帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
26 | 常夏 |
26 | 1 | 62 | 36 | 第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語 |
26 | 1.1 | 63 | 37 | 第一段 六条院釣殿の納涼 |
26 | 1.1.1 | 64 | 38 |
いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。中将の君もさぶらひたまふ。親しき殿上人あまたさぶらひて、西川よりたてまつれる鮎、近き川のいしぶしやうのもの、御前にて調じて参らす。例の大殿の君達、中将の御あたり尋ねて参りたまへり。 |
いとあつきひ、ひんがしのつりどのにいでたまひてすずみたまふ。ちゅうじゃうのきみもさぶらひたまふ。したしきてんじゃうびとあまたさぶらひて、にしかはよりたてまつれるあゆ、ちかきかはのいしぶしやうのもの、おまへにててうじてまゐらす。れいのおほとののきんだち、ちゅうじゃうのおほんあたりたづねてまゐりたまへり。 |
26 | 1.1.2 | 65 | 39 |
「さうざうしくねぶたかりつる、折よくものしたまへるかな」 |
"さうざうしくねぶたかりつる、をりよくものしたまへるかな。" |
26 | 1.1.3 | 66 | 40 |
とて、大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。 |
とて、おほみきまゐり、ひみづめして、すいはんなど、とりどりにさうどきつつくふ。 |
26 | 1.1.4 | 67 | 42 |
風はいとよく吹けども、日のどかに曇りなき空の、西日になるほど、蝉の声などもいと苦しげに聞こゆれば、 |
かぜはいとよくふけども、ひのどかにくもりなきそらの、にしびになるほど、せみのこゑなどもいとくるしげにきこゆれば、 |
26 | 1.1.5 | 68 | 43 |
「水の上無徳なる今日の暑かはしさかな。無礼の罪は許されなむや」 |
"みづのうへむとくなるけふのあつかはしさかな。むらいのつみはゆるされなんや。" |
26 | 1.1.6 | 69 | 44 |
とて、寄り臥したまへり。 |
とて、よりふしたまへり。 |
26 | 1.1.7 | 70 | 45 |
「いとかかるころは、遊びなどもすさまじく、さすがに、暮らしがたきこそ苦しけれ。宮仕へする若き人びと堪へがたからむな。帯も解かぬほどよ。ここにてだにうち乱れ、このころ世にあらむことの、すこし珍しく、ねぶたさ覚めぬべからむ、語りて聞かせたまへ。何となく翁びたる心地して、世間のこともおぼつかなしや」 |
"いとかかるころは、あそびなどもすさまじく、さすがに、くらしがたきこそくるしけれ。みやづかへするわかきひとびとたへがたからんな。おびもほどかぬほどよ。ここにてだにうちみだれ、このころよにあらんことの、すこしめづらしく、ねぶたささめぬべからん、かたりてきかせたまへ。なにとなくおきなびたるここちして、せけんのこともおぼつかなしや。" |
26 | 1.1.8 | 71 | 46 |
などのたまへど、珍しきこととて、うち出で聞こえむ物語もおぼえねば、かしこまりたるやうにて、皆いと涼しき高欄に、背中押しつつさぶらひたまふ。 |
などのたまへど、めづらしきこととて、うちいできこえんものがたりもおぼえねば、かしこまりたるやうにて、みないとすずしきかうらんに、せなかおしつつさぶらひたまふ。 |
26 | 1.2 | 72 | 47 | 第二段 近江君の噂 |
26 | 1.2.1 | 73 | 48 |
「いかで聞きしことぞや、大臣のほか腹の娘尋ね出でて、かしづきたまふなるとまねぶ人ありしかば、まことにや」 |
"いかでききしことぞや、おとどのほかばらのむすめたづねいでて、かしづきたまふなるとまねぶひとありしかば、まことにや。" |
26 | 1.2.2 | 74 | 49 |
と、弁少将に問ひたまへば、 |
と、べんのせうしゃうにとひたまへば、 |
26 | 1.2.3 | 75 | 50 |
「ことことしく、さまで言ひなすべきことにもはべらざりけるを。この春のころほひ、夢語りしたまひけるを、ほの聞き伝へはべりける女の、『われなむかこつべきことある』と、名のり出ではべりけるを、中将の朝臣なむ聞きつけて、『まことにさやうに触ればひぬべきしるしやある』と、尋ねとぶらひはべりける。詳しきさまは、え知りはべらず。げに、このころ珍しき世語りになむ、人びともしはべるなる。かやうのことにぞ、人のため、おのづから家損なるわざにはべりけれ」 |
"ことことしく、さまでいひなすべきことにもはべらざりけるを。このはるのころほひ、ゆめがたりしたまひけるを、ほのききつたへはべりけるをんなの、'われなんかこつべきことある。'と、なのりいではべりけるを、ちゅうじゃうのあそんなんききつけて、'まことにさやうにふればひぬべきしるしやある。'と、たづねとぶらひはべりける。くはしきさまは、えしりはべらず。げに、このころめづらしきよがたりになん、ひとびともしはべるなる。かやうのことにぞ、ひとのため、おのづからけそんなるわざにはべりけれ。" |
26 | 1.2.4 | 76 | 51 |
と聞こゆ。「まことなりけり」と思して、 |
ときこゆ。"まことなりけり。"とおぼして、 |
26 | 1.2.5 | 77 | 52 |
「いと多かめる列に、離れたらむ後るる雁を、強ひて尋ねたまふが、ふくつけきぞ。いとともしきに、さやうならむもののくさはひ、見出でまほしけれど、名のりももの憂き際とや思ふらむ、さらにこそ聞こえね。さても、もて離れたることにはあらじ。らうがはしくとかく紛れたまふめりしほどに、底清く澄まぬ水にやどる月は、曇りなきやうのいかでかあらむ」 |
"いとおほかめるつらに、はなれたらんおくるるかりを、しひてたづねたまふが、ふくつけきぞ。いとともしきに、さやうならんもののくさはひ、みいでまほしけれど、なのりもものうききはとやおもふらん、さらにこそきこえね。さても、もてはなれたることにはあらじ。らうがはしくとかくまぎれたまふめりしほどに、そこきよくすまぬみづにやどるつきは、くもりなきやうのいかでかあらん。" |
26 | 1.2.6 | 78 | 53 |
と、ほほ笑みてのたまふ。中将の君も、詳しく聞きたまふことなれば、えしもまめだたず。少将と藤侍従とは、いとからしと思ひたり。 |
と、ほほゑみてのたまふ。ちゅうじゃうのきみも、くはしくききたまふことなれば、えしもまめだたず。せうしゃうととうじじゅとは、いとからしとおもひたり。 |
26 | 1.2.7 | 79 | 54 |
「朝臣や、さやうの落葉をだに拾へ。人悪ろき名の後の世に残らむよりは、同じかざしにて慰めむに、なでふことかあらむ」 |
"あそんや、さやうのおちばをだにひろへ。ひとわろきなののちのよにのこらんよりは、おなじかざしにてなぐさめんに、なでふことかあらん。" |
26 | 1.2.8 | 80 | 55 |
と、弄じたまふやうなり。かやうのことにてぞ、うはべはいとよき御仲の、昔よりさすがに隙ありける。まいて、中将をいたくはしたなめて、わびさせたまふつらさを思しあまりて、「なまねたしとも、漏り聞きたまへかし」と思すなりけり。 |
と、ろうじたまふやうなり。かやうのことにてぞ、うはべはいとよきおほんなかの、むかしよりさすがにひまありける。まいて、ちゅうじゃうをいたくはしたなめて、わびさせたまふつらさをおぼしあまりて、"なまねたしとも、もりききたまへかし。"とおぼすなりけり。 |
26 | 1.2.9 | 81 | 56 |
かく聞きたまふにつけても、 |
かくききたまふにつけても、 |
26 | 1.2.10 | 82 | 57 |
「対の姫君を見せたらむ時、またあなづらはしからぬ方にもてなされなむはや。いとものきらきらしく、かひあるところつきたまへる人にて、善し悪しきけぢめも、けざやかにもてはやし、またもて消ち軽むることも、人に異なる大臣なれば、いかにものしと思ふらむ。おぼえぬさまにて、この君をさし出でたらむに、え軽くは思さじ。いときびしくもてなしてむ」など思す。 |
"たいのひめぎみをみせたらんとき、またあなづらはしからぬかたにもてなされなんはや。いとものきらきらしく、かひあるところつきたまへるひとにて、よしあしきけぢめも、けざやかにもてはやし、またもてけちかろむることも、ひとにことなるおとどなれば、いかにものしとおもふらん。おぼえぬさまにて、このきみをさしいでたらんに、えかろくはおぼさじ。いときびしくもてなしてん。"などおぼす。 |
