帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
46 | 椎本 |
46 | 1 | 76 | 59 | 第一章 匂宮の物語 春、匂宮、宇治に立ち寄る |
46 | 1.1 | 77 | 60 | 第一段 匂宮、初瀬詣での帰途に宇治に立ち寄る |
46 | 1.1.1 | 78 | 61 |
如月の二十日のほどに、兵部卿宮、初瀬に詣でたまふ。古き御願なりけれど、思しも立たで年ごろになりにけるを、宇治のわたりの御中宿りのゆかしさに、多くは催されたまへるなるべし。うらめしと言ふ人もありける里の名の、なべて睦ましう思さるるゆゑもはかなしや。上達部いとあまた仕うまつりたまふ。殿上人などはさらにもいはず、世に残る人少なう仕うまつれり。 |
きさらぎのはつかのほどに、ひゃうぶきゃうのみや、はつせにまうでたまふ。ふるきおほんがんなりけれど、おぼしもたたでとしごろになりにけるを、うぢのわたりのおほんなかやどりのゆかしさに、おほくはもよほされたまへるなるべし。うらめしといふひともありけるさとのなの、なべてむつましうおぼさるるゆゑもはかなしや。かんだちめいとあまたつかうまつりたまふ。てんじゃうびとなどはさらにもいはず、よにのこるひとすくなうつかうまつれり。 |
46 | 1.1.2 | 79 | 62 |
六条院より伝はりて、右大殿知りたまふ所は、川より遠方に、いと広くおもしろくてあるに、御まうけせさせたまへり。大臣も、帰さの御迎へに参りたまふべく思したるを、にはかなる御物忌みの、重く慎みたまふべく申したなれば、え参らぬ由のかしこまり申したまへり。 |
ろくでうのゐんよりつたはりて、みぎのおほとのしりたまふところは、かはよりをちに、いとひろくおもしろくてあるに、おほんまうけせさせたまへり。おとども、かへさのおほんむかへにまゐりたまふべくおぼしたるを、にはかなるおほんものいみの、おもくつつしみたまふべくまうしたなれば、えまゐらぬよしのかしこまりまうしたまへり。 |
46 | 1.1.3 | 80 | 63 |
宮、なますさまじと思したるに、宰相中将、今日の御迎へに参りあひたまへるに、なかなか心やすくて、かのわたりのけしきも伝へ寄らむと、御心ゆきぬ。大臣をば、うちとけて見えにくく、ことことしきものに思ひきこえたまへり。 |
みや、なますさまじとおぼしたるに、さいしゃうのちうじゃう、けふのおほんむかへにまゐりあひたまへるに、なかなかこころやすくて、かのわたりのけしきもつたへよらんと、みこころゆきぬ。おとどをば、うちとけてみえにくく、ことことしきものにおもひきこえたまへり。 |
46 | 1.1.4 | 81 | 64 |
御子の君たち、右大弁、侍従の宰相、権中将、頭少将、蔵人兵衛佐など、さぶらひたまふ。帝、后も心ことに思ひきこえたまへる宮なれば、おほかたの御おぼえもいと限りなく、まいて六条院の御方ざまは、次々の人も、皆私の君に、心寄せ仕うまつりたまふ。 |
みこのきみたち、うだいべん、じじゅうのさいしゃう、ごんのちうじゃう、とうのせうしゃう、くらうどのひゃうゑのすけなど、さぶらひたまふ。みかど、きさきもこころことにおもひきこえたまへるみやなれば、おほかたのおほんおぼえもいとかぎりなく、まいてろくでうのゐんのおほんかたざまは、つぎつぎのひとも、みなわたくしのきみに、こころよせつかうまつりたまふ。 |
46 | 1.2 | 82 | 65 | 第二段 匂宮と八の宮、和歌を詠み交す |
46 | 1.2.1 | 83 | 66 |
所につけて、御しつらひなどをかしうしなして、碁、双六、弾棊の盤どもなど取り出でて、心々にすさび暮らしたまふ。宮は、ならひたまはぬ御ありきに、悩ましく思されて、ここにやすらはむの御心も深ければ、うち休みたまひて、夕つ方ぞ、御琴など召して遊びたまふ。 |
ところにつけて、おほんしつらひなどをかしうしなして、ご、すぐろく、たぎのばんどもなどとりいでて、こころごころにすさびくらしたまふ。みやは、ならひたまはぬおほんありきに、なやましくおぼされて、ここにやすらはんのみこころもふかければ、うちやすみたまひて、ゆふつかたぞ、おほんことなどめしてあそびたまふ。 |
46 | 1.2.2 | 84 | 67 |
例の、かう世離れたる所は、水の音ももてはやして、物の音澄みまさる心地して、かの聖の宮にも、たださし渡るほどなれば、追風に吹き来る響きを聞きたまふに、昔のこと思し出でられて、 |
れいの、かうよばなれたるところは、みづのおとももてはやして、もののねすみまさるここちして、かのひじりのみやにも、たださしわたるほどなれば、おひかぜにふきくるひびきをききたまふに、むかしのことおぼしいでられて、 |
46 | 1.2.3 | 85 | 68 |
「笛をいとをかしうも吹きとほしたなるかな。誰ならむ。昔の六条院の御笛の音聞きしは、いとをかしげに愛敬づきたる音にこそ吹きたまひしか。これは澄みのぼりて、ことことしき気の添ひたるは、致仕大臣の御族の笛の音にこそ似たなれ」など、独りごちおはす。 |
"ふえをいとをかしうもふきとほしたなるかな。たれならん。むかしのろくでうのゐんのおほんふえのねききしは、いとをかしげにあいぎゃうづきたるねにこそふきたまひしか。これはすみのぼりて、ことことしきけのそひたるは、ちじのおとどのおほんぞうのふえのねにこそにたなれ。"など、ひとりごちおはす。 |
46 | 1.2.4 | 86 | 69 |
「あはれに、久しうなりにけりや。かやうの遊びなどもせで、あるにもあらで過ぐし来にける年月の、さすがに多く数へらるるこそ、かひなけれ」 |
"あはれに、ひさしうなりにけりや。かやうのあそびなどもせで、あるにもあらですぐしきにけるとしつきの、さすがにおほくかぞへらるるこそ、かひなけれ。" |
46 | 1.2.5 | 87 | 70 |
などのたまふついでにも、姫君たちの御ありさまあたらしく、「かかる山懐にひき籠めてはやまずもがな」と思し続けらる。「宰相の君の、同じうは近きゆかりにて見まほしげなるを、さしも思ひ寄るまじかめり。まいて今やうの心浅からむ人をば、いかでかは」など思し乱れ、つれづれと眺めたまふ所は、春の夜もいと明かしがたきを、心やりたまへる旅寝の宿りは、酔の紛れにいと疾う明けぬる心地して、飽かず帰らむことを、宮は思す。 |
などのたまふついでにも、ひめぎみたちのおほんありさまあたらしく、"かかるやまふところにひきこめてはやまずもがな。"とおぼしつづけらる。"さいしゃうのきみの、おなじうはちかきゆかりにてみまほしげなるを、さしもおもひよるまじかめり。まいていまやうのこころあさからんひとをば、いかでかは。"などおぼしみだれ、つれづれとながめたまふところは、はるのよもいとあかしがたきを、こころやりたまへるたびねのやどりは、ゑひのまぎれにいととうあけぬるここちして、あかずかへらんことを、みやはおぼす。 |
46 | 1.2.6 | 88 | 72 |
はるばると霞みわたれる空に、散る桜あれば今開けそむるなど、いろいろ見わたさるるに、川沿ひ柳の起きふしなびく水影など、おろかならずをかしきを、見ならひたまはぬ人は、いとめづらしく見捨てがたしと思さる。 |
はるばるとかすみわたれるそらに、ちるさくらあればいまひらけそむるなど、いろいろみわたさるるに、かはぞひのやなぎのおきふしなびくみづかげなど、おろかならずをかしきを、みならひたまはぬひとは、いとめづらしくみすてがたしとおぼさる。 |
46 | 1.2.7 | 89 | 73 |
宰相は、「かかるたよりを過ぐさず、かの宮にまうでばや」と思せど、「あまたの人目をよきて、一人漕ぎ出でたまはむ舟わたりのほども軽らかにや」と思ひやすらひたまふほどに、かれより御文あり。 |
さいしゃうは、"かかるたよりをすぐさず、かのみやにまうでばや。"とおぼせど、"あまたのひとめをよきて、ひとりこぎいでたまはんふねのわたりのほどもかろらかにや。"とおもひやすらひたまふほどに、かれよりおほんふみあり。 |
46 | 1.2.8 | 90 | 74 |
「山風に霞吹きとく声はあれど<BR/>隔てて見ゆる遠方の白波」 |
"〔やまかぜにかすみふきとくこゑはあれど<BR/>へだててみゆるをちのしらなみ〕" |
46 | 1.2.9 | 91 | 75 |
草にいとをかしう書きたまへり。宮、「思すあたりの」と見たまへば、いとをかしう思いて、「この御返りはわれせむ」とて、 |
さうにいとをかしうかきたまへり。みや、"おぼすあたりの。"とみたまへば、いとをかしうおぼいて、"このおほんかへりはわれせん。"とて、 |
46 | 1.2.10 | 92 | 76 |
「遠方こちの汀に波は隔つとも<BR/>なほ吹きかよへ宇治の川風」 |
"〔をちこちのみぎはになみはへだつとも<BR/>なほふきかよへうぢのかはかぜ〕" |
46 | 1.3 | 93 | 77 | 第三段 薫、迎えに八の宮邸に来る |
46 | 1.3.1 | 94 | 78 |
中将は参うでたまふ。遊びに心入れたる君たち誘ひて、さしやりたまふほど、酣酔楽遊びて、水に臨きたる廊に造りおろしたる階の心ばへなど、さる方にいとをかしう、ゆゑある宮なれば、人びと心して舟よりおりたまふ。 |
ちうじゃうはまうでたまふ。あそびにこころいれたるきみたちさそひて、さしやりたまふほど、かんすいらくあそびて、みづにのぞきたるらうにつくりおろしたるはしのこころばへなど、さるかたにいとをかしう、ゆゑあるみやなれば、ひとびとこころしてふねよりおりたまふ。 |
46 | 1.3.2 | 95 | 79 |
ここはまた、さま異に、山里びたる網代屏風などの、ことさらにことそぎて、見所ある御しつらひを、さる心してかき払ひ、いといたうしなしたまへり。いにしへの、音などいと二なき弾きものどもを、わざとまうけたるやうにはあらで、次々弾き出でたまひて、壱越調の心に、桜人遊びたまふ。 |
ここはまた、さまことに、やまざとびたるあじろびゃうぶなどの、ことさらにことそぎて、みどころあるおほんしつらひを、さるこころしてかきはらひ、いといたうしなしたまへり。いにしへの、ねなどいとになきひきものどもを、わざとまうけたるやうにはあらで、つぎつぎひきいでたまひて、いちこつでうのこころに、さくらびとあそびたまふ。 |
46 | 1.3.3 | 96 | 80 |
主人の宮、御琴をかかるついでにと、人びと思ひたまへれど、箏の琴をぞ、心にも入れず、折々掻き合はせたまふ。耳馴れぬけにやあらむ、「いともの深くおもしろし」と、若き人びと思ひしみたり。 |
あるじのみや、おほんきんをかかるついでにと、ひとびとおもひたまへれど、さうのことをぞ、こころにもいれず、をりをりかきあはせたまふ。みみなれぬけにやあらん、"いとものふかくおもしろし。"と、わかきひとびとおもひしみたり。 |
46 | 1.3.4 | 97 | 81 |
所につけたる饗応、いとをかしうしたまひて、よそに思ひやりしほどよりは、なま孫王めくいやしからぬ人あまた、大君、四位の古めきたるなど、かく人目見るべき折と、かねていとほしがりきこえけるにや、さるべき限り参りあひて、瓶子取る人もきたなげならず、さる方に古めきて、よしよししうもてなしたまへり。客人たちは、御女たちの住まひたまふらむ御ありさま、思ひやりつつ、心つく人もあるべし。 |
ところにつけたるあるじ、いとをかしうしたまひて、よそにおもひやりしほどよりは、なまそんわうめくいやしからぬひとあまた、おほきみ、しゐのふるめきたるなど、かくひとめみるべきをりと、かねていとほしがりきこえけるにや、さるべきかぎりまゐりあひて、へいじとるひともきたなげならず、さるかたにふるめきて、よしよししうもてなしたまへり。まらうとたちは、おほんむすめたちのすまひたまふらんおほんありさま、おもひやりつつ、こころつくひともあるべし。 |
46 | 1.4 | 98 | 82 | 第四段 匂宮と中の君、和歌を詠み交す |
46 | 1.4.1 | 99 | 83 |
かの宮は、まいてかやすきほどならぬ御身をさへ、所狭く思さるるを、かかる折にだにと、忍びかねたまひて、おもしろき花の枝を折らせたまひて、御供にさぶらふ上童のをかしきしてたてまつりたまふ。 |
かのみやは、まいてかやすきほどならぬおほんみをさへ、ところせくおぼさるるを、かかるをりにだにと、しのびかねたまひて、おもしろきはなのえだををらせたまひて、おほんともにさぶらふうへわらはのをかしきしてたてまつりたまふ。 |
46 | 1.4.2 | 100 | 84 |
「山桜匂ふあたりに尋ね来て<BR/>同じかざしを折りてけるかな |
"〔やまざくらにほふあたりにたづねきて<BR/>おなじかざしををりてけるかな |
46 | 1.4.3 | 101 | 85 |
野を睦ましみ」 |
のをむつましみ。" |
46 | 1.4.4 | 102 | 86 |
とやありけむ。「御返りは、いかでかは」など、聞こえにくく思しわづらふ。 |
とやありけん。"おほんかへりは、いかでかは。"など、きこえにくくおぼしわづらふ。 |
46 | 1.4.5 | 103 | 87 |
「かかる折のこと、わざとがましくもてなし、ほどの経るも、なかなか憎きことになむしはべりし」 |
"かかるをりのこと、わざとがましくもてなし、ほどのふるも、なかなかにくきことになんしはべりし。" |
46 | 1.4.6 | 104 | 88 |
など、古人ども聞こゆれば、中の君にぞ書かせたてまつりたまふ。 |
など、ふるひとどもきこゆれば、なかのきみにぞかかせたてまつりたまふ。 |
46 | 1.4.7 | 105 | 89 |
「かざし折る花のたよりに山賤の<BR/>垣根を過ぎぬ春の旅人 |
"〔かざしをるはなのたよりにやまがつの<BR/>かきねをすぎぬはるのたびびと |
46 | 1.4.8 | 106 | 90 |
野をわきてしも」 |
