帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
35 | 若菜下 |
35 | 1 | 169 | 129 | 第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後 |
35 | 1.1 | 170 | 130 | 第一段 六条院の競射 |
35 | 1.1.1 | 171 | 131 |
ことわりとは思へども、 |
ことわりとはおもへども、 |
35 | 1.1.2 | 172 | 132 |
「うれたくも言へるかな。いでや、なぞ、かく異なることなきあへしらひばかりを慰めにては、いかが過ぐさむ。かかる人伝てならで、一言をものたまひ聞こゆる世ありなむや」 |
"うれたくもいへるかな。いでや、なぞ、かくことなることなきあへしらひばかりをなぐさめにては、いかがすぐさん。かかるひとづてならで、ひとことをものたまひきこゆるよありなんや。" |
35 | 1.1.3 | 173 | 133 |
と思ふにつけて、おほかたにては、惜しくめでたしと思ひきこゆる院の御ため、なまゆがむ心や添ひにたらむ。 |
とおもふにつけて、おほかたにては、をしくめでたしとおもひきこゆるゐんのおほんため、なまゆがむこころやそひにたらん。 |
35 | 1.1.4 | 174 | 134 |
晦日の日は、人びとあまた参りたまへり。なまもの憂く、すずろはしけれど、「そのあたりの花の色をも見てや慰む」と思ひて参りたまふ。 |
つごもりのひは、ひとびとあまたまゐりたまへり。なまものうく、すずろはしけれど、"そのあたりのはなのいろをもみてやなぐさむ。"とおもひてまゐりたまふ。 |
35 | 1.1.5 | 175 | 135 |
殿上の賭弓、如月にとありしを過ぎて、三月はた御忌月なれば、口惜しくと人びと思ふに、この院に、かかるまとゐあるべしと聞き伝へて、例の集ひたまふ。左右の大将、さる御仲らひにて参りたまへば、次将たちなど挑みかはして、小弓とのたまひしかど、歩弓のすぐれたる上手どもありければ、召し出でて射させたまふ。 |
てんじゃうののりゆみ、きさらぎにとありしをすぎて、やよひはたおほんきづきなれば、くちをしくとひとびとおもふに、このゐんに、かかるまとゐあるべしとききつたへて、れいのつどひたまふ。さいうのだいしゃう、さるおほんなからひにてまゐりたまへば、すけたちなどいどみかはして、こゆみとのたまひしかど、かちゆみのすぐれたるじゃうずどもありければ、めしいでていさせたまふ。 |
35 | 1.1.6 | 176 | 137 |
殿上人どもも、つきづきしき限りは、皆前後の心、こまどりに方分きて、暮れゆくままに、今日にとぢむる霞のけしきもあわたたしく、乱るる夕風に、花の蔭いとど立つことやすからで、人びといたく酔ひ過ぎたまひて、 |
てんじゃうびとどもも、つきづきしきかぎりは、みなまへしりへのこころ、こまどりにかたわきて、くれゆくままに、けふにとぢむるかすみのけしきもあわたたしく、みだるるゆふかぜに、はなのかげいとどたつことやすからで、ひとびといたくゑひすぎたまひて、 |
35 | 1.1.7 | 177 | 138 |
「艶なる賭物ども、こなたかなた人びとの御心見えぬべきを。柳の葉を百度当てつべき舎人どもの、うけばりて射取る、無人なりや。すこしここしき手つきどもをこそ、挑ませめ」 |
"えんなるかけものども、こなたかなたひとびとのみこころみえぬべきを。やなぎのはをももたびあてつべきとねりどもの、うけばりていとる、むじんなりや。すこしここしきてつきどもをこそ、いどませめ。" |
35 | 1.1.8 | 178 | 139 |
とて、大将たちよりはじめて、下りたまふに、衛門督、人よりけに眺めをしつつものしたまへば、かの片端心知れる御目には、見つけつつ、 |
とて、だいしゃうたちよりはじめて、おりたまふに、ゑもんのかみ、ひとよりけにながめをしつつものしたまへば、かのかたはしこころしれるおほんめには、みつけつつ、 |
35 | 1.1.9 | 179 | 140 |
「なほ、いとけしき異なり。わづらはしきこと出で来べき世にやあらむ」 |
"なほ、いとけしきことなり。わづらはしきこといでくべきよにやあらん。" |
35 | 1.1.10 | 180 | 141 |
と、われさへ思ひつきぬる心地す。この君たち、御仲いとよし。さる仲らひといふ中にも、心交はしてねむごろなれば、はかなきことにても、もの思はしくうち紛るることあらむを、いとほしくおぼえたまふ。 |
と、われさへおもひつきぬるここちす。このきみたち、おほんなかいとよし。さるなからひといふなかにも、こころかはしてねんごろなれば、はかなきことにても、ものおもはしくうちまぎるることあらんを、いとほしくおぼえたまふ。 |
35 | 1.1.11 | 181 | 142 |
みづからも、大殿を見たてまつるに、気恐ろしくまばゆく、 |
みづからも、おとどをみたてまつるに、けおそろしくまばゆく、 |
35 | 1.1.12 | 182 | 143 |
「かかる心はあるべきものか。なのめならむにてだに、けしからず、人に点つかるべき振る舞ひはせじと思ふものを。ましておほけなきこと」 |
"かかるこころはあるべきものか。なのめならんにてだに、けしからず、ひとにてんつかるべきふるまひはせじとおもふものを。ましておほけなきこと。" |
35 | 1.1.13 | 183 | 144 |
と思ひわびては、 |
とおもひわびては、 |
35 | 1.1.14 | 184 | 145 |
「かのありし猫をだに、得てしがな。思ふこと語らふべくはあらねど、かたはら寂しき慰めにも、なつけむ」 |
"かのありしねこをだに、えてしがな。おもふことかたらふべくはあらねど、かたはらさびしきなぐさめにも、なつけん。" |
35 | 1.1.15 | 185 | 146 |
と思ふに、もの狂ほしく、「いかでかは盗み出でむ」と、それさへぞ難きことなりける。 |
とおもふに、ものぐるほしく、"いかでかはぬすみいでん。"と、それさへぞかたきことなりける。 |
35 | 1.2 | 186 | 147 | 第二段 柏木、女三の宮の猫を預る |
35 | 1.2.1 | 187 | 148 |
女御の御方に参りて、物語など聞こえ紛らはし試みる。いと奥深く、心恥づかしき御もてなしにて、まほに見えたまふこともなし。かかる御仲らひにだに、気遠くならひたるを、「ゆくりかにあやしくは、ありしわざぞかし」とは、さすがにうちおぼゆれど、おぼろけにしめたるわが心から、浅くも思ひなされず。 |
にょうごのおほんかたにまゐりて、ものがたりなどきこえまぎらはしこころみる。いとおくふかく、こころはづかしきおほんもてなしにて、まほにみえたまふこともなし。かかるおほんなからひにだに、けどほくならひたるを、"ゆくりかにあやしくは、ありしわざぞかし。"とは、さすがにうちおぼゆれど、おぼろけにしめたるわがこころから、あさくもおもひなされず。 |
35 | 1.2.2 | 188 | 149 |
春宮に参りたまひて、「論なう通ひたまへるところあらむかし」と、目とどめて見たてまつるに、匂ひやかになどはあらぬ御容貌なれど、さばかりの御ありさまはた、いと異にて、あてになまめかしくおはします。 |
とうぐうにまゐりたまひて、"ろんなうかよひたまへるところあらんかし。"と、めとどめてみたてまつるに、にほひやかになどはあらぬおほんかたちなれど、さばかりのおほんありさまはた、いとことにて、あてになまめかしくおはします。 |
35 | 1.2.3 | 189 | 150 |
内裏の御猫の、あまた引き連れたりけるはらからどもの、所々にあかれて、この宮にも参れるが、いとをかしげにて歩くを見るに、まづ思ひ出でらるれば、 |
うちのおほんねこの、あまたひきつれたりけるはらからどもの、ところどころにあかれて、このみやにもまゐれるが、いとをかしげにてありくをみるに、まづおもひいでらるれば、 |
35 | 1.2.4 | 190 | 151 |
「六条の院の姫宮の御方にはべる猫こそ、いと見えぬやうなる顔して、をかしうはべしか。はつかになむ見たまへし」 |
"ろくでうのゐんのひめみやのおほんかたにはべるねここそ、いとみえぬやうなるかほして、をかしうはべしか。はつかになんみたまへし。" |
35 | 1.2.5 | 191 | 152 |
と啓したまへば、わざとらうたくせさせたまふ御心にて、詳しく問はせたまふ。 |
とけいしたまへば、わざとらうたくせさせたまふみこころにて、くはしくとはせたまふ。 |
35 | 1.2.6 | 192 | 153 |
「唐猫の、ここのに違へるさましてなむはべりし。同じやうなるものなれど、心をかしく人馴れたるは、あやしくなつかしきものになむはべる」 |
"からねこの、ここのにたがへるさましてなんはべりし。おなじやうなるものなれど、こころをかしくひとなれたるは、あやしくなつかしきものになんはべる。" |
35 | 1.2.7 | 193 | 154 |
など、ゆかしく思さるばかり、聞こえなしたまふ。 |
など、ゆかしくおぼさるばかり、きこえなしたまふ。 |
35 | 1.2.8 | 194 | 155 |
聞こし召しおきて、桐壺の御方より伝へて聞こえさせたまひければ、参らせたまへり。「げに、いとうつくしげなる猫なりけり」と、人びと興ずるを、衛門督は、「尋ねむと思したりき」と、御けしきを見おきて、日ごろ経て参りたまへり。 |
きこしめしおきて、きりつぼのおほんかたよりつたへてきこえさせたまひければ、まゐらせたまへり。"げに、いとうつくしげなるねこなりけり。"と、ひとびときょうずるを、ゑもんのかみは、"たづねんとおぼしたりき。"と、みけしきをみおきて、ひごろへてまゐりたまへり。 |
35 | 1.2.9 | 195 | 156 |
童なりしより、朱雀院の取り分きて思し使はせたまひしかば、御山住みに後れきこえては、またこの宮にも親しう参り、心寄せきこえたり。御琴など教へきこえたまふとて、 |
わらはなりしより、しゅじゃくゐんのとりわきておぼしつかはせたまひしかば、みやまずみにおくれきこえては、またこのみやにもしたしうまゐり、こころよせきこえたり。おほんことなどをしへきこえたまふとて、 |
35 | 1.2.10 | 196 | 157 |
「御猫どもあまた集ひはべりにけり。いづら、この見し人は」 |
"おほんねこどもあまたつどひはべりにけり。いづら、このみしひとは。" |
35 | 1.2.11 | 197 | 158 |
と尋ねて見つけたまへり。いとらうたくおぼえて、かき撫でてゐたり。宮も、 |
とたづねてみつけたまへり。いとらうたくおぼえて、かきなでてゐたり。みやも、 |
35 | 1.2.12 | 198 | 159 |
「げに、をかしきさましたりけり。心なむ、まだなつきがたきは、見馴れぬ人を知るにやあらむ。ここなる猫ども、ことに劣らずかし」 |
"げに、をかしきさましたりけり。こころなん、まだなつきがたきは、みなれぬひとをしるにやあらん。ここなるねこども、ことにおとらずかし。" |
35 | 1.2.13 | 199 | 160 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
35 | 1.2.14 | 200 | 161 |
「これは、さるわきまへ心も、をさをさはべらぬものなれど、その中にも心かしこきは、おのづから魂はべらむかし」など聞こえて、「まさるどもさぶらふめるを、これはしばし賜はり預からむ」 |
"これは、さるわきまへごころも、をさをさはべらぬものなれど、そのなかにもこころかしこきは、おのづからたましひはべらんかし。"などきこえて、"まさるどもさぶらふめるを、これはしばしたまはりあづからん。" |
35 | 1.2.15 | 201 | 162 |
と申したまふ。心のうちに、あながちにをこがましく、かつはおぼゆるに、これを尋ね取りて、夜もあたり近く臥せたまふ。 |
とまうしたまふ。こころのうちに、あながちにをこがましく、かつはおぼゆるに、これをたづねとりて、よるもあたりちかくふせたまふ。 |
35 | 1.2.16 | 202 | 163 |
明け立てば、猫のかしづきをして、撫で養ひたまふ。人気遠かりし心も、いとよく馴れて、ともすれば、衣の裾にまつはれ、寄り臥し睦るるを、まめやかにうつくしと思ふ。いといたく眺めて、端近く寄り臥したまへるに、来て、「ねう、ねう」と、いとらうたげに鳴けば、かき撫でて、「うたても、すすむかな」と、ほほ笑まる。 |
あけたてば、ねこのかしづきをして、なでやしなひたまふ。ひとげとほかりしこころも、いとよくなれて、ともすれば、きぬのすそにまつはれ、よりふしむつるるを、まめやかにうつくしとおもふ。いといたくながめて、はしちかくよりふしたまへるに、きて、"ねう、ねう"と、いとらうたげになけば、かきなでて、"うたても、すすむかな。"と、ほほゑまる。 |
35 | 1.2.17 | 203 | 164 |
「恋ひわぶる人のかたみと手ならせば<BR/>なれよ何とて鳴く音なるらむ |
"〔こひわぶるひとのかたみとてならせば<BR/>なれよなにとてなくねなるらん |
35 | 1.2.18 | 204 | 165 |
これも昔の契りにや」 |
これもむかしのちぎりにや。" |
35 | 1.2.19 | 205 | 166 |
と、顔を見つつのたまへば、いよいよらうたげに鳴くを、懐に入れて眺めゐたまへり。御達などは、 |
と、かほをみつつのたまへば、いよいよらうたげになくを、ふところにいれてながめゐたまへり。ごたちなどは、 |
35 | 1.2.20 | 206 | 167 |
「あやしく、にはかなる猫のときめくかな。かやうなるもの見入れたまはぬ御心に」 |
"あやしく、にはかなるねこのときめくかな。かやうなるものみいれたまはぬみこころに。" |
35 | 1.2.21 | 207 | 168 |
と、とがめけり。宮より召すにも参らせず、取りこめて、これを語らひたまふ。 |
と、とがめけり。みやよりめすにもまゐらせず、とりこめて、これをかたらひたまふ。 |
35 | 1.3 | 208 | 169 | 第三段 柏木、真木柱姫君には無関心 |
35 | 1.3.1 | 209 | 170 |
左大将殿の北の方は、大殿の君たちよりも、右大将の君をば、なほ昔のままに、疎からず思ひきこえたまへり。心ばへのかどかどしく、気近くおはする君にて、対面したまふ時々も、こまやかに隔てたるけしきなくもてなしたまへれば、大将も、淑景舎などの、疎々しく及びがたげなる御心ざまのあまりなるに、さま異なる御睦びにて、思ひ交はしたまへり。 |
さだいしゃうどののきたのかたは、おほとののきみたちよりも、うだいしゃうのきみをば、なほむかしのままに、うとからずおもひきこえたまへり。こころばへのかどかどしく、けぢかくおはするきみにて、たいめんしたまふときどきも、こまやかにへだてたるけしきなくもてなしたまへれば、だいしゃうも、しげいさなどの、うとうとしくおよびがたげなるみこころざまのあまりなるに、さまことなるおほんむつびにて、おもひかはしたまへり。 |
35 | 1.3.2 | 210 | 171 |
男君、今はまして、かのはじめの北の方をももて離れ果てて、並びなくもてかしづききこえたまふ。この御腹には、男君達の限りなれば、さうざうしとて、かの真木柱の姫君を得て、かしづかまほしくしたまへど、祖父宮など、さらに許したまはず、 |
をとこぎみ、いまはまして、かのはじめのきたのかたをももてはなれはてて、ならびなくもてかしづききこえたまふ。このおほんはらには、をとこきんだちのかぎりなれば、さうざうしとて、かのまきばしらのひめぎみをえて、かしづかまほしくしたまへど、おほぢみやなど、さらにゆるしたまはず、 |
35 | 1.3.3 | 211 | 172 |
「この君をだに、人笑へならぬさまにて見む」 |
"このきみをだに、ひとわらへならぬさまにてみん。" |
35 | 1.3.4 | 212 | 173 |
と思し、のたまふ。 |
とおぼし、のたまふ。 |
35 | 1.3.5 | 213 | 174 |
親王の御おぼえいとやむごとなく、内裏にも、この宮の御心寄せ、いとこよなくて、このことと奏したまふことをば、え背きたまはず、心苦しきものに思ひきこえたまへり。おほかたも今めかしくおはする宮にて、この院、大殿にさしつぎたてまつりては、人も参り仕うまつり、世人も重く思ひきこえけり。 |
みこのおほんおぼえいとやんごとなく、うちにも、このみやのみこころよせ、いとこよなくて、このこととそうしたまふことをば、えそむきたまはず、こころぐるしきものにおもひきこえたまへり。おほかたもいまめかしくおはするみやにて、このゐん、おほとのにさしつぎたてまつりては、ひともまゐりつかうまつり、よひともおもくおもひきこえけり。 |
35 | 1.3.6 | 214 | 175 |
大将も、さる世の重鎮となりたまふべき下形なれば、姫君の御おぼえ、などてかは軽くはあらむ。聞こえ出づる人びと、ことに触れて多かれど、思しも定めず。衛門督を、「さも、けしきばまば」と思すべかめれど、猫には思ひ落としたてまつるにや、かけても思ひ寄らぬぞ、口惜しかりける。 |
だいしゃうも、さるよのおもしとなりたまふべきしたかたなれば、ひめぎみのおほんおぼえ、などてかはかるくはあらん。きこえいづるひとびと、ことにふれておほかれど、おぼしもさだめず。ゑもんのかみを、"さも、けしきばまば。"とおぼすべかめれど、ねこにはおもひおとしたてまつるにや、かけてもおもひよらぬぞ、くちをしかりける。 |
35 | 1.3.7 | 215 | 176 |
母君の、あやしく、なほひがめる人にて、世の常のありさまにもあらず、もて消ちたまへるを、口惜しきものに思して、継母の御あたりをば、心つけてゆかしく思ひて、今めきたる御心ざまにぞものしたまひける。 |
ははぎみの、あやしく、なほひがめるひとにて、よのつねのありさまにもあらず、もてけちたまへるを、くちをしきものにおぼして、ままははのおほんあたりをば、こころつけてゆかしくおもひて、いまめきたるみこころざまにぞものしたまひける。 |
35 | 1.4 | 216 | 177 | 第四段 真木柱、兵部卿宮と結婚 |
35 | 1.4.1 | 217 | 178 |
兵部卿宮、なほ一所のみおはして、御心につきて思しけることどもは、皆違ひて、世の中もすさまじく、人笑へに思さるるに、「さてのみやはあまえて過ぐすべき」と思して、このわたりにけしきばみ寄りたまへれば、大宮、 |
ひゃうぶきゃうのみや、なほひとところのみおはして、みこころにつきておぼしけることどもは、みなたがひて、よのなかもすさまじく、ひとわらへにおぼさるるに、"さてのみやはあまえてすぐすべき。"とおぼして、このわたりにけしきばみよりたまへれば、おほみや、 |
35 | 1.4.2 | 218 | 179 |
「何かは。かしづかむと思はむ女子をば、宮仕へに次ぎては、親王たちにこそは見せたてまつらめ。ただ人の、すくよかに、なほなほしきをのみ、今の世の人のかしこくする、品なきわざなり」 |
"なにかは。かしづかんとおもはんをんなごをば、みやづかへにつぎては、みこたちにこそはみせたてまつらめ。ただうどの、すくよかに、なほなほしきをのみ、いまのよのひとのかしこくする、しななきわざなり。" |
35 | 1.4.3 | 219 | 180 |
とのたまひて、いたくも悩ましたてまつりたまはず、受け引き申したまひつ。 |
とのたまひて、いたくもなやましたてまつりたまはず、うけひきまうしたまひつ。 |
35 | 1.4.4 | 220 | 181 |
親王、あまり怨みどころなきを、さうざうしと思せど、おほかたのあなづりにくきあたりなれば、えしも言ひすべしたまはで、おはしましそめぬ。いと二なくかしづききこえたまふ。 |
みこ、あまりうらみどころなきを、さうざうしとおぼせど、おほかたのあなづりにくきあたりなれば、えしもいひすべしたまはで、おはしましそめぬ。いとになくかしづききこえたまふ。 |
35 | 1.4.5 | 221 | 182 |
大宮は、女子あまたものしたまひて、 |
おほみやは、をんなごあまたものしたまひて、 |
35 | 1.4.6 | 222 | 183 |
「さまざまもの嘆かしき折々多かるに、物懲りしぬべけれど、なほこの君のことの思ひ放ちがたくおぼえてなむ。母君は、あやしきひがものに、年ごろに添へてなりまさりたまふ。大将はた、わがことに従はずとて、おろかに見捨てられためれば、いとなむ心苦しき」 |
"さまざまものなげかしきをりをりおほかるに、ものごりしぬべけれど、なほこのきみのことのおもひはなちがたくおぼえてなん。ははぎみは、あやしきひがものに、としごろにそへてなりまさりたまふ。だいしゃうはた、わがことにしたがはずとて、おろかにみすてられためれば、いとなんこころぐるしき。" |
35 | 1.4.7 | 223 | 184 |
とて、御しつらひをも、立ちゐ、御手づから御覧じ入れ、よろづにかたじけなく御心に入れたまへり。 |
とて、おほんしつらひをも、たちゐ、おほんてづからごらんじいれ、よろづにかたじけなくみこころにいれたまへり。 |
35 | 1.5 | 224 | 185 | 第五段 兵部卿宮と真木柱の不幸な結婚生活 |
35 | 1.5.1 | 225 | 186 |
宮は、亡せたまひにける北の方を、世とともに恋ひきこえたまひて、「ただ、昔の御ありさまに似たてまつりたらむ人を見む」と思しけるに、「悪しくはあらねど、さま変はりてぞものしたまひける」と思すに、口惜しくやありけむ、通ひたまふさま、いともの憂げなり。 |
みやは、うせたまひにけるきたのかたを、よとともにこひきこえたまひて、"ただ、むかしのおほんありさまににたてまつりたらんひとをみん。"とおぼしけるに、"あしくはあらねど、さまかはりてぞものしたまひける。"とおぼすに、くちをしくやありけん、かよひたまふさま、いとものうげなり。 |
35 | 1.5.2 | 226 | 187 |
大宮、「いと心づきなきわざかな」と思し嘆きたり。母君も、さこそひがみたまへれど、うつし心出で来る時は、「口惜しく憂き世」と、思ひ果てたまふ。 |
おほみや、"いとこころづきなきわざかな。"とおぼしなげきたり。ははぎみも、さこそひがみたまへれど、うつしごころいでくるときは、"くちをしくうきよ。"と、おもひはてたまふ。 |
35 | 1.5.3 | 227 | 188 |
大将の君も、「さればよ。いたく色めきたまへる親王を」と、はじめよりわが御心に許したまはざりしことなればにや、ものしと思ひたまへり。 |
だいしゃうのきみも、"さればよ。いたくいろめきたまへるみこを。"と、はじめよりわがみこころにゆるしたまはざりしことなればにや、ものしとおもひたまへり。 |
35 | 1.5.4 | 228 | 189 |
尚侍の君も、かく頼もしげなき御さまを、近く聞きたまふには、「さやうなる世の中を見ましかば、こなたかなた、いかに思し見たまはまし」など、なまをかしくも、あはれにも思し出でけり。 |
かんのきみも、かくたのもしげなきおほんさまを、ちかくききたまふには、"さやうなるよのなかをみましかば、こなたかなた、いかにおぼしみたまはまし。"など、なまをかしくも、あはれにもおぼしいでけり。 |
35 | 1.5.5 | 229 | 190 |
「そのかみも、気近く見聞こえむとは、思ひ寄らざりきかし。ただ、情け情けしう、心深きさまにのたまひわたりしを、あへなくあはつけきやうにや、聞き落としたまひけむ」と、いと恥づかしく、年ごろも思しわたることなれば、「かかるあたりにて、聞きたまはむことも、心づかひせらるべく」など思す。 |
"そのかみも、けぢかくみきこえんとは、おもひよらざりきかし。ただ、なさけなさけしう、こころふかきさまにのたまひわたりしを、あへなくあはつけきやうにや、ききおとしたまひけん。"と、いとはづかしく、としごろもおぼしわたることなれば、"かかるあたりにて、ききたまはんことも、こころづかひせらるべく。"などおぼす。 |
35 | 1.5.6 | 230 | 191 |
これよりも、さるべきことは扱ひきこえたまふ。せうとの君たちなどして、かかる御けしきも知らず顔に、憎からず聞こえまつはしなどするに、心苦しくて、もて離れたる御心はなきに、大北の方といふさがな者ぞ、常に許しなく怨じきこえたまふ。 |
これよりも、さるべきことはあつかひきこえたまふ。せうとのきみたちなどして、かかるみけしきもしらずがほに、にくからずきこえまつはしなどするに、こころぐるしくて、もてはなれたるみこころはなきに、おほきたのかたといふさがなものぞ、つねにゆるしなくゑんじきこえたまふ。 |
35 | 1.5.7 | 231 | 192 |
「親王たちは、のどかに二心なくて、見たまはむをだにこそ、はなやかならぬ慰めには思ふべけれ」 |
"みこたちは、のどかにふたごころなくて、みたまはんをだにこそ、はなやかならぬなぐさめにはおもふべけれ。" |
35 | 1.5.8 | 232 | 193 |
とむつかりたまふを、宮も漏り聞きたまひては、「いと聞きならはぬことかな。昔、いとあはれと思ひし人をおきても、なほ、はかなき心のすさびは絶えざりしかど、かう厳しきもの怨じは、ことになかりしものを」 |
とむつかりたまふを、みやももりききたまひては、"いとききならはぬことかな。むかし、いとあはれとおもひしひとをおきても、なほ、はかなきこころのすさびはたえざりしかど、かうきびしきものゑんじは、ことになかりしものを。" |
35 | 1.5.9 | 233 | 194 |
心づきなく、いとど昔を恋ひきこえたまひつつ、故里にうち眺めがちにのみおはします。さ言ひつつも、二年ばかりになりぬれば、かかる方に目馴れて、ただ、さる方の御仲にて過ぐしたまふ。 |
こころづきなく、いとどむかしをこひきこえたまひつつ、ふるさとにうちながめがちにのみおはします。さいひつつも、ふたとせばかりになりぬれば、かかるかたにめなれて、ただ、さるかたのおほんなかにてすぐしたまふ。 |
35 | 2 | 234 | 195 | 第二章 光る源氏の物語 住吉参詣 |
35 | 2.1 | 235 | 196 | 第一段 冷泉帝の退位 |
35 | 2.1.1 | 236 | 197 |
はかなくて、年月もかさなりて、内裏の帝、御位に即かせたまひて、十八年にならせたまひぬ。 |
はかなくて、としつきもかさなりて、うちのみかど、みくらゐにつかせたまひて、じふはちねんにならせたまひぬ。 |
35 | 2.1.2 | 237 | 198 |
「嗣の君とならせたまふべき御子おはしまさず、ものの栄なきに、世の中はかなくおぼゆるを、心やすく、思ふ人びとにも対面し、私ざまに心をやりて、のどかに過ぎまほしくなむ」 |
"つぎのきみとならせたまふべきみこおはしまさず、もののはえなきに、よのなかはかなくおぼゆるを、こころやすく、おもふひとびとにもたいめんし、わたくしざまにこころをやりて、のどかにすぎまほしくなん。" |
35 | 2.1.3 | 238 | 199 |
と、年ごろ思しのたまはせつるを、日ごろいと重く悩ませたまふことありて、にはかに下りゐさせたまひぬ。世の人、「飽かず盛りの御世を、かく逃れたまふこと」と惜しみ嘆けど、春宮もおとなびさせたまひにたれば、うち嗣ぎて、世の中の政事など、ことに変はるけぢめもなかりけり。 |
と、としごろおぼしのたまはせつるを、ひごろいとおもくなやませたまふことありて、にはかにおりゐさせたまひぬ。よのひと、"あかずさかりのみよを、かくのがれたまふこと"とをしみなげけど、とうぐうもおとなびさせたまひにたれば、うちつぎて、よのなかのまつりごとなど、ことにかはるけぢめもなかりけり。 |
35 | 2.1.4 | 239 | 200 |
太政大臣、致仕の表たてまつりて、籠もりゐたまひぬ。 |
おほきおとど、ちじのへうたてまつりて、こもりゐたまひぬ。 |
35 | 2.1.5 | 240 | 201 |
「世の中の常なきにより、かしこき帝の君も、位を去りたまひぬるに、年深き身の冠を挂けむ、何か惜しからむ」 |
"よのなかのつねなきにより、かしこきみかどのきみも、くらゐをさりたまひぬるに、としふかきみのかうぶりをかけん、なにかをしからん。" |
35 | 2.1.6 | 241 | 202 |
と思しのたまひて、左大将、右大臣になりたまひてぞ、世の中の政事仕うまつりたまひける。女御の君は、かかる御世をも待ちつけたまはで、亡せたまひにければ、限りある御位を得たまへれど、ものの後ろの心地して、かひなかりけり。 |
とおぼしのたまひて、さだいしゃう、うだいじんになりたまひてぞ、よのなかのまつりごとつかうまつりたまひける。にょうごのきみは、かかるみよをもまちつけたまはで、うせたまひにければ、かぎりあるみくらゐをえたまへれど、もののうしろのここちして、かひなかりけり。 |
35 | 2.1.7 | 242 | 203 |
六条の女御の御腹の一の宮、坊にゐたまひぬ。さるべきこととかねて思ひしかど、さしあたりてはなほめでたく、目おどろかるるわざなりけり。右大将の君、大納言になりたまひぬ。いよいよあらまほしき御仲らひなり。 |
ろくでうのにょうごのおほんはらのいちのみや、ばうにゐたまひぬ。さるべきこととかねておもひしかど、さしあたりてはなほめでたく、めおどろかるるわざなりけり。うだいしゃうのきみ、だいなごんになりたまひぬ。いよいよあらまほしきおほんなからひなり。 |
35 | 2.1.8 | 243 | 204 |
六条院は、下りゐたまひぬる冷泉院の、御嗣おはしまさぬを、飽かず御心のうちに思す。同じ筋なれど、思ひ悩ましき御ことならで、過ぐしたまへるばかりに、罪は隠れて、末の世まではえ伝ふまじかりける御宿世、口惜しくさうざうしく思せど、人にのたまひあはせぬことなれば、いぶせくなむ。 |
ろくでうのゐんは、おりゐたまひぬるれいぜいゐんの、おほんつぎおはしまさぬを、あかずみこころのうちにおぼす。おなじすぢなれど、おもひなやましきおほんことならで、すぐしたまへるばかりに、つみはかくれて、すゑのよまではえつたふまじかりけるおほんすくせ、くちをしくさうざうしくおぼせど、ひとにのたまひあはせぬことなれば、いぶせくなん。 |
35 | 2.1.9 | 244 | 205 |
春宮の女御は、御子たちあまた数添ひたまひて、いとど御おぼえ並びなし。源氏の、うち続き后にゐたまふべきことを、世人飽かず思へるにつけても、冷泉院の后は、ゆゑなくて、あながちにかくしおきたまへる御心を思すに、いよいよ六条院の御ことを、年月に添へて、限りなく思ひきこえたまへり。 |
とうぐうのにょうごは、みこたちあまたかずそひたまひて、いとどおほんおぼえならびなし。げんじの、うちつづききさきにゐたまふべきことを、よひとあかずおもへるにつけても、れいぜいゐんのきさきは、ゆゑなくて、あながちにかくしおきたまへるみこころをおぼすに、いよいよろくでうゐんのおほんことを、としつきにそへて、かぎりなくおもひきこえたまへり。 |
35 | 2.1.10 | 245 | 206 |
院の帝、思し召ししやうに、御幸も、所狭からで渡りたまひなどしつつ、かくてしも、げにめでたくあらまほしき御ありさまなり。 |
ゐんのみかど、おぼしめししやうに、みゆきも、ところせからでわたりたまひなどしつつ、かくてしも、げにめでたくあらまほしきおほんありさまなり。 |
35 | 2.2 | 246 | 207 | 第二段 六条院の女方の動静 |
35 | 2.2.1 | 247 | 208 |
姫宮の御ことは、帝、御心とどめて思ひきこえたまふ。おほかたの世にも、あまねくもてかしづかれたまふを、対の上の御勢ひには、えまさりたまはず。年月経るままに、御仲いとうるはしく睦びきこえ交はしたまひて、いささか飽かぬことなく、隔ても見えたまはぬものから、 |
ひめみやのおほんことは、みかど、みこころとどめておもひきこえたまふ。おほかたのよにも、あまねくもてかしづかれたまふを、たいのうへのおほんいきほひには、えまさりたまはず。としつきふるままに、おほんなかいとうるはしくむつびきこえかはしたまひて、いささかあかぬことなく、へだてもみえたまはぬものから、 |
35 | 2.2.2 | 248 | 209 |
「今は、かうおほぞうの住まひならで、のどやかに行なひをも、となむ思ふ。この世はかばかりと、見果てつる心地する齢にもなりにけり。さりぬべきさまに思し許してよ」 |
"いまは、かうおほぞうのすまひならで、のどやかにおこなひをも、となんおもふ。このよはかばかりと、みはてつるここちするよはひにもなりにけり。さりぬべきさまにおぼしゆるしてよ。" |
35 | 2.2.3 | 249 | 210 |
と、まめやかに聞こえたまふ折々あるを、 |
と、まめやかにきこえたまふをりをりあるを、 |
35 | 2.2.4 | 250 | 211 |
「あるまじく、つらき御ことなり。みづから、深き本意あることなれど、とまりてさうざうしくおぼえたまひ、ある世に変はらむ御ありさまの、うしろめたさによりこそ、ながらふれ。つひにそのこと遂げなむ後に、ともかくも思しなれ」 |
"あるまじく、つらきおほんことなり。みづから、ふかきほいあることなれど、とまりてさうざうしくおぼえたまひ、あるよにかはらんおほんありさまの、うしろめたさによりこそ、ながらふれ。つひにそのこととげなんのちに、ともかくもおぼしなれ。" |
35 | 2.2.5 | 251 | 212 |
などのみ、妨げきこえたまふ。 |
などのみ、さまたげきこえたまふ。 |
35 | 2.2.6 | 252 | 213 |
女御の君、ただこなたを、まことの御親にもてなしきこえたまひて、御方は隠れがの御後見にて、卑下しものしたまへるしもぞ、なかなか、行く先頼もしげにめでたかりける。 |
にょうごのきみ、ただこなたを、まことのみおやにもてなしきこえたまひて、おほんかたはかくれがのおほんうしろみにて、ひげしものしたまへるしもぞ、なかなか、ゆくさきたのもしげにめでたかりける。 |
35 | 2.2.7 | 253 | 214 |
尼君も、ややもすれば、堪へぬよろこびの涙、ともすれば落ちつつ、目をさへ拭ひただして、命長き、うれしげなる例になりてものしたまふ。 |
あまぎみも、ややもすれば、たへぬよろこびのなみだ、ともすればおちつつ、めをさへのごひただして、いのちながき、うれしげなるためしになりてものしたまふ。 |
35 | 2.3 | 254 | 215 | 第三段 源氏、住吉に参詣 |
35 | 2.3.1 | 255 | 216 |
住吉の御願、かつがつ果たしたまはむとて、春宮女御の御祈りに詣でたまはむとて、かの箱開けて御覧ずれば、さまざまのいかめしきことども多かり。 |
すみよしのごがん、かつがつはたしたまはんとて、とうぐうのにょうごのおほんいのりにまでたまはんとて、かのはこあけてごらんずれば、さまざまのいかめしきことどもおほかり。 |
35 | 2.3.2 | 256 | 217 |
年ごとの春秋の神楽に、かならず長き世の祈りを加へたる願ども、げに、かかる御勢ひならでは、果たしたまふべきこととも思ひおきてざりけり。ただ走り書きたる趣きの、才々しくはかばかしく、仏神も聞き入れたまふべき言の葉明らかなり。 |
としごとのはるあきのかぐらに、かならずながきよのいのりをくはへたるがんども、げに、かかるおほんいきほひならでは、はたしたまふべきことともおもひおきてざりけり。ただはしりがきたるおもむきの、ざえざえしくはかばかしく、ほとけかみもききいれたまふべきことのはあきらかなり。 |
35 | 2.3.3 | 257 | 218 |
「いかでさる山伏の聖心に、かかることどもを思ひよりけむ」と、あはれにおほけなくも御覧ず。「さるべきにて、しばしかりそめに身をやつしける、昔の世の行なひ人にやありけむ」など思しめぐらすに、いとど軽々しくも思されざりけり。 |
"いかでさるやまぶしのひじりごころに、かかることどもをおもひよりけん。"と、あはれにおほけなくもごらんず。"さるべきにて、しばしかりそめにみをやつしける、むかしのよのおこなひびとにやありけん。"などおぼしめぐらすに、いとどかるがるしくもおぼされざりけり。 |
35 | 2.3.4 | 258 | 219 |
このたびは、この心をば表はしたまはず、ただ、院の御物詣でにて出で立ちたまふ。浦伝ひのもの騒がしかりしほど、そこらの御願ども、皆果たし尽くしたまへれども、なほ世の中にかくおはしまして、かかるいろいろの栄えを見たまふにつけても、神の御助けは忘れがたくて、対の上も具しきこえさせたまひて、詣でさせたまふ、響き世の常ならず。いみじくことども削ぎ捨てて、世の煩ひあるまじく、と省かせたまへど、限りありければ、めづらかによそほしくなむ。 |
このたびは、このこころをばあらはしたまはず、ただ、ゐんのおほんものまうでにていでたちたまふ。うらづたひのものさわがしかりしほど、そこらのおほんがんども、みなはたしつくしたまへれども、なほよのなかにかくおはしまして、かかるいろいろのさかえをみたまふにつけても、かみのおほんたすけはわすれがたくて、たいのうへもぐしきこえさせたまひて、まうでさせたまふ、ひびきよのつねならず。いみじくことどもそぎすてて、よのわづらひあるまじく、とはぶかせたまへど、かぎりありければ、めづらかによそほしくなん。 |
35 | 2.4 | 259 | 220 | 第四段 住吉参詣の一行 |
35 | 2.4.1 | 260 | 221 |
上達部も、大臣二所をおきたてまつりては、皆仕うまつりたまふ。舞人は、衛府の次将どもの、容貌きよげに、丈だち等しき限りを選らせたまふ。この選びに入らぬをば恥に、愁へ嘆きたる好き者どもありけり。 |
かんだちめも、おとどふたところをおきたてまつりては、みなつかうまつりたまふ。まひびとは、ゑふのすけどもの、かたちきよげに、たけだちひとしきかぎりをえらせたまふ。このえらびにいらぬをばはぢに、うれへなげきたるすきものどもありけり。 |
