帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
34 | 若菜上 |
34 | 1 | 192 | 153 | 第一章 朱雀院の物語 女三の宮の婿選び |
34 | 1.1 | 193 | 154 | 第一段 朱雀院、女三の宮の将来を案じる |
34 | 1.1.1 | 194 | 155 |
朱雀院の帝、ありし御幸ののち、そのころほひより、例ならず悩みわたらせたまふ。もとよりあつしくおはしますうちに、このたびはもの心細く思し召されて、 |
すじゃくゐんのみかど、ありしみゆきののち、そのころほひより、れいならずなやみわたらせたまふ。もとよりあつしくおはしますうちに、このたびはものこころぼそくおぼしめされて、 |
34 | 1.1.2 | 195 | 156 |
「年ごろ行なひの本意深きを、后の宮おはしましつるほどは、よろづ憚りきこえさせたまひて、今まで思しとどこほりつるを、なほその方にもよほすにやあらむ、世に久しかるまじき心地なむする」 |
"としごろおこなひのほいふかきを、きさいのみやおはしましつるほどは、よろづはばかりきこえさせたまひて、いままでおぼしとどこほりつるを、なほそのかたにもよほすにやあらん、よにひさしかるまじきここちなんする。" |
34 | 1.1.3 | 196 | 157 |
などのたまはせて、さるべき御心まうけどもせさせたまふ。 |
などのたまはせて、さるべきみこころまうけどもせさせたまふ。 |
34 | 1.1.4 | 197 | 158 |
御子たちは、春宮をおきたてまつりて、女宮たちなむ四所おはしましける。その中に、藤壺と聞こえしは、先帝の源氏にぞおはしましける。 |
みこたちは、とうぐうをおきたてまつりて、をんなみやたちなんよところおはしましける。そのなかに、ふぢつぼときこえしは、せんだいのげんじにぞおはしましける。 |
34 | 1.1.5 | 198 | 159 |
まだ坊と聞こえさせし時参りたまひて、高き位にも定まりたまべかりし人の、取り立てたる御後見もおはせず、母方もその筋となく、ものはかなき更衣腹にてものしたまひければ、御交じらひのほども心細げにて、大后の、尚侍を参らせたてまつりたまひて、かたはらに並ぶ人なくもてなしきこえたまひなどせしほどに、気圧されて、帝も御心のうちに、いとほしきものには思ひきこえさせたまひながら、下りさせたまひにしかば、かひなく口惜しくて、世の中を恨みたるやうにて亡せたまひにし。 |
まだばうときこえさせしときまゐりたまひて、たかきくらゐにもさだまりたまべかりしひとの、とりたてたるおほんうしろみもおはせず、ははかたもそのすぢとなく、ものはかなきかういばらにてものしたまひければ、おほんまじらひのほどもこころぼそげにて、おほきさきの、ないしのかみをまゐらせたてまつりたまひて、かたはらにならぶひとなくもてなしきこえたまひなどせしほどに、けおされて、みかどもみこころのうちに、いとほしきものにはおもひきこえさせたまひながら、おりさせたまひにしかば、かひなくくちをしくて、よのなかをうらみたるやうにてうせたまひにし。 |
34 | 1.1.6 | 199 | 160 |
その御腹の女三の宮を、あまたの御中に、すぐれてかなしきものに思ひかしづききこえたまふ。 |
そのおほんはらのをんなさんのみやを、あまたのおほんなかに、すぐれてかなしきものにおもひかしづききこえたまふ。 |
34 | 1.1.7 | 200 | 161 |
そのほど、御年、十三、四ばかりおはす。 |
そのほど、おほんとし、じふさん、しばかりおはす。 |
34 | 1.1.8 | 201 | 162 |
「今はと背き捨て、山籠もりしなむ後の世にたちとまりて、誰を頼む蔭にてものしたまはむとすらむ」 |
"いまはとそむきすて、やまごもりしなんのちのよにたちとまりて、たれをたのむかげにてものしたまはんとすらん。" |
34 | 1.1.9 | 202 | 163 |
と、ただこの御ことをうしろめたく思し嘆く。 |
と、ただこのおほんことをうしろめたくおぼしなげく。 |
34 | 1.1.10 | 203 | 164 |
西山なる御寺造り果てて、移ろはせたまはむほどの御いそぎをせさせたまふに添へて、またこの宮の御裳着のことを思しいそがせたまふ。 |
にしやまなるみてらつくりはてて、うつろはせたまはんほどのおほんいそぎをせさせたまふにそへて、またこのみやのおほんもぎのことをおぼしいそがせたまふ。 |
34 | 1.1.11 | 204 | 165 |
院のうちにやむごとなく思す御宝物、御調度どもをばさらにもいはず、はかなき御遊びものまで、すこしゆゑある限りをば、ただこの御方に取りわたしたてまつらせたまひて、その次々をなむ、異御子たちには、御処分どもありける。 |
ゐんのうちにやんごとなくおぼすおほんたからもの、みてうどどもをばさらにもいはず、はかなきおほんあそびものまで、すこしゆゑあるかぎりをば、ただこのおほんかたにとりわたしたてまつらせたまひて、そのつぎつぎをなん、ことみこたちには、おほんそうぶんどもありける。 |
34 | 1.2 | 205 | 166 | 第二段 東宮、父朱雀院を見舞う |
34 | 1.2.1 | 206 | 167 |
春宮は、「かかる御悩みに添へて、世を背かせたまふべき御心づかひになむ」と聞かせたまひて、渡らせたまへり。母女御、添ひきこえさせたまひて参りたまへり。すぐれたる御おぼえにしもあらざりしかど、宮のかくておはします御宿世の、限りなくめでたければ、年ごろの御物語、こまやかに聞こえさせたまひけり。 |
とうぐうは、"かかるおほんなやみにそへて、よをそむかせたまふべきみこころづかひになん。"ときかせたまひて、わたらせたまへり。ははにょうご、そひきこえさせたまひてまゐりたまへり。すぐれたるおほんおぼえにしもあらざりしかど、みやのかくておはしますおほんすくせの、かぎりなくめでたければ、としごろのおほんものがたり、こまやかにきこえさせたまひけり。 |
34 | 1.2.2 | 207 | 168 |
宮にも、よろづのこと、世をたもちたまはむ御心づかひなど、聞こえ知らせたまふ。御年のほどよりはいとよく大人びさせたまひて、御後見どもも、こなたかなた、軽々しからぬ仲らひにものしたまへば、いとうしろやすく思ひきこえさせたまふ。 |
みやにも、よろづのこと、よをたもちたまはんみこころづかひなど、きこえしらせたまふ。おほんとしのほどよりはいとよくおとなびさせたまひて、おほんうしろみどもも、こなたかなた、かろがろしからぬなからひにものしたまへば、いとうしろやすくおもひきこえさせたまふ。 |
34 | 1.2.3 | 208 | 169 |
「この世に恨み残ることもはべらず。女宮たちのあまた残りとどまる行く先を思ひやるなむ、さらぬ別れにもほだしなりぬべかりける。さきざき、人の上に見聞きしにも、女は心よりほかに、あはあはしく、人におとしめらるる宿世あるなむ、いと口惜しく悲しき。 |
"このよにうらみのこることもはべらず。をんなみやたちのあまたのこりとどまるゆくさきをおもひやるなん、さらぬわかれにもほだしなりぬべかりける。さきざき、ひとのうへにみききしにも、をんなはこころよりほかに、あはあはしく、ひとにおとしめらるるすくせあるなん、いとくちをしくかなしき。 |
34 | 1.2.4 | 209 | 170 |
いづれをも、思ふやうならむ御世には、さまざまにつけて、御心とどめて思し尋ねよ。その中に、後見などあるは、さる方にも思ひ譲りはべり。 |
いづれをも、おもふやうならんみよには、さまざまにつけて、みこころとどめておぼしたづねよ。そのなかに、うしろみなどあるは、さるかたにもおもひゆづりはべり。 |
34 | 1.2.5 | 210 | 171 |
三の宮なむ、いはけなき齢にて、ただ一人を頼もしきものとならひて、うち捨ててむ後の世に、ただよひさすらへむこと、いといとうしろめたく悲しくはべる」 |
さんのみやなん、いはけなきよはひにて、ただひとりをたのもしきものとならひて、うちすててんのちのよに、ただよひさすらへんこと、いといとうしろめたくかなしくはべる。" |
34 | 1.2.6 | 211 | 172 |
と、御目おし拭ひつつ、聞こえ知らせさせたまふ。 |
と、おほんめおしのごひつつ、きこえしらせさせたまふ。 |
34 | 1.2.7 | 212 | 173 |
女御にも、うつくしきさまに聞こえつけさせたまふ。されど、女御の、人よりはまさりて時めきたまひしに、皆挑み交はしたまひしほど、御仲らひども、えうるはしからざりしかば、その名残にて、「げに、今はわざと憎しなどはなくとも、まことに心とどめて思ひ後見むとまでは思さずもや」とぞ推し量らるるかし。 |
にょうごにも、うつくしきさまにきこえつけさせたまふ。されど、にょうごの、ひとよりはまさりてときめきたまひしに、みないどみかはしたまひしほど、おほんなからひども、えうるはしからざりしかば、そのなごりにて、"げに、いまはわざとにくしなどはなくとも、まことにこころとどめておもひうしろみんとまではおぼさずもや。"とぞおしはからるるかし。 |
34 | 1.2.8 | 213 | 174 |
朝夕に、この御ことを思し嘆く。年暮れゆくままに、御悩みまことに重くなりまさらせたまひて、御簾の外にも出でさせたまはず。御もののけにて、時々悩ませたまふこともありつれど、いとかくうちはへをやみなきさまにはおはしまさざりつるを、「このたびは、なほ、限りなり」と思し召したり。 |
あさゆふに、このおほんことをおぼしなげく。としくれゆくままに、おほんなやみまことにおもくなりまさらせたまひて、みすのとにもいでさせたまはず。おほんもののけにて、ときどきなやませたまふこともありつれど、いとかくうちはへをやみなきさまにはおはしまさざりつるを、"このたびは、なほ、かぎりなり。"とおぼしめしたり。 |
34 | 1.2.9 | 214 | 175 |
御位を去らせたまひつれど、なほその世に頼みそめたてまつりたまへる人びとは、今もなつかしくめでたき御ありさまを、心やりどころに参り仕うまつりたまふ限りは、心を尽くして惜しみきこえたまふ。 |
おほんくらゐをさらせたまひつれど、なほそのよにたのみそめたてまつりたまへるひとびとは、いまもなつかしくめでたきおほんありさまを、こころやりどころにまゐりつかうまつりたまふかぎりは、こころをつくしてをしみきこえたまふ。 |
34 | 1.3 | 215 | 176 | 第三段 源氏の使者夕霧、朱雀院を見舞う |
34 | 1.3.1 | 216 | 177 |
六条院よりも、御訪らひしばしばあり。みづからも参りたまふべきよし、聞こし召して、院はいといたく喜びきこえさせたまふ。 |
ろくでうのゐんよりも、おほんとぶらひしばしばあり。みづからもまゐりたまふべきよし、きこしめして、ゐんはいといたくよろこびきこえさせたまふ。 |
34 | 1.3.2 | 217 | 178 |
中納言の君参りたまへるを、御簾の内に召し入れて、御物語こまやかなり。 |
ちゅうなごんのきみまゐりたまへるを、みすのうちにめしいれて、おほんものがたりこまやかなり。 |
34 | 1.3.3 | 218 | 179 |
「故院の上の、今はのきざみに、あまたの御遺言ありし中に、この院の御こと、今の内裏の御ことなむ、取り分きてのたまひ置きしを、公けとなりて、こと限りありければ、うちうちの御心寄せは、変らずながら、はかなきことのあやまりに、心おかれたてまつることもありけむと思ふを、年ごろことに触れて、その恨み残したまへるけしきをなむ漏らしたまはぬ。 |
"こゐんのうへの、いまはのきざみに、あまたのごゆいごんありしなかに、このゐんのおほんこと、いまのうちのおほんことなん、とりわきてのたまひおきしを、おほやけとなりて、ことかぎりありければ、うちうちのみこころよせは、かはらずながら、はかなきことのあやまりに、こころおかれたてまつることもありけんとおもふを、としごろことにふれて、そのうらみのこしたまへるけしきをなんもらしたまはぬ。 |
34 | 1.3.4 | 219 | 180 |
賢しき人といへど、身の上になりぬれば、こと違ひて、心動き、かならずその報い見え、ゆがめることなむ、いにしへだに多かりける。 |
さかしきひとといへど、みのうへになりぬれば、ことたがひて、こころうごき、かならずそのむくいみえ、ゆがめることなん、いにしへだにおほかりける。 |
34 | 1.3.5 | 220 | 181 |
いかならむ折にか、その御心ばへほころぶべからむと、世の人もおもむけ疑ひけるを、つひに忍び過ぐしたまひて、春宮などにも心を寄せきこえたまふ。今はた、またなく親しかるべき仲となり、睦び交はしたまへるも、限りなく心には思ひながら、本性の愚かなるに添へて、子の道の闇にたち交じり、かたくななるさまにやとて、なかなかよそのことに聞こえ放ちたるさまにてはべる。 |
いかならんをりにか、そのみこころばへほころぶべからんと、よのひともおもむけうたがひけるを、つひにしのびすぐしたまひて、とうぐうなどにもこころをよせきこえたまふ。いまはた、またなくしたしかるべきなかとなり、むつびかはしたまへるも、かぎりなくこころにはおもひながら、ほんじゃうのおろかなるにそへて、このみちのやみにたちまじり、かたくななるさまにやとて、なかなかよそのことにきこえはなちたるさまにてはべる。 |
34 | 1.3.6 | 221 | 182 |
内裏の御ことは、かの御遺言違へず仕うまつりおきてしかば、かく末の世の明らけき君として、来しかたの御面をも起こしたまふ。本意のごと、いとうれしくなむ。 |
うちのおほんことは、かのごゆいごんたがへずつかうまつりおきてしかば、かくすゑのよのあきらけききみとして、きしかたのおほんおもてをもおこしたまふ。ほいのごと、いとうれしくなん。 |
34 | 1.3.7 | 222 | 183 |
この秋の行幸の後、いにしへのこととり添へて、ゆかしくおぼつかなくなむおぼえたまふ。対面に聞こゆべきことどもはべり。かならずみづから訪らひものしたまふべきよし、もよほし申したまへ」 |
このあきのぎゃうがうののち、いにしへのこととりそへて、ゆかしくおぼつかなくなんおぼえたまふ。たいめんにきこゆべきことどもはべり。かならずみづからとぶらひものしたまふべきよし、もよほしまうしたまへ。" |
34 | 1.3.8 | 223 | 184 |
など、うちしほたれつつのたまはす。 |
など、うちしほたれつつのたまはす。 |
34 | 1.4 | 224 | 185 | 第四段 夕霧、源氏の言葉を言上す |
34 | 1.4.1 | 225 | 187 |
中納言の君、 |
ちゅうなごんのきみ、 |
34 | 1.4.2 | 226 | 188 |
「過ぎはべりにけむ方は、ともかくも思うたまへ分きがたくはべり。年まかり入りはべりて、朝廷にも仕うまつりはべるあひだ、世の中のことを見たまへまかりありくほどには、大小のことにつけても、うちうちのさるべき物語などのついでにも、『いにしへのうれはしきことありてなむ』など、うちかすめ申さるる折ははべらずなむ。 |
"すぎはべりにけんかたは、ともかくもおもうたまへわきがたくはべり。としまかりいりはべりて、おほやけにもつかうまつりはべるあひだ、よのなかのことをみたまへまかりありくほどには、だいせうのことにつけても、うちうちのさるべきものがたりなどのついでにも、'いにしへのうれはしきことありてなん。'など、うちかすめまうさるるをりははべらずなん。 |
34 | 1.4.3 | 227 | 189 |
『かく朝廷の御後見を仕うまつりさして、静かなる思ひをかなへむと、ひとへに籠もりゐし後は、何ごとをも、知らぬやうにて、故院の御遺言のごともえ仕うまつらず、御位におはしましし世には、齢のほども、身のうつはものも及ばず、かしこき上の人びと多くて、その心ざしを遂げて御覧ぜらるることもなかりき。今、かく政事を去りて、静かにおはしますころほひ、心のうちをも隔てなく、参りうけたまはらまほしきを、さすがに何となく所狭き身のよそほひにて、おのづから月日を過ぐすこと』 |
'かくおほやけのおほんうしろみをつかうまつりさして、しづかなるおもひをかなへんと、ひとへにこもりゐしのちは、なにごとをも、しらぬやうにて、こゐんのごゆいごんのごともえつかうまつらず、みくらゐにおはしまししよには、よはひのほども、みのうつはものもおよばず、かしこきかみのひとびとおほくて、そのこころざしをとげてごらんぜらるることもなかりき。いま、かくまつりごとをさりて、しづかにおはしますころほひ、こころのうちをもへだてなく、まゐりうけたまはらまほしきを、さすがになにとなくところせきみのよそほひにて、おのづからつきひをすぐすこと。' |
34 | 1.4.4 | 228 | 190 |
となむ、折々嘆き申したまふ」 |
となん、をりをりなげきまうしたまふ。" |
34 | 1.4.5 | 229 | 191 |
など、奏したまふ。 |
など、そうしたまふ。 |
34 | 1.4.6 | 230 | 192 |
二十にもまだわづかなるほどなれど、いとよくととのひ過ぐして、容貌も盛りに匂ひて、いみじくきよらなるを、御目にとどめてうちまもらせたまひつつ、このもてわづらはせたまふ姫宮の御後見に、これをやなど、人知れず思し寄りけり。 |
はたちにもまだわづかなるほどなれど、いとよくととのひすぐして、かたちもさかりににほひて、いみじくきよらなるを、おほんめにとどめてうちまもらせたまひつつ、このもてわづらはせたまふひめみやのおほんうしろみに、これをやなど、ひとしれずおぼしよりけり。 |
34 | 1.4.7 | 231 | 193 |
「太政大臣のわたりに、今は住みつかれにたりとな。年ごろ心得ぬさまに聞きしが、いとほしかりしを、耳やすきものから、さすがにねたく思ふことこそあれ」 |
"おほきおとどのわたりに、いまはすみつかれにたりとな。としごろこころえぬさまにききしが、いとほしかりしを、みみやすきものから、さすがにねたくおもふことこそあれ。" |
34 | 1.4.8 | 232 | 194 |
とのたまはする御けしきを、「いかにのたまはするにか」と、あやしく思ひめぐらすに、「この姫宮をかく思し扱ひて、さるべき人あらば、預けて、心やすく世をも思ひ離ればや、となむ思しのたまはする」と、おのづから漏り聞きたまふ便りありければ、「さやうの筋にや」とは思ひぬれど、ふと心得顔にも、何かはいらへきこえさせむ。ただ、 |
とのたまはするおほんけしきを、"いかにのたまはするにか。"と、あやしくおもひめぐらすに、"このひめみやをかくおぼしあつかひて、さるべきひとあらば、あづけて、こころやすくよをもおもひはなればや、となんおぼしのたまはする。"と、おのづからもりききたまふたよりありければ、"さやうのすぢにや。"とはおもひぬれど、ふとこころえがほにも、なにかはいらへきこえさせん。ただ、 |
34 | 1.4.9 | 233 | 195 |
「はかばかしくもはべらぬ身には、寄るべもさぶらひがたくのみなむ」 |
"はかばかしくもはべらぬみには、よるべもさぶらひがたくのみなん。" |
34 | 1.4.10 | 234 | 196 |
とばかり奏して止みぬ。 |
とばかりそうしてやみぬ。 |
34 | 1.5 | 235 | 197 | 第五段 朱雀院の夕霧評 |
34 | 1.5.1 | 236 | 198 |
女房などは、覗きて見きこえて、 |
にょうばうなどは、のぞきてみきこえて、 |
34 | 1.5.2 | 237 | 199 |
「いとありがたくも見えたまふ容貌、用意かな」 |
"いとありがたくもみえたまふかたち、よういかな。" |
34 | 1.5.3 | 238 | 200 |
「あな、めでた」 |
"あな、めでた。" |
34 | 1.5.4 | 239 | 201 |
など、集りて聞こゆるを、老いしらへるは、 |
など、あつまりてきこゆるを、おいしらへるは、 |
34 | 1.5.5 | 240 | 202 |
「いで、さりとも、かの院のかばかりにおはせし御ありさまには、えなずらひきこえたまはざめり。いと目もあやにこそきよらにものしたまひしか」 |
"いで、さりとも、かのゐんのかばかりにおはせしおほんありさまには、えなずらひきこえたまはざめり。いとめもあやにこそきよらにものしたまひしか。" |
34 | 1.5.6 | 241 | 203 |
など、言ひしろふを聞こしめして、 |
など、いひしろふをきこしめして、 |
34 | 1.5.7 | 242 | 204 |
「まことに、かれはいとさま異なりし人ぞかし。今はまた、その世にもねびまさりて、光るとはこれを言ふべきにやと見ゆる匂ひなむ、いとど加はりにたる。うるはしだちて、はかばかしき方に見れば、いつくしくあざやかに、目も及ばぬ心地するを、また、うちとけて、戯れごとをも言ひ乱れ遊べば、その方につけては、似るものなく愛敬づき、なつかしくうつくしきことの、並びなきこそ、世にありがたけれ。何ごとにも前の世推し量られて、めづらかなる人のありさまなり。 |
"まことに、かれはいとさまことなりしひとぞかし。いまはまた、そのよにもねびまさりて、ひかるとはこれをいふべきにやとみゆるにほひなん、いとどくははりにたる。うるはしだちて、はかばかしきかたにみれば、いつくしくあざやかに、めもおよばぬここちするを、また、うちとけて、たはぶれごとをもいひみだれあそべば、そのかたにつけては、にるものなくあいぎゃうづき、なつかしくうつくしきことの、ならびなきこそ、よにありがたけれ。なにごとにもさきのよおしはかられて、めづらかなるひとのありさまなり。 |
34 | 1.5.8 | 243 | 205 |
宮の内に生ひ出でて、帝王の限りなくかなしきものにしたまひ、さばかり撫でかしづき、身に変へて思したりしかど、心のままにも驕らず、卑下して、二十がうちには、納言にもならずなりにきかし。一つ余りてや、宰相にて大将かけたまへりけむ。 |
みやのうちにおひいでて、ていわうのかぎりなくかなしきものにしたまひ、さばかりなでかしづき、みにかへておぼしたりしかど、こころのままにもおごらず、ひげして、はたちがうちには、なふごんにもならずなりにきかし。ひとつあまりてや、さいしゃうにてだいしゃうかけたまへりけん。 |
34 | 1.5.9 | 244 | 206 |
それに、これはいとこよなく進みにためるは、次々の子の世のおぼえのまさるなめりかし。まことに賢き方の才、心もちゐなどは、これもをさをさ劣るまじく、あやまりても、およすけまさりたるおぼえ、いと異なめり」 |
それに、これはいとこよなくすすみにためるは、つぎつぎのこのよのおぼえのまさるなめりかし。まことにかしこきかたのざえ、こころもちゐなどは、これもをさをさおとるまじく、あやまりても、およすけまさりたるおぼえ、いとことなめり。" |
34 | 1.5.10 | 245 | 207 |
など、めでさせたまふ。 |
など、めでさせたまふ。 |
34 | 1.6 | 246 | 208 | 第六段 女三の宮の乳母、源氏を推薦 |
34 | 1.6.1 | 247 | 209 |
姫宮のいとうつくしげにて、若く何心なき御ありさまなるを見たてまつりたまふにも、 |
ひめみやのいとうつくしげにて、わかくなにごころなきおほんありさまなるをみたてまつりたまふにも、 |
34 | 1.6.2 | 248 | 210 |
「見はやしたてまつり、かつはまた、片生ひならむことをば、見隠し教へきこえつべからむ人の、うしろやすからむに預けきこえばや」 |
"みはやしたてまつり、かつはまた、かたおひならんことをば、みかくしをしへきこえつべからんひとの、うしろやすからんにあづけきこえばや。" |
34 | 1.6.3 | 249 | 211 |
など聞こえたまふ。 |
などきこえたまふ。 |
34 | 1.6.4 | 250 | 212 |
大人しき御乳母ども召し出でて、御裳着のほどのことなどのたまはするついでに、 |
おとなしきおほんめのとどもめしいでて、おほんもぎのほどのことなどのたまはするついでに、 |
34 | 1.6.5 | 251 | 213 |
「六条の大殿の、式部卿親王の女生ほし立てけむやうに、この宮を預かりて育まむ人もがな。ただ人の中にはありがたし。内裏には中宮さぶらひたまふ。次々の女御たちとても、いとやむごとなき限りものせらるるに、はかばかしき後見なくて、さやうの交じらひ、いとなかなかならむ。 |
"ろくでうのおとどの、しきぶきゃうのみこのむすめおほしたてけんやうに、このみやをあづかりてはぐくまんひともがな。ただうどのなかにはありがたし。うちにはちゅうぐうさぶらひたまふ。つぎつぎのにょうごたちとても、いとやんごとなきかぎりものせらるるに、はかばかしきうしろみなくて、さやうのまじらひ、いとなかなかならん。 |
34 | 1.6.6 | 252 | 214 |
この権中納言の朝臣の独りありつるほどに、うちかすめてこそ試みるべかりけれ。若けれど、いと警策に、生ひ先頼もしげなる人にこそあめるを」 |
このごんのちゅうなごんのあそんのひとりありつるほどに、うちかすめてこそこころみるべかりけれ。わかけれど、いときゃうざくに、おひさきたのもしげなるひとにこそあめるを。" |
34 | 1.6.7 | 253 | 215 |
とのたまはす。 |
とのたまはす。 |
34 | 1.6.8 | 254 | 216 |
「中納言は、もとよりいとまめ人にて、年ごろも、かのわたりに心をかけて、ほかざまに思ひ移ろふべくもはべらざりけるに、その思ひ叶ひては、いとど揺るぐ方はべらじ。 |
"ちゅうなごんは、もとよりいとまめびとにて、としごろも、かのわたりにこころをかけて、ほかざまにおもひうつろふべくもはべらざりけるに、そのおもひかなひては、いとどゆるぐかたはべらじ。 |
34 | 1.6.9 | 255 | 217 |
かの院こそ、なかなか、なほいかなるにつけても、人をゆかしく思したる心は、絶えずものせさせたまふなれ。その中にも、やむごとなき御願ひ深くて、前斎院などをも、今に忘れがたくこそ、聞こえたまふなれ」 |
かのゐんこそ、なかなか、なほいかなるにつけても、ひとをゆかしくおぼしたるこころは、たえずものせさせたまふなれ。そのなかにも、やんごとなきおほんねがひふかくて、さきのさいゐんなどをも、いまにわすれがたくこそ、きこえたまふなれ。" |
34 | 1.6.10 | 256 | 218 |
と申す。 |
とまうす。 |
34 | 1.6.11 | 257 | 219 |
「いで、その旧りせぬあだけこそは、いとうしろめたけれ」 |
"いで、そのふりせぬあだけこそは、いとうしろめたけれ。" |
34 | 1.6.12 | 258 | 220 |
とはのたまはすれど、 |
とはのたまはすれど、 |
34 | 1.6.13 | 259 | 221 |
「げに、あまたの中にかかづらひて、めざましかるべき思ひはありとも、なほやがて親ざまに定めたるにて、さもや譲りおききこえまし」 |
"げに、あまたのなかにかかづらひて、めざましかるべきおもひはありとも、なほやがておやざまにさだめたるにて、さもやゆづりおききこえまし。" |
34 | 1.6.14 | 260 | 222 |
なども、思し召すべし。 |
なども、おぼしめすべし。 |
34 | 1.6.15 | 261 | 223 |
「まことに、少しも世づきてあらせむと思はむ女子持たらば、同じくは、かの人のあたりにこそ、触ればはせまほしけれ。いくばくならぬこの世のあひだは、さばかり心ゆくありさまにてこそ、過ぐさまほしけれ。 |
"まことに、すこしもよづきてあらせんとおもはんをんなごもたらば、おなじくは、かのひとのあたりにこそ、ふればはせまほしけれ。いくばくならぬこのよのあひだは、さばかりこころゆくありさまにてこそ、すぐさまほしけれ。 |
34 | 1.6.16 | 262 | 224 |
われ女ならば、同じはらからなりとも、かならず睦び寄りなまし。若かりし時など、さなむおぼえし。まして、女の欺かれむは、いと、ことわりぞや」 |
われをんなならば、おなじはらからなりとも、かならずむつびよりなまし。わかかりしときなど、さなんおぼえし。まして、をんなのあざむかれんは、いと、ことわりぞや。" |
34 | 1.6.17 | 263 | 225 |
とのたまはせて、御心のうちに、尚侍の君の御ことも、思し出でらるべし。 |
とのたまはせて、みこころのうちに、かんのきみのおほんことも、おぼしいでらるべし。 |
34 | 2 | 264 | 226 | 第二章 朱雀院の物語 女三の宮との結婚を承諾 |
34 | 2.1 | 265 | 227 | 第一段 乳母と兄左中弁との相談 |
34 | 2.1.1 | 266 | 228 |
この御後見どもの中に、重々しき御乳母の兄、左中弁なる、かの院の親しき人にて、年ごろ仕うまつるありけり。この宮にも心寄せことにてさぶらへば、参りたるにあひて、物語するついでに、 |
このおほんうしろみどものなかに、おもおもしきおほんめのとのせうと、さちゅうべんなる、かのゐんのしたしきひとにて、としごろつかうまつるありけり。このみやにもこころよせことにてさぶらへば、まゐりたるにあひて、ものがたりするついでに、 |
34 | 2.1.2 | 267 | 229 |
「主上なむ、しかしか御けしきありて聞こえたまひしを、かの院に、折あらば漏らしきこえさせたまへ。皇女たちは、独りおはしますこそは例のことなれど、さまざまにつけて心寄せたてまつり、何ごとにつけても、御後見したまふ人あるは頼もしげなり。 |
"うへなん、しかしかみけしきありてきこえたまひしを、かのゐんに、をりあらばもらしきこえさせたまへ。みこたちは、ひとりおはしますこそはれいのことなれど、さまざまにつけてこころよせたてまつり、なにごとにつけても、おほんうしろみしたまふひとあるはたのもしげなり。 |
34 | 2.1.3 | 268 | 230 |
主上をおきたてまつりて、また真心に思ひきこえたまふべき人もなければ、おのらは、仕うまつるとても、何ばかりの宮仕へにかあらむ。わが心一つにしもあらで、おのづから思ひの他のこともおはしまし、軽々しき聞こえもあらむ時には、いかさまにかは、わづらはしからむ。御覧ずる世に、ともかくも、この御こと定まりたらば、仕うまつりよくなむあるべき。 |
うへをおきたてまつりて、またまごころにおもひきこえたまふべきひともなければ、おのらは、つかうまつるとても、なにばかりのみやづかへにかあらん。わがこころひとつにしもあらで、おのづからおもひのほかのこともおはしまし、かるがるしききこえもあらんときには、いかさまにかは、わづらはしからん。ごらんずるよに、ともかくも、このおほんことさだまりたらば、つかうまつりよくなんあるべき。 |
34 | 2.1.4 | 269 | 231 |
かしこき筋と聞こゆれど、女は、いと宿世定めがたくおはしますものなれば、よろづに嘆かしく、かくあまたの御中に、取り分ききこえさせたまふにつけても、人の嫉みあべかめるを、いかで塵も据ゑたてまつらじ」 |
かしこきすぢときこゆれど、をんなは、いとすくせさだめがたくおはしますものなれば、よろづになげかしく、かくあまたのおほんなかに、とりわききこえさせたまふにつけても、ひとのそねみあべかめるを、いかでちりもすゑたてまつらじ。" |
34 | 2.1.5 | 270 | 232 |
と語らふに、弁、 |
とかたらふに、べん、 |
34 | 2.1.6 | 271 | 233 |
「いかなるべき御ことにかあらむ。院は、あやしきまで御心長く、仮にても見そめたまへる人は、御心とまりたるをも、またさしも深からざりけるをも、かたがたにつけて尋ね取りたまひつつ、あまた集へきこえたまへれど、やむごとなく思したるは、限りありて、一方なめれば、それにことよりて、かひなげなる住まひしたまふ方々こそは多かめるを、御宿世ありて、もし、さやうにおはしますやうもあらば、いみじき人と聞こゆとも、立ち並びておしたちたまふことは、えあらじとこそは推し量らるれど、なほ、いかがと憚らるることありてなむおぼゆる。 |
"いかなるべきおほんことにかあらん。ゐんは、あやしきまでみこころながく、かりにてもみそめたまへるひとは、みこころとまりたるをも、またさしもふかからざりけるをも、かたがたにつけてたづねとりたまひつつ、あまたつどへきこえたまへれど、やんごとなくおぼしたるは、かぎりありて、ひとかたなめれば、それにことよりて、かひなげなるすまひしたまふかたがたこそはおほかめるを、おほんすくせありて、もし、さやうにおはしますやうもあらば、いみじきひとときこゆとも、たちならびておしたちたまふことは、えあらじとこそはおしはからるれど、なほ、いかがとはばからるることありてなんおぼゆる。 |
34 | 2.1.7 | 272 | 234 |
さるは、『この世の栄え、末の世に過ぎて、身に心もとなきことはなきを、女の筋にてなむ、人のもどきをも負ひ、わが心にも飽かぬこともある』となむ、常にうちうちのすさびごとにも思しのたまはすなる。 |
さるは、'このよのさかえ、すゑのよにすぎて、みにこころもとなきことはなきを、をんなのすぢにてなん、ひとのもどきをもおひ、わがこころにもあかぬこともある。'となん、つねにうちうちのすさびごとにもおぼしのたまはすなる。 |
34 | 2.1.8 | 273 | 235 |
げに、おのれらが見たてまつるにも、さなむおはします。かたがたにつけて、御蔭に隠したまへる人、皆その人ならず立ち下れる際にはものしたまはねど、限りあるただ人どもにて、院の御ありさまに並ぶべきおぼえ具したるやはおはすめる。 |
げに、おのれらがみたてまつるにも、さなんおはします。かたがたにつけて、みかげにかくしたまへるひと、みなそのひとならずたちくだれるきはにはものしたまはねど、かぎりあるただうどどもにて、ゐんのおほんありさまにならぶべきおぼえぐしたるやはおはすめる。 |
34 | 2.1.9 | 274 | 236 |
それに、同じくは、げにさもおはしまさば、いかにたぐひたる御あはひならむ」 |
それに、おなじくは、げにさもおはしまさば、いかにたぐひたるおほんあはひならん。" |
34 | 2.1.10 | 275 | 237 |
と語らふを、 |
とかたらふを、 |
34 | 2.2 | 276 | 238 | 第二段 乳母、左中弁の意見を朱雀院に言上 |
34 | 2.2.1 | 277 | 239 |
乳母、またことのついでに、 |
めのと、またことのついでに、 |
34 | 2.2.2 | 278 | 240 |
「しかしかなむ、なにがしの朝臣にほのめかしはべしかば、『かの院には、かならずうけひき申させたまひてむ。年ごろの御本意かなひて思しぬべきことなるを、こなたの御許しまことにありぬべくは、伝へきこえむ』となむ申しはべりしを、いかなるべきことにかははべらむ。 |
"しかしかなん、なにがしのあそんにほのめかしはべしかば、'かのゐんには、かならずうけひきまうさせたまひてん。としごろのおほんほいかなひておぼしぬべきことなるを、こなたのおほんゆるしまことにありぬべくは、つたへきこえん。'となんなうしはべりしを、いかなるべきことにかははべらん。 |
34 | 2.2.3 | 279 | 241 |
ほどほどにつけて、人の際々思しわきまへつつ、ありがたき御心ざまにものしたまふなれど、ただ人だに、またかかづらひ思ふ人立ち並びたることは、人の飽かぬことにしはべめるを、めざましきこともやはべらむ。御後見望みたまふ人びとは、あまたものしたまふめり。 |
ほどほどにつけて、ひとのきはぎはおぼしわきまへつつ、ありがたきみこころざまにものしたまふなれど、ただうどだに、またかかづらひおもふひとたちならびたることは、ひとのあかぬことにしはべめるを、めざましきこともやはべらん。おほんうしろみのぞみたまふひとびとは、あまたものしたまふめり。 |
34 | 2.2.4 | 280 | 242 |
よく思し定めてこそよくはべらめ。限りなき人と聞こゆれど、今の世のやうとては、皆ほがらかに、あるべかしくて、世の中を御心と過ぐしたまひつべきもおはしますべかめるを、姫宮は、あさましくおぼつかなく、心もとなくのみ見えさせたまふに、さぶらふ人びとは、仕うまつる限りこそはべらめ。 |
よくおぼしさだめてこそよくはべらめ。かぎりなきひとときこゆれど、いまのよのやうとては、みなほがらかに、あるべかしくて、よのなかをみこころとすぐしたまひつべきもおはしますべかめるを、ひめみやは、あさましくおぼつかなく、こころもとなくのみみえさせたまふに、さぶらふひとびとは、つかうまつるかぎりこそはべらめ。 |
34 | 2.2.5 | 281 | 243 |
おほかたの御心おきてに従ひきこえて、賢しき下人もなびきさぶらふこそ、頼りあることにはべらめ。取り立てたる御後見ものしたまはざらむは、なほ心細きわざになむはべるべき」 |
おほかたのみこころおきてにしたがひきこえて、さかしきしもびともなびきさぶらふこそ、たよりあることにはべらめ。とりたてたるおほんうしろみものしたまはざらんは、なほこころぼそきわざになんはべるべき。" |
34 | 2.2.6 | 282 | 244 |
と聞こゆ。 |
ときこゆ。 |
34 | 2.3 | 283 | 245 | 第三段 朱雀院、内親王の結婚を苦慮 |
34 | 2.3.1 | 284 | 246 |
「しか思ひたどるによりなむ。皇女たちの世づきたるありさまは、うたてあはあはしきやうにもあり、また高き際といへども、女は男に見ゆるにつけてこそ、悔しげなることも、めざましき思ひも、おのづからうちまじるわざなめれと、かつは心苦しく思ひ乱るるを、また、さるべき人に立ちおくれて、頼む蔭どもに別れぬる後、心を立てて世の中に過ぐさむことも、昔は、人の心たひらかにて、世に許さるまじきほどのことをば、思ひ及ばぬものとならひたりけむ、今の世には、好き好きしく乱りがはしきことも、類に触れて聞こゆめりかし。 |
"しかおもひたどるによりなん。みこたちのよづきたるありさまは、うたてあはあはしきやうにもあり、またたかききはといへども、をんなはをとこにみゆるにつけてこそ、くやしげなることも、めざましきおもひも、おのづからうちまじるわざなめれと、かつはこころぐるしくおもひみだるるを、また、さるべきひとにたちおくれて、たのむかげどもにわかれぬるのち、こころをたててよのなかにすぐさんことも、むかしは、ひとのこころたひらかにて、よにゆるさるまじきほどのことをば、おもひおよばぬものとならひたりけん、いまのよには、すきずきしくみだりがはしきことも、るいにふれてきこゆめりかし。 |
34 | 2.3.2 | 285 | 247 |
昨日まで高き親の家にあがめられかしづかれし人の女の、今日は直々しく下れる際の好き者どもに名を立ち欺かれて、亡き親の面を伏せ、影を恥づかしむるたぐひ多く聞こゆる。言ひもてゆけば皆同じことなり。 |
きのふまでたかきおやのいへにあがめられかしづかれしひとのむすめの、けふはなほなほしくくだれるきはのすきものどもになをたちあざむかれて、なきおやのおもてをふせ、かげをはづかしむるたぐひおほくきこゆる。いひもてゆけばみなおなじことなり。 |
34 | 2.3.3 | 286 | 248 |
ほどほどにつけて、宿世などいふなることは、知りがたきわざなれば、よろづにうしろめたくなむ。すべて、悪しくも善くも、さるべき人の心に許しおきたるままにて世の中を過ぐすは、宿世宿世にて、後の世に衰へある時も、みづからの過ちにはならず。 |
