帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
08 | 花宴 |
08 | 1 | 41 | 23 | 朧月夜の君物語 春の夜の出逢いの物語 |
08 | 1.1 | 42 | 24 | 第一段 二月二十余日、紫宸殿の桜花の宴 |
08 | 1.1.1 | 43 | 25 |
如月の二十日あまり、南殿の桜の宴せさせたまふ。后、春宮の御局、左右にして、参う上りたまふ。弘徽殿の女御、中宮のかくておはするを、をりふしごとにやすからず思せど、物見にはえ過ぐしたまはで、参りたまふ。 |
きさらぎのはつかあまり、なでんのさくらのえんせさせたまふ。きさき、とうぐうのおほんつぼね、さいうにして、まうのぼりたまふ。こうきでんのにょうご、ちゅうぐうのかくておはするを、をりふしごとにやすからずおぼせど、ものみにはえすぐしたまはで、まゐりたまふ。 |
08 | 1.1.2 | 44 | 26 |
日いとよく晴れて、空のけしき、鳥の声も、心地よげなるに、親王たち、上達部よりはじめて、その道のは皆、探韻賜はりて文つくりたまふ。宰相中将、「春といふ文字賜はれり」と、のたまふ声さへ、例の、人に異なり。次に頭中将、人の目移しも、ただならずおぼゆべかめれど、いとめやすくもてしづめて、声づかひなど、ものものしくすぐれたり。さての人びとは、皆臆しがちに鼻白める多かり。地下の人は、まして、帝、春宮の御才かしこくすぐれておはします、かかる方にやむごとなき人多くものしたまふころなるに、恥づかしく、はるばると曇りなき庭に立ち出づるほど、はしたなくて、やすきことなれど、苦しげなり。年老いたる博士どもの、なりあやしくやつれて、例馴れたるも、あはれに、さまざま御覧ずるなむ、をかしかりける。 |
ひいとよくはれて、そらのけしき、とりのこゑも、ここちよげなるに、みこたち、かんだちめよりはじめて、そのみちのはみな、たんゐんたまはりてふみつくりたまふ。さいしゃうのちゅうじゃう、"はるといふもじたまはれり。"と、のたまふこゑさへ、れいの、ひとにことなり。つぎにとうのちゅうじゃう、ひとのめうつしも、ただならずおぼゆべかめれど、いとめやすくもてしづめて、こわづかひなど、ものものしくすぐれたり。さてのひとびとは、みなおくしがちにはなじろめるおほかり。ぢげのひとは、まして、みかど、とうぐうのおほんざえかしこくすぐれておはします、かかるかたにやんごとなきひとおほくものしたまふころなるに、はづかしく、はるばるとくもりなきにはにたちいづるほど、はしたなくて、やすきことなれど、くるしげなり。としおいたるはかせどもの、なりあやしくやつれて、れいなれたるも、あはれに、さまざまごらんずるなん、をかしかりける。 |
08 | 1.1.3 | 45 | 27 |
楽どもなどは、さらにもいはずととのへさせたまへり。やうやう入り日になるほど、春の鴬囀るといふ舞、いとおもしろく見ゆるに、源氏の御紅葉の賀の折、思し出でられて、春宮、かざし賜はせて、せちに責めのたまはするに、逃がれがたくて、立ちてのどかに袖返すところを一折れ、けしきばかり舞ひたまへるに、似るべきものなく見ゆ。左大臣、恨めしさも忘れて、涙落したまふ。 |
がくどもなどは、さらにもいはずととのへさせたまへり。やうやういりひになるほど、はるのうぐひすさへづるといふまひ、いとおもしろくみゆるに、げんじのおほんもみぢのがのをり、おぼしいでられて、とうぐう、かざしたまはせて、せちにせめのたまはするに、のがれがたくて、たちてのどかにそでかへすところをひとをれ、けしきばかりまひたまへるに、にるべきものなくみゆ。ひだりのおとど、うらめしさもわすれて、なみだおとしたまふ。 |
08 | 1.1.4 | 46 | 28 |
「頭中将、いづら。遅し」 |
"とうのちゅうじゃう、いづら。おそし。" |
08 | 1.1.5 | 47 | 29 |
