帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
32 | 梅枝 |
32 | 1 | 65 | 38 | 第一章 光る源氏の物語 薫物合せ |
32 | 1.1 | 66 | 39 | 第一段 六条院の薫物合せの準備 |
32 | 1.1.1 | 67 | 40 |
御裳着のこと、思しいそぐ御心おきて、世の常ならず。春宮も同じ二月に、御かうぶりのことあるべければ、やがて御参りもうち続くべきにや。 |
おほんもぎのこと、おぼしいそぐみこころおきて、よのつねならず。とうぐうもおなじきさらぎに、おほんかうぶりのことあるべければ、やがておほんまゐりもうちつづくべきにや。 |
32 | 1.1.2 | 68 | 41 |
正月の晦日なれば、公私のどやかなるころほひに、薫物合はせたまふ。大弐の奉れる香ども御覧ずるに、「なほ、いにしへのには劣りてやあらむ」と思して、二条院の御倉開けさせたまひて、唐の物ども取り渡させたまひて、御覧じ比ぶるに、 |
しゃうがつのつごもりなれば、おほやけわたくしのどやかなるころほひに、たきものあはせたまふ。だいにのたてまつれるかうどもごらんずるに、"なほ、いにしへのにはおとりてやあらん。"とおぼして、にでうのゐんのみくらあけさせたまひて、からのものどもとりわたさせたまひて、ごらんじくらぶるに、 |
32 | 1.1.3 | 69 | 42 |
「錦、綾なども、なほ古きものこそなつかしうこまやかにはありけれ」 |
"にしき、あやなども、なほふるきものこそなつかしうこまやかにはありけれ。" |
32 | 1.1.4 | 70 | 43 |
とて、近き御しつらひの、物の覆ひ、敷物、茵などの端どもに、故院の御世の初めつ方、高麗人のたてまつれりける綾、緋金錦どもなど、今の世のものに似ず、なほさまざま御覧じあてつつせさせたまひて、このたびの綾、羅などは、人びとに賜はす。 |
とて、ちかきおほんしつらひの、もののおほひ、しきもの、しとねなどのはしどもに、こゐんのみよのはじめつかた、こまうどのたてまつれりけるあや、ひごんきどもなど、いまのよのものににず、なほさまざまごらんじあてつつせさせたまひて、このたびのあや、うすものなどは、ひとびとにたまはす。 |
32 | 1.1.5 | 71 | 44 |
香どもは、昔今の、取り並べさせたまひて、御方々に配りたてまつらせたまふ。 |
かうどもは、むかしいまの、とりならべさせたまひて、おほんかたがたにくばりたてまつらせたまふ。 |
32 | 1.1.6 | 72 | 45 |
「二種づつ合はせさせたまへ」 |
"ふたくさづつあはせさせたまへ。" |
32 | 1.1.7 | 73 | 46 |
と、聞こえさせたまへり。贈り物、上達部の禄など、世になきさまに、内にも外にも、ことしげくいとなみたまふに添へて、方々に選りととのへて、鉄臼の音耳かしかましきころなり。 |
と、きこえさせたまへり。おくりもの、かんだちめのろくなど、よになきさまに、うちにもとにも、ことしげくいとなみたまふにそへて、かたがたにえりととのへて、かなうすのおとみみかしかましきころなり。 |
32 | 1.1.8 | 74 | 47 |
大臣は、寝殿に離れおはしまして、承和の御いましめの二つの方を、いかでか御耳には伝へたまひけむ、心にしめて合はせたまふ。 |
おとどは、しんでんにはなれおはしまして、じょうわのおほんいましめのふたつのはうを、いかでかおほんみみにはつたへたまひけん、こころにしめてあはせたまふ。 |
32 | 1.1.9 | 75 | 48 |
上は、東の中の放出に、御しつらひことに深うしなさせたまひて、八条の式部卿の御方を伝へて、かたみに挑み合はせたまふほど、いみじう秘したまへば、 |
うへは、ひんがしのなかのはなちいでに、おほんしつらひことにふかうしなさせたまひて、はちでうのしきぶきゃうのおほんはうをつたへて、かたみにいどみあはせたまふほど、いみじうひしたまへば、 |
32 | 1.1.10 | 76 | 49 |
「匂ひの深さ浅さも、勝ち負けの定めあるべし」 |
"にほひのふかさあささも、かちまけのさだめあるべし。" |
32 | 1.1.11 | 77 | 50 |
と大臣のたまふ。人の御親げなき御あらそひ心なり。 |
とおとどのたまふ。ひとのおほんおやげなきおほんあらそひごころなり。 |
32 | 1.1.12 | 78 | 51 |
いづ方にも、御前にさぶらふ人あまたならず。御調度どもも、そこらのきよらを尽くしたまへるなかにも、香壺の御筥どものやう、壺の姿、火取りの心ばへも、目馴れぬさまに、今めかしう、やう変へさせたまへるに、所々の心を尽くしたまへらむ匂ひどもの、すぐれたらむどもを、かぎあはせて入れむと思すなりけり。 |
いづかたにも、おまへにさぶらふひとあまたならず。おほんてうどどもも、そこらのきよらをつくしたまへるなかにも、かうごのおほんはこどものやう、つぼのすがた、ひとりのこころばへも、めなれぬさまに、いまめかしう、やうかへさせたまへるに、ところどころのこころをつくしたまへらんにほひどもの、すぐれたらんどもを、かぎあはせていれんとおぼすなりけり。 |
32 | 1.2 | 79 | 52 | 第二段 二月十日、薫物合せ |
32 | 1.2.1 | 80 | 53 |
二月の十日、雨すこし降りて、御前近き紅梅盛りに、色も香も似るものなきほどに、兵部卿宮渡りたまへり。御いそぎの今日明日になりにけることども、訪らひきこえたまふ。昔より取り分きたる御仲なれば、隔てなく、そのことかのこと、と聞こえあはせたまひて、花をめでつつおはするほどに、前斎院よりとて、散りすきたる梅の枝につけたる御文持て参れり。宮、聞こしめすこともあれば、 |
きさらぎのとをか、あめすこしふりて、おまへちかきこうばいさかりに、いろもかもにるものなきほどに、ひゃうぶきゃうのみやわたりたまへり。おほんいそぎのけふあすになりにけることども、とぶらひきこえたまふ。むかしよりとりわきたるおほんなかなれば、へだてなく、そのことかのこと、ときこえあはせたまひて、はなをめでつつおはするほどに、さきのさいゐんよりとて、ちりすきたるむめのえだにつけたるおほんふみもてまゐれり。みや、きこしめすこともあれば、 |
32 | 1.2.2 | 81 | 55 |
「いかなる御消息のすすみ参れるにか」 |
"いかなるおほんせうそこのすすみまゐれるにか。" |
32 | 1.2.3 | 82 | 56 |
とて、をかしと思したれば、ほほ笑みて、 |
とて、をかしとおぼしたれば、ほほゑみて、 |
32 | 1.2.4 | 83 | 57 |
「いと馴れ馴れしきこと聞こえつけたりしを、まめやかに急ぎものしたまへるなめり」 |
"いとなれなれしきこときこえつけたりしを、まめやかにいそぎものしたまへるなめり。" |
32 | 1.2.5 | 84 | 58 |
とて、御文は引き隠したまひつ。 |
とて、おほんふみはひきかくしたまひつ。 |
32 | 1.2.6 | 85 | 59 |
沈の筥に、瑠璃の坏二つ据ゑて、大きにまろがしつつ入れたまへり。心葉、紺瑠璃には五葉の枝、白きには梅を選りて、同じくひき結びたる糸のさまも、なよびやかになまめかしうぞしたまへる。 |
