設定 番号 本文 渋谷栄一訳 与謝野晶子訳 注釈 挿絵 ルビ 罫線 登場人物 帖見出し 章見出し 段見出し 列見出し
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この帖の主な登場人物
登場人物 読み 呼称 備考
光る源氏 ひかるげんじ
十七歳;近衛中将
空蝉 うつせみ いもうとの君

姉君
故中納言兼衛門督の娘;伊予介の後妻
軒端荻 のきばのおぎ 西の御方
紀伊守の妹
碁打ちつる君
西の君
伊予介の娘;紀伊守と兄妹
小君 こぎみ 若君
小さき上人
故中納言兼衛門督の子;空蝉の弟


第二帖 帚木

本文
渋谷栄一訳
与謝野晶子訳
注釈

第一章 雨夜の品定めの物語


第一段 長雨の時節

1.1.1 光る源氏と、名前だけはご大層だが、非難されなさる取り沙汰が多いというのに、ますます、このような好色沙汰を、後世にも聞き伝わって、軽薄である浮き名を流すことになろうかと、隠していらっしゃった秘密事までを、語り伝えたという人のおしゃべりの意地の悪いことよ。
光源氏、すばらしい名で、青春を盛り上げてできたような人が思われる。自然奔放な好色生活が想像される。しかし実際はそれよりずっと質素な心持ちの青年であった。その上恋愛という一つのことで後世へ自分が誤って伝えられるようになってはと、異性との交渉をずいぶん内輪にしていたのであるが、ここに書く話のような事が伝わっているのは世間がおしゃべりであるからなのだ。
【光る源氏、名のみことことしう】- 以下「語り伝へけむ人のもの言ひさがなさよ」まで、物語筆記編集者のそれまでの物語伝承者に対する批評。「光る源氏」という呼称は、これが初見。これより先には「桐壺」巻に「光る君」と二度あった。ところで、この下に「と」という引用の格助詞があるべきところ、省筆されているのは、その表現性を重視すべきであろう。別本の陽明文庫本に「ひかる源氏の名のみ」(「光る源氏」の名前だけ)というように格助詞「の」を伴う異本があるが、別のニュアンスが出て来る。ここは、巻頭、「光源氏」とずばり提示して、読者をびっくりさせ、しばし間を置き、改めて享受者に、その経緯を語っていこうとした筆運びである。文章上無駄を省いて格調高く語り出すことにも成功した。それにしても、ここに物語られる内容は、「桐壺」巻の主人公像とはあまりにかけ離れた意外な一面であり、享受者をして驚かせる。この物語の成立の問題や表現性を考えさせる。参考、和辻哲郎「源氏物語について」(『日本精神史研究』所収、全集第四巻)。 【ことことしう】-形容詞「ことことし」は清音(日葡辞書)。『集成』『新大系』は清音で読むが、『古典セレクション』は濁音「ことごとしう」と濁音で読んでいる。下文に係らない。連用中止法で、逆接の意味で続く。本居宣長が「此下にてもじをそへて心得べし」(玉の小櫛、五)と指摘する。
【言ひ消たれたまふ】- 「光」の縁語で「言ひ消つ」と表現した(島津久基『講話』)。
【多かなるに】- 形容詞「多し」の連体形の活用語尾「る」が「ん」と撥音化されて無表記されたという説と、終止形「多かり」の「り」がナ行音の前で撥音化して無表記になったという説とがある。「なり」は、伝聞推定の助動詞。「に」は、接続助詞。下文の「いとど」との文脈から添加の意である。別本の陽明文庫本の「おほかめるに」(多いように見えるのに)は、語り手の視覚による推量となる。『全書』『集成』『完訳』に「多いそうだのに」「多いようだのに」「多いということだのに」とある。聞く人は物語享受者であるともに、源氏自身もまた聞き知って、「名をや流さむと忍びたまひける」という文脈。なお、『対訳』『大系』は「たくさんあるのに」「多くあるのに」という「なり」のニュアンスを訳出せず、『評釈』は「多いのだのに」という「なり」を断定の意味で訳出する。
【いとど、かかる好きごとどもを】- 以下「名をや流さむ」まで全体を、源氏の自戒の念とも解釈しうる。その場合、「いとど」は「流さむ」に係る。また、「かかる好きごとども」とは、源氏が心中密かに思っている内容をさす。地の文とすれば、「いとど」は「聞き伝へて」に係り、物語伝承者の行為をいうことになる。「かかる好きごとども」は世の中に知られた源氏の色恋沙汰をさす。それは、いまだ語られていないが、物語伝承者と物語筆記編集者をそれを知っているので、このような語り方をしたことになる。両方に解釈しうるところは、両方に解釈して、その幅と含みをもって読んでいく。いずれにしても、物語享受者に期待感を抱かせる表現である。
【軽びたる名をや流さむ】- 源氏の心。「や」(係助詞、疑問)、「む」(推量の助動詞)の主体者は源氏。それを、物語筆記編集者が間接的に伝える。
【語り伝へけむ人】- 物語伝承者。「けむ」は過去推量の助動詞。伝承を伝え聞いての想像。
【もの言ひさがなさよ】- 物語筆記編集者の物語伝承者のおしゃべりに対する非難。古注『河海抄』他に「ここにしも何匂ふらむ女郎花人の物言ひさがにくき世に」(拾遺集、雑秋、一〇九八、僧正遍昭)の和歌が指摘される。
1.1.2
さるは、いといたく()(はばか)り、まめだちたまひけるほど、なよびかにをかしきことはなくて、交野少将(かたののせうしゃう)には(わら)はれたまひけむかし
とは言うものの、大変にひどく世間を気にし、まじめになさっていたところは、艶っぽくおもしろい話はなくて、交野少将からは笑われなさったことであろうよ。
自重してまじめなふうの源氏は恋愛風流などには遠かった。好色小説の中の交野の少将などには笑われていたであろうと思われる。 【さるは、いといたく】- 「笑はれたまひけむかし」まで、物語筆記編集者の主人公光る源氏に対する批評。
【交野少将】- 交野少将は昔物語に色好みの人物として有名。しかし、当時の物語享受者は、物語中の人物も歴史上の人物も厳密に区別していなかった。
【笑はれたまひけむかし】- 物語筆記編集者がこの物語の主人公の行状に対して想像し(「けむ」)、かつ物語享受者に対し、同感を求め念を押した(「かし」)表現。
1.1.3
まだ中将(ちゅうじゃう)などにものしたまひし(とき)内裏(うち)にのみさぶらひようしたまひて、大殿(おほいどの)には()()えまかでたまふ。
(しの)ぶの(みだ)れやと、(うたが)ひきこゆることもありしかど、さしもあだめき目馴(めな)れたるうちつけの()()きしさなどは(この)ましからぬ御本性(ごほんじゃう)にて、まれには、あながちに()(たが)心尽(こころづ)くしなることを、御心(みこころ)(おぼ)しとどむる(くせ)なむ、あやにくにてさるまじき御振(おほんふ)()ひもうち()じりける
まだ近衛中将などでいらっしゃったころは、内裏にばかりよく伺候していらっしゃって、大殿邸には途切れ途切れに退出なさる。
お浮気事かと、お疑い申すこともあったが、そんなふうに浮気っぽいありふれた思いつきの色恋事などは好きでないご性格で、時たまには、やむにやまれない予想を狂わせる気苦労の多い恋を、お心に思いつめなさる性癖が、あいにくおありで、よろしくないご素行もないではなかった。
中将時代にはおもに宮中の宿直所に暮らして、時たまにしか舅の左大臣家へ行かないので、別に恋人を持っているかのような疑いを受けていたが、この人は世間にざらにあるような好色男の生活はきらいであった。まれには風変わりな恋をして、たやすい相手でない人に心を打ち込んだりする欠点はあった。 【まだ中将などにものしたまひし時は】- 源氏が中将であることが初めて紹介される。中将は、従四位下相当官(定員、左右各一名)。「桐壺」巻では元服後でも「君」とあって、特に官職名で呼ばれていない。慣例によれば侍従となったか。「まだ」という語り方は、後の大将の物語を前提にした表現。古注『弄花抄』以下の注釈書に「まだ中将などに」から「うちまじりけり」までを草子地とする指摘(『孟津抄』)があるが、「まだ」「よう」「さしも」「あながちに」「あやにくにて」という表現には、物語筆記編集者の物語享受者を想定した語り方や物語の主人公に対する主観的判断が感じられなくもないが、物語伝承者と物語筆記編集者とを峻別することは難しい。「し」は、過去助動詞「き」(連体形)で、ここから、「けり」に代わって「き」が使われ出す。「ありしかど」にもある。物語筆記編集者の実際見聞した内容というニュアンスに近くなる。いよいよ物語の本題に入る。地の文(物語伝承者の話をそのまま筆記編集した文章)と考えてよい。
【内裏】- 宮中。そこには父桐壺帝と憧れの継母藤壺がいる。
【大殿】- 左大臣邸。そこには正妻の葵の上がいる。当時の結婚形態は夫が妻の家へ通うという通い婚形態であった。
【忍ぶの乱れや】- 底本の明融臨模本には朱合点有り。「春日野の若紫の摺衣忍の乱れ限り知られず」(『伊勢物語』初段)の語句を引用。『源氏釈』が初指摘。『伊勢物語』初段の元服したばかりの色好みの主人公の世界を踏まえる。
【癖】- 「さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性」と「まれにはあながちに引き違へ心尽くしなることを御心に思しとどむる癖」の相背反する性格づけが好色人の伝統を継承するこの物語の主人公固有性をかたどっている。参考、秋山虔「好色人と生活者」(『王朝の文学空間』所収)。
【あやにくにて】- 「おりもおりというときに望ましからぬ方向に物事が起こって迷惑する状態」「おり悪く困ったことに」(小学館古語大辞典)。語り手の感想が言い込められている。挿入句。
【うち混じりける】- 過去の助動詞「けり」で、序段を語り上げる。

第二段 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将

1.2.1
長雨晴(ながあめは)()なきころ内裏(うち)御物忌(おほんものいみ)さし(つづ)きて、いとど長居(ながゐ)さぶらひたまふを、大殿(おほいどの)にはおぼつかなく(うら)めしく(おぼ)したれど、よろづの(おほん)よそひ(なに)くれとめづらしきさまに調(てう)()でたまひつつ御息子(おほんむすこ)(きみ)たちただこの御宿直所(おほんとのゐどころ)宮仕(みやづか)へを(つと)めたまふ。
長雨の晴れ間のないころ、宮中の御物忌みが続いて、ますます長々と伺候なさるのを、大殿邸では待ち遠しく恨めしいとお思いになっていたが、すべてのご装束を何やかやと新しい様相に新調なさっては、ご子息の公達がひたすらこのご宿直所の宮仕えをお勤めになる。
梅雨のころ、帝の御謹慎日が幾日かあって、近臣は家へも帰らずに皆宿直する、こんな日が続いて、例のとおりに源氏の御所住まいが長くなった。大臣家ではこうして途絶えの多い婿君を恨めしくは思っていたが、やはり衣服その他贅沢を尽くした新調品を御所の桐壼へ運ぶのに倦むことを知らなんだ。左大臣の子息たちは宮中の御用をするよりも、源氏の宿直所への勤めのほうが大事なふうだった。 【長雨晴れ間なきころ】- 物語が具体的に展開し始める。時は夏の五月雨の季節、宮中の物忌みも多く、外出するのも億劫になる折柄、何かと気晴しを考えたくなるころ。物語の主題と季節的背景が有効に働いている。
【調じ出でたまひつつ】- 接続助詞「つつ」は上に「よろづの」「何くれと」があるので、「調じ出づ」という動作の反復の意を表すと共に下文の御息子の君たちの「勤めたまふ」という動作も平行して行われている様子を表す。
【この御宿直所の】- 源氏の御宿直所、淑景舎(桐壺)。源氏を「この」という近称で呼称する。なお、青表紙本の大島本、伝冷泉為秀本には「御とのゐ所に」(御宿直所で)とある。その他の青表紙本、河内本、別本はすべて「--の」とある。『全集』『完訳』『新大系』が「に」とある本文を採用する。
1.2.2
宮腹(みやばら)中将(ちゅうじゃう)なかに(した)しく()れきこえたまひて、(あそ)(たはぶ)れをも(ひと)よりは心安(こころやす)く、なれなれしく()()ひたり。
右大臣(みぎのおとど)のいたはりかしづきたまふ()()は、この(きみ)もいともの()くして、()きがましきあだ(びと)なり
宮がお生みになった中将は、中でも親しくお馴染み申されて、遊び事や戯れ事においても誰よりも気安く、親密に振る舞っていた。
右大臣が気を配ってお世話なさる住居には、この君もとても何となく気が進まずにいて、いかにも好色人らしい浮気人なのである。
そのうちでも宮様腹の中将は最も源氏と親しくなっていて、遊戯をするにも何をするにも他の者の及ばない親交ぶりを見せた。大事がる舅の右大臣家へ行くことはこの人もきらいで、恋の遊びのほうが好きだった。 【宮腹の中将は】- 頭中将。母が桐壺帝の妹宮(三の宮)である。前の「桐壺」巻には「宮の御腹は蔵人少将にて」とあった。今は中将に昇進。
【好きがましきあだ人なり】- 地の文とも読めるが、語り手の頭中将に対する批評が言い込められた表現。「あだ人」の語句について、『異本紫明抄』は「秋と言へばよそにぞ聞きしあだ人の我をふるせる名にこそありけれ」(古今集、恋五、八二四 、読人しらず)「あだ人もなきにはあらずありながら我が身にはまだ聞きぞ習はぬ」(後撰集、恋三、一一九七、左大臣)を指摘する。
1.2.3
(さと)にても、わが(かた)のしつらひまばゆくして、(きみ)()()りしたまふにうち()れきこえたまひつつ夜昼(よるひる)学問(がくもん)をも(あそ)びをももろともにして、をさをさ()ちおくれずいづくにてもまつはれきこえたまふほどに、おのづからかしこまりもえおかず(こころ)のうちに(おも)ふことをも(かく)しあへずなむ、(むつ)れきこえたまひける。
実家でも、ご自分の部屋の装飾を眩しくして、源氏の君がお出入りなさるのにいつもお供申し上げなさっては、昼も夜も、学問をも音楽をもご一緒申して、少しもひけをとらず、どこにでも親しくご一緒申し上げなさるうちに、自然と遠慮もしていられず、胸の中に思うことをも隠しきれず、お親しみ申されるのであった。
結婚した男はだれも妻の家で生活するが、この人はまだ親の家のほうにりっぱに飾った居間や書斎を持っていて、源氏が行く時には必ずついて行って、夜も、昼も、学問をするのも、遊ぶのもいっしょにしていた。謙遜もせず、敬意を表することも忘れるほどぴったりと仲よしになっていた。 【里にても、わが方】- ここの里は左大臣邸の源氏の部屋。
【うち連れきこえたまひつつ】- 主語は頭中将。接続助詞「つつ」は同じ動作の反復・継続の意。
【学問】- 「学門 ガクモン」(『色葉字類抄』)「学文 ガクモン」(『文明本節用集』)。
【をさをさ立ちおくれず】- 副詞「をさをさ」は下の打消の助動詞「ず」と呼応して、少しも--ない、の意を表す。
【かしこまりもえおかず】- 副詞「え」は下の打消の助動詞「ず」と呼応して、--できない、の意を表す。
1.2.4
つれづれと()()らして、しめやかなる(よひ)(あめ)殿上(てんじゃう)にもをさをさ人少(ひとずく)なに、御宿直所(おほんとのゐどころ)(れい)よりはのどやかなる心地(ここち)するに、大殿油近(おほとなぶらちか)くて(ふみ)どもなど()たまふ
(ちか)御厨子(みづし)なる色々(いろいろ)(かみ)なる(ふみ)どもを()()でて中将(ちゅうじゃう)わりなくゆかしがれば
所在なく雨が一日中降り続いて、しっとりした夜の雨に、殿上の間でもろくに人少なで、ご宿直所もいつもよりはのんびりとした気分なので、大殿油を近くに寄せて漢籍などを御覧になる。
近くの御厨子にあるさまざまな色彩の紙に書かれた手紙類を取り出して、中将がひどく見たがるので、
五月雨がその日も朝から降っていた夕方、殿上役人の詰め所もあまり人影がなく、源氏の桐壼も平生より静かな気のする時に、灯を近くともしていろいろな書物を見ていると、その本を取り出した置き棚にあった、それぞれ違った色の紙に書かれた手紙の殻の内容を頭中将は見たがった。 【つれづれと降り暮らして、しめやかなる宵の雨に】- 再び物語の現在に戻る。夏の雨の夜、場所は淑景舎(桐壺)の源氏の部屋。
【御宿直所】- 宮中の淑景舎(桐壺)、源氏の部屋
【書どもなど見たまふ】- 主語は源氏。この「書(ふみ)」は漢籍類。『新大系』は「手紙類をいろいろと。書物ではあるまい」と注す。
【色々の紙なる文どもを引き出でて】- 主語は頭中将。この「文(ふみ)」は恋文。当時の恋文は美しい色の紙に仮名文字の連綿体散らし書きで書かれていた。
【ゆかしがれば】- 「ゆかし」は、見たい、の意。頭中将は手紙の上包みを見ていたので、その中身を見たいのである。
1.2.5
さりぬべきすこしは()せむ。
かたはなるべきもこそ
「差し支えのないのを、少しは見せよう。
不体裁なものがあってはいけないから」
「無難なのを少しは見せてもいい。見苦しいのがありますから」 【さりぬべき】- 以下「かたはなるべきもこそ」まで、源氏の詞。連語「さりぬべし」は、動詞「さり」+完了の助動詞「ぬ」+推量の助動詞「べし」、そうなっても差し支えない、の意。
【かたはなるべきもこそ】- 連語「もこそ」は、係助詞「も」+係助詞「こそ」は危惧・懸念を表す。下に「あれ」などの語が省略。
1.2.6
と、(ゆる)したまはねば、
と、お許しにならないので、
と源氏は言っていた。
1.2.7
そのうちとけてかたはらいたしと(おぼ)されむこそゆかしけれ。
おしなべたるおほかたのは、(かず)ならねど程々(ほどほど)につけて、()()はしつつ()はべりなむ。
おのがじし、(うら)めしき折々(をりをり)()(がほ)ならむ夕暮(ゆふぐ)れなどのこそ、見所(みどころ)はあらめ」
「その気を許していて人に見られたら困ると思われなさ文こそ興味があります。
普通のありふれたのは、つまらないわたしでも、身分相応に、互いにやりとりしては見ておりましょう。
それぞれが、恨めしく思っている折々や、心待ち顔でいるような夕暮などの文が、見る価値がありましょう」
「見苦しくないかと気になさるのを見せていただきたいのですよ。平凡な女の手紙なら、私には私相当に書いてよこされるのがありますからいいんです。特色のある手紙ですね、怨みを言っているとか、ある夕方に来てほしそうに書いて来る手紙、そんなのを拝見できたらおもしろいだろうと思うのです」 【そのうちとけて】- 以下「見所はあらめ」まで、頭中将の詞。
【数ならねど】- 頭中将が謙遜して自分のことをいう。
【書き交はしつつ】- 接続助詞「つつ」は動作の反復・継続。
1.2.8
(ゑん)ずれば、やむごとなくせちに(かく)したまふべきなどは、かやうにおほぞうなる御厨子(みづし)などにうち()()らしたまふべくもあらず、(ふか)くとり()きたまふべかめれば、()(まち)心安(こころやす)きなるべし。
片端(かたはし)づつ()るにかくさまざまなる(もの)どもこそはべりけれ」とて、(こころ)あてにそれか、かれか」など()ふなかに、()()つるもあり、もて(はな)れたることをも(おも)()せて(うたが)ふも、をかしと(おぼ)せど言少(ことずく)なにてとかく(まぎ)らはしつつとり(かく)したまひつ。
と怨み言をいうので、高貴な方からの絶対にお隠しにならねばならない文などは、このようになおざりな御厨子などにちょっと置いて散らかしていらっしゃるはずはなく、奥深く別にしまって置かれるにちがいないようだから、これらは二流の気安いものであろう。
少しずつ見て行くと、「こんなにも、いろいろな手紙類がございますなあ」と言って、当て推量に「これはあの人か、あれはこの人か」などと尋ねる中で、言い当てるものもあり、外れているのをかってに推量して疑ぐるのも、おもしろいとお思いになるが、言葉少なに答えて何かと言い紛らわしては、取ってお隠しになった。
と恨まれて、初めからほんとうに秘密な大事の手紙などは、だれが盗んで行くか知れない棚などに置くわけもない、これはそれほどの物でないのであるから、源氏は見てもよいと許した。
中将は少しずつ読んで見て言う。
 「いろんなのがありますね」
 自身の想像だけで、だれとか彼とか筆者を当てようとするのであった。上手に言い当てるのもある、全然見当違いのことを、それであろうと深く追究したりするのもある。そんな時に源氏はおかしく思いながらあまり相手にならぬようにして、そして上手に皆を中将から取り返してしまった。
【やむごとなくせちに】- 以下「心安きなるべし」まで、語り手の推量。推量の助動詞「べし」(当然の意)四度、「めり」(視覚による推量の意)一度、いずれも、語り手の源氏の行為に対する推量である。『帚木別注』他では、草子地と指摘する。
【おほぞうなる】- 明融臨模本・大島本共に「おほそうなる」と表記する。「古写本の本文ではみな「おほぞう」で、「おほざう」ではない。」(岩波古語辞典)。『集成』は「おほざう」としている。
【片端づつ見るに】- 以下、再び物語の現在に戻って語る。主語は頭中将。「づつ」は接尾語、また副助詞とも。手紙の一部分ずつを見ていく。
【かくさまざまなる物どもこそはべりけれ】- 頭中将の詞。大島本を含め諸本「よく」とあるが、明融臨模本では「かく」と読める字形。「はべり」(動詞、丁寧の意を含む)+「けれ」(過去の助動詞、詠嘆の意、「こそ」を受け已然形)。「ございますなあ」という驚きのニュアンス。
【心あてに】- 『河海抄』は「心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花」(古今集、秋下、二七七 、凡河内躬恒)を指摘する。
【それか、かれか】- 頭中将の詞。その手紙は誰々からのものか、あの手紙は誰々からのものか。
【をかしと思せど】- 主語は源氏。
【とかく紛らはしつつ】- 接続助詞「つつ」は動作の反復・継続。何かとごまかしごまししては、の意。
1.2.9
そこにこそ(おほ)(つど)へたまふらめ。
すこし()ばや
さてなむ、この厨子(づし)(こころ)よく(ひら)くべき」とのたまへば、
「そなたこそ、
たくさんお有り
だろう。少し見たいね。そうしたら、この厨子も気持ちよく開け
「あなたこそ女の手紙はたくさん持っているでしょう。少し見せてほしいものだ。そのあとなら棚のを全部見せてもいい」 【そこにこそ】- 以下「開くべき」まで、源氏の詞。「そこ」は懇意な間柄で使う二人称の代名詞。源氏は頭中将と従兄弟、かつその妹を正妻に迎え入れており、大変に親密な間柄であることは既に語られている。年齢は、頭中将が上であるが、血筋、身分の上では、源氏が上である。
【すこし見ばや】- 終助詞「ばや」は、話者の願望の意を表す。
1.2.10
御覧(ごらん)(どころ)あらむこそ(かた)くはべらめ」など()こえたまふついでに(をんな)の、これはしもと(なん)つくまじきは、(かた)くもあるかなと、やうやうなむ()たまへ()
ただうはべばかりの(なさ)けに、手走(てはし)()き、をりふしの(いら)心得(こころえ)て、うちしなどばかりは、随分(ずいぶん)によろしきも(おほ)かり()たまふれどそもまことにその(かた)()()でむ(えら)びにかならず()るまじきはいと(かた)しや。
わが心得(こころえ)たることばかりを、おのがじし(こころ)をやりて、(ひと)をば()としめなど、かたはらいたきこと(おほ)かり。
「御覧になる値打のものは、ほとんどないしょう」などと申し上げなさる、そのついでに、「女性で、これならば良しと難点を指摘しようのない人は、めったにいないものだなあと、だんだんと分かってまいりました。
ただ表面だけの風情で、手紙をさらさらと走り書きしたり、時節に相応しい返答を心得て、ちょっとするぐらいのは、身分相応にまあまあ良いと思う者は多くいると拝見しますが、それも本当にその方面の優れた人を選び出そうとすると、絶対に選に外れないという者は、本当にめったにないものですね。
自分の得意なことばかりを、それぞれ得意になって、他人を貶めたりなどして、見ていられないことが多いです。
「あなたの御覧になる価値のある物はないでしょうよ」
 こんな事から頭中将は女についての感想を言い出した。
 「これならば完全だ、欠点がないという女は少ないものであると私は今やっと気がつきました。ただ上っつらな感情で達者な手紙を書いたり、こちらの言うことに理解を持っているような利巧らしい人はずいぶんあるでしょうが、しかもそこを長所として取ろうとすれば、きっと合格点にはいるという者はなかなかありません。自分が少し知っていることで得意になって、ほかの人を軽蔑することのできる厭味な女が多いんですよ。
【御覧じ所あらむこそ】- 以下途中に「など聞こえたまふついでに」という地の文を介在させて、「なくなむあるべき」まで、頭中将の詞。「御覧ず」の主格は、あなた源氏。
【難くはべらめ】- 係助詞「こそ」の結び「はべらめ」已然形。強調のニュアンスを添える。ほとんどないでしょう。
【聞こえたまふついでに】- 申し上げる、その機会に、の意。
【女の、これはしもと】- 「女(をんな)」は、「男(をとこ)」の対。「女(め)」はやや卑しめられたニュアンスを伴う。「をんな」は、成人女性一般をさす。とくに結婚適齢期に達した女性、結婚関係を持つ女性に対して使われる。ここは、女性一般をさす。副助詞「しも」は強調の意。下に「めでたし」などの語が省略。頭中将の女性論。最初に結論を述べ、以下詳細に語るというのが、当時の論法である。
【見たまへ知る】- 「たまふ」は謙譲の補助動詞(下二段活用)。
【随分によろしきも多かり】- 「随分」は身分相応に、の意。「よろし」は、まあまあ良い、の意。「良し」よりは劣る。「わろし」よりは上。
【見たまふれど】- 「たまふ」は謙譲の補助動詞(下二段活用)已然形。
【かならず漏るまじきは】- 副詞「かならず」は下に打消し推量の助動詞「まじ」と呼応して、必ずしも--とは限らない、の意を表す。
1.2.11
(おや)など()()ひもてあがめて、()先籠(さきこも)れる(まど)(うち)なるほどはただ(かた)かどを()(つた)へて、(こころ)(うご)かすこともあめり
容貌(かたち)をかしくうちおほどき、(わか)やかにて(まぎ)るることなきほど、はかなきすさびをも、(ひと)まねに(こころ)()るることもあるに、おのづから(ひと)つゆゑづけてし()づることもあり。
親などが側で大切にかわいがって、将来性のある箱入娘時代は、ちょっとの才能の一端を聞き伝えて、関心を寄せることもあるようです。
容貌が魅力的でおっとりしていて、若々しくて家事にかまけることのないうちは、ちょっとした芸事にも、人まねに一生懸命に稽古することもあるので、自然と一芸をもっともらしくできることもあります。
親がついていて、大事にして、深窓に育っているうちは、その人の片端だけを知って男は自分の想像で十分補って恋をすることになるというようなこともあるのですね。顔がきれいで、娘らしくおおようで、そしてほかに用がないのですから、そんな娘には一つくらいの芸の上達が望めないこともありませんからね。 【生ひ先籠れる窓の内なるほどは】- 明融臨模本は「まとの」に朱合点あり。『奥入』(自筆本)は「楊家有女初長成養在深窓人未識」(白氏文集、長恨歌)を指摘する(明融臨模本・大島本は「深宮」、流布本「白氏文集」では「深閨」とある)を指摘する。
【心を動かすこともあめり】- 「あめり」は「あるめり」が撥音便化して「あんめり」となり「ん」が無表記化された形。推量の助動詞「めり」(主観的推量のニュアンス)は話者である頭中将の推測。
【容貌をかしく】- 「をかし」は動詞「を(招)く」の形容詞形、好意をもって招き寄せたい、意。容貌に対しては、美しく心ひかれる、魅力的である、の意。
1.2.12
()(ひと)(おく)れたる(かた)をば()(かく)し、さてありぬべき(かた)をばつくろひて、まねび()だすに、『それ、しかあらじ』と、そらにいかがは()(はか)(おも)ひくたさむ。
まことかと()もてゆくに、見劣(みおと)りせぬやうは、なくなむあるべき
世話をする人は、劣った方面は隠して言わず、まあまあと言った方面をとりつくろって、それらしく言うので、『それは、そうではあるまい』と、見ないでどうしてあて推量で貶めることができましょう。
本物かと思って付き合って行くうちに、がっかりしないというのは、きっとないでしょう」
それができると、仲に立った人間がいいことだけを話して、欠点は隠して言わないものですから、そんな時にそれはうそだなどと、こちらも空で断定することは不可能でしょう、真実だろうと思って結婚したあとで、だんだんあらが出てこないわけはありません」 【見る人】- 世話をする人。乳母や女房など。
【さてありぬべき方】- 「さ」は、人に話してもよさそうな内容、「ぬ」(完了の助動詞、確述)、「べき」(推量の助動詞、当然)、「人に話しても確実に請け合えそうな」という、ニュアンス。
【なくなむあるべき】- 係助詞「なむ」は「べき」(連体形)に係り強調のニュアンスを添える。「べき」(推量の助動詞、推量)、頭中将の確信に満ちた推量、「きっと--であろう」。
1.2.13
と、うめきたる気色(けしき)()づかしげなればいとなべてはあらねど、われ(おぼ)()はすることやあらむうちほほ()みて、
と言って、嘆息している様子も気遅れするようなので、全部が全部というのではないが、ご自身でもなるほどとお思いになることがあるのであろうか、ちょっと笑みを浮かべて、
中将がこう言って歎息した時に、そんなありきたりの結婚失敗者ではない源氏も、何か心にうなずかれることがあるか微笑をしていた。 【恥づかしげなれば】- 源氏が頭中将の自信満々なのを見て、気後れする。
【われ思し合はすることやあらむ】- 明融臨模本「我(我+モ)」の「モ」は後人の補入。大島本には「も」ナシ。『新大系』は大島本を底本として「我おぼしあはすること」とするが、『集成』『古典セレクション』は他本に拠って「我も思しあはする」と「も」を補っている。「われ」は源氏をさす。「思し合はする」の主語は、源氏。「や」(終助詞、疑問)、「む」(推量の助動詞)の疑問や推量の言語主体者は語り手。ここは語り手の源氏の心理を推量した挿入句。
1.2.14 「その、一つの才能もない人というのは、いるものだろうか」とおっしゃると、
「あなたが今言った、一つくらいの芸ができるというほどのとりえね、それもできない人があるだろうか」 【その、片かどもなき人は、あらむや】- 源氏の問い。
1.2.15
いと、さばかりならむあたりには()れかはすかされ()りはべらむ
()るかたなく口惜(くちを)しき(きは)と、(いう)なりとおぼゆばかりすぐれたるとは、数等(かずひと)しくこそはべらめ。
(ひと)品高(しなたか)()まれぬれば(ひと)にもてかしづかれて、(かく)るること(おほ)く、自然(じねん)にそのけはひこよなかるべし。
(なか)(しな)になむ、(ひと)心々(こころごころ)おのがじしの()てたるおもむきも()えて、()かるべきことかたがた(おほ)かるべき。
(しも)のきざみといふ(きは)になれば、ことに(みみ)たたずかし」
「さあ、それほどのような所には、誰が騙されて寄りつきましょうか。
何の取柄もなくつまらない身分の者と、素晴らしいと思われるほどに優れた者とは、同じくらいございましょう。
家柄が高く生まれると、家人に大切に育てられて、人目に付かないことも多く、自然とその様子が格別でしょう。
中流の女性にこそ、それぞれの気質や、めいめいの考え方や趣向も見えて、区別されることがそれぞれに多いでしょう。
下層の女という身分になると、格別関心もありませんね」
「そんな所へは初めからだれもだまされて行きませんよ、何もとりえのないのと、すべて完全であるのとは同じほどに少ないものでしょう。上流に生まれた人は大事にされて、欠点も目だたないで済みますから、その階級は別ですよ。中の階級の女によってはじめてわれわれはあざやかな、個性を見せてもらうことができるのだと思います。またそれから一段下の階級にはどんな女がいるのだか、まあ私にはあまり興味が持てない」 【いと、さばかりならむあたりには】- 以下「ことに耳たたずかし」まで、頭中将の詞。源氏の問いに対する答え。「さばかり」は「片かどもなき人」をさす。
【誰れかはすかされ寄りはべらむ】- 反語表現の構文。誰がだまされ寄り付きましょうか、誰も騙されはしないの意。
【品高く生まれぬれば】- 「ぬれば」は(完了の助動詞「ぬ」已然形+接続助詞「ば」)順接の確定条件。以下、女性を「上の品(かみのしな)」「中の品(なかのしな)」「下の品(しものしな)」の三階層に分ける。
1.2.16 と言って、何でも知っている様子であるのも、興味が惹かれて、
こう言って、通を振りまく中将に、源氏はもう少しその観察を語らせたく思った。 【いと隈なげなる気色】- 頭中将の様子。
【ゆかしくて】- 主語は源氏。さらに聞きたい気持ち。
1.2.17
その品々(しなじな)や、いかに
いづれを()つの(しな)()きてか()くべき。
(もと)品高(しなたか)()まれながら、()(しづ)み、(くらゐ)みじかくて(ひと)げなき
また直人(なほびと)上達部(かんだちめ)などまでなり(のぼ)り、(われ)(がほ)にて(いへ)(うち)(かざ)り、(ひと)(おと)らじと(おも)へる。
そのけぢめをば、いかが()くべき」
「その身分身分というのは、どのように考えたらよいのか。
どれを三つの階級に分け置くことができるのか。
元の階層が高い生まれでありながら、今の身の上は落ちぶれ、位が低くて人並みでない人。
また一方で普通の人で上達部などまで出世して、得意顔して邸の内を飾り、人に負けまいと思っている人。
その区別は、どのように付けたらよいのだろうか」
「その階級の別はどんなふうにつけるのですか。上、中、下を何で決めるのですか。よい家柄でもその娘の父は不遇で、みじめな役人で貧しいのと、並み並みの身分から高官に成り上がっていて、それが得意で贅沢な生活をして、初めからの貴族に負けないふうでいる家の娘と、そんなのはどちらへ属させたらいいのだろう」 【その品々や、いかに】- 以下「いかが分くべき」まで、源氏の問い。没落貴族と成り上がり貴族とはどうなるのか。その身分身分の相違はどのように考えたらよいのか、の意。
【人げなき】- 以下の「劣らじと思へる」とは並立。「--人げなき人と、--劣らじと思へる人との、そのけじめは」という構文。
【直人】- 平凡な家柄の人、ここでは五位あるいは六位くらいの人を想定してよいか。なお、五位にも従五位下、従五位上、正五位下、正五位上の四段階がある。
【上達部】- 大臣・大中納言・参議及び三位以上の人。
1.2.18
()ひたまふほどに、左馬頭(ひだりのむまのかみ)藤式部丞(とうしきぶのじょう)御物忌(おほんものいみ)()もらむとて(まゐ)れり。
()()(もの)にて(もの)よく()ひとほれるを、中将待(ちゅうじゃうま)ちとりて、この品々(しなじな)をわきまへ(さだ)(あらそ)ふ。
いと()きにくきこと(おほ)かり
とお尋ねになっているところに、左馬頭や藤式部丞が御物忌に籠もろうとして参上した。
当代の好色者で弁舌が達者なので、中将は待ち構えて、これらの品々の区別の議論を戦わす。
まことに聞きにくい話が多かった。
こんな質問をしている所へ、左馬頭と藤式部丞とが、源氏の謹慎日を共にしようとして出て来た。風流男という名が通っているような人であったから、中将は喜んで左馬頭を問題の中へ引き入れた。不謹慎な言葉もそれから多く出た。 【藤式部丞】- 青表紙本の明融臨模本、伝冷泉為秀本は「藤しきふのせう」、大島本は「藤式部のせ(そ)う」(「せ」を「そ」と訂正)。なお別本の国冬本には「藤式部大輔」(藤原の式部大輔、式部省の次官)とある。なお、八省の次官(すけ)は、大輔(たいふ)・少輔(せう、「せうふ」の転、「せふ」とも)、三等官の判官(ぞう、発音はジョウの直音化)は、大丞(だいぞう)・少丞(せうぞう)である。令の規定では、三等官は一般に「ぞう、ジョウ」と呼称され、役所によって「祐」(神祇官)「丞」(八省)「允」(寮)「佑」(司)「尉」(衛門府、兵衛府、検非遺使庁)「六位蔵人」(蔵人所)「判官」(勘解由使、斎院司)「掾」(国司)「掌侍」(女官)など、漢字の当て方はさまざまであるが、読み方は「じょう」である。たまたま、八省の場合、「少輔」(せう)と「判官」(そう)と「丞」(しよう)との仮名遣いが紛らわしいので、ここは、その誤りから生じた異文である。
【いと聞きにくきこと多かり】- 語り手の登場人物たちの話の内容に対する評語。『一葉抄』他が草子地と指摘する。