26 | 1.3 | 83 | 58 | 第三段 源氏、玉鬘を訪う |
26 | 1.3.1 | 84 | 59 |
夕つけゆく風、いと涼しくて、帰り憂く若き人びとは思ひたり。 |
ゆふつけゆくかぜ、いとすずしくて、かへりうくわかきひとびとはおもひたり。 |
26 | 1.3.2 | 85 | 60 |
「心やすくうち休み涼まむや。やうやうかやうの中に、厭はれぬべき齢にもなりにけりや」 |
"こころやすくうちやすみすずまんや。やうやうかやうのなかに、いとはれぬべきよはひにもなりにけりや。" |
26 | 1.3.3 | 86 | 61 |
とて、西の対に渡りたまへば、君達、皆御送りに参りたまふ。 |
とて、にしのたいにわたりたまへば、きんだち、みなおほんおくりにまゐりたまふ。 |
26 | 1.3.4 | 87 | 62 |
たそかれ時のおぼおぼしきに、同じ直衣どもなれば、何ともわきまへられぬに、大臣、姫君を、 |
たそかれどきのおぼおぼしきに、おなじなほしどもなれば、なにともわきまへられぬに、おとど、ひめぎみを、 |
26 | 1.3.5 | 88 | 63 |
「すこし外出でたまへ」 |
"すこしといでたまへ。" |
26 | 1.3.6 | 89 | 64 |
とて、忍びて、 |
とて、しのびて、 |
26 | 1.3.7 | 90 | 65 |
「少将、侍従など率てまうで来たり。いと翔けり来まほしげに思へるを、中将の、いと実法の人にて率て来ぬ、無心なめりかし。 |
"せうしゃう、じじゅなどゐてまうできたり。いとかけりこまほしげにおもへるを、ちゅうじゃうの、いとじほふのひとにてゐてこぬ、むじんなめりかし。 |
26 | 1.3.8 | 91 | 66 |
この人びとは、皆思ふ心なきならじ。なほなほしき際をだに、窓の内なるほどは、ほどに従ひて、ゆかしく思ふべかめるわざなれば、この家のおぼえ、うちうちのくだくだしきほどよりは、いと世に過ぎて、ことことしくなむ言ひ思ひなすべかめる。かたがたものすめれど、さすがに人の好きごと言ひ寄らむにつきなしかし。 |
このひとびとは、みなおもふこころなきならじ。なほなほしききはをだに、まどのうちなるほどは、ほどにしたがひて、ゆかしくおもふべかめるわざなれば、このいへのおぼえ、うちうちのくだくだしきほどよりは、いとよにすぎて、ことことしくなんいひおもひなすべかめる。かたがたものすめれど、さすがにひとのすきごといひよらんにつきなしかし。 |
26 | 1.3.9 | 92 | 67 |
かくてものしたまふは、いかでさやうならむ人のけしきの、深さ浅さをも見むなど、さうざうしきままに願ひ思ひしを、本意なむ叶ふ心地しける」 |
かくてものしたまふは、いかでさやうならんひとのけしきの、ふかさあささをもみんなど、さうざうしきままにねがひおもひしを、ほいなんかなふここちしける。" |
26 | 1.3.10 | 93 | 68 |
など、ささめきつつ聞こえたまふ。 |
など、ささめきつつきこえたまふ。 |
26 | 1.3.11 | 94 | 69 |
御前に、乱れがはしき前栽なども植ゑさせたまはず、撫子の色をととのへたる、唐の、大和の、籬いとなつかしく結ひなして、咲き乱れたる夕ばえ、いみじく見ゆ。皆、立ち寄りて、心のままにも折り取らぬを、飽かず思ひつつやすらふ。 |
おまへに、みだれがはしきせんさいなどもうゑさせたまはず、なでしこのいろをととのへたる、からの、やまとの、ませいとなつかしくゆひなして、さきみだれたるゆふばえ、いみじくみゆ。みな、たちよりて、こころのままにもをりとらぬを、あかずおもひつつやすらふ。 |
26 | 1.3.12 | 95 | 70 |
「有職どもなりな。心もちゐなども、とりどりにつけてこそめやすけれ。右の中将は、ましてすこし静まりて、心恥づかしき気まさりたり。いかにぞや、おとづれ聞こゆや。はしたなくも、なさし放ちたまひそ」 |
"いうそくどもなりな。こころもちゐなども、とりどりにつけてこそめやすけれ。みぎのちゅうじゃうは、ましてすこししづまりて、こころはづかしきけまさりたり。いかにぞや、おとづれきこゆや。はしたなくも、なさしはなちたまひそ。" |
26 | 1.3.13 | 96 | 71 |
などのたまふ。 |
などのたまふ。 |
26 | 1.3.14 | 97 | 72 |
中将の君は、かくよきなかに、すぐれてをかしげになまめきたまへり。 |
ちゅうじゃうのきみは、かくよきなかに、すぐれてをかしげになまめきたまへり。 |
26 | 1.3.15 | 98 | 73 |
「中将を厭ひたまふこそ、大臣は本意なけれ。交じりものなく、きらきらしかめるなかに、大君だつ筋にて、かたくななりとにや」 |
"ちゅうじゃうをいとひたまふこそ、おとどはほいなけれ。まじりものなく、きらきらしかめるなかに、おほきみだつすぢにて、かたくななりとにや。" |
26 | 1.3.16 | 99 | 74 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
26 | 1.3.17 | 100 | 75 |
「来まさば、といふ人もはべりけるを」 |
"きまさば、といふひともはべりけるを。" |
26 | 1.3.18 | 101 | 76 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
26 | 1.3.19 | 102 | 77 |
「いで、その御肴もてはやされむさまは願はしからず。ただ、幼きどちの結びおきけむ心も解けず、年月、隔てたまふ心むけのつらきなり。まだ下臈なり、世の聞き耳軽しと思はれば、知らず顔にて、ここに任せたまへらむに、うしろめたくはありなましや」 |
"いで、そのみさかなもてはやされんさまはねがはしからず。ただ、をさなきどちのむすびおきけんこころもとけず、としつき、へだてたまふこころむけのつらきなり。まだげらふなり、よのききみみかろしとおもはれば、しらずがほにて、ここにまかせたまへらんに、うしろめたくはありなましや。" |
26 | 1.3.20 | 103 | 78 |
など、うめきたまふ。「さは、かかる御心の隔てある御仲なりけり」と聞きたまふにも、親に知られたてまつらむことのいつとなきは、あはれにいぶせく思す。 |
など、うめきたまふ。"さは、かかるみこころのへだてあるおほんなかなりけり。"とききたまふにも、おやにしられたてまつらんことのいつとなきは、あはれにいぶせくおぼす。 |
26 | 1.4 | 104 | 79 | 第四段 源氏、玉鬘と和琴について語る |
26 | 1.4.1 | 105 | 80 |
月もなきころなれば、燈籠に御殿油参れり。 |
つきもなきころなれば、とうろにおほとなぶらまゐれり。 |
26 | 1.4.2 | 106 | 81 |
「なほ、気近くて暑かはしや。篝火こそよけれ」 |
"なほ、けぢかくてあつかはしや。かがりびこそよけれ。" |
26 | 1.4.3 | 107 | 82 |
とて、人召して、 |
とて、ひとめして、 |
26 | 1.4.4 | 108 | 83 |
「篝火の台一つ、こなたに」 |
"かがりびのだいひとつ、こなたに。" |
26 | 1.4.5 | 109 | 84 |
と召す。をかしげなる和琴のある、引き寄せたまひて、掻き鳴らしたまへば、律にいとよく調べられたり。音もいとよく鳴れば、すこし弾きたまひて、 |
とめす。をかしげなるわごんのある、ひきよせたまひて、かきならしたまへば、りちにいとよくしらべられたり。ねもいとよくなれば、すこしひきたまひて、 |
26 | 1.4.6 | 110 | 85 |
「かやうのことは御心に入らぬ筋にやと、月ごろ思ひおとしきこえけるかな。秋の夜の月影涼しきほど、いと奥深くはあらで、虫の声に掻き鳴らし合はせたるほど、気近く今めかしきものの音なり。ことことしき調べ、もてなししどけなしや。 |
"かやうのことはみこころにいらぬすぢにやと、つきごろおもひおとしきこえけるかな。あきのよのつきかげすずしきほど、いとおくぶかくはあらで、むしのこゑにかきならしあはせたるほど、けぢかくいまめかしきもののねなり。ことことしきしらべ、もてなししどけなしや。 |
26 | 1.4.7 | 111 | 86 |
このものよ、さながら多くの遊び物の音、拍子を調へとりたるなむいとかしこき。大和琴とはかなく見せて、際もなくしおきたることなり。広く異国のことを知らぬ女のためとなむおぼゆる。 |