とあれば、柳花苑といふ舞を、これは今すこし過ぐして、かかることもやと、心づかひやしけむ、いとおもしろければ、御衣賜はりて、いとめづらしきことに人思へり。上達部皆乱れて舞ひたまへど、夜に入りては、ことにけぢめも見えず。文など講ずるにも、源氏の君の御をば、講師もえ読みやらず、句ごとに誦じののしる。博士どもの心にも、いみじう思へり。 |
とあれば、りうかえんといふまひを、これはいますこしすぐして、かかることもやと、こころづかひやしけん、いとおもしろければ、おほんぞたまはりて、いとめづらしきことにひとおもへり。かんだちめみなみだれてまひたまへど、よるにいりては、ことにけぢめもみえず。ふみなどかうずるにも、げんじのきみのおほんをば、かうじもえよみやらず、くごとにずじののしる。はかせどものこころにも、いみじうおもへり。 |
08 | 1.1.6 | 48 | 30 |
かうやうの折にも、まづこの君を光にしたまへれば、帝もいかでかおろかに思されむ。中宮、御目のとまるにつけて、「春宮の女御のあながちに憎みたまふらむもあやしう、わがかう思ふも心憂し」とぞ、みづから思し返されける。 |
かうやうのをりにも、まづこのきみをひかりにしたまへれば、みかどもいかでかおろかにおぼされむ。ちゅうぐう、おほんめのとまるにつけて、"とうぐうのにょうごのあながちににくみたまふらんもあやしう、わがかうおもふもこころうし。"とぞ、みづからおぼしかへされける。 |
08 | 1.1.7 | 49 | 31 |
「おほかたに花の姿を見ましかば<BR/>つゆも心のおかれましやは」 |
"〔おほかたにはなのすがたをみましかば<BR/>つゆもこころのおかれましやは〕 |
08 | 1.1.8 | 50 | 32 |
御心のうちなりけむこと、いかで漏りにけむ。 |
みこころのうちなりけんこと、いかでもりにけん。 |
08 | 1.2 | 51 | 33 | 第二段 宴の後、朧月夜の君と出逢う |
08 | 1.2.1 | 52 | 34 |
夜いたう更けてなむ、事果てける。 |
よいたうふけてなん、ことはてける。 |
08 | 1.2.2 | 53 | 35 |
上達部おのおのあかれ、后、春宮帰らせたまひぬれば、のどやかになりぬるに、月いと明うさし出でてをかしきを、源氏の君、酔ひ心地に、見過ぐしがたくおぼえたまひければ、「上の人びともうち休みて、かやうに思ひかけぬほどに、もしさりぬべき隙もやある」と、藤壺わたりを、わりなう忍びてうかがひありけど、語らふべき戸口も鎖してければ、うち嘆きて、なほあらじに、弘徽殿の細殿に立ち寄りたまへれば、三の口開きたり。 |
かんだちめおのおのあかれ、きさき、とうぐうかへらせたまひぬれば、のどやかになりぬるに、つきいとあかうさしいでてをかしきを、げんじのきみ、ゑひごこちに、みすぐしがたくおぼえたまひければ、"うへのひとびともうちやすみて、かやうにおもひかけぬほどに、もしさりぬべきひまもやある。"と、ふぢつぼわたりを、わりなうしのびてうかがひありけど、かたらふべきとぐちもさしてければ、うちなげきて、なほあらじに、こうきでんのほそどのにたちよりたまへれば、さんのくちあきたり。 |
08 | 1.2.3 | 54 | 36 |
女御は、上の御局にやがて参う上りたまひにければ、人少ななるけはひなり。奥の枢戸も開きて、人音もせず。 |
にょうごは、うへのみつぼねにやがてまうのぼりたまひにければ、ひとずくななるけはひなり。おくのくるるどもあきて、ひとおともせず。 |
08 | 1.2.4 | 55 | 37 |
「かやうにて、世の中のあやまちはするぞかし」と思ひて、やをら上りて覗きたまふ。人は皆寝たるべし。いと若うをかしげなる声の、なべての人とは聞こえぬ、 |
"かやうにて、よのなかのあやまちはするぞかし。"とおもひて、やをらのぼりてのぞきたまふ。ひとはみなねたるべし。いとわかうをかしげなるこゑの、なべてのひととはきこえぬ、 |
08 | 1.2.5 | 56 | 38 |
「朧月夜に似るものぞなき」 |
"おぼろづきよににるものぞなき。" |
