帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
39 | 夕霧 |
39 | 1 | 98 | 82 | 第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問 |
39 | 1.1 | 99 | 83 | 第一段 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る |
39 | 1.1.1 | 100 | 84 |
まめ人の名をとりて、さかしがりたまふ大将、この一条の宮の御ありさまを、なほあらまほしと心にとどめて、おほかたの人目には、昔を忘れぬ用意に見せつつ、いとねむごろにとぶらひきこえたまふ。下の心には、かくては止むまじくなむ、月日に添へて思ひまさりたまひける。 |
まめびとのなをとりて、さかしがりたまふだいしゃう、このいちでうのみやのおほんありさまを、なほあらまほしとこころにとどめて、おほかたのひとめには、むかしをわすれぬよういにみせつつ、いとねんごろにとぶらひきこえたまふ。したのこころには、かくてはやむまじくなん、つきひにそへておもひまさりたまひける。 |
39 | 1.1.2 | 101 | 85 |
御息所も、「あはれにありがたき御心ばへにもあるかな」と、今はいよいよもの寂しき御つれづれを、絶えず訪づれたまふに、慰めたまふことども多かり。 |
みやすんどころも、"あはれにありがたきみこころばへにもあるかな。"と、いまはいよいよものさびしきおほんつれづれを、たえずおとづれたまふに、なぐさめたまふことどもおほかり。 |
39 | 1.1.3 | 102 | 86 |
初めより懸想びても聞こえたまはざりしに、 |
はじめよりけさうびてもきこえたまはざりしに、 |
39 | 1.1.4 | 103 | 87 |
「ひき返し懸想ばみなまめかむもまばゆし。ただ深き心ざしを見えたてまつりて、うちとけたまふ折もあらじやは」 |
"ひきかへしけさうばみなまめかんもまばゆし。ただふかきこころざしをみえたてまつりて、うちとけたまふをりもあらじやは。" |
39 | 1.1.5 | 104 | 88 |
と思ひつつ、さるべきことにつけても、宮の御けはひありさまを見たまふ。みづからなど聞こえたまふことはさらになし。 |
とおもひつつ、さるべきことにつけても、みやのおほんけはひありさまをみたまふ。みづからなどきこえたまふことはさらになし。 |
39 | 1.1.6 | 105 | 89 |
「いかならむついでに、思ふことをもまほに聞こえ知らせて、人の御けはひを見む」 |
"いかならんついでに、おもふことをもまほにきこえしらせて、ひとのおほんけはひをみん。" |
39 | 1.1.7 | 106 | 90 |
と思しわたるに、御息所、もののけにいたう患ひたまひて、小野といふわたりに、山里持たまへるに渡りたまへり。早うより御祈りの師に、もののけなど祓ひ捨てける律師、山籠もりして里に出でじと誓ひたるを、麓近くて、請じ下ろしたまふゆゑなりけり。 |
とおぼしわたるに、みやすんどころ、もののけにいたうわづらひたまひて、をのといふわたりに、やまざともたまへるにわたりたまへり。はやうよりおほんいのりのしに、もののけなどはらひすてけるりし、やまごもりしてさとにいでじとちかひたるを、ふもとちかくて、さうじおろしたまふゆゑなりけり。 |
39 | 1.1.8 | 107 | 91 |
御車よりはじめて、御前など、大将殿よりぞたてまつれたまへるを、なかなか昔の近きゆかりの君たちは、ことわざしげきおのがじしの世のいとなみに紛れつつ、えしも思ひ出できこえたまはず。 |
みくるまよりはじめて、ごぜんなど、だいしゃうどのよりぞたてまつれたまへるを、なかなかのむかしのちかきゆかりのきみたちは、ことわざしげきおのがじしのよのいとなみにまぎれつつ、えしもおもひいできこえたまはず。 |
39 | 1.1.9 | 108 | 92 |
弁の君、はた、思ふ心なきにしもあらで、けしきばみけるに、ことの外なる御もてなしなりけるには、しひてえ参でとぶらひたまはずなりにたり。 |
べんのきみ、はた、おもふこころなきにしもあらで、けしきばみけるに、ことのほかなるおほんもてなしなりけるには、しひてえまでとぶらひたまはずなりにたり。 |
39 | 1.1.10 | 109 | 93 |
この君は、いとかしこう、さりげなくて聞こえ馴れたまひにためり。修法などせさせたまふと聞きて、僧の布施、浄衣などやうの、こまかなるものをさへたてまつれたまふ。悩みたまふ人は、え聞こえたまはず。 |
このきみは、いとかしこう、さりげなくてきこえなれたまひにためり。すほふなどせさせたまふとききて、そうのふせ、じゃうえなどやうの、こまかなるものをさへたてまつれたまふ。なやみたまふひとは、えきこえたまはず。 |
39 | 1.1.11 | 110 | 94 |
「なべての宣旨書きは、ものしと思しぬべく、ことことしき御さまなり」 |
"なべてのせんじがきは、ものしとおぼしぬべく、ことことしきおほんさまなり。" |
39 | 1.1.12 | 111 | 95 |
と、人びと聞こゆれば、宮ぞ御返り聞こえたまふ。 |
と、ひとびときこゆれば、みやぞおほんかへりきこえたまふ。 |
39 | 1.1.13 | 112 | 96 |
いとをかしげにて、ただ一行りなど、おほどかなる書きざま、言葉もなつかしきところ書き添へたまへるを、いよいよ見まほしう目とまりて、しげう聞こえ通ひたまふ。 |
いとをかしげにて、ただひとくだりなど、おほどかなるかきざま、ことばもなつかしきところかきそへたまへるを、いよいよみまほしうめとまりて、しげうきこえかよひたまふ。 |
39 | 1.1.14 | 113 | 97 |
「なほ、つひにあるやうあるべきやう御仲らひなめり」 |
"なほ、つひにあるやうあるべきやうおほんなからひなめり。" |
39 | 1.1.15 | 114 | 98 |
と、北の方けしきとりたまへれば、わづらはしくて、参うでまほしう思せど、とみにえ出で立ちたまはず。 |
と、きたのかたけしきとりたまへれば、わづらはしくて、まうでまほしうおぼせど、とみにえいでたちたまはず。 |
39 | 1.2 | 115 | 99 | 第二段 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問 |
39 | 1.2.1 | 116 | 100 |
八月中の十日ばかりなれば、野辺のけしきもをかしきころなるに、山里のありさまのいとゆかしければ、 |
はちがつなかのとをかばかりなれば、のべのけしきもをかしきころなるに、やまざとのありさまのいとゆかしければ、 |
39 | 1.2.2 | 117 | 101 |
「なにがし律師のめづらしう下りたなるに、せちに語らふべきことあり。御息所の患ひたまふなるもとぶらひがてら、参うでむ」 |
"なにがしりしのめづらしうおりたなるに、せちにかたらふべきことあり。みやすんどころのわづらひたまふなるもとぶらひがてら、まうでん。" |
39 | 1.2.3 | 118 | 102 |
と、おほかたにぞ聞こえて出でたまふ。御前、ことことしからで、親しき限り五、六人ばかり、狩衣にてさぶらふ。ことに深き道ならねど、松が崎の小山の色なども、さる巌ならねど、秋のけしきつきて、都に二なくと尽くしたる家居には、なほ、あはれも興もまさりてぞ見ゆるや。 |
と、おほかたにぞきこえていでたまふ。ごぜん、ことことしからで、したしきかぎりご、ろくにんばかり、かりぎぬにてさぶらふ。ことにふかきみちならねど、まつがさきのをやまのいろなども、さるいはほならねど、あきのけしきつきて、みやこにになくとつくしたるいへゐには、なほ、あはれもきょうもまさりてぞみゆるや。 |
39 | 1.2.4 | 119 | 103 |
はかなき小柴垣もゆゑあるさまにしなして、かりそめなれどあてはかに住まひなしたまへり。寝殿とおぼしき東の放出に、修法の檀塗りて、北の廂におはすれば、西面に宮はおはします。 |
はかなきこしばがきもゆゑあるさまにしなして、かりそめなれどあてはかにすまひなしたまへり。しんでんとおぼしきひんがしのはなちいでに、すほふのだんぬりて、きたのひさしにおはすれば、にしおもてにみやはおはします。 |
39 | 1.2.5 | 120 | 104 |
御もののけむつかしとて、とどめたてまつりたまひけれど、いかでか離れたてまつらむと、慕ひわたりたまへるを、人に移り散るを懼ぢて、すこしの隔てばかりに、あなたには渡したてまつりたまはず。 |
おほんもののけむつかしとて、とどめたてまつりたまひけれど、いかでかはなれたてまつらんと、したひわたりたまへるを、ひとにうつりちるをおぢて、すこしのへだてばかりに、あなたにはわたしたてまつりたまはず。 |
39 | 1.2.6 | 121 | 105 |
客人のゐたまふべき所のなければ、宮の御方の御簾の前に入れたてまつりて、上臈だつ人びと、御消息聞こえ伝ふ。 |
まらうとのゐたまふべきところのなければ、みやのおほんかたのみすのまへにいれたてまつりて、じゃうらふだつひとびと、おほんせうそこきこえつたふ。 |
39 | 1.2.7 | 122 | 106 |
「いとかたじけなく、かうまでのたまはせ渡らせたまへるをなむ。もしかひなくなり果てはべりなば、このかしこまりをだに聞こえさせでやと、思ひたまふるをなむ、今しばしかけとどめまほしき心つきはべりぬる」 |
"いとかたじけなく、かうまでのたまはせわたらせたまへるをなん。もしかひなくなりはてはべりなば、このかしこまりをだにきこえさせでやと、おもひたまふるをなん、いましばしかけとどめまほしきこころつきはべりぬる。" |
39 | 1.2.8 | 123 | 107 |
と、聞こえ出だしたまへり。 |
と、きこえいだしたまへり。 |
39 | 1.2.9 | 124 | 108 |
「渡らせたまひし御送りにもと思うたまへしを、六条院に承りさしたることはべりしほどにてなむ。日ごろも、そこはかとなく紛るることはべりて、思ひたまふる心のほどよりは、こよなくおろかに御覧ぜらるることの、苦しうはべる」 |
"わたらせたまひしおほんおくりにもとおもうたまへしを、ろくでうのゐんにうけたまはりさしたることはべりしほどにてなん。ひごろも、そこはかとなくまぎるることはべりて、おもひたまふるこころのほどよりは、こよなくおろかにごらんぜらるることの、くるしうはべる。" |
39 | 1.2.10 | 125 | 109 |
など、聞こえたまふ。 |
など、きこえたまふ。 |
39 | 1.3 | 126 | 110 | 第三段 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる |
39 | 1.3.1 | 127 | 111 |
宮は、奥の方にいと忍びておはしませど、ことことしからぬ旅の御しつらひ、浅きやうなる御座のほどにて、人の御けはひおのづからしるし。いとやはらかにうちみじろきなどしたまふ御衣の音なひ、さばかりななりと、聞きゐたまへり。 |
みやは、おくのかたにいとしのびておはしませど、ことことしからぬたびのおほんしつらひ、あさきやうなるおましのほどにて、ひとのおほんけはひおのづからしるし。いとやはらかにうちみじろきなどしたまふおほんぞのおとなひ、さばかりななりと、ききゐたまへり。 |
39 | 1.3.2 | 128 | 112 |
心も空におぼえて、あなたの御消息通ふほど、すこし遠う隔たる隙に、例の少将の君など、さぶらふ人びとに物語などしたまひて、 |
こころもそらにおぼえて、あなたのおほんせうそこかよふほど、すこしとほうへだたるひまに、れいのせうしゃうのきみなど、さぶらふひとびとにものがたりなどしたまひて、 |
39 | 1.3.3 | 129 | 113 |
「かう参り来馴れ承ることの、年ごろといふばかりになりにけるを、こよなうもの遠うもてなさせたまへる恨めしさなむ。かかる御簾の前にて、人伝ての御消息などの、ほのかに聞こえ伝ふることよ。まだこそならはね。いかに古めかしきさまに、人びとほほ笑みたまふらむと、はしたなくなむ。 |
"かうまゐりきなれうけたまはることの、としごろといふばかりになりにけるを、こよなうものとほうもてなさせたまへるうらめしさなん。かかるみすのまへにて、ひとづてのおほんせうそこなどの、ほのかにきこえつたふることよ。まだこそならはね。いかにふるめかしきさまに、ひとびとほほゑみたまふらんと、はしたなくなん。 |
39 | 1.3.4 | 130 | 114 |
齢積もらず軽らかなりしほどに、ほの好きたる方に面馴れなましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし。さらに、かばかりすくすくしう、おれて年経る人は、たぐひあらじかし」 |
よはひつもらずかるらかなりしほどに、ほのすきたるかたにおもなれなましかば、かううひうひしうもおぼえざらまし。さらに、かばかりすくすくしう、おれてとしふるひとは、たぐひあらじかし。" |
39 | 1.3.5 | 131 | 115 |
とのたまふ。げに、いとあなづりにくげなるさましたまひつれば、さればよと、 |
とのたまふ。げに、いとあなづりにくげなるさましたまひつれば、さればよと、 |
39 | 1.3.6 | 132 | 116 |
「なかなかなる御いらへ聞こえ出でむは、恥づかしう」 |
"なかなかなるおほんいらへきこえいでんは、はづかしう。" |
39 | 1.3.7 | 133 | 117 |
などつきしろひて、 |
などつきしろひて、 |
39 | 1.3.8 | 134 | 118 |
「かかる御愁へ聞こしめし知らぬやうなり」 |
"かかるおほんうれへきこしめししらぬやうなり。" |
39 | 1.3.9 | 135 | 119 |
と、宮に聞こゆれば、 |
と、みやにきこゆれば、 |
39 | 1.3.10 | 136 | 120 |
「みづから聞こえたまはざめるかたはらいたさに、代はりはべるべきを、いと恐ろしきまでものしたまふめりしを、見あつかひはべりしほどに、いとどあるかなきかの心地になりてなむ、え聞こえぬ」 |
"みづからきこえたまはざめるかたはらいたさに、かはりはべるべきを、いとおそろしきまでものしたまふめりしを、みあつかひはべりしほどに、いとどあるかなきかのここちになりてなん、えきこえぬ。" |
39 | 1.3.11 | 137 | 121 |
とあれば、 |
とあれば、 |
39 | 1.3.12 | 138 | 122 |
「こは、宮の御消息か」とゐ直りて、「心苦しき御悩みを、身に代ふばかり嘆ききこえさせはべるも、何のゆゑにか。かたじけなけれど、ものを思し知る御ありさまなど、はればれしき方にも見たてまつり直したまふまでは、平らかに過ぐしたまはむこそ、誰が御ためにも頼もしきことにははべらめと、推し量りきこえさするによりなむ。ただあなたざまに思し譲りて、積もりはべりぬる心ざしをも知ろしめされぬは、本意なき心地なむ」 |
"こは、みやのおほんせうそこか。"とゐなほりて、"こころぐるしきおほんなやみを、みにかふばかりなげききこえさせはべるも、なにのゆゑにか。かたじけなけれど、ものをおぼししるおほんありさまなど、はればれしきかたにもみたてまつりなほしたまふまでは、たひらかにすぐしたまはんこそ、たがおほんためにもたのもしきことにははべらめと、おしはかりきこえさするによりなん。ただあなたざまにおぼしゆづりて、つもりはべりぬるこころざしをもしろしめされぬは、ほいなきここちなん。" |
39 | 1.3.13 | 139 | 123 |
と聞こえたまふ。「げに」と、人びとも聞こゆ。 |
ときこえたまふ。"げに"と、ひとびともきこゆ。 |
39 | 1.4 | 140 | 124 | 第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意 |
39 | 1.4.1 | 141 | 125 |
日入り方になり行くに、空のけしきもあはれに霧りわたりて、山の蔭は小暗き心地するに、ひぐらしの鳴きしきりて、垣ほに生ふる撫子の、うちなびける色もをかしう見ゆ。 |
ひいりかたになりゆくに、そらのけしきもあはれにきりわたりて、やまのかげはをぐらきここちするに、ひぐらしのなきしきりて、かきほにおふるなでしこの、うちなびけるいろもをかしうみゆ。 |
39 | 1.4.2 | 142 | 127 |
前の前栽の花どもは、心にまかせて乱れあひたるに、水の音いと涼しげにて、山おろし心すごく、松の響き木深く聞こえわたされなどして、不断の経読む、時変はりて、鐘うち鳴らすに、立つ声もゐ変はるも、一つにあひて、いと尊く聞こゆ。 |
まへのせんさいのはなどもは、こころにまかせてみだれあひたるに、みづのをといとすずしげにて、やまおろしこころすごく、まつのひびきこぶかくきこえわたされなどして、ふだんのきゃうよむ、ときかはりて、かねうちならすに、たつこゑもゐかはるも、ひとつにあひて、いとたふとくきこゆ。 |
39 | 1.4.3 | 143 | 128 |
所から、よろづのこと心細う見なさるるも、あはれにもの思ひ続けらる。出でたまはむ心地もなし。律師も、加持する音して、陀羅尼いと尊く読むなり。 |
ところから、よろづのことこころぼそうみなさるるも、あはれにものおもひつづけらる。いでたまはんここちもなし。りしも、かぢするおとして、だらにいとたふとくよむなり。 |
39 | 1.4.4 | 144 | 129 |
いと苦しげにしたまふなりとて、人びともそなたに集ひて、おほかたも、かかる旅所にあまた参らざりけるに、いとど人少なにて、宮は眺めたまへり。しめやかにて、「思ふこともうち出でつべき折かな」と思ひゐたまへるに、霧のただこの軒のもとまで立ちわたれば、 |
いとくるしげにしたまふなりとて、ひとびともそなたにつどひて、おほかたも、かかるたびどころにあまたまゐらざりけるに、いとどひとずくなにて、みやはながめたまへり。しめやかにて、"おもふこともうちいでつべきをりかな。"とおもひゐたまへるに、きりのただこののきのもとまでたちわたれば、 |
39 | 1.4.5 | 145 | 130 |
「まかでむ方も見えずなり行くは、いかがすべき」とて、 |
"まかでんかたもみえずなりゆくは、いかがすべき。"とて、 |
39 | 1.4.6 | 146 | 131 |
「山里のあはれを添ふる夕霧に<BR/>立ち出でむ空もなき心地して」 |
"〔やまざとのあはれをそふるゆふぎりに<BR/>たちいでんそらもなきここちして〕 |
39 | 1.4.7 | 147 | 132 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
39 | 1.4.8 | 148 | 133 |
「山賤の籬をこめて立つ霧も<BR/>心そらなる人はとどめず」 |
"〔やまがつのまがきをこめてたつきりも<BR/>こころそらなるひとはとどめず〕 |
39 | 1.4.9 | 149 | 134 |
ほのかに聞こゆる御けはひに慰めつつ、まことに帰るさ忘れ果てぬ。 |
ほのかにきこゆるおほんけはひになぐさめつつ、まことにかへるさわすれはてぬ。 |
39 | 1.4.10 | 150 | 135 |
「中空なるわざかな。家路は見えず、霧の籬は、立ち止るべうもあらず遣らはせたまふ。つきなき人は、かかることこそ」 |
"なかぞらなるわざかな。いへぢはみえず、きりのまがきは、たちとまるべうもあらずやらはせたまふ。つきなきひとは、かかることこそ。" |
39 | 1.4.11 | 151 | 136 |
などやすらひて、忍びあまりぬる筋もほのめかし聞こえたまふに、年ごろもむげに見知りたまはぬにはあらねど、知らぬ顔にのみもてなしたまへるを、かく言に出でて怨みきこえたまふを、わづらはしうて、いとど御いらへもなければ、いたう嘆きつつ、心のうちに、「また、かかる折ありなむや」と、思ひめぐらしたまふ。 |
などやすらひて、しのびあまりぬるすぢもほのめかしきこえたまふに、としごろもむげにみしりたまはぬにはあらねど、しらぬかほにのみもてなしたまへるを、かくことにいでてうらみきこえたまふを、わづらはしうて、いとどおほんいらへもなければ、いたうなげきつつ、こころのうちに、"また、かかるをりありなんや。"と、おもひめぐらしたまふ。 |
39 | 1.4.12 | 152 | 137 |
「情けなうあはつけきものには思はれたてまつるとも、いかがはせむ。思ひわたるさまをだに知らせたてまつらむ」 |
"なさけなうあはつけきものにはおもはれたてまつるとも、いかがはせん。おもひわたるさまをだにしらせたてまつらん。" |
39 | 1.4.13 | 153 | 138 |
と思ひて、人を召せば、御司の将監よりかうぶり得たる、睦ましき人ぞ参れる。忍びやかに召し寄せて、 |
とおもひて、ひとをめせば、おほんつかさのぞうよりかうぶりえたる、むつましきひとぞまゐれる。しのびやかにめしよせて、 |
39 | 1.4.14 | 154 | 139 |
「この律師にかならず言ふべきことのあるを。護身などに暇なげなめる、ただ今はうち休むらむ。今宵このわたりに泊りて、初夜の時果てむほどに、かのゐたる方にものせむ。これかれ、さぶらはせよ。随身などの男どもは、栗栖野の荘近からむ、秣などとり飼はせて、ここに人あまた声なせそ。かやうの旅寝は、軽々しきやうに人もとりなすべし」 |
"このりしにかならずいふべきことのあるを。ごしんなどにいとまなげなめる、ただいまはうちやすむらん。こよひこのわたりにとまりて、そやのじはてんほどに、かのゐたるかたにものせん。これかれ、さぶらはせよ。ずいじんなどのをのこどもは、くるすののさうちかからん、まぐさなどとりかはせて、ここにひとあまたこゑなせそ。かやうのたびねは、かるがるしきやうにひともとりなすべし。" |
39 | 1.4.15 | 155 | 140 |
とのたまふ。あるやうあるべしと心得て、承りて立ちぬ。 |
とのたまふ。あるやうあるべしとこころえて、うけたまはりてたちぬ。 |
39 | 1.5 | 156 | 141 | 第五段 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む |
39 | 1.5.1 | 157 | 142 |
さて、 |
さて、 |
39 | 1.5.2 | 158 | 143 |
「道いとたどたどしければ、このわたりに宿借りはべる。同じうは、この御簾のもとに許されあらなむ。阿闍梨の下るるほどまで」 |
"みちいとたどたどしければ、このわたりにやどかりはべる。おなじうは、このみすのもとにゆるされあらなん。あざりのおるるほどまで。" |
39 | 1.5.3 | 159 | 144 |
など、つれなくのたまふ。例は、かやうに長居して、あざればみたるけしきも見えたまはぬを、「うたてもあるかな」と、宮思せど、ことさらめきて、軽らかにあなたにはひ渡りたまふは、人もさま悪しき心地して、ただ音せでおはしますに、とかく聞こえ寄りて、御消息聞こえ伝へにゐざり入る人の影につきて、入りたまひぬ。 |
など、つれなくのたまふ。れいは、かやうにながゐして、あざればみたるけしきもみえたまはぬを、"うたてもあるかな。"と、みやおぼせど、ことさらめきて、かるらかにあなたにはひわたりたまふは、ひともさまあしきここちして、ただおとせでおはしますに、とかくきこえよりて、おほんせうそこきこえつたへにゐざりいるひとのかげにつきて、いりたまひぬ。 |
39 | 1.5.4 | 160 | 145 |
まだ夕暮の、霧に閉ぢられて、内は暗くなりにたるほどなり。あさましうて見返りたるに、宮はいとむくつけうなりたまうて、北の御障子の外にゐざり出でさせたまふを、いとようたどりて、ひきとどめたてまつりつ。 |
まだゆふぐれの、きりにとぢられて、うちはくらくなりにたるほどなり。あさましうてみかへりたるに、みやはいとむくつけうなりたまうて、きたのみさうじのとにゐざりいでさせたまふを、いとようたどりて、ひきとどめたてまつりつ。 |
39 | 1.5.5 | 161 | 146 |
御身は入り果てたまへれど、御衣の裾の残りて、障子は、あなたより鎖すべき方なかりければ、引きたてさして、水のやうにわななきおはす。 |
おほんみはいりはてたまへれど、おほんぞのすそののこりて、さうじは、あなたよりさすべきかたなかりければ、ひきたてさして、みづのやうにわななきおはす。 |
39 | 1.5.6 | 162 | 147 |
人びともあきれて、いかにすべきことともえ思ひえず。こなたよりこそ鎖す錠などもあれ、いとわりなくて、荒々しくは、え引きかなぐるべくはたものしたまはねば、 |
ひとびともあきれて、いかにすべきことともえおもひえず。こなたよりこそさすかねなどもあれ、いとわりなくて、あらあらしくは、えひきかなぐるべくはたものしたまはねば、 |
39 | 1.5.7 | 163 | 148 |
「いとあさましう。思たまへ寄らざりける御心のほどになむ」 |
"いとあさましう。おもたまへよらざりけるみこころのほどになん。" |
39 | 1.5.8 | 164 | 149 |
と、泣きぬばかりに聞こゆれど、 |
と、なきぬばかりにきこゆれど、 |
39 | 1.5.9 | 165 | 150 |
「かばかりにてさぶらはむが、人よりけに疎ましう、めざましう思さるべきにやは。数ならずとも、御耳馴れぬる年月も重なりぬらむ」 |
"かばかりにてさぶらはんが、ひとよりけにうとましう、めざましうおぼさるべきにやは。かずならずとも、おほんみみなれぬるとしつきもかさなりぬらん。" |
39 | 1.5.10 | 166 | 151 |
とて、いとのどやかにさまよくもてしづめて、思ふことを聞こえ知らせたまふ。 |
とて、いとのどやかにさまよくもてしづめて、おもふことをきこえしらせたまふ。 |
39 | 1.6 | 167 | 152 | 第六段 夕霧、落葉宮をかき口説く |
39 | 1.6.1 | 168 | 153 |
聞き入れたまふべくもあらず、悔しう、かくまでと思すことのみ、やる方なければ、のたまはむことはたましておぼえたまはず。 |
ききいれたまふべくもあらず、くやしう、かくまでとおぼすことのみ、やるかたなければ、のたまはんことはたましておぼえたまはず。 |
39 | 1.6.2 | 169 | 154 |
「いと心憂く、若々しき御さまかな。人知れぬ心にあまりぬる好き好きしき罪ばかりこそはべらめ、これより馴れ過ぎたることは、さらに御心許されでは御覧ぜられじ。いかばかり、千々に砕けはべる思ひに堪へぬぞや。 |
"いとこころうく、わかわかしきおほんさまかな。ひとしれぬこころにあまりぬるすきずきしきつみばかりこそはべらめ、これよりなれすぎたることは、さらにみこころゆるされではごらんぜられじ。いかばかり、ちぢにくだけはべるおもひにたへぬぞや。 |
39 | 1.6.3 | 170 | 155 |
さりともおのづから御覧じ知るふしもはべらむものを、しひておぼめかしう、け疎うもてなさせたまふめれば、聞こえさせむ方なさに、いかがはせむ、心地なく憎しと思さるとも、かうながら朽ちぬべき愁へを、さだかに聞こえ知らせはべらむとばかりなり。言ひ知らぬ御けしきの辛きものから、いとかたじけなければ」 |
