帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
38 | 鈴虫 |
38 | 1 | 57 | 36 | 第一章 女三の宮の物語 持仏開眼供養 |
38 | 1.1 | 58 | 37 | 第一段 持仏開眼供養の準備 |
38 | 1.1.1 | 59 | 38 |
夏ごろ、蓮の花の盛りに、入道の姫宮の御持仏どもあらはしたまへる、供養ぜさせたまふ。 |
なつごろ、はちすのはなのさかりに、にふだうのひめみやのおほんぢぶつどもあらはしたまへる、くやうぜさせたまふ。 |
38 | 1.1.2 | 60 | 39 |
このたびは、大殿の君の御心ざしにて、御念誦堂の具ども、こまかに調へさせたまへるを、やがてしつらはせたまふ。幡のさまなどなつかしう、心ことなる唐の錦を選び縫はせたまへり。紫の上ぞ、急ぎせさせたまひける。 |
このたびは、おとどのきみのみこころざしにて、おほんねんずだうのぐども、こまかにととのへさせたまへるを、やがてしつらはせたまふ。はたのさまなどなつかしう、こころことなるからのにしきをえらびぬはせたまへり。むらさきのうへぞ、いそぎせさせたまひける。 |
38 | 1.1.3 | 61 | 40 |
花机の覆ひなどのをかしき目染もなつかしう、きよらなる匂ひ、染めつけられたる心ばへ、目馴れぬさまなり。夜の御帳の帷を、四面ながら上げて、後ろの方に法華の曼陀羅かけたてまつりて、銀の花瓶に、高くことことしき花の色を調へてたてまつり、名香に、唐の百歩の薫衣香を焚きたまへり。 |
はなづくゑのおほひなどのをかしきめぞめもなつかしう、きよらなるにほひ、そめつけられたるこころばへ、めなれぬさまなり。よるのみちゃうのかたびらを、よおもてながらあげて、うしろのかたにほけのまんだらかけたてまつりて、しろがねのはながめに、たかくことことしきはなのいろをととのへてたてまつり、みゃうがうに、からのひゃくぶのくのえかうをたきたまへり。 |
38 | 1.1.4 | 62 | 41 |
阿弥陀仏、脇士の菩薩、おのおの白檀して作りたてまつりたる、こまかにうつくしげなり。閼伽の具は、例の、きはやかに小さくて、青き、白き、紫の蓮を調へて、荷葉の方を合はせたる名香、蜜を隠しほほろげて、焚き匂はしたる、一つ薫りに匂ひ合ひて、いとなつかし。 |
あみだぶつ、けふじのぼさち、おのおのびゃくだんしてつくりたてまつりたる、こまかにうつくしげなり。あかのぐは、れいの、きはやかにちひさくて、あをき、しろき、むらさきのはちすをととのへて、かえふのはうをあはせたるみゃうがう、みちをかくしほほろげて、たきにほはしたる、ひとつかをりににほひあひて、いとなつかし。 |
38 | 1.1.5 | 63 | 42 |
経は、六道の衆生のために六部書かせたまひて、みづからの御持経は、院ぞ御手づから書かせたまひける。これをだに、この世の結縁にて、かたみに導き交はしたまふべき心を、願文に作らせたまへり。 |
きゃうは、ろくだうのすざうのためにろくぶかかせたまひて、みづからのおほんぢきゃうは、ゐんぞおほんてづからかかせたまひける。これをだに、このよのけちえんにて、かたみにみちびきかはしたまふべきこころを、がんもんにつくらせたまへり。 |
38 | 1.1.6 | 64 | 43 |
さては、阿弥陀経、唐の紙はもろくて、朝夕の御手慣らしにもいかがとて、紙屋の人を召して、ことに仰せ言賜ひて、心ことにきよらに漉かせたまへるに、この春のころほひより、御心とどめて急ぎ書かせたまへるかひありて、端を見たまふ人びと、目もかかやき惑ひたまふ。 |
さては、あみだきゃう、からのかみはもろくて、あさゆふのおほんてならしにもいかがとて、かみやのひとをめして、ことにおほせごとたまひて、こころことにきよらにすかせたまへるに、このはるのころほひより、みこころとどめていそぎかかせたまへるかひありて、はしをみたまふひとびと、めもかかやきまどひたまふ。 |
38 | 1.1.7 | 65 | 44 |
罫かけたる金の筋よりも、墨つきの上にかかやくさまなども、いとなむめづらかなりける。軸、表紙、筥のさまなど、いへばさらなりかし。これはことに沈の花足の机に据ゑて、仏の御同じ帳台の上に飾らせたまへり。 |
けかけたるかねのすぢよりも、すみつきのうへにかかやくさまなども、いとなんめづらかなりける。ぢく、へうし、はこのさまなど、いへばさらなりかし。これはことにぢんのけそくのつくゑにすゑて、ほとけのおほんおなじちゃうだいのうへにかざらせたまへり。 |
38 | 1.2 | 66 | 45 | 第二段 源氏と女三の宮、和歌を詠み交わす |
38 | 1.2.1 | 67 | 46 |
堂飾り果てて、講師参う上り、行道の人びと参り集ひたまへば、院もあなたに出でたまふとて、宮のおはします西の廂にのぞきたまへれば、狭き心地する仮の御しつらひに、所狭く暑げなるまで、ことことしく装束きたる女房、五、六十人ばかり集ひたり。 |
だうかざりはてて、かうじまうのぼり、ぎゃうだうのひとびとまゐりつどひたまへば、ゐんもあなたにいでたまふとて、みやのおはしますにしのひさしにのぞきたまへれば、せばきここちするかりのおほんしつらひに、ところせくあつげなるまで、ことことしくさうぞきたるにょうばう、ご、ろくじふにんばかりつどひたり。 |
38 | 1.2.2 | 68 | 47 |
