帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
40 | 御法 |
40 | 1 | 61 | 38 | 第一章 紫の上の物語 死期間近き春から夏の物語 |
40 | 1.1 | 62 | 39 | 第一段 紫の上、出家を願うが許されず |
40 | 1.1.1 | 63 | 40 |
紫の上、いたうわづらひたまひし御心地の後、いと篤しくなりたまひて、そこはかとなく悩みわたりたまふこと久しくなりぬ。 |
むらさきのうへ、いたうわづらひたまひしみここちののち、いとあつしくなりたまひて、そこはかとなくなやみわたりたまふことひさしくなりぬ。 |
40 | 1.1.2 | 64 | 41 |
いとおどろおどろしうはあらねど、年月重なれば、頼もしげなく、いとどあえかになりまさりたまへるを、院の思ほし嘆くこと、限りなし。しばしにても後れきこえたまはむことをば、いみじかるべく思し、みづからの御心地には、この世に飽かぬことなく、うしろめたきほだしだにまじらぬ御身なれば、あながちにかけとどめまほしき御命とも思されぬを、年ごろの御契りかけ離れ、思ひ嘆かせたてまつらむことのみぞ、人知れぬ御心のうちにも、ものあはれに思されける。後の世のためにと、尊きことどもを多くせさせたまひつつ、「いかでなほ本意あるさまになりて、しばしもかかづらはむ命のほどは、行ひを紛れなく」と、たゆみなく思しのたまへど、さらに許しきこえたまはず。 |
いとおどろおどろしうはあらねど、としつきかさなれば、たのもしげなく、いとどあえかになりまさりたまへるを、ゐんのおもほしなげくこと、かぎりなし。しばしにてもおくれきこえたまはんことをば、いみじかるべくおぼし、みづからのみここちには、このよにあかぬことなく、うしろめたきほだしだにまじらぬおほんみなれば、あながちにかけとどめまほしきおほんいのちともおぼされぬを、としごろのおほんちぎりかけはなれ、おもひなげかせたてまつらんことのみぞ、ひとしれぬみこころのうちにも、ものあはれにおぼされける。のちのよのためにと、たふときことどもをおほくせさせたまひつつ、"いかでなほほいあるさまになりて、しばしもかかづらはんいのちのほどは、おこなひをまぎれなく"と、たゆみなくおぼしのたまへど、さらにゆるしきこえたまはず。 |
40 | 1.1.3 | 65 | 42 |
さるは、わが御心にも、しか思しそめたる筋なれば、かくねむごろに思ひたまへるついでにもよほされて、同じ道にも入りなむと思せど、一度、家を出でたまひなば、仮にもこの世を顧みむとは思しおきてず、後の世には、同じ蓮の座をも分けむと、契り交はしきこえたまひて、頼みをかけたまふ御仲なれど、ここながら勤めたまはむほどは、同じ山なりとも、峰を隔てて、あひ見たてまつらぬ住み処にかけ離れなむことをのみ思しまうけたるに、かくいと頼もしげなきさまに悩み篤いたまへば、いと心苦しき御ありさまを、今はと行き離れむきざみには捨てがたく、なかなか、山水の住み処濁りぬべく、思しとどこほるほどに、ただうちあさへたる、思ひのままの道心起こす人びとには、こよなう後れたまひぬべかめり。 |
さるは、わがみこころにも、しかおぼしそめたるすぢなれば、かくねんごろにおもひたまへるついでにもよほされて、おなじみちにもいりなんとおぼせど、ひとたび、いへをいでたまひなば、かりにもこのよをかへりみんとはおぼしおきてず、のちのよには、おなじはちすのざをもわけんと、ちぎりかはしきこえたまひて、たのみをかけたまふおほんなかなれど、ここながらつとめたまはんほどは、おなじやまなりとも、みねをへだてて、あひみたてまつらぬすみかにかけはなれなんことをのみおぼしまうけたるに、かくいとたのもしげなきさまになやみあついたまへば、いとこころぐるしきおほんありさまを、いまはとゆきはなれんきざみにはすてがたく、なかなか、やまみづのすみかにごりぬべく、おぼしとどこほるほどに、ただうちあさへたる、おもひのままのだうしんおこすひとびとには、こよなうおくれたまひぬべかめり。 |
40 | 1.1.4 | 66 | 43 |
御許しなくて、心一つに思し立たむも、さま悪しく本意なきやうなれば、このことによりてぞ、女君は、恨めしく思ひきこえたまひける。わが御身をも、罪軽かるまじきにやと、うしろめたく思されけり。 |
おほんゆるしなくて、こころひとつにおぼしたたんも、さまあしくほいなきやうなれば、このことによりてぞ、おんなぎみは、うらめしくおもひきこえたまひける。わがおほんみをも、つみかろかるまじきにやと、うしろめたくおぼされけり。 |
40 | 1.2 | 67 | 44 | 第二段 二条院の法華経供養 |
40 | 1.2.1 | 68 | 45 |
年ごろ、私の御願にて書かせたてまつりたまひける『法華経』千部、いそぎて供養じたまふ。わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける。七僧の法服など、品々賜はす。物の色、縫ひ目よりはじめて、きよらなること、限りなし。おほかた何ごとも、いといかめしきわざどもをせられたり。 |
としごろ、わたくしのおほんがんにてかかせたてまつりたまひける"ほけきゃう"せんぶ、いそぎてくやうじたまふ。わがおほんとのとおぼすにでうのゐんにてぞしたまひける。しちそうのほふぶくなど、しなじなたまはす。もののいろ、ぬひめよりはじめて、きよらなること、かぎりなし。おほかたなにごとも、いといかめしきわざどもをせられたり。 |
40 | 1.2.2 | 69 | 46 |
ことことしきさまにも聞こえたまはざりければ、詳しきことどもも知らせたまはざりけるに、女の御おきてにてはいたり深く、仏の道にさへ通ひたまひける御心のほどなどを、院はいと限りなしと見たてまつりたまひて、ただおほかたの御しつらひ、何かのことばかりをなむ、営ませたまひける。楽人、舞人などのことは、大将の君、取り分きて仕うまつりたまふ。 |
ことことしきさまにもきこえたまはざりければ、くはしきことどももしらせたまはざりけるに、をんなのおほんおきてにてはいたりふかく、ほとけのみちにさへかよひたまひけるみこころのほどなどを、ゐんはいとかぎりなしとみたてまつりたまひて、ただおほかたのおほんしつらひ、なにかのことばかりをなん、いとなませたまひける。がくにん、まひびとなどのことは、だいしゃうのきみ、とりわきてつかうまつりたまふ。 |
40 | 1.2.3 | 70 | 47 |
内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方々、ここかしこに御誦経、捧物などばかりのことをうちしたまふだに所狭きに、まして、そのころ、この御いそぎを仕うまつらぬ所なければ、いとこちたきことどもあり。「いつのほどに、いとかくいろいろ思しまうけけむ。げに、石上の世々経たる御願にや」とぞ見えたる。 |
