帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
12 | 須磨 |
12 | 1 | 70 | 48 | 第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語 |
12 | 1.1 | 71 | 49 | 第一段 源氏、須磨退去を決意 |
12 | 1.1.1 | 72 | 50 |
世の中、いとわづらはしく、はしたなきことのみまされば、「せめて知らず顔にあり経ても、これよりまさることもや」と思しなりぬ。 |
よのなか、いとわづらはしく、はしたなきことのみまされば、"せめてしらずがほにありへても、これよりまさることもや。"とおぼしなりぬ。 |
12 | 1.1.2 | 73 | 51 |
「かの須磨は、昔こそ人の住みかなどもありけれ、今は、いと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに」など聞きたまへど、「人しげく、ひたたけたらむ住まひは、いと本意なかるべし。さりとて、都を遠ざからむも、故郷おぼつかなかるべきを」、人悪くぞ思し乱るる。 |
"かのすまは、むかしこそひとのすみかなどもありけれ、いまは、いとさとはなれこころすごくて、あまのいへだにまれに。"などききたまへど、"ひとしげく、ひたたけたらんすまひは、いとほいなかるべし。さりとて、みやこをとほざからんも、ふるさとおぼつかなかるべきを"、ひとわるくぞおぼしみだるる。 |
12 | 1.1.3 | 74 | 52 |
よろづのこと、来し方行く末、思ひ続けたまふに、悲しきこといとさまざまなり。憂きものと思ひ捨てつる世も、今はと住み離れなむことを思すには、いと捨てがたきこと多かるなかにも、姫君の、明け暮れにそへては、思ひ嘆きたまへるさまの、心苦しうあはれなるを、 |
よろづのこと、きしかたゆくすゑ、おもひつづけたまふに、かなしきこといとさまざまなり。うきものとおもひすてつるよも、いまはとすみはなれなんことをおぼすには、いとすてがたきことおほかるなかにも、ひめぎみの、あけくれにそへては、おもひなげきたまへるさまの、こころぐるしうあはれなるを、 |
12 | 1.1.4 | 75 | 53 |
「行きめぐりても、また逢ひ見むことをかならず」と、思さむにてだに、なほ一、二日のほど、よそよそに明かし暮らす折々だに、おぼつかなきものにおぼえ、女君も心細うのみ思ひたまへるを、「幾年そのほどと限りある道にもあらず、逢ふを限りに隔たりゆかむも、定めなき世に、やがて別るべき門出にもや」と、いみじうおぼえたまへば、「忍びてもろともにもや」と、思し寄る折あれど、さる心細からむ海づらの、波風よりほかに立ちまじる人もなからむに、かくらうたき御さまにて、引き具したまへらむも、いとつきなく、わが心にも、「なかなか、もの思ひのつまなるべきを」など思し返すを、女君は、「いみじからむ道にも、後れきこえずだにあらば」と、おもむけて、恨めしげに思いたり。 |
"ゆきめぐりても、またあひみんことをかならず。"と、おぼさんにてだに、なほひとひ、ふつかのほど、よそよそにあかしくらすをりをりだに、おぼつかなきものにおぼえ、をんなぎみもこころぼそうのみおもひたまへるを、"いくとせそのほどとかぎりあるみちにもあらず、あふをかぎりにへだたりゆかんも、さだめなきよに、やがてわかるべきかどでにもや。"と、いみじうおぼえたまへば、"しのびてもろともにもや。"と、おぼしよるをりあれど、さるこころぼそからんうみづらの、なみかぜよりほかにたちまじるひともなからんに、かくらうたきおほんさまにて、ひきぐしたまへらんも、いとつきなく、わがこころにも、"なかなか、ものおもひのつまなるべきを。"などおぼしかへすを、をんなぎみは、"いみじからんみちにも、おくれきこえずだにあらば。"と、おもむけて、うらめしげにおぼいたり。 |
12 | 1.1.5 | 76 | 54 |
かの花散里にも、おはし通ふことこそまれなれ、心細くあはれなる御ありさまを、この御蔭に隠れてものしたまへば、思し嘆きたるさまも、いとことわりなり。なほざりにても、ほのかに見たてまつり通ひたまひし所々、人知れぬ心をくだきたまふ人ぞ多かりける。 |
かのはなちるさとにも、おはしかよふことこそまれなれ、こころぼそくあはれなるおほんありさまを、このおほんかげにかくれてものしたまへば、おぼしなげきたるさまも、いとことわりなり。なほざりにても、ほのかにみたてまつりかよひたまひしところどころ、ひとしれぬこころをくだきたまふひとぞおほかりける。 |
12 | 1.1.6 | 77 | 55 |
入道の宮よりも、「ものの聞こえや、またいかがとりなさむ」と、わが御ためつつましけれど、忍びつつ御とぶらひ常にあり。「昔、かやうに相思し、あはれをも見せたまはましかば」と、うち思ひ出でたまふにも、「さも、さまざまに、心をのみ尽くすべかりける人の御契りかな」と、つらく思ひきこえたまふ。 |
にふだうのみやよりも、"もののきこえや、またいかがとりなさん。"と、わがおほんためつつましけれど、しのびつつおほんとぶらひつねにあり。"むかし、かやうにあひおぼし、あはれをもみせたまはましかば。"と、うちおもひいでたまふにも、"さも、さまざまに、こころをのみつくすべかりけるひとのおほんちぎりかな。"と、つらくおもひきこえたまふ。 |
12 | 1.2 | 78 | 56 | 第二段 左大臣邸に離京の挨拶 |
12 | 1.2.1 | 79 | 57 |
三月二十日あまりのほどになむ、都を離れたまひける。人にいつとしも知らせたまはず、ただいと近う仕うまつり馴れたる限り、七、八人ばかり御供にて、いとかすかに出で立ちたまふ。さるべき所々に、御文ばかりうち忍びたまひしにも、あはれと忍ばるばかり尽くいたまへるは、見どころもありぬべかりしかど、その折の、心地の紛れに、はかばかしうも聞き置かずなりにけり。 |
やよひはつかあまりのほどになん、みやこをはなれたまひける。ひとにいつとしもしらせたまはず、ただいとちかうつかうまつりなれたるかぎり、しち、はちにんばかりおほんともにて、いとかすかにいでたちたまふ。さるべきところどころに、おほんふみばかりうちしのびたまひしにも、あはれとしのばるばかりつくいたまへるは、みどころもありぬべかりしかど、そのをりの、ここちのまぎれに、はかばかしうもききおかずなりにけり。 |
12 | 1.2.2 | 80 | 58 |
二、三日かねて、夜に隠れて、大殿に渡りたまへり。網代車のうちやつれたるにて、女車のやうにて隠ろへ入りたまふも、いとあはれに、夢とのみ見ゆ。御方、いと寂しげにうち荒れたる心地して、若君の御乳母ども、昔さぶらひし人のなかに、まかで散らぬ限り、かく渡りたまへるをめづらしがりきこえて、参う上り集ひて見たてまつるにつけても、ことにもの深からぬ若き人びとさへ、世の常なさ思ひ知られて、涙にくれたり。 |
ふつか、みかかねて、よにかくれて、おほいどのにわたりたまへり。あんじろぐるまのうちやつれたるにて、をんなぐるまのやうにてかくろへいりたまふも、いとあはれに、ゆめとのみみゆ。おほんかた、いとさびしげにうちあれたるここちして、わかぎみのおほんめのとども、むかしさぶらひしひとのなかに、まかでちらぬかぎり、かくわたりたまへるをめづらしがりきこえて、まうのぼりつどひてみたてまつるにつけても、ことにものふかからぬわかきひとびとさへ、よのつねなさおもひしられて、なみだにくれたり。 |
12 | 1.2.3 | 81 | 59 |
若君はいとうつくしうて、され走りおはしたり。 |
わかぎみはいとうつくしうて、されはしりおはしたり。 |
12 | 1.2.4 | 82 | 60 |
「久しきほどに、忘れぬこそ、あはれなれ」 |
"ひさしきほどに、わすれぬこそ、あはれなれ。" |
12 | 1.2.5 | 83 | 61 |
とて、膝に据ゑたまへる御けしき、忍びがたげなり。 |
とて、ひざにすゑたまへるみけしき、しのびがたげなり。 |
12 | 1.2.6 | 84 | 62 |
大臣、こなたに渡りたまひて、対面したまへり。 |
おとど、こなたにわたりたまひて、たいめんしたまへり。 |
12 | 1.2.7 | 85 | 63 |
「つれづれに籠もらせたまへらむほど、何とはべらぬ昔物語も、参りて、聞こえさせむと思うたまへれど、身の病重きにより、朝廷にも仕うまつらず、位をも返したてまつりてはべるに、私ざまには腰のべてなむと、ものの聞こえひがひがしかるべきを、今は世の中憚るべき身にもはべらねど、いちはやき世のいと恐ろしうはべるなり。かかる御ことを見たまふるにつけて、命長きは心憂く思うたまへらるる世の末にもはべるかな。天の下をさかさまになしても、思うたまへ寄らざりし御ありさまを見たまふれば、よろづいとあぢきなくなむ」 |
"つれづれにこもらせたまへらんほど、なにとはべらぬむかしものがたりも、まゐりて、きこえさせんとおもうたまへれど、みのやまひおもきにより、おほやけにもつかうまつらず、くらゐをもかへしたてまつりてはべるに、わたくしざまにはこしのべてなんと、もののきこえひがひがしかるべきを、いまはよのなかはばかるべきみにもはべらねど、いちはやきよのいとおそろしうはべるなり。かかるおほんことをみたまふるにつけて、いのちながきはこころうくおもうたまへらるるよのすゑにもはべるかな。あめのしたをさかさまになしても、おもうたまへよらざりしおほんありさまをみたまふれば、よろづいとあぢきなくなん。" |
12 | 1.2.8 | 86 | 64 |
と聞こえたまひて、いたうしほたれたまふ。 |
ときこえたまひて、いたうしほたれたまふ。 |
12 | 1.2.9 | 87 | 65 |
「とあることも、かかることも、前の世の報いにこそはべるなれば、言ひもてゆけば、ただ、みづからのおこたりになむはべる。さして、かく、官爵を取られず、あさはかなることにかかづらひてだに、朝廷のかしこまりなる人の、うつしざまにて世の中にあり経るは、咎重きわざに人の国にもしはべるなるを、遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなるは、さま異なる罪に当たるべきにこそはべるなれ。濁りなき心にまかせて、つれなく過ぐしはべらむも、いと憚り多く、これより大きなる恥にのぞまぬさきに、世を逃れなむと思うたまへ立ちぬる」 |
"とあることも、かかることも、さきのよのむくいにこそはべるなれば、いひもてゆけば、ただ、みづからのおこたりになんはべる。さして、かく、かんさくをとられず、あさはかなることにかかづらひてだに、おほやけのかしこまりなるひとの、うつしざまにてよのなかにありふるは、とがおもきわざにひとのくににもしはべるなるを、とほくはなちつかはすべきさだめなどもはべるなるは、さまことなるつみにあたるべきにこそはべるなれ。にごりなきこころにまかせて、つれなくすぐしはべらんも、いとはばかりおほく、これよりおほきなるはぢにのぞまぬさきに、よをのがれなんとおもうたまへたちぬる。" |
12 | 1.2.10 | 88 | 66 |
など、こまやかに聞こえたまふ。 |
など、こまやかにきこえたまふ。 |
12 | 1.2.11 | 89 | 67 |
昔の御物語、院の御こと、思しのたまはせし御心ばへなど聞こえ出でたまひて、御直衣の袖もえ引き放ちたまはぬに、君も、え心強くもてなしたまはず。若君の何心なく紛れありきて、これかれに馴れきこえたまふを、いみじと思いたり。 |
むかしのおほんものがたり、ゐんのおほんこと、おぼしのたまはせしみこころばへなどきこえいでたまひて、おほんなほしのそでもえひきはなちたまはぬに、きみも、えこころづよくもてなしたまはず。わかぎみのなにごころなくまぎれありきて、これかれになれきこえたまふを、いみじとおぼいたり。 |
12 | 1.2.12 | 90 | 68 |
「過ぎはべりにし人を、世に思うたまへ忘るる世なくのみ、今に悲しびはべるを、この御ことになむ、もしはべる世ならましかば、いかやうに思ひ嘆きはべらまし。よくぞ短くて、かかる夢を見ずなりにけると、思うたまへ慰めはべり。幼くものしたまふが、かく齢過ぎぬるなかにとまりたまひて、なづさひきこえぬ月日や隔たりたまはむと思ひたまふるをなむ、よろづのことよりも、悲しうはべる。いにしへの人も、まことに犯しあるにてしも、かかることに当たらざりけり。なほさるべきにて、人の朝廷にもかかるたぐひ多うはべりけり。されど、言ひ出づる節ありてこそ、さることもはべりけれ、とざまかうざまに、思ひたまへ寄らむかたなくなむ」 |
"すぎはべりにしひとを、よにおもうたまへわするるよなくのみ、いまにかなしびはべるを、このおほんことになん、もしはべるよならましかば、いかやうにおもひなげきはべらまし。よくぞみじかくて、かかるゆめをみずなりにけると、おもうたまへなぐさめはべり。をさなくものしたまふが、かくよはひすぎぬるなかにとまりたまひて、なづさひきこえぬつきひやへだたりたまはんとおもひたまふるをなん、よろづのことよりも、かなしうはべる。いにしへのひとも、まことにをかしあるにてしも、かかることにあたらざりけり。なほさるべきにて、ひとのみかどにもかかるたぐひおほうはべりけり。されど、いひいづるふしありてこそ、さることもはべりけれ、とざまかうざまに、おもひたまへよらんかたなくなん。" |
12 | 1.2.13 | 91 | 69 |
など、多くの御物語聞こえたまふ。 |
など、おほくのおほんものがたりきこえたまふ。 |
12 | 1.2.14 | 92 | 70 |
三位中将も参りあひたまひて、大御酒など参りたまふに、夜更けぬれば、泊まりたまひて、人びと御前にさぶらはせたまひて、物語などせさせたまふ。人よりはこよなう忍び思す中納言の君、言へばえに悲しう思へるさまを、人知れずあはれと思す。人皆静まりぬるに、とりわきて語らひたまふ。これにより泊まりたまへるなるべし。 |
さんゐのちゅうじゃうもまゐりあひたまひて、おほみきなどまゐりたまふに、よふけぬれば、とまりたまひて、ひとびとおまへにさぶらはせたまひて、ものがたりなどせさせたまふ。ひとよりはこよなうしのびおぼすちゅうなごんのきみ、いへばえにかなしうおもへるさまを、ひとしれずあはれとおぼす。ひとみなしづまりぬるに、とりわきてかたらひたまふ。これによりとまりたまへるなるべし。 |
12 | 1.2.15 | 93 | 71 |
明けぬれば、夜深う出でたまふに、有明の月いとをかし。花の木どもやうやう盛り過ぎて、わづかなる木蔭の、いと白き庭に薄く霧りわたりたる、そこはかとなく霞みあひて、秋の夜のあはれにおほくたちまされり。隅の高欄におしかかりて、とばかり、眺めたまふ。 |
あけぬれば、よぶかういでたまふに、ありあけのつきいとをかし。はなのきどもやうやうさかりすぎて、わづかなるこかげの、いとしろきにはにうすくきりわたりたる、そこはかとなくかすみあひて、あきのよのあはれにおほくたちまされり。すみのかうらんにおしかかりて、とばかり、ながめたまふ。 |
12 | 1.2.16 | 94 | 73 |
中納言の君、見たてまつり送らむとにや、妻戸おし開けてゐたり。 |
ちゅうなごんのきみ、みたてまつりおくらんとにや、つまどおしあけてゐたり。 |
12 | 1.2.17 | 95 | 74 |
「また対面あらむことこそ、思へばいと難けれ。かかりける世を知らで、心やすくもありぬべかりし月ごろ、さしも急がで、隔てしよ」 |
"またたいめんあらんことこそ、おもへばいとかたけれ。かかりけるよをしらで、こころやすくもありぬべかりしつきごろ、さしもいそがで、へだてしよ。" |
12 | 1.2.18 | 96 | 75 |
などのたまへば、ものも聞こえず泣く。 |
などのたまへば、ものもきこえずなく。 |
12 | 1.2.19 | 97 | 76 |
若君の御乳母の宰相の君して、宮の御前より御消息聞こえたまへり。 |
わかぎみのおほんめのとのさいしゃうのきみして、みやのおまへよりおほんせうそこきこえたまへり。 |
12 | 1.2.20 | 98 | 77 |
「身づから聞こえまほしきを、かきくらす乱り心地ためらひはべるほどに、いと夜深う出でさせたまふなるも、さま変はりたる心地のみしはべるかな。心苦しき人のいぎたなきほどは、しばしもやすらはせたまはで」 |
"みづからきこえまほしきを、かきくらすみだりごこちためらひはべるほどに、いとよぶかういでさせたまふなるも、さまかはりたるここちのみしはべるかな。こころぐるしきひとのいぎたなきほどは、しばしもやすらはせたまはで。" |