さりともおのづからごらんじしるふしもはべらんものを、しひておぼめかしう、けうとうもてなさせたまふめれば、きこえさせんかたなさに、いかがはせん、ここちなくにくしとおぼさるとも、かうながらくちぬべきうれへを、さだかにきこえしらせはべらんとばかりなり。いひしらぬみけしきのつらきものから、いとかたじけなければ。" |
39 | 1.6.4 | 171 | 156 |
とて、あながちに情け深う、用意したまへり。 |
とて、あながちになさけふかう、よういしたまへり。 |
39 | 1.6.5 | 172 | 157 |
障子を押さへたまへるは、いとものはかなき固めなれど、引きも開けず。 |
さうじをおさへたまへるは、いとものはかなきかためなれど、ひきもあけず。 |
39 | 1.6.6 | 173 | 158 |
「かばかりのけぢめをと、しひて思さるらむこそあはれなれ」 |
"かばかりのけぢめをと、しひておぼさるらんこそあはれなれ。" |
39 | 1.6.7 | 174 | 159 |
と、うち笑ひて、うたて心のままなるさまにもあらず。人の御ありさまの、なつかしうあてになまめいたまへること、さはいへどことに見ゆ。世とともにものを思ひたまふけにや、痩せ痩せにあえかなる心地して、うちとけたまへるままの御袖のあたりもなよびかに、気近うしみたる匂ひなど、取り集めてらうたげに、やはらかなる心地したまへり。 |
と、うちわらひて、うたてこころのままなるさまにもあらず。ひとのおほんありさまの、なつかしうあてになまめいたまへること、さはいへどことにみゆ。よとともにものをおもひたまふけにや、やせやせにあえかなるここちして、うちとけたまへるままのおほんそでのあたりもなよびかに、けぢかうしみたるにほひなど、とりあつめてらうたげに、やはらかなるここちしたまへり。 |
39 | 1.7 | 175 | 160 | 第七段 迫りながらも明け方近くなる |
39 | 1.7.1 | 176 | 161 |
風いと心細う、更けゆく夜のけしき、虫の音も、鹿の鳴く音も、滝の音も、一つに乱れて、艶あるほどなれど、ただありのあはつけ人だに、寝覚めしぬべき空のけしきを、格子もさながら、入り方の月の山の端近きほど、とどめがたう、ものあはれなり。 |
かぜいとこころぼそう、ふけゆくよるのけしき、むしのねも、しかのなくねも、たきのおとも、ひとつにみだれて、えんあるほどなれど、ただありのあはつけびとだに、ねざめしぬべきそらのけしきを、かうしもさながら、いりかたのつきのやまのはちかきほど、とどめがたう、ものあはれなり。 |
39 | 1.7.2 | 177 | 162 |
「なほ、かう思し知らぬ御ありさまこそ、かへりては浅う御心のほど知らるれ。かう世づかぬまでしれじれしきうしろやすさなども、たぐひあらじとおぼえはべるを、何事にもかやすきほどの人こそ、かかるをば痴者などうち笑ひて、つれなき心もつかふなれ。 |
"なほ、かうおぼししらぬおほんありさまこそ、かへりてはあさうみこころのほどしらるれ。かうよづかぬまでしれじれしきうしろやすさなども、たぐひあらじとおぼえはべるを、なにごとにもかやすきほどのひとこそ、かかるをばしれものなどうちわらひて、つれなきこころもつかふなれ。 |
39 | 1.7.3 | 178 | 163 |
あまりこよなく思し貶したるに、えなむ静め果つまじき心地しはべる。世の中をむげに思し知らぬにしもあらじを」 |
あまりこよなくおぼしおとしたるに、えなんしづめはつまじきここちしはべる。よのなかをむげにおぼししらぬにしもあらじを。" |
39 | 1.7.4 | 179 | 164 |
と、よろづに聞こえせめられたまひて、いかが言ふべきと、わびしう思しめぐらす。 |
と、よろづにきこえせめられたまひて、いかがいふべきと、わびしうおぼしめぐらす。 |
39 | 1.7.5 | 180 | 165 |
世を知りたる方の心やすきやうに、折々ほのめかすも、めざましう、「げに、たぐひなき身の憂さなりや」と、思し続けたまふに、死ぬべくおぼえたまうて、 |
よをしりたるかたのこころやすきやうに、をりをりほのめかすも、めざましう、"げに、たぐひなきみのうさなりや。"と、おぼしつづけたまふに、しぬべくおぼえたまうて、 |
39 | 1.7.6 | 181 | 166 |
「憂きみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思ひなすべきにかはあらむ」 |
"うきみづからのつみをおもひしるとても、いとかうあさましきを、いかやうにおもひなすべきにかはあらん。" |
39 | 1.7.7 | 182 | 167 |
と、いとほのかに、あはれげに泣いたまうて、 |
と、いとほのかに、あはれげにないたまうて、 |
39 | 1.7.8 | 183 | 168 |
「我のみや憂き世を知れるためしにて<BR/>濡れそふ袖の名を朽たすべき」 |
"〔われのみやうきよをしれるためしにて<BR/>ぬれそふそでのなをくたすべき〕 |
39 | 1.7.9 | 184 | 169 |
とのたまふともなきを、わが心に続けて、忍びやかにうち誦じたまへるも、かたはらいたく、いかに言ひつることぞと、思さるるに、 |
とのたまふともなきを、わがこころにつづけて、しのびやかにうちずじたまへるも、かたはらいたく、いかにいひつることぞと、おぼさるるに、 |
39 | 1.7.10 | 185 | 170 |
「げに、悪しう聞こえつかし」 |
"げに、あしうきこえつかし。" |
39 | 1.7.11 | 186 | 171 |
など、ほほ笑みたまへるけしきにて、 |
など、ほほゑみたまへるけしきにて、 |
39 | 1.7.12 | 187 | 172 |
「おほかたは我濡衣を着せずとも<BR/>朽ちにし袖の名やは隠るる |
"〔おほかたはわれぬれぎぬをきせずとも<BR/>くちにしそでのなやはかくるる |
39 | 1.7.13 | 188 | 173 |
ひたぶるに思しなりねかし」 |
ひたぶるにおぼしなりねかし。" |
39 | 1.7.14 | 189 | 174 |
とて、月明き方に誘ひきこゆるも、あさまし、と思す。心強うもてなしたまへど、はかなう引き寄せたてまつりて、 |
とて、つきあかきかたにいざなひきこゆるも、あさまし、とおぼす。こころづようもてなしたまへど、はかなうひきよせたてまつりて、 |
39 | 1.7.15 | 190 | 175 |
「かばかりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。御許しあらでは、さらに、さらに」 |
"かばかりたぐひなきこころざしをごらんじしりて、こころやすうもてなしたまへ。おほんゆるしあらでは、さらに、さらに。" |
39 | 1.7.16 | 191 | 176 |
と、いとけざやかに聞こえたまふほど、明け方近うなりにけり。 |
と、いとけざやかにきこえたまふほど、あけがたちかうなりにけり。 |
39 | 1.8 | 192 | 177 | 第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る |
39 | 1.8.1 | 193 | 178 |
月隈なう澄みわたりて、霧にも紛れずさし入りたり。浅はかなる廂の軒は、ほどもなき心地すれば、月の顔に向かひたるやうなる、あやしうはしたなくて、紛らはしたまへるもてなしなど、いはむかたなくなまめきたまへり。 |
つきくまなうすみわたりて、きりにもまぎれずさしいりたり。あさはかなるひさしののきは、ほどもなきここちすれば、つきのかほにむかひたるやうなる、あやしうはしたなくて、まぎらはしたまへるもてなしなど、いはんかたなくなまめきたまへり。 |
39 | 1.8.2 | 194 | 179 |
故君の御こともすこし聞こえ出でて、さまようのどやかなる物語をぞ聞こえたまふ。さすがになほ、かの過ぎにし方に思し貶すをば、恨めしげに怨みきこえたまふ。御心の内にも、 |
こきみのおほんこともすこしきこえいでて、さまようのどやかなるものがたりをぞきこえたまふ。さすがになほ、かのすぎにしかたにおぼしおとすをば、うらめしげにうらみきこえたまふ。みこころのうちにも、 |
39 | 1.8.3 | 195 | 180 |
「かれは、位などもまだ及ばざりけるほどながら、誰れ誰れも御許しありけるに、おのづからもてなされて、見馴れたまひにしを、それだにいとめざましき心のなりにしさま、ましてかうあるまじきことに、よそに聞くあたりにだにあらず、大殿などの聞き思ひたまはむことよ。なべての世のそしりをばさらにもいはず、院にもいかに聞こし召し思ほされむ」 |
"かれは、くらゐなどもまだおよばざりけるほどながら、たれたれもおほんゆるしありけるに、おのづからもてなされて、みなれたまひにしを、それだにいとめざましきこころのなりにしさま、ましてかうあるまじきことに、よそにきくあたりにだにあらず、おほとのなどのききおもひたまはんことよ。なべてのよのそしりをばさらにもいはず、ゐんにもいかにきこしめしおもほされん。" |
39 | 1.8.4 | 196 | 181 |
など、離れぬここかしこの御心を思しめぐらすに、いと口惜しう、わが心一つに、 |
など、はなれぬここかしこのみこころをおぼしめぐらすに、いとくちをしう、わがこころひとつに、 |
39 | 1.8.5 | 197 | 182 |
「かう強う思ふとも、人のもの言ひいかならむ。御息所の知りたまはざらむも、罪得がましう、かく聞きたまひて、心幼く、と思しのたまはむ」もわびしければ、 |
"かうつようおもふとも、ひとのものいひいかならん。みやすんどころのしりたまはざらんも、つみえがましう、かくききたまひて、こころをさなく、とおぼしのたまはん。"もわびしければ、 |
39 | 1.8.6 | 198 | 184 |
「明かさでだに出でたまへ」 |
"あかさでだにいでたまへ。" |
39 | 1.8.7 | 199 | 185 |
と、やらひきこえたまふより外の言なし。 |
と、やらひきこえたまふよりほかのことなし。 |
39 | 1.8.8 | 200 | 186 |
「あさましや。ことあり顔に分けはべらむ朝露の思はむところよ。なほ、さらば思し知れよ。をこがましきさまを見えたてまつりて、賢うすかしやりつと思し離れむこそ、その際は心もえ収めあふまじう、知らぬことと、けしからぬ心づかひもならひはじむべう思ひたまへらるれ」 |
"あさましや。ことありがほにわけはべらんあさつゆのおもはんところよ。なほ、さらばおぼししれよ。をこがましきさまをみえたてまつりて、かしこうすかしやりつとおぼしはなれんこそ、そのきははこころもえをさめあふまじう、しらぬことと、けしからぬこころづかひもならひはじむべうおもひたまへらるれ。" |
39 | 1.8.9 | 201 | 187 |
とて、いとうしろめたく、なかなかなれど、ゆくりかにあざれたることの、まことにならはぬ御心地なれば、「いとほしう、わが御みづからも心劣りやせむ」など思いて、誰が御ためにも、あらはなるまじきほどの霧に立ち隠れて出でたまふ、心地そらなり。 |
とて、いとうしろめたく、なかなかなれど、ゆくりかにあざれたることの、まことにならはぬみここちなれば、"いとほしう、わがおほんみづからもこころおとりやせん。"などおぼいて、たがおほんためにも、あらはなるまじきほどのきりにたちかくれていでたまふ、ここちそらなり。 |
39 | 1.8.10 | 202 | 188 |
「荻原や軒端の露にそぼちつつ<BR/>八重立つ霧を分けぞ行くべき |
"〔をぎはらやのきばのつゆにそぼちつつ<BR/>やへたつきりをわけぞゆくべき |
39 | 1.8.11 | 203 | 189 |
濡衣はなほえ干させたまはじ。かうわりなうやらはせたまふ御心づからこそは」 |
ぬれごろもはなほえほさせたまはじ。かうわりなうやらはせたまふみこころづからこそは。" |
39 | 1.8.12 | 204 | 190 |
と聞こえたまふ。げに、この御名のたけからず漏りぬべきを、「心の問はむにだに、口ぎよう答へむ」と思せば、いみじうもて離れたまふ。 |
ときこえたまふ。げに、このおほんなのたけからずもりぬべきを、"こころのとはんにだに、くちぎようこたへん。"とおぼせば、いみじうもてはなれたまふ。 |
39 | 1.8.13 | 205 | 191 |
「分け行かむ草葉の露をかことにて<BR/>なほ濡衣をかけむとや思ふ |
"〔わけゆかんくさばのつゆをかことにて<BR/>なほぬれぎぬをかけんとやおもふ |
39 | 1.8.14 | 206 | 192 |
めづらかなることかな」 |
めづらかなることかな。" |
39 | 1.8.15 | 207 | 193 |
と、あはめたまへるさま、いとをかしう恥づかしげなり。年ごろ、人に違へる心ばせ人になりて、さまざまに情けを見えたてまつる、名残なく、うちたゆめ、好き好きしきやうなるが、いとほしう、心恥づかしげなれば、おろかならず思ひ返しつつ、「かうあながちに従ひきこえても、後をこがましくや」と、さまざまに思ひ乱れつつ出でたまふ。道の露けさも、いと所狭し。 |
と、あはめたまへるさま、いとをかしうはづかしげなり。としごろ、ひとにたがへるこころばせびとになりて、さまざまになさけをみえたてまつる、なごりなく、うちたゆめ、すきずきしきやうなるが、いとほしう、こころはづかしげなれば、おろかならずおもひかへしつつ、"かうあながちにしたがひきこえても、のちをこがましくや。"と、さまざまにおもひみだれつついでたまふ。みちのつゆけさも、いとところせし。 |
39 | 2 | 208 | 194 | 第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口 |
39 | 2.1 | 209 | 195 | 第一段 夕霧の後朝の文 |
39 | 2.1.1 | 210 | 196 |
かやうの歩き、慣らひたまはぬ心地に、をかしうも心尽くしにもおぼえつつ、殿におはせば、女君の、かかる濡れをあやしと咎めたまひぬべければ、六条院の東の御殿に参うでたまひぬ。まだ朝霧も晴れず、ましてかしこにはいかに、と思しやる。 |
かやうのありき、ならひたまはぬここちに、をかしうもこころづくしにもおぼえつつ、とのにおはせば、をんなぎみの、かかるぬれをあやしととがめたまひぬべければ、ろくでうのゐんのひんがしのおとどにまうでたまひぬ。まだあさぎりもはれず、ましてかしこにはいかに、とおぼしやる。 |
39 | 2.1.2 | 211 | 197 |
「例ならぬ御歩きありけり」 |
"れいならぬおほんありきありけり。" |
39 | 2.1.3 | 212 | 198 |
と、人びとはささめく。しばしうち休みたまひて、御衣脱ぎ替へたまふ。常に夏冬といときよらにしおきたまへれば、香の御唐櫃より取う出て奉りたまふ。御粥など参りて、御前に参りたまふ。 |
と、ひとびとはささめく。しばしうちやすみたまひて、おほんぞぬぎかへたまふ。つねになつふゆといときよらにしおきたまへれば、かうのおほんからびつよりとうでてたてまつりたまふ。おほんかゆなどまゐりて、おまへにまゐりたまふ。 |
39 | 2.1.4 | 213 | 199 |
かしこに御文たてまつりたまへれど、御覧じも入れず。にはかにあさましかりしありさま、めざましうも恥づかしうも思すに、心づきなくて、御息所の漏り聞きたまはむことも、いと恥づかしう、また、かかることやとかけて知りたまはざらむに、ただならぬふしにても見つけたまひ、人のもの言ひ隠れなき世なれば、おのづから聞きあはせて、隔てけると思さむがいと苦しければ、 |
かしこにおほんふみたてまつりたまへれど、ごらんじもいれず。にはかにあさましかりしありさま、めざましうもはづかしうもおぼすに、こころづきなくて、みやすんどころのもりききたまはんことも、いとはづかしう、また、かかることやとかけてしりたまはざらんに、ただならぬふしにてもみつけたまひ、ひとのものいひかくれなきよなれば、おのづからききあはせて、へだてけるとおぼさんがいとくるしければ、 |
39 | 2.1.5 | 214 | 200 |
「人びとありしままに聞こえ漏らさなむ。憂しと思すともいかがはせむ」と思す。 |
"ひとびとありしままにきこえもらさなん。うしとおぼすともいかがはせん。"とおぼす。 |
39 | 2.1.6 | 215 | 201 |
親子の御仲と聞こゆる中にも、つゆ隔てずぞ思ひ交はしたまへる。よその人は漏り聞けども、親に隠すたぐひこそは、昔の物語にもあめれど、さはた思されず。人びとは、 |
おやこのおほんなかときこゆるなかにも、つゆへだてずぞおもひかはしたまへる。よそのひとはもりきけども、おやにかくすたぐひこそは、むかしのものがたりにもあめれど、さはたおぼされず。ひとびとは、 |
39 | 2.1.7 | 216 | 202 |
「何かは、ほのかに聞きたまひて、ことしもあり顔に、とかく思し乱れむ。まだきに、心苦し」 |
"なにかは、ほのかにききたまひて、ことしもありがほに、とかくおぼしみだれん。まだきに、こころぐるし。" |
39 | 2.1.8 | 217 | 203 |
など言ひあはせて、いかならむと思ふどち、この御消息のゆかしきを、ひきも開けさせたまはねば、心もとなくて、 |
などいひあはせて、いかならんとおもふどち、このおほんせうそこのゆかしきを、ひきもあけさせたまはねば、こころもとなくて、 |
39 | 2.1.9 | 218 | 204 |
「なほ、むげに聞こえさせたまはざらむも、おぼつかなく、若々しきやうにぞはべらむ」 |
"なほ、むげにきこえさせたまはざらんも、おぼつかなく、わかわかしきやうにぞはべらん。" |
39 | 2.1.10 | 219 | 205 |
など聞こえて、広げたれば、 |
などきこえて、ひろげたれば、 |
39 | 2.1.11 | 220 | 206 |
「あやしう、何心もなきさまにて、人にかばかりにても見ゆるあはつけさの、みづからの過ちに思ひなせど、思ひやりなかりしあさましさも、慰めがたくなむ。え見ずとを言へ」 |
"あやしう、なにごころもなきさまにて、ひとにかばかりにてもみゆるあはつけさの、みづからのあやまちにおもひなせど、おもひやりなかりしあさましさも、なぐさめがたくなん。えみえずとをいへ。" |
39 | 2.1.12 | 221 | 207 |
と、ことのほかにて、寄り臥させたまひぬ。 |
と、ことのほかにて、よりふさせたまひぬ。 |
39 | 2.1.13 | 222 | 208 |
さるは、憎げもなく、いと心深う書いたまうて、 |
さるは、にくげもなく、いとこころぶかうかいたまうて、 |
39 | 2.1.14 | 223 | 209 |
「魂をつれなき袖に留めおきて<BR/>わが心から惑はるるかな |
"〔たましひをつれなきそでにとどめおきて<BR/>わがこころからまどはるるかな |
39 | 2.1.15 | 224 | 210 |
ほかなるものはとか、昔もたぐひありけりと思たまへなすにも、さらに行く方知らずのみなむ」 |
ほかなるものはとか、むかしもたぐひありけりとおもたまへなすにも、さらにゆくかたしらずのみなん。" |
39 | 2.1.16 | 225 | 211 |
など、いと多かめれど、人はえまほにも見ず。例のけしきなる今朝の御文にもあらざめれど、なほえ思ひはるけず。人びとは、御けしきもいとほしきを、嘆かしう見たてまつりつつ、 |
など、いとおほかめれど、ひとはえまほにもみず。れいのけしきなるけさのおほんふみにもあらざめれど、なほえおもひはるけず。ひとびとは、みけしきもいとほしきを、なげかしうみたてまつりつつ、 |
39 | 2.1.17 | 226 | 212 |
「いかなる御ことにかはあらむ。何ごとにつけても、ありがたうあはれなる御心ざまはほど経ぬれど」 |
"いかなるおほんことにかはあらん。なにごとにつけても、ありがたうあはれなるみこころざまはほどへぬれど。" |
39 | 2.1.18 | 227 | 213 |
「かかる方に頼みきこえては、見劣りやしたまはむ、と思ふも危ふく」 |
"かかるかたにたのみきこえては、みおとりやしたまはん、とおもふもあやふく。" |
39 | 2.1.19 | 228 | 214 |
など、睦ましうさぶらふ限りは、おのがどち思ひ乱る。御息所もかけて知りたまはず。 |
など、むつましうさぶらふかぎりは、おのがどちおもひみだる。みやすんどころもかけてしりたまはず。 |
39 | 2.2 | 229 | 215 | 第二段 律師、御息所に告げ口 |
39 | 2.2.1 | 230 | 216 |
もののけにわづらひたまふ人は、重しと見れど、さはやぎたまふ隙もありてなむ、ものおぼえたまふ。日中の御加持果てて、阿闍梨一人とどまりて、なほ陀羅尼読みたまふ。よろしうおはします、喜びて、 |
もののけにわづらひたまふひとは、おもしとみれど、さはやぎたまふひまもありてなん、ものおぼえたまふ。にちゅうのおほんかぢはてて、あざりひとりとどまりて、なほだらによみたまふ。よろしうおはします、よろこびて、 |
39 | 2.2.2 | 231 | 217 |
「大日如来虚言したまはずは。などてか、かくなにがしが心を致して仕うまつる御修法、験なきやうはあらむ。悪霊は執念きやうなれど、業障にまとはれたるはかなものなり」 |
"だいにちにょらいそらごとしたまはずは。などてか、かくなにがしがこころをいたしてつかうまつるみすほふ、しるしなきやうはあらん。あくりゃうはしふねきやうなれど、ごふしゃうにまとはれたるはかなものなり。" |
39 | 2.2.3 | 232 | 218 |
と、声はかれて怒りたまふ。いと聖だち、すくすくしき律師にて、ゆくりもなく、 |
と、こゑはかれていかりたまふ。いとひじりだち、すくすくしきりしにて、ゆくりもなく、 |
39 | 2.2.4 | 233 | 219 |
「そよや。この大将は、いつよりここには参り通ひたまふぞ」 |
"そよや。このだいしゃうは、いつよりここにはまゐりかよひたまふぞ。" |
39 | 2.2.5 | 234 | 220 |
と問ひ申したまふ。御息所、 |
ととひまうしたまふ。みやすんどころ、 |
39 | 2.2.6 | 235 | 221 |
「さることもはべらず。故大納言のいとよき仲にて、語らひつけたまへる心違へじと、この年ごろ、さるべきことにつけて、いとあやしくなむ語らひものしたまふも、かくふりはへ、わづらふを訪らひにとて、立ち寄りたまへりければ、かたじけなく聞きはべりし」 |
"さることもはべらず。こだいなごんのいとよきなかにて、かたらひつけたまへるこころたがへじと、このとしごろ、さるべきことにつけて、いとあやしくなんかたらひものしたまふも、かくふりはへ、わづらふをとぶらひにとて、たちよりたまへりければ、かたじけなくききはべりし。" |
39 | 2.2.7 | 236 | 222 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
39 | 2.2.8 | 237 | 223 |
「いで、あなかたは。なにがしに隠さるべきにもあらず。今朝、後夜に参う上りつるに、かの西の妻戸より、いとうるはしき男の出でたまへるを、霧深くて、なにがしはえ見分いたてまつらざりつるを、この法師ばらなむ、『大将殿の出でたまふなりけり』と、『昨夜も御車も返して泊りたまひにける』と、口々申しつる。 |
"いで、あなかたは。なにがしにかくさるべきにもあらず。けさ、ごやにまうのぼりつるに、かのにしのつまどより、いとうるはしきをとこのいでたまへるを、きりふかくて、なにがしはえみわいたてまつらざりつるを、このほふしばらなん、"だいしゃうどののいでたまふなりけり。"と、"よべもみくるまもかへしてとまりたまひにける。"と、くちぐちまうしつる。 |
39 | 2.2.9 | 238 | 224 |
げに、いと香うばしき香の満ちて、頭痛きまでありつれば、げにさなりけりと、思ひあはせはべりぬる。常にいと香うばしうものしたまふ君なり。このこと、いと切にもあらぬことなり。人はいと有職にものしたまふ。 |
げに、いとかうばしきかのみちて、かしらいたきまでありつれば、げにさなりけりと、おもひあはせはべりぬる。つねにいとかうばしうものしたまふきみなり。このこと、いとせちにもあらぬことなり。ひとはいというそくにものしたまふ。 |
39 | 2.2.10 | 239 | 225 |
なにがしらも、童にものしたまうし時より、かの君の御ためのことは、修法をなむ、故大宮ののたまひつけたりしかば、一向にさるべきこと、今に承るところなれど、いと益なし。本妻強くものしたまふ。さる、時にあへる族類にて、いとやむごとなし。若君たちは、七、八人になりたまひぬ。 |
なにがしらも、わらはにものしたまうしときより、かのきみのおほんためのことは、すほふをなん、こおほみやののたまひつけたりしかば、いっかうにさるべきこと、いまにうけたまはるところなれど、いとやくなし。ほんさいつよくものしたまふ。さる、ときにあへるぞうるいにて、いとやんごとなし。わかぎみたちは、しち、はちにんになりたまひぬ。 |
39 | 2.2.11 | 240 | 226 |
え皇女の君圧したまはじ。また、女人の悪しき身をうけ、長夜の闇に惑ふは、ただかやうの罪によりなむ、さるいみじき報いをも受くるものなる。人の御怒り出で来なば、長きほだしとなりなむ。もはら受けひかず」 |
えみこのきみおしたまはじ。また、にょにんのあしきみをうけ、ぢゃうやのやみにまどふは、ただかやうのつみによりなん、さるいみじきむくいをもうくるものなる。ひとのおほんいかりいできなば、ながきほだしとなりなん。もはらうけひかず。" |
39 | 2.2.12 | 241 | 227 |
と、頭振りて、ただ言ひに言ひ放てば、 |
と、かしらふりて、ただいひにいひはなてば、 |
39 | 2.2.13 | 242 | 228 |
「いとあやしきことなり。さらにさるけしきにも見えたまはぬ人なり。よろづ心地の惑ひにしかば、うち休みて対面せむとてなむ、しばし立ち止まりたまへると、ここなる御達言ひしを、さやうにて泊りたまへるにやあらむ。おほかたいとまめやかに、すくよかにものしたまふ人を」 |
"いとあやしきことなり。さらにさるけしきにもみえたまはぬひとなり。よろづここちのまどひにしかば、うちやすみてたいめせんとてなん、しばしたちとまりたまへると、ここなるごたちいひしを、さやうにてとまりたまへるにやあらん。おほかたいとまめやかに、すくよかにものしたまふひとを。" |
39 | 2.2.14 | 243 | 229 |
と、おぼめいたまひながら、心のうちに、 |
と、おぼめいたまひながら、こころのうちに、 |
39 | 2.2.15 | 244 | 230 |
「さることもやありけむ。ただならぬ御けしきは、折々見ゆれど、人の御さまのいとかどかどしう、あながちに人の誹りあらむことははぶき捨て、うるはしだちたまへるに、たはやすく心許されぬことはあらじと、うちとけたるぞかし。人少なにておはするけしきを見て、はひ入りもやしたまへりけむ」と思す。 |