のをわきてしも。" |
46 | 1.4.9 | 107 | 91 |
と、いとをかしげに、らうらうじく書きたまへり。 |
と、いとをかしげに、らうらうじくかきたまへり。 |
46 | 1.4.10 | 108 | 92 |
げに、川風も心わかぬさまに吹き通ふ物の音ども、おもしろく遊びたまふ。御迎へに、藤大納言、仰せ言にて参りたまへり。人びとあまた参り集ひ、もの騒がしくてきほひ帰りたまふ。若き人びと、飽かず返り見のみせられける。宮は、「またさるべきついでして」と思す。 |
げに、かはかぜもこころわかぬさまにふきかよふもののねども、おもしろくあそびたまふ。おほんむかへに、とうだいなごん、おほせごとにてまゐりたまへり。ひとびとあまたまゐりつどひ、ものさわがしくてきほひかへりたまふ。わかきひとびと、あかずかへりみのみせられける。みやは、"またさるべきついでして。"とおぼす。 |
46 | 1.4.11 | 109 | 93 |
花盛りにて、四方の霞も眺めやるほどの見所あるに、唐のも大和のも、歌ども多かれど、うるさくて尋ねも聞かぬなり。 |
はなざかりにて、よものかすみもながめやるほどのみどころあるに、からのもやまとのも、うたどもおほかれど、うるさくてたづねもきかぬなり。 |
46 | 1.4.12 | 110 | 94 |
もの騒がしくて、思ふままにもえ言ひやらずなりにしを、飽かず宮は思して、しるべなくても御文は常にありけり。宮も、 |
ものさわがしくて、おもふままにもえいひやらずなりにしを、あかずみやはおぼして、しるべなくてもおほんふみはつねにありけり。みやも、 |
46 | 1.4.13 | 111 | 95 |
「なほ、聞こえたまへ。わざと懸想だちてももてなさじ。なかなか心ときめきにもなりぬべし。いと好きたまへる親王なれば、かかる人なむ、と聞きたまふが、なほもあらぬすさびなめり」 |
"なほ、きこえたまへ。わざとけさうだちてももてなさじ。なかなかこころときめきにもなりぬべし。いとすきたまへるみこなれば、かかるひとなん、とききたまふが、なほもあらぬすさびなめり。" |
46 | 1.4.14 | 112 | 96 |
と、そそのかしたまふ時々、中の君ぞ聞こえたまふ。姫君は、かやうのこと、戯れにももて離れたまへる御心深さなり。 |
と、そそのかしたまふときどき、なかのきみぞきこえたまふ。ひめぎみは、かやうのこと、たはぶれにももてはなれたまへるみこころぶかさなり。 |
46 | 1.4.15 | 113 | 97 |
いつとなく心細き御ありさまに、春のつれづれは、いとど暮らしがたく眺めたまふ。ねびまさりたまふ御さま容貌ども、いよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなか心苦しく、「かたほにもおはせましかば、あたらしう、惜しき方の思ひは薄くやあらまし」など、明け暮れ思し乱る。 |
いつとなくこころぼそきおほんありさまに、はるのつれづれは、いとどくらしがたくながめたまふ。ねびまさりたまふおほんさまかたちども、いよいよまさり、あらまほしくをかしきも、なかなかこころぐるしく、"かたほにもおはせましかば、あたらしう、をしきかたのおもひはうすくやあらまし。"など、あけくれおぼしみだる。 |
46 | 1.4.16 | 114 | 98 |
姉君二十五、中の君二十三にぞなりたまひける。 |
あねぎみにじふご、なかのきみにじふさんにぞなりたまひける。 |
46 | 1.5 | 115 | 99 | 第五段 八の宮、娘たちへの心配 |
46 | 1.5.1 | 116 | 100 |
宮は、重く慎みたまふべき年なりけり。もの心細く思して、御行ひ常よりもたゆみなくしたまふ。世に心とどめたまはねば、出で立ちいそぎをのみ思せば、涼しき道にも赴きたまひぬべきを、ただこの御ことどもに、いといとほしく、限りなき御心強さなれど、「かならず、今はと見捨てたまはむ御心は、乱れなむ」と、見たてまつる人も推し量りきこゆるを、思すさまにはあらずとも、なのめに、さても人聞き口惜しかるまじう、見ゆるされぬべき際の人の、真心に後見きこえむ、など、思ひ寄りきこゆるあらば、知らず顔にてゆるしてむ、一所一所世に住みつきたまふよすがあらば、それを見譲る方に慰めおくべきを、さまで深き心に尋ねきこゆる人もなし。 |
みやは、おもくつつしみたまふべきとしなりけり。ものこころぼそくおぼして、おほんおこなひつねよりもたゆみなくしたまふ。よにこころとどめたまはねば、いでたちいそぎをのみおぼせば、すずしきみちにもおもむきたまひぬべきを、ただこのおほんことどもに、いといとほしく、かぎりなきみこころづよさなれど、"かならず、いまはとみすてたまはんみこころは、みだれなん。"と、みたてまつるひともおしはかりきこゆるを、おぼすさまにはあらずとも、なのめに、さてもひとぎきくちをしかるまじう、みゆるされぬべききはのひとの、まごころにうしろみきこえん、など、おもひよりきこゆるあらば、しらずがほにてゆるしてん、ひとところひとところよにすみつきたまふよすがあらば、それをみゆづるかたになぐさめおくべきを、さまでふかきこころにたづねきこゆるひともなし。 |
46 | 1.5.2 | 117 | 101 |
まれまれはかなきたよりに、好きごと聞こえなどする人は、まだ若々しき人の心のすさびに、物詣での中宿り、行き来のほどのなほざりごとに、けしきばみかけて、さすがに、かく眺めたまふありさまなど推し量り、あなづらはしげにもてなすは、めざましうて、なげのいらへをだにせさせたまはず。三の宮ぞ、なほ見ではやまじと思す御心深かりける。さるべきにやおはしけむ。 |
まれまれはかなきたよりに、すきごときこえなどするひとは、まだわかわかしきひとのこころのすさびに、ものまうでのなかやどり、ゆききのほどのなほざりごとに、けしきばみかけて、さすがに、かくながめたまふありさまなどおしはかり、あなづらはしげにもてなすは、めざましうて、なげのいらへをだにせさせたまはず。さんのみやぞ、なほみではやまじとおぼすみこころふかかりける。さるべきにやおはしけん。 |
46 | 2 | 118 | 102 | 第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す |
46 | 2.1 | 119 | 103 | 第一段 秋、薫、中納言に昇進し、宇治を訪問 |
46 | 2.1.1 | 120 | 104 |
宰相中将、その秋、中納言になりたまひぬ。いとど匂ひまさりたまふ。世のいとなみに添へても、思すこと多かり。いかなることと、いぶせく思ひわたりし年ごろよりも、心苦しうて過ぎたまひにけむいにしへざまの思ひやらるるに、罪軽くなりたまふばかり、行ひもせまほしくなむ。かの老い人をばあはれなるものに思ひおきて、いちじるきさまならず、とかく紛らはしつつ、心寄せ訪らひたまふ。 |
さいしゃうのちうじゃう、そのあき、ちうなごんになりたまひぬ。いとどにほひまさりたまふ。よのいとなみにそへても、おぼすことおほかり。いかなることと、いぶせくおもひわたりしとしごろよりも、こころぐるしうてすぎたまひにけんいにしへざまのおもひやらるるに、つみかろくなりたまふばかり、おこなひもせまほしくなん。かのおいびとをばあはれなるものにおもひおきて、いちじるきさまならず、とかくまぎらはしつつ、こころよせとぶらひたまふ。 |
46 | 2.1.2 | 121 | 105 |
宇治に参うでで久しうなりにけるを、思ひ出でて参りたまへり。七月ばかりになりにけり。都にはまだ入りたたぬ秋のけしきを、音羽の山近く、風の音もいと冷やかに、槙の山辺もわづかに色づきて、なほ尋ね来たるに、をかしうめづらしうおぼゆるを、宮はまいて、例よりも待ち喜びきこえたまひて、このたびは、心細げなる物語、いと多く申したまふ。 |
うぢにまうででひさしうなりにけるを、おもひいでてまゐりたまへり。しちがちばかりになりにけり。みやこにはまだいりたたぬあきのけしきを、おとはのやまちかく、かぜのおともいとひややかに、まきのやまべもわづかにいろづきて、なほたづねきたるに、をかしうめづらしうおぼゆるを、みやはまいて、れいよりもまちよろこびきこえたまひて、このたびは、こころぼそげなるものがたり、いとおほくまうしたまふ。 |
46 | 2.1.3 | 122 | 106 |
「亡からむ後、この君たちを、さるべきもののたよりにもとぶらひ、思ひ捨てぬものに数まへたまへ」 |
"なからんのち、このきみたちを、さるべきもののたよりにもとぶらひ、おもひすてぬものにかずまへたまへ。" |
46 | 2.1.4 | 123 | 107 |
など、おもむけつつ聞こえたまへば、 |
など、おもむけつつきこえたまへば、 |
46 | 2.1.5 | 124 | 108 |
「一言にても承りおきてしかば、さらに思うたまへおこたるまじくなむ。世の中に心をとどめじと、はぶきはべる身にて、何ごとも頼もしげなき生ひ先の少なさになむはべれど、さる方にてもめぐらいはべらむ限りは、変らぬ心ざしを御覧じ知らせむとなむ思うたまふる」 |
"ひとことにてもうけたまはりおきてしかば、さらにおもうたまへおこたるまじくなん。よのなかにこころをとどめじと、はぶきはべるみにて、なにごともたのもしげなきおひさきのすくなさになんはべれど、さるかたにてもめぐらいはべらんかぎりは、かはらぬこころざしをごらんじしらせんとなんおもうたまふる。" |
46 | 2.1.6 | 125 | 109 |
など聞こえたまへば、うれしと思いたり。 |
などきこえたまへば、うれしとおぼいたり。 |
46 | 2.2 | 126 | 110 | 第二段 薫、八の宮と昔語りをする |
46 | 2.2.1 | 127 | 111 |
夜深き月の明らかにさし出でて、山の端近き心地するに、念誦いとあはれにしたまひて、昔物語したまふ。 |
よぶかきつきのあきらかにさしいでて、やまのはちかきここちするに、ねんずいとあはれにしたまひて、むかしものがたりしたまふ。 |
46 | 2.2.2 | 128 | 112 |
「このころの世は、いかがなりにたらむ。宮中などにて、かやうなる秋の月に、御前の御遊びの折にさぶらひあひたる中に、ものの上手とおぼしき限り、とりどりにうち合はせたる拍子など、ことことしきよりも、よしありとおぼえある女御、更衣の御局々の、おのがじしは挑ましく思ひ、うはべの情けを交はすべかめるに、夜深きほどの人の気しめりぬるに、心やましく掻い調べ、ほのかにほころび出でたる物の音など、聞き所あるが多かりしかな。 |
"このころのよは、いかがなりにたらん。くぢゅうなどにて、かやうなるあきのつきに、おまへのおほんあそびのをりにさぶらひあひたるなかに、もののじゃうずとおぼしきかぎり、とりどりにうちあはせたるひゃうしなど、ことことしきよりも、よしありとおぼえあるにょうご、かういのおほんつぼねつぼねの、おのがじしはいどましくおもひ、うはべのなさけをかはすべかめるに、よぶかきほどのひとのけしめりぬるに、こころやましくかいしらべ、ほのかにほころびいでたるもののねなど、ききどころあるがおほかりしかな。 |
46 | 2.2.3 | 129 | 113 |
何ごとにも、女は、もてあそびのつまにしつべく、ものはかなきものから、人の心を動かすくさはひになむあるべき。されば、罪の深きにやあらむ。子の道の闇を思ひやるにも、男は、いとしも親の心を乱さずやあらむ。女は、限りありて、いふかひなき方に思ひ捨つべきにも、なほ、いと心苦しかるべき」 |
なにごとにも、をんなは、もてあそびのつまにしつべく、ものはかなきものから、ひとのこころをうごかすくさはひになんあるべき。されば、つみのふかきにやあらん。このみちのやみをおもひやるにも、をのこは、いとしもおやのこころをみださずやあらん。をんなは、かぎりありて、いふかひなきかたにおもひすつべきにも、なほ、いとこころぐるしかるべき。" |
46 | 2.2.4 | 130 | 114 |
など、おほかたのことにつけてのたまへる、いかがさ思さざらむ、心苦しく思ひやらるる御心のうちなり。 |
など、おほかたのことにつけてのたまへる、いかがさおぼさざらん、こころぐるしくおもひやらるるおほんこころのうちなり。 |
46 | 2.2.5 | 131 | 115 |
「すべて、まことに、しか思うたまへ捨てたるけにやはべらむ、みづからのことにては、いかにもいかにも深う思ひ知る方のはべらぬを、げにはかなきことなれど、声にめづる心こそ、背きがたきことにはべりけれ。さかしう聖だつ迦葉も、さればや、立ちて舞ひはべりけむ」 |
"すべて、まことに、しかおもうたまへすてたるけにやはべらん、みづからのことにては、いかにもいかにもふかうおもひしるかたのはべらぬを、げにはかなきことなれど、こゑにめづるこころこそ、そむきがたきことにはべりけれ。さかしうひじりだつかせふも、さればや、たちてまひはべりけん。" |
46 | 2.2.6 | 132 | 116 |
など聞こえて、飽かず一声聞きし御琴の音を、切にゆかしがりたまへば、うとうとしからぬ初めにもとや思すらむ、御みづからあなたに入りたまひて、切にそそのかしきこえたまふ。箏の琴をぞ、いとほのかに掻きならしてやみたまひぬる。いとど人のけはひも絶えて、あはれなる空のけしき、所のさまに、わざとなき御遊びの心に入りてをかしうおぼゆれど、うちとけてもいかでかは弾き合はせたまはむ。 |
などきこえて、あかずひとこゑききしおほんことのねを、せちにゆかしがりたまへば、うとうとしからぬはじめにもとやおぼすらん、おほんみづからあなたにいりたまひて、せちにそそのかしきこえたまふ。さうのことをぞ、いとほのかにかきならしてやみたまひぬる。いとどひとのけはひもたえて、あはれなるそらのけしき、ところのさまに、わざとなきおほんあそびのこころにいりてをかしうおぼゆれど、うちとけてもいかでかはひきあはせたまはん。 |
