帖 | 章.段.行 | テキストLineNo | ローマ字LineNo | 本文 | ひらがな |
54 | 夢浮橋 |
54 | 1 | 51 | 32 | 第一章 薫の物語 横川僧都、薫の依頼を受け浮舟への手紙を書く |
54 | 1.1 | 52 | 33 | 第一段 薫、横川に出向く |
54 | 1.1.1 | 53 | 34 |
山におはして、例せさせたまふやうに、経仏など供養ぜさせたまふ。またの日は、横川におはしたれば、僧都驚きかしこまりきこえたまふ。 |
やまにおはして、れいせさせたまふやうに、きゃうほとけなどくやうぜさせたまふ。またのひは、よかわにおはしたれば、そうづおどろきかしこまりきこえたまふ。 |
54 | 1.1.2 | 54 | 35 |
年ごろ、御祈りなどつけ語らひたまひけれど、ことにいと親しきことはなかりけるを、このたび、一品の宮の御心地のほどにさぶらひたまへるに、「すぐれたまへる験ものしたまひけり」と見たまひてより、こよなう尊びたまひて、今すこし深き契り加へたまひてければ、「重々しうおはする殿の、かくわざとおはしましたること」と、もて騷ぎきこえたまふ。御物語など、こまやかにしておはすれば、御湯漬など参りたまふ。 |
としごろ、おほんいのりなどつけかたらひたまひけれど、ことにいとしたしきことはなかりけるを、このたび、いっぽんのみやのみここちのほどにさぶらひたまへるに、"すぐれたまへるげんものしたまひけり。"とみたまひてより、こよなうたふとびたまひて、いますこしふかきちぎりくはへたまひてければ、"おもおもしうおはするとのの、かくわざとおはしましたること。"と、もてさわぎきこえたまふ。おほんものがたりなど、こまやかにしておはすれば、おほんゆづけなどまゐりたまふ。 |
54 | 1.1.3 | 55 | 36 |
すこし人びと静まりぬるに、 |
すこしひとびとしづまりぬるに、 |
54 | 1.1.4 | 56 | 37 |
「小野のわたりに、知りたまへる宿りやはべる」 |
"をののわたりに、しりたまへるやどりやはべる。" |
54 | 1.1.5 | 57 | 38 |
と、問ひたまへば、 |
と、とひたまへば、 |
54 | 1.1.6 | 58 | 39 |
「しかはべる。いと異様なる所になむ。なにがしが母なる朽尼のはべるを、京にはかばかしからぬ住処もはべらぬうちに、かくて籠もりはべるあひだは、夜中、暁にも、あひ訪らはむ、と思ひたまへおきてはべる」 |
"しかはべる。いとことやうなるところになん。なにがしがははなるくちあまのはべるを、きゃうにはかばかしからぬすみかもはべらぬうちに、かくてこもりはべるあひだは、よなか、あかつきにも、あひとぶらはん、とおもひたまへおきてはべる。" |
54 | 1.1.7 | 59 | 40 |
など申したまふ。 |
などまうしたまふ。 |
54 | 1.1.8 | 60 | 41 |
「そのわたりには、ただ近きころほひまで、人多う住みはべりけるを、今は、いとかすかにこそなりゆくめれ」 |
"そのわたりには、ただちかきころほひまで、ひとおほうすみはべりけるを、いまは、いとかすかにこそなりゆくめれ。" |
54 | 1.1.9 | 61 | 42 |
などのたまひて、今すこし近くゐ寄りて、忍びやかに、 |
などのたまひて、いますこしちかくゐよりて、しのびやかに、 |
54 | 1.1.10 | 62 | 43 |
「いと浮きたる心地もしはべる、また、尋ねきこえむにつけては、いかなりけることにかと、心得ず思されぬべきに、かたがた、憚られはべれど、かの山里に、知るべき人の隠ろへてはべるやうに聞きはべりしを。確かにてこそは、いかなるさまにて、なども漏らしきこえめ、など思ひたまふるほどに、御弟子になりて、忌むことなど授けたまひてけり、と聞きはべるは、まことか。まだ年も若く、親などもありし人なれば、ここに失ひたるやうに、かことかくる人なむはべるを」 |
"いとうきたるここちもしはべる、また、たづねきこえんにつけては、いかなりけることにかと、こころえずおぼされぬべきに、かたがた、はばかられはべれど、かのやまざとに、しるべきひとのかくろへてはべるやうにききはべりしを。たしかにてこそは、いかなるさまにて、などももらしきこえめ、などおもひたまふるほどに、みでしになりて、いむことなどさづけたまひてけり、とききはべるは、まことか。まだとしもわかく、おやなどもありしひとなれば、ここにうしなひたるやうに、かことかくるひとなんはべるを。" |
54 | 1.1.11 | 63 | 44 |
などのたまふ。 |
などのたまふ。 |
54 | 1.2 | 64 | 45 | 第二段 僧都、薫に宇治での出来事を語る |
54 | 1.2.1 | 65 | 46 |
僧都、「さればよ。ただ人と見えざりし人のさまぞかし。かくまでのたまふは、軽々しくは思されざりける人にこそあめれ」と思ふに、「法師といひながら、心もなく、たちまちに容貌をやつしてけること」と、胸つぶれて、いらへきこえむやう思ひまはさる。 |
そうづ、"さればよ。ただうどとみえざりしひとのさまぞかし。かくまでのたまふは、かろがろしくはおぼされざりけるひとにこそあめれ。"とおもふに、"ほふしといひながら、こころもなく、たちまちにかたちをやつしてけること。"と、むねつぶれて、いらへきこえんやうおもひまはさる。 |
54 | 1.2.2 | 66 | 47 |
「確かに聞きたまへるにこそあめれ。かばかり心得たまひて、うかがひ尋ねたまはむに、隠れあるべきことにもあらず。なかなかあらがひ隠さむに、あいなかるべし」など、とばかり思ひ得て、 |
"たしかにききたまへるにこそあめれ。かばかりこころえたまひて、うかがひたづねたまはんに、かくれあるべきことにもあらず。なかなかあらがひかくさんに、あいなかるべし。"など、とばかりおもひえて、 |
54 | 1.2.3 | 67 | 48 |
「いかなることにかはべりけむ。この月ごろ、うちうちにあやしみ思うたまふる人の御ことにや」とて、 |
"いかなることにかはべりけん。このつきごろ、うちうちにあやしみおもうたまふるひとのおほんことにや。"とて、 |
54 | 1.2.4 | 68 | 49 |
「かしこにはべる尼どもの、初瀬に願はべりて、詣でて帰りける道に、宇治の院といふ所に留まりてはべりけるに、母の尼の労気にはかに起こりて、いたくなむわづらふと告げに、人の参うで来たりしかば、まかり向かひたりしに、まづ妖しきことなむ」 |
