First updated 9/20/1996(ver.1-1)
Last updated 9/22/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)

  

御法

光る源氏の准太上天皇時代五十一歳三月から八月までの物語

 [主要登場人物]

 光る源氏<ひかるげんじ>
呼称---六条の院・院、五十一歳
 紫の上<むらさきのうえ>
呼称---女君・上・婆、源氏の正妻
 今上帝<きんじょうてい>
呼称---内裏・内裏の上、朱雀院の御子
 匂宮<におうのみや>
呼称---三の宮・宮、今上帝の第三親王
 明石の中宮<あかしのちゅうぐう>
呼称---后の宮・中宮・宮、今上帝の后
 明石の御方<あかしのおおんかた>
呼称---明石の御方・明石、源氏の妻
 秋好中宮<あきこのむちゅうぐう>
呼称---冷泉院の后の宮、冷泉院の后
 致仕大臣<ちぢのおとど>
呼称---大臣、源氏の従兄弟
 夕霧<ゆうぎり>
呼称---大将の君・大将・君、源氏の長男
 花散里<はなちるさと>
呼称---花散里の御方、源氏の妻
第一章 紫の上の物語 死期間近き春から夏の物語
  1. 紫の上、出家を願うが許されず---紫の上、いたうわづらひたまひし御心地の後
  2. 二条院の法華経供養---年ごろ、私の御願にて書かせたてまつりたまひける
  3. 紫の上、明石御方と和歌を贈答---三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなども
  4. 紫の上、花散里と和歌を贈答---昨日、例ならず起きゐたまへりし名残にや
  5. 紫の上、明石中宮と対面---夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消え入り
  6. 紫の上、匂宮に別れの言葉---上は、御心のうちに思しめぐらすこと多かれど
第二章 紫の上の物語 紫の上の死と葬儀
  1. 紫の上の部屋に明石中宮の御座所を設ける---秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりては
  2. 明石中宮に看取られ紫の上、死去す---風すごく吹き出でたる夕暮に、前栽見たまふとて
  3. 源氏、紫の上の落飾のことを諮る---宮も、帰りたまはで、かくて見たてまつりたまへるを
  4. 夕霧、紫の上の死に顔を見る---年ごろ、何やかやと、おほけなき心はなかりしかど
  5. 紫の上の葬儀---仕うまつり馴れたる女房などの、ものおぼゆるもなければ
第三章 光る源氏の物語 源氏の悲嘆と弔問客たち
  1. 源氏の悲嘆と弔問客---大将の君も、御忌に籠りたまひて、あからさまにも
  2. 帝、致仕大臣の弔問---所々の御とぶらひ、内裏をはじめたてまつりて
  3. 秋好中宮の弔問---冷泉院の后の宮よりも、あはれなる御消息絶えず

【出典】
【校訂】

 

第一章 紫の上の物語 死期間近き春から夏の物語

 [第一段 紫の上、出家を願うが許されず]

 紫の上、いたうわづらひたまひし御心地の後、いと篤しくなりたまひて、そこはかとなく悩みわたりたまふこと久しくなりぬ。

 いとおどろおどろしうはあらねど、年月重なれば、頼もしげなく、いとどあえかになりまさりたまへるを、院の思ほし嘆くこと、限りなし。しばしにても後れきこえたまはむことをば、いみじかるべく思し、みづからの御心地には、この世に飽かぬことなく、うしろめたきほだしだにまじらぬ御身なれば、あながちにかけとどめまほしき命とも思されぬを、年ごろの御契りかけ離れ、思ひ嘆かせたてまつらむことのみぞ、人知れぬ御心のうちにも、ものあはれに思されける。後の世のためにと、尊きことどもを多くせさせたまひつつ、「いかでなほ本意あるさまになりて、しばしもかかづらはむ命のほどは、行ひを紛れなく」と、たゆみなく思しのたまへど、さらに許しきこえたまはず。

