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渋谷栄一校訂(C)
  

行幸

光る源氏の太政大臣時代三十六歳十二月から三十七歳二月までの物語
 [主要登場人物]
 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---源氏の大臣・太政大臣・六条院・六条の大臣・六条殿・主人の大臣・大臣・大臣の君・殿、三十六歳から三十七歳
 夕霧<ゆうぎり>
呼称---中将の君・中将・中将の朝臣、光る源氏の長男
 玉鬘<たまかづら>
呼称---西の対・西の対の姫君・姫君、内大臣の娘
 内大臣<ないだいじん>
呼称---父大臣・内の大臣・内の大殿・大臣・殿
 雲井雁<くもいのかり>
呼称---姫君
 柏木<かしわぎ>
呼称---中将・中将の君
 紫の上<むらさきのうえ>
呼称---南の上・上
 弘徽殿女御<こきでんのにょうご>
呼称---女御・女御殿
 冷泉帝<れいぜいてい>
呼称---帝・主上・内裏
 秋好中宮<あきこのむちゅうぐう>
呼称---中宮
 鬚黒大将<ひげくろだいしょう>
呼称---右大将
 蛍兵部卿宮<ほたるひょうぶきょうのみや>
呼称---兵部卿宮
 末摘花<すえつむはな>
呼称---常陸の宮の御方
 近江の君<おうみのきみ>
呼称---君
第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸
  1. 大原野行幸---かく思しいたらぬことなく、いかでよからむことはと
  2. 玉鬘、行幸を見物---西の対の姫君も立ち出でたまへり
  3. 行幸、大原野に到着---かうて、野におはしまし着きて
  4. 源氏、玉鬘に宮仕えを勧める---またの日、大臣、西の対に
  5. 玉鬘、裳着の準備---「とてもかうても、まづ御裳着のことをこそは
第二章 光源氏の物語 大宮に玉鬘の事を語る
  1. 源氏、三条宮を訪問---今はまして、忍びやかにふるまひたまへど
  2. 源氏と大宮との対話---御物語ども、昔今のとり集め聞こえたまふついでに
  3. 源氏、大宮に玉鬘を語る---「さるは、かの知りたまふべき人をなむ
  4. 大宮、内大臣を招く---内の大殿、かく三条の宮に太政大臣渡りおはし
  5. 内大臣、三条宮邸に参上---君達いとあまた引きつれて入りたまふさま
  6. 源氏、内大臣と対面---大臣も、めづらしき御対面に、昔のこと思し出でられて
  7. 源氏、内大臣、三条宮邸を辞去---夜いたう更けて、おのおのあかれたまふ
第三章 玉鬘の物語 裳着の物語
  1. 内大臣、源氏の意向に従う---大臣、うちつけにいといぶかしう、心もとなう
  2. 二月十六日、玉鬘の裳着の儀---かくてその日になりて、三条の宮より
  3. 玉鬘の裳着への祝儀の品々---中宮より、白き御裳、唐衣、御装束、御髪上の具など
  4. 内大臣、腰結に役を勤める---内大臣は、さしも急がれたまふまじき御心なれど
  5. 祝賀者、多数参上---親王たち、次々、人々残るなく集ひたまへり
  6. 近江の君、玉鬘を羨む---世の人聞きに、「しばしこのこと出ださじ」と
  7. 内大臣、近江の君を愚弄---大臣、この望みを聞きたまひて、いとはなやかに
【出典】
【校訂】
 

第一章 玉鬘の物語 冷泉帝の大原野行幸

 [第一段 大原野行幸]
 かく思しいたらぬことなく、いかでよからむことはと、思し扱ひたまへど、この音無の滝そ、うたていとほしく、南の上の御推し量りごとにかなひて、軽々しかるべき御名なれ。かの大臣、何ごとにつけても、きはぎはしう、すこしもかたはなるさまのことを、思し忍ばずなどものしたまふ御心ざまを、「さて思ひ隈なく、けざやかなる御もてなしなどのあらむにつけては、をこがましうもや」など、思し返さふ。
 その師走に、大原野の行幸とて、世に残る人なく見騒ぐを、六条院よりも、御方々引き出でつつ見たまふ。卯の時に出でたまうて、朱雀より五条の大路を、西ざまに折れたまふ。桂川のもとまで、物見車隙なし。
 行幸といへど、かならずかうしもあらぬを、今日は親王たち、上達部も、皆心ことに、御馬鞍をととのへ、随身、馬副の容貌丈だち、装束を飾りたまうつつ、めづらかにをかし。左右大臣、内大臣、納言より下はた、まして残らず仕うまつりたまへり。青色の袍、葡萄染の下襲を、殿上人,五位六位まで着たり。
 雪ただいささかづつうち散りて、道の空さへ艶なり。親王たち、上達部なども、鷹にかかづらひたまへるは、めづらしき狩の御よそひどもをまうけたまふ。近衛の鷹飼どもは、まして世に目馴れぬ摺衣を乱れ着つつ、けしきことなり。