ほどほどにつけて、すくせなどいふなることは、しりがたきわざなれば、よろづにうしろめたくなん。すべて、あしくもよくも、さるべきひとのこころにゆるしおきたるままにてよのなかをすぐすは、すくせすくせにて、のちのよにおとろへあるときも、みづからのあやまちにはならず。 |
34 | 2.3.4 | 287 | 249 |
あり経て、こよなき幸ひあり、めやすきことになる折は、かくても悪しからざりけりと見ゆれど、なほ、たちまちふとうち聞きつけたるほどは、親に知られず、さるべき人も許さぬに、心づからの忍びわざし出でたるなむ、女の身にはますことなき疵とおぼゆるわざなる。 |
ありへて、こよなきさいはひあり、めやすきことになるをりは、かくてもあしからざりけりとみゆれど、なほ、たちまちふとうちききつけたるほどは、おやにしられず、さるべきひともゆるさぬに、こころづからのしのびわざしいでたるなん、をんなのみにはますことなききずとおぼゆるわざなる。 |
34 | 2.3.5 | 288 | 250 |
直々しきただ人の仲らひにてだに、あはつけく心づきなきことなり。みづからの心より離れてあるべきにもあらぬを、思ふ心よりほかに人にも見えず、宿世のほど定められむなむ、いと軽々しく、身のもてなし、ありさま推し量らるることなるを。 |
なほなほしきただうどのなからひにてだに、あはつけくこころづきなきことなり。みづからのこころよりはなれてあるべきにもあらぬを、おもふこころよりほかにひとにもみえず、すくせのほどさだめられんなん、いとかろがろしく、みのもてなし、ありさまおしはからるることなるを。 |
34 | 2.3.6 | 289 | 251 |
あやしくものはかなき心ざまにやと見ゆめる御さまなるを、これかれの心にまかせ、もてなしきこゆな、さやうなることの世に漏り出でむこと、いと憂きことなり」 |
あやしくものはかなきこころざまにやとみゆめるおほんさまなるを、これかれのこころにまかせ、もてなしきこゆな、さやうなることのよにもりいでんこと、いとうきことなり。" |
34 | 2.3.7 | 290 | 252 |
など、見捨てたてまつりたまはむ後の世を、うしろめたげに思ひきこえさせたまへれば、いよいよわづらはしく思ひあへり。 |
など、みすてたてまつりたまはんのちのよを、うしろめたげにおもひきこえさせたまへれば、いよいよわづらはしくおもひあへり。 |
34 | 2.4 | 291 | 253 | 第四段 朱雀院、婿候補者を批評 |
34 | 2.4.1 | 292 | 254 |
「今すこしものをも思ひ知りたまふほどまで見過ぐさむとこそは、年ごろ念じつるを、深き本意も遂げずなりぬべき心地のするに思ひもよほされてなむ。 |
"いますこしものをもおもひしりたまふほどまでみすぐさんとこそは、としごろねんじつるを、ふかきほいもとげずなりぬべきここちのするにおもひもよほされてなん。 |
34 | 2.4.2 | 293 | 255 |
かの六条の大殿は、げに、さりともものの心得て、うしろやすき方はこよなかりなむを、方々にあまたものせらるべき人びとを知るべきにもあらずかし。とてもかくても、人の心からなり。のどかにおちゐて、おほかたの世のためしとも、うしろやすき方は並びなくものせらるる人なり。さらで良ろしかるべき人、誰ればかりかはあらむ。 |
かのろくでうのおとどは、げに、さりとももののこころえて、うしろやすきかたはこよなかりなんを、かたがたにあまたものせらるべきひとびとをしるべきにもあらずかし。とてもかくても、ひとのこころからなり。のどかにおちゐて、おほかたのよのためしとも、うしろやすきかたはならびなくものせらるるひとなり。さらでよろしかるべきひと、たればかりかはあらん。 |
34 | 2.4.3 | 294 | 256 |
兵部卿宮、人柄はめやすしかし。同じき筋にて、異人とわきまへおとしむべきにはあらねど、あまりいたくなよびよしめくほどに、重き方おくれて、すこし軽びたるおぼえや進みにたらむ。なほ、さる人はいと頼もしげなくなむある。 |
ひゃうぶきゃうのみや、ひとがらはめやすしかし。おなじきすぢにて、ことびととわきまへおとしむべきにはあらねど、あまりいたくなよびよしめくほどに、おもきかたおくれて、すこしかろびたるおぼえやすすみにたらん。なほ、さるひとはいとたのもしげなくなんある。 |
34 | 2.4.4 | 295 | 257 |
また、大納言の朝臣の家司望むなる、さる方に、ものまめやかなるべきことにはあなれど、さすがにいかにぞや。さやうにおしなべたる際は、なほめざましくなむあるべき。 |
また、だいなごんのあそんのいへづかさのぞむなる、さるかたに、ものまめやかなるべきことにはあなれど、さすがにいかにぞや。さやうにおしなべたるきはは、なほめざましくなんあるべき。 |
34 | 2.4.5 | 296 | 258 |
昔も、かうやうなる選びには、何事も人に異なるおぼえあるに、ことよりてこそありけれ。ただひとへに、またなく持ちゐむ方ばかりを、かしこきことに思ひ定めむは、いと飽かず口惜しかるべきわざになむ。 |
むかしも、かうやうなるえらびには、なにごともひとにことなるおぼえあるに、ことよりてこそありけれ。ただひとへに、またなくもちゐんかたばかりを、かしこきことにおもひさだめんは、いとあかずくちをしかるべきわざになん。 |
34 | 2.4.6 | 297 | 259 |
右衛門督の下にわぶなるよし、尚侍のものせられし、その人ばかりなむ、位など今すこしものめかしきほどになりなば、などかは、とも思ひ寄りぬべきを、まだ年いと若くて、むげに軽びたるほどなり。 |
ゑもんのかみのしたにわぶなるよし、ないしのかみのものせられし、そのひとばかりなん、くらゐなどいますこしものめかしきほどになりなば、などかは、ともおもひよりぬべきを、まだとしいとわかくて、むげにかろびたるほどなり。 |
34 | 2.4.7 | 298 | 260 |
高き心ざし深くて、やもめにて過ぐしつつ、いたくしづまり思ひ上がれるけしき、人には抜けて、才などもこともなく、つひには世のかためとなるべき人なれば、行く末も頼もしけれど、なほまたこのためにと思ひ果てむには、限りぞあるや」 |
たかきこころざしふかくて、やもめにてすぐしつつ、いたくしづまりおもひあがれるけしき、ひとにはぬけて、ざえなどもこともなく、つひにはよのかためとなるべきひとなれば、ゆくすゑもたのもしけれど、なほまたこのためにとおもひはてんには、かぎりぞあるや。" |
34 | 2.4.8 | 299 | 261 |
と、よろづに思しわづらひたり。 |
と、よろづにおぼしわづらひたり。 |
34 | 2.4.9 | 300 | 262 |
かうやうにも思し寄らぬ姉宮たちをば、かけても聞こえ悩ましたまふ人もなし。あやしく、うちうちにのたまはする御ささめき言どもの、おのづからひろごりて、心を尽くす人びと多かりけり。 |
かうやうにもおぼしよらぬあねみやたちをば、かけてもきこえなやましたまふひともなし。あやしく、うちうちにのたまはするおほんささめきごとどもの、おのづからひろごりて、こころをつくすひとびとおほかりけり。 |
34 | 2.5 | 301 | 263 | 第五段 婿候補者たちの動静 |
34 | 2.5.1 | 302 | 264 |
太政大臣も、 |
おほきおとども、 |
34 | 2.5.2 | 303 | 265 |
「この衛門督の、今までひとりのみありて、皇女たちならずは得じと思へるを、かかる御定めども出で来たなる折に、さやうにもおもむけたてまつりて、召し寄せられたらむ時、いかばかりわがためにも面目ありてうれしからむ」 |
"このゑもんのかみの、いままでひとりのみありて、みこたちならずはえじとおもへるを、かかるおほんさだめどもいできたなるをりに、さやうにもおもむけたてまつりて、めしよせられたらんとき、いかばかりわがためにもめんぼくありてうれしからん。" |
34 | 2.5.3 | 304 | 266 |
と、思しのたまひて、尚侍の君には、かの姉北の方して、伝へ申したまふなりけり。よろづ限りなき言の葉を尽くして奏せさせ、御けしき賜はらせたまふ。 |
と、おぼしのたまひて、ないしのかんのきみには、かのあねきたのかたして、つたへまうしたまふなりけり。よろづかぎりなきことのはをつくしてそうせさせ、みけしきたまはらせたまふ。 |
34 | 2.5.4 | 305 | 267 |
兵部卿宮は、左大将の北の方を聞こえ外したまひて、聞きたまふらむところもあり、かたほならむことはと、選り過ぐしたまふに、いかがは御心の動かざらむ。限りなく思し焦られたり。 |
ひゃうぶきゃうのみやは、さだいしゃうのきたのかたをきこえはづしたまひて、ききたまふらんところもあり、かたほならんことはと、えりすぐしたまふに、いかがはみこころのうごかざらん。かぎりなくおぼしいられたり。 |
34 | 2.5.5 | 306 | 268 |
藤大納言は、年ごろ院の別当にて、親しく仕うまつりてさぶらひ馴れにたるを、御山籠もりしたまひなむ後、寄り所なく心細かるべきに、この宮の御後見にことよせて、顧みさせたまふべく、御けしき切に賜はりたまふなるべし。 |
とうだいなごんは、としごろゐんのべたうにて、したしくつかうまつりてさぶらひなれにたるを、みやまごもりしたまひなんのち、よりどころなくこころぼそかるべきに、このみやのおほんうしろみにことよせて、かへりみさせたまふべく、みけしきせちにたまはりたまふなるべし。 |
34 | 2.6 | 307 | 269 | 第六段 夕霧の心中 |
34 | 2.6.1 | 308 | 270 |
権中納言も、かかることどもを聞きたまふに、 |
ごんのちゅうなごんも、かかることどもをききたまふに、 |
34 | 2.6.2 | 309 | 271 |
「人伝てにもあらず、さばかりおもむけさせたまへりし御けしきを見たてまつりてしかば、おのづから便りにつけて、漏らし、聞こし召さることもあらば、よももて離れてはあらじかし」 |
"ひとづてにもあらず、さばかりおもむけさせたまへりしみけしきをみたてまつりてしかば、おのづからたよりにつけて、もらし、きこしめさることもあらば、よももてはなれてはあらじかし。" |
34 | 2.6.3 | 310 | 272 |
と、心ときめきもしつべけれど、 |
と、こころときめきもしつべけれど、 |
34 | 2.6.4 | 311 | 273 |
「女君の今はとうちとけて頼みたまへるを、年ごろ、つらきにもことつけつべかりしほどだに、他ざまの心もなくて過ぐしてしを、あやにくに、今さらに立ち返り、にはかに物をや思はせきこえむ。なのめならずやむごとなき方にかかづらひなば、何ごとも思ふままならで、左右に安からずは、わが身も苦しくこそはあらめ」 |
"をんなぎみのいまはとうちとけてたのみたまへるを、としごろ、つらきにもことつけつべかりしほどだに、ほかざまのこころもなくてすぐしてしを、あやにくに、いまさらにたちかへり、にはかにものをやおもはせきこえん。なのめならずやんごとなきかたにかかづらひなば、なにごともおもふままならで、ひだりみぎにやすからずは、わがみもくるしくこそはあらめ。" |
34 | 2.6.5 | 312 | 274 |
など、もとより好き好きしからぬ心なれば、思ひしづめつつうち出でねど、さすがに他ざまに定まり果てたまはむも、いかにぞやおぼえて、耳はとまりけり。 |
など、もとよりすきずきしからぬこころなれば、おもひしづめつつうちいでねど、さすがにほかざまにさだまりはてたまはんも、いかにぞやおぼえて、みみはとまりけり。 |
34 | 2.7 | 313 | 275 | 第七段 朱雀院、使者を源氏のもとに遣わす |
34 | 2.7.1 | 314 | 276 |
春宮にも、かかることども聞こし召して、 |
とうぐうにも、かかることどもきこしめして、 |
34 | 2.7.2 | 315 | 277 |
「さし当たりたるただ今のことよりも、後の世の例ともなるべきことなるを、よく思し召しめぐらすべきことなり。人柄よろしとても、ただ人は限りあるを、なほ、しか思し立つことならば、かの六条院にこそ、親ざまに譲りきこえさせたまはめ」 |
"さしあたりたるただいまのことよりも、のちのよのためしともなるべきことなるを、よくおぼしめしめぐらすべきことなり。ひとがらよろしとても、ただうどはかぎりあるを、なほ、しかおぼしたつことならば、かのろくでうのゐんにこそ、おやざまにゆづりきこえさせたまはめ。" |
34 | 2.7.3 | 316 | 278 |
となむ、わざとの御消息とはあらねど、御けしきありけるを、待ち聞かせたまひても、 |
となん、わざとのおほんせうそことはあらねど、みけしきありけるを、まちきかせたまひても、 |
34 | 2.7.4 | 317 | 279 |
「げに、さることなり。いとよく思しのたまはせたり」 |
"げに、さることなり。いとよくおぼしのたまはせたり。" |
34 | 2.7.5 | 318 | 280 |
と、いよいよ御心立たせたまひて、まづ、かの弁してぞ、かつがつ案内伝へきこえさせたまひける。 |
と、いよいよみこころたたせたまひて、まづ、かのべんしてぞ、かつがつあないつたへきこえさせたまひける。 |
34 | 2.8 | 319 | 281 | 第八段 源氏、承諾の意向を示す |
34 | 2.8.1 | 320 | 282 |
この宮の御こと、かく思しわづらふさまは、さきざきも皆聞きおきたまへれば、 |
このみやのおほんこと、かくおぼしわづらふさまは、さきざきもみなききおきたまへれば、 |
34 | 2.8.2 | 321 | 283 |
「心苦しきことにもあなるかな。さはありとも、院の御世残りすくなしとて、ここにはまた、いくばく立ちおくれたてまつるべしとてか、その御後見の事をば受けとりきこえむ。げに、次第を過たぬにて、今しばしのほども残りとまる限りあらば、おほかたにつけては、いづれの皇女たちをも、よそに聞き放ちたてまつるべきにもあらねど、またかく取り分きて聞きおきたてまつりてむをば、ことにこそは後見きこえめと思ふを、それだにいと不定なる世の定めなさなりや」 |
"こころぐるしきことにもあなるかな。さはありとも、ゐんのみよのこりすくなしとて、ここにはまた、いくばくたちおくれたてまつるべしとてか、そのおほんうしろみのことをばうけとりきこえん。げに、しだいをあやまたぬにて、いましばしのほどものこりとまるかぎりあらば、おほかたにつけては、いづれのみこたちをも、よそにききはなちたてまつるべきにもあらねど、またかくとりわきてききおきたてまつりてんをば、ことにこそはうしろみきこえめとおもふを、それだにいとふぢゃうなるよのさだめなさなりや。" |
34 | 2.8.3 | 322 | 284 |
とのたまひて、 |
とのたまひて、 |
34 | 2.8.4 | 323 | 285 |
「まして、ひとつに頼まれたてまつるべき筋に、むつび馴れきこえむことは、いとなかなかに、うち続き世を去らむきざみ心苦しく、みづからのためにも浅からぬほだしになむあるべき。 |
"まして、ひとつにたのまれたてまつるべきすぢに、むつびなれきこえんことは、いとなかなかに、うちつづきよをさらんきざみこころぐるしく、みづからのためにもあさからぬほだしになんあるべき。 |
34 | 2.8.5 | 324 | 286 |
中納言などは、年若く軽々しきやうなれど、行く先遠くて、人柄も、つひに朝廷の御後見ともなりぬべき生ひ先なめれば、さも思し寄らむに、などかこよなからむ。 |
ちゅうなごんなどは、としわかくかろがろしきやうなれど、ゆくさきとほくて、ひとがらも、つひにおほやけのおほんうしろみともなりぬべきおひさきなめれば、さもおぼしよらんに、などかこよなからん。 |
34 | 2.8.6 | 325 | 287 |
されど、いといたくまめだちて、思ふ人定まりにてぞあめれば、それに憚らせたまふにやあらむ」 |
されど、いといたくまめだちて、おもふひとさだまりにてぞあめれば、それにはばからせたまふにやあらん。" |
34 | 2.8.7 | 326 | 288 |
などのたまひて、みづからは思し離れたるさまなるを、弁は、おぼろけの御定めにもあらぬを、かくのたまへば、いとほしく、口惜しくも思ひて、うちうちに思し立ちにたるさまなど、詳しく聞こゆれば、さすがに、うち笑みつつ、 |
などのたまひて、みづからはおぼしはなれたるさまなるを、べんは、おぼろけのおほんさだめにもあらぬを、かくのたまへば、いとほしく、くちをしくもおもひて、うちうちにおぼしたちにたるさまなど、くはしくきこゆれば、さすがに、うちゑみつつ、 |
34 | 2.8.8 | 327 | 289 |
「いとかなしくしたてまつりたまふ皇女なめれば、あながちにかく来し方行く先のたどりも深きなめりかしな。ただ、内裏にこそたてまつりたまはめ。やむごとなきまづの人びとおはすといふことは、よしなきことなり。それにさはるべきことにもあらず。かならずさりとて、末の人疎かなるやうもなし。 |
"いとかなしくしたてまつりたまふみこなめれば、あながちにかくきしかたゆくさきのたどりもふかきなめりかしな。ただ、うちにこそたてまつりたまはめ。やんごとなきまづのひとびとおはすといふことは、よしなきことなり。それにさはるべきことにもあらず。かならずさりとて、すゑのひとおろかなるやうもなし。 |
34 | 2.8.9 | 328 | 290 |
故院の御時に、大后の、坊の初めの女御にて、いきまきたまひしかど、むげの末に参りたまへりし入道宮に、しばしは圧されたまひにきかし。 |
こゐんのおほんときに、おほきさきの、ばうのはじめのにょうごにて、いきまきたまひしかど、むげのすゑにまゐりたまへりしにふだうのみやに、しばしはおされたまひにきかし。 |
34 | 2.8.10 | 329 | 291 |
この皇女の御母女御こそは、かの宮の御はらからにものしたまひけめ。容貌も、さしつぎには、いとよしと言はれたまひし人なりしかば、いづ方につけても、この姫宮おしなべての際にはよもおはせじを」 |
このみこのおほんははにょうごこそは、かのみやのおほんはらからにものしたまひけめ。かたちも、さしつぎには、いとよしといはれたまひしひとなりしかば、いづかたにつけても、このひめみやおしなべてのきはにはよもおはせじを。" |
34 | 2.8.11 | 330 | 292 |
など、いぶかしくは思ひきこえたまふべし。 |
など、いぶかしくはおもひきこえたまふべし。 |
34 | 3 | 331 | 293 | 第三章 朱雀院の物語 女三の宮の裳着と朱雀院の出家 |
34 | 3.1 | 332 | 294 | 第一段 歳末、女三の宮の裳着催す |
34 | 3.1.1 | 333 | 295 |
年も暮れぬ。朱雀院には、御心地なほおこたるさまにもおはしまさねば、よろづあわたたしく思し立ちて、御裳着のことは、思しいそぐさま、来し方行く先ありがたげなるまで、いつくしくののしる。 |
としもくれぬ。しゅじゃくゐんには、みここちなほおこたるさまにもおはしまさねば、よろづあわたたしくおぼしたちて、おほんもぎのことは、おぼしいそぐさま、きしかたゆくさきありがたげなるまで、いつくしくののしる。 |
34 | 3.1.2 | 334 | 296 |
御しつらひは、柏殿の西面に、御帳、御几帳よりはじめて、ここの綾錦混ぜさせたまはず、唐土の后の飾りを思しやりて、うるはしくことことしく、かかやくばかり調へさせたまへり。 |
おほんしつらひは、かへどののにしおもてに、みちゃう、みきちゃうよりはじめて、ここのあやにしきまぜさせたまはず、もろこしのきさきのかざりをおぼしやりて、うるはしくことことしく、かかやくばかりととのへさせたまへり。 |
34 | 3.1.3 | 335 | 297 |
御腰結には、太政大臣をかねてより聞こえさせたまへりければ、ことことしくおはする人にて、参りにくく思しけれど、院の御言を昔より背き申したまはねば、参りたまふ。 |
おほんこしゆひには、おほきおとどをかねてよりきこえさせたまへりければ、ことことしくおはするひとにて、まゐりにくくおぼしけれど、ゐんのおほんことをむかしよりそむきまうしたまはねば、まゐりたまふ。 |
34 | 3.1.4 | 336 | 298 |
今二所の大臣たち、その残り上達部などは、わりなき障りあるも、あながちにためらひ助けつつ参りたまふ。親王たち八人、殿上人はたさらにもいはず、内裏、春宮の残らず参り集ひて、いかめしき御いそぎの響きなり。 |
いまふたところのおとどたち、そののこりかんだちめなどは、わりなきさはりあるも、あながちにためらひたすけつつまゐりたまふ。みこたちはちにん、てんじゃうびとはたさらにもいはず、うち、とうぐうののこらずまゐりつどひて、いかめしきおほんいそぎのひびきなり。 |
34 | 3.1.5 | 337 | 299 |
院の御こと、このたびこそとぢめなれと、帝、春宮をはじめたてまつりて、心苦しく聞こし召しつつ、蔵人所、納殿の唐物ども、多く奉らせたまへり。 |
ゐんのおほんこと、このたびこそとぢめなれと、みかど、とうぐうをはじめたてまつりて、こころぐるしくきこしめしつつ、くらうどどころ、をさめどののからものども、おほくたてまつらせたまへり。 |
34 | 3.1.6 | 338 | 300 |
六条院よりも、御とぶらひいとこちたし。贈り物ども、人びとの禄、尊者の大臣の御引出物など、かの院よりぞ奉らせたまひける。 |
ろくでうのゐんよりも、おほんとぶらひいとこちたし。おくりものども、ひとびとのろく、そんじゃのおとどのおほんひきいでものなど、かのゐんよりぞたてまつらせたまひける。 |
34 | 3.2 | 339 | 301 | 第二段 秋好中宮、櫛を贈る |
34 | 3.2.1 | 340 | 302 |
中宮よりも、御装束、櫛の筥、心ことに調ぜさせたまひて、かの昔の御髪上の具、ゆゑあるさまに改め加へて、さすがに元の心ばへも失はず、それと見せて、その日の夕つ方、奉れさせたまふ。宮の権の亮、院の殿上にもさぶらふを御使にて、姫宮の御方に参らすべくのたまはせつれど、かかる言ぞ、中にありける。 |
ちゅうぐうよりも、おほんさうぞく、くしのはこ、こころことにてうぜさせたまひて、かのむかしのみぐしあげのぐ、ゆゑあるさまにあらためくはへて、さすがにもとのこころばへもうしなはず、それとみせて、そのひのゆふつかた、たてまつれさせたまふ。みやのごんのすけ、ゐんのてんじゃうにもさぶらふをおほんつかひにて、ひめみやのおほんかたにまゐらすべくのたまはせつれど、かかることぞ、なかにありける。 |
34 | 3.2.2 | 341 | 304 |
「さしながら昔を今に伝ふれば<BR/>玉の小櫛ぞ神さびにける」 |
"〔さしながらむかしをいまにつたふれば<BR/>たまのをぐしぞかみさびにける〕 |
34 | 3.2.3 | 342 | 305 |
院、御覧じつけて、あはれに思し出でらるることもありけり。あえ物けしうはあらじと譲りきこえたまへるほど、げに、おもだたしき簪なれば、御返りも、昔のあはれをばさしおきて、 |
ゐん、ごらんじつけて、あはれにおぼしいでらるることもありけり。あえものけしうはあらじとゆづりきこえたまへるほど、げに、おもだたしきかんざしなれば、おほんかへりも、むかしのあはれをばさしおきて、 |
34 | 3.2.4 | 343 | 306 |
「さしつぎに見るものにもが万世を<BR/>黄楊の小櫛の神さぶるまで」 |
"〔さしつぎにみるものにもがよろづよを<BR/>つげのをぐしのかみさぶるまで〕 |
34 | 3.2.5 | 344 | 307 |
とぞ祝ひきこえたまへる。 |
とぞいはひきこえたまへる。 |
34 | 3.3 | 345 | 308 | 第三段 朱雀院、出家す |
34 | 3.3.1 | 346 | 309 |
御心地いと苦しきを念じつつ、思し起こして、この御いそぎ果てぬれば、三日過ぐして、つひに御髪下ろしたまふ。よろしきほどの人の上にてだに、今はとてさま変はるは悲しげなるわざなれば、まして、いとあはれげに御方々も思し惑ふ。 |
みここちいとくるしきをねんじつつ、おぼしおこして、このおほんいそぎはてぬれば、みかすぐして、つひにみぐしおろしたまふ。よろしきほどのひとのうへにてだに、いまはとてさまかはるはかなしげなるわざなれば、まして、いとあはれげにおほんかたがたもおぼしまどふ。 |
34 | 3.3.2 | 347 | 310 |
尚侍の君は、つとさぶらひたまひて、いみじく思し入りたるを、こしらへかねたまひて、 |
ないしのかんのきみは、つとさぶらひたまひて、いみじくおぼしいりたるを、こしらへかねたまひて、 |
34 | 3.3.3 | 348 | 311 |
「子を思ふ道は限りありけり。かく思ひしみたまへる別れの堪へがたくもあるかな」 |
"こをおもふみちはかぎりありけり。かくおもひしみたまへるわかれのたへがたくもあるかな。" |
34 | 3.3.4 | 349 | 312 |
とて、御心乱れぬべけれど、あながちに御脇息にかかりたまひて、山の座主よりはじめて、御忌むことの阿闍梨三人さぶらひて、法服などたてまつるほど、この世を別れたまふ御作法、いみじく悲し。 |
とて、みこころみだれぬべけれど、あながちにおほんけふそくにかかりたまひて、やまのざすよりはじめて、おほんいむことのあざりみたりさぶらひて、ほふぶくなどたてまつるほど、このよをわかれたまふおほんさほふ、いみじくかなし。 |
34 | 3.3.5 | 350 | 313 |
今日は、世を思ひ澄ましたる僧たちなどだに、涙もえとどめねば、まして女宮たち、女御、更衣、ここらの男女、上下ゆすり満ちて泣きとよむに、いと心あわたたしう、かからで、静やかなる所に、やがて籠もるべく思しまうけける本意違ひて思し召さるるも、「ただ、この幼き宮にひかされて」と思しのたまはす。 |
けふは、よをおもひすましたるそうたちなどだに、なみだもえとどめねば、ましてをんなみやたち、にょうご、かうい、ここらのをとこをんな、かみしもゆすりみちてなきとよむに、いとこころあわたたしう、かからで、しづやかなるところに、やがてこもるべくおぼしまうけけるほいたがひておぼしめさるるも、"ただ、このをさなきみやにひかされて。"とおぼしのたまはす。 |
34 | 3.3.6 | 351 | 314 |
内裏よりはじめたてまつりて、御とぶらひのしげさ、いとさらなり。 |
うちよりはじめたてまつりて、おほんとぶらひのしげさ、いとさらなり。 |
34 | 3.4 | 352 | 315 | 第四段 源氏、朱雀院を見舞う |
34 | 3.4.1 | 353 | 316 |
六条院も、すこし御心地よろしくと聞きたてまつらせたまひて、参りたまふ。御賜ばりの御封などこそ、皆同じごと、下りゐの帝と等しく定まりたまへれど、まことの太上天皇の儀式にはうけばりたまはず。世のもてなし思ひきこえたるさまなどは、心ことなれど、ことさらに削ぎたまひて、例の、ことことしからぬ御車にたてまつりて、上達部など、さるべき限り、車にてぞ仕うまつりたまへる。 |
ろくでうのゐんも、すこしみここちよろしくとききたてまつらせたまひて、まゐりたまふ。おほんたうばりのみふなどこそ、みなおなじごと、おりゐのみかどとひとしくさだまりたまへれど、まことのだいじゃうてんわうのぎしきにはうけばりたまはず。よのもてなしおもひきこえたるさまなどは、こころことなれど、ことさらにそぎたまひて、れいの、ことことしからぬみくるまにたてまつりて、かんだちめなど、さるべきかぎり、くるまにてぞつかうまつりたまへる。 |
34 | 3.4.2 | 354 | 317 |
院には、いみじく待ちよろこびきこえさせたまひて、苦しき御心地を思し強りて、御対面あり。うるはしきさまならず、ただおはします方に、御座よそひ加へて、入れたてまつりたまふ。 |
ゐんには、いみじくまちよろこびきこえさせたまひて、くるしきみここちをおぼしつよりて、おほんたいめんあり。うるはしきさまならず、ただおはしますかたに、おましよそひくはへて、いれたてまつりたまふ。 |
34 | 3.4.3 | 355 | 318 |
変はりたまへる御ありさま見たてまつりたまふに、来し方行く先暮れて、悲しくとめがたく思さるれば、とみにもえためらひたまはず。 |
かはりたまへるおほんありさまみたてまつりたまふに、きしかたゆくさきくれて、かなしくとめがたくおぼさるれば、とみにもえためらひたまはず。 |
34 | 3.4.4 | 356 | 319 |
「故院におくれたてまつりしころほひより、世の常なく思うたまへられしかば、この方の本意深く進みはべりにしを、心弱く思うたまへたゆたふことのみはべりつつ、つひにかく見たてまつりなしはべるまで、おくれたてまつりはべりぬる心のぬるさを、恥づかしく思うたまへらるるかな。 |
"こゐんにおくれたてまつりしころほひより、よのつねなくおもうたまへられしかば、このかたのほいふかくすすみはべりにしを、こころよわくおもうたまへたゆたふことのみはべりつつ、つひにかくみたてまつりなしはべるまで、おくれたてまつりはべりぬるこころのぬるさを、はづかしくおもうたまへらるるかな。 |
34 | 3.4.5 | 357 | 320 |
身にとりては、ことにもあるまじく思うたまへたちはべる折々あるを、さらにいと忍びがたきこと多かりぬべきわざにこそはべりけれ」 |
みにとりては、ことにもあるまじくおもうたまへたちはべるをりをりあるを、さらにいとしのびがたきことおほかりぬべきわざにこそはべりけれ。" |
34 | 3.4.6 | 358 | 321 |
と、慰めがたく思したり。 |
と、なぐさめがたくおぼしたり。 |
34 | 3.5 | 359 | 322 | 第五段 朱雀院と源氏、親しく語り合う |
34 | 3.5.1 | 360 | 323 |
院も、もの心細く思さるるに、え心強からず、うちしほれたまひつつ、いにしへ、今の御物語、いと弱げに聞こえさせたまひて、 |
ゐんも、ものこころぼそくおぼさるるに、えこころづよからず、うちしほれたまひつつ、いにしへ、いまのおほんものがたり、いとよわげにきこえさせたまひて、 |
34 | 3.5.2 | 361 | 324 |
「今日か明日かとおぼえはべりつつ、さすがにほど経ぬるを、うちたゆみて、深き本意の端にても遂げずなりなむこと、と思ひ起こしてなむ。 |
"けふかあすかとおぼえはべりつつ、さすがにほどへぬるを、うちたゆみて、ふかきほいのはしにてもとげずなりなんこと、とおもひおこしてなん。 |
34 | 3.5.3 | 362 | 325 |
かくても残りの齢なくは、行なひの心ざしも叶ふまじけれど、まづ仮にても、のどめおきて、念仏をだにと思ひはべる。はかばかしからぬ身にても、世にながらふること、ただこの心ざしにひきとどめられたると、思うたまへ知られぬにしもあらぬを、今まで勤めなき怠りをだに、安からずなむ」 |
かくてものこりのよはひなくは、おこなひのこころざしもかなふまじけれど、まづかりにても、のどめおきて、ねんぶつをだにとおもひはべる。はかばかしからぬみにても、よにながらふること、ただこのこころざしにひきとどめられたると、おもうたまへしられぬにしもあらぬを、いままでつとめなきおこたりをだに、やすからずなん。" |
34 | 3.5.4 | 363 | 326 |
とて、思しおきてたるさまなど、詳しくのたまはするついでに、 |
とて、おぼしおきてたるさまなど、くはしくのたまはするついでに、 |
34 | 3.5.5 | 364 | 327 |
「女皇女たちを、あまたうち捨てはべるなむ心苦しき。中にも、また思ひ譲る人なきをば、取り分きうしろめたく、見わづらひはべる」 |
"をんなみこたちを、あまたうちすてはべるなんこころぐるしき。なかにも、またおもひゆづるひとなきをば、とりわきうしろめたく、みわづらひはべる。" |
34 | 3.5.6 | 365 | 328 |
とて、まほにはあらぬ御けしき、心苦しく見たてまつりたまふ。 |
とて、まほにはあらぬみけしき、こころぐるしくみたてまつりたまふ。 |
34 | 3.6 | 366 | 329 | 第六段 内親王の結婚の必要性を説く |
34 | 3.6.1 | 367 | 330 |
御心のうちにも、さすがにゆかしき御ありさまなれば、思し過ぐしがたくて、 |
みこころのうちにも、さすがにゆかしきおほんありさまなれば、おぼしすぐしがたくて、 |
34 | 3.6.2 | 368 | 331 |
「げに、ただ人よりも、かかる筋には、私ざまの御後見なきは、口惜しげなるわざになむはべりける。春宮かくておはしませば、いとかしこき末の世の儲けの君と、天の下の頼みどころに仰ぎきこえさするを。 |
"げに、ただうどよりも、かかるすぢには、わたくしざまのおほんうしろみなきは、くちをしげなるわざになんはべりける。とうぐうかくておはしませば、いとかしこきすゑのよのまうけのきみと、あめのしたのたのみどころにあふぎきこえさするを。 |
34 | 3.6.3 | 369 | 332 |
まして、このことと聞こえ置かせたまはむことは、一事として疎かに軽め申したまふべきにはべらねば、さらに行く先のこと思し悩むべきにもはべらねど、げに、こと限りあれば、公けとなりたまひ、世の政事御心にかなふべしとは言ひながら、女の御ために、何ばかりのけざやかなる御心寄せあるべきにもはべらざりけり。 |
まして、このことときこえおかせたまはんことは、ひとこととしておろそかにかろめまうしたまふべきにはべらねば、さらにゆくさきのことおぼしなやむべきにもはべらねど、げに、ことかぎりあれば、おほやけとなりたまひ、よのまつりごとみこころにかなふべしとはいひながら、をんなのおほんために、なにばかりのけざやかなるみこころよせあるべきにもはべらざりけり。 |
34 | 3.6.4 | 370 | 333 |
すべて、女の御ためには、さまざま真の御後見とすべきものは、なほさるべき筋に契りを交はし、えさらぬことに、育みきこゆる御護りめはべるなむ、うしろやすかるべきことにはべるを、なほ、しひて後の世の御疑ひ残るべくは、よろしきに思し選びて、忍びて、さるべき御預かりを定めおかせたまふべきになむはべなる」 |
すべて、をんなのおほんためには、さまざままことのおほんうしろみとすべきものは、なほさるべきすぢにちぎりをかはし、えさらぬことに、はぐくみきこゆるおほんまもりめはべるなん、うしろやすかるべきことにはべるを、なほ、しひてのちのよのおほんうたがひのこるべくは、よろしきにおぼしえらびて、しのびて、さるべきおほんあづかりをさだめおかせたまふべきになんはべなる。" |
34 | 3.6.5 | 371 | 334 |
と、奏したまふ。 |
と、そうしたまふ。 |
34 | 3.7 | 372 | 335 | 第七段 源氏、結婚を承諾 |
34 | 3.7.1 | 373 | 336 |
「さやうに思ひ寄る事はべれど、それも難きことになむありける。いにしへの例を聞きはべるにも、世をたもつ盛りの皇女にだに、人を選びて、さるさまのことをしたまへるたぐひ多かりけり。 |
"さやうにおもひよることはべれど、それもかたきことになんありける。いにしへのためしをききはべるにも、よをたもつさかりのみこにだに、ひとをえらびて、さるさまのことをしたまへるたぐひおほかりけり。 |
34 | 3.7.2 | 374 | 337 |
ましてかく、今はとこの世を離るる際にて、ことことしく思ふべきにもあらねど、また、しか捨つる中にも、捨てがたきことありて、さまざまに思ひわづらひはべるほどに、病は重りゆく。また取り返すべきにもあらぬ月日の過ぎゆけば、心あわたたしくなむ。 |
ましてかく、いまはとこのよをはなるるきはにて、ことことしくおもふべきにもあらねど、また、しかすつるなかにも、すてがたきことありて、さまざまにおもひわづらひはべるほどに、やまひはおもりゆく。またとりかへすべきにもあらぬつきひのすぎゆけば、こころあわたたしくなん。 |
34 | 3.7.3 | 375 | 338 |
かたはらいたき譲りなれど、このいはけなき内親王、一人、分きて育み思して、さるべきよすがをも、御心に思し定めて預けたまへ、と聞こえまほしきを。 |
かたはらいたきゆづりなれど、このいはけなきないしんわう、ひとり、わきてはぐくみおぼして、さるべきよすがをも、みこころにおぼしさだめてあづけたまへ、ときこえまほしきを。 |
34 | 3.7.4 | 376 | 339 |
権中納言などの独りものしつるほどに、進み寄るべくこそありけれ。大臣に先ぜられて、ねたくおぼえはべる」 |
ごんのちゅうなごんなどのひとりものしつるほどに、すすみよるべくこそありけれ。おほいまうちぎみにせんぜられて、ねたくおぼえはべる。" |
34 | 3.7.5 | 377 | 340 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
34 | 3.7.6 | 378 | 341 |
「中納言の朝臣、まめやかなる方は、いとよく仕うまつりぬべくはべるを、何ごともまだ浅くて、たどり少なくこそはべらめ。 |
"ちゅうなごんのあそん、まめやかなるかたは、いとよくつかうまつりぬべくはべるを、なにごともまだあさくて、たどりすくなくこそはべらめ。 |
34 | 3.7.7 | 379 | 342 |
かたじけなくとも、深き心にて後見きこえさせはべらむに、おはします御蔭に変りては思されじを、ただ行く先短くて、仕うまつりさすことやはべらむと、疑はしき方のみなむ、心苦しくはべるべき」 |
かたじけなくとも、ふかきこころにてうしろみきこえさせはべらんに、おはしますおほんかげにかはりてはおぼされじを、ただゆくさきみじかくて、つかうまつりさすことやはべらんと、うたがはしきかたのみなん、こころぐるしくはべるべき。" |
34 | 3.7.8 | 380 | 343 |
と、受け引き申したまひつ。 |
と、うけひきまうしたまひつ。 |
34 | 3.8 | 381 | 344 | 第八段 朱雀院の饗宴 |
34 | 3.8.1 | 382 | 345 |
夜に入りぬれば、主人の院方も、客人の上達部たちも、皆御前にて、御饗のこと、精進物にて、うるはしからず、なまめかしくせさせたまへり。院の御前に、浅香の懸盤に御鉢など、昔に変はりて参るを、人びと、涙おし拭ひたまふ。あはれなる筋のことどもあれど、うるさければ書かず。 |
よにいりぬれば、あるじのゐんがたも、まらうとのかんだちめたちも、みなおまへにて、おほんあるじのこと、しゃうじものにて、うるはしからず、なまめかしくせさせたまへり。ゐんのおまへに、せんかうのかけばんにみはちなど、むかしにかはりてまゐるを、ひとびと、なみだおしのごひたまふ。あはれなるすぢのことどもあれど、うるさければかかず。 |
34 | 3.8.2 | 383 | 346 |
夜更けて帰りたまふ。禄ども、次々に賜ふ。別当大納言も御送りに参りたまふ。主人の院は、今日の雪にいとど御風邪加はりて、かき乱り悩ましく思さるれど、この宮の御事、聞こえ定めつるを、心やすく思しけり。 |
よふけてかへりたまふ。ろくども、つぎつぎにたまふ。べたうだいなごんもおほんおくりにまゐりたまふ。あるじのゐんは、けふのゆきにいとどおほんかぜくははりて、かきみだりなやましくおぼさるれど、このみやのおほんこと、きこえさだめつるを、こころやすくおぼしけり。 |
34 | 4 | 384 | 347 | 第四章 光る源氏の物語 紫の上に打ち明ける |
