帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
20 | 朝顔 |
20 | 1 | 53 | 39 | 第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃 |
20 | 1.1 | 54 | 40 | 第一段 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問 |
20 | 1.1.1 | 55 | 41 |
斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし。大臣、例の、思しそめつること、絶えぬ御癖にて、御訪らひなどいとしげう聞こえたまふ。宮、わづらはしかりしことを思せば、御返りもうちとけて聞こえたまはず。いと口惜しと思しわたる。 |
さいゐんは、おほんぶくにておりゐたまひにきかし。おとど、れいの、おぼしそめつること、たえぬおほんくせにて、おほんとぶらひなどいとしげうきこえたまふ。みや、わづらはしかりしことをおぼせば、おほんかへりもうちとけてきこえたまはず。いとくちをしとおぼしわたる。 |
20 | 1.1.2 | 56 | 42 |
長月になりて、桃園宮に渡りたまひぬるを聞きて、女五の宮のそこにおはすれば、そなたの御訪らひにことづけて参うでたまふ。故院の、この御子たちをば、心ことにやむごとなく思ひきこえたまへりしかば、今も親しく次々に聞こえ交はしたまふめり。同じ寝殿の西東にぞ住みたまひける。ほどもなく荒れにける心地して、あはれにけはひしめやかなり。 |
ながつきになりて、ももぞののみやにわたりたまひぬるをききて、をんなごのみやのそこにおはすれば、そなたのおほんとぶらひにことづけてまうでたまふ。こゐんの、このみこたちをば、こころことにやんごとなくおもひきこえたまへりしかば、いまもしたしくつぎつぎにきこえかはしたまふめり。おなじしんでんのにしひんがしにぞすみたまひける。ほどもなくあれにけるここちして、あはれにけはひしめやかなり。 |
20 | 1.1.3 | 57 | 43 |
宮、対面したまひて、御物語聞こえたまふ。いと古めきたる御けはひ、しはぶきがちにおはす。年長におはすれど、故大殿の宮は、あらまほしく古りがたき御ありさまなるを、もて離れ、声ふつつかに、こちごちしくおぼえたまへるも、さるかたなり。 |
みや、たいめんしたまひて、おほんものがたりきこえたまふ。いとふるめきたるおほんけはひ、しはぶきがちにおはす。このかみにおはすれど、こおほとののみやは、あらまほしくふりがたきおほんありさまなるを、もてはなれ、こゑふつつかに、こちごちしくおぼえたまへるも、さるかたなり。 |
20 | 1.1.4 | 58 | 44 |
「院の上、隠れたまひてのち、よろづ心細くおぼえはべりつるに、年の積もるままに、いと涙がちにて過ぐしはべるを、この宮さへかくうち捨てたまへれば、いよいよあるかなきかに、とまりはべるを、かく立ち寄り訪はせたまふになむ、もの忘れしぬべくはべる」 |
"ゐんのうへ、かくれたまひてのち、よろづこころぼそくおぼえはべりつるに、としのつもるままに、いとなみだがちにてすぐしはべるを、このみやさへかくうちすてたまへれば、いよいよあるかなきかに、とまりはべるを、かくたちよりとはせたまふになん、ものわすれしぬべくはべる。" |
20 | 1.1.5 | 59 | 45 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
20 | 1.1.6 | 60 | 46 |
「かしこくも古りたまへるかな」と思へど、うちかしこまりて、 |
"かしこくもふりたまへるかな。"とおもへど、うちかしこまりて、 |
20 | 1.1.7 | 61 | 47 |
「院隠れたまひてのちは、さまざまにつけて、同じ世のやうにもはべらず、おぼえぬ罪に当たりはべりて、知らぬ世に惑ひはべりしを、たまたま、朝廷に数まへられたてまつりては、またとり乱り暇なくなどして、年ごろも、参りていにしへの御物語をだに聞こえうけたまはらぬを、いぶせく思ひたまへわたりつつなむ」 |
"ゐんかくれたまひてのちは、さまざまにつけて、おなじよのやうにもはべらず、おぼえぬつみにあたりはべりて、しらぬよにまどひはべりしを、たまたま、おほやけにかずまへられたてまつりては、またとりみだりいとまなくなどして、としごろも、まゐりていにしへのおほんものがたりをだにきこえうけたまはらぬを、いぶせくおもひたまへわたりつつなん。" |
20 | 1.1.8 | 62 | 48 |
など聞こえたまふを、 |
などきこえたまふを、 |
20 | 1.1.9 | 63 | 49 |
「いともいともあさましく、いづ方につけても定めなき世を、同じさまにて見たまへ過ぐす命長さの恨めしきこと多くはべれど、かくて、世に立ち返りたまへる御よろこびになむ、ありし年ごろを見たてまつりさしてましかば、口惜しからましとおぼえはべり」 |
"いともいともあさましく、いづかたにつけてもさだめなきよを、おなじさまにてみたまへすぐすいのちながさのうらめしきことおほくはべれど、かくて、よにたちかへりたまへるおほんよろこびになん、ありしとしごろをみたてまつりさしてましかば、くちをしからましとおぼえはべり。" |
20 | 1.1.10 | 64 | 50 |
と、うちわななきたまひて、 |
と、うちわななきたまひて、 |
20 | 1.1.11 | 65 | 51 |
「いときよらにねびまさりたまひにけるかな。童にものしたまへりしを見たてまつりそめし時、世にかかる光の出でおはしたることと驚かれはべりしを、時々見たてまつるごとに、ゆゆしくおぼえはべりてなむ。内裏の上なむ、いとよく似たてまつらせたまへりと、人びと聞こゆるを、さりとも、劣りたまへらむとこそ、推し量りはべれ」 |
"いときよらにねびまさりたまひにけるかな。わらはにものしたまへりしをみたてまつりそめしとき、よにかかるひかりのいでおはしたることとおどろかれはべりしを、ときどきみたてまつるごとに、ゆゆしくおぼえはべりてなん。うちのうへなん、いとよくにたてまつらせたまへりと、ひとびときこゆるを、さりとも、おとりたまへらんとこそ、おしはかりはべれ。" |
20 | 1.1.12 | 66 | 52 |
と、長々と聞こえたまへば、 |
と、ながながときこえたまへば、 |
20 | 1.1.13 | 67 | 53 |
「ことにかくさし向かひて人のほめぬわざかな」と、をかしく思す。 |
"ことにかくさしむかひてひとのほめぬわざかな。"と、をかしくおぼす。 |
20 | 1.1.14 | 68 | 54 |
「山賤になりて、いたう思ひくづほれはべりし年ごろののち、こよなく衰へにてはべるものを。内裏の御容貌は、いにしへの世にも並ぶ人なくやとこそ、ありがたく見たてまつりはべれ。あやしき御推し量りになむ」 |
"やまがつになりて、いたうおもひくづほれはべりしとしごろののち、こよなくおとろへにてはべるものを。うちのおほんかたちは、いにしへのよにもならぶひとなくやとこそ、ありがたくみたてまつりはべれ。あやしきおほんおしはかりになん。" |
20 | 1.1.15 | 69 | 55 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
20 | 1.1.16 | 70 | 56 |
「時々見たてまつらば、いとどしき命や延びはべらむ。今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きみな去りぬる心地なむ」 |
"ときどきみたてまつらば、いとどしきいのちやのびはべらん。けふはおいもわすれ、うきよのなげきみなさりぬるここちなん。" |
20 | 1.1.17 | 71 | 57 |
とても、また泣いたまふ。 |
とても、またないたまふ。 |
20 | 1.1.18 | 72 | 58 |
「三の宮うらやましく、さるべき御ゆかり添ひて、親しく見たてまつりたまふを、うらやみはべる。この亡せたまひぬるも、さやうにこそ悔いたまふ折々ありしか」 |
"さんのみやうらやましく、さるべきおほんゆかりそひて、したしくみたてまつりたまふを、うらやみはべる。このうせたまひぬるも、さやうにこそくいたまふをりをりありしか。" |
