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第二十六帖 常夏

光る源氏の太政大臣時代三十六歳の盛夏の物語

本文
渋谷栄一訳
与謝野晶子訳

第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語


第一段 六条院釣殿の納涼

1.1.1
いと(あつ)()(ひんがし)釣殿(つりどの)()でたまひて(すず)みたまふ。
中将(ちゅうじゃう)(きみ)もさぶらひたまふ
(した)しき殿上人(てんじゃうびと)あまたさぶらひて、西川(にしかは)よりたてまつれる(あゆ)(ちか)(かは)いしぶしやうのもの、御前(おまへ)にて調(てう)じて(まゐ)らす。
(れい)大殿(おほとの)君達(きんだち)中将(ちゅうじゃう)(おほん)あたり(たづ)ねて(まゐ)りたまへり。
たいそう暑い日、東の釣殿にお出になって涼みなさる。
中将の君も伺候していらっしゃる。
親しい殿上人も大勢伺候して、西川から献上した鮎、近い川のいしぶしのような魚、御前で調理して差し上げる。
いつもの大殿の公達、中将のおいでになる所を尋ねて参上なさった。
炎暑の日に源氏は東の釣殿(つりどの)へ出て涼んでいた。子息の中将が侍しているほかに、親しい殿上役人も数人席にいた。(かつら)川の(あゆ)加茂(かも)川の石臥(いしぶし)などというような魚を見る前で調理させて賞味するのであったが、例のようにまた内大臣の子息たちが中将を(たず)ねて来た。
1.1.2
さうざうしくねぶたかりつる、(をり)よくものしたまへるかな」
「退屈で眠たかったところだが、ちょうどよい時にいらっしゃったな」
「寂しく退屈な気がして眠かった時によくおいでになった」
1.1.3
とて、大御酒参(おほみきまゐ)り、氷水召(ひみづめ)して、水飯(すいはん)など、とりどりにさうどきつつ()ふ。
とおっしゃって、御酒を召し上がり、氷水をお取り寄せになって、水飯などを、それぞれにぎやかに召し上がる。
と源氏は言って酒を勧めた。氷の水、水飯(すいはん)などを若い人は皆大騒ぎして食べた。
1.1.4
(かぜ)はいとよく()けども、()のどかに(くも)りなき(そら)の、西日(にしび)になるほど、(せみ)(こゑ)などもいと(くる)しげに()こゆれば、
風はたいそう気持ちよく吹くが、日は長くて曇りない空が、西日になるころ、蝉の声などもたいそう苦しそうに聞こえるので、
風はよく吹き通すのであるが、晴れた空が西日になるころには(せみ)の声などからも苦しい熱が()かれる気がするほど暑気が堪えがたくなった。
1.1.5
(みづ)上無徳(うへむとく)なる今日(けふ)(あつ)かはしさかな。
無礼(むらい)(つみ)(ゆる)されなむや」
「水のほとりも役に立たない今日の暑さだね。
失礼は許していただけようか」
「水の上の価値が少しもわからない暑さだ。私はこんなふうにして失礼する」
1.1.6
とて、()()したまへり。
とおっしゃって、物に寄りかかって横におなりになった。
源氏はこう言って身体(からだ)を横たえた。
1.1.7
いとかかるころは(あそ)びなどもすさまじく、さすがに、()らしがたきこそ(くる)しけれ。
宮仕(みやづか)へする(わか)(ひと)びと()へがたからむな。
(おび)(ほど)かぬほどよ
ここにてだにうち(みだ)れ、このころ()にあらむことの、すこし(めづら)しく、ねぶたさ()めぬべからむ、(かた)りて()かせたまへ。
(なに)となく(おきな)びたる心地(ここち)して、世間(せけん)のこともおぼつかなしや」
「とてもこんな暑い時は、管弦の遊びなどもおもしろくなく、とはいえ、何もしないのもつらいことだ。
宮仕えしている若い人々にはつらいことだろうよ。
帯も解かないではね。
せめてここではくつろいで、最近世間に起こったことで、少し珍しく、眠気の覚めるようなことを、話してお聞かせください。
何となく年寄じみた心地がして、世間のことも疎くなったのでね」
「こんなころは音楽を聞こうという気にもならないし、さてまた退屈だし、困りますね。お勤めに出る人たちはたまらないでしょうね。帯も(ひも)も解かれないのだからね。私の所だけででも几帳面(きちょうめん)にせずに気楽なふうになって、世間話でもしたらどうですか。何か珍しいことで睡気(ねむけ)のさめるような話はありませんか。なんだかもう老人(としより)になってしまった気がして世間のこともまったく知らずにいますよ」
1.1.8
などのたまへど、(めづら)しきこととて、うち()()こえむ物語(ものがたり)もおぼえねば、かしこまりたるやうにて、(みな)いと(すず)しき高欄(かうらん)に、背中押(せなかお)しつつさぶらひたまふ。
などとおっしゃるが、珍しい事と言って、ちょっと申し上げるような話も思いつかないので、恐縮しているようで、皆たいそう涼しい高欄に、背中を寄り掛けながら座っていらっしゃる。
などと源氏は言うが、新しい事実として話し出すような問題もなくて、皆かしこまったふうで、涼しい高欄に背を押しつけたまま黙っていた。

第二段 近江君の噂

1.2.1
いかで()きしことぞや大臣(おとど)のほか(ばら)娘尋(むすめたづ)()でて、かしづきたまふなるとまねぶ(ひと)ありしかばまことにや」
「どうして聞いたことか、大臣が外腹の娘を捜し出して、大切になさっていると話してくれた人がいたので、本当ですか」
「どうしてだれが私に言ったことかも覚えていないのだが、あなたのほうの大臣がこのごろほかでお生まれになったお嬢さんを引き取って大事がっておいでになるということを聞きましたがほんとうですか」
1.2.2
と、弁少将(べんのせうしゃう)()ひたまへば、
と、弁少将にお尋ねになると、
と源氏は(べん)の少将に問うた。
1.2.3
ことことしく、さまで()ひなすべきことにもはべらざりけるを。
この(はる)のころほひ、夢語(ゆめがた)りしたまひけるをほの()(つた)へはべりける(をんな)の、『われなむかこつべきことある』と、()のり()ではべりけるを、中将(ちゅうじゃう)朝臣(あそん)なむ()きつけて『まことにさやうに()ればひぬべきしるしやある』と、(たづ)ねとぶらひはべりける。
(くは)しきさまは、()りはべらず。
げに、このころ(めづら)しき世語(よがた)りになむ、(ひと)びともしはべるなる。
かやうのことにぞ(ひと)のため、おのづから家損(けそん)なるわざにはべりけれ」
「仰々しく、そんなに言うほどのことではございませんでしたが。
今年の春のころ、夢をお話をなさったところ、ちらっと人伝てに聞いた女が、『自分には聞いてもらうべき子細がある』と、名乗り出ましたのを、中将の朝臣が耳にして、『本当にそのように言ってよい証拠があるのか』と、尋ねてやりました。
詳しい事情は、知ることができません。
おっしゃるように、最近珍しい噂話に、世間の人々もしているようでございます。
このようなことは、父にとって、自然と家の不面目となることでございます」
「そんなふうに世間でたいそうに申されるようなことでもございません。この春大臣が夢占いをさせましたことが(うわさ)になりまして、それからひょっくりと自分は縁故のある者だと名のって出て来ましたのを、兄の中将が真偽の調査にあたりまして、それから引き取って来たようですが、私は細かいことをよく存じません。結局珍談の材料を世間へ呈供いたしましたことになったのでございます。大臣の尊厳がどれだけそれでそこなわれましたかしれません」
1.2.4
()こゆ。
「まことなりけり」と(おぼ)して、
と申し上げる。
「やはり本当だったのだ」とお思いになって、
少将の答えがこうであったから、ほんとうのことだったと源氏は思った。
1.2.5
いと(おほ)かめる(つら)(はな)れたらむ(おく)るる(かり)を、()ひて(たづ)ねたまふが、ふくつけきぞ。
いとともしきにさやうならむもののくさはひ、見出(みい)でまほしけれど()のりももの()(きは)とや(おも)ふらむ、さらにこそ()こえね。
さても、もて(はな)れたることにはあらじ。
らうがはしくとかく(まぎ)れたまふめりしほどに、底清(そこきよ)()まぬ(みづ)にやどる(つき)は、(くも)りなきやうのいかでかあらむ
「たいそう大勢の子たちなのに、列から離れたような後れた雁を、無理にお捜しになるのが、欲張りなのだ。
とても子どもが少ないのに、そのようなかしずき種を、見つけ出したいが、名乗り出るのも嫌な所と思っているのでしょう、まったく聞きません。
それにしても、
無関係の娘ではあるまい。やたらあちらこちらと忍び歩きをなさっていたらしいうちに、底が清く澄んでいない水に宿る月は、曇らないようなこ
「たくさんな(かり)の列から離れた一羽までもしいてお捜しになったのが少し欲深かったのですね。私の所などこそ、子供が少ないのだから、そんな女の子なども見つけたいのだが、私の所では気が進まないのか少しも名のって来てくれる者がない。しかしともかく迷惑なことだっても大臣のお嬢さんには違いないのでしょう。若い時分は無節制に恋愛関係をお作りになったものだからね。底のきれいでない水に映る月は曇らないであろうわけはないのだからね」
1.2.6
と、ほほ()みてのたまふ。
中将(ちゅうじゃう)(きみ)も、(くは)しく()きたまふことなればえしもまめだたず。
少将(せうしゃう)藤侍従(とうじじゅ)とは、いとからしと(おも)ひたり。
と、ほほ笑んでおっしゃる。
中将君も、詳しくお聞きになっていることなので、とても真面目な顔はできない。
少将と藤侍従とは、とてもつらいと思っていた。
と源氏は微笑しながら言っていた。子息の左中将も真相をくわしく聞いていることであったからこれも笑いを()らさないではいられなかった。弁の少将と藤侍従(とうのじじゅう)はつらそうであった。
1.2.7
朝臣(あそん)さやうの落葉(おちば)をだに(ひろ)
人悪(ひとわ)ろき()(のち)()(のこ)らむよりは、(おな)じかざしにて(なぐさ)めむに、なでふことかあらむ」
「朝臣よ。せめてそのような落し胤でももらったらどうだね。
体裁の悪い評判を残すよりは、同じ姉妹と結婚して我慢するが、何の悪いことがあろうか」
「ねえ朝臣(あそん)、おまえはその落ち葉でも拾ったらいいだろう。不名誉な失恋男になるよりは同じ姉妹(きょうだい)なのだからそれで満足をすればいいのだよ」
1.2.8
と、(ろう)じたまふやうなり。
かやうのことにてぞうはべはいとよき御仲(おほんなか)の、(むかし)よりさすがに(ひま)ありける。
まいて、中将(ちゅうじゃう)をいたくはしたなめて、わびさせたまふつらさを(おぼ)しあまりて、なまねたしとも()()きたまへかし」と(おぼ)すなりけり。
と、おからかいになるようである。
このようなこととなると、表面はたいそう仲の良いお二方が、やはり昔からそれでもしっくりしないところがあるのであった。
その上、中将をひどく恥ずかしい目にあわせて、嘆かせていらっしゃるつらさを腹に据えかねて、「悔しいとでも、人伝てに聞きなさったらよい」と、お思いになるのだった。
子息をからかうような調子で父の源氏は言うのであった。内大臣と源氏は大体は仲のよい親友なのであるが、ずっと以前から性格の相違が原因になったわずかな感情の隔たりはあったし、このごろはまた中将を侮蔑(ぶべつ)して失恋の苦しみをさせている大臣の態度に飽き足らないものがあって、源氏は大臣が(しゃく)にさわる放言をすると間接に聞くように言っているのである。
1.2.9 このようにお聞きになるにつけても、

