帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
03 | 空蝉 |
03 | 1 | 34 | 23 | 光る源氏十七歳夏の物語 |
03 | 1.1 | 35 | 24 | 第一段 空蝉の物語 |
03 | 1.1.1 | 36 | 25 |
寝られたまはぬままには、「我は、かく人に憎まれてもならはぬを、今宵なむ、初めて憂しと世を思ひ知りぬれば、恥づかしくて、ながらふまじうこそ、思ひなりぬれ」などのたまへば、涙をさへこぼして臥したり。いとらうたしと思す。手さぐりの、細く小さきほど、髪のいと長からざりしけはひのさまかよひたるも、思ひなしにやあはれなり。あながちにかかづらひたどり寄らむも、人悪ろかるべく、まめやかにめざましと思し明かしつつ、例のやうにものたまひまつはさず。夜深う出でたまへば、この子は、いといとほしく、さうざうしと思ふ。 |
ねられたまはぬままには、"われは、かくひとににくまれてもならはぬを、こよひなん、はじめてうしとよをおもひしりぬれば、はづかしくて、ながらふまじうこそ、おもひなりぬれ。"などのたまへば、なみだをさへこぼしてふしたり。いとらうたしとおぼす。てさぐりの、ほそくちひさきほど、かみのいとながからざりしけはひのさまかよひたるも、おもひなしにやあはれなり。あながちにかかづらひたどりよらんも、ひとわろかるべく、まめやかにめざましとおぼしあかしつつ、れいのやうにものたまひまつはさず。よぶかういでたまへば、このこは、いといとほしく、さうざうしとおもふ。 |
03 | 1.1.2 | 37 | 26 |
女も、並々ならずかたはらいたしと思ふに、御消息も絶えてなし。思し懲りにけると思ふにも、「やがてつれなくて止みたまひなましかば憂からまし。しひていとほしき御振る舞ひの絶えざらむもうたてあるべし。よきほどに、かくて閉ぢめてむ」と思ふものから、ただならず、ながめがちなり。 |
をんなも、なみなみならずかたはらいたしとおもふに、おほんせうそくもたえてなし。おぼしこりにけるとおもふにも、"やがてつれなくてやみたまひなましかばうからまし。しひていとほしきおほんふるまひのたえざらんもうたてあるべし。よきほどに、かくてとぢめてん"とおもふものから、ただならず、ながめがちなり。 |
03 | 1.1.3 | 38 | 27 |
君は、心づきなしと思しながら、かくてはえ止むまじう御心にかかり、人悪ろく思ほしわびて、小君に、「いとつらうも、うれたうもおぼゆるに、しひて思ひ返せど、心にしも従はず苦しきを。さりぬべきをり見て、対面すべくたばかれ」とのたまひわたれば、わづらはしけれど、かかる方にても、のたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。 |
きみは、こころづきなしとおぼしながら、かくてはえやむまじうみこころにかかり、ひとわろくおもほしわびて、こぎみに、"いとつらうも、うれたうもおぼゆるに、しひておもひかへせど、こころにしもしたがはずくるしきを。さりぬべきをりみて、たいめんすべくたばかれ"とのたまひわたれば、わづらはしけれど、かかるかたにても、のたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。 |
03 | 1.2 | 39 | 28 | 第二段 源氏、再度、紀伊守邸へ |
03 | 1.2.1 | 40 | 29 |
幼き心地に、いかならむ折と待ちわたるに、紀伊守国に下りなどして、女どちのどやかなる夕闇の道たどたどしげなる紛れに、わが車にて率てたてまつる。 |
をさなきここちに、いかならんをりとまちわたるに、きのかみくににくだりなどして、をんなどちのどやかなるゆふやみのみちたどたどしげなるまぎれに、わがくるまにてゐてたてまつる。 |
03 | 1.2.2 | 41 | 30 |
この子も幼きを、いかならむと思せど、さのみもえ思しのどむまじければ、さりげなき姿にて、門など鎖さぬ先にと、急ぎおはす。 |
このこもをさなきを、いかならんとおぼせど、さのみもえおぼしのどむまじければ、さりげなきすがたにて、かどなどささぬさきにと、いそぎおはす。 |
03 | 1.2.3 | 42 | 31 |
