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渋谷栄一注釈
  

末摘花


 [底本]
財団法人古代学協会・古代学研究所編 角田文衛・室伏信助監修『大島本 源氏物語』第二巻 一九九六年 角川書店
 [参考文献]
池田亀鑑編著『源氏物語大成』第一巻「校異篇」一九五六年 中央公論社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『古典セレクション 源氏物語』第二巻 一九九八年 小学館
柳井 滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『新日本古典文学大系 源氏物語』第一巻 一九九三年 岩波書店
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『完訳日本の古典 源氏物語』第二巻 一九八三年 小学館
石田穣二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語』第一巻 一九七六年 新潮社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛校注・訳『日本古典文学全集 源氏物語』第一巻 一九七〇年 小学館
玉上琢弥著『源氏物語評釈』第二巻 一九六五年 角川書店
山岸徳平校注『日本古典文学大系 源氏物語』第一巻 一九五八年 岩波書店
池田亀鑑校注『日本古典全書 源氏物語』第一巻 一九四六年 朝日新聞社
伊井春樹編『源氏物語引歌索引』一九七七年 笠間書院
榎本正純篇著『源氏物語の草子地 諸注と研究』一九八二年 笠間書院
 [本文について]
 本文は、定家本系統の最善本の大島本である。当帖は、奥入を有する他に、付箋を7枚貼付し、朱筆で引き歌を書いている(藤本孝一氏は、さらに4枚分の糊付け跡を指摘)。なお、引き歌の存する箇所には朱合点を打っている所とそうではない所とがある。この形態は、定家本(尊経閣文庫蔵「柏木」帖)やその臨模本の明融臨模本と同じものである。
 [注釈]
第一章 末摘花の物語
  1. 亡き夕顔追慕---思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を
  2. 故常陸宮の姫君の噂---左衛門の乳母とて、大弐のさしつぎに思いたるが女、大輔の命婦とて
  3. 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く---のたまひしもしるく、十六夜の月をかしきほどにおはしたり
  4. 頭中将とともに左大臣邸へ行く---おのおの契れる方にも、あまえて、え行き別れたまはず
  5. 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う---秋のころほひ、静かに思しつづけて
  6. その後、訪問なく秋が過ぎる---二条院におはして、うち臥したまひても
  7. 冬の雪の激しく降る日に訪問---行幸近くなりて、試楽などののしるころぞ、命婦は参れる
  8. 翌朝、姫君の醜貌を見る---からうして明けぬるけしきなれば、格子手づから上げたまひて
  9. 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる---年も暮れぬ。内裏の宿直所におはしますに、大輔の命婦参れり
  10. 正月七日夜常陸宮邸に泊まる---朔日のほど過ぎて、今年、男踏歌あるべければ
第二章 若紫の物語
 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる---二条院におはしたれば、紫の君、いともうつくしき片生ひにて  

第一章 末摘花の物語

 [第一段 亡き夕顔追慕]
【思へどもなほ飽かざりし夕顔の露に後れし心地を】−五七五七七の和歌的リズムの地の文。『完訳』は「思へども身をし分けねば目に見えぬ心を君にたぐへてぞやる」(古今集、離別、三七三、伊香子淳行)「あかざりし袖の中にや入りにけむ我が魂のなき心地する」(古今集、雑下、九九二、陸奥)「時雨つつ梢々にうつるとも露に後れし秋な忘れそ」(朝忠集)を引歌として指摘、歌中の語句を引用して綴った文である。
【年月経れど】−夕顔の死は、昨年の源氏十七歳秋八月のこと。
【ことことしき】−『集成』『新大系』は清音に読むが、『古典セレクション』は「ことごとしき」と濁音に読む。
【こりずまに】−性懲りもなく、の意。『河海抄』は「こりずまにまたもなき名は立ちぬべし人にくからぬ世にし住まへば」(古今集、恋三、六三一 、読人しらず)を指摘、その文句を使った表現。
【いと目馴れたるや】−語り手の評言。『細流抄』が「草子地評して云也」と指摘、『全集』も「草子地。(中略)虚構された物語の語り手が、物語の内容をみずから批評する形をとった技法」と注す。
【多かりける】−大島本「おほかりける」とある。『集成』『新大系』は諸本に従って「多かりけり」と校訂するが、『古典セレクション』は底本のままとする。
【かの空蝉を】−伊予介の後妻、語り手は登場人物をこのような渾名で呼称する。「夕顔」巻でも同じ呼称がされている。
【荻の葉も】−伊予介の先妻の娘、軒端荻と呼称される人。語り手は「荻の葉」と呼称する。
【風のたより】−「荻の葉」と「風」は縁語。地の文に和歌の技法を用いて叙述する。
【火影の乱れたりしさまは】−「空蝉」巻の空蝉と軒端荻が碁をうっていた場面をさす。
 [第二段 故常陸宮の姫君の噂]
【左衛門の乳母】−源氏の乳母の一人。
【大輔の命婦】−源氏の乳母子に当たる。女性である。
【わかむどほりの兵部大輔なる女】−父親は皇族の血筋をひく兵部大輔という人の娘。
【母は筑前守の妻にて】−大輔命婦の母親である左衛門乳母は筑前守と再婚しての意。兵部大輔の生活ぶりは、あまりおもわしくなかったようである。財力のある地方官と再婚した中流の女房の実生活面をうかがわせる。
【故常陸親王の末にまうけて】−この巻の女主人公、末摘花と呼称される人の紹介。
【語りきこえ】−大輔命婦が源氏にお話し申し上げるの意。
【心ばへ容貌など】−以下「なつかしき語らひ人と思へる」まで、命婦の詞、常陸宮の姫君について語る。「琴」(きん)は七絃琴をさし、当時は弾く人がまれであった絃楽器。この物語では源氏や皇族の一部の人々が弾く楽器である。
【三つの友にて】−途中、語り手の引用句「とて」をはさんで、「あらじとなむ思ふ」まで、源氏の詞。「三の友」とは、琴・酒・詩をさす。『白氏文集』巻第六十二「北窓三友」にもとづく。
【おしなべての手には】−大島本「をしなへてのてにハ」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「おしなべての手づかひには」と校訂するが、『新大系』は底本のままとする。
【となむ思ふ】−大島本「となむおもふ」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「と思ふ」と「なむ」を削除するが、『集成』『新大系』は底本のままとする。
【とのたまへば】−大島本「との給へハ」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「と語らひたまふ」と校訂するが、『集成』『新大系』は底本のままとする。
【さやうに】−以下「あらずやはべらむ」まで、命婦の詞、源氏に姫君への気をもたせる。
【あらずやはべらむ】−大島本「あらすや侍らむ」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「はべらずやあらむ」と校訂するが、『集成』『新大系』は底本のままとする。