1.2.10
(たい)姫君(ひめぎみ)()せたらむ(とき)またあなづらはしからぬ(かた)もてなされなむはや
いとものきらきらしく、かひあるところつきたまへる(ひと)にて()()しきけぢめも、けざやかにもてはやし、またもて()(かろ)むることも、(ひと)(こと)なる大臣(おとど)なれば、いかにものしと(おも)ふらむ。
おぼえぬさまにて、この(きみ)をさし()でたらむに、(かろ)くは(おぼ)さじ
いときびしくもてなしてむ」など(おぼ)す。
「対の姫君を見せたような時、また軽々しく扱われるようなことはあるまい。
たいそうはっきりとしていて、けじめをつけるところがある人で、善悪の区別も、はっきりと誉めたり、また貶しめ軽んじたりすることも、人一倍の大臣なので、どんなに腹立たしく思うであろう。
予想もしない形で、この対の姫君を見せたらば、軽く扱うことはできまい。
まこと油断なくお世話しよう」などとお思いになる。
新しい娘を迎えて失望している大臣の(うわさ)を聞いても、源氏は玉鬘(たまかずら)のことを聞いた時に、その人はきっと大騒ぎをして大事に扱うことであろう、自尊心の強い、対象にする物の()さ悪さで態度を鮮明にしないではいられない性質の大臣は、近ごろ引き取った娘に失望を感じている様子は想像ができるし、また突然にこの玉鬘を見せた時の(よろこ)びぶりも思われないでもない、極度の珍重ぶりを見せることであろうなどと源氏は思っていた。

第三段 源氏、玉鬘を訪う

1.3.1
(ゆふ)つけゆく(かぜ)いと(すず)しくて、(かへ)()(わか)(ひと)びとは(おも)ひたり。
夕方らしくなって吹く風、たいそう涼しくて、帰るのももの憂く若い人々は思っていた。
夕べに移るころの風が涼しくて、若い公子たちは皆ここを立ち去りがたく思うふうである。
1.3.2
(こころ)やすくうち(やす)(すず)まむや
やうやうかやうの(なか)に、(いと)はれぬべき(よはひ)にもなりにけりや
「気楽にくつろいで涼んではどうか。
だんだんこのような若い人々の中で、嫌われる年になってしまったなあ」
「気楽に涼んで行ったらいいでしょう。私もとうとう青年たちからけむたがられる年になった」
1.3.3
とて、西(にし)(たい)(わた)りたまへば、君達(きんだち)皆御送(みなおほんおく)りに(まゐ)りたまふ。
と言って、西の対にお渡りになるので、公達、皆お送りにお供なさる。
こう言って、源氏は近い西の対を(たず)ねようとしていたから、公子たちは皆見送りをするためについて行った。
1.3.4
たそかれ(どき)のおぼおぼしきに、(おな)直衣(なほし)どもなれば、(なに)ともわきまへられぬに大臣(おとど)姫君(ひめぎみ)を、
黄昏時の薄暗い時に、同じ直衣姿なので、誰とも区別がつかないので、大臣は姫君に、
日の暮れ時のほの暗い光線の中では、同じような直衣(のうし)姿のだれがだれであるかもよくわからないのであったが、源氏は玉鬘に、
1.3.5 「もう少し外へお出になりなさい」
「少し外のよく見える所まで来てごらんなさい」
1.3.6
とて、(しの)びて
と言って、こっそりと、
と言って、従えて来た青年たちのいる方をのぞかせた。
1.3.7
少将(せうしゃう)侍従(じじゅ)など()てまうで()たり
いと()けり()まほしげに(おも)へるを、中将(ちゅうじゃう)の、いと実法(じほふ)(ひと)にて()()ぬ、無心(むじん)なめりかし。
「少将や、侍従などを連れて参りました。
ひどく飛んで来たいほどに思っていたのを、中将が、まこと真面目一方の人なので、連れて来なかったのは、思いやりがないようでした。
「少将や侍従をつれて来ましたよ。ここへは走り寄りたいほどの好奇心を持つ青年たちなのだが、中将がきまじめ過ぎてつれて来ないのですよ。同情のないことですよ。
1.3.8
この(ひと)びとは、皆思(みなおも)(こころ)なきならじ。
なほなほしき(きは)をだに、(まど)(うち)なるほどはほどに(したが)ひて、ゆかしく(おも)ふべかめるわざなれば、この(いへ)のおぼえうちうちのくだくだしきほどよりは、いと()()ぎて、ことことしくなむ()(おも)ひなすべかめる。
かたがたものすめれどさすがに(ひと)()きごと()()らむにつきなしかし。
この人々は、皆気がないでもない。
つまらない身分の女でさえ、深窓に養われている間は、身分相応に気を引かれるものらしいから、わが家の評判は内幕のくだくだしい割には、たいそう実際以上に、大げさに言ったり思ったりしているようです。
他にも女性方々がいらっしゃるのですが、やはり男性が恋をしかけるには相応しくない。
この青年たちはあなたに対して無関心な者が一人もないでしょう。つまらない家の者でも娘でいる間は若い男にとって好奇心の対象になるものだからね。私の家というものを実質以上にだれも買いかぶっているのですからね、しかも若い連中は六条院の夫人たちを恋の対象にして空想に陶酔するようなことはできないことだったのが、あなたという人ができたから皆の注意はあなたに集まることになったのです。
1.3.9
かくてものしたまふはいかでさやうならむ(ひと)のけしきの、(ふか)(あさ)さをも()むなど、さうざうしきままに(ねが)(おも)ひしを、本意(ほい)なむ(かな)心地(ここち)しける」
こうしていらっしゃるのは、何とかそのような男性の気持ちの、深さ浅さを見たいなどと、退屈のあまり願っていたのだが、望みの叶う気がしました」
そうした求婚者の真実の深さ浅さというようなものを、第三者になって観察するのはおもしろいことだろうと、退屈なあまりに以前からそんなことがあればいいと思っていたのがようやく時期が来たわけです」
1.3.10
など、ささめきつつ()こえたまふ。
などと、ひそひそと申し上げなさる。
などと源氏はささやいていた。
1.3.11
御前(おまへ)に、(みだ)れがはしき前栽(せんさい)なども()ゑさせたまはず、撫子(なでしこ)(いろ)をととのへたる、(から)の、大和(やまと)の、(ませ)いとなつかしく()ひなして、()(みだ)れたる(ゆふ)ばえいみじく()ゆ。
(みな)()()りて、(こころ)のままにも()()らぬを、()かず(おも)ひつつやすらふ
お庭先には、雑多な前栽などは植えさせなさらず、撫子の花を美しく整えた、唐撫子、大和撫子の、垣をたいそうやさしい感じに造って、その咲き乱れている夕映え、たいそう美しく見える。
皆、立ち寄って、思いのままに手折ることができないのを、残念に思って佇んでいる。
この前の庭には各種類の草花を混ぜて植えるようなことはせずに、美しい色をした撫子(なでしこ)ばかりを、唐撫子(からなでしこ)大和(やまと)撫子もことに優秀なのを選んで、低く作った(かき)に添えて植えてあるのが夕映(ゆうば)えに光って見えた。公子たちはその前を歩いて、じっと心が()かれるようにたたずんだりもしていた。
1.3.12
有職(いうそく)どもなりな
(こころ)もちゐなども、とりどりにつけてこそめやすけれ。
(みぎ)中将(ちゅうじゃう)は、ましてすこし(しづ)まりて、心恥(こころは)づかしき()まさりたり。
いかにぞやおとづれ()こゆや
はしたなくも、なさし(はな)ちたまひそ」
「教養のある人たちだな。
心づかいなども、それぞれに立派なものだ。
右の中将は、さらにもう少し落ち着いていて、こちらが恥ずかしくなる感じがします。
どうですか、お便り申して来ますか。
体裁悪く、突き放しなさいますな」
「りっぱな青年官吏ばかりですよ。様子にもとりなしにも欠点は少ない。今日は見えないが右中将は年かさだけあってまた優雅さが格別ですよ。どうです、あれからのちも手紙を送ってよこしますか。軽蔑(けいべつ)するような態度はとらないようにしなければいけない」
1.3.13
などのたまふ。
などとおっしゃる。
などとも源氏は言った。
1.3.14
中将(ちゅうじゃう)(きみ)は、かくよきなかにすぐれてをかしげになまめきたまへり。
中将君は、この優れた人たちの中でも、際立って優美でいらっしゃった。
すぐれたこの公子たちの中でも源中将は目だって(えん)な姿に見えた。
1.3.15
中将(ちゅうじゃう)(いと)ひたまふこそ大臣(おとど)本意(ほい)なけれ。
()じりものなく、きらきらしかめるなかに、大君(おほきみ)だつ(すぢ)にて、かたくななりとにや
「中将をお嫌いなさるとは、内大臣は困ったものだ。
ご一族ばかりで繁栄している中で、皇孫の血筋を引くので、見にくいとでもいうのか」
「中将をきらうことは内大臣として意を得ないことですよ。御自分が尊貴であればあの子も同じ兄妹(きょうだい)から生まれた尊貴な血筋というものなのだからね。しかしあまり系統がきちんとしていて王風(おおぎみふう)の点が気に入らないのですかね」
1.3.16
とのたまへば、
とおっしゃると、
と源氏が言った。
1.3.17 「来てくだされば、という人もございましたものを」
「来まさば(おほきみ来ませ婿にせん)というような人もあすこにはあるのではございませんか」
1.3.18
()こえたまふ。
と申し上げなさる。

1.3.19
いで、その御肴(みさかな)もてはやされむさまは(ねが)はしからず。
ただ、(をさな)きどちの(むす)びおきけむ(こころ)()けず、年月(としつき)(へだ)てたまふ(こころ)むけのつらきなり。
まだ下臈(げらふ)なり、()()耳軽(みみかろ)しと(おも)はれば、()らず(がほ)にて、ここに(まか)せたまへらむにうしろめたくはありなましや
「いや、そんな大事に持てなされることは望んでいません。
ただ、幼い者同士が契り合った胸の思いが晴れないまま、長い年月、仲を裂いていらっしゃった大臣のやりかたがひどいのです。
まだ身分が低い、外聞が悪いとお思いならば、知らない顔で、こちらに任せて下されたとしても、何の心配がありましょうか」
「いや、何も婿に取られたいのではありませんがね。若い二人が作った夢をこわしたままにして幾年も置いておかれるのは残酷だと思うのです。まだ官位が低くて世間体がよろしくないと思われるのだったら、公然のことにはしないで私へお嬢さんを託しておかれるという形式だっていいじゃないのですか。私が責任を持てばいいはずだと思うのだが」
1.3.20
など、うめきたまふ。
さは、かかる御心(みこころ)(へだ)てある御仲(おほんなか)なりけり」と()きたまふにも、(おや)()られたてまつらむことのいつとなきは、あはれにいぶせく(おぼ)す。
などと、不平をおっしゃる。
「では、このようなお心のしっくりいってないお間柄だったのだわ」とお聞きになるにつけても、親に知っていただけるのがいつか分からないのは、しみじみと悲しく胸の塞がる思いがなさる。
源氏は歎息(たんそく)した。自分の実父との間にはこうした感情の疎隔があるのかと玉鬘(たまかずら)ははじめて知った。これが支障になって親に()いうる日がまだはるかなことに思わねばならないのであるかと悲しくも思い、苦しくも思った。