北の廂の簀子まで、童女などはさまよふ。火取りどもあまたして、煙たきまで扇ぎ散らせば、さし寄りたまひて、 |
きたのひさしのすのこまで、わらはべなどはさまよふ。ひとりどもあまたして、けぶたきまであふぎちらせば、さしよりたまひて、 |
38 | 1.2.3 | 69 | 48 |
「空に焚くは、いづくの煙ぞと思ひ分かれぬこそよけれ。富士の嶺よりもけに、くゆり満ち出でたるは、本意なきわざなり。講説の折は、おほかたの鳴りを静めて、のどかにものの心も聞き分くべきことなれば、憚りなき衣の音なひ、人のけはひ、静めてなむよかるべき」 |
"そらにたくは、いづくのけぶりぞとおもひわかれぬこそよけれ。ふじのみねよりもけに、くゆりみちいでたるは、ほいなきわざなり。かうぜちのをりは、おほかたのなりをしづめて、のどかにもののこころもききわくべきことなれば、はばかりなききぬのおとなひ、ひとのけはひ、しづめてなんよかるべき。" |
38 | 1.2.4 | 70 | 49 |
など、例の、もの深からぬ若人どもの用意教へたまふ。宮は、人気に圧されたまひて、いと小さくをかしげにて、ひれ臥したまへり。 |
など、れいの、ものふかからぬわかうどどものよういをしへたまふ。みやは、ひとげにおされたまひて、いとちひさくをかしげにて、ひれふしたまへり。 |
38 | 1.2.5 | 71 | 50 |
「若君、らうがはしからむ。抱き隠したてまつれ」 |
"わかぎみ、らうがはしからん。いだきかくしたてまつれ。" |
38 | 1.2.6 | 72 | 51 |
などのたまふ。 |
などのたまふ。 |
38 | 1.2.7 | 73 | 53 |
北の御障子も取り放ちて、御簾かけたり。そなたに人びとは入れたまふ。静めて、宮にも、ものの心知りたまふべき下形を聞こえ知らせたまふ、いとあはれに見ゆ。御座を譲りたまへる仏の御しつらひ、見やりたまふも、さまざまに、 |
きたのみさうじもとりはなちて、みすかけたり。そなたにひとびとはいれたまふ。しづめて、みやにも、もののこころしりたまふべきしたかたをきこえしらせたまふ、いとあはれにみゆ。おましをゆづりたまへるほとけのおほんしつらひ、みやりたまふも、さまざまに、 |
38 | 1.2.8 | 74 | 54 |
「かかる方の御いとなみをも、もろともに急がむものとは思ひ寄らざりしことなり。よし、後の世にだに、かの花の中の宿りに、隔てなく、とを思ほせ」 |
"かかるかたのおほんいとなみをも、もろともにいそがんものとはおもひよらざりしことなり。よし、のちのよにだに、かのはなのなかのやどりに、へだてなく、とをおもほせ。" |
38 | 1.2.9 | 75 | 55 |
とて、うち泣きたまひぬ。 |
とて、うちなきたまひぬ。 |
38 | 1.2.10 | 76 | 56 |
「蓮葉を同じ台と契りおきて<BR/>露の分かるる今日ぞ悲しき」 |
"〔はちすばをおなじうてなとちぎりおきて<BR/>つゆのわかるるけふぞかなしき〕 |
38 | 1.2.11 | 77 | 57 |
と、御硯にさし濡らして、香染めなる御扇に書きつけたまへり。宮、 |
と、おほんすずりにさしぬらして、かうぞめなるおほんあふぎにかきつけたまへり。みや、 |
38 | 1.2.12 | 78 | 58 |
「隔てなく蓮の宿を契りても<BR/>君が心や住まじとすらむ」 |
"〔へだてなくはちすのやどをちぎりても<BR/>きみがこころやすまじとすらん〕 |
38 | 1.2.13 | 79 | 59 |
と書きたまへれば、 |
とかきたまへれば、 |
38 | 1.2.14 | 80 | 60 |
「いふかひなくも思ほし朽たすかな」 |
"いふかひなくもおもほしくたすかな。" |
38 | 1.2.15 | 81 | 61 |
と、うち笑ひながら、なほあはれとものを思ほしたる御けしきなり。 |
と、うちわらひながら、なほあはれとものをおもほしたるみけしきなり。 |
38 | 1.3 | 82 | 62 | 第三段 持仏開眼供養執り行われる |
38 | 1.3.1 | 83 | 63 |
例の、親王たちなども、いとあまた参りたまへり。御方々より、我も我もと営み出でたまへる捧物のありさま、心ことに、所狭きまで見ゆ。七僧の法服など、すべておほかたのことどもは、皆紫の上せさせたまへり。綾のよそひにて、袈裟の縫目まで、見知る人は、世になべてならずとめでけりとや。むつかしうこまかなることどもかな。 |
れいの、みこたちなども、いとあまたまゐりたまへり。おほんかたがたより、われもわれもといとなみいでたまへるほうもちのありさま、こころことに、ところせきまでみゆ。しちそうのほふぶくなど、すべておほかたのことどもは、みなむらさきのうへせさせたまへり。あやのよそひにて、けさのぬひめまで、みしるひとは、よになべてならずとめでけりとや。むつかしうこまかなることどもかな。 |
38 | 1.3.2 | 84 | 64 |
講師のいと尊く、ことの心を申して、この世にすぐれたまへる盛りを厭ひ離れたまひて、長き世々に絶ゆまじき御契りを、法華経に結びたまふ、尊く深きさまを表はして、ただ今の世の、才もすぐれ、豊けきさきらを、いとど心して言ひ続けたる、いと尊ければ、皆人、しほたれたまふ。 |