20 | 1.1.19 | 73 | 59 |
とのたまふにぞ、すこし耳とまりたまふ。 |
とのたまふにぞ、すこしみみとまりたまふ。 |
20 | 1.1.20 | 74 | 60 |
「さも、さぶらひ馴れなましかば、今に思ふさまにはべらまし。皆さし放たせたまひて」 |
"さも、さぶらひなれなましかば、いまにおもふさまにはべらまし。みなさしはなたせたまひて。" |
20 | 1.1.21 | 75 | 61 |
と、恨めしげにけしきばみきこえたまふ。 |
と、うらめしげにけしきばみきこえたまふ。 |
20 | 1.2 | 76 | 62 | 第二段 朝顔姫君と対話 |
20 | 1.2.1 | 77 | 63 |
あなたの御前を見やりたまへば、枯れ枯れなる前栽の心ばへもことに見渡されて、のどやかに眺めたまふらむ御ありさま、容貌も、いとゆかしくあはれにて、え念じたまはで、 |
あなたのおまへをみやりたまへば、かれがれなるせんさいのこころばへもことにみわたされて、のどやかにながめたまふらんおほんありさま、かたちも、いとゆかしくあはれにて、えねんじたまはで、 |
20 | 1.2.2 | 78 | 64 |
「かくさぶらひたるついでを過ぐしはべらむは、心ざしなきやうなるを、あなたの御訪らひ聞こゆべかりけり」 |
"かくさぶらひたるついでをすぐしはべらんは、こころざしなきやうなるを、あなたのおほんとぶらひきこゆべかりけり。" |
20 | 1.2.3 | 79 | 65 |
とて、やがて簀子より渡りたまふ。 |
とて、やがてすのこよりわたりたまふ。 |
20 | 1.2.4 | 80 | 66 |
暗うなりたるほどなれど、鈍色の御簾に、黒き御几帳の透影あはれに、追風なまめかしく吹き通し、けはひあらまほし。簀子はかたはらいたければ、南の廂に入れたてまつる。 |
くらうなりたるほどなれど、にびいろのみすに、くろきみきちゃうのすきかげあはれに、おひかぜなまめかしくふきとほし、けはひあらまほし。すのこはかたはらいたければ、みなみのひさしにいれたてまつる。 |
20 | 1.2.5 | 81 | 67 |
宣旨、対面して、御消息は聞こゆ。 |
せんじ、たいめんして、おほんせうそこはきこゆ。 |
20 | 1.2.6 | 82 | 68 |
「今さらに、若々しき心地する御簾の前かな。神さびにける年月の労数へられはべるに、今は内外も許させたまひてむとぞ頼みはべりける」 |
"いまさらに、わかわかしきここちするみすのまへかな。かみさびにけるとしつきのらうかぞへられはべるに、いまはないげもゆるさせたまひてんとぞたのみはべりける。" |
20 | 1.2.7 | 83 | 69 |
とて、飽かず思したり。 |
とて、あかずおぼしたり。 |
20 | 1.2.8 | 84 | 70 |
「ありし世は皆夢に見なして、今なむ、覚めてはかなきにやと、思ひたまへ定めがたくはべるに、労などは、静かにやと定めきこえさすべうはべらむ」 |
"ありしよはみなゆめにみなして、いまなん、さめてはかなきにやと、おもひたまへさだめがたくはべるに、らうなどは、しづかにやとさだめきこえさすべうはべらん。" |
20 | 1.2.9 | 85 | 71 |
と、聞こえ出だしたまへり。「げにこそ定めがたき世なれ」と、はかなきことにつけても思し続けらる。 |
と、きこえいだしたまへり。"げにこそさだめがたきよなれ。"と、はかなきことにつけてもおぼしつづけらる。 |
20 | 1.2.10 | 86 | 72 |
「人知れず神の許しを待ちし間に<BR/>ここらつれなき世を過ぐすかな |
"〔ひとしれずかみのゆるしをまちしまに<BR/>ここらつれなきよをすぐすかな |
20 | 1.2.11 | 87 | 73 |
今は、何のいさめにか、かこたせたまはむとすらむ。なべて、世にわづらはしきことさへはべりしのち、さまざまに思ひたまへ集めしかな。いかで片端をだに」 |
いまは、なにのいさめにか、かこたせたまはんとすらん。なべて、よにわづらはしきことさへはべりしのち、さまざまにおもひたまへあつめしかな。いかでかたはしをだに。" |
20 | 1.2.12 | 88 | 74 |
と、あながちに聞こえたまふ、御用意なども、昔よりも今すこしなまめかしきけさへ添ひたまひにけり。さるは、いといたう過ぐしたまへど、御位のほどには合はざめり。 |
と、あながちにきこえたまふ、おほんよういなども、むかしよりもいますこしなまめかしきけさへそひたまひにけり。さるは、いといたうすぐしたまへど、おほんくらゐのほどにはあはざめり。 |
20 | 1.2.13 | 89 | 75 |
「なべて世のあはればかりを問ふからに<BR/>誓ひしことと神やいさめむ」 |
"〔なべてよのあはればかりをとふからに<BR/>ちかひしこととかみやいさめん〕 |
20 | 1.2.14 | 90 | 76 |
とあれば、 |
とあれば、 |
20 | 1.2.15 | 91 | 77 |
「あな、心憂。その世の罪は、みな科戸の風にたぐへてき」 |
"あな、こころう。そのよのつみは、みなしなとのかぜにたぐへてき。" |
20 | 1.2.16 | 92 | 78 |
とのたまふ愛敬も、こよなし。 |
とのたまふあいぎゃうも、こよなし。 |
20 | 1.2.17 | 93 | 79 |
「みそぎを、神は、いかがはべりけむ」 |
"みそぎを、かみは、いかがはべりけん。" |
20 | 1.2.18 | 94 | 80 |
など、はかなきことを聞こゆるも、まめやかには、いとかたはらいたし。世づかぬ御ありさまは、年月に添へても、もの深くのみ引き入りたまひて、え聞こえたまはぬを、見たてまつり悩めり。 |
など、はかなきことをきこゆるも、まめやかには、いとかたはらいたし。よづかぬおほんありさまは、としつきにそへても、ものふかくのみひきいりたまひて、えきこえたまはぬを、みたてまつりなやめり。 |
20 | 1.2.19 | 95 | 81 |
「好き好きしきやうになりぬるを」 |
"すきずきしきやうになりぬるを。" |
20 | 1.2.20 | 96 | 82 |
など、浅はかならずうち嘆きて立ちたまふ。 |
など、あさはかならずうちなげきてたちたまふ。 |
20 | 1.2.21 | 97 | 83 |
「齢の積もりには、面なくこそなるわざなりけれ。世に知らぬやつれを、今ぞ、とだに聞こえさすべくやは、もてなしたまひける」 |
"よはひのつもりには、おもなくこそなるわざなりけれ。よにしらぬやつれを、いまぞ、とだにきこえさすべくやは、もてなしたまひける。" |
20 | 1.2.22 | 98 | 84 |
とて、出でたまふ名残、所狭きまで、例の聞こえあへり。 |
とて、いでたまふなごり、ところせきまで、れいのきこえあへり。 |
20 | 1.2.23 | 99 | 85 |
おほかたの、空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけても、過ぎにしもののあはれとり返しつつ、その折々、をかしくもあはれにも、深く見えたまひし御心ばへなども、思ひ出できこえさす。 |
おほかたの、そらもをかしきほどに、このはのおとなひにつけても、すぎにしもののあはれとりかへしつつ、そのをりをり、をかしくもあはれにも、ふかくみえたまひしみこころばへなども、おもひいできこえさす。 |
20 | 1.3 | 100 | 86 | 第三段 帰邸後に和歌を贈答しあう |
20 | 1.3.1 | 101 | 87 |
心やましくて立ち出でたまひぬるは、まして、寝覚がちに思し続けらる。とく御格子参らせたまひて、朝霧を眺めたまふ。枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれにはひまつはれて、あるかなきかに咲きて、匂ひもことに変はれるを、折らせたまひてたてまつれたまふ。 |
こころやましくてたちいでたまひぬるは、まして、ねざめがちにおぼしつづけらる。とくみかうしまゐらせたまひて、あさぎりをながめたまふ。かれたるはなどものなかに、あさがほのこれかれにはひまつはれて、あるかなきかにさきて、にほひもことにかはれるを、をらせたまひてたてまつれたまふ。 |
20 | 1.3.2 | 102 | 89 |
「けざやかなりし御もてなしに、人悪ろき心地しはべりて、うしろでもいとどいかが御覧じけむと、ねたく。されど、 |