 めづらしうをかしきことに競ひ出でつつ、その人ともなく、かすかなる足弱き車など、輪を押しひしがれ、あはれげなるもあり。浮橋のもとなどにも、好ましう立ちさまよふよき車多かり。
 [第二段 玉鬘、行幸を見物]
 西の対の姫君も立ち出でたまへり。そこばく挑み尽くしたまへる人の御容貌ありさまを見たまふに、帝の,赤色の御衣たてまつりて、うるはしう動きなき御かたはらめに、なずらひきこゆべき人なし。
 わが父大臣を、人知れず目をつけたてまつりたまへど、きらきらしうものきよげに、盛りにはものしたまへど、限りありかし。いと人にすぐれたるただ人と見えて、御輿のうちよりほかに、目移るべくもあらず。
 まして,容貌ありや、をかしやなど、若き御達の消えかへり心うつす中少将、何くれの殿上人やうの人は、何にもあらず消えわたれるは、さらに類ひなうおはしますなりけり。源氏の大臣の御顔ざまは、異ものとも見えたまはぬを、思ひなしの今すこしいつかしう、かたじけなくめでたきなり。
 さは,かかる類ひはおはしがたかりけり。あてなる人は、皆ものきよげにけはひ異なべいものとのみ、大臣、中将などの御にほひに目馴れたまへるを、出で消えどものかたはなるにやあらむ、同じ目鼻とも見えず、口惜しうぞ圧されたるや。
 兵部卿宮もおはす。右大将の、さばかり重りかによしめくも、今日のよそひいとなまめきて、やなぐひなど負ひて、仕うまつりたまへり。色黒く鬚がちに見えて、いと心づきなし。いかでかは,女のくろひたてたる顔の色あひには似たらむ。いとわりなきことを、若き御心地には、見おとしたまうてけり。
 大臣の君の思し寄りてのたまふことを、「いかがはあらむ、宮仕へは、心にもあらで、見苦しきありさまにや」と思ひつつみたまふを、「馴れ馴れしき筋などをばもて離れて、おほかたに仕うまつり御覧ぜられむは、をかしうもありなむかし」とぞ、思ひ寄りたまうける。
 [第三段 行幸、大原野に到着]
 かうて,野におはしまし着きて、御輿とどめ、上達部の平張にもの参り、御装束ども,直衣,狩のよそひなどに改めたまふほどに、六条院より,御酒,御くだものなどたてまつらせたまへり。今日仕うまつりたまふべくかねて御けしきありけれど、御物忌のよしを奏せさせたまへりけるなりけり。
 蔵人の左衛門尉を御使にて、雉一枝たてまつらせたまふ。仰せ言には何とかや、さやうの折のことまねぶに、わづらはしくなむ。
 「雪深き小塩山にたつ雉の
  古き跡をも今日は尋ねよ」
 太政大臣の、かかる野の行幸に仕うまつりたまへる例などやありけむ。大臣、御使をかしこまりもてなさせたまふ。
 「小塩山深雪積もれる松原に
  今日ばかりなる跡やなからむ」
 と,そのころほひ聞きしことの、そばそば思ひ出でらるるは、ひがことにやあらむ。
 [第四段 源氏、玉鬘に宮仕えを勧める]
 またの日、大臣、西の対に、
 「昨日、主上は見たてまつりたまひきや。かのことは、思しなびきぬらむや」
 と聞こえたまへり。白き色紙に、いとうちとけたる文、こまかにけしきばみてもあらぬが、をかしきを見たまうて、
 「あいなのことや」
 と笑ひたまふものから、「よくも推し量らせたまふものかな」と思す。御返りに、
 「昨日は、
  うちきらしぐもりせし行幸には
  さやかに空の光やは見し
 おぼつかなき御ことどもになむ」
 とあるを、上も見たまふ。
 「ささのことをそそのかししかど中宮かくておはす、ここながらのおぼえには、便なかるべし。かの大臣に知られても、女御かくてまたさぶらひたまへばなど、思ひ乱るめりし筋なり。若人の、さも馴れ仕うまつらむに、憚る思ひなからむは、主上をほの見たてまつりて、えかけ離れて思ふはあらじ」
 とのたまへば、
 「あな,うたて。めでたしと見たてまつるとも、心もて宮仕ひ思ひ立たむこそ、いとさし過ぎたる心ならめ」
 とて,笑ひたまふ。
 「いで,そこにしもぞ、めできこえたまはむ」
 などのたまうて、また御返り、
 「あかねさす光は空に曇らぬを
  などて行幸に目をきらしけむ
 なほ,思し立て」
 など,絶えず勧めたまふ。
 [第五段 玉鬘、裳着の準備]
 「とてもかうても、まづ御裳着のことをこそは」と思して、その御まうけの御調度の、こまかなるきよらども加へさせたまひ、何くれの儀式を、御心にはいとも思ほさぬとをだに、おのづからよだけくいかめしくなるを、まして,「内の大臣にもやがてこのついでにや知らせたてまつりてまし」と思し寄れば、いとめでたくむ。「年返りて、二月に」と思す。
 「女は,聞こえ高く、名隠したまふべきほどならぬも、人の御女とて、籠もりおはするほどは、かならずしも,氏神の御つとめなど、あらはならぬほどなればこそ、年月はまぎれ過ぐしたまへ、この,もし思し寄ることもあらむには、春日の神の御心違ひぬべきも、つひには隠れてやむまじきものから、あぢきなく、わざとがましき後の名まで、うたたあるべし。なほなほしき人の際こそ、今様とては、氏改むることのたはやすきもあれ」など思しめぐらすに、「親子の御契り、絶ゆべきやうなし。同じくは、わが心許してを、知らせたてまつらむ」
