設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | ||
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第二帖 帚木 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
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第一章 雨夜の品定めの物語 |
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第一段 長雨の時節 |
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1.1.1 | 光る源氏と、名前だけはご大層だが、非難されなさる取り沙汰が多いというのに、ますます、このような好色沙汰を、後世にも聞き伝わって、軽薄である浮き名を流すことになろうかと、隠していらっしゃった秘密事までを、語り伝えたという人のおしゃべりの意地の悪いことよ。 |
光源氏、すばらしい名で、青春を盛り上げてできたような人が思われる。自然奔放な好色生活が想像される。しかし実際はそれよりずっと質素な心持ちの青年であった。その上恋愛という一つのことで後世へ自分が誤って伝えられるようになってはと、異性との交渉をずいぶん内輪にしていたのであるが、ここに書く話のような事が伝わっているのは世間がおしゃべりであるからなのだ。 |
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1.1.2 | とは言うものの、大変にひどく世間を気にし、まじめになさっていたところは、艶っぽくおもしろい話はなくて、交野少将からは笑われなさったことであろうよ。 |
自重してまじめなふうの源氏は恋愛風流などには遠かった。好色小説の中の交野の少将などには笑われていたであろうと思われる。 | ||||||||||||||||||||
1.1.3 | まだ近衛中将などでいらっしゃったころは、内裏にばかりよく伺候していらっしゃって、大殿邸には途切れ途切れに退出なさる。 お浮気事かと、お疑い申すこともあったが、そんなふうに浮気っぽいありふれた思いつきの色恋事などは好きでないご性格で、時たまには、やむにやまれない予想を狂わせる気苦労の多い恋を、お心に思いつめなさる性癖が、あいにくおありで、よろしくないご素行もないではなかった。 |
中将時代にはおもに宮中の宿直所に暮らして、時たまにしか舅の左大臣家へ行かないので、別に恋人を持っているかのような疑いを受けていたが、この人は世間にざらにあるような好色男の生活はきらいであった。まれには風変わりな恋をして、たやすい相手でない人に心を打ち込んだりする欠点はあった。 | ||||||||||||||||||||
第二段 宮中の宿直所、光る源氏と頭中将 |
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1.2.1 | 長雨の晴れ間のないころ、宮中の御物忌みが続いて、ますます長々と伺候なさるのを、大殿邸では待ち遠しく恨めしいとお思いになっていたが、すべてのご装束を何やかやと新しい様相に新調なさっては、ご子息の公達がひたすらこのご宿直所の宮仕えをお勤めになる。 |
梅雨のころ、帝の御謹慎日が幾日かあって、近臣は家へも帰らずに皆宿直する、こんな日が続いて、例のとおりに源氏の御所住まいが長くなった。大臣家ではこうして途絶えの多い婿君を恨めしくは思っていたが、やはり衣服その他贅沢を尽くした新調品を御所の桐壼へ運ぶのに倦むことを知らなんだ。左大臣の子息たちは宮中の御用をするよりも、源氏の宿直所への勤めのほうが大事なふうだった。 | ||||||||||||||||||||
1.2.2 | 宮がお生みになった中将は、中でも親しくお馴染み申されて、遊び事や戯れ事においても誰よりも気安く、親密に振る舞っていた。 右大臣が気を配ってお世話なさる住居には、この君もとても何となく気が進まずにいて、いかにも好色人らしい浮気人なのである。 |
そのうちでも宮様腹の中将は最も源氏と親しくなっていて、遊戯をするにも何をするにも他の者の及ばない親交ぶりを見せた。大事がる舅の右大臣家へ行くことはこの人もきらいで、恋の遊びのほうが好きだった。 | ||||||||||||||||||||
1.2.3 | 実家でも、ご自分の部屋の装飾を眩しくして、源氏の君がお出入りなさるのにいつもお供申し上げなさっては、昼も夜も、学問をも音楽をもご一緒申して、少しもひけをとらず、どこにでも親しくご一緒申し上げなさるうちに、自然と遠慮もしていられず、胸の中に思うことをも隠しきれず、お親しみ申されるのであった。 |
結婚した男はだれも妻の家で生活するが、この人はまだ親の家のほうにりっぱに飾った居間や書斎を持っていて、源氏が行く時には必ずついて行って、夜も、昼も、学問をするのも、遊ぶのもいっしょにしていた。謙遜もせず、敬意を表することも忘れるほどぴったりと仲よしになっていた。 | ||||||||||||||||||||
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1.2.4 | つれづれと |
所在なく雨が一日中降り続いて、しっとりした夜の雨に、殿上の間でもろくに人少なで、ご宿直所もいつもよりはのんびりとした気分なので、大殿油を近くに寄せて漢籍などを御覧になる。 近くの御厨子にあるさまざまな色彩の紙に書かれた手紙類を取り出して、中将がひどく見たがるので、 |
五月雨がその日も朝から降っていた夕方、殿上役人の詰め所もあまり人影がなく、源氏の桐壼も平生より静かな気のする時に、灯を近くともしていろいろな書物を見ていると、その本を取り出した置き棚にあった、それぞれ違った色の紙に書かれた手紙の殻の内容を頭中将は見たがった。 | |||||||||||||||||||
1.2.5 | 「差し支えのないのを、少しは見せよう。 不体裁なものがあってはいけないから」 |
「無難なのを少しは見せてもいい。見苦しいのがありますから」 | ||||||||||||||||||||
1.2.6 | と、 |
と、お許しにならないので、 |
と源氏は言っていた。 | |||||||||||||||||||
1.2.7 | 「その気を許していて人に見られたら困ると思われなさ文こそ興味があります。 普通のありふれたのは、つまらないわたしでも、身分相応に、互いにやりとりしては見ておりましょう。 それぞれが、恨めしく思っている折々や、心待ち顔でいるような夕暮などの文が、見る価値がありましょう」 |
「見苦しくないかと気になさるのを見せていただきたいのですよ。平凡な女の手紙なら、私には私相当に書いてよこされるのがありますからいいんです。特色のある手紙ですね、怨みを言っているとか、ある夕方に来てほしそうに書いて来る手紙、そんなのを拝見できたらおもしろいだろうと思うのです」 | ||||||||||||||||||||
1.2.8 | と怨み言をいうので、高貴な方からの絶対にお隠しにならねばならない文などは、このようになおざりな御厨子などにちょっと置いて散らかしていらっしゃるはずはなく、奥深く別にしまって置かれるにちがいないようだから、これらは二流の気安いものであろう。 少しずつ見て行くと、「こんなにも、いろいろな手紙類がございますなあ」と言って、当て推量に「これはあの人か、あれはこの人か」などと尋ねる中で、言い当てるものもあり、外れているのをかってに推量して疑ぐるのも、おもしろいとお思いになるが、言葉少なに答えて何かと言い紛らわしては、取ってお隠しになった。 |
と恨まれて、初めからほんとうに秘密な大事の手紙などは、だれが盗んで行くか知れない棚などに置くわけもない、これはそれほどの物でないのであるから、源氏は見てもよいと許した。 中将は少しずつ読んで見て言う。 「いろんなのがありますね」 自身の想像だけで、だれとか彼とか筆者を当てようとするのであった。上手に言い当てるのもある、全然見当違いのことを、それであろうと深く追究したりするのもある。そんな時に源氏はおかしく思いながらあまり相手にならぬようにして、そして上手に皆を中将から取り返してしまった。 |
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1.2.9 | 「そなたこそ、 たくさんお有り だろう。少し見たいね。そうしたら、この厨子も気持ちよく開け |
「あなたこそ女の手紙はたくさん持っているでしょう。少し見せてほしいものだ。そのあとなら棚のを全部見せてもいい」 | ||||||||||||||||||||
1.2.10 | 「 ただうはべばかりの わが |
「御覧になる値打のものは、ほとんどないしょう」などと申し上げなさる、そのついでに、「女性で、これならば良しと難点を指摘しようのない人は、めったにいないものだなあと、だんだんと分かってまいりました。 ただ表面だけの風情で、手紙をさらさらと走り書きしたり、時節に相応しい返答を心得て、ちょっとするぐらいのは、身分相応にまあまあ良いと思う者は多くいると拝見しますが、それも本当にその方面の優れた人を選び出そうとすると、絶対に選に外れないという者は、本当にめったにないものですね。 自分の得意なことばかりを、それぞれ得意になって、他人を貶めたりなどして、見ていられないことが多いです。 |