"けざやかなりしおほんもてなしに、ひとわろきここちしはべりて、うしろでもいとどいかがごらんじけんと、ねたく。されど、 |
20 | 1.3.3 | 103 | 90 |
見し折のつゆ忘られぬ朝顔の<BR/>花の盛りは過ぎやしぬらむ |
みしをりのつゆわすられぬあさがほの<BR/>はなのさかりはすぎやしぬらん |
20 | 1.3.4 | 104 | 91 |
年ごろの積もりも、あはれとばかりは、さりとも、思し知るらむやとなむ、かつは」 |
としごろのつもりも、あはれとばかりは、さりとも、おぼししるらんやとなん、かつは。" |
20 | 1.3.5 | 105 | 92 |
など聞こえたまへり。おとなびたる御文の心ばへに、「おぼつかなからむも、見知らぬやうにや」と思し、人びとも御硯とりまかなひて、聞こゆれば、 |
などきこえたまへり。おとなびたるおほんふみのこころばへに、"おぼつかなからんも、みしらぬやうにや。"とおぼし、ひとびともおほんすずりとりまかなひて、きこゆれば、 |
20 | 1.3.6 | 106 | 93 |
「秋果てて霧の籬にむすぼほれ<BR/>あるかなきかに移る朝顔 |
"〔あきはててきりのまがきにむすぼほれ<BR/>あるかなきかにうつるあさがほ |
20 | 1.3.7 | 107 | 94 |
似つかはしき御よそへにつけても、露けく」 |
につかはしきおほんよそへにつけても、つゆけく。" |
20 | 1.3.8 | 108 | 95 |
とのみあるは、何のをかしきふしもなきを、いかなるにか、置きがたく御覧ずめり。青鈍の紙の、なよびかなる墨つきはしも、をかしく見ゆめり。人の御ほど、書きざまなどに繕はれつつ、その折は罪なきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛らはしつつ、おぼつかなきことも多かりけり。 |
とのみあるは、なにのをかしきふしもなきを、いかなるにか、おきがたくごらんずめり。あをにびのかみの、なよびかなるすみつきはしも、をかしくみゆめり。ひとのおほんほど、かきざまなどにつくろはれつつ、そのをりはつみなきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほゆがむこともあめればこそ、さかしらにかきまぎらはしつつ、おぼつかなきこともおほかりけり。 |
20 | 1.3.9 | 109 | 96 |
立ち返り、今さらに若々しき御文書きなども、似げなきこと、と思せども、なほかく昔よりもて離れぬ御けしきながら、口惜しくて過ぎぬるを思ひつつ、えやむまじくて思さるれば、さらがへりて、まめやかに聞こえたまふ。 |
たちかへり、いまさらにわかわかしきおほんふみがきなども、にげなきこと、とおぼせども、なほかくむかしよりもてはなれぬみけしきながら、くちをしくてすぎぬるをおもひつつ、えやむまじくておぼさるれば、さらがへりて、まめやかにきこえたまふ。 |
20 | 1.4 | 110 | 97 | 第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う |
20 | 1.4.1 | 111 | 98 |
東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ語らひたまふ。さぶらふ人びとの、さしもあらぬ際のことをだに、なびきやすなるなどは、過ちもしつべく、めできこゆれど、宮は、そのかみだにこよなく思し離れたりしを、今は、まして、誰も思ひなかるべき御齢、おぼえにて、「はかなき木草につけたる御返りなどの、折過ぐさぬも、軽々しくや、とりなさるらむ」など、人の物言ひを憚りたまひつつ、うちとけたまふべき御けしきもなければ、古りがたく同じさまなる御心ばへを、世の人に変はり、めづらしくもねたくも思ひきこえたまふ。 |
ひんがしのたいにはなれおはして、せんじをむかへつつかたらひたまふ。さぶらふひとびとの、さしもあらぬきはのことをだに、なびきやすなるなどは、あやまちもしつべく、めできこゆれど、みやは、そのかみだにこよなくおぼしはなれたりしを、いまは、まして、たれもおもひなかるべきおほんよはひ、おぼえにて、"はかなききくさにつけたるおほんかへりなどの、をりすぐさぬも、かるがるしくや、とりなさるらん。"など、ひとのものいひをはばかりたまひつつ、うちとけたまふべきみけしきもなければ、ふりがたくおなじさまなるみこころばへを、よのひとにかはり、めづらしくもねたくもおもひきこえたまふ。 |
20 | 1.4.2 | 112 | 99 |
世の中に漏り聞こえて、 |
よのなかにもりきこえて、 |
20 | 1.4.3 | 113 | 100 |
「前斎院を、ねむごろに聞こえたまへばなむ、女五の宮などもよろしく思したなり。似げなからぬ御あはひならむ」 |
"ぜんさいゐんを、ねんごろにきこえたまへばなん、をんなごのみやなどもよろしくおぼしたなり。にげなからぬおほんあはひならん。" |
20 | 1.4.4 | 114 | 101 |
など言ひけるを、対の上は伝へ聞きたまひて、しばしは、 |
などいひけるを、たいのうへはつたへききたまひて、しばしは、 |
20 | 1.4.5 | 115 | 102 |
「さりとも、さやうならむこともあらば、隔てては思したらじ」 |
"さりとも、さやうならんこともあらば、へだててはおぼしたらじ。" |
20 | 1.4.6 | 116 | 103 |
と思しけれど、うちつけに目とどめきこえたまふに、御けしきなども、例ならずあくがれたるも心憂く、 |
とおぼしけれど、うちつけにめとどめきこえたまふに、みけしきなども、れいならずあくがれたるもこころうく、 |
20 | 1.4.7 | 117 | 104 |
「まめまめしく思しなるらむことを、つれなく戯れに言ひなしたまひけむよと、同じ筋にはものしたまへど、おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心など移りなば、はしたなくもあべいかな。年ごろの御もてなしなどは、立ち並ぶ方なく、さすがにならひて、人に押し消たれむこと」 |
"まめまめしくおぼしなるらんことを、つれなくたはぶれにいひなしたまひけんよと、おなじすぢにはものしたまへど、おぼえことに、むかしよりやんごとなくきこえたまふを、みこころなどうつりなば、はしたなくもあべいかな。としごろのおほんもてなしなどは、たちならぶかたなく、さすがにならひて、ひとにおしけたれんこと。" |
20 | 1.4.8 | 118 | 105 |
など、人知れず思し嘆かる。 |
など、ひとしれずおぼしなげかる。 |
20 | 1.4.9 | 119 | 106 |
「かき絶え名残なきさまにはもてなしたまはずとも、いとものはかなきさまにて見馴れたまへる年ごろの睦び、あなづらはしき方にこそはあらめ」 |
"かきたえなごりなきさまにはもてなしたまはずとも、いとものはかなきさまにてみなれたまへるとしごろのむつび、あなづらはしきかたにこそはあらめ。" |
20 | 1.4.10 | 120 | 107 |
など、さまざまに思ひ乱れたまふに、よろしきことこそ、うち怨じなど憎からず聞こえたまへ、まめやかにつらしと思せば、色にも出だしたまはず。 |
など、さまざまにおもひみだれたまふに、よろしきことこそ、うちゑんじなどにくからずきこえたまへ、まめやかにつらしとおぼせば、いろにもいだしたまはず。 |
20 | 1.4.11 | 121 | 108 |
端近う眺めがちに、内裏住みしげくなり、役とは御文を書きたまへば、 |
はしちかうながめがちに、うちずみしげくなり、やくとはおほんふみをかきたまへば、 |
20 | 1.4.12 | 122 | 109 |
「げに、人の言葉むなしかるまじきなめり。けしきをだにかすめたまへかし」 |
"げに、ひとのことばむなしかるまじきなめり。けしきをだにかすめたまへかし。" |
20 | 1.4.13 | 123 | 110 |
と、疎ましくのみ思ひきこえたまふ。 |
と、うとましくのみおもひきこえたまふ。 |
20 | 2 | 124 | 111 | 第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心 |
20 | 2.1 | 125 | 112 | 第一段 朝顔姫君訪問の道中 |
