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渋谷栄一注釈(C)

  

橋姫

 [底本]
東海大学蔵 桃園文庫影印叢書『源氏物語(明融本)』2 一九九〇年 東海大学

 [参考文献]
池田亀鑑編著『源氏物語大成』第三巻「校異篇」一九五六年 中央公論社

阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『古典セレクション 源氏物語』第十二巻 一九九八年 小学館
柳井 滋・室伏信助・大朝雄二・鈴木日出男・藤井貞和・今西祐一郎校注『新日本古典文学大系 源氏物語』第四巻 一九九六年 岩波書店
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛・鈴木日出男校注・訳『完訳日本の古典 源氏物語』第八巻 一九八七年 小学館
石田穣二・清水好子校注『新潮日本古典集成 源氏物語』第六巻 一九八二年 新潮社
阿部秋生・秋山 虔・今井源衛校注・訳『日本古典文学全集 源氏物語』第五巻 一九七五年 小学館
玉上琢弥著『源氏物語評釈』第十巻 一九六七年 角川書店
山岸徳平校注『日本古典文学大系 源氏物語』第四巻 一九六二年 岩波書店
池田亀鑑校注『日本古典全書 源氏物語』第五巻 一九五四年 朝日新聞社

伊井春樹編『源氏物語引歌索引』一九七七年 笠間書院
榎本正純篇著『源氏物語の草子地 諸注と研究』一九八二年 笠間書院

第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮

  1. 八の宮の家系と家族---そのころ、世に数まへられたまはぬ古宮おはしけり
  2. 八の宮と娘たちの生活---「あり経るにつけても、いとはしたなく
  3. 八の宮の仏道精進の生活---さすがに、広くおもしろき宮の、池、山などの
  4. ある春の日の生活---春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの
  5. 八の宮の半生と宇治へ移住---父帝にも女御にも、疾く後れきこえたまひて
第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ
  1. 八の宮、阿闍梨に師事---いとど、山重なれる御住み処に、尋ね参る人なし
  2. 冷泉院にて阿闍梨と薫語る---この阿闍梨は、冷泉院にも親しくさびらひて
  3. 阿闍梨、八の宮に薫を語る---中将の君、なかなか、親王の思ひ澄ましたまへらむ御心ばへを
  4. 薫、八の宮と親交を結ぶ---げに、聞きしよりもあはれに、住まひたまへるさまより
第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る
  1. 晩秋に薫、宇治へ赴く---秋の末つ方、四季にあててしたまふ御念仏を
  2. 宿直人、薫を招き入れる---しばし聞かまほしきに、忍びたまへど、御けはひしるく
  3. 薫、姉妹を垣間見る---あなたに通ふべかめる透垣の戸を、すこし押し開けて
  4. 薫、大君と御簾を隔てて対面---かく見えやしぬらむとは思しも寄らで
  5. 老女房の弁が応対---たとしへなくさし過ぐして、「あな、かたじけなや
  6. 老女房の弁の昔語り---この老い人はうち泣きぬ。「さし過ぎたる罪もやと
  7. 薫、大君と和歌を詠み交して帰京---峰の八重雲、思ひやる隔て多く、あはれなるに
  8. 薫、宇治へ手紙を書く---老い人の物語、心にかかりて思し出でらる
  9. 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る---君は、姫君の御返りこと、いとめやすく子めかしきを
第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る
  1. 十月初旬、薫宇治へ赴く---十月になりて、五、六日のほどに、宇治へ参うでたまふ
  2. 薫、八の宮の娘たちの後見を承引---「このわたりに、おぼえなくて、折々ほのめく
  3. 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く---さて、暁方の、宮の御行ひしたまふほどに
  4. 薫、父柏木の最期を聞く---「空しうなりたまひし騷ぎに、母にはべりし人は
  5. 薫、形見の手紙を得る---ささやかにおし巻き合はせたる反故どもの、黴臭きを
  6. 薫、父柏木の遺文を読む---帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、唐の浮線綾

 

第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮

 [第一段 八の宮の家系と家族]

【そのころ世に数まへられたまはぬ古宮おはしけり】−『完訳』は「新たな物語の開始を告げる常套表現。前三帖とほぼ同時期」。『新大系』は「紅梅巻と同様の常套的な冒頭形式。漠然とした過去の設定で、新たな物語を開始させる」と注す。
【母方などもやむごとなくものしたまひて】−八宮の御母の里方。副助詞「など」は婉曲的ニュアンスを添える。
【筋異なるべきおぼえなど】−『集成』は「立太子の可能性があったことをいう」。『完訳』は「皇太子となり即位するにふさわしい親王と、世間から噂された」と注す。
【世を背き去りつつ公私に拠り所なく】−『完訳』は「官界からの引退や、出家遁世」と注す。

【昔の大臣の御女なりける】−連体中止法による挿入句。
【親たちの思しおきてたりしさまなど】−立后のこと。
【古き御契り】−明融臨模本は「ふる(る$か)き御ちきり」とある。すなわち「る」をミセケチにして「か」と訂正する。後人の訂正跡である。大島本は「ふるき御契」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「深き」と校訂する。『新大系』は底本(大島本)のまま「ふるき」とする。

【年ごろ経るに】−『完訳』は「年月の経過とともに、睦まじい夫婦仲だけでは満足できない」と注す。
【いかでをかしからむ稚児もがな】−八宮の心中。
【女君のいとうつくしげなる生まれたまへり】−格助詞「の」同格、「うつくしげなる」が主格。

【さし続きけしきばみ】−明融臨模本と大島本は「さしつゝきけしきはみ」とある。『完本』は諸本に従って「またさしつづき」と「また」を補訂する。『集成』(底本 明融臨模本)『新大系』(底本 大島本)のままとする。
【このたびは男にても】−八宮の思い。男子誕生を期待。
【平らかにはしたまひながらいといたくわづらひて亡せたまひぬ】−係助詞「は」連用修飾語「平らかに」に付いて無事出産を強調するニュアンスを添える。しかし産後の肥立ちが悪くて母親は亡くなる。

 [第二段 八の宮と娘たちの生活]

【あり経るにつけても】−以下「人悪ろかるべきこと」まで、八宮の心中。『完訳』は「愛妻の突然の死に遭った驚きから、過往の人生をあらためて回顧」と注す。
【見捨てがたくあはれなる人の御ありさま心ざまに】−北の方をさす。見捨てて出家しがたい最愛の人北の方の様子人柄。
【かけとどむべきほだし】−『全集』は「世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ」(古今集雑下、九五五、物部吉名)を指摘。
【いはけなき人びとをも一人はぐくみ立てむほど限りある身にていとをこがましう人悪ろかるべきこと】−『集成』は「「限りある身」は、皇族としての格式にしばられた身の上。こまごまと娘の世話を焼くのは、身分柄軽々しいことなのである」と注す。

【見譲る方なくて】−明融臨模本は「見ゆつる方なくて」とある。大島本は「みゆつるつる(つる$<朱>、#<墨>かた<朱>)なくて」とある。すなわち、「つる」を朱筆でミセケチにしさらに墨滅して朱筆で「かた」と訂正する。『完本』は諸本に従って「見ゆずる人なくて」と校訂する。『集成』『新大系』は明融臨模本と底本(大島本)の朱筆訂正に従う。
【およすけ】−『集成』は「およすけ」清音。『完訳』『新大系』は「およすげ」濁音。
【おのづから見過ぐしたまふ】−明融臨模本と大島本は「をのつからみすくし給」とある。『完本』は諸本に従って「おのづからぞ過ぐしたまふ」と校訂する。『集成』『新大系』は明融臨模本と底本(大島本)のままとする。

【いでや折ふし心憂く】−女房の詞。
【うちつぶやきつつ】−明融臨模本は「うちつふやきつゝ」とある。しかし大島本は「うちつふやきて」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「うちつぶやきて」と校訂する。『新大系』は底本(大島本)のまま「うちつぶやきて」とする。
【限りのさまにて】−北の方の臨終の際。

【ただこの君を】−明融臨模本と大島本は「たゝこのきみを」とある。『完本』は諸本に従って「この君をば」と「ば」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。以下「あはれと思せ」まで、北の方の詞。