第三段 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる

1.3.1
なり(のぼ)れどももとよりさるべき(すぢ)ならぬは、世人(よひと)(おも)へることも、さは()へど、なほことなり。
また、(もと)はやむごとなき(すぢ)なれど、()()るたづき(すく)なく、時世(ときよ)(うつ)ろひておぼえ(おとろ)へぬれば、(こころ)(こころ)としてこと()らず、()ろびたることども()でくるわざなめればとりどりにことわりて、(なか)(しな)にぞ()くべき。
「成り上がっても、元々の相応しいはずの家柄でない者は、世間の人の心証も、そうは言っても、やはり格別です。
また、元は高貴な家筋であるが、世間を渡る手づるが少なく、時勢におし流されて、声望も地に落ちてしまうと、気位だけは高くても思うようにならず、不体裁なことなどが生じてくるもののようですから、それぞれに分別して、中の品に置くのが適当でしょう。
「いくら出世しても、もとの家柄が家柄だから世間の思わくだってやはり違う。またもとはいい家でも逆境に落ちて、何の昔の面影もないことになってみれば、貴族的な品のいいやり方で押し通せるものではなし、見苦しいことも人から見られるわけだから、それはどちらも中の品ですよ。 【なり上れども】- 以下「多かりかし」まで、話者を(1)左馬頭とする説(講話・全書・対訳・対校・大系・評釈・全集・集成)と、(2)頭中将とする説(完訳・新大系・古典セレクション)がある。物語の経緯(左馬頭は今参上したばかり)、三階級説の提示と未説明部分を残すこと、話中の人物に対する身分意識(話者は身分のある人)などから、頭中将の三階級説として読んでみたい。
【時世に移ろひて】- 時勢に流されて、の意。
【出でくるわざなめれば】- 「なめれ」は「なるめれ」の「る」が撥音便化して「なんめれ」となり、さらに「ん」が無表記化された形。話者の断定と主観的推量のニュアンス。
1.3.2
受領(ずりゃう)()ひて、(ひと)(くに)のことにかかづらひ(いとな)みて、品定(しなさだ)まりたる(なか)にも、またきざみきざみありて、(なか)(しな)けしうはあらぬ()()でつべきころほひなり。
なまなまの上達部(かんだちめ)よりも非参議(ひさんぎ)四位(しゐ)どもの()のおぼえ口惜(くちを)しからず、もとの()ざし(いや)しからぬ、やすらかに()をもてなしふるまひたる、いとかはらかなりや。
受領と言って、地方の政治に掛かり切りにあくせくして、階層の定まった中でも、また段階段階があって、中の品で悪くはない者を、選び出すことができる時勢です。
なまじっかの上達部よりも非参議の四位連中で、世間の信望もまんざらでなく、元々の生まれも卑しくない人が、あくせくせずに暮らしているのが、いかにもさっぱりした感じですよ。
受領といって地方の政治にばかり関係している連中の中にもまたいろいろ階級がありましてね、いわゆる中の品として恥ずかしくないのがありますよ。また高官の部類へやっとはいれたくらいの家よりも、参議にならない四位の役人で、世間からも認められていて、もとの家柄もよく、富んでのんきな生活のできている所などはかえって朗らかなものですよ。 【けしうはあらぬ】- 悪くはない者を。すなわち相当によい者、かなりの者。
【なまなまの上達部よりも非参議の四位どもの】- 「なまじっかの上達部(三位)よりも非参議の四位連中で」という発言は、左馬頭などの発言としてはやや不遜な言い方になろう。頭中将なら許容されよう。
1.3.3
(いへ)(うち)()らぬことなど、はたなかめるままに(はぶ)かずまばゆきまでもてかしづける(むすめ)などの、おとしめがたく()()づるもあまたあるべし。
宮仕(みやづか)へに()()ちて(おも)ひかけぬ(さいは)ひとり()づる(ためし)ども(おほ)かりかし」など()へば
暮らしの中で足りないものなどは、やはりないようなのにまかせて、けちらずに眩しいほど大切に世話している娘などが、非難のしようがないほどに成長しているのもたくさんいるでしょう。
宮仕えに出て来て、思いもかけない幸運を得た例などもたくさんあるものです」などと言うと、
不足のない暮らしができるのですから、倹約もせず、そんな空気の家に育った娘に軽蔑のできないものがたくさんあるでしょう。宮仕えをして思いがけない幸福のもとを作ったりする例も多いのですよ」
 左馬頭がこう言う。
【はたなかめるままに】- 副詞「はた」は、また、やはり、の意。「なかめる」は「なかるめる」が撥音便化して「ん」が無表記化した形。推量の助動詞「めり」は話者の主観的推量のニュアンスを表す。
【宮仕へに出で立ちて】- 「宮仕へ」には、女房として出仕するというばかりでなく、帝の妃として仕えるという意もある。ここは後者の意。例えば、桐壺更衣の例などがある。
【など言へば】- 以上の話者には敬語が付いていない。
1.3.4 「およそ、金持ちによるべきだということだね」と言って、お笑いになるのを、
「それではまあ何でも金持ちでなければならないんだね」
 と源氏は笑っていた。
【すべて、にぎははしきによるべきななり】- 源氏の間の手。「ななり」は「なるなり」(断定の助動詞+推量の助動詞)が撥音便化して「ん」が無無表記化した形。
【笑ひたまふを】- 源氏の動作には「たまふ」という尊敬の補助動詞が付いて他の人々と区別される。
1.3.5 「他の人が言うように、意外なことをおっしゃる」と言って、中将は憎らしがる。
「あなたらしくないことをおっしゃるものじゃありませんよ」
 中将はたしなめるように言った。左馬頭はなお話し続けた。
【異人の言はむやうに、心得ず仰せらる】- 頭中将の詞。源氏の君らしからぬ発言だ、という意。
【中将憎む】- 頭中将には、敬語が付かない。他者と区別するときは、「中将」と明記している。
1.3.6
(もと)(しな)時世(ときよ)のおぼえうち()ひ、やむごとなきあたりの内々(うちうち)のもてなしけはひ(おく)れたらむは、さらにも()はず(なに)をしてかく()()でけむと、()ふかひなくおぼゆべし。
うち()ひてすぐれたらむもことわり、これこそはさるべきこととおぼえてめづらかなることと(こころ)(おどろ)くまじ。
なにがしが(およ)ぶべきほどならねば(かみ)(かみ)はうちおきはべりぬ。
「元々の階層と、時勢の信望が兼ね揃い、高貴な家で内々の振る舞いや様子が劣っているようなのは、まったく今更言うまでもないが、どうしてこう育てたのだろうと、残念に思われましょう。
兼ね揃って優れているのも当たり前で、この女性こそは当然のことだと思われて、珍しいことだと気持ちも動かないでしょう。
わたくしごとき者の手の及ぶ範囲ではないので、上の品の上は措いておきましょう。
「家柄も現在の境遇も一致している高貴な家のお嬢さんが凡庸であった場合、どうしてこんな人ができたのかと情けないことだろうと思います。そうじゃなくて地位に相応なすぐれたお嬢さんであったら、それはたいして驚きませんね。当然ですもの。私らにはよくわからない社会のことですから上の品は省くことにしましょう。 【元の品】- 以下「捨てがたきものをば」まで、左馬頭の詞。『新大系』は「引き続き頭中将の言か。それとも左馬頭の言か。複数の発言からなる議論とも取れる」と注す。一般的には左馬頭の詞とする。
【さらにも言はず】- 副詞「さらに」は舌の「ず」と呼応して、まったく--ない、の意。全然論外である。
【さるべきこととおぼえて】- 「さる」は「すぐれたらむ」をさす。
【なにがしが及ぶべきほどならねば】- 「なにがし」は、謙遜の自称。左馬頭の詞と知られる。
1.3.7
さて、()にありと(ひと)()られず、さびしくあばれたらむ(むぐら)(かど)に、(おも)ひの(ほか)にらうたげならむ(ひと)()ぢられたらむこそ、(かぎ)りなくめづらしくはおぼえめ。
いかで、はたかかりけむと(おも)ふより(たが)へることなむ、あやしく(こころ)とまるわざなる。
ところで、世間で人に知られず、寂しく荒れたような草深い家に、思いも寄らないいじらしいような女性がひっそり閉じ籠められているようなのは、この上なく珍しく思われましょう。
どうしてまあ、こんな人がいたのだろうと、想像していたことと違って、不思議に気持ちが引き付けられるものです。
こんなこともあります。世間からはそんな家のあることなども無視されているような寂しい家に、思いがけない娘が育てられていたとしたら、発見者は非常にうれしいでしょう。意外であったということは十分に男の心を引くカになります。 【葎の門】- 『伊勢物語』『宇津保物語』などに、零落した人の家に意外に美しい女を見つけ出した話がある。それらをふまえる。
【いかで、はたかかりけむと】- 「いかで--けむ」疑問表現の構文。「かかり」は、このような場所にこのような女性が、という内容をさす。「けむ」(過去推量の助動詞、「いかで」を受けて連体形)、どうして、このような場所にこのような素晴しい女性がいたのだろうと。
1.3.8
(ちち)年老(としお)い、ものむつかしげに(ふと)りすぎ、(せうと)顔憎(かほにく)げに、(おも)ひやりことなることなき(ねや)(うち)いといたく(おも)ひあがりはかなくし()でたることわざも、ゆゑなからず()えたらむ、(かた)かどにても、いかが(おも)ひの(ほか)にをかしからざらむ
父親が年を取り、見苦しく太り過ぎ、兄弟の顔が憎々しげで、想像するにたいしたこともない家の奥に、とてもたいそう誇り高く、ちょっとした芸事でも、雅趣ありげに見えるようなのは、生かじりの才能であっても、どうして意外なことでおもしろくないことがありましょうか。
父親がもういいかげん年寄りで、醜く肥った男で、風采のよくない兄を見ても、娘は知れたものだと軽蔑している家庭に、思い上がった娘がいて、歌も上手であったりなどしたら、それは本格的なものではないにしても、ずいぶん興味が持てるでしょう。 【思ひやりことなることなき閨の内に】- 「思ひやり」は、よそから想像して、の意。格別すばらしいとも思われない家の奥に。
【いといたく思ひあがり】- 「思ひあがり」は、気位が高い、誇り高い、の意で、貴族としては賞賛される態度。
【いかが思ひの外にをかしからざらむ】- 「いかが--む」反語表現の構文。意外にも興味が惹かれる、の意。
1.3.9 特別に欠点のない方面の女性選びは実現難しいでしょうが、それはそうした者として捨てたものではないな」
完全な女の選にははいりにくいでしょうがね」 【すぐれて疵なき方の選びにこそ】- 「すぐれて」は、副詞「すぐれて」特に、とりわけ、ひときわ、の意と動詞「すぐれ」+接続助詞「て」、優れていて、の意と解せる。前者の意で解す。『新大系』は「正妻に決定する場合には及第しないにせよ、その程度の女としては、の意」と注す。
【さる方にて】- 父親は老人で見苦しく太り過ぎ、兄弟も憎々しげな様子、思っても大したことのなさそうな家に、誇り高く暮らして、書、和歌、琴などの芸事なども雅趣ありげにこなし、生かじりの才能が窺える女性をさす。
【捨てがたきものをは】- 「をは」は、間投助詞「を」+終助詞「は」、共に詠嘆の意を表す。捨てたものではないなあ、の意。「をば」を格助詞「を」目的格+係助詞「は」濁音化(動作の対象を取り立てて強調する意)と解すると、「捨てたものではない人をば」どうするのか、それを受ける語句がない。『古典セレクション』は「「を」は間投助詞で詠嘆、「は」は係助詞で感動を表す。「をは」として文末にあるときは詠嘆を表す」と注す(待井新一も同説)。
1.3.10 と言って、式部を見やると、自分の妹たちがまあまあの評判であることを思っておっしゃるのか、と受け取ったのであろうか、何とも言わない。
と言いながら、同意を促すように式部丞のほうを見ると、自身の妹たちが若い男の中で相当な評判になっていることを思って、それを暗に言っているのだと取って、式部丞は何も言わなかった。 【わが妹どものよろしき聞こえあるを思ひてのたまふにや、とや心得らむ】- 「わが」は式部丞をさす。式部丞の娘たちが結構な評判であるのを。「思ひてののたまふ」の主語は左馬頭。「に」(断定の助動詞)「や」(間投助詞、疑問)、下に「あらむ」などの語句が省略された形。式部丞の心中。「心得」の、左馬頭の動作を断定し疑問に思う主体者は、式部丞。左馬頭は思っておっしゃるのだろうかと式部丞は合点する。「と」(格助詞、引用)の下接の「や」(間投助詞、疑問)の疑問の主体は、語り手の疑問でる。「らむ」(推量の助動詞、視界外)の推量する主体者も、語り手。「--のであろう」。この文全体の最後は、語り手による登場人物式部丞の態度に対する推量が言い込められた表現で統括されている。
1.3.11
いでや、(かみ)(しな)(おも)ふにだに(かた)げなる()を」と、(きみ)(おぼ)すべし
(しろ)御衣(おほんぞ)どものなよらかなるに、直衣(なほし)ばかりをしどけなく()なしたまひて(ひも)などもうち()てて、()()したまへる御火影(おほんほかげ)いとめでたく、(をんな)にて()たてまつらまほし
この(おほん)ためには(かみ)(かみ)()()でても、なほ()くまじく()えたまふ。
「さてどんなものか、上の品と思う中でさえ難しい世の中なのに」と、源氏の君はお思いのようである。
白いお召物で柔らかな物の上に、直衣だけを気楽な感じにお召しになって、紐なども結ばずに、物に寄り掛かっていらっしゃる灯影は、とても素晴らしく、女性として拝したいくらいだ。
この源氏の君のおんためには、上の上の女性を選び出しても、猶も満足ではなさそうにお見受けされる。
そんなに男の心を引く女がいるであろうか、上の品にはいるものらしい女の中にだって、そんな女はなかなか少ないものだと自分にはわかっているがと源氏は思っているらしい。柔らかい白い着物を重ねた上に、袴は着けずに直衣だけをおおように掛けて、からだを横にしている源氏は平生よりもまた美しくて、女性であったらどんなにきれいな人だろうと思われた。この人の相手には上の上の品の中から選んでも飽き足りないことであろうと見えた。 【いでや、上の品と思ふにだに難げなる世を」と、君は思すべし】- 「いでや」は「君」(源氏)の反発をこめた気持ちの発語。「思す」は「思ふ」の尊敬語。「べし」(推量の助動詞、推量)の推量する人は語り手。「確かに--と思っているようだ」のニュアンス。『首書源氏物語所引或抄』は「源氏の心を地より云なり」と指摘した。
【白き御衣どもの】- 以下、源氏の服装や態度を描写する。
【なよらか】- 明融臨模本では本文「なよか」とあり、「ら」と「よ」がそれぞれ朱筆で左右行間に補入されている。右側に朱筆で補入された「ら」を採用した。『集成』『新大系』『古典セレクション』は「なよよか」とする。踊り字「ゝ」と「ら」の字体は大変よく似ている。『岩波古語辞典』は「なよよか」「なよらか」両語を掲出している。
【しどけなく着なしたまひて】- わざとだらしなくお召しになって、の意。
【女にて見たてまつらまほし】- 主語は一座の男たち。源氏を女性として拝見したい。源氏は中性的な容貌姿態をしていたのであろう。
【この御ためには】- 源氏をさす。
1.3.12
さまざまの(ひと)(うへ)どもを(かた)()はせつつ
さまざまな女性について議論し合っていって、
【語り合はせつつ】- 「語り合はす」は比較しながら議論する、意。接続助詞「つつ」は動作の反復の意。議論し合い議論し合いして、の意。
1.3.13
おほかたの()につけて()るには(とが)なきも、わがものとうち(たの)むべきを()らむに、(おほ)かる(なか)にも、えなむ(おも)(さだ)むまじかりける
(をのこ)朝廷(おほやけ)(つか)うまつり、はかばかしき()のかためとなるべきも、まことの(うつは)ものとなるべき()()ださむには、かたかるべしかし。
「通り一遍の仲として付き合っているには欠点がなくい女でも、わが伴侶として信頼できる女性を選ぼうとするには、たくさんいる中でも、なかなか決め難いものですなあ。
男性が朝廷にお仕えし、しっかりとした世の重鎮となるような方々の中でも、真の優れた政治家と言えるような人物を数え上げるとなると、難しいことでしょうよ。
「ただ世間の人として見れば無難でも、実際自分の妻にしようとすると、合格するものは見つからないものですよ。男だって官吏になって、お役所のお勤めというところまでは、だれもできますが、実際適所へ適材が行くということはむずかしいものですからね。 【おほかたの世につけて】- 以下「出でばえするやうもありかし」まで、左馬頭の詞。理想的な女性は少ないことを説く。「世」は男女の仲、「見る」は男女の交りをする、結婚する、の意であるから、ここは、世間一般の男女の仲についていうのではなく、自分の身の上に、通り一遍の男と女の仲としての付き合っていくには、の意。
【えなむ思ひ定むまじかりける】- 副詞「え」--打消推量の助動詞「まじかり」で不可能の意。係助詞「なむ」--過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意。係結びの法則、強調のニュアンスを表す。
【男の朝廷に】- 以下、男性官吏の国政の運営の難しさを例にあげて、やがて家政の運営の難しさへと進めていく論法である。
【世のかためとなるべきも、まことの器ものとなるべき】- 「--べき、--べき」という並立の文章表現である。「世の固め」は世の中を治めること。国家の柱石。男性官吏でも国家の柱石となり大器を見つけ出すのは難しいと、結論から述べる。
1.3.14
されど、(かしこ)しとても、一人二人世(ひとりふたりよ)(なか)をまつりごちしるべきならねば、(かみ)(しも)(たす)けられ、(しも)(かみ)になびきて、こと(ひろ)きに(ゆづ)ろふらむ
しかし、賢者と言っても、一人や二人で世の中の政治を執り行えるものではありませんから、上の人は下の者に助けられ、下の者は上の人に従って、政治の事は広いものですから互いに委ね合っていくのでしょう。
しかしどんなに聡明な人でも一人や二人で政治はできないのですから、上官は下僚に助けられ、下僚は上に従って、多数の力で役所の仕事は済みますが、 【上は下に輔けられ、下は上になびきて、こと広きに譲ろふらむ】- 「広きに」の「に」は接続助詞、順接、原因理由を表す。広いので、の意。「譲ろふ」は「譲る」に「ひ」(接尾語)が付いて、反復継続の意を表す動詞。『古典セレクション』は「ゆつろふ」と清音で読み、「「ゆつる」(移る、の意)に継続の「ふ」がついた形、規格をゆるくして、それで何とか(融通して)都合をつけてゆくのであろう」と注す。推量の助動詞「らむ」視界外推量のニュアンス。推量者は話者左馬頭。『評釈』は「十七条憲法」の「上行下靡」を指摘した。すなわち「三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。(中略)是以君言臣承。上行下靡」<三に曰く。詔を承りては必ず謹め。君をば天とす。臣をば地とす。(中略)是を以て君言ふをば臣承る。上行ふときは下靡>(訓読は『日本思想大系』による)。漢籍には、『論語』「顔淵」に「君子之徳風也、小人之徳草也。草尚之風必偃」<君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草は之の風を尚びて必ず偃す>、『説苑』「君道」に「上之化下、猶風靡草」<上の下を化するは、猶風の草を靡かすがごとし>などとある。
1.3.15
(せば)(いへ)(うち)主人(あるじ)とすべき人一人(ひとひとり)(おも)ひめぐらすに、()らはで()しかるべき大事(だいじ)どもなむ、かたがた(おほ)かる。
とあればかかり、あふさきるさにてなのめにさてもありぬべき(ひと)(すく)なきを()()きしき(こころ)のすさびにて、(ひと)のありさまをあまた見合(みあ)はせむの(この)みならねど、ひとへに(おも)(さだ)むべきよるべとすばかりに、(おな)じくは、わが力入(ちからい)りをし(なほ)しひきつくろふべき(ところ)なく、(こころ)にかなふやうにもやと、()りそめつる(ひと)の、(さだ)まりがたきなるべし。
狭い家の中の主婦とすべき女性一人について思案すると、できないでは済まされないいくつもの大事が、こまごまと多くあります。
ああ思えばこうであったり、何かと食い違って、不十分ながらにもまあまあやって行けるような女性が少ないので、浮気心の勢いのままに、世の女性の有様をたくさん見比べようとの好奇心ではないが、ひたすら伴侶としたいばかりに、同じことなら、自ら骨を折って直したり教えたりしなければならないような所がなく、気に入るような女性はいないものかと、選り好みしはじめた人が、なかなか相手が決まらないのでしょう。
一家の主婦にする人を選ぶのには、ぜひ備えさせねばならぬ資格がいろいろと幾つも必要なのです。これがよくてもそれには適しない。少しは譲歩してもまだなかなか思うような人はない。世間の多数の男も、いろいろな女の関係を作るのが趣味ではなくても、生涯の妻を捜す心で、できるなら一所懸命になって自分で妻の教育のやり直しをしたりなどする必要のない女はないかとだれも思うのでしょう。 【狭き家の内】- 以下、国政の運営に対して、家庭経営と女性について述べて行く。
【とあればかかり、あふさきるさにて】- 明融臨模本は「あふさきるさにて」に朱合点有り。『源氏釈』は「そゑにとてとすればかかりかくすればあないひしらずあふさきるさに」(古今集、俳諧、一〇六〇、読人しらず)を指摘した(ただし、第一句が「しかありと」または「しかあれは」とある)。『古今集』の本文は「とすればかかり」であるが、『源氏物語』の本文では「とあればかかり」とするものが多い。「あふさきるさ」は、一方が良ければ一方が悪いこと、行き違って物事がうまく行かないさま。
【なのめにさてもありぬべき】- 【なのめにさても】-十分とは言えなくても、不十分ながらも、の意。 【さてもありぬべき】-「さ」は家庭の主婦として。「ぬ」(完了の助動詞、確述)+「べき」(推量の助動詞、可能)、家庭の主婦として必ずやって行けるだろう、のニュアンス。
【少なきを】- 接続助詞「を」原因理由を表す。--ので、の意。
1.3.16
かならずしもわが(おも)ふにかなはねど、()そめつる(ちぎ)りばかりを()てがたく(おも)ひとまる(ひと)は、ものまめやかなりと()え、さて、(たも)たるる(をんな)のためも、(こころ)にくく()(はか)らるるなり
されど、(なに)()のありさまを()たまへ(あつ)むるままに、(こころ)(およ)ばずいとゆかしきこともなしや。
君達(きんだち)(かみ)なき御選(おほんえら)びには、まして、いかばかりの(ひと)かは()らひたまはむ
必ずしも自分の理想通りではないが、いったん見初めた前世の約束だけを破りがたく思い止まっている人は、誠実であると見え、そうして、一緒にいる女性のためにも、奥ゆかしいものがあるのだろうと自然と推量されるものです。
しかし、なあに、世の中の夫婦の有様をたくさん拝見していくと、想像以上にたいして羨ましいと思われることもありませんよ。
公達の最上流の奥方選びには、なおさらのこと、どれほどの女性がお似合いになりましょうか。
必ずしも理想に近い女ではなくても、結ばれた縁に引かれて、それと一生を共にする、そんなのはまじめな男に見え、また捨てられない女も世間体がよいことになります。しかし世間を見ると、そう都合よくはいっていませんよ。お二方のような貴公子にはまして対象になる女があるものですか。私などの気楽な階級の者の中にでも、これと打ち込んでいいのはありませんからね。 【見そめつる契りばかりを捨てがたく思ひとまる人】- 「契り」は前世からの約束。後に登場する光る源氏の息子である夕霧がその典型的な人。
【推し量らるるなり】- 「るる」自発の助動詞。「なり」断定の助動詞。自然と想像されるのです、の意。
【されど、何か】- 「何か」は下に係っていく語がない。よって、「何か」は感動詞、なんの、なあに、の意。「いやなあに、どうしてどうして。上のことを軽く打消し、反対のことを述べるときに用いる語」(待井新一)。
【君達の】- ここでは、源氏や頭中将を念頭において言った表現である。
【足らひたまはむ】- 明融臨模本「たら(ら=く)ひ」とある。「く」は後人の筆。大島本は「たくひ」とある。『集成』『新大系』『古典セレクション』は「たぐひ」と校訂する。明融臨模本の本行本文のままとする。推量の助動詞「む」連体形、推量の意。「いかばかりの人かは」と呼応して、疑問の意となる。反語とまではいえまい。
1.3.17
容貌(かたち)きたなげなく、(わか)やかなるほどのおのがじしは(ちり)もつかじと()をもてなし、(ふみ)()けど、おほどかに言選(ことえ)りをし、(すみ)つきほのかに(こころ)もとなく(おも)はせつつまたさやかにも()てしがなとすべなく()たせ、わづかなる声聞(こゑき)くばかり()()れど、(いき)(した)にひき()言少(ことずく)ななるがいとよくもて(かく)すなりけり
なよびかに(をんな)しと()れば、あまり(なさ)けにひきこめられて、とりなせば、あだめく
これをはじめの(なん)とすべし。
容貌がこぎれいで、若々しい年頃で、自分自身では塵もつけまいと身を振る舞い、手紙を書いても、おっとりと言葉選びをし、墨付きも淡く関心を持たせ持たせし、もう一度はっきりと見たいものだとじれったく待たせ、わずかばかりの声を聞く程度に言い寄っても、息を殺して声小さく言葉少ななのが、とてもよく欠点を隠すものですなあ。
艶っぽくて女性的だと見えると、度を越して情趣にこだわって、調子を合わせると、浮わつきます。
これを、第一の難点と言うべきでしょう。
見苦しくもない娘で、それ相応な自重心を持っていて、手紙を書く時には蘆手のような簡単な文章を上手に書き、墨色のほのかな文字で相手を引きつけて置いて、もっと確かな手紙を書かせたいと男をあせらせて、声が聞かれる程度に接近して行って話そうとしても、息よりも低い声で少ししかものを言わないというようなのが、男の正しい判断を誤らせるのですよ。なよなよとしていて優し味のある女だと思うと、あまりに柔順すぎたりして、またそれが才気を見せれば多情でないかと不安になります。そんなことは選定の最初の関門ですよ。 【若やかなるほどの】- 格助詞「の」同格を表す。若々しい年頃で、の意。
【思はせつつ】- 接続助詞「つつ」動作の反復・継続を表す。
【言少ななるが】- 「少な」形容詞、語幹、断定の助動詞「なる」連体形。以上の文の主語となっている。
【もて隠すなりけり】- 過去の助動詞「けり」詠嘆を表す。
【とりなせば、あだめく】- 「とりなせば」の主語は男、「あだめく」の主語は相手の女。相手の情趣に合わせて機嫌をとっていると、女はますます色っぽい態度をとるようになってくる、の意。
1.3.18
(こと)(なか)なのめなるまじき(ひと)後見(うしろみ)(かた)は、もののあはれ()()ぐしはかなきついでの(なさ)けあり、をかしきに(すす)める(かた)なくてもよかるべしと()えたるにまた、まめまめしき(すぢ)()てて(みみ)はさみがちに()さうなき家刀自(いへとうじ)の、ひとへにうちとけたる後見(うしろみ)ばかりをして
家事の中で、疎かにできない夫の世話という点では、物の情趣が度を過ごし、ちょっとした折の風情があり、趣味性に過度になるのはなくてもよいことだろうと思われますが、また一方で、家事一点張りで、額髪を耳挟みがちに飾り気のない主婦で、ひたすら世帯じみた世話だけをして。
妻に必要な資格は家庭を預かることですから、文学趣味とかおもしろい才気などはなくてもいいようなものですが、まじめ一方で、なりふりもかまわないで、額髪をうるさがって耳の後ろへはさんでばかりいる、ただ物質的な世話だけを一所懸命にやいてくれる、そんなのではね。 【事が中に】- 妻の仕事の中で。
【もののあはれ知り過ぐし】- 風流性に傾き過ぎるタイプの女性評。
【見えたるに】- 接続助詞「に」逆接の意。
【まめまめしき筋を立てて】- 家事一点張りのタイプの女性評。
【ばかりをして】- これを受ける述語がない。したがって、ここで文が切れる。こうした女も困ったものだ、の意が下に略されている。
1.3.19
朝夕(あさゆふ)()()りにつけても公私(おほやけわたくし)(ひと)のたたずまひ、()()しきことの、()にも(みみ)にもとまるありさまを、(うと)(ひと)に、わざとうちまねばむやは
(ちか)くて()(ひと)()きわき(おも)()るべからむに(かた)りも()はせばやと、うちも()まれ、(なみだ)もさしぐみ、もしは、あやなきおほやけ腹立(はらだ)たしく(こころ)ひとつに(おも)ひあまることなど(おほ)かるを、(なに)にかは()かせむ(おも)へば、うちそむかれて、人知(ひとし)れぬ(おも)()(わら)ひもせられ、『あはれ』とも、うち(ひと)りごたるるに(なに)ごとぞ』など、あはつかにさし(あふ)ぎゐたらむは、いかがは口惜(くちを)しからぬ
朝夕の出勤や帰宅につけても、公事や私事での他人の振る舞いや、善いこと悪いことで、目にも耳にも止まった有様を、親しくもない他人にわざわざそっくり話して聞かせたりしましょうか。
親しい妻で理解してくれそうな者とこそ語り合いたいものだと思われ、つい微笑まれたり、涙ぐんだり、あるいはまた、無性に公憤をおぼえたり、胸の内に収めておけないことが多くあるのを、理解のない妻に、何で聞かせようか、聞かせてもしかたがない、と思いますと、ついそっぽを向きたくなって、人知れない思い出し笑いがこみ上げ、『ああ』とも、つい独り言を洩らすと、『何事ですか』などと、間抜けた顔で見上げるようなのは、どうして残念に思われないでしょうか。
お勤めに出れば出る、帰れば帰るで、役所のこと、友人や先輩のことなどで話したいことがたくさんあるんですから、それは他人には言えません。理解のある妻に話さないではつまりません。この話を早く聞かせたい、妻の意見も聞いて見たい、こんなことを思っているとそとででも独笑が出ますし、一人で涙ぐまれもします。また自分のことでないことに公憤を起こしまして、自分の心にだけ置いておくことに我慢のできぬような時、けれども自分の妻はこんなことのわかる女でないのだと思うと、横を向いて一人で思い出し笑いをしたり、かわいそうなものだなどと独言を言うようになります。そんな時に何なんですかと突っ慳貧に言って自分の顔を見る細君などはたまらないではありませんか。 【朝夕の出で入りにつけても】- 以下、「まめまめしき筋を立てて耳はさみがちに美さうなき家刀自」の具体的な振る舞いの例。
【疎き人に、わざとうちまねばむやは】- 係助詞「やは」反語の意を表す。親しくない他人にわざわざそっくり話して聞かせようか、そのようなことはしない、親しい妻と思えばこそ聞かせようとするのだ、意。
【見む人】- 妻をいう。
【おほやけ腹立たしく】- (1)「おほやけはらだたしき」(集成・新大系)、(2)「おほやけばら立たしき」(古典セレクション)。「公腹立つ」の語例は、『枕草子』二六八段にある。その形容詞形の「公腹立たし」であるが、どう連濁するか判然としない。『岩波古語辞典』『古語大辞典』では「おほやけはらだたし」を見出し語とする。
【何にかは聞かせむ】- 反語表現。「聞きわき思ひ知らぬ」妻であったら、の文意が省略されている。理解のない妻に、何で聞かせようか、聞かせてもしかたがない、の意。
【うち独りごたるるに】- 「るる」自発の助動詞。接続助詞「に」順接の意。
【いかがは口惜しからぬ】- 反語表現。どうして残念に思わないことがあろうか、そう思わずにはいられない、の意。以上、実務一点張りの妻の場合、家事や日常生活に埋没している妻の論。後に、夕霧の妻である雲居雁の例がこれに近い(「横笛」「夕霧」巻)。
1.3.20
ただひたふるに()めきて(やは)らかならむ(ひと)を、とかくひきつくろひてはなどか()ざらむ
(こころ)もとなくとも、(なほ)(どころ)ある心地(ここち)すべし。
げに、さし(むか)ひて()むほどは、さてもらうたき(かた)(つみ)ゆるし()るべきを、()(はな)れてさるべきことをも()ひやり、をりふしにし()でむわざのあだ(ごと)にもまめ(ごと)にも、わが(こころ)(おも)()ることなく(ふか)きいたりなからむは、いと口惜(くちを)しく(たの)もしげなき(とが)や、なほ(くる)しからむ。
(つね)はすこしそばそばしく(こころ)づきなき(ひと)の、をりふしにつけて()でばえするやうもありかし」
ただひたすら子供っぽくて柔軟な女を、いろいろと教え諭してはどうして妻としないでいられようか。
心配なようでも、きっと直し甲斐のある気持ちがするでしょう。
なるほど、一緒に生活するぶんには、そんなふうでもかわいらしさに欠点も許され世話をしてやれようが、離れていては必要な用事などを言いやり、時節に行なうような事柄の風流事にも実用事などにも、自分では判断ができず深い思慮がないのは、まことに残念で頼りにならない欠点が、やはり困ったものでしょう。
普段はちょっと無愛想で親しみの持てない女性が、何かの事に思わぬでき映えを発揮するようなこともありますからね」
ただ一概に子供らしくておとなしい妻を持った男はだれでもよく仕込むことに苦心するものです。たよりなくは見えても次第に養成されていく妻に多少の満足を感じるものです。一緒にいる時は可憐さが不足を補って、それでも済むでしょうが、家を離れている時に用事を言ってやりましても何ができましょう。遊戯も風流も主婦としてすることも自発的には何もできない、教えられただけの芸を見せるにすぎないような女に、妻としての信頼を持つことはできません。ですからそんなのもまただめです。平生はしっくりといかぬ夫婦仲で、淡い憎しみも持たれる女で、何かの場合によい妻であることが痛感されるのもあります」 【ただひたふるに子めきて】- 『色葉字類抄』(院政期)には「ヒタフル」と清音である。以下、まだ型にはまっていない女性についての論。紫の上の例がこれに近いであろう。
【などか見ざらむ】- 反語表現。「見る」は結婚する意。どうして結婚しないでいられようか、そうするのも悪くないことだ、の意。
【さてもらうたき方に】- 連語「さても」の「さ」は「心もとなくとも」をさす。
【をりふし】- 「時節 ヲリフシ」(『名義抄』)。
1.3.21
など、(くま)なきもの()ひも(さだ)めかねていたくうち(なげ)く。
などと、至らない所のない論客も、結論を出しかねて大きく溜息をつく。
こんなふうな通な左馬頭にも決定的なことは言えないと見えて、深い歎息をした。 【隈なきもの言ひも】- 『河海抄』は「思ふてふ人の心のくまごとに立ち隠れつつ見る由もがな」(古今集、俳諧、一〇三八、読人しらず)を指摘した。「隈なき」の語から連想される和歌である。

第四段 女性論、左馬頭の結論

1.4.1
(いま)は、ただ(しな)にもよらじ。
容貌(かたち)をばさらにも()はじ
いと口惜(くちを)しくねぢけがましきおぼえだになくはただひとへにものまめやかに、(しづ)かなる(こころ)のおもむきならむよるべをぞ、つひの(たの)(どころ)には(おも)ひおくべかりける
「今は、ただもう、家柄にもよりません。
容貌はまったく問題ではありません。
ひどく意に満たないひねくれた性格でさえなければ、ただひたすら実直で、落ち着いた心の様子がありそうな女性を、生涯の伴侶としては考え置くのがよいですね。
「ですからもう階級も何も言いません。容貌もどうでもいいとします。片よった性質でさえなければ、まじめで素直な人を妻にすべきだと思います。 【今は、ただ】- 以下「さははべらぬか」まで、左馬頭の詞。夫婦間の寛容と知性を説く。
【さらにも言はじ】- 副詞「さらに」--打消推量の助動詞「じ」、決して--ない、少しも--ない、の意を表す。
【ねぢけがましきおぼえだになくは】- 副助詞「だに」は下に打消しの語を伴って、最低限・最小限のニュアンスを添える。「なくは」(形容詞、連用形+係助詞「は」)は仮定条件を表す。「--さえなければ」の意。『河海抄』は「奈良山の児の手柏のふたおもてとににもかくにもねぢけ人かも」(古今六帖六、かしは、四三〇三)を指摘した。「ねぢけ」の語から連想される和歌である。
【よるべをぞ、つひの頼み所には思ひおくべかりける】- 係助詞「ぞ」は「べかりける」(推量の助動詞「べし」当然の意、連用形+過去の助動詞「けり」連体形、詠嘆の意)に係る。
1.4.2
あまりのゆゑよし(こころ)ばせうち()へたらむをばよろこびに(おも)ひ、すこし(おく)れたる(かた)あらむをもあながちに(もと)(くは)へじ。
うしろやすくのどけき(ところ)だに(つよ)くはうはべの(なさ)けは、おのづからもてつけつべきわざをや
余分な情趣を解する心や気立てのよさが加わっているようなのを、それを幸いと思い、少し足りないところがあるようなのも、無理に期待し要求するまい。
安心できてのんびりとした性格さえはっきりしていれば、表面的な情趣は、自然と身に付けることができるものですからね。
その上に少し見識でもあれば、満足して少しの欠点はあってもよいことにするのですね。安心のできる点が多ければ、趣味の教育などはあとからできるものですよ。 【あまりのゆゑよし心ばせ】- 「あまり」は余分の意。「ゆゑ」は教養・趣味の意。「よし」は情趣・風情の意。「ゆゑよし」は趣きを解する洗練された様子、奥ゆかしいさま。「心ばせ」の語に関して、青表紙本系の池田本、伝冷泉為秀本、三条西家本、別本群の陽明文庫本は「心はえ」とする。「心ばせ」は、機知、機転、気づかい、気立て、といったニュアンスが強い。「心ばへ」は、性質、心づかい、趣向、趣味、といったニュアンスが強い。
【うち添へたらむをば】- 推量の助動詞「む」連体形、仮定・婉曲の意味。下に「女」などの語が省略されている。格助詞「を」目的格+係助詞「は」濁音化した形、動作の対象を取り立てて強調するニュアンスを表す。加わっているような女をば、の意。「よろこびに思ひ」に係る。
【後れたる方あらむをも】- 推量の助動詞「む」仮定・婉曲の意味。少し劣っている方面があるようでも、の意。係助詞「も」は同類を表す。「求め加へじ」に係る。
【所だに強くは】- 副助詞「だに」は最低限・最小限の希望ぼ意を表す。「強く」(連用形)+係助詞「は」仮定条件を表す。「おのづからもてつけつべき」に係る。
【もてつけつべきわざをや】- 「もてつけ」+「つ」(完了の助動詞、確述)+「べき」(推量の助動詞、可能)+「わざ」+「をや」(間投助詞+終助詞、詠嘆、強い感動の意を表す)。身に付けることがきっとできるものだからな、の意。
1.4.3
(えん)にもの()ぢして、(うら)()ふべきことをも見知(みし)らぬさまに(しの)びて、(うへ)はつれなくみさをづくり、心一(こころひと)つに(おも)ひあまる(とき)は、()はむかたなくすごき(こと)()あはれなる(うた)()みおき、しのばるべき形見(かたみ)をとどめて、(ふか)山里(やまざと)世離(よばな)れたる(うみ)づらなどにはひ(かく)れぬるをり
思わせぶりにはにかんで見せて、恨み言をいうべきことをも見知らないふうに我慢して、表面は何げなく平静を装い、胸に収めかね思いあまった時には、何とも言いようのないほどの恐ろしい言葉や、哀切な和歌を詠み残し、思い出になるにちがいない形見を残して、深い山里や、辺鄙な海浜などに姿を隠してしまう女がいます。
上品ぶって、恨みを言わなければならぬ時も知らぬ顔で済ませて、表面は賢女らしくしていても、そんな人は苦しくなってしまうと、凄文句や身にしませる歌などを書いて、思い出してもらえる材料にそれを残して、遠い郊外とか、まったく世間と離れた海岸とかへ行ってしまいます。 【はひ隠れぬるをり】- 完了の助動詞「ぬる」連体形のと動詞「をり」の間に「女」などの語が省略されている。青表紙本系の明融臨模本、松浦本、池田本、伝冷泉為秀本は「はひかくれぬるおり」とあり、一方、大島本は「はひかくれぬるおりかし」とあり、三条西家本や書陵部本、河内本系は「はひかくれぬるかし」とある。別本群の陽明文庫本は「はひかくれぬるをり」、国冬本は「はひかくれぬるを」とある。ただ、明融臨模本には「ぬる」と「おり」との間の右傍らに墨筆で「かし」とあり、早くから本文の混乱があったようである。
1.4.4
(わらは)にはべりし(とき)女房(にょうばう)などの物語読(ものがたりよ)みしを()きていとあはれに(かな)しく、心深(こころふか)きことかなと、(なみだ)をさへなむ()としはべりし。
今思(いまおも)ふには、いと軽々(かるがる)しく、ことさらびたることなり。
子供でございましたころ、女房などが物語を読んでいたのを聞いて、とても気の毒に悲しく、何と深く思いつめたことかと、涙までを落としました。
今から思うと、とても軽薄で、わざとらしいことです。
子供の時に女房などが小説を読んでいるのを聞いて、そんなふうの女主人公に同情したものでしてね、りっぱな態度だと涙までもこぼしたものです。今思うとそんな女のやり方は軽佻で、わざとらしい。
【童にはべりし時】- 「はべり」は自動詞ラ変活用。丁寧語。過去の助動詞「し」(「き」連体形)は、自らの体験を表す。以下、左馬頭の子供のころの体験談。
【女房などの物語読みしを聞きて】- 国宝『源氏物語絵巻』「東屋」第一段に、一人の女房が物語を読み上げているのを、浮舟は絵を見ながら、また中君は髪を梳かせながら、周囲の女房らとともに聞いている様子が描かれている。
【涙をさへ】- 副助詞「さへ」は添加の意を表す。
1.4.5
(こころ)ざし(ふか)からむ(をとこ)をおきて、()()(まへ)につらきことありとも(ひと)(こころ)見知(みし)らぬやうに()(かく)れて、(ひと)をまどはし、(こころ)()むとするほどに(なが)()のもの(おも)ひになる、いとあぢきなきことなり。
愛情の深い夫を残して、たとえ目の前に薄情なことがあっても、夫の気持ちを分からないかのように姿をくらまして、夫を慌てさせ、本心を見ようとするうちに、一生の後悔となるのは、大変につまらないことです。
自分を愛していた男を捨てて置いて、その際にちょっとした恨めしいことがあっても、男の愛を信じないように家を出たりなどして、無用の心配をかけて、そうして男をためそうとしているうちに取り返しのならぬはめに至ります。いやなことです。
【見る目の前につらきことありとも】- 挿入句として置かれている。接続助詞「とも」は仮定条件を表す。たとえ--ても、の意。
【心を見むとするほどに】- 下に、夫婦の縁が切れて、の意が省略されている。
1.4.6
心深(こころふか)しや』など、ほめたてられて、あはれ(すす)みぬれば、やがて(あま)になりぬかし
(おも)()つほどは、いと心澄(こころす)めるやうにて、()(かへ)()すべくも(おも)へらず
いで、あな(かな)し。
かくはた(おぼ)しなりにけるよ』などやうに、あひ()れる人来(ひとき)とぶらひ、ひたすらに()しとも(おも)(はな)れぬ(をとこ)()きつけて涙落(なみだお)とせば、使(つか)(ひと)古御達(ふるごたち)など、(きみ)御心(みこころ)は、あはれなりけるものを。
あたら御身(おほんみ)を』など()ふ。
みづから額髪(ひたひがみ)をかきさぐりて、あへなく心細(こころぼそ)ければうちひそみぬかし。
(しの)ぶれど(なみだ)こぼれそめぬれば、折々(をりをり)ごとにえ(ねん)じえず(くや)しきこと(おほ)かめるに、(ほとけ)もなかなか(こころ)ぎたなしと、()たまひつべし。
(にご)りにしめるほどよりも、なま()かびにてはかへりて()しき(みち)にも(ただよ)ひぬべくぞおぼゆる。
『深い考えだ』などと、褒め立てられて、気持ちが昂じてしまうと、そのまま尼になってしまいますよ。
思い立った当座は、まことに気持ちも悟ったようで、世俗の生活を振り返ってみようなどとは思わない。
『まあ、何とおいたわしい。
こうもご決心されたとは』などと言ったように、知り合いの人が見舞いに来たり、すっかり嫌だとも諦めてない夫が、聞きつけて涙を落とすと、召使いや、老女たちなどが、『殿のお気持ちは、愛情深かったのに。
惜しいおん身を』などと言う。
自分でも額髪を触って、手応えなく心細いので、泣顔になってしまう。
堪えても涙がこぼれ出してしまうと、何かの時々には我慢もできず、後悔も多いようなので、仏もかえって未練がましいと、きっと御覧になるでしょう。
濁世に染まっている間よりも、生悟りは、かえって悪道に堕ちさ迷うことになるに違いなく思われます。
りっぱな態度だなどとほめたてられると、図に乗ってどうかすると尼なんかにもなります。その時はきたない未練は持たずに、すっかり恋愛を清算した気でいますが、まあ悲しい、こんなにまであきらめておしまいになってなどと、知った人が訪問して言い、真底から憎くはなっていない男が、それを聞いて泣いたという話などが聞こえてくると、召使や古い女房などが、殿様はあんなにあなたを思っていらっしゃいますのに、若いおからだを尼になどしておしまいになって惜しい。こんなことを言われる時、短くして後ろ梳きにしてしまった額髪に手が行って、心細い気になると自然に物思いをするようになります。忍んでももう涙を一度流せばあとは始終泣くことになります。御弟子になった上でこんなことでは仏様も末練をお憎みになるでしょう。俗であった時よりもそんな罪は深くて、かえって地獄へも落ちるように思われます。
【やがて尼になりぬかし】- 副詞「やがて」は、そのままの意。「ぬかし」(完了の助動詞「ぬ」確述+終助詞「かし」念押し)
【返り見すべくも思へらず】- 係助詞「も」強調の意。「思へらず」に係る。「思へ」已然形+完了の助動詞「ら」未然形+打消の助動詞「ず」。
【いで、あな悲し。かくはた思しなりにけるよ】- 知り合いの人の同情したことば。
【あへなく心細ければ】- 尼削ぎして髪が短くなっているので。
【折々ごとにえ念じえず】- 副詞「え」は打消の助動詞「ず」と呼応して不可能の意を表す。「念ず」は堪える、我慢する、意。
【濁りにしめるほどよりも、なま浮かびにては】- 明融臨模本は「にこりに」に朱合点有り。『源氏釈』は「はちす葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(古今集、夏、一六五、僧正遍正)を指摘した。生半可な悟りようではかえって悪道に堕ちることになる、の意。光る源氏(作者紫式部のと言ってもよい)の出家観は「御法」巻(第一章一段)に語られている。
1.4.7
()えぬ宿世浅(すくせあさ)からで、(あま)にもなさで(たづ)()りたらむもやがてあひ()ひて、とあらむ(をり)もかからむきざみをも、見過(みす)ぐしたらむ(なか)こそ(ちぎ)(ふか)くあはれならめ、(われ)(ひと)も、うしろめたく(こころ)おかれじやは
切っても切れない前世からの宿縁も浅くなく、尼にもさせず捜し出したような仲も、そのまま連れ添うことになって、あのような時にもこのような時にも、知らないふうにしているような夫婦仲こそ、宿縁も深く愛情も厚いと言えましょうに、自分も相手も、不安で自然と気をつかわずにいられましょうか。
また夫婦の縁が切れずに、尼にはならずに、良人に連れもどされて来ても、自分を捨てて家出をした妻であることを良人に忘れてもらうことはむずかしいでしょう。悪くてもよくてもいっしょにいて、どんな時もこんな時も許し合って暮らすのがほんとうの夫婦でしょう。一度そんなことがあったあとでは真実の夫婦愛がかえってこないものです。 【尋ね取りたらむも】- 推量の助動詞「む」仮定・婉曲の意。係助詞「も」は「契り深くあはれならめ」に係る。
【やがて】- 青表紙本系の大島本と別本群の国冬本には、この語の次に「そのおもひいてうらめしきふしあらんやあしくもよくも」(その時の思い出に恨めしいことがあるのだろうか、良くも悪くも)の句がある。
【見過ぐしたらむ仲こそ】- 係助詞「こそ」は「契り深くあはれならめ」に係る。推量の助動詞「め」已然形、下文に続く逆接用法。下の文との間に、それにも関わらず家出したりすると、の意が省略されている。
【心おかれじやは】- 自発の助動詞「れ」未然形、打消推量の助動詞「じ」終止形、係助詞「やは」反語の意。自然と気をつかわずにいられましょうか、気をつかわずにはいられません、の意。また、自然と気まずくならないでしょうか、気まずくならずにはいられません、の意。
1.4.8 また、いいかげんに愛情も冷めてきたような夫を恨んで、態度に表わして離縁するようなのは、これまたばかげたことでしょう。
愛情が他の女に移ることがあったとしても、結婚した当初の愛情をいとしく思うならば、そうした縁の伴侶と思っていることもきっとあるでしょうに、そのようなごたごたから、夫婦の仲まで切れてしまうのです。
また男の愛がほんとうにさめている場合に家出をしたりすることは愚かですよ。恋はなくなっていても妻であるからと思っていっしょにいてくれた男から、これを機会に離縁を断行されることにもなります。 【気色ばみ背かむ】- 推量の助動詞「む」連体形、仮定・婉曲の意。下に「ことは」などの語句が省略されている。
【はたをこがましかりなむ】- 副詞「はた」は、「ある一面についを認めながら、それとは別の一面について述べる語」(小学館古語大辞典)の用法。それはそれとしてまた、の意。完了の助動詞「な」未然形、確述の意。推量の助動詞「む」推量の意。
【心は移ろふ方ありとも】- 接続助詞「とも」は、動詞の終止形に接続して逆接の仮定条件を表す。--があったとしても、の意。
【見そめし心ざしいとほしく思はば】- 接続助詞「ば」は未然形の下に接続して仮定条件を表す。
【さる方のよすが】- 「さる方」は「見そめし心ざし」をさす。
【思ひてもありぬべきに】- 係助詞「も」強調の意、「ありぬべき」に係る。完了の助動詞「ぬ」確述の意、推量の助動詞「べき」当然の意、接続助詞「に」逆接の意を表す。きっとあるでしょうに、の意。
【さやうならむたぢろきに】- 「さやうならむ」は「人の心を見知らぬやうに逃げ隠れて、人をまどはし」や「あはれ進みぬれば、やがて尼になりぬ」、「移ろふ方あらむ人を恨みて、気色ばみ背かむ」など、女の態度をさす。
1.4.9
すべて、よろづのことなだらかに、(ゑん)ずべきことをば見知(みし)れるさまにほのめかし、(うら)むべからむふしをも(にく)からずかすめなさば、それにつけて、あはれもまさりぬべし。
(おほ)くは、わが(こころ)()(ひと)からをさまりもすべし。
あまりむげにうちゆるべ見放(みはな)ちたるも、心安(こころやす)くらうたきやうなれど、おのづから(かろ)(かた)にぞおぼえはべるかし
(つな)がぬ(ふね)()きたる(ためし)も、げにあやなし
さははべらぬか」
総じて、どのようなことでも心穏やかに、嫉妬することは知っている様子にほのめかし、恨み言をいうべき場合にもかわいらしくそれとなく言えば、それによって、愛情も一段と増すことでしょう。
一般に、自分の浮気心も妻の態度から収まりもするのです。
あまりやたらに勝手にさせ放任しておくのも、気が楽でかわいらしいようだが、いつのまにか軽く見られるものです。
繋がない舟の譬えもあり、なるほど思慮がない。
そうではございませんか」
なんでも穏やかに見て、男にほかの恋人ができた時にも、全然知らぬ顔はせずに感情を傷つけない程度の怨みを見せれば、それでまた愛を取り返すことにもなるものです。浮気な習慣は妻次第でなおっていくものです。あまりに男に自由を与えすぎる女も、男にとっては気楽で、その細君の心がけがかわいく思われそうでありますが、しかしそれもですね、ほんとうは感心のできかねる妻の態度です。つながれない船は浮き歩くということになるじゃありませんか、ねえ」 【すべて、よろづのこと】- 以下、左馬頭の結論。夫の浮気に対する妻の賢い身の処し方が述べられる。
【わが心も見る人から】- 「わが心」は夫の浮気心、「見る人」は妻をさす。
【軽き方にぞおぼえはべるかし】- 妻が軽く見られる、意。
【繋がぬ舟の浮きたる例】- 明融臨模本は「つなかぬふねの」に朱合点有り。『源氏釈』は「観身岸額離根草論命江頭不繋船」(和漢朗詠集、無常、七九〇 、羅維)を指摘。なお、『文選』に「泛乎若不繋之船」(巻十三)、『荘子』に「汎若不繋之舟」(列禦寇)ともある。
【げにあやなし】- 副詞「げに」は「繋がぬ舟の浮きたる例」を受ける。なるほど繋がない舟の喩えどおり、の意。
1.4.10 と言うと、中将は頷く。
中将はうなずいた。 【と言へば】- 主語は左馬頭。敬語は使われない。
【中将うなづく】- 頭中将の納得する様子。
1.4.11
さしあたりてをかしともあはれとも(こころ)()らむ(ひと)の、(たの)もしげなき(うたが)ひあらむこそ、大事(だいじ)なるべけれ。
わが(こころ)あやまちなくて見過(みす)ぐさばさし(なほ)してもなどか()ざらむとおぼえたれど、それさしもあらじ
ともかくも、(たが)ふべきふしあらむをのどやかに見忍(みしの)ばむよりほかに、ますことあるまじかりけり
「今さし当たって、美しいとも気立てがよいとも思って気に入っているような男が、不安な疑いがあるのは重大でしょう。
自分が乱心せずに大目に見てやっていたら、気持ちを変えて添い遂げないこともないだろうと思われますが、そうとばかりも言えまい。
いずれにしても、夫婦仲がうまくいかないようことがあってもそれを、気長にじっと堪えているより以外に、良い手段はないようですな」
「現在の恋人で、深い愛着を覚えていながらその女の愛に信用が持てないということはよくない。自身の愛さえ深ければ女のあやふやな心持ちも直して見せることができるはずだが、どうだろうかね。方法はほかにありませんよ。長い心で見ていくだけですね」 【さしあたりて】- 以下「あるまじかりけり」まで、頭中将の詞、寛大さと忍耐が大切と理解する。
【をかしともあはれとも心に入らむ人】- 夫とも妻ともとれる。両説ある。「「人」は妻。通説は夫」(古典セレクション)。『集成』も「女」説。『新大系』は「男」説。いま、夫の方に浮気をしているような疑いがある場合と解釈して読む。暗に「夫」を妹の夫である源氏のこととして読むと、下の頭中将の「わが妹の姫君は、この定めにかなひたまへりと思へば」や源氏にとって耳の痛い話なので「君のうちねぶりて言葉まぜたまはぬ」ことによく整合する。
【わが心あやまちなくて見過ぐさば】- 妻が夫の浮気の疑いに取り乱したり乱心したりせずに、知らないふりする、の意と解す。
【さし直してもなどか見ざらむ】- 主語は妻。「さし直す」は、気持ちを入れ直すこと。「など」(副詞)+「か」(係助詞、反語)、「む」(推量の助動詞、推量)に係る。どうしてか、心を入れ変えて添い遂げることがないだろうか、きっと添い遂げるだろう、の意。
【それさしもあらじ】- 「それ」は「などか見ざらむ」をさす。副詞「さしも」は打消・反語の表現を伴って、そうとばかり、そのようには、の意を表す。打消推量の助動詞「じ」終止形、推量の意。
【違ふべきふしあらむを】- 推量の助動詞「む」連体形、仮定・婉曲の意。格助詞「を」目的格を表す。
【あるまじかりけり】- ラ変動詞「ある」連体形+打消推量の助動詞「まじかり」連用形+過去の助動詞「けり」詠嘆の意。ないようですなあ。
1.4.12
()ひて、わが(いもうと)姫君(ひめぎみ)は、この(さだ)めにかなひたまへり(おも)へば、(きみ)のうちねぶりて言葉(ことば)まぜたまはぬを、さうざうしく(こころ)やましと(おも)
馬頭(むまのかみ)物定(ものさだ)めの博士(はかせ)になりて、ひひらきゐたり。
中将(ちゅうじゃう)は、このことわり()()てむと、心入(こころい)れて、あへしらひゐたまへり
と言って、自分の妹の姫君は、この結論に当てはまっていらっしゃると思うと、源氏の君が居眠りをして意見をさし挟みなさらないのを、物足りなく不満に思う。
左馬頭がこの評定の博士になって、さらに弁じ立てていた。
頭中将は、この弁論を最後まで聴こうと、熱心になって、受け答えしていらっしゃった。
と頭中将は言って、自分の妹と源氏の中はこれに当たっているはずだと思うのに、源氏が目を閉じたままで何も言わぬのを、物足らずも口惜しくも思った。左馬頭は女の品定めの審判者であるというような得意な顔をしていた。中将は左馬頭にもっと語らせたい心があってしきりに相槌を打っているのであった。 【わが妹の姫君】- 頭中将の妹、葵の上をさす。源氏の妻である。
【この定めにかなひたまへり】- 「たまへ」尊敬の補助動詞。自分の妹ではあるが、源氏の妻であるため敬語を用いている。多少嫉妬し忍耐と寛容をもっていること。
【君のうちねぶりて】- 源氏は議論に退屈して居眠りしたふりをしているが、実は源氏夫婦に当てはまる耳の痛い話なので寝たふりをしている。
【心やましと思ふ】- 主語は頭中将。
【ひひらき】- 「囀 サヘヅル カマビスシ ヒヒラク」(『名義抄』)。清音である。
【あへしらひゐたまへり】- 尊敬の補助動詞「たまへ」は頭中将の態度・動作に対する敬語。
1.4.13
よろづのことによそへて(おぼ)せ。
()(みち)(たくみ)のよろづの(もの)(こころ)にまかせて(つく)()だすも臨時(りんじ)のもてあそび(もの)その(もの)(あと)(さだ)まらぬはそばつきさればみたるもげにかうもしつべかりけりと、(とき)につけつつさまを()へて、(いま)めかしきに目移(めうつ)りてをかしきもあり。
大事(だいじ)として、まことにうるはしき(ひと)調度(てうど)(かざ)りとする(さだ)まれるやうある(もの)(なん)なく()づることなむなほまことの(もの)上手(じゃうず)は、さまことに()()かれはべる。
「いろいろのことに引き比べてお考えくだされ。
木工の道の匠がいろいろの物を思いのままに作り出すのも、その場限りの趣向の物で、そうした型ときまりのないものは、見た目には洒落ているのも、なるほどこういうふうにも作るのだと、時々に従って趣向を変えて、目新しいのに目が移って趣のあるものもあります。
重大な物として、本当にれっきとした人の調度類で装飾とする、一定の様式というようなのがあるものを立派に作り上げることは、やはり本当の名人は、違ったものだと見分けられるものでございます。
「まあほかのことにして考えてごらんなさい。指物師がいろいろな製作をしましても、一時的な飾り物で、決まった形式を必要としないものは、しゃれた形をこしらえたものなどに、これはおもしろいと思わせられて、いろいろなものが、次から次へ新しい物がいいように思われますが、ほんとうにそれがなければならない道具というような物を上手にこしらえ上げるのは名人でなければできないことです。 【よろづのことによそへて】- 以下「申しはべらむ」まで、左馬頭の詞、芸道の技に喩える。
【木の道の匠】- 指物師。木製の家具調度類を作る職人。
【作り出だすも】- 係助詞「も」は「をかしきもあり」に係る。
【臨時のもてあそび物の】- 「もてあそび物の」の格助詞「の」同格を表す。--で、の意。
【跡も定まらぬは】- 係助詞「は」は「そばつきさればみたる」に係る。
【そばつきさればみたるも】- 係助詞「も」は「かうもしつべかりけり」に係る。
【うるはしき人の調度の飾りとする】- 「人の」の格助詞「の」所有格、「調度の」の格助詞「の」同格。「--飾りとする」は下に「物を」が省略されている。次の「定まれるやうある物」と並列。「難なくし出づる」に続く。
【し出づることなむ】- 係助詞「なむ」は「見え分かれはべる」(連体形)に係る。
1.4.14
また絵所(ゑどころ)上手多(じゃうずおほ)かれど、(すみ)がきに(えら)ばれて次々(つぎつぎ)にさらに(おと)りまさるけぢめ、ふとしも()()かれず。
かかれど、(ひと)見及(みおよ)ばぬ蓬莱(ほうらい)(やま)荒海(あらうみ)(いか)れる(いを)姿(すがた)唐国(からくに)のはげしき(けだもの)(かたち)()()えぬ(おに)(かほ)などのおどろおどろしく(つく)りたる(もの)は、(こころ)にまかせてひときは目驚(めおどろ)かして、(じち)には()ざらめど、さてありぬべし
また、画工司に名人が多くいますが、墨描きに選ばれて、順々に見るとまったく優劣の判断は、ちょっと見ただけではつきません。
けれども、人の見ることもできない蓬莱山や、荒海の恐ろしい魚の形や、唐国の猛々しい獣の形や、目に見えない鬼の顔などで、仰々しく描いた物は、想像のままに格別に目を驚かして、実物には似ていないでしょうが、それはそれでよいでしょう。
また絵所に幾人も画家がいますが、席上の絵の描き手に選ばれておおぜいで出ます時は、どれがよいのか悪いのかちょっとわかりませんが、非写実的な蓬莱山とか、荒海の大魚とか、唐にしかいない恐ろしい獣の形とかを描く人は、勝手ほうだいに誇張したもので人を驚かせて、それは実際に遠くてもそれで通ります。 【絵所】- 宮中の絵画を扱う役所。令制の画工司。
【墨がきに選ばれて】- 墨で構図などの下絵を描く人。集団で製作する時の中心的役割をする人。彩色などは弟子が行った。なお『新大系』では「選はれて」と清音表記。『岩波古語辞典』では「えらひ」<金光明最勝王経 平安初期点>の用例を挙げ、「奈良時代にハ行の活用をした動詞は、オモヒ(思)のように、平安中期以後ワ行に発音するのが普通だったが、シノヒ(偲)がシノビと変化したように、稀にバ行に発音したものがある。エラビもその一つ」と指摘する。
【次々にさらに】- 「次々に」の下に「見るに」または「書くに」などの語句が省略されている。副詞「さらに」は「見え分かれず」に係る。打消の助動詞「ず」と呼応して、全然--ない、の意を表す。
【魚】- 「魚、ウヲ、俗云、イヲ」(『名義抄』)、「魚、宇乎<ウヲ>、俗云、伊遠<イヲ>」(『和名抄』)。
【目に見えぬ鬼の顔などの】- 「顔などの」の格助詞「の」同格を表す。鬼の顔などで、の意。『古今和歌集』仮名序の「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」の表現を下に敷く。
【さてありぬべし】- 唐絵は唐絵としてそれで結構でしょう、の意。
1.4.15
()(つね)(やま)のたたずまひ(みづ)(なが)れ、()(ちか)(ひと)家居(いへゐ)ありさま、げにと()なつかしくやはらいだる(かた)などを(しづ)かに()きまぜて、すくよかならぬ(やま)景色(けしき)木深(こぶか)世離(よばな)れて(たた)みなし、(ぢか)(まがき)(うち)をばその(こころ)しらひおきてなどをなむ、上手(じゃうず)はいと(いきほ)ひことに、()(もの)(およ)ばぬ所多(ところおほ)かめる。
どこでも見かける山の姿や、川の流れや、見なれた人家の様子は、なるほどそれらしいと見えて、親しみやすくおだやかな方面などを心落ち着いた感じに配して、険しくない山の風景や、こんもりと俗塵を離れて幾重にも重ねたり、近くの垣根の中については、それぞれの心配りや配置などを、名人は大変に筆力も格別で、未熟な者は及ばない点が多いようです。
普通の山の姿とか、水の流れとか、自分たちが日常見ている美しい家や何かの図を写生的におもしろく混ぜて描き、われわれの近くにあるあまり高くない山を描き、木をたくさん描き、静寂な趣を出したり、あるいは人の住む邸の中を忠実に描くような時に上手と下手の差がよくわかるものです。 【世の常の山のたたずまひ】- 以下、倭絵について論じる。神護寺蔵の国宝「山水屏風」が参考になる。
【げにと見え】- なるほど、見慣れた風景らしいと見えて、の意。
【け近き籬の内をば】- 『完訳』は「下に「描くに」ぐらいを補う」と指摘。この語句は、「上手は」と「悪ろ者は」に係る。
1.4.16
()()きたるにも(ふか)きことはなくて、ここかしこの点長(てんなが)(はし)()そこはかとなく気色(けしき)ばめるはうち()るにかどかどしく気色(けしき)だちたれど、なほまことの(すぢ)をこまやかに()()たるはうはべの筆消(ふでき)えて()ゆれど、(いま)ひとたびとり(なら)べて()ればなほ(じち)になむよりける
文字を書いたものでも、深い素養はなくて、あちらこちらが、点長にしゃれた走り書きをし、どことなく気取っているようなのは、ちょっと見ると才気がありひとかどのように見えますが、やはり正当の書法を丹念に習得しているものは、表面的な筆法は隠れていますが、もう一度取り比べて見ると、やはり本物の方に心が惹き付けられるものですな。
字でもそうです。深味がなくて、あちこちの線を長く引いたりするのに技巧を用いたものは、ちょっと見がおもしろいようでも、それと比べてまじめに丁寧に書いた字で見栄えのせぬものも、二度目によく比べて見れば技巧だけで書いた字よりもよく見えるものです。 【手を書きたるにも】- 以下、書道について論じる。
【ここかしこの】- 格助詞「の」主格を表す、あちらこちらが、の意。「気色ばめるは」に続く。
【点長に走り書き】- 挿入句。点を続けるような感じに筆を走らせて書く気取った書き方。
【気色ばめるは】- 係助詞「は」は「気色だちたれど」に係る。
【書き得たるは】- 係助詞「は」は「消えて見ゆれど」に係る。
【とり並べて見れば】- 接続助詞「ば」は已然形に付いて順接の確定条件を表す。
【実になむよりける】- 係助詞「なむ」、過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意。係結びの法則、強調のニュアンスを添える。本物が良いものですなあ、の意。
1.4.17 つまらない芸事でさえこうでございます。
まして人の気持ちの、折々に様子ぶっているような見た目の愛情は、信用がおけないものと存じております。
その最初の例を、好色がましいお話ですが申し上げましょう」
ちょっとしたことでもそうなんです、まして人間の問題ですから、技巧でおもしろく思わせるような人には永久の愛が持てないと私は決めています。好色がましい多情な男にお思いになるかもしれませんが、以前のことを少しお話しいたしましょう」 【はかなきことだにかくこそはべれ】- 「だに---まして」の構文。副助詞「だに」は最低限、限定を表し、--でさえ、の意。結論へと導く。係助詞「こそ」「はべれ」已然形、係結びの法則。強調のニュアンスを添える。
【まして人の心の】- 「心の」の格助詞「の」は同格を表す。「見る目の情けをば」と共に「え頼むまじく思うたまへ得てはべる」に続く。
【え頼むまじく思うたまへ得てはべる】- 副詞「え」は打消推量の助動詞「まじく」連用形と呼応して不可能の意を表す。「思う」は「思ひ」連用形のウ音便形。「たまへ」下二段活用の謙譲の補助動詞。丁寧語「はべる」連体形、連体中止法。含みをもたせた余情的表現。
【そのはじめのこと、好き好きしくとも申しはべらむ】- 以上、左馬頭の芸能に喩えた論。以下、体験談に移る。「そのはじめのこと」は、女性を知り始めたころのこと。
1.4.18 と言って、にじり寄るので、源氏の君も目をお覚ましになる。
中将はひどく本気になって、頬杖をついて向かい合いに座っていらっしゃる。
法師が世の中の道理を説いて聞かせているような所の感じがするのも、もう一方ではおもしろいが、このような折には、それぞれがうちとけたお話などを隠しておくことができないのであった。
と言って、左馬頭は膝を進めた。源氏も目をさまして聞いていた。中将は左馬頭の見方を尊重するというふうを見せて、頬杖をついて正面から相手を見ていた。坊様が過去未来の道理を説法する席のようで、おかしくないこともないのであるが、この機会に各自の恋の秘密を持ち出されることになった。 【とて、近くゐ寄れば】- 左馬頭がにじり寄るので。興味深々の話をしようという態度。
【君も目覚ましたまふ】- 源氏の君も目をお覚ましになる。再び興味をもって聞こうとする。
【中将いみじく信じて】- 頭中将はひどく本気になって。
【法の師の世のことわり説き聞かせむ所の心地するも】- 法師が説法をしている所の気がするのも。『花鳥余情』は、雨夜品定めの段の構成を『法華経』の三周説法による、と指摘する。すなわち、「法説一周」(方便品)、上根の者に直接仏の教えを説く。「ますことあるまじかりけり」まで、女性論の結論を述べる。次に「譬説一周」(譬喩品から薬草喩品)、中根の者に譬えをもって仏の教えを説く。「よろづのことによそへて思せ」以下「え頼むまじく思うたまへてはべる」まで、芸能の譬えをもって論じたところ。最後に「因縁説一周」(化城喩品)、下根の者に過去の因縁をもって仏の教えを説く。「そのはじめのこと好き好きしくとも申しはべらむ」以下に語られる体験談がそれに当る。
【かかるついでは、おのおの睦言もえ忍びとどめずなむありける】- 語り手の評言。