12 | 1.2.21 | 99 | 78 |
と聞こえたまへれば、うち泣きたまひて、 |
ときこえたまへれば、うちなきたまひて、 |
12 | 1.2.22 | 100 | 79 |
「鳥辺山燃えし煙もまがふやと<BR/>海人の塩焼く浦見にぞ行く」 |
"〔とりべやまもえしけぶりもまがふやと<BR/>あまのしほやくうらみにぞゆく〕 |
12 | 1.2.23 | 101 | 80 |
御返りともなくうち誦じたまひて、 |
おほんかへりともなくうちずじたまひて、 |
12 | 1.2.24 | 102 | 81 |
「暁の別れは、かうのみや心尽くしなる。思ひ知りたまへる人もあらむかし」 |
"あかつきのわかれは、かうのみやこころづくしなる。おもひしりたまへるひともあらんかし。" |
12 | 1.2.25 | 103 | 82 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
12 | 1.2.26 | 104 | 83 |
「いつとなく、別れといふ文字こそうたてはべるなるなかにも、今朝はなほたぐひあるまじう思うたまへらるるほどかな」 |
"いつとなく、わかれといふもじこそうたてはべるなるなかにも、けさはなほたぐひあるまじうおもうたまへらるるほどかな。" |
12 | 1.2.27 | 105 | 84 |
と、鼻声にて、げに浅からず思へり。 |
と、はなごゑにて、げにあさからずおもへり。 |
12 | 1.2.28 | 106 | 85 |
「聞こえさせまほしきことも、返す返す思うたまへながら、ただに結ぼほれはべるほど、推し量らせたまへ。いぎたなき人は、見たまへむにつけても、なかなか、憂き世逃れがたう思うたまへられぬべければ、心強う思うたまへなして、急ぎまかではべり」 |
"きこえさせまほしきことも、かへすがへすおもうたまへながら、ただにむすぼほれはべるほど、おしはからせたまへ。いぎたなきひとは、みたまへんにつけても、なかなか、うきよのがれがたうおもうたまへられぬべければ、こころづようおもうたまへなして、いそぎまかではべり。" |
12 | 1.2.29 | 107 | 86 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
12 | 1.2.30 | 108 | 87 |
出でたまふほどを、人びと覗きて見たてまつる。 |
いでたまふほどを、ひとびとのぞきてみたてまつる。 |
12 | 1.2.31 | 109 | 88 |
入り方の月いと明きに、いとどなまめかしうきよらにて、ものを思いたるさま、虎、狼だに泣きぬべし。まして、いはけなくおはせしほどより見たてまつりそめてし人びとなれば、たとしへなき御ありさまをいみじと思ふ。 |
いりがたのつきいとあかきに、いとどなまめかしうきよらにて、ものをおぼいたるさま、とら、おほかみだになきぬべし。まして、いはけなくおはせしほどよりみたてまつりそめてしひとびとなれば、たとしへなきおほんありさまをいみじとおもふ。 |
12 | 1.2.32 | 110 | 89 |
まことや、御返り、 |
まことや、おほんかへり、 |
12 | 1.2.33 | 111 | 90 |
「亡き人の別れやいとど隔たらむ<BR/>煙となりし雲居ならでは」 |
"〔なきひとのわかれやいとどへだたらん<BR/>けぶりとなりしくもゐならでは〕 |
12 | 1.2.34 | 112 | 91 |
取り添へて、あはれのみ尽きせず、出でたまひぬる名残、ゆゆしきまで泣きあへり。 |
とりそへて、あはれのみつきせず、いでたまひぬるなごり、ゆゆしきまでなきあへり。 |
12 | 1.3 | 113 | 92 | 第三段 二条院の人々との離別 |
12 | 1.3.1 | 114 | 93 |
殿におはしたれば、わが御方の人びとも、まどろまざりけるけしきにて、所々に群れゐて、あさましとのみ世を思へるけしきなり。侍には、親しう仕まつる限りは、御供に参るべき心まうけして、私の別れ惜しむほどにや、人もなし。さらぬ人は、とぶらひ参るも重き咎めあり、わづらはしきことまされば、所狭く集ひし馬、車の方もなく、寂しきに、「世は憂きものなりけり」と、思し知らる。 |
とのにおはしたれば、わがおほんかたのひとびとも、まどろまざりけるけしきにて、ところどころにむれゐて、あさましとのみよをおもへるけしきなり。さぶらひには、したしうつかまつるかぎりは、おほんともにまゐるべきこころまうけして、わたくしのわかれをしむほどにや、ひともなし。さらぬひとは、とぶらひまゐるもおもきとがめあり、わづらはしきことまされば、ところせくつどひしむま、くるまのかたもなく、さびしきに、"よはうきものなりけり。"と、おぼししらる。 |
12 | 1.3.2 | 115 | 94 |
台盤なども、かたへは塵ばみて、畳、所々引き返したり。「見るほどだにかかり。ましていかに荒れゆかむ」と思す。 |
だいばんなども、かたへはちりばみて、たたみ、ところどころひきかへしたり。"みるほどだにかかり。ましていかにあれゆかん。"とおぼす。 |
12 | 1.3.3 | 116 | 95 |
西の対に渡りたまへれば、御格子も参らで、眺め明かしたまひければ、簀子などに、若き童女、所々に臥して、今ぞ起き騒ぐ。宿直姿どもをかしうてゐるを見たまふにも、心細う、「年月経ば、かかる人びとも、えしもあり果てでや、行き散らむ」など、さしもあるまじきことさへ、御目のみとまりけり。 |
にしのたいにわたりたまへれば、みかうしもまゐらで、ながめあかしたまひければ、すのこなどに、わかきわらはべ、ところどころにふして、いまぞおきさわぐ。とのゐすがたどもをかしうてゐるをみたまふにも、こころぼそう、"としつきへば、かかるひとびとも、えしもありはてでや、ゆきちらん。"など、さしもあるまじきことさへ、おほんめのみとまりけり。 |
12 | 1.3.4 | 117 | 96 |
「昨夜は、しかしかして夜更けにしかばなむ。例の思はずなるさまにや思しなしつる。かくてはべるほどだに御目離れずと思ふを、かく世を離るる際には、心苦しきことのおのづから多かりける、ひたやごもりにてやは。常なき世に、人にも情けなきものと心おかれ果てむと、いとほしうてなむ」 |
"よべは、しかしかしてよふけにしかばなん。れいのおもはずなるさまにやおぼしなしつる。かくてはべるほどだにおほんめかれずとおもふを、かくよをはなるるきはには、こころぐるしきことのおのづからおほかりける、ひたやごもりにてやは。つねなきよに、ひとにもなさけなきものとこころおかれはてんと、いとほしうてなん。" |
12 | 1.3.5 | 118 | 97 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
12 | 1.3.6 | 119 | 98 |
「かかる世を見るよりほかに、思はずなることは、何ごとにか」 |
"かかるよをみるよりほかに、おもはずなることは、なにごとにか。" |
12 | 1.3.7 | 120 | 99 |
とばかりのたまひて、いみじと思し入れたるさま、人よりことなるを、ことわりぞかし、父親王、いとおろかにもとより思しつきにけるに、まして、世の聞こえをわづらはしがりて、訪れきこえたまはず、御とぶらひにだに渡りたまはぬを、人の見るらむことも恥づかしく、なかなか知られたてまつらでやみなましを、継母の北の方などの、 |
とばかりのたまひて、いみじとおぼしいれたるさま、ひとよりことなるを、ことわりぞかし、ちちみこ、いとおろかにもとよりおぼしつきにけるに、まして、よのきこえをわづらはしがりて、おとづれきこえたまはず、おほんとぶらひにだにわたりたまはぬを、ひとのみるらんこともはづかしく、なかなかしられたてまつらでやみなましを、ままははのきたのかたなどの、 |
12 | 1.3.8 | 121 | 100 |
「にはかなりし幸ひのあわたたしさ。あな、ゆゆしや。思ふ人、方々につけて別れたまふ人かな」 |
"にはかなりしさいはひのあわたたしさ。あな、ゆゆしや。おもふひと、かたがたにつけてわかれたまふひとかな。" |
12 | 1.3.9 | 122 | 101 |
とのたまひけるを、さる便りありて漏り聞きたまふにも、いみじう心憂ければ、これよりも絶えて訪れきこえたまはず。また頼もしき人もなく、げにぞ、あはれなる御ありさまなる。 |
とのたまひけるを、さるたよりありてもりききたまふにも、いみじうこころうければ、これよりもたえておとづれきこえたまはず。またたのもしきひともなく、げにぞ、あはれなるおほんありさまなる。 |
12 | 1.3.10 | 123 | 102 |
「なほ世に許されがたうて、年月を経ば、巌の中にも迎へたてまつらむ。ただ今は、人聞きのいとつきなかるべきなり。朝廷にかしこまりきこゆる人は、明らかなる月日の影をだに見ず、安らかに身を振る舞ふことも、いと罪重かなり。過ちなけれど、さるべきにこそかかることもあらめと思ふに、まして思ふ人具するは、例なきことなるを、ひたおもむきにものぐるほしき世にて、立ちまさることもありなむ」 |
"なほよにゆるされがたうて、としつきをへば、いはほのなかにもむかへたてまつらん。ただいまは、ひとぎきのいとつきなかるべきなり。おほやけにかしこまりきこゆるひとは、あきらかなるつきひのかげをだにみず、やすらかにみをふるまふことも、いとつみおもかなり。あやまちなけれど、さるべきにこそかかることもあらめとおもふに、ましておもふひとぐするは、れいなきことなるを、ひたおもむきにものぐるほしきよにて、たちまさることもありなん。" |
12 | 1.3.11 | 124 | 103 |
など聞こえ知らせたまふ。 |
などきこえしらせたまふ。 |
12 | 1.3.12 | 125 | 104 |
日たくるまで大殿籠もれり。帥宮、三位中将などおはしたり。対面したまはむとて、御直衣などたてまつる。 |
ひたくるまでおほとのごもれり。そちのみや、さんゐのちゅうじゃうなどおはしたり。たいめんしたまはんとて、おほんなほしなどたてまつる。 |
12 | 1.3.13 | 126 | 105 |
「位なき人は」 |
"くらゐなきひとは。" |
12 | 1.3.14 | 127 | 107 |
とて、無紋の直衣、なかなか、いとなつかしきを着たまひて、うちやつれたまへる、いとめでたし。御鬢かきたまふとて、鏡台に寄りたまへるに、面痩せたまへる影の、我ながらいとあてにきよらなれば、 |
とて、むもんのなほし、なかなか、いとなつかしきをきたまひて、うちやつれたまへる、いとめでたし。おほんびんかきたまふとて、きゃうだいによりたまへるに、おもやせたまへるかげの、われながらいとあてにきよらなれば、 |
12 | 1.3.15 | 128 | 108 |
「こよなうこそ、衰へにけれ。この影のやうにや痩せてはべる。あはれなるわざかな」 |
"こよなうこそ、おとろへにけれ。このかげのやうにややせてはべる。あはれなるわざかな。" |
12 | 1.3.16 | 129 | 109 |
とのたまへば、女君、涙一目うけて、見おこせたまへる、いと忍びがたし。 |
とのたまへば、をんなぎみ、なみだひとめうけて、みおこせたまへる、いとしのびがたし。 |
12 | 1.3.17 | 130 | 110 |
「身はかくてさすらへぬとも君があたり<BR/>去らぬ鏡の影は離れじ」 |
"〔みはかくてさすらへぬともきみがあたり<BR/>さらぬかがみのかげははなれじ〕 |
12 | 1.3.18 | 131 | 111 |
と、聞こえたまへば、 |
と、きこえたまへば、 |
12 | 1.3.19 | 132 | 112 |
「別れても影だにとまるものならば<BR/>鏡を見ても慰めてまし」 |
"〔わかれてもかげだにとまるものならば<BR/>かがみをみてもなぐさめてまし〕 |
12 | 1.3.20 | 133 | 113 |
柱隠れにゐ隠れて、涙を紛らはしたまへるさま、「なほ、ここら見るなかにたぐひなかりけり」と、思し知らるる人の御ありさまなり。 |
はしらがくれにゐかくれて、なみだをまぎらはしたまへるさま、"なほ、ここらみるなかにたぐひなかりけり。"と、おぼししらるるひとのおほんありさまなり。 |
12 | 1.3.21 | 134 | 114 |
親王は、あはれなる御物語聞こえたまひて、暮るるほどに帰りたまひぬ。 |
みこは、あはれなるおほんものがたりきこえたまひて、くるるほどにかへりたまひぬ。 |
12 | 1.4 | 135 | 115 | 第四段 花散里邸に離京の挨拶 |
12 | 1.4.1 | 136 | 116 |
花散里の心細げに思して、常に聞こえたまふもことわりにて、「かの人も、今ひとたび見ずは、つらしとや思はむ」と思せば、その夜は、また出でたまふものから、いともの憂くて、いたう更かしておはしたれば、女御、 |
はなちるさとのこころぼそげにおぼして、つねにきこえたまふもことわりにて、"かのひとも、いまひとたびみずは、つらしとやおもはん。"とおぼせば、そのよは、またいでたまふものから、いとものうくて、いたうふかしておはしたれば、にょうご、 |
12 | 1.4.2 | 137 | 117 |
「かく数まへたまひて、立ち寄らせたまへること」 |
"かくかずまへたまひて、たちよらせたまへること。" |
12 | 1.4.3 | 138 | 118 |
と、よろこびきこえたまふさま、書き続けむもうるさし。 |
と、よろこびきこえたまふさま、かきつづけんもうるさし。 |
12 | 1.4.4 | 139 | 119 |
いといみじう心細き御ありさま、ただ御蔭に隠れて過ぐいたまへる年月、いとど荒れまさらむほど思しやられて、殿の内、いとかすかなり。 |
いといみじうこころぼそきおほんありさま、ただおほんかげにかくれてすぐいたまへるとしつき、いとどあれまさらんほどおぼしやられて、とののうち、いとかすかなり。 |
12 | 1.4.5 | 140 | 120 |
月おぼろにさし出でて、池広く、山木深きわたり、心細げに見ゆるにも、住み離れたらむ巌のなか、思しやらる。 |
つきおぼろにさしいでて、いけひろく、やまこぶかきわたり、こころぼそげにみゆるにも、すみはなれたらんいはほのなか、おぼしやらる。 |
12 | 1.4.6 | 141 | 121 |
西面は、「かうしも渡りたまはずや」と、うち屈して思しけるに、あはれ添へたる月影の、なまめかしうしめやかなるに、うち振る舞ひたまへるにほひ、似るものなくて、いと忍びやかに入りたまへば、すこしゐざり出でて、やがて月を見ておはす。またここに御物語のほどに、明け方近うなりにけり。 |
にしおもては、"かうしもわたりたまはずや。"と、うちくしておぼしけるに、あはれそへたるつきかげの、なまめかしうしめやかなるに、うちふるまひたまへるにほひ、にるものなくて、いとしのびやかにいりたまへば、すこしゐざりいでて、やがてつきをみておはす。またここにおほんものがたりのほどに、あけがたちかうなりにけり。 |
12 | 1.4.7 | 142 | 122 |
「短夜のほどや。かばかりの対面も、またはえしもやと思ふこそ、ことなしにて過ぐしつる年ごろも悔しう、来し方行く先のためしになるべき身にて、何となく心のどまる世なくこそありけれ」 |
"みじかよのほどや。かばかりのたいめんも、またはえしもやとおもふこそ、ことなしにてすぐしつるとしごろもくやしう、きしかたゆくさきのためしになるべきみにて、なにとなくこころのどまるよなくこそありけれ。" |
12 | 1.4.8 | 143 | 123 |
と、過ぎにし方のことどものたまひて、鶏もしばしば鳴けば、世につつみて急ぎ出でたまふ。例の、月の入り果つるほど、よそへられて、あはれなり。女君の濃き御衣に映りて、げに、漏るる顔なれば、 |
と、すぎにしかたのことどものたまひて、とりもしばしばなけば、よにつつみていそぎいでたまふ。れいの、つきのいりはつるほど、よそへられて、あはれなり。をんなぎみのこきおほんぞにうつりて、げに、ぬるるがほなれば、 |
12 | 1.4.9 | 144 | 124 |
「月影の宿れる袖はせばくとも<BR/>とめても見ばやあかぬ光を」 |
"〔つきかげのやどれるそではせばくとも<BR/>とめてもみばやあかぬひかりを〕 |
12 | 1.4.10 | 145 | 125 |
いみじと思いたるが、心苦しければ、かつは慰めきこえたまふ。 |
