設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
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この帖の主な登場人物 | |||
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登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
光る源氏 | ひかるげんじ | 大臣 太政大臣 大殿 殿 君 |
三十二歳 |
夕霧 | ゆうぎり | 大殿腹の若君 冠者の君 大学の君 侍従の君 男君 |
光る源氏の長男 |
冷泉帝 | れいぜいてい | 帝 今の上 主上 |
桐壺帝の第十皇子(実は光る源氏の子) |
紫の上 | むらさきのうえ | 対の上 上 上の御方 |
源氏の正妻 |
朝顔の姫君 | あさがおのひめぎみ | 前斎院 院 君 |
桃園式部卿宮の姫君 |
雲居雁 | くもいのかり | 女君 姫君 女 君 |
内大臣の娘 |
大宮 | おおみや | 大宮 三宮 宮 |
夕霧と雲居雁の祖母 |
朝顔の姫君 | あさがおのひめぎみ | 前斎院 院 君 |
桃園式部卿宮の姫君 |
藤典侍 | とうないしのすけ | 殿の舞姫 五節 舞姫 |
惟光の娘 |
惟光 | これみつ | 惟光朝臣 津守 朝臣 父主 |
光る源氏の乳母子 |
秋好中宮 | あきこのむちゅうぐう | 齋宮 中宮 宮 梅壺 |
六条御息所の姫君 |
第二十帖 朝顔 光る源氏の内大臣時代三十二歳の晩秋九月から冬までの物語 |
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# |
本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
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第一章 朝顔姫君の物語 昔の恋の再燃 |
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第一段 九月、故桃園式部卿宮邸を訪問 |
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1.1.1 | いと |
斎院は、御服喪のために退下なさったのである。 大臣、例によって、いったん思い初めたこと、諦めないご性癖で、お見舞いなどたいそう頻繁に差し上げなさる。 宮は、かつて困ったことをお思い出しになると、お返事も気を許して差し上げなさらない。 たいそう残念だとお思い続けていらっしゃる。 |
斎院は父宮の喪のために職をお辞しになった。源氏は例のように古い恋も忘れることのできぬ癖で、始終手紙を送っているのであったが、斎院御在職時代に迷惑をされた |
【斎院は、御服にて下りゐたまひにきかし】- 朝顔君は父桃園式部卿宮の薨去により喪に服し、斎院を退下。式部卿宮の薨去は「薄雲」に語られている。 【大臣、例の、思しそめつること、絶えぬ御癖にて】- 『完訳』は「一度でも逢った女は捨てることのない、源氏の心長い性格」と注す。「癖」は良い意味のニュアンスではない。 【宮、わづらはしかりしことを思せば】- 『集成』は「賢木の巻に、源氏が雲林院滞在中、斎院に文通したことが見え、源氏と斎院の文通のことが右大臣と弘徽殿の大后の間で話題になっている。そのことは斎院の耳にも入っていたのであろう」。『完訳』は「姫君が源氏を「わづらはしかりし」と思う過去の具体的な事実は不明。情交はなかったらしい」と注す。 |
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1.1.2 | ほどもなく |
九月になって、桃園宮にお移りになったのを聞いて、女五の宮がそこにいらっしゃるので、その方のお見舞にかこつけて参上なさる。 故院が、この内親王方を特別に大切にお思い申し上げていらっしゃったので、今でも親しくそれからそれへと交際なさっていらっしゃるようである。 同じ寝殿の西と東とにお住みになっていらっしゃるのであった。 早くも荒廃してしまった心地がして、しみじみともの寂しげな感じである。 |
九月になって旧邸の桃園の宮へお移りになったのを聞いて、そこには御 |
【長月になりて、桃園宮に渡りたまひぬるを聞きて】- 父桃園式部卿宮の薨去は夏ころ。朝顔の君は斎院退下直後は別の所にいて、九月に桃園宮に移った。 【女五の宮のそこにおはすれば】- 桃園式部卿宮と兄妹。故桐壺の妹宮。葵の上の母は三の宮。 【故院の、この御子たちをば】- 故桐壺院が。「の」格助詞、主格を表す。 【次々に聞こえ交はしたまふめり】- 『集成』は「それからそれへとお付合いしていられるようだ」。『完訳』は「そうした方々と互いに親しくお便りを取り交わし申しておられるようである」と訳す。「めり」推量の助動詞、語り手の主観的推量を表す。 【同じ寝殿の西東にぞ住みたまひける】- 寝殿の西の間に朝顔の君、東の間に女五の宮。 |
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1.1.3 | 宮が、ご対面なさって、お話を申し上げなさる。 たいそうお年を召したご様子、とかく咳をしがちでいらっしゃる。 姉上におあたりになるが、故大殿の宮は、申し分なく若々しいご様子なのに、それにひきかえ、お声もつやがなく、ごつごつとした感じでいらっしゃるのは、そうした人柄なのである。 |
【年長におはすれど】- 下文によって「故大殿の宮」すなわち葵の上の母宮、三の宮が主語と知れる。 【故大殿の宮】- 故大殿すなわち故太政大臣。「薄雲」巻に薨去が語られている。葵の上の母。 |
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1.1.4 | 「院の上、お崩れあそばして後、いろいろと心細く思われまして、年をとるにつれて、ひどく涙がちに過ごしてきましたが、この宮までがこのように先立たれましたので、ますます生きているのか死んでいるのか分からないような状態で、この世に生き永らえておりましたところ、このようにお見舞いに立ち寄りくださったので、物思いも忘れられそうな気がします」 |
「院の陛下がお |
【院の上、隠れたまひてのち】- 以下「もの忘れしぬべくはべる」まで、女五の宮の詞。お礼の挨拶。 |
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1.1.5 | と |
とお申し上げになる。 |
と宮はお言いになった。 |
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1.1.6 | 「恐れ多くもお年を召されたものだ」と思うが、かしこまって、 |
ずいぶん |
【かしこくも古りたまへるかな】- 源氏の心中。五の宮はひどく年をとったなという感想。『完訳』は「「かしこくも」は、高貴な身分へのもったいない気持とともに、甚だしい老化の意を表す。次の「うちかしこまり」とも照応」と注す。 |
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1.1.7 | 「 |
「院がお崩れあそばしてから後は、さまざまなことにつけて、在世当時のようではございませんで、身におぼえのない罪に当たりまして、見知らない世界に流浪しましたが、偶然にも、朝廷からお召しくださいましてからは、また忙しく暇もない状態で、ここ数年は、参上して昔のお話だけでも申し上げたり承ったりできなかったのを、ずっと気にかけ続けてまいりました」 |
「院がお |
【院隠れたまひてのちは】- 以下「思ひたまへわたりつれ」まで、源氏の詞。御無沙汰を詫びた挨拶。 【おぼえぬ罪に当たりはべりて、知らぬ世に惑ひはべりしを】- 官位の剥奪と須磨明石流離の生活をさす。 【たまたま、朝廷に数まへられたてまつりては】- 『完訳』は「「たまたま」に注意。人力を超えた偶然による」と注す。 |
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1.1.8 | など |
などと申し上げなさると、 |
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1.1.9 | 「いともいともあさましく、いづ |
「とてもとても驚くほどの、どれをとってみても定めない世の中を、同じような状態で過ごしてまいりました寿命の長いことの恨めしく思われることが多くございますが、こうして、政界にご復帰なさったお喜びを、あの時代を拝見したままで死んでしまったら、どんなにか残念であったであろうかと思われました」 |
「あなたの不幸だったころの世の中はまあどうだったろう。昔の御代もそうした時代も同じようにながめていねばならぬことで私は長生きがいやでしたが、またあなたがお栄えになる日を見ることができたために、私の考えはまた違ってきましたよ。あの中途で死んでいたらと思うのでね、長生きがよくなったのですよ」 |
【いともいともあさましく】- 以下「おぼえはへり」まで、五の宮の詞。 【いづ方につけても】- 桐壺院の崩御と源氏の流離をさす。 【命長さの恨めしきこと】- 「寿則辱多し」(荘子、外篇)。「人生莫羨苦長命 命長感旧多悲辛(人生羨む莫かれ苦だ長命なるを 命長ければ旧に感じて悲辛多意し)」(白氏文集巻六十九「感旧」)。 【見たてまつりさしてましかば】- 「ましかば」--「口惜しからまし」反実仮想の構文。 |
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1.1.10 | と、うちわななきたまひて、 |
と、声をお震わせになって、 |
ぶるぶるとお声が震う。また続けて、 |
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1.1.11 | 「いときよらにねびまさりたまひにけるかな。 |
「まことに美しくご成人なさいましたね。 子どもでいらっしゃったころに、初めてお目にかかった時、真実にこんなにも美しい人がお生まれになったと驚かずにはいられませんでしたが、時々お目にかかるたびに、不吉なまでに思われました。 今上の帝が、とてもよく似ていらっしゃると、人々が申しますが、いくら何でも見劣りあそばすだろうと、推察いたします」 |
「ますますきれいですね。子供でいらっしった時にはじめてあなたを見て、こんな人も生まれてくるものだろうかとびっくりしましたね。それからもお目にかかるたびにあなたのきれいなのに驚いてばかりいましたよ。今の陛下があなたによく似ていらっしゃるという話ですが、そのとおりには行かないでしょう、やはりいくぶん劣っていらっしゃるだろうと私は想像申し上げますよ」 |
【いときよらに】- 以下「推し量りはべれ」まで、五の宮の詞。源氏の美しさを面と向かって礼讃。世間では今上帝と似ていて美しいというが、それ以上だと、かたはら痛いことまで口にする。 【似たてまつらせたまへりと】- 大島本は「給へり」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「たまへる」と校訂する。 |
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1.1.12 | と、 |
と、くどくどと申し上げなさるので、 |
長々と宮は語られるのであるが、 |
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1.1.13 | 「ことさらに面と向かって人は褒めないものを」と、おかしくお思いになる。 |
面と向かって |
【ことにかくさし向かひて人のほめぬわざかな】- 源氏の心中。 |
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1.1.14 | 「田舎者になって、ひどく元気をなくしておりました年月の後は、すっかり衰えてしまいましたものを。 今上の御容貌は、昔の世にも並ぶ方がいないのではいかと、世に類いないお方と拝見しております。 変なご推察です」 |
「さすらい人になっておりましたころから非常に私も衰えてしまいました。陛下の御美貌は古今無比とお見上げ申しております。あなた様の御想像は誤っておりますよ」 |
【山賤になりて】- 以下「御推し量りになむ」まで、源氏の詞。五の宮の言葉を否定し謙遜する。 |
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1.1.15 | と |
と申し上げなさる。 |
と源氏は言った。 |
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1.1.16 | 「時々お目にかかれたら、長い寿命がますます延びそうでございます。 今日は老いも忘れ、憂き世の嘆きもみな消えてしまった感じがします」 |
「では時々陛下を拝んでおればいっそう長生きをする私になりますね。私は今日でもう人生のいやなことも皆忘れてしまいましたよ」 |
【時々見たてまつらば】- 以下「去りぬる心地なむ」まで、五の宮の詞。 |
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1.1.17 | とても、また |
と言っては、 |
こんなお話のあとでも五の宮はお泣きになるのである。 |
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1.1.18 | 「三の宮が羨ましく、しかるべきご縁ができて、親しくお目にかかることがおできになれるのを、羨ましく思います。 こちらのお亡くなりになった方も、そのように言って後悔なさる折々がありました」 |
「お姉様の三の宮がおうらやましい。あなたのお子さんを孫にしておられる御縁で始終あなたにお逢いしておられるのだからね。ここのお |
【三の宮うらやましく、さるべき御ゆかり添ひて、親しく見たてまつりたまふを、うらやみはべる】- 以下「折々ありしか」まで、五の宮の詞。前の「同じさまにて見たまへ過ぐす命長さの恨めしきこと」とも関連して、皇族の独身老女の孤独な悲哀が語られている。 【うらやみはべる】-「はべる」連体中止法。余意余情のニュアンス。 |