このものよ、さながらおほくのあそびもののね、はうしをととのへとりたるなんいとかしこき。やまとごととはかなくみせて、きはもなくしおきたることなり。ひろくことくにのことをしらぬをんなのためとなんおぼゆる。 |
26 | 1.4.8 | 112 | 87 |
同じくは、心とどめて物などに掻き合はせて習ひたまへ。深き心とて、何ばかりもあらずながら、またまことに弾き得ることはかたきにやあらむ、ただ今は、この内大臣になずらふ人なしかし。 |
おなじくは、こころとどめてものなどにかきあはせてならひたまへ。ふかきこころとて、なにばかりもあらずながら、またまことにひきうることはかたきにやあらん、ただいまは、このうちのおとどになずらふひとなしかし。 |
26 | 1.4.9 | 113 | 88 |
ただはかなき同じ菅掻きの音に、よろづのものの音、籠もり通ひて、いふかたもなくこそ、響きのぼれ」 |
ただはかなきおなじすががきのねに、よろづのもののね、こもりかよひて、いふかたもなくこそ、ひびきのぼれ。" |
26 | 1.4.10 | 114 | 89 |
と語りたまへば、ほのぼの心得て、いかでと思すことなれば、いとどいぶかしくて、 |
とかたりたまへば、ほのぼのこころえて、いかでとおぼすことなれば、いとどいぶかしくて、 |
26 | 1.4.11 | 115 | 90 |
「このわたりにて、さりぬべき御遊びの折など、聞きはべりなむや。あやしき山賤などのなかにも、まねぶものあまたはべるなることなれば、おしなべて心やすくやとこそ思ひたまへつれ。さは、すぐれたるは、さまことにやはべらむ」 |
"このわたりにて、さりぬべきおほんあそびのをりなど、ききはべりなんや。あやしきやまがつなどのなかにも、まねぶものあまたはべるなることなれば、おしなべてこころやすくやとこそおもひたまへつれ。さは、すぐれたるは、さまことにやはべらん。" |
26 | 1.4.12 | 116 | 91 |
と、ゆかしげに、切に心に入れて思ひたまへれば、 |
と、ゆかしげに、せちにこころにいれておもひたまへれば、 |
26 | 1.4.13 | 117 | 92 |
「さかし。あづまとぞ名も立ち下りたるやうなれど、御前の御遊びにも、まづ書司を召すは、人の国は知らず、ここにはこれをものの親としたるにこそあめれ。 |
"さかし。あづまとぞなもたちくだりたるやうなれど、ごぜんのおほんあそびにも、まづふみのつかさをめすは、ひとのくにはしらず、ここにはこれをもののおやとしたるにこそあめれ。 |
26 | 1.4.14 | 118 | 93 |
そのなかにも、親としつべき御手より弾き取りたまへらむは、心ことなりなむかし。ここになども、さるべからむ折にはものしたまひなむを、この琴に、手惜しまずなど、あきらかに掻き鳴らしたまはむことやかたからむ。ものの上手は、いづれの道も心やすからずのみぞあめる。 |
そのなかにも、おやとしつべきおほんてよりひきとりたまへらんは、こころことなりなんかし。ここになども、さるべからんをりにはものしたまひなんを、このことに、てをしまずなど、あきらかにかきならしたまはんことやかたからん。もののじゃうずは、いづれのみちもこころやすからずのみぞあめる。 |
26 | 1.4.15 | 119 | 94 |
さりとも、つひには聞きたまひてむかし」 |
さりとも、つひにはききたまひてんかし。" |
26 | 1.4.16 | 120 | 95 |
とて、調べすこし弾きたまふ。ことつひいと二なく、今めかしくをかし。「これにもまされる音や出づらむ」と、親の御ゆかしさたち添ひて、このことにてさへ、「いかならむ世に、さてうちとけ弾きたまはむを聞かむ」など、思ひゐたまへり。 |
とて、しらべすこしひきたまふ。ことつひいとになく、いまめかしくをかし。"これにもまされるねやいづらん。"と、おやのおほんゆかしさたちそひて、このことにてさへ、"いかならんよに、さてうちとけひきたまはんをきかん。"など、おもひゐたまへり。 |
26 | 1.4.17 | 121 | 96 |
「貫河の瀬々のやはらた」と、いとなつかしく謡ひたまふ。「親避くるつま」は、すこしうち笑ひつつ、わざともなく掻きなしたまひたる菅掻きのほど、いひ知らずおもしろく聞こゆ。 |
〔ぬきかはのせぜのやはらた〕と、いとなつかしくうたひたまふ。〔おやさくるつま〕は、すこしうちわらひつつ、わざともなくかきなしたまひたるすががきのほど、いひしらずおもしろくきこゆ。 |
26 | 1.4.18 | 122 | 97 |
「いで、弾きたまへ。才は人になむ恥ぢぬ。「想夫恋」ばかりこそ、心のうちに思ひて、紛らはす人もありけめ、おもなくて、かれこれに合はせつるなむよき」 |
"いで、ひきたまへ。ざえはひとになんはぢぬ。〔さうふれん〕ばかりこそ、こころのうちにおもひて、まぎらはすひともありけめ、おもなくて、かれこれにあはせつるなんよき。" |
26 | 1.4.19 | 123 | 98 |
と、切に聞こえたまへど、さる田舎の隈にて、ほのかに京人と名のりける、古大君女教へきこえければ、ひがことにもやとつつましくて、手触れたまはず。 |
と、せちにきこえたまへど、さるゐなかのくまにて、ほのかにきゃうひととなのりける、ふるおほぎみをんなをしへきこえければ、ひがことにもやとつつましくて、てふれたまはず。 |
26 | 1.4.20 | 124 | 99 |
「しばしも弾きたまはなむ。聞き取ることもや」と心もとなきに、この御琴によりぞ、近くゐざり寄りて、 |
"しばしもひきたまはなん。ききとることもや。"とこころもとなきに、このおほんことによりぞ、ちかくゐざりよりて、 |
26 | 1.4.21 | 125 | 100 |
「いかなる風の吹き添ひて、かくは響きはべるぞとよ」 |
"いかなるかぜのふきそひて、かくはひびきはべるぞとよ。" |
26 | 1.4.22 | 126 | 101 |
とて、うち傾きたまへるさま、火影にいとうつくしげなり。笑ひたまひて、 |
とて、うちかたぶきたまへるさま、ほかげにいとうつくしげなり。わらひたまひて、 |
26 | 1.4.23 | 127 | 102 |
「耳固からぬ人のためには、身にしむ風も吹き添ふかし」 |
"みみかたからぬひとのためには、みにしむかぜもふきそふかし。" |
26 | 1.4.24 | 128 | 103 |
とて、押しやりたまふ。いと心やまし。 |
とて、おしやりたまふ。いとこころやまし。 |
26 | 1.5 | 129 | 104 | 第五段 源氏、玉鬘と和歌を唱和 |
26 | 1.5.1 | 130 | 105 |
人びと近くさぶらへば、例の戯れごともえ聞こえたまはで、 |
ひとびとちかくさぶらへば、れいのたはぶれごともえきこえたまはで、 |
26 | 1.5.2 | 131 | 106 |
「撫子を飽かでも、この人びとの立ち去りぬるかな。いかで、大臣にも、この花園見せたてまつらむ。世もいと常なきをと思ふに、いにしへも、もののついでに語り出でたまへりしも、ただ今のこととぞおぼゆる」 |
"なでしこをあかでも、このひとびとのたちさりぬるかな。いかで、おとどにも、このはなぞのみせたてまつらん。よもいとつねなきをとおもふに、いにしへも、もののついでにかたりいでたまへりしも、ただいまのこととぞおぼゆる。" |
26 | 1.5.3 | 132 | 107 |
とて、すこしのたまひ出でたるにも、いとあはれなり。 |
とて、すこしのたまひいでたるにも、いとあはれなり。 |
26 | 1.5.4 | 133 | 108 |
「撫子のとこなつかしき色を見ば<BR/>もとの垣根を人や尋ねむ |
"〔なでしこのとこなつかしきいろをみば<BR/>もとのかきねをひとやたづねん |
26 | 1.5.5 | 134 | 109 |
このことのわづらはしさにこそ、繭ごもりも心苦しう思ひきこゆれ」 |
このことのわづらはしさにこそ、まゆごもりもこころぐるしうおもひきこゆれ。" |
26 | 1.5.6 | 135 | 110 |
とのたまふ。君、うち泣きて、 |
とのたまふ。きみ、うちなきて、 |
26 | 1.5.7 | 136 | 111 |
「山賤の垣ほに生ひし撫子の<BR/>もとの根ざしを誰れか尋ねむ」 |
"〔やまがつのかきほにおひしなでしこの<BR/>もとのねざしをたれかたづねん〕 |
26 | 1.5.8 | 137 | 112 |
はかなげに聞こえないたまへるさま、げにいとなつかしく若やかなり。 |
はかなげにきこえないたまへるさま、げにいとなつかしくわかやかなり。 |
26 | 1.5.9 | 138 | 113 |
「来ざらましかば」 |
"〔こざらましかば〕 |