20 | 2.1.1 | 126 | 113 |
夕つ方、神事なども止まりてさうざうしきに、つれづれと思しあまりて、五の宮に例の近づき参りたまふ。雪うち散りて艶なるたそかれ時に、なつかしきほどに馴れたる御衣どもを、いよいよたきしめたまひて、心ことに化粧じ暮らしたまへれば、いとど心弱からむ人はいかがと見えたり。さすがに、まかり申しはた、聞こえたまふ。 |
ゆふつかた、かんわざなどもとまりてさうざうしきに、つれづれとおぼしあまりて、ごのみやにれいのちかづきまゐりたまふ。ゆきうちちりてえんなるたそかれどきに、なつかしきほどになれたるおほんぞどもを、いよいよたきしめたまひて、こころことにけさうじくらしたまへれば、いとどこころよわからんひとはいかがとみえたり。さすがに、まかりまうしはた、きこえたまふ。 |
20 | 2.1.2 | 127 | 114 |
「女五の宮の悩ましくしたまふなるを、訪らひきこえになむ」 |
"をんなごのみやのなやましくしたまふなるを、とぶらひきこえになん。" |
20 | 2.1.3 | 128 | 115 |
とて、ついゐたまへれど、見もやりたまはず、若君をもてあそび、紛らはしおはする側目の、ただならぬを、 |
とて、ついゐたまへれど、みもやりたまはず、わかぎみをもてあそび、まぎらはしおはするそばめの、ただならぬを、 |
20 | 2.1.4 | 129 | 116 |
「あやしく、御けしきの変はれるべきころかな。罪もなしや。塩焼き衣のあまり目馴れ、見だてなく思さるるにやとて、とだえ置くを、またいかが」 |
"あやしく、みけしきのかはれるべきころかな。つみもなしや。しほやきごろものあまりめなれ、みだてなくおぼさるるにやとて、とだえおくを、またいかが。" |
20 | 2.1.5 | 130 | 117 |
など聞こえたまへば、 |
などきこえたまへば、 |
20 | 2.1.6 | 131 | 118 |
「馴れゆくこそ、げに、憂きこと多かりけれ」 |
"なれゆくこそ、げに、うきことおほかりけれ。" |
20 | 2.1.7 | 132 | 119 |
とばかりにて、うち背きて臥したまへるは、見捨てて出でたまふ道、もの憂けれど、宮に御消息聞こえたまひてければ、出でたまひぬ。 |
とばかりにて、うちそむきてふしたまへるは、みすてていでたまふみち、ものうけれど、みやにおほんせうそこきこえたまひてければ、いでたまひぬ。 |
20 | 2.1.8 | 133 | 120 |
「かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよ」 |
"かかりけることもありけるよを、うらなくてすぐしけるよ。" |
20 | 2.1.9 | 134 | 121 |
と思ひ続けて、臥したまへり。鈍びたる御衣どもなれど、色合ひ重なり、好ましくなかなか見えて、雪の光にいみじく艶なる御姿を見出だして、 |
とおもひつづけて、ふしたまへり。にびたるおほんぞどもなれど、いろあひかさなり、このましくなかなかみえて、ゆきのひかりにいみじくえんなるおほんすがたをみいだして、 |
20 | 2.1.10 | 135 | 122 |
「まことに離れまさりたまはば」 |
"まことにかれまさりたまはば。" |
20 | 2.1.11 | 136 | 123 |
と、忍びあへず思さる。 |
と、しのびあへずおぼさる。 |
20 | 2.1.12 | 137 | 124 |
御前など忍びやかなる限りして、 |
ごぜんなどしのびやかなるかぎりして、 |
20 | 2.1.13 | 138 | 125 |
「内裏より他の歩きは、もの憂きほどになりにけりや。桃園宮の心細きさまにてものしたまふも、式部卿宮に年ごろは譲りきこえつるを、今は頼むなど思しのたまふも、ことわりに、いとほしければ」 |
"うちよりほかのありきは、ものうきほどになりにけりや。ももぞののみやのこころぼそきさまにてものしたまふも、しきぶきゃうのみやにとしごろはゆづりきこえつるを、いまはたのむなどおぼしのたまふも、ことわりに、いとほしければ。" |
20 | 2.1.14 | 139 | 126 |
など、人びとにものたまひなせど、 |
など、ひとびとにものたまひなせど、 |
20 | 2.1.15 | 140 | 127 |
「いでや。御好き心の古りがたきぞ、あたら御疵なめる」 |
"いでや。おほんすきごころのふりがたきぞ、あたらおほんきずなめる。" |
20 | 2.1.16 | 141 | 128 |
「軽々しきことも出で来なむ」 |
"かるがるしきこともいできなん。" |
20 | 2.1.17 | 142 | 129 |
など、つぶやきあへり。 |
など、つぶやきあへり。 |
20 | 2.2 | 143 | 130 | 第二段 宮邸に到着して門を入る |
20 | 2.2.1 | 144 | 131 |
宮には、北面の人しげき方なる御門は、入りたまはむも軽々しければ、西なるがことことしきを、人入れさせたまひて、宮の御方に御消息あれば、「今日しも渡りたまはじ」と思しけるを、驚きて開けさせたまふ。 |
みやには、きたおもてのひとしげきかたなるみかどは、いりたまはんもかろがろしければ、にしなるがことことしきを、ひといれさせたまひて、みやのおほんかたにおほんせうそこあれば、"けふしもわたりたまはじ。"とおぼしけるを、おどろきてあけさせたまふ。 |
20 | 2.2.2 | 145 | 133 |
御門守、寒げなるけはひ、うすすき出で来て、とみにもえ開けやらず。これより他の男はたなきなるべし。ごほごほと引きて、 |
みかどもり、さむげなるけはひ、うすすきいできて、とみにもえあけやらず。これよりほかのをのこはたなきなるべし。ごほごほとひきて、 |
20 | 2.2.3 | 146 | 134 |
「錠のいといたく銹びにければ、開かず」 |
"じょのいといたくさびにければ、あかず。" |
20 | 2.2.4 | 147 | 135 |
と愁ふるを、あはれと聞こし召す。 |
とうれふるを、あはれときこしめす。 |
20 | 2.2.5 | 148 | 136 |
「昨日今日と思すほどに、三年のあなたにもなりにける世かな。かかるを見つつ、かりそめの宿りをえ思ひ捨てず、木草の色にも心を移すよ」と、思し知らるる。口ずさびに、 |
"きのふけふとおぼすほどに、みとせのあなたにもなりにけるよかな。かかるをみつつ、かりそめのやどりをえおもひすてず、きくさのいろにもこころをうつすよ。"と、おぼししらるる。くちずさびに、 |
20 | 2.2.6 | 149 | 137 |
「いつのまに蓬がもととむすぼほれ<BR/>雪降る里と荒れし垣根ぞ」 |
"〔いつのまによもぎがもととむすぼほれ<BR/>ゆきふるさととあれしかきねぞ〕 |
20 | 2.2.7 | 150 | 138 |
やや久しう、ひこしらひ開けて、入りたまふ。 |
ややひさしう、ひこしらひあけて、いりたまふ。 |
20 | 2.3 | 151 | 139 | 第三段 宮邸で源典侍と出会う |
20 | 2.3.1 | 152 | 140 |
宮の御方に、例の、御物語聞こえたまふに、古事どものそこはかとなきうちはじめ、聞こえ尽くしたまへど、御耳もおどろかず、ねぶたきに、宮も欠伸うちしたまひて、 |
みやのおほんかたに、れいの、おほんものがたりきこえたまふに、ふることどものそこはかとなきうちはじめ、きこえつくしたまへど、おほんみみもおどろかず、ねぶたきに、みやもあくびうちしたまひて、 |
20 | 2.3.2 | 153 | 141 |
「宵まどひをしはべれば、ものもえ聞こえやらず」 |
"よひまどひをしはべれば、ものもえきこえやらず。" |
20 | 2.3.3 | 154 | 142 |
とのたまふほどもなく、鼾とか、聞き知らぬ音すれば、よろこびながら立ち出でたまはむとするに、またいと古めかしきしはぶきうちして、参りたる人あり。 |
とのたまふほどもなく、いびきとか、ききしらぬおとすれば、よろこびながらたちいでたまはんとするに、またいとふるめかしきしはぶきうちして、まゐりたるひとあり。 |
20 | 2.3.4 | 155 | 143 |
「かしこけれど、聞こし召したらむと頼みきこえさするを、世にある者とも数まへさせたまはぬになむ。院の上は、祖母殿と笑はせたまひし」 |