"かしこにはべるあまどもの、はつせにがんはべりて、まうでてかへりけるみちに、うぢのゐんといふところにとどまりてはべりけるに、ははのあまのらうげにはかにおこりて、いたくなんわづらふとつげに、ひとのまうできたりしかば、まかりむかひたりしに、まづあやしきことなん。" |
54 | 1.2.5 | 69 | 50 |
とささめきて、 |
とささめきて、 |
54 | 1.2.6 | 70 | 51 |
「親の死に返るをばさし置きて、もて扱ひ嘆きてなむはべりし。この人も、亡くなりたまへるさまながら、さすがに息は通ひておはしければ、昔物語に、魂殿に置きたりけむ人のたとひを思ひ出でて、さやうなることにや、と珍しがりはべりて、弟子ばらの中に験ある者どもを呼び寄せつつ、代はり代はりに加持せさせなどなむしはべりける。 |
"おやのしにかへるをばさしおきて、もてあつかひなげきてなんはべりし。このひとも、なくなりたまへるさまながら、さすがにいきはかよひておはしければ、むかしものがたりに、たまどのにおきたりけんひとのたとひをおもひいでて、さやうなることにや、とめづらしがりはべりて、でしばらのなかにげんあるものどもをよびよせつつ、かはりがはりにかぢせさせなどなんしはべりける。 |
54 | 1.2.7 | 71 | 52 |
なにがしは、惜しむべき齢ならねど、母の旅の空にて病重きを助けて、念仏をも心乱れずせさせむと、仏を念じたてまつり思うたまへしほどに、その人のありさま、詳しうも見たまへずなむはべりし。ことの心推し量り思うたまふるに、天狗木霊などやうのものの、欺き率てたてまつりたりけるにや、となむ承りし。 |
なにがしは、をしむべきよはひならねど、ははのたびのそらにてやまひおもきをたすけて、ねんぶつをもこころみだれずせさせんと、ほとけをねんじたてまつりおもうたまへしほどに、そのひとのありさま、くはしうもみたまへずなんはべりし。ことのこころおしはかりおもうたまふるに、てんぐこだまなどやうのものの、あざむきゐてたてまつりたりけるにや、となんうけたまはりし。 |
54 | 1.2.8 | 72 | 53 |
助けて、京に率てたてまつりて後も、三月ばかりは亡き人にてなむものしたまひけるを、なにがしが妹、故衛門督の北の方にてはべりしが、尼になりてはべるなむ、一人持ちてはべりし女子を失ひて後、月日は多く隔てはべりしかど、悲しび堪へず嘆き思ひたまへはべるに、同じ年のほどと見ゆる人の、かく容貌いとうるはしくきよらなるを見出でたてまつりて、観音の賜へると喜び思ひて、この人いたづらになしたてまつらじと、惑ひ焦られて、泣く泣くいみじきことどもを申されしかば。 |
たすけて、きゃうにゐてたてまつりてのちも、みつきばかりはなきひとにてなんものしたまひけるを、なにがしがいもうと、こゑもんのかみのきたのかたにてはべりしが、あまになりてはべるなん、ひとりもちてはべりしをんなごをうしなひてのち、つきひはおほくへだてはべりしかど、かなしびたへずなげきおもひたまへはべるに、おなじとしのほどとみゆるひとの、かくかたちいとうるはしくきよらなるをみいでたてまつりて、かんおんのたまへるとよろこびおもひて、このひといたづらになしたてまつらじと、まどひいられて、なくなくいみじきことどもをまうされしかば。 |
54 | 1.2.9 | 73 | 54 |
後になむ、かの坂本にみづから下りはべりて、護身など仕まつりしに、やうやう生き出でて人となりたまへりけれど、『なほ、この領じたりけるものの、身に離れぬ心地なむする。この悪しきものの妨げを逃れて、後の世を思はむ』など、悲しげにのたまふことどものはべりしかば、法師にては、勧めも申しつべきことにこそはとて、まことに出家せしめたてまつりてしになむはべる。 |
のちになん、かのさかもとにみづからおりはべりて、ごしんなどつかまつりしに、やうやういきいでてひととなりたまへりけれど、'なほ、このらうじたりけるものの、みにはなれぬここちなんする。このあしきもののさまたげをのがれて、のちのよをおもはん'など、かなしげにのたまふことどものはべりしかば、ほふしにては、すすめもまうしつべきことにこそはとて、まことにすけせしめたてまつりてしになんはべる。 |
54 | 1.2.10 | 74 | 55 |
さらに、しろしめすべきこととは、いかでかそらにさとりはべらむ。珍しきことのさまにもあるを、世語りにもしはべりぬべかりしかど、聞こえありて、わづらはしかるべきことにもこそと、この老い人どものとかく申して、この月ごろ、音なくてはべりつるになむ」 |
さらに、しろしめすべきこととは、いかでかそらにさとりはべらん。めづらしきことのさまにもあるを、よがたりにもしはべりぬべかりしかど、きこえありて、わづらはしかるべきことにもこそと、このおいびとどものとかくまうして、このつきごろ、おとなくてはべりつるになん。" |
54 | 1.2.11 | 75 | 56 |
と申したまへば、 |
とまうしたまへば、 |
54 | 1.3 | 76 | 57 | 第三段 薫、僧都に浮舟との面会を依頼 |
54 | 1.3.1 | 77 | 58 |
「さてこそあなれ」と、ほの聞きて、かくまでも問ひ出でたまへることなれど、「むげに亡き人と思ひ果てにし人を、さは、まことにあるにこそは」と思すほど、夢の心地してあさましければ、つつみもあへず涙ぐまれたまひぬるを、僧都の恥づかしげなるに、「かくまで見ゆべきことかは」と思ひ返して、つれなくもてなしたまへど、「かく思しけることを、この世には亡き人と同じやうになしたること」と、過ちしたる心地して、罪深ければ、 |
"さてこそあなれ。"と、ほのききて、かくまでもとひいでたまへることなれど、"むげになきひととおもひはてにしひとを、さは、まことにあるにこそは。"とおぼすほど、ゆめのここちしてあさましければ、つつみもあへずなみだぐまれたまひぬるを、そうづのはづかしげなるに、"かくまでみゆべきことかは。"とおもひかへして、つれなくもてなしたまへど、"かくおぼしけることを、このよにはなきひととおなじやうになしたること。"と、あやまちしたるここちして、つみふかければ、 |
54 | 1.3.2 | 78 | 59 |
「悪しきものに領ぜられたまひけむも、さるべき前の世の契りなり。思ふに、高き家の子にこそものしたまひけめ、いかなる誤りにて、かくまではふれたまひけむにか」 |
"あしきものにらうぜられたまひけんも、さるべきさきのよのちぎりなり。おもふに、たかきいへのこにこそものしたまひけめ、いかなるあやまりにて、かくまではふれたまひけんにか。" |
54 | 1.3.3 | 79 | 60 |
と、問ひ申したまへば、 |