第四段 源氏、玉鬘と和琴について語る

1.4.1
(つき)もなきころなれば、燈籠(とうろ)御殿油参(おほとなぶらまゐ)れり。
月もないころなので、燈籠に明りを入れた。
月がないころであったから燈籠(とうろう)()がともされた。
1.4.2 「やはり、近すぎて暑苦しいな。
篝火がよいなあ」
「灯が近すぎて暑苦しい、これよりは(かがり)がよい」
1.4.3
とて、人召(ひとめ)して、
とおっしゃって、人を呼んで、
と言って、
1.4.4 「篝火の台を一つ、こちらに」
「篝を一つこの庭で()くように」
1.4.5
()す。
をかしげなる和琴(わごん)のある、()()せたまひて、()()らしたまへば、(りち)にいとよく調(しら)べられたり
()もいとよく()れば、すこし()きたまひて、
とお取り寄せになる。
美しい和琴があるのを、引き寄せなさって、掻き鳴らしなさると、律の調子にたいそうよく整えられていた。
音色もとてもよく出るので、少しお弾きになって、
と源氏は命じた。よい和琴(わごん)がそこに出ているのを見つけて、引き寄せて、鳴らしてみると律の調子に合わせてあった。よい音もする琴であったから少し源氏は()いて、
1.4.6
かやうのことは御心(みこころ)()らぬ(すぢ)にやと、(つき)ごろ(おも)ひおとしきこえけるかな。
(あき)()月影涼(つきかげすず)しきほど、いと奥深(おくぶか)くはあらで、(むし)(こゑ)()()らし()はせたるほど、気近(けぢか)(いま)めかしきものの()なり。
ことことしき調(しら)べ、もてなししどけなしや。
「このようなことはお好きでない方面かと、今まで大したことはないとお思い申していました。
秋の夜の、月の光が涼しいころ、奥深い所ではなくて、虫の声に合わせて弾いたりするのには、親しみのあるはなやかな感じのする楽器です。
改まった演奏は、役割がしっかりと決まりませんね。
「こんなほうのことには趣味を持っていられないのかと、失礼な推測をしてましたよ。秋の涼しい月夜などに、虫の声に合わせるほどの気持ちでこれの弾かれるのははなやかでいいものです。これはもったいらしく弾く性質の楽器ではないのですが、不思議な楽器で、すべての楽器の基調になる音を持っている物はこれなのですよ。
1.4.7 この楽器は、そのままで多くの楽器の音色や、調子を備えているところが優れた点です。
大和琴と言って一見大したことのないように見えながら、極めて精巧に作られているものです。
広く外国の学芸を習わない女性のための楽器と思われます。
簡単にやまと琴という名をつけられながら無限の深味のあるものなのですね。ほかの楽器の扱いにくい女の人のために作られた物の気がします。
1.4.8
(おな)じくは、(こころ)とどめて(もの)などに()()はせて(なら)ひたまへ。
(ふか)(こころ)とて(なに)ばかりもあらずながら、またまことに()()ることはかたきにやあらむ、ただ(いま)は、この内大臣(うちのおとど)になずらふ(ひと)なしかし。
同じ習うなら、気をつけて他の楽器に合わせてお習いなさい。
難しい手と言っても、特にあるわけではありませんが、また本当に弾きこなすことは難しいのでしょうか、現在では、あの内大臣に並ぶ人はいません。
おやりになるのならほかの物に合わせて熱心に練習なさい。むずかしいことがないような物で、さてこれに妙技を現わすということはむずかしいといったような楽器です。現在では内大臣が第一の名手です。
1.4.9
ただはかなき(おな)菅掻(すがが)きの()に、よろづのものの()()もり(かよ)ひて、いふかたもなくこそ、(ひび)きのぼれ」
ただちょっとした同じ菅掻き一つの音色に、あらゆる楽器の音色が、含まれていて、何とも形容のしようがないほど、響き渡るのです」
ただ清掻(すがが)きをされるのにもあらゆる楽器の音を含んだ声が立ちますよ」
1.4.10
(かた)りたまへば、ほのぼの心得(こころえ)て、いかでと(おぼ)すことなればいとどいぶかしくて、
とご説明なさると、多少会得していて、ぜひともさらに上手になりたいとお思いのことなので、もっと聞きたくて、
と源氏は言った。玉鬘もそのことはかねてから聞いて知っていた。どうかして父の大臣の爪音(つまおと)に接したいとは以前から願っていたことで、あこがれていた心が今また大きな衝動を受けたのである。
1.4.11
このわたりにてさりぬべき御遊(おほんあそ)びの(をり)など()きはべりなむや
あやしき山賤(やまがつ)などのなかにも、まねぶものあまたはべるなることなれば、おしなべて(こころ)やすくやとこそ(おも)ひたまへつれ。
さは、すぐれたるは、さまことにやはべらむ
「こちらで、適当な管弦のお遊びがあります折などに、聞くことができましょうか。
賤しい田舎者の中でも、習う者が大勢おりますと言うことですから、総じて気楽に弾けるものかと存じておりました。
では、お上手な方は、まるで違っているのでしょうか」
「こちらにおりまして、音楽のお遊びがございます時などに聞くことができますでしょうか。田舎(いなか)の人などもこれはよく習っております琴ですから、気楽に稽古(けいこ)ができますもののように私は思っていたのでございますがほんとうの上手(じょうず)な人の弾くのは違っているのでございましょうね」
1.4.12
と、ゆかしげに、(せち)(こころ)()れて(おも)ひたまへれば、
と、さも聞きたそうに、熱心に気を入れていらっしゃるので、
玉鬘は熱心なふうに尋ねた。
1.4.13
さかし
あづまとぞ()()(くだ)りたるやうなれど、御前(ごぜん)御遊(おほんあそ)びにも、まづ書司(ふみのつかさ)()すは、(ひと)(くに)()らず、ここにはこれをものの(おや)としたるにこそあめれ
「そうです。
東琴と言って名前は低そうに聞こえますが、御前での管弦の御遊にも、まず第一に書司をお召しになるのは、異国はいざ知らず、わが国では和琴を楽器の第一としたのでしょう。
「そうですよ。あずま琴などとも言ってね、その名前だけでも軽蔑(けいべつ)してつけられている琴のようですが、宮中の御遊(ぎょゆう)の時に図書の役人に楽器の搬入を命ぜられるのにも、ほかの国は知りませんがここではまず大和(やまと)琴が真先(まっさき)に言われます。
1.4.14
そのなかにも、(おや)としつべき御手(おほんて)より()()りたまへらむは、(こころ)ことなりなむかし
ここになども、さるべからむ(をり)にはものしたまひなむを、この(こと)に、手惜(てを)しまずなど、あきらかに()()らしたまはむことやかたからむ
ものの上手(じゃうず)は、いづれの(みち)(こころ)やすからずのみぞあめる
そうした中でも、その第一人者である父親から直接習い取ったら、格別でしょう。
こちらにも、何かの機会にはおいでになるだろうが、和琴に、秘手を惜しまず、隠さず演奏するようなことはめったにないでしょう。
物の名人は、どの道の人でも気安くは手の内を見せないもののようです。
つまりあらゆる楽器の親にこれがされているわけです。()くことは練習次第で上達しますが、お父さんに同じ音楽的の遺伝のある娘がお習いすることは理想的ですね。私の家などへも何かの場合においでにならないことはありませんが、精いっぱいに弾かれるのを聞くことなどは困難でしょう。名人の芸というものはなかなか容易に全部を見せようとしないものですからね。
1.4.15
さりとも、つひには()きたまひてむかし」
とは言っても、いずれはお聞きになれることでしょう」
しかしあなたはいつか聞けますよ」
1.4.16
とて、調(しら)べすこし()きたまふ。
ことつひいと()なく(いま)めかしくをかし。
これにもまされる()()づらむ」と、(おや)(おほん)ゆかしさたち()ひて、このことにてさへ、いかならむ()に、さてうちとけ()きたまはむを()かむ」など、(おも)ひゐたまへり。
とおっしゃって、楽曲を少しお弾きになる。
和琴を弾く姿はとても素晴らしく、はなやかで趣がある。
「これよりも優れた音色が出るのだろうか」と、親にお会いしたい気持ちが加わって、和琴のことにつけてまでも、「いつになったら、こんなふうにくつろいでお弾きになるところを聞くことができるのだろうか」などと、思っていらっしゃった。
こう言いながら源氏は少し弾いた。はなやかな音であった。これ以上な音が父には出るのであろうかと玉鬘(たまかずら)は不思議な気もしながらますます父にあこがれた。ただ一つの和琴(わごん)の音だけでも、いつの日に自分は娘のために打ち解けて弾いてくれる父親の爪音にあうことができるのであろうと玉鬘はみずからをあわれんだ。
1.4.17
貫河(ぬきかは)瀬々(せぜ)のやはらた」と、いとなつかしく(うた)ひたまふ。
親避(おやさ)くるつま」は、すこしうち(わら)ひつつ、わざともなく()きなしたまひたる菅掻(すがが)きのほど、いひ()らずおもしろく()こゆ。
「貫河の瀬々の柔らかな手枕」と、たいそう優しくお謡いになる。
「親が遠ざける夫」というところは、少しお笑いになりながら、ことさらにでもなくお弾きになる菅掻きの音、何とも言いようがなく美しく聞こえる。
貫川(ぬきがは)瀬々(せぜ)のやはらだ」(やはらたまくらやはらかに寝る夜はなくて親さくる妻)となつかしい声で源氏は歌っていたが「親さくる妻」は少し笑いながら歌い終わったあとの清掻(すがが)きが非常におもしろく聞かれた。
1.4.18
いで、()きたまへ
(ざえ)(ひと)になむ()ぢぬ。
想夫恋(さうふれん)」ばかりこそ、(こころ)のうちに(おも)ひて、(まぎ)らはす(ひと)もありけめ、おもなくて、かれこれに()はせつるなむよき」
「さあ、お弾きなさい。
芸事は人前を恥ずかしがっていてはいけません。
「想夫恋」だけは、心中に秘めて、弾かない人があったようだが、遠慮なく、誰彼となく合奏したほうがよいのです」
「さあ弾いてごらんなさい。芸事は人に恥じていては進歩しないものですよ。『想夫恋(そうふれん)』だけはきまりが悪いかもしれませんがね。とにかくだれとでもつとめて合わせるのがいいのですよ」
1.4.19
と、(せち)()こえたまへど、さる田舎(ゐなか)(くま)にて、ほのかに京人(きゃうひと)()のりける古大君女教(ふるおほぎみをんなをし)へきこえければひがことにもやとつつましくて、手触(てふ)れたまはず。
と、しきりにお勧めになるが、あの辺鄙な田舎で、何やら京人と名乗った皇孫筋の老女がお教え申したので、誤りもあろうかと遠慮して、手をお触れにならない。
源氏は玉鬘の弾くことを熱心に勧めるのであったが、九州の田舎で、京の人であることを標榜(ひょうぼう)していた王族の端くれのような人から教えられただけの稽古(けいこ)であったから、まちがっていてはと気恥ずかしく思って玉鬘は手を出そうとしないのであった。
1.4.20 「少しの間でもお弾きになってほしい。
覚えることができるかも知れない」と聞きたくてたまらず、この和琴の事のために、お側近くにいざり寄って、
源氏が弾くのを少し長く聞いていれば得る所があるであろう、少しでも多く弾いてほしいと思う玉鬘であった。いつとなく源氏のほうへ膝行(いざ)り寄っていた。
1.4.21 「どのような風が吹き加わって、このような素晴らしい響きが出るのかしら」
「不思議な風が出てきて琴の音響(ひびき)を引き立てている気がします。どうしたのでしょう」
1.4.22
とて、うち(かたぶ)きたまへるさま、火影(ほかげ)にいとうつくしげなり。
(わら)ひたまひて、
と言って、耳を傾けていらっしゃる様子、燈の光に映えてたいそうかわいらしげである。
お笑いになって、
と首を傾けている玉鬘の様子が()の明りに美しく見えた。源氏は笑いながら、
1.4.23 「耳聰いあなたのためには、身にしむ風も吹き加わるのでしょう」
「熱心に聞いていてくれない人には、外から身にしむ風も吹いてくるでしょう」
1.4.24
とて、()しやりたまふ。
いと(こころ)やまし
と言って、和琴を押しやりなさる。
何とも迷惑なことである。
と言って、源氏は和琴を押しやってしまった。玉鬘は失望に似たようなものを覚えた。

第五段 源氏、玉鬘と和歌を唱和

1.5.1
(ひと)びと(ちか)くさぶらへば、(れい)(たはぶ)れごともえ()こえたまはで、
女房たちが近くに伺候しているので、いつもの冗談も申し上げなさらずに、
女房たちが近い所に来ているので、例のような戯談(じょうだん)も源氏は言えなかった。
1.5.2
撫子(なでしこ)()かでもこの(ひと)びとの()()りぬるかな。
いかで、大臣(おとど)にも、この花園見(はなぞのみ)せたてまつらむ。
()もいと(つね)なきをと(おも)ふに、いにしへも、もののついでに(かた)()でたまへりしもただ(いま)のこととぞおぼゆる」
「撫子を十分に鑑賞もせずに、あの人たちは立ち去ってしまったな。
何とかして、内大臣にも、この花園をお見せ申したいものだ。
人の命はいつまでも続くものでないと思うと、昔も、何かの時にお話しになったことが、まるで昨日今日のことのように思われます」
撫子(なでしこ)を十分に見ないで青年たちは行ってしまいましたね。どうかして大臣にもこの花壇をお見せしたいものですよ。無常の世なのだから、すべきことはすみやかにしなければいけない。昔大臣が話のついでにあなたの話をされたのも今のことのような気もします」
1.5.3
とて、すこしのたまひ()でたるにも、いとあはれなり。
とおっしゃって、少しお口になさったのにつけても、たいそう感慨無量である。
源氏はその時の大臣の言葉を思い出して語った。玉鬘は悲しい気持ちになっていた。
1.5.4 「撫子の花の色のようにいつ見ても美しいあなたを見ると
母親の行く方を内大臣は尋ねられることだろうな
「なでしこの(とこ)なつかしき色を見ば
もとの垣根(かきね)を人や尋ねん
1.5.5 このことが厄介に思われるので、引き籠められているのをお気の毒に思い申しています」
私にはあなたのお母さんのことで、やましい点があって、それでつい報告してあげることが遅れてしまうのです」
1.5.6
とのたまふ。
(きみ)うち()きて、
とおっしゃる。
姫君は、ちょっと涙を流して、
と源氏は言った。玉鬘は泣いて、
1.5.7 「山家の賤しい垣根に生えた撫子のような
わたしの母親など誰が尋ねたりしましょうか」
山がつの(かき)ほに()ひし撫子(なでしこ)
もとの根ざしをたれか尋ねん
1.5.8
はかなげに()こえないたまへるさま、げにいとなつかしく(わか)やかなり。
と人数にも入らないように謙遜してお答え申し上げなさった様子は、なるほどたいそう優しく若々しい感じである。
とはかないふうに言ってしまう様子が若々しくなつかしいものに思われた。
1.5.9 「もし来なかったならば」
源氏の心はますますこの人へ
1.5.10
とうち()じたまひて、いとどしき御心(みこころ)は、(くる)しきまで、なほえ(しの)()つまじく(おぼ)さる。
とお口ずさみになって、ひとしお募るお心は、苦しいまでに、やはり我慢しきれなくお思いになる。
()かれるばかりであった。苦しいほどにも恋しくなった。源氏はとうていこの恋心は抑制してしまうことのできるものでないと知った。