かうじのいとたふとく、ことのこころをまうして、このよにすぐれたまへるさかりをいとひはなれたまひて、ながきよよにたゆまじきおほんちぎりを、ほけきゃうにむすびたまふ、たふとくふかきさまをあらはして、ただいまのよの、ざえもすぐれ、ゆたけきさきらを、いとどこころしていひつづけたる、いとたふとければ、みなひと、しほたれたまふ。 |
38 | 1.3.3 | 85 | 65 |
これは、ただ忍びて、御念誦堂の初めと思したることなれど、内裏にも、山の帝も聞こし召して、皆御使どもあり。御誦経の布施など、いと所狭きまで、にはかになむこと広ごりける。 |
これは、ただしのびて、おほんねんずだうのはじめとおぼしたることなれど、うちにも、やまのみかどもきこしめして、みなおほんつかひどもあり。みずきゃうのふせなど、いとところせきまで、にはかになんことひろごりける。 |
38 | 1.3.4 | 86 | 66 |
院にまうけさせたまへりけることどもも、削ぐと思ししかど、世の常ならざりけるを、まいて、今めかしきことどもの加はりたれば、夕べの寺に置き所なげなるまで、所狭き勢ひになりてなむ、僧どもは帰りける。 |
ゐんにまうけさせたまへりけることどもも、そぐとおぼししかど、よのつねならざりけるを、まいて、いまめかしきことどものくははりたれば、ゆふべのてらにおきどころなげなるまで、ところせきいきほひになりてなん、そうどもはかへりける。 |
38 | 1.4 | 87 | 67 | 第四段 三条宮邸を整備 |
38 | 1.4.1 | 88 | 68 |
今しも、心苦しき御心添ひて、はかりもなくかしづききこえたまふ。院の帝は、この御処分の宮に住み離れたまひなむも、つひのことにて、目やすかりぬべく聞こえたまへど、 |
いましも、こころぐるしきみこころそひて、はかりもなくかしづききこえたまふ。ゐんのみかどは、このごそうぶんのみやにすみはなれたまひなんも、つひのことにて、めやすかりぬべくきこえたまへど、 |
38 | 1.4.2 | 89 | 69 |
「よそよそにては、おぼつかなかるべし。明け暮れ見たてまつり、聞こえ承らむこと怠らむに、本意違ひぬべし。げに、あり果てぬ世いくばくあるまじけれど、なほ生ける限りの心ざしをだに失ひ果てじ」 |
"よそよそにては、おぼつかなかるべし。あけくれみたてまつり、きこえうけたまはらんことおこたらんに、ほいたがひぬべし。げに、ありはてぬよいくばくあるまじけれど、なほいけるかぎりのこころざしをだにうしなひはてじ。" |
38 | 1.4.3 | 90 | 70 |
と聞こえたまひつつ、この宮をもいとこまかにきよらに造らせたまひ、御封の物ども、国々の御荘、御牧などより奉る物ども、はかばかしきさまのは、皆かの三条の宮の御倉に納めさせたまふ。またも、建て添へさせたまひて、さまざまの御宝物ども、院の御処分に数もなく賜はりたまへるなど、あなたざまの物は、皆かの宮に運び渡し、こまかにいかめしうし置かせたまふ。 |
ときこえたまひつつ、このみやをもいとこまかにきよらにつくらせたまひ、みふのものども、くにぐにのみさう、みまきなどよりたてまつるものども、はかばかしきさまのは、みなかのさんでうのみやのみくらにをさめさせたまふ。またも、たてそへさせたまひて、さまざまのおほんたからものども、ゐんのごそうぶんにかずもなくたまはりたまへるなど、あなたざまのものは、みなかのみやにはこびわたし、こまかにいかめしうしおかせたまふ。 |
38 | 1.4.4 | 91 | 71 |
明け暮れの御かしづき、そこらの女房のことども、上下の育みは、おしなべてわが御扱ひにてなど、急ぎ仕うまつらせたまひける。 |
あけくれのおほんかしづき、そこらのにょうばうのことども、かみしものはぐくみは、おしなべてわがおほんあつかひにてなど、いそぎつかうまつらせたまひける。 |
38 | 2 | 92 | 72 | 第二章 光る源氏の物語 六条院と冷泉院の中秋の宴 |
38 | 2.1 | 93 | 73 | 第一段 女三の宮の前栽に虫を放つ |
38 | 2.1.1 | 94 | 74 |
秋ごろ、西の渡殿の前、中の塀の東の際を、おしなべて野に作らせたまへり。閼伽の棚などして、その方にしなさせたまへる御しつらひなど、いとなまめきたり。 |
あきごろ、にしのわたどののまへ、なかのへいのひんがしのきはを、おしなべてのにつくらせたまへり。あかのたななどして、そのかたにしなさせたまへるおほんしつらひなど、いとなまめきたり。 |
38 | 2.1.2 | 95 | 75 |
御弟子に従ひきこえたる尼ども、御乳母、古人どもは、さるものにて、若き盛りのも、心定まり、さる方にて世を尽くしつべき限りは選りてなむ、なさせたまひける。 |
みでしにしたがひきこえたるあまども、おほんめのと、ふるびとどもは、さるものにて、わかきさかりのも、こころさだまり、さるかたにてよをつくしつべきかぎりはえりてなん、なさせたまひける。 |
38 | 2.1.3 | 96 | 76 |
さるきほひには、我も我もときしろひけれど、大殿の君聞こしめして、 |
さるきほひには、われもわれもときしろひけれど、おとどのきみきこしめして、 |
38 | 2.1.4 | 97 | 77 |
「あるまじきことなり。心ならぬ人すこしも混じりぬれば、かたへの人苦しう、あはあはしき聞こえ出で来るわざなり」 |