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1.1.19 | とおっしゃるので、少し耳がおとまりになる。 |
というお話だけには源氏も耳のとまる気がした。 |
【すこし耳とまりたまふ】- 話題が朝顔の君に関することになったので、関心をよせた。 |
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1.1.20 | 「そういうふうにも、親しくお付き合いさせていただけたならば、今も嬉しいことでございましたでしょうに。 すっかり見限りなさいまして」 |
「そうなっておりましたら私はすばらしい幸福な人間だったでしょう。宮様がたは私に御愛情が足りなかったとより思われません」 |
【さも、さぶらひ馴れなましかば】- 以下「皆さし放たせたまひて」まで、源氏の詞。「ましかば」--「まし」反実仮想の構文。 |
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1.1.21 | と、 |
と、恨めしそうに様子ぶって申し上げなさる。 |
と源氏は恨めしいふうに、しかも言外に意を響かせても言った。 |
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第二段 朝顔姫君と対話 |
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1.2.1 | あちらのお前の方にお目をやりなさると、うら枯れた前栽の風情も格別に見渡されて、のんびりと物思いに耽っていらっしゃるらしいご様子、ご器量も、たいそうお目にかかりたくしみじみと思われて、我慢することがおできになれず、 |
【あなたの御前を見やりたまへば】- 源氏、目を寝殿の西面の朝顔の君の方に向ける。 【枯れ枯れなる前栽の心ばへ】- 晩秋の庭先の様子。 |
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1.2.2 | 「このようにお伺いした機会を逃しては、無愛想になりますから、あちらへのお見舞いも申し上げなくてはなりませんでした」 |
「こちらへ伺いましたついでにお |
【かくさぶらひたる】- 以下「聞こゆべかりけり」まで、源氏の詞。五の宮に辞去の挨拶、朝顔の君訪問を述べる。 |
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1.2.3 | とて、やがて |
と言って、そのまま簀子からお渡りになる。 |
と源氏は言って、縁側伝いに行った。 |
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1.2.4 | 暗くなってきた時分であるが、鈍色の御簾に、黒い御几帳の透き影がしみじみと見え、追い風が優美に吹き通して、風情は申し分ない。 簀子では不都合なので、南の廂の間にお入れ申し上げる。 |
もう暗くなったころであったが、 |
【暗うなりたるほどなれど、鈍色の御簾に、黒き御几帳の透影】- 朝顔の君の部屋の様子。暗くなって、喪中の鈍色または薄墨色の几帳の帷子がやはり鈍色の御簾に透けて黒く見える様子。 【けはひあらまほし】- 『集成』は「風情は申し分なく奥ゆかしい」と訳す。 |
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1.2.5 | 宣旨が、対面して、ご挨拶はお伝え申し上げる。 |
女房の |
【宣旨、対面して】- 朝顔の君の女房。 |
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1.2.6 | 「今さら、若者扱いの感じがします御簾の前ですね。 神さびるほど古い年月の年功も数えられますので、今は御簾の内への出入りもお許しいただけるものと期待しておりましたが」 |
「今になりまして、お居間の御簾の前などにお席をいただくことかと私はちょっと戸惑いがされます。どんなに長い年月にわたって私は志を申し続けてきたことでしょう。その労に |
【今さらに】- 以下「頼みはべりける」まで、源氏の詞。親しい対面を要求。 【若々しき心地する御簾の前】- 若い男性を相手にしたようなよそよそしい応対ぶりだという。 【神さびにける年月の労数へられはべるに】- 斎院にちなんで「神さびにける」という。昔から長い年月の意。『完訳』は「官人が在任中の労を、年数を冠して、「--年の労」と申告して昇進を願い出るのになぞらえた表現」と注す。 |
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1.2.7 | とて、 |
と言って、物足りなくお思いでいらっしゃる。 |
と言って、源氏は不満足な顔をしていた。 |
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1.2.8 | 「今までのことはみな夢と思い、今、夢から覚めてはかない気がするのかと、はっきりと分別しかねておりますが、年功などは、静かに考えさせていただきましょう」 |
「昔というものは皆夢でございまして、それがさめたのちのはかない世かと、それもまだよく決めて思われません境地にただ今はおります私ですから、あなた様の労などは静かに考えさせていただいたのちに |
【ありし世は】- 以下「定めきこえさすべうはべらむ」まで、朝顔の返事。『完訳』は「ありし世は夢に見なして涙さへとまらぬ宿ぞ悲しかりける」(栄華物語・岩蔭、紫式部)を指摘。父宮在世中をさす。 【静かにやと】- 大島本は「しつかにやと」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「静かにや」と「と」を削除する。 |
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1.2.9 | とお答え申し上げさせなさった。 「なるほど無常な世である」と、ちょっとしたことにつけても自然とお思い続けられる。 |
女王の言葉の伝えられたのはこれだった。だからこの世は定めがたい、頼みにしがたいのだと、こんな言葉の端からも源氏は悲しまれた。 |
【げにこそ定めがたき世なれ】- 源氏の心中。朝顔の「思ひたまへ定めがたく」の分別しがたいを受けて「定めがたき世」無常な世だと思う。 |
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1.2.10 | 「誰にも知られず神の許しを待っていた間に 長年つらい世を過ごしてきたことよ |
「人知れず神の許しを待ちしまに ここらつれなき世を過ぐすかな |
【人知れず神の許しを待ちし間に--ここらつれなき世を過ぐすかな】- 源氏から朝顔への歌。朝顔が斎院であったことにちなんで「神の許し」という。長年待ち続けたという気持ち。 |
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1.2.11 | 今は、どのような戒めにか、かこつけなさろうとするのでしょう。 総じて、世の中に厄介なことまでがございました後、いろいろとつらい思いをするところがございました。 せめてその一部なりとも」 |
ただ今はもう神に託しておのがれになることもできないはずです。一方で私が不幸な目にあっていました時以来の苦しみの記録の片端でもお聞きくださいませんか」 |
【今は、何のいさめにか】- 以下「片端をだに」まで、歌に続けた源氏の詞。 |
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1.2.12 | と、たって申し上げなさる、そのお心づかいなども、昔よりもう一段と優美さまでが増していらっしゃった。 その一方で、とてもたいそうお年も召していらっしゃるが、ご身分には相応しくないようである。 |
源氏は女王と直接に会見することをこう言って強要するのである。そうした様子なども昔の源氏に比べて、より優美なところが多く添ったように思われた。その時代に比べると年はずっと行ってしまった源氏ではあるが、位の高さにはつりあわぬ若々しさは保存されていた。 |
【さるは、いといたう過ぐしたまへど、御位のほどには合はざめり】- 「さるは」「めり」推量の助動詞、主観的推量。『新大系』は「「さるは」以下、あらためて語り手が源氏の風姿を批評し直す。実は、ほんとに魅力がありすぎていらっしゃるが、(その若々しさは)御位の高さには不似合いのように見える」と注す。源氏の若々しさを強調して従一位の高さには不釣合だとする語り手の批評。 |
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1.2.13 | 「一通りのお見舞いの挨拶をするだけでも 誓ったことに背くと神が戒めるでしょう」 |
なべて世の哀ればかりを問ふからに 誓ひしことを神やいさめん |
【なべて世のあはればかりを問ふからに--誓ひしことと神やいさめむ】- 朝顔の返歌。「神」「世」の語句を受けて、「神の許し」を「神や諌めむ」と切り返す。 |
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1.2.14 | とあれば、 |
とあるので、 |
と斎院のお歌が伝えられる。 |
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1.2.15 | 「ああ、情けない。 あの当時の罪は、みな科戸の風にまかせて吹き払ってしまったのに」 |
「そんなことをおとがめになるのですか。その時代の罪は皆 |
【あな、心憂】- 以下「たぐへてき」まで、源氏の詞。 【その世の罪】- 『集成』は「須磨流謫時代のことはもうすんだ過去のこと」。『新大系』は「斎院時代の姫君との文通をさすか」と注す。 |
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1.2.16 | とのたまふ |
とおっしゃる魅力も、この上ない。 |
源氏の |
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1.2.17 | 「その罪を払う禊を、神は、どのようにお聞き届けたのでございましょうか」 |
「この |
【みそぎを、神は、いかがはべりけむ】- 宣旨の詞。朝顔に代わって答える。「恋せじと御手洗川にせし禊神はうけずもなりにけるかな」(伊勢物語)を踏まえる。 |
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1.2.18 | などと、ちょっとしたことを申し上げるのも、まじめな話、とても気が気でない。 結婚しようとなさらないご態度は、年月とともに強く、ますます引っ込み思案になりなさって、お返事もなさらないのを、困ったことと拝するようである。 |
宣旨は軽く |
【まめやかには、いとかたはらいたし】- 朝顔の姫君の心情を評す。『完訳』は「自分が宣旨に言わせたと、源氏に思われる、いたたまれなさ」と注す。 |
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1.2.19 | 「好色めいたふうになってしまって」 |
「あまりに哀れに自分が見えすぎますから」 |
【好き好きしきやうになりぬるを】- 源氏の呟き。お見舞いのつもりが、が省略されている。 |
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1.2.20 | など、 |
などと、深く嘆息してお立ちになる。 |
と深い |
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1.2.21 | 「年をとると、臆面もなくなるものですね。 世に類ないやつれた姿を、この今は、と御覧くださいとだけでも申し上げられるほどにも、扱って下さったでしょうか」 |
「年が行ってしまうと恥ずかしい目にあうものです。こんな恋の |
【齢の積もりには】- 以下「もてなしたまひける」まで、源氏の詞。 【世に知らぬやつれを、今ぞ、とだに】- 「君が門今ぞ過ぎ行く出でて見よ恋する人のなれる姿を」(源氏釈所引、出典未詳)。 【聞こえさすべくやは、もてなしたまひける】- 「やは」反語。『集成』は「申し上げられるほどにもおあしらい下さったでしょうか、冷たいお方だ」と訳す。 |
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1.2.22 | とて、 |
と言って、お出になった後は、うるさいまでに、例によってお噂申し上げていた。 |
こんな言葉を女房に残して源氏の帰ったあとで、女房らはどこの女房も言うように源氏をたたえた。 |
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1.2.23 | ただでさえも、空は風情があるころなので、木の葉の散る音につけても、過ぎ去った過去のしみじみとした情感が甦ってきて、その当時の、嬉しかったり悲しかったりにつけ、深くお見えになったお気持ちのほどを、お思い出し申し上げなさる。 |
空の色も身にしむ夜で、木の葉の鳴る音にも昔が思われて、女房らは古いころからの源氏との交渉のあったある場面場面のおもしろかったこと、身に |
【おほかたの、空もをかしきほどに、木の葉の音なひにつけても、過ぎにしもののあはれとり返しつつ】- 晩秋の風景描写から朝顔の心情描写へと続く。 【思ひ出できこえさす】- 『集成』は、主語を女房たち。『完訳』は、主語を朝顔の姫君とする。 |
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第三段 帰邸後に和歌を贈答しあう |
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1.3.1 | とく |