第六段 源氏、玉鬘への恋慕に苦悩

1.6.1
(わた)りたまふことも、あまりうちしきり、(ひと)()たてまつり(とが)むべきほどは、(こころ)(おに)(おぼ)しとどめて、さるべきことをし()でて、御文(おほんふみ)(かよ)はぬ(をり)なし。
ただこの(おほん)ことのみ、()()御心(みこころ)にはかかりたり。
お渡りになることも、あまり度重なって、女房が不審にお思い申しそうな時は、気が咎め自制なさって、しかるべきご用を作り出して、お手紙の通わない時はない。
ただこのお事だけがいつもお心に掛かっていた。
玉鬘(たまかずら)の西の対への訪問があまりに続いて人目を引きそうに思われる時は、源氏も心の鬼にとがめられて間は置くが、そんな時には何かと用事らしいことをこしらえて手紙が送られるのである。この人のことだけが毎日の心にかかっている源氏であった。
1.6.2
なぞ、かくあいなきわざをしてやすからぬもの(おも)ひをすらむ。
(おも)はじとて、(こころ)のままにもあらば()(ひと)のそしり()はむことの軽々(かるがる)しさ、わがためをばさるものにて、この(ひと)(おほん)ためいとほしかるべし。
(かぎ)りなき(こころ)ざしといふとも、(はる)(うへ)(おほん)おぼえに(なら)ぶばかりは、わが(こころ)ながらえあるまじく(おぼ)()りたり。
さて、その(おと)りの(つら)にては(なに)ばかりかはあらむ
わが()ひとつこそ、(ひと)よりは(こと)なれ()(ひと)のあまたが(なか)に、かかづらはむ(すゑ)にては、(なに)のおぼえかはたけからむ。
(こと)なることなき納言(なふごん)(きは)の、二心(ふたごころ)なくて(おも)はむには、(おと)りぬべきことぞ」
「どうして、このような不相応な恋をして、心の休まらない物思いをするのだろう。
そんな苦しい物思いはするまいとして、心の赴くままにしたら、世間の人の非難を受ける軽々しさを、自分への悪評はそれはそれとして、この姫君のためにもお気の毒なことだろう。
際限もなく愛しているからと言っても、春の上のご寵愛に並ぶほどには、わが心ながらありえまい」と思っていらっしゃった。
「さて、そうしたわけで、それ以下の待遇では、どれほどのことがあろうか。
自分だけは、誰よりも立派だが、世話する女君が大勢いる中で、あくせくするような末席にいたのでは、何の大したことがあろう。
格別大したこともない大納言くらいの身分で、ただ姫君一人を妻とするのには、きっと及ばないことだろう」
なぜよけいなことをし始めて物思いを自分はするのであろう、煩悶(はんもん)などはせずに感情のままに行動することにすれば、世間の批難は免れないであろうが、それも自分はよいとして女のために気の毒である。どんなに深く愛しても春の女王(にょおう)と同じだけにその人を思うことの不可能であることは、自分ながらも明らかに知っている。第二の妻であることによって幸福があろうとは思われない。自分だけはこの世のすぐれた存在であっても、自分の幾人もの妻の中の一人である女に名誉のあるわけはない。
1.6.3
と、みづから(おぼ)()るに、いといとほしくて、(みや)大将(だいしゃう)などにや(ゆる)してまし。
さてもて(はな)れ、いざなひ()りては(おも)ひも()えなむや。
いふかひなきにて、さもしてむ」と(おぼ)(をり)もあり。
と、ご自身お分りなので、たいそうお気の毒で、「いっそ、兵部卿宮か、大将などに許してしまおうか。
そうして自分も離れ、姫君も連れて行かれたら、諦めもつくだろうか。
言っても始まらないことだが、そうもしてみようか」とお思いになる時もある。
平凡な納言級の人の唯一の妻になるよりも決して女のために幸福でないと源氏は知っているのであったから、しいて情人にするのが哀れで、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮か右大将に結婚を許そうか、そうして良人(おっと)の家へ行ってしまえばこの悩ましさから自分は救われるかもしれない。消極的な考えではあるがその方法を取ろうかと思う時もあった。
1.6.4
されど、(わた)りたまひて、御容貌(おほんかたち)()たまひ、(いま)御琴教(おほんことをし)へたてまつりたまふにさへことづけて、(ちか)やかに()()りたまふ。
しかし、お渡りになって、ご器量を御覧になり、今ではお琴をお教え申し上げなさることまで口実にして、近くに常に寄り添っていらっしゃる。
しかもまた西の対へ行って美しい玉鬘を見たり、このごろは琴を教えてもいたので、以前よりも近々と寄ったりしては決心していたことが(ゆら)いでしまうのであった。
1.6.5
姫君(ひめぎみ)も、(はじ)めこそむくつけく、うたてとも(おも)ひたまひしか、かくても、なだらかに、うしろめたき御心(みこころ)はあらざりけり」と、やうやう目馴(めな)れて、いとしも(うと)みきこえたまはず、さるべき御応(おほんいら)へも、()()れしからぬほどに()こえかはしなどして、()るままにいと愛敬(あいぎゃう)づき、(かを)りまさりたまへれば、なほさてもえ()ぐしやるまじく(おぼ)(かへ)す。
姫君も、初めのうちこそ気味悪く嫌だとお思いであったが、「このようになさっても、穏やかなので、心配なお気持ちはないのだ」と、だんだん馴れてきて、そうひどくお嫌い申されず、何かの折のお返事も、親し過ぎない程度に取り交わし申し上げなどして、御覧になるにしたがってとても可愛らしさが増し、はなやかな美しさがお加わりになるので、やはり結婚させてすませられないとお思い返しなさる。
玉鬘もこうしたふうに源氏が扱い始めたころは、恐ろしい気もし、反感を持ったが、それ以上のことはなくて、やはり信頼のできそうなのに安心して、しいて源氏の愛撫(あいぶ)からのがれようとはしなかった。返辞などもなれなれしくならぬ程度にする愛嬌(あいきょう)の多さは知らず知らずに十分の魅力になって、前の考えなどは合理的なものでないと源氏をして思わせた。
1.6.6 「それならばまた、結婚させて、ここに置いたまま大切にお世話して、適当な折々に、こっそりと会い、お話申して心を慰めることにしようか。
このようにまだ結婚していないうちに、口説くことは面倒で、お気の毒であるが、自然と夫が手強くとも、男女の情が分るようになり、こちらがかわいそうだと思う気持ちがなくて、熱心に口説いたならば、いくら人目が多くても差し障りはあるまい」とお考えになる、実にけしからぬ考えである。
それでは今のままに自分の手もとへ置いて結婚をさせることにしよう、そして自分の恋人にもしておこう、処女である点が自分に躊躇(ちゅうちょ)をさせるのであるが、結婚をしたのちもこの人に深い愛をもって臨めば、良人(おっと)のあることなどは問題でなく恋は成り立つに違いないとこんなけしからぬことも源氏は思った。
1.6.7
いよいよ(こころ)やすからず(おも)ひわたらむ(くる)しからむ
なのめに(おも)()ぐさむことのとざまかくざまにもかたきぞ、()づかずむつかしき御語(おほんかた)らひなりける。
ますます気が気でなくなり、なお恋し続けるというのもつらいことであろう。
ほどほどに思い諦めることが、何かにつけてできそうにないのが、世にも珍しく厄介なお二人の仲なのであった。
それを実行した暁にはいよいよ深い煩悶(はんもん)に源氏は陥ることであろうし、熱烈でない愛しようはできない性質でもあるから悲劇がそこに起こりそうな気のすることである。

第七段 玉鬘の噂

1.7.1
(うち)大殿(おほとの)は、この(いま)御女(おほんむすめ)のことを殿(との)(ひと)(ゆる)さず(かろ)()ひ、()にもほきたることと(そし)りきこゆ」と、()きたまふに、少将(せうしゃう)の、ことのついでに、太政大臣(おほきおとど)の「さることや」ととぶらひたまひしこと(かた)りきこゆれば、
内の大殿は、この新しい姫君のことを、「お邸の人々も姫として認めず、軽んじた批評をし、世間でも馬鹿げたことと非難申している」と、お聞きになると、少将が、何かの機会に、太政大臣が「本当のことか」とお尋ねになったことを、お話し申し上げると、
内大臣が娘だと名のって出た女を、直ちに自邸へ引き取った処置について、家族も家司(けいし)たちもそれを軽率だと言っていること、世間でも誤ったしかただと言っていることも皆大臣の耳にははいっていたが、(べん)の少将が話のついでに源氏からそんなことがあるかと聞かれたことを言い出した時に大臣は笑って言った。
1.7.2
さかし。
そこにこそは(とし)ごろ、(おと)にも()こえぬ山賤(やまがつ)子迎(こむか)()りて、ものめかしたつれ。
をさをさ(ひと)(うへ)もどきたまはぬ大臣(おとど)の、このわたりのことは、(みみ)とどめてぞおとしめたまふや。
これぞ、おぼえある心地(ここち)しける
「いかにも。
あちらでこそ、長年、噂にも立たなかった賤しい娘を迎え取って、大切にしているのだ。
めったに人の悪口をおっしゃらない大臣が、わたしの家のことは、聞き耳を立てて悪口をおっしゃるよ。
それで、面目を施して晴れがましい気がする」
「そうだ、あすこにも今まで(うわさ)も聞いたことのない外腹の令嬢ができて、それをたいそうに扱っていられるではないか。あまりに他人のことを言われない大臣だが、不思議に私の家のことだと口の悪い批評をされる。このことなどはそれを証明するものだよ」
1.7.3
とのたまふ。
少将(せうしゃう)の、
とおっしゃる。
少将が、

1.7.4
かの西(にし)(たい)()ゑたまへる(ひと)いとこともなきけはひ()ゆるわたりになむはべるなる。
兵部卿宮(ひゃうぶきゃうのみや)など、いたう(こころ)とどめてのたまひわづらふとか。
おぼろけにはあらじとなむ、(ひと)びと()(はか)りはべめる」
「あの西の対にお置きになっていらっしゃる姫君は、たいそう申し分ない方だそうでございます。
兵部卿宮などが、たいそうご熱心に苦心して求婚なさっていらっしゃるとか。
けっして並大抵の姫君ではあるまいと、世間の人々が推量しているようでございます」
「あちらの西の対の姫君はあまり欠点もない人らしゅうございます。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮などは熱心に結婚したがっていらっしゃるのですから、平凡な令嬢でないことが想像されると世間でも言っております」
1.7.5
(まう)したまへば、
と、お申し上げになると、