08 | 1.2.6 | 57 | 39 |
とうち誦じて、こなたざまには来るものか。いとうれしくて、ふと袖をとらへたまふ。女、恐ろしと思へるけしきにて、 |
とうちずじて、こなたざまにはくるものか。いとうれしくて、ふとそでをとらへたまふ。をんな、おそろしとおもへるけしきにて、 |
08 | 1.2.7 | 58 | 40 |
「あな、むくつけ。こは、誰そ」とのたまへど、 |
"あな、むくつけ。こは、たそ。"とのたまへど、 |
08 | 1.2.8 | 59 | 41 |
「何か、疎ましき」とて、 |
"なにか、うとましき。"とて、 |
08 | 1.2.9 | 60 | 42 |
「深き夜のあはれを知るも入る月の<BR/>おぼろけならぬ契りとぞ思ふ」 |
"〔ふかきよのあはれをしるもいるつきの<BR/>おぼろけならぬちぎりとぞおもふ〕 |
08 | 1.2.10 | 61 | 44 |
とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、 |
とて、やをらいだきおろして、とはおしたてつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、 |
08 | 1.2.11 | 62 | 45 |
「ここに、人」 |
"ここに、ひと。" |
08 | 1.2.12 | 63 | 46 |
と、のたまへど、 |
と、のたまへど、 |
08 | 1.2.13 | 64 | 47 |
「まろは、皆人に許されたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらむ。ただ、忍びてこそ」 |
"まろは、みなひとにゆるされたれば、めしよせたりとも、なんでふことかあらん。ただ、しのびてこそ。" |
08 | 1.2.14 | 65 | 48 |
とのたまふ声に、この君なりけりと聞き定めて、いささか慰めけり。わびしと思へるものから、情けなくこはごはしうは見えじ、と思へり。酔ひ心地や例ならざりけむ、許さむことは口惜しきに、女も若うたをやぎて、強き心も知らぬなるべし。 |
とのたまふこゑに、このきみなりけりとききさだめて、いささかなぐさめけり。わびしとおもへるものから、なさけなくこはごはしうはみえじ、とおもへり。ゑひごこちやれいならざりけん、ゆるさんことはくちをしきに、をんなもわかうたをやぎて、つよきこころもしらぬなるべし。 |
08 | 1.2.15 | 66 | 49 |
らうたしと見たまふに、ほどなく明けゆけば、心あわたたし。女は、まして、さまざまに思ひ乱れたるけしきなり。 |
らうたしとみたまふに、ほどなくあけゆけば、こころあわたたし。をんなは、まして、さまざまにおもひみだれたるけしきなり。 |
08 | 1.2.16 | 67 | 50 |
「なほ、名のりしたまへ。いかでか、聞こゆべき。かうてやみなむとは、さりとも思されじ」 |
"なほ、なのりしたまへ。いかでか、きこゆべき。かうてやみなんとは、さりともおぼされじ。" |
08 | 1.2.17 | 68 | 51 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
08 | 1.2.18 | 69 | 52 |
「憂き身世にやがて消えなば尋ねても<BR/>草の原をば問はじとや思ふ」 |
"〔うきみよにやがてきえなばたづねても<BR/>くさのはらをばとはじとやおもふ〕 |
08 | 1.2.19 | 70 | 53 |
と言ふさま、艶になまめきたり。 |
といふさま、えんになまめきたり。 |
08 | 1.2.20 | 71 | 54 |
「ことわりや。聞こえ違へたる文字かな」とて、 |
"ことわりや。きこえたがへたるもじかな。"とて、 |
08 | 1.2.21 | 72 | 55 |
「いづれぞと露のやどりを分かむまに<BR/>小笹が原に風もこそ吹け |