と、とひまうしたまへば、 |
54 | 1.3.4 | 80 | 61 |
「なま王家流などいふべき筋にやありけむ。ここにも、もとよりわざと思ひしことにもはべらず。ものはかなくて見つけそめてははべりしかど、また、いとかくまで落ちあふるべき際と思ひたまへざりしを。珍かに、跡もなく消え失せにしかば、身を投げたるにやなど、さまざまに疑ひ多くて、確かなることは、え聞きはべらざりつるになむ。 |
"なまわかんどほりなどいふべきすぢにやありけん。ここにも、もとよりわざとおもひしことにもはべらず。ものはかなくてみつけそめてははべりしかど、また、いとかくまでおちあふるべききはとおもひたまへざりしを。めづらかに、あともなくきえうせにしかば、みをなげたるにやなど、さまざまにうたがひおほくて、たしかなることは、えききはべらざりつるになん。 |
54 | 1.3.5 | 81 | 62 |
罪軽めてものすれば、いとよしと心やすくなむ、みづからは思ひたまへなりぬるを、母なる人なむ、いみじく恋ひ悲しぶなるを、かくなむ聞き出でたると、告げ知らせまほしくはべれど、月ごろ隠させたまひける本意違ふやうに、もの騒がしくやはべらむ。親子の仲の思ひ絶えず、悲しびに堪へで、訪らひものしなどしはべりなむかし」 |
つみかろめてものすれば、いとよしとこころやすくなん、みづからはおもひたまへなりぬるを、ははなるひとなん、いみじくこひかなしぶなるを、かくなんききいでたると、つげしらせまほしくはべれど、つきごろかくさせたまひけるほいたがふやうに、ものさわがしくやはべらん。おやこのなかのおもひたえず、かなしびにたへで、とぶらひものしなどしはべりなんかし。" |
54 | 1.3.6 | 82 | 63 |
などのたまひて、さて、 |
などのたまひて、さて、 |
54 | 1.3.7 | 83 | 64 |
「いと便なきしるべとは思すとも、かの坂本に下りたまへ。かばかり聞きて、なのめに思ひ過ぐすべくは思ひはべらざりし人なるを、夢のやうなることどもも、今だに語り合はせむ、となむ思ひたまふる」 |
"いとびんなきしるべとはおぼすとも、かのさかもとにおりたまへ。かばかりききて、なのめにおもひすぐすべくはおもひはべらざりしひとなるを、ゆめのやうなることどもも、いまだにかたりあはせん、となんおもひたまふる。" |
54 | 1.3.8 | 84 | 65 |
とのたまふけしき、いとあはれと思ひたまへれば、 |
とのたまふけしき、いとあはれとおもひたまへれば、 |
54 | 1.3.9 | 85 | 66 |
「容貌を変へ、世を背きにきとおぼえたれど、髪鬚を剃りたる法師だに、あやしき心は失せぬもあなり。まして、女の御身はいかがあらむ。いとほしう、罪得ぬべきわざにもあるべきかな」 |
"かたちをかへ、よをそむきにきとおぼえたれど、かみひげをそりたるほふしだに、あやしきこころはうせぬもあなり。まして、をんなのおほんみはいかがあらん。いとほしう、つみえぬべきわざにもあるべきかな。" |
54 | 1.3.10 | 86 | 67 |
と、あぢきなく心乱れぬ。 |
と、あぢきなくこころみだれぬ。 |
54 | 1.3.11 | 87 | 68 |
「まかり下りむこと、今日明日は障りはべり。月たちてのほどに、御消息を申させはべらむ」 |
"まかりおりんこと、けふあすはさはりはべり。つきたちてのほどに、おほんせうそこをまうさせはべらん。" |
54 | 1.3.12 | 88 | 69 |
と申したまふ。いと心もとなけれど、「なほ、なほ」と、うちつけに焦られむも、さま悪しければ、「さらば」とて、帰りたまふ。 |
とまうしたまふ。いとこころもとなけれど、"なほ、なほ。"と、うちつけにいられんも、さまあしければ、"さらば。"とて、かへりたまふ。 |
54 | 1.4 | 89 | 70 | 第四段 僧都、浮舟への手紙を書く |
54 | 1.4.1 | 90 | 72 |
かの御弟の童、御供に率ておはしたりけり。異兄弟どもよりは、容貌もきよげなるを、呼び出でたまひて、 |
かのおほんせうとのわらは、おほんともにゐておはしたりけり。ことはらからどもよりは、かたちもきよげなるを、よびいでたまひて、 |
54 | 1.4.2 | 91 | 73 |
「これなむ、その人の近きゆかりなるを、これをかつがつものせむ。御文一行賜へ。その人とはなくて、ただ、尋ねきこゆる人なむある、とばかりの心を知らせたまへ」 |
"これなん、そのひとのちかきゆかりなるを、これをかつがつものせん。おほんふみひとくだりたまへ。そのひととはなくて、ただ、たづねきこゆるひとなんある、とばかりのこころをしらせたまへ。" |
54 | 1.4.3 | 92 | 74 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
54 | 1.4.4 | 93 | 75 |
「なにがし、このしるべにて、かならず罪得はべりなむ。ことのありさまは、詳しくとり申しつ。今は、御みづから立ち寄らせたまひて、あるべからむことはものせさせたまはむに、何の咎かはべらむ」 |
"なにがし、このしるべにて、かならずつみえはべりなん。ことのありさまは、くはしくとりまうしつ。いまは、おほんみづからたちよらせたまひて、あるべからんことはものせさせたまはんに、なにのとがかはべらん。" |
54 | 1.4.5 | 94 | 76 |
と申したまへば、うち笑ひて、 |
とまうしたまへば、うちわらひて、 |
54 | 1.4.6 | 95 | 77 |
「罪得ぬべきしるべと思ひなしたまふらむこそ、恥づかしけれ。ここには、俗の形にて、今まで過ぐすなむいとあやしき。 |
"つみえぬべきしるべとおもひなしたまふらんこそ、はづかしけれ。ここには、ぞくのかたちにて、いままですぐすなんいとあやしき。 |
54 | 1.4.7 | 96 | 78 |
いはけなかりしより、思ふ心ざし深くはべるを、三条の宮の、心細げにて、頼もしげなき身一つをよすがに思したるが、避りがたきほだしにおぼえはべりて、かかづらひはべりつるほどに、おのづから位などいふことも高くなり、身のおきても心にかなひがたくなどして、思ひながら過ぎはべるには、またえ避らぬことも、数のみ添ひつつは過ぐせど、公私に、逃れがたきことにつけてこそ、さもはべらめ、さらでは、仏の制したまふ方のことを、わづかにも聞き及ばむことは、いかで過たじと、慎しみて、心の内は聖に劣りはべらぬものを。 |