1.7.6
いで、それはかの大臣(おとど)御女(おほんむすめ)(おも)ふばかりのおぼえのいといみじきぞ。
(ひと)(こころ)(みな)さこそある()なめれ。
かならずさしもすぐれじ。
(ひと)びとしきほどならば、(とし)ごろ()こえなまし
「さあ、それは、あの大臣の御姫君と思う程度の評判の高さだ。
人の心は、皆そういうもののようだ。
必ずしもそんなに優れてはいないだろう。
人並みの身分であったら、今までに評判になっていよう。
「さあそれがね、源氏の大臣の令嬢である点でだけありがたく思われるのだよ。世間の人心というものは皆それなのだ。必ずしも優秀な姫君ではなかろう。相当な母親から生まれた人であれば以前から人が聞いているはずだよ。
1.7.7
あたら、大臣(おとど)の、(ちり)もつかず、この()には()ぎたまへる御身(おほんみ)のおぼえありさまに、おもだたしき(はら)(むすめ)かしづきて、げに(きず)なからむと、(おも)ひやりめでたきがものしたまはぬは
惜しいことに、大臣が、何一つ欠点もなく、この世では過ぎた方でいらっしゃるご信望やご様子でありながら、れっきとした奥方の腹に、姫君を大切にお世話して、なるほど申し分あるまいと察せられる素晴らしい方がいらっしゃらないとは。
円満な幸福を持っていられる方だが、りっぱな夫人から生まれた令嬢が一人もないのを思うと、
1.7.8
おほかたの、()(すく)なくて(こころ)もとなきなめりかし。
(おと)(ばら)なれど、明石(あかし)御許(おもと)()()でたるはしも、さる()になき宿世(すくせ)にて、あるやうあらむとおぼゆかし
だいたい子供の数が少なくて、きっと心細いことだろうよ。
妾腹であるが、明石の御許が生んだ娘は、あの通りまたとない運命に恵まれて、将来にきっと頼もしかろうと思われる。
だいたい子供が少ないたちなんだね。劣り腹といって明石(あかし)の女の生んだ人は、不思議な因縁で生まれたということだけでも何となく未来の好運が想像されるがね。
1.7.9
その今姫君(いまひめぎみ)ようせずは、(じち)御子(おほんこ)にもあらじかし。
さすがにいとけしきあるところつきたまへる(ひと)にてもてないたまふならむ」
あの新しい姫君は、ひょっとしたら、実の姫君ではあるまいよ。
何といっても一癖も二癖もある方だから、大事にしていらっしゃるのだろう」
新しい令嬢はどうかすれば、それは実子でないかもしれない。そんな常識で考えられないようなこともあの人はされるのだよ」
1.7.10
と、()ひおとしたまふ。
と、悪口をおっしゃる。
と内大臣は玉鬘(たまかずら)をけなした。
1.7.11
さて、いかが(さだ)めらるなる
親王(みこ)こそまつはし()たまはむ。
もとより()()きて御仲(おほんなか)よし、人柄(ひとがら)警策(きゃうざく)なる(おほん)あはひどもならむかし」
「ところで、どのようにお決めになったのか。
親王がうまく靡かせて自分のものになさるだろう。
もともと格別にお仲がよいし、人物もご立派で婿君に相応しい間柄であろうよ」
「それにしても、だれが婿に決まるのだろう。兵部卿の宮の御熱心が結局勝利を占められることになるのだろう。もとから特別にお仲がいいのだし、大臣の趣味とよく一致した風流人だからね」
1.7.12
などのたまひては、なほ、姫君(ひめぎみ)(おほん)こと()かず口惜(くちを)し。
かやうに、(こころ)にくくもてなしていかにしなさむなど、やすからずいぶかしがらせましものを」とねたければ、(くらゐ)さばかりと()ざらむ(かぎ)りは、(ゆる)しがたく(おぼ)すなりけり。
などとおっしゃっては、やはり、姫君のことが、残念でたまらない。
「あのように、勿体らしく扱って、どういうふうになさる気かなどと、やきもきさせてやりたかったものを」と癪なので、位が相当になったと見えない限りは、結婚を許せないようにお思いになるのであった。
と言ったあとに大臣は雲井(くもい)(かり)のことを残念に思った。そうしたふうにだれと結婚をするかと世間に興味を持たせる娘に仕立てそこねたのがくやしいのである。これによっても中将が今一段光彩のある官に上らない間は結婚が許されないと大臣は思った。
1.7.13
大臣(おとど)などもねむごろに口入(くちい)れかへさひたまはむにこそは、()くるやうにてもなびかめと(おぼ)すに、男方(をとこがた)さらに()られきこえたまはず、(こころ)やましくなむ
大臣などが、丁重に口添えして覆しなさるなら、それに負けたようにして承認しようと思うが、男君の方は、一向に焦りもなさらないので、おもしろからぬことであった。
源氏がその問題の中へはいって来て懇請することがあれば、やむをえず負けた形式で同意をしようという大臣の腹であったが、中将のほうでは少しも焦慮(しょうりょ)するふうを見せず落ち着いているのであったからしかたがないのである。

第八段 内大臣、雲井雁を訪う

1.8.1
とかく(おぼ)しめぐらすままにゆくりもなく(かる)らかにはひ(わた)りたまへり
少将(せうしゃう)御供(おほんとも)(まゐ)りたまふ。
あれこれとご思案なさりながら、前ぶれもなく気軽にお渡りになった。
少将もお供しておいでになる。
こんなことをいろいろと考えていた大臣は突然行って見たい気になって雲井の雁の居間を(たず)ねた。少将も供をして行った。
1.8.2
姫君(ひめぎみ)は、昼寝(ひるね)したまへるほどなり
(うすもの)単衣(ひとへ)()たまひて()したまへるさま(あつ)かはしくは()えず、いとらうたげにささやかなり。
()きたまへる(はだ)つきなど、いとうつくしげなる()つきして、(あふぎ)()たまへりけるながら、かひなを(まくら)にて、うちやられたる御髪(みぐし)のほど、いと(なが)くこちたくはあらねど、いとをかしき(すゑ)つきなり。
姫君は、お昼寝をなさっているところである。
羅の一重をお召しになって臥せっていらっしゃる様子、暑苦しくは見えず、とてもかわいらしく小柄な身体つきである。
透けて見える肌つきなどは、とてもかわいらしい手つきして、扇をお持ちになったまま、腕を枕にして、投げ出されたお髪の具合、そう大して長く多いというのではないが、たいそう美しい裾の様子である。
雲井の雁はちょうど昼寝をしていた。薄物の単衣(ひとえ)を着て横たわっている姿からは暑い感じを受けなかった。可憐(かれん)な小柄な姫君である。薄物に透いて見える(はだ)の色がきれいであった。美しい手つきをして扇を持ちながらその(ひじ)(まくら)にしていた。横にたまった髪はそれほど長くも、多くもないが、端のほうが感じよく美しく見えた。
1.8.3
(ひと)びとものの(うしろ)()()しつつうち(やす)みたれば、ふともおどろいたまはず
(あふぎ)()らしたまへるに何心(なにごころ)もなく見上(みあ)げたまへるまみ、らうたげにて、つらつき(あか)めるも、(おや)御目(おほんめ)にはうつくしくのみ()ゆ。
女房たちは物蔭で横になって休んでいたので、すぐにはお目覚めにならない。
扇をお鳴らしになると、何気なく見上げなさった目つき、かわいらしげで、顔が赤くなっているのも、親の目にはかわいく見えるばかりである。
女房たちも几帳(きちょう)(かげ)などにはいって昼寝をしている時であったから、大臣の来たことをまだ姫君は知らない。扇を父が鳴らす音に何げなく上を見上げた顔つきが可憐で、(ほお)の赤くなっているのなども親の目には非常に美しいものに見られた。
1.8.4
うたた()はいさめきこゆるものを
などか、いとものはかなきさまにては大殿籠(おほとのご)もりける。
(ひと)びとも(ちか)くさぶらはで、あやしや。
「うたた寝はいけないと注意申していたのに。
どうして、ひどく無用心な恰好で寝ていらっしゃったのか。
女房たちも近く伺候させないで、どうしたことか。
「うたた寝はいけないことだのに、なぜこんなふうな寝方をしてましたか。女房なども近くに付いていないでけしからんことだ。
1.8.5
(をんな)は、()(つね)(こころ)づかひして(まも)りたらむなむよかるべき。
(こころ)やすくうち()てざまにもてなしたる、(しな)なきことなり。
女性は、身を常に注意して守っているのがよいのです。
気を許して無造作なふうにしているのは、品のないことです。
女というものは始終自身を(まも)る心がなければいけない。自分自身を打ちやりしているようなふうの見えることは品の悪いものだ。
1.8.6
さりとて、いとさかしく()かためて、不動(ふどう)陀羅尼誦(だらによ)みて、(いん)つくりてゐたらむも(にく)し。
うつつの(ひと)にもあまり気遠(けどほ)く、もの(へだ)てがましきなど、気高(けだか)きやうとても、(ひと)にくく、(こころ)うつくしくはあらぬわざなり。
そうかといって、ひどく利口そうに身を堅くして、不動尊の陀羅尼を読んで、印を結んでいるようなのも憎らしい。
日頃接する人にあまりよそよそしく、遠慮がすぎるのなども、上品なようなこととはいっても、小憎らしくて、かわいらしげのないことです。
賢そうに不動の陀羅尼(だらに)を読んで印を組んでいるようなのも憎らしいがね。それは極端な例だが、普通の人でも少しも人と接触をせずに奥に引き入ってばかりいるようなことも、気高(けだか)いようでまたあまり感じのいいものではない。
1.8.7
太政大臣(おほきおとど)の、(きさき)がねの姫君(ひめぎみ)ならはしたまふなる(をし)へは、よろづのことに(かよ)はしなだらめて、かどかどしきゆゑもつけじたどたどしくおぼめくこともあらじと、ぬるらかにこそ(おき)てたまふなれ。
太政大臣が、お后候補の姫君にしつけていらっしゃる教育は、何事でも一通りは心得ていて偏らず、特別目立つ特技もつけず、また不案内でうろうろすることもないようにと、余裕あるふうにとお考え置いていらっしゃるという。
太政大臣が未来のお(きさき)の姫君を教育していられる方針は、いろんなことに通じさせて、しかも目だつほど専門的に一つのことを深くやらせまい、そしてまたわからないことは何もないようにということであるらしい。
1.8.8
げに、さもあることなれど、(ひと)として、(こころ)にもするわざにも、()ててなびく(かた)(かた)とあるものなれば、()()でたまふさまあらむかし。
この(きみ)(ひと)となり宮仕(みやづか)へに()だし()てたまはむ()けしきこそ、いとゆかしけれ」
なるほど、もっともなことですが、人というものは、考えにも行動にも、特に好き好む方面はどうしてもあるものだから、ご成長なさった後に特徴も現れるでしょう。
あの姫君が一人前になって、入内させなさる時の様子が、とても見たいものだ」
それはもっともなことだが、人間にはそれぞれの天分があるし、特に好きなこともあるのだから、何かの特色が自然出てくることだろうと思われる。大人(おとな)になって宮廷へはいられるころはたいしたものだろうと予想される」
1.8.9
などのたまひて、
などとおっしゃって、
などと大臣は娘に言っていたが、
1.8.10
(おも)ふやうに()たてまつらむと(おも)ひし(すぢ)は、(かた)うなりにたる御身(おほんみ)なれど、いかで人笑(ひとわら)はれならずしなしたてまつらむとなむ、(ひと)(うへ)のさまざまなるを()くごとに、(おも)(みだ)れはべる。
「思い通りにお世話申そうと思っていた方面は、難しくなってしまったお身の上だが、何とか世間の物笑いにならないようにして差し上げようと、他人の身の上をあれこれと聞くたびに、心配しております。
「あなたをこうしてあげたいといろいろ思っていたことは空想になってしまったが、私はそれでもあなたを世間から笑われる人にはしたくないと、よその人のいろいろの話を聞くごとにあなたのことを思って煩悶(はんもん)する。
1.8.11
(こころ)(ごと)にねむごろがらむ(ひと)ねぎごとになしばしなびきたまひそ。
(おも)ふさまはべり」
試しにとばかり熱心なふりをする男の言葉を、ここしばらくはお聞き入れになってはいけません。
考えていることがございます」
ためそうとするだけで、表面的な好意を寄せるような男に動揺させられるようなことがあってはいけませんよ。私は一つの考えがあるのだから」
1.8.12
など、いとらうたしと(おも)ひつつ()こえたまふ。
などと、たいそうかわいく思いながら申し上げなさる。
ともかわいく思いながら(いまし)めもした。
1.8.13
(むかし)は、(なに)ごとも(ふか)くも(おも)()らで、なかなかさしあたりていとほしかりしことの(さわ)ぎにもおもなくて()えたてまつりけるよ」と、(いま)(おも)()づるに、(むね)ふたがりて、いみじく()づかしき。
「昔は、どのようなことも深くも考えないで、かえって、あの当座のつらい思いをした騒動にも、平気な顔をして父君にお会い申していたことよ」と、今になって思い出すと、胸が塞がってひどく、恥ずかしい。
昔は何も深く考えることができずに、あの騒ぎのあった時も恥知らずに平気で父に対していたと思い出すだけでも胸がふさがるように雲井の雁は思った。
1.8.14
大宮(おほみや)よりも、(つね)におぼつかなきことを(うら)みきこえたまへど、かくのたまふるがつつましくて(わた)()たてまつりたまはず
大宮からも、いつも会えないことをお恨み申されるが、このようにおっしゃるのに遠慮されて、お出かけになってお目に掛かることがおできになれない。
大宮の所からは始終()いたいというふうにお手紙が来るのであるが、大臣が気にかけていることを思うと、御訪問も容易にできないのである。