うち、とうぐう、きさいのみやたちをはじめたてまつりて、おほんかたがた、ここかしこにみずきゃう、ほうもちなどばかりのことをうちしたまふだにところせきに、まして、そのころ、このおほんいそぎをつかうまつらぬところなければ、いとこちたきことどもあり。"いつのほどに、いとかくいろいろおぼしまうけけん。げに、いそのかみのよよへたるおほんがんにや。"とぞみえたる。 |
40 | 1.2.4 | 71 | 48 |
花散里と聞こえし御方、明石なども渡りたまへり。南東の戸を開けておはします。寝殿の西の塗籠なりけり。北の廂に、方々の御局どもは、障子ばかりを隔てつつしたり。 |
はなちるさとときこえしおほんかた、あかしなどもわたりたまへり。みなみひんがしのとをあけておはします。しんでんのにしのぬりごめなりけり。きたのひさしに、かたがたのみつぼねどもは、さうじばかりをへだてつつしたり。 |
40 | 1.3 | 72 | 49 | 第三段 紫の上、明石御方と和歌を贈答 |
40 | 1.3.1 | 73 | 51 |
三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなども、うららかにものおもしろく、仏のおはすなる所のありさま、遠からず思ひやられて、ことなり。深き心もなき人さへ、罪を失ひつべし。薪こる讃嘆の声も、そこら集ひたる響き、おどろおどろしきを、うち休みて静まりたるほどだにあはれに思さるるを、まして、このころとなりては、何ごとにつけても、心細くのみ思し知る。明石の御方に、三の宮して、聞こえたまへる。 |
さんがつのとをかなれば、はなざかりにて、そらのけしきなども、うららかにものおもしろく、ほとけのおはすなるところのありさま、とほからずおもひやられて、ことなり。ふかきこころもなきひとさへ、つみをうしなひつべし。たきぎこるさんたんのこゑも、そこらつどひたるひびき、おどろおどろしきを、うちやすみてしづまりたるほどだにあはれにおぼさるるを、まして、このころとなりては、なにごとにつけても、こころぼそくのみおぼししる。あかしのおほんかたに、さんのみやして、きこえたまへる。 |
40 | 1.3.2 | 74 | 52 |
「惜しからぬこの身ながらもかぎりとて<BR/>薪尽きなむことの悲しさ」 |
"〔をしからぬこのみながらもかぎりとて<BR/>たきぎつきなんことのかなしさ〕 |
40 | 1.3.3 | 75 | 53 |
御返り、心細き筋は、後の聞こえも心後れたるわざにや、そこはかとなくぞあめる。 |
おほんかへり、こころぼそきすぢは、のちのきこえもこころおくれたるわざにや、そこはかとなくぞあめる。 |
40 | 1.3.4 | 76 | 54 |
「薪こる思ひは今日を初めにて<BR/>この世に願ふ法ぞはるけき」 |
"〔たきぎこるおもひはけふをはじめにて<BR/>このよにねがふのりぞはるけき〕 |
40 | 1.3.5 | 77 | 55 |
夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、もののあはれもおもしろさも残らぬほどに、陵王の舞ひ手急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、皆人の脱ぎかけたるものの色々なども、もののをりからにをかしうのみ見ゆ。 |
よもすがら、たふときことにうちあはせたるつづみのこゑ、たえずおもしろし。ほのぼのとあけゆくあさぼらけ、かすみのまよりみえたるはなのいろいろ、なほはるにこころとまりぬべくにほひわたりて、ももちどりのさへづりも、ふえのねにおとらぬここちして、もののあはれもおもしろさものこらぬほどに、りゃうわうのまひてきふになるほどのすゑつかたのがく、はなやかににぎははしくきこゆるに、みなびとのぬぎかけたるもののいろいろなども、もののをりからにをかしうのみみゆ。 |
40 | 1.3.6 | 78 | 56 |
親王たち、上達部の中にも、ものの上手ども、手残さず遊びたまふ。上下心地よげに、興あるけしきどもなるを見たまふにも、残り少なしと身を思したる御心のうちには、よろづのことあはれにおぼえたまふ。 |
みこたち、かんだちめのなかにも、もののじゃうずども、てのこさずあそびたまふ。かみしもここちよげに、きょうあるけしきどもなるをみたまふにも、のこりすくなしとみをおぼしたるみこころのうちには、よろづのことあはれにおぼえたまふ。 |
40 | 1.4 | 79 | 57 | 第四段 紫の上、花散里と和歌を贈答 |
40 | 1.4.1 | 80 | 58 |
昨日、例ならず起きゐたまへりし名残にや、いと苦しうして臥したまへり。年ごろ、かかるものの折ごとに、参り集ひ遊びたまふ人びとの御容貌ありさまの、おのがじし才ども、琴笛の音をも、今日や見聞きたまふべきとぢめなるらむ、とのみ思さるれば、さしも目とまるまじき人の顔どもも、あはれに見えわたされたまふ。 |
きのふ、れいならずおきゐたまへりしなごりにや、いとくるしうしてふしたまへり。としごろ、かかるもののをりごとに、まゐりつどひあそびたまふひとびとのおほんかたちありさまの、おのがじしざえども、ことふえのねをも、けふやみききたまふべきとぢめなるらん、とのみおぼさるれば、さしもめとまるまじきひとのかほどもも、あはれにみえわたされたまふ。 |
40 | 1.4.2 | 81 | 59 |
まして、夏冬の時につけたる遊び戯れにも、なま挑ましき下の心は、おのづから立ちまじりもすらめど、さすがに情けを交はしたまふ方々は、誰れも久しくとまるべき世にはあらざなれど、まづ我一人行方知らずなりなむを思し続くる、いみじうあはれなり。 |
まして、なつふゆのときにつけたるあそびたはぶれにも、なまいどましきしたのこころは、おのづからたちまじりもすらめど、さすがになさけをかはしたまふかたがたは、たれもひさしくとまるべきよにはあらざなれど、まづわれひとりゆくへしらずなりなんをおぼしつづくる、いみじうあはれなり。 |
40 | 1.4.3 | 82 | 60 |
こと果てて、おのがじし帰りたまひなむとするも、遠き別れめきて惜しまる。花散里の御方に、 |
ことはてて、おのがじしかへりたまひなんとするも、とほきわかれめきてをしまる。はなちるさとのおほんかたに、 |
40 | 1.4.4 | 83 | 61 |
「絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる<BR/>世々にと結ぶ中の契りを」 |
"〔たえぬべきみのりながらぞたのまるる<BR/>よよにとむすぶなかのちぎりを〕 |
40 | 1.4.5 | 84 | 62 |
御返り、 |
おほんかへり、 |
40 | 1.4.6 | 85 | 63 |
「結びおく契りは絶えじおほかたの<BR/>残りすくなき御法なりとも」 |
"〔むすびおくちぎりはたえじおほかたの<BR/>のこりすくなきみのりなりとも〕 |