第二章 女性体験談


第一段 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語)

2.1.1
はやう、まだいと下臈(げらふ)にはべりし(とき)あはれと(おも)(ひと)はべりき。
()こえさせつるやうに容貌(かたち)などいとまほにもはべらざりしかば、(わか)きほどの()(ごころ)には、この(ひと)とまりにとも(おも)ひとどめはべらず、よるべとは(おも)ひながらさうざうしくて、とかく(まぎ)れはべりしをもの(ゑん)じをいたくしはべりしかば、(こころ)づきなく、いとかからで、おいらかならましかばと(おも)ひつつあまりいと(ゆる)しなく(うたが)ひはべりしもうるさくて、かく(かず)ならぬ()()(はな)たで、などかくしも(おも)ふらむと、心苦(こころぐる)しき折々(をりをり)もはべりて、自然(じねん)(こころ)をさめらるるやうになむはべりし。
「若いころ、まだ下級役人でございました時、愛しいと思う女性がおりました。
申し上げましたように、容貌などもたいして優れておりませんでしたので、若いうちの浮気心から、この女性を生涯の伴侶とも思い決めませんで、通い所とは思いながら、物足りなくて、何かと他の女性にかかずらっておりましたところ、大変に嫉妬をいたしましたので、おもしろくなく、本当にこうではなくて、おっとりとしていたらば良いものをと思い思い、あまりにひどく厳しく疑いましたのも煩わしくて、このようなつまらない男に愛想もつかさず、どうしてこう愛しているのだろうと、気の毒に思う時々もございまして、自然と浮気心も収められるというふうでもございました。
「ずっと前で、まだつまらぬ役をしていた時です。私に一人の愛人がございました。容貌などはとても悪い女でしたから、若い浮気な心には、この人とだけで一生を暮らそうとは思わなかったのです。妻とは思っていましたが物足りなくて外に情人も持っていました。それでとても嫉妬をするものですから、いやで、こんなふうでなく穏やかに見ていてくれればよいのにと思いながらも、あまりにやかましく言われますと、自分のような者をどうしてそんなにまで思うのだろうとあわれむような気になる時もあって、自然身持ちが修まっていくようでした。 【はやう、まだいと下臈にはべりし時】- 以下「うるさくなむはべりし」まで、左馬頭の体験談。過去の助動詞「し」(「き」連体形)は自らの体験を表す。この人びとの中で、最年長者。しかし、位階や官職では、若い源氏や頭中将に劣る。語り方は、「侍り」を頻出した丁重な語り方であるとともに、経験豊な者の語り方である。「嫉妬深い女」の物語。
【聞こえさせつるやうに】- 実務一点張りの女、「まめまめしき筋を立てて耳はさみがちに美さうなき家刀自のひとへにうちとけたる後見ばかりして」をさす。
【若きほどの好き心】- 青表紙本系の明融臨模本と大島本は「すき心」、その他の青表紙本系の松浦本、池田本、伝冷泉為秀本、三条西家本、書陵部本と別本の国冬本は「すき心地」。河内本系諸本は「すさひ心」。別本群の陽明文庫本は「すさひ心」。すなわち、A「好き心」(明大)、B「好き心地」(松池秀三証・国)、C「すさび心」(河・陽)となる。Aは青表紙本系統内の単独共通異文、Bは青表紙本系諸本と別本の両方にわたる複数共通異文。Cは河内本系諸本と別本の両方にわたる共通異文である。『集成』『新大系』は「すき心」のまま、『古典セレクション』は「すき心地」と校訂する。
【とまりにとも思ひとどめはべらず、よるべとは思ひながら】- 「とまり」は生涯の伴侶、正妻。「よるべ」は通い妻、側室。
【とかく紛れはべりしを】- 接続助詞「を」順接を表す。他の女性に浮気しておりましたところ、の意。
【おいらかならましかばと思ひつつ】- 反実仮想の助動詞「ましか」未然形、下に「うれしからまし」または「良からまし」などの語句が省略されている。接続助詞「つつ」は動作の反復を表す。
【かく数ならぬ身を】- 以下「思ふらむ」まで、左馬頭の自問自答の心。主語は女。『花鳥余情』は「かつ見つつ影離れ行く水の面にかく数ならぬ身をいかにせむ」(拾遺集、恋四、八七九、斎宮女御)を指摘。
【などかくしも思ふらむ】- 副助詞「しも」強調のニュアンスを添える。推量の助動詞「らむ」原因推量を表す。なぜこんなにも愛しているのだろうか、の意。
【心苦しき折々】- 左馬頭が女を気の毒と思う時々。
2.1.2
この(をんな)のあるやう、もとより(おも)ひいたらざりけることにも、いかでこの(ひと)のためにはとなき()()だし、(おく)れたる(すぢ)(こころ)をもなほ口惜(くちを)しくは()えじと(おも)ひはげみつつとにかくにつけて、ものまめやかに後見(うしろみ)つゆにても(こころ)(たが)ふことはなくもがな(おも)へりしほどに、(すす)める(かた)(おも)ひしかど、とかくになびきてなよびゆき、(みにく)容貌(かたち)をも、この(ひと)()(うと)まれむとわりなく(おも)ひつくろひ(うと)(ひと)()えば、面伏(おもてぶ)せにや(おも)はむと(はばか)()ぢて、みさをにもてつけて見馴(みな)るるままに、(こころ)もけしうはあらずはべりしかど、ただこの(にく)方一(かたひと)なむ、(こころ)をさめずはべりし。
この女の性格は、もともと自分の考えの及ばないことでも、何とかして夫のためにはと、無理算段をし、不得手な方面をも、やはりつまらない女だと見られまいと努力しては、何かにつけて、熱心に世話をし、少しでも意に沿わないことのないようにと思っていたうちに、気の勝った女だと思いましたが、何かと言うことをきくようになって柔らかくなってゆき、美しくない容貌についても、このわたしに嫌われやしまいかと、むやみに思って化粧し、親しくない人に顔を見せたならば、夫の面目が潰れやしまいかと、遠慮し恥じて、身嗜みに気をつけて生活しているうちに、性格も悪いというのではありませんでしたが、ただこの憎らしい性質一つだけは、収まりませんでした。
この女というのは、自身にできぬものでも、この人のためにはと努力してかかるのです。教養の足りなさも自身でつとめて補って、恥のないようにと心がけるたちで、どんなにも行き届いた世話をしてくれまして、私の機嫌をそこねまいとする心から勝ち気もあまり表面に出さなくなり、私だけには柔順な女になって、醜い容貌なんぞも私にきらわれまいとして化粧に骨を折りますし、この顔で他人に逢っては、良人の不名誉になると思っては、遠慮して来客にも近づきませんし、とにかく賢妻にできていましたから、同棲しているうちに利巧さに心が引かれてもいきましたが、ただ一つの嫉妬癖、それだけは彼女自身すらどうすることもできない厄介なものでした。 【いかでこの人のためにはと】- 左馬頭をさす。
【なき手を出だし、後れたる筋の心をも】- 無理な算段をして、不得手な方面も。
【思ひはげみつつ】- 接続助詞「つつ」動作の反復を表す。
【つゆにても心に違ふことはなくもがな】- 左馬頭が見たところの女の心。終助詞「もがな」願望を表す。夫の気持ちを損ねることがなければいいなあと、の意。
【進める方】- 「強 ススム」(名義抄)。気の強い意。
【この人に見や疎まれむと】- 「この人」は、このわたしにの意。係助詞「や」疑問、受身の助動詞「れ」未然形、推量の助動詞「む」連体形、係り結びの法則。夫に嫌われやしないかと、の意。
【わりなく思ひつくろひ】- 『集成』は「いじらしくお化粧をし」、『完訳』は「懸命に化粧し」と訳す。「わりなく」のニュアンスは微妙。理屈に合わない、が原義。すると、化粧してもしがいのないのに化粧する、という、やや冷やかなニュアンスがあろうか。
【疎き人に見えば、面伏せにや思はむと】- 「見え」未然形+接続助詞「ば」仮定条件を表す。係助詞「や」疑問、「思はむ」の主語は夫。女の心。なお、「思はむと」の箇所について、青表紙本系の明融臨模本、大島本、松浦本、伝冷泉為秀本は「思はんと」。池田本は「みえんと」。三条西家本と書陵部本は「思はれんと」。河内本系や別本群の国冬本も明融臨模本等と同文。陽明文庫本は「をもはれむと」とある。すなわち、A「思はんと」(明大松秀・河・国)、B「思はれんと」(三証・陽)、C「見えんと」(池)となる。Cは独自異文。Aは青表紙本系統、河内本系統、別本群の三系統にわたって見られる本文であるのに対して、Bは青表紙本系統と別本群にわたる本文である。『集成』は「(私が)恥ずかしく思いはせぬかと」と注す。しかし、自分が思いはせぬか、とは、やや不可解。『完訳』は「夫の面目をつぶすことにならぬかと」と注し、その主体者を女に訳すが、意訳である。Bの受身の助動詞が付加した本文は、「面目をつぶすように思われよう」となる。文意はもっとも通りよい。底本は、親しくない来客があったような折に、この醜い顔をその人の前に曝したら、夫が恥だと思うだろうか、という意。下級官人の妻などは客人の前に出て顔を見せるようなこともあったのであろう。
【ただこの憎き方一つ】- 嫉妬深い欠点。
2.1.3
そのかみ(おも)ひはべりしやう、かうあながちに(したが)()ぢたる(ひと)なめりいかで()るばかりのわざして、おどして、この(かた)もすこしよろしくもなり、さがなさもやめむと(おも)ひてまことに()しなども(おも)ひて()えぬべき気色(けしき)ならばかばかり(われ)(したが)(こころ)ならば(おも)()りなむと(おも)うたまへ()ことさらに(なさ)けなくつれなきさまを()せて(れい)腹立(はらだ)(ゑん)ずるに
その当時に思いましたことには、このようにむやみにわたしに従いおどおどしている女のようだ、何とか懲りるほどの思いをさせて、脅かして、この嫉妬の方面も少しはまあまあになり、性悪な性格も止めさせようと思って、本当に辛いなどと思って別れてしまいそうな態度をとったならば、それほどわたしに連れ添う気持ちがあるならば懲りるだろうと存じまして、わざと薄情で冷淡な態度を見せて、例によって怒って恨み言をいってくる折に、
当時私はこう思ったのです。とにかくみじめなほど私に参っている女なんだから、懲らすような仕打ちに出ておどして嫉妬を改造してやろう、もうその嫉妬ぶりに堪えられない、いやでならないという態度に出たら、これほど白分を愛している女なら、うまく自分の計画は成功するだろうと、そんな気で、ある時にわざと冷酷に出まして、例のとおり女がおこり出している時、 【かうあながちに従ひ怖ぢたる人なめり】- 以下「さがなさもやめむ」まで、左馬頭の心。 「あながち」について、『岩波古語辞典』では「自分の内部的な衝動を止め得ず、やむにやまれないさま、相手の迷惑や他人の批評などに、かまうゆとりを持たないさまを言うのが原義。自分勝手の意から、むやみに程度をはずれて、の意」と注す。「従ひ怖ぢ」は、夫に従い、おどおどしている、の意。断定の助動詞「な」連体形が撥音便化して「ん」が無表記化した形。推量の助動詞「めり」話者の主観的推量を表す。
【さがなさもやめむと思ひて】- 「やめ」ヤ行下二段、他動詞。推量の助動詞「む」意志を表す。やめさせよう、と思っての意
【まことに憂しなども】- 以下「思ひ懲りなむ」まで、左馬頭の心。
【絶えぬべき気色ならば】- 完了の助動詞「ぬ」連用形、確述、推量の助動詞「べき」当然の意。断定の助動詞「なら」未然形+接続助詞「ば」仮定条件を表す。
【思ひ懲りなむと】- 完了の助動詞「な」未然形、確述、推量の助動詞「む」推量の意。主語は女。女はきっと懲りるだろう、の意。
【思うたまへ得て】- 「思う」は「思ひ」連用形のウ音便化。「たまへ」下二段活用の謙譲の補助動詞。存じまして、の意。
【さまを見せて】- 「見せ」下二段活用、連用形、他動詞。接続助詞「て」順接を表す。態度を見せて、の意。「かくおぞましくは」云々の詞に続く。「見せますと」「見せたところ」と訳す説がある(今泉忠義・古典セレクション)。しかし「見すれば」(已然形+接続助詞「ば」)ではない。
【例の腹立ち怨ずるに】- 連語「例の」は「怨ずる」を修飾する。主語は女。「に」を接続助詞と解して「恨んでかかって来ましたので」「恨みかかってきますので」(今泉忠義・古典セレクション)と訳す説がある。しかし、上の「見せて」が「態度を見せて」の意であると、続きがよくない。「に」を格助詞、時間を表す。「折」などの語が省略されている形と見ておく。
2.1.4
かくおぞましくはいみじき(ちぎ)(ふか)くとも、()えてまた()
(かぎ)りと(おも)はば、かくわりなきもの(うたが)ひはせよ。
()先長(さきなが)()えむと(おも)はば、つらきことありとも、(ねん)じてなのめに(おも)ひなりてかかる(こころ)だに()せなばいとあはれとなむ(おも)ふべき。
人並々(ひとなみなみ)にもなり、すこしおとなびむに()へて、また(なら)(ひと)なくあるべき』やうなどかしこく(をし)へたつるかなと(おも)ひたまへてわれたけく()ひそしはべるにすこしうち(われ)ひて
『こんなに我が強いなら、どんなに夫婦の宿縁が深くとも、もう二度と逢うまい。
最後と思うならば、このようなめちゃくちゃな邪推をするがよい。
将来も長く連れ添おうと思うならば、辛いことがあっても、我慢してたいしたことなく思うようになって、このような嫉妬心さえ消えたならば、とても愛しい女と思おう。
人並みに出世もし、もう少し一人前になったら、他に並ぶ人がない正妻になるであろう』などと、うまく教えたものよと存じまして、調子に乗って度を過ごして言いますと、少し微笑んで、
『こんなあさましいことを言うあなたなら、どんな深い縁で結ばれた夫婦の中でも私は別れる決心をする。この関係を破壊してよいのなら、今のような邪推でも何でももっとするがいい。将来まで夫婦でありたいなら、少々つらいことはあっても忍んで、気にかけないようにして、そして嫉妬のない女になったら、私はまたどんなにあなたを愛するかしれない、人並みに出世してひとかどの官吏になる時分にはあなたがりっぱな私の正夫人でありうるわけだ』などと、うまいものだと自分で思いながら利己的な主張をしたものですね。女は少し笑って、 【かくおぞましくは】- 以下「あるべき」まで、左馬頭の女への詞。しかし、引用句の「と」がない。
【絶えてまた見じ】- 副詞「絶えて」は打消推量の助動詞「じ」意志と呼応して、すっかり二度と逢うまいの意。
【念じてなのめに思ひなりて】- 女がいいかげんにあきらめるようになって、の意。
【かかる心だに失せなば】- 副助詞「だに」最小限を表す。せめて嫉妬心さえなくなったなら、の意。
【また並ぶ人なくあるべき』やうなど】- 正妻としての地位を与えようの意。『集成』は「あるべきやう」までを左馬頭の詞とするが、『完訳』では「あるべき」までを左馬頭の詞とし、「やう」に「直接話法から間接話法へと転換」と注す。
【思ひたまへて】- 「たまへ」謙譲の補助動詞。存じましての意。
【言ひそしはべるに】- 「に」接続助詞、順接を表す。
【すこしうち笑ひて】- 女が、少し微笑んで。冷笑のニュアンス。
2.1.5
よろづに見立(みだ)てなくものげなきほどを見過(みす)ぐして、人数(ひとかず)なる()もやと()(かた)は、いとのどかに(おも)ひなされて(こころ)やましくもあらず
つらき(こころ)(しの)びて(おも)(なほ)らむ(をり)()つけむと、年月(としつき)(かさ)ねむあいな(だの)みは、いと(くる)しくなむあるべければかたみに(そむ)きぬべききざみになむある』
『何かにつけて見栄えがしなく、一人前でないあいだをじっとこらえて、いつかは一人前にもなろうかと待っていることは、まことにゆっくりと待っていられますから、苦にもなりません。
辛い浮気心を我慢して、その心がいつになったら直るのだろうかと、当てにならない期待をして年月を重ねていくことは、まことに辛くもありましょうから、お互いに別れるのによいときです』
『あなたの貧弱な時代を我慢して、そのうち出世もできるだろうと待っていることは、それは待ち遠しいことであっても、私は苦痛とも思いません。あなたの多情さを辛抱して、よい良人になってくださるのを待つことは堪えられないことだと思いますから、そんなことをお言いになることになったのは別れる時になったわけです』 【よろづに見立てなく】- 以下「きざみになむある」まで、女の詞。「よろづに見だてなく」は、自分のことではなく、夫の左馬頭が万事に見すぼらしく、と嫌味を言う。
【いとのどかに思ひなされて】- 「れ」可能の助動詞。思いなすことができる、意。
【心やましくもあらず】- 夫の出世が遅いのは苦にならない、という。
【つらき心を忍びて】- 「つらき心」は夫の浮気心をさす。
【いと苦しくなむあるべければ】- 夫の浮気心がいつまでも直らないのがつらい、という。
2.1.6
ねたげに()ふに腹立(はらだ)たしくなりて、(にく)げなることどもを()ひはげましはべるに、(をんな)もえをさめぬ(すぢ)にて、(および)ひとつを()()せて()ひてはべりしをおどろおどろしくかこちて
と憎らしげに言うので、腹立たしくなって、憎々しげな言葉を興奮して言いますと、女も黙っていられない性格で、指を一本引っ張って噛みついてまいりましたので、大げさに文句をつけて、
そう口惜しそうに言ってこちらを憤慨させるのです。女も自制のできない性質で、私の手を引き寄せて一本の指にかみついてしまいました。私は『痛い痛い』とたいそうに言って、 【ねたげに言ふに】- 主語は女。接続助詞「に」原因・理由を表す。憎らしげに言うので、の意。
【女もえをさめぬ筋】- 係助詞「も」同類を表す。わたし同様に、の意。「筋」は性格。『集成』は「黙っていられない問題なので」と解す。『完訳』は「黙っていられない性分で」と訳す。
【喰ひてはべりしを】- 接続助詞「て」が介在。「はべり」は「あり」の丁寧語。噛みついてまいりましたので、の意。
【おどろおどろしくかこちて】- 「かこつ」は口実にする意。
2.1.7
かかる(きず)さへつきぬればいよいよ()じらひをすべきにもあらず。
(はづかし)めたまふめる官位(つかさくらゐ)いとどしく(なに)につけてかは(ひと)めかむ
()(そむ)きぬべき()なめり』など()(おど)して、さらば、今日(けふ)こそは(かぎ)りなめれ』と、この(および)をかがめてまかでぬ
『このような傷まで付いてしまったので、ますます役人生活もできるものでない。
軽蔑なさるような官職で、ますます一層どのようにして出世して行けようか。
出家しかない身のようだ』などと言い脅して、『それでは、今日という今日がお別れのようだ』と言って、この指を折り曲げて退出しました。
『こんな傷までもつけられた私は杜会へ出られない。あなたに侮辱された小役人はそんなことではいよいよ人並みに上がってゆくことはできない。私は坊主にでもなることにするだろう』などとおどして、『じゃあこれがいよいよ別れだ』と言って、指を痛そうに曲げてその家を出て来たのです。 【かかる疵さへつきぬれば】- 以下「世を背きぬべき身なめり」まで、左馬頭の詞。副助詞「さへ」添加を表す。「よろづに見立てなく」の上に傷までが付いてしまったので、の意。
【交じらひ】- 朝廷での官人どうしの交際。
【何につけてかは人めかむ】- 係助詞「かは」反語を表す。推量の助動詞「む」推量、連体形。
【世を背きぬべき身なめり】- 女の「かたみに背きぬべき」を受ける。売り言葉に買い言葉。離縁どころか、わたしは出家するしかない、と大袈裟に言う。
【さらば、今日こそは限りなめれ】- 左馬頭の捨て台詞。係助詞「こそ」、推量の助動詞「めれ」已然形、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。
【まかでぬ】- 「まかで」連用形、「出る」の謙譲語。女の家を出てきました、の意。
2.1.8 『あなたとの結婚生活を指折り数えてみますと
この一つだけがあなたの嫌な点なものか
『手を折りて相見しことを数ふれば
これ一つやは君がうきふし
【手を折りてあひ見しことを数ふれば--これひとつやは君が憂きふし】- 左馬頭の歌。結婚生活を指折り数えてみると、これ一つだけがあなたの嫌なところであろうか、の意。「これ一つ」は、先程噛まれた指を折り曲げて見せた指。「やは」は反語。その他にもある、という気持ち。「ふし」(節)は、指(「手」)の縁語。『伊勢物語』第十六段に「手を折りてあひ見しことを数ふれば十といひつつ四は経にけり」とある歌の上の句をそのまま引用した歌。その歌も夫婦離縁の歌。
2.1.9 恨むことはできますまい』
言いぶんはないでしょう』 【えうらみじ】- 副詞「え」は打消推量の助動詞「じ」推量と呼応して不可能を表す。歌に添えたことば。
2.1.10
など()ひはべれば、さすがにうち()きて
などと言いますと、そうは言うものの涙ぐんで、
と言うと、さすがに泣き出して、 【さすがにうち泣きて】- 形容動詞「さすがに」そうはいうものの、の意。そうは真実離縁すること。
2.1.11 『あなたの辛い仕打ちを胸の内に堪えてきましたが
今は別れる時なのでしょうか』
『うき節を心一つに数へきて
こや君が手を別るべきをり』
【憂きふしを心ひとつに数へきて--こや君が手を別るべきをり】- 女の返歌。係助詞「や」疑問を表す。左馬頭の歌の語句、「憂きふし」「ひとつ」「数へ」「こ(れ)」「や」「君」「手」「折」などを受けて、詠み返す。相手の歌の語句を多く引用して返すのは未練のある気持ちの表出。
2.1.12
など、()ひしろひはべりしかど、まことには(かは)るべきこととも(おも)ひたまへずながら、()ごろ()るまで消息(せうそこ)(つか)はさず、あくがれまかり(あり)くに、臨時(りんじ)(まつり)調楽(でうがく)に、夜更(よふ)けていみじう霙降(みぞれふ)()これかれまかりあかるる(ところ)にて(おも)ひめぐらせば、なほ家路(いへぢ)(おも)はむ(かた)またなかりけり
などと、言い争いましたが、本当は別れようとは存じませんままに、何日も過ぎるまで便りもやらず、浮かれ歩いていたところ、臨時の祭の調楽で、夜が更けてひどく霙が降る夜、めいめい退出して分かれる所で、思いめぐらすと、やはり自分の家と思える家は他にはなかったのでしたなあ。
反抗的に言ったりもしましたが、本心ではわれわれの関係が解消されるものでないことをよく承知しながら、幾日も幾日も手紙一つやらずに私は勝手な生活をしていたのです。加茂の臨時祭りの調楽が御所であって、更けて、それは霙が降る夜なのです。皆が退散する時に、自分の帰って行く家庭というものを考えるとその女の所よりないのです。 【臨時の祭の調楽】- 賀茂の臨時の祭、陰暦十一月下の酉の日に行われる。調楽はその奏楽の練習。明融臨模本には「でうがく」と濁点が記されている。『集成』『古典セレクション』は「でうがく」と振り仮名を付ける。『新大系』は「てうがく」と振り仮名を付けている。『岩波古語辞典』では「でうがく」、『古語大辞典』では「てうがく」とある。
【これかれまかりあかるる所にて】- 「これかれ」は調楽の仲間。「まかり」は宮中を退出する意。
【またなかりけり】- 過去の助動詞「けり」詠嘆を表す。「なかりき」ではない。
2.1.13
内裏(うち)わたりの旅寝(たびね)すさまじかるべく、気色(けしき)ばめるあたりそぞろ(さむ)くや(おも)ひたまへられしかばいかが(おも)へると、気色(けしき)()がてら、(ゆき)をうち(はら)ひつつ、なま人悪(ひとわ)ろく爪喰(つめく)はるれど、さりとも今宵日(こよひひ)ごろの(うら)みは()けなむ(おも)うたまへしに()ほのかに(かべ)(そむ)()えたる(きぬ)どもの厚肥(あつご)えたる、(おほ)いなる()にうち()けて、()()ぐべきものの帷子(かたびら)などうち()げて今宵(こよひ)ばかりやと()ちけるさまなり。
さればよと、(こころ)おごりするに正身(さうじみ)はなし。
さるべき女房(にょうばう)どもばかりとまりて(おや)(いへ)に、この()さりなむ(わた)りぬる』と(こた)へはべり。
内裏あたりでの宿直は気乗りがしないし、気取った女の家は何となく寒くないだろうか、と存じられましたので、どう思っているだろうかと、様子見がてら、雪をうち払いながら、何となく体裁が悪くきまりも悪く思われるが、いくらなんでも今夜は数日来の恨みも解けるだろう、と存じましたところ、灯火を薄暗く壁の方に向け、柔らかな衣服の厚いのを、大きな伏籠にうち掛けて、引き上げておくべきの几帳の帷子などは引き上げてあって、今夜あたりはと、待っていた様子です。
やはりそうであったよと、得意になりましたが、本人はいません。
しかるべき女房連中だけが残っていて、『親御様の家に、今晩は行きました』と答えます。
御所の宿直室で寝るのもみじめだし、また恋を風流遊戯にしている局の女房を訪ねて行くことも寒いことだろうと思われるものですから、どう思っているのだろうと様子も見がてらに雪の中を、少しきまりが悪いのですが、こんな晩に行ってやる志で女の恨みは消えてしまうわけだと思って、はいって行くと、暗い炉を壁のほうに向げて据え、暖かそうな柔らかい、綿のたくさんはいった着物を大きな炙り籠に掛けて、私が寝室へはいる時に上げる几帳のきれも上げて、こんな夜にはきっと来るだろうと待っていたふうが見えます。そう思っていたのだと私は得意になりましたが、妻自身はいません。何人かの女房だけが留守をしていまして、父親の家へちょうどこの晩移って行ったというのです。 【内裏わたりの旅寝】- 以下「そぞろ寒くや」まで、左馬頭の思案。
【気色ばめるあたり】- 後に出てくる浮気な女の家。
【そぞろ寒くや】- 情愛よりも風流を優先するゆえに寒い思いをさせられるだろうと想像する。
【思ひたまへられしかば】- 謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、未然形。「られ」受身の助動詞、また自発を表すとも考えられる。過去の助動詞「しか」已然形。存じられましたので、の意。
【恨みは解けなむ】- 「解け」は前の「雪」の縁語。言葉の洒落。完了の助動詞「な」未然形、確述、推量の助動詞「む」推量。きっと解けるだろう、の意。
【思うたまへしに】- 「思う」は「思ひ」連用形のウ音便形、謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形、過去の助動詞「し」連体形、接続助詞「に」順接。存じましたところ、の意。
【火ほのかに壁に背け】- 『白氏文集』「上陽人」の「耿々たる残灯壁に背ける影」を踏まえた表現。寝室用にほの暗くしていた。
【引き上ぐべきものの帷子などうち上げて】- 夫を迎える時は、帷子の垂れ絹を引き上げておくのが、通例であったらしい。『完訳』では「使わぬ際は引き上げておく」と注すが、下に「今宵ばかりや、と、待ちけるさまなり」とあるので、女は男の来訪を支度して待っていたと解釈すべき。
【今宵ばかりやと】- 係助詞「や」の下に「来らむ」等の語句が省略。女の心をを勝手に左馬頭が推測したもの。
【さればよ】- やはりそうであったよ。『集成』『完訳』は「それ見たことよ」というニュアンスで訳す。
【心おごりするに】- 接続助詞「に」逆接。
【さるべき女房どもばかりとまりて】- 夫の世話をすべき女房。夫を迎える準備をしておきながら本人がことさらいないというのは、女側のまだ夫を許していない意思表示。
【親の家に、この夜さりなむ渡りぬる】- 女房の詞。係助詞「なむ」完了の助動詞「ぬる」連体形、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。この女は親とは別の家に夫を通わせていた。
2.1.14
(えん)なる(うた)()まず、気色(けしき)ばめる消息(せうそこ)もせで、いとひたや()もり(なさ)けなかりしかば、あへなき心地(ここち)して、さがなく(ゆる)しなかりしも、(われ)(うと)みねと(おも)(かた)(こころ)やありけむと、さしも()たまへざりしことなれど(こころ)やましきままに(おも)ひはべりしに()るべき(もの)(つね)よりも(こころ)とどめたる(いろ)あひ、しざまいとあらまほしくて、さすがにわが見捨(みす)ててむ(のち)をさへなむ、(おも)ひやり後見(うしろみ)たりし。
艶やかな和歌も詠まず、思わせぶりな手紙も書き残さず、もっぱらそっけなく無愛想であったので、拍子抜けした気がして、口やかましく容赦なかったのも、自分を嫌になってくれ、と思う気持ちがあったからだろうかと、そのようには存じられなかったのですが、おもしろくないままそう思ったのですが、着るべき物が、いつもより念を入れた色合いや、仕立て方がとても素晴らしくて、やはり離別した後までも、気を配って世話してくれていたのでした。
艶な歌も詠んで置かず、気のきいた言葉も残さずに、じみにすっと行ってしまったのですから、つまらない気がして、やかましく嫉妬をしたのも私にきらわせるためだったのかもしれないなどと、むしゃくしゃするものですからありうべくもないことまで忖度しましたものです。しかし考えてみると用意してあった着物なども平生以上によくできていますし、そういう点では実にありがたい親切が見えるのです。自分と別れた後のことまでも世話していったのですからね、 【ひたや籠もり】- 家の中に閉じ籠もりきり、というのが原義。『集成』は「まったく無愛想で」と訳し、『完訳』『新大系』では原義のまま「まったく家に閉じこもったきりで」と訳す。
【我を疎みねと思ふ方の心やありけむ】- 「疎み」連用形、完了の助動詞「ね」命令形、確述。係助詞「や」は過去推量の助動詞「けむ」連体形に係る。左馬頭、女の心を推察。女の方から自分を嫌いになってください、という思いがあったのか、と左馬頭は解釈する。
【さしも見たまへざりしことなれど】- 挿入句。左馬頭の判断を加える。
【心やましきままに思ひはべりしに】- 接続助詞「に」逆接。『完訳』は「腹立ちまぎれに勘ぐったが」というニュアンスの注を付ける。
【わが見捨ててむ後をさへ】- わたしの方から女を見捨てたのに、女は今でもわたしのために、という左馬頭の思い上がり。「わが」について『古典セレクション』は「喧嘩別れしているとはいえ、自分(女)が見限った後の私(左馬頭)のことまでも、気づかって世話をしていてくれていた。女に自分への愛情がまだあるとの観察である」と注す。
2.1.15
さりとも、()えて(おも)(はな)つやうはあらじ(おも)うたまへて、とかく()ひはべりしを(そむ)きもせずと(たづ)ねまどはさむとも(かく)(しの)びず、かかやかしからず(いら)へつつただ、『ありしながらはえなむ見過(みす)ぐすまじき
あらためてのどかに(おも)ひならばなむ、あひ()るべき』など()ひしを、さりともえ(おも)(はな)れじと(おも)ひたまへしかば、しばし()らさむの(こころ)にて、『しかあらためむ』とも()はず、いたく綱引(つなび)きて()せしあひだに、いといたく(おも)(なげ)きて、はかなくなりはべりにしかば(たはぶ)れにくくなむおぼえはべりし。
そうは言っても、すっかり愛想をつかすようなことはあるまいと存じまして、いろいろと言ってみましたが、別れるでもなくと、探し出させようと行方を晦ますのでもなく、きまり悪くないように返事をしいし、ただ、『以前のような心のままでは、とても我慢できません。
改心して落ち着くならば、また一緒に暮らしましょう』などと言いましたが、そうは言っても思い切れまいと存じましたので、少し懲らしめようという気持ちから、『そのように改めよう』とも言わず、ひどく強情を張って見せていたところ、とてもひどく思い嘆いて、亡くなってしまいましたので、冗談もほどほどにと存じられました。
彼女がどうして別れうるものかと私は慢心して、それからのち手紙で交渉を姶めましたが、私へ帰る気がないでもないようだし、まったく知れない所へ隠れてしまおうともしませんし、あくまで反抗的態度を取ろうともせず、『前のようなふうでは我慢ができない、すっかり生活の態度を変えて、一夫一婦の道を取ろうとお言いになるのなら』と言っているのです。そんなことを言っても負げて来るだろうという自信を持って、しばらぐ懲らしてやる気で、一婦主義になるとも言わず、話を長引かせていますうちに、非常に精神的に苦しんで死んでしまいましたから、私は自分が責められてなりません。 【さりとも、絶えて思ひ放つやうはあらじ】- 左馬頭の期待。副詞「絶えて」は打消推量の助動詞「じ」と呼応して、すっかり愛想をつかすようなことはあるまい、の意。
【とかく言ひはべりしを】- その後、縒りを戻そうとあれこれ言ってみましたが、の意。時間的経過がある。
【背きもせずと】- 青表紙本系の明融臨模本、大島本、松浦本、伝冷泉為秀本は「せすと」。池田本、三条西家本、書陵部本は「せす」とある。引用の格助詞「と」がない。明融臨模本は後人が朱筆で「と」をミセケチにしている。『集成』『古典セレクション』は「せず」の本文を採用する。『新大系』は底本の大島本「せずと」に従う。
【かかやかしからず答へつつ】- 接続助詞「つつ」動作の反復・継続を表す。
【ありしながらは】- 以下「あひ見るべき」まで、女の詞。夫に浮気の改心を求める。
【えなむ見過ぐすまじき】- 副詞「え」、係助詞「なむ」打消推量の助動詞「まじき」連体形。とても我慢できません、の意。
【いたく綱引きて】- 明融臨模本には「ひ」に朱濁点有り。『源氏釈』は「引き寄せばただには寄らで春駒の綱引きするぞ名は立つと聞く」(拾遺集、雑賀、一一五八、平定文)を指摘する。
【はかなくなりはべりにしかば】- 「はかなく」は亡くなる意。
【戯れにくく】- 『異本紫明抄』は「有りぬやと心見がてら逢ひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき」(古今集、俳諧、一〇二五、読人しらず)を指摘する。冗談もほどほどにすべきであった、という後悔。
2.1.16
ひとへにうち(たの)みたらむ(かた)は、さばかりにてありぬべくなむ(おも)ひたまへ()でらるる
はかなきあだ(ごと)をもまことの大事(だいじ)をも、()ひあはせたるにかひなからず龍田姫(たつたひめ)()はむにもつきなからず、織女(たなばた)()にも(おと)るまじくその(かた)()して、うるさくなむはべりし」
一途に生涯頼みとするような女性としては、あの程度で確かに良いと思い出さずにはいられません。
ちょっとした風流事でも実生活上の大事でも、相談してもしがいがなくはなく、龍田姫と言っても不似合いでなく、織姫の腕前にも劣らないその方面の技術をもっていて、行き届いていたのでした」
家の妻というものは、あれほどの者でなければならないと今でもその女が思い出されます。風流ごとにも、まじめな間題にも話し相手にすることができましたし、また家庭の仕事はどんなことにも通じておりました。染め物の立田姫にもなれたし、七夕の織姫にもなれたわけです」 【ありぬべくなむ思ひたまへ出でらるる】- 係助詞「なむ」、自発の助動詞「らるる」連体形、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。
【言ひあはせたるにかひなからず】- 接続助詞「に」順接。相談してもしがいがあって、の意。
【龍田姫】- 龍田姫は春の佐保姫に対して、秋の女神。紅葉を染めることから、染色の神様と見られていた。「見る毎に秋にもなるかな龍田姫紅葉染むとや山も霧るらむ」(後撰集、秋下、三七八、 読人しらず)。
【織女の手】- 織姫の技術。裁縫の神様と見られていた。
2.1.17 と言って、とてもしみじみと思い出していた。
中将が、
と語った左馬頭は、いかにも亡き妻が恋しそうであった。 【思ひ出でたり】- 完了の助動詞「たり」存続を表す。
【中将】- 頭中将。
2.1.18
その織女(たなばた)()()(かた)をのどめて、(なが)(ちぎ)りにぞあえまし
げに、その龍田姫(たつたひめ)(にしき)には、またしくものあらじ
はかなき花紅葉(はなもみぢ)といふも、をりふしの(いろ)あひつきなく、はかばかしからぬは、(つゆ)のはえなく()えぬるわざなり
さあるにより、(かた)()とは(さだ)めかねたるぞや」
「その織姫の技量はひとまずおいても、永い夫婦の契りだけにはあやかりたいものだったね。
なるほど、その龍田姫の錦の染色の腕前には、誰も及ぶ者はいないだろうね。
ちょっとした花や紅葉といっても、季節の色合いが相応しくなく、はっきりとしていないのは、何の見映えもなく、台なしになってしまうものだ。
そうだからこそ、難しいものだと決定しかねるのですな」
「技術上の織姫でなく、永久の夫婦の道を行っている七夕姫だったらよかったですね。立田姫もわれわれには必要な神様だからね。男にまずい服装をさせておく細君はだめですよ。そんな人が早く死ぬんだから、いよいよ良妻は得がたいということになる」 【その織女の】- 以下「定めかねたるぞや」まで、頭中将の詞。
【長き契りにぞあえまし】- 『異本紫明抄』は「逢ふ事は七夕姫に等しくて裁ち縫ふわざはあえずぞありける」(後撰集、秋上、二二五、閑院)を指摘する。係助詞「ぞ」、推量の助動詞「まし」連体形、反実仮想、係り結びの法則。あやかりたいものだったね。
【またしくものあらじ】- 『完訳』は「その女への男の尽くし方全般をさす」と注し、「「如く」に「敷く」をひびかし、「錦」の縁語とした」とも注す。
【露のはえなく消えぬるわざなり】- 「露」は副詞「つゆ」の意を懸ける。「消え」は「露」の縁語。
2.1.19
と、()ひはやしたまふ。
と、話をはずまされる。
中将は指をかんだ女をほめちぎった。