【と言へど】−大島本「といへと」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「と言へば」と順接に校訂するが、『集成』『新大系』は底本のまま逆接とする。
【御心とまるばかり聞こえなすを】−大島本「御心とまるはかりきこえなすを」とある。『古典セレクション』は諸本に従って削除するが、『集成』『新大系』は底本のままとする。
【いたうけしきばましや】−以下「まかでよ」まで、源氏の詞。命婦に姫君への手引を依頼する。
【このころ】−「今来・比日・今属、コノゴロ」(名義抄)。「奈良時代にはコノコロと清音。平安時代以後コノゴロ」(岩波古語辞典)。『集成』は清音で読んでいる。
【おぼろ月夜】−春の月のある夜。
【まかでよ】−わたしが常陸宮邸に行く夜は、そなたがそこに退出していてくれ、の意。
【父の大輔の君は他にぞ住みける】−父兵部大輔は新しい妻のもとに住んでいるのであった、の意。
【ここには時々ぞ通ひける】−娘の命婦はここ常陸宮邸に時々出入りしていた、の意。
【命婦は、継母のあたりは住みもつかず、姫君の御あたりをむつびて、ここには来るなりけり】−命婦は父親に従って継母のもとには住まず、こちらに来るのであったの意。以上から、『集成』は「兵部の大輔は宮家とよほど縁の深い人(末摘花の兄か)と考えられる」と解す。『完訳』は「宮家の縁者らしい。一説には宮の子、末摘花の兄とするが、未詳」と注す。
 [第三段 新春正月十六日の夜に姫君の琴を聴く]
【いとかたはらいたき】−以下「はべらざめるに」まで、命婦の詞。
【なほあなたに】−以下「ねたかるべきを」まで、源氏の詞。
【うちとけたる住み処】−常陸宮邸で命婦が私用している部屋をさす。取り散らした部屋の意。
【うしろめたうかたじけなし】−命婦の心配。源氏に対して、失礼はないか、恐れ多いという気持ち。
【寝殿に】−常陸宮の姫君は寝殿に住んでいる。身分の高貴さを窺わせる。
【梅の香をかしきを見出だして】−季節は一月下旬ころ。白梅が馥郁たる香を発している様子。
【よき折かな】−命婦の心。
【御琴の音】−以下「口惜しけれ」まで、命婦の姫君への詞。琴を弾かせようと下心のある発言。
【まさりはべらむ】−梅の香の素晴らしい夜に、琴の音色が一段と趣深く聴かれようの意。
【思ひたまへらるる】−「たまへ」(謙譲の補助動詞)「らるる」(自発の助動詞)、思わずにはいられませんの意。
【誘はれはべりてなむ】−下に「参りつる」などの意が省略。
【心あわたたし】−上に「常は」などの意が省略されている。
【聞き知る人こそ】−以下「聞くばかりやは」まで、姫君の詞。『異本紫明抄』は「琴の音を聞き知る人のありければ今ぞ立ち出でて緒をもすぐべき」(古今六帖、琴)を指摘。その和歌の言葉を引用して言ったもの。その下に中国の『列子』湯問篇の伯牙断絃の故事がある。教養あり素直で謙虚な発言である。
【やは】−以下に「あらむ」などの意が省略。
【あいなう】−他人ごとながらと心配する命婦の心。
【いかが聞きたまはむ】−主語は源氏。命婦の心中。
【何ばかり深き手ならねど】−語り手と源氏の価値判断が一体化したような表現である。
【ものの音がらの筋ことなるものなれば】−『集成』は「琴という特別格式の高い楽器の音なので」と注す。
【いといたう荒れわたりて】−以下、源氏の心をとおして叙述する。
【さばかりの人】−常陸宮をさす。
【ものや言ひ寄らまし】−源氏の心。
【うちつけにや思さむ】−源氏の心。主語は姫君。
【いたう耳ならさせたてまつらじ】−命婦の心。
【曇りがちに】−以下「参りなむ」まで、命婦の姫君への詞。曇ってきては琴の音色も冴えないと言って、琴を弾くのをやめさせようとする。
【客人の来むとはべりつる】−自分の所に客人が来ることになっていましたの意。
【いとひ顔にもこそ】−「も」「こそ」は危惧の念を表す。自分の部屋に居なくては嫌っているように思われるの意。
【御格子参りなむ】−御格子を下ろしましょうの意。
【なかなかなるほどにて】−以下「ねたう」まで、源氏の詞。「ねたう」は連用中止法。余情を残した物の言い方。
【同じくは】−以下「立ち聞きせさせよ」まで、源氏の詞。さらに身近で聴かせよという要請。
【心にくくて】−命婦の心。源氏がもっと聴きたいと思う所でという意。
【いでや】−以下「うしろめたきさまにや」まで、命婦の詞。
【げにさもあること】−以下「際とこそあれ」まで、源氏の心中文。
【うちとけて語らふべき人の際は際とこそあれ】−すぐに互いに親しくなる身分とは別であるとする考え。皇族出身どうしの気位高い身分意識が窺える。
【なほ】−以下「ほのめかせ」まで、源氏の命婦への詞。
【また契りたまへる方やあらむ】−他に約束している女がいるのだろうか、という語り手の挿入句。源氏のそわそわした態度をいうのであろう。
【主上の】−以下「御覧じつけむ」まで、命婦の詞。帝を「主上」と呼称する。源氏への軽い揶揄を含む。
【異人の】−以下「苦しからむ」まで、源氏の詞。
【女のありさま】−『完訳』は「「女」は、暗に命婦をさす」と注す。源氏の皮肉な揶揄。
【あまり色めいたり】−以下「恥づかし」まで、命婦の心中。「あまり色めいたり」とは命婦自身の態度をさす。
【人のけはひ聞くやうもや】−源氏の心。「人」は常陸宮の姫君をさす。
【誰れならむ】−以下「ありけり」まで、源氏の心中。
【頭中将なりけり】−語り手の読者への説明。源氏はこの時まだ誰とも分かっていない。『評釈』は「「頭中将なりけり」という判断は、作者が読者に明したもので、源氏自身は、頭中将に話しかけられるまで、それと気づかなかったのである」と注す。以下「下待つなりけり」まで、「なりけり」の叙述で、当日の頭中将の行動を説明する文章が続く。
【いづちならむ】−頭中将の心。源氏はいったいどこの女のもとへ行くのだろうの意。
【あやしき馬に】−以下、頭中将の姿。
【え知りたまはぬに】−源氏は着替えて身なりをやつしている頭中将を彼と見抜けないでいる。
【異方に入りたまひぬれば】−頭中将は源氏が姫君のいる寝殿に入らず女房の部屋に入って行ったことを不審に思う。『新大系』「意外な所。源氏の入った末摘花邸をさす」と注す。
【歩みたまふに】−大島本「あゆミ給ふに」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「歩みのきたまふに」と「のき」を補入するが、『新大系』は底本のままとする。
【ふと寄りて】−主語は頭中将。
【ふり捨てさせたまへる】−以下「いさよひの月」まで、頭中将の詞と和歌。
【もろともに大内山は出でつれど--入る方見せぬいさよひの月】−頭中将の贈歌。「大内山」は内裏の意。「山」「月」「入る」は縁語。行く方を晦ました源氏を月に喩えて恨んだ歌。
【ねたけれど】−源氏の気持ち。
【この君】−頭中将をさす。
【見たまふ】−大島本「見給ふ」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「見たまふに」と「に」を補入するが、『新大系』は底本のままとする。
【人の思ひよらぬことよ】−源氏の詞。
【里わかぬかげをば見れどゆく月の--いるさの山を誰れか尋ぬる】−源氏の返歌。贈歌の「入る」「月」の語句を用いて返す。「里」は頭中将の「大内山」(宮中)に対して用いた。「かげ」は月の光の意。自分を月に、山を女の家に喩える。「里わかぬかげ」とはどの女性にも遍く情をかける自分だというユーモアをまじえたのろけを見せる。「いるさ」は「入るさ(時)」と「入佐」の掛詞。また「入佐の山」は但馬国の歌枕。女の家まで後を付ける者がいるかと難じた歌。
【かう慕ひありかばいかにせさせたまはむ】−頭中将の詞。
【まことは】−以下「出で来なむ」まで、頭中将の詞。
【随身】−宰相中将である源氏は規定により朝廷から四人の随身を賜っている。
【あるべけれ】−『集成』『新大系』は句点。『完訳』は読点で、逆接の意で文を続ける。