34 | 4.1 | 385 | 348 | 第一段 源氏、結婚承諾を煩悶す |
34 | 4.1.1 | 386 | 349 |
六条院は、なま心苦しう、さまざま思し乱る。 |
ろくでうのゐんは、なまこころぐるしう、さまざまおぼしみだる。 |
34 | 4.1.2 | 387 | 350 |
紫の上も、かかる御定めなむと、かねてもほの聞きたまひけれど、 |
むらさきのうへも、かかるおほんさだめなんと、かねてもほのききたまひけれど、 |
34 | 4.1.3 | 388 | 351 |
「さしもあらじ。前斎院をも、ねむごろに聞こえたまふやうなりしかど、わざとしも思し遂げずなりにしを」 |
"さしもあらじ。さきのさいゐんをも、ねんごろにきこえたまふやうなりしかど、わざとしもおぼしとげずなりにしを。" |
34 | 4.1.4 | 389 | 352 |
など思して、「さることもやある」とも問ひきこえたまはず、何心もなくておはするに、いとほしく、 |
などおぼして、"さることもやある。"ともとひきこえたまはず、なにごころもなくておはするに、いとほしく、 |
34 | 4.1.5 | 390 | 353 |
「この事をいかに思さむ。わが心はつゆも変はるまじく、さることあらむにつけては、なかなかいとど深さこそまさらめ、見定めたまはざらむほど、いかに思ひ疑ひたまはむ」 |
"このことをいかにおぼさん。わがこころはつゆもかはるまじく、さることあらんにつけては、なかなかいとどふかさこそまさらめ、みさだめたまはざらんほど、いかにおもひうたがひたまはん。" |
34 | 4.1.6 | 391 | 354 |
など安からず思さる。 |
などやすからずおぼさる。 |
34 | 4.1.7 | 392 | 355 |
今の年ごろとなりては、ましてかたみに隔てきこえたまふことなく、あはれなる御仲なれば、しばし心に隔て残したることあらむもいぶせきを、その夜はうち休みて明かしたまひつ。 |
いまのとしごろとなりては、ましてかたみにへだてきこえたまふことなく、あはれなるおほんなかなれば、しばしこころにへだてのこしたることあらんもいぶせきを、そのよはうちやすみてあかしたまひつ。 |
34 | 4.2 | 393 | 356 | 第二段 源氏、紫の上に打ち明ける |
34 | 4.2.1 | 394 | 357 |
またの日、雪うち降り、空のけしきもものあはれに、過ぎにし方行く先の御物語聞こえ交はしたまふ。 |
またのひ、ゆきうちふり、そらのけしきもものあはれに、すぎにしかたゆくさきのおほんものがたりきこえかはしたまふ。 |
34 | 4.2.2 | 395 | 358 |
「院の頼もしげなくなりたまひにたる、御とぶらひに参りて、あはれなることどものありつるかな。女三の宮の御ことを、いと捨てがたげに思して、しかしかなむのたまはせつけしかば、心苦しくて、え聞こえ否びずなりにしを、ことことしくぞ人は言ひなさむかし。 |
"ゐんのたのもしげなくなりたまひにたる、おほんとぶらひにまゐりて、あはれなることどものありつるかな。をんなさんのみやのおほんことを、いとすてがたげにおぼして、しかしかなんのたまはせつけしかば、こころぐるしくて、えきこえいなびずなりにしを、ことことしくぞひとはいひなさんかし。 |
34 | 4.2.3 | 396 | 359 |
今は、さやうのことも初ひ初ひしく、すさまじく思ひなりにたれば、人伝てにけしきばませたまひしには、とかく逃れきこえしを、対面のついでに、心深きさまなることどもを、のたまひ続けしには、えすくすくしくも返さひ申さでなむ。 |
いまは、さやうのこともうひうひしく、すさまじくおもひなりにたれば、ひとづてにけしきばませたまひしには、とかくのがれきこえしを、たいめんのついでに、こころふかきさまなることどもを、のたまひつづけしには、えすくすくしくもかへさひまうさでなん。 |
34 | 4.2.4 | 397 | 360 |
深き御山住みに移ろひたまはむほどにこそは、渡したてまつらめ。あぢきなくや思さるべき。いみじきことありとも、御ため、あるより変はることはさらにあるまじきを、心なおきたまひそよ。 |
ふかきみやまずみにうつろひたまはんほどにこそは、わたしたてまつらめ。あぢきなくやおぼさるべき。いみじきことありとも、おほんため、あるよりかはることはさらにあるまじきを、こころなおきたまひそよ。 |
34 | 4.2.5 | 398 | 361 |
かの御ためこそ、心苦しからめ。それもかたはならずもてなしてむ。誰も誰も、のどかにて過ぐしたまはば」 |
かのおほんためこそ、こころぐるしからめ。それもかたはならずもてなしてん。たれもたれも、のどかにてすぐしたまはば。" |
34 | 4.2.6 | 399 | 362 |
など聞こえたまふ。 |
などきこえたまふ。 |
34 | 4.2.7 | 400 | 363 |
はかなき御すさびごとをだに、めざましきものに思して、心やすからぬ御心ざまなれば、「いかが思さむ」と思すに、いとつれなくて、 |
はかなきおほんすさびごとをだに、めざましきものにおぼして、こころやすからぬみこころざまなれば、"いかがおぼさん。"とおぼすに、いとつれなくて、 |
34 | 4.2.8 | 401 | 364 |
「あはれなる御譲りにこそはあなれ。ここには、いかなる心をおきたてまつるべきにか。めざましく、かくてなど、咎めらるまじくは、心やすくてもはべなむを、かの母女御の御方ざまにても、疎からず思し数まへてむや」 |
"あはれなるおほんゆづりにこそはあなれ。ここには、いかなるこころをおきたてまつるべきにか。めざましく、かくてなど、とがめらるまじくは、こころやすくてもはべなんを、かのははにょうごのおほんかたざまにても、うとからずおぼしかずまへてんや。" |
34 | 4.2.9 | 402 | 365 |
と、卑下したまふを、 |
と、ひげしたまふを、 |
34 | 4.2.10 | 403 | 366 |
「あまり、かう、うちとけたまふ御ゆるしも、いかなればと、うしろめたくこそあれ。まことは、さだに思しゆるいて、われも人も心得て、なだらかにもてなし過ぐしたまはば、いよいよあはれになむ。 |
"あまり、かう、うちとけたまふおほんゆるしも、いかなればと、うしろめたくこそあれ。まことは、さだにおぼしゆるいて、われもひともこころえて、なだらかにもてなしすぐしたまはば、いよいよあはれになん。 |
34 | 4.2.11 | 404 | 367 |
ひがこと聞こえなどせむ人の言、聞き入れたまふな。すべて、世の人の口といふものなむ、誰が言ひ出づることともなく、おのづから人の仲らひなど、うちほほゆがみ、思はずなること出で来るものなるを、心ひとつにしづめて、ありさまに従ふなむよき。まだきに騒ぎて、あいなきもの怨みしたまふな」 |
ひがこときこえなどせんひとのこと、ききいれたまふな。すべて、よのひとのくちといふものなん、たがいひいづることともなく、おのづからひとのなからひなど、うちほほゆがみ、おもはずなることいでくるものなるを、こころひとつにしづめて、ありさまにしたがふなんよき。まだきにさわぎて、あいなきものうらみしたまふな。" |
34 | 4.2.12 | 405 | 368 |
と、いとよく教へきこえたまふ。 |
と、いとよくをしへきこえたまふ。 |
34 | 4.3 | 406 | 369 | 第三段 紫の上の心中 |
34 | 4.3.1 | 407 | 370 |
心のうちにも、 |
こころのうちにも、 |
34 | 4.3.2 | 408 | 371 |
「かく空より出で来にたるやうなることにて、逃れたまひがたきを、憎げにも聞こえなさじ。わが心に憚りたまひ、いさむることに従ひたまふべき、おのがどちの心より起これる懸想にもあらず。せかるべき方なきものから、をこがましく思ひむすぼほるるさま、世人に漏り聞こえじ。 |
"かくそらよりいできにたるやうなることにて、のがれたまひがたきを、にくげにもきこえなさじ。わがこころにはばかりたまひ、いさむることにしたがひたまふべき、おのがどちのこころよりおこれるけさうにもあらず。せかるべきかたなきものから、をこがましくおもひむすぼほるるさま、よひとにもりきこえじ。 |
34 | 4.3.3 | 409 | 372 |
式部卿宮の大北の方、常にうけはしげなることどもをのたまひ出でつつ、あぢきなき大将の御ことにてさへ、あやしく恨み嫉みたまふなるを、かやうに聞きて、いかにいちじるく思ひ合はせたまはむ」 |
しきぶきゃうのみやのおほきたのかた、つねにうけはしげなることどもをのたまひいでつつ、あぢきなきだいしゃうのおほんことにてさへ、あやしくうらみそねみたまふなるを、かやうにききて、いかにいちじるくおもひあはせたまはん。" |
34 | 4.3.4 | 410 | 373 |
など、おいらかなる人の御心といへど、いかでかはかばかりの隈はなからむ。今はさりともとのみ、わが身を思ひ上がり、うらなくて過ぐしける世の、人笑へならむことを、下には思ひ続けたまへど、いとおいらかにのみもてなしたまへり。 |
など、おいらかなるひとのおほんこころといへど、いかでかはかばかりのくまはなからん。いまはさりともとのみ、わがみをおもひあがり、うらなくてすぐしけるよの、ひとわらへならんことを、したにはおもひつづけたまへど、いとおいらかにのみもてなしたまへり。 |
34 | 5 | 411 | 374 | 第五章 光る源氏の物語 玉鬘、源氏の四十の賀を祝う |
34 | 5.1 | 412 | 375 | 第一段 玉鬘、源氏に若菜を献ず |
34 | 5.1.1 | 413 | 376 |
年も返りぬ。朱雀院には、姫宮、六条院に移ろひたまはむ御いそぎをしたまふ。聞こえたまへる人びと、いと口惜しく思し嘆く。内裏にも御心ばへありて、聞こえたまひけるほどに、かかる御定めを聞こし召して、思し止まりにけり。 |
としもかへりぬ。すじゃくゐんには、ひめみや、ろくでうゐんにうつろひたまはんおほんいそぎをしたまふ。きこえたまへるひとびと、いとくちをしくおぼしなげく。うちにもみこころばへありて、きこえたまひけるほどに、かかるおほんさだめをきこしめして、おぼしとまりにけり。 |
34 | 5.1.2 | 414 | 377 |
さるは、今年ぞ四十になりたまひければ、御賀のこと、朝廷にも聞こし召し過ぐさず、世の中の営みにて、かねてより響くを、ことのわづらひ多くいかめしきことは、昔より好みたまはぬ御心にて、皆かへさひ申したまふ。 |
さるは、ことしぞよそぢになりたまひければ、おほんがのこと、おほやけにもきこしめしすぐさず、よのなかのいとなみにて、かねてよりひびくを、ことのわづらひおほくいかめしきことは、むかしよりこのみたまはぬみこころにて、みなかへさひまうしたまふ。 |
34 | 5.1.3 | 415 | 378 |
正月二十三日、子の日なるに、左大将殿の北の方、若菜参りたまふ。かねてけしきも漏らしたまはで、いといたく忍びて思しまうけたりければ、にはかにて、えいさめ返しきこえたまはず。忍びたれど、さばかりの御勢ひなれば、渡りたまふ御儀式など、いと響きことなり。 |
しゃうがつにじふさんにち、ねのひなるに、さだいしゃうどののきたのかた、わかなまゐりたまふ。かねてけしきももらしたまはで、いといたくしのびておぼしまうけたりければ、にはかにて、えいさめかへしきこえたまはず。しのびたれど、さばかりのおほんいきほひなれば、わたりたまふおほんぎしきなど、いとひびきことなり。 |
34 | 5.1.4 | 416 | 379 |
南の御殿の西の放出に御座よそふ。屏風、壁代よりはじめ、新しく払ひしつらはれたり。うるはしく倚子などは立てず、御地敷四十枚、御茵、脇息など、すべてその御具ども、いときよらにせさせたまへり。 |
みなみのおとどのにしのはなちいでにおましよそふ。びゃうぶ、かべしろよりはじめ、あたらしくはらひしつらはれたり。うるはしくいしなどはたてず、おほんぢしきしじふまい、おほんしとね、けふそくなど、すべてそのおほんぐども、いときよらにせさせたまへり。 |
34 | 5.1.5 | 417 | 381 |
螺鈿の御厨子二具に、御衣筥四つ据ゑて、夏冬の御装束。香壺、薬の筥、御硯、ゆする坏、掻上の筥などやうのもの、うちうちきよらを尽くしたまへり。御插頭の台には、沈、紫檀を作り、めづらしきあやめを尽くし、同じき金をも、色使ひなしたる、心ばへあり、今めかしく。 |
らでんのみづしふたよろひに、おほんころもばこよつすゑて、なつふゆのおほんさうぞく。かうご、くすりのはこ、おほんすずり、ゆするつき、かかげのはこなどやうのもの、うちうちきよらをつくしたまへり。おほんかざしのだいには、ぢん、したんをつくり、めづらしきあやめをつくし、おなじきかねをも、いろつかひなしたる、こころばへあり、いまめかしく。 |
34 | 5.1.6 | 418 | 382 |
尚侍の君、もののみやび深く、かどめきたまへる人にて、目馴れぬさまにしなしたまへる、おほかたのことをば、ことさらにことことしからぬほどなり。 |
かんのきみ、もののみやびふかく、かどめきたまへるひとにて、めなれぬさまにしなしたまへる、おほかたのことをば、ことさらにことことしからぬほどなり。 |
34 | 5.2 | 419 | 383 | 第二段 源氏、玉鬘と対面 |
34 | 5.2.1 | 420 | 384 |
人びと参りなどしたまひて、御座に出でたまふとて、尚侍の君に御対面あり。御心のうちには、いにしへ思し出づることもさまざまなりけむかし。 |
ひとびとまゐりなどしたまひて、おましにいでたまふとて、かんのきみにおほんたいめんあり。みこころのうちには、いにしへおぼしいづることもさまざまなりけんかし。 |
34 | 5.2.2 | 421 | 385 |
いと若くきよらにて、かく御賀などいふことは、ひが数へにやと、おぼゆるさまの、なまめかしく、人の親げなくおはしますを、めづらしくて年月隔てて見たてまつりたまふは、いと恥づかしけれど、なほけざやかなる隔てもなくて、御物語聞こえ交はしたまふ。 |
いとわかくきよらにて、かくおほんがなどいふことは、ひがかぞへにやと、おぼゆるさまの、なまめかしく、ひとのおやげなくおはしますを、めづらしくてとしつきへだててみたてまつりたまふは、いとはづかしけれど、なほけざやかなるへだてもなくて、おほんものがたりきこえかはしたまふ。 |
34 | 5.2.3 | 422 | 386 |
幼き君も、いとうつくしくてものしたまふ。尚侍の君は、うち続きても御覧ぜられじとのたまひけるを、大将、かかるついでにだに御覧ぜさせむとて、二人同じやうに、振分髪の何心なき直衣姿どもにておはす。 |
をさなききみも、いとうつくしくてものしたまふ。かんのきみは、うちつづきてもごらんぜられじとのたまひけるを、だいしゃう、かかるついでにだにごらんぜさせんとて、ふたりおなじやうに、ふりわけがみのなにごころなきなほしすがたどもにておはす。 |
34 | 5.2.4 | 423 | 387 |
「過ぐる齢も、みづからの心にはことに思ひとがめられず、ただ昔ながらの若々しきありさまにて、改むることもなきを、かかる末々のもよほしになむ、なまはしたなきまで思ひ知らるる折もはべりける。 |
"すぐるよはひも、みづからのこころにはことにおもひとがめられず、ただむかしながらのわかわかしきありさまにて、あらたむることもなきを、かかるすゑずゑのもよほしになん、なまはしたなきまでおもひしらるるをりもはべりける。 |
34 | 5.2.5 | 424 | 388 |
中納言のいつしかとまうけたなるを、ことことしく思ひ隔てて、まだ見せずかし。人よりことに、数へ取りたまひける今日の子の日こそ、なほうれたけれ。しばしは老を忘れてもはべるべきを」 |
ちゅうなごんのいつしかとまうけたなるを、ことことしくおもひへだてて、まだみせずかし。ひとよりことに、かぞへとりたまひけるけふのねのひこそ、なほうれたけれ。しばしはおいをわすれてもはべるべきを。" |
34 | 5.2.6 | 425 | 389 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
34 | 5.3 | 426 | 390 | 第三段 源氏、玉鬘と和歌を唱和 |
34 | 5.3.1 | 427 | 391 |
尚侍の君も、いとよくねびまさり、ものものしきけさへ添ひて、見るかひあるさましたまへり。 |
かんのきみも、いとよくねびまさり、ものものしきけさへそひて、みるかひあるさましたまへり。 |
34 | 5.3.2 | 428 | 392 |
「若葉さす野辺の小松を引き連れて<BR/>もとの岩根を祈る今日かな」 |
"〔わかばさすのべのこまつをひきつれて<BR/>もとのいはねをいのるけふかな〕 |
34 | 5.3.3 | 429 | 393 |
と、せめておとなび聞こえたまふ。沈の折敷四つして、御若菜さまばかり参れり。御土器取りたまひて、 |
と、せめておとなびきこえたまふ。ぢんのをしきよつして、おほんわかなさまばかりまゐれり。おほんかはらけとりたまひて、 |
34 | 5.3.4 | 430 | 394 |
「小松原末の齢に引かれてや<BR/>野辺の若菜も年を摘むべき」 |
"〔こまつばらすゑのよはひにひかれてや<BR/>のべのわかなもとしをつむべき〕 |
34 | 5.3.5 | 431 | 395 |
など聞こえ交はしたまひて、上達部あまた南の廂に着きたまふ。 |
などきこえかはしたまひて、かんだちめあまたみなみのひさしにつきたまふ。 |
34 | 5.3.6 | 432 | 396 |
式部卿宮は、参りにくく思しけれど、御消息ありけるに、かく親しき御仲らひにて、心あるやうならむも便なくて、日たけてぞ渡りたまへる。 |
しきぶきゃうのみやは、まゐりにくくおぼしけれど、おほんせうそこありけるに、かくしたしきおほんなからひにて、こころあるやうならんもびんなくて、ひたけてぞわたりたまへる。 |
34 | 5.3.7 | 433 | 397 |
大将のしたり顔にて、かかる御仲らひに、うけばりてものしたまふも、げに心やましげなるわざなめれど、御孫の君たちは、いづ方につけても、おり立ちて雑役したまふ。籠物四十枝、折櫃物四十。中納言をはじめたてまつりて、さるべき限り取り続きたまへり。御土器くだり、若菜の御羹参る。御前には、沈の懸盤四つ、御坏どもなつかしく、今めきたるほどにせられたり。 |
だいしゃうのしたりがほにて、かかるおほんなからひに、うけばりてものしたまふも、げにこころやましげなるわざなめれど、おほんまごのきみたちは、いづかたにつけても、おりたちてざふやくしたまふ。こものよそえだ、をりびつものよそぢ。ちゅうなごんをはじめたてまつりて、さるべきかぎりとりつづきたまへり。おほんかはらけくだり、わかなのおほんあつものまゐる。おまへには、ぢんのかけばんよつ、おほんつきどもなつかしく、いまめきたるほどにせられたり。 |
34 | 5.4 | 434 | 398 | 第四段 管弦の遊び催す |
34 | 5.4.1 | 435 | 399 |
朱雀院の御薬のこと、なほたひらぎ果てたまはぬにより、楽人などは召さず。御笛など、太政大臣の、その方は整へたまひて、 |
すじゃくゐんのおほんくすりのこと、なほたひらぎはてたまはぬにより、がくにんなどはめさず。おほんふえなど、おほきおとどの、そのかたはととのへたまひて、 |
34 | 5.4.2 | 436 | 400 |
「世の中に、この御賀よりまためづらしくきよら尽くすべきことあらじ」 |
"よのなかに、このおほんがよりまためづらしくきよらつくすべきことあらじ。" |
34 | 5.4.3 | 437 | 401 |
とのたまひて、すぐれたる音の限りを、かねてより思しまうけたりければ、忍びやかに御遊びあり。 |
とのたまひて、すぐれたるねのかぎりを、かねてよりおぼしまうけたりければ、しのびやかにおほんあそびあり。 |
34 | 5.4.4 | 438 | 402 |
とりどりにたてまつる中に、和琴は、かの大臣の第一に秘したまひける御琴なり。さるものの上手の、心をとどめて弾き馴らしたまへる音、いと並びなきを、異人は掻きたてにくくしたまへば、衛門督の固く否ぶるを責めたまへば、げにいとおもしろく、をさをさ劣るまじく弾く。 |
とりどりにたてまつるなかに、わごんは、かのおとどのだいいちにひしたまひけるおほんことなり。さるもののじゃうずの、こころをとどめてひきならしたまへるね、いとならびなきを、ことびとはかきたてにくくしたまへば、ゑもんのかみのかたくいなぶるをせめたまへば、げにいとおもしろく、をさをさおとるまじくひく。 |
34 | 5.4.5 | 439 | 403 |
「何ごとも、上手の嗣といひながら、かくしもえ継がぬわざぞかし」と、心にくくあはれに人びと思す。調べに従ひて、跡ある手ども、定まれる唐土の伝へどもは、なかなか尋ね知るべき方あらはなるを、心にまかせて、ただ掻き合はせたるすが掻きに、よろづの物の音調へられたるは、妙におもしろく、あやしきまで響く。 |
"なにごとも、じゃうずのつぎといひながら、かくしもえつがぬわざぞかし。"と、こころにくくあはれにひとびとおぼす。しらべにしたがひて、あとあるてども、さだまれるもろこしのつたへどもは、なかなかたづねしるべきかたあらはなるを、こころにまかせて、ただかきあはせたるすががきに、よろづのもののねととのへられたるは、たへにおもしろく、あやしきまでひびく。 |
34 | 5.4.6 | 440 | 404 |
父大臣は、琴の緒もいと緩に張りて、いたう下して調べ、響き多く合はせてぞ掻き鳴らしたまふ。これは、いとわららかに昇る音の、なつかしく愛敬づきたるを、「いとかうしもは聞こえざりしを」と、親王たちも驚きたまふ。 |
ちちおとどは、ことのをもいとゆるにはりて、いたうくだしてしらべ、ひびきおほくあはせてぞかきならしたまふ。これは、いとわららかにのぼるねの、なつかしくあいぎゃうづきたるを、"いとかうしもはきこえざりしを。"と、みこたちもおどろきたまふ。 |
34 | 5.4.7 | 441 | 405 |
琴は、兵部卿宮弾きたまふ。この御琴は、宜陽殿の御物にて、代々に第一の名ありし御琴を、故院の末つ方、一品宮の好みたまふことにて、賜はりたまへりけるを、この折のきよらを尽くしたまはむとするため、大臣の申し賜はりたまへる御伝へ伝へを思すに、いとあはれに、昔のことも恋しく思し出でらる。 |
きんは、ひゃうぶきゃうのみやひきたまふ。このおほんことは、ぎやうでんのおほんものにて、だいだいにだいいちのなありしおほんことを、こゐんのすゑつかた、いつぽんのみやのこのみたまふことにて、たまはりたまへりけるを、このをりのきよらをつくしたまはんとするため、おとどのまうしたまはりたまへるおほんつたへつたへをおぼすに、いとあはれに、むかしのこともこひしくおぼしいでらる。 |
34 | 5.4.8 | 442 | 406 |
親王も、酔ひ泣きえとどめたまはず。御けしきとりたまひて、琴は御前に譲りきこえさせたまふ。もののあはれにえ過ぐしたまはで、めづらしきもの一つばかり弾きたまふに、ことことしからねど、限りなくおもしろき夜の御遊びなり。 |
みこも、ゑひなきえとどめたまはず。みけしきとりたまひて、きんはおまへにゆづりきこえさせたまふ。もののあはれにえすぐしたまはで、めづらしきものひとつばかりひきたまふに、ことことしからねど、かぎりなくおもしろきよのおほんあそびなり。 |
34 | 5.4.9 | 443 | 407 |
唱歌の人びと御階に召して、すぐれたる声の限り出だして、返り声になる。夜の更け行くままに、物の調べども、なつかしく変はりて、「青柳」遊びたまふほど、げに、ねぐらの鴬おどろきぬべく、いみじくおもしろし。私事のさまにしなしたまひて、禄など、いと警策にまうけられたりけり。 |
さうがのひとびとみはしにめして、すぐれたるこゑのかぎりいだして、かへりごゑになる。よのふけゆくままに、もののしらべども、なつかしくかはりて、〔あをやぎ〕あそびたまふほど、げに、ねぐらのうぐひすおどろきぬべく、いみじくおもしろし。わたくしごとのさまにしなしたまひて、ろくなど、いときゃうさくにまうけられたりけり。 |
34 | 5.5 | 444 | 408 | 第五段 暁に玉鬘帰る |
34 | 5.5.1 | 445 | 409 |
暁に、尚侍君帰りたまふ。御贈り物などありけり。 |
あかつきに、かんのきみかへりたまふ。おほんおくりものなどありけり。 |
34 | 5.5.2 | 446 | 410 |
「かう世を捨つるやうにて明かし暮らすほどに、年月の行方も知らず顔なるを、かう数へ知らせたまへるにつけては、心細くなむ。 |
"かうよをすつるやうにてあかしくらすほどに、としつきのゆくへもしらずがほなるを、かうかぞへしらせたまへるにつけては、こころぼそくなん。 |
34 | 5.5.3 | 447 | 411 |
時々は、老いやまさると見たまひ比べよかし。かく古めかしき身の所狭さに、思ふに従ひて対面なきも、いと口惜しくなむ」 |
ときどきは、おいやまさるとみたまひくらべよかし。かくふるめかしきみのところせさに、おもふにしたがひてたいめんなきも、いとくちをしくなん。" |
34 | 5.5.4 | 448 | 412 |
など聞こえたまひて、あはれにもをかしくも、思ひ出できこえたまふことなきにしもあらねば、なかなかほのかにて、かく急ぎ渡りたまふを、いと飽かず口惜しくぞ思されける。 |
などきこえたまひて、あはれにもをかしくも、おもひいできこえたまふことなきにしもあらねば、なかなかほのかにて、かくいそぎわたりたまふを、いとあかずくちをしくぞおぼされける。 |
34 | 5.5.5 | 449 | 413 |
尚侍の君も、まことの親をばさるべき契りばかりに思ひきこえたまひて、ありがたくこまかなりし御心ばへを、年月に添へて、かく世に住み果てたまふにつけても、おろかならず思ひきこえたまひけり。 |
かんのきみも、まことのおやをばさるべきちぎりばかりにおもひきこえたまひて、ありがたくこまかなりしみこころばへを、としつきにそへて、かくよにすみはてたまふにつけても、おろかならずおもひきこえたまひけり。 |
34 | 6 | 450 | 414 | 第六章 光る源氏の物語 女三の宮の六条院降嫁 |
34 | 6.1 | 451 | 415 | 第一段 女三の宮、六条院に降嫁 |
34 | 6.1.1 | 452 | 416 |
かくて、如月の十余日に、朱雀院の姫宮、六条院へ渡りたまふ。この院にも、御心まうけ世の常ならず。若菜参りし西の放出に御帳立てて、そなたの一、二の対、渡殿かけて、女房の局々まで、こまかにしつらひ磨かせたまへり。内裏に参りたまふ人の作法をまねびて、かの院よりも御調度など運ばる。渡りたまふ儀式、言へばさらなり。 |
かくて、きさらぎのとをよかに、すじゃくゐんのひめみや、ろくでうゐんへわたりたまふ。このゐんにも、みこころまうけよのつねならず。わかなまゐりしにしのはなちいでにみちゃうたてて、そなたのいち、にのたい、わたどのかけて、にょうばうのつぼねつぼねまで、こまかにしつらひみがかせたまへり。うちにまゐりたまふひとのさほふをまねびて、かのゐんよりもみてうどなどはこばる。わたりたまふぎしき、いへばさらなり。 |
34 | 6.1.2 | 453 | 417 |
御送りに、上達部などあまた参りたまふ。かの家司望みたまひし大納言も、やすからず思ひながらさぶらひたまふ。御車寄せたる所に、院渡りたまひて、下ろしたてまつりたまふなども、例には違ひたることどもなり。 |
おほんおくりに、かんだちめなどあまたまゐりたまふ。かのけいしのぞみたまひしだいなごんも、やすからずおもひながらさぶらひたまふ。おほんくるまよせたるところに、ゐんわたりたまひて、おろしたてまつりたまふなども、れいにはたがひたることどもなり。 |
34 | 6.1.3 | 454 | 418 |
ただ人におはすれば、よろづのこと限りありて、内裏参りにも似ず、婿の大君といはむにもこと違ひて、めづらしき御仲のあはひどもになむ。 |
ただうどにおはすれば、よろづのことかぎりありて、うちまゐりにもにず、むこのおほきみといはんにもことたがひて、めづらしきおほんなかのあはひどもになん。 |
34 | 6.2 | 455 | 419 | 第二段 結婚の儀盛大に催さる |
34 | 6.2.1 | 456 | 420 |
三日がほど、かの院よりも、主人の院方よりも、いかめしくめづらしきみやびを尽くしたまふ。 |
みかがほど、かのゐんよりも、あるじのゐんかたよりも、いかめしくめづらしきみやびをつくしたまふ。 |
34 | 6.2.2 | 457 | 421 |
対の上も、ことに触れてただにも思されぬ世のありさまなり。げに、かかるにつけて、こよなく人に劣り消たるることもあるまじけれど、また並ぶ人なくならひたまひて、はなやかに生ひ先遠く、あなづりにくきけはひにて移ろひたまへるに、なまはしたなく思さるれど、つれなくのみもてなして、御渡りのほども、もろ心にはかなきこともし出でたまひて、いとらうたげなる御ありさまを、いとどありがたしと思ひきこえたまふ。 |
たいのうへも、ことにふれてただにもおぼされぬよのありさまなり。げに、かかるにつけて、こよなくひとにおとりけたるることもあるまじけれど、またならぶひとなくならひたまひて、はなやかにおひさきとほく、あなづりにくきけはひにてうつろひたまへるに、なまはしたなくおぼさるれど、つれなくのみもてなして、おほんわたりのほども、もろこころにはかなきこともしいでたまひて、いとらうたげなるおほんありさまを、いとどありがたしとおもひきこえたまふ。 |
34 | 6.2.3 | 458 | 422 |
姫宮は、げに、まだいと小さく、片なりにおはするうちにも、いといはけなきけしきして、ひたみちに若びたまへり。 |
ひめみやは、げに、まだいとちひさく、かたなりにおはするうちにも、いといはけなきけしきして、ひたみちにわかびたまへり。 |
34 | 6.2.4 | 459 | 423 |
かの紫のゆかり尋ね取りたまへりし折思し出づるに、 |
かのむらさきのゆかりたづねとりたまへりしをりおぼしいづるに、 |
34 | 6.2.5 | 460 | 424 |
「かれはされていふかひありしを、これは、いといはけなくのみ見えたまへば、よかめり。憎げにおしたちたることなどはあるまじかめり」 |
"かれはされていふかひありしを、これは、いといはけなくのみみえたまへば、よかめり。にくげにおしたちたることなどはあるまじかめり。" |
34 | 6.2.6 | 461 | 425 |
と思すものから、「いとあまりものの栄なき御さまかな」と見たてまつりたまふ。 |
とおぼすものから、"いとあまりもののはえなきおほんさまかな。"とみたてまつりたまふ。 |
34 | 6.3 | 462 | 426 | 第三段 源氏、結婚を後悔 |
34 | 6.3.1 | 463 | 427 |
三日がほどは、夜離れなく渡りたまふを、年ごろさもならひたまはぬ心地に、忍ぶれど、なほものあはれなり。御衣どもなど、いよいよ薫きしめさせたまふものから、うち眺めてものしたまふけしき、いみじくらうたげにをかし。 |
みかがほどは、よがれなくわたりたまふを、としごろさもならひたまはぬここちに、しのぶれど、なほものあはれなり。おほんぞどもなど、いよいよたきしめさせたまふものから、うちながめてものしたまふけしき、いみじくらうたげにをかし。 |
34 | 6.3.2 | 464 | 428 |
「などて、よろづのことありとも、また人をば並べて見るべきぞ。あだあだしく、心弱くなりおきにけるわがおこたりに、かかることも出で来るぞかし。若けれど、中納言をばえ思しかけずなりぬめりしを」 |
"などて、よろづのことありとも、またひとをばならべてみるべきぞ。あだあだしく、こころよわくなりおきにけるわがおこたりに、かかることもいでくるぞかし。わかけれど、ちゅうなごんをばえおぼしかけずなりぬめりしを。" |
34 | 6.3.3 | 465 | 429 |
と、われながらつらく思し続くるに、涙ぐまれて、 |
と、われながらつらくおぼしつづくるに、なみだぐまれて、 |
34 | 6.3.4 | 466 | 430 |
「今宵ばかりは、ことわりと許したまひてむな。これより後のとだえあらむこそ、身ながらも心づきなかるべけれ。また、さりとて、かの院に聞こし召さむことよ」 |
"こよひばかりは、ことわりとゆるしたまひてんな。これよりのちのとだえあらんこそ、みながらもこころづきなかるべけれ。また、さりとて、かのゐんにきこしめさんことよ。" |
34 | 6.3.5 | 467 | 431 |
と、思ひ乱れたまへる御心のうち、苦しげなり。すこしほほ笑みて、 |
と、おもひみだれたまへるみこころのうち、くるしげなり。すこしほほゑみて、 |
34 | 6.3.6 | 468 | 432 |
「みづからの御心ながらだに、え定めたまふまじかなるを、ましてことわりも何も、いづこにとまるべきにか」 |
"みづからのみこころながらだに、えさだめたまふまじかなるを、ましてことわりもなにも、いづこにとまるべきにか。" |
34 | 6.3.7 | 469 | 433 |
と、いふかひなげにとりなしたまへば、恥づかしうさへおぼえたまひて、つらづゑをつきたまひて、寄り臥したまへれば、硯を引き寄せたまひて、 |
と、いふかひなげにとりなしたまへば、はづかしうさへおぼえたまひて、つらづゑをつきたまひて、よりふしたまへれば、すずりをひきよせたまひて、 |
34 | 6.3.8 | 470 | 434 |
「目に近く移れば変はる世の中を<BR/>行く末遠く頼みけるかな」 |
"〔めにちかくうつればかはるよのなかを<BR/>ゆくすゑとほくたのみけるかな〕 |
34 | 6.3.9 | 471 | 435 |
古言など書き交ぜたまふを、取りて見たまひて、はかなき言なれど、げにと、ことわりにて、 |
ふることなどかきまぜたまふを、とりてみたまひて、はかなきことなれど、げにと、ことわりにて、 |
34 | 6.3.10 | 472 | 436 |
「命こそ絶ゆとも絶えめ定めなき<BR/>世の常ならぬ仲の契りを」 |
"〔いのちこそたゆともたえめさだめなき<BR/>よのつねならぬなかのちぎりを〕 |
34 | 6.3.11 | 473 | 437 |
とみにもえ渡りたまはぬを、 |
とみにもえわたりたまはぬを、 |
34 | 6.3.12 | 474 | 438 |
「いとかたはらいたきわざかな」 |
"いとかたはらいたきわざかな。" |
34 | 6.3.13 | 475 | 439 |
と、そそのかしきこえたまへば、なよよかにをかしきほどに、えならず匂ひて渡りたまふを、見出だしたまふも、いとただにはあらずかし。 |
と、そそのかしきこえたまへば、なよよかにをかしきほどに、えならずにほひてわたりたまふを、みいだしたまふも、いとただにはあらずかし。 |
34 | 6.4 | 476 | 440 | 第四段 紫の上、眠れぬ夜を過ごす |
34 | 6.4.1 | 477 | 441 |
年ごろ、さもやあらむと思ひしことどもも、今はとのみもて離れたまひつつ、さらばかくにこそはとうちとけゆく末に、ありありて、かく世の聞き耳もなのめならぬことの出で来ぬるよ。思ひ定むべき世のありさまにもあらざりければ、今より後もうしろめたくぞ思しなりぬる。 |
としごろ、さもやあらんとおもひしことどもも、いまはとのみもてはなれたまひつつ、さらばかくにこそはとうちとけゆくすゑに、ありありて、かくよのききみみもなのめならぬことのいできぬるよ。おもひさだむべきよのありさまにもあらざりければ、いまよりのちもうしろめたくぞおぼしなりぬる。 |
34 | 6.4.2 | 478 | 442 |
さこそつれなく紛らはしたまへど、さぶらふ人びとも、 |
さこそつれなくまぎらはしたまへど、さぶらふひとびとも、 |
34 | 6.4.3 | 479 | 443 |
「思はずなる世なりや。あまたものしたまふやうなれど、いづ方も、皆こなたの御けはひにはかたさり憚るさまにて過ぐしたまへばこそ、ことなくなだらかにもあれ、おしたちてかばかりなるありさまに、消たれてもえ過ぐしたまふまじ」 |
"おもはずなるよなりや。あまたものしたまふやうなれど、いづかたも、みなこなたのおほんけはひにはかたさりはばかるさまにてすぐしたまへばこそ、ことなくなだらかにもあれ、おしたちてかばかりなるありさまに、けたれてもえすぐしたまふまじ。" |
34 | 6.4.4 | 480 | 444 |
「また、さりとて、はかなきことにつけても、安からぬことのあらむ折々、かならずわづらはしきことども出で来なむかし」 |
"また、さりとて、はかなきことにつけても、やすからぬことのあらんをりをり、かならずわづらはしきことどもいできなんかし。" |
34 | 6.4.5 | 481 | 445 |
など、おのがじしうち語らひ嘆かしげなるを、つゆも見知らぬやうに、いとけはひをかしく物語などしたまひつつ、夜更くるまでおはす。 |
など、おのがじしうちかたらひなげかしげなるを、つゆもみしらぬやうに、いとけはひをかしくものがたりなどしたまひつつ、よふくるまでおはす。 |
34 | 6.5 | 482 | 446 | 第五段 六条院の女たち、紫の上に同情 |
34 | 6.5.1 | 483 | 447 |
かう人のただならず言ひ思ひたるも、聞きにくしと思して、 |
かうひとのただならずいひおもひたるも、ききにくしとおぼして、 |
34 | 6.5.2 | 484 | 448 |
「かく、これかれあまたものしたまふめれど、御心にかなひて、今めかしくすぐれたる際にもあらずと、目馴れてさうざうしく思したりつるに、この宮のかく渡りたまへるこそ、めやすけれ。 |
"かく、これかれあまたものしたまふめれど、みこころにかなひて、いまめかしくすぐれたるきはにもあらずと、めなれてさうざうしくおぼしたりつるに、このみやのかくわたりたまへるこそ、めやすけれ。 |
34 | 6.5.3 | 485 | 449 |
なほ、童心の失せぬにやあらむ、われも睦びきこえてあらまほしきを、あいなく隔てあるさまに人びとやとりなさむとすらむ。ひとしきほど、劣りざまなど思ふ人にこそ、ただならず耳たつことも、おのづから出で来るわざなれ、かたじけなく、心苦しき御ことなめれば、いかで心おかれたてまつらじとなむ思ふ」 |
なほ、わらはごころのうせぬにやあらん、われもむつびきこえてあらまほしきを、あいなくへだてあるさまにひとびとやとりなさんとすらん。ひとしきほど、おとりざまなどおもふひとにこそ、ただならずみみたつことも、おのづからいでくるわざなれ、かたじけなく、こころぐるしきおほんことなめれば、いかでこころおかれたてまつらじとなんおもふ。" |
34 | 6.5.4 | 486 | 450 |
などのたまへば、中務、中将の君などやうの人びと、目をくはせつつ、 |
などのたまへば、なかつかさ、ちゅうじゃうのきみなどやうのひとびと、めをくはせつつ、 |
34 | 6.5.5 | 487 | 451 |
「あまりなる御思ひやりかな」 |
"あまりなるおほんおもひやりかな。" |
34 | 6.5.6 | 488 | 452 |
など言ふべし。昔は、ただならぬさまに使ひならしたまひし人どもなれど、年ごろはこの御方にさぶらひて、皆心寄せきこえたるなめり。 |