いはけなかりしより、おもふこころざしふかくはべるを、さんでうのみやの、こころぼそげにて、たのもしげなきみひとつをよすがにおぼしたるが、さりがたきほだしにおぼえはべりて、かかづらひはべりつるほどに、おのづからくらゐなどいふこともたかくなり、みのおきてもこころにかなひがたくなどして、おもひながらすぎはべるには、またえさらぬことも、かずのみそひつつはすぐせど、おほやけわたくしに、のがれがたきことにつけてこそ、さもはべらめ、さらでは、ほとけのせいしたまふかたのことを、わづかにもききおよばんことは、いかであやまたじと、つつしみて、こころのうちはひじりにおとりはべらぬものを。 |
54 | 1.4.8 | 97 | 79 |
まして、いとはかなきことにつけてしも、重き罪得べきことは、などてか思ひたまへむ。さらにあるまじきことにはべり。疑ひ思すまじ。ただ、いとほしき親の思ひなどを、聞きあきらめはべらむばかりなむ、うれしう心やすかるべき」 |
まして、いとはかなきことにつけてしも、おもきつみうべきことは、などてかおもひたまへん。さらにあるまじきことにはべり。うたがひおぼすまじ。ただ、いとほしきおやのおもひなどを、ききあきらめはべらんばかりなん、うれしうこころやすかるべき。" |
54 | 1.4.9 | 98 | 80 |
など、昔より深かりし方の心を語りたまふ。 |
など、むかしよりふかかりしかたのこころをかたりたまふ。 |
54 | 1.4.10 | 99 | 81 |
僧都も、げにと、うなづきて、 |
そうづも、げにと、うなづきて、 |
54 | 1.4.11 | 100 | 82 |
「いとど尊きこと」 |
"いとどたふときこと。" |
54 | 1.4.12 | 101 | 83 |
など聞こえたまふほどに、日も暮れぬれば、 |
などきこえたまふほどに、ひもくれぬれば、 |
54 | 1.4.13 | 102 | 84 |
「中宿りもいとよかりぬべけれど、うはの空にてものしたらむこそ、なほ便なかるべけれ」 |
"なかやどりもいとよかりぬべけれど、うはのそらにてものしたらんこそ、なほびんなかるべけれ。" |
54 | 1.4.14 | 103 | 85 |
と、思ひわづらひて帰りたまふに、この弟の童を、僧都、目止めてほめたまふ。 |
と、おもひわづらひてかへりたまふに、このせうとのわらはを、そうづ、めとめてほめたまふ。 |
54 | 1.4.15 | 104 | 86 |
「これにつけて、まづほのめかしたまへ」 |
"これにつけて、まづほのめかしたまへ。" |
54 | 1.4.16 | 105 | 87 |
と聞こえたまへば、文書きて取らせたまふ。 |
ときこえたまへば、ふみかきてとらせたまふ。 |
54 | 1.4.17 | 106 | 88 |
「時々は山におはして遊びたまへよ」と「すずろなるやうには思すまじきゆゑもありけり」 |
"ときどきはやまにおはしてあそびたまへよ。"と"すずろなるやうにはおぼすまじきゆゑもありけり。" |
54 | 1.4.18 | 107 | 89 |
と、うち語らひたまふ。この子は心も得ねど、文取りて御供に出づ。坂本になれば、御前の人びとすこし立ちあかれて、「忍びやかにを」とのたまふ。 |
と、うちかたらひたまふ。このこはこころもえねど、ふみとりておほんともにいづ。さかもとになれば、ごぜんのひとびとすこしたちあかれて、"しのびやかにを。"とのたまふ。 |
54 | 1.5 | 108 | 90 | 第五段 浮舟、薫らの帰りを見る |
54 | 1.5.1 | 109 | 91 |
小野には、いと深く茂りたる青葉の山に向かひて、紛るることなく、遣水の蛍ばかりを、昔おぼゆる慰めにて眺めゐたまへるに、例の、遥かに見やらるる谷の軒端より、前駆心ことに追ひて、いと多う灯したる火の、のどかならぬ光を見るとて、尼君たちも端に出でゐたり。 |
をのには、いとふかくしげりたるあをばのやまにむかひて、まぎるることなく、やりみづのほたるばかりを、むかしおぼゆるなぐさめにてながめゐたまへるに、れいの、はるかにみやらるるたにののきばより、さきこころことにおひて、いとおほうともしたるひの、のどかならぬひかりをみるとて、あまぎみたちもはしにいでゐたり。 |
54 | 1.5.2 | 110 | 93 |
「誰がおはするにかあらむ。御前などいと多くこそ見ゆれ」 |
"たがおはするにかあらん。ごぜんなどいとおほくこそみゆれ。" |
54 | 1.5.3 | 111 | 94 |
「昼、あなたに引干し奉れたりつる返り事に、『大将殿おはしまして、御饗応のことにはかにするを、いとよき折なり』と、こそありつれ」 |
"ひる、あなたにひきぼしたてまつれたりつるかへりごとに、'だいしゃうどのおはしまして、おほんあるじのことにはかにするを、いとよきをりなり'と、こそありつれ。" |
54 | 1.5.4 | 112 | 95 |
「大将殿とは、この女二の宮の御夫にやおはしつらむ」 |
"だいしゃうどのとは、このをんなにのみやのおほんをとこにやおはしつらん。" |
54 | 1.5.5 | 113 | 96 |
など言ふも、いとこの世遠く、田舎びにたりや。まことにさにやあらむ。時々、かかる山路分けおはせし時、いとしるかりし随身の声も、うちつけにまじりて聞こゆ。 |
などいふも、いとこのよとほく、ゐなかびにたりや。まことにさにやあらん。ときどき、かかるやまぢわけおはせしとき、いとしるかりしずいじんのこゑも、うちつけにまじりてきこゆ。 |
54 | 1.5.6 | 114 | 97 |
月日の過ぎゆくままに、昔のことのかく思ひ忘れぬも、「今は何にすべきことぞ」と心憂ければ、阿弥陀仏に思ひ紛らはして、いとどものも言はでゐたり。横川に通ふ人のみなむ、このわたりには近きたよりなりける。 |
つきひのすぎゆくままに、むかしのことのかくおもひわすれぬも、"いまはなににすべきことぞ。"とこころうければ、あみだほとけにおもひまぎらはして、いとどものもいはでゐたり。よかわにかよふひとのみなん、このわたりにはちかきたよりなりける。 |
54 | 2 | 115 | 98 | 第二章 浮舟の物語 浮舟、小君との面会を拒み、返事も書かない |
54 | 2.1 | 116 | 99 | 第一段 薫、浮舟のもとに小君を遣わす |
54 | 2.1.1 | 117 | 100 |
かの殿は、「この子をやがてやらむ」と思しけれど、人目多くて便なければ、殿に帰りたまひて、またの日、ことさらにぞ出だし立てたまふ。睦ましく思す人の、ことことしからぬ二、三人、送りにて、昔も常に遣はしし随身添へたまへり。人聞かぬ間に呼び寄せたまひて、 |