【出で来なむ」--と、】−大島本「いてきなと」とある。諸本「いてきなむと」とある。『集成』『古典セレクション』は「出で来なむと」と「む」を補訂する。『新大系』も「ん」を補入する。「ん」の無表記化による脱字と判断する。
【かうのみ見つけらるるを】−いつもこのようにばかり見つけられてしまうのをの意。源氏と頭中将のこれまでを窺わせる表現。『完訳』は「源氏の忍び歩きが頭中将に発見される話はこれまで語られていない。この物語の語り口の一つ」と注す。
【かの撫子は】−夕顔の遺児をさす。「帚木」巻で頭中将がこう呼称していた。
 [第四段 頭中将とともに左大臣邸へ行く]
【内にも】−葵の上のいる御簾の内側をさす。
【中務の君】−葵の上づきの女房。琵琶を上手に弾くと紹介されるが、その女房名といい、この物語で他に琵琶を弾く女性として明石御方がいるが、その本来の血筋のよさを思わせる。
【頭の君】−地の文中、頭中将をさしてこう呼称する。
【このたまさかなる御けしき】−源氏の愛情をさす。
【え背ききこえぬに】−源氏の愛情を拒み切れないでいると紹介されるが、いわゆるお手つきの女房。召人(情交関係のある女房)と呼ばれる女房である。
【大宮】−左大臣の北の方、葵の上の母親。桐壷帝の妹三の君なので、大宮と呼称される。
【見たてまつらぬ所に】−中務の君が源氏にお目にかかれない所の意。
【かけ離れなむも】−左大臣邸から暇を出されることをいう。
【ありつる琴の音を】−常陸宮邸の姫君が弾いていた七絃琴の音色。
【あらましごとに】−以下「さま悪しからむ」まで、頭中将の心中。「あらましごとに」について、『完訳』は「「思ひけり」にかかる。まさかそんなこともあるまいが、とする語り手の気持」と注す。
【この君】−源氏をさす。
【まさにさては過ぐしたまひてむや】−頭中将の心中。「て」(完了の助動詞、強調)「む」(推量の助動詞)「や」(係助詞、反語)。とてもあのままでお済ましになられようか、そんなことはないの意。
【その後こなたかなたより文などやりたまふべし】−『細流抄』は「草子地也」と注す。「こなた」は源氏方、「かなた」は頭中将方をさす。
【あまりうたてもあるかな】−以下「悪びたり」まで、頭中将の心中。『集成』は「源氏と頭の中将の心中」と注す。二人の共通した心境だが、「と中将はまして」とあるので、頭中将の心中に重点がある。
【まいて】−頭中将は源氏以上にの意。
【しかしかの】−以下「なくて止みにしか」まで、頭中将の詞。「しかしか」は『集成』は「作者が省略した形で言ったもの」と解し、『完訳』は「語り手の、ぼかした表現」と解す。語り手の間接話法的言い方がまじっている。なお、『集成』『新大系』は清音、『古典セレクション』は「しかじか」と濁音に読む。江戸時代以後、濁音化したとされる。
【さればよ、言ひ寄りにけるをや】−源氏の心中。
【いさ】−以下「見るともなし」まで、源氏の返事。
【君は】−源氏をさす。
【この中将】−頭中将をさす。
【言多く言ひなれたらむ方】−以下「憂はしかるべけれ」まで、源氏の心中。「言多く言ひなれたらむ方」は頭中将をさす。『集成』は「女は言葉数の多い、恋文を書き馴れている方になびくであろう」と注す。
【もとのこと】−自分が最初に懸想したことをさす。『完訳』は「もともと、源氏が、頭中将よりも先に姫君に懸想しはじめたこと」と注す。
【おぼつかなく、もて離れたる御けしきなむ、いと心憂き】−大島本「おほつかなく」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「おぼつかなう」とウ音便形に改める。『新大系』は底本のまま。以下「らうたかるべきを」まで、源氏の詞。
『集成』は「(私の気持をどう思っているのか)さっぱり事情が分からず、(私の文にも)見向きもなさらぬご様子が、とても情けない。末摘花から反応のないことをいう」と注す。
【さりとも】−大島本「さりと」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「さりとも」と「も」を補訂する『新大系』も「も」を補う。底本「も」の脱字と判断する。
【人の心の】−以下「なりぬべき」まで、『完訳』は「相手のほうでいつまでもわたしを信じようという気持がないと、結局不本意なことにばかりなる、それでしぜんこちらの落度ということにもなってしまうのだろう」と訳す。
【いでや】−以下「人になむ」まで、命婦の返事。
【御笠宿り】−源氏の立ち寄り所という意を優雅に言ったもの。催馬楽「妹が門」の「妹が門夫が門行き過ぎかねてや我が行かば肱笠の肱笠の雨もや降らなむしでたをさ雨やどり笠やどり宿りてまからむしでたをさ」の歌句。
【らうらうじう】−以下「あるべけれ」まで、源氏の心。
【瘧病みにわづらひたまひ人知れぬもの思ひの紛れも御心のいとまなきやうにて春夏過ぎぬ】−「若紫」巻冒頭の三月晦日の源氏の北山行きや夏の短夜の藤壷との密通事件などをさす。この巻は「夕顔」巻の夕顔の死(秋八月)の後、「若紫」と同年の春正月から始まる物語である。
 [第五段 秋八月二十日過ぎ常陸宮の姫君と逢う]
【かの砧の音】−「夕顔」巻の夕顔の宿に泊まって聞いた砧の音。
【いかなるやうぞ】−以下「まだ知らね」まで、源氏の詞。
【もて離れて】−以下「見たまふる」まで、命婦の返事。
【それこそは】−以下「よもあらじ」まで、源氏の詞。
【ことわりなれ】−大島本「事ハりなれ」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「さやうにかかやかしきもことわりなれ」と補訂する。『新大系』は底本のままとする。
【いとうたて心得ぬ】−大島本「いとうたて心えぬ」とある。『古典セレクション』は諸本に従って「いとおぼつかなう心得ぬ」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【御許しなくとも】−大島本「御ゆるしなう(う$く)とも」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御ゆるしなうとも」とウ音便形にする。『新大系』は底本のミセケチ訂正に従う。
【心苛られし】−『完訳』は「「心いられ」の主語は命婦、「もてなし」の主語は源氏。この動作主体を逆にとる説などもある」と注す。いずれも源氏ともとれる。
【うたてあるもてなしにはよもあらじ】−主語は源氏、自分自身。相手が嫌がるような振る舞いは決してしないの意。
【なほ世にある人の】−以下、源氏の性癖について語り、時間は末摘花を知るようになる以前に遡って語られる。萩原広道『源氏物語評釈』は「命婦が媒をうけがへる心と末摘花の返事し給はぬ故とを草子地に説あらはしたる文の法也」と注す。
【宵居など】−大島本「よひゐなとに(に$<朱墨>)」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「宵居などに」と「に」を補訂する。『新大系』は底本のミセケチ訂正に従う。
【さる人こそと】−故常陸宮の姫君をさす。
【なまわづらはしく】−以下「いとほしき事や見えむ」まで、命婦の心中。
【見えむなむと】−大島本「みえむなむと」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「見えむなど」と「む」を削除する。『新大系』は底本のままとする。
【聞き入れざらむも】−以下「跡絶えたるに」まで、再び命婦の心中が続く。しかし、それを受ける引用句はない。しかし『完訳』は「命婦の心に即した語り手の感想」と解す。
【まして今は】−『首書源氏物語』所引「或抄」は「命婦か心より物語の地にうつる也」と指摘し、以下、地の文と解す。
【かく世にめづらしき御けはひの】−源氏をさす。
【なほ聞こえたまへ】−女房の末摘花への詞。
【あさましう】−語り手の感情移入された表現。
【さらば】−以下「人なし」まで、命婦の心中。
