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12須磨
1217048第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語
121.17149第一段 源氏、須磨退去を決意
121.1.17250 ()(なか)、いとわづらはしく、はしたなきことのみまされば、「せめて()らず(がほ)にあり()ても、これよりまさることもや」と(おぼ)しなりぬ。 なか、いとわづらはしく、はしたなきことのみまされば、"せめてらずがほにありても、これよりまさることもや。"とおぼしなりぬ。
121.1.27351 「かの須磨(すま)は、(むかし)こそ(ひと)()みかなどもありけれ、(いま)は、いと里離(さとはな)(こころ)すごくて、海人(あま)(いへ)だにまれに」など()きたまへど、「(ひと)しげく、ひたたけたらむ()まひは、いと本意(ほい)なかるべし。さりとて、(みやこ)(とほ)ざからむも、故郷(ふるさと)おぼつかなかるべきを」、人悪(ひとわる)くぞ(おぼ)(みだ)るる。 "かのすまは、むかしこそひとみかなどもありけれ、いまは、いとさとはなこころすごくて、あまいへだにまれに。"などきたまへど、"ひとしげく、ひたたけたらんまひは、いとほいなかるべし。さりとて、みやことほざからんも、ふるさとおぼつかなかるべきを"、ひとわるくぞおぼみだるる。
121.1.37452 よろづのこと、()方行(かたゆ)(すゑ)(おも)(つづ)けたまふに、(かな)しきこといとさまざまなり。()きものと(おも)()てつる()も、(いま)はと()(はな)れなむことを(おぼ)すには、いと()てがたきこと(おほ)かるなかにも、姫君(ひめぎみ)の、()()れにそへては、(おも)(なげ)きたまへるさまの、心苦(こころぐる)しうあはれなるを、 よろづのこと、かたゆすゑおもつづけたまふに、かなしきこといとさまざまなり。きものとおもてつるも、いまはとはなれなんことをおぼすには、いとてがたきことおほかるなかにも、ひめぎみの、れにそへては、おもなげきたまへるさまの、こころぐるしうあはれなるを、
121.1.47553 ()きめぐりても、また()()むことをかならず」と、(おぼ)さむにてだに、なほ(ひとひ)二日(ふつか)のほど、よそよそに()かし()らす折々(をりをり)だに、おぼつかなきものにおぼえ、女君(をんなぎみ)心細(こころぼそ)うのみ(おも)ひたまへるを、「幾年(いくとせ)そのほどと(かぎ)りある(みち)にもあらず、()ふを(かぎ)りに(へだ)たりゆかむも、(さだ)めなき()に、やがて(わか)るべき門出(かどで)にもや」と、いみじうおぼえたまへば、「(しの)びてもろともにもや」と、(おぼ)()(をり)あれど、さる心細(こころぼそ)からむ(うみ)づらの、波風(なみかぜ)よりほかに()ちまじる(ひと)もなからむに、かくらうたき(おほん)さまにて、()()したまへらむも、いとつきなく、わが(こころ)にも、「なかなか、もの(おも)ひのつまなるべきを」など(おぼ)(かへ)すを、女君(をんなぎみ)は、「いみじからむ(みち)にも、(おく)れきこえずだにあらば」と、おもむけて、(うら)めしげに(おぼ)いたり。 "きめぐりても、またんことをかならず。"と、おぼさんにてだに、なほひとひふつかのほど、よそよそにかしらすをりをりだに、おぼつかなきものにおぼえ、をんなぎみこころぼそうのみおもひたまへるを、"いくとせそのほどとかぎりあるみちにもあらず、ふをかぎりにへだたりゆかんも、さだめなきに、やがてわかるべきかどでにもや。"と、いみじうおぼえたまへば、"しのびてもろともにもや。"と、おぼをりあれど、さるこころぼそからんうみづらの、なみかぜよりほかにちまじるひともなからんに、かくらうたきおほんさまにて、したまへらんも、いとつきなく、わがこころにも、"なかなか、ものおもひのつまなるべきを。"などおぼかへすを、をんなぎみは、"いみじからんみちにも、おくれきこえずだにあらば。"と、おもむけて、うらめしげにおぼいたり。
121.1.57654 かの花散里(はなちるさと)にも、おはし(かよ)ふことこそまれなれ、心細(こころぼそ)くあはれなる(おほん)ありさまを、この御蔭(おほんかげ)(かく)れてものしたまへば、(おぼ)(なげ)きたるさまも、いとことわりなり。なほざりにても、ほのかに()たてまつり(かよ)ひたまひし所々(ところどころ)人知(ひとし)れぬ(こころ)をくだきたまふ(ひと)(おほ)かりける。 かのはなちるさとにも、おはしかよふことこそまれなれ、こころぼそくあはれなるおほんありさまを、このおほんかげかくれてものしたまへば、おぼなげきたるさまも、いとことわりなり。なほざりにても、ほのかにたてまつりかよひたまひしところどころひとしれぬこころをくだきたまふひとおほかりける。
121.1.67755 入道(にふだう)(みや)よりも、「ものの()こえや、またいかがとりなさむ」と、わが(おほん)ためつつましけれど、(しの)びつつ(おほん)とぶらひ(つね)にあり。「(むかし)、かやうに相思(あひおぼ)し、あはれをも()せたまはましかば」と、うち(おも)()でたまふにも、「さも、さまざまに、(こころ)をのみ()くすべかりける(ひと)御契(おほんちぎ)りかな」と、つらく(おも)ひきこえたまふ。 にふだうみやよりも、"もののこえや、またいかがとりなさん。"と、わがおほんためつつましけれど、しのびつつおほんとぶらひつねにあり。"むかし、かやうにあひおぼし、あはれをもせたまはましかば。"と、うちおもでたまふにも、"さも、さまざまに、こころをのみくすべかりけるひとおほんちぎりかな。"と、つらくおもひきこえたまふ。
121.27856第二段 左大臣邸に離京の挨拶
121.2.17957 三月二十日(やよひはつか)あまりのほどになむ、(みやこ)(はな)れたまひける。(ひと)にいつとしも()らせたまはず、ただいと(ちか)(つか)うまつり()れたる(かぎ)り、(しち)八人(はちにん)ばかり御供(おほんとも)にて、いとかすかに()()ちたまふ。さるべき所々(ところどころ)に、御文(おほんふみ)ばかりうち(しの)びたまひしにも、あはれと(しの)ばるばかり()くいたまへるは、()どころもありぬべかりしかど、その(をり)の、心地(ここち)(まぎ)れに、はかばかしうも()()かずなりにけり。 やよひはつかあまりのほどになん、みやこはなれたまひける。ひとにいつとしもらせたまはず、ただいとちかつかうまつりれたるかぎり、しちはちにんばかりおほんともにて、いとかすかにちたまふ。さるべきところどころに、おほんふみばかりうちしのびたまひしにも、あはれとしのばるばかりくいたまへるは、どころもありぬべかりしかど、そのをりの、ここちまぎれに、はかばかしうもかずなりにけり。
121.2.28058 (ふつか)三日(みか)かねて、()(かく)れて、大殿(おほいどの)(わた)りたまへり。網代車(あんじろぐるま)のうちやつれたるにて、女車(をんなぐるま)のやうにて(かく)ろへ()りたまふも、いとあはれに、(ゆめ)とのみ()ゆ。御方(おほんかた)、いと(さび)しげにうち()れたる心地(ここち)して、若君(わかぎみ)御乳母(おほんめのと)ども、(むかし)さぶらひし(ひと)のなかに、まかで()らぬ(かぎ)り、かく(わた)りたまへるをめづらしがりきこえて、()(のぼ)(つど)ひて()たてまつるにつけても、ことにもの(ふか)からぬ(わか)(ひと)びとさへ、()(つね)なさ(おも)()られて、(なみだ)にくれたり。 ふつかみかかねて、かくれて、おほいどのわたりたまへり。あんじろぐるまのうちやつれたるにて、をんなぐるまのやうにてかくろへりたまふも、いとあはれに、ゆめとのみゆ。おほんかた、いとさびしげにうちれたるここちして、わかぎみおほんめのとども、むかしさぶらひしひとのなかに、まかでらぬかぎり、かくわたりたまへるをめづらしがりきこえて、のぼつどひてたてまつるにつけても、ことにものふかからぬわかひとびとさへ、つねなさおもられて、なみだにくれたり。
121.2.38159 若君(わかぎみ)はいとうつくしうて、され(はし)りおはしたり。 わかぎみはいとうつくしうて、されはしりおはしたり。
121.2.48260 (ひさ)しきほどに、(わす)れぬこそ、あはれなれ」 "ひさしきほどに、わすれぬこそ、あはれなれ。"
121.2.58361 とて、(ひざ)()ゑたまへる()けしき、(しの)びがたげなり。 とて、ひざゑたまへるけしき、しのびがたげなり。
121.2.68462 大臣(おとど)、こなたに(わた)りたまひて、対面(たいめん)したまへり。 おとど、こなたにわたりたまひて、たいめんしたまへり。
121.2.78563 「つれづれに()もらせたまへらむほど、(なに)とはべらぬ昔物語(むかしものがたり)も、(まゐ)りて、()こえさせむと(おも)うたまへれど、()病重(やまひおも)きにより、朝廷(おほやけ)にも(つか)うまつらず、(くらゐ)をも(かへ)したてまつりてはべるに、(わたくし)ざまには(こし)のべてなむと、ものの()こえひがひがしかるべきを、(いま)()中憚(なかはばか)るべき()にもはべらねど、いちはやき()のいと(おそ)ろしうはべるなり。かかる(おほん)ことを()たまふるにつけて、命長(いのちなが)きは心憂(こころう)(おも)うたまへらるる()(すゑ)にもはべるかな。(あめ)(した)をさかさまになしても、(おも)うたまへ()らざりし(おほん)ありさまを()たまふれば、よろづいとあぢきなくなむ」 "つれづれにもらせたまへらんほど、なにとはべらぬむかしものがたりも、まゐりて、こえさせんとおもうたまへれど、やまひおもきにより、おほやけにもつかうまつらず、くらゐをもかへしたてまつりてはべるに、わたくしざまにはこしのべてなんと、もののこえひがひがしかるべきを、いまなかはばかるべきにもはべらねど、いちはやきのいとおそろしうはべるなり。かかるおほんことをたまふるにつけて、いのちながきはこころうおもうたまへらるるすゑにもはべるかな。あめしたをさかさまになしても、おもうたまへらざりしおほんありさまをたまふれば、よろづいとあぢきなくなん。"
121.2.88664 ()こえたまひて、いたうしほたれたまふ。 こえたまひて、いたうしほたれたまふ。
121.2.98765 「とあることも、かかることも、(さき)()(むく)いにこそはべるなれば、()ひもてゆけば、ただ、みづからのおこたりになむはべる。さして、かく、官爵(かんさく)()られず、あさはかなることにかかづらひてだに、朝廷(おほやけ)のかしこまりなる(ひと)の、うつしざまにて()(なか)にあり()るは、咎重(とがおも)きわざに(ひと)(くに)にもしはべるなるを、(とほ)(はな)ちつかはすべき(さだ)めなどもはべるなるは、さま(こと)なる(つみ)()たるべきにこそはべるなれ。(にご)りなき(こころ)にまかせて、つれなく()ぐしはべらむも、いと(はばか)(おほ)く、これより(おほ)きなる(はぢ)にのぞまぬさきに、()(のが)れなむと(おも)うたまへ()ちぬる」 "とあることも、かかることも、さきむくいにこそはべるなれば、ひもてゆけば、ただ、みづからのおこたりになんはべる。さして、かく、かんさくられず、あさはかなることにかかづらひてだに、おほやけのかしこまりなるひとの、うつしざまにてなかにありるは、とがおもきわざにひとくににもしはべるなるを、とほはなちつかはすべきさだめなどもはべるなるは、さまことなるつみたるべきにこそはべるなれ。にごりなきこころにまかせて、つれなくぐしはべらんも、いとはばかおほく、これよりおほきなるはぢにのぞまぬさきに、のがれなんとおもうたまへちぬる。"
121.2.108866 など、こまやかに()こえたまふ。 など、こまやかにこえたまふ。
121.2.118967 (むかし)御物語(おほんものがたり)(ゐん)(おほん)こと、(おぼ)しのたまはせし御心(みこころ)ばへなど()こえ()でたまひて、御直衣(おほんなほし)(そで)もえ()(はな)ちたまはぬに、(きみ)も、え心強(こころづよ)くもてなしたまはず。若君(わかぎみ)何心(なにごころ)なく(まぎ)れありきて、これかれに()れきこえたまふを、いみじと(おぼ)いたり。 むかしおほんものがたりゐんおほんこと、おぼしのたまはせしみこころばへなどこえでたまひて、おほんなほしそでもえはなちたまはぬに、きみも、えこころづよくもてなしたまはず。わかぎみなにごころなくまぎれありきて、これかれにれきこえたまふを、いみじとおぼいたり。
121.2.129068 ()ぎはべりにし(ひと)を、()(おも)うたまへ(わす)るる()なくのみ、(いま)(かな)しびはべるを、この(おほん)ことになむ、もしはべる()ならましかば、いかやうに(おも)(なげ)きはべらまし。よくぞ(みじか)くて、かかる(ゆめ)()ずなりにけると、(おも)うたまへ(なぐさ)めはべり。(をさな)くものしたまふが、かく齢過(よはひす)ぎぬるなかにとまりたまひて、なづさひきこえぬ月日(つきひ)(へだ)たりたまはむと(おも)ひたまふるをなむ、よろづのことよりも、(かな)しうはべる。いにしへの(ひと)も、まことに(をか)しあるにてしも、かかることに()たらざりけり。なほさるべきにて、(ひと)朝廷(みかど)にもかかるたぐひ(おほ)うはべりけり。されど、()()づる(ふし)ありてこそ、さることもはべりけれ、とざまかうざまに、(おも)ひたまへ()らむかたなくなむ」 "ぎはべりにしひとを、おもうたまへわするるなくのみ、いまかなしびはべるを、このおほんことになん、もしはべるならましかば、いかやうにおもなげきはべらまし。よくぞみじかくて、かかるゆめずなりにけると、おもうたまへなぐさめはべり。をさなくものしたまふが、かくよはひすぎぬるなかにとまりたまひて、なづさひきこえぬつきひへだたりたまはんとおもひたまふるをなん、よろづのことよりも、かなしうはべる。いにしへのひとも、まことにをかしあるにてしも、かかることにたらざりけり。なほさるべきにて、ひとみかどにもかかるたぐひおほうはべりけり。されど、づるふしありてこそ、さることもはべりけれ、とざまかうざまに、おもひたまへらんかたなくなん。"
121.2.139169 など、(おほ)くの御物語聞(おほんものがたりき)こえたまふ。 など、おほくのおほんものがたりきこえたまふ。
121.2.149270 三位中将(さんゐのちゅうじゃう)(まゐ)りあひたまひて、大御酒(おほみき)など(まゐ)りたまふに、夜更(よふ)けぬれば、()まりたまひて、(ひと)びと御前(おまへ)にさぶらはせたまひて、物語(ものがたり)などせさせたまふ。(ひと)よりはこよなう(しの)(おぼ)中納言(ちゅうなごん)(きみ)()へばえに(かな)しう(おも)へるさまを、人知(ひとし)れずあはれと(おぼ)す。人皆静(ひとみなしづ)まりぬるに、とりわきて(かた)らひたまふ。これにより()まりたまへるなるべし。 さんゐのちゅうじゃうまゐりあひたまひて、おほみきなどまゐりたまふに、よふけぬれば、まりたまひて、ひとびとおまへにさぶらはせたまひて、ものがたりなどせさせたまふ。ひとよりはこよなうしのおぼちゅうなごんきみへばえにかなしうおもへるさまを、ひとしれずあはれとおぼす。ひとみなしづまりぬるに、とりわきてかたらひたまふ。これによりまりたまへるなるべし。
121.2.159371 ()けぬれば、夜深(よぶか)()でたまふに、有明(ありあけ)(つき)いとをかし。(はな)()どもやうやう(さか)()ぎて、わづかなる木蔭(こかげ)の、いと(しろ)(には)(うす)()りわたりたる、そこはかとなく(かす)みあひて、(あき)()のあはれにおほくたちまされり。(すみ)高欄(かうらん)におしかかりて、とばかり、(なが)めたまふ。 けぬれば、よぶかでたまふに、ありあけつきいとをかし。はなどもやうやうさかぎて、わづかなるこかげの、いとしろにはうすりわたりたる、そこはかとなくかすみあひて、あきのあはれにおほくたちまされり。すみかうらんにおしかかりて、とばかり、ながめたまふ。
121.2.169473 中納言(ちゅうなごん)(きみ)()たてまつり(おく)らむとにや、妻戸(つまど)おし()けてゐたり。 ちゅうなごんきみたてまつりおくらんとにや、つまどおしけてゐたり。
121.2.179574 「また対面(たいめん)あらむことこそ、(おも)へばいと(かた)けれ。かかりける()()らで、(こころ)やすくもありぬべかりし(つき)ごろ、さしも(いそ)がで、(へだ)てしよ」 "またたいめんあらんことこそ、おもへばいとかたけれ。かかりけるらで、こころやすくもありぬべかりしつきごろ、さしもいそがで、へだてしよ。"
121.2.189675 などのたまへば、ものも()こえず()く。 などのたまへば、ものもこえずく。