40 | 1.4.7 | 86 | 64 |
やがて、このついでに、不断の読経、懺法など、たゆみなく、尊きことどもせさせたまふ。御修法は、ことなるしるしも見えでほども経ぬれば、例のことになりて、うちはへさるべき所々、寺々にてぞせさせたまひける。 |
やがて、このついでに、ふだんのどきゃう、せんぼふなど、たゆみなく、たふときことどもせさせたまふ。みすほふは、ことなるしるしもみえでほどもへぬれば、れいのことになりて、うちはへさるべきところどころ、てらでらにてぞせさせたまひける。 |
40 | 1.5 | 87 | 65 | 第五段 紫の上、明石中宮と対面 |
40 | 1.5.1 | 88 | 66 |
夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消え入りたまひぬべき折々多かり。そのことと、おどろおどろしからぬ御心地なれど、ただいと弱きさまになりたまへば、むつかしげに所狭く悩みたまふこともなし。さぶらふ人びとも、いかにおはしまさむとするにか、と思ひよるにも、まづかきくらし、あたらしう悲しき御ありさまと見たてまつる。 |
なつになりては、れいのあつしさにさへ、いとどきえいりたまひぬべきをりをりおほかり。そのことと、おどろおどろしからぬみここちなれど、ただいとよわきさまになりたまへば、むつかしげにところせくなやみたまふこともなし。さぶらふひとびとも、いかにおはしまさんとするにか、とおもひよるにも、まづかきくらし、あたらしうかなしきおほんありさまとみたてまつる。 |
40 | 1.5.2 | 89 | 67 |
かくのみおはすれば、中宮、この院にまかでさせたまふ。東の対におはしますべければ、こなたにはた待ちきこえたまふ。儀式など、例に変らねど、この世のありさまを見果てずなりぬるなどのみ思せば、よろづにつけてものあはれなり。名対面を聞きたまふにも、その人、かの人など、耳とどめて聞かれたまふ。上達部など、いと多く仕うまつりたまへり。 |
かくのみおはすれば、ちゅうぐう、このゐんにまかでさせたまふ。ひんがしのたいにおはしますべければ、こなたにはたまちきこえたまふ。ぎしきなど、れいにかはらねど、このよのありさまをみはてずなりぬるなどのみおぼせば、よろづにつけてものあはれなり。なだいめんをききたまふにも、そのひと、かのひとなど、みみとどめてきかれたまふ。かんだちめなど、いとおほくつかうまつりたまへり。 |
40 | 1.5.3 | 90 | 68 |
久しき御対面のとだえを、めづらしく思して、御物語こまやかに聞こえたまふ。院入りたまひて、 |
ひさしきおほんたいめんのとだえを、めづらしくおぼして、おほんものがたりこまやかにきこえたまふ。ゐんいりたまひて、 |
40 | 1.5.4 | 91 | 69 |
「今宵は、巣離れたる心地して、無徳なりや。まかりて休みはべらむ」 |
"こよひは、すばなれたるここちして、むとくなりや。まかりてやすみはべらん。" |
40 | 1.5.5 | 92 | 70 |
とて、渡りたまひぬ。起きゐたまへるを、いとうれしと思したるも、いとはかなきほどの御慰めなり。 |
とて、わたりたまひぬ。おきゐたまへるを、いとうれしとおぼしたるも、いとはかなきほどのおほんなぐさめなり。 |
40 | 1.5.6 | 93 | 71 |
「方々におはしましては、あなたに渡らせたまはむもかたじけなし。参らむこと、はたわりなくなりにてはべれば」 |
"かたがたにおはしましては、あなたにわたらせたまはんもかたじけなし。まゐらんこと、はたわりなくなりにてはべれば。" |
40 | 1.5.7 | 94 | 72 |
とて、しばらくはこなたにおはすれば、明石の御方も渡りたまひて、心深げにしづまりたる御物語ども聞こえ交はしたまふ。 |
とて、しばらくはこなたにおはすれば、あかしのおほんかたもわたりたまひて、こころぶかげにしづまりたるおほんものがたりどもきこえかはしたまふ。 |
40 | 1.6 | 95 | 73 | 第六段 紫の上、匂宮に別れの言葉 |
40 | 1.6.1 | 96 | 74 |
上は、御心のうちに思しめぐらすこと多かれど、さかしげに、亡からむ後などのたまひ出づることもなし。ただなべての世の常なきありさまを、おほどかに言少ななるものから、あさはかにはあらずのたまひなしたるけはひなどぞ、言に出でたらむよりもあはれに、もの心細き御けしきは、しるう見えける。宮たちを見たてまつりたまうても、 |
うへは、みこころのうちにおぼしめぐらすことおほかれど、さかしげに、なからんのちなどのたまひいづることもなし。ただなべてのよのつねなきありさまを、おほどかにことすくななるものから、あさはかにはあらずのたまひなしたるけはひなどぞ、ことにいでたらんよりもあはれに、ものこころぼそきみけしきは、しるうみえける。みやたちをみたてまつりたまうても、 |
40 | 1.6.2 | 97 | 75 |
「おのおのの御行く末を、ゆかしく思ひきこえけるこそ、かくはかなかりける身を惜しむ心のまじりけるにや」 |
"おのおののおほんゆくすゑを、ゆかしくおもひきこえけるこそ、かくはかなかりけるみををしむこころのまじりけるにや。" |
40 | 1.6.3 | 98 | 76 |
とて、涙ぐみたまへる御顔の匂ひ、いみじうをかしげなり。「などかうのみ思したらむ」と思すに、中宮、うち泣きたまひぬ。ゆゆしげになどは聞こえなしたまはず、もののついでなどにぞ、年ごろ仕うまつり馴れたる人びとの、ことなるよるべなういとほしげなる、この人、かの人、 |
とて、なみだぐみたまへるおほんかほのにほひ、いみじうをかしげなり。"などかうのみおぼしたらん。"とおぼすに、ちゅうぐう、うちなきたまひぬ。ゆゆしげになどはきこえなしたまはず、もののついでなどにぞ、としごろつかうまつりなれたるひとびとの、ことなるよるべなういとほしげなる、このひと、かのひと、 |
40 | 1.6.4 | 99 | 77 |
「はべらずなりなむ後に、御心とどめて、尋ね思ほせ」 |
"はべらずなりなんのちに、みこころとどめて、たづねおもほせ。" |
40 | 1.6.5 | 100 | 78 |
などばかり聞こえたまひける。御読経などによりてぞ、例のわが御方に渡りたまふ。 |
などばかりきこえたまひける。みどきゃうなどによりてぞ、れいのわがおほんかたにわたりたまふ。 |
40 | 1.6.6 | 101 | 79 |
三の宮は、あまたの御中に、いとをかしげにて歩きたまふを、御心地の隙には、前に据ゑたてまつりたまひて、人の聞かぬ間に、 |
さんのみやは、あまたのおほんなかに、いとをかしげにてありきたまふを、みここちのひまには、まへにすゑたてまつりたまひて、ひとのきかぬまに、 |
40 | 1.6.7 | 102 | 80 |
「まろがはべらざらむに、思し出でなむや」 |
"まろがはべらざらんに、おぼしいでなんや。" |