ぢんのはこに、るりのつきふたつすゑて、おほきにまろがしつついれたまへり。こころば、こんるりにはごえふのえだ、しろきにはむめをえりて、おなじくひきむすびたるいとのさまも、なよびやかになまめかしうぞしたまへる。 |
32 | 1.2.7 | 86 | 60 |
「艶あるもののさまかな」 |
"えんあるもののさまかな。" |
32 | 1.2.8 | 87 | 61 |
とて、御目止めたまへるに、 |
とて、おほんめとめたまへるに、 |
32 | 1.2.9 | 88 | 62 |
「花の香は散りにし枝にとまらねど<BR/>うつらむ袖に浅くしまめや」 |
"〔はなのかはちりにしえだにとまらねど<BR/>うつらんそでにあさくしまめや〕 |
32 | 1.2.10 | 89 | 63 |
ほのかなるを御覧じつけて、宮はことことしう誦じたまふ。 |
ほのかなるをごらんじつけて、みやはことことしうずじたまふ。 |
32 | 1.2.11 | 90 | 64 |
宰相中将、御使尋ねとどめさせたまひて、いたう酔はしたまふ。紅梅襲の唐の細長添へたる女の装束かづけたまふ。御返りもその色の紙にて、御前の花を折らせてつけさせたまふ。 |
さいしゃうのちゅうじゃう、おほんつかひたづねとどめさせたまひて、いたうよはしたまふ。こうばいがさねのからのほそながそへたるをんなのさうぞくかづけたまふ。おほんかへりもそのいろのかみにて、おまへのはなををらせてつけさせたまふ。 |
32 | 1.2.12 | 91 | 65 |
宮、 |
みや、 |
32 | 1.2.13 | 92 | 66 |
「うちのこと思ひやらるる御文かな。何ごとの隠ろへあるにか、深く隠したまふ」 |
"うちのことおもひやらるるおほんふみかな。なにごとのかくろへあるにか、ふかくかくしたまふ。" |
32 | 1.2.14 | 93 | 67 |
と恨みて、いとゆかしと思したり。 |
とうらみて、いとゆかしとおぼしたり。 |
32 | 1.2.15 | 94 | 68 |
「何ごとかはべらむ。隈々しく思したるこそ、苦しけれ」 |
"なにごとかはべらん。くまぐましくおぼしたるこそ、くるしけれ。" |
32 | 1.2.16 | 95 | 69 |
とて、御硯のついでに、 |
とて、おほんすずりのついでに、 |
32 | 1.2.17 | 96 | 70 |
「花の枝にいとど心をしむるかな<BR/>人のとがめむ香をばつつめど」 |
"〔はなのえにいとどこころをしむるかな<BR/>ひとのとがめんかをばつつめど〕 |
32 | 1.2.18 | 97 | 71 |
とやありつらむ。 |
とやありつらん。 |
32 | 1.2.19 | 98 | 72 |
「まめやかには、好き好きしきやうなれど、またもなかめる人の上にて、これこそはことわりのいとなみなめれと、思ひたまへなしてなむ。いと醜ければ、疎き人はかたはらいたさに、中宮まかでさせたてまつりてと思ひたまふる。親しきほどに馴れきこえかよへど、恥づかしきところの深うおはする宮なれば、何ごとも世の常にて見せたてまつらむ、かたじけなくてなむ」 |
"まめやかには、すきずきしきやうなれど、またもなかめるひとのうへにて、これこそはことわりのいとなみなめれと、おもひたまへなしてなん。いとみにくければ、うときひとはかたはらいたさに、ちゅうぐうまかでさせたてまつりてとおもひたまふる。したしきほどになれきこえかよへど、はづかしきところのふかうおはするみやなれば、なにごともよのつねにてみせたてまつらん、かたじけなくてなん。" |
32 | 1.2.20 | 99 | 73 |
など、聞こえたまふ。 |
など、きこえたまふ。 |
32 | 1.2.21 | 100 | 74 |
「あえものも、げに、かならず思し寄るべきことなりけり」 |
"あえものも、げに、かならずおぼしよるべきことなりけり。" |
32 | 1.2.22 | 101 | 75 |
と、ことわり申したまふ。 |
と、ことわりまうしたまふ。 |
32 | 1.3 | 102 | 76 | 第三段 御方々の薫物 |
32 | 1.3.1 | 103 | 77 |
このついでに、御方々の合はせたまふども、おのおの御使して、 |
このついでに、おほんかたがたのあはせたまふども、おのおのおほんつかひして、 |
32 | 1.3.2 | 104 | 78 |
「この夕暮れのしめりにこころみむ」 |
"このゆふぐれのしめりにこころみん。" |
32 | 1.3.3 | 105 | 79 |
と聞こえたまへれば、さまざまをかしうしなして奉りたまへり。 |
ときこえたまへれば、さまざまをかしうしなしてたてまつりたまへり。 |
32 | 1.3.4 | 106 | 80 |
「これ分かせたまへ。誰れにか見せむ」 |
"これわかせたまへ。たれにかみせん。" |
32 | 1.3.5 | 107 | 81 |
と聞こえたまひて、御火取りども召して、こころみさせたまふ。 |
ときこえたまひて、おほんひとりどもめして、こころみさせたまふ。 |
32 | 1.3.6 | 108 | 82 |
「知る人にもあらずや」 |
"しるひとにもあらずや。" |
32 | 1.3.7 | 109 | 83 |
と卑下したまへど、言ひ知らぬ匂ひどもの、進み遅れたる香一種などが、いささかの咎を分きて、あながちに劣りまさりのけぢめをおきたまふ。かのわが御二種のは、今ぞ取う出させたまふ。 |
とひげしたまへど、いひしらぬにほひどもの、すすみおくれたるかうひとくさなどが、いささかのとがをわきて、あながちにおとりまさりのけぢめをおきたまふ。かのわがおほんふたくさのは、いまぞとうでさせたまふ。 |
32 | 1.3.8 | 110 | 84 |
右近の陣の御溝水のほとりになずらへて、西の渡殿の下より出づる汀近う埋ませたまへるを、惟光の宰相の子の兵衛尉、堀りて参れり。宰相中将、取りて伝へ参らせたまふ。宮、 |
うこんのぢんのみかはみづのほとりになずらへて、にしのわたどののしたよりいづるみぎはちかううづませたまへるを、これみつのさいしゃうのこのひゃうゑのじょう、ほりてまゐれり。さいしゃうのちゅうじゃう、とりてつたへまゐらせたまふ。みや、 |
32 | 1.3.9 | 111 | 85 |
「いと苦しき判者にも当たりてはべるかな。いと煙たしや」 |
"いとくるしきはんざにもあたりてはべるかな。いとけぶたしや。" |
32 | 1.3.10 | 112 | 86 |
と、悩みたまふ。同じうこそは、いづくにも散りつつ広ごるべかめるを、人びとの心々に合はせたまへる、深さ浅さを、かぎあはせたまへるに、いと興あること多かり。 |
と、なやみたまふ。おなじうこそは、いづくにもちりつつひろごるべかめるを、ひとびとのこころごころにあはせたまへる、ふかさあささを、かぎあはせたまへるに、いときょうあることおほかり。 |
32 | 1.3.11 | 113 | 87 |
さらにいづれともなき中に、斎院の御黒方、さいへども、心にくくしづやかなる匂ひ、ことなり。侍従は、大臣の御は、すぐれてなまめかしうなつかしき香なりと定めたまふ。 |
さらにいづれともなきなかに、さいゐんのおほんくろばう、さいへども、こころにくくしづやかなるにほひ、ことなり。じじゅうは、おとどのおほんは、すぐれてなまめかしうなつかしきかなりとさだめたまふ。 |
32 | 1.3.12 | 114 | 88 |