【父君にもかかる事なども言はざりけり】−『集成』は「命婦の父、兵部の大輔。この書き方から、兵部の大輔は末摘花の兄かとも考えられる」と注す。
【八月二十余日】−季節は、中秋八月の下旬となる。
【待たるる月の心もとなきに】−『源氏釈』は「下にのみ恋ふれば苦し山の端に出で来る月のあらはればいかに」(古今六帖第一、雑の月)、第四句「またるる月の」とある和歌を引歌として指摘する。
【いにしへの事語り出でてうち泣きなどしたまふ】−主語は末摘花。
【いとよき折かな】−命婦の心。
【御消息や聞こえつらむ】−語り手の挿入句。命婦が源氏にご案内を差し上げたのだろうかの意。
【琴】−大島本「きむ」と仮名表記。七絃琴をさす。
【そそのかされて】−「れ」(受身の助動詞)。末摘花が命婦から琴を勧められての意。
【けしうはあらず】−源氏と語り手の感想が一体化した表現。『完訳』は「源氏の感想」と解す。
【すこしけ近う】−以下「気をつけばや」まで、命婦の感想。『完訳』は「以下、命婦の評」と注す。
【命婦を呼ばせたまふ】−「せ」(使役の助動詞)。源氏が取次の女房をして命婦を呼ばせなさる意。
【いとかたはらいたきわざかな】−以下「聞こしめせ」まで、命婦の詞。
【しかしかこそ】−命婦が姫君に説明した内容、実際には詳しく説明したのだが、語り手が省略して「しかしか」と言ったもの。『古典セレクション』は「しかじか」と濁音で読む。「江戸時代以後シカジカと濁音化した」(岩波古語辞典)。
【心にかなはぬ】−命婦の一存ではいかないの意。
【いなびきこえはべれば】−命婦が源氏にお断り申し上げておりますとの意。
【みづからことわりも聞こえ知らせむ】−源氏の詞を引用。
【聞こえたまはむこと聞こしめせ】−源氏が末摘花に申し上げなさるところをお聞き入れあそばしませの意。
【人にもの聞こえむやうも知らぬを】−末摘花の詞。
【いとうひうひしげなり】−語り手の末摘花に対するうぶだという評言。『集成』は「いかにもぎこちない」と解す。
【うち笑ひて】−主語は命婦。
【いと若々しう】−以下「つきなうこそ」まで、命婦の詞。「若々し」は幼稚、心幼い、等の意。
【世を尽きせず思し憚る】−「世」は男女の仲をさす。「尽きせず思し憚る」とはどこまでも引っ込み思案に振る舞うこと。
【答へきこえで】−以下「ありなむ」まで、末摘花の詞。
【格子など鎖してはありなむ】−「な」(完了の助動詞、確述)「む」(推量の助動詞)、閉めてならいいでしょうの意。末摘花は源氏を格子の向こう側、すなわち、簀子に迎えようと言う。
【簀子などは】−以下「などはよも」まで、命婦の詞。簀子では失礼である、庇の間に迎え入れるべきことを言う。
【いとつつましげに思したれど】−主語は末摘花。
【乳母だつ老い人】−『完訳』は「乳母の代りのような老女。身辺を世話し教育する乳母はいない」と注す。
【若き人二三人】−若い女房である。
【世にめでられたまふ御ありさま】−源氏をさす。
【何の心げさうもなくておはす】−先に若い女房が「心げさうしあへり」とあり、当のご本人は「何の心げさうもなく」というように対照的に語られる。
【男は】−源氏をさす。恋の場面になって、「男」と呼称される。『集成』は「男女対座の場面ではしばしばこう呼ぶ」と注す。
【見知らむ人に】−以下「いとほし」まで、命婦の心中。
【あないとほし】−源氏への同情。
【うしろやすう】−以下「見えたてまつりたまはじ」まで、命婦の心中。
【わが常に】−以下「出でこむ」まで、命婦の心中。
【されくつがへる】−以下「奥ゆかしう」まで、源氏の心中。
【奥ゆかしうと思さるるにいたう】−『古典セレクション』は諸本に従って「奥ゆかし思しわたるにとかう」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする
【さればよ】−源氏の心。
【わりなのわざや】−『集成』は括弧で括り、「弱りましたね」と詞に解す。『完訳』等は地の文にする。
【いくそたび君がしじまにまけぬらむ--ものな言ひそと言はぬ頼みに】−源氏の姫君への贈歌。「しじま」は法華八講の論議の折、鐘を合図に沈黙することを「しじま」と言ったことにもとづく語。
【のたまひも捨ててよかし】−以下「苦し」まで、歌に添えた詞。「のたまひ」「捨て」は、嫌だとおっしゃるの意。
【玉だすき苦し】−『源氏釈』は「ことならば思はずとやはいひ果てむなぞ世の中の玉だすきなる」(古今集、俳諧、一〇三七、読人しらず)を指摘。はっきりおっしゃってくださらなくてはつらいの意。
【いと心もとなうかたはらいたし】−侍従の心中。
【鐘つきてとぢめむことはさすがにて--答へまうきぞかつはあやなき】−侍従の代作した返歌。「鐘つきて」とは、源氏が「しじま」と詠み贈ったことに対する連想から。
【ほどよりはあまえて】−姫君のご身分の割には馴れ馴れしいの意。
【めづらしきが】−以下「わざかな」まで、源氏の詞。横山本、池田本、三条西家本は「めつらしきに」とある。肖柏本、書陵部本は大島本と同文。河内本は大島本と同文。別本の御物本は「めつらしき」、陽明文庫本は横山本等と同文である。『集成』は「めづらしきに」を採り、「はじめてのお返事なので」と解し、『完訳』は「めづらしきが」を採り、「この珍しいご返事は」と主格に解す。「に」の連用修飾が文意は通りやすいが、「が」の主格でも解せないことはない。『集成』『新大系』は「めづらしきに」までを地の文とし、「なかなか」以下を源氏の詞と解す。『完訳』は「めづらしきが」以下を「源氏の心に即した語り手の言葉」と解す。
【言はぬをも言ふにまさると知りながら--おしこめたるは苦しかりけり】−源氏の返歌。『源氏物語古注』は「心には下行く水の湧き返り言はで思ふぞ言ふにまされる」(古今六帖五)を指摘。
【いとかかるも】−以下「人にや」まで、源氏の心中。
【思ふ方ことにものしたまふ人にや】−『集成』は「世間の女とは違った考えの(男のことなど問題にしない)人かと」の意に解す。『完訳』は「気持が他の男にある意。一説には、考えることが普通とは異なる」の意に解す。二者択一というより両義性をもった表現。
【押し開けて入りたまひにけり】−前に「二間の際なる障子手づからいと強く鎖して」とあったのと矛盾するようであるが、必ずしも施錠したわけではなかったと考えられる。
【あなうたてたゆめたまへる】−命婦の心。源氏が今まで油断させていらっしゃったの意。
【いとほしければ知らず顔にて】−命婦は、姫君に対して同情しながらも知らぬ顔をして、その場を逃げる。
【さる御心もなきをぞ】−姫君のお心構えのないのをいう。
【今は】−以下「かしづかれたる」まで、源氏の心中。
【まだ世馴れぬ人】−『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「まだ世馴れぬ人の」と「の」を補入する。『新大系』は底本のままとする。
【御さまなり】−姫君のご様子である。
【何ごとにつけてかは御心のとまらむ】−語り手の挿入句。「かは」は反語の意を表す。姫君のどのようなところに、源氏のお心が惹かれましょうか、何もないの意。『集成』は「語り手の感想」と注す。『完訳』は「源氏の心に即した語り手の推測」と注す。「御心」は源氏の気持ち。
【うちうめかれて】−主語は源氏。『完訳』は「これまでの大きな期待が萎えて、ついため息がでる」と注す。大きな落胆失望の気持ち。
【夜深う出でたまひぬ】−「夜深く」帰るのは異例なこと。気持ちが十分進まなかった証拠である。
【知り顔ならじ】−命婦の心。『完訳』は「ここは源氏の失望を察し、ばつが悪くて、そら寝している」意と解す。
【御送りに】−姫君の側近の女房は男君の帰りの際には他の女房たちに声をかけるもの。しかし、命婦は実際にはそれを口に出して言わない。
 [第六段 その後、訪問なく秋が過ぎる]
【二条院におはして】−場面は二条院に変わる。
