかしくうちおほどき、若やかにて紛るることなきほど、はかなきすさびをも、人まねに心を入るることもあるに、おのづから一つゆゑづけてし出づることもあり。 |
おやなどたちそひもてあがめて、おひさきこもれるまどのうちなるほどは、ただかたかどをききつたへて、こころをうごかすこともあめり。かたちをかしくうちおほどき、わかやかにてまぎるることなきほど、はかなきすさびをも、ひとまねにこころをいるることもあるに、おのづからひとつゆゑづけてしいづることもあり。 |
02 | 1.2.12 | 79 | 55 |
見る人、後れたる方をば言ひ隠し、さてありぬべき方をばつくろひて、まねび出だすに、『それ、しかあらじ』と、そらにいかがは推し量り思ひくたさむ。まことかと見もてゆくに、見劣りせぬやうは、なくなむあるべき」 |
みるひと、おくれたるかたをばいひかくし、さてありぬべきかたをばつくろひて、まねびいだすに、'それ、しかあらじ'と、そらにいかがはおしはかりおもひくたさん。まことかとみもてゆくに、みおとりせぬやうは、なくなんあるべき。" |
02 | 1.2.13 | 80 | 56 |
と、うめきたる気色も恥づかしげなれば、いとなべてはあらねど、われ思し合はすることやあらむ、うちほほ笑みて、 |
と、うめきたるけしきもはづかしげなれば、いとなべてはあらねど、われおぼしあはすることやあらん、うちほほゑみて、 |
02 | 1.2.14 | 81 | 57 |
「その、片かどもなき人は、あらむや」とのたまへば、 |
"その、かたかどもなきひとは、あらんや。"とのたまへば、 |
02 | 1.2.15 | 82 | 58 |
「いと、さばかりならむあたりには、誰れかはすかされ寄りはべらむ。取るかたなく口惜しき際と、優なりとおぼゆばかりすぐれたるとは、数等しくこそはべらめ。人の品高く生まれぬれば、人にもてかしづかれて、隠るること多く、自然にそのけはひこよなかるべし。中の品になむ、人の心々、おのがじしの立てたるおもむきも見えて、分かるべきことかたがた多かるべき。下のきざみといふ際になれば、ことに耳たたずかし」 |
"いと、さばかりならんあたりには、たれかはすかされよりはべらん。とるかたなくくちをしききはと、いうなりとおぼゆばかりすぐれたるとは、かずひとしくこそはべらめ。ひとのしなたかくむまれぬれば、ひとにもてかしづかれて、かくるることおほく、じねんにそのけはひこよなかるべし。なかのしなになん、ひとのこころごころ、おのがじしのたてたるおもむきもみえて、わかるべきことかたがたおほかるべき。しものきざみといふきはになれば、ことにみみたたずかし。" |
02 | 1.2.16 | 83 | 59 |
とて、いと隈なげなる気色なるも、ゆかしくて、 |
とて、いとくまなげなるけしきなるも、ゆかしくて、 |
02 | 1.2.17 | 84 | 60 |
「その品々や、いかに。いづれを三つの品に置きてか分くべき。元の品高く生まれながら、身は沈み、位みじかくて人げなき。また直人の上達部などまでなり上り、我は顔にて家の内を飾り、人に劣らじと思へる。そのけぢめをば、いかが分くべき」 |
"そのしなじなや、いかに。いづれをみつのしなにおきてかわくべき。もとのしなたかくむまれながら、みはしづみ、くらゐみじかくてひとげなき。またなほびとのかんだちめなどまでなりのぼり、われはがほにていへのうちをかざり、ひとにおとらじとおもへる。そのけぢめをば、いかがわくべき。" |
02 | 1.2.18 | 85 | 61 |
と問ひたまふほどに、左馬頭、藤式部丞、御物忌に籠もらむとて参れり。世の好き者にて物よく言ひとほれるを、中将待ちとりて、この品々をわきまへ定め争ふ。いと聞きにくきこと多かり。 |
ととひたまふほどに、ひだりのむまのかみ、とうしきぶのじょう、おほんものいみにこもらんとてまゐれり。よのすきものにてものよくいひとほれるを、ちゅうじゃうまちとりて、このしなじなをわきまへさだめあらそふ。いとききにくきことおほかり。 |
02 | 1.3 | 86 | 62 | 第三段 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる |
02 | 1.3.1 | 87 | 63 |
「なり上れども、もとよりさるべき筋ならぬは、世人の思へることも、さは言へど、なほことなり。また、元はやむごとなき筋なれど、世に経るたづき少なく、時世に移ろひて、おぼえ衰へぬれば、心は心としてこと足らず、悪ろびたることども出でくるわざなめれば、とりどりにことわりて、中の品にぞ置くべき。 |
"なりのぼれども、もとよりさるべきすぢならぬは、よひとのおもへることも、さはいへど、なほことなり。また、もとはやんごとなきすぢなれど、よにふるたづきすくなく、ときよにうつろひて、おぼえおとろへぬれば、こころはこころとしてことたらず、わろびたることどもいでくるわざなめれば、とりどりにことわりて、なかのしなにぞおくべき。 |
02 | 1.3.2 | 88 | 64 |
受領と言ひて、人の国のことにかかづらひ営みて、品定まりたる中にも、またきざみきざみありて、中の品のけしうはあらぬ、選り出でつべきころほひなり。なまなまの上達部よりも非参議の四位どもの、世のおぼえ口惜しからず、もとの根ざし卑しからぬ、やすらかに身をもてなしふるまひたる、いとかはらかなりや。 |
ずりゃうといひて、ひとのくにのことにかかづらひいとなみて、しなさだまりたるなかにも、またきざみきざみありて、なかのしなのけしうはあらぬ、えりいでつべきころほひなり。なまなまのかんだちめよりもひさんぎのしゐどもの、よのおぼえくちをしからず、もとのねざしいやしからぬ、やすらかにみをもてなしふるまひたる、いとかはらかなりや。 |
02 | 1.3.3 | 89 | 65 |
家の内に足らぬことなど、はたなかめるままに、省かずまばゆきまでもてかしづける女などの、おとしめがたく生ひ出づるもあまたあるべし。宮仕へに出で立ちて、思ひかけぬ幸ひとり出づる例ども多かりかし」など言へば、 |
いへのうちにたらぬことなど、はたなかめるままに、はぶかずまばゆきまでもてかしづけるむすめなどの、おとしめがたくおひいづるもあまたあるべし。みやづかへにいでたちて、おもひかけぬさいはひとりいづるためしどもおほかりかし。"などいへば、 |
02 | 1.3.4 | 90 | 66 |
「すべて、にぎははしきによるべきななり」とて、笑ひたまふを、 |
"すべて、にぎははしきによるべきななり。"とて、わらひたまふを、 |
02 | 1.3.5 | 91 | 67 |
「異人の言はむやうに、心得ず仰せらる」と、中将憎む。 |
"ことひとのいはんやうに、こころえずおほせらる。"と、ちゅうじゃうにくむ。 |
02 | 1.3.6 | 92 | 68 |
「元の品、時世のおぼえうち合ひ、やむごとなきあたりの内々のもてなしけはひ後れたらむは、さらにも言はず、何をしてかく生ひ出でけむと、言ふかひなくおぼゆべし。うち合ひてすぐれたらむもことわり、これこそはさるべきこととおぼえて、めづらかなることと心も驚くまじ。なにがしが及ぶべきほどならねば、上が上はうちおきはべりぬ。 |
"もとのしな、ときよのおぼえうちあひ、やんごとなきあたりのうちうちのもてなしけはひおくれたらんは、さらにもいはず、なにをしてかくおひいでけんと、いふかひなくおぼゆべし。うちあひてすぐれたらんもことわり、これこそはさるべきこととおぼえて、めづらかなることとこころもおどろくまじ。なにがしがおよぶべきほどならねば、かみがかみはうちおきはべりぬ。 |
02 | 1.3.7 | 93 | 69 |
さて、世にありと人に知られず、さびしくあばれたらむ葎の門に、思ひの外にらうたげならむ人の閉ぢられたらむこそ、限りなくめづらしくはおぼえめ。いかで、はたかかりけむと、思ふより違へることなむ、あやしく心とまるわざなる。 |
さて、よにありとひとにしられず、さびしくあばれたらんむぐらのかどに、おもひのほかにらうたげならんひとのとぢられたらんこそ、かぎりなくめづらしくはおぼえめ。いかで、はたかかりけんと、おもふよりたがへることなん、あやしくこころとまるわざなる。 |
02 | 1.3.8 | 94 | 70 |
父の年老い、ものむつかしげに太りすぎ、兄の顔憎げに、思ひやりことなることなき閨の内に、いといたく思ひあがり、はかなくし出でたることわざも、ゆゑなからず見えたらむ、片かどにても、いかが思ひの外にをかしからざらむ。 |
ちちのとしおい、ものむつかしげにふとりすぎ、せうとのかほにくげに、おもひやりことなることなきねやのうちに、いといたくおもひあがり、はかなくしいでたることわざも、ゆゑなからずみえたらん、かたかどにても、いかがおもひのほかにをかしからざらん。 |
02 | 1.3.9 | 95 | 71 |
すぐれて疵なき方の選びにこそ及ばざらめ、さる方にて捨てがたきものをは」 |
すぐれてきずなきかたのえらびにこそおよばざらめ、さるかたにてすてがたきものをは。" |
02 | 1.3.10 | 96 | 72 |
とて、式部を見やれば、わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにや、とや心得らむ、ものも言はず。 |
とて、しきぶをみやれば、わがいもうとどものよろしききこえあるをおもひてのたまふにや、とやこころうらん、ものもいはず。 |
02 | 1.3.11 | 97 | 73 |
「いでや、上の品と思ふにだに難げなる世を」と、君は思すべし。白き御衣どものなよらかなるに、直衣ばかりをしどけなく着なしたまひて、紐などもうち捨てて、添ひ臥したまへる御火影、いとめでたく、女にて見たてまつらまほし。この御ためには上が上を選り出でても、なほ飽くまじく見えたまふ。 |
"いでや、かみのしなとおもふにだにかたげなるよを。"と、きみはおぼすべし。しろきおほんぞどものなよらかなるに、なほしばかりをしどけなくきなしたまひて、ひもなどもうちすてて、そひふしたまへるおほんほかげ、いとめでたく、をんなにてみたてまつらまほし。このおほんためにはかみがかみをえりいでても、なほあくまじくみえたまふ。 |
02 | 1.3.12 | 98 | 74 |
さまざまの人の上どもを語り合はせつつ、 |
さまざまのひとのうへどもをかたりあはせつつ、 |
02 | 1.3.13 | 99 | 75 |
「おほかたの世につけて見るには咎なきも、わがものとうち頼むべきを選らむに、多かる中にも、えなむ思ひ定むまじかりける。男の朝廷に仕うまつり、はかばかしき世のかためとなるべきも、まことの器ものとなるべきを取り出ださむには、かたかるべしかし。 |
"おほかたのよにつけてみるにはとがなきも、わがものとうちたのむべきをえらんに、おほかるなかにも、えなんおもひさだむまじかりける。をのこのおほやけにつかうまつり、はかばかしきよのかためとなるべきも、まことのうつはものとなるべきをとりいださんには、かたかるべしかし。 |
02 | 1.3.14 | 100 | 76 |
されど、賢しとても、一人二人世の中をまつりごちしるべきならねば、上は下に輔けられ、下は上になびきて、こと広きに譲ろふらむ。 |
されど、かしこしとても、ひとりふたりよのなかをまつりごちしるべきならねば、かみはしもにたすけられ、しもはかみになびきて、ことひろきにゆづろふらん。 |
02 | 1.3.15 | 101 | 77 |
狭き家の内の主人とすべき人一人を思ひめぐらすに、足らはで悪しかるべき大事どもなむ、かたがた多かる。とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさてもありぬべき人の少なきを、好き好きしき心のすさびにて、人のありさまをあまた見合はせむの好みならねど、ひとへに思ひ定むべきよるべとすばかりに、同じくは、わが力入りをし直しひきつくろふべき所なく、心にかなふやうにもやと、選りそめつる人の、定まりがたきなるべし。 |
せばきいへのうちのあるじとすべきひとひとりをおもひめぐらすに、たらはであしかるべきだいじどもなん、かたがたおほかる。とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさてもありぬべきひとのすくなきを、すきずきしきこころのすさびにて、ひとのありさまをあまたみあはせんのこのみならねど、ひとへにおもひさだむべきよるべとすばかりに、おなじくは、わがちからいりをしなほしひきつくろふべきところなく、こころにかなふやうにもやと、えりそめつるひとの、さだまりがたきなるべし。 |
02 | 1.3.16 | 102 | 78 |
かならずしもわが思ふにかなはねど、見そめつる契りばかりを捨てがたく思ひとまる人は、ものまめやかなりと見え、さて、保たるる女のためも、心にくく推し量らるるなり。されど、何か、世のありさまを見たまへ集むるままに、心に及ばずいとゆかしきこともなしや。君達の上なき御選びには、まして、いかばかりの人かは足らひたまはむ。 |
かならずしもわがおもふにかなはねど、みそめつるちぎりばかりをすてがたくおもひとまるひとは、ものまめやかなりとみえ、さて、たもたるるをんなのためも、こころにくくおしはからるるなり。されど、なにか、よのありさまをみたまへあつむるままに、こころにおよばずいとゆかしきこともなしや。きんだちのかみなきおほんえらびには、まして、いかばかりのひとかはたらひたまはん。 |
02 | 1.3.17 | 103 | 79 |
容貌きたなげなく、若やかなるほどの、おのがじしは塵もつかじと身をもてなし、文を書けど、おほどかに言選りをし、墨つきほのかに心もとなく思はせつつ、またさやかにも見てしがなとすべなく待たせ、わづかなる声聞くばかり言ひ寄れど、息の下にひき入れ言少ななるが、いとよくもて隠すなりけり。なよびかに女しと見れば、あまり情けにひきこめられて、とりなせば、あだめく。これをはじめの難とすべし。 |
かたちきたなげなく、わかやかなるほどの、おのがじしはちりもつかじとみをもてなし、ふみをかけど、おほどかにことえりをし、すみつきほのかにこころもとなくおもはせつつ、またさやかにもみてしがなとすべなくまたせ、わづかなるこゑきくばかりいひよれど、いきのしたにひきいれことずくななるが、いとよくもてかくすなりけり。なよびかにをんなしとみれば、あまりなさけにひきこめられて、とりなせば、あだめく。これをはじめのなんとすべし。 |
02 | 1.3.18 | 104 | 80 |
事が中に、なのめなるまじき人の後見の方は、もののあはれ知り過ぐし、はかなきついでの情けあり、をかしきに進める方なくてもよかるべしと見えたるに、また、まめまめしき筋を立てて耳はさみがちに美さうなき家刀自の、ひとへにうちとけたる後見ばかりをして。 |
ことがなかに、なのめなるまじきひとのうしろみのかたは、もののあはれしりすぐし、はかなきついでのなさけあり、をかしきにすすめるかたなくてもよかるべしとみえたるに、また、まめまめしきすぢをたててみみはさみがちにびさうなきいへとうじの、ひとへにうちとけたるうしろみばかりをして。 |
02 | 1.3.19 | 105 | 81 |
朝夕の出で入りにつけても、公私の人のたたずまひ、善き悪しきことの、目にも耳にもとまるありさまを、疎き人に、わざとうちまねばむやは。近くて見む人の聞きわき思ひ知るべからむに語りも合はせばやと、うちも笑まれ、涙もさしぐみ、もしは、あやなきおほやけ腹立たしく、心ひとつに思ひあまることなど多かるを、何にかは聞かせむと思へば、うちそむかれて、人知れぬ思ひ出で笑ひもせられ、『あはれ』とも、うち独りごたるるに、『何ごとぞ』など、あはつかにさし仰ぎゐたらむは、いかがは口惜しからぬ。 |