"かしこけれど、きこしめしたらんとたのみきこえさするを、よにあるものともかずまへさせたまはぬになん。ゐんのうへは、おばおとどとわらはせたまひし。" |
20 | 2.3.5 | 156 | 144 |
など、名のり出づるにぞ、思し出づる。 |
など、なのりいづるにぞ、おぼしいづる。 |
20 | 2.3.6 | 157 | 145 |
源典侍といひし人は、尼になりて、この宮の御弟子にてなむ行なふと聞きしかど、今まであらむとも尋ね知りたまはざりつるを、あさましうなりぬ。 |
げんのないしのすけといひしひとは、あまになりて、このみやのおほんでしにてなんおこなふとききしかど、いままであらんともたづねしりたまはざりつるを、あさましうなりぬ。 |
20 | 2.3.7 | 158 | 146 |
「その世のことは、みな昔語りになりゆくを、はるかに思ひ出づるも、心細きに、うれしき御声かな。親なしに臥せる旅人と、育みたまへかし」 |
"そのよのことは、みなむかしがたりになりゆくを、はるかにおもひいづるも、こころぼそきに、うれしきおほんこゑかな。おやなしにふせるたびびとと、はぐくみたまへかし。" |
20 | 2.3.8 | 159 | 147 |
とて、寄りゐたまへる御けはひに、いとど昔思ひ出でつつ、古りがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたる口つき、思ひやらるる声づかひの、さすがに舌つきにて、うちされむとはなほ思へり。 |
とて、よりゐたまへるおほんけはひに、いとどむかしおもひいでつつ、ふりがたくなまめかしきさまにもてなして、いたうすげみにたるくちつき、おもひやらるるこわづかひの、さすがにしたつきにて、うちされんとはなほおもへり。 |
20 | 2.3.9 | 160 | 148 |
「言ひこしほどに」など聞こえかかる、まばゆさよ。「今しも来たる老いのやうに」など、ほほ笑まれたまふものから、ひきかへ、これもあはれなり。 |
"いひこしほどに。"などきこえかかる、まばゆさよ。"いましもきたるおいのやうに。"など、ほほゑまれたまふものから、ひきかへ、これもあはれなり。 |
20 | 2.3.10 | 161 | 149 |
「この盛りに挑みたまひし女御、更衣、あるはひたすら亡くなりたまひ、あるはかひなくて、はかなき世にさすらへたまふもあべかめり。入道の宮などの御齢よ。あさましとのみ思さるる世に、年のほど身の残り少なげさに、心ばへなども、ものはかなく見えし人の、生きとまりて、のどやかに行なひをもうちして過ぐしけるは、なほすべて定めなき世なり」 |
"このさかりにいどみたまひしにょうご、かうい、あるはひたすらなくなりたまひ、あるはかひなくて、はかなきよにさすらへたまふもあべかめり。にふだうのみやなどのおほんよはひよ。あさましとのみおぼさるるよに、としのほどみののこりすくなげさに、こころばへなども、ものはかなくみえしひとの、いきとまりて、のどやかにおこなひをもうちしてすぐしけるは、なほすべてさだめなきよなり。" |
20 | 2.3.11 | 162 | 150 |
と思すに、ものあはれなる御けしきを、心ときめきに思ひて、若やぐ。 |
とおぼすに、ものあはれなるみけしきを、こころときめきにおもひて、わかやぐ。 |
20 | 2.3.12 | 163 | 151 |
「年経れどこの契りこそ忘られね<BR/>親の親とか言ひし一言」 |
"〔としふれどこのちぎりこそわすられね<BR/>おやのおやとかいひしひとこと〕" |
20 | 2.3.13 | 164 | 152 |
と聞こゆれば、疎ましくて、 |
ときこゆれば、うとましくて、 |
20 | 2.3.14 | 165 | 153 |
「身を変へて後も待ち見よこの世にて<BR/>親を忘るるためしありやと |
"〔みをかへてのちもまちみよこのよにて<BR/>おやをわするるためしありやと |
20 | 2.3.15 | 166 | 154 |
頼もしき契りぞや。今のどかにぞ、聞こえさすべき」 |
たのもしきちぎりぞや。いまのどかにぞ、きこえさすべき。" |
20 | 2.3.16 | 167 | 155 |
とて、立ちたまひぬ。 |
とて、たちたまひぬ。 |
20 | 2.4 | 168 | 156 | 第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす |
20 | 2.4.1 | 169 | 157 |
西面には御格子参りたれど、厭ひきこえ顔ならむもいかがとて、一間、二間は下ろさず。月さし出でて、薄らかに積もれる雪の光りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。 |
にしおもてにはみかうしまゐりたれど、いとひきこえがほならんもいかがとて、ひとま、ふたまはおろさず。つきさしいでて、うすらかにつもれるゆきのひかりあひて、なかなかいとおもしろきよのさまなり。 |
20 | 2.4.2 | 170 | 158 |
「ありつる老いらくの心げさうも、良からぬものの世のたとひとか聞きし」と思し出でられて、をかしくなむ。今宵は、いとまめやかに聞こえたまひて、 |
"ありつるおいらくのこころげさうも、よからぬもののよのたとひとかききし。"とおぼしいでられて、をかしくなん。こよひは、いとまめやかにきこえたまひて、 |
20 | 2.4.3 | 171 | 159 |
「一言、憎しなども、人伝てならでのたまはせむを、思ひ絶ゆるふしにもせむ」 |
"ひとこと、にくしなども、ひとづてならでのたまはせんを、おもひたゆるふしにもせん。" |
20 | 2.4.4 | 172 | 160 |
と、おり立ちて責めきこえたまへど、 |
と、おりたちてせめきこえたまへど、 |
20 | 2.4.5 | 173 | 161 |
「昔、われも人も若やかに、罪許されたりし世にだに、故宮などの心寄せ思したりしを、なほあるまじく恥づかしと思ひきこえてやみにしを、世の末に、さだすぎ、つきなきほどにて、一声もいとまばゆからむ」 |
"むかし、われもひともわかやかに、つみゆるされたりしよにだに、こみやなどのこころよせおぼしたりしを、なほあるまじくはづかしとおもひきこえてやみにしを、よのすゑに、さだすぎ、つきなきほどにて、ひとこゑもいとまばゆからん。" |
20 | 2.4.6 | 174 | 162 |
と思して、さらに動きなき御心なれば、「あさましう、つらし」と思ひきこえたまふ。 |
とおぼして、さらにうごきなきみこころなれば、"あさましう、つらし。"とおもひきこえたまふ。 |
20 | 2.4.7 | 175 | 163 |
さすがに、はしたなくさし放ちてなどはあらぬ人伝ての御返りなどぞ、心やましきや。夜もいたう更けゆくに、風のけはひ、はげしくて、まことにいともの心細くおぼゆれば、さまよきほど、おし拭ひたまひて、 |
さすがに、はしたなくさしはなちてなどはあらぬひとづてのおほんかへりなどぞ、こころやましきや。よもいたうふけゆくに、かぜのけはひ、はげしくて、まことにいとものこころぼそくおぼゆれば、さまよきほど、おしのごひたまひて、 |
20 | 2.4.8 | 176 | 164 |
「つれなさを昔に懲りぬ心こそ<BR/>人のつらきに添へてつらけれ |
"〔つれなさをむかしにこりぬこころこそ<BR/>ひとのつらきにそへてつらけれ |
20 | 2.4.9 | 177 | 165 |
心づからの」 |
こころづからの。" |
20 | 2.4.10 | 178 | 166 |
とのたまひすさぶるを、 |
とのたまひすさぶるを、 |
20 | 2.4.11 | 179 | 167 |
「げに」 |
"げに。" |
20 | 2.4.12 | 180 | 168 |
「かたはらいたし」 |
"かたはらいたし。" |
20 | 2.4.13 | 181 | 169 |
と、人びと、例の、聞こゆ。 |
と、ひとびと、れいの、きこゆ。 |
20 | 2.4.14 | 182 | 170 |
「あらためて何かは見えむ人のうへに<BR/>かかりと聞きし心変はりを |
"〔あらためてなにかはみえんひとのうへに<BR/>かかりとききしこころがはりを |
20 | 2.4.15 | 183 | 171 |
昔に変はることは、ならはず」 |
むかしにかはることは、ならはず。" |
20 | 2.4.16 | 184 | 172 |