"あるまじきことなり。こころならぬひとすこしもまじりぬれば、かたへのひとくるしう、あはあはしききこえいでくるわざなり。" |
38 | 2.1.5 | 98 | 78 |
と諌めたまひて、十余人ばかりのほどぞ、容貌異にてはさぶらふ。 |
といさめたまひて、じふよにんばかりのほどぞ、かたちことにてはさぶらふ。 |
38 | 2.1.6 | 99 | 79 |
この野に虫ども放たせたまひて、風すこし涼しくなりゆく夕暮に、渡りたまひつつ、虫の音を聞きたまふやうにて、なほ思ひ離れぬさまを聞こえ悩ましたまへば、 |
こののにむしどもはなたせたまひて、かぜすこしすずしくなりゆくゆふぐれに、わたりたまひつつ、むしのねをききたまふやうにて、なほおもひはなれぬさまをきこえなやましたまへば、 |
38 | 2.1.7 | 100 | 80 |
「例の御心はあるまじきことにこそはあなれ」 |
"れいのみこころはあるまじきことにこそはあなれ。" |
38 | 2.1.8 | 101 | 81 |
と、ひとへにむつかしきことに思ひきこえたまへり。 |
と、ひとへにむつかしきことにおもひきこえたまへり。 |
38 | 2.1.9 | 102 | 82 |
人目にこそ変はることなくもてなしたまひしか、内には憂きを知りたまふけしきしるく、こよなう変はりにし御心を、いかで見えたてまつらじの御心にて、多うは思ひなりたまひにし御世の背きなれば、今はもて離れて心やすきに、 |
ひとめにこそかはることなくもてなしたまひしか、うちにはうきをしりたまふけしきしるく、こよなうかはりにしみこころを、いかでみえたてまつらじのみこころにて、おほうはおもひなりたまひにしみよのそむきなれば、いまはもてはなれてこころやすきに、 |
38 | 2.1.10 | 103 | 83 |
「なほ、かやうに」 |
"なほ、かやうに。" |
38 | 2.1.11 | 104 | 84 |
など聞こえたまふぞ苦しうて、「人離れたらむ御住まひにもがな」と思しなれど、およすけてえさも強ひ申したまはず。 |
などきこえたまふぞくるしうて、"ひとはなれたらんおほんすまひにもがな。"とおぼしなれど、およすけてえさもしひまうしたまはず。 |
38 | 2.2 | 105 | 85 | 第二段 八月十五夜、秋の虫の論 |
38 | 2.2.1 | 106 | 86 |
十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近う眺めたまひつつ念誦したまふ。若き尼君たち二、三人、花奉るとて鳴らす閼伽坏の音、水のけはひなど聞こゆる、さま変はりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに、例の渡りたまひて、 |
じふごやのゆふぐれに、ほとけのおまへにみやおはして、はしちかうながめたまひつつねんずしたまふ。わかきあまぎみたちに、さんにん、はなたてまつるとてならすあかつきのおと、みづのけはひなどきこゆる、さまかはりたるいとなみに、そそきあへる、いとあはれなるに、れいのわたりたまひて、 |
38 | 2.2.2 | 107 | 87 |
「虫の音いとしげう乱るる夕べかな」 |
"むしのねいとしげうみだるるゆふべかな。" |
38 | 2.2.3 | 108 | 88 |
とて、われも忍びてうち誦じたまふ阿弥陀の大呪、いと尊くほのぼの聞こゆ。げに、声々聞こえたる中に、鈴虫のふり出でたるほど、はなやかにをかし。 |
とて、われもしのびてうちずんじたまふあみだのだいじゅ、いとたふとくほのぼのきこゆ。げに、こゑごゑきこえたるなかに、すずむしのふりいでたるほど、はなやかにをかし。 |
38 | 2.2.4 | 109 | 89 |
「秋の虫の声、いづれとなき中に、松虫なむすぐれたるとて、中宮の、はるけき野辺を分けて、いとわざと尋ね取りつつ放たせたまへる、しるく鳴き伝ふるこそ少なかなれ。名には違ひて、命のほどはかなき虫にぞあるべき。 |
"あきのむしのこゑ、いづれとなきなかに、まつむしなんすぐれたるとて、ちゅうぐうの、はるけきのべをわけて、いとわざとたづねとりつつはなたせたまへる、しるくなきつたふるこそすくなかなれ。なにはたがひて、いのちのほどはかなきむしにぞあるべき。 |
38 | 2.2.5 | 110 | 90 |
心にまかせて、人聞かぬ奥山、はるけき野の松原に、声惜しまぬも、いと隔て心ある虫になむありける。鈴虫は、心やすく、今めいたるこそらうたけれ」 |
こころにまかせて、ひときかぬおくやま、はるけきののまつばらに、こゑをしまぬも、いとへだてごころあるむしになんありける。すずむしは、こころやすく、いまめいたるこそらうたけれ。" |
38 | 2.2.6 | 111 | 91 |
などのたまへば、宮、 |
などのたまへば、みや、 |
38 | 2.2.7 | 112 | 92 |
「おほかたの秋をば憂しと知りにしを<BR/>ふり捨てがたき鈴虫の声」 |
"〔おほかたのあきをばうしとしりにしを<BR/>ふりすてがたきすずむしのこゑ〕" |
38 | 2.2.8 | 113 | 93 |
と忍びやかにのたまふ。いとなまめいて、あてにおほどかなり。 |
としのびやかにのたまふ。いとなまめいて、あてにおほどかなり。 |
38 | 2.2.9 | 114 | 94 |
「いかにとかや。いで、思ひの外なる御ことにこそ」とて、 |