かのとのは、"このこをやがてやらん。"とおぼしけれど、ひとめおほくてびんなければ、とのにかへりたまひて、またのひ、ことさらにぞいだしたてたまふ。むつましくおぼすひとの、ことことしからぬに、さんにん、おくりにて、むかしもつねにつかはししずいじんそへたまへり。ひときかぬまによびよせたまひて、 |
54 | 2.1.2 | 118 | 101 |
「あこが亡せにし姉の顔は、おぼゆや。今は世に亡き人と思ひ果てにしを、いと確かにこそ、ものしたまふなれ。疎き人には聞かせじと思ふを、行きて尋ねよ。母に、いまだしきに言ふな。なかなか驚き騒がむほどに、知るまじき人も知りなむ。その親の御思ひのいとほしさにこそ、かくも尋ぬれ」 |
"あこがうせにしいもうとのかほは、おぼゆや。いまはよになきひととおもひはてにしを、いとたしかにこそ、ものしたまふなれ。うときひとにはきかせじとおもふを、いきてたづねよ。ははに、いまだしきにいふな。なかなかおどろきさわがんほどに、しるまじきひともしりなん。そのおやのみおもひのいとほしさにこそ、かくもたづぬれ。" |
54 | 2.1.3 | 119 | 102 |
と、まだきにいと口固めたまふを、幼き心地にも、姉弟は多かれど、この君の容貌をば、似るものなしと思ひしみたりしに、亡せたまひにけりと聞きて、いと悲しと思ひわたるに、かくのたまへば、うれしきにも涙の落つるを、恥づかしと思ひて、 |
と、まだきにいとくちがためたまふを、をさなきここちにも、はらからはおほかれど、このきみのかたちをば、にるものなしとおもひしみたりしに、うせたまひにけりとききて、いとかなしとおもひわたるに、かくのたまへば、うれしきにもなみだのおつるを、はづかしとおもひて、 |
54 | 2.1.4 | 120 | 103 |
「を、を」 |
"を、を。" |
54 | 2.1.5 | 121 | 104 |
と荒らかに聞こえゐたり。 |
とあららかにきこえゐたり。 |
54 | 2.1.6 | 122 | 105 |
かしこには、まだつとめて、僧都の御もとより、 |
かしこには、まだつとめて、そうづのおほんもとより、 |
54 | 2.1.7 | 123 | 106 |
「昨夜、大将殿の御使にて、小君や参うでたまへりし。ことの心承りしに、あぢきなく、かへりて臆しはべりてなむ、と姫君に聞こえたまへ。みづから聞こえさすべきことも多かれど、今日明日過ぐしてさぶらふべし」 |
"よべ、だいしゃうどののおほんつかひにて、こぎみやまうでたまへりし。ことのこころうけたまはりしに、あぢきなく、かへりておくしはべりてなん、とひめぎみにきこえたまへ。みづからきこえさすべきこともおほかれど、けふあすすぐしてさぶらふべし。" |
54 | 2.1.8 | 124 | 107 |
と書きたまへり。「これは何ごとぞ」と尼君驚きて、こなたへもて渡りて見せたてまつりたまへば、面うち赤みて、「ものの聞こえのあるにや」と苦しう、「もの隠ししける」と恨みられむを思ひ続くるに、いらへむ方なくてゐたまへるに、 |
とかきたまへり。"これはなにごとぞ。"とあまぎみおどろきて、こなたへもてわたりてみせたてまつりたまへば、おもてうちあかみて、"もののきこえのあるにや。"とくるしう、"ものかくししける。"とうらみられんをおもひつづくるに、いらへんかたなくてゐたまへるに、 |
54 | 2.1.9 | 125 | 108 |
「なほ、のたまはせよ。心憂く思し隔つること」 |
"なほ、のたまはせよ。こころうくおぼしへだつること。" |
54 | 2.1.10 | 126 | 109 |
と、いみじく恨みて、ことの心を知らねば、あわたたしきまで思ひたるほどに、 |
と、いみじくうらみて、ことのこころをしらねば、あわたたしきまでおもひたるほどに、 |
54 | 2.1.11 | 127 | 110 |
「山より、僧都の御消息にて、参りたる人なむある」 |
"やまより、そうづのおほんせうそこにて、まゐりたるひとなんある。" |
54 | 2.1.12 | 128 | 111 |
と言ひ入れたり。 |
といひいれたり。 |
54 | 2.2 | 129 | 112 | 第二段 小君、小野山荘の浮舟を訪問 |
54 | 2.2.1 | 130 | 113 |
あやしけれど、「これこそは、さは、確かなる御消息ならめ」とて、 |
あやしけれど、"これこそは、さは、たしかなるおほんせうそこならめ。"とて、 |
54 | 2.2.2 | 131 | 114 |
「こなたに」 |
"こなたに。" |
54 | 2.2.3 | 132 | 115 |
と言はせたれば、いときよげにしなやかなる童の、えならず装束きたるぞ、歩み来たる。円座さし出でたれば、簾のもとについゐて、 |
といはせたれば、いときよげにしなやかなるわらはの、えならずさうぞきたるぞ、あゆみきたる。わらふださしいでたれば、すだれのもとについゐて、 |
54 | 2.2.4 | 133 | 116 |
「かやうにては、さぶらふまじくこそは、僧都は、のたまひしか」 |
"かやうにては、さぶらふまじくこそは、そうづは、のたまひしか。" |
54 | 2.2.5 | 134 | 117 |
と言へば、尼君ぞ、いらへなどしたまふ。文取り入れて見れば、 |
といへば、あまぎみぞ、いらへなどしたまふ。ふみとりいれてみれば、 |
54 | 2.2.6 | 135 | 118 |
「入道の姫君の御方に、山より」 |
"にふだうのひめぎみのおほんかたに、やまより。" |
54 | 2.2.7 | 136 | 119 |
とて、名書きたまへり。あらじなど、あらがふべきやうもなし。 |
とて、なかきたまへり。あらじなど、あらがふべきやうもなし。 |
54 | 2.2.8 | 137 | 120 |
いとはしたなくおぼえて、いよいよ引き入られて、人に顔も見合はせず。 |
いとはしたなくおぼえて、いよいよひきいられて、ひとにかほもみあはせず。 |
54 | 2.2.9 | 138 | 121 |
「常にほこりかならずものしたまふ人柄なれど、いとうたて、心憂し」 |
"つねにほこりかならずものしたまふひとがらなれど、いとうたて、こころうし。" |
54 | 2.2.10 | 139 | 122 |
など言ひて、僧都の御文見れば、 |
などいひて、そうづのおほんふみみれば、 |
54 | 2.2.11 | 140 | 123 |
「今朝、ここに大将殿のものしたまひて、御ありさま尋ね問ひたまふに、初めよりありしやう詳しく聞こえはべりぬ。御心ざし深かりける御仲を背きたまひて、あやしき山賤の中に出家したまへること、かへりては、仏の責め添ふべきことなるをなむ、承り驚きはべる。 |