 さるは、わが御心にも、しか思しそめたる筋なれば、かくねむごろに思ひたまへるついでにもよほされて、同じ道にも入りなむと思せど、一度、家を出でたまひなば、仮にもこの世を顧みむとは思しおきてず、後の世には、同じ蓮の座をも分けむと、契り交はしきこえたまひて、頼みをかけたまふ御仲なれど、ここながら勤めたまはむほどは、同じ山なりとも、峰を隔てて、あひ見たてまつらぬ住み処にかけ離れなむことをのみ思しまうけたるに、かくいと頼もしげなきさまに悩み篤いたまへば、いと心苦しき御ありさまを、今はと行き離れむきざみには捨てがたく、なかなか、山水の住み処濁りぬべく、思しとどこほるほどに、ただうちあさへたる、思ひのままの道心起こす人びとには、こよなう後れたまひぬべかめり。

 御許しなくて、心一つに思し立たむも、さま悪しく本意なきやうなれば、このことによりてぞ、女君は、恨めしく思ひきこえたまひける。わが御身をも、罪軽かるまじきにやと、うしろめたく思されけり。

 [第二段 二条院の法華経供養]

 年ごろ、私の御願にて書かせたてまつりたまひける『法華経』千部、いそぎて供養じたまふ。わが御殿と思す二条院にてぞしたまひける。七僧の法服など、品々賜はす。物の色、縫ひ目よりはじめて、きよらなること、限りなし。おほかた何ごとも、いといかめしきわざどもをせられたり。

 ことことしきさまにも聞こえたまはざりければ、詳しきことどもも知らせたまはざりけるに、女の御おきてにてはいたり深く、仏の道にさへ通ひたまひける御心のほどなどを、院はいと限りなしと見たてまつりたまひて、ただおほかたの御しつらひ、何かのことばかりをなむ、営ませたまひける。楽人、舞人などのことは、大将の君、取り分きて仕うまつりたまふ。

 内裏、春宮、后の宮たちをはじめたてまつりて、御方々、ここかしこに御誦経、捧物などばかりのことをうちしたまふだに所狭きに、まして、そのころ、この御いそぎを仕うまつらぬ所なければ、いとこちたきことどもあり。「いつのほどに、いとかくいろいろ思しまうけけむ。げに、石上の世々経たる御願にや」とぞ見えたる。

 花散里と聞こえし御方、明石なども渡りたまへり。南東の戸を開けておはします。寝殿の西の塗籠なりけり。北の廂に、方々の御局どもは、障子ばかりを隔てつつしたり。

 [第三段 紫の上、明石御方と和歌を贈答]

 三月の十日なれば、花盛りにて、空のけしきなども、うららかにものおもしろく、仏のおはすなる所のありさま、遠からず思ひやられて、ことなり。深き心もなき人さへ、罪を失ひつべし。薪こる讃嘆の声そこらひたる響き、おどろおどろしきを、うち休みて静まりたるほどだにあはれに思さるるを、まして、このころとなりては何ごとにつけても、心細くのみ思し知る。明石の御方に、三の宮して、聞こえたまへる。

 「惜しからぬこの身ながらもかぎりとて
  薪尽きなむとの悲しさ」

 御返り、心細き筋は、後の聞こえも心後れたるわざにや、そこはかとなくぞあめる。

 「薪こる思ひは今日を初めにて
  この世に願ふ法ぞはるけき」

 夜もすがら、尊きことにうち合はせたる鼓の声、絶えずおもしろし。ほのぼのと明けゆく朝ぼらけ、霞の間より見えたる花の色々、なほ春に心とまりぬべく匂ひわたりて、百千鳥のさへづりも、笛の音に劣らぬ心地して、もののあはれもおもしろさも残らぬほどに、陵王の舞ひ手急になるほどの末つ方の楽、はなやかににぎははしく聞こゆるに、皆人の脱ぎかけたるものの色々なども、もののをりからにをかしうのみ見ゆ。

 親王たち、上達部の中にも、ものの上手ども、手残さず遊びたまふ。上下心地よげに、興あるけしきどもなるを見たまふにも、残り少なしと身を思したる御心のうちには、よろづのことあはれにおぼえたまふ。

 [第四段 紫の上、花散里と和歌を贈答]

 昨日、例ならず起きゐたまへりし名残にや、いと苦しうして臥したまへり。年ごろ、かかるものの折ごとに、参り集ひ遊びたまふ人びとの御容貌ありさまの、おのがじし才ども、琴笛の音をも、今日や見聞きたまふべきとぢめなるらむ、とのみ思さるれば、さしも目とまるまじき人の顔どもも、あはれに見えわたされたまふ。