26 | 1.5.10 | 139 | 114 |
とうち誦じたまひて、いとどしき御心は、苦しきまで、なほえ忍び果つまじく思さる。 |
とうちずじたまひて、いとどしきみこころは、くるしきまで、なほえしのびはつまじくおぼさる。 |
26 | 1.6 | 140 | 115 | 第六段 源氏、玉鬘への恋慕に苦悩 |
26 | 1.6.1 | 141 | 116 |
渡りたまふことも、あまりうちしきり、人の見たてまつり咎むべきほどは、心の鬼に思しとどめて、さるべきことをし出でて、御文の通はぬ折なし。ただこの御ことのみ、明け暮れ御心にはかかりたり。 |
わたりたまふことも、あまりうちしきり、ひとのみたてまつりとがむべきほどは、こころのおににおぼしとどめて、さるべきことをしいでて、おほんふみのかよはぬをりなし。ただこのおほんことのみ、あけくれみこころにはかかりたり。 |
26 | 1.6.2 | 142 | 117 |
「なぞ、かくあいなきわざをして、やすからぬもの思ひをすらむ。さ思はじとて、心のままにもあらば、世の人のそしり言はむことの軽々しさ、わがためをばさるものにて、この人の御ためいとほしかるべし。限りなき心ざしといふとも、春の上の御おぼえに並ぶばかりは、わが心ながらえあるまじく」思し知りたり。「さて、その劣りの列にては、何ばかりかはあらむ。わが身ひとつこそ、人よりは異なれ、見む人のあまたが中に、かかづらはむ末にては、何のおぼえかはたけからむ。異なることなき納言の際の、二心なくて思はむには、劣りぬべきことぞ」 |
"なぞ、かくあいなきわざをして、やすからぬものおもひをすらん。さおもはじとて、こころのままにもあらば、よのひとのそしりいはんことのかるがるしさ、わがためをばさるものにて、このひとのおほんためいとほしかるべし。かぎりなきこころざしといふとも、はるのうへのおほんおぼえにならぶばかりは、わがこころながらえあるまじく。"おぼししりたり。"さて、そのおとりのつらにては、なにばかりかはあらん。わがみひとつこそ、ひとよりはことなれ、みんひとのあまたがなかに、かかづらはんすゑにては、なにのおぼえかはたけからん。ことなることなきなふごんのきはの、ふたごころなくておもはんには、おとりぬべきことぞ。" |
26 | 1.6.3 | 143 | 118 |
と、みづから思し知るに、いといとほしくて、「宮、大将などにや許してまし。さてもて離れ、いざなひ取りては、思ひも絶えなむや。いふかひなきにて、さもしてむ」と思す折もあり。 |
と、みづからおぼししるに、いといとほしくて、"みや、だいしゃうなどにやゆるしてまし。さてもてはなれ、いざなひとりては、おもひもたえなんや。いふかひなきにて、さもしてん。"とおぼすをりもあり。 |
26 | 1.6.4 | 144 | 119 |
されど、渡りたまひて、御容貌を見たまひ、今は御琴教へたてまつりたまふにさへことづけて、近やかに馴れ寄りたまふ。 |
されど、わたりたまひて、おほんかたちをみたまひ、いまはおほんことをしへたてまつりたまふにさへことづけて、ちかやかになれよりたまふ。 |
26 | 1.6.5 | 145 | 120 |
姫君も、初めこそむくつけく、うたてとも思ひたまひしか、「かくても、なだらかに、うしろめたき御心はあらざりけり」と、やうやう目馴れて、いとしも疎みきこえたまはず、さるべき御応へも、馴れ馴れしからぬほどに聞こえかはしなどして、見るままにいと愛敬づき、薫りまさりたまへれば、なほさてもえ過ぐしやるまじく思し返す。 |
ひめぎみも、はじめこそむくつけく、うたてともおもひたまひしか、"かくても、なだらかに、うしろめたきみこころはあらざりけり。"と、やうやうめなれて、いとしもうとみきこえたまはず、さるべきおほんいらへも、なれなれしからぬほどにきこえかはしなどして、みるままにいとあいぎゃうづき、かをりまさりたまへれば、なほさてもえすぐしやるまじくおぼしかへす。 |
26 | 1.6.6 | 146 | 121 |
「さはまた、さて、ここながらかしづき据ゑて、さるべき折々に、はかなくうち忍び、ものをも聞こえて慰みなむや。かくまだ世馴れぬほどの、わづらはしさにこそ、心苦しくはありけれ、おのづから関守強くとも、ものの心知りそめ、いとほしき思ひなくて、わが心も思ひ入りなば、しげくとも障はらじかし」と思し寄る、いとけしからぬことなりや。 |
"さはまた、さて、ここながらかしづきすゑて、さるべきをりをりに、はかなくうちしのび、ものをもきこえてなぐさみなんや。かくまだよなれぬほどの、わづらはしさにこそ、こころぐるしくはありけれ、おのづからせきもりつよくとも、もののこころしりそめ、いとほしきおもひなくて、わがこころもおもひいりなば、しげくともさはらじかし。"とおぼしよる、いとけしからぬことなりや。 |
26 | 1.6.7 | 147 | 122 |
いよいよ心やすからず、思ひわたらむ苦しからむ。なのめに思ひ過ぐさむことの、とざまかくざまにもかたきぞ、世づかずむつかしき御語らひなりける。 |
いよいよこころやすからず、おもひわたらんくるしからん。なのめにおもひすぐさんことの、とざまかくざまにもかたきぞ、よづかずむつかしきおほんかたらひなりける。 |
26 | 1.7 | 148 | 123 | 第七段 玉鬘の噂 |
26 | 1.7.1 | 149 | 124 |
内の大殿は、この今の御女のことを、「殿の人も許さず、軽み言ひ、世にもほきたることと誹りきこゆ」と、聞きたまふに、少将の、ことのついでに、太政大臣の「さることや」ととぶらひたまひしこと、語りきこゆれば、 |
うちのおほとのは、このいまのおほんむすめのことを、"とののひともゆるさず、かろみいひ、よにもほきたることとそしりきこゆ。"と、ききたまふに、せうしゃうの、ことのついでに、おほきおとどの"さることや。"ととぶらひたまひしこと、かたりきこゆれば、 |
26 | 1.7.2 | 150 | 125 |
「さかし。そこにこそは、年ごろ、音にも聞こえぬ山賤の子迎へ取りて、ものめかしたつれ。をさをさ人の上もどきたまはぬ大臣の、このわたりのことは、耳とどめてぞおとしめたまふや。これぞ、おぼえある心地しける」 |
"さかし。そこにこそは、としごろ、おとにもきこえぬやまがつのこむかへとりて、ものめかしたつれ。をさをさひとのうへもどきたまはぬおとどの、このわたりのことは、みみとどめてぞおとしめたまふや。これぞ、おぼえあるここちしける。" |
26 | 1.7.3 | 151 | 126 |
とのたまふ。少将の、 |
とのたまふ。せうしゃうの、 |
26 | 1.7.4 | 152 | 127 |
「かの西の対に据ゑたまへる人は、いとこともなきけはひ見ゆるわたりになむはべるなる。兵部卿宮など、いたう心とどめてのたまひわづらふとか。おぼろけにはあらじとなむ、人びと推し量りはべめる」 |
"かのにしのたいにすゑたまへるひとは、いとこともなきけはひみゆるわたりになんはべるなる。ひゃうぶきゃうのみやなど、いたうこころとどめてのたまひわづらふとか。おぼろけにはあらじとなん、ひとびとおしはかりはべめる。" |
26 | 1.7.5 | 153 | 128 |
と申したまへば、 |
とまうしたまへば、 |
26 | 1.7.6 | 154 | 129 |
「いで、それは、かの大臣の御女と思ふばかりのおぼえのいといみじきぞ。人の心、皆さこそある世なめれ。かならずさしもすぐれじ。人びとしきほどならば、年ごろ聞こえなまし。 |
"いで、それは、かのおとどのおほんむすめとおもふばかりのおぼえのいといみじきぞ。ひとのこころ、みなさこそあるよなめれ。かならずさしもすぐれじ。ひとびとしきほどならば、としごろきこえなまし。 |
26 | 1.7.7 | 155 | 130 |
あたら、大臣の、塵もつかず、この世には過ぎたまへる御身のおぼえありさまに、おもだたしき腹に、女かしづきて、げに疵なからむと、思ひやりめでたきがものしたまはぬは。 |
あたら、おとどの、ちりもつかず、このよにはすぎたまへるおほんみのおぼえありさまに、おもだたしきはらに、むすめかしづきて、げにきずなからんと、おもひやりめでたきがものしたまはぬは。 |
26 | 1.7.8 | 156 | 131 |
おほかたの、子の少なくて、心もとなきなめりかし。劣り腹なれど、明石の御許の産み出でたるはしも、さる世になき宿世にて、あるやうあらむとおぼゆかし。 |
おほかたの、このすくなくて、こころもとなきなめりかし。おとりばらなれど、あかしのおもとのうみいでたるはしも、さるよになきすくせにて、あるやうあらんとおぼゆかし。 |
26 | 1.7.9 | 157 | 132 |
