帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
45 | 橋姫 |
45 | 1 | 72 | 51 | 第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮 |
45 | 1.1 | 73 | 52 | 第一段 八の宮の家系と家族 |
45 | 1.1.1 | 74 | 53 |
そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮おはしけり。母方なども、やむごとなくものしたまひて、筋異なるべきおぼえなどおはしけるを、時移りて、世の中にはしたなめられたまひける紛れに、なかなかいと名残なく、御後見などももの恨めしき心々にて、かたがたにつけて、世を背き去りつつ、公私に拠り所なく、さし放たれたまへるやうなり。 |
そのころ、よにかずまへられたまはぬふるみやおはしけり。ははかたなども、やんごとなくものしたまひて、すぢことなるべきおぼえなどおはしけるを、ときうつりて、よのなかにはしたなめられたまひけるまぎれに、なかなかいとなごりなく、おほんうしろみなどもものうらめしきこころごころにて、かたがたにつけて、よをそむきさりつつ、おほやけわたくしによりどころなく、さしはなたれたまへるやうなり。 |
45 | 1.1.2 | 75 | 54 |
北の方も、昔の大臣の御女なりける、あはれに心細く、親たちの思しおきてたりしさまなど思ひ出でたまふに、たとしへなきこと多かれど、古き御契りの二つなきばかりを、憂き世の慰めにて、かたみにまたなく頼み交はしたまへり。 |
きたのかたも、むかしのおとどのおほんむすめなりける、あはれにこころぼそく、おやたちのおぼしおきてたりしさまなどおもひいでたまふに、たとしへなきことおほかれど、ふるきおほんちぎりのふたつなきばかりを、うきよのなぐさめにて、かたみにまたなくたのみかはしたまへり。 |
45 | 1.1.3 | 76 | 55 |
年ごろ経るに、御子ものしたまはで心もとなかりければ、さうざうしくつれづれなる慰めに、「いかで、をかしからむ稚児もがな」と、宮ぞ時々思しのたまひけるに、めづらしく、女君のいとうつくしげなる、生まれたまへり。 |
としごろふるに、おほんこものしたまはでこころもとなかりければ、さうざうしくつれづれなるなぐさめに、"いかで、をかしからんちごもがな。"と、みやぞときどきおぼしのたまひけるに、めづらしく、をんなぎみのいとうつくしげなる、むまれたまへり。 |
45 | 1.1.4 | 77 | 56 |
これを限りなくあはれと思ひかしづききこえたまふに、さし続きけしきばみたまひて、「このたびは男にても」など思したるに、同じさまにて、平らかにはしたまひながら、いといたくわづらひて亡せたまひぬ。宮、あさましう思し惑ふ。 |
これをかぎりなくあはれとおもひかしづききこえたまふに、さしつづきけしきばみたまひて、"このたびはをとこにても。"などおぼしたるに、おなじさまにて、たひらかにはしたまひながら、いといたくわづらひてうせたまひぬ。みや、あさましうおぼしまどふ。 |
45 | 1.2 | 78 | 57 | 第二段 八の宮と娘たちの生活 |
45 | 1.2.1 | 79 | 58 |
「あり経るにつけても、いとはしたなく、堪へがたきこと多かる世なれど、見捨てがたくあはれなる人の御ありさま、心ざまに、かけとどめらるるほだしにてこそ、過ぐし来つれ、一人とまりて、いとどすさまじくもあるべきかな。いはけなき人びとをも、一人はぐくみ立てむほど、限りある身にて、いとをこがましう、人悪ろかるべきこと」 |
"ありふるにつけても、いとはしたなく、たへがたきことおほかるよなれど、みすてがたくあはれなるひとのおほんありさま、こころざまに、かけとどめらるるほだしにてこそ、すぐしきつれ、ひとりとまりて、いとどすさまじくもあるべきかな。いはけなきひとびとをも、ひとりはぐくみたてんほど、かぎりあるみにて、いとをこがましう、ひとわろかるべきこと。" |
45 | 1.2.2 | 80 | 59 |
と思し立ちて、本意も遂げまほしうしたまひけれど、見譲る方なくて残しとどめむを、いみじう思したゆたひつつ、年月も経れば、おのおのおよすけまさりたまふさま、容貌の、うつくしうあらまほしきを、明け暮れの御慰めにて、おのづから見過ぐしたまふ。 |
とおぼしたちて、ほいもとげまほしうしたまひけれど、みゆづるかたなくてのこしとどめんを、いみじうおぼしたゆたひつつ、としつきもふれば、おのおのおよすけまさりたまふさま、かたちの、うつくしうあらまほしきを、あけくれのおほんなぐさめにて、おのづからみすぐしたまふ。 |
45 | 1.2.3 | 81 | 60 |
後に生まれたまひし君をば、さぶらふ人びとも、「いでや、折ふし心憂く」など、うちつぶやきつつ、心に入れても扱ひきこえざりけれど、限りのさまにて、何ごとも思し分かざりしほどながら、これをいと心苦しと思ひて、 |
のちにむまれたまひしきみをば、さぶらふひとびとも、"いでや、をりふしこころうく。"など、うちつぶやきつつ、こころにいれてもあつかひきこえざりけれど、かぎりのさまにて、なにごともおぼしわかざりしほどながら、これをいとこころぐるしとおもひて、 |
45 | 1.2.4 | 82 | 61 |
「ただ、この君を形見に見たまひて、あはれと思せ」 |
"ただ、このきみをかたみにみたまひて、あはれとおぼせ。" |
45 | 1.2.5 | 83 | 62 |
とばかり、ただ一言なむ、宮に聞こえ置きたまひければ、前の世の契りもつらき折ふしなれど、「さるべきにこそはありけめと、今はと見えしまで、いとあはれと思ひて、うしろめたげにのたまひしを」と、思し出でつつ、この君をしも、いとかなしうしたてまつりたまふ。容貌なむまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでものしたまひける。 |
とばかり、ただひとことなん、みやにきこえおきたまひければ、さきのよのちぎりもつらきをりふしなれど、"さるべきにこそはありけめと、いまはとみえしまで、いとあはれとおもひて、うしろめたげにのたまひしを。"と、おぼしいでつつ、このきみをしも、いとかなしうしたてまつりたまふ。かたちなんまことにいとうつくしう、ゆゆしきまでものしたまひける。 |
45 | 1.2.6 | 84 | 63 |
姫君は、心ばせ静かによしある方にて、見る目もてなしも、気高く心にくきさまぞしたまへる。いたはしくやむごとなき筋はまさりて、いづれをも、さまざまに思ひかしづききこえたまへど、かなはぬこと多く、年月に添へて、宮の内も寂しくのみなりまさる。 |
ひめぎみは、こころばせしづかによしあるかたにて、みるめもてなしも、けだかくこころにくきさまぞしたまへる。いたはしくやんごとなきすぢはまさりて、いづれをも、さまざまにおもひかしづききこえたまへど、かなはぬことおほく、としつきにそへて、みやのうちもさびしくのみなりまさる。 |
45 | 1.2.7 | 85 | 64 |
さぶらひし人も、たつきなき心地するに、え忍びあへず、次々に従ひてまかで散りつつ、若君の御乳母も、さる騷ぎに、はかばかしき人をしも、選りあへたまはざりければ、ほどにつけたる心浅さにて、幼きほどを見捨てたてまつりにければ、ただ宮ぞはぐくみたまふ。 |
さぶらひしひとも、たつきなきここちするに、えしのびあへず、つぎつぎにしたがひてまかでちりつつ、わかぎみのおほんめのとも、さるさわぎに、はかばかしきひとをしも、えりあへたまはざりければ、ほどにつけたるこころあささにて、をさなきほどをみすてたてまつりにければ、ただみやぞはぐくみたまふ。 |
45 | 1.3 | 86 | 65 | 第三段 八の宮の仏道精進の生活 |
45 | 1.3.1 | 87 | 66 |
さすがに、広くおもしろき宮の、池、山などのけしきばかり昔に変はらで、いといたう荒れまさるを、つれづれと眺めたまふ。 |
さすがに、ひろくおもしろきみやの、いけ、やまなどのけしきばかりむかしにかはらで、いといたうあれまさるを、つれづれとながめたまふ。 |
45 | 1.3.2 | 88 | 67 |
家司なども、むねむねしき人もなきままに、草青やかに繁り、軒のしのぶぞ、所え顔に青みわたれる。折々につけたる花紅葉の、色をも香をも、同じ心に見はやしたまひしにこそ、慰むことも多かりけれ、いとどしく寂しく、寄りつかむ方なきままに、持仏の御飾りばかりを、わざとせさせたまひて、明け暮れ行ひたまふ。 |
けいしなども、むねむねしきひともなきままに、くさあをやかにしげり、のきのしのぶぞ、ところえがほにあをみわたれる。をりをりにつけたるはなもみぢの、いろをもかをも、おなじこころにみはやしたまひしにこそ、なぐさむこともおほかりけれ、いとどしくさびしく、よりつかんかたなきままに、ぢぶつのおほんかざりばかりを、わざとせさせたまひて、あけくれおこなひたまふ。 |
45 | 1.3.3 | 89 | 68 |
かかるほだしどもにかかづらふだに、思ひの外に口惜しう、「わが心ながらもかなはざりける契り」とおぼゆるを、まいて、「何にか、世の人めいて今さらに」とのみ、年月に添へて、世の中を思し離れつつ、心ばかりは聖になり果てたまひて、故君の亡せたまひにしこなたは、例の人のさまなる心ばへなど、たはぶれにても思し出でたまはざりけり。 |
かかるほだしどもにかかづらふだに、おもひのほかにくちをしう、"わがこころながらもかなはざりけるちぎり。"とおぼゆるを、まいて、"なににか、よのひとめいていまさらに。"とのみ、としつきにそへて、よのなかをおぼしはなれつつ、こころばかりはひじりになりはてたまひて、こきみのうせたまひにしこなたは、れいのひとのさまなるこころばへなど、たはぶれにてもおぼしいでたまはざりけり。 |
45 | 1.3.4 | 90 | 69 |
「などか、さしも。別るるほどの悲しびは、また世にたぐひなきやうにのみこそは、おぼゆべかめれど、あり経れば、さのみやは。なほ、世人になずらふ御心づかひをしたまひて、いとかく見苦しく、たつきなき宮の内も、おのづからもてなさるるわざもや」 |
"などか、さしも。わかるるほどのかなしびは、またよにたぐひなきやうにのみこそは、おぼゆべかめれど、ありふれば、さのみやは。なほ、よひとになずらふみこころづかひをしたまひて、いとかくみぐるしく、たつきなきみやのうちも、おのづからもてなさるるわざもや。" |
45 | 1.3.5 | 91 | 70 |
と、人はもどききこえて、何くれと、つきづきしく聞こえごつことも、類にふれて多かれど、聞こしめし入れざりけり。 |
と、ひとはもどききこえて、なにくれと、つきづきしくきこえごつことも、るいにふれておほかれど、きこしめしいれざりけり。 |
45 | 1.3.6 | 92 | 71 |
御念誦のひまひまには、この君たちをもてあそび、やうやうおよすけたまへば、琴習はし、碁打ち、偏つきなど、はかなき御遊びわざにつけても、心ばへどもを見たてまつりたまふに、姫君は、らうらうじく、深く重りかに見えたまふ。若君は、おほどかにらうたげなるさまして、ものづつみしたるけはひに、いとうつくしう、さまざまにおはす。 |
おほんねんずのひまひまには、このきみたちをもてあそび、やうやうおよすけたまへば、ことならはし、ごうち、へんつきなど、はかなきおほんあそびわざにつけても、こころばへどもをみたてまつりたまふに、ひめぎみは、らうらうじく、ふかくおもりかにみえたまふ。わかぎみは、おほどかにらうたげなるさまして、ものづつみしたるけはひに、いとうつくしう、さまざまにおはす。 |
45 | 1.4 | 93 | 72 | 第四段 ある春の日の生活 |
45 | 1.4.1 | 94 | 73 |
春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの、羽うち交はしつつ、おのがじしさへづる声などを、常は、はかなきことに見たまひしかども、つがひ離れぬをうらやましく眺めたまひて、君たちに、御琴ども教へきこえたまふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、とりどり掻き鳴らしたまふ物の音ども、あはれにをかしく聞こゆれば、涙を浮けたまひて、 |
はるのうららかなるひかげに、いけのみづとりどもの、はねうちかはしつつ、おのがじしさへづるこゑなどを、つねは、はかなきことにみたまひしかども、つがひはなれぬをうらやましくながめたまひて、きみたちに、おほんことどもをしへきこえたまふ。いとをかしげに、ちひさきおほんほどに、とりどりかきならしたまふもののねども、あはれにをかしくきこゆれば、なみだをうけたまひて、 |
45 | 1.4.2 | 95 | 74 |
「うち捨ててつがひ去りにし水鳥の<BR/>仮のこの世にたちおくれけむ |
"〔うちすててつがひさりにしみづとりの<BR/>かりのこのよにたちおくれけん |
45 | 1.4.3 | 96 | 75 |
心尽くしなりや」 |
こころづくしなりや。" |
45 | 1.4.4 | 97 | 76 |
と、目おし拭ひたまふ。容貌いときよげにおはします宮なり。年ごろの御行ひにやせ細りたまひにたれど、さてしも、あてになまめきて、君たちをかしづきたまふ御心ばへに、直衣の萎えばめるを着たまひて、しどけなき御さま、いと恥づかしげなり。 |
と、めおしのごひたまふ。かたちいときよげにおはしますみやなり。としごろのおほんおこなひにやせほそりたまひにたれど、さてしも、あてになまめきて、きみたちをかしづきたまふみこころばへに、なほしのなえばめるをきたまひて、しどけなきおほんさま、いとはづかしげなり。 |
45 | 1.4.5 | 98 | 78 |
姫君、御硯をやをらひき寄せて、手習のやうに書き混ぜたまふを、 |
ひめぎみ、おほんすずりをやをらひきよせて、てならひのやうにかきまぜたまふを、 |