35 | 2.4.2 | 261 | 222 |
陪従も、石清水、賀茂の臨時の祭などに召す人びとの、道々のことにすぐれたる限りを整へさせたまへり。加はりたる二人なむ、近衛府の名高き限りを召したりける。 |
べいじうも、いはしみづ、かものりんじのまつりなどにめすひとびとの、みちみちのことにすぐれたるかぎりをととのへさせたまへり。くははりたるふたりなん、このゑづかさのなだかきかぎりをめしたりける。 |
35 | 2.4.3 | 262 | 223 |
御神楽の方には、いと多く仕うまつれり。内裏、春宮、院の殿上人、方々に分かれて、心寄せ仕うまつる。数も知らず、いろいろに尽くしたる上達部の御馬、鞍、馬副、随身、小舎人童、次々の舎人などまで、整へ飾りたる見物、またなきさまなり。 |
みかぐらのかたには、いとおほくつかうまつれり。うち、とうぐう、ゐんのてんじゃうびと、かたがたにわかれて、こころよせつかうまつる。かずもしらず、いろいろにつくしたるかんだちめのおほんむま、くら、むまぞひ、ずいじん、こどねりわらは、つぎつぎのとねりなどまで、ととのへかざりたるみもの、またなきさまなり。 |
35 | 2.4.4 | 263 | 224 |
女御殿、対の上は、一つに奉りたり。次の御車には、明石の御方、尼君忍びて乗りたまへり。女御の御乳母、心知りにて乗りたり。方々のひとだまひ、上の御方の五つ、女御殿の五つ、明石の御あかれの三つ、目もあやに飾りたる装束、ありさま、言へばさらなり。さるは、 |
にょうごどの、たいのうへは、ひとつにたてまつりたり。つぎのみくるまには、あかしのおほんかた、あまぎみしのびてのりたまへり。にょうごのおほんめのと、こころしりにてのりたり。かたがたのひとだまひ、うへのおほんかたのいつつ、にょうごどののいつつ、あかしのおほんあかれのみつ、めもあやにかざりたるさうぞく、ありさま、いへばさらなり。さるは、 |
35 | 2.4.5 | 264 | 225 |
「尼君をば、同じくは、老の波の皺延ぶばかりに、人めかしくて詣でさせむ」 |
"あまぎみをば、おなじくは、おいのなみのしはのぶばかりに、ひとめかしくてまうでさせん。" |
35 | 2.4.6 | 265 | 226 |
と、院はのたまひけれど、 |
と、ゐんはのたまひけれど、 |
35 | 2.4.7 | 266 | 227 |
「このたびは、かくおほかたの響きに立ち交じらむもかたはらいたし。もし思ふやうならむ世の中を待ち出でたらば」 |
"このたびは、かくおほかたのひびきにたちまじらんもかたはらいたし。もしおもふやうならんよのなかをまちいでたらば。" |
35 | 2.4.8 | 267 | 228 |
と、御方はしづめたまひけるを、残りの命うしろめたくて、かつがつものゆかしがりて、慕ひ参りたまふなりけり。さるべきにて、もとよりかく匂ひたまふ御身どもよりも、いみじかりける契り、あらはに思ひ知らるる人の御ありさまなり。 |
と、おほんかたはしづめたまひけるを、のこりのいのちうしろめたくて、かつがつものゆかしがりて、したひまゐりたまふなりけり。さるべきにて、もとよりかくにほひたまふおほんみどもよりも、いみじかりけるちぎり、あらはにおもひしらるるひとのみありさまなり。 |
35 | 2.5 | 268 | 229 | 第五段 住吉社頭の東遊び |
35 | 2.5.1 | 269 | 230 |
十月中の十日なれば、神の斎垣にはふ葛も色変はりて、松の下紅葉など、音にのみ秋を聞かぬ顔なり。ことことしき高麗、唐土の楽よりも、東遊の耳馴れたるは、なつかしくおもしろく、波風の声に響きあひて、さる木高き松風に吹き立てたる笛の音も、ほかにて聞く調べには変はりて身にしみ、御琴に打ち合はせたる拍子も、鼓を離れて調へとりたるかた、おどろおどろしからぬも、なまめかしくすごうおもしろく、所からは、まして聞こえけり。 |
じふがつなかのとをかなれば、かみのいがきにはふくずもいろかはりて、まつのしたもみぢなど、おとにのみあきをきかぬかほなり。ことことしきこま、もろこしのがくよりも、あづまあそびのみみなれたるは、なつかしくおもしろく、なみかぜのこゑにひびきあひて、さるこだかきまつかぜにふきたてたるふえのねも、ほかにてきくしらべにはかはりてみにしみ、おほんことにうちあはせたるひゃうしも、つづみをはなれてととのへとりたるかた、おどろおどろしからぬも、なまめかしくすごうおもしろく、ところからは、ましてきこえけり。 |
35 | 2.5.2 | 270 | 231 |
山藍に摺れる竹の節は、松の緑に見えまがひ、插頭の色々は、秋の草に異なるけぢめ分かれで、何ごとにも目のみまがひいろふ。 |
やまあゐにすれるたけのふしは、まつのみどりにみえまがひ、かざしのいろいろは、あきのくさにことなるけぢめわかれで、なにごとにもめのみまがひいろふ。 |
35 | 2.5.3 | 271 | 232 |
「求子」果つる末に、若やかなる上達部は、肩ぬぎて下りたまふ。匂ひもなく黒き袍に、蘇芳襲の、葡萄染の袖を、にはかに引きほころばしたるに、紅深き衵の袂の、うちしぐれたるにけしきばかり濡れたる、松原をば忘れて、紅葉の散るに思ひわたさる。 |
〔もとめご〕はつるすゑに、わかやかなるかんだちめは、かたぬぎておりたまふ。にほひもなくくろきうへのきぬに、すはうがさねの、えびぞめのそでを、にはかにひきほころばしたるに、くれなゐふかきあこめのたもとの、うちしぐれたるにけしきばかりぬれたる、まつばらをばわすれて、もみぢのちるにおもひわたさる。 |
35 | 2.5.4 | 272 | 233 |
見るかひ多かる姿どもに、いと白く枯れたる荻を、高やかにかざして、ただ一返り舞ひて入りぬるは、いとおもしろく飽かずぞありける。 |
みるかひおほかるすがたどもに、いとしろくかれたるをぎを、たかやかにかざして、ただひとかへりまひていりぬるは、いとおもしろくあかずぞありける。 |
35 | 2.6 | 273 | 234 | 第六段 源氏、往時を回想 |
35 | 2.6.1 | 274 | 235 |
大殿、昔のこと思し出でられ、中ごろ沈みたまひし世のありさまも、目の前のやうに思さるるに、その世のこと、うち乱れ語りたまふべき人もなければ、致仕の大臣をぞ、恋しく思ひきこえたまひける。 |
おとど、むかしのことおぼしいでられ、なかごろしづみたまひしよのありさまも、めのまへのやうにおぼさるるに、そのよのこと、うちみだれかたりたまふべきひともなければ、ちじのおとどをぞ、こひしくおもひきこえたまひける。 |
35 | 2.6.2 | 275 | 236 |
入りたまひて、二の車に忍びて、 |
いりたまひて、にのくるまにしのびて、 |
35 | 2.6.3 | 276 | 237 |
「誰れかまた心を知りて住吉の<BR/>神代を経たる松にこと問ふ」 |
"〔たれかまたこころをしりてすみよしの<BR/>かみよをへたるまつにこととふ〕 |
35 | 2.6.4 | 277 | 238 |
御畳紙に書きたまへり。尼君うちしほたる。かかる世を見るにつけても、かの浦にて、今はと別れたまひしほど、女御の君のおはせしありさまなど思ひ出づるも、いとかたじけなかりける身の宿世のほどを思ふ。世を背きたまひし人も恋しく、さまざまにもの悲しきを、かつはゆゆしと言忌して、 |
おほんたたんがみにかきたまへり。あまぎみうちしほたる。かかるよをみるにつけても、かのうらにて、いまはとわかれたまひしほど、にょうごのきみのおはせしありさまなどおもひいづるも、いとかたじけなかりけるみのすくせのほどをおもふ。よをそむきたまひしひともこひしく、さまざまにものがなしきを、かつはゆゆしとこといみして、 |
35 | 2.6.5 | 278 | 239 |
「住の江をいけるかひある渚とは<BR/>年経る尼も今日や知るらむ」 |
"〔すみのえをいけるかひあるなぎさとは<BR/>としふるあまもけふやしるらん〕 |
35 | 2.6.6 | 279 | 240 |
遅くは便なからむと、ただうち思ひけるままなりけり。 |
おそくはびんなからんと、ただうちおもひけるままなりけり。 |
35 | 2.6.7 | 280 | 241 |
「昔こそまづ忘られね住吉の<BR/>神のしるしを見るにつけても」 |
"〔むかしこそまづわすられねすみよしの<BR/>かみのしるしをみるにつけても〕 |
35 | 2.6.8 | 281 | 242 |
と独りごちけり。 |
とひとりごちけり。 |
35 | 2.7 | 282 | 243 | 第七段 終夜、神楽を奏す |
35 | 2.7.1 | 283 | 244 |
夜一夜遊び明かしたまふ。二十日の月はるかに澄みて、海の面おもしろく見えわたるに、霜のいとこちたく置きて、松原も色まがひて、よろづのことそぞろ寒く、おもしろさもあはれさも立ち添ひたり。 |
よひとよあそびあかしたまふ。はつかのつきはるかにすみて、うみのおもておもしろくみえわたるに、しものいとこちたくおきて、まつばらもいろまがひて、よろづのことそぞろさむく、おもしろさもあはれさもたちそひたり。 |
35 | 2.7.2 | 284 | 246 |
対の上、常の垣根のうちながら、時々につけてこそ、興ある朝夕の遊びに、耳古り目馴れたまひけれ、御門より外の物見、をさをさしたまはず、ましてかく都のほかのありきは、まだ慣らひたまはねば、珍しくをかしく思さる。 |
たいのうへ、つねのかきねのうちながら、ときどきにつけてこそ、きょうあるあさゆふのあそびに、みみふりめなれたまひけれ、みかどよりとのものみ、をさをさしたまはず、ましてかくみやこのほかのありきは、まだならひたまはねば、めづらしくをかしくおぼさる。 |
35 | 2.7.3 | 285 | 247 |
「住の江の松に夜深く置く霜は<BR/>神の掛けたる木綿鬘かも」 |
"〔すみのえのまつによぶかくおくしもは<BR/>かみのかけたるゆふかづらかも〕 |
35 | 2.7.4 | 286 | 248 |
篁の朝臣の、「比良の山さへ」と言ひける雪の朝を思しやれば、祭の心うけたまふしるしにやと、いよいよ頼もしくなむ。女御の君、 |
たかむらのあそんの、"ひらのやまさへ〕といひけるゆきのあしたをおぼしやれば、まつりのこころうけたまふしるしにやと、いよいよたのもしくなん。にょうごのきみ、 |
35 | 2.7.5 | 287 | 249 |
「神人の手に取りもたる榊葉に<BR/>木綿かけ添ふる深き夜の霜」 |
"〔かみびとのてにとりもたるさかきばに<BR/>ゆふかけそふるふかきよのしも〕" |
35 | 2.7.6 | 288 | 250 |
中務の君、 |
なかつかさのきみ、 |
35 | 2.7.7 | 289 | 251 |
「祝子が木綿うちまがひ置く霜は<BR/>げにいちじるき神のしるしか」 |
"〔はふりこがゆふうちまがひおくしもは<BR/>げにいちじるきかみのしるしか〕 |
35 | 2.7.8 | 290 | 252 |
次々数知らず多かりけるを、何せむにかは聞きおかむ。かかるをりふしの歌は、例の上手めきたまふ男たちも、なかなか出で消えして、松の千歳より離れて、今めかしきことなければ、うるさくてなむ。 |
つぎつぎかずしらずおほかりけるを、なにせんにかはききおかん。かかるをりふしのうたは、れいのじゃうずめきたまふをとこたちも、なかなかいできえして、まつのちとせよりはなれて、いまめかしきことなければ、うるさくてなん。 |
35 | 2.8 | 291 | 253 | 第八段 明石一族の幸い |
35 | 2.8.1 | 292 | 254 |
ほのぼのと明けゆくに、霜はいよいよ深くて、本末もたどたどしきまで、酔ひ過ぎにたる神楽おもてどもの、おのが顔をば知らで、おもしろきことに心はしみて、庭燎も影しめりたるに、なほ、「万歳、万歳」と、榊葉を取り返しつつ、祝ひきこゆる御世の末、思ひやるぞいとどしきや。 |
ほのぼのとあけゆくに、しもはいよいよふかくて、もとすゑもたどたどしきまで、ゑひすぎにたるかぐらおもてどもの、おのがかほをばしらで、おもしろきことにこころはしみて、にはびもかげしめりたるに、なほ、"まんざい、まんざい"と、さかきばをとりかへしつつ、いはひきこゆるみよのすゑ、おもひやるぞいとどしきや。 |
35 | 2.8.2 | 293 | 255 |
よろづのこと飽かずおもしろきままに、千夜を一夜になさまほしき夜の、何にもあらで明けぬれば、返る波にきほふも口惜しく、若き人びと思ふ。 |
よろづのことあかずおもしろきままに、ちよをひとよになさまほしきよの、なににもあらであけぬれば、かへるなみにきほふもくちをしく、わかきひとびとおもふ。 |
35 | 2.8.3 | 294 | 256 |
松原に、はるばると立て続けたる御車どもの、風にうちなびく下簾の隙々も、常磐の蔭に、花の錦を引き加へたると見ゆるに、袍の色々けぢめおきて、をかしき懸盤取り続きて、もの参りわたすをぞ、下人などは目につきて、めでたしとは思へる。 |
まつばらに、はるばるとたてつづけたるみくるまどもの、かぜにうちなびくしたすだれのひまひまも、ときはのかげに、はなのにしきをひきくはへたるとみゆるに、うへのきぬのいろいろけぢめおきて、をかしきかけばんとりつづきて、ものまゐりわたすをぞ、しもびとなどはめにつきて、めでたしとはおもへる。 |
35 | 2.8.4 | 295 | 257 |
尼君の御前にも、浅香の折敷に、青鈍の表折りて、精進物を参るとて、「めざましき女の宿世かな」と、おのがじしはしりうごちけり。 |
あまぎみのおまへにも、せんかうのをしきに、あをにびのおもてをりて、さうじんものをまゐるとて、"めざましきをんなのすくせかな。"と、おのがじしはしりうごちけり。 |
35 | 2.8.5 | 296 | 258 |
詣でたまひし道は、ことことしくて、わづらはしき神宝、さまざまに所狭げなりしを、帰さはよろづの逍遥を尽くしたまふ。言ひ続くるもうるさく、むつかしきことどもなれば。 |
まうでたまひしみちは、ことことしくて、わづらはしきかんだから、さまざまにところせげなりしを、かへさはよろづのせうえうをつくしたまふ。いひつづくるもうるさく、むつかしきことどもなれば。 |
35 | 2.8.6 | 297 | 259 |
かかる御ありさまをも、かの入道の、聞かず見ぬ世にかけ離れたうべるのみなむ、飽かざりける。難きことなりかし、交じらはましも見苦しくや。世の中の人、これを例にて、心高くなりぬべきころなめり。よろづのことにつけて、めであさみ、世の言種にて、「明石の尼君」とぞ、幸ひ人に言ひける。かの致仕の大殿の近江の君は、双六打つ時の言葉にも、「明石の尼君、明石の尼君」とぞ、賽は乞ひける。 |
かかるおほんありさまをも、かのにふだうの、きかずみぬよにかけはなれたうべるのみなん、あかざりける。かたきことなりかし、まじらはましもみぐるしくや。よのなかのひと、これをためしにて、こころたかくなりぬべきころなめり。よろづのことにつけて、めであさみ、よのことぐさにて、"あかしのあまぎみ"とぞ、さいはひびとにいひける。かのちじのおほとののあふみのきみは、すぐろくうつときのことばにも、"あかしのあまぎみ、あかしのあまぎみ。"とぞ、さいはこひける。 |
35 | 3 | 298 | 260 | 第三章 朱雀院の物語 朱雀院の五十賀の計画 |
35 | 3.1 | 299 | 261 | 第一段 女三の宮と紫の上 |
35 | 3.1.1 | 300 | 262 |
入道の帝は、御行なひをいみじくしたまひて、内裏の御ことをも聞き入れたまはず。春秋の行幸になむ、昔思ひ出でられたまふこともまじりける。姫宮の御ことをのみぞ、なほえ思し放たで、この院をば、なほおほかたの御後見に思ひきこえたまひて、うちうちの御心寄せあるべく奏せさせたまふ。二品になりたまひて、御封などまさる。いよいよはなやかに御勢ひ添ふ。 |
にふだうのみかどは、おほんおこなひをいみじくしたまひて、うちのおほんことをもききいれたまはず。しゅんじうのぎゃうがうになん、むかしおもひいでられたまふこともまじりける。ひめみやのおほんことをのみぞ、なほえおぼしはなたで、このゐんをば、なほおほかたのおほんうしろみにおもひきこえたまひて、うちうちのみこころよせあるべくそうせさせたまふ。にほんになりたまひて、みふなどまさる。いよいよはなやかにおほんいきほひそふ。 |
35 | 3.1.2 | 301 | 263 |
対の上、かく年月に添へて、かたがたにまさりたまふ御おぼえに、 |
たいのうへ、かくとしつきにそへて、かたがたにまさりたまふおほんおぼえに、 |
35 | 3.1.3 | 302 | 264 |
「わが身はただ一所の御もてなしに、人には劣らねど、あまり年積もりなば、その御心ばへもつひに衰へなむ。さらむ世を見果てぬさきに、心と背きにしがな」 |
"わがみはただひとところのおほんもてなしに、ひとにはおとらねど、あまりとしつもりなば、そのみこころばへもつひにおとろへなん。さらんよをみはてぬさきに、こころとそむきにしがな。" |
35 | 3.1.4 | 303 | 265 |
と、たゆみなく思しわたれど、さかしきやうにや思さむとつつまれて、はかばかしくもえ聞こえたまはず。内裏の帝さへ、御心寄せことに聞こえたまへば、おろかに聞かれたてまつらむもいとほしくて、渡りたまふこと、やうやう等しきやうになりゆく。 |
と、たゆみなくおぼしわたれど、さかしきやうにやおぼさんとつつまれて、はかばかしくもえきこえたまはず。うちのみかどさへ、みこころよせことにきこえたまへば、おろかにきかれたてまつらんもいとほしくて、わたりたまふこと、やうやうひとしきやうになりゆく。 |
35 | 3.1.5 | 304 | 266 |
さるべきこと、ことわりとは思ひながら、さればよとのみ、やすからず思されけれど、なほつれなく同じさまにて過ぐしたまふ。春宮の御さしつぎの女一の宮を、こなたに取り分きてかしづきたてまつりたまふ。その御扱ひになむ、つれづれなる御夜がれのほども慰めたまひける。いづれも分かず、うつくしくかなしと思ひきこえたまへり。 |
さるべきこと、ことわりとはおもひながら、さればよとのみ、やすからずおぼされけれど、なほつれなくおなじさまにてすぐしたまふ。とうぐうのおほんさしつぎのをんないちのみやを、こなたにとりわきてかしづきたてまつりたまふ。そのおほんあつかひになん、つれづれなるおほんよがれのほどもなぐさめたまひける。いづれもわかず、うつくしくかなしとおもひきこえたまへり。 |
35 | 3.2 | 305 | 267 | 第二段 花散里と玉鬘 |
35 | 3.2.1 | 306 | 268 |
夏の御方は、かくとりどりなる御孫扱ひをうらやみて、大将の君の典侍腹の君を、切に迎へてぞかしづきたまふ。いとをかしげにて、心ばへも、ほどよりはされおよすけたれば、大殿の君もらうたがりたまふ。少なき御嗣と思ししかど、末に広ごりて、こなたかなたいと多くなり添ひたまふを、今はただ、これをうつくしみ扱ひたまひてぞ、つれづれも慰めたまひける。 |
なつのおほんかたは、かくとりどりなるおほんむまごあつかひをうらやみて、だいしゃうのきみのないしのすけばらのきみを、せちにむかへてぞかしづきたまふ。いとをかしげにて、こころばへも、ほどよりはされおよすけたれば、おとどのきみもらうたがりたまふ。すくなきおほんつぎとおぼししかど、すゑにひろごりて、こなたかなたいとおほくなりそひたまふを、いまはただ、これをうつくしみあつかひたまひてぞ、つれづれもなぐさめたまひける。 |
35 | 3.2.2 | 307 | 269 |
右の大殿の参り仕うまつりたまふこと、いにしへよりもまさりて親しく、今は北の方もおとなび果てて、かの昔のかけかけしき筋思ひ離れたまふにや、さるべき折も渡りまうでたまふ。対の上にも御対面ありて、あらまほしく聞こえ交はしたまひけり。 |
みぎのおほとののまゐりつかうまつりたまふこと、いにしへよりもまさりてしたしく、いまはきたのかたもおとなびはてて、かのむかしのかけかけしきすぢおもひはなれたまふにや、さるべきをりもわたりまうでたまふ。たいのうへにもおほんたいめんありて、あらまほしくきこえかはしたまひけり。 |
35 | 3.2.3 | 308 | 270 |
姫宮のみぞ、同じさまに若くおほどきておはします。女御の君は、今は公ざまに思ひ放ちきこえたまひて、この宮をばいと心苦しく、幼からむ御女のやうに、思ひはぐくみたてまつりたまふ。 |
ひめみやのみぞ、おなじさまにわかくおほどきておはします。にょうごのきみは、いまはおほやけざまにおもひはなちきこえたまひて、このみやをばいとこころぐるしく、をさなからんおほんむすめのやうに、おもひはぐくみたてまつりたまふ。 |
35 | 3.3 | 309 | 271 | 第三段 朱雀院の五十の賀の計画 |
35 | 3.3.1 | 310 | 272 |
朱雀院の、 |
すざくゐんの、 |
35 | 3.3.2 | 311 | 273 |
「今はむげに世近くなりぬる心地して、もの心細きを、さらにこの世のこと顧みじと思ひ捨つれど、対面なむ今一度あらまほしきを、もし恨み残りもこそすれ、ことことしきさまならで渡りたまふべく」 |
"いまはむげによちかくなりぬるここちして、ものこころぼそきを、さらにこのよのことかへりみじとおもひすつれど、たいめんなんいまひとたびあらまほしきを、もしうらみのこりもこそすれ、ことことしきさまならでわたりたまふべく。" |
35 | 3.3.3 | 312 | 274 |
聞こえたまひければ、大殿も、 |
きこえたまひければ、おとども、 |
35 | 3.3.4 | 313 | 275 |
「げに、さるべきことなり。かかる御けしきなからむにてだに、進み参りたまふべきを。まして、かう待ちきこえたまひけるが、心苦しきこと」 |
"げに、さるべきことなり。かかるみけしきなからんにてだに、すすみまゐりたまふべきを。まして、かうまちきこえたまひけるが、こころぐるしきこと。" |
35 | 3.3.5 | 314 | 276 |
と、参りたまふべきこと思しまうく。 |
と、まゐりたまふべきことおぼしまうく。 |
35 | 3.3.6 | 315 | 277 |
「ついでなく、すさまじきさまにてやは、はひ渡りたまふべき。何わざをしてか、御覧ぜさせたまふべき」 |
"ついでなく、すさまじきさまにてやは、はひわたりたまふべき。なにわざをしてか、ごらんぜさせたまふべき。" |
35 | 3.3.7 | 316 | 278 |
と、思しめぐらす。 |
と、おぼしめぐらす。 |
35 | 3.3.8 | 317 | 279 |
「このたび足りたまはむ年、若菜など調じてや」と、思して、さまざまの御法服のこと、斎の御まうけのしつらひ、何くれとさまことに変はれることどもなれば、人の御心しつらひども入りつつ、思しめぐらす。 |
"このたびたりたまはんとし、わかななどてうじてや。"と、おぼして、さまざまのおほんほふぶくのこと、いもひのおほんまうけのしつらひ、なにくれとさまことにかはれることどもなれば、ひとのみこころしつらひどもいりつつ、おぼしめぐらす。 |
35 | 3.3.9 | 318 | 280 |
いにしへも、遊びの方に御心とどめさせたまへりしかば、舞人、楽人などを、心ことに定め、すぐれたる限りをととのへさせたまふ。右の大殿の御子ども二人、大将の御子、典侍の腹の加へて三人、まだ小さき七つより上のは、皆殿上せさせたまふ。兵部卿宮の童孫王、すべてさるべき宮たちの御子ども、家の子の君たち、皆選び出でたまふ。 |
いにしへも、あそびのかたにみこころとどめさせたまへりしかば、まひびと、がくにんなどを、こころことにさだめ、すぐれたるかぎりをととのへさせたまふ。みぎのおほとののみこどもふたり、だいしゃうのみこ、ないしのすけのはらのくはへてさんにん、まだちひさきななつよりかみのは、みなてんじゃうせさせたまふ。ひゃうぶきゃうのみやのわらはそんわう、すべてさるべきみやたちのおほんこども、いへのこのきみたち、みなえらびいでたまふ。 |
35 | 3.3.10 | 319 | 281 |
殿上の君達も、容貌よく、同じき舞の姿も、心ことなるべきを定めて、あまたの舞のまうけをせさせたまふ。いみじかるべきたびのこととて、皆人心を尽くしたまひてなむ。道々のものの師、上手、暇なきころなり。 |
てんじゃうのきみたちも、かたちよく、おなじきまひのすがたも、こころことなるべきをさだめて、あまたのまひのまうけをせさせたまふ。いみじかるべきたびのこととて、みなひとこころをつくしたまひてなん。みちみちのもののし、じゃうず、いとまなきころなり。 |
35 | 3.4 | 320 | 282 | 第四段 女三の宮に琴を伝授 |
35 | 3.4.1 | 321 | 283 |
宮は、もとより琴の御琴をなむ習ひたまひけるを、いと若くて院にもひき別れたてまつりたまひしかば、おぼつかなく思して、 |
みやは、もとよりきんのおほんことをなんならひたまひけるを、いとわかくてゐんにもひきわかれたてまつりたまひしかば、おぼつかなくおぼして、 |
35 | 3.4.2 | 322 | 284 |
「参りたまはむついでに、かの御琴の音なむ聞かまほしき。さりとも琴ばかりは弾き取りたまひつらむ」 |
"まゐりたまはんついでに、かのおほんことのねなんきかまほしき。さりともきんばかりはひきとりたまひつらん。" |
35 | 3.4.3 | 323 | 285 |
と、しりうごとに聞こえたまひけるを、内裏にも聞こし召して、 |
と、しりうごとにきこえたまひけるを、うちにもきこしめして、 |
35 | 3.4.4 | 324 | 286 |
「げに、さりとも、けはひことならむかし。院の御前にて、手尽くしたまはむついでに、参り来て聞かばや」 |
"げに、さりとも、けはひことならんかし。ゐんのおまへにて、てつくしたまはんついでに、まゐりきてきかばや。" |
35 | 3.4.5 | 325 | 287 |
などのたまはせけるを、大殿の君は伝へ聞きたまひて、 |
などのたまはせけるを、おとどのきみはつたへききたまひて、 |
35 | 3.4.6 | 326 | 288 |
「年ごろさりぬべきついでごとには、教へきこゆることもあるを、そのけはひは、げにまさりたまひにたれど、まだ聞こし召しどころあるもの深き手には及ばぬを、何心もなくて参りたまへらむついでに、聞こし召さむとゆるしなくゆかしがらせたまはむは、いとはしたなかるべきことにも」 |
"としごろさりぬべきついでごとには、をしへきこゆることもあるを、そのけはひは、げにまさりたまひにたれど、まだきこしめしどころあるものふかきてにはおよばぬを、なにごころもなくてまゐりたまへらんついでに、きこしめさんとゆるしなくゆかしがらせたまはんは、いとはしたなかるべきことにも。" |
35 | 3.4.7 | 327 | 289 |
と、いとほしく思して、このころぞ御心とどめて教へきこえたまふ。 |
と、いとほしくおぼして、このころぞみこころとどめてをしへきこえたまふ。 |
35 | 3.4.8 | 328 | 290 |
調べことなる手、二つ三つ、おもしろき大曲どもの、四季につけて変はるべき響き、空の寒さぬるさをととのへ出でて、やむごとなかるべき手の限りを、取り立てて教へきこえたまふに、心もとなくおはするやうなれど、やうやう心得たまふままに、いとよくなりたまふ。 |
しらべことなるて、ふたつみつ、おもしろきだいごくどもの、しきにつけてかはるべきひびき、そらのさむさぬるさをととのへいでて、やんごとなかるべきてのかぎりを、とりたててをしへきこえたまふに、こころもとなくおはするやうなれど、やうやうこころえたまふままに、いとよくなりたまふ。 |
35 | 3.4.9 | 329 | 291 |
「昼は、いと人しげく、なほ一度も揺し按ずる暇も、心あわたたしければ、夜々なむ、静かにことの心もしめたてまつるべき」 |
"ひるは、いとひとしげく、なほひとたびもゆしあんずるいとまも、こころあわたたしければ、よるよるなん、しづかにことのこころもしめたてまつるべき。" |
35 | 3.4.10 | 330 | 292 |
とて、対にも、そのころは御暇聞こえたまひて、明け暮れ教へきこえたまふ。 |
とて、たいにも、そのころはおほんいとまきこえたまひて、あけくれをしへきこえたまふ。 |
35 | 3.5 | 331 | 293 | 第五段 明石女御、懐妊して里下り |
35 | 3.5.1 | 332 | 294 |
女御の君にも、対の上にも、琴は習はしたてまつりたまはざりければ、この折、をさをさ耳馴れぬ手ども弾きたまふらむを、ゆかしと思して、女御も、わざとありがたき御暇を、ただしばしと聞こえたまひてまかでたまへり。 |
にょうごのきみにも、たいのうへにも、きんはならはしたてまつりたまはざりければ、このをり、をさをさみみなれぬてどもひきたまふらんを、ゆかしとおぼして、にょうごも、わざとありがたきおほんいとまを、ただしばしときこえたまひてまかでたまへり。 |
35 | 3.5.2 | 333 | 295 |
御子二所おはするを、またもけしきばみたまひて、五月ばかりにぞなりたまへれば、神事などにことづけておはしますなりけり。十一日過ぐしては、参りたまふべき御消息うちしきりあれど、かかるついでに、かくおもしろき夜々の御遊びをうらやましく、「などて我に伝へたまはざりけむ」と、つらく思ひきこえたまふ。 |
みこふたところおはするを、またもけしきばみたまひて、いつつきばかりにぞなりたまへれば、かみわざなどにことづけておはしますなりけり。じふいちにちすぐしては、まゐりたまふべきおほんせうそこうちしきりあれど、かかるついでに、かくおもしろきよるよるのおほんあそびをうらやましく、"などてわれにつたへたまはざりけん。"と、つらくおもひきこえたまふ。 |
35 | 3.5.3 | 334 | 296 |
冬の夜の月は、人に違ひてめでたまふ御心なれば、おもしろき夜の雪の光に、折に合ひたる手ども弾きたまひつつ、さぶらふ人びとも、すこしこの方にほのめきたるに、御琴どもとりどりに弾かせて、遊びなどしたまふ。 |
ふゆのよのつきは、ひとにたがひてめでたまふみこころなれば、おもしろきよのゆきのひかりに、をりにあひたるてどもひきたまひつつ、さぶらふひとびとも、すこしこのかたにほのめきたるに、おほんことどもとりどりにひかせて、あそびなどしたまふ。 |
35 | 3.5.4 | 335 | 297 |
年の暮れつ方は、対などにはいそがしく、こなたかなたの御いとなみに、おのづから御覧じ入るることどもあれば、 |
としのくれつかたは、たいなどにはいそがしく、こなたかなたのおほんいとなみに、おのづからごらんじいるることどもあれば、 |
35 | 3.5.5 | 336 | 298 |
「春のうららかならむ夕べなどに、いかでこの御琴の音聞かむ」 |
"はるのうららかならんゆふべなどに、いかでこのおほんことのねきかん。" |
35 | 3.5.6 | 337 | 299 |
とのたまひわたるに、年返りぬ。 |
とのたまひわたるに、としかへりぬ。 |
35 | 3.6 | 338 | 300 | 第六段 朱雀院の御賀を二月十日過ぎと決定 |
35 | 3.6.1 | 339 | 301 |
院の御賀、まづ朝廷よりせさせたまふことどもこちたきに、さしあひては便なく思されて、すこしほど過ごしたまふ。二月十余日と定めたまひて、楽人、舞人など参りつつ、御遊び絶えず。 |
ゐんのおほんが、まづおほやけよりせさせたまふことどもこちたきに、さしあひてはびんなくおぼされて、すこしほどすごしたまふ。にがわつじふよにちとさだめたまひて、がくにん、まひびとなどまゐりつつ、おほんあそびたえず。 |
35 | 3.6.2 | 340 | 302 |
「この対に、常にゆかしくする御琴の音、いかでかの人びとの箏、琵琶の音も合はせて、女楽試みさせむ。ただ今のものの上手どもこそ、さらにこのわたりの人びとの御心しらひどもにまさらね。 |
"このたいに、つねにゆかしくするおほんことのね、いかでかのひとびとのさう、びはのねもあはせて、をんながくこころみさせん。ただいまのもののじゃうずどもこそ、さらにこのわたりのひとびとのみこころしらひどもにまさらね。 |
35 | 3.6.3 | 341 | 303 |
はかばかしく伝へ取りたることは、をさをさなけれど、何ごとも、いかで心に知らぬことあらじとなむ、幼きほどに思ひしかば、世にあるものの師といふ限り、また高き家々の、さるべき人の伝へどもをも、残さず試みし中に、いと深く恥づかしきかなとおぼゆる際の人なむなかりし。 |
はかばかしくつたへとりたることは、をさをさなけれど、なにごとも、いかでこころにしらぬことあらじとなん、をさなきほどにおもひしかば、よにあるもののしといふかぎり、またたかきいへいへの、さるべきひとのつたへどもをも、のこさずこころみしなかに、いとふかくはづかしきかなとおぼゆるきはのひとなんなかりし。 |
35 | 3.6.4 | 342 | 304 |
そのかみよりも、またこのころの若き人びとの、されよしめき過ぐすに、はた浅くなりにたるべし。琴はた、まして、さらに、まねぶ人なくなりにたりとか。この御琴の音ばかりだに伝へたる人、をさをさあらじ」 |
そのかみよりも、またこのころのわかきひとびとの、されよしめきすぐすに、はたあさくなりにたるべし。きんはた、まして、さらに、まねぶひとなくなりにたりとか。このおほんことのねばかりだにつたへたるひと、をさをさあらじ。" |
35 | 3.6.5 | 343 | 305 |
とのたまへば、何心なくうち笑みて、うれしく、「かくゆるしたまふほどになりにける」と思す。 |
とのたまへば、なにごころなくうちゑみて、うれしく、"かくゆるしたまふほどになりにける。"とおぼす。 |
35 | 3.6.6 | 344 | 306 |
二十一、二ばかりになりたまへど、なほいといみじく片なりに、きびはなる心地して、細くあえかにうつくしくのみ見えたまふ。 |
にじふいち、にばかりになりたまへど、なほいといみじくかたなりに、きびはなるここちして、ほそくあえかにうつくしくのみみえたまふ。 |
35 | 3.6.7 | 345 | 307 |
「院にも見えたてまつりたまはで、年経ぬるを、ねびまさりたまひにけりと御覧ずばかり、用意加へて見えたてまつりたまへ」 |
"ゐんにもみえたてまつりたまはで、としへぬるを、ねびまさりたまひにけりとごらんずばかり、よういくはへてみえたてまつりたまへ。" |
35 | 3.6.8 | 346 | 308 |
と、ことに触れて教へきこえたまふ。 |
と、ことにふれてをしへきこえたまふ。 |
35 | 3.6.9 | 347 | 309 |
「げに、かかる御後見なくては、ましていはけなくおはします御ありさま、隠れなからまし」 |
"げに、かかるおほんうしろみなくては、ましていはけなくおはしますおほんありさま、かくれなからまし。" |
35 | 3.6.10 | 348 | 310 |
と、人びとも見たてまつる。 |
と、ひとびともみたてまつる。 |
35 | 4 | 349 | 311 | 第四章 光る源氏の物語 六条院の女楽 |
35 | 4.1 | 350 | 312 | 第一段 六条院の女楽 |
35 | 4.1.1 | 351 | 313 |
正月二十日ばかりになれば、空もをかしきほどに、風ぬるく吹きて、御前の梅も盛りになりゆく。おほかたの花の木どもも、皆けしきばみ、霞みわたりにけり。 |
しゃうがちはつかばかりになれば、そらもをかしきほどに、かぜぬるくふきて、おまへのむめもさかりになりゆく。おほかたのはなのきどもも、みなけしきばみ、かすみわたりにけり。 |
35 | 4.1.2 | 352 | 314 |
「月たたば、御いそぎ近く、もの騒がしからむに、掻き合はせたまはむ御琴の音も、試楽めきて人言ひなさむを、このころ静かなるほどに試みたまへ」 |
"つきたたば、おほんいそぎちかく、ものさわがしからんに、かきあはせたまはんおほんことのねも、しがくめきてひといひなさんを、このころしづかなるほどにこころみたまへ。" |
35 | 4.1.3 | 353 | 315 |
とて、寝殿に渡したてまつりたまふ。 |
とて、しんでんにわたしたてまつりたまふ。 |
35 | 4.1.4 | 354 | 316 |
御供に、我も我もと、ものゆかしがりて、参う上らまほしがれど、こなたに遠きをば、選りとどめさせたまひて、すこしねびたれど、よしある限り選りてさぶらはせたまふ。 |
おほんともに、われもわれもと、ものゆかしがりて、まうのぼらまほしがれど、こなたにとほきをば、えりとどめさせたまひて、すこしねびたれど、よしあるかぎりえりてさぶらはせたまふ。 |
35 | 4.1.5 | 355 | 317 |
童女は、容貌すぐれたる四人、赤色に桜の汗衫、薄色の織物の衵、浮紋の表の袴、紅の擣ちたる、さま、もてなしすぐれたる限りを召したり。女御の御方にも、御しつらひなど、いとどあらたまれるころのくもりなきに、おのおの挑ましく、尽くしたるよそほひども、鮮やかに二なし。 |
わらはべは、かたちすぐれたるよたり、あかいろにさくらのかざみ、うすいろのおりもののあこめ、うきもんのうへのはかま、くれなゐのうちたる、さま、もてなしすぐれたるかぎりをめしたり。にょうごのおほんかたにも、おほんしつらひなど、いとどあらたまれるころのくもりなきに、おのおのいどましく、つくしたるよそほひども、あざやかにになし。 |
35 | 4.1.6 | 356 | 318 |
童は、青色に蘇芳の汗衫、唐綾の表の袴、衵は山吹なる唐の綺を、同じさまに調へたり。明石の御方のは、ことことしからで、紅梅二人、桜二人、青磁の限りにて、衵濃く薄く、擣目などえならで着せたまへり。 |
わらはは、あをいろにすはうのかざみ、からあやのうへのはかま、あこめはやまぶきなるからのきを、おなじさまにととのへたり。あかしのおほんかたのは、ことことしからで、こうばいふたり、さくらふたり、あをぢのかぎりにて、あこめこくうすく、うちめなどえならできせたまへり。 |