などいふべし。むかしは、ただならぬさまにつかひならしたまひしひとどもなれど、としごろはこのおほんかたにさぶらひて、みなこころよせきこえたるなめり。 |
34 | 6.5.7 | 489 | 453 |
異御方々よりも、 |
ことおほんかたがたよりも、 |
34 | 6.5.8 | 490 | 454 |
「いかに思すらむ。もとより思ひ離れたる人びとは、なかなか心安きを」 |
"いかにおぼすらん。もとよりおもひはなれたるひとびとは、なかなかこころやすきを。" |
34 | 6.5.9 | 491 | 455 |
など、おもむけつつ、とぶらひきこえたまふもあるを、 |
など、おもむけつつ、とぶらひきこえたまふもあるを、 |
34 | 6.5.10 | 492 | 456 |
「かく推し量る人こそ、なかなか苦しけれ。世の中もいと常なきものを、などてかさのみは思ひ悩まむ」 |
"かくおしはかるひとこそ、なかなかくるしけれ。よのなかもいとつねなきものを、などてかさのみはおもひなやまん。" |
34 | 6.5.11 | 493 | 457 |
など思す。 |
などおぼす。 |
34 | 6.5.12 | 494 | 458 |
あまり久しき宵居も、例ならず人やとがめむと、心の鬼に思して、入りたまひぬれば、御衾参りぬれど、げにかたはらさびしき夜な夜な経にけるも、なほ、ただならぬ心地すれど、かの須磨の御別れの折などを思し出づれば、 |
あまりひさしきよひゐも、れいならずひとやとがめんと、こころのおににおぼして、いりたまひぬれば、おほんふすままゐりぬれど、げにかたはらさびしきよなよなへにけるも、なほ、ただならぬここちすれど、かのすまのおほんわかれのをりなどをおぼしいづれば、 |
34 | 6.5.13 | 495 | 459 |
「今はと、かけ離れたまひても、ただ同じ世のうちに聞きたてまつらましかばと、わが身までのことはうち置き、あたらしく悲しかりしありさまぞかし。さて、その紛れに、われも人も命堪へずなりなましかば、いふかひあらまし世かは」 |
"いまはと、かけはなれたまひても、ただおなじよのうちにききたてまつらましかばと、わがみまでのことはうちおき、あたらしくかなしかりしありさまぞかし。さて、そのまぎれに、われもひともいのちたへずなりなましかば、いふかひあらましよかは。" |
34 | 6.5.14 | 496 | 460 |
と思し直す。 |
とおぼしなほす。 |
34 | 6.5.15 | 497 | 461 |
風うち吹きたる夜のけはひ冷やかにて、ふとも寝入られたまはぬを、近くさぶらふ人びと、あやしとや聞かむと、うちも身じろきたまはぬも、なほいと苦しげなり。夜深き鶏の声の聞こえたるも、ものあはれなり。 |
かぜうちふきたるよのけはひひややかにて、ふともねいられたまはぬを、ちかくさぶらふひとびと、あやしとやきかんと、うちもみじろきたまはぬも、なほいとくるしげなり。よぶかきとりのこゑのきこえたるも、ものあはれなり。 |
34 | 6.6 | 498 | 462 | 第六段 源氏、夢に紫の上を見る |
34 | 6.6.1 | 499 | 463 |
わざとつらしとにはあらねど、かやうに思ひ乱れたまふけにや、かの御夢に見えたまひければ、うちおどろきたまひて、いかにと心騒がしたまふに、鶏の音待ち出でたまへれば、夜深きも知らず顔に、急ぎ出でたまふ。いといはけなき御ありさまなれば、乳母たち近くさぶらひけり。 |
わざとつらしとにはあらねど、かやうにおもひみだれたまふけにや、かのおほんゆめにみえたまひければ、うちおどろきたまひて、いかにとこころさわがしたまふに、とりのねまちいでたまへれば、よぶかきもしらずがほに、いそぎいでたまふ。いといはけなきおほんありさまなれば、めのとたちちかくさぶらひけり。 |
34 | 6.6.2 | 500 | 465 |
妻戸押し開けて出でたまふを、見たてまつり送る。明けぐれの空に、雪の光見えておぼつかなし。名残までとまれる御匂ひ、 |
つまどおしあけていでたまふを、みたてまつりおくる。あけぐれのそらに、ゆきのひかりみえておぼつかなし。なごりまでとまれるおほんにほひ、 |
34 | 6.6.3 | 501 | 466 |
「闇はあやなし」 |
"〔やみはあやなし〕 |
34 | 6.6.4 | 502 | 467 |
と独りごたる。 |
とひとりごたる。 |
34 | 6.6.5 | 503 | 468 |
雪は所々消え残りたるが、いと白き庭の、ふとけぢめ見えわかれぬほどなるに、 |
ゆきはところどころきえのこりたるが、いとしろきにはの、ふとけぢめみえわかれぬほどなるに、 |
34 | 6.6.6 | 504 | 469 |
「なほ残れる雪」 |
"〔なほのこれるゆき〕" |
34 | 6.6.7 | 505 | 470 |
と忍びやかに口ずさびたまひつつ、御格子うち叩きたまふも、久しくかかることなかりつるならひに、人びとも空寝をしつつ、やや待たせたてまつりて、引き上げたり。 |
としのびやかにくちずさびたまひつつ、みかうしうちたたきたまふも、ひさしくかかることなかりつるならひに、ひとびともそらねをしつつ、ややまたせたてまつりて、ひきあげたり。 |
34 | 6.6.8 | 506 | 471 |
「こよなく久しかりつるに、身も冷えにけるは。懼ぢきこゆる心のおろかならぬにこそあめれ。さるは、罪もなしや」 |
"こよなくひさしかりつるに、みもひえにけるは。おぢきこゆるこころのおろかならぬにこそあめれ。さるは、つみもなしや。" |
34 | 6.6.9 | 507 | 472 |
とて、御衣ひきやりなどしたまふに、すこし濡れたる御単衣の袖をひき隠して、うらもなくなつかしきものから、うちとけてはたあらぬ御用意など、いと恥づかしげにをかし。 |
とて、おほんぞひきやりなどしたまふに、すこしぬれたるおほんひとへのそでをひきかくして、うらもなくなつかしきものから、うちとけてはたあらぬおほんよういなど、いとはづかしげにをかし。 |
34 | 6.6.10 | 508 | 473 |
「限りなき人と聞こゆれど、難かめる世を」 |
"かぎりなきひとときこゆれど、かたかめるよを。" |
34 | 6.6.11 | 509 | 474 |
と、思し比べらる。 |
と、おぼしくらべらる。 |
34 | 6.6.12 | 510 | 475 |
よろづいにしへのことを思し出でつつ、とけがたき御けしきを怨みきこえたまひて、その日は暮らしたまひつれば、え渡りたまはで、寝殿には御消息を聞こえたまふ。 |
よろづいにしへのことをおぼしいでつつ、とけがたきみけしきをうらみきこえたまひて、そのひはくらしたまひつれば、えわたりたまはで、しんでんにはおほんせうそこをきこえたまふ。 |
34 | 6.6.13 | 511 | 476 |
「今朝の雪に心地あやまりて、いと悩ましくはべれば、心安き方にためらひはべる」 |
"けさのゆきにここちあやまりて、いとなやましくはべれば、こころやすきかたにためらひはべる。" |
34 | 6.6.14 | 512 | 477 |
とあり。御乳母、 |
とあり。おほんめのと、 |
34 | 6.6.15 | 513 | 478 |
「さ聞こえさせはべりぬ」 |
"さきこえさせはべりぬ。" |
34 | 6.6.16 | 514 | 479 |
とばかり、言葉に聞こえたり。 |
とばかり、ことばにきこえたり。 |
34 | 6.6.17 | 515 | 480 |
「異なることなの御返りや」と思す。「院に聞こし召さむこともいとほし。このころばかりつくろはむ」と思せど、えさもあらぬを、「さは思ひしことぞかし。あな苦し」と、みづから思ひ続けたまふ。 |
"ことなることなのおほんかへりや。"とおぼす。"ゐんにきこしめさんこともいとほし。このころばかりつくろはん。"とおぼせど、えさもあらぬを、"さはおもひしことぞかし。あなくるし。"と、みづからおもひつづけたまふ。 |
34 | 6.6.18 | 516 | 481 |
女君も、「思ひやりなき御心かな」と、苦しがりたまふ。 |
をんなぎみも、"おもひやりなきおほんこころかな。"と、くるしがりたまふ。 |
34 | 6.7 | 517 | 482 | 第七段 源氏、女三の宮と和歌を贈答 |
34 | 6.7.1 | 518 | 483 |
今朝は、例のやうに大殿籠もり起きさせたまひて、宮の御方に御文たてまつれたまふ。ことに恥づかしげもなき御さまなれど、御筆などひきつくろひて、白き紙に、 |
けさは、れいのやうにおほとのごもりおきさせたまひて、みやのおほんかたにおほんふみたてまつれたまふ。ことにはづかしげもなきおほんさまなれど、おほんふでなどひきつくろひて、しろきかみに、 |
34 | 6.7.2 | 519 | 484 |
「中道を隔つるほどはなけれども<BR/>心乱るる今朝のあは雪」 |
"〔なかみちをへだつるほどはなけれども<BR/>こころみだるるけさのあはゆき〕" |
34 | 6.7.3 | 520 | 485 |
梅に付けたまへり。人召して、 |
むめにつけたまへり。ひとめして、 |
34 | 6.7.4 | 521 | 486 |
「西の渡殿よりたてまつらせよ」 |
"にしのわたどのよりたてまつらせよ。" |
34 | 6.7.5 | 522 | 487 |
とのたまふ。やがて見出だして、端近くおはします。白き御衣どもを着たまひて、花をまさぐりたまひつつ、「友待つ雪」のほのかに残れる上に、うち散り添ふ空を眺めたまへり。鴬の若やかに、近き紅梅の末にうち鳴きたるを、 |
とのたまふ。やがてみいだして、はしちかくおはします。しろきおほんぞどもをきたまひて、はなをまさぐりたまひつつ、〔ともまつゆき〕のほのかにのこれるうへに、うちちりそふそらをながめたまへり。うぐひすのわかやかに、ちかきこうばいのすゑにうちなきたるを、 |
34 | 6.7.6 | 523 | 488 |
「袖こそ匂へ」 |
"〔そでこそにほへ〕 |
34 | 6.7.7 | 524 | 489 |
と花をひき隠して、御簾押し上げて眺めたまへるさま、夢にも、かかる人の親にて、重き位と見えたまはず、若うなまめかしき御さまなり。 |
とはなをひきかくして、みすおしあげてながめたまへるさま、ゆめにも、かかるひとのおやにて、おもきくらゐとみえたまはず、わかうなまめかしきおほんさまなり。 |
34 | 6.7.8 | 525 | 490 |
御返り、すこしほど経る心地すれば、入りたまひて、女君に花見せたてまつりたまふ。 |
おほんかへり、すこしほどふるここちすれば、いりたまひて、をんなぎみにはなみせたてまつりたまふ。 |
34 | 6.7.9 | 526 | 491 |
「花といはば、かくこそ匂はまほしけれな。桜に移しては、また塵ばかりも心分くる方なくやあらまし」 |
"はなといはば、かくこそにほはまほしけれな。さくらにうつしては、またちりばかりもこころわくるかたなくやあらまし。" |
34 | 6.7.10 | 527 | 492 |
などのたまふ。 |
などのたまふ。 |
34 | 6.7.11 | 528 | 493 |
「これも、あまた移ろはぬほど、目とまるにやあらむ。花の盛りに並べて見ばや」 |
"これも、あまたうつろはぬほど、めとまるにやあらん。はなのさかりにならべてみばや。" |
34 | 6.7.12 | 529 | 494 |
などのたまふに、御返りあり。紅の薄様に、あざやかにおし包まれたるを、胸つぶれて、御手のいと若きを、 |
などのたまふに、おほんかへりあり。くれなゐのうすやうに、あざやかにおしつつまれたるを、むねつぶれて、おほんてのいとわかきを、 |
34 | 6.7.13 | 530 | 495 |
「しばし見せたてまつらであらばや。隔つとはなけれど、あはあはしきやうならむは、人のほどかたじけなし」 |
"しばしみせたてまつらであらばや。へだつとはなけれど、あはあはしきやうならんは、ひとのほどかたじけなし。" |
34 | 6.7.14 | 531 | 496 |
と思すに、ひき隠したまはむも心おきたまふべければ、かたそば広げたまへるを、しりめに見おこせて添ひ臥したまへり。 |
とおぼすに、ひきかくしたまはんもこころおきたまふべければ、かたそばひろげたまへるを、しりめにみおこせてそひふしたまへり。 |
34 | 6.7.15 | 532 | 497 |
「はかなくてうはの空にぞ消えぬべき<BR/>風にただよふ春のあは雪」 |
"〔はかなくてうはのそらにぞきえぬべき<BR/>かぜにただよふはるのあはゆき〕" |
34 | 6.7.16 | 533 | 498 |
御手、げにいと若く幼げなり。「さばかりのほどになりぬる人は、いとかくはおはせぬものを」と、目とまれど、見ぬやうに紛らはして、止みたまひぬ。 |
おほんて、げにいとわかくをさなげなり。"さばかりのほどになりぬるひとは、いとかくはおはせぬものを。"と、めとまれど、みぬやうにまぎらはして、やみたまひぬ。 |
34 | 6.7.17 | 534 | 499 |
異人の上ならば、「さこそあれ」などは、忍びて聞こえたまふべけれど、いとほしくて、ただ、 |
ことひとのうへならば、"さこそあれ。"などは、しのびてきこえたまふべけれど、いとほしくて、ただ、 |
34 | 6.7.18 | 535 | 500 |
「心安くを、思ひなしたまへ」 |
"こころやすくを、おもひなしたまへ。" |
34 | 6.7.19 | 536 | 501 |
とのみ聞こえたまふ。 |
とのみきこえたまふ。 |
34 | 6.8 | 537 | 502 | 第八段 源氏、昼に宮の方に出向く |
34 | 6.8.1 | 538 | 503 |
今日は、宮の御方に昼渡りたまふ。心ことにうち化粧じたまへる御ありさま、今見たてまつる女房などは、まして見るかひありと思ひきこゆらむかし。御乳母などやうの老いしらへる人びとぞ、 |
けふは、みやのおほんかたにひるわたりたまふ。こころことにうちけさうじたまへるおほんありさま、いまみたてまつるにょうばうなどは、ましてみるかひありとおもひきこゆらんかし。おほんめのとなどやうのおいしらへるひとびとぞ、 |
34 | 6.8.2 | 539 | 504 |
「いでや。この御ありさま一所こそめでたけれ、めざましきことはありなむかし」 |
"いでや。このおほんありさまひとところこそめでたけれ、めざましきことはありなんかし。" |
34 | 6.8.3 | 540 | 505 |
と、うち混ぜて思ふもありける。 |
と、うちまぜておもふもありける。 |
34 | 6.8.4 | 541 | 506 |
女宮は、いとらうたげに幼きさまにて、御しつらひなどのことことしく、よだけくうるはしきに、みづからは何心もなく、ものはかなき御ほどにて、いと御衣がちに、身もなく、あえかなり。ことに恥ぢなどもしたまはず、ただ稚児の面嫌ひせぬ心地して、心安くうつくしきさましたまへり。 |
をんなみやは、いとらうたげにをさなきさまにて、おほんしつらひなどのことことしく、よだけくうるはしきに、みづからはなにごころもなく、ものはかなきおほんほどにて、いとおほんぞがちに、みもなく、あえかなり。ことにはぢなどもしたまはず、ただちごのおもぎらひせぬここちして、こころやすくうつくしきさましたまへり。 |
34 | 6.8.5 | 542 | 507 |
「院の帝は、ををしくすくよかなる方の御才などこそ、心もとなくおはしますと、世人思ひためれ、をかしき筋、なまめきゆゑゆゑしき方は、人にまさりたまへるを、などて、かくおいらかに生ほしたてたまひけむ。さるは、いと御心とどめたまへる皇女と聞きしを」 |
"ゐんのみかどは、ををしくすくよかなるかたのおほんざえなどこそ、こころもとなくおはしますと、よひとおもひためれ、をかしきすぢ、なまめきゆゑゆゑしきかたは、ひとにまさりたまへるを、などて、かくおいらかにおほしたてたまひけん。さるは、いとみこころとどめたまへるみことききしを。" |
34 | 6.8.6 | 543 | 508 |
と思ふも、なま口惜しけれど、憎からず見たてまつりたまふ。 |
とおもふも、なまくちをしけれど、にくからずみたてまつりたまふ。 |
34 | 6.8.7 | 544 | 509 |
ただ聞こえたまふままに、なよなよとなびきたまひて、御いらへなどをも、おぼえたまひけることは、いはけなくうちのたまひ出でて、え見放たず見えたまふ。 |
ただきこえたまふままに、なよなよとなびきたまひて、おほんいらへなどをも、おぼえたまひけることは、いはけなくうちのたまひいでて、えみはなたずみえたまふ。 |
34 | 6.8.8 | 545 | 510 |
昔の心ならましかば、うたて心劣りせましを、今は、世の中を皆さまざまに思ひなだらめて、 |
むかしのこころならましかば、うたてこころおとりせましを、いまは、よのなかをみなさまざまにおもひなだらめて、 |
34 | 6.8.9 | 546 | 511 |
「とあるもかかるも、際離るることは難きものなりけり。とりどりにこそ多うはありけれ、よその思ひは、いとあらまほしきほどなりかし」 |
"とあるもかかるも、きははなるることはかたきものなりけり。とりどりにこそおほうはありけれ、よそのおもひは、いとあらまほしきほどなりかし。" |
34 | 6.8.10 | 547 | 512 |
と思すに、差し並び目離れず見たてまつりたまへる年ごろよりも、対の上の御ありさまぞなほありがたく、「われながらも生ほしたてけり」と思す。一夜のほど、朝の間も、恋しくおぼつかなく、いとどしき御心ざしのまさるを、「などかくおぼゆらむ」と、ゆゆしきまでなむ。 |
とおぼすに、さしならびめかれずみたてまつりたまへるとしごろよりも、たいのうへのおほんありさまぞなほありがたく、"われながらもおほしたてけり。"とおぼす。ひとよのほど、あしたのまも、こひしくおぼつかなく、いとどしきみこころざしのまさるを、"などかくおぼゆらん。"と、ゆゆしきまでなん。 |
34 | 6.9 | 548 | 513 | 第九段 朱雀院、紫の上に手紙を贈る |
34 | 6.9.1 | 549 | 514 |
院の帝は、月のうちに御寺に移ろひたまひぬ。この院に、あはれなる御消息ども聞こえたまふ。姫宮の御ことはさらなり。 |
ゐんのみかどは、つきのうちにみてらにうつろひたまひぬ。このゐんに、あはれなるおほんせうそこどもきこえたまふ。ひめみやのおほんことはさらなり。 |
34 | 6.9.2 | 550 | 515 |
わづらはしく、いかに聞くところやなど、憚りたまふことなくて、ともかくも、ただ御心にかけてもてなしたまふべくぞ、たびたび聞こえたまひける。されど、あはれにうしろめたく、幼くおはするを思ひきこえたまひけり。 |
わづらはしく、いかにきくところやなど、はばかりたまふことなくて、ともかくも、ただみこころにかけてもてなしたまふべくぞ、たびたびきこえたまひける。されど、あはれにうしろめたく、をさなくおはするをおもひきこえたまひけり。 |
34 | 6.9.3 | 551 | 516 |
紫の上にも、御消息ことにあり。 |
むらさきのうへにも、おほんせうそこことにあり。 |
34 | 6.9.4 | 552 | 517 |
「幼き人の、心地なきさまにて移ろひものすらむを、罪なく思しゆるして、後見たまへ。尋ねたまふべきゆゑもやあらむとぞ。 |
"をさなきひとの、ここちなきさまにてうつろひものすらんを、つみなくおぼしゆるして、うしろみたまへ。たづねたまふべきゆゑもやあらんとぞ。 |
34 | 6.9.5 | 553 | 518 |
背きにしこの世に残る心こそ<BR/>入る山路のほだしなりけれ |
そむきにしこのよにのこるこころこそ<BR/>いるやまみちのほだしなりけれ |
34 | 6.9.6 | 554 | 519 |
闇をえはるけで聞こゆるも、をこがましくや」 |
やみをえはるけできこゆるも、をこがましくや。" |
34 | 6.9.7 | 555 | 520 |
とあり。大殿も見たまひて、 |
とあり。おとどもみたまひて、 |
34 | 6.9.8 | 556 | 521 |
「あはれなる御消息を。かしこまり聞こえたまへ」 |
"あはれなるおほんせうそこを。かしこまりきこえたまへ。" |
34 | 6.9.9 | 557 | 522 |
とて、御使にも、女房して、土器さし出でさせたまひて、しひさせたまふ。「御返りはいかが」など、聞こえにくく思したれど、ことことしくおもしろかるべき折のことならねば、ただ心をのべて、 |
とて、おほんつかひにも、にょうばうして、かはらけさしいでさせたまひて、しひさせたまふ。"おほんかへりはいかが。"など、きこえにくくおぼしたれど、ことことしくおもしろかるべきをりのことならねば、ただこころをのべて、 |
34 | 6.9.10 | 558 | 523 |
「背く世のうしろめたくはさりがたき<BR/>ほだしをしひてかけな離れそ」 |
"〔そむくよのうしろめたくはさりがたき<BR/>ほだしをしひてかけなはなれそ〕 |
34 | 6.9.11 | 559 | 524 |
などやうにぞあめりし。 |
などやうにぞあめりし。 |
34 | 6.9.12 | 560 | 525 |
女の装束に、細長添へてかづけたまふ。御手などのいとめでたきを、院御覧じて、何ごともいと恥づかしげなめるあたりに、いはけなくて見えたまふらむこと、いと心苦しう思したり。 |
をんなのさうぞくに、ほそながそへてかづけたまふ。おほんてなどのいとめでたきを、ゐんごらんじて、なにごともいとはづかしげなめるあたりに、いはけなくてみえたまふらんこと、いとこころぐるしうおぼしたり。 |
34 | 7 | 561 | 526 | 第七章 朧月夜の物語 こりずまの恋 |
34 | 7.1 | 562 | 527 | 第一段 源氏、朧月夜に今なお執心 |
34 | 7.1.1 | 563 | 528 |
今はとて、女御、更衣たちなど、おのがじし別れたまふも、あはれなることなむ多かりける。 |
いまはとて、にょうご、かういたちなど、おのがじしわかれたまふも、あはれなることなんおほかりける。 |
34 | 7.1.2 | 564 | 529 |
尚侍の君は、故后の宮のおはしましし二条の宮にぞ住みたまふ。姫宮の御ことをおきては、この御ことをなむかへりみがちに、帝も思したりける。尼になりなむと思したれど、 |
ないしのかんのきみは、こきさいのみやのおはしまししにでうのみやにぞすみたまふ。ひめみやのおほんことをおきては、このおほんことをなんかへりみがちに、みかどもおぼしたりける。あまになりなんとおぼしたれど、 |
34 | 7.1.3 | 565 | 530 |
「かかるきほひには、慕ふやうに心あわたたしく」 |
"かかるきほひには、したふやうにこころあわたたしく。" |
34 | 7.1.4 | 566 | 531 |
と諌めたまひて、やうやう仏の御ことなどいそがせたまふ。 |
といさめたまひて、やうやうほとけのおほんことなどいそがせたまふ。 |
34 | 7.1.5 | 567 | 532 |
六条の大殿は、あはれに飽かずのみ思してやみにし御あたりなれば、年ごろも忘れがたく、 |
ろくでうのおとどは、あはれにあかずのみおぼしてやみにしおほんあたりなれば、としごろもわすれがたく、 |
34 | 7.1.6 | 568 | 533 |
「いかならむ折に対面あらむ。今一たびあひ見て、その世のことも聞こえまほしく」のみ思しわたるを、かたみに世の聞き耳も憚りたまふべき身のほどに、いとほしげなりし世の騷ぎなども思し出でらるれば、よろづにつつみ過ぐしたまひけるを、かうのどやかになりたまひて、世の中を思ひしづまりたまふらむころほひの御ありさま、いよいよゆかしく、心もとなければ、あるまじきこととは思しながら、おほかたの御とぶらひにことつけて、あはれなるさまに常に聞こえたまふ。 |
"いかならんをりにたいめんあらん。いまひとたびあひみて、そのよのこともきこえまほしく。"のみおぼしわたるを、かたみによのききみみもはばかりたまふべきみのほどに、いとほしげなりしよのさわぎなどもおぼしいでらるれば、よろづにつつみすぐしたまひけるを、かうのどやかになりたまひて、よのなかをおもひしづまりたまふらんころほひのおほんありさま、いよいよゆかしく、こころもとなければ、あるまじきこととはおぼしながら、おほかたのおほんとぶらひにことつけて、あはれなるさまにつねにきこえたまふ。 |
34 | 7.1.7 | 569 | 534 |
若々しかるべき御あはひならねば、御返りも時々につけて聞こえ交はしたまふ。昔よりもこよなくうち具し、ととのひ果てにたる御けはひを見たまふにも、なほ忍びがたくて、昔の中納言の君のもとにも、心深きことどもを常にのたまふ。 |
わかわかしかるべきおほんあはひならねば、おほんかへりもときどきにつけてきこえかはしたまふ。むかしよりもこよなくうちぐし、ととのひはてにたるおほんけはひをみたまふにも、なほしのびがたくて、むかしのちゅうなごんのきみのもとにも、こころふかきことどもをつねにのたまふ。 |
34 | 7.2 | 570 | 535 | 第二段 和泉前司に手引きを依頼 |
34 | 7.2.1 | 571 | 536 |
かの人の兄なる和泉の前の守を召し寄せて、若々しく、いにしへに返りて語らひたまふ。 |
かのひとのせうとなるいづみのさきのかみをめしよせて、わかわかしく、いにしへにかへりてかたらひたまふ。 |
34 | 7.2.2 | 572 | 537 |
「人伝てならで、物越しに聞こえ知らすべきことなむある。さりぬべく聞こえなびかして、いみじく忍びて参らむ。 |
"ひとづてならで、ものごしにきこえしらすべきことなんある。さりぬべくきこえなびかして、いみじくしのびてまゐらん。 |
34 | 7.2.3 | 573 | 538 |
今は、さやうのありきも所狭き身のほどに、おぼろけならず忍ぶれば、そこにもまた人には漏らしたまはじと思ふに、かたみにうしろやすくなむ」 |
いまは、さやうのありきもところせきみのほどに、おぼろけならずしのぶれば、そこにもまたひとにはもらしたまはじとおもふに、かたみにうしろやすくなん。" |
34 | 7.2.4 | 574 | 539 |
とのたまふ。尚侍の君、 |
とのたまふ。かんのきみ、 |
34 | 7.2.5 | 575 | 540 |
「いでや。世の中を思ひ知るにつけても、昔よりつらき御心を、ここら思ひつめつる年ごろの果てに、あはれに悲しき御ことをさし置きて、いかなる昔語りをか聞こえむ。 |
"いでや。よのなかをおもひしるにつけても、むかしよりつらきみこころを、ここらおもひつめつるとしごろのはてに、あはれにかなしきおほんことをさしおきて、いかなるむかしがたりをかきこえん。 |
34 | 7.2.6 | 576 | 541 |
げに、人は漏り聞かぬやうありとも、心の問はむこそいと恥づかしかるべけれ」 |
げに、ひとはもりきかぬやうありとも、こころのとはんこそいとはづかしかるべけれ。" |
34 | 7.2.7 | 577 | 542 |
とうち嘆きたまひつつ、なほ、さらにあるまじきよしをのみ聞こゆ。 |
とうちなげきたまひつつ、なほ、さらにあるまじきよしをのみきこゆ。 |
34 | 7.3 | 578 | 543 | 第三段 紫の上に虚偽を言って出かける |
34 | 7.3.1 | 579 | 544 |
「いにしへ、わりなかりし世にだに、心交はしたまはぬことにもあらざりしを。げに、背きたまひぬる御ためうしろめたきやうにはあれど、あらざりしことにもあらねば、今しもけざやかにきよまはりて、立ちにしわが名、今さらに取り返したまふべきにや」 |
"いにしへ、わりなかりしよにだに、こころかはしたまはぬことにもあらざりしを。げに、そむきたまひぬるおほんためうしろめたきやうにはあれど、あらざりしことにもあらねば、いましもけざやかにきよまはりて、たちにしわがな、いまさらにとりかへしたまふべきにや。" |
34 | 7.3.2 | 580 | 545 |
と思し起こして、この信太の森を道のしるべにて参うでたまふ。女君には、 |
とおぼしおこして、このしのだのもりをみちのしるべにてまうでたまふ。をんなぎみには、 |
34 | 7.3.3 | 581 | 546 |
「東の院にものする常陸の君の、日ごろわづらひて久しくなりにけるを、もの騒がしき紛れに訪らはねば、いとほしくてなむ。昼など、けざやかに渡らむも便なきを、夜の間に忍びてとなむ、思ひはべる。人にもかくとも知らせじ」 |
"ひんがしのゐんにものするひたちのきみの、ひごろわづらひてひさしくなりにけるを、ものさわがしきまぎれにとぶらはねば、いとほしくてなん。ひるなど、けざやかにわたらんもびんなきを、よのまにしのびてとなん、おもひはべる。ひとにもかくともしらせじ。" |
34 | 7.3.4 | 582 | 547 |
と聞こえたまひて、いといたく心懸想したまふを、例はさしも見えたまはぬあたりを、あやし、と見たまひて、思ひ合はせたまふこともあれど、姫宮の御事の後は、何事も、いと過ぎぬる方のやうにはあらず、すこし隔つる心添ひて、見知らぬやうにておはす。 |
ときこえたまひて、いといたくこころげさうしたまふを、れいはさしもみえたまはぬあたりを、あやし、とみたまひて、おもひあはせたまふこともあれど、ひめみやのおほんことののちは、なにごとも、いとすぎぬるかたのやうにはあらず、すこしへだつるこころそひて、みしらぬやうにておはす。 |
34 | 7.4 | 583 | 548 | 第四段 源氏、朧月夜を訪問 |
34 | 7.4.1 | 584 | 549 |
その日は、寝殿へも渡りたまはで、御文書き交はしたまふ。薫き物などに心を入れて暮らしたまふ。 |
そのひは、しんでんへもわたりたまはで、おほんふみかきかはしたまふ。たきものなどにこころをいれてくらしたまふ。 |
34 | 7.4.2 | 585 | 550 |
宵過ぐして、睦ましき人の限り、四、五人ばかり、網代車の、昔おぼえてやつれたるにて出でたまふ。和泉守して、御消息聞こえたまふ。かく渡りおはしましたるよし、ささめき聞こゆれば、驚きたまひて、 |
よひすぐして、むつましきひとのかぎり、し、ごにんばかり、あじろぐるまの、むかしおぼえてやつれたるにていでたまふ。いづみのかみして、おほんせうそこきこえたまふ。かくわたりおはしましたるよし、ささめききこゆれば、おどろきたまひて、 |
34 | 7.4.3 | 586 | 551 |
「あやしく。いかやうに聞こえたるにか」 |
"あやしく。いかやうにきこえたるにか。" |
34 | 7.4.4 | 587 | 552 |
とむつかりたまへど、 |
とむつかりたまへど、 |
34 | 7.4.5 | 588 | 553 |
「をかしやかにて帰したてまつらむに、いと便なうはべらむ」 |
"をかしやかにてかへしたてまつらんに、いとびんなうはべらん。" |
34 | 7.4.6 | 589 | 554 |
とて、あながちに思ひめぐらして、入れたてまつる。御とぶらひなど聞こえたまひて、 |
とて、あながちにおもひめぐらして、いれたてまつる。おほんとぶらひなどきこえたまひて、 |
34 | 7.4.7 | 590 | 555 |
「ただここもとに、物越しにても。さらに昔のあるまじき心などは、残らずなりにけるを」 |
"ただここもとに、ものごしにても。さらにむかしのあるまじきこころなどは、のこらずなりにけるを。" |
34 | 7.4.8 | 591 | 556 |
と、わりなく聞こえたまへば、いたく嘆く嘆くゐざり出でたまへり。 |
と、わりなくきこえたまへば、いたくなげくなげくゐざりいでたまへり。 |
34 | 7.4.9 | 592 | 557 |
「さればよ。なほ、気近さは」 |
"さればよ。なほ、けぢかさは。" |
34 | 7.4.10 | 593 | 558 |
と、かつ思さる。かたみに、おぼろけならぬ御みじろきなれば、あはれも少なからず。東の対なりけり。辰巳の方の廂に据ゑたてまつりて、御障子のしりばかりは固めたれば、 |
と、かつおぼさる。かたみに、おぼろけならぬおほんみじろきなれば、あはれもすくなからず。ひんがしのたいなりけり。たつみのかたのひさしにすゑたてまつりて、みさうじのしりばかりはかためたれば、 |
34 | 7.4.11 | 594 | 559 |
「いと若やかなる心地もするかな。年月の積もりをも、紛れなく数へらるる心ならひに、かくおぼめかしきは、いみじうつらくこそ」 |
"いとわかやかなるここちもするかな。としつきのつもりをも、まぎれなくかぞへらるるこころならひに、かくおぼめかしきは、いみじうつらくこそ。" |
34 | 7.4.12 | 595 | 560 |
と怨みきこえたまふ。 |
とうらみきこえたまふ。 |
34 | 7.5 | 596 | 561 | 第五段 朧月夜と一夜を過ごす |
34 | 7.5.1 | 597 | 562 |
夜いたく更けゆく。玉藻に遊ぶ鴛鴦の声々など、あはれに聞こえて、しめじめと人目少なき宮の内のありさまも、「さも移りゆく世かな」と思し続くるに、平中がまねならねど、まことに涙もろになむ。昔に変はりて、おとなおとなしくは聞こえたまふものから、「これをかくてや」と、引き動かしたまふ。 |
よいたくふけゆく。たまもにあそぶをしのこゑごゑなど、あはれにきこえて、しめじめとひとめすくなきみやのうちのありさまも、"さもうつりゆくよかな。"とおぼしつづくるに、へいちゅうがまねならねど、まことになみだもろになん。むかしにかはりて、おとなおとなしくはきこえたまふものから、"これをかくてや。"と、ひきうごかしたまふ。 |
34 | 7.5.2 | 598 | 563 |
「年月をなかに隔てて逢坂の<BR/>さも塞きがたく落つる涙か」 |
"〔としつきをなかにへだててあふさかの<BR/>さもせきがたくおつるなみだか〕 |
34 | 7.5.3 | 599 | 564 |
女、 |
をんな、 |
34 | 7.5.4 | 600 | 565 |
「涙のみ塞きとめがたき清水にて<BR/>ゆき逢ふ道ははやく絶えにき」 |
"〔なみだのみせきとめがたきしみづにて<BR/>ゆきあふみちははやくたえにき〕 |
34 | 7.5.5 | 601 | 566 |
などかけ離れきこえたまへど、いにしへを思し出づるも、 |
などかけはなれきこえたまへど、いにしへをおぼしいづるも、 |
34 | 7.5.6 | 602 | 567 |
「誰れにより、多うはさるいみじきこともありし世の騷ぎぞは」と思ひ出でたまふに、「げに、今一たびの対面はありもすべかりけり」 |
"たれにより、おほうはさるいみじきこともありしよのさわぎぞは。"とおもひいでたまふに、"げに、いまひとたびのたいめんはありもすべかりけり。" |
34 | 7.5.7 | 603 | 568 |
と、思し弱るも、もとよりづしやかなるところはおはせざりし人の、年ごろは、さまざまに世の中を思ひ知り、来し方を悔しく、公私のことに触れつつ、数もなく思し集めて、いといたく過ぐしたまひにたれど、昔おぼえたる御対面に、その世のことも遠からぬ心地して、え心強くももてなしたまはず。 |
と、おぼしよわるも、もとよりづしやかなるところはおはせざりしひとの、としごろは、さまざまによのなかをおもひしり、きしかたをくやしく、おほやけわたくしのことにふれつつ、かずもなくおぼしあつめて、いといたくすぐしたまひにたれど、むかしおぼえたるおほんたいめんに、そのよのこともとほからぬここちして、えこころづよくももてなしたまはず。 |
34 | 7.5.8 | 604 | 569 |
なほ、らうらうじく、若うなつかしくて、一方ならぬ世のつつましさをもあはれをも、思ひ乱れて、嘆きがちにてものしたまふけしきなど、今始めたらむよりもめづらしくあはれにて、明けゆくもいと口惜しくて、出でたまはむ空もなし。 |
なほ、らうらうじく、わかうなつかしくて、ひとかたならぬよのつつましさをもあはれをも、おもひみだれて、なげきがちにてものしたまふけしきなど、いまはじめたらんよりもめづらしくあはれにて、あけゆくもいとくちをしくて、いでたまはんそらもなし。 |
34 | 7.6 | 605 | 570 | 第六段 源氏、和歌を詠み交して出る |
34 | 7.6.1 | 606 | 571 |
朝ぼらけのただならぬ空に、百千鳥の声もいとうららかなり。花は皆散り過ぎて、名残かすめる梢の浅緑なる木立、「昔、藤の宴したまひし、このころのことなりけりかし」と思し出づる、年月の積もりにけるほども、その折のこと、かき続けあはれに思さる。 |
あさぼらけのただならぬそらに、ももちどりのこゑもいとうららかなり。はなはみなちりすぎて、なごりかすめるこずゑのあさみどりなるこだち、"むかし、ふぢのえんしたまひし、このころのことなりけりかし。"とおぼしいづる、としつきのつもりにけるほども、そのをりのこと、かきつづけあはれにおぼさる。 |
34 | 7.6.2 | 607 | 572 |
中納言の君、見たてまつり送るとて、妻戸押し開けたるに、立ち返りたまひて、 |
ちゅうなごんのきみ、みたてまつりおくるとて、つまどおしあけたるに、たちかへりたまひて、 |
34 | 7.6.3 | 608 | 573 |
「この藤よ。いかに染めけむ色にか。なほ、えならぬ心添ふ匂ひにこそ。いかでか、この蔭をば立ち離るべき」 |
"このふぢよ。いかにそめけんいろにか。なほ、えならぬこころそふにほひにこそ。いかでか、このかげをばたちはなるべき。" |
34 | 7.6.4 | 609 | 574 |
と、わりなく出でがてに思しやすらひたり。 |
と、わりなくいでがてにおぼしやすらひたり。 |
34 | 7.6.5 | 610 | 575 |
山際よりさし出づる日のはなやかなるにさしあひ、目もかかやく心地する御さまの、こよなくねび加はりたまへる御けはひなどを、めづらしくほど経ても見たてまつるは、まして世の常ならずおぼゆれば、 |
やまぎはよりさしいづるひのはなやかなるにさしあひ、めもかかやくここちするおほんさまの、こよなくねびくははりたまへるおほんけはひなどを、めづらしくほどへてもみたてまつるは、ましてよのつねならずおぼゆれば、 |
34 | 7.6.6 | 611 | 576 |
「さる方にても、などか見たてまつり過ぐしたまはざらむ。御宮仕へにも限りありて、際ことに離れたまふこともなかりしを。故宮の、よろづに心を尽くしたまひ、よからぬ世の騷ぎに、軽々しき御名さへ響きてやみにしよ」 |
"さるかたにても、などかみたてまつりすぐしたまはざらん。おほんみやづかへにもかぎりありて、きはことにはなれたまふこともなかりしを。こみやの、よろづにこころをつくしたまひ、よからぬよのさわぎに、かろがろしきおほんなさへひびきてやみにしよ。" |
34 | 7.6.7 | 612 | 577 |
など思ひ出でらる。名残多く残りぬらむ御物語のとぢめには、げに残りあらせまほしきわざなめるを、御身、心にえまかせたまふまじく、ここらの人目もいと恐ろしくつつましければ、やうやうさし上がり行くに、心あわたたしくて、廊の戸に御車さし寄せたる人びとも、忍びて声づくりきこゆ。 |
などおもひいでらる。なごりおほくのこりぬらんおほんものがたりのとぢめには、げにのこりあらせまほしきわざなめるを、おほんみ、こころにえまかせたまふまじく、ここらのひとめもいとおそろしくつつましければ、やうやうさしあがりゆくに、こころあわたたしくて、らうのとにみくるまさしよせたるひとびとも、しのびてこわづくりきこゆ。 |