 まして、夏冬の時につけたる遊び戯れにも、なま挑ましき下の心は、おのづから立ちまじりもすらめど、さすがに情けを交はしまふ方々は、誰れも久しくとまるべき世にはあらざなれど、まづ我一人行方知らずなりなむを思し続くる、いみじうあはれなり。

 こと果てて、おのがじし帰りたまひなむとするも、遠き別れめきて惜しまる。花散里の御方に、

 「絶えぬべき御法ながらぞ頼まるる
  世々にと結ぶ中の契りを」

 御返り、

 「結びおく契りは絶えじおほかたの
  残りすくなき御法なりとも」

 やがて、このついでに、不断の読経、懺法など、たゆみなく、尊きことどもせさせたまふ。御修法は、ことなるしるしも見えでほども経ぬれば、例のことになりて、うちはへさるべき所々、寺々にてぞせさせたまひける。

 [第五段 紫の上、明石中宮と対面]

 夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消え入りたまひぬべき折々多かり。そのことと、おどろおどろしからぬ御心地なれど、ただいと弱きさまになりたまへば、むつかしげに所狭く悩みたまふこともなし。さぶらふ人びとも、いかにおはしまさむとするにか、と思ひよるにも、まづかきくらし、あたらしう悲しき御ありさまと見たてまつる。

 かくのみおはすれば、中宮、この院にまかでさせたまふ。東の対におはしますべければ、こなたにはた待ちきこえたまふ。儀式など、例に変らねど、この世のありさまを見果てずなりぬるなどのみ思せば、よろづにつけてものあはれなり。名対面を聞きたまふにも、その人、かの人など、耳とどめて聞かれたまふ。上達部など、いと多く仕うまつりたまへり。

 久しき御対面のとだえを、めづらしく思して、御物語こまやかに聞こえたまふ。院入りたまひて、

 「今宵は、巣離れたる心地して、無徳なりや。まかりて休みはべらむ」

 とて、渡りたまひぬ。起きゐたまへるを、いとうれしと思したるも、いとはかなきほどの御慰めなり。

 「方々におはしましては、あなたに渡らせたまはむもかたじけなし。参らむこと、はたわりなくなりにてはべれば」

 とて、しばらくはなたにおはすれば、明石の御方も渡りたまひて、心深げにしづまりたる御物語ども聞こえ交はしたまふ。

 [第六段 紫の上、匂宮に別れの言葉]

 上は、御心のうちにしめぐらすこと多かれど、さかしげに、亡からむ後などのたまひ出づることもなし。ただなべての世の常なきありさまを、おほどかに言少ななるものから、あさはかにはあらずのたまひなしたるけはひなどぞ、言に出でたらむよりもあはれに、もの心細き御けしきは、しるう見えける。宮たちを見たてまつりたまうても、

 「おのおのの御行く末を、ゆかしく思ひきこえけるこそ、かくはかなかりける身を惜しむ心のまじりけるにや」

 とて、涙ぐみたまへる御顔の匂ひ、いみじうをかしげなり。「などかうのみ思したらむ」と思すに、中宮、うち泣きたまひぬ。ゆゆしげになどは聞こえなしたまはず、もののついでなどにぞ、年ごろ仕うまつり馴れたる人びとの、ことなるよるべなういとほしげなる、この人、かの人、

 「はべらずなりなむ後に、御心とどめて、尋ね思ほせ」

 などばかり聞こえたまひける。御読経などによりてぞ、例のわが御方に渡りたまふ。

 三の宮は、あまたの御中に、いとをかしげにて歩きたまふを、御心地の隙には、前に据ゑたてまつりたまひて、人の聞かぬ間に、

 「まろがはべらざらむに、思し出でなむや」

 と聞こえたまへば、

 「いと恋しかりなむ。まろは、内裏の上よりも宮よりも、婆をこそまさりて思ひきこゆれば、おはせずは、心地むつかしかりなむ」

 とて、目おしすりて紛らはしたまへるさま、をかしければ、ほほ笑みながら涙は落ちぬ。

 「大人になりたまひなば、ここに住みたまひて、この対の前なる紅梅と桜とは、花の折々に、心とどめてもて遊びたまへ。さるべからむ折は、仏にもたてまつりたまへ」

 と聞こえたまへば、うちうなづきて、御顔をまもりて、涙の落つべかめれば、立ちておはしぬ。取り分きて生ほしたてまつりたまへれば、この宮と姫宮とをぞ、見さしきこえたまはむこと、口惜しくあはれに思されける。