あさゆふのいでいりにつけても、おほやけわたくしのひとのたたずまひ、よきあしきことの、めにもみみにもとまるありさまを、うときひとに、わざとうちまねばんやは。ちかくてみんひとのききわきおもひしるべからんにかたりもあはせばやと、うちもゑまれ、なみだもさしぐみ、もしは、あやなきおほやけはらだたしく、こころひとつにおもひあまることなどおほかるを、なににかはきかせんとおもへば、うちそむかれて、ひとしれぬおもひいでわらひもせられ、'あはれ'とも、うちひとりごたるるに、'なにごとぞ。'など、あはつかにさしあふぎゐたらんは、いかがはくちをしからぬ。 |
02 | 1.3.20 | 106 | 82 |
ただひたふるに子めきて柔らかならむ人を、とかくひきつくろひてはなどか見ざらむ。心もとなくとも、直し所ある心地すべし。げに、さし向ひて見むほどは、さてもらうたき方に罪ゆるし見るべきを、立ち離れてさるべきことをも言ひやり、をりふしにし出でむわざのあだ事にもまめ事にも、わが心と思ひ得ることなく深きいたりなからむは、いと口惜しく頼もしげなき咎や、なほ苦しからむ。常はすこしそばそばしく心づきなき人の、をりふしにつけて出でばえするやうもありかし」 |
ただひたふるにこめきてやはらかならんひとを、とかくひきつくろひてはなどかみざらん。こころもとなくとも、なほしどころあるここちすべし。げに、さしむかひてみんほどは、さてもらうたきかたにつみゆるしみるべきを、たちはなれてさるべきことをもいひやり、をりふしにしいでんわざのあだごとにもまめごとにも、わがこころとおもひうることなくふかきいたりなからんは、いとくちをしくたのもしげなきとがや、なほくるしからん。つねはすこしそばそばしくこころづきなきひとの、をりふしにつけていでばえするやうもありかし。" |
02 | 1.3.21 | 107 | 83 |
など、隈なきもの言ひも、定めかねていたくうち嘆く。 |
など、くまなきものいひも、さだめかねていたくうちなげく。 |
02 | 1.4 | 108 | 84 | 第四段 女性論、左馬頭の結論 |
02 | 1.4.1 | 109 | 85 |
「今は、ただ、品にもよらじ。容貌をばさらにも言はじ。いと口惜しくねぢけがましきおぼえだになくは、ただひとへにものまめやかに、静かなる心のおもむきならむよるべをぞ、つひの頼み所には思ひおくべかりける。 |
"いまは、ただ、しなにもよらじ。かたちをばさらにもいはじ。いとくちをしくねぢけがましきおぼえだになくは、ただひとへにものまめやかに、しづかなるこころのおもむきならんよるべをぞ、つひのたのみどころにはおもひおくべかりける。 |
02 | 1.4.2 | 110 | 86 |
あまりのゆゑよし心ばせうち添へたらむをば、よろこびに思ひ、すこし後れたる方あらむをも、あながちに求め加へじ。うしろやすくのどけき所だに強くは、うはべの情けは、おのづからもてつけつべきわざをや。 |
あまりのゆゑよしこころばせうちそへたらんをば、よろこびにおもひ、すこしおくれたるかたあらんをも、あながちにもとめくはへじ。うしろやすくのどけきところだにつよくは、うはべのなさけは、おのづからもてつけつべきわざをや。 |
02 | 1.4.3 | 111 | 87 |
艶にもの恥ぢして、恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍びて、上はつれなくみさをづくり、心一つに思ひあまる時は、言はむかたなくすごき言の葉、あはれなる歌を詠みおき、しのばるべき形見をとどめて、深き山里、世離れたる海づらなどにはひ隠れぬるをり。 |
えんにものはぢして、うらみいふべきことをもみしらぬさまにしのびて、うへはつれなくみさをづくり、こころひとつにおもひあまるときは、いはんかたなくすごきことのは、あはれなるうたをよみおき、しのばるべきかたみをとどめて、ふかきやまざと、よばなれたるうみづらなどにはひかくれぬるをり。 |
02 | 1.4.4 | 112 | 88 |
童にはべりし時、女房などの物語読みしを聞きて、いとあはれに悲しく、心深きことかなと、涙をさへなむ落としはべりし。今思ふには、いと軽々しく、ことさらびたることなり。 |
わらはにはべりしとき、にょうばうなどのものがたりよみしをききて、いとあはれにかなしく、こころふかきことかなと、なみだをさへなんおとしはべりし。いまおもふには、いとかるがるしく、ことさらびたることなり。 |
02 | 1.4.5 | 113 | 89 |
心ざし深からむ男をおきて、見る目の前につらきことありとも、人の心を見知らぬやうに逃げ隠れて、人をまどはし、心を見むとするほどに、長き世のもの思ひになる、いとあぢきなきことなり。 |
こころざしふかからんをとこをおきて、みるめのまへにつらきことありとも、ひとのこころをみしらぬやうににげかくれて、ひとをまどはし、こころをみんとするほどに、ながきよのものおもひになる、いとあぢきなきことなり。 |
02 | 1.4.6 | 114 | 90 |
『心深しや』など、ほめたてられて、あはれ進みぬれば、やがて尼になりぬかし。思ひ立つほどは、いと心澄めるやうにて、世に返り見すべくも思へらず。『いで、あな悲し。かくはた思しなりにけるよ』などやうに、あひ知れる人来とぶらひ、ひたすらに憂しとも思ひ離れぬ男、聞きつけて涙落とせば、使ふ人、古御達など、『君の御心は、あはれなりけるものを。あたら御身を』など言ふ。みづから額髪をかきさぐりて、あへなく心細ければ、うちひそみぬかし。忍ぶれど涙こぼれそめぬれば、折々ごとにえ念じえず、悔しきこと多かめるに、仏もなかなか心ぎたなしと、見たまひつべし。濁りにしめるほどよりも、なま浮かびにては、かへりて悪しき道にも漂ひぬべくぞおぼゆる。 |
'こころふかしや。'など、ほめたてられて、あはれすすみぬれば、やがてあまになりぬかし。おもひたつほどは、いとこころすめるやうにて、よにかへりみすべくもおもへらず。'いで、あなかなし。かくはたおぼしなりにけるよ。'などやうに、あひしれるひときとぶらひ、ひたすらにうしともおもひはなれぬをとこ、ききつけてなみだおとせば、つかふひと、ふるごたちなど、'きみのみこころは、あはれなりけるものを。あたらおほんみを。'などいふ。みづからひたひがみをかきさぐりて、あへなくこころぼそければ、うちひそみぬかし。しのぶれどなみだこぼれそめぬれば、をりをりごとにえねんじえず、くやしきことおほかめるに、ほとけもなかなかこころぎたなしと、みたまひつべし。にごりにしめるほどよりも、なまうかびにては、かへりてあしきみちにもただよひぬべくぞおぼゆる。 |
02 | 1.4.7 | 115 | 91 |
絶えぬ宿世浅からで、尼にもなさで尋ね取りたらむも、やがてあひ添ひて、とあらむ折もかからむきざみをも、見過ぐしたらむ仲こそ、契り深くあはれならめ、我も人も、うしろめたく心おかれじやは。 |
たえぬすくせあさからで、あまにもなさでたづねとりたらんも、やがてあひそひて、とあらんをりもかからんきざみをも、みすぐしたらんなかこそ、ちぎりふかくあはれならめ、われもひとも、うしろめたくこころおかれじやは。 |
02 | 1.4.8 | 116 | 92 |
また、なのめに移ろふ方あらむ人を恨みて、気色ばみ背かむ、はたをこがましかりなむ。心は移ろふ方ありとも、見そめし心ざしいとほしく思はば、さる方のよすがに思ひてもありぬべきに、さやうならむたぢろきに、絶えぬべきわざなり。 |
また、なのめにうつろふかたあらんひとをうらみて、けしきばみそむかん、はたをこがましかりなん。こころはうつろふかたありとも、みそめしこころざしいとほしくおもはば、さるかたのよすがにおもひてもありぬべきに、さやうならんたぢろきに、たえぬべきわざなり。 |
02 | 1.4.9 | 117 | 93 |
すべて、よろづのことなだらかに、怨ずべきことをば見知れるさまにほのめかし、恨むべからむふしをも憎からずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし。多くは、わが心も見る人からをさまりもすべし。あまりむげにうちゆるべ見放ちたるも、心安くらうたきやうなれど、おのづから軽き方にぞおぼえはべるかし。繋がぬ舟の浮きたる例も、げにあやなし。さははべらぬか」 |
すべて、よろづのことなだらかに、ゑんずべきことをばみしれるさまにほのめかし、うらむべからんふしをもにくからずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし。おほくは、わがこころもみるひとからをさまりもすべし。あまりむげにうちゆるべみはなちたるも、こころやすくらうたきやうなれど、おのづからかろきかたにぞおぼえはべるかし。つながぬふねのうきたるためしも、げにあやなし。さははべらぬか。" |
02 | 1.4.10 | 118 | 94 |
と言へば、中将うなづく。 |
といへば、ちゅうじゃううなづく。 |
02 | 1.4.11 | 119 | 95 |
「さしあたりて、をかしともあはれとも心に入らむ人の、頼もしげなき疑ひあらむこそ、大事なるべけれ。わが心あやまちなくて見過ぐさば、さし直してもなどか見ざらむとおぼえたれど、それさしもあらじ。ともかくも、違ふべきふしあらむを、のどやかに見忍ばむよりほかに、ますことあるまじかりけり」 |
"さしあたりて、をかしともあはれともこころにいらんひとの、たのもしげなきうたがひあらんこそ、だいじなるべけれ。わがこころあやまちなくてみすぐさば、さしなほしてもなどかみざらんとおぼえたれど、それさしもあらじ。ともかくも、たがふべきふしあらんを、のどやかにみしのばんよりほかに、ますことあるまじかりけり。" |
02 | 1.4.12 | 120 | 96 |
と言ひて、わが妹の姫君は、この定めにかなひたまへりと思へば、君のうちねぶりて言葉まぜたまはぬを、さうざうしく心やましと思ふ。馬頭、物定めの博士になりて、ひひらきゐたり。中将は、このことわり聞き果てむと、心入れて、あへしらひゐたまへり。 |
といひて、わがいもうとのひめぎみは、このさだめにかなひたまへりとおもへば、きみのうちねぶりてことばまぜたまはぬを、さうざうしくこころやましとおもふ。むまのかみ、ものさだめのはかせになりて、ひひらきゐたり。ちゅうじゃうは、このことわりききはてんと、こころいれて、あへしらひゐたまへり。 |
02 | 1.4.13 | 121 | 97 |
「よろづのことによそへて思せ。木の道の匠のよろづの物を心にまかせて作り出だすも、臨時のもてあそび物の、その物と跡も定まらぬは、そばつきさればみたるも、げにかうもしつべかりけりと、時につけつつさまを変へて、今めかしきに目移りてをかしきもあり。大事として、まことにうるはしき人の調度の飾りとする、定まれるやうある物を難なくし出づることなむ、なほまことの物の上手は、さまことに見え分かれはべる。 |
"よろづのことによそへておぼせ。きのみちのたくみのよろづのものをこころにまかせてつくりいだすも、りんじのもてあそびものの、そのものとあともさだまらぬは、そばつきさればみたるも、げにかうもしつべかりけりと、ときにつけつつさまをかへて、いまめかしきにめうつりてをかしきもあり。だいじとして、まことにうるはしきひとのてうどのかざりとする、さだまれるやうあるものをなんなくしいづることなん、なほまことのもののじゃうずは、さまことにみえわかれはべる。 |
02 | 1.4.14 | 122 | 98 |
また絵所に上手多かれど、墨がきに選ばれて、次々にさらに劣りまさるけぢめ、ふとしも見え分かれず。かかれど、人の見及ばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚の姿、唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔などの、おどろおどろしく作りたる物は、心にまかせてひときは目驚かして、実には似ざらめど、さてありぬべし。 |
またゑどころにじゃうずおほかれど、すみがきにえらばれて、つぎつぎにさらにおとりまさるけぢめ、ふとしもみえわかれず。かかれど、ひとのみおよばぬほうらいのやま、あらうみのいかれるいをのすがた、からくにのはげしきけだもののかたち、めにみえぬおにのかほなどの、おどろおどろしくつくりたるものは、こころにまかせてひときはめおどろかして、じちにはにざらめど、さてありぬべし。 |
02 | 1.4.15 | 123 | 99 |
世の常の山のたたずまひ、水の流れ、目に近き人の家居ありさま、げにと見え、なつかしくやはらいだる形などを静かに描きまぜて、すくよかならぬ山の景色、木深く世離れて畳みなし、け近き籬の内をば、その心しらひおきてなどをなむ、上手はいと勢ひことに、悪ろ者は及ばぬ所多かめる。 |
よのつねのやまのたたずまひ、みづのながれ、めにちかきひとのいへゐありさま、げにとみえ、なつかしくやはらいだるかたなどをしづかにかきまぜて、すくよかならぬやまのけしき、こぶかくよばなれてたたみなし、けぢかきまがきのうちをば、そのこころしらひおきてなどをなん、じゃうずはいといきほひことに、わろものはおよばぬところおほかめる。 |
02 | 1.4.16 | 124 | 100 |
手を書きたるにも、深きことはなくて、ここかしこの、点長に走り書き、そこはかとなく気色ばめるは、うち見るにかどかどしく気色だちたれど、なほまことの筋をこまやかに書き得たるは、うはべの筆消えて見ゆれど、今ひとたびとり並べて見れば、なほ実になむよりける。 |
てをかきたるにも、ふかきことはなくて、ここかしこの、てんながにはしりかき、そこはかとなくけしきばめるは、うちみるにかどかどしくけしきだちたれど、なほまことのすぢをこまやかにかきえたるは、うはべのふできえてみゆれど、いまひとたびとりならべてみれば、なほじちになんよりける。 |
02 | 1.4.17 | 125 | 101 |
はかなきことだにかくこそはべれ。まして人の心の、時にあたりて気色ばめらむ見る目の情けをば、え頼むまじく思うたまへ得てはべる。そのはじめのこと、好き好きしくとも申しはべらむ」 |
はかなきことだにかくこそはべれ。ましてひとのこころの、ときにあたりてけしきばめらんみるめのなさけをば、えたのむまじくおもうたまへえてはべる。そのはじめのこと、すきずきしくともまうしはべらん。" |
02 | 1.4.18 | 126 | 102 |
とて、近くゐ寄れば、君も目覚ましたまふ。中将いみじく信じて、頬杖をつきて向かひゐたまへり。法の師の世のことわり説き聞かせむ所の心地するも、かつはをかしけれど、かかるついでは、おのおの睦言もえ忍びとどめずなむありける。 |
とて、ちかくゐよれば、きみもめさましたまふ。ちゅうじゃういみじくしんじて、つらづえをつきてむかひゐたまへり。のりのしのよのことわりとききかせんところのここちするも、かつはをかしけれど、かかるついでは、おのおのむつごともえしのびとどめずなんありける。 |
02 | 2 | 127 | 103 | 第二章 女性体験談 |
02 | 2.1 | 128 | 104 | 第一段 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語) |
02 | 2.1.1 | 129 | 105 |
「はやう、まだいと下臈にはべりし時、あはれと思ふ人はべりき。聞こえさせつるやうに、容貌などいとまほにもはべらざりしかば、若きほどの好き心には、この人をとまりにとも思ひとどめはべらず、よるべとは思ひながら、さうざうしくて、とかく紛れはべりしを、もの怨じをいたくしはべりしかば、心づきなく、いとかからで、おいらかならましかばと思ひつつ、あまりいと許しなく疑ひはべりしもうるさくて、かく数ならぬ身を見も放たで、などかくしも思ふらむと、心苦しき折々もはべりて、自然に心をさめらるるやうになむはべりし。 |
"はやう、まだいとげらふにはべりしとき、あはれとおもふひとはべりき。きこえさせつるやうに、かたちなどいとまほにもはべらざりしかば、わかきほどのすきごころには、このひとをとまりにともおもひとどめはべらず、よるべとはおもひながら、さうざうしくて、とかくまぎれはべりしを、ものゑんじをいたくしはべりしかば、こころづきなく、いとかからで、おいらかならましかばとおもひつつ、あまりいとゆるしなくうたがひはべりしもうるさくて、かくかずならぬみをみもはなたで、などかくしもおもふらんと、こころぐるしきをりをりもはべりて、じねんにこころをさめらるるやうになんはべりし。 |