など聞こえたまへり。 |
などきこえたまへり。 |
20 | 2.5 | 185 | 173 | 第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む |
20 | 2.5.1 | 186 | 174 |
いふかひなくて、いとまめやかに怨じきこえて出でたまふも、いと若々しき心地したまへば、 |
いふかひなくて、いとまめやかにゑんじきこえていでたまふも、いとわかわかしきここちしたまへば、 |
20 | 2.5.2 | 187 | 175 |
「いとかく、世の例になりぬべきありさま、漏らしたまふなよ。ゆめゆめ。いさら川などもなれなれしや」 |
"いとかく、よのためしになりぬべきありさま、もらしたまふなよ。ゆめゆめ。いさらがはなどもなれなれしや。" |
20 | 2.5.3 | 188 | 176 |
とて、せちにうちささめき語らひたまへど、何ごとにかあらむ。人びとも、 |
とて、せちにうちささめきかたらひたまへど、なにごとにかあらん。ひとびとも、 |
20 | 2.5.4 | 189 | 177 |
「あな、かたじけな。あながちに情けおくれても、もてなしきこえたまふらむ」 |
"あな、かたじけな。あながちになさけおくれても、もてなしきこえたまふらん。" |
20 | 2.5.5 | 190 | 178 |
「軽らかにおし立ちてなどは見えたまはぬ御けしきを。心苦しう」 |
"かるらかにおしたちてなどはみえたまはぬみけしきを。こころぐるしう。" |
20 | 2.5.6 | 191 | 179 |
と言ふ。 |
といふ。 |
20 | 2.5.7 | 192 | 180 |
げに、人のほどの、をかしきにも、あはれにも、思し知らぬにはあらねど、 |
げに、ひとのほどの、をかしきにも、あはれにも、おぼししらぬにはあらねど、 |
20 | 2.5.8 | 193 | 181 |
「もの思ひ知るさまに見えたてまつるとて、おしなべての世の人のめできこゆらむ列にや思ひなされむ。かつは、軽々しき心のほども見知りたまひぬべく、恥づかしげなめる御ありさまを」と思せば、「なつかしからむ情けも、いとあいなし。よその御返りなどは、うち絶えで、おぼつかなかるまじきほどに聞こえたまひ、人伝ての御応へ、はしたなからで過ぐしてむ。年ごろ、沈みつる罪失ふばかり御行なひを」とは思し立てど、「にはかにかかる御ことをしも、もて離れ顔にあらむも、なかなか今めかしきやうに見え聞こえて、人のとりなさじやは」と、世の人の口さがなさを思し知りにしかば、かつ、さぶらふ人にもうちとけたまはず、いたう御心づかひしたまひつつ、やうやう御行なひをのみしたまふ。 |
"ものおもひしるさまにみえたてまつるとて、おしなべてのよのひとのめできこゆらんつらにやおもひなされん。かつは、かるがるしきこころのほどもみしりたまひぬべく、はづかしげなめるおほんありさまを。"とおぼせば、"なつかしからんなさけも、いとあいなし。よそのおほんかへりなどは、うちたえで、おぼつかなかるまじきほどにきこえたまひ、ひとづてのおほんいらへ、はしたなからですぐしてん。としごろ、しづみつるつみうしなふばかりおほんおこなひを。"とはおぼしたてど、"にはかにかかるおほんことをしも、もてはなれがほにあらんも、なかなかいまめかしきやうにみえきこえて、ひとのとりなさじやは。"と、よのひとのくちさがなさをおぼししりにしかば、かつ、さぶらふひとにもうちとけたまはず、いたうみこころづかひしたまひつつ、やうやうおほんおこなひをのみしたまふ。 |
20 | 2.5.9 | 194 | 182 |
御兄弟の君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば、いとうとうとしく、宮のうちいとかすかになり行くままに、さばかりめでたき人の、ねむごろに御心を尽くしきこえたまへば、皆人、心を寄せきこゆるも、ひとつ心と見ゆ。 |
おほんはらからのきんだちあまたものしたまへど、ひとつおほんはらならねば、いとうとうとしく、みやのうちいとかすかになりゆくままに、さばかりめでたきひとの、ねんごろにみこころをつくしきこえたまへば、みなひと、こころをよせきこゆるも、ひとつこころとみゆ。 |
20 | 3 | 195 | 183 | 第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影 |
20 | 3.1 | 196 | 184 | 第一段 紫の君、嫉妬す |
20 | 3.1.1 | 197 | 185 |
大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、負けてやみなむも口惜しく、げにはた、人の御ありさま、世のおぼえことに、あらまほしく、ものを深く思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞き集めたまひて、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今さらの御あだけも、かつは世のもどきをも思しながら、 |
おとどは、あながちにおぼしいらるるにしもあらねど、つれなきみけしきのうれたきに、まけてやみなんもくちをしく、げにはた、ひとのおほんありさま、よのおぼえことに、あらまほしく、ものをふかくおぼししり、よのひとの、とあるかかるけぢめもききあつめたまひて、むかしよりもあまたへまさりておぼさるれば、いまさらのおほんあだけも、かつはよのもどきをもおぼしながら、 |
20 | 3.1.2 | 198 | 186 |
「むなしからむは、いよいよ人笑へなるべし。いかにせむ」 |
"むなしからんは、いよいよひとわらへなるべし。いかにせん。" |
20 | 3.1.3 | 199 | 187 |
と、御心動きて、二条院に夜離れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみ思す。忍びたまへど、いかがうちこぼるる折もなからむ。 |
と、みこころうごきて、にでうのゐんによがれかさねたまふを、をんなぎみは、たはぶれにくくのみおぼす。しのびたまへど、いかがうちこぼるるをりもなからん。 |
20 | 3.1.4 | 200 | 188 |
「あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ」 |
"あやしくれいならぬみけしきこそ、こころえがたけれ。" |
20 | 3.1.5 | 201 | 189 |
とて、御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描かまほしき御あはひなり。 |
とて、みぐしをかきやりつつ、いとほしとおぼしたるさまも、ゑにかかまほしきおほんあはひなり。 |
20 | 3.1.6 | 202 | 190 |
「宮亡せたまひて後、主上のいとさうざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、太政大臣もものしたまはで、見譲る人なきことしげさになむ。このほどの絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも、ことわりに、あはれなれど、今はさりとも、心のどかに思せ。おとなびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬさまにものしたまふこそ、らうたけれ」 |
"みやうせたまひてのち、うへのいとさうざうしげにのみよをおぼしたるも、こころぐるしうみたてまつり、おほきおとどもものしたまはで、みゆづるひとなきことしげさになん。このほどのたえまなどを、みならはぬことにおぼすらんも、ことわりに、あはれなれど、いまはさりとも、こころのどかにおぼせ。おとなびたまひためれど、まだいとおもひやりもなく、ひとのこころもみしらぬさまにものしたまふこそ、らうたけれ。" |
20 | 3.1.7 | 203 | 191 |
など、まろがれたる御額髪、ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞こえたまはず。 |
など、まろがれたるおほんひたひがみ、ひきつくろひたまへど、いよいよそむきてものもきこえたまはず。 |