第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語)

2.2.1
さて、また(おな)じころまかり(かよ)ひし(ところ)は、(ひと)()ちまさり(こころ)ばせまことにゆゑありと()えぬべく、うち()み、(はし)()き、()()爪音(つまおと)()つき(くち)つき、みなたどたどしからず、見聞(みき)きわたりはべりき。
()()もこともなくはべりしかば、このさがな(もの)うちとけたる(かた)にて、時々隠(ときどきかく)ろへ()はべりしほどは、こよなく(こころ)とまりはべりき。
この人亡(ひとう)せて(のち)いかがはせむあはれながらも()ぎぬるはかひなくて、しばしばまかり()るるには、すこしまばゆく(えん)(この)ましきことは、()につかぬ(ところ)あるにうち(たの)むべくは()えず、かれがれにのみ()せはべるほどに(しの)びて心交(こころか)はせる(ひと)ぞありけらし
「ところで、また同じころに、通っていました女は、人品も優れ気の働かせ方もまことに嗜みがあると思われるように、素早く歌を詠み、すらすらと書き、掻いつま弾く琴の音色、その腕前や詠みぶりが、みな確かであると、見聞きしておりました。
見た目にも無難でございましたので、先程の嫉妬深い女を気の置けない通い所にして、時々隠れて逢っていました間は、格段に気に入っておりました。
今の女が亡くなって後は、どうしましょう、かわいそうだとは思いながらも死んでしまったものは仕方がないので、頻繁に通うようになってみますと、少し派手で婀娜っぽく風流めかしていることは、気に入らないところがあったので、頼りにできる女とは思わずに、途絶えがちにばかり通っておりましたら、こっそり心を通じている男がいたらしいのです。
「その時分にまたもう一人の情人がありましてね、身分もそれは少しいいし、才女らしく歌を詠んだり、達者に手紙を書いたりしますし、音楽のほうも相当なものだったようです。感じの悪い容貌でもありませんでしたから、やきもち焼きのほうを世話女房にして置いて、そこへはおりおり通って行ったころにはおもしろい相手でしたよ。あの女が亡くなりましたあとでは、いくら今さら愛惜しても死んだものはしかたがなくて、たびたびもう一人の女の所へ行くようになりますと、なんだか体裁屋で、風流女を標榜している点が気に入らなくて、一生の妻にしてもよいという気はなくなりました。あまり通わなくなったころに、もうほかに恋愛の相手ができたらしいのですね、 【さて、また同じころ】- 以下「立てつべきものなり」まで、左馬頭の体験談。その二。「風流な女」の物語。
【このさがな者を】- 嫉妬深い女。
【いかがはせむ】- 反語表現。どうしましょう、どうすることもできません、の意。
【目につかぬ所あるに】- 気に入らないところ。接続助詞「に」順接を表す。『完訳』は「しだいに女への熱がさめてくる」と注す。
【かれがれにのみ見せはべるほどに】- 副助詞「のみ」限定を表す。途絶えがちにばかり顔を見せておりましたうちに。
【人ぞありけらし】- 係助詞「ぞ」、推量の助動詞「らし」連体形、係り結びの法則。「けらし」は「ける」(連体形)「らし」の「る」が撥音便化(「ん」)してさらに無表記化した形。
2.2.2
神無月(かんなづき)のころほひ、(つき)おもしろかりし()内裏(うち)よりまかではべるに、ある上人(うへびとき)あひて、この(くるま)にあひ()りてはべれば、大納言(だいなごん)(いへ)にまかり()まらむとするに、この人言(ひとい)ふやう、今宵人待(こよひひとま)つらむ宿(やど)なむ、あやしく心苦(こころぐる)しき』とて、この(をんな)(いへ)はた、()きぬ(みち)なりければ()れたる(くづ)より(いけ)(みづ)かげ()えて、(つき)だに宿(やど)住処(すみか)()ぎむもさすがにて()りはべりぬかし
神無月の時節ごろ、月の美しかった夜に、内裏から退出いたしますに、ある殿上人が来合わせて、わたしの車に同乗していましたので、大納言殿の家へ行って泊まろうとすると、この人が言うことには、『今宵は、わたしを待っているだろう女が、妙に気にかかるよ』と言って、先程の女の家は、なんとしても通らなけれならない道に当たっていたので、荒れた築地塀の崩れから池の水に月の光が映っていて、月でさえ泊まるこの宿をこのまま通り過ぎてしまうのも惜しいというので、降りたのでございました。
十一月ごろのよい月の晩に、私が御所から帰ろうとすると、ある殿上役人が来て私の車へいっしょに乗りました。私はその晩は父の大納言の家へ行って泊まろうと思っていたのです。途中でその人が、『今夜私を待っている女の家があって、そこへちょっと寄って行ってやらないでは気が済みませんから』と言うのです。私の女の家は道筋に当たっているのですが、こわれた土塀から池が見えて、庭に月のさしているのを見ると、私も寄って行ってやっていいという気になって、その男の降りた所で私も降りたものです。 【神無月のころほひ、月おもしろかりし夜】- 陰暦では初冬。二十四節気では立冬前後の晩秋から初冬の季節で、紅葉の美しい時節。
【ある上人】- ある殿上人。この男が左馬頭が通っていた風流な女の「忍びて心交はせる人」。
【大納言の家】- 系図不明の人。『河海抄』は左馬頭の父親かとする。
【今宵人待つらむ宿なむ、あやしく心苦しき】- 上人(殿上人)の詞。推量の助動詞「らむ」視界外推量を表す。係助詞「なむ」は形容詞「心苦しき」連体形に係る、係り結びの法則。
【この女の家はた、避きぬ道なりければ】- 風流な女の家。副詞「はた」は下に打消の助動詞「ぬ」連体形に係って、これを強める。なんといっても避けられない道であったので、の意。『古典セレクション』は「この下に脱文があるとする説もあるが、会話の文には、この種の破格・省略が多い」と注す。
【荒れたる崩れ】- 風流な女の家の築地塀の崩れ。
【月だに宿る】- 副助詞「だに」最小限を表す。美しい夜には月でさえ宿ります、まして心ある人間は宿るのが当然です、の意を含む。『異本紫明抄』は「雲居にて相語らはぬ月だにも我が宿過ぎて行く時はなし」(拾遺集、雑上、四三七、伊勢)を指摘する。
【過ぎむもさすがにて】- 通り過ぎるの気がきかない、無風流なので。『古典セレクション』は「いろいろ事情はあるにせよ、素通りするのはやはり心ないしわざということで」と注す。
【下りはべりぬかし】- 主語はわたし左馬頭。「はべり」は自分の動作「下り」につけられた丁寧の補助動詞。まず殿上人が車から下りてわたしも下りた、という趣旨。終助詞「かし」念押しのニュアンス。車から降りたのでございます。二人して、下りて、邸内に入り込んだ。『新大系』は「月でさえ泊まる住みかを通り過ぎるようなのはいくらなんでも(無風流だ)という次第で、車をおりてしまうことでござるぞ。その殿上人が口実を言いながら、ほかでもない左馬頭の女の家のわきで下りてしまうという場面か。その人がその折に口ずさむ歌があるとすれば「雲ゐにてあひ語らはぬ月だにもわが宿過ぎてゆく時はなし」(拾遺集・雑上・伊勢)。左馬頭も下車して様子を見て取る、という垣間見に似る展開」と注す。
2.2.3 以前から心を交わしていたのでしょうか、この男はとてもそわそわして、中門近くの渡廊の簀子のような所に腰を掛けて、暫く月を見ています。
菊は一面にとても色美しく変色しており、風に勢いづいた紅葉が散り乱れているのなど、美しいものだなあと、なるほど思われました。
その男のはいって行くのはすなわち私の行こうとしている家なのです。初めから今日の約束があったのでしょう。男は夢中のようで、のぼせ上がったふうで、門から近い廊の室の縁側に腰を掛けて、気どったふうに月を見上げているんですね。それは実際白菊が紫をぼかした庭へ、風で紅葉がたくさん降ってくるのですから、身にしむように思うのも無理はないのです。 【もとよりさる心を交はせるにやありけむ】- 左馬頭の想像。係助詞「や」疑問、推量の助動詞「けむ」連体形、過去の推量を表す。係り結びの法則。同車してきた殿上人がこの屋敷の女と。
【この男】- 以下、左馬頭の目を通して、この男(殿上人)と女のやりとりを語る。
【門近き廊の簀子だつものに】- 「門」は中門であろう。大路に面した表門ではなかろう。中門は渡廊に繋がっておりその簀子に腰掛けたのであろう。
【菊いとおもしろく移ろひわたり、風に競へる紅葉の乱れ】- 明融臨模本「うつろひわたり(り+て)」とある。「て」は朱書による後人の補入。大島本は「うつろひわたり」とある。『集成』『新大系』は「うつろひわたり」のまま。『古典セレクション』は諸本に拠って「うつろひわたりて」と校訂する。『全集』は「秋をおきて時こそありけれ菊の花うつろふからに色のまされば」(古今集、秋下、二七九、平定文)と「秋の夜に雨と聞こえて降りつるは風に乱るる紅葉なりけり」(後撰集、秋下、四〇七、読人しらず)を指摘する。景情一致の描写。浮気な女、軽い女という性格を、変色(心変り)した菊や風に散る紅葉を描くことによって象徴し、この場の情調をつくる。
2.2.4
(ふところ)なりける笛取(ふえと)()でて()()らし、(かげ)もよし』などつづしり(うた)ほどに、よく()和琴(わごん)を、調(しら)べととのへたりけるうるはしく()()はせたりしほど、けしうはあらずかし。
(りち)調(しら)べは(をんな)のものやはらかに()()らして、()(うち)より()こえたるも、(いま)めきたる(もの)(こゑ)なれば、(きよ)()める(つき)(をり)つきなからず。
(をとこ)いたくめでて、()のもとに(あゆ)()て、
懐にあった横笛を取り出して吹き鳴らし、『月影も良い』などと合い間合い間に謡うと、良い音のする和琴を、調子が調えてあったもので、きちんと合奏していたところは、悪くはありませんでした。
律の調子は、女性がもの柔らかく掻き鳴らして、御簾の内側から聞こえて来るのも、今風の楽の音なので、清く澄んでいる月にふさわしくなくもありません。
その男はひどく感心して、御簾の側に歩み寄って、
男は懐中から笛を出して吹きながら合い間に『飛鳥井に宿りはすべし蔭もよし』などと歌うと、中ではいい音のする倭琴をきれいに弾いて合わせるのです。相当なものなんですね。律の調子は女の柔らかに弾くのが御簾の中から聞こえるのもはなやかな気のするものですから、明るい月夜にはしっくり合っています。男はたいへんおもしろがって、琴を弾いている所の前へ行って、 【懐なりける笛取り出でて】- 男は懐にあった横笛を取り出して。
【蔭もよし】- 催馬楽の「飛鳥井」の一節。「飛鳥井に 宿りはすべし や おけ 蔭もよし みもひも寒し 御秣もよし」。ここに泊まりたい、の意。
【つづしり謡ふ】- 『集成』は「ぽつりぽつり歌う」と解し、『完訳』は「笛を吹きつつ合い間に歌う」と解す。「小食 ツヅシル」(『名義抄』)。
【調べととのへたりける】- 挿入句。既に調子が調整されていたもので、の意。男がいつやってきてもよいように準備していたもの。
【律の調べは】- 係助詞「は」は、「今めきたる物の声なれば」に係る。わが国固有の俗楽的音階、ややくだけた感じの調子。
2.2.5 『庭の紅葉を、踏み分けた跡がないですね』などと嫌がらせを言います。
菊を手折って、
『紅葉の積もり方を見るとだれもおいでになった様子はありませんね。あなたの恋人はなかなか冷淡なようですね』などといやがらせを言っています。菊を折って行って、 【庭の紅葉こそ、踏み分けたる跡もなけれ】- この男の詞。係助詞「こそ」形容詞「なけれ」已然形、係り結びの法則。誰も訪ねて来ませんねという、女への揶揄。『異本紫明抄』は「秋は来ぬ紅葉は宿にふりしきぬ道ふみ分けて訪ふ人はなし」(古今集、秋下、二八七、読人しらず)を指摘する。
【などねたます】- 「す」は使役の助動詞。などと言って、女を悔しがらせる、意。
2.2.6 『琴の音色も月も素晴らしいお宅ですが
薄情な方を引き止めることができなかったようですね
『琴の音も菊もえならぬ宿ながら
つれなき人を引きやとめける。
【琴の音も月もえならぬ宿ながら--つれなき人をひきやとめける】- 男の歌。係助詞「や」は反語、「つれなき人」は第三者をの男をさす。「引き止めることができたでしょうか、できなかったようですね」の意。『新大系』は「この風情に引きとめられない男は冷淡だ、の意。自分はそうではないという気持を含ませる」と注す。「ひく」は「引く」と「弾く」の掛詞。「弾く」は「琴」の縁語。
2.2.7
()ろかめり』など()ひて、(いま)ひと(こゑ)()きはやすべき(ひと)のある(とき)()(のこ)いたまひそ』など、いたくあざれかかれば、(をんな)いたう(こゑ)つくろひて、
悪いことを言ったかしら』などと言って、『もう一曲、喜んで聞きたいというわたしがいる時に、弾き惜しみなさいますな』などと、ひどく色っぽく言いかけますと、女は、声をとても気取って出して、
だめですね』などと言ってまた『いい聞き手のおいでになった時にはもっとうんと弾いてお聞かせなさい』こんな嫌味なことを言うと、女は作り声をして 【悪ろかめり】- 「悪ろかるめり」の「る」が撥音便化(「ん」)してさらに無表記化された形。「めり」は推量の助動詞、主観的推量を表す。悪いことを言ったようですね、のニュアンス。『集成』は「不体裁なことのようですな。訪ねて来る男もないとはと、からかった冗談」と注し、『古典セレクション』は「ぱっとしませんねえ。珍しく来たのは私のような者でお気の毒でした、の意か」と注す。『新大系』「不釣合いのようです。せっかく引きとめられても、と自分の笛を謙遜するか。難解」と注す。
【今ひと声】- 以下「手な残いたまひそ」まで、引き続き、この男の詞。
【聞きはやすべき人】- 自分のこと。
【手な残いたまひそ】- 副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。
2.2.8 『冷たい木枯らしに合うようなあなたの笛の音を
引きとどめる術をわたしは持ち合わせていません』
『こがらしに吹きあはすめる笛の音を
引きとどむべき言の葉ぞなき』
【木枯に吹きあはすめる笛の音を--ひきとどむべき言の葉ぞなき】- 女の返歌。男の「引きや止める」を受けて、「ひき」に「引き」と「弾き」を掛け、「こと」に「言」と「琴」を掛け、「弾く」と「琴」、「木枯」と「葉」は縁語。わたしはあなたを引き止めようとはしません、と切り返す。
2.2.9
となまめき()はすに、(にく)くなるをも()らでまた、(さう)(こと)盤渉調(ばんしきでう)調(しら)べて(いま)めかしく()()きたる爪音(つまおと)かどなきにはあらねど、まばゆき心地(ここち)なむしはべりし
ただ時々(ときどき)うち(かた)らふ宮仕(みやづか)(びと)などのあくまでさればみ()きたるは、さても()(かぎ)りはをかしくもありぬべし。
時々(ときどき)にても、さる(ところ)にて(わす)れぬよすがと(おも)ひたまへむには(たの)もしげなくさし()ぐいたりと(こころ)おかれて、その()のことにことつけてこそ、まかり()えにしか
と色っぽく振る舞い合います。憎らしくなってきたのも知らずに、今度は、筝の琴を盤渉調に調えて、今風に掻き鳴らす爪音は、才能が無いではないが、目を覆いたい気持ちが致しました。
ただ時々に言葉を交わす宮仕え人などで、どこまでも色っぽく風流なのは、そうであっても付き合うには興味もありましょう。
時々であっても、通い妻として生涯の伴侶と致しますには、頼りなく風流すぎると嫌気がさして、その夜のことに口実をつくって、通うのをやめてしまいました。
などと言ってふざけ合っているのです。私がのぞいていて憎らしがっているのも知らないで、今度は十三絃を派手に弾き出しました。才女でないことはありませんがきざな気がしました。遊戯的の恋愛をしている時は、宮中の女房たちとおもしろおかしく交際していて、それだけでいいのですが、時々にもせよ愛人として通って行く女がそんなふうではおもしろくないと思いまして、その晩のことを口実にして別れましたがね。 【憎くなるをも知らで】- 自分が聞いていて、憎らしく思っているのも、女は知らないで、の意。左馬頭はこの男と女のやりとりがだんだん癪に障ってきた。
【箏の琴を盤渉調に調べて】- 「箏 シャウ」(色葉字類抄)。呉音。「盤渉調」は「色葉字類抄には「盤」に濁符、「渉」に清符があって、バンシキと読んでいる。「調」については色葉字類抄には声点がなく不明であるが、運歩色葉集では濁音であり、楽家禄にも「浪牟志気伝宇」。調字濁」とあるので、古くから連濁仕手板と思われる」(小学館古語大辞典)。冬の調子。神無月(陰暦の冬)のころの曲としてふさわしい。
【まばゆき心地なむしはべりし】- 主語は左馬頭。「なむ」係助詞、「し」サ変動詞、連用形、「はべり」丁寧の補助動詞、「し」過去の助動詞、連体形。係り結びの法則。
【宮仕へ人などの】- 格助詞「の」同格を表す。宮仕え人などで、の意。
【さても見る限りは】- 風流で浮気な女と知ったうえで付き合うぶんには、の意。
【時々にても、さる所にて】- 通い婚であったので、このような表現が出てくる。
【思ひたまへむには】- 謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、未然形、推量の助動詞「む」婉曲を表す。
【ことつけてこそ、まかり絶えにしか】- 係助詞「こそ」、過去の助動詞「しか」已然形、係り結びの法則。
2.2.10 この二つの例を考え合わせますと、若い時の考えでさえも、やはりそのように派手な女の例は、とても不安で頼りなく思われました。
今から以後は、いっそうそのようにばかり思わざるを得ません。
お気持ちのままに、手折るとこぼれ落ちてしまいそうな萩の露や、拾ったと思うと消えてしまう玉笹の上の霰などのような、しゃれていてか弱く風流なのばかりが、興味深くお思いでしょうが、今はそうであっても、七年余りのうちにお分かりになるでしょう。
わたくしめごとき、わたくしごとき卑賤の者の忠告として、色っぽくなよなよとした女性にはお気をつけなさいませ。
間違いを起こして、相手の男の愚かな評判までも立ててしまうものです」
この二人の女を比べて考えますと、若い時でさえもあとの風流女のほうは信頼のできないものだと知っていました。もう相当な年配になっている私は、これからはまたそのころ以上にそうした浮華なものがきらいになるでしょう。いたいたしい萩の露や、落ちそうな笹の上の霰などにたとえていいような艶な恋人を持つのがいいように今あなたがたはお思いになるでしょうが、私の年齢まで、まあ七年もすればよくおわかりになりますよ、私が申し上げておきますが、風流好みな多情な女には気をおつけなさい。三角関係を発見した時に良人の嫉妬で問題を起こしたりするものです」 【この二つのこと】- 嫉妬深い女の例と風流好みの女の例。
【思うたまへあはするに】- 「思う」は「思ひ」のウ音便形、謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形、動詞「あはする」下二段、連体形、接続助詞「に」順接を表す。
【若き時の心にだに】- 副助詞「だに」最小限を表す。「今より後はまして」に続く構文。
【さやうにもて出でたることは】- 風流好みの女の例をさす。係助詞「は」は「頼もしげなくおぼえはべりき」に係る。
【さのみなむ思ひたまへらるべき】- 副助詞「のみ」限定を表す。係助詞「なむ」は推量の助動詞「べき」連体形、当然の意に係る、係り結びの法則。謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、未然形、自発の助動詞「らる」終止形。そのように思うほかございません、の意。
【御心のままに】- 源氏や頭中将のお気持ちのままに、という意。敬語「御」が付いている。
【折らば落ちぬべき萩の露】- 『異本紫明抄』は「折りてみば落ちぞしぬべき秋萩の枝もたわわにおける白露」(古今集、秋上、二二三、読人しらず)を指摘する。
【拾はば消えなむと見る玉笹の上の霰】- 明融臨模本「み(み+ゆ)る」とある。「ゆ」は朱書による後人の補入。大島本は「見る」とある。『新大系』は「見る」のまま。『集成』『古典セレクション』は「見ゆる」と校訂する。『源氏釈』は「いづこにか宿りとるらむあさひこがさすや岡辺の玉笹の上に」(古今六帖一、照日、二六九)を指摘する。
【好き好きしさのみこそ、をかしく思さるらめ】- 副助詞「のみ」限定を表す。係助詞「こそ」は「らめ」已然形に係る係り結びの法則、読点、逆接で下文に続く。「る」尊敬の助動詞、終止形。
【七年あまりがほどに思し知りはべなむ】- 「はべなむ」は「はべりなむ」の「り」が撥音便化してさらに無表記化された形。完了の助動詞「な」確述、推量の助動詞「む」推量を表す。左馬頭は源氏より七歳年長のようである。
【心おかせたまへ】- 「せ」「たまへ」二重敬語。会話文中での用法。
【過ちして、見む人の】- 「過ちして」の主語は女。「見む人」は交際相手の男性。
2.2.11
(いまし)む。
中将(ちゅうじゃう)(れい)のうなづく。
(きみ)すこしかた()みて、さることとは(おぼ)すべかめり
と、忠告する。
頭中将は例によってうなずく。
源氏の君は少し微笑んで、そういうものだろうとお思いのようである。
左馬頭は二人の貴公子に忠言を呈した。例のように中将はうなずく。少しほほえんだ源氏も左馬頭の言葉に真理がありそうだと思うらしい。 【さることとは思すべかめり】- 語り手が源氏の心を推察した文。『岷江入楚』は「物語の作者のいふ詞なり」と注す。
2.2.12
いづ(かた)につけても人悪(ひとわ)ろくはしたなかりける身物語(みものがたり)かな」とて、うち(わら)ひおはさうず。
「どちらの話にしても、体裁の悪くみっともない体験談だね」と言って、皆でどっと笑い興じられる。
あるいは二つともばかばかしい話であると笑っていたのかもしれない。 【いづ方につけても】- 以下「身物語かな」まで、源氏の詞。嫉妬深い女の話と浮気な女の話をさす。
【身物語】- 明融臨模本と大島本は「み物かたり」と表記する。話者源氏の「身」と「御」を掛けた発言だろう。「身物語」は身の上を語った物語の意。

第三段 頭中将の体験談(常夏の女の物語)

2.3.1
中将(ちゅうじゃう)
中将は、
2.3.2
なにがしは、痴者(しれもの)物語(ものがたり)をせむ」とて、いと(しの)びて()そめたりし(ひと)さても()つべかりしけはひなりしかばながらふべきものとしも(おも)ひたまへざりしかど()れゆくままに、あはれとおぼえしかば、()()(わす)れぬものに(おも)ひたまへしを、さばかりになればうち(たの)めるけしき()えき。
(たの)むにつけては、(うら)めしと(おも)ふこともあらむと(こころ)ながらおぼゆるをりをりもはべりしを、見知(みし)らぬやうにて(ひさ)しきとだえをも、かうたまさかなる(ひと)とも(おも)ひたらず、ただ朝夕(あさゆふ)にもてつけたらむありさま()えて、心苦(こころぐる)しかりしかば(たの)めわたることなどもありきかし
「わたしは、馬鹿な体験談をお話しましょう」と言って、「ごくこっそりと通い始めた女で、そうした関係を長く続けてもよさそうな様子だったので、長続きのする仲とは存じられませんでしたが、馴れ親しんで行くにつれて、愛しいと思われましたので、途絶えがちながらも忘れられない女と存じておりましたが、それほどの仲になると、わたしを頼りにしている様子にも見えました。
頼りにするとなると、恨めしく思っていることもあるだろうと、我ながら思われる折々もございましたが、女は気に掛けぬふうをして、久しく通って行かないのを、こういうたまにしか来ない男とも思っていないで、ただ朝夕にいつも心に掛けているという態度に見えて、いじらしく思えたので、ずっと頼りにしているようにと言ったこともあったのでした。
「私もばか者の話を一つしよう」
 中将は前置きをして語り出した。
 「私がひそかに情人にした女というのは、見捨てずに置かれる程度のものでね、長い関係になろうとも思わずにかかった人だったのですが、馴れていくとよい所ができて心が惹かれていった。たまにしか行かないのだけれど、とにかく女も私を信頼するようになった。愛しておれば恨めしさの起こるわけのこちらの態度だがと、自分のことだけれど気のとがめる時があっても、その女は何も言わない。久しく間を置いて逢っても始終来る人といるようにするので、気の毒で、私も将来のことでいろんな約束をした。
【なにがしは、痴者の物語をせむ】- 頭中将の詞。「痴者」を男(頭中将)とする説と女(夕顔)とする説がある。愚か者の話を語ろう、の意。二者択一とは言いがたい。両義性をもった言い方。自分としてはやや自嘲気味にかつ相手の女としては気の毒にという微妙なニュアンスを含んだ複雑な心理表現。『集成』は「阿呆な男の話」と解し、『新大系』は「愚か者の話であると称して頭中将の体験談を語る。先に左馬頭によって落としめられた逃げ隠れする女の例なので「痴者」というか。順送りの二人目」と注す。なお、頭中将には右大臣家の娘で正妻の四君がいる。
【いと忍びて見そめたりし人の】- 以下「撫子の花を折りておこせたりし」まで、頭中将の物語。格助詞「の」同格を表す。常夏の女(のちの夕顔)の物語。
【さても見つべかりしけはひなりしかば】- 「さ」は、通い妻(側室)をさす。完了の助動詞「つ」確述、終止形、推量の助動詞「べかり」適当、連用形、過去の助動詞「し」連体形。断定の助動詞「なり」連用形、過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ば」、順接の確定条件を表す。側室の一人としてもよかった様子だったので、の意。「馴れゆくままに」に続く。
【ながらふべきものとしも思ひたまへざりしかど】- 挿入句。推量の助動詞「べき」当然、連体形、副助詞「しも」強調、謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、未然形、打消の助動詞「ざり」連用形、過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ど」逆接。
【さばかりになれば】- 「馴れゆくままに」から「忘れぬものに思ひたまへし」までの内容をさす。
【うち頼めるけしき】- 女が頭中将を頼りにする様子。
【恨めしと思ふこともあらむと】- 頭中将が女の心中を推測。動詞「あら」ラ変、未然形、推量の助動詞「む」終止形。例えば、途絶えがちに通っているさまなど。
【見知らぬやうにて】- 女は気に掛けない態度で。恨めしさを表面に出さない。
【朝夕にもてつけたらむありさま】- 朝に夕なに従順な態度。夫を、送り出し、出迎える、従順な妻の態度をいう。
【心苦しかりしかば】- 形容詞「心苦しかり」連用形、過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ば」、順接の確定条件。
【頼めわたることなどもありきかし】- 末長く側室の一人として処遇するという約束などもした、という意。
2.3.3
(おや)もなく、いと心細(こころぼそ)げにて、さらばこの(ひと)こそはと(こと)にふれて(おも)へるさまもらうたげなりき。
かうのどけきにおだしくて、(ひさ)しくまからざりしころ、この()たまふるわたりより(なさ)けなくうたてあることをなむさるたよりありてかすめ()はせたりける(のち)にこそ()きはべりしか
親もなく、とても心細い様子で、それならばこの人だけをと、何かにつけて頼りにしている様子もいじらしげでした。
このようにおっとりしていることに安心して、長い間通って行かないでいたころ、わたしの妻の辺りから、情けのないひどいことを、ある手づるがあってそれとなく言わせたことを、後になって聞きました。
父親もない人だったから、私だけに頼らなければと思っている様子が何かの場合に見えて可憐な女でした。こんなふうに穏やかなものだから、久しく訪ねて行かなかった時分に、ひどいことを私の妻の家のほうから、ちょうどまたそのほうへも出入りする女の知人を介して言わせたのです。私はあとで聞いたことなんだ。 【さらばこの人こそはと】- 「さ」は頭中将が約束したことをさす。頭中将を頼りにしよう、という意。
【この見たまふるわたりより】- わたしの妻(右大臣の四君)の辺りから。右大臣家から。
【情けなくうたてあることをなむ】- 正妻側から側室への脅迫。係助詞「なむ」は過去の助動詞「ける」連体形に係る係り結びの法則。
【さるたよりありてかすめ言はせたりける】- 女に伝えるのに適当な機会、便宜。完了の助動詞「たり」連用形、過去の助動詞「ける」連体形、伝聞を表す。人づてに聞いた状況が現れている。
【後にこそ聞きはべりしか】- 係助詞「こそ」は、過去の「助動詞「しか」已然形に係る、係り結びの法則。丁寧の補助動詞「はべり」連用形。自身の直接体験であることを示す。
2.3.4
さる()きことやあらむとも()らず(こころ)には(わす)れずながら、消息(せうそこ)などもせで(ひさ)しくはべりしに、むげに(おも)ひしをれて心細(こころぼそ)かりければ、(をさな)(もの)などもありしに(おも)ひわづらひて、撫子(なでしこ)(はな)()りておこせたりし」とて(なみだ)ぐみたり。
そのような辛いことがあったのかとも知らず、心中では忘れていないとはいうものの、便りなども出さずに長い間おりましたところ、すっかり悲観して不安だったので、幼い子供もいたので思い悩んで、撫子の花を折って、送って寄こしました」と言って涙ぐんでいる。
そんなかわいそうなことがあったとも知らず、心の中では忘れないでいながら手紙も書かず、長く行きもしないでいると、女はずいぶん心細がって、私との間に小さな子なんかもあったもんですから、煩悶した結果、撫子の花を使いに持たせてよこしましたよ」
 中将は涙ぐんでいた。
【さる憂きことやあらむとも知らず】- 係助詞「や」は推量の助動詞「む」連体形に係る。「この見たまふるわたりより情けなくうたてあることをなむさるたよりありてかすめ言はせたりける」をさす。
【幼き者なども】- 頭中将と常夏の女の間にできた子。後の玉鬘をいう。
【撫子の花を】- 「撫子」は幼い子供を連想させる歌ことば。
2.3.5
さて、その(ふみ)言葉(ことば)」と()ひたまへば、
「それで、その手紙には」とお尋ねになると、
「どんな手紙」
 と源氏が聞いた。
【さて、その文の言葉は】- 源氏の頭中将に対する問い。尊敬語「たまふ」が付いている。
2.3.6 「いや、格別なことはありませんでしたよ。
「なに、平凡なものですよ。 【いさや】- 以下「わびしかりぬべけれ」まで、頭中将の詞。「いさや」は、さあね。いや。否定のことば。
【ことなることもなかりきや】- 形容詞「なかり」連用形、過去の助動詞「き」終止形、間投助詞「や」詠嘆を表す。
2.3.7 『山家の垣根は荒れていても時々は
かわいがってやってください撫子の花を』
『山がつの垣は荒るともをりをりに
哀れはかけよ撫子の露』
【山がつの垣ほ荒るとも折々に--あはれはかけよ撫子の露】- 女の贈歌。「山がつ」は自分を謙称。「撫子」は、幼い子供をさす。「露」は愛情をいう。動詞「荒る」終止形+接続助詞「とも」逆接を表す。『源氏釈』は「あな恋し今も見てしが山がつの垣ほに咲ける大和撫子」(古今集、恋四、六九五、読人しらず)を指摘する。
2.3.8 思い出したままに行きましたところ、いつものように無心なようでいながら、ひどく物思い顔で、荒れた家の露のしっとり濡れているのを眺めて、虫の鳴く音と競うかのように泣いている様子は、昔物語めいて感じられました。
ってね。私はそれで行く気になって、行って見ると、例のとおり穏やかなものなんですが、少し物思いのある顔をして、秋の荒れた庭をながめながら、そのころの虫の声と同じような力のないふうでいるのが、なんだか小説のようでしたよ。 【まかりたりしかば】- 「まかり」は「行く」の謙譲語。完了の助動詞「たり」連用形、完了の意、過去の助動詞「しか」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件を表す。行きましたところ、の意。
【うらもなきものから】- 係助詞「も」強調のニュアンス、接続助詞「ものから」逆接の確定条件を表す。信じきっているようでいてその一面では、という表現。
【荒れたる家の露しげきを眺めて】- 格助詞「の」所有格。「露」は涙を暗示する。「しげき」の下に「庭」などの語が省略されている。
【虫の音に競へるけしき】- 泣くさま。虫の音と泣き競っているかの様子。
【昔物語めきておぼえはべりし】- 「はべり」丁寧の補助動詞、「過去の助動詞「し」連体形止め、余情を残した表現。作品としての昔物語。陋屋に悲しみに暮れている姫君といった趣向の物語。
2.3.9 『庭にいろいろ咲いている花はいずれも皆美しいが
やはり常夏の花が一番美しく思われます』
『咲きまじる花は何れとわかねども
なほ常夏にしくものぞなき』
【咲きまじる色はいづれと分かねども--なほ常夏にしくものぞなき】- 頭中将の返歌。動詞「分か」未然形、打消の助動詞「ね」已然形+接続助詞「ども」逆接を表す。動詞「しく」は漢文訓読系の語彙。男性的語彙のニュアンス。係助詞「ぞ」は形容詞「なき」連体形に係る、係り結びの法則、強調のニュアンスを添える。「常夏」は「撫子」の異名。歌語である。「常」は「床」を連想させ、夫婦を連想させる。子供をさす言葉から親をさす言葉へと、すり変える。母と娘とどちらがと言われても、やはり、あなたが一番です、という主旨。
2.3.10 大和撫子のことはさておいて、まず『せめて塵だけは払おう』などと、親の機嫌を取ります。
子供のことは言わずに、まず母親の機嫌を取ったのですよ。 【大和撫子をばさしおきて】- 「大和撫子」は「子」を譬喩する。子供のことは、差し置いて。
【まづ『塵をだに】- 『源氏釈』は「塵をだに据ゑじとぞ思ふ咲きしより妹と我がぬる常夏の花」(古今集、夏、一六七、凡河内躬恒)を指摘する。床に塵が積もるようにはしません、これからは訪れますよ、の意。『新大系』は「床の塵を払うと男が訪ねてくるとの俗信(万葉集以下に見える)が背景にある歌」と注す。
2.3.11 『床に積もる塵を払う袖を涙に濡れている常夏に
さらに激しい風の吹きつける秋までが来ました』
『打ち払ふ袖も露けき常夏に
嵐吹き添ふ秋も来にけり』
【うち払ふ袖も露けき常夏に--あらし吹きそふ秋も来にけり】- 女の返歌。相手の「常夏」を用いて返す。「うち払ふ」は頭中将の引歌「塵をだに」を踏まえた表現。「常夏」は自分をいう。来ないあなたを待ちながら床に積もる塵を払って涙しているわたしに、の意。「あらし吹きそふ」は頭中将の北の方あたりからの脅迫を暗示する。「秋」には「飽き」を掛ける。愛情が冷めたのですね、という恨みを含む。初めて、恨み言めいたことをいう。
2.3.12
とはかなげに()ひなしてまめまめしく(うら)みたるさまも()えず。
(なみだ)をもらし()としても、いと()づかしくつつましげに(まぎ)らはし(かく)して、つらきをも(おも)()りけりと()えむは、わりなく(くる)しきものと(おも)ひたりしかば(こころ)やすくてまたとだえ()きはべりしほどに、(あと)もなくこそかき()ちて()せにしか
とさりげなく言いつくろって、本気で恨んでいるようにも見えません。
涙をもらし落としても、とても恥ずかしそうに遠慮がちに取り繕い隠して、薄情を恨めしく思っているということを知られるのが、とてもたまらないらしいことのように思っていたので、気楽に構えて、再び通わずにいましたうちに、跡形なく姿を晦ましていなくなってしまったのでした。
こんな歌をはかなそうに言って、正面から私を恨むふうもありません。うっかり涙をこぼしても恥ずかしそうに紛らしてしまうのです。恨めしい理由をみずから追究して考えていくことが苦痛らしかったから、私は安心して帰って来て、またしばらく途絶えているうちに消えたようにいなくなってしまったのです。 【とはかなげに言ひなして】- 以下、頭中将から見た女の様子や態度。
【つらきをも思ひ知りけりと見えむは、わりなく苦しきものと思ひたりしかば】- 「思ひ知りけり」の主語は女。「見えむ」は見える、表れる、の意。頭中将から知られること。「思ひたりしかば」の主語は女。女は、頭中将の薄情を恨めしく思っているのだと、男から知られることを、ひどく苦にしていた、の意。
【心やすくて】- 主語は頭中将。
【跡もなくこそかき消ちて失せにしか】- 係助詞「こそ」は過去の助動詞「しか」已然形に係る、係り結びの法則。動詞「失せ」下二段、連用形、完了の助動詞「に」完了の意。跡形もなく姿を隠していなくなってしまった、行方不明となってしまった、の意。
2.3.13 まだ生きていれば、みじめな生活をしていることでしょう。
愛しいと思っていましたころに、うるさいくらいにまつわり付くような様子に見えたならば、こういうふうには行方不明にはさせなかったものを。
こんなにも途絶えはせずに、通い妻の一人として末永く関係を保つこともあったでしょうに。
あの撫子がかわいらしうございましたので、何とか捜し出したいものだと存じておりますが、今でも行方を知ることができません。
まだ生きておれば相当に苦労をしているでしょう。私も愛していたのだから、もう少し私をしっかり離さずにつかんでいてくれたなら、そうしたみじめな目に逢いはしなかったのです。長く途絶えて行かないというようなこともせず、妻の一人として待遇のしようもあったのです。撫子の花と母親の言った子もかわいい子でしたから、どうかして捜し出したいと思っていますが、今に手がかりがありません。 【まだ世にあらば】- 動詞「あら」ラ変、未然形+接続助詞「ば」、仮定条件を表す。
【はかなき世にぞさすらふらむ】- 係助詞「ぞ」は推量の助動詞「らむ」視界外推量、連体形に係る、係り結びの法則。
【けしき見えましかば、かくもあくがらさざらまし】- 「ましかば--まし」の反実仮想の構文。態度が見えたらあのように行方不明にはさせなかったろうに、の意。
【さるものにしなして】- 側室の中でも相当な地位の人として待遇しよう、の意。
【長く見るやうもはべりなまし】- 「はべり」連用形は「有り」の丁寧語。完了の助動詞「な」未然形、完了の意、推量の助動詞「まし」反実仮想。反実仮想の構文。
【かの撫子】- のちの玉鬘のこと。女が「撫子」と詠んできたことばを受けて、用いる。
【いかで尋ねむと思ひたまふるを】- 副詞「いかで」、推量の助動詞「む」意志、謙譲の補助動詞「たまふる」下二段、連体形、接続助詞「を」逆接。
【今もえこそ聞きつけはべらね】- 係助詞「も」強調のニュアンスを添える。副詞「え」は打消の助動詞「ね」已然形と呼応して不可能の意を表す。係助詞「こそ」は「ね」已然形に係る、係り結びの法則。
2.3.14
これこそのたまへるはかなき(ためし)なめれ
つれなくてつらしと(おも)ひけるも()らであはれ()えざりしも(やく)なき片思(かたおも)ひなりけり。
(いま)やうやう(わす)れゆく(きは)に、かれはたえしも(おも)(はな)れず折々人(をりをりひと)やりならぬ胸焦(むねこ)がるる(ゆふ)べもあらむとおぼえはべり
これなむ、(たも)つまじく(たの)もしげなき(かた)なりける
これがおっしゃられた頼りない女の例でしょう。
平気をよそおって辛いと思っているのも知らないで、愛し続けていたのも、無益な片思いでした。
今はだんだん忘れかけて行くころになって、あの女は女でまたわたしを忘れられず、時折自分のせいで胸を焦がす夕べもあるであろうと思われます。
この女は、永続きしそうにない頼りない例でしたなあ。
これはさっきの話のたよりない性質の女にあたるでしょう。素知らぬ顔をしていて、心で恨めしく思っていたのに気もつかず、私のほうではあくまでも愛していたというのも、いわば一種の片恋と言えますね。もうぼつぼつ今は忘れかけていますが、あちらではまだ忘れられずに、今でも時々はつらい悲しい思いをしているだろうと思われます。これなどは男に永久性の愛を求めようとせぬ態度に出るもので、確かに完全な妻にはなれませんね。 【これこそのたまへるはかなき例なめれ】- 「のたまへる」の主語は左馬頭。前の「艶にもの恥ぢして、恨み言ふべきことをも見知らぬさまに忍びて」から「海づらなどにはひ隠れぬるをり」をさす。係助詞「こそ」、尊敬の補助動詞「のたまへ」已然形、完了の助動詞「る」連体形、完了の意。断定の助動詞「な」連体形は「る」が撥音便化(「ん」)してさらに無表記化された形、推量の助動詞「めれ」已然形、主観的推量の意、係り結びの法則。
【つれなくてつらしと思ひけるも知らで】- 「つれなくて」の主語は女。「知らで」の主語は自分頭中将。
【あはれ絶えざりしも】- 「絶え」下二段、未然形、打消の助動詞「ざり」連用形、過去の助動詞「し」連体形、係助詞「も」。
【かれはたえしも思ひ離れず】- 副詞「はた」一面を認めながら別の一面を述べる、意。副詞「え」は打消の助動詞「ず」と呼応して不可能の意、副助詞「しも」強調。女は女で、またわたしのことを忘れられず。
【あらむとおぼえはべり】- 「あら」ラ変、未然形、推量の助動詞「む」推量。丁寧の補助動詞「はべり」終止形。
【これなむ、え保つまじく頼もしげなき方なりける】- 係助詞「なむ」は過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意に係る、係り結びの法則。副詞「え」は打消推量の助動詞「まじく」連用形と呼応して不可能の意を表す。
2.3.15
されば、かのさがな(もの)も、(おも)()である(かた)(わす)れがたけれど、さしあたりて()むにはわづらはしくよ、よくせずは()きたきこともありなむや
(こと)()すすめけむかどかどしさも、()きたる罪重(つみおも)かるべし。
この(こころ)もとなきも(うたが)()ふべければ、いづれとつひに(おも)(さだ)めずなりぬるこそ。
()(なか)や、ただかくこそ
とりどりに(くら)(くる)しかるべき
このさまざまのよき(かぎ)りをとり()し、(なん)ずべきくさはひまぜぬ(ひと)は、いづこにかはあらむ
吉祥天女(きちじゃうてんにょ)(おも)ひかけむとすれば、法気(ほふけ)づき、くすしからむこそまた、わびしかりぬべけれ」とて、皆笑(みなわら)ひぬ
それだから、あの嫉妬深い女も、思い出される女としては忘れ難いけれども、実際に結婚生活を続けて行くのにはうるさいしね、悪くすると、嫌になることもありましょうよ。
琴が素晴らしい才能だったという女も、浮気な欠点は重大でしょう。
この頼りない女も、疑いが出て来ましょうから、どちらが良いとも結局は決定しがたいのだ。
男女の仲は、ただこのようなものだ。
それぞれに優劣をつけるのは難しいことで。
このそれぞれの良いところばかりを身に備えて、非難される点を持たない女は、どこにいましょうか。
吉祥天女に思いをかけようとすれば、抹香臭くなり、人間離れしているのも、また、おもしろくないでしょう」と言って、皆笑った。
だからよく考えれば、左馬頭のお話の嫉妬深い女も、思い出としてはいいでしょうが、今いっしょにいる妻であってはたまらない。どうかすれば断然いやになってしまうでしょう。琴の上手な才女というのも浮気の罪がありますね。私の話した女も、よく本心の見せられない点に欠陥があります。どれがいちばんよいとも言えないことは、人生の何のこともそうですがこれも同じです。何人かの女からよいところを取って、悪いところの省かれたような、そんな女はどこにもあるものですか。吉祥天女を恋人にしようと思うと、それでは仏法くさくなって困るということになるだろうからしかたがない」
 中将がこう言ったので皆笑った。
【されば、かのさがな者】- 以下を左馬頭の詞とする説もある。『新大系』は「以下、頭中将の言のほか、左馬頭らの言をも交えた会話文かもしれない」と注す。 【かのさがな者】-左馬頭の体験談中の嫉妬深い女の例。
【わづらはしくよ、よくせずは】- 明融臨模本には「よ」が二つある。大島本は「わつらハしくよくせすは」とある。前の「よ」に後人の朱筆でミセケチにするが、訂正以前本文の形を採用。これらの「よ」は行末と行頭にあるので、行移りの際の衍字か。終助詞また間投助詞「よ」とみた場合、その接続も連体形であってほしい所。
【飽きたきこともありなむや】- 完了の助動詞「な」確述。推量の助動詞「む」推量、間投助詞「や」詠嘆。嫌になることもきっとありましょうよ、の意。
【琴の音すすめけむ】- 左馬頭の体験談中の風流好みの浮気な女の例。
【この心もとなきも】- 頭中将の体験談中の常夏の女の例。
【思ひ定めずなりぬるこそ。世の中や、ただかくこそ】- 二つの係助詞「こそ」はいずれも受ける語句がない。そこで文は切れる。初めの「こそ」の下には「わりなけれ」などの語が省略。後の「こそ」の下には「あれ」などの語が省略。
【比べ苦しかるべき】- 連体中止法。余韻余情を表す。
【いづこにかはあらむ】- 反語表現。どこにもいない、の意。
【吉祥天女を思ひかけむ】- 『日本霊異記』中巻第十三や『古本説話集』巻下第六十二に吉祥天女に恋をした男の話がある。
【くすしからむこそ】- 「霊異 クスシキ」(西域記長寛点)。係助詞「こそ」は推量の助動詞「べけれ」已然形に係る、係り結びの法則。
【とて、皆笑ひぬ】- 頭中将の物語が終わって、一同どっと笑った。