対の上の御は、三種ある中に、梅花、はなやかに今めかしう、すこしはやき心しつらひを添へて、めづらしき薫り加はれり。 |
たいのうへのおほんは、みくさあるなかに、ばいか、はなやかにいまめかしう、すこしはやきこころしつらひをそへて、めづらしきかをりくははれり。 |
32 | 1.3.13 | 115 | 89 |
「このころの風にたぐへむには、さらにこれにまさる匂ひあらじ」 |
"このころのかぜにたぐへんには、さらにこれにまさるにほひあらじ。" |
32 | 1.3.14 | 116 | 90 |
とめでたまふ。 |
とめでたまふ。 |
32 | 1.3.15 | 117 | 91 |
夏の御方には、人びとの、かう心々に挑みたまふなる中に、数々にも立ち出でずやと、煙をさへ思ひ消えたまへる御心にて、ただ荷葉を一種合はせたまへり。さま変はりしめやかなる香して、あはれになつかし。 |
なつのおほんかたには、ひとびとの、かうこころごころにいどみたまふなるなかに、かずかずにもたちいでずやと、けぶりをさへおもひきえたまへるおほんこころにて、ただかえふをひとくさあはせたまへり。さまかはりしめやかなるかして、あはれになつかし。 |
32 | 1.3.16 | 118 | 92 |
冬の御方にも、時々によれる匂ひの定まれるに消たれむもあいなしと思して、薫衣香の方のすぐれたるは、前の朱雀院のをうつさせたまひて、公忠朝臣の、ことに選び仕うまつれりし百歩の方など思ひ得て、世に似ずなまめかしさを取り集めたる、心おきてすぐれたりと、いづれをも無徳ならず定めたまふを、 |
ふゆのおほんかたにも、ときどきによれるにほひのさだまれるにけたれんもあいなしとおぼして、くのえかうのはうのすぐれたるは、さきのしゅじゃくゐんのをうつさせたまひて、きんただのあそんの、ことにえらびつかうまつれりしひゃくぶのはうなどおもひえて、よににずなまめかしさをとりあつめたる、こころおきてすぐれたりと、いづれをもむとくならずさだめたまふを、 |
32 | 1.3.17 | 119 | 93 |
「心ぎたなき判者なめり」 |
"こころぎたなきはんざなめり。" |
32 | 1.3.18 | 120 | 94 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
32 | 1.4 | 121 | 95 | 第四段 薫物合せ後の饗宴 |
32 | 1.4.1 | 122 | 96 |
月さし出でぬれば、大御酒など参りて、昔の御物語などしたまふ。霞める月の影心にくきを、雨の名残の風すこし吹きて、花の香なつかしきに、御殿のあたり言ひ知らず匂ひ満ちて、人の御心地いと艶あり。 |
つきさしいでぬれば、おほみきなどまゐりて、むかしのおほんものがたりなどしたまふ。かすめるつきのかげこころにくきを、あめのなごりのかぜすこしふきて、はなのかなつかしきに、おとどのあたりいひしらずにほひみちて、ひとのおほんここちいとえんあり。 |
32 | 1.4.2 | 123 | 97 |
蔵人所の方にも、明日の御遊びのうちならしに、御琴どもの装束などして、殿上人などあまた参りて、をかしき笛の音ども聞こゆ。 |
くらうどどころのかたにも、あすのおほんあそびのうちならしに、おほんことどものさうぞくなどして、てんじゃうびとなどあまたまゐりて、をかしきふゑのねどもきこゆ。 |
32 | 1.4.3 | 124 | 98 |
内の大殿の頭中将、弁少将なども、見参ばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、御琴ども召す。 |
うちのおほいどののとうのちゅうじゃう、べんのせうしゃうなども、げんざんばかりにてまかづるを、とどめさせたまひて、おほんことどもめす。 |
32 | 1.4.4 | 125 | 99 |
宮の御前に琵琶、大臣に箏の御琴参りて、頭中将、和琴賜はりて、はなやかに掻きたてたるほど、いとおもしろく聞こゆ。宰相中将、横笛吹きたまふ。折にあひたる調子、雲居とほるばかり吹きたてたり。弁少将、拍子取りて、「梅が枝」出だしたるほど、いとをかし。童にて、韻塞ぎの折、「高砂」謡ひし君なり。宮も大臣もさしいらへしたまひて、ことことしからぬものから、をかしき夜の御遊びなり。 |
みやのおまへにびは、おとどにさうのおほんことまゐりて、とうのちゅうじゃう、わごんたまはりて、はなやかにかきたてたるほど、いとおもしろくきこゆ。さいしゃうのちゅうじゃう、よこぶえふきたまふ。をりにあひたるてうし、くもゐとほるばかりふきたてたり。べんのせうしゃう、ひゃうしとりて、〔むめがえ〕いだしたるほど、いとをかし。わらはにて、ゐんふたぎのをり、〔たかさご〕うたひしきみなり。みやもおとどもさしいらへしたまひて、ことことしからぬものから、をかしきよのおほんあそびなり。 |
32 | 1.4.5 | 126 | 100 |
御土器参るに、宮、 |
おほんかはらけまゐるに、みや、 |
32 | 1.4.6 | 127 | 101 |
「鴬の声にやいとどあくがれむ<BR/>心しめつる花のあたりに |
"〔うぐひすのこゑにやいとどあくがれん<BR/>こころしめつるはなのあたりに |
32 | 1.4.7 | 128 | 102 |
千代も経ぬべし」 |
ちよもへぬべし。" |
32 | 1.4.8 | 129 | 103 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
32 | 1.4.9 | 130 | 104 |
「色も香もうつるばかりにこの春は<BR/>花咲く宿をかれずもあらなむ」 |
"〔いろもかもうつるばかりにこのはるは<BR/>はなさくやどをかれずもあらなん〕 |
32 | 1.4.10 | 131 | 105 |
頭中将に賜へば、取りて、宰相中将にさす。 |
とうのちゅうじゃうにたまへば、とりて、さいしゃうのちゅうじゃうにさす。 |
32 | 1.4.11 | 132 | 106 |
「鴬のねぐらの枝もなびくまで<BR/>なほ吹きとほせ夜半の笛竹」 |
"〔うぐひすのねぐらのえだもなびくまで<BR/>なほふきとほせよはのふえたけ〕" |
32 | 1.4.12 | 133 | 107 |
宰相中将、 |
さいしゃうのちゅうじゃう、 |
32 | 1.4.13 | 134 | 108 |
「心ありて風の避くめる花の木に<BR/>とりあへぬまで吹きや寄るべき |
"〔こころありてかぜのよくめるはなのきに<BR/>とりあへぬまでふきやよるべき |
32 | 1.4.14 | 135 | 109 |
情けなく」 |
なさけなく。" |
32 | 1.4.15 | 136 | 110 |
と、皆うち笑ひたまふ。弁少将、 |
と、みなうちわらひたまふ。べんのせうしゃう、 |
32 | 1.4.16 | 137 | 111 |
「霞だに月と花とを隔てずは<BR/>ねぐらの鳥もほころびなまし」 |
"〔かすみだにつきとはなとをへだてずは<BR/>ねぐらのとりもほころびなまし〕 |
32 | 1.4.17 | 138 | 112 |
まことに、明け方になりてぞ、宮帰りたまふ。御贈り物に、みづからの御料の御直衣の御よそひ一領、手触れたまはぬ薫物二壺添へて、御車にたてまつらせたまふ。宮、 |