お気持ちの収まらないままお帰りになったので、以前にもまして、夜も眠れずにお思い続けになる。 早く御格子を上げさせなさって、朝霧を眺めなさる。 枯れたいくつもの花の中に、朝顔があちこちにはいまつわって、あるかなきかに花をつけて、色艶も格別に変わっているのを、折らせなさってお贈りになる。 |
不満足な気持ちで帰って行った源氏はましてその夜が眠れなかった。早く |
【朝霧を眺めたまふ。枯れたる花どもの中に、朝顔のこれかれにはひまつはれて、あるかなきかに咲きて】- 歌語として、「朝霧」は後朝の情調、いぶせさを象徴。「朝顔」は蔓草として恋情の連綿とした気持ちを表象する。 【たてまつれたまふ】- 朝顔の君に後朝の文を。 |
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1.3.2 | 「きっぱりとしたおあしらいに、体裁の悪い感じがいたしまして、後ろ姿もますますどのように御覧になったかと、悔しくて。 けれども、 |
あまりに他人らしくお扱いになりましたから、きまりも悪くなって帰りましたが、哀れな私の後ろ姿をどうお笑いになったことかと |
【けざやかなりし】- 以下「かつは」まで、源氏の文。 |
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1.3.3 | 昔拝見したあなたがどうしても忘れられません その朝顔の花は盛りを過ぎてしまったのでしょうか |
見し折りのつゆ忘られぬ朝顔の 花の盛りは過ぎやしぬらん |
【見し折のつゆ忘られぬ朝顔の--花の盛りは過ぎやしぬらむ】- 源氏の贈歌。「見し」にかつての逢瀬の体験をいう。「つゆ」は「露」(名詞)と「つゆ」(副詞)の掛詞。また「露」は「朝顔」の縁語。『集成』は「「朝顔」は、女の寝起きの顔の意を掛ける。「見しをりの」は、帚木の巻に「式部卿の宮の姫君に、朝顔奉りたまひし歌などを----」とあった時のことであろう。一体いつお逢いできるのでしょうか、と嘆く意」。『完訳』は「「朝顔」は朝の素顔でもあり、「見し」とともに情交を暗示。実際にはなかった関係を、帚木巻以来の呼称とも応じて表現」「花の盛りが衰えたかと、相手を揶揄して、相手の反応を強く要請する」と注す。 |
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1.3.4 | 長年思い続けてきた苦労も、気の毒だとぐらいには、いくな何でも、ご理解いただけるだろうかと、一方では期待しつつ」 |
どんなに長い年月の間あなたをお思いしているかということだけは知っていてくださるはずだと思いまして、私は |
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1.3.5 | など おとなびたる |
などと申し上げなさった。 穏やかなお手紙の風情なので、「返事をせずに気をもませるのも、心ないことか」とお思いになって、女房たちも御硯を調えて、お勧め申し上げるので、 |
という手紙を源氏は書いたのである。真正面から恋ばかりを言われているのでもない中年の源氏のおとなしい手紙に対して、返事をせぬことも感情の乏しい女と思われることであろうと女王もお思いになり、女房たちもそう思って |
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1.3.6 | 「秋は終わって霧の立ち込める垣根にしぼんで 今にも枯れそうな朝顔の花のようなわたしです |
秋はてて霧の あるかなきかにうつる朝顔 |
【秋果てて霧の籬にむすぼほれ--あるかなきかに移る朝顔】- 朝顔の返歌。「朝顔」はそのまま受けて、「露」を「霧」に「盛り過ぐ」を「移る」とずらして、おっしゃるとおり盛りを過ぎてひっそりとあるかなきかの状態で生きておりますと応える。『新大系』は「「朝顔」は、はかなさを象徴する花でもあり、こおこでは「霧のまがき」とともに自らのはかない運命を表現して、贈歌を切り返す」と注す。 |
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1.3.7 | 似つかわしいお喩えにつけても、涙がこぼれて」 |
秋にふさわしい花をお送りくださいましたことででももの哀れな気持ちになっております。 |
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1.3.8 | とのみあるは、 |
とばかりあるのは、何のおもしろいこともないが、どういうわけか、手放しがたく御覧になっていらっしゃるようである。 青鈍色の紙に、柔らかな墨跡は、たいそう趣深く見えるようだ。 ご身分、筆跡などによってとりつくろわれて、その時は何の難もないことも、いざもっともらしく伝えるとなると、事実を誤り伝えることがあるようなので、ここは勝手にとりつくろって書くようなので、変なところも多くなってしまった。 |
とだけ書かれた手紙はたいしておもしろいものでもないはずであるが、源氏はそれを手から放すのも惜しいようにじっとながめていた。 |
【何のをかしきふしもなきを】- 以下の文章ははしばしに語り手の感情が移入されている。 【をかしく見ゆめり】- 『完訳』は「源氏の心中を、語り手が推測」と注す。 【人の御ほど】- 『集成』は「以下、草子地」。『完訳』は「以下、語り手の弁」と注す。 【つきづきしくまねびなすには、ほほゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛らはしつつ、おぼつかなきことも多かり】- 『集成』は「事実を誤り伝えることもあるようですから、(それを書き手としては)勝手にとりつくろって書き書きしますので、ほんとうはどうだったか、はっきりしないところも多いのです。このお歌もほんとうはもっとお上手だったかもしれません、という気持」。『新大系』は「(男女の手紙は)その人のご身分や書きやうなどでとりつくろわれ、その当座は難がないように見えても、後にそれをもっともらしく語り伝えるとなると、誤り伝えることもあるようだから、(書き手としては)勝手に書いてはつくろい、(そのために)はっきりしないところも多いものだ。物語とは語り伝えられてきた内容を書き記すもの、という前提によって源氏の歌のきわどい表現を陳弁する。この場合の手紙も、本来の事実とは異なる可能性あるとする」と注す。 |
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1.3.9 | 昔に帰って、今さら若々しい恋文書きなども似つかわしくないこと、とお思いになるが、やはりこのように昔から離れぬでもないご様子でありながら、不本意なままに過ぎてしまったことを思いながら、とてもお諦めになることができず、若返って、真剣になって文を差し上げなさる。 |
今になってまた若々しい恋の手紙を人に送るようなことも似合わしくないことであると源氏は思いながらも、昔から好意も友情もその人に持たれながら、恋の成り立つまでにはならなかったのを思うと、もうあとへは |
【なほかく昔よりもて離れぬ御けしきながら】- 「ぬ」打消の助動詞。「御気色」は朝顔の態度をいう。 【えやむまじくて】- 大島本は「えやむましくて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「えやむまじく」と「て」を削除する。 |
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第四段 源氏、執拗に朝顔姫君を恋う |
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1.4.1 | さぶらふ |
東の対に独り離れていらっしゃって、宣旨を呼び寄せ呼び寄せしてはご相談なさる。 宮に伺候する女房たちで、それほどでない身分の男にさえ、すぐになびいてしまいそうな者は、間違いも起こしかねないほど、お褒め申し上げるが、宮は、その昔でさえきっぱりとお考えにもならなかったのに、今となっては、昔以上に、どちらも色恋に相応しくないお年、ご身分であるので、「ちょっとした木や草につけてのお返事などの、折々の興趣を見過さずにいるのも、軽率だと、受け取られようか」などと、人の噂を憚り憚りなさっては、心をうちとけなさるご様子もないので、昔のままで同じようなお気持ちを、世間の女性とは違って、珍しくまた妬ましくもお思い申し上げなさる。 |
東の対のほうに離れていて、前斎院の宣旨を源氏は呼び寄せて相談をしていた。女房たちのだれの誘惑にもなびいて行きそうな人々は狂気にもなるほど源氏をほめて夢中になっているこんな家の中で、朝顔の女王だけは冷静でおありになった。お若い時すらも友情以上のものをこの人にお持ちにならなかったのであるから、今はまして自分もその人も恋愛などをする年ではなくなっていて、花や草木のことの言われる手紙にもすぐに返事を出すようなことは人の批評することがうるさいと、それも遠慮をされるようになっていつまでたってもお心の動く様子はなかった。初めの態度はどこまでもお続けになる朝顔の女王の普通の型でない点が、珍重すべきおもしろいことにも思われてならない源氏であった。 |
【東の対に離れおはして】- 二条院東の対。源氏の居室。宣旨を迎えて相談する。 【はかなき木草に】- 以下「とりなさるらむ」まで、朝顔の心中。 【古りがたく同じさまなる御心ばへを】- 朝顔の姫君の昔に変わらぬ態度。 |
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1.4.2 | 世間に噂が漏れ聞こえて、 |
世間はもうその |
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1.4.3 | 「前斎院を、熱心にお便りを差し上げなさるので、女五の宮なども結構にお思いのようです。 似つかわしくなくもないお間柄でしょう」 |
「源氏の大臣は前斎院に御熱心でいられるから、女五の宮へ御親切もお尽くしになるのだろう、結婚されて似合いの縁というものであろう」 |
【前斎院を、ねむごろに】- 大島本は「せむ斎院(院+を<朱>)」とある。すなわち朱筆で「を」を補入する。『新大系』は底本の補入に従う。『集成』『古典セレクション』は諸本及び底本の訂正以前本文に従って「前斎院」と校訂する。以下「御あはひならむ」まで、世人の噂。 |
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1.4.4 | など |
などと言っていたのを、対の上は伝え聞きなさって、暫くの間は、 |
とも言うのが、紫夫人の耳にも伝わって来た。 |
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1.4.5 | 「いくら何でも、もしそういうことがあったとしたら、お隠しになることはあるまい」 |
当座はそんなことがあっても自分へ源氏は話して聞かせるはずである |
【さりとも】- 以下「思したらじ」まで、紫の上の心中。噂を否定。源氏を信頼。真実なら自分に打ち明けるはずと期待。 |
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1.4.6 | と |
とお思いになっていらっしゃったが、さっそく気をつけて御覧になると、お振る舞いなども、いつもと違って魂が抜け出たようなのも情けなくて、 |
と思っていたが、それ以来気をつけて見ると、源氏の様子はそわそわとして、何かに心の奪われていることがよくわかるのであった。 |
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1.4.7 | 「まめまめしく |
「真剣になって思いつめていらっしゃるらしいことを、素知らぬ顔で冗談のように言いくるめなさったのだわと、同じ皇族の血筋でいらっしゃるが、声望も格別で、昔から重々しい方として聞こえていらっしゃった方なので、お心などが移ってしまったら、みっともないことになるわ。 長年のご寵愛などは、わたしに立ち並ぶ者もなく、ずっと今まできたのに、今さら他人に負かされようとは」 |
こんなにまじめに打ち込んで結婚までを思う恋を、自分にはただ気紛れですることのように |
【まめまめしく思しなるらむことを】- 以下「人に押し消たれむこと」まで、紫の上の心中。真実らしいことに気づき、疑念をいだく。 |
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1.4.8 | など、 |
などと、人知れず嘆かずにはいらっしゃれない。 |
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1.4.9 | 「すっかりお見限りになることはないとしても、幼少のころから親しんでこられた長年の情愛は、軽々しいお扱いになるのだろう」 |
顧みられないというようなことはなくても、源氏が重んじる妻は他の人で、自分は少女時代から養ってきた、どんな薄遇をしても甘んじているはずの妻にすぎないことになるのであろうと、こんなことを思って夫人は |
【かき絶え名残なきさまには】- 以下「こそはあらめ」まで、紫の上の心中。 【いとものはかなきさまにて見馴れたまへる年ごろの睦び、あなづらはしき方にこそはあらめ】- 『集成』は「幼少の頃からの親の庇護もない私と共に暮してこられた今まで長年の二人の仲では、つい軽くご覧になることになるのであろう」。『完訳』は「この自分はまったくこれといって取るに足りない身とて、長年連れ添ってくださった気安さから、軽いお扱いとなるのだろう」と訳す。 |
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1.4.10 | など、あれこれと思い乱れなさるが、それほどでもないことなら、嫉妬などもご愛嬌に申し上げなさるが、心底つらいとお思いなので、顔色にもお出しにならない。 |
それで源氏の恋愛行為が |
【よろしきことこそ】- 係助詞「こそ」--「聞こえたまへ」係結び、已然形、逆接用法。読点で下文に続く。 【まめやかにつらし】- 紫の上の心中、間接的叙述。 |
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1.4.11 | 端近くに物思いに耽りがちで、宮中にお泊まりになることが多くなり、仕事と言えば、お手紙をお書きになることで、 |