【なほ思ふにかなひがたき世にこそ】−源氏の心。『集成』は「末摘花に夕顔の面影を求めたが失敗だったと」の意と注す。『完訳』は「姫君の身分の高さから、その関係をすぐに絶つのを不憫に思う」と注す。
【軽らかならぬ人】−末摘花をさす。故常陸宮の姫君という身分である。
【こよなき】−以下「思ひたまへらるれ」まで、頭中将の源氏へのからかいを交えた詞。
【心やすき】−以下「内裏よりか」まで、源氏の詞。
【しか】−以下「参りぬべうはべり」まで、頭中将の返事。
【朱雀院の行幸】−桐壷帝の朱雀院への行幸。「若紫」巻に「神無月に朱雀院の行幸あるべし」とあったのと同じ行幸をさす。行幸は「ぎやうがう」と濁音で読む。
【今日なむ楽人舞人定めらるべきよし】−大島本「かく人」に「ヒト」と振り仮名がある。「若紫」巻に「舞人など、やむごとなき家の子ども、上達部、殿上人どもなども、そのかたにつきづきしきは、みな選らせたまへれば」とあったのと重なる記事である。
【さらばもろともに】−源氏の詞。一緒に宮中へ行こう、の意
【客人】−頭中将をさす。「まらうと」と清音で読む。
【引き続けたれど一つにたてまつりて】−車をさす。車を二台連ねて引かせているが、一台に相乗りした。
【なほいとねぶたげなり】−頭中将の源氏をからかった詞。
【隠いたまふこと多かり】−頭中将の恨み詞。
【かしこには】−末摘花邸をさす。
【文をだに】−後朝の文をさす。「だに」(副助詞)によって、せめて手紙だけでも、という源氏の末摘花に気乗りしない気持ちが表されている。
【夕つ方ぞありける】−後朝の文としては遅過ぎる時刻。夕方に手紙があるということは、その夜は行けないので、手紙で済ますというわけである。新婚三日間は毎夜通い続けるのが当時の習俗、源氏はそれを第一夜限りでやめた。
【笠宿りせむと】−『源氏釈』は「婦が門夫が門行き過ぎかねてや我が行かば肱笠の肱笠の雨もや降らなむ郭公雨やどり笠やどり舎りてまからむ郭公」(催馬楽「婦が門」)を指摘する。前に命婦が「いでや、さやうにをかしき方の御笠宿りには、えしもや」と言ったのと呼応させた表現。
【はた思されずやありけむ】−語り手の感情移入をこめた挿入句。『孟津抄』は「草子地也」と指摘。
【咎とも】−『集成』『新大系』は「作法に外れているとも」の意に解し、『完訳』は「気になさる」という意に解す。
【夕霧の晴るるけしきもまだ見ぬに--いぶせさそふる宵の雨かな】−源氏の贈歌。「夕霧の晴るる気色」は末摘花の気持ちを喩える。
【雲間】−以下「心もとなう」まで、和歌に添えた文。相手が心を開くのを待つもどかしさ。
【なほ聞こえさせたまへ】−女房たちの詞。やはりお返事をなさいませ、の意。
【いとど思ひ乱れたまへるほど】−主語は末摘花。
【夜更けぬ】−女房の催促の詞。「ぬ」(完了の助動詞、確述)、夜が更けてしまいそうですの意。
【侍従ぞ例の教へきこゆる】−侍従がいつものとおり姫君に返歌を教え申し上げるの意だが、この場合は、歌の文句だけを教えて、紙の選び方や筆法までは関知しなかったようである。
【晴れぬ夜の月待つ里を思ひやれ--同じ心に眺めせずとも】−末摘花の返歌。源氏の「晴るる」を踏まえて「晴れぬ夜の」と詠み返す。「月」は源氏を譬え、「里」は自分を喩える。「ながめ」は「眺め」と「長雨」の掛詞。贈答歌の作法にかなった技巧的な和歌である。
【灰おくれ】−紫の紙は灰を交ぜて作るので、古くなった紙面に灰が残っている状態をいう。
【文字強う中さだの筋にて上下等しく】−一時代前の書法で、文字は強くしっかりと、紙の天地を等しく揃えて改行して書いた書法。
【見るかひなううち置きたまふ】−場面は一転して、源氏の居所。主語は源氏。
【いかに思ふらむ】−源氏の心。今夜行かないことを姫君はどうお思いであろうかの意。
【思ひやるも安からず】−主語は源氏。
【かかることを】−以下「見果ててむ」まで、源氏の心。
【いかがはせむ】−反語表現。どうしよう、どうすることもできないの意。
【さりとも】−『集成』は「何があっても」の意と解し、『完訳』は「そう考えてみたところで」の意と解す。
【見果ててむ】−末摘花を生涯お世話しよう、結婚関係を続けよう、の意。
【と思しなす御心を知らねば】−主語は末摘花に切り替わる。源氏の「--なす」という気持ちを末摘花は知らない。
【引かれたてまつりて】−「たてまつり」(謙譲の補助動詞)、源氏が左大臣に敬意を表した表現。
【耳かしかましくて】−『集成』『新大系』は清音に読む。『古典セレクション』は「耳かしがましくて」と濁音に読んでいる。「カシカマシイ(和英語林集成)」(岩波古語辞典)。
【盗まはれたまへれ】−大島本「ぬすまはれ給へ(へ+れ)」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「盗まはれたまへ」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。
【かのわたり】−末摘花邸をさす。
【秋暮れ果てぬ】−晩秋の九月もすっかり終わる。
【頼み来しかひなくて過ぎゆく】−末摘花邸では源氏の来訪の期待もむなしく月日が過ぎて行くの意。
 [第七段 冬の雪の激しく降る日に訪問]
【ありさま聞こえて】−主語は命婦。
【いとかう】−以下「心苦しく」まで、命婦の詞。「見たまふる」(下二段、謙譲の補助動詞)の主語は命婦。
【心にくくもてなして】−以下「思ふらむ」まで、源氏が命婦の考えを忖度した文。しかしそれを受ける引用句はなく地の文に続く。「止みなむと」の主語は命婦。命婦が源氏に末摘花を奥ゆかしいと思わせた程度のところでやめにしたいと考えていたの意。
【くたいてける】−「くたいて」は「腐して」の音便形、清音。台無しにするの意。読点で切り、目的格となって、下文に続く。
【この人】−命婦をさす。
【いとまなきほどぞや。わりなし】−源氏の詞。『集成』は「忙しい時なのだ。弱るね」のニュアンスに解し、『完訳』は「忙しくて暇な時がないのでね。困ったな」のニュアンスに解す。
【もの思ひ知らぬ】−以下「思ふぞかし」まで、源氏の冗談を交えた詞。「物思ひ」について『集成』は「恋の道」と注し、『完訳』は「人の情け」と訳す。
【我も】−命婦をさす。
【わりなの】−以下「ことわり」まで、命婦の心中。
【人に】−女性にの意。
【恨みられたまふ】−主語は源氏。「られ」(受身の助動詞)「たまふ」(尊敬の補助動詞)、女性から恨まれなさるの意。
【かの紫のゆかり】−「若紫」巻の紫の君をさす。「紫のゆかり」という呼称は藤壺の縁者という意である。
【尋ねとりたまひて】−『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「尋ねとりたまひては」と「は」を補訂する。『新大系』は底本のまま。
【六条わたりにだに】−「夕顔」巻の六条辺りの御方をさす。
【わりなかりけると】−『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「わりなかりける」と「と」を削除する。『新大系』は底本のまま。
【見まさりするやうも】−以下「見てしがな」まで、源氏の心。
【格子のはさまより見たまひけり】−以下、源氏の目を通して語る。
【みづから】−姫君をさす。
【心もとなくて】−見えなくての意。
【御台秘色】−御台はお膳、秘色の食器とは青磁の器をいう。
【何のくさはひもなく】−これといった料理の品数がない意。
【まかでて人びと食ふ】−女房たちが姫君の側から下がって食べている。
【かたくなしげなり】−『集成』は「いかにも旧弊である」の意に解す。『完訳』は「物語制作時代には日常生活で裳や褶を着用しないのが一般的。「かたくなしげ」は、そうした古風を頑固に守っている不体裁をいう」と注す。
【さすがに】−いかにみすぼらしいとはいっても宮家らしくのニュアンス。
【櫛おし垂れて挿したる額つき】−櫛押し垂れて。櫛をずり落ちそうに挿している恰好をいう。これも古式を守っている宮家の風習。しかし時代遅れの不体裁な様子。