【さるべきにこそ】−以下「のたまひしを」まで、八宮の心中。

【姫君は】−大君。
【いたはしくやむごとなき筋はまさりて】−大君が中君に勝る。
【宮の内も寂しく】−明融臨模本は「宮のうちもさひしく」とある。大島本は「宮のうちも(も$<朱>)さひしく」とある。すなわち「も」を朱筆でミセケチにする。『集成』は底本(明融臨模本)のまま。『完本』は諸本に従って「宮の内ものさびしく」と校訂する。『新大系』は底本の朱筆訂正に従って「宮のうちさびしく」と校訂する。

【さる騒ぎに】−北の方死去の騷ぎ。
【ほどにつけたる心浅さにて】−『集成』は「身分相応の思慮の浅さから」。『完訳』は「下臈の乳母ゆえの浅慮から」と注す。

 [第三段 八の宮の仏道精進の生活]

【家司なども】−『集成』は「親王、摂関、三位以上の家の家政を取り扱う事務官。四位五位の者から選ばれた」と注す。
【むねむねしき人もなきままに】−明融臨模本と大島本は「むね/\しき人もなきまゝに」とある。『完本』は諸本に従って「むねむねしき人もなかりければとり繕ふ人もなきままに」と「人もなかりければとり繕ふ」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【折々につけたる花紅葉の色をも香をも同じ心に見はやしたまひしに】−『源氏釈』は「君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る」(古今集春上、三八、紀友則)を指摘。

【わが心ながらもかなはざりける契り】−八の宮の心中。
【何かは世の人めいて今さらに】−八の宮の心中。再婚をする気持ちはない、の意。
【故君の亡せたまひにしこなたは】−北の方の死去以来。

【などかさしも】−以下「わざもや」まで、世人の噂。
【世人になづらふ御心づかひ】−再婚をいう。

【つきづきしく聞こえごつことも類にふれて多かれど】−再婚を勧める者も多いが。『集成』は「縁故を通じて多かったが」。『完訳』は「縁故を頼って。零落したとはいえ高貴な八の宮との縁故を望む」と注す。

【偏つき】−『集成』は「偏つき」清音。『完訳』『新大系』は「偏つぎ」濁音。

 [第四段 ある春の日の生活]

【池の水鳥どもの羽うち交はしつつ】−『完訳』は「雌雄離れぬ習性の鴛鴦か」と注す。
【はかなきことに】−明融臨模本と大島本は「はかなきことに」とある。『完本』は諸本に従って「はかなきことと」と「校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【君たちに】−大君と中君の姉妹に。
【あはれにをかしく聞こゆれば】−『集成』は「いじらしくもおもしろく思われるので」。『完訳』は「しみじみとおもしろく聞えるので」と訳す。

【うち捨ててつがひ去りにし水鳥の仮のこの世にたちおくれけむ】−八宮の詠歌。無常の世に母親に先立たれた娘たちの不幸をいう。「雁」「仮」の掛詞。「この世」の「こ」に「雁の子」の「子」を響かせる。
【心尽くしやなりや】−歌に添えた詞。

【これに書きたまへ硯には書きつけざなり】−八宮の詞。姫君たちへの諭し。「ざなり」は「ざる」「なり」伝聞推定の助動詞。『河海抄』は「見る石のおもてに物は書かざりきふしのやうじはつかはざらめや」(出典未詳)を指摘。

【いかでかく巣立ちけるぞと思ふにも憂き水鳥の契りをぞ知る】−大君の唱和歌。「憂き水鳥」に「憂き身」を読み込む。父への感謝と我が身の不運を諦観。

【よからねどその折はあはれなりけり】−『明星抄』は「草子地此歌を評していへり」と指摘。

【若君も書きたへ】−八宮の詞。

【泣く泣くも羽うち着する君なくはわれぞ巣守になりは果てまし】−明融臨模本と大島本は「なりはゝてまし」とある。『完本』は諸本に従って「なるべかりける」と「校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。中君の唱和歌。

【いかが思さざらむ】−語り手の感情移入の挿入句。『細流抄』は「草子の地をしはかりていへり」と指摘。
【かつ読みつつ唱歌をしたまふ】−明融臨模本と大島本は「さうかを」とある。『完本』は諸本に従って「唱歌も」と「校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。時には読経し、時には姫君たちのため楽譜を口ずさむ。

【若君に箏の御琴】−明融臨模本と大島本は「さうの御こと」とある。『完本』は諸本に従って「箏の御琴を」と「を」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

 [第五段 八の宮の半生と宇治へ移住]

【父帝にも女御にも疾く後れきこえたまひて】−八宮の父桐壺帝と母女御に先立たれた意。
【まいて世の中に住みつく御心おきてはいかでかは知りたまはむ】−語り手の感情移入の挿入句。
【女のやうに】−『完訳』は「権勢を争う世俗と関わらぬ態度」と注す。
【尽きすまじかりけれど行方もなくはかなく亡せ果てて】−『集成』は「無尽蔵と思われたのだけれども、どこへともなくいつのまにか皆無くなって」。『完訳』は「宮の無頓着な性格から、由緒ある名家の豊富な財宝も散逸する」と注す。
【御調度などばかりなむ】−『完訳』は「移動しにくいので家具類だけは残る」と注す。

【雅楽寮の物の師ども】−治部省所属の雅楽寮。歌師・舞師・笛師・唐楽師・高麗楽師・百済楽師・伎楽師・腰鼓師がいる。

【源氏の大殿の御弟におはせしを】−明融臨模本は「源氏のおとゝの御をとうとにおはせし(におはせし$八宮とそ聞えし)を」とある。すなわち、「におはせし」をミセケチにして「八宮とそ聞えし」と訂正する。後人の筆跡である。大島本は「源氏のおとゝの御おとうとにおハせしを」とある。『完本』は諸本に従って「源氏の大殿の御弟、八の宮とぞ聞こえしを」と校訂する。『集成』『新大系』は底本(明融臨模本・大島本)のままとする。
【朱雀院の大后の】−朱雀院の母后弘徽殿大后。
【この宮を世の中に立ち継ぎたまふべく】−東宮(冷泉院)を廃して八の宮を新東宮に立たせようとしたこと。物語には語られていなかったが、「須磨」「明石」巻ころの事件と想像される。
【わが御時】−自分が権勢を振るっていた時、の意。
【たてまつりける】−明融臨模本と大島本は「たてまつりける」とある。『完本』は諸本に従って「たてまつりたまひける」と「たまひ」を補訂する。『集成』『新大系』は底本(明融臨模本・大島本)のままとする。
【あいなく】−『集成』は「「あいなく」は、もともと関係はないのに、担ぎ上げられたばかりに、という気持」と注す。
【あなたざまの御仲らひには】−源氏方をさす。
【さし放たれたまひにければ】−「れ」受身の助動詞。
【かの御つぎつぎになり果てぬる世にて】−冷泉帝の次には今上帝が即位。今上帝は朱雀院の御子であるが后に源氏の明石中宮が立ち、第一皇子の東宮が誕生している。

【あさましうあへなく】−『完訳』は「茫然として、力の抜ける感じ」と注す。
【宇治といふ所に】−『完訳』は「京都から半日行程。長谷寺参詣の経路。山紫水明の別荘地で、仏教的な聖地にもなりつつあった」と注す。
【あはれに思さる】−「る」自発の助動詞。

【いかがはせむ】−反語表現。語り手の感情移入がある。
【絶え籠もりぬる野山の末にも】−『全集』は「いづくにか世をば厭はむ心こそ野にも山にも惑ふべらなれ」(古今集雑下、九四七、素性法師)を指摘。
【昔の人ものしたまはましかば】−八宮の心中。「昔の人」は故北の方。「ましかば」反実仮想。

【見し人も宿も煙になりにしを何とてわが身消え残りけむ】−八宮の独詠歌。「見し人」は北の方。「宿」は京の邸宅。

【生けるかひなくぞ思し焦がるるや】−『細流抄』は「草子地也」と注す。「焦がるる」は「煙」の縁語。

 

第二章 宇治八の宮の物語 薫、八の宮と親交を結ぶ

 [第一段 八の宮、阿闍梨に師事]