 など思し定めて、この御腰結には、かの大臣をなむ、御消息聞こえたまうければ、大宮、去年の冬つ方より悩みたまふこと、さらにおこたりたまはねば、かかるに合はせて、便なかるべきよし、聞こえたまへり。
 中将の君も、夜昼、三条にぞさぶらひたまひて、心の隙なくものしたまうて、折悪しきを、いかにせましと思す。
 「世も、いと定めなし。宮も亡せさせたまはば、御服あるべきを、知らず顔にてものしたまはむ、罪深きこと多からむ。おはする世に、このこと表はしてむ」
 と思し取りて、三条の宮に、御訪らひがてら渡りたまふ。
 

第二章 光源氏の物語 大宮に玉鬘の事を語る

 [第一段 源氏、三条宮を訪問]
 今はまして、忍びやかにふるまひたまへど、行幸に劣らずよそほしく、いよいよ光をのみ添へたまふ御容貌などの、この世に見えぬ心地して、めづらしう見たてまつりたまふには、いとど御心地の悩ましさも、取り捨てらるる心地して、起きゐたまへり。御脇息にかかりて、弱げなれど、ものなどいとよく聞こえたまふ。
 「けしうはおはしまさざりけるを、なにがしの朝臣の心惑はして、おどろおどろしう嘆ききこえさすめれば、いかやうにものせさせたまふにかとなむ、おぼつかながりきこえさせつる。内裏などにも、ことなるついでなき限りは参らず、朝廷に仕ふる人ともなくて籠もりはべれば、よろづうひうひしう,よだけくなりにてはべり。齢など、これよりまさる人、腰堪へぬまで屈まりありく例、昔も今もはべめれど、あやしくおれおれしき本性に、添ふもの憂さになむはべるべき」
 など聞こえたまふ。
 「年の積もりの悩みと思うたまへつつ、月ごろになりぬるを、今年となりては、頼み少なきやうにおぼえはべれば、今一度、かく見たてまつりきこえさすることもなくてやと、心細く思ひたまへつるを、今日こそ、またすこし延びぬる心地しはべれ。今は惜しみとむべきほどにもはべらず。さべき人びとにも立ち後れ、世の末に残りとまれる類ひを、人の上にて、いと心づきなしと見はべりしかば、出で立ちいそぎをなむ、思ひもよほされはべるに、この中将の、いとあはれにあやしきまで思ひあつかひ、心を騒がいたまふ見はべるになむ、さまざまにかけとめられて、今まで長びきはべる」
 と,ただ泣きに泣きて、御声のわななくも、をこがましけれど、さることどもなれば、いとあはれなり。
 [第二段 源氏と大宮との対話]
 御物語ども、昔今のとり集め聞こえたまふついでに、
 「内の大臣は、日隔てず参りたまふことしげからむを、かかるついでに対面のあらば、いかにうれしからむ。いかで聞こえ知らせむと思ふことのはべるを、さるべきついでなくては、対面もありがたければ、おぼつかなくてなむ」
 と聞こえたまふ。
 「公事のしげきにや、私の心ざしの深からぬにや、さしもとぶらひものしはべらず。のたまはすべからむことは、何さまのことにかは。中将の恨めしげに思はれたることもはべるを、『初めのことは知らねど、今はけに聞きにくくもてなすにつけて、立ちそめにし名の、取り返さるるものにもあらず、をこがましきやうに、かへりては世人も言ひ漏らすなるを』などものしはべれば、立てたるところ、昔よりいと解けがたき人の本性にて、心得ずなむ見たまふる」
 と,この中将の御ことと思してのたまへばうち笑ひたまひて、
 「いふかひなきに、許してたまふこともやと聞きはべりて、ここにさへなむかすめ申すやうありしかど、いと厳しう諌めたまふよしを見はべりし後、何にさまで言をもまぜはべりけむと、人悪う悔い思うたまへてなむ。
 よろづのことにつけて、清めといふことはべれば、いかがは、さもとり返しすすいたまはざらむとは思うたまへながら、かう口惜しき濁りの末に、待ちとり深う住むべき水こそ出で来がたかべい世なれ。何ごとにつけても、末になれば、落ちゆくけぢめこそやすくはべめれ。いとほしう聞きたまふる」
 など申したまうて、
 [第三段 源氏、大宮に玉鬘を語る]
 「さるは,かの知りたまふべき人をなむ、思ひまがふることはべりて、不意に尋ね取りてはべるを、その折は、さるひがわざとも明かしはべらずありしかば、あながちにことの心を尋ね返さふこともはべらで、たださるものの種の少なきを、かことにても、何かはと思うたまへ許して、をさをさ睦びも見はべらずして、年月はべりつるを、いかでか聞こしめしけむ、内裏に仰せらるるやうなむある。
 尚侍、宮仕へする人なくては、かの所のまつりごとしどけなく、女官なども公事をうまつるに,たづきなく、こと乱るるやうになむありけるを、ただ今,主上にさぶらふ古老の典侍二人、またさるべき人びと、さまざまに申さするを、はかばかしう選ばせたまはむ尋ねに、類ふべき人なむなき。