人見ぬ方より引き入れて、降ろしたてまつる。童なれば、宿直人などもことに見入れ追従せず、心やすし。 |
ひとみぬかたよりひきいれて、おろしたてまつる。わらはなれば、とのゐびとなどもことにみいれついせうせず、こころやすし。 |
03 | 1.2.4 | 43 | 32 |
東の妻戸に、立てたてまつりて、我は南の隅の間より、格子叩きののしりて入りぬ。御達、 |
ひんがしのつまどに、たてたてまつりて、われはみなみのすみのまより、かうしたたきののしりていりぬ。ごたち、 |
03 | 1.2.5 | 44 | 33 |
「あらはなり」と言ふなり。 |
"あらはなり。"といふなり。 |
03 | 1.2.6 | 45 | 34 |
「なぞ、かう暑きに、この格子は下ろされたる」と問へば、 |
"なぞ、かうあつきに、このかうしはおろされたる。"ととへば、 |
03 | 1.2.7 | 46 | 35 |
「昼より、西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と言ふ。 |
"ひるより、にしのおほんかたのわたらせたまひて、ごうたせたまふ。"といふ。 |
03 | 1.2.8 | 47 | 36 |
さて向かひゐたらむを見ばや、と思ひて、やをら歩み出でて、簾のはさまに入りたまひぬ。 |
さてむかひゐたらんをみばや、とおもひて、やをらあゆみいでて、すだれのはさまにいりたまひぬ。 |
03 | 1.2.9 | 48 | 37 |
この入りつる格子はまだ鎖さねば、隙見ゆるに、寄りて西ざまに見通したまへば、この際に立てたる屏風、端の方おし畳まれたるに、紛るべき几帳なども、暑ければにや、うち掛けて、いとよく見入れらる。 |
このいりつるかうしはまだささねば、ひまみゆるに、よりてにしざまにみとほしたまへば、このきはにたてたるびゃうぶ、はしのかたおしたたまれたるに、まぎるべききちゃうなども、あつければにや、うちかけて、いとよくみいれらる。 |
03 | 1.3 | 49 | 38 | 第三段 空蝉と軒端荻、碁を打つ |
03 | 1.3.1 | 50 | 39 |
火近う灯したり。母屋の中柱に側める人やわが心かくると、まづ目とどめたまへば、濃き綾の単衣襲なめり。何にかあらむ表に着て、頭つき細やかに小さき人の、ものげなき姿ぞしたる。顔などは、差し向かひたらむ人などにも、わざと見ゆまじうもてなしたり。手つき痩せ痩せにて、いたうひき隠しためり。 |
ひちかうともしたり。もやのなかばしらにそばめるひとやわがこころかくると、まづめとどめたまへば、こきあやのひとへがさねなめり。なににかあらんうへにきて、かしらつきほそやかにちひさきひとの、ものげなきすがたぞしたる。かほなどは、さしむかひたらんひとなどにも、わざとみゆまじうもてなしたり。てつきやせやせにて、いたうひきかくしためり。 |
03 | 1.3.2 | 51 | 40 |
いま一人は、東向きにて、残るところなく見ゆ。白き羅の単衣襲、二藍の小袿だつもの、ないがしろに着なして、紅の腰ひき結へる際まで胸あらはに、ばうぞくなるもてなしなり。いと白うをかしげに、つぶつぶと肥えて、そぞろかなる人の、頭つき額つきものあざやかに、まみ口つき、いと愛敬づき、はなやかなる容貌なり。髪はいとふさやかにて、長くはあらねど、下り端、肩のほどきよげに、すべていとねぢけたるところなく、をかしげなる人と見えたり。 |
いまひとりは、ひんがしむきにて、のこるところなくみゆ。しろきうすもののひとへがさね、ふたあゐのこうちきだつもの、ないがしろにきなして、くれなゐのこしひきゆへるきはまでむねあらはに、ばうぞくなるもてなしなり。いとしろうをかしげに、つぶつぶとこえて、そぞろかなるひとの、かしらつきひたひつきものあざやかに、まみくちつき、いとあいぎゃうづき、はなやかなるかたちなり。かみはいとふさやかにて、ながくはあらねど、さがりば、かたのほどきよげに、すべていとねぢけたるところなく、をかしげなるひととみえたり。 |
03 | 1.3.3 | 52 | 42 |
むべこそ親の世になくは思ふらめと、をかしく見たまふ。心地ぞ、なほ静かなる気を添へばやと、ふと見ゆる。かどなきにはあるまじ。碁打ち果てて、結さすわたり、心とげに見えて、きはぎはとさうどけば、奥の人はいと静かにのどめて、 |