45 | 1.4.6 | 99 | 79 |
「これに書きたまへ。硯には書きつけざなり」 |
"これにかきたまへ。すずりにはかきつけざなり。" |
45 | 1.4.7 | 100 | 80 |
とて、紙たてまつりたまへば、恥ぢらひて書きたまふ。 |
とて、かみたてまつりたまへば、はぢらひてかきたまふ。 |
45 | 1.4.8 | 101 | 81 |
「いかでかく巣立ちけるぞと思ふにも<BR/>憂き水鳥の契りをぞ知る」 |
"〔いかでかくすだちけるぞとおもふにも<BR/>うきみづとりのちぎりをぞしる〕 |
45 | 1.4.9 | 102 | 82 |
よからねど、その折は、いとあはれなりけり。手は、生ひ先見えて、まだよくも続けたまはぬほどなり。 |
よからねど、そのをりは、いとあはれなりけり。ては、おひさきみえて、まだよくもつづけたまはぬほどなり。 |
45 | 1.4.10 | 103 | 83 |
「若君も書きたまへ」 |
"わかぎみもかきたまへ。" |
45 | 1.4.11 | 104 | 84 |
とあれば、今すこし幼げに、久しく書き出でたまへり。 |
とあれば、いますこしをさなげに、ひさしくかきいでたまへり。 |
45 | 1.4.12 | 105 | 85 |
「泣く泣くも羽うち着する君なくは<BR/>われぞ巣守になりは果てまし」 |
"〔なくなくもはねうちきするきみなくは<BR/>われぞすもりになりははてまし〕 |
45 | 1.4.13 | 106 | 86 |
御衣どもなど萎えばみて、御前にまた人もなく、いと寂しくつれづれげなるに、さまざまいとらうたげにてものしたまふを、あはれに心苦しう、いかが思さざらむ。経を片手に持たまひて、かつ読みつつ唱歌をしたまふ。 |
おほんぞどもなどなえばみて、おまへにまたひともなく、いとさびしくつれづれげなるに、さまざまいとらうたげにてものしたまふを、あはれにこころぐるしう、いかがおぼさざらん。きゃうをかたてにもたまひて、かつよみつつさうがをしたまふ。 |
45 | 1.4.14 | 107 | 87 |
姫君に琵琶、若君に箏の御琴、まだ幼けれど、常に合はせつつ習ひたまへば、聞きにくくもあらで、いとをかしく聞こゆ。 |
ひめぎみにびは、わかぎみにさうのおほんこと、まだをさなけれど、つねにあはせつつならひたまへば、ききにくくもあらで、いとをかしくきこゆ。 |
45 | 1.5 | 108 | 88 | 第五段 八の宮の半生と宇治へ移住 |
45 | 1.5.1 | 109 | 89 |
父帝にも女御にも、疾く後れきこえたまひて、はかばかしき御後見の、取り立てたるおはせざりければ、才など深くもえ習ひたまはず、まいて、世の中に住みつく御心おきては、いかでかは知りたまはむ。高き人と聞こゆる中にも、あさましうあてにおほどかなる、女のやうにおはすれば、古き世の御宝物、祖父大臣の御処分、何やかやと尽きすまじかりけれど、行方もなくはかなく失せ果てて、御調度などばかりなむ、わざとうるはしくて多かりける。 |
ちちみかどにもにょうごにも、とくおくれきこえたまひて、はかばかしきおほんうしろみの、とりたてたるおはせざりければ、ざえなどふかくもえならひたまはず、まいて、よのなかにすみつくみこころおきては、いかでかはしりたまはん。たかきひとときこゆるなかにも、あさましうあてにおほどかなる、をんなのやうにおはすれば、ふるきよのおほんたからもの、おほぢおとどのおほんそうぶん、なにやかやとつきすまじかりけれど、ゆくへもなくはかなくうせはてて、おほんてうどなどばかりなん、わざとうるはしくておほかりける。 |
45 | 1.5.2 | 110 | 90 |
参り訪らひきこえ、心寄せたてまつる人もなし。つれづれなるままに、雅楽寮の物の師どもなどやうの、すぐれたるを召し寄せつつ、はかなき遊びに心を入れて、生ひ出でたまへれば、その方は、いとをかしうすぐれたまへり。 |
まゐりとぶらひきこえ、こころよせたてまつるひともなし。つれづれなるままに、うたづかさのもののしどもなどやうの、すぐれたるをめしよせつつ、はかなきあそびにこころをいれて、おひいでたまへれば、そのかたは、いとをかしうすぐれたまへり。 |
45 | 1.5.3 | 111 | 91 |
源氏の大殿の御弟におはせしを、冷泉院の春宮におはしましし時、朱雀院の大后の、横様に思し構へて、この宮を、世の中に立ち継ぎたまふべく、わが御時、もてかしづきたてまつりける騷ぎに、あいなく、あなたざまの御仲らひには、さし放たれたまひにければ、いよいよかの御つぎつぎになり果てぬる世にて、え交じらひたまはず。また、この年ごろ、かかる聖になり果てて、今は限りと、よろづを思し捨てたり。 |
げんじのおとどのおほんおとうとにおはせしを、れいぜいゐんのとうぐうにおはしまししとき、すじゃくゐんのおほぎさきの、よこさまにおぼしかまへて、このみやを、よのなかにたちつぎたまふべく、わがおほんとき、もてかしづきたてまつりけるさわぎに、あいなく、あなたざまのおほんなからひには、さしはなたれたまひにければ、いよいよかのおほんつぎつぎになりはてぬるよにて、えまじらひたまはず。また、このとしごろ、かかるひじりになりはてて、いまはかぎりと、よろづをおぼしすてたり。 |
45 | 1.5.4 | 112 | 92 |
かかるほどに、住みたまふ宮焼けにけり。いとどしき世に、あさましうあへなくて、移ろひ住みたまふべき所の、よろしきもなかりければ、宇治といふ所に、よしある山里持たまへりけるに渡りたまふ。思ひ捨てたまへる世なれども、今はと住み離れなむをあはれに思さる。 |
かかるほどに、すみたまふみややけにけり。いとどしきよに、あさましうあへなくて、うつろひすみたまふべきところの、よろしきもなかりければ、うぢといふところに、よしあるやまざともたまへりけるにわたりたまふ。おもひすてたまへるよなれども、いまはとすみはなれなんをあはれにおぼさる。 |
45 | 1.5.5 | 113 | 93 |
網代のけはひ近く、耳かしかましき川のわたりにて、静かなる思ひにかなはぬ方もあれど、いかがはせむ。花紅葉、水の流れにも、心をやる便によせて、いとどしく眺めたまふより他のことなし。かく絶え籠もりぬる野山の末にも、「昔の人ものしたまはましかば」と、思ひきこえたまはぬ折なかりけり。 |
あじろのけはひちかく、みみかしかましきかはのわたりにて、しづかなるおもひにかなはぬかたもあれど、いかがはせん。はなもみぢ、みづのながれにも、こころをやるたよりによせて、いとどしくながめたまふよりほかのことなし。かくたえこもりぬるのやまのすゑにも、"むかしのひとのものしたまはましかば。"と、おもひきこえたまはぬをりなかりけり。 |
45 | 1.5.6 | 114 | 94 |
「見し人も宿も煙になりにしを<BR/>何とてわが身消え残りけむ」 |
"〔みしひともやどもけぶりになりにしを<BR/>なにとてわがみきえのこりけん〕 |
45 | 1.5.7 | 115 | 95 |
生けるかひなくぞ、思し焦がるるや。 |
いけるかひなくぞ、おぼしこがるるや。 |
45 | 2 | 116 | 96 | 第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ |
45 | 2.1 | 117 | 97 | 第一段 八の宮、阿闍梨に師事 |
45 | 2.1.1 | 118 | 98 |
いとど、山重なれる御住み処に、尋ね参る人なし。あやしき下衆など、田舎びたる山賤どものみ、まれに馴れ参り仕うまつる。峰の朝霧晴るる折なくて、明かし暮らしたまふに、この宇治山に、聖だちたる阿闍梨住みけり。 |
いとど、やまかさなれるおほんすみかに、たづねまゐるひとなし。あやしきげすなど、ゐなかびたるやまがつどものみ、まれになれまゐりつかうまつる。みねのあさぎりはるるをりなくて、あかしくらしたまふに、このうぢやまに、ひじりだちたるあざりすみけり。 |
45 | 2.1.2 | 119 | 99 |
才いとかしこくて、世のおぼえも軽からねど、をさをさ公事にも出で仕へず、籠もりゐたるに、この宮の、かく近きほどに住みたまひて、寂しき御さまに、尊きわざをせさせたまひつつ、法文を読みならひたまへば、尊がりきこえて、常に参る。 |
ざえいとかしこくて、よのおぼえもかろからねど、をさをさおほやけごとにもいでつかへず、こもりゐたるに、このみやの、かくちかきほどにすみたまひて、さびしきおほんさまに、たふときわざをせさせたまひつつ、ほふもんをよみならひたまへば、たふとがりきこえて、つねにまゐる。 |
45 | 2.1.3 | 120 | 100 |
年ごろ学び知りたまへることどもの、深き心を解き聞かせたてまつり、いよいよこの世のいとかりそめに、あぢきなきことを申し知らすれば、 |
としごろまなびしりたまへることどもの、ふかきこころをとききかせたてまつり、いよいよこのよのいとかりそめに、あぢきなきことをまうししらすれば、 |
45 | 2.1.4 | 121 | 101 |
「心ばかりは蓮の上に思ひのぼり、濁りなき池にも住みぬべきを、いとかく幼き人びとを見捨てむうしろめたさばかりになむ、えひたみちに容貌をも変へぬ」 |
"こころばかりははちすのうへにおもひのぼり、にごりなきいけにもすみぬべきを、いとかくをさなきひとびとをみすてんうしろめたさばかりになん、えひたみちにかたちをもかへぬ。" |
45 | 2.1.5 | 122 | 102 |
など、隔てなく物語したまふ。 |
など、へだてなくものがたりしたまふ。 |
45 | 2.2 | 123 | 103 | 第二段 冷泉院にて阿闍梨と薫語る |
45 | 2.2.1 | 124 | 104 |
この阿闍梨は、冷泉院にも親しくさぶらひて、御経など教へきこゆる人なりけり。京に出でたるついでに参りて、例の、さるべき文など御覧じて、問はせたまふこともあるついでに、 |
このあざりは、れいぜいゐんにもしたしくさぶらひて、おほんきゃうなどをしへきこゆるひとなりけり。きゃうにいでたるついでにまゐりて、れいの、さるべきふみなどごらんじて、とはせたまふこともあるついでに、 |
45 | 2.2.2 | 125 | 105 |
「八の宮の、いとかしこく、内教の御才悟り深くものしたまひけるかな。さるべきにて、生まれたまへる人にやものしたまふらむ。心深く思ひ澄ましたまへるほど、まことの聖のおきてになむ見えたまふ」と聞こゆ。 |
"はちのみやの、いとかしこく、ないけうのおほんざえさとりふかくものしたまひけるかな。さるべきにて、むまれたまへるひとにやものしたまふらん。こころふかくおもひすましたまへるほど、まことのひじりのおきてになんみえたまふ。"ときこゆ。 |
45 | 2.2.3 | 126 | 106 |
「いまだ容貌は変へたまはずや。俗聖とか、この若き人びとの付けたなる、あはれなることなり」などのたまはす。 |
"いまだかたちはかへたまはずや。ぞくひじりとか、このわかきひとびとのつけたなる、あはれなることなり。"などのたまはす。 |
45 | 2.2.4 | 127 | 107 |
宰相中将も、御前にさぶらひたまひて、「われこそ、世の中をばいとすさまじう思ひ知りながら、行ひなど、人に目とどめらるばかりは勤めず、口惜しくて過ぐし来れ」と、人知れず思ひつつ、「俗ながら聖になりたまふ心のおきてやいかに」と、耳とどめて聞きたまふ。 |
さいしゃうのちうじゃうも、おまへにさぶらひたまひて、"われこそ、よのなかをばいとすさまじうおもひしりながら、おこなひなど、ひとにめとどめらるばかりはつとめず、くちをしくてすぐしくれ。"と、ひとしれずおもひつつ、"ぞくながらひじりになりたまふこころのおきてやいかに。"と、みみとどめてききたまふ。 |
45 | 2.2.5 | 128 | 108 |
「出家の心ざしは、もとよりものしたまへるを、はかなきことに思ひとどこほり、今となりては、心苦しき女子どもの御上を、え思ひ捨てぬとなむ、嘆きはべりたうぶ」と奏す。 |
"すけのこころざしは、もとよりものしたまへるを、はかなきことにおもひとどこほり、いまとなりては、こころぐるしきをんなごどものおほんうへを、えおもひすてぬとなん、なげきはべりたうぶ。"とそうす。 |
45 | 2.2.6 | 129 | 109 |
さすがに、物の音めづる阿闍梨にて、 |
さすがに、もののねめづるあざりにて、 |
45 | 2.2.7 | 130 | 110 |
「げに、はた、この姫君たちの、琴弾き合はせて遊びたまへる、川波にきほひて聞こえはべるは、いとおもしろく、極楽思ひやられはべるや」 |
"げに、はた、このひめぎみたちの、ことひきあはせてあそびたまへる、かはなみにきほひてきこえはべるは、いとおもしろく、ごくらくおもひやられはべるや。" |
45 | 2.2.8 | 131 | 111 |
と、古体にめづれば、帝ほほ笑みたまひて、 |
と、こたいにめづれば、みかどほほゑみたまひて、 |
45 | 2.2.9 | 132 | 112 |
「さる聖のあたりに生ひ出でて、この世の方ざまは、たどたどしからむと推し量らるるを、をかしのことや。うしろめたく、思ひ捨てがたく、もてわづらひたまふらむを、もし、しばしも後れむほどは、譲りやはしたまはぬ」 |
"さるひじりのあたりにおひいでて、このよのかたざまは、たどたどしからんとおしはからるるを、をかしのことや。うしろめたく、おもひすてがたく、もてわづらひたまふらんを、もし、しばしもおくれんほどは、ゆづりやはしたまはぬ。" |
45 | 2.2.10 | 133 | 113 |
などぞのたまはする。この院の帝は、十の御子にぞおはしましける。朱雀院の、故六条院に預けきこえたまひし、入道宮の御例を思ほし出でて、「かの君たちをがな。つれづれなる遊びがたきに」などうち思しけり。 |
などぞのたまはする。このゐんのみかどは、じふのみこにぞおはしましける。すじゃくゐんの、ころくでうのゐんにあづけきこえたまひし、にふだうのみやのおほんためしをおもほしいでて、"かのきみたちをがな。つれづれなるあそびがたきに。"などうちおぼしけり。 |