46 | 2.2.7 | 133 | 117 |
「おのづからかばかりならしそめつる残りは、世籠もれるどちに譲りきこえてむ」 |
"おのづからかばかりならしそめつるのこりは、よごもれるどちにゆづりきこえてん。" |
46 | 2.2.8 | 134 | 118 |
とて、宮は仏の御前に入りたまひぬ。 |
とて、みやはほとけのおまへにいりたまひぬ。 |
46 | 2.2.9 | 135 | 119 |
「われなくて草の庵は荒れぬとも<BR/>このひとことはかれじとぞ思ふ |
"〔われなくてくさのいほりはあれぬとも<BR/>このひとことはかれじとぞおもふ |
46 | 2.2.10 | 136 | 120 |
かかる対面もこのたびや限りならむと、もの心細きに忍びかねて、かたくなしきひが言多くもなりぬるかな」 |
かかるたいめんもこのたびやかぎりならんと、ものこころぼそきにしのびかねて、かたくなしきひがことおほくもなりぬるかな。" |
46 | 2.2.11 | 137 | 121 |
とて、うち泣きたまふ。客人、 |
とて、うちなきたまふ。まらうと、 |
46 | 2.2.12 | 138 | 122 |
「いかならむ世にかかれせむ長き世の<BR/>契りむすべる草の庵は |
"〔いかならんよにかかれせんながきよの<BR/>ちぎりむすべるくさのいほりは |
46 | 2.2.13 | 139 | 123 |
相撲など、公事ども紛れはべるころ過ぎて、さぶらはむ」 |
すまひなど、おほやけごとどもまぎれはべるころすぎて、さぶらはん。" |
46 | 2.2.14 | 140 | 124 |
など聞こえたまふ。 |
などきこえたまふ。 |
46 | 2.3 | 141 | 125 | 第三段 薫、弁の君から昔語りを聞き、帰京 |
46 | 2.3.1 | 142 | 126 |
こなたにて、かの問はず語りの古人召し出でて、残り多かる物語などせさせたまふ。入り方の月、隈なくさし入りて、透影なまめかしきに、君たちも奥まりておはす。世の常の懸想びてはあらず、心深う物語のどやかに聞こえつつものしたまへば、さるべき御いらへなど聞こえたまふ。 |
こなたにて、かのとはずがたりのふるびとめしいでて、のこりおほかるものがたりなどせさせたまふ。いりがたのつき、くまなくさしいりて、すきかげなまめかしきに、きみたちもおくまりておはす。よのつねのけさうびてはあらず、こころぶかうものがたりのどやかにきこえつつものしたまへば、さるべきおほんいらへなどきこえたまふ。 |
46 | 2.3.2 | 143 | 127 |
「三の宮いとゆかしう思いたるものを」と、心のうちには思ひ出でつつ、「わが心ながら、なほ人には異なりかし。さばかり御心もて許いたまふことの、さしもいそがれぬよ。もて離れて、はたあるまじきこととは、さすがにおぼえず。かやうにてものをも聞こえ交はし、折ふしの花紅葉につけて、あはれをも情けをも通はすに、憎からずものしたまふあたりなれば、宿世異にて、他ざまにもなりたまはむは」、さすがに口惜しかるべう、領じたる心地しけり。 |
"さんのみやいとゆかしうおぼいたるものを。"と、こころのうちにはおもひいでつつ、"わがこころながら、なほひとにはことなりかし。さばかりみこころもてゆるいたまふことの、さしもいそがれぬよ。もてはなれて、はたあるまじきこととは、さすがにおぼえず。かやうにてものをもきこえかはし、をりふしのはなもみぢにつけて、あはれをもなさけをもかよはすに、にくからずものしたまふあたりなれば、すくせことにて、ほかざまにもなりたまはんは"、さすがにくちをしかるべう、りゃうじたるここちしけり。 |
46 | 2.3.3 | 144 | 128 |
まだ夜深きほどに帰りたまひぬ。心細く残りなげに思いたりし御けしきを、思ひ出できこえたまひつつ、「騒がしきほど過ぐして参うでむ」と思す。兵部卿宮も、この秋のほどに紅葉見におはしまさむと、さるべきついでを思しめぐらす。 |
まだよぶかきほどにかへりたまひぬ。こころぼそくのこりなげにおぼいたりしみけしきを、おもひいできこえたまひつつ、"さわがしきほどすぐしてまうでん。"とおぼす。ひゃうぶきゃうのみやも、このあきのほどにもみぢみにおはしまさんと、さるべきついでをおぼしめぐらす。 |
46 | 2.3.4 | 145 | 129 |
御文は、絶えずたてまつりたまふ。女は、まめやかに思すらむとも思ひたまはねば、わづらはしくもあらで、はかなきさまにもてなしつつ、折々に聞こえ交はしたまふ。 |
おほんふみは、たえずたてまつりたまふ。をんなは、まめやかにおぼすらんともおもひたまはねば、わづらはしくもあらで、はかなきさまにもてなしつつ、をりをりにきこえかはしたまふ。 |
46 | 2.4 | 146 | 130 | 第四段 八の宮、姫君たちに訓戒して山に入る |
46 | 2.4.1 | 147 | 131 |
秋深くなりゆくままに、宮は、いみじうもの心細くおぼえたまひければ、「例の、静かなる所にて、念仏をも紛れなうせむ」と思して、君たちにもさるべきこと聞こえたまふ。 |
あきふかくなりゆくままに、みやは、いみじうものこころぼそくおぼえたまひければ、"れいの、しづかなるところにて、ねんぶつをもまぎれなうせん。"とおぼして、きみたちにもさるべきこときこえたまふ。 |
46 | 2.4.2 | 148 | 132 |
「世のこととして、つひの別れを逃れぬわざなめれど、思ひ慰まむ方ありてこそ、悲しさをも覚ますものなめれ。また見譲る人もなく、心細げなる御ありさまどもを、うち捨ててむがいみじきこと。 |
"よのこととして、つひのわかれをのがれぬわざなめれど、おもひなぐさまんかたありてこそ、かなしさをもさますものなめれ。またみゆづるひともなく、こころぼそげなるおほんありさまどもを、うちすててんがいみじきこと。 |
46 | 2.4.3 | 149 | 133 |
されども、さばかりのことに妨げられて、長き夜の闇にさへ惑はむが益なさを。かつ見たてまつるほどだに思ひ捨つる世を、去りなむうしろのこと、知るべきことにはあらねど、わが身一つにあらず、過ぎたまひにし御面伏せに、軽々しき心どもつかひたまふな。 |
されども、さばかりのことにさまたげられて、ながきよのやみにさへまどはんがやくなさを。かつみたてまつるほどだにおもひすつるよを、さりなんうしろのこと、しるべきことにはあらねど、わがみひとつにあらず、すぎたまひにしおほんおもてぶせに、かるがるしきこころどもつかひたまふな。 |
46 | 2.4.4 | 150 | 134 |
おぼろけのよすがならで、人の言にうちなびき、この山里をあくがれたまふな。ただ、かう人に違ひたる契り異なる身と思しなして、ここに世を尽くしてむと思ひとりたまへ。ひたぶるに思ひなせば、ことにもあらず過ぎぬる年月なりけり。まして、女は、さる方に絶え籠もりて、いちしるくいとほしげなる、よそのもどきを負はざらむなむよかるべき」 |
おぼろけのよすがならで、ひとのことにうちなびき、このやまざとをあくがれたまふな。ただ、かうひとにたがひたるちぎりことなるみとおぼしなして、ここによをつくしてんとおもひとりたまへ。ひたぶるにおもひなせば、ことにもあらずすぎぬるとしつきなりけり。まして、をんなは、さるかたにたえこもりて、いちしるくいとほしげなる、よそのもどきをおはざらんなんよかるべき。" |
46 | 2.4.5 | 151 | 135 |
などのたまふ。ともかくも身のならむやうまでは、思しも流されず、ただ、「いかにしてか、後れたてまつりては、世に片時もながらふべき」と思すに、かく心細きさまの御あらましごとに、言ふ方なき御心惑ひどもになむ。心のうちにこそ思ひ捨てたまひつらめど、明け暮れ御かたはらにならはいたまうて、にはかに別れたまはむは、つらき心ならねど、げに恨めしかるべき御ありさまになむありける。 |
などのたまふ。ともかくもみのならんやうまでは、おぼしもながされず、ただ、"いかにしてか、おくれたてまつりては、よにかたときもながらふべき。"とおぼすに、かくこころぼそきさまのおほんあらましごとに、いふかたなきみこころまどひどもになん。こころのうちにこそおもひすてたまひつらめど、あけくれおほんかたはらにならはいたまうて、にはかにわかれたまはんは、つらきこころならねど、げにうらめしかるべきおほんありさまになんありける。 |
46 | 2.4.6 | 152 | 136 |
明日、入りたまはむとての日は、例ならず、こなたかなた、たたずみ歩きたまひて見たまふ。いとものはかなく、かりそめの宿りにて過ぐいたまひける御住まひのありさまを、「亡からむのち、いかにしてかは、若き人の絶え籠もりては過ぐいたまはむ」と、涙ぐみつつ念誦したまふさま、いときよげなり。 |
あす、いりたまはんとてのひは、れいならず、こなたかなた、たたずみありきたまひてみたまふ。いとものはかなく、かりそめのやどりにてすぐいたまひけるおほんすまひのありさまを、"なからんのち、いかにしてかは、わかきひとのたえこもりてはすぐいたまはん。"と、なみだぐみつつねんずしたまふさま、いときよげなり。 |
46 | 2.4.7 | 153 | 137 |
おとなびたる人びと召し出でて、 |
おとなびたるひとびとめしいでて、 |
46 | 2.4.8 | 154 | 138 |
「うしろやすく仕うまつれ。何ごとも、もとよりかやすく、世に聞こえあるまじき際の人は、末の衰へも常のことにて、紛れぬべかめり。かかる際になりぬれば、人は何と思はざらめど、口惜しうてさすらへむ、契りかたじけなく、いとほしきことなむ、多かるべき。もの寂しく心細き世を経るは、例のことなり。 |
"うしろやすくつかうまつれ。なにごとも、もとよりかやすく、よにきこえあるまじききはのひとは、すゑのおとろへもつねのことにて、まぎれぬべかめり。かかるきはになりぬれば、ひとはなにとおもはざらめど、くちをしうてさすらへん、ちぎりかたじけなく、いとほしきことなん、おほかるべき。ものさびしくこころぼそきよをふるは、れいのことなり。 |
46 | 2.4.9 | 155 | 139 |
生まれたる家のほど、おきてのままにもてなしたらむなむ、聞き耳にも、わが心地にも、過ちなくはおぼゆべき。にぎははしく人数めかむと思ふとも、その心にもかなふまじき世とならば、ゆめゆめ軽々しく、よからぬ方にもてなしきこゆな」 |
むまれたるいへのほど、おきてのままにもてなしたらんなん、ききみみにも、わがここちにも、あやまちなくはおぼゆべき。にぎははしくひとかずめかんとおもふとも、そのこころにもかなふまじきよとならば、ゆめゆめかろがろしく、よからぬかたにもてなしきこゆな。" |
46 | 2.4.10 | 156 | 140 |
などのたまふ。 |
などのたまふ。 |
46 | 2.4.11 | 157 | 141 |
まだ暁に出でたまふとても、こなたに渡りたまひて、 |
まだあかつきにいでたまふとても、こなたにわたりたまひて、 |
46 | 2.4.12 | 158 | 142 |
「無からむほど、心細くな思しわびそ。心ばかりはやりて遊びなどはしたまへ。何ごとも思ふにえかなふまじき世を。思し入られそ」 |
"なからんほど、こころぼそくなおぼしわびそ。こころばかりはやりてあそびなどはしたまへ。なにごともおもふにえかなふまじきよを。おぼしいられそ。" |
46 | 2.4.13 | 159 | 143 |
など、返り見がちにて出でたまひぬ。二所、いとど心細くもの思ひ続けられて、起き臥しうち語らひつつ、 |
など、かへりみがちにていでたまひぬ。ふたところ、いとどこころぼそくものおもひつづけられて、おきふしうちかたらひつつ、 |
46 | 2.4.14 | 160 | 144 |
「一人一人なからましかば、いかで明かし暮らさまし」 |
"ひとりひとりなからましかば、いかであかしくらさまし。" |
46 | 2.4.15 | 161 | 145 |
「今、行く末も定めなき世にて、もし別るるやうもあらば」 |
"いま、ゆくすゑもさだめなきよにて、もしわかるるやうもあらば。" |
46 | 2.4.16 | 162 | 146 |
など、泣きみ笑ひみ、戯れごともまめごとも、同じ心に慰め交して過ぐしたまふ。 |
など、なきみわらひみ、たはぶれごともまめごとも、おなじこころになぐさめかはしてすぐしたまふ。 |
46 | 2.5 | 163 | 147 | 第五段 八月二十日、八の宮、山寺で死去 |
46 | 2.5.1 | 164 | 148 |
かの行ひたまふ三昧、今日果てぬらむと、いつしかと待ちきこえたまふ夕暮に、人参りて、 |
かのおこなひたまふさんまい、けふはてぬらんと、いつしかとまちきこえたまふゆふぐれに、ひとまゐりて、 |
46 | 2.5.2 | 165 | 149 |
「今朝より、悩ましくてなむ、え参らぬ。風邪かとて、とかくつくろふとものするほどになむ。さるは、例よりも対面心もとなきを」 |
"けさより、なやましくてなん、えまゐらぬ。かぜかとて、とかくつくろふとものするほどになん。さるは、れいよりもたいめんこころもとなきを。" |
46 | 2.5.3 | 166 | 150 |
と聞こえたまへり。胸つぶれて、いかなるにかと思し嘆き、御衣ども綿厚くて、急ぎせさせたまひて、たてまつれなどしたまふ。二、三日怠りたまはず。「いかに、いかに」と、人たてまつりたまへど、 |
ときこえたまへり。むねつぶれて、いかなるにかとおぼしなげき、おほんぞどもわたあつくて、いそぎせさせたまひて、たてまつれなどしたまふ。に、さんにちおこたりたまはず。"いかに、いかに。"と、ひとたてまつりたまへど、 |
46 | 2.5.4 | 167 | 151 |
「ことにおどろおどろしくはあらず。そこはかとなく苦しうなむ。すこしもよろしくならば、今、念じて」 |