"さることもやありけん。ただならぬみけしきは、をりをりみゆれど、ひとのおほんさまのいとかどかどしう、あながちにひとのそしりあらんことははぶきすて、うるはしだちたまへるに、たはやすくこころゆるされぬことはあらじと、うちとけたるぞかし。ひとずくなにておはするけしきをみて、はひいりもやしたまへりけん。"とおぼす。 |
39 | 2.3 | 245 | 231 | 第三段 御息所、小少将君に問い質す |
39 | 2.3.1 | 246 | 232 |
律師立ちぬる後に、小少将の君を召して、 |
りしたちぬるのちに、こしゃうしゃうのきみをめして、 |
39 | 2.3.2 | 247 | 233 |
「かかることなむ聞きつる。いかなりしことぞ。などかおのれには、さなむ、かくなむとは聞かせたまはざりける。さしもあらじと思ひながら」 |
"かかることなんききつる。いかなりしことぞ。などかおのれには、さなん、かくなんとはきかせたまはざりける。さしもあらじとおもひながら。" |
39 | 2.3.3 | 248 | 234 |
とのたまへば、いとほしけれど、初めよりありしやうを、詳しう聞こゆ。今朝の御文のけしき、宮もほのかにのたまはせつるやうなど聞こえ、 |
とのたまへば、いとほしけれど、はじめよりありしやうを、くはしうきこゆ。けさのおほんふみのけしき、みやもほのかにのたまはせつるやうなどきこえ、 |
39 | 2.3.4 | 249 | 235 |
「年ごろ、忍びわたりたまひける心の内を、聞こえ知らせむとばかりにやはべりけむ。ありがたう用意ありてなむ、明かしも果てで出でたまひぬるを、人はいかに聞こえはべるにか」。 |
"としごろ、しのびわたりたまひけるこころのうちを、きこえしらせんとばかりにやはべりけん。ありがたうよういありてなん、あかしもはてでいでたまひぬるを、ひとはいかにきこえはべるにか。" |
39 | 2.3.5 | 250 | 236 |
律師とは思ひも寄らで、忍びて人の聞こえけると思ふ。ものものたまはで、いと憂く口惜しと思すに、涙ほろほろとこぼれたまひぬ。見たてまつるも、いといとほしう、「何に、ありのままに聞こえつらむ。苦しき御心地を、いとど思し乱るらむ」と悔しう思ひゐたり。 |
りしとはおもひもよらで、しのびてひとのきこえけるとおもふ。ものものたまはで、いとうくくちをしとおぼすに、なみだほろほろとこぼれたまひぬ。みたてまつるも、いといとほしう、"なにに、ありのままにきこえつらん。くるしきみここちを、いとどおぼしみだるらん。"とくやしうおもひゐたり。 |
39 | 2.3.6 | 251 | 237 |
「障子は鎖してなむ」と、よろづによろしきやうに聞こえなせど、 |
"さうじはさしてなん。"と、よろづによろしきやうにきこえなせど、 |
39 | 2.3.7 | 252 | 238 |
「とてもかくても、さばかりに、何の用意もなく、軽らかに人に見えたまひけむこそ、いといみじけれ。うちうちの御心きようおはすとも、かくまで言ひつる法師ばら、よからぬ童べなどは、まさに言ひ残してむや。人には、いかに言ひあらがひ、さもあらぬことと言ふべきにかあらむ。すべて、心幼き限りしも、ここにさぶらひて」 |
"とてもかくても、さばかりに、なにのよういもなく、かるらかにひとにみえたまひけんこそ、いといみじけれ。うちうちのみこころきようおはすとも、かくまでいひつるほふしばら、よからぬわらはべなどは、まさにいひのこしてんや。ひとには、いかにいひあらがひ、さもあらぬことといふべきにかあらん。すべて、こころをさなきかぎりしも、ここにさぶらひて。" |
39 | 2.3.8 | 253 | 239 |
とも、えのたまひやらず。いと苦しげなる御心地に、ものを思しおどろきたれば、いといとほしげなり。気高うもてなしきこえむとおぼいたるに、世づかはしう、軽々しき名の立ちたまふべきを、おろかならず思し嘆かる。 |
とも、えのたまひやらず。いとくるしげなるみここちに、ものをおぼしおどろきたれば、いといとほしげなり。けだかうもてなしきこえんとおぼいたるに、よづかはしう、かるがるしきなのたちたまふべきを、おろかならずおぼしなげかる。 |
39 | 2.3.9 | 254 | 240 |
「かうすこしものおぼゆる隙に、渡らせたまうべう聞こえよ。そなたへ参り来べけれど、動きすべうもあらでなむ。見たてまつらで、久しうなりぬる心地すや」 |
"かうすこしものおぼゆるひまに、わたらせたまうべうきこえよ。そなたへまゐりくべけれど、うごきすべうもあらでなん。みたてまつらで、ひさしうなりぬるここちすや。" |
39 | 2.3.10 | 255 | 241 |
と、涙を浮けてのたまふ。参りて、 |
と、なみだをうけてのたまふ。まゐりて、 |
39 | 2.3.11 | 256 | 242 |
「しかなむ聞こえさせたまふ」 |
"しかなんきこえさせたまふ。" |
39 | 2.3.12 | 257 | 243 |
とばかり聞こゆ。 |
とばかりきこゆ。 |
39 | 2.4 | 258 | 244 | 第四段 落葉宮、母御息所のもとに参る |
39 | 2.4.1 | 259 | 245 |
渡りたまはむとて、御額髪の濡れまろがれたる、ひきつくろひ、単衣の御衣ほころびたる、着替へなどしたまひても、とみにもえ動いたまはず。 |
わたりたまはんとて、おほんひたいがみのぬれまろがれたる、ひきつくろひ、ひとへのおほんぞほころびたる、きがへなどしたまひても、とみにもえうごいたまはず。 |
39 | 2.4.2 | 260 | 246 |
「この人びともいかに思ふらむ。まだえ知りたまはで、後にいささかも聞きたまふことあらむに、つれなくてありしよ」 |
"このひとびともいかにおもふらん。まだえしりたまはで、のちにいささかもききたまふことあらんに、つれなくてありしよ。" |
39 | 2.4.3 | 261 | 247 |
と思しあはせむも、いみじう恥づかしければ、また臥したまひぬ。 |
とおぼしあはせんも、いみじうはづかしければ、またふしたまひぬ。 |
39 | 2.4.4 | 262 | 248 |
「心地のいみじう悩ましきかな。やがて直らぬさまにもありなむ、いとめやすかりぬべくこそ。脚の気の上りたる心地す」 |
"ここちのいみじうなやましきかな。やがてなほらぬさまにもありなん、いとめやすかりぬべくこそ。あしのけののぼりたるここちす。" |
39 | 2.4.5 | 263 | 249 |
と、押し下させたまふ。ものをいと苦しう、さまざまに思すには、気ぞ上がりける。 |
と、おしくださせたまふ。ものをいとくるしう、さまざまにおぼすには、けぞあがりける。 |
39 | 2.4.6 | 264 | 250 |
少将、 |
せうしゃう、 |
39 | 2.4.7 | 265 | 251 |
「上に、この御ことほのめかし聞こえける人こそはべけれ。いかなりしことぞ、と問はせたまひつれば、ありのままに聞こえさせて、御障子の固めばかりをなむ、すこしこと添へて、けざやかに聞こえさせつる。もし、さやうにかすめきこえさせたまはば、同じさまに聞こえさせたまへ」 |
"うへに、このおほんことほのめかしきこえけるひとこそはべけれ。いかなりしことぞ、ととはせたまひつれば、ありのままにきこえさせて、みさうじのかためばかりをなん、すこしことそへて、けざやかにきこえさせつる。もし、さやうにかすめきこえさせたまはば、おなじさまにきこえさせたまへ。" |
39 | 2.4.8 | 266 | 252 |
と申す。 |
とまうす。 |
39 | 2.4.9 | 267 | 253 |
嘆いたまへるけしきは聞こえ出でず。「さればよ」と、いとわびしくて、ものものたまはぬ御枕より、雫ぞ落つる。 |
なげいたまへるけしきはきこえいでず。"さればよ。"と、いとわびしくて、ものものたまはぬおほんまくらより、しづくぞおつる。 |
39 | 2.4.10 | 268 | 254 |
「このことにのみもあらず、身の思はずになりそめしより、いみじうものをのみ思はせたてまつること」 |
"このことにのみもあらず、みのおもはずになりそめしより、いみじうものをのみおもはせたてまつること。" |
39 | 2.4.11 | 269 | 255 |
と、生けるかひなく思ひ続けたまひて、「この人は、かうても止まで、とかく言ひかかづらひ出でむも、わづらはしう、聞き苦しかるべう」、よろづに思す。「まいて、いふかひなく、人の言によりて、いかなる名を朽たさまし」 |
と、いけるかひなくおもひつづけたまひて、"このひとは、かうてもやまで、とかくいひかかづらひいでんも、わづらはしう、ききぐるしかるべう"、よろづにおぼす。"まいて、いふかひなく、ひとのことによりて、いかなるなをくたさまし。" |
39 | 2.4.12 | 270 | 256 |
など、すこし思し慰むる方はあれど、「かばかりになりぬる高き人の、かくまでも、すずろに人に見ゆるやうはあらじかし」と、宿世憂く思し屈して、夕つ方ぞ、 |
など、すこしおぼしなぐさむるかたはあれど、"かばかりになりぬるたかきひとの、かくまでも、すずろにひとにみゆるやうはあらじかし。"と、すくせうくおぼしくっして、ゆふつかたぞ、 |
39 | 2.4.13 | 271 | 257 |
「なほ、渡らせたまへ」 |
"なほ、わたらせたまへ。" |
39 | 2.4.14 | 272 | 258 |
とあれば、中の塗籠の戸開けあはせて、渡りたまへる。 |
とあれば、なかのぬりごめのとあけあはせて、わたりたまへる。 |
39 | 2.5 | 273 | 259 | 第五段 御息所の嘆き |
39 | 2.5.1 | 274 | 260 |
苦しき御心地にも、なのめならずかしこまりかしづききこえたまふ。常の御作法あやまたず、起き上がりたまうて、 |
くるしきみここちにも、なのめならずかしこまりかしづききこえたまふ。つねのおほんさほふあやまたず、おきあがりたまうて、 |
39 | 2.5.2 | 275 | 261 |
「いと乱りがはしげにはべれば、渡らせたまふも心苦しうてなむ。この二、三日ばかり見たてまつらざりけるほどの、年月の心地するも、かつはいとはかなくなむ。後、かならずしも、対面のはべるべきにもはべらざめり。まためぐり参るとも、かひやははべるべき。 |
"いとみだりがはしげにはべれば、わたらせたまふもこころぐるしうてなん。このふつか、みかばかりみたてまつらざりけるほどの、としつきのここちするも、かつはいとはかなくなん。のち、かならずしも、たいめのはべるべきにもはべらざめり。まためぐりまゐるとも、かひやははべるべき。 |
39 | 2.5.3 | 276 | 262 |
思へば、ただ時の間に隔たりぬべき世の中を、あながちにならひはべりにけるも、悔しきまでなむ」 |
おもへば、ただときのまにへだたりぬべきよのなかを、あながちにならひはべりにけるも、くやしきまでなん。" |
39 | 2.5.4 | 277 | 263 |
など泣きたまふ。 |
などなきたまふ。 |
39 | 2.5.5 | 278 | 264 |
宮も、もののみ悲しう取り集め思さるれば、聞こえたまふこともなくて見たてまつりたまふ。ものづつみをいたうしたまふ本性に、際々しうのたまひさはやぐべきにもあらねば、恥づかしとのみ思すに、いといとほしうて、いかなりしなども、問ひきこえたまはず。 |
みやも、もののみかなしうとりあつめおぼさるれば、きこえたまふこともなくてみたてまつりたまふ。ものづつみをいたうしたまふほんじゃうに、きはぎはしうのたまひさはやぐべきにもあらねば、はづかしとのみおぼすに、いといとほしうて、いかなりしなども、とひきこえたまはず。 |
39 | 2.5.6 | 279 | 265 |
大殿油など急ぎ参らせて、御台など、こなたにて参らせたまふ。もの聞こし召さずと聞きたまひて、とかう手づからまかなひ直しなどしたまへど、触れたまふべくもあらず。ただ御心地のよろしう見えたまふぞ、胸すこしあけたまふ。 |
おほとなぶらなどいそぎまゐらせて、みだいなど、こなたにてまゐらせたまふ。ものきこしめさずとききたまひて、とかうてづからまかなひなほしなどしたまへど、ふれたまふべくもあらず。ただみここちのよろしうみえたまふぞ、むねすこしあけたまふ。 |
39 | 3 | 280 | 266 | 第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸 |
39 | 3.1 | 281 | 267 | 第一段 御息所、夕霧に返書 |
39 | 3.1.1 | 282 | 268 |
かしこよりまた御文あり。心知らぬ人しも取り入れて、 |
かしこよりまたおほんふみあり。こころしらぬひとしもとりいれて、 |
39 | 3.1.2 | 283 | 269 |
「大将殿より、少将の君にとて、御使ひあり」 |
"だいしゃうどのより、せうしゃうのきみにとて、おほんつかひあり。" |
39 | 3.1.3 | 284 | 270 |
と言ふぞ、またわびしきや。少将、御文は取りつ。御息所、 |
といふぞ、またわびしきや。せうしゃう、おほんふみはとりつ。みやすんどころ、 |
39 | 3.1.4 | 285 | 271 |
「いかなる御文にか」 |
"いかなるおほんふみにか。" |
39 | 3.1.5 | 286 | 272 |
と、さすがに問ひたまふ。人知れず思し弱る心も添ひて、下に待ちきこえたまひけるに、さもあらぬなめりと思ほすも、心騷ぎして、 |
と、さすがにとひたまふ。ひとしれずおぼしよわるこころもそひて、したにまちきこえたまひけるに、さもあらぬなめりとおもほすも、こころさわぎして、 |
39 | 3.1.6 | 287 | 273 |
「いで、その御文、なほ聞こえたまへ。あいなし。人の御名を善さまに言ひ直す人は難きものなり。そこに心きよう思すとも、しか用ゐる人は少なくこそあらめ。心うつくしきやうに聞こえ通ひたまひて、なほありしままならむこそ良からめ。あいなき甘えたるさまなるべし」 |
"いで、そのおほんふみ、なほきこえたまへ。あいなし。ひとのおほんなをよさまにいひなほすひとはかたきものなり。そこにこころきようおぼすとも、しかもちゐるひとはすくなくこそあらめ。こころうつくしきやうにきこえかよひたまひて、なほありしままならんこそよからめ。あいなきあまえたるさまなるべし。" |
39 | 3.1.7 | 288 | 274 |
とて、召し寄す。苦しけれどたてまつりつ。 |
とて、めしよす。くるしけれどたてまつりつ。 |
39 | 3.1.8 | 289 | 275 |
「あさましき御心のほどを見たてまつり表いてこそ、なかなか心やすく、ひたぶる心もつきはべりぬべけれ。 |
"あさましきみこころのほどをみたてまつりあらはいてこそ、なかなかこころやすく、ひたぶるこころもつきはべりぬべけれ。 |
39 | 3.1.9 | 290 | 276 |
せくからに浅さぞ見えむ山川の<BR/>流れての名をつつみ果てずは」 |
せくからにあささぞみえんやまがはの<BR/>ながれてのなをつつみはてずは〕 |
39 | 3.1.10 | 291 | 277 |
と言葉も多かれど、見も果てたまはず。 |
とことばもおほかれど、みもはてたまはず。 |
39 | 3.1.11 | 292 | 278 |
この御文も、けざやかなるけしきにもあらで、めざましげに心地よ顔に、今宵つれなきを、いといみじと思す。 |
このおほんふみも、けざやかなるけしきにもあらで、めざましげにここちよがほに、こよひつれなきを、いといみじとおぼす。 |
39 | 3.1.12 | 293 | 279 |
「故督の君の御心ざまの思はずなりし時、いと憂しと思ひしかど、おほかたのもてなしは、また並ぶ人なかりしかば、こなたに力ある心地して慰めしだに、世には心もゆかざりしを。あな、いみじや。大殿のわたりに思ひのたまはむこと」 |
"こかんのきみのみこころざまのおもはずなりしとき、いとうしとおもひしかど、おほかたのもてなしは、またならぶひとなかりしかば、こなたにちからあるここちしてなぐさめしだに、よにはこころもゆかざりしを。あな、いみじや。おほとののわたりにおもひのたまはんこと。" |
39 | 3.1.13 | 294 | 280 |
と思ひしみたまふ。 |
とおもひしみたまふ。 |
39 | 3.1.14 | 295 | 281 |
「なほ、いかがのたまふと、けしきをだに見む」と、心地のかき乱りくるるやうにしたまふ目、おし絞りて、あやしき鳥の跡のやうに書きたまふ。 |
"なほ、いかがのたまふと、けしきをだにみん。"と、ここちのかきみだりくるるやうにしたまふめ、おししぼりて、あやしきとりのあとのやうにかきたまふ。 |
39 | 3.1.15 | 296 | 282 |
「頼もしげなくなりにてはべる、訪らひに渡りたまへる折にて、そそのかしきこゆれど、いとはればれしからぬさまにものしたまふめれば、見たまへわづらひてなむ。 |
"たのもしげなくなりにてはべる、とぶらひにわたりたまへるをりにて、そそのかしきこゆれど、いとはればれしからぬさまにものしたまふめれば、みたまへわづらひてなん。 |
39 | 3.1.16 | 297 | 283 |
女郎花萎るる野辺をいづことて<BR/>一夜ばかりの宿を借りけむ」 |
をみなへししをるるのべをいづことて<BR/>ひとよばかりのやどをかりけん〕 |
39 | 3.1.17 | 298 | 284 |
と、ただ書きさして、おしひねりて出だしたまひて、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまふ。御もののけのたゆめけるにやと、人びと言ひ騒ぐ。 |
と、ただかきさして、おしひねりていだしたまひて、ふしたまひぬるままに、いといたくくるしがりたまふ。おほんもののけのたゆめけるにやと、ひとびといひさわぐ。 |
39 | 3.1.18 | 299 | 285 |
例の、験ある限り、いと騒がしうののしる。宮をば、 |
れいの、げんあるかぎり、いとさわがしうののしる。みやをば、 |
39 | 3.1.19 | 300 | 286 |
「なほ、渡らせたまひね」 |
"なほ、わたらせたまひね。" |
39 | 3.1.20 | 301 | 287 |
と、人びと聞こゆれど、御身の憂きままに、後れきこえじと思せば、つと添ひたまへり。 |
と、ひとびときこゆれど、おほんみのうきままに、おくれきこえじとおぼせば、つとそひたまへり。 |
39 | 3.2 | 302 | 288 | 第二段 雲居雁、手紙を奪う |
39 | 3.2.1 | 303 | 289 |
大将殿は、この昼つ方、三条殿におはしにける、今宵立ち返り参でたまはむに、「ことしもあり顔に、まだきに聞き苦しかるべし」など念じたまひて、いとなかなか年ごろの心もとなさよりも、千重にもの思ひ重ねて嘆きたまふ。 |
だいしゃうどのは、このひるつかた、さんでうどのにおはしにける、こよひたちかへりまでたまはんに、"ことしもありがほに、まだきにききくるしかるべし。"などねんじたまひて、いとなかなかとしごろのこころもとなさよりも、ちへにものおもひかさねてなげきたまふ。 |
39 | 3.2.2 | 304 | 290 |
北の方は、かかる御ありきのけしきほの聞きて、心やましと聞きゐたまへるに、知らぬやうにて、君達もて遊び紛らはしつつ、わが昼の御座に臥したまへり。 |
きたのかたは、かかるおほんありきのけしきほのききて、こころやましとききゐたまへるに、しらぬやうにて、きんだちもてあそびまぎらはしつつ、わがひるのおましにふしたまへり。 |
39 | 3.2.3 | 305 | 291 |
宵過ぐるほどにぞ、この御返り持て参れるを、かく例にもあらぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見解きたまはで、大殿油近う取り寄せて見たまふ。女君、もの隔てたるやうなれど、いと疾く見つけたまうて、はひ寄りて、御後ろより取りたまうつ。 |
よひすぐるほどにぞ、このおほんかへりもてまゐれるを、かくれいにもあらぬとりのあとのやうなれば、とみにもみときたまはで、おほとなぶらちかうとりよせてみたまふ。をんなぎみ、ものへだてたるやうなれど、いととくみつけたまうて、はひよりて、おほんうしろよりとりたまうつ。 |
39 | 3.2.4 | 306 | 292 |
「あさましう。こは、いかにしたまふぞ。あな、けしからず。六条の東の上の御文なり。今朝、風邪おこりて悩ましげにしたまへるを、院の御前にはべりて、出でつるほど、またも参うでずなりぬれば、いとほしさに、今の間いかにと、聞こえたりつるなり。見たまへよ、懸想びたる文のさまか。さても、なほなほしの御さまや。年月に添へて、いたうあなづりたまふこそうれたけれ。思はむところを、むげに恥ぢたまはぬよ」 |
"あさましう。こは、いかにしたまふぞ。あな、けしからず。ろくでうのひんがしのうへのおほんふみなり。けさ、かぜおこりてなやましげにしたまへるを、ゐんのおまへにはべりて、いでつるほど、またもまうでずなりぬれば、いとほしさに、いまのまいかにと、きこえたりつるなり。みたまへよ、けさうびたるふみのさまか。さても、なほなほしのおほんさまや。としつきにそへて、いたうあなづりたまふこそうれたけれ。おもはんところを、むげにはぢたまはぬよ。" |
39 | 3.2.5 | 307 | 293 |
とうちうめきて、惜しみ顔にもひこしろひたまはねば、さすがに、ふとも見で持たまへり。 |
とうちうめきて、をしみがほにもひこしろひたまはねば、さすがに、ふともみでもたまへり。 |
39 | 3.2.6 | 308 | 294 |
「年月に添ふるあなづらはしさは、御心ならひなべかめり」 |
"としつきにそふるあなづらはしさは、みこころならひなべかめり。" |
39 | 3.2.7 | 309 | 295 |
とばかり、かくうるはしだちたまへるに憚りて、若やかにをかしきさましてのたまへば、うち笑ひて、 |
とばかり、かくうるはしだちたまへるにはばかりて、わかやかにをかしきさましてのたまへば、うちわらひて、 |
39 | 3.2.8 | 310 | 296 |
「そは、ともかくもあらむ。世の常のことなり。またあらじかし、よろしうなりぬる男の、かく紛ふ方なく、一つ所を守らへて、もの懼ぢしたる鳥の兄鷹やうのもののやうなるは。いかに人笑ふらむ。さるかたくなしき者に守られたまふは、御ためにもたけからずや。 |
"そは、ともかくもあらん。よのつねのことなり。またあらじかし、よろしうなりぬるをのこの、かくまがふかたなく、ひとつところをまもらへて、ものおぢしたるとりのせうやうのもののやうなるは。いかにひとわらふらん。さるかたくなしきものにまもられたまふは、おほんためにもたけからずや。 |
39 | 3.2.9 | 311 | 297 |
あまたが中に、なほ際まさり、ことなるけぢめ見えたるこそ、よそのおぼえも心にくく、わが心地もなほ古りがたく、をかしきこともあはれなるすぢも絶えざらめ。かく翁のなにがし守りけむやうに、おれ惑ひたれば、いとぞ口惜しき。いづこの栄えかあらむ」 |
あまたがなかに、なほきはまさり、ことなるけぢめみえたるこそ、よそのおぼえもこころにくく、わがここちもなほふりがたく、をかしきこともあはれなるすぢもたえざらめ。かくおきなのなにがしまもりけんやうに、おれまどひたれば、いとぞくちをしき。いづこのはえかあらん。" |
39 | 3.2.10 | 312 | 298 |
と、さすがに、この文のけしきなくをこつり取らむの心にて、欺き申したまへば、いとにほひやかにうち笑ひて、 |
と、さすがに、このふみのけしきなくをこつりとらんのこころにて、あざむきまうしたまへば、いとにほひやかにうちわらひて、 |
39 | 3.2.11 | 313 | 299 |
「ものの映え映えしさ作り出でたまふほど、古りぬる人苦しや。いと今めかしくなり変はれる御けしきのすさまじさも、見ならはずなりにける事なれば、いとなむ苦しき。かねてよりならはしたまはで」 |
"もののはえばえしさつくりいでたまふほど、ふりぬるひとくるしや。いといまめかしくなりかはれるみけしきのすさまじさも、みならはずなりにけることなれば、いとなんくるしき。かねてよりならはしたまはで。" |
39 | 3.2.12 | 314 | 300 |
とかこちたまふも、憎くもあらず。 |
とかこちたまふも、にくくもあらず。 |
39 | 3.2.13 | 315 | 301 |
「にはかにと思すばかりには、何ごとか見ゆらむ。いとうたてある御心の隈かな。よからずもの聞こえ知らする人ぞあるべき。あやしう、もとよりまろをば許さぬぞかし。なほ、かの緑の袖の名残、あなづらはしきにことづけて、もてなしたてまつらむと思ふやうあるにや。いろいろ聞きにくきことどもほのめくめり。あいなき人の御ためにも、いとほしう」 |
"にはかにとおぼすばかりには、なにごとかみゆらん。いとうたてあるみこころのくまかな。よからずものきこえしらするひとぞあるべき。あやしう、もとよりまろをばゆるさぬぞかし。なほ、かのみどりのそでのなごり、あなづらはしきにことづけて、もてなしたてまつらんとおもふやうあるにや。いろいろききにくきことどもほのめくめり。あいなきひとのおほんためにも、いとほしう。" |
39 | 3.2.14 | 316 | 302 |
などのたまへど、つひにあるべきことと思せば、ことにあらがはず。大輔の乳母、いと苦しと聞きて、ものも聞こえず。 |
などのたまへど、つひにあるべきこととおぼせば、ことにあらがはず。たいふのめのと、いとくるしとききて、ものもきこえず。 |
39 | 3.3 | 317 | 303 | 第三段 手紙を見ぬまま朝になる |
39 | 3.3.1 | 318 | 304 |
とかく言ひしろひて、この御文はひき隠したまひつれば、せめても漁り取らで、つれなく大殿籠もりぬれば、胸はしりて、「いかで取りてしがな」と、「御息所の御文なめり。何ごとありつらむ」と、目も合はず思ひ臥したまへり。 |
とかくいひしろひて、このおほんふみはひきかくしたまひつれば、せめてもあさりとらで、つれなくおほとのごもりぬれば、むねはしりて、"いかでとりてしがな。"と、"みやすんどころのおほんふみなめり。なにごとありつらん。"と、めもあはずおもひふしたまへり。 |
39 | 3.3.2 | 319 | 305 |
女君の寝たまへるに、昨夜の御座の下などに、さりげなくて探りたまへど、なし。隠したまへらむほどもなければ、いと心やましくて、明けぬれど、とみにも起きたまはず。 |
をんなぎみのねたまへるに、よべのおましのしたなどに、さりげなくてさぐりたまへど、なし。かくしたまへらんほどもなければ、いとこころやましくて、あけぬれど、とみにもおきたまはず。 |
39 | 3.3.3 | 320 | 306 |
女君は、君達におどろかされて、ゐざり出でたまふにぞ、われも今起きたまふやうにて、よろづにうかがひたまへど、え見つけたまはず。女は、かく求めむとも思ひたまへらぬをぞ、「げに、懸想なき御文なりけり」と、心にも入れねば、君達のあわて遊びあひて、雛作り、拾ひ据ゑて遊びたまふ、書読み、手習ひなど、さまざまにいとあわたたし、小さき稚児這ひかかり引きしろへば、取りし文のことも思ひ出でたまはず。 |