外をながめて物思いを絶えずするのが源氏であって、御所の |
【端近う眺めがちに】- 源氏の態度。 |
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1.4.12 | 「なるほど、世間の噂は嘘ではないようだ。 せめて、ほんの一言おっしゃってくださればよいのに」 |
噂に誤りがないらしいと夫人は思って、少しくらいは打ち明けて話してもよさそうなものであると、 |
【げに、人の言葉】- 以下「かすめたまへかし」まで、紫の上の心中。 |
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1.4.13 | と、 |
と、いやなお方だとばかりお思い申し上げていらっしゃる。 |
飽き足りなくばかり思った。 |
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第二章 朝顔姫君の物語 老いてなお旧りせぬ好色心 |
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第一段 朝顔姫君訪問の道中 |
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2.1.1 | さすがに、まかり |
夕方、神事なども停止となって物寂しいので、することもない思いに耐えかねて、五の宮にいつものお伺いをなさる。 雪がちょっとちらついて風情ある黄昏時に、優しい感じに着馴れたお召し物に、ますます香をたきしめなさって、念入りにおめかしして一日をお過ごしになったので、ますますなびきやすい人はどんなにかと見えた。 それでも、お出かけのご挨拶はご挨拶として、申し上げなさる。 |
冬の初めになって今年は神事がいっさい停止されていて寂しい。つれづれな源氏はまた五の宮を訪ねに行こうとした。雪もちらちらと降って |
【夕つ方、神事なども止まりて】- 十一月の神事が諒闇によって停止。大島本等「ゆふつかた」とある。『集成』は肖柏本・三条西家本に従って「冬つ方」と校訂する。 【雪うち散りて艶なるたそかれ時に】- 源氏、雪の日に朝顔の姫君のもとへ外出。 【いとど心弱からむ人はいかがと見えたり】- 語り手の実景描写といった感じ。源氏の美しさを讃美。 |
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2.1.2 | 「女五の宮がご病気でいらっしゃるというのを、お見舞い申し上げようと思いまして」 |
「女五の宮様が御病気でいらっしゃるからお見舞いに行って来ます」 |
【女五の宮の悩ましく】- 以下「訪らひきこえになむ」まで、源氏の詞。女五の宮の病気見舞いのためという。 |
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2.1.3 | と言って、軽く膝をおつきになるが、振り向きもなさらず、若君をあやして、さりげなくいらっしゃる横顔が、ただならぬ様子なので、 |
ちょっとすわってこう言う源氏のほうを、夫人は見ようともせずに姫君の相手をしていたが、不快な気持ちはよく見えた。 |
【ついゐたまへれど、見もやりたまはず】- 『完訳』は「腰を浮かせ、挨拶もそこそこの体」と注す。「見もやりたまはず」の主語は紫の上。 |
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2.1.4 | 「不思議と、ご機嫌の悪くなったこのごろですね。 罪もありませんね。 塩焼き衣のように、あまりなれなれしくなって、珍しくなくお思いかと思って、家を空けていましたが、またどのようにお考えになってか」 |
「始終このごろは |
【あやしく、御けしきの】- 以下「またいかが」まで、源氏の詞。 【罪もなしや】- 『集成』は「しかし何も悪いことをしているわけではありませんよ」。『完訳』は「このわたしには思いあたる咎もないのですが」と訳す。 【塩焼き衣のあまり目馴れ、見だてなく】- 「須磨の海人の塩焼き衣なれゆけばうとくのみこそなりまさりけれ」(源氏釈所引、出典未詳)。 |
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2.1.5 | など |
などと申し上げなさると、 |
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2.1.6 | 「馴じんで行くのは、おっしゃるとおり、いやなことが多いものですね」 |
「ほんとうに長く同じであるものは悲しい目を見ます」 |
【馴れゆくこそ、げに、憂きこと多かりけれ】- 紫の上の返事。「馴れ行くは憂き世なればや須磨の海人の塩焼き衣間遠なるらむ」(新古今集恋三、一二一〇、女御徽子女王)を踏まえる。 |
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2.1.7 | とだけ言って、顔をそむけて臥せっていらっしゃるのは、そのまま見捨ててお出かけになるのも、気も進まないが、宮にお手紙を差し上げてしまっていたので、お出かけになった。 |
とだけ言って向こうを向いて寝てしまった女王を置いて出て行くことはつらいことに源氏は思いながらも、もう御訪問の |
【宮に御消息聞こえたまひてければ】- 訪問の際には、予め消息を遣わしてから出かけたのである。 |
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2.1.8 | 「このようなこともある夫婦仲だったのに、安心しきって過ごしてきたことだわ」 |
こんな日も自分の上にめぐってくるのを知らずに、源氏を信頼して暮らしてきた |
【かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよ】- 紫の上の心中。源氏に浮気心が生じることを疑うことなく過ごしてきたうかつさに気づく。 |
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2.1.9 | とお思い続けて、臥せっていらっしゃる。 鈍色めいたお召し物であるが、色合いが重なって、かえって好ましく見えて、雪の光にたいそう優美なお姿を御覧になって、 |
と寂しい気持ちに夫人はなっていた。喪服の |
【鈍びたる御衣どもなれど】- 源氏の服装。藤壺の宮の喪に服している。 |
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2.1.10 | 「ほんとうに心がますます離れて行ってしまわれたならば」 |
寝ながらのぞいていた夫人はこの姿を見ることも |
【まことに離れまさりたまはば】- 紫の上の心中。 |
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2.1.11 | と、 |
と、堪えきれないお気持ちになる。 |
と思うと悲しかった。 |
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2.1.12 | 御前駆なども内々の人ばかりで、 |
前駆も親しい者ばかりを選んであったが、 |
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2.1.13 | 「宮中以外の外出は、億劫になってしまったよ。 桃園宮が心細い様子でいらっしゃっるのも、式部卿宮に長年お任せ申し上げていたが、これからは頼むなどとおっしゃるのも、もっともなことで、お気の毒なので」 |
「参内する以外の外出はおっくうになった。桃園の |
【内裏より他の歩きは】- 以下「いとほしければ」まで、源氏の詞。 |
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2.1.14 | など、 |
などと、人々にもしいておっしゃるが、 |
などと、前駆を勤める人たちにも言いわけらしく源氏は言っていたが、 |
【人びとにも】- 『集成』は「供人たちにも」。『完訳』は「女房たちにも」と注す。 |
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2.1.15 | 「さあどんなものでしょう。 ご好心が変わらないのは、惜しい玉の瑕のようです」 |
「りっぱな方だけれど、恋愛をおやめにならない点が傷だね。 |
【いでや。御好き心の】- 以下「出で来なむ」まで、人々の詞。 |
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2.1.16 | 「 |
「よからぬ事がきっと起こるでしょう」 |
御家庭がそれで済むまいと心配だ」 |
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2.1.17 | など、つぶやきあへり。 |
などと、呟き合っていた。 |
とそうした人たちも言っていた。 |
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第二段 宮邸に到着して門を入る |
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2.2.1 | 宮邸では、北面にある人が多く出入りするご門は、お入りになるのも軽率なようなので、西にあるのが重々しい正門なので、供人を入れさせなさって、宮の御方にご案内を乞うと、「今日はまさかお越しになるまい」とお思いでいたので、驚いて門を開けさせなさる。 |
桃園のお |
【宮には、北面の】- 桃園式部卿宮邸。北門が通用門、西門が正門となっている。 【今日しも渡りたまはじ」と思しけるを】- 源氏は前に訪問の手紙を出していたのだが、五の宮はそれが今日とは思っていなかった。 |
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2.2.2 | 御門番が、寒そうな様子で、あわてて出てきて、すぐには開けられない。 この人以外の男性はいないのであろう。 ごろごろと引いて、 |
出て来た門番の侍が寒そうな姿で、背中がぞっとするというふうをして、門の扉をかたかたといわせているが、これ以外の侍はいないらしい。 |
【御門守、寒げなるけはひ、うすすき出で来て、とみにもえ開けやらず】- 零落の邸の光景。「末摘花」巻の常陸宮邸に類似。 |
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2.2.3 | 「錠がひどく錆びついてしまっているので、開かない」 |
「ひどく錠が |
【錠のいといたく銹びにければ、開かず】- 御門守の詞。 |
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2.2.4 | と |
と困っているのを、しみじみとお聞きになる。 |
とこぼすのを、源氏は身に |
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2.2.5 | 「昨日今日のこととお思いになっていたうちに、はや三年も昔になってしまった世の中だ。 このような世を見ながら、仮の宿を捨てることもできず、木や草の花にも心をときめかせるとは」と、つくづくと感じられる。 口ずさみに、 |
宮のお若いころ、自身の生まれたころを源氏が考えてみるとそれはもう三十年の昔になる、物の錆びたことによって人間の古くなったことも思われる。それを知りながら仮の世の執着が離れず、人に心の |
【昨日今日と思すほどに】- 以下「心を移すよ」まで、源氏の心中。「思す」は語り手の敬語が介入。 【三年】- 大島本は「みそ(そ$<朱>)とせ」とある。すなわち「そ」を朱筆でミセケチにする。諸本は「みそとせ」(御池冬耕肖三)とある。『新大系』は底本の訂正に従う。『集成』『古典セレクション』は「三十年」と校訂する。なお河内本「みとせ」。別本の保坂本「みそとせ」、国冬本「みそ(そ補入)とせ」とある。『集成』は「夕霧の巻にも「昨日今日と思ふほどに、三十年よりあなたのことになる世にこそあれ」とあり、人の死後、月日のたつことの早さを言う当時の諺と思われる」。『新大系』は「「三年」が何をさすか不明。式部卿宮の死去は今年の夏。三年も経った感じだとして時の経過のはかなさを思う表現か」と注す。 |
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2.2.6 | 「いつの間にこの邸は蓬がおい茂り 雪に埋もれたふる里となってしまったのだろう」 |
いつのまに 雪ふる里と荒れし |
【いつのまに蓬がもととむすぼほれ--雪降る里と荒れし垣根ぞ】- 源氏の歌。「降る」と「古」の掛詞。 |
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2.2.7 | やや |
やや暫くして、無理やり引っ張り開けて、お入りになる。 |
源氏はこんなことを口ずさんでいた。やや長くかかって古い門の抵抗がやっと征服された。 |
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第三段 宮邸で源典侍と出会う |
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2.3.1 | 宮の御方に、例によって、お話申し上げなさると、昔の事をとりとめもなく話し出しはじめて、はてもなくお続きになるが、ご関心もなく、眠いが、宮もあくびをなさって、 |
源氏はまず宮のお居間のほうで例のように話していたが、昔話の取りとめもないようなのが長く続いて源氏は眠くなるばかりであった。宮もあくびをあそばして、 |
【宮の御方に】- 寝殿の東表の間、源氏、女五の宮対面。 【御耳もおどろかず、ねぶたきに】- 主語は源氏。『集成』は「お相手に辟易している体」と注す。 |
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2.3.2 | 「宵のうちから眠くなっていましたので、終いまでお話もできません」 |