34 | 7.6.8 | 613 | 579 |
人召して、かの咲きかかりたる花、一枝折らせたまへり。 |
ひとめして、かのさきかかりたるはな、ひとえだをらせたまへり。 |
34 | 7.6.9 | 614 | 580 |
「沈みしも忘れぬものをこりずまに<BR/>身も投げつべき宿の藤波」 |
"〔しづみしもわすれぬものをこりずまに<BR/>みもなげつべきやどのふぢなみ〕" |
34 | 7.6.10 | 615 | 581 |
いといたく思しわづらひて、寄りゐたまへるを、心苦しう見たてまつる。女君も、今さらにいとつつましく、さまざまに思ひ乱れたまへるに、花の蔭は、なほなつかしくて、 |
いといたくおぼしわづらひて、よりゐたまへるを、こころぐるしうみたてまつる。をんなぎみも、いまさらにいとつつましく、さまざまにおもひみだれたまへるに、はなのかげは、なほなつかしくて、 |
34 | 7.6.11 | 616 | 582 |
「身を投げむ淵もまことの淵ならで<BR/>かけじやさらにこりずまの波」 |
"〔みをなげんふちもまことのふちならで<BR/>かけじやさらにこりずまのなみ〕" |
34 | 7.6.12 | 617 | 583 |
いと若やかなる御振る舞ひを、心ながらもゆるさぬことに思しながら、関守の固からぬたゆみにや、いとよく語らひおきて出でたまふ。 |
いとわかやかなるおほんふるまひを、こころながらもゆるさぬことにおぼしながら、せきもりのかたからぬたゆみにや、いとよくかたらひおきていでたまふ。 |
34 | 7.6.13 | 618 | 584 |
そのかみも、人よりこよなく心とどめて思うたまへりし御心ざしながら、はつかにてやみにし御仲らひには、いかでかはあはれも少なからむ。 |
そのかみも、ひとよりこよなくこころとどめておもうたまへりしみこころざしながら、はつかにてやみにしおほんなからひには、いかでかはあはれもすくなからん。 |
34 | 7.7 | 619 | 585 | 第七段 源氏、自邸に帰る |
34 | 7.7.1 | 620 | 586 |
いみじく忍び入りたまへる御寝くたれのさまを待ち受けて、女君、さばかりならむと心得たまへれど、おぼめかしくもてなしておはす。なかなかうちふすべなどしたまへらむよりも、心苦しく、「など、かくしも見放ちたまへらむ」と思さるれば、ありしよりけに深き契りをのみ、長き世をかけて聞こえたまふ。 |
いみじくしのびいりたまへるおほんねくたれのさまをまちうけて、をんなぎみ、さばかりならんとこころえたまへれど、おぼめかしくもてなしておはす。なかなかうちふすべなどしたまへらんよりも、こころぐるしく、"など、かくしもみはなちたまへらん。"とおぼさるれば、ありしよりけにふかきちぎりをのみ、ながきよをかけてきこえたまふ。 |
34 | 7.7.2 | 621 | 587 |
尚侍の君の御ことも、また漏らすべきならねど、いにしへのことも知りたまへれば、まほにはあらねど、 |
かんのきみのおほんことも、またもらすべきならねど、いにしへのこともしりたまへれば、まほにはあらねど、 |
34 | 7.7.3 | 622 | 588 |
「物越しに、はつかなりつる対面なむ、残りある心地する。いかで人目咎めあるまじくもて隠しては、今一たびも」 |
"ものごしに、はつかなりつるたいめんなん、のこりあるここちする。いかでひとめとがめあるまじくもてかくしては、いまひとたびも。" |
34 | 7.7.4 | 623 | 589 |
と、語らひきこえたまふ。うち笑ひて、 |
と、かたらひきこえたまふ。うちわらひて、 |
34 | 7.7.5 | 624 | 590 |
「今めかしくもなり返る御ありさまかな。昔を今に改め加へたまふほど、中空なる身のため苦しく」 |
"いまめかしくもなりかへるおほんありさまかな。むかしをいまにあらためくはへたまふほど、なかぞらなるみのためくるしく。" |
34 | 7.7.6 | 625 | 591 |
とて、さすがに涙ぐみたまへるまみの、いとらうたげに見ゆるに、 |
とて、さすがになみだぐみたまへるまみの、いとらうたげにみゆるに、 |
34 | 7.7.7 | 626 | 592 |
「かう心安からぬ御けしきこそ苦しけれ。ただおいらかに引き抓みなどして、教へたまへ。隔てあるべくも、ならはしきこえぬを、思はずにこそなりにける御心なれ」 |
"かうこころやすからぬみけしきこそくるしけれ。ただおいらかにひきつみなどして、をしへたまへ。へだてあるべくも、ならはしきこえぬを、おもはずにこそなりにけるみこころなれ。" |
34 | 7.7.8 | 627 | 593 |
とて、よろづに御心とりたまふほどに、何ごともえ残したまはずなりぬめり。 |
とて、よろづにみこころとりたまふほどに、なにごともえのこしたまはずなりぬめり。 |
34 | 7.7.9 | 628 | 594 |
宮の御方にも、とみにえ渡りたまはず、こしらへきこえつつおはします。姫宮は、何とも思したらぬを、御後見どもぞ安からず聞こえける。わづらはしうなど見えたまふけしきならば、そなたもまして心苦しかるべきを、おいらかにうつくしきもて遊びぐさに思ひきこえたまへり。 |
みやのおほんかたにも、とみにえわたりたまはず、こしらへきこえつつおはします。ひめみやは、なにともおぼしたらぬを、おほんうしろみどもぞやすからずきこえける。わづらはしうなどみえたまふけしきならば、そなたもましてこころぐるしかるべきを、おいらかにうつくしきもてあそびぐさにおもひきこえたまへり。 |
34 | 8 | 629 | 595 | 第八章 紫の上の物語 紫の上の境遇と絶望感 |
34 | 8.1 | 630 | 596 | 第一段 明石姫君、懐妊して退出 |
34 | 8.1.1 | 631 | 597 |
桐壺の御方は、うちはへえまかでたまはず。御暇のありがたければ、心安くならひたまへる若き御心に、いと苦しくのみ思したり。 |
きりつぼのおほんかたは、うちはへえまかでたまはず。おほんいとまのありがたければ、こころやすくならひたまへるわかきみこころに、いとくるしくのみおぼしたり。 |
34 | 8.1.2 | 632 | 598 |
夏ごろ、悩ましくしたまふを、とみにも許しきこえたまはねば、いとわりなしと思す。めづらしきさまの御心地にぞありける。まだいとあえかなる御ほどに、いとゆゆしくぞ、誰れも誰れも思すらむかし。からうしてまかでたまへり。 |
なつごろ、なやましくしたまふを、とみにもゆるしきこえたまはねば、いとわりなしとおぼす。めづらしきさまのみここちにぞありける。まだいとあえかなるおほんほどに、いとゆゆしくぞ、たれもたれもおぼすらんかし。からうしてまかでたまへり。 |
34 | 8.1.3 | 633 | 599 |
姫宮のおはします御殿の東面に、御方はしつらひたり。明石の御方、今は御身に添ひて、出で入りたまふも、あらまほしき御宿世なりかし。 |
ひめみやのおはしますおとどのひんがしおもてに、おほんかたはしつらひたり。あかしのおほんかた、いまはおほんみにそひて、いでいりたまふも、あらまほしきおほんすくせなりかし。 |
34 | 8.2 | 634 | 600 | 第二段 紫の上、女三の宮に挨拶を申し出る |
34 | 8.2.1 | 635 | 601 |
対の上、こなたに渡りて対面したまふついでに、 |
たいのうへ、こなたにわたりてたいめんしたまふついでに、 |
34 | 8.2.2 | 636 | 602 |
「姫宮にも、中の戸開けて聞こえむ。かねてよりもさやうに思ひしかど、ついでなきにはつつましきを、かかる折に聞こえ馴れなば、心安くなむあるべき」 |
"ひめみやにも、なかのとあけてきこえん。かねてよりもさやうにおもひしかど、ついでなきにはつつましきを、かかるをりにきこえなれなば、こころやすくなんあるべき。" |
34 | 8.2.3 | 637 | 603 |
と、大殿に聞こえたまへば、うち笑みて、 |
と、おとどにきこえたまへば、うちゑみて、 |
34 | 8.2.4 | 638 | 604 |
「思ふやうなるべき御語らひにこそはあなれ。いと幼げにものしたまふめるを、うしろやすく教へなしたまへかし」 |
"おもふやうなるべきおほんかたらひにこそはあなれ。いとをさなげにものしたまふめるを、うしろやすくをしへなしたまへかし。" |
34 | 8.2.5 | 639 | 605 |
と、許しきこえたまふ。宮よりも、明石の君の恥づかしげにて交じらむを思せば、御髪すましひきつくろひておはする、たぐひあらじと見えたまへり。 |
と、ゆるしきこえたまふ。みやよりも、あかしのきみのはづかしげにてまじらんをおぼせば、みぐしすましひきつくろひておはする、たぐひあらじとみえたまへり。 |
34 | 8.2.6 | 640 | 606 |
大殿は、宮の御方に渡りたまひて、 |
おとどは、みやのおほんかたにわたりたまひて、 |
34 | 8.2.7 | 641 | 607 |
「夕方、かの対にはべる人の、淑景舎に対面せむとて出で立つ。そのついでに、近づききこえさせまほしげにものすめるを、許して語らひたまへ。心などはいとよき人なり。まだ若々しくて、御遊びがたきにもつきなからずなむ」 |
"ゆふかた、かのたいにはべるひとの、しげいさにたいめんせんとていでたつ。そのついでに、ちかづききこえさせまほしげにものすめるを、ゆるしてかたらひたまへ。こころなどはいとよきひとなり。まだわかわかしくて、おほんあそびがたきにもつきなからずなん。" |
34 | 8.2.8 | 642 | 608 |
など、聞こえたまふ。 |
など、きこえたまふ。 |
34 | 8.2.9 | 643 | 609 |
「恥づかしうこそはあらめ。何ごとをか聞こえむ」 |
"はづかしうこそはあらめ。なにごとをかきこえん。" |
34 | 8.2.10 | 644 | 610 |
と、おいらかにのたまふ。 |
と、おいらかにのたまふ。 |
34 | 8.2.11 | 645 | 611 |
「人のいらへは、ことにしたがひてこそは思し出でめ。隔て置きてなもてなしたまひそ」 |
"ひとのいらへは、ことにしたがひてこそはおぼしいでめ。へだておきてなもてなしたまひそ。" |
34 | 8.2.12 | 646 | 612 |
と、こまかに教へきこえたまふ。「御仲うるはしくて過ぐしたまへ」と思す。 |
と、こまかにをしへきこえたまふ。"おほんなかうるはしくてすぐしたまへ。"とおぼす。 |
34 | 8.2.13 | 647 | 613 |
あまりに何心もなき御ありさまを見あらはされむも、恥づかしくあぢきなけれど、さのたまはむを、「心隔てむもあいなし」と、思すなりけり。 |
あまりになにごころもなきおほんありさまをみあらはされんも、はづかしくあぢきなけれど、さのたまはんを、"こころへだてんもあいなし。"と、おぼすなりけり。 |
34 | 8.3 | 648 | 614 | 第三段 紫の上の手習い歌 |
34 | 8.3.1 | 649 | 615 |
対には、かく出で立ちなどしたまふものから、 |
たいには、かくいでたちなどしたまふものから、 |
34 | 8.3.2 | 650 | 616 |
「我より上の人やはあるべき。身のほどなるものはかなきさまを、見えおきたてまつりたるばかりこそあらめ」 |
"われよりかみのひとやはあるべき。みのほどなるものはかなきさまを、みえおきたてまつりたるばかりこそあらめ。" |
34 | 8.3.3 | 651 | 617 |
など、思ひ続けられて、うち眺めたまふ。手習などするにも、おのづから古言も、もの思はしき筋にのみ書かるるを、「さらば、わが身には思ふことありけり」と、身ながらぞ思し知らるる。 |
など、おもひつづけられて、うちながめたまふ。てならひなどするにも、おのづからふることも、ものおもはしきすぢにのみかかるるを、"さらば、わがみにはおもふことありけり。"と、みながらぞおぼししらるる。 |
34 | 8.3.4 | 652 | 618 |
院、渡りたまひて、宮、女御の君などの御さまどもを、「うつくしうもおはするかな」と、さまざま見たてまつりたまへる御目うつしには、年ごろ目馴れたまへる人の、おぼろけならむが、いとかくおどろかるべきにもあらぬを、「なほ、たぐひなくこそは」と見たまふ。ありがたきことなりかし。 |
ゐん、わたりたまひて、みや、にょうごのきみなどのおほんさまどもを、"うつくしうもおはするかな。"と、さまざまみたてまつりたまへるおほんめうつしには、としごろめなれたまへるひとの、おぼろけならんが、いとかくおどろかるべきにもあらぬを、"なほ、たぐひなくこそは。"とみたまふ。ありがたきことなりかし。 |
34 | 8.3.5 | 653 | 619 |
あるべき限り、気高う恥づかしげにととのひたるに添ひて、はなやかに今めかしく、にほひなまめきたるさまざまの香りも、取りあつめ、めでたき盛りに見えたまふ。去年より今年はまさり、昨日より今日はめづらしく、常に目馴れぬさまのしたまへるを、「いかでかくしもありけむ」と思す。 |
あるべきかぎり、けだかうはづかしげにととのひたるにそひて、はなやかにいまめかしく、にほひなまめきたるさまざまのかをりも、とりあつめ、めでたきさかりにみえたまふ。こぞよりことしはまさり、きのふよりけふはめづらしく、つねにめなれぬさまのしたまへるを、"いかでかくしもありけん。"とおぼす。 |
34 | 8.3.6 | 654 | 620 |
うちとけたりつる御手習を、硯の下にさし入れたまへれど、見つけたまひて、引き返し見たまふ。手などの、いとわざとも上手と見えで、らうらうじくうつくしげに書きたまへり。 |
うちとけたりつるおほんてならひを、すずりのしたにさしいれたまへれど、みつけたまひて、ひきかへしみたまふ。てなどの、いとわざともじゃうずとみえで、らうらうじくうつくしげにかきたまへり。 |
34 | 8.3.7 | 655 | 621 |
「身に近く秋や来ぬらむ見るままに<BR/>青葉の山も移ろひにけり」 |
"〔みにちかくあきやきぬらんみるままに<BR/>あをばのやまもうつろひにけり〕 |
34 | 8.3.8 | 656 | 622 |
とある所に、目とどめたまひて、 |
とあるところに、めとどめたまひて、 |
34 | 8.3.9 | 657 | 623 |
「水鳥の青羽は色も変はらぬを<BR/>萩の下こそけしきことなれ」 |
"〔みづとりのあをばはいろもかはらぬを<BR/>はぎのしたこそけしきことなれ〕 |
34 | 8.3.10 | 658 | 624 |
など書き添へつつすさびたまふ。ことに触れて、心苦しき御けしきの、下にはおのづから漏りつつ見ゆるを、ことなく消ちたまへるも、ありがたくあはれに思さる。 |
などかきそへつつすさびたまふ。ことにふれて、こころぐるしきみけしきの、したにはおのづからもりつつみゆるを、ことなくけちたまへるも、ありがたくあはれにおぼさる。 |
34 | 8.3.11 | 659 | 625 |
今宵は、いづ方にも御暇ありぬべければ、かの忍び所に、いとわりなくて、出でたまひにけり。「いとあるまじきこと」と、いみじく思し返すにも、かなはざりけり。 |
こよひは、いづかたにもおほんいとまありぬべければ、かのしのびどころに、いとわりなくて、いでたまひにけり。"いとあるまじきこと。"と、いみじくおぼしかへすにも、かなはざりけり。 |
34 | 8.4 | 660 | 626 | 第四段 紫の上、女三の宮と対面 |
34 | 8.4.1 | 661 | 627 |
春宮の御方は、実の母君よりも、この御方をば睦ましきものに頼みきこえたまへり。いとうつくしげにおとなびまさりたまへるを、思ひ隔てず、かなしと見たてまつりたまふ。 |
とうぐうのおほんかたは、じちのははぎみよりも、このおほんかたをばむつましきものにたのみきこえたまへり。いとうつくしげにおとなびまさりたまへるを、おもひへだてず、かなしとみたてまつりたまふ。 |
34 | 8.4.2 | 662 | 628 |
御物語など、いとなつかしく聞こえ交はしたまひて、中の戸開けて、宮にも対面したまへり。 |
おほんものがたりなど、いとなつかしくきこえかはしたまひて、なかのとあけて、みやにもたいめんしたまへり。 |
34 | 8.4.3 | 663 | 629 |
いと幼げにのみ見えたまへば、心安くて、おとなおとなしく親めきたるさまに、昔の御筋をも尋ねきこえたまふ。中納言の乳母といふ召し出でて、 |
いとをさなげにのみみえたまへば、こころやすくて、おとなおとなしくおやめきたるさまに、むかしのおほんすぢをもたづねきこえたまふ。ちゅうなごんのめのとといふめしいでて、 |
34 | 8.4.4 | 664 | 630 |
「同じかざしを尋ねきこゆれば、かたじけなけれど、分かぬさまに聞こえさすれど、ついでなくてはべりつるを、今よりは疎からず、あなたなどにもものしたまひて、おこたらむことは、おどろかしなどもものしたまはむなむ、うれしかるべき」 |
"おなじかざしをたづねきこゆれば、かたじけなけれど、わかぬさまにきこえさすれど、ついでなくてはべりつるを、いまよりはうとからず、あなたなどにもものしたまひて、おこたらんことは、おどろかしなどもものしたまはんなん、うれしかるべき。" |
34 | 8.4.5 | 665 | 631 |
などのたまへば、 |
などのたまへば、 |
34 | 8.4.6 | 666 | 632 |
「頼もしき御蔭どもに、さまざまに後れきこえたまひて、心細げにおはしますめるを、かかる御ゆるしのはべめれば、ますことなくなむ思うたまへられける。背きたまひにし上の御心向けも、ただかくなむ御心隔てきこえたまはず、まだいはけなき御ありさまをも、はぐくみたてまつらせたまふべくぞはべめりし。うちうちにも、さなむ頼みきこえさせたまひし」 |
"たのもしきおほんかげどもに、さまざまにおくれきこえたまひて、こころぼそげにおはしますめるを、かかるおほんゆるしのはべめれば、ますことなくなんおもうたまへられける。そむきたまひにしうへのおほんこころむけも、ただかくなんみこころへだてきこえたまはず、まだいはけなきおほんありさまをも、はぐくみたてまつらせたまふべくぞはべめりし。うちうちにも、さなんたのみきこえさせたまひし。" |
34 | 8.4.7 | 667 | 633 |
など聞こゆ。 |
などきこゆ。 |
34 | 8.4.8 | 668 | 634 |
「いとかたじけなかりし御消息の後は、いかでとのみ思ひはべれど、何ごとにつけても、数ならぬ身なむ口惜しかりける」 |
"いとかたじけなかりしおほんせうそこののちは、いかでとのみおもひはべれど、なにごとにつけても、かずならぬみなんくちをしかりける。" |
34 | 8.4.9 | 669 | 635 |
と、安らかにおとなびたるけはひにて、宮にも、御心につきたまふべく、絵などのこと、雛の捨てがたきさま、若やかに聞こえたまへば、「げに、いと若く心よげなる人かな」と、幼き御心地にはうちとけたまへり。 |
と、やすらかにおとなびたるけはひにて、みやにも、みこころにつきたまふべく、ゑなどのこと、ひひなのすてがたきさま、わかやかにきこえたまへば、"げに、いとわかくこころよげなるひとかな。"と、をさなきみここちにはうちとけたまへり。 |
34 | 8.5 | 670 | 636 | 第五段 世間の噂、静まる |
34 | 8.5.1 | 671 | 637 |
さて後は、常に御文通ひなどして、をかしき遊びわざなどにつけても、疎からず聞こえ交はしたまふ。世の中の人も、あいなう、かばかりになりぬるあたりのことは、言ひあつかふものなれば、初めつ方は、 |
さてのちは、つねにおほんふみかよひなどして、をかしきあそびわざなどにつけても、うとからずきこえかはしたまふ。よのなかのひとも、あいなう、かばかりになりぬるあたりのことは、いひあつかふものなれば、はじめつかたは、 |
34 | 8.5.2 | 672 | 638 |
「対の上、いかに思すらむ。御おぼえ、いとこの年ごろのやうにはおはせじ。すこしは劣りなむ」 |
"たいのうへ、いかにおぼすらん。おほんおぼえ、いとこのとしごろのやうにはおはせじ。すこしはおとりなん。" |
34 | 8.5.3 | 673 | 639 |
など言ひけるを、今すこし深き御心ざし、かくてしも勝るさまなるを、それにつけても、また安からず言ふ人びとあるに、かく憎げなくさへ聞こえ交はしたまへば、こと直りて、目安くなむありける。 |
などいひけるを、いますこしふかきみこころざし、かくてしもまさるさまなるを、それにつけても、またやすからずいふひとびとあるに、かくにくげなくさへきこえかはしたまへば、ことなほりて、めやすくなんありける。 |
34 | 9 | 674 | 640 | 第九章 光る源氏の物語 紫の上と秋好中宮、源氏の四十賀を祝う |
34 | 9.1 | 675 | 641 | 第一段 紫の上、薬師仏供養 |
34 | 9.1.1 | 676 | 642 |
神無月に、対の上、院の御賀に、嵯峨野の御堂にて、薬師仏供養じたてまつりたまふ。いかめしきことは、切にいさめ申したまへば、忍びやかにと思しおきてたり。 |
かみなづきに、たいのうへ、ゐんのおほんがに、さがののみだうにて、やくしぼとけくやうじたてまつりたまふ。いかめしきことは、せちにいさめまうしたまへば、しのびやかにとおぼしおきてたり。 |
34 | 9.1.2 | 677 | 643 |
仏、経箱、帙簀のととのへ、まことの極楽思ひやらる。最勝王経、金剛般若、寿命経など、いとゆたけき御祈りなり。上達部いと多く参りたまへり。 |
ほとけ、きゃうばこ、ぢすのととのへ、まことのごくらくおもひやらる。さいそうわうきゃう、こんがうはんにゅ、ずみゃうきゃうなど、いとゆたけきおほんいのりなり。かんだちめいとおほくまゐりたまへり。 |
34 | 9.1.3 | 678 | 644 |
御堂のさま、おもしろくいはむかたなく、紅葉の蔭分けゆく野辺のほどよりはじめて、見物なるに、かたへは、きほひ集りたまふなるべし。 |
みだうのさま、おもしろくいはんかたなく、もみぢのかげわけゆくのべのほどよりはじめて、みものなるに、かたへは、きほひあつまりたまふなるべし。 |
34 | 9.1.4 | 679 | 645 |
霜枯れわたれる野原のままに、馬車の行きちがふ音しげく響きたり。御誦経われもわれもと、御方々いかめしくせさせたまふ。 |
しもがれわたれるのはらのままに、むまくるまのゆきちがふおとしげくひびきたり。みずきゃうわれもわれもと、おほんかたがたいかめしくせさせたまふ。 |
34 | 9.2 | 680 | 646 | 第二段 精進落としの宴 |
34 | 9.2.1 | 681 | 647 |
二十三日を御としみの日にて、この院は、かく隙間なく集ひたまへるうちに、わが御私の殿と思す二条の院にて、その御まうけせさせたまふ。御装束をはじめ、おほかたのことどもも、皆こなたにのみしたまふ。御方々も、さるべきことども分けつつ望み仕うまつりたまふ。 |
にじふさんにちをおほんとしみのひにて、このゐんは、かくすきまなくつどひたまへるうちに、わがおほんわたくしのとのとおぼすにでうのゐんにて、そのおほんまうけせさせたまふ。おほんさうぞくをはじめ、おほかたのことどもも、みなこなたにのみしたまふ。おほんかたがたも、さるべきことどもわけつつのぞみつかうまつりたまふ。 |
34 | 9.2.2 | 682 | 648 |
対どもは、人の局々にしたるを払ひて、殿上人、諸大夫、院司、下人までのまうけ、いかめしくせさせたまへり。 |
たいどもは、ひとのつぼねつぼねにしたるをはらひて、てんじゃうびと、しょたいふ、ゐんじ、しもびとまでのまうけ、いかめしくせさせたまへり。 |
34 | 9.2.3 | 683 | 649 |
寝殿の放出を、例のしつらひにて、螺鈿の倚子立てたり。 |
そんでんのはなちいでを、れいのしつらひにて、らでんのいしたてたり。 |
34 | 9.2.4 | 684 | 650 |
御殿の西の間に、御衣の机十二立てて、夏冬の御よそひ、御衾など、例のごとく、紫の綾の覆どもうるはしく見えわたりて、うちの心はあらはならず。 |
おとどのにしのまに、おほんぞのつくゑじふにたてて、なつふゆのおほんよそひ、おほんふすまなど、れいのごとく、むらさきのあやのおほひどもうるはしくみえわたりて、うちのこころはあらはならず。 |
34 | 9.2.5 | 685 | 651 |
御前に置物の机二つ、唐の地の裾濃の覆したり。插頭の台は、沈の花足、黄金の鳥、銀の枝にゐたる心ばへなど、淑景舎の御あづかりにて、明石の御方のせさせたまへる、ゆゑ深く心ことなり。 |
おまへにおきもののつくゑふたつ、からのぢのすそごのおほひしたり。かざしのだいは、ぢんのけそく、こがねのとり、しろがねのえだにゐたるこころばへなど、しげいさのおほんあづかりにて、あかしのおほんかたのせさせたまへる、ゆゑふかくこころことなり。 |
34 | 9.2.6 | 686 | 652 |
うしろの御屏風四帖は、式部卿宮なむせさせたまひける。いみじく尽くして、例の四季の絵なれど、めづらしき山水、潭など、目馴れずおもしろし。北の壁に添へて、置物の御厨子、二具立てて、御調度ども例のことなり。 |
うしろのみびゃうぶしでふは、しきぶきゃうのみやなんせさせたまひける。いみじくつくして、れいのしきのゑなれど、めづらしきせんずい、たんなど、めなれずおもしろし。きたのかべにそへて、おきもののみづし、ふたよろひたてて、みてうどどもれいのことなり。 |
34 | 9.2.7 | 687 | 653 |
南の廂に、上達部、左右の大臣、式部卿宮をはじめたてまつりて、次々はまして参りたまはぬ人なし。舞台の左右に、楽人の平張打ちて、西東に屯食八十具、禄の唐櫃四十づつ続けて立てたり。 |
みなみのひさしに、かんだちめ、ひだりみぎのおとど、しきぶきゃうのみやをはじめたてまつりて、つぎつぎはましてまゐりたまはぬひとなし。ぶたいのひだりみぎに、がくにんのひらばりうちて、にしひんがしにとんじきはちじふぐ、ろくのからびつしじふづつつづけてたてたり。 |
34 | 9.3 | 688 | 654 | 第三段 舞楽を演奏す |
34 | 9.3.1 | 689 | 655 |
未の時ばかりに楽人参る。「万歳楽」、「皇麞」など舞ひて、日暮れかかるほどに、高麗の乱声して、「落蹲」舞ひ出でたるほど、なほ常の目馴れぬ舞のさまなれば、舞ひ果つるほどに、権中納言、衛門督下りて、「入綾」をほのかに舞ひて、紅葉の蔭に入りぬる名残、飽かず興ありと人びと思したり。 |
ひつじのときばかりにがくにんまゐる。〔まんざいらく〕、〔わうじゃう〕などまひて、ひくれかかるほどに、こまのらんじゃうして、〔らくそん〕まひいでたるほど、なほつねのめなれぬまひのさまなれば、まひはつるほどに、ごんのちゅうなごん、ゑもんのかみおりて、〔いりあや〕をほのかにまひて、もみぢのかげにいりぬるなごり、あかずきょうありとひとびとおぼしたり。 |
34 | 9.3.2 | 690 | 657 |
いにしへの朱雀院の行幸に、「青海波」のいみじかりし夕べ、思ひ出でたまふ人びとは、権中納言、衛門督、また劣らず立ち続きたまひにける、世々のおぼえありさま、容貌、用意などもをさをさ劣らず、官位はやや進みてさへこそなど、齢のほどをも数へて、「なほ、さるべきにて、昔よりかく立ち続きたる御仲らひなりけり」と、めでたく思ふ。 |
いにしへのすじゃくゐんのみゆきに、〔せいがいは〕のいみじかりしゆふべ、おもひいでたまふひとびとは、ごんのちゅうなごん、ゑもんのかみ、またおとらずたちつづきたまひにける、よよのおぼえありさま、かたち、よういなどもをさをさおとらず、つかさくらゐはややすすみてさへこそなど、よはひのほどをもかぞへて、"なほ、さるべきにて、むかしよりかくたちつづきたるおほんなからひなりけり。"と、めでたくおもふ。 |
34 | 9.3.3 | 691 | 658 |
主人の院も、あはれに涙ぐましく、思し出でらるることども多かり。 |
あるじのゐんも、あはれになみだぐましく、おぼしいでらるることどもおほかり。 |
34 | 9.4 | 692 | 659 | 第四段 宴の後の寂寥 |
34 | 9.4.1 | 693 | 660 |
夜に入りて、楽人どもまかり出づ。北の政所の別当ども、人びと率ゐて、禄の唐櫃に寄りて、一つづつ取りて、次々賜ふ。白きものどもを品々かづきて、山際より池の堤過ぐるほどのよそ目は、千歳をかねて遊ぶ鶴の毛衣に思ひまがへらる。 |
よにいりて、がくにんどもまかりいづ。きたのまんどころのべたうども、ひとびとひきゐて、ろくのからびつによりて、ひとつづつとりて、つぎつぎたまふ。しろきものどもをしなじなかづきて、やまぎはよりいけのつつみすぐるほどのよそめは、ちとせをかねてあそぶつるのけごろもにおもひまがへらる。 |
34 | 9.4.2 | 694 | 661 |
御遊び始まりて、またいとおもしろし。御琴どもは、春宮よりぞ調へさせたまひける。朱雀院よりわたり参れる琵琶、琴。内裏より賜はりたまへる箏の御琴など、皆昔おぼえたるものの音どもにて、めづらしく掻き合はせたまへるに、何の折にも、過ぎにし方の御ありさま、内裏わたりなど思し出でらる。 |
おほんあそびはじまりて、またいとおもしろし。おほんことどもは、とうぐうよりぞととのへさせたまひける。すじゃくゐんよりわたりまゐれるびは、きん。うちよりたまはりたまへるさうのおほんことなど、みなむかしおぼえたるもののねどもにて、めづらしくかきあはせたまへるに、なにのをりにも、すぎにしかたのおほんありさま、うちわたりなどおぼしいでらる。 |
34 | 9.4.3 | 695 | 662 |
「故入道の宮おはせましかば、かかる御賀など、われこそ進み仕うまつらましか。何ごとにつけてかは心ざしも見えたてまつりけむ」 |
"こにうだうのみやおはせましかば、かかるおほんがなど、われこそすすみつかうまつらましか。なにごとにつけてかはこころざしもみえたてまつりけん。" |
34 | 9.4.4 | 696 | 663 |
と、飽かず口惜しくのみ思ひ出できこえたまふ。 |
と、あかずくちをしくのみおもひいできこえたまふ。 |
34 | 9.4.5 | 697 | 664 |
内裏にも、故宮のおはしまさぬことを、何ごとにも栄なくさうざうしく思さるるに、この院の御ことをだに、例の跡をあるさまのかしこまりを尽くしてもえ見せたてまつらぬを、世とともに飽かぬ心地したまふも、今年はこの御賀にことつけて、行幸などもあるべく思しおきてけれど、 |
うちにも、こみやのおはしまさぬことを、なにごとにもはえなくさうざうしくおぼさるるに、このゐんのおほんことをだに、れいのあとをあるさまのかしこまりをつくしてもえみせたてまつらぬを、よとともにあかぬここちしたまふも、ことしはこのおほんがにことつけて、みゆきなどもあるべくおぼしおきてけれど、 |
34 | 9.4.6 | 698 | 665 |
「世の中のわづらひならむこと、さらにせさせたまふまじくなむ」 |
"よのなかのわづらひならんこと、さらにせさせたまふまじくなん。" |
34 | 9.4.7 | 699 | 666 |
と否び申したまふこと、たびたびになりぬれば、口惜しく思しとまりぬ。 |
といなびまうしたまふこと、たびたびになりぬれば、くちをしくおぼしとまりぬ。 |
34 | 9.5 | 700 | 667 | 第五段 秋好中宮の奈良・京の御寺に祈祷 |
34 | 9.5.1 | 701 | 668 |
師走の二十日余りのほどに、中宮まかでさせたまひて、今年の残りの御祈りに、奈良の京の七大寺に、御誦経、布四千反、この近き都の四十寺に、絹四百疋を分かちてせさせたまふ。 |
しはすのはつかあまりのほどに、ちゅうぐうまかでさせたまひて、ことしののこりのおほんいのりに、ならのきゃうのしちだいじに、みずきゃう、ぬのよんせんたん、このちかきみやこのしじふじに、きぬよんひゃくひきをわかちてせさせたまふ。 |
34 | 9.5.2 | 702 | 669 |
ありがたき御はぐくみを思し知りながら、何ごとにつけてか、深き御心ざしをもあらはし御覧ぜさせたまはむとて、父宮、母御息所のおはせまし御ための心ざしをも取り添へ思すに、かくあながちに、朝廷にも聞こえ返させたまへば、ことども多くとどめさせたまひつ。 |
ありがたきおほんはぐくみをおぼししりながら、なにごとにつけてか、ふかきみこころざしをもあらはしごらんぜさせたまはんとて、ちちみや、ははみやすんどころのおはせましおほんためのこころざしをもとりそへおぼすに、かくあながちに、おほやけにもきこえかへさせたまへば、ことどもおほくとどめさせたまひつ。 |
34 | 9.5.3 | 703 | 670 |
「四十の賀といふことは、さきざきを聞きはべるにも、残りの齢久しき例なむ少なかりけるを、このたびは、なほ、世の響きとどめさせたまひて、まことに後に足らむことを数へさせたまへ」 |
"しじふのがといふことは、さきざきをききはべるにも、のこりのよはひひさしきためしなんすくなかりけるを、このたびは、なほ、よのひびきとどめさせたまひて、まことにのちにたらんことをかぞへさせたまへ。" |
34 | 9.5.4 | 704 | 671 |
とありけれど、公ざまにて、なほいといかめしくなむありける。 |
とありけれど、おほやけざまにて、なほいといかめしくなんありける。 |
34 | 9.6 | 705 | 672 | 第六段 中宮主催の饗宴 |
34 | 9.6.1 | 706 | 673 |
宮のおはします町の寝殿に、御しつらひなどして、さきざきにこと変はらず、上達部の禄など、大饗になずらへて、親王たちにはことに女の装束、非参議の四位、まうち君達など、ただの殿上人には、白き細長一襲、腰差などまで、次々に賜ふ。 |
みやのおはしますまちのしんでんに、おほんしつらひなどして、さきざきにことかはらず、かんだちめのろくなど、だいきゃうになずらへて、みこたちにはことにをんなのさうぞく、ひさんぎのしゐ、まうちきんだちなど、ただのてんじゃうびとには、しろきほそながひとかさね、こしざしなどまで、つぎつぎにたまふ。 |
34 | 9.6.2 | 707 | 674 |
装束限りなくきよらを尽くして、名高き帯、御佩刀など、故前坊の御方ざまにて伝はり参りたるも、またあはれになむ。古き世の一の物と名ある限りは、皆集ひ参る御賀になむあめる。昔物語にも、もの得させたるを、かしこきことには数へ続けためれど、いとうるさくて、こちたき御仲らひのことどもは、えぞ数へあへはべらぬや。 |
さうぞくかぎりなくきよらをつくして、なだかきおび、みはかしなど、こぜんばうのおほんかたざまにてつたはりまゐりたるも、またあはれになん。ふるきよのいちのものとなあるかぎりは、みなつどひまゐるおほんがになんあめる。むかしものがたりにも、ものえさせたるを、かしこきことにはかぞへつづけためれど、いとうるさくて、こちたきおほんなからひのことどもは、えぞかぞへあへはべらぬや。 |
34 | 9.7 | 708 | 675 | 第七段 勅命による夕霧の饗宴 |
34 | 9.7.1 | 709 | 676 |
内裏には、思し初めてしことどもを、むげにやはとて、中納言にぞつけさせたまひてける。そのころの右大将、病して辞したまひけるを、この中納言に、御賀のほどよろこび加へむと思し召して、にはかになさせたまひつ。 |
うちには、おぼしそめてしことどもを、むげにやはとて、ちゅうなごんにぞつけさせたまひてける。そのころのうだいしゃう、やまひしてじしたまひけるを、このちゅうなごんに、おほんがのほどよろこびくはへんとおぼしめして、にはかになさせたまひつ。 |
34 | 9.7.2 | 710 | 677 |
院もよろこび聞こえさせたまふものから、 |
ゐんもよろこびきこえさせたまふものから、 |
34 | 9.7.3 | 711 | 678 |
「いと、かく、にはかに余る喜びをなむ、いちはやき心地しはべる」 |
"いと、かく、にはかにあまるよろこびをなん、いちはやきここちしはべる。" |
34 | 9.7.4 | 712 | 679 |
と卑下し申したまふ。 |
とひげしまうしたまふ。 |
34 | 9.7.5 | 713 | 680 |
丑寅の町に、御しつらひまうけたまひて、隠ろへたるやうにしなしたまへれど、今日は、なほかたことに儀式まさりて、所々の饗なども、内蔵寮、穀倉院より、仕うまつらせたまへり。 |
うしとらのまちに、おほんしつらひまうけたまひて、かくろへたるやうにしなしたまへれど、けふは、なほかたことにぎしきまさりて、ところどころのきゃうなども、くらづかさ、こくさうゐんより、つかうまつらせたまへり。 |
34 | 9.7.6 | 714 | 681 |
屯食など、公けざまにて、頭中将宣旨うけたまはりて、親王たち五人、左右の大臣、大納言二人、中納言三人、宰相五人、殿上人は、例の、内裏、春宮、院、残る少なし。 |
とんじきなど、おほやけざまにて、とうのちゅうじゃうせんじうけたまはりて、みこたちごにん、ひだりみぎのおとど、だいなごんふたり、ちゅうなごんさんにん、さいしゃうごにん、てんじゃうびとは、れいの、うち、とうぐう、ゐん、のこるすくなし。 |
34 | 9.7.7 | 715 | 682 |
御座、御調度どもなどは、太政大臣詳しくうけたまはりて、仕うまつらせたまへり。今日は、仰せ言ありて渡り参りたまへり。院も、いとかしこくおどろき申したまひて、御座に着きたまひぬ。 |
おまし、みてうどどもなどは、おほきおとどくはしくうけたまはりて、つかうまつらせたまへり。けふは、おほせごとありてわたりまゐりたまへり。ゐんも、いとかしこくおどろきまうしたまひて、おほんざにつきたまひぬ。 |
34 | 9.7.8 | 716 | 683 |
母屋の御座に向へて、大臣の御座あり。いときよらにものものしく太りて、この大臣ぞ、今盛りの宿徳とは見えたまへる。 |
もやのおほんざにむかへて、おとどのおほんざあり。いときよらにものものしくふとりて、このおとどぞ、いまさかりのしうとくとはみえたまへる。 |
34 | 9.7.9 | 717 | 684 |
主人の院は、なほいと若き源氏の君に見えたまふ。御屏風四帖に、内裏の御手書かせたまへる、唐の綾の薄毯に、下絵のさまなどおろかならむやは。おもしろき春秋の作り絵などよりも、この御屏風の墨つきのかかやくさまは、目も及ばず、思ひなしさへめでたくなむありける。 |
あるじのゐんは、なほいとわかきげんじのきみにみえたまふ。みびゃうぶしでふに、うちのおほんてかかせたまへる、からのあやのうすだんに、したゑのさまなどおろかならんやは。おもしろきしゅんじうのつくりゑなどよりも、このみびゃうぶのすみつきのかかやくさまは、めもおよばず、おもひなしさへめでたくなんありける。 |
34 | 9.7.10 | 718 | 685 |
置物の御厨子、弾き物、吹き物など、蔵人所より賜はりたまへり。大将の御勢ひ、いといかめしくなりたまひにたれば、うち添へて、今日の作法いとことなり。御馬四十疋、左右の馬寮、六衛府の官人、上より次々に牽きととのふるほど、日暮れ果てぬ。 |
おきもののみづし、ひきもの、ふきものなど、くらうどどころよりたまはりたまへり。だいしゃうのおほんいきほひ、いといかめしくなりたまひにたれば、うちそへて、けふのさほふいとことなり。おほんむましじふひき、ひだりみぎのむまづかさ、ろくゑふのかんにん、かみよりつぎつぎにひきととのふるほど、ひくれはてぬ。 |