 

第二章 紫の上の物語 紫の上の死と葬儀

 [第一段 紫の上の部屋に明石中宮の御座所を設ける]

 秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりては、御心地もいささかさはやぐやうなれど、なほともすれば、かことがまし。さるは、身にしむばかり思さるべき秋風らねど、露けき折がちにて過ぐしたまふ。

 中宮は、参りたまひなむとするを、今しばしは御覧ぜよとも、聞こえまほしう思せども、さかしきやうにもあり、内裏の御使の隙なきもわづらはしければ、さも聞こえたまはぬに、あなたにもえ渡りたまはねば、宮ぞ渡りたまひける。

 かたはらいたけれど、げに見たてまつらぬもかひなしとて、こなたに御しつらひをことにせさせたまふ。「こよなう痩せ細りたまへれど、かくてこそ、あてになまめかしきことの限りなさもまさりてめでたかりけれ」と、来し方あまり匂ひ多く、あざあざとおはせし盛りは、なかなかこの世の花の薫りにもよそへられたまひしを、限りもなくらうたげにをかしげなる御さまにて、いとかりそめに世をひたまへるけしき、似るものなく心苦しく、すずろにもの悲し。

 [第二段 明石中宮に看取られ紫の上、死去す]

 風すごく吹き出でたる夕暮に、前栽見たまふとて、脇息に寄りゐたまへるを、院渡りて見たてまつりたまひて、

 「今日は、いとよく起きゐたまふめるは。この御前にては、こよなく御心もはればれしげなめりかし」

 と聞こえたまふ。かばかりの隙あるをも、いとうれしと思ひきこえたまへる御けしきを見たまふも、心苦しく、「つひに、いかに思し騒がむ」と思ふに、あはれなれば、

 「おくと見るほどぞはかなきともすれば
  風に乱るる萩のうは露」

 げにぞ、折れかへりとまるべうもあらぬ、よそへられたる折さへ忍びがたきを、見出だしたまひても、

 「ややもせば消えをあらそふ露の世に
  後れ先だつほど経ずもがな」

 とて、御涙を払ひあへたまはず。宮、

 「秋風にしばしとまらぬ露の世を
  誰れか草葉のうへとのみ見む」

 と聞こえ交はしたまふ御容貌ども、あらまほしく、見るかひあるにつけても、「かくて千年を過ぐすわざもがな」と思さるれど、心にかなはぬことなれば、かけとめむ方なきぞ悲しかりける。

 「今は渡らせたまひね。乱り心地いと苦しくなりはべりぬ。いふかひなくなりにけるほどと言ひながら、いとなめげにはべりや」

 とて、御几帳引き寄せて臥したまへるさまの、常よりもいと頼もしげなく見えたまへば、

 「いかに思さるるにか」

 とて、宮は、御手をとらへたてまつりて、泣く泣く見たてまつりたまふに、まことに消えゆく露の心地して、限りに見えたまへば、御誦経の使ひども、数も知らず立ち騷ぎたり。先ざきも、かくて生き出でたまふ折にならひたまひて、御もののけと疑ひたまひて、夜一夜さまざまのことをし尽くさせたまへど、かひもなく、明け果つるほどに消え果てたまひぬ。

 [第三段 源氏、紫の上の落飾のことを諮る]

 宮も、帰りたまはで、かくて見たてまつりたまへるを、限りなく思す。誰れも誰れも、ことわりの別れにて、たぐひあることとも思されず、めづらかにいみじく、明けぐれの夢に惑ひたまふほど、さらなりや。

 さかしき人おはせざりけり。さぶらふ女房なども、ある限り、さらにものおぼえたるなし。院は、まして思し静めむ方なければ、大将の君近く参りたまへるを、御几帳のもとに呼び寄せたてまつりたまひて、