「私は |
【宵まどひをしはべれば、ものもえ聞こえやらず】- 女五の宮の詞。「宵まどひ」は宵のうちから眠くなること。老人の習癖。 |
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2.3.3 | とおっしゃる間もなく、鼾とかいう、聞き知らない音がするので、これさいわいとお立ちになろうとすると、またたいそう年寄くさい咳払いをして、近寄ってまいる者がいる。 |
とお言いになったかと思うと、 |
【鼾とか、聞き知らぬ音】- 「とか」「聞き知らぬ」。源氏のような高貴な方の知らない下品な世界のものというニュアンス。 |
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2.3.4 | 「恐れながら、ご存じでいらっしゃろうと心頼みにしておりましたのに、生きている者の一人としてお認めくださらないので。 院の上は、祖母殿と仰せになってお笑いあそばしました」 |
「もったいないことですが、ご存じのはずと思っておりますものの私の存在をとっくにお忘れになっていらっしゃるようでございますから、私のほうから、出てまいりました。院の陛下がお |
【かしこけれど】- 以下「笑はせたまひし」まで、源典侍の詞。色好みで名高い老女の源典侍の登場。源氏の古りがたい好色心を対比させていよう。この巻全体の時間の流れ、老い、醜さ、など主題が語られている。源氏の古りがたき恋もまた醜い様相をおびている。 |
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2.3.5 | など、 |
などと、名乗り出したので、お思い出しになった。 |
と言うので源氏は思い出した。 |
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2.3.6 | 源典侍と言った人は、尼になって、この宮のお弟子として勤行していると聞いていたが、今まで生きていようとはお確かめ知りにならなかったので、あきれる思いをなさった。 |
【源典侍といひし人は】- 「紅葉賀」巻で五十七、八歳であった。現在七十または七十一歳。 【あさましうなりぬ】- 『集成』は「あきれる思いでいらっしゃる」。『完訳』は「びっくりなさった」と訳す。 |
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2.3.7 | 「その当時のことは、みな昔話になってゆきますが、遠い昔を思い出すと、心細くなりますが、なつかしく嬉しいお声ですね。 親がいなくて臥せっている旅人と思って、お世話してください」 |
「あのころのことは皆昔話になって、思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、うれしい方がおいでになりましたね。『親なしに |
【その世のことは】- 以下「育みたまへかし」まで、源氏の詞。 【親なしに臥せる旅人】- 「しなてるや片岡山に飯に飢ゑ臥せる旅人あはれ親なし」(拾遺集哀傷、一三五〇、聖徳太子)を踏まえる。 |
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2.3.8 | と言って、物に寄りかかっていらっしゃるご様子に、ますます昔のことを思い出して、相変わらずなまめかしいしなをつくって、たいそうすぼんだ口の恰好、想像される声だが、それでもやはり、甘ったるい言い方で戯れかかろうと今も思っている。 |
と言いながら、御簾のほうへからだを寄せる源氏に、 |
【寄りゐたまへる御けはひに】- 主語は源氏。 【いとど昔思ひ出でつつ、古りがたくなまめかしきさまに】- 主語は源典侍。 |
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2.3.9 | 「言い続けてきたうちに」などとお申し上げかけてくるのは、こちらの顔の赤くなる思いがする。 「今急に老人になったような物言いだ」など、と苦笑されるが、また一方で、これも哀れである。 |
「とうとうこんなになってしまったじゃありませんか」などとおくめんなしに言う。今はじめて老衰にあったような口ぶりであるとおかしく源氏は思いながらも、一面では哀れなことに予期もせず触れた気もした。 |
【言ひこしほどに】- 源典侍の詞。「身を憂しと言ひこしほどに今はまた人の上とも嘆くべきかな」(源氏釈所引、出典未詳)。『集成』は「お互いに年を取りました、それゆえ、お相手としては五分五分、というほどの下意であろう」と注す。 【まばゆさよ】- 源氏とともに語り手の気持ち。『集成』は「閉口千万だ」。『完訳』は「まったく見られたものでない」と訳す。 【今しも来たる老いのやうに】- 源氏の心中。 |
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2.3.10 | 「この あさましとのみ |
「その女盛りのころに、寵愛を競い合いなさった女御、更衣、ある方はお亡くなりになり、またある方は見るかげもなく、はかないこの世に落ちぶれていらっしゃる方もあるようだ。 入道の宮などの御寿命の短さよ。 あきれるばかりの世の中の無常に、年からいっても余命残り少なそうで、心構えなども、頼りなさそうに見えた人が、生き残って、静かに勤行をして過ごしていたのは、やはりすべて定めない世のありさまなのだ」 |
この女が若盛りのころの |
【この盛りに】- 以下「定めなき世なり」まで、源氏の心中。若くして逝った藤壺と生き永らえて勤行している源典侍を比べ、世の無常を思う。 【年のほど身の残り少なげさに】- 源典侍をさす。 |
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2.3.11 | と |
とお思いになると、何となくしみじみとしたご様子を、心のときめくことかと誤解して、はしゃぐ。 |
こんなふうに感じて、気分がしんみりとしてきたのを、典侍は自身の魅力の反映が源氏に現われてきたものと解して、若々しく言う。 |
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2.3.12 | 「何年たってもあなたとのご縁が忘れられません 親の親とかおっしゃった一言がございますもの」 |
年 親の親とか言ひし一こと |
【年経れどこの契りこそ忘られね--親の親とか言ひし一言】- 源典侍の贈歌。「この契り」に「子の契り」を掛ける。「親の親」は典侍自身をいう。「親の親と思はましかばとひてまし我が子の子にはあらぬなるべし」(拾遺集雑下、五四五、源重之の母)を踏まえる。 |
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2.3.13 | と |
と申し上げると、気味が悪くて、 |
源氏は |
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2.3.14 | 「来世に生まれ変わった後まで待って見てください この世で子が親を忘れる例があるかどうかと |
「身を変へて 親を忘るるためしありやと |
【身を変へて後も待ち見よこの世にて--親を忘るるためしありやと】- 源氏の返歌。「この契り」を「身を変へて」の来世の意と「この世にて」と切り返す。「この世」と「子の世」の掛詞。 |
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2.3.15 | 頼もしいご縁ですね。 いずれゆっくりと、お話し申し上げましょう」 |
頼もしい縁ですよ。そのうちにまた」 |
【頼もしき契りぞや】- 以下「聞こえさすべき」まで、歌に続けた源氏の詞。 |
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2.3.16 | とて、 |
とおっしゃって、お立ちになった。 |
と言って立ってしまった。 |
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第四段 朝顔姫君と和歌を詠み交わす |
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2.4.1 | 西面では御格子を下ろしていたが、お嫌い申しているように思われるのもどうかと、一間、二間は下ろしてない。 月が顔を出して、うっすらと積もった雪の光に映えて、かえって趣のある夜の様子である。 |
西のほうはもう格子が |
【西面に】- 寝殿の西表の間。朝顔の居所。 【月さし出でて、薄らかに積もれる雪の光りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり】- 冬の夜の雪の光と心象風景。季節と物語の類同的発想。「末摘花」巻参照。 |
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2.4.2 | 「さきほどの老いらくの懸想ぶりも、似つかわしくないものの例とか聞いた」とお思い出されなさって、おかしくなった。 今宵は、たいそう真剣にお話なさって、 |
今夜は真剣なふうに恋を訴える源氏であった。 |
【ありつる老いらくの心げさうも、良からぬものの世のたとひとか】- 『河海抄』所引「枕草子」に「清少納言枕草子、すさまじきもの、おうなのけさう、しはすの月夜云々」。現存本にはない。『二中歴』十列に「冷物、十二月月夜--老女仮借--」とある。 |
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2.4.3 | 「せめて一言、憎いなどとでも、人伝てではなく直におっしゃっていただければ、思いあきらめるきっかけにもしましょう」 |
「ただ一言、それは私を憎むということでも御自身のお口から聞かせてください。私はそれだけをしていただいただけで満足してあきらめようと思います」 |
【一言、憎しなども】- 以下「思ひ絶ゆるふしにもせむ」まで、源氏の詞。『完訳』は「今はただ思ひ絶えなむとばかり人づてならで言ふよしもがな」(後拾遺集恋三、七五〇、藤原道雅)を指摘する。 |
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2.4.4 | と、おり |
と、身を入れて強くお訴えになるが、 |
熱情を見せてこう言うが、 |
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2.4.5 | 「昔、自分も相手も若くて、過ちが許されたころでさえ、亡き父宮などが好感を持っていらっしゃったのを、やはりとんでもなく気がひけることだとお思い申して終わったのに、晩年になり、盛りも過ぎ、似つかわしくない今頃になって、その一言をお聞かせするのも気恥ずかしいことだろう」 |
【昔、われも人も】- 以下「いとまばゆからむ」まで、朝顔の心中。 【一声】- 源氏の「一言」を受ける。 |
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2.4.6 | とお思いになって、まったく動じようとしないお気持ちなので、「あきれるほどに、つらい」とお思い申し上げなさる。 |
とお思いになって、だれが勧めてもそうしようとされないのを、源氏は非常に恨めしく思った。 |
【あさましう、つらし】- 源氏の心中。 |
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2.4.7 | そうかといって、不体裁に突き放してというのではない取次ぎのお返事などが、かえってじれることである。 夜もたいそう更けてゆくにつれ、風の具合が、激しくなって、ほんとうにもの心細く思われるので、体裁よいところで、お拭いになって、 |
さすがに冷淡にはお取り扱いにはならないで、人づてのお返辞はくださるというのであったから、源氏は |
【さすがに、はしたなく】- 『集成』は「源氏の気持になりかわっての草子地」と注す。 【心やましきや】- 源氏の心に即した感想。 【さまよきほど】- 大島本は「さまよきほと」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「ほどに」と「に」を補訂する。 |
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2.4.8 | 「昔のつれない仕打ちに懲りもしないわたしの心までが あなたがつらく思う心に加わってつらく思われるのです |
「つれなさを昔に懲りぬ心こそ 人のつらさに添へてつらけれ |
【つれなさを昔に懲りぬ心こそ--人のつらきに添へてつらけれ】- 源氏の歌。「つれなさ」「つらきにそへて」「つらけれ」同語同音を反復した執拗な恋情を訴えた歌。 |
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2.4.9 | 自然とどうしようもございません」 |
『心づから』(恋しさも心づからのものなれば置き所なくもてぞ煩ふ)苦しみます」 |
【心づからの】- 歌に添えた言葉。「恋しきも心づからのわざなれば置きどころもなくもてぞわづらふ」(中務集)。 |
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2.4.10 | と口に上るままにおっしゃると、 |
【のたまひすさぶるを】- 『集成』は「お口に上るままおっしゃるのを」。『完訳』は「言いつのられるのを」と訳す。 |
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2.4.11 | 「げに」 |
「ほんとうに」 |
「あまりにお気の毒でございますから」と言って、 |
【げに」--「かたはらいたし】- 女房の詞。 |
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2.4.12 | 「見ていて気が気でありませんわ」 |
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2.4.13 | と、 |