 なほ,家高う、人のおぼえ軽からで、家のいとなみたてたらぬ人なむ、いにしへよりなり来にける。したたかにかしこきかたの選びにては、その人ならでも、年月の労になりのぼる類ひあれど、しか類ふべきもなしとならば、おほかたのおぼえをだに選らせたまはむとなむ、うちうちに仰せられたりしを、似げなきこととしも、何かは思ひたまはむ。
 宮仕へは、さるべき筋にて、上も下も思ひ及び、出で立つこそ心高きことなれ。公様にて、さる所のことをつかさどり、まつりごとのおもぶきをしたため知らむことは、はかばかしからず、あはつけきやうにおぼえたれど、などかまたさしもあらむ。ただ,わが身のありさまからこそ、よろづのことはべめれと、思ひ弱りはべりしついでになむ。
 齢のほどなど問ひ聞きはべれば、かの御尋ねあべいことになむありけるを、いかなべいことぞとも、申しあきらめまほしうはべる。ついでなくては対面はべるべきにもはべらず。やがてかかることなむと、あらはし申すべきやうを思ひめぐらして、消息申ししを、御悩みにことづけて、もの憂げにすまひたまへりし。
 げに,折しも便なう思ひとまりはべるに、よろしうものせさせたまひければ、なほ,かう思ひおこせるついでにとなむ思うたまふる。さやうに伝へものせさせたまへ」
 と聞こえたまふ。宮、
 「いかに,いかに、はべりけることにか。かしこには、さまざまにかかる名のりする人を、厭ふことなく拾ひ集めらるめるに、いかなる心にて、かくひき違へかこちきこえらるらむ。この年ごろ、うけたまはりて、なりぬるにや」
 と,聞こえたまへば、
 「さるやうはべることなり。詳しきさまは、かの大臣もおのづから尋ね聞きたまうてむ。くだくだしき直人の仲らひに似たることにはべれば、明かさむにつけても、らうがはしう人言ひ伝へはべらむを、中将の朝臣にだに、まだわきまへ知らせはべらず。人にも漏らさせたまふまじ」
 と,御口かためきこえたまふ。
 [第四段 大宮、内大臣を招く]
 内の大殿、かく三条の宮に太政大臣渡りおはしまいたるよし、聞きたまひて、
 「いかに寂しげにて、いつかしきさまを待ちうけきこえたまふらむ。御前どももてはやし、御座ひきつくろふ人も、はかばかしうあらじかし。中将は、御供にこそものせられつらめ」
 など,おどろきたまうて、御子どもの君達、睦ましうさるべきまうち君たち、たてまつれたまふ。
 「御くだもの、御酒など、さりぬべく参らせよ。みづからも参るべきを、かへりてもの騒がしきやうならむ」
 などのたまふほどに、大宮の御文あり。
 「六条の大臣の訪らひに渡りたまへるを、もの寂しげにはべれば、人目のいとほしうも、かたじけなうもあるを、ことことしう、かう聞こえたるやうにはあらで、渡りたまひなむや。対面に聞こえまほしげなることもあなり」
 と聞こえたまへり。
 「何ごとにかはあらむ。この姫君の御こと、中将の愁へにや」と思しまはすに、「宮もかう御世残りなげにて、このことと切にのたまひ、大臣も憎からぬさまに一言うち出で恨みたまはむに、とかく申しかへさふことえあらじかし。つれなくて思ひ入れぬを見るにはやすからず、さるべきついであらば、人の御言になびき顔にて許してむ」と思す。
 「御心をさしあはせてのたまはむこと」と思ひ寄りたまふに、「いとど否びどころなからむが、また,などかさしもあらむ」とやすらはるる、いとけしからぬ御あやにく心なりかし。「されど,宮かくのたまひ、大臣も対面すべく待ちおはするにや、かたがたにかたじけなし。参りてこそは、御けしきに従はめ」
 など思ほしなりて、御装束心ことにひきつくろひて、御前などもことことしきさまにはあらで渡りたまふ。
 [第五段 内大臣、三条宮邸に参上]
 君達いとあまた引きつれて入りたまふさま、ものものしう頼もしげなり。丈だちそぞろかにものしたまふに、太さもあひて、いと宿徳に、面もち、歩まひ、大臣といはむに足らひたまへり。
 葡萄染の御指貫、桜の下襲、いと長うは裾引きて、ゆるゆるとことさらびたる御もてなし、あなきらきらしと見えたまへるに、六条殿は、桜の唐の綺の御直衣、今様色の御衣ひき重ねて、しどけなき大君姿、いよいよたとへむものなし。光こそまさりたまへ、かうしたたかにひきつくろひたまへる御ありさまに、なずらへても見えたまはざりけり。
 君達次々に、いとものきよげなる御仲らひにて、集ひたまへり。藤大納言、春宮大夫など、今は聞こゆる子どもも、皆なり出でつつものしたまふ。おのづから、わざともなきに、おぼえ高くやむごとなき殿上人、蔵人頭、五位の蔵人、近衛の中、少将、弁官など、人柄はなやかにあるべかしき、十余人集ひたまへれば、いかめしう、次々のただ人も多くて、土器あまたたび流れ、皆酔ひになりて、おのおのかう幸ひ人にすぐれたまへる御ありさまを物語にしけり。
 [第六段 源氏、内大臣と対面]
