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渋谷栄一校訂(C)

  

蓬生

光る源氏の須磨明石離京時代から帰京後までの末摘花の物語

 [主要登場人物]

 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---大将殿・権大納言殿・殿・大殿・君、二十八歳から二十九歳
 末摘花<すえつむはな>
呼称---常陸宮の君・姫君・宮・君、故常陸親王の娘
 禅師の君<ぜんじのきみ>
呼称---前師の君、末摘花の兄
 北の方<きたのかた>
呼称---御叔母・大弐の北の方、末摘花の母方の叔母
 侍従の君<じじゅうのきみ>
呼称---侍従、末摘花の乳母子
 惟光<これみつ>
呼称---惟光、光る源氏の乳母子
 花散里<はなちるさと>
呼称---花散里、源氏の愛人
 紫の上<むらさきのうえ>
呼称---二条の上・対の上、光る源氏の妻

第一章 末摘花の物語 光る源氏の須磨明石離京時代

  1. 末摘花の孤独---藻塩たれつつわびたまひしころほひ
  2. 常陸宮邸の窮乏---もとより荒れたりし宮の内
  3. 常陸宮邸の荒廃---はかなきことにても、見訪らひきこゆる人は
  4. 末摘花の気紛らし---はかなき古歌、物語などやうのすさびごとにて
  5. 乳母子の侍従と叔母---侍従などいひし御乳母子のみこそ
第二章 末摘花の物語 光る源氏帰京後
  1. 顧みられない末摘花---さるほどに、げに世の中に赦されたまひて
  2. 法華御八講---冬になりゆくままに、いとど、かき付かむかたなく
  3. 叔母、末摘花を誘う---例はさしもむつびぬを、誘ひ立てむの心にて
  4. 侍従、叔母に従って離京---されど、動くべうもあらねば
  5. 常陸宮邸の寂寥---霜月ばかりになれば、雪、霰がちにて
第三章 末摘花の物語 久しぶりの再会の物語
  1. 花散里訪問途上---卯月ばかりに、花散里を思ひ出できこえたまひて
  2. 惟光、邸内を探る---惟光入りて、めぐるめぐる人の音する方やと
  3. 源氏、邸内に入る---「などかいと久しかりつる。いかにぞ
  4. 末摘花と再会---姫君は、さりともと待ち過ぐしたまへる
第四章 末摘花の物語 その後の物語
  1. 末摘花への生活援助---祭、御禊などのほど、御いそぎどもに
  2. 常陸宮邸に活気戻る---今は限りと、あなづり果てて、さまざまに
  3. 末摘花のその後---二年ばかりこの古宮に眺めたまひて

【出典】
【校訂】

 

第一章 末摘花の物語 光る源氏の須磨明石離京時代

 [第一段 末摘花の孤独]

 藻塩垂れつつわびたまひしころほひ都にも、さまざまに思し嘆く人多かりしを、さても、わが御身の拠り所あるは、一方の思ひこそ苦しげなりしか、二条の上なども、のどやかにて、旅の御住みかをもおぼつかなからず、聞こえ通ひたまひつつ、位を去りたまへる仮の御よそひをも、竹の子の世の憂き節、時々につけてあつかひきこえたまふに、慰めたまひけむ、なかなか、その数と人にも知られず、立ち別れたまひしほどの御ありさまをも、よそのことに思ひやりたまふ人びとの、下の心くだきたまふたぐひ多かり。

 常陸宮の君は、父親王の亡せたまひにし名残に、また思ひあつかふ人もなき御身にて、いみじう心細げなりしを、思ひかけぬ御ことの出で来て、訪らひきこえたまふこと絶えざりしを、いかめしき御勢にこそ、ことにもあらず、はかなきほどの御情けばかりと思したりしかど、待ち受けたまふ袂の狭きに、大空の星の光を盥の水に映したる心地して過ぐしたまひしほどに、かかる世の騷ぎ出で来て、なべての世憂く思し乱れしまぎれに、わざと深からぬ方の心ざしはうち忘れたるやうにて、遠くおはしましにしのち、ふりはへてしもえ尋ねきこえたまはず。その名残に、しばしは、泣く泣くも過ぐしたまひしを、年月経るままに、あはれにさびしき御ありさまなり。

 古き女ばらなどは、

 「いでや、いと口惜しき御宿世なりけり。おぼえず神仏の現はれたまへらむやうなりし御心ばへに、かかるよすがも人は出でおはするものなりけりと、ありがたう見たてまつりしを、おほかたの世の事といひながら、また頼む方なき御ありさまこそ、悲しけれ」