をんなぎみは、きんだちにおどろかされて、ゐざりいでたまふにぞ、われもいまおきたまふやうにて、よろづにうかがひたまへど、えみつけたまはず。をんなは、かくもとめんともおもひたまへらぬをぞ、"げに、けさうなきおほんふみなりけり。"と、こころにもいれねば、きんだちのあわてあそびあひて、ひひなつくり、ひろひすゑてあそびたまふ、ふみよみ、てならひなど、さまざまにいとあわたたし、ちひさきちごはひかかりひきしろへば、とりしふみのこともおもひいでたまはず。 |
39 | 3.3.4 | 321 | 307 |
男は、異事もおぼえたまはず、かしこに疾く聞こえむと思すに、昨夜の御文のさまも、えたしかに見ずなりにしかば、「見ぬさまならむも、散らしてけると推し量りたまふべし」など、思ひ乱れたまふ。 |
をとこは、ことごともおぼえたまはず、かしこにとくきこえんとおぼすに、よべのおほんふみのさまも、えたしかにみずなりにしかば、"みぬさまならんも、ちらしてけるとおしはかりたまふべし。"など、おもひみだれたまふ。 |
39 | 3.3.5 | 322 | 308 |
誰れも誰れも御台参りなどして、のどかになりぬる昼つ方、思ひわづらひて、 |
たれもたれもみだいまゐりなどして、のどかになりぬるひるつかた、おもひわづらひて、 |
39 | 3.3.6 | 323 | 309 |
「昨夜の御文は、何ごとかありし。あやしう見せたまはで。今日も訪らひ聞こゆべし。悩ましうて、六条にもえ参るまじければ、文をこそはたてまつらめ。何ごとかありけむ」 |
"よべのおほんふみは、なにごとかありし。あやしうみせたまはで。けふもとぶらひきこゆべし。なやましうて、ろくでうにもえまゐるまじければ、ふみをこそはたてまつらめ。なにごとかありけん。" |
39 | 3.3.7 | 324 | 310 |
とのたまふが、いとさりげなければ、「文は、をこがましう取りてけり」とすさまじうて、そのことをばかけたまはず、 |
とのたまふが、いとさりげなければ、"ふみは、をこがましうとりてけり。"とすさまじうて、そのことをばかけたまはず、 |
39 | 3.3.8 | 325 | 311 |
「一夜の深山風に、あやまりたまへる悩ましさななりと、をかしきやうにかこちきこえたまへかし」 |
"ひとよのみやまかぜに、あやまりたまへるなやましさななりと、をかしきやうにかこちきこえたまへかし。" |
39 | 3.3.9 | 326 | 312 |
と聞こえたまふ。 |
ときこえたまふ。 |
39 | 3.3.10 | 327 | 313 |
「いで、このひがこと、な常にのたまひそ。何のをかしきやうかある。世人になずらへたまふこそ、なかなか恥づかしけれ。この女房たちも、かつはあやしきまめざまを、かくのたまふと、ほほ笑むらむものを」 |
"いで、このひがこと、なつねにのたまひそ。なにのをかしきやうかある。よひとになずらへたまふこそ、なかなかはづかしけれ。このにょうばうたちも、かつはあやしきまめざまを、かくのたまふと、ほほゑむらんものを。" |
39 | 3.3.11 | 328 | 314 |
と、戯れ言に言ひなして、 |
と、たはぶれごとにいひなして、 |
39 | 3.3.12 | 329 | 315 |
「その文よ。いづら」 |
"そのふみよ。いづら。" |
39 | 3.3.13 | 330 | 316 |
とのたまへど、とみにも引き出でたまはぬほどに、なほ物語など聞こえて、しばし臥したまへるほどに、暮れにけり。 |
とのたまへど、とみにもひきいでたまはぬほどに、なほものがたりなどきこえて、しばしふしたまへるほどに、くれにけり。 |
39 | 3.4 | 331 | 317 | 第四段 夕霧、手紙を見る |
39 | 3.4.1 | 332 | 318 |
ひぐらしの声におどろきて、「山の蔭いかに霧りふたがりぬらむ。あさましや。今日この御返事をだに」と、いとほしうて、ただ知らず顔に硯おしすりて、「いかになしてしにかとりなさむ」と、眺めおはする。 |
ひぐらしのこゑにおどろきて、"やまのかげいかにきりふたがりぬらん。あさましや。けふこのおほんかへりごとをだに。"と、いとほしうて、ただしらずがほにすずりおしすりて、"いかになしてしにかとりなさん。"と、ながめおはする。 |
39 | 3.4.2 | 333 | 319 |
御座の奥のすこし上がりたる所を、試みにひき上げたまへれば、「これにさし挟みたまへるなりけり」と、うれしうもをこがましうもおぼゆるに、うち笑みて見たまふに、かう心苦しきことなむありける。胸つぶれて、「一夜のことを、心ありて聞きたまうける」と思すに、いとほしう心苦し。 |
おましのおくのすこしあがりたるところを、こころみにひきあげたまへれば、"これにさしはさみたまへるなりけり。"と、うれしうもをこがましうもおぼゆるに、うちゑみてみたまふに、かうこころぐるしきことなんありける。むねつぶれて、"ひとよのことを、こころありてききたまうける。"とおぼすに、いとほしうこころぐるし。 |
39 | 3.4.3 | 334 | 320 |
「昨夜だに、いかに思ひ明かしたまうけむ。今日も、今まで文をだに」 |
"よべだに、いかにおもひあかしたまうけん。けふも、いままでふみをだに。" |
39 | 3.4.4 | 335 | 321 |
と、言はむ方なくおぼゆ。いと苦しげに、言ふかひなく、書き紛らはしたまへるさまにて、 |
と、いはんかたなくおぼゆ。いとくるしげに、いふかひなく、かきまぎらはしたまへるさまにて、 |
39 | 3.4.5 | 336 | 322 |
「おぼろけに思ひあまりてやは、かく書きたまうつらむ。つれなくて今宵の明けつらむ」 |
"おぼろけにおもひあまりてやは、かくかきたまうつらん。つれなくてこよひのあけつらん。" |
39 | 3.4.6 | 337 | 323 |
と、言ふべき方のなければ、女君ぞ、いとつらう心憂き。 |
と、いふべきかたのなければ、をんなぎみぞ、いとつらうこころうき。 |
39 | 3.4.7 | 338 | 324 |
「すずろに、かく、あだへ隠して。いでや、わがならはしぞや」と、さまざまに身もつらく、すべて泣きぬべき心地したまふ。 |
"すずろに、かく、あだへかくして。いでや、わがならはしぞや。"と、さまざまにみもつらく、すべてなきぬべきここちしたまふ。 |
39 | 3.4.8 | 339 | 325 |
やがて出で立ちたまはむとするを、 |
やがていでたちたまはんとするを、 |
39 | 3.4.9 | 340 | 326 |
「心やすく対面もあらざらむものから、人もかくのたまふ、いかならむ。坎日にもありけるを、もしたまさかに思ひ許したまはば、悪しからむ。なほ吉からむことをこそ」 |
"こころやすくたいめもあらざらんものから、ひともかくのたまふ、いかならん。かんにちにもありけるを、もしたまさかにおもひゆるしたまはば、あしからん。なほよからんことをこそ。" |
39 | 3.4.10 | 341 | 327 |
と、うるはしき心に思して、まづ、この御返りを聞こえたまふ。 |
と、うるはしきこころにおぼして、まづ、このおほんかへりをきこえたまふ。 |
39 | 3.4.11 | 342 | 328 |
「いとめづらしき御文を、かたがたうれしう見たまふるに、この御咎めをなむ。いかに聞こし召したることにか。 |
"いとめづらしきおほんふみを、かたがたうれしうみたまふるに、このおほんとがめをなん。いかにきこしめしたることにか。 |
39 | 3.4.12 | 343 | 329 |
秋の野の草の茂みは分けしかど<BR/>仮寝の枕結びやはせし |
あきのののくさのしげみはわけしかど<BR/>かりねのまくらむすびやはせし |
39 | 3.4.13 | 344 | 330 |
明らめきこえさするもあやなけれど、昨夜の罪は、ひたやごもりにや」 |
あきらめきこえさするもあやなけれど、よべのつみは、ひたやごもりにや。" |
39 | 3.4.14 | 345 | 331 |
とあり。宮には、いと多く聞こえたまひて、御厩に足疾き御馬に移し置きて、一夜の大夫をぞたてまつれたまふ。 |
とあり。みやには、いとおほくきこえたまひて、みまやにあしときおほんむまにうつしおきて、ひとよのたいふをぞたてまつれたまふ。 |
39 | 3.4.15 | 346 | 332 |
「昨夜より、六条の院にさぶらひて、ただ今なむまかでつると言へ」 |
"よべより、ろくでうのゐんにさぶらひて、ただいまなんまかでつるといへ。" |
39 | 3.4.16 | 347 | 333 |
とて、言ふべきやう、ささめき教へたまふ。 |
とて、いふべきやう、ささめきをしへたまふ。 |
39 | 3.5 | 348 | 334 | 第五段 御息所の嘆き |
39 | 3.5.1 | 349 | 335 |
かしこには、昨夜もつれなく見えたまひし御けしきを、忍びあへで、後の聞こえをもつつみあへず恨みきこえたまうしを、その御返りだに見えず、今日の暮れ果てぬるを、いかばかりの御心にかはと、もて離れてあさましう、心もくだけて、よろしかりつる御心地、またいといたう悩みたまふ。 |
かしこには、よべもつれなくみえたまひしみけしきを、しのびあへで、のちのきこえをもつつみあへずうらみきこえたまうしを、そのおほんかへりだにみえず、けふのくれはてぬるを、いかばかりのみこころにかはと、もてはなれてあさましう、こころもくだけて、よろしかりつるみここち、またいといたうなやみたまふ。 |
39 | 3.5.2 | 350 | 336 |
なかなか正身の御心のうちは、このふしをことに憂しとも思し、驚くべきことしなければ、ただおぼえぬ人に、うちとけたりしありさまを見えしことばかりこそ口惜しけれ、いとしも思ししまぬを、かくいみじうおぼいたるを、あさましう恥づかしう、明らめきこえたまふ方なくて、例よりももの恥ぢしたまへるけしき見えたまふを、「いと心苦しう、ものをのみ思ほし添ふべかりける」と見たてまつるも、胸つとふたがりて悲しければ、 |
なかなかさうじみのみこころのうちは、このふしをことにうしともおぼし、おどろくべきことしなければ、ただおぼえぬひとに、うちとけたりしありさまをみえしことばかりこそくちをしけれ、いとしもおぼししまぬを、かくいみじうおぼいたるを、あさましうはづかしう、あきらめきこえたまふかたなくて、れいよりもものはぢしたまへるけしきみえたまふを、"いとこころぐるしう、ものをのみおもほしそふべかりける。"とみたてまつるも、むねつとふたがりてかなしければ、 |
39 | 3.5.3 | 351 | 337 |
「今さらにむつかしきことをば聞こえじと思へど、なほ、御宿世とはいひながら、思はずに心幼くて、人のもどきを負ひたまふべきことを。取り返すべきことにはあらねど、今よりは、なほさる心したまへ。 |
"いまさらにむつかしきことをばきこえじとおもへど、なほ、おほんすくせとはいひながら、おもはずにこころをさなくて、ひとのもどきをおひたまふべきことを。とりかへすべきことにはあらねど、いまよりは、なほさるこころしたまへ。 |
39 | 3.5.4 | 352 | 338 |
数ならぬ身ながらも、よろづに育みきこえつるを、今は何事をも思し知り、世の中のとざまかうざまのありさまをも、思したどりぬべきほどに、見たてまつりおきつることと、そなたざまはうしろやすくこそ見たてまつりつれ、なほいといはけて、強き御心おきてのなかりけることと、思ひ乱れはべるに、今しばしの命もとどめまほしうなむ。 |
かずならぬみながらも、よろづにはぐくみきこえつるを、いまはなにごとをもおぼししり、よのなかのとざまかうざまのありさまをも、おぼしたどりぬべきほどに、みたてまつりおきつることと、そなたざまはうしろやすくこそみたてまつりつれ、なほいといはけて、つよきみこころおきてのなかりけることと、おもひみだれはべるに、いましばしのいのちもとどめまほしうなん。 |
39 | 3.5.5 | 353 | 339 |
ただ人だに、すこしよろしくなりぬる女の、人二人と見るためしは、心憂くあはつけきわざなるを、ましてかかる御身には、さばかりおぼろけにて、人の近づききこゆべきにもあらぬを、思ひのほかに心にもつかぬ御ありさまと、年ごろも見たてまつり悩みしかど、さるべき御宿世にこそは。 |
ただびとだに、すこしよろしくなりぬるをんなの、ひとふたりとみるためしは、こころうくあはつけきわざなるを、ましてかかるおほんみには、さばかりおぼろけにて、ひとのちかづききこゆべきにもあらぬを、おもひのほかにこころにもつかぬおほんありさまと、としごろもみたてまつりなやみしかど、さるべきおほんすくせにこそは。 |
39 | 3.5.6 | 354 | 340 |
院より始めたてまつりて、思しなびき、この父大臣にも許いたまふべき御けしきありしに、おのれ一人しも心をたてても、いかがはと思ひ寄りはべりしことなれば、末の世までものしき御ありさまを、わが御過ちならぬに、大空をかこちて見たてまつり過ぐすを、いとかう人のためわがための、よろづに聞きにくかりぬべきことの出で来添ひぬべきが、さても、よその御名をば知らぬ顔にて、世の常の御ありさまにだにあらば、おのづからあり経むにつけても、慰むこともやと、思ひなしはべるを、こよなう情けなき人の御心にもはべりけるかな」 |
ゐんよりはじめたてまつりて、おぼしなびき、このちちおとどにもゆるいたまふべきみけしきありしに、おのれひとりしもこころをたてても、いかがはとおもひよりはべりしことなれば、すゑのよまでものしきおほんありさまを、わがおほんあやまちならぬに、おほぞらをかこちてみたてまつりすぐすを、いとかうひとのためわがための、よろづにききにくかりぬべきことのいできそひぬべきが、さても、よそのおほんなをばしらぬかほにて、よのつねのおほんありさまにだにあらば、おのづからありへんにつけても、なぐさむこともやと、おもひなしはべるを、こよなうなさけなきひとのみこころにもはべりけるかな。" |
39 | 3.5.7 | 355 | 341 |
と、つぶつぶと泣きたまふ。 |
と、つぶつぶとなきたまふ。 |
39 | 3.6 | 356 | 342 | 第六段 御息所死去す |
39 | 3.6.1 | 357 | 343 |
いとわりなくおしこめてのたまふを、あらがひはるけむ言の葉もなくて、ただうち泣きたまへるさま、おほどかにらうたげなり。うちまもりつつ、 |
いとわりなくおしこめてのたまふを、あらがひはるけんことのはもなくて、ただうちなきたまへるさま、おほどかにらうたげなり。うちまもりつつ、 |
39 | 3.6.2 | 358 | 344 |
「あはれ、何ごとかは、人に劣りたまへる。いかなる御宿世にて、やすからず、ものを深く思すべき契り深かりけむ」 |
"あはれ、なにごとかは、ひとにおとりたまへる。いかなるおほんすくせにて、やすからず、ものをふかくおぼすべきちぎりふかかりけん。" |
39 | 3.6.3 | 359 | 345 |
などのたまふままに、いみじう苦しうしたまふ。もののけなども、かかる弱目に所得るものなりければ、にはかに消え入りて、ただ冷えに冷え入りたまふ。律師も騷ぎたちたまうて、願など立てののしりたまふ。 |
などのたまふままに、いみじうくるしうしたまふ。もののけなども、かかるよわめにところうるものなりければ、にはかにきえいりて、ただひえにひえいりたまふ。りしもさわぎたちたまうて、がんなどたてののしりたまふ。 |
39 | 3.6.4 | 360 | 346 |
深き誓ひにて、今は命を限りける山籠もりを、かくまでおぼろけならず出で立ちて、壇こぼちて帰り入らむことの、面目なく、仏もつらくおぼえたまふべきことを、心を起こして祈り申したまふ。宮の泣き惑ひたまふこと、いとことわりなりかし。 |
ふかきちかひにて、いまはいのちをかぎりけるやまごもりを、かくまでおぼろけならずいでたちて、だんこぼちてかへりいらんことの、めいぼくなく、ほとけもつらくおぼえたまふべきことを、こころをおこしていのりまうしたまふ。みやのなきまどひたまふこと、いとことわりなりかし。 |
39 | 3.6.5 | 361 | 348 |
かく騒ぐほどに、大将殿より御文取り入れたる、ほのかに聞きたまひて、今宵もおはすまじきなめり、とうち聞きたまふ。 |
かくさわぐほどに、だいしゃうどのよりおほんふみとりいれたる、ほのかにききたまひて、こよひもおはすまじきなめり、とうちなきたまふ。 |
39 | 3.6.6 | 362 | 349 |
「心憂く。世のためしにも引かれたまふべきなめり。何に我さへさる言の葉を残しけむ」 |
"こころうく。よのためしにもひかれたまふべきなめり。なににわれさへさることのはをのこしけん。" |
39 | 3.6.7 | 363 | 350 |
と、さまざま思し出づるに、やがて絶え入りたまひぬ。あへなくいみじと言へばおろかなり。昔より、もののけには時々患ひたまふ。限りと見ゆる折々もあれば、「例のごと取り入れたるなめり」とて、加持参り騒げど、今はのさま、しるかりけり。 |
と、さまざまおぼしいづるに、やがてたえいりたまひぬ。あへなくいみじといへばおろかなり。むかしより、もののけにはときどきわづらひたまふ。かぎりとみゆるをりをりもあれば、"れいのごととりいれたるなめり。"とて、かぢまゐりさわげど、いまはのさま、しるかりけり。 |
39 | 3.6.8 | 364 | 351 |
宮は、後れじと思し入りて、つと添ひ臥したまへり。人びと参りて、 |
みやは、おくれじとおぼしいりて、つとそひふしたまへり。ひとびとまゐりて、 |
39 | 3.6.9 | 365 | 352 |
「今は、いふかひなし。いとかう思すとも、限りある道は、帰りおはすべきことにもあらず。慕ひきこえたまふとも、いかでか御心にはかなふべき」 |
"いまは、いふかひなし。いとかうおぼすとも、かぎりあるみちは、かへりおはすべきことにもあらず。したひきこえたまふとも、いかでかおほんこころにはかなふべき。" |
39 | 3.6.10 | 366 | 353 |
と、さらなることわりを聞こえて、 |
と、さらなることわりをきこえて、 |
39 | 3.6.11 | 367 | 354 |
「いとゆゆしう。亡き御ためにも、罪深きわざなり。今は去らせたまへ」 |
"いとゆゆしう。なきおほんためにも、つみふかきわざなり。いまはさらせたまへ。" |
39 | 3.6.12 | 368 | 355 |
と、引き動かいたてまつれど、すくみたるやうにて、ものもおぼえたまはず。 |
と、ひきうごかいたてまつれど、すくみたるやうにて、ものもおぼえたまはず。 |
39 | 3.6.13 | 369 | 356 |
修法の壇こぼちて、ほろほろと出づるに、さるべき限り、片へこそ立ちとまれ、今は限りのさま、いと悲しう心細し。 |
すほふのだんこぼちて、ほろほろといづるに、さるべきかぎり、かたへこそたちとまれ、いまはかぎりのさま、いとかなしうこころぼそし。 |
39 | 3.7 | 370 | 357 | 第七段 朱雀院の弔問の手紙 |
39 | 3.7.1 | 371 | 358 |
所々の御弔ひ、いつの間にかと見ゆ。大将殿も、限りなく聞き驚きたまうて、まづ聞こえたまへり。六条の院よりも、致仕の大殿よりも、すべていとしげう聞こえたまふ。山の帝も聞こし召して、いとあはれに御文書いたまへり。宮は、この御消息にぞ、御ぐしもたげたまふ。 |
ところどころのおほんとぶらひ、いつのまにかとみゆ。だいしゃうどのも、かぎりなくききおどろきたまうて、まづきこえたまへり。ろくでうのゐんよりも、ちじのおほとのよりも、すべていとしげうきこえたまふ。やまのみかどもきこしめして、いとあはれにおほんふみかいたまへり。みやは、このおほんせうそこにぞ、みぐしもたげたまふ。 |
39 | 3.7.2 | 372 | 359 |
「日ごろ重く悩みたまふと聞きわたりつれど、例も篤しうのみ聞きはべりつるならひに、うちたゆみてなむ。かひなきことをばさるものにて、思ひ嘆いたまふらむありさま推し量るなむ、あはれに心苦しき。なべての世のことわりに思し慰めたまへ」 |
"ひごろおもくなやみたまふとききわたりつれど、れいもあつしうのみききはべりつるならひに、うちたゆみてなん。かひなきことをばさるものにて、おもひなげいたまふらんありさまおしはかるなん、あはれにこころぐるしき。なべてのよのことわりにおぼしなぐさめたまへ。" |
39 | 3.7.3 | 373 | 360 |
とあり。目も見えたまはねど、御返り聞こえたまふ。 |
とあり。めもみえたまはねど、おほんかへりきこえたまふ。 |
39 | 3.7.4 | 374 | 361 |
常にさこそあらめとのたまひけることとて、今日やがてをさめたてまつるとて、御甥の大和守にてありけるぞ、よろづに扱ひきこえける。 |
つねにさこそあらめとのたまひけることとて、けふやがてをさめたてまつるとて、おほんをひのやまとのかみにてありけるぞ、よろづにあつかひきこえける。 |
39 | 3.7.5 | 375 | 362 |
骸をだにしばし見たてまつらむとて、宮は惜しみきこえたまひけれど、さてもかひあるべきならねば、皆いそぎたちて、ゆゆしげなるほどにぞ、大将おはしたる。 |
からをだにしばしみたてまつらんとて、みやはをしみきこえたまひけれど、さてもかひあるべきならねば、みないそぎたちて、ゆゆしげなるほどにぞ、だいしゃうおはしたる。 |
39 | 3.7.6 | 376 | 363 |
「今日より後、日ついで悪しかりけり」 |
"けふよりのち、ひついであしかりけり。" |
39 | 3.7.7 | 377 | 364 |
など、人聞きにはのたまひて、いとも悲しうあはれに、宮の思し嘆くらむことを推し量りきこえたまうて、 |
など、ひとぎきにはのたまひて、いともかなしうあはれに、みやのおぼしなげくらんことをおしはかりきこえたまうて、 |
39 | 3.7.8 | 378 | 365 |
「かくしも急ぎわたりたまふべきことならず」 |
"かくしもいそぎわたりたまふべきことならず。" |
39 | 3.7.9 | 379 | 366 |
と、人びといさめきこゆれど、しひておはしましぬ。 |
と、ひとびといさめきこゆれど、しひておはしましぬ。 |
39 | 3.8 | 380 | 367 | 第八段 夕霧の弔問 |
39 | 3.8.1 | 381 | 368 |
ほどさへ遠くて、入りたまふほど、いと心すごし。ゆゆしげに引き隔てめぐらしたる儀式の方は隠して、この西面に入れたてまつる。大和守出で来て、泣く泣くかしこまりきこゆ。妻戸の簀子におし掛かりたまうて、女房呼び出でさせたまふに、ある限り、心も収まらず、物おぼえぬほどなり。 |
ほどさへとほくて、いりたまふほど、いとこころすごし。ゆゆしげにひきへだてめぐらしたるぎしきのかたはかくして、このにしおもてにいれたてまつる。やまとのかみいできて、なくなくかしこまりきこゆ。つまどのすのこにおしかかりたまうて、にょうばうよびいでさせたまふに、あるかぎり、こころもをさまらず、ものおぼえぬほどなり。 |
39 | 3.8.2 | 382 | 369 |
かく渡りたまへるにぞ、いささか慰めて、少将の君は参る。物もえのたまひやらず。涙もろにおはせぬ心強さなれど、所のさま、人のけはひなどを思しやるも、いみじうて、常なき世のありさまの、人の上ならぬも、いと悲しきなりけり。ややためらひて、 |
かくわたりたまへるにぞ、いささかなぐさめて、せうしゃうのきみはまゐる。ものもえのたまひやらず。なみだもろにおはせぬこころづよさなれど、ところのさま、ひとのけはひなどをおぼしやるも、いみじうて、つねなきよのありさまの、ひとのうへならぬも、いとかなしきなりけり。ややためらひて、 |
39 | 3.8.3 | 383 | 370 |
「よろしうおこたりたまふさまに承りしかば、思うたまへたゆみたりしほどに。夢も覚むるほどはべなるを、いとあさましうなむ」 |
"よろしうおこたりたまふさまにうけたまはりしかば、おもうたまへたゆみたりしほどに。ゆめもさむるほどはべなるを、いとあさましうなん。" |
39 | 3.8.4 | 384 | 371 |
と聞こえたまへり。「思したりしさま、これに多くは御心も乱れにしぞかし」と思すに、さるべきとは言ひながらも、いとつらき人の御契りなれば、いらへをだにしたまはず。 |
ときこえたまへり。"おぼしたりしさま、これにおほくはみこころもみだれにしぞかし。"とおぼすに、さるべきとはいひながらも、いとつらきひとのおほんちぎりなれば、いらへをだにしたまはず。 |
39 | 3.8.5 | 385 | 372 |
「いかに聞こえさせたまふとか、聞こえはべるべき」 |
"いかにきこえさせたまふとか、きこえはべるべき。" |
39 | 3.8.6 | 386 | 373 |
「いと軽らかならぬ御さまにて、かくふりはへ急ぎ渡らせたまへる御心ばへを、思し分かぬやうならむも、あまりにはべりぬべし」 |
"いとかるらかならぬおほんさまにて、かくふりはへいそぎわたらせたまへるみこころばへを、おぼしわかぬやうならんも、あまりにはべりぬべし。" |
39 | 3.8.7 | 387 | 374 |
と、口々聞こゆれば、 |
と、くちぐちきこゆれば、 |
39 | 3.8.8 | 388 | 375 |
「ただ、推し量りて。我は言ふべきこともおぼえず」 |
"ただ、おしはかりて。われはいふべきこともおぼえず。" |
39 | 3.8.9 | 389 | 376 |
とて、臥したまへるもことわりにて、 |
とて、ふしたまへるもことわりにて、 |
39 | 3.8.10 | 390 | 377 |
「ただ今は、亡き人と異ならぬ御ありさまにてなむ。渡らせたまへるよしは、聞こえさせはべりぬ」 |
"ただいまは、なきひととことならぬおほんありさまにてなん。わたらせたまへるよしは、きこえさせはべりぬ。" |
39 | 3.8.11 | 391 | 378 |
と聞こゆ。この人びともむせかへるさまなれば、 |
ときこゆ。このひとびともむせかへるさまなれば、 |
39 | 3.8.12 | 392 | 379 |
「聞こえやるべき方もなきを。今すこしみづからも思ひのどめ、また静まりたまひなむに、参り来む。いかにしてかくにはかにと、その御ありさまなむゆかしき」 |
"きこえやるべきかたもなきを。いますこしみづからもおもひのどめ、またしづまりたまひなんに、まゐりこん。いかにしてかくにはかにと、そのおほんありさまなんゆかしき。" |
39 | 3.8.13 | 393 | 380 |
とのたまへば、まほにはあらねど、かの思ほし嘆きしありさまを、片端づつ聞こえて、 |
とのたまへば、まほにはあらねど、かのおもほしなげきしありさまを、かたはしづつきこえて、 |
39 | 3.8.14 | 394 | 381 |
「かこちきこえさするさまになむ、なりはべりぬべき。今日は、いとど乱りがはしき心地どもの惑ひに、聞こえさせ違ふることどももはべりなむ。さらば、かく思し惑へる御心地も、限りあることにて、すこし静まらせたまひなむほどに、聞こえさせ承らむ」 |
"かこちきこえさするさまになん、なりはべりぬべき。けふは、いとどみだりがはしきここちどものまどひに、きこえさせたがふることどももはべりなん。さらば、かくおぼしまどへるみここちも、かぎりあることにて、すこししづまらせたまひなんほどに、きこえさせうけたまはらん。" |
39 | 3.8.15 | 395 | 382 |
とて、我にもあらぬさまなれば、のたまひ出づることも口ふたがりて、 |