40 | 1.6.8 | 103 | 81 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
40 | 1.6.9 | 104 | 82 |
「いと恋しかりなむ。まろは、内裏の上よりも宮よりも、婆をこそまさりて思ひきこゆれば、おはせずは、心地むつかしかりなむ」 |
"いとこひしかりなん。まろは、うちのうへよりもみやよりも、ばばをこそまさりておもひきこゆれば、おはせずは、ここちむつかしかりなん。" |
40 | 1.6.10 | 105 | 83 |
とて、目おしすりて紛らはしたまへるさま、をかしければ、ほほ笑みながら涙は落ちぬ。 |
とて、めおしすりてまぎらはしたまへるさま、をかしければ、ほほゑみながらなみだはおちぬ。 |
40 | 1.6.11 | 106 | 84 |
「大人になりたまひなば、ここに住みたまひて、この対の前なる紅梅と桜とは、花の折々に、心とどめてもて遊びたまへ。さるべからむ折は、仏にもたてまつりたまへ」 |
"おとなになりたまひなば、ここにすみたまひて、このたいのまへなるこうばいとさくらとは、はなのをりをりに、こころとどめてもてあそびたまへ。さるべからんをりは、ほとけにもたてまつりたまへ。" |
40 | 1.6.12 | 107 | 85 |
と聞こえたまへば、うちうなづきて、御顔をまもりて、涙の落つべかめれば、立ちておはしぬ。取り分きて生ほしたてまつりたまへれば、この宮と姫宮とをぞ、見さしきこえたまはむこと、口惜しくあはれに思されける。 |
ときこえたまへば、うちうなづきて、おほんかほをまもりて、なみだのおつべかめれば、たちておはしぬ。とりわきておほしたてまつりたまへれば、このみやとひめみやとをぞ、みさしきこえたまはんこと、くちをしくあはれにおぼされける。 |
40 | 2 | 108 | 86 | 第二章 紫の上の物語 紫の上の死と葬儀 |
40 | 2.1 | 109 | 87 | 第一段 紫の上の部屋に明石中宮の御座所を設ける |
40 | 2.1.1 | 110 | 88 |
秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりては、御心地もいささかさはやぐやうなれど、なほともすれば、かことがまし。さるは、身にしむばかり思さるべき秋風ならねど、露けき折がちにて過ぐしたまふ。 |
あきまちつけて、よのなかすこしすずしくなりては、みここちもいささかさはやぐやうなれど、なほともすれば、かことがまし。さるは、みにしむばかりおぼさるべきあきかぜならねど、つゆけきをりがちにてすぐしたまふ。 |
40 | 2.1.2 | 111 | 89 |
中宮は、参りたまひなむとするを、今しばしは御覧ぜよとも、聞こえまほしう思せども、さかしきやうにもあり、内裏の御使の隙なきもわづらはしければ、さも聞こえたまはぬに、あなたにもえ渡りたまはねば、宮ぞ渡りたまひける。 |
ちゅうぐうは、まゐりたまひなんとするを、いましばしはごらんぜよとも、きこえまほしうおぼせども、さかしきやうにもあり、うちのおほんつかひのひまなきもわづらはしければ、さもきこえたまはぬに、あなたにもえわたりたまはねば、みやぞわたりたまひける。 |
40 | 2.1.3 | 112 | 90 |
かたはらいたけれど、げに見たてまつらぬもかひなしとて、こなたに御しつらひをことにせさせたまふ。「こよなう痩せ細りたまへれど、かくてこそ、あてになまめかしきことの限りなさもまさりてめでたかりけれ」と、来し方あまり匂ひ多く、あざあざとおはせし盛りは、なかなかこの世の花の薫りにもよそへられたまひしを、限りもなくらうたげにをかしげなる御さまにて、いとかりそめに世を思ひたまへるけしき、似るものなく心苦しく、すずろにもの悲し。 |
かたはらいたけれど、げにみたてまつらぬもかひなしとて、こなたにおほんしつらひをことにせさせたまふ。"こよなうやせほそりたまへれど、かくてこそ、あてになまめかしきことのかぎりなさもまさりてめでたかりけれ。"と、きしかたあまりにほひおほく、あざあざとおはせしさかりは、なかなかこのよのはなのかをりにもよそへられたまひしを、かぎりもなくらうたげにをかしげなるおほんさまにて、いとかりそめによをおもひたまへるけしき、にるものなくこころぐるしく、すずろにものがなし。 |
40 | 2.2 | 113 | 91 | 第二段 明石中宮に看取られ紫の上、死去す |
40 | 2.2.1 | 114 | 92 |
風すごく吹き出でたる夕暮に、前栽見たまふとて、脇息に寄りゐたまへるを、院渡りて見たてまつりたまひて、 |
かぜすごくふきいでたるゆふぐれに、せんさいみたまふとて、けふそくによりゐたまへるを、ゐんわたりてみたてまつりたまひて、 |
40 | 2.2.2 | 115 | 93 |
「今日は、いとよく起きゐたまふめるは。この御前にては、こよなく御心もはればれしげなめりかし」 |
"けふは、いとよくおきゐたまふめるは。このおまへにては、こよなくみこころもはればれしげなめりかし。" |
40 | 2.2.3 | 116 | 94 |
と聞こえたまふ。かばかりの隙あるをも、いとうれしと思ひきこえたまへる御けしきを見たまふも、心苦しく、「つひに、いかに思し騒がむ」と思ふに、あはれなれば、 |
ときこえたまふ。かばかりのひまあるをも、いとうれしとおもひきこえたまへるみけしきをみたまふも、こころぐるしく、"つひに、いかにおぼしさわがん。"とおもふに、あはれなれば、 |
40 | 2.2.4 | 117 | 95 |
「おくと見るほどぞはかなきともすれば<BR/>風に乱るる萩のうは露」 |
"〔おくとみるほどぞはかなきともすれば<BR/>かぜにみだるるはぎのうはつゆ〕" |
40 | 2.2.5 | 118 | 96 |
げにぞ、折れかへりとまるべうもあらぬ、よそへられたる折さへ忍びがたきを、見出だしたまひても、 |
げにぞ、をれかへりとまるべうもあらぬ、よそへられたるをりさへしのびがたきを、みいだしたまひても、 |
40 | 2.2.6 | 119 | 97 |
「ややもせば消えをあらそふ露の世に<BR/>後れ先だつほど経ずもがな」 |
"〔ややもせばきえをあらそふつゆのよに<BR/>おくれさきだつほどへずもがな〕 |
40 | 2.2.7 | 120 | 98 |
とて、御涙を払ひあへたまはず。宮、 |
とて、おほんなみだをはらひあへたまはず。みや、 |
40 | 2.2.8 | 121 | 99 |
「秋風にしばしとまらぬ露の世を<BR/>誰れか草葉のうへとのみ見む」 |
"〔あきかぜにしばしとまらぬつゆのよを<BR/>たれかくさばのうへとのみみん〕 |
40 | 2.2.9 | 122 | 100 |
と聞こえ交はしたまふ御容貌ども、あらまほしく、見るかひあるにつけても、「かくて千年を過ぐすわざもがな」と思さるれど、心にかなはぬことなれば、かけとめむ方なきぞ悲しかりける。 |