むべこそおやのよになくはおもふらめと、をかしくみたまふ。ここちぞ、なほしづかなるけをそへばやと、ふとみゆる。かどなきにはあるまじ。ごうちはてて、けちさすわたり、こころとげにみえて、きはぎはとさうどけば、おくのひとはいとしづかにのどめて、 |
03 | 1.3.4 | 53 | 43 |
「待ちたまへや。そこは持にこそあらめ。このわたりの劫をこそ」など言へど、 |
"まちたまへや。そこはぢにこそあらめ。このわたりのこふをこそ。"などいへど、 |
03 | 1.3.5 | 54 | 44 |
「いで、このたびは負けにけり。隅のところ、いでいで」と指をかがめて、「十、二十、三十、四十」などかぞふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。すこし品おくれたり。 |
"いで、このたびはまけにけり。すみのところ、いでいで。"とおよびをかがめて、"とを、はた、みそ、よそ。"などかぞふるさま、いよのゆげたもたどたどしかるまじうみゆ。すこししなおくれたり。 |
03 | 1.3.6 | 55 | 45 |
たとしへなく口おほひて、さやかにも見せねど、目をしつけたまへれば、おのづから側目も見ゆ。目すこし腫れたる心地して、鼻などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも見えず。言ひ立つれば、悪ろきによれる容貌をいといたうもてつけて、このまされる人よりは心あらむと、目とどめつべきさましたり。 |
たとしへなくくちおほひて、さやかにもみせねど、めをしつけたまへれば、おのづからそばめもみゆ。めすこしはれたるここちして、はななどもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところもみえず。いひたつれば、わろきによれるかたちをいといたうもてつけて、このまされるひとよりはこころあらんと、めとどめつべきさましたり。 |
03 | 1.3.7 | 56 | 46 |
にぎははしう愛敬づきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、笑ひなどそぼるれば、にほひ多く見えて、さる方にいとをかしき人ざまなり。あはつけしとは思しながら、まめならぬ御心は、これもえ思し放つまじかりけり。 |
にぎははしうあいぎゃうづきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、わらひなどそぼるれば、にほひおほくみえて、さるかたにいとをかしきひとざまなり。あはつけしとはおぼしながら、まめならぬみこころは、これもえおぼしはなつまじかりけり。 |
03 | 1.3.8 | 57 | 47 |
見たまふかぎりの人は、うちとけたる世なく、ひきつくろひ側めたるうはべをのみこそ見たまへ、かくうちとけたる人のありさまかいま見などは、まだしたまはざりつることなれば、何心もなうさやかなるはいとほしながら、久しう見たまはまほしきに、小君出で来る心地すれば、やをら出でたまひぬ。 |
みたまふかぎりのひとは、うちとけたるよなく、ひきつくろひそばめたるうはべをのみこそみたまへ、かくうちとけたるひとのありさまかいまみなどは、まだしたまはざりつることなれば、なにごころもなうさやかなるはいとほしながら、ひさしうみたまはまほしきに、こぎみいでくるここちすれば、やをらいでたまひぬ。 |
03 | 1.3.9 | 58 | 48 |
渡殿の戸口に寄りゐたまへり。いとかたじけなしと思ひて、 |
わたどののとぐちによりゐたまへり。いとかたじけなしとおもひて、 |
03 | 1.3.10 | 59 | 49 |
「例ならぬ人はべりて、え近うも寄りはべらず」 |
"れいならぬひとはべりて、えちかうもよりはべらず。" |
03 | 1.3.11 | 60 | 50 |
「さて、今宵もや帰してむとする。いとあさましう、からうこそあべけれ」とのたまへば、 |
"さて、こよひもやかへしてんとする。いとあさましう、からうこそあべけれ"とのたまへば、 |
03 | 1.3.12 | 61 | 51 |