と、女房たちは、例によって、申し上げる。 |
女房らが女王に返歌をされるように勧めた。 |
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2.4.14 | 「今さらどうして気持ちを変えたりしましょう 他人ではそのようなことがあると聞きました心変わりを |
「改めて何かは見えん人の上に かかりと聞きし心変はりを |
【あらためて何かは見えむ人のうへに--かかりと聞きし心変はりを】- 朝顔の姫君の返歌。「人のつらきに」を受けて「人の上にかかりと聞きし」と切り返す。 |
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2.4.15 | 昔と変わることは、今もできません」 |
私はそうしたふうに変わっていきません」 |
【昔に変はることは、ならはず】- 歌に添えた詞。 【ならはず」--など】-大島本は「ならハすなと」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「なむと」と「む」を補訂する。 |
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2.4.16 | など |
などとお答え申し上げなさった。 |
と女房が斎院のお言葉を伝えた。 |
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第五段 朝顔姫君、源氏の求愛を拒む |
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2.5.1 | いふかひなくて、いとまめやかに |
何とも言いようがなくて、とても真剣に恨み言を申し上げなさってお帰りになるのも、たいそう若々しい感じがなさるので、 |
力の抜けた気がしながらも、言うべきことは言い残して帰って行く源氏は、自身がみじめに思われてならなかった。 |
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2.5.2 | 「ひどくこう、世の中のもの笑いになってしまいそうな様子、お漏らしなさるなよ。 きっときっと。 いさら川などと言うのも馴れ馴れしいですね」 |
「こんなことは愚かな男の例として |
【いとかく、世の例に】- 以下「なれなれしや」まで、源氏の詞。 【いさら川などもなれなれしや】- 「犬上の鳥篭の山なるいさら川いさと答えて我が名漏らすな」(古今六帖、名を惜しむ)。『完訳』は「情交もないのに、あったかのように、この歌を持ち出すのが、「馴れ馴れし」」と注す。 |
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2.5.3 | と言って、しきりにひそひそ話しかけていらっしゃるが、何のお話であろうか。 女房たちも、 |
と言って源氏はなお女房たちに何事かを頼んで行った。 |
【何ごとにかあらむ】- 『集成』は「草子地」。『完訳』は「女房の心に即した語り手の評」と注す。 |
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2.5.4 | 「何とも、 もったいない。どうしてむやみにつれないお仕打ちをなさる |
「もったいない気がしました。なぜああまで気強くなさるのでしょう。少し近くへお出ましになっても、まじめに求婚をしていらっしゃるだけですから、失礼なことなどの起こってくる気づかいはないでしょうのに、 |
【あな、かたじけな】- 以下「心苦しう」まで、女房の詞。 |
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2.5.5 | 「 |
「軽々しく無体なこととはお見えにならない態度なのに。 お気の毒な」 |
お気の毒な」 |
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2.5.6 | と |
と言う。 |
とあとで言う者もあった。 |
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2.5.7 | なるほど、君のお人柄の、素晴らしいのも、慕わしいのも、お分かりにならないのではないが、 |
斎院は源氏の価値をよく知っておいでになって愛をお感じにならないのではないが、 |
【げに、人のほどの】- 「げに」は朝顔の姫君と語り手の気持ちが一体化した表現。『完訳』は「姫君の心内に即した叙述。部分的に直接話法が混じる」と注す。 |
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2.5.8 | 「もの かつは、 よその |
「ものの情理をわきまえた人のように見ていただいたとしても、世間一般の人がお褒め申すのとひとしなみに思われるだろう。 また一方では、至らぬ心のほどもきっとお見通しになるに違いなく、気のひけるほど立派なお方だから」とお思いになると、「親しそうな気持ちをお見せしても、何にもならない。 さし障りのないお返事などは、引き続き、御無沙汰にならないくらいに差し上げなさって、人を介してのお返事、失礼のないようにしていこう。 長年、仏事に無縁であった罪が消えるように仏道の勤行をしよう」とは決意はなさるが、「急にこのようなご関係を、断ち切ったようにするのも、かえって思わせぶりに見えもし聞こえもして、人が噂しはしまいか」と、世間の人の口さがないのをご存知なので、一方では、伺候する女房たちにも気をお許しにならず、たいそうご用心なさりながら、だんだんとご勤行一途になって行かれる。 |
好意を見せても源氏の |
【もの思ひ知るさまに】- 以下「御ありさまを」まで、朝顔の姫君の心中。 【と思せば】- 語り手の叙述。 【なつかしからむ情けも】- 以下「行なひを」まで、再び朝顔の姫君の心中。 【聞こえたまひ】- 『完訳』は「間接話法ゆえの尊敬語」と注す。 【年ごろ、沈みつる罪失ふばかり御行なひを】- 斎院として仏道から離れていたことを「沈みつる罪」と自覚する。 【とは思し立てど】- 語り手の叙述。 【にはかにかかる御ことをしも】- 以下「人のとりなさじやは」まで、再び朝顔の姫君の心中。 |
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2.5.9 | ご兄弟の君達は多数いらっしゃるが、同腹ではないので、まったく疎遠で、宮邸の中がたいそうさびれて行くにつれて、あのような立派な方が、熱心にご求愛なさるので、一同そろって、お味方申すのも、誰の思いも同じと見える。 |
女王は男の兄弟も幾人か持っておいでになるのであるが同腹でなかったから親しんで来る者もない。 |
【御兄弟の君達あまたものしたまへど】- 朝顔の姫君の兄弟。物語には登場しない。 【宮のうちいとかすかになり行くままに、さばかりめでたき人の、ねむごろに】- 故桃園式部卿宮邸の荒廃、その女主人への源氏の求愛、取り巻きの女房の心理。故常陸宮邸の末摘花の物語に類似。 |
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第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影 |
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第一段 紫の君、嫉妬す |
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3.1.1 | 大臣は、やみくもにご執心というわけではないが、つれない態度が腹立たしいので、負けて終わるのも悔しく、なるほどそれは、確かにご自身の人品や、世の評判は格別で、申し分なく、物事の道理を深くわきまえ、世間の人々の、それぞれの生き方の違いも広くお知りになって、昔よりも経験を多く積んでいらっしゃるので、今さらのお浮気事も、一方では世間の非難をお分りになりながら、 |
宮家の財政も心細くなった際に、源氏が熱心な求婚者として出て来たのであるから、女たちは一人残らず結婚の成り立つことばかりを祈っていた。源氏はあながちにあせって結婚がしたいのではなかったが、恋人の冷淡なのに負けてしまうのが残念でならなかった。今日の源氏は最上の運に恵まれてはいるが、昔よりはいろいろなことに経験を積んできていて、今さら恋愛に没頭することの不可なことも、世間から受ける批難も知っていながらしていることで、これが成功しなければいよいよ不名誉であると信じて、 |
【げにはた、人の御ありさま】- 「げに」は語り手が納得したニュアンス。『完訳』は「以下、源氏は反転して、自らを凝視し、姫君への恋慕に自制的」。また「人の御ありさま」について『完訳』は「源氏の人柄。一説には「あらまほしく」まで姫君とする」と注す。 |
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3.1.2 | 「このまま空しく引き下がっては、ますます物笑いとなるであろう。 どうしたらよいものか」 |
【むなしからむは】- 以下「いかにせむ」まで、源氏の心中。 |
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3.1.3 | と、お心が騒いで、二条院にお帰りにならない夜がお続きになるのを、女君は、冗談でなく恋しいとばかりお思いになる。 我慢していらっしゃるが、どうして涙がこぼれる時がないであろうか。 |
二条の院に寝ない夜も多くなったのを夫人は恨めしがっていた。悲しみをおさえる力も尽きることがあるわけである。源氏の前で涙のこぼれることもあった。 |
【たはぶれにくくのみ思す】- 「ありぬやとこころみがてらあひ見ねば戯れにくきまでぞ恋しき」(古今集俳諧歌、一〇二五、読人しらず)。『集成』は「冗談もならぬほど恋しくてたまらぬお気持である」と訳す。 【いかがうちこぼるる折もなからむ】- 「いかが--む」反語表現。『完訳』は「語り手が、紫の上の涙を想像」と注す。 |
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3.1.4 | 「不思議にいつもと違ったご様子が、理解できませんね」 |
「なぜ |
【あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ】- 源氏の詞。 |
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3.1.5 | と言って、お髪をかき撫でながら、おいたわしいと思っていらっしゃる様子も、絵に描きたいようなお間柄である。 |
と言いながら、 |
【絵に描かまほしき御あはひなり】- 『完訳』は「語り手が、二人の心情とは別に、理想の夫婦仲とする点に注意」と注す。表面と内面は別。冷えた関係。 |
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3.1.6 | 「 このほどの おとなびたまひためれど、まだいと |
「宮がお亡くなりになって後、主上がとてもお寂しそうにばかりしていらっしゃるのも、おいたわしく拝見していますし、太政大臣もいらっしゃらないので、政治を見譲る人がいない忙しさです。 このごろの家に帰らないことを、今までになかったことのようにお恨みになるのも、もっともなことで、お気の毒ですが、今はいくら何でも、安心にお思いなさい。 おとなのようにおなりになったようですが、まだ深いお考えもなく、わたしの心もまだお分りにならないようでいらっしゃるのが、かわいらしい」 |
「女院がお |
【宮亡せたまひて後】- 以下「らうたけれ」まで、源氏の詞。「宮」は藤壺をさす。 【おとなびたまひためれど】- 紫の上についていう。 |
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3.1.7 | など、まろがれたる |
などと言って、涙でもつれている額髪、おつくろいになるが、ますます横を向いて何とも申し上げなさらない。 |
などと言いながら、優しく妻の髪を直したりして源氏はいるのであったが、夫人はいよいよ顔を向こうへやってしまって何も言わない。 |
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3.1.8 | 「とてもひどく子どもっぽくしていらっしゃるのは、誰がおしつけ申したことでしょう」 |
「若々しい |
【いといたく】- 以下「きこえたるぞ」まで、源氏の詞。 |
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3.1.9 | と言って、「無常の世に、こうまで隔てられるのもつまらないことだ」と、一方では物思いに耽っていらっしゃる。 |
【常なき世に、かくまで心置かるるもあぢきなのわざや】- 源氏の心中。『集成』は「いつ死ぬか分らぬ無常な世に、このいとしい人にこんなにまで怨まれるのも、つまらぬことよと、前斎院のことを思う一方、浮かぬ思いでいらっしゃる」。『完訳』は「どうせ短い人生、せめて自分も人も心を分け合って生きたい、の願望。「心おく」は警戒する意」と注す。 |
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3.1.10 | 「 それは、いともて おのづから うしろめたうはあらじとを、 |
「斎院にとりとめのない文を差し上げたのを、もしや誤解なさっていることがありませんか。 それは、大変な見当違いのことですよ。 自然とお分かりになるでしょう。 昔からまったくよそよそしいお気持ちなので、もの寂しい時々に、恋文めいたものを差し上げて困らせたところ、あちらも所在なくお過ごしのところなので、まれに返事などなさるが、本気ではないので、こういうことですと、不平をこぼさなければならないようなことでしょうか。 不安なことは何もあるまいと、お思い直しなさい」 |