35 | 4.1.7 | 357 | 319 |
宮の御方にも、かく集ひたまふべく聞きたまひて、童女の姿ばかりは、ことにつくろはせたまへり。青丹に柳の汗衫、葡萄染の衵など、ことに好ましくめづらしきさまにはあらねど、おほかたのけはひの、いかめしく気高きことさへ、いと並びなし。 |
みやのおほんかたにも、かくつどひたまふべくききたまひて、わらはべのすがたばかりは、ことにつくろはせたまへり。あをににやなぎのかざみ、えびぞめのあこめなど、ことにこのましくめづらしきさまにはあらねど、おほかたのけはひの、いかめしくけだかきことさへ、いとならびなし。 |
35 | 4.2 | 358 | 320 | 第二段 孫君たちと夕霧を召す |
35 | 4.2.1 | 359 | 321 |
廂の中の御障子を放ちて、こなたかなた御几帳ばかりをけぢめにて、中の間は、院のおはしますべき御座よそひたり。今日の拍子合はせには童べを召さむとて、右の大殿の三郎、尚侍の君の御腹の兄君、笙の笛、左大将の御太郎、横笛と吹かせて、簀子にさぶらはせたまふ。 |
ひさしのなかのみさうじをはなちて、こなたかなたみきちゃうばかりをけぢめにて、なかのまは、ゐんのおはしますべきおましよそひたり。けふのひゃうしあはせにはわらはべをめさんとて、みぎのおほいどののさぶらう、かんのきみのおほんはらのあにぎみ、しゃうのふえ、さだいしゃうのおほんたらう、よこぶえとふかせて、すのこにさぶらはせたまふ。 |
35 | 4.2.2 | 360 | 322 |
内には、御茵ども並べて、御琴ども参り渡す。秘したまふ御琴ども、うるはしき紺地の袋どもに入れたる取り出でて、明石の御方に琵琶、紫の上に和琴、女御の君に箏の御琴、宮には、かくことことしき琴はまだえ弾きたまはずやと、あやふくて、例の手馴らしたまへるをぞ、調べてたてまつりたまふ。 |
うちには、おほんしとねどもならべて、おほんことどもまゐりわたす。ひしたまふおほんことども、うるはしきこんぢのふくろどもにいれたるとりいでて、あかしのおほんかたにびは、むらさきのうへにわごん、にょうごのきみにさうのおほんこと、みやには、かくことことしきことはまだえひきたまはずやと、あやふくて、れいのてならしたまへるをぞ、しらべてたてまつりたまふ。 |
35 | 4.2.3 | 361 | 323 |
「箏の御琴は、ゆるぶとなけれど、なほ、かく物に合はする折の調べにつけて、琴柱の立処乱るるものなり。よくその心しらひ調ふべきを、女はえ張りしづめじ。なほ、大将をこそ召し寄せつべかめれ。この笛吹ども、まだいと幼げにて、拍子調へむ頼み強からず」 |
"さうのおほんことは、ゆるぶとなけれど、なほ、かくものにあはするをりのしらべにつけて、ことぢのたちどみだるるものなり。よくそのこころしらひととのふべきを、をんなはえはりしづめじ。なほ、だいしゃうをこそめしよせつべかめれ。このふえふきども、まだいとをさなげにて、ひゃうしととのへんたのみつよからず。" |
35 | 4.2.4 | 362 | 324 |
と笑ひたまひて、 |
とわらひたまひて、 |
35 | 4.2.5 | 363 | 325 |
「大将、こなたに」 |
"だいしゃう、こなたに。" |
35 | 4.2.6 | 364 | 326 |
と召せば、御方々恥づかしく、心づかひしておはす。明石の君を放ちては、いづれも皆捨てがたき御弟子どもなれば、御心加へて、大将の聞きたまはむに、難なかるべくと思す。 |
とめせば、おほんかたがたはづかしく、こころづかひしておはす。あかしのきみをはなちては、いづれもみなすてがたきみでしどもなれば、みこころくはへて、だいしゃうのききたまはんに、なんなかるべくとおぼす。 |
35 | 4.2.7 | 365 | 327 |
「女御は、常に上の聞こし召すにも、物に合はせつつ弾きならしたまへれば、うしろやすきを、和琴こそ、いくばくならぬ調べなれど、あと定まりたることなくて、なかなか女のたどりぬべけれ。春の琴の音は、皆掻き合はするものなるを、乱るるところもや」 |
"にょうごは、つねにうへのきこしめすにも、ものにあはせつつひきならしたまへれば、うしろやすきを、わごんこそ、いくばくならぬしらべなれど、あとさだまりたることなくて、なかなかをんなのたどりぬべけれ。はるのことのねは、みなかきあはするものなるを、みだるるところもや。" |
35 | 4.2.8 | 366 | 328 |
と、なまいとほしく思す。 |
と、なまいとほしくおぼす。 |
35 | 4.3 | 367 | 329 | 第三段 夕霧、箏を調絃す |
35 | 4.3.1 | 368 | 330 |
大将、いといたく心懸想して、御前のことことしく、うるはしき御試みあらむよりも、今日の心づかひは、ことにまさりておぼえたまへば、あざやかなる御直衣、香にしみたる御衣ども、袖いたくたきしめて、引きつくろひて参りたまふほど、暮れ果てにけり。 |
だいしゃう、いといたくこころげさうして、おまへのことことしく、うるはしきおほんこころみあらんよりも、けふのこころづかひは、ことにまさりておぼえたまへば、あざやかなるおほんなほし、かうにしみたるおほんぞども、そでいたくたきしめて、ひきつくろひてまゐりたまふほど、くれはてにけり。 |
35 | 4.3.2 | 369 | 331 |
ゆゑあるたそかれ時の空に、花は去年の古雪思ひ出でられて、枝もたわむばかり咲き乱れたり。ゆるるかにうち吹く風に、えならず匂ひたる御簾の内の香りも吹き合はせて、鴬誘ふつまにしつべく、いみじき御殿のあたりの匂ひなり。御簾の下より、箏の御琴のすそ、すこしさし出でて、 |
ゆゑあるたそかれどきのそらに、はなはこぞのふるゆきおもひいでられて、えだもたわむばかりさきみだれたり。ゆるるかにうちふくかぜに、えならずにほひたるみすのうちのかをりもふきあはせて、うぐひすさそふつまにしつべく、いみじきおとどのあたりのにほひなり。みすのしたより、さうのおほんことのすそ、すこしさしいでて、 |
35 | 4.3.3 | 370 | 332 |
「軽々しきやうなれど、これが緒調へて、調べ試みたまへ。ここにまた疎き人の入るべきやうもなきを」 |
"かるがるしきやうなれど、これがをととのへて、しらべこころみたまへ。ここにまたうときひとのいるべきやうもなきを。" |
35 | 4.3.4 | 371 | 333 |
とのたまへば、うちかしこまりて賜はりたまふほど、用意多くめやすくて、「壱越調」の声に発の緒を立てて、ふとも調べやらでさぶらひたまへば、 |
とのたまへば、うちかしこまりてたまはりたまふほど、よういおほくめやすくて、〔いちこちでう〕のこゑにはちのををたてて、ふともしらべやらでさぶらひたまへば、 |
35 | 4.3.5 | 372 | 334 |
「なほ、掻き合はせばかりは、手一つ、すさまじからでこそ」 |
"なほ、かきあはせばかりは、てひとつ、すさまじからでこそ。" |
35 | 4.3.6 | 373 | 335 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
35 | 4.3.7 | 374 | 336 |
「さらに、今日の御遊びのさしいらへに、交じらふばかりの手づかひなむ、おぼえずはべりける」 |
"さらに、けふのおほんあそびのさしいらへに、まじらふばかりのてづかひなん、おぼえずはべりける。" |
35 | 4.3.8 | 375 | 337 |
と、けしきばみたまふ。 |
と、けしきばみたまふ。 |
35 | 4.3.9 | 376 | 338 |
「さもあることなれど、女楽にえことまぜでなむ逃げにけると、伝はらむ名こそ惜しけれ」 |
"さもあることなれど、をんながくにえことまぜでなんにげにけると、つたはらんなこそをしけれ。" |
35 | 4.3.10 | 377 | 339 |
とて笑ひたまふ。 |
とてわらひたまふ。 |
35 | 4.3.11 | 378 | 340 |
調べ果てて、をかしきほどに掻き合はせばかり弾きて、参らせたまひつ。この御孫の君達のいとうつくしき宿直姿どもにて、吹き合はせたる物の音ども、まだ若けれど、生ひ先ありて、いみじくをかしげなり。 |
しらべはてて、をかしきほどにかきあはせばかりひきて、まゐらせたまひつ。このおほんむまごのきみたちのいとうつくしきとのゐすがたどもにて、ふきあはせたるもののねども、まだわかけれど、おひさきありて、いみじくをかしげなり。 |
35 | 4.4 | 379 | 341 | 第四段 女四人による合奏 |
35 | 4.4.1 | 380 | 342 |
御琴どもの調べども調ひ果てて、掻き合はせたまへるほど、いづれとなき中に、琵琶はすぐれて上手めき、神さびたる手づかひ、澄み果てておもしろく聞こゆ。 |
おほんことどものしらべどもととのひはてて、かきあはせたまへるほど、いづれとなきなかに、びははすぐれてじゃうずめき、かみさびたるてづかひ、すみはてておもしろくきこゆ。 |
35 | 4.4.2 | 381 | 343 |
和琴に、大将も耳とどめたまへるに、なつかしく愛敬づきたる御爪音に、掻き返したる音の、めづらしく今めきて、さらにこのわざとある上手どもの、おどろおどろしく掻き立てたる調べ調子に劣らず、にぎははしく、「大和琴にもかかる手ありけり」と聞き驚かる。深き御労のほどあらはに聞こえて、おもしろきに、大殿御心落ちゐて、いとありがたく思ひきこえたまふ。 |
わごんに、だいしゃうもみみとどめたまへるに、なつかしくあいぎゃうづきたるおほんつまおとに、かきかへしたるねの、めづらしくいまめきて、さらにこのわざとあるじゃうずどもの、おどろおどろしくかきたてたるしらべてうしにおとらず、にぎははしく、"やまとごとにもかかるてありけり。"とききおどろかる。ふかきごらうのほどあらはにきこえて、おもしろきに、おとどみこころおちゐて、いとありがたくおもひきこえたまふ。 |
35 | 4.4.3 | 382 | 344 |
箏の御琴は、ものの隙々に、心もとなく漏り出づる物の音がらにて、うつくしげになまめかしくのみ聞こゆ。 |
さうのおほんことは、もののひまひまに、こころもとなくもりいづるもののねがらにて、うつくしげになまめかしくのみきこゆ。 |
35 | 4.4.4 | 383 | 345 |
琴は、なほ若き方なれど、習ひたまふ盛りなれば、たどたどしからず、いとよくものに響きあひて、「優になりにける御琴の音かな」と、大将聞きたまふ。拍子とりて唱歌したまふ。院も、時々扇うち鳴らして、加へたまふ御声、昔よりもいみじくおもしろく、すこしふつつかに、ものものしきけ添ひて聞こゆ。大将も、声いとすぐれたまへる人にて、夜の静かになりゆくままに、言ふ限りなくなつかしき夜の御遊びなり。 |
きんは、なほわかきかたなれど、ならひたまふさかりなれば、たどたどしからず、いとよくものにひびきあひて、"いうになりにけるおほんことのねかな。"と、だいしゃうききたまふ。ひゃうしとりてさうがしたまふ。ゐんも、ときどきあふぎうちならして、くはへたまふおほんこゑ、むかしよりもいみじくおもしろく、すこしふつつかに、ものものしきけそひてきこゆ。だいしゃうも、こゑいとすぐれたまへるひとにて、よのしづかになりゆくままに、いふかぎりなくなつかしきよのおほんあそびなり。 |
35 | 4.5 | 384 | 346 | 第五段 女四人を花に喩える |
35 | 4.5.1 | 385 | 348 |
月心もとなきころなれば、灯籠こなたかなたに懸けて、火よきほどに灯させたまへり。 |
つきこころもとなきころなれば、とうろこなたかなたにかけて、ひよきほどにともさせたまへり。 |
35 | 4.5.2 | 386 | 349 |
宮の御方を覗きたまへれば、人よりけに小さくうつくしげにて、ただ御衣のみある心地す。匂ひやかなる方は後れて、ただいとあてやかにをかしく、二月の中の十日ばかりの青柳の、わづかに枝垂りはじめたらむ心地して、鴬の羽風にも乱れぬべく、あえかに見えたまふ。 |
みやのおほんかたをのぞきたまへれば、ひとよりけにちひさくうつくしげにて、ただおほんぞのみあるここちす。にほひやかなるかたはおくれて、ただいとあてやかにをかしく、にがつのなかのとをかばかりのあをやぎの、わづかにしだりはじめたらんここちして、うぐひすのはかぜにもみだれぬべく、あえかにみえたまふ。 |
35 | 4.5.3 | 387 | 350 |
桜の細長に、御髪は左右よりこぼれかかりて、柳の糸のさましたり。 |
さくらのほそながに、みぐしはひだりみぎよりこぼれかかりて、やなぎのいとのさましたり。 |
35 | 4.5.4 | 388 | 351 |
「これこそは、限りなき人の御ありさまなめれ」と見ゆるに、女御の君は、同じやうなる御なまめき姿の、今すこし匂ひ加はりて、もてなしけはひ心にくく、よしあるさましたまひて、よく咲きこぼれたる藤の花の、夏にかかりて、かたはらに並ぶ花なき、朝ぼらけの心地ぞしたまへる。 |
"これこそは、かぎりなきひとのおほんありさまなめれ。"とみゆるに、にょうごのきみは、おなじやうなるおほんなまめきすがたの、いますこしにほひくははりて、もてなしけはひこころにくく、よしあるさましたまひて、よくさきこぼれたるふぢのはなの、なつにかかりて、かたはらにならぶはななき、あさぼらけのここちぞしたまへる。 |
35 | 4.5.5 | 389 | 352 |
さるは、いとふくらかなるほどになりたまひて、悩ましくおぼえたまひければ、御琴もおしやりて、脇息におしかかりたまへり。ささやかになよびかかりたまへるに、御脇息は例のほどなれば、およびたる心地して、ことさらに小さく作らばやと見ゆるぞ、いとあはれげにおはしける。 |
さるは、いとふくらかなるほどになりたまひて、なやましくおぼえたまひければ、おほんこともおしやりて、けふそくにおしかかりたまへり。ささやかになよびかかりたまへるに、おほんけふそくはれいのほどなれば、およびたるここちして、ことさらにちひさくつくらばやとみゆるぞ、いとあはれげにおはしける。 |
35 | 4.5.6 | 390 | 353 |
紅梅の御衣に、御髪のかかりはらはらときよらにて、火影の御姿、世になくうつくしげなるに、紫の上は、葡萄染にやあらむ、色濃き小袿、薄蘇芳の細長に、御髪のたまれるほど、こちたくゆるるかに、大きさなどよきほどに、様体あらまほしく、あたりに匂ひ満ちたる心地して、花といはば桜に喩へても、なほものよりすぐれたるけはひ、ことにものしたまふ。 |
こうばいのおほんぞに、みぐしのかかりはらはらときよらにて、ほかげのおほんすがた、よになくうつくしげなるに、むらさきのうへは、えびぞめにやあらん、いろこきこうちき、うすすはうのほそながに、みぐしのたまれるほど、こちたくゆるるかに、おほきさなどよきほどに、やうだいあらまほしく、あたりににほひみちたるここちして、はなといはばさくらにたとへても、なほものよりすぐれたるけはひ、ことにものしたまふ。 |
35 | 4.5.7 | 391 | 354 |
かかる御あたりに、明石はけ圧さるべきを、いとさしもあらず、もてなしなどけしきばみ恥づかしく、心の底ゆかしきさまして、そこはかとなくあてになまめかしく見ゆ。 |
かかるおほんあたりに、あかしはけおさるべきを、いとさしもあらず、もてなしなどけしきばみはづかしく、こころのそこゆかしきさまして、そこはかとなくあてになまめかしくみゆ。 |
35 | 4.5.8 | 392 | 355 |
柳の織物の細長、萌黄にやあらむ、小袿着て、羅の裳のはかなげなる引きかけて、ことさら卑下したれど、けはひ、思ひなしも、心にくくあなづらはしからず。 |
やなぎのおりもののほそなが、もえぎにやあらん、こうちききて、うすもののものはかなげなるひきかけて、ことさらひげしたれど、けはひ、おもひなしも、こころにくくあなづらはしからず。 |
35 | 4.5.9 | 393 | 356 |
高麗の青地の錦の端さしたる茵に、まほにもゐで、琵琶をうち置きて、ただけしきばかり弾きかけて、たをやかに使ひなしたる撥のもてなし、音を聞くよりも、またありがたくなつかしくて、五月待つ花橘、花も実も具しておし折れる薫りおぼゆ。 |
こまのあをぢのにしきのはしさしたるしとねに、まほにもゐで、びはをうちおきて、ただけしきばかりひきかけて、たをやかにつかひなしたるばちのもてなし、ねをきくよりも、またありがたくなつかしくて、さつきまつはなたちばな、はなもみもぐしておしをれるかをりおぼゆ。 |
35 | 4.6 | 394 | 357 | 第六段 夕霧の感想 |
35 | 4.6.1 | 395 | 358 |
これもかれも、うちとけぬ御けはひどもを聞き見たまふに、大将も、いと内ゆかしくおぼえたまふ。対の上の、見し折よりも、ねびまさりたまへらむありさまゆかしきに、静心もなし。 |
これもかれも、うちとけぬおほんけはひどもをききみたまふに、だいしゃうも、いとうちゆかしくおぼえたまふ。たいのうへの、みしをりよりも、ねびまさりたまへらんありさまゆかしきに、しづこころもなし。 |
35 | 4.6.2 | 396 | 359 |
「宮をば、今すこしの宿世及ばましかば、わがものにても見たてまつりてまし。心のいとぬるきぞ悔しきや。院は、たびたびさやうにおもむけて、しりう言にものたまはせけるを」と、ねたく思へど、すこし心やすき方に見えたまふ御けはひに、あなづりきこゆとはなけれど、いとしも心は動かざりけり。 |
"みやをば、いますこしのすくせおよばましかば、わがものにてもみたてまつりてまし。こころのいとぬるきぞくやしきや。ゐんは、たびたびさやうにおもむけて、しりうごとにものたまはせけるを。"と、ねたくおもへど、すこしこころやすきかたにみえたまふおほんけはひに、あなづりきこゆとはなけれど、いとしもこころはうごかざりけり。 |
35 | 4.6.3 | 397 | 360 |
この御方をば、何ごとも思ひ及ぶべき方なく、気遠くて、年ごろ過ぎぬれば、「いかでか、ただおほかたに、心寄せあるさまをも見えたてまつらむ」とばかりの、口惜しく嘆かしきなりけり。あながちに、あるまじくおほけなき心地などは、さらにものしたまはず、いとよくもてをさめたまへり。 |
このおほんかたをば、なにごともおもひおよぶべきかたなく、けとほくて、としごろすぎぬれば、"いかでか、ただおほかたに、こころよせあるさまをもみえたてまつらん。"とばかりの、くちをしくなげかしきなりけり。あながちに、あるまじくおほけなきここちなどは、さらにものしたまはず、いとよくもてをさめたまへり。 |
35 | 5 | 398 | 361 | 第五章 光る源氏の物語 源氏の音楽論 |
35 | 5.1 | 399 | 362 | 第一段 音楽の春秋論 |
35 | 5.1.1 | 400 | 363 |
夜更けゆくけはひ、冷やかなり。臥待の月はつかにさし出でたる、 |
よふけゆくけはひ、ひややかなり。ふしまちのつきはつかにさしいでたる、 |
35 | 5.1.2 | 401 | 364 |
「心もとなしや、春の朧月夜よ。秋のあはれ、はた、かうやうなる物の音に、虫の声縒り合はせたる、ただならず、こよなく響き添ふ心地すかし」 |
"こころもとなしや、はるのおぼろづきよよ。あきのあはれ、はた、かうやうなるもののねに、むしのこゑよりあはせたる、ただならず、こよなくひびきそふここちすかし。" |
35 | 5.1.3 | 402 | 365 |
とのたまへば、大将の君、 |
とのたまへば、だいしゃうのきみ、 |
35 | 5.1.4 | 403 | 366 |
「秋の夜の隈なき月には、よろづの物とどこほりなきに、琴笛の音も、あきらかに澄める心地はしはべれど、なほことさらに作り合はせたるやうなる空のけしき、花の露も、いろいろ目移ろひ心散りて、限りこそはべれ。 |
"あきのよのくまなきつきには、よろづのものとどこほりなきに、ことふえのねも、あきらかにすめるここちはしはべれど、なほことさらにつくりあはせたるやうなるそらのけしき、はなのつゆも、いろいろめうつろひこころちりて、かぎりこそはべれ。 |
35 | 5.1.5 | 404 | 367 |
春の空のたどたどしき霞の間より、おぼろなる月影に、静かに吹き合はせたるやうには、いかでか。笛の音なども、艶に澄みのぼり果てずなむ。 |
はるのそらのたどたどしきかすみのまより、おぼろなるつきかげに、しづかにふきあはせたるやうには、いかでか。ふえのねなども、えんにすみのぼりはてずなん。 |
35 | 5.1.6 | 405 | 368 |
女は春をあはれぶと、古き人の言ひ置きはべりける。げに、さなむはべりける。なつかしく物のととのほることは、春の夕暮こそことにはべりけれ」 |
をんなははるをあはれぶと、ふるきひとのいひおきはべりける。げに、さなんはべりける。なつかしくもののととのほることは、はるのゆふぐれこそことにはべりけれ。" |
35 | 5.1.7 | 406 | 369 |
と申したまへば、 |
とまうしたまへば、 |
35 | 5.1.8 | 407 | 370 |
「いな、この定めよ。いにしへより人の分きかねたることを、末の世に下れる人の、えあきらめ果つまじくこそ。物の調べ、曲のものどもはしも、げに律をば次のものにしたるは、さもありかし」 |
"いな、このさだめよ。いにしへよりひとのわきかねたることを、すゑのよにくだれるひとの、えあきらめはつまじくこそ。もののしらべ、ごくのものどもはしも、げにりちをばつぎのものにしたるは、さもありかし。" |
35 | 5.1.9 | 408 | 371 |
などのたまひて、 |
などのたまひて、 |
35 | 5.1.10 | 409 | 372 |
「いかに。ただ今、有職のおぼえ高き、その人かの人、御前などにて、たびたび試みさせたまふに、すぐれたるは、数少なくなりためるを、そのこのかみと思へる上手ども、いくばくえまねび取らぬにやあらむ。このかくほのかなる女たちの御中に弾きまぜたらむに、際離るべくこそおぼえね。 |
"いかに。ただいま、いうそくのおぼえたかき、そのひとかのひと、おまへなどにて、たびたびこころみさせたまふに、すぐれたるは、かずすくなくなりためるを、そのこのかみとおもへるじゃうずども、いくばくえまねびとらぬにやあらん。このかくほのかなるをんなたちのおほんなかにひきまぜたらんに、きははなるべくこそおぼえね。 |
35 | 5.1.11 | 410 | 373 |
年ごろかく埋れて過ぐすに、耳などもすこしひがひがしくなりにたるにやあらむ、口惜しうなむ。あやしく、人の才、はかなくとりすることども、ものの栄ありてまさる所なる。その、御前の御遊びなどに、ひときざみに選ばるる人びと、それかれといかにぞ」 |
としごろかくむもれてすぐすに、みみなどもすこしひがひがしくなりにたるにやあらん、くちをしうなん。あやしく、ひとのざえ、はかなくとりすることども、もののはえありてまさるところなる。その、ごぜんのおほんあそびなどに、ひときざみにえらばるるひとびと、それかれといかにぞ。" |
35 | 5.1.12 | 411 | 374 |
とのたまへば、大将、 |
とのたまへば、だいしゃう、 |
35 | 5.1.13 | 412 | 375 |
「それをなむ、とり申さむと思ひはべりつれど、あきらかならぬ心のままに、およすけてやはと思ひたまふる。上りての世を聞き合はせはべらねばにや、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などをこそ、このころめづらかなる例に引き出ではべめれ。 |
"それをなん、とりまうさんとおもひはべりつれど、あきらかならぬこころのままに、およすけてやはとおもひたまふる。のぼりてのよをききあはせはべらねばにや、ゑもんのかみのわごん、ひゃうぶきゃうのみやのおほんびはなどをこそ、このころめづらかなるためしにひきいではべめれ。 |
35 | 5.1.14 | 413 | 376 |
げに、かたはらなきを、今宵うけたまはる物の音どもの、皆ひとしく耳おどろきはべるは。なほ、かくわざともあらぬ御遊びと、かねて思うたまへたゆみける心の騒ぐにやはべらむ。唱歌など、いと仕うまつりにくくなむ。 |
げに、かたはらなきを、こよひうけたまはるもののねどもの、みなひとしくみみおどろきはべるは。なほ、かくわざともあらぬおほんあそびと、かねておもうたまへたゆみけるこころのさわぐにやはべらん。さうがなど、いとつかうまつりにくくなん。 |
35 | 5.1.15 | 414 | 377 |
和琴は、かの大臣ばかりこそ、かく折につけて、こしらへなびかしたる音など、心にまかせて掻き立てたまへるは、いとことにものしたまへ、をさをさ際離れぬものにはべめるを、いとかしこく整ひてこそはべりつれ」 |
わごんは、かのおとどばかりこそ、かくをりにつけて、こしらへなびかしたるねなど、こころにまかせてかきたてたまへるは、いとことにものしたまへ、をさをさきははなれぬものにはべめるを、いとかしこくととのひてこそはべりつれ。" |
35 | 5.1.16 | 415 | 378 |
と、めできこえたまふ。 |
と、めできこえたまふ。 |
35 | 5.1.17 | 416 | 379 |
「いと、さことことしき際にはあらぬを、わざとうるはしくも取りなさるるかな」 |
"いと、さことことしききはにはあらぬを、わざとうるはしくもとりなさるるかな。" |
35 | 5.1.18 | 417 | 380 |
とて、したり顔にほほ笑みたまふ。 |
とて、したりがほにほほゑみたまふ。 |
35 | 5.1.19 | 418 | 381 |
「げに、けしうはあらぬ弟子どもなりかし。琵琶はしも、ここに口入るべきことまじらぬを、さいへど、物のけはひ異なるべし。おぼえぬ所にて聞き始めたりしに、めづらしき物の声かなとなむおぼえしかど、その折よりは、またこよなく優りにたるをや」 |
"げに、けしうはあらぬでしどもなりかし。びははしも、ここにくちいるべきことまじらぬを、さいへど、もののけはひことなるべし。おぼえぬところにてききはじめたりしに、めづらしきもののねかなとなんおぼえしかど、そのをりよりは、またこよなくまさりにたるをや。" |
35 | 5.1.20 | 419 | 382 |
と、せめて我かしこにかこちなしたまへば、女房などは、すこしつきしろふ。 |
と、せめてわれかしこにかこちなしたまへば、にょうばうなどは、すこしつきしろふ。 |
35 | 5.2 | 420 | 383 | 第二段 琴の論 |
35 | 5.2.1 | 421 | 384 |
「よろづのこと、道々につけて習ひまねばば、才といふもの、いづれも際なくおぼえつつ、わが心地に飽くべき限りなく、習ひ取らむことはいと難けれど、何かは、そのたどり深き人の、今の世にをさをさなければ、片端をなだらかにまねび得たらむ人、さるかたかどに心をやりてもありぬべきを、琴なむ、なほわづらはしく、手触れにくきものはありける。 |
"よろづのこと、みちみちにつけてならひまねばば、ざえといふもの、いづれもきはなくおぼえつつ、わがここちにあくべきかぎりなく、ならひとらんことはいとかたけれど、なにかは、そのたどりふかきひとの、いまのよにをさをさなければ、かたはしをなだらかにまねびえたらんひと、さるかたかどにこころをやりてもありぬべきを、きんなん、なほわづらはしく、てふれにくきものはありける。 |
35 | 5.2.2 | 422 | 385 |
この琴は、まことに跡のままに尋ねとりたる昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従ひて、悲しび深き者も喜びに変はり、賤しく貧しき者も高き世に改まり、宝にあづかり、世にゆるさるるたぐひ多かりけり。 |
このことは、まことにあとのままにたづねとりたるむかしのひとは、てんちをなびかし、おにかみのこころをやはらげ、よろづのもののねのうちにしたがひて、かなしびふかきものもよろこびにかはり、いやしくまづしきものもたかきよにあらたまり、たからにあづかり、よにゆるさるるたぐひおほかりけり。 |
35 | 5.2.3 | 423 | 386 |
この国に弾き伝ふる初めつ方まで、深くこの事を心得たる人は、多くの年を知らぬ国に過ぐし、身をなきになして、この琴をまねび取らむと惑ひてだに、し得るは難くなむありける。げにはた、明らかに空の月星を動かし、時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたる例、上りたる世にはありけり。 |
このくににひきつたふるはじめつかたまで、ふかくこのことをこころえたるひとは、おほくのとしをしらぬくににすぐし、みをなきになして、このことをまねびとらんとまどひてだに、しうるはかたくなんありける。げにはた、あきらかにそらのつきほしをうごかし、ときならぬしもゆきをふらせ、くもいかづちをさわがしたるためし、あがりたるよにはありけり。 |
35 | 5.2.4 | 424 | 387 |
かく限りなきものにて、そのままに習ひ取る人のありがたく、世の末なればにや、いづこのそのかみの片端にかはあらむ。されど、なほ、かの鬼神の耳とどめ、かたぶきそめにけるものなればにや、なまなまにまねびて、思ひかなはぬたぐひありけるのち、これを弾く人、よからずとかいふ難をつけて、うるさきままに、今はをさをさ伝ふる人なしとか。いと口惜しきことにこそあれ。 |
かくかぎりなきものにて、そのままにならひとるひとのありがたく、よのすゑなればにや、いづこのそのかみのかたはしにかはあらん。されど、なほ、かのおにかみのみみとどめ、かたぶきそめにけるものなればにや、なまなまにまねびて、おもひかなはぬたぐひありけるのち、これをひくひと、よからずとかいふなんをつけて、うるさきままに、いまはをさをさつたふるひとなしとか。いとくちをしきことにこそあれ。 |
35 | 5.2.5 | 425 | 388 |
琴の音を離れては、何琴をか物を調へ知るしるべとはせむ。げに、よろづのこと衰ふるさまは、やすくなりゆく世の中に、一人出で離れて、心を立てて、唐土、高麗と、この世に惑ひありき、親子を離れむことは、世の中にひがめる者になりぬべし。 |
きんのねをはなれては、なにごとをかものをととのへしるしるべとはせん。げに、よろづのことおとろふるさまは、やすくなりゆくよのなかに、ひとりいではなれて、こころをたてて、もろこし、こまと、このよにまどひありき、おやこをはなれんことは、よのなかにひがめるものになりぬべし。 |
35 | 5.2.6 | 426 | 389 |
などか、なのめにて、なほこの道を通はし知るばかりの端をば、知りおかざらむ。調べ一つに手を弾き尽くさむことだに、はかりもなきものななり。いはむや、多くの調べ、わづらはしき曲多かるを、心に入りし盛りには、世にありとあり、ここに伝はりたる譜といふものの限りをあまねく見合はせて、のちのちは、師とすべき人もなくてなむ、好み習ひしかど、なほ上りての人には、当たるべくもあらじをや。まして、この後といひては、伝はるべき末もなき、いとあはれになむ」 |
などか、なのめにて、なほこのみちをかよはししるばかりのはしをば、しりおかざらん。しらべひとつにてをひきつくさんことだに、はかりもなきものななり。いはんや、おほくのしらべ、わづらはしきごくおほかるを、こころにいりしさかりには、よにありとあり、ここにつたはりたるふといふもののかぎりをあまねくみあはせて、のちのちは、しとすべきひともなくてなん、このみならひしかど、なほあがりてのひとには、あたるべくもあらじをや。まして、こののちといひては、つたはるべきすゑもなき、いとあはれになん。" |
35 | 5.2.7 | 427 | 390 |
などのたまへば、大将、げにいと口惜しく恥づかしと思す。 |
などのたまへば、だいしゃう、げにいとくちをしくはづかしとおぼす。 |
35 | 5.2.8 | 428 | 391 |
「この御子たちの御中に、思ふやうに生ひ出でたまふものしたまはば、その世になむ、そもさまでながらへとまるやうあらば、いくばくならぬ手の限りも、とどめたてまつるべき。三の宮、今よりけしきありて見えたまふを」 |
"このみこたちのおほんなかに、おもふやうにおひいでたまふものしたまはば、そのよになん、そもさまでながらへとまるやうあらば、いくばくならぬてのかぎりも、とどめたてまつるべき。さんのみや、いまよりけしきありてみえたまふを。" |
35 | 5.2.9 | 429 | 392 |
などのたまへば、明石の君は、いとおもだたしく、涙ぐみて聞きゐたまへり。 |
などのたまへば、あかしのきみは、いとおもだたしく、なみだぐみてききゐたまへり。 |
35 | 5.3 | 430 | 393 | 第三段 源氏、葛城を謡う |
35 | 5.3.1 | 431 | 394 |
女御の君は、箏の御琴をば、上に譲りきこえて、寄り臥したまひぬれば、和琴を大殿の御前に参りて、気近き御遊びになりぬ。「葛城」遊びたまふ。はなやかにおもしろし。大殿折り返し謡ひたまふ御声、たとへむかたなく愛敬づきめでたし。 |
にょうごのきみは、さうのおほんことをば、うへにゆづりきこえて、よりふしたまひぬれば、あづまをおとどのおまへにまゐりて、けぢかきおほんあそびになりぬ。〔かづらき〕あそびたまふ。はなやかにおもしろし。おとどをりかへしうたひたまふおほんこゑ、たとへんかたなくあいぎゃうづきめでたし。 |
35 | 5.3.2 | 432 | 395 |
月やうやうさし上るままに、花の色香ももてはやされて、げにいと心にくきほどなり。箏の琴は、女御の御爪音は、いとらうたげになつかしく、母君の御けはひ加はりて、揺の音深く、いみじく澄みて聞こえつるを、この御手づかひは、またさま変はりて、ゆるるかにおもしろく、聞く人ただならず、すずろはしきまで愛敬づきて、輪の手など、すべてさらに、いとかどある御琴の音なり。 |
つきやうやうさしあがるままに、はなのいろかももてはやされて、げにいとこころにくきほどなり。さうのことは、にょうごのおほんつまおとは、いとらうたげになつかしく、ははぎみのおほんけはひくははりて、ゆのねふかく、いみじくすみてきこえつるを、このおほんてづかひは、またさまかはりて、ゆるるかにおもしろく、きくひとただならず、すずろはしきまであいぎゃうづきて、りんのてなど、すべてさらに、いとかどあるおほんことのねなり。 |
35 | 5.3.3 | 433 | 396 |
返り声に、皆調べ変はりて、律の掻き合はせども、なつかしく今めきたるに、琴は、五個の調べ、あまたの手の中に、心とどめてかならず弾きたまふべき五、六の発剌を、いとおもしろく澄まして弾きたまふ。さらにかたほならず、いとよく澄みて聞こゆ。 |
かへりごゑに、みなしらべかはりて、りちのかきあはせども、なつかしくいまめきたるに、きんは、ごかのしらべ、あまたのてのなかに、こころとどめてかならずひきたまふべきご、ろくのはらを、いとおもしろくすましてひきたまふ。さらにかたほならず、いとよくすみてきこゆ。 |
35 | 5.3.4 | 434 | 397 |
春秋よろづの物に通へる調べにて、通はしわたしつつ弾きたまふ。心しらひ、教へきこえたまふさま違へず、いとよくわきまへたまへるを、いとうつくしく、おもだたしく思ひきこえたまふ。 |
はるあきよろづのものにかよへるしらべにて、かよはしわたしつつひきたまふ。こころしらひ、をしへきこえたまふさまたがへず、いとよくわきまへたまへるを、いとうつくしく、おもだたしくおもひきこえたまふ。 |
35 | 5.4 | 435 | 398 | 第四段 女楽終了、禄を賜う |
35 | 5.4.1 | 436 | 399 |
この君達の、いとうつくしく吹き立てて、切に心入れたるを、らうたがりたまひて、 |
このきみたちの、いとうつくしくふきたてて、せちにこころいれたるを、らうたがりたまひて、 |
35 | 5.4.2 | 437 | 400 |
「ねぶたくなりにたらむに。今宵の遊びは、長くはあらで、はつかなるほどにと思ひつるを。とどめがたき物の音どもの、いづれともなきを、聞き分くほどの耳とからぬたどたどしさに、いたく更けにけり。心なきわざなりや」 |
"ねぶたくなりにたらんに。こよひのあそびは、ながくはあらで、はつかなるほどにとおもひつるを。とどめがたきもののねどもの、いづれともなきを、ききわくほどのみみとからぬたどたどしさに、いたくふけにけり。こころなきわざなりや。" |
35 | 5.4.3 | 438 | 401 |
とて、笙の笛吹く君に、土器さしたまひて、御衣脱ぎてかづけたまふ。横笛の君には、こなたより、織物の細長に、袴などことことしからぬさまに、けしきばかりにて、大将の君には、宮の御方より、杯さし出でて、宮の御装束一領かづけたてまつりたまふを、大殿、 |
とて、さうのふえふくきみに、かはらけさしたまひて、おほんぞぬぎてかづけたまふ。よこぶえのきみには、こなたより、おりもののほそながに、はかまなどことことしからぬさまに、けしきばかりにて、だいしゃうのきみには、みやのおほんかたより、さかづきさしいでて、みやのおほんさうぞくひとくだりかづけたてまつりたまふを、おとど、 |
35 | 5.4.4 | 439 | 402 |
「あやしや。物の師をこそ、まづはものめかしたまはめ。愁はしきことなり」 |
"あやしや。もののしをこそ、まづはものめかしたまはめ。うれはしきことなり。" |
35 | 5.4.5 | 440 | 403 |
とのたまふに、宮のおはします御几帳のそばより、御笛をたてまつる。うち笑ひたまひて取りたまふ。いみじき高麗笛なり。すこし吹き鳴らしたまへば、皆立ち出でたまふほどに、大将立ち止まりたまひて、御子の持ちたまへる笛を取りて、いみじくおもしろく吹き立てたまへるが、いとめでたく聞こゆれば、いづれもいづれも、皆御手を離れぬものの伝へ伝へ、いと二なくのみあるにてぞ、わが御才のほど、ありがたく思し知られける。 |