まことに、あけがたになりてぞ、みやかへりたまふ。おほんおくりものに、みづからのごれうのおほんなほしのおほんよそひひとくだり、てふれたまはぬたきものふたつぼそへて、おほんくるまにたてまつらせたまふ。みや、 |
32 | 1.4.18 | 139 | 113 |
「花の香をえならぬ袖にうつしもて<BR/>ことあやまりと妹やとがめむ」 |
"〔はなのかをえならぬそでにうつしもて<BR/>ことあやまりといもやとがめん〕 |
32 | 1.4.19 | 140 | 114 |
とあれば、 |
とあれば、 |
32 | 1.4.20 | 141 | 115 |
「いと屈したりや」 |
"いとくつしたりや。" |
32 | 1.4.21 | 142 | 116 |
と笑ひたまふ。御車かくるほどに、追ひて、 |
とわらひたまふ。おほんくるまかくるほどに、おひて、 |
32 | 1.4.22 | 143 | 117 |
「めづらしと故里人も待ちぞ見む<BR/>花の錦を着て帰る君 |
"〔めづらしとふるさとびともまちぞみん<BR/>はなのにしきをきてかへるきみ |
32 | 1.4.23 | 144 | 118 |
またなきことと思さるらむ」 |
またなきこととおぼさるらん。" |
32 | 1.4.24 | 145 | 119 |
とあれば、いといたうからがりたまふ。次々の君達にも、ことことしからぬさまに、細長、小袿などかづけたまふ。 |
とあれば、いといたうからがりたまふ。つぎつぎのきみたちにも、ことことしからぬさまに、ほそなが、こうちきなどかづけたまふ。 |
32 | 2 | 146 | 120 | 第二章 光る源氏の物語 明石の姫君の裳着 |
32 | 2.1 | 147 | 121 | 第一段 明石の姫君の裳着 |
32 | 2.1.1 | 148 | 122 |
かくて、西の御殿に、戌の時に渡りたまふ。宮のおはします西の放出をしつらひて、御髪上の内侍なども、やがてこなたに参れり。上も、このついでに、中宮に御対面あり。御方々の女房、押しあはせたる、数しらず見えたり。 |
かくて、にしのおとどに、いぬのときにわたりたまふ。みやのおはしますにしのはなちいでをしつらひて、みぐしあげのないしなども、やがてこなたにまゐれり。うへも、このついでに、ちゅうぐうにおほんたいめんあり。おほんかたがたのにょうばう、おしあはせたる、かずしらずみえたり。 |
32 | 2.1.2 | 149 | 123 |
子の時に御裳たてまつる。大殿油ほのかなれど、御けはひいとめでたしと、宮は見たてまつれたまふ。大臣、 |
ねのときにおほんもたてまつる。おほとなぶらほのかなれど、おほんけはひいとめでたしと、みやはみたてまつれたまふ。おとど、 |
32 | 2.1.3 | 150 | 124 |
「思し捨つまじきを頼みにて、なめげなる姿を、進み御覧ぜられはべるなり。後の世のためしにやと、心狭く忍び思ひたまふる」 |
"おぼしすつまじきをたのみにて、なめげなるすがたを、すすみごらんぜられはべるなり。のちのよのためしにやと、こころせばくしのびおもひたまふる。" |
32 | 2.1.4 | 151 | 125 |
など聞こえたまふ。宮、 |
などきこえたまふ。みや、 |
32 | 2.1.5 | 152 | 126 |
「いかなるべきこととも思うたまへ分きはべらざりつるを、かうことことしうとりなさせたまふになむ、なかなか心おかれぬべく」 |
"いかなるべきことともおもうたまへわきはべらざりつるを、かうことことしうとりなさせたまふになん、なかなかこころおかれぬべく。" |
32 | 2.1.6 | 153 | 127 |
と、のたまひ消つほどの御けはひ、いと若く愛敬づきたるに、大臣も、思すさまにをかしき御けはひどもの、さし集ひたまへるを、あはひめでたく思さる。母君の、かかる折だにえ見たてまつらぬを、いみじと思へりしも心苦しうて、参う上らせやせましと思せど、人のもの言ひをつつみて、過ぐしたまひつ。 |
と、のたまひけつほどのおほんけはひ、いとわかくあいぎゃうづきたるに、おとども、おぼすさまにをかしきおほんけはひどもの、さしつどひたまへるを、あはひめでたくおぼさる。ははぎみの、かかるをりだにえみたてまつらぬを、いみじとおもへりしもこころぐるしうて、まうのぼらせやせましとおぼせど、ひとのものいひをつつみて、すぐしたまひつ。 |
32 | 2.1.7 | 154 | 128 |
かかる所の儀式は、よろしきにだに、いとこと多くうるさきを、片端ばかり、例のしどけなくまねばむもなかなかにやとて、こまかに書かず。 |
かかるところのぎしきは、よろしきにだに、いとことおほくうるさきを、かたはしばかり、れいのしどけなくまねばんもなかなかにやとて、こまかにかかず。 |
32 | 2.2 | 155 | 129 | 第二段 明石の姫君の入内準備 |
32 | 2.2.1 | 156 | 130 |
春宮の御元服は、二十余日のほどになむありける。いと大人しくおはしませば、人の女ども競ひ参らすべきことを、心ざし思すなれど、この殿の思しきざすさまの、いとことなれば、なかなかにてや交じらはむと、左の大臣なども、思しとどまるなるを聞こしめして、 |
とうぐうのおほんげんぷくは、にじふよひのほどになんありける。いとおとなしくおはしませば、ひとのむすめどもきほひまゐらすべきことを、こころざしおぼすなれど、このとののおぼしきざすさまの、いとことなれば、なかなかにてやまじらはんと、ひだりのおとどなども、おぼしとどまるなるをきこしめして、 |
32 | 2.2.2 | 157 | 131 |
「いとたいだいしきことなり。宮仕への筋は、あまたあるなかに、すこしのけぢめを挑まむこそ本意ならめ。そこらの警策の姫君たち、引き籠められなば、世に映えあらじ」 |
"いとたいだいしきことなり。みやづかへのすぢは、あまたあるなかに、すこしのけぢめをいどまんこそほいならめ。そこらのきゃうざくのひめぎみたち、ひきこめられなば、よにはえあらじ。" |
32 | 2.2.3 | 158 | 132 |
とのたまひて、御参り延びぬ。次々にもとしづめたまひけるを、かかるよし所々に聞きたまひて、左大臣殿の三の君参りたまひぬ。麗景殿と聞こゆ。 |
とのたまひて、おほんまゐりのびぬ。つぎつぎにもとしづめたまひけるを、かかるよしところどころにききたまひて、さだいじんどののさんのきみまゐりたまひぬ。れいけいでんときこゆ。 |
32 | 2.2.4 | 159 | 133 |
この御方は、昔の御宿直所、淑景舎を改めしつらひて、御参り延びぬるを、宮にも心もとながらせたまへば、四月にと定めさせたまふ。御調度どもも、もとあるよりもととのへて、御みづからも、ものの下形、絵様などをも御覧じ入れつつ、すぐれたる道々の上手どもを召し集めて、こまかに磨きととのへさせたまふ。 |
このおほんかたは、むかしのおほんとのゐどころ、しげいさをあらためしつらひて、おほんまゐりのびぬるを、みやにもこころもとながらせたまへば、うづきにとさだめさせたまふ。おほんてうどどもも、もとあるよりもととのへて、おほんみづからも、もののしたかた、ゑやうなどをもごらんじいれつつ、すぐれたるみちみちのじゃうずどもをめしあつめて、こまかにみがきととのへさせたまふ。 |
32 | 2.2.5 | 160 | 134 |
草子の筥に入るべき草子どもの、やがて本にもしたまふべきを選らせたまふ。いにしへの上なき際の御手どもの、世に名を残したまへるたぐひのも、いと多くさぶらふ。 |