第四段 式部丞の体験談(畏れ多い女の物語)

2.4.1
式部(しきぶ)がところにぞけしきあることはあらむ。
すこしづつ(かた)(まう)せ」と()めらる
「式部のところには、変わった話があろう。
少しずつ、
「式部の所にはおもしろい話があるだろう、少しずつでも聞きたいものだね」
 と中将が言い出した。
【式部がところにぞ】- 以下「語り申せ」まで、頭中将の詞。副助詞「づつ」は反復の意味を表す。「申す」は謙譲語。相手の動作に対して用いている。尊大な言葉づかいである。いくつかの話の少しずつを申し上げよ、というニュアンス。
【責めらる】- 「らる」は受身の助動詞。主語は藤式部丞。『古典セレクション』は「頭中将が催促される」と尊敬の助動詞とする。しかし下文に頭中将の動作には「責めたまへば」という尊敬の補助動詞「たまふ」が使用されているので、ここは受身の助動詞と解す。
2.4.2 「下の下のわたくしめごとき者には、何の、お聞きあそばす話がありましょう」
「私どもは下の下の階級なんですよ。おもしろくお思いになるようなことがどうしてございますものですか」 【下が下の中には、なでふことか、聞こし召しどころはべらむ】- 藤式部丞の詞。式部丞は、従六位上から正六位下相当官。連体詞「なでふ」は「何でふ」の撥音便無表記化。反語表現。係助詞「か」推量の助動詞「む」推量、連体形に係る、係り結びの法則。何のお聞きあそばす話がありましょうか、ありません、の意。
2.4.3
()へど、(とう)(きみ)まめやかに「(おそ)し」と()めたまへば、何事(なにごと)をとり(まう)さむ(おも)ひめぐらすに、
と言うけれど、頭中将の君が、真面目に「早く早く」とご催促なさるので、何をお話し申そうかと思案したが、
式部丞は話をことわっていたが、頭中将が本気になって、早く早くと話を責めるので、
 「どんな話をいたしましてよろしいか考えましたが、こんなことがございます。
【頭の君】- 頭中将のこと。近衛府の中将(次官)で蔵人所の頭(長官)を兼任。
【何事をとり申さむ】- 藤式部丞の心、思案。
2.4.4
まだ文章生(もんじゃうのしゃう)にはべりし(とき)かしこき(をんな)(ためし)をなむ()たまへし
かの、馬頭(むまのかみ)(まう)したまへるやうに公事(おほやけごと)をも()ひあはせ、(わたくし)ざまの()()まふべき(こころ)おきてを(おも)ひめぐらさむ(かた)もいたり(ふか)く、(ざえ)(きは)なまなまの博士恥(はかせは)づかしく、すべて(くち)あかすべくなむはべらざりし。
「まだ文章生でございました時、畏れ多い女性の例を拝見しました。
先程、左馬頭が申されましたように、公事をも相談し、私生活の面での心がけも考え廻らすこと深く、漢学の才能はなまじっかの博士が恥ずかしくなる程で、万事口出すことは何もございませんでした。
まだ文章生時代のことですが、私はある賢女の良人になりました。さっきの左馬頭のお話のように、役所の仕事の相談相手にもなりますし、私の処世の方法なんかについても役だつことを教えていてくれました。学問などはちょっとした博士などは恥ずかしいほどのもので、私なんかは学問のことなどでは、前で口がきけるものじゃありませんでした。 【まだ文章生にはべりし時】- 以下「仔細なきものははべめる」まで、藤式部丞の体験談。学者の娘の物語。 【文章生】-伝冷泉為秀筆本には仮名表記で「もんしやうのしやう」とある。
【かしこき女】- 『新大系』は「「かしこし」は、畏怖すべきだ。「賢い」という意味の原義である」と注す。
【見たまへし】- 謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形。過去の助動詞「し」連体形、係助詞「なむ」の係り結びの法則。自己の体験を語るニュアンス。
【馬頭】- 左馬頭のこと。話の中では、こう呼んでいる。
【申したまへるやうに】- 「公私の人のたたずまひ善き悪しきこと」云々をさす。源氏や頭中将を意識して左馬頭の発言を「申す」という謙譲語を用い、左馬頭に対しては「たまふ」という尊敬の補助動詞を用いている。
2.4.5
それは、ある博士(はかせ)のもとに学問(がくもん)などしはべるとてまかり(かよ)ひしほどに、主人(あるじ)のむすめども(おほ)かりと()きたまへてはかなきついでに()()りてはべりしを、親聞(おやき)きつけて、盃持(さかづきも)()でて、わが(ふた)つの途歌(みちうた)ふを()』となむ、()こえごちはべりしかどをさをさうちとけてもまからずかの(おや)(こころ)(はばか)りて、さすがにかかづらひはべりしほどに、いとあはれに(おも)後見(うしろみ)寝覚(ねざめ)(かた)らひにも、()(ざえ)つき、朝廷(おほやけ)(つか)うまつるべき道々(みちみち)しきことを(をし)へて、いときよげに消息文(せうそこぶみ)にも仮名(かんな)といふもの()きまぜず、むべむべしく()ひまはしはべるに、おのづからえまかり()えで、その(もの)()としてなむ、わづかなる腰折文(こしをれぶみつく)ることなど(なら)ひはべりしかば、(いま)にその(おん)(わす)れはべらねど、なつかしき妻子(さいし)うち(たの)まむには無才(むざい)(ひと)なま()ろならむ()()ひなど()えむに()づかしくなむ()えはべりし
それは、ある博士のもとで学問などを致そうと思って、通っておりましたころに、主人の博士には娘が多くいるとお聞き致しまして、ちょっとした折に言い寄りましたところ、父親が聞きつけて、盃を持って出て来て、『わたしが両つの途を歌うのを聴け』と謡いかけてきましたが、少しも結婚してもよいと思って通っていませんで、あの父親の気持ちに気兼ねして、そうは言うもののかかずらっておりましたところ、とても情け深く世話をし、閨房の語らいにも、身に学問がつき、朝廷に仕えるのに役立つ学問的なことを教えてくれて、とても見事に手紙文にも仮名文字というものを書き交ぜず、本格的に漢文で表現しますので、ついつい別れることができずに、その女を先生として、下手な漢詩文を作ることなどを習いましたので、今でもその恩は忘れませんが、慕わしい妻として頼りにするには、無学のわたしは、どことなく劣った振る舞いなど見られましょうから、恥ずかしく思われました。
それはある博士の家へ弟子になって通っておりました時分に、先生に娘がおおぜいあることを聞いていたものですから、ちょっとした機会をとらえて接近してしまったのです。親の博士が二人の関係を知るとすぐに杯を持ち出して白楽天の結婚の詩などを歌ってくれましたが、実は私はあまり気が進みませんでした。ただ先生への遠慮でその関係はつながっておりました。先方では私をたいへんに愛して、よく世話をしまして、夜分寝んでいる時にも、私に学問のつくような話をしたり、官吏としての心得方などを言ってくれたりいたすのです。手紙は皆きれいな字の漢文です。仮名なんか一字だって混じっておりません。よい文章などをよこされるものですから別れかねて通っていたのでございます。今でも師匠の恩というようなものをその女に感じますが、そんな細君を持つのは、学問の浅い人間や、まちがいだらけの生活をしている者にはたまらないことだとその当時思っておりました。
【学問などしはべるとて】- 丁寧の補助動詞「はべる」。謙譲の意を表す。
【聞きたまへて】- 謙譲の補助動詞「ためへ」下二段、連用形。
【わが両つの途歌ふを聴け】- 『白氏文集』秦中吟「議婚」の「聴我歌両途」の句。自分は貧しいが、貧家には姑に孝行を尽くす良い嫁がいる、と結婚を積極的に勧める意。式部丞の将来性を見込んでいるか、またはこの博士の家より少しは家柄や身分が高かったのでもあろうか。
【聞こえごちはべりしかど】- 丁寧の補助動詞「はべり」が第三者(博士)の動作に対して使用されている。こちらにはその気もなく、迷惑な、というニュアンスがある。
【をさをさうちとけてもまからず】- 副詞「をさをさ」は打消しの語と呼応して、少しも、ほとんど、の意。少しも気を許して通っていない。結婚してもよいという気持ちのないこと。
【いとあはれに思ひ後見】- 博士の娘が藤式部丞を。
【仮名といふもの】- 仮名文字という物を。当時、仮名は女性が多く使うものという考えがあり、男同士の話なので、「と言ふもの」と言っている。
【むべむべしく言ひまはし】- 正式な漢文体で表現する。
【腰折文】- 稚拙な漢詩文。謙遜して言ったもの。
【恩】- 学者の物言いとして、以下「妻子」「無才」「仔細」などの漢語が続出する。なお「妻子」の「子」には意味はなく「妻」の意。
【うち頼まむには】- 明融臨模本「は」の文字上に朱筆で「ヒ」とミセケチにする。後人の筆である。大島本にも「うちたのまむにハ」とある。『集成』『新大系』は「うち頼まむには」だが、『古典セレクション』では「うち頼まむに」と校訂する。
【見えむに】- 無才の人、すなわち、わたしがみっともない振る舞いをし出かすだろう、の意。
【恥づかしくなむ見えはべりし】- 係助詞「なむ」、過去の助動詞「し」連体形、係り結びの法則。わたしには思われました。
2.4.6
まいて君達(きんだち)(おほん)ため、はかばかしくしたたかなる御後見(おほんうしろみ)は、(なに)にかせさせたまはむ
はかなし、口惜(くちを)し、とかつ()つつも、ただわが(こころ)につき、宿世(すくせ)()(かた)はべるめれば(をのこ)しもなむ、仔細(しさい)なきものははべめる
ましてあなた様方の御ためには、しっかりして手ぬかりのない奥方様は、何の必要がおありあそばしましょうか。
つまらない、残念だ、と一方では思いながらも、ただ自分の気に入り、宿縁もあるようでございますので、男という者は、他愛のないもののようでございます」
またお二方のようなえらい貴公子方にはそんなずうずうしい先生細君なんかの必要はございません。私どもにしましても、そんなのとは反対に歯がゆいような女でも、気に入っておればそれでいいのですし、前生の縁というものもありますから、男から言えばあるがままの女でいいのでございます」 【何にかせさせたまはむ】- 係助詞「か」反語、動詞「せ」サ変、未然形、尊敬の助動詞「させ」連用形、尊敬の補助動詞「たまは」未然形、最高敬語。推量の助動詞「む」連体形、係助詞「なむ」の係り結びの法則。何の必要がおありあそばしましょうか、何の必要もございますまい。
【宿世の引く方はべるめれば】- 丁寧語「はべる」連体形、推量の助動詞「めれ」主観的推量、已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。
【男しもなむ、仔細なきものははべめる】- 副助詞「しも」強調。係助詞「なむ」は推量の助動詞「める」主観的推量、連体形に係る、係り結びの法則。「はべめる」は「はべるめる」の撥音便無表記化。『古典セレクション』は「「ものははべる」は、慣用的語法。「ものにはあれ」と同意の「ものはあれ」に准ずるか」と注す。
2.4.7 と申し上げるので、続きを言わせようとして、「それにしてもまあ、何と興味ある女だろうか」と、おだてなさるのを、そうとは知りながらも、鼻のあたりをおかしなかっこうさせて語り続ける。
これで式部丞が口をつぐもうとしたのを見て、頭中将は今の話の続きをさせようとして、
 「とてもおもしろい女じゃないか」
 と言うと、その気持ちがわかっていながら式部丞は、自身をばかにしたふうで話す。
【残りを言はせむとて】- 頭中将の心。
【さてさてをかしかりける女かな】- 頭中将の詞。頭中将の動作には「すかいたまふ」と敬語表現がある。藤式部丞をおだてる。
【鼻のわたりをこづきて語りなす】- 『古典セレクション』は「をこつきて」と清音に読む。『集成』は「うごめかせて」、『完訳』は「おどけて見せながら」と解す。おだてられていると十分承知していながら、調子に乗って話し続けている様子か。
2.4.8
さて、いと(ひさ)しくまからざりしにもののたよりに()()りてはべれば、(つね)のうちとけゐたる(かた)にははべらで、(こころ)やましき物越(ものご)しにてなむ()ひてはべる
ふすぶるにやと、をこがましくも、また、よきふしなりとも(おも)ひたまふるにこのさかし(びと)はた、軽々(かろがろ)しきもの(ゑん)じすべきにもあらず、()道理(だうり)(おも)ひとりて(うら)みざりけり。
「そうして、ずいぶん長く行きませんでしたが、何かのついでに立ち寄ってみましたところ、いつものくつろいだ部屋にはおりませんで、不愉快な物を隔てて逢のでございます。
嫉妬しているのかと、ばかばかしくもあり、また、別れるのにちょうど良い機会だと存じましたが、この畏れ多い女という者は、軽々しい嫉妬をするはずもなく、男女の仲を心得ていて恨み言を言いませんでした。
「そういたしまして、その女の所へずっと長く参らないでいました時分に、その近辺に用のございましたついでに、寄って見ますと、平生の居間の中へは入れないのです。物越しに席を作ってすわらせます。嫌味を言おうと思っているのか、ばかばかしい、そんなことでもすれば別れるのにいい機会がとらえられるというものだと私は思っていましたが、賢女ですもの、軽々しく嫉妬などをするものではありません。人情にもよく通じていて恨んだりなんかもしやしません。 【さて、いと久しくまからざりしに】- 過去の助動詞「し」連体形+接続助詞「に」逆接。以下「口疾くなどははべりき」まで、藤式部丞の詞。
【物越しにてなむ逢ひてはべる】- 係助詞「なむ」、完了のの助動詞「て」連用形、確述の意、丁寧の補助動詞「はべる」連体形、係り結びの法則。いつもと違うことを強調するニュアンス。
【よきふしなりとも思ひたまふるに】- 謙譲の補助動詞「たまふる」下二段、連体形+接続助詞「に」逆接。別れるのにちょうどよい機会だと存じましたが、の意。
【世の道理を】- 男女の仲。
2.4.9
(こゑ)もはやりかにて()ふやう、
声もせかせかと言うことには、
しかも高い声で言うのです。
2.4.10
(つき)ごろ、風病重(ふびゃうおも)きに()へかねて極熱(ごくねち)草薬(さうやく)(ぶく)して、いと(くさ)きによりなむ、対面賜(たいめんたま)はらぬ
()のあたりならずとも、さるべからむ雑事(ざうじ)らは(うけたまは)らむ』
『数月来、風邪が重いのに堪え兼ねて、極熱の薬草を服して、大変に臭いので、面会は御遠慮申し上げます。
直接にでなくても、しかるべき雑用などは承りましょう』
『月来、風病重きに堪えかね極熱の草薬を服しました。それで私はくさいのでようお目にかかりません。物越しででも何か御用があれば承りましょう』 【月ごろ、風病重きに堪へかねて】- 以下「雑事らは承らむ」まで、博士の娘の詞。藤式部丞以上に漢語的または男性的な言い回しが頻出する。
【え対面賜はらぬ】- 副詞「え」、打消の助動詞「ぬ」連体形と呼応して不可能の意。係助詞「なむ」「ぬ」の係り結びの法則。
2.4.11
と、いとあはれにむべむべしく()ひはべり。
(いら)へに(なに)とかは
ただ、『(うけたまは)りぬ』とて、()()ではべるに、さうざうしくやおぼえけむ
と、いかにも殊勝にもっともらしく言います。
返事には何と言えようか。
ただ、『承知しました』とだけ言って、立ち去ります時に、物足りなく思ったのでしょうか、
ってもっともらしいのです。ばかばかしくて返辞ができるものですか、私はただ『承知いたしました』と言って帰ろうとしました。でも物足らず思ったのですか 【答へに何とかは】- 係助詞「かは」下に「言はむ」などの語句が省略。反語表現。
【承りぬ】- 男の詞。
【さうざうしくやおぼえけむ】- 主語は女。藤式部丞の推測。係助詞「や」疑問、過去推量の助動詞「けむ」連体形に係る、係り結びの法則。
2.4.12
この香失(かう)せなむ(とき)()()りたまへ』と(たか)やかに()ふを、()()ぐさむもいとほし、しばしやすらふべきに、はたはべらねば、げにそのにほひさへ、はなやかにたち()へるも(すべ)なくて、()()をつかひて
『この臭いが消えた時にお立ち寄り下さい』と声高に言うのを、聞き捨てるのも気の毒ですが、しばしの間でもためらっている場合でもありませんので、言うとおり、その臭いまでが、ぷんぷんと漂って来るのも堪りませんので、きょろきょろと逃げ時をうかがって、
『このにおいのなくなるころ、お立ち寄りください』とまた大きな声で言いますから、返辞をしないで来るのは気の毒ですが、ぐずぐずもしていられません。なぜかというと草薬の蒜なるものの臭気がいっぱいなんですから、私は逃げて出る方角を考えながら、 【この香失せなむ時に立ち寄りたまへ】- 女の詞。「高やかに言ふ」のは、たしなみのある女性の物言いでない。また、口臭も現れ出よう。「失せ」下二段、連用形、完了の助動詞「な」未然形、推量の助動詞「む」連体形。
【逃げ目をつかひて】- 『集成』は「目つきもうろうろと」、『完訳』は「どうやって逃げだそうかと様子をうかがう」と解す。
2.4.13 『蜘蛛の動きでわたしの来ることがわかっているはずの夕暮に
蒜が臭っている昼間が過ぎるまでまで待てと言うのは訳がわかりません
『ささがにの振舞ひしるき夕暮れに
ひるま過ぐせと言ふがあやなき。
【ささがにのふるまひしるき夕暮れに--ひるま過ぐせといふがあやなさ】- 男の贈歌。『異本紫明抄』は「わがせこが来べき宵なり笹がにの蜘蛛の振る舞ひかねてしるしも」(古今集、墨滅歌、衣通姫)を指摘する。「ひる」に「昼」と「蒜」とを掛ける。夫のわたしが来るというのはかねて知っていながら、「昼間」(蒜の臭っている間)は待て、というのが分からない、の意。蜘蛛がしきりに動くのは男が来訪することの前兆という俗信があった。
2.4.14 どのような口実ですか』
何の口実なんだか』 【いかなることつけぞや】- 歌に添えた言葉。
2.4.15 と、言い終わらず逃げ出しましたところ、追いかけて、
と言うか言わないうちに走って来ますと、あとから人を追いかけさせて返歌をくれました。 【言ひも果てず走り出ではべりぬるに】- 「言ひ果つ」の間に係助詞「も」が挿入された形。完了の助動詞「ぬる」連体形+接続助詞「に」順接。
【追ひて】- 主語は女。女が男の後を追って、の意。
2.4.16 『逢うことが一夜も置かずに逢っている夫婦仲ならば
蒜の臭っている昼間逢ったからとてどうして恥ずかしいことがありましょうか』
『逢ふことの夜をし隔てぬ中ならば
ひるまも何か眩ゆからまし』
【逢ふことの夜をし隔てぬ仲ならば--ひる間も何かまばゆからまし】- 女の返歌。「ひるま」に「昼間」と「蒜」とを掛ける。夫婦なら昼間(蒜の臭っている間)に逢ったからとて、何の恥ずかしいことがありましょうか、という応酬。断定の助動詞「なら」未然形+接続助詞「ば」仮定条件、連語「なにか」(代名詞「何」+係助詞「か」)強い反語を表す。形容詞「まがゆから」未然形+推量の助動詞「まし」ためらいを表す。何の恥ずかしいことがありましょうか、少しも恥ずかしいことはない、の意。
2.4.17 さすがに返歌は素早うございました」
というのです。歌などは早くできる女なんでございます」 【さすがに口疾くなどははべりき】- 男の批評。「さすがに」は、歌の内容は感心しないが、返歌だけは早かったの意。係助詞「は」は「口疾くなど」を取り立てて強調するニュアンス。
2.4.18
と、しづしづと(まう)せば、君達(きみたち)あさましと(おも)ひて、嘘言(そらごと)」とて(わら)ひたまふ。
と、落ち着いて申し上げるので、公達は興醒めに思って、「嘘だ」と言ってお笑いになる。
式部丞の話はしずしずと終わった。貴公子たちはあきれて、
2.4.19 「どこにそのような女がいようか。
おとなしく鬼と向かい合っていたほうがましだ。
気持ちが悪い話よ」
「うそだろう」
 と爪弾きをして見せて、
【いづこのさる女かあるべき】- 以下「むくつけきこと」まで、三つの文に分けられるが、誰の詞かまた何人の詞か、判然としない。代名詞「いづこ」、係助詞「か」、推量の助動詞「べき」連体形、反語表現。どこにそのような女がいようか、どこにもいまい。「おいらか」は「老い+らか」。
【鬼とこそ向かひゐたらめ】- 係助詞「こそ」、完了の助動詞「たら」未然形、推量の助動詞「め」已然形。鬼と向かい合っていよう、そのほうがましだ、の意。
2.4.20
爪弾(つまはじ)きをして()はむ(かた)なし」と、式部(しきぶ)をあはめ(にく)みて、
と爪弾きして、「何とも評しようがない」と、藤式部丞を軽蔑し非難して、
式部をいじめた。 【爪弾きをして】- 『新大系』は「不愉快な気持を晴らすしぐさ。いま話題に「鬼」が出たのでそれに向けられる除祓でもあろう」と注す。
2.4.21
すこしよろしからむことを(まう)」と()めたまへど、
「もう少しましな話を申せ」とお責めになるが、
「もう少しよい話をしたまえ」 【すこしよろしからむことを申せ】- 頭中将の詞。「よろし」は満足できる程度、まあまあ良い意。下文に尊敬の補助動詞「たまへ」があるので、話者は頭中将。
2.4.22 「これ以上珍しい話がございましょうか」と言って、澄ましている。
「これ以上珍しい話があるものですか」
 式部丞は退って行った。
【これよりめづらしきことはさぶらひなむや】- 藤式部丞の詞。完了の助動詞「な」確述、推量の助動詞「む」推量、係助詞「や」反語を表す。これ以上珍しい話がございましょうか、もうありません、の意。
2.4.23
すべて(をとこ)(をんな)()(もの)は、わづかに()れる(かた)のことを(のこ)りなく()()くさむと(おも)へるこそ、いとほしけれ。
「すべて男も女も未熟者は、少し知っている方面のことをすっかり見せようと思っているのが、困ったものです。
「総体、男でも女でも、生かじりの者はそのわずかな知識を残らず人に見せようとするから困るんですよ。 【すべて男も女も】- 以下「過ぐすべくなむあべかりける」まで、左馬頭の詞。女性論のまとめを言う。
2.4.24
三史五経(さんしごきゃう)道々(みちみち)しき(かた)を、(あき)らかに(さと)()かさむこそ、愛敬(あいぎゃう)なからめなどかは、(をんな)といはむからに()にあることの公私(おほやけわたくし)につけて、むげに()らずいたらずしもあらむ。
わざと(なら)ひまねばねど、すこしもかどあらむ(ひと)の、(みみ)にも()にもとまること、自然(じねん)(おほ)かるべし。
三史五経といった学問的な方面を、本格的に理解するというのは、好感の持てないことですが、どうして女だからといって、世の中の公私の事々につけて、まったく知りませんできませんと言っていられましょうか。
本格的に勉強しなくても、少しでも才能のあるような人は、耳から目から入って来ることが、自然に多いはずです。
三史五経の学問を始終引き出されてはたまりませんよ。女も人間である以上、社会百般のことについてまったくの無知識なものはないわけです。わざわざ学問はしなくても、少し才のある人なら、耳からでも目からでもいろいろなことは覚えられていきます。 【三史五経】- 『史記』『漢書』『後漢書』と『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』をさす。当時の大学寮で教えていた標準的な教科書類。
【悟り明かさむこそ、愛敬なからめ】- 係助詞「こそ」、推量の助動詞「め」已然形、係り結び、逆接用法で下文に続く。
【などかは、女といはむからに】- 連語「などかは」(副詞「など」+係助詞「か」+係助詞「は」)は、「あらむ」に係る、反語表現。動詞「いは」未然形、推量の助動詞「む」連体形、仮定の意、格助詞「から」、接続助詞「に」。「む」と「から」の間には「こと」などの語が省略。
2.4.25
さるままには、真名(まんな)(はし)()きて、さるまじきどちの女文(をんなぶみ)に、なかば()ぎて()きすすめたる、あなうたて、この(ひと)のたをやかならましかば()えたり。
心地(ここち)にはさしも(おも)はざらめど、おのづからこはごはしき(こゑ)()みなされなどしつつ、ことさらびたり。
上臈(じゃうらふ)(なか)にも、(おほ)かることぞかし
そのようなことから、漢字をさらさらと走り書きして、お互いに書かないはずの女どうしの手紙文にも、半分以上書き交ぜているのは、ああ何と厭味な、この人が女らしかったらいいのになあと思われます。
気持ちの上ではそんなにも思わないでしょうが、自然とごつごつした声に読まれ読まれして、わざとらしく感じられます。
上流の中にも多く見られることです。
自然男の知識に近い所へまでいっている女はつい漢字をたくさん書くことになって、女どうしで書く手紙にも半分以上漢宇が混じっているのを見ると、いやなことだ、あの人にこの欠点がなければという気がします。書いた当人はそれほどの気で書いたのではなくても、読む時に音が強くて、言葉の舌ざわりがなめらかでなく嫌味になるものです。これは貴婦人もするまちがった趣味です。 【さるままに】- 「さ」は、上文の内容、自然に漢字を聞いたり見たりして覚えた状態をさす。
【あなうたて、この人のたをやかならましかば】- 左馬頭の感想を挿入。推量の助動詞「ましか」未然形、仮想の意+接続助詞「ば」、下に「よからまし」などの語句が省略。反実仮想の構文。
【おのづからこはごはしき声に】- 漢字が混じった手紙文を声を出して読むと、自然と重々しくこわばった感じに読み上げられてしまう、という意。
【多かることぞかし】- 連語「ぞかし」(係助詞「ぞ」+終助詞「かし」)念押し、の意。
2.4.26
歌詠(うたよ)むと(おも)へる(ひと)やがて(うた)にまつはれ、をかしき古言(ふること)をも(はじ)めより()()みつつすさまじき折々(をりをり)()みかけたるこそ、ものしきことなれ
(かへ)しせねば(なさ)けなし、えせざらむ(ひと)ははしたなからむ。
和歌を詠むことを鼻にかけている人が、そのまま和歌のとりことなって、趣のある古歌を初句から取り込み取り込みして、相応しからぬ折々に、それを詠みかけて来ますのは、不愉快なことです。
返歌しないと人情がないし、出来ないような人は体裁が悪いでしょう。
歌詠みだといわれている人が、あまりに歌にとらわれて、むずかしい故事なんかを歌の中へ入れておいて、そんな相手になっている暇のない時などに詠みかけてよこされるのはいやになってしまうことです、返歌をせねば礼儀でなし、またようしないでいては恥だし困ってしまいますね。 【歌詠むと思へる人の】- 和歌を詠むことを得意に思っている人。格助詞「の」主格を表す。
【取り込みつつ】- 接続助詞「つつ」動作の反復・継続を表す。
【すさまじき折々】- 『集成』は「こちらが迷惑するような時」と解し、『古典セレクション』は「場違いで歌を詠む気持になれないとき」と注す。
【詠みかけたるこそ、ものしきことなれ】- 係助詞「こそ」、断定の助動詞「なれ」已然形、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。
【えせざらむ人】- 『集成』は「できない事情にある人」と解す。副詞「え」は打消の助動詞「ざら」未然形と呼応して不可能の意を表す。推量の助動詞「む」連体形、婉曲を表す。
2.4.27
さるべき節会(せちゑ)など、五月(さつき)(せち)(いそ)(まゐ)(あした)(なに)のあやめも(おも)ひしづめられぬに、えならぬ()()きかけ、九日(ここぬか)(えん)に、まづ(かた)()(こころ)(おも)ひめぐらして(いとま)なき(をり)に、(きく)(つゆ)をかこち()せなどやうの、つきなき(いとな)みにあはせ、さならでもおのづから、げに(のち)(おも)へばをかしくもあはれにもあべかりけることのその(をり)につきなく、()にとまらぬなどを、()(はか)らず()()でたる、なかなか心後(こころおく)れて()ゆ。
しかるべき節会などで、五月の節会に急いで参内する朝に、落ち着いて分別などしていられない時に、素晴らしい根にかこつけてきたり、重陽の節会の宴会のために、何はともあれ難しい漢詩の趣向を思いめぐらしていて暇のない折に、菊の露にかこつけたような、相応しからぬことに付き合わせ、そういう場合ではなくとも自然と、なるほどと後から考えればおもしろくもしみじみともあるはずのものが、その場合には相応しくなく、目にも止まらないのを、察しもせずに詠んで寄こすのは、かえって気がきかないように思われます。
宮中の節会の日なんぞ、急いで家を出る時は歌も何もあったものではありません。
そんな時に菖蒲に寄せた歌が贈られる、九月の菊の宴に作詩のことを思って一所懸命になっている時に、菊の歌。こんな思いやりのないことをしないでも場合さえよければ、真価が買ってもらえる歌を、今贈っては目にも留めてくれないということがわからないでよこしたりされると、ついその人が軽蔑されるようになります。
【さるべき節会】- 天皇が臨席し、群臣に宴を賜る宴会。
【五月の節】- 五月の節句、すなわち、端午の節会。
【何のあやめも】- 五月の節会にちなんで、「文目」に「菖蒲(あやめ)」を掛けた言葉のしゃれ。
【九日の宴】- 九月九日の宴、すなわち、重陽の節会。
【思ひめぐらして】- 明融臨模本「思めくらし・て(て$)」とある。ミセケチは朱筆で「ヒ」とあるので、後人の訂正。句点もその時に付けられたもの。大島本は「思めくらし」とある。『集成』は「思ひめぐらして」、『新大系』『古典セレクション』は「思ひめぐらし」とする。
【げに後に思へば】- 副詞「げに」は「あべかりける」にかかる。
【あべかりけることの】- 「あるべかり」の「る」が撥音便化しさらに無表記の形。
2.4.28
よろづのことに、などかは、さても、とおぼゆる(をり)から、時々(ときどき)(おも)ひわかぬばかりの(こころ)にては、よしばみ(なさ)()たざらむなむ()やすかるべき
万事につけて、どうしてそうするのか、そうしなくとも、と思われる折々に、時々、分別できない程度の思慮では、気取ったり風流めかしたりしないほうが無難でしょう。
何にでも時と場合があるのに、それに気がつかないほどの人間は風流ぶらないのが無難ですね。 【などかは、さても】- どうしてそんなことをするのか、そうしなくともよいに、の意。
【よしばみ情け立たざらむなむ目やすかるべき】- 打消の助動詞「ざら」未然形、推量の助動詞「む」連体形、係助詞「なむ」は、推量の助動詞「べき」連体形、推量に係る、係り結びの法則。
2.4.29
すべて、(こころ)()れらむことをも()らず(がほ)にもてなし、()はまほしからむことをも(ひと)(ふた)つのふしは()ぐすべくなむあべかりける
総じて、心の中では知っているようなことでも、知らない顔をして、言いたいことも、一つ二つは言わないでおくのが良いというものでしょう」
知っていることでも知らぬ顔をして、言いたいことがあっても機会を一、二度ははずして、そのあとで言えばよいだろうと思いますね」 【心に知れらむことをも】- 「知れ」已然形、完了の助動詞「ら」未然形、存続の意、推量の助動詞「む」連体形、婉曲の意。下の「言はまほしからむことをも」と対句表現。
【言はまほしからむことをも】- 希望の助動詞「まほしから」未然形、推量の助動詞「む」連体形、婉曲の意。
【過ぐすべくなむあべかりける】- 推量の助動詞「べく」連用形、適当の意、係助詞「なむ」は過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意に係る、係り結びの法則。「あべかり」は「あるべかり」(「ある」連体形+推量の助動詞「べかり」連用形、当然の意)の「る」が撥音便化しそれが無表記の形。言わないでおくのが良いのである。以上、雨夜の品定めの議論が終わる。
2.4.30
()ふにも、(きみ)は、人一人(ひとひとり)(おほん)ありさまを(こころ)(うち)(おも)ひつづけたまふ。
これに()らずまたさし()ぎたることなくものしたまひけるかな」と、ありがたきにも、いとど(むね)ふたがる。
と言うにつけても、源氏の君は、お一方の御様子を、胸の中に思い続けていらっしゃる。
「この結論に足りないことまた出過ぎたところもない方でいらっしゃるなあ」と、比類ないことにつけても、ますます胸がいっぱいになる。
こんなことがまた左馬頭によって言われている間にも、源氏は心の中でただ一人の恋しい方のことを思い続けていた。藤壼の宮は足りない点もなく、才気の見えすぎる方でもないりっぱな貴女であるとうなずきながらも、その人を思うと例のとおりに胸が苦しみでいっぱいになった。 【君は、人一人の御ありさまを】- 源氏の君は、お一方の御様子を。藤壺宮をさす。「桐壺」巻の「心のうちには、ただ藤壺の御ありさまを、たぐひなしと思ひきこえて、さやうならむ人をこそ見め、似る人なくもおはしけるかな、大殿の君、いとをかしげにかしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかずおぼえたまひて、幼きほどの心ひとつにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける」(第三章七段)を受ける。
【これに足らず】- 以下「ものしたまひけるかな」まで、源氏の心。「これ」は左馬頭の意見をさす。
【ものしたまひけるかな】- 主語は藤壺宮。過去の助動詞「ける」連体形、詠嘆の意。終助詞「かな」詠嘆の意。
2.4.31 どういう結論に達するというでもなく、最後は聞き苦しい話に落ちて、夜をお明かしになった。
いずれがよいのか決められずに、ついには筋の立たぬものになって朝まで話し続けた。 【いづ方により果つともなく】- 『完訳』は「明確な結論がでなかったとする」と注す。
【あやしきことどもになりて】- 『集成』は「要領を得ない話になって」と注し、『完訳』は「埒もない話の数々になって」と訳す。『新大系』は「怪談やとりとめない世間話その他に落ちて行った感じ。夜を徹しての語りあいやその批評である」と注す。
【明かしたまひつ】- 主語は源氏の君たち。