とて、われにもあらぬさまなれば、のたまひいづることもくちふたがりて、 |
39 | 3.8.16 | 396 | 383 |
「げにこそ、闇に惑へる心地すれ。なほ、聞こえ慰めたまひて、いささかの御返りもあらばなむ」 |
"げにこそ、やみにまどへるここちすれ。なほ、きこえなぐさめたまひて、いささかのおほんかへりもあらばなん。" |
39 | 3.8.17 | 397 | 384 |
などのたまひおきて、立ちわづらひたまふも、軽々しう、さすがに人騒がしければ、帰りたまひぬ。 |
などのたまひおきて、たちわづらひたまふも、かるがるしう、さすがにひとさわがしければ、かへりたまひぬ。 |
39 | 3.9 | 398 | 385 | 第九段 御息所の葬儀 |
39 | 3.9.1 | 399 | 386 |
今宵しもあらじと思ひつる事どものしたため、いとほどなく際々しきを、いとあへなしと思いて、近き御荘の人びと召し仰せて、さるべき事ども仕うまつるべく、おきて定めて出でたまひぬ。事のにはかなれば、削ぐやうなりつることども、いかめしう、人数なども添ひてなむ。大和守も、 |
こよひしもあらじとおもひつることどものしたため、いとほどなくきはぎはしきを、いとあへなしとおぼいて、ちかきみさうのひとびとめしおほせて、さるべきことどもつかうまつるべく、おきてさだめていでたまひぬ。ことのにはかなれば、そぐやうなりつることども、いかめしう、ひとかずなどもそひてなん。やまとのかみも、 |
39 | 3.9.2 | 400 | 387 |
「ありがたき殿の御心おきて」 |
"ありがたきとののおほんこころおきて。" |
39 | 3.9.3 | 401 | 388 |
など、喜びかしこまりきこゆ。「名残だになくあさましきこと」と、宮は臥しまろびたまへど、かひなし。親と聞こゆとも、いとかくはならはすまじきものなりけり。見たてまつる人びとも、この御事を、またゆゆしう嘆ききこゆ。大和守、残りのことどもしたためて、 |
など、よろこびかしこまりきこゆ。"なごりだになくあさましきこと。"と、みやはふしまろびたまへど、かひなし。おやときこゆとも、いとかくはならはすまじきものなりけり。みたてまつるひとびとも、このおほんことを、またゆゆしうなげききこゆ。やまとのかみ、のこりのことどもしたためて、 |
39 | 3.9.4 | 402 | 389 |
「かく心細くては、えおはしまさじ。いと御心の隙あらじ」 |
"かくこころぼそくては、えおはしまさじ。いとみこころのひまあらじ。" |
39 | 3.9.5 | 403 | 390 |
など聞こゆれど、なほ、峰の煙をだに、気近くて思ひ出できこえむと、この山里に住み果てなむと思いたり。 |
などきこゆれど、なほ、みねのけぶりをだに、けぢかくておもひいできこえんと、このやまざとにすみはてなんとおぼいたり。 |
39 | 3.9.6 | 404 | 391 |
御忌に籠もれる僧は、東面、そなたの渡殿、下屋などに、はかなき隔てしつつ、かすかにゐたり。西の廂をやつして、宮はおはします。明け暮るるも思し分かねど、月ごろ経ければ、九月になりぬ。 |
おほんいみにこもれるそうは、ひんがしおもて、そなたのわたどの、しもやなどに、はかなきへだてしつつ、かすかにゐたり。にしのひさしをやつして、みやはおはします。あけくるるもおぼしわかねど、つきごろへければ、ながつきになりぬ。 |
39 | 4 | 405 | 392 | 第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧 |
39 | 4.1 | 406 | 393 | 第一段 夕霧、返事を得られず |
39 | 4.1.1 | 407 | 394 |
山下ろしいとはげしう、木の葉の隠ろへなくなりて、よろづの事いといみじきほどなれば、おほかたの空にもよほされて、干る間もなく思し嘆き、「命さへ心にかなはず」と、厭はしういみじう思す。さぶらふ人びとも、よろづにもの悲しう思ひ惑へり。 |
やまおろしいとはげしう、このはのかくろへなくなりて、よろづのこといといみじきほどなれば、おほかたのそらにもよほされて、ひるまもなくおぼしなげき、"いのちさへこころにかなはず。"と、いとはしういみじうおぼす。さぶらふひとびとも、よろづにものかなしうおもひまどへり。 |
39 | 4.1.2 | 408 | 395 |
大将殿は、日々に訪らひきこえたまふ。寂しげなる念仏の僧など、慰むばかり、よろづの物を遣はし訪らはせたまひ、宮の御前には、あはれに心深き言の葉を尽くして怨みきこえ、かつは、尽きもせぬ御訪らひを聞こえたまへど、取りてだに御覧ぜず、すずろにあさましきことを、弱れる御心地に、疑ひなく思ししみて、消え失せたまひにしことを思し出づるに、「後の世の御罪にさへやなるらむ」と、胸に満つ心地して、この人の御ことをだにかけて聞きたまふは、いとどつらく心憂き涙のもよほしに思さる。人びとも聞こえわづらひぬ。 |
だいしゃうどのは、ひびにとぶらひきこえたまふ。さびしげなるねんぶつのそうなど、なぐさむばかり、よろづのものをつかはしとぶらはせたまひ、みやのおまへには、あはれにこころふかきことのはをつくしてうらみきこえ、かつは、つきもせぬおほんとぶらひをきこえたまへど、とりてだにごらんぜず、すずろにあさましきことを、よわれるみここちに、うたがひなくおぼししみて、きえうせたまひにしことをおぼしいづるに、"のちのよのおほんつみにさへやなるらん。"と、むねにみつここちして、このひとのおほんことをだにかけてききたまふは、いとどつらくこころうきなみだのもよほしにおぼさる。ひとびともきこえわづらひぬ。 |
39 | 4.1.3 | 409 | 396 |
一行の御返りをだにもなきを、「しばしは心惑ひしたまへる」など思しけるに、あまりにほど経ぬれば、 |
ひとくだりのおほんかへりをだにもなきを、"しばしはこころまどひしたまへる。"などおぼしけるに、あまりにほどへぬれば、 |
39 | 4.1.4 | 410 | 397 |
「悲しきことも限りあるを。などか、かく、あまり見知りたまはずはあるべき。いふかひなく若々しきやうに」と恨めしう、「異事の筋に、花や蝶やと書けばこそあらめ、わが心にあはれと思ひ、もの嘆かしき方ざまのことを、いかにと問ふ人は、睦ましうあはれにこそおぼゆれ。 |
"かなしきこともかぎりあるを。などか、かく、あまりみしりたまはずはあるべき。いふかひなくわかわかしきやうに。"とうらめしう、"ことことのすぢに、はなやてふやとかけばこそあらめ、わがこころにあはれとおもひ、ものなげかしきかたざまのことを、いかにととふひとは、むつましうあはれにこそおぼゆれ。 |
39 | 4.1.5 | 411 | 398 |
大宮の亡せたまへりしを、いと悲しと思ひしに、致仕の大臣のさしも思ひたまへらず、ことわりの世の別れに、公々しき作法ばかりのことを孝じたまひしに、つらく心づきなかりしに、六条院の、なかなかねむごろに、後の御事をも営みたまうしが、わが方ざまといふ中にも、うれしう見たてまつりしその折に、故衛門督をば、取り分きて思ひつきにしぞかし。 |
おほみやのうせたまへりしを、いとかなしとおもひしに、ちじのおとどのさしもおもひたまへらず、ことわりのよのわかれに、おほやけおほやけしきさほふばかりのことをけうじたまひしに、つらくこころづきなかりしに、ろくでうのゐんの、なかなかねんごろに、のちのおほんことをもいとなみたまうしが、わがかたざまといふなかにも、うれしうみたてまつりしそのをりに、こゑもんのかみをば、とりわきておもひつきにしぞかし。 |
39 | 4.1.6 | 412 | 399 |
人柄のいたう静まりて、物をいたう思ひとどめたりし心に、あはれもまさりて、人より深かりしが、なつかしうおぼえし」 |
ひとがらのいたうしづまりて、ものをいたうおもひとどめたりしこころに、あはれもまさりて、ひとよりふかかりしが、なつかしうおぼえし。" |
39 | 4.1.7 | 413 | 400 |
など、つれづれとものをのみ思し続けて、明かし暮らしたまふ。 |
など、つれづれとものをのみおぼしつづけて、あかしくらしたまふ。 |
39 | 4.2 | 414 | 401 | 第二段 雲居雁の嘆きの歌 |
39 | 4.2.1 | 415 | 402 |
女君、なほこの御仲のけしきを、 |
をんなぎみ、なほこのおほんなかのけしきを、 |
39 | 4.2.2 | 416 | 403 |
「いかなるにかありけむ。御息所とこそ、文通はしも、こまやかにしたまふめりしか」 |
"いかなるにかありけん。みやすんどころとこそ、ふみかよはしも、こまやかにしたまふめりしか。" |
39 | 4.2.3 | 417 | 404 |
など思ひ得がたくて、夕暮の空を眺め入りて臥したまへるところに、若君してたてまつれたまへる。はかなき紙の端に、 |
などおもひえがたくて、ゆふぐれのそらをながめいりてふしたまへるところに、わかぎみしてたてまつれたまへる。はかなきかみのはしに、 |
39 | 4.2.4 | 418 | 405 |
「あはれをもいかに知りてか慰めむ<BR/>あるや恋しき亡きや悲しき |
"〔あはれをもいかにしりてかなぐさめん<BR/>あるやこひしきなきやかなしき |
39 | 4.2.5 | 419 | 406 |
おぼつかなきこそ心憂けれ」 |
おぼつかなきこそこころうけれ。" |
39 | 4.2.6 | 420 | 407 |
とあれば、ほほ笑みて、 |
とあれば、ほほゑみて、 |
39 | 4.2.7 | 421 | 408 |
「先ざきも、かく思ひ寄りてのたまふ、似げなの、亡きがよそへや」 |
"さきざきも、かくおもひよりてのたまふ、にげなの、なきがよそへや。" |
39 | 4.2.8 | 422 | 409 |
と思す。いとどしく、ことなしびに、 |
とおぼす。いとどしく、ことなしびに、 |
39 | 4.2.9 | 423 | 410 |
「いづれとか分きて眺めむ消えかへる<BR/>露も草葉のうへと見ぬ世を |
"〔いづれとかわきてながめんきえかへる<BR/>つゆもくさばのうへとみぬよを |
39 | 4.2.10 | 424 | 411 |
おほかたにこそ悲しけれ」 |
おほかたにこそかなしけれ。" |
39 | 4.2.11 | 425 | 412 |
と書いたまへり。「なほ、かく隔てたまへること」と、露のあはれをばさしおきて、ただならず嘆きつつおはす。 |
とかいたまへり。"なほ、かくへだてたまへること。"と、つゆのあはれをばさしおきて、ただならずなげきつつおはす。 |
39 | 4.2.12 | 426 | 413 |
なほ、かくおぼつかなく思しわびて、また渡りたまへり。「御忌など過ぐしてのどやかに」と思し静めけれど、さまでもえ忍びたまはず、 |
なほ、かくおぼつかなくおぼしわびて、またわたりたまへり。"おほんいみなどすぐしてのどやかに。"とおぼししづめけれど、さまでもえしのびたまはず、 |
39 | 4.2.13 | 427 | 414 |
「今はこの御なき名の、何かはあながちにもつつまむ。ただ世づきて、つひの思ひかなふべきにこそは」 |
"いまはこのおほんなきなの、なにかはあながちにもつつまん。ただよづきて、つひのおもひかなふべきにこそは。" |
39 | 4.2.14 | 428 | 415 |
と、思したばかりにければ、北の方の御思ひやりを、あながちにもあらがひきこえたまはず。 |
と、おぼしたばかりにければ、きたのかたのおほんおもひやりを、あながちにもあらがひきこえたまはず。 |
39 | 4.2.15 | 429 | 416 |
正身は強う思し離るとも、かの一夜ばかりの御恨み文をとらへどころにかこちて、「えしも、すすぎ果てたまはじ」と、頼もしかりけり。 |
さうじみはつようおぼしはなるとも、かのひとよばかりのおほんうらみぶみをとらへどころにかこちて、"えしも、すすぎはてたまはじ。"と、たのもしかりけり。 |
39 | 4.3 | 430 | 417 | 第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問 |
39 | 4.3.1 | 431 | 418 |
九月十余日、野山のけしきは、深く見知らぬ人だに、ただにやはおぼゆる。山風に堪へぬ木々の梢も、峰の葛葉も、心あわたたしう争ひ散る紛れに、尊き読経の声かすかに、念仏などの声ばかりして、人のけはひいと少なう、木枯の吹き払ひたるに、鹿はただ籬のもとにたたずみつつ、山田の引板にもおどろかず、色濃き稲どもの中に混じりてうち鳴くも、愁へ顔なり。 |
くがつじふよにち、のやまのけしきは、ふかくみしらぬひとだに、ただにやはおぼゆる。やまかぜにたへぬきぎのこずゑも、みねのくずはも、こころあわたたしうあらそひちるまぎれに、たふときどきゃうのこゑかすかに、ねんぶつなどのこゑばかりして、ひとのけはひいとすくなう、こがらしのふきはらひたるに、しかはただまがきのもとにたたずみつつ、やまだのひたにもおどろかず、いろこきいねどものなかにまじりてうちなくも、うれへがほなり。 |
39 | 4.3.2 | 432 | 420 |
滝の声は、いとどもの思ふ人をおどろかし顔に、耳かしかましうとどろき響く。草むらの虫のみぞ、よりどころなげに鳴き弱りて、枯れたる草の下より、龍胆の、われひとりのみ心長うはひ出でて、露けく見ゆるなど、皆例のこのころのことなれど、折から所からにや、いと堪へがたきほどの、もの悲しさなり。 |
たきのこゑは、いとどものおもふひとをおどろかしがほに、みみかしかましうとどろきひびく。くさむらのむしのみぞ、よりどころなげになきよわりて、かれたるくさのしたより、りんだうの、われひとりのみこころながうはひいでて、つゆけくみゆるなど、みなれいのこのころのことなれど、をりからところからにや、いとたへがたきほどの、ものがなしさなり。 |
39 | 4.3.3 | 433 | 421 |
例の妻戸のもとに立ち寄りたまひて、やがて眺め出だして立ちたまへり。なつかしきほどの直衣に、色こまやかなる御衣の擣目、いとけうらに透きて、影弱りたる夕日の、さすがに何心もなうさし来たるに、まばゆげに、わざとなく扇をさし隠したまへる手つき、「女こそかうはあらまほしけれ、それだにえあらぬを」と、見たてまつる。 |
れいのつまどのもとにたちよりたまひて、やがてながめいだしてたちたまへり。なつかしきほどのなほしに、いろこまやかなるおほんぞのうちめ、いとけうらにすきて、かげよわりたるゆふひの、さすがになにごころもなうさしきたるに、まばゆげに、わざとなくあふぎをさしかくしたまへるてつき、"をんなこそかうはあらまほしけれ、それだにえあらぬを。"と、みたてまつる。 |
39 | 4.3.4 | 434 | 422 |
もの思ひの慰めにしつべく、笑ましき顔の匂ひにて、少将の君を、取り分きて召し寄す。簀子のほどもなけれど、奥に人や添ひゐたらむとうしろめたくて、えこまやかにも語らひたまはず。 |
ものおもひのなぐさめにしつべく、ゑましきかほのにほひにて、せうしゃうのきみを、とりわきてめしよす。すのこのほどもなけれど、おくにひとやそひゐたらんとうしろめたくて、えこまやかにもかたらひたまはず。 |
39 | 4.3.5 | 435 | 423 |
「なほ近くて。な放ちたまひそ。かく山深く分け入る心ざしは、隔て残るべくやは。霧もいと深しや」 |
"なほちかくて。なはなちたまひそ。かくやまふかくわけいるこころざしは、へだてのこるべくやは。きりもいとふかしや。" |
39 | 4.3.6 | 436 | 424 |
とて、わざとも見入れぬさまに、山の方を眺めて、「なほ、なほ」と切にのたまへば、鈍色の几帳を、簾のつまよりすこしおし出でて、裾をひきそばめつつゐたり。大和守の妹なれば、離れたてまつらぬうちに、幼くより生ほし立てたまうければ、衣の色いと濃くて、橡の衣一襲、小袿着たり。 |
とて、わざともみいれぬさまに、やまのかたをながめて、"なほ、なほ。"とせちにのたまへば、にびいろのきちゃうを、すだれのつまよりすこしおしいでて、すそをひきそばめつつゐたり。やまとのかみのいもうとなれば、はなれたてまつらぬうちに、をさなくよりおほしたてたまうければ、きぬのいろいとこくて、つるばみのきぬひとかさね、こうちききたり。 |
39 | 4.3.7 | 437 | 425 |
「かく尽きせぬ御ことは、さるものにて、聞こえなむ方なき御心のつらさを思ひ添ふるに、心魂もあくがれ果てて、見る人ごとに咎められはべれば、今はさらに忍ぶべき方なし」 |
"かくつきせぬおほんことは、さるものにて、きこえなんかたなきみこころのつらさをおもひそふるに、こころだましひもあくがれはてて、みるひとごとにとがめられはべれば、いまはさらにしのぶべきかたなし。" |
39 | 4.3.8 | 438 | 426 |
と、いと多く恨み続けたまふ。かの今はの御文のさまものたまひ出でて、いみじう泣きたまふ。 |
と、いとおほくうらみつづけたまふ。かのいまはのおほんふみのさまものたまひいでて、いみじうなきたまふ。 |
39 | 4.4 | 439 | 427 | 第四段 板ばさみの小少将君 |
39 | 4.4.1 | 440 | 428 |
この人も、ましていみじう泣き入りつつ、 |
このひとも、ましていみじうなきいりつつ、 |
39 | 4.4.2 | 441 | 429 |
「その夜の御返りさへ見えはべらずなりにしを、今は限りの御心に、やがて思し入りて、暗うなりにしほどの空のけしきに、御心地惑ひにけるを、さる弱目に、例の御もののけの引き入れたてまつる、となむ見たまへし。 |
"そのよのおほんかへりさへみえはべらずなりにしを、いまはかぎりのみこころに、やがておぼしいりて、くらうなりにしほどのそらのけしきに、みここちまどひにけるを、さるよわめに、れいのおほんもののけのひきいれたてまつる、となんみたまへし。 |
39 | 4.4.3 | 442 | 430 |
過ぎにし御ことにも、ほとほと御心惑ひぬべかりし折々多くはべりしを、宮の同じさまに沈みたまうしを、こしらへきこえむの御心強さになむ、やうやうものおぼえたまうし。この御嘆きをば、御前には、ただわれかの御けしきにて、あきれて暮らさせたまうし」 |
すぎにしおほんことにも、ほとほとみこころまどひぬべかりしをりをりおほくはべりしを、みやのおなじさまにしづみたまうしを、こしらへきこえんのみこころづよさになん、やうやうものおぼえたまうし。このおほんなげきをば、おまへには、ただわれかのみけしきにて、あきれてくらさせたまうし。" |
39 | 4.4.4 | 443 | 431 |
など、とめがたげにうち嘆きつつ、はかばかしうもあらず聞こゆ。 |
など、とめがたげにうちなげきつつ、はかばかしうもあらずきこゆ。 |
39 | 4.4.5 | 444 | 432 |
「そよや。そもあまりにおぼめかしう、いふかひなき御心なり。今は、かたじけなくとも、誰をかはよるべに思ひきこえたまはむ。御山住みも、いと深き峰に、世の中を思し絶えたる雲の中なめれば、聞こえ通ひたまはむこと難し。 |
"そよや。そもあまりにおぼめかしう、いふかひなきみこころなり。いまは、かたじけなくとも、たれをかはよるべにおもひきこえたまはん。みやまずみも、いとふかきみねに、よのなかをおぼしたえたるくものなかなめれば、きこえかよひたまはんことかたし。 |
39 | 4.4.6 | 445 | 433 |
いとかく心憂き御けしき、聞こえ知らせたまへ。よろづのこと、さるべきにこそ。世にあり経じと思すとも、従はぬ世なり。まづは、かかる御別れの、御心にかなはば、あるべきことかは」 |
いとかくこころうきみけしき、きこえしらせたまへ。よろづのこと、さるべきにこそ。よにありへじとおぼすとも、したがはぬよなり。まづは、かかるおほんわかれの、みこころにかなはば、あるべきことかは。" |
39 | 4.4.7 | 446 | 434 |
など、よろづに多くのたまへど、聞こゆべきこともなくて、うち嘆きつつゐたり。鹿のいといたく鳴くを、「われ劣らめや」とて、 |
など、よろづにおほくのたまへど、きこゆべきこともなくて、うちなげきつつゐたり。しかのいといたくなくを、"われおとらめや。"とて、 |
39 | 4.4.8 | 447 | 435 |
「里遠み小野の篠原わけて来て<BR/>我も鹿こそ声も惜しまね」 |
"〔さととほみをののしのはらわけてきて<BR/>われもしかこそこゑもをしまね〕 |
39 | 4.4.9 | 448 | 436 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
39 | 4.4.10 | 449 | 437 |
「藤衣露けき秋の山人は<BR/>鹿の鳴く音に音をぞ添へつる」 |
"〔ふぢごろもつゆけきあきのやまびとは<BR/>しかのなくねにねをぞそへつる〕 |
39 | 4.4.11 | 450 | 438 |
よからねど、折からに、忍びやかなる声づかひなどを、よろしう聞きなしたまへり。 |
よからねど、をりからに、しのびやかなるこわづかひなどを、よろしうききなしたまへり。 |
39 | 4.4.12 | 451 | 439 |
御消息とかう聞こえたまへど、 |
おほんせうそことかうきこえたまへど、 |
39 | 4.4.13 | 452 | 440 |
「今は、かくあさましき夢の世を、すこしも思ひ覚ます折あらばなむ、絶えぬ御とぶらひも聞こえやるべき」 |
"いまは、かくあさましきゆめのよを、すこしもおもひさますをりあらばなん、たえぬおほんとぶらひもきこえやるべき。" |
39 | 4.4.14 | 453 | 441 |
とのみ、すくよかに言はせたまふ。「いみじういふかひなき御心なりけり」と、嘆きつつ帰りたまふ。 |
とのみ、すくよかにいはせたまふ。"いみじういふかひなきみこころなりけり。"と、なげきつつかへりたまふ。 |
39 | 4.5 | 454 | 442 | 第五段 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅 |
39 | 4.5.1 | 455 | 443 |
道すがらも、あはれなる空を眺めて、十三日の月のいとはなやかにさし出でぬれば、小倉の山もたどるまじうおはするに、一条の宮は道なりけり。 |
みちすがらも、あはれなるそらをながめて、じふさんにちのつきのいとはなやかにさしいでぬれば、をぐらのやまもたどるまじうおはするに、いちでうのみやはみちなりけり。 |
39 | 4.5.2 | 456 | 444 |
いとどうちあばれて、未申の方の崩れたるを見入るれば、はるばると下ろし籠めて、人影も見えず。月のみ遣水の面をあらはに澄みましたるに、大納言、ここにて遊びなどしたまうし折々を、思ひ出でたまふ。 |
いとどうちあばれて、ひつじさるのかたのくづれたるをみいるれば、はるばるとおろしこめて、ひとかげもみえず。つきのみやりみづのおもてをあらはにすみましたるに、だいなごん、ここにてあそびなどしたまうしをりをりを、おもひいでたまふ。 |
39 | 4.5.3 | 457 | 445 |
「見し人の影澄み果てぬ池水に<BR/>ひとり宿守る秋の夜の月」 |
"〔みしひとのかげすみはてぬいけみづに<BR/>ひとりやどもるあきのよのつき〕" |
39 | 4.5.4 | 458 | 446 |
と独りごちつつ、殿におはしても、月を見つつ、心は空にあくがれたまへり。 |
とひとりごちつつ、とのにおはしても、つきをみつつ、こころはそらにあくがれたまへり。 |
39 | 4.5.5 | 459 | 447 |
「さも見苦しう。あらざりし御癖かな」 |
"さもみぐるしう。あらざりしおほんくせかな。" |
39 | 4.5.6 | 460 | 448 |
と、御達も憎みあへり。上は、まめやかに心憂く、 |
と、ごたちもにくみあへり。うへは、まめやかにこころうく、 |
39 | 4.5.7 | 461 | 449 |
「あくがれたちぬる御心なめり。もとよりさる方にならひたまへる六条の院の人びとを、ともすればめでたきためしにひき出でつつ、心よからずあいだちなきものに思ひたまへる、わりなしや。我も、昔よりしかならひなましかば、人目も馴れて、なかなか過ごしてまし。世のためしにしつべき御心ばへと、親兄弟よりはじめたてまつり、めやすきあえものにしたまへるを、ありありては、末に恥がましきことやあらむ」 |
"あくがれたちぬるみこころなめり。もとよりさるかたにならひたまへるろくでうのゐんのひとびとを、ともすればめでたきためしにひきいでつつ、こころよからずあいだちなきものにおもひたまへる、わりなしや。われも、むかしよりしかならひなましかば、ひとめもなれて、なかなかすごしてまし。よのためしにしつべきみこころばへと、おやはらからよりはじめたてまつり、めやすきあえものにしたまへるを、ありありては、すゑにはぢがましきことやあらん。" |
39 | 4.5.8 | 462 | 450 |
など、いといたう嘆いたまへり。 |
など、いといたうなげいたまへり。 |
39 | 4.5.9 | 463 | 451 |
夜明け方近く、かたみにうち出でたまふことなくて、背き背きに嘆き明かして、朝霧の晴れ間も待たず、例の、文をぞ急ぎ書きたまふ。いと心づきなしと思せど、ありしやうにも奪ひたまはず。いとこまやかに書きて、うち置きてうそぶきたまふ。忍びたまへど、漏りて聞きつけらる。 |
よあけがたちかく、かたみにうちいでたまふことなくて、そむきそむきになげきあかして、あさぎりのはれまもまたず、れいの、ふみをぞいそぎかきたまふ。いとこころづきなしとおぼせど、ありしやうにもばひたまはず。いとこまやかにかきて、うちおきてうそぶきたまふ。しのびたまへど、もりてききつけらる。 |
39 | 4.5.10 | 464 | 452 |
「いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の<BR/>夢覚めてとか言ひしひとこと |
"〔いつとかはおどろかすべきあけぬよの<BR/>ゆめさめてとかいひしひとこと |
39 | 4.5.11 | 465 | 453 |
上より落つる」 |
うへよりおつる。" |
39 | 4.5.12 | 466 | 454 |
とや書いたまひつらむ、おし包みて、名残も、「いかでよからむ」など口ずさびたまへり。人召して賜ひつ。「御返り事をだに見つけてしがな。なほ、いかなることぞ」と、けしき見まほしう思す。 |
とやかいたまひつらん、おしつつみて、なごりも、"いかでよからん。"などくちずさびたまへり。ひとめしてたまひつ。"おほんかへりことをだにみつけてしがな。なほ、いかなることぞ。"と、けしきみまほしうおぼす。 |
39 | 4.6 | 467 | 455 | 第六段 落葉宮の返歌が届く |
39 | 4.6.1 | 468 | 456 |
日たけてぞ持て参れる。紫のこまやかなる紙すくよかにて、小少将ぞ、例の聞こえたる。ただ同じさまに、かひなきよしを書きて、 |
ひたけてぞもてまゐれる。むらさきのこまやかなるかみすくよかにて、こせうしゃうぞ、れいのきこえたる。ただおなじさまに、かひなきよしをかきて、 |
39 | 4.6.2 | 469 | 457 |
「いとほしさに、かのありつる御文に、手習ひすさびたまへるを盗みたる」 |
"いとほしさに、かのありつるおほんふみに、てならひすさびたまへるをぬすみたる。" |