"〔いづれぞとつゆのやどりをわかんまに<BR/>こざさがはらにかぜもこそふけ |
08 | 1.2.22 | 73 | 56 |
わづらはしく思すことならずは、何かつつまむ。もし、すかいたまふか」 |
わづらはしくおぼすことならずは、なにかつつまん。もし、すかいたまふか。" |
08 | 1.2.23 | 74 | 57 |
とも言ひあへず、人々起き騒ぎ、上の御局に参りちがふけしきども、しげくまよへば、いとわりなくて、扇ばかりをしるしに取り換へて、出でたまひぬ。 |
ともいひあへず、ひとびとおきさわぎ、うへのみつぼねにまゐりちがふけしきども、しげくまよへば、いとわりなくて、あふぎばかりをしるしにとりかへて、いでたまひぬ。 |
08 | 1.2.24 | 75 | 58 |
桐壺には、人びと多くさぶらひて、おどろきたるもあれば、かかるを、 |
きりつぼには、ひとびとおほくさぶらひて、おどろきたるもあれば、かかるを、 |
08 | 1.2.25 | 76 | 59 |
「さも、たゆみなき御忍びありきかな」 |
"さも、たゆみなきおほんしのびありきかな。" |
08 | 1.2.26 | 77 | 60 |
とつきしろひつつ、そら寝をぞしあへる。入りたまひて臥したまへれど、寝入られず。 |
とつきしろひつつ、そらねをぞしあへる。いりたまひてふしたまへれど、ねいられず。 |
08 | 1.2.27 | 78 | 61 |
「をかしかりつる人のさまかな。女御の御おとうとたちにこそはあらめ。まだ世に馴れぬは、五、六の君ならむかし。帥宮の北の方、頭中将のすさめぬ四の君などこそ、よしと聞きしか。なかなかそれならましかば、今すこしをかしからまし。六は春宮にたてまつらむとこころざしたまへるを、いとほしうもあるべいかな。わづらはしう、尋ねむほどもまぎらはし、さて絶えなむとは思はぬけしきなりつるを、いかなれば、言通はすべきさまを教へずなりぬらむ」 |
"をかしかりつるひとのさまかな。にょうごのおほんおとうとたちにこそはあらめ。まだよになれぬは、ご、ろくのきみならんかし。そちのみやのきたのかた、とうのちゅうじゃうのすさめぬしのきみなどこそ、よしとききしか。なかなかそれならましかば、いますこしをかしからまし。ろくはとうぐうにたてまつらんとこころざしたまへるを、いとほしうもあるべいかな。わづらはしう、たづねんほどもまぎらはし、さてたえなんとはおもはぬけしきなりつるを、いかなれば、ことかよはすべきさまををしへずなりぬらん。" |
08 | 1.2.28 | 79 | 62 |
など、よろづに思ふも、心のとまるなるべし。かうやうなるにつけても、まづ、「かのわたりのありさまの、こよなう奥まりたるはや」と、ありがたう思ひ比べられたまふ。 |
など、よろづにおもふも、こころのとまるなるべし。かうやうなるにつけても、まづ、"かのわたりのありさまの、こよなうおくまりたるはや。"と、ありがたうおもひくらべられたまふ。 |
08 | 1.3 | 80 | 63 | 第三段 桜宴の翌日、昨夜の女性の素性を知りたがる |
08 | 1.3.1 | 81 | 64 |
その日は後宴のことありて、まぎれ暮らしたまひつ。箏の琴仕うまつりたまふ。昨日のことよりも、なまめかしうおもしろし。藤壺は、暁に参う上りたまひにけり。「かの有明、出でやしぬらむ」と、心もそらにて、思ひ至らぬ隈なき良清、惟光をつけて、うかがはせたまひければ、御前よりまかでたまひけるほどに、 |
そのひはごえんのことありて、まぎれくらしたまひつ。さうのことつかうまつりたまふ。きのふのことよりも、なまめかしうおもしろし。ふぢつぼは、あかつきにまうのぼりたまひにけり。"かのありあけ、いでやしぬらん。"と、こころもそらにて、おもひいたらぬくまなきよしきよ、これみつをつけて、うかがはせたまひければ、おまへよりまかでたまひけるほどに、 |
08 | 1.3.2 | 82 | 65 |