さうしのはこにいるべきさうしどもの、やがてほんにもしたまふべきをえらせたまふ。いにしへのかみなききはのおほんてどもの、よになをのこしたまへるたぐひのも、いとおほくさぶらふ。 |
32 | 2.3 | 161 | 135 | 第三段 源氏の仮名論議 |
32 | 2.3.1 | 162 | 136 |
「よろづのこと、昔には劣りざまに、浅くなりゆく世の末なれど、仮名のみなむ、今の世はいと際なくなりたる。古き跡は、定まれるやうにはあれど、広き心ゆたかならず、一筋に通ひてなむありける。 |
"よろづのこと、むかしにはおとりざまに、あさくなりゆくよのすゑなれど、かんなのみなん、いまのよはいときはなくなりたる。ふるきあとは、さだまれるやうにはあれど、ひろきこころゆたかならず、ひとすぢにかよひてなんありける。 |
32 | 2.3.2 | 163 | 137 |
妙にをかしきことは、外よりてこそ書き出づる人びとありけれど、女手を心に入れて習ひし盛りに、こともなき手本多く集へたりしなかに、中宮の母御息所の、心にも入れず走り書いたまへりし一行ばかり、わざとならぬを得て、際ことにおぼえしはや。 |
たへにをかしきことは、とよりてこそかきいづるひとびとありけれど、をんなでをこころにいれてならひしさかりに、こともなきてほんおほくつどへたりしなかに、ちゅうぐうのははみやすんどころの、こころにもいれずはしりかいたまへりしひとくだりばかり、わざとならぬをえて、きはことにおぼえしはや。 |
32 | 2.3.3 | 164 | 138 |
さて、あるまじき御名も立てきこえしぞかし。悔しきことに思ひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり。宮にかく後見仕うまつることを、心深うおはせしかば、亡き御影にも見直したまふらむ。 |
さて、あるまじきおほんなもたてきこえしぞかし。くやしきことにおもひしみたまへりしかど、さしもあらざりけり。みやにかくうしろみつかうまつることを、こころふかうおはせしかば、なきおほんかげにもみなほしたまふらん。 |
32 | 2.3.4 | 165 | 139 |
宮の御手は、こまかにをかしげなれど、かどや後れたらむ」 |
みやのおほんては、こまかにをかしげなれど、かどやおくれたらん。" |
32 | 2.3.5 | 166 | 140 |
と、うちささめきて聞こえたまふ。 |
と、うちささめきてきこえたまふ。 |
32 | 2.3.6 | 167 | 141 |
「故入道宮の御手は、いとけしき深うなまめきたる筋はありしかど、弱きところありて、にほひぞすくなかりし。 |
"こにふだうのみやのおほんては、いとけしきふかうなまめきたるすぢはありしかど、よわきところありて、にほひぞすくなかりし。 |
32 | 2.3.7 | 168 | 142 |
院の尚侍こそ、今の世の上手におはすれど、あまりそぼれて癖ぞ添ひためる。さはありとも、かの君と、前斎院と、ここにとこそは、書きたまはめ」 |
ゐんのかんのきみこそ、いまのよのじゃうずにおはすれど、あまりそぼれてくせぞそひためる。さはありとも、かのきみと、さきのさいゐんと、ここにとこそは、かきたまはめ。" |
32 | 2.3.8 | 169 | 143 |
と、聴しきこえたまへば、 |
と、ゆるしきこえたまへば、 |
32 | 2.3.9 | 170 | 144 |
「この数には、まばゆくや」 |
"このかずには、まばゆくや。" |
32 | 2.3.10 | 171 | 145 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
32 | 2.3.11 | 172 | 146 |
「いたうな過ぐしたまひそ。にこやかなる方のなつかしさは、ことなるものを。真名のすすみたるほどに、仮名はしどけなき文字こそ混じるめれ」 |
"いたうなすぐしたまひそ。にこやかなるかたのなつかしさは、ことなるものを。まなのすすみたるほどに、かんなはしどけなきもじこそまじるめれ。" |
32 | 2.3.12 | 173 | 147 |
とて、まだ書かぬ草子ども作り加へて、表紙、紐などいみじうせさせたまふ。 |
とて、まだかかぬさうしどもつくりくはへて、へうし、ひもなどいみじうせさせたまふ。 |
32 | 2.3.13 | 174 | 148 |
「兵部卿宮、左衛門督などにものせむ。みづから一具は書くべし。けしきばみいますがりとも、え書き並べじや」 |
"ひゃうぶきゃうのみや、さゑもんのかみなどにものせん。みづからひとよろひはかくべし。けしきばみいますがりとも、えかきならべじや。" |
32 | 2.3.14 | 175 | 149 |
と、われぼめをしたまふ。 |
と、われぼめをしたまふ。 |
32 | 2.4 | 176 | 150 | 第四段 草子執筆の依頼 |
32 | 2.4.1 | 177 | 151 |
墨、筆、並びなく選り出でて、例の所々に、ただならぬ御消息あれば、人びと、難きことに思して、返さひ申したまふもあれば、まめやかに聞こえたまふ。高麗の紙の薄様だちたるが、せめてなまめかしきを、 |
すみ、ふで、ならびなくえりいでて、れいのところどころに、ただならぬおほんせうそこあれば、ひとびと、かたきことにおぼして、かへさひまうしたまふもあれば、まめやかにきこえたまふ。こまのかみのうすやうだちたるが、せめてなまめかしきを、 |
32 | 2.4.2 | 178 | 152 |
「この、もの好みする若き人びと、試みむ」 |
"この、ものごのみするわかきひとびと、こころみん。" |
32 | 2.4.3 | 179 | 153 |
とて、宰相中将、式部卿宮の兵衛督、内の大殿の頭中将などに、 |
とて、さいしゃうのちゅうじゃう、しきぶきゃうのみやのひゃうゑのかみ、うちのおほいどののとうのちゅうじゃうなどに、 |
32 | 2.4.4 | 180 | 154 |
「葦手、歌絵を、思ひ思ひに書け」 |
"あしで、うたゑを、おもひおもひにかけ。" |
32 | 2.4.5 | 181 | 155 |
とのたまへば、皆心々に挑むべかめり。 |
とのたまへば、みなこころごころにいどむべかめり。 |
32 | 2.4.6 | 182 | 156 |
例の寝殿に離れおはしまして書きたまふ。花ざかり過ぎて、浅緑なる空うららかなるに、古き言どもなど思ひすましたまひて、御心のゆく限り、草のも、ただのも、女手も、いみじう書き尽くしたまふ。 |
れいのしんでんにはなれおはしましてかきたまふ。はなざかりすぎて、あさみどりなるそらうららかなるに、ふるきことどもなどおもひすましたまひて、みこころのゆくかぎり、さうのも、ただのも、をんなでも、いみじうかきつくしたまふ。 |
32 | 2.4.7 | 183 | 158 |
御前に人しげからず、女房二、三人ばかり、墨など擦らせたまひて、ゆゑある古き集の歌など、いかにぞやなど選り出でたまふに、口惜しからぬ限りさぶらふ。 |
おまへにひとしげからず、にょうばうふたり、みたりばかり、すみなどすらせたまひて、ゆゑあるふるきしふのうたなど、いかにぞやなどえりいでたまふに、くちをしからぬかぎりさぶらふ。 |
32 | 2.4.8 | 184 | 159 |