45 | 2.3 | 134 | 114 | 第三段 阿闍梨、八の宮に薫を語る |
45 | 2.3.1 | 135 | 115 |
中将の君、なかなか、親王の思ひ澄ましたまへらむ御心ばへを、「対面して、見たてまつらばや」と思ふ心ぞ深くなりぬる。さて阿闍梨の帰り入るにも、 |
ちうじゃうのきみ、なかなか、みこのおもひすましたまへらんみこころばへを、"たいめんして、みたてまつらばや。"とおもふこころぞふかくなりぬる。さてあざりのかへりいるにも、 |
45 | 2.3.2 | 136 | 116 |
「かならず参りて、もの習ひきこゆべく、まづうちうちにも、けしき賜はりたまへ」 |
"かならずまゐりて、ものならひきこゆべく、まづうちうちにも、けしきたまはりたまへ。" |
45 | 2.3.3 | 137 | 117 |
など語らひたまふ。 |
などかたらひたまふ。 |
45 | 2.3.4 | 138 | 118 |
帝の、御言伝てにて、「あはれなる御住まひを、人伝てに聞くこと」など聞こえたまうて、 |
みかどの、おほんことづてにて、"あはれなるおほんすまひを、ひとづてにきくこと。"などきこえたまうて、 |
45 | 2.3.5 | 139 | 119 |
「世を厭ふ心は山にかよへども<BR/>八重立つ雲を君や隔つる」 |
"〔よをいとふこころはやまにかよへども<BR/>やへたつくもをきみやへだつる〕 |
45 | 2.3.6 | 140 | 120 |
阿闍梨、この御使を先に立てて、かの宮に参りぬ。なのめなる際の、さるべき人の使だにまれなる山蔭に、いとめづらしく、待ちよろこびたまうて、所につけたる肴などして、さる方にもてはやしたまふ。御返し、 |
あざり、このおほんつかひをさきにたてて、かのみやにまゐりぬ。なのめなるきはの、さるべきひとのつかひだにまれなるやまかげに、いとめづらしく、まちよろこびたまうて、ところにつけたるさかななどして、さるかたにもてはやしたまふ。おほんかへし、 |
45 | 2.3.7 | 141 | 121 |
「あと絶えて心澄むとはなけれども<BR/>世を宇治山に宿をこそ借れ」 |
"〔あとたえてこころすむとはなけれども<BR/>よをうぢやまにやどをこそかれ〕 |
45 | 2.3.8 | 142 | 122 |
聖の方をば卑下して聞こえなしたまへれば、「なほ、世に恨み残りける」と、いとほしく御覧ず。 |
ひじりのかたをばひげしてきこえなしたまへれば、"なほ、よにうらみのこりける。"と、いとほしくごらんず。 |
45 | 2.3.9 | 143 | 123 |
阿闍梨、中将の、道心深げにものしたまふなど、語りきこえて、 |
あざり、ちうじゃうの、だうしんこころふかげにものしたまふなど、かたりきこえて、 |
45 | 2.3.10 | 144 | 124 |
「法文などの心得まほしき心ざしなむ、いはけなかりし齢より深く思ひながら、えさらず世にあり経るほど、公私に暇なく明け暮らし、わざと閉ぢ籠もりて習ひ読み、おほかたはかばかしくもあらぬ身にしも、世の中を背き顔ならむも、憚るべきにあらねど、おのづからうちたゆみ、紛らはしくてなむ過ぐし来るを、いとありがたき御ありさまを承り伝へしより、かく心にかけてなむ、頼みきこえさする、など、ねむごろに申したまひし」など語りきこゆ。 |
"ほふもんなどのこころえまほしきこころざしなん、いはけなかりしよはひよりふかくおもひながら、えさらずよにありふるほど、おほやけわたくしにいとまなくあけくらし、わざととぢこもりてならひよみ、おほかたはかばかしくもあらぬみにしも、よのなかをそむきがほならんも、はばかるべきにあらねど、おのづからうちたゆみ、まぎらはしくてなんすぐしくるを、いとありがたきおほんありさまをうけたまはりつたへしより、かくこころにかけてなん、たのみきこえさする、など、ねんごろにまうしたまひし。"などかたりきこゆ。 |
45 | 2.3.11 | 145 | 125 |
宮、 |
みや、 |
45 | 2.3.12 | 146 | 126 |
「世の中をかりそめのことと思ひ取り、厭はしき心のつきそむることも、わが身に愁へある時、なべての世も恨めしう思ひ知る初めありてなむ、道心も起こるわざなめるを、年若く、世の中思ふにかなひ、何ごとも飽かぬことはあらじとおぼゆる身のほどに、さはた、後の世をさへ、たどり知りたまふらむがありがたさ。 |
"よのなかをかりそめのこととおもひとり、いとはしきこころのつきそむることも、わがみにうれへあるとき、なべてのよもうらめしうおもひしるはじめありてなん、だうしんもおこるわざなめるを、としわかく、よのなかおもふにかなひ、なにごともあかぬことはあらじとおぼゆるみのほどに、さはた、のちのよをさへ、たどりしりたまふらんがありがたさ。 |
45 | 2.3.13 | 147 | 127 |
ここには、さべきにや、ただ厭ひ離れよと、ことさらに仏などの勧めおもむけたまふやうなるありさまにて、おのづからこそ、静かなる思ひかなひゆけど、残り少なき心地するに、はかばかしくもあらで、過ぎぬべかめるを、来し方行く末、さらに得たるところなく思ひ知らるるを、かへりては、心恥づかしげなる法の友にこそは、ものしたまふなれ」 |
ここには、さべきにや、ただいとひはなれよと、ことさらにほとけなどのすすめおもむけたまふやうなるありさまにて、おのづからこそ、しづかなるおもひかなひゆけど、のこりすくなきここちするに、はかばかしくもあらで、すぎぬべかめるを、きしかたゆくすゑ、さらにえたるところなくおもひしらるるを、かへりては、こころはづかしげなるのりのともにこそは、ものしたまふなれ。" |
45 | 2.3.14 | 148 | 128 |
などのたまひて、かたみに御消息通ひ、みづからも参うでたまふ。 |
などのたまひて、かたみにおほんせうそこかよひ、みづからもまうでたまふ。 |
45 | 2.4 | 149 | 129 | 第四段 薫、八の宮と親交を結ぶ |
45 | 2.4.1 | 150 | 130 |
げに、聞きしよりもあはれに、住まひたまへるさまよりはじめて、いと仮なる草の庵に、思ひなし、ことそぎたり。同じき山里といへど、さる方にて心とまりぬべく、のどやかなるもあるを、いと荒ましき水の音、波の響きに、もの忘れうちし、夜など、心解けて夢をだに見るべきほどもなげに、すごく吹き払ひたり。 |
げに、ききしよりもあはれに、すまひたまへるさまよりはじめて、いとかりなるくさのいほりに、おもひなし、ことそぎたり。おなじきやまざとといへど、さるかたにてこころとまりぬべく、のどやかなるもあるを、いとあらましきみづのおと、なみのひびきに、ものわすれうちし、よるなど、こころとけてゆめをだにみるべきほどもなげに、すごくふきはらひたり。 |
45 | 2.4.2 | 151 | 131 |
「聖だちたる御ために、かかるしもこそ、心とまらぬもよほしならめ、女君たち、何心地して過ぐしたまふらむ。世の常の女しくなよびたる方は、遠くや」と推し量らるる御ありさまなり。 |
"ひじりだちたるおほんために、かかるしもこそ、こころとまらぬもよほしならめ、をんなぎみたち、なにごこちしてすぐしたまふらん。よのつねのをんなしくなよびたるかたは、とほくや。"とおしはからるるおほんありさまなり。 |
45 | 2.4.3 | 152 | 132 |
仏の御隔てに、障子ばかりを隔ててぞおはすべかめる。好き心あらむ人は、けしきばみ寄りて、人の御心ばへをも見まほしう、さすがにいかがと、ゆかしうもある御けはひなり。 |
ほとけのおほんへだてに、さうじばかりをへだててぞおはすべかめる。すきごころあらんひとは、けしきばみよりて、ひとのおほんこころばへをもみまほしう、さすがにいかがと、ゆかしうもあるおほんけはひなり。 |
45 | 2.4.4 | 153 | 133 |
されど、「さる方を思ひ離るる願ひに、山深く尋ねきこえたる本意なく、好き好きしきなほざりごとをうち出であざればまむも、ことに違ひてや」など思ひ返して、宮の御ありさまのいとあはれなるを、ねむごろにとぶらひきこえたまひ、たびたび参りたまひつつ、思ひしやうに、優婆塞ながら行ふ山の深き心、法文など、わざとさかしげにはあらで、いとよくのたまひ知らす。 |
されど、"さるかたをおもひはなるるねがひに、やまふかくたづねきこえたるほいなく、すきずきしきなほざりごとをうちいであざればまんも、ことにたがひてや。"などおもひかへして、みやのおほんありさまのいとあはれなるを、ねんごろにとぶらひきこえたまひ、たびたびまゐりたまひつつ、おもひしやうに、うばそくながらおこなふやまのふかきこころ、ほふもんなど、わざとさかしげにはあらで、いとよくのたまひしらす。 |
45 | 2.4.5 | 154 | 134 |
聖だつ人、才ある法師などは、世に多かれど、あまりこはごはしう、気遠げなる宿徳の僧都、僧正の際は、世に暇なくきすくにて、ものの心を問ひあらはさむも、ことことしくおぼえたまふ。 |
ひじりだつひと、ざえあるほふしなどは、よにおほかれど、あまりこはごはしう、けどほげなるしうとくのそうづ、そうじゃうのきはは、よにいとまなくきすくにて、もののこころをとひあらはさんも、ことことしくおぼえたまふ。 |
45 | 2.4.6 | 155 | 135 |
また、その人ならぬ仏の御弟子の、忌むことを保つばかりの尊さはあれど、けはひ卑しく言葉たみて、こちなげにもの馴れたる、いとものしくて、昼は、公事に暇なくなどしつつ、しめやかなる宵のほど、気近き御枕上などに召し入れ語らひたまふにも、いとさすがにものむつかしうなどのみあるを、いとあてに、心苦しきさまして、のたまひ出づる言の葉も、同じ仏の御教へをも、耳近きたとひにひきまぜ、いとこよなく深き御悟りにはあらねど、よき人は、ものの心を得たまふ方の、いとことにものしたまひければ、やうやう見馴れたてまつりたまふたびごとに、常に見たてまつらまほしうて、暇なくなどしてほど経る時は、恋しくおぼえたまふ。 |
また、そのひとならぬほとけのおほんでしの、いむことをたもつばかりのたふとさはあれど、けはひいやしくことばたみて、こちなげにものなれたる、いとものしくて、ひるは、おほやけごとにいとまなくなどしつつ、しめやかなるよひのほど、けぢかきおほんまくらがみなどにめしいれかたらひたまふにも、いとさすがにものむつかしうなどのみあるを、いとあてに、こころぐるしきさまして、のたまひいづることのはも、おなじほとけのおほんをしへをも、みみちかきたとひにひきまぜ、いとこよなくふかきおほんさとりにはあらねど、よきひとは、もののこころをえたまふかたの、いとことにものしたまひければ、やうやうみなれたてまつりたまふたびごとに、つねにみたてまつらまほしうて、いとまなくなどしてほどふるときは、こひしくおぼえたまふ。 |
45 | 2.4.7 | 156 | 136 |
この君の、かく尊がりきこえたまへれば、冷泉院よりも、常に御消息などありて、年ごろ、音にもをさをさ聞こえたまはず、寂しげなりし御住み処、やうやう人目見る時々あり。折ふしに、訪らひきこえたまふこと、いかめしう、この君も、まづさるべきことにつけつつ、をかしきやうにも、まめやかなるさまにも、心寄せ仕うまつりたまふこと、三年ばかりになりぬ。 |
このきみの、かくたふとがりきこえたまへれば、れいぜいゐんよりも、つねにおほんせうそこなどありて、としごろ、おとにもをさをさきこえたまはず、さびしげなりしおほんすみか、やうやうひとめみるときどきあり。をりふしに、とぶらひきこえたまふこと、いかめしう、このきみも、まづさるべきことにつけつつ、をかしきやうにも、まめやかなるさまにも、こころよせつかうまつりたまふこと、さんねんばかりになりぬ。 |
45 | 3 | 157 | 137 | 第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る |
45 | 3.1 | 158 | 138 | 第一段 晩秋に薫、宇治へ赴く |
45 | 3.1.1 | 159 | 139 |
秋の末つ方、四季にあててしたまふ御念仏を、この川面は、網代の波も、このころはいとど耳かしかましく静かならぬを、とて、かの阿闍梨の住む寺の堂に移ろひたまひて、七日のほど行ひたまふ。姫君たちは、いと心細く、つれづれまさりて眺めたまひけるころ、中将の君、久しく参らぬかなと、思ひ出できこえたまひけるままに、有明の月の、まだ夜深くさし出づるほどに出で立ちて、いと忍びて、御供に人などもなくて、やつれておはしけり。 |
あきのすゑつかた、しきにあててしたまふおほんねんぶつを、このかはづらは、あじろのなみも、このころはいとどみみかしかましくしづかならぬを、とて、かのあざりのすむてらのだうにうつろひたまひて、なぬかのほどおこなひたまふ。ひめぎみたちは、いとこころぼそく、つれづれまさりてながめたまひけるころ、ちうじゃうのきみ、ひさしくまゐらぬかなと、おもひいできこえたまひけるままに、ありあけのつきの、まだよぶかくさしいづるほどにいでたちて、いとしのびて、おほんともにひとなどもなくて、やつれておはしけり。 |
45 | 3.1.2 | 160 | 140 |
川のこなたなれば、舟などもわづらはで、御馬にてなりけり。入りもてゆくままに、霧りふたがりて、道も見えぬ繁木の中を分けたまふに、いと荒ましき風のきほひに、ほろほろと落ち乱るる木の葉の露の散りかかるも、いと冷やかに、人やりならずいたく濡れたまひぬ。かかるありきなども、をさをさならひたまはぬ心地に、心細くをかしく思されけり。 |
かはのこなたなれば、ふねなどもわづらはで、おほんむまにてなりけり。いりもてゆくままに、きりふたがりて、みちもみえぬしげきのなかをわけたまふに、いとあらましきかぜのきほひに、ほろほろとおちみだるるこのはのつゆのちりかかるも、いとひややかに、ひとやりならずいたくぬれたまひぬ。かかるありきなども、をさをさならひたまはぬここちに、こころぼそくをかしくおぼされけり。 |