「ただ今、北の陣より、かねてより隠れ立ちてはべりつる車どもまかり出づる。御方々の里人はべりつるなかに、四位の少将、右中弁など急ぎ出でて、送りしはべりつるや、弘徽殿の御あかれならむと見たまへつる。けしうはあらぬけはひどもしるくて、車三つばかりはべりつ」 |
"ただいま、きたのぢんより、かねてよりかくれたちてはべりつるくるまどもまかりいづる。おほんかたがたのさとびとはべりつるなかに、しゐのせうしゃう、うちゅうべんなどいそぎいでて、おくりしはべりつるや、こうきでんのおほんあかれならんとみたまへつる。けしうはあらぬけはひどもしるくて、くるまみつばかりはべりつ。" |
08 | 1.3.3 | 83 | 66 |
と聞こゆるにも、胸うちつぶれたまふ。 |
ときこゆるにも、むねうちつぶれたまふ。 |
08 | 1.3.4 | 84 | 67 |
「いかにして、いづれと知らむ。父大臣など聞きて、ことごとしうもてなさむも、いかにぞや。まだ、人のありさまよく見さだめぬほどは、わづらはしかるべし。さりとて、知らであらむ、はた、いと口惜しかるべければ、いかにせまし」と、思しわづらひて、つくづくとながめ臥したまへり。 |
"いかにして、いづれとしらん。ちちおとどなどききて、ことごとしうもてなさんも、いかにぞや。まだ、ひとのありさまよくみさだめぬほどは、わづらはしかるべし。さりとて、しらであらん、はた、いとくちをしかるべければ、いかにせまし。"と、おぼしわづらひて、つくづくとながめふしたまへり。 |
08 | 1.3.5 | 85 | 68 |
「姫君、いかにつれづれならむ。日ごろになれば、屈してやあらむ」と、らうたく思しやる。かのしるしの扇は、桜襲ねにて、濃きかたにかすめる月を描きて、水にうつしたる心ばへ、目馴れたれど、ゆゑなつかしうもてならしたり。「草の原をば」と言ひしさまのみ、心にかかりたまへば、 |
"ひめぎみ、いかにつれづれならん。ひごろになれば、くしてやあらん。"と、らうたくおぼしやる。かのしるしのあふぎは、さくらがさねにて、こきかたにかすめるつきをかきて、みづにうつしたるこころばへ、めなれたれど、ゆゑなつかしうもてならしたり。"くさのはらをば"といひしさまのみ、こころにかかりたまへば、 |
08 | 1.3.6 | 86 | 69 |
「世に知らぬ心地こそすれ有明の<BR/>月のゆくへを空にまがへて」 |
"〔よにしらぬここちこそすれありあけの<BR/>つきのゆくへをそらにまがへて〕 |
08 | 1.3.7 | 87 | 70 |
と書きつけたまひて、置きたまへり。 |
とかきつけたまひて、おきたまへり。 |
08 | 1.4 | 88 | 71 | 第四段 紫の君の理想的成長ぶり、葵の上との夫婦仲不仲 |
08 | 1.4.1 | 89 | 72 |
「大殿にも久しうなりにける」と思せど、若君も心苦しければ、こしらへむと思して、二条院へおはしぬ。見るままに、いとうつくしげに生ひなりて、愛敬づきらうらうじき心ばへ、いとことなり。飽かぬところなう、わが御心のままに教へなさむ、と思すにかなひぬべし。男の御教へなれば、すこし人馴れたることや混じらむと思ふこそ、うしろめたけれ。 |
"おほいどのにもひさしうなりにける。"とおぼせど、わかぎみもこころぐるしければ、こしらへんとおぼして、にでうのゐんへおはしぬ。みるままに、いとうつくしげにおひなりて、あいぎゃうづきらうらうじきこころばへ、いとことなり。あかぬところなう、わがみこころのままにをしへなさん、とおぼすにかなひぬべし。をとこのおほんをしへなれば、すこしひとなれたることやまじらんとおもふこそ、うしろめたけれ。 |
08 | 1.4.2 | 90 | 73 |
日ごろの御物語、御琴など教へ暮らして出でたまふを、例のと、口惜しう思せど、今はいとようならはされて、わりなくは慕ひまつはさず。 |
ひごろのおほんものがたり、おほんことなどをしへくらしていでたまふを、れいのと、くちをしうおぼせど、いまはいとようならはされて、わりなくはしたひまつはさず。 |
08 | 1.4.3 | 91 | 74 |