第三章 空蝉の物語


第一段 天気晴れる

3.1.1
からうして今日(けふ)()のけしきも(なほ)れり。
かくのみ()もりさぶらひたまふも、大殿(おほいどの)御心(みこころ)いとほしければ、まかでたまへり。
やっと今日は天気も好くなった。
こうしてばかり籠っていらっしゃるのも、左大臣殿のお気持ちが気の毒なので、退出なさった。
やっと今日は天気が直った。源氏はこんなふうに宮中にばかりいることも左大臣家の人に気の毒になってそこへ行った。 【からうして】- 「からうして Caroxite」(『日葡辞書』)。『岩波古語辞典』には「カラクシテの音便形。古くはカラウシテと清音か」とある。『集成』『新大系』は清音。『古典セレクション』は「からうじて」と濁音に読む。梅雨が明けた趣。『新大系』は「かつがつ。長い雨期をようやく越えて」と注す。
【大殿の御心】- 左大臣をさす。
3.1.2 邸内の有様や、姫君の様子も、端麗で気高く、くずれたところがなく、やはり、この女君こそは、あの、人びとが捨て置き難く取り上げた実直な妻としては信頼できるだろう、とお思いになる一方では、度を過ぎて端麗なご様子で、打ち解けにくく気づまりな感じにとり澄ましていらっしゃるのが物足りなくて、中納言の君や中務などといった、人並み優れている若い女房たちに、冗談などをおっしゃりおっしゃりして、暑さにお召し物もくつろげていらっしゃるお姿を、素晴らしく美しい、と思い申し上げている。
一糸の乱れも見えぬというような家であるから、こんなのがまじめということを第一の条件にしていた、昨夜の談話者たちには気に入るところだろうと源氏は思いながらも、今も初めどおりに行儀をくずさぬ、打ち解けぬ夫人であるのを物足らず思って、中納言の君、中務などという若いよい女房たちと冗談を言いながら、暑さに部屋着だけになっている源氏を、その人たちは美しいと思い、こうした接触が得られる幸福を覚えていた。 【人のけはひ】- 姫君の様子、雰囲気。葵の上。
【けざやかにけ高く、乱れたるところまじらず】- 葵の上の性格。はっきりと、端麗で気品高く見え、何事にもきちんとしている、という、源氏の目から見た鮮明な印象。「桐壺」巻の楊貴妃と桐壺更衣とを比較した「絵に描ける楊貴妃の容貌は、いみじき絵師といへども、筆限りありければいとにほひ少なし。「太液芙蓉未央柳」も、げに通ひたりし容貌を、唐めいたる装ひはうるはしうこそありけめ、(桐壺更衣の)なつかしうらうたげなりしを思し出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべき方ぞなき」(第二章三段)を想起すれば、源氏が思慕する母桐壺更衣のイメージとは違った個性の人物である。
【なほ、これこそは】- 以下「頼まれぬべけれ」まで、源氏の心。「これ」は正妻の葵の上をさす。
【かの、人びとの捨てがたく取り出でし】- 左馬頭たちが高く評価した。
【あまりうるはしき御ありさまの、とけがたく恥づかしげに思ひしづまりたまへる】- 源氏の目から見た葵の上。度を過ぎて端麗な態度で、心が打ち解けず、こちらが気づまりに感じるばかりに相手はとり澄ましていらっしゃる、という印象。
【さうざうしくて】- 源氏は、そのような妻に物足りなさを感じる。
【中納言の君、中務などやうの】- 女房であるが、源氏のお手つきの女房。召人(めしうど)という。
【戯れ言などのたまひつつ】- 接続助詞「つつ」動作の反復・継続を表す。
【暑さに乱れたまへる御ありさま】- 暑さのためにお召物をくつろげていらっしゃる源氏の様子。
【見るかひありと思ひきこえたり】- 主語は女房たち。
3.1.3 左大臣殿もお渡りになって、くつろいでいらっしゃるので、御几帳を間に立ててお座りになって、お話を申し上げなさるのを、「暑いのに」と苦い顔をなさるので、女房たちは笑う。
「お静かに」と制して、脇息に寄り掛かっていらっしゃる。
いかにも大君らしい鷹揚なお振る舞いであるよ。
大臣も娘のいるほうへ出かけて来た。部屋着になっているのを知って、几帳を隔てた席について話そうとするのを、
 「暑いのに」
 と源氏が顔をしかめて見せると、女房たちは笑った。
 「静かに」
 と言って、脇息に寄りかかった様子にも品のよさが見えた。
【うちとけたまへれば】- 主語は源氏。
【御几帳隔てて】- くつろいでいるところに直接対座するのは不躾であろうと、左大臣と源氏の間に御几帳を立てて会った。舅である左大臣の聟である源氏に対する大変な気のつかいようが窺われる。
【御物語聞こえたまふを】- 左大臣が源氏に。源氏の官職は宰相兼中将。その人に左大臣が「聞こえたまふ」という敬意表現を用いるのは、桐壺帝の御子だからである。
【暑きに」とにがみたまへば、人びと笑ふ】- 源氏が苦々しい顔をすると、女房たちが笑う、というように、源氏は女房たちに囲まれた中にいる。
【あなかま】- 源氏の詞。
【おはす】- 前の「おはします」よりやや敬意は低い敬語である。左大臣より低く語られているが、次の批評の言葉と連動してであろう。
【いとやすらかなる御振る舞ひなりや】- 断定の助動詞「なり」終止形、係助詞「や」詠嘆の意。源氏の態度に対する語り手の感想。『岷江入楚』は「草子の評也」と注す。『古典セレクション』は「貴人らしいおおような源氏の態度についての、語り手の賞賛」と注す。
3.1.4
(くら)くなるほどに、
暗くなるころに、
暗くなってきたころに、
3.1.5 「今夜は、天一神が、内裏からこちらの方角へは方塞がりになっております」と申し上げる。
「今夜は中神のお通り路になっておりまして、御所からすぐにここへ来てお寝みになってはよろしくございません」
 という、源氏の家従たちのしらせがあった。
【今宵、中神、内裏よりは塞がりてはべりけり】- 女房の詞。「中神」は陰陽道で説く天一神の神様。六十日を一周期として、癸巳の日から天上にいること十六日間、この間は人はどの方向へ行っても良い。残り四十四日を己酉の日から八方に遊行し廻り、五または六日で次の方角に移る。その間を、「方塞がり」といって、その方向を忌み避け、「方違へ」をする。過去の助動詞「けり」詠嘆の意、今初めて気付いたというニュアンス。内裏から見て、左大臣邸は今夜はその方塞がりになっている、という。
3.1.6 「そうですわ。
「そう、いつも中神は避けることになっているのだ。 【さかし、例は忌みたまふ方なりけり】- 女房の詞。「忌みたまふ」という敬語表現があるので、別の女房の詞と解しておく。『集成』は女房の詞。『古典セレクション』は「語り手の言葉」と注す。『新大系』は源氏の詞とする。とすると「忌みたまふ」は、源氏自身の動作ではななく、中神に対する敬語の意か。
3.1.7
二条(にでう)(ゐん)にも(おな)(すぢ)にていづくにか(たが)へむ。
いと(なや)ましきに」
「二条院も同じ方角であるし、どこに方違えをしようか。
とても気分が悪いのに」
しかし二条の院も同じ方角だから、どこへ行ってよいかわからない。私はもう疲れていて寝てしまいたいのに」 【二条の院にも同じ筋にて】- 源氏の詞。左大臣邸と源氏の二条院邸が内裏から同じ方角にあった。当時の摂関家の邸宅は左京二条大路に面して建てられていた。内裏から東南の方角に当たる。
3.1.8
とて大殿籠(おほとのご)もれり。
いと()しきことなり」と、これかれ()こゆ。
と言って寝所で横になっていらっしゃる。
「大変に具合悪いことです」と、誰彼となく申し上げる。
そして源氏は寝室にはいった。
 「このままになすってはよろしくございません」
 また家従が言って来る。
【いと悪しきことなり】- 女房の詞だが、語り手が要約し引用した間接話法であろう。
3.1.9 「紀伊守で親しくお仕えしております者の、中川の辺りにある家が、最近川の水を堰き入れて、涼しい木蔭でございます」と申し上げる。
紀伊守で、家従の一人である男の家のことが上申される。
 「中川辺でございますがこのごろ新築いたしまして、水などを庭へ引き込んでございまして、そこならばお涼しかろうと思います」
【紀伊守にて親しく仕うまつる人の】- これは男の侍者の詞であろう。左大臣家に仕えている家司か。御簾の外から中の女房に取り次いで申し上げたのであろう。紀伊守は上国の国守。従五位下相当官。受領であるがこの時は任国に赴任していなくて京にいる。「人の」所有格は「家なむ」に続く。
【中川のわたりなる家なむ】- 二条以北の京極川の呼称。内裏からは東の方角に当たる。係助詞「なむ」は「はべる」連体形に係る、係り結びの法則。
【水せき入れて】- 京極川から水を邸内に堰き入れて。
3.1.10
いとよかなり
(なや)ましきに、(うし)ながら()()れつべからむ(ところ)を」
「とても良い考えである。
気分が悪いから、牛車のままで入って行かれる所を」
「それは非常によい。からだが大儀だから、車のままではいれる所にしたい」 【いとよかなり】- 以下「所を」まで、源氏の詞。御簾の中から答えたもの。侍者は、その言葉を女房から受けて、さっそく、紀伊守を呼びに行ったろう。
【牛ながら引き入れつべからむ】- 接尾語「ながら」、牛車のまま、の意。
3.1.11 とおっしゃる。
内密の方違えのお邸は、たくさんあるに違いないが、長いご無沙汰の後にいらっしゃったのに、方角が悪いからといって、期待を裏切って他へ行ったとお思いになるのは、気の毒だと思われたのであろう。
紀伊守に御用を言い付けなさると、お引き受けは致したものの、引き下がって、
と源氏は言っていた。隠れた恋人の家は幾つもあるはずであるが、久しぶりに帰ってきて、方角除けにほかの女の所へ行っては夫人に済まぬと思っているらしい。呼び出して泊まりに行くことを紀伊守に言うと、承知はして行ったが、同輩のいる所へ行って、 【忍び忍びの御方違へ所は、あまたありぬべけれど】- 完了の助動詞「ぬ」確述、推量の助動詞「べし」当然、意。語り手の思い入れが窺える表現。「三光院実枝説」は「草子の地なるへし」と注す。
【久しくほど経て渡りたまへるに】- 接続助詞「に」逆接を表す。源氏が左大臣邸へいらっしゃったのに。
【と思さむは、いとほしきなるべし】- 左大臣が、とお思いになるのは、お気の毒だと源氏は思われたのであろう、の意。「なる」「べし」は語り手が源氏の心を推測した表現。『古典セレクション』は「なるべし」の下に読点を打つ。語り手の挿入句と解する。
【紀伊守に仰せ言賜へば】- 主語は源氏。源氏のご意向を男の侍者が紀伊守に命じる。
【承りながら、退きて】- 接続助詞「ながら」逆接を表す。『新大系』は「(直接に)お下しになると、承諾しつつ(源氏のもとから)退出して。以下は紀伊守の嘆き」と注す。場面は源氏のいる所とは離れた所で。
3.1.12 「伊予守の朝臣の家に、慎み事がございまして、女房たちが来ている時なので、狭い家でございますので、失礼に当たる事がありはしないか」
「父の伊予守-伊予は太守の国で、官名は介になっているが事実上の長官である-の家のほうにこのごろ障りがありまして、家族たちが私の家へ移って来ているのです。もとから狭い家なんですから失礼がないかと心配です」 【伊予守の朝臣の家に】- 以下「ことやはべらむ」まで、紀伊守の詞。丁寧語「はべる」は源氏に対しての敬意表現。伊予守は上国の国守。しかし、後文によると、「介」とあり、次官である。おそらく守が赴任せず、次官のこの介が赴任しているので、会話の中では「守」と言ったのであろう。紀伊守の父親。
【女房なむまかり移れるころにて】- 係助詞「なむ」は「移れる」に係るが、下文に続くため、結びの流れ。
【なめげなることやはべらむ】- 係助詞「や」疑問、推量の助動詞「む」連体形に係る、係り結びの法則。
3.1.13 と、陰で嘆息しているのをお聞きになって、
と迷惑げに言ったことがまた源氏の耳にはいると、 【と、下に嘆くを聞きたまひて】- 主語は源氏。紀伊守の困惑の詞は間接的に聞いたものであろう。
3.1.14
その人近(ひとちか)からむなむうれしかるべき。
女遠(をんなとほ)旅寝(たびね)は、もの(おそ)ろしき心地(ここち)すべきを
ただその几帳(きちゃう)のうしろに」とのたまへば、
「そうした人が近くにいるのが、嬉しいのだ。
女気のない旅寝は、何となく不気味な心地がするからね。
ちょうどその几帳の後ろに」とおっしゃるので、
「そんなふうに人がたくさんいる家がうれしいのだよ、女の人の居所が遠いような所は夜がこわいよ。伊予守の家族のいる部屋の几帳の後ろでいいのだからね」
 冗談混じりにまたこう言わせたものである。
【その人近からむなむ】- 以下「几帳のうしろに」まで、源氏の詞。係助詞「なむ」は形容詞「うれしかる」連体形+「べき」連体形、当然の意に係る、係り結びの法則。この詞の主旨も取次ぎを通じて紀伊守に伝えられたものであろう。
【もの恐ろしき心地すべきを】- 推量の助動詞「べき」当然の意、間投助詞「を」詠嘆を表す。
3.1.15 「なるほど、適当なご座所で」と言って、使いの者を走らせる。
とてもこっそりと、格別に大げさでない所をと、急いでお出になるので、左大臣殿にもご挨拶なさらず、お供にも親しい者ばかり連れておいでになった。
「よいお泊まり所になればよろしいが」
 と言って、紀伊守は召使を家へ走らせた。源氏は微行で移りたかったので、まもなく出かけるのに大臣へも告げず、親しい家従だけをつれて行った。
【げに、よろしき御座所にも】- 源氏の従者の詞か。源氏の習性、性癖を知っている者の発言であろう。『評釈』は侍女たちの詞と解す。『新大系』は「紀伊守の受け答え。ごもっとも。悪くないご座所としてでも。源氏との何らかの合意が成り立った感じで自宅に使いの者を走らせる」と注す。
【人走らせやる】- 主語は紀伊守。使いの者を邸に遣わして源氏来訪の旨を伝えその準備をさせる。
【ことさらにことことしからぬ所をと】- 源氏の心。「ことことし」清音。「コトコトシイ Cotocotoxij」(日葡辞書)。『古典セレクション』は「ことごとし」と濁音に読む。
【大臣にも聞こえたまはず】- お暇乞いの挨拶を。行く先は告げずとも状況からして自ずと判断されたろう。
【御供にも睦ましき限りしておはしましぬ】- 紀伊守邸に御到着になった、という意。「おはします」という最高敬語は源氏と紀伊守との身分格差を印象づける。

第二段 紀伊守邸への方違へ

3.2.1
にはかに」とわぶれど、(ひと)()()れず
寝殿(しんでん)東面払(ひんがしおもてはら)ひあけさせて、かりそめの(おほん)しつらひしたり。
(みづ)(こころ)ばへなど、さる(かた)にをかしくしなしたり。
田舎家(ゐなかいへ)だつ柴垣(しばがき)して前栽(せんさい)など(こころ)とめて()ゑたり。
風涼(かぜすず)しくて、そこはかとなき(むし)声々聞(こゑごゑき)こえ、(ほたる)しげく()びまがひて、をかしきほどなり。
「あまりに急なことで」と迷惑がるが、誰も聞き入れない。
寝殿の東面をきれいに片づけさせて、急拵えのご座所を設けた。
遣水の趣向などは、それなりに趣深く作ってある。
田舎家風の柴垣を廻らして、前栽など気を配って植えてある。
風が涼しく吹いて、どこからともない微かな虫の声々が聞こえ、蛍がたくさん飛び交って、趣のある有様である。
あまりに急だと言って紀伊守がこぼすのを他の家従たちは耳に入れないで、寝殿の東向きの座敷を掃除させて主人へ提供させ、そこに宿泊の仕度ができた。庭に通した水の流れなどが地方官級の家としては凝ってできた住宅である。わざと田舎の家らしい柴垣が作ってあったりして、庭の植え込みなどもよくできていた。涼しい風が吹いて、どこでともなく虫が鳴き、蛍がたくさん飛んでいた。 【にはかに」と】- 青表紙本系の明融臨模本、大島本、松浦本は「にはかにと」。池田本、伝冷泉為秀筆本、書陵部本と河内本や別本の陽明文庫本、国冬本は「守にはかにと」。三条西家本は「かみ」を補入。紀伊守邸の人々。まだ源氏を迎え入れる準備が十分に整っていない。
【人も聞き入れず】- 「人」は源氏の供人たち。係助詞「も」強調のニュアンス。
【田舎家だつ柴垣して】- 京都神護寺蔵国宝「山水屏風」に似た風景が描かれている。
【前栽】- 「平安時代はセンサイと清音」(岩波古語辞典)。『集成』『新大系』『古典セレクション』は「せんざい」と濁音に読む。
3.2.2
(ひと)びと渡殿(わたどの)より()でたる(いづみ)にのぞきゐて、酒呑(さけの)む。
主人(あるじ)肴求(さかなもと)むと、こゆるぎのいそぎありくほど、(きみ)のどやかに(なが)めたまひて、かの、(なか)(しな)()()でて()ひし、この(なみ)ならむかしと(おぼ)()づ。
供人たちは、渡殿の下から湧き出ている泉に臨んで座って、酒を飲む。
主人の紀伊守もご馳走の準備に走り回っている間、源氏の君はゆったりとお眺めになって、あの人たちが、中の品の例に挙げていたのは、きっとこういう程度の家の女性なのだろう、とお思い出しになる。
源氏の従者たちは渡殿の下をくぐって出て来る水の流れに臨んで酒を飲んでいた。紀伊守が主人をよりよく待遇するために奔走している時、一人でいた源氏は、家の中をながめて、前夜の人たちが階級を三つに分けたその中の品の列にはいる家であろうと思い、その話を思い出していた。 【人びと】- 源氏一行の人々。
【主人も肴求むと、こゆるぎのいそぎありくほど、君は】- 『源氏釈』は「玉垂れの 小瓶を中に据ゑて あるじはも や 肴まぎに 肴りに こゆるぎの磯の 若布と(わかめ)刈り上げに」(風俗歌 玉垂れ)を指摘する。その歌句によった表現である。「主人も」の係助詞「も」は、家人たちだけでなく主人も、の意。紀伊守が肩を揺すって忙しそうに接待に追われているのに対し、「君は」というように、源氏は一人悠然と構えている様子が対比されて語られる。
【かの、中の品に】- 以下「この並ならむかし」まで、源氏の心。昨夜の議論を想起する。「かの」は、あの人たちが、の意。
【この並ならむかしと】- 断定の助動詞「なら」未然形、推量の助動詞「む」終止形、終助詞「かし」念押しを表す。。
3.2.3 高い望みをもっていたようにお耳になさっていた女性なので、どのような女性かと知りたくて耳を澄ましていらっしゃると、この寝殿の西面に人のいる様子がする。
衣ずれの音がさらさらとして、若い女性の声々が愛らしい。
そうは言っても小声で、笑ったりなどする様子は、わざとらしい。
思い上がった娘だという評判の伊予守の娘、すなわち紀伊守の妹であったから、源氏は初めからそれに興味を持っていて、どの辺の座敷にいるのであろうと物音に耳を立てていると、この座敷の西に続いた部屋で女の衣摺れが聞こえ、若々しい、媚めかしい声で、しかもさすがに声をひそめてものを言ったりしているのに気がついた。わざとらしいが悪い感じもしなかった。
【思ひ上がれる気色に聞きおきたまへる女なれば】- 空蝉のことをさす。源氏は、すでにこの邸に来ている女について知っていたという語り方である。前の紀伊守の「伊予守の朝臣の家に慎むことはべりて、女房なむまかり移れるころにて」という「女房」の中に空蝉のことも含まれていたのである。当時は「女(むすめ)」は既婚女性でも若ければ「むすめ」と言った。
【この西面にぞ人のけはひする】- 「この」は源氏のいる場所を軸にして。寝殿の西面。係助詞「ぞ」は「する」連体形に係る、係り結びの法則。強調のニュアンス。
【衣の音なひ】- 以下の描写は、源氏の耳を通して語った表現。
【若き声どもにくからず】- 若い女たちの声が愛らしい。源氏の感情を交えて語った表現。
【さすがに忍びて】- 活発で若い女房とはいえ客人に遠慮して、というニュアンス。
【ことさらびたり】- 来客を意識した振る舞い、と源氏は思う。
3.2.4
格子(かうし)()げたりけれど(かみ)(こころ)なし」とむつかりて(おろ)しつれば、火灯(ひとも)したる透影(すきかげ)障子(さうじ)(かみ)より()りたるにやをら()りたまひて、()ゆや」と(おぼ)せど、(ひま)もなければ、しばし()きたまふに、この(ちか)母屋(もや)(つど)ひゐたるなるべしうちささめき()ふことどもを()きたまへばわが御上(おほんうへ)なるべし
格子を上げてあったが、紀伊守が、「不用意な」と小言を言って下ろしてしまったので、火を灯している明りが、襖障子の上から漏れているので、そっとお近寄りになって、「見えるだろうか」とお思いになるが、隙間もないので、少しの間お聞きになっていると、自分に近い方の母屋に集っているのであろう、ひそひそ話している内容をお聞きになると、ご自分の噂話のようである。
初めその前の縁の格子が上げたままになっていたのを、不用意だといって紀伊守がしかって、今は皆戸がおろされてしまったので、その室の灯影が、襖子の隙間から赤くこちらへさしていた。源氏は静かにそこへ寄って行って中が見えるかと思ったが、それほどの隙間はない。しばらく立って聞いていると、それは襖子の向こうの中央の間に集まってしているらしい低いさざめきは、源氏自身が話題にされているらしい。 【格子を上げたりけれど】- 日中は金具で釣り下げてあった蔀格子。
【心なし】- 紀伊守の詞。
【障子の上より漏りたるに】- 障子は襖のこと。「上(かみ)」は、上長押の上から光が漏れてくるのであろう。「かみ」を「紙」と解する説もある。『評釈』は「障子の紙よりもりたるに」とし、「「障子の紙」は「障子の上」と解する説もある。「上」説の理由は、襖障子の紙を透して火影がもれるはずがないからというのである。「紙より」と解して「障子の紙の間より漏る(障子ノ紙スナワチ襖ノ間カラ漏ル)」というのを、「障子の紙より漏る」と慣用句的に言ったのではないか、「襖の閉めてある合せ目から火影が漏れ出るのであろう」という島津久基博士説に従う」と注す。
【見ゆや】- 源氏の心。
【この近き母屋に集ひゐたるなるべし】- 源氏の耳からの推察。完了の助動詞「たる」連体形、存続の意、断定の助動詞「なる」連体形、推量の助動詞「べし」推量の意は、源氏の判断。語り手と登場人物の視点が一体化している。
【うちささめき言ふことどもを聞きたまへば】- 地の文。源氏に添った表現である。
【わが御上なるべし】- 源氏の耳からの推察。伝聞推定の助動詞「なる」連体形、推量の助動詞「べし」推量の意は、前同様に源氏の判断。自分で自分の事を「わが御上」という敬語の使い方は、今ではおかしいが、語り手の源氏に対する敬意が表れたものである。
3.2.5
いといたうまめだちて。
まだきに、やむごとなきよすが(さだ)まりたまへるこそ、さうざうしかめれ
「とてもたいそう真面目ぶって。
まだお若いのに、高貴な北の方が定まっていらっしゃるとは、なんとつまらないのでしょう」
「まじめらしく早く奥様をお持ちになったのですからお寂しいわけですわね。 【いといたう】- 以下「隠れ歩きたまふなれ」まで、女たちの詞。二人の会話とみる。「いといたう」以下「さうさうしかめれ」まで、最初の女。しかし、『集成』は区別しない。この巻の冒頭にあったような源氏の性格の一面をいう。「されど」以下、もう一人の女の詞。別の噂も聞いているという。
【定まりたまへるこそ、さうざうしかめれ】- 完了の助動詞「る」連体形、係助詞「こそ」。形容詞「さうざうしかる」連体形「る」が撥音便化し無表記の形。推量の助動詞「めれ」已然形、主観的推量のを表す。係り結びの法則。
3.2.6
「されど、さるべき(くま)には、よくこそ、(かく)(あり)きたまふなれ
「でも、人の知らない所では、うまくもまあ、隠れて通っていらっしゃるということですよ」
でもずいぶん隠れてお通いになる所があるんですって」 【よくこそ、隠れ歩きたまふなれ】- 係助詞「こそ」、尊敬の補助動詞「たまふ」終止形+伝聞推定の助動詞「なれ」已然形、係り結びの法則。
3.2.7 などと噂しているのにつけても、胸の内にあることばかりが気にかかっていらっしゃるので、まっさきにどきりとして、「このような噂話の折にも、人が言い漏らすようなことを、人が聞きつけるような事が起こったら」などとご心配なさる。
こんな言葉にも源氏ははっとした。自分の作っているあるまじい恋を人が知って、こうした場合に何とか言われていたらどうだろうと思ったのである。 【思すことのみ心にかかりたまへば】- 明融臨模本「心にかゝり給へ(へ+レ)は」とある。「レ」は後人の補入。大島本には「心にかゝり給へハ」とある。藤壺のことをさす。『集成』『新大系』は「心にかかりたまへば」。『新大系』は「心にかかりたまへれば」と校訂する。
【かやうのついでにも】- 以下「聞きつけたらむ時」まで、源氏の心。女房どうしの所在ない時の世間話。前に宿直の夜に男どうしの女性体験談が語られていた。
【人の言ひ漏らさむを】- 女房などが、藤壺と自分との関係を言い漏らすようなのを。
【聞きつけたらむ時】- 主語は他人と解す。完了の助動詞「たら」未然形、推量の助動詞「む」仮定の意。
3.2.8 別段のこともないので、途中まで聞いてお止めになった。
式部卿宮の姫君に、朝顔の花を差し上げなさった時の和歌などを、少し文句を違えて語るのが聞こえる。
「ゆったりと和歌を口にすることよ、やはり見劣りすることだろう」とお思いになる。
でも話はただ事ばかりであったから皆を聞こうとするほどの興味が起こらなかった。式部卿の宮の姫君に朝顔を贈った時の歌などを、だれかが得意そうに語ってもいた。行儀がなくて、会話の中に節をつけて歌を入れたがる人たちだ、中の品がおもしろいといっても自分には我慢のできぬこともあるだろうと源氏は思った。 【式部卿宮の姫君に朝顔奉りたまひし歌】- この話は物語に語られていない。噂話として語られる。明融臨模本には傍書(後人注記)に「槿斎院ナリ源氏ニ心ツヨクテヤミニシ人也」とある。
【すこしほほゆがめて語る】- 動詞「頬歪め」下二段、連用形。事実を歪める、意。少し歌の文句を違えて語る。
【くつろぎがましく】- 以下「しなむかし」まで、源氏の心。明融臨模本の傍書に「カルカルシクシトケナキ也」とある。『集成』は「有閑婦人気取りで」と解し、『完訳』は「気楽な世間話の歌語り」と解す。
【歌誦じがちにもあるかな】- 何かと機会あれば、歌を口ずさむことよ、の意。
【なほ見劣りはしなむかし】- 完了の助動詞「な」未然形、確述、推量の助動詞「む」推量、終助詞「かし」念押し、の意。『古典セレクション』は「風流めかしていてもしょせん中流と見てとる。この軽蔑が、以下の好色の行動をたやすくさせる」と注す。
3.2.9 紀伊守が出て来て、灯籠を掛け添え、灯火を明るく掻き立てたりして、お菓子ぐらいのものを差し上げた。
紀伊守が出て来て、灯籠の数をふやさせたり、座敷の灯を明るくしたりしてから、主人には遠慮をして菓子だけを献じた。 【守出で来て、灯籠掛け添へ、灯明くかかげなどして】- 「灯籠」は「とうろう」「とうろ」の両方ある。明融臨模本では「とうろ」とある。紀伊守登場。源氏のいる部屋の前の軒先に釣り灯籠を掛け加え、室内の灯台の芯を引き出し、さらに明るくする。「添へ」は数を増やしたことを意味し、「かかげ」は「掻き上げ」の意で、芯を引き出すこと。時間の経過したことをも表す。
【御くだものばかり参れり】- 菓子、果物類。紀伊守は酒の肴類だけを差し上げる。副助詞「ばかり」は程度を表す。言外にこの程度では不足であるというニュアンスが下文の源氏の詞を導き出す。「参る」謙譲語は、差し上げる。
3.2.10
とばり(ちゃう)も、いかにぞは
さる(かた)(こころ)もとなくてはめざましき饗応(あるじ)ならむ」とのたまへば、
「帷帳の準備も、いかがなっておるか。
そうした方面の趣向もなくては、興醒めなもてなしであろう」とおっしゃると、
「わが家はとばり帳をも掛けたればって歌ね、大君来ませ婿にせんってね、そこへ気がつかないでは主人の手落ちかもしれない」 【とばり帳も、いかにぞは】- 以下「めざましき饗応ならむ」まで、源氏の詞。『源氏釈』は「我家<わいへん>は 帷帳<とばりちやう>も垂れたるを 大君来ませ 聟にせむ 御肴<みさかな>に何よけむ 鮑<あはび> 栄螺<さだをか>か 石陰子<かせ>よけむ 鮑 栄螺か 石陰子よけむ」(催馬楽、我家)を指摘する。鮑はその形が女陰に似ている。源氏は、催馬楽「我家」の文句を引用して、女の準備はどうなっているかと紀伊守に要求。
【さる方の心もとなくては】- 明融臨模本「心もとなくては」とある。大島本には「心もなくてハ」とある。明融臨模本のままとするが、『集成』『新大系』『古典セレクション』は「心もなくては」と校訂する。「さる方」は女のもてなし、の意。
3.2.11
(なに)よけむとも、えうけたまはらず」と、かしこまりてさぶらふ。
(はし)(かた)御座(おまし)に、(かり)なるやうにて大殿籠(おほとのご)もれば、(ひと)びとも(しづ)まりぬ。
「はて、何がお気に召しますやら、わかりませんので」と、恐縮して控えている。
端の方のご座所に、うたた寝といったふうに横におなりになると、供人たちも静かになった。
「通人でない主人でございまして、どうも」
 紀伊守は縁側でかしこまっていた。源氏は縁に近い寝床で、仮臥のように横になっていた。随行者たちももう寝たようである。
【何よけむとも、えうけたまはらず】- 紀伊守の返答。「よけむ」は「よからむ」の古い形。副詞「え」、打消の助動詞「ず」と呼応して不可能の意を表す。何がお気に召しますやら、分かりませんのでと言うが、実はその「我家」の文句「何よけむ」を引用して答えているので、十分にわかっております、という意になる。
3.2.12
主人(あるじ)()どもをかしげにてあり。
(わらは)なる、殿上(てんじゃう)のほどに御覧(ごらん)()れたるもあり。
伊予介(いよのすけ)()もあり
あまたある(なか)に、いとけはひあてはかにて、十二(じふに)(さん)ばかりなるもあり
主人の子供たちが、かわいらしい様子をしている。
その子供で、童殿上している間に見慣れていらっしゃっるのもいる。
伊予介の子もいる。
大勢いる中で、とても感じが上品で、十二、三歳くらいになるのもいる。
紀伊守は愛らしい子供を幾人も持っていた。御所の侍童を勤めて源氏の知った顔もある。縁側などを往来する中には伊予守の子もあった。何人かの中に特別に上品な十二、三の子もある。 【主人の子ども】- 以下、源氏の目と語り手の目とが重なった描写である。紀伊守の子ども。時間は遡って、「端つ方の御座に仮なるやうにて大殿籠もれば人びとも静まりぬ」となる前までのこと。
【童なる、殿上のほどに】- 殿上童のこと。貴族の子弟で容姿端麗な子どもが殿上間で小間使いを努める。
【伊予介の子もあり】- 紀伊守の弟たち。
【十二、三ばかりなるもあり】- 後文から、小君、故衛門督の子で空蝉の弟と知れる。
3.2.13
いづれかいづれ」など()ひたまふに、
「どの子が誰の子か」などと、お尋ねになると、
どれが子で、どれが弟かなどと源氏は尋ねていた。 【いづれかいづれ】- 源氏の詞。紀伊守に尋ねる。
3.2.14
これは故衛門督(こえもんのかみ)(すゑ)()にていとかなしくしはべりけるを、(をさな)きほどに(おく)れはべりて、(あね)なる(ひと)のよすがにかくてはべるなり。
(ざえ)などもつきはべりぬべく、けしうははべらぬを、殿上(てんじゃう)なども(おも)ひたまへかけながら、すがすがしうは()じらひはべらざめる(まう)
「この子は、故衛門督の末っ子で、大変にかわいがっておりましたが、まだ幼いうちに親に先立たれまして、姉につながる縁で、こうしてここにいるわけでございます。
学問などもできそうで、悪くはございませんが、童殿上なども考えておりますが、すらすらとはできませんようで」と申し上げる。
「ただ今通りました子は、亡くなりました衛門督の末の息子で、かわいがられていたのですが、小さいうちに父親に別れまして、姉の縁でこうして私の家にいるのでございます。将来のためにもなりますから、御所の侍童を勤めさせたいようですが、それも姉の手だけでははかばかしく運ばないのでございましょう」
 と紀伊守が説明した。
【これは】- 以下「はべらざめる」まで、紀伊守の返答。前の十二、三歳くらいの男の子をさして言う。
【故衛門督の末の子にて】- 衛門府の長官。従四位下相当。後に柏木が衛門督として有名。名門の貴族子弟が着任している。
【姉なる人のよすがに】- その子の姉が伊予介と結婚した縁で、ここに一緒にいる。
【え交じらひはべらざめる】- 副詞「え」、打消の助動詞「ざる」と呼応して不可能の意。丁寧の補助動詞「はべら」未然形。打消の助動詞「ざ」は「ざる」連体形の「る」が撥音便化して無表記の形。推量の助動詞「める」連体形、主観的推量を表す。言い切らずに余情を残した連体中止法。
【と申す】- 明融臨模本は「申す」の次に朱筆で「ニ」を補入する。後人の筆であろう。大島本には「申」とある。
3.2.15 「気の毒なことだ。
この子の姉君が、そなたの継母か」
「あの子の姉さんが君の継母なんだね」 【あはれのことや。この姉君や、まうとの後の親】- 源氏の問い。気の毒なことだ、すると、その姉君があなたの継母になるわけか、という確認の問い。
3.2.16
さなむはべる」と(まう)すに、
「さようでございます」と申し上げると、
「そうでございます」 【さなむはべる】- 紀伊守の返答。
3.2.17
()げなき(おや)をもまうけたりけるかな。
主上(うへ)にも()こし()しおきて、宮仕(みやづか)へに()だし()てむと()らし(そう)せしいかになりにけむ』と、いつぞやのたまはせし。
()こそ(さだ)めなきものなれ」と、いとおよすけのたまふ
「年に似合わない継母を、持ったことだなあ。
主上におかれてもお耳にお忘れにならず、『宮仕えに差し上げたいと、ちらと奏上したことは、その後どうなったのか』と、いつであったか仰せられた。
人の世とは無常なものだ」と、とても大人びておっしゃる。
「似つかわしくないお母さんを持ったものだね。その人のことは陛下もお聞きになっていらっしって、宮仕えに出したいと衛門督が申していたが、その娘はどうなったのだろうって、いつかお言葉があった。人生はだれがどうなるかわからないものだね」
 老成者らしい口ぶりである。
【似げなき親をも】- 以下「定めなきものなれ」まで、源氏の詞。年齢にふさわしくない若い継母だという意。
【宮仕へに出だし立てむと漏らし奏せし】- 衛門督は、その娘を入内させようと、内々に帝に奏上していた、それを源氏は聞き知っていたという経緯である。「宮仕へ」は更衣として入内させること。推量の助動詞「む」意志を表す。「奏す」は天皇に申し上げる。
【世こそ定めなきものなれ】- 係助詞「こそ」「、断定の助動詞「なれ」已然形、係り結びの法則。強調のニュアンス。
【いとおよすけのたまふ】- 『集成』『古典セレクション』は「およすけ」と清音で読み、『新大系』は「およすげ」と濁音で読む。『河海抄』には濁符がある。『全集』は「不自然の感を免れるための作者の弁解でもある」と注す。
3.2.18 「思いがけず、こうしているのでございます。
男女の仲と言うものは、所詮、そのようなものばかりで、今も昔も、どうなるか分からないものでございます。
中でも、女の運命は定めないのが、哀れでございます」などと申し上げて途中で止める。
「不意にそうなったのでございます。まあ人というものは昔も今も意外なふうにも変わってゆくものですが、その中でも女の運命ほどはかないものはございません」
 などと紀伊守は言っていた。
【不意に、かくて】- 以下「あはれにはべる」まで、紀伊守の詞。
【さのみこそ、今も昔も、定まりたることはべらね】- 係助詞「こそ」、打消の助動詞「ね」已然形、係り結びの法則。
【女の宿世は浮かびたるなむ、あはれにはべる】- 明融臨模本「うかひ(ひ=ミ)たる」とある。大島本は「いとうかひたる」と副詞「いと」がある。『集成』は「浮かびたる」のまま。『新大系』『古典セレクション』は「いと浮くかびたる」と校訂する。完了の助動詞「たる」連体形、主格となる。係助詞「なむ」は丁寧の補助動詞「はべる」連体形に係る、係り結びの法則。
【聞こえさす】- 「さす」は、中途で止める意。紀伊守は、少しでしゃばって物を言い過ぎたと感じたか、源氏の顔色を見て、議論を言いさした。
3.2.19 「伊予介は、大事にしているか。
主君と思っているだろうな」
「伊予介は大事にするだろう。主君のように思うだろうな」 【伊予介は、かしづくや。君と思ふらむな】- 源氏の詞。推量の助動詞「らむ」視界外推量、終助詞「な」念押しを表す。宮中に入内するはずだった女性なので、伊予介はその女を主君と思って大切にしているだろうな、という高飛車な言い方。
3.2.20 「どう致しまして。
内々の主君として世話しておりますようですが、好色がましいことだと、わたくしめをはじめとして、納得できないほどでございます」などと申し上げる。
「さあ。まあ私生活の主君でございますかな。好色すぎると私はじめ兄弟はにがにがしがっております」 【いかがは】- 以下「うけひきはべらずなむ」まで、紀伊守の返答。反語表現。もちろんです、の意。老父の女好みを苦々しく思っている、という意。
【私の主とこそは思ひてはべるめるを】- 明融臨模本「こそは(は$)」とあるが、「は」の左側に朱筆で「ヒ」と記された後人のミセケチ。大島本にも「こそハ」とある。『古典セレクション』は「こそ」と校訂。係助詞「こそ」は、「はべる」にかかるが、下文に続くため、結びの流れとなっている。推量の助動詞「める」連体形、話者の主観的推量を表す。接続助詞「を」逆接を表す。
【なにがしよりはじめて】- 自分をはじめとして兄弟一同、の意。
【うけひきはべらずなむ】- 係助詞「なむ」は結びの省略。
3.2.21
さりともまうとたちのつきづきしく(いま)めきたらむに、おろしたてむやは
かの(すけ)は、いとよしありて気色(けしき)ばめるをや」など、物語(ものがたり)したまひて、
「そうは言っても、そなたたちのような年に相応しく当世風の人に、譲るであろうか。
あの伊予介は、なかなか風流心があって、気取っているからな」などと、お話なさって、
「だって君などのような当世男に伊予介は譲ってくれないだろう。あれはなかなか年は寄ってもりっぱな風采を持っているのだからね」
 などと話しながら、
【さりとも】- 以下「けしきばめるをや」まで、源氏の詞。
【おろしたてむやは】- 推量の助動詞「む」推量、連語「やは」(「や」係助詞「は」係助詞)反語を表す。伊予介は後妻の空蝉を子の紀伊守に譲ろうか、譲るまい、の意。
【かの介は、いとよしありて気色ばめるをや】- 連語「をや」(終助詞「を」終助詞「や」)感動を表す。紫式部が結婚した相手の藤原宣孝も晩年に息子たちと同年齢の紫式部を後添えに迎えている。その彼も風流人であったエピソードが伝わっている。
3.2.22 「で、どこに」
「その人どちらにいるの」 【いづかたにぞ】- 源氏の詞。係助詞「ぞ」の下に「ある」連体形、などの語が省略。真意は、その女はどこに、の意。だが、漠然と含みのある尋ね方をする。
3.2.23 「皆、下屋に下がらせましたが、まだ下がりきらないで残っているかも知れません」と申し上げる。
「皆下屋のほうへやってしまったのですが、間にあいませんで一部分だけは残っているかもしれません」
 と紀伊守は言った。
【皆、下屋に】- 以下「下りあへざらむ」まで、紀伊守の返答。ややずらして答えているが、用意してありますという含みのある表現をする。『新大系』は「母屋に女が残してあるとの暗示にも聞こえる」と注す。
【おろしはべりぬるを】- 完了の助動詞「ぬる」連体形、完了の意、接続助詞「を」逆接を表す。
【えやまかりおりあへざらむ】- 副詞「え」は打消の助動詞「ざら」と呼応して不可能の意を表す。係助詞「や」疑問の意、推量の助動詞「む」連体形、推量の意を表す。身分卑しい女たちは皆下屋に下ろしたが、全員は下ろしきれず、やや高い女は残っている、という意。
3.2.24 酔いが回って、供人は皆は簀子にそれぞれ横になって、寝静まってしまった。
【酔ひすすみて、皆人びと簀子に臥しつつ、静まりぬ】- 時間は前に「端つ方の御座に仮なるやうにて大殿籠もれば人びとも静まりぬ」とあった時点に戻る。接続助詞「つつ」は同じ動作の繰り返しのニュアンスを添える。めいめい臥せっている意。