"けさ、ここにだいしゃうどののものしたまひて、おほんありさまたづねとひたまふに、はじめよりありしやうくはしくきこえはべりぬ。おほんこころざしふかかりけるおほんなかをそむきたまひて、あやしきやまがつのなかにすけしたまへること、かへりては、ほとけのせめそふべきことなるをなん、うけたまはりおどろきはべる。 |
54 | 2.2.12 | 141 | 124 |
いかがはせむ。もとの御契り過ちたまはで、愛執の罪をはるかしきこえたまひて、一日の出家の功徳は、はかりなきものなれば、なほ頼ませたまへとなむ。ことごとには、みづからさぶらひて申しはべらむ。かつがつ、この小君聞こえたまひてむ」 |
いかがはせん。もとのおほんちぎりあやまちたまはで、あいしふのつみをはるかしきこえたまひて、ひとひのすけのくどくは、はかりなきものなれば、なほたのませたまへとなん。ことごとには、みづからさぶらひてまうしはべらん。かつがつ、このこぎみきこえたまひてん。" |
54 | 2.2.13 | 142 | 125 |
と書いたり。 |
とかいたり。 |
54 | 2.3 | 143 | 126 | 第三段 浮舟、小君との面会を拒む |
54 | 2.3.1 | 144 | 127 |
まがふべくもあらず、書き明らめたまへれど、異人は心も得ず。 |
まがふべくもあらず、かきあきらめたまへれど、ことひとはこころもえず。 |
54 | 2.3.2 | 145 | 128 |
「この君は、誰れにかおはすらむ。なほ、いと心憂し。今さへ、かくあながちに隔てさせたまふ」 |
"このきみは、たれにかおはすらん。なほ、いとこころうし。いまさへ、かくあながちにへだてさせたまふ。" |
54 | 2.3.3 | 146 | 129 |
と責められて、すこし外ざまに向きて見たまへば、この子は、今はと世を思ひなりし夕暮れに、いと恋しと思ひし人なりけり。同じ所にて見しほどは、いと性なく、あやにくにおごりて憎かりしかど、母のいとかなしくして、宇治にも時々率ておはせしかば、すこしおよすけしままに、かたみに思へり。 |
とせめられて、すこしとざまにむきてみたまへば、このこは、いまはとよをおもひなりしゆふぐれに、いとこひしとおもひしひとなりけり。おなじところにてみしほどは、いとさがなく、あやにくにおごりてにくかりしかど、ははのいとかなしくして、うぢにもときどきゐておはせしかば、すこしおよすけしままに、かたみにおもへり。 |
54 | 2.3.4 | 147 | 130 |
童心を思ひ出づるにも、夢のやうなり。まづ、母のありさま、いと問はまほしく、「異人びとの上は、おのづからやうやうと聞けど、親のおはすらむやうは、ほのかにもえ聞かずかし」と、なかなかこれを見るに、いと悲しくて、ほろほろと泣かれぬ。 |
わらはごころをおもひいづるにも、ゆめのやうなり。まづ、ははのありさま、いととはまほしく、"ことひとびとのうへは、おのづからやうやうときけど、おやのおはすらんやうは、ほのかにもえきかずかし。"と、なかなかこれをみるに、いとかなしくて、ほろほろとなかれぬ。 |
54 | 2.3.5 | 148 | 131 |
いとをかしげにて、すこしうちおぼえたまへる心地もすれば、 |
いとをかしげにて、すこしうちおぼえたまへるここちもすれば、 |
54 | 2.3.6 | 149 | 132 |
「御兄弟にこそおはすめれ。聞こえまほしく思すこともあらむ。内に入れたてまつらむ」 |
"おほんはらからにこそおはすめれ。きこえまほしくおぼすこともあらん。うちにいれたてまつらん。" |
54 | 2.3.7 | 150 | 133 |
と言ふを、「何か、今は世にあるものとも思はざらむに、あやしきさまに面変りして、ふと見えむも恥づかし」と思へば、とばかりためらひて、 |
といふを、"なにか、いまはよにあるものともおもはざらんに、あやしきさまにおもがはりして、ふとみえんもはづかし。"とおもへば、とばかりためらひて、 |
54 | 2.3.8 | 151 | 134 |
「げに、隔てありと、思しなすらむが苦しさに、ものも言はれでなむ。あさましかりけむありさまは、珍かなることと見たまひてけむを、うつし心も失せ、魂などいふらむものも、あらぬさまになりにけるにやあらむ。いかにもいかにも、過ぎにし方のことを、我ながらさらにえ思ひ出でぬに、紀伊守とかありし人の、世の物語すめりし中になむ、見しあたりのことにやと、ほのかに思ひ出でらるることある心地せし。 |
"げに、へだてありと、おぼしなすらんがくるしさに、ものもいはれでなん。あさましかりけんありさまは、めづらかなることとみたまひてけんを、うつしごころもうせ、たましひなどいふらんものも、あらぬさまになりにけるにやあらん。いかにもいかにも、すぎにしかたのことを、われながらさらにえおもひいでぬに、きいのかみとかありしひとの、よのものがたりすめりしなかになん、みしあたりのことにやと、ほのかにおもひいでらるることあるここちせし。 |
54 | 2.3.9 | 152 | 135 |
その後、とざまかうざまに思ひ続くれど、さらにはかばかしくもおぼえぬに、ただ一人ものしたまひし人の、いかでとおろかならず思ひためりしを、まだや世におはすらむと、そればかりなむ心に離れず、悲しき折々はべるに、今日見れば、この童の顔は、小さくて見し心地するにも、いと忍びがたけれど、今さらに、かかる人にも、ありとは知られでやみなむ、となむ思ひはべる。 |
そののち、とざまかうざまにおもひつづくれど、さらにはかばかしくもおぼえぬに、ただひとりものしたまひしひとの、いかでとおろかならずおもひためりしを、まだやよにおはすらんと、そればかりなんこころにはなれず、かなしきをりをりはべるに、けふみれば、このわらはのかほは、ちひさくてみしここちするにも、いとしのびがたけれど、いまさらに、かかるひとにも、ありとはしられでやみなん、となんおもひはべる。 |
54 | 2.3.10 | 153 | 136 |
かの人、もし世にものしたまはば、それ一人になむ、対面せまほしく思ひはべる。この僧都の、のたまへる人などには、さらに知られたてまつらじ、とこそ思ひはべりつれ。かまへて、ひがことなりけりと聞こえなして、もて隠したまへ」 |
かのひと、もしよにものしたまはば、それひとりになん、たいめんせまほしくおもひはべる。このそうづの、のたまへるひとなどには、さらにしられたてまつらじ、とこそおもひはべりつれ。かまへて、ひがことなりけりときこえなして、もてかくしたまへ。" |