「などてか。あなたに帰りはべりなば、たばかりはべりなむ」と聞こゆ。 |
"などてか。あなたにかへりはべりなば、たばかりはべりなん。"ときこゆ。 |
03 | 1.3.13 | 62 | 52 |
「さもなびかしつべき気色にこそはあらめ。童なれど、ものの心ばへ、人の気色見つべくしづまれるを」と、思すなりけり。 |
"さもなびかしつべきけしきにこそはあらめ。わらはなれど、もののこころばへ、ひとのけしきみつべくしづまれるを。"と、おぼすなりけり。 |
03 | 1.3.14 | 63 | 53 |
碁打ち果てつるにやあらむ、うちそよめく心地して、人びとあかるるけはひなどすなり。 |
ごうちはてつるにやあらん、うちそよめくここちして、ひとびとあかるるけはひなどすなり。 |
03 | 1.3.15 | 64 | 54 |
「若君はいづくにおはしますならむ。この御格子は鎖してむ」とて、鳴らすなり。 |
"わかぎみはいづくにおはしますならん。このみかうしはさしてん。"とて、ならすなり。 |
03 | 1.3.16 | 65 | 55 |
「静まりぬなり。入りて、さらば、たばかれ」とのたまふ。 |
"しづまりぬなり。いりて、さらば、たばかれ。"とのたまふ。 |
03 | 1.3.17 | 66 | 56 |
この子も、いもうとの御心はたわむところなくまめだちたれば、言ひあはせむ方なくて、人少なならむ折に入れたてまつらむと思ふなりけり。 |
このこも、いもうとのみこころはたわむところなくまめだちたれば、いひあはせんかたなくて、ひとずくなならんをりにいれたてまつらんとおもふなりけり。 |
03 | 1.3.18 | 67 | 57 |
「紀伊守の妹もこなたにあるか。我にかいま見せさせよ」とのたまへど、 |
"きのかみのいもうともこなたにあるか。われにかいまみせさせよ。"とのたまへど、 |
03 | 1.3.19 | 68 | 58 |
「いかでか、さははべらむ。格子には几帳添へてはべり」と聞こゆ。 |
"いかでか、さははべらん。かうしにはきちゃうそへてはべり。"ときこゆ。 |
03 | 1.3.20 | 69 | 59 |
さかし、されどもをかしく思せど、「見つとは知らせじ、いとほし」と思して、夜更くることの心もとなさをのたまふ。 |
さかし、されどもをかしくおぼせど、"みつとはしらせじ、いとほし"とおぼして、よふくることのこころもとなさをのたまふ。 |
03 | 1.3.21 | 70 | 60 |
こたみは妻戸を叩きて入る。皆人びと静まり寝にけり。 |
こたみはつまどをたたきている。みなひとびとしづまりねにけり。 |
03 | 1.3.22 | 71 | 61 |
「この障子口に、まろは寝たらむ。風吹きとほせ」とて、畳広げて臥す。御達、東の廂にいとあまた寝たるべし。戸放ちつる童もそなたに入りて臥しぬれば、とばかり空寝して、灯明かき方に屏風を広げて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。 |
"このさうじぐちに、まろはねたらん。かぜふきとほせ。"とて、たたみひろげてふす。ごたち、ひんがしのひさしにいとあまたねたるべし。とはなちつるわらはべもそなたにいりてふしぬれば、とばかりそらねして、ひあかきかたにびゃうぶをひろげて、かげほのかなるに、やをらいれたてまつる。 |
03 | 1.3.23 | 72 | 62 |
「いかにぞ、をこがましきこともこそ」と思すに、いとつつましけれど、導くままに、母屋の几帳の帷子引き上げて、いとやをら入りたまふとすれど、皆静まれる夜の、御衣のけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。 |
"いかにぞ、をこがましきこともこそ。"とおぼすに、いとつつましけれど、みちびくままに、もやのきちゃうのかたびらひきあげて、いとやをらいりたまふとすれど、みなしづまれるよの、おほんぞのけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり。 |
03 | 1.4 | 73 | 63 | 第四段 空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る |