【峰の朝霧晴るる折なくて明かし暮らしたまふ】−『源氏釈』は「雁の来る峯の朝霧晴れずのみ思ひつきせぬ世の中の憂さ」(古今集雑下、九三五、読人しらず)を指摘。
【この宇治山に聖だちたる阿闍梨住みけり】−『花鳥余情』は「我が庵は都の巽しかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり」(古今集雑下、九八三、喜撰法師)を指摘。

【尊きわざせさせたまひつつ】−『集成』は「〔寺に〕功徳になるお布施などなさっては」。『完訳』は「尊いご修行をお積みになっては」と注す。

【年ごろ学び知りたまへることどもの】−『集成』は主語を八宮とし「〔八宮が〕今までに学んでご承知のいろいろのことの」。『完訳』は主語を阿闍梨とし「阿闍梨は、これまでに学修してこられた数々の教義の深遠な道理を宮に説いてお聞かせ申し」と訳す。

【心ばかりは】−以下「容貌をも変へぬ」まで八宮の詞。
【蓮の上に思ひ上り濁りなき池にも住みぬべき】−『阿彌陀経』を踏まえた表現。「住み」「澄み」の掛詞。
【容貌も変へぬ】−「ぬ」打消助動詞。

 [第二段 冷泉院にて阿闍梨と薫語る]

【例のさるべき文など御覧じて問はせたまふこともあるついでに】−『集成』は「いつものように、しかるべき経典などを御覧になって、ご下問などもある機会に」と注す。

【八の宮のいとかしこく】−以下「なむ見えたまふ」まで、阿闍梨の詞。
【さるべきにて生まれたまへる人にや】−仏教者となるべき前世からの因縁で生まれたのか、の意。

【いまだ容貌は】−以下「あはれなることなり」まで、冷泉院の詞。
【この若き人びと】−『完訳』は「冷泉院に伺候する若い人々」と注す。
【あはれなることなり】−殊勝なことだな、の意。

【宰相中将も御前にさぶらひたまひて】−薫。「匂兵部卿」巻に十九歳で三位兼中将となる。
【われこそ世の中をば】−以下「過ぐし来れ」まで、薫の心中。『完訳』は「直接・間接話法が混じり、敬語もつかない」と注す。
【と人知れず思ひながら】−地の文になり、以下再び薫の心中となる。
【俗ながら】−以下「心のおきてやいかに」まで、薫の心中。

【出家の心ざしは】−以下「嘆きはべりたうぶ」まで、阿闍梨の詞。『完訳』は「以下「え思ひ棄てぬ」まで、八の宮の直接話法。院の質問「いまだかたちは変へたまはずや」に対応」と注す。
【ものしたまへるを】−「たまへ」尊敬の補助動詞。「る」完了の助動詞、存続の意。

【げにはた】−以下「思ひやられはべるや」まで、阿闍梨の詞。

【帝は】−院の帝、朱雀院。

【さる聖のあたりに】−以下「譲りやはしたまはぬ」まで、冷泉院の詞。
【もししばしも後れむほどは譲りやはしたまはぬ】−もし八宮が自分冷泉院に先立つようなことがあったら姫君たちを自分にお譲りなろうか、の意。『集成』は「(姫君たちを)お譲り下さらぬだろうか」。『完訳』は「姫君の後見役を自分(院)に」と注す。

【この院の帝は十の御子にぞおはしましける】−『細流抄』は「冷泉院の注にかく也」。『新釈』は「説明的の記述である」と注す。
【かの君たちをがな】−以下「遊びがたきに」まで、冷泉院の心中。

 [第三段 阿闍梨、八の宮に薫を語る]

【なかなか親王の思ひ澄ましたまへらむ御心ばへを】−『完訳』は「この時四十九歳の院が姫君に関心を抱くのに比べ、年若の薫がかえって父八の宮への関心を強めた、の意。「なかなか」は予測に反する気持」と注す。

【かならず参りて】−以下「けしき賜りたまへ」まで、薫の詞。薫が宇治八宮邸に参上して、の意。

【帝の】−明融臨模本と大島本は「みかとの」とある。『完本』は諸本に従って「帝は」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【あはれなる御住まひを人伝てに聞くこと】−冷泉院の八宮への言伝。

【世を厭ふ心は山にかよへども八重立つ雲を君や隔つる】−冷泉院から八宮への贈歌。

【なのめなる際のさるべき人の使だに】−『完訳』は「気がねせず訪ねられそうな身分高からぬ者の使者でさえ」と訳す。
【御返し】−明融臨模本は「御返」、大島本は「御返し」とある。『完本』は諸本に従って「御返り」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

【あと絶えて心澄むとはなけれども世を宇治山に宿をこそ借れ】−八宮の返歌。「世」「心」「山」の語句を受けて返す。「住む」「澄む」の掛詞。『河海抄』は「わが庵は都の巽しかぞ住む世を宇治山と人は言ふなり」(古今集雑下、九八三、喜撰法師)を指摘。

【なほ世に恨み残りける】−冷泉院の心中。八宮の心中を察する。

【中将の】−明融臨模本と大島本は「中将の」とある。『完本』は諸本に従って「中将の君の」と「君の」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

【法文などの】−以下「申したまひし」まで、阿闍梨の詞。『完訳』は「「頼みきこえさする」まで、薫の直接話法で伝えられる」と注す。

【世の中をかりそめのことと思ひ取り】−以下「ものしたまふなれ」まで、八宮の詞。『完訳』は「「世間虚仮、唯仏是真」(上宮聖徳法王帝説)にも似た認識」と注す。
【わが身に愁へある時】−『大系』は「飛鳥川我が身一つの淵瀬ゆゑなべての世をも恨みつるかな」(後撰集雑三、一二三三、読人しらず)。『全集』は「大方は我が身一つの憂きからになべての世をも恨みつるかな」(拾遺集恋五、九五三、紀貫之)を指摘。

【さらに得たるところなく】−明融臨模本は「えた(た+と)る所なく」とある。すなわち「と」を補入する。後人の筆跡である。大島本は「えたる所なく」とある。『完本』は諸本と明融臨模本の補入に従って「えたどるところなく」と補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【みづからも参うでたまふ】−主語は薫。

 [第四段 薫、八の宮と親交を結ぶ]

【げに聞きしよりもあはれに】−以下、宇治を訪問した薫の視点を通しての叙述。
【夜など心解けて夢をだに見るべきほどもなげにすげに】−『源氏釈』は「宇治川の波の枕に夢さめて夜の橋姫いや寝ざるらむ」(出典未詳)を指摘。

【聖だちたる御ために】−明融臨模本と大島本は「御ために」とある。『完本』は諸本に従って「御ためには」と「は」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。以下「遠くや」まで、薫の心中。
【こそ心とまらぬもよほしならめ】−係結び。逆接用法で下文に続く。

【おはすべかめる】−薫の視点を通しての叙述。
【好き心あらむ人は】−一般論がやがて薫に特定されていく叙述。
【さすがにいかがとゆかしうもある】−語り手の薫の心中を推測した挿入句。

【さる方を】−以下「違ひてや」まで、薫の心中。地の文が次第に心中文になっていく叙述。
【思ひしやうに】−薫が思っていたとおり。
【優婆塞ながら行ふ山の深き心】−『花鳥余情』は「優婆塞がおこなふ山の椎本あなそばそばしとこにしあらねば」(宇津保物語、菊の宴)を指摘。
【いとよくのたまひ知らす】−主語は八宮。

【聖だつ人】−『完訳』は「山野に苦行する修行僧」と注す。
【ことことしくおぼえたまふ】−主語は薫。

【その人ならぬ仏の御弟子】−『集成』は「しかるべき身分でもない、仏の忠実なお弟子といった者で」。『完訳』は「とくにこれといったこともない法師で」と訳す。
【気近き御枕上などに召し入れ語らひたまふにも】−薫が僧侶を枕元に。『完訳』は「気楽に親しく法文の質問をしようとしても、の気持」と注す。
【いとあてに心苦しきさまして】−以下、八宮についての叙述。
【よき人はものの心を得たまふ方のいとことにものしたまひければ】−挿入句。「よき人」は皇族の人をさす。
【やうやう見馴れたてまつりたまふたびごとに】−薫が八宮に。
【常に見たてまつらまほしうて】−接続助詞「て」逆接の意。
【ほど経る時は恋しうおぼえたまふ】−主語は薫。