大殿には、例の、ふとも対面したまはず。つれづれとよろづ思しめぐらされて、箏の御琴まさぐりて、 |
おほいどのには、れいの、ふともたいめんしたまはず。つれづれとよろづおぼしめぐらされて、さうのおほんことまさぐりて、 |
08 | 1.4.4 | 92 | 75 |
「やはらかに寝る夜はなくて」 |
"やはらかにぬるよはなくて" |
08 | 1.4.5 | 93 | 76 |
とうたひたまふ。大臣渡りたまひて、一日の興ありしこと、聞こえたまふ。 |
とうたひたまふ。おとどわたりたまひて、ひとひのきょうありしこと、きこえたまふ。 |
08 | 1.4.6 | 94 | 77 |
「ここらの齢にて、明王の御代、四代をなむ見はべりぬれど、このたびのやうに、文ども警策に、舞、楽、物の音どもととのほりて、齢延ぶることなむはべらざりつる。道々のものの上手ども多かるころほひ、詳しうしろしめし、ととのへさせたまへるけなり。翁もほとほと舞ひ出でぬべき心地なむしはべりし」 |
"ここらのよはひにて、めいわうのみよ、しだいをなんみはべりぬれど、このたびのやうに、ふみどもきゃうざくに、まひ、がく、もののねどもととのほりて、よはひのぶることなんはべらざりつる。みちみちのもののじゃうずどもおほかるころほひ、くはしうしろしめし、ととのへさせたまへるけなり。おきなもほとほとまひいでぬべきここちなんしはべりし。" |
08 | 1.4.7 | 95 | 78 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
08 | 1.4.8 | 96 | 79 |
「ことにととのへ行ふこともはべらず。ただ公事に、そしうなる物の師どもを、ここかしこに尋ねはべりしなり。よろづのことよりは、「柳花苑」、まことに後代の例ともなりぬべく見たまへしに、まして「さかゆく春」に立ち出でさせたまへらましかば、世の面目にやはべらまし」 |
"ことにととのへおこなふこともはべらず。ただおほやけごとに、そしうなるもののしどもを、ここかしこにたづねはべりしなり。よろづのことよりは、'りうかゑん'、まことにこうだいのれいともなりぬべくみたまへしに、まして'さかゆくはる'にたちいでさせたまへらましかば、よのめんぼくにやはべらまし。" |
08 | 1.4.9 | 97 | 80 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
08 | 1.4.10 | 98 | 81 |
弁、中将など参りあひて、高欄に背中おしつつ、とりどりに物の音ども調べ合はせて遊びたまふ、いとおもしろし。 |
べん、ちゅうじゃうなどまゐりあひて、かうらんにせなかおしつつ、とりどりにもののねどもしらべあはせてあそびたまふ、いとおもしろし。 |
08 | 1.5 | 99 | 82 | 第五段 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴 |
08 | 1.5.1 | 100 | 83 |
かの有明の君は、はかなかりし夢を思し出でて、いともの嘆かしうながめたまふ。春宮には、卯月ばかりと思し定めたれば、いとわりなう思し乱れたるを、男も、尋ねたまはむにあとはかなくはあらねど、いづれとも知らで、ことに許したまはぬあたりにかかづらはむも、人悪く思ひわづらひたまふに、弥生の二十余日、右の大殿の弓の結に、上達部、親王たち多く集へたまひて、やがて藤の宴したまふ。 |
かのありあけのきみは、はかなかりしゆめをおぼしいでて、いとものなげかしうながめたまふ。とうぐうには、うづきばかりとおぼしさだめたれば、いとわりなうおぼしみだれたるを、をとこも、たづねたまはんにあとはかなくはあらねど、いづれともしらで、ことにゆるしたまはぬあたりにかかづらはんも、ひとわるくおもひわづらひたまふに、やよひのにじふよにち、みぎのおほいどののゆみのけちに、かんだちめ、みこたちおほくつどへたまひて、やがてふぢのえんしたまふ。 |