03 | 1.4.1 | 74 | 64 |
女は、さこそ忘れたまふをうれしきに思ひなせど、あやしく夢のやうなることを、心に離るる折なきころにて、心とけたる寝だに寝られずなむ、昼はながめ、夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ木の芽も、いとなく嘆かしきに、碁打ちつる君、「今宵は、こなたに」と、今めかしくうち語らひて、寝にけり。 |
をんなは、さこそわすれたまふをうれしきにおもひなせど、あやしくゆめのやうなることを、こころにはなるるをりなきころにて、こころとけたるいだにねられずなん、ひるはながめ、よるはねざめがちなれば、はるならぬこのめも、いとなくなげかしきに、ごうちつるきみ、"こよひは、こなたに。"と、いまめかしくうちかたらひて、ねにけり。 |
03 | 1.4.2 | 75 | 65 |
若き人は、何心なくいとようまどろみたるべし。かかるけはひの、いと香ばしくうち匂ふに、顔をもたげたるに、単衣うち掛けたる几帳の隙間に、暗けれど、うち身じろき寄るけはひ、いとしるし。あさましくおぼえて、ともかくも思ひ分かれず、やをら起き出でて、生絹なる単衣を一つ着て、すべり出でにけり。 |
わかきひとは、なにごころなくいとようまどろみたるべし。かかるけはひの、いとかうばしくうちにほふに、かほをもたげたるに、ひとへうちかけたるきちゃうのすきまに、くらけれど、うちみじろきよるけはひ、いとしるし。あさましくおぼえて、ともかくもおもひわかれず、やをらおきいでて、すずしなるひとへをひとつきて、すべりいでにけり。 |
03 | 1.4.3 | 76 | 67 |
君は入りたまひて、ただひとり臥したるを心やすく思す。床の下に二人ばかりぞ臥したる。衣を押しやりて寄りたまへるに、ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、思ほしうも寄らずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしく変はりて、やうやう見あらはしたまひて、あさましく心やましけれど、「人違へとたどりて見えむも、をこがましく、あやしと思ふべし、本意の人を尋ね寄らむも、かばかり逃るる心あめれば、かひなう、をこにこそ思はめ」と思す。かのをかしかりつる灯影ならば、いかがはせむに思しなるも、悪ろき御心浅さなめりかし。 |
きみはいりたまひて、ただひとりふしたるをこころやすくおぼす。ゆかのしもにふたりばかりぞふしたる。きぬをおしやりてよりたまへるに、ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、おもほしうもよらずかし。いぎたなきさまなどぞ、あやしくかはりて、やうやうみあらはしたまひて、あさましくこころやましけれど、"ひとたがへとたどりてみえんも、をこがましく、あやしとおもふべし、ほいのひとをたづねよらんも、かばかりのがるるこころあめれば、かひなう、をこにこそおもはめ。"とおぼす。かのをかしかりつるほかげならば、いかがはせんにおぼしなるも、わろきみこころあささなめりかし。 |
03 | 1.4.4 | 77 | 68 |
やうやう目覚めて、いとおぼえずあさましきに、あきれたる気色にて、何の心深くいとほしき用意もなし。世の中をまだ思ひ知らぬほどよりは、さればみたる方にて、あえかにも思ひまどはず。我とも知らせじと思ほせど、いかにしてかかることぞと、後に思ひめぐらさむも、わがためには事にもあらねど、あのつらき人の、あながちに名をつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびの御方違へにことつけたまひしさまを、いとよう言ひなしたまふ。たどらむ人は心得つべけれど、まだいと若き心地に、さこそさし過ぎたるやうなれど、えしも思ひ分かず。 |
やうやうめさめて、いとおぼえずあさましきに、あきれたるけしきにて、なにのこころふかくいとほしきよういもなし。よのなかをまだおもひしらぬほどよりは、さればみたるかたにて、あえかにもおもひまどはず。われともしらせじとおもほせど、いかにしてかかることぞと、のちにおもひめぐらさんも、わがためにはことにもあらねど、あのつらきひとの、あながちになをつつむも、さすがにいとほしければ、たびたびのおほんかたたがへにことつけたまひしさまを、いとよういひなしたまふ。たどらんひとはこころえつべけれど、まだいとわかきここちに、さこそさしすぎたるやうなれど、えしもおもひわかず。 |