34 | 9.8 | 719 | 686 | 第八段 舞楽を演奏す |
34 | 9.8.1 | 720 | 687 |
例の、「万歳楽」、「賀王恩」などいふ舞、けしきばかり舞ひて、大臣の渡りたまへるに、めづらしくもてはやしたまへる御遊びに、皆人、心を入れたまへり。琵琶は、例の兵部卿宮、何ごとにも世に難きものの上手におはして、いと二なし。御前に琴の御琴。大臣、和琴弾きたまふ。 |
れいの、〔まんざいらく〕、〔がわうおん〕などいふまひ、けしきばかりまひて、おとどのわたりたまへるに、めづらしくもてはやしたまへるおほんあそびに、みなひと、こころをいれたまへり。びはは、れいのひゃうぶきゃうのみや、なにごとにもよにかたきもののじゃうずにおはして、いとになし。おまへにきんのおほんこと。おとど、わごんひきたまふ。 |
34 | 9.8.2 | 721 | 688 |
年ごろ添ひたまひにける御耳の聞きなしにや、いと優にあはれに思さるれば、琴も御手をさをさ隠したまはず、いみじき音ども出づ。 |
としごろそひたまひにけるおほんみみのききなしにや、いというにあはれにおぼさるれば、きんもおほんてをさをさかくしたまはず、いみじきねどもいづ。 |
34 | 9.8.3 | 722 | 689 |
昔の御物語どもなど出で来て、今はた、かかる御仲らひに、いづ方につけても、聞こえかよひたまふべき御睦びなど、心よく聞こえたまひて、御酒あまたたび参りて、もののおもしろさもとどこほりなく、御酔ひ泣きどもえとどめたまはず。 |
むかしのおほんものがたりどもなどいできて、いまはた、かかるおほんなからひに、いづかたにつけても、きこえかよひたまふべきおほんむつびなど、こころよくきこえたまひて、おほんみきあまたたびまゐりて、もののおもしろさもとどこほりなく、おほんゑひなきどもえとどめたまはず。 |
34 | 9.8.4 | 723 | 690 |
御贈り物に、すぐれたる和琴一つ、好みたまふ高麗笛添へて。紫檀の箱一具に、唐の本ども、ここの草の本など入れて。御車に追ひてたてまつれたまふ。御馬ども迎へ取りて、右馬寮ども、高麗の楽して、ののしる。六衛府の官人の禄ども、大将賜ふ。 |
おほんおくりものに、すぐれたるわごんひとつ、このみたまふこまぶえそへて。したんのはこひとよろひに、からのほんども、ここのさうのほんなどいれて。みくるまにおひてたてまつれたまふ。おほんむまどもむかへとりて、みぎのつかさども、こまのがくして、ののしる。ろくゑふのかんにんのろくども、だいしゃうたまふ。 |
34 | 9.8.5 | 724 | 691 |
御心と削ぎたまひて、いかめしきことどもは、このたび停めたまへれど、内裏、春宮、一院、后の宮、次々の御ゆかりいつくしきほど、いひ知らず見えにたることなれば、なほかかる折には、めでたくなむおぼえける。 |
みこころとそぎたまひて、いかめしきことどもは、このたびとどめたまへれど、うち、とうぐう、いちのゐん、きさいのみや、つぎつぎのおほんゆかりいつくしきほど、いひしらずみえにたることなれば、なほかかるをりには、めでたくなんおぼえける。 |
34 | 9.9 | 725 | 692 | 第九段 饗宴の後の感懐 |
34 | 9.9.1 | 726 | 693 |
大将の、ただ一所おはするを、さうざうしく栄なき心地せしかど、あまたの人にすぐれ、おぼえことに、人柄もかたはらなきやうにものしたまふにも、かの母北の方の、伊勢の御息所との恨み深く、挑みかはしたまひけむほどの御宿世どもの行く末見えたるなむ、さまざまなりける。 |
だいしゃうの、ただひとところおはするを、さうざうしくはえなきここちせしかど、あまたのひとにすぐれ、おぼえことに、ひとがらもかたはらなきやうにものしたまふにも、かのははきたのかたの、いせのみやすんどころとのうらみふかく、いどみかはしたまひけんほどのおほんすくせどものゆくすゑみえたるなん、さまざまなりける。 |
34 | 9.9.2 | 727 | 694 |
その日の御装束どもなど、こなたの上なむしたまひける。禄どもおほかたのことをぞ、三条の北の方はいそぎたまふめりし。折節につけたる御いとなみ、うちうちのもののきよらをも、こなたにはただよそのことにのみ聞きわたりたまふを、何事につけてかは、かかるものものしき数にもまじらひたまはましと、おぼえたるを、大将の君の御ゆかりに、いとよく数まへられたまへり。 |
そのひのおほんさうぞくどもなど、こなたのうへなんしたまひける。ろくどもおほかたのことをぞ、さんでうのきたのかたはいそぎたまふめりし。をりふしにつけたるおほんいとなみ、うちうちのもののきよらをも、こなたにはただよそのことにのみききわたりたまふを、なにごとにつけてかは、かかるものものしきかずにもまじらひたまはましと、おぼえたるを、だいしゃうのきみのおほんゆかりに、いとよくかずまへられたまへり。 |
34 | 10 | 728 | 695 | 第十章 明石の物語 男御子誕生 |
34 | 10.1 | 729 | 696 | 第一段 明石女御、産期近づく |
34 | 10.1.1 | 730 | 697 |
年返りぬ。桐壺の御方近づきたまひぬるにより、正月朔日より、御修法不断にせさせたまふ。寺々、社々の御祈り、はた数も知らず。大殿の君、ゆゆしきことを見たまへてしかば、かかるほどのこと、いと恐ろしきものに思ししみたるを、対の上などのさることしたまはぬは、口惜しくさうざうしきものから、うれしく思さるるに、まだいとあえかなる御ほどに、いかにおはせむと、かねて思し騒ぐに、二月ばかりより、あやしく御けしき変はりて悩みたまふに、御心ども騒ぐべし。 |
としかへりぬ。きりつぼのおほんかたちかづきたまひぬるにより、しゃうがつついたちより、みすほふふだんにせさせたまふ。てらでら、やしろやしろのおほんいのり、はたかずもしらず。おとどのきみ、ゆゆしきことをみたまへてしかば、かかるほどのこと、いとおそろしきものにおぼししみたるを、たいのうへなどのさることしたまはぬは、くちをしくさうざうしきものから、うれしくおぼさるるに、まだいとあえかなるおほんほどに、いかにおはせんと、かねておぼしさわぐに、きさらぎばかりより、あやしくみけしきかはりてなやみたまふに、みこころどもさわぐべし。 |
34 | 10.1.2 | 731 | 698 |
陰陽師どもも、所を変へてつつしみたまふべく申しければ、他のさし離れたらむはおぼつかなしとて、かの明石の御町の中の対に渡したてまつりたまふ。こなたは、ただおほきなる対二つ、廊どもなむめぐりてありけるに、御修法の壇隙なく塗りて、いみじき験者ども集ひて、ののしる。 |
おみゃうじどもも、ところをかへてつつしみたまふべくまうしければ、ほかのさしはなれたらんはおぼつかなしとて、かのあかしのおほんまちのなかのたいにわたしたてまつりたまふ。こなたは、ただおほきなるたいふたつ、らうどもなんめぐりてありけるに、みすほふのだんひまなくぬりて、いみじきげんざどもつどひて、ののしる。 |
34 | 10.1.3 | 732 | 699 |
母君、この時にわが御宿世も見ゆべきわざなめれば、いみじき心を尽くしたまふ。 |
ははぎみ、このときにわがおほんすくせもみゆべきわざなめれば、いみじきこころをつくしたまふ。 |
34 | 10.2 | 733 | 700 | 第二段 大尼君、孫の女御に昔を語る |
34 | 10.2.1 | 734 | 701 |
かの大尼君も、今はこよなきほけ人にてぞありけむかし。この御ありさまを見たてまつるは、夢の心地して、いつしかと参り、近づき馴れたてまつる。 |
かのおほあまぎみも、いまはこよなきほけびとにてぞありけんかし。このおほんありさまをみたてまつるは、ゆめのここちして、いつしかとまゐり、ちかづきなれたてまつる。 |
34 | 10.2.2 | 735 | 702 |
年ごろ、母君はかう添ひさぶらひたまへど、昔のことなど、まほにしも聞こえ知らせたまはざりけるを、この尼君、喜びにえ堪へで、参りては、いと涙がちに、古めかしきことどもを、わななき出でつつ語りきこゆ。 |
としごろ、ははぎみはかうそひさぶらひたまへど、むかしのことなど、まほにしもきこえしらせたまはざりけるを、このあまぎみ、よろこびにえたへで、まゐりては、いとなみだがちに、ふるめかしきことどもを、わななきいでつつかたりきこゆ。 |
34 | 10.2.3 | 736 | 703 |
初めつ方は、あやしくむつかしき人かなと、うちまもりたまひしかど、かかる人ありとばかりは、ほの聞きおきたまへれば、なつかしくもてなしたまへり。 |
はじめつかたは、あやしくむつかしきひとかなと、うちまもりたまひしかど、かかるひとありとばかりは、ほのききおきたまへれば、なつかしくもてなしたまへり。 |
34 | 10.2.4 | 737 | 704 |
生まれたまひしほどのこと、大殿の君のかの浦におはしましたりしありさま、 |
むまれたまひしほどのこと、おとどのきみのかのうらにおはしましたりしありさま、 |
34 | 10.2.5 | 738 | 705 |
「今はとて京へ上りたまひしに、誰も誰も、心を惑はして、今は限り、かばかりの契りにこそはありけれと嘆きしを、若君のかく引き助けたまへる御宿世の、いみじくかなしきこと」 |
"いまはとてきゃうへのぼりたまひしに、たれもたれも、こころをまどはして、いまはかぎり、かばかりのちぎりにこそはありけれとなげきしを、わかぎみのかくひきたすけたまへるおほんすくせの、いみじくかなしきこと。" |
34 | 10.2.6 | 739 | 706 |
と、ほろほろと泣けば、 |
と、ほろほろとなけば、 |
34 | 10.2.7 | 740 | 707 |
「げに、あはれなりける昔のことを、かく聞かせざらましかば、おぼつかなくても過ぎぬべかりけり」 |
"げに、あはれなりけるむかしのことを、かくきかせざらましかば、おぼつかなくてもすぎぬべかりけり。" |
34 | 10.2.8 | 741 | 708 |
と思して、うち泣きたまふ。心のうちには、 |
とおぼして、うちなきたまふ。こころのうちには、 |
34 | 10.2.9 | 742 | 709 |
「わが身は、げにうけばりていみじかるべき際にはあらざりけるを、対の上の御もてなしに磨かれて、人の思へるさまなども、かたほにはあらぬなりけり。人びとをばまたなきものに思ひ消ち、こよなき心おごりをばしつれ。世人は、下に言ひ出づるやうもありつらむかし」 |
"わがみは、げにうけばりていみじかるべききはにはあらざりけるを、たいのうへのおほんもてなしにみがかれて、ひとのおもへるさまなども、かたほにはあらぬなりけり。ひとびとをばまたなきものにおもひけち、こよなきこころおごりをばしつれ。よひとは、したにいひいづるやうもありつらんかし。" |
34 | 10.2.10 | 743 | 710 |
など思し知り果てぬ。 |
などおぼししりはてぬ。 |
34 | 10.2.11 | 744 | 711 |
母君をば、もとよりかくすこしおぼえ下れる筋と知りながら、生まれたまひけむほどなどをば、さる世離れたる境にてなども知りたまはざりけり。いとあまりおほどきたまへるけにこそは。あやしくおぼおぼしかりけることなりや。 |
ははぎみをば、もとよりかくすこしおぼえくだれるすぢとしりながら、むまれたまひけんほどなどをば、さるよばなれたるさかひにてなどもしりたまはざりけり。いとあまりおほどきたまへるけにこそは。あやしくおぼおぼしかりけることなりや。 |
34 | 10.2.12 | 745 | 712 |
かの入道の、今は仙人の、世にも住まぬやうにてゐたなるを聞きたまふも、心苦しくなど、かたがたに思ひ乱れたまひぬ。 |
かのにふだうの、いまはせんにんの、よにもすまぬやうにてゐたなるをききたまふも、こころぐるしくなど、かたがたにおもひみだれたまひぬ。 |
34 | 10.3 | 746 | 713 | 第三段 明石御方、母尼君をたしなめる |
34 | 10.3.1 | 747 | 714 |
いとものあはれに眺めておはするに、御方参りたまひて、日中の御加持に、こなたかなたより参り集ひ、もの騒がしくののしるに、御前にこと人もさぶらはず、尼君、所得ていと近くさぶらひたまふ。 |
いとものあはれにながめておはするに、おほんかたまゐりたまひて、にちうのおほんかぢに、こなたかなたよりまゐりつどひ、ものさわがしくののしるに、おまへにことびともさぶらはず、あまぎみ、ところえていとちかくさぶらひたまふ。 |
34 | 10.3.2 | 748 | 715 |
「あな、見苦しや。短き御几帳引き寄せてこそ、さぶらひたまはめ。風など騒がしくて、おのづからほころびの隙もあらむに。医師などやうのさまして。いと盛り過ぎたまへりや」 |
"あな、みぐるしや。みじかきみきちゃうひきよせてこそ、さぶらひたまはめ。かぜなどさわがしくて、おのづからほころびのひまもあらんに。くすしなどやうのさまして。いとさかりすぎたまへりや。" |
34 | 10.3.3 | 749 | 716 |
など、なまかたはらいたく思ひたまへり。よしめきそして振る舞ふと、おぼゆめれども、もうもうに耳もおぼおぼしかりければ、「ああ」と、傾きてゐたり。 |
など、なまかたはらいたくおもひたまへり。よしめきそしてふるまふと、おぼゆめれども、もうもうにみみもおぼおぼしかりければ、"ああ。"と、かたぶきてゐたり。 |
34 | 10.3.4 | 750 | 717 |
さるは、いとさ言ふばかりにもあらずかし。六十五、六のほどなり。尼姿、いとかはらかに、あてなるさまして、目艶やかに泣き腫れたるけしきの、あやしく昔思ひ出でたるさまなれば、胸うちつぶれて、 |
さるは、いとさいふばかりにもあらずかし。ろくじふご、ろくのほどなり。あますがた、いとかはらかに、あてなるさまして、めつややかになきはれたるけしきの、あやしくむかしおもひいでたるさまなれば、むねうちつぶれて、 |
34 | 10.3.5 | 751 | 718 |
「古代のひが言どもや、はべりつらむ。よく、この世のほかなるやうなるひがおぼえどもにとり混ぜつつ、あやしき昔のことどもも出でまうで来つらむはや。夢の心地こそしはべれ」 |
"こだいのひがことどもや、はべりつらん。よく、このよのほかなるやうなるひがおぼえどもにとりまぜつつ、あやしきむかしのことどももいでまうできつらんはや。ゆめのここちこそしはべれ。" |
34 | 10.3.6 | 752 | 719 |
と、うちほほ笑みて見たてまつりたまへば、いとなまめかしくきよらにて、例よりもいたくしづまり、もの思したるさまに見えたまふ。わが子ともおぼえたまはず、かたじけなきに、 |
と、うちほほゑみてみたてまつりたまへば、いとなまめかしくきよらにて、れいよりもいたくしづまり、ものおぼしたるさまにみえたまふ。わがこともおぼえたまはず、かたじけなきに、 |
34 | 10.3.7 | 753 | 720 |
「いとほしきことどもを聞こえたまひて、思し乱るるにや。今はかばかりと御位を極めたまはむ世に、聞こえも知らせむとこそ思へ、口惜しく思し捨つべきにはあらねど、いといとほしく心劣りしたまふらむ」 |
"いとほしきことどもをきこえたまひて、おぼしみだるるにや。いまはかばかりとみくらゐをきはめたまはんよに、きこえもしらせんとこそおもへ、くちをしくおぼしすつべきにはあらねど、いといとほしくこころおとりしたまふらん。" |
34 | 10.3.8 | 754 | 721 |
とおぼゆ。 |
とおぼゆ。 |
34 | 10.4 | 755 | 722 | 第四段 明石女三代の和歌唱和 |
34 | 10.4.1 | 756 | 723 |
御加持果ててまかでぬるに、御くだものなど近くまかなひなし、「こればかりをだに」と、いと心苦しげに思ひて聞こえたまふ。 |
おほんかぢはててまかでぬるに、おほんくだものなどちかくまかなひなし、"こればかりをだに。"と、いとこころぐるしげにおもひてきこえたまふ。 |
34 | 10.4.2 | 757 | 724 |
尼君は、いとめでたううつくしう見たてまつるままにも、涙はえとどめず。顔は笑みて、口つきなどは見苦しくひろごりたれど、まみのわたりうちしぐれて、ひそみゐたり。 |
あまぎみは、いとめでたううつくしうみたてまつるままにも、なみだはえとどめず。かほはゑみて、くちつきなどはみぐるしくひろごりたれど、まみのわたりうちしぐれて、ひそみゐたり。 |
34 | 10.4.3 | 758 | 725 |
「あな、かたはらいた」 |
"あな。かたはらいた。" |
34 | 10.4.4 | 759 | 726 |
と、目くはすれど、聞きも入れず。 |
と、めくはすれど、ききもいれず。 |
34 | 10.4.5 | 760 | 727 |
「老の波かひある浦に立ち出でて<BR/>しほたるる海人を誰れかとがめむ |
"〔おいのなみかひあるうらにたちいでて<BR/>しほたるるあまをたれかとがめん |
34 | 10.4.6 | 761 | 728 |
昔の世にも、かやうなる古人は、罪許されてなむはべりける」 |
むかしのよにも、かやうなるふるびとは、つみゆるされてなんはべりける。" |
34 | 10.4.7 | 762 | 729 |
と聞こゆ。御硯なる紙に、 |
ときこゆ。おほんすずりなるかみに、 |
34 | 10.4.8 | 763 | 730 |
「しほたるる海人を波路のしるべにて<BR/>尋ねも見ばや浜の苫屋を」 |
"〔しほたるるあまをなみぢのしるべにて<BR/>たづねもみばやはまのとまやを〕 |
34 | 10.4.9 | 764 | 731 |
御方もえ忍びたまはで、うち泣きたまひぬ。 |
おほんかたもえしのびたまはで、うちなきたまひぬ。 |
34 | 10.4.10 | 765 | 732 |
「世を捨てて明石の浦に住む人も<BR/>心の闇ははるけしもせじ」 |
"〔よをすててあかしのうらにすむひとも<BR/>こころのやみははるけしもせじ〕 |
34 | 10.4.11 | 766 | 733 |
など聞こえ、紛らはしたまふ。別れけむ暁のことも、夢の中に思し出でられぬを、「口惜しくもありけるかな」と思す。 |
などきこえ、まぎらはしたまふ。わかれけんあかつきのことも、ゆめのなかにおぼしいでられぬを、"くちをしくもありけるかな。"とおぼす。 |
34 | 10.5 | 767 | 734 | 第五段 三月十日過ぎに男御子誕生 |
34 | 10.5.1 | 768 | 735 |
弥生の十余日のほどに、平らかに生まれたまひぬ。かねてはおどろおどろしく思し騷ぎしかど、いたく悩みたまふことなくて、男御子にさへおはすれば、限りなく思すさまにて、大殿も御心落ちゐたまひぬ。 |
やよひのとをよかのほどに、たひらかにむまれたまひぬ。かねてはおどろおどろしくおぼしさわぎしかど、いたくなやみたまふことなくて、をとこみこにさへおはすれば、かぎりなくおぼすさまにて、おとどもみこころおちゐたまひぬ。 |
34 | 10.5.2 | 769 | 736 |
こなたは隠れの方にて、ただ気近きほどなるに、いかめしき御産養などのうちしきり、響きよそほしきありさま、げに「かひある浦」と、尼君のためには見えたれど、儀式なきやうなれば、渡りたまひなむとす。 |
こなたはかくれのかたにて、ただけぢかきほどなるに、いかめしきおほんうぶやしなひなどのうちしきり、ひびきよそほしきありさま、げに"かひあるうら"と、あまぎみのためにはみえたれど、ぎしきなきやうなれば、わたりたまひなんとす。 |
34 | 10.5.3 | 770 | 737 |
対の上も渡りたまへり。白き御装束したまひて、人の親めきて、若宮をつと抱きてゐたまへるさま、いとをかし。みづからかかること知りたまはず、人の上にても見ならひたまはねば、いとめづらかにうつくしと思ひきこえたまへり。むつかしげにおはするほどを、絶えず抱きとりたまへば、まことの祖母君は、ただ任せたてまつりて、御湯殿の扱ひなどを仕うまつりたまふ。 |
たいのうへもわたりたまへり。しろきおほんさうぞくしたまひて、ひとのおやめきて、わかみやをつといだきてゐたまへるさま、いとをかし。みづからかかることしりたまはず、ひとのうへにてもみならひたまはねば、いとめづらかにうつくしとおもひきこえたまへり。むつかしげにおはするほどを、たえずいだきとりたまへば、まことのおばぎみは、ただまかせたてまつりて、おほんゆどののあつかひなどをつかうまつりたまふ。 |
34 | 10.5.4 | 771 | 738 |
春宮の宣旨なる典侍ぞ仕うまつる。御迎湯に、おりたちたまへるもいとあはれに、うちうちのこともほの知りたるに、 |
とうぐうのせんじなるないしのすけぞつかうまつる。おほんむかへゆに、おりたちたまへるもいとあはれに、うちうちのこともほのしりたるに、 |
34 | 10.5.5 | 772 | 739 |
「すこしかたほならば、いとほしからましを、あさましく気高く、げに、かかる契りことにものしたまひける人かな」 |
"すこしかたほならば、いとほしからましを、あさましくけだかく、げに、かかるちぎりことにものしたまひけるひとかな。" |
34 | 10.5.6 | 773 | 740 |
と見きこゆ。このほどの儀式なども、まねびたてむに、いとさらなりや。 |
とみきこゆ。このほどのぎしきなども、まねびたてんに、いとさらなりや。 |
34 | 10.6 | 774 | 741 | 第六段 帝の七夜の産養 |
34 | 10.6.1 | 775 | 742 |
六日といふに、例の御殿に渡りたまひぬ。七日の夜、内裏よりも御産養のことあり。 |
むいかといふに、れいのおとどにわたりたまひぬ。なぬかのよ、うちよりもおほんうぶやしなひのことあり。 |
34 | 10.6.2 | 776 | 743 |
朱雀院の、かく世を捨ておはします御代はりにや、蔵人所より、頭弁、宣旨うけたまはりて、めづらかなるさまに仕うまつれり。禄の衣など、また中宮の御方よりも、公事にはたちまさり、いかめしくせさせたまふ。次々の親王たち、大臣の家々、そのころのいとなみにて、われもわれもと、きよらを尽くして仕うまつりたまふ。 |
すざくゐんの、かくよをすておはしますおほんかはりにや、くらうどどころより、とうのべん、せんじうけたまはりて、めづらかなるさまにつかうまつれり。ろくのきぬなど、またちゅうぐうのおほんかたよりも、おほやけごとにはたちまさり、いかめしくせさせたまふ。つぎつぎのみこたち、おとどのいへいへ、そのころのいとなみにて、われもわれもと、きよらをつくしてつかうまつりたまふ。 |
34 | 10.6.3 | 777 | 744 |
大殿の君も、このほどのことどもは、例のやうにもこと削がせたまはで、世になく響きこちたきほどに、うちうちのなまめかしくこまかなるみやびの、まねび伝ふべき節は、目も止まらずなりにけり。大殿の君も、若宮をほどなく抱きたてまつりたまひて、 |
おとどのきみも、このほどのことどもは、れいのやうにもことそがせたまはで、よになくひびきこちたきほどに、うちうちのなまめかしくこまかなるみやびの、まねびつたふべきふしは、めもとまらずなりにけり。おとどのきみも、わかみやをほどなくいだきたてまつりたまひて、 |
34 | 10.6.4 | 778 | 745 |
「大将のあまたまうけたなるを、今まで見せぬがうらめしきに、かくらうたき人をぞ得たてまつりたる」 |
"だいしゃうのあまたまうけたなるを、いままでみせぬがうらめしきに、かくらうたきひとをぞえたてまつりたる。" |
34 | 10.6.5 | 779 | 746 |
と、うつくしみきこえたまふは、ことわりなりや。 |
と、うつくしみきこえたまふは、ことわりなりや。 |
34 | 10.6.6 | 780 | 747 |
日々に、ものを引き伸ぶるやうにおよすけたまふ。御乳母など、心知らぬはとみに召さで、さぶらふ中に、品、心すぐれたる限りを選りて、仕うまつらせたまふ。 |
ひびに、ものをひきのぶるやうにおよすけたまふ。おほんめのとなど、こころしらぬはとみにめさで、さぶらふなかに、しな、こころすぐれたるかぎりをえりて、つかうまつらせたまふ。 |
34 | 10.7 | 781 | 748 | 第七段 紫の上と明石御方の仲 |
34 | 10.7.1 | 782 | 749 |
御方の御心おきての、らうらうじく気高く、おほどかなるものの、さるべき方には卑下して、憎らかにもうけばらぬなどを、褒めぬ人なし。 |
おほんかたのみこころおきての、らうらうじくけだかく、おほどかなるものの、さるべきかたにはひげして、にくらかにもうけばらぬなどを、ほめぬひとなし。 |
34 | 10.7.2 | 783 | 750 |
対の上は、まほならねど、見え交はしたまひて、さばかり許しなく思したりしかど、今は、宮の御徳に、いと睦ましく、やむごとなく思しなりにたり。稚児うつくしみたまふ御心にて、天児など、御手づから作りそそくりおはするも、いと若々し。明け暮れこの御かしづきにて過ぐしたまふ。 |
たいのうへは、まほならねど、みえかはしたまひて、さばかりゆるしなくおぼしたりしかど、いまは、みやのおほんとくに、いとむつましく、やんごとなくおぼしなりにたり。ちごうつくしみたまふみこころにて、あまがつなど、おほんてづからつくりそそくりおはするも、いとわかわかし。あけくれこのおほんかしづきにてすぐしたまふ。 |
34 | 10.7.3 | 784 | 751 |
かの古代の尼君は、若宮をえ心のどかに見たてまつらぬなむ、飽かずおぼえける。なかなか見たてまつり初めて、恋ひきこゆるにぞ、命もえ堪ふまじかめる。 |
かのこだいのあまぎみは、わかみやをえこころのどかにみたてまつらぬなん、あかずおぼえける。なかなかみたてまつりそめて、こひきこゆるにぞ、いのちもえたふまじかめる。 |
34 | 11 | 785 | 752 | 第十一章 明石の物語 入道の手紙 |
34 | 11.1 | 786 | 753 | 第一段 明石入道、手紙を贈る |
34 | 11.1.1 | 787 | 754 |
かの明石にも、かかる御こと伝へ聞きて、さる聖心地にも、いとうれしくおぼえければ、 |
かのあかしにも、かかるおほんことつたへききて、さるひじりごこちにも、いとうれしくおぼえければ、 |
34 | 11.1.2 | 788 | 755 |
「今なむ、この世の境を心やすく行き離るべき」 |
"いまなん、このよのさかひをこころやすくゆきはなるべき。" |
34 | 11.1.3 | 789 | 756 |
と弟子どもに言ひて、この家をば寺になし、あたりの田などやうのものは、皆その寺のことにしおきて、この国の奥の郡に、人も通ひがたく深き山あるを、年ごろも占めおきながら、あしこに籠もりなむ後、また人には見え知らるべきにもあらずと思ひて、ただすこしのおぼつかなきこと残りければ、今までながらへけるを、今はさりともと、仏神を頼み申してなむ移ろひける。 |
とでしどもにいひて、このいへをばてらになし、あたりのたなどやうのものは、みなそのてらのことにしおきて、このくにのおくのこほりに、ひともかよひがたくふかきやまあるを、としごろもしめおきながら、あしこにこもりなんのち、またひとにはみえしらるべきにもあらずとおもひて、ただすこしのおぼつかなきことのこりければ、いままでながらへけるを、いまはさりともと、ほとけかみをたのみまうしてなんうつろひける。 |
34 | 11.1.4 | 790 | 757 |
この近き年ごろとなりては、京に異なることならで、人も通はしたてまつらざりつ。これより下したまふ人ばかりにつけてなむ、一行にても、尼君さるべき折節のことも通ひける。思ひ離るる世のとぢめに、文書きて、御方にたてまつれたまへり。 |
このちかきとしごろとなりては、きゃうにことなることならで、ひともかよはしたてまつらざりつ。これよりくだしたまふひとばかりにつけてなん、ひとくだりにても、あまぎみさるべきをりふしのこともかよひける。おもひはなるるよのとぢめに、ふみかきて、おほんかたにたてまつれたまへり。 |
34 | 11.2 | 791 | 758 | 第二段 入道の手紙 |
34 | 11.2.1 | 792 | 759 |
「この年ごろは、同じ世の中のうちにめぐらひはべりつれど、何かは、かくながら身を変へたるやうに思うたまへなしつつ、させることなき限りは、聞こえうけたまはらず。 |
"このとしごろは、おなじよのなかのうちにめぐらひはべりつれど、なにかは、かくながらみをかへたるやうにおもうたまへなしつつ、させることなきかぎりは、きこえうけたまはらず。 |
34 | 11.2.2 | 793 | 760 |
仮名文見たまふるは、目の暇いりて、念仏も懈台するやうに、益なうてなむ、御消息もたてまつらぬを、伝てにうけたまはれば、若君は春宮に参りたまひて、男宮生まれたまへるよしをなむ、深く喜び申しはべる。 |
かなぶみみたまふるは、めのいとまいりて、ねんぶつもけたいするやうに、やくなうてなん、おほんせうそこもたてまつらぬを、つてにうけたまはれば、わかぎみはとうぐうにまゐりたまひて、をとこみやむまれたまへるよしをなん、ふかくよろこびまうしはべる。 |
34 | 11.2.3 | 794 | 761 |
そのゆゑは、みづからかくつたなき山伏の身に、今さらにこの世の栄えを思ふにもはべらず。過ぎにし方の年ごろ、心ぎたなく、六時の勤めにも、ただ御ことを心にかけて、蓮の上の露の願ひをばさし置きてなむ念じたてまつりし。 |
そのゆゑは、みづからかくつたなきやまぶしのみに、いまさらにこのよのさかえをおもふにもはべらず。すぎにしかたのとしごろ、こころぎたなく、ろくじのつとめにも、ただおほんことをこころにかけて、はちすのうへのつゆのねがひをばさしおきてなんねんじたてまつりし。 |
34 | 11.2.4 | 795 | 762 |
わがおもと生まれたまはむとせし、その年の二月のその夜の夢に見しやう、 |
わがおもとむまれたまはんとせし、そのとしのにがつのそのよのゆめにみしやう、 |
34 | 11.2.5 | 796 | 763 |
『みづから須弥の山を、右の手に捧げたり。山の左右より、月日の光さやかにさし出でて世を照らす。みづからは山の下の蔭に隠れて、その光にあたらず。山をば広き海に浮かべおきて、小さき舟に乗りて、西の方をさして漕ぎゆく』 |
'みづからすみのやまを、みぎのてにささげたり。やまのさいうより、つきひのひかりさやかにさしいでてよをてらす。みづからはやまのしものかげにかくれて、そのひかりにあたらず。やまをばひろきうみにうかべおきて、ちひさきふねにのりて、にしのかたをさしてこぎゆく。' |
34 | 11.2.6 | 797 | 764 |
となむ見はべし。 |
となんみはべし。 |
34 | 11.2.7 | 798 | 765 |
夢覚めて、朝より数ならぬ身に頼むところ出で来ながら、『何ごとにつけてか、さるいかめしきことをば待ち出でむ』と、心のうちに思ひはべしを、そのころより孕まれたまひにしこなた、俗の方の書を見はべしにも、また内教の心を尋ぬる中にも、夢を信ずべきこと多くはべしかば、賤しき懐のうちにも、かたじけなく思ひいたづきたてまつりしかど、力及ばぬ身に思うたまへかねてなむ、かかる道に赴きはべりにし。 |
ゆめさめて、あしたよりかずならぬみにたのむところいできながら、'なにごとにつけてか、さるいかめしきことをばまちいでん。'と、こころのうちにおもひはべしを、そのころよりはらまれたまひにしこなた、ぞくのかたのふみをみはべしにも、またないけうのこころをたづぬるなかにも、ゆめをしんずべきことおほくはべしかば、いやしきふところのうちにも、かたじけなくおもひいたづきたてまつりしかど、ちからおよばぬみにおもうたまへかねてなん、かかるみちにおもむきはべりにし。 |
34 | 11.2.8 | 799 | 766 |
また、この国のことに沈みはべりて、老の波にさらに立ち返らじと思ひとぢめて、この浦に年ごろはべしほども、わが君を頼むことに思ひきこえはべしかばなむ、心一つに多くの願を立てはべし。その返り申し、平らかに思ひのごと時にあひたまふ。 |
また、このくにのことにしづみはべりて、おいのなみにさらにたちかへらじとおもひとぢめて、このうらにとしごろはべしほども、わがきみをたのむことにおもひきこえはべしかばなん、こころひとつにおほくのがんをたてはべし。そのかへりまうし、たひらかにおもひのごとときにあひたまふ。 |
34 | 11.2.9 | 800 | 767 |
若君、国の母となりたまひて、願ひ満ちたまはむ世に、住吉の御社をはじめ、果たし申したまへ。さらに何ごとをかは疑ひはべらむ。 |
わかぎみ、くにのははとなりたまひて、ねがひみちたまはんよに、すみよしのみやしろをはじめ、はたしまうしたまへ。さらになにごとをかはうたがひはべらん。 |
34 | 11.2.10 | 801 | 768 |
この一つの思ひ、近き世にかなひはべりぬれば、はるかに西の方、十万億の国隔てたる、九品の上の望み疑ひなくなりはべりぬれば、今はただ迎ふる蓮を待ちはべるほど、その夕べまで、水草清き山の末にて勤めはべらむとてなむ、まかり入りぬる。 |
このひとつのおもひ、ちかきよにかなひはべりぬれば、はるかににしのかた、じふまんおくのくにへだてたる、くほんのうへののぞみうたがひなくなりはべりぬれば、いまはただむかふるはちすをまちはべるほど、そのゆふべまで、みづくさきよきやまのすゑにてつとめはべらんとてなん、まかりいりぬる。 |
34 | 11.2.11 | 802 | 769 |
光出でむ暁近くなりにけり<BR/>今ぞ見し世の夢語りする」 |
ひかりいでんあかつきちかくなりにけり<BR/>いまぞみしよのゆめがたりする〕 |
34 | 11.2.12 | 803 | 770 |
とて、月日書きたり。 |
とて、つきひかきたり。 |
34 | 11.3 | 804 | 771 | 第三段 手紙の追伸 |
34 | 11.3.1 | 805 | 772 |
「命終らむ月日も、さらにな知ろしめしそ。いにしへより人の染めおきける藤衣にも、何かやつれたまふ。ただわが身は変化のものと思しなして、老法師のためには功徳をつくりたまへ。この世の楽しみに添へても、後の世を忘れたまふな。 |
"いのちおはらんつきひも、さらになしろしめしそ。いにしへよりひとのそめおきけるふぢごろもにも、なにかやつれたまふ。ただわがみはへんげのものとおぼしなして、おいほふしのためにはくどくをつくりたまへ。このよのたのしみにそへても、のちのよをわすれたまふな。 |
34 | 11.3.2 | 806 | 773 |
願ひはべる所にだに至りはべりなば、かならずまた対面ははべりなむ。娑婆の他の岸に至りて、疾くあひ見むとを思せ」 |
ねがひはべるところにだにいたりはべりなば、かならずまたたいめんははべりなん。さばのほかのきしにいたりて、とくあひみんとをおぼせ。" |
34 | 11.3.3 | 807 | 774 |
さて、かの社に立て集めたる願文どもを、大きなる沈の文箱に、封じ籠めてたてまつりたまへり。 |
さて、かのやしろにたてあつめたるがんぶみどもを、おほきなるぢんのふばこに、ふんじこめてたてまつりたまへり。 |
34 | 11.3.4 | 808 | 775 |
尼君には、ことごとにも書かず、ただ、 |
あまぎみには、ことごとにもかかず、ただ、 |
34 | 11.3.5 | 809 | 776 |
「この月の十四日になむ、草の庵まかり離れて、深き山に入りはべりぬる。かひなき身をば、熊狼にも施しはべりなむ。そこには、なほ思ひしやうなる御世を待ち出でたまへ。明らかなる所にて、また対面はありなむ」 |
"このつきのじふよにちになん、くさのいほりまかりはなれて、ふかきやまにいりはべりぬる。かひなきみをば、くまおほかみにもせしはべりなん。そこには、なほおもひしやうなるみよをまちいでたまへ。あきらかなるところにて、またたいめんはありなん。" |
34 | 11.3.6 | 810 | 777 |
とのみあり。 |
とのみあり。 |
34 | 11.4 | 811 | 778 | 第四段 使者の話 |
34 | 11.4.1 | 812 | 780 |
尼君、この文を見て、かの使ひの大徳に問へば、 |
あまぎみ、このふみをみて、かのつかひのだいとこにとへば、 |
34 | 11.4.2 | 813 | 781 |
「この御文書きたまひて、三日といふになむ、かの絶えたる峰に移ろひたまひにし。なにがしらも、かの御送りに、麓まではさぶらひしかど、皆返したまひて、僧一人、童二人なむ、御供にさぶらはせたまふ。今はと世を背きたまひし折を、悲しきとぢめと思うたまへしかど、残りはべりけり。 |
"このおほんふみかきたまひて、みかといふになん、かのたえたるみねにうつろひたまひにし。なにがしらも、かのおほんおくりに、ふもとまではさぶらひしかど、みなかへしたまひて、そうひとり、わらはふたりなん、おほんともにさぶらはせたまふ。いまはとよをそむきたまひしをりを、かなしきとぢめとおもうたまへしかど、のこりはべりけり。 |
34 | 11.4.3 | 814 | 782 |
年ごろ行なひの隙々に、寄り臥しながら掻き鳴らしたまひし琴の御琴、琵琶とり寄せたまひて、掻い調べたまひつつ、仏にまかり申したまひてなむ、御堂に施入したまひし。さらぬものどもも、多くはたてまつりたまひて、その残りをなむ、御弟子ども六十余人なむ、親しき限りさぶらひける、ほどにつけて皆処分したまひて、なほし残りをなむ、京の御料とて送りたてまつりたまへる。 |
としごろおこなひのひまひまに、よりふしながらかきならしたまひしきんのおほんこと、びわとりよせたまひて、かいしらべたまひつつ、ほとけにまかりまうしたまひてなん、みだうにせにふしたまひし。さらぬものどもも、おほくはたてまつりたまひて、そののこりをなん、みでしどもろくじふよにんなん、したしきかぎりさぶらひける、ほどにつけてみなそうぶんしたまひて、なほしのこりをなん、きゃうのごりゃうとておくりたてまつりたまへる。 |
34 | 11.4.4 | 815 | 783 |
今はとてかき籠もり、さるはるけき山の雲霞に混じりたまひにし、むなしき御跡にとまりて、悲しび思ふ人びとなむ多くはべる」 |
いまはとてかきこもり、さるはるけきやまのくもかすみにまじりたまひにし、むなしきおほんあとにとまりて、かなしびおもふひとびとなんおほくはべる。" |
34 | 11.4.5 | 816 | 784 |
など、この大徳も、童にて京より下りし人の、老法師になりてとまれる、いとあはれに心細しと思へり。仏の御弟子のさかしき聖だに、鷲の峰をばたどたどしからず頼みきこえながら、なほ薪尽きける夜の惑ひは深かりけるを、まして尼君の悲しと思ひたまへること限りなし。 |
など、このだいとこも、わらはにてきゃうよりくだりしひとの、おいほふしになりてとまれる、いとあはれにこころぼそしとおもへり。ほとけのみでしのさかしきひじりだに、わしのみねをばたどたどしからずたのみきこえながら、なほたきぎつきけるよのまどひはふかかりけるを、ましてあまぎみのかなしとおもひたまへることかぎりなし。 |
34 | 11.5 | 817 | 785 | 第五段 明石御方、手紙を見る |
34 | 11.5.1 | 818 | 786 |
御方は、南の御殿におはするを、「かかる御消息なむある」とありければ、忍びて渡りたまへり。重々しく身をもてなして、おぼろけならでは、通ひあひたまふこともかたきを、「あはれなることなむ」と聞きて、おぼつかなければ、うち忍びてものしたまへるに、いといみじく悲しげなるけしきにてゐたまへり。 |