"いかにとかや。いで、おもひのほかなるおほんことにこそ。"とて、 |
38 | 2.2.10 | 115 | 95 |
「心もて草の宿りを厭へども<BR/>なほ鈴虫の声ぞふりせぬ」 |
"〔こころもてくさのやどりをいとへども<BR/>なほすずむしのこゑぞふりせぬ〕 |
38 | 2.2.11 | 116 | 96 |
など聞こえたまひて、琴の御琴召して、珍しく弾きたまふ。宮の御数珠引き怠りたまひて、御琴になほ心入れたまへり。 |
などきこえたまひて、きんのおほんことめして、めづらしくひきたまふ。みやのおほんずずひきおこたりたまひて、おほんことになほこころいれたまへり。 |
38 | 2.2.12 | 117 | 98 |
月さし出でて、いとはなやかなるほどもあはれなるに、空をうち眺めて、世の中さまざまにつけて、はかなく移り変はるありさまも思し続けられて、例よりもあはれなる音に掻き鳴らしたまふ。 |
つきさしいでて、いとはなやかなるほどもあはれなるに、そらをうちながめて、よのなかさまざまにつけて、はかなくうつりかはるありさまもおぼしつづけられて、れいよりもあはれなるねにかきならしたまふ。 |
38 | 2.3 | 118 | 99 | 第三段 六条院の鈴虫の宴 |
38 | 2.3.1 | 119 | 100 |
今宵は、例の御遊びにやあらむと推し量りて、兵部卿宮渡りたまへり。大将の君、殿上人のさるべきなど具して参りたまへれば、こなたにおはしますと、御琴の音を尋ねて、やがて参りたまふ。 |
こよひは、れいのおほんあそびにやあらんとおしはかりて、ひょうぶきゃうのみやわたりたまへり。だいしゃうのきみ、てんじゃうびとのさるべきなどぐしてまゐりたまへれば、こなたにおはしますと、おほんことのねをたづねて、やがてまゐりたまふ。 |
38 | 2.3.2 | 120 | 101 |
「いとつれづれにて、わざと遊びとはなくとも、久しく絶えにたるめづらしき物の音など、聞かまほしかりつる独り琴を、いとよう尋ねたまひける」 |
"いとつれづれにて、わざとあそびとはなくとも、ひさしくたえにたるめづらしきもののねなど、きかまほしかりつるひとりごとを、いとようたづねたまひける。" |
38 | 2.3.3 | 121 | 102 |
とて、宮も、こなたに御座よそひて入れたてまつりたまふ。内裏の御前に、今宵は月の宴あるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに、この院に人びと参りたまふと聞き伝へて、これかれ上達部なども参りたまへり。虫の音の定めをしたまふ。 |
とて、みやも、こなたにおましよそひていれたてまつりたまふ。うちのおまへに、こよひはつきのえんあるべかりつるを、とまりてさうざうしかりつるに、このゐんにひとびとまゐりたまふとききつたへて、これかれかんだちめなどもまゐりたまへり。むしのねのさだめをしたまふ。 |
38 | 2.3.4 | 122 | 103 |
御琴どもの声々掻き合はせて、おもしろきほどに、 |
おほんことどものこゑごゑかきあはせて、おもしろきほどに、 |
38 | 2.3.5 | 123 | 104 |
「月見る宵の、いつとてもものあはれならぬ折はなきなかに、今宵の新たなる月の色には、げになほ、わが世の外までこそ、よろづ思ひ流さるれ。故権大納言、何の折々にも、亡きにつけていとど偲ばるること多く、公、私、ものの折節のにほひ失せたる心地こそすれ。花鳥の色にも音にも、思ひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを」 |
"つきみるよひの、いつとてもものあはれならぬをりはなきなかに、こよひのあらたなるつきのいろには、げになほ、わがよのほかまでこそ、よろづおもひながさるれ。こだいなごん、なにのをりをりにも、なきにつけていとどしのばるることおほく、おほやけ、わたくし、もののをりふしのにほひうせたるここちこそすれ。はなとりのいろにもねにも、おもひわきまへ、いふかひあるかたの、いとうるさかりしものを。" |
38 | 2.3.6 | 124 | 105 |
などのたまひ出でて、みづからも掻き合はせたまふ御琴の音にも、袖濡らしたまひつ。御簾の内にも、耳とどめてや聞きたまふらむと、片つ方の御心には思しながら、かかる御遊びのほどには、まづ恋しう、内裏などにも思し出でける。 |
などのたまひいでて、みづからもかきあはせたまふおほんことのねにも、そでぬらしたまひつ。みすのうちにも、みみとどめてやききたまふらんと、かたつかたのみこころにはおぼしながら、かかるおほんあそびのほどには、まづこひしう、うちなどにもおぼしいでける。 |
38 | 2.3.7 | 125 | 106 |
「今宵は鈴虫の宴にて明かしてむ」 |
"こよひはすずむしのえんにてあかしてん。" |
38 | 2.3.8 | 126 | 107 |
と思しのたまふ。 |
とおぼしのたまふ。 |
38 | 2.4 | 127 | 108 | 第四段 冷泉院より招請の和歌 |
38 | 2.4.1 | 128 | 109 |
御土器二わたりばかり参るほどに、冷泉院より御消息あり。御前の御遊びにはかにとまりぬるを口惜しがりて、左大弁、式部大輔、また人びと率ゐて、さるべき限り参りたれば、大将などは六条の院にさぶらひたまふ、と聞こし召してなりけり。 |