御簾上げわたして、脇息の上に草子うち置き、端近くうち乱れて、筆の尻くはへて、思ひめぐらしたまへるさま、飽く世なくめでたし。白き赤きなど、掲焉なる枚は、筆とり直し、用意したまへるさまさへ、見知らむ人は、げにめでぬべき御ありさまなり。 |
みすあげわたして、けふそくのうへにさうしうちおき、はしちかくうちみだれて、ふでのしりくはへて、おもひめぐらしたまへるさま、あくよなくめでたし。しろきあかきなど、けちえんなるひらは、ふでとりなほし、よういしたまへるさまさへ、みしらんひとは、げにめでぬべきおほんありさまなり。 |
32 | 2.5 | 185 | 160 | 第五段 兵部卿宮、草子を持参 |
32 | 2.5.1 | 186 | 161 |
「兵部卿宮渡りたまふ」と聞こゆれば、おどろきて、御直衣たてまつり、御茵参り添へさせたまひて、やがて待ち取り、入れたてまつりたまふ。この宮もいときよげにて、御階さまよく歩み昇りたまふほど、内にも人びとのぞきて見たてまつる。うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。 |
"ひゃうぶきゃうのみやわたりたまふ。"ときこゆれば、おどろきて、おほんなほしたてまつり、おほんしとねまゐりそへさせたまひて、やがてまちとり、いれたてまつりたまふ。このみやもいときよげにて、みはしさまよくあゆみのぼりたまふほど、うちにもひとびとのぞきてみたてまつる。うちかしこまりて、かたみにうるはしだちたまへるも、いときよらなり。 |
32 | 2.5.2 | 187 | 162 |
「つれづれに籠もりはべるも、苦しきまで思うたまへらるる心ののどけさに、折よく渡らせたまへる」 |
"つれづれにこもりはべるも、くるしきまでおもうたまへらるるこころののどけさに、をりよくわたらせたまへる。" |
32 | 2.5.3 | 188 | 163 |
と、よろこびきこえたまふ。かの御草子待たせて渡りたまへるなりけり。やがて御覧ずれば、すぐれてしもあらぬ御手を、ただかたかどに、いといたう筆澄みたるけしきありて書きなしたまへり。歌も、ことさらめき、そばみたる古言どもを選りて、ただ三行ばかりに、文字少なに好ましくぞ書きたまへる。大臣、御覧じ驚きぬ。 |
と、よろこびきこえたまふ。かのおほんさうしもたせてわたりたまへるなりけり。やがてごらんずれば、すぐれてしもあらぬおほんてを、ただかたかどに、いといたうふですみたるけしきありてかきなしたまへり。うたも、ことさらめき、そばみたるふることどもをえりて、ただみくだりばかりに、もじすくなにこのましくぞかきたまへる。おとど、ごらんじおどろきぬ。 |
32 | 2.5.4 | 189 | 164 |
「かうまでは思ひたまへずこそありつれ。さらに筆投げ捨てつべしや」 |
"かうまではおもひたまへずこそありつれ。さらにふでなげすてつべしや。" |
32 | 2.5.5 | 190 | 165 |
と、ねたがりたまふ。 |
と、ねたがりたまふ。 |
32 | 2.5.6 | 191 | 166 |
「かかる御中に面なくくだす筆のほど、さりともとなむ思うたまふる」 |
"かかるおほんなかにおもなくくだすふでのほど、さりともとなんおもうたまふる。" |
32 | 2.5.7 | 192 | 167 |
など、戯れたまふ。 |
など、たはぶれたまふ。 |
32 | 2.5.8 | 193 | 168 |
書きたまへる草子どもも、隠したまふべきならねば、取う出たまひて、かたみに御覧ず。 |
かきたまへるさうしどもも、かくしたまふべきならねば、とうでたまひて、かたみにごらんず。 |
32 | 2.5.9 | 194 | 169 |
唐の紙の、いとすくみたるに、草書きたまへる、すぐれてめでたしと見たまふに、高麗の紙の、肌こまかに和うなつかしきが、色などははなやかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手の、うるはしう心とどめて書きたまへる、たとふべきかたなし。 |
からのかみの、いとすくみたるに、さうかきたまへる、すぐれてめでたしとみたまふに、こまのかみの、はだこまかになごうなつかしきが、いろなどははなやかならで、なまめきたるに、おほどかなるをんなでの、うるはしうこころとどめてかきたまへる、たとふべきかたなし。 |
32 | 2.5.10 | 195 | 170 |
見たまふ人の涙さへ、水茎に流れ添ふ心地して、飽く世あるまじきに、また、ここの紙屋の色紙の、色あひはなやかなるに、乱れたる草の歌を、筆にまかせて乱れ書きたまへる、見所限りなし。しどろもどろに愛敬づき、見まほしければ、さらに残りどもに目も見やりたまはず。 |
みたまふひとのなみださへ、みづぐきにながれそふここちして、あくよあるまじきに、また、ここのかみゃのしきしの、いろあひはなやかなるに、みだれたるさうのうたを、ふでにまかせてみだれかきたまへる、みどころかぎりなし。しどろもどろにあいぎゃうづき、みまほしければ、さらにのこりどもにめもみやりたまはず。 |
32 | 2.6 | 196 | 171 | 第六段 他の人々持参の草子 |
32 | 2.6.1 | 197 | 172 |
左衛門督は、ことことしうかしこげなる筋をのみ好みて書きたれど、筆の掟て澄まぬ心地して、いたはり加へたるけしきなり。歌なども、ことさらめきて、選り書きたり。 |
さゑもんのかみは、ことことしうかしこげなるすぢをのみこのみてかきたれど、ふでのおきてすまぬここちして、いたはりくはへたるけしきなり。うたなども、ことさらめきて、えりかきたり。 |
32 | 2.6.2 | 198 | 173 |
女の御は、まほにも取り出でたまはず。斎院のなどは、まして取う出たまはざりけり。葦手の草子どもぞ、心々にはかなうをかしき。 |
をんなのおほんは、まほにもとりいでたまはず。さいゐんのなどは、ましてとうでたまはざりけり。あしでのさうしどもぞ、こころごころにはかなうをかしき。 |
32 | 2.6.3 | 199 | 174 |
宰相中将のは、水の勢ひ豊に書きなし、そそけたる葦の生ひざまなど、難波の浦に通ひて、こなたかなたいきまじりて、いたう澄みたるところあり。また、いといかめしう、ひきかへて、文字やう、石などのたたずまひ、好み書きたまへる枚もあめり。 |
さいしゃうのちゅうじゃうのは、みづのいきほひゆたかにかきなし、そそけたるあしのおひざまなど、なにはのうらにかよひて、こなたかなたいきまじりて、いたうすみたるところあり。また、いといかめしう、ひきかへて、もじやう、いしなどのたたずまひ、このみかきたまへるひらもあめり。 |
32 | 2.6.4 | 200 | 175 |
「目も及ばず。これは暇いりぬべきものかな」 |
"めもおよばず。これはいとまいりぬべきものかな。" |
32 | 2.6.5 | 201 | 176 |
と、興じめでたまふ。何事ももの好みし、艶がりおはする親王にて、いといみじうめできこえたまふ。 |
と、きょうじめでたまふ。なにごともものごのみし、えんがりおはするみこにて、いといみじうめできこえたまふ。 |
32 | 2.7 | 202 | 177 | 第七段 古万葉集と古今和歌集 |
32 | 2.7.1 | 203 | 178 |
今日はまた、手のことどものたまひ暮らし、さまざまの継紙の本ども、選り出でさせたまへるついでに、御子の侍従して、宮にさぶらふ本ども取りに遣はす。 |