【寂しげなりし御住み処】−明融臨模本と大島本は「さひしけなりし御すみか」とある。『完本』は諸本に従って「いみじくさびしげなりし御住み処に」と「いみじく」と「に」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【をかしきやうにもまめやかなるさまにも】−『完訳』は「「をかしき」は趣味的な面を、「まめやか」は経済的な面をさす」と注す。
【三年ばかりになりぬ】−薫二十歳から二十二歳。

 

第三章 薫の物語 八の宮の娘たちを垣間見る

 [第一段 晩秋に薫、宇治へ赴く]

【秋の末つ方】−薫二十二歳の晩秋。
【この川面は】−以下「静かならぬを」まで、八宮の心中、間接話法的叙述。
【久しく参らぬかな】−薫の心中。
【御供に人などもなくて】−明融臨模本と大島本は「人なともなくて」とある。『完本』は諸本に従って「人などなく」と「て」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

【人やりならず】−誰のせいでもなく、自分から求めて出掛けた夜道のために、というニュアンス。

【山おろしに耐へぬ木の葉の露よりもあやなくもろきわが涙かな】−薫の独詠歌。

【柴の籬を分けて】−明融臨模本は「わけて(て$つゝ)」とある。すなわち「て」をミセケチにして「つゝ」と訂正する。大島本は「わけつゝ」とある。『集成』『完本』『新大系』は「わけつつ」とする。
【主知らぬ香】−『源氏釈』は「ぬし知らぬ香こそ匂へれ秋の野に誰が脱ぎ掛けし藤袴ぞも」(古今集秋上、二四一、素性法師)を指摘。

【常にかく遊びたまふと】−以下「折なるべし」まで、薫の心中。主語は八宮。
【宮の御琴】−明融臨模本は「宮の御(御=おイ)琴」とあり大島本は「みやの御こと」とある。『完本』は諸本に従って「親王(みこ)の御琴」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

 [第二段 宿直人、薫を招き入れる]

【しばし聞かまほしきに】−接続助詞「に」原因理由の意。
【御けはひしるく聞きつけて】−薫の来訪の気配。

【しかしかなむ】−以下「聞こえさせめ」まで、宿直人の詞。

【何かしか限りある】−以下「慰むべき」まで、薫の詞。

【申させはべらむ】−宿直人の返事。「申さす」は「申す」より一段と遜った表現。「はべり」があるのでさらに丁重な返事の仕方。

【しばしや】−薫の呼び止めの詞。
【年ごろ人伝てに】−以下「いと本意なからむ」まで、薫の詞。
【御琴の音どもを】−姫君たちの琴の音色。接尾語「ども」複数を表す。
【つきなくさし過ぎて】−『集成』は「折も考えず出過ぎて」。『完訳』は「ぶしつけにもさしでがましく」と訳す。

【人聞かぬ時は】−以下「思しのたまはするなり」まで、宿直人の詞。
【音もせさせたまはず】−「せさせたまはず」二重敬語。主語は姫君たち。
【隠させたまひ】−主語は八宮。二重敬語。

【あぢきなき御もの隠しなり】−以下「聞き出づべかめるを」まで、薫の詞。
【皆人ありがたき世のためしに聞き出づべかめるを】−『集成』は「世間では、世にも珍しい例として、お噂を聞き出して知っているらしいのに」。『完訳』は「世間ではみな世にもまれなお方の例として評判せずにはおくまいに」と訳す。
【なほしるべせよ】−以下「おぼえたまはぬなり」まで、薫の詞。

【あなかしこ】−以下「聞こえやはべらむ」まで、宿直人の詞。
【心なきやうに】−『集成』は「とんでもないことをしたと」。『完訳』は「物のわきまえのない者と」「情理をわきまえぬ者と」と訳す。

 [第三段 薫、姉妹を垣間見る]

【あなたに通ふべかめる透垣の戸を】−推量の助動詞「べかめる」は薫の推量。以下、薫の視点を通して叙述している。
【簾を短く巻き上げて】−『集成』は「高く」。『新大系』は「高く巻きあげる意か」。『完訳』は「簾を低く巻き上げて」と注す。
【人びとゐたり】−女房。
【内なる人一人】−明融臨模本と大島本は「内なる人一人」とある。『完本』は諸本に従って「一人は」と「は」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。以下、中君の描写。

【扇ならでこれしても月は招きつべかりけり】−中君の詞。扇で月を招くという故事について、『異本紫明抄』は「月重山に隠れぬれば、扇をあげて之を喩ふ」(和漢朗詠集、仏事)を指摘。

【匂ひやかなるべし】−推量の助動詞「べし」薫の推量。薫の視点を通して叙述する。
【添ひ臥したる人は】−大君。

【入る日を返す撥こそありけれ】−以下「御心かな」まで、大君の詞。『集成』は「夕日を呼び返す撥のことは聞いていますが、(月とは)変った思いつきをなさるのね」と訳す。『源氏釈』は「還城楽陵王を危ぶめむとするに、日の暮るれば、撥して日を手掻きたまふに、引き返されたる也」と注す。舞楽「陵王」の所作を踏まえた発言。

【及ばずともこれも月に離るるものかは】−「これ」は撥をさす。琵琶の撥を収める所を隠月というので無関係ではない、と言ったもの。

【昔物語などに語り伝へて】−以下「さしもあらざりけむ」まで、薫の心中を間接話法的に叙述。『宇津保物語』「俊蔭」巻、『落窪物語』などに零落した姫君が琴を弾く話が出てくる。
【げにあはれなるものの隈ありぬべき世なりけり】−薫の心中。
【心移りぬべし】−推量の助動詞「べし」は語り手の推量。『湖月抄』は「草子地に云也」と指摘。『集成』は「「心移りぬべし」は、薫の心中の思いをそのま地の文にしたもの」。『完訳』は「語り手の評言。薫に姫君への執心が起って不思議はないとする」と注す。

【また月さし出でなむ】−薫の心中。
【告げきこゆる人やあらむ】−薫の疑問。薫を通して語る叙述。
【衣の音もせず】−『集成』は「衣擦れの音もせず。着古して糊気が落ちた衣裳」と注す。

【やをら出でて京に御車率て参るべく人走らせつ】−明融臨模本と大島本は「やをらいてゝ」とある。『完本』は諸本に従って「やをら立ち出でて」と「立ち」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。主語は薫。帰りための牛車を迎えにやった。行きは微行のため馬で来た。
【ありつる侍に】−宿直人をいう。

【折悪しく】−以下「聞こえさせむかし」まで、薫の詞。
【なかなかうれしく思ふことすこし慰めてなむ】−父宮不在のためにかえって姫君たちの琴の音色を聴くことができてうれしい、の意。

【参りて聞こゆ】−宿直人が大君のもとに行って。

 [第四段 薫、大君と御簾を隔てて対面]

【かく見えやしぬらむとは思しも寄らで】−「かく」は薫に姿形をすっかり見られてしまったことをさす。
【うちとけたりつることどもを聞きやしたまひつらむ】−大君の心中。
【驚かざりける心浅さよ】−大君の心中。

【いとうひうひしき人なめるを】−連語「なめる」の推量の助動詞と断定の助動詞の主体は薫。薫の視点を通して叙述。
【折からにこそよろづのことも】−薫の心中。

【この御簾の前には】−以下「頼もしうはべる」まで、薫の詞。
【はしたなくはべりけり】−過去の助動詞「けり」詠嘆の意。
【さま異にこそ】−明融臨模本と大島本は「さまことにこそ」とある。『完本』は諸本に従って「さま異にてこそ」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【露けき度を重ねては】−『集成』は「こうして、露に濡れ濡れ何度も参りましたなら。「度」に「旅」を響かす」と注す。『完本』『新大系』は「旅」の文字を宛てる。

【かたはらいたければ】−主体は姫君。
【女ばらの奥深きを】−『完訳』は「奥のほうに寝ている年輩の女房を」と注す。

【何ごとも】−以下「聞こゆべく」まで、大君の詞。
【いかばかりかは】−明融臨模本は「いか許(△&許)かは」とある。すなわち元の文字を摺り消して重ねて「許」と訂正したものである。本文と一筆である。親本の定家本の訂正跡を同様に再現したものか。大島本は「いかゝハ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「いかがは」と校訂する。『新大系』は底本のまま「いかがは」とする。