 「かく今は限りのさまなめるを、年ごろの本意ありて思ひつること、かかるきざみに、その思ひ違へてやみなむがいといとほしき。御加持にさぶらふ大徳たち、読経の僧なども、皆声やめて出でぬなるを、さりとも、立ちとまりてものすべきもあらむ。この世にはむなしき心地するを、仏の御しるし、今はかの冥き途のとぶらひにだに頼み申すべきを、頭おろすべきよしものしたまへ。さるべき僧、誰れかとまりたる」

 などのたまふ御けしき、心強く思しなすべかめれど、御顔の色もあらぬさまに、いみじく堪へかね、御涙のとまらぬを、ことわりに悲しく見たてまつりたまふ。

 「御もののけなどの、これも、人の御心乱らむとて、かくのみものははべめるを、さもやおはしますらむ。さらば、とてもかくても、御本意のことは、よろしきことにはべなり。一日一夜忌むことのしるしそは、むなしからずははべなれ。まことにいふかひなくなり果てさせたまひて、後の御髪ばかりをやつさせたまひても、異なるかの世の御光ともならせたまはざらむものから、目の前の悲しびのみまさるやうにて、いかがはべるべからむ」

 と申したまひて、御忌に籠もりさぶらふべき心ざしありてまかでぬ僧、その人、かの人など召して、さるべきことども、この君ぞ行なひたまふ。

 [第四段 夕霧、紫の上の死に顔を見る]

 年ごろ、何やかやと、おほけなき心はなかりしかど、「いかならむ世に、ありしばかりも見たてまつらむ。ほのかにも御声をだに聞かぬこと」など、心にも離れず思ひわたりつるものを、「声はつひに聞かせたまはずなりぬるにこそはあめれ、むなしき御骸にても、今一度見たてまつらむの心ざしかなふべき折は、ただ今よりほかにいかでかあらむ」と思ふに、つつみもあへず泣かれて、女房の、ある限り騷ぎ惑ふを、

 「あなかま、しばし」

 と、しづめ顔にて、御几帳の帷を、もののたまふ紛れに、引き上げて見たまへば、ほのぼのと明けゆく光もおぼつかなければ、大殿油を近くかかげて見たてまつりたまふに、飽かずうつくしげに、めでたうきよらに見ゆる御顔のあたらしさに、この君のかくのぞきたまふを見る見るも、あながちに隠さむの御心も思されぬなめり。

 「かく何ごともまだ変らぬけしきながら、限りのさまはしるかりけるこそ」

 とて、御袖を顔におしあてたまへるほど、大将の君も、涙にくれて、目も見えたまはぬを、しひてしぼり開けて見たてまつるに、なかなか飽かず悲しきことたぐひなきに、まことに心惑ひもしぬべし。御髪のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて、露ばかり乱れたるけしきもなう、つやつやとうつくしげなるさまぞ限りなき。

 灯のいと明かきに、御色はいと白く光るやうにて、とかくうち紛らはすこと、ありしうつつの御もてなしよりも、いふかひなきさまにて、何心なくて臥したまへる御ありさまの、飽かぬ所なしと言はむもさらなりや。なのめにだにあらず、たぐひなきを見たてまつるに、「死に入る魂の、やがてこの御骸にとまらなむ」と思ほゆるも、わりなきことなりや。

 [第五段 紫の上の葬儀]

 仕うまつり馴れたる女房などの、ものおぼゆるもなければ、院ぞ、何ごとも思しわかれず思さるる御心地を、あながちに静めたまひて、限りの御ことどもしたまふ。いにしへも、悲しと思すこともあまた見たまひし御身なれど、いとかうおり立ちてはまだ知りたまはざりけることを、すべて来し方行く先、たぐひなき心地したまふ。

 やがて、その日、とかく収めたてまつる。限りありけることなれば、骸を見つつも過ぐしたまふまじかりけるぞ、心憂き世の中なりける。はるばると広き野の、所もなく立ち込みて、限りなくいかめしき作法なれど、いとはかなき煙にて、はかなく昇りたまひぬるも、例のことなれど、あへなくいみじ。

 空を歩む心地して、人にかかりてぞおはしましけるを、見たてまつる人も、「さばかりいつかしき御身を」と、ものの心知らぬ下衆さへ、泣かぬなかりけり。御送りの女房は、まして夢路に惑ふ心地して、車よりもまろび落ちぬべきをぞ、もてあつかひける。