とのたまふに、みやのおはしますみきちゃうのそばより、おほんふえをたてまつる。うちわらひたまひてとりたまふ。いみじきこまぶえなり。すこしふきならしたまへば、みなたちいでたまふほどに、だいしゃうたちとまりたまひて、みこのもちたまへるふえをとりて、いみじくおもしろくふきたてたまへるが、いとめでたくきこゆれば、いづれもいづれも、みなおほんてをはなれぬもののつたへつたへ、いとになくのみあるにてぞ、わがおほんざえのほど、ありがたくおぼししられける。 |
35 | 5.5 | 441 | 404 | 第五段 夕霧、わが妻を比較して思う |
35 | 5.5.1 | 442 | 405 |
大将殿は、君達を御車に乗せて、月の澄めるにまかでたまふ。道すがら、箏の琴の変はりていみじかりつる音も、耳につきて恋しくおぼえたまふ。 |
だいしゃうどのは、きみたちをみくるまにのせて、つきのすめるにまかでたまふ。みちすがら、さうのことのかはりていみじかりつるねも、みみにつきてこひしくおぼえたまふ。 |
35 | 5.5.2 | 443 | 406 |
わが北の方は、故大宮の教へきこえたまひしかど、心にもしめたまはざりしほどに、別れたてまつりたまひにしかば、ゆるるかにも弾き取りたまはで、男君の御前にては、恥ぢてさらに弾きたまはず。何ごともただおいらかに、うちおほどきたるさまして、子ども扱ひを、暇なく次々したまへば、をかしきところもなくおぼゆ。さすがに、腹悪しくて、もの妬みうちしたる、愛敬づきてうつくしき人ざまにぞものしたまふめる。 |
わがきたのかたは、こおほみやのをしへきこえたまひしかど、こころにもしめたまはざりしほどに、わかれたてまつりたまひにしかば、ゆるるかにもひきとりたまはで、をとこぎみのおまへにては、はぢてさらにひきたまはず。なにごともただおいらかに、うちおほどきたるさまして、こどもあつかひを、いとまなくつぎつぎしたまへば、をかしきところもなくおぼゆ。さすがに、はらあしくて、ものねたみうちしたる、あいぎゃうづきてうつくしきひとざまにぞものしたまふめる。 |
35 | 6 | 444 | 407 | 第六章 紫の上の物語 出家願望と発病 |
35 | 6.1 | 445 | 408 | 第一段 源氏、紫の上と語る |
35 | 6.1.1 | 446 | 409 |
院は、対へ渡りたまひぬ。上は、止まりたまひて、宮に御物語など聞こえたまひて、暁にぞ渡りたまへる。日高うなるまで大殿籠れり。 |
ゐんは、たいへわたりたまひぬ。うへは、とまりたまひて、みやにおほんものがたりなどきこえたまひて、あかつきにぞわたりたまへる。ひたかうなるまでおほとのごもれり。 |
35 | 6.1.2 | 447 | 410 |
「宮の御琴の音は、いとうるさくなりにけりな。いかが聞きたまひし」 |
"みやのおほんことのねは、いとうるさくなりにけりな。いかがききたまひし。" |
35 | 6.1.3 | 448 | 411 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
35 | 6.1.4 | 449 | 412 |
「初めつ方、あなたにてほの聞きしは、いかにぞやありしを、いとこよなくなりにけり。いかでかは、かく異事なく教へきこえたまはむには」 |
"はじめつかた、あなたにてほのききしは、いかにぞやありしを、いとこよなくなりにけり。いかでかは、かくことごとなくをしへきこえたまはんには。" |
35 | 6.1.5 | 450 | 413 |
といらへきこえたまふ。 |
といらへきこえたまふ。 |
35 | 6.1.6 | 451 | 414 |
「さかし。手を取る取る、おぼつかなからぬ物の師なりかし。これかれにも、うるさくわづらはしくて、暇いるわざなれば、教へたてまつらぬを、院にも内裏にも、琴はさりとも習はしきこゆらむとのたまふと聞くがいとほしく、さりとも、さばかりのことをだに、かく取り分きて御後見にと預けたまへるしるしにはと、思ひ起こしてなむ」 |
"さかし。てをとるとる、おぼつかなからぬもののしなりかし。これかれにも、うるさくわづらはしくて、いとまいるわざなれば、をしへたてまつらぬを、ゐんにもうちにも、きんはさりともならはしきこゆらんとのたまふときくがいとほしく、さりとも、さばかりのことをだに、かくとりわきておほんうしろみにとあづけたまへるしるしにはと、おもひおこしてなん。" |
35 | 6.1.7 | 452 | 415 |
など聞こえたまふついでにも、 |
などきこえたまふついでにも、 |
35 | 6.1.8 | 453 | 416 |
「昔、世づかぬほどを、扱ひ思ひしさま、その世には暇もありがたくて、心のどかに取りわき教へきこゆることなどもなく、近き世にも、何となく次々、紛れつつ過ぐして、聞き扱はぬ御琴の音の、出で栄えしたりしも、面目ありて、大将の、いたくかたぶきおどろきたりしけしきも、思ふやうにうれしくこそありしか」 |
"むかし、よづかぬほどを、あつかひおもひしさま、そのよにはいとまもありがたくて、こころのどかにとりわきをしへきこゆることなどもなく、ちかきよにも、なにとなくつぎつぎ、まぎれつつすぐして、ききあつかはぬおほんことのねの、いでばえしたりしも、めんぼくありて、だいしゃうの、いたくかたぶきおどろきたりしけしきも、おもふやうにうれしくこそありしか。" |
35 | 6.1.9 | 454 | 417 |
など聞こえたまふ。 |
などきこえたまふ。 |
35 | 6.2 | 455 | 418 | 第二段 紫の上、三十七歳の厄年 |
35 | 6.2.1 | 456 | 419 |
かやうの筋も、今はまたおとなおとなしく、宮たちの御扱ひなど、取りもちてしたまふさまも、いたらぬことなく、すべて何ごとにつけても、もどかしくたどたどしきこと混じらず、ありがたき人の御ありさまなれば、いとかく具しぬる人は、世に久しからぬ例もあなるをと、ゆゆしきまで思ひきこえたまふ。 |
かやうのすぢも、いまはまたおとなおとなしく、みやたちのおほんあつかひなど、とりもちてしたまふさまも、いたらぬことなく、すべてなにごとにつけても、もどかしくたどたどしきことまじらず、ありがたきひとのおほんありさまなれば、いとかくぐしぬるひとは、よにひさしからぬためしもあなるをと、ゆゆしきまでおもひきこえたまふ。 |
35 | 6.2.2 | 457 | 420 |
さまざまなる人のありさまを見集めたまふままに、取り集め足らひたることは、まことにたぐひあらじとのみ思ひきこえたまへり。今年は三十七にぞなりたまふ。見たてまつりたまひし年月のことなども、あはれに思し出でたるついでに、 |
さまざまなるひとのありさまをみあつめたまふままに、とりあつめたらひたることは、まことにたぐひあらじとのみおもひきこえたまへり。ことしはさんじふしちにぞなりたまふ。みたてまつりたまひしとしつきのことなども、あはれにおぼしいでたるついでに、 |
35 | 6.2.3 | 458 | 421 |
「さるべき御祈りなど、常よりも取り分きて、今年はつつしみたまへ。もの騒がしくのみありて、思ひいたらぬこともあらむを、なほ、思しめぐらして、大きなることどももしたまはば、おのづからせさせてむ。故僧都のものしたまはずなりにたるこそ、いと口惜しけれ。おほかたにてうち頼まむにも、いとかしこかりし人を」 |
"さるべきおほんいのりなど、つねよりもとりわきて、ことしはつつしみたまへ。ものさわがしくのみありて、おもひいたらぬこともあらんを、なほ、おぼしめぐらして、おほきなることどももしたまはば、おのづからせさせてん。こそうづのものしたまはずなりにたるこそ、いとくちをしけれ。おほかたにてうちたのまんにも、いとかしこかりしひとを。" |
35 | 6.2.4 | 459 | 422 |
などのたまひ出づ。 |
などのたまひいづ。 |
35 | 6.3 | 460 | 423 | 第三段 源氏、半生を語る |
35 | 6.3.1 | 461 | 424 |
「みづからは、幼くより、人に異なるさまにて、ことことしく生ひ出でて、今の世のおぼえありさま、来し方にたぐひ少なくなむありける。されど、また、世にすぐれて悲しきめを見る方も、人にはまさりけりかし。 |
"みづからは、をさなくより、ひとにことなるさまにて、ことことしくおひいでて、いまのよのおぼえありさま、きしかたにたぐひすくなくなんありける。されど、また、よにすぐれてかなしきめをみるかたも、ひとにはまさりけりかし。 |
35 | 6.3.2 | 462 | 425 |
まづは、思ふ人にさまざま後れ、残りとまれる齢の末にも、飽かず悲しと思ふこと多く、あぢきなくさるまじきことにつけても、あやしくもの思はしく、心に飽かずおぼゆること添ひたる身にて過ぎぬれば、それに代へてや、思ひしほどよりは、今までもながらふるならむとなむ、思ひ知らるる。 |
まづは、おもふひとにさまざまおくれ、のこりとまれるよはひのすゑにも、あかずかなしとおもふことおほく、あぢきなくさるまじきことにつけても、あやしくものおもはしく、こころにあかずおぼゆることそひたるみにてすぎぬれば、それにかへてや、おもひしほどよりは、いままでもながらふるならんとなん、おもひしらるる。 |
35 | 6.3.3 | 463 | 426 |
君の御身には、かの一節の別れより、あなたこなた、もの思ひとて、心乱りたまふばかりのことあらじとなむ思ふ。后といひ、ましてそれより次々は、やむごとなき人といへど、皆かならずやすからぬもの思ひ添ふわざなり。 |
きみのおほんみには、かのひとふしのわかれより、あなたこなた、ものおもひとて、こころみだりたまふばかりのことあらじとなんおもふ。きさきといひ、ましてそれよりつぎつぎは、やんごとなきひとといへど、みなかならずやすからぬものおもひそふわざなり。 |
35 | 6.3.4 | 464 | 427 |
高き交じらひにつけても、心乱れ、人に争ふ思ひの絶えぬも、やすげなきを、親の窓のうちながら過ぐしたまへるやうなる心やすきことはなし。そのかた、人にすぐれたりける宿世とは思し知るや。 |
たかきまじらひにつけても、こころみだれ、ひとにあらそふおもひのたえぬも、やすげなきを、おやのまどのうちながらすぐしたまへるやうなるこころやすきことはなし。そのかた、ひとにすぐれたりけるすくせとはおぼししるや。 |
35 | 6.3.5 | 465 | 428 |
思ひの外に、この宮のかく渡りものしたまへるこそは、なま苦しかるべけれど、それにつけては、いとど加ふる心ざしのほどを、御みづからの上なれば、思し知らずやあらむ。ものの心も深く知りたまふめれば、さりともとなむ思ふ」 |
おもひのほかに、このみやのかくわたりものしたまへるこそは、なまくるしかるべけれど、それにつけては、いとどくはふるこころざしのほどを、おほんみづからのうへなれば、おぼししらずやあらん。もののこころもふかくしりたまふめれば、さりともとなんおもふ。" |
35 | 6.3.6 | 466 | 429 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
35 | 6.3.7 | 467 | 430 |
「のたまふやうに、ものはかなき身には、過ぎにたるよそのおぼえはあらめど、心に堪へぬもの嘆かしさのみうち添ふや、さはみづからの祈りなりける」 |
"のたまふやうに、ものはかなきみには、すぎにたるよそのおぼえはあらめど、こころにたへぬものなげかしさのみうちそふや、さはみづからのいのりなりける。" |
35 | 6.3.8 | 468 | 431 |
とて、残り多げなるけはひ、恥づかしげなり。 |
とて、のこりおほげなるけはひ、はづかしげなり。 |
35 | 6.3.9 | 469 | 432 |
「まめやかには、いと行く先少なき心地するを、今年もかく知らず顔にて過ぐすは、いとうしろめたくこそ。さきざきも聞こゆること、いかで御許しあらば」 |
"まめやかには、いとゆくさきすくなきここちするを、ことしもかくしらずがほにてすぐすは、いとうしろめたくこそ。さきざきもきこゆること、いかでおほんゆるしあらば。" |
35 | 6.3.10 | 470 | 433 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
35 | 6.3.11 | 471 | 434 |
「それはしも、あるまじきことになむ。さて、かけ離れたまひなむ世に残りては、何のかひかあらむ。ただかく何となくて過ぐる年月なれど、明け暮れの隔てなきうれしさのみこそ、ますことなくおぼゆれ。なほ思ふさま異なる心のほどを見果てたまへ」 |
"それはしも、あるまじきことになん。さて、かけはなれたまひなんよにのこりては、なにのかひかあらん。ただかくなにとなくてすぐるとしつきなれど、あけくれのへだてなきうれしさのみこそ、ますことなくおぼゆれ。なほおもふさまことなるこころのほどをみはてたまへ。" |
35 | 6.3.12 | 472 | 435 |
とのみ聞こえたまふを、例のことと心やましくて、涙ぐみたまへるけしきを、いとあはれと見たてまつりたまひて、よろづに聞こえ紛らはしたまふ。 |
とのみきこえたまふを、れいのこととこころやましくて、なみだぐみたまへるけしきを、いとあはれとみたてまつりたまひて、よろづにきこえまぎらはしたまふ。 |
35 | 6.4 | 473 | 436 | 第四段 源氏、関わった女方を語る |
35 | 6.4.1 | 474 | 437 |
「多くはあらねど、人のありさまの、とりどりに口惜しくはあらぬを見知りゆくままに、まことの心ばせおいらかに落ちゐたるこそ、いと難きわざなりけれとなむ、思ひ果てにたる。 |
"おほくはあらねど、ひとのありさまの、とりどりにくちをしくはあらぬをみしりゆくままに、まことのこころばせおいらかにおちゐたるこそ、いとかたきわざなりけれとなん、おもひはてにたる。 |
35 | 6.4.2 | 475 | 438 |
大将の母君を、幼かりしほどに見そめて、やむごとなくえ避らぬ筋には思ひしを、常に仲よからず、隔てある心地して止みにしこそ、今思へば、いとほしく悔しくもあれ。 |
だいしゃうのははぎみを、をさなかりしほどにみそめて、やんごとなくえさらぬすぢにはおもひしを、つねになかよからず、へだてあるここちしてやみにしこそ、いまおもへば、いとほしくくやしくもあれ。 |
35 | 6.4.3 | 476 | 439 |
また、わが過ちにのみもあらざりけりなど、心ひとつになむ思ひ出づる。うるはしく重りかにて、そのことの飽かぬかなとおぼゆることもなかりき。ただ、いとあまり乱れたるところなく、すくすくしく、すこしさかしとやいふべかりけむと、思ふには頼もしく、見るにはわづらはしかりし人ざまになむ。 |
また、わがあやまちにのみもあらざりけりなど、こころひとつになんおもひいづる。うるはしくおもりかにて、そのことのあかぬかなとおぼゆることもなかりき。ただ、いとあまりみだれたるところなく、すくすくしく、すこしさかしとやいふべかりけんと、おもふにはたのもしく、みるにはわづらはしかりしひとざまになん。 |
35 | 6.4.4 | 477 | 440 |
中宮の御母御息所なむ、さま異に心深くなまめかしき例には、まづ思ひ出でらるれど、人見えにくく、苦しかりしさまになむありし。怨むべきふしぞ、げにことわりとおぼゆるふしを、やがて長く思ひつめて、深く怨ぜられしこそ、いと苦しかりしか。 |
ちゅうぐうのおほんははみやすんどころなん、さまことにこころふかくなまめかしきためしには、まづおもひいでらるれど、ひとみえにくく、くるしかりしさまになんありし。うらむべきふしぞ、げにことわりとおぼゆるふしを、やがてながくおもひつめて、ふかくゑんぜられしこそ、いとくるしかりしか。 |
35 | 6.4.5 | 478 | 441 |
心ゆるびなく恥づかしくて、我も人もうちたゆみ、朝夕の睦びを交はさむには、いとつつましきところのありしかば、うちとけては見落とさるることやなど、あまりつくろひしほどに、やがて隔たりし仲ぞかし。 |
こころゆるびなくはづかしくて、われもひともうちたゆみ、あさゆふのむつびをかはさんには、いとつつましきところのありしかば、うちとけてはみおとさるることやなど、あまりつくろひしほどに、やがてへだたりしなかぞかし。 |
35 | 6.4.6 | 479 | 442 |
いとあるまじき名を立ちて、身のあはあはしくなりぬる嘆きを、いみじく思ひしめたまへりしがいとほしく、げに人がらを思ひしも、我罪ある心地して止みにし慰めに、中宮をかくさるべき御契りとはいひながら、取りたてて、世のそしり、人の恨みをも知らず、心寄せたてまつるを、かの世ながらも見直されぬらむ。今も昔も、なほざりなる心のすさびに、いとほしく悔しきことも多くなむ」 |
いとあるまじきなをたちて、みのあはあはしくなりぬるなげきを、いみじくおもひしめたまへりしがいとほしく、げにひとがらをおもひしも、われつみあるここちしてやみにしなぐさめに、ちゅうぐうをかくさるべきおほんちぎりとはいひながら、とりたてて、よのそしり、ひとのうらみをもしらず、こころよせたてまつるを、かのよながらもみなほされぬらん。いまもむかしも、なほざりなるこころのすさびに、いとほしくくやしきこともおほくなん。" |
35 | 6.4.7 | 480 | 443 |
と、来し方の人の御上、すこしづつのたまひ出でて、 |
と、きしかたのひとのおほんうへ、すこしづつのたまひいでて、 |
35 | 6.4.8 | 481 | 444 |
「内裏の御方の御後見は、何ばかりのほどならずと、あなづりそめて、心やすきものに思ひしを、なほ心の底見えず、際なく深きところある人になむ。うはべは人になびき、おいらかに見えながら、うちとけぬけしき下に籠もりて、そこはかとなく恥づかしきところこそあれ」 |
"うちのおほんかたのおほんうしろみは、なにばかりのほどならずと、あなづりそめて、こころやすきものにおもひしを、なほこころのそこみえず、きはなくふかきところあるひとになん。うはべはひとになびき、おいらかにみえながら、うちとけぬけしきしたにこもりて、そこはかとなくはづかしきところこそあれ。" |
35 | 6.4.9 | 482 | 445 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
35 | 6.4.10 | 483 | 446 |
「異人は見ねば知らぬを、これは、まほならねど、おのづからけしき見る折々もあるに、いとうちとけにくく、心恥づかしきありさましるきを、いとたとしへなきうらなさを、いかに見たまふらむと、つつましけれど、女御は、おのづから思し許すらむとのみ思ひてなむ」 |
"ことびとはみねばしらぬを、これは、まほならねど、おのづからけしきみるをりをりもあるに、いとうちとけにくく、こころはづかしきありさましるきを、いとたとしへなきうらなさを、いかにみたまふらんと、つつましけれど、にょうごは、おのづからおぼしゆるすらんとのみおもひてなん。" |
35 | 6.4.11 | 484 | 447 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
35 | 6.4.12 | 485 | 448 |
さばかりめざましと心置きたまへりし人を、今はかく許して見え交はしなどしたまふも、女御の御ための真心なるあまりぞかしと思すに、いとありがたければ、 |
さばかりめざましとこころおきたまへりしひとを、いまはかくゆるしてみえかはしなどしたまふも、にょうごのおほんためのまごころなるあまりぞかしとおぼすに、いとありがたければ、 |
35 | 6.4.13 | 486 | 449 |
「君こそは、さすがに隈なきにはあらぬものから、人により、ことに従ひ、いとよく二筋に心づかひはしたまひけれ。さらにここら見れど、御ありさまに似たる人はなかりけり。いとけしきこそものしたまへ」 |
"きみこそは、さすがにくまなきにはあらぬものから、ひとにより、ことにしたがひ、いとよくふたすぢにこころづかひはしたまひけれ。さらにここらみれど、おほんありさまににたるひとはなかりけり。いとけしきこそものしたまへ。" |
35 | 6.4.14 | 487 | 450 |
と、ほほ笑みて聞こえたまふ。 |
と、ほほゑみてきこえたまふ。 |
35 | 6.4.15 | 488 | 451 |
「宮に、いとよく弾き取りたまへりしことの喜び聞こえむ」 |
"みやに、いとよくひきとりたまへりしことのよろこびきこえん。" |
35 | 6.4.16 | 489 | 452 |
とて、夕つ方渡りたまひぬ。我に心置く人やあらむとも思したらず、いといたく若びて、ひとへに御琴に心入れておはす。 |
とて、ゆふつかたわたりたまひぬ。われにこころおくひとやあらんともおぼしたらず、いといたくわかびて、ひとへにおほんことにこころいれておはす。 |
35 | 6.4.17 | 490 | 453 |
「今は、暇許してうち休ませたまへかし。物の師は心ゆかせてこそ。いと苦しかりつる日ごろのしるしありて、うしろやすくなりたまひにけり」 |
"いまは、いとまゆるしてうちやすませたまへかし。もののしはこころゆかせてこそ。いとくるしかりつるひごろのしるしありて、うしろやすくなりたまひにけり。" |
35 | 6.4.18 | 491 | 454 |
とて、御琴どもおしやりて、大殿籠もりぬ。 |
とて、おほんことどもおしやりて、おほとのごもりぬ。 |
35 | 6.5 | 492 | 455 | 第五段 紫の上、発病す |
35 | 6.5.1 | 493 | 456 |
対には、例のおはしまさぬ夜は、宵居したまひて、人びとに物語など読ませて聞きたまふ。 |
たいには、れいのおはしまさぬよは、よひゐしたまひて、ひとびとにものがたりなどよませてききたまふ。 |
35 | 6.5.2 | 494 | 457 |
「かく、世のたとひに言ひ集めたる昔語りどもにも、あだなる男、色好み、二心ある人にかかづらひたる女、かやうなることを言ひ集めたるにも、つひに寄る方ありてこそあめれ。あやしく、浮きても過ぐしつるありさまかな。げに、のたまひつるやうに、人より異なる宿世もありける身ながら、人の忍びがたく飽かぬことにするもの思ひ離れぬ身にてや止みなむとすらむ。あぢきなくもあるかな」 |
"かく、よのたとひにいひあつめたるむかしがたりどもにも、あだなるをとこ、いろごのみ、ふたごころあるひとにかかづらひたるをんな、かやうなることをいひあつめたるにも、つひによるかたありてこそあめれ。あやしく、うきてもすぐしつるありさまかな。げに、のたまひつるやうに、ひとよりことなるすくせもありけるみながら、ひとのしのびがたくあかぬことにするものおもひはなれぬみにてややみなんとすらん。あぢきなくもあるかな。" |
35 | 6.5.3 | 495 | 458 |
など思ひ続けて、夜更けて大殿籠もりぬる、暁方より、御胸を悩みたまふ。人びと見たてまつり扱ひて、 |
などおもひつづけて、よふけておほとのごもりぬる、あかつきがたより、おほんむねをなやみたまふ。ひとびとみたてまつりあつかひて、 |
35 | 6.5.4 | 496 | 459 |
「御消息聞こえさせむ」 |
"おほんせうそこきこえさせん。" |
35 | 6.5.5 | 497 | 460 |
と聞こゆるを、 |
ときこゆるを、 |
35 | 6.5.6 | 498 | 461 |
「いと便ないこと」 |
"いとびんないこと。" |
35 | 6.5.7 | 499 | 462 |
と制したまひて、堪へがたきを押さへて明かしたまひつ。御身もぬるみて、御心地もいと悪しけれど、院もとみに渡りたまはぬほど、かくなむとも聞こえず。 |
とせいしたまひて、たへがたきをおさへてあかしたまひつ。おほんみもぬるみて、おほんここちもいとあしけれど、ゐんもとみにわたりたまはぬほど、かくなんともきこえず。 |
35 | 6.6 | 500 | 463 | 第六段 朱雀院の五十賀、延期される |
35 | 6.6.1 | 501 | 464 |
女御の御方より御消息あるに、 |
にょうごのおほんかたよりおほんせうそこあるに、 |
35 | 6.6.2 | 502 | 465 |
「かく悩ましくてなむ」 |
"かくなやましくてなん。" |
35 | 6.6.3 | 503 | 466 |
と聞こえたまへるに、驚きて、そなたより聞こえたまへるに、胸つぶれて、急ぎ渡りたまへるに、いと苦しげにておはす。 |
ときこえたまへるに、おどろきて、そなたよりきこえたまへるに、むねつぶれて、いそぎわたりたまへるに、いとくるしげにておはす。 |
35 | 6.6.4 | 504 | 467 |
「いかなる御心地ぞ」 |
"いかなるみここちぞ。" |
35 | 6.6.5 | 505 | 468 |
とて探りたてまつりたまへば、いと熱くおはすれば、昨日聞こえたまひし御つつしみの筋など思し合はせたまひて、いと恐ろしく思さる。 |
とてさぐりたてまつりたまへば、いとあつくおはすれば、きのふきこえたまひしおほんつつしみのすぢなどおぼしあはせたまひて、いとおそろしくおぼさる。 |
35 | 6.6.6 | 506 | 469 |
御粥などこなたに参らせたれど、御覧じも入れず、日一日添ひおはして、よろづに見たてまつり嘆きたまふ。はかなき御くだものをだに、いともの憂くしたまひて、起き上がりたまふこと絶えて、日ごろ経ぬ。 |
おほんかゆなどこなたにまゐらせたれど、ごらんじもいれず、ひひとひそひおはして、よろづにみたてまつりなげきたまふ。はかなきおほんくだものをだに、いとものうくしたまひて、おきあがりたまふことたえて、ひごろへぬ。 |
35 | 6.6.7 | 507 | 470 |
いかならむと思し騒ぎて、御祈りども、数知らず始めさせたまふ。僧召して、御加持などせさせたまふ。そこところともなく、いみじく苦しくしたまひて、胸は時々おこりつつ患ひたまふさま、堪へがたく苦しげなり。 |
いかならんとおぼしさわぎて、おほんいのりども、かずしらずはじめさせたまふ。そうめして、おほんかぢなどせさせたまふ。そこところともなく、いみじくくるしくしたまひて、むねはときどきおこりつつわづらひたまふさま、たへがたくくるしげなり。 |
35 | 6.6.8 | 508 | 471 |
さまざまの御慎しみ限りなけれど、しるしも見えず。重しと見れど、おのづからおこたるけぢめあらば頼もしきを、いみじく心細く悲しと見たてまつりたまふに、異事思されねば、御賀の響きも静まりぬ。かの院よりも、かく患ひたまふよし聞こし召して、御訪らひいとねむごろに、たびたび聞こえたまふ。 |
さまざまのおほんつつしみかぎりなけれど、しるしもみえず。おもしとみれど、おのづからおこたるけぢめあらばたのもしきを、いみじくこころぼそくかなしとみたてまつりたまふに、ことごとおぼされねば、おほんがのひびきもしづまりぬ。かのゐんよりも、かくわづらひたまふよしきこしめして、おほんとぶらひいとねんごろに、たびたびきこえたまふ。 |
35 | 6.7 | 509 | 472 | 第七段 紫の上、二条院に転地療養 |
35 | 6.7.1 | 510 | 473 |
同じさまにて、二月も過ぎぬ。いふ限りなく思し嘆きて、試みに所を変へたまはむとて、二条の院に渡したてまつりたまひつ。院の内ゆすり満ちて、思ひ嘆く人多かり。 |
おなじさまにて、にがつもすぎぬ。いふかぎりなくおぼしなげきて、こころみにところをかへたまはんとて、にでうのゐんにわたしたてまつりたまひつ。ゐんのうちゆすりみちて、おもひなげくひとおほかり。 |
35 | 6.7.2 | 511 | 474 |
冷泉院も聞こし召し嘆く。この人亡せたまはば、院も、かならず世を背く御本意遂げたまひてむと、大将の君なども、心を尽くして見たてまつり扱ひたまふ。 |
れいぜいゐんもきこしめしなげく。このひとうせたまはば、ゐんも、かならずよをそむくおほんほいとげたまひてんと、だいしゃうのきみなども、こころをつくしてみたてまつりあつかひたまふ。 |
35 | 6.7.3 | 512 | 475 |
御修法などは、おほかたのをばさるものにて、取り分きて仕うまつらせたまふ。いささかもの思し分く隙には、 |
みすほふなどは、おほかたのをばさるものにて、とりわきてつかうまつらせたまふ。いささかものおぼしわくひまには、 |
35 | 6.7.4 | 513 | 476 |
「聞こゆることを、さも心憂く」 |
"きこゆることを、さもこころうく。" |
35 | 6.7.5 | 514 | 477 |
とのみ恨みきこえたまへど、限りありて別れ果てたまはむよりも、目の前に、わが心とやつし捨てたまはむ御ありさまを見ては、さらに片時堪ふまじくのみ、惜しく悲しかるべければ、 |
とのみうらみきこえたまへど、かぎりありてわかれはてたまはんよりも、めのまへに、わがこころとやつしすてたまはんおほんありさまをみては、さらにかたときたふまじくのみ、をしくかなしかるべければ、 |
35 | 6.7.6 | 515 | 478 |
「昔より、みづからぞかかる本意深きを、とまりてさうざうしく思されむ心苦しさに引かれつつ過ぐすを、さかさまにうち捨てたまはむとや思す」 |
"むかしより、みづからぞかかるほいふかきを、とまりてさうざうしくおぼされんこころぐるしさにひかれつつすぐすを、さかさまにうちすてたまはんとやおぼす。" |
35 | 6.7.7 | 516 | 479 |
とのみ、惜しみきこえたまふに、げにいと頼みがたげに弱りつつ、限りのさまに見えたまふ折々多かるを、いかさまにせむと思し惑ひつつ、宮の御方にも、あからさまに渡りたまはず。御琴どももすさまじくて、皆引き籠められ、院の内の人びとは、皆ある限り二条の院に集ひ参りて、この院には、火を消ちたるやうにて、ただ女どちおはして、人ひとりの御けはひなりけりと見ゆ。 |
とのみ、をしみきこえたまふに、げにいとたのみがたげによわりつつ、かぎりのさまにみえたまふをりをりおほかるを、いかさまにせんとおぼしまどひつつ、みやのおほんかたにも、あからさまにわたりたまはず。おほんことどももすさまじくて、みなひきこめられ、ゐんのうちのひとびとは、みなあるかぎりにでうのゐんにつどひまゐりて、このゐんには、ひをけちたるやうにて、ただをんなどちおはして、ひとひとりのおほんけはひなりけりとみゆ。 |
35 | 6.8 | 517 | 480 | 第八段 明石女御、看護のため里下り |
35 | 6.8.1 | 518 | 481 |
女御の君も渡りたまひて、もろともに見たてまつり扱ひたまふ。 |
にょうごのきみもわたりたまひて、もろともにみたてまつりあつかひたまふ。 |
35 | 6.8.2 | 519 | 482 |
「ただにもおはしまさで、もののけなどいと恐ろしきを、早く参りたまひね」 |
"ただにもおはしまさで、もののけなどいとおそろしきを、はやくまゐりたまひね。" |
35 | 6.8.3 | 520 | 483 |
と、苦しき御心地にも聞こえたまふ。若宮の、いとうつくしうておはしますを見たてまつりたまひても、いみじく泣きたまひて、 |
と、くるしきみここちにもきこえたまふ。わかみやの、いとうつくしうておはしますをみたてまつりたまひても、いみじくなきたまひて、 |
35 | 6.8.4 | 521 | 484 |
「おとなびたまはむを、え見たてまつらずなりなむこと。忘れたまひなむかし」 |
"おとなびたまはんを、えみたてまつらずなりなんこと。わすれたまひなんかし。" |
35 | 6.8.5 | 522 | 485 |
とのたまへば、女御、せきあへず悲しと思したり。 |
とのたまへば、にょうご、せきあへずかなしとおぼしたり。 |
35 | 6.8.6 | 523 | 486 |
「ゆゆしく、かくな思しそ。さりともけしうはものしたまはじ。心によりなむ、人はともかくもある。おきて広きうつはものには、幸ひもそれに従ひ、狭き心ある人は、さるべきにて、高き身となりても、ゆたかにゆるべる方は後れ、急なる人は、久しく常ならず、心ぬるくなだらかなる人は、長き例なむ多かりける」 |
"ゆゆしく、かくなおぼしそ。さりともけしうはものしたまはじ。こころによりなん、ひとはともかくもある。おきてひろきうつはものには、さいはひもそれにしたがひ、せばきこころあるひとは、さるべきにて、たかきみとなりても、ゆたかにゆるべるかたはおくれ、きふなるひとは、ひさしくつねならず、こころぬるくなだらかなるひとは、ながきためしなんおほかりける。" |
35 | 6.8.7 | 524 | 487 |
など、仏神にも、この御心ばせのありがたく、罪軽きさまを申し明らめさせたまふ。 |
など、ほとけかみにも、このみこころばせのありがたく、つみかろきさまをまうしあきらめさせたまふ。 |
35 | 6.8.8 | 525 | 488 |
御修法の阿闍梨たち、夜居などにても、近くさぶらふ限りのやむごとなき僧などは、いとかく思し惑へる御けはひを聞くに、いといみじく心苦しければ、心を起こして祈りきこゆ。すこしよろしきさまに見えたまふ時、五、六日うちまぜつつ、また重りわづらひたまふこと、いつとなくて月日を経たまへば、「なほ、いかにおはすべきにか。よかるまじき御心地にや」と、思し嘆く。 |
みすほふのあざりたち、よゐなどにても、ちかくさぶらふかぎりのやんごとなきそうなどは、いとかくおぼしまどへるおほんけはひをきくに、いといみじくこころぐるしければ、こころをおこしていのりきこゆ。すこしよろしきさまにみえたまふとき、いつか、むいかうちまぜつつ、またおもりわづらひたまふこと、いつとなくてつきひをへたまへば、"なほ、いかにおはすべきにか。よかるまじきみここちにや。"と、おぼしなげく。 |
35 | 6.8.9 | 526 | 489 |
御もののけなど言ひて出で来るもなし。悩みたまふさま、そこはかと見えず、ただ日に添へて、弱りたまふさまにのみ見ゆれば、いともいとも悲しくいみじく思すに、御心の暇もなげなり。 |
おほんもののけなどいひていでくるもなし。なやみたまふさま、そこはかとみえず、ただひにそへて、よわりたまふさまにのみみゆれば、いともいともかなしくいみじくおぼすに、みこころのいとまもなげなり。 |
35 | 7 | 527 | 490 | 第七章 柏木の物語 女三の宮密通の物語 |
35 | 7.1 | 528 | 491 | 第一段 柏木、女二の宮と結婚 |
35 | 7.1.1 | 529 | 492 |
まことや、衛門督は、中納言になりにきかし。今の御世には、いと親しく思されて、いと時の人なり。身のおぼえまさるにつけても、思ふことのかなはぬ愁はしさを思ひわびて、この宮の御姉の二の宮をなむ得たてまつりてける。下臈の更衣腹におはしましければ、心やすき方まじりて思ひきこえたまへり。 |
まことや、ゑもんのかみは、ちゅうなごんになりにきかし。いまのみよには、いとしたしくおぼされて、いとときのひとなり。みのおぼえまさるにつけても、おもふことのかなはぬうれはしさをおもひわびて、このみやのおほんあねのにのみやをなんえたてまつりてける。げらふのかういばらにおはしましければ、こころやすきかたまじりておもひきこえたまへり。 |
35 | 7.1.2 | 530 | 493 |
人柄も、なべての人に思ひなずらふれば、けはひこよなくおはすれど、もとよりしみにし方こそなほ深かりけれ、慰めがたき姨捨にて、人目に咎めらるまじきばかりに、もてなしきこえたまへり。 |
ひとがらも、なべてのひとにおもひなずらふれば、けはひこよなくおはすれど、もとよりしみにしかたこそなほふかかりけれ、なぐさめがたきをばすてにて、ひとめにとがめらるまじきばかりに、もてなしきこえたまへり。 |
35 | 7.1.3 | 531 | 494 |
なほ、かの下の心忘られず、小侍従といふ語らひ人は、宮の御侍従の乳母の娘なりけり。その乳母の姉ぞ、かの督の君の御乳母なりければ、早くより気近く聞きたてまつりて、まだ宮幼くおはしましし時より、いときよらになむおはします、帝のかしづきたてまつりたまふさまなど、聞きおきたてまつりて、かかる思ひもつきそめたるなりけり。 |
なほ、かのしたのこころわすられず、こじじゅうといふかたらひびとは、みやのおほんじじゅうのめのとのむすめなりけり。そのめのとのあねぞ、かのかんのきみのおほんめのとなりければ、はやくよりけぢかくききたてまつりて、まだみやをさなくおはしまししときより、いときよらになんおはします、みかどのかしづきたてまつりたまふさまなど、ききおきたてまつりて、かかるおもひもつきそめたるなりけり。 |
35 | 7.2 | 532 | 495 | 第二段 柏木、小侍従を語らう |
35 | 7.2.1 | 533 | 496 |
かくて、院も離れおはしますほど、人目少なくしめやかならむを推し量りて、小侍従を迎へ取りつつ、いみじう語らふ。 |
かくて、ゐんもはなれおはしますほど、ひとめすくなくしめやかならんをおしはかりて、こじじゅうをむかへとりつつ、いみじうかたらふ。 |
35 | 7.2.2 | 534 | 497 |
「昔より、かく命も堪ふまじく思ふことを、かかる親しきよすがありて、御ありさまを聞き伝へ、堪へぬ心のほどをも聞こし召させて、頼もしきに、さらにそのしるしのなければ、いみじくなむつらき。 |
"むかしより、かくいのちもたふまじくおもふことを、かかるしたしきよすがありて、おほんありさまをききつたへ、たへぬこころのほどをもきこしめさせて、たのもしきに、さらにそのしるしのなければ、いみじくなんつらき。 |
35 | 7.2.3 | 535 | 498 |
院の上だに、『かくあまたにかけかけしくて、人に圧されたまふやうにて、一人大殿籠もる夜な夜な多く、つれづれにて過ぐしたまふなり』など、人の奏しけるついでにも、すこし悔い思したる御けしきにて、 |
ゐんのうへだに、"かくあまたにかけかけしくて、ひとにおされたまふやうにて、ひとりおほとのごもるよなよなおほく、つれづれにてすぐしたまふなり。"など、ひとのそうしけるついでにも、すこしくいおぼしたるみけしきにて、 |
35 | 7.2.4 | 536 | 499 |