【かつ知りながら】−以下「思ふさまにはべらむ」まで、薫の詞。「かつ」は大君の「何ごとも思ひ知らぬ」云々というのを受けていう。
【一所しも】−『集成』は「ほかならぬあなたが」と訳す。
【ありがたうよろづを思ひ澄ましたる御住まひなどに】−『完訳』は「以下、八の宮の道心に関連づけて大君の聰明さを称揚」と注す。
【たぐひきこえさせたまふ御心のうちは】−八宮と一緒に生活する大君の心についていう。
【忍びあまりはべる深さ浅さのほども】−薫の心をいう。

【さやうの方は】−「世の常の好き好きしき筋」をさす。
【なびくべうもあらぬ心強さになむ】−薫の決心の固いことをいう。

【聞こえさせ所に頼みきこえさせ】−主語は薫。大君を薫の話を聞いてくれる人として。『集成』は「聞いて頂けるお方と、頼りにさせて頂き。話の分る方として尊敬するという。最高の賛辞」と注す。
【世離れて眺めさせたまふらむ御心の紛らはしには】−主語は大君。
【さしも驚かせたまふばかり聞こえ馴れはべらば】−明融臨模本は「おとろかせ給はかり」とある。大島本は「おとろかさせたまふ」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「おどろかさせ」と校訂する。『新大系』は底本(大島本)のまま「おどろかさせ」とする。『集成』は「そちらからお声をかけて頂くほど親しくさせて頂けましたら」。『完訳』は「そちらからお便りをくださるくらい親しくさせていただけるのでしたなら」と訳す。

 [第五段 老女房の弁が応対]

【たとしへなくさし過ぐして】−弁の態度。明融臨模本には「老詞」という傍記がある。ここから弁の詞とする読みもあった。

【あなかたじけなや】−以下「知らぬやうにはべるこそ」まで、弁の詞。
【御簾の内にこそ】−係助詞「こそ」の下に「入れさせたまふべけれ」などの語句が省略。
【やうにはべるこそ】−係助詞「こそ」の下に「かたはらいたけれ」などの語句が省略。

【いともあやしく】−以下「にくきにやはべらむ」まで、弁の詞。『完訳』は「以下、不遇の八の宮をいう」と注す。
【世の中に住まひたまふ人の数にもあらぬ御ありさまにて】−『集成』は「八の宮の宇治での生活をいう」と注す。
【なりまさりはべるめるに】−推量の助動詞「めり」主観的推量は、話者である弁の主観的推量を表す。
【ありがたき御心ざしのほどは】−薫の訪問に対する感謝の気持ち。
【数にもはべらぬ心にも】−弁自身をいう。
【思ひたまへはべるを】−明融臨模本と大島本は「思給へ侍を」とある。『完本』は諸本に従って「思ひたまへきこえさせはべるを」と「きこえさせ」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【若き御心地にも思し知りながら聞こえさせたまひにくきにやはべらむ】−姫君についていう。

【つつみなくもの馴れたるもなま憎きものから】−『集成』は「老女の、人の応対に馴れた態度を、いやだと思う」。『完訳』は「無遠慮に男に応じなれているのも。以下、薫の、弁への感想」と注す。
【よしある声】−『集成』は「優雅な」。『完訳』は「声にも嗜みがうかがえるので」と注す。

【いとたづきも知らぬ心地】−以下「こよなかりけり」まで、薫の詞。明融臨模本に付箋「をちこちのたつきもしらぬ山中におほつかなくもよふことり哉」(古今集春上、二九、読人しらず)とある。『孟津抄』が指摘する。
【御けはひにこそ】−係助詞「こそ」の下に「あれ」などの語句が省略。

【几帳の御より見れば】−主語は弁。
【曙】−明融臨模本は「あけほの」とある。大島本は「あけほのゝ(ゝ$<朱>)」とある。すなわち、「の」を朱筆でミセケチにする。『完本』は諸本に従って「曙の」と「の」を補訂する。『集成』は底本のまま。『新大系』は底本の朱筆ミセケチに従う。
【げにやつしたまへる】−女房たちの薫を見た感想。
【うたてこの世の外の匂ひにや】−女房たちの薫の発散する香の感想。『集成』は「極楽浄土の芳香はかくやと思う気持」と注す。

 [第六段 老女房の弁の昔語り]

【さし過ぎたる罪もやと】−以下「聞こえさせずはべりけれ」まで、弁の詞。
【あはれなる昔の御物語の】−薫の過去に関する話。敬語「御」がついているので想像される。格助詞「の」所有格を表す。「かたはしをも」に係る。
【いかならむついでにうち出で聞こえさせ】−挿入句。

【おほかたさだ過ぎたる人は】−薫の視点を通しての叙述。

【ここにかく参るをば】−明融臨模本は「まいるをは」とある。大島本は「まいることハ」とある。『集成』『完本』は「参ることは」と校訂する。『新大系』は底本のまま「参ることは」とする。以下「言な残いたまひそかし」まで薫の詞。弁にすべて話すよう言う。
【かくあはれ知りたまへる人もなくて】−『集成』は「八の宮とは、経文を通じての学問的な問答がおもである」。『完訳』は「弁の「あはれなる御物語を受け、さらに前の「げに思ひしりたまひける頼み」もひびく」と注す。

【かかるついでしも】−以下「ことわりになむ」まで、弁の詞。
【かかる古者】−弁自身をいう。
【知ろしめされはべらなむ】−主語はあなた薫。終助詞「なむ」他に対するあつらえの願望の意。

【三条の宮にはべりし小侍従は】−柏木と女三宮との密通を手引した女三宮の乳母子(「若菜下」巻)。
【はるかなる世界より伝はりまうで来て】−遠い地方の国から縁故を頼って都に上ってきた、意。
【これに】−ここに、の意。

【知ろしめさじかし】−以下の内容に係る句。
【藤大納言と申すなる】−紅梅大納言。「なる」伝聞推定の助動詞。
【右衛門督にて隠れたまひにし】−柏木をいう。

【思うたまへらるるを】−明融臨模本は「おもふたまへらるゝを(を+手ヲ折テカソヘ侍レハ)」とある。すなわち、「手ヲ折テカソヘ侍レハ」を補入する。後人の筆である。大島本は「おもふたまへらるゝを」とある。『完本』は諸本と明融臨模本の補入に従って「手を折りて数へはべれば」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【夢のやうになむ】−係助詞「なむ」の下に「思ふ」などの語句が省略。

【弁が母になむはべりし】−身分が下の者は上の人に向かって自分の名をいう。
【人数にもはべらぬ身なれど】−自分自身をいう。柏木の乳母子として仕えたことをいう。
【人に知らせず御心よりはた余りけることを】−主語は柏木。敬語「御」がついている。
【つきじろひはべるも】−明融臨模本と大島本は「侍も」とある。『完本』は諸本に従って「はべるめるも」と「める」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

【あはれにおぼつかなく思しわたることの筋】−『完訳』は「薫は前から出生の秘事を感知(匂宮)。真相を知った趣」と注す。
【げに人目もしげし】−「げに」は弁の「若き人びとも」云々を受けた薫の同意する気持ち。『集成』は「以下、薫の心中」と注す。

【そこはかと思ひ分くことはなきものから】−以下「口惜しうなむ」まで、薫の詞。『完訳』は「はっきり思い当るふしもないが。委細を知りたい気持から言う」と注す。
【はしたなかるべきやつれを】−身をやつした狩衣姿。
【思うたまふる心のほどよりは口惜しうなむ】−『集成』は「この私の心の内からいたしますれば、残念に存じます。心にまかせるあら、もっといたいのだが、という挨拶」と注す。

【かのおはします寺】−八宮がいらっしゃる寺。

 [第七段 薫、大君と和歌を詠み交して帰京]

【峰の八重雲思ひやる隔て多く】−『花鳥余情』は「白雲のやへに重なるをちにても思はむ人に心へだつな」(古今集離別、三八〇、貫之)「思ひやる心ばかりはさはらじをなにへだつらむ峯の白雲」(後撰集離別・羈旅、一三〇七、橘直幹)を指摘。
【何ごとを思し残すらむ】−以下「ことわりぞかし」まで、薫の心中。『集成』は「さぞ物思いの限りを尽くしていられよう」と訳す。