 と、つぶやき嘆く。さる方にありつきたりしあなたの年ごろは、いふかひなきさびしさに目なれて過ぐしたまふを、なかなかすこし世づきてならひにける年月に、いと堪へがたく思ひ嘆くべし。すこしも、さてありぬべき人びとは、おのづから参りつきてありしを、皆次々に従ひて行き散りぬ。女ばらの命堪へぬもありて、月日に従ひては、上下人数少なくなりゆく。

 [第二段 常陸宮邸の窮乏]

 もとより荒れたりし宮の内、いとど狐の棲みかなりて、うとましう、気遠き木立に、梟の声を朝夕に耳ならしつつ、人気にこそ、さやうのものもせかれて影隠しけれ、木霊など、けしからぬものども、所得て、やうやう現はし、ものわびしきことのみ数知らぬに、まれまれ残りてさぶらふ人は、

 「なほ、いとわりなし。この受領どもの、おもしろき家造り好むが、この宮の木立を心につけて、放ちたまはせてむやと、ほとりにつきて、案内し申さするを、さやうにせさせたまひて、いとかう、もの恐ろしからぬ御住まひに、思し移ろはなむ。立ちとまりさぶらふ人も、いと堪へたし」

 など聞こゆれど、

 「あな、いみじや。人の聞き思はむこともあり。生ける世に、しか名残なきわざ、いかがせむ。かく恐ろしげに荒れ果てぬれど、親の御影とまりたる心地する古き住みかと思ふに、慰みてこそあれ」

 と、うち泣きつつ、思しもかけず。
 御調度どもを、いと古代になれたるが、昔やうにてうるはしきを、なまもののゆゑ知らむと思へる人、さるもの要じて、わざとその人かの人にせさせたまへると尋ね聞きて、案内るも、おのづからかかる貧しきあたりと思ひあなづりて言ひ来るを、例の女ばら、

 「いかがはせむ。そこそは世の常のこと」

 とて、取り紛らはしつつ、目に近き今日明日の見苦しさを繕はむとする時もあるを、いみじう諌めたまひて、

 「見よと思ひたまひてこそ、しおかせたまひけめ。などてか、軽々しき人の家の飾りとはなさむ。亡き人の御本意違はむが、あはれなること」

 とのたまひて、さるわざはせさせたまはず。

 [第三段 常陸宮邸の荒廃]

 はかなきことにても、見訪らひきこゆる人はなき御身なり。ただ、御兄の禅師の君ばかりぞ、まれにも京に出でたまふ時は、さしのぞきたまへど、それも、世になき古めき人にて、同じき法師といふなかにも、たづきなく、この世を離れたる聖にものしたまひて、しげき草、蓬をだに、かき払はむものとも思ひ寄りたまはず。

 かかるままに、浅茅は庭の面も見えず、しげき蓬は軒を争ひて生ひのぼる。葎は西東の御門を閉ぢこめたるぞ頼もしけれど、崩れがちなるめぐりの垣を馬、牛などの踏みならしたる道にて、春夏になれば、放ち飼ふ総角の心さへぞ、めざましき。

 八月、野分荒かりし年、廊どもも倒れ伏し、下の屋どもの、はかなき板葺なりしなどは、骨のみわづかに残りて、立ちとまる下衆だになし。煙絶えて、あはれにいみじきこと多かり。

 盗人などいふひたぶる心ある者も、思ひやりの寂しければにや、この宮をば不要のものに踏み過ぎて、寄り来ざりければ、かくいみじき野良、薮なれども、さすがに寝殿のうちばかりは、ありし御しつらひ変らず、つややかに掻い掃きなどする人もなし。塵は積もれど、紛るることなきうるはしき御住まひにて、明かし暮らしたまふ。

 [第四段 末摘花の気紛らし]

 はかなき古歌、物語などやうのすさびごとにてこそ、つれづれをも紛らはし、かかる住まひをも思ひ慰むるわざなめれ、さやうのことにも心遅くものしたまふ。わざと好ましからねど、おのづからまた急ぐことなきほどは、同じ心なる文通はしなどうちしてこそ、若き人は木草につけても心を慰めたまふべけれど、親のもてかしづきたまひし御心掟のままに、世の中をつつましきものに思して、まれにも言通ひたまふべき御あたりをも、さらに馴れたまはず、古りにたる御厨子開けて、『唐守、『藐姑射の刀自』、『かぐや姫の物語』の絵に描きたるをぞ、時々のまさぐりものにしたまふ。

 古歌とても、をかしきやうに選り出で、題をも読人をもあらはし心得たるこそ見所もありけれ、うるはしき紙屋紙、陸奥紙などのふくだめるに、古言どもの目馴れたるなどは、いとすさまじげなるを、せめて眺めたまふ折々は、ひき広げたまふ。今の世の人のすめる、経うち読み、行なひなどいふことは、いと恥づかしくしたまひて、見たてまつる人もなけれど、数珠など取り寄せたまはず。かやうにうるはしくぞものしたまひける。