その今姫君は、ようせずは、実の御子にもあらじかし。さすがにいとけしきあるところつきたまへる人にて、もてないたまふならむ」 |
そのいまひめぎみは、ようせずは、じちのおほんこにもあらじかし。さすがにいとけしきあるところつきたまへるひとにて、もてないたまふならん。" |
26 | 1.7.10 | 158 | 133 |
と、言ひおとしたまふ。 |
と、いひおとしたまふ。 |
26 | 1.7.11 | 159 | 134 |
「さて、いかが定めらるなる。親王こそまつはし得たまはむ。もとより取り分きて御仲よし、人柄も警策なる御あはひどもならむかし」 |
"さて、いかがさだめらるなる。みここそまつはしえたまはん。もとよりとりわきておほんなかよし、ひとがらもきゃうざくなるおほんあはひどもならんかし。" |
26 | 1.7.12 | 160 | 135 |
などのたまひては、なほ、姫君の御こと、飽かず口惜し。「かやうに、心にくくもてなして、いかにしなさむなど、やすからずいぶかしがらせましものを」とねたければ、位さばかりと見ざらむ限りは、許しがたく思すなりけり。 |
などのたまひては、なほ、ひめぎみのおほんこと、あかずくちをし。"かやうに、こころにくくもてなして、いかにしなさんなど、やすからずいぶかしがらせましものを。"とねたければ、くらゐさばかりとみざらんかぎりは、ゆるしがたくおぼすなりけり。 |
26 | 1.7.13 | 161 | 136 |
大臣なども、ねむごろに口入れかへさひたまはむにこそは、負くるやうにてもなびかめと思すに、男方は、さらに焦られきこえたまはず、心やましくなむ。 |
おとどなども、ねんごろにくちいれかへさひたまはんにこそは、まくるやうにてもなびかめとおぼすに、をとこがたは、さらにいられきこえたまはず、こころやましくなん。 |
26 | 1.8 | 162 | 137 | 第八段 内大臣、雲井雁を訪う |
26 | 1.8.1 | 163 | 138 |
とかく思しめぐらすままに、ゆくりもなく軽らかにはひ渡りたまへり。少将も御供に参りたまふ。 |
とかくおぼしめぐらすままに、ゆくりもなくかるらかにはひわたりたまへり。せうしゃうもおほんともにまゐりたまふ。 |
26 | 1.8.2 | 164 | 140 |
姫君は、昼寝したまへるほどなり。羅の単衣を着たまひて臥したまへるさま、暑かはしくは見えず、いとらうたげにささやかなり。透きたまへる肌つきなど、いとうつくしげなる手つきして、扇を持たまへりけるながら、かひなを枕にて、うちやられたる御髪のほど、いと長くこちたくはあらねど、いとをかしき末つきなり。 |
ひめぎみは、ひるねしたまへるほどなり。うすもののひとへをきたまひてふしたまへるさま、あつかはしくはみえず、いとらうたげにささやかなり。すきたまへるはだつきなど、いとうつくしげなるてつきして、あふぎをもたまへりけるながら、かひなをまくらにて、うちやられたるみぐしのほど、いとながくこちたくはあらねど、いとをかしきすゑつきなり。 |
26 | 1.8.3 | 165 | 141 |
人びとものの後に寄り臥しつつうち休みたれば、ふともおどろいたまはず。扇を鳴らしたまへるに、何心もなく見上げたまへるまみ、らうたげにて、つらつき赤めるも、親の御目にはうつくしくのみ見ゆ。 |
ひとびともののうしろによりふしつつうちやすみたれば、ふともおどろいたまはず。あふぎをならしたまへるに、なにごころもなくみあげたまへるまみ、らうたげにて、つらつきあかめるも、おやのおほんめにはうつくしくのみみゆ。 |
26 | 1.8.4 | 166 | 142 |
「うたた寝はいさめきこゆるものを。などか、いとものはかなきさまにては大殿籠もりける。人びとも近くさぶらはで、あやしや。 |
"うたたねはいさめきこゆるものを。などか、いとものはかなきさまにてはおほとのごもりける。ひとびともちかくさぶらはで、あやしや。 |
26 | 1.8.5 | 167 | 143 |
女は、身を常に心づかひして守りたらむなむよかるべき。心やすくうち捨てざまにもてなしたる、品なきことなり。 |
をんなは、みをつねにこころづかひしてまもりたらんなんよかるべき。こころやすくうちすてざまにもてなしたる、しななきことなり。 |
26 | 1.8.6 | 168 | 144 |
さりとて、いとさかしく身かためて、不動の陀羅尼誦みて、印つくりてゐたらむも憎し。うつつの人にもあまり気遠く、もの隔てがましきなど、気高きやうとても、人にくく、心うつくしくはあらぬわざなり。 |
さりとて、いとさかしくみかためて、ふどうのだらによみて、いんつくりてゐたらんもにくし。うつつのひとにもあまりけどほく、ものへだてがましきなど、けだかきやうとても、ひとにくく、こころうつくしくはあらぬわざなり。 |
26 | 1.8.7 | 169 | 145 |
太政大臣の、后がねの姫君ならはしたまふなる教へは、よろづのことに通はしなだらめて、かどかどしきゆゑもつけじ、たどたどしくおぼめくこともあらじと、ぬるらかにこそ掟てたまふなれ。 |
おほきおとどの、きさきがねのひめぎみならはしたまふなるをしへは、よろづのことにかよはしなだらめて、かどかどしきゆゑもつけじ、たどたどしくおぼめくこともあらじと、ぬるらかにこそおきてたまふなれ。 |
26 | 1.8.8 | 170 | 146 |
げに、さもあることなれど、人として、心にもするわざにも、立ててなびく方は方とあるものなれば、生ひ出でたまふさまあらむかし。この君の人となり、宮仕へに出だし立てたまはむ世のけしきこそ、いとゆかしけれ」 |
げに、さもあることなれど、ひととして、こころにもするわざにも、たててなびくかたはかたとあるものなれば、おひいでたまふさまあらんかし。このきみのひととなり、みやづかへにいだしたてたまはんよのけしきこそ、いとゆかしけれ。" |
26 | 1.8.9 | 171 | 147 |
などのたまひて、 |
などのたまひて、 |
26 | 1.8.10 | 172 | 148 |
「思ふやうに見たてまつらむと思ひし筋は、難うなりにたる御身なれど、いかで人笑はれならずしなしたてまつらむとなむ、人の上のさまざまなるを聞くごとに、思ひ乱れはべる。 |
"おもふやうにみたてまつらんとおもひしすぢは、かたうなりにたるおほんみなれど、いかでひとわらはれならずしなしたてまつらんとなん、ひとのうへのさまざまなるをきくごとに、おもひみだれはべる。 |
26 | 1.8.11 | 173 | 149 |
試み事にねむごろがらむ人のねぎごとに、なしばしなびきたまひそ。思ふさまはべり」 |
こころみごとにねんごろがらんひとのねぎごとに、なしばしなびきたまひそ。おもふさまはべり。" |
26 | 1.8.12 | 174 | 150 |
など、いとらうたしと思ひつつ聞こえたまふ。 |
など、いとらうたしとおもひつつきこえたまふ。 |
26 | 1.8.13 | 175 | 151 |
「昔は、何ごとも深くも思ひ知らで、なかなか、さしあたりていとほしかりしことの騒ぎにも、おもなくて見えたてまつりけるよ」と、今ぞ思ひ出づるに、胸ふたがりて、いみじく恥づかしき。 |
"むかしは、なにごともふかくもおもひしらで、なかなか、さしあたりていとほしかりしことのさわぎにも、おもなくてみえたてまつりけるよ。"と、いまぞおもひいづるに、むねふたがりて、いみじくはづかしき。 |
26 | 1.8.14 | 176 | 152 |
大宮よりも、常におぼつかなきことを恨みきこえたまへど、かくのたまふるがつつましくて、え渡り見たてまつりたまはず。 |
おほみやよりも、つねにおぼつかなきことをうらみきこえたまへど、かくのたまふるがつつましくて、えわたりみたてまつりたまはず。 |
26 | 2 | 177 | 153 | 第二章 近江君の物語 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語 |
26 | 2.1 | 178 | 154 | 第一段 内大臣、近江君の処遇に苦慮 |
26 | 2.1.1 | 179 | 155 |
大臣、この北の対の今姫君を、 |
おとど、このきたのたいのいまひめぎみを、 |
26 | 2.1.2 | 180 | 156 |
「いかにせむ。さかしらに迎へ率て来て。人かく誹るとて、返し送らむも、いと軽々しく、もの狂ほしきやうなり。かくて籠めおきたれば、まことにかしづくべき心あるかと、人の言ひなすなるもねたし。女御の御方などに交じらはせて、さるをこのものにしないてむ。人のいとかたはなるものに言ひおとすなる容貌、はた、いとさ言ふばかりにやはある」 |