「あなたの御覧になる価値のある物はないでしょうよ」 こんな事から頭中将は女についての感想を言い出した。 「これならば完全だ、欠点がないという女は少ないものであると私は今やっと気がつきました。ただ上っつらな感情で達者な手紙を書いたり、こちらの言うことに理解を持っているような利巧らしい人はずいぶんあるでしょうが、しかもそこを長所として取ろうとすれば、きっと合格点にはいるという者はなかなかありません。自分が少し知っていることで得意になって、ほかの人を軽蔑することのできる厭味な女が多いんですよ。 |
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1.2.11 | 親などが側で大切にかわいがって、将来性のある箱入娘時代は、ちょっとの才能の一端を聞き伝えて、関心を寄せることもあるようです。 容貌が魅力的でおっとりしていて、若々しくて家事にかまけることのないうちは、ちょっとした芸事にも、人まねに一生懸命に稽古することもあるので、自然と一芸をもっともらしくできることもあります。 |
親がついていて、大事にして、深窓に育っているうちは、その人の片端だけを知って男は自分の想像で十分補って恋をすることになるというようなこともあるのですね。顔がきれいで、娘らしくおおようで、そしてほかに用がないのですから、そんな娘には一つくらいの芸の上達が望めないこともありませんからね。 | ||||||||||||||||||||
1.2.12 | 世話をする人は、劣った方面は隠して言わず、まあまあと言った方面をとりつくろって、それらしく言うので、『それは、そうではあるまい』と、見ないでどうしてあて推量で貶めることができましょう。 本物かと思って付き合って行くうちに、がっかりしないというのは、きっとないでしょう」 |
それができると、仲に立った人間がいいことだけを話して、欠点は隠して言わないものですから、そんな時にそれはうそだなどと、こちらも空で断定することは不可能でしょう、真実だろうと思って結婚したあとで、だんだんあらが出てこないわけはありません」 | ||||||||||||||||||||
1.2.13 | と言って、嘆息している様子も気遅れするようなので、全部が全部というのではないが、ご自身でもなるほどとお思いになることがあるのであろうか、ちょっと笑みを浮かべて、 |
中将がこう言って歎息した時に、そんなありきたりの結婚失敗者ではない源氏も、何か心にうなずかれることがあるか微笑をしていた。 | ||||||||||||||||||||
1.2.14 | 「その、一つの才能もない人というのは、いるものだろうか」とおっしゃると、 |
「あなたが今言った、一つくらいの芸ができるというほどのとりえね、それもできない人があるだろうか」 | ||||||||||||||||||||
1.2.15 | 「いと、さばかりならむあたりには、 |
「さあ、それほどのような所には、誰が騙されて寄りつきましょうか。 何の取柄もなくつまらない身分の者と、素晴らしいと思われるほどに優れた者とは、同じくらいございましょう。 家柄が高く生まれると、家人に大切に育てられて、人目に付かないことも多く、自然とその様子が格別でしょう。 中流の女性にこそ、それぞれの気質や、めいめいの考え方や趣向も見えて、区別されることがそれぞれに多いでしょう。 下層の女という身分になると、格別関心もありませんね」 |
「そんな所へは初めからだれもだまされて行きませんよ、何もとりえのないのと、すべて完全であるのとは同じほどに少ないものでしょう。上流に生まれた人は大事にされて、欠点も目だたないで済みますから、その階級は別ですよ。中の階級の女によってはじめてわれわれはあざやかな、個性を見せてもらうことができるのだと思います。またそれから一段下の階級にはどんな女がいるのだか、まあ私にはあまり興味が持てない」 | |||||||||||||||||||
1.2.16 | と言って、何でも知っている様子であるのも、興味が惹かれて、 |
こう言って、通を振りまく中将に、源氏はもう少しその観察を語らせたく思った。 | ||||||||||||||||||||
1.2.17 | 「その身分身分というのは、どのように考えたらよいのか。 どれを三つの階級に分け置くことができるのか。 元の階層が高い生まれでありながら、今の身の上は落ちぶれ、位が低くて人並みでない人。 また一方で普通の人で上達部などまで出世して、得意顔して邸の内を飾り、人に負けまいと思っている人。 その区別は、どのように付けたらよいのだろうか」 |
「その階級の別はどんなふうにつけるのですか。上、中、下を何で決めるのですか。よい家柄でもその娘の父は不遇で、みじめな役人で貧しいのと、並み並みの身分から高官に成り上がっていて、それが得意で贅沢な生活をして、初めからの貴族に負けないふうでいる家の娘と、そんなのはどちらへ属させたらいいのだろう」 | ||||||||||||||||||||
1.2.18 | とお尋ねになっているところに、左馬頭や藤式部丞が御物忌に籠もろうとして参上した。 当代の好色者で弁舌が達者なので、中将は待ち構えて、これらの品々の区別の議論を戦わす。 まことに聞きにくい話が多かった。 |
こんな質問をしている所へ、左馬頭と藤式部丞とが、源氏の謹慎日を共にしようとして出て来た。風流男という名が通っているような人であったから、中将は喜んで左馬頭を問題の中へ引き入れた。不謹慎な言葉もそれから多く出た。 | ||||||||||||||||||||
第三段 左馬頭、藤式部丞ら女性談義に加わる |
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1.3.1 | 「なり また、 |
「成り上がっても、元々の相応しいはずの家柄でない者は、世間の人の心証も、そうは言っても、やはり格別です。 また、元は高貴な家筋であるが、世間を渡る手づるが少なく、時勢におし流されて、声望も地に落ちてしまうと、気位だけは高くても思うようにならず、不体裁なことなどが生じてくるもののようですから、それぞれに分別して、中の品に置くのが適当でしょう。 |
「いくら出世しても、もとの家柄が家柄だから世間の思わくだってやはり違う。またもとはいい家でも逆境に落ちて、何の昔の面影もないことになってみれば、貴族的な品のいいやり方で押し通せるものではなし、見苦しいことも人から見られるわけだから、それはどちらも中の品ですよ。 | |||||||||||||||||||
1.3.2 | なまなまの |
受領と言って、地方の政治に掛かり切りにあくせくして、階層の定まった中でも、また段階段階があって、中の品で悪くはない者を、選び出すことができる時勢です。 なまじっかの上達部よりも非参議の四位連中で、世間の信望もまんざらでなく、元々の生まれも卑しくない人が、あくせくせずに暮らしているのが、いかにもさっぱりした感じですよ。 |
受領といって地方の政治にばかり関係している連中の中にもまたいろいろ階級がありましてね、いわゆる中の品として恥ずかしくないのがありますよ。また高官の部類へやっとはいれたくらいの家よりも、参議にならない四位の役人で、世間からも認められていて、もとの家柄もよく、富んでのんきな生活のできている所などはかえって朗らかなものですよ。 | |||||||||||||||||||
1.3.3 | 暮らしの中で足りないものなどは、やはりないようなのにまかせて、けちらずに眩しいほど大切に世話している娘などが、非難のしようがないほどに成長しているのもたくさんいるでしょう。 宮仕えに出て来て、思いもかけない幸運を得た例などもたくさんあるものです」などと言うと、 |
不足のない暮らしができるのですから、倹約もせず、そんな空気の家に育った娘に軽蔑のできないものがたくさんあるでしょう。宮仕えをして思いがけない幸福のもとを作ったりする例も多いのですよ」 左馬頭がこう言う。 |
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1.3.4 | 「およそ、金持ちによるべきだということだね」と言って、お笑いになるのを、 |
「それではまあ何でも金持ちでなければならないんだね」 と源氏は笑っていた。 |
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1.3.5 | 「他の人が言うように、意外なことをおっしゃる」と言って、中将は憎らしがる。 |
「あなたらしくないことをおっしゃるものじゃありませんよ」 中将はたしなめるように言った。左馬頭はなお話し続けた。 |
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1.3.6 | 「 うち なにがしが |
「元々の階層と、時勢の信望が兼ね揃い、高貴な家で内々の振る舞いや様子が劣っているようなのは、まったく今更言うまでもないが、どうしてこう育てたのだろうと、残念に思われましょう。 兼ね揃って優れているのも当たり前で、この女性こそは当然のことだと思われて、珍しいことだと気持ちも動かないでしょう。 わたくしごとき者の手の及ぶ範囲ではないので、上の品の上は措いておきましょう。 |