 大臣も、めづらしき御対面に、昔のこと思し出でられて、よそよそにてこそ、はかなきことにつけて、挑ましき御心も添ふべかめれ、さし向かひきこえたまひては、かたみにいとあはれなることの数々思し出でつつ、例の、隔てなく、昔今のことども、年ごろの御物語に、日暮れゆく。御土器など勧め参りたまふ。
 「さぶらはでは悪しかりぬべかりけるを、召しなきに憚りて。うけたまはり過ぐしてましかば、御勘事や添はまし」
 と申したまふに、
 「勘当は、こなたざまになむ。勘事と思ふこと多くはべる」
 など,けしきばみたまふに、このことにやと思せば、わづらはしうて、かしこまりたるさまにてものしたまふ。
 「昔より、公私のことにつけて、心の隔てなく、大小のこと聞こえうけたまはり、羽翼を並ぶるやうにて朝廷の御後見をも仕うまつるとなむ思うたまへしを、末の世となりて、そのかみ思うたまへし本意なきやうなること、うち交りはべれど、うちうちの私事にこそは。
 おほかたの心ざしは、さらに移ろふことなくなむ。何ともなくて積もりはべる年齢に添へて、いにしへのことなむ恋しかりけるを、対面賜はることもいとまれにのみはべれば、こと限りありて、世だけき御ふるまひとは思うたまへながら、親しきほどには、その御勢ひをも、引きしじめたまひてこそは、訪らひものしたまはめとなむ、恨めしき折々はべる」
 と聞こえたまへば、
 「いにしへは、げに面馴れて、あやしくたいだいしきまで馴れさぶらひ、心に隔つることなく御覧ぜられしを、朝廷に仕うまつりし際は、羽翼をべたる数にも思ひはべらで、うれしき御かへりみをこそ、はかばかしからぬ身にて、かかる位に及びはべりて、朝廷に仕うまつりはべることに添へても、思うたまへ知らぬにははべらぬを、齢の積もりには、げにおのづからうちゆるぶことのみなむ、多くはべりける」
 などかしこまり申したまふ。
 そのついでに、ほのめかし出でたまひてけり。大臣、
 「いとあはれに、めづらかなることにもはべるかな」と、まづうち泣きたまひて、「そのかみより、いかになりにけむと尋ね思うたまへしさまは、何のついでにかはべりけむ、愁へに堪へず、漏らし聞こしめさせし心地なむしはべる。今かく、すこし人数にもなりはべるにつけて、はかばかしからぬ者どもの、かたがたにつけてさまよひはべるを、かたくなしく、見苦しと見はべるにつけても、またさるさまにて、数々に連ねては、あはれに思うたまへらるる折に添へても、まづなむ思ひたまへ出でらるる」
 とのたまふついでに、かのいにしへの雨夜の物語に、いろいろなりし御睦言の定めを思し出でて、泣きみ笑ひみ、皆うち乱れたまひぬ。
 [第七段 源氏、内大臣、三条宮邸を辞去]
 夜いたう更けて、おのおのあかれたまふ。
 「かく参り来あひては、さらに,久しくなりぬる世の古事、思うたまへ出でられ、恋しきことの忍びがたきに、立ち出でむ心地もしはべらず」
 とて,をさをさ心弱くおはしまさぬ六条殿も、酔ひ泣きにや、うちしほれたまふ。宮はたまいて、姫君の御ことを思し出づるに、ありしにまさる御ありさま、勢ひを見たてまつりたまふに、飽かず悲しくて、とどめがたく、しほしほと泣きたまふ尼衣は、げに心ことなりけり。
 かかるついでなれど、中将の御ことをば、うち出でたまはずなりぬ。ひとふし用意なしと思しおきてければ、口入れむことも人悪く思しとどめ、かの大臣はた,人の御けしきなきに,さし過ぐしがたくて、さすがにむすぼほれたる心地したまうけり。
 「今宵も御供にさぶらふべきを、うちつけに騒がしくもやとてなむ。今日のかしこまりは、ことさらになむ参るべくはべる」
 と申したまへば、
 「さらば,この御悩みもよろしう見えたまふを、かならず聞こえし日違へさせたまはず、渡りたまふべき」よし、聞こえ契りたまふ。
 御けしきどもようて、おのおの出でたまふ響き、いといかめし。君達の御供の人びと、
 「何ごとありつるならむ。めづらしき御対面に、いと御けしきよげなりつるは」
 「また,いかなる御譲りあるべきにか」
 など,ひが心を得つつ、かかる筋とはひ寄らざりけり。
 

第三章 玉鬘の物語 裳着の物語

 [第一段 内大臣、源氏の意向に従う]
 大臣、うちつけにいといぶかしう、心もとなうおぼえたまへど、
 「ふと,しか受けとり、親がらむも便なからむ。尋ね得たまへらむ初めを思ふに、定めて心きよう見放ちたまはじ。やむごとなき方々を憚りて、うけばりてその際にはもてなさず、さすがにわづらはしう、ものの聞こえを思ひて、かく明かしたまふなめり」
 と思すは、口惜しけれど、
 「それを疵とすべきことかは。ことさらにも、かの御あたりに触ればはせむに、などかおぼえの劣らむ。宮仕へざまにおもむきたまへらば、女御などの思さむこともあぢきなし」と思せど、「ともかくも、思ひ寄りのたまはむおきてを違ふべきことかは」
 と,よろづに思しけり。