いみじとおぼいたるが、こころぐるしければ、かつはなぐさめきこえたまふ。 |
12 | 1.4.11 | 146 | 126 |
「行きめぐりつひにすむべき月影の<BR/>しばし雲らむ空な眺めそ |
"〔ゆきめぐりつひにすむべきつきかげの<BR/>しばしくもらんそらなながめそ |
12 | 1.4.12 | 147 | 127 |
思へば、はかなしや。ただ、知らぬ涙のみこそ、心を昏らすものなれ」 |
おもへば、はかなしや。ただ、しらぬなみだのみこそ、こころをくらすものなれ。" |
12 | 1.4.13 | 148 | 128 |
などのたまひて、明けぐれのほどに出でたまひぬ。 |
などのたまひて、あけぐれのほどにいでたまひぬ。 |
12 | 1.5 | 149 | 129 | 第五段 旅生活の準備と身辺整理 |
12 | 1.5.1 | 150 | 130 |
よろづのことどもしたためさせたまふ。親しう仕まつり、世になびかぬ限りの人びと、殿の事とり行なふべき上下、定め置かせたまふ。御供に慕ひきこゆる限りは、また選り出でたまへり。 |
よろづのことどもしたためさせたまふ。したしうつかまつり、よになびかぬかぎりのひとびと、とののこととりおこなふべきかみしも、さだめおかせたまふ。おほんともにしたひきこゆるかぎりは、またえりいでたまへり。 |
12 | 1.5.2 | 151 | 131 |
かの山里の御住みかの具は、えさらずとり使ひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべき書ども『文集』など入りたる箱、さては琴一つぞ持たせたまふ。所狭き御調度、はなやかなる御よそひなど、さらに具したまはず、あやしの山賤めきてもてなしたまふ。 |
かのやまざとのおほんすみかのぐは、えさらずとりつかひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべきふみども'ぶんしゅ'などいりたるはこ、さてはきんひとつぞもたせたまふ。ところせきみてうど、はなやかなるおほんよそひなど、さらにぐしたまはず、あやしのやまがつめきてもてなしたまふ。 |
12 | 1.5.3 | 152 | 132 |
さぶらふ人びとよりはじめ、よろづのこと、みな西の対に聞こえわたしたまふ。領じたまふ御荘、御牧よりはじめて、さるべき所々、券など、みなたてまつり置きたまふ。それよりほかの御倉町、納殿などいふことまで、少納言をはかばかしきものに見置きたまへれば、親しき家司ども具して、しろしめすべきさまどものたまひ預く。 |
さぶらふひとびとよりはじめ、よろづのこと、みなにしのたいにきこえわたしたまふ。りゃうじたまふみさう、みまきよりはじめて、さるべきところどころ、けんなど、みなたてまつりおきたまふ。それよりほかのみくらまち、をさめどのなどいふことまで、せうなごんをはかばかしきものにみおきたまへれば、したしきけいしどもぐして、しろしめすべきさまどものたまひあづく。 |
12 | 1.5.4 | 153 | 133 |
わが御方の中務、中将などやうの人びと、つれなき御もてなしながら、見たてまつるほどこそ慰めつれ、「何ごとにつけてか」と思へども、 |
わがおほんかたのなかつかさ、ちゅうじゃうなどやうのひとびと、つれなきおほんもてなしながら、みたてまつるほどこそなぐさめつれ、"なにごとにつけてか。"とおもへども、 |
12 | 1.5.5 | 154 | 134 |
「命ありてこの世にまた帰るやうもあらむを、待ちつけむと思はむ人は、こなたにさぶらへ」 |
"いのちありてこのよにまたかへるやうもあらんを、まちつけんとおもはんひとは、こなたにさぶらへ。" |
12 | 1.5.6 | 155 | 135 |
とのたまひて、上下、皆参う上らせたまふ。 |
とのたまひて、かみしも、みなまうのぼらせたまふ。 |
12 | 1.5.7 | 156 | 136 |
若君の御乳母たち、花散里なども、をかしきさまのはさるものにて、まめまめしき筋に思し寄らぬことなし。 |
わかぎみのおほんめのとたち、はなちるさとなども、をかしきさまのはさるものにて、まめまめしきすぢにおぼしよらぬことなし。 |
12 | 1.5.8 | 157 | 137 |
尚侍の御もとに、わりなくして聞こえたまふ。 |
ないしのかみのおほんもとに、わりなくしてきこえたまふ。 |
12 | 1.5.9 | 158 | 138 |
「問はせたまはぬも、ことわりに思ひたまへながら、今はと、世を思ひ果つるほどの憂さもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。 |
"とはせたまはぬも、ことわりにおもひたまへながら、いまはと、よをおもひはつるほどのうさもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。 |
12 | 1.5.10 | 159 | 139 |
逢ふ瀬なき涙の河に沈みしや<BR/>流るる澪の初めなりけむ |
あふせなきなみだのかはにしづみしや<BR/>ながるるみをのはじめなりけん |
12 | 1.5.11 | 160 | 140 |
と思ひたまへ出づるのみなむ、罪逃れがたうはべりける」 |
とおもひたまへいづるのみなん、つみのがれがたうはべりける。" |
12 | 1.5.12 | 161 | 141 |
道のほども危ふければ、こまかには聞こえたまはず。 |
みちのほどもあやふければ、こまかにはきこえたまはず。 |
12 | 1.5.13 | 162 | 142 |
女、いといみじうおぼえたまひて、忍びたまへど、御袖よりあまるも所狭うなむ。 |
をんな、いといみじうおぼえたまひて、しのびたまへど、おほんそでよりあまるもところせうなん。 |
12 | 1.5.14 | 163 | 143 |
「涙河浮かぶ水泡も消えぬべし<BR/>流れて後の瀬をも待たずて」 |
"〔なみだがはうかぶみなはもきえぬべし<BR/>ながれてのちのせをもまたずて〕 |
12 | 1.5.15 | 164 | 144 |
泣く泣く乱れ書きたまへる御手、いとをかしげなり。今ひとたび対面なくやと思すは、なほ口惜しけれど、思し返して、憂しと思しなすゆかり多うて、おぼろけならず忍びたまへば、いとあながちにも聞こえたまはずなりぬ。 |
なくなくみだれかきたまへるおほんて、いとをかしげなり。いまひとたびたいめんなくやとおぼすは、なほくちをしけれど、おぼしかへして、うしとおぼしなすゆかりおほうて、おぼろけならずしのびたまへば、いとあながちにもきこえたまはずなりぬ。 |
12 | 1.6 | 165 | 145 | 第六段 藤壺に離京の挨拶 |
12 | 1.6.1 | 166 | 146 |
明日とて、暮には、院の御墓拝みたてまつりたまふとて、北山へ詣でたまふ。暁かけて月出づるころなれば、まづ、入道の宮に参うでたまふ。近き御簾の前に御座参りて、御みづから聞こえさせたまふ。春宮の御事をいみじううしろめたきものに思ひきこえたまふ。 |
あすとて、くれには、ゐんのみはかをがみたてまつりたまふとて、きたやまへまうでたまふ。あかつきかけてつきいづるころなれば、まづ、にふだうのみやにまうでたまふ。ちかきみすのまへにおましまゐりて、おほんみづからきこえさせたまふ。とうぐうのおほんことをいみじううしろめたきものにおもひきこえたまふ。 |
12 | 1.6.2 | 167 | 147 |
かたみに心深きどちの御物語は、よろづあはれまさりけむかし。なつかしうめでたき御けはひの昔に変はらぬに、つらかりし御心ばへも、かすめきこえさせまほしけれど、今さらにうたてと思さるべし、わが御心にも、なかなか今ひときは乱れまさりぬべければ、念じ返して、ただ、 |
かたみにこころふかきどちのおほんものがたりは、よろづあはれまさりけんかし。なつかしうめでたきおほんけはひのむかしにかはらぬに、つらかりしみこころばへも、かすめきこえさせまほしけれど、いまさらにうたてとおぼさるべし、わがみこころにも、なかなかいまひときはみだれまさりぬべければ、ねんじかへして、ただ、 |
12 | 1.6.3 | 168 | 148 |
「かく思ひかけぬ罪に当たりはべるも、思うたまへあはすることの一節になむ、空も恐ろしうはべる。惜しげなき身はなきになしても、宮の御世にだに、ことなくおはしまさば」 |
"かくおもひかけぬつみにあたりはべるも、おもうたまへあはすることのひとふしになん、そらもおそろしうはべる。をしげなきみはなきになしても、みやのみよにだに、ことなくおはしまさば。" |
12 | 1.6.4 | 169 | 149 |
とのみ聞こえたまふぞ、ことわりなるや。 |
とのみきこえたまふぞ、ことわりなるや。 |
12 | 1.6.5 | 170 | 150 |
宮も、みな思し知らるることにしあれば、御心のみ動きて、聞こえやりたまはず。大将、よろづのことかき集め思し続けて、泣きたまへるけしき、いと尽きせずなまめきたり。 |
みやも、みなおぼししらるることにしあれば、みこころのみうごきて、きこえやりたまはず。だいしゃう、よろづのことかきあつめおぼしつづけて、なきたまへるけしき、いとつきせずなまめきたり。 |
12 | 1.6.6 | 171 | 151 |
「御山に参りはべるを、御ことつてや」 |
"みやまにまゐりはべるを、おほんことつてや。" |
12 | 1.6.7 | 172 | 152 |
と聞こえたまふに、とみにものも聞こえたまはず、わりなくためらひたまふ御けしきなり。 |
ときこえたまふに、とみにものもきこえたまはず、わりなくためらひたまふみけしきなり。 |
12 | 1.6.8 | 173 | 153 |
「見しはなくあるは悲しき世の果てを<BR/>背きしかひもなくなくぞ経る」 |
"〔みしはなくあるはかなしきよのはてを<BR/>そむきしかひもなくなくぞふる〕 |
12 | 1.6.9 | 174 | 154 |
いみじき御心惑ひどもに、思し集むることどもも、えぞ続けさせたまはぬ。 |
いみじきみこころまどひどもに、おぼしあつむることどもも、えぞつづけさせたまはぬ。 |
12 | 1.6.10 | 175 | 155 |
「別れしに悲しきことは尽きにしを<BR/>またぞこの世の憂さはまされる」 |
"〔わかれしにかなしきことはつきにしを<BR/>またぞこのよのうさはまされる〕 |
12 | 1.7 | 176 | 156 | 第七段 桐壺院の御墓に離京の挨拶 |
12 | 1.7.1 | 177 | 157 |
月待ち出でて出でたまふ。御供にただ五、六人ばかり、下人もむつましき限りして、御馬にてぞおはする。さらなることなれど、ありし世の御ありきに異なり、皆いと悲しう思ふなり。なかに、かの御禊の日、仮の御随身にて仕うまつりし右近の将監の蔵人、得べきかうぶりもほど過ぎつるを、つひに御簡削られ、官も取られて、はしたなければ、御供に参るうちなり。 |
つきまちいでていでたまふ。おほんともにただご、ろくにんばかり、しもびともむつましきかぎりして、おほんむまにてぞおはする。さらなることなれど、ありしよのおほんありきにことなり、みないとかなしうおもふなり。なかに、かのみそぎのひ、かりのみずいじんにてつかうまつりしうこんのぞうのくらうど、うべきかうぶりもほどすぎつるを、つひにみふだけづられ、つかさもとられて、はしたなければ、おほんともにまゐるうちなり。 |
12 | 1.7.2 | 178 | 158 |
賀茂の下の御社を、かれと見渡すほど、ふと思ひ出でられて、下りて、御馬の口を取る。 |
かものしものみやしろを、かれとみわたすほど、ふとおもひいでられて、おりて、おほんむまのくちをとる。 |
12 | 1.7.3 | 179 | 159 |
「ひき連れて葵かざししそのかみを<BR/>思へばつらし賀茂の瑞垣」 |
"〔ひきつれてあふひかざししそのかみを<BR/>おもへばつらしかものみづがき〕" |
12 | 1.7.4 | 180 | 160 |
と言ふを、「げに、いかに思ふらむ。人よりけにはなやかなりしものを」と思すも、心苦し。 |
といふを、"げに、いかにおもふらん。ひとよりけにはなやかなりしものを。"とおぼすも、こころぐるし。 |
12 | 1.7.5 | 181 | 161 |
君も、御馬より下りたまひて、御社のかた拝みたまふ。神にまかり申したまふ。 |
きみも、おほんむまよりおりたまひて、みやしろのかたをがみたまふ。かみにまかりまうしたまふ。 |
12 | 1.7.6 | 182 | 162 |
「憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ<BR/>名をば糺の神にまかせて」 |
"〔うきよをばいまぞわかるるとどまらん<BR/>なをばただすのかみにまかせて〕 |
12 | 1.7.7 | 183 | 163 |
とのたまふさま、ものめでする若き人にて、身にしみてあはれにめでたしと見たてまつる。 |
とのたまふさま、ものめでするわかきひとにて、みにしみてあはれにめでたしとみたてまつる。 |
12 | 1.7.8 | 184 | 164 |
御山に詣うでたまひて、おはしましし御ありさま、ただ目の前のやうに思し出でらる。限りなきにても、世に亡くなりぬる人ぞ、言はむかたなく口惜しきわざなりける。よろづのことを泣く泣く申したまひても、そのことわりをあらはに承りたまはねば、「さばかり思しのたまはせしさまざまの御遺言は、いづちか消え失せにけむ」と、いふかひなし。 |
みやまにまうでたまひて、おはしまししおほんありさま、ただめのまへのやうにおぼしいでらる。かぎりなきにても、よになくなりぬるひとぞ、いはんかたなくくちをしきわざなりける。よろづのことをなくなくまうしたまひても、そのことわりをあらはにうけたまはりたまはねば、"さばかりおぼしのたまはせしさまざまのおほんゆいごんは、いづちかきえうせにけん。"と、いふかひなし。 |
12 | 1.7.9 | 185 | 166 |
御墓は、道の草茂くなりて、分け入りたまふほど、いとど露けきに、月も隠れて、森の木立、木深く心すごし。帰り出でむ方もなき心地して、拝みたまふに、ありし御面影、さやかに見えたまへる、そぞろ寒きほどなり。 |
みはかは、みちのくさしげくなりて、わけいりたまふほど、いとどつゆけきに、つきもかくれて、もりのこだち、こぶかくこころすごし。かへりいでんかたもなきここちして、をがみたまふに、ありしおほんおもかげ、さやかにみえたまへる、そぞろさむきほどなり。 |
12 | 1.7.10 | 186 | 167 |
「亡き影やいかが見るらむよそへつつ<BR/>眺むる月も雲隠れぬる」 |
"〔なきかげやいかがみるらんよそへつつ<BR/>ながむるつきもくもがくれぬる〕 |
12 | 1.8 | 187 | 168 | 第八段 東宮に離京の挨拶 |
12 | 1.8.1 | 188 | 169 |
明け果つるほどに帰りたまひて、春宮にも御消息聞こえたまふ。王命婦を御代はりにてさぶらはせたまへば、「その御局に」とて、 |
あけはつるほどにかへりたまひて、とうぐうにもおほんせうそこきこえたまふ。わうみゃうぶをおほんかはりにてさぶらはせたまへば、"そのみつぼねに。"とて、 |
12 | 1.8.2 | 189 | 170 |
「今日なむ、都離れはべる。また参りはべらずなりぬるなむ、あまたの憂へにまさりて思うたまへられはべる。よろづ推し量りて啓したまへ。 |
"けふなん、みやこはなれはべる。またまゐりはべらずなりぬるなん、あまたのうれへにまさりておもうたまへられはべる。よろづおしはかりてけいしたまへ。 |
12 | 1.8.3 | 190 | 171 |
いつかまた春の都の花を見む<BR/>時失へる山賤にして」 |
いつかまたはるのみやこのはなをみん<BR/>ときうしなへるやまがつにして〕 |
12 | 1.8.4 | 191 | 172 |
桜の散りすきたる枝につけたまへり。「かくなむ」と御覧ぜさすれば、幼き御心地にもまめだちておはします。 |
さくらのちりすきたるえだにつけたまへり。"かくなん。"とごらんぜさすれば、をさなきみここちにもまめだちておはします。 |
12 | 1.8.5 | 192 | 173 |
「御返りいかがものしたまふらむ」 |
"おほんかへりいかがものしたまふらん。" |
12 | 1.8.6 | 193 | 174 |
と啓すれば、 |
とけいすれば、 |