【かかる者ども】−『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「かかる者どもの」と「の」を補訂する。『新大系』は底本のまま。
【あるはやとをかし】−「はや」は、源氏の感動。地の文がいつの間にか源氏の心内文に変わって文が結ばれる。
【あはれさも寒き年かな】−以下「世にもあふものなりけり」まで、女房の詞。「夕顔」巻に夕顔の宿の隣の卑しい男たちが「あはれ、いと寒しや」「今年こそ、なりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」(第四章二段)と言っていたのが想起される。冬季の寒さだけでない、貧しい生活の様子。
【命長ければ】−長生きをすると辛い思いをすることが多い。『荘子』の「寿ければ則ち辱多し」が古来指摘されている。
【故宮おはしましし世を】−以下「すくる物なりけり」(5行)まで、女房の詞。
【飛び立ちぬべくふるふもあり】−『河海抄』は「世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(万葉集、貧窮問答歌、山上憶良)を指摘。
【そそや】−女房の詞。注意を促す言葉。それそれ、殿のお来しですよの意。
【斎院】−系図不明の人。
【見ならはぬ心地ぞする】−主語は源氏。
【愁ふなりつる雪】−「なり」(伝聞推定の助動詞)「つる」(完了の助動詞)、前の「あはれさも寒き年かな」と言っていた女房たちの詞をうける。『完訳』は「以下、屋内外の暗くわびしい心象風景に転ずる」と注す。闇、雪、風などが描かれる。
【ものに襲はれし折】−「夕顔」巻の某院での夕顔がもののけにとり殺された怪事件をさす。
【荒れたるさまは】−以下「人気のすこしある」まで、源氏の心内文とも地の文とも解せるような文章が続く。
【劣らざめるを】−「める」(推量の助動詞、視界内推量)、源氏の体験にもとづく推量。源氏と語り手の判断が一体化した表現。劣らないようなのをの意。
【いと埋れすくよかにて何の栄えなきを】−『集成』は「ただもう殻を閉ざすばかりで、愛嬌がなく、何の張合いもないのを」の意に解し、『完訳』は「ただ引込み思案で風流気がなく、まるでぱっとしないのを」の意に解す。
 [第八段 翌朝、姫君の醜貌を見る]
【からうして】−『古典セレクション』は「からうじて」と濁音で読む。『集成』『新大系』は清音に読む。「カラウシテ(日葡辞書)」「古くはカラウシテと清音か」(岩波古語辞典)。
【格子手づから上げたまひて】−主語は源氏。上半分の蔀格子だから、「上げたまひて」と濁音で読む。
【踏みあけたる跡もなく】−常陸宮邸では出入りの貴族や下人などがいない。それゆえに雪も踏みしめられたり片付けられていない様子。「若紫」巻に紫の上が二条院に迎え取られて初めて目にした朝の様子が「立ち出でて、庭の木立、池の方など覗きたまへば、霜枯れの前栽、絵に描けるやうにおもしろくて、見も知らぬ四位、五位こきまぜに、隙なう出で入りつつ」(第三章三段)とあった。両邸の相違が顕著である。
【ふり出でて行かむことも】−「ふり」に「降り」を掛ける。「降り」は「雪」の縁語。後朝の別れの場面。
【をかしきほどの】−以下「わりなけれ」まで、源氏の詞。
【尽きせぬ御心の隔てこそ、わりなけれ】−「尽きせぬ隔て」は「いつまでもうちとけない心、態度」。「わりなけれ」は「困る、わけが分からない」の意。
【いとどきよらに若う見えたまふ】−主語は源氏。
【はや出でさせたまへ】−以下「心うつくしきこそ」まで、女房の詞。素直なのがなによりだと姫君の行動を促す。
【さすがに人の聞こゆることをえいなびたまはぬ御心】−末摘花の性質。前にも「さすがに人の言ふことは強うもいなびぬ御心にて」(第五段)とあった。
【見ぬやうにて】−主語は源氏。
【うちとけまさりのいささかもあらば】−馴れ親しんで見たときに少しでも良い点があったらの意。
【あながちなる御心なりや】−語り手の源氏の身勝手な態度に対する批評。『岷江入楚』所引三光院実枝説に「草子地也」とある。
【まづ居丈の】−以下、源氏の目を通して語る末摘花の容姿。「ゐだけ」(居丈)と濁音で読む。
【さればよ】−やはりそうであったか、と合点した気持ち。前に、最初の夜のその折に「心得ずなまいとほしとおぼゆる御さまなり」、またそれを回想した折に「手さぐりのたどたどしきに怪しう心得ぬこともあるにや」とあった文と呼応する。暗闇なかで手で触れた時に異様に感じていた。
【普賢菩薩の乗物】−「普賢菩薩---白象に乗る---象の鼻華有り、其の茎譬へば赤真珠色の如し」(観普賢菩薩行法経)。
【肩のほどなどは】−『古典セレクション』は諸本に従って「肩のほどなど」と「は」を削除する。『集成』『新大系』は底本のまま。
【何に残りなう見あらはしつらむ】−源氏の心。後悔の気持ち。
【見やられたまふ】−「られ」(自発の助動詞)、ついつい目が行っておしまいになる。
【頭つき髪のかかりはしも】−頭の格好(絵巻で見るような後から見た折の小さい三角形の形)と髪の長く豊かなことが末摘花の唯一の美点。「しも」(副助詞)は強調のニュアンスを添える。
【めでたしと思ひきこゆる人びと】−主語は源氏。源氏が関係した女性たち中で。
【着たまへるものどもを】−以下「まづ言ひためれ」まで、語り手の挿入文。『休聞抄』は「紫式部かきつる心也」と指摘。『評釈』は「紫式部は、昔物語と違った方法で物語を書きたいと思っていた(中略)しかし、ここでは、断わり書をしてまでもどうしても書かざるを得なかった。それほどに姫君の衣装は世間離れしたものであった」と注す。
【もの言ひさがなきやうなれど】−『完訳』は「口が悪すぎるとして、読者の反発を封じこめる語り口」と注す。
【聴し色】−薄紅色。「禁色」の対。「禁色」は天皇・皇族に限られる濃い紫や紅色。「聴し色」はそれらの薄い色。
【黒貂の皮衣】−黒貂の毛皮で作った衣服。.渤海国などからもたらされた舶来品。高貴な男性用物。一条朝には古風となる。
【げに】−以下「寒からまし」まで、源氏の感想。
【はた寒からまし】−「はた」(副詞)、「まし」(反実仮想の助動詞)。さぞ、寒いであろうの意。
【何ごとも言はれたまはず】−主語は源氏。「れ」(可能の助動詞)、源氏は何ともおっしゃることができずの意。あまりの気の毒さに言葉を失った。
【我さへ】−源氏をさす。「さへ」(副助詞)は、末摘花のみならず、自分までがのニュアンスを添える。
【例のしじまも心みむ】−「しじま」は源氏の「いくそたび」歌にもとづく言葉。沈黙の口を開かせようの意。
【儀式官の練り出でたる臂もちおぼえて】−末摘花の姿が朝廷の儀式を司る太政官の役人が儀式の際に笏を持って肘を張っている様子に似ていることを思う。
【さすがにうち笑みたまへるけしき】−末摘花の表情をいう。
【はしたなうすずろびたり】−『集成』は「ちぐはぐで板についていない」意に解し、『完訳』は「取って付けたようで、どうにも落ち着かない感じである」の意に解す。
【いとど急ぎ出でたまふ】−前回の訪問の夜(「夜深う出でたまひぬ」)よりもいっそう早くお帰りになる意。といって、その別れ際を以下に詳しく語る。
【頼もしき人】−以下「つらう」まで、源氏の詞。「頼もしき人」は親兄弟などをさす。
【見そめたる人】−源氏をさす。結婚した相手。
【疎からず思ひむつびたまはむ】−主語は末摘花。
【朝日さす軒の垂氷は解けながら--などかつららの結ぼほるらむ】−源氏の贈歌。「とけ」に「垂氷」(つらら)が解ける意と心が解けるの意を掛け、「むすぼほる」に「つらら」(氷)が張り詰める意と心を閉ざす意とを掛ける。
【むむ】−大島本は「むく」とあり、「く」をミセケチにして「む」と訂正する。はじめオドリ字「ゝ」を「く」と誤写したものであろう。
【うち笑ひて】−照れ隠しの笑い。
【いと口重げなるもいとほしければ出でたまひぬ】−本来は姫君から返歌があるところ。しかし、なかなか返歌もできないことを気の毒に思って源氏は帰る。