"いかにせん。さかしらにむかへゐてきて。ひとかくそしるとて、かへしおくらんも、いとかるがるしく、ものぐるほしきやうなり。かくてこめおきたれば、まことにかしづくべきこころあるかと、ひとのいひなすなるもねたし。にょうごのおほんかたなどにまじらはせて、さるをこのものにしないてん。ひとのいとかたはなるものにいひおとすなるかたち、はた、いとさいふばかりにやはある。" |
26 | 2.1.3 | 181 | 157 |
など思して、女御の君に、 |
などおぼして、にょうごのきみに、 |
26 | 2.1.4 | 182 | 158 |
「かの人参らせむ。見苦しからむことなどは、老いしらへる女房などして、つつまず言ひ教へさせたまひて御覧ぜよ。若き人びとの言種には、な笑はせさせたまひそ。うたてあはつけきやうなり」 |
"かのひとまゐらせん。みぐるしからんことなどは、おいしらへるにょうばうなどして、つつまずいひをしへさせたまひてごらんぜよ。わかきひとびとのことぐさには、なわらはせさせたまひそ。うたてあはつけきやうなり。" |
26 | 2.1.5 | 183 | 159 |
と、笑ひつつ聞こえたまふ。 |
と、わらひつつきこえたまふ。 |
26 | 2.1.6 | 184 | 160 |
「などか、いとさことのほかにははべらむ。中将などの、いと二なく思ひはべりけむかね言に足らずといふばかりにこそははべらめ。かくのたまひ騒ぐを、はしたなう思はるるにも、かたへはかかやかしきにや」 |
"などか、いとさことのほかにははべらん。ちゅうじゃうなどの、いとになくおもひはべりけんかねごとにたらずといふばかりにこそははべらめ。かくのたまひさわぐを、はしたなうおもはるるにも、かたへはかかやかしきにや。" |
26 | 2.1.7 | 185 | 161 |
と、いと恥づかしげにて聞こえさせたまふ。この御ありさまは、こまかにをかしげさはなくて、いとあてに澄みたるものの、なつかしきさま添ひて、おもしろき梅の花の開けさしたる朝ぼらけおぼえて、残り多かりげにほほ笑みたまへるぞ、人に異なりける、と見たてまつりたまふ。 |
と、いとはづかしげにてきこえさせたまふ。このおほんありさまは、こまかにをかしげさはなくて、いとあてにすみたるものの、なつかしきさまそひて、おもしろきむめのはなのひらけさしたるあさぼらけおぼえて、のこりおほかりげにほほゑみたまへるぞ、ひとにことなりける、とみたてまつりたまふ。 |
26 | 2.1.8 | 186 | 162 |
「中将の、いとさ言へど、心若きたどり少なさに」 |
"ちゅうじゃうの、いとさいへど、こころわかきたどりすくなさに。" |
26 | 2.1.9 | 187 | 163 |
など申したまふも、いとほしげなる人の御おぼえかな。 |
などまうしたまふも、いとほしげなるひとのおほんおぼえかな。 |
26 | 2.2 | 188 | 164 | 第二段 内大臣、近江君を訪う |
26 | 2.2.1 | 189 | 165 |
やがて、この御方のたよりに、たたずみおはして、のぞきたまへば、簾高くおし張りて、五節の君とて、されたる若人のあると、双六をぞ打ちたまふ。手をいと切におしもみて、 |
やがて、このおほんかたのたよりに、たたずみおはして、のぞきたまへば、すだれたかくおしはりて、ごせちのきみとて、されたるわかうどのあると、すぐろくをぞうちたまふ。てをいとせちにおしもみて、 |
26 | 2.2.2 | 190 | 166 |
「せうさい、せうさい」 |
"せうさい、せうさい。" |
26 | 2.2.3 | 191 | 167 |
とこふ声ぞ、いと舌疾きや。「あな、うたて」と思して、御供の人の前駆追ふをも、手かき制したまうて、なほ、妻戸の細目なるより、障子の開きあひたるを見入れたまふ。 |
とこふこゑぞ、いとしたどきや。"あな、うたて。"とおぼして、おほんとものひとのさきおふをも、てかきせいしたまうて、なほ、つまどのほそめなるより、さうじのあきあひたるをみいれたまふ。 |
26 | 2.2.4 | 192 | 169 |
この従姉妹も、はた、けしきはやれる、 |
このいとこも、はた、けしきはやれる、 |
26 | 2.2.5 | 193 | 170 |
「御返しや、御返しや」 |
"おほんかへしや、おほんかへしや。" |
26 | 2.2.6 | 194 | 171 |
と、筒をひねりて、とみに打ち出でず。中に思ひはありやすらむ、いとあさへたるさまどもしたり。 |
と、とうをひねりて、とみにうちいでず。なかにおもひはありやすらん、いとあさへたるさまどもしたり。 |
26 | 2.2.7 | 195 | 172 |
容貌はひちちかに、愛敬づきたるさまして、髪うるはしく、罪軽げなるを、額のいと近やかなると、声のあはつけさとにそこなはれたるなめり。取りたててよしとはなけれど、異人とあらがふべくもあらず、鏡に思ひあはせられたまふに、いと宿世心づきなし。 |
かたちはひちちかに、あいぎゃうづきたるさまして、かみうるはしく、つみかろげなるを、ひたひのいとちかやかなると、こゑのあはつけさとにそこなはれたるなめり。とりたててよしとはなけれど、ことびととあらがふべくもあらず、かがみにおもひあはせられたまふに、いとすくせこころづきなし。 |
26 | 2.2.8 | 196 | 173 |
「かくてものしたまふは、つきなくうひうひしくなどやある。ことしげくのみありて、訪らひまうでずや」 |
"かくてものしたまふは、つきなくうひうひしくなどやある。ことしげくのみありて、とぶらひまうでずや。" |
26 | 2.2.9 | 197 | 174 |
とのたまへば、例の、いと舌疾にて、 |
とのたまへば、れいの、いとしたどにて、 |
26 | 2.2.10 | 198 | 175 |
「かくてさぶらふは、何のもの思ひかはべらむ。年ごろ、おぼつかなく、ゆかしく思ひきこえさせし御顔、常にえ見たてまつらぬばかりこそ、手打たぬ心地しはべれ」 |
"かくてさぶらふは、なにのものおもひかはべらん。としごろ、おぼつかなく、ゆかしくおもひきこえさせしおほんかほ、つねにえみたてまつらぬばかりこそ、てうたぬここちしはべれ。" |
26 | 2.2.11 | 199 | 176 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
26 | 2.2.12 | 200 | 177 |
「げに、身に近く使ふ人もをさをさなきに、さやうにても見ならしたてまつらむと、かねては思ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。なべての仕うまつり人こそ、とあるもかかるも、おのづから立ち交らひて、人の耳をも目をも、かならずしもとどめぬものなれば、心やすかべかめれ。それだに、その人の女、かの人の子と知らるる際になれば、親兄弟の面伏せなる類ひ多かめり。まして」 |
"げに、みにちかくつかふひともをさをさなきに、さやうにてもみならしたてまつらんと、かねてはおもひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり。なべてのつかうまつりびとこそ、とあるもかかるも、おのづからたちまじらひて、ひとのみみをもめをも、かならずしもとどめぬものなれば、こころやすかべかめれ。それだに、そのひとのむすめ、かのひとのことしらるるきはになれば、おやはらからのおもてぶせなるたぐひおほかめり。まして。" |
26 | 2.2.13 | 201 | 178 |
とのたまひさしつる、御けしきの恥づかしきも知らず、 |
とのたまひさしつる、みけしきのはづかしきもしらず、 |
26 | 2.2.14 | 202 | 179 |
「何か、そは、ことことしく思ひたまひて交らひはべらばこそ、所狭からめ。大御大壺取りにも、仕うまつりなむ」 |
"なにか、そは、ことことしくおもひたまひてまじらひはべらばこそ、ところせからめ。おほみおほつぼとりにも、つかうまつりなん。" |
26 | 2.2.15 | 203 | 180 |
と聞こえたまへば、え念じたまはで、うち笑ひたまひて、 |
ときこえたまへば、えねんじたまはで、うちわらひたまひて、 |
26 | 2.2.16 | 204 | 181 |
「似つかはしからぬ役ななり。かくたまさかに会へる親の孝せむの心あらば、このもののたまふ声を、すこしのどめて聞かせたまへ。さらば、命も延びなむかし」 |
"につかはしからぬやくななり。かくたまさかにあへるおやのけうせんのこころあらば、このもののたまふこゑを、すこしのどめてきかせたまへ。さらば、いのちものびなんかし。" |