12 | 1.8.7 | 194 | 175 |
「しばし見ぬだに恋しきものを、遠くはましていかに、と言へかし」 |
"しばしみぬだにこひしきものを、とほくはましていかに、といへかし。" |
12 | 1.8.8 | 195 | 176 |
とのたまはす。「ものはかなの御返りや」と、あはれに見たてまつる。あぢきなきことに御心をくだきたまひし昔のこと、折々の御ありさま、思ひ続けらるるにも、もの思ひなくて我も人も過ぐいたまひつべかりける世を、心と思し嘆きけるを悔しう、わが心ひとつにかからむことのやうにぞおぼゆる。御返りは、 |
とのたまはす。"ものはかなのおほんかへりや。"と、あはれにみたてまつる。あぢきなきことにみこころをくだきたまひしむかしのこと、をりをりのおほんありさま、おもひつづけらるるにも、ものおもひなくてわれもひともすぐいたまひつべかりけるよを、こころとおぼしなげきけるをくやしう、わがこころひとつにかからんことのやうにぞおぼゆる。おほんかへりは、 |
12 | 1.8.9 | 196 | 177 |
「さらに聞こえさせやりはべらず。御前には啓しはべりぬ。心細げに思し召したる御けしきもいみじくなむ」 |
"さらにきこえさせやりはべらず。おまへにはけいしはべりぬ。こころぼそげにおぼしめしたるみけしきもいみじくなん。" |
12 | 1.8.10 | 197 | 178 |
と、そこはかとなく、心の乱れけるなるべし。 |
と、そこはかとなく、こころのみだれけるなるべし。 |
12 | 1.8.11 | 198 | 179 |
「咲きてとく散るは憂けれどゆく春は<BR/>花の都を立ち帰り見よ |
"〔さきてとくちるはうけれどゆくはるは<BR/>はなのみやこをたちかへりみよ |
12 | 1.8.12 | 199 | 180 |
時しあらば」 |
ときしあらば。" |
12 | 1.8.13 | 200 | 181 |
と聞こえて、名残もあはれなる物語をしつつ、一宮のうち、忍びて泣きあへり。 |
ときこえて、なごりもあはれなるものがたりをしつつ、ひとみやのうち、しのびてなきあへり。 |
12 | 1.8.14 | 201 | 182 |
一目も見たてまつれる人は、かく思しくづほれぬる御ありさまを、嘆き惜しみきこえぬ人なし。まして、常に参り馴れたりしは、知り及びたまふまじき長女、御厠人まで、ありがたき御顧みの下なりつるを、「しばしにても、見たてまつらぬほどや経む」と、思ひ嘆きけり。 |
ひとめもみたてまつれるひとは、かくおぼしくづほれぬるおほんありさまを、なげきをしみきこえぬひとなし。まして、つねにまゐりなれたりしは、しりおよびたまふまじきをさめ、みかはやうどまで、ありがたきおほんかへりみのしたなりつるを、"しばしにても、みたてまつらぬほどやへん。"と、おもひなげきけり。 |
12 | 1.8.15 | 202 | 183 |
おほかたの世の人も、誰かはよろしく思ひきこえむ。七つになりたまひしこのかた、帝の御前に夜昼さぶらひたまひて、奏したまふことのならぬはなかりしかば、この御いたはりにかからぬ人なく、御徳をよろこばぬやはありし。やむごとなき上達部、弁官などのなかにも多かり。それより下は数知らぬを、思ひ知らぬにはあらねど、さしあたりて、いちはやき世を思ひ憚りて、参り寄るもなし。世ゆすりて惜しみきこえ、下に朝廷をそしり、恨みたてまつれど、「身を捨ててとぶらひ参らむにも、何のかひかは」と思ふにや、かかる折は人悪ろく、恨めしき人多く、「世の中はあぢきなきものかな」とのみ、よろづにつけて思す。 |
おほかたのよのひとも、たれかはよろしくおもひきこえん。ななつになりたまひしこのかた、みかどのおまへによるひるさぶらひたまひて、そうしたまふことのならぬはなかりしかば、このおほんいたはりにかからぬひとなく、おほんとくをよろこばぬやはありし。やんごとなきかんだちめ、べんかんなどのなかにもおほかり。それよりしもはかずしらぬを、おもひしらぬにはあらねど、さしあたりて、いちはやきよをおもひはばかりて、まゐりよるもなし。よゆすりてをしみきこえ、したにおほやけをそしり、うらみたてまつれど、"みをすててとぶらひまゐらんにも、なにのかひかは。"とおもふにや、かかるをりはひとわろく、うらめしきひとおほく、"よのなかはあぢきなきものかな。"とのみ、よろづにつけておぼす。 |
12 | 1.9 | 203 | 184 | 第九段 離京の当日 |
12 | 1.9.1 | 204 | 185 |
その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らしたまひて、例の、夜深く出でたまふ。狩の御衣など、旅の御よそひ、いたくやつしたまひて、 |
そのひは、をんなぎみにおほんものがたりのどかにきこえくらしたまひて、れいの、よぶかくいでたまふ。かりのおほんぞなど、たびのおほんよそひ、いたくやつしたまひて、 |
12 | 1.9.2 | 205 | 186 |
「月出でにけりな。なほすこし出でて、見だに送りたまへかし。いかに聞こゆべきこと多くつもりにけりとおぼえむとすらむ。一日、二日たまさかに隔たる折だに、あやしういぶせき心地するものを」 |
"つきいでにけりな。なほすこしいでて、みだにおくりたまへかし。いかにきこゆべきことおほくつもりにけりとおぼえんとすらん。ひとひ、ふつかたまさかにへだたるをりだに、あやしういぶせきここちするものを。" |
12 | 1.9.3 | 206 | 187 |
とて、御簾巻き上げて、端にいざなひきこえたまへば、女君、泣き沈みたまへるを、ためらひて、ゐざり出でたまへる、月影に、いみじうをかしげにてゐたまへり。「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」と、うしろめたく悲しけれど、思し入りたるに、いとどしかるべければ、 |
とて、みすまきあげて、はしにいざなひきこえたまへば、をんなぎみ、なきしづみたまへるを、ためらひて、ゐざりいでたまへる、つきかげに、いみじうをかしげにてゐたまへり。"わがみかくてはかなきよをわかれなば、いかなるさまにさすらへたまはん。"と、うしろめたくかなしけれど、おぼしいりたるに、いとどしかるべければ、 |
12 | 1.9.4 | 207 | 188 |
「生ける世の別れを知らで契りつつ<BR/>命を人に限りけるかな |
"〔いけるよのわかれをしらでちぎりつつ<BR/>いのちをひとにかぎりけるかな |
12 | 1.9.5 | 208 | 189 |
はかなし」 |
はかなし。" |
12 | 1.9.6 | 209 | 190 |
など、あさはかに聞こえなしたまへば、 |
など、あさはかにきこえなしたまへば、 |
12 | 1.9.7 | 210 | 191 |
「惜しからぬ命に代へて目の前の<BR/>別れをしばしとどめてしがな」 |
"〔をしからぬいのちにかへてめのまへの<BR/>わかれをしばしとどめてしがな〕 |
12 | 1.9.8 | 211 | 192 |
「げに、さぞ思さるらむ」と、いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。 |
"げに、さぞおぼさるらん。"と、いとみすてがたけれど、あけはてなば、はしたなかるべきにより、いそぎいでたまひぬ。 |
12 | 1.9.9 | 212 | 194 |
道すがら、面影につと添ひて、胸もふたがりながら、御舟に乗りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり。大江殿と言ひける所は、いたう荒れて、松ばかりぞしるしなる。 |
みちすがら、おもかげにつとそひて、むねもふたがりながら、おほんふねにのりたまひぬ。ひながきころなれば、おひかぜさへそひて、まださるのときばかりに、かのうらにつきたまひぬ。かりそめのみちにても、かかるたびをならひたまはぬここちに、こころぼそさもをかしさもめづらかなり。おほえどのといひけるところは、いたうあれて、まつばかりぞしるしなる。 |
12 | 1.9.10 | 213 | 195 |
「唐国に名を残しける人よりも<BR/>行方知られぬ家居をやせむ」 |
"〔からくにになをのこしけるひとよりも<BR/>ゆくへしられぬいへゐをやせん〕 |
12 | 1.9.11 | 214 | 196 |
渚に寄る波のかつ返るを見たまひて、「うらやましくも」と、うち誦じたまへるさま、さる世の古言なれど、珍しう聞きなされ、悲しとのみ御供の人びと思へり。うち顧みたまへるに、来し方の山は霞はるかにて、まことに「三千里の外」の心地するに、櫂の雫も堪へがたし。 |
なぎさによるなみのかつかへるをみたまひて、"うらやましくも"と、うちずじたまへるさま、さるよのふることなれど、めづらしうききなされ、かなしとのみおほんとものひとびとおもへり。うちかへりみたまへるに、こしかたのやまはかすみはるかにて、まことに"さんぜんりのほか"のここちするに、かいのしづくもたへがたし。 |
12 | 1.9.12 | 215 | 197 |
「故郷を峰の霞は隔つれど<BR/>眺むる空は同じ雲居か」 |
"〔ふるさとをみねのかすみはへだつれど<BR/>ながむるそらはおなじくもゐか〕 |
12 | 1.9.13 | 216 | 198 |
つらからぬものなくなむ。 |
つらからぬものなくなん。 |
12 | 2 | 217 | 199 | 第二章 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語 |
12 | 2.1 | 218 | 200 | 第一段 須磨の住居 |
12 | 2.1.1 | 219 | 201 |
おはすべき所は、行平の中納言の、「藻塩垂れつつ」侘びける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。 |
おはすべきところは、ゆきひらのちゅうなごんの、"もしほたれつつ"わびけるいへゐちかきわたりなりけり。うみづらはややいりて、あはれにすごげなるやまなかなり。 |
12 | 2.1.2 | 220 | 202 |
垣のさまよりはじめて、めづらかに見たまふ。茅屋ども、葦葺ける廊めく屋など、をかしうしつらひなしたり。所につけたる御住まひ、やう変はりて、「かからぬ折ならば、をかしうもありなまし」と、昔の御心のすさび思し出づ。 |
かきのさまよりはじめて、めづらかにみたまふ。かややども、あしふけるらうめくやなど、をかしうしつらひなしたり。ところにつけたるおほんすまひ、やうかはりて、"かからぬをりならば、をかしうもありなまし。"と、むかしのみこころのすさびおぼしいづ。 |
12 | 2.1.3 | 221 | 203 |
近き所々の御荘の司召して、さるべきことどもなど、良清朝臣、親しき家司にて、仰せ行なふもあはれなり。時の間に、いと見所ありてしなさせたまふ。水深う遣りなし、植木どもなどして、今はと静まりたまふ心地、うつつならず。国の守も親しき殿人なれば、忍びて心寄せ仕うまつる。かかる旅所ともなう、人騒がしけれども、はかばかしう物をものたまひあはすべき人しなければ、知らぬ国の心地して、いと埋れいたく、「いかで年月を過ぐさまし」と思しやらる。 |
ちかきところどころのみさうのつかさめして、さるべきことどもなど、よしきよのあそん、したしきけいしにて、おほせおこなふもあはれなり。ときのまに、いとみどころありてしなさせたまふ。みづふかうやりなし、うゑきどもなどして、いまはとしづまりたまふここち、うつつならず。くにのかみもしたしきとのびとなれば、しのびてこころよせつかうまつる。かかるたびどころともなう、ひとさわがしけれども、はかばかしうものをものたまひあはすべきひとしなければ、しらぬくにのここちして、いとむもれいたく、"いかでとしつきをすぐさまし。"とおぼしやらる。 |
12 | 2.2 | 222 | 204 | 第二段 京の人々へ手紙 |
12 | 2.2.1 | 223 | 205 |
やうやう事静まりゆくに、長雨のころになりて、京のことも思しやらるるに、恋しき人多く、女君の思したりしさま、春宮の御事、若君の何心もなく紛れたまひしなどをはじめ、ここかしこ思ひやりきこえたまふ。 |
やうやうことしづまりゆくに、ながあめのころになりて、きゃうのこともおぼしやらるるに、こひしきひとおほく、をんなぎみのおぼしたりしさま、とうぐうのおほんこと、わかぎみのなにごころもなくまぎれたまひしなどをはじめ、ここかしこおもひやりきこえたまふ。 |
12 | 2.2.2 | 224 | 206 |
京へ人出だし立てたまふ。二条院へたてまつりたまふと、入道の宮のとは、書きもやりたまはず、昏されたまへり。宮には、 |
きゃうへひといだしたてたまふ。にでうのゐんへたてまつりたまふと、にふだうのみやのとは、かきもやりたまはず、くらされたまへり。みやには、 |
12 | 2.2.3 | 225 | 207 |
「松島の海人の苫屋もいかならむ<BR/>須磨の浦人しほたるるころ |
"〔まつしまのあまのとまやもいかならん<BR/>すまのうらびとしほたるるころ |
12 | 2.2.4 | 226 | 208 |
いつとはべらぬなかにも、来し方行く先かきくらし、『汀まさりて』なむ」 |
いつとはべらぬなかにも、きしかたゆくさきかきくらし、'みぎはまさりて'なん。" |
12 | 2.2.5 | 227 | 209 |
尚侍の御もとに、例の、中納言の君の私事のやうにて、中なるに、 |
ないしのかみのおほんもとに、れいの、ちゅうなごんのきみのわたくしごとのやうにて、なかなるに、 |
12 | 2.2.6 | 228 | 210 |
「つれづれと過ぎにし方の思ひたまへ出でらるるにつけても、 |
"つれづれとすぎにしかたのおもひたまへいでらるるにつけても、 |
12 | 2.2.7 | 229 | 211 |
こりずまの浦のみるめのゆかしきを<BR/>塩焼く海人やいかが思はむ」 |
こりずまのうらのみるめのゆかしきを<BR/>しほやくあまやいかがおもはん〕 |
12 | 2.2.8 | 230 | 212 |
さまざま書き尽くしたまふ言の葉、思ひやるべし。 |
さまざまかきつくしたまふことのは、おもひやるべし。 |
12 | 2.2.9 | 231 | 213 |
大殿にも、宰相の乳母にも、仕うまつるべきことなど書きつかはす。 |
おほいどのにも、さいしゃうのめのとにも、つかうまつるべきことなどかきつかはす。 |
12 | 2.2.10 | 232 | 214 |
京には、この御文、所々に見たまひつつ、御心乱れたまふ人びとのみ多かり。二条院の君は、そのままに起きも上がりたまはず、尽きせぬさまに思しこがるれば、さぶらふ人びともこしらへわびつつ、心細う思ひあへり。 |
きゃうには、このおほんふみ、ところどころにみたまひつつ、みこころみだれたまふひとびとのみおほかり。にでうのゐんのきみは、そのままにおきもあがりたまはず、つきせぬさまにおぼしこがるれば、さぶらふひとびともこしらへわびつつ、こころぼそうおもひあへり。 |
12 | 2.2.11 | 233 | 215 |
もてならしたまひし御調度ども、弾きならしたまひし御琴、脱ぎ捨てたまひつる御衣の匂ひなどにつけても、今はと世になからむ人のやうにのみ思したれば、かつはゆゆしうて、少納言は、僧都に御祈りのことなど聞こゆ。二方に御修法などせさせたまふ。かつは、「思し嘆く御心静めたまひて、思ひなき世にあらせたてまつりたまへ」と、心苦しきままに祈り申したまふ。 |
もてならしたまひしみてうどども、ひきならしたまひしおほんこと、ぬぎすてたまひつるおほんぞのにほひなどにつけても、いまはとよになからんひとのやうにのみおぼしたれば、かつはゆゆしうて、せうなごんは、そうづにおほんいのりのことなどきこゆ。ふたかたにみしゅほふなどせさせたまふ。かつは、"おぼしなげくみこころしづめたまひて、おもひなきよにあらせたてまつりたまへ。"と、こころぐるしきままにいのりまうしたまふ。 |
12 | 2.2.12 | 234 | 216 |
旅の御宿直物など、調じてたてまつりたまふ。かとりの御直衣、指貫、さま変はりたる心地するもいみじきに、「去らぬ鏡」とのたまひし面影の、げに身に添ひたまへるもかひなし。 |
たびのおほんとのゐものなど、てうじてたてまつりたまふ。かとりのおほんなほし、さしぬき、さまかはりたるここちするもいみじきに、"さらぬかがみ"とのたまひしおもかげの、げにみにそひたまへるもかひなし。 |