「家柄も現在の境遇も一致している高貴な家のお嬢さんが凡庸であった場合、どうしてこんな人ができたのかと情けないことだろうと思います。そうじゃなくて地位に相応なすぐれたお嬢さんであったら、それはたいして驚きませんね。当然ですもの。私らにはよくわからない社会のことですから上の品は省くことにしましょう。 | |||||||||||||||||||
1.3.7 | さて、 いかで、はたかかりけむと、 |
ところで、世間で人に知られず、寂しく荒れたような草深い家に、思いも寄らないいじらしいような女性がひっそり閉じ籠められているようなのは、この上なく珍しく思われましょう。 どうしてまあ、こんな人がいたのだろうと、想像していたことと違って、不思議に気持ちが引き付けられるものです。 |
こんなこともあります。世間からはそんな家のあることなども無視されているような寂しい家に、思いがけない娘が育てられていたとしたら、発見者は非常にうれしいでしょう。意外であったということは十分に男の心を引くカになります。 | |||||||||||||||||||
1.3.8 | 父親が年を取り、見苦しく太り過ぎ、兄弟の顔が憎々しげで、想像するにたいしたこともない家の奥に、とてもたいそう誇り高く、ちょっとした芸事でも、雅趣ありげに見えるようなのは、生かじりの才能であっても、どうして意外なことでおもしろくないことがありましょうか。 |
父親がもういいかげん年寄りで、醜く肥った男で、風采のよくない兄を見ても、娘は知れたものだと軽蔑している家庭に、思い上がった娘がいて、歌も上手であったりなどしたら、それは本格的なものではないにしても、ずいぶん興味が持てるでしょう。 | ||||||||||||||||||||
1.3.9 | 特別に欠点のない方面の女性選びは実現難しいでしょうが、それはそうした者として捨てたものではないな」 |
完全な女の選にははいりにくいでしょうがね」 | ||||||||||||||||||||
1.3.10 | と言って、式部を見やると、自分の妹たちがまあまあの評判であることを思っておっしゃるのか、と受け取ったのであろうか、何とも言わない。 |
と言いながら、同意を促すように式部丞のほうを見ると、自身の妹たちが若い男の中で相当な評判になっていることを思って、それを暗に言っているのだと取って、式部丞は何も言わなかった。 | ||||||||||||||||||||
1.3.11 | 「いでや、 この |
「さてどんなものか、上の品と思う中でさえ難しい世の中なのに」と、源氏の君はお思いのようである。 白いお召物で柔らかな物の上に、直衣だけを気楽な感じにお召しになって、紐なども結ばずに、物に寄り掛かっていらっしゃる灯影は、とても素晴らしく、女性として拝したいくらいだ。 この源氏の君のおんためには、上の上の女性を選び出しても、猶も満足ではなさそうにお見受けされる。 |
そんなに男の心を引く女がいるであろうか、上の品にはいるものらしい女の中にだって、そんな女はなかなか少ないものだと自分にはわかっているがと源氏は思っているらしい。柔らかい白い着物を重ねた上に、袴は着けずに直衣だけをおおように掛けて、からだを横にしている源氏は平生よりもまた美しくて、女性であったらどんなにきれいな人だろうと思われた。この人の相手には上の上の品の中から選んでも飽き足りないことであろうと見えた。 | |||||||||||||||||||
1.3.12 | さまざまの |
さまざまな女性について議論し合っていって、 |
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1.3.13 | 「おほかたの |
「通り一遍の仲として付き合っているには欠点がなくい女でも、わが伴侶として信頼できる女性を選ぼうとするには、たくさんいる中でも、なかなか決め難いものですなあ。 男性が朝廷にお仕えし、しっかりとした世の重鎮となるような方々の中でも、真の優れた政治家と言えるような人物を数え上げるとなると、難しいことでしょうよ。 |
「ただ世間の人として見れば無難でも、実際自分の妻にしようとすると、合格するものは見つからないものですよ。男だって官吏になって、お役所のお勤めというところまでは、だれもできますが、実際適所へ適材が行くということはむずかしいものですからね。 | |||||||||||||||||||
1.3.14 | しかし、賢者と言っても、一人や二人で世の中の政治を執り行えるものではありませんから、上の人は下の者に助けられ、下の者は上の人に従って、政治の事は広いものですから互いに委ね合っていくのでしょう。 |
しかしどんなに聡明な人でも一人や二人で政治はできないのですから、上官は下僚に助けられ、下僚は上に従って、多数の力で役所の仕事は済みますが、 | ||||||||||||||||||||
1.3.15 | とあればかかり、あふさきるさにて、なのめにさてもありぬべき |
狭い家の中の主婦とすべき女性一人について思案すると、できないでは済まされないいくつもの大事が、こまごまと多くあります。 ああ思えばこうであったり、何かと食い違って、不十分ながらにもまあまあやって行けるような女性が少ないので、浮気心の勢いのままに、世の女性の有様をたくさん見比べようとの好奇心ではないが、ひたすら伴侶としたいばかりに、同じことなら、自ら骨を折って直したり教えたりしなければならないような所がなく、気に入るような女性はいないものかと、選り好みしはじめた人が、なかなか相手が決まらないのでしょう。 |
一家の主婦にする人を選ぶのには、ぜひ備えさせねばならぬ資格がいろいろと幾つも必要なのです。これがよくてもそれには適しない。少しは譲歩してもまだなかなか思うような人はない。世間の多数の男も、いろいろな女の関係を作るのが趣味ではなくても、生涯の妻を捜す心で、できるなら一所懸命になって自分で妻の教育のやり直しをしたりなどする必要のない女はないかとだれも思うのでしょう。 | |||||||||||||||||||
1.3.16 | かならずしもわが されど、 |
必ずしも自分の理想通りではないが、いったん見初めた前世の約束だけを破りがたく思い止まっている人は、誠実であると見え、そうして、一緒にいる女性のためにも、奥ゆかしいものがあるのだろうと自然と推量されるものです。 しかし、なあに、世の中の夫婦の有様をたくさん拝見していくと、想像以上にたいして羨ましいと思われることもありませんよ。 公達の最上流の奥方選びには、なおさらのこと、どれほどの女性がお似合いになりましょうか。 |
必ずしも理想に近い女ではなくても、結ばれた縁に引かれて、それと一生を共にする、そんなのはまじめな男に見え、また捨てられない女も世間体がよいことになります。しかし世間を見ると、そう都合よくはいっていませんよ。お二方のような貴公子にはまして対象になる女があるものですか。私などの気楽な階級の者の中にでも、これと打ち込んでいいのはありませんからね。 | |||||||||||||||||||
1.3.17 | 容貌がこぎれいで、若々しい年頃で、自分自身では塵もつけまいと身を振る舞い、手紙を書いても、おっとりと言葉選びをし、墨付きも淡く関心を持たせ持たせし、もう一度はっきりと見たいものだとじれったく待たせ、わずかばかりの声を聞く程度に言い寄っても、息を殺して声小さく言葉少ななのが、とてもよく欠点を隠すものですなあ。 艶っぽくて女性的だと見えると、度を越して情趣にこだわって、調子を合わせると、浮わつきます。 これを、第一の難点と言うべきでしょう。 |
見苦しくもない娘で、それ相応な自重心を持っていて、手紙を書く時には蘆手のような簡単な文章を上手に書き、墨色のほのかな文字で相手を引きつけて置いて、もっと確かな手紙を書かせたいと男をあせらせて、声が聞かれる程度に接近して行って話そうとしても、息よりも低い声で少ししかものを言わないというようなのが、男の正しい判断を誤らせるのですよ。なよなよとしていて優し味のある女だと思うと、あまりに柔順すぎたりして、またそれが才気を見せれば多情でないかと不安になります。そんなことは選定の最初の関門ですよ。 | ||||||||||||||||||||
1.3.18 | 家事の中で、疎かにできない夫の世話という点では、物の情趣が度を過ごし、ちょっとした折の風情があり、趣味性に過度になるのはなくてもよいことだろうと思われますが、また一方で、家事一点張りで、額髪を耳挟みがちに飾り気のない主婦で、ひたすら世帯じみた世話だけをして。 |
妻に必要な資格は家庭を預かることですから、文学趣味とかおもしろい才気などはなくてもいいようなものですが、まじめ一方で、なりふりもかまわないで、額髪をうるさがって耳の後ろへはさんでばかりいる、ただ物質的な世話だけを一所懸命にやいてくれる、そんなのではね。 | ||||||||||||||||||||
1.3.19 | 朝夕の出勤や帰宅につけても、公事や私事での他人の振る舞いや、善いこと悪いことで、目にも耳にも止まった有様を、親しくもない他人にわざわざそっくり話して聞かせたりしましょうか。 親しい妻で理解してくれそうな者とこそ語り合いたいものだと思われ、つい微笑まれたり、涙ぐんだり、あるいはまた、無性に公憤をおぼえたり、胸の内に収めておけないことが多くあるのを、理解のない妻に、何で聞かせようか、聞かせてもしかたがない、と思いますと、ついそっぽを向きたくなって、人知れない思い出し笑いがこみ上げ、『ああ』とも、つい独り言を洩らすと、『何事ですか』などと、間抜けた顔で見上げるようなのは、どうして残念に思われないでしょうか。 |