121.2.199776 若君(わかぎみ)御乳母(おほんめのと)宰相(さいしゃう)(きみ)して、(みや)御前(おまへ)より御消息聞(おほんせうそこき)こえたまへり。 わかぎみおほんめのとさいしゃうきみして、みやおまへよりおほんせうそこきこえたまへり。
121.2.209877 ()づから()こえまほしきを、かきくらす(みだ)心地(ごこち)ためらひはべるほどに、いと夜深(よぶか)()でさせたまふなるも、さま()はりたる心地(ここち)のみしはべるかな。心苦(こころぐる)しき(ひと)のいぎたなきほどは、しばしもやすらはせたまはで」 "づからこえまほしきを、かきくらすみだごこちためらひはべるほどに、いとよぶかでさせたまふなるも、さまはりたるここちのみしはべるかな。こころぐるしきひとのいぎたなきほどは、しばしもやすらはせたまはで。"
121.2.219978 ()こえたまへれば、うち()きたまひて、 こえたまへれば、うちきたまひて、
121.2.2210079 鳥辺山燃(とりべやまも)えし(けぶり)もまがふやと<BR/>海人(あま)塩焼(しほや)浦見(うらみ)にぞ()く」 "〔とりべやまもえしけぶりもまがふやと<BR/>あましほやうらみにぞく〕
121.2.2310180 御返(おほんかへ)りともなくうち()じたまひて、 おほんかへりともなくうちじたまひて、
121.2.2410281 (あかつき)(わか)れは、かうのみや心尽(こころづ)くしなる。(おも)()りたまへる(ひと)もあらむかし」 "あかつきわかれは、かうのみやこころづくしなる。おもりたまへるひともあらんかし。"
121.2.2510382 とのたまへば、 とのたまへば、
121.2.2610483 「いつとなく、(わか)れといふ文字(もじ)こそうたてはべるなるなかにも、今朝(けさ)はなほたぐひあるまじう(おも)うたまへらるるほどかな」 "いつとなく、わかれといふもじこそうたてはべるなるなかにも、けさはなほたぐひあるまじうおもうたまへらるるほどかな。"
121.2.2710584 と、鼻声(はなごゑ)にて、げに(あさ)からず(おも)へり。 と、はなごゑにて、げにあさからずおもへり。
121.2.2810685 ()こえさせまほしきことも、(かへ)(がへ)(おも)うたまへながら、ただに(むす)ぼほれはべるほど、()(はか)らせたまへ。いぎたなき(ひと)は、()たまへむにつけても、なかなか、()世逃(よのが)れがたう(おも)うたまへられぬべければ、心強(こころづよ)(おも)うたまへなして、(いそ)ぎまかではべり」 "こえさせまほしきことも、かへがへおもうたまへながら、ただにむすぼほれはべるほど、はからせたまへ。いぎたなきひとは、たまへんにつけても、なかなか、よのがれがたうおもうたまへられぬべければ、こころづよおもうたまへなして、いそぎまかではべり。"
121.2.2910786 ()こえたまふ。 こえたまふ。
121.2.3010887 ()でたまふほどを、(ひと)びと(のぞ)きて()たてまつる。 でたまふほどを、ひとびとのぞきてたてまつる。
121.2.3110988 ()(がた)(つき)いと(あか)きに、いとどなまめかしうきよらにて、ものを(おぼ)いたるさま、(とら)(おほかみ)だに()きぬべし。まして、いはけなくおはせしほどより()たてまつりそめてし(ひと)びとなれば、たとしへなき(おほん)ありさまをいみじと(おも)ふ。 がたつきいとあかきに、いとどなまめかしうきよらにて、ものをおぼいたるさま、とらおほかみだにきぬべし。まして、いはけなくおはせしほどよりたてまつりそめてしひとびとなれば、たとしへなきおほんありさまをいみじとおもふ。
121.2.3211089 まことや、御返(おほんかへ)り、 まことや、おほんかへり、
121.2.3311190 ()(ひと)(わか)れやいとど(へだ)たらむ<BR/>(けぶり)となりし雲居(くもゐ)ならでは」 "〔ひとわかれやいとどへだたらん<BR/>けぶりとなりしくもゐならでは〕
121.2.3411291 ()()へて、あはれのみ()きせず、()でたまひぬる名残(なごり)、ゆゆしきまで()きあへり。 へて、あはれのみきせず、でたまひぬるなごり、ゆゆしきまできあへり。
121.311392第三段 二条院の人々との離別
121.3.111493 殿(との)におはしたれば、わが御方(おほんかた)(ひと)びとも、まどろまざりけるけしきにて、所々(ところどころ)()れゐて、あさましとのみ()(おも)へるけしきなり。(さぶらひ)には、(した)しう(つか)まつる(かぎ)りは、御供(おほんとも)(まゐ)るべき(こころ)まうけして、(わたくし)(わか)()しむほどにや、(ひと)もなし。さらぬ(ひと)は、とぶらひ(まゐ)るも(おも)(とが)めあり、わづらはしきことまされば、所狭(ところせ)(つど)ひし(むま)(くるま)(かた)もなく、(さび)しきに、「()()きものなりけり」と、(おぼ)()らる。 とのにおはしたれば、わがおほんかたひとびとも、まどろまざりけるけしきにて、ところどころれゐて、あさましとのみおもへるけしきなり。さぶらひには、したしうつかまつるかぎりは、おほんともまゐるべきこころまうけして、わたくしわかしむほどにや、ひともなし。さらぬひとは、とぶらひまゐるもおもとがめあり、わづらはしきことまされば、ところせつどひしむまくるまかたもなく、さびしきに、"きものなりけり。"と、おぼらる。
121.3.211594 台盤(だいばん)なども、かたへは(ちり)ばみて、(たたみ)所々引(ところどころひ)(かへ)したり。「()るほどだにかかり。ましていかに()れゆかむ」と(おぼ)す。 だいばんなども、かたへはちりばみて、たたみところどころひかへしたり。"るほどだにかかり。ましていかにれゆかん。"とおぼす。
121.3.311695 西(にし)(たい)(わた)りたまへれば、御格子(みかうし)(まゐ)らで、(なが)()かしたまひければ、簀子(すのこ)などに、(わか)童女(わらはべ)所々(ところどころ)()して、(いま)()(さわ)ぐ。宿直姿(とのゐすがた)どもをかしうてゐるを()たまふにも、心細(こころぼそ)う、「年月経(としつきへ)ば、かかる(ひと)びとも、えしもあり()てでや、()()らむ」など、さしもあるまじきことさへ、御目(おほんめ)のみとまりけり。 にしたいわたりたまへれば、みかうしまゐらで、ながかしたまひければ、すのこなどに、わかわらはべところどころして、いまさわぐ。とのゐすがたどもをかしうてゐるをたまふにも、こころぼそう、"としつきへば、かかるひとびとも、えしもありてでや、らん。"など、さしもあるまじきことさへ、おほんめのみとまりけり。
121.3.411796 昨夜(よべ)は、しかしかして夜更(よふ)けにしかばなむ。(れい)(おも)はずなるさまにや(おぼ)しなしつる。かくてはべるほどだに御目離(おほんめか)れずと(おも)ふを、かく()(はな)るる(きは)には、心苦(こころぐる)しきことのおのづから(おほ)かりける、ひたやごもりにてやは。(つね)なき()に、(ひと)にも(なさ)けなきものと(こころ)おかれ()てむと、いとほしうてなむ」 "よべは、しかしかしてよふけにしかばなん。れいおもはずなるさまにやおぼしなしつる。かくてはべるほどだにおほんめかれずとおもふを、かくはなるるきはには、こころぐるしきことのおのづからおほかりける、ひたやごもりにてやは。つねなきに、ひとにもなさけなきものとこころおかれてんと、いとほしうてなん。"
121.3.511897 ()こえたまへば、 こえたまへば、
121.3.611998 「かかる()()るよりほかに、(おも)はずなることは、(なに)ごとにか」 "かかるるよりほかに、おもはずなることは、なにごとにか。"
121.3.712099 とばかりのたまひて、いみじと(おぼ)()れたるさま、(ひと)よりことなるを、ことわりぞかし、父親王(ちちみこ)、いとおろかにもとより(おぼ)しつきにけるに、まして、()()こえをわづらはしがりて、(おとづ)れきこえたまはず、(おほん)とぶらひにだに(わた)りたまはぬを、(ひと)()るらむことも()づかしく、なかなか()られたてまつらでやみなましを、継母(ままはは)(きた)(かた)などの、 とばかりのたまひて、いみじとおぼれたるさま、ひとよりことなるを、ことわりぞかし、ちちみこ、いとおろかにもとよりおぼしつきにけるに、まして、こえをわづらはしがりて、おとづれきこえたまはず、おほんとぶらひにだにわたりたまはぬを、ひとるらんこともづかしく、なかなかられたてまつらでやみなましを、ままははきたかたなどの、
121.3.8121100 「にはかなりし(さいは)ひのあわたたしさ。あな、ゆゆしや。(おも)(ひと)方々(かたがた)につけて(わか)れたまふ(ひと)かな」 "にはかなりしさいはひのあわたたしさ。あな、ゆゆしや。おもひとかたがたにつけてわかれたまふひとかな。"
121.3.9122101 とのたまひけるを、さる便(たよ)りありて()()きたまふにも、いみじう心憂(こころう)ければ、これよりも()えて(おとづ)れきこえたまはず。また(たの)もしき(ひと)もなく、げにぞ、あはれなる(おほん)ありさまなる。 とのたまひけるを、さるたよりありてきたまふにも、いみじうこころうければ、これよりもえておとづれきこえたまはず。またたのもしきひともなく、げにぞ、あはれなるおほんありさまなる。
121.3.10123102 「なほ()(ゆる)されがたうて、年月(としつき)()ば、(いはほ)(なか)にも(むか)へたてまつらむ。ただ(いま)は、人聞(ひとぎ)きのいとつきなかるべきなり。朝廷(おほやけ)にかしこまりきこゆる(ひと)は、(あき)らかなる月日(つきひ)(かげ)をだに()ず、(やす)らかに()()()ふことも、いと罪重(つみおも)かなり。(あやま)ちなけれど、さるべきにこそかかることもあらめと(おも)ふに、まして(おも)人具(ひとぐ)するは、(れい)なきことなるを、ひたおもむきにものぐるほしき()にて、()ちまさることもありなむ」 "なほゆるされがたうて、としつきば、いはほなかにもむかへたてまつらん。ただいまは、ひとぎきのいとつきなかるべきなり。おほやけにかしこまりきこゆるひとは、あきらかなるつきひかげをだにず、やすらかにふことも、いとつみおもかなり。あやまちなけれど、さるべきにこそかかることもあらめとおもふに、ましておもひとぐするは、れいなきことなるを、ひたおもむきにものぐるほしきにて、ちまさることもありなん。"
121.3.11124103 など()こえ()らせたまふ。 などこえらせたまふ。
121.3.12125104 ()たくるまで大殿籠(おほとのご)もれり。帥宮(そちのみや)三位中将(さんゐのちゅうじゃう)などおはしたり。対面(たいめん)したまはむとて、御直衣(おほんなほし)などたてまつる。 たくるまでおほとのごもれり。そちのみやさんゐのちゅうじゃうなどおはしたり。たいめんしたまはんとて、おほんなほしなどたてまつる。
121.3.13126105 (くらゐ)なき(ひと)は」 "くらゐなきひとは。"
121.3.14127107 とて、無紋(むもん)直衣(なほし)、なかなか、いとなつかしきを()たまひて、うちやつれたまへる、いとめでたし。御鬢(おほんびん)かきたまふとて、鏡台(きゃうだい)()りたまへるに、面痩(おもや)せたまへる(かげ)の、(われ)ながらいとあてにきよらなれば、 とて、むもんなほし、なかなか、いとなつかしきをたまひて、うちやつれたまへる、いとめでたし。おほんびんかきたまふとて、きゃうだいりたまへるに、おもやせたまへるかげの、われながらいとあてにきよらなれば、
121.3.15128108 「こよなうこそ、(おとろ)へにけれ。この(かげ)のやうにや()せてはべる。あはれなるわざかな」 "こよなうこそ、おとろへにけれ。このかげのやうにやせてはべる。あはれなるわざかな。"
121.3.16129109 とのたまへば、女君(をんなぎみ)涙一目(なみだひとめ)うけて、()おこせたまへる、いと(しの)びがたし。 とのたまへば、をんなぎみなみだひとめうけて、おこせたまへる、いとしのびがたし。
121.3.17130110 ()はかくてさすらへぬとも(きみ)があたり<BR/>()らぬ(かがみ)(かげ)(はな)れじ」 "〔はかくてさすらへぬともきみがあたり<BR/>らぬかがみかげはなれじ〕
121.3.18131111 と、()こえたまへば、 と、こえたまへば、
121.3.19132112 (わか)れても(かげ)だにとまるものならば<BR/>(かがみ)()ても(なぐさ)めてまし」 "〔わかれてもかげだにとまるものならば<BR/>かがみてもなぐさめてまし〕
121.3.20133113 柱隠(はしらがく)れにゐ(かく)れて、(なみだ)(まぎ)らはしたまへるさま、「なほ、ここら()るなかにたぐひなかりけり」と、(おぼ)()らるる(ひと)(おほん)ありさまなり。 はしらがくれにゐかくれて、なみだまぎらはしたまへるさま、"なほ、ここらるなかにたぐひなかりけり。"と、おぼらるるひとおほんありさまなり。
121.3.21134114 親王(みこ)は、あはれなる御物語聞(おほんものがたりき)こえたまひて、()るるほどに(かへ)りたまひぬ。 みこは、あはれなるおほんものがたりきこえたまひて、るるほどにかへりたまひぬ。
121.4135115第四段 花散里邸に離京の挨拶
121.4.1136116 花散里(はなちるさと)心細(こころぼそ)げに(おぼ)して、(つね)()こえたまふもことわりにて、「かの(ひと)も、(いま)ひとたび()ずは、つらしとや(おも)はむ」と(おぼ)せば、その()は、また()でたまふものから、いともの()くて、いたう()かしておはしたれば、女御(にょうご) はなちるさとこころぼそげにおぼして、つねこえたまふもことわりにて、"かのひとも、いまひとたびずは、つらしとやおもはん。"とおぼせば、そのは、またでたまふものから、いとものくて、いたうかしておはしたれば、にょうご
121.4.2137117 「かく(かず)まへたまひて、()()らせたまへること」 "かくかずまへたまひて、らせたまへること。"
121.4.3138118 と、よろこびきこえたまふさま、()(つづ)けむもうるさし。 と、よろこびきこえたまふさま、つづけんもうるさし。
121.4.4139119 いといみじう心細(こころぼそ)(おほん)ありさま、ただ御蔭(おほんかげ)(かく)れて()ぐいたまへる年月(としつき)、いとど()れまさらむほど(おぼ)しやられて、殿(との)(うち)、いとかすかなり。 いといみじうこころぼそおほんありさま、ただおほんかげかくれてぐいたまへるとしつき、いとどれまさらんほどおぼしやられて、とのうち、いとかすかなり。
121.4.5140120 (つき)おぼろにさし()でて、池広(いけひろ)く、山木深(やまこぶか)きわたり、心細(こころぼそ)げに()ゆるにも、()(はな)れたらむ(いはほ)のなか、(おぼ)しやらる。 つきおぼろにさしでて、いけひろく、やまこぶかきわたり、こころぼそげにゆるにも、はなれたらんいはほのなか、おぼしやらる。
121.4.6141121 西面(にしおもて)は、「かうしも(わた)りたまはずや」と、うち()して(おぼ)しけるに、あはれ()へたる月影(つきかげ)の、なまめかしうしめやかなるに、うち()()ひたまへるにほひ、()るものなくて、いと(しの)びやかに()りたまへば、すこしゐざり()でて、やがて(つき)()ておはす。またここに御物語(おほんものがたり)のほどに、()方近(がたちか)うなりにけり。 にしおもては、"かうしもわたりたまはずや。"と、うちしておぼしけるに、あはれへたるつきかげの、なまめかしうしめやかなるに、うちひたまへるにほひ、るものなくて、いとしのびやかにりたまへば、すこしゐざりでて、やがてつきておはす。またここにおほんものがたりのほどに、がたちかうなりにけり。
121.4.7142122 短夜(みじかよ)のほどや。かばかりの対面(たいめん)も、またはえしもやと(おも)ふこそ、ことなしにて()ぐしつる(とし)ごろも(くや)しう、()方行(かたゆ)(さき)のためしになるべき()にて、(なに)となく(こころ)のどまる()なくこそありけれ」 "みじかよのほどや。かばかりのたいめんも、またはえしもやとおもふこそ、ことなしにてぐしつるとしごろもくやしう、かたゆさきのためしになるべきにて、なにとなくこころのどまるなくこそありけれ。"
121.4.8143123 と、()ぎにし(かた)のことどものたまひて、(とり)もしばしば()けば、()につつみて(いそ)()でたまふ。(れい)の、(つき)()()つるほど、よそへられて、あはれなり。女君(をんなぎみ)()御衣(おほんぞ)(うつ)りて、げに、()るる(がほ)なれば、 と、ぎにしかたのことどものたまひて、とりもしばしばけば、につつみていそでたまふ。れいの、つきつるほど、よそへられて、あはれなり。をんなぎみおほんぞうつりて、げに、るるがほなれば、