 昔、大将の君の御母君亡せたまへりし時の暁を思ひ出づるにも、かれは、なほもののおぼえけるにや、月の顔の明らかにおぼえしを、今宵はただくれ惑ひたまへり。

 十四日に亡せたまひて、これは十五日の暁なりけり。日はいとはなやかにさし上がりて、野辺の露も隠れたる隈なくて、世の中思し続くるに、いとど厭はしくいみじければ、「後るとても、幾世かは経べき。かかる悲しさの紛れに、昔よりの御本意も遂げてまほしく」思ほせど、心弱き後のそしりを思せば、「このほどを過ぐさむ」としたまふに、胸のせきあぐるぞ堪へがたかりける。

 

第三章 光る源氏の物語 源氏の悲嘆と弔問客たち

 [第一段 源氏の悲嘆と弔問客]

 大将の君も、御忌に籠もりたまひて、あからさまにもまかでたまはず、明け暮れ近くさぶらひて、心苦しくいみじき御けしきを、ことわりに悲しく見たてまつりたまひて、よろづに慰めきこえたまふ。

 風野分だちて吹く夕暮に、昔のこと思し出でて、「ほのかに見たてまつりしものを」と、恋しくおぼえたまふに、また「限りのほどの夢の心地せし」など、人知れず思ひ続けたまふに、堪へがたく悲しければ、人目にはさしも見えじ、とつつみて、

 「阿弥陀仏、阿弥陀仏」

 と引きたまふ数珠の数に紛らはしてぞ、涙の玉をばもて消ちまひける。

 「いにしへの秋の夕べの恋しきに
  今はと見えし明けぐれの夢」

 ぞ、名残さへ憂かりける。やむごとなき僧どもさぶらはせたまひて、定まりたる念仏をばさるものにて、法華経など誦ぜさせたまふ。かたがたいとあはれなり。

 臥しても起きても涙の干る世なく、霧りふたがりて明かし暮らしたまふ。いにしへより御身のありさま思し続くるに、

 「鏡に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけなきほどより、悲しく常なき世を思ひ知るべく、仏などのすすめたまひける身を、心強く過ぐして、つひに来し方行く先も例あらじとおぼゆる悲しさを見つるかな。今は、この世にうしろめたきこと残らずなりぬ。ひたみちに行ひにおもむきなむに、障り所あるまじきを、いとかく収めむ方なき心惑ひにては、願はむ道にも入りがたくや」

 と、ややましき

 「この思ひすこしなのめに、忘れさせたまへ」

 と、阿弥陀仏を念じたてまつりたまふ。

 [第二段 帝、致仕大臣の弔問]

 所々の御とぶらひ、内裏をはじめたてまつりて、例の作法ばかりにはあらず、いとしげく聞こえたまふ。思しめしたる心のほどには、さらに何ごとも目にも耳にもとまらず、心にかかりたまふこと、あるまじけれど、「人にほけほけしきさまに見えじ。今さらにわが世の末に、かたくなしく心弱き惑ひにて、世の中をなむ背きにける」と、流れとどまらむ名を思しつつむになむ、身を心にまかせぬ嘆きをさへうち添へたまひける。

 致仕の大臣、あはれをも折過ぐしたまはぬ御心にて、かく世にたぐひなくものしたまふ人の、はかなく亡せたまひぬることを、口惜しくあはれに思して、いとしばしば問ひきこえたまふ。

 「昔、大将の御母亡せたまへりしも、このころのことぞかし」と思し出づるに、いともの悲しく、

 「その折、かの御身を惜しみきこえたまひし人の、多くも亡せたまひにけるかな。後れ先だつほどなき世りけりや」

 など、しめやかなる夕暮にながめたまふ。空のけしきもただならねば、御子の蔵人少将してたてまつりたまふ。あはれなることなど、こまやかに聞こえたまひて、端に、

 「いにしへの秋さへ今の心地して
  濡れにし袖に露ぞおきそふ」

 御返し、

 「露けさは昔今ともおもほえず
  おほかた秋の夜こそつらけれ」

 もののみ悲しき御心のままならば、待ちとりたまひては、心弱くもと、目とどめたまひつべき大臣の御心ざまなれば、めやすきほどにと、

 「たびたびのなほざりならぬ御とぶらひの重なりぬること」

 と喜びきこえたまふ。

 「薄墨」とのたまひしよりは、今すこしこまやかにてたてまつれり。世の中に幸ひありめでたき人も、あいなうおほかたの世に嫉まれ、よきにつけても、心の限りおごりて、人のため苦しき人もあるを、あやしきまで、すずろなる人にも受けられ、はかなくし出でたまふことも、何ごとにつけても、世にほめられ、心にくく、折ふしにつけつつ、らうらうじく、ありがたかりし人の御心ばへなりかし。