 かくのたまふは、二月朔日ころなりけり。十六日,彼岸の初めにて、いと吉き日なりけり。近うまた吉き日なしと勘へ申しけるうちに、ろしうおはしませば、いそぎ立ちたまうて、例の渡りたまうても、大臣に申しあらはししさまなど、いとこまかにあべきことども教へきこえたまへば、
 「あはれなる御心は、親と聞こえながらも、ありがたからむを」
 と思すものから、いとなむうれしかりける。
 かくて後は、中将の君にも、忍びてかかることの心のたまひ知らせけり。
 「あやしのことどもや。むべなりけり」
 と,思ひあはすることどもあるに、かのつれなき人の御ありさまよりも、なほもあらず思ひ出でられて、「思ひ寄らざりけることよ」と、しれじれしき心地す。されど,「あるまじう,ねじけるべきほどなりけり」と、思ひ返すことこそは、ありがたきまめまめしさなめれ。
 [第二段 二月十六日、玉鬘の裳着の儀]
 かくてその日になりて、三条の宮より、忍びやかに御使あり。御櫛の筥など、にはかなれど、ことどもいときよらにしたまうて、御文には、
 「聞こえむにも、いまいましきありさまを、今日は忍びこめはべれど、さるかたにても、長き例ばかりを思し許すべうや、とてなむ。あはれにうけたまはり、あきらめたる筋をかけきこえむも、いかが。御けしきに従ひてなむ。
  ふたかたに言ひもてゆけば玉櫛笥
  わが身はなれぬ懸子なりけり」
 と,いと古めかしうわななきたまへるを、殿もこなたにおはしまして、ことども覧じ定むるほどなれば、見たまうて、
 「古代なる御文書きなれど、いたしや、この御手よ。昔は上手にものしたまひけるを、年に添へて、あやしく老いゆくものにこそありけれ。いとからく御手ふるひにけり」
 など,うち返し見たまうて、
 「よくも玉櫛笥にまつはれたるかな。三十一字の中に、異文字は少なく添へたることのかたきなり」
 と,忍びて笑ひたまふ。
 [第三段 玉鬘の裳着への祝儀の品々]
 中宮より、白き御裳、唐衣、御装束、御髪上の具など、いと二なくて、例の、壺どもに、唐の薫物、心ことに香り深くてたてまつりたまへり。
 御方々、皆心々に、御装束、人びとの料に、櫛扇まで、とりどりにし出でたまへるありさま、劣りまさらず、さまざまにつけて、かばかりの御心ばせどもに、挑み尽くしたまへればをかしう見ゆるを、東の院の人びとも、かかる御いそぎは聞きたまうけれども、訪らひきこえたまふべき数ならねば、ただ聞き過ぐしたるに、常陸の宮の御方、あやしうものうるはしう、さるべきことの折過ぐさぬ古代の御心にて、いかでかこの御いそぎを、よそのこととは聞き過ぐさむ、と思して、形のごとなむし出でたまうける。
 あはれなる御心ざしなりかし。青鈍の細長一襲、落栗とかや、何とかや、昔の人のめでたうしける袷の袴一具、紫のしらきりゆる霰地の御小袿と、よき衣筥に入れて、包いとうるはしうて、たてまつれたまへり。
 御文には、
 「知らせたまふべき数にもはべらねば、つつましけれど、かかる折は思たまへ忍びがたくなむ。これ,いとあやしけれど、人にも賜はせよ」
 と,おいらかなり。殿、御覧じつけて、いとあさましう、例の、と思すに、御顔赤みぬ。
 「あやしき古人にこそあれ。かくものづつみしたる人は、引き入り沈み入りたるこそよけれ。さすがに恥ぢがましや」とて、「返りことはつかはせ。はしたなく思ひなむ。父親王の、いとかなしうしたまひける、思ひ出づれば、人に落さむはいと心苦しき人なり」
 と聞こえたまふ。御小袿の袂に、例の、同じ筋の歌ありけり。
 「わが身こそ恨みられけれ唐衣
  君が袂に馴れずと思へば」
 御手は、昔だにありしを、いとわりなうしじかみ、彫深う、強う、堅う書きたまへり。大臣、憎きものの、をかしさをばえ念じたまはで、
 「この歌詠みつらむほどこそ。まして今は力なくて、所狭かりけむ」
 と,いとほしがりたまふ。
 「いで,この返りこと、騒がしうとも、われせむ」
 とのたまひて、
 「あやしう、人の思ひ寄るまじき御心ばへこそ、あらでもありぬべけれ」
 と,憎さに書きたまうて、
 「唐衣また唐衣唐衣
  かへすがへすも唐衣なる」
 とて,
 「いとまめやかに、かの人の立てて好む筋なれば、ものしてはべるなり」
 とて,見せたてまつりたまへば、君、いとにほひやかに笑ひたまひて、
 「あな,いとほし。弄じたるやうにもはべるかな」
 と,苦しがりたまふ。ようなしごといと多かりや。
 [第四段 内大臣、腰結に役を勤める]
 内大臣は、さしも急がれたまふまじき御心なれど、めづらかに聞きたまうし後は、いつしかと御心にかかりたれば、疾く参りたまへり。
 儀式など、あべい限りにまた過ぎて、めづらしきさまにしなさせたまへり。「げにわざと御心とどめたまうけること」と見たまふも、かたじけなきものから、やう変はりて思さる。