54 | 2.3.11 | 154 | 137 |
とのたまへば、 |
とのたまへば、 |
54 | 2.3.12 | 155 | 138 |
「いと難いことかな。僧都の御心は、聖といふなかにも、あまり隈なくものしたまへば、まさに残いては、聞こえたまひてむや。後に隠れあらじ。なのめに軽々しき御ほどにもおはしまさず」 |
"いとかたいことかな。そうづのみこころは、ひじりといふなかにも、あまりくまなくものしたまへば、まさにのこいては、きこえたまひてんや。のちにかくれあらじ。なのめにかろがろしきおほんほどにもおはしまさず。" |
54 | 2.3.13 | 156 | 139 |
など言ひ騷ぎて、 |
などいひさわぎて、 |
54 | 2.3.14 | 157 | 140 |
「世に知らず心強くおはしますこそ」 |
"よにしらずこころづよくおはしますこそ。" |
54 | 2.3.15 | 158 | 141 |
と、皆言ひ合はせて、母屋の際に几帳立てて入れたり。 |
と、みないひあはせて、もやのきはにきちゃうたてていれたり。 |
54 | 2.4 | 159 | 142 | 第四段 小君、薫からの手紙を渡す |
54 | 2.4.1 | 160 | 143 |
この子も、さは聞きつれど、幼ければ、ふと言ひ寄らむもつつましけれど、 |
このこも、さはききつれど、をさなければ、ふといひよらんもつつましけれど、 |
54 | 2.4.2 | 161 | 144 |
「またはべる御文、いかでたてまつらむ。僧都の御しるべは、確かなるを、かくおぼつかなくはべるこそ」 |
"またはべるおほんふみ、いかでたてまつらん。そうづのおほんしるべは、たしかなるを、かくおぼつかなくはべるこそ。" |
54 | 2.4.3 | 162 | 145 |
と、伏目にて言へば、 |
と、ふしめにていへば、 |
54 | 2.4.4 | 163 | 146 |
「そそや。あな、うつくし」 |
"そそや。あな、うつくし。" |
54 | 2.4.5 | 164 | 147 |
など言ひて、 |
などいひて、 |
54 | 2.4.6 | 165 | 148 |
「御文御覧ずべき人は、ここにものせさせたまふめり。見証の人なむ、いかなることにかと、心得がたくはべるを、なほのたまはせよ。幼き御ほどなれど、かかる御しるべに頼みきこえたまふやうもあらむ」 |
"おほんふみごらんずべきひとは、ここにものせさせたまふめり。けそうのひとなん、いかなることにかと、こころえがたくはべるを、なほのたまはせよ。をさなきおほんほどなれど、かかるおほんしるべにたのみきこえたまふやうもあらん。" |
54 | 2.4.7 | 166 | 149 |
など言へど、 |
などいへど、 |
54 | 2.4.8 | 167 | 150 |
「思し隔てて、おぼおぼしくもてなさせたまふには、何事をか聞こえはべらむ。疎く思しなりにければ、聞こゆべきこともはべらず。ただ、この御文を、人伝てならで奉れ、とてはべりつる、いかでたてまつらむ」 |
"おぼしへだてて、おぼおぼしくもてなさせたまふには、なにごとをかきこえはべらん。うとくおぼしなりにければ、きこゆべきこともはべらず。ただ、このおほんふみを、ひとづてならでたてまつれ、とてはべりつる、いかでたてまつらん。" |
54 | 2.4.9 | 168 | 151 |
と言へば、 |
といへば、 |
54 | 2.4.10 | 169 | 152 |
「いとことわりなり。なほ、いとかくうたてなおはせそ。さすがにむくつけき御心にこそ」 |
"いとことわりなり。なほ、いとかくうたてなおはせそ。さすがにむくつけきみこころにこそ。" |
54 | 2.4.11 | 170 | 153 |
と聞こえ動かして、几帳のもとに押し寄せたてまつりたれば、あれにもあらでゐたまへるけはひ、異人には似ぬ心地すれば、そこもとに寄りて奉りつ。 |
ときこえうごかして、きちゃうのもとにおしよせたてまつりたれば、あれにもあらでゐたまへるけはひ、ことひとにはにぬここちすれば、そこもとによりてたてまつりつ。 |
54 | 2.4.12 | 171 | 154 |
「御返り疾く賜はりて、参りなむ」 |
"おほんかへりとくたまはりて、まゐりなん。" |
54 | 2.4.13 | 172 | 155 |
と、かく疎々しきを、心憂しと思ひて急ぐ。 |
と、かくうとうとしきを、こころうしとおもひていそぐ。 |
54 | 2.4.14 | 173 | 157 |
尼君、御文ひき解きて、見せたてまつる。ありしながらの御手にて、紙の香など、例の、世づかぬまでしみたり。ほのかに見て、例の、ものめでのさし過ぎ人、いとありがたくをかしと思ふべし。 |
あまぎみ、おほんふみひきときて、みせたてまつる。ありしながらのおほんてにて、かみのかなど、れいの、よづかぬまでしみたり。ほのかにみて、れいの、ものめでのさしすぎびと、いとありがたくをかしとおもふべし。 |
54 | 2.4.15 | 174 | 158 |
「さらに聞こえむ方なく、さまざまに罪重き御心をば、僧都に思ひ許しきこえて、今はいかで、あさましかりし世の夢語りをだに、と急がるる心の、我ながらもどかしきになむ。まして、人目はいかに」 |
"さらにきこえんかたなく、さまざまにつみおもきみこころをば、そうづにおもひゆるしきこえて、いまはいかで、あさましかりしよのゆめがたりをだに、といそがるるこころの、われながらもどかしきになん。まして、ひとめはいかに。" |
54 | 2.4.16 | 175 | 159 |
と、書きもやりたまはず。 |
と、かきもやりたまはず。 |
54 | 2.4.17 | 176 | 160 |
「法の師と尋ぬる道をしるべにて<BR/>思はぬ山に踏み惑ふかな |
"〔のりのしとたづぬるみちをしるべにて<BR/>おもはぬやまにふみまどふかな |
54 | 2.4.18 | 177 | 161 |
この人は、見や忘れたまひぬらむ。ここには、行方なき御形見に見る物にてなむ」 |
このひとは、みやわすれたまひぬらん。ここには、ゆくへなきおほんかたみにみるものにてなん。" |
54 | 2.4.19 | 178 | 162 |
など、こまやかなり。 |
など、こまやかなり。 |
54 | 2.5 | 179 | 163 | 第五段 浮舟、薫への返事を拒む |
54 | 2.5.1 | 180 | 164 |
かくつぶつぶと書きたまへるさまの、紛らはさむ方なきに、さりとて、その人にもあらぬさまを、思ひの外に見つけられきこえたらむほどの、はしたなさなどを思ひ乱れて、いとど晴れ晴れしからぬ心は、言ひやるべき方もなし。 |