ときこえかはしたまふおほんかたちども、あらまほしく、みるかひあるにつけても、"かくてちとせをすぐすわざもがな"とおぼさるれど、こころにかなはぬことなれば、かけとめんかたなきぞかなしかりける。 |
40 | 2.2.10 | 123 | 101 |
「今は渡らせたまひね。乱り心地いと苦しくなりはべりぬ。いふかひなくなりにけるほどと言ひながら、いとなめげにはべりや」 |
"いまはわたらせたまひね。みだりごこちいとくるしくなりはべりぬ。いふかひなくなりにけるほどといひながら、いとなめげにはべりや。" |
40 | 2.2.11 | 124 | 102 |
とて、御几帳引き寄せて臥したまへるさまの、常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、 |
とて、みきちゃうひきよせてふしたまへるさまの、つねよりもいとたのもしげなくみえたまへば、 |
40 | 2.2.12 | 125 | 103 |
「いかに思さるるにか」 |
"いかにおぼさるるにか。" |
40 | 2.2.13 | 126 | 104 |
とて、宮は、御手をとらへたてまつりて、泣く泣く見たてまつりたまふに、まことに消えゆく露の心地して、限りに見えたまへば、御誦経の使ひども、数も知らず立ち騷ぎたり。先ざきも、かくて生き出でたまふ折にならひたまひて、御もののけと疑ひたまひて、夜一夜さまざまのことをし尽くさせたまへど、かひもなく、明け果つるほどに消え果てたまひぬ。 |
とて、みやは、おほんてをとらへたてまつりて、なくなくみたてまつりたまふに、まことにきえゆくつゆのここちして、かぎりにみえたまへば、みずきゃうのつかひども、かずもしらずたちさわぎたり。さきざきも、かくていきいでたまふをりにならひたまひて、おほんもののけとうたがひたまひて、よひとよさまざまのことをしつくさせたまへど、かひもなく、あけはつるほどにきえはてたまひぬ。 |
40 | 2.3 | 127 | 105 | 第三段 源氏、紫の上の落飾のことを諮る |
40 | 2.3.1 | 128 | 106 |
宮も、帰りたまはで、かくて見たてまつりたまへるを、限りなく思す。誰れも誰れも、ことわりの別れにて、たぐひあることとも思されず、めづらかにいみじく、明けぐれの夢に惑ひたまふほど、さらなりや。 |
みやも、かへりたまはで、かくてみたてまつりたまへるを、かぎりなくおぼす。たれもたれも、ことわりのわかれにて、たぐひあることともおぼされず、めづらかにいみじく、あけぐれのゆめにまどひたまふほど、さらなりや。 |
40 | 2.3.2 | 129 | 107 |
さかしき人おはせざりけり。さぶらふ女房なども、ある限り、さらにものおぼえたるなし。院は、まして思し静めむ方なければ、大将の君近く参りたまへるを、御几帳のもとに呼び寄せたてまつりたまひて、 |
さかしきひとおはせざりけり。さぶらふにょうばうなども、あるかぎり、さらにものおぼえたるなし。ゐんは、ましておぼししづめんかたなければ、だいしゃうのきみちかくまゐりたまへるを、みきちゃうのもとによびよせたてまつりたまひて、 |
40 | 2.3.3 | 130 | 108 |
「かく今は限りのさまなめるを、年ごろの本意ありて思ひつること、かかるきざみに、その思ひ違へてやみなむがいといとほしき。御加持にさぶらふ大徳たち、読経の僧なども、皆声やめて出でぬなるを、さりとも、立ちとまりてものすべきもあらむ。この世にはむなしき心地するを、仏の御しるし、今はかの冥き途のとぶらひにだに頼み申すべきを、頭おろすべきよしものしたまへ。さるべき僧、誰れかとまりたる」 |
"かくいまはかぎりのさまなめるを、としごろのほいありておもひつること、かかるきざみに、そのおもひたがへてやみなんがいといとほしき。おほんかぢにさぶらふだいとこたち、どきゃうのそうなども、みなこゑやめていでぬなるを、さりとも、たちとまりてものすべきもあらん。このよにはむなしきここちするを、ほとけのおほんしるし、いまはかのくらきみちのとぶらひにだにたのみまをすべきを、かしらおろすべきよしものしたまへ。さるべきそう、たれかとまりたる。" |
40 | 2.3.4 | 131 | 109 |
などのたまふ御けしき、心強く思しなすべかめれど、御顔の色もあらぬさまに、いみじく堪へかね、御涙のとまらぬを、ことわりに悲しく見たてまつりたまふ。 |
などのたまふみけしき、こころづよくおぼしなすべかめれど、おほんかほのいろもあらぬさまに、いみじくたへかね、おほんなみだのとまらぬを、ことわりにかなしくみたてまつりたまふ。 |
40 | 2.3.5 | 132 | 110 |
「御もののけなどの、これも、人の御心乱らむとて、かくのみものははべめるを、さもやおはしますらむ。さらば、とてもかくても、御本意のことは、よろしきことにはべなり。一日一夜忌むことのしるしこそは、むなしからずははべなれ。まことにいふかひなくなり果てさせたまひて、後の御髪ばかりをやつさせたまひても、異なるかの世の御光ともならせたまはざらむものから、目の前の悲しびのみまさるやうにて、いかがはべるべからむ」 |
"おほんもののけなどの、これも、ひとのみこころみだらんとて、かくのみものははべめるを、さもやおはしますらん。さらば、とてもかくても、おほんほいのことは、よろしきことにはべなり。いちにちいちやいむことのしるしこそは、むなしからずははべなれ。まことにいふかひなくなりはてさせたまひて、のちのみぐしばかりをやつさせたまひても、ことなるかのよのおほんひかりともならせたまはざらんものから、めのまへのかなしびのみまさるやうにて、いかがはべるべからん。" |
40 | 2.3.6 | 133 | 111 |
と申したまひて、御忌に籠もりさぶらふべき心ざしありてまかでぬ僧、その人、かの人など召して、さるべきことども、この君ぞ行なひたまふ。 |
とまをしたまひて、おほんいみにこもりさぶらふべきこころざしありてまかでぬそう、そのひと、かのひとなどめして、さるべきことども、このきみぞおこなひたまふ。 |
40 | 2.4 | 134 | 112 | 第四段 夕霧、紫の上の死に顔を見る |
40 | 2.4.1 | 135 | 113 |
年ごろ、何やかやと、おほけなき心はなかりしかど、「いかならむ世に、ありしばかりも見たてまつらむ。ほのかにも御声をだに聞かぬこと」など、心にも離れず思ひわたりつるものを、「声はつひに聞かせたまはずなりぬるにこそはあめれ、むなしき御骸にても、今一度見たてまつらむの心ざしかなふべき折は、ただ今よりほかにいかでかあらむ」と思ふに、つつみもあへず泣かれて、女房の、ある限り騷ぎ惑ふを、 |