お勤めに出れば出る、帰れば帰るで、役所のこと、友人や先輩のことなどで話したいことがたくさんあるんですから、それは他人には言えません。理解のある妻に話さないではつまりません。この話を早く聞かせたい、妻の意見も聞いて見たい、こんなことを思っているとそとででも独笑が出ますし、一人で涙ぐまれもします。また自分のことでないことに公憤を起こしまして、自分の心にだけ置いておくことに我慢のできぬような時、けれども自分の妻はこんなことのわかる女でないのだと思うと、横を向いて一人で思い出し笑いをしたり、かわいそうなものだなどと独言を言うようになります。そんな時に何なんですかと突っ慳貧に言って自分の顔を見る細君などはたまらないではありませんか。 | ||||||||||||||||||||
1.3.20 | ただひたふるに げに、さし |
ただひたすら子供っぽくて柔軟な女を、いろいろと教え諭してはどうして妻としないでいられようか。 心配なようでも、きっと直し甲斐のある気持ちがするでしょう。 なるほど、一緒に生活するぶんには、そんなふうでもかわいらしさに欠点も許され世話をしてやれようが、離れていては必要な用事などを言いやり、時節に行なうような事柄の風流事にも実用事などにも、自分では判断ができず深い思慮がないのは、まことに残念で頼りにならない欠点が、やはり困ったものでしょう。 普段はちょっと無愛想で親しみの持てない女性が、何かの事に思わぬでき映えを発揮するようなこともありますからね」 |
ただ一概に子供らしくておとなしい妻を持った男はだれでもよく仕込むことに苦心するものです。たよりなくは見えても次第に養成されていく妻に多少の満足を感じるものです。一緒にいる時は可憐さが不足を補って、それでも済むでしょうが、家を離れている時に用事を言ってやりましても何ができましょう。遊戯も風流も主婦としてすることも自発的には何もできない、教えられただけの芸を見せるにすぎないような女に、妻としての信頼を持つことはできません。ですからそんなのもまただめです。平生はしっくりといかぬ夫婦仲で、淡い憎しみも持たれる女で、何かの場合によい妻であることが痛感されるのもあります」 | |||||||||||||||||||
1.3.21 | などと、至らない所のない論客も、結論を出しかねて大きく溜息をつく。 |
こんなふうな通な左馬頭にも決定的なことは言えないと見えて、深い歎息をした。 | ||||||||||||||||||||
第四段 女性論、左馬頭の結論 |
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1.4.1 | 「今は、ただもう、家柄にもよりません。 容貌はまったく問題ではありません。 ひどく意に満たないひねくれた性格でさえなければ、ただひたすら実直で、落ち着いた心の様子がありそうな女性を、生涯の伴侶としては考え置くのがよいですね。 |
「ですからもう階級も何も言いません。容貌もどうでもいいとします。片よった性質でさえなければ、まじめで素直な人を妻にすべきだと思います。 | ||||||||||||||||||||
1.4.2 | 余分な情趣を解する心や気立てのよさが加わっているようなのを、それを幸いと思い、少し足りないところがあるようなのも、無理に期待し要求するまい。 安心できてのんびりとした性格さえはっきりしていれば、表面的な情趣は、自然と身に付けることができるものですからね。 |
その上に少し見識でもあれば、満足して少しの欠点はあってもよいことにするのですね。安心のできる点が多ければ、趣味の教育などはあとからできるものですよ。 | ||||||||||||||||||||
1.4.3 | 思わせぶりにはにかんで見せて、恨み言をいうべきことをも見知らないふうに我慢して、表面は何げなく平静を装い、胸に収めかね思いあまった時には、何とも言いようのないほどの恐ろしい言葉や、哀切な和歌を詠み残し、思い出になるにちがいない形見を残して、深い山里や、辺鄙な海浜などに姿を隠してしまう女がいます。 |
上品ぶって、恨みを言わなければならぬ時も知らぬ顔で済ませて、表面は賢女らしくしていても、そんな人は苦しくなってしまうと、凄文句や身にしませる歌などを書いて、思い出してもらえる材料にそれを残して、遠い郊外とか、まったく世間と離れた海岸とかへ行ってしまいます。 | ||||||||||||||||||||
1.4.4 | 子供でございましたころ、女房などが物語を読んでいたのを聞いて、とても気の毒に悲しく、何と深く思いつめたことかと、涙までを落としました。 今から思うと、とても軽薄で、わざとらしいことです。 |
子供の時に女房などが小説を読んでいるのを聞いて、そんなふうの女主人公に同情したものでしてね、りっぱな態度だと涙までもこぼしたものです。今思うとそんな女のやり方は軽佻で、わざとらしい。 |
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1.4.5 | 愛情の深い夫を残して、たとえ目の前に薄情なことがあっても、夫の気持ちを分からないかのように姿をくらまして、夫を慌てさせ、本心を見ようとするうちに、一生の後悔となるのは、大変につまらないことです。 |
自分を愛していた男を捨てて置いて、その際にちょっとした恨めしいことがあっても、男の愛を信じないように家を出たりなどして、無用の心配をかけて、そうして男をためそうとしているうちに取り返しのならぬはめに至ります。いやなことです。 |
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1.4.6 | 『 『いで、あな かくはた あたら みづから |
『深い考えだ』などと、褒め立てられて、気持ちが昂じてしまうと、そのまま尼になってしまいますよ。 思い立った当座は、まことに気持ちも悟ったようで、世俗の生活を振り返ってみようなどとは思わない。 『まあ、何とおいたわしい。 こうもご決心されたとは』などと言ったように、知り合いの人が見舞いに来たり、すっかり嫌だとも諦めてない夫が、聞きつけて涙を落とすと、召使いや、老女たちなどが、『殿のお気持ちは、愛情深かったのに。 惜しいおん身を』などと言う。 自分でも額髪を触って、手応えなく心細いので、泣顔になってしまう。 堪えても涙がこぼれ出してしまうと、何かの時々には我慢もできず、後悔も多いようなので、仏もかえって未練がましいと、きっと御覧になるでしょう。 濁世に染まっている間よりも、生悟りは、かえって悪道に堕ちさ迷うことになるに違いなく思われます。 |
りっぱな態度だなどとほめたてられると、図に乗ってどうかすると尼なんかにもなります。その時はきたない未練は持たずに、すっかり恋愛を清算した気でいますが、まあ悲しい、こんなにまであきらめておしまいになってなどと、知った人が訪問して言い、真底から憎くはなっていない男が、それを聞いて泣いたという話などが聞こえてくると、召使や古い女房などが、殿様はあんなにあなたを思っていらっしゃいますのに、若いおからだを尼になどしておしまいになって惜しい。こんなことを言われる時、短くして後ろ梳きにしてしまった額髪に手が行って、心細い気になると自然に物思いをするようになります。忍んでももう涙を一度流せばあとは始終泣くことになります。御弟子になった上でこんなことでは仏様も末練をお憎みになるでしょう。俗であった時よりもそんな罪は深くて、かえって地獄へも落ちるように思われます。 |
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1.4.7 | 切っても切れない前世からの宿縁も浅くなく、尼にもさせず捜し出したような仲も、そのまま連れ添うことになって、あのような時にもこのような時にも、知らないふうにしているような夫婦仲こそ、宿縁も深く愛情も厚いと言えましょうに、自分も相手も、不安で自然と気をつかわずにいられましょうか。 |
また夫婦の縁が切れずに、尼にはならずに、良人に連れもどされて来ても、自分を捨てて家出をした妻であることを良人に忘れてもらうことはむずかしいでしょう。悪くてもよくてもいっしょにいて、どんな時もこんな時も許し合って暮らすのがほんとうの夫婦でしょう。一度そんなことがあったあとでは真実の夫婦愛がかえってこないものです。 | ||||||||||||||||||||
1.4.8 | また、なのめに |
また、いいかげんに愛情も冷めてきたような夫を恨んで、態度に表わして離縁するようなのは、これまたばかげたことでしょう。 愛情が他の女に移ることがあったとしても、結婚した当初の愛情をいとしく思うならば、そうした縁の伴侶と思っていることもきっとあるでしょうに、そのようなごたごたから、夫婦の仲まで切れてしまうのです。 |
また男の愛がほんとうにさめている場合に家出をしたりすることは愚かですよ。恋はなくなっていても妻であるからと思っていっしょにいてくれた男から、これを機会に離縁を断行されることにもなります。 | |||||||||||||||||||