第二章 近江君の物語 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語


第一段 内大臣、近江君の処遇に苦慮

2.1.1 大臣は、この北の対の今姫君を、
大臣は北の対に住ませてある令嬢を
2.1.2
いかにせむ
さかしらに(むか)()()て。
(ひと)かく(そし)るとて、(かへ)(おく)らむも、いと軽々(かるがる)しく、もの(ぐる)ほしきやうなり。
かくて()めおきたればまことにかしづくべき(こころ)あるかと、(ひと)()ひなすなるもねたし。
女御(にょうご)御方(おほんかた)などに()じらはせて、さるをこのものにしないてむ
(ひと)いとかたはなるものに()ひおとすなる容貌(かたち)はた、いとさ()ふばかりにやはある
「どうしたものか。
よけいなことをして迎え取って。
世間の人がこのように悪口を言うからといって、送り返したりするのも、まことに軽率で、気違いじみたことのようだ。
こうして置いているので、本当に大切にお世話する気があるのかと、他人が噂するのも癪だ。
女御の御方などに宮仕えさせて、そうした笑い者にしてしまおう。
女房たちがたいそう不細工だとけなしているらしい容貌も、そんなに言われるほどのものではない」
どうすればよいか、よけいなことをして引き取ったあとで、また人が(そし)るからといって家へ送り帰すのも軽率な気のすることであるが、娘らしくさせておいては満足しているらしく自分の心持ちが誤解されることになっていやである、女御(にょご)の所へ来させることにして、馬鹿(ばか)娘として人中に置くことにさせよう、悪い容貌(ようぼう)だというがそう見苦しい顔でもないのであるから
2.1.3
など(おぼ)して、女御(にょうご)(きみ)に、
などとお思いになって、女御の君に、
と思って、大臣は女御に、
2.1.4
かの人参(ひとまゐ)らせむ
見苦(みぐる)しからむことなどは、()いしらへる女房(にょうばう)などして、つつまず()(をし)へさせたまひて御覧(ごらん)ぜよ
(わか)(ひと)びとの言種(ことぐさ)には、(わら)はせさせたまひそ
うたてあはつけきやうなり」
「あの人を出仕させましょう。
見ていられないようなことなどは、老いぼれた女房などをして、遠慮なく教えさせなさってお使いなさい。
若い女房たちの噂の種になるような、笑い者にはなさらないでください。
それではあまりに軽率のようだ」
「あの娘をあなたの所へよこすことにしよう。悪いことは年のいった女房などに遠慮なく矯正(きょうせい)させて使ってください。若い女房などが何を言ってもあなただけはいっしょになって笑うようなことをしないでお置きなさい。軽佻(けいちょう)に見えることだから」
2.1.5
と、(わら)ひつつ()こえたまふ。
と、笑いながら申し上げなさる。
と笑いながら言った。
2.1.6 「どうして、そんなひどいことがございましょう。
中将などが、たいそうまたとなく素晴らしいと吹聴したらしい前触れに及ばないというだけございましょう。
このようにお騒ぎになるので、きまり悪くお思いになるにつけ、一つには気後れしているのでございましょう」
「だれがどう言いましても、そんなつまらない人ではきっとないと思います。中将の兄様などの非常な期待に添わなかったというだけでしょう。こちらへ来ましてからいろんな取り沙汰などをされて、一つはそれでのぼせて粗相(そそう)なこともするのでございましょう」
2.1.7 と、たいそうこちらが気恥ずかしくなるような面持ちで申し上げなさる。
この女御のご様子は、何もかも整っていて美しいというのではなくて、たいそう上品で澄ましていらっしゃるが、やさしさがあって、美しい梅の花が咲き初めた朝のような感じがして、おっしゃりたいことも差し控えて微笑んでいらっしゃるのが、人とは違う、と拝見なさる。
と女御は貴女(きじょ)らしい品のある様子で言っていた。この人は一つ一つ取り立てて美しいということのできない顔で、そして品よく澄み切った美の備わった、美しい梅の半ば開いた花を朝の光に見るような奥ゆかしさを見せて微笑しているのを大臣は満足して見た。だれよりもすぐれた娘であると意識したのである。
2.1.8 「中将が、何といっても、思慮が足りなく調査が不十分だったので」
「しかしなんといっても中将の無経験がさせた失敗だ」
2.1.9 などと申し上げなさるが、お気の毒なお扱いであることよ。
などとも父に言われている新令嬢は気の毒である。

第二段 内大臣、近江君を訪う

2.2.1
やがて、この御方(おほんかた)のたよりにたたずみおはして、のぞきたまへば、簾高(すだれたか)くおし()りて五節(ごせち)(きみ)とて、されたる若人(わかうど)のあると、双六(すぐろく)をぞ()ちたまふ。
()をいと(せち)におしもみて、
そのまま、この女御の御方を訪ねたついでに、ぶらぶらお歩きになって、お覗きになると、簾を高く押し出して、五節の君といって、気の利いた若い女房がいるのと、双六を打っていらっしゃる。
手をしきりに揉んで、
大臣は女房を(たず)ねた帰りにその人の所へも行って見た。座敷の御簾(みす)をいっぱいに張り出すようにして(すそ)をおさえた中で、五節(ごせち)という生意気な若い女房と令嬢は双六(すごろく)を打っていた。
2.2.2 「小賽、小賽」
「しょうさい、しょうさい」
2.2.3
とこふ(こゑ)ぞ、いと舌疾(したど)きや。
「あな、うたて」と(おぼ)して、御供(おほんとも)(ひと)前駆追(さきお)ふをも、()かき(せい)したまうて、なほ、妻戸(つまど)細目(ほそめ)なるより、障子(さうじ)()きあひたるを見入(みい)れたまふ。
と祈る声は、とても早口であるよ。
「ああ、情ない」とお思いになって、お供の人が先払いするのをも、手で制しなさって、やはり、妻戸の細い隙間から、襖の開いているところをお覗き込みなさる。
と両手をすりすり(さい)()く時の呪文(じゅもん)を早口に唱えているのに悪感(おかん)を覚えながらも大臣は従って来た人たちの人払いの声を手で制して、なおも妻戸の細目に開いた(すき)から、障子の向こうを大臣はのぞいていた。
2.2.4
この従姉妹(いとこ)はた、けしきはやれる、
この従姉妹も、同じく、興奮していて、
五節も蓮葉(はすっぱ)らしく騒いでいた。
2.2.5 「お返しよ、お返しよ」
「御返報しますよ。御返報しますよ」
2.2.6
と、(とう)をひねりて、とみに()()でず
(なか)(おも)ひはありやすらむいとあさへたるさまどもしたり。
と、筒をひねり回して、なかなか振り出さない。
心中に思っていることはあるのかも知れないが、たいそう軽薄な振舞をしている。
賽の筒を手でひねりながらすぐには撒こうとしない。
2.2.7
容貌(かたち)はひちちかに、愛敬(あいぎゃう)づきたるさまして、(かみ)うるはしく、罪軽(つみかろ)げなるを、(ひたひ)のいと(ちか)やかなると、(こゑ)のあはつけさとにそこなはれたるなめり
()りたててよしとはなけれど、異人(ことびと)とあらがふべくもあらず(かがみ)(おも)ひあはせられたまふにいと宿世心(すくせこころ)づきなし
器量は親しみやすく、かわいらしい様子をしていて、髪は立派で、欠点はあまりなさそうだが、額がひどく狭いのと、声の上っ調子なのとで台なしになっているようである。
取り立てて良いというのではないが、他人だと抗弁することもできず、鏡に映る顔が似ていらっしゃるので、まったく運命が恨めしく思われる。
姫君の容貌は、ちょっと人好きのする愛嬌(あいきょう)のある顔で、髪もきれいであるが、額の狭いのと頓狂(とんきょう)な声とにそこなわれている女である。美人ではないがこの娘の顔に、鏡で知っている自身の顔と共通したもののあるのを見て、大臣は運にのろわれている気がした。
2.2.8
かくてものしたまふはつきなくうひうひしくなどやある。
ことしげくのみありて、(とぶ)らひまうでずや
「こうしていらっしゃるのは、落ち着かず馴染めないのではありませんか。
大変に忙しいばかりで、お訪ねできませんが」
「こちらで暮らすようになって、あなたに何か気に入らないことがありますか。つい忙しくて(たず)ねに来ることも十分できないが」
2.2.9
とのたまへば、(れい)の、いと舌疾(したど)にて、
とおっしゃると、例によって、とても早口で、
と大臣が言うと、例の調子で新令嬢は言う。
2.2.10
かくてさぶらふは(なに)のもの(おも)ひかはべらむ
(とし)ごろ、おぼつかなく、ゆかしく(おも)ひきこえさせし御顔(おほんかほ)(つね)にえ()たてまつらぬばかりこそ、手打(てう)たぬ心地(ここち)しはべれ
「こうして伺候しておりますのは、何の心配がございましょうか。
長年、どんなお方かとお会いしたいとお思い申し上げておりましたお顔を、常に拝見できないのだけが、よい手を打たぬ時のようなじれったい気が致します」
「こうしていられますことに何の不足があるものでございますか。長い間お目にかかりたいと念がけておりましたお顔を、始終拝見できませんことだけは成功したものとは思われませんが」
2.2.11
()こえたまふ。
とお申し上げになさる。

2.2.12
げに、()(ちか)使(つか)(ひと)をさをさなきに、さやうにても()ならしたてまつらむとかねては(おも)ひしかど、えさしもあるまじきわざなりけり
なべての(つか)うまつり(びと)こそ、とあるもかかるも、おのづから()(まじ)らひて、(ひと)(みみ)をも()をも、かならずしもとどめぬものなれば、(こころ)やすかべかめれ。
それだにその(ひと)(むすめ)かの(ひと)()()らるる(きは)になれば、親兄弟(おやはらから)面伏(おもてぶ)せなる(たぐ)(おほ)かめり。
まして
「なるほど、身近に使う人もあまりいないので、側に置いていつも拝見していようと、以前は思っていましたが、そうもできかねることでした。
普通の宮仕人であれば、どうあろうとも、自然と立ち混じって、誰の目にも耳にも、必ずしもつかないものですから、安心していられましょう。
それであってさえ、誰それの娘、何がしの子と知られる身分となると、親兄弟の面目を潰す例が多いようだ。
ましてや」
「そうだ、私もそばで手足の代わりに使う者もあまりないのだから、あなたが来たらそんな用でもしてもらおうかと思っていたが、やはりそうはいかないものだからね。ただの女房たちというものは、多少の身分の高下はあっても、皆いっしょに用事をしていては目だたずに済んで気安いものなのだが、それでもだれの娘、だれの子ということが知られているほどの身の上の者は、親兄弟の名誉を傷つけるようなことも自然起こってきておもしろくないものだろうが、まして」
2.2.13
とのたまひさしつる、()けしきの()づかしきも()らず
と言いかけてお止めになった、そのご立派さも分からず、
言いさして話をやめた父の自尊心などに令嬢は頓着(とんじゃく)していなかった。
2.2.14
(なに)か、そはことことしく(おも)ひたまひて(まじ)らひはべらばこそ、所狭(ところせ)からめ。
大御大壺取(おほみおほつぼと)りにも、(つか)うまつりなむ」
「いえいえ、それは、大層に思いなさって宮仕え致しましたら、窮屈でしょう。
大御大壷の係なりともお仕え致しましょう」
「いいえ、かまいませんとも、令嬢だなどと思召(おぼしめ)さないで、女房たちの一人としてお使いくださいまし。お便器のほうのお仕事だって私はさせていただきます」
2.2.15
()こえたまへば、(ねん)じたまはで、うち(わら)ひたまひて、
とお答え申し上げるので、お堪えになることができず、ついお笑いになって、