45 | 3.1.3 | 161 | 141 |
「山おろしに耐へぬ木の葉の露よりも<BR/>あやなくもろきわが涙かな」 |
"〔やまおろしにたへぬこのはのつゆよりも<BR/>あやなくもろきわがなみだかな〕 |
45 | 3.1.4 | 162 | 142 |
山賤のおどろくもうるさしとて、随身の音もせさせたまはず。柴の籬を分けて、そこはかとなき水の流れどもを踏みしだく駒の足音も、なほ、忍びてと用意したまへるに、隠れなき御匂ひぞ、風に従ひて、主知らぬ香とおどろく寝覚めの家々ありける。 |
やまがつのおどろくもうるさしとて、ずいじんのおともせさせたまはず。しばのまがきをわけて、そこはかとなきみづのながれどもをふみしだくこまのあしおとも、なほ、しのびてとよういしたまへるに、かくれなきおほんにほひぞ、かぜにしたがひて、ぬししらぬかとおどろくねざめのいへいへありける。 |
45 | 3.1.5 | 163 | 143 |
近くなるほどに、その琴とも聞き分かれぬ物の音ども、いとすごげに聞こゆ。「常にかく遊びたまふと聞くを、ついでなくて、宮の御琴の音の名高きも、え聞かぬぞかし。よき折なるべし」と思ひつつ入りたまへば、琵琶の声の響きなりけり。「黄鐘調」に調べて、世の常の掻き合はせなれど、所からにや、耳馴れぬ心地して、掻き返す撥の音も、ものきよげにおもしろし。箏の琴、あはれになまめいたる声して、たえだえ聞こゆ。 |
ちかくなるほどに、そのことともききわかれぬもののねども、いとすごげにきこゆ。"つねにかくあそびたまふときくを、ついでなくて、みやのおほんことのねのなだかきも、えきかぬぞかし。よきをりなるべし。"とおもひつついりたまへば、びはのこゑのひびきなりけり。〔わうしきでう〕にしらべて、よのつねのかきあはせなれど、ところからにや、みみなれぬここちして、かきかへすばちのおとも、ものきよげにおもしろし。さうのこと、あはれになまめいたるこゑして、たえだえきこゆ。 |
45 | 3.2 | 164 | 144 | 第二段 宿直人、薫を招き入れる |
45 | 3.2.1 | 165 | 145 |
しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、御けはひしるく聞きつけて、宿直人めく男、なまかたくなしき、出で来たり。 |
しばしきかまほしきに、しのびたまへど、おほんけはひしるくききつけて、とのゐびとめくをのこ、なまかたくなしき、いできたり。 |
45 | 3.2.2 | 166 | 146 |
「しかしかなむ籠もりおはします。御消息をこそ聞こえさせめ」と申す。 |
"しかしかなんこもりおはします。おほんせうそこをこそきこえさせめ。"とまうす。 |
45 | 3.2.3 | 167 | 147 |
「何か。しか限りある御行ひのほどを、紛らはしきこえさせむにあいなし。かく濡れ濡れ参りて、いたづらに帰らむ愁へを、姫君の御方に聞こえて、あはれとのたまはせばなむ、慰むべき」 |
"なにか。しかかぎりあるおほんおこなひのほどを、まぎらはしきこえさせんにあいなし。かくぬれぬれまゐりて、いたづらにかへらんうれへを、ひめぎみのおほんかたにきこえて、あはれとのたまはせばなん、なぐさむべき。" |
45 | 3.2.4 | 168 | 148 |
とのたまへば、醜き顔うち笑みて、 |
とのたまへば、みにくきかほうちゑみて、 |
45 | 3.2.5 | 169 | 149 |
「申させはべらむ」とて立つを、 |
"まうさせはべらん。"とてたつを、 |
45 | 3.2.6 | 170 | 150 |
「しばしや」と召し寄せて、「年ごろ、人伝てにのみ聞きて、ゆかしく思ふ御琴の音どもを、うれしき折かな。しばし、すこしたち隠れて聞くべきものの隈ありや。つきなくさし過ぎて参り寄らむほど、皆琴やめたまひては、いと本意なからむ」 |
"しばしや。"とめしよせて、"としごろ、ひとづてにのみききて、ゆかしくおもふおほんことのねどもを、うれしきをりかな。しばし、すこしたちかくれてきくべきもののくまありや。つきなくさしすぎてまゐりよらんほど、みなことやめたまひては、いとほいなからん。" |
45 | 3.2.7 | 171 | 151 |
とのたまふ。御けはひ、顔容貌の、さるなほなほしき心地にも、いとめでたくかたじけなくおぼゆれば、 |
とのたまふ。おほんけはひ、かほかたちの、さるなほなほしきここちにも、いとめでたくかたじけなくおぼゆれば、 |
45 | 3.2.8 | 172 | 152 |
「人聞かぬ時は、明け暮れかくなむ遊ばせど、下人にても、都の方より参り、立ちまじる人はべる時は、音もせさせたまはず。おほかた、かくて女たちおはしますことをば隠させたまひ、なべての人に知らせたてまつらじと、思しのたまはするなり」 |
"ひときかぬときは、あけくれかくなんあそばせど、しもびとにても、みやこのかたよりまゐり、たちまじるひとはべるときは、おともせさせたまはず。おほかた、かくてをんなたちおはしますことをばかくさせたまひ、なべてのひとにしらせたてまつらじと、おぼしのたまはするなり。" |
45 | 3.2.9 | 173 | 153 |
と申せば、うち笑ひて、 |
とまうせば、うちわらひて、 |
45 | 3.2.10 | 174 | 154 |
「あぢきなき御もの隠しなり。しか忍びたまふなれど、皆人、ありがたき世の例に、聞き出づべかめるを」とのたまひて、「なほ、しるべせよ。われは、好き好きしき心など、なき人ぞ。かくておはしますらむ御ありさまの、あやしく、げに、なべてにおぼえたまはぬなり」 |
"あぢきなきおほんものかくしなり。しかしのびたまふなれど、みなひと、ありがたきよのためしに、ききいづべかめるを。"とのたまひて、"なほ、しるべせよ。われは、すきずきしきこころなど、なきひとぞ。かくておはしますらんおほんありさまの、あやしく、げに、なべてにおぼえたまはぬなり。" |
45 | 3.2.11 | 175 | 155 |
とこまやかにのたまへば、 |
とこまやかにのたまへば、 |
45 | 3.2.12 | 176 | 156 |
「あな、かしこ。心なきやうに、後の聞こえやはべらむ」 |
"あな、かしこ。こころなきやうに、のちのきこえやはべらん。" |
45 | 3.2.13 | 177 | 157 |
とて、あなたの御前は、竹の透垣しこめて、皆隔てことなるを、教へ寄せたてまつれり。御供の人は、西の廊に呼び据ゑて、この宿直人あひしらふ。 |
とて、あなたのおまへは、たけのすいがいしこめて、みなへだてことなるを、をしへよせたてまつれり。おほんとものひとは、にしのらうによびすゑて、このとのゐびとあひしらふ。 |
45 | 3.3 | 178 | 158 | 第三段 薫、姉妹を垣間見る |
45 | 3.3.1 | 179 | 159 |
あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開けて見たまへば、月をかしきほどに霧りわたれるを眺めて、簾を短く巻き上げて、人びとゐたり。簀子に、いと寒げに、身細く萎えばめる童女一人、同じさまなる大人などゐたり。内なる人一人、柱に少しゐ隠れて、琵琶を前に置きて、撥を手まさぐりにしつつゐたるに、雲隠れたりつる月の、にはかにいと明くさし出でたれば、 |
あなたにかよふべかめるすいがいのとを、すこしおしあけてみたまへば、つきをかしきほどにきりわたれるをながめて、すだれをみじかくまきあげて、ひとびとゐたり。すのこに、いとさむげに、みほそくなえばめるわらはべひとり、おなじさまなるおとななどゐたり。うちなるひとひとり、はしらにすこしゐかくれて、びはをまへにおきて、ばちをてまさぐりにしつつゐたるに、くもがくれたりつるつきの、にはかにいとあかくさしいでたれば、 |
45 | 3.3.2 | 180 | 161 |
「扇ならで、これしても、月は招きつべかりけり」 |
"あふぎならで、これしても、つきはまねきつべかりけり。" |
45 | 3.3.3 | 181 | 162 |
とて、さしのぞきたる顔、いみじくらうたげに匂ひやかなるべし。 |
とて、さしのぞきたるかほ、いみじくらうたげににほひやかなるべし。 |
45 | 3.3.4 | 182 | 163 |
添ひ臥したる人は、琴の上に傾きかかりて、 |
そひふしたるひとは、ことのうへにかたぶきかかりて、 |
45 | 3.3.5 | 183 | 164 |
「入る日を返す撥こそありけれ、さま異にも思ひ及びたまふ御心かな」 |
"いるひをかへすばちこそありけれ、さまことにもおもひおよびたまふみこころかな。" |
45 | 3.3.6 | 184 | 165 |
とて、うち笑ひたるけはひ、今少し重りかによしづきたり。 |
とて、うちわらひたるけはひ、いますこしおもりかによしづきたり。 |
45 | 3.3.7 | 185 | 166 |
「及ばずとも、これも月に離るるものかは」 |
"およばずとも、これもつきにはなるるものかは。" |
45 | 3.3.8 | 186 | 167 |
など、はかなきことを、うち解けのたまひ交はしたるけはひども、さらによそに思ひやりしには似ず、いとあはれになつかしうをかし。 |
など、はかなきことを、うちとけのたまひかはしたるけはひども、さらによそにおもひやりしにはにず、いとあはれになつかしうをかし。 |
45 | 3.3.9 | 187 | 168 |
「昔物語などに語り伝へて、若き女房などの読むをも聞くに、かならずかやうのことを言ひたる、さしもあらざりけむ」と、憎く推し量らるるを、「げに、あはれなるものの隈ありぬべき世なりけり」と、心移りぬべし。 |
"むかしものがたりなどにかたりつたへて、わかきにょうばうなどのよむをもきくに、かならずかやうのことをいひたる、さしもあらざりけん。"と、にくくおしはからるるを、"げに、あはれなるもののくまありぬべきよなりけり。"と、こころうつりぬべし。 |
45 | 3.3.10 | 188 | 169 |
霧の深ければ、さやかに見ゆべくもあらず。また、月さし出でなむと思すほどに、奥の方より、「人おはす」と告げきこゆる人やあらむ、簾下ろして皆入りぬ。おどろき顔にはあらず、なごやかにもてなして、やをら隠れぬるけはひども、衣の音もせず、いとなよよかに心苦しくて、いみじうあてにみやびかなるを、あはれと思ひたまふ。 |
きりのふかければ、さやかにみゆべくもあらず。また、つきさしいでなんとおぼすほどに、おくのかたより、"ひとおはす。"とつげきこゆるひとやあらん、すだれおろしてみないりぬ。おどろきがほにはあらず、なごやかにもてなして、やをらかくれぬるけはひども、きぬのおともせず、いとなよよかにこころぐるしくて、いみじうあてにみやびかなるを、あはれとおもひたまふ。 |
45 | 3.3.11 | 189 | 170 |
やをら出でて、京に、御車率て参るべく、人走らせつ。ありつる侍に、 |
やをらいでて、きゃうに、おほんくるまゐてまゐるべく、ひとはしらせつ。ありつるさぶらひに、 |
45 | 3.3.12 | 190 | 171 |
「折悪しく参りはべりにけれど、なかなかうれしく、思ふことすこし慰めてなむ。かくさぶらふよし聞こえよ。いたう濡れにたるかことも聞こえさせむかし」 |
"をりあしくまゐりはべりにけれど、なかなかうれしく、おもふことすこしなぐさめてなん。かくさぶらふよしきこえよ。いたうぬれにたるかこともきこえさせんかし。" |
45 | 3.3.13 | 191 | 172 |
とのたまへば、参りて聞こゆ。 |
とのたまへば、まゐりてきこゆ。 |
45 | 3.4 | 192 | 173 | 第四段 薫、大君と御簾を隔てて対面 |
45 | 3.4.1 | 193 | 174 |
かく見えやしぬらむとは思しも寄らで、うちとけたりつることどもを、聞きやしたまひつらむと、いといみじく恥づかし。あやしく、香うばしく匂ふ風の吹きつるを、思ひかけぬほどなれば、「驚かざりける心おそさよ」と、心も惑ひて、恥ぢおはさうず。 |
かくみえやしぬらんとはおぼしもよらで、うちとけたりつることどもを、ききやしたまひつらんと、いといみじくはづかし。あやしく、かうばしくにほふかぜのふきつるを、おもひかけぬほどなれば、"おどろかざりけるこころおそさよ。"と、こころもまどひて、はぢおはさうず。 |
45 | 3.4.2 | 194 | 175 |
御消息など伝ふる人も、いとうひうひしき人なめるを、「折からにこそ、よろづのことも」と思いて、まだ霧の紛れなれば、ありつる御簾の前に歩み出でて、ついゐたまふ。 |
おほんせうそこなどつたふるひとも、いとうひうひしきひとなめるを、"をりからにこそ、よろづのことも。"とおぼいて、まだきりのまぎれなれば、ありつるみすのまへにあゆみいでて、ついゐたまふ。 |
45 | 3.4.3 | 195 | 176 |
山里びたる若人どもは、さしいらへむ言の葉もおぼえで、御茵さし出づるさまも、たどたどしげなり。 |
やまざとびたるわかうどどもは、さしいらへんことのはもおぼえで、おほんしとねさしいづるさまも、たどたどしげなり。 |
45 | 3.4.4 | 196 | 177 |
「この御簾の前には、はしたなくはべりけり。うちつけに浅き心ばかりにては、かくも尋ね参るまじき山のかけ路に思うたまふるを、さま異にこそ。かく露けき度を重ねては、さりとも、御覧じ知るらむとなむ、頼もしうはべる」 |
"このみすのまへには、はしたなくはべりけり。うちつけにあさきこころばかりにては、かくもたづねまゐるまじきやまのかけぢにおもうたまふるを、さまことにこそ。かくつゆけきたびをかさねては、さりとも、ごらんじしるらんとなん、たのもしうはべる。" |
45 | 3.4.5 | 197 | 178 |
と、いとまめやかにのたまふ。 |
と、いとまめやかにのたまふ。 |
45 | 3.4.6 | 198 | 179 |
若き人びとの、なだらかにもの聞こゆべきもなく、消え返りかかやかしげなるも、かたはらいたければ、女ばらの奥深きを起こし出づるほど、久しくなりて、わざとめいたるも苦しうて、 |