03 | 1.4.5 | 78 | 69 |
憎しとはなけれど、御心とまるべきゆゑもなき心地して、なほかのうれたき人の心をいみじく思す。「いづくにはひ紛れて、かたくなしと思ひゐたらむ。かく執念き人はありがたきものを」と思すしも、あやにくに、紛れがたう思ひ出でられたまふ。この人の、なま心なく、若やかなるけはひもあはれなれば、さすがに情け情けしく契りおかせたまふ。 |
にくしとはなけれど、みこころとまるべきゆゑもなきここちして、なほかのうれたきひとのこころをいみじくおぼす。"いづくにはひまぎれて、かたくなしとおもひゐたらん。かくしふねきひとはありがたきものを。"とおぼすしも、あやにくに、まぎれがたうおもひいでられたまふ。このひとの、なまこころなく、わかやかなるけはひもあはれなれば、さすがになさけなさけしくちぎりおかせたまふ。 |
03 | 1.4.6 | 79 | 70 |
「人知りたることよりも、かやうなるは、あはれも添ふこととなむ、昔人も言ひける。あひ思ひたまへよ。つつむことなきにしもあらねば、身ながら心にもえまかすまじくなむありける。また、さるべき人びとも許されじかしと、かねて胸いたくなむ。忘れで待ちたまへよ」など、なほなほしく語らひたまふ。 |
"ひとしりたることよりも、かやうなるは、あはれもそふこととなん、むかしびともいひける。あひおもひたまへよ。つつむことなきにしもあらねば、みながらこころにもえまかすまじくなんありける。また、さるべきひとびともゆるされじかしと、かねてむねいたくなん。わすれでまちたまへよ。"など、なほなほしくかたらひたまふ。 |
03 | 1.4.7 | 80 | 71 |
「人の思ひはべらむことの恥づかしきになむ、え聞こえさすまじき」とうらもなく言ふ。 |
"ひとのおもひはべらんことのはづかしきになん、えきこえさすまじき。"とうらもなくいふ。 |
03 | 1.4.8 | 81 | 72 |
「なべて、人に知らせばこそあらめ、この小さき上人に伝へて聞こえむ。気色なくもてなしたまへ」 |
"なべて、ひとにしらせばこそあらめ、このちひさきうへびとにつたへてきこえん。けしきなくもてなしたまへ。" |
03 | 1.4.9 | 82 | 73 |
など言ひおきて、かの脱ぎすべしたると見ゆる薄衣を取りて出でたまひぬ。 |
などいひおきて、かのぬぎすべしたるとみゆるうすごろもをとりていでたまひぬ。 |
03 | 1.4.10 | 83 | 74 |
小君近う臥したるを起こしたまへば、うしろめたう思ひつつ寝ければ、ふとおどろきぬ。戸をやをら押し開くるに、老いたる御達の声にて、 |
こぎみちかうふしたるをおこしたまへば、うしろめたうおもひつつねければ、ふとおどろきぬ。とをやをらおしあくるに、おいたるごたちのこゑにて、 |
03 | 1.4.11 | 84 | 75 |
「あれは誰そ」 |
"あれはたそ。" |
03 | 1.4.12 | 85 | 76 |
とおどろおどろしく問ふ。わづらはしくて、 |
とおどろおどろしくとふ。わづらはしくて、 |
03 | 1.4.13 | 86 | 77 |
「まろぞ」と答ふ。 |
"まろぞ。"といらふ。 |
03 | 1.4.14 | 87 | 78 |
「夜中に、こは、なぞ外歩かせたまふ」 |
"よなかに、こは、なぞとありかせたまふ。" |
03 | 1.4.15 | 88 | 79 |
とさかしがりて、外ざまへ来。いと憎くて、 |
とさかしがりて、とざまへく。いとにくくて、 |
03 | 1.4.16 | 89 | 80 |
「あらず。ここもとへ出づるぞ」 |
"あらず。ここもとへいづるぞ。" |
03 | 1.4.17 | 90 | 81 |
とて、君を押し出でたてまつるに、暁近き月、隈なくさし出でて、ふと人の影見えければ、 |
とて、きみをおしいでたてまつるに、あかつきちかきつき、くまなくさしいでて、ふとひとのかげみえければ、 |
03 | 1.4.18 | 91 | 82 |