「斎院との交際で何かあなたは疑っているのではないのですか。それはまったく恋愛などではないのですよ。自然わかってくるでしょうがね。昔からあの人はそんな気のないいっぷう変わった女性なのですよ。私の寂しい時などに手紙を書いてあげると、あちらはひまな方だから時々は返事をくださるのです。忠実に相手になってもくださらないと、そんなことをあなたにこぼすほどのことでもないから、いちいち話さないだけです。気がかりなことではないと思い直してください」 |
【斎院にはかなしごと聞こゆるや】- 以下「思ひ直したまへ」まで、源氏の詞。 【ただならで聞こえ悩ますに】- 『集成』は「心を静めがたくて、お便りをさし上げてお困らせすると」。『完訳』は「恋文めかしたお手紙をさしあげてお困らせ申しあげたところ」と訳す。 【かくなむあるとしも、愁へきこゆべきことにやは】- 『集成』は「こういうことですなどと(前斎院とのことがうまくゆかないなどと)あなたに泣き事を申さねばならないことでしょうか。反語」と訳す。 |
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3.1.11 | など、 |
などと、一日中お慰め申し上げなさる。 |
などと言って、源氏は終日夫人をなだめ暮らした。 |
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第二段 夜の庭の雪まろばし |
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3.2.1 | 雪がたいそう降り積もった上に、今もちらちらと降って、松と竹との違いがおもしろく見える夕暮に、君のご容貌も一段と光り輝いて見える。 |
雪のたくさん積もった上になお雪が降っていて、松と竹がおもしろく変わった個性を見せている夕暮れ時で、人の |
【雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に】- 夕暮の松と竹の枝に雪の降り積もるかっこうでその違いが区別される様子。 【人の御容貌も光まさりて見ゆ】- 源氏をさす。 |
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3.2.2 | 「季節折々につけても、人が心を惹かれるらしい花や紅葉の盛りよりも、冬の夜の冴えた月に、雪の光が照り映えた空こそ、妙に、色のない世界ですが、身に染みて感じられ、この世の外のことまで思いやられて、おもしろさもあわれさも、尽くされる季節です。 興醒めな例としてとして言った人の考えの浅いことよ」 |
「春がよくなったり、秋がよくなったり、始終人の好みの変わる中で、私は冬の澄んだ月が雪の上にさした無色の風景が身に |
【時々につけても】- 以下「人の心浅さよ」まで、源氏の詞。「春秋に思ひ乱れて分きかねつ時につけつつ移る心は」(拾遺集雑下、五〇九、紀貫之)を踏まえる。 【人の心を移すめる花紅葉の盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものの、身にしみて、この世のほかのことまで思ひ流され、おもしろさもあはれさも、残らぬ折なれ】- 源氏の口を通して語らせた作者の冬の雪明りの夜の美意識。中世の美意識の先駆的なもの。「いざかくてをりに明かしてむ冬の月春の花にも劣らざりけり」(拾遺集雑秋、一一四六、清原元輔)。 【この世のほかのことまで】-来世をさす。『完訳』は「源氏の脳裡には亡き藤壺が去来していよう」と注す。 |
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3.2.3 | とて、 |
と言って、御簾を巻き上げさせなさる。 |
源氏はこんなことを言いながら |
【御簾巻き上げさせたまふ】- 『白氏文集』の「香炉峯の雪は簾を撥げて看る」を踏まえた表現。 |
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3.2.4 | 月は隈なく照らして、一色に見渡される中に、萎れた前栽の影も痛々しく、遣水もひどく咽び泣くように流れて、池の氷もぞっとするほど身に染みる感じで、童女を下ろして、雪まろばしをおさせになる。 |
月光が明るく地に落ちてすべての世界が白く見える中に、植え込みの |
【月は隈なくさし出でて、ひとつ色に見え渡されたるに、しをれたる前栽の蔭心苦しう、遣水もいといたうむせびて、池の氷もえもいはずすごきに、童女下ろして、雪まろばしせさせたまふ】- 白と黒との無色の世界。遣水の流れを擬人法で描写、池の氷の無情な様子。源氏の荒寥寂寞とした心中との景情一致の世界、また源氏の心象風景であろう。そこに、童女を雪の庭に下ろして、かろうじて、色彩が加わり、人心を取り戻す。 |
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3.2.5 | かわいらしげな姿、お髪の恰好が、月の光に映えて、大柄の物馴れた童女が、色とりどりの衵をしどけなく着て、袴の帯もゆったりした寝間着姿、優美なうえに、衵の裾より長い髪の末が、白い雪を背景にしていっそう引き立っているのは、たいそう鮮明な感じである。 |
美しい姿、頭つきなどが月の光にいっそうよく見えて、やや大きな童女たちが、いろいろな |
【なまめいたるに】- 『集成』は「あでやかなのに」。『完訳』は「みずみずしくいきな感じであるところへ」と訳す。 |
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3.2.6 | 小さい童女は、子どもらしく喜んで走りまわって、扇なども落として、気を許しているのがかわいらしい。 |
小さい童女は子供らしく喜んで走りまわるうちには扇を落としてしまったりしている。 |
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3.2.7 | たいそう大きく丸めようと、欲張るが、転がすことができなくなって困っているようである。 またある童女たちは、東の縁先に出ていて、もどかしげに笑っている。 |
ますます大きくしようとしても、もう童女たちの力では雪の |
【まろばさらむと】- 大島本は「まろはさらむ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「まろばさむ」と「ら」を削除する。 |
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第三段 源氏、往古の女性を語る |
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3.3.1 | 「先年、中宮の御前に雪の山をお作りになったのは、世間で昔からよく行われてきたことですが、やはり珍しい趣向を凝らしてちょっとした遊び事をもなさったものでしたなあ。 どのような折々につけても、残念でたまたない思いですね。 |
「昔 |
【一年、中宮の御前に】- 以下「世に残りたまへらむ」まで、源氏の詞。 【何の折々につけても、口惜しう飽かずもあるかな】- 藤壺崩御後の寂寥感を吐露する。 |
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3.3.2 | いとけどほくもてなしたまひて、くはしき |
とても隔てを置いていらして、詳しいご様子は拝したことはございませんでしたが、宮中生活の中で、心安い相談相手としては、お考えくださいました。 |
私などに対して |
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3.3.3 | うち |
ご信頼申し上げて、あれこれと何か事のある時には、どのようなこともご相談申し上げましたが、表面には巧者らしいところはお見せにならなかったが、十分で、申し分なく、ちょっとしたことでも格別になさったものでした。 この世にまた、あれほどの方がありましょうか。 |
私は何かのことがあると歌などを差し上げたが、文学的に見て優秀なお返事でないが、見識があるというよさはおありになって、お言いになることが皆深みのあるものだった。あれほど完全な |
【いふかひあり、思ふさまに、はかなきことわざをもしなしたまひしはや】- 『集成』は「立派に、申し分なく、ほんのちょっとしたことでも格別のなさりようでした」と訳す。 【たぐひありなむや】- 大島本は「たくひありなむ」とある。『集成』『新大系』『古典セレクション』は諸本に従って「ありなむや」と「や」を補訂する。底本は次の「やはらかに」の「や」と目移りして脱字したものか。「や」を補訂する。 |
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3.3.4 | やはらかにおびれたるものから、 |
しとやかでいらっしゃる一面、奥深い嗜みのあるところは、又となくいらっしゃったが、あなたこそは、そうはいっても、紫の縁で、たいして違っていらっしゃらないようですが、少しこうるさいところがあって、利発さの勝っているのが、困りますね。 |
柔らかに弱々しくいらっしゃって、 |
【君こそは、さいへど、紫のゆゑ、こよなからずものしたまふめれど】- 「紫の一本とゆゑに武蔵野の草は見ながらあはれとぞ見る」(古今集雑上、八六七、読人しらず)「知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ」(古今六帖、五)。あなた(紫の上)は故藤壺中宮の縁者ゆえに身分も格別である、という。 【すこしわづらはしき気添ひて、かどかどしさのすすみたまへるや】- 『集成』は「利発さの勝っておられるところが」。『完訳』は「きかぬ気の勝ちすぎていらしゃるのが」と訳す。 |
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3.3.5 | さうざうしきに、 |
前斎院のご性質は、また格別に見えます。 心寂しい時に、何か用事がなくても便りをしあって、自分も気を使わずにはいられないお方は、ただこのお一方だけが、世にお残りでしょうか」 |
前斎院の性格はまたまったく変わっておいでになる。私の寂しい時に手紙などを書く交際相手で敬意の払われる、晴れがましい友人としてはあの方だけがまだ残っておいでになると言っていいでしょう」 |
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3.3.6 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
と源氏が言った。 |
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3.3.7 | 「尚侍は、利発で奥ゆかしいところは、どなたよりも優れていらっしゃるでしょう。 軽率な方面などは、無縁なお方でいらしたのに、不思議なことでしたね」 |
「 |
【尚侍こそは】- 以下「ありけることどもかな」まで、紫の上の詞。 【浅はかなる筋など、もて離れたまへりける人の御心を】- 紫の上は、朧月夜尚侍を軽率な振る舞いなど無関係な人柄であったのに、と評すが、源氏とのスキャンダルについて事の真相を質そうとするさぐりの言葉であろうか。 |
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3.3.8 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
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3.3.9 | 「さかし。 なまめかしう さも まいて、うちあだけ |
「そうですね。 優美で器量のよい女性の例としては、やはり引き合いに出さなければならない方ですね。 そう思うと、お気の毒で悔やまれることが多いのですね。 まして、浮気っぽい好色な人が、年をとるにつれて、どんなにか後悔されることが多いことでしょう。 誰よりもはるかにおとなしい、と思っていましたわたしでさえですから」 |
「そうですよ。 |
【さかし】- 以下「と思ひしだに」まで、源氏の詞。古りせぬ好色心の末路が、源典侍によって照射される一方で、藤壺の死があり、人の世の皮肉な無常感がこの巻の主題となっている。物語の伝統である「色好み」「好き心」が問い直されている巻である。 【うちあだけ好きたる人】- 好色な男。 【ことなき静けさ】- 大島本は「ことなき」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「こよなき」と校訂する。 【思ひしだに】- 『完訳』は「下に、こんなに後悔が多いのだから、の意。自らの述懐である」と注す。 |
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3.3.10 | などと、お口になさって、尚侍の君の御事にも、涙を少しはお落としなった。 |
源氏は尚侍の話をする時にも涙を少しこぼした。 |
【尚侍の君の御ことににも】- 大島本は「御ことににも」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「御ことにも」と「に」を削除する。 |
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3.3.11 | 「この、 いふかひなき |
「あの、人数にも入らないほどさげすんでいらっしゃる山里の女は、身分にはやや過ぎて、物の道理をわきまえているようですが、他の人とは同列に扱えない人ですから、気位を高くもっているのも、見ないようにしております。 お話にもならない身分の人はまだ知りません。 人というものは、すぐれた人というのはめったにいないものですね。 |
「あなたが眼中にも置かないように |
【この、数にもあらず】- 以下「と思ひはべる」まで、源氏の詞。 【ことなべきものなれば】- 大島本は「ことなへき」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「ことなるべき」と「る」を補訂する。 【思ひ上がれるさまをも、見消ちてはべるかな】- 『集成』は「気位の高いところなども無視しているのです」。『完訳』は「気位の高い様子もたいしたこととは思わないのでいるのです」と訳す。 |