"ことにおどろおどろしくはあらず。そこはかとなくくるしうなん。すこしもよろしくならば、いま、ねんじて。" |
46 | 2.5.5 | 168 | 152 |
など、言葉にて聞こえたまふ。阿闍梨つとさぶらひて仕うまつりける。 |
など、ことばにてきこえたまふ。あざりつとさぶらひてつかうまつりける。 |
46 | 2.5.6 | 169 | 153 |
「はかなき御悩みと見ゆれど、限りのたびにもおはしますらむ。君たちの御こと、何か思し嘆くべき。人は皆、御宿世といふもの異々なれば、御心にかかるべきにもおはしまさず」 |
"はかなきおほんなやみとみゆれど、かぎりのたびにもおはしますらん。きみたちのおほんこと、なにかおぼしなげくべき。ひとはみな、おほんすくせといふものことごとなれば、みこころにかかるべきにもおはしまさず。" |
46 | 2.5.7 | 170 | 154 |
と、いよいよ思し離るべきことを聞こえ知らせつつ、「今さらにな出でたまひそ」と、諌め申すなりけり。 |
と、いよいよおぼしはなるべきことをきこえしらせつつ、"いまさらにないでたまひそ。"と、いさめもうすなりけり。 |
46 | 2.5.8 | 171 | 155 |
八月二十日のほどなりけり。おほかたの空のけしきもいとどしきころ、君たちは、朝夕、霧の晴るる間もなく、思し嘆きつつ眺めたまふ。有明の月のいとはなやかにさし出でて、水の面もさやかに澄みたるを、そなたの蔀上げさせて、見出だしたまへるに、鐘の声かすかに響きて、「明けぬなり」と聞こゆるほどに、人びと来て、 |
はちがちはつかのほどなりけり。おほかたのそらのけしきもいとどしきころ、きみたちは、あさゆふ、きりのはるるまもなく、おぼしなげきつつながめたまふ。ありあけのつきのいとはなやかにさしいでて、みづのおもてもさやかにすみたるを、そなたのしとみあげさせて、みいだしたまへるに、かねのこゑかすかにひびきて、"あけぬなり。"ときこゆるほどに、ひとびときて、 |
46 | 2.5.9 | 172 | 157 |
「この夜中ばかりになむ、亡せたまひぬる」 |
"このよなかばかりになん、うせたまひぬる。" |
46 | 2.5.10 | 173 | 158 |
と泣く泣く申す。心にかけて、いかにとは絶えず思ひきこえたまへれど、うち聞きたまふには、あさましくものおぼえぬ心地して、いとどかかることには、涙もいづちか去にけむ、ただうつぶし臥したまへり。 |
となくなくまうす。こころにかけて、いかにとはたえずおもひきこえたまへれど、うちききたまふには、あさましくものおぼえぬここちして、いとどかかることには、なみだもいづちかいにけん、ただうつぶしふしたまへり。 |
46 | 2.5.11 | 174 | 159 |
いみじき目も、見る目の前にておぼつかなからぬこそ、常のことなれ、おぼつかなさ添ひて、思し嘆くこと、ことわりなり。しばしにても、後れたてまつりて、世にあるべきものと思しならはぬ御心地どもにて、いかでかは後れじと泣き沈みたまへど、限りある道なりければ、何のかひなし。 |
いみじきめも、みるめのまへにておぼつかなからぬこそ、つねのことなれ、おぼつかなさそひて、おぼしなげくこと、ことわりなり。しばしにても、おくれたてまつりて、よにあるべきものとおぼしならはぬみここちどもにて、いかでかはおくれじとなきしづみたまへど、かぎりあるみちなりければ、なにのかひなし。 |
46 | 2.6 | 175 | 160 | 第六段 阿闍梨による法事と薫の弔問 |
46 | 2.6.1 | 176 | 161 |
阿闍梨、年ごろ契りおきたまひけるままに、後の御こともよろづに仕うまつる。 |
あざり、としごろちぎりおきたまひけるままに、のちのおほんこともよろづにつかうまつる。 |
46 | 2.6.2 | 177 | 162 |
「亡き人になりたまへらむ御さま容貌をだに、今一度見たてまつらむ」 |
"なきひとになりたまへらんおほんさまかたちをだに、いまひとたびみたてまつらん。" |
46 | 2.6.3 | 178 | 163 |
と思しのたまへど、 |
とおぼしのたまへど、 |
46 | 2.6.4 | 179 | 164 |
「今さらに、なでふさることかはべるべき。日ごろも、また会ひたまふまじきことを聞こえ知らせつれば、今はまして、かたみに御心とどめたまふまじき御心遣ひを、ならひたまふべきなり」 |
"いまさらに、なでふさることかはべるべき。ひごろも、またあひたまふまじきことをきこえしらせつれば、いまはまして、かたみにみこころとどめたまふまじきみこころづかひを、ならひたまふべきなり。" |
46 | 2.6.5 | 180 | 165 |
とのみ聞こゆ。おはしましける御ありさまを聞きたまふにも、阿闍梨のあまりさかしき聖心を、憎くつらしとなむ思しける。 |
とのみきこゆ。おはしましけるおほんありさまをききたまふにも、あざりのあまりさかしきひじりごころを、にくくつらしとなんおぼしける。 |
46 | 2.6.6 | 181 | 166 |
入道の御本意は、昔より深くおはせしかど、かう見譲る人なき御ことどもの見捨てがたきを、生ける限りは明け暮れえ避らず見たてまつるを、よに心細き世の慰めにも、思し離れがたくて過ぐいたまへるを、限りある道には、先だちたまふも慕ひたまふ御心も、かなはぬわざなりけり。 |
にふだうのおほんほいは、むかしよりふかくおはせしかど、かうみゆづるひとなきおほんことどものみすてがたきを、いけるかぎりはあけくれえさらずみたてまつるを、よにこころぼそきよのなぐさめにも、おぼしはなれがたくてすぐいたまへるを、かぎりあるみちには、さきだちたまふもしたひたまふみこころも、かなはぬわざなりけり。 |
46 | 2.6.7 | 182 | 167 |
中納言殿には、聞きたまひて、いとあへなく口惜しく、今一度、心のどかにて聞こゆべかりけること多う残りたる心地して、おほかた世のありさま思ひ続けられて、いみじう泣いたまふ。「またあひ見ること難くや」などのたまひしを、なほ常の御心にも、朝夕の隔て知らぬ世のはかなさを、人よりけに思ひたまへりしかば、耳馴れて、昨日今日と思はざりけるを、かへすがへす飽かず悲しく思さる。 |
ちうなごんどのには、ききたまひて、いとあへなくくちをしく、いまひとたび、こころのどかにてきこゆべかりけることおほうのこりたるここちして、おほかたよのありさまおもひつづけられて、いみじうないたまふ。"またあひみることかたくや。"などのたまひしを、なほつねのみこころにも、あさゆふのへだてしらぬよのはかなさを、ひとよりけにおもひたまへりしかば、みみなれて、きのふけふとおもはざりけるを、かへすがへすあかずかなしくおぼさる。 |
46 | 2.6.8 | 183 | 168 |
阿闍梨のもとにも、君たちの御弔らひも、こまやかに聞こえたまふ。かかる御弔らひなど、また訪れきこゆる人だになき御ありさまなるは、ものおぼえぬ御心地どもにも、年ごろの御心ばへのあはれなめりしなどをも、思ひ知りたまふ。 |
あじゃりのもとにも、きみたちのおほんとぶらひも、こまやかにきこえたまふ。かかるおほんとぶらひなど、またおとづれきこゆるひとだになきおほんありさまなるは、ものおぼえぬみここちどもにも、としごろのみこころばへのあはれなめりしなどをも、おもひしりたまふ。 |
46 | 2.6.9 | 184 | 169 |
「世の常のほどの別れだに、さしあたりては、またたぐひなきやうにのみ、皆人の思ひ惑ふものなめるを、慰むかたなげなる御身どもにて、いかやうなる心地どもしたまふらむ」と思しやりつつ、後の御わざなど、あるべきことども、推し量りて、阿闍梨にも訪らひたまふ。ここにも、老い人どもにことよせて、御誦経などのことも思ひやりたまふ。 |
"よのつねのほどのわかれだに、さしあたりては、またたぐひなきやうにのみ、みなひとのおもひまどふものなめるを、なぐさむかたなげなるおほんみどもにて、いかやうなるここちどもしたまふらん。"とおぼしやりつつ、のちのおほんわざなど、あるべきことども、おしはかりて、あじゃりにもとぶらひたまふ。ここにも、おいびとどもにことよせて、みずきゃうなどのこともおもひやりたまふ。 |
46 | 3 | 185 | 170 | 第三章 宇治の姉妹の物語 晩秋の傷心の姫君たち |
46 | 3.1 | 186 | 171 | 第一段 九月、忌中の姫君たち |
46 | 3.1.1 | 187 | 172 |
明けぬ夜の心地ながら、九月にもなりぬ。野山のけしき、まして袖の時雨をもよほしがちに、ともすればあらそひ落つる木の葉の音も、水の響きも、涙の滝も、一つもののやうに暮れ惑ひて、「かうては、いかでか、限りあらむ御命も、しばしめぐらいたまはむ」と、さぶらふ人びとは、心細く、いみじく慰めきこえつつ。 |
あけぬよのここちながら、くがちにもなりぬ。のやまのけしき、ましてそでのしぐれをもよほしがちに、ともすればあらそひおつるこのはのおとも、みづのひびきも、なみだのたきも、ひとつもののやうにくれまどひて、"かうては、いかでか、かぎりあらんおほんいのちも、しばしめぐらいたまはん。"と、さぶらふひとびとは、こころぼそく、いみじくなぐさめきこえつつ。 |
46 | 3.1.2 | 188 | 173 |
ここにも念仏の僧さぶらひて、おはしましし方は、仏を形見に見たてまつりつつ、時々参り仕うまつりし人びとの、御忌に籠もりたる限りは、あはれに行ひて過ぐす。 |
ここにもねんぶつのそうさぶらひて、おはしまししかたは、ほとけをかたみにみたてまつりつつ、ときどきまゐりつかうまつりしひとびとの、おほんいみにこもりたるかぎりは、あはれにおこなひてすぐす。 |
46 | 3.1.3 | 189 | 174 |
兵部卿宮よりも、たびたび弔らひきこえたまふ。さやうの御返りなど、聞こえむ心地もしたまはず。おぼつかなければ、「中納言にはかうもあらざなるを、我をばなほ思ひ放ちたまへるなめり」と、恨めしく思す。紅葉の盛りに、文など作らせたまはむとて、出で立ちたまひしを、かく、このわたりの御逍遥、便なきころなれば、思しとまりて口惜しくなむ。 |
ひゃうぶきゃうのみやよりも、たびたびとぶらひきこえたまふ。さやうのおほんかへりなど、きこえんここちもしたまはず。おぼつかなければ、"ちうなごんにはかうもあらざなるを、われをばなほおもひはなちたまへるなめり。"と、うらめしくおぼす。もみぢのさかりに、ふみなどつくらせたまはんとて、いでたちたまひしを、かく、このわたりのおほんせうえう、びんなきころなれば、おぼしとまりてくちをしくなん。 |
46 | 3.2 | 190 | 175 | 第二段 匂宮からの弔問の手紙 |
46 | 3.2.1 | 191 | 176 |
御忌も果てぬ。限りあれば、涙も隙もやと思しやりて、いと多く書き続けたまへり。時雨がちなる夕つ方、 |
おほんいみもはてぬ。かぎりあれば、なみだもひまもやとおぼしやりて、いとおほくかきつづけたまへり。しぐれがちなるゆふつかた、 |
46 | 3.2.2 | 192 | 177 |
「牡鹿鳴く秋の山里いかならむ<BR/>小萩が露のかかる夕暮 |
"〔をじかなくあきのやまざといかならん<BR/>こはぎがつゆのかかるゆふぐれ |
46 | 3.2.3 | 193 | 178 |
ただ今の空のけしき、思し知らぬ顔ならむも、あまり心づきなくこそあるべけれ。枯れゆく野辺も、分きて眺めらるるころになむ」 |
ただいまのそらのけしき、おぼししらぬかほならんも、あまりこころづきなくこそあるべけれ。かれゆくのべも、わきてながめらるるころになん。" |
46 | 3.2.4 | 194 | 179 |
などあり。 |
などあり。 |
46 | 3.2.5 | 195 | 180 |
「げに、いとあまり思ひ知らぬやうにて、たびたびになりぬるを、なほ、聞こえたまへ」 |
"げに、いとあまりおもひしらぬやうにて、たびたびになりぬるを、なほ、きこえたまへ。" |
46 | 3.2.6 | 196 | 181 |
など、中の宮を、例の、そそのかして、書かせたてまつりたまふ。 |
など、なかのみやを、れいの、そそのかして、かかせたてまつりたまふ。 |
46 | 3.2.7 | 197 | 182 |
「今日までながらへて、硯など近くひき寄せて見るべきものとやは思ひし。心憂くも過ぎにける日数かな」と思すに、またかきくもり、もの見えぬ心地したまへば、押しやりて、 |
"けふまでながらへて、すずりなどちかくひきよせてみるべきものとやはおもひし。こころうくもすぎにけるひかずかな。"とおぼすに、またかきくもり、ものみえぬここちしたまへば、おしやりて、 |
46 | 3.2.8 | 198 | 183 |
「なほ、えこそ書きはべるまじけれ。やうやうかう起きゐられなどしはべるが、げに、限りありけるにこそとおぼゆるも、疎ましう心憂くて」 |
"なほ、えこそかきはべるまじけれ。やうやうかうおきゐられなどしはべるが、げに、かぎりありけるにこそとおぼゆるも、うとましうこころうくて。" |
46 | 3.2.9 | 199 | 184 |
と、らうたげなるさまに泣きしをれておはするも、いと心苦し。 |
と、らうたげなるさまになきしをれておはするも、いとこころぐるし。 |
46 | 3.2.10 | 200 | 185 |
夕暮のほどより来ける御使、宵すこし過ぎてぞ来たる。「いかでか、帰り参らむ。今宵は旅寝して」と言はせたまへど、「立ち帰りこそ、参りなめ」と急げば、いとほしうて、我さかしう思ひしづめたまふにはあらねど、見わづらひたまひて、 |
ゆふぐれのほどよりきけるおほんつかひ、よひすこしすぎてぞきたる。"いかでか、かへりまゐらん。こよひはたびねして。"といはせたまへど、"たちかへりこそ、まゐりなめ。"といそげば、いとほしうて、われさかしうおもひしづめたまふにはあらねど、みわづらひたまひて、 |