 [第五段 乳母子の侍従と叔母]

 侍従などいひし御乳母子のみこそ、年ごろあくがれ果てぬ者にてさぶらひつれど、通ひ参りし斎院亡せたまひなどして、いと堪へがたく心細きに、この姫君の母北の方のらから、世におちぶれて受領の北の方になりたまへるありけり。

 娘どもかしづきて、よろしき若人どもも、「むげに知らぬ所よりは、親どももまうで通ひしを」と思ひて、時々行き通ふ。この姫君は、かく人疎き御癖なれば、むつましくも言ひ通ひたまはず。

 「おのれをばおとしめたまひて、面伏せに思したりしかば、姫君の御ありさまの心苦しげなるも、え訪らひきこえず」

 など、なま憎げなる言葉ども言ひ聞かせつつ、時々聞こえけり。
 もとよりありつきたるさやうの並々の人は、なかなかよき人の真似に心をつくろひ、思ひ上がるも多かるを、やむごとなき筋ながらも、かうまで落つべき宿世ありければにや、心すこしなほなほしき御叔母にぞありける。

 「わがかく劣りのさまにて、あなづらはしく思はれたりしを、いかで、かかる世の末に、この君を、わが娘どもの使人になしてしがな。心ばせなどの古びたる方こそあれ、いとうしろやすき後見ならむ」と思ひて、

 「時々ここに渡らせたまひて。御琴の音もうけたまはらまほしがる人なむはべる」

 と聞こえけり。この侍従も、常に言ひもよほせど、人にいどむ心にはあらで、ただこちたき御ものづつみなれば、さもむつびたまはぬを、ねたしとなむ思ひける。

 かかるほどに、かの家主人、大弐になりぬ。娘どもあるべきさまに見置きて下りなむとす。この君を、なほも誘はむの心深くて、

 「はるかに、かくまかりむとするに、心細き御ありさまの、常にしも訪らひきこえねど、近き頼みはべりつるほどこそあれ、いとあはれにうしろめたくなむ」

 など、言よがるを、さらに受け引きたまはねば、
 「あな、憎。ことことしや。心一つに思し上がるとも、さる薮原に年経たまふ人を、大将殿も、やむごとなくしも思ひきこえたまはじ」
 など、怨じうけひけり。

 

第二章 末摘花の物語 光る源氏帰京後

 [第一段 顧みられない末摘花]

 さるほどに、げに世の中に赦されたまひて、都に帰りたまふと、天の下の喜びにて立ち騒ぐ。我もいかで、人より先に、深き心ざしを御覧ぜられむとのみ、思ひきほふ男、女につけて、高きをも下れるをも、人の心ばへを見たまふに、あはれに思し知ること、さまざまなり。かやうに、あわたたしきほどに、さらに思ひ出でたまふけしき見えで月日経ぬ。

 「今は限りなりけり。年ごろ、あらぬさまなる御さまを、悲しういみじきことを思ひながらも、萌え出づる春にひたまはなむと念じわたりつれど、たびしかはらどまで喜び思ふなる、御位改まりなどするを、よそにのみ聞くべきなりけり。悲しかりし折のうれはしさは、ただわが身一つのためになれるおぼえし、かひなき世かな」と、心くだけて、つらく悲しければ、人知れず音をのみ泣きたまふ。

 大弐の北の方、
 「さればよ。まさに、かくたづきなく、人悪ろき御ありさまを、数まへたまふ人はありなむや。仏、聖も、罪軽きをこそ導きよくしたまふなれ、かかる御ありさまにて、たけく世を思し、宮、上などのおはせし時のままにならひたまへる、御心おごりの、いとほしきこと」
 と、いとどをこがましげに思ひて、

 「なほ、思ほし立ちね。世の憂き時は、見えぬ山路をそは尋ぬなれ。田舎などは、むつかしきものと思しやるらめど、ひたぶるに人悪ろげには、よも、もてなしきこえじ」

 など、いと言よく言へば、むげに屈んじにたる女ばら、

 「さもなびきたまはなむ。たけきこともあるまじき御身を、いかに思して、かく立てたる御心ならむ」

 と、もどきつぶやく。
 侍従も、かの大弐の甥だつ人、語らひつきて、とどむべくもあらざりければ、心よりほかに出で立ちて、

 「見たてまつり置かむが、いと心苦しきを」

 とて、そそのかしきこゆれど、なほ、かくかけ離れて久しうなりたまひぬる人に頼みをかけたまふ。御心のうちに、「さりとも、あり経ても、思し出づるついであらじやは。あはれに心深き契りをしたまひしに、わが身は憂くて、かく忘られたるにそあれ、風のつてにても、我かくいみじきありさまを聞きつけたまはば、かならず訪らひ出でたまひてむ」と、年ごろ思しければ、おほかたの御家居も、ありしよりけにあさましけれど、わが心もて、はかなき御調度どもなども取り失はせたまはず、心強く同じさまにて念じ過ごしたまふなりけり。