02 | 2.1.2 | 130 | 106 |
この女のあるやう、もとより思ひいたらざりけることにも、いかでこの人のためにはと、なき手を出だし、後れたる筋の心をも、なほ口惜しくは見えじと思ひはげみつつ、とにかくにつけて、ものまめやかに後見、つゆにても心に違ふことはなくもがなと思へりしほどに、進める方と思ひしかど、とかくになびきてなよびゆき、醜き容貌をも、この人に見や疎まれむと、わりなく思ひつくろひ、疎き人に見えば、面伏せにや思はむと、憚り恥ぢて、みさをにもてつけて見馴るるままに、心もけしうはあらずはべりしかど、ただこの憎き方一つなむ、心をさめずはべりし。 |
このをんなのあるやう、もとよりおもひいたらざりけることにも、いかでこのひとのためにはと、なきてをいだし、おくれたるすぢのこころをも、なほくちをしくはみえじとおもひはげみつつ、とにかくにつけて、ものまめやかにうしろみ、つゆにてもこころにたがふことはなくもがなとおもへりしほどに、すすめるかたとおもひしかど、とかくになびきてなよびゆき、みにくきかたちをも、このひとにみやうとまれんと、わりなくおもひつくろひ、うときひとにみえば、おもてぶせにやおもはんと、はばかりはぢて、みさをにもてつけてみなるるままに、こころもけしうはあらずはべりしかど、ただこのにくきかたひとつなん、こころをさめずはべりし。 |
02 | 2.1.3 | 131 | 107 |
そのかみ思ひはべりしやう、かうあながちに従ひ怖ぢたる人なめり、いかで懲るばかりのわざして、おどして、この方もすこしよろしくもなり、さがなさもやめむと思ひて、まことに憂しなども思ひて絶えぬべき気色ならば、かばかり我に従ふ心ならば思ひ懲りなむと思うたまへ得て、ことさらに情けなくつれなきさまを見せて、例の腹立ち怨ずるに、 |
そのかみおもひはべりしやう、かうあながちにしたがひおぢたるひとなめり、いかでこるばかりのわざして、おどして、このかたもすこしよろしくもなり、さがなさもやめんとおもひて、まことにうしなどもおもひてたえぬべきけしきならば、かばかりわれにしたがふこころならばおもひこりなんとおもうたまへえて、ことさらになさけなくつれなきさまをみせて、れいのはらだちゑんずるに、 |
02 | 2.1.4 | 132 | 108 |
『かくおぞましくは、いみじき契り深くとも、絶えてまた見じ。限りと思はば、かくわりなきもの疑ひはせよ。行く先長く見えむと思はば、つらきことありとも、念じてなのめに思ひなりて、かかる心だに失せなば、いとあはれとなむ思ふべき。人並々にもなり、すこしおとなびむに添へて、また並ぶ人なくあるべき』やうなど、かしこく教へたつるかなと思ひたまへて、われたけく言ひそしはべるに、すこしうち笑ひて、 |
'かくおぞましくは、いみじきちぎりふかくとも、たえてまたみじ。かぎりとおもはば、かくわりなきものうたがひはせよ。ゆくさきながくみえんとおもはば、つらきことありとも、ねんじてなのめにおもひなりて、かかるこころだにうせなば、いとあはれとなんおもふべき。ひとなみなみにもなり、すこしおとなびんにそへて、またならぶひとなくあるべき。'やうなど、かしこくをしへたつるかなとおもひたまへて、われたけくいひそしはべるに、すこしうちわれひて、 |
02 | 2.1.5 | 133 | 109 |
『よろづに見立てなく、ものげなきほどを見過ぐして、人数なる世もやと待つ方は、いとのどかに思ひなされて、心やましくもあらず。つらき心を忍びて、思ひ直らむ折を見つけむと、年月を重ねむあいな頼みは、いと苦しくなむあるべければ、かたみに背きぬべききざみになむある』 |
'よろづにみだてなく、ものげなきほどをみすぐして、ひとかずなるよもやとまつかたは、いとのどかにおもひなされて、こころやましくもあらず。つらきこころをしのびて、おもひなほらんをりをみつけんと、としつきをかさねんあいなだのみは、いとくるしくなんあるべければ、かたみにそむきぬべききざみになんある。' |
02 | 2.1.6 | 134 | 110 |
とねたげに言ふに、腹立たしくなりて、憎げなることどもを言ひはげましはべるに、女もえをさめぬ筋にて、指ひとつを引き寄せて喰ひてはべりしを、おどろおどろしくかこちて、 |
とねたげにいふに、はらだたしくなりて、にくげなることどもをいひはげましはべるに、をんなもえをさめぬすぢにて、およびひとつをひきよせてくひてはべりしを、おどろおどろしくかこちて、 |
02 | 2.1.7 | 135 | 111 |
『かかる疵さへつきぬれば、いよいよ交じらひをすべきにもあらず。辱めたまふめる官位、いとどしく何につけてかは人めかむ。世を背きぬべき身なめり』など言ひ脅して、『さらば、今日こそは限りなめれ』と、この指をかがめてまかでぬ。 |
'かかるきずさへつきぬれば、いよいよまじらひをすべきにもあらず。はづかしめたまふめるつかさくらゐ、いとどしくなににつけてかはひとめかん。よをそむきぬべきみなめり。'などいひおどして、'さらば、けふこそはかぎりなめれ。'と、このおよびをかがめてまかでぬ。 |
02 | 2.1.8 | 136 | 113 |
『手を折りてあひ見しことを数ふれば<BR/>これひとつやは君が憂きふし |
'〔てををりてあひみしことをかぞふれば<BR/>これひとつやはきみがうきふし |
02 | 2.1.9 | 137 | 114 |
えうらみじ』 |
えうらみじ。' |
02 | 2.1.10 | 138 | 115 |
など言ひはべれば、さすがにうち泣きて、 |
などいひはべれば、さすがにうちなきて、 |
02 | 2.1.11 | 139 | 116 |
『憂きふしを心ひとつに数へきて<BR/>こや君が手を別るべきをり』 |
'〔うきふしをこころひとつにかぞへきて<BR/>こやきみがてをわかるべきをり〕 |
02 | 2.1.12 | 140 | 117 |
など、言ひしろひはべりしかど、まことには変るべきこととも思ひたまへずながら、日ごろ経るまで消息も遣はさず、あくがれまかり歩くに、臨時の祭の調楽に、夜更けていみじう霙降る夜、これかれまかりあかるる所にて、思ひめぐらせば、なほ家路と思はむ方はまたなかりけり。 |
など、いひしろひはべりしかど、まことにはかはるべきことともおもひたまへずながら、ひごろふるまでせうそこもつかはさず、あくがれまかりありくに、りんじのまつりのでうがくに、よふけていみじうみぞれふるよ、これかれまかりあかるるところにて、おもひめぐらせば、なほいへぢとおもはんかたはまたなかりけり。 |
02 | 2.1.13 | 141 | 118 |
内裏わたりの旅寝すさまじかるべく、気色ばめるあたりはそぞろ寒くや、と思ひたまへられしかば、いかが思へると、気色も見がてら、雪をうち払ひつつ、なま人悪ろく爪喰はるれど、さりとも今宵日ごろの恨みは解けなむ、と思うたまへしに、火ほのかに壁に背け、萎えたる衣どもの厚肥えたる、大いなる籠にうち掛けて、引き上ぐべきものの帷子などうち上げて、今宵ばかりやと、待ちけるさまなり。さればよと、心おごりするに、正身はなし。さるべき女房どもばかりとまりて、『親の家に、この夜さりなむ渡りぬる』と答へはべり。 |
うちわたりのたびねすさまじかるべく、けしきばめるあたりはそぞろさむくや、とおもひたまへられしかば、いかがおもへると、けしきもみがてら、ゆきをうちはらひつつ、なまひとわろくつめくはるれど、さりともこよひひごろのうらみはとけなん、とおもうたまへしに、ひほのかにかべにそむけ、なえたるきぬどものあつごえたる、おほいなるこにうちかけて、ひきあぐべきもののかたびらなどうちあげて、こよひばかりやと、まちけるさまなり。さればよと、こころおごりするに、さうじみはなし。さるべきにょうばうどもばかりとまりて、'おやのいへに、このよさりなんわたりぬる。'とこたへはべり。 |
02 | 2.1.14 | 142 | 119 |
艶なる歌も詠まず、気色ばめる消息もせで、いとひたや籠もりに情けなかりしかば、あへなき心地して、さがなく許しなかりしも、我を疎みねと思ふ方の心やありけむと、さしも見たまへざりしことなれど、心やましきままに思ひはべりしに、着るべき物、常よりも心とどめたる色あひ、しざまいとあらまほしくて、さすがにわが見捨ててむ後をさへなむ、思ひやり後見たりし。 |
えんなるうたもよまず、けしきばめるせうそこもせで、いとひたやごもりになさけなかりしかば、あへなきここちして、さがなくゆるしなかりしも、われをうとみねとおもふかたのこころやありけんと、さしもみたまへざりしことなれど、こころやましきままにおもひはべりしに、きるべきもの、つねよりもこころとどめたるいろあひ、しざまいとあらまほしくて、さすがにわがみすててんのちをさへなん、おもひやりうしろみたりし。 |
02 | 2.1.15 | 143 | 120 |
さりとも、絶えて思ひ放つやうはあらじと思うたまへて、とかく言ひはべりしを、背きもせずと、尋ねまどはさむとも隠れ忍びず、かかやかしからず答へつつ、ただ、『ありしながらは、えなむ見過ぐすまじき。あらためてのどかに思ひならばなむ、あひ見るべき』など言ひしを、さりともえ思ひ離れじと思ひたまへしかば、しばし懲らさむの心にて、『しかあらためむ』とも言はず、いたく綱引きて見せしあひだに、いといたく思ひ嘆きて、はかなくなりはべりにしかば、戯れにくくなむおぼえはべりし。 |
さりとも、たえておもひはなつやうはあらじとおもうたまへて、とかくいひはべりしを、そむきもせずと、たづねまどはさんともかくれしのびず、かかやかしからずいらへつつ、ただ、'ありしながらは、えなんみすぐすまじき。あらためてのどかにおもひならばなん、あひみるべき。'などいひしを、さりともえおもひはなれじとおもひたまへしかば、しばしこらさんのこころにて、'しかあらためん'ともいはず、いたくつなびきてみせしあひだに、いといたくおもひなげきて、はかなくなりはべりにしかば、たはぶれにくくなんおぼえはべりし。 |
02 | 2.1.16 | 144 | 121 |
ひとへにうち頼みたらむ方は、さばかりにてありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる。はかなきあだ事をもまことの大事をも、言ひあはせたるにかひなからず、龍田姫と言はむにもつきなからず、織女の手にも劣るまじくその方も具して、うるさくなむはべりし」 |
ひとへにうちたのみたらんかたは、さばかりにてありぬべくなんおもひたまへいでらるる。はかなきあだごとをもまことのだいじをも、いひあはせたるにかひなからず、たつたひめといはんにもつきなからず、たなばたのてにもおとるまじくそのかたもぐして、うるさくなんはべりし。" |
02 | 2.1.17 | 145 | 122 |
とて、いとあはれと思ひ出でたり。中将、 |
とて、いとあはれとおもひいでたり。ちゅうじゃう、 |
02 | 2.1.18 | 146 | 123 |
「その織女の裁ち縫ふ方をのどめて、長き契りにぞあえまし。げに、その龍田姫の錦には、またしくものあらじ。はかなき花紅葉といふも、をりふしの色あひつきなく、はかばかしからぬは、露のはえなく消えぬるわざなり。さあるにより、難き世とは定めかねたるぞや」 |
"そのたなばたのたちぬふかたをのどめて、ながきちぎりにぞあえまし。げに、そのたつたひめのにしきには、またしくものあらじ。はかなきはなもみぢといふも、をりふしのいろあひつきなく、はかばかしからぬは、つゆのはえなくきえぬるわざなり。さあるにより、かたきよとはさだめかねたるぞや。" |
02 | 2.1.19 | 147 | 124 |
と、言ひはやしたまふ。 |
と、いひはやしたまふ。 |
02 | 2.2 | 148 | 125 | 第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語) |
02 | 2.2.1 | 149 | 126 |
「さて、また同じころ、まかり通ひし所は、人も立ちまさり心ばせまことにゆゑありと見えぬべく、うち詠み、走り書き、掻い弾く爪音、手つき口つき、みなたどたどしからず、見聞きわたりはべりき。見る目もこともなくはべりしかば、このさがな者を、うちとけたる方にて、時々隠ろへ見はべりしほどは、こよなく心とまりはべりき。この人亡せて後、いかがはせむ、あはれながらも過ぎぬるはかひなくて、しばしばまかり馴るるには、すこしまばゆく艶に好ましきことは、目につかぬ所あるに、うち頼むべくは見えず、かれがれにのみ見せはべるほどに、忍びて心交はせる人ぞありけらし。 |
"さて、またおなじころ、まかりかよひしところは、ひともたちまさりこころばせまことにゆゑありとみえぬべく、うちよみ、はしりかき、かいひくつまおと、てつきくちつき、みなたどたどしからず、みききわたりはべりき。みるめもこともなくはべりしかば、このさがなものを、うちとけたるかたにて、ときどきかくろへみはべりしほどは、こよなくこころとまりはべりき。このひとうせてのち、いかがはせん、あはれながらもすぎぬるはかひなくて、しばしばまかりなるるには、すこしまばゆくえんにこのましきことは、めにつかぬところあるに、うちたのむべくはみえず、かれがれにのみみせはべるほどに、しのびてこころかはせるひとぞありけらし。 |
02 | 2.2.2 | 150 | 127 |
神無月のころほひ、月おもしろかりし夜、内裏よりまかではべるに、ある上人来あひて、この車にあひ乗りてはべれば、大納言の家にまかり泊まらむとするに、この人言ふやう、『今宵人待つらむ宿なむ、あやしく心苦しき』とて、この女の家はた、避きぬ道なりければ、荒れたる崩れより池の水かげ見えて、月だに宿る住処を過ぎむもさすがにて、下りはべりぬかし。 |
かんなづきのころほひ、つきおもしろかりしよ、うちよりまかではべるに、あるうへびときあひて、このくるまにあひのりてはべれば、だいなごんのいへにまかりとまらんとするに、このひといふやう、'こよひひとまつらんやどなん、あやしくこころぐるしき'とて、このをんなのいへはた、よきぬみちなりければ、あれたるくづれよりいけのみづかげみえて、つきだにやどるすみかをすぎんもさすがにて、おりはべりぬかし。 |
02 | 2.2.3 | 151 | 128 |
もとよりさる心を交はせるにやありけむ、この男いたくすずろきて、門近き廊の簀子だつものに尻かけて、とばかり月を見る。菊いとおもしろく移ろひわたり、風に競へる紅葉の乱れなど、あはれと、げに見えたり。 |
もとよりさるこころをかはせるにやありけん、このをとこいたくすずろきて、かどちかきらうのすのこだつものにしりかけて、とばかりつきをみる。きくいとおもしろくうつろひわたり、かぜにきほへるもみぢのみだれなど、あはれと、げにみえたり。 |
02 | 2.2.4 | 152 | 130 |
懐なりける笛取り出でて吹き鳴らし、『蔭もよし』などつづしり謡ふほどに、よく鳴る和琴を、調べととのへたりける、うるはしく掻き合はせたりしほど、けしうはあらずかし。律の調べは、女のものやはらかに掻き鳴らして、簾の内より聞こえたるも、今めきたる物の声なれば、清く澄める月に折つきなからず。男いたくめでて、簾のもとに歩み来て、 |
ふところなりけるふえとりいでてふきならし、'かげもよし〕などつづしりうたふほどに、よくなるわごんを、しらべととのへたりける、うるはしくかきあはせたりしほど、けしうはあらずかし。りちのしらべは、をんなのものやはらかにかきならして、すのうちよりきこえたるも、いまめきたるもののこゑなれば、きよくすめるつきにをりつきなからず。をとこいたくめでて、すのもとにあゆみきて、 |
02 | 2.2.5 | 153 | 131 |
『庭の紅葉こそ、踏み分けたる跡もなけれ』などねたます。菊を折りて、 |