けふはまた、てのことどものたまひくらし、さまざまのつぎかみのほんども、えりいでさせたまへるついでに、みこのじじゅうして、みやにさぶらふほんどもとりにつかはす。 |
32 | 2.7.2 | 204 | 179 |
嵯峨の帝の、『古万葉集』を選び書かせたまへる四巻、延喜の帝の、『古今和歌集』を、唐の浅縹の紙を継ぎて、同じ色の濃き紋の綺の表紙、同じき玉の軸、緞の唐組の紐など、なまめかしうて、巻ごとに御手の筋を変へつつ、いみじう書き尽くさせたまへる、大殿油短く参りて御覧ずるに、 |
さがのみかどの、〔こまんえふしふ〕をえらびかかせたまへるよまき、えんぎのみかどの、〔こきんわかしふ〕を、からのあさはなだのかみをつぎて、おなじいろのこきもんのきのへうし、おなじきたまのじく、だんのからくみのひもなど、なまめかしうて、まきごとにおほんてのすぢをかへつつ、いみじうかきつくさせたまへる、おほとなぶらみじかくまゐりてごらんずるに、 |
32 | 2.7.3 | 205 | 180 |
「尽きせぬものかな。このころの人は、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ」 |
"つきせぬものかな。このころのひとは、ただかたそばをけしきばむにこそありけれ。" |
32 | 2.7.4 | 206 | 181 |
など、めでたまふ。やがてこれはとどめたてまつりたまふ。 |
など、めでたまふ。やがてこれはとどめたてまつりたまふ。 |
32 | 2.7.5 | 207 | 182 |
「女子などを持てはべらましにだに、をさをさ見はやすまじきには伝ふまじきを、まして、朽ちぬべきを」 |
"をんなごなどをもてはべらましにだに、をさをさみはやすまじきにはつたふまじきを、まして、くちぬべきを。" |
32 | 2.7.6 | 208 | 183 |
など聞こえてたてまつれたまふ。侍従に、唐の本などのいとわざとがましき、沈の筥に入れて、いみじき高麗笛添へて、奉れたまふ。 |
などきこえてたてまつれたまふ。じじゅうに、からのほんなどのいとわざとがましき、ぢんのはこにいれて、いみじきこまぶえそへて、たてまつれたまふ。 |
32 | 2.7.7 | 209 | 184 |
またこのころは、ただ仮名の定めをしたまひて、世の中に手書くとおぼえたる、上中下の人びとにも、さるべきものども思しはからひて、尋ねつつ書かせたまふ。この御筥には、立ち下れるをば混ぜたまはず、わざと、人のほど、品分かせたまひつつ、草子、巻物、皆書かせたてまつりたまふ。 |
またこのころは、ただかんなのさだめをしたまひて、よのなかにてかくとおぼえたる、かみなかしものひとびとにも、さるべきものどもおぼしはからひて、たづねつつかかせたまふ。このおほんはこには、たちくだれるをばまぜたまはず、わざと、ひとのほど、しなわかせたまひつつ、さうし、まきもの、みなかかせたてまつりたまふ。 |
32 | 2.7.8 | 210 | 185 |
よろづにめづらかなる御宝物ども、人の朝廷までありがたげなる中に、この本どもなむ、ゆかしと心動きたまふ若人、世に多かりける。御絵どもととのへさせたまふ中に、かの『須磨の日記』は、末にも伝へ知らせむと思せど、「今すこし世をも思し知りなむに」と思し返して、まだ取り出でたまはず。 |
よろづにめづらかなるおほんたからものども、ひとのみかどまでありがたげなるなかに、このほんどもなん、ゆかしとこころうごきたまふわかうど、よにおほかりける。おほんゑどもととのへさせたまふなかに、かの'すまのにき'は、すゑにもつたへしらせんとおぼせど、"いますこしよをもおぼししりなんに。"とおぼしかへして、まだとりいでたまはず。 |
32 | 3 | 211 | 186 | 第三章 内大臣家の物語 夕霧と雲居雁の物語 |
32 | 3.1 | 212 | 187 | 第一段 内大臣家の近況 |
32 | 3.1.1 | 213 | 188 |
内の大臣は、この御いそぎを、人の上にて聞きたまふも、いみじう心もとなく、さうざうしと思す。姫君の御ありさま、盛りにととのひて、あたらしううつくしげなり。つれづれとうちしめりたまへるほど、いみじき御嘆きぐさなるに、かの人の御けしき、はた、同じやうになだらかなれば、「心弱く進み寄らむも、人笑はれに、人のねむごろなりしきざみに、なびきなましかば」など、人知れず思し嘆きて、一方に罪をもおほせたまはず。 |
うちのおとどは、このおほんいそぎを、ひとのうへにてききたまふも、いみじうこころもとなく、さうざうしとおぼす。ひめぎみのおほんありさま、さかりにととのひて、あたらしううつくしげなり。つれづれとうちしめりたまへるほど、いみじきおほんなげきぐさなるに、かのひとのみけしき、はた、おなじやうになだらかなれば、"こころよわくすすみよらんも、ひとわらはれに、ひとのねんごろなりしきざみに、なびきなましかば。"など、ひとしれずおぼしなげきて、ひとかたにつみをもおほせたまはず。 |
32 | 3.1.2 | 214 | 189 |
かくすこしたわみたまへる御けしきを、宰相の君は聞きたまへど、しばしつらかりし御心を憂しと思へば、つれなくもてなし、しづめて、さすがに他ざまの心はつくべくもおぼえず、心づから戯れにくき折多かれど、「浅緑」聞こえごちし御乳母どもに、納言に昇りて見えむの御心深かるべし。 |
かくすこしたわみたまへるみけしきを、さいしゃうのきみはききたまへど、しばしつらかりしみこころをうしとおもへば、つれなくもてなし、しづめて、さすがにほかざまのこころはつくべくもおぼえず、こころづからたはぶれにくきをりおほかれど、"あさみどり。"きこえごちしおほんめのとどもに、なふごんにのぼりてみえんのみこころふかかるべし。 |
32 | 3.2 | 215 | 190 | 第二段 源氏、夕霧に結婚の教訓 |
32 | 3.2.1 | 216 | 191 |
大臣は、「あやしう浮きたるさまかな」と、思し悩みて、 |
おとどは、"あやしううきたるさまかな。"と、おぼしなやみて、 |
32 | 3.2.2 | 217 | 192 |
「かのわたりのこと、思ひ絶えにたらば、右大臣、中務宮などの、けしきばみ言はせたまふめるを、いづくも思ひ定められよ」 |
"かのわたりのこと、おもひたえにたらば、みぎのおとど、なかつかさのみやなどの、けしきばみいはせたまふめるを、いづくもおもひさだめられよ。" |
32 | 3.2.3 | 218 | 193 |
とのたまへど、ものも聞こえたまはず、かしこまりたる御さまにてさぶらひたまふ。 |
とのたまへど、ものもきこえたまはず、かしこまりたるおほんさまにてさぶらひたまふ。 |
32 | 3.2.4 | 219 | 194 |
「かやうのことは、かしこき御教へにだに従ふべくもおぼえざりしかば、言まぜま憂けれど、今思ひあはするには、かの御教へこそ、長き例にはありけれ。 |
"かやうのことは、かしこきおほんをしへにだにしたがふべくもおぼえざりしかば、ことまぜまうけれど、いまおもひあはするには、かのおほんをしへこそ、ながきためしにはありけれ。 |
32 | 3.2.5 | 220 | 195 |
つれづれとものすれば、思ふところあるにやと、世人も推し量るらむを、宿世の引く方にて、なほなほしきことにありありてなびく、いと尻びに、人悪ろきことぞや。 |