としごろ、なにやかやと、おほけなきこころはなかりしかど、"いかならんよに、ありしばかりもみたてまつらん。ほのかにもおほんこゑをだにきかぬこと。"など、こころにもはなれずおもひわたりつるものを、"こゑはつひにきかせたまはずなりぬるにこそはあめれ、むなしきおほんからにても、いまひとたびみたてまつらんのこころざしかなふべきをりは、ただいまよりほかにいかでかあらん。"とおもふに、つつみもあへずなかれて、にょうばうの、あるかぎりさわぎまどふを、 |
40 | 2.4.2 | 136 | 114 |
「あなかま、しばし」 |
"あなかま。しばし。" |
40 | 2.4.3 | 137 | 115 |
と、しづめ顔にて、御几帳の帷を、もののたまふ紛れに、引き上げて見たまへば、ほのぼのと明けゆく光もおぼつかなければ、大殿油を近くかかげて見たてまつりたまふに、飽かずうつくしげに、めでたうきよらに見ゆる御顔のあたらしさに、この君のかくのぞきたまふを見る見るも、あながちに隠さむの御心も思されぬなめり。 |
と、しづめがほにて、みきちゃうのかたびらを、もののたまふまぎれに、ひきあげてみたまへば、ほのぼのとあけゆくひかりもおぼつかなければ、おほとなぶらをちかくかかげてみたてまつりたまふに、あかずうつくしげに、めでたうきよらにみゆるおほんかほのあたらしさに、このきみのかくのぞきたまふをみるみるも、あながちにかくさんのみこころもおぼされぬなめり。 |
40 | 2.4.4 | 138 | 116 |
「かく何ごともまだ変らぬけしきながら、限りのさまはしるかりけるこそ」 |
"かくなにごともまだかはらぬけしきながら、かぎりのさまはしるかりけるこそ。" |
40 | 2.4.5 | 139 | 117 |
とて、御袖を顔におしあてたまへるほど、大将の君も、涙にくれて、目も見えたまはぬを、しひてしぼり開けて見たてまつるに、なかなか飽かず悲しきことたぐひなきに、まことに心惑ひもしぬべし。御髪のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて、露ばかり乱れたるけしきもなう、つやつやとうつくしげなるさまぞ限りなき。 |
とて、おほんそでをかほにおしあてたまへるほど、だいしゃうのきみも、なみだにくれて、めもみえたまはぬを、しひてしぼりあけてみたてまつるに、なかなかあかずかなしきことたぐひなきに、まことにこころまどひもしぬべし。みぐしのただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて、つゆばかりみだれたるけしきもなう、つやつやとうつくしげなるさまぞかぎりなき。 |
40 | 2.4.6 | 140 | 119 |
灯のいと明かきに、御色はいと白く光るやうにて、とかくうち紛らはすこと、ありしうつつの御もてなしよりも、いふかひなきさまにて、何心なくて臥したまへる御ありさまの、飽かぬ所なしと言はむもさらなりや。なのめにだにあらず、たぐひなきを見たてまつるに、「死に入る魂の、やがてこの御骸にとまらなむ」と思ほゆるも、わりなきことなりや。 |
ひのいとあかきに、おほんいろはいとしろくひかるやうにて、とかくうちまぎらはすこと、ありしうつつのおほんもてなしよりも、いふかひなきさまにて、なにごころなくてふしたまへるおほんありさまの、あかぬところなしといはんもさらなりや。なのめにだにあらず、たぐひなきをみたてまつるに、"しにいるたましひの、やがてこのおほんからにとまらなん。"とおもほゆるも、わりなきことなりや。 |
40 | 2.5 | 141 | 120 | 第五段 紫の上の葬儀 |
40 | 2.5.1 | 142 | 121 |
仕うまつり馴れたる女房などの、ものおぼゆるもなければ、院ぞ、何ごとも思しわかれず思さるる御心地を、あながちに静めたまひて、限りの御ことどもしたまふ。いにしへも、悲しと思すこともあまた見たまひし御身なれど、いとかうおり立ちてはまだ知りたまはざりけることを、すべて来し方行く先、たぐひなき心地したまふ。 |
つかうまつりなれたるにょうばうなどの、ものおぼゆるもなければ、ゐんぞ、なにごともおぼしわかれずおぼさるるみここちを、あながちにしづめたまひて、かぎりのおほんことどもしたまふ。いにしへも、かなしとおぼすこともあまたみたまひしおほんみなれど、いとかうおりたちてはまだしりたまはざりけることを、すべてきしかたゆくさき、たぐひなきここちしたまふ。 |
40 | 2.5.2 | 143 | 122 |
やがて、その日、とかく収めたてまつる。限りありけることなれば、骸を見つつもえ過ぐしたまふまじかりけるぞ、心憂き世の中なりける。はるばると広き野の、所もなく立ち込みて、限りなくいかめしき作法なれど、いとはかなき煙にて、はかなく昇りたまひぬるも、例のことなれど、あへなくいみじ。 |
やがて、そのひ、とかくをさめたてまつる。かぎりありけることなれば、からをみつつもえすぐしたまふまじかりけるぞ、こころうきよのなかなりける。はるばるとひろきのの、ところもなくたちこみて、かぎりなくいかめしきさほふなれど、いとはかなきけぶりにて、はかなくのぼりたまひぬるも、れいのことなれど、あへなくいみじ。 |
40 | 2.5.3 | 144 | 123 |
空を歩む心地して、人にかかりてぞおはしましけるを、見たてまつる人も、「さばかりいつかしき御身を」と、ものの心知らぬ下衆さへ、泣かぬなかりけり。御送りの女房は、まして夢路に惑ふ心地して、車よりもまろび落ちぬべきをぞ、もてあつかひける。 |
そらをあゆむここちして、ひとにかかりてぞおはしましけるを、みたてまつるひとも、"さばかりいつかしきおほんみを。"と、もののこころしらぬげすさへ、なかぬなかりけり。おほんおくりのにょうばうは、ましてゆめぢにまどふここちして、くるまよりもまろびおちぬべきをぞ、もてあつかひける。 |
40 | 2.5.4 | 145 | 124 |
昔、大将の君の御母君亡せたまへりし時の暁を思ひ出づるにも、かれは、なほもののおぼえけるにや、月の顔の明らかにおぼえしを、今宵はただくれ惑ひたまへり。 |
むかし、だいしゃうのきみのおほんははぎみうせたまへりしときのあかつきをおもひいづるにも、かれは、なほもののおぼえけるにや、つきのかほのあきらかにおぼえしを、こよひはただくれまどひたまへり。 |
40 | 2.5.5 | 146 | 125 |
十四日に亡せたまひて、これは十五日の暁なりけり。日はいとはなやかにさし上がりて、野辺の露も隠れたる隈なくて、世の中思し続くるに、いとど厭はしくいみじければ、「後るとても、幾世かは経べき。かかる悲しさの紛れに、昔よりの御本意も遂げてまほしく」思ほせど、心弱き後のそしりを思せば、「このほどを過ぐさむ」としたまふに、胸のせきあぐるぞ堪へがたかりける。 |
じふよにちにうせたまひて、これはじふごにちのあかつきなりけり。ひはいとはなやかにさしあがりて、のべのつゆもかくれたるくまなくて、よのなかおぼしつづくるに、いとどいとはしくいみじければ、"おくるとても、いくよかはふべき。かかるかなしさのまぎれに、むかしよりのおほんほいもとげてまほしく"おもほせど、こころよわきのちのそしりをおぼせば、"このほどをすぐさん"としたまふに、むねのせきあぐるぞたへがたかりける。 |