121.4.9144124 月影(つきかげ)宿(やど)れる(そで)はせばくとも<BR/>とめても()ばやあかぬ(ひかり)を」 "〔つきかげやどれるそではせばくとも<BR/>とめてもばやあかぬひかりを〕
121.4.10145125 いみじと(おぼ)いたるが、心苦(こころぐる)しければ、かつは(なぐさ)めきこえたまふ。 いみじとおぼいたるが、こころぐるしければ、かつはなぐさめきこえたまふ。
121.4.11146126 ()きめぐりつひにすむべき月影(つきかげ)の<BR/>しばし(くも)らむ(そら)(なが)めそ "〔きめぐりつひにすむべきつきかげの<BR/>しばしくもらんそらながめそ
121.4.12147127 (おも)へば、はかなしや。ただ、()らぬ(なみだ)のみこそ、(こころ)()らすものなれ」 おもへば、はかなしや。ただ、らぬなみだのみこそ、こころらすものなれ。"
121.4.13148128 などのたまひて、()けぐれのほどに()でたまひぬ。 などのたまひて、けぐれのほどにでたまひぬ。
121.5149129第五段 旅生活の準備と身辺整理
121.5.1150130 よろづのことどもしたためさせたまふ。(した)しう(つか)まつり、()になびかぬ(かぎ)りの(ひと)びと、殿(との)(こと)とり(おこ)なふべき上下(かみしも)(さだ)()かせたまふ。御供(おほんとも)(した)ひきこゆる(かぎ)りは、また()()でたまへり。 よろづのことどもしたためさせたまふ。したしうつかまつり、になびかぬかぎりのひとびと、とのこととりおこなふべきかみしもさだかせたまふ。おほんともしたひきこゆるかぎりは、またでたまへり。
121.5.2151131 かの山里(やまざと)御住(おほんす)みかの()は、えさらずとり使(つか)ひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべき(ふみ)ども『文集(ぶんしゅ)』など()りたる(はこ)、さては琴一(きんひと)つぞ()たせたまふ。所狭(ところせ)御調度(みてうど)、はなやかなる(おほん)よそひなど、さらに()したまはず、あやしの山賤(やまがつ)めきてもてなしたまふ。 かのやまざとおほんすみかのは、えさらずとりつかひたまふべきものども、ことさらよそひもなくことそぎて、さるべきふみども'ぶんしゅ'などりたるはこ、さてはきんひとつぞたせたまふ。ところせみてうど、はなやかなるおほんよそひなど、さらにしたまはず、あやしのやまがつめきてもてなしたまふ。
121.5.3152132 さぶらふ(ひと)びとよりはじめ、よろづのこと、みな西(にし)(たい)()こえわたしたまふ。(りゃう)じたまふ御荘(みさう)御牧(みまき)よりはじめて、さるべき所々(ところどころ)(けん)など、みなたてまつり()きたまふ。それよりほかの御倉町(みくらまち)納殿(をさめどの)などいふことまで、少納言(せうなごん)をはかばかしきものに見置(みお)きたまへれば、(した)しき家司(けいし)ども()して、しろしめすべきさまどものたまひ(あづ)く。 さぶらふひとびとよりはじめ、よろづのこと、みなにしたいこえわたしたまふ。りゃうじたまふみさうみまきよりはじめて、さるべきところどころけんなど、みなたてまつりきたまふ。それよりほかのみくらまちをさめどのなどいふことまで、せうなごんをはかばかしきものにみおきたまへれば、したしきけいしどもして、しろしめすべきさまどものたまひあづく。
121.5.4153133 わが御方(おほんかた)中務(なかつかさ)中将(ちゅうじゃう)などやうの(ひと)びと、つれなき(おほん)もてなしながら、()たてまつるほどこそ(なぐさ)めつれ、「(なに)ごとにつけてか」と(おも)へども、 わがおほんかたなかつかさちゅうじゃうなどやうのひとびと、つれなきおほんもてなしながら、たてまつるほどこそなぐさめつれ、"なにごとにつけてか。"とおもへども、
121.5.5154134 (いのち)ありてこの()にまた(かへ)るやうもあらむを、()ちつけむと(おも)はむ(ひと)は、こなたにさぶらへ」 "いのちありてこのにまたかへるやうもあらんを、ちつけんとおもはんひとは、こなたにさぶらへ。"
121.5.6155135 とのたまひて、上下(かみしも)皆参(みなま)(のぼ)らせたまふ。 とのたまひて、かみしもみなまのぼらせたまふ。
121.5.7156136 若君(わかぎみ)御乳母(おほんめのと)たち、花散里(はなちるさと)なども、をかしきさまのはさるものにて、まめまめしき(すぢ)(おぼ)()らぬことなし。 わかぎみおほんめのとたち、はなちるさとなども、をかしきさまのはさるものにて、まめまめしきすぢおぼらぬことなし。
121.5.8157137 尚侍(ないしのかみ)(おほん)もとに、わりなくして()こえたまふ。 ないしのかみおほんもとに、わりなくしてこえたまふ。
121.5.9158138 ()はせたまはぬも、ことわりに(おも)ひたまへながら、(いま)はと、()(おも)()つるほどの()さもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。 "はせたまはぬも、ことわりにおもひたまへながら、いまはと、おもつるほどのさもつらさも、たぐひなきことにこそはべりけれ。
121.5.10159139 ()()なき(なみだ)(かは)(しづ)みしや<BR/>(なが)るる(みを)(はじ)めなりけむ なきなみだかはしづみしや<BR/>ながるるみをはじめなりけん
121.5.11160140 (おも)ひたまへ()づるのみなむ、罪逃(つみのが)れがたうはべりける」 おもひたまへづるのみなん、つみのがれがたうはべりける。"
121.5.12161141 (みち)のほども(あや)ふければ、こまかには()こえたまはず。 みちのほどもあやふければ、こまかにはこえたまはず。
121.5.13162142 (をんな)、いといみじうおぼえたまひて、(しの)びたまへど、御袖(おほんそで)よりあまるも所狭(ところせ)うなむ。 をんな、いといみじうおぼえたまひて、しのびたまへど、おほんそでよりあまるもところせうなん。
121.5.14163143 涙河浮(なみだがはう)かぶ水泡(みなは)()えぬべし<BR/>(なが)れて(のち)()をも()たずて」 "〔なみだがはうかぶみなはえぬべし<BR/>ながれてのちをもたずて〕
121.5.15164144 ()()(みだ)()きたまへる御手(おほんて)、いとをかしげなり。(いま)ひとたび対面(たいめん)なくやと(おぼ)すは、なほ口惜(くちを)しけれど、(おぼ)(かへ)して、()しと(おぼ)しなすゆかり(おほ)うて、おぼろけならず(しの)びたまへば、いとあながちにも()こえたまはずなりぬ。 みだきたまへるおほんて、いとをかしげなり。いまひとたびたいめんなくやとおぼすは、なほくちをしけれど、おぼかへして、しとおぼしなすゆかりおほうて、おぼろけならずしのびたまへば、いとあながちにもこえたまはずなりぬ。
121.6165145第六段 藤壺に離京の挨拶
121.6.1166146 明日(あす)とて、(くれ)には、(ゐん)御墓拝(みはかをが)みたてまつりたまふとて、北山(きたやま)(まう)でたまふ。(あかつき)かけて月出(つきい)づるころなれば、まづ、入道(にふだう)(みや)()うでたまふ。(ちか)御簾(みす)(まへ)御座参(おましまゐ)りて、(おほん)みづから()こえさせたまふ。春宮(とうぐう)御事(おほんこと)をいみじううしろめたきものに(おも)ひきこえたまふ。 あすとて、くれには、ゐんみはかをがみたてまつりたまふとて、きたやままうでたまふ。あかつきかけてつきいづるころなれば、まづ、にふだうみやうでたまふ。ちかみすまへおましまゐりて、おほんみづからこえさせたまふ。とうぐうおほんことをいみじううしろめたきものにおもひきこえたまふ。
121.6.2167147 かたみに心深(こころふか)きどちの御物語(おほんものがたり)は、よろづあはれまさりけむかし。なつかしうめでたき(おほん)けはひの(むかし)()はらぬに、つらかりし御心(みこころ)ばへも、かすめきこえさせまほしけれど、(いま)さらにうたてと(おぼ)さるべし、わが御心(みこころ)にも、なかなか(いま)ひときは(みだ)れまさりぬべければ、(ねん)(かへ)して、ただ、 かたみにこころふかきどちのおほんものがたりは、よろづあはれまさりけんかし。なつかしうめでたきおほんけはひのむかしはらぬに、つらかりしみこころばへも、かすめきこえさせまほしけれど、いまさらにうたてとおぼさるべし、わがみこころにも、なかなかいまひときはみだれまさりぬべければ、ねんかへして、ただ、
121.6.3168148 「かく(おも)ひかけぬ(つみ)()たりはべるも、(おも)うたまへあはすることの一節(ひとふし)になむ、(そら)(おそ)ろしうはべる。()しげなき()はなきになしても、(みや)御世(みよ)にだに、ことなくおはしまさば」 "かくおもひかけぬつみたりはべるも、おもうたまへあはすることのひとふしになん、そらおそろしうはべる。しげなきはなきになしても、みやみよにだに、ことなくおはしまさば。"
121.6.4169149 とのみ()こえたまふぞ、ことわりなるや。 とのみこえたまふぞ、ことわりなるや。
121.6.5170150 (みや)も、みな(おぼ)()らるることにしあれば、御心(みこころ)のみ(うご)きて、()こえやりたまはず。大将(だいしゃう)、よろづのことかき(あつ)(おぼ)(つづ)けて、()きたまへるけしき、いと()きせずなまめきたり。 みやも、みなおぼらるることにしあれば、みこころのみうごきて、こえやりたまはず。だいしゃう、よろづのことかきあつおぼつづけて、きたまへるけしき、いときせずなまめきたり。
121.6.6171151 御山(みやま)(まゐ)りはべるを、(おほん)ことつてや」 "みやままゐりはべるを、おほんことつてや。"
121.6.7172152 ()こえたまふに、とみにものも()こえたまはず、わりなくためらひたまふ()けしきなり。 こえたまふに、とみにものもこえたまはず、わりなくためらひたまふけしきなり。
121.6.8173153 ()しはなくあるは(かな)しき()()てを<BR/>(そむ)きしかひもなくなくぞ()る」 "〔しはなくあるはかなしきてを<BR/>そむきしかひもなくなくぞる〕
121.6.9174154 いみじき御心惑(みこころまど)ひどもに、(おぼ)(あつ)むることどもも、えぞ(つづ)けさせたまはぬ。 いみじきみこころまどひどもに、おぼあつむることどもも、えぞつづけさせたまはぬ。
121.6.10175155 (わか)れしに(かな)しきことは()きにしを<BR/>またぞこの()()さはまされる」 "〔わかれしにかなしきことはきにしを<BR/>またぞこのさはまされる〕
121.7176156第七段 桐壺院の御墓に離京の挨拶
121.7.1177157 月待(つきま)()でて()でたまふ。御供(おほんとも)にただ()六人(ろくにん)ばかり、下人(しもびと)もむつましき(かぎ)りして、御馬(おほんむま)にてぞおはする。さらなることなれど、ありし()(おほん)ありきに(こと)なり、(みな)いと(かな)しう(おも)ふなり。なかに、かの御禊(みそぎ)()(かり)御随身(みずいじん)にて(つか)うまつりし右近(うこん)将監(ぞう)蔵人(くらうど)()べきかうぶりもほど()ぎつるを、つひに御簡削(みふだけづ)られ、(つかさ)()られて、はしたなければ、御供(おほんとも)(まゐ)るうちなり。 つきまでてでたまふ。おほんともにただろくにんばかり、しもびともむつましきかぎりして、おほんむまにてぞおはする。さらなることなれど、ありしおほんありきにことなり、みないとかなしうおもふなり。なかに、かのみそぎかりみずいじんにてつかうまつりしうこんぞうくらうどべきかうぶりもほどぎつるを、つひにみふだけづられ、つかさられて、はしたなければ、おほんともまゐるうちなり。
121.7.2178158 賀茂(かも)(しも)御社(みやしろ)を、かれと見渡(みわた)すほど、ふと(おも)()でられて、()りて、御馬(おほんむま)(くち)()る。 かもしもみやしろを、かれとみわたすほど、ふとおもでられて、りて、おほんむまくちる。
121.7.3179159 「ひき()れて(あふひ)かざししそのかみを<BR/>(おも)へばつらし賀茂(かも)瑞垣(みづがき) "〔ひきれてあふひかざししそのかみを<BR/>おもへばつらしかもみづがき〕"
121.7.4180160 ()ふを、「げに、いかに(おも)ふらむ。(ひと)よりけにはなやかなりしものを」と(おぼ)すも、心苦(こころぐる)し。 ふを、"げに、いかにおもふらん。ひとよりけにはなやかなりしものを。"とおぼすも、こころぐるし。
121.7.5181161 (きみ)も、御馬(おほんむま)より()りたまひて、御社(みやしろ)のかた(をが)みたまふ。(かみ)にまかり(まう)したまふ。 きみも、おほんむまよりりたまひて、みやしろのかたをがみたまふ。かみにまかりまうしたまふ。
121.7.6182162 ()()をば(いま)(わか)るるとどまらむ<BR/>()をば(ただす)(かみ)にまかせて」 "〔をばいまわかるるとどまらん<BR/>をばただすかみにまかせて〕
121.7.7183163 とのたまふさま、ものめでする(わか)(ひと)にて、()にしみてあはれにめでたしと()たてまつる。 とのたまふさま、ものめでするわかひとにて、にしみてあはれにめでたしとたてまつる。
121.7.8184164 御山(みやま)()うでたまひて、おはしましし(おほん)ありさま、ただ()(まへ)のやうに(おぼ)()でらる。(かぎ)りなきにても、()()くなりぬる(ひと)ぞ、()はむかたなく口惜(くちを)しきわざなりける。よろづのことを()()(まう)したまひても、そのことわりをあらはに(うけたまは)りたまはねば、「さばかり(おぼ)しのたまはせしさまざまの御遺言(おほんゆいごん)は、いづちか()()せにけむ」と、いふかひなし。 みやまうでたまひて、おはしまししおほんありさま、ただまへのやうにおぼでらる。かぎりなきにても、くなりぬるひとぞ、はんかたなくくちをしきわざなりける。よろづのことをまうしたまひても、そのことわりをあらはにうけたまはりたまはねば、"さばかりおぼしのたまはせしさまざまのおほんゆいごんは、いづちかせにけん。"と、いふかひなし。
121.7.9185166 御墓(みはか)は、(みち)草茂(くさしげ)くなりて、()()りたまふほど、いとど(つゆ)けきに、(つき)(かく)れて、(もり)木立(こだち)木深(こぶか)(こころ)すごし。(かへ)()でむ(かた)もなき心地(ここち)して、(をが)みたまふに、ありし御面影(おほんおもかげ)、さやかに()えたまへる、そぞろ(さむ)きほどなり。 みはかは、みちくさしげくなりて、りたまふほど、いとどつゆけきに、つきかくれて、もりこだちこぶかこころすごし。かへでんかたもなきここちして、をがみたまふに、ありしおほんおもかげ、さやかにえたまへる、そぞろさむきほどなり。
121.7.10186167 ()(かげ)やいかが()るらむよそへつつ<BR/>(なが)むる(つき)雲隠(くもがく)れぬる」 "〔かげやいかがるらんよそへつつ<BR/>ながむるつきくもがくれぬる〕
121.8187168第八段 東宮に離京の挨拶
121.8.1188169 ()()つるほどに(かへ)りたまひて、春宮(とうぐう)にも御消息聞(おほんせうそこき)こえたまふ。王命婦(わうみゃうぶ)御代(おほんか)はりにてさぶらはせたまへば、「その御局(みつぼね)に」とて、 つるほどにかへりたまひて、とうぐうにもおほんせうそこきこえたまふ。わうみゃうぶおほんかはりにてさぶらはせたまへば、"そのみつぼねに。"とて、
121.8.2189170 今日(けふ)なむ、都離(みやこはな)れはべる。また(まゐ)りはべらずなりぬるなむ、あまたの(うれ)へにまさりて(おも)うたまへられはべる。よろづ()(はか)りて(けい)したまへ。 "けふなん、みやこはなれはべる。またまゐりはべらずなりぬるなん、あまたのうれへにまさりておもうたまへられはべる。よろづはかりてけいしたまへ。
121.8.3190171 いつかまた(はる)(みやこ)(はな)()む<BR/>時失(ときうしな)へる山賤(やまがつ)にして」 いつかまたはるみやこはなん<BR/>ときうしなへるやまがつにして〕
121.8.4191172 (さくら)()りすきたる(えだ)につけたまへり。「かくなむ」と御覧(ごらん)ぜさすれば、(をさな)御心地(みここち)にもまめだちておはします。 さくらりすきたるえだにつけたまへり。"かくなん。"とごらんぜさすれば、をさなみここちにもまめだちておはします。