2.2.16
()つかはしからぬ(やく)ななり
かくたまさかに()へる(おや)(けう)せむの(こころ)あらば、このもののたまふ(こゑ)を、すこしのどめて()かせたまへ。
さらば、(いのち)()びなむかし」
「似つかわしくない役のようだ。
このようにたまに会える親に孝行する気持ちがあるならば、その物をおっしゃる声を、少しゆっくりにしてお聞かせ下さい。
そうすれば、
「それはあまりに不似合いな役でしょう。たまたま巡り合った親に孝行をしてくれる心があれば、その物言いを少し静かにして聞かせてください。それができれば私の命も延びるだろう」
2.2.17
と、をこめいたまへる大臣(おとど)にて、ほほ()みてのたまふ
と、おどけたところのある大臣なので、苦笑しながらおっしゃる。
道化たことを言うのも好きな大臣は笑いながら言っていた。

第三段 近江君の性情

2.3.1
(した)本性(ほんじゃう)にこそははべらめ
(をさな)くはべりし(とき)だに、故母(こはは)(つね)(くる)しがり(をし)へはべりし。
妙法寺(みゃうほふじ)別当大徳(べたうだいとこ)の、産屋(うぶや)にはべりける、あえものとなむ(なげ)きはべりたうびし。
いかでこの舌疾(したど)さやめはべらむ」
「舌の生まれつきなのでございましょう。
子供でした時でさえ、亡くなった母君がいつも嫌がって注意しておりました。
妙法寺の別当の大徳が、産屋に詰めておりましたので、それにあやかってしまったと嘆いていらっしゃいました。
何とかしてこの早口は直しましょう」
「私の舌の性質がそうなんですね。小さい時にも母が心配しましてよく訓戒されました。妙法寺の別当の坊様が私の生まれる時産屋(うぶや)にいたのですってね。その方にあやかったのだと言って母が歎息(たんそく)しておりました。どうかして直したいと思っております」
2.3.2
(おも)(さわ)ぎたるも、いと孝養(けうやう)心深(こころふか)あはれなりと()たまふ。
と大変だと思っているのも、たいそう孝行心が深く、けなげだとお思いになる。
むきになってこう言うのを聞いても孝心はある娘であると大臣は思った。
2.3.3
その、気近(けぢか)()()ちたりけむ大徳(だいとこ)こそは、あぢきなかりけれ。
ただその(つみ)(むく)いななり
(おし)言吃(ことどもり)とぞ、大乗誹(だいじょうそし)りたる(つみ)にも、(かず)へたるかし」
「その、側近くまで入り込んだ大徳こそ、困ったものです。
ただその人の前世で犯した罪の報いなのでしょう。
唖とどもりは、法華経を悪く言った罪の中にも、数えているよ」
産屋(うぶや)などへそんなお坊さんの来られたのが災難なんだね。そのお坊さんの持っている罪の報いに違いないよ。(おし)(どもり)は仏教を(そし)った者の報いに数えられてあるからね」
2.3.4
とのたまひて、()ながら()づかしくおはする(おほん)さまに()えたてまつらむこそ()づかしけれ。
いかに(さだ)めて、かくあやしきけはひも(たづ)ねず(むか)()せけむ」と(おぼ)し、(ひと)びともあまた()つぎ、()()らさむこと」と、(おも)(かへ)したまふものから
とおっしゃって、「わが子ながらも気の引けるほどの御方に、お目に掛けるのは気が引ける。
どのよう考えて、こんな変な人を調べもせずに迎え取ったのだろう」とお思いになって、「女房たちが次々と見ては言い触らすだろう」と、考え直しなさるが、
と大臣は言っていたが、子ながらも畏敬(いけい)の心の()女御(にょご)の所へこの娘をやることは恥ずかしい、どうしてこんな欠陥の多い者を家へ引き取ったのであろう、人中へ出せばいよいよ悪評がそれからそれへ伝えられる結果を生むではないかと思って、大臣は計画を捨てる気にもなったのであるが、また、
2.3.5
女御里(にょうごさと)にものしたまふ時々(ときどき)(わた)(まゐ)りて、(ひと)のありさまなども()ならひたまへかし。
ことなることなき(ひと)も、おのづから(ひと)()じらひ、さる(かた)になれば、さてもありぬかし。
さる(こころ)して()えたてまつりたまひなむや
「女御が里下りしていらっしゃる時々には、お伺いして、女房たちの行儀作法を見習いなさい。
特に優れたところのない人でも、自然と大勢の中に混じって、その立場に立つと、いつか恰好もつくものです。
そのような心積もりをして、お目通りなさってはいかがですか」
「女御が(うち)へ帰っておいでになる間に、あなたは時々あちらへ行って、いろんなことを見習うがいいと思う。平凡な人間も貴女(きじょ)がたの作法に会得(えとく)が行くと違ってくるものだからね。そんなつもりであちらへ行こうと思いますか」
2.3.6
とのたまへば、
とおっしゃると、
とも言った。
2.3.7
いとうれしきことにこそはべるなれ
ただ、いかでもいかでも、御方々(おほんかたがた)(かず)まへしろしめされむことをなむ、()ても()めても、(とし)ごろ(なに)ごとを(おも)ひたまへつるにもあらず。
御許(おほんゆる)しだにはべらば、(みづ)()みいただきても、(つか)うまつりなむ
「とても嬉しいことでございますわ。
ただただ、何としてでも、皆様方にお認めいただくことばかりを、寝ても覚めても、長年この願い以外のことは思ってもいませんでした。
お許しさえあれば、水を汲んで頭上に乗せて運びましても、お仕え致しましょう」
「まあうれしい。私はどうかして皆さんから兄弟だと認めていただきたいと寝ても()めても祈っているのでございますからね。そのほかのことはどうでもいいと思っていたくらいでございますからね。お許しさえございましたら女御さんのために私は水を()んだり運んだりしましてもお仕えいたします」
2.3.8
と、いとよげに、(いま)すこしさへづれば、いふかひなしと(おぼ)して、
と、たいそういい気になって、一段と早口にしゃべるので、どうしようもないとお思いになって、
なお早口にしゃべり続けるのを聞いていて大臣はますます憂鬱(ゆううつ)な気分になるのを、紛らすために言った。
2.3.9
いとしか、おりたちて薪拾(たきぎひろ)ひたまはずとも(まゐ)りたまひなむ
ただかのあえものにしけむ(のり)()だに(とほ)くは」
「そんなにまで、自分自身で薪をお拾いにならなくても、参上なさればよいでしょう。
ただあのあやかったという法師さえ離れたならばね」
「そんな労働などはしないでもいいがお行きなさい。あやかったお坊さんはなるべく遠方のほうへやっておいてね」
2.3.10
と、をこごとにのたまひなすをも()らず(おな)じき大臣(おとど)()こゆるなかにも、いときよげにものものしく、はなやかなるさまして、おぼろけの人見(ひとみ)えにくき()けしきをも見知(みし)らず、
と、冗談事に紛らわしておしまいになるのも気づかずに、同じ大臣と申し上げる中でも、たいそう美しく堂々として、きらびやかな感じがして、並々の人では顔を合わせにくい程立派な方とも分からずに、
滑稽(こっけい)扱いにして言っているとも令嬢は知らない。また同じ大臣といっても、きれいで、物々しい風采(ふうさい)を備えた、りっぱな中のりっぱな大臣で、だれも気おくれを感じるほどの父であることも令嬢は知らない。
2.3.11 「それでは、いつ女御殿の許に参上するといたしましょう」
「それではいつ女御さんの所へ参りましょう」
2.3.12
()こゆれば、
とお尋ね申すので、

2.3.13
よろしき()などやいふべからむ。
よし、ことことしくは(なに)かは。
(おも)はれば、今日(けふ)にても」
「吉日などと言うのが良いでしょう。
いや何、
大げさにすることはない。そのようにお思
「そう、吉日でなければならないかね。なにいいよ、そんなたいそうなふうには考えずに、行こうと思えば今日にでも」
2.3.14
とのたまひ()てて(わた)りたまひぬ。
と、お言い捨てになって、
言い捨てて大臣は出て行った。

第四段 近江君、血筋を誇りに思う

2.4.1
よき四位五位(しゐごゐ)たちの、いつききこえて、うち()じろきたまふにもいといかめしき御勢(おほんいきほ)ひなるを見送(みおく)りきこえて、
立派な四位五位たちが、うやうやしくお供申し上げて、ちょっとどこかへお出ましになるにも、たいそう堂々とした御威勢なのを、お見送り申し上げて、
四位五位の官人が多くあとに従った、権勢の強さの思われる父君を見送っていた令嬢は言う。
2.4.2
いで、あな、めでたのわが(おや)
かかりける(たね)ながら、あやしき小家(こいへ)()()でけること」
「何と、まあ、ご立派なお父様ですわ。
このような方の子供でありながら、賤しい小さい家で育ったこととは」
「ごりっぱなお父様だこと、あんな方の種なんだのに、ずいぶん小さい家で育ったものだ私は」
2.4.3
とのたまふ。
五節(ごせち)
とおっしゃる。
五節は、
五節(ごせち)は横から、
2.4.4
あまりことことしく()づかしげにぞおはする。
よろしき(おや)の、(おも)ひかしづかむにぞ、(たづ)()でられたまはまし
「あまり立派過ぎて、こちらが恥ずかしくなる方でいらっしゃいますわ。
相応な親で、大切にしてくれる方に、捜し出しされなさったならよかったのに」
「でもあまりおいばりになりすぎますわ、もっと御自分はよくなくても、ほんとうに愛してくださるようなお父様に引き取られていらっしゃればよかった」
2.4.5
()ふも、わりなし
と言うのも、無理な話である。
と言った。真理がありそうである。
2.4.6 「いつもの、あなたが、わたしの言うことをぶちこわしなさって、心外だわ。
今は、友達みたいな口をきかないでよ。
将来のある身の上なのようですから」
「まああんた、ぶちこわしを言うのね。失礼だわ。私と自分とを同じように言うようなことはよしてくださいよ。私はあなたなどとは違った者なのだから」
2.4.7
と、腹立(はらだ)ちたまふ(かほ)やう、気近(けぢか)く、愛敬(あいぎゃう)づきて、うちそぼれたるは、さる(かた)にをかしく罪許(つみゆる)されたり。
と、腹をお立てになる顔つきが、親しみがあり、かわいらしくて、ふざけたところは、それなりに美しく大目に見られた。
腹をたてて言う令嬢の顔つきに愛嬌(あいきょう)があって、ふざけたふうな姿が可憐(かれん)でないこともなかった。
2.4.8
ただ、いと(いなか)び、あやしき下人(しもびと)(なか)()()でたまへれば、もの()ふさまも()らず。
ことなるゆゑなき言葉(ことば)をも(こゑ)のどやかに()ししづめて()()だしたるは、()()耳異(みみこと)におぼえ、をかしからぬ歌語(うたがた)りをするも、(こゑ)づかひつきづきしくて、(のこ)(おも)はせ、本末惜(もとすゑを)しみたるさまにてうち()じたるは(ふか)筋思(すぢおも)()ぬほどの()()きには、をかしかなりと、(みみ)もとまるかし。
ただひどい田舎で、賤しい下人の中でお育ちになっていたので、物の言い方も知らない。
大したことのない話でも、声をゆっくりと静かな調子で言い出したのは、ふと聞く耳でも、格別に思われ、おもしろくない歌語りをするのも、声の調子がしっくりしていて、先が聞きたくなり、歌の初めと終わりとをはっきり聞こえないように口ずさむのは、深い内容までは理解しないまでもの、ちょっと聞いたところでは、おもしろそうだと、聞き耳を立てるものである。
ただきわめて下層の家で育てられた人であったから、ものの言いようを知らないのである。何でもない言葉もゆるく落ち着いて言えば聞き手はよいことのように聞くであろうし、巧妙でない歌を話に入れて言う時も、(こわ)づかいをよくして、初め終わりをよく聞けないほどにして言えば、作の善悪を批判する余裕のないその場ではおもしろいことのようにも受け取られるのである。
2.4.9
いと心深(こころふか)くよしあることを()ひゐたりともよろしき心地(ここち)あらむと()こゆべくもあらず、あはつけき(こわ)ざまにのたまひ()づる言葉(ことば)こはごはしく、言葉(ことば)たみてわがままに(ほこ)りならひたる乳母(めのと)(ふところ)にならひたるさまに、もてなしいとあやしきに、やつるるなりけり。
たとえまことに深い内容の趣向ある話をしたとしても、相当な嗜みがあるとも聞こえるはずもない、うわずった声づかいをしておっしゃる言葉はごつごつして、訛があって、気ままに威張りちらした乳母に今も馴れきっているふうに、態度がたいそう不作法なので、悪く聞こえるのであった。
強々(こわごわ)しく非音楽的な言いようをすれば()いことも悪く思われる。乳母(めのと)(ふところ)育ちのままで、何の教養も加えられてない新令嬢の真価は外観から誤られもするのである。
2.4.10
いといふかひなくはあらず三十文字(みそもじ)あまり、本末(もとすゑ)あはぬ(うた)口疾(くちと)くうち(つづ)けなどしたまふ。
まったくお話にならないというのではないが、三十一文字の、上句と下句との意味が通じない歌を、早口で続けざまに作ったりなさる。
そう頭が悪いのでもなかった。三十一字の初めと終わりの一貫してないような歌を早く作って見せるくらいの才もあるのである。