【あさぼらけ家路も見えず尋ね来し槙の尾山は霧こめてけり】−薫から大君への贈歌。帰る気持ちがしない、という挨拶の歌。「槙の尾山」は宇治川右岸にある山、歌枕。
【心細くもはべるかな】−歌に添えた詞。心情を訴える。

【都の人の目馴れたるだになほいとことに思ひきこえたるをまいていかがはめづらしう見きこえざらむ】−『湖月抄』は「草子地に薫のさまをいへり」と注す。
【見きこえざらむ】−明融臨模本と大島本は「みきこ江さらん」とある。『完本』は諸本に従って「見ざらん」と「きこえ」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【御返り聞こえ伝へにくげに思ひたれば】−主語は女房。

【雲のゐる峰のかけ路を秋霧のいとど隔つるころにもあるかな】−大君の返歌。「家路」を「かけ路」と変え、「霧」の語句はそのまま、「隔つ」を父宮と薫の間の意として返す。『集成』は「「峰の八重雲思ひやる隔て多くあはれなるに」とあった薫の思いと、期せずして同じ心を詠む」と注す。

【げに心苦しきこと多かるにも】−「なほこの姫君たちの御心うちども心苦しう」を受けた薫の納得した気持ち。

【なかなかなるほどに】−以下「恨めしうなん」まで、薫の詞。

【網代は】−以下「けしきなり」まで、供人の詞。

【あやしき舟どもに】−『集成』は「以下、薫の眼前の景、その思い」と注す。
【行き交ふさまどもの】−格助詞「の」は文脈上「を」と同じはたらきをし、「思ひ続けらる」にかかる。
【はかなき水の上に】−以下「思ふべき世かは」まで、薫の心中。
【われは浮かばず玉の台に静けき身と思ふべきかは】−『完訳』は「このあたり「玉の台も同じことなり」(夕顔)とする源氏の無常観にも類似」と注す。
【思ひ続けらる】−「らる」自発の助動詞。

【橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる】−薫から大君への贈歌。『河海抄』は「さむしろに衣かたしきこよひもや我を待つらむ宇治の橋姫」(古今集恋四、六八九、読人しらず)を指摘。
【眺めたまふらむかし】−歌に添えた詞。

【かかる折には】−明融臨模本と大島本は「かゝるをりには」とある。『完本』は諸本に従って「をりは」と「に」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

【さしかへる宇治の河長朝夕のしづくや袖を朽たし果つらむ】−大君の返歌。「雫」「袖」の語句はそのまま用い、「橋姫」は「宇治」、「さす棹」は「さしかへる」と変え、「袖は濡れぬる」を舟長の棹の雫で「袖を朽たしはつらむ」と切り返した。
【身さへ浮きて】−歌に添えた詞。『源氏釈』は「さす棹の雫に濡るる袖ゆゑに身さへ浮きても思ほゆるかな」(出典未詳)を指摘。『集成』は「浅みこそ袖はひつらめ涙川身さへ流ると聞かば頼まむ」(古今集恋三、六一八、業平朝臣)を指摘。

【まほにめやすくもものしたまひけり】−明融臨模本は「めやすくも(も+も)」とある。すなわち「も」を補入する。本文と一筆か。とすれば、定家本にも「も」が補入の形で記されていたとなる。大島本は「めやすくも」とある。『完本』は諸本に従って「めやすく」と校訂する。『集成』は底本の補入に従う。『新大系』は底本のままとする。

【御車率て参りぬ】−供人の声。

【帰りわたらせたまはむほどにかならず参るべし】−薫の宿直人への詞。「帰る」の主語は八宮。

 [第八段 薫、宇治へ手紙を書く]

【なほ思ひ離れがたき世なりけり】−薫の心中。自省の気持ち。『集成』は「薫の気持に即した書き方」と注す。

【筆ひきつくろひ】−明融臨模本と大島本は「ふて」とある。『完本』は諸本に従って「筆は」と「は」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

【うちつけなるさまにやと】−以下「はるけはべらむ」まで、薫から大君への手紙。
【御山籠もり果てはべらむ日数も】−八宮の山籠もりをいう。
【いぶせかりし霧の迷ひもはるけはべらむ】−『完訳』は「薫が霧に濡れてむなしく帰ったが、彼に応じない大君の薄情さ。二人の「霧」の贈答歌の憂愁の思いも重なる」と注す。

【かの老い人訪ねて文も取らせよ】−薫の詞。

【あまたせさせたまふ】−『集成』は「たくさん用意させなさる」。『完訳』は「たくさん用意させてお持たせになる」と訳す。

【かの御寺にもたてまつりたまふ】−係助詞「も」同類を表すが、「御使」をさす。当然に捧げ物(お布施)も持参した。

【宿直人が】−明融臨模本と大島本は「とのひ人か」とある。『完本』は諸本に従って「宿直、かの」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【御脱ぎ捨ての艶にいみじき狩の御衣ども】−薫が宿直人に与えた衣服をさす。
【似つかはしからぬ袖の香を】−『休聞抄』は「梅の花立ち寄るばかりありしより人のとがむる香にぞしみける」(古今集春上、三五、読人しらず)を指摘。

【いとむくつけきまで】−以下「失ひてばや」まで、宿直人の心中、間接的叙述。
【所狭き人の御移り香にて】−以下「あまりなるや」まで、『孟津抄』は「草子地也」。『集成』は「諧謔を弄した草子地」と注す。

 [第九段 薫、匂宮に宇治の姉妹を語る]

【かく御消息ありき】−女房の詞。「宮」は八宮をさす。

【何かは】−以下「心ぞとめたらむ」まで、八宮の詞。
【亡からむ後もなど一言うちほのめかしてしかば】−「て」完了の助動詞。「しか」過去の助動詞、已然形。接続助詞「ば」、確定条件を表す。『完訳』は「薫はすでに八の宮から、宮死後の姫君たちを遺託されていた」と注す。

【参うでむと思して】−主語は薫。
【三の宮の】−以下「御心騒がしたてまつらむ」まで、薫の心中。匂宮をさす。格助詞「の」は主格、「のたまふものを」が述語。
【聞こえはげまして】−主語は薫。
【御心騒がしたてまつらむ】−匂宮の好色心を煽ろう、の意。
【夕暮に参りたまへり】−薫が匂宮邸に。

【宇治の宮の御こと】−明融臨模本と大島本は「宇治の宮の御事」とある。『完本』は諸本に従って「宇治の宮のこと」と「御」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【見し暁のありさま】−垣間見した様子。「暁」はまだ夜の深い頃。

【さればよと御けしきを見て】−主語は薫、「御けしき」は匂宮の顔色。

【さてその】−以下「まろならましかば」まで、匂宮の詞。
【まろならましかば】−下に「見せまし」などの語句が省略。主語は「まろ」匂宮。自分なら薫に見せるだろうに、の意。

【さかし】−以下「おぼえはべるべき」まで、薫の詞。
【御覧ずべかめる】−主語は匂宮。
【見せさせたまはぬ】−わたし薫に。『集成』は「このあたり、帚木の巻の雨夜の品定めの源氏と頭の中将の応酬を思わせる」と注す。
【かくいとも埋れたる身に】−薫自身を遜っていう。『集成』は「匂宮の気を弾く言い方」と注す。
【いかでか尋ね寄らせたまふべき】−反語表現。『完訳』は「実際には高貴な匂宮の宇治行きは困難だとして、逆に彼の関心をあおり続ける」と注す。

【さるかたに】−それ相応に。
【おのづからはべべかめり】−明融臨模本と大島本は「はへゝかめり」「侍へかめり」とある。『完本』は諸本に従って「はべるべかめり」と校訂する。『集成』『新大系』はそれぞれ底本のままとする。

【ほのかなりし月影の見劣りせずはまほならむはや】−格助詞「の」連体修飾。ほのかな月明かりで見たとおりの、の意。連語「はや」強い感動を表す。
【あらまほしきほどとは】−明融臨模本と大島本は「ほとゝは」とある。『完本』は諸本に従って「ほどと」と「は」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