121.8.5192173 御返(おほんかへ)りいかがものしたまふらむ」 "おほんかへりいかがものしたまふらん。"
121.8.6193174 (けい)すれば、 けいすれば、
121.8.7194175 「しばし()ぬだに(こひ)しきものを、(とほ)くはましていかに、と()へかし」 "しばしぬだにこひしきものを、とほくはましていかに、とへかし。"
121.8.8195176 とのたまはす。「ものはかなの御返(おほんかへ)りや」と、あはれに()たてまつる。あぢきなきことに御心(みこころ)をくだきたまひし(むかし)のこと、折々(をりをり)(おほん)ありさま、(おも)(つづ)けらるるにも、もの(おも)ひなくて(われ)(ひと)()ぐいたまひつべかりける()を、(こころ)(おぼ)(なげ)きけるを(くや)しう、わが(こころ)ひとつにかからむことのやうにぞおぼゆる。御返(おほんかへ)りは、 とのたまはす。"ものはかなのおほんかへりや。"と、あはれにたてまつる。あぢきなきことにみこころをくだきたまひしむかしのこと、をりをりおほんありさま、おもつづけらるるにも、ものおもひなくてわれひとぐいたまひつべかりけるを、こころおぼなげきけるをくやしう、わがこころひとつにかからんことのやうにぞおぼゆる。おほんかへりは、
121.8.9196177 「さらに()こえさせやりはべらず。御前(おまへ)には(けい)しはべりぬ。心細(こころぼそ)げに(おぼ)()したる()けしきもいみじくなむ」 "さらにこえさせやりはべらず。おまへにはけいしはべりぬ。こころぼそげにおぼしたるけしきもいみじくなん。"
121.8.10197178 と、そこはかとなく、(こころ)(みだ)れけるなるべし。 と、そこはかとなく、こころみだれけるなるべし。
121.8.11198179 ()きてとく()るは()けれどゆく(はる)は<BR/>(はな)(みやこ)()(かへ)() "〔きてとくるはけれどゆくはるは<BR/>はなみやこかへ
121.8.12199180 (とき)しあらば」 ときしあらば。"
121.8.13200181 ()こえて、名残(なごり)もあはれなる物語(ものがたり)をしつつ、一宮(ひとみや)のうち、(しの)びて()きあへり。 こえて、なごりもあはれなるものがたりをしつつ、ひとみやのうち、しのびてきあへり。
121.8.14201182 一目(ひとめ)()たてまつれる(ひと)は、かく(おぼ)しくづほれぬる(おほん)ありさまを、(なげ)()しみきこえぬ(ひと)なし。まして、(つね)(まゐ)()れたりしは、()(およ)びたまふまじき長女(をさめ)御厠人(みかはやうど)まで、ありがたき御顧(おほんかへり)みの(した)なりつるを、「しばしにても、()たてまつらぬほどや()む」と、(おも)(なげ)きけり。 ひとめたてまつれるひとは、かくおぼしくづほれぬるおほんありさまを、なげしみきこえぬひとなし。まして、つねまゐれたりしは、およびたまふまじきをさめみかはやうどまで、ありがたきおほんかへりみのしたなりつるを、"しばしにても、たてまつらぬほどやん。"と、おもなげきけり。
121.8.15202183 おほかたの()(ひと)も、(たれ)かはよろしく(おも)ひきこえむ。(なな)つになりたまひしこのかた、(みかど)御前(おまへ)夜昼(よるひる)さぶらひたまひて、(そう)したまふことのならぬはなかりしかば、この(おほん)いたはりにかからぬ(ひと)なく、御徳(おほんとく)をよろこばぬやはありし。やむごとなき上達部(かんだちめ)弁官(べんかん)などのなかにも(おほ)かり。それより(しも)数知(かずし)らぬを、(おも)()らぬにはあらねど、さしあたりて、いちはやき()(おも)(はばか)りて、(まゐ)()るもなし。()ゆすりて()しみきこえ、(した)朝廷(おほやけ)をそしり、(うら)みたてまつれど、「()()ててとぶらひ(まゐ)らむにも、(なに)のかひかは」と(おも)ふにや、かかる(をり)人悪(ひとわ)ろく、(うら)めしき人多(ひとおほ)く、「()(なか)はあぢきなきものかな」とのみ、よろづにつけて(おぼ)す。 おほかたのひとも、たれかはよろしくおもひきこえん。ななつになりたまひしこのかた、みかどおまへよるひるさぶらひたまひて、そうしたまふことのならぬはなかりしかば、このおほんいたはりにかからぬひとなく、おほんとくをよろこばぬやはありし。やんごとなきかんだちめべんかんなどのなかにもおほかり。それよりしもかずしらぬを、おもらぬにはあらねど、さしあたりて、いちはやきおもはばかりて、まゐるもなし。ゆすりてしみきこえ、したおほやけをそしり、うらみたてまつれど、"ててとぶらひまゐらんにも、なにのかひかは。"とおもふにや、かかるをりひとわろく、うらめしきひとおほく、"なかはあぢきなきものかな。"とのみ、よろづにつけておぼす。
121.9203184第九段 離京の当日
121.9.1204185 その()は、女君(をんなぎみ)御物語(おほんものがたり)のどかに()こえ()らしたまひて、(れい)の、夜深(よぶか)()でたまふ。(かり)御衣(おほんぞ)など、(たび)(おほん)よそひ、いたくやつしたまひて、 そのは、をんなぎみおほんものがたりのどかにこえらしたまひて、れいの、よぶかでたまふ。かりおほんぞなど、たびおほんよそひ、いたくやつしたまひて、
121.9.2205186 月出(つきい)でにけりな。なほすこし()でて、()だに(おく)りたまへかし。いかに()こゆべきこと(おほ)くつもりにけりとおぼえむとすらむ。一日(ひとひ)二日(ふつか)たまさかに(へだ)たる(をり)だに、あやしういぶせき心地(ここち)するものを」 "つきいでにけりな。なほすこしでて、だにおくりたまへかし。いかにこゆべきことおほくつもりにけりとおぼえんとすらん。ひとひふつかたまさかにへだたるをりだに、あやしういぶせきここちするものを。"
121.9.3206187 とて、御簾巻(みすま)()げて、(はし)にいざなひきこえたまへば、女君(をんなぎみ)()(しづ)みたまへるを、ためらひて、ゐざり()でたまへる、月影(つきかげ)に、いみじうをかしげにてゐたまへり。「わが()かくてはかなき()(わか)れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」と、うしろめたく(かな)しけれど、(おぼ)()りたるに、いとどしかるべければ、 とて、みすまげて、はしにいざなひきこえたまへば、をんなぎみしづみたまへるを、ためらひて、ゐざりでたまへる、つきかげに、いみじうをかしげにてゐたまへり。"わがかくてはかなきわかれなば、いかなるさまにさすらへたまはん。"と、うしろめたくかなしけれど、おぼりたるに、いとどしかるべければ、
121.9.4207188 ()ける()(わか)れを()らで(ちぎ)りつつ<BR/>(いのち)(ひと)(かぎ)りけるかな "〔けるわかれをらでちぎりつつ<BR/>いのちひとかぎりけるかな
121.9.5208189 はかなし」 はかなし。"
121.9.6209190 など、あさはかに()こえなしたまへば、 など、あさはかにこえなしたまへば、
121.9.7210191 ()しからぬ(いのち)()へて()(まへ)の<BR/>(わか)れをしばしとどめてしがな」 "〔しからぬいのちへてまへの<BR/>わかれをしばしとどめてしがな〕
121.9.8211192 「げに、さぞ(おぼ)さるらむ」と、いと見捨(みす)てがたけれど、()()てなば、はしたなかるべきにより、(いそ)()でたまひぬ。 "げに、さぞおぼさるらん。"と、いとみすてがたけれど、てなば、はしたなかるべきにより、いそでたまひぬ。
121.9.9212194 (みち)すがら、面影(おもかげ)につと()ひて、(むね)もふたがりながら、御舟(おほんふね)()りたまひぬ。日長(ひなが)きころなれば、追風(おひかぜ)さへ()ひて、まだ(さる)(とき)ばかりに、かの(うら)()きたまひぬ。かりそめの(みち)にても、かかる(たび)をならひたまはぬ心地(ここち)に、心細(こころぼそ)さもをかしさもめづらかなり。大江殿(おほえどの)()ひける(ところ)は、いたう()れて、(まつ)ばかりぞしるしなる。 みちすがら、おもかげにつとひて、むねもふたがりながら、おほんふねりたまひぬ。ひながきころなれば、おひかぜさへひて、まださるときばかりに、かのうらきたまひぬ。かりそめのみちにても、かかるたびをならひたまはぬここちに、こころぼそさもをかしさもめづらかなり。おほえどのひけるところは、いたうれて、まつばかりぞしるしなる。
121.9.10213195 唐国(からくに)()(のこ)しける(ひと)よりも<BR/>行方知(ゆくへし)られぬ家居(いへゐ)をやせむ」 "〔からくにのこしけるひとよりも<BR/>ゆくへしられぬいへゐをやせん〕
121.9.11214196 (なぎさ)()(なみ)のかつ(かへ)るを()たまひて、「うらやましくも」と、うち()じたまへるさま、さる()古言(ふること)なれど、(めづら)しう()きなされ、(かな)しとのみ御供(おほんとも)(ひと)びと(おも)へり。うち(かへり)みたまへるに、()(かた)(やま)(かすみ)はるかにて、まことに「三千里(さんぜんり)(ほか)」の心地(ここち)するに、(かい)(しづく)()へがたし。 なぎさなみのかつかへるをたまひて、"うらやましくも"と、うちじたまへるさま、さるふることなれど、めづらしうきなされ、かなしとのみおほんともひとびとおもへり。うちかへりみたまへるに、かたやまかすみはるかにて、まことに"さんぜんりほか"のここちするに、かいしづくへがたし。
121.9.12215197 故郷(ふるさと)(みね)(かすみ)(へだ)つれど<BR/>(なが)むる(そら)(おな)雲居(くもゐ)か」 "〔ふるさとみねかすみへだつれど<BR/>ながむるそらおなくもゐか〕
121.9.13216198 つらからぬものなくなむ。 つらからぬものなくなん。
122217199第二章 光る源氏の物語 夏の長雨と鬱屈の物語
122.1218200第一段 須磨の住居
122.1.1219201 おはすべき(ところ)は、行平(ゆきひら)中納言(ちゅうなごん)の、「藻塩垂(もしほた)れつつ」()びける家居近(いへゐちか)きわたりなりけり。(うみ)づらはやや()りて、あはれにすごげなる山中(やまなか)なり。 おはすべきところは、ゆきひらちゅうなごんの、"もしほたれつつ"びけるいへゐちかきわたりなりけり。うみづらはややりて、あはれにすごげなるやまなかなり。
122.1.2220202 (かき)のさまよりはじめて、めづらかに()たまふ。茅屋(かやや)ども、葦葺(あしふ)ける(らう)めく()など、をかしうしつらひなしたり。(ところ)につけたる御住(おほんす)まひ、やう()はりて、「かからぬ(をり)ならば、をかしうもありなまし」と、(むかし)御心(みこころ)のすさび(おぼ)()づ。 かきのさまよりはじめて、めづらかにたまふ。かややども、あしふけるらうめくなど、をかしうしつらひなしたり。ところにつけたるおほんすまひ、やうはりて、"かからぬをりならば、をかしうもありなまし。"と、むかしみこころのすさびおぼづ。
122.1.3221203 (ちか)所々(ところどころ)御荘(みさう)司召(つかさめ)して、さるべきことどもなど、良清朝臣(よしきよのあそん)(した)しき家司(けいし)にて、(おほ)(おこ)なふもあはれなり。(とき)()に、いと見所(みどころ)ありてしなさせたまふ。水深(みづふか)()りなし、植木(うゑき)どもなどして、(いま)はと(しづ)まりたまふ心地(ここち)、うつつならず。(くに)(かみ)(した)しき殿人(とのびと)なれば、(しの)びて心寄(こころよ)(つか)うまつる。かかる旅所(たびどころ)ともなう、人騒(ひとさわ)がしけれども、はかばかしう(もの)をものたまひあはすべき(ひと)しなければ、()らぬ(くに)心地(ここち)して、いと(むも)れいたく、「いかで年月(としつき)()ぐさまし」と(おぼ)しやらる。 ちかところどころみさうつかさめして、さるべきことどもなど、よしきよのあそんしたしきけいしにて、おほおこなふもあはれなり。ときに、いとみどころありてしなさせたまふ。みづふかりなし、うゑきどもなどして、いまはとしづまりたまふここち、うつつならず。くにかみしたしきとのびとなれば、しのびてこころよつかうまつる。かかるたびどころともなう、ひとさわがしけれども、はかばかしうものをものたまひあはすべきひとしなければ、らぬくにここちして、いとむもれいたく、"いかでとしつきぐさまし。"とおぼしやらる。
122.2222204第二段 京の人々へ手紙
122.2.1223205 やうやう事静(ことしづ)まりゆくに、長雨(ながあめ)のころになりて、(きゃう)のことも(おぼ)しやらるるに、(こひ)しき人多(ひとおほ)く、女君(をんなぎみ)(おぼ)したりしさま、春宮(とうぐう)御事(おほんこと)若君(わかぎみ)何心(なにごころ)もなく(まぎ)れたまひしなどをはじめ、ここかしこ(おも)ひやりきこえたまふ。 やうやうことしづまりゆくに、ながあめのころになりて、きゃうのこともおぼしやらるるに、こひしきひとおほく、をんなぎみおぼしたりしさま、とうぐうおほんことわかぎみなにごころもなくまぎれたまひしなどをはじめ、ここかしこおもひやりきこえたまふ。
122.2.2224206 (きゃう)人出(ひとい)だし()てたまふ。二条院(にでうのゐん)へたてまつりたまふと、入道(にふだう)(みや)のとは、()きもやりたまはず、(くら)されたまへり。(みや)には、 きゃうひといだしてたまふ。にでうのゐんへたてまつりたまふと、にふだうみやのとは、きもやりたまはず、くらされたまへり。みやには、
122.2.3225207 松島(まつしま)海人(あま)苫屋(とまや)もいかならむ<BR/>須磨(すま)浦人(うらびと)しほたるるころ "〔まつしまあまとまやもいかならん<BR/>すまうらびとしほたるるころ
122.2.4226208 いつとはべらぬなかにも、()方行(かたゆ)(さき)かきくらし、『(みぎは)まさりて』なむ」 いつとはべらぬなかにも、かたゆさきかきくらし、'みぎはまさりて'なん。"
122.2.5227209 尚侍(ないしのかみ)(おほん)もとに、(れい)の、中納言(ちゅうなごん)(きみ)私事(わたくしごと)のやうにて、(なか)なるに、 ないしのかみおほんもとに、れいの、ちゅうなごんきみわたくしごとのやうにて、なかなるに、
122.2.6228210 「つれづれと()ぎにし(かた)(おも)ひたまへ()でらるるにつけても、 "つれづれとぎにしかたおもひたまへでらるるにつけても、
122.2.7229211 こりずまの(うら)のみるめのゆかしきを<BR/>塩焼(しほや)海人(あま)やいかが(おも)はむ」 こりずまのうらのみるめのゆかしきを<BR/>しほやあまやいかがおもはん〕
122.2.8230212 さまざま()()くしたまふ(こと)()(おも)ひやるべし。 さまざまくしたまふことおもひやるべし。
122.2.9231213 大殿(おほいどの)にも、宰相(さいしゃう)乳母(めのと)にも、(つか)うまつるべきことなど()きつかはす。 おほいどのにも、さいしゃうめのとにも、つかうまつるべきことなどきつかはす。
122.2.10232214 (きゃう)には、この御文(おほんふみ)所々(ところどころ)()たまひつつ、御心乱(みこころみだ)れたまふ(ひと)びとのみ(おほ)かり。二条院(にでうのゐん)(きみ)は、そのままに()きも()がりたまはず、()きせぬさまに(おぼ)しこがるれば、さぶらふ(ひと)びともこしらへわびつつ、心細(こころぼそ)(おも)ひあへり。 きゃうには、このおほんふみところどころたまひつつ、みこころみだれたまふひとびとのみおほかり。にでうのゐんきみは、そのままにきもがりたまはず、きせぬさまにおぼしこがるれば、さぶらふひとびともこしらへわびつつ、こころぼそおもひあへり。
122.2.11233215 もてならしたまひし御調度(みてうど)ども、()きならしたまひし御琴(おほんこと)()()てたまひつる御衣(おほんぞ)(にほ)ひなどにつけても、(いま)はと()になからむ(ひと)のやうにのみ(おぼ)したれば、かつはゆゆしうて、少納言(せうなごん)は、僧都(そうづ)御祈(おほんいの)りのことなど()こゆ。二方(ふたかた)御修法(みしゅほふ)などせさせたまふ。かつは、「(おぼ)(なげ)御心静(みこころしづ)めたまひて、(おも)ひなき()にあらせたてまつりたまへ」と、心苦(こころぐる)しきままに(いの)(まう)したまふ。 もてならしたまひしみてうどども、きならしたまひしおほんことてたまひつるおほんぞにほひなどにつけても、いまはとになからんひとのやうにのみおぼしたれば、かつはゆゆしうて、せうなごんは、そうづおほんいのりのことなどこゆ。ふたかたみしゅほふなどせさせたまふ。かつは、"おぼなげみこころしづめたまひて、おもひなきにあらせたてまつりたまへ。"と、こころぐるしきままにいのまうしたまふ。