第三段 空蝉の寝所に忍び込む

3.3.1
(きみ)は、とけても()られたまはずいたづら()しと(おぼ)さるるに御目覚(おほんめさ)めて、この(きた)障子(さうじ)のあなたに(ひと)のけはひするを、こなたや、かくいふ(ひと)(かく)れたる(かた)ならむ、あはれや」と御心(みこころ)とどめて、やをら()きて()()きたまへばありつる()(こゑ)にて、
源氏の君は、気を落ち着けてお寝みにもなれず、空しい一人寝だと思われるとお目も冴えて、この北の襖障子の向こう側に人のいる様子がするので、「ここが、話に出た女が隠れている所であろうか、かわいそうな」とご関心をもって、静かに起き上がって立ち聞きなさると、先程の子供の声で、
深く酔った家従たちは皆夏の夜を板敷で仮寝してしまったのであるが、源氏は眠れない、一人臥をしていると思うと目がさめがちであった。この室の北側の襖子の向こうに人のいるらしい音のする所は紀伊守の話した女のそっとしている室であろうと源氏は思った。かわいそうな女だとその時から思っていたのであったから、静かに起きて行って襖子越しに物声を聞き出そうとした。その弟の声で、 【とけても寝られたまはず】- 可能の助動詞「られ」連用形。
【いたづら臥しと思さるるに】- 源氏の心。自発の助動詞「るる」連体形。接続助詞「に」順接、原因理由を表す。
【こなたや】- 以下「あはれや」まで、源氏の心。「あはれや」を、『集成』は「どうしているだろう」と解し、『完訳』は「かわいそうな」と訳す。『新大系』は「老受領の後妻になっている女への哀れみである。中の品に転じているらしい女への興味がかきたてられて様子を窺う」と注す。
【立ち聞きたまへば】- 以下、源氏の耳を通して語る描写。
3.3.2
ものけたまはる
いづくにおはしますぞ」
「もしもし。
どこにいらっしゃいますか」
「ちょいと、どこにいらっしゃるの」 【ものけたまはる】- 以下「おはしますぞ」まで、小君の詞。姉の空蝉に言う。「ものけたまはる」は「物承る」の約。
3.3.3
と、かれたる(こゑ)をかしきにて()へば、
と、かすれた声で、かわいらしく言うと、
と言う。少し涸れたきれいな声である。 【かれたる声の】- 格助詞「の」同格を表す。変声期ころの少年。
3.3.4 「ここに臥せっています。
お客様はお寝みになりましたか。
どんなにお近かろうかと心配していましたが、でも、遠そうだわね」
「私はここで寝んでいるの。お客様はお寝みになったの。ここと近くてどんなに困るかと思っていたけれど、まあ安心した」 【ここにぞ臥したる】- 以下「け遠かりける」まで、姉君の返答。係助詞「ぞ」、完了の助動詞「たる」連体形、存続の意。係り結びの法則。
【客人は寝たまひぬるか】- 「客人」は源氏の君をさす。完了の助動詞「ぬる」連体形、係助詞「か」疑問の意。
【いかに近からむと思ひつるを】- 副詞「いかに」、推量の助動詞「む」終止形、完了の助動詞「つる」連体形、完了の意。接続助詞「を」逆接を表す。
【け遠かりけり】- 接頭語「け」は、なんとなく、いくらか、などのニュアンスを添える。過去の助動詞「けり」詠嘆の意。
3.3.5
()ふ。
()たりける(こゑ)のしどけなきいとよく似通(にかよ)ひたれば、いもうとと()きたまひつ
と言う。
寝ていた声で取り繕わないのが、とてもよく似ていたので、その姉だなとお聞きになった。
と、寝床から言う声もよく似ているので姉弟であることがわかった。 【声のしどけなき】- 格助詞「の」同格を表す。「しどけなき」連体形は主格となる。声で取り繕わないのが、の文意。
【いもうとと聞きたまひつ】- 「いもうと」は男からみた異性の姉妹。ここは姉をいう。男の子(小君)の姉と理解。
3.3.6
(ひさし)にぞ大殿籠(おほとのご)もりぬる。
(おと)()きつる(おほん)ありさまを()たてまつりつるげにこそめでたかりけれ」と、みそかに()ふ。
「廂の間にお寝みになりました。
噂に聞いていたお姿を拝見いたしましたが、噂通りにご立派でしたよ」と、ひそひそ声で言う。
「廂の室でお寝みになりましたよ。評判のお顔を見ましたよ。ほんとうにお美しい方だった」
 一段声を低くして言っている。
【廂にぞ】- 以下「めでたかりけれ」まで、小君の詞。源氏の君は、廂の間にお寝みになりましたという。廂の間は、女の寝ている母屋の外側になる。係助詞「ぞ」、完了の助動詞「ぬる」連体形、係り結びの法則。
【見たてまつりつる】- 完了の助動詞「つる」連体形、下に接続助詞「に」順接などの語が省略。
【げにこそめでたかりけれ】- 係助詞「こそ」過去の助動詞「けれ」已然形、詠嘆の意。係り結びの法則。
3.3.7 「昼間であったら、覗いて拝見できるのにね」
「昼だったら私ものぞくのだけれど」 【昼ならましかば、覗きて見たてまつりてまし】- 姉君の詞。推量の助動詞「ましか」未然形、仮想の意+接続助詞「ば」順接の仮定条件、推量の助動詞「まし」終止形、反実仮想の構文。
3.3.8
とねぶたげに()ひて、(かほ)ひき()れつる(こゑ)す。
ねたう、(こころ)とどめても()()けかし」とあぢきなく(おぼ)す。
と眠そうに言って、顔を衾に引き入れた声がする。
「惜しいな、
睡むそうに言って、その顔は蒲団の中へ引き入れたらしい。もう少し熱心に聞けばよいのにと源氏は物足りない。 【ねたう、心とどめても問ひ聞けかし】- 源氏の心。「問ひ聞け」命令形。終助詞「かし」念押し。聞いていろよ、の意。小君と姉の空蝉の会話をもっと聞いていたい気持ち。
3.3.9 「わたしは、
端に寝ましょう。
「私は縁の近くのほうへ行って寝ます。暗いなあ」 【まろは端に寝はべらむ。あなくるし】- 小君の詞。明融臨模本「まろはゝし(ゝし=こゝ)に」とある。傍書の「こゝ」は後人の朱書である。大島本には「まろはハしに」とある。「端(はし)に」について、青表紙本系の明融臨模本、大島本、三条西家本は「はしに」とあり、一方、松浦本、池田本、伝冷泉為秀本と書陵部本は「こゝに」とある。『集成』『新大系』は「端に」。『古典セレクション』は「ここに」と校訂する。また「くるし」について、明融臨模本は「くるし」とある。大島本は「くら」とある。『新大系』は「あな暗」。『集成』『古典セレクション』は「あな苦し」。青表紙本系の明融臨模本、松浦本、伝冷泉為秀筆本は「あなくるし」(ああ、疲れた)とあり、大島本、三条西家本と書陵部本は「あなくら」(ああ、暗い)とある。池田本は「あなくらるし」とある。定家本原本は「あなくるし」とあったのであろう。
3.3.10
とて、()かかげなどすべし
女君(をんなぎみ)は、ただこの障子口筋交(さうじぐちすぢか)ひたるほどにぞ()したるべき
と言って、灯心を引き出したりしているのであろう。
女君は、ちょうどこの襖障子口の斜め向こう側に臥しているのであろう。
子供は燈心を掻き立てたりするものらしかった。女は襖子の所からすぐ斜いにあたる辺で寝ているらしい。 【灯かかげなどすべし】- 副助詞「など」、推量の助動詞「べし」推量の意、などの推量表現は源氏の耳に添った表現である。次の「中将の君は」の文との間には、小君が端の方に出て行って後、少し時間の経過があろう。
【ほどにぞ臥したるべき】- 係助詞「ぞ」、推量の助動詞「べき」連体形、係り結びの法則。
3.3.11
中将(ちゅうじゃう)(きみ)いづくにぞ
(ひと)(とほ)心地(ここち)して、もの(おそ)ろし」
「中将の君はどこですか。
誰もいないような感じで、何となく恐い」
「中将はどこへ行ったの。今夜は人がそばにいてくれないと何だか心細い気がする」 【中将の君は】- 以下「もの恐ろし」まで、女(空蝉)の詞。「中将の君」は女房名。その女房を呼ぶ。
【いづくにぞ】- 係助詞「ぞ」の下に「をる」連体形、などの語が省略。
3.3.12
()ふなれば長押(なげし)(しも)に、(ひと)びと()して(いら)へすなり
と言うらしい、すると、長押の下の方で、女房たちは臥したまま答えているらしい。
低い下の室のほうから、女房が、 【言ふなれば】- 「言ふ」終止形、伝聞推定の助動詞「なれ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。ある事態を契機として、たまたま以下の事態が起きた、という接続。--たところ、--と、という文意。を表す。源氏の耳を通してかたる描写。「ば」は単なる継起的前後関係を表す。言うらしい、するとの意。
【答へすなり】- 「す」終止形、伝聞推定の助動詞「なり」終止形。源氏の耳を通して語る描写。
3.3.13 「下屋に、お湯を使いに下りていますが。
『すぐに参ります』とのことでございます」と言う。
「あの人ちょうどお湯にはいりに参りまして、すぐ参ると申しました」
 と言っていた。
【下に湯におりて。『ただ今参らむ』とはべる】- 女房の返答。「はべる」について、明融臨模本・大島本「侍」と表記する。『集成』は「はべる」(連体形)と読む。『新大系』『古典セレクション』は「はべり」(終止形)と読む。「ただ今参らむ」という中将の君の詞を引用して答える。当時の入浴法は沐浴で、湯を浴びて体を清めた。
3.3.14
皆静(みなしづ)まりたるけはひなれば、掛金(かけがね)(こころ)みに()きあけたまへればあなたよりは()さざりけり
几帳(きちゃう)障子口(さうじぐち)には()てて、()はほの(くら)きに()たまへば唐櫃(からびつ)だつ(もの)どもを()きたれば、(みだ)りがはしき(なか)を、()()りたまへれば、ただ一人(ひとり)いとささやかにて()したり。
なまわづらはしけれど(うへ)なる衣押(きぬお)しやるまで、(もと)めつる(ひと)(おも)へり。
皆寝静まった様子なので、掛金を試しに開けて御覧になると、向こう側からは鎖してないのであった。
几帳を襖障子口に立てて、灯火はほの暗いが、御覧になると唐櫃のような物どもを置いてあるので、ごたごたした中を、掻き分けて入ってお行きになると、ただ一人だけでとても小柄な感じで臥せっていた。
何となく煩わしく感じるが、上に掛けてある衣を押しのけるまで、呼んでいた女房だと思っていた。
源氏はその女房たちも皆寝静まったころに、掛鉄をはずして引いてみると襖子はさっとあいた。向こう側には掛鉄がなかったわけである。そのきわに几帳が立ててあった。ほのかな灯の明りで衣服箱などがごたごたと置かれてあるのが見える。源氏はその中を分けるようにして歩いて行った。
 小さな形で女が一人寝ていた。やましく思いながら顔を掩うた着物を源氏が手で引きのけるまで女は、さっき呼んだ女房の中将が来たのだと思っていた。
【引きあけたまへれば】- 「たまへ」已然形+接続助詞「ば」順接の確定条件。ある事態を契機として、たまたま以下の事態が起きた、という接続。
【あなたよりは鎖さざりけり】- 過去の助動詞「けり」詠嘆の意。その意外さに驚く。源氏の驚きの気持ちと語り手の気持ちが一体化したような表現。紀伊守が外しておいたものであろう。
【灯はほの暗きに】- 「暗き」連体形+接続助詞「に」逆接。
【なまわづらはしけれど】- 『集成』は「何となく気が咎めるけれども」と、源氏の君の心中と解す。『古典セレクション』は「うとうとししかけたところを寄り添われた女の意識」と解す。『新大系』も同じ。ここまで、源氏の耳、目を通して語ってきたが、ここで主語(語り手の視点)が女に転じたとみる。
【求めつる人】- 空蝉が召した人、女房の中将の君。
3.3.15
中将召(ちゅうじゃうめ)しつればなむ
人知(ひとし)れぬ(おも)ひの、しるしある心地(ここち)して」
「中将をお呼びでしたので。
人知れずお慕いしておりました、その甲斐があった気がしまして」
「あなたが中将を呼んでいらっしゃったから、私の思いが通じたのだと思って」 【中将召しつればなむ】- 以下「心地して」まで、源氏の詞。係助詞「なむ」の下に「まゐりぬ」などの語句が省略。女が呼んだのは、女房の「中将の君」であった。源氏も近衛府の中将であった。それで「中将召しつれば」と言った。
3.3.16
とのたまふを、ともかくも(おも)()かれず、(もの)(おそ)はるる心地(ここち)して、「や」とおびゆれど、(かほ)(きぬ)のさはりて(おと)にも()てず。
とおっしゃるのを、すぐにはどういうことかも分からず、魔物にでも襲われたような気がして、「きゃっ」と脅えたが、顔に衣が触れて、声にもならない。
と源氏の宰相中将は言いかけたが、女は恐ろしがって、夢に襲われているようなふうである。「や」と言うつもりがあるが、顔に夜着がさわって声にはならなかった。 【顔に衣のさはりて】- 源氏の直衣の袖が空蝉の顔に触れて。『古典セレクション』は顔に衾がかぶさって、と解す。
3.3.17
うちつけに(ふか)からぬ(こころ)のほどと()たまふらむことわりなれど、(とし)ごろ(おも)ひわたる(こころ)のうちも、()こえ()らせむとてなむ
かかるをりを()()でたるも、さらに(あさ)くはあらじと、(おも)ひなしたまへ」
「突然のことで、一時の戯れ心とお思いになるのも、ごもっともですが、長年、恋い慕っていましたわたしの気持ちを、聞いていただきたいと思いまして。
このような機会を待ち受けていたのも、決していい加減な気持ちからではない深い前世からの縁と、お思いになって下さい」
「出来心のようにあなたは思うでしょう。もっともだけれど、私はそうじゃないのですよ。ずっと前からあなたを思っていたのです。それを聞いていただきたいのでこんな機会を待っていたのです。だからすべて皆前生の縁が導くのだと思ってください」 【うちつけに】- 以下「思ひなしたまへ」まで、源氏の詞。
【見たまふらむ】- 主語はあなた(空蝉)が。「たまふ」終止形+推量の助動詞「らむ」視界外推量を表す。下に「ことは」などの語句が省略、主格となって下文に続く。
【年ごろ思ひわたる心のうち】- 源氏の女を口説くときの常套句。
【聞こえ知らせむとてなむ】- 推量の助動詞「む」意志、係助詞「なむ」の下に「まゐりぬ」などの語句が省略。
【さらに浅くはあらじ】- 前の「深からぬ心のほど」と照応するが、またあなたとわたしの縁が浅くはない、の意も込められている。両義性をもった掛詞的な表現。副詞「さらに」は打消の助動詞「じ」と呼応して、決して、少しも、全然、の意を表す。
3.3.18
と、いとやはらかにのたまひて、鬼神(おにがみ)(あら)だつまじきけはひなればはしたなく、「ここに、(ひと)」とも、えののしらず
心地(ここち)はた、わびしく、あるまじきこと(おも)へば、あさましく、
と、とても優しくおっしゃって、鬼神さえも手荒なことはできないような態度なので、ぶしつけに「ここに、変な人が」とも、大声が出せない。
気分は辛く、あってはならない事だと思うと、情けなくなって、
柔らかい調子である。神様だってこの人には寛大であらねばならぬだろうと思われる美しさで近づいているのであるから、露骨に、
 「知らぬ人がこんな所へ」
 ともののしることができない。
 しかも女は情けなくてならないのである。
【鬼神も荒だつまじきけはひなれば】- 係助詞「も」強調を表す。猛々しく恐ろしい鬼神でさえも源氏の物腰には手荒なことができない、まして弱い女人の身では、のニュアンス。
【えののしらず】- 副詞「え」打消の助動詞「ず」と呼応して不可能の意を表す。大声を出すことができない。
【あるまじきこと】- 空蝉は人妻である。他の男性との逢瀬はあってはならないこと。
3.3.19
人違(ひとたが)へにこそはべるめれ」と()ふも(いき)(した)なり。
「お人違いでございましょう」と言うのもやっとである。
「人まちがえでいらっしゃるのでしょう」
 やっと、息よりも低い声で言った。
【人違へにこそはべるめれ】- 女の詞。係助詞「こそ」、推量の助動詞「めれ」已然形、主観的推量の意。係り結びの法則。強調のニュアンス。
3.3.20 消え入らんばかりにとり乱した様子は、まことにいたいたしく可憐なので、いい女だと御覧になって、
当惑しきった様子が柔らかい感じであり、可憐でもあった。 【消えまどへる気色、いと心苦しくらうたげなれば、をかし】- 源氏は、こうした状況下にある女とその態度に対して「いと心苦し」と思いやる一方で、自身「らうたげ」だと思いながら、そうした女に「をかし」と心惹かれていく。
3.3.21 「間違えるはずもない心の導きを、意外にも理解しても下さらずはぐらかしなさいますね。
好色めいた振る舞いは、決して致しません。
気持ちを少し申し上げたいのです」
「違うわけがないじゃありませんか。恋する人の直覚であなただと思って来たのに、あなたは知らぬ顔をなさるのだ。普通の好色者がするような失礼を私はしません。少しだけ私の心を聞いていただけばそれでよいのです」 【違ふべくもあらぬ】- 以下「聞こゆべきぞ」まで、源氏の詞。
【心のしるべを】- 格助詞「を」目的格を表す。
【思はずにもおぼめいたまふかな】- 「思はずにも」は、意外にも、理解せずに、の両義性をもった掛詞的表現。終助詞「かな」詠嘆を表す。
【よに見えたてまつらじ】- 副詞「よに」は下に打消推量の助動詞「じ」終止形、意志と呼応して、決して、の意を表す。
【聞こゆべきぞ】- 係助詞「ぞ」、文末にある場合、文全体を強調する。
3.3.22
とて、いと(ちひ)さやかなればかき(いだ)きて障子(さうじ)のもと()でたまふにぞ(もと)めつる中将(ちゅうじゃう)だつ人来(ひとき)あひたる。
と言って、とても小柄なので、抱き上げて襖障子までお出になるところへ、呼んでいた中将らしい女房が来合わせた。
と言って、小柄な人であったから、片手で抱いて以前の襖子の所へ出て来ると、さっき呼ばれていた中将らしい女房が向こうから来た。 【いと小さやかなれば】- 女の体つき。当時は小柄を美人とした。
【障子のもと出でたまふにぞ】- 「もと」の次に格助詞「に」場所が省略。係助詞「ぞ」は完了の助動詞「たる」連体形に係る、係り結びの法則。
3.3.23
やや」とのたまふにあやしくて(さぐ)()りたるにぞいみじく(にほ)ひみちて、(かほ)にもくゆりかかる心地(ここち)するに、(おも)()りぬ
あさましう、こはいかなることぞ(おも)ひまどはるれど、()こえむ(かた)なし。
並々(なみなみ)(ひと)ならばこそ(あら)らかにも()きかなぐらめ、それだに(ひと)のあまた()らむはいかがあらむ。
(こころ)(さわ)ぎて、(した)()たれど、(どう)もなくて(おく)なる御座(おまし)()りたまひぬ。
「これ、これ」とおっしゃると、不審に思って手探りで近づいたところ、大変に薫物の香があたり一面に匂っていて、顔にまで匂いかかって来るような感じがするので、理解がついた。
意外なことで、これはどうしたことかと、おろおろしないではいられないが、何とも申し上げようもない。
普通の男ならば、手荒に引き放すこともしようが、それでさえ大勢の人が知ったらどうであろうか。
胸がどきどきして、後からついて来たが、平然として、奥のご座所にお入りになった。
「ちょいと」
 と源氏が言ったので、不思議がって探り寄って来る時に、薫き込めた源氏の衣服の香が顔に吹き寄ってきた。中将は、これがだれであるかも、何であるかもわかった。情けなくて、どうなることかと心配でならないが、何とも異論のはさみようがない。並み並みの男であったならできるだけの力の抵抗もしてみるはずであるが、しかもそれだって荒だてて多数の人に知らせることは夫人の不名誉になることであって、しないほうがよいのかもしれない。こう思って胸をとどろかせながら従ってきたが、源氏の中将はこの中将をまったく無視していた。初めの座敷へ抱いて行って女をおろして、
【やや」とのたまふに】- 源氏が中将の君に、もしもし、と声を掛けた。
【あやしくて探り寄りたるにぞ】- 完了の助動詞「たる」連体形+接続助詞「に」順接+係助詞「ぞ」。「ぞ」は「心地する」に係るが、下文に続いて、結びの流れ。中将の君は不審に思って手探りで近付いたところ、の意。
【思ひ寄りぬ】- その声の主が源氏であると理解した。
【こはいかなることぞ】- 中将の君の心。係助詞「ぞ」、文末にある場合、文全体を強調する。源氏の君がわが主人の空蝉を抱いて部屋から連れ出そうとしているので。
【並々の人ならばこそ】- 以下「いかがはあらむ」まで、中将の君の心。係助詞「こそ」は「引きかなぐらめ」に係る、下文に続く逆接用法。
【それだに人のあまた知らむは】- 副助詞「だに」最小限を表す。推量の助動詞「む」婉曲を表す。
【動もなくて】- 主語は源氏。源氏の君の平然とした態度。
【奥なる御座】- 『評釈』は「端つ方の御座」に対して「母屋に設けられた源氏の寝所」と注す。『新大系』は「東の廂にある奥の座所。正式の寝所がしつらえられていたのだろうと言う」と注す。『古典セレクション』は「障子口の向こうの源氏の寝室にあてられた母屋の南半分」と注す。いずれにしても、紀伊守は源氏のために、「端つ方の御座」とは別に正式の寝所を準備していた。
3.3.24
障子(さうじ)をひきたてて、(あかつき)御迎(おほんむか)へにものせよ」とのたまへば、(をんな)は、この(ひと)(おも)ふらむことさへ()ぬばかりわりなきに、(なが)るるまで(あせ)になりて、いと(なや)ましげなるいとほしけれど、(れい)いづこより()()たまふ(こと)()にかあらむ、あはれ()らるばかり、(なさ)(なさ)けしくのたまひ()くすべかめれど、なほいとあさましきに
襖障子を引き閉てて、「明朝、お迎えに参られよ」とおっしゃるので、女は、この女房がどう思うかまでが、死ぬほど耐えられないので、流れ出るほどの汗びっしょりになって、とても悩ましい様子でいる、それは、気の毒であるが、例によって、どこから出てくる言葉であろうか、愛情がわかるほどに、優しく優しく、言葉を尽くしておっしゃるようだが、やはりまことに情けないので、
それから襖子をしめて、
 「夜明けにお迎えに来るがいい」
 と言った。中将はどう思うであろうと、女はそれを聞いただけでも死ぬほどの苦痛を味わった。流れるほどの汗になって悩ましそうな女に同情は覚えながら、女に対する例の誠実な調子で、女の心が当然動くはずだと思われるほどに言っても、女は人間の掟に許されていない恋に共鳴してこない。
【暁に御迎へにものせよ】- 源氏から中将の君への詞。「暁」は明朝早くの意。
【女は、この人の思ふらむことさへ】- 「女」は空蝉、「この人」は中将の君。推量の助動詞「らむ」視界外推量、副助詞「さへ」添加を表す。
【いと悩ましげなる】- 断定の助動詞「なる」連体中止法で下文に続く。
【例の】- 以下「べかめれど」まで、「例の」「にかあらむ」(疑問、推量)「べかめれど」(推量)は、語り手が源氏の態度に対して発したものである。挿入句。『湖月抄』は「地」と記して、いわゆる草子地であることを指摘する。
【なほいとあさましきに】- 主語は女に転じる。接続助詞「に」順接、原因理由を表す。やはりまことに情けないので。
3.3.25 「真実のこととは思われません。
しがない身の上ですが、お貶みなさったお気持ちのほどを、どうして浅いお気持ちと存ぜずにいられましょうか。
まことに、このような身分の女には、それなりの生き方がございます」
「こんな御無理を承ることが現実のことであろうとは思われません。卑しい私ですが、軽蔑してもよいものだというあなたのお心持ちを私は深くお恨みに思います。私たちの階級とあなた様たちの階級とは、遠く離れて別々のものなのです」 【現ともおぼえずこそ】- 以下「はべるなれ」まで、女の詞。係助詞「こそ」の下に「あれ」などの語が省略。
【思しくたしける】- 「くたす」は清音、「腐す」意。「下す」ではない。
【いかが浅くは思うたまへざらむ】- 反語表現。浅くは思わない、すなわち深く思う、の意。ただしかし、源氏の愛情を深く理解するというのではなく、源氏が私(空蝉)を蔑んだ気持ちが深い、というもの。『新大系』は「人数にも入らぬいやしいわが身のままであれ、その私を心から見下してこられた、あなたさまのお気持の程度につけてもどうして浅いと思い申さずにはいられよう。前頁に「さらに浅くはあらじ」とあった源氏の言葉を受けて、あなたの私への見下す心もまた浅からぬとせいいっぱい言い返す」と注す。『古典セレクション』でも「前文に源氏が「さらに浅くはあらじ」と言ったのを受けて、「心ばへ」の内容を自分に対する軽蔑にすりかえて、切り返したもの」と注す。
【かやうなる際は、際とこそはべなれ】- 「はべなれ」は「はべる」連体形の「る」が撥音便化してさらに無表記の形。断定の助動詞「なれ」已然形、係結びの法則。このようなしがない身分のわたしには、わたしらなりの、生き方というものがございます、源氏の君のような高貴な方とは無縁は世界の女です、の意。
3.3.26
とて、かくおし()ちたまへるを、(ふか)(なさ)けなく()しと(おも)()りたるさまも、げにいとほしく心恥(こころは)づかしきけはひなれば
と言って、このように無体なことをなさっているのを、深く思いやりがなく嫌なことだと思い込んでいる様子も、なるほど気の毒で、気後れがするほど立派な態度なので、
こう言って、強さで自分を征服しようとしている男を憎いと思う様子は、源氏を十分に反省さす力があった。 【げにいとほしく】- 源氏と語り手の気持ちが一体化した表現。
【心恥づかしきけはひなれば】- 女(空蝉)の態度。こちらが恥じ入るほど立派な態度。
3.3.27
その際々(きはぎは)まだ()らぬ、初事(うひごと)ぞや
なかなか、おしなべたる(つら)(おも)ひなしたまへるなむうたてありける。
おのづから()きたまふやうもあらむ。
あながちなる()(ごころ)は、さらにならはぬを。
さるべきにやげに、かくあはめられたてまつるもことわりなる(こころ)まどひを、みづからもあやしきまでなむ
「おっしゃる身分身分の違いを、まだ知りません、初めての事ですよ。
かえって、わたしを普通の人と同じように思っていらっしゃるのが残念です。
自然とお聞きになっているようなこともありましょう。
むやみな好色心は、まったく持ち合わせておりませんものを。
前世からの因縁でしょうか、おっしゃるように、このように軽蔑されいただくのも、当然なわが惑乱を、自分でも不思議なほどで」
「私はまだ女性に階級のあることも何も知らない。はじめての経験なんです。普通の多情な男のようにお取り扱いになるのを恨めしく思います。あなたの耳にも自然はいっているでしょう、むやみな恋の冒険などを私はしたこともありません。それにもかかわらず前生の因縁は大きな力があって、私をあなたに近づけて、そしてあなたからこんなにはずかしめられています。ごもっともだとあなたになって考えれば考えられますが、そんなことをするまでに私はこの恋に盲目になっています」 【その際々を】- 以下「あやしきまでなむ」まで、源氏の詞。
【初事ぞや】- 係助詞「ぞ」文末におかれて強調の意、間投助詞「や」詠嘆を表す。
【あながちなる好き心】- 「帚木」巻冒頭部に源氏の本性について、「さしもあだめき目馴れたるうちつけの好き好きしさなどは好ましからぬ御本性にてまれにはあながちに引き違へ心尽くしなることを御心に思しとどむる癖なむあやにくにて」とあった。源氏は口では否定しても性分では「あながちなる好き心」の人間である。
【さるべきにや】- 前世からの宿縁であろうか、の意。
【あはめられたてまつるも】- あなたからわたしが「あはめられ」、軽蔑される、見下される。謙譲の補助動詞「たてまつる」、いただく。「見下されいただく」とはおかしな言い方だが、語法としては適っている。嫌味な言い方をしたもの。
【あやしきまでなむ】- 係助詞「なむ」の下に「ある」連体形などの語が省略。
3.3.28
など、まめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなき(おほん)ありさまのいよいようちとけきこえむことわびしければ、すくよかに(こころ)づきなしとは()えたてまつるとも、さる(かた)()ふかひなきにて()ぐしてむと(おも)ひて、つれなくのみもてなしたり。
人柄(ひとがら)のたをやぎたるに、(つよ)(こころ)をしひて(くは)へたれば、なよ(たけ)心地(ここち)してさすがに()るべくもあらず。
などと、真面目になっていろいろとおっしゃるが、まことに類ないご立派さで、ますます打ち解け申し上げることが辛く思われるので、無愛想な気にくわない女だとお見受け申されようとも、そうしたつまらない女として押し通そうと思って、ただそっけなく身を処していた。
人柄がおとなしい性質なところに、無理に気強く張りつめているので、しなやかな竹のような感じがして、さすがにたやすく手折れそうにもない。
まじめになっていろいろと源氏は説くが、女の冷ややかな態度は変わっていくけしきもない。女は、一世の美男であればあるほど、この人の恋人になって安んじている自分にはなれない、冷血的な女だと思われてやむのが望みであると考えて、きわめて弱い人が強さをしいてつけているのは弱竹のようで、さすがに折ることはできなかった。 【いとたぐひなき御ありさまの】- 源氏の姿をさす。主語は女に転じる。格助詞「の」同格を表す。以下、空蝉の視点から語られていく。
【すくよかに】- 以下「過ぐしてむ」まで、女の心。
【さる方の言ふかひなきにて】- 「さる方」は「くよかに心づきなし」をさす。
【つれなくのみ】- 本心を隠してただそっけなくのみ振る舞っているというニュアンス。
【なよ竹の心地して】- 源氏には女がしなやかな竹のように感じられて。主語は源氏に転じる。『古典セレクション』は「次の「まことに--」の文文との間に、それまで拒み続けた女との間に、強姦に近い形で契りが果されたことが省かれている」と注す。
3.3.29 本当に辛く嫌な思いで、無理無体なお気持ちを、何とも言いようがないと思って、泣いている様子など、まことに哀れである。
気の毒ではあるが、逢わなかったら心残りであったろうに、とお思いになる。
気持ちの晴らしようもなく、情けないと思っているので、
真からあさましいことだと思うふうに泣く様子などが可憐であった。気の毒ではあるがこのままで別れたらのちのちまでも後悔が自分を苦しめるであろうと源氏は思ったのであった。
 もうどんなに勝手な考え方をしても救われない過失をしてしまったと、女の悲しんでいるのを見て、
【まことに心やましくて】- 主語は女。「まことに」は、心底からのニュアンス。「心やまし」は、不愉快、辛いのニュアンス。
【あながちなる御心ばへ】- 源氏の無理無体ななされようをさす。
【言ふ方なしと思ひて、泣くさまなど、いとあはれなり】- 女に諦め折れたさまが読み取れる。『紹巴抄』は「空心を双地」と、空蝉の心を草子地で表現した、と指摘する。「あはれなり」は、空蝉に対する語り手の評言である。
【心苦しくはあれど、見ざらましかば】- 主語は源氏。女に対する同情に気持ちはあるが、自己満足を優先させている。「ましかば」は下文の「まし」と呼応して、反実仮想の意を表す。
【慰めがたく、憂しと思へれば】- 女の態度。
3.3.30 「どうして、こうお嫌いになるのですか。
思いがけない逢瀬こそ、前世からの因縁だとお考えなさい。
むやみに男女の仲を知らない者のように、泣いていらっしゃるのが、とても辛い」と、恨み言をいわれて、
「なぜそんなに私が憎くばかり思われるのですか。お嬢さんか何かのようにあなたの悲しむのが恨めしい」
 と、源氏が言うと、
【など、かく】- 以下「いとつらき」まで、源氏の詞。
【疎ましきものにしも思す】- 副助詞「しも」強調。あなたはわたしを嫌な男とお思いになる。
【契りあるとは思ひたまはめ】- 推量の助動詞「め」已然形、「こそ」の係り結び。
【世を思ひ知らぬやうに】- 「世」は男女の仲。既に人妻であり男を知っていながらそれを知らない生娘のように、の意。
【おぼほれ】- 『集成』は「悲しみに沈んで」と訳し、『完訳』は「ぼんやりして」と訳す。『古典セレクション』『新大系』は「とぼけていらっしゃる」と訳す。涙にむせんで、何もわからなくなっているさま、というニュアンスであろう。
【恨みられて】- マ上二段動詞「恨む」未然形、受身の助動詞「られ」連用形。源氏の君から恨まれて、の文意。
3.3.31 「とてもこのような情けない身の運命が定まらない、昔のままのわが身で、このようなお気持ちを頂戴したのならば、とんでもない身勝手な希望ですが、愛していただける時もあろううかと存じて慰めましょうに、とてもこのような、一時の仮寝のことを思いますと、どうしようもなく心惑いされてならないのです。
たとえ、こうとなりましても、
「私の運命がまだ私を人妻にしません時、親の家の娘でございました時に、こうしたあなたの熱情で思われましたのなら、それは私の迷いであっても、他日に光明のあるようなことも思ったでございましょうが、もう何もだめでございます。私には恋も何もいりません。ですからせめてなかったことだと思ってしまってください」 【いとかく憂き身の】- 以下「見きとなかけそ」まで、女の詞。
【ありしながらの身にて】- 『異本紫明抄』は「取り返すものにもがなや世の中をありしながらのわが身と思はむ」<昔の時代に戻りたいものだ、そうしたら今のあなたとの関係も昔のままのわたしでと思おう、できぬことで残念だ>(出典未詳)を指摘する。
【かかる御心ばへを見ましかば】- 反実仮想の助動詞「ましか」未然形+接続助詞「ば」、「慰めまし」に係る。
【あるまじき我が頼みにて】- 挿入句。
【後瀬をも】- 『源氏釈』は「若狭なる後瀬の山の後に逢はむわが思ふ人にけふならずとも」(古今六帖二、国、一二七二)を指摘する。「若狭なる後瀬の山の」は「後に」に係る序詞。
【思ひたまへ慰めましを】- 謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形。反実仮想の助動詞「まし」連体形+接続助詞「を」逆接。
【たぐひなく思うたまへ惑はるるなり】- 「おもう」は「思ひ」連用形のウ音便形。謙譲の補助動詞「たまへ」下二段、連用形、自発の助動詞「るる」連体形、断定の助動詞「なり」終止形。
【よし、今は見きとなかけそ】- 副詞「よし」。『源氏釈』は「それをだに思ふこととて我が宿を見きとないひそ人の聞かくに」(古今集、恋五、八一一、読人しらず)を指摘する。過去の助動詞「き」終止形。副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。
3.3.32
とて、(おも)へるさま、げにいとことわりなり
おろかならず(ちぎ)(なぐさ)めたまふこと(おほ)かるべし。
と言って、悲しんでいる様子は、いかにも道理である。
並々ならず行く末を約束し慰めなさる言葉は、
と言う。悲しみに沈んでいる女を源氏ももっともだと思った。真心から慰めの言葉を発しているのであった。 【げにいとことわりなり】- 「げに」と同意し、「ことわりなり」と断定するのは、語り手の評言。『一葉抄』は「双紙の地也」と指摘し、『新釈』は「作者の空蝉の態度に対する批判であり、同情である。紫式部も人妻として当然なことをいつてゐるのである」と評す。
【おろかならず】- 以下「多かるべし」までの一文は、語り手の推量。『万水一露』は「双紙の批判の詞也」と指摘する。語り手は、その現場は見ていないが、きっとそうであったろう、という表現。
3.3.33
(とり)()きぬ
(ひと)びと()()でて、
鶏も鳴いた。
供びとが起き出して、
鶏の声がしてきた。家従たちも起きて、 【鶏も鳴きぬ】- 夜が明けた。人目に付かぬうちに別れなばならない。
3.3.34
「いといぎたなかりける()かな」
「ひどく寝過ごしてしまったなあ」
「寝坊をしたものだ。
3.3.35
御車(みくるま)ひき()でよ」
「お車を引き出せよ」
早くお車の用意をせい」
3.3.36
など()ふなり
(かみ)()()て、
などと言っているようだ。
紀伊守も起き出して来て、
そんな命令も下していた。 【など言ふなり】- 「言ふ」終止形+伝聞推定の助動詞「なり」。語り手の位置は部屋の中で、外の声を聞いているというふうである。
3.3.37
(をんな)などの御方違(おほんかたたが)へこそ。
夜深(よぶか)(いそ)がせたまふべきかは」など()ふもあり。
「女性などの方違えならばともかく。
暗いうちからお急きあそばさずとも」などと言っているのも聞こえる。
「女の家へ方違えにおいでになった場合とは違いますよ。早くお帰りになる必要は少しもないじゃありませんか」
 と言っているのは紀伊守であった。
【女などの】- 以下「急がせたまふへきかは」まで、紀伊守の詞。係助詞「こそ」の下に「急がめ」などの語句が省略されている。女性の方違えと男性の方違えでは帰る時刻が相違したものか、未詳。『集成』は「女などの」以下を紀伊守の詞とする。しかし『新大系』『古典セレクション』は下の「御方違へこそ」以下を、女房の詞と解す。
【急がせたまふべきかは】- 「せ」「たまふ」最高敬語。連語「かは」反語表現。
3.3.38
(きみ)またかやうのついであらむこともいとかたく、さしはへてはいかでか御文(おほんふみ)なども(かよ)はむことのいとわりなきを(おぼ)すに、いと(むね)いたし。
(おく)中将(ちゅうじゃう)()でて、いと(くる)しがれば、(ゆる)したまひても、また()きとどめたまひつつ
源氏の君は、再びこのような機会があろうこともとても難しいし、わざわざ訪れることはどうしてできようか、お手紙などもを通わすことはとても無理なことをお思いになると、ひどく胸が痛む。
奥にいた中将の君も出て来て、とても困っているので、お放しになっても、再びお引き留めになっては、
源氏はもうまたこんな機会が作り出せそうでないことと、今後どうして文通をすればよいか、どうもそれが不可能らしいことで胸を痛くしていた。女を行かせようとしてもまた引き留める源氏であった。 【君は】- 「思すに」に係る。その間に、源氏の心が挿入される。
【またかやうの】- 以下「いとわりなき」まで、源氏の心。
【さしはへてはいかでか】- 「さしはへて」の下に「訪れむこと」などの語句が省略。「いかでか」反語表現。
【いとわりなきを】- 「わりなき」までが源氏の心。それを「を」で受けて、地の文に続ける。したがって、現行の括弧では括れない、心と地とが融合した源氏物語特有の表現構造である。
【奥の中将】- 女房の中将の君。奥から出てきてのニュアンスを「奥の」と表す。語り手の位置もわかる。
【許したまひても、また引きとどめたまひつつ】- 「桐壺」巻の「輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず」という帝が更衣の里下がりをなかなか許そうとしない態度に類似する。
3.3.39
いかでか()こゆべき。
()()らぬ御心(みこころ)のつらさも、あはれも(あさ)からぬ()(おも)()は、さまざまめづらかなるべき(ためし)かな」
「どのようにして、お便りを差し上げたらよかろうか。
ほんとうに何とも言いようのない、あなたのお気持ちの冷たさといい、慕わしさといい、深く刻みこまれた思い出は、いろいろとめったにないことであったね」
「どうしてあなたと通信をしたらいいでしょう。あくまで冷淡なあなたへの恨みも、恋も、一通りでない私が、今夜のことだけをいつまでも泣いて思っていなければならないのですか」 【いかでか】- 以下「例かな」まで、源氏の詞。
【世に知らぬ】- 副詞「世に」程度のはなはだしいさまを表す。ほんとうに
【御心のつらさも、あはれも】- 『古典セレクション』は「あなたのつれなさにつけ、またわたしのせつなさにつけ」と訳す。
【浅からぬ世の思ひ出で】- 「浅からぬ世」は、男女の縁が浅くないという意と、夏の夜の短さを背後に響かせた表現となっている。
3.3.40
とて、うち()きたまふ気色(けしき)いとなまめきたり。
と言って、お泣きになる様子は、とても優美である。
泣いている源氏が非常に艶に見えた。
3.3.41
(とり)もしばしば()くに(こころ)あわたたしくて、
鶏もしきりに鳴くので、気もせかされて、
何度も鶏が鳴いた。 【鶏もしばしば鳴くに】- 前に「鶏も鳴きぬ」とあった。それからの時刻の経過と次の和歌を詠み出す契機となる。
3.3.42 「あなたの冷たい態度に恨み言を十分に言わないうちに夜もしらみかけ
鶏までが取るものも取りあえぬまであわただしく鳴いてわたしを起こそうとするのでしょうか」
つれなさを恨みもはてぬしののめに
とりあへぬまで驚かすらん
【つれなきを恨みも果てぬしののめに--とりあへぬまでおどろかすらむ】- 源氏の贈歌。「しののめ」は東の空の明らむ時刻、歌語。「とりあへぬ」に「鶏」と「取りあへぬ」を掛ける。推量の助動詞「らむ」原因推量を表す。どうして--するのだろうか、の意。第一句「つれなきを」の詠嘆の間投助詞「を」、第二句「恨みも果てぬ」の「ぬ」(打消の助動詞、終止形)というように、いずれも句が切れるかなり強い恨み言と詠嘆を詠み込んだ歌である。
3.3.43
(をんな)()のありさまを(おも)ふに、いとつきなくまばゆき心地(ここち)してめでたき(おほん)もてなしも、(なに)ともおぼえず、(つね)はいとすくすくしく(こころ)づきなしと(おも)ひあなづる伊予(いよ)(かた)(おも)ひやられて(ゆめ)にや()ゆらむ」と、そら(おそ)ろしくつつまし。
女は、わが身の上を思うと、まことに不似合いで眩しい気持ちがして、源氏の君の素晴らしいお持てなしも、何とも感ぜず、平生はとても生真面目過ぎて嫌な男だと侮っている伊予国の方角が思いやられて、「夢に現われやしないか」と思うと、何となく恐ろしくて気がひける。
あわただしい心持ちで源氏はこうささやいた。
 女は己を省みると、不似合いという晴がましさを感ぜずにいられない源氏からどんなに熱情的に思われても、これをうれしいこととすることができないのである。それに自分としては愛情の持てない良人のいる伊予の国が思われて、こんな夢を見てはいないだろうかと考えると恐ろしかった。
【いとつきなくまばゆき心地して】- 源氏を前にして感じた女の境遇や身分や容貌などのいずれも格段に劣ったみすぼらしさをいう表現である。「まばゆき心地」は恥ずかしくて顔を合せられない意。
【伊予の方の思ひやられて】- 明融臨模本「いよのかたの(の+ミ)」とあるが、「ミ」は後人による朱書の補入。大島本は「いよのかたの」とある。『集成』『新大系』は「伊予のかたの」。『古典セレクション』は「伊予の方のみ」と校訂。自発の助動詞「れ」連用形。
【夢にや見ゆらむ】- 空蝉の心中の思い。係助詞「や」疑問、推量の助動詞「らむ」連体形、視界外推量を表す。当時はものを思えば魂があくがれ出てその人の前に現れると信じられていた。「見ゆ」は現れる、意。わたしが伊予介の夢の中に。
3.3.44 「わが身の辛さを嘆いても嘆き足りないうちに明ける夜は
鶏の鳴く音に取り重ねて、
身の憂さを歎くにあかで明くる夜は
とり重ねても音ぞ泣かれける
【身の憂さを嘆くにあかで明くる夜は--とり重ねてぞ音もなかれける】- 女の返歌。係助詞「ぞ」は「詠嘆の助動詞「ける」連体形に係る、係り結びの法則。強調のニュアンスを添える。自発の助動詞「れ」連用形。源氏の「とりあへぬまで」の語句を受けて、「とりかさねてぞ」と返す。「とりかさね」に「鶏」と「取り重ね」を掛ける。
3.3.45
ことと(あか)くなれば、障子口(さうじぐち)まで(おく)りたまふ。
(うち)()人騒(ひとさわ)がしければ、()()てて(わか)れたまふほど、心細(こころぼそ)く、(へだ)つる(せき)()えたり。
ずんずんと明るくなるので、襖障子口までお送りになる。
家の内も外も騒がしいので、引き閉てて、お別れになる時、心細い気がして、仲を隔てる関のように思われた。
と言った。
 ずんずん明るくなってゆく。女は襖子の所へまで送って行った。奥のほうの人も、こちらの縁のほうの人も起き出して来たんでざわついた。襖子をしめてもとの席へ帰って行く源氏は、一重の襖子が越えがたい隔ての関のように思われた。
【引き立てて】- 襖障子を引き閉めて。
【隔つる関】- 『源氏釈』は「逢坂の名をば頼みてこしかども隔つる関のつらくもあるかな」(新勅撰集、恋二、七三三、読人しらず)を指摘する。『伊勢物語』にも「彦星に恋はまさりぬ天の川隔つる関を今はやめてよ」(九十五段)とある。歌語である。
3.3.46
御直衣(おほんなほし)など()たまひて、(みなみ)高欄(かうらん)しばしうち(なが)めたまふ。
西面(にしおもて)格子(かうし)そそき()げて、(ひと)びと(のぞ)くべかめる
簀子(すのこ)(なか)のほどに()てたる小障子(こさうじ)(かみ)より(ほの)かに()えたまへる(おほん)ありさまを、()にしむばかり(おも)へる()(ごころ)どもあめり
御直衣などをお召しになって、南面の高欄の側で少しの間眺めていらっしゃる。
西面の格子を忙しく上げて、女房たちが覗き見しているようである。
簀子の中央に立ててある小障子の上から、わずかにお見えになるお姿を、身に感じ入っている好色な女もいるようである。
直衣などを着て、姿を整えた源氏が縁側の高欄によりかかっているのが、隣室の縁低い衝立の上のほうから見えるのをのぞいて、源氏の美の放つ光が身の中へしみ通るように思っている女房もあった。 【南の高欄に】- 格助詞「に」場所を表す。高欄の側で、高欄に寄り掛かって、の意。
【人びと覗くべかめる】- 推量の助動詞「べか」連体形は「る」が撥音便化しさらに無表記の形。推量の助動詞「める」連体形は主観的推量を表す。語り手と源氏の目が一体になった推量、判断の表現。連体中止法で余情表現。
【好き心どもあめり】- 「ある」連体形の「る」が溌音便化してさらに無表記化された形。推量の助動詞「めり」主観的推量を表す。語り手と源氏の視覚が一体化して捉えた推量の表現。
3.3.47
(つき)有明(ありあけ)にて(ひかり)をさまれるものから、かげけざやかに()えてなかなかをかしき(あけぼの)なり。
何心(なにごころ)なき(そら)のけしきも、ただ()(ひと)から、(えん)にもすごくも()ゆるなりけり。
人知(ひとし)れぬ御心(みこころ)には、いと(むね)いたく、言伝(ことづ)てやらむよすがだになきをとかへりみがちにて()でたまひぬ。
月は有明で、光は弱くなっているとはいうものの、面ははっきりと見えて、かえって趣のある曙の空である。
無心なはずの空の様子も、ただ見る人によって、美しくも悲しくも見えるのであった。
人に言われぬお心には、とても胸痛く、文を通わす手立てさえないものをと、後ろ髪引かれる思いでお出になった。
残月のあるころで落ち着いた空の明かりが物をさわやかに照らしていた。変わったおもしろい夏の曙である。だれも知らぬ物思いを、心に抱いた源氏であるから、主観的にひどく身にしむ夜明けの風景だと思った。言づて一つする便宜がないではないかと思って顧みがちに去った。 【月は有明にて】- 西の空に残っている月。時刻の経過をも表す。
【かげけざやかに見えて】- 明融臨模本「かほ(ほ=け歟、ほ$)けさやかにみえて」とある。傍書の「け歟」は本文と一筆と見られる。ただしミセケチ「ヒ」は後人の朱筆。大島本は「かけさやかに見えて」とある。『集成』は「かほけざやかに見えて」(月のおもてはくっきりと)と校訂、『新大系』『古典セレクション』は「影さやかに見えて」と校訂する。明融臨模本の本文一筆の「け歟」に従う。
【艶にもすごくも見ゆる】- 『集成』は「色めかしい感じにも、またもの悲しい感じにも」と解し、『新大系』は「華やかにも殺風景にも」と解し、『古典セレクション』は「ほのぼのと美しくも、あるいは恐ろしくも」と解す。
【言伝てやらむよすがだになきをと】- 推量の助動詞「む」婉曲、副助詞「だに」最小限、間投助詞「を」詠嘆を表す。手紙を遣る手段さえない、まして直接逢うことは、というニュアンス。
3.3.48
殿(との)(かへ)りたまひてもとみにもまどろまれたまはず
またあひ()るべき(かた)なきをまして、かの(ひと)(おも)ふらむ(こころ)(うち)いかならむと、心苦(こころぐる)しく(おも)ひやりたまふ。
すぐれたることはなけれどめやすくもてつけてもありつる(なか)(しな)かな。
(くま)なく見集(みあつ)めたる(ひと)()ひしことは、げに」と(おぼ)()はせられけり
お邸にお帰りになっても、すぐにもお寝みになれない。
再び逢える手立てのないのが、自分以上に、あの女が悩んでいるであろう心の中は、どんなであろうかと、気の毒にご想像なさる。
「特に優れた所はないが、見苦しくなく身嗜みもとりつくろっていた中の品の女であったな。
何でもよく知っている人の言ったことは、なるほど」とうなずかれるのであった。
家へ帰ってからも源氏はすぐに眠ることができなかった。再会の至難である悲しみだけを自分はしているが、自由な男でない人妻のあの人はこのほかにもいろいろな煩悶があるはずであると思いやっていた。すぐれた女ではないが、感じのよさを十分に備えた中の品だ。だから多くの経験を持った男の言うことには敬服される点があると、品定めの夜の話を思い出していた。 【殿に帰りたまひても】- 二条院に。
【まどろまれたまはず】- 可能の助動詞「れ」連用形。
【あひ見るべき方なきを】- 接続助詞「を」逆接を表す。
【まして、かの人の】- 以下「いかならむ」まで、地の文から源氏の心の文へと融合したような表現。
【すぐれたることはなけれど】- 以下「げに」まで、源氏の心。
【隈なく見集めたる人】- 左馬頭をいう。
【思し合はせられけり】- 自発の助動詞「られ」連用形、詠嘆の助動詞「けり」。
3.3.49
このほどは大殿(おほいどの)のみおはします。
なほいとかき()えて(おも)ふらむことのいとほしく御心(みこころ)にかかりて、(くる)しく(おぼ)しわびて、紀伊守(きのかみ)()したり。
最近は左大臣邸にばかりいらっしゃる。
やはり、すっかりあれきり途絶えているので、思い悩んでいるであろうことが、気の毒にお心にかかって、心苦しく思い悩みなさって、紀伊守をお召しになった。
このごろはずっと左大臣家に源氏はいた。あれきり何とも言ってやらないことは、女の身にとってどんなに苦しいことだろうと中川の女のことがあわれまれて、始終心にかかって苦しいはてに源氏は紀伊守を招いた。 【このほどは】- 紀伊守邸から帰宅して以後の生活。場面は変わる。
【大殿に】- 左大臣邸。正妻の葵の上のもとに。
【なほいとかき絶えて】- 副詞「なほ」は「御心にかかりて」に係る。「かき絶えて」は挿入句。副詞「いと」は「苦しく思しわびて」に係る。
3.3.50
かの、ありし中納言(ちゅうなごん)()()させてむや
らうたげに()えしを
身近(みぢか)使(つか)(ひと)にせむ。
主上(うへ)にも我奉(われたてまつ)らむ」とのたまへば、
「あの、先日の故中納言の子は、わたしに下さらないか。
かわいらしげに見えたが。
身近に使う者としたい。
主上にも、
「自分の手もとへ、この間見た中納言の子供をよこしてくれないか。かわいい子だったからそばで使おうと思う。御所へ出すことも私からしてやろう」
 と言うのであった。
【かの、ありし中納言の子は】- 以下「我奉らむ」まで、源氏の詞。「中納言の子」は、前に「衛門督の末の子」とあった子。父は中納言兼衛門督であった。従三位相当官である。主上にもわたしから殿上童として差し上げたい、の意。
【得させてむや】- 使役の助動詞「させ」連用形、完了の助動詞「て」連用形、推量の助動詞「む」、係助詞「や」疑問を表す。
【らうたげに見えしを】- 過去の助動詞「し」連体形、間投助詞「を」詠嘆を表す。
3.3.51
いとかしこき(おほ)(ごと)にはべるなり。
(あね)なる(ひと)にのたまひみむ
「とても恐れ多いお言葉でございます。
姉に当たる人に仰せ言を申し聞かせてみましょう」
「結構なことでございます。あの子の姉に相談してみましょう」 【いとかしこき】- 以下「のたまひみむ」まで、紀伊守の詞。仰せ言をお伝えしてみましょう、の意。
【姉なる人にのたまひみむ】- 尊敬の動詞「のたまふ」四段は、「上位者との対話において、話者自身の支配下の身内をまたは目下に言い聞かせる意」(小学館古語大辞典)。
3.3.52 と、申し上げるにつけても、どきりとなさるが、
その人が思わず引き合いに出されたことだけででも源氏の胸は鳴った。 【胸つぶれて思せど】- その女のことが話題に出るだけで、源氏は胸がどきりとする。源氏のうぶさを表す。
3.3.53 「その姉君は、そなたの弟をお持ちか」
「その姉さんは君の弟を生んでいるの」 【その姉君は、朝臣の弟や持たる】- 源氏の問い。係助詞「や」疑問。「持たる」は「持ちたる」が約った語形。完了の助動詞「たる」連体形、係り結び。伊予介との夫婦間に子供がいるか、という問いを、あなたの異母弟がいるかと遠回しに尋ねた。「朝臣」は、あなたの意。敬称。
3.3.54
さもはべらず
この二年(ふたとせ)ばかりぞ、かくてものしはべれど、(おや)のおきて(たが)へりと(おも)(なげ)きて、(こころ)ゆかぬやうになむ、()きたまふる
「いえ、ございません。
この二年ほどは、こうして暮らしておりますが、父親の意向と違ったと嘆いて、気も進まないでいるように、聞いております」
「そうでもございません。この二年ほど前から父の妻になっていますが、死んだ父親が望んでいたことでないような結婚をしたと思うのでしょう。不満らしいということでございます」 【さもはべらず】- 以下「聞きたまふる」まで、紀伊守の答え。
【親のおきて】- 前に「宮仕へに出だしたてむと漏らし奏せし」とあったことをさす。
【聞きたまふる】- 謙譲の補助動詞「たまふる」連体形、係助詞「なむ」と係り結びの法則。
3.3.55 「気の毒なことよ。
まあまあの評判であった人だ。
本当に、
「かわいそうだね、評判の娘だったが、ほんとうに美しいのか」 【あはれのことや】- 以下「よしや」まで、源氏の詞。
【よろしく聞こえし人ぞかし】- 連語「ぞかし」文末に用いられて強く念を押す意。まずまずの器量よしとの評判の人であった、の意。しかし、空蝉の容貌は、『源氏物語』の中ではむしろ不器量の部類に入る人である。ここは、実際以上のお世辞を使って尋ねたものか。
【まことによしや】- 「よし」は「よろし」よりも良い意。『古典セレクション』は「ほの暗い所で逢ったので、源氏はよく見ていない。先夜女との間に何事もなかったと思わせ、かつ小君についての斡旋の底意を、守に勘づかせないための用意もあろう」と注す。
3.3.56
けしうははべらざるべし
もて(はな)れてうとうとしくはべれば、()のたとひにて(むつ)びはべらず」と(まう)す。
「悪くはございませんでしょう。
離れて疎遠に致しておりますので、世間の言い草のとおり、親しくしておりません」と申し上げる。
「さあ、悪くもないのでございましょう。年のいった息子と若い継母は親しくせぬものだと申しますから、私はその習慣に従っておりまして何も詳しいことは存じません」
 と紀伊守は答えていた。
【けしうははべらざるべし】- 以下「睦びはべらず」まで、紀伊守の詞。悪くはないでございましょう、の意。源氏に合わせた答え方。また、紀伊守の価値基準から見た答えであろう。源氏やこの物語の作者の評価基準とは異なる。
【世のたとひにて】- 継母と継子の関係は疎遠であるという世間一般の道理。