 音泣きがちに、いとど思し沈みたるは、ただ山人の赤き木の実一つを顔に放たぬと見えたまふ、御側目などは、おぼろけの人の見たてまつりゆるすべきにもあらずかし。詳しくは聞こえじ。いとほしう、もの言ひさがなきやうなり。

 [第二段 法華御八講]

 冬になりゆくままに、いとど、かき付かむかたなく、悲しげに眺め過ごしたまふ。かの殿には、故院の御料の御八講、世の中ゆすりてしたまふ。ことに僧などは、なべてのは召さず、才すぐれ行なひにしみ、尊き限りを選らせたまひければ、この禅師の君参りたまへりけり。
 帰りざまに立ち寄りたまひて、

 「しかしか。権大納言殿の御八講に参りてはべるなり。いとかしこう、生ける浄土の飾りに劣らず、いかめしうおもしろきことどもの限りをなむしたまひつる。仏菩薩の変化の身にこそものしたまふめれ。五つの濁り深き世に、などて生まれたまひけむ」

 と言ひて、やがて出でたまひぬ。
 言少なに、世の人に似ぬ御あはひにて、かひなき世の物語をだにえ聞こえ合はせたまはず。「さても、かばかりつたなき身のありさまを、あはれにおぼつかなくて過ぐしたまふは、心憂の仏菩薩や」と、つらうおぼゆるを、「げに、限りなめり」と、やうやう思ひなりたまふに、大弐の北の方、にはかに来たり。

 [第三段 叔母、末摘花を誘う]

 例はさしもむつびぬを、誘ひ立てむの心にて、たてまつるべき御装束など調じて、よき車に乗りて、面もち、けしき、ほこりかにもの思ひなげなるさまして、ゆくりもなく走り来て、門開けさするより、人悪ろく寂しきこと、限りもなし。左右の戸もみなよろぼひ倒れにければ、男ども助けてとかく開け騒ぐ。いづれか、この寂しき宿にもかならず分けたる跡あなる三つの径と、たどる。

 わづかに南面の格子上げたる間に寄せたれば、いとどはしたなしと思したれど、あさましう煤けたる几帳さし出でて、侍従出で来たり。容貌など、衰へにけり。年ごろいたうつひえたれど、なほものきよげによしあるさまして、かたじけなくとも、取り変へつべく見ゆ。

 「出で立ちなむことを思ひながら、心苦しきありさまの見捨てたてまつりがたきを。侍従の迎へになむ参り来たる。心憂く思し隔てて、御みづからこそあからさまにも渡らせたまはね、この人をだに許させたまへとてなむ。などかうあはれげなるさまには」

 とて、うちも泣くべきぞかし。されど、行く道に心をやりて、いと心地よげなり。

 「故宮おはせしとき、おのれをば面伏せなりと思し捨てたりしかば、疎々しきやうになりそめにしかど、年ごろも、何かは。やむごとなきさまに思しあがり、大将殿などおはしまし通ふ御宿世のほどを、かたじけなく思ひたまへられしかばなむ、むつびきこえさせむも、憚ること多くて、過ぐしはべるを、世の中のかく定めもなかりければ、数ならぬ身は、なかなか心やすくはべるものなりけり。及びなく見たてまつりし御ありさまの、いと悲しく心苦しきを、近きほどはおこたる折も、のどかに頼もしくなむはべりけるを、かく遥かにまかりなむとすれば、うしろめたくあはれになむおぼえたまふ」

 など語らへど、心解けても応へたまはず。

 「いとうれしきことなれど、世に似ぬさまにて、何かは。かうながらこそ朽ちも失せめとなむ思ひはべる」
 とのみのたまへば、

 「げに、しかなむ思さるべけれど、生ける身を捨て、かくむくつけき住まひするたぐひははべらずやあらむ。大将殿の造り磨きたまはむにこそは、引きかへ玉の台にもなりかへらめとは、頼もしうははべれど、ただ今は、式部卿宮の御女よりほかに、心分けたまふ方もなかなり。昔より好き好きしき御心にて、なほざりに通ひたまひける所々、皆思し離れにたなり。まして、かうものはかなきさまにて、薮原に過ぐしたまへる人をば、心きよく我を頼みたまへるありさまと尋ねきこえたまふこと、いとかたくなむあるべき」

 など言ひ知らするを、げにと思すも、いと悲しくて、つくづくと泣きたまふ。

 [第四段 侍従、叔母に従って離京]