おほんかたは、みなみのおとどにおはするを、"かかるおほんせうそこなんある。"とありければ、しのびてわたりたまへり。おもおもしくみをもてなして、おぼろけならでは、かよひあひたまふこともかたきを、"あはれなることなん。"とききて、おぼつかなければ、うちしのびてものしたまへるに、いといみじくかなしげなるけしきにてゐたまへり。 |
34 | 11.5.2 | 819 | 787 |
火近く取り寄せて、この文を見たまふに、げにせきとめむかたぞなかりける。よその人は、何とも目とどむまじきことの、まづ、昔来し方のこと思ひ出で、恋しと思ひわたりたまふ心には、「あひ見で過ぎ果てぬるにこそは」と、見たまふに、いみじくいふかひなし。 |
ひちかくとりよせて、このふみをみたまふに、げにせきとめんかたぞなかりける。よそのひとは、なにともめとどむまじきことの、まづ、むかしきしかたのことおもひいで、こひしとおもひわたりたまふこころには、"あひみですぎはてぬるにこそは。"と、みたまふに、いみじくいふかひなし。 |
34 | 11.5.3 | 820 | 788 |
涙をえせきとめず、この夢語りを、かつは行く先頼もしく、 |
なみだをえせきとめず、このゆめがたりを、かつはゆくさきたのもしく、 |
34 | 11.5.4 | 821 | 789 |
「さらば、ひが心にて、わが身をさしもあるまじきさまにあくがらしたまふと、中ごろ思ひただよはれしことは、かくはかなき夢に頼みをかけて、心高くものしたまふなりけり」 |
"さらば、ひがこころにて、わがみをさしもあるまじきさまにあくがらしたまふと、なかごろおもひただよはれしことは、かくはかなきゆめにたのみをかけて、こころたかくものしたまふなりけり。" |
34 | 11.5.5 | 822 | 790 |
と、かつがつ思ひ合はせたまふ。 |
と、かつがつおもひあはせたまふ。 |
34 | 11.6 | 823 | 791 | 第六段 尼君と御方の感懐 |
34 | 11.6.1 | 824 | 792 |
尼君、久しくためらひて、 |
あまぎみ、ひさしくためらひて、 |
34 | 11.6.2 | 825 | 793 |
「君の御徳には、うれしくおもだたしきことをも、身にあまりて並びなく思ひはべり。あはれにいぶせき思ひもすぐれてこそはべりけれ。 |
"きみのおほんとくには、うれしくおもだたしきことをも、みにあまりてならびなくおもひはべり。あはれにいぶせきおもひもすぐれてこそはべりけれ。 |
34 | 11.6.3 | 826 | 794 |
数ならぬ方にても、ながらへし都を捨てて、かしこに沈みゐしをだに、世人に違ひたる宿世にもあるかな、と思ひはべしかど、生ける世にゆき離れ、隔たるべき仲の契りとは思ひかけず、同じ蓮に住むべき後の世の頼みをさへかけて年月を過ぐし来て、にはかにかくおぼえぬ御こと出で来て、背きにし世に立ち返りてはべる、かひある御ことを見たてまつりよろこぶものから、片つかたには、おぼつかなく悲しきことのうち添ひて絶えぬを、つひにかくあひ見ず隔てながらこの世を別れぬるなむ、口惜しくおぼえはべる。 |
かずならぬかたにても、ながらへしみやこをすてて、かしこにしづみゐしをだに、よひとにたがひたるすくせにもあるかな、とおもひはべしかど、いけるよにゆきはなれ、へだてたるべきなかのちぎりとはおもひかけず、おなじはちすにすむべきのちのよのたのみをさへかけてとしつきをすぐしきて、にはかにかくおぼえぬおほんこといできて、そむきにしよにたちかへりてはべる、かひあるおほんことをみたてまつりよろこぶものから、かたつかたには、おぼつかなくかなしきことのうちそひてたえぬを、つひにかくあひみずへだてながらこのよをわかれぬるなん、くちをしくおぼえはべる。 |
34 | 11.6.4 | 827 | 795 |
世に経し時だに、人に似ぬ心ばへにより、世をもてひがむるやうなりしを、若きどち頼みならひて、おのおのはまたなく契りおきてければ、かたみにいと深くこそ頼みはべしか。いかなれば、かく耳に近きほどながら、かくて別れぬらむ」 |
よにへしときだに、ひとににぬこころばへにより、よをもてひがむるやうなりしを、わかきどちたのみならひて、おのおのはまたなくちぎりおきてければ、かたみにいとふかくこそたのみはべしか。いかなれば、かくみみにちかきほどながら、かくてわかれぬらん。" |
34 | 11.6.5 | 828 | 796 |
と言ひ続けて、いとあはれにうちひそみたまふ。御方もいみじく泣きて、 |
といひつづけて、いとあはれにうちひそみたまふ。おほんかたもいみじくなきて、 |
34 | 11.6.6 | 829 | 797 |
「人にすぐれむ行く先のことも、おぼえずや。数ならぬ身には、何ごとも、けざやかにかひあるべきにもあらぬものから、あはれなるありさまに、おぼつかなくてやみなむのみこそ口惜しけれ。 |
"ひとにすぐれんゆくさきのことも、おぼえずや。かずならぬみには、なにごとも、けざやかにかひあるべきにもあらぬものから、あはれなるありさまに、おぼつかなくてやみなんのみこそくちをしけれ。 |
34 | 11.6.7 | 830 | 798 |
よろづのこと、さるべき人の御ためとこそおぼえはべれ、さて絶え籠もりたまひなば、世の中も定めなきに、やがて消えたまひなば、かひなくなむ」 |
よろづのこと、さるべきひとのおほんためとこそおぼえはべれ、さてたえこもりたまひなば、よのなかもさだめなきに、やがてきえたまひなば、かひなくなん。" |
34 | 11.6.8 | 831 | 799 |
とて、夜もすがら、あはれなることどもを言ひつつ明かしたまふ。 |
とて、よもすがら、あはれなることどもをいひつつあかしたまふ。 |
34 | 11.7 | 832 | 800 | 第七段 御方、部屋に戻る |
34 | 11.7.1 | 833 | 801 |
「昨日も、大殿の君の、あなたにありと見置きたまひてしを、にはかにはひ隠れたらむも、軽々しきやうなるべし。身ひとつは、何ばかりも思ひ憚りはべらず。かく添ひたまふ御ためなどのいとほしきになむ、心にまかせて身をももてなしにくかるべき」 |
"きのふも、おとどのきみの、あなたにありとみおきたまひてしを、にはかにはひかくれたらんも、かろがろしきやうなるべし。みひとつは、なにばかりもおもひはばかりはべらず。かくそひたまふおほんためなどのいとほしきになん、こころにまかせてみをももてなしにくかるべき。" |
34 | 11.7.2 | 834 | 802 |
とて、暁に帰り渡りたまひぬ。 |
とて、あかつきにかへりわたりたまひぬ。 |
34 | 11.7.3 | 835 | 803 |
「若宮はいかがおはします。いかでか見たてまつるべき」 |
"わかみやはいかがおはします。いかでかみたてまつるべき。" |
34 | 11.7.4 | 836 | 804 |
とても泣きぬ。 |
とてもなきぬ。 |
34 | 11.7.5 | 837 | 805 |
「今見たてまつりたまひてむ。女御の君も、いとあはれになむ思し出でつつ、聞こえさせたまふめる。院も、ことのついでに、もし世の中思ふやうならば、ゆゆしきかね言なれど、尼君そのほどまでながらへたまはなむ、とのたまふめりき。いかに思すことにかあらむ」 |
"いまみたてまつりたまひてん。にょうごのきみも、いとあはれになんおぼしいでつつ、きこえさせたまふめる。ゐんも、ことのついでに、もしよのなかおもふやうならば、ゆゆしきかねごとなれど、あまぎみそのほどまでながらへたまはなん、とのたまふめりき。いかにおぼすことにかあらん。" |
34 | 11.7.6 | 838 | 806 |
とのたまへば、またうち笑みて、 |
とのたまへば、またうちゑみて、 |
34 | 11.7.7 | 839 | 807 |
「いでや、さればこそ、さまざま例なき宿世にこそはべれ」 |
"いでや、さればこそ、さまざまためしなきすくせにこそはべれ。" |
34 | 11.7.8 | 840 | 808 |
とて喜ぶ。この文箱は持たせて参う上りたまひぬ。 |
とてよろこぶ。このふばこはもたせてまうのぼりたまひぬ。 |
34 | 12 | 841 | 809 | 第十二章 明石の物語 一族の宿世 |
34 | 12.1 | 842 | 810 | 第一段 東宮からのお召しの催促 |
34 | 12.1.1 | 843 | 811 |
宮より、とく参りたまふべきよしのみあれば、 |
みやより、とくまゐりたまふべきよしのみあれば、 |
34 | 12.1.2 | 844 | 812 |
「かく思したる、ことわりなり。めづらしきことさへ添ひて、いかに心もとなく思さるらむ」 |
"かくおぼしたる、ことわりなり。めづらしきことさへそひて、いかにこころもとなくおぼさるらん。" |
34 | 12.1.3 | 845 | 813 |
と、紫の上ものたまひて、若宮忍びて参らせたてまつらむ御心づかひしたまふ。 |
と、むらさきのうへものたまひて、わかみやしのびてまゐらせたてまつらんみこころづかひしたまふ。 |
34 | 12.1.4 | 846 | 814 |
御息所は、御暇の心やすからぬに懲りたまひて、かかるついでに、しばしあらまほしく思したり。ほどなき御身に、さる恐ろしきことをしたまへれば、すこし面痩せ細りて、いみじくなまめかしき御さましたまへり。 |
みやすんどころは、おほんいとまのこころやすからぬにこりたまひて、かかるついでに、しばしあらまほしくおぼしたり。ほどなきおほんみに、さるおそろしきことをしたまへれば、すこしおもやせほそりて、いみじくなまめかしきおほんさましたまへり。 |
34 | 12.1.5 | 847 | 815 |
「かく、ためらひがたくおはするほど、つくろひたまひてこそは」 |
"かく、ためらひがたくおはするほど、つくろひたまひてこそは。" |
34 | 12.1.6 | 848 | 816 |
など、御方などは心苦しがりきこえたまふを、大殿は、 |
など、おほんかたなどはこころくるしがりきこえたまふを、おとどは、 |
34 | 12.1.7 | 849 | 817 |
「かやうに面痩せて見えたてまつりたまはむも、なかなかあはれなるべきわざなり」 |
"かやうにおもやせてみえたてまつりたまはんも、なかなかあはれなるべきわざなり。" |
34 | 12.1.8 | 850 | 818 |
などのたまふ。 |
などのたまふ。 |
34 | 12.2 | 851 | 819 | 第二段 明石女御、手紙を見る |
34 | 12.2.1 | 852 | 820 |
対の上などの渡りたまひぬる夕つ方、しめやかなるに、御方、御前に参りたまひて、この文箱聞こえ知らせたまふ。 |
たいのうへなどのわたりたまひぬるゆふつかた、しめやかなるに、おほんかた、おまへにまゐりたまひて、このふばこきこえしらせたまふ。 |
34 | 12.2.2 | 853 | 821 |
「思ふさまにかなひ果てさせたまふまでは、取り隠して置きてはべるべけれど、世の中定めがたければ、うしろめたさになむ。何ごとをも御心と思し数まへざらむこなた、ともかくも、はかなくなりはべりなば、かならずしも今はのとぢめを、御覧ぜらるべき身にもはべらねば、なほ、うつし心失せずはべる世になむ、はかなきことをも、聞こえさせ置くべくはべりける、と思ひはべりて。 |
"おもふさまにかなひはてさせたまふまでは、とりかくしておきてはべるべけれど、よのなかさだめがたければ、うしろめたさになん。なにごとをもみこころとおぼしかずまへざらんこなた、ともかくも、はかなくなりはべりなば、かならずしもいまはのとぢめを、ごらんぜらるべきみにもはべらねば、なほ、うつしごころうせずはべるよになん、はかなきことをも、きこえさせおくべくはべりける、とおもひはべりて。 |
34 | 12.2.3 | 854 | 822 |
むつかしくあやしき跡なれど、これも御覧ぜよ。この願文は、近き御厨子などに置かせたまひて、かならずさるべからむ折に御覧じて、このうちのことどもはせさせたまへ。 |
むつかしくあやしきあとなれど、これもごらんぜよ。このがんぶみは、ちかきみづしなどにおかせたまひて、かならずさるべからんをりにごらんじて、このうちのことどもはせさせたまへ。 |
34 | 12.2.4 | 855 | 823 |
疎き人には、な漏らさせたまひそ。かばかりと見たてまつりおきつれば、みづからも世を背きはべなむと思うたまへなりゆけば、よろづ心のどかにもおぼえはべらず。 |
うときひとには、なもらさせたまひそ。かばかりとみたてまつりおきつれば、みづからもよをそむきはべなんとおもうたまへなりゆけば、よろづこころのどかにもおぼえはべらず。 |
34 | 12.2.5 | 856 | 824 |
対の上の御心、おろかに思ひきこえさせたまふな。いとありがたくものしたまふ、深き御けしきを見はべれば、身にはこよなくまさりて、長き御世にもあらなむとぞ思ひはべる。もとより、御身に添ひきこえさせむにつけても、つつましき身のほどにはべれば、譲りきこえそめはべりにしを、いとかうしも、ものしたまはじとなむ、年ごろは、なほ世の常に思うたまへわたりはべりつる。 |
たいのうへのみこころ、おろかにおもひきこえさせたまふな。いとありがたくものしたまふ、ふかきみけしきをみはべれば、みにはこよなくまさりて、ながきみよにもあらなんとぞおもひはべる。もとより、おほんみにそひきこえさせんにつけても、つつましきみのほどにはべれば、ゆづりきこえそめはべりにしを、いとかうしも、ものしたまはじとなん、としごろは、なほよのつねにおもうたまへわたりはべりつる。 |
34 | 12.2.6 | 857 | 825 |
今は、来し方行く先、うしろやすく思ひなりにてはべり」 |
いまは、きしかたゆくさき、うしろやすくおもひなりにてはべり。" |
34 | 12.2.7 | 858 | 826 |
など、いと多く聞こえたまふ。涙ぐみて聞きおはす。かくむつましかるべき御前にも、常にうちとけぬさましたまひて、わりなくものづつみしたるさまなり。この文の言葉、いとうたてこはく、憎げなるさまを、陸奥国紙にて、年経にければ、黄ばみ厚肥えたる五、六枚、さすがに香にいと深くしみたるに書きたまへり。 |
など、いとおほくきこえたまふ。なみだぐみてききおはす。かくむつましかるべきおまへにも、つねにうちとけぬさましたまひて、わりなくものづつみしたるさまなり。このふみのことば、いとうたてこはく、にくげなるさまを、みちのくにがみにて、としへにければ、きばみあつごえたるご、ろくまい、さすがにかうにいとふかくしみたるにかきたまへり。 |
34 | 12.2.8 | 859 | 827 |
いとあはれと思して、御額髪のやうやう濡れゆく、御側目、あてになまめかし。 |
いとあはれとおぼして、おほんひたひがみのやうやうぬれゆく、おほんそばめ、あてになまめかし。 |
34 | 12.3 | 860 | 828 | 第三段 源氏、女御の部屋に来る |
34 | 12.3.1 | 861 | 829 |
院は、姫宮の御方におはしけるを、中の御障子よりふと渡りたまへれば、えしも引き隠さで、御几帳をすこし引き寄せて、みづからははた隠れたまへり。 |
ゐんは、ひめみやのおほんかたにおはしけるを、なかのみさうじよりふとわたりたまへれば、えしもひきかくさで、みきちゃうをすこしひきよせて、みづからははたかくれたまへり。 |
34 | 12.3.2 | 862 | 830 |
「若宮は、おどろきたまへりや。時の間も恋しきわざなりけり」 |
"わかみやは、おどろきたまへりや。ときのまもこひしきわざなりけり。" |
34 | 12.3.3 | 863 | 831 |
と聞こえたまへば、御息所はいらへも聞こえたまはねば、御方、 |
ときこえたまへば、みやすんどころはいらへもきこえたまはねば、おほんかた、 |
34 | 12.3.4 | 864 | 832 |
「対に渡しきこえたまひつ」 |
"たいにわたしきこえたまひつ。" |
34 | 12.3.5 | 865 | 833 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
34 | 12.3.6 | 866 | 834 |
「いとあやしや。あなたにこの宮を領じたてまつりて、懐をさらに放たずもて扱ひつつ、人やりならず衣も皆濡らして、脱ぎかへがちなめる。軽々しく、などかく渡したてまつりたまふ。こなたに渡りてこそ見たてまつりたまはめ」 |
"いとあやしや。あなたにこのみやをらうじたてまつりて、ふところをさらにはなたずもてあつかひつつ、ひとやりならずきぬもみなぬらして、ぬぎかへがちなめる。かろがろしく、などかくわたしたてまつりたまふ。こなたにわたりてこそみたてまつりたまはめ。" |
34 | 12.3.7 | 867 | 835 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
34 | 12.3.8 | 868 | 836 |
「いと、うたて。思ひぐまなき御ことかな。女におはしまさむにだに、あなたにて見たてまつりたまはむこそよくはべらめ。まして男は、限りなしと聞こえさすれど、心やすくおぼえたまふを。戯れにても、かやうに隔てがましきこと、なさかしがり聞こえさせたまひそ」 |
"いと、うたて。おもひぐまなきおほんことかな。をんなにおはしまさんにだに、あなたにてみたてまつりたまはんこそよくはべらめ。ましてをとこは、かぎりなしときこえさすれど、こころやすくおぼえたまふを。たはぶれにても、かやうにへだてがましきこと、なさかしがりきこえさせたまひそ。" |
34 | 12.3.9 | 869 | 837 |
と聞こえたまふ。うち笑ひて、 |
ときこえたまふ。うちわらひて、 |
34 | 12.3.10 | 870 | 838 |
「御仲どもにまかせて、見放ちきこゆべきななりな。隔てて、今は、誰も誰もさし放ち、さかしらなどのたまふこそ幼けれ。まづは、かやうにはひ隠れて、つれなく言ひ落としたまふめりかし」 |
"おほんなかどもにまかせて、みはなちきこゆべきななりな。へだてて、いまは、たれもたれもさしはなち、さかしらなどのたまふこそをさなけれ。まづは、かやうにはひかくれて、つれなくいひおとしたまふめりかし。" |
34 | 12.3.11 | 871 | 839 |
とて、御几帳を引きやりたまへれば、母屋の柱に寄りかかりて、いときよげに、心恥づかしげなるさましてものしたまふ。 |
とて、みきちゃうをひきやりたまへれば、もやのはしらによりかかりて、いときよげに、こころはづかしげなるさましてものしたまふ。 |
34 | 12.4 | 872 | 840 | 第四段 源氏、手紙を見る |
34 | 12.4.1 | 873 | 841 |
ありつる箱も、惑ひ隠さむもさま悪しければ、さておはするを、 |
ありつるはこも、まどひかくさんもさまあしければ、さておはするを、 |
34 | 12.4.2 | 874 | 842 |
「なぞの箱。深き心あらむ。懸想人の長歌詠みて封じこめたる心地こそすれ」 |
"なぞのかこ。ふかきこころあらん。けさうびとのながうたよみてふんじこめたるここちこそすれ。" |
34 | 12.4.3 | 875 | 843 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
34 | 12.4.4 | 876 | 844 |
「あな、うたてや。今めかしくなり返らせたまふめる御心ならひに、聞き知らぬやうなる御すさび言どもこそ、時々出で来れ」 |
"あな、うたてや。いまめかしくなりかへらせたまふめるみこころならひに、ききしらぬやうなるおほんすさびごとどもこそ、ときどきいでくれ。" |
34 | 12.4.5 | 877 | 845 |
とて、ほほ笑みたまへれど、ものあはれなりける御けしきどもしるければ、あやしとうち傾きたまへるさまなれば、わづらはしくて、 |
とて、ほほゑみたまへれど、ものあはれなりけるみけしきどもしるければ、あやしとうちかたぶきたまへるさまなれば、わづらはしくて、 |
34 | 12.4.6 | 878 | 846 |
「かの明石の岩屋より、忍びてはべし御祈りの巻数、また、まだしき願などのはべりけるを、御心にも知らせたてまつるべき折あらば、御覧じおくべくやとてはべるを、ただ今は、ついでなくて、何かは開けさせたまはむ」 |
"かのあかしのいはやより、しのびてはべしおほんいのりのかんじゅ、また、まだしきがんなどのはべりけるを、みこころにもしらせたてまつるべきをりあらば、ごらんじおくべくやとてはべるを、ただいまは、ついでなくて、なにかはあけさせたまはん。" |
34 | 12.4.7 | 879 | 847 |
と聞こえたまふに、「げに、あはれなるべきありさまぞかし」と思して、 |
ときこえたまふに、"げに、あはれなるべきありさまぞかし。"とおぼして、 |
34 | 12.4.8 | 880 | 848 |
「いかに行なひまして住みたまひにたらむ。命長くて、ここらの年ごろ勤むる罪も、こよなからむかし。世の中に、よしあり、賢しき方々の、人とて見るにも、この世に染みたるほどの濁り深きにやあらむ、賢き方こそあれ、いと限りありつつ及ばざりけりや。 |
"いかにおこなひましてすみたまひにたらん。いのちながくて、ここらのとしごろつとむるつみも、こよなからんかし。よのなかに、よしあり、さかしきかたがたの、ひととてみるにも、このよにそみたるほどのにごりふかきにやあらん、かしこきかたこそあれ、いとかぎりありつつおよばざりけりや。 |
34 | 12.4.9 | 881 | 849 |
さもいたり深く、さすがに、けしきありし人のありさまかな。聖だち、この世離れ顔にもあらぬものから、下の心は、皆あらぬ世に通ひ住みにたるとこそ、見えしか。 |
さもいたりふかく、さすがに、けしきありしひとのありさまかな。ひじりだち、このよばなれがほにもあらぬものから、したのこころは、みなあらぬよにかよひすみにたるとこそ、みえしか。 |
34 | 12.4.10 | 882 | 850 |
まして、今は心苦しきほだしもなく、思ひ離れにたらむをや。かやすき身ならば、忍びて、いと会はまほしくこそ」 |
まして、いまはこころぐるしきほだしもなく、おもひはなれにたらんをや。かやすきみならば、しのびて、いとあはまほしくこそ。" |
34 | 12.4.11 | 883 | 851 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
34 | 12.4.12 | 884 | 852 |
「今は、かのはべりし所をも捨てて、鳥の音聞こえぬ山にとなむ聞きはべる」 |
"いまは、かのはべりしところをもすてて、とりのねきこえぬやまにとなんききはべる。" |
34 | 12.4.13 | 885 | 853 |
と聞こゆれば、 |
ときこゆれば、 |
34 | 12.4.14 | 886 | 854 |
「さらば、その遺言ななりな。消息は通はしたまふや。尼君、いかに思ひたまふらむ。親子の仲よりも、またさるさまの契りは、ことにこそ添ふべけれ」 |
"さらば、そのゆいごんななりな。せうそこはかよはしたまふや。あまぎみ、いかにおもひたまふらん。おやこのなかよりも、またさるさまのちぎりは、ことにこそそふべけれ。" |
34 | 12.4.15 | 887 | 855 |
とて、うち涙ぐみたまへり。 |
とて、うちなみだぐみたまへり。 |
34 | 12.5 | 888 | 856 | 第五段 源氏の感想 |
34 | 12.5.1 | 889 | 857 |
「年の積もりに、世の中のありさまを、とかく思ひ知りゆくままに、あやしく恋しく思ひ出でらるる人の御ありさまなれば、深き契りの仲らひは、いかにあはれならむ」 |
"としのつもりに、よのなかのありさまを、とかくおもひしりゆくままに、あやしくこひしくおもひいでらるるひとのみありさまなれば、ふかきちぎりのなからひは、いかにあはれならん。" |
34 | 12.5.2 | 890 | 858 |
などのたまふついでに、「この夢語りも思し合はすることもや」と思ひて、 |
などのたまふついでに、"このゆめがたりもおぼしあはすることもや。"とおもひて、 |
34 | 12.5.3 | 891 | 859 |
「いとあやしき梵字とかいふやうなる跡にはべめれど、御覧じとどむべき節もや混じりはべるとてなむ。今はとて別れはべりにしかど、なほこそ、あはれは残りはべるものなりけれ」 |
"いとあやしきぼんじとかいふやうなるあとにはべめれど、ごらんじとどむべきふしもやまじりはべるとてなん。いまはとてわかれはべりにしかど、なほこそ、あはれはのこりはべるものなりけれ。" |
34 | 12.5.4 | 892 | 860 |
とて、さまよくうち泣きたまふ。寄りたまひて、 |
とて、さまよくうちなきたまふ。よりたまひて、 |
34 | 12.5.5 | 893 | 861 |
「いとかしこく、なほほれぼれしからずこそあるべけれ。手なども、すべて何ごとも、わざと有職にしつべかりける人の、ただこの世経る方の心おきてこそ少なかりけれ。 |
"いとかしこく、なほほれぼれしからずこそあるべけれ。てなども、すべてなにごとも、わざというそくにしつべかりけるひとの、ただこのよふるかたのこころおきてこそすくなかりけれ。 |
34 | 12.5.6 | 894 | 862 |
かの先祖の大臣は、いとかしこくありがたき心ざしを尽くして、朝廷に仕うまつりたまひけるほどに、ものの違ひめありて、その報いにかく末はなきなりなど、人言ふめりしを、女子の方につけたれど、かくていと嗣なしといふべきにはあらぬも、そこらの行なひのしるしにこそはあらめ」 |
かのせんぞのおとどは、いとかしこくありがたきこころざしをつくして、おほやけにつかうまつりたまひけるほどに、もののたがひめありて、そのむくいにかくすゑはなきなりなど、ひといふめりしを、をんなごのかたにつけたれど、かくていとつぎなしといふべきにはあらぬも、そこらのおこなひのしるしにこそはあらめ。" |
34 | 12.5.7 | 895 | 863 |
など、涙おし拭ひたまひつつ、この夢のわたりに目とどめたまふ。 |
など、なみだおしのごひたまひつつ、このゆめのわたりにめとどめたまふ。 |
34 | 12.5.8 | 896 | 864 |
「あやしくひがひがしく、すずろに高き心ざしありと人も咎め、また我ながらも、さるまじき振る舞ひを、仮にてもするかな、と思ひしことは、この君の生まれたまひし時に、契り深く思ひ知りにしかど、目の前に見えぬあなたのことは、おぼつかなくこそ思ひわたりつれ、さらば、かかる頼みありて、あながちには望みしなりけり。 |
"あやしくひがひがしく、すずろにたかきこころざしありとひともとがめ、またわれながらも、さるまじきふるまひを、かりにてもするかな、とおもひしことは、このきみのむまれたまひしときに、ちぎりふかくおもひしりにしかど、めのまへにみえぬあなたのことは、おぼつかなくこそおもひわたりつれ、さらば、かかるたのみありて、あながちにはのぞみしなりけり。 |
34 | 12.5.9 | 897 | 865 |
横さまに、いみじき目を見、ただよひしも、この人一人のためにこそありけれ。いかなる願をか心に起こしけむ」 |
よこさまに、いみじきめをみ、ただよひしも、このひとひとりのためにこそありけれ。いかなるがんをかこころにおこしけん。" |
34 | 12.5.10 | 898 | 866 |
とゆかしければ、心のうちに拝みて取りたまひつ。 |
とゆかしければ、こころのうちにおがみてとりたまひつ。 |
34 | 12.6 | 899 | 867 | 第六段 源氏、紫の上の恩を説く |
34 | 12.6.1 | 900 | 868 |
「これは、また具してたてまつるべきものはべり。今また聞こえ知らせはべらむ」 |
"これは、またぐしてたてまつるべきものはべり。いままたきこえしらせはべらん。" |
34 | 12.6.2 | 901 | 869 |
と、女御には聞こえたまふ。そのついでに、 |
と、にょうごにはきこえたまふ。そのついでに、 |
34 | 12.6.3 | 902 | 870 |
「今は、かく、いにしへのことをもたどり知りたまひぬれど、あなたの御心ばへを、おろかに思しなすな。もとよりさるべき仲、えさらぬ睦びよりも、横さまの人のなげのあはれをもかけ、一言の心寄せあるは、おぼろけのことにもあらず。 |
"いまは、かく、いにしへのことをもたどりしりたまひぬれど、あなたのみこころばへを、おろかにおぼしなすな。もとよりさるべきなか、えさらぬむつびよりも、よこさまのひとのなげのあはれをもかけ、ひとことのこころよせあるは、おぼろけのことにもあらず。 |
34 | 12.6.4 | 903 | 871 |
まして、ここになどさぶらひ馴れたまふを見る見るも、初めの心ざし変はらず、深くねむごろに思ひきこえたるを。 |
まして、ここになどさぶらひなれたまふをみるみるも、はじめのこころざしかはらず、ふかくねんごろにおもひきこえたるを。 |
34 | 12.6.5 | 904 | 872 |
いにしへの世のたとへにも、さこそはうはべには育みけれと、らうらうじきたどりあらむも、賢きやうなれど、なほあやまりても、わがため下の心ゆがみたらむ人を、さも思ひ寄らず、うらなからむためは、引き返しあはれに、いかでかかるにはと、罪得がましきにも、思ひ直ることもあるべし。 |
いにしへのよのたとへにも、さこそはうはべにははぐくみけれと、らうらうじきたどりあらんも、かしこきやうなれど、なほあやまりても、わがためしたのこころのゆがみたらんひとを、さもおもひよらず、うらなからんためは、ひきかへしあはれに、いかでかかるにはと、つみえがましきにも、おもひなほることもあるべし。 |
34 | 12.6.6 | 905 | 873 |
おぼろけの昔の世のあだならぬ人は、違ふ節々あれど、ひとりひとり罪なき時には、おのづからもてなす例どもあるべかめり。さしもあるまじきことに、かどかどしく癖をつけ、愛敬なく、人をもて離るる心あるは、いとうちとけがたく、思ひぐまなきわざになむあるべき。 |
おぼろけのむかしのよのあだならぬひとは、たがふふしぶしあれど、ひとりひとりつみなきときには、おのづからもてなすためしどもあるべかめり。さしもあるまじきことに、かどかどしくくせをつけ、あいぎゃうなく、ひとをもてはなるるこころあるは、いとうちとけがたく、おもひぐまなきわざになんあるべき。 |
34 | 12.6.7 | 906 | 874 |
多くはあらねど、人の心の、とあるさまかかるおもむきを見るに、ゆゑよしといひ、さまざまに口惜しからぬ際の心ばせあるべかめり。皆おのおの得たる方ありて、取るところなくもあらねど、また、取り立てて、わが後見に思ひ、まめまめしく選び思はむには、ありがたきわざになむ。 |
おほくはあらねど、ひとのこころの、とあるさまかかるおもむきをみるに、ゆゑよしといひ、さまざまにくちをしからぬきはのこころばせあるべかめり。みなおのおのえたるかたありて、とるところなくもあらねど、また、とりたてて、わがうしろみにおもひ、まめまめしくえらびおもはんには、ありがたきわざになん。 |
34 | 12.6.8 | 907 | 875 |
ただまことに心の癖なくよきことは、この対をのみなむ、これをぞおいらかなる人といふべかりける、となむ思ひはべる。よしとて、またあまりひたたけて頼もしげなきも、いと口惜しや」 |
ただまことにこころのくせなくよきことは、このたいをのみなん、これをぞおいらかなるひとといふべかりける、となんおもひはべる。よしとて、またあまりひたたけてたのもしげなきも、いとくちをしや。" |
34 | 12.6.9 | 908 | 876 |
とばかりのたまふに、かたへの人は思ひやられぬかし。 |
とばかりのたまふに、かたへのひとはおもひやられぬかし。 |
34 | 12.7 | 909 | 877 | 第七段 明石御方、卑下す |
34 | 12.7.1 | 910 | 878 |
「そこにこそ、すこしものの心得てものしたまふめるを、いとよし、睦び交はして、この御後見をも、同じ心にてものしたまへ」 |
"そこにこそ、すこしもののこころえてものしたまふめるを、いとよし、むつびかはして、このおほんうしろみをも、おなじこころにてものしたまへ。" |
34 | 12.7.2 | 911 | 879 |
など、忍びやかにのたまふ。 |
など、しのびやかにのたまふ。 |
34 | 12.7.3 | 912 | 880 |
「のたまはせねど、いとありがたき御けしきを見たてまつるままに、明け暮れの言種に聞こえはべる。めざましきものになど思しゆるさざらむに、かうまで御覧じ知るべきにもあらぬを、かたはらいたきまで数まへのたまはすれば、かへりてはまばゆくさへなむ。 |
"のたまはせねど、いとありがたきみけしきをみたてまつるままに、あけくれのことぐさにきこえはべる。めざましきものになどおぼしゆるさざらんに、かうまでごらんじしるべきにもあらぬを、かたはらいたきまでかずまへのたまはすれば、かへりてはまばゆくさへなん。 |
34 | 12.7.4 | 913 | 881 |
数ならぬ身の、さすがに消えぬは、世の聞き耳も、いと苦しく、つつましく思うたまへらるるを、罪なきさまに、もて隠されたてまつりつつのみこそ」 |
かずならぬみの、さすがにきえぬは、よのききみみも、いとくるしく、つつましくおもうたまへらるるを、つみなきさまに、もてかくされたてまつりつつのみこそ。" |
34 | 12.7.5 | 914 | 882 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
34 | 12.7.6 | 915 | 883 |
「その御ためには、何の心ざしかはあらむ。ただ、この御ありさまを、うち添ひてもえ見たてまつらぬおぼつかなさに、譲りきこえらるるなめり。それもまた、とりもちて、掲焉になどあらぬ御もてなしどもに、よろづのことなのめに目やすくなれば、いとなむ思ひなくうれしき。 |
"そのおほんためには、なにのこころざしかはあらん。ただ、このおほんありさまを、うちそひてもえみたてまつらぬおぼつかなさに、ゆづりきこえらるるなめり。それもまた、とりもちて、けちえんになどあらぬおほんもてなしどもに、よろづのことなのめにめやすくなれば、いとなんおもひなくうれしき。 |
34 | 12.7.7 | 916 | 884 |
はかなきことにて、ものの心得ずひがひがしき人は、立ち交じらふにつけて、人のためさへからきことありかし。さ直しどころなく、誰もものしたまふめれば、心やすくなむ」 |
はかなきことにて、もののこころえずひがひがしきひとは、たちまじらふにつけて、ひとのためさへからきことありかし。さなほしどころなく、たれもものしたまふめれば、こころやすくなん。" |
34 | 12.7.8 | 917 | 885 |
とのたまふにつけても、 |
とのたまふにつけても、 |
34 | 12.7.9 | 918 | 886 |
「さりや、よくこそ卑下しにけれ」 |
"さりや、よくこそひげしにけれ。" |
34 | 12.7.10 | 919 | 887 |
など、思ひ続けたまふ。対へ渡りたまひぬ。 |
など、おもひつづけたまふ。たいへわたりたまひぬ。 |
34 | 12.8 | 920 | 888 | 第八段 明石御方、宿世を思う |
34 | 12.8.1 | 921 | 889 |
「さも、いとやむごとなき御心ざしのみまさるめるかな。げにはた、人よりことに、かくしも具したまへるありさまの、ことわりと見えたまへるこそめでたけれ。 |
"さも、いとやんごとなきみこころざしのみまさるめるかな。げにはた、ひとよりことに、かくしもぐしたまへるありさまの、ことわりとみえたまへるこそめでたけれ。 |
34 | 12.8.2 | 922 | 890 |
宮の御方、うはべの御かしづきのみめでたくて、渡りたまふことも、えなのめならざめるは、かたじけなきわざなめりかし。同じ筋にはおはすれど、今一際は心苦しく」 |
みやのおほんかた、うはべのおほんかしづきのみめでたくて、わたりたまふことも、えなのめならざめるは、かたじけなきわざなめりかし。おなじすぢにはおはすれど、いまひときははこころぐるしく。" |
34 | 12.8.3 | 923 | 891 |
としりうごちきこえたまふにつけても、わが宿世は、いとたけくぞ、おぼえたまひける。 |
としりうごちきこえたまふにつけても、わがすくせは、いとたけくぞ、おぼえたまひける。 |
34 | 12.8.4 | 924 | 892 |
「やむごとなきだに、思すさまにもあらざめる世に、まして立ちまじるべきおぼえにしあらねば、すべて今は、恨めしき節もなし。ただ、かの絶え籠もりにたる山住みを思ひやるのみぞ、あはれにおぼつかなき」 |
"やんごとなきだに、おぼすさまにもあらざめるよに、ましてたちまじるべきおぼえにしあらねば、すべていまは、うらめしきふしもなし。ただ、かのたえこもりにたるやまずみをおもひやるのみぞ、あはれにおぼつかなき。" |
34 | 12.8.5 | 925 | 893 |
尼君も、ただ、「福地の園に種まきて」とやうなりし一言をうち頼みて、後の世を思ひやりつつ眺めゐたまへり。 |
あまぎみも、ただ、"ふくぢのそのにたねまきて。"とやうなりしひとことをうちたのみて、のちのよをおもひやりつつながめゐたまへり。 |
34 | 13 | 926 | 894 | 第十三章 女三の宮の物語 柏木、女三の宮を垣間見る |
34 | 13.1 | 927 | 895 | 第一段 夕霧の女三の宮への思い |
34 | 13.1.1 | 928 | 896 |
大将の君は、この姫宮の御ことを、思ひ及ばぬにしもあらざりしかば、目に近くおはしますを、いとただにもおぼえず、おほかたの御かしづきにつけて、こなたにはさりぬべき折々に参り馴れ、おのづから御けはひ、ありさまも見聞きたまふに、いと若くおほどきたまへる一筋にて、上の儀式はいかめしく、世の例にしつばかりもてかしづきたてまつりたまへれど、をさをさけざやかにもの深くは見えず。 |
だいしゃうのきみは、このひめみやのおほんことを、おもひおよばぬにしもあらざりしかば、めにちかくおはしますを、いとただにもおぼえず、おほかたのおほんかしづきにつけて、こなたにはさりぬべきをりをりにまゐりなれ、おのづからおほんけはひ、ありさまもみききたまふに、いとわかくおほどきたまへるひとすぢにて、うへのぎしきはいかめしく、よのためしにしつばかりもてかしづきたてまつりたまへれど、をさをさけざやかにものふかくはみえず。 |
34 | 13.1.2 | 929 | 897 |
女房なども、おとなおとなしきは少なく、若やかなる容貌人の、ひたぶるにうちはなやぎ、さればめるはいと多く、数知らぬまで集ひさぶらひつつ、もの思ひなげなる御あたりとはいひながら、何ごとものどやかに心しづめたるは、心のうちのあらはにしも見えぬわざなれば、身に人知れぬ思ひ添ひたらむも、またまことに心地ゆきげに、とどこほりなかるべきにしうち混じれば、かたへの人にひかれつつ、同じけはひもてなしになだらかなるを、ただ明け暮れは、いはけたる遊び戯れに心入れたる童女のありさまなど、院は、いと目につかず見たまふことどもあれど、一つさまに世の中を思しのたまはぬ御本性なれば、かかる方をもまかせて、さこそはあらまほしからめ、と御覧じゆるしつつ、戒めととのへさせたまはず。 |