12 | 2.2.13 | 235 | 217 |
出で入りたまひし方、寄りゐたまひし真木柱などを見たまふにも、胸のみふたがりて、ものをとかう思ひめぐらし、世にしほじみぬる齢の人だにあり、まして、馴れむつびきこえ、父母にもなりて生ほし立てならはしたまへれば、恋しう思ひきこえたまへる、ことわりなり。ひたすら世になくなりなむは、言はむ方なくて、やうやう忘れ草も生ひやすらむ、聞くほどは近けれど、いつまでと限りある御別れにもあらで、思すに尽きせずなむ。 |
いでいりたまひしかた、よりゐたまひしまきばしらなどをみたまふにも、むねのみふたがりて、ものをとかうおもひめぐらし、よにしほじみぬるよはひのひとだにあり、まして、なれむつびきこえ、ちちははにもなりておほしたてならはしたまへれば、こひしうおもひきこえたまへる、ことわりなり。ひたすらよになくなりなんは、いはんかたなくて、やうやうわすれぐさもおひやすらん、きくほどはちかけれど、いつまでとかぎりあるおほんわかれにもあらで、おぼすにつきせずなん。 |
12 | 2.2.14 | 236 | 218 |
入道宮にも、春宮の御事により思し嘆くさま、いとさらなり。御宿世のほどを思すには、いかが浅く思されむ。年ごろはただものの聞こえなどのつつましさに、「すこし情けあるけしき見せば、それにつけて人のとがめ出づることもこそ」とのみ、ひとへに思し忍びつつ、あはれをも多う御覧じ過ぐし、すくすくしうもてなしたまひしを、「かばかり憂き世の人言なれど、かけてもこの方には言ひ出づることなくて止みぬるばかりの、人の御おもむけも、あながちなりし心の引く方にまかせず、かつはめやすくもて隠しつるぞかし」。あはれに恋しうも、いかが思し出でざらむ。御返りも、すこしこまやかにて、 |
にふだうのみやにも、とうぐうのおほんことによりおぼしなげくさま、いとさらなり。おほんすくせのほどをおぼすには、いかがあさくおぼされん。としごろはただもののきこえなどのつつましさに、"すこしなさけあるけしきみせば、それにつけてひとのとがめいづることもこそ。"とのみ、ひとへにおぼししのびつつ、あはれをもおほうごらんじすぐし、すくすくしうもてなしたまひしを、"かばかりうきよのひとごとなれど、かけてもこのかたにはいひいづることなくてやみぬるばかりの、ひとのおほんおもむけも、あながちなりしこころのひくかたにまかせず、かつはめやすくもてかくしつるぞかし"。あはれにこひしうも、いかがおぼしいでざらん。おほんかへりも、すこしこまやかにて、 |
12 | 2.2.15 | 237 | 219 |
「このころは、いとど、 |
"このころは、いとど、 |
12 | 2.2.16 | 238 | 220 |
塩垂るることをやくにて松島に<BR/>年ふる海人も嘆きをぞつむ」 |
しほたるることをやくにてまつしまに<BR/>としふるあまもなげきをぞつむ〕 |
12 | 2.2.17 | 239 | 221 |
尚侍君の御返りには、 |
かんのきみのおほんかへりには、 |
12 | 2.2.18 | 240 | 222 |
「浦にたく海人だにつつむ恋なれば<BR/>くゆる煙よ行く方ぞなき |
"〔うらにたくあまだにつつむこひなれば<BR/>くゆるけぶりよゆくかたぞなき |
12 | 2.2.19 | 241 | 223 |
さらなることどもは、えなむ」 |
さらなることどもは、えなん。" |
12 | 2.2.20 | 242 | 224 |
とばかり、いささか書きて、中納言の君の中にあり。思し嘆くさまなど、いみじう言ひたり。あはれと思ひきこえたまふ節々もあれば、うち泣かれたまひぬ。 |
とばかり、いささかかきて、ちゅうなごんのきみのなかにあり。おぼしなげくさまなど、いみじういひたり。あはれとおもひきこえたまふふしぶしもあれば、うちなかれたまひぬ。 |
12 | 2.2.21 | 243 | 225 |
姫君の御文は、心ことにこまかなりし御返りなれば、あはれなること多くて、 |
ひめぎみのおほんふみは、こころことにこまかなりしおほんかへりなれば、あはれなることおほくて、 |
12 | 2.2.22 | 244 | 226 |
「浦人の潮くむ袖に比べ見よ<BR/>波路へだつる夜の衣を」 |
"〔うらびとのしほくむそでにくらべみよ<BR/>なみぢへだつるよるのころもを〕 |
12 | 2.2.23 | 245 | 227 |
ものの色、したまへるさまなど、いときよらなり。何ごともらうらうじうものしたまふを、思ふさまにて、「今は他事に心あわたたしう、行きかかづらふ方もなく、しめやかにてあるべきものを」と思すに、いみじう口惜しう、夜昼面影におぼえて、堪へがたう思ひ出でられたまへば、「なほ忍びてや迎へまし」と思す。またうち返し、「なぞや、かく憂き世に、罪をだに失はむ」と思せば、やがて御精進にて、明け暮れ行なひておはす。 |
もののいろ、したまへるさまなど、いときよらなり。なにごともらうらうじうものしたまふを、おもふさまにて、"いまはことごとにこころあわたたしう、ゆきかかづらふかたもなく、しめやかにてあるべきものを。"とおぼすに、いみじうくちをしう、よるひるおもかげにおぼえて、たへがたうおもひいでられたまへば、"なほしのびてやむかへまし。"とおぼす。またうちかへし、"なぞや、かくうきよに、つみをだにうしなはん。"とおぼせば、やがてみさうじんにて、あけくれおこなひておはす。 |
12 | 2.2.24 | 246 | 228 |
大殿の若君の御事などあるにも、いと悲しけれど、「おのづから逢ひ見てむ。頼もしき人びとものしたまへば、うしろめたうはあらず」と、思しなさるるは、なかなか、子の道の惑はれぬにやあらむ。 |
おほとののわかぎみのおほんことなどあるにも、いとかなしけれど、"おのづからあひみてん。たのもしきひとびとものしたまへば、うしろめたうはあらず。"と、おぼしなさるるは、なかなか、このみちのまどはれぬにやあらん。 |
12 | 2.3 | 247 | 229 | 第三段 伊勢の御息所へ手紙 |
12 | 2.3.1 | 248 | 230 |
まことや、騒がしかりしほどの紛れに漏らしてけり。かの伊勢の宮へも御使ありけり。かれよりも、ふりはへ尋ね参れり。浅からぬことども書きたまへり。言の葉、筆づかひなどは、人よりことになまめかしく、いたり深う見えたり。 |
まことや、さわがしかりしほどのまぎれにもらしてけり。かのいせのみやへもおほんつかひありけり。かれよりも、ふりはへたづねまゐれり。あさからぬことどもかきたまへり。ことのは、ふでづかひなどは、ひとよりことになまめかしく、いたりふかうみえたり。 |
12 | 2.3.2 | 249 | 231 |
「なほうつつとは思ひたまへられぬ御住ひをうけたまはるも、明けぬ夜の心惑ひかとなむ。さりとも、年月隔てたまはじと、思ひやりきこえさするにも、罪深き身のみこそ、また聞こえさせむこともはるかなるべけれ。 |
"なほうつつとはおもひたまへられぬおほんすまひをうけたまはるも、あけぬよのこころまどひかとなん。さりとも、としつきへだてたまはじと、おもひやりきこえさするにも、つみふかきみのみこそ、またきこえさせんこともはるかなるべけれ。 |
12 | 2.3.3 | 250 | 232 |
うきめかる伊勢をの海人を思ひやれ<BR/>藻塩垂るてふ須磨の浦にて |
うきめかるいせをのあまをおもひやれ<BR/>もしほたるてふすまのうらにて |
12 | 2.3.4 | 251 | 233 |
よろづに思ひたまへ乱るる世のありさまも、なほいかになり果つべきにか」 |
よろづにおもひたまへみだるるよのありさまも、なほいかになりはつべきにか。" |
12 | 2.3.5 | 252 | 234 |
と多かり。 |
とおほかり。 |
12 | 2.3.6 | 253 | 235 |
「伊勢島や潮干の潟に漁りても<BR/>いふかひなきは我が身なりけり」 |
"〔いせしまやしほひのかたにあさりても<BR/>いふかひなきはわがみなりけり〕 |
12 | 2.3.7 | 254 | 236 |
ものをあはれと思しけるままに、うち置きうち置き書きたまへる、白き唐の紙、四、五枚ばかりを巻き続けて、墨つきなど見所あり。 |
ものをあはれとおぼしけるままに、うちおきうちおきかきたまへる、しろきからのかみ、し、ごまいばかりをまきつづけて、すみつきなどみどころあり。 |
12 | 2.3.8 | 255 | 237 |
「あはれに思ひきこえし人を、ひとふし憂しと思ひきこえし心あやまりに、かの御息所も思ひ倦じて別れたまひにし」と思せば、今にいとほしうかたじけなきものに思ひきこえたまふ。折からの御文、いとあはれなれば、御使さへむつましうて、二、三日据ゑさせたまひて、かしこの物語などせさせて聞こしめす。 |
"あはれにおもひきこえしひとを、ひとふしうしとおもひきこえしこころあやまりに、かのみやすんどころもおもひうんじてわかれたまひにし。"とおぼせば、いまにいとほしうかたじけなきものにおもひきこえたまふ。をりからのおほんふみ、いとあはれなれば、おほんつかひさへむつましうて、ふつか、みかすゑさせたまひて、かしこのものがたりなどせさせてきこしめす。 |
12 | 2.3.9 | 256 | 238 |
若やかにけしきある侍の人なりけり。かくあはれなる御住まひなれば、かやうの人もおのづからもの遠からで、ほの見たてまつる御さま、容貌を、いみじうめでたし、と涙落しをりけり。御返り書きたまふ、言の葉、思ひやるべし。 |
わかやかにけしきあるさぶらひのひとなりけり。かくあはれなるおほんすまひなれば、かやうのひともおのづからものとほからで、ほのみたてまつるおほんさま、かたちを、いみじうめでたし、となみだおとしをりけり。おほんかへりかきたまふ、ことのは、おもひやるべし。 |
12 | 2.3.10 | 257 | 239 |
「かく世を離るべき身と、思ひたまへましかば、同じくは慕ひきこえましものを、などなむ。つれづれと、心細きままに、 |
"かくよをはなるべきみと、おもひたまへましかば、おなじくはしたひきこえましものを、などなん。つれづれと、こころぼそきままに、 |
12 | 2.3.11 | 258 | 240 |
伊勢人の波の上漕ぐ小舟にも<BR/>うきめは刈らで乗らましものを |
いせびとのなみのうへこぐをぶねにも<BR/>うきめはからでのらましものを |
12 | 2.3.12 | 259 | 241 |
海人がつむなげきのなかに塩垂れて<BR/>いつまで須磨の浦に眺めむ |
あまがつむなげきのなかにしほたれて<BR/>いつまですまのうらにながめん |
12 | 2.3.13 | 260 | 242 |
聞こえさせむことの、いつともはべらぬこそ、尽きせぬ心地しはべれ」 |
きこえさせんことの、いつともはべらぬこそ、つきせぬここちしはべれ。" |
12 | 2.3.14 | 261 | 243 |
などぞありける。かやうに、いづこにもおぼつかなからず聞こえかはしたまふ。 |
などぞありける。かやうに、いづこにもおぼつかなからずきこえかはしたまふ。 |
12 | 2.3.15 | 262 | 245 |
花散里も、悲しと思しけるままに書き集めたまへる御心々見たまふ、をかしきも目なれぬ心地して、いづれもうち見つつ慰めたまへど、もの思ひのもよほしぐさなめり。 |
はなちるさとも、かなしとおぼしけるままにかきあつめたまへるみこころごころみたまふ、をかしきもめなれぬここちして、いづれもうちみつつなぐさめたまへど、ものおもひのもよほしぐさなめり。 |
12 | 2.3.16 | 263 | 246 |
「荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ<BR/>しげくも露のかかる袖かな」 |
"〔あれまさるのきのしのぶをながめつつ<BR/>しげくもつゆのかかるそでかな〕 |
12 | 2.3.17 | 264 | 247 |
とあるを、「げに、葎よりほかの後見もなきさまにておはすらむ」と思しやりて、「長雨に築地所々崩れてなむ」と聞きたまへば、京の家司のもとに仰せつかはして、近き国々の御荘の者などもよほさせて、仕うまつるべき由のたまはす。 |
とあるを、"げに、むぐらよりほかのうしろみもなきさまにておはすらん。"とおぼしやりて、"ながあめについぢところどころくづれてなん。"とききたまへば、きゃうのけいしのもとにおほせつかはして、ちかきくにぐにのみさうのものなどもよほさせて、つかうまつるべきよしのたまはす。 |
12 | 2.4 | 265 | 248 | 第四段 朧月夜尚侍参内する |
12 | 2.4.1 | 266 | 249 |
尚侍の君は、人笑へにいみじう思しくづほるるを、大臣いとかなしうしたまふ君にて、せちに、宮にも内裏にも奏したまひければ、「限りある女御、御息所にもおはせず、公ざまの宮仕へ」と思し直り、また、「かの憎かりしゆゑこそ、いかめしきことも出で来しか」。許されたまひて、参りたまふべきにつけても、なほ心に染みにし方ぞ、あはれにおぼえたまける。 |
かんのきみは、ひとわらへにいみじうおぼしくづほるるを、おとどいとかなしうしたまふきみにて、せちに、みやにもうちにもそうしたまひければ、"かぎりあるにょうご、みやすんどころにもおはせず、おほやけざまのみやづかへ。"とおぼしなほり、また、"かのにくかりしゆゑこそ、いかめしきこともいでこしか"。ゆるされたまひて、まゐりたまふべきにつけても、なほこころにしみにしかたぞ、あはれにおぼえたまける。 |
12 | 2.4.2 | 267 | 250 |
七月になりて参りたまふ。いみじかりし御思ひの名残なれば、人のそしりもしろしめされず、例の、主上につとさぶらはせたまひて、よろづに怨み、かつはあはれに契らせたまふ。 |
ふづきになりてまゐりたまふ。いみじかりしおほんおもひのなごりなれば、ひとのそしりもしろしめされず、れいの、うへにつとさぶらはせたまひて、よろづにうらみ、かつはあはれにちぎらせたまふ。 |
12 | 2.4.3 | 268 | 251 |
御さま容貌もいとなまめかしうきよらなれど、思ひ出づることのみ多かる心のうちぞ、かたじけなき。御遊びのついでに、 |
おほんさまかたちもいとなまめかしうきよらなれど、おもひいづることのみおほかるこころのうちぞ、かたじけなき。おほんあそびのついでに、 |
12 | 2.4.4 | 269 | 252 |
「その人のなきこそ、いとさうざうしけれ。いかにましてさ思ふ人多からむ。何ごとも光なき心地するかな」とのたまはせて、「院の思しのたまはせし御心を違へつるかな。罪得らむかし」 |
"そのひとのなきこそ、いとさうざうしけれ。いかにましてさおもふひとおほからん。なにごともひかりなきここちするかな。"とのたまはせて、"ゐんのおぼしのたまはせしみこころをたがへつるかな。つみうらんかし。" |
12 | 2.4.5 | 270 | 253 |
とて、涙ぐませたまふに、え念じたまはず。 |
とて、なみだぐませたまふに、えねんじたまはず。 |
12 | 2.4.6 | 271 | 254 |
「世の中こそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、と思ひ知るままに、久しく世にあらむものとなむ、さらに思はぬ。さもなりなむに、いかが思さるべき。近きほどの別れに思ひ落とされむこそ、ねたけれ。生ける世にとは、げに、よからぬ人の言ひ置きけむ」 |
"よのなかこそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、とおもひしるままに、ひさしくよにあらんものとなん、さらにおもはぬ。さもなりなんに、いかがおぼさるべき。ちかきほどのわかれにおもひおとされんこそ、ねたけれ。いけるよにとは、げに、よからぬひとのいひおきけん。" |
12 | 2.4.7 | 272 | 255 |
と、いとなつかしき御さまにて、ものをまことにあはれと思し入りてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれ出づれば、 |
と、いとなつかしきおほんさまにて、ものをまことにあはれとおぼしいりてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれいづれば、 |
12 | 2.4.8 | 273 | 256 |
「さりや。いづれに落つるにか」 |
"さりや。いづれにおつるにか。" |