46 | 3.2.11 | 201 | 186 |
「涙のみ霧りふたがれる山里は<BR/>籬に鹿ぞ諸声に鳴く」 |
"〔なみだのみきりふたがれるやまざとは<BR/>まがきにしかぞもろごゑになく〕 |
46 | 3.2.12 | 202 | 187 |
黒き紙に、夜の墨つきもたどたどしければ、ひきつくろふところもなく、筆にまかせて、おし包みて出だしたまひつ。 |
くろきかみに、よるのすみつきもたどたどしければ、ひきつくろふところもなく、ふでにまかせて、おしつつみていだしたまひつ。 |
46 | 3.3 | 203 | 188 | 第三段 匂宮の使者、帰邸 |
46 | 3.3.1 | 204 | 189 |
御使は、木幡の山のほども、雨もよにいと恐ろしげなれど、さやうのもの懼ぢすまじきをや選り出でたまひけむ、むつかしげなる笹の隈を、駒ひきとどむるほどもなくうち早めて、片時に参り着きぬ。御前にても、いたく濡れて参りたれば、禄賜ふ。 |
おほんつかひは、こはたのやまのほども、あめもよにいとおそろしげなれど、さやうのものおぢすまじきをやえりいでたまひけん、むつかしげなるささのくまを、こまひきとどむるほどもなくうちはやめて、かたときにまゐりつきぬ。おまへにても、いたくぬれてまゐりたれば、ろくたまふ。 |
46 | 3.3.2 | 205 | 191 |
さきざき御覧ぜしにはあらぬ手の、今すこしおとなびまさりて、よしづきたる書きざまなどを、「いづれか、いづれならむ」と、うちも置かず御覧じつつ、とみにも大殿籠もらねば、 |
さきざきごらんぜしにはあらぬての、いますこしおとなびまさりて、よしづきたるかきざまなどを、"いづれか、いづれならん。"と、うちもおかずごらんじつつ、とみにもおほとのごもらねば、 |
46 | 3.3.3 | 206 | 192 |
「待つとて、起きおはしまし」 |
"まつとて、おきおはしまし。" |
46 | 3.3.4 | 207 | 193 |
「また御覧ずるほどの久しきは、いかばかり御心にしむことならむ」 |
"またごらんずるほどのひさしきは、いかばかりみこころにしむことならん。" |
46 | 3.3.5 | 208 | 194 |
と、御前なる人びと、ささめき聞こえて、憎みきこゆ。ねぶたければなめり。 |
と、おまへなるひとびと、ささめききこえて、にくみきこゆ。ねぶたければなめり。 |
46 | 3.3.6 | 209 | 195 |
まだ朝霧深き朝に、いそぎ起きてたてまつりたまふ。 |
まだあさぎりふかきあしたに、いそぎおきてたてまつりたまふ。 |
46 | 3.3.7 | 210 | 196 |
「朝霧に友まどはせる鹿の音を<BR/>おほかたにやはあはれとも聞く |
"〔あさぎりにともまどはせるしかのねを<BR/>おほかたにやはあはれともきく |
46 | 3.3.8 | 211 | 197 |
諸声は劣るまじくこそ」 |
もろごゑはおとるまじくこそ。" |
46 | 3.3.9 | 212 | 198 |
とあれど、「あまり情けだたむもうるさし。一所の御蔭に隠ろへたるを頼み所にてこそ、何ごとも心やすくて過ごしつれ。心よりほかにながらへて、思はずなることの紛れ、つゆにてもあらば、うしろめたげにのみ思しおくめりしなき御魂にさへ、疵やつけたてまつらむ」と、なべていとつつましう恐ろしうて、聞こえたまはず。 |
とあれど、"あまりなさけだたんもうるさし。ひとところのおほんかげにかくろへたるをたのみどころにてこそ、なにごともこころやすくてすごしつれ。こころよりほかにながらへて、おもはずなることのまぎれ、つゆにてもあらば、うしろめたげにのみおぼしおくめりしなきおほんたまにさへ、きずやつけたてまつらん。"と、なべていとつつましうおそろしうて、きこえたまはず。 |
46 | 3.3.10 | 213 | 199 |
この宮などを、軽らかにおしなべてのさまにも思ひきこえたまはず。なげの走り書いたまへる御筆づかひ言の葉も、をかしきさまになまめきたまへる御けはひを、あまたは見知りたまはねど、見たまひながら、「そのゆゑゆゑしく情けある方に、言をまぜきこえむも、つきなき身のありさまどもなれば、何か、ただ、かかる山伏だちて過ぐしてむ」と思す。 |
このみやなどを、かろらかにおしなべてのさまにもおもひきこえたまはず。なげのはしりかいたまへるおほんふでづかひことのはも、をかしきさまになまめきたまへるおほんけはひを、あまたはみしりたまはねど、みたまひながら、"そのゆゑゆゑしくなさけあるかたに、ことをまぜきこえんも、つきなきみのありさまどもなれば、なにか、ただ、かかるやまぶしだちてすぐしてん。"とおぼす。 |
46 | 3.4 | 214 | 200 | 第四段 薫、宇治を訪問 |
46 | 3.4.1 | 215 | 201 |
中納言殿の御返りばかりは、かれよりもまめやかなるさまに聞こえたまへば、これよりも、いとけうとげにはあらず聞こえ通ひたまふ。御忌果てても、みづから参うでたまへり。東の廂の下りたる方にやつれておはするに、近う立ち寄りたまひて、古人召し出でたり。 |
ちうなごんどののおほんかへりばかりは、かれよりもまめやかなるさまにきこえたまへば、これよりも、いとけうとげにはあらずきこえかよひたまふ。おほんいみはてても、みづからまうでたまへり。ひんがしのひさしのくだりたるかたにやつれておはするに、ちかうたちよりたまひて、ふるびとめしいでたり。 |
46 | 3.4.2 | 216 | 202 |
闇に惑ひたまへる御あたりに、いとまばゆく匂ひ満ちて入りおはしたれば、かたはらいたうて、御いらへなどをだにえしたまはねば、 |
やみにまどひたまへるおほんあたりに、いとまばゆくにほひみちていりおはしたれば、かたはらいたうて、おほんいらへなどをだにえしたまはねば、 |
46 | 3.4.3 | 217 | 203 |
「かやうには、もてないたまはで、昔の御心むけに従ひきこえたまはむさまならむこそ、聞こえ承るかひあるべけれ。なよびけしきばみたる振る舞ひをならひはべらねば、人伝てに聞こえはべるは、言の葉も続きはべらず」 |
"かやうには、もてないたまはで、むかしのみこころむけにしたがひきこえたまはんさまならんこそ、きこえうけたまはるかひあるべけれ。なよびけしきばみたるふるまひをならひはべらねば、ひとづてにきこえはべるは、ことのはもつづきはべらず。" |
46 | 3.4.4 | 218 | 204 |
とあれば、 |
とあれば、 |
46 | 3.4.5 | 219 | 205 |
「あさましう、今までながらへはべるやうなれど、思ひさまさむ方なき夢にたどられはべりてなむ、心よりほかに空の光見はべらむもつつましうて、端近うもえみじろきはべらぬ」 |
"あさましう、いままでながらへはべるやうなれど、おもひさまさんかたなきゆめにたどられはべりてなん、こころよりほかにそらのひかりみはべらんもつつましうて、はしちかうもえみじろきはべらぬ。" |
46 | 3.4.6 | 220 | 206 |
と聞こえたまへれば、 |
ときこえたまへれば、 |
46 | 3.4.7 | 221 | 207 |
「ことといへば、限りなき御心の深さになむ。月日の影は、御心もて晴れ晴れしくもて出でさせたまはばこそ、罪もはべらめ。行く方もなく、いぶせうおぼえはべり。また思さるらむは、しばしをも、あきらめきこえまほしくなむ」 |
"ことといへば、かぎりなきみこころのふかさになん。つきひのかげは、みこころもてはればれしくもていでさせたまはばこそ、つみもはべらめ。ゆくかたもなく、いぶせうおぼえはべり。またおぼさるらんは、しばしをも、あきらめきこえまほしくなん。" |
46 | 3.4.8 | 222 | 208 |
と申したまへば、 |
とまうしたまへば、 |
46 | 3.4.9 | 223 | 209 |
「げに、こそ。いとたぐひなげなめる御ありさまを、慰めきこえたまふ御心ばへの浅からぬほど」など、聞こえ知らす。 |
"げに、こそ。いとたぐひなげなめるおほんありさまを、なぐさめきこえたまふみこころばへのあさからぬほど。"など、きこえしらす。 |
46 | 3.5 | 224 | 210 | 第五段 薫、大君と和歌を詠み交す |
46 | 3.5.1 | 225 | 211 |
御心地にも、さこそいへ、やうやう心しづまりて、よろづ思ひ知られたまへば、昔ざまにても、かうまではるけき野辺を分け入りたまへる心ざしなども、思ひ知りたまふべし、すこしゐざり寄りたまへり。 |
みここちにも、さこそいへ、やうやうこころしづまりて、よろづおもひしられたまへば、むかしざまにても、かうまではるけきのべをわけいりたまへるこころざしなども、おもひしりたまふべし、すこしゐざりよりたまへり。 |
46 | 3.5.2 | 226 | 212 |
思すらむさま、またのたまひ契りしことなど、いとこまやかになつかしう言ひて、うたて雄々しきけはひなどは見えたまはぬ人なれば、け疎くすずろはしくなどはあらねど、知らぬ人にかく声を聞かせたてまつり、すずろに頼み顔なることなどもありつる日ごろを思ひ続くるも、さすがに苦しうて、つつましけれど、ほのかに一言などいらへきこえたまふさまの、げに、よろづ思ひほれたまへるけはひなれば、いとあはれと聞きたてまつりたまふ。 |
おぼすらんさま、またのたまひちぎりしことなど、いとこまやかになつかしういひて、うたてををしきけはひなどはみえたまはぬひとなれば、けうとくすずろはしくなどはあらねど、しらぬひとにかくこゑをきかせたてまつり、すずろにたのみがほなることなどもありつるひごろをおもひつづくるも、さすがにくるしうて、つつましけれど、ほのかにひとことなどいらへきこえたまふさまの、げに、よろづおもひほれたまへるけはひなれば、いとあはれとききたてまつりたまふ。 |
46 | 3.5.3 | 227 | 213 |
黒き几帳の透影の、いと心苦しげなるに、ましておはすらむさま、ほの見し明けぐれなど思ひ出でられて、 |
くろききちゃうのすきかげの、いとこころぐるしげなるに、ましておはすらんさま、ほのみしあけぐれなどおもひいでられて、 |
46 | 3.5.4 | 228 | 214 |
「色変はる浅茅を見ても墨染に<BR/>やつるる袖を思ひこそやれ」 |
"〔いろかはるあさぢをみてもすみぞめに<BR/>やつるるそでをおもひこそやれ〕 |
46 | 3.5.5 | 229 | 215 |
と、独り言のやうにのたまへば、 |
と、ひとりごとのやうにのたまへば、 |
46 | 3.5.6 | 230 | 216 |
「色変はる袖をば露の宿りにて<BR/>わが身ぞさらに置き所なき |
"〔いろかはるそでをばつゆのやどりにて<BR/>わがみぞさらにおきどころなき |
46 | 3.5.7 | 231 | 217 |
はつるる糸は」 |
はつるるいとは。" |
46 | 3.5.8 | 232 | 218 |
と末は言ひ消ちて、いといみじく忍びがたきけはひにて入りたまひぬなり。 |
とすゑはいひけちて、いといみじくしのびがたきけはひにていりたまひぬなり。 |
46 | 3.6 | 233 | 219 | 第六段 薫、弁の君と語る |
46 | 3.6.1 | 234 | 220 |
ひきとどめなどすべきほどにもあらねば、飽かずあはれにおぼゆ。老い人ぞ、こよなき御代はりに出で来て、昔今をかき集め、悲しき御物語ども聞こゆ。ありがたくあさましきことどもをも見たる人なりければ、かうあやしく衰へたる人とも思し捨てられず、いとなつかしう語らひたまふ。 |
ひきとどめなどすべきほどにもあらねば、あかずあはれにおぼゆ。おいびとぞ、こよなきおほんかはりにいできて、むかしいまをかきあつめ、かなしきおほんものがたりどもきこゆ。ありがたくあさましきことどもをもみたるひとなりければ、かうあやしくおとろへたるひとともおぼしすてられず、いとなつかしうかたらひたまふ。 |
46 | 3.6.2 | 235 | 221 |
「いはけなかりしほどに、故院に後れたてまつりて、いみじう悲しきものは世なりけりと、思ひ知りにしかば、人となりゆく齢に添へて、官位、世の中の匂ひも、何ともおぼえずなむ。 |
"いはけなかりしほどに、こゐんにおくれたてまつりて、いみじうかなしきものはよなりけりと、おもひしりにしかば、ひととなりゆくよはひにそへて、つかさくらゐ、よのなかのにほひも、なにともおぼえずなん。 |
46 | 3.6.3 | 236 | 222 |
ただ、かう静やかなる御住まひなどの、心にかなひたまへりしを、かくはかなく見なしたてまつりなしつるに、いよいよいみじく、かりそめの世の思ひ知らるる心も、もよほされにたれど、心苦しうて、とまりたまへる御ことどもの、ほだしなど聞こえむは、かけかけしきやうなれど、ながらへても、かの御言あやまたず、聞こえ承らまほしさになむ。 |
ただ、かうしづやかなるおほんすまひなどの、こころにかなひたまへりしを、かくはかなくみなしたてまつりなしつるに、いよいよいみじく、かりそめのよのおもひしらるるこころも、もよほされにたれど、こころぐるしうて、とまりたまへるおほんことどもの、ほだしなどきこえんは、かけかけしきやうなれど、ながらへても、かのおほんことあやまたず、きこえうけたまはらまほしさになん。 |
46 | 3.6.4 | 237 | 223 |
さるは、おぼえなき御古物語聞きしより、いとど世の中に跡とめむともおぼえずなりにたりや」 |
さるは、おぼえなきおほんふるものがたりききしより、いとどよのなかにあととめんともおぼえずなりにたりや。" |
46 | 3.6.5 | 238 | 224 |
うち泣きつつのたまへば、この人はましていみじく泣きて、えも聞こえやらず。御けはひなどの、ただそれかとおぼえたまふに、年ごろうち忘れたりつるいにしへの御ことをさへとり重ねて、聞こえやらむ方もなく、おぼほれゐたり。 |