第五段 近江君の手紙

2.5.1
さて、女御殿(にょうごどの)(まゐ)れとのたまひつるを、しぶしぶなるさまならば、ものしくもこそ(おぼ)
()さりまうでむ。
大臣(おとど)(きみ)天下(てんが)(おぼ)すともこの御方々(おほんかたがた)のすげなくしたまはむには、殿(との)のうちには()てりなむはや」
「ところで、女御様に参上せよとおっしゃったのを、しぶるように見えたら、不快にお思いになるでしょう。
夜になったら参上しましょう。
大臣の君が、世界一大切に思ってくださっても、ご姉妹の方々が冷たくなさったら、お邸の中には居られましょうか」
「女御さんの所へ行けとお言いになったのだから、私がしぶしぶにして気が進まないふうに見えては感情をお害しになるだろう。私は今夜のうちに出かけることにする。大臣がいらっしゃっても女御さんなどから冷淡にされてはこの家で立って行きようがないじゃないか」
2.5.2 とおっしゃる。
ご声望のほどは、たいそう軽いことであるよ。
と令嬢は言っていた。自信のなさが気の毒である。
2.5.3
まづ御文(おほんふみ)たてまつりたまふ。
さっそくお手紙を差し上げなさる。
手紙を先に書いた。
2.5.4
葦垣(あしがき)のま(ぢか)きほどにはさぶらひながら、(いま)まで影踏(かげふ)むばかりのしるしもはべらぬは勿来(なこそ)(せき)をや()ゑさせたまへらむとなむ。
()らねども、武蔵野(むさしの)といへばかしこけれども。
あなかしこや、あなかしこや」
「お側近くにおりながら、今までお伺いする幸せを得ませんのは、来るなと関所をお設けになったのでしょうか。
お目にかかってはいませんのに、お血続きの者ですと申し上げるのは、恐れ多いことですが。
まことに失礼ながら、失礼ながら」
葦垣(あしがき)のまぢかきほどに(はべ)らひながら、今まで影踏むばかりのしるしも侍らぬは、なこその関をや()ゑさせ給ひつらんとなん。知らねども武蔵野(むさしの)といへばかしこけれど、あなかしこやかしこや。
2.5.5
と、(てん)がちにて(うら)には、
と、点ばかり多い書き方で、その裏には、
点の多い書き方で、裏にはまた、
2.5.6
まことや、(くれ)にも(まゐ)()むと(おも)うたまへ()つは、(いと)ふにはゆるにや
いでや、いでや、あやしきは水無川(みなせがは)にを」
「実は、今晩にも参上しようと存じますのは、お厭いになるとかえって思いが募るのでしょうか。
いいえ、いいえ、見苦しい字は大目に見ていただきたく」
まことや、暮れにも参りこむと思ひ給へ立つは、(いと)ふにはゆるにや侍らん。いでや、いでや、怪しきはみなせ川にを。
2.5.7
とて、また(はし)に、かくぞ、
とあって、また端の方に、このように、
と書かれ、端のほうに歌もあった。
2.5.8 「未熟者ですが、
いかがでしょうかと何とかしてお目
草若みひたちの海のいかが(さき)
いかで相見む田子の浦波
2.5.9 並一通りの思いではございません」
大川水の(みよし野の大川水のゆほびかに思ふものゆゑ(なみ)の立つらん)
2.5.10
と、(あを)色紙一重(しきしひとかさ)ねに、いと(さう)がちに、いかれる()の、その(すぢ)とも()えず、ただよひたる()きざまも下長(しもなが)わりなくゆゑばめり。
(くだり)のほど、(はし)ざまに筋交(すぢか)ひて、(たふ)れぬべく()ゆるを、うち()みつつ()て、さすがにいと(ほそ)(ちひ)さく()(むす)びて、撫子(なでしこ)(はな)につけたり。
と、青い色紙一重ねに、たいそう草仮名がちの、角張った筆跡で、誰の書風を継ぐとも分からない、ふらふらした書き方も下長で、むやみに気取っているようである。
行の具合は、端に行くほど曲がって来て、倒れそうに見えるのを、にっこりしながら見て、それでもたいそう細く小さく巻き結んで、撫子の花に付けてあった。
青い色紙一重ねに漢字がちに書かれてあった。肩がいかって、しかも漂って見えるほど力のない字、しという字を長く気どって書いてある。一行一行が曲がって倒れそうな自身の字を、満足そうに令嬢は微笑して読み返したあとで、さすがに細く小さく巻いて撫子(なでしこ)の花へつけたのであった。

第六段 女御の返事

2.6.1 樋洗童は、たいそうもの馴れた態度できれいな子で、新参者なのであった。
女御の御方の台盤所に寄って、
(かわや)係りの童女はきれいな子で、奉公なれた新参者であるが、それが使いになって、女御の台盤所(だいばんどころ)へそっと行って、
2.6.2 「これを差し上げてください」
「これを差し上げてください」
2.6.3 と言う。
下仕えが顔を知っていて、
と言って出した。下仕(しもづか)えの女が顔を知っていて、
2.6.4 「北の対に仕えている童だわ」
北の対に使われている女の子だ
2.6.5
とて、御文取(おほんふみと)()る。
大輔(たいふ)(きみ)といふ、()(まゐ)りて()()きて御覧(ごらん)ぜさす。
と言って、お手紙を受け取る。
大輔の君というのが、持参して、開いて御覧に入れる。
といって、撫子を受け取った。大輔(たゆう)という女房が女御の所へ持って出て、手紙をあけて見せた。
2.6.6
女御(にょうご)ほほ()みてうち()かせたまへるを、中納言(ちゅうなごん)(きみ)といふ、(ちか)くゐてそばそば()けり。
女御が、苦笑してお置きあそばしたのを、中納言の君という者が、お近くにいて、横目でちらちらと見た。
女御は微笑をしながら下へ置いた手紙を、中納言という女房がそばにいて少し読んだ。
2.6.7
いと(いま)めかしき御文(おほんふみ)のけしきにもはべめるかな」
「たいそうしゃれたお手紙のようでございますね」
「何でございますか、新しい書き方のお手紙のようでございますね」
2.6.8
と、ゆかしげに(おも)ひたれば、
と、見たそうにしているので、
となお見たそうに言うのを聞いて、女御は、
2.6.9
(さう)文字(もじ)見知(みし)らねばにやあらむ、本末(もとすゑ)なくも()ゆるかな」
「草仮名の文字は、読めないからかしら、歌の意味が続かないように見えます」
「漢字は見つけないせいかしら、前後が一貫してないように私などには思われる手紙よ」
2.6.10
とて、(たま)へり。
とおっしゃって、お下しになった。
と言いながら渡した。
2.6.11
(かへ)りことかくゆゑゆゑしく()かずは、()ろしとや(おも)ひおとされむ。
やがて()きたまへ」
「お返事は、このように由緒ありげに書かなかったら、なっていないと軽蔑されましょう。
そのままお書きなさい」
「返事もそんなふうにたいそうに書かないでは低級だと言って軽蔑(けいべつ)されるだろうね。それを読んだついでにあなたから書いておやりよ」
2.6.12
と、(ゆづ)りたまふ。
もて()でてこそあらね(わか)(ひと)は、ものをかしくて、(みな)うち(わら)ひぬ。
御返(おほんかへ)()へば
と、お任せになる。
そう露骨に現しはしないが、若い女房たちは、何ともおかしくて、皆笑ってしまった。
お返事を催促するので、
と女御は言うのであった。露骨に笑い声はたてないが若い女房は皆笑っていた。使いが返事を請求していると言ってきた。
2.6.13
をかしきことの(すぢ)にのみまつはれてはべめれば、()こえさせにくくこそ
宣旨書(せんじが)きめきては、いとほしからむ」
「風流な引歌ばかり使ってございますので、お返事が難しゅうございます。
代筆めいては、お気の毒でしょう」
「風流なお言葉ばかりでできているお手紙ですから、お返事はむずかしゅうございます。仰せはこうこうと書いて差し上げるのも失礼ですし」
2.6.14
とて、ただ、御文(おほんふみ)めきて()く。
と言って、まるで、
と言って、中納言は女御の手紙のようにして書いた。
2.6.15
(ちか)きしるしなきおぼつかなさは、(うら)めしく、
「お近くにいらっしゃるのにその甲斐なく、お目にかかれないのは、恨めしく存じられまして、
近きしるしなきおぼつかなさは恨めしく、
2.6.16 常陸にある駿河の海の須磨の浦に
お出かけください、
ひたちなる駿河(するが)の海の須磨(すま)の浦に
(なみ)立ちいでよ箱崎(はこざき)の松
2.6.17
()きて、()みきこゆれば、
と書いて、読んでお聞かせす申すと、
中納言が読むのを聞いて女御は、
2.6.18
あな、うたて
まことにみづからのにもこそ()ひなせ」
「まあ、困りますわ。
ほんとうにわたしが書いたのだと言ったらどうしましょう」
「そんなこと、私が言ったように人が皆思うだろうから」
2.6.19
と、かたはらいたげに(おぼ)したれど、
と、迷惑そうに思っていらっしゃったが、
と言って困ったような顔をしていると、
2.6.20 「それは聞く人がお分かりでございましょう」
「大丈夫でございますよ。聞いた人が判断いたしますよ」
2.6.21 と言って、紙に包んで使いにやった。
と中納言は言って、そのまま包んで出した。
2.6.22 御方が見て、
新令嬢はそれを見て、
2.6.23 「しゃれたお歌ですこと。
待っているとおっしゃっているわ」
「うまいお歌だこと、まつとお言いになったのだから」
2.6.24
とて、いとあまえたる薫物(たきもの)()を、(かへ)(がへ)()きしめゐたまへり。
(べに)といふもの、いと(あか)らかにかいつけて、(かみ)けづりつくろひたまへる、さる(かた)ににぎははしく、愛敬(あいぎゃう)づきたり。
御対面(おほんたいめん)のほど、さし()ぐしたることもあらむかし
と言って、たいそう甘ったるい薫物の香を、何度も何度も着物にた焚きしめていらっしゃった。
紅というものを、たいそう赤く付けて、髪を梳いて化粧なさったのは、それなりに派手で愛嬌があった。
ご対面の時、さぞ出過ぎたこともあったであろう。
と言って、甘いにおいの薫香(くんこう)を熱心に着物へ()き込んでいた。(べに)を赤々とつけて、髪をきれいになでつけた姿にはにぎやかな愛嬌(あいきょう)があった、女御との会談にどんな失態をすることか。
著作権
底本 大島本
校訂 Last updated 9/21/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
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Written in Japanese roman letters
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挿絵
(ローマ字版から)
'Eiri Genji Monogatari'
(1650 1st edition)
Last updated 8/28/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
オリジナル  修正版  比較
現代語訳 与謝野晶子
電子化 上田英代(古典総合研究所)
底本 角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
砂場清隆(青空文庫)
2003年8月31日
渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経
2008年3月22日

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