40 | 3 | 147 | 126 | 第三章 光る源氏の物語 源氏の悲嘆と弔問客たち |
40 | 3.1 | 148 | 127 | 第一段 源氏の悲嘆と弔問客 |
40 | 3.1.1 | 149 | 128 |
大将の君も、御忌に籠もりたまひて、あからさまにもまかでたまはず、明け暮れ近くさぶらひて、心苦しくいみじき御けしきを、ことわりに悲しく見たてまつりたまひて、よろづに慰めきこえたまふ。 |
だいしゃうのきみも、おほんいみにこもりたまひて、あからさまにもまかでたまはず、あけくれちかくさぶらひて、こころぐるしくいみじきみけしきを、ことわりにかなしくみたてまつりたまひて、よろづになぐさめきこえたまふ。 |
40 | 3.1.2 | 150 | 129 |
風野分だちて吹く夕暮に、昔のこと思し出でて、「ほのかに見たてまつりしものを」と、恋しくおぼえたまふに、また「限りのほどの夢の心地せし」など、人知れず思ひ続けたまふに、堪へがたく悲しければ、人目にはさしも見えじ、とつつみて、 |
かぜのわきだちてふくゆふぐれに、むかしのことおぼしいでて、"ほのかにみたてまつりしものを"と、こひしくおぼえたまふに、また"かぎりのほどのゆめのここちせし"など、ひとしれずおもひつづけたまふに、たへがたくかなしければ、ひとめにはさしもみえじ、とつつみて、 |
40 | 3.1.3 | 151 | 130 |
「阿弥陀仏、阿弥陀仏」 |
"あみだぶつ、あみだぶつ。" |
40 | 3.1.4 | 152 | 131 |
と引きたまふ数珠の数に紛らはしてぞ、涙の玉をばもて消ちたまひける。 |
とひきたまふずずのかずにまぎらはしてぞ、なみだのたまをばもてけちたまひける。 |
40 | 3.1.5 | 153 | 132 |
「いにしへの秋の夕べの恋しきに<BR/>今はと見えし明けぐれの夢」 |
"〔いにしへのあきのゆふべのこひしきに<BR/>いまはとみえしあけぐれのゆめ〕" |
40 | 3.1.6 | 154 | 133 |
ぞ、名残さへ憂かりける。やむごとなき僧どもさぶらはせたまひて、定まりたる念仏をばさるものにて、法華経など誦ぜさせたまふ。かたがたいとあはれなり。 |
ぞ、なごりさへうかりける。やんごとなきそうどもさぶらはせたまひて、さだまりたるねんぶつをばさるものにて、ほけきゃうなどずぜさせたまふ。かたがたいとあはれなり。 |
40 | 3.1.7 | 155 | 134 |
臥しても起きても涙の干る世なく、霧りふたがりて明かし暮らしたまふ。いにしへより御身のありさま思し続くるに、 |
ふしてもおきてもなみだのひるよなく、きりふたがりてあかしくらしたまふ。いにしへよりおほんみのありさまおぼしつづくるに、 |
40 | 3.1.8 | 156 | 135 |
「鏡に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけなきほどより、悲しく常なき世を思ひ知るべく、仏などのすすめたまひける身を、心強く過ぐして、つひに来し方行く先も例あらじとおぼゆる悲しさを見つるかな。今は、この世にうしろめたきこと残らずなりぬ。ひたみちに行ひにおもむきなむに、障り所あるまじきを、いとかく収めむ方なき心惑ひにては、願はむ道にも入りがたくや」 |
"かがみにみゆるかげをはじめて、ひとにはことなりけるみながら、いはけなきほどより、かなしくつねなきよをおもひしるべく、ほとけなどのすすめたまひけるみを、こころづよくすぐして、つひにきしかたゆくさきもためしあらじとおぼゆるかなしさをみつるかな。いまは、このよにうしろめたきことのこらずなりぬ。ひたみちにおこなひにおもむきなんに、さはりどころあるまじきを、いとかくをさめんかたなきこころまどひにては、ねがはんみちにもいりがたくや。" |
40 | 3.1.9 | 157 | 136 |
と、ややましきを、 |
と、ややましきを、 |
40 | 3.1.10 | 158 | 137 |
「この思ひすこしなのめに、忘れさせたまへ」 |
"このおもひすこしなのめに、わすれさせたまへ。" |
40 | 3.1.11 | 159 | 138 |
と、阿弥陀仏を念じたてまつりたまふ。 |
と、あみだぶつをねんじたてまつりたまふ。 |
40 | 3.2 | 160 | 139 | 第二段 帝,致仕大臣の弔問 |
40 | 3.2.1 | 161 | 140 |
所々の御とぶらひ、内裏をはじめたてまつりて、例の作法ばかりにはあらず、いとしげく聞こえたまふ。思しめしたる心のほどには、さらに何ごとも目にも耳にもとまらず、心にかかりたまふこと、あるまじけれど、「人にほけほけしきさまに見えじ。今さらにわが世の末に、かたくなしく心弱き惑ひにて、世の中をなむ背きにける」と、流れとどまらむ名を思しつつむになむ、身を心にまかせぬ嘆きをさへうち添へたまひける。 |
ところどころのおほんとぶらひ、うちをはじめたてまつりて、れいのさほふばかりにはあらず、いとしげくきこえたまふ。おぼしめしたるこころのほどには、さらになにごともめにもみみにもとまらず、こころにかかりたまふこと、あるまじけれど、"ひとにほけほけしきさまにみえじ。いまさらにわがよのすゑに、かたくなしくこころよわきまどひにて、よのなかをなんそむきにける。"と、ながれとどまらんなをおぼしつつむになん、みをこころにまかせぬなげきをさへうちそへたまひける。 |
40 | 3.2.2 | 162 | 141 |
致仕の大臣、あはれをも折過ぐしたまはぬ御心にて、かく世にたぐひなくものしたまふ人の、はかなく亡せたまひぬることを、口惜しくあはれに思して、いとしばしば問ひきこえたまふ。 |
ちじのおとど、あはれをもをりすぐしたまはぬみこころにて、かくよにたぐひなくものしたまふひとの、はかなくうせたまひぬることを、くちをしくあはれにおぼして、いとしばしばとひきこえたまふ。 |
40 | 3.2.3 | 163 | 142 |
「昔、大将の御母亡せたまへりしも、このころのことぞかし」と思し出づるに、いともの悲しく、 |
"むかし、だいしゃうのおほんははうせたまへりしも、このころのことぞかし。"とおぼしいづるに、いとものかなしく、 |
40 | 3.2.4 | 164 | 143 |
「その折、かの御身を惜しみきこえたまひし人の、多くも亡せたまひにけるかな。後れ先だつほどなき世なりけりや」 |
"そのをり、かのおほんみををしみきこえたまひしひとの、おほくもうせたまひにけるかな。おくれさきだつほどなきよなりけりや。" |
40 | 3.2.5 | 165 | 144 |
など、しめやかなる夕暮にながめたまふ。空のけしきもただならねば、御子の蔵人少将してたてまつりたまふ。あはれなることなど、こまやかに聞こえたまひて、端に、 |