122.2.12234216 (たび)御宿直物(おほんとのゐもの)など、調(てう)じてたてまつりたまふ。かとりの御直衣(おほんなほし)指貫(さしぬき)、さま()はりたる心地(ここち)するもいみじきに、「()らぬ(かがみ)」とのたまひし面影(おもかげ)の、げに()()ひたまへるもかひなし。 たびおほんとのゐものなど、てうじてたてまつりたまふ。かとりのおほんなほしさしぬき、さまはりたるここちするもいみじきに、"らぬかがみ"とのたまひしおもかげの、げにひたまへるもかひなし。
122.2.13235217 ()()りたまひし(かた)()りゐたまひし真木柱(まきばしら)などを()たまふにも、(むね)のみふたがりて、ものをとかう(おも)ひめぐらし、()にしほじみぬる(よはひ)(ひと)だにあり、まして、()れむつびきこえ、父母(ちちはは)にもなりて()ほし()てならはしたまへれば、(こひ)しう(おも)ひきこえたまへる、ことわりなり。ひたすら()になくなりなむは、()はむ(かた)なくて、やうやう(わす)(ぐさ)()ひやすらむ、()くほどは(ちか)けれど、いつまでと(かぎ)りある御別(おほんわか)れにもあらで、(おぼ)すに()きせずなむ。 りたまひしかたりゐたまひしまきばしらなどをたまふにも、むねのみふたがりて、ものをとかうおもひめぐらし、にしほじみぬるよはひひとだにあり、まして、れむつびきこえ、ちちははにもなりてほしてならはしたまへれば、こひしうおもひきこえたまへる、ことわりなり。ひたすらになくなりなんは、はんかたなくて、やうやうわすぐさひやすらん、くほどはちかけれど、いつまでとかぎりあるおほんわかれにもあらで、おぼすにきせずなん。
122.2.14236218 入道宮(にふだうのみや)にも、春宮(とうぐう)御事(おほんこと)により(おぼ)(なげ)くさま、いとさらなり。御宿世(おほんすくせ)のほどを(おぼ)すには、いかが(あさ)(おぼ)されむ。(とし)ごろはただものの()こえなどのつつましさに、「すこし(なさ)けあるけしき()せば、それにつけて(ひと)のとがめ()づることもこそ」とのみ、ひとへに(おぼ)(しの)びつつ、あはれをも(おほ)御覧(ごらん)()ぐし、すくすくしうもてなしたまひしを、「かばかり()()人言(ひとごと)なれど、かけてもこの(かた)には()()づることなくて()みぬるばかりの、(ひと)(おほん)おもむけも、あながちなりし(こころ)()(かた)にまかせず、かつはめやすくもて(かく)しつるぞかし」。あはれに(こひ)しうも、いかが(おぼ)()でざらむ。御返(おほんかへ)りも、すこしこまやかにて、 にふだうのみやにも、とうぐうおほんことによりおぼなげくさま、いとさらなり。おほんすくせのほどをおぼすには、いかがあさおぼされん。としごろはただもののこえなどのつつましさに、"すこしなさけあるけしきせば、それにつけてひとのとがめづることもこそ。"とのみ、ひとへにおぼしのびつつ、あはれをもおほごらんぐし、すくすくしうもてなしたまひしを、"かばかりひとごとなれど、かけてもこのかたにはづることなくてみぬるばかりの、ひとおほんおもむけも、あながちなりしこころかたにまかせず、かつはめやすくもてかくしつるぞかし"。あはれにこひしうも、いかがおぼでざらん。おほんかへりも、すこしこまやかにて、
122.2.15237219 「このころは、いとど、 "このころは、いとど、
122.2.16238220 塩垂(しほた)るることをやくにて松島(まつしま)に<BR/>(とし)ふる海人(あま)(なげ)きをぞつむ」 しほたるることをやくにてまつしまに<BR/>としふるあまなげきをぞつむ〕
122.2.17239221 尚侍君(かんのきみ)御返(おほんかへ)りには、 かんのきみおほんかへりには、
122.2.18240222 (うら)にたく海人(あま)だにつつむ(こひ)なれば<BR/>くゆる(けぶり)()(かた)ぞなき "〔うらにたくあまだにつつむこひなれば<BR/>くゆるけぶりかたぞなき
122.2.19241223 さらなることどもは、えなむ」 さらなることどもは、えなん。"
122.2.20242224 とばかり、いささか()きて、中納言(ちゅうなごん)(きみ)(なか)にあり。(おぼ)(なげ)くさまなど、いみじう()ひたり。あはれと(おも)ひきこえたまふ節々(ふしぶし)もあれば、うち()かれたまひぬ。 とばかり、いささかきて、ちゅうなごんきみなかにあり。おぼなげくさまなど、いみじうひたり。あはれとおもひきこえたまふふしぶしもあれば、うちかれたまひぬ。
122.2.21243225 姫君(ひめぎみ)御文(おほんふみ)は、(こころ)ことにこまかなりし御返(おほんかへ)りなれば、あはれなること(おほ)くて、 ひめぎみおほんふみは、こころことにこまかなりしおほんかへりなれば、あはれなることおほくて、
122.2.22244226 浦人(うらびと)(しほ)くむ(そで)(くら)()よ<BR/>波路(なみぢ)へだつる(よる)(ころも)を」 "〔うらびとしほくむそでくらよ<BR/>なみぢへだつるよるころもを〕
122.2.23245227 ものの(いろ)、したまへるさまなど、いときよらなり。(なに)ごともらうらうじうものしたまふを、(おも)ふさまにて、「(いま)他事(ことごと)(こころ)あわたたしう、()きかかづらふ(かた)もなく、しめやかにてあるべきものを」と(おぼ)すに、いみじう口惜(くちを)しう、夜昼面影(よるひるおもかげ)におぼえて、()へがたう(おも)()でられたまへば、「なほ(しの)びてや(むか)へまし」と(おぼ)す。またうち(かへ)し、「なぞや、かく()()に、(つみ)をだに(うしな)はむ」と(おぼ)せば、やがて御精進(みさうじん)にて、()()(おこ)なひておはす。 もののいろ、したまへるさまなど、いときよらなり。なにごともらうらうじうものしたまふを、おもふさまにて、"いまことごとこころあわたたしう、きかかづらふかたもなく、しめやかにてあるべきものを。"とおぼすに、いみじうくちをしう、よるひるおもかげにおぼえて、へがたうおもでられたまへば、"なほしのびてやむかへまし。"とおぼす。またうちかへし、"なぞや、かくに、つみをだにうしなはん。"とおぼせば、やがてみさうじんにて、おこなひておはす。
122.2.24246228 大殿(おほとの)若君(わかぎみ)御事(おほんこと)などあるにも、いと(かな)しけれど、「おのづから()()てむ。(たの)もしき(ひと)びとものしたまへば、うしろめたうはあらず」と、(おぼ)しなさるるは、なかなか、()(みち)(まど)はれぬにやあらむ。 おほとのわかぎみおほんことなどあるにも、いとかなしけれど、"おのづからてん。たのもしきひとびとものしたまへば、うしろめたうはあらず。"と、おぼしなさるるは、なかなか、みちまどはれぬにやあらん。
122.3247229第三段 伊勢の御息所へ手紙
122.3.1248230 まことや、(さわ)がしかりしほどの(まぎ)れに()らしてけり。かの伊勢(いせ)(みや)へも御使(おほんつかひ)ありけり。かれよりも、ふりはへ(たづ)(まゐ)れり。(あさ)からぬことども()きたまへり。(こと)()(ふで)づかひなどは、(ひと)よりことになまめかしく、いたり(ふか)()えたり。 まことや、さわがしかりしほどのまぎれにらしてけり。かのいせみやへもおほんつかひありけり。かれよりも、ふりはへたづまゐれり。あさからぬことどもきたまへり。ことふでづかひなどは、ひとよりことになまめかしく、いたりふかえたり。
122.3.2249231 「なほうつつとは(おも)ひたまへられぬ御住(おほんすま)ひをうけたまはるも、()けぬ()心惑(こころまど)ひかとなむ。さりとも、年月隔(としつきへだ)てたまはじと、(おも)ひやりきこえさするにも、罪深(つみふか)()のみこそ、また()こえさせむこともはるかなるべけれ。 "なほうつつとはおもひたまへられぬおほんすまひをうけたまはるも、けぬこころまどひかとなん。さりとも、としつきへだてたまはじと、おもひやりきこえさするにも、つみふかのみこそ、またこえさせんこともはるかなるべけれ。
122.3.3250232 うきめかる伊勢(いせ)をの海人(あま)(おも)ひやれ<BR/>藻塩垂(もしほた)るてふ須磨(すま)(うら)にて うきめかるいせをのあまおもひやれ<BR/>もしほたるてふすまうらにて
122.3.4251233 よろづに(おも)ひたまへ(みだ)るる()のありさまも、なほいかになり()つべきにか」 よろづにおもひたまへみだるるのありさまも、なほいかになりつべきにか。"
122.3.5252234 (おほ)かり。 おほかり。
122.3.6253235 伊勢島(いせしま)潮干(しほひ)(かた)(あさ)りても<BR/>いふかひなきは()()なりけり」 "〔いせしましほひかたあさりても<BR/>いふかひなきはなりけり〕
122.3.7254236 ものをあはれと(おぼ)しけるままに、うち()きうち()()きたまへる、(しろ)(から)(かみ)()五枚(ごまい)ばかりを()(つづ)けて、(すみ)つきなど見所(みどころ)あり。 ものをあはれとおぼしけるままに、うちきうちきたまへる、しろからかみごまいばかりをつづけて、すみつきなどみどころあり。
122.3.8255237 「あはれに(おも)ひきこえし(ひと)を、ひとふし()しと(おも)ひきこえし(こころ)あやまりに、かの御息所(みやすんどころ)(おも)(うん)じて(わか)れたまひにし」と(おぼ)せば、(いま)にいとほしうかたじけなきものに(おも)ひきこえたまふ。(をり)からの御文(おほんふみ)、いとあはれなれば、御使(おほんつかひ)さへむつましうて、(ふつか)三日据(みかす)ゑさせたまひて、かしこの物語(ものがたり)などせさせて()こしめす。 "あはれにおもひきこえしひとを、ひとふししとおもひきこえしこころあやまりに、かのみやすんどころおもうんじてわかれたまひにし。"とおぼせば、いまにいとほしうかたじけなきものにおもひきこえたまふ。をりからのおほんふみ、いとあはれなれば、おほんつかひさへむつましうて、ふつかみかすゑさせたまひて、かしこのものがたりなどせさせてこしめす。
122.3.9256238 (わか)やかにけしきある(さぶらひ)(ひと)なりけり。かくあはれなる御住(おほんす)まひなれば、かやうの(ひと)もおのづからもの(とほ)からで、ほの()たてまつる(おほん)さま、容貌(かたち)を、いみじうめでたし、と涙落(なみだおと)しをりけり。御返(おほんかへ)()きたまふ、(こと)()(おも)ひやるべし。 わかやかにけしきあるさぶらひひとなりけり。かくあはれなるおほんすまひなれば、かやうのひともおのづからものとほからで、ほのたてまつるおほんさま、かたちを、いみじうめでたし、となみだおとしをりけり。おほんかへきたまふ、ことおもひやるべし。
122.3.10257239 「かく()(はな)るべき()と、(おも)ひたまへましかば、(おな)じくは(した)ひきこえましものを、などなむ。つれづれと、心細(こころぼそ)きままに、 "かくはなるべきと、おもひたまへましかば、おなじくはしたひきこえましものを、などなん。つれづれと、こころぼそきままに、
122.3.11258240 伊勢人(いせびと)(なみ)上漕(うへこ)小舟(をぶね)にも<BR/>うきめは()らで()らましものを いせびとなみうへこをぶねにも<BR/>うきめはらでらましものを
122.3.12259241 海人(あま)がつむなげきのなかに塩垂(しほた)れて<BR/>いつまで須磨(すま)(うら)(なが)めむ あまがつむなげきのなかにしほたれて<BR/>いつまですまうらながめん
122.3.13260242 ()こえさせむことの、いつともはべらぬこそ、()きせぬ心地(ここち)しはべれ」 こえさせんことの、いつともはべらぬこそ、きせぬここちしはべれ。"
122.3.14261243 などぞありける。かやうに、いづこにもおぼつかなからず()こえかはしたまふ。 などぞありける。かやうに、いづこにもおぼつかなからずこえかはしたまふ。
122.3.15262245 花散里(はなちるさと)も、(かな)しと(おぼ)しけるままに()(あつ)めたまへる御心々見(みこころごころみ)たまふ、をかしきも()なれぬ心地(ここち)して、いづれもうち()つつ(なぐさ)めたまへど、もの(おも)ひのもよほしぐさなめり。 はなちるさとも、かなしとおぼしけるままにあつめたまへるみこころごころみたまふ、をかしきもなれぬここちして、いづれもうちつつなぐさめたまへど、ものおもひのもよほしぐさなめり。
122.3.16263246 ()れまさる(のき)のしのぶを(なが)めつつ<BR/>しげくも(つゆ)のかかる(そで)かな」 "〔れまさるのきのしのぶをながめつつ<BR/>しげくもつゆのかかるそでかな〕
122.3.17264247 とあるを、「げに、(むぐら)よりほかの後見(うしろみ)もなきさまにておはすらむ」と(おぼ)しやりて、「長雨(ながあめ)築地所々崩(ついぢところどころくづ)れてなむ」と()きたまへば、(きゃう)家司(けいし)のもとに(おほ)せつかはして、(ちか)国々(くにぐに)御荘(みさう)(もの)などもよほさせて、(つか)うまつるべき(よし)のたまはす。 とあるを、"げに、むぐらよりほかのうしろみもなきさまにておはすらん。"とおぼしやりて、"ながあめついぢところどころくづれてなん。"ときたまへば、きゃうけいしのもとにおほせつかはして、ちかくにぐにみさうものなどもよほさせて、つかうまつるべきよしのたまはす。
122.4265248第四段 朧月夜尚侍参内する
122.4.1266249 尚侍(かん)(きみ)は、人笑(ひとわら)へにいみじう(おぼ)しくづほるるを、大臣(おとど)いとかなしうしたまふ(きみ)にて、せちに、(みや)にも内裏(うち)にも(そう)したまひければ、「(かぎ)りある女御(にょうご)御息所(みやすんどころ)にもおはせず、(おほやけ)ざまの宮仕(みやづか)へ」と(おぼ)(なほ)り、また、「かの(にく)かりしゆゑこそ、いかめしきことも()()しか」。(ゆる)されたまひて、(まゐ)りたまふべきにつけても、なほ(こころ)()みにし(かた)ぞ、あはれにおぼえたまける。 かんきみは、ひとわらへにいみじうおぼしくづほるるを、おとどいとかなしうしたまふきみにて、せちに、みやにもうちにもそうしたまひければ、"かぎりあるにょうごみやすんどころにもおはせず、おほやけざまのみやづかへ。"とおぼなほり、また、"かのにくかりしゆゑこそ、いかめしきこともしか"。ゆるされたまひて、まゐりたまふべきにつけても、なほこころみにしかたぞ、あはれにおぼえたまける。
122.4.2267250 七月(ふづき)になりて(まゐ)りたまふ。いみじかりし御思(おほんおも)ひの名残(なごり)なれば、(ひと)のそしりもしろしめされず、(れい)の、主上(うへ)につとさぶらはせたまひて、よろづに(うら)み、かつはあはれに(ちぎ)らせたまふ。 ふづきになりてまゐりたまふ。いみじかりしおほんおもひのなごりなれば、ひとのそしりもしろしめされず、れいの、うへにつとさぶらはせたまひて、よろづにうらみ、かつはあはれにちぎらせたまふ。
122.4.3268251 (おほん)さま容貌(かたち)もいとなまめかしうきよらなれど、(おも)()づることのみ(おほ)かる(こころ)のうちぞ、かたじけなき。御遊(おほんあそ)びのついでに、 おほんさまかたちもいとなまめかしうきよらなれど、おもづることのみおほかるこころのうちぞ、かたじけなき。おほんあそびのついでに、
122.4.4269252 「その(ひと)のなきこそ、いとさうざうしけれ。いかにましてさ(おも)人多(ひとおほ)からむ。(なに)ごとも(ひかり)なき心地(ここち)するかな」とのたまはせて、「(ゐん)(おぼ)しのたまはせし御心(みこころ)(たが)へつるかな。罪得(つみう)らむかし」 "そのひとのなきこそ、いとさうざうしけれ。いかにましてさおもひとおほからん。なにごともひかりなきここちするかな。"とのたまはせて、"ゐんおぼしのたまはせしみこころたがへつるかな。つみうらんかし。"
122.4.5270253 とて、(なみだ)ぐませたまふに、え(ねん)じたまはず。 とて、なみだぐませたまふに、えねんじたまはず。