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3.3.12 | さはた、さらにえあらぬものを、さる |
東の院に寂しく暮らしている人の気立ては、昔に変わらず可憐なものがあります。 あのようには、とてもできないものですが、その方面につけての気立てのよさで、世話するようになって以来、同じように夫婦仲を遠慮深げな態度で過ごしてきましたよ。 今はもう、互いに別れられそうなく、心からいとしいと思っております」 |
東の院に置いてある人の善良さは、若い時から今まで一貫しています。愛すべき人ですよ。ああはいかないものですよ。私たちは青春時代から信じ合った、そしてつつましい恋を続けてきたものです。今になって別れ別れになることなどはできませんよ。私は深く愛しています」 |
【東の院にながむる人の心ばへこそ、古りがたくらうたけれ】- 花散里をいう。 |
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3.3.13 | など、 |
などと、昔の話や今の話などに夜が更けてゆく。 |
こんな話に夜はふけていった。 |
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第四段 藤壺、源氏の夢枕に立つ |
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3.4.1 | 月がいよいよ澄んで、静かで趣がある。 女君、 |
月はいよいよ澄んで美しい。夫人が、 |
【月いよいよ澄みて、静かにおもしろし】- 時間の経過とさらに研ぎ澄まされてゆく心を象徴する。 |
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3.4.2 | 「氷に閉じこめられた石間の遣水は流れかねているが 空に澄む月の光はとどこおりなく西へ流れて行く」 |
氷とぢ岩間の水は行き悩み 空澄む月の影ぞ流るる |
【氷閉ぢ石間の水は行きなやみ--空澄む月の影ぞ流るる】- 紫の上の独詠歌。『集成』は「氷が張って石の間を流れる遣水は流れかねていますが、空に澄む月の光はとどこおることなく西に向ってゆきます。「ながるる」は、氷の面に映じながら移る景をいう。庭を眺めての叙景の歌である」。『完訳』は「「行き」「生き」、「澄む」「住む」、「流るる」「泣かるる」、「空」「嘘言」の掛詞。自身を石間の水に、源氏を月影にたとえ、孤心を形象」「氷の張った石間の水は流れかねているけれども、空に澄む月影は西へと傾いてゆきます--私は閉じこめられて、どう生きていけばよいのか悩んでおりますので、嘘ばっかりおっしゃって私を離れていこうとするあなたのお顔を見ると泣けてきます」。『新大系』は「冬夜の庭と月光に触発された歌。先刻までの朝顔姫君への嫉妬も、自然観照のうちに封じこめられる。石間の水に自身を、月光に源氏を喩えたとする読み方もあるが、とらない」と注す。 |
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3.4.3 | 外の方を御覧になって、少し姿勢を傾けていらっしゃるところ、似る者がないほどかわいらしげである。 髪の具合、顔立ちが、恋い慕い申し上げている方の面影のようにふと思われて、素晴らしいので、少しは他に分けていらっしゃったご寵愛もあらためてお加えになることであろう。 鴛鴦がちょっと鳴いたので、 |
と言いながら、外を見るために少し傾けた顔が美しかった。髪の |
【恋ひきこゆる人】- 藤壺をさす。 【いささか分くる御心もとり重ねつべし】- 『集成』は「源氏の気持をそのまま地の文として書いたもの」と注す。『新大系』は「いささか他の女(朝顔姫君)に分けているお気持も、きっと(紫上に)さらに加わることだろう」と訳す。 【とり重ねつべし】-とり返されつへし為-とりかへしへし肖-とりかさね(さね$へし)つへし三 河内本は一本(宮)が「とりかへしつへし」、別本四本(陽坂平国)は「とりかへしつへし」。源氏の心が紫の上に、「取り重ねつべし」又は「取り返しつべし」という重要な相違。そして、「取り返す」の場合、それは誰にか。紫の上にか、あるいは藤壺にか。藤壺という解釈も有効である。 |
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3.4.4 | 「何もかも昔のことが恋しく思われる雪の夜に いっそうしみじみと思い出させる鴛鴦の鳴き声であることよ」 |
かきつめて昔恋しき雪もよに 哀れを添ふる |
【かきつめて昔恋しき雪もよに--あはれを添ふる鴛鴦の浮寝か】- 源氏の独詠歌。『集成』は「あれもこれも昔のことが恋しく思われる雪の降る中に、哀れをそそる鴛鴦の浮き寝であることよ。「かきつめて」は、かき集めて。「昔」は、藤壺のこと。「鴛鴦の浮寝」は、紫の上との間柄を意味していよう」。『完訳』は「「むかし恋しき」は藤壺追懐の情。「雪もよに」は「雪もよよに」の約か。「鴛鴦のうきね」は、藤壺を亡くした悲情を象徴。前述の、雪の夜にかたどられた心象風景に連なり、亡き藤壺への哀傷を詠む。同じく雪の夜を詠みながらも、紫の上の孤心と、源氏の哀傷という相違に注意」と注す。 |
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3.4.5 | お入りになっても、宮のことを思いながらお寝みになっていると、夢ともなくかすかにお姿を拝するが、たいそうお怨みになっていらっしゃるご様子で、 |
と言っていた。寝室にはいってからも源氏は中宮の御事を恋しく思いながら眠りについたのであったが、夢のようにでもなくほのかに宮の面影が見えた。非常にお恨めしいふうで、 |
【入りたまひても】- 『集成』は「奥に」。『完訳』は「御寝所に」と訳す。同床異夢の源氏と紫の上。 【ほのかに見たてまつる】- 大島本は「ミたてまつるを(を$)」とある。すなわち「を」をミセケチにする。『新大系』は底本の削除に従う。『集成』『古典セレクション』は諸本及び底本の訂正以前本文に従って「見たてまつるを」と校訂する。 |
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3.4.6 | 「漏らさないとおっしゃったが、つらい噂は隠れなかったので、恥ずかしく、苦しい目に遭うにつけ、つらい」 |
「あんなに秘密を守るとお言いになりましたけれど、私たちのした |
【漏らさじとのたまひしかど】- 以下「つらくなむ」まで、源氏の夢の中の藤壺の詞。『集成』は「紫の上に自分のことを語ったのを恨んでいる。女としての悲しい嫉妬の思いが篭められている」と注す。 |
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3.4.7 | とおっしゃる。 お返事を申し上げるとお思いになった時、ものに襲われるような気がして、女君が、 |
とお言いになった。返辞を申し上げるつもりでたてた声が、夢に襲われた声であったから、夫人が、 |
【御応へ聞こゆと思すに】- 『集成』は「何かお答え申し上げているつもりが」。『完訳』は「ご返事申しあげているとお思いのときに」と訳す。 |
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3.4.8 | 「これは、どうなさいました、このように」 |
「まあ、どうなさいました、そんなに」 |
【こは、など、かくは】- 紫の上の詞。 |
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3.4.9 | とおっしゃったのに、目が覚めて、ひどく残念で、胸の置きどころもなく騒ぐので、じっと抑えて、涙までも流していたのであった。 今もなお、ひどくお濡らし加えになっていらっしゃる。 |
と言ったので源氏は目がさめた。非常に残り惜しい気がして、張り裂けるほどの鼓動を感じる胸をおさえていると、涙も流れてきた。夢のまったく |
【いみじく口惜しく】- 夢の覚めたことをさす。藤壺への執心。 【今も】- 夢から覚めた今も、の意。 |
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3.4.10 | 女君が、どうしたことかとお思いになるので、身じろぎもしないで横になっていらっしゃった。 |
夫人はどんな夢であったのであろうと思うと、自分だけが別物にされた寂しさを覚えて、じっとみじろぎもせずに寝ていた。 |
【うちもみじろかで臥したまへり】- 『集成』は「源氏は身動きもしないで横になっておいでになる。主語を紫の上とするのは誤り」。『完訳』は「紫の上は闇のなかの不思議を探るべく身を固くする」と注する。 |
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3.4.11 | 「安らかに眠られずふと寝覚めた寂しい冬の夜に 見た夢の短かかったことよ」 |
とけて寝ぬ寝 結ぼほれつる夢のみじかさ |
【とけて寝ぬ寝覚さびしき冬の夜に--むすぼほれつる夢の短さ】- 源氏の心中独詠歌。「とけて寝ぬ」の「ぬ」打消の助動詞。夢の中での藤壺との短い逢瀬を惜しむ気持ち。 |
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第五段 源氏、藤壺を供養す |
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3.5.1 | なかなか |
かえって心満たされず、悲しくお思いになって、早くお起きになって、それとは言わず、所々の寺々に御誦経などをおさせになる。 |
源氏の歌である。夢に死んだ恋人を見たことに心は慰まないで、かえって恋しさ悲しさのまさる気のする源氏は、早く起きてしまって、何とは表面に出さずに、 |
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3.5.2 | 「苦しい目にお遭いになっていると、お怨みになったが、きっとそのようにお恨みになってのことなのだろう。 勤行をなさり、さまざまに罪障を軽くなさったご様子でありながら、自分との一件で、この世の罪障をおすすぎになれなかったのだろう」 |
苦しい目を見せるとお恨みになったのもきっとそういう気のあそばすことであろうと源氏に悟れるところがあった。仏勤めをなされたほかに民衆のためにも功徳を多くお行ないになった宮が、あの一つの過失のためにこの世での罪障が消滅し尽くさずにいるかと、 |
【苦しき目見せたまふと】- 以下「すすいたまはざらむ」まで、源氏の心中。『完訳』は「夢の中で、苦患に責められていらっしゃるとお恨みになったが、宮はさぞそのように自分を恨んでいらっしゃるのだろう」と訳す。 |
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3.5.3 | と、ものの |
と、ものの道理を深くおたどりになると、ひどく悲しくて、 |
深く考えてみればみるほど源氏は悲しくなった。 |
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3.5.4 | 「どのような方法をしてでも、誰も知る人のいない冥界にいらっしゃるのを、お見舞い申し上げて、その罪にも代わって差し上げたい」 |
自分はどんな苦行をしても寂しい世界に |
【何わざをして】- 以下「代はりきこえばや」まで、源氏の心中。 |
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3.5.5 | など、つくづくと |
などと、つくづくとお思いになる。 |
こんなことをつくづくと思い暮らしていた。 |
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3.5.6 | 「あのお方のために、特別に何かの法要をなさるのは、世間の人が不審に思い申そう。 主上におかれても、良心の呵責にお悟りになるかもしれない」 |
中宮のために仏事を自分の行なうことはどんな簡単なことであっても世間の疑いを受けることに違いない、 |
【かの御ために】- 以下「思すところやあらむ」まで、源氏の心中。途中「たまはむ」という敬語表現がまじる。『集成』は「内容は源氏の心中の思いであるが、地の文のような書き方をしている」と注す。 |
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3.5.7 | と、気がねなさるので、阿弥陀仏を心に浮かべてお念じ申し上げなさる。 「同じ蓮の上に」と思って、 |
【同じ蓮に」とこそは】- 『集成』は「極楽の同じ蓮の上に往生しようと。歌のなき人をしたふ--」に続く。極楽の往生人は、蓮華の上に半座をあけて同行の人を待つとされる」。『完訳』は「浄土では夫婦が後から来る伴侶のために蓮華の座をあけて待つ。しかし夫婦ならざる源氏は、一蓮托生を望みえず、絶望の歌を託す」と注す。 |
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3.5.8 | 「亡くなった方を恋慕う心にまかせてお尋ねしても その姿も見えない三途の川のほとりで迷うことであろうか」 |
なき人を慕ふ心にまかせても かげ見ぬ水の瀬にやまどはん |
【亡き人を慕ふ心にまかせても--影見ぬ三つの瀬にや惑はむ】- 源氏の独詠歌。「亡き人」「影」は藤壺をさす。「水の瀬」「三つの瀬」の掛詞。『新大系』は「女は最初に契った男に負われて三途の川を渡るとされる。冥界でも面会ができぬとする源氏の絶望を詠んだ歌」と注す。 |
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3.5.9 | とお思いになるのは、つらい思いであったとか。 |
と思うと悲しかったそうである。(訳注) 源氏の君三十二歳。 |
【憂かりけるとや】- 『集成』は「源氏の気持を伝える語り手の言葉」。『完訳』は「語り手の感想」。『新大系』は「源氏の心を語り伝える語り手の言葉」と注す。 |
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