【御車寄せたる中門】−対の屋から南へ延びた廊の途中にある。中門に牛車を寄せ着けて乗り降りする。
【松の雪のみ暖かげに】−松が雪におおわれて暖かそうだとは、雪を真綿に見立てた擬人法である。
【かの人びとの】−以下「取るべきかたなし」まで、源氏の心中。「かの人びと」とは「帚木」巻の雨夜の品定めの折の人々をさす。
【あるまじきもの思ひ】−藤壷思慕をさす。
【紛れなむかしと思ふやうなる】−『完訳』は「と」を地の文とし、その前後を源氏の心中文と解す。
【我ならぬ人は】−以下「しるべなめり」まで、源氏の心中。
【故親王】−故常陸宮。
【うらやみ顔に松の木の】−擬人法。
【名に立つ末のと】−『源氏釈』は「我が袖は名に立つ末の松山か空より波の越えぬ日はなし」(後撰集、恋二、六八四、土左)を指摘。『完訳』はさらに「浦ちかく降りくる雪は白波の末の松山越すかとぞ見る」(古今集、冬、三二六、藤原興風)をも指摘する。
【いと深からずとも】−以下「人もがな」まで、源氏の心中。
【翁のいといみじきぞ】−老人でひどく年とったのがの意。
【寄りてひき助くる】−主語は女。
【いとかたくななり】−『集成』は「不器用である」の意に解し、『完訳』は「不体裁で見苦しい」の意に解す。
【降りにける頭の雪を見る人も--劣らず濡らす朝の袖かな】−源氏の独詠歌。「ふり」は雪が「降り」と翁の「古り」の意を掛け、「頭の雪」は実際の雪と白髪の意をこめる。
【幼き者は形蔽れず】−『白氏文集』「秦中吟 重賦」の「歳暮れて天地閉じ、陰風破村に生ず、夜けて煙火尽きぬ、霰雪白し紛々たり、幼き者は形蔽れず、老いたる者は躰に温なること無し、悲喘と寒気と併ら入りて鼻の中にして辛し」とある詩句による。
【鼻の色に出でて】−寒さで翁の娘か孫娘が鼻を赤くしているのを見て、末摘花の鼻を思い出す。
【頭中将に】−以下「見つけられなむ」まで、源氏の心中。
【常に訪れたまふ】−『集成』は「始終気をつけておやりになる」の意に解し、『完訳』は「しじゅうお訪ねになる」の意に解す。しかし、源氏が頻繁に末摘花邸に訪問するとは考えられず、遣いの者が差し向けられたものと思われる。「訪れ」は手紙による安否の気づかいであろう。
【かやうのまめやかごとも恥づかしげならぬを】−「恥づかしげならぬ」の主語は末摘花。『集成』は「こんな暮し向きの贈り物をしても失礼に当りそうでないので」の意に解し、『完訳』は「このような暮し向きの援助も、姫君は恥ずかしがったりなさらないので」の意に解す。
【さる方の後見にて育まむ】−源氏の心。実生活上の後見者として、の意。
【思ほしとりて】−『完訳』は「熟考の末に姫君援助を決意」と注す。
【さならぬ】−普通ではしないの意。
【うちとけわざ】−立ち入った細かな世話など。
【かの空蝉の】−以下「止みにしかな」まで、源氏の心中。
【劣るべきほどの人なりやは】−「に」(断定の助動詞)「やは」(係助詞、反語)。末摘花は空蝉の身分に劣ろうか、いやそれ以上の身分の人であるの意。
【げに品にもよらぬわざなりけり】−「帚木」巻の左馬頭の言葉「今はただ品にもよらじ、容貌をばさらにも言はじ」を受けて、なるほど、言う通りの意。
【心ばせの】−空蝉の人柄をいう。
【なだらかにねたげなりしを】−『集成』は「やさしくて芯のある人だったが」の意に解し、『完訳』は「いまいましい程の魅力。源氏は、しばしば「ねたし」と回顧していた」と注して「いまいましいほどにしっかりしていたので」と訳す。
 [第九段 歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる]
【年も暮れぬ】−季節は歳末となる。
【おはします】−主語は源氏。
【御梳櫛などには懸想だつ筋なく心やすきもののさすがにのたまひたはぶれなどして使ひならしたまへれば】−異性の乳母子である大輔命婦と源氏との日常生活のありようを語る。
【聞こゆべき事】−命婦が源氏に申し上げるべきこと。
【あやしきことの】−以下「わづらひて」まで、命婦の詞。
【聞こえさせざらむも】−命婦が源氏の耳に。「聞こえさす」は「聞こゆ」よりさらに丁重な謙譲語。もったい間った言い方をする。
【何ざまの】−以下「なむ思ふ」まで、源氏の詞。
【いかがは】−以下「聞こえさせにくくなん」まで、命婦の詞。
【かの宮よりはべる御文】−命婦の詞。常陸宮邸の末摘花からの手紙。
【ましてこれは取り隠すべきことかは】−源氏の詞。『完訳』は「めったに手紙をくれない姫君からの手紙だから、まして」と注す。
【取りたまふも胸つぶる】−「取りたまふ」は源氏。「胸つぶる」は命婦。
【陸奥紙の厚肥えたるに】−檀紙、白く厚ぼったい紙で、恋文には用いない。普通は薄様を用いる。
【唐衣君が心のつらければ--袂はかくぞそぼちつつのみ】−末摘花の贈歌。「唐衣」は「着」に掛かる枕詞。「君」は「着る」の「き」と「君」の「き」の掛詞、「衣」「袂」は縁語。
【心得ず】−源氏は、末摘花がどうしてこのような和歌を詠み贈ってきたのか理解できない。
【これを】−以下「御覧ぜさせてこそは」まで、命婦の詞。
【朔日の御よそひ】−正月の衣装。末摘花はしきたりを守り夫の正月の衣装の世話をしようとした。
【人の御心】−末摘花をさす。
【引き籠められなむは】−以下「心ざしにこそは」まで、源氏の詞。
【袖まきほさむ人もなき】−『源氏釈』は「あは雪は今朝はな降りそ白妙の袖まきほさむ人もあらなくに」(古今六帖)を指摘、万葉集にも同歌があるが、「今日はな」とある。また『源氏釈』所引の歌には「白雪は」とある。
【さてもあさましの】−以下「博士ぞなかべき」まで、源氏の心中。
【詠み出でたまひつらむ】−大島本「よミいて給つらむ」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「詠み出でたまへらむ」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。仮名文字「へ」と「つ」の字体から発生した異同である。
【いともかしこき方】−以下「言ふべかりけり」まで、源氏の心中。
【今様色】−『集成』は「流行色(濃い紅梅色)の、我慢できないほど艶のない古めかしい直衣で。「えゆるすまじく」は色が濃くて、禁色(濃い紅)に近いので、「禁色」に対する「聴し色」にひっかけた洒落」と注すが、『完訳』は「流行色。後の「紅の」の歌から薄紅色と分る。「聴色」とも。次に「えゆるすまじく」とあるゆえん。禁色ではなく、がまんできない古さ」と注す。『新大系』でも薄紅色。
【側目に見れば】−主語は命婦。
【なつかしき色ともなしに何にこの--すゑつむ花を袖に触れけむ】−源氏の独詠歌。「すゑつむ花」は紅花、「はな」に「花」と「鼻」の意を掛ける。本巻の巻名となる。
【色濃き花と見しかども】−歌に添えた言葉。『源氏釈』は「紅を色濃き花と見しかども人を飽くだにうつろひにけり」(出典未詳)を指摘。なお下句には諸注釈書によって異同がある。
【月影などを】−月の光で見た姫君の容貌などをの意。「まだほの暗けれど、雪の光に」(第八段)とあった。
【紅のひと花衣うすくとも--ひたすら朽す名をし立てずは】−命婦の唱和歌。「花」に「花」と「鼻」の意を掛ける。
【心苦しの世や】−歌に添えた言葉。
【かうやうのかいなでにだにあらましかば】−源氏の心。
【取り隠さむや】−以下「ものにやあらむ」まで、源氏の詞。
【何に御覧ぜさせつらむ我さへ心なきやうに】−命婦の心。
【上にさぶらへば】−主語は命婦。「上」は清涼殿をいう。
【さしのぞきたまひて】−主語は源氏。
【くはや】−以下「過ぐさるる」まで、源氏の詞。