1.4.9 | すべて、よろづのことなだらかに、 あまりむげにうちゆるべ さははべらぬか」 |
総じて、どのようなことでも心穏やかに、嫉妬することは知っている様子にほのめかし、恨み言をいうべき場合にもかわいらしくそれとなく言えば、それによって、愛情も一段と増すことでしょう。 一般に、自分の浮気心も妻の態度から収まりもするのです。 あまりやたらに勝手にさせ放任しておくのも、気が楽でかわいらしいようだが、いつのまにか軽く見られるものです。 繋がない舟の譬えもあり、なるほど思慮がない。 そうではございませんか」 |
なんでも穏やかに見て、男にほかの恋人ができた時にも、全然知らぬ顔はせずに感情を傷つけない程度の怨みを見せれば、それでまた愛を取り返すことにもなるものです。浮気な習慣は妻次第でなおっていくものです。あまりに男に自由を与えすぎる女も、男にとっては気楽で、その細君の心がけがかわいく思われそうでありますが、しかしそれもですね、ほんとうは感心のできかねる妻の態度です。つながれない船は浮き歩くということになるじゃありませんか、ねえ」 | |||||||||||||||||||
1.4.10 | と言うと、中将は頷く。 |
中将はうなずいた。 | ||||||||||||||||||||
1.4.11 | 「さしあたりて、をかしともあはれとも わが ともかくも、 |
「今さし当たって、美しいとも気立てがよいとも思って気に入っているような男が、不安な疑いがあるのは重大でしょう。 自分が乱心せずに大目に見てやっていたら、気持ちを変えて添い遂げないこともないだろうと思われますが、そうとばかりも言えまい。 いずれにしても、夫婦仲がうまくいかないようことがあってもそれを、気長にじっと堪えているより以外に、良い手段はないようですな」 |
「現在の恋人で、深い愛着を覚えていながらその女の愛に信用が持てないということはよくない。自身の愛さえ深ければ女のあやふやな心持ちも直して見せることができるはずだが、どうだろうかね。方法はほかにありませんよ。長い心で見ていくだけですね」 | |||||||||||||||||||
1.4.12 | と |
と言って、自分の妹の姫君は、この結論に当てはまっていらっしゃると思うと、源氏の君が居眠りをして意見をさし挟みなさらないのを、物足りなく不満に思う。 左馬頭がこの評定の博士になって、さらに弁じ立てていた。 頭中将は、この弁論を最後まで聴こうと、熱心になって、受け答えしていらっしゃった。 |
と頭中将は言って、自分の妹と源氏の中はこれに当たっているはずだと思うのに、源氏が目を閉じたままで何も言わぬのを、物足らずも口惜しくも思った。左馬頭は女の品定めの審判者であるというような得意な顔をしていた。中将は左馬頭にもっと語らせたい心があってしきりに相槌を打っているのであった。 | |||||||||||||||||||
1.4.13 | 「よろづのことによそへて |
「いろいろのことに引き比べてお考えくだされ。 木工の道の匠がいろいろの物を思いのままに作り出すのも、その場限りの趣向の物で、そうした型ときまりのないものは、見た目には洒落ているのも、なるほどこういうふうにも作るのだと、時々に従って趣向を変えて、目新しいのに目が移って趣のあるものもあります。 重大な物として、本当にれっきとした人の調度類で装飾とする、一定の様式というようなのがあるものを立派に作り上げることは、やはり本当の名人は、違ったものだと見分けられるものでございます。 |
「まあほかのことにして考えてごらんなさい。指物師がいろいろな製作をしましても、一時的な飾り物で、決まった形式を必要としないものは、しゃれた形をこしらえたものなどに、これはおもしろいと思わせられて、いろいろなものが、次から次へ新しい物がいいように思われますが、ほんとうにそれがなければならない道具というような物を上手にこしらえ上げるのは名人でなければできないことです。 | |||||||||||||||||||
1.4.14 | また、画工司に名人が多くいますが、墨描きに選ばれて、順々に見るとまったく優劣の判断は、ちょっと見ただけではつきません。 けれども、人の見ることもできない蓬莱山や、荒海の恐ろしい魚の形や、唐国の猛々しい獣の形や、目に見えない鬼の顔などで、仰々しく描いた物は、想像のままに格別に目を驚かして、実物には似ていないでしょうが、それはそれでよいでしょう。 |
また絵所に幾人も画家がいますが、席上の絵の描き手に選ばれておおぜいで出ます時は、どれがよいのか悪いのかちょっとわかりませんが、非写実的な蓬莱山とか、荒海の大魚とか、唐にしかいない恐ろしい獣の形とかを描く人は、勝手ほうだいに誇張したもので人を驚かせて、それは実際に遠くてもそれで通ります。 | ||||||||||||||||||||
1.4.15 | どこでも見かける山の姿や、川の流れや、見なれた人家の様子は、なるほどそれらしいと見えて、親しみやすくおだやかな方面などを心落ち着いた感じに配して、険しくない山の風景や、こんもりと俗塵を離れて幾重にも重ねたり、近くの垣根の中については、それぞれの心配りや配置などを、名人は大変に筆力も格別で、未熟な者は及ばない点が多いようです。 |
普通の山の姿とか、水の流れとか、自分たちが日常見ている美しい家や何かの図を写生的におもしろく混ぜて描き、われわれの近くにあるあまり高くない山を描き、木をたくさん描き、静寂な趣を出したり、あるいは人の住む邸の中を忠実に描くような時に上手と下手の差がよくわかるものです。 | ||||||||||||||||||||
1.4.16 | 文字を書いたものでも、深い素養はなくて、あちらこちらが、点長にしゃれた走り書きをし、どことなく気取っているようなのは、ちょっと見ると才気がありひとかどのように見えますが、やはり正当の書法を丹念に習得しているものは、表面的な筆法は隠れていますが、もう一度取り比べて見ると、やはり本物の方に心が惹き付けられるものですな。 |
字でもそうです。深味がなくて、あちこちの線を長く引いたりするのに技巧を用いたものは、ちょっと見がおもしろいようでも、それと比べてまじめに丁寧に書いた字で見栄えのせぬものも、二度目によく比べて見れば技巧だけで書いた字よりもよく見えるものです。 | ||||||||||||||||||||
1.4.17 | つまらない芸事でさえこうでございます。 まして人の気持ちの、折々に様子ぶっているような見た目の愛情は、信用がおけないものと存じております。 その最初の例を、好色がましいお話ですが申し上げましょう」 |
ちょっとしたことでもそうなんです、まして人間の問題ですから、技巧でおもしろく思わせるような人には永久の愛が持てないと私は決めています。好色がましい多情な男にお思いになるかもしれませんが、以前のことを少しお話しいたしましょう」 | ||||||||||||||||||||
1.4.18 | とて、 |
と言って、にじり寄るので、源氏の君も目をお覚ましになる。 中将はひどく本気になって、頬杖をついて向かい合いに座っていらっしゃる。 法師が世の中の道理を説いて聞かせているような所の感じがするのも、もう一方ではおもしろいが、このような折には、それぞれがうちとけたお話などを隠しておくことができないのであった。 |
と言って、左馬頭は膝を進めた。源氏も目をさまして聞いていた。中将は左馬頭の見方を尊重するというふうを見せて、頬杖をついて正面から相手を見ていた。坊様が過去未来の道理を説法する席のようで、おかしくないこともないのであるが、この機会に各自の恋の秘密を持ち出されることになった。 | |||||||||||||||||||
第二章 女性体験談 |
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第一段 女性体験談(左馬頭、嫉妬深い女の物語) |
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2.1.1 | 「はやう、まだいと |
「若いころ、まだ下級役人でございました時、愛しいと思う女性がおりました。 申し上げましたように、容貌などもたいして優れておりませんでしたので、若いうちの浮気心から、この女性を生涯の伴侶とも思い決めませんで、通い所とは思いながら、物足りなくて、何かと他の女性にかかずらっておりましたところ、大変に嫉妬をいたしましたので、おもしろくなく、本当にこうではなくて、おっとりとしていたらば良いものをと思い思い、あまりにひどく厳しく疑いましたのも煩わしくて、このようなつまらない男に愛想もつかさず、どうしてこう愛しているのだろうと、気の毒に思う時々もございまして、自然と浮気心も収められるというふうでもございました。 |
「ずっと前で、まだつまらぬ役をしていた時です。私に一人の愛人がございました。容貌などはとても悪い女でしたから、若い浮気な心には、この人とだけで一生を暮らそうとは思わなかったのです。妻とは思っていましたが物足りなくて外に情人も持っていました。それでとても嫉妬をするものですから、いやで、こんなふうでなく穏やかに見ていてくれればよいのにと思いながらも、あまりにやかましく言われますと、自分のような者をどうしてそんなにまで思うのだろうとあわれむような気になる時もあって、自然身持ちが修まっていくようでした。 | |||||||||||||||||||
2.1.2 | この |