【おぼろけの人に心移るまじき人の】−薫のことをいう。
【おろかならじ】−匂宮の心中。

【なほまたまたよくけしき見たまへ】−匂宮の詞。

【限りある御身のほどのよだけさを】−高貴な身分上の制限。

【いでや】−以下「はべるべき」まで、薫の詞。
【心ながらかなはぬ心つきそめなばおほきに思ひに違ふべきことなむ】−『集成』は「女に心をとめて、遁世も叶わぬことになれば大変と逃げる」と注す。
【いであなことことし】−以下「見果ててしがな」まで、匂宮の詞。
【心のうちには】−薫の心中をさす。
【かの古人の】−弁をさす。
【いとどうちおどろかれて】−明融臨模本と大島本は「をとろかれて」とある。『完本』は諸本に従って「おどろかされて」と「さ」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【をかしと見ることもめやすしと聞くあたりも】−宇治の八宮姉妹のこと。
【何ばかり心にもとまらざりけり】−『完訳』は「前には姫君への関心が示された、ここでは出生の秘事への関心がより強い」と注す。

 

第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る

 [第一段 十月初旬、薫宇治へ赴く]

【十月になりて五六日のほどに宇治へ参うでたまふ】−十月は初冬である。しかし、実際の冬は立冬の日からである。薫は晩秋に宇治を訪問して以来の宇治行き。

【網代をこそこのころは御覧ぜめ】−供人の詞。

【何かその蜉蝣に争ふ心にて】−以下「網代にもよらむ」まで、薫の心中。『集成』は「(蜉蝣に)「氷魚(ひを)」を響かせ、「寄る」は、氷魚が網代に寄る意を下に含む」。『完訳』は「氷魚ではないが、蜉蝣とはかなさを争う心で網代見物でもあるまい」と注す。

【文どもの深きなど】−経文類の意味深い所。
【義など言はせたまふ】−『集成』は「解釈などおさせになる」。『完訳』は「講釈などおさせになる」と訳す。

【あはれも過ぎてもの恐ろしく心細き所のさまなり】−宇治の荒寥たる自然。貴族のもののあはれを超越。

【思ふほどに】−主語は薫。
【ありししののめ思ひ出でられて】−姫君たちが合奏していた場面。
【琴の音のあはれなることのついて作り出でて】−『集成』は「琴(きん)」、『完訳』は「琴(こと)」と振仮名付ける。三条西家本が「きむ」とある。他は漢字表記。八宮は琴の琴の名手であもある。

【さきのたびの】−明融臨模本と大島本は「さきのたひの」とある。『完本』は諸本に従って「前のたび」と「の」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。以下「思うたまへらるる」まで、薫の詞。
【霧に惑はされはべりし曙に】−前には「暁」「しののめ」などとあった。
【いとめづらしき物の音一声】−姫君たちの合奏を聴いたことをいう。

【色をも香をも】−以下「皆忘れてなむ」まで、八宮の返事。

【いとつきなく】−以下「べかりける」まで、八宮の詞。薫の後について弾こうの意。

【さらに】−以下「思うたまへしか」まで、薫の詞。副詞「さらに」は「思うたまへられざりけり」にかかる。『集成』は「先晩の琵琶の音をほめ、自らを卑下する言葉」と注す。琵琶は大君の弾く楽器。

【いであなさがなや】−以下「御ことなり」まで、八宮の詞。
【御耳とまるばかりの手などは】−「御耳」は薫の耳、「手」は娘たちの演奏技量。
【何処よりかここまで伝はり来む】−反語表現。『集成』は「楽器の奏法は、高貴の人々からの伝承をよしとした。八の宮卑下の言葉」と注す。

【峰の松風のもてはやすなるべし】−『源氏釈』は「琴の音に峰の松風かよふらしいづれの緒より調べそめけむ」(拾遺集雑上、四五一、斎宮女御)を指摘。明融臨模本は「峰」に朱合点し付箋に指摘。この付箋は定家本を継承するものか。「なるべし」は語り手の推量。
【心ばへあり】−明融臨模本は「心はえあり(り$ル)」とある。すなわち「り」をミセケチにして「ル」と訂正する。後人の筆である。大島本は「心はえあり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「心ばへある」と校訂する。『新大系』は底本のままとする。

 [第二段 薫、八の宮の娘たちの後見を承引]

【このわたりに】−以下「おぼえはべる」まで、八宮の詞。
【箏の琴の音】−明融臨模本の表記は「生のこと」。『集成』は「箏(しやう)の琴」とルビ。『完訳』は「箏(さう)の琴」とルビ。中君の弾く楽器。
【心とどめてなどもあらで久しうなりにけりや】−『完訳』は「俗事を捨てた宮は、姫君の音楽教育にも熱心でないのだろう」と注す。 10心にまかせておのおのかきならすへかめるは(一五三六H)−合奏ではなくそれぞれが勝手に思い思いに弾いている、という意。
【論なう物の用に】−「論なう」「用に」などの漢語表現を含む。
【掻き鳴らしたまへ】−八宮の詞。姫君たちに演奏を勧める。

【独り言を】−『完訳』は「独り琴を」と整定。誰かに聴かせる目的で弾いたのではない琴の意。
【だにあるものを】−『集成』は「「だにあるものを」の「だにあり」は、きまった語法で、「あり」は、下に「かたはなり」を代行する」と注す。
【そそのかしたまへど】−明融臨模本と大島本は「そゝのかし給へと」とある。『完本』は諸本に従って「そそのかしきこえたまへど」と「きこえ」を補訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。
【とかく聞こえすさびて】−明融臨模本「すさ(さ$ま)ひて」とある。すなわち「さ」をミセケチにして「ま」と訂正する。大島本は「すさひて」とある。『集成』『完本』は訂正以前本文に従う。『新大系』は底本のままとする。

【かくあやしう世づかぬ思ひやりにて過ぐすありさまどもの】−「思ひやり」は他者の目から想像される意。『集成』は「かように風変りの、山家育ちでさぞ気がきかぬ者のように人から思われて過す娘たちの境遇が」と訳す。

【人にだにいかで知らせじと】−以下「ほだしなりけれ」まで、八宮の詞。『集成』は「(娘がいることなど)世間の人にも知らすまいして、隠して育ててきましたが。まして夫を持たせることなど考えもしなかった、という含意」と注す。
【行く末遠き人は】−八宮の二人娘の将来。

【うち語らひたまへば】−『集成』は「胸の内をお話しになるので」と訳す。

【わざとの御後見たちはかばかしき筋にははべらずとも】−明融臨模本と大島本は「すちには」とある。『完本』は諸本に従って「筋に」と「は」を削除する。『集成』『新大系』は底本のままとする。以下「違へはべるまじくなむ」まで、薫の詞。『集成』は「夫として面倒をみるのではなくても、の意」と注す。「わざとの御後見」と「はかばかしき筋」は並立の構文。同じことを言っている。
【一言も】−自分が約束した言葉さす。
【うち出で聞こえさせてむ】−「聞こえさす」は薫の八宮に対する敬語。
【違へはべるまじくなむ】−係助詞「なむ」の下に「思ひたまふる」等の語句が省略。

【いとうれしきこと】−八宮の詞。

 [第三段 薫、弁の君の昔語りの続きを聞く]

【かの老い人】−弁の君をいう。
【さぶらはさせたまふ】−「させ」使役の助動詞。八宮が姫君の後見役に、の意。
【年も】−明融臨模本は「としも(も=は)」とある。すなわち「は」を傍記する。大島本は「年も」とある。『完本』は諸本と明融臨模本の傍記に従って「年は」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

【げによその人の上と】−以下「聞きつけつらむ」まで、薫の心中。
【古事ども】−『集成』は「「古事」は、昔の出来事。柏木と女三の宮の、許されない恋愛事件」と注す。
【いかなりけむことの初めにかと】−『集成』は「一体事の起りはどうだったのかと」と訳す。

【さてもかく】−以下「及ばざりけるを」まで、薫の詞。
【残りたまへりけるを】−『集成』は「を」接続助詞の順接の意、読点で「まだいらしたのだから」。『完訳』は「を」間投助詞、詠歎の意、句点で「まだ残っていらしっしゃったのですね」と訳す。
【なほかく言ひ伝ふるたぐひやまたもあらむ】−『集成』は「自分や母宮のために、秘密の漏れるのを怖れる気持がある」と注す。