 されど、動くべうもあらねば、よろづに言ひわづらひ暮らして、
 「さらば、侍従をだに」
 と、日の暮るるままに急げば、心あわたたしくて、泣く泣く、

 「さらば、まづ今日は。かう責めたまふ送りばかりにまうではべらむ。かの聞こえたまふもことわりなり。また、思しわづらふもさることにはべれば、中に見たまふるも心苦しくなむ」

 と、忍びて聞こゆ。
 この人さへうち捨ててむとするを、恨めしうもあはれにも思せど、言ひ止むべき方もなくて、いとど音をのみたけきことにてものしたまふ。

 形見に添へたまふべき身馴れ衣も、しほなれたれば、年経ぬるしるし見せたまふべきものなくて、わが御髪の落ちたりけるを取り集めて、鬘にしたまへるが、九尺余ばかりにて、いときよらなるを、をかしげなる箱に入れて、昔の薫衣香のいとかうばしき、一壺具して賜ふ。

 「絶ゆまじき筋を頼みし玉かづら
  思ひのほかにかけ離れぬる

 故ままの、のたまひ置きしこともありしかば、かひなき身なりとも、見果ててむとこそ思ひつれ。うち捨てらるるもことわりなれど、誰に見ゆづりてかと、恨めしうなむ」

 とて、いみじう泣いたまふ。この人も、ものも聞こえやらず。

 「ままの遺言は、さらにも聞こえさせず、年ごろの忍びがたき世の憂さを過ぐしはべりつるに、かくおぼえぬ道にいざなはれて、遥かにまかりあくがるること」とて、

 「玉かづら絶えてもやまじ行く道の
  手向の神もかけて誓はむ
 命こそ知りはべらね」

 など言ふに、
 「いづら。暗うなりぬ」
 と、つぶやかれて、心も空にて引き出づれば、かへり見のみられける。

 年ごろわびつつも行き離れざりつる人の、かく別れぬることを、いと心細う思すに、世に用ゐらるまじき老人さへ、
 「いでや、ことわりぞ。いかでか立ち止まりたまはむ。われらも、えこそ念じつまじけれ」
 と、おのが身々につけたるたよりども思ひ出でて、止まるまじう思へるを、人悪ろく聞きおはす。

 [第五段 常陸宮邸の寂寥]

 霜月ばかりになれば、雪、霰がちにて、ほかには消ゆる間もあるを、朝日、夕日をふせぐ蓬葎の蔭に深う積もりて、越の白山思ひやらるるのうちに、出で入る下人だになくて、つれづれと眺めたまふ。はかなきことを聞こえ慰め、泣きみ笑ひみ紛らはしつる人さへなくて、夜も塵がましき御帳のうちも、かたはらさびしく、もの悲しく思さる。

 かの殿には、めづらし人、いとどもの騒がしき御ありさまにて、いとやむごとなく思されぬ所々には、わざともえ訪れたまはず。まして、「その人はまだ世にやおはすらむ」とばかり思し出づる折もあれど、尋ねたまふべき御心ざし急がであり経るに、年変はりぬ。

 

第三章 末摘花の物語 久しぶりの再会の物語

 [第一段 花散里訪問途上]

 卯月ばかりに、花散里を思ひ出できこえたまひて、忍びて対の上に御暇聞こえて出でたまふ。日ごろ降りつる名残の雨、いますこしそそきて、をかしきほどに、月さし出でたり。昔の御ありき思し出でられて、艶なるほどの夕月夜に、道のほど、よろづのこと思し出でておはするに、形もなく荒れたる家の、木立しげく森のやうなるを過ぎたまふ。

 大きなる松に藤の咲きかかり、月影になよびたる、風につきてさと匂ふつかしく、そこはかとなき香りなり。橘に変はりてをかしければ、さし出でたまへるに、柳もいたうしだりて、築地も障はらねば、乱れ伏したり。

 「見し心地する木立かな」と思すは、早う、この宮なりけり。いとあはれにて、おし止めさせたまふ。例の、惟光はかかる御忍びありきに後れねば、さぶらひけり。召し寄せて、
 「ここは、常陸の宮ぞかしな」
 「しかはべる」
 と聞こゆ。
 「ここにありし人は、まだや眺むらむ。訪らふべきを、わざとものせむも所狭し。かかるついでに、入りて消息せよ。よく尋ね入りてを、うち出でよ。人違へしては、をこならむ」
 とのたまふ。

 ここには、いとど眺めまさるころにて、つくづくとおはしけるに、昼寝の夢に故宮の見えたまひければ、覚めて、いと名残悲しく思して、漏り濡れたる廂の端つ方おし拭はせて、ここかしこの御座引きつくろはせなどしつつ、例ならず世づきたまひて、