この女の性格は、もともと自分の考えの及ばないことでも、何とかして夫のためにはと、無理算段をし、不得手な方面をも、やはりつまらない女だと見られまいと努力しては、何かにつけて、熱心に世話をし、少しでも意に沿わないことのないようにと思っていたうちに、気の勝った女だと思いましたが、何かと言うことをきくようになって柔らかくなってゆき、美しくない容貌についても、このわたしに嫌われやしまいかと、むやみに思って化粧し、親しくない人に顔を見せたならば、夫の面目が潰れやしまいかと、遠慮し恥じて、身嗜みに気をつけて生活しているうちに、性格も悪いというのではありませんでしたが、ただこの憎らしい性質一つだけは、収まりませんでした。 |
この女というのは、自身にできぬものでも、この人のためにはと努力してかかるのです。教養の足りなさも自身でつとめて補って、恥のないようにと心がけるたちで、どんなにも行き届いた世話をしてくれまして、私の機嫌をそこねまいとする心から勝ち気もあまり表面に出さなくなり、私だけには柔順な女になって、醜い容貌なんぞも私にきらわれまいとして化粧に骨を折りますし、この顔で他人に逢っては、良人の不名誉になると思っては、遠慮して来客にも近づきませんし、とにかく賢妻にできていましたから、同棲しているうちに利巧さに心が引かれてもいきましたが、ただ一つの嫉妬癖、それだけは彼女自身すらどうすることもできない厄介なものでした。 | |||||||||||||||||||
2.1.3 | そのかみ |
その当時に思いましたことには、このようにむやみにわたしに従いおどおどしている女のようだ、何とか懲りるほどの思いをさせて、脅かして、この嫉妬の方面も少しはまあまあになり、性悪な性格も止めさせようと思って、本当に辛いなどと思って別れてしまいそうな態度をとったならば、それほどわたしに連れ添う気持ちがあるならば懲りるだろうと存じまして、わざと薄情で冷淡な態度を見せて、例によって怒って恨み言をいってくる折に、 |
当時私はこう思ったのです。とにかくみじめなほど私に参っている女なんだから、懲らすような仕打ちに出ておどして嫉妬を改造してやろう、もうその嫉妬ぶりに堪えられない、いやでならないという態度に出たら、これほど白分を愛している女なら、うまく自分の計画は成功するだろうと、そんな気で、ある時にわざと冷酷に出まして、例のとおり女がおこり出している時、 | |||||||||||||||||||
2.1.4 | 『かくおぞましくは、いみじき |
『こんなに我が強いなら、どんなに夫婦の宿縁が深くとも、もう二度と逢うまい。 最後と思うならば、このようなめちゃくちゃな邪推をするがよい。 将来も長く連れ添おうと思うならば、辛いことがあっても、我慢してたいしたことなく思うようになって、このような嫉妬心さえ消えたならば、とても愛しい女と思おう。 人並みに出世もし、もう少し一人前になったら、他に並ぶ人がない正妻になるであろう』などと、うまく教えたものよと存じまして、調子に乗って度を過ごして言いますと、少し微笑んで、 |
『こんなあさましいことを言うあなたなら、どんな深い縁で結ばれた夫婦の中でも私は別れる決心をする。この関係を破壊してよいのなら、今のような邪推でも何でももっとするがいい。将来まで夫婦でありたいなら、少々つらいことはあっても忍んで、気にかけないようにして、そして嫉妬のない女になったら、私はまたどんなにあなたを愛するかしれない、人並みに出世してひとかどの官吏になる時分にはあなたがりっぱな私の正夫人でありうるわけだ』などと、うまいものだと自分で思いながら利己的な主張をしたものですね。女は少し笑って、 | |||||||||||||||||||
2.1.5 | 『よろづに つらき |
『何かにつけて見栄えがしなく、一人前でないあいだをじっとこらえて、いつかは一人前にもなろうかと待っていることは、まことにゆっくりと待っていられますから、苦にもなりません。 辛い浮気心を我慢して、その心がいつになったら直るのだろうかと、当てにならない期待をして年月を重ねていくことは、まことに辛くもありましょうから、お互いに別れるのによいときです』 |
『あなたの貧弱な時代を我慢して、そのうち出世もできるだろうと待っていることは、それは待ち遠しいことであっても、私は苦痛とも思いません。あなたの多情さを辛抱して、よい良人になってくださるのを待つことは堪えられないことだと思いますから、そんなことをお言いになることになったのは別れる時になったわけです』 | |||||||||||||||||||
2.1.6 | と憎らしげに言うので、腹立たしくなって、憎々しげな言葉を興奮して言いますと、女も黙っていられない性格で、指を一本引っ張って噛みついてまいりましたので、大げさに文句をつけて、 |
そう口惜しそうに言ってこちらを憤慨させるのです。女も自制のできない性質で、私の手を引き寄せて一本の指にかみついてしまいました。私は『痛い痛い』とたいそうに言って、 | ||||||||||||||||||||
2.1.7 | 『かかる |
『このような傷まで付いてしまったので、ますます役人生活もできるものでない。 軽蔑なさるような官職で、ますます一層どのようにして出世して行けようか。 出家しかない身のようだ』などと言い脅して、『それでは、今日という今日がお別れのようだ』と言って、この指を折り曲げて退出しました。 |
『こんな傷までもつけられた私は杜会へ出られない。あなたに侮辱された小役人はそんなことではいよいよ人並みに上がってゆくことはできない。私は坊主にでもなることにするだろう』などとおどして、『じゃあこれがいよいよ別れだ』と言って、指を痛そうに曲げてその家を出て来たのです。 | |||||||||||||||||||
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2.1.8 | 『あなたとの結婚生活を指折り数えてみますと この一つだけがあなたの嫌な点なものか |
『手を折りて相見しことを数ふれば これ一つやは君がうきふし |
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2.1.9 | 恨むことはできますまい』 |
言いぶんはないでしょう』 | ||||||||||||||||||||
2.1.10 | などと言いますと、そうは言うものの涙ぐんで、 |
と言うと、さすがに泣き出して、 | ||||||||||||||||||||
2.1.11 | 『あなたの辛い仕打ちを胸の内に堪えてきましたが 今は別れる時なのでしょうか』 |
『うき節を心一つに数へきて こや君が手を別るべきをり』 |
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2.1.12 | など、 |
などと、言い争いましたが、本当は別れようとは存じませんままに、何日も過ぎるまで便りもやらず、浮かれ歩いていたところ、臨時の祭の調楽で、夜が更けてひどく霙が降る夜、めいめい退出して分かれる所で、思いめぐらすと、やはり自分の家と思える家は他にはなかったのでしたなあ。 |
反抗的に言ったりもしましたが、本心ではわれわれの関係が解消されるものでないことをよく承知しながら、幾日も幾日も手紙一つやらずに私は勝手な生活をしていたのです。加茂の臨時祭りの調楽が御所であって、更けて、それは霙が降る夜なのです。皆が退散する時に、自分の帰って行く家庭というものを考えるとその女の所よりないのです。 | |||||||||||||||||||
2.1.13 | さればよと、 さるべき |
内裏あたりでの宿直は気乗りがしないし、気取った女の家は何となく寒くないだろうか、と存じられましたので、どう思っているだろうかと、様子見がてら、雪をうち払いながら、何となく体裁が悪くきまりも悪く思われるが、いくらなんでも今夜は数日来の恨みも解けるだろう、と存じましたところ、灯火を薄暗く壁の方に向け、柔らかな衣服の厚いのを、大きな伏籠にうち掛けて、引き上げておくべきの几帳の帷子などは引き上げてあって、今夜あたりはと、待っていた様子です。 やはりそうであったよと、得意になりましたが、本人はいません。 しかるべき女房連中だけが残っていて、『親御様の家に、今晩は行きました』と答えます。 |
御所の宿直室で寝るのもみじめだし、また恋を風流遊戯にしている局の女房を訪ねて行くことも寒いことだろうと思われるものですから、どう思っているのだろうと様子も見がてらに雪の中を、少しきまりが悪いのですが、こんな晩に行ってやる志で女の恨みは消えてしまうわけだと思って、はいって行くと、暗い炉を壁のほうに向げて据え、暖かそうな柔らかい、綿のたくさんはいった着物を大きな炙り籠に掛けて、私が寝室へはいる時に上げる几帳のきれも上げて、こんな夜にはきっと来るだろうと待っていたふうが見えます。そう思っていたのだと私は得意になりましたが、妻自身はいません。何人かの女房だけが留守をしていまして、父親の家へちょうどこの晩移って行ったというのです。 | |||||||||||||||||||
2.1.14 | 艶やかな和歌も詠まず、思わせぶりな手紙も書き残さず、もっぱらそっけなく無愛想であったので、拍子抜けした気がして、口やかましく容赦なかったのも、自分を嫌になってくれ、と思う気持ちがあったからだろうかと、そのようには存じられなかったのですが、おもしろくないままそう思ったのですが、着るべき物が、いつもより念を入れた色合いや、仕立て方がとても素晴らしくて、やはり離別した後までも、気を配って世話してくれていたのでした。 |