12 | 2.4.9 | 274 | 257 |
とのたまはす。 |
とのたまはす。 |
12 | 2.4.10 | 275 | 258 |
「今まで御子たちのなきこそ、さうざうしけれ。春宮を院ののたまはせしさまに思へど、よからぬことども出で来めれば、心苦しう」 |
"いままでみこたちのなきこそ、さうざうしけれ。とうぐうをゐんののたまはせしさまにおもへど、よからぬことどもいでくめれば、こころぐるしう。" |
12 | 2.4.11 | 276 | 259 |
など、世を御心のほかにまつりごちなしたまふ人びとのあるに、若き御心の、強きところなきほどにて、いとほしと思したることも多かり。 |
など、よをみこころのほかにまつりごちなしたまふひとびとのあるに、わかきみこころの、つよきところなきほどにて、いとほしとおぼしたることもおほかり。 |
12 | 3 | 277 | 260 | 第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語 |
12 | 3.1 | 278 | 261 | 第一段 須磨の秋 |
12 | 3.1.1 | 279 | 262 |
須磨には、いとど心尽くしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々はげにいと近く聞こえて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。 |
すまには、いとどこころづくしのあきかぜに、うみはすこしとほけれど、ゆきひらのちゅうなごんの、"せきふきこゆる"といひけんうらなみ、よるよるはげにいとちかくきこえて、またなくあはれなるものは、かかるところのあきなりけり。 |
12 | 3.1.2 | 280 | 263 |
御前にいと人少なにて、うち休みわたれるに、一人目を覚まして、枕をそばだてて四方の嵐を聞きたまふに、波ただここもとに立ちくる心地して、涙落つともおぼえぬに、枕浮くばかりになりにけり。琴をすこしかき鳴らしたまへるが、我ながらいとすごう聞こゆれば、弾きさしたまひて、 |
おまへにいとひとずくなにて、うちやすみわたれるに、ひとりめをさまして、まくらをそばだててよものあらしをききたまふに、なみただここもとにたちくるここちして、なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。きんをすこしかきならしたまへるが、われながらいとすごうきこゆれば、ひきさしたまひて、 |
12 | 3.1.3 | 281 | 264 |
「恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は<BR/>思ふ方より風や吹くらむ」 |
"〔こひわびてなくねにまがふうらなみは<BR/>おもふかたよりかぜやふくらん〕 |
12 | 3.1.4 | 282 | 265 |
と歌ひたまへるに、人びとおどろきて、めでたうおぼゆるに、忍ばれで、あいなう起きゐつつ、鼻を忍びやかにかみわたす。 |
とうたひたまへるに、ひとびとおどろきて、めでたうおぼゆるに、しのばれで、あいなうおきゐつつ、はなをしのびやかにかみわたす。 |
12 | 3.1.5 | 283 | 266 |
「げに、いかに思ふらむ。我が身ひとつにより、親、兄弟、片時立ち離れがたく、ほどにつけつつ思ふらむ家を別れて、かく惑ひあへる」と思すに、いみじくて、「いとかく思ひ沈むさまを、心細しと思ふらむ」と思せば、昼は何くれとうちのたまひ紛らはし、つれづれなるままに、色々の紙を継ぎつつ、手習ひをしたまひ、めづらしきさまなる唐の綾などに、さまざまの絵どもを描きすさびたまへる屏風の面どもなど、いとめでたく見所あり。 |
"げに、いかにおもふらん。わがみひとつにより、おや、はらから、かたときたちはなれがたく、ほどにつけつつおもふらんいへをわかれて、かくまどひあへる。"とおぼすに、いみじくて、"いとかくおもひしづむさまを、こころぼそしとおもふらん。"とおぼせば、ひるはなにくれとうちのたまひまぎらはし、つれづれなるままに、いろいろのかみをつぎつつ、てならひをしたまひ、めづらしきさまなるからのあやなどに、さまざまのゑどもをかきすさびたまへるびゃうぶのおもてどもなど、いとめでたくみどころあり。 |
12 | 3.1.6 | 284 | 267 |
人びとの語り聞こえし海山のありさまを、遥かに思しやりしを、御目に近くては、げに及ばぬ磯のたたずまひ、二なく描き集めたまへり。 |
ひとびとのかたりきこえしうみやまのありさまを、はるかにおぼしやりしを、おほんめにちかくては、げにおよばぬいそのたたずまひ、になくかきあつめたまへり。 |
12 | 3.1.7 | 285 | 268 |
「このころの上手にすめる千枝、常則などを召して、作り絵仕うまつらせばや」 |
"このころのじゃうずにすめるちえだ、つねのりなどをめして、つくりゑつかうまつらせばや。" |
12 | 3.1.8 | 286 | 269 |
と、心もとながりあへり。なつかしうめでたき御さまに、世のもの思ひ忘れて、近う馴れ仕うまつるをうれしきことにて、四、五人ばかりぞ、つとさぶらひける。 |
と、こころもとながりあへり。なつかしうめでたきおほんさまに、よのものおもひわすれて、ちかうなれつかうまつるをうれしきことにて、し、ごにんばかりぞ、つとさぶらひける。 |
12 | 3.1.9 | 287 | 271 |
前栽の花、色々咲き乱れ、おもしろき夕暮れに、海見やらるる廊に出でたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、所からは、ましてこの世のものと見えたまはず。白き綾のなよよかなる、紫苑色などたてまつりて、こまやかなる御直衣、帯しどけなくうち乱れたまへる御さまにて、 |
せんさいのはな、いろいろさきみだれ、おもしろきゆふぐれに、うみみやらるるらうにいでたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、ところからは、ましてこのよのものとみえたまはず。しろきあやのなよよかなる、しをんいろなどたてまつりて、こまやかなるおほんなほし、おびしどけなくうちみだれたまへるおほんさまにて、 |
12 | 3.1.10 | 288 | 272 |
「釈迦牟尼仏の弟子」 |
"さかむにぶつのでし。" |
12 | 3.1.11 | 289 | 273 |
と名のりて、ゆるるかに読みたまへる、また世に知らず聞こゆ。 |
となのりて、ゆるるかによみたまへる、またよにしらずきこゆ。 |
12 | 3.1.12 | 290 | 274 |
沖より舟どもの歌ひののしりて漕ぎ行くなども聞こゆ。ほのかに、ただ小さき鳥の浮かべると見やらるるも、心細げなるに、雁の連ねて鳴く声、楫の音にまがへるを、うち眺めたまひて、涙こぼるるをかき払ひたまへる御手つき、黒き御数珠に映えたまへる、故郷の女恋しき人びと、心みな慰みにけり。 |
おきよりふねどものうたひののしりてこぎゆくなどもきこゆ。ほのかに、ただちひさきとりのうかべるとみやらるるも、こころぼそげなるに、かりのつらねてなくこゑ、かぢのおとにまがへるを、うちながめたまひて、なみだこぼるるをかきはらひたまへるおほんてつき、くろきおほんずずにはえたまへる、ふるさとのをんなこひしきひとびと、こころみななぐさみにけり。 |
12 | 3.1.13 | 291 | 275 |
「初雁は恋しき人の列なれや<BR/>旅の空飛ぶ声の悲しき」 |
"〔はつかりはこひしきひとのつらなれや<BR/>たびのそらとぶこゑのかなしき〕 |
12 | 3.1.14 | 292 | 276 |
とのたまへば、良清、 |
とのたまへば、よしきよ、 |
12 | 3.1.15 | 293 | 277 |
「かきつらね昔のことぞ思ほゆる<BR/>雁はその世の友ならねども」 |
"〔かきつらねむかしのことぞおもほゆる<BR/>かりはそのよのともならねども〕 |
12 | 3.1.16 | 294 | 278 |
民部大輔、 |
みんぶのたいふ、 |
12 | 3.1.17 | 295 | 279 |
「心から常世を捨てて鳴く雁を<BR/>雲のよそにも思ひけるかな」 |
"〔こころからとこよをすててなくかりを<BR/>くものよそにもおもひけるかな〕 |
12 | 3.1.18 | 296 | 280 |
前右近将督、 |
さきのうこんのじょう、 |
12 | 3.1.19 | 297 | 281 |
「常世出でて旅の空なる雁がねも<BR/>列に遅れぬほどぞ慰む |
"〔とこよいでてたびのそらなるかりがねも<BR/>つらにおくれぬほどぞなぐさむ |
12 | 3.1.20 | 298 | 282 |
友まどはしては、いかにはべらまし」 |
ともまどはしては、いかにはべらまし。" |
12 | 3.1.21 | 299 | 283 |
と言ふ。親の常陸になりて、下りしにも誘はれで、参れるなりけり。下には思ひくだくべかめれど、ほこりかにもてなして、つれなきさまにしありく。 |
といふ。おやのひたちになりて、くだりしにもさそはれで、まゐれるなりけり。したにはおもひくだくべかめれど、ほこりかにもてなして、つれなきさまにしありく。 |
12 | 3.2 | 300 | 284 | 第二段 配所の月を眺める |
12 | 3.2.1 | 301 | 285 |
月のいとはなやかにさし出でたるに、「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊び恋しく、「所々眺めたまふらむかし」と思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。 |
つきのいとはなやかにさしいでたるに、"こよひはじふごやなりけり。"とおぼしいでて、てんじゃうのおほんあそびこひしく、"ところどころながめたまふらんかし。"とおもひやりたまふにつけても、つきのかほのみまもられたまふ。 |
12 | 3.2.2 | 302 | 286 |
「二千里外故人心」 |
"じせんりのほかこじんのこころ。" |
12 | 3.2.3 | 303 | 287 |
と誦じたまへる、例の涙もとどめられず。入道の宮の、「霧や隔つる」とのたまはせしほど、言はむ方なく恋しく、折々のこと思ひ出でたまふに、よよと、泣かれたまふ。 |
とずじたまへる、れいのなみだもとどめられず。にふだうのみやの、"きりやへだつる"とのたまはせしほど、いはんかたなくこひしく、をりをりのことおもひいでたまふに、よよと、なかれたまふ。 |
12 | 3.2.4 | 304 | 288 |
「夜更けはべりぬ」 |
"よふけはべりぬ。" |
12 | 3.2.5 | 305 | 289 |
と聞こゆれど、なほ入りたまはず。 |
ときこゆれど、なほいりたまはず。 |
12 | 3.2.6 | 306 | 290 |
「見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ<BR/>月の都は遥かなれども」 |
"〔みるほどぞしばしなぐさめんめぐりあはん<BR/>つきのみやこははるかなれども〕 |
12 | 3.2.7 | 307 | 291 |
その夜、主上のいとなつかしう昔物語などしたまひし御さまの、院に似たてまつりたまへりしも、恋しく思ひ出できこえたまひて、 |
そのよ、うへのいとなつかしうむかしものがたりなどしたまひしおほんさまの、ゐんににたてまつりたまへりしも、こひしくおもひいできこえたまひて、 |
12 | 3.2.8 | 308 | 292 |
「恩賜の御衣は今此に在り」 |
"おんしのぎょいはいまここにあり。" |
12 | 3.2.9 | 309 | 293 |
と誦じつつ入りたまひぬ。御衣はまことに身を放たず、かたはらに置きたまへり。 |
とずじつついりたまひぬ。おほんぞはまことにみをはなたず、かたはらにおきたまへり。 |
12 | 3.2.10 | 310 | 294 |
「憂しとのみひとへにものは思ほえで<BR/>左右にも濡るる袖かな」 |
"〔うしとのみひとへにものはおもほえで<BR/>ひだりみぎにもぬるるそでかな〕 |
12 | 3.3 | 311 | 295 | 第三段 筑紫五節と和歌贈答 |
12 | 3.3.1 | 312 | 296 |
そのころ、大弐は上りける。いかめしく類広く、娘がちにて所狭かりければ、北の方は舟にて上る。浦づたひに逍遥しつつ来るに、他よりもおもしろきわたりなれば、心とまるに、「大将かくておはす」と聞けば、あいなう、好いたる若き娘たちは、舟の内さへ恥づかしう、心懸想せらる。まして、五節の君は、綱手引き過ぐるも口惜しきに、琴の声、風につきて遥かに聞こゆるに、所のさま、人の御ほど、物の音の心細さ、取り集め、心ある限りみな泣きにけり。 |
そのころ、だいにはのぼりける。いかめしくるいひろく、むすめがちにてところせかりければ、きたのかたはふねにてのぼる。うらづたひにせうえうしつつくるに、ほかよりもおもしろきわたりなれば、こころとまるに、"だいしゃうかくておはす。"ときけば、あいなう、すいたるわかきむすめたちは、ふねのうちさへはづかしう、こころげさうせらる。まして、ごせちのきみは、つなでひきすぐるもくちをしきに、きんのこゑ、かぜにつきてはるかにきこゆるに、ところのさま、ひとのおほんほど、もののねのこころぼそさ、とりあつめ、こころあるかぎりみななきにけり。 |
12 | 3.3.2 | 313 | 297 |
帥、御消息聞こえたり。 |
そち、おほんせうそこきこえたり。 |
12 | 3.3.3 | 314 | 298 |
「いと遥かなるほどよりまかり上りては、まづいつしかさぶらひて、都の御物語もとこそ、思ひたまへはべりつれ、思ひの外に、かくておはしましける御宿をまかり過ぎはべる、かたじけなう悲しうもはべるかな。あひ知りてはべる人びと、さるべきこれかれ、参で来向ひてあまたはべれば、所狭さを思ひたまへ憚りはべることどもはべりて、えさぶらはぬこと。ことさらに参りはべらむ」 |
"いとはるかなるほどよりまかりのぼりては、まづいつしかさぶらひて、みやこのおほんものがたりもとこそ、おもひたまへはべりつれ、おもひのほかに、かくておはしましけるおほんやどをまかりすぎはべる、かたじけなうかなしうもはべるかな。あひしりてはべるひとびと、さるべきこれかれ、まできむかひてあまたはべれば、ところせさをおもひたまへはばかりはべることどもはべりて、えさぶらはぬこと。ことさらにまゐりはべらん。" |
12 | 3.3.4 | 315 | 299 |
など聞こえたり。子の筑前守ぞ参れる。この殿の、蔵人になし顧みたまひし人なれば、いとも悲し、いみじと思へども、また見る人びとのあれば、聞こえを思ひて、しばしもえ立ち止まらず。 |
などきこえたり。このちくぜんのかみぞまゐれる。このとのの、くらうどになしかへりみたまひしひとなれば、いともかなし。いみじとおもへども、またみるひとびとのあれば、きこえをおもひて、しばしもえたちとまらず。 |
12 | 3.3.5 | 316 | 300 |
「都離れて後、昔親しかりし人びと、あひ見ること難うのみなりにたるに、かくわざと立ち寄りものしたること」 |
"みやこはなれてのち、むかししたしかりしひとびと、あひみることかたうのみなりにたるに、かくわざとたちよりものしたること。" |
12 | 3.3.6 | 317 | 301 |
とのたまふ。御返りもさやうになむ。 |
とのたまふ。おほんかへりもさやうになん。 |
12 | 3.3.7 | 318 | 302 |
守、泣く泣く帰りて、おはする御ありさま語る。帥よりはじめ、迎への人びと、まがまがしう泣き満ちたり。五節は、とかくして聞こえたり。 |
かみ、なくなくかへりて、おはするおほんありさまかたる。そちよりはじめ、むかへのひとびと、まがまがしうなきみちたり。ごせちは、とかくしてきこえたり。 |
12 | 3.3.8 | 319 | 303 |
「琴の音に弾きとめらるる綱手縄<BR/>たゆたふ心君知るらめや |
"〔ことのねにひきとめらるるつなでなは<BR/>たゆたふこころきみしるらめや |
12 | 3.3.9 | 320 | 304 |
好き好きしさも、人な咎めそ」 |
すきずきしさも、ひとなとがめそ。" |
12 | 3.3.10 | 321 | 305 |
と聞こえたり。ほほ笑みて見たまふ、いと恥づかしげなり。 |