おほんかはらけふたわたりばかりまゐるほどに、れいぜいゐんよりおほんせうそこあり。ごぜんのおほんあそびにはかにとまりぬるをくちをしがりて、さだいべん、しきぶのたいふ、またひとびとひきゐて、さるべきかぎりまゐりたれば、だいしゃうなどはろくでうのゐんにさぶらひたまふ、ときこしめしてなりけり。 |
38 | 2.4.2 | 129 | 110 |
「雲の上をかけ離れたるすみかにも<BR/>もの忘れせぬ秋の夜の月 |
"〔くものうへをかけはなれたるすみかにも<BR/>ものわすれせぬあきのよのつき |
38 | 2.4.3 | 130 | 111 |
同じくは」 |
おなじくは。" |
38 | 2.4.4 | 131 | 112 |
と聞こえたまへれば、 |
ときこえたまへれば、 |
38 | 2.4.5 | 132 | 113 |
「何ばかり所狭き身のほどにもあらずながら、今はのどやかにおはしますに、参り馴るることもをさをさなきを、本意なきことに思しあまりて、おどろかさせたまへる、かたじけなし」 |
"なにばかりところせきみのほどにもあらずながら、いまはのどやかにおはしますに、まゐりなるることもをさをさなきを、ほいなきことにおぼしあまりて、おどろかさせたまへる、かたじけなし。" |
38 | 2.4.6 | 133 | 114 |
とて、にはかなるやうなれど、参りたまはむとす。 |
とて、にはかなるやうなれど、まゐりたまはんとす。 |
38 | 2.4.7 | 134 | 115 |
「月影は同じ雲居に見えながら<BR/>わが宿からの秋ぞ変はれる」 |
"〔つきかげはおなじくもゐにみえながら<BR/>わがやどからのあきぞかはれる〕 |
38 | 2.4.8 | 135 | 116 |
異なることなかめれど、ただ昔今の御ありさまの思し続けられけるままなめり。御使に盃賜ひて、禄いと二なし。 |
ことなることなかめれど、ただむかしいまのおほんありさまのおぼしつづけられけるままなめり。おほんつかひにさかづきたまひて、ろくいとになし。 |
38 | 2.5 | 136 | 117 | 第五段 冷泉院の月の宴 |
38 | 2.5.1 | 137 | 118 |
人びとの御車、次第のままに引き直し、御前の人びと立ち混みて、静かなりつる御遊び紛れて、出でたまひぬ。院の御車に、親王たてまつり、大将、左衛門督、藤宰相など、おはしける限り皆参りたまふ。 |
ひとびとのおほんくるま、しだいのままにひきなほし、ごぜんのひとびとたちこみて、しづかなりつるおほんあそびまぎれて、いでたまひぬ。ゐんのおほんくるまに、みこたてまつり、だいしゃう、さゑもんのかみ、とうさいしゃうなど、おはしけるかぎりみなまゐりたまふ。 |
38 | 2.5.2 | 138 | 119 |
直衣にて、軽らかなる御よそひどもなれば、下襲ばかりたてまつり加へて、月ややさし上がり、更けぬる空おもしろきに、若き人びと、笛などわざとなく吹かせたまひなどして、忍びたる御参りのさまなり。 |
なほしにて、かろらかなるおほんよそひどもなれば、したがさねばかりたてまつりくはへて、つきややさしあがり、ふけぬるそらおもしろきに、わかきひとびと、ふえなどわざとなくふかせたまひなどして、しのびたるおほんまゐりのさまなり。 |
38 | 2.5.3 | 139 | 120 |
うるはしかるべき折節は、所狭くよだけき儀式を尽くして、かたみに御覧ぜられたまひ、また、いにしへのただ人ざまに思し返りて、今宵は軽々しきやうに、ふとかく参りたまへれば、いたう驚き、待ち喜びきこえたまふ。 |
うるはしかるべきをりふしは、ところせくよだけきぎしきをつくして、かたみにごらんぜられたまひ、また、いにしへのただびとざまにおぼしかへりて、こよひはかるがるしきやうに、ふとかくまゐりたまへれば、いたうおどろき、まちよろこびきこえたまふ。 |
38 | 2.5.4 | 140 | 121 |
ねびととのひたまへる御容貌、いよいよ異ものならず。いみじき御盛りの世を、御心と思し捨てて、静かなる御ありさまに、あはれ少なからず。 |
ねびととのひたまへるおほんかたち、いよいよことものならず。いみじきおほんさかりのよを、みこころとおぼしすてて、しづかなるおほんありさまに、あはれすくなからず。 |
38 | 2.5.5 | 141 | 122 |
その夜の歌ども、唐のも大和のも、心ばへ深うおもしろくのみなむ。例の、言足らぬ片端は、まねぶもかたはらいたくてなむ。明け方に文など講じて、とく人びとまかでたまふ。 |
そのよのうたども、からのもやまとのも、こころばへふかうおもしろくのみなん。れいの、ことたらぬかたはしは、まねぶもかたはらいたくてなん。あけがたにふみなどかうじて、とくひとびとまかでたまふ。 |
38 | 3 | 142 | 123 | 第三章 秋好中宮の物語 出家と母の罪を思う |
38 | 3.1 | 143 | 124 | 第一段 秋好中宮、出家を思う |
38 | 3.1.1 | 144 | 125 |
六条院は、中宮の御方に渡りたまひて、御物語など聞こえたまふ。 |
ろくでうのゐんは、ちゅうぐうのおほんかたにわたりたまひて、おほんものがたりなどきこえたまふ。 |
38 | 3.1.2 | 145 | 126 |