'にはのもみぢこそ、ふみわけたるあともなけれ'などねたます。きくををりて、 |
02 | 2.2.6 | 154 | 132 |
『琴の音も月もえならぬ宿ながら<BR/>つれなき人をひきやとめける |
'〔ことのねもつきもえならぬやどながら<BR/>つれなきひとをひきやとめける |
02 | 2.2.7 | 155 | 133 |
悪ろかめり』など言ひて、『今ひと声、聞きはやすべき人のある時、手な残いたまひそ』など、いたくあざれかかれば、女、いたう声つくろひて、 |
わろかめり。'などいひて、'いまひとこゑ、ききはやすべきひとのあるとき、てなのこいたまひそ。'など、いたくあざれかかれば、をんな、いたうこゑつくろひて、 |
02 | 2.2.8 | 156 | 134 |
『木枯に吹きあはすめる笛の音を<BR/>ひきとどむべき言の葉ぞなき』 |
'〔こがらしにふきあはすめるふえのねを<BR/>ひきとどむべきことのはぞなき〕 |
02 | 2.2.9 | 157 | 135 |
となまめき交はすに、憎くなるをも知らで、また、箏の琴を盤渉調に調べて、今めかしく掻い弾きたる爪音、かどなきにはあらねど、まばゆき心地なむしはべりし。ただ時々うち語らふ宮仕へ人などの、あくまでさればみ好きたるは、さても見る限りはをかしくもありぬべし。時々にても、さる所にて忘れぬよすがと思ひたまへむには、頼もしげなくさし過ぐいたりと心おかれて、その夜のことにことつけてこそ、まかり絶えにしか。 |
となまめきかはすに、にくくなるをもしらで、また、さうのことをばんしきでうにしらべて、いまめかしくかいひきたるつまおと、かどなきにはあらねど、まばゆきここちなんしはべりし。ただときどきうちかたらふみやづかへびとなどの、あくまでさればみすきたるは、さてもみるかぎりはをかしくもありぬべし。ときどきにても、さるところにてわすれぬよすがとおもひたまへんには、たのもしげなくさしすぐいたりとこころおかれて、そのよのことにことつけてこそ、まかりたえにしか。 |
02 | 2.2.10 | 158 | 136 |
この二つのことを思うたまへあはするに、若き時の心にだに、なほさやうにもて出でたることは、いとあやしく頼もしげなくおぼえはべりき。今より後は、ましてさのみなむ思ひたまへらるべき。御心のままに、折らば落ちぬべき萩の露、拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰などの、艶にあえかなる好き好きしさのみこそ、をかしく思さるらめ、今さりとも、七年あまりがほどに思し知りはべなむ。なにがしがいやしき諌めにて、好きたわめらむ女に心おかせたまへ。過ちして、見む人のかたくななる名をも立てつべきものなり」 |
このふたつのことをおもうたまへあはするに、わかきときのこころにだに、なほさやうにもていでたることは、いとあやしくたのもしげなくおぼえはべりき。いまよりのちは、ましてさのみなんおもひたまへらるべき。みこころのままに、をらばおちぬべきはぎのつゆ、ひろはばきえなんとみるたまざさのうへのあられなどの、えんにあえかなるすきずきしさのみこそ、をかしくおぼさるらめ、いまさりとも、ななとせあまりがほどにおぼししりはべなん。なにがしがいやしきいさめにて、すきたわめらんをんなにこころおかせたまへ。あやまちして、みんひとのかたくななるなをもたてつべきものなり。" |
02 | 2.2.11 | 159 | 137 |
と戒む。中将、例のうなづく。君すこしかた笑みて、さることとは思すべかめり。 |
といましむ。ちゅうじゃう、れいのうなづく。きみすこしかたゑみて、さることとはおぼすべかめり。 |
02 | 2.2.12 | 160 | 138 |
「いづ方につけても、人悪ろくはしたなかりける身物語かな」とて、うち笑ひおはさうず。 |
"いづかたにつけても、ひとわろくはしたなかりけるみものがたりかな。"とて、うちわらひおはさうず。 |
02 | 2.3 | 161 | 139 | 第三段 頭中将の体験談(常夏の女の物語) |
02 | 2.3.1 | 162 | 140 |
中将、 |
ちゅうじゃう、 |
02 | 2.3.2 | 163 | 141 |
「なにがしは、痴者の物語をせむ」とて、「いと忍びて見そめたりし人の、さても見つべかりしけはひなりしかば、ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど、馴れゆくままに、あはれとおぼえしかば、絶え絶え忘れぬものに思ひたまへしを、さばかりになれば、うち頼めるけしきも見えき。頼むにつけては、恨めしと思ふこともあらむと、心ながらおぼゆるをりをりもはべりしを、見知らぬやうにて、久しきとだえをも、かうたまさかなる人とも思ひたらず、ただ朝夕にもてつけたらむありさまに見えて、心苦しかりしかば、頼めわたることなどもありきかし。 |
"なにがしは、しれもののものがたりをせん"とて、"いとしのびてみそめたりしひとの、さてもみつべかりしけはひなりしかば、ながらふべきものとしもおもひたまへざりしかど、なれゆくままに、あはれとおぼえしかば、たえだえわすれぬものにおもひたまへしを、さばかりになれば、うちたのめるけしきもみえき。たのむにつけては、うらめしとおもふこともあらんと、こころながらおぼゆるをりをりもはべりしを、みしらぬやうにて、ひさしきとだえをも、かうたまさかなるひとともおもひたらず、ただあさゆふにもてつけたらんありさまにみえて、こころぐるしかりしかば、たのめわたることなどもありきかし。 |
02 | 2.3.3 | 164 | 142 |
親もなく、いと心細げにて、さらばこの人こそはと、事にふれて思へるさまもらうたげなりき。かうのどけきにおだしくて、久しくまからざりしころ、この見たまふるわたりより、情けなくうたてあることをなむ、さるたよりありてかすめ言はせたりける、後にこそ聞きはべりしか。 |
おやもなく、いとこころぼそげにて、さらばこのひとこそはと、ことにふれておもへるさまもらうたげなりき。かうのどけきにおだしくて、ひさしくまからざりしころ、このみたまふるわたりより、なさけなくうたてあることをなん、さるたよりありてかすめいはせたりける、のちにこそききはべりしか。 |
02 | 2.3.4 | 165 | 143 |
さる憂きことやあらむとも知らず、心には忘れずながら、消息などもせで久しくはべりしに、むげに思ひしをれて心細かりければ、幼き者などもありしに思ひわづらひて、撫子の花を折りておこせたりし」とて涙ぐみたり。 |
さるうきことやあらんともしらず、こころにはわすれずながら、せうそこなどもせでひさしくはべりしに、むげにおもひしをれてこころぼそかりければ、をさなきものなどもありしにおもひわづらひて、なでしこのはなををりておこせたりし。"とてなみだぐみたり。 |
02 | 2.3.5 | 166 | 144 |
「さて、その文の言葉は」と問ひたまへば、 |
"さて、そのふみのことばは。"ととひたまへば、 |
02 | 2.3.6 | 167 | 145 |
「いさや、ことなることもなかりきや。 |
"いさや、ことなることもなかりきや。 |
02 | 2.3.7 | 168 | 146 |
『山がつの垣ほ荒るとも折々に<BR/>あはれはかけよ撫子の露』 |
'〔やまがつのかきほあるともをりをりに<BR/>あはれはかけよなでしこのつゆ〕' |
02 | 2.3.8 | 169 | 148 |
思ひ出でしままにまかりたりしかば、例のうらもなきものから、いと物思ひ顔にて、荒れたる家の露しげきを眺めて、虫の音に競へるけしき、昔物語めきておぼえはべりし。 |
おもひいでしままにまかりたりしかば、れいのうらもなきものから、いとものおもひがほにて、あれたるいへのつゆしげきをながめて、むしのねにきほへるけしき、むかしものがたりめきておぼえはべりし。 |
02 | 2.3.9 | 170 | 149 |
『咲きまじる色はいづれと分かねども<BR/>なほ常夏にしくものぞなき』 |
'〔さきまじるいろはいづれとわかねども<BR/>なほとこなつにしくものぞなき〕 |
02 | 2.3.10 | 171 | 150 |
大和撫子をばさしおきて、まづ『塵をだに』など、親の心をとる。 |
やまとなでしこをばさしおきて、まづ'ちりをだに'など、おやのこころをとる。 |
02 | 2.3.11 | 172 | 151 |
『うち払ふ袖も露けき常夏に<BR/>あらし吹きそふ秋も来にけり』 |
'〔うちはらふそでもつゆけきとこなつに<BR/>あらしふきそふあきもきにけり〕 |
02 | 2.3.12 | 173 | 152 |
とはかなげに言ひなして、まめまめしく恨みたるさまも見えず。涙をもらし落としても、いと恥づかしくつつましげに紛らはし隠して、つらきをも思ひ知りけりと見えむは、わりなく苦しきものと思ひたりしかば、心やすくて、またとだえ置きはべりしほどに、跡もなくこそかき消ちて失せにしか。 |
とはかなげにいひなして、まめまめしくうらみたるさまもみえず。なみだをもらしおとしても、いとはづかしくつつましげにまぎらはしかくして、つらきをもおもひしりけりとみえんは、わりなくくるしきものとおもひたりしかば、こころやすくて、またとだえおきはべりしほどに、あともなくこそかきけちてうせにしか。 |
02 | 2.3.13 | 174 | 153 |
まだ世にあらば、はかなき世にぞさすらふらむ。あはれと思ひしほどに、わづらはしげに思ひまとはすけしき見えましかば、かくもあくがらさざらまし。こよなきとだえおかず、さるものにしなして長く見るやうもはべりなまし。かの撫子のらうたくはべりしかば、いかで尋ねむと思ひたまふるを、今もえこそ聞きつけはべらね。 |
まだよにあらば、はかなきよにぞさすらふらん。あはれとおもひしほどに、わづらはしげにおもひまとはすけしきみえましかば、かくもあくがらさざらまし。こよなきとだえおかず、さるものにしなしてながくみるやうもはべりなまし。かのなでしこのらうたくはべりしかば、いかでたづねんとおもひたまふるを、いまもえこそききつけはべらね。 |
02 | 2.3.14 | 175 | 154 |
これこそのたまへるはかなき例なめれ。つれなくてつらしと思ひけるも知らで、あはれ絶えざりしも、益なき片思ひなりけり。今やうやう忘れゆく際に、かれはたえしも思ひ離れず、折々人やりならぬ胸焦がるる夕べもあらむとおぼえはべり。これなむ、え保つまじく頼もしげなき方なりける。 |
これこそのたまへるはかなきためしなめれ。つれなくてつらしとおもひけるもしらで、あはれたえざりしも、やくなきかたおもひなりけり。いまやうやうわすれゆくきはに、かれはたえしもおもひはなれず、をりをりひとやりならぬむねこがるるゆふべもあらんとおぼえはべり。これなん、えたもつまじくたのもしげなきかたなりける。 |
02 | 2.3.15 | 176 | 155 |
されば、かのさがな者も、思ひ出である方に忘れがたけれど、さしあたりて見むにはわづらはしくよ、よくせずは、飽きたきこともありなむや。琴の音すすめけむかどかどしさも、好きたる罪重かるべし。この心もとなきも、疑ひ添ふべければ、いづれとつひに思ひ定めずなりぬるこそ。世の中や、ただかくこそ。とりどりに比べ苦しかるべき。このさまざまのよき限りをとり具し、難ずべきくさはひまぜぬ人は、いづこにかはあらむ。吉祥天女を思ひかけむとすれば、法気づき、くすしからむこそ、また、わびしかりぬべけれ」とて、皆笑ひぬ。 |
されば、かのさがなものも、おもひいであるかたにわすれがたけれど、さしあたりてみんにはわづらはしくよ、よくせずは、あきたきこともありなんや。ことのねすすめけんかどかどしさも、すきたるつみおもかるべし。このこころもとなきも、うたがひそふべければ、いづれとつひにおもひさだめずなりぬるこそ。よのなかや、ただかくこそ。とりどりにくらべくるしかるべき。このさまざまのよきかぎりをとりぐし、なんずべきくさはひまぜぬひとは、いづこにかはあらん。きちじゃうてんにょをおもひかけんとすれば、ほふけづき、くすしからんこそ、また、わびしかりぬべけれ。"とて、みなわらひぬ。 |
02 | 2.4 | 177 | 156 | 第四段 式部丞の体験談(畏れ多い女の物語) |
02 | 2.4.1 | 178 | 157 |
「式部がところにぞ、けしきあることはあらむ。すこしづつ語り申せ」と責めらる。 |
"しきぶがところにぞ、けしきあることはあらん。すこしづつかたりまうせ。"とせめらる。 |
02 | 2.4.2 | 179 | 158 |
「下が下の中には、なでふことか、聞こし召しどころはべらむ」 |
"しもがしものなかには、なでふことか、きこしめしどころはべらん。" |
02 | 2.4.3 | 180 | 159 |
と言へど、頭の君、まめやかに「遅し」と責めたまへば、何事をとり申さむと思ひめぐらすに、 |
といへど、とうのきみ、まめやかに"おそし"とせめたまへば、なにごとをとりまうさんとおもひめぐらすに、 |
02 | 2.4.4 | 181 | 160 |
「まだ文章生にはべりし時、かしこき女の例をなむ見たまへし。かの、馬頭の申したまへるやうに、公事をも言ひあはせ、私ざまの世に住まふべき心おきてを思ひめぐらさむ方もいたり深く、才の際なまなまの博士恥づかしく、すべて口あかすべくなむはべらざりし。 |
"まだもんじゃうのしゃうにはべりしとき、かしこきをんなのためしをなんみたまへし。かの、むまのかみのまうしたまへるやうに、おほやけごとをもいひあはせ、わたくしざまのよにすまふべきこころおきてをおもひめぐらさんかたもいたりふかく、ざえのきはなまなまのはかせはづかしく、すべてくちあかすべくなんはべらざりし。 |
02 | 2.4.5 | 182 | 161 |
それは、ある博士のもとに学問などしはべるとて、まかり通ひしほどに、主人のむすめども多かりと聞きたまへて、はかなきついでに言ひ寄りてはべりしを、親聞きつけて、盃持て出でて、『わが両つの途歌ふを聴け』となむ、聞こえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かの親の心を憚りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに思ひ後見、寝覚の語らひにも、身の才つき、朝廷に仕うまつるべき道々しきことを教へて、いときよげに消息文にも仮名といふもの書きまぜず、むべむべしく言ひまはしはべるに、おのづからえまかり絶えで、その者を師としてなむ、わづかなる腰折文作ることなど習ひはべりしかば、今にその恩は忘れはべらねど、なつかしき妻子とうち頼まむには、無才の人、なま悪ろならむ振る舞ひなど見えむに、恥づかしくなむ見えはべりし。 |
それは、あるはかせのもとにがくもんなどしはべるとて、まかりかよひしほどに、あるじのむすめどもおほかりとききたまへて、はかなきついでにいひよりてはべりしを、おやききつけて、さかづきもていでて、'わがふたつのみちうたふをきけ。'となん、きこえごちはべりしかど、をさをさうちとけてもまからず、かのおやのこころをはばかりて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれにおもひうしろみ、ねざめのかたらひにも、みのざえつき、おほやけにつかうまつるべきみちみちしきことををしへて、いときよげにせうそこぶみにもかんなといふものかきまぜず、むべむべしくいひまはしはべるに、おのづからえまかりたえで、そのものをしとしてなん、わづかなるこしをれぶみつくることなどならひはべりしかば、いまにそのおんはわすれはべらねど、なつかしきさいしとうちたのまんには、むざいのひと、なまわろならんふるまひなどみえんに、はづかしくなんみえはべりし。 |
02 | 2.4.6 | 183 | 162 |
まいて君達の御ため、はかばかしくしたたかなる御後見は、何にかせさせたまはむ。はかなし、口惜し、とかつ見つつも、ただわが心につき、宿世の引く方はべるめれば、男しもなむ、仔細なきものははべめる」 |