艶な歌も詠んで置かず、気のきいた言葉も残さずに、じみにすっと行ってしまったのですから、つまらない気がして、やかましく嫉妬をしたのも私にきらわせるためだったのかもしれないなどと、むしゃくしゃするものですからありうべくもないことまで忖度しましたものです。しかし考えてみると用意してあった着物なども平生以上によくできていますし、そういう点では実にありがたい親切が見えるのです。自分と別れた後のことまでも世話していったのですからね、 | ||||||||||||||||||||
2.1.15 | さりとも、 あらためてのどかに |
そうは言っても、すっかり愛想をつかすようなことはあるまいと存じまして、いろいろと言ってみましたが、別れるでもなくと、探し出させようと行方を晦ますのでもなく、きまり悪くないように返事をしいし、ただ、『以前のような心のままでは、とても我慢できません。 改心して落ち着くならば、また一緒に暮らしましょう』などと言いましたが、そうは言っても思い切れまいと存じましたので、少し懲らしめようという気持ちから、『そのように改めよう』とも言わず、ひどく強情を張って見せていたところ、とてもひどく思い嘆いて、亡くなってしまいましたので、冗談もほどほどにと存じられました。 |
彼女がどうして別れうるものかと私は慢心して、それからのち手紙で交渉を姶めましたが、私へ帰る気がないでもないようだし、まったく知れない所へ隠れてしまおうともしませんし、あくまで反抗的態度を取ろうともせず、『前のようなふうでは我慢ができない、すっかり生活の態度を変えて、一夫一婦の道を取ろうとお言いになるのなら』と言っているのです。そんなことを言っても負げて来るだろうという自信を持って、しばらぐ懲らしてやる気で、一婦主義になるとも言わず、話を長引かせていますうちに、非常に精神的に苦しんで死んでしまいましたから、私は自分が責められてなりません。 | |||||||||||||||||||
2.1.16 | ひとへにうち はかなきあだ |
一途に生涯頼みとするような女性としては、あの程度で確かに良いと思い出さずにはいられません。 ちょっとした風流事でも実生活上の大事でも、相談してもしがいがなくはなく、龍田姫と言っても不似合いでなく、織姫の腕前にも劣らないその方面の技術をもっていて、行き届いていたのでした」 |
家の妻というものは、あれほどの者でなければならないと今でもその女が思い出されます。風流ごとにも、まじめな間題にも話し相手にすることができましたし、また家庭の仕事はどんなことにも通じておりました。染め物の立田姫にもなれたし、七夕の織姫にもなれたわけです」 | |||||||||||||||||||
2.1.17 | と言って、とてもしみじみと思い出していた。 中将が、 |
と語った左馬頭は、いかにも亡き妻が恋しそうであった。 | ||||||||||||||||||||
2.1.18 | 「その げに、その はかなき さあるにより、 |
「その織姫の技量はひとまずおいても、永い夫婦の契りだけにはあやかりたいものだったね。 なるほど、その龍田姫の錦の染色の腕前には、誰も及ぶ者はいないだろうね。 ちょっとした花や紅葉といっても、季節の色合いが相応しくなく、はっきりとしていないのは、何の見映えもなく、台なしになってしまうものだ。 そうだからこそ、難しいものだと決定しかねるのですな」 |
「技術上の織姫でなく、永久の夫婦の道を行っている七夕姫だったらよかったですね。立田姫もわれわれには必要な神様だからね。男にまずい服装をさせておく細君はだめですよ。そんな人が早く死ぬんだから、いよいよ良妻は得がたいということになる」 | |||||||||||||||||||
2.1.19 | と、 |
と、話をはずまされる。 |
中将は指をかんだ女をほめちぎった。 | |||||||||||||||||||
第二段 左馬頭の体験談(浮気な女の物語) |
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2.2.1 | 「ところで、また同じころに、通っていました女は、人品も優れ気の働かせ方もまことに嗜みがあると思われるように、素早く歌を詠み、すらすらと書き、掻いつま弾く琴の音色、その腕前や詠みぶりが、みな確かであると、見聞きしておりました。 見た目にも無難でございましたので、先程の嫉妬深い女を気の置けない通い所にして、時々隠れて逢っていました間は、格段に気に入っておりました。 今の女が亡くなって後は、どうしましょう、かわいそうだとは思いながらも死んでしまったものは仕方がないので、頻繁に通うようになってみますと、少し派手で婀娜っぽく風流めかしていることは、気に入らないところがあったので、頼りにできる女とは思わずに、途絶えがちにばかり通っておりましたら、こっそり心を通じている男がいたらしいのです。 |
「その時分にまたもう一人の情人がありましてね、身分もそれは少しいいし、才女らしく歌を詠んだり、達者に手紙を書いたりしますし、音楽のほうも相当なものだったようです。感じの悪い容貌でもありませんでしたから、やきもち焼きのほうを世話女房にして置いて、そこへはおりおり通って行ったころにはおもしろい相手でしたよ。あの女が亡くなりましたあとでは、いくら今さら愛惜しても死んだものはしかたがなくて、たびたびもう一人の女の所へ行くようになりますと、なんだか体裁屋で、風流女を標榜している点が気に入らなくて、一生の妻にしてもよいという気はなくなりました。あまり通わなくなったころに、もうほかに恋愛の相手ができたらしいのですね、 | ||||||||||||||||||||
2.2.2 | 神無月の時節ごろ、月の美しかった夜に、内裏から退出いたしますに、ある殿上人が来合わせて、わたしの車に同乗していましたので、大納言殿の家へ行って泊まろうとすると、この人が言うことには、『今宵は、わたしを待っているだろう女が、妙に気にかかるよ』と言って、先程の女の家は、なんとしても通らなけれならない道に当たっていたので、荒れた築地塀の崩れから池の水に月の光が映っていて、月でさえ泊まるこの宿をこのまま通り過ぎてしまうのも惜しいというので、降りたのでございました。 |
十一月ごろのよい月の晩に、私が御所から帰ろうとすると、ある殿上役人が来て私の車へいっしょに乗りました。私はその晩は父の大納言の家へ行って泊まろうと思っていたのです。途中でその人が、『今夜私を待っている女の家があって、そこへちょっと寄って行ってやらないでは気が済みませんから』と言うのです。私の女の家は道筋に当たっているのですが、こわれた土塀から池が見えて、庭に月のさしているのを見ると、私も寄って行ってやっていいという気になって、その男の降りた所で私も降りたものです。 | ||||||||||||||||||||
2.2.3 | 以前から心を交わしていたのでしょうか、この男はとてもそわそわして、中門近くの渡廊の簀子のような所に腰を掛けて、暫く月を見ています。 菊は一面にとても色美しく変色しており、風に勢いづいた紅葉が散り乱れているのなど、美しいものだなあと、なるほど思われました。 |
その男のはいって行くのはすなわち私の行こうとしている家なのです。初めから今日の約束があったのでしょう。男は夢中のようで、のぼせ上がったふうで、門から近い廊の室の縁側に腰を掛けて、気どったふうに月を見上げているんですね。それは実際白菊が紫をぼかした庭へ、風で紅葉がたくさん降ってくるのですから、身にしむように思うのも無理はないのです。 | ||||||||||||||||||||
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2.2.4 | 懐にあった横笛を取り出して吹き鳴らし、『月影も良い』などと合い間合い間に謡うと、良い音のする和琴を、調子が調えてあったもので、きちんと合奏していたところは、悪くはありませんでした。 律の調子は、女性がもの柔らかく掻き鳴らして、御簾の内側から聞こえて来るのも、今風の楽の音なので、清く澄んでいる月にふさわしくなくもありません。 その男はひどく感心して、御簾の側に歩み寄って、 |
男は懐中から笛を出して吹きながら合い間に『飛鳥井に宿りはすべし蔭もよし』などと歌うと、中ではいい音のする倭琴をきれいに弾いて合わせるのです。相当なものなんですね。律の調子は女の柔らかに弾くのが御簾の中から聞こえるのもはなやかな気のするものですから、明るい月夜にはしっくり合っています。男はたいへんおもしろがって、琴を弾いている所の前へ行って、 | ||||||||||||||||||||
2.2.5 | 『庭の紅葉を、踏み分けた跡がないですね』などと嫌がらせを言います。 菊を手折って、 |
『紅葉の積もり方を見るとだれもおいでになった様子はありませんね。あなたの恋人はなかなか冷淡なようですね』などといやがらせを言っています。菊を折って行って、 | ||||||||||||||||||||
2.2.6 | 『琴の音色も月も素晴らしいお宅ですが 薄情な方を引き止めることができなかったようですね |
『琴の音も菊もえならぬ宿ながら つれなき人を引きやとめける。 |