122.4.6271254 ()(なか)こそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、と(おも)()るままに、(ひさ)しく()にあらむものとなむ、さらに(おも)はぬ。さもなりなむに、いかが(おぼ)さるべき。(ちか)きほどの(わか)れに(おも)()とされむこそ、ねたけれ。()ける()にとは、げに、よからぬ(ひと)()()きけむ」 "なかこそ、あるにつけてもあぢきなきものなりけれ、とおもるままに、ひさしくにあらんものとなん、さらにおもはぬ。さもなりなんに、いかがおぼさるべき。ちかきほどのわかれにおもとされんこそ、ねたけれ。けるにとは、げに、よからぬひときけん。"
122.4.7272255 と、いとなつかしき(おほん)さまにて、ものをまことにあはれと(おぼ)()りてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれ()づれば、 と、いとなつかしきおほんさまにて、ものをまことにあはれとおぼりてのたまはするにつけて、ほろほろとこぼれづれば、
122.4.8273256 「さりや。いづれに()つるにか」 "さりや。いづれにつるにか。"
122.4.9274257 とのたまはす。 とのたまはす。
122.4.10275258 (いま)まで御子(みこ)たちのなきこそ、さうざうしけれ。春宮(とうぐう)(ゐん)ののたまはせしさまに(おも)へど、よからぬことども()()めれば、心苦(こころぐる)しう」 "いままでみこたちのなきこそ、さうざうしけれ。とうぐうゐんののたまはせしさまにおもへど、よからぬことどもめれば、こころぐるしう。"
122.4.11276259 など、()御心(みこころ)のほかにまつりごちなしたまふ(ひと)びとのあるに、(わか)御心(みこころ)の、(つよ)きところなきほどにて、いとほしと(おぼ)したることも(おほ)かり。 など、みこころのほかにまつりごちなしたまふひとびとのあるに、わかみこころの、つよきところなきほどにて、いとほしとおぼしたることもおほかり。
123277260第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語
123.1278261第一段 須磨の秋
123.1.1279262 須磨(すま)には、いとど心尽(こころづ)くしの秋風(あきかぜ)に、(うみ)はすこし(とほ)けれど、行平中納言(ゆきひらのちゅうなごん)の、「関吹(せきふ)()ゆる」と()ひけむ浦波(うらなみ)夜々(よるよる)はげにいと(ちか)()こえて、またなくあはれなるものは、かかる(ところ)(あき)なりけり。 すまには、いとどこころづくしのあきかぜに、うみはすこしとほけれど、ゆきひらのちゅうなごんの、"せきふゆる"とひけんうらなみよるよるはげにいとちかこえて、またなくあはれなるものは、かかるところあきなりけり。
123.1.2280263 御前(おまへ)にいと人少(ひとずく)なにて、うち(やす)みわたれるに、一人目(ひとりめ)()まして、(まくら)をそばだてて四方(よも)(あらし)()きたまふに、(なみ)ただここもとに()ちくる心地(ここち)して、涙落(なみだお)つともおぼえぬに、枕浮(まくらう)くばかりになりにけり。(きん)をすこしかき()らしたまへるが、(われ)ながらいとすごう()こゆれば、()きさしたまひて、 おまへにいとひとずくなにて、うちやすみわたれるに、ひとりめまして、まくらをそばだててよもあらしきたまふに、なみただここもとにちくるここちして、なみだおつともおぼえぬに、まくらうくばかりになりにけり。きんをすこしかきらしたまへるが、われながらいとすごうこゆれば、きさしたまひて、
123.1.3281264 ()ひわびて()()にまがふ浦波(うらなみ)は<BR/>(おも)(かた)より(かぜ)()くらむ」 "〔ひわびてにまがふうらなみは<BR/>おもかたよりかぜくらん〕
123.1.4282265 (うた)ひたまへるに、(ひと)びとおどろきて、めでたうおぼゆるに、(しの)ばれで、あいなう()きゐつつ、(はな)(しの)びやかにかみわたす。 うたひたまへるに、ひとびとおどろきて、めでたうおぼゆるに、しのばれで、あいなうきゐつつ、はなしのびやかにかみわたす。
123.1.5283266 「げに、いかに(おも)ふらむ。()()ひとつにより、(おや)兄弟(はらから)片時立(かたときた)(はな)れがたく、ほどにつけつつ(おも)ふらむ(いへ)(わか)れて、かく(まど)ひあへる」と(おぼ)すに、いみじくて、「いとかく(おも)(しづ)むさまを、心細(こころぼそ)しと(おも)ふらむ」と(おぼ)せば、(ひる)(なに)くれとうちのたまひ(まぎ)らはし、つれづれなるままに、色々(いろいろ)(かみ)()ぎつつ、手習(てなら)ひをしたまひ、めづらしきさまなる(から)(あや)などに、さまざまの()どもを()きすさびたまへる屏風(びゃうぶ)(おもて)どもなど、いとめでたく見所(みどころ)あり。 "げに、いかにおもふらん。ひとつにより、おやはらからかたときたはなれがたく、ほどにつけつつおもふらんいへわかれて、かくまどひあへる。"とおぼすに、いみじくて、"いとかくおもしづむさまを、こころぼそしとおもふらん。"とおぼせば、ひるなにくれとうちのたまひまぎらはし、つれづれなるままに、いろいろかみぎつつ、てならひをしたまひ、めづらしきさまなるからあやなどに、さまざまのどもをきすさびたまへるびゃうぶおもてどもなど、いとめでたくみどころあり。
123.1.6284267 (ひと)びとの(かた)()こえし海山(うみやま)のありさまを、(はる)かに(おぼ)しやりしを、御目(おほんめ)(ちか)くては、げに(およ)ばぬ(いそ)のたたずまひ、()なく()(あつ)めたまへり。 ひとびとのかたこえしうみやまのありさまを、はるかにおぼしやりしを、おほんめちかくては、げにおよばぬいそのたたずまひ、なくあつめたまへり。
123.1.7285268 「このころの上手(じゃうず)にすめる千枝(ちえだ)常則(つねのり)などを()して、(つく)絵仕(ゑつか)うまつらせばや」 "このころのじゃうずにすめるちえだつねのりなどをして、つくゑつかうまつらせばや。"
123.1.8286269 と、(こころ)もとながりあへり。なつかしうめでたき(おほん)さまに、()のもの(おも)(わす)れて、(ちか)()(つか)うまつるをうれしきことにて、()五人(ごにん)ばかりぞ、つとさぶらひける。 と、こころもとながりあへり。なつかしうめでたきおほんさまに、のものおもわすれて、ちかつかうまつるをうれしきことにて、ごにんばかりぞ、つとさぶらひける。
123.1.9287271 前栽(せんさい)(はな)色々咲(いろいろさ)(みだ)れ、おもしろき夕暮(ゆふぐ)れに、海見(うみみ)やらるる(らう)()でたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、(ところ)からは、ましてこの()のものと()えたまはず。(しろ)(あや)のなよよかなる、紫苑色(しをんいろ)などたてまつりて、こまやかなる御直衣(おほんなほし)(おび)しどけなくうち(みだ)れたまへる(おほん)さまにて、 せんさいはないろいろさみだれ、おもしろきゆふぐれに、うみみやらるるらうでたまひて、たたずみたまふさまの、ゆゆしうきよらなること、ところからは、ましてこののものとえたまはず。しろあやのなよよかなる、しをんいろなどたてまつりて、こまやかなるおほんなほしおびしどけなくうちみだれたまへるおほんさまにて、
123.1.10288272 釈迦牟尼仏(さかむにぶつ)弟子(でし) "さかむにぶつでし。"
123.1.11289273 ()のりて、ゆるるかに()みたまへる、また()()らず()こゆ。 のりて、ゆるるかにみたまへる、またらずこゆ。
123.1.12290274 (おき)より(ふね)どもの(うた)ひののしりて()()くなども()こゆ。ほのかに、ただ(ちひ)さき(とり)()かべると()やらるるも、心細(こころぼそ)げなるに、(かり)(つら)ねて()(こゑ)(かぢ)(おと)にまがへるを、うち(なが)めたまひて、(なみだ)こぼるるをかき(はら)ひたまへる御手(おほんて)つき、(くろ)御数珠(おほんずず)()えたまへる、故郷(ふるさと)女恋(をんなこひ)しき(ひと)びと、(こころ)みな(なぐさ)みにけり。 おきよりふねどものうたひののしりてくなどもこゆ。ほのかに、ただちひさきとりかべるとやらるるも、こころぼそげなるに、かりつらねてこゑかぢおとにまがへるを、うちながめたまひて、なみだこぼるるをかきはらひたまへるおほんてつき、くろおほんずずえたまへる、ふるさとをんなこひしきひとびと、こころみななぐさみにけり。
123.1.13291275 初雁(はつかり)(こひ)しき(ひと)(つら)なれや<BR/>(たび)空飛(そらと)(こゑ)(かな)しき」 "〔はつかりこひしきひとつらなれや<BR/>たびそらとこゑかなしき〕
123.1.14292276 とのたまへば、良清(よしきよ) とのたまへば、よしきよ
123.1.15293277 「かきつらね(むかし)のことぞ(おも)ほゆる<BR/>(かり)はその()(とも)ならねども」 "〔かきつらねむかしのことぞおもほゆる<BR/>かりはそのともならねども〕
123.1.16294278 民部大輔(みんぶのたいふ) みんぶのたいふ
123.1.17295279 (こころ)から常世(とこよ)()てて()(かり)を<BR/>(くも)のよそにも(おも)ひけるかな」 "〔こころからとこよててかりを<BR/>くものよそにもおもひけるかな〕
123.1.18296280 前右近将督(さきのうこんのじょう) さきのうこんのじょう
123.1.19297281 常世出(とこよい)でて(たび)(そら)なる(かり)がねも<BR/>(つら)(おく)れぬほどぞ(なぐさ) "〔とこよいでてたびそらなるかりがねも<BR/>つらおくれぬほどぞなぐさ
123.1.20298282 (とも)まどはしては、いかにはべらまし」 ともまどはしては、いかにはべらまし。"
123.1.21299283 ()ふ。(おや)常陸(ひたち)になりて、(くだ)りしにも(さそ)はれで、(まゐ)れるなりけり。(した)には(おも)ひくだくべかめれど、ほこりかにもてなして、つれなきさまにしありく。 ふ。おやひたちになりて、くだりしにもさそはれで、まゐれるなりけり。したにはおもひくだくべかめれど、ほこりかにもてなして、つれなきさまにしありく。
123.2300284第二段 配所の月を眺める
123.2.1301285 (つき)のいとはなやかにさし()でたるに、「今宵(こよひ)十五夜(じふごや)なりけり」と(おぼ)()でて、殿上(てんじゃう)御遊(おほんあそ)(こひ)しく、「所々眺(ところどころなが)めたまふらむかし」と(おも)ひやりたまふにつけても、(つき)(かほ)のみまもられたまふ。 つきのいとはなやかにさしでたるに、"こよひじふごやなりけり。"とおぼでて、てんじゃうおほんあそこひしく、"ところどころながめたまふらんかし。"とおもひやりたまふにつけても、つきかほのみまもられたまふ。
123.2.2302286 二千里外故人心(じせんりのほかこじんのこころ) "じせんりのほかこじんのこころ。"
123.2.3303287 ()じたまへる、(れい)(なみだ)もとどめられず。入道(にふだう)(みや)の、「(きり)(へだ)つる」とのたまはせしほど、()はむ(かた)なく(こひ)しく、折々(をりをり)のこと(おも)()でたまふに、よよと、()かれたまふ。 じたまへる、れいなみだもとどめられず。にふだうみやの、"きりへだつる"とのたまはせしほど、はんかたなくこひしく、をりをりのことおもでたまふに、よよと、かれたまふ。
123.2.4304288 夜更(よふ)けはべりぬ」 "よふけはべりぬ。"
123.2.5305289 ()こゆれど、なほ()りたまはず。 こゆれど、なほりたまはず。
123.2.6306290 ()るほどぞしばし(なぐさめ)むめぐりあはむ<BR/>(つき)(みやこ)(はる)かなれども」 "〔るほどぞしばしなぐさめんめぐりあはん<BR/>つきみやこはるかなれども〕
123.2.7307291 その()主上(うへ)のいとなつかしう昔物語(むかしものがたり)などしたまひし(おほん)さまの、(ゐん)()たてまつりたまへりしも、(こひ)しく(おも)()できこえたまひて、 そのうへのいとなつかしうむかしものがたりなどしたまひしおほんさまの、ゐんたてまつりたまへりしも、こひしくおもできこえたまひて、
123.2.8308292 恩賜(おんし)御衣(ぎょい)今此(いまここ)()り」 "おんしぎょいいまここり。"
123.2.9309293 ()じつつ()りたまひぬ。御衣(おほんぞ)はまことに()(はな)たず、かたはらに()きたまへり。 じつつりたまひぬ。おほんぞはまことにはなたず、かたはらにきたまへり。
123.2.10310294 ()しとのみひとへにものは(おも)ほえで<BR/>左右(ひだりみぎ)にも()るる(そで)かな」 "〔しとのみひとへにものはおもほえで<BR/>ひだりみぎにもるるそでかな〕
123.3311295第三段 筑紫五節と和歌贈答
123.3.1312296 そのころ、大弐(だいに)(のぼ)りける。いかめしく類広(るいひろ)く、(むすめ)がちにて所狭(ところせ)かりければ、(きた)(かた)(ふね)にて(のぼ)る。(うら)づたひに逍遥(せうえう)しつつ()るに、(ほか)よりもおもしろきわたりなれば、(こころ)とまるに、「大将(だいしゃう)かくておはす」と()けば、あいなう、()いたる(わか)(むすめ)たちは、(ふね)(うち)さへ()づかしう、心懸想(こころげさう)せらる。まして、五節(ごせち)(きみ)は、綱手引(つなでひ)()ぐるも口惜(くちを)しきに、(きん)(こゑ)(かぜ)につきて(はる)かに()こゆるに、(ところ)のさま、(ひと)(おほん)ほど、(もの)()心細(こころぼそ)さ、()(あつ)め、(こころ)ある(かぎ)りみな()きにけり。 そのころ、だいにのぼりける。いかめしくるいひろく、むすめがちにてところせかりければ、きたかたふねにてのぼる。うらづたひにせうえうしつつるに、ほかよりもおもしろきわたりなれば、こころとまるに、"だいしゃうかくておはす。"とけば、あいなう、いたるわかむすめたちは、ふねうちさへづかしう、こころげさうせらる。まして、ごせちきみは、つなでひぐるもくちをしきに、きんこゑかぜにつきてはるかにこゆるに、ところのさま、ひとおほんほど、ものこころぼそさ、あつめ、こころあるかぎりみなきにけり。
123.3.2313297 (そち)御消息聞(おほんせうそこき)こえたり。 そちおほんせうそこきこえたり。
123.3.3314298 「いと(はる)かなるほどよりまかり(のぼ)りては、まづいつしかさぶらひて、(みやこ)御物語(おほんものがたり)もとこそ、(おも)ひたまへはべりつれ、(おも)ひの(ほか)に、かくておはしましける御宿(おほんやど)をまかり()ぎはべる、かたじけなう(かな)しうもはべるかな。あひ()りてはべる(ひと)びと、さるべきこれかれ、()来向(きむか)ひてあまたはべれば、所狭(ところせ)さを(おも)ひたまへ(はばか)りはべることどもはべりて、えさぶらはぬこと。ことさらに(まゐ)りはべらむ」 "いとはるかなるほどよりまかりのぼりては、まづいつしかさぶらひて、みやこおほんものがたりもとこそ、おもひたまへはべりつれ、おもひのほかに、かくておはしましけるおほんやどをまかりぎはべる、かたじけなうかなしうもはべるかな。あひりてはべるひとびと、さるべきこれかれ、きむかひてあまたはべれば、ところせさをおもひたまへはばかりはべることどもはべりて、えさぶらはぬこと。ことさらにまゐりはべらん。"
123.3.4315299 など()こえたり。()筑前守(ちくぜんのかみ)(まゐ)れる。この殿(との)の、蔵人(くらうど)になし(かへり)みたまひし(ひと)なれば、いとも(かな)し、いみじと(おも)へども、また()(ひと)びとのあれば、()こえを(おも)ひて、しばしもえ()()まらず。 などこえたり。ちくぜんのかみまゐれる。このとのの、くらうどになしかへりみたまひしひとなれば、いともかなし。いみじとおもへども、またひとびとのあれば、こえをおもひて、しばしもえまらず。
123.3.5316300 都離(みやこはな)れて(のち)昔親(むかしした)しかりし(ひと)びと、あひ()ること(かた)うのみなりにたるに、かくわざと()()りものしたること」 "みやこはなれてのちむかししたしかりしひとびと、あひることかたうのみなりにたるに、かくわざとりものしたること。"
123.3.6317301 とのたまふ。御返(おほんかへ)りもさやうになむ。 とのたまふ。おほんかへりもさやうになん。
123.3.7318302 (かみ)()()(かへ)りて、おはする(おほん)ありさま(かた)る。(そち)よりはじめ、(むか)への(ひと)びと、まがまがしう()()ちたり。五節(ごせち)は、とかくして()こえたり。 かみかへりて、おはするおほんありさまかたる。そちよりはじめ、むかへのひとびと、まがまがしうちたり。ごせちは、とかくしてこえたり。