 亥の時にて、入れたてまつりたまふ。例の御まうけをばさるものにて、内の御座いと二なくしつらはせたまうて、御肴参らせたまふ。御殿油、例のかかる所よりは、すこし光見せて、をかしきほどにもてなしきこえたまへり。
 いみじうゆかしう思ひきこえたまへど、今宵はいとゆくりかなべければ、引き結びたまふほど、え忍びたまはぬけしきなり。
 主人の大臣、
 「今宵は、いにしへざまのことはかけはべらねば、何のあやめも分かせたまふまじくなむ。心知らぬ人目を飾りて、なほ世の常の作法に」
 と聞こえたまふ。
 「げに,さらに聞こえさせやるべき方はべらずなむ」
 御土器参るほどに
 「限りなきかしこまりをば、世に例なきことと聞こえさせながら、今までかく忍びこめさせたまひける恨みも、いかが添へはべらざらむ」
 と聞こえたまふ。
 「恨めしや沖つ玉藻をかづくまで
  磯がくれける海人の心よ」
 とて,なほつつみもあへずしほたれたまふ。姫君は、いと恥づかしき御さまどものさし集ひ、つつましさに、え聞こえたまはねば、殿、
 「よるべなみかかる渚にうち寄せて
  海人も尋ねぬ藻屑とぞ見し
 いとわりなき御うちつけごとになむ」
 と聞こえたまへば、
 「いとことわりになむ」
 と,聞こえやる方なくて、出でたまひぬ。
 [第五段 祝賀者、多数参上]
 親王たち、次々、人びと残るなく集ひたまへり。御懸想人もあまた混じりたまへれば、この大臣、かく入りおはしてほど経るを、いかなることにかと疑ひたまへり。
 かの殿の君達,中将,弁の君ばかりぞ、ほの知りたまへりける。人知れず思ひしことを、からうも,うれしうも思ひなりたまふ。弁は、
 「よくぞうち出でざりける」とささめきて、「さま異なる大臣の御好みどもなめり。中宮の御類ひに仕立てたまはむとや思すらむ」
 など,おのおの言ふよしを聞きたまへど、
 「なほ,しばしは御心づかひしたまうて、世にそしりなきさまにもてなさせたまへ。何ごとも、心やすきほどの人こそ、乱りがはしう,ともかくもはべべかめれ、こなたをもそなたをも、さまざまの聞こえ悩まさむ、ただならむよりはあぢきなきを、なだらかに、やうやう人目をも馴らすなむ、よきことにははべるべき」
 と申したまへば、
 「ただ御もてなしになむ従ひはべるべき。かうまで御覧ぜられ、ありがたき御育みに隠ろへはべりけるも、前の世の契りおろかならじ」
 と申したまふ。
 御贈物など、さらにもいはず、すべて引出物、禄ども、品々につけて、例あること限りあれど、またこと加へ、二なくせさせたまへり。大宮の御悩みにことづけたまうし名残もあれば、ことことしき御遊びなどはなし。
 兵部卿宮、
 「今はことづけやりたまふべき滞りもなきを」
 と,おりたち聞こえたまへど、
 「内裏より御けしきあること、かへさひ奏し、またまた仰せ言に従ひてなむ、異ざまのことは、ともかくも思ひ定むべき」
 とぞ聞こえさせたまひける。
 父大臣は、
 「ほのかなりしさまを、いかでさやかにまた見む。なまかたほなること見えたまはば、かうまでことことしうもてなし思さじ」
 など,なかなか心もとなう恋しう思ひきこえたまふ。
 今ぞ、かの御夢も、まことに思しあはせける。女御ばかりには、さだかなることのさまを聞こえたまうけり。
 [第六段 近江の君、玉鬘を羨む]
 世の人聞きに、「しばしこのこと出ださじ」と、切に籠めたまへど、口さがなきものは世の人なりけり。自然に言ひ漏らしつつ、やうやう聞こえ出で来るを、かのさがな者の君聞きて、女御の御前に、中将,少将さぶらひたまふに出で来て、
 「殿は、御女まうけたまふべかなり。あな,めでたや。いかなる人、二方にもてなさるらむ。聞けば、かれも劣り腹なり」
 と,あふなげにのたまへば、女御、かたはらいたしと思して、ものものたまはず。中将、
 「しか,かしづかるべきゆゑこそものしたまふらめ。さても,誰が言ひしことを、かくゆくりなくうち出でたまふぞ。もの言ひただならぬ女房などそ、耳とどむれ」
 とのたまへば、
 「あなかま。皆聞きてはべり。尚侍になるべかなり。宮仕へにと急ぎ出で立ちはべりしことは、さやうの御かへりみもやとてこそ、なべての女房たちだに仕うまつらぬことまで、おりたち仕うまつれ。御前のつらくおはしますなり」
 と,恨みかくれば、皆ほほ笑みて
 「尚侍あかばなにがしこそ望まむと思ふを、非道にも思しかけけるかな」
 などのたまふに、腹立ちて、
 「めでたき御仲に、数ならぬ人は、混じるまじかりけり。中将の君ぞつらくおはする。さかしらに迎へたまひて、軽めあざけりたまふ。せうせうの人は、え立てるまじき殿の内かな。あな,かしこ。あな,かしこ」
 と,後へざまにゐざり退きて、見おこせたまふ。憎げもなけれど、いと腹悪しげに目尻引き上げたり。
 中将は、かく言ふにつけても、「げにし過ちたること」と思へば、まめやかにてものしたまふ。少将は、