わかきひとびとの、なだらかにものきこゆべきもなく、きえかへりかかやかしげなるも、かたはらいたければ、をんなばらのおくふかきをおこしいづるほど、ひさしくなりて、わざとめいたるもくるしうて、 |
45 | 3.4.7 | 199 | 180 |
「何ごとも思ひ知らぬありさまにて、知り顔にも、いかばかりかは、聞こゆべく」 |
"なにごともおもひしらぬありさまにて、しりがほにも、いかばかりかは、きこゆべく。" |
45 | 3.4.8 | 200 | 181 |
と、いとよしあり、あてなる声して、ひき入りながらほのかにのたまふ。 |
と、いとよしあり、あてなるこゑして、ひきいりながらほのかにのたまふ。 |
45 | 3.4.9 | 201 | 182 |
「かつ知りながら、憂きを知らず顔なるも、世のさがと思うたまへ知るを、一所しも、あまりおぼめかせたまふらむこそ、口惜しかるべけれ。ありがたう、よろづを思ひ澄ましたる御住まひなどに、たぐひきこえさせたまふ御心のうちは、何ごとも涼しく推し量られはべれば、なほ、かく忍びあまりはべる深さ浅さのほども、分かせたまはむこそ、かひははべらめ。 |
"かつしりながら、うきをしらずがほなるも、よのさがとおもうたまへしるを、ひとところしも、あまりおぼめかせたまふらんこそ、くちをしかるべけれ。ありがたう、よろづをおもひすましたるおほんすまひなどに、たぐひきこえさせたまふみこころのうちは、なにごともすずしくおしはかられはべれば、なほ、かくしのびあまりはべるふかさあささのほども、わかせたまはんこそ、かひははべらめ。 |
45 | 3.4.10 | 202 | 183 |
世の常の好き好きしき筋には、思しめし放つべくや。さやうの方は、わざと勧むる人はべりとも、なびくべうもあらぬ心強さになむ。 |
よのつねのすきずきしきすぢには、おぼしめしはなつべくや。さやうのかたは、わざとすすむるひとはべりとも、なびくべうもあらぬこころづよさになん。 |
45 | 3.4.11 | 203 | 184 |
おのづから聞こしめし合はするやうもはべりなむ。つれづれとのみ過ぐしはべる世の物語も、聞こえさせ所に頼みきこえさせ、またかく、世離れて、眺めさせたまふらむ御心の紛らはしには、さしも、驚かせたまふばかり聞こえ馴れはべらば、いかに思ふさまにはべらむ」 |
おのづからきこしめしあはするやうもはべりなん。つれづれとのみすぐしはべるよのものがたりも、きこえさせどころにたのみきこえさせ、またかく、よはなれて、ながめさせたまふらんみこころのまぎらはしには、さしも、おどろかせたまふばかりきこえなれはべらば、いかにおもふさまにはべらん。" |
45 | 3.4.12 | 204 | 185 |
など、多くのたまへば、つつましく、いらへにくくて、起こしつる老い人の出で来たるにぞ、譲りたまふ。 |
など、おほくのたまへば、つつましく、いらへにくくて、おこしつるおいびとのいできたるにぞ、ゆづりたまふ。 |
45 | 3.5 | 205 | 186 | 第五段 老女房の弁が応対 |
45 | 3.5.1 | 206 | 187 |
たとしへなくさし過ぐして、 |
たとしへなくさしすぐして、 |
45 | 3.5.2 | 207 | 188 |
「あな、かたじけなや。かたはらいたき御座のさまにもはべるかな。御簾の内にこそ。若き人びとは、物のほど知らぬやうにはべるこそ」 |
"あな、かたじけなや。かたはらいたきおましのさまにもはべるかな。みすのうちにこそ。わかきひとびとは、もののほどしらぬやうにはべるこそ。" |
45 | 3.5.3 | 208 | 189 |
など、したたかに言ふ声のさだすぎたるも、かたはらいたく君たちは思す。 |
など、したたかにいふこゑのさだすぎたるも、かたはらいたくきみたちはおぼす。 |
45 | 3.5.4 | 209 | 190 |
「いともあやしく、世の中に住まひたまふ人の数にもあらぬ御ありさまにて、さもありぬべき人びとだに、訪らひ数まへきこえたまふも、見え聞こえずのみなりまさりはべるめるに、ありがたき御心ざしのほどは、数にもはべらぬ心にも、あさましきまで思ひたまへはべるを、若き御心地にも思し知りながら、聞こえさせたまひにくきにやはべらむ」 |
"いともあやしく、よのなかにすまひたまふひとのかずにもあらぬおほんありさまにて、さもありぬべきひとびとだに、とぶらひかずまへきこえたまふも、みえきこえずのみなりまさりはべるめるに、ありがたきおほんこころざしのほどは、かずにもはべらぬこころにも、あさましきまでおもひたまへはべるを、わかきおほんここちにもおぼししりながら、きこえさせたまひにくきにやはべらん。" |
45 | 3.5.5 | 210 | 191 |
と、いとつつみなくもの馴れたるも、なま憎きものから、けはひいたう人めきて、よしある声なれば、 |
と、いとつつみなくものなれたるも、なまにくきものから、けはひいたうひとめきて、よしあるこゑなれば、 |
45 | 3.5.6 | 211 | 192 |
「いとたづきも知らぬ心地しつるに、うれしき御けはひにこそ。何ごとも、げに、思ひ知りたまひける頼み、こよなかりけり」 |
"いとたづきもしらぬここちしつるに、うれしきおほんけはひにこそ。なにごとも、げに、おもひしりたまひけるたのみ、こよなかりけり。" |
45 | 3.5.7 | 212 | 193 |
とて、寄り居たまへるを、几帳の側より見れば、曙、やうやう物の色分かるるに、げに、やつしたまへると見ゆる狩衣姿の、いと濡れしめりたるほど、「うたて、この世の外の匂ひにや」と、あやしきまで薫り満ちたり。 |
とて、よりゐたまへるを、きちゃうのそばよりみれば、あけぼの、やうやうもののいろわかるるに、げに、やつしたまへるとみゆるかりぎぬすがたの、いとぬれしめりたるほど、"うたて、このよのほかのにほひにや。"と、あやしきまでかをりみちたり。 |
45 | 3.6 | 213 | 194 | 第六段 老女房の弁の昔語り |
45 | 3.6.1 | 214 | 195 |
この老い人はうち泣きぬ。 |
このおいびとはうちなきぬ。 |
45 | 3.6.2 | 215 | 196 |
「さし過ぎたる罪もやと、思うたまへ忍ぶれど、あはれなる昔の御物語の、いかならむついでにうち出で聞こえさせ、片端をも、ほのめかし知ろしめさせむと、年ごろ念誦のついでにも、うち交ぜ思うたまへわたるしるしにや、うれしき折にはべるを、まだきにおぼほれはべる涙にくれて、えこそ聞こえさせずはべりけれ」 |
"さしすぎたるつみもやと、おもうたまへしのぶれど、あはれなるむかしのおほんものがたりの、いかならんついでにうちいできこえさせ、かたはしをも、ほのめかししろしめさせんと、としごろねんずのついでにも、うちまぜおもうたまへわたるしるしにや、うれしきをりにはべるを、まだきにおぼほれはべるなみだにくれて、えこそきこえさせずはべりけれ。" |
45 | 3.6.3 | 216 | 197 |
と、うちわななくけしき、まことにいみじくもの悲しと思へり。 |
と、うちわななくけしき、まことにいみじくものかなしとおもへり。 |
45 | 3.6.4 | 217 | 198 |
おほかた、さだ過ぎたる人は、涙もろなるものとは見聞きたまへど、いとかうしも思へるも、あやしうなりたまひて、 |
おほかた、さだすぎたるひとは、なみだもろなるものとはみききたまへど、いとかうしもおもへるも、あやしうなりたまひて、 |
45 | 3.6.5 | 218 | 199 |
「ここに、かく参るをば、たび重なりぬるを、かくあはれ知りたまへる人もなくてこそ、露けき道のほどに、独りのみそほちつれ。うれしきついでなめるを、言な残いたまひそかし」とのたまへば、 |
"ここに、かくまゐるをば、たびかさなりぬるを、かくあはれしりたまへるひともなくてこそ、つゆけきみちのほどに、ひとりのみそほちつれ。うれしきついでなめるを、ことなのこいたまひそかし。"とのたまへば、 |
45 | 3.6.6 | 219 | 200 |
「かかるついでしも、はべらじかし。また、はべりとも、夜の間のほど知らぬ命の、頼むべきにもはべらぬを。さらば、ただ、かかる古者、世にはべりけりとばかり、知ろしめされはべらなむ。 |
"かかるついでしも、はべらじかし。また、はべりとも、よのまのほどしらぬいのちの、たのむべきにもはべらぬを。さらば、ただ、かかるふるもの、よにはべりけりとばかり、しろしめされはべらなん。 |
45 | 3.6.7 | 220 | 201 |
三条の宮にはべりし小侍従、はかなくなりはべりにけると、ほの聞きはべりし。そのかみ、睦ましう思うたまへし同じほどの人、多く亡せはべりにける世の末に、はるかなる世界より伝はりまうで来て、この五、六年のほどなむ、これにかくさぶらひはべる。 |
さんでうのみやにはべりしこじじゅう、はかなくなりはべりにけると、ほのぎきはべりし。そのかみ、むつましうおもうたまへしおなじほどのひと、おほくうせはべりにけるよのすゑに、はるかなるせかいよりつたはりまうできて、このいつとせ、むとせのほどなん、これにかくさぶらひはべる。 |
45 | 3.6.8 | 221 | 202 |
知ろしめさじかし。このころ、藤大納言と申すなる御兄の、右衛門督にて隠れたまひにしは、物のついでなどにや、かの御上とて、聞こしめし伝ふることもはべらむ。 |
しろしめさじかし。このころ、とうだいなごんとまうすなるおほんこのかみの、ゑもんのかみにてかくれたまひにしは、もののついでなどにや、かのおほんうへとて、きこしめしつたふることもはべらん。 |
45 | 3.6.9 | 222 | 203 |
過ぎたまひて、いくばくも隔たらぬ心地のみしはべる。その折の悲しさも、まだ袖の乾く折はべらず思うたまへらるるを、かくおとなしくならせたまひにける御齢のほども、夢のやうになむ。 |
すぎたまひて、いくばくもへだたらぬここちのみしはべる。そのをりのかなしさも、まだそでのかはくをりはべらずおもうたまへらるるを、かくおとなしくならせたまひにけるおほんよはひのほども、ゆめのやうになん。 |
45 | 3.6.10 | 223 | 204 |
かの権大納言の御乳母にはべりしは、弁が母になむはべりし。朝夕に仕うまつり馴れはべりしに、人数にもはべらぬ身なれど、人に知らせず、御心よりはた余りけることを、折々うちかすめのたまひしを、今は限りになりたまひにし御病の末つ方に、召し寄せて、いささかのたまひ置くことなむはべりしを、聞こしめすべきゆゑなむ、一事はべれど、かばかり聞こえ出ではべるに、残りをと思しめす御心はべらば、のどかになむ、聞こしめし果てはべるべき。若き人びとも、かたはらいたく、さし過ぎたりと、つきじろひはべるも、ことわりになむ」 |
かのごんのだいなごんのおほんめのとにはべりしは、べんがははになんはべりし。あさゆふにつかうまつりなれはべりしに、ひとかずにもはべらぬみなれど、ひとにしらせず、みこころよりはたあまりけることを、をりをりうちかすめのたまひしを、いまはかぎりになりたまひにしおほんやまひのすゑつかたに、めしよせて、いささかのたまひおくことなんはべりしを、きこしめすべきゆゑなん、ひとことはべれど、かばかりきこえいではべるに、のこりをとおぼしめすみこころはべらば、のどかになん、きこしめしはてはべるべき。わかきひとびとも、かたはらいたく、さしすぎたりと、つきじろひはべるも、ことわりになん。" |
45 | 3.6.11 | 224 | 205 |
とて、さすがにうち出でずなりぬ。 |
とて、さすがにうちいでずなりぬ。 |
45 | 3.6.12 | 225 | 206 |
あやしく、夢語り、巫女やうのものの、問はず語りすらむやうに、めづらかに思さるれど、あはれにおぼつかなく思しわたることの筋を聞こゆれば、いと奥ゆかしけれど、げに、人目もしげし、さしぐみに古物語にかかづらひて、夜を明かし果てむも、こちごちしかるべければ、 |
あやしく、ゆめがたり、かんなぎやうのものの、とはずがたりすらんやうに、めづらかにおぼさるれど、あはれにおぼつかなくおぼしわたることのすぢをきこゆれば、いとおくゆかしけれど、げに、ひとめもしげし、さしぐみにふるものがたりにかかづらひて、よるをあかしはてんも、こちごちしかるべければ、 |
45 | 3.6.13 | 226 | 207 |
「そこはかと思ひ分くことは、なきものから、いにしへのことと聞きはべるも、ものあはれになむ。さらば、かならずこの残り聞かせたまへ。霧晴れゆかば、はしたなかるべきやつれを、面なく御覧じとがめられぬべきさまなれば、思うたまふる心のほどよりは、口惜しうなむ」 |
"そこはかとおもひわくことは、なきものから、いにしへのこととききはべるも、ものあはれになん。さらば、かならずこののこりきかせたまへ。きりはれゆかば、はしたなかるべきやつれを、おもなくごらんじとがめられぬべきさまなれば、おもうたまふるこころのほどよりは、くちをしうなん。" |
45 | 3.6.14 | 227 | 208 |
とて、立ちたまふに、かのおはします寺の鐘の声、かすかに聞こえて、霧いと深くたちわたれり。 |
とて、たちたまふに、かのおはしますてらのかねのこゑ、かすかにきこえて、きりいとふかくたちわたれり。 |
45 | 3.7 | 228 | 209 | 第七段 薫、大君と和歌を詠み交して帰京 |
45 | 3.7.1 | 229 | 210 |
峰の八重雲、思ひやる隔て多く、あはれなるに、なほ、この姫君たちの御心のうちども心苦しう、「何ごとを思し残すらむ。かく、いと奥まりたまへるも、ことわりぞかし」などおぼゆ。 |
みねのやへくも、おもひやるへだておほく、あはれなるに、なほ、このひめぎみたちのみこころのうちどもこころぐるしう、"なにごとをおぼしのこすらん。かく、いとおくまりたまへるも、ことわりぞかし。"などおぼゆ。 |
45 | 3.7.2 | 230 | 211 |
「あさぼらけ家路も見えず尋ね来し<BR/>槙の尾山は霧こめてけり |