まいてきんだちのおほんため、はかばかしくしたたかなるおほんうしろみは、なににかせさせたまはん。はかなし、くちをし、とかつみつつも、ただわがこころにつき、すくせのひくかたはべるめれば、をのこしもなん、しさいなきものははべめる。" |
02 | 2.4.7 | 184 | 163 |
と申せば、残りを言はせむとて、「さてさてをかしかりける女かな」とすかいたまふを、心は得ながら、鼻のわたりをこづきて語りなす。 |
とまうせば、のこりをいはせんとて、"さてさてをかしかりけるをんなかな。"とすかいたまふを、こころはえながら、はなのわたりをこづきてかたりなす。 |
02 | 2.4.8 | 185 | 164 |
「さて、いと久しくまからざりしに、もののたよりに立ち寄りてはべれば、常のうちとけゐたる方にははべらで、心やましき物越しにてなむ逢ひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、また、よきふしなりとも思ひたまふるに、このさかし人はた、軽々しきもの怨じすべきにもあらず、世の道理を思ひとりて恨みざりけり。 |
"さて、いとひさしくまからざりしに、もののたよりにたちよりてはべれば、つねのうちとけゐたるかたにははべらで、こころやましきものごしにてなんあひてはべる。ふすぶるにやと、をこがましくも、また、よきふしなりともおもひたまふるに、このさかしびとはた、かろがろしきものゑんじすべきにもあらず、よのだうりをおもひとりてうらみざりけり。 |
02 | 2.4.9 | 186 | 165 |
声もはやりかにて言ふやう、 |
こゑもはやりかにていふやう、 |
02 | 2.4.10 | 187 | 166 |
『月ごろ、風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服して、いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。目のあたりならずとも、さるべからむ雑事らは承らむ』 |
'つきごろ、ふびゃうおもきにたへかねて、ごくねちのさうやくをぶくして、いとくさきによりなん、えたいめんたまはらぬ。まのあたりならずとも、さるべからんざうじらはうけたまはらん。' |
02 | 2.4.11 | 188 | 167 |
と、いとあはれにむべむべしく言ひはべり。答へに何とかは。ただ、『承りぬ』とて、立ち出ではべるに、さうざうしくやおぼえけむ、 |
と、いとあはれにむべむべしくいひはべり。いらへになにとかは。ただ、'うけたまはりぬ'とて、たちいではべるに、さうざうしくやおぼえけん、 |
02 | 2.4.12 | 189 | 169 |
『この香失せなむ時に立ち寄りたまへ』と高やかに言ふを、聞き過ぐさむもいとほし、しばしやすらふべきに、はたはべらねば、げにそのにほひさへ、はなやかにたち添へるも術なくて、逃げ目をつかひて、 |
'このかうせなんときにたちよりたまへ。'とたかやかにいふを、ききすぐさんもいとほし、しばしやすらふべきに、はたはべらねば、げにそのにほひさへ、はなやかにたちそへるもすべなくて、にげめをつかひて、 |
02 | 2.4.13 | 190 | 170 |
『ささがにのふるまひしるき夕暮れに<BR/>ひるま過ぐせといふがあやなさ |
'〔ささがにのふるまひしるきゆふぐれに<BR/>ひるますぐせといふがあやなさ |
02 | 2.4.14 | 191 | 171 |
いかなることつけぞや』 |
いかなることつけぞや。' |
02 | 2.4.15 | 192 | 172 |
と、言ひも果てず走り出ではべりぬるに、追ひて、 |
と、いひもはてずはしりいではべりぬるに、おひて、 |
02 | 2.4.16 | 193 | 173 |
『逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならば<BR/>ひる間も何かまばゆからまし』 |
'〔あふことのよをしへだてぬなかならば<BR/>ひるまもなにかまばゆからまし〕 |
02 | 2.4.17 | 194 | 174 |
さすがに口疾くなどははべりき」 |
さすがにくちとくなどははべりき。" |
02 | 2.4.18 | 195 | 175 |
と、しづしづと申せば、君達あさましと思ひて、「嘘言」とて笑ひたまふ。 |
と、しづしづとまうせば、きみたちあさましとおもひて、"そらごと"とてわらひたまふ。 |
02 | 2.4.19 | 196 | 176 |
「いづこのさる女かあるべき。おいらかに鬼とこそ向かひゐたらめ。むくつけきこと」 |
"いづこのさるをんなかあるべき。おいらかにおにとこそむかひゐたらめ。むくつけきこと。" |
02 | 2.4.20 | 197 | 177 |
と爪弾きをして、「言はむ方なし」と、式部をあはめ憎みて、 |
とつまはじきをして、"いはんかたなし"と、しきぶをあはめにくみて、 |
02 | 2.4.21 | 198 | 178 |
「すこしよろしからむことを申せ」と責めたまへど、 |
"すこしよろしからんことをまうせ。"とせめたまへど、 |
02 | 2.4.22 | 199 | 179 |
「これよりめづらしきことはさぶらひなむや」とて、をり。 |
"これよりめづらしきことはさぶらひなんや。"とて、をり。 |
02 | 2.4.23 | 200 | 180 |
「すべて男も女も悪ろ者は、わづかに知れる方のことを残りなく見せ尽くさむと思へるこそ、いとほしけれ。 |
"すべてをとこもをんなもわろものは、わづかにしれるかたのことをのこりなくみせつくさんとおもへるこそ、いとほしけれ。 |
02 | 2.4.24 | 201 | 181 |
三史五経、道々しき方を、明らかに悟り明かさむこそ、愛敬なからめ、などかは、女といはむからに、世にあることの公私につけて、むげに知らずいたらずしもあらむ。わざと習ひまねばねど、すこしもかどあらむ人の、耳にも目にもとまること、自然に多かるべし。 |
さんしごきゃう、みちみちしきかたを、あきらかにさとりあかさんこそ、あいぎゃうなからめ、などかは、をんなといはんからに、よにあることのおほやけわたくしにつけて、むげにしらずいたらずしもあらん。わざとならひまねばねど、すこしもかどあらんひとの、みみにもめにもとまること、じねんにおほかるべし。 |
02 | 2.4.25 | 202 | 182 |
さるままには、真名を走り書きて、さるまじきどちの女文に、なかば過ぎて書きすすめたる、あなうたて、この人のたをやかならましかばと見えたり。心地にはさしも思はざらめど、おのづからこはごはしき声に読みなされなどしつつ、ことさらびたり。上臈の中にも、多かることぞかし。 |
さるままには、まんなをはしりかきて、さるまじきどちのをんなぶみに、なかばすぎてかきすすめたる、あなうたて、このひとのたをやかならましかばとみえたり。ここちにはさしもおもはざらめど、おのづからこはごはしきこゑによみなされなどしつつ、ことさらびたり。じゃうらふのなかにも、おほかることぞかし。 |
02 | 2.4.26 | 203 | 183 |
歌詠むと思へる人の、やがて歌にまつはれ、をかしき古言をも初めより取り込みつつ、すさまじき折々、詠みかけたるこそ、ものしきことなれ。返しせねば情けなし、えせざらむ人ははしたなからむ。 |
うたよむとおもへるひとの、やがてうたにまつはれ、をかしきふることをもはじめよりとりこみつつ、すさまじきをりをり、よみかけたるこそ、ものしきことなれ。かへしせねばなさけなし、えせざらんひとははしたなからん。 |
02 | 2.4.27 | 204 | 184 |
さるべき節会など、五月の節に急ぎ参る朝、何のあやめも思ひしづめられぬに、えならぬ根を引きかけ、九日の宴に、まづ難き詩の心を思ひめぐらして暇なき折に、菊の露をかこち寄せなどやうの、つきなき営みにあはせ、さならでもおのづから、げに後に思へばをかしくもあはれにもあべかりけることの、その折につきなく、目にとまらぬなどを、推し量らず詠み出でたる、なかなか心後れて見ゆ。 |
さるべきせちゑなど、さつきのせちにいそぎまゐるあした、なにのあやめもおもひしづめられぬに、えならぬねをひきかけ、ここぬかのえんに、まづかたきしのこころをおもひめぐらしていとまなきをりに、きくのつゆをかこちよせなどやうの、つきなきいとなみにあはせ、さならでもおのづから、げにのちにおもへばをかしくもあはれにもあべかりけることの、そのをりにつきなく、めにとまらぬなどを、おしはからずよみいでたる、なかなかこころおくれてみゆ。 |
02 | 2.4.28 | 205 | 185 |
よろづのことに、などかは、さても、とおぼゆる折から、時々、思ひわかぬばかりの心にては、よしばみ情け立たざらむなむ目やすかるべき。 |
よろづのことに、などかは、さても、とおぼゆるをりから、ときどき、おもひわかぬばかりのこころにては、よしばみなさけだたざらんなんめやすかるべき。 |
02 | 2.4.29 | 206 | 186 |
すべて、心に知れらむことをも、知らず顔にもてなし、言はまほしからむことをも、一つ二つのふしは過ぐすべくなむあべかりける」 |
すべて、こころにしれらんことをも、しらずがほにもてなし、いはまほしからんことをも、ひとつふたつのふしはすぐすべくなんあべかりける。" |
02 | 2.4.30 | 207 | 187 |
と言ふにも、君は、人一人の御ありさまを、心の中に思ひつづけたまふ。「これに足らずまたさし過ぎたることなくものしたまひけるかな」と、ありがたきにも、いとど胸ふたがる。 |
といふにも、きみは、ひとひとりのおほんありさまを、こころのうちにおもひつづけたまふ。"これにたらずまたさしすぎたることなくものしたまひけるかな。"と、ありがたきにも、いとどむねふたがる。 |
02 | 2.4.31 | 208 | 188 |
いづ方により果つともなく、果て果てはあやしきことどもになりて、明かしたまひつ。 |
いづかたによりはつともなく、はてはてはあやしきことどもになりて、あかしたまひつ。 |
02 | 3 | 209 | 189 | 第三章 空蝉の物語 |
02 | 3.1 | 210 | 190 | 第一段 天気晴れる |
02 | 3.1.1 | 211 | 191 |
からうして今日は日のけしきも直れり。かくのみ籠もりさぶらひたまふも、大殿の御心いとほしければ、まかでたまへり。 |
からうしてけふはひのけしきもなほれり。かくのみこもりさぶらひたまふも、おほいどののみこころいとほしければ、まかでたまへり。 |
02 | 3.1.2 | 212 | 192 |
おほかたの気色、人のけはひも、けざやかにけ高く、乱れたるところまじらず、なほ、これこそは、かの、人びとの捨てがたく取り出でしまめ人には頼まれぬべけれ、と思すものから、あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへるをさうざうしくて、中納言の君、中務などやうの、おしなべたらぬ若人どもに、戯れ言などのたまひつつ、暑さに乱れたまへる御ありさまを、見るかひありと思ひきこえたり。 |
おほかたのけしき、ひとのけはひも、けざやかにけだかく、みだれたるところまじらず、なほ、これこそは、かの、ひとびとのすてがたくとりいでしまめびとにはたのまれぬべけれ、とおぼすものから、あまりうるはしきおほんありさまの、とけがたくはづかしげにおもひしづまりたまへるをさうざうしくて、ちゅうなごんのきみ、なかつかさなどやうの、おしなべたらぬわかうどどもに、たはぶれごとなどのたまひつつ、あつさにみだれたまへるおほんありさまを、みるかひありとおもひきこえたり。 |
02 | 3.1.3 | 213 | 193 |
大臣も渡りたまひて、うちとけたまへれば、御几帳隔てておはしまして、御物語聞こえたまふを、「暑きに」とにがみたまへば、人びと笑ふ。「あなかま」とて、脇息に寄りおはす。いとやすらかなる御振る舞ひなりや。 |
おとどもわたりたまひて、うちとけたまへれば、みきちゃうへだてておはしまして、おほんものがたりきこえたまふを、"あつきに"とにがみたまへば、ひとびとわらふ。"あなかま"とて、けふそくによりおはす。いとやすらかなるおほんふるまひなりや。 |
02 | 3.1.4 | 214 | 194 |
暗くなるほどに、 |
くらくなるほどに、 |
02 | 3.1.5 | 215 | 195 |
「今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり」と聞こゆ。 |
"こよひ、なかがみ、うちよりはふたがりてはべりけり。"ときこゆ。 |
02 | 3.1.6 | 216 | 196 |
「さかし、例は忌みたまふ方なりけり」 |
"さかし、れいはいみたまふかたなりけり。" |
02 | 3.1.7 | 217 | 197 |
「二条の院にも同じ筋にて、いづくにか違へむ。いと悩ましきに」 |
"にでうのゐんにもおなじすぢにて、いづくにかたがへん。いとなやましきに。" |
02 | 3.1.8 | 218 | 198 |
とて大殿籠もれり。「いと悪しきことなり」と、これかれ聞こゆ。 |
とておほとのごもれり。"いとあしきことなり。"と、これかれきこゆ。 |
02 | 3.1.9 | 219 | 199 |
「紀伊守にて親しく仕うまつる人の、中川のわたりなる家なむ、このころ水せき入れて、涼しき蔭にはべる」と聞こゆ。 |
"きのかみにてしたしくつかうまつるひとの、なかがはのわたりなるいへなん、このころみづせきいれて、すずしきかげにはべる。"ときこゆ。 |
02 | 3.1.10 | 220 | 200 |
「いとよかなり。悩ましきに、牛ながら引き入れつべからむ所を」 |
"いとよかなり。なやましきに、うしながらひきいれつべからんところを。" |
02 | 3.1.11 | 221 | 201 |
とのたまふ。忍び忍びの御方違へ所は、あまたありぬべけれど、久しくほど経て渡りたまへるに、方塞げて、ひき違へ他ざまへと思さむは、いとほしきなるべし。紀伊守に仰せ言賜へば、承りながら、退きて、 |
とのたまふ。しのびしのびのおほんかたたがへどころは、あまたありぬべけれど、ひさしくほどへてわたりたまへるに、かたふたげて、ひきたがへほかざまへとおぼさんは、いとほしきなるべし。きのかみにおほせごとたまへば、うけたまはりながら、しりぞきて、 |
02 | 3.1.12 | 222 | 202 |
「伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて、女房なむまかり移れるころにて、狭き所にはべれば、なめげなることやはべらむ」 |
"いよのかみのあそんのいへにつつしむことはべりて、にょうばうなんまかりうつれるころにて、せばきところにはべれば、なめげなることやはべらん。" |
02 | 3.1.13 | 223 | 203 |
と、下に嘆くを聞きたまひて、 |
と、したになげくをききたまひて、 |
02 | 3.1.14 | 224 | 204 |
「その人近からむなむ、うれしかるべき。女遠き旅寝は、もの恐ろしき心地すべきを。ただその几帳のうしろに」とのたまへば、 |
"そのひとちかからんなん、うれしかるべき。をんなとほきたびねは、ものおそろしきここちすべきを。ただそのきちゃうのうしろに。"とのたまへば、 |
02 | 3.1.15 | 225 | 205 |
「げに、よろしき御座所にも」とて、人走らせやる。いと忍びて、ことさらにことことしからぬ所をと、急ぎ出でたまへば、大臣にも聞こえたまはず、御供にも睦ましき限りしておはしましぬ。 |
"げに、よろしきおましどころにも"とて、ひとはしらせやる。いとしのびて、ことさらにことことしからぬところをと、いそぎいでたまへば、おとどにもきこえたまはず、おほんともにもむつましきかぎりしておはしましぬ。 |