『同じくは、ただ人の心やすき後見を定めむには、まめやかに仕うまつるべき人をこそ、定むべかりけれ』と、のたまはせて、『女二の宮の、なかなかうしろやすく、行く末長きさまにてものしたまふなること』 |
'おなじくは、ただうどのこころやすきうしろみをさだめんには、まめやかにつかうまつるべきひとをこそ、さだむべかりけれ。"と、のたまはせて、"をんなにのみやの、なかなかうしろやすく、ゆくすゑながきさまにてものしたまふなること。' |
35 | 7.2.5 | 537 | 500 |
と、のたまはせけるを伝へ聞きしに。いとほしくも、口惜しくも、いかが思ひ乱るる。 |
と、のたまはせけるをつたへききしに。いとほしくも、くちをしくも、いかがおもひみだるる。 |
35 | 7.2.6 | 538 | 501 |
げに、同じ御筋とは尋ねきこえしかど、それはそれとこそおぼゆるわざなりけれ」 |
げに、おなじすぢとはたづねきこえしかど、それはそれとこそおぼゆるわざなりけれ。" |
35 | 7.2.7 | 539 | 502 |
と、うちうめきたまへば、小侍従、 |
と、うちうめきたまへば、こじじゅう、 |
35 | 7.2.8 | 540 | 503 |
「いで、あな、おほけな。それをそれとさし置きたてまつりたまひて、また、いかやうに限りなき御心ならむ」 |
"いで、あな、おほけな。それをそれとさしおきたてまつりたまひて、また、いかやうにかぎりなきみこころならん。" |
35 | 7.2.9 | 541 | 504 |
と言へば、うちほほ笑みて、 |
といへば、うちほほゑみて、 |
35 | 7.2.10 | 542 | 505 |
「さこそはありけれ。宮にかたじけなく聞こえさせ及びけるさまは、院にも内裏にも聞こし召しけり。などてかは、さてもさぶらはざらましとなむ、ことのついでにはのたまはせける。いでや、ただ、今すこしの御いたはりあらましかば」 |
"さこそはありけれ。みやにかたじけなくきこえさせおよびけるさまは、ゐんにもうちにもきこしめしけり。などてかは、さてもさぶらはざらましとなん、ことのついでにはのたまはせける。いでや、ただ、いますこしのおほんいたはりあらましかば。" |
35 | 7.2.11 | 543 | 506 |
など言へば、 |
などいへば、 |
35 | 7.2.12 | 544 | 507 |
「いと難き御ことなりや。御宿世とかいふことはべなるを、もとにて、かの院の言出でてねむごろに聞こえたまふに、立ち並び妨げきこえさせたまふべき御身のおぼえとや思されし。このころこそ、すこしものものしく、御衣の色も深くなりたまへれ」 |
"いとかたきおほんことなりや。おほんすくせとかいふことはべなるを、もとにて、かのゐんのこといでてねんごろにきこえたまふに、たちならびさまたげきこえさせたまふべきおほんみのおぼえとやおぼされし。このころこそ、すこしものものしく、おほんぞのいろもふかくなりたまへれ。" |
35 | 7.2.13 | 545 | 508 |
と言へば、いふかひなくはやりかなる口強さに、え言ひ果てたまはで、 |
といへば、いふかひなくはやりかなるくちごはさに、えいひはてたまはで、 |
35 | 7.2.14 | 546 | 509 |
「今はよし。過ぎにし方をば聞こえじや。ただ、かくありがたきものの隙に、気近きほどにて、この心のうちに思ふことの端、すこし聞こえさせつべくたばかりたまへ。おほけなき心は、すべて、よし見たまへ、いと恐ろしければ、思ひ離れてはべり」 |
"いまはよし。すぎにしかたをばきこえじや。ただ、かくありがたきもののひまに、けぢかきほどにて、このこころのうちにおもふことのはし、すこしきこえさせつべくたばかりたまへ。おほけなきこころは、すべて、よしみたまへ、いとおそろしければ、おもひはなれてはべり。" |
35 | 7.2.15 | 547 | 510 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
35 | 7.2.16 | 548 | 511 |
「これよりおほけなき心は、いかがはあらむ。いとむくつけきことをも思し寄りけるかな。何しに参りつらむ」 |
"これよりおほけなきこころは、いかがはあらん。いとむくつけきことをもおぼしよりけるかな。なにしにまゐりつらん。" |
35 | 7.2.17 | 549 | 512 |
と、はちふく。 |
と、はちふく。 |
35 | 7.3 | 550 | 513 | 第三段 小侍従、手引きを承諾 |
35 | 7.3.1 | 551 | 514 |
「いで、あな、聞きにく。あまりこちたくものをこそ言ひなしたまふべけれ。世はいと定めなきものを、女御、后も、あるやうありて、ものしたまふたぐひなくやは。まして、その御ありさまよ。思へば、いとたぐひなくめでたけれど、うちうちは心やましきことも多かるらむ。 |
"いで、あな、ききにく。あまりこちたくものをこそいひなしたまふべけれ。よはいとさだめなきものを、にょうご、きさきも、あるやうありて、ものしたまふたぐひなくやは。まして、そのおほんありさまよ。おもへば、いとたぐひなくめでたけれど、うちうちはこころやましきこともおほかるらん。 |
35 | 7.3.2 | 552 | 515 |
院の、あまたの御中に、また並びなきやうにならはしきこえたまひしに、さしもひとしからぬ際の御方々にたち混じり、めざましげなることもありぬべくこそ。いとよく聞きはべりや。世の中はいと常なきものを、ひときはに思ひ定めて、はしたなく、突き切りなることなのたまひそよ」 |
ゐんの、あまたのおほんなかに、またならびなきやうにならはしきこえたまひしに、さしもひとしからぬきはのおほんかたがたにたちまじり、めざましげなることもありぬべくこそ。いとよくききはべりや。よのなかはいとつねなきものを、ひときはにおもひさだめて、はしたなく、つききりなることなのたまひそよ。" |
35 | 7.3.3 | 553 | 516 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
35 | 7.3.4 | 554 | 517 |
「人に落とされたまへる御ありさまとて、めでたき方に改めたまふべきにやははべらむ。これは世の常の御ありさまにもはべらざめり。ただ、御後見なくて漂はしくおはしまさむよりは、親ざまに、と譲りきこえたまひしかば、かたみにさこそ思ひ交はしきこえさせたまひためれ。あいなき御落としめ言になむ」 |
"ひとにおとされたまへるおほんありさまとて、めでたきかたにあらためたまふべきにやははべらん。これはよのつねのおほんありさまにもはべらざめり。ただ、おほんうしろみなくてただよはしくおはしまさんよりは、おやざまに、とゆづりきこえたまひしかば、かたみにさこそおもひかはしきこえさせたまひためれ。あいなきおほんおとしめごとになん。" |
35 | 7.3.5 | 555 | 518 |
と、果て果ては腹立つを、よろづに言ひこしらへて、 |
と、はてはてははらだつを、よろづにいひこしらへて、 |
35 | 7.3.6 | 556 | 519 |
「まことは、さばかり世になき御ありさまを見たてまつり馴れたまへる御心に、数にもあらずあやしきなれ姿を、うちとけて御覧ぜられむとは、さらに思ひかけぬことなり。ただ一言、物越にて聞こえ知らすばかりは、何ばかりの御身のやつれにかはあらむ。神仏にも思ふこと申すは、罪あるわざかは」 |
"まことは、さばかりよになきおほんありさまをみたてまつりなれたまへるみこころに、かずにもあらずあやしきなれすがたを、うちとけてごらんぜられんとは、さらにおもひかけぬことなり。ただひとこと、ものごしにてきこえしらすばかりは、なにばかりのおほんみのやつれにかはあらん。かみほとけにもおもふことまうすは、つみあるわざかは。" |
35 | 7.3.7 | 557 | 520 |
と、いみじき誓言をしつつのたまへば、しばしこそ、いとあるまじきことに言ひ返しけれ、もの深からぬ若人は、人のかく身に代へていみじく思ひのたまふを、え否び果てで、 |
と、いみじきちかごとをしつつのたまへば、しばしこそ、いとあるまじきことにいひかへしけれ、ものふかからぬわかうどは、ひとのかくみにかへていみじくおもひのたまふを、えいなびはてで、 |
35 | 7.3.8 | 558 | 521 |
「もし、さりぬべき隙あらば、たばかりはべらむ。院のおはしまさぬ夜は、御帳のめぐりに人多くさぶらひて、御座のほとりに、さるべき人かならずさぶらひたまへば、いかなる折をかは、隙を見つけはべるべからむ」 |
"もし、さりぬべきひまあらば、たばかりはべらん。ゐんのおはしまさぬよは、みちゃうのめぐりにひとおほくさぶらひて、おましのほとりに、さるべきひとかならずさぶらひたまへば、いかなるをりをかは、ひまをみつけはべるべからん。" |
35 | 7.3.9 | 559 | 522 |
と、わびつつ参りぬ。 |
と、わびつつまゐりぬ。 |
35 | 7.4 | 560 | 523 | 第四段 小侍従、柏木を導き入れる |
35 | 7.4.1 | 561 | 524 |
いかに、いかにと、日々に責められ極じて、さるべき折うかがひつけて、消息しおこせたり。喜びながら、いみじくやつれ忍びておはしぬ。 |
いかに、いかにと、ひびにせめられこうじて、さるべきをりうかがひつけて、せうそこしおこせたり。よろこびながら、いみじくやつれしのびておはしぬ。 |
35 | 7.4.2 | 562 | 525 |
まことに、わが心にもいとけしからぬことなれば、気近く、なかなか思ひ乱るることもまさるべきことまでは、思ひも寄らず、ただ、 |
まことに、わがこころにもいとけしからぬことなれば、けぢかく、なかなかおもひみだるることもまさるべきことまでは、おもひもよらず、ただ、 |
35 | 7.4.3 | 563 | 526 |
「いとほのかに御衣のつまばかりを見たてまつりし春の夕の、飽かず世とともに思ひ出でられたまふ御ありさまを、すこし気近くて見たてまつり、思ふことをも聞こえ知らせては、一行の御返りなどもや見せたまふ、あはれとや思し知る」 |
"いとほのかにおほんぞのつまばかりをみたてまつりしはるのゆふべの、あかずよとともにおもひいでられたまふおほんありさまを、すこしけぢかくてみたてまつり、おもふことをもきこえしらせては、ひとくだりのおほんかへりなどもやみせたまふ、あはれとやおぼししる。" |
35 | 7.4.4 | 564 | 527 |
とぞ思ひける。 |
とぞおもひける。 |
35 | 7.4.5 | 565 | 528 |
四月十余日ばかりのことなり。御禊明日とて、斎院にたてまつりたまふ女房十二人、ことに上臈にはあらぬ若き人、童女など、おのがじしもの縫ひ、化粧などしつつ、物見むと思ひまうくるも、とりどりに暇なげにて、御前の方しめやかにて、人しげからぬ折なりけり。 |
しがつじふよにちばかりのことなり。みそぎあすとて、さいゐんにたてまつりたまふにょうばうじふににん、ことにじゃうらふにはあらぬわかきひと、わらはべなど、おのがじしものぬひ、けさうなどしつつ、ものみんとおもひまうくるも、とりどりにいとまなげにて、おまへのかたしめやかにて、ひとしげからぬをりなりけり。 |
35 | 7.4.6 | 566 | 529 |
近くさぶらふ按察使の君も、時々通ふ源中将、責めて呼び出ださせければ、下りたる間に、ただこの侍従ばかり、近くはさぶらふなりけり。よき折と思ひて、やをら御帳の東面の御座の端に据ゑつ。さまでもあるべきことなりやは。 |
ちかくさぶらふあぜちのきみも、ときどきかよふげんちゅうじゃう、せめてよびいださせければ、おりたるまに、ただこのじじゅうばかり、ちかくはさぶらふなりけり。よきをりとおもひて、やをらみちゃうのひんがしおもてのおましのはしにすゑつ。さまでもあるべきことなりやは。 |
35 | 7.5 | 567 | 530 | 第五段 柏木、女三の宮をかき抱く |
35 | 7.5.1 | 568 | 531 |
宮は、何心もなく大殿籠もりにけるを、近く男のけはひのすれば、院のおはすると思したるに、うちかしこまりたるけしき見せて、床の下に抱き下ろしたてまつるに、物に襲はるるかと、せめて見上げたまへれば、あらぬ人なりけり。 |
みやは、なにごころもなくおほとのごもりにけるを、ちかくをとこのけはひのすれば、ゐんのおはするとおぼしたるに、うちかしこまりたるけしきみせて、ゆかのしもにいだきおろしたてまつるに、ものにおそはるるかと、せめてみあげたまへれば、あらぬひとなりけり。 |
35 | 7.5.2 | 569 | 533 |
あやしく聞きも知らぬことどもをぞ聞こゆるや。あさましくむくつけくなりて、人召せど、近くもさぶらはねば、聞きつけて参るもなし。わななきたまふさま、水のやうに汗も流れて、ものもおぼえたまはぬけしき、いとあはれにらうたげなり。 |
あやしくききもしらぬことどもをぞきこゆるや。あさましくむくつけくなりて、ひとめせど、ちかくもさぶらはねば、ききつけてまゐるもなし。わななきたまふさま、みづのやうにあせもながれて、ものもおぼえたまはぬけしき、いとあはれにらうたげなり。 |
35 | 7.5.3 | 570 | 534 |
「数ならねど、いとかうしも思し召さるべき身とは、思うたまへられずなむ。 |
"かずならねど、いとかうしもおぼしめさるべきみとは、おもうたまへられずなん。 |
35 | 7.5.4 | 571 | 535 |
昔よりおほけなき心のはべりしを、ひたぶるに籠めて止みはべなましかば、心のうちに朽たして過ぎぬべかりけるを、なかなか、漏らしきこえさせて、院にも聞こし召されにしを、こよなくもて離れてものたまはせざりけるに、頼みをかけそめはべりて、身の数ならぬひときはに、人より深き心ざしを空しくなしはべりぬることと、動かしはべりにし心なむ、よろづ今はかひなきことと思うたまへ返せど、いかばかりしみはべりにけるにか、年月に添へて、口惜しくも、つらくも、むくつけくも、あはれにも、いろいろに深く思うたまへまさるに、せきかねて、かくおほけなきさまを御覧ぜられぬるも、かつは、いと思ひやりなく恥づかしければ、罪重き心もさらにはべるまじ」 |
むかしよりおほけなきこころのはべりしを、ひたぶるにこめてやみはべなましかば、こころのうちにくたしてすぎぬべかりけるを、なかなか、もらしきこえさせて、ゐんにもきこしめされにしを、こよなくもてはなれてものたまはせざりけるに、たのみをかけそめはべりて、みのかずならぬひときはに、ひとよりふかきこころざしをむなしくなしはべりぬることと、うごかしはべりにしこころなん、よろづいまはかひなきこととおもうたまへかへせど、いかばかりしみはべりにけるにか、としつきにそへて、くちをしくも、つらくも、むくつけくも、あはれにも、いろいろにふかくおもうたまへまさるに、せきかねて、かくおほけなきさまをごらんぜられぬるも、かつは、いとおもひやりなくはづかしければ、つみおもきこころもさらにはべるまじ。" |
35 | 7.5.5 | 572 | 536 |
と言ひもてゆくに、この人なりけりと思すに、いとめざましく恐ろしくて、つゆいらへもしたまはず。 |
といひもてゆくに、このひとなりけりとおぼすに、いとめざましくおそろしくて、つゆいらへもしたまはず。 |
35 | 7.5.6 | 573 | 537 |
「いとことわりなれど、世に例なきことにもはべらぬを、めづらかに情けなき御心ばへならば、いと心憂くて、なかなかひたぶるなる心もこそつきはべれ、あはれとだにのたまはせば、それをうけたまはりてまかでなむ」 |
"いとことわりなれど、よにためしなきことにもはべらぬを、めづらかになさけなきみこころばへならば、いとこころうくて、なかなかひたぶるなるこころもこそつきはべれ、あはれとだにのたまはせば、それをうけたまはりてまかでなん。" |
35 | 7.5.7 | 574 | 538 |
と、よろづに聞こえたまふ。 |
と、よろづにきこえたまふ。 |
35 | 7.6 | 575 | 539 | 第六段 柏木、猫の夢を見る |
35 | 7.6.1 | 576 | 540 |
よその思ひやりはいつくしく、もの馴れて見えたてまつらむも恥づかしく推し量られたまふに、「ただかばかり思ひつめたる片端聞こえ知らせて、なかなかかけかけしきことはなくて止みなむ」と思ひしかど、いとさばかり気高う恥づかしげにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみ見えたまふ御けはひの、あてにいみじくおぼゆることぞ、人に似させたまはざりける。 |
よそのおもひやりはいつくしく、ものなれてみえたてまつらんもはづかしくおしはかられたまふに、"ただかばかりおもひつめたるかたはしきこえしらせて、なかなかかけかけしきことはなくてやみなん。"とおもひしかど、いとさばかりけだかうはづかしげにはあらで、なつかしくらうたげに、やはやはとのみみえたまふおほんけはひの、あてにいみじくおぼゆることぞ、ひとににさせたまはざりける。 |
35 | 7.6.2 | 577 | 541 |
賢しく思ひ鎮むる心も失せて、「いづちもいづちも率て隠したてまつりて、わが身も世に経るさまならず、跡絶えて止みなばや」とまで思ひ乱れぬ。 |
さかしくおもひしづむるこころもうせて、"いづちもいづちもゐてかくしたてまつりて、わがみもよにふるさまならず、あとたえてやみなばや。"とまでおもひみだれぬ。 |
35 | 7.6.3 | 578 | 542 |
ただいささかまどろむともなき夢に、この手馴らしし猫の、いとらうたげにうち鳴きて来たるを、この宮に奉らむとて、わが率て来たるとおぼしきを、何しに奉りつらむと思ふほどに、おどろきて、いかに見えつるならむ、と思ふ。 |
ただいささかまどろむともなきゆめに、このてならししねこの、いとらうたげにうちなきてきたるを、このみやにたてまつらんとて、わがゐてきたるとおぼしきを、なにしにたてまつりつらんとおもふほどに、おどろきて、いかにみえつるならん、とおもふ。 |
35 | 7.6.4 | 579 | 543 |
宮は、いとあさましく、うつつともおぼえたまはぬに、胸ふたがりて、思しおぼほるるを、 |
みやは、いとあさましく、うつつともおぼえたまはぬに、むねふたがりて、おぼしおぼほるるを、 |
35 | 7.6.5 | 580 | 544 |
「なほ、かく逃れぬ御宿世の、浅からざりけると思ほしなせ。みづからの心ながらも、うつし心にはあらずなむ、おぼえはべる」 |
"なほ、かくのがれぬおほんすくせの、あさからざりけるとおもほしなせ。みづからのこころながらも、うつしごころにはあらずなん、おぼえはべる。" |
35 | 7.6.6 | 581 | 545 |
かのおぼえなかりし御簾のつまを、猫の綱引きたりし夕べのことも聞こえ出でたり。 |
かのおぼえなかりしみすのつまを、ねこのつなひきたりしゆふべのこともきこえいでたり。 |
35 | 7.6.7 | 582 | 546 |
「げに、さはたありけむよ」 |
"げに、さはたありけんよ。" |
35 | 7.6.8 | 583 | 547 |
と、口惜しく、契り心憂き御身なりけり。「院にも、今はいかでかは見えたてまつらむ」と、悲しく心細くて、いと幼げに泣きたまふを、いとかたじけなく、あはれと見たてまつりて、人の御涙をさへ拭ふ袖は、いとど露けさのみまさる。 |
と、くちをしく、ちぎりこころうきおほんみなりけり。"ゐんにも、いまはいかでかはみえたてまつらん。"と、かなしくこころぼそくて、いとをさなげになきたまふを、いとかたじけなく、あはれとみたてまつりて、ひとのおほんなみだをさへのごふそでは、いとどつゆけさのみまさる。 |
35 | 7.7 | 584 | 548 | 第七段 きぬぎぬの別れ |
35 | 7.7.1 | 585 | 549 |
明けゆくけしきなるに、出でむ方なく、なかなかなり。 |
あけゆくけしきなるに、いでんかたなく、なかなかなり。 |
35 | 7.7.2 | 586 | 550 |
「いかがはしはべるべき。いみじく憎ませたまへば、また聞こえさせむこともありがたきを、ただ一言御声を聞かせたまへ」 |
"いかがはしはべるべき。いみじくにくませたまへば、またきこえさせんこともありがたきを、ただひとことおほんこゑをきかせたまへ。" |
35 | 7.7.3 | 587 | 551 |
と、よろづに聞こえ悩ますも、うるさくわびしくて、もののさらに言はれたまはねば、 |
と、よろづにきこえなやますも、うるさくわびしくて、もののさらにいはれたまはねば、 |
35 | 7.7.4 | 588 | 552 |
「果て果ては、むくつけくこそなりはべりぬれ。また、かかるやうはあらじ」 |
"はてはては、むくつけくこそなりはべりぬれ。また、かかるやうはあらじ。" |
35 | 7.7.5 | 589 | 553 |
と、いと憂しと思ひきこえて、 |
と、いとうしとおもひきこえて、 |
35 | 7.7.6 | 590 | 554 |
「さらば不用なめり。身をいたづらにやはなし果てぬ。いと捨てがたきによりてこそ、かくまでもはべれ。今宵に限りはべりなむもいみじくなむ。つゆにても御心ゆるしたまふさまならば、それに代へつるにても捨てはべりなまし」 |
"さらばふようなめり。みをいたづらにやはなしはてぬ。いとすてがたきによりてこそ、かくまでもはべれ。こよひにかぎりはべりなんもいみじくなん。つゆにてもみこころゆるしたまふさまならば、それにかへつるにてもすてはべりなまし。" |
35 | 7.7.7 | 591 | 555 |
とて、かき抱きて出づるに、果てはいかにしつるぞと、あきれて思さる。 |
とて、かきいだきていづるに、はてはいかにしつるぞと、あきれておぼさる。 |
35 | 7.7.8 | 592 | 556 |
隅の間の屏風をひき広げて、戸を押し開けたれば、渡殿の南の戸の、昨夜入りしがまだ開きながらあるに、まだ明けぐれのほどなるべし、ほのかに見たてまつらむの心あれば、格子をやをら引き上げて、 |
すみのまのびゃうぶをひきひろげて、とをおしあけたれば、わたどののみなみのとの、よべいりしがまだあきながらあるに、まだあけぐれのほどなるべし、ほのかにみたてまつらんのこころあれば、かうしをやをらひきあげて、 |
35 | 7.7.9 | 593 | 557 |
「かう、いとつらき御心に、うつし心も失せはべりぬ。すこし思ひのどめよと思されば、あはれとだにのたまはせよ」 |
"かう、いとつらきみこころに、うつしごころもうせはべりぬ。すこしおもひのどめよとおぼされば、あはれとだにのたまはせよ。" |
35 | 7.7.10 | 594 | 558 |
と、脅しきこゆるを、いとめづらかなりと思して物も言はむとしたまへど、わななかれて、いと若々しき御さまなり。 |
と、おどしきこゆるを、いとめづらかなりとおぼしてものもいはんとしたまへど、わななかれて、いとわかわかしきおほんさまなり。 |
35 | 7.7.11 | 595 | 559 |
ただ明けに明けゆくに、いと心あわたたしくて、 |
ただあけにあけゆくに、いとこころあわたたしくて、 |
35 | 7.7.12 | 596 | 560 |
「あはれなる夢語りも聞こえさすべきを、かく憎ませたまへばこそ。さりとも、今思し合はすることもはべりなむ」 |
"あはれなるゆめがたりもきこえさすべきを、かくにくませたまへばこそ。さりとも、いまおぼしあはすることもはべりなん。" |
35 | 7.7.13 | 597 | 561 |
とて、のどかならず立ち出づる明けぐれ、秋の空よりも心尽くしなり。 |
とて、のどかならずたちいづるあけぐれ、あきのそらよりもこころづくしなり。 |
35 | 7.7.14 | 598 | 562 |
「起きてゆく空も知られぬ明けぐれに<BR/>いづくの露のかかる袖なり」 |
"〔おきてゆくそらもしられぬあけぐれに<BR/>いづくのつゆのかかるそでなり〕 |
35 | 7.7.15 | 599 | 563 |
と、ひき出でて愁へきこゆれば、出でなむとするに、すこし慰めたまひて、 |
と、ひきいでてうれへきこゆれば、いでなんとするに、すこしなぐさめたまひて、 |
35 | 7.7.16 | 600 | 564 |
「明けぐれの空に憂き身は消えななむ<BR/>夢なりけりと見てもやむべく」 |
"〔あけぐれのそらにうきみはきえななん<BR/>ゆめなりけりとみてもやむべく〕 |
35 | 7.7.17 | 601 | 565 |
と、はかなげにのたまふ声の、若くをかしげなるを、聞きさすやうにて出でぬる魂は、まことに身を離れて止まりぬる心地す。 |
と、はかなげにのたまふこゑの、わかくをかしげなるを、ききさすやうにていでぬるたましひは、まことにみをはなれてとまりぬるここちす。 |
35 | 7.8 | 602 | 566 | 第八段 柏木と女三の宮の罪の恐れ |
35 | 7.8.1 | 603 | 567 |
女宮の御もとにも参うでたまはで、大殿へぞ忍びておはしぬる。うち臥したれど目も合はず、見つる夢のさだかに合はむことも難きをさへ思ふに、かの猫のありしさま、いと恋しく思ひ出でらる。 |
をんなみやのおほんもとにもまうでたまはで、おほとのへぞしのびておはしぬる。うちふしたれどめもあはず、みつるゆめのさだかにあはんこともかたきをさへおもふに、かのねこのありしさま、いとこひしくおもひいでらる。 |
35 | 7.8.2 | 604 | 568 |
「さてもいみじき過ちしつる身かな。世にあらむことこそ、まばゆくなりぬれ」 |
"さてもいみじきあやまちしつるみかな。よにあらんことこそ、まばゆくなりぬれ。" |
35 | 7.8.3 | 605 | 569 |
と、恐ろしくそら恥づかしき心地して、ありきなどもしたまはず。女の御ためはさらにもいはず、わが心地にもいとあるまじきことといふ中にも、むくつけくおぼゆれば、思ひのままにもえ紛れありかず。 |
と、おそろしくそらはづかしきここちして、ありきなどもしたまはず。をんなのおほんためはさらにもいはず、わがここちにもいとあるまじきことといふなかにも、むくつけくおぼゆれば、おもひのままにもえまぎれありかず。 |
35 | 7.8.4 | 606 | 570 |
帝の御妻をも取り過ちて、ことの聞こえあらむに、かばかりおぼえむことゆゑは、身のいたづらにならむ、苦しくおぼゆまじ。しか、いちじるき罪にはあたらずとも、この院に目をそばめられたてまつらむことは、いと恐ろしく恥づかしくおぼゆ。 |
みかどのみめをもとりあやまちて、ことのきこえあらんに、かばかりおぼえんことゆゑは、みのいたづらにならん、くるしくおぼゆまじ。しか、いちじるきつみにはあたらずとも、このゐんにめをそばめられたてまつらんことは、いとおそろしくはづかしくおぼゆ。 |
35 | 7.8.5 | 607 | 571 |
限りなき女と聞こゆれど、すこし世づきたる心ばへ混じり、上はゆゑあり子めかしきにも、従はぬ下の心添ひたるこそ、とあることかかることにうちなびき、心交はしたまふたぐひもありけれ、これは深き心もおはせねど、ひたおもむきにもの懼ぢしたまへる御心に、ただ今しも、人の見聞きつけたらむやうに、まばゆく、恥づかしく思さるれば、明かき所にだにえゐざり出でたまはず。いと口惜しき身なりけりと、みづから思し知るべし。 |
かぎりなきをんなときこゆれど、すこしよづきたるこころばへまじり、うへはゆゑありこめかしきにも、したがはぬしたのこころそひたるこそ、とあることかかることにうちなびき、こころかはしたまふたぐひもありけれ、これはふかきこころもおはせねど、ひたおもむきにものおぢしたまへるみこころに、ただいましも、ひとのみききつけたらんやうに、まばゆく、はづかしくおぼさるれば、あかきところにだにえゐざりいでたまはず。いとくちをしきみなりけりと、みづからおぼししるべし。 |
35 | 7.8.6 | 608 | 572 |
悩ましげになむ、とありければ、大殿聞きたまひて、いみじく御心を尽くしたまふ御事にうち添へて、またいかにと驚かせたまひて、渡りたまへり。 |
なやましげになん、とありければ、おとどききたまひて、いみじくみこころをつくしたまふおほんことにうちそへて、またいかにとなげかせたまひて、わたりたまへり。 |
35 | 7.8.7 | 609 | 573 |
そこはかと苦しげなることも見えたまはず、いといたく恥ぢらひしめりて、さやかにも見合はせたてまつりたまはぬを、「久しくなりぬる絶え間を恨めしく思すにや」と、いとほしくて、かの御心地のさまなど聞こえたまひて、 |
そこはかとくるしげなることもみえたまはず、いといたくはぢらひしめりて、さやかにもみあはせたてまつりたまはぬを、"ひさしくなりぬるたえまをうらめしくおぼすにや。"と、いとほしくて、かのみここちのさまなどきこえたまひて、 |
35 | 7.8.8 | 610 | 574 |
「今はのとぢめにもこそあれ。今さらにおろかなるさまを見えおかれじとてなむ。いはけなかりしほどより扱ひそめて、見放ちがたければ、かう月ごろよろづを知らぬさまに過ぐしはべるぞ。おのづから、このほど過ぎば、見直したまひてむ」 |
"いまはのとぢめにもこそあれ。いまさらにおろかなるさまをみえおかれじとてなん。いはけなかりしほどよりあつかひそめて、みはなちがたければ、かうつきごろよろづをしらぬさまにすぐしはべるぞ。おのづから、このほどすぎば、みなほしたまひてん。" |
35 | 7.8.9 | 611 | 575 |
など聞こえたまふ。かくけしきも知りたまはぬも、いとほしく心苦しく思されて、宮は人知れず涙ぐましく思さる。 |
などきこえたまふ。かくけしきもしりたまはぬも、いとほしくこころぐるしくおぼされて、みやはひとしれずなみだぐましくおぼさる。 |
35 | 7.9 | 612 | 576 | 第九段 柏木と女二の宮の夫婦仲 |
35 | 7.9.1 | 613 | 577 |
督の君は、まして、なかなかなる心地のみまさりて、起き臥し明かし暮らしわびたまふ。祭の日などは、物見に争ひ行く君達かき連れ来て言ひそそのかせど、悩ましげにもてなして、眺め臥したまへり。 |
かんのきみは、まして、なかなかなるここちのみまさりて、おきふしあかしくらしわびたまふ。まつりのひなどは、ものみにあらそひゆくきんだちかきつれきていひそそのかせど、なやましげにもてなして、ながめふしたまへり。 |
35 | 7.9.2 | 614 | 578 |
女宮をば、かしこまりおきたるさまにもてなしきこえて、をさをさうちとけても見えたてまつりたまはず、わが方に離れゐて、いとつれづれに心細く眺めゐたまへるに、童べの持たる葵を見たまひて、 |
をんなみやをば、かしこまりおきたるさまにもてなしきこえて、をさをさうちとけてもみえたてまつりたまはず、わがかたにはなれゐて、いとつれづれにこころぼそくながめゐたまへるに、わらはべのもたるあふひをみたまひて、 |
35 | 7.9.3 | 615 | 579 |
「悔しくぞ摘み犯しける葵草<BR/>神の許せるかざしならぬに」 |
"〔くやしくぞつみをかしけるあふひぐさ<BR/>かみのゆるせるかざしならぬに〕 |
35 | 7.9.4 | 616 | 580 |
と思ふも、いとなかなかなり。 |
とおもふも、いとなかなかなり。 |
35 | 7.9.5 | 617 | 581 |
世の中静かならぬ車の音などを、よそのことに聞きて、人やりならぬつれづれに、暮らしがたくおぼゆ。 |
よのなかしづかならぬくるまのおとなどを、よそのことにききて、ひとやりならぬつれづれに、くらしがたくおぼゆ。 |
35 | 7.9.6 | 618 | 582 |
女宮も、かかるけしきのすさまじげさも見知られたまへば、何事とは知りたまはねど、恥づかしくめざましきに、もの思はしくぞ思されける。 |
をんなみやも、かかるけしきのすさまじげさもみしられたまへば、なにごととはしりたまはねど、はづかしくめざましきに、ものおもはしくぞおぼされける。 |
35 | 7.9.7 | 619 | 583 |
女房など、物見に皆出でて、人少なにのどやかなれば、うち眺めて、箏の琴なつかしく弾きまさぐりておはするけはひも、さすがにあてになまめかしけれど、「同じくは今ひと際及ばざりける宿世よ」と、なほおぼゆ。 |
にょうばうなど、ものみにみないでて、ひとずくなにのどやかなれば、うちながめて、さうのことなつかしくひきまさぐりておはするけはひも、さすがにあてになまめかしけれど、"おなじくはいまひときはおよばざりけるすくせよ。"と、なほおぼゆ。 |
35 | 7.9.8 | 620 | 584 |
「もろかづら落葉を何に拾ひけむ<BR/>名は睦ましきかざしなれども」 |
"〔もろかづらおちばをなににひろひけん<BR/>なはむつましきかざしなれども〕 |
35 | 7.9.9 | 621 | 585 |
と書きすさびゐたる、いとなめげなるしりう言なりかし。 |
とかきすさびゐたる、いとなめげなるしりうごとなりかし。 |
35 | 8 | 622 | 586 | 第八章 紫の上の物語 死と蘇生 |
35 | 8.1 | 623 | 587 | 第一段 紫の上、絶命す |
35 | 8.1.1 | 624 | 588 |
大殿の君は、まれまれ渡りたまひて、えふとも立ち帰りたまはず、静心なく思さるるに、 |
おとどのきみは、まれまれわたりたまひて、えふともたちかへりたまはず、しづごころなくおぼさるるに、 |
35 | 8.1.2 | 625 | 589 |
「絶え入りたまひぬ」 |
"たえいりたまひぬ。" |
35 | 8.1.3 | 626 | 590 |
とて、人参りたれば、さらに何事も思し分かれず、御心も暮れて渡りたまふ。道のほどの心もとなきに、げにかの院は、ほとりの大路まで人立ち騒ぎたり。殿のうち泣きののしるけはひ、いとまがまがし。我にもあらで入りたまへれば、 |
とて、ひとまゐりたれば、さらになにごともおぼしわかれず、みこころもくれてわたりたまふ。みちのほどのこころもとなきに、げにかのゐんは、ほとりのおほぢまでひとたちさわぎたり。とののうちなきののしるけはひ、いとまがまがし。われにもあらでいりたまへれば、 |
35 | 8.1.4 | 627 | 591 |
「日ごろは、いささか隙見えたまへるを、にはかになむ、かくおはします」 |
"ひごろは、いささかひまみえたまへるを、にはかになん、かくおはします。" |
35 | 8.1.5 | 628 | 592 |
とて、さぶらふ限りは、我も後れたてまつらじと、惑ふさまども、限りなし。御修法どもの檀こぼち、僧なども、さるべき限りこそまかでね、ほろほろと騒ぐを見たまふに、「さらば限りにこそは」と思し果つるあさましさに、何事かはたぐひあらむ。 |
とて、さぶらふかぎりは、われもおくれたてまつらじと、まどふさまども、かぎりなし。みすほふどものだんこぼち、そうなども、さるべきかぎりこそまかでね、ほろほろとさわぐをみたまふに、"さらばかぎりにこそは。"とおぼしはつるあさましさに、なにごとかはたぐひあらん。 |
35 | 8.1.6 | 629 | 593 |
「さりとも、もののけのするにこそあらめ。いと、かくひたぶるにな騷ぎそ」 |
"さりとも、もののけのするにこそあらめ。いと、かくひたぶるになさわぎそ。" |
35 | 8.1.7 | 630 | 594 |
と鎮めたまひて、いよいよいみじき願どもを立て添へさせたまふ。すぐれたる験者どもの限り召し集めて、 |
としづめたまひて、いよいよいみじきがんどもをたてそへさせたまふ。すぐれたるげんざどものかぎりめしあつめて、 |
35 | 8.1.8 | 631 | 595 |
「限りある御命にて、この世尽きたまひぬとも、ただ、今しばしのどめたまへ。不動尊の御本の誓ひあり。その日数をだに、かけ止めたてまつりたまへ」 |
"かぎりあるおほんいのちにて、このよつきたまひぬとも、ただ、いましばしのどめたまへ。ふどうそんのおほんもとのちかひあり。そのひかずをだに、かけとどめたてまつりたまへ。" |
35 | 8.1.9 | 632 | 596 |
と、頭よりまことに黒煙を立てて、いみじき心を起こして加持したてまつる。院も、 |
と、かしらよりまことにくろけぶりをたてて、いみじきこころをおこしてかぢしたてまつる。ゐんも、 |
35 | 8.1.10 | 633 | 597 |
「ただ、今一度目を見合はせたまへ。いとあへなく限りなりつらむほどをだに、え見ずなりにけることの、悔しく悲しきを」 |
"ただ、いまひとたびめをみあはせたまへ。いとあへなくかぎりなりつらんほどをだに、えみずなりにけることの、くやしくかなしきを。" |
35 | 8.1.11 | 634 | 598 |
と思し惑へるさま、止まりたまふべきにもあらぬを、見たてまつる心地ども、ただ推し量るべし。いみじき御心のうちを、仏も見たてまつりたまふにや、月ごろさらに現はれ出で来ぬもののけ、小さき童女に移りて、呼ばひののしるほどに、やうやう生き出でたまふに、うれしくもゆゆしくも思し騒がる。 |
とおぼしまどへるさま、とまりたまふべきにもあらぬを、みたてまつるここちども、ただおしはかるべし。いみじきみこころのうちを、ほとけもみたてまつりたまふにや、つきごろさらにあらはれいでこぬもののけ、ちひさきわらはにうつりて、よばひののしるほどに、やうやういきいでたまふに、うれしくもゆゆしくもおぼしさわがる。 |
35 | 8.2 | 635 | 599 | 第二段 六条御息所の死霊出現 |
35 | 8.2.1 | 636 | 600 |
いみじく調ぜられて、 |
いみじくてうぜられて、 |
35 | 8.2.2 | 637 | 601 |
「人は皆去りね。院一所の御耳に聞こえむ。おのれを月ごろ調じわびさせたまふが、情けなくつらければ、同じくは思し知らせむと思ひつれど、さすがに命も堪ふまじく、身を砕きて思し惑ふを見たてまつれば、今こそ、かくいみじき身を受けたれ、いにしへの心の残りてこそ、かくまでも参り来たるなれば、ものの心苦しさをえ見過ぐさで、つひに現はれぬること。さらに知られじと思ひつるものを」 |