かくつぶつぶとかきたまへるさまの、まぎらはさんかたなきに、さりとて、そのひとにもあらぬさまを、おもひのほかにみつけられきこえたらんほどの、はしたなさなどをおもひみだれて、いとどはればれしからぬこころは、いひやるべきかたもなし。 |
54 | 2.5.2 | 181 | 165 |
さすがにうち泣きて、ひれ臥したまへれば、「いと世づかぬ御ありさまかな」と、見わづらひぬ。 |
さすがにうちなきて、ひれふしたまへれば、"いとよづかぬおほんありさまかな。"と、みわづらひぬ。 |
54 | 2.5.3 | 182 | 166 |
「いかが聞こえむ」 |
"いかがきこえん。" |
54 | 2.5.4 | 183 | 167 |
など責められて、 |
などせめられて、 |
54 | 2.5.5 | 184 | 168 |
「心地のかき乱るやうにしはべるほど、ためらひて、今聞こえむ。昔のこと思ひ出づれど、さらにおぼゆることなく、あやしう、いかなりける夢にかとのみ、心も得ずなむ。すこし静まりてや、この御文なども、見知らるることもあらむ。今日は、なほ持て参りたまひね。所違へにもあらむに、いとかたはらいたかるべし」 |
"ここちのかきみだるやうにしはべるほど、ためらひて、いまきこえん。むかしのことおもひいづれど、さらにおぼゆることなく、あやしう、いかなりけるゆめにかとのみ、こころもえずなん。すこししづまりてや、このおほんふみなども、みしらるることもあらん。けふは、なほもてまゐりたまひね。ところたがへにもあらんに、いとかたはらいたかるべし。" |
54 | 2.5.6 | 185 | 169 |
とて、広げながら、尼君にさしやりたまへれば、 |
とて、ひろげながら、あまぎみにさしやりたまへれば、 |
54 | 2.5.7 | 186 | 170 |
「いと見苦しき御ことかな。あまりけしからぬは、見たてまつる人も、罪さりどころなかるべし」 |
"いとみぐるしきおほんことかな。あまりけしからぬは、みたてまつるひとも、つみさりどころなかるべし。" |
54 | 2.5.8 | 187 | 171 |
など言ひ騒ぐも、うたて聞きにくくおぼゆれば、顔も引き入れて臥したまへり。 |
などいひさわぐも、うたてききにくくおぼゆれば、かほもひきいれてふしたまへり。 |
54 | 2.5.9 | 188 | 172 |
主人ぞ、この君に物語すこし聞こえて、 |
あるじぞ、このきみにものがたりすこしきこえて、 |
54 | 2.5.10 | 189 | 173 |
「もののけにやおはすらむ。例のさまに見えたまふ折なく、悩みわたりたまひて、御容貌も異になりたまへるを、尋ねきこえたまふ人あらば、いとわづらはしかるべきこと、と見たてまつり嘆きはべりしも、しるく、かくいとあはれに、心苦しき御ことどもはべりけるを、今なむ、いとかたじけなく思ひはべる。 |
"もののけにやおはすらん。れいのさまにみえたまふをりなく、なやみわたりたまひて、おほんかたちもことになりたまへるを、たづねきこえたまふひとあらば、いとわづらはしかるべきこと、とみたてまつりなげきはべりしも、しるく、かくいとあはれに、こころぐるしきおほんことどもはべりけるを、いまなん、いとかたじけなくおもひはべる。 |
54 | 2.5.11 | 190 | 174 |
日ごろも、うちはへ悩ませたまふめるを、いとどかかることどもに思し乱るるにや、常よりもものおぼえさせたまはぬさまにてなむ」 |
ひごろも、うちはへなやませたまふめるを、いとどかかることどもにおぼしみだるるにや、つねよりもものおぼえさせたまはぬさまにてなん。" |
54 | 2.5.12 | 191 | 175 |
と聞こゆ。 |
ときこゆ。 |
54 | 2.6 | 192 | 176 | 第六段 小君、空しく帰り来る |
54 | 2.6.1 | 193 | 177 |
所につけてをかしき饗応などしたれど、幼き心地は、そこはかとなくあわてたる心地して、 |
ところにつけてをかしきあるじなどしたれど、をさなきここちは、そこはかとなくあわてたるここちして、 |
54 | 2.6.2 | 194 | 178 |
「わざと奉れさせたまへるしるしに、何事をかは聞こえさせむとすらむ。ただ一言をのたまはせよかし」 |
"わざとたてまつれさせたまへるしるしに、なにごとをかはきこえさせんとすらん。ただひとことをのたまはせよかし。" |
54 | 2.6.3 | 195 | 179 |
など言へば、 |
などいへば、 |
54 | 2.6.4 | 196 | 180 |
「げに」 |
"げに。" |
54 | 2.6.5 | 197 | 181 |
など言ひて、かくなむ、と移し語れど、ものものたまはねば、かひなくて、 |
などいひて、かくなん、とうつしかたれど、ものものたまはねば、かひなくて、 |
54 | 2.6.6 | 198 | 182 |
「ただ、かく、おぼつかなき御ありさまを聞こえさせたまふべきなめり。雲の遥かに隔たらぬほどにもはべるめるを、山風吹くとも、またもかならず立ち寄らせたまひなむかし」 |
"ただ、かく、おぼつかなきおほんありさまをきこえさせたまふべきなめり。くものはるかにへだたらぬほどにもはべるめるを、やまかぜふくとも、またもかならずたちよらせたまひなんかし。" |
54 | 2.6.7 | 199 | 183 |
と言へば、すずろにゐ暮らさむもあやしかるべければ、帰りなむとす。人知れずゆかしき御ありさまをも、え見ずなりぬるを、おぼつかなく口惜しくて、心ゆかずながら参りぬ。 |
といへば、すずろにゐくらさんもあやしかるべければ、かへりなんとす。ひとしれずゆかしきおほんありさまをも、えみずなりぬるを、おぼつかなくくちをしくて、こころゆかずながらまゐりぬ。 |
54 | 2.6.8 | 200 | 184 |
いつしかと待ちおはするに、かくたどたどしくて帰り来たれば、すさまじく、「なかなかなり」と、思すことさまざまにて、「人の隠し据ゑたるにやあらむ」と、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、落とし置きたまへりしならひに、とぞ本にはべめる。 |
いつしかとまちおはするに、かくたどたどしくてかへりきたれば、すさまじく、"なかなかなり。"と、おぼすことさまざまにて、"ひとのかくしすゑたるにやあらん。"と、わがみこころのおもひよらぬくまなく、おとしおきたまへりしならひに、とぞほんにはべめる。 |