 「亡き人を恋ふる袂のひまなきに
  荒れたる軒のしづくさへ添ふ」

 も、心苦しきほどになむありける。

 [第二段 惟光、邸内を探る]

 惟光入りて、めぐるめぐる人の音する方やと見るに、いささかの人気もせず。「さればこそ、往き来の道に見入るれど、人住みげもなきものを」と思ひて、帰り参るほどに、月明くさし出でたるに、見れば、格子二間ばかり上げて、簾動くけしきなり。わづかに見つけたる心地、恐ろしくさへおぼゆれど、寄りて、声づくれば、いともの古りたる声にて、まづしはぶきを先にたてて、

 「かれは誰れぞ。何人ぞ」
 と問ふ。名のりして、
 「侍従の君と聞こえし人に、対面賜はらむ」
 と言ふ。
 「それは、ほかになむものしたまふ。されど、思しわくまじき女なむはべる」
 と言ふ声、いたうねび過ぎたれど、聞きし老人と聞き知りたり。

 内には、思ひも寄らず、狩衣姿なる男、忍びやかにもてなし、なごやかなれば、見ならはずなりにける目にて、「もし、狐などの変化にや」とおぼゆれど、近う寄りて、

 「たしかになむ、うけたまはらまほしき変はらぬ御ありさまならば、尋ねきこえさせたまふべき御心ざしも、絶えずなむおはしますめるかし。今宵も行き過ぎがてに、止まらせたまへるを、いかが聞こえさせむ。うしろやすくを」

 と言へば、女どもうち笑ひて、

 「変はらせたまふ御ありさまならば、かかる浅茅が原を移ろひたまはでははべりなむや。ただ推し量りて聞こえさせたまへかし。年経たる人の心にも、たぐひあらじとのみ、めづらかなる世をこそは見たてまつり過ごしはべれ

 と、ややくづし出でて、問はず語りもしつべきが、むつかしけれ

 「よしよし。まづ、かくなむ、聞こえさせむ」
 とて参りぬ。

 [第三段 源氏、邸内に入る]

 「などかいと久しかりつる。いかにぞ。昔のあとも見えぬ蓬のしげさかな」
 とのたまへば、
 「しかしかなむ、たどり寄りてはべりつる。侍従が叔母の少将といひはべりし老人なむ、変はらぬ声にてはべりつる」
 と、ありさま聞こゆ。

 いみじうあはれに、
 「かかるしげき中に、何心地して過ぐしたまふらむ。今まで訪はざりけるよ」
 と、わが御心の情けなさも思し知らる。

 「いかがすべき。かかる忍びあるきも難かるべきを、かかるついでならでは、え立ち寄らじ。変はらぬありさまならば、げにさこそはあらめと、推し量らるる人ざまになむ」

 とはのたまひながら、ふと入りたまはむこと、なほつつましう思さる。ゆゑある御消息もいと聞こえまほしけれど、見たまひしほどの口遅さも、まだ変らずは、御使の立ちわづらはむもいとほしう、思しとどめつ。惟光も、

 「さらにえ分けさせたまふまじき、蓬の露けさになむはべる。露すこし払はせてなむ、入らせたまふべき」

 と聞こゆれば、

 「尋ねても我こそ訪はめ道もなく
  深き蓬のもとの心を」

 と独りごちて、なほ下りたまへば、御先の露を、馬の鞭して払ひつつ入れたてまつる。
 雨そそきも、なほ秋の時雨めきてうちそそけば、

 「御傘さぶらふ。げに、木の下露は、雨にまさりて
 と聞こゆ。御指貫の裾は、いたうそほちぬめり。昔だにあるかなきかなりし中門など、まして形もなくなりて、入りたまふにつけても、いと無徳なるを、立ちまじり見る人なきぞ心やすかりける。

 [第四段 末摘花と再会]

 姫君は、さりともと待ち過ぐしたまへる心もしるく、うれしけれど、いと恥づかしき御ありさまにて対面せむも、いとつつましく思したり。大弐の北の方たてまつり置きし御衣どもをも、心ゆかず思されしゆかりに、見入れたまはざりけるを、この人びとの、香の御唐櫃に入れたりけるが、いとなつかしき香したるをたてまつりければ、いかがはせむに、着替へたまひて、かの煤けたる御几帳引き寄せておはす。

 入りたまひて、

 「年ごろの隔てにも、心ばかりは変はらずなむ、思ひやりきこえつるを、さしもおどろかいたまはぬ恨めしさに、今までこころみきこえつるを、杉ならぬ木立しるさに、え過ぎでなむ、負けきこえにける」

 とて、帷子をすこしかきやりたまへれば、例の、いとつつましげに、とみにも応へきこえたまはず。かくばかり分け入りたまへるが浅からぬに、思ひ起こしてぞ、ほのかに聞こえ出でたまひける。