39 | 4.6.3 | 470 | 458 |
とて、中にひき破りて入れたる、「目には見たまうてけり」と、思すばかりのうれしさぞ、いと人悪ろかりける。そこはかとなく書きたまへるを、見続けたまへれば、 |
とて、なかにひきやりていれたる、"めにはみたまうてけり。"と、おぼすばかりのうれしさぞ、いとひとわろかりける。そこはかとなくかきたまへるを、みつづけたまへれば、 |
39 | 4.6.4 | 471 | 459 |
「朝夕に泣く音を立つる小野山は<BR/>絶えぬ涙や音無の滝」 |
"〔あさゆふになくねをたつるをのやまは<BR/>たえぬなみだやおとなしのたき〕" |
39 | 4.6.5 | 472 | 460 |
とや、とりなすべからむ、古言など、もの思はしげに書き乱りたまへる、御手なども見所あり。 |
とや、とりなすべからん、ふることなど、ものおもはしげにかきみだりたまへる、おほんてなどもみどころあり。 |
39 | 4.6.6 | 473 | 461 |
「人の上などにて、かやうの好き心思ひ焦らるるは、もどかしう、うつし心ならぬことに見聞きしかど、身のことにては、げにいと堪へがたかるべきわざなりけり。あやしや。など、かうしも思ふべき心焦られぞ」 |
"ひとのうへなどにて、かやうのすきごころおもひいらるるは、もどかしう、うつしごころならぬことにみききしかど、みのことにては、げにいとたへがたかるべきわざなりけり。あやしや。など、かうしもおもふべきこころいられぞ。" |
39 | 4.6.7 | 474 | 462 |
と思ひ返したまへど、えしもかなはず。 |
とおもひかへしたまへど、えしもかなはず。 |
39 | 5 | 475 | 463 | 第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る |
39 | 5.1 | 476 | 464 | 第一段 源氏や紫の上らの心配 |
39 | 5.1.1 | 477 | 465 |
六条院にも聞こし召して、いとおとなしうよろづを思ひしづめ、人のそしりどころなく、めやすくて過ぐしたまふを、おもだたしう、わがいにしへ、すこしあざればみ、あだなる名を取りたまうし面起こしに、うれしう思しわたるを、 |
ろくでうのゐんにもきこしめして、いとおとなしうよろづをおもひしづめ、ひとのそしりどころなく、めやすくてすぐしたまふを、おもだたしう、わがいにしへ、すこしあざればみ、あだなるなをとりたまうしおもておこしに、うれしうおぼしわたるを、 |
39 | 5.1.2 | 478 | 466 |
「いとほしう、いづ方にも心苦しきことのあるべきこと。さし離れたる仲らひにてだにあらで、大臣なども、いかに思ひたまはむ。さばかりのこと、たどらぬにはあらじ。宿世といふもの、逃れわびぬることなり。ともかくも口入るべきことならず」 |
"いとほしう、いづかたにもこころぐるしきことのあるべきこと。さしはなれたるなからひにてだにあらで、おとどなども、いかにおもひたまはん。さばかりのこと、たどらぬにはあらじ。すくせといふもの、のがれわびぬることなり。ともかくもくちいるべきことならず。" |
39 | 5.1.3 | 479 | 467 |
と思す。女のためのみにこそ、いづ方にもいとほしけれと、あいなく聞こしめし嘆く。 |
とおぼす。をんなのためのみにこそ、いづかたにもいとほしけれと、あいなくきこしめしなげく。 |
39 | 5.1.4 | 480 | 468 |
紫の上にも、来し方行く先のこと思し出でつつ、かうやうのためしを聞くにつけても、亡からむ後、うしろめたう思ひきこゆるさまをのたまへば、御顔うち赤めて、「心憂く、さまで後らかしたまふべきにや」と思したり。 |
むらさきのうへにも、きしかたゆくさきのことおぼしいでつつ、かうやうのためしをきくにつけても、なからんのち、うしろめたうおもひきこゆるさまをのたまへば、おほんかほうちあかめて、"こころうく、さまでおくらかしたまふべきにや。"とおぼしたり。 |
39 | 5.1.5 | 481 | 469 |
「女ばかり、身をもてなすさまも所狭う、あはれなるべきものはなし。もののあはれ、折をかしきことをも、見知らぬさまに引き入り沈みなどすれば、何につけてか、世に経る映えばえしさも、常なき世のつれづれをも慰むべきぞは。 |
"をんなばかり、みをもてなすさまもところせう、あはれなるべきものはなし。もののあはれ、をりをかしきことをも、みしらぬさまにひきいりしづみなどすれば、なににつけてか、よにふるはえばえしさも、つねなきよのつれづれをもなぐさむべきぞは。 |
39 | 5.1.6 | 482 | 470 |
おほかた、ものの心を知らず、いふかひなきものにならひたらむも、生ほしたてけむ親も、いと口惜しかるべきものにはあらずや。 |
おほかた、もののこころをしらず、いふかひなきものにならひたらんも、おほしたてけんおやも、いとくちをしかるべきものにはあらずや。 |
39 | 5.1.7 | 483 | 471 |
心にのみ籠めて、無言太子とか、小法師ばらの悲しきことにする昔のたとひのやうに、悪しきこと善きことを思ひ知りながら、埋もれなむも、いふかひなし。わが心ながらも、良きほどには、いかで保つべきぞ」 |
こころにのみこめて、むごんたいしとか、こぼふしばらのかなしきことにするむかしのたとひのやうに、あしきことよきことをおもひしりながら、うづもれなんも、いふかひなし。わがこころながらも、よきほどには、いかでたもつべきぞ。" |
39 | 5.1.8 | 484 | 472 |
と思しめぐらすも、今はただ女一の宮の御ためなり。 |
とおぼしめぐらすも、いまはただをんないちのみやのおほんためなり。 |
39 | 5.2 | 485 | 473 | 第二段 夕霧、源氏に対面 |
39 | 5.2.1 | 486 | 474 |
大将の君、参りたまへるついでありて、思ひたまへらむけしきもゆかしければ、 |
だいしゃうのきみ、まゐりたまへるついでありて、おもひたまへらんけしきもゆかしければ、 |
39 | 5.2.2 | 487 | 475 |
「御息所の忌果てぬらむな。昨日今日と思ふほどに、三年よりあなたのことになる世にこそあれ。あはれに、あぢきなしや。夕べの露かかるほどのむさぼりよ。いかでかこの髪剃りて、よろづ背き捨てむと思ふを、さものどやかなるやうにても過ぐすかな。いと悪ろきわざなりや」 |
"みやすんどころのいみはてぬらんな。きのふけふとおもふほどに、みとせよりあなたのことになるよにこそあれ。あはれに、あぢきなしや。ゆふべのつゆかかるほどのむさぼりよ。いかでかこのかみそりて、よろづそむきすてんとおもふを、さものどやかなるやうにてもすぐすかな。いとわろきわざなりや。" |
39 | 5.2.3 | 488 | 476 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
39 | 5.2.4 | 489 | 477 |
「まことに惜しげなき人だにこそ、はべめれ」など聞こえて、「御息所の四十九日のわざなど、大和守なにがしの朝臣、一人扱ひはべる、いとあはれなるわざなりや。はかばかしきよすがなき人は、生ける世の限りにて、かかる世の果てこそ、悲しうはべりけれ」 |
"まことにをしげなきひとだにこそ、はべめれ。"などきこえて、"みやすんどころのなななぬかのわざなど、やまとのかみなにがしのあそん、ひとりあつかひはべる、いとあはれなるわざなりや。はかばかしきよすがなきひとは、いけるよのかぎりにて、かかるよのはてこそ、かなしうはべりけれ。" |
39 | 5.2.5 | 490 | 478 |
と、聞こえたまふ。 |
と、きこえたまふ。 |
39 | 5.2.6 | 491 | 479 |
「院よりも弔らはせたまふらむ。かの皇女、いかに思ひ嘆きたまふらむ。はやう聞きしよりは、この近き年ごろ、ことに触れて聞き見るに、この更衣こそ、口惜しからずめやすき人のうちなりけれ。おほかたの世につけて、惜しきわざなりや。さてもありぬべき人の、かう亡せゆくよ。 |
"ゐんよりもとぶらはせたまふらん。かのみこ、いかにおもひなげきたまふらん。はやうききしよりは、このちかきとしごろ、ことにふれてききみるに、このかういこそ、くちをしからずめやすきひとのうちなりけれ。おほかたのよにつけて、をしきわざなりや。さてもありぬべきひとの、かううせゆくよ。 |
39 | 5.2.7 | 492 | 480 |
院も、いみじう驚き思したりけり。かの皇女こそは、ここにものしたまふ入道の宮よりさしつぎには、らうたうしたまひけれ。人ざまもよくおはすべし」 |
ゐんも、いみじうおどろきおぼしたりけり。かのみここそは、ここにものしたまふにふだうのみやよりさしつぎには、らうたうしたまひけれ。ひとざまもよくおはすべし。" |
39 | 5.2.8 | 493 | 481 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
39 | 5.2.9 | 494 | 482 |
「御心はいかがものしたまふらむ。御息所は、こともなかりし人のけはひ、心ばせになむ。親しううちとけたまはざりしかど、はかなきことのついでに、おのづから人の用意はあらはなるものになむはべる」 |
"みこころはいかがものしたまふらん。みやすんどころは、こともなかりしひとのけはひ、こころばせになん。したしううちとけたまはざりしかど、はかなきことのついでに、おのづからひとのよういはあらはなるものになんはべる。" |
39 | 5.2.10 | 495 | 483 |
と聞こえたまひて、宮の御こともかけず、いとつれなし。 |
ときこえたまひて、みやのおほんこともかけず、いとつれなし。 |
39 | 5.2.11 | 496 | 484 |
「かばかりのすくよけ心に思ひそめてむこと、諌めむにかなはじ。用ゐざらむものから、我賢しに言出でむもあいなし」 |
"かばかりのすくよけごころにおもひそめてんこと、いさめんにかなはじ。もちゐざらんものから、われさかしにこといでんもあいなし。" |
39 | 5.2.12 | 497 | 485 |
と思して止みぬ。 |
とおぼしてやみぬ。 |
39 | 5.3 | 498 | 486 | 第三段 父朱雀院、出家希望を諌める |
39 | 5.3.1 | 499 | 487 |
かくて御法事に、よろづとりもちてせさせたまふ。事の聞こえ、おのづから隠れなければ、大殿などにも聞きたまひて、「さやはあるべき」など、女方の心浅きやうに思しなすぞ、わりなきや。かの昔の御心あれば、君達、参で訪らひたまふ。 |
かくておほんほふじに、よろづとりもちてせさせたまふ。ことのきこえ、おのづからかくれなければ、おほいどのなどにもききたまひて、"さやはあるべき。"など、をんながたのこころあさきやうにおぼしなすぞ、わりなきや。かのむかしのみこころあれば、きんだち、までとぶらひたまふ。 |
39 | 5.3.2 | 500 | 488 |
誦経など、殿よりもいかめしうせさせたまふ。これかれも、さまざま劣らずしたまへれば、時の人のかやうのわざに劣らずなむありける。 |
ずきゃうなど、とのよりもいかめしうせさせたまふ。これかれも、さまざまおとらずしたまへれば、ときのひとのかやうのわざにおとらずなんありける。 |
39 | 5.3.3 | 501 | 489 |
宮は、かくて住み果てなむと思し立つことありけれど、院に、人の漏らし奏しければ、 |
みやは、かくてすみはてなんとおぼしたつことありけれど、ゐんに、ひとのもらしそうしければ、 |
39 | 5.3.4 | 502 | 490 |
「いとあるまじきことなり。げに、あまた、とざまかうざまに身をもてなしたまふべきことにもあらねど、後見なき人なむ、なかなかさるさまにて、あるまじき名を立ち、罪得がましき時、この世後の世、中空にもどかしき咎負ふわざなる。 |
"いとあるまじきことなり。げに、あまた、とざまかうざまにみをもてなしたまふべきことにもあらねど、うしろみなきひとなん、なかなかさるさまにて、あるまじきなをたち、つみえがましきとき、このよのちのよ、なかぞらにもどかしきとがおふわざなる。 |
39 | 5.3.5 | 503 | 491 |
ここにかく世を捨てたるに、三の宮の同じごと身をやつしたまへる、すべなきやうに人の思ひ言ふも、捨てたる身には、思ひ悩むべきにはあらねど、かならずさしも、やうのことと争ひたまはむも、うたてあるべし。 |
ここにかくよをすてたるに、さんのみやのおなじごとみをやつしたまへる、すべなきやうにひとのおもひいふも、すてたるみには、おもひなやむべきにはあらねど、かならずさしも、やうのこととあらそひたまはんも、うたてあるべし。 |
39 | 5.3.6 | 504 | 492 |
世の憂きにつけて厭ふは、なかなか人悪ろきわざなり。心と思ひ取る方ありて、今すこし思ひ静め、心澄ましてこそ、ともかうも」 |
よのうきにつけていとふは、なかなかひとわろきわざなり。こころとおもひとるかたありて、いますこしおもひしづめ、こころすましてこそ、ともかうも。" |
39 | 5.3.7 | 505 | 493 |
とたびたび聞こえたまうけり。この浮きたる御名をぞ聞こし召したるべき。「さやうのことの思はずなるにつけて倦じたまへる」と言はれたまはむことを思すなりけり。さりとて、また、「表はれてものしたまはむもあはあはしう、心づきなきこと」と、思しながら、恥づかしと思さむもいとほしきを、「何かは、我さへ聞き扱はむ」と思してなむ、この筋は、かけても聞こえたまはざりける。 |
とたびたびきこえたまうけり。このうきたるおほんなをぞきこしめしたるべき。"さやうのことのおもはずなるにつけてうんじたまへる。"といはれたまはんことをおぼすなりけり。さりとて、また、"あらはれてものしたまはんもあはあはしう、こころづきなきこと。"と、おぼしながら、はづかしとおぼさんもいとほしきを、"なにかは、われさへききあつかはん。"とおぼしてなん、このすぢは、かけてもきこえたまはざりける。 |
39 | 5.4 | 506 | 494 | 第四段 夕霧、宮の帰邸を差配 |
39 | 5.4.1 | 507 | 495 |
大将も、 |
だいしゃうも、 |
39 | 5.4.2 | 508 | 496 |
「とかく言ひなしつるも、今はあいなし。かの御心に許したまはむことは、難げなめり。御息所の心知りなりけりと、人には知らせむ。いかがはせむ。亡き人にすこし浅き咎は思はせて、いつありそめしことぞともなく、紛らはしてむ。さらがへりて、懸想だち、涙を尽くしかかづらはむも、いとうひうひしかるべし」 |
"とかくいひなしつるも、いまはあいなし。かのみこころにゆるしたまはんことは、かたげなめり。みやすんどころのこころしりなりけりと、ひとにはしらせん。いかがはせん。なきひとにすこしあさきとがはおもはせて、いつありそめしことぞともなく、まぎらはしてん。さらがへりて、けさうだち、なみだをつくしかかづらはんも、いとうひうひしかるべし。" |
39 | 5.4.3 | 509 | 497 |
と思ひ得たまうて、一条に渡りたまふべき日、その日ばかりと定めて、大和守召して、あるべき作法のたまひ、宮のうち払ひしつらひ、さこそいへども、女どちは、草茂う住みなしたまへりしを、磨きたるやうにしつらひなして、御心づかひなど、あるべき作法めでたう、壁代、御屏風、御几帳、御座などまで思し寄りつつ、大和守にのたまひて、かの家にぞ急ぎ仕うまつらせたまふ。 |
とおもひえたまうて、いちでうにわたりたまふべきひ、そのひばかりとさだめて、やまとのかみめして、あるべきさほふのたまひ、みやのうちはらひしつらひ、さこそいへども、をんなどちは、くさしげうすみなしたまへりしを、みがきたるやうにしつらひなして、みこころづかひなど、あるべきさほふめでたう、かべしろ、みびゃうぶ、みきちゃう、おましなどまでおぼしよりつつ、やまとのかみにのたまひて、かのいへにぞいそぎつかうまつらせたまふ。 |
39 | 5.4.4 | 510 | 498 |
その日、我おはしゐて、御車、御前などたてまつれたまふ。宮は、さらに渡らじと思しのたまふを、人びといみじう聞こえ、大和守も、 |
そのひ、われおはしゐて、みくるま、ごぜんなどたてまつれたまふ。みやは、さらにわたらじとおぼしのたまふを、ひとびといみじうきこえ、やまとのかみも、 |
39 | 5.4.5 | 511 | 499 |
「さらに承らじ。心細く悲しき御ありさまを見たてまつり嘆き、このほどの宮仕へは、堪ふるに従ひて仕うまつりぬ。 |
"さらにうけたまはらじ。こころぼそくかなしきおほんありさまをみたてまつりなげき、このほどのみやづかへは、たふるにしたがひてつかうまつりぬ。 |
39 | 5.4.6 | 512 | 500 |
今は、国のこともはべり、まかり下りぬべし。宮の内のことも、見たまへ譲るべき人もはべらず。いとたいだいしう、いかにと見たまふるを、かくよろづに思しいとなむを、げに、この方にとりて思たまふるには、かならずしもおはしますまじき御ありさまなれど、さこそは、いにしへも御心にかなはぬためし、多くはべれ。 |
いまは、くにのこともはべり、まかりくだりぬべし。みやのうちのことも、みたまへゆづるべきひともはべらず。いとたいだいしう、いかにとみたまふるを、かくよろづにおぼしいとなむを、げに、このかたにとりておもたまふるには、かならずしもおはしますまじきおほんありさまなれど、さこそは、いにしへもみこころにかなはぬためし、おほくはべれ。 |
39 | 5.4.7 | 513 | 501 |
一所やは、世のもどきをも負はせたまふべき。いと幼くおはしますことなり。たけう思すとも、女の御心ひとつに、わが御身をとりしたため、顧みたまふべきやうかあらむ。なほ、人のあがめかしづきたまへらむに助けられてこそ、深き御心のかしこき御おきても、それにかかるべきものなり。 |
ひとところやは、よのもどきをもおはせたまふべき。いとをさなくおはしますことなり。たけうおぼすとも、をんなのみこころひとつに、わがおほんみをとりしたため、かへりみたまふべきやうかあらん。なほ、ひとのあがめかしづきたまへらんにたすけられてこそ、ふかきみこころのかしこきおほんおきても、それにかかるべきものなり。 |
39 | 5.4.8 | 514 | 502 |
君たちの聞こえ知らせたてまつりたまはぬなり。かつは、さるまじきことをも、御心どもに仕うまつりそめたまうて」 |
きみたちのきこえしらせたてまつりたまはぬなり。かつは、さるまじきことをも、みこころどもにつかうまつりそめたまうて。" |
39 | 5.4.9 | 515 | 503 |
と、言ひ続けて、左近、少将を責む。 |
と、いひつづけて、さこん、せうしゃうをせむ。 |
39 | 5.5 | 516 | 504 | 第五段 落葉宮、自邸へ向かう |
39 | 5.5.1 | 517 | 505 |
集りて聞こえこしらふるに、いとわりなく、あざやかなる御衣ども、人びとのたてまつり替へさするも、われにもあらず、なほ、いとひたぶるに削ぎ捨てまほしう思さるる御髪を、かき出でて見たまへば、六尺ばかりにて、すこし細りたれど、人はかたはにも見たてまつらず、みづからの御心には、 |
あつまりてきこえこしらふるに、いとわりなく、あざやかなるおほんぞども、ひとびとのたてまつりかへさするも、われにもあらず、なほ、いとひたぶるにそぎすてまほしうおぼさるるみぐしを、かきいでてみたまへば、ろくさくばかりにて、すこしほそりたれど、ひとはかたはにもみたてまつらず、みづからのみこころには、 |
39 | 5.5.2 | 518 | 506 |
「いみじの衰へや。人に見ゆべきありさまにもあらず。さまざまに心憂き身を」 |
"いみじのおとろへや。ひとにみゆべきありさまにもあらず。さまざまにこころうきみを。" |
39 | 5.5.3 | 519 | 507 |
と思し続けて、また臥したまひぬ。 |
とおぼしつづけて、またふしたまひぬ。 |
39 | 5.5.4 | 520 | 508 |
「時違ひぬ。夜も更けぬべし」 |
"ときたがひぬ。よもふけぬべし。" |
39 | 5.5.5 | 521 | 509 |
と、皆騒ぐ。時雨いと心あわたたしう吹きまがひ、よろづにもの悲しければ、 |
と、みなさわぐ。しぐれいとこころあわたたしうふきまがひ、よろづにものかなしければ、 |
39 | 5.5.6 | 522 | 510 |
「のぼりにし峰の煙にたちまじり<BR/>思はぬ方になびかずもがな」 |
"〔のぼりにしみねのけぶりにたちまじり<BR/>おもはぬかたになびかずもがな〕 |
39 | 5.5.7 | 523 | 511 |
心ひとつには強く思せど、そのころは、御鋏などやうのものは、皆とり隠して、人びとの守りきこえければ、 |
こころひとつにはつよくおぼせど、そのころは、おほんはさみなどやうのものは、みなとりかくして、ひとびとのまもりきこえければ、 |
39 | 5.5.8 | 524 | 512 |
「かくもて騒がざらむにてだに、何の惜しげある身にてか、をこがましう、若々しきやうにはひき忍ばむ。人聞きもうたて思すまじかべきわざを」 |
"かくもてさわがざらんにてだに、なにのをしげあるみにてか、をこがましう、わかわかしきやうにはひきしのばん。ひとぎきもうたておぼすまじかべきわざを。" |
39 | 5.5.9 | 525 | 513 |
と思せば、その本意のごともしたまはず。 |
とおぼせば、そのほいのごともしたまはず。 |
39 | 5.5.10 | 526 | 515 |
人びとは、皆いそぎ立ちて、おのおの、櫛、手筥、唐櫃、よろづの物を、はかばかしからぬ袋やうの物なれど、皆さきだてて運びたれば、一人止まりたまふべうもあらで、泣く泣く御車に乗りたまふも、傍らのみまもられたまて、こち渡りたまうし時、御心地の苦しきにも、御髪かき撫でつくろひ、下ろしたてまつりたまひしを思し出づるに、目も霧りていみじ。御佩刀に添へて経筥を添へたるが、御傍らも離れねば、 |
ひとびとは、みないそぎたちて、おのおの、くし、てばこ、からびつ、よろづのものを、はかばかしからぬふくろやうのものなれど、みなさきだててはこびたれば、ひとりとまりたまふべうもあらで、なくなくみくるまにのりたまふも、かたはらのみまもられたまて、こちわたりたまうしとき、みここちのくるしきにも、みぐしかきなでつくろひ、おろしたてまつりたまひしをおぼしいづるに、めもきりていみじ。みはかしにそへてきゃうばこをそへたるが、おほんかたはらもはなれねば、 |
39 | 5.5.11 | 527 | 516 |
「恋しさの慰めがたき形見にて<BR/>涙にくもる玉の筥かな」 |
"〔こひしさのなぐさめがたきかたみにて<BR/>なみだにくもるたまのはこかな〕 |
39 | 5.5.12 | 528 | 517 |
黒きもまだしあへさせたまはず、かの手ならしたまへりし螺鈿の筥なりけり。誦経にせさせたまひしを、形見にとどめたまへるなりけり。浦島の子が心地なむ。 |
くろきもまだしあへさせたまはず、かのてならしたまへりしらでんのはこなりけり。ずきゃうにせさせたまひしを、かたみにとどめたまへるなりけり。うらしまのこがここちなん。 |
39 | 5.6 | 529 | 518 | 第六段 夕霧、主人顔して待ち構える |
39 | 5.6.1 | 530 | 519 |
おはしまし着きたれば、殿のうち悲しげもなく、人気多くて、あらぬさまなり。御車寄せて降りたまふを、さらに、故里とおぼえず、疎ましううたて思さるれば、とみにも下りたまはず。いとあやしう、若々しき御さまかなと、人びとも見たてまつりわづらふ。殿は、東の対の南面を、わが御方を、仮にしつらひて、住みつき顔におはす。三条殿には、人びと、 |
おはしましつきたれば、とののうちかなしげもなく、ひとけおほくて、あらぬさまなり。みくるまよせておりたまふを、さらに、ふるさととおぼえず、うとましううたておぼさるれば、とみにもおりたまはず。いとあやしう、わかわかしきおほんさまかなと、ひとびともみたてまつりわづらふ。とのは、ひんがしのたいのみなみおもてを、わがおほんかたを、かりにしつらひて、すみつきがほにおはす。さんでうどのには、ひとびと、 |
39 | 5.6.2 | 531 | 520 |
「にはかにあさましうもなりたまひぬるかな。いつのほどにありしことぞ」 |
"にはかにあさましうもなりたまひぬるかな。いつのほどにありしことぞ。" |
39 | 5.6.3 | 532 | 521 |
と、驚きけり。なよらかにをかしばめることを、好ましからず思す人は、かくゆくりかなることぞうちまじりたまうける。されど、年経にけることを、音なくけしきも漏らさで過ぐしたまうけるなり、とのみ思ひなして、かく、女の御心許いたまはぬと、思ひ寄る人もなし。とてもかうても、宮の御ためにぞいとほしげなる。 |
と、おどろきけり。なよらかにをかしばめることを、このましからずおぼすひとは、かくゆくりかなることぞうちまじりたまうける。されど、としへにけることを、おとなくけしきももらさですぐしたまうけるなり、とのみおもひなして、かく、をんなのみこころゆるいたまはぬと、おもひよるひともなし。とてもかうても、みやのおほんためにぞいとほしげなる。 |
39 | 5.6.4 | 533 | 522 |
御まうけなどさま変はりて、もののはじめゆゆしげなれど、もの参らせなど、皆静まりぬるに、渡りたまて、少将の君をいみじう責めたまふ。 |
おほんまうけなどさまかはりて、もののはじめゆゆしげなれど、ものまゐらせなど、みなしづまりぬるに、わたりたまて、せうしゃうのきみをいみじうせめたまふ。 |
39 | 5.6.5 | 534 | 523 |
「御心ざしまことに長う思されば、今日明日を過ぐして聞こえさせたまへ。なかなか、立ち帰りてもの思し沈みて、亡き人のやうにてなむ臥させたまひぬる。こしらへきこゆるをも、つらしとのみ思されたれば、何ごとも身のためこそはべれ。いとわづらはしう、聞こえさせにくくなむ」 |
"みこころざしまことにながうおぼされば、けふあすをすぐしてきこえさせたまへ。なかなか、たちかへりてものおぼししづみて、なきひとのやうにてなんふさせたまひぬる。こしらへきこゆるをも、つらしとのみおぼされたれば、なにごともみのためこそはべれ。いとわづらはしう、きこえさせにくくなん。" |
39 | 5.6.6 | 535 | 524 |
と言ふ。 |
といふ。 |
39 | 5.6.7 | 536 | 525 |
「いとあやしう。推し量りきこえさせしには違ひて、いはけなく心えがたき御心にこそありけれ」 |
"いとあやしう。おしはかりきこえさせしにはたがひて、いはけなくこころえがたきみこころにこそありけれ。" |
39 | 5.6.8 | 537 | 526 |
とて、思ひ寄れるさま、人の御ためも、わがためにも、世のもどきあるまじうのたまひ続くれば、 |
とて、おもひよれるさま、ひとのおほんためも、わがためにも、よのもどきあるまじうのたまひつづくれば、 |
39 | 5.6.9 | 538 | 527 |
「いでや、ただ今は、またいたづら人に見なしたてまつるべきにやと、あわたたしき乱り心地に、よろづ思たまへわかれず。あが君、とかくおしたちて、ひたぶるなる御心なつかはせたまひそ」 |