【小侍従と弁と放ちて】−以下「この世のことににもはべらじ」まで、弁の君の詞。小侍従とわたし弁意外には知る者はないという。
【うちまねびはべらず】−『集成』は「「まねぶ」は、自分の見聞きしたことを、ありのまま語ること」と注す。
【かの御影に】−故柏木衛門督をさす。
【御心よりあまりて思しける時々】−主語は柏木。
【ただ二人の中に】−小侍従とわたしの間で。敬語のないこことに注意。『集成』は「あえて核心に迫らず、綺麗ごとにとどめた言い方」と注す。
【かたはらいたければ】−『集成』は「失礼かと存じますので」。『完訳』は「畏れ多うございますので」と訳す。

【かかる身には置き所なくいぶせく思うたまへわたりつつ】−『集成』は「女房の身に余る遺言の重さ。薫出生の秘密である」と注す。
【仏は世におはしましけりと】−『完訳』は「薫との邂逅を仏の加護と思う」と注す。

【御覧ぜさすべき物もはべり】−薫に御覧になっていただきたいものがある、の意。推量の助動詞「べし」当然の意。
【今は何かは焼きも捨てはべりなむ】−お話した上はこの手紙を持っている必要はない、それで、焼き捨ててしまおう、という意。
【落ち散るやうもこそと】−連語「もこそ」懸念を表す。
【待ち出でたてまつりてしは】−明融臨模本と大島本は「たてまつりてしは」とある。『完本』は諸本に従って「たてまつりてしかば」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

 [第四段 薫、父柏木の最期を聞く]

【空しうなりたまひし騒ぎに】−以下「さすがにめぐらひはべれ」まで、弁の君の詞。
【母にはべりし人】−弁の母。柏木の乳母。
【藤衣たち重ね】−歌語的表現。「藤衣」は喪服、「衣」の縁語で「裁ち」「重ね」を用いる。「重ね」は柏木と母の死の両方を言ったもの。
【よからぬ人の心をつけたりけるが】−身分の高くない人でわたしに懸想していた者が、の意。
【西の海の果てまで】−西海道、九州の地。『集成』は「「果て」とあるので、薩摩の国(鹿児島県)であろう。国守は、正六位下相当。中国である」と注す。
【京のことさへ】−『完訳』は「柏木の遺児薫のことはもちろん、都の様子一般までも」と注す。
【その人もかしこにて亡せはべりにし】−弁の夫も九州の地で亡くなった。
【今はかう世に交じらふべきさまにもはべらぬを】−弁自身について謙遜していう。
【冷泉院の女御殿の御方】−弘徽殿の女御。『集成』は「柏木の姉」。『完訳』は「柏木の妹」と注す。
【深山隠れの朽木になりにてはべり】−『異本紫明抄』は「形こそ深山隠れの朽木なれ心は花になさばなりなむ」(古今集雑上、八七五、兼芸法師)「春秋にあへど匂ひもなきものは深山隠れの朽木なるらむ」(貫之集)を指摘。

【さすがにめぐらひはべれ】−『集成』は「それでもやはり生き永らえております」と訳す。

【よしさらばこの昔物語は】−以下「過ぎぬべかりけること」まで、薫の詞。
【人聞かぬ心やすき所にて聞こえむ】−主語は薫。「聞こゆ」は謙譲の気持ちを含む動詞。
【ほのかにおぼゆるは】−挿入句。
【五つ六つばかりなりしほどにや】−薫が五、六歳だったころ、の意。現在、二十二歳。
【罪重き身にて過ぎぬべかりけること】−『集成』は「仏教では、父母の恩を特に重んじ、実の父母を知らず、孝養を尽さないのを重い罪とした」と注す。

 [第五段 薫、形見の手紙を得る]

【御前にて失はせたまへ】−以下「思うたまふる」まで、弁の君の詞。
【われなほ生くべくもあらずなりにたり】−柏木の詞。
【のたまはせて】−主語は柏木。
【さだかに伝へ参らせむと思うたまへしを】−『完訳』は「小侍従を介して女三の宮に。当初、女三の宮に渡すはずだった」と注す。

【つれなくて】−『完訳』は「薫はあえて平静に無表情を装う。「つれなし」は感動すべきことに感動しないこと」と注す。

【かやうの古人は】−以下「言ひ出づらむ」まで、薫の心内。
【かへすがへすも】−以下「さもや」まで、薫の心内。
【散らさぬよしを誓ひつる】−主語は弁の君。
【さもや】−薫の疑念。下に「ある」が省略。「さ」は弁の誓い。

【御粥強飯など参りたまふ】−主語は薫。「まゐる」は「食ふ」の尊敬語。
【昨日は】−以下「参るべき」まで、薫の詞。文末は地の文に流れる。途中に「はべる」という会話文または手紙文に使用される語法が見られる。
【聞こえたまふ】−薫が八宮に。

【かくしばしば立ち寄らせたまふ】−以下「心地してなむ」まで、八宮の詞。
【光に山の蔭もすこし明らむる心地して】−「光」「蔭」「明らむ」といった縁語表現を使用。

 [第六段 薫、父柏木の遺文を読む]

【上といふ文字を上に書きたり】−『集成』は「「上」は、奉るの意。小侍従を介して、女三の宮にさし上げるつもりだったので、こう書いてある」と注す。
【かの御名の封つきたり】−『集成』は「かの人(柏木)の御名の封がついている。結び目に、草名(実名を崩し書きにした花押のようなものを書き、封印とする」と注す。

【色々の紙にて】−『集成』は「さまざまの色の紙で。鳥の子の薄様を、色々に染めたもので、恋文に用いる」と注す。
【御文の返こと】−女三の宮からの返事。
【かの御手にて】−柏木の筆跡。薫の目を通して語る。
【病は重く】−以下「悲しきことを」まで、薫の文面の要約。
【つぶつぶと】−『集成』は「こまごまと」。『完訳』は「放ち書き。衰弱のために連綿体にならない」「ぽつりぽつりと」と注す。

【目の前にこの世を背く君よりもよそに別るる魂ぞ悲しき】−薫から女三の宮への贈歌。『花鳥余情』は「声をだに聞かで別るる魂よりもなき床に寝む君ぞ悲しき」(古今集哀傷、八五八、読人しらず)を指摘。出家しても生き残るあなたより死んでいくわたしのほうが悲しい、と訴える。

【めづらしく聞きはべる】−以下「松の生ひ末」まで、柏木の文。薫誕生を聞いて喜ぶ。
【二葉のほども】−薫を喩えていう。
【うしろめたう思うたまふる方はなけれど】−『集成』は「源氏の子として育つのだから安心、という」と注す。

【命あらばそれとも見まし人知れぬ岩根にとめし松の生ひ末】−柏木の詠歌。薫を「岩根の松」に喩える。『完訳』は「「--ば--まし」の反実仮想で、生命尽きる無念さを慨嘆」と注す。源氏も薫を「岩根の松」に喩えた歌を詠んでいる(「柏木」第四章四段)。

【小侍従の君に】−明融臨模本と大島本は「こしゝうのきみ」とある。『完本』は諸本に従って「侍従の君」と校訂する。『集成』『新大系』は底本のままとする。

【跡は消えず】−『異本紫明抄』は「書きつくる跡は千歳もありぬべし忘れや偲ぶ人のなからむ」(出典未詳)を指摘する。
【げに落ち散りたらましよ】−薫の感想。「げに」は弁の君の言葉に納得する気持ち。
【うしろめたういとほしきことどもなり】−柏木と女三の宮に対して。

【宮の御前に】−薫の母女三の宮の前に。
【恥ぢらひてもて隠したまへり】−主語は女三の宮。経文を隠した。『集成』は「当時、経文などを読むのは女らしくないこととされていたので、尼ながら恥じられるのであろう」。『完訳』は「わが子から悟りすました風姿と見られるのが、女の身として恥ずかしい。前の「若やかなる--」とともに、生身の女も感取されよう」と注す。
【何かは】−以下「知られたてまつらむ」まで、薫の心中。

源氏物語の世界ヘ
本文
ローマ字版
現代語訳
明融臨模本
大島本
自筆本奥入


橋姫(明融臨模本)