にょうばうなども、おとなおとなしきはすくなく、わかやかなるかたちびとの、ひたぶるにうちはなやぎ、さればめるはいとおほく、かずしらぬまでつどひさぶらひつつ、ものおもひなげなるおほんあたりとはいひながら、なにごとものどやかにこころしづめたるは、こころのうちのあらはにしもみえぬわざなれば、みにひとしれぬおもひそひたらんも、またまことにここちゆきげに、とどこほりなかるべきにしうちまじれば、かたへのひとにひかれつつ、おなじけはひもてなしになだらかなるを、ただあけくれは、いはけたるあそびたはぶれにこころいれたるわらはべのありさまなど、ゐんは、いとめにつかずみたまふことどもあれど、ひとつさまによのなかをおぼしのたまはぬごほんじゃうなれば、かかるかたをもまかせて、さこそはあらまほしからめ、とごらんじゆるしつつ、いましめととのへさせたまはず。 |
34 | 13.1.3 | 930 | 898 |
正身の御ありさまばかりをば、いとよく教へきこえたまふに、すこしもてつけたまへり。 |
さうじみのおほんありさまばかりをば、いとよくをしへきこえたまふに、すこしもてつけたまへり。 |
34 | 13.2 | 931 | 899 | 第二段 夕霧、女三の宮を他の女性と比較 |
34 | 13.2.1 | 932 | 900 |
かやうのことを、大将の君も、 |
かやうのことを、だいしゃうのきみも、 |
34 | 13.2.2 | 933 | 901 |
「げにこそ、ありがたき世なりけれ。紫の御用意、けしきの、ここらの年経ぬれど、ともかくも漏り出で見え聞こえたるところなく、しづやかなるをもととして、さすがに、心うつくしう、人をも消たず、身をもやむごとなく、心にくくもてなし添へたまへること」 |
"げにこそ、ありがたきよなりけれ。むらさきのおほんようい、けしきの、ここらのとしへぬれど、ともかくももりいでみえきこえたるところなく、しづやかなるをもととして、さすがに、こころうつくしう、ひとをもけたず、みをもやんごとなく、こころにくくもてなしそへたまへること。" |
34 | 13.2.3 | 934 | 902 |
と、見し面影も忘れがたくのみなむ思ひ出でられける。 |
と、みしおもかげもわすれがたくのみなんおもひいでられける。 |
34 | 13.2.4 | 935 | 903 |
「わが御北の方も、あはれと思す方こそ深けれ、いふかひあり、すぐれたるらうらうじさなど、ものしたまはぬ人なり。おだしきものに、今はと目馴るるに、心ゆるびて、なほかくさまざまに、集ひたまへるありさまどもの、とりどりにをかしきを、心ひとつに思ひ離れがたきを、ましてこの宮は、人の御ほどを思ふにも、限りなく心ことなる御ほどに、取り分きたる御けしきしもあらず、人目の飾りばかりにこそ」 |
"わがおほんきたのかたも、あはれとおぼすかたこそふかけれ、いふかひあり、すぐれたるらうらうじさなど、ものしたまはぬひとなり。おだしきものに、いまはとめなるるに、こころゆるびて、なほかくさまざまに、つどひたまへるありさまどもの、とりどりにをかしきを、こころひとつにおもひはなれがたきを、ましてこのみやは、ひとのおほんほどをおもふにも、かぎりなくこころことなるおほんほどに、とりわきたるみけしきしもあらず、ひとめのかざりばかりにこそ。" |
34 | 13.2.5 | 936 | 904 |
と見たてまつり知る。わざとおほけなき心にしもあらねど、「見たてまつる折ありなむや」と、ゆかしく思ひきこえたまひけり。 |
とみたてまつりしる。わざとおほけなきこころにしもあらねど、"みたてまつるをりありなんや。"と、ゆかしくおもひきこえたまひけり。 |
34 | 13.3 | 937 | 905 | 第三段 柏木、女三の宮に執心 |
34 | 13.3.1 | 938 | 906 |
衛門督の君も、院に常に参り、親しくさぶらひ馴れたまひし人なれば、この宮を父帝のかしづきあがめたてまつりたまひし御心おきてなど、詳しく見たてまつりおきて、さまざまの御定めありしころほひより聞こえ寄り、院にも、「めざましとは思し、のたまはせず」と聞きしを、かくことざまになりたまへるは、いと口惜しく、胸いたき心地すれば、なほえ思ひ離れず。 |
ゑもんのかんのきみも、ゐんにつねにまゐり、したしくさぶらひなれたまひしひとなれば、このみやをちちみかどのかしづきあがめたてまつりたまひしみこころおきてなど、くはしくみたてまつりおきて、さまざまのおほんさだめありしころほひよりきこえより、ゐんにも、"めざましとはおぼし、のたまはせず。"とききしを、かくことざまになりたまへるは、いとくちをしく、むねいたきここちすれば、なほえおもひはなれず。 |
34 | 13.3.2 | 939 | 907 |
その折より語らひつきにける女房のたよりに、御ありさまなども聞き伝ふるを慰めに思ふぞ、はかなかりける。 |
そのをりよりかたらひつきにけるにょうばうのたよりに、おほんありさまなどもききつたふるをなぐさめにおもふぞ、はかなかりける。 |
34 | 13.3.3 | 940 | 908 |
「対の上の御けはひには、なほ圧されたまひてなむ」と、世人もまねび伝ふるを聞きては、 |
"たいのうへのおほんけはひには、なほおされたまひてなん。"と、よひともまねびつたふるをききては、 |
34 | 13.3.4 | 941 | 909 |
「かたじけなくとも、さるものは思はせたてまつらざらまし。げに、たぐひなき御身にこそ、あたらざらめ」 |
"かたじけなくとも、さるものはおもはせたてまつらざらまし。げに、たぐひなきおほんみにこそ、あたらざらめ。" |
34 | 13.3.5 | 942 | 910 |
と、常にこの小侍従といふ御乳主をも言ひはげまして、 |
と、つねにこのこじじゅうといふおほんちぬしをもいひはげまして、 |
34 | 13.3.6 | 943 | 911 |
「世の中定めなきを、大殿の君、もとより本意ありて思しおきてたる方に赴きたまはば」 |
"よのなかさだめなきを、おとどのきみ、もとよりほいありておぼしおきてたるかたにおもむきたまはば。" |
34 | 13.3.7 | 944 | 912 |
と、たゆみなく思ひありきけり。 |
と、たゆみなくおもひありきけり。 |
34 | 13.4 | 945 | 913 | 第四段 柏木ら東町に集い遊ぶ |
34 | 13.4.1 | 946 | 914 |
弥生ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿宮、衛門督など参りたまへり。大殿出でたまひて、御物語などしたまふ。 |
やよひばかりのそらうららかなるひ、ろくでうのゐんに、ひゃうぶきゃうのみや、ゑもんのかみなどまゐりたまへり。おとどいでたまひて、おほんものがたりなどしたまふ。 |
34 | 13.4.2 | 947 | 915 |
「静かなる住まひは、このごろこそいとつれづれに紛るることなかりけれ。公私にことなしや。何わざしてかは暮らすべき」 |
"しづかなるすまひは、このごろこそいとつれづれにまぎるることなかりけれ。おほやけわたくしにことなしや。なにわざしてかはくらすべき。" |
34 | 13.4.3 | 948 | 916 |
などのたまひて、 |
などのたまひて、 |
34 | 13.4.4 | 949 | 917 |
「今朝、大将のものしつるは、いづ方にぞ。いとさうざうしきを、例の、小弓射させて見るべかりけり。好むめる若人どもも見えつるを、ねたう出でやしぬる」 |
"けさ、だいしゃうのものしつるは、いづかたにぞ。いとさうざうしきを、れいの、こゆみいさせてみるべかりけり。このむめるわかうどどももみえつるを、ねたういでやしぬる。" |
34 | 13.4.5 | 950 | 918 |
と、問はせたまふ。 |
と、とはせたまふ。 |
34 | 13.4.6 | 951 | 919 |
「大将の君は、丑寅の町に、人びとあまたして、鞠もて遊ばして見たまふ」と聞こしめして、 |
"だいしゃうのきみは、うしとらのまちに、ひとびとあまたして、まりもてあそばしてみたまふ。"ときこしめして、 |
34 | 13.4.7 | 952 | 920 |
「乱りがはしきことの、さすがに目覚めてかどかどしきぞかし。いづら、こなたに」 |
"みだりがはしきことの、さすがにめさめてかどかどしきぞかし。いづら。こなたに。" |
34 | 13.4.8 | 953 | 921 |
とて、御消息あれば、参りたまへり。若君達めく人びと多かりけり。 |
とて、おほんせうそこあれば、まゐりたまへり。わかきんだちめくひとびとおほかりけり。 |
34 | 13.4.9 | 954 | 922 |
「鞠持たせたまへりや。誰々かものしつる」 |
"まりもたせたまへりや。たれだれかものしつる。" |
34 | 13.4.10 | 955 | 923 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
34 | 13.4.11 | 956 | 924 |
「これかれはべりつ」 |
"これかれはべりつ。" |
34 | 13.4.12 | 957 | 925 |
「こなたへまかでむや」 |
"こなたへまかでんや。" |
34 | 13.4.13 | 958 | 926 |
とのたまひて、寝殿の東面、桐壺は若宮具したてまつりて、参りたまひにしころなれば、こなた隠ろへたりけり。遣水などのゆきあひはれて、よしあるかかりのほどを尋ねて立ち出づ。太政大臣殿の君達、頭弁、兵衛佐、大夫の君など、過ぐしたるも、まだ片なりなるも、さまざまに、人よりまさりてのみものしたまふ。 |
とのたまひて、しんでんのひんがしおもて、きりつぼはわかみやぐしたてまつりて、まゐりたまひにしころなれば、こなたかくろへたりけり。やりみづなどのゆきあひはれて、よしあるかかりのほどをたづねてたちいづ。おほきおほいどののきみたち、とうのべん、ひゃうゑのすけ、たいふのきみなど、すぐしたるも、まだかたなりなるも、さまざまに、ひとよりまさりてのみものしたまふ。 |
34 | 13.5 | 959 | 927 | 第五段 南町で蹴鞠を催す |
34 | 13.5.1 | 960 | 928 |
やうやう暮れかかるに、「風吹かず、かしこき日なり」と興じて、弁君もえしづめず立ちまじれば、大殿、 |
やうやうくれかかるに、"かぜふかず、かしこきひなり。"ときょうじて、べんのきみもえしづめずたちまじれば、おとど、 |
34 | 13.5.2 | 961 | 929 |
「弁官もえをさめあへざめるを、上達部なりとも、若き衛府司たちは、などか乱れたまはざらむ。かばかりの齢にては、あやしく見過ぐす、口惜しくおぼえしわざなり。さるは、いと軽々なりや。このことのさまよ」 |
"べんかんもえをさめあへざめるを、かんだちめなりとも、わかきゑふづかさたちは、などかみだれたまはざらん。かばかりのよはひにては、あやしくみすぐす、くちをしくおぼえしわざなり。さるは、いときゃうぎゃうなりや。このことのさまよ。" |
34 | 13.5.3 | 962 | 930 |
などのたまふに、大将も督君も、皆下りたまひて、えならぬ花の蔭にさまよひたまふ夕ばえ、いときよげなり。をさをささまよく静かならぬ、乱れごとなめれど、所から人からなりけり。 |
などのたまふに、だいしゃうもかんのきみも、みなおりたまひて、えならぬはなのかげにさまよひたまふゆふばえ、いときよげなり。をさをささまよくしづかならぬ、みだれごとなめれど、ところからひとからなりけり。 |
34 | 13.5.4 | 963 | 931 |
ゆゑある庭の木立のいたく霞みこめたるに、色々紐ときわたる花の木ども、わづかなる萌黄の蔭に、かくはかなきことなれど、善き悪しきけぢめあるを挑みつつ、われも劣らじと思ひ顔なる中に、衛門督のかりそめに立ち混じりたまへる足もとに、並ぶ人なかりけり。 |
ゆゑあるにはのこだちのいたくかすみこめたるに、いろいろひもときわたるはなのきども、わづかなるもえぎのかげに、かくはかなきことなれど、よきあしきけぢめあるをいどみつつ、われもおとらじとおもひがほなるなかに、ゑもんのかみのかりそめにたちまじりたまへるあしもとに、ならぶひとなかりけり。 |
34 | 13.5.5 | 964 | 932 |
容貌いときよげに、なまめきたるさましたる人の、用意いたくして、さすがに乱りがはしき、をかしく見ゆ。 |
かたちいときよげに、なまめきたるさましたるひとの、よういいたくして、さすがにみだりがはしき、をかしくみゆ。 |
34 | 13.5.6 | 965 | 933 |
御階の間にあたれる桜の蔭に寄りて、人びと、花の上も忘れて心に入れたるを、大殿も宮も、隅の高欄に出でて御覧ず。 |
みはしのまにあたれるさくらのかげによりて、ひとびと、はなのうへもわすれてこころにいれたるを、おとどもみやも、すみのかうらんにいでてごらんず。 |
34 | 13.6 | 966 | 934 | 第六段 女三の宮たちも見物す |
34 | 13.6.1 | 967 | 935 |
いと労ある心ばへども見えて、数多くなりゆくに、上臈も乱れて、冠の額すこしくつろぎたり。大将の君も、御位のほど思ふこそ、例ならぬ乱りがはしさかなとおぼゆれ、見る目は、人よりけに若くをかしげにて、桜の直衣のやや萎えたるに、指貫の裾つ方、すこしふくみて、けしきばかり引き上げたまへり。 |
いとらうあるこころばへどもみえて、かずおほくなりゆくに、じゃうらふもみだれて、かうぶりのひたひすこしくつろぎたり。だいしゃうのきみも、おほんくらゐのほどおもふこそ、れいならぬみだりがはしさかなとおぼゆれ、みるめは、ひとよりけにわかくをかしげにて、さくらのなほしのややなえたるに、さしぬきのすそつかた、すこしふくみて、けしきばかりひきあげたまへり。 |
34 | 13.6.2 | 968 | 936 |
軽々しうも見えず、ものきよげなるうちとけ姿に、花の雪のやうに降りかかれば、うち見上げて、しをれたる枝すこし押し折りて、御階の中のしなのほどにゐたまひぬ。督の君続きて、 |
かるがるしうもみえず、ものきよげなるうちとけすがたに、はなのゆきのやうにふりかかれば、うちみあげて、しをれたるえだすこしおしをりて、みはしのなかのしなのほどにゐたまひぬ。かんのきみつづきて、 |
34 | 13.6.3 | 969 | 937 |
「花、乱りがはしく散るめりや。桜は避きてこそ」 |
"はな、みだりがはしくちるめりや。さくらはよきてこそ。" |
34 | 13.6.4 | 970 | 938 |
などのたまひつつ、宮の御前の方を後目に見れば、例の、ことにをさまらぬけはひどもして、色々こぼれ出でたる御簾のつま、透影など、春の手向けの幣袋にやとおぼゆ。 |
などのたまひつつ、みやのおまへのかたをしりめにみれば、れいの、ことにをさまらぬけはひどもして、いろいろこぼれいでたるみすのつま、すきかげなど、はるのたむけのぬさぶくろにやとおぼゆ。 |
34 | 13.7 | 971 | 939 | 第七段 唐猫、御簾を引き開ける |
34 | 13.7.1 | 972 | 940 |
御几帳どもしどけなく引きやりつつ、人気近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫のいと小さくをかしげなるを、すこし大きなる猫追ひ続きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人びとおびえ騒ぎて、そよそよと身じろきさまよふけはひども、衣の音なひ、耳かしかましき心地す。 |
みきちゃうどもしどけなくひきやりつつ、ひとけちかくよづきてぞみゆるに、からねこのいとちひさくをかしげなるを、すこしおほきなるねこおひつづきて、にはかにみすのつまよりはしりいづるに、ひとびとおびえさわぎて、そよそよとみじろきさまよふけはひども、きぬのおとなひ、みみかしかましきここちす。 |
34 | 13.7.2 | 973 | 941 |
猫は、まだよく人にもなつかぬにや、綱いと長く付きたりけるを、物にひきかけまつはれにけるを、逃げむとひこしろふほどに、御簾の側いとあらはに引き開けられたるを、とみにひき直す人もなし。この柱のもとにありつる人びとも、心あわたたしげにて、もの懼ぢしたるけはひどもなり。 |
ねこは、まだよくひとにもなつかぬにや、つないとながくつきたりけるを、ものにひきかけまつはれにけるを、にげんとひこしろふほどに、みすのそばいとあらはにひきあけられたるを、とみにひきなほすひともなし。このはしらのもとにありつるひとびとも、こころあわたたしげにて、ものおぢしたるけはひどもなり。 |
34 | 13.8 | 974 | 942 | 第八段 柏木、女三の宮を垣間見る |
34 | 13.8.1 | 975 | 943 |
几帳の際すこし入りたるほどに、袿姿にて立ちたまへる人あり。階より西の二の間の東の側なれば、まぎれどころもなくあらはに見入れらる。 |
きちゃうのきはすこしいりたるほどに、うちきすがたにてたちたまへるひとあり。はしよりにしのにのまのひんがしのそばなれば、まぎれどころもなくあらはにみいれらる。 |
34 | 13.8.2 | 976 | 945 |
紅梅にやあらむ、濃き薄き、すぎすぎに、あまた重なりたるけぢめ、はなやかに、草子のつまのやうに見えて、桜の織物の細長なるべし。御髪のすそまでけざやかに見ゆるは、糸をよりかけたるやうになびきて、裾のふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、七、八寸ばかりぞ余りたまへる。御衣の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかりたまへる側目、言ひ知らずあてにらうたげなり。夕影なれば、さやかならず、奥暗き心地するも、いと飽かず口惜し。 |
こうばいにやあらん。こきうすき、すぎすぎに、あまたかさなりたるけぢめ、はなやかに、そうしのつまのやうにみえて、さくらのおりもののほそながなるべし。みぐしのすそまでけざやかにみゆるは、いとをよりかけたるやうになびきて、すそのふさやかにそがれたる、いとうつくしげにて、しち、はちすんばかりぞあまりたまへる。おほんぞのすそがちに、いとほそくささやかにて、すがたつき、かみのかかりたまへるそばめ、いひしらずあてにらうたげなり。ゆふかげなれば、さやかならず、おくくらきここちするも、いとあかずくちをし。 |
34 | 13.8.3 | 977 | 946 |
鞠に身を投ぐる若君達の、花の散るを惜しみもあへぬけしきどもを見るとて、人びと、あらはをふともえ見つけぬなるべし。猫のいたく鳴けば、見返りたまへる面もち、もてなしなど、いとおいらかにて、若くうつくしの人やと、ふと見えたり。 |
まりにみをなぐるわかきんだちの、はなのちるををしみもあへぬけしきどもをみるとて、ひとびと、あらはをふともえみつけぬなるべし。ねこのいたくなけば、みかへりたまへるおももち、もてなしなど、いとおいらかにて、わかくうつくしのひとやと、ふとみえたり。 |
34 | 13.9 | 978 | 947 | 第九段 夕霧、事態を憂慮す |
34 | 13.9.1 | 979 | 948 |
大将、いとかたはらいたけれど、はひ寄らむもなかなかいと軽々しければ、ただ心を得させて、うちしはぶきたまへるにぞ、やをらひき入りたまふ。さるは、わが心地にも、いと飽かぬ心地したまへど、猫の綱ゆるしつれば、心にもあらずうち嘆かる。 |
だいしゃう、いとかたはらいたけれど、はひよらんもなかなかいとかるがるしければ、ただこころをえさせて、うちしはぶきたまへるにぞ、やをらひきいりたまふ。さるは、わがここちにも、いとあかぬここちしたまへど、ねこのつなゆるしつれば、こころにもあらずうちなげかる。 |
34 | 13.9.2 | 980 | 949 |
まして、さばかり心をしめたる衛門督は、胸ふとふたがりて、誰ればかりにかはあらむ、ここらの中にしるき袿姿よりも、人に紛るべくもあらざりつる御けはひなど、心にかかりておぼゆ。 |
まして、さばかりこころをしめたるゑもんのかみは、むねふとふたがりて、たればかりにかはあらん、ここらのなかにしるきうちきすがたよりも、ひとにまぎるべくもあらざりつるおほんけはひなど、こころにかかりておぼゆ。 |
34 | 13.9.3 | 981 | 950 |
さらぬ顔にもてなしたれど、「まさに目とどめじや」と、大将はいとほしく思さる。わりなき心地の慰めに、猫を招き寄せてかき抱きたれば、いと香ばしくて、らうたげにうち鳴くも、なつかしく思ひよそへらるるぞ、好き好きしきや。 |
さらぬかほにもてなしたれど、"まさにめとどめじや。"と、だいしゃうはいとほしくおぼさる。わりなきここちのなぐさめに、ねこをまねきよせてかきいだきたれば、いとかうばしくて、らうたげにうちなくも、なつかしくおもひよそへらるるぞ、すきずきしきや。 |
34 | 14 | 982 | 951 | 第十四章 女三の宮の物語 蹴鞠の後宴 |
34 | 14.1 | 983 | 952 | 第一段 蹴鞠の後の酒宴 |
34 | 14.1.1 | 984 | 953 |
大殿御覧じおこせて、 |
おとどごらんじおこせて、 |
34 | 14.1.2 | 985 | 954 |
「上達部の座、いと軽々しや。こなたにこそ」 |
"かんだちめのざ、いとかろがろしや。こなたにこそ。" |
34 | 14.1.3 | 986 | 955 |
とて、対の南面に入りたまへれば、みなそなたに参りたまひぬ。宮もゐ直りたまひて、御物語したまふ。 |
とて、たいのみなみおもてにいりたまへれば、みなそなたにまゐりたまひぬ。みやもゐなほりたまひて、おほんものがたりしたまふ。 |
34 | 14.1.4 | 987 | 956 |
次々の殿上人は、簀子に円座召して、わざとなく、椿餅、梨、柑子やうのものども、さまざまに箱の蓋どもにとり混ぜつつあるを、若き人びとそぼれ取り食ふ。さるべき乾物ばかりして、御土器参る。 |
つぎつぎのてんじゃうびとは、すのこにわらふだめして、わざとなく、つばいもちひ、なし、かうじやうのものども、さまざまにはこのふたどもにとりまぜつつあるを、わかきひとびとそぼれとりくふ。さるべきからものばかりして、おほんかはらけまゐる。 |
34 | 14.1.5 | 988 | 957 |
衛門督は、いといたく思ひしめりて、ややもすれば、花の木に目をつけて眺めやる。大将は、心知りに、「あやしかりつる御簾の透影思ひ出づることやあらむ」と思ひたまふ。 |
ゑもんのかみは、いといたくおもひしめりて、ややもすれば、はなのきにめをつけてながめやる。だいしゃうは、こころしりに、"あやしかりつるみすのすきかげおもひいづることやあらん。"とおもひたまふ。 |
34 | 14.1.6 | 989 | 958 |
「いと端近なりつるありさまを、かつは軽々しと思ふらむかし。いでや。こなたの御ありさまの、さはあるまじかめるものを」と思ふに、「かかればこそ、世のおぼえのほどよりは、うちうちの御心ざしぬるきやうにはありけれ」 |
"いとはしぢかなりつるありさまを、かつはかろがろしとおもふらんかし。いでや。こなたのおほんありさまの、さはあるまじかめるものを。"とおもふに、"かかればこそ、よのおぼえのほどよりは、うちうちのみこころざしぬるきやうにはありけれ。" |
34 | 14.1.7 | 990 | 959 |
と思ひ合はせて、 |
とおもひあはせて、 |
34 | 14.1.8 | 991 | 960 |
「なほ、内外の用意多からず、いはけなきは、らうたきやうなれど、うしろめたきやうなりや」 |
"なほ、うちとのよういおほからず、いはけなきは、らうたきやうなれど、うしろめたきやうなりや。" |
34 | 14.1.9 | 992 | 961 |
と、思ひ落とさる。 |
と、おもひおとさる。 |
34 | 14.1.10 | 993 | 962 |
宰相の君は、よろづの罪をもをさをさたどられず、おぼえぬものの隙より、ほのかにもそれと見たてまつりつるにも、「わが昔よりの心ざしのしるしあるべきにや」と、契りうれしき心地して、飽かずのみおぼゆ。 |
さいしゃうのきみは、よろづのつみをもをさをさたどられず、おぼえぬもののひまより、ほのかにもそれとみたてまつりつるにも、"わがむかしよりのこころざしのしるしあるべきにや。"と、ちぎりうれしきここちして、あかずのみおぼゆ。 |
34 | 14.2 | 994 | 963 | 第二段 源氏の昔語り |
34 | 14.2.1 | 995 | 964 |
院は、昔物語し出でたまひて、 |
ゐんは、むかしものがたりしいでたまひて、 |
34 | 14.2.2 | 996 | 965 |
「太政大臣の、よろづのことにたち並びて、勝ち負けの定めしたまひし中に、鞠なむえ及ばずなりにし。はかなきことは、伝へあるまじけれど、ものの筋はなほこよなかりけり。いと目も及ばず、かしこうこそ見えつれ」 |
"おほきおとどの、よろづのことにたちならびて、かちまけのさだめしたまひしなかに、まりなんえおよばずなりにし。はかなきことは、つたへあるまじけれど、もののすぢはなほこよなかりけり。いとめもおよばず、かしこうこそみえつれ。" |
34 | 14.2.3 | 997 | 966 |
とのたまへば、うちほほ笑みて、 |
とのたまへば、うちほほゑみて、 |
34 | 14.2.4 | 998 | 967 |
「はかばかしき方にはぬるくはべる家の風の、さしも吹き伝へはべらむに、後の世のため、異なることなくこそはべりぬべけれ」 |
"はかばかしきかたにはぬるくはべるいへのかぜの、さしもふきつたへはべらんに、のちのよのため、ことなることなくこそはべりぬべけれ。" |
34 | 14.2.5 | 999 | 968 |
と申したまへば、 |
とまうしたまへば、 |
34 | 14.2.6 | 1000 | 969 |
「いかでか。何ごとも人に異なるけぢめをば、記し伝ふべきなり。家の伝へなどに書き留め入れたらむこそ、興はあらめ」 |
"いかでか。なにごともひとにことなるけぢめをば、しるしつたふべきなり。いへのつたへなどにかきとどめいれたらんこそ、きょうはあらめ。" |
34 | 14.2.7 | 1001 | 970 |
など、戯れたまふ御さまの、匂ひやかにきよらなるを見たてまつるにも、 |
など、たはぶれたまふおほんさまの、にほひやかにきよらなるをみたてまつるにも、 |
34 | 14.2.8 | 1002 | 971 |
「かかる人にならひて、いかばかりのことにか心を移す人はものしたまはむ。何ごとにつけてか、あはれと見ゆるしたまふばかりは、なびかしきこゆべき」 |
"かかるひとにならひて、いかばかりのことにかこころをうつすひとはものしたまはん。なにごとにつけてか、あはれとみゆるしたまふばかりは、なびかしきこゆべき。" |
34 | 14.2.9 | 1003 | 972 |
と、思ひめぐらすに、いとどこよなく、御あたりはるかなるべき身のほども思ひ知らるれば、胸のみふたがりてまかでたまひぬ。 |
と、おもひめぐらすに、いとどこよなく、おほんあたりはるかなるべきみのほどもおもひしらるれば、むねのみふたがりてまかでたまひぬ。 |
34 | 14.3 | 1004 | 973 | 第三段 柏木と夕霧、同車して帰る |
34 | 14.3.1 | 1005 | 974 |
大将の君一つ車にて、道のほど物語したまふ。 |
だいしゃうのきみひとつくるまにて、みちのほどものがたりしたまふ。 |
34 | 14.3.2 | 1006 | 975 |
「なほ、このころのつれづれには、この院に参りて、紛らはすべきなりけり」 |
"なほ、このころのつれづれには、このゐんにまゐりて、まぎらはすべきなりけり。" |
34 | 14.3.3 | 1007 | 976 |
「今日のやうならむ暇の隙待ちつけて、花の折過ぐさず参れ、とのたまひつるを、春惜しみがてら、月のうちに、小弓持たせて参りたまへ」 |
"けふのやうならんいとまのひままちつけて、はなのをりすぐさずまゐれ、とのたまひつるを、はるをしみがてら、つきのうちに、こゆみもたせてまゐりたまへ。" |
34 | 14.3.4 | 1008 | 977 |
と語らひ契る。おのおの別るる道のほど物語したまうて、宮の御事のなほ言はまほしければ、 |
とかたらひちぎる。おのおのわかるるみちのほどものがたりしたまうて、みやのおほんことのなほいはまほしければ、 |
34 | 14.3.5 | 1009 | 978 |
「院には、なほこの対にのみものせさせたまふなめりな。かの御おぼえの異なるなめりかし。この宮いかに思すらむ。帝の並びなくならはしたてまつりたまへるに、さしもあらで、屈したまひにたらむこそ、心苦しけれ」 |
"ゐんには、なほこのたいにのみものせさせたまふなめりな。かのおほんおぼえのことなるなめりかし。このみやいかにおぼすらん。みかどのならびなくならはしたてまつりたまへるに、さしもあらで、くしたまひにたらんこそ、こころぐるしけれ。" |
34 | 14.3.6 | 1010 | 979 |
と、あいなく言へば、 |
と、あいなくいへば、 |
34 | 14.3.7 | 1011 | 980 |
「たいだいしきこと。いかでかさはあらむ。こなたは、さま変はりて生ほしたてたまへる睦びのけぢめばかりにこそあべかめれ。宮をば、かたがたにつけて、いとやむごとなく思ひきこえたまへるものを」 |
"たいだいしきこと。いかでかさはあらん。こなたは、さまかはりておほしたてたまへるむつびのけぢめばかりにこそあべかめれ。みやをば、かたがたにつけて、いとやんごとなくおもひきこえたまへるものを。" |
34 | 14.3.8 | 1012 | 981 |
と語りたまへば、 |
とかたりたまへば、 |
34 | 14.3.9 | 1013 | 982 |
「いで、あなかま。たまへ。皆聞きてはべり。いといとほしげなる折々あなるをや。さるは、世におしなべたらぬ人の御おぼえを。ありがたきわざなりや」 |
"いで、あなかま。たまへ。みなききてはべり。いといとほしげなるをりをりあなるをや。さるは、よにおしなべたらぬひとのおほんおぼえを。ありがたきわざなりや。" |
34 | 14.3.10 | 1014 | 983 |
と、いとほしがる。 |
と、いとほしがる。 |
34 | 14.3.11 | 1015 | 984 |
「いかなれば花に木づたふ鴬の<BR/>桜をわきてねぐらとはせぬ |
"〔いかなればはなにこづたふうぐひすの<BR/>さくらをわきてねぐらとはせぬ |
34 | 14.3.12 | 1016 | 985 |
春の鳥の、桜一つにとまらぬ心よ。あやしとおぼゆることぞかし」 |
はるのとりの、さくらひとつにとまらぬこころよ。あやしとおぼゆることぞかし。" |
34 | 14.3.13 | 1017 | 986 |
と、口ずさびに言へば、 |
と、くちずさびにいへば、 |
34 | 14.3.14 | 1018 | 987 |
「いで、あなあぢきなのもの扱ひや、さればよ」と思ふ。 |
"いで、あなあぢきなのものあつかひや、さればよ。"とおもふ。 |
34 | 14.3.15 | 1019 | 988 |
「深山木にねぐら定むるはこ鳥も<BR/>いかでか花の色に飽くべき |
"〔みやまぎにねぐらさだむるはこどりも<BR/>いかでかはなのいろにあくべき |
34 | 14.3.16 | 1020 | 989 |
わりなきこと。ひたおもむきにのみやは」 |
わりなきこと。ひたおもむきにのみやは。" |
34 | 14.3.17 | 1021 | 990 |
といらへて、わづらはしければ、ことに言はせずなりぬ。異事に言ひ紛らはして、おのおの別れぬ。 |
といらへて、わづらはしければ、ことにいはせずなりぬ。ことごとにいひまぎらはして、おのおのわかれぬ。 |
34 | 14.4 | 1022 | 991 | 第四段 柏木、小侍従に手紙を送る |
34 | 14.4.1 | 1023 | 992 |
督の君は、なほ大殿の東の対に、独り住みにてぞものしたまひける。思ふ心ありて、年ごろかかる住まひをするに、人やりならずさうざうしく心細き折々あれど、 |
かんのきみは、なほおほいどののひんがしのたいに、ひとりずみにてぞものしたまひける。おもふこころありて、としごろかかるすまひをするに、ひとやりならずさうざうしくこころぼそきをりをりあれど、 |
34 | 14.4.2 | 1024 | 993 |
「わが身かばかりにて、などか思ふことかなはざらむ」 |
"わがみかばかりにて、などかおもふことかなはざらん。" |
34 | 14.4.3 | 1025 | 994 |
とのみ、心おごりをするに、この夕べより屈しいたく、もの思はしくて、 |
とのみ、こころおごりをするに、このゆふべよりくしいたく、ものおもはしくて、 |
34 | 14.4.4 | 1026 | 995 |
「いかならむ折に、またさばかりにても、ほのかなる御ありさまをだに見む。ともかくもかき紛れたる際の人こそ、かりそめにもたはやすき物忌、方違への移ろひも軽々しきに、おのづからともかくものの隙をうかがひつくるやうもあれ」 |
"いかならんをりに、またさばかりにても、ほのかなるおほんありさまをだにみん。ともかくもかきまぎれたるきはのひとこそ、かりそめにもたはやすきものいみ、かたたがへのうつろひもかるがるしきに、おのづからともかくもののひまをうかがひつくるやうもあれ。" |
34 | 14.4.5 | 1027 | 996 |
など思ひやる方なく、 |
などおもひやるかたなく、 |
34 | 14.4.6 | 1028 | 997 |
「深き窓のうちに、何ばかりのことにつけてか、かく深き心ありけりとだに、知らせたてまつるべき」 |
"ふかきまどのうちに、なにばかりのことにつけてか、かくふかきこころありけりとだに、しらせたてまつるべき。" |
34 | 14.4.7 | 1029 | 998 |
と胸痛くいぶせければ、小侍従がり、例の、文やりたまふ。 |
とむねいたくいぶせければ、こじじゅうがり、れいの、ふみやりたまふ。 |
34 | 14.4.8 | 1030 | 999 |
「一日、風に誘はれて、御垣の原をわけ入りてはべしに、いとどいかに見落としたまひけむ。その夕べより、乱り心地かきくらし、あやなく今日は眺め暮らしはべる」 |
"ひとひ、かぜにさそはれて、みかきのはらをわけいりてはべしに、いとどいかにみおとしたまひけん。そのゆふべより、みだりごこちかきくらし、あやなくけふはながめくらしはべる。" |
34 | 14.4.9 | 1031 | 1000 |
など書きて、 |
などかきて、 |
34 | 14.4.10 | 1032 | 1001 |
「よそに見て折らぬ嘆きはしげれども<BR/>なごり恋しき花の夕かげ」 |
"〔よそにみてをらぬなげきはしげれども<BR/>なごりこひしきはなのゆふかげ〕 |
34 | 14.4.11 | 1033 | 1002 |
とあれど、侍従は一日の心も知らねば、ただ世の常の眺めにこそはと思ふ。 |
とあれど、じじうはひとひのこころもしらねば、ただよのつねのながめにこそはとおもふ。 |
34 | 14.5 | 1034 | 1003 | 第五段 女三の宮、柏木の手紙を見る |
34 | 14.5.1 | 1035 | 1004 |
御前に人しげからぬほどなれば、かの文を持て参りて、 |
おまへにひとしげからぬほどなれば、かのふみをもてまゐりて、 |
34 | 14.5.2 | 1036 | 1005 |
「この人の、かくのみ、忘れぬものに、言問ひものしたまふこそわづらはしくはべれ。心苦しげなるありさまも見たまへあまる心もや添ひはべらむと、みづからの心ながら知りがたくなむ」 |
"このひとの、かくのみ、わすれぬものに、こととひものしたまふこそわづらはしくはべれ。こころぐるしげなるありさまもみたまへあまるこころもやそひはべらんと、みづからのこころながらしりがたくなん。" |
34 | 14.5.3 | 1037 | 1006 |
と、うち笑ひて聞こゆれば、 |
と、うちわらひてきこゆれば、 |
34 | 14.5.4 | 1038 | 1007 |
「いとうたてあることをも言ふかな」 |
"いとうたてあることをもいふかな。" |
34 | 14.5.5 | 1039 | 1008 |
と、何心もなげにのたまひて、文広げたるを御覧ず。 |
と、なにごころもなげにのたまひて、ふみひろげたるをごらんず。 |
34 | 14.5.6 | 1040 | 1009 |
「見もせぬ」と言ひたるところを、あさましかりし御簾のつまを思し合はせらるるに、御面赤みて、大殿の、さばかりことのついでごとに、 |
"みもせぬ"といひたるところを、あさましかりしみすのつまをおぼしあはせらるるに、おほんおもてあかみて、おとどの、さばかりことのついでごとに、 |
34 | 14.5.7 | 1041 | 1010 |
「大将に見えたまふな。いはけなき御ありさまなんめれば、おのづからとりはづして、見たてまつるやうもありなむ」 |
"だいしゃうにみえたまふな。いはけなきおほんありさまなんめれば、おのづからとりはづして、みたてまつるやうもありなん。" |
34 | 14.5.8 | 1042 | 1011 |
と、戒めきこえたまふを思し出づるに、 |
と、いましめきこえたまふをおぼしいづるに、 |
34 | 14.5.9 | 1043 | 1012 |
「大将の、さることのありしと語りきこえたらむ時、いかにあはめたまはむ」 |
"だいしゃうの、さることのありしとかたりきこえたらんとき、いかにあはめたまはん。" |
34 | 14.5.10 | 1044 | 1013 |
と、人の見たてまつりけむことをば思さで、まづ、憚りきこえたまふ心のうちぞ幼かりける。 |
と、ひとのみたてまつりけんことをばおぼさで、まづ、はばかりきこえたまふこころのうちぞをさなかりける。 |
34 | 14.5.11 | 1045 | 1014 |
常よりも御さしらへなければ、すさまじく、しひて聞こゆべきことにもあらねば、ひき忍びて、例の書く。 |
つねよりもおほんさしらへなければ、すさまじく、しひてきこゆべきことにもあらねば、ひきしのびて、れいのかく。 |
34 | 14.5.12 | 1046 | 1015 |
「一日は、つれなし顔をなむ。めざましうと許しきこえざりしを、『見ずもあらぬ』やいかに。あな、かけかけし」 |
"ひとひは、つれなしがほをなん。めざましうとゆるしきこえざりしを、〔みずもあらぬ〕やいかに。あな、かけかけし。" |
34 | 14.5.13 | 1047 | 1016 |
と、はやりかに走り書きて、 |
と、はやりかにはしりかきて、 |
34 | 14.5.14 | 1048 | 1017 |
「いまさらに色にな出でそ山桜<BR/>およばぬ枝に心かけきと |
"〔いまさらにいろにないでそやまざくら<BR/>およばぬえだにこころかけきと |
34 | 14.5.15 | 1049 | 1018 |
かひなきことを」 |
かひなきことを。" |
34 | 14.5.16 | 1050 | 1019 |
とあり。 |
とあり。 |