ときこえたり。ほほゑみてみたまふ、いとはづかしげなり。 |
12 | 3.3.11 | 322 | 306 |
「心ありて引き手の綱のたゆたはば<BR/>うち過ぎましや須磨の浦波 |
"〔こころありてひきてのつなのたゆたはば<BR/>うちすぎましやすまのうらなみ |
12 | 3.3.12 | 323 | 307 |
いさりせむとは思はざりしはや」 |
いさりせんとはおもはざりしはや。" |
12 | 3.3.13 | 324 | 308 |
とあり。駅の長に句詩取らする人もありけるを、まして、落ちとまりぬべくなむおぼえける。 |
とあり。むまやのをさにくしとらするひともありけるを、まして、おちとまりぬべくなんおぼえける。 |
12 | 3.4 | 325 | 309 | 第四段 都の人々の生活 |
12 | 3.4.1 | 326 | 310 |
都には、月日過ぐるままに、帝を初めたてまつりて、恋ひきこゆる折ふし多かり。春宮は、まして、常に思し出でつつ忍びて泣きたまふ。見たてまつる御乳母、まして命婦の君は、いみじうあはれに見たてまつる。 |
みやこには、つきひすぐるままに、みかどをはじめたてまつりて、こひきこゆるをりふしおほかり。とうぐうは、まして、つねにおぼしいでつつしのびてなきたまふ。みたてまつるおほんめのと、ましてみゃうぶのきみは、いみじうあはれにみたてまつる。 |
12 | 3.4.2 | 327 | 311 |
入道の宮は、春宮の御ことをゆゆしうのみ思ししに、大将もかくさすらへたまひぬるを、いみじう思し嘆かる。 |
にふだうのみやは、とうぐうのおほんことをゆゆしうのみおぼししに、だいしゃうもかくさすらへたまひぬるを、いみじうおぼしなげかる。 |
12 | 3.4.3 | 328 | 312 |
御兄弟の親王たち、むつましう聞こえたまひし上達部など、初めつ方はとぶらひきこえたまふなどありき。あはれなる文を作り交はし、それにつけても、世の中にのみめでられたまへば、后の宮聞こしめして、いみじうのたまひけり。 |
おほんはらからのみこたち、むつましうきこえたまひしかんだちめなど、はじめつかたはとぶらひきこえたまふなどありき。あはれなるふみをつくりかはし、それにつけても、よのなかにのみめでられたまへば、きさいのみやきこしめして、いみじうのたまひけり。 |
12 | 3.4.4 | 329 | 313 |
「朝廷の勘事なる人は、心に任せてこの世のあぢはひをだに知ること難うこそあなれ。おもしろき家居して、世の中を誹りもどきて、かの鹿を馬と言ひけむ人のひがめるやうに追従する」 |
"おほやけのかうじなるひとは、こころにまかせてこのよのあぢはひをだにしることかたうこそあなれ。おもしろきいへゐして、よのなかをそしりもどきて、かのしかをむまといひけんひとのひがめるやうについしょうする。" |
12 | 3.4.5 | 330 | 314 |
など、悪しきことども聞こえければ、わづらはしとて、消息聞こえたまふ人なし。 |
など、あしきことどもきこえければ、わづらはしとて、せうそこきこえたまふひとなし。 |
12 | 3.4.6 | 331 | 315 |
二条院の姫君は、ほど経るままに、思し慰む折なし。東の対にさぶらひし人びとも、みな渡り参りし初めは、「などかさしもあらむ」と思ひしかど、見たてまつり馴るるままに、なつかしうをかしき御ありさま、まめやかなる御心ばへも、思ひやり深うあはれなれば、まかで散るもなし。なべてならぬ際の人びとには、ほの見えなどしたまふ。「そこらのなかにすぐれたる御心ざしもことわりなりけり」と見たてまつる。 |
にでうのゐんのひめぎみは、ほどふるままに、おぼしなぐさむをりなし。ひんがしのたいにさぶらひしひとびとも、みなわたりまゐりしはじめは、"などかさしもあらん。"とおもひしかど、みたてまつりなるるままに、なつかしうをかしきおほんありさま、まめやかなるみこころばへも、おもひやりふかうあはれなれば、まかでちるもなし。なべてならぬきはのひとびとには、ほのみえなどしたまふ。"そこらのなかにすぐれたるみこころざしもことわりなりけり。"とみたてまつる。 |
12 | 3.5 | 332 | 316 | 第五段 須磨の生活 |
12 | 3.5.1 | 333 | 317 |
かの御住まひには、久しくなるままに、え念じ過ぐすまじうおぼえたまへど、「我が身だにあさましき宿世とおぼゆる住まひに、いかでかは、うち具しては、つきなからむ」さまを思ひ返したまふ。所につけて、よろづのことさま変はり、見たまへ知らぬ下人のうへをも、見たまひ慣らはぬ御心地に、めざましうかたじけなう、みづから思さる。煙のいと近く時々立ち来るを、「これや海人の塩焼くならむ」と思しわたるは、おはします後の山に、柴といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、 |
かのおほんすまひには、ひさしくなるままに、えねんじすぐすまじうおぼえたまへど、"わがみだにあさましきすくせとおぼゆるすまひに、いかでかは、うちぐしては、つきなからん"さまをおもひかへしたまふ。ところにつけて、よろづのことさまかはり、みたまへしらぬしもびとのうへをも、みたまひならはぬみここちに、めざましうかたじけなう、みづからおぼさる。けぶりのいとちかくときどきたちくるを、"これやあまのしほやくならん。"とおぼしわたるは、おはしますうしろのやまに、しばといふものふすぶるなりけり。めづらかにて、 |
12 | 3.5.2 | 334 | 318 |
「山賤の庵に焚けるしばしばも<BR/>言問ひ来なむ恋ふる里人」 |
"〔やまがつのいほりにたけるしばしばも<BR/>こととひこなんこふるさとびと〕" |
12 | 3.5.3 | 335 | 319 |
冬になりて雪降り荒れたるころ、空のけしきもことにすごく眺めたまひて、琴を弾きすさびたまひて、良清に歌うたはせ、大輔、横笛吹きて、遊びたまふ。心とどめてあはれなる手など弾きたまへるに、他物の声どもはやめて、涙をのごひあへり。 |
ふゆになりてゆきふりあれたるころ、そらのけしきもことにすごくながめたまひて、きんをひきすさびたまひて、よしきよにうたうたはせ、たいふ、よこぶえふきて、あそびたまふ。こころとどめてあはれなるてなどひきたまへるに、こともののこゑどもはやめて、なみだをのごひあへり。 |
12 | 3.5.4 | 336 | 320 |
昔、胡の国に遣しけむ女を思しやりて、「ましていかなりけむ。この世に我が思ひきこゆる人などをさやうに放ちやりたらむこと」など思ふも、あらむことのやうにゆゆしうて、 |
むかし、このくににつかはしけんをんなをおぼしやりて、"ましていかなりけん。このよにわがおもひきこゆるひとなどをさやうにはなちやりたらんこと。"などおもふも、あらんことのやうにゆゆしうて、 |
12 | 3.5.5 | 337 | 321 |
「霜の後の夢」 |
"しもののちのゆめ" |
12 | 3.5.6 | 338 | 322 |
と誦じたまふ。 |
とずじたまふ。 |
12 | 3.5.7 | 339 | 324 |
月いと明うさし入りて、はかなき旅の御座所、奥まで隈なし。床の上に夜深き空も見ゆ。入り方の月影、すごく見ゆるに、 |
つきいとあかうさしいりて、はかなきたびのおましどころ、おくまでくまなし。ゆかのうへによぶかきそらもみゆ。いりがたのつきかげ、すごくみゆるに、 |
12 | 3.5.8 | 340 | 325 |
「ただ是れ西に行くなり」 |
"ただこれにしにゆくなり" |
12 | 3.5.9 | 341 | 326 |
と、ひとりごちたまて、 |
と、ひとりごちたまて、 |
12 | 3.5.10 | 342 | 327 |
「いづ方の雲路に我も迷ひなむ<BR/>月の見るらむことも恥づかし」 |
"〔いづかたのくもぢにわれもまよひなん<BR/>つきのみるらんこともはづかし〕 |
12 | 3.5.11 | 343 | 328 |
とひとりごちたまひて、例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く。 |
とひとりごちたまひて、れいのまどろまれぬあかつきのそらに、ちどりいとあはれになく。 |
12 | 3.5.12 | 344 | 329 |
「友千鳥諸声に鳴く暁は<BR/>ひとり寝覚の床も頼もし」 |
"〔ともちどりもろごゑになくあかつきは<BR/>ひとりねざめのとこもたのもし〕 |
12 | 3.5.13 | 345 | 330 |
また起きたる人もなければ、返す返すひとりごちて臥したまへり。 |
またおきたるひともなければ、かへすがへすひとりごちてふしたまへり。 |
12 | 3.5.14 | 346 | 331 |
夜深く御手水参り、御念誦などしたまふも、めづらしきことのやうに、めでたうのみおぼえたまへば、え見たてまつり捨てず、家にあからさまにもえ出でざりけり。 |
よぶかくみてうづまゐり、おほんねんずなどしたまふも、めづらしきことのやうに、めでたうのみおぼえたまへば、えみたてまつりすてず、いへにあからさまにもえいでざりけり。 |
12 | 3.6 | 347 | 332 | 第六段 明石入道の娘 |
12 | 3.6.1 | 348 | 333 |
明石の浦は、ただはひ渡るほどなれば、良清の朝臣、かの入道の娘を思ひ出でて、文など遣りけれど、返り事もせず、父入道ぞ、 |
あかしのうらは、ただはひわたるほどなれば、よしきよのあそん、かのにふだうのむすめをおもひいでて、ふみなどやりけれど、かへりこともせず、ちちにふだうぞ、 |
12 | 3.6.2 | 349 | 334 |
「聞こゆべきことなむ。あからさまに対面もがな」 |
"きこゆべきことなん。あからさまにたいめんもがな。" |
12 | 3.6.3 | 350 | 335 |
と言ひけれど、「うけひかざらむものゆゑ、行きかかりて、むなしく帰らむ後手もをこなるべし」と、屈じいたうて行かず。 |
といひけれど、"うけひかざらんものゆゑ、ゆきかかりて、むなしくかへらんうしろでもをこなるべし。"と、くんじいたうていかず。 |
12 | 3.6.4 | 351 | 336 |
世に知らず心高く思へるに、国の内は守のゆかりのみこそはかしこきことにすめれど、ひがめる心はさらにさも思はで年月を経けるに、この君かくておはすと聞きて、母君に語らふやう、 |
よにしらずこころたかくおもへるに、くにのうちはかみのゆかりのみこそはかしこきことにすめれど、ひがめるこころはさらにさもおもはでとしつきをへけるに、このきみかくておはすとききて、ははぎみにかたらふやう、 |
12 | 3.6.5 | 352 | 337 |
「桐壺の更衣の御腹の、源氏の光る君こそ、朝廷の御かしこまりにて、須磨の浦にものしたまふなれ。吾子の御宿世にて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるついでに、この君にをたてまつらむ」 |
"きりつぼのかういのおほんはらの、げんじのひかるきみこそ、おほやけのおほんかしこまりにて、すまのうらにものしたまふなれ。あこのおほんすくせにて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるついでに、このきみにをたてまつらん。" |
12 | 3.6.6 | 353 | 338 |
と言ふ。母、 |
といふ。はは、 |
12 | 3.6.7 | 354 | 339 |
「あな、かたはや。京の人の語るを聞けば、やむごとなき御妻ども、いと多く持ちたまひて、そのあまり、忍び忍び帝の御妻さへあやまちたまひて、かくも騒がれたまふなる人は、まさにかくあやしき山賤を、心とどめたまひてむや」 |
"あな、かたはや。きゃうのひとのかたるをきけば、やんごとなきみめども、いとおほくもちたまひて、そのあまり、しのびしのびみかどのみめさへあやまちたまひて、かくもさわがれたまふなるひとは、まさにかくあやしきやまがつを、こころとどめたまひてんや。" |
12 | 3.6.8 | 355 | 340 |
と言ふ。腹立ちて、 |
といふ。はらだちて、 |
12 | 3.6.9 | 356 | 341 |
「え知りたまはじ。思ふ心ことなり。さる心をしたまへ。ついでして、ここにもおはしまさせむ」 |
"えしりたまはじ。おもふこころことなり。さるこころをしたまへ。ついでして、ここにもおはしまさせん。" |
12 | 3.6.10 | 357 | 342 |
と、心をやりて言ふもかたくなしく見ゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。母君、 |
と、こころをやりていふもかたくなしくみゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。ははぎみ、 |
12 | 3.6.11 | 358 | 343 |
「などか、めでたくとも、ものの初めに、罪に当たりて流されておはしたらむ人をしも思ひかけむ。さても心をとどめたまふべくはこそあらめ、たはぶれにてもあるまじきことなり」 |
"などか、めでたくとも、もののはじめに、つみにあたりてながされておはしたらんひとをしもおもひかけん。さてもこころをとどめたまふべくはこそあらめ、たはぶれにてもあるまじきことなり。" |
12 | 3.6.12 | 359 | 344 |
と言ふを、いといたくつぶやく。 |
といふを、いといたくつぶやく。 |
12 | 3.6.13 | 360 | 345 |
「罪に当たることは、唐土にも我が朝廷にも、かく世にすぐれ、何ごとも人にことになりぬる人の、かならずあることなり。いかにものしたまふ君ぞ。故母御息所は、おのが叔父にものしたまひし按察使大納言の娘なり。いとかうざくなる名をとりて、宮仕へに出だしたまへりしに、国王すぐれて時めかしたまふこと、並びなかりけるほどに、人の嫉み重くて亡せたまひにしかど、この君のとまりたまへる、いとめでたしかし。女は心高くつかふべきものなり。おのれ、かかる田舎人なりとて、思し捨てじ」 |
"つみにあたることは、もろこしにもわがみかどにも、かくよにすぐれ、なにごともひとにことになりぬるひとの、かならずあることなり。いかにものしたまふきみぞ。こははみやすんどころは、おのがをぢにものしたまひしあぜちのだいなごんのむすめなり。いとかうざくなるなをとりて、みやづかへにいだしたまへりしに、こくわうすぐれてときめかしたまふこと、ならびなかりけるほどに、ひとのそねみおもくてうせたまひにしかど、このきみのとまりたまへる、いとめでたしかし。をんなはこころたかくつかふべきものなり。おのれ、かかるゐなかびとなりとて、おぼしすてじ。" |
12 | 3.6.14 | 361 | 346 |
など言ひゐたり。 |
などいひゐたり。 |
12 | 3.6.15 | 362 | 347 |
この娘、すぐれたる容貌ならねど、なつかしうあてはかに、心ばせあるさまなどぞ、げに、やむごとなき人に劣るまじかりける。身のありさまを、口惜しきものに思ひ知りて、 |
このむすめ、すぐれたるかたちならねど、なつかしうあてはかに、こころばせあるさまなどぞ、げに、やんごとなきひとにおとるまじかりける。みのありさまを、くちをしきものにおもひしりて、 |
12 | 3.6.16 | 363 | 348 |
「高き人は、我を何の数にも思さじ。ほどにつけたる世をばさらに見じ。命長くて、思ふ人びとに後れなば、尼にもなりなむ、海の底にも入りなむ」 |
"たかきひとは、われをなにのかずにもおぼさじ。ほどにつけたるよをばさらにみじ。いのちながくて、おもふひとびとにおくれなば、あまにもなりなん、うみのそこにもいりなん。" |
12 | 3.6.17 | 364 | 349 |
などぞ思ひける。 |
などぞおもひける。 |
12 | 3.6.18 | 365 | 350 |
父君、所狭く思ひかしづきて、年に二たび、住吉に詣でさせけり。神の御しるしをぞ、人知れず頼み思ひける。 |
ちちぎみ、ところせくおもひかしづきて、としにふたたび、すみよしにまうでさせけり。かみのおほんしるしをぞ、ひとしれずたのみおもひける。 |
12 | 4 | 366 | 351 | 第四章 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語 |
12 | 4.1 | 367 | 352 | 第一段 須磨で新年を迎える |