08 | 1.5.2 | 101 | 84 |
花盛りは過ぎにたるを、「ほかの散りなむ」とや教へられたりけむ、遅れて咲く桜、二木ぞいとおもしろき。新しう造りたまへる殿を、宮たちの御裳着の日、磨きしつらはれたり。はなばなとものしたまふ殿のやうにて、何ごとも今めかしうもてなしたまへり。 |
はなざかりはすぎにたるを、"ほかのちりなん"とやをしへられたりけん、おくれてさくさくら、ふたきぞいとおもしろき。あたらしうつくりたまへるおとどを、みやたちのおほんもぎのひ、みがきしつらはれたり。はなばなとものしたまふとののやうにて、なにごともいまめかしうもてなしたまへり。 |
08 | 1.5.3 | 102 | 85 |
源氏の君にも、一日、内裏にて御対面のついでに、聞こえたまひしかど、おはせねば、口惜しう、ものの栄なしと思して、御子の四位少将をたてまつりたまふ。 |
げんじのきみにも、ひとひ、うちにておほんたいめんのついでに、きこえたまひしかど、おはせねば、くちをしう、もののはえなしとおぼして、みこのしゐのせうしゃうをたてまつりたまふ。 |
08 | 1.5.4 | 103 | 86 |
「わが宿の花しなべての色ならば<BR/>何かはさらに君を待たまし」 |
"〔わがやどのはなしなべてのいろならば<BR/>なにかはさらにきみをまたまし〕 |
08 | 1.5.5 | 104 | 87 |
内裏におはするほどにて、主上に奏したまふ。 |
うちにおはするほどにて、うへにそうしたまふ。 |
08 | 1.5.6 | 105 | 88 |
「したり顔なりや」と笑はせたまひて、 |
"したりがほなりや。"とわらはせたまひて、 |
08 | 1.5.7 | 106 | 89 |
「わざとあめるを、早うものせよかし。女御子たちなども、生ひ出づるところなれば、なべてのさまには思ふまじきを」 |
"わざとあめるを、はやうものせよかし。をんなみこたちなども、おひいづるところなれば、なべてのさまにはおもふまじきを。" |
08 | 1.5.8 | 107 | 90 |
などのたまはす。御装ひなどひきつくろひたまひて、いたう暮るるほどに、待たれてぞ渡りたまふ。 |
などのたまはす。おほんよそひなどひきつくろひたまひて、いたうくるるほどに、またれてぞわたりたまふ。 |
08 | 1.5.9 | 108 | 91 |
桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲、裾いと長く引きて。皆人は表の衣なるに、あざれたる大君姿のなまめきたるにて、いつかれ入りたまへる御さま、げにいと異なり。花の匂ひもけおされて、なかなかことざましになむ。 |
さくらのからのきのおほんなほし、えびぞめのしたがさね、しりいとながくひきて。みなひとはうへのきぬなるに、あざれたるおほきみすがたのなまめきたるにて、いつかれいりたまへるおほんさま、げにいとことなり。はなのにほひもけおされて、なかなかことざましになん。 |
08 | 1.5.10 | 109 | 92 |
遊びなどいとおもしろうしたまひて、夜すこし更けゆくほどに、源氏の君、いたく酔ひ悩めるさまにもてなしたまひて、紛れ立ちたまひぬ。 |
あそびなどいとおもしろうしたまひて、よすこしふけゆくほどに、げんじのきみ、いたくゑひなやめるさまにもてなしたまひて、まぎれたちたまひぬ。 |
08 | 1.5.11 | 110 | 93 |
寝殿に、女一宮、女三宮のおはします。東の戸口におはして、寄りゐたまへり。藤はこなたの妻にあたりてあれば、御格子ども上げわたして、人びと出でゐたり。袖口など、踏歌の折おぼえて、ことさらめきもて出でたるを、ふさはしからずと、まづ藤壺わたり思し出でらる。 |
しんでんに、をんないちのみや、をんなさんのみやのおはします。ひんがしのとぐちにおはして、よりゐたまへり。ふぢはこなたのつまにあたりてあれば、みかうしどもあげわたして、ひとびといでゐたり。そでぐちなど、たふかのをりおぼえて、ことさらめきもていでたるを、ふさはしからずと、まづふぢつぼわたりおぼしいでらる。 |