02 | 3.2 | 226 | 206 | 第二段 紀伊守邸への方違へ |
02 | 3.2.1 | 227 | 207 |
「にはかに」とわぶれど、人も聞き入れず。寝殿の東面払ひあけさせて、かりそめの御しつらひしたり。水の心ばへなど、さる方にをかしくしなしたり。田舎家だつ柴垣して、前栽など心とめて植ゑたり。風涼しくて、そこはかとなき虫の声々聞こえ、蛍しげく飛びまがひて、をかしきほどなり。 |
"にはかに"とわぶれど、ひともききいれず。しんでんのひんがしおもてはらひあけさせて、かりそめのおほんしつらひしたり。みづのこころばへなど、さるかたにをかしくしなしたり。ゐなかいへだつしばがきして、せんさいなどこころとめてうゑたり。かぜすずしくて、そこはかとなきむしのこゑごゑきこえ、ほたるしげくとびまがひて、をかしきほどなり。 |
02 | 3.2.2 | 228 | 209 |
人びと、渡殿より出でたる泉にのぞきゐて、酒呑む。主人も肴求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君はのどやかに眺めたまひて、かの、中の品に取り出でて言ひし、この並ならむかしと思し出づ。 |
ひとびと、わたどのよりいでたるいづみにのぞきゐて、さけのむ。あるじもさかなもとむと、こゆるぎのいそぎありくほど、きみはのどやかにながめたまひて、かの、なかのしなにとりいでていひし、このなみならんかしとおぼしいづ。 |
02 | 3.2.3 | 229 | 210 |
思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば、ゆかしくて耳とどめたまへるに、この西面にぞ人のけはひする。衣の音なひはらはらとして、若き声どもにくからず。さすがに忍びて、笑ひなどするけはひ、ことさらびたり。 |
おもひあがれるけしきにききおきたまへるむすめなれば、ゆかしくてみみとどめたまへるに、このにしおもてにぞひとのけはひする。きぬのおとなひはらはらとして、わかきこゑどもにくからず。さすがにしのびて、わらひなどするけはひ、ことさらびたり。 |
02 | 3.2.4 | 230 | 211 |
格子を上げたりけれど、守、「心なし」とむつかりて下しつれば、火灯したる透影、障子の上より漏りたるに、やをら寄りたまひて、「見ゆや」と思せど、隙もなければ、しばし聞きたまふに、この近き母屋に集ひゐたるなるべし、うちささめき言ふことどもを聞きたまへば、わが御上なるべし。 |
かうしをあげたりけれど、かみ、"こころなし"とむつかりておろしつれば、ひともしたるすきかげ、さうじのかみよりもりたるに、やをらよりたまひて、"みゆや。"とおぼせど、ひまもなければ、しばしききたまふに、このちかきもやにつどひゐたるなるべし、うちささめきいふことどもをききたまへば、わがおほんうへなるべし。 |
02 | 3.2.5 | 231 | 212 |
「いといたうまめだちて。まだきに、やむごとなきよすが定まりたまへるこそ、さうざうしかめれ」 |
"いといたうまめだちて。まだきに、やんごとなきよすがさだまりたまへるこそ、さうざうしかめれ。" |
02 | 3.2.6 | 232 | 213 |
「されど、さるべき隈には、よくこそ、隠れ歩きたまふなれ」 |
"されど、さるべきくまには、よくこそ、かくれありきたまふなれ。" |
02 | 3.2.7 | 233 | 214 |
など言ふにも、思すことのみ心にかかりたまへば、まづ胸つぶれて、「かやうのついでにも、人の言ひ漏らさむを、聞きつけたらむ時」などおぼえたまふ。 |
などいふにも、おぼすことのみこころにかかりたまへば、まづむねつぶれて、"かやうのついでにも、ひとのいひもらさんを、ききつけたらんとき。"などおぼえたまふ。 |
02 | 3.2.8 | 234 | 215 |
ことなることなければ、聞きさしたまひつ。式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌などを、すこしほほゆがめて語るも聞こゆ。「くつろぎがましく、歌誦じがちにもあるかな、なほ見劣りはしなむかし」と思す。 |
ことなることなければ、ききさしたまひつ。しきぶきゃうのみやのひめぎみにあさがほたてまつりたまひしうたなどを、すこしほほゆがめてかたるもきこゆ。"くつろぎがましく、うたずんじがちにもあるかな。なほみおとりはしなんかし。"とおぼす。 |
02 | 3.2.9 | 235 | 216 |
守出で来て、灯籠掛け添へ、灯明くかかげなどして、御くだものばかり参れり。 |
かみいできて、とうろかけそへ、ひあかくかかげなどして、おほんくだものばかりまゐれり。 |
02 | 3.2.10 | 236 | 217 |
「とばり帳も、いかにぞは。さる方の心もとなくては、めざましき饗応ならむ」とのたまへば、 |
"とばりちゃうも、いかにぞは。さるかたのこころもとなくては、めざましきあるじならん。"とのたまへば、 |
02 | 3.2.11 | 237 | 218 |
「何よけむとも、えうけたまはらず」と、かしこまりてさぶらふ。端つ方の御座に、仮なるやうにて大殿籠もれば、人びとも静まりぬ。 |
"なによけんとも、えうけたまはらず。"と、かしこまりてさぶらふ。はしつかたのおましに、かりなるやうにておほとのごもれば、ひとびともしづまりぬ。 |
02 | 3.2.12 | 238 | 219 |
主人の子ども、をかしげにてあり。童なる、殿上のほどに御覧じ馴れたるもあり。伊予介の子もあり。あまたある中に、いとけはひあてはかにて、十二、三ばかりなるもあり。 |
あるじのこども、をかしげにてあり。わらはなる、てんじゃうのほどにごらんじなれたるもあり。いよのすけのこもあり。あまたあるなかに、いとけはひあてはかにて、じふに、さんばかりなるもあり。 |
02 | 3.2.13 | 239 | 220 |
「いづれかいづれ」など問ひたまふに、 |
"いづれかいづれ。"などとひたまふに、 |
02 | 3.2.14 | 240 | 221 |
「これは、故衛門督の末の子にて、いとかなしくしはべりけるを、幼きほどに後れはべりて、姉なる人のよすがに、かくてはべるなり。才などもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上なども思ひたまへかけながら、すがすがしうはえ交じらひはべらざめる」と申す。 |
"これは、こえもんのかみのすゑのこにて、いとかなしくしはべりけるを、をさなきほどにおくれはべりて、あねなるひとのよすがに、かくてはべるなり。ざえなどもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、てんじゃうなどもおもひたまへかけながら、すがすがしうはえまじらひはべらざめる。"とまうす。 |
02 | 3.2.15 | 241 | 222 |
「あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親」 |
"あはれのことや。このあねぎみや、まうとののちのおや。" |
02 | 3.2.16 | 242 | 223 |
「さなむはべる」と申すに、 |
"さなんはべる。"とまうすに、 |
02 | 3.2.17 | 243 | 224 |
「似げなき親をも、まうけたりけるかな。主上にも聞こし召しおきて、『宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし、いかになりにけむ』と、いつぞやのたまはせし。世こそ定めなきものなれ」と、いとおよすけのたまふ。 |
"にげなきおやをも、まうけたりけるかな。うへにもきこしめしおきて、'みやづかへにいだしたてんともらしそうせし、いかになりにけん。'と、いつぞやのたまはせし。よこそさだめなきものなれ。"と、いとおよすけのたまふ。 |
02 | 3.2.18 | 244 | 225 |
「不意に、かくてものしはべるなり。世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も、定まりたることはべらね。中についても、女の宿世は浮かびたるなむ、あはれにはべる」など聞こえさす。 |
"ふいに、かくてものしはべるなり。よのなかといふもの、さのみこそ、いまもむかしも、さだまりたることはべらね。なかについても、をんなのすくせはうかびたるなん、あはれにはべる。"などきこえさす。 |
02 | 3.2.19 | 245 | 226 |
「伊予介は、かしづくや。君と思ふらむな」 |
"いよのすけは、かしづくや。きみとおもふらんな。" |
02 | 3.2.20 | 246 | 227 |
「いかがは。私の主とこそは思ひてはべるめるを、好き好きしきことと、なにがしよりはじめて、うけひきはべらずなむ」と申す。 |
"いかがは。わたくしのしゅうとこそはおもひてはべるめるを、すきずきしきことと、なにがしよりはじめて、うけひきはべらずなん。"とまうす。 |
02 | 3.2.21 | 247 | 228 |
「さりとも、まうとたちのつきづきしく今めきたらむに、おろしたてむやは。かの介は、いとよしありて気色ばめるをや」など、物語したまひて、 |
"さりとも、まうとたちのつきづきしくいまめきたらんに、おろしたてんやは。かのすけは、いとよしありてけしきばめるをや。"など、ものがたりしたまひて、 |
02 | 3.2.22 | 248 | 229 |
「いづかたにぞ」 |
"いづかたにぞ。" |
02 | 3.2.23 | 249 | 230 |
「皆、下屋におろしはべりぬるを、えやまかりおりあへざらむ」と聞こゆ。 |
"みな、しもやにおろしはべりぬるを、えやまかりおりあへざらん。"ときこゆ。 |
02 | 3.2.24 | 250 | 231 |
酔ひすすみて、皆人びと簀子に臥しつつ、静まりぬ。 |
ゑひすすみて、みなひとびとすのこにふしつつ、しづまりぬ。 |
02 | 3.3 | 251 | 232 | 第三段 空蝉の寝所に忍び込む |
02 | 3.3.1 | 252 | 233 |
君は、とけても寝られたまはず、いたづら臥しと思さるるに御目覚めて、この北の障子のあなたに人のけはひするを、「こなたや、かくいふ人の隠れたる方ならむ、あはれや」と御心とどめて、やをら起きて立ち聞きたまへば、ありつる子の声にて、 |
きみは、とけてもねられたまはず、いたづらぶしとおぼさるるにおほんめさめて、このきたのさうじのあなたにひとのけはひするを、"こなたや、かくいふひとのかくれたるかたならん、あはれや。"とみこころとどめて、やをらおきてたちききたまへば、ありつるこのこゑにて、 |
02 | 3.3.2 | 253 | 234 |
「ものけたまはる。いづくにおはしますぞ」 |
"ものけたまはる。いづくにおはしますぞ。" |
02 | 3.3.3 | 254 | 235 |
と、かれたる声のをかしきにて言へば、 |
と、かれたるこゑのをかしきにていへば、 |
02 | 3.3.4 | 255 | 236 |
「ここにぞ臥したる。客人は寝たまひぬるか。いかに近からむと思ひつるを、されど、け遠かりけり」 |
"ここにぞふしたる。まらうとはねたまひぬるか。いかにちかからんとおもひつるを、されど、けどほかりけり。" |
02 | 3.3.5 | 256 | 237 |
と言ふ。寝たりける声のしどけなき、いとよく似通ひたれば、いもうとと聞きたまひつ。 |
といふ。ねたりけるこゑのしどけなき、いとよくにかよひたれば、いもうととききたまひつ。 |
02 | 3.3.6 | 257 | 238 |
「廂にぞ大殿籠もりぬる。音に聞きつる御ありさまを見たてまつりつる、げにこそめでたかりけれ」と、みそかに言ふ。 |
"ひさしにぞおほとのごもりぬる。おとにききつるおほんありさまをみたてまつりつる、げにこそめでたかりけれ。"と、みそかにいふ。 |
02 | 3.3.7 | 258 | 239 |
「昼ならましかば、覗きて見たてまつりてまし」 |
"ひるならましかば、のぞきてみたてまつりてまし。" |
02 | 3.3.8 | 259 | 240 |
とねぶたげに言ひて、顔ひき入れつる声す。「ねたう、心とどめても問ひ聞けかし」とあぢきなく思す。 |
とねぶたげにいひて、かほひきいれつるこゑす。"ねたう、こころとどめてもとひきけかし。"とあぢきなくおぼす。 |
02 | 3.3.9 | 260 | 241 |
「まろは端に寝はべらむ。あなくるし」 |
"まろははしにねはべらん。あなくるし。" |
02 | 3.3.10 | 261 | 242 |
とて、灯かかげなどすべし。女君は、ただこの障子口筋交ひたるほどにぞ臥したるべき。 |
とて、ひかかげなどすべし。をんなぎみは、ただこのさうじぐちすぢかひたるほどにぞふしたるべき。 |
02 | 3.3.11 | 262 | 243 |
「中将の君はいづくにぞ。人げ遠き心地して、もの恐ろし」 |
"ちゅうじゃうのきみはいづくにぞ。ひとげとほきここちして、ものおそろし。" |
02 | 3.3.12 | 263 | 244 |
と言ふなれば、長押の下に、人びと臥して答へすなり。 |
といふなれば、なげしのしもに、ひとびとふしていらへすなり。 |
02 | 3.3.13 | 264 | 245 |
「下に湯におりて。『ただ今参らむ』とはべる」と言ふ。 |
"しもにゆにおりて。'ただいままゐらん'とはべる。"といふ。 |
02 | 3.3.14 | 265 | 246 |
皆静まりたるけはひなれば、掛金を試みに引きあけたまへれば、あなたよりは鎖さざりけり。几帳を障子口には立てて、灯はほの暗きに、見たまへば唐櫃だつ物どもを置きたれば、乱りがはしき中を、分け入りたまへれば、ただ一人いとささやかにて臥したり。なまわづらはしけれど、上なる衣押しやるまで、求めつる人と思へり。 |
みなしづまりたるけはひなれば、かけがねをこころみにひきあけたまへれば、あなたよりはささざりけり。きちゃうをさうじぐちにはたてて、ひはほのくらきに、みたまへばからびつだつものどもをおきたれば、みだりがはしきなかを、わけいりたまへれば、ただひとりいとささやかにてふしたり。なまわづらはしけれど、うへなるきぬおしやるまで、もとめつるひととおもへり。 |
02 | 3.3.15 | 266 | 247 |
「中将召しつればなむ。人知れぬ思ひの、しるしある心地して」 |
"ちゅうじゃうめしつればなん。ひとしれぬおもひの、しるしあるここちして。" |
02 | 3.3.16 | 267 | 248 |
とのたまふを、ともかくも思ひ分かれず、物に襲はるる心地して、「や」とおびゆれど、顔に衣のさはりて、音にも立てず。 |
とのたまふを、ともかくもおもひわかれず、ものにおそはるるここちして、"や。"とおびゆれど、かほにきぬのさはりて、おとにもたてず。 |
02 | 3.3.17 | 268 | 249 |
「うちつけに、深からぬ心のほどと見たまふらむ、ことわりなれど、年ごろ思ひわたる心のうちも、聞こえ知らせむとてなむ。かかるをりを待ち出でたるも、さらに浅くはあらじと、思ひなしたまへ」 |
"うちつけに、ふかからぬこころのほどとみたまふらん、ことわりなれど、としごろおもひわたるこころのうちも、きこえしらせんとてなん。かかるをりをまちいでたるも、さらにあさくはあらじと、おもひなしたまへ。" |
02 | 3.3.18 | 269 | 250 |
と、いとやはらかにのたまひて、鬼神も荒だつまじきけはひなれば、はしたなく、「ここに、人」とも、えののしらず。心地はた、わびしく、あるまじきことと思へば、あさましく、 |
と、いとやはらかにのたまひて、おにがみもあらだつまじきけはひなれば、はしたなく、"ここに、ひと。"とも、えののしらず。ここちはた、わびしく、あるまじきこととおもへば、あさましく、 |
02 | 3.3.19 | 270 | 251 |