うちなきつつのたまへば、このひとはましていみじくなきて、えもきこえやらず。おほんけはひなどの、ただそれかとおぼえたまふに、としごろうちわすれたりつるいにしへのおほんことをさへとりかさねて、きこえやらんかたもなく、おぼほれゐたり。 |
46 | 3.6.6 | 239 | 225 |
この人は、かの大納言の御乳母子にて、父は、この姫君たちの母北の方の、母方の叔父、左中弁にて亡せにけるが子なりけり。年ごろ、遠き国にあくがれ、母君も亡せたまひてのち、かの殿には疎くなり、この宮には、尋ね取りてあらせたまふなりけり。人もいとやむごとなからず、宮仕へ馴れにたれど、心地なからぬものに宮も思して、姫君たちの御後見だつ人になしたまへるなりけり。 |
このひとは、かのだいなごんのおほんめのとごにて、ちちは、このひめぎみたちのははきたのかたの、ははがたのをぢ、さちうべんにてうせにけるがこなりけり。としごろ、とほきくににあくがれ、ははぎみもうせたまひてのち、かのとのにはうとくなり、このみやには、たづねとりてあらせたまふなりけり。ひともいとやんごとなからず、みやづかへなれにたれど、ここちなからぬものにみやもおぼして、ひめぎみたちのおほんうしろみだつひとになしたまへるなりけり。 |
46 | 3.6.7 | 240 | 226 |
昔の御ことは、年ごろかく朝夕に見たてまつり馴れ、心隔つる隈なく思ひきこゆる君たちにも、一言うち出で聞こゆるついでなく、忍びこめたりけれど、中納言の君は、「古人の問はず語り、皆、例のことなれば、おしなべてあはあはしうなどは言ひ広げずとも、いと恥づかしげなめる御心どもには、聞きおきたまへらむかし」と推し量らるるが、ねたくもいとほしくもおぼゆるにぞ、「またもて離れてはやまじ」と、思ひ寄らるるつまにもなりぬべき。 |
むかしのおほんことは、としごろかくあさゆふにみたてまつりなれ、こころへだつるくまなくおもひきこゆるきみたちにも、ひとことうちいできこゆるついでなく、しのびこめたりけれど、ちうなごんのきみは、"ふるびとのとはずがたり、みな、れいのことなれば、おしなべてあはあはしうなどはいひひろげずとも、いとはづかしげなめるみこころどもには、ききおきたまへらんかし。"とおしはからるるが、ねたくもいとほしくもおぼゆるにぞ、"またもてはなれてはやまじ。"と、おもひよらるるつまにもなりぬべき。 |
46 | 3.7 | 241 | 227 | 第七段 薫、日暮れて帰京 |
46 | 3.7.1 | 242 | 228 |
今は旅寝もすずろなる心地して、帰りたまふにも、「これや限りの」などのたまひしを、「などか、さしもやは、とうち頼みて、また見たてまつらずなりにけむ、秋やは変はれる。あまたの日数も隔てぬほどに、おはしにけむ方も知らず、あへなきわざなりや。ことに例の人めいたる御しつらひなく、いとことそぎたまふめりしかど、いとものきよげにかき払ひ、あたりをかしくもてないたまへりし御住まひも、大徳たち出で入り、こなたかなたひき隔てつつ、御念誦の具どもなどぞ、変らぬさまなれど、『仏は皆かの寺に移したてまつりてむとす』」と聞こゆるを、聞きたまふにも、かかるさまの人影などさへ絶え果てむほど、とまりて思ひたまはむ心地どもを汲みきこえたまふも、いと胸いたう思し続けらる。 |
いまはたびねもすずろなるここちして、かへりたまふにも、"これやかぎりの。"などのたまひしを、"などか、さしもやは、とうちたのみて、またみたてまつらずなりにけん、あきやはかはれる。あまたのひかずもへだてぬほどに、おはしにけんかたもしらず、あへなきわざなりや。ことにれいのひとめいたるおほんしつらひなく、いとことそぎたまふめりしかど、いとものきよげにかきはらひ、あたりをかしくもてないたまへりしおほんすまひも、だいとこたちいでいり、こなたかなたひきへだてつつ、おほんねんずのぐどもなどぞ、かはらぬさまなれど、'ほとけはみなかのてらにうつしたてまつりてんとす。'"ときこゆるを、ききたまふにも、かかるさまのひとかげなどさへたえはてんほど、とまりておもひたまはんここちどもをくみきこえたまふも、いとむねいたうおぼしつづけらる。 |
46 | 3.7.2 | 243 | 229 |
「いたく暮れはべりぬ」と申せば、眺めさして立ちたまふに、雁鳴きて渡る。 |
"いたくくれはべりぬ。"とまうせば、ながめさしてたちたまふに、かりなきてわたる。 |
46 | 3.7.3 | 244 | 230 |
「秋霧の晴れぬ雲居にいとどしく<BR/>この世をかりと言ひ知らすらむ」 |
"〔あきぎりのはれぬくもゐにいとどしく<BR/>このよをかりといひしらすらん〕 |
46 | 3.8 | 245 | 231 | 第八段 姫君たちの傷心 |
46 | 3.8.1 | 246 | 232 |
兵部卿宮に対面したまふ時は、まづこの君たちの御ことを扱ひぐさにしたまふ。「今はさりとも心やすきを」と思して、宮は、ねむごろに聞こえたまひけり。はかなき御返りも、聞こえにくくつつましき方に、女方は思いたり。 |
ひゃうぶきゃうのみやにたいめんしたまふときは、まづこのきみたちのおほんことをあつかひぐさにしたまふ。"いまはさりともこころやすきを。"とおぼして、みやは、ねんごろにきこえたまひけり。はかなきおほんかへりも、きこえにくくつつましきかたに、をんながたはおぼいたり。 |
46 | 3.8.2 | 247 | 233 |
「世にいといたう好きたまへる御名のひろごりて、好ましく艶に思さるべかめるも、かういと埋づもれたる葎の下よりさし出でたらむ手つきも、いかにうひうひしく、古めきたらむ」など思ひ屈したまへり。 |
"よにいといたうすきたまへるおほんなのひろごりて、このましくえんにおぼさるべかめるも、かういとうづもれたるむぐらのしたよりさしいでたらんてつきも、いかにうひうひしく、ふるめきたらん。"などおもひくっしたまへり。 |
46 | 3.8.3 | 248 | 234 |
「さても、あさましうて明け暮らさるるは、月日なりけり。かく、頼みがたかりける御世を、昨日今日とは思はで、ただおほかた定めなきはかなさばかりを、明け暮れのことに聞き見しかど、我も人も後れ先だつほどしもやは経む、などうち思ひけるよ」 |
"さても、あさましうてあけくらさるるは、つきひなりけり。かく、たのみがたかりけるみよを、きのふけふとはおもはで、ただおほかたさだめなきはかなさばかりを、あけくれのことにききみしかど、われもひともおくれさきだつほどしもやはへん、などうちおもひけるよ。" |
46 | 3.8.4 | 249 | 235 |
「来し方を思ひ続くるも、何の頼もしげなる世にもあらざりけれど、ただいつとなくのどやかに眺め過ぐし、もの恐ろしくつつましきこともなくて経つるものを、風の音も荒らかに、例見ぬ人影も、うち連れ声づくれば、まづ胸つぶれて、もの恐ろしくわびしうおぼゆることさへ添ひにたるが、いみじう堪へがたきこと」 |
"きしかたをおもひつづくるも、なにのたのもしげなるよにもあらざりけれど、ただいつとなくのどやかにながめすぐし、ものおそろしくつつましきこともなくてへつるものを、かぜのねもあららかに、れいみぬひとかげも、うちつれこわづくれば、まづむねつぶれて、ものおそろしくわびしうおぼゆることさへそひにたるが、いみじうたへがたきこと。" |
46 | 3.8.5 | 250 | 236 |
と、二所うち語らひつつ、干す世もなくて過ぐしたまふに、年も暮れにけり。 |
と、ふたところうちかたらひつつ、ほすよもなくてすぐしたまふに、としもくれにけり。 |
46 | 4 | 251 | 237 | 第四章 宇治の姉妹の物語 歳末の宇治の姫君たち |
46 | 4.1 | 252 | 238 | 第一段 歳末の宇治の姫君たち |
46 | 4.1.1 | 253 | 239 |
雪霰降りしくころは、いづくもかくこそはある風の音なれど、今はじめて思ひ入りたらむ山住みの心地したまふ。女ばらなど、 |
ゆきあられふりしくころは、いづくもかくこそはあるかぜのおとなれど、いまはじめておもひいりたらんやまずみのここちしたまふ。をんなばらなど、 |
46 | 4.1.2 | 254 | 240 |
「あはれ、年は替はりなむとす。心細く悲しきことを。改まるべき春待ち出でてしがな」 |
"あはれ、としはかはりなんとす。こころぼそくかなしきことを。あらたまるべきはるまちいでてしがな。" |
46 | 4.1.3 | 255 | 241 |
と、心を消たず言ふもあり。「難きことかな」と聞きたまふ。 |
と、こころをけたずいふもあり。"かたきことかな。"とききたまふ。 |
46 | 4.1.4 | 256 | 242 |
向かひの山にも、時々の御念仏に籠もりたまひしゆゑこそ、人も参り通ひしか、阿闍梨も、いかがと、おほかたにまれに訪れきこゆれど、今は何しにかはほのめき参らむ。 |
むかひのやまにも、ときどきのおほんねんぶつにこもりたまひしゆゑこそ、ひともまゐりかよひしか、あざりも、いかがと、おほかたにまれにおとづれきこゆれど、いまはなにしにかはほのめきまゐらん。 |
46 | 4.1.5 | 257 | 243 |
いとど人目の絶え果つるも、さるべきことと思ひながら、いと悲しくなむ。何とも見ざりし山賤も、おはしまさでのち、たまさかにさしのぞき参るは、めづらしく思ほえたまふ。このころのこととて、薪、木の実拾ひて参る山人どもあり。 |
いとどひとめのたえはつるも、さるべきこととおもひながら、いとかなしくなん。なにともみざりしやまがつも、おはしまさでのち、たまさかにさしのぞきまゐるは、めづらしくおもほえたまふ。このころのこととて、たきぎ、このみひろひてまゐるやまびとどもあり。 |
46 | 4.1.6 | 258 | 244 |
阿闍梨の室より、炭などやうのものたてまつるとて、 |
あざりのむろより、すみなどやうのものたてまつるとて、 |
46 | 4.1.7 | 259 | 245 |
「年ごろにならひはべりにける宮仕への、今とて絶えはつらむが、心細さになむ」 |
"としごろにならひはべりにけるみやづかへの、いまとてたえはつらんが、こころぼそさになん。" |
46 | 4.1.8 | 260 | 247 |
と聞こえたり。かならず冬籠もる山風ふせぎつべき綿衣など遣はししを、思し出でてやりたまふ。法師ばら、童べなどの上り行くも、見えみ見えずみ、いと雪深きを、泣く泣く立ち出でて見送りたまふ。 |
ときこえたり。かならずふゆごもるやまかぜふせぎつべきわたぎぬなどつかはししを、おぼしいでてやりたまふ。ほふしばら、わらはべなどののぼりゆくも、みえみみえずみ、いとゆきふかきを、なくなくたちいでてみおくりたまふ。 |
46 | 4.1.9 | 261 | 248 |
「御髪など下ろいたまうてける、さる方にておはしまさましかば、かやうに通ひ参る人も、おのづからしげからまし」 |
"みぐしなどおろいたまうてける、さるかたにておはしまさましかば、かやうにかよひまゐるひとも、おのづからしげからまし。" |
46 | 4.1.10 | 262 | 249 |
「いかにあはれに心細くとも、あひ見たてまつること絶えてやまましやは」 |
"いかにあはれにこころぼそくとも、あひみたてまつることたえてやまましやは。" |
46 | 4.1.11 | 263 | 250 |
など、語らひたまふ。 |
など、かたらひたまふ。 |
46 | 4.1.12 | 264 | 251 |
「君なくて岩のかけ道絶えしより<BR/>松の雪をもなにとかは見る」 |
"〔きみなくていはのかけみちたえしより<BR/>まつのゆきをもなにとかはみる〕 |
46 | 4.1.13 | 265 | 252 |
中の宮、 |
なかのみや、 |
46 | 4.1.14 | 266 | 253 |
「奥山の松葉に積もる雪とだに<BR/>消えにし人を思はましかば」 |
"〔おくやまのまつばにつもるゆきとだに<BR/>きえにしひとをおもはましかば〕 |
46 | 4.1.15 | 267 | 254 |
うらやましくぞ、またも降り添ふや。 |
うらやましくぞ、またもふりそふや。 |
46 | 4.2 | 268 | 255 | 第二段 薫、歳末に宇治を訪問 |
46 | 4.2.1 | 269 | 256 |
中納言の君、「新しき年は、ふとしもえ訪らひきこえざらむ」と思しておはしたり。雪もいと所狭きに、よろしき人だに見えずなりにたるを、なのめならぬけはひして、軽らかにものしたまへる心ばへの、浅うはあらず思ひ知られたまへば、例よりは見入れて、御座などひきつくろはせたまふ。 |
ちうなごんのきみ、"あたらしきとしは、ふとしもえとぶらひきこえざらん。"とおぼしておはしたり。ゆきもいとところせきに、よろしきひとだにみえずなりにたるを、なのめならぬけはひして、かろらかにものしたまへるこころばへの、あさうはあらずおもひしられたまへば、れいよりはみいれて、おましなどひきつくろはせたまふ。 |
46 | 4.2.2 | 270 | 257 |
墨染ならぬ御火桶、奥なる取り出でて、塵かき払ひなどするにつけても、宮の待ち喜びたまひし御けしきなどを、人びとも聞こえ出づ。対面したまふことをば、つつましくのみ思いたれど、思ひ隈なきやうに人の思ひたまへれば、いかがはせむとて、聞こえたまふ。 |
すみぞめならぬおほんひをけ、おくなるとりいでて、ちりかきはらひなどするにつけても、みやのまちよろこびたまひしみけしきなどを、ひとびともきこえいづ。たいめんしたまふことをば、つつましくのみおぼいたれど、おもひくまなきやうにひとのおもひたまへれば、いかがはせんとて、きこえたまふ。 |
46 | 4.2.3 | 271 | 258 |
うちとくとはなけれど、さきざきよりはすこし言の葉続けて、ものなどのたまへるさま、いとめやすく、心恥づかしげなり。「かやうにてのみは、え過ぐし果つまじ」と思ひなりたまふも、「いとうちつけなる心かな。なほ、移りぬべき世なりけり」と思ひゐたまへり。 |