123.3.8319303 (こと)()()きとめらるる綱手縄(つなでなは)<BR/>たゆたふ心君知(こころきみし)るらめや "〔こときとめらるるつなでなは<BR/>たゆたふこころきみしるらめや
123.3.9320304 ()()きしさも、(ひと)(とが)めそ」 きしさも、ひととがめそ。"
123.3.10321305 ()こえたり。ほほ()みて()たまふ、いと()づかしげなり。 こえたり。ほほみてたまふ、いとづかしげなり。
123.3.11322306 (こころ)ありて()()(つな)のたゆたはば<BR/>うち()ぎましや須磨(すま)浦波(うらなみ) "〔こころありてつなのたゆたはば<BR/>うちぎましやすまうらなみ
123.3.12323307 いさりせむとは(おも)はざりしはや」 いさりせんとはおもはざりしはや。"
123.3.13324308 とあり。(むまや)(をさ)句詩取(くしと)らする(ひと)もありけるを、まして、()ちとまりぬべくなむおぼえける。 とあり。むまやをさくしとらするひともありけるを、まして、ちとまりぬべくなんおぼえける。
123.4325309第四段 都の人々の生活
123.4.1326310 (みやこ)には、月日過(つきひす)ぐるままに、(みかど)(はじ)めたてまつりて、()ひきこゆる(をり)ふし(おほ)かり。春宮(とうぐう)は、まして、(つね)(おぼ)()でつつ(しの)びて()きたまふ。()たてまつる御乳母(おほんめのと)、まして命婦(みゃうぶ)(きみ)は、いみじうあはれに()たてまつる。 みやこには、つきひすぐるままに、みかどはじめたてまつりて、ひきこゆるをりふしおほかり。とうぐうは、まして、つねおぼでつつしのびてきたまふ。たてまつるおほんめのと、ましてみゃうぶきみは、いみじうあはれにたてまつる。
123.4.2327311 入道(にふだう)(みや)は、春宮(とうぐう)(おほん)ことをゆゆしうのみ(おぼ)ししに、大将(だいしゃう)もかくさすらへたまひぬるを、いみじう(おぼ)(なげ)かる。 にふだうみやは、とうぐうおほんことをゆゆしうのみおぼししに、だいしゃうもかくさすらへたまひぬるを、いみじうおぼなげかる。
123.4.3328312 御兄弟(おほんはらから)親王(みこ)たち、むつましう()こえたまひし上達部(かんだちめ)など、(はじ)めつ(かた)はとぶらひきこえたまふなどありき。あはれなる(ふみ)(つく)()はし、それにつけても、()(なか)にのみめでられたまへば、(きさい)宮聞(みやき)こしめして、いみじうのたまひけり。 おほんはらからみこたち、むつましうこえたまひしかんだちめなど、はじめつかたはとぶらひきこえたまふなどありき。あはれなるふみつくはし、それにつけても、なかにのみめでられたまへば、きさいみやきこしめして、いみじうのたまひけり。
123.4.4329313 朝廷(おほやけ)勘事(かうじ)なる(ひと)は、(こころ)(まか)せてこの()のあぢはひをだに()ること(かた)うこそあなれ。おもしろき家居(いへゐ)して、()(なか)(そし)りもどきて、かの鹿(しか)(むま)()ひけむ(ひと)のひがめるやうに追従(ついしょう)する」 "おほやけかうじなるひとは、こころまかせてこののあぢはひをだにることかたうこそあなれ。おもしろきいへゐして、なかそしりもどきて、かのしかむまひけんひとのひがめるやうについしょうする。"
123.4.5330314 など、()しきことども()こえければ、わづらはしとて、消息聞(せうそこき)こえたまふ(ひと)なし。 など、しきことどもこえければ、わづらはしとて、せうそこきこえたまふひとなし。
123.4.6331315 二条院(にでうのゐん)姫君(ひめぎみ)は、ほど()るままに、(おぼ)(なぐさ)(をり)なし。(ひんがし)(たい)にさぶらひし(ひと)びとも、みな(わた)(まゐ)りし(はじ)めは、「などかさしもあらむ」と(おも)ひしかど、()たてまつり()るるままに、なつかしうをかしき(おほん)ありさま、まめやかなる御心(みこころ)ばへも、(おも)ひやり(ふか)うあはれなれば、まかで()るもなし。なべてならぬ(きは)(ひと)びとには、ほの()えなどしたまふ。「そこらのなかにすぐれたる御心(みこころ)ざしもことわりなりけり」と()たてまつる。 にでうのゐんひめぎみは、ほどるままに、おぼなぐさをりなし。ひんがしたいにさぶらひしひとびとも、みなわたまゐりしはじめは、"などかさしもあらん。"とおもひしかど、たてまつりるるままに、なつかしうをかしきおほんありさま、まめやかなるみこころばへも、おもひやりふかうあはれなれば、まかでるもなし。なべてならぬきはひとびとには、ほのえなどしたまふ。"そこらのなかにすぐれたるみこころざしもことわりなりけり。"とたてまつる。
123.5332316第五段 須磨の生活
123.5.1333317 かの御住(おほんす)まひには、(ひさ)しくなるままに、え(ねん)()ぐすまじうおぼえたまへど、「()()だにあさましき宿世(すくせ)とおぼゆる()まひに、いかでかは、うち()しては、つきなからむ」さまを(おも)(かへ)したまふ。(ところ)につけて、よろづのことさま()はり、()たまへ()らぬ下人(しもびと)のうへをも、()たまひ()らはぬ御心地(みここち)に、めざましうかたじけなう、みづから(おぼ)さる。(けぶり)のいと(ちか)時々立(ときどきた)()るを、「これや海人(あま)塩焼(しほや)くならむ」と(おぼ)しわたるは、おはします(うしろ)(やま)に、(しば)といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、 かのおほんすまひには、ひさしくなるままに、えねんぐすまじうおぼえたまへど、"だにあさましきすくせとおぼゆるまひに、いかでかは、うちしては、つきなからん"さまをおもかへしたまふ。ところにつけて、よろづのことさまはり、たまへらぬしもびとのうへをも、たまひらはぬみここちに、めざましうかたじけなう、みづからおぼさる。けぶりのいとちかときどきたるを、"これやあましほやくならん。"とおぼしわたるは、おはしますうしろやまに、しばといふものふすぶるなりけり。めづらかにて、
123.5.2334318 山賤(やまがつ)(いほり)()けるしばしばも<BR/>言問(ことと)()なむ()ふる里人(さとびと) "〔やまがついほりけるしばしばも<BR/>こととなんふるさとびと〕"
123.5.3335319 (ふゆ)になりて雪降(ゆきふ)()れたるころ、(そら)のけしきもことにすごく(なが)めたまひて、(きん)()きすさびたまひて、良清(よしきよ)(うた)うたはせ、大輔(たいふ)横笛吹(よこぶえふ)きて、(あそ)びたまふ。(こころ)とどめてあはれなる()など()きたまへるに、他物(こともの)(こゑ)どもはやめて、(なみだ)をのごひあへり。 ふゆになりてゆきふれたるころ、そらのけしきもことにすごくながめたまひて、きんきすさびたまひて、よしきようたうたはせ、たいふよこぶえふきて、あそびたまふ。こころとどめてあはれなるなどきたまへるに、ことものこゑどもはやめて、なみだをのごひあへり。
123.5.4336320 (むかし)()(くに)(つかは)しけむ(をんな)(おぼ)しやりて、「ましていかなりけむ。この()()(おも)ひきこゆる(ひと)などをさやうに(はな)ちやりたらむこと」など(おも)ふも、あらむことのやうにゆゆしうて、 むかしくにつかはしけんをんなおぼしやりて、"ましていかなりけん。このおもひきこゆるひとなどをさやうにはなちやりたらんこと。"などおもふも、あらんことのやうにゆゆしうて、
123.5.5337321 (しも)(のち)(ゆめ) "しものちゆめ"
123.5.6338322 ()じたまふ。 じたまふ。
123.5.7339324 (つき)いと(あか)うさし()りて、はかなき(たび)御座所(おましどころ)(おく)まで(くま)なし。(ゆか)(うへ)夜深(よぶか)(そら)()ゆ。()(がた)月影(つきかげ)、すごく()ゆるに、 つきいとあかうさしりて、はかなきたびおましどころおくまでくまなし。ゆかうへよぶかそらゆ。がたつきかげ、すごくゆるに、
123.5.8340325 「ただ()西(にし)()くなり」 "ただにしくなり"
123.5.9341326 と、ひとりごちたまて、 と、ひとりごちたまて、
123.5.10342327 「いづ(かた)雲路(くもぢ)(われ)(まよ)ひなむ<BR/>(つき)()るらむことも()づかし」 "〔いづかたくもぢわれまよひなん<BR/>つきるらんこともづかし〕
123.5.11343328 とひとりごちたまひて、(れい)のまどろまれぬ(あかつき)(そら)に、千鳥(ちどり)いとあはれに()く。 とひとりごちたまひて、れいのまどろまれぬあかつきそらに、ちどりいとあはれにく。
123.5.12344329 友千鳥諸声(ともちどりもろごゑ)()(あかつき)は<BR/>ひとり寝覚(ねざめ)(とこ)(たの)もし」 "〔ともちどりもろごゑあかつきは<BR/>ひとりねざめとこたのもし〕
123.5.13345330 また()きたる(ひと)もなければ、(かへ)(がへ)すひとりごちて()したまへり。 またきたるひともなければ、かへがへすひとりごちてしたまへり。
123.5.14346331 夜深(よぶか)御手水参(みてうづまゐ)り、御念誦(おほんねんず)などしたまふも、めづらしきことのやうに、めでたうのみおぼえたまへば、え()たてまつり()てず、(いへ)にあからさまにもえ()でざりけり。 よぶかみてうづまゐり、おほんねんずなどしたまふも、めづらしきことのやうに、めでたうのみおぼえたまへば、えたてまつりてず、いへにあからさまにもえでざりけり。
123.6347332第六段 明石入道の娘
123.6.1348333 明石(あかし)(うら)は、ただはひ(わた)るほどなれば、良清(よしきよ)朝臣(あそん)、かの入道(にふだう)(むすめ)(おも)()でて、(ふみ)など()りけれど、(かへ)(こと)もせず、父入道(ちちにふだう)ぞ、 あかしうらは、ただはひわたるほどなれば、よしきよあそん、かのにふだうむすめおもでて、ふみなどりけれど、かへこともせず、ちちにふだうぞ、
123.6.2349334 ()こゆべきことなむ。あからさまに対面(たいめん)もがな」 "こゆべきことなん。あからさまにたいめんもがな。"
123.6.3350335 ()ひけれど、「うけひかざらむものゆゑ、()きかかりて、むなしく(かへ)らむ後手(うしろで)もをこなるべし」と、(くん)じいたうて()かず。 ひけれど、"うけひかざらんものゆゑ、きかかりて、むなしくかへらんうしろでもをこなるべし。"と、くんじいたうてかず。
123.6.4351336 ()()らず心高(こころたか)(おも)へるに、(くに)(うち)(かみ)のゆかりのみこそはかしこきことにすめれど、ひがめる(こころ)はさらにさも(おも)はで年月(としつき)()けるに、この(きみ)かくておはすと()きて、母君(ははぎみ)(かた)らふやう、 らずこころたかおもへるに、くにうちかみのゆかりのみこそはかしこきことにすめれど、ひがめるこころはさらにさもおもはでとしつきけるに、このきみかくておはすときて、ははぎみかたらふやう、
123.6.5352337 桐壺(きりつぼ)更衣(かうい)御腹(おほんはら)の、源氏(げんじ)(ひか)(きみ)こそ、朝廷(おほやけ)(おほん)かしこまりにて、須磨(すま)(うら)にものしたまふなれ。吾子(あこ)御宿世(おほんすくせ)にて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるついでに、この(きみ)にをたてまつらむ」 "きりつぼかういおほんはらの、げんじひかきみこそ、おほやけおほんかしこまりにて、すまうらにものしたまふなれ。あこおほんすくせにて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるついでに、このきみにをたてまつらん。"
123.6.6353338 ()ふ。(はは) ふ。はは
123.6.7354339 「あな、かたはや。(きゃう)(ひと)(かた)るを()けば、やむごとなき御妻(みめ)ども、いと(おほ)()ちたまひて、そのあまり、(しの)(しの)(みかど)御妻(みめ)さへあやまちたまひて、かくも(さわ)がれたまふなる(ひと)は、まさにかくあやしき山賤(やまがつ)を、(こころ)とどめたまひてむや」 "あな、かたはや。きゃうひとかたるをけば、やんごとなきみめども、いとおほちたまひて、そのあまり、しのしのみかどみめさへあやまちたまひて、かくもさわがれたまふなるひとは、まさにかくあやしきやまがつを、こころとどめたまひてんや。"
123.6.8355340 ()ふ。腹立(はらだ)ちて、 ふ。はらだちて、
123.6.9356341 「え()りたまはじ。(おも)(こころ)ことなり。さる(こころ)をしたまへ。ついでして、ここにもおはしまさせむ」 "えりたまはじ。おもこころことなり。さるこころをしたまへ。ついでして、ここにもおはしまさせん。"
123.6.10357342 と、(こころ)をやりて()ふもかたくなしく()ゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。母君(ははぎみ) と、こころをやりてふもかたくなしくゆ。まばゆきまでしつらひかしづきけり。ははぎみ
123.6.11358343 「などか、めでたくとも、ものの(はじ)めに、(つみ)()たりて(なが)されておはしたらむ(ひと)をしも(おも)ひかけむ。さても(こころ)をとどめたまふべくはこそあらめ、たはぶれにてもあるまじきことなり」 "などか、めでたくとも、もののはじめに、つみたりてながされておはしたらんひとをしもおもひかけん。さてもこころをとどめたまふべくはこそあらめ、たはぶれにてもあるまじきことなり。"
123.6.12359344 ()ふを、いといたくつぶやく。 ふを、いといたくつぶやく。
123.6.13360345 (つみ)()たることは、唐土(もろこし)にも()朝廷(みかど)にも、かく()にすぐれ、(なに)ごとも(ひと)にことになりぬる(ひと)の、かならずあることなり。いかにものしたまふ(きみ)ぞ。故母御息所(こははみやすんどころ)は、おのが叔父(をぢ)にものしたまひし按察使大納言(あぜちのだいなごん)(むすめ)なり。いとかうざくなる()をとりて、宮仕(みやづか)へに()だしたまへりしに、国王(こくわう)すぐれて(とき)めかしたまふこと、(なら)びなかりけるほどに、(ひと)(そね)(おも)くて()せたまひにしかど、この(きみ)のとまりたまへる、いとめでたしかし。(をんな)心高(こころたか)くつかふべきものなり。おのれ、かかる田舎人(ゐなかびと)なりとて、(おぼ)()てじ」 "つみたることは、もろこしにもみかどにも、かくにすぐれ、なにごともひとにことになりぬるひとの、かならずあることなり。いかにものしたまふきみぞ。こははみやすんどころは、おのがをぢにものしたまひしあぜちのだいなごんむすめなり。いとかうざくなるをとりて、みやづかへにだしたまへりしに、こくわうすぐれてときめかしたまふこと、ならびなかりけるほどに、ひとそねおもくてせたまひにしかど、このきみのとまりたまへる、いとめでたしかし。をんなこころたかくつかふべきものなり。おのれ、かかるゐなかびとなりとて、おぼてじ。"
123.6.14361346 など()ひゐたり。 などひゐたり。
123.6.15362347 この(むすめ)、すぐれたる容貌(かたち)ならねど、なつかしうあてはかに、(こころ)ばせあるさまなどぞ、げに、やむごとなき(ひと)(おと)るまじかりける。()のありさまを、口惜(くちを)しきものに(おも)()りて、 このむすめ、すぐれたるかたちならねど、なつかしうあてはかに、こころばせあるさまなどぞ、げに、やんごとなきひとおとるまじかりける。のありさまを、くちをしきものにおもりて、
123.6.16363348 (たか)(ひと)は、(われ)(なに)(かず)にも(おぼ)さじ。ほどにつけたる()をばさらに()じ。命長(いのちなが)くて、(おも)(ひと)びとに(おく)れなば、(あま)にもなりなむ、(うみ)(そこ)にも()りなむ」 "たかひとは、われなにかずにもおぼさじ。ほどにつけたるをばさらにじ。いのちながくて、おもひとびとにおくれなば、あまにもなりなん、うみそこにもりなん。"
123.6.17364349 などぞ(おも)ひける。 などぞおもひける。