"ひとはみなさりね。ゐんひとところのおほんみみにきこえん。おのれをつきごろてうじわびさせたまふが、なさけなくつらければ、おなじくはおぼししらせんとおもひつれど、さすがにいのちもたふまじく、みをくだきておぼしまどふをみたてまつれば、いまこそ、かくいみじきみをうけたれ、いにしへのこころののこりてこそ、かくまでもまゐりきたるなれば、もののこころぐるしさをえみすぐさで、つひにあらはれぬること。さらにしられじとおもひつるものを。" |
35 | 8.2.3 | 638 | 603 |
とて、髪を振りかけて泣くけはひ、ただ昔見たまひしもののけのさまと見えたり。あさましく、むくつけしと、思ししみにしことの変はらぬもゆゆしければ、この童女の手をとらへて、引き据ゑて、さま悪しくもせさせたまはず。 |
とて、かみをふりかけてなくけはひ、ただむかしみたまひしもののけのさまとみえたり。あさましく、むくつけしと、おぼししみにしことのかはらぬもゆゆしければ、このわらはのてをとらへて、ひきすゑて、さまあしくもせさせたまはず。 |
35 | 8.2.4 | 639 | 604 |
「まことにその人か。よからぬ狐などいふなるものの、たぶれたるが、亡き人の面伏なること言ひ出づるもあなるを、たしかなる名のりせよ。また人の知らざらむことの、心にしるく思ひ出でられぬべからむを言へ。さてなむ、いささかにても信ずべき」 |
"まことにそのひとか。よからぬきつねなどいふなるものの、たぶれたるが、なきひとのおもてぶせなることいひいづるもあなるを、たしかなるなのりせよ。またひとのしらざらんことの、こころにしるくおもひいでられぬべからんをいへ。さてなん、いささかにてもしんずべき。" |
35 | 8.2.5 | 640 | 605 |
とのたまへば、ほろほろといたく泣きて、 |
とのたまへば、ほろほろといたくなきて、 |
35 | 8.2.6 | 641 | 606 |
「わが身こそあらぬさまなれそれながら<BR/>そらおぼれする君は君なり |
"〔わがみこそあらぬさまなれそれながら<BR/>そらおぼれするきみはきみなり |
35 | 8.2.7 | 642 | 607 |
いとつらし、いとつらし」 |
いとつらし、いとつらし。" |
35 | 8.2.8 | 643 | 608 |
と泣き叫ぶものから、さすがにもの恥ぢしたるけはひ、変らず、なかなかいと疎ましく、心憂ければ、もの言はせじと思す。 |
となきさけぶものから、さすがにものはぢしたるけはひ、かはらず、なかなかいとうとましく、こころうければ、ものいはせじとおぼす。 |
35 | 8.2.9 | 644 | 609 |
「中宮の御事にても、いとうれしくかたじけなしとなむ、天翔りても見たてまつれど、道異になりぬれば、子の上までも深くおぼえぬにやあらむ、なほ、みづからつらしと思ひきこえし心の執なむ、止まるものなりける。 |
"ちゅうぐうのおほんことにても、いとうれしくかたじけなしとなん、あまがけりてもみたてまつれど、みちことになりぬれば、このうへまでもふかくおぼえぬにやあらん、なほ、みづからつらしとおもひきこえしこころのしふなん、とまるものなりける。 |
35 | 8.2.10 | 645 | 610 |
その中にも、生きての世に、人より落として思し捨てしよりも、思ふどちの御物語のついでに、心善からず憎かりしありさまをのたまひ出でたりしなむ、いと恨めしく。今はただ亡きに思し許して、異人の言ひ落としめむをだに、はぶき隠したまへとこそ思へ、とうち思ひしばかりに、かくいみじき身のけはひなれば、かく所狭きなり。 |
そのなかにも、いきてのよに、ひとよりおとしておぼしすてしよりも、おもふどちのおほんものがたりのついでに、こころよからずにくかりしありさまをのたまひいでたりしなん、いとうらめしく。いまはただなきにおぼしゆるして、ことびとのいひおとしめんをだに、はぶきかくしたまへとこそおもへ、とうちおもひしばかりに、かくいみじきみのけはひなれば、かくところせきなり。 |
35 | 8.2.11 | 646 | 611 |
この人を、深く憎しと思ひきこゆることはなけれど、守り強く、いと御あたり遠き心地して、え近づき参らず、御声をだにほのかになむ聞きはべる。 |
このひとを、ふかくにくしとおもひきこゆることはなけれど、まもりつよく、いとおほんあたりとほきここちして、えちかづきまゐらず、おほんこゑをだにほのかになんききはべる。 |
35 | 8.2.12 | 647 | 612 |
よし、今は、この罪軽むばかりのわざをせさせたまへ。修法、読経とののしることも、身には苦しくわびしき炎とのみまつはれて、さらに尊きことも聞こえねば、いと悲しくなむ。 |
よし、いまは、このつみかろむばかりのわざをせさせたまへ。すほふ、どきゃうとののしることも、みにはくるしくわびしきほのほとのみまつはれて、さらにたふときこともきこえねば、いとかなしくなん。 |
35 | 8.2.13 | 648 | 613 |
中宮にも、このよしを伝へ聞こえたまへ。ゆめ御宮仕へのほどに、人ときしろひ嫉む心つかひたまふな。斎宮におはしまししころほひの御罪軽むべからむ功徳のことを、かならずせさせたまへ。いと悔しきことになむありける」 |
ちゅうぐうにも、このよしをつたへきこえたまへ。ゆめおほんみやづかへのほどに、ひとときしろひそねむこころつかひたまふな。さいぐうにおはしまししころほひのおほんつみかるむべからんくどくのことを、かならずせさせたまへ。いとくやしきことになんありける。" |
35 | 8.2.14 | 649 | 614 |
など、言ひ続くれど、もののけに向かひて物語したまはむも、かたはらいたければ、封じ込めて、上をば、また異方に、忍びて渡したてまつりたまふ。 |
など、いひつづくれど、もののけにむかひてものがたりしたまはんも、かたはらいたければ、ふんじこめて、うへをば、またことかたに、しのびてわたしたてまつりたまふ。 |
35 | 8.3 | 650 | 615 | 第三段 紫の上、死去の噂流れる |
35 | 8.3.1 | 651 | 616 |
かく亡せたまひにけりといふこと、世の中に満ちて、御弔らひに聞こえたまふ人びとあるを、いとゆゆしく思す。今日の帰さ見に出でたまひける上達部など、帰りたまふ道に、かく人の申せば、 |
かくうせたまひにけりといふこと、よのなかにみちて、おほんとぶらひにきこえたまふひとびとあるを、いとゆゆしくおぼす。けふのかへさみにいでたまひけるかんだちめなど、かへりたまふみちに、かくひとのまうせば、 |
35 | 8.3.2 | 652 | 617 |
「いといみじきことにもあるかな。生けるかひありつる幸ひ人の、光失ふ日にて、雨はそほ降るなりけり」 |
"いといみじきことにもあるかな。いけるかひありつるさいはひびとの、ひかりうしなふひにて、あめはそほふるなりけり。" |
35 | 8.3.3 | 653 | 618 |
と、うちつけ言したまふ人もあり。また、 |
と、うちつけごとしたまふひともあり。また、 |
35 | 8.3.4 | 654 | 619 |
「かく足らひぬる人は、かならずえ長からぬことなり。『何を桜に』といふ古言もあるは。かかる人の、いとど世にながらへて、世の楽しびを尽くさば、かたはらの人苦しからむ。今こそ、二品の宮は、もとの御おぼえ現はれたまはめ。いとほしげに圧されたりつる御おぼえを」 |
"かくたらひぬるひとは、かならずえながからぬことなり。〔なにをさくらに〕といふふることもあるは。かかるひとの、いとどよにながらへて、よのたのしびをつくさば、かたはらのひとくるしからん。いまこそ、にほんのみやは、もとのおほんおぼえあらはれたまはめ。いとほしげにおされたりつるおほんおぼえを。" |
35 | 8.3.5 | 655 | 620 |
など、うちささめきけり。 |
など、うちささめきけり。 |
35 | 8.3.6 | 656 | 621 |
衛門督、昨日暮らしがたかりしを思ひて、今日は、御弟ども、左大弁、藤宰相など、奥の方に乗せて見たまひけり。かく言ひあへるを聞くにも、胸うちつぶれて、 |
ゑもんのかみ、きのふくらしがたかりしをおもひて、けふは、おほんおとうとども、さだいべん、とうさいしゃうなど、おくのかたにのせてみたまひけり。かくいひあへるをきくにも、むねうちつぶれて、 |
35 | 8.3.7 | 657 | 622 |
「何か憂き世に久しかるべき」 |
"〔なにかうきよにひさしかるべき〕 |
35 | 8.3.8 | 658 | 623 |
と、うち誦じ独りごちて、かの院へ皆参りたまふ。たしかならぬことなればゆゆしくや、とて、ただおほかたの御訪らひに参りたまへるに、かく人の泣き騒げば、まことなりけりと、立ち騷ぎたまへり。 |
と、うちずじひとりごちて、かのゐんへみなまゐりたまふ。たしかならぬことなればゆゆしくや、とて、ただおほかたのおほんとぶらひにまゐりたまへるに、かくひとのなきさわげば、まことなりけりと、たちさわぎたまへり。 |
35 | 8.3.9 | 659 | 624 |
式部卿宮も渡りたまひて、いといたく思しほれたるさまにてぞ入りたまふ。人の御消息も、え申し伝へたまはず。大将の君、涙を拭ひて立ち出でたまへるに、 |
しきぶきゃうのみやもわたりたまひて、いといたくおぼしほれたるさまにてぞいりたまふ。ひとのおほんせうそこも、えまうしつたへたまはず。だいしゃうのきみ、なみだをのごひてたちいでたまへるに、 |
35 | 8.3.10 | 660 | 625 |
「いかに、いかに。ゆゆしきさまに人の申しつれば、信じがたきことにてなむ。ただ久しき御悩みをうけたまはり嘆きて参りつる」 |
"いかに、いかに。ゆゆしきさまにひとのまうしつれば、しんじがたきことにてなん。ただひさしきおほんなやみをうけたまはりなげきてまゐりつる。" |
35 | 8.3.11 | 661 | 626 |
などのたまふ。 |
などのたまふ。 |
35 | 8.3.12 | 662 | 627 |
「いと重くなりて、月日経たまへるを、この暁より絶え入りたまへりつるを、もののけのしたるになむありける。やうやう生き出でたまふやうに聞きなしはべりて、今なむ皆人心静むめれど、まだいと頼もしげなしや。心苦しきことにこそ」 |
"いとおもくなりて、つきひへたまへるを、このあかつきよりたえいりたまへりつるを、もののけのしたるになんありける。やうやういきいでたまふやうにききなしはべりて、いまなんみなひとこころしづむめれど、まだいとたのもしげなしや。こころぐるしきことにこそ。" |
35 | 8.3.13 | 663 | 628 |
とて、まことにいたく泣きたまへるけしきなり。目もすこし腫れたり。衛門督、わがあやしき心ならひにや、『この君の、いとさしも親しからぬ継母の御ことを、いたく心しめたまへるかな』、と目をとどむ。 |
とて、まことにいたくなきたまへるけしきなり。めもすこしはれたり。ゑもんのかみ、わがあやしきこころならひにや、"このきみの、いとさしもしたしからぬままははのおほんことを、いたくこころしめたまへるかな"、とめをとどむ。 |
35 | 8.3.14 | 664 | 629 |
かく、これかれ参りたまへるよし聞こし召して、 |
かく、これかれまゐりたまへるよしきこしめして、 |
35 | 8.3.15 | 665 | 630 |
「重き病者の、にはかにとぢめつるさまなりつるを、女房などは、心もえ収めず、乱りがはしく騷ぎはべりけるに、みづからもえのどめず、心あわたたしきほどにてなむ。ことさらになむ、かくものしたまへるよろこびは聞こゆべき」 |
"おもきびゃうじゃの、にはかにとぢめつるさまなりつるを、にょうばうなどは、こころもえをさめず、みだりがはしくさわぎはべりけるに、みづからもえのどめず、こころあわたたしきほどにてなん。ことさらになん、かくものしたまへるよろこびはきこゆべき。" |
35 | 8.3.16 | 666 | 631 |
とのたまへり。督の君は胸つぶれて、かかる折のらうらうならずはえ参るまじく、けはひ恥づかしく思ふも、心のうちぞ腹ぎたなかりける。 |
とのたまへり。かんのきみはむねつぶれて、かかるをりのらうらうならずはえまゐるまじく、けはひはづかしくおもふも、こころのうちぞはらぎたなかりける。 |
35 | 8.4 | 667 | 632 | 第四段 紫の上、蘇生後に五戒を受く |
35 | 8.4.1 | 668 | 633 |
かく生き出でたまひての後しも、恐ろしく思して、またまた、いみじき法どもを尽くして加へ行なはせたまふ。 |
かくいきいでたまひてののちしも、おそろしくおぼして、またまた、いみじきほふどもをつくしてくはへおこなはせたまふ。 |
35 | 8.4.2 | 669 | 634 |
うつし人にてだに、むくつけかりし人の御けはひの、まして世変はり、妖しきもののさまになりたまへらむを思しやるに、いと心憂ければ、中宮を扱ひきこえたまふさへぞ、この折はもの憂く、言ひもてゆけば、女の身は、皆同じ罪深きもとゐぞかしと、なべての世の中厭はしく、かの、また人も聞かざりし御仲の睦物語に、すこし語り出でたまへりしことを言ひ出でたりしに、まことと思し出づるに、いとわづらはしく思さる。 |
うつしびとにてだに、むくつけかりしひとのおほんけはひの、ましてよかはり、あやしきもののさまになりたまへらんをおぼしやるに、いとこころうければ、ちゅうぐうをあつかひきこえたまふさへぞ、このをりはものうく、いひもてゆけば、をんなのみは、みなおなじつみふかきもとゐぞかしと、なべてのよのなかいとはしく、かの、またひともきかざりしおほんなかのむつものがたりに、すこしかたりいでたまへりしことをいひいでたりしに、まこととおぼしいづるに、いとわづらはしくおぼさる。 |
35 | 8.4.3 | 670 | 635 |
御髪下ろしてむと切に思したれば、忌むことの力もやとて、御頂しるしばかり挟みて、五戒ばかり受けさせたてまつりたまふ。御戒の師、忌むことのすぐれたるよし、仏に申すにも、あはれに尊きこと混じりて、人悪く御かたはらに添ひゐて、涙おし拭ひたまひつつ、仏を諸心に念じきこえたまふさま、世にかしこくおはする人も、いとかく御心惑ふことにあたりては、え静めたまはぬわざなりけり。 |
みぐしおろしてんとせちにおぼしたれば、いむことのちからもやとて、おほんいただきしるしばかりはさみて、ごかいばかりうけさせたてまつりたまふ。ごかいのし、いむことのすぐれたるよし、ほとけにまうすにも、あはれにたふときことまじりて、ひとわるくおほんかたはらにそひゐて、なみだおしのごひたまひつつ、ほとけをもろごころにねんじきこえたまふさま、よにかしこくおはするひとも、いとかくみこころまどふことにあたりては、えしづめたまはぬわざなりけり。 |
35 | 8.4.4 | 671 | 636 |
いかなるわざをして、これを救ひかけとどめたてまつらむとのみ、夜昼思し嘆くに、ほれぼれしきまで、御顔もすこし面痩せたまひにたり。 |
いかなるわざをして、これをすくひかけとどめたてまつらんとのみ、よるひるおぼしなげくに、ほれぼれしきまで、おほんかほもすこしおもやせたまひにたり。 |
35 | 8.5 | 672 | 637 | 第五段 紫の上、小康を得る |
35 | 8.5.1 | 673 | 638 |
五月などは、まして、晴れ晴れしからぬ空のけしきに、えさはやぎたまはねど、ありしよりはすこし良ろしきさまなり。されど、なほ絶えず悩みわたりたまふ。 |
ごがつなどは、まして、はればれしからぬそらのけしきに、えさはやぎたまはねど、ありしよりはすこしよろしきさまなり。されど、なほたえずなやみわたりたまふ。 |
35 | 8.5.2 | 674 | 639 |
もののけの罪救ふべきわざ、日ごとに法華経一部づつ供養ぜさせたまふ。日ごとに何くれと尊きわざせさせたまふ。御枕上近くても、不断の御読経、声尊き限りして読ませたまふ。現はれそめては、折々悲しげなることどもを言へど、さらにこのもののけ去り果てず。 |
もののけのつみすくふべきわざ、ひごとにほけきゃういちぶづつくやうぜさせたまふ。ひごとになにくれとたふときわざせさせたまふ。おほんまくらがみちかくても、ふだんのみどきゃう、こゑたふときかぎりしてよませたまふ。あらはれそめては、をりをりかなしげなることどもをいへど、さらにこのもののけさりはてず。 |
35 | 8.5.3 | 675 | 640 |
いとど暑きほどは、息も絶えつつ、いよいよのみ弱りたまへば、いはむかたなく思し嘆きたり。なきやうなる御心地にも、かかる御けしきを心苦しく見たてまつりたまひて、 |
いとどあつきほどは、いきもたえつつ、いよいよのみよわりたまへば、いはんかたなくおぼしなげきたり。なきやうなるみここちにも、かかるみけしきをこころぐるしくみたてまつりたまひて、 |
35 | 8.5.4 | 676 | 641 |
「世の中に亡くなりなむも、わが身にはさらに口惜しきこと残るまじけれど、かく思し惑ふめるに、空しく見なされたてまつらむが、いと思ひ隈なかるべければ」 |
"よのなかになくなりなんも、わがみにはさらにくちをしきことのこるまじけれど、かくおぼしまどふめるに、むなしくみなされたてまつらんが、いとおもひくまなかるべければ。" |
35 | 8.5.5 | 677 | 642 |
思ひ起こして、御湯などいささか参るけにや、六月になりてぞ、時々御頭もたげたまひける。めづらしく見たてまつりたまふにも、なほ、いとゆゆしくて、六条の院にはあからさまにもえ渡りたまはず。 |
おもひおこして、おほんゆなどいささかまゐるけにや、ろくがちになりてぞ、ときどきみぐしもたげたまひける。めづらしくみたてまつりたまふにも、なほ、いとゆゆしくて、ろくでうのゐんにはあからさまにもえわたりたまはず。 |
35 | 9 | 678 | 643 | 第九章 女三の宮の物語 懐妊と密通の露見 |
35 | 9.1 | 679 | 644 | 第一段 女三の宮懐妊す |
35 | 9.1.1 | 680 | 645 |
姫宮は、あやしかりしことを思し嘆きしより、やがて例のさまにもおはせず、悩ましくしたまへど、おどろおどろしくはあらず、立ちぬる月より、物きこし召さで、いたく青みそこなはれたまふ。 |
ひめみやは、あやしかりしことをおぼしなげきしより、やがてれいのさまにもおはせず、なやましくしたまへど、おどろおどろしくはあらず、たちぬるつきより、ものきこしめさで、いたくあをみそこなはれたまふ。 |
35 | 9.1.2 | 681 | 646 |
かの人は、わりなく思ひあまる時々は、夢のやうに見たてまつりけれど、宮、尽きせずわりなきことに思したり。院をいみじく懼ぢきこえたまへる御心に、ありさまも人のほども、等しくだにやはある、いたくよしめきなまめきたれば、おほかたの人目にこそ、なべての人には優りてめでらるれ、幼くより、さるたぐひなき御ありさまに馴らひたまへる御心には、めざましくのみ見たまふほどに、かく悩みわたりたまふは、あはれなる御宿世にぞありける。 |
かのひとは、わりなくおもひあまるときどきは、ゆめのやうにみたてまつりけれど、みや、つきせずわりなきことにおぼしたり。ゐんをいみじくおぢきこえたまへるみこころに、ありさまもひとのほども、ひとしくだにやはある、いたくよしめきなまめきたれば、おほかたのひとめにこそ、なべてのひとにはまさりてめでらるれ、をさなくより、さるたぐひなきおほんありさまにならひたまへるみこころには、めざましくのみみたまふほどに、かくなやみわたりたまふは、あはれなるおほんすくせにぞありける。 |
35 | 9.1.3 | 682 | 647 |
御乳母たち見たてまつりとがめて、院の渡らせたまふこともいとたまさかになるを、つぶやき恨みたてまつる。 |
おほんめのとたちみたてまつりとがめて、ゐんのわたらせたまふこともいとたまさかになるを、つぶやきうらみたてまつる。 |
35 | 9.1.4 | 683 | 648 |
かく悩みたまふと聞こし召してぞ渡りたまふ。女君は、暑くむつかしとて、御髪澄まして、すこしさはやかにもてなしたまへり。臥しながらうちやりたまへりしかば、とみにも乾かねど、つゆばかりうちふくみ、まよふ筋もなくて、いときよらにゆらゆらとして、青み衰へたまへるしも、色は真青に白くうつくしげに、透きたるやうに見ゆる御肌つきなど、世になくらうたげなり。もぬけたる虫の殻などのやうに、まだいとただよはしげにおはす。 |
かくなやみたまふときこしめしてぞわたりたまふ。をんなぎみは、あつくむつかしとて、みぐしすまして、すこしさはやかにもてなしたまへり。ふしながらうちやりたまへりしかば、とみにもかはかねど、つゆばかりうちふくみ、まよふすぢもなくて、いときよらにゆらゆらとして、あをみおとろへたまへるしも、いろはさをにしろくうつくしげに、すきたるやうにみゆるおほんはだつきなど、よになくらうたげなり。もぬけたるむしのからなどのやうに、まだいとただよはしげにおはす。 |
35 | 9.1.5 | 684 | 649 |
年ごろ住みたまはで、すこし荒れたりつる院の内、たとしへなく狭げにさへ見ゆ。昨日今日かくものおぼえたまふ隙にて、心ことにつくろはれたる遣水、前栽の、うちつけに心地よげなるを見出だしたまひても、あはれに、今まで経にけるを思ほす。 |
としごろすみたまはで、すこしあれたりつるゐんのうち、たとしへなくせばげにさへみゆ。きのふけふかくものおぼえたまふひまにて、こころことにつくろはれたるやりみづ、せんさいの、うちつけにここちよげなるをみいだしたまひても、あはれに、いままでへにけるをおもほす。 |
35 | 9.2 | 685 | 650 | 第二段 源氏、紫の上と和歌を唱和す |
35 | 9.2.1 | 686 | 651 |
池はいと涼しげにて、蓮の花の咲きわたれるに、葉はいと青やかにて、露きらきらと玉のやうに見えわたるを、 |
いけはいとすずしげにて、はちすのはなのさきわたれるに、ははいとあをやかにて、つゆきらきらとたまのやうにみえわたるを、 |
35 | 9.2.2 | 687 | 653 |
「かれ見たまへ。おのれ一人も涼しげなるかな」 |
"かれみたまへ。おのれひとりもすずしげなるかな。" |
35 | 9.2.3 | 688 | 654 |
とのたまふに、起き上がりて見出だしたまへるも、いとめづらしければ、 |
とのたまふに、おきあがりてみいだしたまへるも、いとめづらしければ、 |
35 | 9.2.4 | 689 | 655 |
「かくて見たてまつるこそ、夢の心地すれ。いみじく、わが身さへ限りとおぼゆる折々のありしはや」 |
"かくてみたてまつるこそ、ゆめのここちすれ。いみじく、わがみさへかぎりとおぼゆるをりをりのありしはや。" |
35 | 9.2.5 | 690 | 656 |
と、涙を浮けてのたまへば、みづからもあはれに思して、 |
と、なみだをうけてのたまへば、みづからもあはれにおぼして、 |
35 | 9.2.6 | 691 | 657 |
「消え止まるほどやは経べきたまさかに<BR/>蓮の露のかかるばかりを」 |
"〔きえとまるほどやはふべきたまさかに<BR/>はちすのつゆのかかるばかりを〕 |
35 | 9.2.7 | 692 | 658 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
35 | 9.2.8 | 693 | 659 |
「契り置かむこの世ならでも蓮葉に<BR/>玉ゐる露の心隔つな」 |
"〔ちぎりおかんこのよならでもはちすばに<BR/>たまゐるつゆのこころへだつな〕 |
35 | 9.2.9 | 694 | 660 |
出でたまふ方ざまはもの憂けれど、内裏にも院にも、聞こし召さむところあり、悩みたまふと聞きてもほど経ぬるを、目に近きに心を惑はしつるほど、見たてまつることもをさをさなかりつるに、かかる雲間にさへやは絶え籠もらむと、思し立ちて、渡りたまひぬ。 |
いでたまふかたざまはものうけれど、うちにもゐんにも、きこしめさんところあり、なやみたまふとききてもほどへぬるを、めにちかきにこころをまどはしつるほど、みたてまつることもをさをさなかりつるに、かかるくもまにさへやはたえこもらんと、おぼしたちて、わたりたまひぬ。 |
35 | 9.3 | 695 | 661 | 第三段 源氏、女三の宮を見舞う |
35 | 9.3.1 | 696 | 662 |
宮は、御心の鬼に、見えたてまつらむも恥づかしう、つつましく思すに、物など聞こえたまふ御いらへも、聞こえたまはねば、日ごろの積もりを、さすがにさりげなくてつらしと思しけると、心苦しければ、とかくこしらへきこえたまふ。大人びたる人召して、御心地のさまなど問ひたまふ。 |
みやは、みこころのおにに、みえたてまつらんもはづかしう、つつましくおぼすに、ものなどきこえたまふおほんいらへも、きこえたまはねば、ひごろのつもりを、さすがにさりげなくてつらしとおぼしけると、こころぐるしければ、とかくこしらへきこえたまふ。おとなびたるひとめして、みここちのさまなどとひたまふ。 |
35 | 9.3.2 | 697 | 663 |
「例のさまならぬ御心地になむ」 |
"れいのさまならぬみここちになん。" |
35 | 9.3.3 | 698 | 664 |
と、わづらひたまふ御ありさまを聞こゆ。 |
と、わづらひたまふおほんありさまをきこゆ。 |
35 | 9.3.4 | 699 | 665 |
「あやしく。ほど経てめづらしき御ことにも」 |
"あやしく。ほどへてめづらしきおほんことにも。" |
35 | 9.3.5 | 700 | 666 |
とばかりのたまひて、御心のうちには、 |
とばかりのたまひて、みこころのうちには、 |
35 | 9.3.6 | 701 | 667 |
「年ごろ経ぬる人びとだにもさることなきを、不定なる御事にもや」 |
"としごろへぬるひとびとだにもさることなきを、ふぢゃうなるおほんことにもや。" |
35 | 9.3.7 | 702 | 668 |
と思せば、ことにともかくものたまひあへしらひたまはで、ただ、うち悩みたまへるさまのいとらうたげなるを、あはれと見たてまつりたまふ。 |
とおぼせば、ことにともかくものたまひあへしらひたまはで、ただ、うちなやみたまへるさまのいとらうたげなるを、あはれとみたてまつりたまふ。 |
35 | 9.3.8 | 703 | 669 |
からうして思し立ちて渡りたまひしかば、ふともえ帰りたまはで、二、三日おはするほど、「いかに、いかに」とうしろめたく思さるれば、御文をのみ書き尽くしたまふ。 |
からうしておぼしたちてわたりたまひしかば、ふともえかへりたまはで、に、さんにちおはするほど、"いかに、いかに。"とうしろめたくおぼさるれば、おほんふみをのみかきつくしたまふ。 |
35 | 9.3.9 | 704 | 670 |
「いつの間に積もる御言の葉にかあらむ。いでや、やすからぬ世をも見るかな」 |
"いつのまにつもるおほんことのはにかあらん。いでや、やすからぬよをもみるかな。" |
35 | 9.3.10 | 705 | 671 |
と、若君の御過ちを知らぬ人は言ふ。侍従ぞ、かかるにつけても胸うち騷ぎける。 |
と、わかぎみのおほんあやまちをしらぬひとはいふ。じじゅうぞ、かかるにつけてもむねうちさわぎける。 |
35 | 9.3.11 | 706 | 672 |
かの人も、かく渡りたまへりと聞くに、おほけなく心誤りして、いみじきことどもを書き続けて、おこせたまへり。対にあからさまに渡りたまへるほどに、人間なりければ、忍びて見せたてまつる。 |
かのひとも、かくわたりたまへりときくに、おほけなくこころあやまりして、いみじきことどもをかきつづけて、おこせたまへり。たいにあからさまにわたりたまへるほどに、ひとまなりければ、しのびてみせたてまつる。 |
35 | 9.3.12 | 707 | 673 |
「むつかしきもの見するこそ、いと心憂けれ。心地のいとど悪しきに」 |
"むつかしきものみするこそ、いとこころうけれ。ここちのいとどあしきに。" |
35 | 9.3.13 | 708 | 674 |
とて臥したまへれば、 |
とてふしたまへれば、 |
35 | 9.3.14 | 709 | 675 |
「なほ、ただ、この端書きの、いとほしげにはべるぞや」 |
"なほ、ただ、このはしがきの、いとほしげにはべるぞや。" |
35 | 9.3.15 | 710 | 676 |
とて広げたれば、人の参るに、いと苦しくて、御几帳引き寄せて去りぬ。 |
とてひろげたれば、ひとのまゐるに、いとくるしくて、みきちゃうひきよせてさりぬ。 |
35 | 9.3.16 | 711 | 677 |
いとど胸つぶるるに、院入りたまへば、えよくも隠したまはで、御茵の下にさし挟みたまひつ。 |
いとどむねつぶるるに、ゐんいりたまへば、えよくもかくしたまはで、おほんしとねのしたにさしはさみたまひつ。 |
35 | 9.4 | 712 | 678 | 第四段 源氏、女三の宮と和歌を唱和す |
35 | 9.4.1 | 713 | 679 |
夜さりつ方、二条の院へ渡りたまはむとて、御暇聞こえたまふ。 |
よさりつかた、にでうのゐんへわたりたまはんとて、おほんいとまきこえたまふ。 |
35 | 9.4.2 | 714 | 680 |
「ここには、けしうはあらず見えたまふを、まだいとただよはしげなりしを、見捨てたるやうに思はるるも、今さらにいとほしくてなむ。ひがひがしく聞こえなす人ありとも、ゆめ心置きたまふな。今見直したまひてむ」 |
"ここには、けしうはあらずみえたまふを、まだいとただよはしげなりしを、みすてたるやうにおもはるるも、いまさらにいとほしくてなん。ひがひがしくきこえなすひとありとも、ゆめこころおきたまふな。いまみなほしたまひてん。" |
35 | 9.4.3 | 715 | 681 |
と語ひたまふ。例は、なまいはけなき戯れ言なども、うちとけ聞こえたまふを、いたくしめりて、さやかにも見合はせたてまつりたまはぬを、ただ世の恨めしき御けしきと心得たまふ。 |
とかたらひたまふ。れいは、なまいはけなきたはぶれごとなども、うちとけきこえたまふを、いたくしめりて、さやかにもみあはせたてまつりたまはぬを、ただよのうらめしきみけしきとこころえたまふ。 |
35 | 9.4.4 | 716 | 682 |
昼の御座にうち臥したまひて、御物語など聞こえたまふほどに暮れにけり。すこし大殿籠もり入りにけるに、ひぐらしのはなやかに鳴くにおどろきたまひて、 |
ひるのおましにうちふしたまひて、おほんものがたりなどきこえたまふほどにくれにけり。すこしおほとのごもりいりにけるに、ひぐらしのはなやかになくにおどろきたまひて、 |
35 | 9.4.5 | 717 | 683 |
「さらば、道たどたどしからぬほどに」 |
"さらば、みちたどたどしからぬほどに。" |
35 | 9.4.6 | 718 | 684 |
とて、御衣などたてまつり直す。 |
とて、おほんぞなどたてまつりなほす。 |
35 | 9.4.7 | 719 | 685 |
「月待ちて、とも言ふなるものを」 |
"つきまちて、ともいふなるものを。" |
35 | 9.4.8 | 720 | 686 |
と、いと若やかなるさましてのたまふは、憎からずかし。「その間にも、とや思す」と、心苦しげに思して、立ち止まりたまふ。 |
と、いとわかやかなるさましてのたまふは、にくからずかし。"そのまにも、とやおぼす。"と、こころぐるしげにおぼして、たちとまりたまふ。 |
35 | 9.4.9 | 721 | 687 |
「夕露に袖濡らせとやひぐらしの<BR/>鳴くを聞く聞く起きて行くらむ」 |
"〔ゆふつゆにそでぬらせとやひぐらしの<BR/>なくをきくきくおきてゆくらん〕 |
35 | 9.4.10 | 722 | 688 |
片なりなる御心にまかせて言ひ出でたまへるもらうたければ、ついゐて、 |
かたなりなるみこころにまかせていひいでたまへるもらうたければ、ついゐて、 |
35 | 9.4.11 | 723 | 689 |
「あな、苦しや」 |
"あな、くるしや。" |
35 | 9.4.12 | 724 | 690 |
と、うち嘆きたまふ。 |
と、うちなげきたまふ。 |
35 | 9.4.13 | 725 | 691 |
「待つ里もいかが聞くらむ方がたに<BR/>心騒がすひぐらしの声」 |
"〔まつさともいかがきくらんかたがたに<BR/>こころさわがすひぐらしのこゑ〕" |
35 | 9.4.14 | 726 | 692 |
など思しやすらひて、なほ情けなからむも心苦しければ、止まりたまひぬ。静心なく、さすがに眺められたまひて、御くだものばかり参りなどして、大殿籠もりぬ。 |
などおぼしやすらひて、なほなさけなからんもこころぐるしければ、とまりたまひぬ。しづごころなく、さすがにながめられたまひて、おほんくだものばかりまゐりなどして、おほとのごもりぬ。 |
35 | 9.5 | 727 | 693 | 第五段 源氏、柏木の手紙を発見 |
35 | 9.5.1 | 728 | 694 |
まだ朝涼みのほどに渡りたまはむとて、とく起きたまふ。 |
まだあさすずみのほどにわたりたまはんとて、とくおきたまふ。 |
35 | 9.5.2 | 729 | 695 |
「昨夜のかはほりを落として、これは風ぬるくこそありけれ」 |
"よべのかはほりをおとして、これはかぜぬるくこそありけれ。" |
35 | 9.5.3 | 730 | 696 |
とて、御扇置きたまひて、昨日うたた寝したまへりし御座のあたりを、立ち止まりて見たまふに、御茵のすこしまよひたるつまより、浅緑の薄様なる文の、押し巻きたる端見ゆるを、何心もなく引き出でて御覧ずるに、男の手なり。紙の香などいと艶に、ことさらめきたる書きざまなり。二重ねにこまごまと書きたるを見たまふに、「紛るべき方なく、その人の手なりけり」と見たまひつ。 |
とて、おほんあふぎおきたまひて、きのふうたたねしたまへりしおましのあたりを、たちとまりてみたまふに、おほんしとねのすこしまよひたるつまより、あさみどりのうすやうなるふみの、おしまきたるはしみゆるを、なにごころもなくひきいでてごらんずるに、をとこのてなり。かみのかなどいとえんに、ことさらめきたるかきざまなり。ふたかさねにこまごまとかきたるをみたまふに、"まぎるべきかたなく、そのひとのてなりけり。"とみたまひつ。 |
35 | 9.5.4 | 731 | 697 |
御鏡など開けて参らする人は、見たまふ文にこそはと、心も知らぬに、小侍従見つけて、昨日の文の色と見るに、いといみじく、胸つぶつぶと鳴る心地す。御粥など参る方に目も見やらず、 |
おほんかがみなどあけてまゐらするひとは、みたまふふみにこそはと、こころもしらぬに、こじじゅうみつけて、きのふのふみのいろとみるに、いといみじく、むねつぶつぶとなるここちす。おほんかゆなどまゐるかたにめもみやらず、 |
35 | 9.5.5 | 732 | 698 |
「いで、さりとも、それにはあらじ。いといみじく、さることはありなむや。隠いたまひてけむ」 |
"いで、さりとも、それにはあらじ。いといみじく、さることはありなんや。かくいたまひてけん。" |
35 | 9.5.6 | 733 | 699 |
と思ひなす。 |
とおもひなす。 |
35 | 9.5.7 | 734 | 700 |
宮は、何心もなく、まだ大殿籠もれり。 |
みやは、なにごころもなく、まだおほとのごもれり。 |
35 | 9.5.8 | 735 | 701 |
「あな、いはけな。かかる物を散らしたまひて。我ならぬ人も見つけたらましかば」 |
"あな、いはけな。かかるものをちらしたまひて。われならぬひともみつけたらましかば。" |
35 | 9.5.9 | 736 | 702 |
と思すも、心劣りして、 |
とおぼすも、こころおとりして、 |
35 | 9.5.10 | 737 | 703 |
「さればよ。いとむげに心にくきところなき御ありさまを、うしろめたしとは見るかし」 |
"さればよ。いとむげにこころにくきところなきおほんありさまを、うしろめたしとはみるかし。" |
35 | 9.5.11 | 738 | 704 |
と思す。 |
とおぼす。 |
35 | 9.6 | 739 | 705 | 第六段 小侍従、女三の宮を責める |
35 | 9.6.1 | 740 | 706 |
出でたまひぬれば、人びとすこしあかれぬるに、侍従寄りて、 |
いでたまひぬれば、ひとびとすこしあかれぬるに、じじゅうよりて、 |
35 | 9.6.2 | 741 | 707 |
「昨日の物は、いかがせさせたまひてし。今朝、院の御覧じつる文の色こそ、似てはべりつれ」 |
"きのふのものは、いかがせさせたまひてし。けさ、ゐんのごらんじつるふみのいろこそ、にてはべりつれ。" |
35 | 9.6.3 | 742 | 708 |
と聞こゆれば、あさましと思して、涙のただ出で来に出で来れば、いとほしきものから、「いふかひなの御さまや」と見たてまつる。 |
ときこゆれば、あさましとおぼして、なみだのただいできにいでくれば、いとほしきものから、"いふかひなのおほんさまや。"とみたてまつる。 |
35 | 9.6.4 | 743 | 709 |
「いづくにかは、置かせたまひてし。人びとの参りしに、ことあり顔に近くさぶらはじと、さばかりの忌みをだに、心の鬼に避りはべしを。入らせたまひしほどは、すこしほど経はべりにしを、隠させたまひつらむとなむ、思うたまへし」 |
"いづくにかは、おかせたまひてし。ひとびとのまゐりしに、ことありがほにちかくさぶらはじと、さばかりのいみをだに、こころのおににさりはべしを。いらせたまひしほどは、すこしほどへはべりにしを、かくさせたまひつらんとなん、おもうたまへし。" |
35 | 9.6.5 | 744 | 710 |
と聞こゆれば、 |
ときこゆれば、 |
35 | 9.6.6 | 745 | 711 |
「いさ、とよ。見しほどに入りたまひしかば、ふともえ置きあへで、さし挟みしを、忘れにけり」 |