20 | 3.1.8 | 204 | 192 |
「いといたく若びたまへるは、誰がならはしきこえたるぞ」 |
"いといたくわかびたまへるは、たがならはしきこえたるぞ。" |
20 | 3.1.9 | 205 | 193 |
とて、「常なき世に、かくまで心置かるるもあぢきなのわざや」と、かつはうち眺めたまふ。 |
とて、"つねなきよに、かくまでこころおかるるもあぢきなのわざや。"と、かつはうちながめたまふ。 |
20 | 3.1.10 | 206 | 194 |
「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それは、いともて離れたることぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこよなうけどほき御心ばへなるを、さうざうしき折々、ただならで聞こえ悩ますに、かしこもつれづれにものしたまふ所なれば、たまさかの応へなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなむあるとしも、愁へきこゆべきことにやは。うしろめたうはあらじとを、思ひ直したまへ」 |
"さいゐんにはかなしごときこゆるや、もしおぼしひがむるかたある。それは、いともてはなれたることぞよ。おのづからみたまひてん。むかしよりこよなうけどほきみこころばへなるを、さうざうしきをりをり、ただならできこえなやますに、かしこもつれづれにものしたまふところなれば、たまさかのいらへなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなんあるとしも、うれへきこゆべきことにやは。うしろめたうはあらじとを、おもひなほしたまへ。" |
20 | 3.1.11 | 207 | 195 |
など、日一日慰めきこえたまふ。 |
など、ひひとひなぐさめきこえたまふ。 |
20 | 3.2 | 208 | 196 | 第二段 夜の庭の雪まろばし |
20 | 3.2.1 | 209 | 197 |
雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。 |
ゆきのいたうふりつもりたるうへに、いまもちりつつ、まつとたけとのけぢめをかしうみゆるゆふぐれに、ひとのおほんかたちもひかりまさりてみゆ。 |
20 | 3.2.2 | 210 | 198 |
「時々につけても、人の心を移すめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ。すさまじき例に言ひ置きけむ人の心浅さよ」 |
"ときどきにつけても、ひとのこころをうつすめるはなもみぢのさかりよりも、ふゆのよのすめるつきに、ゆきのひかりあひたるそらこそ、あやしう、いろなきものの、みにしみて、このよのほかのことまでおもひながされ、おもしろさもあはれさも、のこらぬをりなれ。すさまじきためしにいひおきけんひとのこころあささよ。" |
20 | 3.2.3 | 211 | 199 |
とて、御簾巻き上げさせたまふ。 |
とて、みすまきあげさせたまふ。 |
20 | 3.2.4 | 212 | 201 |
月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ。 |
つきはくまなくさしいでて、ひとついろにみえわたされたるに、しをれたるせんさいのかげこころぐるしう、やりみづもいといたうむせびて、いけのこほりもえもいはずすごきに、わらはべおろして、ゆきまろばしせさせたまふ。 |
20 | 3.2.5 | 213 | 202 |
をかしげなる姿、頭つきども、月に映えて、大きやかに馴れたるが、さまざまの衵乱れ着、帯しどけなき宿直姿、なまめいたるに、こよなうあまれる髪の末、白きにはましてもてはやしたる、いとけざやかなり。 |
をかしげなるすがた、かしらつきども、つきにはえて、おほきやかになれたるが、さまざまのあこめみだれぎ、おびしどけなきとのゐすがた、なまめいたるに、こよなうあまれるかみのすゑ、しろきにはましてもてはやしたる、いとけざやかなり。 |
20 | 3.2.6 | 214 | 203 |
小さきは、童げてよろこび走るに、扇なども落して、うちとけ顔をかしげなり。 |
ちひさきは、わらはげてよろこびはしるに、あふぎなどもおとして、うちとけがほをかしげなり。 |
20 | 3.2.7 | 215 | 204 |
いと多うまろばさらむと、ふくつけがれど、えも押し動かさでわぶめり。かたへは、東のつまなどに出でゐて、心もとなげに笑ふ。 |
いとおほうまろばさらんと、ふくつけがれど、えもおしうごかさでわぶめり。かたへは、ひんがしのつまなどにいでゐて、こころもとなげにわらふ。 |
20 | 3.3 | 216 | 205 | 第三段 源氏、往古の女性を語る |
20 | 3.3.1 | 217 | 206 |
「一年、中宮の御前に雪の山作られたりし、世に古りたることなれど、なほめづらしくもはかなきことをしなしたまへりしかな。何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな。 |
"ひととせ、ちゅうぐうのおまへにゆきのやまつくられたりし、よにふりたることなれど、なほめづらしくもはかなきことをしなしたまへりしかな。なにのをりをりにつけても、くちをしうあかずもあるかな。 |
20 | 3.3.2 | 218 | 207 |
いとけどほくもてなしたまひて、くはしき御ありさまを見ならしたてまつりしことはなかりしかど、御交じらひのほどに、うしろやすきものには思したりきかし。 |
いとけどほくもてなしたまひて、くはしきおほんありさまをみならしたてまつりしことはなかりしかど、おほんまじらひのほどに、うしろやすきものにはおぼしたりきかし。 |
20 | 3.3.3 | 219 | 208 |
うち頼みきこえて、とあることかかる折につけて、何ごとも聞こえかよひしに、もて出でてらうらうじきことも見えたまはざりしかど、いふかひあり、思ふさまに、はかなきことわざをもしなしたまひしはや。世にまた、さばかりのたぐひありなむや。 |
うちたのみきこえて、とあることかかるをりにつけて、なにごともきこえかよひしに、もていでてらうらうじきこともみえたまはざりしかど、いふかひあり、おもふさまに、はかなきことわざをもしなしたまひしはや。よにまた、さばかりのたぐひありなんや。 |
20 | 3.3.4 | 220 | 209 |
やはらかにおびれたるものから、深うよしづきたるところの、並びなくものしたまひしを、君こそは、さいへど、紫のゆゑ、こよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや、苦しからむ。 |
やはらかにおびれたるものから、ふかうよしづきたるところの、ならびなくものしたまひしを、きみこそは、さいへど、むらさきのゆゑ、こよなからずものしたまふめれど、すこしわづらはしきけそひて、かどかどしさのすすみたまへるや、くるしからん。 |
20 | 3.3.5 | 221 | 210 |
前斎院の御心ばへは、またさまことにぞ見ゆる。さうざうしきに、何とはなくとも聞こえあはせ、われも心づかひせらるべきあたり、ただこの一所や、世に残りたまへらむ」 |
ぜんさいゐんのみこころばへは、またさまことにぞみゆる。さうざうしきに、なにとはなくともきこえあはせ、われもこころづかひせらるべきあたり、ただこのひとところや、よにのこりたまへらん。" |
20 | 3.3.6 | 222 | 211 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
20 | 3.3.7 | 223 | 212 |
「尚侍こそは、らうらうじくゆゑゆゑしき方は、人にまさりたまへれ。浅はかなる筋など、もて離れたまへりける人の御心を、あやしくもありけることどもかな」 |
"ないしのかみこそは、らうらうじくゆゑゆゑしきかたは、ひとにまさりたまへれ。あさはかなるすぢなど、もてはなれたまへりけるひとのみこころを、あやしくもありけることどもかな。" |
20 | 3.3.8 | 224 | 213 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
20 | 3.3.9 | 225 | 214 |