"いでや、ただいまは、またいたづらびとにみなしたてまつるべきにやと、あわたたしきみだりごこちに、よろづおもたまへわかれず。あがきみ、とかくおしたちて、ひたぶるなるみこころなつかはせたまひそ。" |
39 | 5.6.10 | 539 | 528 |
と手をする。 |
とてをする。 |
39 | 5.6.11 | 540 | 529 |
「いとまだ知らぬ世かな。憎くめざましと、人よりけに思し落とすらむ身こそいみじけれ。いかで人にもことわらせむ」 |
"いとまだしらぬよかな。にくくめざましと、ひとよりけにおぼしおとすらんみこそいみじけれ。いかでひとにもことわらせん。" |
39 | 5.6.12 | 541 | 530 |
と、いはむかたもなしと思してのたまへば、さすがにいとほしうもあり、 |
と、いはんかたもなしとおぼしてのたまへば、さすがにいとほしうもあり、 |
39 | 5.6.13 | 542 | 531 |
「まだ知らぬは、げに世づかぬ御心がまへのけにこそはと、ことわりは、げに、いづ方にかは寄る人はべらむとすらむ」 |
"まだしらぬは、げによづかぬみこころがまへのけにこそはと、ことわりは、げに、いづかたにかはよるひとはべらんとすらん。" |
39 | 5.6.14 | 543 | 532 |
と、すこしうち笑ひぬ。 |
と、すこしうちわらひぬ。 |
39 | 5.7 | 544 | 533 | 第七段 落葉宮、塗籠に籠る |
39 | 5.7.1 | 545 | 534 |
かく心ごはけれど、今は、堰かれたまふべきならねば、やがてこの人をひき立てて、推し量りに入りたまふ。 |
かくこころごはけれど、いまは、せかれたまふべきならねば、やがてこのひとをひきたてて、おしはかりにいりたまふ。 |
39 | 5.7.2 | 546 | 535 |
宮は、「いと心憂く、情けなくあはつけき人の心なりけり」と、ねたくつらければ、「若々しきやうには言ひ騒ぐとも」と思して、塗籠に御座ひとつ敷かせたまて、うちより鎖して大殿籠もりにけり。「これもいつまでにかは。かばかりに乱れ立ちにたる人の心どもは、いと悲しう口惜しう」思す。 |
みやは、"いとこころうく、なさけなくあはつけきひとのこころなりけり。"と、ねたくつらければ、"わかわかしきやうにはいひさわぐとも。"とおぼして、ぬりごめにおましひとつしかせたまて、うちよりさしておほとのごもりにけり。"これもいつまでにかは。かばかりにみだれたちにたるひとのこころどもは、いとかなしうくちをしう。"おぼす。 |
39 | 5.7.3 | 547 | 536 |
男君は、めざましうつらしと思ひきこえたまへど、かばかりにては、何のもて離るることかはと、のどかに思して、よろづに思ひ明かしたまふ。山鳥の心地ぞしたまうける。からうして明け方になりぬ。かくてのみ、ことといへば、直面なべければ、出でたまふとて、 |
をとこぎみは、めざましうつらしとおもひきこえたまへど、かばかりにては、なにのもてはなるることかはと、のどかにおぼして、よろづにおもひあかしたまふ。やまどりのここちぞしたまうける。からうしてあけがたになりぬ。かくてのみ、ことといへば、ひたおもてなべければ、いでたまふとて、 |
39 | 5.7.4 | 548 | 537 |
「ただ、いささかの隙をだに」 |
"ただ、いささかのひまをだに。" |
39 | 5.7.5 | 549 | 538 |
と、いみじう聞こえたまへど、いとつれなし。 |
と、いみじうきこえたまへど、いとつれなし。 |
39 | 5.7.6 | 550 | 539 |
「怨みわび胸あきがたき冬の夜に<BR/>また鎖しまさる関の岩門 |
"〔うらみわびむねあきがたきふゆのよに<BR/>またさしまさるせきのいはかど |
39 | 5.7.7 | 551 | 540 |
聞こえむ方なき御心なりけり」 |
きこえんかたなきみこころなりけり。" |
39 | 5.7.8 | 552 | 541 |
と、泣く泣く出でたまふ。 |
と、なくなくいでたまふ。 |
39 | 6 | 553 | 542 | 第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮 |
39 | 6.1 | 554 | 543 | 第一段 夕霧、花散里へ弁明 |
39 | 6.1.1 | 555 | 544 |
六条の院にぞおはして、やすらひたまふ。東の上、 |
ろくでうのゐんにぞおはして、やすらひたまふ。ひんがしのうへ、 |
39 | 6.1.2 | 556 | 545 |
「一条の宮渡したてまつりたまへることと、かの大殿わたりなどに聞こゆる、いかなる御ことにかは」 |
"いちでうのみやわたしたてまつりたまへることと、かのおほとのわたりなどにきこゆる、いかなるおほんことにかは。" |
39 | 6.1.3 | 557 | 546 |
と、いとおほどかにのたまふ。御几帳添へたれど、側よりほのかには、なほ見えたてまつりたまふ。 |
と、いとおほどかにのたまふ。みきちゃうそへたれど、そばよりほのかには、なほみえたてまつりたまふ。 |
39 | 6.1.4 | 558 | 547 |
「さやうにも、なほ人の言ひなしつべきことにはべり。故御息所は、いと心強う、あるまじきさまに言ひ放ちたまうしかど、限りのさまに、御心地の弱りけるに、また見譲るべき人のなきや悲しかりけむ、亡からむ後の後見にとやうなることのはべりしかば、もとよりの心ざしもはべりしことにて、かく思たまへなりぬるを、さまざまに、いかに人扱ひはべらむかし。さしもあるまじきをも、あやしう人こそ、もの言ひさがなきものにあれ」 |
"さやうにも、なほひとのいひなしつべきことにはべり。こみやすんどころは、いとこころづよう、あるまじきさまにいひはなちたまうしかど、かぎりのさまに、みここちのよわりけるに、またみゆづるべきひとのなきやかなしかりけん、なからんのちのうしろみにとやうなることのはべりしかば、もとよりのこころざしもはべりしことにて、かくおもたまへなりぬるを、さまざまに、いかにひとあつかひはべらんかし。さしもあるまじきをも、あやしうひとこそ、ものいひさがなきものにあれ。" |
39 | 6.1.5 | 559 | 548 |
と、うち笑ひつつ、 |
と、うちわらひつつ、 |
39 | 6.1.6 | 560 | 549 |
「かの正身なむ、なほ世に経じと深う思ひ立ちて、尼になりなむと思ひ結ぼほれたまふめれば、何かは。こなたかなたに聞きにくくもはべべきを、さやうに嫌疑離れても、また、かの遺言は違へじと思ひたまへて、ただかく言ひ扱ひはべるなり。 |
"かのさうじみなん、なほよにへじとふかうおもひたちて、あまになりなんとおもひむすぼほれたまふめれば、なにかは。こなたかなたにききにくくもはべべきを、さやうにけんぎはなれても、また、かのゆいごんはたがへじとおもひたまへて、ただかくいひあつかひはべるなり。 |
39 | 6.1.7 | 561 | 550 |
院の渡らせたまへらむにも、ことのついではべらば、かうやうにまねびきこえさせたまへ。ありありて、心づきなき心つかふと、思しのたまはむを憚りはべりつれど、げに、かやうの筋にてこそ、人の諌めをも、みづからの心にも従はぬやうにはべりけれ」 |
ゐんのわたらせたまへらんにも、ことのついではべらば、かうやうにまねびきこえさせたまへ。ありありて、こころづきなきこころつかふと、おぼしのたまはんをはばかりはべりつれど、げに、かやうのすぢにてこそ、ひとのいさめをも、みづからのこころにもしたがはぬやうにはべりけれ。" |
39 | 6.1.8 | 562 | 551 |
と、忍びやかに聞こえたまふ。 |
と、しのびやかにきこえたまふ。 |
39 | 6.1.9 | 563 | 552 |
「人のいつはりにやと思ひはべりつるを、まことにさるやうある御けしきにこそは。皆世の常のことなれど、三条の姫君の思さむことこそ、いとほしけれ。のどやかに慣らひたまうて」 |
"ひとのいつはりにやとおもひはべりつるを、まことにさるやうあるみけしきにこそは。みなよのつねのことなれど、さんでうのひめぎみのおぼさんことこそ、いとほしけれ。のどやかにならひたまうて。" |
39 | 6.1.10 | 564 | 553 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
39 | 6.1.11 | 565 | 554 |
「らうたげにものたまはせなす、姫君かな。いと鬼しうはべるさがなものを」とて、「などてか、それをもおろかにはもてなしはべらむ。かしこけれど、御ありさまどもにても、推し量らせたまへ。 |
"らうたげにものたまはせなす、ひめぎみかな。いとおにしうはべるさがなものを。"とて、"などてか、それをもおろかにはもてなしはべらん。かしこけれど、おほんありさまどもにても、おしはからせたまへ。 |
39 | 6.1.12 | 566 | 555 |
なだらかならむのみこそ、人はつひのことにははべめれ。さがなくことがましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうに憚らるることあれど、それにしも従ひ果つまじきわざなれば、ことの乱れ出で来ぬる後、我も人も、憎げに飽きたしや。 |
なだらかならんのみこそ、ひとはつひのことにははべめれ。さがなくことがましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうにはばからるることあれど、それにしもしたがひはつまじきわざなれば、ことのみだれいできぬるのち、われもひとも、にくげにあきたしや。 |
39 | 6.1.13 | 567 | 556 |
なほ、南の御殿の御心もちゐこそ、さまざまにありがたう、さてはこの御方の御心などこそは、めでたきものには、見たてまつり果てはべりぬれ」 |
なほ、みなみのおとどのみこころもちゐこそ、さまざまにありがたう、さてはこのおほんかたのみこころなどこそは、めでたきものには、みたてまつりはてはべりぬれ。" |
39 | 6.1.14 | 568 | 557 |
など、ほめきこえたまへば、笑ひたまひて、 |
など、ほめきこえたまへば、わらひたまひて、 |
39 | 6.1.15 | 569 | 558 |
「もののためしに引き出でたまふほどに、身の人悪ろきおぼえこそあらはれぬべう。 |
"もののためしにひきいでたまふほどに、みのひとわろきおぼえこそあらはれぬべう。 |
39 | 6.1.16 | 570 | 559 |
さて、をかしきことは、院の、みづからの御癖をば人知らぬやうに、いささかあだあだしき御心づかひをば、大事と思いて、戒め申したまふ。後言にも聞こえたまふめるこそ、賢しだつ人の、おのが上知らぬやうにおぼえはべれ」 |
さて、をかしきことは、ゐんの、みづからのみくせをばひとしらぬやうに、いささかあだあだしきみこころづかひをば、だいじとおぼいて、いましめまうしたまふ。しりうごとにもきこえたまふめるこそ、さかしだつひとの、おのがうへしらぬやうにおぼえはべれ。" |
39 | 6.1.17 | 571 | 560 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
39 | 6.1.18 | 572 | 561 |
「さなむ、常にこの道をしも戒め仰せらるる。さるは、かしこき御教へならでも、いとよくをさめてはべる心を」 |
"さなん、つねにこのみちをしもいましめおほせらるる。さるは、かしこきおほんをしへならでも、いとよくをさめてはべるこころを。" |
39 | 6.1.19 | 573 | 562 |
とて、げにをかしと思ひたまへり。 |
とて、げにをかしとおもひたまへり。 |
39 | 6.1.20 | 574 | 563 |
御前に参りたまへれば、かのことは聞こし召したれど、何かは聞き顔にもと思いて、ただうちまもりたまへるに、 |
おまへにまゐりたまへれば、かのことはきこしめしたれど、なにかはききがほにもとおぼいて、ただうちまもりたまへるに、 |
39 | 6.1.21 | 575 | 564 |
「いとめでたくきよらに、このころこそねびまさりたまへる御盛りなめれ。さるさまの好き事をしたまふとも、人のもどくべきさまもしたまはず。鬼神も罪許しつべく、あざやかにものきよげに、若う盛りに匂ひを散らしたまへり。 |
"いとめでたくきよらに、このころこそねびまさりたまへるおほんさかりなめれ。さるさまのすきごとをしたまふとも、ひとのもどくべきさまもしたまはず。おにがみもつみゆるしつべく、あざやかにものきよげに、わかうさかりににほひをちらしたまへり。 |
39 | 6.1.22 | 576 | 565 |
もの思ひ知らぬ若人のほどにはたおはせず、かたほなるところなうねびととのほりたまへる、ことわりぞかし。女にて、などかめでざらむ。鏡を見ても、などかおごらざらむ」 |
ものおもひしらぬわかうどのほどにはたおはせず、かたほなるところなうねびととのほりたまへる、ことわりぞかし。をんなにて、などかめでざらん。かがみをみても、などかおごらざらん。" |
39 | 6.1.23 | 577 | 566 |
と、わが御子ながらも、思す。 |
と、わがおほんこながらも、おぼす。 |
39 | 6.2 | 578 | 567 | 第二段 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う |
39 | 6.2.1 | 579 | 568 |
日たけて、殿には渡りたまへり。入りたまふより、若君たち、すぎすぎうつくしげにて、まつはれ遊びたまふ。女君は、帳の内に臥したまへり。 |
ひたけて、とのにはわたりたまへり。いりたまふより、わかぎみたち、すぎすぎうつくしげにて、まつはれあそびたまふ。をんなぎみは、ちゃうのうちにふしたまへり。 |
39 | 6.2.2 | 580 | 569 |
入りたまへれど、目も見合はせたまはず。つらきにこそはあめれ、と見たまふもことわりなれど、憚り顔にももてなしたまはず、御衣をひきやりたまへれば、 |
いりたまへれど、めもみあはせたまはず。つらきにこそはあめれ、とみたまふもことわりなれど、はばかりがほにももてなしたまはず、おほんぞをひきやりたまへれば、 |
39 | 6.2.3 | 581 | 570 |
「いづことておはしつるぞ。まろは早う死にき。常に鬼とのたまへば、同じくはなり果てなむとて」 |
"いづことておはしつるぞ。まろははやうしにき。つねにおにとのたまへば、おなじくはなりはてなんとて。" |
39 | 6.2.4 | 582 | 571 |
とのたまふ。 |
とのたまふ。 |
39 | 6.2.5 | 583 | 572 |
「御心こそ、鬼よりけにもおはすれ、さまは憎げもなければ、え疎み果つまじ」 |
"みこころこそ、おによりけにもおはすれ、さまはにくげもなければ、えうとみはつまじ。" |
39 | 6.2.6 | 584 | 573 |
と、何心もなう言ひなしたまふも、心やましうて、 |
と、なにごころもなういひなしたまふも、こころやましうて、 |
39 | 6.2.7 | 585 | 574 |
「めでたきさまになまめいたまへらむあたりに、あり経べき身にもあらねば、いづちもいづちも失せなむとするを、かくだにな思し出でそ。あいなく年ごろを経けるだに、悔しきものを」 |
"めでたきさまになまめいたまへらんあたりに、ありふべきみにもあらねば、いづちもいづちもうせなんとするを、かくだになおぼしいでそ。あいなくとしごろをへけるだに、くやしきものを。" |
39 | 6.2.8 | 586 | 575 |
とて、起き上がりたまへるさまは、いみじう愛敬づきて、匂ひやかにうち赤みたまへる顔、いとをかしげなり。 |
とて、おきあがりたまへるさまは、いみじうあいぎゃうづきて、にほひやかにうちあかみたまへるかほ、いとをかしげなり。 |
39 | 6.2.9 | 587 | 576 |
「かく心幼げに腹立ちなしたまへればにや、目馴れて、この鬼こそ、今は恐ろしくもあらずなりにたれ。神々しき気を添へばや」 |
"かくこころをさなげにはらだちなしたまへればにや、めなれて、このおにこそ、いまはおそろしくもあらずなりにたれ。かうがうしきけをそへばや。" |
39 | 6.2.10 | 588 | 577 |
と、戯れに言ひなしたまへど、 |
と、たはぶれにいひなしたまへど、 |
39 | 6.2.11 | 589 | 578 |
「何ごと言ふぞ。おいらかに死にたまひね。まろも死なむ。見れば憎し。聞けば愛敬なし。見捨てて死なむはうしろめたし」 |
"なにごといふぞ。おいらかにしにたまひね。まろもしなん。みればにくし。きけばあいぎゃうなし。みすててしなんはうしろめたし。" |
39 | 6.2.12 | 590 | 579 |
とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかに笑ひて、 |
とのたまふに、いとをかしきさまのみまされば、こまやかにわらひて、 |
39 | 6.2.13 | 591 | 580 |
「近くてこそ見たまはざらめ、よそにはなにか聞きたまはざらむ。さても、契り深かなる瀬を知らせむの御心ななり。にはかにうち続くべかなる冥途のいそぎは、さこそは契りきこえしか」 |
"ちかくてこそみたまはざらめ、よそにはなにかききたまはざらん。さても、ちぎりふかかなるせをしらせんのみこころななり。にはかにうちつづくべかなるよみぢのいそぎは、さこそはちぎりきこえしか。" |
39 | 6.2.14 | 592 | 581 |
と、いとつれなく言ひて、何くれと慰めこしらへきこえ慰めたまへば、いと若やかに心うつくしう、らうたき心はたおはする人なれば、なほざり言とは見たまひながら、おのづからなごみつつものしたまふを、いとあはれと思すものから、心は空にて、 |
と、いとつれなくいひて、なにくれとなぐさめこしらへきこえなぐさめたまへば、いとわかやかにこころうつくしう、らうたきこころはたおはするひとなれば、なほざりごととはみたまひながら、おのづからなごみつつものしたまふを、いとあはれとおぼすものから、こころはそらにて、 |
39 | 6.2.15 | 593 | 582 |
「かれも、いとわが心を立てて、強うものものしき人のけはひには見えたまはねど、もしなほ本意ならぬことにて、尼になども思ひなりたまひなば、をこがましうもあべいかな」 |
"かれも、いとわがこころをたてて、つようものものしきひとのけはひにはみえたまはねど、もしなほほいならぬことにて、あまになどもおもひなりたまひなば、をこがましうもあべいかな。" |
39 | 6.2.16 | 594 | 583 |
と思ふに、しばしはとだえ置くまじう、あわたたしき心地して、暮れゆくままに、「今日も御返りだになきよ」と思して、心にかかりつつ、いみじう眺めをしたまふ。 |
とおもふに、しばしはとだえおくまじう、あわたたしきここちして、くれゆくままに、"けふもおほんかへりだになきよ。"とおぼして、こころにかかりつつ、いみじうながめをしたまふ。 |
39 | 6.3 | 595 | 584 | 第三段 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す |
39 | 6.3.1 | 596 | 585 |
昨日今日つゆも参らざりけるもの、いささか参りなどしておはす。 |
きのふけふつゆもまゐらざりけるもの、いささかまゐりなどしておはす。 |
39 | 6.3.2 | 597 | 586 |
「昔より、御ために心ざしのおろかならざりしさま、大臣のつらくもてなしたまうしに、世の中の痴れがましき名を取りしかど、堪へがたきを念じて、ここかしこ、すすみけしきばみしあたりを、あまた聞き過ぐししありさまは、女だにさしもあらじとなむ、人ももどきし。 |
"むかしより、おほんためにこころざしのおろかならざりしさま、おとどのつらくもてなしたまうしに、よのなかのしれがましきなをとりしかど、たへがたきをねんじて、ここかしこ、すすみけしきばみしあたりを、あまたききすぐししありさまは、をんなだにさしもあらじとなん、ひとももどきし。 |
39 | 6.3.3 | 598 | 587 |
今思ふにも、いかでかはさありけむと、わが心ながら、いにしへだに重かりけりと思ひ知らるるを、今は、かく憎みたまふとも、思し捨つまじき人びと、いと所狭きまで数添ふめれば、御心ひとつにもて離れたまふべくもあらず。また、よし見たまへや。命こそ定めなき世なれ」 |
いまおもふにも、いかでかはさありけんと、わがこころながら、いにしへだにおもかりけりとおもひしらるるを、いまは、かくにくみたまふとも、おぼしすつまじきひとびと、いとところせきまでかずそふめれば、みこころひとつにもてはなれたまふべくもあらず。また、よしみたまへや。いのちこそさだめなきよなれ。" |
39 | 6.3.4 | 599 | 588 |
とて、うち泣きたまふこともあり。女も、昔のことを思ひ出でたまふに、 |
とて、うちなきたまふこともあり。をんなも、むかしのことをおもひいでたまふに、 |
39 | 6.3.5 | 600 | 589 |
「あはれにもありがたかりし御仲の、さすがに契り深かりけるかな」 |
"あはれにもありがたかりしおほんなかの、さすがにちぎりふかかりけるかな。" |
39 | 6.3.6 | 601 | 590 |
と、思ひ出でたまふ。なよびたる御衣ども脱いたまうて、心ことなるをとり重ねて焚きしめたまひ、めでたうつくろひ化粧じて出でたまふを、灯影に見出だして、忍びがたく涙の出で来れば、脱ぎとめたまへる単衣の袖をひき寄せたまひて、 |
と、おもひいでたまふ。なよびたるおほんぞどもぬいたまうて、こころことなるをとりかさねてたきしめたまひ、めでたうつくろひけさうじていでたまふを、ほかげにみいだして、しのびがたくなみだのいでくれば、ぬぎとめたまへるひとへのそでをひきよせたまひて、 |
39 | 6.3.7 | 602 | 591 |
「馴るる身を恨むるよりは松島の<BR/>海人の衣に裁ちやかへまし |
"〔なるるみをうらむるよりはまつしまの<BR/>あまのころもにたちやかへまし |
39 | 6.3.8 | 603 | 592 |
なほうつし人にては、え過ぐすまじかりけり」 |
なほうつしびとにては、えすぐすまじかりけり。" |
39 | 6.3.9 | 604 | 593 |
と、独言にのたまふを、立ち止まりて、 |
と、ひとりごとにのたまふを、たちとまりて、 |
39 | 6.3.10 | 605 | 594 |
「さも心憂き御心かな。 |
"さもこころうきみこころかな。 |
39 | 6.3.11 | 606 | 595 |
松島の海人の濡衣なれぬとて<BR/>脱ぎ替へつてふ名を立ためやは」 |
まつしまのあまのぬれぎぬなれぬとて<BR/>ぬぎかへつてふなをたためやは〕 |
39 | 6.3.12 | 607 | 596 |
うち急ぎて、いとなほなほしや。 |
うちいそぎて、いとなほなほしや。 |
39 | 6.4 | 608 | 597 | 第四段 塗籠の落葉宮を口説く |
39 | 6.4.1 | 609 | 598 |
かしこには、なほさし籠もりたまへるを、人びと、 |
かしこには、なほさしこもりたまへるを、ひとびと、 |
39 | 6.4.2 | 610 | 599 |
「かくてのみやは。若々しうけしからぬ聞こえもはべりぬべきを、例の御ありさまにて、あるべきことをこそ聞こえたまはめ」 |
"かくてのみやは。わかわかしうけしからぬきこえもはべりぬべきを、れいのおほんありさまにて、あるべきことをこそきこえたまはめ。" |
39 | 6.4.3 | 611 | 600 |
など、よろづに聞こえければ、さもあることとは思しながら、今より後のよその聞こえをも、わが御心の過ぎにし方をも、心づきなく、恨めしかりける人のゆかりと思し知りて、その夜も対面したまはず。「戯れにくく、めづらかなり」と、聞こえ尽くしたまふ。人もいとほしと見たてまつる。 |
など、よろづにきこえければ、さもあることとはおぼしながら、いまよりのちのよそのきこえをも、わがみこころのすぎにしかたをも、こころづきなく、うらめしかりけるひとのゆかりとおぼししりて、そのよもたいめんしたまはず。"たはぶれにくく、めづらかなり。"と、きこえつくしたまふ。ひともいとほしとみたてまつる。 |
39 | 6.4.4 | 612 | 601 |
「『いささかも人心地する折あらむに、忘れたまはずは、ともかうも聞こえむ。この御服のほどは、一筋に思ひ乱るることなくてだに過ぐさむ』となむ、深く思しのたまはするを、かくいとあやにくに、知らぬ人なくなりぬめるを、なほいみじうつらきものに聞こえたまふ」 |
"'いささかもひとごこちするをりあらんに、わすれたまはずは、ともかうもきこえん。このおほんぶくのほどは、ひとすぢにおもひみだるることなくてだにすぐさん。'となん、ふかくおぼしのたまはするを、かくいとあやにくに、しらぬひとなくなりぬめるを、なほいみじうつらきものにきこえたまふ。" |
39 | 6.4.5 | 613 | 602 |
と聞こゆ。 |
ときこゆ。 |
39 | 6.4.6 | 614 | 603 |
「思ふ心は、また異ざまにうしろやすきものを。思はずなりける世かな」とうち嘆きて、「例のやうにておはしまさば、物越などにても、思ふことばかり聞こえて、御心破るべきにもあらず。あまたの年月をも過ぐしつべくなむ」 |
"おもふこころは、またことざまにうしろやすきものを。おもはずなりけるよかな。"とうちなげきて、"れいのやうにておはしまさば、ものごしなどにても、おもふことばかりきこえて、みこころやぶるべきにもあらず。あまたのとしつきをもすぐしつべくなん。" |
39 | 6.4.7 | 615 | 604 |
など、尽きもせず聞こえたまへど、 |
など、つきもせずきこえたまへど、 |
39 | 6.4.8 | 616 | 605 |
「なほ、かかる乱れに添へて、わりなき御心なむいみじうつらき。人の聞き思はむことも、よろづになのめならざりける身の憂さをば、さるものにて、ことさらに心憂き御心がまへなれ」 |
"なほ、かかるみだれにそへて、わりなきみこころなんいみじうつらき。ひとのききおもはんことも、よろづになのめならざりけるみのうさをば、さるものにて、ことさらにこころうきみこころがまへなれ。" |
39 | 6.4.9 | 617 | 606 |
と、また言ひ返し恨みたまひつつ、はるかにのみもてなしたまへり。 |
と、またいひかへしうらみたまひつつ、はるかにのみもてなしたまへり。 |
39 | 6.5 | 618 | 607 | 第五段 夕霧、塗籠に入って行く |
39 | 6.5.1 | 619 | 608 |
「さりとて、かくのみやは。人の聞き漏らさむこともことわり」と、はしたなう、ここの人目もおぼえたまへば、 |
"さりとて、かくのみやは。ひとのききもらさんこともことわり。"と、はしたなう、ここのひとめもおぼえたまへば、 |
39 | 6.5.2 | 620 | 609 |
「うちうちの御心づかひは、こののたまふさまにかなひても、しばしは情けばまむ。世づかぬありさまの、いとうたてあり。また、かかりとて、ひき絶え参らずは、人の御名いかがはいとほしかるべき。ひとへにものを思して、幼げなるこそいとほしけれ」 |