「またおはするは、誰そ」と問ふ。 |
"またおはするは、たそ。"ととふ。 |
03 | 1.4.19 | 92 | 83 |
「民部のおもとなめり。けしうはあらぬおもとの丈だちかな」 |
"みんぶのおもとなめり。けしうはあらぬおもとのたけだちかな。" |
03 | 1.4.20 | 93 | 84 |
と言ふ。丈高き人の常に笑はるるを言ふなりけり。老人、これを連ねて歩きけると思ひて、 |
といふ。たけたかきひとのつねにわらはるるをいふなりけり。おいびと、これをつらねてありきけるとおもひて、 |
03 | 1.4.21 | 94 | 85 |
「今、ただ今立ちならびたまひなむ」 |
"いま、ただいまたちならびたまひなん。" |
03 | 1.4.22 | 95 | 86 |
と言ふ言ふ、我もこの戸より出でて来。わびしければ、えはた押し返さで、渡殿の口にかい添ひて隠れ立ちたまへれば、このおもとさし寄りて、 |
といふいふ、われもこのとよりいでてく。わびしければ、えはたおしかへさで、わたどののくちにかいそひてかくれたちたまへれば、このおもとさしよりて、 |
03 | 1.4.23 | 96 | 87 |
「おもとは、今宵は、上にやさぶらひたまひつる。一昨日より腹を病みて、いとわりなければ、下にはべりつるを、人少ななりとて召ししかば、昨夜参う上りしかど、なほえ堪ふまじくなむ」 |
"おもとは、こよひは、うへにやさぶらひたまひつる。をととひよりはらをやみて、いとわりなければ、しもにはべりつるを、ひとずくななりとてめししかば、よべまうのぼりしかど、なほえたふまじくなん。" |
03 | 1.4.24 | 97 | 88 |
と、憂ふ。答へも聞かで、 |
と、うれふ。いらへもきかで、 |
03 | 1.4.25 | 98 | 89 |
「あな、腹々。今聞こえむ」とて過ぎぬるに、からうして出でたまふ。なほかかる歩きは軽々しくあやしかりけりと、いよいよ思し懲りぬべし。 |
"あな。はらはら。いまきこえん。"とてすぎぬるに、からうしていでたまふ。なほかかるありきはかろがろしくあやしかりけりと、いよいよおぼしこりぬべし。 |
03 | 1.5 | 99 | 90 | 第五段 源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る |
03 | 1.5.1 | 100 | 91 |
小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ。ありさまのたまひて、「幼かりけり」とあはめたまひて、かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ。いとほしうて、ものもえ聞こえず。 |
こぎみ、みくるまのしりにて、にでうのゐんにおはしましぬ。ありさまのたまひて、"をさなかりけり。"とあはめたまひて、かのひとのこころをつまはじきをしつつうらみたまふ。いとほしうて、ものもえきこえず。 |
03 | 1.5.2 | 101 | 92 |
「いと深う憎みたまふべかめれば、身も憂く思ひ果てぬ。などか、よそにても、なつかしき答へばかりはしたまふまじき。伊予介に劣りける身こそ」 |
"いとふかうにくみたまふべかめれば、みもうくおもひはてぬ。などか、よそにても、なつかしきいらへばかりはしたまふまじき。いよのすけにおとりけるみこそ。" |
03 | 1.5.3 | 102 | 93 |
など、心づきなしと思ひてのたまふ。ありつる小袿を、さすがに、御衣の下に引き入れて、大殿籠もれり。小君を御前に臥せて、よろづに恨み、かつは、語らひたまふ。 |
など、こころづきなしとおもひてのたまふ。ありつるこうちきを、さすがに、おほんぞのしたにひきいれて、おほとのごもれり。こぎみをおまへにふせて、よろづにうらみ、かつは、かたらひたまふ。 |
03 | 1.5.4 | 103 | 94 |
「あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそ、え思ひ果つまじけれ」 |
"あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそ、えおもひはつまじけれ。" |