「今はかう静かなる御住まひに、しばしばも参りぬべく、何とはなけれど、過ぐる齢に添へて、忘れぬ昔の御物語など、承り聞こえまほしう思ひたまふるに、何にもつかぬ身のありさまにて、さすがにうひうひしく、所狭くもはべりてなむ。 |
"いまはかうしづかなるおほんすまひに、しばしばもまゐりぬべく、なにとはなけれど、すぐるよはひにそへて、わすれぬむかしのおほんものがたりなど、うけたまはりきこえまほしうおもひたまふるに、なににもつかぬみのありさまにて、さすがにうひうひしく、ところせくもはべりてなん。 |
38 | 3.1.3 | 146 | 127 |
我より後の人びとに、方々につけて後れゆく心地しはべるも、いと常なき世の心細さの、のどめがたうおぼえはべれば、世離れたる住まひにもやと、やうやう思ひ立ちぬるを、残りの人びとのものはかなからむ、漂はしたまふな、と先々も聞こえつけし心違へず、思しとどめてものせさせたまへ」 |
われよりのちのひとびとに、かたがたにつけておくれゆくここちしはべるも、いとつねなきよのこころぼそさの、のどめがたうおぼえはべれば、よはなれたるすまひにもやと、やうやうおもひたちぬるを、のこりのひとびとのものはかなからん、ただよはしたまふな、とさきざきもきこえつけしこころたがへず、おぼしとどめてものせさせたまへ。" |
38 | 3.1.4 | 147 | 128 |
など、まめやかなるさまに聞こえさせたまふ。 |
など、まめやかなるさまにきこえさせたまふ。 |
38 | 3.1.5 | 148 | 129 |
例の、いと若うおほどかなる御けはひにて、 |
れいの、いとわかうおほどかなるおほんけはひにて、 |
38 | 3.1.6 | 149 | 130 |
「九重の隔て深うはべりし年ごろよりも、おぼつかなさのまさるやうに思ひたまへらるるありさまを、いと思ひの外に、むつかしうて、皆人の背きゆく世を、厭はしう思ひなることもはべりながら、その心の内を聞こえさせうけたまはらねば、何事もまづ頼もしき蔭には聞こえさせならひて、いぶせくはべる」 |
"ここのへのへだてふかうはべりしとしごろよりも、おぼつかなさのまさるやうにおもひたまへらるるありさまを、いとおもひのほかに、むつかしうて、みなひとのそむきゆくよを、いとはしうおもひなることもはべりながら、そのこころのうちをきこえさせうけたまはらねば、なにごともまづたのもしきかげにはきこえさせならひて、いぶせくはべる。" |
38 | 3.1.7 | 150 | 131 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
38 | 3.1.8 | 151 | 132 |
「げに、公ざまにては、限りある折節の御里居も、いとよう待ちつけきこえさせしを、今は何事につけてかは、御心にまかせさせたまふ御移ろひもはべらむ。定めなき世と言ひながらも、さして厭はしきことなき人の、さはやかに背き離るるもありがたう、心やすかるべきほどにつけてだに、おのづから思ひかかづらふほだしのみはべるを、などか、その人まねにきほふ御道心は、かへりてひがひがしう推し量りきこえさする人もこそはべれ。かけてもいとあるまじき御ことになむ」 |
"げに、おほやけざまにては、かぎりあるをりふしのおほんさとゐも、いとようまちつけきこえさせしを、いまはなにごとにつけてかは、みこころにまかせさせたまふおほんうつろひもはべらん。さだめなきよといひながらも、さしていとはしきことなきひとの、さはやかにそむきはなるるもありがたう、こころやすかるべきほどにつけてだに、おのづからおもひかかづらふほだしのみはべるを、などか、そのひとまねにきほふおほんだうしんは、かへりてひがひがしうおしはかりきこえさするひともこそはべれ。かけてもいとあるまじきおほんことになん。" |
38 | 3.1.9 | 152 | 133 |
と聞こえたまふを、「深うも汲みはかりたまはぬなめりかし」と、つらう思ひきこえたまふ。 |
ときこえたまふを、"ふかうもくみはかりたまはぬなめりかし。"と、つらうおもひきこえたまふ。 |
38 | 3.2 | 153 | 134 | 第二段 母御息所の罪を思う |
38 | 3.2.1 | 154 | 135 |
御息所の、御身の苦しうなりたまふらむありさま、いかなる煙の中に惑ひたまふらむ、亡き影にても、人に疎まれたてまつりたまふ御名のりなどの出で来けること、かの院にはいみじう隠したまひけるを、おのづから人の口さがなくて、伝へ聞こし召しける後、いと悲しういみじくて、なべての世の厭はしく思しなりて、仮にても、かののたまひけむありさまの詳しう聞かまほしきを、まほにはえうち出で聞こえたまはで、ただ、 |
みやすんどころの、おほんみのくるしうなりたまふらんありさま、いかなるけぶりのなかにまどひたまふらん、なきかげにても、ひとにうとまれたてまつりたまふおほんなのりなどのいできけること、かのゐんにはいみじうかくしたまひけるを、おのづからひとのくちさがなくて、つたへきこしめしけるのち、いとかなしういみじくて、なべてのよのいとはしくおぼしなりて、かりにても、かののたまひけんありさまのくはしうきかまほしきを、まほにはえうちいできこえたまはで、ただ、 |
38 | 3.2.2 | 155 | 136 |