 「かかる草隠れに過ぐしたまひける年月のあはれも、おろかならず、また変はらぬ心ならひに、人の御心のうちもたどり知らずながら、分け入りはべりつる露けさなどを、いかが思す。年ごろのおこたり、はた、なべての世に思しゆるすらむ。今よりのちの御心にかなはざらむなむ、言ひしに違ふ罪負ふべき」

 など、さしも思されぬことも、情け情けしう聞こえなしたまふことども、あむめり

 立ちとどまりたまはむも、所のさまよりはじめ、まばゆき御ありさまなれば、つきづきしうのたまひすぐして、出でたまひなむとす。引き植ゑしならねど、松の木高くなりにける月のほどもあはれに、夢のやうなる御身のありさまも思し続けらる。

 「藤波のうち過ぎがたく見えつるは
  松こそ宿のしるしなりけれ

 数ふれば、こよなう積もりぬらむかし。都に変はりにけることの多かりけるも、さまざまあはれになむ。今、のどかにぞ鄙の別れに衰へしの物語も聞こえ尽くすべき。年経たまへらむ春秋の暮らしがたさなども、誰にかは愁へたまはむと、うらもなくおぼゆるも、かつは、あやしうなむ」

 など聞こえたまへば、

 「年を経て待つしるしなきわが宿を
  花のたよりに過ぎぬばかりか」

 と忍びやかにうちみじろきたまへるけはひも、袖の香も、「昔よりはねびまさりたまへるにや」と思さる。

 月入り方になりて、西の妻戸の開きたるより、障はるべき渡殿だつ屋もなく、軒のつまも残りなければ、いとはなやかにさし入りたれば、あたりあたり見ゆるに、昔に変はらぬ御しつらひのさまなど、忍草にやつれたるの見るめよりは、みやびかに見ゆるを、昔物語に塔こぼちたる人もありけるを思しあはするに、同じさまにて年古りにけるもあはれなり。ひたぶるにものづつみしたるけはひの、さすがにあてやかなるも、心にくく思されて、さる方にて忘れじと心苦しく思ひしを、年ごろさまざまのもの思ひに、ほれぼれしくて隔てつるほど、つらしと思はれつらむと、いとほしく思す。

 かの花散里も、あざやかに今めかしうなどは花やぎまはぬ所にて、御目移しこよなからぬに、咎多う隠れにけり。

 

第四章 末摘花の物語 その後の物語

 [第一段 末摘花への生活援助]

 祭、御禊などのほど、御いそぎどもにことつけて、人のたてまつりたる物いろいろに多かるを、さるべき限り御心加へたまふ。中にもこの宮にはこまやかに思し寄りて、むつましき人びとに仰せ言賜ひ、下部どもなど遣はして、蓬払はせ、めぐりの見苦しきに、板垣といふもの、うち堅め繕はせたまふ。かう尋ね出でたまへりと、聞き伝へむにつけても、わが御ため面目なければ、渡りたまふことはなし。御文いとこまやかに書きたまひて、二条院近き所を造らせたまふを、

 「そこになむ渡したてまつるべき。よろしき童女など、求めさぶらはせたまへ」

 など、人びとの上まで思しやりつつ、訪らひきこえたまへば、かくあやしき蓬のもとには、置き所なきまで、女ばらも空を仰ぎてなむ、そなたに向きて喜びきこえける。

 なげの御すさびにても、おしなべたる世の常の人をば、目止め耳立てたまはず、世にすこしこれはと思ほえ、心地にとまる節あるあたりを尋ね寄りたまふものと、人の知りたるに、かく引き違へ、何ごともなのめにだにあらぬ御ありさまを、ものめかし出でたまふは、いかなりける御心にかありけむ。これも昔の契りなめりかし。

 [第二段 常陸宮邸に活気戻る]
 

 今は限りと、あなづり果てて、さまざまに迷ひ散りあかれし上下人びと、我も我も参らむと争ひ出づる人もあり。心ばへなど、はた、埋もれいたきまでよくおはする御ありさまに、心やすくならひて、ことなることなきなま受領などやうの家にある人は、ならはずはしたなき心地するもありて、うちつけの心みえに参り帰り、君は、いにしへにもまさりたる御勢のほどにて、ものの思ひやりもまして添ひたまひにければ、こまやかに思しおきてたるに、にほひ出でて、宮の内やうやう人目見え、木草の葉もただすごくあはれに見えなされしを、遣水かき払ひ、前栽のもとだちも涼しうしなしなどして、ことなるおぼえなき下家司の、ことに仕へほしきは、かく御心とどめて思さるることなめりと見取り、御けしき賜はりつつ、追従し仕うまつる。

 [第三段 末摘花のその後]