03 | 1.5.5 | 104 | 95 |
とまめやかにのたまふを、いとわびしと思ひたり。 |
とまめやかにのたまふを、いとわびしとおもひたり。 |
03 | 1.5.6 | 105 | 96 |
しばしうち休みたまへど、寝られたまはず。御硯急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ。 |
しばしうちやすみたまへど、ねられたまはず。おほんすずりいそぎめして、さしはへたるおほんふみにはあらで、たたうがみにてならひのやうにかきすさびたまふ。 |
03 | 1.5.7 | 106 | 97 |
「空蝉の身をかへてける木のもとに<BR/>なほ人がらのなつかしきかな」 |
"〔うつせみのみをかへてけるこのもとに<BR/>なほひとがらのなつかしきかな〕 |
03 | 1.5.8 | 107 | 98 |
と書きたまへるを、懐に引き入れて持たり。かの人もいかに思ふらむと、いとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御ことつけもなし。かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐたまへり。 |
とかきたまへるを、ふところにひきいれてもたり。かのひともいかにおもふらんと、いとほしけれど、かたがたおもほしかへして、おほんことつけもなし。かのうすごろもは、こうちきのいとなつかしきひとがにしめるを、みちかくならしてみゐたまへり。 |
03 | 1.5.9 | 108 | 99 |
小君、かしこに行きたれば、姉君待ちつけて、いみじくのたまふ。 |
こぎみ、かしこにいきたれば、あねぎみまちつけて、いみじくのたまふ。 |
03 | 1.5.10 | 109 | 100 |
「あさましかりしに、とかう紛らはしても、人の思ひけむことさりどころなきに、いとなむわりなき。いとかう心幼きを、かつはいかに思ほすらむ」 |
"あさましかりしに、とかうまぎらはしても、ひとのおもひけんことさりどころなきに、いとなんわりなき。いとかうこころをさなきを、かつはいかにおもほすらん。" |
03 | 1.5.11 | 110 | 101 |
とて、恥づかしめたまふ。左右に苦しう思へど、かの御手習取り出でたり。さすがに、取りて見たまふ。かのもぬけを、いかに、伊勢をの海人のしほなれてや、など思ふもただならず、いとよろづに乱れて。 |
とて、はづかしめたまふ。ひだりみぎにくるしうおもへど、かのおほんてならひとりいでたり。さすがに、とりてみたまふ。かのもぬけを、いかに、いせをのあまのしほなれてや、などおもふもただならず、いとよろづにみだれて。 |
03 | 1.5.12 | 111 | 102 |
西の君も、もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめてゐたり。小君の渡り歩くにつけても、胸のみ塞がれど、御消息もなし。あさましと思ひ得る方もなくて、されたる心に、ものあはれなるべし。 |
にしのきみも、ものはづかしきここちしてわたりたまひにけり。またしるひともなきことなれば、ひとしれずうちながめてゐたり。こぎみのわたりありくにつけても、むねのみふたがれど、おほんせうそこもなし。あさましとおもひうるかたもなくて、されたるこころに、ものあはれなるべし。 |
03 | 1.5.13 | 112 | 103 |
つれなき人も、さこそしづむれ、いとあさはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、取り返すものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ方に、 |
つれなきひとも、さこそしづむれ、いとあさはかにもあらぬみけしきを、ありしながらのわがみならばと、とりかへすものならねど、しのびがたければ、このおほんたたうがみのかたつかたに、 |
03 | 1.5.14 | 113 | 104 |
「空蝉の羽に置く露の木隠れて<BR/>忍び忍びに濡るる袖かな」 |
"〔うつせみのはにおくつゆのこがくれて<BR/>しのびしのびにぬるるそでかな〕 |