"〔あさぼらけいへぢもみえずたずねこし<BR/>まきのをやまはきりこめてけり |
45 | 3.7.3 | 231 | 212 |
心細くもはべるかな」 |
こころぼそくもはべるかな。" |
45 | 3.7.4 | 232 | 214 |
と、立ち返りやすらひたまへるさまを、都の人の目馴れたるだに、なほ、いとことに思ひきこえたるを、まいて、いかがはめづらしう見きこえざらむ。御返り聞こえ伝へにくげに思ひたれば、例の、いとつつましげにて、 |
と、たちかへりやすらひたまへるさまを、みやこのひとのめなれたるだに、なほ、いとことにおもひきこえたるを、まいて、いかがはめづらしうみきこえざらん。おほんかへりきこえつたへにくげにおもひたれば、れいの、いとつつましげにて、 |
45 | 3.7.5 | 233 | 215 |
「雲のゐる峰のかけ路を秋霧の<BR/>いとど隔つるころにもあるかな」 |
"〔くものゐるみねのかけぢをあきぎりの<BR/>いとどへだつるころにもあるかな〕 |
45 | 3.7.6 | 234 | 216 |
すこしうち嘆いたまへるけしき、浅からずあはれなり。 |
すこしうちなげいたまへるけしき、あさからずあはれなり。 |
45 | 3.7.7 | 235 | 217 |
何ばかりをかしきふしは見えぬあたりなれど、げに、心苦しきこと多かるにも、明うなりゆけば、さすがにひた面なる心地して、 |
なにばかりをかしきふしはみえぬあたりなれど、げに、こころぐるしきことおほかるにも、あかうなりゆけば、さすがにひたおもてなるここちして、 |
45 | 3.7.8 | 236 | 218 |
「なかなかなるほどに、承りさしつること多かる残りは、今すこし面馴れてこそは、恨みきこえさすべかめれ。さるは、かく世の人めいて、もてなしたまふべくは、思はずに、もの思し分かざりけりと、恨めしうなむ」 |
"なかなかなるほどに、うけたまはりさしつることおほかるのこりは、いますこしおもなれてこそは、うらみきこえさすべかめれ。さるは、かくよのひとめいて、もてなしたまふべくは、おもはずに、ものおぼしわかざりけりと、うらめしうなん。" |
45 | 3.7.9 | 237 | 219 |
とて、宿直人がしつらひたる西面におはして、眺めたまふ。 |
とて、とのゐびとがしつらひたるにしおもてにおはして、ながめたまふ。 |
45 | 3.7.10 | 238 | 220 |
「網代は、人騒がしげなり。されど、氷魚も寄らぬにやあらむ。すさまじげなるけしきなり」 |
"あじろは、ひとさわがしげなり。されど、ひをもよらぬにやあらん。すさまじげなるけしきなり。" |
45 | 3.7.11 | 239 | 221 |
と、御供の人びと見知りて言ふ。 |
と、おほんとものひとびとみしりていふ。 |
45 | 3.7.12 | 240 | 223 |
「あやしき舟どもに、柴刈り積み、おのおの何となき世の営みどもに、行き交ふさまどもの、はかなき水の上に浮かびたる、誰れも思へば同じことなる、世の常なさなり。われは浮かばず、玉の台に静けき身と、思ふべき世かは」と思ひ続けらる。 |
"あやしきふねどもに、しばかりつみ、おのおのなにとなきよのいとなみどもに、ゆきかふさまどもの、はかなきみづのうへにうかびたる、たれもおもへばおなじことなる、よのつねなさなり。われはうかばず、たまのうてなにしづけきみと、おもふべきよかは。"とおもひつづけらる。 |
45 | 3.7.13 | 241 | 224 |
硯召して、あなたに聞こえたまふ。 |
すずりめして、あなたにきこえたまふ。 |
45 | 3.7.14 | 242 | 225 |
「橋姫の心を汲みて高瀬さす<BR/>棹のしづくに袖ぞ濡れぬる |
"〔はしひめのこころをくみてたかせさす<BR/>さをのしづくにそでぞぬれぬる |
45 | 3.7.15 | 243 | 226 |
眺めたまふらむかし」 |
ながめたまふらんかし。" |
45 | 3.7.16 | 244 | 227 |
とて、宿直人に持たせたまへり。いと寒げに、いららぎたる顔して持て参る。御返り、紙の香など、おぼろけならむ恥づかしげなるを、疾きをこそかかる折には、とて、 |
とて、とのゐびとにもたせたまへり。いとさむげに、いららぎたるかほしてもてまゐる。おほんかへり、かみのかなど、おぼろけならんはづかしげなるを、ときをこそかかるをりには、とて、 |
45 | 3.7.17 | 245 | 228 |
「さしかへる宇治の河長朝夕の<BR/>しづくや袖を朽たし果つらむ |
"〔さしかへるうぢのかはをさあさゆふの<BR/>しづくやそでをくたしはつらん |
45 | 3.7.18 | 246 | 229 |
身さへ浮きて」 |
みさへうきて。" |
45 | 3.7.19 | 247 | 230 |
と、いとをかしげに書きたまへり。「まほにめやすくもものしたまひけり」と、心とまりぬれど、 |
と、いとをかしげにかきたまへり。"まほにめやすくもものしたまひけり。"と、こころとまりぬれど、 |
45 | 3.7.20 | 248 | 231 |
「御車率て参りぬ」 |
"みくるまゐてまゐりぬ。" |
45 | 3.7.21 | 249 | 232 |
と、人びと騒がしきこゆれば、宿直人ばかりを召し寄せて、 |
と、ひとびとさわがしきこゆれば、とのゐびとばかりをめしよせて、 |
45 | 3.7.22 | 250 | 233 |
「帰りわたらせたまはむほどに、かならず参るべし」 |
"かへりわたらせたまはんほどに、かならずまゐるべし。" |
45 | 3.7.23 | 251 | 234 |
などのたまふ。濡れたる御衣どもは、皆この人に脱ぎかけたまひて、取りに遣はしつる御直衣にたてまつりかへつ。 |
などのたまふ。ぬれたるおほんぞどもは、みなこのひとにぬぎかけたまひて、とりにつかはしつるおほんなほしにたてまつりかへつ。 |
45 | 3.8 | 252 | 235 | 第八段 薫、宇治へ手紙を書く |
45 | 3.8.1 | 253 | 236 |
老い人の物語、心にかかりて思し出でらる。思ひしよりは、こよなくまさりて、をかしかりつる御けはひども、面影に添ひて、「なほ、思ひ離れがたき世なりけり」と、心弱く思ひ知らる。 |
おいびとのものがたり、こころにかかりておぼしいでらる。おもひしよりは、こよなくまさりて、をかしかりつるおほんけはひども、おもかげにそひて、"なほ、おもひはなれがたきよなりけり。"と、こころよわくおもひしらる。 |
45 | 3.8.2 | 254 | 237 |
御文たてまつりたまふ。懸想だちてもあらず、白き色紙の厚肥えたるに、筆ひきつくろひ選りて、墨つき見所ありて書きたまふ。 |
おほんふみたてまつりたまふ。けさうだちてもあらず、しろきしきしのあつごえたるに、ふでひきつくろひえりて、すみつきみどころありてかきたまふ。 |
45 | 3.8.3 | 255 | 238 |
「うちつけなるさまにやと、あいなくとどめはべりて、残り多かるも苦しきわざになむ。片端聞こえおきつるやうに、今よりは、御簾の前も、心やすく思し許すべくなむ。御山籠もり果てはべらむ日数も承りおきて、いぶせかりし霧の迷ひも、はるけはべらむ」 |
"うちつけなるさまにやと、あいなくとどめはべりて、のこりおほかるもくるしきわざになん。かたはしきこえおきつるやうに、いまよりは、みすのまへも、こころやすくおぼしゆるすべくなん。みやまごもりはてはべらんひかずもうけたまはりおきて、いぶせかりしきりのまよひも、はるけはべらん。" |
45 | 3.8.4 | 256 | 239 |
などぞ、いとすくよかに書きたまへる。左近将監なる人、御使にて、 |
などぞ、いとすくよかにかきたまへる。さこんのぞうなるひと、おほんつかひにて、 |
45 | 3.8.5 | 257 | 240 |
「かの老い人訪ねて、文も取らせよ」 |
"かのおいびとたづねて、ふみもとらせよ。" |
45 | 3.8.6 | 258 | 241 |
とのたまふ。宿直人が寒げにてさまよひしなど、あはれに思しやりて、大きなる桧破籠やうのもの、あまたせさせたまふ。 |
とのたまふ。とのゐびとがさむげにてさまよひしなど、あはれにおぼしやりて、おほきなるひわりごやうのもの、あまたせさせたまふ。 |
45 | 3.8.7 | 259 | 242 |
またの日、かの御寺にもたてまつりたまふ。「山籠もりの僧ども、このころの嵐には、いと心細く苦しからむを、さておはしますほどの布施、賜ふべからむ」と思しやりて、絹、綿など多かりけり。 |
またのひ、かのみてらにもたてまつりたまふ。"やまごもりのそうども、このころのあらしには、いとこころぼそくくるしからんを、さておはしますほどのふせ、たまふべからん。"とおぼしやりて、きぬ、わたなどおほかりけり。 |
45 | 3.8.8 | 260 | 243 |
御行ひ果てて、出でたまふ朝なりければ、行ひ人どもに、綿、絹、袈裟、衣など、すべて一領のほどづつ、ある限りの大徳たちに賜ふ。 |
おほんおこなひはてて、いでたまふあしたなりければ、おこなひびとどもに、わた、きぬ、けさ、ころもなど、すべてひとくだりのほどづつ、あるかぎりのだいとこたちにたまふ。 |
45 | 3.8.9 | 261 | 244 |
宿直人が、御脱ぎ捨ての、艶にいみじき狩の御衣ども、えならぬ白き綾の御衣の、なよなよといひ知らず匂へるを、移し着て、身をはた、え変へぬものなれば、似つかはしからぬ袖の香を、人ごとにとがめられ、めでらるるなむ、なかなか所狭かりける。 |
とのゐびとが、おほんぬぎすての、えんにいみじきかりのおほんぞども、えならぬしろきあやのおほんぞの、なよなよといひしらずにほへるを、うつしきて、みをはた、えかへぬものなれば、につかはしからぬそでのかを、ひとごとにとがめられ、めでらるるなん、なかなかところせかりける。 |
45 | 3.8.10 | 262 | 245 |
心にまかせて、身をやすくも振る舞はれず、いとむくつけきまで、人のおどろく匂ひを、失ひてばやと思へど、所狭き人の御移り香にて、えもすすぎ捨てぬぞ、あまりなるや。 |
こころにまかせて、みをやすくもふるまはれず、いとむくつけきまで、ひとのおどろくにほひを、うしなひてばやとおもへど、ところせきひとのおほんうつりがにて、えもすすぎすてぬぞ、あまりなるや。 |
45 | 3.9 | 263 | 246 | 第九段 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る |
45 | 3.9.1 | 264 | 247 |
君は、姫君の御返りこと、いとめやすく子めかしきを、をかしく見たまふ。宮にも、「かく御消息ありき」など、人びと聞こえさせ、御覧ぜさすれば、 |
きみは、ひめぎみのおほんかへりこと、いとめやすくこめかしきを、をかしくみたまふ。みやにも、"かくおほんせうそこありき。"など、ひとびときこえさせ、ごらんぜさすれば、 |
45 | 3.9.2 | 265 | 248 |
「何かは。懸想だちてもてないたまはむも、なかなかうたてあらむ。例の若人に似ぬ御心ばへなめるを、亡からむ後もなど、一言うちほのめかしてしかば、さやうにて、心ぞとめたらむ」 |
"なにかは。けさうだちてもてないたまはんも、なかなかうたてあらん。れいのわかうどににぬみこころばへなめるを、なからんのちもなど、ひとことうちほのめかしてしかば、さやうにて、こころぞとめたらん。" |
45 | 3.9.3 | 266 | 249 |
などのたまうけり。御みづからも、さまざまの御とぶらひの、山の岩屋にあまりしことなどのたまへるに、参うでむと思して、「三の宮の、かやうに奥まりたらむあたりの、見まさりせむこそ、をかしかるべけれと、あらましごとにだにのたまふものを、聞こえはげまして、御心騒がしたてまつらむ」と思して、のどやかなる夕暮に参りたまへり。 |
などのたまうけり。おほんみづからも、さまざまのおほんとぶらひの、やまのいはやにあまりしことなどのたまへるに、まうでんとおぼして、"さんのみやの、かやうにおくまりたらんあたりの、みまさりせんこそ、をかしかるべけれと、あらましごとにだにのたまふものを、きこえはげまして、みこころさわがしたてまつらん。"とおぼして、のどやかなるゆふぐれにまゐりたまへり。 |
45 | 3.9.4 | 267 | 250 |
例の、さまざまなる御物語、聞こえ交はしたまふついでに、宇治の宮の御こと語り出でて、見し暁のありさまなど、詳しく聞こえたまふに、宮、いと切にをかしと思いたり。 |
れいの、さまざまなるおほんものがたり、きこえかはしたまふついでに、うぢのみやのおほんことかたりいでて、みしあかつきのありさまなど、くはしくきこえたまふに、みや、いとせちにをかしとおぼいたり。 |
45 | 3.9.5 | 268 | 251 |
さればよと、御けしきを見て、いとど御心動きぬべく言ひ続けたまふ。 |
さればよと、みけしきをみて、いとどみこころうごきぬべくいひつづけたまふ。 |
45 | 3.9.6 | 269 | 252 |
「さて、そのありけむ返りことは、などか見せたまはざりし。まろならましかば」と恨みたまふ。 |
"さて、そのありけんかへりことは、などかみせたまはざりし。まろならましかば。"とうらみたまふ。 |
45 | 3.9.7 | 270 | 253 |
「さかし。いとさまざま御覧ずべかめる端をだに、見せさせたまはぬ。かのわたりは、かくいとも埋れたる身に、ひき籠めてやむべきけはひにもはべらねば、かならず御覧ぜさせばや、と思ひたまふれど、いかでか尋ね寄らせたまふべき。かやすきほどこそ、好かまほしくは、いとよく好きぬべき世にはべりけれ。うち隠ろへつつ多かめるかな。 |
"さかし。いとさまざまごらんずべかめるはしをだに、みせさせたまはぬ。かのわたりは、かくいともむもれたるみに、ひきこめてやむべきけはひにもはべらねば、かならずごらんぜさせばや、とおもひたまふれど、いかでかたづねよらせたまふべき。かやすきほどこそ、すかまほしくは、いとよくすきぬべきよにはべりけれ。うちかくろへつつおほかめるかな。 |