など、しめやかなるゆふぐれにながめたまふ。そらのけしきもただならねば、おほんこのくらうどのせうしゃうしてたてまつりたまふ。あはれなることなど、こまやかにきこえたまひて、はしに、 |
40 | 3.2.6 | 166 | 145 |
「いにしへの秋さへ今の心地して<BR/>濡れにし袖に露ぞおきそふ」 |
"〔いにしへのあきさへいまのここちして<BR/>ぬれにしそでにつゆぞおきそふ〕 |
40 | 3.2.7 | 167 | 146 |
御返し、 |
おほんかへし、 |
40 | 3.2.8 | 168 | 147 |
「露けさは昔今ともおもほえず<BR/>おほかた秋の夜こそつらけれ」 |
"〔つゆけさはむかしいまともおもほえず<BR/>おほかたあきのよこそつらけれ〕 |
40 | 3.2.9 | 169 | 148 |
もののみ悲しき御心のままならば、待ちとりたまひては、心弱くもと、目とどめたまひつべき大臣の御心ざまなれば、めやすきほどにと、 |
もののみかなしきみこころのままならば、まちとりたまひては、こころよわくもと、めとどめたまひつべきおとどのみこころざまなれば、めやすきほどにと、 |
40 | 3.2.10 | 170 | 149 |
「たびたびのなほざりならぬ御とぶらひの重なりぬること」 |
"たびたびのなほざりならぬおほんとぶらひのかさなりぬること。" |
40 | 3.2.11 | 171 | 150 |
と喜びきこえたまふ。 |
とよろこびきこえたまふ。 |
40 | 3.2.12 | 172 | 151 |
「薄墨」とのたまひしよりは、今すこしこまやかにてたてまつれり。世の中に幸ひありめでたき人も、あいなうおほかたの世に嫉まれ、よきにつけても、心の限りおごりて、人のため苦しき人もあるを、あやしきまで、すずろなる人にも受けられ、はかなくし出でたまふことも、何ごとにつけても、世にほめられ、心にくく、折ふしにつけつつ、らうらうじく、ありがたかりし人の御心ばへなりかし。 |
"うすずみ"とのたまひしよりは、いますこしこまやかにてたてまつれり。よのなかにさいはひありめでたきひとも、あいなうおほかたのよにそねまれ、よきにつけても、こころのかぎりおごりて、ひとのためくるしきひともあるを、あやしきまで、すずろなるひとにもうけられ、はかなくしいでたまふことも、なにごとにつけても、よにほめられ、こころにくく、をりふしにつけつつ、らうらうじく、ありがたかりしひとのみこころばへなりかし。 |
40 | 3.2.13 | 173 | 152 |
さしもあるまじきおほよその人さへ、そのころは、風の音虫の声につけつつ、涙落とさぬはなし。まして、ほのかにも見たてまつりし人の、思ひ慰むべき世なし。年ごろ睦ましく仕うまつり馴れつる人びと、しばしも残れる命、恨めしきことを嘆きつつ、尼になり、この世のほかの山住みなどに思ひ立つもありけり。 |
さしもあるまじきおほよそのひとさへ、そのころは、かぜのおとむしのこゑにつけつつ、なみだおとさぬはなし。まして、ほのかにもみたてまつりしひとの、おもひなぐさむべきよなし。としごろむつましくつかうまつりなれつるひとびと、しばしものこれるいのち、うらめしきことをなげきつつ、あまになり、このよのほかのやまずみなどにおもひたつもありけり。 |
40 | 3.3 | 174 | 153 | 第三段 秋好中宮の弔問 |
40 | 3.3.1 | 175 | 154 |
冷泉院の后の宮よりも、あはれなる御消息絶えず、尽きせぬことども聞こえたまひて、 |
れいぜいゐんのきさいのみやよりも、あはれなるおほんせうそこたえず、つきせぬことどもきこえたまひて、 |
40 | 3.3.2 | 176 | 155 |
「枯れ果つる野辺を憂しとや亡き人の<BR/>秋に心をとどめざりけむ |
"〔かれはつるのべをうしとやなきひとの<BR/>あきにこころをとどめざりけん |
40 | 3.3.3 | 177 | 156 |
今なむことわり知られはべりぬる」 |
いまなんことわりしられはべりぬる。" |
40 | 3.3.4 | 178 | 157 |
とありけるを、ものおぼえぬ御心にも、うち返し、置きがたく見たまふ。「いふかひあり、をかしからむ方の慰めには、この宮ばかりこそおはしけれ」と、いささかのもの紛るるやうに思し続くるにも、涙のこぼるるを、袖の暇なく、え書きやりたまはず。 |
とありけるを、ものおぼえぬみこころにも、うちかへし、おきがたくみたまふ。"いふかひあり、をかしからんかたのなぐさめには、このみやばかりこそおはしけれ。"と、いささかのものまぎるるやうにおぼしつづくるにも、なみだのこぼるるを、そでのいとまなく、えかきやりたまはず。 |
40 | 3.3.5 | 179 | 158 |
「昇りにし雲居ながらもかへり見よ<BR/>われ飽きはてぬ常ならぬ世に」 |
"〔のぼりにしくもゐながらもかへりみよ<BR/>われあきはてぬつねならぬよに〕 |
40 | 3.3.6 | 180 | 159 |
おし包みたまひても、とばかり、うち眺めておはす。 |
おしつつみたまひても、とばかり、うちながめておはす。 |
40 | 3.3.7 | 181 | 160 |
すくよかにも思されず、われながら、ことのほかにほれぼれしく思し知らるること多かる、紛らはしに、女方にぞおはします。 |
すくよかにもおぼされず、われながら、ことのほかにほれぼれしくおぼししらるることおほかる、まぎらはしに、をんながたにぞおはします。 |
40 | 3.3.8 | 182 | 161 |
仏の御前に人しげからずもてなして、のどやかに行なひたまふ。千年をももろともにと思ししかど、限りある別れぞいと口惜しきわざなりける。今は、蓮の露も異事に紛るまじく、後の世をと、ひたみちに思し立つこと、たゆみなし。されど、人聞きを憚りたまふなむ、あぢきなかりける。 |
ほとけのおまへにひとしげからずもてなして、のどやかにおこなひたまふ。ちとせをももろともにとおぼししかど、かぎりあるわかれぞいとくちをしきわざなりける。いまは、はちすのつゆもことごとにまぎるまじく、のちのよをと、ひたみちにおぼしたつこと、たゆみなし。されど、ひとぎきをはばかりたまふなん、あぢきなかりける。 |
40 | 3.3.9 | 183 | 162 |
御わざのことども、はかばかしくのたまひおきつることどもなかりければ、大将の君なむ、とりもちて仕うまつりたまひける。今日やとのみ、わが身も心づかひせられたまふ折多かるを、はかなくて、積もりにけるも、夢の心地のみす。中宮なども、思し忘るる時の間なく、恋ひきこえたまふ。 |
おほんわざのことども、はかばかしくのたまひおきつることどもなかりければ、だいしゃうのきみなん、とりもちてつかうまつりたまひける。けふやとのみ、わがみもこころづかひせられたまふをりおほかるを、はかなくて、つもりにけるも、ゆめのここちのみす。ちゅうぐうなども、おぼしわするるときのまなく、こひきこえたまふ。 |