「人違へにこそはべるめれ」と言ふも息の下なり。 |
"ひとたがへにこそはべるめれ。"といふもいきのしたなり。 |
02 | 3.3.20 | 271 | 252 |
消えまどへる気色、いと心苦しくらうたげなれば、をかしと見たまひて、 |
きえまどへるけしき、いとこころぐるしくらうたげなれば、をかしとみたまひて、 |
02 | 3.3.21 | 272 | 253 |
「違ふべくもあらぬ心のしるべを、思はずにもおぼめいたまふかな。好きがましきさまには、よに見えたてまつらじ。思ふことすこし聞こゆべきぞ」 |
"たがふべくもあらぬこころのしるべを、おもはずにもおぼめいたまふかな。すきがましきさまには、よにみえたてまつらじ。おもふことすこしきこゆべきぞ。" |
02 | 3.3.22 | 273 | 254 |
とて、いと小さやかなれば、かき抱きて障子のもと出でたまふにぞ、求めつる中将だつ人来あひたる。 |
とて、いとちひさやかなれば、かきいだきてさうじのもといでたまふにぞ、もとめつるちゅうじゃうだつひときあひたる。 |
02 | 3.3.23 | 274 | 255 |
「やや」とのたまふに、あやしくて探り寄りたるにぞ、いみじく匂ひみちて、顔にもくゆりかかる心地するに、思ひ寄りぬ。あさましう、こはいかなることぞと思ひまどはるれど、聞こえむ方なし。並々の人ならばこそ、荒らかにも引きかなぐらめ、それだに人のあまた知らむは、いかがあらむ。心も騷ぎて、慕ひ来たれど、動もなくて、奥なる御座に入りたまひぬ。 |
"やや。"とのたまふに、あやしくてさぐりよりたるにぞ、いみじくにほひみちて、かほにもくゆりかかるここちするに、おもひよりぬ。あさましう、こはいかなることぞとおもひまどはるれど、きこえんかたなし。なみなみのひとならばこそ、あららかにもひきかなぐらめ、それだにひとのあまたしらんは、いかがあらん。こころもさわぎて、したひきたれど、どうもなくて、おくなるおましにいりたまひぬ。 |
02 | 3.3.24 | 275 | 256 |
障子をひきたてて、「暁に御迎へにものせよ」とのたまへば、女は、この人の思ふらむことさへ、死ぬばかりわりなきに、流るるまで汗になりて、いと悩ましげなる、いとほしけれど、例の、いづこより取う出たまふ言の葉にかあらむ、あはれ知らるばかり、情け情けしくのたまひ尽くすべかめれど、なほいとあさましきに、 |
さうじをひきたてて、"あかつきにおほんむかへにものせよ。"とのたまへば、をんなは、このひとのおもふらんことさへ、しぬばかりわりなきに、ながるるまであせになりて、いとなやましげなる、いとほしけれど、れいの、いづこよりとうでたまふことのはにかあらん、あはれしらるばかり、なさけなさけしくのたまひつくすべかめれど、なほいとあさましきに、 |
02 | 3.3.25 | 276 | 257 |
「現ともおぼえずこそ。数ならぬ身ながらも、思しくたしける御心ばへのほども、いかが浅くは思うたまへざらむ。いとかやうなる際は、際とこそはべなれ」 |
"うつつともおぼえずこそ。かずならぬみながらも、おぼしくたしけるみこころばへのほども、いかがあさくはおもうたまへざらん。いとかやうなるきはは、きはとこそはべなれ。" |
02 | 3.3.26 | 277 | 258 |
とて、かくおし立ちたまへるを、深く情けなく憂しと思ひ入りたるさまも、げにいとほしく、心恥づかしきけはひなれば、 |
とて、かくおしたちたまへるを、ふかくなさけなくうしとおもひいりたるさまも、げにいとほしく、こころはづかしきけはひなれば、 |
02 | 3.3.27 | 278 | 259 |
「その際々を、まだ知らぬ、初事ぞや。なかなか、おしなべたる列に思ひなしたまへるなむうたてありける。おのづから聞きたまふやうもあらむ。あながちなる好き心は、さらにならはぬを。さるべきにや、げに、かくあはめられたてまつるも、ことわりなる心まどひを、みづからもあやしきまでなむ」 |
"そのきはぎはを、まだしらぬ、うひごとぞや。なかなか、おしなべたるつらにおもひなしたまへるなんうたてありける。おのづからききたまふやうもあらん。あながちなるすきごころは、さらにならはぬを。さるべきにや、げに、かくあはめられたてまつるも、ことわりなるこころまどひを、みづからもあやしきまでなん。" |
02 | 3.3.28 | 279 | 260 |
など、まめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなき御ありさまの、いよいようちとけきこえむことわびしければ、すくよかに心づきなしとは見えたてまつるとも、さる方の言ふかひなきにて過ぐしてむと思ひて、つれなくのみもてなしたり。人柄のたをやぎたるに、強き心をしひて加へたれば、なよ竹の心地して、さすがに折るべくもあらず。 |
など、まめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなきおほんありさまの、いよいようちとけきこえんことわびしければ、すくよかにこころづきなしとはみえたてまつるとも、さるかたのいふかひなきにてすぐしてんとおもひて、つれなくのみもてなしたり。ひとがらのたをやぎたるに、つよきこころをしひてくはへたれば、なよたけのここちして、さすがにをるべくもあらず。 |
02 | 3.3.29 | 280 | 261 |
まことに心やましくて、あながちなる御心ばへを、言ふ方なしと思ひて、泣くさまなど、いとあはれなり。心苦しくはあれど、見ざらましかば口惜しからまし、と思す。慰めがたく、憂しと思へれば、 |
まことにこころやましくて、あながちなるみこころばへを、いふかたなしとおもひて、なくさまなど、いとあはれなり。こころぐるしくはあれど、みざらましかばくちをしからまし、とおぼす。なぐさめがたく、うしとおもへれば、 |
02 | 3.3.30 | 281 | 262 |
「など、かく疎ましきものにしも思すべき。おぼえなきさまなるしもこそ、契りあるとは思ひたまはめ。むげに世を思ひ知らぬやうに、おぼほれたまふなむ、いとつらき」と恨みられて、 |
"など、かくうとましきものにしもおぼすべき。おぼえなきさまなるしもこそ、ちぎりあるとはおもひたまはめ。むげによをおもひしらぬやうに、おぼほれたまふなん、いとつらき。"とうらみられて、 |
02 | 3.3.31 | 282 | 263 |
「いとかく憂き身のほどの定まらぬ、ありしながらの身にて、かかる御心ばへを見ましかば、あるまじき我が頼みにて、見直したまふ後瀬をも思ひたまへ慰めましを、いとかう仮なる浮き寝のほどを思ひはべるに、たぐひなく思うたまへ惑はるるなり。よし、今は見きとなかけそ」 |
"いとかくうきみのほどのさだまらぬ、ありしながらのみにて、かかるみこころばへをみましかば、あるまじきわがたのみにて、みなほしたまふのちせをもおもひたまへなぐさめましを、いとかうかりなるうきねのほどをおもひはべるに、たぐひなくおもうたまへまどはるるなり。よし、いまはみきとなかけそ。" |
02 | 3.3.32 | 283 | 264 |
とて、思へるさま、げにいとことわりなり。おろかならず契り慰めたまふこと多かるべし。 |
とて、おもへるさま、げにいとことわりなり。おろかならずちぎりなぐさめたまふことおほかるべし。 |
02 | 3.3.33 | 284 | 265 |
鶏も鳴きぬ。人びと起き出でて、 |
とりもなきぬ。ひとびとおきいでて、 |
02 | 3.3.34 | 285 | 266 |
「いといぎたなかりける夜かな」 |
"いといぎたなかりけるよかな。" |
02 | 3.3.35 | 286 | 267 |
「御車ひき出でよ」 |
"みくるまひきいでよ。" |
02 | 3.3.36 | 287 | 268 |
など言ふなり。守も出で来て、 |
などいふなり。かみもいできて、 |
02 | 3.3.37 | 288 | 269 |
「女などの御方違へこそ。夜深く急がせたまふべきかは」など言ふもあり。 |
"をんななどのおほんかたたがへこそ。よぶかくいそがせたまふべきかは。"などいふもあり。 |
02 | 3.3.38 | 289 | 270 |
君は、またかやうのついであらむこともいとかたく、さしはへてはいかでか、御文なども通はむことのいとわりなきを思すに、いと胸いたし。奥の中将も出でて、いと苦しがれば、許したまひても、また引きとどめたまひつつ、 |
きみは、またかやうのついであらんこともいとかたく、さしはへてはいかでか、おほんふみなどもかよはんことのいとわりなきをおぼすに、いとむねいたし。おくのちゅうじゃうもいでて、いとくるしがれば、ゆるしたまひても、またひきとどめたまひつつ、 |
02 | 3.3.39 | 290 | 271 |
「いかでか、聞こゆべき。世に知らぬ御心のつらさも、あはれも、浅からぬ世の思ひ出では、さまざまめづらかなるべき例かな」 |
"いかでか、きこゆべき。よにしらぬみこころのつらさも、あはれも、あさからぬよのおもひいでは、さまざまめづらかなるべきためしかな。" |
02 | 3.3.40 | 291 | 272 |
とて、うち泣きたまふ気色、いとなまめきたり。 |
とて、うちなきたまふけしき、いとなまめきたり。 |
02 | 3.3.41 | 292 | 273 |
鶏もしばしば鳴くに、心あわたたしくて、 |
とりもしばしばなくに、こころあわたたしくて、 |
02 | 3.3.42 | 293 | 274 |
「つれなきを恨みも果てぬしののめに<BR/>とりあへぬまでおどろかすらむ」 |
"〔つれなきをうらみもはてぬしののめに<BR/>とりあへぬまでおどろかすらん〕 |
02 | 3.3.43 | 294 | 275 |
女、身のありさまを思ふに、いとつきなくまばゆき心地して、めでたき御もてなしも、何ともおぼえず、常はいとすくすくしく心づきなしと思ひあなづる伊予の方の思ひやられて、「夢にや見ゆらむ」と、そら恐ろしくつつまし。 |
をんな、みのありさまをおもふに、いとつきなくまばゆきここちして、めでたきおほんもてなしも、なにともおぼえず、つねはいとすくすくしくこころづきなしとおもひあなづるいよのかたのおもひやられて、"ゆめにやみゆらん。"と、そらおそろしくつつまし。 |
02 | 3.3.44 | 295 | 276 |
「身の憂さを嘆くにあかで明くる夜は<BR/>とり重ねてぞ音もなかれける」 |
"〔みのうさをなげくにあかであくるよは<BR/>とりかさねてぞねもなかれける〕 |
02 | 3.3.45 | 296 | 278 |
ことと明くなれば、障子口まで送りたまふ。内も外も人騒がしければ、引き立てて、別れたまふほど、心細く、隔つる関と見えたり。 |
こととあかくなれば、さうじぐちまでおくりたまふ。うちもともひとさわがしければ、ひきたてて、わかれたまふほど、こころぼそく、へだつるせきとみえたり。 |
02 | 3.3.46 | 297 | 279 |
御直衣など着たまひて、南の高欄にしばしうち眺めたまふ。西面の格子そそき上げて、人びと覗くべかめる。簀子の中のほどに立てたる小障子の上より仄かに見えたまへる御ありさまを、身にしむばかり思へる好き心どもあめり。 |
おほんなほしなどきたまひて、みなみのかうらんにしばしうちながめたまふ。にしおもてのかうしそそきあげて、ひとびとのぞくべかめる。すのこのなかのほどにたてたるこさうじのかみよりほのかにみえたまへるおほんありさまを、みにしむばかりおもへるすきごころどもあめり。 |
02 | 3.3.47 | 298 | 280 |
月は有明にて、光をさまれるものから、かげけざやかに見えて、なかなかをかしき曙なり。何心なき空のけしきも、ただ見る人から、艶にもすごくも見ゆるなりけり。人知れぬ御心には、いと胸いたく、言伝てやらむよすがだになきをと、かへりみがちにて出でたまひぬ。 |
つきはありあけにて、ひかりをさまれるものから、かげけざやかにみえて、なかなかをかしきあけぼのなり。なにごころなきそらのけしきも、ただみるひとから、えんにもすごくもみゆるなりけり。ひとしれぬみこころには、いとむねいたく、ことづてやらんよすがだになきをと、かへりみがちにていでたまひぬ。 |
02 | 3.3.48 | 299 | 281 |
殿に帰りたまひても、とみにもまどろまれたまはず。またあひ見るべき方なきを、まして、かの人の思ふらむ心の中、いかならむと、心苦しく思ひやりたまふ。「すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる中の品かな。隈なく見集めたる人の言ひしことは、げに」と思し合はせられけり。 |
とのにかへりたまひても、とみにもまどろまれたまはず。またあひみるべきかたなきを、まして、かのひとのおもふらんこころのうち、いかならんと、こころぐるしくおもひやりたまふ。"すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつるなかのしなかな。くまなくみあつめたるひとのいひしことは、げに。"とおぼしあはせられけり。 |
02 | 3.3.49 | 300 | 282 |
このほどは大殿にのみおはします。なほいとかき絶えて、思ふらむことのいとほしく御心にかかりて、苦しく思しわびて、紀伊守を召したり。 |
このほどはおほいどのにのみおはします。なほいとかきたえて、おもふらんことのいとほしくみこころにかかりて、くるしくおぼしわびて、きのかみをめしたり。 |
02 | 3.3.50 | 301 | 283 |
「かの、ありし中納言の子は、得させてむや。らうたげに見えしを。身近く使ふ人にせむ。主上にも我奉らむ」とのたまへば、 |
"かの、ありしちゅうなごんのこは、えさせてんや。らうたげにみえしを。みぢかくつかふひとにせん。うへにもわれたてまつらん。"とのたまへば、 |
02 | 3.3.51 | 302 | 284 |
「いとかしこき仰せ言にはべるなり。姉なる人にのたまひみむ」 |
"いとかしこきおほせごとにはべるなり。あねなるひとにのたまひみん。" |
02 | 3.3.52 | 303 | 285 |
と申すも、胸つぶれて思せど、 |
とまうすも、むねつぶれておぼせど、 |
02 | 3.3.53 | 304 | 286 |
「その姉君は、朝臣の弟や持たる」 |
"そのあねぎみは、あそんのおとうとやもたる。" |
02 | 3.3.54 | 305 | 287 |
「さもはべらず。この二年ばかりぞ、かくてものしはべれど、親のおきてに違へりと思ひ嘆きて、心ゆかぬやうになむ、聞きたまふる」 |
"さもはべらず。このふたとせばかりぞ、かくてものしはべれど、おやのおきてにたがへりとおもひなげきて、こころゆかぬやうになん、ききたまふる。" |
02 | 3.3.55 | 306 | 288 |
「あはれのことや。よろしく聞こえし人ぞかし。まことによしや」とのたまへば、 |
"あはれのことや。よろしくきこえしひとぞかし。まことによしや。"とのたまへば、 |
02 | 3.3.56 | 307 | 289 |
「けしうははべらざるべし。もて離れてうとうとしくはべれば、世のたとひにて、睦びはべらず」と申す。 |
"けしうははべらざるべし。もてはなれてうとうとしくはべれば、よのたとひにて、むつびはべらず。"とまうす。 |
02 | 3.4 | 308 | 290 | 第四段 それから数日後 |
02 | 3.4.1 | 309 | 291 |
さて、五、六日ありて、この子率て参れり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさまして、あて人と見えたり。召し入れて、いとなつかしく語らひたまふ。童心地に、いとめでたくうれしと思ふ。いもうとの君のことも詳しく問ひたまふ。さるべきことは答へ聞こえなどして、恥づかしげにしづまりたれば、うち出でにくし。されど、いとよく言ひ知らせたまふ。 |