45 | 3.9.8 | 271 | 254 |
さるかたに見所ありぬべき女の、もの思はしき、うち忍びたる住み処ども、山里めいたる隈などに、おのづからはべべかめり。この聞こえさするわたりは、いと世づかぬ聖ざまにて、こちごちしうぞあらむ、年ごろ、思ひあなづりはべりて、耳をだにこそ、とどめはべらざりけれ。 |
さるかたにみどころありぬべきをんなの、ものおもはしき、うちしのびたるすみかども、やまざとめいたるくまなどに、おのづからはべべかめり。このきこえさするわたりは、いとよづかぬひじりざまにて、こちごちしうぞあらん、としごろ、おもひあなづりはべりて、みみをだにこそ、とどめはべらざりけれ。 |
45 | 3.9.9 | 272 | 255 |
ほのかなりし月影の見劣りせずは、まほならむはや。けはひありさま、はた、さばかりならむをぞ、あらまほしきほどとは、おぼえはべるべき」 |
ほのかなりしつきかげのみおとりせずは、まほならんはや。けはひありさま、はた、さばかりならんをぞ、あらまほしきほどとは、おぼえはべるべき。" |
45 | 3.9.10 | 273 | 256 |
など聞こえたまふ。 |
などきこえたまふ。 |
45 | 3.9.11 | 274 | 257 |
果て果ては、まめだちていとねたく、「おぼろけの人に心移るまじき人の、かく深く思へるを、おろかならじ」と、ゆかしう思すこと、限りなくなりたまひぬ。 |
はてはては、まめだちていとねたく、"おぼろけのひとにこころうつるまじきひとの、かくふかくおもへるを、おろかならじ。"と、ゆかしうおぼすこと、かぎりなくなりたまひぬ。 |
45 | 3.9.12 | 275 | 258 |
「なほ、またまた、よくけしき見たまへ」 |
"なほ、またまた、よくけしきみたまへ。" |
45 | 3.9.13 | 276 | 259 |
と、人を勧めたまひて、限りある御身のほどのよだけさを、厭はしきまで、心もとなしと思したれば、をかしくて、 |
と、ひとをすすめたまひて、かぎりあるおほんみのほどのよだけさを、いとはしきまで、こころもとなしとおぼしたれば、をかしくて、 |
45 | 3.9.14 | 277 | 260 |
「いでや、よしなくぞはべる。しばし、世の中に心とどめじと思うたまふるやうある身にて、なほざりごともつつましうはべるを、心ながらかなはぬ心つきそめなば、おほきに思ひに違ふべきことなむ、はべるべき」 |
"いでや、よしなくぞはべる。しばし、よのなかにこころとどめじとおもうたまふるやうあるみにて、なほざりごともつつましうはべるを、こころながらかなはぬこころつきそめなば、おほきにおもひにたがふべきことなん、はべるべき。" |
45 | 3.9.15 | 278 | 261 |
と聞こえたまへば、 |
ときこえたまへば、 |
45 | 3.9.16 | 279 | 262 |
「いで、あな、ことことし。例の、おどろおどろしき聖言葉、見果ててしがな」 |
"いで、あな、ことことし。れいの、おどろおどろしきおほんひじりことば、みはててしがな。" |
45 | 3.9.17 | 280 | 263 |
とて笑ひたまふ。心のうちには、かの古人のほのめかしし筋などの、いとどうちおどろかれて、ものあはれなるに、をかしと見ることも、めやすしと聞くあたりも、何ばかり心にもとまらざりけり。 |
とてわらひたまふ。こころのうちには、かのふるびとのほのめかししすぢなどの、いとどうちおどろかれて、ものあはれなるに、をかしとみることも、めやすしときくあたりも、なにばかりこころにもとまらざりけり。 |
45 | 4 | 281 | 264 | 第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る |
45 | 4.1 | 282 | 265 | 第一段 十月初旬、薫宇治へ赴く |
45 | 4.1.1 | 283 | 266 |
十月になりて、五、六日のほどに、宇治へ参うでたまふ。 |
じふがつになりて、ご、ろくにちのほどに、うぢへまうでたまふ。 |
45 | 4.1.2 | 284 | 267 |
「網代をこそ、このころは御覧ぜめ」と、聞こゆる人びとあれど、 |
"あじろをこそ、このころはごらんぜめ。"と、きこゆるひとびとあれど、 |
45 | 4.1.3 | 285 | 268 |
「何か、その蜉蝣に争ふ心にて、網代にも寄らむ」 |
"なにか、そのひをむしにあらそふこころにて、あじろにもよらん。" |
45 | 4.1.4 | 286 | 269 |
と、そぎ捨てたまひて、例の、いと忍びやかにて出で立ちたまふ。軽らかに網代車にて、かとりの直衣指貫縫はせて、ことさらび着たまへり。 |
と、そぎすてたまひて、れいの、いとしのびやかにていでたちたまふ。かろらかにあじろぐるまにて、かとりのなほしさしぬきぬはせて、ことさらびきたまへり。 |
45 | 4.1.5 | 287 | 270 |
宮、待ち喜びたまひて、所につけたる御饗応など、をかしうしなしたまふ。暮れぬれば、大殿油近くて、さきざき見さしたまへる文どもの深きなど、阿闍梨も請じおろして、義など言はせたまふ。 |
みや、まちよろこびたまひて、ところにつけたるおほんあるじなど、をかしうしなしたまふ。くれぬれば、おほとなぶらちかくて、さきざきみさしたまへるふみどものふかきなど、あざりもさうじおろして、ぎなどいはせたまふ。 |
45 | 4.1.6 | 288 | 271 |
うちもまどろまず、川風のいと荒らましきに、木の葉の散りかふ音、水の響きなど、あはれも過ぎて、もの恐ろしく心細き所のさまなり。 |
うちもまどろまず、かはかぜのいとあらましきに、このはのちりかふおと、みづのひびきなど、あはれもすぎて、ものおそろしくこころぼそきところのさまなり。 |
45 | 4.1.7 | 289 | 272 |
明け方近くなりぬらむと思ふほどに、ありししののめ思ひ出でられて、琴の音のあはれなることのついで作り出でて、 |
あけがたちかくなりぬらんとおもふほどに、ありししののめおもひいでられて、ことのねのあはれなることのついでつくりいでて、 |
45 | 4.1.8 | 290 | 273 |
「さきのたびの、霧に惑はされはべりし曙に、いとめづらしき物の音、一声承りし残りなむ、なかなかにいといぶかしう、飽かず思うたまへらるる」など聞こえたまふ。 |
"さきのたびの、きりにまどはされはべりしあけぼのに、いとめづらしきもののね、ひとこゑうけたまはりしのこりなん、なかなかにいといぶかしう、あかずおもうたまへらるる。"などきこえたまふ。 |
45 | 4.1.9 | 291 | 274 |
「色をも香をも思ひ捨ててし後、昔聞きしことも皆忘れてなむ」 |
"いろをもかをもおもひすててしのち、むかしききしこともみなわすれてなん。" |
45 | 4.1.10 | 292 | 275 |
とのたまへど、人召して、琴取り寄せて、 |
とのたまへど、ひとめして、こととりよせて、 |
45 | 4.1.11 | 293 | 276 |
「いとつきなくなりにたりや。しるべする物の音につけてなむ、思ひ出でらるべかりける」 |
"いとつきなくなりにたりや。しるべするもののねにつけてなん、おもひいでらるべかりける。" |
45 | 4.1.12 | 294 | 277 |
とて、琵琶召して、客人にそそのかしたまふ。取りて調べたまふ。 |
とて、びはめして、まらうとにそそのかしたまふ。とりてしらべたまふ。 |
45 | 4.1.13 | 295 | 278 |
「さらに、ほのかに聞きはべりし同じものとも思うたまへられざりけり。御琴の響きからにやとこそ、思うたまへしか」 |
"さらに、ほのかにききはべりしおなじものともおもうたまへられざりけり。おほんことのひびきからにやとこそ、おもうたまへしか。" |
45 | 4.1.14 | 296 | 279 |
とて、心解けても掻きたてたまはず。 |
とて、こころとけてもかきたてたまはず。 |
45 | 4.1.15 | 297 | 280 |
「いで、あな、さがなや。しか御耳とまるばかりの手などは、何処よりかここまでは伝はり来む。あるまじき御ことなり」 |
"いで、あな、さがなや。しかおほんみみとまるばかりのてなどは、いづこよりかここまではつたはりこん。あるまじきおほんことなり。" |
45 | 4.1.16 | 298 | 281 |
とて、琴掻きならしたまへる、いとあはれに心すごし。かたへは、峰の松風のもてはやすなるべし。いとたどたどしげにおぼめきたまひて、心ばへあり。手一つばかりにてやめたまひつ。 |
とて、きんかきならしたまへる、いとあはれにこころすごし。かたへは、みねのまつかぜのもてはやすなるべし。いとたどたどしげにおぼめきたまひて、こころばへあり。てひとつばかりにてやめたまひつ。 |
45 | 4.2 | 299 | 282 | 第二段 薫、八の宮の娘たちの後見を承引 |
45 | 4.2.1 | 300 | 283 |
「このわたりに、おぼえなくて、折々ほのめく箏の琴の音こそ、心得たるにや、と聞く折はべれど、心とどめてなどもあらで、久しうなりにけりや。心にまかせて、おのおの掻きならすべかめるは、川波ばかりや、打ち合はすらむ。論なう、物の用にすばかりの拍子なども、とまらじとなむ、おぼえはべる」とて、「掻き鳴らしたまへ」 |
"このわたりに、おぼえなくて、をりをりほのめくさうのことのねこそ、こころえたるにや、ときくをりはべれど、こころとどめてなどもあらで、ひさしうなりにけりや。こころにまかせて、おのおのかきならすべかめるは、かはなみばかりや、うちあはすらん。ろんなう、もののようにすばかりのはうしなども、とまらじとなん、おぼえはべる。"とて、"かきならしたまへ。" |
45 | 4.2.2 | 301 | 284 |
と、あなたに聞こえたまへど、「思ひ寄らざりし独り言を、聞きたまひけむだにあるものを、いとかたはならむ」とひき入りつつ、皆聞きたまはず。たびたびそそのかしたまへど、とかく聞こえすさびて、やみたまひぬめれば、いと口惜しうおぼゆ。 |
と、あなたにきこえたまへど、"おもひよらざりしひとりごとを、ききたまひけんだにあるものを、いとかたはならん。"とひきいりつつ、みなききたまはず。たびたびそそのかしたまへど、とかくきこえすさびて、やみたまひぬめれば、いとくちをしうおぼゆ。 |
45 | 4.2.3 | 302 | 285 |
そのついでにも、かくあやしう、世づかぬ思ひやりにて過ぐすありさまどもの、思ひのほかなることなど、恥づかしう思いたり。 |
そのついでにも、かくあやしう、よづかぬおもひやりにてすぐすありさまどもの、おもひのほかなることなど、はづかしうおぼいたり。 |
45 | 4.2.4 | 303 | 286 |
「人にだにいかで知らせじと、はぐくみ過ぐせど、今日明日とも知らぬ身の残り少なさに、さすがに、行く末遠き人は、落ちあふれてさすらへむこと、これのみこそ、げに、世を離れむ際のほだしなりけれ」 |
"ひとにだにいかでしらせじと、はぐくみすぐせど、けふあすともしらぬみののこりすくなさに、さすがに、ゆくすゑとほきひとは、おちあふれてさすらへんこと、これのみこそ、げに、よをはなれんきはのほだしなりけれ。" |
45 | 4.2.5 | 304 | 287 |
と、うち語らひたまへば、心苦しう見たてまつりたまふ。 |
と、うちかたらひたまへば、こころぐるしうみたてまつりたまふ。 |
45 | 4.2.6 | 305 | 288 |
「わざとの御後見だち、はかばかしき筋にははべらずとも、うとうとしからず思しめされむとなむ思うたまふる。しばしもながらへはべらむ命のほどは、一言も、かくうち出で聞こえさせてむさまを、違へはべるまじくなむ」 |
"わざとのおほんうしろみだち、はかばかしきすぢにははべらずとも、うとうとしからずおぼしめされんとなんおもうたまふる。しばしもながらへはべらんいのちのほどは、ひとことも、かくうちいできこえさせてんさまを、たがへはべるまじくなん。" |
45 | 4.2.7 | 306 | 289 |
など申したまへば、「いとうれしきこと」と、思しのたまふ。 |
などまうしたまへば、"いとうれしきこと。"と、おぼしのたまふ。 |
45 | 4.3 | 307 | 290 | 第三段 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く |
45 | 4.3.1 | 308 | 291 |
さて、暁方の、宮の御行ひしたまふほどに、かの老い人召し出でて、会ひたまへり。 |
さて、あかつきがたの、みやのおほんおこなひしたまふほどに、かのおいびとめしいでて、あひたまへり。 |
45 | 4.3.2 | 309 | 292 |
姫君の御後見にてさぶらはせたまふ、弁の君とぞいひける。年も六十にすこし足らぬほどなれど、みやびかにゆゑあるけはひして、ものなど聞こゆ。 |
ひめぎみのおほんうしろみにてさぶらはせたまふ、べんのきみとぞいひける。としもろくじふにすこしたらぬほどなれど、みやびかにゆゑあるけはひして、ものなどきこゆ。 |
45 | 4.3.3 | 310 | 293 |
故権大納言の君の、世とともにものを思ひつつ、病づき、はかなくなりたまひにしありさまを、聞こえ出でて、泣くこと限りなし。 |
こごんのだいなごんのきみの、よとともにものをおもひつつ、やまひづき、はかなくなりたまひにしありさまを、きこえいでて、なくことかぎりなし。 |
45 | 4.3.4 | 311 | 294 |
「げに、よその人の上と聞かむだに、あはれなるべき古事どもを、まして、年ごろおぼつかなく、ゆかしう、いかなりけむことの初めにかと、仏にも、このことをさだかに知らせたまへと、念じつる験にや、かく夢のやうにあはれなる昔語りを、おぼえぬついでに聞きつけつらむ」と思すに、涙とどめがたかりけり。 |