つれづれとものすれば、おもふところあるにやと、よひともおしはかるらんを、すくせのひくかたにて、なほなほしきことにありありてなびく、いとしりびに、ひとわろきことぞや。 |
32 | 3.2.6 | 221 | 196 |
いみじう思ひのぼれど、心にしもかなはず、限りのあるものから、好き好きしき心つかはるな。いはけなくより、宮の内に生ひ出でて、身を心にまかせず、所狭く、いささかの事のあやまりもあらば、軽々しきそしりをや負はむと、つつみしだに、なほ好き好きしき咎を負ひて、世にはしたなめられき。 |
いみじうおもひのぼれど、こころにしもかなはず、かぎりのあるものから、すきずきしきこころつかはるな。いはけなくより、みやのうちにおひいでて、みをこころにまかせず、ところせく、いささかのことのあやまりもあらば、かろがろしきそしりをやおはんと、つつみしだに、なほすきずきしきとがをおひて、よにはしたなめられき。 |
32 | 3.2.7 | 222 | 197 |
位浅く、何となき身のほど、うちとけ、心のままなる振る舞ひなどものせらるな。心おのづからおごりぬれば、思ひしづむべきくさはひなき時、女のことにてなむ、かしこき人、昔も乱るる例ありける。 |
くらゐあさく、なにとなきみのほど、うちとけ、こころのままなるふるまひなどものせらるな。こころおのづからおごりぬれば、おもひしづむべきくさはひなきとき、をんなのことにてなん、かしこきひと、むかしもみだるるためしありける。 |
32 | 3.2.8 | 223 | 198 |
さるまじきことに心をつけて、人の名をも立て、みづからも恨みを負ふなむ、つひのほだしとなりける。とりあやまりつつ見む人の、わが心にかなはず、忍ばむこと難き節ありとも、なほ思ひ返さむ心をならひて、もしは親の心にゆづり、もしは親なくて世の中かたほにありとも、人柄心苦しうなどあらむ人をば、それを片かどに寄せても見たまへ。わがため、人のため、つひによかるべき心ぞ深うあるべき」 |
さるまじきことにこころをつけて、ひとのなをもたて、みづからもうらみをおふなん、つひのほだしとなりける。とりあやまりつつみんひとの、わがこころにかなはず、しのばんことかたきふしありとも、なほおもひかへさんこころをならひて、もしはおやのこころにゆづり、もしはおやなくてよのなかかたほにありとも、ひとがらこころぐるしうなどあらんひとをば、それをかたかどによせてもみたまへ。わがため、ひとのため、つひによかるべきこころぞふかうあるべき。" |
32 | 3.2.9 | 224 | 199 |
など、のどやかにつれづれなる折は、かかる御心づかひをのみ教へたまふ。 |
など、のどやかにつれづれなるをりは、かかるみこころづかひをのみをしへたまふ。 |
32 | 3.3 | 225 | 200 | 第三段 夕霧と雲居の雁の仲 |
32 | 3.3.1 | 226 | 201 |
かやうなる御諌めにつきて、戯れにても他ざまの心を思ひかかるは、あはれに、人やりならずおぼえたまふ。女も、常よりことに、大臣の思ひ嘆きたまへる御けしきに、恥づかしう、憂き身と思し沈めど、上はつれなくおほどかにて、眺め過ぐしたまふ。 |
かやうなるおほんいさめにつきて、たわぶれにてもほかざまのこころをおもひかかるは、あはれに、ひとやりならずおぼえたまふ。をんなも、つねよりことに、おとどのおもひなげきたまへるおほんけしきに、はづかしう、うきみとおぼししづめど、うへはつれなくおほどかにて、ながめすぐしたまふ。 |
32 | 3.3.2 | 227 | 202 |
御文は、思ひあまりたまふ折々、あはれに心深きさまに聞こえたまふ。「誰がまことをか」と思ひながら、世馴れたる人こそ、あながちに人の心をも疑ふなれ、あはれと見たまふふし多かり。 |
おほんふみは、おもひあまりたまふをりをり、あはれにこころふかきさまにきこえたまふ。"たがまことをか。"とおもひながら、よなれたるひとこそ、あながちにひとのこころをもうたがふなれ、あはれとみたまふふしおほかり。 |
32 | 3.3.3 | 228 | 203 |
「中務宮なむ、大殿にも御けしき賜はりて、さもやと、思し交はしたなる」 |
"なかつかさのみやなん、おほとのにもみけしきたまはりて、さもやと、おぼしかはしたなる。" |
32 | 3.3.4 | 229 | 204 |
と人の聞こえければ、大臣は、ひき返し御胸ふたがるべし。忍びて、 |
とひとのきこえければ、おとどは、ひきかへしおほんむねふたがるべし。しのびて、 |
32 | 3.3.5 | 230 | 205 |
「さることをこそ聞きしか。情けなき人の御心にもありけるかな。大臣の、口入れたまひしに、執念かりきとて、引き違へたまふなるべし。心弱くなびきても、人笑へならましこと」 |
"さることをこそききしか。なさけなきひとのみこころにもありけるかな。おとどの、くちいれたまひしに、しふねかりきとて、ひきたがへたまふなるべし。こころよわくなびきても、ひとわらへならましこと。" |
32 | 3.3.6 | 231 | 206 |
など、涙を浮けてのたまへば、姫君、いと恥づかしきにも、そこはかとなく涙のこぼるれば、はしたなくて背きたまへる、らうたげさ限りなし。 |
など、なみだをうけてのたまへば、ひめぎみ、いとはづかしきにも、そこはかとなくなみだのこぼるれば、はしたなくてそむきたまへる、らうたげさかぎりなし。 |
32 | 3.3.7 | 232 | 207 |
「いかにせまし。なほや進み出でて、けしきをとらまし」 |
"いかにせまし。なほやすすみいでて、けしきをとらまし。" |
32 | 3.3.8 | 233 | 208 |
など、思し乱れて立ちたまひぬる名残も、やがて端近う眺めたまふ。 |
など、おぼしみだれてたちたまひぬるなごりも、やがてはしちかうながめたまふ。 |
32 | 3.3.9 | 234 | 209 |
「あやしく、心おくれても進み出でつる涙かな。いかに思しつらむ」 |
"あやしく、こころおくれてもすすみいでつるなみだかな。いかにおぼしつらん。" |
32 | 3.3.10 | 235 | 210 |
など、よろづに思ひゐたまへるほどに、御文あり。さすがにぞ見たまふ。こまやかにて、 |
など、よろづにおもひゐたまへるほどに、おほんふみあり。さすがにぞみたまふ。こまやかにて、 |
32 | 3.3.11 | 236 | 211 |
「つれなさは憂き世の常になりゆくを<BR/>忘れぬ人や人にことなる」 |
"〔つれなさはうきよのつねになりゆくを<BR/>わすれぬひとやひとにことなる〕 |
32 | 3.3.12 | 237 | 212 |
とあり。「けしきばかりもかすめぬ、つれなさよ」と、思ひ続けたまふは憂けれど、 |
とあり。"けしきばかりもかすめぬ、つれなさよ。"と、おもひつづけたまふはうけれど、 |
32 | 3.3.13 | 238 | 213 |
「限りとて忘れがたきを忘るるも<BR/>こや世になびく心なるらむ」 |
"〔かぎりとてわすれがたきをわするるも<BR/>こやよになびくこころなるらん〕 |
32 | 3.3.14 | 239 | 214 |
とあるを、「あやし」と、うち置かれず、傾きつつ見ゐたまへり。 |
とあるを、"あやし。"と、うちおかれず、かたぶきつつみゐたまへり。 |