"いさ、とよ。みしほどにいりたまひしかば、ふともえおきあへで、さしはさみしを、わすれにけり。" |
35 | 9.6.7 | 746 | 712 |
とのたまふに、いと聞こえむかたなし。寄りて見れば、いづくのかはあらむ。 |
とのたまふに、いときこえんかたなし。よりてみれば、いづくのかはあらん。 |
35 | 9.6.8 | 747 | 713 |
「あな、いみじ。かの君も、いといたく懼ぢ憚りて、けしきにても漏り聞かせたまふことあらばと、かしこまりきこえたまひしものを。ほどだに経ず、かかることの出でまうで来るよ。すべて、いはけなき御ありさまにて、人にも見えさせたまひければ、年ごろさばかり忘れがたく、恨み言ひわたりたまひしかど、かくまで思うたまへし御ことかは。誰が御ためにも、いとほしくはべるべきこと」 |
"あな、いみじ。かのきみも、いといたくおぢはばかりて、けしきにてももりきかせたまふことあらばと、かしこまりきこえたまひしものを。ほどだにへず、かかることのいでまうでくるよ。すべて、いはけなきおほんありさまにて、ひとにもみえさせたまひければ、としごろさばかりわすれがたく、うらみいひわたりたまひしかど、かくまでおもうたまへしおほんことかは。たがおほんためにも、いとほしくはべるべきこと。" |
35 | 9.6.9 | 748 | 714 |
と、憚りもなく聞こゆ。心やすく若くおはすれば、馴れきこえたるなめり。いらへもしたまはで、ただ泣きにのみぞ泣きたまふ。いと悩ましげにて、つゆばかりの物もきこしめさねば、 |
と、はばかりもなくきこゆ。こころやすくわかくおはすれば、なれきこえたるなめり。いらへもしたまはで、ただなきにのみぞなきたまふ。いとなやましげにて、つゆばかりのものもきこしめさねば、 |
35 | 9.6.10 | 749 | 715 |
「かく悩ましくせさせたまふを、見おきたてまつりたまひて、今はおこたり果てたまひにたる御扱ひに、心を入れたまへること」 |
"かくなやましくせさせたまふを、みおきたてまつりたまひて、いまはおこたりはてたまひにたるおほんあつかひに、こころをいれたまへること。" |
35 | 9.6.11 | 750 | 716 |
と、つらく思ひ言ふ。 |
と、つらくおもひいふ。 |
35 | 9.7 | 751 | 717 | 第七段 源氏、手紙を読み返す |
35 | 9.7.1 | 752 | 718 |
大殿は、この文のなほあやしく思さるれば、人見ぬ方にて、うち返しつつ見たまふ。「さぶらふ人びとの中に、かの中納言の手に似たる手して書きたるか」とまで思し寄れど、言葉づかひきらきらと、まがふべくもあらぬことどもあり。 |
おとどは、このふみのなほあやしくおぼさるれば、ひとみぬかたにて、うちかへしつつみたまふ。"さぶらふひとびとのなかに、かのちゅうなごんのてににたるてしてかきたるか。"とまでおぼしよれど、ことばづかひきらきらと、まがふべくもあらぬことどもあり。 |
35 | 9.7.2 | 753 | 719 |
「年を経て思ひわたりけることの、たまさかに本意かなひて、心やすからぬ筋を書き尽くしたる言葉、いと見所ありてあはれなれど、いとかくさやかには書くべしや。あたら人の、文をこそ思ひやりなく書きけれ。落ち散ることもこそと思ひしかば、昔、かやうにこまかなるべき折ふしにも、ことそぎつつこそ書き紛らはししか。人の深き用意は難きわざなりけり」 |
"としをへておもひわたりけることの、たまさかにほいかなひて、こころやすからぬすぢをかきつくしたることば、いとみどころありてあはれなれど、いとかくさやかにはかくべしや。あたらひとの、ふみをこそおもひやりなくかきけれ。おちちることもこそとおもひしかば、むかし、かやうにこまかなるべきをりふしにも、ことそぎつつこそかきまぎらはししか。ひとのふかきよういはかたきわざなりけり。" |
35 | 9.7.3 | 754 | 720 |
と、かの人の心をさへ見落としたまひつ。 |
と、かのひとのこころをさへみおとしたまひつ。 |
35 | 9.8 | 755 | 721 | 第八段 源氏、妻の密通を思う |
35 | 9.8.1 | 756 | 722 |
「さても、この人をばいかがもてなしきこゆべき。めづらしきさまの御心地も、かかることの紛れにてなりけり。いで、あな、心憂や。かく、人伝てならず憂きことを知るしる、ありしながら見たてまつらむよ」 |
"さても、このひとをばいかがもてなしきこゆべき。めづらしきさまのみここちも、かかることのまぎれにてなりけり。いで、あな、こころうや。かく、ひとづてならずうきことをしるしる、ありしながらみたてまつらんよ。" |
35 | 9.8.2 | 757 | 723 |
と、わが御心ながらも、え思ひ直すまじくおぼゆるを、 |
と、わがみこころながらも、えおもひなほすまじくおぼゆるを、 |
35 | 9.8.3 | 758 | 724 |
「なほざりのすさびと、初めより心をとどめぬ人だに、また異ざまの心分くらむと思ふは、心づきなく思ひ隔てらるるを、ましてこれは、さま異に、おほけなき人の心にもありけるかな。 |
"なほざりのすさびと、はじめよりこころをとどめぬひとだに、またことざまのこころわくらんとおもふは、こころづきなくおもひへだてらるるを、ましてこれは、さまことに、おほけなきひとのこころにもありけるかな。 |
35 | 9.8.4 | 759 | 725 |
帝の御妻をも過つたぐひ、昔もありけれど、それはまたいふ方異なり。宮仕へといひて、我も人も同じ君に馴れ仕うまつるほどに、おのづから、さるべき方につけても、心を交はしそめ、もののまぎれ多かりぬべきわざなり。 |
みかどのみめをもあやまつたぐひ、むかしもありけれど、それはまたいふかたことなり。みやづかへといひて、われもひともおなじきみになれつかうまつるほどに、おのづから、さるべきかたにつけても、こころをかはしそめ、もののまぎれおほかりぬべきわざなり。 |
35 | 9.8.5 | 760 | 726 |
女御、更衣といへど、とある筋かかる方につけて、かたほなる人もあり、心ばせかならず重からぬうち混じりて、思はずなることもあれど、おぼろけの定かなる過ち見えぬほどは、さても交じらふやうもあらむに、ふとしもあらはならぬ紛れありぬべし。 |
にょうご、かういといへど、とあるすぢかかるかたにつけて、かたほなるひともあり、こころばせかならずおもからぬうちまじりて、おもはずなることもあれど、おぼろけのさだかなるあやまちみえぬほどは、さてもまじらふやうもあらんに、ふとしもあらはならぬまぎれありぬべし。 |
35 | 9.8.6 | 761 | 727 |
かくばかり、またなきさまにもてなしきこえて、うちうちの心ざし引く方よりも、いつくしくかたじけなきものに思ひはぐくまむ人をおきて、かかることは、さらにたぐひあらじ」 |
かくばかり、またなきさまにもてなしきこえて、うちうちのこころざしひくかたよりも、いつくしくかたじけなきものにおもひはぐくまんひとをおきて、かかることは、さらにたぐひあらじ。" |
35 | 9.8.7 | 762 | 728 |
と、爪弾きせられたまふ。 |
と、つまはじきせられたまふ。 |
35 | 9.8.8 | 763 | 729 |
「帝と聞こゆれど、ただ素直に、公ざまの心ばへばかりにて、宮仕へのほどもものすさまじきに、心ざし深き私のねぎ言になびき、おのがじしあはれを尽くし、見過ぐしがたき折のいらへをも言ひそめ、自然に心通ひそむらむ仲らひは、同じけしからぬ筋なれど、寄る方ありや。わが身ながらも、さばかりの人に心分けたまふべくはおぼえぬものを」 |
"みかどときこゆれど、ただすなほに、おほやけざまのこころばへばかりにて、みやづかへのほどもものすさまじきに、こころざしふかきわたくしのねぎごとになびき、おのがじしあはれをつくし、みすぐしがたきをりのいらへをもいひそめ、じねんにこころかよひそむらんなからひは、おなじけしからぬすぢなれど、よるかたありや。わがみながらも、さばかりのひとにこころわけたまふべくはおぼえぬものを。" |
35 | 9.8.9 | 764 | 730 |
と、いと心づきなけれど、また「けしきに出だすべきことにもあらず」など、思し乱るるにつけて、 |
と、いとこころづきなけれど、また"けしきにいだすべきことにもあらず。"など、おぼしみだるるにつけて、 |
35 | 9.8.10 | 765 | 731 |
「故院の上も、かく御心には知ろし召してや、知らず顔を作らせたまひけむ。思へば、その世のことこそは、いと恐ろしく、あるまじき過ちなりけれ」 |
"こゐんのうへも、かくみこころにはしろしめしてや、しらずがほをつくらせたまひけん。おもへば、そのよのことこそは、いとおそろしく、あるまじきあやまちなりけれ。" |
35 | 9.8.11 | 766 | 732 |
と、近き例を思すにぞ、恋の山路は、えもどくまじき御心まじりける。 |
と、ちかきためしをおぼすにぞ、こひのやまぢは、えもどくまじきみこころまじりける。 |
35 | 10 | 767 | 733 | 第十章 光る源氏の物語 密通露見後 |
35 | 10.1 | 768 | 734 | 第一段 紫の上、女三の宮を気づかう |
35 | 10.1.1 | 769 | 735 |
つれなしづくりたまへど、もの思し乱るるさまのしるければ、女君、消え残りたるいとほしみに渡りたまひて、「人やりならず、心苦しう思ひやりきこえたまふにや」と思して、 |
つれなしづくりたまへど、ものおぼしみだるるさまのしるければ、をんなぎみ、きえのこりたるいとほしみにわたりたまひて、"ひとやりならず、こころぐるしうおもひやりきこえたまふにや。"とおぼして、 |
35 | 10.1.2 | 770 | 736 |
「心地はよろしくなりにてはべるを、かの宮の悩ましげにおはすらむに、とく渡りたまひにしこそ、いとほしけれ」 |
"ここちはよろしくなりにてはべるを、かのみやのなやましげにおはすらんに、とくわたりたまひにしこそ、いとほしけれ。" |
35 | 10.1.3 | 771 | 737 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
35 | 10.1.4 | 772 | 738 |
「さかし。例ならず見えたまひしかど、異なる心地にもおはせねば、おのづから心のどかに思ひてなむ。内裏よりは、たびたび御使ありけり。今日も御文ありつとか。院の、いとやむごとなく聞こえつけたまへれば、上もかく思したるなるべし。すこしおろかになどもあらむは、こなたかなた思さむことの、いとほしきぞや」 |
"さかし。れいならずみえたまひしかど、ことなるここちにもおはせねば、おのづからこころのどかにおもひてなん。うちよりは、たびたびおほんつかひありけり。けふもおほんふみありつとか。ゐんの、いとやんごとなくきこえつけたまへれば、うへもかくおぼしたるなるべし。すこしおろかになどもあらんは、こなたかなたおぼさんことの、いとほしきぞや。" |
35 | 10.1.5 | 773 | 739 |
とて、うめきたまへば、 |
とて、うめきたまへば、 |
35 | 10.1.6 | 774 | 740 |
「内裏の聞こし召さむよりも、みづから恨めしと思ひきこえたまはむこそ、心苦しからめ。我は思し咎めずとも、よからぬさまに聞こえなす人びと、かならずあらむと思へば、いと苦しくなむ」 |
"うちのきこしめさんよりも、みづからうらめしとおもひきこえたまはんこそ、こころぐるしからめ。われはおぼしとがめずとも、よからぬさまにきこえなすひとびと、かならずあらんとおもへば、いとくるしくなん。" |
35 | 10.1.7 | 775 | 741 |
などのたまへば、 |
などのたまへば、 |
35 | 10.1.8 | 776 | 742 |
「げに、あながちに思ふ人のためには、わづらはしきよすがなけれど、よろづにたどり深きこと、とやかくやと、おほよそ人の思はむ心さへ思ひめぐらさるるを、これはただ、国王の御心やおきたまはむとばかりを憚らむは、浅き心地ぞしける」 |
"げに、あながちにおもふひとのためには、わづらはしきよすがなけれど、よろづにたどりふかきこと、とやかくやと、おほよそびとのおもはんこころさへおもひめぐらさるるを、これはただ、こくわうのみこころやおきたまはんとばかりをはばからんは、あさきここちぞしける。" |
35 | 10.1.9 | 777 | 743 |
と、ほほ笑みてのたまひ紛らはす。渡りたまはむことは、 |
と、ほほゑみてのたまひまぎらはす。わたりたまはんことは、 |
35 | 10.1.10 | 778 | 744 |
「もろともに帰りてを。心のどかにあらむ」 |
"もろともにかへりてを。こころのどかにあらん。" |
35 | 10.1.11 | 779 | 745 |
とのみ聞こえたまふを、 |
とのみきこえたまふを、 |
35 | 10.1.12 | 780 | 746 |
「ここには、しばし心やすくてはべらむ。まづ渡りたまひて、人の御心も慰みなむほどにを」 |
"ここには、しばしこころやすくてはべらん。まづわたりたまひて、ひとのみこころもなぐさみなんほどにを。" |
35 | 10.1.13 | 781 | 747 |
と、聞こえ交はしたまふほどに、日ごろ経ぬ。 |
と、きこえかはしたまふほどに、ひごろへぬ。 |
35 | 10.2 | 782 | 748 | 第二段 柏木と女三の宮、密通露見におののく |
35 | 10.2.1 | 783 | 749 |
姫宮は、かく渡りたまはぬ日ごろの経るも、人の御つらさにのみ思すを、今は、「わが御おこたりうち混ぜてかくなりぬる」と思すに、院も聞こし召しつけて、いかに思し召さむと、世の中つつましくなむ。 |
ひめみやは、かくわたりたまはぬひごろのふるも、ひとのおほんつらさにのみおぼすを、いまは、"わがおほんおこたりうちまぜてかくなりぬる。"とおぼすに、ゐんもきこしめしつけて、いかにおぼしめさんと、よのなかつつましくなん。 |
35 | 10.2.2 | 784 | 750 |
かの人も、いみじげにのみ言ひわたれども、小侍従もわづらはしく思ひ嘆きて、「かかることなむ、ありし」と告げてければ、いとあさましく、 |
かのひとも、いみじげにのみいひわたれども、こじじゅうもわづらはしくおもひなげきて、"かかることなん、ありし。"とつげてければ、いとあさましく、 |
35 | 10.2.3 | 785 | 751 |
「いつのほどにさること出で来けむ。かかることは、あり経れば、おのづからけしきにても漏り出づるやうもや」 |
"いつのほどにさることいできけん。かかることは、ありふれば、おのづからけしきにてももりいづるやうもや。" |
35 | 10.2.4 | 786 | 752 |
と思ひしだに、いとつつましく、空に目つきたるやうにおぼえしを、「ましてさばかり違ふべくもあらざりしことどもを見たまひてけむ」、恥づかしく、かたじけなく、かたはらいたきに、朝夕、涼みもなきころなれど、身もしむる心地して、いはむかたなくおぼゆ。 |
とおもひしだに、いとつつましく、そらにめつきたるやうにおぼえしを、"ましてさばかりたがふべくもあらざりしことどもをみたまひてけん。"、はづかしく、かたじけなく、かたはらいたきに、あさゆふ、すずみもなきころなれど、みもしむるここちして、いはんかたなくおぼゆ。 |
35 | 10.2.5 | 787 | 753 |
「年ごろ、まめごとにもあだことにも、召しまつはし参り馴れつるものを。人よりはこまかに思しとどめたる御けしきの、あはれになつかしきを、あさましくおほけなきものに心おかれたてまつりては、いかでかは目をも見合はせたてまつらむ。さりとて、かき絶えほのめき参らざらむも、人目あやしく、かの御心にも思し合はせむことのいみじさ」 |
"としごろ、まめごとにもあだことにも、めしまつはしまゐりなれつるものを。ひとよりはこまかにおぼしとどめたるみけしきの、あはれになつかしきを、あさましくおほけなきものにこころおかれたてまつりては、いかでかはめをもみあはせたてまつらん。さりとて、かきたえほのめきまゐらざらんも、ひとめあやしく、かのみこころにもおぼしあはせんことのいみじさ。" |
35 | 10.2.6 | 788 | 754 |
など、やすからず思ふに、心地もいと悩ましくて、内裏へも参らず。さして重き罪には当たるべきならねど、身のいたづらになりぬる心地すれば、「さればよ」と、かつはわが心も、いとつらくおぼゆ。 |
など、やすからずおもふに、ここちもいとなやましくて、うちへもまゐらず。さしておもきつみにはあたるべきならねど、みのいたづらになりぬるここちすれば、"さればよ。"と、かつはわがこころも、いとつらくおぼゆ。 |
35 | 10.2.7 | 789 | 755 |
「いでや、しづやかに心にくきけはひ見えたまはぬわたりぞや。まづは、かの御簾のはさまも、さるべきことかは。軽々しと、大将の思ひたまへるけしき見えきかし」 |
"いでや、しづやかにこころにくきけはひみえたまはぬわたりぞや。まづは、かのみすのはさまも、さるべきことかは。かるがるしと、だいしゃうのおもひたまへるけしきみえきかし。" |
35 | 10.2.8 | 790 | 756 |
など、今ぞ思ひ合はする。しひてこのことを思ひさまさむと思ふ方にて、あながちに難つけたてまつらまほしきにやあらむ。 |
など、いまぞおもひあはする。しひてこのことをおもひさまさんとおもふかたにて、あながちになんつけたてまつらまほしきにやあらん。 |
35 | 10.3 | 791 | 757 | 第三段 源氏、女三の宮の幼さを非難 |
35 | 10.3.1 | 792 | 758 |
「良きやうとても、あまりひたおもむきにおほどかにあてなる人は、世のありさまも知らず、かつ、さぶらふ人に心おきたまふこともなくて、かくいとほしき御身のためも、人のためも、いみじきことにもあるかな」 |
"よきやうとても、あまりひたおもむきにおほどかにあてなるひとは、よのありさまもしらず、かつ、さぶらふひとにこころおきたまふこともなくて、かくいとほしきおほんみのためも、ひとのためも、いみじきことにもあるかな。" |
35 | 10.3.2 | 793 | 759 |
と、かの御ことの心苦しさも、え思ひ放たれたまはず。 |
と、かのおほんことのこころぐるしさも、えおもひはなたれたまはず。 |
35 | 10.3.3 | 794 | 760 |
宮は、いとらうたげにて悩みわたりたまふさまの、なほいと心苦しく、かく思ひ放ちたまふにつけては、あやにくに、憂きに紛れぬ恋しさの苦しく思さるれば、渡りたまひて、見たてまつりたまふにつけても、胸いたくいとほしく思さる。 |
みやは、いとらうたげにてなやみわたりたまふさまの、なほいとこころぐるしく、かくおもひはなちたまふにつけては、あやにくに、うきにまぎれぬこひしさのくるしくおぼさるれば、わたりたまひて、みたてまつりたまふにつけても、むねいたくいとほしくおぼさる。 |
35 | 10.3.4 | 795 | 761 |
御祈りなど、さまざまにせさせたまふ。おほかたのことは、ありしに変らず、なかなか労しくやむごとなくもてなしきこゆるさまをましたまふ。気近くうち語らひきこえたまふさまは、いとこよなく御心隔たりて、かたはらいたければ、人目ばかりをめやすくもてなして、思しのみ乱るるに、この御心のうちしもぞ苦しかりける。 |
おほんいのりなど、さまざまにせさせたまふ。おほかたのことは、ありしにかはらず、なかなかいたはしくやんごとなくもてなしきこゆるさまをましたまふ。けぢかくうちかたらひきこえたまふさまは、いとこよなくみこころへだたりて、かたはらいたければ、ひとめばかりをめやすくもてなして、おぼしのみみだるるに、このみこころのうちしもぞくるしかりける。 |
35 | 10.3.5 | 796 | 762 |
さること見きとも表はしきこえたまはぬに、みづからいとわりなく思したるさまも、心幼し。 |
さることみきともあらはしきこえたまはぬに、みづからいとわりなくおぼしたるさまも、こころをさなし。 |
35 | 10.3.6 | 797 | 763 |
「いとかくおはするけぞかし。良きやうといひながら、あまり心もとなく後れたる、頼もしげなきわざなり」 |
"いとかくおはするけぞかし。よきやうといひながら、あまりこころもとなくおくれたる、たのもしげなきわざなり。" |
35 | 10.3.7 | 798 | 764 |
と思すに、世の中なべてうしろめたく、 |
とおぼすに、よのなかなべてうしろめたく、 |
35 | 10.3.8 | 799 | 765 |
「女御の、あまりやはらかにおびれたまへるこそ、かやうに心かけきこえむ人は、まして心乱れなむかし。女は、かうはるけどころなくなよびたるを、人もあなづらはしきにや、さるまじきに、ふと目とまり、心強からぬ過ちはし出づるなりけり」 |
"にょうごの、あまりやはらかにおびれたまへるこそ、かやうにこころかけきこえんひとは、ましてこころみだれなんかし。をんなは、かうはるけどころなくなよびたるを、ひともあなづらはしきにや、さるまじきに、ふとめとまり、こころづよからぬあやまちはしいづるなりけり。" |
35 | 10.3.9 | 800 | 766 |
と思す。 |
とおぼす。 |
35 | 10.4 | 801 | 767 | 第四段 源氏、玉鬘の賢さを思う |
35 | 10.4.1 | 802 | 768 |
「右の大臣の北の方の、取り立てたる後見もなく、幼くより、ものはかなき世にさすらふるやうにて、生ひ出でたまひけれど、かどかどしく労ありて、我もおほかたには親めきしかど、憎き心の添はぬにしもあらざりしを、なだらかにつれなくもてなして過ぐし、この大臣の、さる無心の女房に心合はせて入り来たりけむにも、けざやかにもて離れたるさまを、人にも見え知られ、ことさらに許されたるありさまにしなして、わが心と罪あるにはなさずなりにしなど、今思へば、いかにかどあることなりけり。 |
"みぎのおとどのきたのかたの、とりたてたるうしろみもなく、をさなくより、ものはかなきよにさすらふるやうにて、おひいでたまひけれど、かどかどしくらうありて、われもおほかたにはおやめきしかど、にくきこころのそはぬにしもあらざりしを、なだらかにつれなくもてなしてすぐし、このおとどの、さるむじんのにょうばうにこころあはせていりきたりけんにも、けざやかにもてはなれたるさまを、ひとにもみえしられ、ことさらにゆるされたるありさまにしなして、わがこころとつみあるにはなさずなりにしなど、いまおもへば、いかにかどあることなりけり。 |
35 | 10.4.2 | 803 | 769 |
契り深き仲なりければ、長くかくて保たむことは、とてもかくても、同じごとあらましものから、心もてありしこととも、世人も思ひ出でば、すこし軽々しき思ひ加はりなまし、いといたくもてなしてしわざなり」と思し出づ。 |
ちぎりふかきなかなりければ、ながくかくてたもたんことは、とてもかくても、おなじごとあらましものから、こころもてありしこととも、よひともおもひいでば、すこしかるがるしきおもひくははりなまし、いといたくもてなしてしわざなり。"とおぼしいづ。 |
35 | 10.5 | 804 | 770 | 第五段 朧月夜、出家す |
35 | 10.5.1 | 805 | 771 |
二条の尚侍の君をば、なほ絶えず、思ひ出できこえたまへど、かくうしろめたき筋のこと、憂きものに思し知りて、かの御心弱さも、少し軽く思ひなされたまひけり。 |
にでうのないしのかんのきみをば、なほたえず、おもひいできこえたまへど、かくうしろめたきすぢのこと、うきものにおぼししりて、かのみこころよわさも、すこしかるくおもひなされたまひけり。 |
35 | 10.5.2 | 806 | 772 |
つひに御本意のことしたまひてけりと聞きたまひては、いとあはれに口惜しく、御心動きて、まづ訪らひきこえたまふ。今なむとだににほはしたまはざりけるつらさを、浅からず聞こえたまふ。 |
つひにおほんほいのことしたまひてけりとききたまひては、いとあはれにくちをしく、みこころうごきて、まづとぶらひきこえたまふ。いまなんとだににほはしたまはざりけるつらさを、あさからずきこえたまふ。 |
35 | 10.5.3 | 807 | 773 |
「海人の世をよそに聞かめや須磨の浦に<BR/>藻塩垂れしも誰れならなくに |
"〔あまのよをよそにきかめやすまのうらに<BR/>もしほたれしもたれならなくに |
35 | 10.5.4 | 808 | 774 |
さまざまなる世の定めなさを心に思ひつめて、今まで後れきこえぬる口惜しさを、思し捨てつとも、避りがたき御回向のうちには、まづこそはと、あはれになむ」 |
さまざまなるよのさだめなさをこころにおもひつめて、いままでおくれきこえぬるくちをしさを、おぼしすてつとも、さりがたきごゑかうのうちには、まづこそはと、あはれになん。" |
35 | 10.5.5 | 809 | 775 |
など、多く聞こえたまへり。 |
など、おほくきこえたまへり。 |
35 | 10.5.6 | 810 | 776 |
とく思し立ちにしことなれど、この御妨げにかかづらひて、人にはしか表はしたまはぬことなれど、心のうちあはれに、昔よりつらき御契りを、さすがに浅くしも思し知られぬなど、かたがたに思し出でらる。 |
とくおぼしたちにしことなれど、このおほんさまたげにかかづらひて、ひとにはしかあらはしたまはぬことなれど、こころのうちあはれに、むかしよりつらきおほんちぎりを、さすがにあさくしもおぼししられぬなど、かたがたにおぼしいでらる。 |
35 | 10.5.7 | 811 | 777 |
御返り、今はかくしも通ふまじき御文のとぢめと思せば、あはれにて、心とどめて書きたまふ、墨つきなど、いとをかし。 |
おほんかへり、いまはかくしもかよふまじきおほんふみのとぢめとおぼせば、あはれにて、こころとどめてかきたまふ、すみつきなど、いとをかし。 |
35 | 10.5.8 | 812 | 778 |
「常なき世とは身一つにのみ知りはべりにしを、後れぬとのたまはせたるになむ、げに、 |
"つねなきよとはみひとつにのみしりはべりにしを、おくれぬとのたまはせたるになん、げに、 |
35 | 10.5.9 | 813 | 779 |
海人舟にいかがは思ひおくれけむ<BR/>明石の浦にいさりせし君 |
あまぶねにいかがはおもひおくれけん<BR/>あかしのうらにいさりせしきみ |
35 | 10.5.10 | 814 | 780 |
回向には、あまねきかどにても、いかがは」 |
ゑかうには、あまねきかどにても、いかがは。" |
35 | 10.5.11 | 815 | 781 |
とあり。濃き青鈍の紙にて、樒にさしたまへる、例のことなれど、いたく過ぐしたる筆づかひ、なほ古りがたくをかしげなり。 |
とあり。こきあをにびのかみにて、しきみにさしたまへる、れいのことなれど、いたくすぐしたるふでづかひ、なほふりがたくをかしげなり。 |
35 | 10.6 | 816 | 782 | 第六段 源氏、朧月夜と朝顔を語る |
35 | 10.6.1 | 817 | 783 |
二条院におはしますほどにて、女君にも、今はむげに絶えぬることにて、見せたてまつりたまふ。 |
にでうのゐんにおはしますほどにて、をんなぎみにも、いまはむげにたえぬることにて、みせたてまつりたまふ。 |
35 | 10.6.2 | 818 | 784 |
「いといたくこそ恥づかしめられたれ。げに、心づきなしや。さまざま心細き世の中のありさまを、よく見過ぐしつるやうなるよ。なべての世のことにても、はかなくものを言ひ交はし、時々によせて、あはれをも知り、ゆゑをも過ぐさず、よそながらの睦び交はしつべき人は、斎院とこの君とこそは残りありつるを、かくみな背き果てて、斎院はた、いみじうつとめて、紛れなく行なひにしみたまひにたなり。 |
"いといたくこそはづかしめられたれ。げに、こころづきなしや。さまざまこころぼそきよのなかのありさまを、よくみすぐしつるやうなるよ。なべてのよのことにても、はかなくものをいひかはし、ときどきによせて、あはれをもしり、ゆゑをもすぐさず、よそながらのむつびかはしつべきひとは、さいゐんとこのきみとこそはのこりありつるを、かくみなそむきはてて、さいゐんはた、いみじうつとめて、まぎれなくおこなひにしみたまひにたなり。 |
35 | 10.6.3 | 819 | 785 |
なほ、ここらの人のありさまを聞き見る中に、深く思ふさまに、さすがになつかしきことの、かの人の御なずらひにだにもあらざりけるかな。女子を生ほし立てむことよ、いと難かるべきわざなりけり。 |
なほ、ここらのひとのありさまをききみるなかに、ふかくおもふさまに、さすがになつかしきことの、かのひとのおほんなずらひにだにもあらざりけるかな。をんなごをおほしたてんことよ、いとかたかるべきわざなりけり。 |
35 | 10.6.4 | 820 | 786 |
宿世などいふらむものは、目に見えぬわざにて、親の心に任せがたし。生ひ立たむほどの心づかひは、なほ力入るべかめり。よくこそ、あまたかたがたに心を乱るまじき契りなりけれ。年深くいらざりしほどは、さうざうしのわざや、さまざまに見ましかばとなむ、嘆かしきをりをりありし。 |
すくせなどいふらんものは、めにみえぬわざにて、おやのこころにまかせがたし。おひたたんほどのこころづかひは、なほちからいるべかめり。よくこそ、あまたかたがたにこころをみだるまじきちぎりなりけれ。としふかくいらざりしほどは、さうざうしのわざや、さまざまにみましかばとなん、なげかしきをりをりありし。 |
35 | 10.6.5 | 821 | 787 |
若宮を、心して生ほし立てたてまつりたまへ。女御は、ものの心を深く知りたまふほどならで、かく暇なき交らひをしたまへば、何事も心もとなき方にぞものしたまふらむ。御子たちなむ、なほ飽く限り人に点つかるまじくて、世をのどかに過ぐしたまはむに、うしろめたかるまじき心ばせ、つけまほしきわざなりける。限りありて、とざまかうざまの後見まうくるただ人は、おのづからそれにも助けられぬるを」 |
わかみやを、こころしておほしたてたてまつりたまへ。にょうごは、もののこころをふかくしりたまふほどならで、かくいとまなきまじらひをしたまへば、なにごともこころもとなきかたにぞものしたまふらん。みこたちなん、なほあくかぎりひとにてんつかるまじくて、よをのどかにすぐしたまはんに、うしろめたかるまじきこころばせ、つけまほしきわざなりける。かぎりありて、とざまかうざまのうしろみまうくるただうどは、おのづからそれにもたすけられぬるを。" |
35 | 10.6.6 | 822 | 788 |
など聞こえたまへば、 |
などきこえたまへば、 |
35 | 10.6.7 | 823 | 789 |
「はかばかしきさまの御後見ならずとも、世にながらへむ限りは、見たてまつらぬやうあらじと思ふを、いかならむ」 |
"はかばかしきさまのおほんうしろみならずとも、よにながらへんかぎりは、みたてまつらぬやうあらじとおもふを、いかならん。" |
35 | 10.6.8 | 824 | 790 |
とて、なほものを心細げにて、かく心にまかせて、行なひをもとどこほりなくしたまふ人びとを、うらやましく思ひきこえたまへり。 |
とて、なほものをこころぼそげにて、かくこころにまかせて、おこなひをもとどこほりなくしたまふひとびとを、うらやましくおもひきこえたまへり。 |
35 | 10.6.9 | 825 | 791 |
「尚侍の君に、さま変はりたまへらむ装束など、まだ裁ち馴れぬほどは訪らふべきを、袈裟などはいかに縫ふものぞ。それせさせたまへ。一領は、六条の東の君にものしつけむ。うるはしき法服だちては、うたて見目もけうとかるべし。さすがに、その心ばへ見せてを」 |
"かんのきみに、さまかはりたまへらんさうぞくなど、まだたちなれぬほどはとぶらふべきを、けさなどはいかにぬふものぞ。それせさせたまへ。ひとくだりは、ろくでうのひんがしのきみにものしつけん。うるはしきほふぶくだちては、うたてみめもけうとかるべし。さすがに、そのこころばへみせてを。" |
35 | 10.6.10 | 826 | 792 |
など聞こえたまふ。 |
などきこえたまふ。 |
35 | 10.6.11 | 827 | 793 |
青鈍の一領を、ここにはせさせたまふ。作物所の人召して、忍びて、尼の御具どものさるべきはじめのたまはす。御茵、上席、屏風、几帳などのことも、いと忍びて、わざとがましくいそがせたまひけり。 |
あをにびのひとくだりを、ここにはせさせたまふ。つくもどころのひとめして、しのびて、あまのおほんぐどものさるべきはじめのたまはす。おほんしとね、うはむしろ、びゃうぶ、きちゃうなどのことも、いとしのびて、わざとがましくいそがせたまひけり。 |
35 | 11 | 828 | 794 | 第十一章 朱雀院の物語 五十賀の延引 |
35 | 11.1 | 829 | 795 | 第一段 女二の宮、院の五十の賀を祝う |
35 | 11.1.1 | 830 | 796 |
かくて、山の帝の御賀も延びて、秋とありしを、八月は大将の御忌月にて、楽所のこと行なひたまはむに、便なかるべし。九月は、院の大后の崩れたまひにし月なれば、十月にと思しまうくるを、姫宮いたく悩みたまへば、また延びぬ。 |
かくて、やまのみかどのおほんがものびて、あきとありしを、はちがつはだいしゃうのおほんきづきにて、がくそのことおこなひたまはんに、びんなかるべし。くがつは、ゐんのおほきさきのかくれたまひにしつきなれば、じふがつにとおぼしまうくるを、ひめみやいたくなやみたまへば、またのびぬ。 |
35 | 11.1.2 | 831 | 797 |
衛門督の御預かりの宮なむ、その月には参りたまひける。太政大臣居立ちて、いかめしくこまかに、もののきよら、儀式を尽くしたまへりけり。督の君も、そのついでにぞ、思ひ起こして出でたまひける。なほ、悩ましく、例ならず病づきてのみ過ぐしたまふ。 |
ゑもんのかみのおほんあづかりのみやなん、そのつきにはまゐりたまひける。おほきおとどゐたちて、いかめしくこまかに、もののきよら、ぎしきをつくしたまへりけり。かんのきみも、そのついでにぞ、おもひおこしていでたまひける。なほ、なやましく、れいならずやまひづきてのみすぐしたまふ。 |
35 | 11.1.3 | 832 | 798 |
宮も、うちはへてものをつつましく、いとほしとのみ思し嘆くにやあらむ、月多く重なりたまふままに、いと苦しげにおはしませば、院は、心憂しと思ひきこえたまふ方こそあれ、いとらうたげにあえかなるさまして、かく悩みわたりたまふを、いかにおはせむと嘆かしくて、さまざまに思し嘆く。御祈りなど、今年は紛れ多くて過ぐしたまふ。 |
みやも、うちはへてものをつつましく、いとほしとのみおぼしなげくにやあらん、つきおほくかさなりたまふままに、いとくるしげにおはしませば、ゐんは、こころうしとおもひきこえたまふかたこそあれ、いとらうたげにあえかなるさまして、かくなやみわたりたまふを、いかにおはせんとなげかしくて、さまざまにおぼしなげく。おほんいのりなど、ことしはまぎれおほくてすぐしたまふ。 |
35 | 11.2 | 833 | 799 | 第二段 朱雀院、女三の宮へ手紙 |
35 | 11.2.1 | 834 | 800 |
御山にも聞こし召して、らうたく恋しと思ひきこえたまふ。月ごろかくほかほかにて、渡りたまふこともをさをさなきやうに、人の奏しければ、いかなるにかと御胸つぶれて、世の中も今さらに恨めしく思して、 |
みやまにもきこしめして、らうたくこひしとおもひきこえたまふ。つきごろかくほかほかにて、わたりたまふこともをさをさなきやうに、ひとのさうしければ、いかなるにかとおほんむねつぶれて、よのなかもいまさらにうらめしくおぼして、 |
35 | 11.2.2 | 835 | 801 |
「対の方のわづらひけるころは、なほその扱ひにと聞こし召してだに、なまやすからざりしを、そののち、直りがたくものしたまふらむは、そのころほひ、便なきことや出で来たりけむ。みづから知りたまふことならねど、良からぬ御後見どもの心にて、いかなることかありけむ。内裏わたりなどの、みやびを交はすべき仲らひなどにも、けしからず憂きこと言ひ出づるたぐひも聞こゆかし」 |
"たいのかたのわづらひけるころは、なほそのあつかひにときこしめしてだに、なまやすからざりしを、そののち、なほりがたくものしたまふらんは、そのころほひ、びんなきことやいできたりけん。みづからしりたまふことならねど、よからぬおほんうしろみどものこころにて、いかなることかありけん。うちわたりなどの、みやびをかはすべきなからひなどにも、けしからずうきこといひいづるたぐひもきこゆかし。" |
35 | 11.2.3 | 836 | 802 |
とさへ思し寄るも、こまやかなること思し捨ててし世なれど、なほ子の道は離れがたくて、宮に御文こまやかにてありけるを、大殿、おはしますほどにて、見たまふ。 |
とさへおぼしよるも、こまやかなることおぼしすててしよなれど、なほこのみちははなれがたくて、みやにおほんふみこまやかにてありけるを、おとど、おはしますほどにて、みたまふ。 |
35 | 11.2.4 | 837 | 803 |
「そのこととなくて、しばしばも聞こえぬほどに、おぼつかなくてのみ年月の過ぐるなむ、あはれなりける。悩みたまふなるさまは、詳しく聞きしのち、念誦のついでにも思ひやらるるは、いかが。世の中寂しく思はずなることありとも、忍び過ぐしたまへ。恨めしげなるけしきなど、おぼろけにて、見知り顔にほのめかす、いと品おくれたるわざになむ」 |
"そのこととなくて、しばしばもきこえぬほどに、おぼつかなくてのみとしつきのすぐるなん、あはれなりける。なやみたまふなるさまは、くはしくききしのち、ねんずのついでにもおもひやらるるは、いかが。よのなかさびしくおもはずなることありとも、しのびすぐしたまへ。うらめしげなるけしきなど、おぼろけにて、みしりがほにほのめかす、いとしなおくれたるわざになん。" |