"げに、よそのひとのうへときかんだに、あはれなるべきふることどもを、まして、としごろおぼつかなく、ゆかしう、いかなりけんことのはじめにかと、ほとけにも、このことをさだかにしらせたまへと、ねんじつるしるしにや、かくゆめのやうにあはれなるむかしがたりを、おぼえぬついでにききつけつらん。"とおぼすに、なみだとどめがたかりけり。 |
45 | 4.3.5 | 312 | 295 |
「さても、かく、その世の心知りたる人も残りたまへりけるを。めづらかにも恥づかしうもおぼゆることの筋に、なほ、かく言ひ伝ふるたぐひや、またもあらむ。年ごろ、かけても聞き及ばざりける」とのたまへば、 |
"さても、かく、そのよのこころしりたるひとものこりたまへりけるを。めづらかにもはづかしうもおぼゆることのすぢに、なほ、かくいひつたふるたぐひや、またもあらん。としごろ、かけてもききおよばざりける。"とのたまへば、 |
45 | 4.3.6 | 313 | 296 |
「小侍従と弁と放ちて、また知る人はべらじ。一言にても、また異人にうちまねびはべらず。かくものはかなく、数ならぬ身のほどにはべれど、夜昼かの御影に、つきたてまつりてはべりしかば、おのづからもののけしきをも見たてまつりそめしに、御心よりあまりて思しける時々、ただ二人の中になむ、たまさかの御消息の通ひもはべりし。かたはらいたければ、詳しく聞こえさせず。 |
"こじじゅうとべんとはなちて、またしるひとはべらじ。ひとことにても、またことびとにうちまねびはべらず。かくものはかなく、かずならぬみのほどにはべれど、よるひるかのおほんかげに、つきたてまつりてはべりしかば、おのづからもののけしきをもみたてまつりそめしに、みこころよりあまりておぼしけるときどき、ただふたりのなかになん、たまさかのおほんせうそこのかよひもはべりし。かたはらいたければ、くはしくきこえさせず。 |
45 | 4.3.7 | 314 | 297 |
今はのとぢめになりたまひて、いささかのたまひ置くことのはべりしを、かかる身には、置き所なく、いぶせく思うたまへわたりつつ、いかにしてかは聞こしめし伝ふべきと、はかばかしからぬ念誦のついでにも、思うたまへつるを、仏は世におはしましけり、となむ思うたまへ知りぬる。 |
いまはのとぢめになりたまひて、いささかのたまひおくことのはべりしを、かかるみには、おきどころなく、いぶせくおもうたまへわたりつつ、いかにしてかはきこしめしつたふべきと、はかばかしからぬねんずのついでにも、おもうたまへつるを、ほとけはよにおはしましけり、となんおもうたまへしりぬる。 |
45 | 4.3.8 | 315 | 298 |
御覧ぜさすべき物もはべり。今は、何かは、焼きも捨てはべりなむ。かく朝夕の消えを知らぬ身の、うち捨てはべりなば、落ち散るやうもこそと、いとうしろめたく思うたまふれど、この宮わたりにも、時々、ほのめかせたまふを、待ち出でたてまつりてしは、すこし頼もしく、かかる折もやと、念じはべりつる力出でまうで来てなむ。さらに、これは、この世のことにもはべらじ」 |
ごらんぜさすべきものもはべり。いまは、なにかは、やきもすてはべりなん。かくあさゆふのきえをしらぬみの、うちすてはべりなば、おちちるやうもこそと、いとうしろめたくおもうたまふれど、このみやわたりにも、ときどき、ほのめかせたまふを、まちいでたてまつりてしは、すこしたのもしく、かかるをりもやと、ねんじはべりつるちからいでまうできてなん。さらに、これは、このよのことにもはべらじ。" |
45 | 4.3.9 | 316 | 299 |
と、泣く泣く、こまかに、生まれたまひけるほどのことも、よくおぼえつつ聞こゆ。 |
と、なくなく、こまかに、むまれたまひけるほどのことも、よくおぼえつつきこゆ。 |
45 | 4.4 | 317 | 300 | 第四段 薫、父柏木の最期を聞く |
45 | 4.4.1 | 318 | 301 |
「空しうなりたまひし騷ぎに、母にはべりし人は、やがて病づきて、ほども経ず隠れはべりにしかば、いとど思うたまへしづみ、藤衣たち重ね、悲しきことを思うたまへしほどに、年ごろ、よからぬ人の心をつけたりけるが、人をはかりごちて、西の海の果てまで取りもてまかりにしかば、京のことさへ跡絶えて、その人もかしこにて亡せはべりにし後、十年あまりにてなむ、あらぬ世の心地して、まかり上りたりしを、この宮は、父方につけて、童より参り通ふゆゑはべりしかば、今はかう世に交じらふべきさまにもはべらぬを、冷泉院の女御殿の御方などこそは、昔、聞き馴れたてまつりしわたりにて、参り寄るべくはべりしかど、はしたなくおぼえはべりて、えさし出ではべらで、深山隠れの朽木になりにてはべるなり。 |
"むなしうなりたまひしさわぎに、ははにはべりしひとは、やがてやまひづきて、ほどもへずかくれはべりにしかば、いとどおもうたまへしづみ、ふぢごろもたちかさね、かなしきことをおもうたまへしほどに、としごろ、よからぬひとのこころをつけたりけるが、ひとをはかりごちて、にしのうみのはてまでとりもてまかりにしかば、きゃうのことさへあとたえて、そのひともかしこにてうせはべりにしのち、とをとせあまりにてなん、あらぬよのここちして、まかりのぼりたりしを、このみやは、ちちかたにつけて、わらはよりまゐりかよふゆゑはべりしかば、いまはかうよにまじらふべきさまにもはべらぬを、れいぜいゐんのにょうごどののおほんかたなどこそは、むかし、ききなれたてまつりしわたりにて、まゐりよるべくはべりしかど、はしたなくおぼえはべりて、えさしいではべらで、みやまがくれのくちきになりにてはべるなり。 |
45 | 4.4.2 | 319 | 302 |
小侍従は、いつか亡せはべりにけむ。そのかみの、若盛りと見はべりし人は、数少なくなりはべりにける末の世に、多くの人に後るる命を、悲しく思ひたまへてこそ、さすがにめぐらひはべれ」 |
こじじゅうは、いつかうせはべりにけん。そのかみの、わかざかりとみはべりしひとは、かずすくなくなりはべりにけるすゑのよに、おほくのひとにおくるるいのちを、かなしくおもひたまへてこそ、さすがにめぐらひはべれ。" |
45 | 4.4.3 | 320 | 303 |
など聞こゆるほどに、例の、明け果てぬ。 |
などきこゆるほどに、れいの、あけはてぬ。 |
45 | 4.4.4 | 321 | 304 |
「よし、さらば、この昔物語は尽きすべくなむあらぬ。また、人聞かぬ心やすき所にて聞こえむ。侍従といひし人は、ほのかにおぼゆるは、五つ、六つばかりなりしほどにや、にはかに胸を病みて亡せにきとなむ聞く。かかる対面なくは、罪重き身にて過ぎぬべかりけること」などのたまふ。 |
"よし、さらば、このむかしものがたりはつきすべくなんあらぬ。また、ひときかぬこころやすきところにてきこえん。じじゅうといひしひとは、ほのかにおぼゆるは、いつつ、むつばかりなりしほどにや、にはかにむねをやみてうせにきとなんきく。かかるたいめんなくは、つみおもきみにてすぎぬべかりけること。"などのたまふ。 |
45 | 4.5 | 322 | 305 | 第五段 薫、形見の手紙を得る |
45 | 4.5.1 | 323 | 306 |
ささやかにおし巻き合はせたる反故どもの、黴臭きを袋に縫ひ入れたる、取り出でてたてまつる。 |
ささやかにおしまきあはせたるほぐどもの、かびくさきをふくろにぬひいれたる、とりいでてたてまつる。 |
45 | 4.5.2 | 324 | 308 |
「御前にて失はせたまへ。『われ、なほ生くべくもあらずなりにたり』とのたまはせて、この御文を取り集めて、賜はせたりしかば、小侍従に、またあひ見はべらむついでに、さだかに伝へ参らせむ、と思うたまへしを、やがて別れはべりにしも、私事には、飽かず悲しうなむ、思うたまふる」 |
"おまへにてうしなはせたまへ。'われ、なほいくべくもあらずなりにたり。'とのたまはせて、このおほんふみをとりあつめて、たまはせたりしかば、こじじゅうに、またあひみはべらんついでに、さだかにつたへまゐらせん、とおもうたまへしを、やがてわかれはべりにしも、わたくしごとには、あかずかなしうなん、おもうたまふる。" |
45 | 4.5.3 | 325 | 309 |
と聞こゆ。つれなくて、これは隠いたまひつ。 |
ときこゆ。つれなくて、これはかくいたまひつ。 |
45 | 4.5.4 | 326 | 310 |
「かやうの古人は、問はず語りにや、あやしきことの例に言ひ出づらむ」と苦しく思せど、「かへすがへすも、散らさぬよしを誓ひつる、さもや」と、また思ひ乱れたまふ。 |
"かやうのふるびとは、とはずがたりにや、あやしきことのためしにいひいづらん。"とくるしくおぼせど、"かへすがへすも、ちらさぬよしをちかひつる、さもや。"と、またおもひみだれたまふ。 |
45 | 4.5.5 | 327 | 311 |
御粥、強飯など参りたまふ。「昨日は、暇日なりしを、今日は、内裏の御物忌も明きぬらむ。院の女一の宮、悩みたまふ御とぶらひに、かならず参るべければ、かたがた暇なくはべるを、またこのころ過ぐして、山の紅葉散らぬさきに参るべき」よし、聞こえたまふ。 |
おほんかゆ、こはいひなどまゐりたまふ。"きのふは、いとまびなりしを、けふは、うちのおほんものいみもあきぬらん。ゐんのをんないちのみや、なやみたまふおほんとぶらひに、かならずまゐるべければ、かたがたいとまなくはべるを、またこのころすぐして、やまのもみぢちらぬさきにまゐるべき"よし、きこえたまふ。 |
45 | 4.5.6 | 328 | 312 |
「かく、しばしば立ち寄らせたまふ光に、山の蔭も、すこしもの明らむる心地してなむ」 |
"かく、しばしばたちよらせたまふひかりに、やまのかげも、すこしものあきらむるここちしてなん。" |
45 | 4.5.7 | 329 | 313 |
など、よろこび聞こえたまふ。 |
など、よろこびきこえたまふ。 |
45 | 4.6 | 330 | 314 | 第六段 薫、父柏木の遺文を読む |
45 | 4.6.1 | 331 | 315 |
帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、唐の浮線綾を縫ひて、「上」といふ文字を上に書きたり。細き組して、口の方を結ひたるに、かの御名の封つきたり。開くるも恐ろしうおぼえたまふ。 |
かへりたまひて、まづこのふくろをみたまへば、からのふせんりゃうをぬひて、"じゃう"といふもじをうへにかきたり。ほそきくみして、くちのかたをゆひたるに、かのおほんなのふうつきたり。あくるもおそろしうおぼえたまふ。 |
45 | 4.6.2 | 332 | 316 |
色々の紙にて、たまさかに通ひける御文の返りこと、五つ、六つぞある。さては、かの御手にて、病は重く限りになりにたるに、またほのかにも聞こえむこと難くなりぬるを、ゆかしう思ふことは添ひにたり、御容貌も変りておはしますらむが、さまざま悲しきことを、陸奥紙五、六枚に、つぶつぶと、あやしき鳥の跡のやうに書きて、 |
いろいろのかみにて、たまさかにかよひけるおほんふみのかへりこと、いつつ、むつぞある。さては、かのおほんてにて、やまひはおもくかぎりになりにたるに、またほのかにもきこえんことかたくなりぬるを、ゆかしうおもふことはそひにたり、おほんかたちもかはりておはしますらんが、さまざまかなしきことを、みちのくにがみご、ろくまいに、つぶつぶと、あやしきとりのあとのやうにかきて、 |
45 | 4.6.3 | 333 | 317 |
「目の前にこの世を背く君よりも<BR/>よそに別るる魂ぞ悲しき」 |
"〔めのまへにこのよをそむくきみよりも<BR/>よそにわかるるたまぞかなしき〕 |
45 | 4.6.4 | 334 | 318 |
また、端に、 |
また、はしに、 |
45 | 4.6.5 | 335 | 319 |
「めづらしく聞きはべる二葉のほども、うしろめたう思うたまふる方はなけれど、 |
"めづらしくききはべるふたばのほども、うしろめたうおもうたまふるかたはなけれど、 |
45 | 4.6.6 | 336 | 320 |
命あらばそれとも見まし人知れぬ<BR/>岩根にとめし松の生ひ末」 |
いのちあらばそれともみましひとしれぬ<BR/>いはねにとめしまつのおひすゑ〕" |
45 | 4.6.7 | 337 | 321 |
書きさしたるやうに、いと乱りがはしうて、「小侍従の君に」と上には書きつけたり。 |
かきさしたるやうに、いとみだりがはしうて、"こじじゅうのきみに"とうへにはかきつけたり。 |
45 | 4.6.8 | 338 | 322 |
紙魚といふ虫の棲み処になりて、古めきたる黴臭さながら、跡は消えず、ただ今書きたらむにも違はぬ言の葉どもの、こまごまとさだかなるを見たまふに、「げに、落ち散りたらましよ」と、うしろめたう、いとほしきことどもなり。 |
しみといふむしのすみかになりて、ふるめきたるかびくささながら、あとはきえず、ただいまかきたらんにもたがはぬことのはどもの、こまごまとさだかなるをみたまふに、"げに、おちちりたらましよ。"と、うしろめたう、いとほしきことどもなり。 |
45 | 4.6.9 | 339 | 323 |
「かかること、世にまたあらむや」と、心一つにいとどもの思はしさ添ひて、内裏へ参らむと思しつるも、出で立たれず。宮の御前に参りたまへれば、いと何心もなく、若やかなるさましたまひて、経読みたまふを、恥ぢらひて、もて隠したまへり。「何かは、知りにけりとも、知られたてまつらむ」など、心に籠めて、よろづに思ひゐたまへり。 |
"かかること、よにまたあらんや。"と、こころひとつにいとどものおもはしさそひて、うちへまゐらんとおぼしつるも、いでたたれず。みやのおまへにまゐりたまへれば、いとなにごころもなく、わかやかなるさましたまひて、きゃうよみたまふを、はぢらひて、もてかくしたまへり。"なにかは、しりにけりとも、しられたてまつらん。"など、こころにこめて、よろづにおもひゐたまへり。 |