うちとくとはなけれど、さきざきよりはすこしことのはつづけて、ものなどのたまへるさま、いとめやすく、こころはづかしげなり。"かやうにてのみは、えすぐしはつまじ。"とおもひなりたまふも、"いとうちつけなるこころかな。なほ、うつりぬべきよなりけり。"とおもひゐたまへり。 |
46 | 4.3 | 272 | 259 | 第三段 薫、匂宮について語る |
46 | 4.3.1 | 273 | 260 |
「宮の、いとあやしく恨みたまふことのはべるかな。あはれなりし御一言をうけたまはりおきしさまなど、ことのついでにもや、漏らし聞こえたりけむ。またいと隈なき御心のさがにて、推し量りたまふにやはべらむ、ここになむ、ともかくも聞こえさせなすべきと頼むを、つれなき御けしきなるは、もてそこなひきこゆるぞと、たびたび怨じたまへば、心よりほかなることと思うたまふれど、里のしるべ、いとこよなうもえあらがひきこえぬを、何かは、いとさしももてなしきこえたまはむ。 |
"みやの、いとあやしくうらみたまふことのはべるかな。あはれなりしおほんひとことをうけたまはりおきしさまなど、ことのついでにもや、もらしきこえたりけん。またいとくまなきみこころのさがにて、おしはかりたまふにやはべらん、ここになん、ともかくもきこえさせなすべきとたのむを、つれなきみけしきなるは、もてそこなひきこゆるぞと、たびたびゑんじたまへば、こころよりほかなることとおもうたまふれど、さとのしるべ、いとこよなうもえあらがひきこえぬを、なにかは、いとさしももてなしきこえたまはん。 |
46 | 4.3.2 | 274 | 261 |
好いたまへるやうに、人は聞こえなすべかめれど、心の底あやしく深うおはする宮なり。なほざりごとなどのたまふわたりの、心軽うてなびきやすなるなどを、めづらしからぬものに思ひおとしたまふにや、となむ聞くこともはべる。何ごとにもあるに従ひて、心を立つる方もなく、おどけたる人こそ、ただ世のもてなしに従ひて、とあるもかかるもなのめに見なし、すこし心に違ふふしあるにも、いかがはせむ、さるべきぞ、なども思ひなすべかめれば、なかなか心長き例になるやうもあり。 |
すいたまへるやうに、ひとはきこえなすべかめれど、こころのそこあやしくふかうおはするみやなり。なほざりごとなどのたまふわたりの、こころかろうてなびきやすなるなどを、めづらしからぬものにおもひおとしたまふにや、となんきくこともはべる。なにごとにもあるにしたがひて、こころをたつるかたもなく、おどけたるひとこそ、ただよのもてなしにしたがひて、とあるもかかるもなのめにみなし、すこしこころにたがふふしあるにも、いかがはせん、さるべきぞ、などもおもひなすべかめれば、なかなかこころながきためしになるやうもあり。 |
46 | 4.3.3 | 275 | 262 |
崩れそめては、龍田の川の濁る名をも汚し、いふかひなく名残なきやうなることなども、皆うちまじるめれ。心の深うしみたまふべかめる御心ざまにかなひ、ことに背くこと多くなどものしたまはざらむをば、さらに、軽々しく、初め終り違ふやうなることなど、見せたまふまじきけしきになむ。 |
くづれそめては、たつたのかはのにごるなをもけがし、いふかひなくなごりなきやうなることなども、みなうちまじるめれ。こころのふかうしみたまふべかめるみこころざまにかなひ、ことにそむくことおほくなどものしたまはざらんをば、さらに、かるがるしく、はじめおはりたがふやうなることなど、みせたまふまじきけしきになん。 |
46 | 4.3.4 | 276 | 263 |
人の見たてまつり知らぬことを、いとよう見きこえたるを、もし似つかはしく、さもやと思し寄らば、そのもてなしなどは、心の限り尽くして仕うまつりなむかし。御中道のほど、乱り脚こそ痛からめ」 |
ひとのみたてまつりしらぬことを、いとようみきこえたるを、もしにつかはしく、さもやとおぼしよらば、そのもてなしなどは、こころのかぎりつくしてつかうまつりなんかし。おほんなかみちのほど、みだりあしこそいたからめ。" |
46 | 4.3.5 | 277 | 264 |
と、いとまめやかにて、言ひ続けたまへば、わが御みづからのこととは思しもかけず、「人の親めきていらへむかし」と思しめぐらしたまへど、なほ言ふべき言の葉もなき心地して、 |
と、いとまめやかにて、いひつづけたまへば、わがおほんみづからのこととはおぼしもかけず、"ひとのおやめきていらへんかし。"とおぼしめぐらしたまへど、なほいふべきことのはもなきここちして、 |
46 | 4.3.6 | 278 | 265 |
「いかにとかは。かけかけしげにのたまひ続くるに、なかなか聞こえむこともおぼえはべらで」 |
"いかにとかは。かけかけしげにのたまひつづくるに、なかなかきこえんこともおぼえはべらで。" |
46 | 4.3.7 | 279 | 266 |
と、うち笑ひたまへるも、おいらかなるものから、けはひをかしう聞こゆ。 |
と、うちわらひたまへるも、おいらかなるものから、けはひをかしうきこゆ。 |
46 | 4.4 | 280 | 267 | 第四段 薫と大君、和歌を詠み交す |
46 | 4.4.1 | 281 | 268 |
「かならず御みづから聞こしめし負ふべきこととも思うたまへず。それは、雪を踏み分けて参り来たる心ざしばかりを、御覧じ分かむ御このかみ心にても過ぐさせたまひてよかし。かの御心寄せは、また異にぞはべべかめる。ほのかにのたまふさまもはべめりしを、いさや、それも人の分ききこえがたきことなり。御返りなどは、いづ方にかは聞こえたまふ」 |
"かならずおほんみづからきこしめしおふべきことともおもうたまへず。それは、ゆきをふみわけてまゐりきたるこころざしばかりを、ごらんじわかんおほんこのかみごころにてもすぐさせたまひてよかし。かのみこころよせは、またことにぞはべべかめる。ほのかにのたまふさまもはべめりしを、いさや、それもひとのわききこえがたきことなり。おほんかへりなどは、いづかたにかはきこえたまふ。" |
46 | 4.4.2 | 282 | 269 |
と問ひ申したまふに、「ようぞ、戯れにも聞こえざりける。何となけれど、かうのたまふにも、いかに恥づかしう胸つぶれまし」と思ふに、え答へやりたまはず。 |
ととひまうしたまふに、"ようぞ、たはぶれにもきこえざりける。なにとなけれど、かうのたまふにも、いかにはづかしうむねつぶれまし。"とおもふに、えこたへやりたまはず。 |
46 | 4.4.3 | 283 | 270 |
「雪深き山のかけはし君ならで<BR/>またふみかよふ跡を見ぬかな」 |
"〔ゆきふかきやまのかけはしきみならで<BR/>またふみかよふあとをみぬかな〕 |
46 | 4.4.4 | 284 | 271 |
と書きて、さし出でたまへれば、 |
とかきて、さしいでたまへれば、 |
46 | 4.4.5 | 285 | 272 |
「御ものあらがひこそ、なかなか心おかれはべりぬべけれ」とて、 |
"おほんものあらがひこそ、なかなかこころおかれはべりぬべけれ。"とて、 |
46 | 4.4.6 | 286 | 273 |
「つららとぢ駒ふみしだく山川を<BR/>しるべしがてらまづや渡らむ |
"〔つららとぢこまふみしだくやまがはを<BR/>しるべしがてらまづやわたらん |
46 | 4.4.7 | 287 | 274 |
さらばしも、影さへ見ゆるしるしも、浅うははべらじ」 |
さらばしも、かげさへみゆるしるしも、あさうははべらじ。" |
46 | 4.4.8 | 288 | 275 |
と聞こえたまへば、思はずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず。けざやかに、いともの遠くすくみたるさまには見えたまはねど、今やうの若人たちのやうに、艶げにももてなさで、いとめやすく、のどかなる心ばへならむとぞ、推し量られたまふ人の御けはひなる。 |
ときこえたまへば、おもはずに、ものしうなりて、ことにいらへたまはず。けざやかに、いとものどほくすくみたるさまにはみえたまはねど、いまやうのわかうどたちのやうに、えんげにももてなさで、いとめやすく、のどかなるこころばへならんとぞ、おしはかられたまふひとのおほんけはひなる。 |
46 | 4.4.9 | 289 | 276 |
かうこそは、あらまほしけれと、思ふに違はぬ心地したまふ。ことに触れて、けしきばみ寄るも、知らず顔なるさまにのみもてなしたまへば、心恥づかしうて、昔物語などをぞ、ものまめやかに聞こえたまふ。 |
かうこそは、あらまほしけれと、おもふにたがはぬここちしたまふ。ことにふれて、けしきばみよるも、しらずがほなるさまにのみもてなしたまへば、こころはづかしうて、むかしものがたりなどをぞ、ものまめやかにきこえたまふ。 |
46 | 4.5 | 290 | 277 | 第五段 薫、人びとを励まして帰京 |
46 | 4.5.1 | 291 | 278 |
「暮れ果てなば、雪いとど空も閉ぢぬべうはべり」 |
"くれはてなば、ゆきいとどそらもとぢぬべうはべり。" |
46 | 4.5.2 | 292 | 279 |
と、御供の人びと声づくれば、帰りたまひなむとて、 |
と、おほんとものひとびとこわづくれば、かへりたまひなんとて、 |
46 | 4.5.3 | 293 | 280 |
「心苦しう見めぐらさるる御住まひのさまなりや。ただ山里のやうにいと静かなる所の、人も行き交じらぬはべるを、さも思しかけば、いかにうれしくはべらむ」 |
"こころぐるしうみめぐらさるるおほんすまひのさまなりや。ただやまざとのやうにいとしづかなるところの、ひともゆきまじらぬはべるを、さもおぼしかけば、いかにうれしくはべらん。" |
46 | 4.5.4 | 294 | 281 |
などのたまふも、「いとめでたかるべきことかな」と、片耳に聞きて、うち笑む女ばらのあるを、中の宮は、「いと見苦しう、いかにさやうにはあるべきぞ」と見聞きゐたまへり。 |
などのたまふも、"いとめでたかるべきことかな。"と、かたみみにききて、うちゑむをんなばらのあるを、なかのみやは、"いとみぐるしう、いかにさやうにはあるべきぞ。"とみききゐたまへり。 |
46 | 4.5.5 | 295 | 282 |
御くだものよしあるさまにて参り、御供の人びとにも、肴などめやすきほどにて、土器さし出でさせたまひけり。また御移り香もて騷がれし宿直人ぞ、鬘鬚とかいふつらつき、心づきなくてある、「はかなの御頼もし人や」と見たまひて、召し出でたり。 |
おほんくだものよしあるさまにてまゐり、おほんとものひとびとにも、さかななどめやすきほどにて、かはらけさしいでさせたまひけり。またおほんうつりがもてさわがれしとのゐびとぞ、かづらひげとかいふつらつき、こころづきなくてある、"はかなのおほんたのもしびとや。"とみたまひて、めしいでたり。 |
46 | 4.5.6 | 296 | 283 |
「いかにぞ。おはしまさでのち、心細からむな」 |
"いかにぞ。おはしまさでのち、こころぼそからんな。" |
46 | 4.5.7 | 297 | 284 |
など問ひたまふ。うちひそみつつ、心弱げに泣く。 |
などとひたまふ。うちひそみつつ、こころよわげになく。 |
46 | 4.5.8 | 298 | 285 |
「世の中に頼むよるべもはべらぬ身にて、一所の御蔭に隠れて、三十余年を過ぐしはべりにければ、今はまして、野山にまじりはべらむも、いかなる木のもとをかは頼むべくはべらむ」 |
"よのなかにたのむよるべもはべらぬみにて、ひとところのおほんかげにかくれて、さんじふよねんをすぐしはべりにければ、いまはまして、のやまにまじりはべらんも、いかなるきのもとをかはたのむべくはべらん。" |
46 | 4.5.9 | 299 | 286 |
と申して、いとど人悪ろげなり。 |
とまうして、いとどひとわろげなり。 |
46 | 4.5.10 | 300 | 288 |
おはしましし方開けさせたまへれば、塵いたう積もりて、仏のみぞ花の飾り衰へず、行ひたまひけりと見ゆる御床など取りやりて、かき払ひたり。本意をも遂げば、と契りきこえしこと思ひ出でて、 |
おはしまししかたあけさせたまへれば、ちりいたうつもりて、ほとけのみぞはなのかざりおとろへず、おこなひたまひけりとみゆるおほんゆかなどとりやりて、かきはらひたり。ほいをもとげば、とちぎりきこえしことおもひいでて、 |
46 | 4.5.11 | 301 | 289 |
「立ち寄らむ蔭と頼みし椎が本<BR/>空しき床になりにけるかな」 |
"〔たちよらんかげとたのみししゐがもと<BR/>むなしきとこになりにけるかな〕 |
46 | 4.5.12 | 302 | 290 |
とて、柱に寄りゐたまへるをも、若き人びとは、覗きてめでたてまつる。 |
とて、はしらによりゐたまへるをも、わかきひとびとは、のぞきてめでたてまつる。 |
46 | 4.5.13 | 303 | 291 |
日暮れぬれば、近き所々に、御荘など仕うまつる人びとに、御秣取りにやりける、君も知りたまはぬに、田舎びたる人びとは、おどろおどろしくひき連れ参りたるを、「あやしう、はしたなきわざかな」と御覧ずれど、老い人に紛らはしたまひつ。おほかたかやうに仕うまつるべく、仰せおきて出でたまひぬ。 |
ひくれぬれば、ちかきところどころに、みさうなどつかうまつるひとびとに、みまくさとりにやりける、きみもしりたまはぬに、ゐなかびたるひとびとは、おどろおどろしくひきつれまゐりたるを、"あやしう、はしたなきわざかな。"とごらんずれど、おいびとにまぎらはしたまひつ。おほかたかやうにつかうまつるべく、おほせおきていでたまひぬ。 |