「亡き人の御ありさまの、罪軽からぬさまに、ほの聞くことのはべりしを、さるしるしあらはならでも、推し量り伝へつべきことにはべりけれど、後れしほどのあはればかりを忘れぬことにて、もののあなた思うたまへやらざりけるがものはかなさを、いかでよう言ひ聞かせむ人の勧めをも聞きはべりて、みづからだに、かの炎をも冷ましはべりにしがなと、やうやう積もるになむ、思ひ知らるることもありける」 |
"なきひとのおほんありさまの、つみかろからぬさまに、ほのきくことのはべりしを、さるしるしあらはならでも、おしはかりつたへつべきことにはべりけれど、おくれしほどのあはればかりをわすれぬことにて、もののあなたおもうたまへやらざりけるがものはかなさを、いかでよういひきかせんひとのすすめをもききはべりて、みづからだに、かのほのほをもさましはべりにしがなと、やうやうつもるになん、おもひしらるることもありける。" |
38 | 3.2.3 | 156 | 137 |
など、かすめつつぞのたまふ。 |
など、かすめつつぞのたまふ。 |
38 | 3.2.4 | 157 | 138 |
「げに、さも思しぬべきこと」と、あはれに見たてまつりたまうて、 |
"げに、さもおぼしぬべきこと。"と、あはれにみたてまつりたまうて、 |
38 | 3.2.5 | 158 | 139 |
「その炎なむ、誰も逃るまじきことと知りながら、朝の露のかかれるほどは、思ひ捨てはべらぬになむ。目蓮が仏に近き聖の身にて、たちまちに救ひけむ例にも、え継がせたまはざらむものから、玉の簪捨てさせたまはむも、この世には恨み残るやうなるわざなり。 |
"そのほのほなん、たれものがるまじきこととしりながら、あしたのつゆのかかれるほどは、おもひすてはべらぬになん。もくれんがほとけにちかきひじりのみにて、たちまちにすくひけんためしにも、えつがせたまはざらんものから、たまのかんざしすてさせたまはんも、このよにはうらみのこるやうなるわざなり。 |
38 | 3.2.6 | 159 | 140 |
やうやうさる御心ざしをしめたまひて、かの御煙晴るべきことをせさせたまへ。しか思ひたまふることはべりながら、もの騒がしきやうに、静かなる本意もなきやうなるありさまに明け暮らしはべりつつ、みづからの勤めに添へて、今静かにと思ひたまふるも、げにこそ、心幼きことなれ」 |
やうやうさるみこころざしをしめたまひて、かのおほんけぶりはるべきことをせさせたまへ。しかおもひたまふることはべりながら、ものさわがしきやうに、しづかなるほいもなきやうなるありさまにあけくらしはべりつつ、みづからのつとめにそへて、いましづかにとおもひたまふるも、げにこそ、こころをさなきことなれ。" |
38 | 3.2.7 | 160 | 141 |
など、世の中なべてはかなく、厭ひ捨てまほしきことを聞こえ交はしたまへど、なほ、やつしにくき御身のありさまどもなり。 |
など、よのなかなべてはかなく、いとひすてまほしきことをきこえかはしたまへど、なほ、やつしにくきおほんみのありさまどもなり。 |
38 | 3.3 | 161 | 142 | 第三段 秋好中宮の仏道生活 |
38 | 3.3.1 | 162 | 143 |
昨夜はうち忍びてかやすかりし御歩き、今朝は表はれたまひて、上達部ども、参りたまへる限りは皆御送り仕うまつりたまふ。 |
よべはうちしのびてかやすかりしおほんありき、けさはあらはれたまひて、かまだちめども、まゐりたまへるかぎりはみなおほんおくりつかうまつりたまふ。 |
38 | 3.3.2 | 163 | 144 |
春宮の女御の御ありさま、並びなく、いつきたてたまへるかひがひしさも、大将のまたいと人に異なる御さまをも、いづれとなくめやすしと思すに、なほ、この冷泉院を思ひきこえたまふ御心ざしは、すぐれて深くあはれにぞおぼえたまふ。院も常にいぶかしう思ひきこえたまひしに、御対面のまれにいぶせうのみ思されけるに、急がされたまひて、かく心安きさまにと思しなりけるになむ。 |
とうぐうのにょうごのおほんありさま、ならびなく、いつきたてたまへるかひがひしさも、だいしゃうのまたいとひとにことなるおほんさまをも、いづれとなくめやすしとおぼすに、なほ、このれいぜいゐんをおもひきこえたまふみこころざしは、すぐれてふかくあはれにぞおぼえたまふ。ゐんもつねにいぶかしうおもひきこえたまひしに、おほんたいめんのまれにいぶせうのみおぼされけるに、いそがされたまひて、かくこころやすきさまにとおぼしなりけるになん。 |
38 | 3.3.3 | 164 | 145 |
中宮ぞ、なかなかまかでたまふこともいと難うなりて、ただ人の仲のやうに並びおはしますに、今めかしう、なかなか昔よりもはなやかに、御遊びをもしたまふ。何ごとも御心やれるありさまながら、ただかの御息所の御事を思しやりつつ、行なひの御心進みにたるを、人の許しきこえたまふまじきことなれば、功徳のことを立てて思しいとなみ、いとど心深う、世の中を思し取れるさまになりまさりたまふ。 |
ちゅうぐうぞ、なかなかまかでたまふこともいとかたうなりて、ただびとのなかのやうにならびおはしますに、いまめかしう、なかなかむかしよりもはなやかに、おほんあそびをもしたまふ。なにごともみこころやれるありさまながら、ただかのみやすんどころのおほんことをおぼしやりつつ、おこなひのみこころすすみにたるを、ひとのゆるしきこえたまふまじきことなれば、くどくのことをたてておぼしいとなみ、いとどこころぶかう、よのなかをおぼしとれるさまになりまさりたまふ。 |