 「かかる方にても、類ひなき御ありさまを、おろかにはよも思さじ。御心しづめたまうてこそ。堅き巌も沫雪になしたまうつべき御けしきなれば、いとよう思ひかなひたまふ時もありなむ」
 と,ほほ笑みて言ひゐたまへり。中将も、
 「天の岩門鎖し籠もりたまひなむや、めやすく」
 とて,立ちぬれば、ほろほろと泣きて、
 「この君達さへ、皆すげなくしたまふに、ただ御前の御心のあはれにおはしませば、さぶらふなり」
 とて,いとかやすく、いそしく、下臈童女などの仕うまつりたらぬ雑役をも、立ち走り、やすく惑ひありきつつ、心ざしを尽くして宮仕へしありきて、
 「尚侍に、おれを,申しなしたまへ」
 と責めきこゆれば、あさましう、「いかに思ひて言ふことならむ」と思すに、ものも言はれたまはず。
 [第七段 内大臣、近江の君を愚弄]
 大臣、この望みを聞きたまひて、いとはなやかにうち笑ひたまひて、女御の御方に参りたまへるついでに、
 「いづら,この,近江の君。こなたに」
 と召せば、
 「を」
 と,いとけざやかに聞こえて、出で来たり。
 「いと,仕へたる御けはひ、公人にて、げにいかにあひたらむ。尚侍のことは、などか,おのれに疾くはものせざりし」
 と,いとまめやかにてのたまへば、いとうれしと思ひて、
 「さも,御けしき賜はらまほしうはべりしかど、この女御殿など、おのづから伝へ聞こえさせたまひてむ頼みくれてなむさぶらひつるを、なるべき人ものしたまふやうに聞きまふれば、夢に富したる心地しはべりてなむ、胸に手を置きたるやうにはべる」
 と申したまふ。舌ぶりいとものさはやかなり。笑みたまひぬべきを念じて、
 「いとあやしう、おぼつかなき御癖なりや。さも思しのたまはましかば、まづ人の先に奏してまし。太政大臣の御女、やむごとなくとも、ここに切に申さむことは、聞こし召さぬやうあらざらまし。今にても、申し文を取り作りて、びびしう書き出だされよ。長歌などの心ばへあらむを御覧ぜむには、捨てさせたまはじ。主上は、そのうちに情け捨てずおはしませば」
 など,いとようすかしたまふ。人の親げなく、かたはなりや。
 「大和歌は、悪し悪しもけはべりなむ。むねむねしき方のことはた、殿より申させたまはば、つま声のやうにて、御徳をもかうぶりはべらむ」
 とて,手を押しすりて聞こえゐたり。御几帳のうしろなどにて聞く女房、死ぬべくおぼゆ。もの笑ひに堪へぬは、すべり出でてなむ、慰めける。女御も御面赤みて、わりなう見苦しと思したり。殿も、
 「ものむつかしき折は、近江の君見るこそ、よろづ紛るれ」
 とて,ただ笑ひ種につくりたまへど、世人は、
 「恥ぢがてら、はしたなめたまふ」
 など,さまざま言ひけり。
 【出典】
出典1 とにかくに人目堤を堰きかねて下に流るる音無の滝(源氏釈所引-出典未詳)(戻)
出典2 我欲易之、彼四人輔之、羽翼已成、難動矣(史記-留侯世家)(戻)
 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 女の--(/+女の<朱>)(戻)
校訂2 たまふべく--給へて(て/$く<朱>)(戻)
校訂3 左衛門尉--(右/$左<朱>)衛門のせう(戻)
校訂4 きらし--*きえし(戻)
校訂5 そそのかししかど--*そゝのかしかと(戻)
校訂6 思ほさぬ--お(お/+も)ほさぬ(戻)
校訂7 内の大臣にも--うちのおとゝ(ゝ/+に<朱>)も(戻)
校訂8 めでたく--めてたう所せきまて(う所せきまて/$く<朱>)(戻)
校訂9 のたまへば--の(の/+た)まへは(戻)
校訂10 許し--ゆるして(て/$<朱>)(戻)
校訂11 公事を--おほやけことをを(を<後>/#)(戻)
校訂12 いつかしき--いつく(く/$か<朱>)しき(戻)
校訂13 羽翼を--はね(ね/+を<朱>)(戻)
校訂14 筋とは--すちと(と/+は)(戻)
校訂15 宮--(/+宮<朱>)(戻)
校訂16 ねじけ--ねちき(き/$け<朱>)(戻)
校訂17 ことども--ことし(し/$と<朱>)も(戻)
校訂18 たまへれば--たまつ(つ/$へ<朱>)れは(戻)
校訂19 しらきり--しか(か/$ら<朱>)きり(戻)
校訂20 ほどに--ほと(と/+に<朱>)(戻)
校訂21 さまざま--さま/\の(の/$<朱>)(戻)
校訂22 など--なとも(も/$<朱>)(戻)
校訂23 ほほ笑みて--ほお(お/$ほ<朱>)ゑみて(戻)
校訂24 あかば--ある(る/$か<朱>)は(戻)
校訂25 たまひてむ--給てな(な/$)む(戻)
校訂26 頼み--なと(なと/$)たのみ(戻)
校訂27 聞き--き(き/+き<朱>)(戻)
校訂28 悪し悪しも--あしし(し<後>/$<朱>+/\<朱>)も(戻)
源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
注釈
大島本
自筆本奥入