 さしもあるまじきおほよその人さへ、そのころは、風の音虫の声につけつつ、涙落とさぬはなし。まして、ほのかにも見たてまつりし人の、思ひ慰むべき世なし。年ごろ睦ましく仕うまつり馴れつる人びと、しばしも残れる命、恨めしきことを嘆きつつ、尼になり、この世のほかの山住みなどに思ひ立つもありけり。

 [第三段 秋好中宮の弔問]

 冷泉院の后の宮よりも、あはれなる御消息絶えず、尽きせぬことども聞こえたまひて、

 「枯れ果つる野辺を憂しとや亡き人の
  秋に心をとどめざりけむ

 今なむことわり知られはべりぬる」

 とありけるを、ものおぼえぬ御心にも、うち返し、置きがたく見たまふ。「いふかひあり、をかしからむ方の慰めには、この宮ばかりこそおはしけれ」と、いささかのもの紛るるやうに思し続くるにも、涙のこぼるるを、袖の暇なく、え書きやりたまはず。

 「昇りにし雲居ながらもかへり見よ
  われ飽きはてぬ常ならぬ世に」

 おし包みたまひても、とばかり、うち眺めておはす。

 すくよかにも思されず、われながら、ことのほかにほれぼれしく思し知らるること多かる、紛らはしに、女方にぞおはします。

 仏の御前に人しげからずもてなして、のどやかに行なひたまふ。千年をももろともにと思ししかど、限りある別れぞいと口惜しきわざなりける。今は、蓮の露も異事に紛るまじく、後の世をと、ひたみちに思し立つこと、たゆみなし。されど、人聞きを憚りたまふなむ、あぢきなかりける。

 御わざのことども、はかばかしくのたまひおきつることどもなかりければ、大将の君なむ、とりもちて仕うまつりたまひける。今日やとのみ、わが身もづかひせられたまふ折多かるを、はかなくて、積もりにけるも、夢の心地のみす。中宮なども、思し忘るる時の間なく、恋ひきこえたまふ。

 【出典】
出典1 法華経をわが得しことは薪こり名摘み水汲み仕へてぞ得し(拾遺集哀傷-一三四六 大僧正行基)(戻)
出典2 入無余涅槃 如薪尽火滅(法華経-方便品)(戻)
出典3 秋吹く風はいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ(詞花集秋-一〇九 和泉式部)(戻)
出典4 中品中生者 若有衆生 若一日一夜 受持八戒斎 若一日一夜 持沙弥戒 若一日一夜 持具足戒(観無量寿経-中品中生)(戻)
出典5 空蝉はからを見つつも慰めつ深草の山煙だにたて(古今集哀傷-八三一 僧都勝延)(戻)
出典6 末の露本の雫や世の中の後れ先立つためしなるらむ(新古今集哀傷-七五七 僧正遍昭)(戻)
出典7 侘びつつも昨日ばかりは過ぐしてき今日やわが身の限りなるらむ(拾遺集恋一-六九四 読人しらず)(戻)

 【校訂】
備考--(/) ミセケチ--$ 抹消--# 補入--+ 傍書--= ナゾリ--& 独自異文等--* 朱筆--<朱> 不明--△
校訂1 まほしき--(/+ま)ほしき(戻)
校訂2 そこら--そこえ(え/$ら)(戻)
校訂3 なりては--なりて△(△/#は)(戻)
校訂4 交はし--(/+か)はし(戻)
校訂5 しばらくは--しはし(し/$らく<朱>)は(戻)
校訂6 うちに--うち(ち/+に)(戻)
校訂7 世を--(/+世をイ)(戻)
校訂8 もて消ち--*もちけち(戻)
校訂9 ややましき--やら(ら/$や)ましき(戻)

源氏物語の世界ヘ
ローマ字版
現代語訳
注釈
大島本
自筆本奥入