26 | 2.2.17 | 205 | 182 |
と、をこめいたまへる大臣にて、ほほ笑みてのたまふ。 |
と、をこめいたまへるおとどにて、ほほゑみてのたまふ。 |
26 | 2.3 | 206 | 183 | 第三段 近江君の性情 |
26 | 2.3.1 | 207 | 184 |
「舌の本性にこそははべらめ。幼くはべりし時だに、故母の常に苦しがり教へはべりし。妙法寺の別当大徳の、産屋にはべりける、あえものとなむ嘆きはべりたうびし。いかでこの舌疾さやめはべらむ」 |
"したのほんじゃうにこそははべらめ。をさなくはべりしときだに、こははのつねにくるしがりをしへはべりし。みゃうほふじのべたうだいとこの、うぶやにはべりける、あえものとなんなげきはべりたうびし。いかでこのしたどさやめはべらん。" |
26 | 2.3.2 | 208 | 185 |
と思ひ騒ぎたるも、いと孝養の心深く、あはれなりと見たまふ。 |
とおもひさわぎたるも、いとけうやうのこころふかく、あはれなりとみたまふ。 |
26 | 2.3.3 | 209 | 186 |
「その、気近く入り立ちたりけむ大徳こそは、あぢきなかりけれ。ただその罪の報いななり。唖、言吃とぞ、大乗誹りたる罪にも、数へたるかし」 |
"その、けぢかくいりたちたりけんだいとここそは、あぢきなかりけれ。ただそのつみのむくいななり。おし、ことどもりとぞ、だいじょうそしりたるつみにも、かずへたるかし。" |
26 | 2.3.4 | 210 | 187 |
とのたまひて、「子ながら恥づかしくおはする御さまに、見えたてまつらむこそ恥づかしけれ。いかに定めて、かくあやしきけはひも尋ねず迎へ寄せけむ」と思し、「人びともあまた見つぎ、言ひ散らさむこと」と、思ひ返したまふものから、 |
とのたまひて、"こながらはづかしくおはするおほんさまに、みえたてまつらんこそはづかしけれ。いかにさだめて、かくあやしきけはひもたづねずむかへよせけん。"とおぼし、"ひとびともあまたみつぎ、いひちらさんこと。"と、おもひかへしたまふものから、 |
26 | 2.3.5 | 211 | 188 |
「女御里にものしたまふ時々、渡り参りて、人のありさまなども見ならひたまへかし。ことなることなき人も、おのづから人に交じらひ、さる方になれば、さてもありぬかし。さる心して、見えたてまつりたまひなむや」 |
"にょうごさとにものしたまふときどき、わたりまゐりて、ひとのありさまなどもみならひたまへかし。ことなることなきひとも、おのづからひとにまじらひ、さるかたになれば、さてもありぬかし。さるこころして、みえたてまつりたまひなんや。" |
26 | 2.3.6 | 212 | 189 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
26 | 2.3.7 | 213 | 190 |
「いとうれしきことにこそはべるなれ。ただ、いかでもいかでも、御方々に数まへしろしめされむことをなむ、寝ても覚めても、年ごろ何ごとを思ひたまへつるにもあらず。御許しだにはべらば、水を汲みいただきても、仕うまつりなむ」 |
"いとうれしきことにこそはべるなれ。ただ、いかでもいかでも、おほんかたがたにかずまへしろしめされんことをなん、ねてもさめても、としごろなにごとをおもひたまへつるにもあらず。おほんゆるしだにはべらば、みづをくみいただきても、つかうまつりなん。" |
26 | 2.3.8 | 214 | 191 |
と、いとよげに、今すこしさへづれば、いふかひなしと思して、 |
と、いとよげに、いますこしさへづれば、いふかひなしとおぼして、 |
26 | 2.3.9 | 215 | 192 |
「いとしか、おりたちて薪拾ひたまはずとも、参りたまひなむ。ただかのあえものにしけむ法の師だに遠くは」 |
"いとしか、おりたちてたきぎひろひたまはずとも、まゐりたまひなん。ただかのあえものにしけんのりのしだにとほくは。" |
26 | 2.3.10 | 216 | 193 |
と、をこごとにのたまひなすをも知らず、同じき大臣と聞こゆるなかにも、いときよげにものものしく、はなやかなるさまして、おぼろけの人見えにくき御けしきをも見知らず、 |
と、をこごとにのたまひなすをもしらず、おなじきおとどときこゆるなかにも、いときよげにものものしく、はなやかなるさまして、おぼろけのひとみえにくきみけしきをもみしらず、 |
26 | 2.3.11 | 217 | 194 |
「さて、いつか女御殿には参りはべらむずる」 |
"さて、いつかにょうごどのにはまゐりはべらんずる。" |
26 | 2.3.12 | 218 | 195 |
と聞こゆれば、 |
ときこゆれば、 |
26 | 2.3.13 | 219 | 196 |
「よろしき日などやいふべからむ。よし、ことことしくは何かは。さ思はれば、今日にても」 |
"よろしきひなどやいふべからん。よし、ことことしくはなにかは。さおもはれば、けふにても。" |
26 | 2.3.14 | 220 | 197 |
とのたまひ捨てて渡りたまひぬ。 |
とのたまひすててわたりたまひぬ。 |
26 | 2.4 | 221 | 198 | 第四段 近江君、血筋を誇りに思う |
26 | 2.4.1 | 222 | 199 |
よき四位五位たちの、いつききこえて、うち身じろきたまふにも、いといかめしき御勢ひなるを見送りきこえて、 |
よきしゐごゐたちの、いつききこえて、うちみじろきたまふにも、いといかめしきおほんいきほひなるをみおくりきこえて、 |
26 | 2.4.2 | 223 | 200 |
「いで、あな、めでたのわが親や。かかりける胤ながら、あやしき小家に生ひ出でけること」 |
"いで、あな、めでたのわがおやや。かかりけるたねながら、あやしきこいへにおひいでけること。" |
26 | 2.4.3 | 224 | 201 |
とのたまふ。五節、 |
とのたまふ。ごせち、 |
26 | 2.4.4 | 225 | 202 |
「あまりことことしく、恥づかしげにぞおはする。よろしき親の、思ひかしづかむにぞ、尋ね出でられたまはまし」 |
"あまりことことしく、はづかしげにぞおはする。よろしきおやの、おもひかしづかんにぞ、たづねいでられたまはまし。" |
26 | 2.4.5 | 226 | 203 |
と言ふも、わりなし。 |
といふも、わりなし。 |
26 | 2.4.6 | 227 | 204 |
「例の、君の、人の言ふこと破りたまひて、めざまし。今は、ひとつ口に言葉な交ぜられそ。あるやうあるべき身にこそあめれ」 |
"れいの、きみの、ひとのいふことやぶりたまひて、めざまし。いまは、ひとつくちにことばなまぜられそ。あるやうあるべきみにこそあめれ。" |
26 | 2.4.7 | 228 | 205 |
と、腹立ちたまふ顔やう、気近く、愛敬づきて、うちそぼれたるは、さる方にをかしく罪許されたり。 |
と、はらだちたまふかほやう、けぢかく、あいぎゃうづきて、うちそぼれたるは、さるかたにをかしくつみゆるされたり。 |
26 | 2.4.8 | 229 | 206 |
ただ、いと鄙び、あやしき下人の中に生ひ出でたまへれば、もの言ふさまも知らず。ことなるゆゑなき言葉をも、声のどやかに押ししづめて言ひ出だしたるは、打ち聞き、耳異におぼえ、をかしからぬ歌語りをするも、声づかひつきづきしくて、残り思はせ、本末惜しみたるさまにてうち誦じたるは、深き筋思ひ得ぬほどの打ち聞きには、をかしかなりと、耳もとまるかし。 |
ただ、いといなかび、あやしきしもびとのなかにおひいでたまへれば、ものいふさまもしらず。ことなるゆゑなきことばをも、こゑのどやかにおししづめていひいだしたるは、うちぎき、みみことにおぼえ、をかしからぬうたがたりをするも、こゑづかひつきづきしくて、のこりおもはせ、もとすゑをしみたるさまにてうちずじたるは、ふかきすぢおもひえぬほどのうちぎきには、をかしかなりと、みみもとまるかし。 |
26 | 2.4.9 | 230 | 207 |
いと心深くよしあることを言ひゐたりとも、よろしき心地あらむと聞こゆべくもあらず、あはつけき声ざまにのたまひ出づる言葉こはごはしく、言葉たみて、わがままに誇りならひたる乳母の懐にならひたるさまに、もてなしいとあやしきに、やつるるなりけり。 |
いとこころふかくよしあることをいひゐたりとも、よろしきここちあらんときこゆべくもあらず、あはつけきこわざまにのたまひいづることばこはごはしく、ことばたみて、わがままにほこりならひたるめのとのふところにならひたるさまに、もてなしいとあやしきに、やつるるなりけり。 |