 二年ばかりこの古宮に眺めたまひて、東の院といふ所になむ、後は渡したてまつりたまひける。対面したまふことなどは、いとかたけれど、近きしめのほどにて、おほかたにも渡りたまふに、さしのぞきなどしたまひつつ、いとあなづらはしげにもてなしきこえたまはず。

 かの大弐の北の方、上りて驚き思へるさま、侍従が、うれしきものの、今しばし待ちきこえざりける心浅さを、恥づかしう思へるほどなどを、今すこし問はず語りもせまほしけれど、いと頭いたう、うるさく、もの憂ければなむ。今またもついであらむ折に、思ひ出でて聞こゆべき、とぞ。

 【出典】
出典1 わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつわぶと答へよ(古今集雑下-九六二 在原行平)(戻)
出典2 今さらに何に生ひ出づらむ竹の子の憂き節しげき世とは知らずや(古今集雑下-九五七 凡河内躬恒)(戻)
出典3 梟鳴松桂枝 狐蔵蘭菊叢(白氏文集巻一-四 凶宅詩)(戻)
出典4 岩そそく垂氷の上の早蕨の萌え出づる春になりにけるかな(古今六帖一-七 志貴皇子)(戻)
出典5 世の中は昔よりやは憂かりけむわが身一つのためになれるか(古今集雑下-九四八 読人しらず)(戻)
出典6 世の憂き目見えぬ山路へ入らむには思ふ人こそほだしなりけれ(古今集雑下-九五五 物部吉名)み吉野の山のあなたに宿もがな世の憂き時の隠れがにせむ(古今集雑下-九五〇 読人しらず)(戻)
出典7 君が住む宿の梢のゆくゆくと隠るるまでにかへり見しはや(拾遺集別-三五一 菅原道真)(戻)
出典8 君が行く越の白山知らねども雪のまにまに跡は訪ねむ(古今集別-三九一 藤原兼輔)音に聞く越の白山白雪の降り積もりてのことにぞありける(公任集-一七八)(戻)
出典9 夏にこそ咲きかかりけれ藤の花松にとのみも思ひけるかな(拾遺集夏-八三 源重之)(戻)
出典10 人もなき宿に匂へる藤の花風にのみこそみだるべらなれ(貫之集-七一)(戻)
出典11 みさぶらひみかさと申せ宮城野の木の下露は雨にまされり(古今集東歌-一〇九一 陸奥歌)(戻)
出典12 わが宿は三輪の山もと恋しくはとぶらひ来ませ杉立てる門(古今集雑下-九八二 読人しらず)わが宿の松はしるしもなかりけり杉村ならば訪ね来なまし(匡衡集-五三)(戻)
出典13 いとどこそまさりにまされ忘れじといひしに違ふ言のつらさは(奥入所引-出典未詳)(戻)
出典14 引きて植ゑし人はむべこそ老いにけれ松の木高くなりにけるかな(後撰集雑一-一一〇七 凡河内躬恒)(戻)
出典15 思ひきや鄙の別れに衰へて海人の縄たきいさりせむとは(古今集雑下-九六一 小野篁)(戻)
出典16 君しのぶ草にやつるる故郷は松虫の音ぞ悲しかりける(古今集秋上-二〇〇 読人しらず)(戻)

 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 形--かた(かた/$<朱>)かたち(戻)
校訂2 堪へ--たえ(え/$へ)(戻)
校訂3 案内--あん(ん/+ない)(戻)
校訂4 唐守--からもりて(て/$<朱>)(戻)
校訂5 北の方の--(/+き)か(か/$)たの(の/+かたの)(戻)
校訂6 見置きて--見せ(せ/$を)きて(戻)
校訂7 まかり--*まか(か/#)か(か/$)り(戻)
校訂8 たびしかはら--たひ(ひ/+し)かはら(戻)
校訂9 たるに--たるにに(に/$<朱>)(戻)
校訂10 念じ--ねつ(つ/$む<朱>)し(戻)
校訂11 めづらし人--めつらら(ら/$<朱>)しひ(ひ/+と)(戻)
校訂12 御心ざし--御心(心/+さ)し(戻)
校訂13 さと--さとに(に/$<朱>)(戻)
校訂14 まほしき--(/+ま<朱>)ほしき(戻)
校訂15 はべれ--*はへる(戻)
校訂16 むつかしけれ--むへ(へ/$つ<朱>)かしけれ(戻)
校訂17 北の方--きた(た/+の)かた(戻)
校訂18 あむめり--*あへめり(戻)
校訂19 花やぎ--はなやな(な/$<朱>)き(戻)
校訂20 上下--*うへしも(戻)
校訂21 仕へ--つか(か/+へ<朱>)(戻)
校訂22 見取り--み(み/+と)り(戻)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
注釈
大島本
自筆本奥入