さて、いつかむいかありて、このこゐてまゐれり。こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさまして、あてびととみえたり。めしいれて、いとなつかしくかたらひたまふ。わらはごこちに、いとめでたくうれしとおもふ。いもうとのきみのこともくはしくとひたまふ。さるべきことはいらへきこえなどして、はづかしげにしづまりたれば、うちいでにくし。されど、いとよくいひしらせたまふ。 |
02 | 3.4.2 | 310 | 292 |
かかることこそはと、ほの心得るも、思ひの外なれど、幼な心地に深くしもたどらず。御文を持て来たれば、女、あさましきに涙も出で来ぬ。この子の思ふらむこともはしたなくて、さすがに、御文を面隠しに広げたり。いと多くて、 |
かかることこそはと、ほのこころうるも、おもひのほかなれど、をさなごこちにふかくしもたどらず。おほんふみをもてきたれば、をんな、あさましきになみだもいできぬ。このこのおもふらんこともはしたなくて、さすがに、おほんふみをおもがくしにひろげたり。いとおほくて、 |
02 | 3.4.3 | 311 | 294 |
「見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに<BR/>目さへあはでぞころも経にける |
"〔みしゆめをあふよありやとなげくまに<BR/>めさへあはでぞころもへにける |
02 | 3.4.4 | 312 | 295 |
寝る夜なければ」 |
ぬるよなければ。" |
02 | 3.4.5 | 313 | 296 |
など、目も及ばぬ御書きざまも、霧り塞がりて、心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひ続けて臥したまへり。 |
など、めもおよばぬおほんかきざまも、きりふたがりて、こころえぬすくせうちそへりけるみをおもひつづけてふしたまへり。 |
02 | 3.4.6 | 314 | 297 |
またの日、小君召したれば、参るとて御返り乞ふ。 |
またのひ、こぎみめしたれば、まゐるとておほんかへりこふ。 |
02 | 3.4.7 | 315 | 298 |
「かかる御文見るべき人もなし、と聞こえよ」 |
"かかるおほんふみみるべきひともなし、ときこえよ。" |
02 | 3.4.8 | 316 | 299 |
とのたまへば、うち笑みて、 |
とのたまへば、うちゑみて、 |
02 | 3.4.9 | 317 | 300 |
「違ふべくものたまはざりしものを。いかが、さは申さむ」 |
"たがふべくものたまはざりしものを。いかが、さはまうさん。" |
02 | 3.4.10 | 318 | 301 |
と言ふに、心やましく、残りなくのたまはせ、知らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。 |
といふに、こころやましく、のこりなくのたまはせ、しらせてけるとおもふに、つらきことかぎりなし。 |
02 | 3.4.11 | 319 | 302 |
「いで、およすけたることは言はぬぞよき。さは、な参りたまひそ」とむつかられて、 |
"いで、およすけたることはいはぬぞよき。さは、なまゐりたまひそ。"とむつかられて、 |
02 | 3.4.12 | 320 | 303 |
「召すには、いかでか」とて、参りぬ。 |
"めすには、いかでか。"とて、まゐりぬ。 |
02 | 3.4.13 | 321 | 304 |
紀伊守、好き心にこの継母のありさまをあたらしきものに思ひて、追従しありけば、この子をもてかしづきて、率てありく。 |
きのかみ、すきごころにこのままははのありさまをあたらしきものにおもひて、ついそうしありけば、このこをもてかしづきて、ゐてありく。 |
02 | 3.4.14 | 322 | 305 |
君、召し寄せて、 |
きみ、めしよせて、 |
02 | 3.4.15 | 323 | 306 |
「昨日待ち暮らししを。なほあひ思ふまじきなめり」 |
"きのふまちくらししを。なほあひおもふまじきなめり。" |
02 | 3.4.16 | 324 | 307 |
と怨じたまへば、顔うち赤めてゐたり。 |
とゑんじたまへば、かほうちあかめてゐたり。 |
02 | 3.4.17 | 325 | 308 |
「いづら」とのたまふに、しかしかと申すに、 |
"いづら。"とのたまふに、しかしかとまうすに、 |
02 | 3.4.18 | 326 | 309 |
「言ふかひなのことや。あさまし」とて、またも賜へり。 |
"いふかひなのことや。あさまし。"とて、またもたまへり。 |
02 | 3.4.19 | 327 | 310 |
「あこは知らじな。その伊予の翁よりは、先に見し人ぞ。されど、頼もしげなく頚細しとて、ふつつかなる後見まうけて、かく侮りたまふなめり。さりとも、あこはわが子にてをあれよ。この頼もし人は、行く先短かりなむ」 |
"あこはしらじな。そのいよのおきなよりは、さきにみしひとぞ。されど、たのもしげなくくびほそしとて、ふつつかなるうしろみまうけて、かくあなづりたまふなめり。さりとも、あこはわがこにてをあれよ。このたのもしびとは、ゆくさきみじかかりなん。" |
02 | 3.4.20 | 328 | 311 |
とのたまへば、「さもやありけむ、いみじかりけることかな」と思へる、「をかし」と思す。 |
とのたまへば、"さもやありけん、いみじかりけることかな。"とおもへる、"をかし"とおぼす。 |
02 | 3.4.21 | 329 | 312 |
この子をまつはしたまひて、内裏にも率て参りなどしたまふ。わが御匣殿にのたまひて、装束などもせさせ、まことに親めきてあつかひたまふ。 |
このこをまつはしたまひて、うちにもゐてまゐりなどしたまふ。わがみくしげどのにのたまひて、さうぞくなどもせさせ、まことにおやめきてあつかひたまふ。 |
02 | 3.4.22 | 330 | 313 |
御文は常にあり。されど、この子もいと幼し、心よりほかに散りもせば、軽々しき名さへとり添へむ、身のおぼえをいとつきなかるべく思へば、めでたきこともわが身からこそと思ひて、うちとけたる御答へも聞こえず。ほのかなりし御けはひありさまは、「げに、なべてにやは」と、思ひ出できこえぬにはあらねど、「をかしきさまを見えたてまつりても、何にかはなるべき」など、思ひ返すなりけり。 |
おほんふみはつねにあり。されど、このこもいとをさなし、こころよりほかにちりもせば、かろがろしきなさへとりそへん、みのおぼえをいとつきなかるべくおもへば、めでたきこともわがみからこそとおもひて、うちとけたるおほんいらへもきこえず。ほのかなりしおほんけはひありさまは、"げに、なべてにやは。"と、おもひいできこえぬにはあらねど、"をかしきさまをみえたてまつりても、なににかはなるべき。"など、おもひかへすなりけり。 |
02 | 3.4.23 | 331 | 314 |
君は思しおこたる時の間もなく、心苦しくも恋しくも思し出づ。思へりし気色などのいとほしさも、晴るけむ方なく思しわたる。軽々しく這ひ紛れ立ち寄りたまはむも、人目しげからむ所に、便なき振る舞ひやあらはれむと、人のためもいとほしく、と思しわづらふ。 |
きみはおぼしおこたるときのまもなく、こころぐるしくもこひしくもおぼしいづ。おもへりしけしきなどのいとほしさも、はるけんかたなくおぼしわたる。かろがろしくはひまぎれたちよりたまはんも、ひとめしげからんところに、びんなきふるまひやあらはれんと、ひとのためもいとほしく、とおぼしわづらふ。 |
02 | 3.4.24 | 332 | 315 |
例の、内裏に日数経たまふころ、さるべき方の忌み待ち出でたまふ。にはかにまかでたまふまねして、道のほどよりおはしましたり。 |
れいの、うちにひかずへたまふころ、さるべきかたのいみまちいでたまふ。にはかにまかでたまふまねして、みちのほどよりおはしましたり。 |
02 | 3.4.25 | 333 | 316 |
紀伊守おどろきて、遣水の面目とかしこまり喜ぶ。小君には、昼より、「かくなむ思ひよれる」とのたまひ契れり。明け暮れまつはし馴らしたまひければ、今宵もまづ召し出でたり。 |
きのかみおどろきて、やりみづのめいぼくとかしこまりよろこぶ。こぎみには、ひるより、"かくなんおもひよれる。"とのたまひちぎれり。あけくれまつはしならしたまひければ、こよひもまづめしいでたり。 |
02 | 3.4.26 | 334 | 317 |
女も、さる御消息ありけるに、思したばかりつらむほどは、浅くしも思ひなされねど、さりとて、うちとけ、人げなきありさまを見えたてまつりても、あぢきなく、夢のやうにて過ぎにし嘆きを、またや加へむ、と思ひ乱れて、なほさて待ちつけきこえさせむことのまばゆければ、小君が出でて往ぬるほどに、 |
をんなも、さるおほんせうそこありけるに、おぼしたばかりつらんほどは、あさくしもおもひなされねど、さりとて、うちとけ、ひとげなきありさまをみえたてまつりても、あぢきなく、ゆめのやうにてすぎにしなげきを、またやくはへん、とおもひみだれて、なほさてまちつけきこえさせんことのまばゆければ、こぎみがいでていぬるほどに、 |
02 | 3.4.27 | 335 | 318 |
「いとけ近ければ、かたはらいたし。なやましければ、忍びてうち叩かせなどせむに、ほど離れてを」 |
"いとけぢかければ、かたはらいたし。なやましければ、しのびてうちたたかせなどせんに、ほどはなれてを。" |
02 | 3.4.28 | 336 | 319 |
とて、渡殿に、中将といひしが局したる隠れに、移ろひぬ。 |
とて、わたどのに、ちゅうじゃうといひしがつぼねしたるかくれに、うつろひぬ。 |
02 | 3.4.29 | 337 | 320 |
さる心して、人とく静めて、御消息あれど、小君は尋ねあはず。よろづの所求め歩きて、渡殿に分け入りて、からうしてたどり来たり。いとあさましくつらし、と思ひて、 |
さるこころして、ひととくしづめて、おほんせうそこあれど、こぎみはたづねあはず。よろづのところもとめありきて、わたどのにわけいりて、からうしてたどりきたり。いとあさましくつらし、とおもひて、 |
02 | 3.4.30 | 338 | 321 |
「いかにかひなしと思さむ」と、泣きぬばかり言へば、 |
"いかにかひなしとおぼさん。"と、なきぬばかりいへば、 |
02 | 3.4.31 | 339 | 322 |
「かく、けしからぬ心ばへは、つかふものか。幼き人のかかること言ひ伝ふるは、いみじく忌むなるものを」と言ひおどして、「『心地悩ましければ、人びと避けずおさへさせてなむ』と聞こえさせよ。あやしと誰も誰も見るらむ」 |
"かく、けしからぬこころばへは、つかふものか。をさなきひとのかかることいひつたふるは、いみじくいむなるものを。"といひおどして、"'ここちなやましければ、ひとびとさけずおさへさせてなん'ときこえさせよ。あやしとたれもたれもみるらん。" |
02 | 3.4.32 | 340 | 323 |
と言ひ放ちて、心の中には、「いと、かく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれるふるさとながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし。しひて思ひ知らぬ顔に見消つも、いかにほど知らぬやうに思すらむ」と、心ながらも、胸いたく、さすがに思ひ乱る。「とてもかくても、今は言ふかひなき宿世なりければ、無心に心づきなくて止みなむ」と思ひ果てたり。 |
といひはなちて、こころのうちには、"いと、かくしなさだまりぬるみのおぼえならで、すぎにしおやのおほんけはひとまれるふるさとながら、たまさかにもまちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし。しひておもひしらぬかほにみけつも、いかにほどしらぬやうにおぼすらん。"と、こころながらも、むねいたく、さすがにおもひみだる。"とてもかくても、いまはいふかひなきしゅくせなりければ、むじんにこころづきなくてやみなん。"とおもひはてたり。 |
02 | 3.4.33 | 341 | 324 |
君は、いかにたばかりなさむと、まだ幼きをうしろめたく待ち臥したまへるに、不用なるよしを聞こゆれば、あさましくめづらかなりける心のほどを、「身もいと恥づかしくこそなりぬれ」と、いといとほしき御気色なり。とばかりものものたまはず、いたくうめきて、憂しと思したり。 |
きみは、いかにたばかりなさんと、まだをさなきをうしろめたくまちふしたまへるに、ふようなるよしをきこゆれば、あさましくめづらかなりけるこころのほどを、"みもいとはづかしくこそなりぬれ。"と、いといとほしきみけしきなり。とばかりものものたまはず、いたくうめきて、うしとおぼしたり。 |
02 | 3.4.34 | 342 | 325 |
「帚木の心を知らで園原の<BR/>道にあやなく惑ひぬるかな |
"〔ははきぎのこころをしらでそのはらの<BR/>みちにあやなくまどひぬるかな |
02 | 3.4.35 | 343 | 326 |
聞こえむ方こそなけれ」 |
きこえんかたこそなけれ。" |
02 | 3.4.36 | 344 | 327 |
とのたまへり。女も、さすがに、まどろまざりければ、 |
とのたまへり。をんなも、さすがに、まどろまざりければ、 |
02 | 3.4.37 | 345 | 328 |
「数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに<BR/>あるにもあらず消ゆる帚木」 |
"〔かずならぬふせやにおふるなのうさに<BR/>あるにもあらずきゆるははきぎ〕" |
02 | 3.4.38 | 346 | 329 |
と聞こえたり。 |
ときこえたり。 |
02 | 3.4.39 | 347 | 330 |
小君、いといとほしさに眠たくもあらでまどひ歩くを、人あやしと見るらむ、とわびたまふ。 |
こぎみ、いといとほしさにねぶたくもあらでまどひありくを、ひとあやしとみるらん、とわびたまふ。 |
02 | 3.4.40 | 348 | 331 |
例の、人びとはいぎたなきに、一所すずろにすさまじく思し続けらるれど、人に似ぬ心ざまの、なほ消えず立ち上れりける、とねたく、かかるにつけてこそ心もとまれと、かつは思しながら、めざましくつらければ、さばれと思せども、さも思し果つまじく、 |
れいの、ひとびとはいぎたなきに、ひとところすずろにすさまじくおぼしつづけらるれど、ひとににぬこころざまの、なほきえずたちのぼれりける、とねたく、かかるにつけてこそこころもとまれと、かつはおぼしながら、めざましくつらければ、さばれとおぼせども、さもおぼしはつまじく、 |
02 | 3.4.41 | 349 | 332 |
「隠れたらむ所に、なほ率て行け」とのたまへど、 |
"かくれたらんところに、なほゐていけ。"とのたまへど、 |
02 | 3.4.42 | 350 | 333 |
「いとむつかしげにさし籠められて、人あまたはべるめれば、かしこげに」 |
"いとむつかしげにさしこめられて、ひとあまたはべるめれば、かしこげに。" |
02 | 3.4.43 | 351 | 334 |
と聞こゆ。いとほしと思へり。 |
ときこゆ。いとほしとおもへり。 |
02 | 3.4.44 | 352 | 335 |
「よし、あこだに、な捨てそ」 |
"よし、あこだに、なすてそ。" |
02 | 3.4.45 | 353 | 336 |
とのたまひて、御かたはらに臥せたまへり。若くなつかしき御ありさまを、うれしくめでたしと思ひたれば、つれなき人よりは、なかなかあはれに思さるとぞ。 |
とのたまひて、おほんかたはらにふせたまへり。わかくなつかしきおほんありさまを、うれしくめでたしとおもひたれば、つれなきひとよりは、なかなかあはれにおぼさるとぞ。 |