08 | 1.5.12 | 111 | 94 |
「なやましきに、いといたう強ひられて、わびにてはべり。かしこけれど、この御前にこそは、蔭にも隠させたまはめ」 |
"なやましきに、いといたうしひられて、わびにてはべり。かしこけれど、このおまへにこそは、かげにもかくさせたまはめ。" |
08 | 1.5.13 | 112 | 96 |
とて、妻戸の御簾を引き着たまへば、 |
とて、つまどのみすをひききたまへば、 |
08 | 1.5.14 | 113 | 97 |
「あな、わづらはし。よからぬ人こそ、やむごとなきゆかりはかこちはべるなれ」 |
"あな、わづらはし。よからぬひとこそ、やんごとなきゆかりはかこちはべるなれ。" |
08 | 1.5.15 | 114 | 98 |
と言ふけしきを見たまふに、重々しうはあらねど、おしなべての若人どもにはあらず、あてにをかしきけはひしるし。 |
といふけしきをみたまふに、おもおもしうはあらねど、おしなべてのわかうどどもにはあらず、あてにをかしきけはひしるし。 |
08 | 1.5.16 | 115 | 99 |
そらだきもの、いと煙たうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々もの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、「いづれならむ」と、胸うちつぶれて、 |
そらだきもの、いとけぶたうくゆりて、きぬのおとなひ、いとはなやかにふるまひなして、こころにくくおくまりたるけはひはたちおくれ、いまめかしきことをこのみたるわたりにて、やんごとなきおほんかたがたものみたまふとて、このとぐちはしめたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしうおもほされて、"いづれならん。"と、むねうちつぶれて、 |
08 | 1.5.17 | 116 | 100 |
「扇を取られて、からきめを見る」 |
"あふぎをとられて、からきめをみる。" |
08 | 1.5.18 | 117 | 101 |
と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。 |
と、うちおほどけたるこゑにいひなして、よりゐたまへり。 |
08 | 1.5.19 | 118 | 102 |
「あやしくも、さま変へける高麗人かな」 |
"あやしくも、さまかへけるこまうどかな。" |
08 | 1.5.20 | 119 | 103 |
といらふるは、心知らぬにやあらむ。いらへはせで、ただ時々、うち嘆くけはひする方に寄りかかりて、几帳越しに手をとらへて、 |
といらふるは、こころしらぬにやあらん。いらへはせで、ただときどき、うちなげくけはひするかたによりかかりて、きちゃうごしにてをとらへて、 |
08 | 1.5.21 | 120 | 104 |
「梓弓いるさの山に惑ふかな<BR/>ほの見し月の影や見ゆると |
"〔あづさゆみいるさのやまにまどふかな<BR/>ほのみしつきのかげやみゆると |
08 | 1.5.22 | 121 | 105 |
何ゆゑか」 |
なにゆゑか。" |
08 | 1.5.23 | 122 | 106 |
と、推し当てにのたまふを、え忍ばぬなるべし。 |
と、おしあてにのたまふを、えしのばぬなるべし。 |
08 | 1.5.24 | 123 | 107 |
「心いる方ならませば弓張の<BR/>月なき空に迷はましやは」 |
"〔こころいるかたならませばゆみはりの<BR/>つきなきそらにまよはましやは〕 |
08 | 1.5.25 | 124 | 108 |
と言ふ声、ただそれなり。いとうれしきものから。 |
といふこゑ、ただそれなり。いとうれしきものから。 |