123.6.18365350 父君(ちちぎみ)所狭(ところせ)(おも)ひかしづきて、(とし)(ふた)たび、住吉(すみよし)(まう)でさせけり。(かみ)(おほん)しるしをぞ、人知(ひとし)れず(たの)(おも)ひける。 ちちぎみところせおもひかしづきて、としふたたび、すみよしまうでさせけり。かみおほんしるしをぞ、ひとしれずたのおもひける。
124366351第四章 光る源氏の物語 信仰生活と神の啓示の物語
124.1367352第一段 須磨で新年を迎える
124.1.1368353 須磨(すま)には、年返(としかへ)りて、日長(ひなが)くつれづれなるに、()ゑし若木(わかぎ)(さくら)ほのかに()()めて、(そら)のけしきうららかなるに、よろづのこと(おぼ)()でられて、うち()きたまふ折多(をりおほ)かり。 すまには、としかへりて、ひながくつれづれなるに、ゑしわかぎさくらほのかにめて、そらのけしきうららかなるに、よろづのことおぼでられて、うちきたまふをりおほかり。
124.1.2369354 二月二十日(きさらぎのはつか)あまり、()にし(とし)(きゃう)(わか)れし(とき)心苦(こころぐる)しかりし(ひと)びとの(おほん)ありさまなど、いと(こひ)しく、「南殿(なでん)(さくら)(さか)りになりぬらむ。一年(ひととせ)(はな)(えん)に、(ゐん)()けしき、内裏(うち)主上(うへ)のいときよらになまめいて、わが(つく)れる()()じたまひし」も、(おも)()できこえたまふ。 きさらぎのはつかあまり、にしとしきゃうわかれしときこころぐるしかりしひとびとのおほんありさまなど、いとこひしく、"なでんさくらさかりになりぬらん。ひととせはなえんに、ゐんけしき、うちうへのいときよらになまめいて、わがつくれるじたまひし"も、おもできこえたまふ。
124.1.3370355 「いつとなく大宮人(おほみやびと)(こひ)しきに<BR/>(さくら)かざしし今日(けふ)()にけり」 "〔いつとなくおほみやびとこひしきに<BR/>さくらかざししけふにけり〕
124.1.4371356 いとつれづれなるに、大殿(おほいどの)三位中将(さんゐのちゅうじゃう)は、(いま)宰相(さいしゃう)になりて、人柄(ひとがら)のいとよければ、時世(ときよ)のおぼえ(おも)くてものしたまへど、()(なか)あはれにあぢきなく、ものの(をり)ごとに(こひ)しくおぼえたまへば、「ことの()こえありて(つみ)()たるともいかがはせむ」と(おぼ)しなして、にはかに()うでたまふ。 いとつれづれなるに、おほいどのさんゐのちゅうじゃうは、いまさいしゃうになりて、ひとがらのいとよければ、ときよのおぼえおもくてものしたまへど、なかあはれにあぢきなく、もののをりごとにこひしくおぼえたまへば、"ことのこえありてつみたるともいかがはせん。"とおぼしなして、にはかにうでたまふ。
124.1.5372357 うち()るより、めづらしううれしきにも、ひとつ(なみだ)ぞこぼれける。 うちるより、めづらしううれしきにも、ひとつなみだぞこぼれける。
124.1.6373358 ()まひたまへるさま、()はむかたなく(から)めいたり。(ところ)のさま、()()きたらむやうなるに、竹編(たけあ)める(かき)しわたして、(いし)(はし)(まつ)(はしら)、おろそかなるものから、めづらかにをかし。 まひたまへるさま、はんかたなくからめいたり。ところのさま、きたらんやうなるに、たけあめるかきしわたして、いしはしまつはしら、おろそかなるものから、めづらかにをかし。
124.1.7374359 山賤(やまがつ)めきて、ゆるし(いろ)()がちなるに、青鈍(あをにび)狩衣(かりぎぬ)指貫(さしぬき)、うちやつれて、ことさらに田舎(いなか)びもてなしたまへるしも、いみじう、()るに()まれてきよらなり。 やまがつめきて、ゆるしいろがちなるに、あをにびかりぎぬさしぬき、うちやつれて、ことさらにいなかびもてなしたまへるしも、いみじう、るにまれてきよらなり。
124.1.8375360 ()使(つか)ひたまへる調度(てうど)も、かりそめにしなして、御座所(おましどころ)もあらはに見入(みい)れらる。()双六盤(すぐろくばん)調度(てうど)弾棊(たぎ)()など、田舎(ゐなか)わざにしなして、念誦(ねんず)()(おこ)なひ(つと)めたまひけりと()えたり。もの(まゐ)れるなど、ことさら(ところ)につけ、(きょう)ありてしなしたり。 つかひたまへるてうども、かりそめにしなして、おましどころもあらはにみいれらる。すぐろくばんてうどたぎなど、ゐなかわざにしなして、ねんずおこなひつとめたまひけりとえたり。ものまゐれるなど、ことさらところにつけ、きょうありてしなしたり。
124.1.9376362 海人(あま)ども(あさ)りして、(かひ)物持(ものも)(まゐ)れるを、()()でて御覧(ごらん)ず。(うら)年経(としふ)るさまなど()はせたまふに、さまざま(やす)げなき()(うれ)へを(まう)す。そこはかとなくさへづるも、「(こころ)行方(ゆくへ)(おな)じこと。(なに)(こと)なる」と、あはれに()たまふ。御衣(おほんぞ)どもなどかづけさせたまふを、()けるかひありと(おも)へり。御馬(おほんむま)ども(ちか)()てて、()やりなる(くら)(なに)ぞなる稲取(いねと)()でて()ふなど、めづらしう()たまふ。 あまどもあさりして、かひものもまゐれるを、でてごらんず。うらとしふるさまなどはせたまふに、さまざまやすげなきうれへをまうす。そこはかとなくさへづるも、"こころゆくへおなじこと。なにことなる。"と、あはれにたまふ。おほんぞどもなどかづけさせたまふを、けるかひありとおもへり。おほんむまどもちかてて、やりなるくらなにぞなるいねとでてふなど、めづらしうたまふ。
124.1.10377363 飛鳥井(あすかゐ)」すこし(うた)ひて、(つき)ごろの御物語(おほんものがたり)()きみ(わら)ひみ、 あすかゐ〕すこしうたひて、つきごろのおほんものがたりきみわらひみ、
124.1.11378364 若君(わかぎみ)(なに)とも()(おぼ)さでものしたまふ(かな)しさを、大臣(おとど)()()れにつけて(おぼ)(なげ)く」 "わかぎみなにともおぼさでものしたまふかなしさを、おとどれにつけておぼなげく。"
124.1.12379365 など(かた)りたまふに、()へがたく(おぼ)したり。()きすべくもあらねば、なかなか片端(かたはし)もえまねばず。 などかたりたまふに、へがたくおぼしたり。きすべくもあらねば、なかなかかたはしもえまねばず。
124.1.13380366 ()もすがらまどろまず、文作(ふみつく)()かしたまふ。さ()ひながらも、ものの()こえをつつみて、(いそ)(かへ)りたまふ。いとなかなかなり。御土器参(おほんかはらけまゐ)りて、 もすがらまどろまず、ふみつくかしたまふ。さひながらも、もののこえをつつみて、いそかへりたまふ。いとなかなかなり。おほんかはらけまゐりて、
124.1.14381367 ()ひの(かな)しび(なみだ)そそく(はる)(さかづき)(うち) "ひのかなしびなみだそそくはるさかづきうち"
124.1.15382368 と、諸声(もろごゑ)()じたまふ。御供(おほんとも)(ひと)(なみだ)(なが)す。おのがじし、はつかなる(わか)()しむべかめり。 と、もろごゑじたまふ。おほんともひとなみだながす。おのがじし、はつかなるわかしむべかめり。
124.1.16383369 (あさ)ぼらけの(そら)雁連(かりつ)れて(わた)る。主人(あるじ)(きみ) あさぼらけのそらかりつれてわたる。あるじきみ
124.1.17384370 故郷(ふるさと)をいづれの(はる)()きて()む<BR/>うらやましきは(かへ)(かり)がね」 "〔ふるさとをいづれのはるきてん<BR/>うらやましきはかへかりがね〕
124.1.18385371 宰相(さいしゃう)、さらに()()でむ心地(ここち)せで、 さいしゃう、さらにでんここちせで、
124.1.19386372 「あかなくに(かり)常世(とこよ)()(わか)れ<BR/>(はな)(みやこ)(みち)(まど)はむ」 "〔あかなくにかりとこよわかれ<BR/>はなみやこみちまどはん〕
124.1.20387373 さるべき(みやこ)(つと)など、(よし)あるさまにてあり。主人(あるじ)(きみ)、かくかたじけなき御送(おほんおく)りにとて、黒駒(くろこま)たてまつりたまふ。 さるべきみやこつとなど、よしあるさまにてあり。あるじきみ、かくかたじけなきおほんおくりにとて、くろこまたてまつりたまふ。
124.1.21388374 「ゆゆしう(おぼ)されぬべけれど、(かぜ)()たりては、(いば)えぬべければなむ」 "ゆゆしうおぼされぬべけれど、かぜたりては、いばえぬべければなん。"
124.1.22389375 (まう)したまふ。()にありがたげなる御馬(おほんむま)のさまなり。 まうしたまふ。にありがたげなるおほんむまのさまなり。
124.1.23390376 形見(かたみ)(しの)びたまへ」 "かたみしのびたまへ。"
124.1.24391377 とて、いみじき(ふえ)()ありけるなどばかり、人咎(ひととが)めつべきことは、かたみにえしたまはず。 とて、いみじきふえありけるなどばかり、ひととがめつべきことは、かたみにえしたまはず。
124.1.25392378 ()やうやうさし()がりて、(こころ)あわたたしければ、(かへり)みのみしつつ()でたまふを、見送(みおく)りたまふけしき、いとなかなかなり。 やうやうさしがりて、こころあわたたしければ、かへりみのみしつつでたまふを、みおくりたまふけしき、いとなかなかなり。
124.1.26393379 「いつまた対面(たいめん)は」 "いつまたたいめんは。"
124.1.27394380 (まう)したまふに、主人(あるじ) まうしたまふに、あるじ
124.1.28395381 雲近(くもちか)()()(たづ)(そら)()よ<BR/>(われ)春日(はるひ)(くも)りなき() "〔くもちかたづそらよ<BR/>われはるひくもりなき
124.1.29396382 かつは(たの)まれながら、かくなりぬる(ひと)(むかし)のかしこき(ひと)だに、はかばかしう()にまたまじらふこと(かた)くはべりければ、(なに)か、(みやこ)のさかひをまた()むとなむ(おも)ひはべらぬ」 かつはたのまれながら、かくなりぬるひとむかしのかしこきひとだに、はかばかしうにまたまじらふことかたくはべりければ、なにか、みやこのさかひをまたんとなんおもひはべらぬ。"
124.1.30397383 などのたまふ。宰相(さいしゃう) などのたまふ。さいしゃう
124.1.31398384 「たづかなき雲居(くもゐ)にひとり()をぞ()く<BR/>翼並(つばさなら)べし(とも)()ひつつ "〔たづかなきくもゐにひとりをぞく<BR/>つばさならべしともひつつ
124.1.32399385 かたじけなく()れきこえはべりて、いとしもと(くや)しう(おも)ひたまへらるる折多(をりおほ)く」 かたじけなくれきこえはべりて、いとしもとくやしうおもひたまへらるるをりおほく。"
124.1.33400386 など、しめやかにもあらで(かへ)りたまひぬる名残(なごり)、いとど(かな)しう(なが)()らしたまふ。 など、しめやかにもあらでかへりたまひぬるなごり、いとどかなしうながらしたまふ。
124.2401387第二段 上巳の祓と嵐
124.2.1402388 弥生(やよひ)朔日(ついたち)()()たる()() やよひついたちたる
124.2.2403389 今日(けふ)なむ、かく(おぼ)すことある(ひと)は、御禊(みそぎ)したまふべき」 "けふなん、かくおぼすことあるひとは、みそぎしたまふべき。"
124.2.3404390 と、なまさかしき(ひと)()こゆれば、(うみ)づらもゆかしうて()でたまふ。いとおろそかに、軟障(ぜんじゃう)ばかりを()きめぐらして、この(くに)(かよ)ひける陰陽師召(おみゃうじめ)して、(はら)へせさせたまふ。(ふね)にことことしき人形乗(ひとかたの)せて(なが)すを()たまふに、よそへられて、 と、なまさかしきひとこゆれば、うみづらもゆかしうてでたまふ。いとおろそかに、ぜんじゃうばかりをきめぐらして、このくにかよひけるおみゃうじめして、はらへせさせたまふ。ふねにことことしきひとかたのせてながすをたまふに、よそへられて、
124.2.4405391 ()らざりし大海(おほうみ)(はら)(なが)()て<BR/>ひとかたにやはものは(かな)しき」 "〔らざりしおほうみはらながて<BR/>ひとかたにやはものはかなしき〕
124.2.5406392 とて、ゐたまへる(おほん)さま、さる()れに()でて、()ふよしなく()えたまふ。 とて、ゐたまへるおほんさま、さるれにでて、ふよしなくえたまふ。
124.2.6407393 (うみ)(おもて)うらうらと()ぎわたりて、行方(ゆくへ)()らぬに、()方行(かたゆ)先思(さきおぼ)(つづ)けられて、 うみおもてうらうらとぎわたりて、ゆくへらぬに、かたゆさきおぼつづけられて、
124.2.7408394 八百(やほ)よろづ(かみ)もあはれと(おも)ふらむ<BR/>(をか)せる(つみ)のそれとなければ」 "〔やほよろづかみもあはれとおもふらん<BR/>をかせるつみのそれとなければ〕
124.2.8409395 とのたまふに、にはかに風吹(かぜふ)()でて、(そら)もかき()れぬ。御祓(おほんはら)へもし()てず、()(さわ)ぎたり。肱笠雨(ひぢかさあめ)とか()りきて、いとあわたたしければ、みな(かへ)りたまはむとするに、(かさ)()りあへず。さる(こころ)もなきに、よろづ()()らし、またなき(かぜ)なり。(なみ)いといかめしう()ちて、(ひと)びとの(あし)をそらなり。(うみ)(おもて)は、(ふすま)()りたらむやうに(ひか)()ちて、雷鳴(かみな)りひらめく。()ちかかる心地(ここち)して、からうしてたどり()て、 とのたまふに、にはかにかぜふでて、そらもかきれぬ。おほんはらへもしてず、さわぎたり。ひぢかさあめとかりきて、いとあわたたしければ、みなかへりたまはんとするに、かさりあへず。さるこころもなきに、よろづらし、またなきかぜなり。なみいといかめしうちて、ひとびとのあしをそらなり。うみおもては、ふすまりたらんやうにひかちて、かみなりひらめく。ちかかるここちして、からうしてたどりて、
124.2.9410396 「かかる()()ずもあるかな」 "かかるずもあるかな。"
124.2.10411397 (かぜ)などは()くも、けしきづきてこそあれ。あさましうめづらかなり」 "かぜなどはくも、けしきづきてこそあれ。あさましうめづらかなり。"
124.2.11412398 (まど)ふに、なほ()まず()りみちて、(あめ)脚当(あしあ)たる(ところ)(とほ)りぬべく、はらめき()つ。「かくて()()きぬるにや」と、心細(こころぼそ)(おも)(まど)ふに、(きみ)は、のどやかに(きゃう)うち()じておはす。 まどふに、なほまずりみちて、あめあしあたるところとほりぬべく、はらめきつ。"かくてきぬるにや。"と、こころぼそおもまどふに、きみは、のどやかにきゃううちじておはす。
124.2.12413399 ()れぬれば、(かみ)すこし()()みて、(かぜ)ぞ、(よる)()く。 れぬれば、かみすこしみて、かぜぞ、よるく。
124.2.13414400 (おほ)()てつる(がん)(ちから)なるべし」 "おほてつるがんちからなるべし。"
124.2.14415401 (いま)しばし、かくあらば、(なみ)()かれて()りぬべかりけり」 "いましばし、かくあらば、なみかれてりぬべかりけり。"
124.2.15416402 高潮(たかしほ)といふものになむ、とりあへず(ひと)そこなはるるとは()けど、いと、かかることは、まだ()らず」 "たかしほといふものになん、とりあへずひとそこなはるるとはけど、いと、かかることは、まだらず。"
124.2.16417403 ()ひあへり。 ひあへり。
124.2.17418404 暁方(あかつきがた)、みなうち(やす)みたり。(きみ)もいささか寝入(ねい)りたまへれば、そのさまとも()えぬ人来(ひとき)て、 あかつきがた、みなうちやすみたり。きみもいささかねいりたまへれば、そのさまともえぬひときて、
124.2.18419405 「など、(みや)より()しあるには(まゐ)りたまはぬ」 "など、みやよりしあるにはまゐりたまはぬ。"
124.2.19420406 とて、たどりありくと()るに、おどろきて、「さは、(うみ)(なか)龍王(りうわう)の、いといたうものめでするものにて、見入(みい)れたるなりけり」と(おぼ)すに、いとものむつかしう、この()まひ()へがたく(おぼ)しなりぬ。 とて、たどりありくとるに、おどろきて、"さは、うみなかりうわうの、いといたうものめでするものにて、みいれたるなりけり。"とおぼすに、いとものむつかしう、このまひへがたくおぼしなりぬ。