35 | 11.2.5 | 838 | 804 |
など、教へきこえたまへり。 |
など、をしへきこえたまへり。 |
35 | 11.2.6 | 839 | 805 |
いといとほしく心苦しく、「かかるうちうちのあさましきをば、聞こし召すべきにはあらで、わがおこたりに、本意なくのみ聞き思すらむことを」とばかり思し続けて、 |
いといとほしくこころぐるしく、"かかるうちうちのあさましきをば、きこしめすべきにはあらで、わがおこたりに、ほいなくのみききおぼすらんことを。"とばかりおぼしつづけて、 |
35 | 11.2.7 | 840 | 806 |
「この御返りをば、いかが聞こえたまふ。心苦しき御消息に、まろこそいと苦しけれ。思はずに思ひきこゆることありとも、おろかに、人の見咎むばかりはあらじとこそ思ひはべれ。誰が聞こえたるにかあらむ」 |
"このおほんかへりをば、いかがきこえたまふ。こころぐるしきおほんせうそこに、まろこそいとくるしけれ。おもはずにおもひきこゆることありとも、おろかに、ひとのみとがむばかりはあらじとこそおもひはべれ。たがきこえたるにかあらん。" |
35 | 11.2.8 | 841 | 807 |
とのたまふに、恥ぢらひて背きたまへる御姿も、いとらうたげなり。いたく面痩せて、もの思ひ屈したまへる、いとどあてにをかし。 |
とのたまふに、はぢらひてそむきたまへるおほんすがたも、いとらうたげなり。いたくおもやせて、ものおもひくしたまへる、いとどあてにをかし。 |
35 | 11.3 | 842 | 808 | 第三段 源氏、女三の宮を諭す |
35 | 11.3.1 | 843 | 809 |
「いと幼き御心ばへを見おきたまひて、いたくはうしろめたがりきこえたまふなりけりと、思ひあはせたてまつれば、今より後もよろづになむ。かうまでもいかで聞こえじと思へど、上の、御心に背くと聞こし召すらむことの、やすからず、いぶせきを、ここにだに聞こえ知らせでやはとてなむ。 |
"いとをさなきみこころばへをみおきたまひて、いたくはうしろめたがりきこえたまふなりけりと、おもひあはせたてまつれば、いまよりのちもよろづになん。かうまでもいかできこえじとおもへど、うへの、みこころにそむくときこしめすらんことの、やすからず、いぶせきを、ここにだにきこえしらせでやはとてなん。 |
35 | 11.3.2 | 844 | 810 |
いたり少なく、ただ、人の聞こえなす方にのみ寄るべかめる御心には、ただおろかに浅きとのみ思し、また、今はこよなくさだ過ぎにたるありさまも、あなづらはしく目馴れてのみ見なしたまふらむも、かたがたに口惜しくもうれたくもおぼゆるを、院のおはしまさむほどは、なほ心収めて、かの思しおきてたるやうありけむ、さだ過ぎ人をも、同じくなずらへきこえて、いたくな軽めたまひそ。 |
いたりすくなく、ただ、ひとのきこえなすかたにのみよるべかめるみこころには、ただおろかにあさきとのみおぼし、また、いまはこよなくさだすぎにたるありさまも、あなづらはしくめなれてのみみなしたまふらんも、かたがたにくちをしくもうれたくもおぼゆるを、ゐんのおはしまさんほどは、なほこころをさめて、かのおぼしおきてたるやうありけん、さだすぎびとをも、おなじくなずらへきこえて、いたくなかるめたまひそ。 |
35 | 11.3.3 | 845 | 811 |
いにしへより本意深き道にも、たどり薄かるべき女方にだに、皆思ひ後れつつ、いとぬるきこと多かるを、みづからの心には、何ばかり思しまよふべきにはあらねど、今はと捨てたまひけむ世の後見に譲りおきたまへる御心ばへの、あはれにうれしかりしを、ひき続き争ひきこゆるやうにて、同じさまに見捨てたてまつらむことの、あへなく思されむにつつみてなむ。 |
いにしへよりほいふかきみちにも、たどりうすかるべきをんながたにだに、みなおもひおくれつつ、いとぬるきことおほかるを、みづからのこころには、なにばかりおぼしまよふべきにはあらねど、いまはとすてたまひけんよのうしろみにゆずりおきたまへるみこころばへの、あはれにうれしかりしを、ひきつづきあらそひきこゆるやうにて、おなじさまにみすてたてまつらんことの、あへなくおぼされんにつつみてなん。 |
35 | 11.3.4 | 846 | 812 |
心苦しと思ひし人びとも、今はかけとどめらるるほだしばかりなるもはべらず。女御も、かくて、行く末は知りがたけれど、御子たち数添ひたまふめれば、みづからの世だにのどけくはと見おきつべし。その他は、誰れも誰れも、あらむに従ひて、もろともに身を捨てむも、惜しかるまじき齢どもになりにたるを、やうやうすずしく思ひはべる。 |
こころぐるしとおもひしひとびとも、いまはかけとどめらるるほだしばかりなるもはべらず。にょうごも、かくて、ゆくすゑはしりがたけれど、みこたちかずそひたまふめれば、みづからのよだにのどけくはとみおきつべし。そのほかは、たれもたれも、あらんにしたがひて、もろともにみをすてんも、をしかるまじきよはひどもになりにたるを、やうやうすずしくおもひはべる。 |
35 | 11.3.5 | 847 | 813 |
院の御世の残り久しくもおはせじ。いと篤しくいとどなりまさりたまひて、もの心細げにのみ思したるに、今さらに思はずなる御名の漏り聞こえて、御心乱りたまふな。この世はいとやすし。ことにもあらず。後の世の御道の妨げならむも、罪いと恐ろしからむ」 |
ゐんのみよののこりひさしくもおはせじ。いとあつしくいとどなりまさりたまひて、ものこころぼそげにのみおぼしたるに、いまさらにおもはずなるおほんなのもりきこえて、みこころみだりたまふな。このよはいとやすし。ことにもあらず。のちのよのおほんみちのさまたげならんも、つみいとおそろしからん。" |
35 | 11.3.6 | 848 | 814 |
など、まほにそのこととは明かしたまはねど、つくづくと聞こえ続けたまふに、涙のみ落ちつつ、我にもあらず思ひしみておはすれば、我もうち泣きたまひて、 |
など、まほにそのこととはあかしたまはねど、つくづくときこえつづけたまふに、なみだのみおちつつ、われにもあらずおもひしみておはすれば、われもうちなきたまひて、 |
35 | 11.3.7 | 849 | 815 |
「人の上にても、もどかしく聞き思ひし古人のさかしらよ。身に代はることにこそ。いかにうたての翁やと、むつかしくうるさき御心添ふらむ」 |
"ひとのうへにても、もどかしくききおもひしふるびとのさかしらよ。みにかはることにこそ。いかにうたてのおきなやと、むつかしくうるさきみこころそふらん。" |
35 | 11.3.8 | 850 | 816 |
と、恥ぢたまひつつ、御硯引き寄せたまひて、手づから押し磨り、紙取りまかなひ、書かせたてまつりたまへど、御手もわななきて、え書きたまはず。 |
と、はぢたまひつつ、おほんすずりひきよせたまひて、てづからおしすり、かみとりまかなひ、かかせたてまつりたまへど、おほんてもわななきて、えかきたまはず。 |
35 | 11.3.9 | 851 | 817 |
「かのこまかなりし返事は、いとかくしもつつまず通はしたまふらむかし」と思しやるに、いと憎ければ、よろづのあはれも冷めぬべけれど、言葉など教へて書かせたてまつりたまふ。 |
"かのこまかなりしかへりごとは、いとかくしもつつまずかよはしたまふらんかし。"とおぼしやるに、いとにくければ、よろづのあはれもさめぬべけれど、ことばなどをしへてかかせたてまつりたまふ。 |
35 | 11.4 | 852 | 818 | 第四段 朱雀院の御賀、十二月に延引 |
35 | 11.4.1 | 853 | 819 |
参りたまはむことは、この月かくて過ぎぬ。二の宮の御勢ひ殊にて参りたまひけるを、古めかしき御身ざまにて、立ち並び顔ならむも、憚りある心地しけり。 |
まゐりたまはんことは、このつきかくてすぎぬ。にのみやのおほんいきほひことにてまゐりたまひけるを、ふるめかしきおほんみざまにて、たちならびがほならんも、はばかりあるここちしけり。 |
35 | 11.4.2 | 854 | 820 |
「霜月はみづからの忌月なり。年の終りはた、いともの騒がし。また、いとどこの御姿も見苦しく、待ち見たまはむをと思ひはべれど、さりとて、さのみ延ぶべきことにやは。むつかしくもの思し乱れず、あきらかにもてなしたまひて、このいたく面痩せたまへる、つくろひたまへ」 |
"しもつきはみづからのきづきなり。としのをはりはた、いとものさわがし。また、いとどこのおほんすがたもみぐるしく、まちみたまはんをとおもひはべれど、さりとて、さのみのぶべきことにやは。むつかしくものおぼしみだれず、あきらかにもてなしたまひて、このいたくおもやせたまへる、つくろひたまへ。" |
35 | 11.4.3 | 855 | 821 |
など、いとらうたしと、さすがに見たてまつりたまふ。 |
など、いとらうたしと、さすがにみたてまつりたまふ。 |
35 | 11.4.4 | 856 | 822 |
衛門督をば、何ざまのことにも、ゆゑあるべきをりふしには、かならずことさらにまつはしたまひつつ、のたまはせ合はせしを、絶えてさる御消息もなし。人あやしと思ふらむと思せど、「見むにつけても、いとどほれぼれしきかた恥づかしく、見むにはまたわが心もただならずや」と思し返されつつ、やがて月ごろ参りたまはぬをも咎めなし。 |
ゑもんのかみをば、なにざまのことにも、ゆゑあるべきをりふしには、かならずことさらにまつはしたまひつつ、のたまはせあはせしを、たえてさるおほんせうそこもなし。ひとあやしとおもふらんとおぼせど、"みんにつけても、いとどほれぼれしきかたはづかしく、みんにはまたわがこころもただならずや。"とおぼしかへされつつ、やがてつきごろまゐりたまはぬをもとがめなし。 |
35 | 11.4.5 | 857 | 823 |
おほかたの人は、なほ例ならず悩みわたりて、院にはた、御遊びなどなき年なれば、とのみ思ひわたるを、大将の君ぞ、「あるやうあることなるべし。好色者は、さだめてわがけしきとりしことには、忍ばぬにやありけむ」と思ひ寄れど、いとかく定かに残りなきさまならむとは、思ひ寄りたまはざりけり。 |
おほかたのひとは、なほれいならずなやみわたりて、ゐんにはた、おほんあそびなどなきとしなれば、とのみおもひわたるを、だいしゃうのきみぞ、"あるやうあることなるべし。すきものは、さだめてわがけしきとりしことには、しのばぬにやありけん。"とおもひよれど、いとかくさだかにのこりなきさまならんとは、おもひよりたまはざりけり。 |
35 | 11.5 | 858 | 824 | 第五段 源氏、柏木を六条院に召す |
35 | 11.5.1 | 859 | 825 |
十二月になりにけり。十余日と定めて、舞ども習らし、殿のうちゆすりてののしる。二条の院の上は、まだ渡りたまはざりけるを、この試楽によりてぞ、えしづめ果てで渡りたまへる。女御の君も里におはします。このたびの御子は、また男にてなむおはしましける。すぎすぎいとをかしげにておはするを、明け暮れもて遊びたてまつりたまふになむ、過ぐる齢のしるし、うれしく思されける。試楽に、右大臣殿の北の方も渡りたまへり。 |
じふにがつになりにけり。じふよにちとさだめて、まひどもならし、とののうちゆすりてののしる。にでうのゐんのうへは、まだわたりたまはざりけるを、このしがくによりてぞ、えしづめはてでわたりたまへる。にょうごのきみもさとにおはします。このたびのみこは、またをとこにてなんおはしましける。すぎすぎいとをかしげにておはするを、あけくれもてあそびたてまつりたまふになん、すぐるよはひのしるし、うれしくおぼされける。しがくに、うだいじんどののきたのかたもわたりたまへり。 |
35 | 11.5.2 | 860 | 826 |
大将の君、丑寅の町にて、まづうちうちに調楽のやうに、明け暮れ遊び習らしたまひければ、かの御方は、御前の物は見たまはず。 |
だいしゃうのきみ、うしとらのまちにて、まづうちうちにてうがくのやうに、あけくれあそびならしたまひければ、かの0ほんかたは、おまへのものはみたまはず。 |
35 | 11.5.3 | 861 | 827 |
衛門督を、かかることの折も交じらはせざらむは、いと栄なく、さうざうしかるべきうちに、人あやしと傾きぬべきことなれば、参りたまふべきよしありけるを、重くわづらふよし申して参らず。 |
ゑもんのかみを、かかることのをりもまじらはせざらんは、いとはえなく、さうざうしかるべきうちに、ひとあやしとかたぶきぬべきことなれば、まゐりたまふべきよしありけるを、おもくわづらふよしまうしてまゐらず。 |
35 | 11.5.4 | 862 | 828 |
さるは、そこはかと苦しげなる病にもあらざなるを、思ふ心のあるにやと、心苦しく思して、取り分きて御消息つかはす。父大臣も、 |
さるは、そこはかとくるしげなるやまひにもあらざなるを、おもふこころのあるにやと、こころぐるしくおぼして、とりわきておほんせうそこつかはす。ちちおとども、 |
35 | 11.5.5 | 863 | 829 |
「などか返さひ申されける。ひがひがしきやうに、院にも聞こし召さむを、おどろおどろしき病にもあらず、助けて参りたまへ」 |
"などかかへさひまうされける。ひがひがしきやうに、ゐんにもきこしめさんを、おどろおどろしきやまひにもあらず、たすけてまゐりたまへ。" |
35 | 11.5.6 | 864 | 830 |
とそそのかしたまふに、かく重ねてのたまへれば、苦しと思ふ思ふ参りぬ。 |
とそそのかしたまふに、かくかさねてのたまへれば、くるしとおもふおもふまゐりぬ。 |
35 | 11.6 | 865 | 831 | 第六段 源氏、柏木と対面す |
35 | 11.6.1 | 866 | 832 |
まだ上達部なども集ひたまはぬほどなりけり。例の気近き御簾の内に入れたまひて、母屋の御簾下ろしておはします。げに、いといたく痩せ痩せに青みて、例も誇りかにはなやぎたる方は、弟の君たちにはもて消たれて、いと用意あり顔にしづめたるさまぞことなるを、いとどしづめてさぶらひたまふさま、「などかは皇女たちの御かたはらにさし並べたらむに、さらに咎あるまじきを、ただことのさまの、誰も誰もいと思ひやりなきこそ、いと罪許しがたけれ」など、御目とまれど、さりげなく、いとなつかしく、 |
まだかんだちめなどもつどひたまはぬほどなりけり。れいのけぢかきみすのうちにいれたまひて、もやのみすおろしておはします。げに、いといたくやせやせにあをみて、れいもほこりかにはなやぎたるかたは、おとうとのきみたちにはもてけたれて、いとよういありがほにしづめたるさまぞことなるを、いとどしづめてさぶらひたまふさま、"などかはみこたちのおほんかたはらにさしならべたらんに、さらにとがあるまじきを、ただことのさまの、たれもたれもいとおもひやりなきこそ、いとつみゆるしがたけれ。"など、おほんめとまれど、さりげなく、いとなつかしく、 |
35 | 11.6.2 | 867 | 833 |
「そのこととなくて、対面もいと久しくなりにけり。月ごろは、いろいろの病者を見あつかひ、心の暇なきほどに、院の御賀のため、ここにものしたまふ皇女の、法事仕うまつりたまふべくありしを、次々とどこほることしげくて、かく年もせめつれば、え思ひのごとくしあへで、型のごとくなむ、斎の御鉢参るべきを、御賀などいへば、ことことしきやうなれど、家に生ひ出づる童べの数多くなりにけるを御覧ぜさせむとて、舞など習はしはじめし、そのことをだに果たさむとて。拍子調へむこと、また誰れにかはと思ひめぐらしかねてなむ、月ごろ訪ぶらひものしたまはぬ恨みも捨ててける」 |
"そのこととなくて、たいめんもいとひさしくなりにけり。つきごろは、いろいろのびゃうざをみあつかひ、こころのいとまなきほどに、ゐんのおほんがのため、ここにものしたまふみこの、ほふじつかうまつりたまふべくありしを、つぎつぎとどこほることしげくて、かくとしもせめつれば、えおもひのごとくしあへで、かたのごとくなん、いもひのみはちまゐるべきを、おほんがなどいへば、ことことしきやうなれど、いへにおひいづるわらはべのかずおほくなりにけるをごらんぜさせんとて。まひなどならはしはじめし、そのことをだにはたさんとて。ひゃうしととのへんこと、またたれにかはとおもひめぐらしかねてなん、つきごろとぶらひものしたまはぬうらみもすててける。" |
35 | 11.6.3 | 868 | 835 |
とのたまふ御けしきの、うらなきやうなるものから、いといと恥づかしきに、顔の色違ふらむとおぼえて、御いらへもとみに聞こえず。 |
とのたまふおほんけしきの、うらなきやうなるものから、いといとはづかしきに、かほのいろたがふらんとおぼえて、おほんいらへもとみにきこえず。 |
35 | 11.7 | 869 | 836 | 第七段 柏木と御賀について打ち合わせる |
35 | 11.7.1 | 870 | 837 |
「月ごろ、かたがたに思し悩む御こと、承り嘆きはべりながら、春のころほひより、例も患ひはべる乱り脚病といふもの、所狭く起こり患ひはべりて、はかばかしく踏み立つることもはべらず、月ごろに添へて沈みはべりてなむ、内裏などにも参らず、世の中跡絶えたるやうにて籠もりはべる。 |
"つきごろ、かたがたにおぼしなやむおほんこと、うけたまはりなげきはべりながら、はるのころほひより、れいもわづらひはべるみだりかくびゃうといふもの、ところせくおこりわづらひはべりて、はかばかしくふみたつることもはべらず、つきごろにそへてしづみはべりてなん、うちなどにもまゐらず、よのなかあとたえたるやうにてこもりはべる。 |
35 | 11.7.2 | 871 | 838 |
院の御齢足りたまふ年なり、人よりさだかに数へたてまつり仕うまつるべきよし、致仕の大臣思ひ及び申されしを、『冠を掛け、車を惜しまず捨ててし身にて、進み仕うまつらむに、つくところなし。げに、下臈なりとも、同じごと深きところはべらむ。その心御覧ぜられよ』と、催し申さるることのはべしかば、重き病を相助けてなむ、参りてはべし。 |
ゐんのおほんよはひたりたまふとしなり、ひとよりさだかにかぞへたてまつりつかうまつるべきよし、ちじのおとどおもひおよびまうされしを、"かうぶりをかけ、くるまををしまずすててしみにて、すすみつかうまつらんに、つくところなし。げに、げらふなりとも、おなじごとふかきところはべらん。そのこころごらんぜられよ。"と、もよほしまうさるることのはべしかば、おもきやまひをあひたすけてなん、まゐりてはべし。 |
35 | 11.7.3 | 872 | 839 |
今は、いよいよいとかすかなるさまに思し澄まして、いかめしき御よそひを待ちうけたてまつりたまはむこと、願はしくも思すまじく見たてまつりはべしを、事どもをば削がせたまひて、静かなる御物語の深き御願ひ叶はせたまはむなむ、まさりてはべるべき」 |
いまは、いよいよいとかすかなるさまにおぼしすまして、いかめしきおほんよそひをまちうけたてまつりたまはんこと、ねがはしくもおぼすまじくみたてまつりはべしを、ことどもをばそがせたまひて、しづかなるおほんものがたりのふかきおほんねがひかなはせたまはんなん、まさりてはべるべき。" |
35 | 11.7.4 | 873 | 840 |
と申したまへば、いかめしく聞きし御賀の事を、女二の宮の御方ざまには言ひなさぬも、労ありと思す。 |
とまうしたまへば、いかめしくききしおほんがのことを、をんなにのみやのおほんかたざまにはいひなさぬも、らうありとおぼす。 |
35 | 11.7.5 | 874 | 841 |
「ただかくなむ。こと削ぎたるさまに世人は浅く見るべきを、さはいへど、心得てものせらるるに、さればよとなむ、いとど思ひなられはべる。大将は、公方は、やうやう大人ぶめれど、かうやうに情けびたる方は、もとよりしまぬにやあらむ。 |
"ただかくなん。ことそぎたるさまによひとはあさくみるべきを、さはいへど、こころえてものせらるるに、さればよとなん、いとどおもひなられはべる。だいしゃうは、おほやけがたは、やうやうおとなぶめれど、かうやうになさけびたるかたは、もとよりしまぬにやあらん。 |
35 | 11.7.6 | 875 | 842 |
かの院、何事も心及びたまはぬことは、をさをさなきうちにも、楽の方のことは御心とどめて、いとかしこく知り調へたまへるを、さこそ思し捨てたるやうなれ、静かに聞こしめし澄まさむこと、今しもなむ心づかひせらるべき。かの大将ともろともに見入れて、舞の童べの用意、心ばへ、よく加へたまへ。物の師などいふものは、ただわが立てたることこそあれ、いと口惜しきものなり」 |
かのゐん、なにごともこころおよびたまはぬことは、をさをさなきうちにも、がくのかたのことはみこころとどめて、いとかしこくしりととのへたまへるを、さこそおぼしすてたるやうなれ、しづかにきこしめしすまさんこと、いましもなんこころづかひせらるべき。かのだいしゃうともろともにみいれて、まひのわらはべのようい、こころばへ、よくくはへたまへ。もののしなどいふものは、ただわがたてたることこそあれ、いとくちをしきものなり。" |
35 | 11.7.7 | 876 | 843 |
など、いとなつかしくのたまひつくるを、うれしきものから、苦しくつつましくて、言少なにて、この御前をとく立ちなむと思へば、例のやうにこまやかにもあらで、やうやうすべり出でぬ。 |
など、いとなつかしくのたまひつくるを、うれしきものから、くるしくつつましくて、ことずくなにて、このおまへをとくたちなんとおもへば、れいのやうにこまやかにもあらで、やうやうすべりいでぬ。 |
35 | 11.7.8 | 877 | 844 |
東の御殿にて、大将のつくろひ出だしたまふ楽人、舞人の装束のことなど、またまた行なひ加へたまふ。あるべき限りいみじく尽くしたまへるに、いとど詳しき心しらひ添ふも、げにこの道は、いと深き人にぞものしたまふめる。 |
ひんがしのおとどにて、だいしゃうのつくろひいだしたまふがくにん、まひびとのさうぞくのことなど、またまたおこなひくはへたまふ。あるべきかぎりいみじくつくしたまへるに、いとどくはしきこころしらひそふも、げにこのみちは、いとふかきひとにぞものしたまふめる。 |
35 | 12 | 878 | 845 | 第十二章 柏木の物語 源氏から睨まれる |
35 | 12.1 | 879 | 846 | 第一段 御賀の試楽の当日 |
35 | 12.1.1 | 880 | 847 |
今日は、かかる試みの日なれど、御方々物見たまはむに、見所なくはあらせじとて、かの御賀の日は、赤き白橡に、葡萄染の下襲を着るべし、今日は、青色に蘇芳襲、楽人三十人、今日は白襲を着たる、辰巳の方の釣殿に続きたる廊を楽所にて、山の南の側より御前に出づるほど、「仙遊霞」といふもの遊びて、雪のただいささか散るに、春のとなり近く、梅のけしき見るかひありてほほ笑みたり。 |
けふは、かかるこころみのひなれど、おほんかたがたものみたまはんに、みどころなくはあらせじとて、かのおほんがのひは、あかきしらつるばみに、えびぞめのしたがさねをきるべし、けふは、あをいろにすはうがさね、がくにんさんじふにん、けふはしらがさねをきたる、たつみのかたのつりどのにつづきたるらうをがくそにて、やまのみなみのそばよりおまへにいづるほど、〔せんいうか〕といふものあそびて、ゆきのただいささかちるに、はるのとなりちかく、むめのけしきみるかひありてほほゑみたり。 |
35 | 12.1.2 | 881 | 848 |
廂の御簾の内におはしませば、式部卿宮、右大臣ばかりさぶらひたまひて、それより下の上達部は簀子に、わざとならぬ日のことにて、御饗応など、気近きほどに仕うまつりなしたり。 |
ひさしのみすのうちにおはしませば、しきぶきゃうのみや、みぎのおとどばかりさぶらひたまひて、それよりしものかんだちめはすのこに、わざとならぬひのことにて、おほんあるじなど、けぢかきほどにつかうまつりなしたり。 |
35 | 12.1.3 | 882 | 849 |
右の大殿の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿宮の孫王の君たち二人は、「万歳楽」。まだいと小さきほどにて、いとらうたげなり。四人ながら、いづれとなく高き家の子にて、容貌をかしげにかしづき出でたる、思ひなしも、やむごとなし。 |
みぎのおほとののしらうぎみ、だいしゃうどののさぶらうぎみ、ひゃうぶきゃうのみやのそんわうのきみたちふたりは、〔まんざいらく〕。まだいとちひさきほどにて、いとらうたげなり。よたりながら、いづれとなくたかきいへのこにて、かたちをかしげにかしづきいでたる、おもひなしも、やんごとなし。 |
35 | 12.1.4 | 883 | 850 |
また、大将の典侍腹の二郎君、式部卿宮の兵衛督といひし、今は源中納言の御子、「皇麞」。右の大殿の三郎君、「陵王」。大将殿の太郎、「落蹲」。さては「太平楽」、「喜春楽」などいふ舞どもをなむ、同じ御仲らひの君たち、大人たちなど舞ひける。 |
また、だいしゃうのないしのすけばらのじらうぎみ、しきぶきゃうのみやのひゃうゑのかみといひし、いまはげんちゅうなごんのみこ、〔わうじゃう〕。みぎのおほいどののさぶらうぎみ、〔りゃうわう〕。だいしゃうどののたらう、〔らくそん〕。さては〔たいへいらく〕、〔きしゅんらく〕などいふまひどもをなん、おなじおほんなからひのきみたち、おとなたちなどまひける。 |
35 | 12.1.5 | 884 | 851 |
暮れゆけば、御簾上げさせたまひて、物の興まさるに、いとうつくしき御孫の君たちの容貌、姿にて、舞のさまも、世に見えぬ手を尽くして、御師どもも、おのおの手の限りを教へきこえけるに、深きかどかどしさを加へて、珍らかに舞ひたまふを、いづれをもいとらうたしと思す。老いたまへる上達部たちは、皆涙落としたまふ。式部卿宮も、御孫を思して、御鼻の色づくまでしほたれたまふ。 |
くれゆけば、みすあげさせたまひて、もののきょうまさるに、いとうつくしきおほんむまごのきみたちのかたち、すがたにて、まひのさまも、よにみえぬてをつくして、おほんしどもも、おのおのてのかぎりををしへきこえけるに、ふかきかどかどしさをくはへて、めづらかにまひたまふを、いづれをもいとらうたしとおぼす。おいたまへるかんだちめたちは、みななみだおとしたまふ。しきぶきゃうのみやも、おほんまごをおぼして、おほんはなのいろづくまでしほたれたまふ。 |
35 | 12.2 | 885 | 852 | 第二段 源氏、柏木に皮肉を言う |
35 | 12.2.1 | 886 | 853 |
主人の院、 |
あるじのゐん、 |
35 | 12.2.2 | 887 | 854 |
「過ぐる齢に添へては、酔ひ泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門督、心とどめてほほ笑まるる、いと心恥づかしや。さりとも、今しばしならむ。さかさまに行かぬ年月よ。老いはえ逃れぬわざなり」 |
"すぐるよはひにそへては、ゑひなきこそとどめがたきわざなりけれ。ゑもんのかみ、こころとどめてほほゑまるる、いとこころはづかしや。さりとも、いましばしならん。さかさまにゆかぬとしつきよ。おいはえのがれぬわざなり。" |
35 | 12.2.3 | 888 | 855 |
とて、うち見やりたまふに、人よりけにまめだち屈じて、まことに心地もいと悩ましければ、いみじきことも目もとまらぬ心地する人をしも、さしわきて、空酔ひをしつつかくのたまふ。戯れのやうなれど、いとど胸つぶれて、盃のめぐり来るも頭いたくおぼゆれば、けしきばかりにて紛らはすを、御覧じ咎めて、持たせながらたびたび強ひたまへば、はしたなくて、もてわづらふさま、なべての人に似ずをかし。 |
とて、うちみやりたまふに、ひとよりけにまめだちくんじて、まことにここちもいとなやましければ、いみじきこともめもとまらぬここちするひとをしも、さしわきて、そらゑひをしつつかくのたまふ。たはぶれのやうなれど、いとどむねつぶれて、さかづきのめぐりくるもかしらいたくおぼゆれば、けしきばかりにてまぎらはすを、ごらんじとがめて、もたせながらたびたびしひたまへば、はしたなくて、もてわづらふさま、なべてのひとににずをかし。 |
35 | 12.2.4 | 889 | 856 |
心地かき乱りて堪へがたければ、まだことも果てぬにまかでたまひぬるままに、いといたく惑ひて、 |
ここちかきみだりてたへがたければ、まだこともはてぬにまかでたまひぬるままに、いといたくまどひて、 |
35 | 12.2.5 | 890 | 857 |
「例の、いとおどろおどろしき酔ひにもあらぬを、いかなればかかるならむ。つつましとものを思ひつるに、気ののぼりぬるにや。いとさいふばかり臆すべき心弱さとはおぼえぬを、言ふかひなくもありけるかな」 |
"れいの、いとおどろおどろしきゑひにもあらぬを、いかなればかかるならん。つつましとものをおもひつるに、けののぼりぬるにや。いとさいふばかりおくすべきこころよわさとはおぼえぬを、いふかひなくもありけるかな。" |
35 | 12.2.6 | 891 | 858 |
とみづから思ひ知らる。 |
とみづからおもひしらる。 |
35 | 12.2.7 | 892 | 859 |
しばしの酔ひの惑ひにもあらざりけり。やがていといたくわづらひたまふ。大臣、母北の方思し騷ぎて、よそよそにていとおぼつかなしとて、殿に渡したてまつりたまふを、女宮の思したるさま、またいと心苦し。 |
しばしのゑひのまどひにもあらざりけり。やがていといたくわづらひたまふ。おとど、ははきたのかたおぼしさわぎて、よそよそにていとおぼつかなしとて、とのにわたしたてまつりたまふを、をんなみやのおぼしたるさま、またいとこころぐるし。 |
35 | 12.3 | 893 | 860 | 第三段 柏木、女二の宮邸を出る |
35 | 12.3.1 | 894 | 861 |
ことなくて過ぐす月日は、心のどかにあいな頼みして、いとしもあらぬ御心ざしなれど、今はと別れたてまつるべき門出にやと思ふは、あはれに悲しく、後れて思し嘆かむことのかたじけなきを、いみじと思ふ。母御息所も、いといみじく嘆きたまひて、 |
ことなくてすぐすつきひは、こころのどかにあいなだのみして、いとしもあらぬみこころざしなれど、いまはとわかれたてまつるべきかどでにやとおもふは、あはれにかなしく、おくれておぼしなげかんことのかたじけなきを、いみじとおもふ。ははみやすんどころも、いといみじくなげきたまひて、 |
35 | 12.3.2 | 895 | 862 |
「世のこととして、親をばなほさるものにおきたてまつりて、かかる御仲らひは、とある折もかかる折も、離れたまはぬこそ例のことなれ、かく引き別れて、たひらかにものしたまふまでも過ぐしたまはむが、心尽くしなるべきことを、しばしここにて、かくて試みたまへ」 |
"よのこととして、おやをばなほさるものにおきたてまつりて、かかるおほんなからひは、とあるをりもかかるをりも、はなれたまはぬこそれいのことなれ、かくひきわかれて、たひらかにものしたまふまでもすぐしたまはんが、こころづくしなるべきことを、しばしここにて、かくてこころみたまへ。" |
35 | 12.3.3 | 896 | 863 |
と、御かたはらに御几帳ばかりを隔てて見たてまつりたまふ。 |
と、おほんかたはらにみきちゃうばかりをへだててみたてまつりたまふ。 |
35 | 12.3.4 | 897 | 864 |
「ことわりや。数ならぬ身にて、及びがたき御仲らひに、なまじひに許されたてまつりて、さぶらふしるしには、長く世にはべりて、かひなき身のほども、すこし人と等しくなるけぢめをもや御覧ぜらるる、とこそ思うたまへつれ、いといみじく、かくさへなりはべれば、深き心ざしをだに御覧じ果てられずやなりはべりなむと思うたまふるになむ、とまりがたき心地にも、え行きやるまじく思ひたまへらるる」 |
"ことわりや。かずならぬみにて、およびがたきおほんなからひに、なまじひにゆるされたてまつりて、さぶらふしるしには、ながくよにはべりて、かひなきみのほども、すこしひととひとしくなるけぢめをもやごらんぜらるる、とこそおもうたまへつれ、いといみじく、かくさへなりはべれば、ふかきこころざしをだにごらんじはてられずやなりはべりなんとおもうたまふるになん、とまりがたきここちにも、えゆきやるまじくおもひたまへらるる。" |
35 | 12.3.5 | 898 | 865 |
など、かたみに泣きたまひて、とみにもえ渡りたまはねば、また母北の方、うしろめたく思して、 |
など、かたみになきたまひて、とみにもえわたりたまはねば、またははきたのかた、うしろめたくおぼして、 |
35 | 12.3.6 | 899 | 866 |
「などか、まづ見えむとは思ひたまふまじき。われは、心地もすこし例ならず心細き時は、あまたの中に、まづ取り分きてゆかしくも頼もしくもこそおぼえたまへ。かくいとおぼつかなきこと」 |
"などか、まづみえんとはおもひたまふまじき。われは、ここちもすこしれいならずこころぼそきときは、あまたのなかに、まづとりわきてゆかしくもたのもしくもこそおぼえたまへ。かくいとおぼつかなきこと。" |
35 | 12.3.7 | 900 | 867 |
と恨みきこえたまふも、また、いとことわりなり。 |
とうらみきこえたまふも、また、いとことわりなり。 |
35 | 12.3.8 | 901 | 868 |
「人より先なりけるけぢめにや、取り分きて思ひならひたるを、今になほかなしくしたまひて、しばしも見えぬをば苦しきものにしたまへば、心地のかく限りにおぼゆる折しも、見えたてまつらざらむ、罪深く、いぶせかるべし。 |
"ひとよりさきなりけるけぢめにや、とりわきておもひならひたるを、いまになほかなしくしたまひて、しばしもみえぬをばくるしきものにしたまへば、ここちのかくかぎりにおぼゆるをりしも、みえたてまつらざらん、つみふかく、いぶせかるべし。 |
35 | 12.3.9 | 902 | 869 |
今はと頼みなく聞かせたまはば、いと忍びて渡りたまひて御覧ぜよ。かならずまた対面賜はらむ。あやしくたゆくおろかなる本性にて、ことに触れておろかに思さるることありつらむこそ、悔しくはべれ。かかる命のほどを知らで、行く末長くのみ思ひはべりけること」 |
いまはとたのみなくきかせたまはば、いとしのびてわたりたまひてごらんぜよ。かならずまたたいめんたまはらん。あやしくたゆくおろかなるほんじゃうにて、ことにふれておろかにおぼさるることありつらんこそ、くやしくはべれ。かかるいのちのほどをしらで、ゆくすゑながくのみおもひはべりけること。" |
35 | 12.3.10 | 903 | 870 |
と、泣く泣く渡りたまひぬ。宮はとまりたまひて、言ふ方なく思しこがれたり。 |
と、なくなくわたりたまひぬ。みやはとまりたまひて、いふかたなくおぼしこがれたり。 |
35 | 12.4 | 904 | 871 | 第四段 柏木の病、さらに重くなる |
35 | 12.4.1 | 905 | 872 |
大殿に待ち受けきこえたまひて、よろづに騷ぎたまふ。さるは、たちまちにおどろおどろしき御心地のさまにもあらず、月ごろ物などをさらに参らざりけるに、いとどはかなき柑子などをだに触れたまはず、ただ、やうやうものに引き入るるやうに見えたまふ。 |
おほとのにまちうけきこえたまひて、よろづにさわぎたまふ。さるは、たちまちにおどろおどろしきみここちのさまにもあらず、つきごろものなどをさらにまゐらざりけるに、いとどはかなきかうじなどをだにふれたまはず、ただ、やうやうものにひきいるるやうにみえたまふ。 |
35 | 12.4.2 | 906 | 873 |
さる時の有職の、かくものしたまへば、世の中惜しみあたらしがりて、御訪らひに参りたまはぬ人なし。内裏よりも院よりも、御訪らひしばしば聞こえつつ、いみじく惜しみ思し召したるにも、いとどしき親たちの御心のみ惑ふ。 |
さるときのいうそくの、かくものしたまへば、よのなかをしみあたらしがりて、おほんとぶらひにまゐりたまはぬひとなし。うちよりもゐんよりも、おほんとぶらひしばしばきこえつつ、いみじくをしみおぼしめしたるにも、いとどしきおやたちのみこころのみまどふ。 |
35 | 12.4.3 | 907 | 874 |
六条院にも、「いと口惜しきわざなり」と思しおどろきて、御訪らひにたびたびねむごろに父大臣にも聞こえたまふ。大将は、ましていとよき御仲なれば、気近くものしたまひつつ、いみじく嘆きありきたまふ。 |
ろくでうのゐんにも、"いとくちをしきわざなり。"とおぼしおどろきて、おほんとぶらひにたびたびねんごろにちちおとどにもきこえたまふ。だいしゃうは、ましていとよきおほんなかなれば、けぢかくものしたまひつつ、いみじくなげきありきたまふ。 |
35 | 12.4.4 | 908 | 875 |
御賀は、二十五日になりにけり。かかる時のやむごとなき上達部の重く患ひたまふに、親、兄弟、あまたの人びと、さる高き御仲らひの嘆きしをれたまへるころほひにて、ものすさまじきやうなれど、次々に滞りつることだにあるを、さて止むまじきことなれば、いかでかは思し止まらむ。女宮の御心のうちをぞ、いとほしく思ひきこえさせたまふ。 |
おほんがは、にじふごにちになりにけり。かかるときのやんごとなきかんだちめのおもくわづらひたまふに、おや、はらから、あまたのひとびと、さるたかきおほんなからひのなげきしをれたまへるころほひにて、ものすさまじきやうなれど、つぎつぎにとどこほりつることだにあるを、さてやむまじきことなれば、いかでかはおぼしとどまらん。をんなみやのみこころのうちをぞ、いとほしくおもひきこえさせたまふ。 |
35 | 12.4.5 | 909 | 876 |
例の、五十寺の御誦経、また、かのおはします御寺にも、摩訶毘盧遮那の。 |
れいの、ごじふじのみずきゃう、また、かのおはしますみてらにも、まかびるさなの。 |