26 | 2.4.10 | 231 | 208 |
いといふかひなくはあらず、三十文字あまり、本末あはぬ歌、口疾くうち続けなどしたまふ。 |
いといふかひなくはあらず、みそもじあまり、もとすゑあはぬうた、くちとくうちつづけなどしたまふ。 |
26 | 2.5 | 232 | 209 | 第五段 近江君の手紙 |
26 | 2.5.1 | 233 | 210 |
「さて、女御殿に参れとのたまひつるを、しぶしぶなるさまならば、ものしくもこそ思せ。夜さりまうでむ。大臣の君、天下に思すとも、この御方々のすげなくしたまはむには、殿のうちには立てりなむはや」 |
"さて、にょうごどのにまゐれとのたまひつるを、しぶしぶなるさまならば、ものしくもこそおぼせ。よさりまうでん。おとどのきみ、てんがにおぼすとも、このおほんかたがたのすげなくしたまはんには、とののうちにはたてりなんはや。" |
26 | 2.5.2 | 234 | 211 |
とのたまふ。御おぼえのほど、いと軽らかなりや。 |
とのたまふ。おほんおぼえのほど、いとかろらかなりや。 |
26 | 2.5.3 | 235 | 212 |
まづ御文たてまつりたまふ。 |
まづおほんふみたてまつりたまふ。 |
26 | 2.5.4 | 236 | 213 |
「葦垣のま近きほどにはさぶらひながら、今まで影踏むばかりのしるしもはべらぬは、勿来の関をや据ゑさせたまへらむとなむ。知らねども、武蔵野といへばかしこけれども。あなかしこや、あなかしこや」 |
"あしがきのまぢかきほどにはさぶらひながら、いままでかげふむばかりのしるしもはべらぬは、なこそのせきをやすゑさせたまへらんとなん。しらねども、むさしのといへばかしこけれども。あなかしこや、あなかしこや。" |
26 | 2.5.5 | 237 | 214 |
と、点がちにて、裏には、 |
と、てんがちにて、うらには、 |
26 | 2.5.6 | 238 | 215 |
「まことや、暮にも参り来むと思うたまへ立つは、厭ふにはゆるにや。いでや、いでや、あやしきは水無川にを」 |
"まことや、くれにもまゐりこんとおもうたまへたつは、いとふにはゆるにや。いでや、いでや、あやしきはみなせがはにを。" |
26 | 2.5.7 | 239 | 216 |
とて、また端に、かくぞ、 |
とて、またはしに、かくぞ、 |
26 | 2.5.8 | 240 | 217 |
「草若み常陸の浦のいかが崎<BR/>いかであひ見む田子の浦波 |
"〔くさわかみひたちのうらのいかがさき<BR/>いかであひみんたごのうらなみ |
26 | 2.5.9 | 241 | 218 |
大川水の」 |
おほかはみづの。" |
26 | 2.5.10 | 242 | 219 |
と、青き色紙一重ねに、いと草がちに、いかれる手の、その筋とも見えず、ただよひたる書きざまも下長に、わりなくゆゑばめり。行のほど、端ざまに筋交ひて、倒れぬべく見ゆるを、うち笑みつつ見て、さすがにいと細く小さく巻き結びて、撫子の花につけたり。 |
と、あをきしきしひとかさねに、いとさうがちに、いかれるての、そのすぢともみえず、ただよひたるかきざまもしもながに、わりなくゆゑばめり。くだりのほど、はしざまにすぢかひて、たふれぬべくみゆるを、うちゑみつつみて、さすがにいとほそくちひさくまきむすびて、なでしこのはなにつけたり。 |
26 | 2.6 | 243 | 220 | 第六段 女御の返事 |
26 | 2.6.1 | 244 | 221 |
樋洗童しも、いと馴れてきよげなる、今参りなりけり。女御の御方の台盤所に寄りて、 |
ひすましわらはしも、いとなれてきよげなる、いままゐりなりけり。にょうごのおほんかたのだいばんどころによりて、 |
26 | 2.6.2 | 245 | 222 |
「これ、参らせたまへ」 |
"これ、まゐらせたまへ。" |
26 | 2.6.3 | 246 | 223 |
と言ふ。下仕へ見知りて、 |
といふ。しもづかへみしりて、 |
26 | 2.6.4 | 247 | 224 |
「北の対にさぶらふ童なりけり」 |
"きたのたいにさぶらふわらはなりけり。" |
26 | 2.6.5 | 248 | 225 |
とて、御文取り入る。大輔の君といふ、持て参りて、引き解きて御覧ぜさす。 |
とて、おほんふみとりいる。たいふのきみといふ、もてまゐりて、ひきときてごらんぜさす。 |
26 | 2.6.6 | 249 | 226 |
女御、ほほ笑みてうち置かせたまへるを、中納言の君といふ、近くゐて、そばそば見けり。 |
にょうご、ほほゑみてうちおかせたまへるを、ちゅうなごんのきみといふ、ちかくゐて、そばそばみけり。 |
26 | 2.6.7 | 250 | 227 |
「いと今めかしき御文のけしきにもはべめるかな」 |
"いといまめかしきおほんふみのけしきにもはべめるかな。" |
26 | 2.6.8 | 251 | 228 |
と、ゆかしげに思ひたれば、 |
と、ゆかしげにおもひたれば、 |
26 | 2.6.9 | 252 | 229 |
「草の文字は、え見知らねばにやあらむ、本末なくも見ゆるかな」 |
"さうのもじは、えみしらねばにやあらん、もとすゑなくもみゆるかな。" |
26 | 2.6.10 | 253 | 230 |
とて、賜へり。 |
とて、たまへり。 |
26 | 2.6.11 | 254 | 231 |
「返りこと、かくゆゑゆゑしく書かずは、悪ろしとや思ひおとされむ。やがて書きたまへ」 |
"かへりこと、かくゆゑゆゑしくかかずは、わろしとやおもひおとされん。やがてかきたまへ。" |
26 | 2.6.12 | 255 | 232 |
と、譲りたまふ。もて出でてこそあらね、若き人は、ものをかしくて、皆うち笑ひぬ。御返り乞へば、 |
と、ゆづりたまふ。もていでてこそあらね、わかきひとは、ものをかしくて、みなうちわらひぬ。おほんかへりこへば、 |
26 | 2.6.13 | 256 | 233 |
「をかしきことの筋にのみまつはれてはべめれば、聞こえさせにくくこそ。宣旨書きめきては、いとほしからむ」 |
"をかしきことのすぢにのみまつはれてはべめれば、きこえさせにくくこそ。せんじがきめきては、いとほしからん。" |
26 | 2.6.14 | 257 | 234 |
とて、ただ、御文めきて書く。 |
とて、ただ、おほんふみめきてかく。 |
26 | 2.6.15 | 258 | 235 |
「近きしるしなき、おぼつかなさは、恨めしく、 |
"ちかきしるしなき、おぼつかなさは、うらめしく、 |
26 | 2.6.16 | 259 | 236 |
常陸なる駿河の海の須磨の浦に<BR/>波立ち出でよ筥崎の松」 |
ひたちなるするがのうみのすまのうらに<BR/>なみたちいでよはこざきのまつ〕" |
26 | 2.6.17 | 260 | 237 |
と書きて、読みきこゆれば、 |
とかきて、よみきこゆれば、 |
26 | 2.6.18 | 261 | 238 |
「あな、うたて。まことにみづからのにもこそ言ひなせ」 |
"あな、うたて。まことにみづからのにもこそいひなせ。" |
26 | 2.6.19 | 262 | 239 |
と、かたはらいたげに思したれど、 |
と、かたはらいたげにおぼしたれど、 |
26 | 2.6.20 | 263 | 240 |
「それは聞かむ人わきまへはべりなむ」 |
"それはきかんひとわきまへはべりなん。" |
26 | 2.6.21 | 264 | 241 |
とて、おし包みて出だしつ。 |
とて、おしつつみていだしつ。 |
26 | 2.6.22 | 265 | 242 |
御方見て、 |
おほんかたみて、 |
26 | 2.6.23 | 266 | 243 |
「をかしの御口つきや。待つとのたまへるを」 |
"をかしのおほんくちつきや。まつとのたまへるを。" |
26 | 2.6.24 | 267 | 244 |
とて、いとあまえたる薫物の香を、返す返す薫きしめゐたまへり。紅といふもの、いと赤らかにかいつけて、髪けづりつくろひたまへる、さる方ににぎははしく、愛敬づきたり。御対面のほど、さし過ぐしたることもあらむかし。 |
とて、いとあまえたるたきもののかを、かへすがへすたきしめゐたまへり。べにといふもの、いとあからかにかいつけて、かみけづりつくろひたまへる、さるかたににぎははしく、あいぎゃうづきたり。おほんたいめんのほど、さしすぐしたることもあらんかし。 |