"うちうちのみこころづかひは、こののたまふさまにかなひても、しばしはなさけばまん。よづかぬありさまの、いとうたてあり。また、かかりとて、ひきたえまゐらずは、ひとのおほんないかがはいとほしかるべき。ひとへにものをおぼして、をさなげなるこそいとほしけれ。" |
39 | 6.5.3 | 621 | 610 |
など、この人を責めたまへば、げにと思ひ、見たてまつるも今は心苦しう、かたじけなうおぼゆるさまなれば、人通はしたまふ塗籠の北の口より、入れたてまつりてけり。 |
など、このひとをせめたまへば、げにとおもひ、みたてまつるもいまはこころぐるしう、かたじけなうおぼゆるさまなれば、ひとかよはしたまふぬりごめのきたのくちより、いれたてまつりてけり。 |
39 | 6.5.4 | 622 | 611 |
いみじうあさましうつらしと、さぶらふ人をも、げにかかる世の人の心なれば、これよりまさる目をも見せつべかりけりと、頼もしき人もなくなり果てたまひぬる御身を、かへすがへす悲しう思す。 |
いみじうあさましうつらしと、さぶらふひとをも、げにかかるよのひとのこころなれば、これよりまさるめをもみせつべかりけりと、たのもしきひともなくなりはてたまひぬるおほんみを、かへすがへすかなしうおぼす。 |
39 | 6.5.5 | 623 | 612 |
男は、よろづに思し知るべきことわりを聞こえ知らせ、言の葉多う、あはれにもをかしうも聞こえ尽くしたまへど、つらく心づきなしとのみ思いたり。 |
をとこは、よろづにおぼししるべきことわりをきこえしらせ、ことのはおほう、あはれにもをかしうもきこえつくしたまへど、つらくこころづきなしとのみおぼいたり。 |
39 | 6.5.6 | 624 | 613 |
「いと、かう、言はむ方なきものに思ほされける身のほどは、たぐひなう恥づかしければ、あるまじき心のつきそめけむも、心地なく悔しうおぼえはべれど、とり返すものならぬうちに、何のたけき御名にかはあらむ。いふかひなく思し弱れ。 |
"いと、かう、いはんかたなきものにおもほされけるみのほどは、たぐひなうはづかしければ、あるまじきこころのつきそめけんも、ここちなくくやしうおぼえはべれど、とりかへすものならぬうちに、なにのたけきおほんなにかはあらん。いふかひなくおぼしよわれ。 |
39 | 6.5.7 | 625 | 614 |
思ふにかなはぬ時、身を投ぐるためしもはべなるを、ただかかる心ざしを深き淵になずらへたまて、捨てつる身と思しなせ」 |
おもふにかなはぬとき、みをなぐるためしもはべなるを、ただかかるこころざしをふかきふちになずらへたまて、すてつるみとおぼしなせ。" |
39 | 6.5.8 | 626 | 615 |
と聞こえたまふ。単衣の御衣を御髪込めひきくくみて、たけきこととは、音を泣きたまふさまの、心深くいとほしければ、 |
ときこえたまふ。ひとへのおほんぞをみぐしこめひきくくみて、たけきこととは、ねをなきたまふさまの、こころふかくいとほしければ、 |
39 | 6.5.9 | 627 | 616 |
「いとうたて。いかなればいとかう思すらむ。いみじう思ふ人も、かばかりになりぬれば、おのづからゆるぶけしきもあるを、岩木よりけになびきがたきは、契り遠うて、憎しなど思ふやうなるを、さや思すらむ」 |
"いとうたて。いかなればいとかうおぼすらん。いみじうおもふひとも、かばかりになりぬれば、おのづからゆるぶけしきもあるを、いはきよりけになびきがたきは、ちぎりとほうて、にくしなどおもふやうなるを、さやおぼすらん。" |
39 | 6.5.10 | 628 | 617 |
と思ひ寄るに、あまりなれば心憂く、三条の君の思ひたまふらむこと、いにしへも何心もなう、あひ思ひ交はしたりし世のこと、年ごろ、今はとうらなきさまにうち頼み、解けたまへるさまを思ひ出づるも、わが心もて、いとあぢきなう思ひ続けらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、嘆き明かしたまうつ。 |
とおもひよるに、あまりなればこころうく、さんでうのきみのおもひたまふらんこと、いにしへもなにごころもなう、あひおもひかはしたりしよのこと、としごろ、いまはとうらなきさまにうちたのみ、とけたまへるさまをおもひいづるも、わがこころもて、いとあぢきなうおもひつづけらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、なげきあかしたまうつ。 |
39 | 6.6 | 629 | 618 | 第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ |
39 | 6.6.1 | 630 | 619 |
かうのみ痴れがましうて出で入らむもあやしければ、今日は泊りて、心のどかにおはす。かくさへひたぶるなるを、あさましと宮は思いて、いよいよ疎き御けしきのまさるを、をこがましき御心かなと、かつは、つらきもののあはれなり。 |
かうのみしれがましうていでいらんもあやしければ、けふはとまりて、こころのどかにおはす。かくさへひたぶるなるを、あさましとみやはおぼいて、いよいようときみけしきのまさるを、をこがましきみこころかなと、かつは、つらきもののあはれなり。 |
39 | 6.6.2 | 631 | 621 |
塗籠も、ことにこまかなるもの多うもあらで、香の御唐櫃、御厨子などばかりあるは、こなたかなたにかき寄せて、気近うしつらひてぞおはしける。うちは暗き心地すれど、朝日さし出でたるけはひ漏り来たるに、埋もれたる御衣ひきやり、いとうたて乱れたる御髪、かきやりなどして、ほの見たてまつりたまふ。 |
ぬりごめも、ことにこまかなるものおほうもあらで、かうのおほんからびつ、みづしなどばかりあるは、こなたかなたにかきよせて、けぢかうしつらひてぞおはしける。うちはくらきここちすれど、あさひさしいでたるけはひもりきたるに、うづもれたるおほんぞひきやり、いとうたてみだれたるみぐし、かきやりなどして、ほのみたてまつりたまふ。 |
39 | 6.6.3 | 632 | 622 |
いとあてに女しう、なまめいたるけはひしたまへり。男の御さまは、うるはしだちたまへる時よりも、うちとけてものしたまふは、限りもなうきよげなり。 |
いとあてにをんなしう、なまめいたるけはひしたまへり。をとこのおほんさまは、うるはしだちたまへるときよりも、うちとけてものしたまふは、かぎりもなうきよげなり。 |
39 | 6.6.4 | 633 | 623 |
「故君の異なることなかりしだに、心の限り思ひあがり、御容貌まほにおはせずと、ことの折に思へりしけしきを思し出づれば、まして、かういみじう衰へにたるありさまを、しばしにても見忍びなむや」と思ふも、いみじう恥づかしう、とざまかうざまに思ひめぐらしつつ、わが御心をこしらへたまふ。 |
"こきみのことなることなかりしだに、こころのかぎりおもひあがり、おほんかたちまほにおはせずと、ことのをりにおもへりしけしきをおぼしいづれば、まして、かういみじうおとろへにたるありさまを、しばしにてもみしのびなんや。"とおもふも、いみじうはづかしう、とざまかうざまにおもひめぐらしつつ、わがみこころをこしらへたまふ。 |
39 | 6.6.5 | 634 | 624 |
ただかたはらいたう、ここもかしこも、人の聞き思さむことの罪さらむ方なきに、折さへいと心憂ければ、慰めがたきなりけり。 |
ただかたはらいたう、ここもかしこも、ひとのききおぼさんことのつみさらんかたなきに、をりさへいとこころうければ、なぐさめがたきなりけり。 |
39 | 6.6.6 | 635 | 625 |
御手水、御粥など、例の御座の方に参れり。色異なる御しつらひも、いまいましきやうなれば、東面は屏風を立てて、母屋の際に香染の御几帳など、ことことしきやうに見えぬ物、沈の二階なんどやうのを立てて、心ばへありてしつらひたり。大和守のしわざなりけり。 |
みてうづ、おほんかゆなど、れいのおましのかたにまゐれり。いろことなるおほんしつらひも、いまいましきやうなれば、ひんがしおもてはびゃうぶをたてて、もやのきはにかうぞめのみきちゃうなど、ことことしきやうにみえぬもの、ぢんのにかいなんどやうのをたてて、こころばへありてしつらひたり。やまとのかみのしわざなりけり。 |
39 | 6.6.7 | 636 | 626 |
人びとも、鮮やかならぬ色の、山吹、掻練、濃き衣、青鈍などを着かへさせ、薄色の裳、青朽葉などを、とかく紛らはして、御台は参る。女所にて、しどけなくよろづのことならひたる宮の内に、ありさま心とどめて、わづかなる下人をも言ひととのへ、この人一人のみ扱ひ行ふ。 |
ひとびとも、あざやかならぬいろの、やまぶき、かいねり、こききぬ、あをにびなどをきかへさせ、うすいろのも、あをくちばなどを、とかくまぎらはして、みだいはまゐる。をんなどころにて、しどけなくよろづのことならひたるみやのうちに、ありさまこころとどめて、わづかなるしもびとをもいひととのへ、このひとひとりのみあつかひおこなふ。 |
39 | 6.6.8 | 637 | 627 |
かくおぼえぬやむごとなき客人のおはすると聞きて、もと勤めざりける家司など、うちつけに参りて、政所など言ふ方にさぶらひて営みけり。 |
かくおぼえぬやんごとなきまらうとのおはするとききて、もとつとめざりけるけいしなど、うちつけにまゐりて、まどころなどいふかたにさぶらひていとなみけり。 |
39 | 7 | 638 | 628 | 第七章 雲居雁の物語 夕霧の妻たちの物語 |
39 | 7.1 | 639 | 629 | 第一段 雲居雁、実家へ帰る |
39 | 7.1.1 | 640 | 630 |
かくせめても見馴れ顔に作りたまふほど、三条殿、 |
かくせめてもみなれがほにつくりたまふほど、さんでうどの、 |
39 | 7.1.2 | 641 | 631 |
「限りなめりと、さしもやはとこそ、かつは頼みつれ、まめ人の心変はるは名残なくなむと聞きしは、まことなりけり」 |
"かぎりなめりと、さしもやはとこそ、かつはたのみつれ、まめびとのこころかはるはなごりなくなんとききしは、まことなりけり。" |
39 | 7.1.3 | 642 | 632 |
と、世を試みつる心地して、「いかさまにしてこのなめげさを見じ」と思しければ、大殿へ、方違へむとて、渡りたまひにけるを、女御の里におはするほどなどに、対面したまうて、すこしもの思ひはるけどころに思されて、例のやうにも急ぎ渡りたまはず。 |
と、よをこころみつるここちして、"いかさまにしてこのなめげさをみじ。"とおぼしければ、おほいどのへ、かたたがへんとて、わたりたまひにけるを、にょうごのさとにおはするほどなどに、たいめんしたまうて、すこしものおもひはるけどころにおぼされて、れいのやうにもいそぎわたりたまはず。 |
39 | 7.1.4 | 643 | 633 |
大将殿も聞きたまひて、 |
だいしゃうどのもききたまひて、 |
39 | 7.1.5 | 644 | 634 |
「さればよ。いと急にものしたまふ本性なり。この大臣もはた、おとなおとなしうのどめたるところ、さすがになく、いとひききりにはなやいたまへる人びとにて、めざまし、見じ、聞かじなど、ひがひがしきことどもし出でたまうつべき」 |
"さればよ。いときふにものしたまふほんじゃうなり。このおとどもはた、おとなおとなしうのどめたるところ、さすがになく、いとひききりにはなやいたまへるひとびとにて、めざまし、みじ、きかじなど、ひがひがしきことどもしいでたまうつべき。" |
39 | 7.1.6 | 645 | 635 |
と、驚かれたまうて、三条殿に渡りたまへれば、君たちも、片へは止まりたまへれば、姫君たち、さてはいと幼きとをぞ率ておはしにける、見つけてよろこびむつれ、あるは上を恋ひたてまつりて、愁へ泣きたまふを、心苦しと思す。 |
と、おどろかれたまうて、さんでうどのにわたりたまへれば、きみたちも、かたへはとまりたまへれば、ひめぎみたち、さてはいとをさなきとをぞゐておはしにける、みつけてよろこびむつれ、あるはうへをこひたてまつりて、うれへなきたまふを、こころぐるしとおぼす。 |
39 | 7.1.7 | 646 | 636 |
消息たびたび聞こえて、迎へにたてまつれたまへど、御返りだになし。かくかたくなしう軽々しの世やと、ものしうおぼえたまへど、大臣の見聞きたまはむところもあれば、暮らして、みづから参りたまへり。 |
せうそこたびたびきこえて、むかへにたてまつれたまへど、おほんかへりだになし。かくかたくなしうかるがるしのよやと、ものしうおぼえたまへど、おとどのみききたまはんところもあれば、くらして、みづからまゐりたまへり。 |
39 | 7.2 | 647 | 637 | 第二段 夕霧、雲居雁の実家へ行く |
39 | 7.2.1 | 648 | 638 |
寝殿になむおはするとて、例の渡りたまふ方は、御達のみさぶらふ。若君たちぞ、乳母に添ひておはしける。 |
しんでんになんおはするとて、れいのわたりたまふかたは、ごたちのみさぶらふ。わかぎみたちぞ、めのとにそひておはしける。 |
39 | 7.2.2 | 649 | 639 |
「今さらに若々しの御まじらひや。かかる人を、ここかしこに落しおきたまひて。など寝殿の御まじらひは。ふさはしからぬ御心の筋とは、年ごろ見知りたれど、さるべきにや、昔より心に離れがたう思ひきこえて、今はかく、くだくだしき人の数々あはれなるを、かたみに見捨つべきにやはと、頼みきこえける。はかなき一節に、かうはもてなしたまふべくや」 |
"いまさらにわかわかしのおほんまじらひや。かかるひとを、ここかしこにおとしおきたまひて。などしんでんのおほんまじらひは。ふさはしからぬみこころのすぢとは、としごろみしりたれど、さるべきにや、むかしよりこころにはなれがたうおもひきこえて、いまはかく、くだくだしきひとのかずかずあはれなるを、かたみにみすつべきにやはと、たのみきこえける。はかなきひとふしに、かうはもてなしたまふべくや。" |
39 | 7.2.3 | 650 | 640 |
と、いみじうあはめ恨み申したまへば、 |
と、いみじうあはめうらみまうしたまへば、 |
39 | 7.2.4 | 651 | 641 |
「何ごとも、今はと見飽きたまひにける身なれば、今はた、直るべきにもあらぬを、何かはとて。あやしき人びとは、思し捨てずは、うれしうこそはあらめ」 |
"なにごとも、いまはとみあきたまひにけるみなれば、いまはた、なほるべきにもあらぬを、なにかはとて。あやしきひとびとは、おぼしすてずは、うれしうこそはあらめ。" |
39 | 7.2.5 | 652 | 642 |
と聞こえたまへり。 |
ときこえたまへり。 |
39 | 7.2.6 | 653 | 643 |
「なだらかの御いらへや。言ひもていけば、誰が名か惜しき」 |
"なだらかのおほんいらへや。いひもていけば、たがなかをしき。" |
39 | 7.2.7 | 654 | 644 |
とて、しひて渡りたまへともなくて、その夜はひとり臥したまへり。 |
とて、しひてわたりたまへともなくて、そのよはひとりふしたまへり。 |
39 | 7.2.8 | 655 | 645 |
「あやしう中空なるころかな」と思ひつつ、君たちを前に臥せたまひて、かしこにまた、いかに思し乱るらむさま、思ひやりきこえ、やすからぬ心尽くしなれば、「いかなる人、かうやうなることをかしうおぼゆらむ」など、物懲りしぬべうおぼえたまふ。 |
"あやしうなかぞらなるころかな。"とおもひつつ、きみたちをまへにふせたまひて、かしこにまた、いかにおぼしみだるらんさま、おもひやりきこえ、やすからぬこころづくしなれば、"いかなるひと、かうやうなることをかしうおぼゆらん。"など、ものごりしぬべうおぼえたまふ。 |
39 | 7.2.9 | 656 | 646 |
明けぬれば、 |
あけぬれば、 |
39 | 7.2.10 | 657 | 647 |
「人の見聞かむも若々しきを、限りとのたまひ果てば、さて試みむ。かしこなる人びとも、らうたげに恋ひきこゆめりしを、選り残したまへる、やうあらむとは見ながら、思ひ捨てがたきを、ともかくももてなしはべりなむ」 |
"ひとのみきかんもわかわかしきを、かぎりとのたまひはてば、さてこころみん。かしこなるひとびとも、らうたげにこひきこゆめりしを、えりのこしたまへる、やうあらんとはみながら、おもひすてがたきを、ともかくももてなしはべりなん。" |
39 | 7.2.11 | 658 | 648 |
と、脅しきこえたまへば、すがすがしき御心にて、この君達をさへや、知らぬ所に率て渡したまはむ、と危ふし。姫君を、 |
と、おどしきこえたまへば、すがすがしきみこころにて、このきみたちをさへや、しらぬところにゐてわたしたまはん、とあやふし。ひめぎみを、 |
39 | 7.2.12 | 659 | 649 |
「いざ、たまへかし。見たてまつりに、かく参り来ることもはしたなければ、常にも参り来じ。かしこにも人びとのらうたきを、同じ所にてだに見たてまつらむ」 |
"いざ、たまへかし。みたてまつりに、かくまゐりくることもはしたなければ、つねにもまゐりこじ。かしこにもひとびとのらうたきを、おなじところにてだにみたてまつらん。" |
39 | 7.2.13 | 660 | 650 |
と聞こえたまふ。まだいといはけなく、をかしげにておはす、いとあはれと見たてまつりたまひて、 |
ときこえたまふ。まだいといはけなく、をかしげにておはす、いとあはれとみたてまつりたまひて、 |
39 | 7.2.14 | 661 | 651 |
「母君の御教へにな叶ひたまうそ。いと心憂く、思ひとる方なき心あるは、いと悪しきわざなり」 |
"ははぎみのおほんをしへになかなひたまうそ。いとこころうく、おもひとるかたなきこころあるは、いとあしきわざなり。" |
39 | 7.2.15 | 662 | 652 |
と、言ひ知らせたてまつりたまふ。 |
と、いひしらせたてまつりたまふ。 |
39 | 7.3 | 663 | 653 | 第三段 蔵人少将、落葉宮邸へ使者 |
39 | 7.3.1 | 664 | 654 |
大臣、かかることを聞きたまひて、人笑はれなるやうに思し嘆く。 |
おとど、かかることをききたまひて、ひとわらはれなるやうにおぼしなげく。 |
39 | 7.3.2 | 665 | 655 |
「しばしは、さても見たまはで。おのづから思ふところものせらるらむものを。女のかくひききりなるも、かへりては軽くおぼゆるわざなり。よし、かく言ひそめつとならば、何かは愚れて、ふとしも帰りたまふ。おのづから人のけしき心ばへは見えなむ」 |
"しばしは、さてもみたまはで。おのづからおもふところものせらるらんものを。をんなのかくひききりなるも、かへりてはかるくおぼゆるわざなり。よし、かくいひそめつとならば、なにかはおれて、ふとしもかへりたまふ。おのづからひとのけしきこころばへはみえなん。" |
39 | 7.3.3 | 666 | 656 |
とのたまはせて、この宮に、蔵人少将の君を御使にてたてまつりたまふ。 |
とのたまはせて、このみやに、くらうどのせうしゃうのきみをおほんつかひにてたてまつりたまふ。 |
39 | 7.3.4 | 667 | 657 |
「契りあれや君を心にとどめおきて<BR/>あはれと思ふ恨めしと聞く |
"〔ちぎりあれやきみをこころにとどめおきて<BR/>あはれとおもふうらめしときく |
39 | 7.3.5 | 668 | 658 |
なほ、え思し放たじ」 |
なほ、えおぼしはなたじ。" |
39 | 7.3.6 | 669 | 659 |
とある御文を、少将持ておはして、ただ入りに入りたまふ。 |
とあるおほんふみを、せうしゃうもておはして、ただいりにいりたまふ。 |
39 | 7.3.7 | 670 | 660 |
南面の簀子に円座さし出でて、人びと、もの聞こえにくし。宮は、ましてわびしと思す。 |
みなみおもてのすのこにわらふださしいでて、ひとびと、ものきこえにくし。みやは、ましてわびしとおぼす。 |
39 | 7.3.8 | 671 | 661 |
この君は、なかにいと容貌よく、めやすきさまにて、のどやかに見まはして、いにしへを思ひ出でたるけしきなり。 |
このきみは、なかにいとかたちよく、めやすきさまにて、のどやかにみまはして、いにしへをおもひいでたるけしきなり。 |
39 | 7.3.9 | 672 | 662 |
「参り馴れにたる心地して、うひうひしからぬに、さも御覧じ許さずやあらむ」 |
"まゐりなれにたるここちして、うひうひしからぬに、さもごらんじゆるさずやあらん。" |
39 | 7.3.10 | 673 | 663 |
などばかりぞかすめたまふ。御返りいと聞こえにくくて、 |
などばかりぞかすめたまふ。おほんかへりいときこえにくくて、 |
39 | 7.3.11 | 674 | 664 |
「われはさらにえ書くまじ」 |
"われはさらにえかくまじ。" |
39 | 7.3.12 | 675 | 665 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
39 | 7.3.13 | 676 | 666 |
「御心ざしも隔て若々しきやうに。宣旨書き、はた聞こえさすべきにやは」 |
"みこころざしもへだてわかわかしきやうに。せんじがき、はたきこえさすべきにやは。" |
39 | 7.3.14 | 677 | 667 |
と、集りて聞こえさすれば、まづうち泣きて、 |
と、あつまりてきこえさすれば、まづうちなきて、 |
39 | 7.3.15 | 678 | 668 |
「故上おはせましかば、いかに心づきなし、と思しながらも、罪を隠いたまはまし」 |
"こうへおはせましかば、いかにこころづきなし、とおぼしながらも、つみをかくいたまはまし。" |
39 | 7.3.16 | 679 | 669 |
と思ひ出でたまふに、涙のみつらきに先だつ心地して、書きやりたまはず。 |
とおもひいでたまふに、なみだのみつらきにさきだつここちして、かきやりたまはず。 |
39 | 7.3.17 | 680 | 670 |
「何ゆゑか世に数ならぬ身ひとつを<BR/>憂しとも思ひかなしとも聞く」 |
"〔なにゆゑかよにかずならぬみひとつを<BR/>うしともおもひかなしともきく〕 |
39 | 7.3.18 | 681 | 671 |
とのみ、思しけるままに、書きもとぢめたまはぬやうにて、おしつつみて出だしたまうつ。少将は、人びと物語して、 |
とのみ、おぼしけるままに、かきもとぢめたまはぬやうにて、おしつつみていだしたまうつ。せうしゃうは、ひとびとものがたりして、 |
39 | 7.3.19 | 682 | 672 |
「時々さぶらふに、かかる御簾の前は、たづきなき心地しはべるを、今よりはよすがある心地して、常に参るべし。内外なども許されぬべき、年ごろのしるし現はれはべる心地なむしはべる」 |
"ときどきさぶらふに、かかるみすのまへは、たづきなきここちしはべるを、いまよりはよすがあるここちして、つねにまゐるべし。ないげなどもゆるされぬべき、としごろのしるしあらはれはべるここちなんしはべる。" |
39 | 7.3.20 | 683 | 673 |
など、けしきばみおきて出でたまひぬ。 |
など、けしきばみおきていでたまひぬ。 |
39 | 7.4 | 684 | 674 | 第四段 藤典侍、雲居雁を慰める |
39 | 7.4.1 | 685 | 675 |
いとどしく心よからぬ御けしき、あくがれ惑ひたまふほど、大殿の君は、日ごろ経るままに、思し嘆くことしげし。典侍、かかることを聞くに、 |
いとどしくこころよからぬみけしき、あくがれまどひたまふほど、おほいどののきみは、ひごろふるままに、おぼしなげくことしげし。ないしのすけ、かかることをきくに、 |
39 | 7.4.2 | 686 | 676 |
「われを世とともに許さぬものにのたまふなるに、かくあなづりにくきことも出で来にけるを」 |
"われをよとともにゆるさぬものにのたまふなるに、かくあなづりにくきこともいできにけるを。" |
39 | 7.4.3 | 687 | 677 |
と思ひて、文などは時々たてまつれば、聞こえたり。 |
とおもひて、ふみなどはときどきたてまつれば、きこえたり。 |
39 | 7.4.4 | 688 | 678 |
「数ならば身に知られまし世の憂さを<BR/>人のためにも濡らす袖かな」 |
"〔かずならばみにしられましよのうさを<BR/>ひとのためにもぬらすそでかな〕 |
39 | 7.4.5 | 689 | 679 |
なまけやけしとは見たまへど、もののあはれなるほどのつれづれに、「かれもいとただにはおぼえじ」と思す片心ぞ、つきにける。 |
なまけやけしとはみたまへど、もののあはれなるほどのつれづれに、"かれもいとただにはおぼえじ。"とおぼすかたごころぞ、つきにける。 |
39 | 7.4.6 | 690 | 680 |
「人の世の憂きをあはれと見しかども<BR/>身にかへむとは思はざりしを」 |
"〔ひとのよのうきをあはれとみしかども<BR/>みにかへんとはおもはざりしを〕 |
39 | 7.4.7 | 691 | 681 |
とのみあるを、思しけるままと、あはれに見る。 |
とのみあるを、おぼしけるままと、あはれにみる。 |
39 | 7.4.8 | 692 | 682 |
この、昔、御中絶えのほどには、この内侍のみこそ、人知れぬものに思ひとめたまへりしか、こと改めて後は、いとたまさかに、つれなくなりまさりたまうつつ、さすがに君達はあまたになりにけり。 |
この、むかし、おほんなかだえのほどには、このないしのみこそ、ひとしれぬものにおもひとめたまへりしか、ことあらためてのちは、いとたまさかに、つれなくなりまさりたまうつつ、さすがにきんだちはあまたになりにけり。 |
39 | 7.4.9 | 693 | 683 |
この御腹には、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君とおはす。内侍は、大君、三の君、六の君、次郎君、四郎君とぞおはしける。すべて十二人が中に、かたほなるなく、いとをかしげに、とりどりに生ひ出でたまひける。 |
このおほんはらには、たらうぎみ、さぶらうぎみ、ごらうぎみ、ろくらうぎみ、なかのきみ、しのきみ、ごのきみとおはす。ないしは、おほいきみ、さんのきみ、ろくのきみ、じらうぎみ、しらうぎみとぞおはしける。すべてじふににんがなかに、かたほなるなく、いとをかしげに、とりどりにおひいでたまひける。 |
39 | 7.4.10 | 694 | 684 |
内侍腹の君達しもなむ、容貌をかしう、心ばせかどありて、皆すぐれたりける。三の君、次郎君は、東の御殿にぞ、取り分きてかしづきたてまつりたまふ。院も見馴れたまうて、いとらうたくしたまふ。 |
ないしばらのきんだちしもなん、かたちをかしう、こころばせかどありて、みなすぐれたりける。さんのきみ、じらうぎみは、ひんがしのおとどにぞ、とりわきてかしづきたてまつりたまふ。ゐんもみなれたまうて、いとらうたくしたまふ。 |
39 | 7.4.11 | 695 | 685 |
この御仲らひのこと、言ひやるかたなく、とぞ。 |
このおほんなからひのこと、いひやるかたなく、とぞ。 |