【ただ梅の花の色のごと】−『集成』は「風俗歌「たたらめの花のごと掻練好むや減紫の色好むや」の一句か。「ただうめ」は、「たたらめ」の誤写かといわれている。「たたらめ」は、植物の名で、今の何に当るかは不詳。花の色が赤かったのであろう。「滅紫」は、青黒い感じの紫色」と注す。『完訳』は「『花鳥余情』は「たたらめの花のごと掻練好むやげに紫の色好むや」(政事要略・衛門府風俗歌)を掲げる。「たたらめの鼻」(鍛冶の炉をつかさどる巫女の赤鼻)から「ただ梅の花」に転じたか。また「三笠の山」の春日神社が常陸の鹿島神社と同じ祭神ゆえ、常陸宮の姫君を連想」と注す。
【三笠の山の】−『源氏釈』は「東遊の求子に、春日の御神楽に謡ふ哥なり。賀茂八幡春日、所に依りて謡ふなり。かやうにて三笠の山の少女をば棄ててとは謡ふなり」と指摘。宗祇の『源氏物語不審抄出』に「三笠の山の少女をば棄ててと言へる、常陸宮の少女と言はんためなり。末摘は常陸宮の姫君なればなり。まづ三笠の山といふことは、求子の歌によりて言へるなり。もとめ子の歌は、諸社にて謡ふ時、その所のなを言ふことあり。春日にては三笠の山の少女と謡ふべき事なり。ただ三笠の山の少女を棄てて、常陸の少女と言はまほしきの心なり。されど、あまりに合はぬ事にては言はるまじきを、春日の明神は常陸より出で給ひたる御神なり。三笠も鹿島も同じ御神三社なれば、その便りあるにより、斯く言へるなり」と指摘。古注・旧注は「求め子」の詞章と指摘。しかし、『集成』は「右(衛門府)の風俗歌に、このような詞章があったものか」と注す。
【なぞ御ひとりゑみは】−女房の詞。
【あらず】−以下「いとほしき」まで、命婦の詞隠
【掻練好める花の色あひ】−先の風俗歌に引っ掛けた表現だが、寒がって赤い鼻をしている人の意を裏にこめる。
【あながちなる御こと】−以下「混らひつらむ」まで、女房たちの詞。
『集成』は「苦しいこじつけですこと」の意に解し、『完訳』は「いい気なおっしゃりかたじゃありませんか」の意に解す。
【左近の命婦肥後の采女】−左近の命婦、肥後の采女、いずれも女房名。
【御返りたてまつりたれば】−場面は変わって常陸宮邸。
【逢はぬ夜をへだつるなかの衣手に--重ねていとど見もし見よとや】−源氏の返歌隠「隔つる」は夜を隔てる意と仲を隔てる意を掛け、「重ねて」は逢わない夜を重ねる意と衣を重ねる意とを掛ける。『源氏物語古注』は「逢はぬ夜を」について「衣だに中にありしはうとかりき逢はぬ夜をさへ隔てつるかな」(拾遺集、恋三、七九八、読人しらず)を指摘。
【白き紙に】−末摘花の「陸奥紙の厚肥えたる」紙に応じたもの。
【捨て書いたまへる】−さりげない、また、無造作な書きぶり。
【晦日の日】−大晦日の日。
【御衣一領】−大島本「御そひとく(く+たり)」とある。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御衣一具」と校訂する。『新大系』は底本の補入に従う。
【ありし色あひ】−以下「見たまひけむ」まで、老女房の心。
【かれはた】−以下「消えじ」まで、老女房の心。「紅」の色の縁語で「消えじ」という。
【御歌も】−以下「をかしき方にこそ」まで、老女房たちの詞。
 [第十段 正月七日夜常陸宮邸に泊まる]
【朔日のほど過ぎて】−正月の数日間が過ぎての意。新年立によれば、源氏十九歳。
【男踏歌】−正月十四日夜に行われる。天元六年(九八三)以後廃絶。
【七日の日の節会】−白馬の節会をさす。
【御宿直所】−源氏の宿直所は淑景舎(桐壷)にある。
【君も】−末摘花の姫君をさす。
【いかにぞ改めてひき変へたらむ時】−源氏の心。「む」(推量の助動詞、仮定)、もし今までと違っていたらその時はの意。
【廊の上もなく】−渡廊の屋根もなくの意。
【日の脚、ほどなくさし入りて】−日脚が寝殿の中の人の近くまで射し込んでの意。
【見入れらる】−「らる」(可能の助動詞)、雪の光の反射で寝殿の奥まで見ることができるの意。
【見出だして】−主語は姫君。
【男の御具】−夫の化粧道具。
【ありし筥の】−大晦日の夕方源氏が贈った箱。
【さも思しよらず】−主語は源氏。源氏は自分で贈っておいてそれと気づかない。
【今年だに】−以下「ゆかしき」まで、源氏の詞。
【侍たるるものは】−『奥入』は「あらたまの年立ちかへる朝より待たるるものは鴬の声」(拾遺集、春、五、素性法師)を指摘。「待たるるもの」とは末摘花の姫君の声、返歌をさす。
【さへづる春は】−末摘花の返答の詞。『源氏釈』は「百千鳥囀る春はものごとにあらたまれども我ぞふりゆく」(古今集、春上、二八、読人しらず)を指摘。「我ぞふりゆく」というところに主旨がある。源氏の薄い愛情のままわたしは年をとってゆきますの意。
【からうして】−『集成』『新大系』は清音に読む。『古典セレクション』は「からうじて」と濁音に読む。「カラウシテ(日葡辞書)」「古くはカラウシテ」と清音か」(岩波古語辞典)。
【さりや年経ぬるしるしよ】−源氏の詞。「我ぞふりゆく」を受けて切り返した。
【夢かとぞ見る】−源氏の詞。『源氏釈』は「忘れては夢かとぞ思ふ雪踏み分けて君を見むとは」(古今集、雑下、九七〇、業平朝臣)を指摘。「夢かとぞ思ふ」の一部を即興で「夢かとぞ見る」と、より驚きを表すために改変したのであろう。
 

第二章 若紫の物語

 [第一段 紫の君と鼻を赤く塗って戯れる]
【二条院におはしたれば】−場面変わって、二条院、源氏と紫の君対座。
【紫の君】−紫の上の現在の呼称は「紫の君」。
【紅はかうなつかしきもありけり】−源氏の心。
【なよらかに】−『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「なよゝか」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。
【心から】−以下「ゐたらで」まで、源氏の心。
【赤鼻を描きつけ】−『集成』は「赤い鼻を」の意に解すが、『完訳』は「紅花からとった染料。絵具にも用いる。「赤鼻」をひびかす」と注して、「この紅粉を塗りつけ赤く染めてごらんになると」の文意に解す。
【まろがかく】−以下「いかならむ」まで、源氏の詞。源氏は自称を「まろ」という。
【うたてこそあらめ】−紫の君の返答。
【さもや染みつかむ】−紫の君の心。
【さらにこそ】−以下「すらむ」まで、源氏の詞。
【内裏に】−源氏は帝を「内裏」と呼称する。
【いといとほしと思して】−主語は紫の君。
【平中がやうに】−以下「あへなむ」まで、源氏の詞。
【色どり添へたまふな】−赤い色の上にさらに墨を付け加えなさるなの意。
【をかしき妹背】−『集成』は「夫婦」。『完訳』は「兄妹の仲。夫婦の仲とする説はとらない」と注す。源氏と紫の君はまだ結婚の儀を経ていない。「若紫」巻に「後の親」とあったが、世話をする人という立場である。
【日のいとうららかなるに】−「に」(格助詞、時または添加)、『完訳』は「日がじつにうららかなうえに」の意に解す。
【いつしかと霞みわたれる】−『集成』は「昨日こそ年は暮れしか春霞春日の山にはや立ちにけり」(拾遺集、春上、三、山部赤人)「吉野山峯の白雪いつ消えて今朝は霞の立ちかはるらむ」(同、四、源重之)等の『拾遺集』巻第一の春上の巻頭歌数首を指摘する。
【紅の花ぞあやなくうとまるる--梅の立ち枝はなつかしけれど】−源氏の独詠歌。「はな」は「花」と「鼻」の意を掛ける。「たち」には梅の「立ち枝」と末摘花の長く垂れ下がった鼻を想像させる。末摘花には好意を感じるがその赤鼻だけは妙に嫌だの意。
【あいなく】−関係のないことながらの意。『集成』は「(梅に文句をいっても)どうにもならないことながら」の意に解し、『完訳』は「紫の上の前では関係ないのに」の意に解す。
【かかる人びとの末々いかなりけむ】−『花鳥余情』は「物語の作者の詞」と指摘。『集成』は「物語の語り手が読者に期待を持たせようとしていう言葉」。『完訳』は「読者の興味を誘う語り手の言」と指摘。「かかる人びと」は、末摘花、空蝉、軒端荻などの「帚木」「空蝉」「夕顔」の諸巻に登場した人々。これらの物語は一応ここで終了という体裁をとる。
源氏物語の世界ヘ
本文
ローマ字版
現代語訳
大島本
自筆本奥入