第四段 それから数日後

3.4.1
さて、五、六日(いつかむいか)ありてこの子率(こゐ)(まゐ)れり
こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさまして、あて(びと)()えたり
()()れて、いとなつかしく(かた)らひたまふ。
童心地(わらはごこち)に、いとめでたくうれしと(おも)ふ。
いもうとの(きみ)のことも(くは)しく()ひたまふ。
さるべきことは(いら)()こえなどして、()づかしげにしづまりたればうち()でにくし。
されど、いとよく()()らせたまふ
そうして、五、六日が過ぎて、この子を連れて参上した。
きめこまやかに美しいというのではないが、優美な姿をしていて、良家の子弟と見えた。
招き入れて、とても親しくお話をなさる。
子供心に、とても素晴らしく嬉しく思う。
姉君のことも詳しくお尋ねになる。
答えられることはお答え申し上げなどして、こちらが恥ずかしくなるほどきちんとかしこまっているので、ちょっと言い出しにくい。
けれど、とても上手にお話なさる。
紀伊守は五、六日してからその子供をつれて来た。整った顔というのではないが、艶な風采を備えていて、貴族の子らしいところがあった。そばへ呼んで源氏は打ち解けて話してやった。子供心に美しい源氏の君の恩顧を受けうる人になれたことを喜んでいた。姉のことも詳しく源氏は聞いた。返辞のできることだけは返辞をして、つつしみ深くしている子供に、源氏は秘密を打ちあけにくかった。けれども上手に嘘まじりに話して聞かせると、 【さて、五、六日ありて】- 逢瀬から五、六日後。
【この子率て参れり】- 主語は紀伊守。
【なまめきたるさまして、あて人と見えたり】- 源氏の目から見た判断である。小君が中納言兼衛門督の子という高貴な血筋の家柄であることを思わせる。
【いもうとの君】- 小君の姉君。
【恥づかしげにしづまりたれば】- 源氏が気恥ずかしくなるほど相手の小君が畏まっているので、の意。
【いとよく言ひ知らせたまふ】- 小君に彼の姉と源氏の間を手引きさせるべく言葉巧みに言い聞かせる意。
3.4.2
かかることこそはとほの心得(こころう)るも、(おも)ひの(ほか)なれど、(をさ)心地(ごこち)(ふか)くしもたどらず。
御文(おほんふみ)()()たれば(をんな)あさましきに(なみだ)()()
この()(おも)ふらむこともはしたなくて、さすがに、御文(おほんふみ)面隠(おもがく)しに(ひろ)げたり。
いと(おほ)くて、
このようなことであったかと、ぼんやりと分かるのも、意外なことではあるが、子供心に深くも考えない。
お手紙を持って来たので、女は、あまりのことに涙が出てしまった。
弟がどう思っていることだろうかときまりが悪くて、そうは言っても、お手紙で顔を隠すように広げた。
とてもたくさん書き連ねてあって、
そんなことがあったのかと、子供心におぼろげにわかればわかるほど意外であったが、子供は深い穿鑿をしようともしない。
 源氏の手紙を弟が持って来た。女はあきれて涙さえもこぼれてきた。弟がどんな想像をするだろうと苦しんだが、さすがに手紙は読むつもりらしくて、きまりの悪いのを隠すように顔の上でひろげた。さっきからからだは横にしていたのである。手紙は長かった。終わりに、
【かかることこそはと】- 小君の心。「こそは」の下に「ありけれ」などの語句が省略。源氏と姉君の間に何らかの関係が前々からあったのだ、という意。
【御文を持て来たれば】- 小君が源氏のもとから姉君の所へ。
【あさましきに涙も出で来ぬ】- 『新大系』は「激しい動揺や悔悟の念いから」と注す。
3.4.3 「夢が現実となったあの夜以来、
再び逢える夜があろうかと嘆いているうちに目までが合わさら
見し夢を逢ふ夜ありやと歎く間に
目さへあはでぞ頃も経にける
【見し夢を逢ふ夜ありやと嘆くまに--目さへあはでぞころも経にける】- 源氏の贈歌。「あふ」に「夢が合う」(正夢となる)と「あなたに逢ふ」を掛け、次の「あはで」に「目が合はない」(眠れない)と「あなたに逢えない」を掛ける。「あう」を二度用いた執念き歌である。
3.4.4 眠れる夜がないので」
安眠のできる夜がないのですから、夢が見られないわけです。 【寝る夜なければ】- 歌に添えたことば。明融臨模本は朱合点と「恋しさのなにゝつけてかなくさまん夢たにもみえすぬるよなけれは」という付箋あり。『源氏釈』は「恋しきを何につけてか慰めむ夢だに見えず寝る夜なければ」(拾遺集、恋二、七三五、源順)を指摘する。現実はもちろんのこと、夢の中でさえあなたに会えない、の意。
3.4.5
など、()(およ)ばぬ御書(おほんか)きざまも、()(ふた)がりて心得(こころえ)宿世(すくせ)うち()へりける()(おも)(つづ)けて()したまへり
などと、見たこともないほどの、素晴らしいご筆跡も、目も涙に曇って、不本意な運命がさらにつきまとう身の上を思い続けて臥せってしまわれた。
とあった。目もくらむほどの美しい字で書かれてある。涙で目が曇って、しまいには何も読めなくなって、苦しい思いの新しく加えられた運命を思い続けた。 【霧り塞がりて】- 譬喩表現。涙に目が曇って、の意。
【身を思ひ続けて臥したまへり】- 明融臨模本は「ふし給へりける」とあり、「ける」にミセケチ符号が付いている。女の態度に対して初めて敬語が付く。『評釈』は「この女とても自分の邸では多くの人にかしずかれる女主人公である。こういう敬語の出てくる場合、自邸内での女主人公としての女を、読者は感ずるのであろう、と思う」と注す。今や源氏の愛人の一人になったことによる待遇の変化であろう。
3.4.6 翌日、小君をお召しになっていたので、参上しますと言って、お返事を催促する。
翌日源氏の所から小君が召された。出かける時に小君は姉に返事をくれと言った。 【またの日、小君召したれば、参るとて御返り乞ふ】- 翌日、源氏が小君を呼び寄せていたので、小君は源氏のもとへ参上しようとして、その前に姉君に源氏への返事を催促した、という経緯。
3.4.7 「このようなお手紙を見るような人はいません、と申し上げなさい」
「ああしたお手紙をいただくはずの人がありませんと申し上げればいい」 【かかる御文見るべき人もなし、と聞こえよ】- 姉君の詞。
3.4.8 とおっしゃると、にこっと微笑んで、
と姉が言った。 【のたまへば】- 女の行為に対する敬語。二例め。
【うち笑みて】- 小君の表情。自信ある顔つき。
3.4.9
(たが)ふべくものたまはざりしものを。
いかが、さは(まう)さむ」
「人違いのようにはおっしゃらなかったのに。
どうして、そのように申し上げられましょうか」
「まちがわないように言っていらっしったのにそんなお返辞はできない」 【違ふべくも】- 以下「さは申さむ」まで、小君の詞。源氏の君がお間違いになっておっしゃるはずもない、の意。『新大系』は「人違いでもあるように(君は)おっしゃらなかったのに」と訳す。
3.4.10
()ふに、(こころ)やましく(のこ)りなくのたまはせ、()らせてける(おも)ふに、つらきこと(かぎ)りなし。
と言うので、不愉快に思い、すっかりおっしゃられ、知らせてしまったのだ、と思うと、辛く思われること、この上ない。
そう言うのから推せば秘密はすっかり弟に打ち明けられたものらしい、こう思うと女は源氏が恨めしくてならない。 【心やましく】- 弟小君の小生意気な言い方に対する感情。
【残りなくのたまはせ、知らせてける】- 女の心。源氏の君は弟の小君に自分と源氏の君との関係を。
3.4.11
いで、およすけたることは()はぬぞよき。
さは(まゐ)りたまひそ」とむつかられて
「いいえ、ませた口をきくものではありませんよ。
それなら、
「そんなことを言うものじゃない。大人の言うようなことを子供が言ってはいげない。お断わりができなければお邸へ行かなければいい」
 無理なことを言われて、弟は、
【いで】- 以下「な参りたまひそ」まで、姉君の詞。感動詞「いで」は他者の言動に対して否定する気持ちを表す。
【さは】- 接続詞「さは」それならばの意。『古典セレクション』では「さば」と濁音に読む。
【な参りたまひそ】- 副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。
【むつかられて】- 動詞「むつから」未然形+尊敬の助動詞「れ」連用形。
3.4.12
()すには、いかでか」とて、(まゐ)りぬ。
「お召しになるのに、どうして」と言って、参上した。
「呼びにおよこしになったのですもの、伺わないでは」
 と言って、そのまま行った。
【召すには、いかでか】- 小君のぶつぶつ言った詞。連語「いかでか」(副詞「いかで」+係助詞「か」)反語表現。下に「参らざらむ」などの語句が省略。どうして参上しないでいられましょう、の意。返事も持たないで参上する。
3.4.13
紀伊守(きのかみ)()(ごころ)にこの継母(ままはは)のありさまをあたらしきものに(おも)ひて、追従(ついそう)しありけば、この()をもてかしづきて、()てありく
紀伊守は、好色心をもってこの継母の様子をもったいない人と思って、何かとおもねっているので、この子も大切にして、連れて歩いている。
好色な紀伊守はこの継母が父の妻であることを惜しがって、取り入りたい心から小君にも優しくしてつれて歩きもするのだった。 【率てありく】- 紀伊守が小君を連れて行く。「紀伊守好き心に」以下「率てありく」まで、「参りぬ」の、補足説明的文が挿入されたもの。
3.4.14 源氏の君は、お召しになって、
小君が来たというので源氏は居間へ呼んだ。 【君、召し寄せて】- 源氏の君は小君を召し寄せて、の意。
3.4.15 「昨日一日中待っていたのに。
やはり、わたしほどには思ってくれないようだね」
「昨日も一日おまえを待っていたのに出て来なかったね。私だけがおまえを愛していても、おまえは私に冷淡なんだね」 【昨日】- 以下「なめり」まで、源氏の詞。「あひ」は源氏と小君の相互をさし、わたしはおまえを思っているのにおまえはわたしを思ってくれないようだ、の意。同性愛的関係の物言い。
【待ち暮らししを】- 「暮らし」連用形、過去の助動詞「し」連体形、接続助詞「を」逆接を表す。
【あひ思ふまじきなめり】- 打消推量の助動詞「まじき」連体形、「なめり」は断定の助動詞「なる」連体形+推量の助動詞「めり」の「る」が撥音便化してさらに無表記の形、「めり」は主観的推量を表す。
3.4.16
(ゑん)じたまへば、(かほ)うち(あか)めてゐたり
とお恨みになると、顔を赤らめて畏まっている。
恨みを言われて、小君は顔を赤くしていた。 【顔うち赤めてゐたり】- 主語は小君に変わる。
3.4.17
いづら」とのたまふに、しかしか(まう)すに、
「どこに」とおっしゃると、これこれしかじかです、と申し上げるので、
「返事はどこ」
 小君はありのままに告げるほかに術はなかった。
【いづら】- 源氏の詞。返事はどこに、の意。
【しかしか】- 小君の詞。語り手が言い換えた表現。これこれしかじかの理由でいただけませんでした、の意。『岩波古語辞典』に「江戸時代以後シカジカと濁音化した」とある。『古典セレクション』は「しかじか」と濁音に読む。
3.4.18 「だめだね。
呆れた」と言って、またもお与えになった。
「おまえは姉さんに無カなんだね、返事をくれないなんて」
 そう言ったあとで、また源氏から新しい手紙が小君に渡された。
【言ふかひなのことや。あさまし】- 源氏の詞。「言ふかひなし」の約。間投助詞「や」詠嘆。
【またも賜へり】- 再び手紙をお与えになった。係助詞「も」は強調のニュアンスを添える。
3.4.19
あこは()らじな
その伊予(いよ)(おきな)よりは、(さき)()(ひと)
されど、(たの)もしげなく頚細(くびほそ)とて、ふつつかなる後見(うしろみ)まうけて、かく(あなづ)りたまふなめり
さりとも、あこはわが()にてをあれよ
この(たの)もし(びと)は、()先短(さきみじか)かりなむ
「おまえは知らないのだね。
わたしはあの伊予の老人よりは、先に関係していた人だよ。
けれど、頼りなく弱々しいといって、不恰好な夫をもって、このように馬鹿になさるらしい。
そうであっても、おまえはわたしの子でいてくれよ。
あの頼りにしている人は、どうせ老い先短いでしょう」
「おまえは知らないだろうね、伊予の老人よりも私はさきに姉さんの恋人だったのだ。頸の細い貧弱な男だからといって、姉さんはあの不恰好な老人を良人に持って、今だって知らないなどと言って私を軽蔑しているのだ。けれどもおまえは私の子になっておれ。姉さんがたよりにしている人はさきが短いよ」 【あこは知らじな】- 以下「短かりなむ」まで、源氏の詞。「あこ」は目下の者に対する親愛の情をこめた呼びかけ。打消推量の助動詞「じ」終止形+終助詞「な」詠嘆を表す。
【先に見し人ぞ】- 「見し」(動詞「見」連用形+過去の助動詞「し」連体形)は、関係をもった、契りを結んだ、の意。係助詞「ぞ」文末にあって文全体を強調する。
【頼もしげなく頚細し】- 空蝉が源氏を評した言として、源氏が引用した文である。首が細い。頼りない、の意のニュアンスがある。源氏の容貌姿態を表現とすれば珍しい箇所である。
【かく侮りたまふなめり】- 主語は空蝉。「なめり」は断定の助動詞「なる」連体形の「る」が撥音便化してさらに無表記の形+推量の助動詞「めり」主観的推量。
【あこはわが子にてをあれよ】- 間投助詞「を」詠嘆、間投助詞「よ」呼びかけの意を表す。
【行く先短かりなむ】- 形容詞「短かり」連用形+完了の助動詞「な」未然形、確述の意+推量の助動詞「む」推量。どうせこの先長いことないでしょうよ、の意。
3.4.20 とおっしゃると、「そういうこともあったのだろうか、大変なことだな」と思っているのを、「かわいいい」とお思いになる。
と源氏がでたらめを言うと、小君はそんなこともあったのか、済まないことをする姉さんだと思う様子をかわいく源氏は思った。 【さもやありけむ、いみじかりけることかな】- 小君の心中の思い。係助詞「や」、過去推量の助動詞「けむ」連体形。終助詞「かな」詠嘆を表す。
【と思へる、「をかし」と思す】- 完了の助動詞「る」連体中止法、そのまま下文の目的格になる。
3.4.21
この()をまつはしたまひて内裏(うち)にも()(まゐ)りなどしたまふ。
わが御匣殿(みくしげどの)にのたまひて、装束(さうぞく)などもせさせまことに(おや)めきてあつかひたまふ。
この子を連れて歩きなさって、内裏にも連れて参上などなさる。
ご自分の御匣殿にお命じになって、装束なども調達させ、本当に親のように面倒見なさる。
小君は始終源氏のそばに置かれて、御所へもいっしょに連れられて行ったりした。源氏は自家の衣裳係に命じて、小君の衣服を新調させたりして、言葉どおり親代わりらしく世話をしていた。 【この子をまつはしたまひて】- 主語は源氏。
【御匣殿】- 摂関家などの上流貴族の家では裁縫する建物を自前で持っていた。それを宮中の貞観殿にあった裁縫所の呼び名に倣って同様に呼称した。
【装束などもせさせ】- 童殿上の装束。使役の助動詞「させ」連用形。
【まことに親めきて】- 「まことに」は「あこはわが子にてあれよ」を受ける。語り手の感想を交えた表現である。
3.4.22
御文(おほんふみ)(つね)にあり
されど、この()もいと(をさな)(こころ)よりほかに()りもせば軽々(かろがろ)しき()さへとり()へむ()のおぼえをいとつきなかるべく(おも)へばめでたきこともわが()からこそ(おも)ひて、うちとけたる御答(おほんいら)へも()こえず。
ほのかなりし(おほん)けはひありさまは、げに、なべてにやは」と、(おも)()できこえぬにはあらねど、をかしきさまを()えたてまつりても(なに)にかはなるべき」など、(おも)(かへ)すなりけり。
お手紙はいつもある。
けれど、この子もとても幼い、うっかり落としでもしたら、軽々しい浮名まで背負い込む、我が身の風評も相応しくなく思うと、幸せも自分の身分に合ってこそはと思って、心を許したお返事も差し上げない。
ほのかに拝見した感じやご様子は、「本当に、並々の人ではなく素晴らしかった」と、思い出し申さずにはいられないが、「お気持ちにお応え申しても、今さら何になることだろうか」などと、考え直すのであった。
女は始終源氏から手紙をもらった。けれども弟は子供であって、不用意に自分の書いた手紙を落とすようなことをしたら、もとから不運な自分がまた正しくもない恋の名を取って泣かねばならないことになるのはあまりに自分がみじめであるという考えが根底になっていて、恋を得るということも、こちらにその人の対象になれる自信のある場合にだけあることで、自分などは光源氏の相手になれる者ではないと思う心から返事をしないのであった。ほのかに見た美しい源氏を思い出さないわけではなかったのである。真実の感情を源氏に知らせてもさて何にもなるものでないと、苦しい反省をみずから強いている女であった。 【御文は常にあり】- 空蝉の側に立った語り。
【この子もいと幼し】- 以下「いとつきなかるべく」まで、女の心。しかし、冒頭は「されど」「この子も」云々というように、地の文と空蝉の心の文が融合したような表現で始まる。
【心よりほかに散りもせば】- 源氏への返事を。サ変動詞「せ」未然形+接続助詞「ば」順接の仮定条件。
【軽々しき名さへとり添へむ】- 副助詞「さへ」添加は、身を受領の後妻に落とした上に源氏の君との不倫の噂まで立てたら、意。推量の助動詞「む」について、『集成』は、連体中止法。『古典セレクション』と『新大系』は連体形で「身」に係けて読む。
【つきなかるべく思へば】- 「つきなかるべく」が「思へば」を修飾しているように、心の文が地の文に融合した表現。いわば間接話法的心の文である。
【めでたきこともわが身からこそ】- 女の心。「わが身からこそ」について、『集成』は「結構なことも自分の身分次第のことなのだ」と解す。自分の身分が相手の身分に適う意であろう。
【ほのかなりし御けはひ】- 女の目や体験を通しての叙述。源氏の様子や態度について。過去の助動詞「し」連体形は自らの直接体験を表す助動詞。
【げに、なべてにやは】- 副詞「げに」は世間の噂通りだと納得する女の気持ちの現れ。女の心を語る。係助詞「やは」反語を表す。下に「おはせむ」などの語句が省略。
【をかしきさまを見えたてまつりても】- 源氏の愛情に対して、自分の気持ちをお応え申し上げたとしても、というニュアンス。
【何にかはなるべき】- 係助詞「かは」反語表現を表す。
3.4.23
(きみ)(おぼ)しおこたる(とき)()もなく心苦(こころぐる)しくも(こひ)しくも(おぼ)()づ。
(おも)へりし気色(けしき)などのいとほしさも()るけむ(かた)なく(おぼ)しわたる。
軽々(かろがろ)しく()(まぎ)()()りたまはむも、人目(ひとめ)しげからむ(ところ)便(びん)なき()()ひやあらはれむと(ひと)のためもいとほしく、(おぼ)しわづらふ。
源氏の君は、お忘れになる時の間もなく、心苦しくも恋しくもお思い出しになる。
悩んでいた様子などのいじらしさも、払い除けようもなく思い続けていらっしゃる。
軽々しくひそかに隠れてお立ち寄りなさるのも、人目の多い所で、不都合な振る舞いを見せはしまいかと、相手にも気の毒である、と思案にくれていらっしゃる。
源氏はしばらくの間もその人が忘られなかった。気の毒にも思い恋しくも思った。女が自分とした過失に苦しんでいる様子が目から消えない。本能のおもむくままに忍んであいに行くことも、人目の多い家であるからそのことが知れては困ることになる、自分のためにも、女のためにもと思っては煩悶をしていた。 【君は思しおこたる時の間もなく】- 以下は源氏についての語り。
【思へりし気色などのいとほしさも】- 空蝉がつらそうに悩んでいた様子を。形容詞「いとほし」は、かわいい、いじらしい、気の毒だ、不憫だ、などの幅広い意味がある。一義的には現代語訳できない。
【人目しげからむ所に】- 以下「いとほしく」まで、源氏の心を語る。しかし、その前の「這ひ紛れ立ち寄り」あたりから源氏の心のような文であるが、「立ち寄りたまはむも」と敬語があるので、地の文である。源氏の心に添った描写である。
【あらはれむと】- 明融臨模本「あら(ら+はれ)むと」とある。「補入「はれ」は本文と一筆みられ、親本の定家本にも補入の形で存在したものと思われる。大島本も「あらハれんと」とある。『古典セレクション』は他本に従って「あらはれむ」と校訂する。『集成』『新大系』は「あらはれむと」。
3.4.24 例によって、内裏に何日もいらっしゃるころ、都合のよい方違えの日をお待ちになる。
急に退出なさるふりをして、途中からお越しになった。
例のようにまたずっと御所にいた頃、源氏は方角の障りになる日を選んで、御所から来る途中でにわかに気がついたふうをして紀伊守の家へ来た。 【例の、内裏に日数経たまふころ】- 「例の」は「帚木」冒頭の「内裏にのみさぶらひようしたまひて、大殿には絶え絶えまかでたまふ」という源氏の生活態度をさす。
【さるべき方の忌み待ち出でたまふ】- 『評釈』によれば「中神」は中央に十六日間、次に四方に五日間ずつ、四隅に六日間ずつ遊行し、六十日で一巡するという。宮中から左大臣邸が方塞がりとなり紀伊守邸に方違えするのに都合の良い日。『古典セレクション』は「前の紀伊守邸への方違え後、暦のうえからいえば、中神の巡行周期の約六十日がたっているはずで、陰暦七月、初秋のころとなるが、文の内容からいえばやはり夏で、やや不審」と注す。
【にはかにまかでたまふまねして】- 源氏は左大臣邸へ行くように見せて、途中から中川の紀伊守邸へ行く。
3.4.25
紀伊守(きのかみ)おどろきて、遣水(やりみづ)面目(めいぼく)とかしこまり(よろこ)ぶ。
小君(こぎみ)には、(ひる)より、かくなむ(おも)ひよれる」とのたまひ(ちぎ)れり。
()()れまつはし()らしたまひければ、今宵(こよひ)もまづ()()でたり。
紀伊守は驚いて、先日の遣水を光栄に思い、恐縮し喜ぶ。
小君には、昼から、「こうしようと思っている」とお約束なさっていた。
朝に夕に連れ従えていらっしゃったので、今宵も、まっさきにお召しになっていた。
紀伊守は驚きながら、
 「前栽の水の名誉でございます」
 こんな挨拶をしていた。小君の所へは昼のうちからこんな手はずにすると源氏は言ってやってあって、約束ができていたのである。
 始終そばへ置いている小君であったから、源氏はさっそく呼び出した。
【遣水の面目】- 遣水がお気に召した光栄、実は女を提供したこと、の意。
【かくなむ思ひよれる】- 源氏の詞を間接話法的に表現した。紀伊守邸に行き女に再び逢うつもりでいることを告げる。
3.4.26
(をんな)も、さる御消息(おほんせうそこ)ありけるに、(おぼ)したばかりつらむほどは(あさ)くしも(おも)ひなされねどさりとてうちとけ、(ひと)げなきありさまを()えたてまつりても、あぢきなく(ゆめ)のやうにて()ぎにし(なげ)きを、またや(くは)へむ、(おも)(みだ)れて、なほさて()ちつけきこえさせむことのまばゆければ、小君(こぎみ)()でて()ぬるほどに、
女も、そのようなお手紙があったので、工夫をこらしなさるお気持ちのほどは、浅いものとは思われないが、そうだからといって、気を許して、みっともない様をお見せ申すのも、つまらなく、夢のようにして過ぎてしまった嘆きを、さらにまた味わおうとするのかと、思い乱れて、やはりこうしてお待ち受け申し上げることが気恥ずかしいので、小君が出て行った間に、
女のほうへも手紙は行っていた。自身に逢おうとして払われる苦心は女の身にうれしいことではあったが、そうかといって、源氏の言うままになって、自己が何であるかを知らないように恋人として逢う気にはならないのである。夢であったと思うこともできる過失を、また繰り返すことになってはならぬとも思った。妄想で源氏の恋人気どりになって待っていることは自分にできないと女は決めて、小君が源氏の座敷のほうへ出て行くとすぐに、 【さる御消息】- 源氏が小君に言った内容、すなわち今夜訪れるという事。この文遣いをしたのは小君である。
【思したばかりつらむほどは】- 主語は源氏。完了の助動詞「つ」終止形、完了の意+推量の助動詞「らむ」連体形、視界外推量の意。正妻の葵の上を欺いてやって来る源氏の気持ち。
【浅くしも思ひなされねど】- 主語は空蝉。副助詞「しも」強調、可能の助動詞「れ」未然形、打消の助動詞「ね」已然形+接続助詞「ど」逆接。
【さりとて】- 以下「またや加へむ」まで、女の心を語る。「さりとて」は接続詞。
【あぢきなく】- 「またや加へむ」に係る。
【なほさて】- 「なほ」は「まばゆければ」に係る。「さて」は、源氏の手紙に言いなりにの意。
3.4.27
いとけ(ぢか)ければかたはらいたし。
なやましければ、(しの)びてうち(たた)かせなどせむに、ほど(はな)れてを
「とても近いので、気が引けます。
気分が悪いので、こっそりと肩腰を叩かせたりしたいので、少し離れた所でね」
「あまりお客様の座敷に近いから失礼な気がする。私は少しからだが苦しくて、腰でもたたいてほしいのだから、遠い所のほうが都合がよい」 【いとけ近ければ】- 以下「ほど離れてを」まで、空蝉の詞。周囲の女房に言ったもの。客人の源氏の御座所と大変に近い位置なので、の意。
【ほど離れてを】- 間投助詞「を」詠嘆の意。
3.4.28
とて、渡殿(わたどの)に、中将(ちゅうじゃう)といひしが(つぼね)したる(かく)れに(うつ)ろひぬ。
と言って、渡殿に、中将の君といった者が部屋を持っていた奥まった処に、移ってしまった。
と言って、渡殿に持っている中将という女房の部屋へ移って行った。 【中将といひしが局したる隠れに】- 「中将」は前出の女房。過去の助動詞「し」連体形、下に「者」などの語が省略。格助詞「が」主格。
3.4.29
さる(こころ)して(ひと)とく(しづ)めて、御消息(おほんせうそこ)あれど、小君(こぎみ)(たづ)ねあはず。
よろづの所求(ところもと)(あり)きて、渡殿(わたどの)()()りて、からうしてたどり()たり。
いとあさましくつらし(おも)ひて、
そのつもりで、供人たちを早く寝静まらせて、お便りなさるが、小君は尋ね当てられない。
すべての場所を探し歩いて、渡殿に入りこんで、やっとのことで探し当てた。
ほんとうにあんまりなひどい、と思って、
初めから計画的に来た源氏であるから、家従たちを早く寝させて、女へ都合を聞かせに小君をやった。小君に姉の居所がわからなかった。やっと渡殿の部屋を捜しあてて来て、源氏への冷酷な姉の態度を恨んだ。 【さる心して】- 源氏は空蝉に逢う魂胆で。
【からうして】- 「カラウシテ[Caroxite]」(日葡辞書補遺)。『集成』と『新大系』は清音。『古典セレクション』は「からうじて」と濁音に読む。
【いとあさましくつらし】- 小君の心。
3.4.30
いかにかひなしと(おぼ)さむ」と、()きぬばかり()へば、
「どんなにか、役立たずな者と、お思いになるでしょう」と、泣き出してしまいそうに言うと、
「こんなことをして、姉さん。どんなに私が無力な子供だと思われるでしょう」
 もう泣き出しそうになっている。
【いかにかひなしと思さむ】- 小君の詞。「思す」の主語は源氏。
3.4.31 「このような、不埒な考えは、持っていいものですか。
子供がこのような事を取り次ぐのは、ひどく悪いことと言うのに」ときつく言って、「『気分がすぐれないので、女房たちを側に置いて揉ませております』とお伝え申し上げなさい。
変だと皆が見るでしょう」
「なぜおまえは子供のくせによくない役なんかするの、子供がそんなことを頼まれてするのはとてもいけないことなのだよ」
 としかって、
 「気分が悪くて、女房たちをそばへ呼んで介抱をしてもらっていますって申せばいいだろう。皆が怪しがりますよ、こんな所へまで来てそんなことを言っていて」
【かく、けしからぬ心ばへは】- 以下「忌むなるものを」まで、姉君の詞。小君を戒める。
【つかふものか】- 動詞「つかふ」連体形+終助詞「ものか」反語表現。諌める気持ちを表す。
【忌むなるものを】- 「忌む」終止形+伝聞推定の助動詞「なる」連体形+接続助詞「ものを」逆接の意を表す。
【心地悩ましければ】- 以下「見るらむ」まで、姉君の詞。途中「おさへさせてなむ」まで、小君に源氏へ言わせた伝言。
【人びと避けず】- 女房たちを側に置いての意。
【おさへさせてなむ】- 使役の助動詞「させ」連用形、接続助詞「て」、係助詞「なむ」、下に「はべる」連体形などの語が省略。
【聞こえさせよ】- 源氏に申し上げなさい。「聞こえさす」は「聞こゆ」より一段と謙った謙譲語。
【あやしと誰も誰も見るらむ】- 『集成』は「お前がこんな所にうろうろしていては」と注す。「見るらむ」について、明融臨模本、大島本、松浦本は「みるらむ」とある。池田本、伝冷泉為秀筆本と書陵部本は「思らん」とある。三条西家本は「みる」をミセケチにして「思」と訂正する。
3.4.32
()(はな)ちて(こころ)(うち)には、いと、かく品定(しなさだ)まりぬる()のおぼえならで、()ぎにし(おや)(おほん)けはひとまれるふるさとながら、たまさかにも()ちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし
しひて(おも)()らぬ(かほ)見消(みけ)つも、いかにほど()らぬやうに(おぼ)すらむ」と、(こころ)ながらも(むね)いたく、さすがに(おも)(みだ)る。
とてもかくても(いま)()ふかひなき宿世(しゅくせ)なりければ、無心(むじん)(こころ)づきなくて()みなむ」と(おも)()てたり。
とつっぱねたが、心中では、「ほんとうに、このように身分の定まってしまった身の上でなく、亡くなった親の御面影の残っている邸にいたままで、たまさかにでもお待ち申し上げるならば、喜んでそうしたいところであるが。
無理にお気持ちを分からないふうを装って無視したのも、どんなにか身の程知らぬ者のようにお思いになるだろう」と、心に決めたものの、胸が痛くて、そうはいってもやはり心が乱れる。
「どっちみち、今はどうにもならない運命なのだから、非常識な気にくわない女で、押しとおそう」と思い諦めた。
取りつくしまもないように姉は言うのであったが、心の中では、こんなふうに運命が決まらないころ、父が生きていたころの自分の家へ、たまさかでも源氏を迎えることができたら自分は幸福だったであろう。しいて作るこの冷淡さを、源氏はどんなにわが身知らずの女だとお思いになることだろうと思って、自身の意志でしていることであるが胸が痛いようにさすがに思われた。どうしてもこうしても人妻という束縛は解かれないのであるから、どこまでも冷ややかな態度を押し通して変えまいという気に女はなっていた。 【言ひ放ちて】- 接続助詞「て」は、逆接の文脈で使われている。
【いと、かく】- 以下「思すらむ」まで、空蝉の心。
【をかしうもやあらまし】- 間投助詞「や」詠嘆を表す。「まし」反実仮想の助動詞。
【心ながらも】- 空蝉が自分から思い決めたことながら、の意。
【とてもかくても】- 以下「止みなむ」まで、空蝉の心。
【無心に】- 明融臨模本「し」の左側に朱筆で濁点を付けている。『集成』『古典セレクション』は濁音「むじん」と読む。『新大系』は清音「むしん」と読む。
3.4.33
(きみ)は、いかにたばかりなさむと、まだ(をさな)きをうしろめたく()()したまへるに、不用(ふよう)なるよしを()こゆれば、あさましくめづらかなりける(こころ)のほどを、()もいと()づかしくこそなりぬれ」と、いといとほしき御気色(みけしき)なり。
とばかりものものたまはず、いたくうめきて、()しと(おぼ)したり。
源氏の君は、どのように手筈を調えるかと、まだ小さいので不安に思いながら横になって待っていらっしゃると、不首尾である旨を申し上げるので、驚くほどにも珍しかった強情さなので、「わが身までがまことに恥ずかしくなってしまった」と、とてもお気の毒なご様子である。
しばらくは何もおっしゃらず、ひどく嘆息なさって、辛いとお思いになっていた。
源氏はどんなふうに計らってくるだろうと、頼みにする者が少年であることを気がかりに思いながら寝ているところへ、だめであるという報せを小君が持って来た。女のあさましいほどの冷淡さを知って源氏は言った。
 「私はもう自分が恥ずかしくってならなくなった」
 気の毒なふうであった。それきりしばらくは何も言わない。そして苦しそうに吐息をしてからまた女を恨んだ。
【いかにたばかりなさむ】- 小君がどのように手筈を整えるだろうか。源氏の心。
【身もいと恥づかしくこそなりぬれ】- 源氏の心。面目丸つぶれだ、の意。
3.4.34 「近づけば消えるという帚木のような、
あなたの心も知
帚木の心を知らでその原の
道にあやなくまどひぬるかな
【帚木の心を知らで園原の--道にあやなく惑ひぬるかな】- 源氏から空蝉への贈歌。「帚木」は歌語。信濃国の園原の伏屋に生えていたという箒を逆さにしたような恰好をした木で、遠くから見ると見えるが、側に近づくと消えてしまうという伝説上の木。『異本紫明抄』は「園原や伏屋に生ふる帚木のありとは見えて逢はぬ君かな」(古今六帖五、くれどあはず、三〇一九、坂上是則)を指摘する。空蝉を喩える。
3.4.35 申し上げるすべもありません」
今夜のこの心持ちはどう言っていいかわからない、と小君に言ってやった。 【聞こえむ方こそなけれ】- 歌に添えた言葉。
3.4.36
とのたまへり。
(をんな)さすがに、まどろまざりければ、
と詠んで贈られた。
女も、やはり、まどろむこともできなかったので、
女もさすがに眠れないで悶えていたのである。それで、 【女も】- 係助詞「も」は源氏と同様の気持ちでいることを表す。
3.4.37 「しがない境遇に生きるわたしは情けのうございますから
見えても触れられない帚木のようにあなたの前から姿を消すのです」
数ならぬ伏屋におふる身のうさに
あるにもあらず消ゆる帚木
【数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに--あるにもあらず消ゆる帚木】- 空蝉から源氏への返歌。贈歌の「帚木」の語句を受け、「園原」の原歌にちなむ「伏屋」の語句を用いて答える。空蝉の教養の高さを示す。『新大系』は「低い身分のうちにはかなく消えてゆく自分を嘆く」と注す。
3.4.38
()こえたり。
とお答え申し上げた。
という歌を弟に言わせた。
3.4.39 小君が、とてもお気の毒に思って眠けを忘れてうろうろと行き来するのを、女房たちが変だと思うだろう、と心配なさる。
小君は源氏に同情して、眠がらずに往ったり来たりしているのを、女は人が怪しまないかと気にしていた。 【いといとほしさに】- 源氏の君を気の毒に思って。
【まどひ歩く】- 源氏と姉君との間をうろうろと往復する。
【人あやしと見るらむ】- 空蝉の心。「人」は女房たち。推量の助動詞「らむ」視界外推量を表す。
【わびたまふ】- 主語は空蝉。「たまふ」という敬語が付く。源氏の愛人の一人としての待遇であろう。
3.4.40
(れい)の、(ひと)びとはいぎたなきに一所(ひとところ)すずろにすさまじく(おぼ)(つづ)けらるれど(ひと)()(こころ)ざまのなほ()えず()(のぼ)れりけるとねたく、かかるにつけてこそ(こころ)もとまれと、かつは(おぼ)しながら、めざましくつらければ、さばれと(おぼ)せども、さも(おぼ)()つまじく、
例によって、供人たちは眠りこけているが、お一方はぼうっと白けた感じで思い続けていらっしゃるが、他の女と違った気の強さが、やはり消えるどころかはっきり現れている、と悔しく、こういう女であったから心惹かれたのだと、一方ではお思いになるものの、癪にさわり情けないので、ええいどうともなれとお思いになるが、そうともお諦めきれず、
いつものように酔った従者たちはよく眠っていたが、源氏一人はあさましくて寝入れない。普通の女と変わった意志の強さのますます明確になってくる相手が恨めしくて、もうどうでもよいとちょっとの間は思うがすぐにまた恋しさがかえってくる。 【人びとはいぎたなきに】- 形容詞「いぎたなき」連体形+接続助詞「に」逆接を表す。
【一所すずろにすさまじく思し続けらるれど】- 「一所」は下に「かつは思しながら」と敬語表現があるので、源氏とわかる。自発の助動詞「らるれ」已然形。以下、源氏の心に添った叙述となる。
【人に似ぬ心ざまの】- 以下「上れりける」まで、源氏の心。空蝉の心ばえを賞賛。
【消えず立ち上れりける】- 「消えず」は女の返歌の「消ゆる」の語句を受ける。「立ち上る」は「消えず」の縁語。気位高く構えていたこと。
【かかるにつけてこそ心もとまれ】- 源氏の心。係助詞「こそ」「とまれ」已然形、係り結びの法則。強調のニュアンス。女の魅力が顧みられる。
3.4.41 「隠れている所に、それでも連れて行け」とおっしゃるが、
「どうだろう、隠れている場所へ私をつれて行ってくれないか」 【隠れたらむ所に、なほ率て行け】- 源氏の小君への詞。
3.4.42 「とてもむさ苦しい所に籠もっていて、女房が大勢いますようなので、恐れ多いことで」
「なかなか開きそうにもなく戸じまりがされていますし、女房もたくさんおります。そんな所へ、もったいないことだと思います」 【いとむつかしげに】- 以下「かしこげに」まで、小君の詞。できない旨を答える。
【人あまたはべるめれば】- 「人」は女房たち。推量の助動詞「めれ」主観的推量を表す。
【かしこげに】- 下に「はべり」などの語が省略。
3.4.43
()こゆ。
いとほしと(おも)へり
と申し上げる。
気の毒にと思っていた。
と小君が言った。源氏が気の毒でたまらないと小君は思っていた。 【いとほしと思へり】- 主語は小君。
3.4.44 「それでは、おまえだけは、わたしを裏切るでないぞ」
「じゃあもういい。おまえだけでも私を愛してくれ」 【よし、あこだに、な捨てそ】- 源氏の詞。副助詞「だに」最小限を表す。副詞「な」は終助詞「そ」と呼応して禁止を表す。
3.4.45 とおっしゃって、お側に寝かせなさった。
お若く優しいご様子を、嬉しく素晴らしいと思っているので、あの薄情な女よりも、かえってかわいく思われなさったということである。
と言って、源氏は小君をそばに寝させた。若い美しい源氏の君の横に寝ていることが子供心に非常にうれしいらしいので、この少年のほうが無情な恋人よりもかわいいと源氏は思った。 【御かたはらに臥せたまへり】- 「臥せ」は他動詞。源氏がお側に小君を横にならせなさるの意。
【若くなつかしき御ありさま】- 源氏の様子。
【うれしくめでたしと思ひたれば】- 主語は小君。
【つれなき人よりは】- 空蝉をさす。主語は源氏に移る。
【なかなかあはれに思さるとぞ】- 女よりは、かえって小君のほうを可愛くお思われなさる、の意。「とぞ」は、この巻、この空蝉物語の語り収めの言葉。「とぞ」の下に「ある」などの語が省略されたかたち。『一葉集』は「紫式部か詞也」と注す。『評釈』では「以上は、ある人が語った話だ、というのである。この巻の冒頭にいう「語り伝へけむ」人の話はこうだったという、とことわるのである」とある。
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底本 明融臨模本
校訂 Last updated 11/16/2011(ver.2-6)
渋谷栄一校訂(C)
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ローマ字版 Last updated 1/26/2009 (ver.2-1)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
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ルビ抽出
(ローマ字版から)
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ひらがな版  ルビ抽出
挿絵
(ローマ字版から)
'Eiri Genji Monogatari'
(1654)
Last updated 6/25/2003
渋谷栄一訳(C)(ver.1-4-1)
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現代語訳 与謝野晶子
電子化 上田英代(古典総合研究所)
底本 角川文庫 全訳源氏物語
渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経
2003年8月14日
Last updated 1/26/2009(ver.2-1)
渋谷栄一注釈(C)
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関連ファイル
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