12 | 4.1.1 | 368 | 353 |
須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに、植ゑし若木の桜ほのかに咲き初めて、空のけしきうららかなるに、よろづのこと思し出でられて、うち泣きたまふ折多かり。 |
すまには、としかへりて、ひながくつれづれなるに、うゑしわかぎのさくらほのかにさきそめて、そらのけしきうららかなるに、よろづのことおぼしいでられて、うちなきたまふをりおほかり。 |
12 | 4.1.2 | 369 | 354 |
二月二十日あまり、去にし年、京を別れし時、心苦しかりし人びとの御ありさまなど、いと恋しく、「南殿の桜、盛りになりぬらむ。一年の花の宴に、院の御けしき、内裏の主上のいときよらになまめいて、わが作れる句を誦じたまひし」も、思ひ出できこえたまふ。 |
きさらぎのはつかあまり、いにしとし、きゃうをわかれしとき、こころぐるしかりしひとびとのおほんありさまなど、いとこひしく、"なでんのさくら、さかりになりぬらん。ひととせのはなのえんに、ゐんのみけしき、うちのうへのいときよらになまめいて、わがつくれるくをずじたまひし"も、おもひいできこえたまふ。 |
12 | 4.1.3 | 370 | 355 |
「いつとなく大宮人の恋しきに<BR/>桜かざしし今日も来にけり」 |
"〔いつとなくおほみやびとのこひしきに<BR/>さくらかざししけふもきにけり〕 |
12 | 4.1.4 | 371 | 356 |
いとつれづれなるに、大殿の三位中将は、今は宰相になりて、人柄のいとよければ、時世のおぼえ重くてものしたまへど、世の中あはれにあぢきなく、ものの折ごとに恋しくおぼえたまへば、「ことの聞こえありて罪に当たるともいかがはせむ」と思しなして、にはかに参うでたまふ。 |
いとつれづれなるに、おほいどののさんゐのちゅうじゃうは、いまはさいしゃうになりて、ひとがらのいとよければ、ときよのおぼえおもくてものしたまへど、よのなかあはれにあぢきなく、もののをりごとにこひしくおぼえたまへば、"ことのきこえありてつみにあたるともいかがはせん。"とおぼしなして、にはかにまうでたまふ。 |
12 | 4.1.5 | 372 | 357 |
うち見るより、めづらしううれしきにも、ひとつ涙ぞこぼれける。 |
うちみるより、めづらしううれしきにも、ひとつなみだぞこぼれける。 |
12 | 4.1.6 | 373 | 358 |
住まひたまへるさま、言はむかたなく唐めいたり。所のさま、絵に描きたらむやうなるに、竹編める垣しわたして、石の階、松の柱、おろそかなるものから、めづらかにをかし。 |
すまひたまへるさま、いはんかたなくからめいたり。ところのさま、ゑにかきたらんやうなるに、たけあめるかきしわたして、いしのはし、まつのはしら、おろそかなるものから、めづらかにをかし。 |
12 | 4.1.7 | 374 | 359 |
山賤めきて、ゆるし色の黄がちなるに、青鈍の狩衣、指貫、うちやつれて、ことさらに田舎びもてなしたまへるしも、いみじう、見るに笑まれてきよらなり。 |
やまがつめきて、ゆるしいろのきがちなるに、あをにびのかりぎぬ、さしぬき、うちやつれて、ことさらにいなかびもてなしたまへるしも、いみじう、みるにゑまれてきよらなり。 |
12 | 4.1.8 | 375 | 360 |
取り使ひたまへる調度も、かりそめにしなして、御座所もあらはに見入れらる。碁、双六盤、調度、弾棊の具など、田舎わざにしなして、念誦の具、行なひ勤めたまひけりと見えたり。もの参れるなど、ことさら所につけ、興ありてしなしたり。 |
とりつかひたまへるてうども、かりそめにしなして、おましどころもあらはにみいれらる。ご、すぐろくばん、てうど、たぎのぐなど、ゐなかわざにしなして、ねんずのぐ、おこなひつとめたまひけりとみえたり。ものまゐれるなど、ことさらところにつけ、きょうありてしなしたり。 |
12 | 4.1.9 | 376 | 362 |
海人ども漁りして、貝つ物持て参れるを、召し出でて御覧ず。浦に年経るさまなど問はせたまふに、さまざま安げなき身の愁へを申す。そこはかとなくさへづるも、「心の行方は同じこと。何か異なる」と、あはれに見たまふ。御衣どもなどかづけさせたまふを、生けるかひありと思へり。御馬ども近う立てて、見やりなる倉か何ぞなる稲取り出でて飼ふなど、めづらしう見たまふ。 |
あまどもあさりして、かひつものもてまゐれるを、めしいでてごらんず。うらにとしふるさまなどとはせたまふに、さまざまやすげなきみのうれへをまうす。そこはかとなくさへづるも、"こころのゆくへはおなじこと。なにかことなる。"と、あはれにみたまふ。おほんぞどもなどかづけさせたまふを、いけるかひありとおもへり。おほんむまどもちかうたてて、みやりなるくらかなにぞなるいねとりいでてかふなど、めづらしうみたまふ。 |
12 | 4.1.10 | 377 | 363 |
「飛鳥井」すこし歌ひて、月ごろの御物語、泣きみ笑ひみ、 |
〔あすかゐ〕すこしうたひて、つきごろのおほんものがたり、なきみわらひみ、 |
12 | 4.1.11 | 378 | 364 |
「若君の何とも世を思さでものしたまふ悲しさを、大臣の明け暮れにつけて思し嘆く」 |
"わかぎみのなにともよをおぼさでものしたまふかなしさを、おとどのあけくれにつけておぼしなげく。" |
12 | 4.1.12 | 379 | 365 |
など語りたまふに、堪へがたく思したり。尽きすべくもあらねば、なかなか片端もえまねばず。 |
などかたりたまふに、たへがたくおぼしたり。つきすべくもあらねば、なかなかかたはしもえまねばず。 |
12 | 4.1.13 | 380 | 366 |
夜もすがらまどろまず、文作り明かしたまふ。さ言ひながらも、ものの聞こえをつつみて、急ぎ帰りたまふ。いとなかなかなり。御土器参りて、 |
よもすがらまどろまず、ふみつくりあかしたまふ。さいひながらも、もののきこえをつつみて、いそぎかへりたまふ。いとなかなかなり。おほんかはらけまゐりて、 |
12 | 4.1.14 | 381 | 367 |
「酔ひの悲しび涙そそく春の盃の裏」 |
"ゑひのかなしびなみだそそくはるのさかづきのうち" |
12 | 4.1.15 | 382 | 368 |
と、諸声に誦じたまふ。御供の人も涙を流す。おのがじし、はつかなる別れ惜しむべかめり。 |
と、もろごゑにずじたまふ。おほんとものひともなみだをながす。おのがじし、はつかなるわかれをしむべかめり。 |
12 | 4.1.16 | 383 | 369 |
朝ぼらけの空に雁連れて渡る。主人の君、 |
あさぼらけのそらにかりつれてわたる。あるじのきみ、 |
12 | 4.1.17 | 384 | 370 |
「故郷をいづれの春か行きて見む<BR/>うらやましきは帰る雁がね」 |
"〔ふるさとをいづれのはるかゆきてみん<BR/>うらやましきはかへるかりがね〕 |
12 | 4.1.18 | 385 | 371 |
宰相、さらに立ち出でむ心地せで、 |
さいしゃう、さらにたちいでんここちせで、 |
12 | 4.1.19 | 386 | 372 |
「あかなくに雁の常世を立ち別れ<BR/>花の都に道や惑はむ」 |
"〔あかなくにかりのとこよをたちわかれ<BR/>はなのみやこにみちやまどはん〕 |
12 | 4.1.20 | 387 | 373 |
さるべき都の苞など、由あるさまにてあり。主人の君、かくかたじけなき御送りにとて、黒駒たてまつりたまふ。 |
さるべきみやこのつとなど、よしあるさまにてあり。あるじのきみ、かくかたじけなきおほんおくりにとて、くろこまたてまつりたまふ。 |
12 | 4.1.21 | 388 | 374 |
「ゆゆしう思されぬべけれど、風に当たりては、嘶えぬべければなむ」 |
"ゆゆしうおぼされぬべけれど、かぜにあたりては、いばえぬべければなん。" |
12 | 4.1.22 | 389 | 375 |
と申したまふ。世にありがたげなる御馬のさまなり。 |
とまうしたまふ。よにありがたげなるおほんむまのさまなり。 |
12 | 4.1.23 | 390 | 376 |
「形見に偲びたまへ」 |
"かたみにしのびたまへ。" |
12 | 4.1.24 | 391 | 377 |
とて、いみじき笛の名ありけるなどばかり、人咎めつべきことは、かたみにえしたまはず。 |
とて、いみじきふえのなありけるなどばかり、ひととがめつべきことは、かたみにえしたまはず。 |
12 | 4.1.25 | 392 | 378 |
日やうやうさし上がりて、心あわたたしければ、顧みのみしつつ出でたまふを、見送りたまふけしき、いとなかなかなり。 |
ひやうやうさしあがりて、こころあわたたしければ、かへりみのみしつついでたまふを、みおくりたまふけしき、いとなかなかなり。 |
12 | 4.1.26 | 393 | 379 |
「いつまた対面は」 |
"いつまたたいめんは。" |
12 | 4.1.27 | 394 | 380 |
と申したまふに、主人、 |
とまうしたまふに、あるじ、 |
12 | 4.1.28 | 395 | 381 |
「雲近く飛び交ふ鶴も空に見よ<BR/>我は春日の曇りなき身ぞ |
"〔くもちかくとびかふたづもそらにみよ<BR/>われははるひのくもりなきみぞ |
12 | 4.1.29 | 396 | 382 |
かつは頼まれながら、かくなりぬる人、昔のかしこき人だに、はかばかしう世にまたまじらふこと難くはべりければ、何か、都のさかひをまた見むとなむ思ひはべらぬ」 |
かつはたのまれながら、かくなりぬるひと、むかしのかしこきひとだに、はかばかしうよにまたまじらふことかたくはべりければ、なにか、みやこのさかひをまたみんとなんおもひはべらぬ。" |
12 | 4.1.30 | 397 | 383 |
などのたまふ。宰相、 |
などのたまふ。さいしゃう、 |
12 | 4.1.31 | 398 | 384 |
「たづかなき雲居にひとり音をぞ鳴く<BR/>翼並べし友を恋ひつつ |
"〔たづかなきくもゐにひとりねをぞなく<BR/>つばさならべしともをこひつつ |
12 | 4.1.32 | 399 | 385 |
かたじけなく馴れきこえはべりて、いとしもと悔しう思ひたまへらるる折多く」 |
かたじけなくなれきこえはべりて、いとしもとくやしうおもひたまへらるるをりおほく。" |
12 | 4.1.33 | 400 | 386 |
など、しめやかにもあらで帰りたまひぬる名残、いとど悲しう眺め暮らしたまふ。 |
など、しめやかにもあらでかへりたまひぬるなごり、いとどかなしうながめくらしたまふ。 |
12 | 4.2 | 401 | 387 | 第二段 上巳の祓と嵐 |
12 | 4.2.1 | 402 | 388 |
弥生の朔日に出で来たる巳の日、 |
やよひのついたちにいできたるみのひ、 |
12 | 4.2.2 | 403 | 389 |
「今日なむ、かく思すことある人は、御禊したまふべき」 |
"けふなん、かくおぼすことあるひとは、みそぎしたまふべき。" |
12 | 4.2.3 | 404 | 390 |
と、なまさかしき人の聞こゆれば、海づらもゆかしうて出でたまふ。いとおろそかに、軟障ばかりを引きめぐらして、この国に通ひける陰陽師召して、祓へせさせたまふ。舟にことことしき人形乗せて流すを見たまふに、よそへられて、 |
と、なまさかしきひとのきこゆれば、うみづらもゆかしうていでたまふ。いとおろそかに、ぜんじゃうばかりをひきめぐらして、このくににかよひけるおみゃうじめして、はらへせさせたまふ。ふねにことことしきひとかたのせてながすをみたまふに、よそへられて、 |
12 | 4.2.4 | 405 | 391 |
「知らざりし大海の原に流れ来て<BR/>ひとかたにやはものは悲しき」 |
"〔しらざりしおほうみのはらにながれきて<BR/>ひとかたにやはものはかなしき〕 |
12 | 4.2.5 | 406 | 392 |
とて、ゐたまへる御さま、さる晴れに出でて、言ふよしなく見えたまふ。 |
とて、ゐたまへるおほんさま、さるはれにいでて、いふよしなくみえたまふ。 |
12 | 4.2.6 | 407 | 393 |
海の面うらうらと凪ぎわたりて、行方も知らぬに、来し方行く先思し続けられて、 |
うみのおもてうらうらとなぎわたりて、ゆくへもしらぬに、こしかたゆくさきおぼしつづけられて、 |
12 | 4.2.7 | 408 | 394 |
「八百よろづ神もあはれと思ふらむ<BR/>犯せる罪のそれとなければ」 |
"〔やほよろづかみもあはれとおもふらん<BR/>をかせるつみのそれとなければ〕 |
12 | 4.2.8 | 409 | 395 |
とのたまふに、にはかに風吹き出でて、空もかき暮れぬ。御祓へもし果てず、立ち騒ぎたり。肱笠雨とか降りきて、いとあわたたしければ、みな帰りたまはむとするに、笠も取りあへず。さる心もなきに、よろづ吹き散らし、またなき風なり。波いといかめしう立ちて、人びとの足をそらなり。海の面は、衾を張りたらむやうに光り満ちて、雷鳴りひらめく。落ちかかる心地して、からうしてたどり来て、 |
とのたまふに、にはかにかぜふきいでて、そらもかきくれぬ。おほんはらへもしはてず、たちさわぎたり。ひぢかさあめとかふりきて、いとあわたたしければ、みなかへりたまはんとするに、かさもとりあへず。さるこころもなきに、よろづふきちらし、またなきかぜなり。なみいといかめしうたちて、ひとびとのあしをそらなり。うみのおもては、ふすまをはりたらんやうにひかりみちて、かみなりひらめく。おちかかるここちして、からうしてたどりきて、 |
12 | 4.2.9 | 410 | 396 |
「かかる目は見ずもあるかな」 |
"かかるめはみずもあるかな。" |
12 | 4.2.10 | 411 | 397 |
「風などは吹くも、けしきづきてこそあれ。あさましうめづらかなり」 |
"かぜなどはふくも、けしきづきてこそあれ。あさましうめづらかなり。" |
12 | 4.2.11 | 412 | 398 |
と惑ふに、なほ止まず鳴りみちて、雨の脚当たる所、徹りぬべく、はらめき落つ。「かくて世は尽きぬるにや」と、心細く思ひ惑ふに、君は、のどやかに経うち誦じておはす。 |
とまどふに、なほやまずなりみちて、あめのあしあたるところ、とほりぬべく、はらめきおつ。"かくてよはつきぬるにや。"と、こころぼそくおもひまどふに、きみは、のどやかにきゃううちずじておはす。 |
12 | 4.2.12 | 413 | 399 |
暮れぬれば、雷すこし鳴り止みて、風ぞ、夜も吹く。 |
くれぬれば、かみすこしなりやみて、かぜぞ、よるもふく。 |
12 | 4.2.13 | 414 | 400 |
「多く立てつる願の力なるべし」 |
"おほくたてつるがんのちからなるべし。" |
12 | 4.2.14 | 415 | 401 |
「今しばし、かくあらば、波に引かれて入りぬべかりけり」 |
"いましばし、かくあらば、なみにひかれていりぬべかりけり。" |
12 | 4.2.15 | 416 | 402 |
「高潮といふものになむ、とりあへず人そこなはるるとは聞けど、いと、かかることは、まだ知らず」 |
"たかしほといふものになん、とりあへずひとそこなはるるとはきけど、いと、かかることは、まだしらず。" |
12 | 4.2.16 | 417 | 403 |
と言ひあへり。 |
といひあへり。 |
12 | 4.2.17 | 418 | 404 |
暁方、みなうち休みたり。君もいささか寝入りたまへれば、そのさまとも見えぬ人来て、 |
あかつきがた、みなうちやすみたり。きみもいささかねいりたまへれば、そのさまともみえぬひときて、 |
12 | 4.2.18 | 419 | 405 |
「など、宮より召しあるには参りたまはぬ」 |
"など、みやよりめしあるにはまゐりたまはぬ。" |
12 | 4.2.19 | 420 | 406 |
とて、たどりありくと見るに、おどろきて、「さは、海の中の龍王の、いといたうものめでするものにて、見入れたるなりけり」と思すに、いとものむつかしう、この住まひ堪へがたく思しなりぬ。 |
とて、たどりありくとみるに、おどろきて、"さは、うみのなかのりうわうの、いといたうものめでするものにて、みいれたるなりけり。"とおぼすに、いとものむつかしう、このすまひたへがたくおぼしなりぬ。 |