46 | 5 | 304 | 292 | 第五章 宇治の姉妹の物語 匂宮、薫らとの恋物語始まる |
46 | 5.1 | 305 | 293 | 第一段 新年、阿闍梨、姫君たちに山草を贈る |
46 | 5.1.1 | 306 | 294 |
年替はりぬれば、空のけしきうららかなるに、汀の氷解けたるを、ありがたくもと眺めたまふ。聖の坊より、「雪消えに摘みてはべるなり」とて、沢の芹、蕨などたてまつりたり。斎の御台に参れる。 |
としかはりぬれば、そらのけしきうららかなるに、みぎはのこほりとけたるを、ありがたくもとながめたまふ。ひじりのばうより、"ゆきぎえにつみてはべるなり。"とて、さはのせり、わらびなどたてまつりたり。いもひのみだいにまゐれる。 |
46 | 5.1.2 | 307 | 295 |
「所につけては、かかる草木のけしきに従ひて、行き交ふ月日のしるしも見ゆるこそ、をかしけれ」 |
"ところにつけては、かかるくさきのけしきにしたがひて、ゆきかふつきひのしるしもみゆるこそ、をかしけれ。" |
46 | 5.1.3 | 308 | 296 |
など、人びとの言ふを、「何のをかしきならむ」と聞きたまふ。 |
など、ひとびとのいふを、"なにのをかしきならん。"とききたまふ。 |
46 | 5.1.4 | 309 | 297 |
「君が折る峰の蕨と見ましかば<BR/>知られやせまし春のしるしも」 |
"〔きみがをるみねのわらびとみましかば<BR/>しられやせましはるのしるしも〕 |
46 | 5.1.5 | 310 | 298 |
「雪深き汀の小芹誰がために<BR/>摘みかはやさむ親なしにして」 |
"〔ゆきふかきみぎはのこぜりたがために<BR/>つみかはやさんおやなしにして〕 |
46 | 5.1.6 | 311 | 299 |
など、はかなきことどもをうち語らひつつ、明け暮らしたまふ。 |
など、はかなきことどもをうちかたらひつつ、あけくらしたまふ。 |
46 | 5.1.7 | 312 | 300 |
中納言殿よりも宮よりも、折過ぐさず訪らひきこえたまふ。うるさく何となきこと多かるやうなれば、例の、書き漏らしたるなめり。 |
ちうなごんどのよりもみやよりも、をりすぐさずとぶらひきこえたまふ。うるさくなにとなきことおほかるやうなれば、れいの、かきもらしたるなめり。 |
46 | 5.2 | 313 | 301 | 第二段 花盛りの頃、匂宮、中の君と和歌を贈答 |
46 | 5.2.1 | 314 | 302 |
花盛りのころ、宮、「かざし」を思し出でて、その折見聞きたまひし君たちなども、 |
はなざかりのころ、みや、"かざし"をおぼしいでて、そのをりみききたまひしきみたちなども、 |
46 | 5.2.2 | 315 | 303 |
「いとゆゑありし親王の御住まひを、またも見ずなりにしこと」 |
"いとゆゑありしみこのおほんすまひを、またもみずなりにしこと。" |
46 | 5.2.3 | 316 | 304 |
など、おほかたのあはれを口々聞こゆるに、いとゆかしう思されけり。 |
など、おほかたのあはれをくちぐちきこゆるに、いとゆかしうおぼされけり。 |
46 | 5.2.4 | 317 | 305 |
「つてに見し宿の桜をこの春は<BR/>霞隔てず折りてかざさむ」 |
"〔つてにみしやどのさくらをこのはるは<BR/>かすみへだてずをりてかざさん〕 |
46 | 5.2.5 | 318 | 306 |
と、心をやりてのたまへりけり。「あるまじきことかな」と見たまひながら、いとつれづれなるほどに、見所ある御文の、うはべばかりをもて消たじとて、 |
と、こころをやりてのたまへりけり。"あるまじきことかな。"とみたまひながら、いとつれづれなるほどに、みどころあるおほんふみの、うはべばかりをもてけたじとて、 |
46 | 5.2.6 | 319 | 307 |
「いづことか尋ねて折らむ墨染に<BR/>霞みこめたる宿の桜を」 |
"〔いづことかたづねてをらんすみぞめに<BR/>かすみこめたるやどのさくらを〕 |
46 | 5.2.7 | 320 | 308 |
なほ、かくさし放ち、つれなき御けしきのみ見ゆれば、まことに心憂しと思しわたる。 |
なほ、かくさしはなち、つれなきみけしきのみみゆれば、まことにこころうしとおぼしわたる。 |
46 | 5.3 | 321 | 309 | 第三段 その後の匂宮と薫 |
46 | 5.3.1 | 322 | 310 |
御心にあまりたまひては、ただ中納言をとざまかうざまに責め恨みきこえたまへば、をかしと思ひながら、いとうけばりたる後見顔にうちいらへきこえて、あだめいたる御心ざまをも見あらはす時々は、 |
みこころにあまりたまひては、ただちうなごんをとざまかうざまにせめうらみきこえたまへば、をかしとおもひながら、いとうけばりたるうしろみがほにうちいらへきこえて、あだめいたるみこころざまをもみあらはすときどきは、 |
46 | 5.3.2 | 323 | 311 |
「いかでか、かからむには」 |
"いかでか、かからんには。" |
46 | 5.3.3 | 324 | 312 |
など、申したまへば、宮も御心づかひしたまふべし。 |
など、まうしたまへば、みやもみこころづかひしたまふべし。 |
46 | 5.3.4 | 325 | 313 |
「心にかなふあたりを、まだ見つけぬほどぞや」とのたまふ。 |
"こころにかなふあたりを、まだみつけぬほどぞや。"とのたまふ。 |
46 | 5.3.5 | 326 | 314 |
大殿の六の君を思し入れぬこと、なま恨めしげに、大臣も思したりけり。されど、 |
おほとののろくのきみをおぼしいれぬこと、なまうらめしげに、おとどもおぼしたりけり。されど、 |
46 | 5.3.6 | 327 | 315 |
「ゆかしげなき仲らひなるうちにも、大臣のことことしくわづらはしくて、何ごとの紛れをも見とがめられむがむつかしき」 |
"ゆかしげなきなからひなるうちにも、おとどのことことしくわづらはしくて、なにごとのまぎれをもみとがめられんがむつかしき。" |
46 | 5.3.7 | 328 | 316 |
と、下にはのたまひて、すまひたまふ。 |
と、したにはのたまひて、すまひたまふ。 |
46 | 5.3.8 | 329 | 317 |
その年、三条宮焼けて、入道宮も、六条院に移ろひたまひ、何くれともの騒がしきに紛れて、宇治のわたりを久しう訪れきこえたまはず。まめやかなる人の御心は、またいと異なりければ、いとのどかに、「おのがものとはうち頼みながら、女の心ゆるびたまはざらむ限りは、あざればみ情けなきさまに見えじ」と思ひつつ、「昔の御心忘れぬ方を、深く見知りたまへ」と思す。 |
そのとし、さんでうのみややけて、にふだうのみやも、ろくでうのゐんにうつろひたまひ、なにくれとものさわがしきにまぎれて、うぢのわたりをひさしうおとづれきこえたまはず。まめやかなるひとのみこころは、またいとことなりければ、いとのどかに、"おのがものとはうちたのみながら、をんなのこころゆるびたまはざらんかぎりは、あざればみなさけなきさまにみえじ。"とおもひつつ、"むかしのみこころわすれぬかたを、ふかくみしりたまへ。"とおぼす。 |
46 | 5.4 | 330 | 318 | 第四段 夏、薫、宇治を訪問 |
46 | 5.4.1 | 331 | 319 |
その年、常よりも暑さを人わぶるに、「川面涼しからむはや」と思ひ出でて、にはかに参うでたまへり。朝涼みのほどに出でたまひければ、あやにくにさし来る日影もまばゆくて、宮のおはせし西の廂に、宿直人召し出でておはす。 |
そのとし、つねよりもあつさをひとわぶるに、"かわづらすずしからんはや。"とおもひいでて、にはかにまうでたまへり。あさすずみのほどにいでたまひければ、あやにくにさしくるひかげもまばゆくて、みやのおはせしにしのひさしに、とのゐびとめしいでておはす。 |
46 | 5.4.2 | 332 | 320 |
そなたの母屋の仏の御前に、君たちものしたまひけるを、気近からじとて、わが御方に渡りたまふ御けはひ、忍びたれど、おのづから、うちみじろきたまふほど近う聞こえければ、なほあらじに、こなたに通ふ障子の端の方に、かけがねしたる所に、穴のすこし開きたるを見おきたまへりければ、外に立てたる屏風をひきやりて見たまふ。 |
そなたのもやのほとけのおまへに、きみたちものしたまひけるを、けぢかからじとて、わがおほんかたにわたりたまふおほんけはひ、しのびたれど、おのづから、うちみじろきたまふほどちかうきこえければ、なほあらじに、こなたにかよふさうじのはしのかたに、かけがねしたるところに、あなのすこしあきたるをみおきたまへりければ、とにたてたるびゃうぶをひきやりてみたまふ。 |
46 | 5.4.3 | 333 | 321 |
ここもとに几帳を添へ立てたる、「あな、口惜し」と思ひて、ひき帰る、折しも、風の簾をいたう吹き上ぐべかめれば、 |
ここもとにきちゃうをそへたてたる、"あな、くちをし。"とおもひて、ひきかへる、をりしも、かぜのすだれをいたうふきあぐべかめれば、 |
46 | 5.4.4 | 334 | 322 |
「あらはにもこそあれ。その几帳おし出でてこそ」 |
"あらはにもこそあれ。そのきちゃうおしいでてこそ。" |
46 | 5.4.5 | 335 | 323 |
と言ふ人あなり。をこがましきものの、うれしうて見たまへば、高きも短きも、几帳を二間の簾におし寄せて、この障子に向かひて、開きたる障子より、あなたに通らむとなりけり。 |
といふひとあなり。をこがましきものの、うれしうてみたまへば、たかきもみじかきも、きちゃうをふたまのすにおしよせて、このさうじにむかひて、あきたるさうじより、あなたにとほらんとなりけり。 |
46 | 5.5 | 336 | 324 | 第五段 障子の向こう側の様子 |
46 | 5.5.1 | 337 | 325 |
まづ、一人立ち出でて、几帳よりさし覗きて、この御供の人びとの、とかう行きちがひ、涼みあへるを見たまふなりけり。濃き鈍色の単衣に、萱草の袴もてはやしたる、なかなかさま変はりてはなやかなりと見ゆるは、着なしたまへる人からなめり。 |
まづ、ひとりたちいでて、きちゃうよりさしのぞきて、このおほんとものひとびとの、とかうゆきちがひ、すずみあへるをみたまふなりけり。こきにびいろのひとへに、かんぞうのはかまもてはやしたる、なかなかさまかはりてはなやかなりとみゆるは、きなしたまへるひとからなめり。 |
46 | 5.5.2 | 338 | 326 |
帯はかなげにしなして、数珠ひき隠して持たまへり。いとそびやかに、様体をかしげなる人の、髪、袿にすこし足らぬほどならむと見えて、末まで塵のまよひなく、つやつやとこちたう、うつくしげなり。かたはらめなど、あならうたげと見えて、匂ひやかに、やはらかにおほどきたるけはひ、女一の宮も、かうざまにぞおはすべきと、ほの見たてまつりしも思ひ比べられて、うち嘆かる。 |
おびはかなげにしなして、ずずひきかくしてもたまへり。いとそびやかに、やうだいをかしげなるひとの、かみ、うちきにすこしたらぬほどならんとみえて、すゑまでちりのまよひなく、つやつやとこちたう、うつくしげなり。かたはらめなど、あならうたげとみえて、にほひやかに、やはらかにおほどきたるけはひ、をんないちのみやも、かうざまにぞおはすべきと、ほのみたてまつりしもおもひくらべられて、うちなげかる。 |
46 | 5.5.3 | 339 | 327 |
またゐざり出でて、「かの障子は、あらはにもこそあれ」と、見おこせたまへる用意、うちとけたらぬさまして、よしあらむとおぼゆ。頭つき、髪ざしのほど、今すこしあてになまめかしきさまなり。 |
またゐざりいでて、"かのさうじは、あらはにもこそあれ。"と、みおこせたまへるようい、うちとけたらぬさまして、よしあらんとおぼゆ。かしらつき、かんざしのほど、いますこしあてになまめかしきさまなり。 |
46 | 5.5.4 | 340 | 328 |
「あなたに屏風も添へて立ててはべりつ。急ぎてしも、覗きたまはじ」 |
"あなたにびゃうぶもそへてたててはべりつ。いそぎてしも、のぞきたまはじ。" |
46 | 5.5.5 | 341 | 329 |
と、若き人びと、何心なく言ふあり。 |
と、わかきひとびと、なにごころなくいふあり。 |
46 | 5.5.6 | 342 | 330 |
「いみじうもあるべきわざかな」 |
"いみじうもあるべきわざかな。" |
46 | 5.5.7 | 343 | 331 |
とて、うしろめたげにゐざり入りたまふほど、気高う心にくきけはひ添ひて見ゆ。黒き袷一襲、同じやうなる色合ひを着たまへれど、これはなつかしうなまめきて、あはれげに、心苦しうおぼゆ。 |
とて、うしろめたげにゐざりいりたまふほど、けだかうこころにくきけはひそひてみゆ。くろきあはせひとかさね、おなじやうなるいろあひをきたまへれど、これはなつかしうなまめきて、あはれげに、こころぐるしうおぼゆ。 |
46 | 5.5.8 | 344 | 332 |
髪、さはらかなるほどに落ちたるなるべし、末すこし細りて、色なりとかいふめる、翡翠だちていとをかしげに、糸をよりかけたるやうなり。紫の紙に書きたる経を、片手に持ちたまへる手つき、かれよりも細さまさりて、痩せ痩せなるべし。立ちたりつる君も、障子口にゐて、何ごとにかあらむ、こなたを見おこせて笑ひたる、いと愛敬づきたり。 |
かみ、さはらかなるほどにおちたるなるべし、すゑすこしほそりて、いろなりとかいふめる、ひすいだちていとをかしげに、いとをよりかけたるやうなり。むらさきのかみにかきたるきゃうを、かたてにもちたまへるてつき、かれよりもほそさまさりて、やせやせなるべし。たちたりつるきみも、さうじぐちにゐて、なにごとにかあらん、こなたをみおこせてわらひたる、いとあいぎゃうづきたり。 |