「さかし。なまめかしう容貌よき女の例には、なほ引き出でつべき人ぞかし。さも思ふに、いとほしく悔しきことの多かるかな。まいて、うちあだけ好きたる人の、年積もりゆくままに、いかに悔しきこと多からむ。人よりはことなき静けさ、と思ひしだに」 |
"さかし。なまめかしうかたちよきをんなのためしには、なほひきいでつべきひとぞかし。さもおもふに、いとほしくくやしきことのおほかるかな。まいて、うちあだけすきたるひとの、としつもりゆくままに、いかにくやしきことおほからん。ひとよりはことなきしづけさ、とおもひしだに。" |
20 | 3.3.10 | 226 | 215 |
など、のたまひ出でて、尚侍の君の御ことににも、涙すこしは落したまひつ。 |
など、のたまひいでて、かんのきみのおほんことににも、なみだすこしはおとしたまひつ。 |
20 | 3.3.11 | 227 | 216 |
「この、数にもあらずおとしめたまふ山里の人こそは、身のほどにはややうち過ぎ、ものの心など得つべけれど、人よりことなべきものなれば、思ひ上がれるさまをも、見消ちてはべるかな。いふかひなき際の人はまだ見ず。人は、すぐれたるは、かたき世なりや。 |
"この、かずにもあらずおとしめたまふやまざとのひとこそは、みのほどにはややうちすぎ、もののこころなどえつべけれど、ひとよりことなべきものなれば、おもひあがれるさまをも、みけちてはべるかな。いふかひなききはのひとはまだみず。ひとは、すぐれたるは、かたきよなりや。 |
20 | 3.3.12 | 228 | 217 |
東の院にながむる人の心ばへこそ、古りがたくらうたけれ。さはた、さらにえあらぬものを、さる方につけての心ばせ、人にとりつつ見そめしより、同じやうに世をつつましげに思ひて過ぎぬるよ。今はた、かたみに背くべくもあらず、深うあはれと思ひはべる」 |
ひんがしのゐんにながむるひとのこころばへこそ、ふりがたくらうたけれ。さはた、さらにえあらぬものを、さるかたにつけてのこころばせ、ひとにとりつつみそめしより、おなじやうによをつつましげにおもひてすぎぬるよ。いまはた、かたみにそむくべくもあらず、ふかうあはれとおもひはべる。" |
20 | 3.3.13 | 229 | 218 |
など、昔今の御物語に夜更けゆく。 |
など、むかしいまのおほんものがたりによふけゆく。 |
20 | 3.4 | 230 | 219 | 第四段 藤壺、源氏の夢枕に立つ |
20 | 3.4.1 | 231 | 220 |
月いよいよ澄みて、静かにおもしろし。女君、 |
つきいよいよすみて、しづかにおもしろし。をんなぎみ、 |
20 | 3.4.2 | 232 | 221 |
「氷閉ぢ石間の水は行きなやみ<BR/>空澄む月の影ぞ流るる」 |
"〔こほりとぢいしまのみづはゆきなやみ<BR/>そらすむつきのかげぞながるる〕 |
20 | 3.4.3 | 233 | 222 |
外を見出だして、すこし傾きたまへるほど、似るものなくうつくしげなり。髪ざし、面様の、恋ひきこゆる人の面影にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとり重ねつべし。鴛鴦のうち鳴きたるに、 |
とをみいだして、すこしかたぶきたまへるほど、にるものなくうつくしげなり。かんざし、おもやうの、こひきこゆるひとのおもかげにふとおぼえて、めでたければ、いささかわくるみこころもとりかさねつべし。をしのうちなきたるに、 |
20 | 3.4.4 | 234 | 223 |
「かきつめて昔恋しき雪もよに<BR/>あはれを添ふる鴛鴦の浮寝か」 |
"〔かきつめてむかしこひしきゆきもよに<BR/>あはれをそふるをしのうきねか〕 |
20 | 3.4.5 | 235 | 224 |
入りたまひても、宮の御ことを思ひつつ大殿籠もれるに、夢ともなくほのかに見たてまつる、いみじく恨みたまへる御けしきにて、 |
いりたまひても、みやのおほんことをおもひつつおほとのごもれるに、ゆめともなくほのかにみたてまつる、いみじくうらみたまへるみけしきにて、 |
20 | 3.4.6 | 236 | 225 |
「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」 |
"もらさじとのたまひしかど、うきなのかくれなかりければ、はづかしう、くるしきめをみるにつけても、つらくなん。" |
20 | 3.4.7 | 237 | 226 |
とのたまふ。御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、 |
とのたまふ。おほんいらへきこゆとおぼすに、おそはるるここちして、をんなぎみの、 |
20 | 3.4.8 | 238 | 227 |
「こは、など、かくは」 |
"こは、など、かくは。" |
20 | 3.4.9 | 239 | 228 |
とのたまふに、おどろきて、いみじく口惜しく、胸のおきどころなく騒げば、抑へて、涙も流れ出でにけり。今も、いみじく濡らし添へたまふ。 |
とのたまふに、おどろきて、いみじくくちをしく、むねのおきどころなくさわげば、おさへて、なみだもながれいでにけり。いまも、いみじくぬらしそへたまふ。 |
20 | 3.4.10 | 240 | 229 |
女君、いかなることにかと思すに、うちもみじろかで臥したまへり。 |
をんなぎみ、いかなることにかとおぼすに、うちもみじろかでふしたまへり。 |
20 | 3.4.11 | 241 | 230 |
「とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜に<BR/>むすぼほれつる夢の短さ」 |
"〔とけてねぬねざめさびしきふゆのよに<BR/>むすぼほれつるゆめのみじかさ〕 |
20 | 3.5 | 242 | 231 | 第五段 源氏、藤壺を供養す |
20 | 3.5.1 | 243 | 232 |
なかなか飽かず、悲しと思すに、とく起きたまひて、さとはなくて、所々に御誦経などせさせたまふ。 |
なかなかあかず、かなしとおぼすに、とくおきたまひて、さとはなくて、ところどころにみずきゃうなどせさせたまふ。 |
20 | 3.5.2 | 244 | 233 |
「苦しき目見せたまふと、恨みたまへるも、さぞ思さるらむかし。行なひをしたまひ、よろづに罪軽げなりし御ありさまながら、この一つことにてぞ、この世の濁りをすすいたまはざらむ」 |
"くるしきめみせたまふと、うらみたまへるも、さぞおぼさるらんかし。おこなひをしたまひ、よろづにつみかろげなりしおほんありさまながら、このひとつことにてぞ、このよのにごりをすすいたまはざらん。" |
20 | 3.5.3 | 245 | 234 |
と、ものの心を深く思したどるに、いみじく悲しければ、 |
と、もののこころをふかくおぼしたどるに、いみじくかなしければ、 |
20 | 3.5.4 | 246 | 235 |
「何わざをして、知る人なき世界におはすらむを、訪らひきこえに参うでて、罪にも代はりきこえばや」 |
"なにわざをして、しるひとなきせかいにおはすらんを、とぶらひきこえにまうでて、つみにもかはりきこえばや。" |
20 | 3.5.5 | 247 | 236 |
など、つくづくと思す。 |
など、つくづくとおぼす。 |
20 | 3.5.6 | 248 | 237 |
「かの御ために、とり立てて何わざをもしたまはむは、人とがめきこえつべし。内裏にも、御心の鬼に思すところやあらむ」 |
"かのおほんために、とりたててなにわざをもしたまはんは、ひととがめきこえつべし。うちにも、みこころのおににおぼすところやあらん。" |
20 | 3.5.7 | 249 | 238 |
と、思しつつむほどに、阿弥陀仏を心にかけて念じたてまつりたまふ。「同じ蓮に」とこそは、 |
と、おぼしつつむほどに、あみだほとけをこころにかけてねんじたてまつりたまふ。"おなじはちすに。"とこそは、 |
20 | 3.5.8 | 250 | 239 |
「亡き人を慕ふ心にまかせても<BR/>影見ぬ三つの瀬にや惑はむ」 |
"〔なきひとをしたふこころにまかせても<BR/>かげみぬみつのせにやまどはん〕 |
20 | 3.5.9 | 251 | 240 |
と思すぞ、憂かりけるとや。 |
とおぼすぞ、うかりけるとや。 |