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2.2.7 | 悪いことを言ったかしら』などと言って、『もう一曲、喜んで聞きたいというわたしがいる時に、弾き惜しみなさいますな』などと、ひどく色っぽく言いかけますと、女は、声をとても気取って出して、 |
だめですね』などと言ってまた『いい聞き手のおいでになった時にはもっとうんと弾いてお聞かせなさい』こんな嫌味なことを言うと、女は作り声をして | ||||||||||||||||||||
2.2.8 | 『冷たい木枯らしに合うようなあなたの笛の音を 引きとどめる術をわたしは持ち合わせていません』 |
『こがらしに吹きあはすめる笛の音を 引きとどむべき言の葉ぞなき』 |
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2.2.9 | となまめき ただ |
と色っぽく振る舞い合います。憎らしくなってきたのも知らずに、今度は、筝の琴を盤渉調に調えて、今風に掻き鳴らす爪音は、才能が無いではないが、目を覆いたい気持ちが致しました。 ただ時々に言葉を交わす宮仕え人などで、どこまでも色っぽく風流なのは、そうであっても付き合うには興味もありましょう。 時々であっても、通い妻として生涯の伴侶と致しますには、頼りなく風流すぎると嫌気がさして、その夜のことに口実をつくって、通うのをやめてしまいました。 |
などと言ってふざけ合っているのです。私がのぞいていて憎らしがっているのも知らないで、今度は十三絃を派手に弾き出しました。才女でないことはありませんがきざな気がしました。遊戯的の恋愛をしている時は、宮中の女房たちとおもしろおかしく交際していて、それだけでいいのですが、時々にもせよ愛人として通って行く女がそんなふうではおもしろくないと思いまして、その晩のことを口実にして別れましたがね。 | |||||||||||||||||||
2.2.10 | この なにがしがいやしき |
この二つの例を考え合わせますと、若い時の考えでさえも、やはりそのように派手な女の例は、とても不安で頼りなく思われました。 今から以後は、いっそうそのようにばかり思わざるを得ません。 お気持ちのままに、手折るとこぼれ落ちてしまいそうな萩の露や、拾ったと思うと消えてしまう玉笹の上の霰などのような、しゃれていてか弱く風流なのばかりが、興味深くお思いでしょうが、今はそうであっても、七年余りのうちにお分かりになるでしょう。 わたくしめごとき、わたくしごとき卑賤の者の忠告として、色っぽくなよなよとした女性にはお気をつけなさいませ。 間違いを起こして、相手の男の愚かな評判までも立ててしまうものです」 |
この二人の女を比べて考えますと、若い時でさえもあとの風流女のほうは信頼のできないものだと知っていました。もう相当な年配になっている私は、これからはまたそのころ以上にそうした浮華なものがきらいになるでしょう。いたいたしい萩の露や、落ちそうな笹の上の霰などにたとえていいような艶な恋人を持つのがいいように今あなたがたはお思いになるでしょうが、私の年齢まで、まあ七年もすればよくおわかりになりますよ、私が申し上げておきますが、風流好みな多情な女には気をおつけなさい。三角関係を発見した時に良人の嫉妬で問題を起こしたりするものです」 | |||||||||||||||||||
2.2.11 | と、忠告する。 頭中将は例によってうなずく。 源氏の君は少し微笑んで、そういうものだろうとお思いのようである。 |
左馬頭は二人の貴公子に忠言を呈した。例のように中将はうなずく。少しほほえんだ源氏も左馬頭の言葉に真理がありそうだと思うらしい。 | ||||||||||||||||||||
2.2.12 | 「どちらの話にしても、体裁の悪くみっともない体験談だね」と言って、皆でどっと笑い興じられる。 |
あるいは二つともばかばかしい話であると笑っていたのかもしれない。 | ||||||||||||||||||||
第三段 頭中将の体験談(常夏の女の物語) |
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2.3.1 | 中将は、 |
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2.3.2 | 「なにがしは、 |
「わたしは、馬鹿な体験談をお話しましょう」と言って、「ごくこっそりと通い始めた女で、そうした関係を長く続けてもよさそうな様子だったので、長続きのする仲とは存じられませんでしたが、馴れ親しんで行くにつれて、愛しいと思われましたので、途絶えがちながらも忘れられない女と存じておりましたが、それほどの仲になると、わたしを頼りにしている様子にも見えました。 頼りにするとなると、恨めしく思っていることもあるだろうと、我ながら思われる折々もございましたが、女は気に掛けぬふうをして、久しく通って行かないのを、こういうたまにしか来ない男とも思っていないで、ただ朝夕にいつも心に掛けているという態度に見えて、いじらしく思えたので、ずっと頼りにしているようにと言ったこともあったのでした。 |
「私もばか者の話を一つしよう」 中将は前置きをして語り出した。 「私がひそかに情人にした女というのは、見捨てずに置かれる程度のものでね、長い関係になろうとも思わずにかかった人だったのですが、馴れていくとよい所ができて心が惹かれていった。たまにしか行かないのだけれど、とにかく女も私を信頼するようになった。愛しておれば恨めしさの起こるわけのこちらの態度だがと、自分のことだけれど気のとがめる時があっても、その女は何も言わない。久しく間を置いて逢っても始終来る人といるようにするので、気の毒で、私も将来のことでいろんな約束をした。 |
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2.3.3 | かうのどけきにおだしくて、 |
親もなく、とても心細い様子で、それならばこの人だけをと、何かにつけて頼りにしている様子もいじらしげでした。 このようにおっとりしていることに安心して、長い間通って行かないでいたころ、わたしの妻の辺りから、情けのないひどいことを、ある手づるがあってそれとなく言わせたことを、後になって聞きました。 |
父親もない人だったから、私だけに頼らなければと思っている様子が何かの場合に見えて可憐な女でした。こんなふうに穏やかなものだから、久しく訪ねて行かなかった時分に、ひどいことを私の妻の家のほうから、ちょうどまたそのほうへも出入りする女の知人を介して言わせたのです。私はあとで聞いたことなんだ。 | |||||||||||||||||||
2.3.4 | さる |
そのような辛いことがあったのかとも知らず、心中では忘れていないとはいうものの、便りなども出さずに長い間おりましたところ、すっかり悲観して不安だったので、幼い子供もいたので思い悩んで、撫子の花を折って、送って寄こしました」と言って涙ぐんでいる。 |
そんなかわいそうなことがあったとも知らず、心の中では忘れないでいながら手紙も書かず、長く行きもしないでいると、女はずいぶん心細がって、私との間に小さな子なんかもあったもんですから、煩悶した結果、撫子の花を使いに持たせてよこしましたよ」 中将は涙ぐんでいた。 |
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2.3.5 | 「さて、その |
「それで、その手紙には」とお尋ねになると、 |
「どんな手紙」 と源氏が聞いた。 |
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2.3.6 | 「いや、格別なことはありませんでしたよ。 |
「なに、平凡なものですよ。 | ||||||||||||||||||||
2.3.7 | 『山家の垣根は荒れていても時々は かわいがってやってください撫子の花を』 |
『山がつの垣は荒るともをりをりに 哀れはかけよ撫子の露』 |
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2.3.8 | 思い出したままに行きましたところ、いつものように無心なようでいながら、ひどく物思い顔で、荒れた家の露のしっとり濡れているのを眺めて、虫の鳴く音と競うかのように泣いている様子は、昔物語めいて感じられました。 |
ってね。私はそれで行く気になって、行って見ると、例のとおり穏やかなものなんですが、少し物思いのある顔をして、秋の荒れた庭をながめながら、そのころの虫の声と同じような力のないふうでいるのが、なんだか小説のようでしたよ。 | ||||||||||||||||||||
2.3.9 | 『庭にいろいろ咲いている花はいずれも皆美しいが やはり常夏の花が一番美しく思われます』 |
『咲きまじる花は何れとわかねども なほ常夏にしくものぞなき』 |
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2.3.10 | 大和撫子のことはさておいて、まず『せめて塵だけは払おう』などと、親の機嫌を取ります。 |
子供のことは言わずに、まず母親の機嫌を取ったのですよ。 | ||||||||||||||||||||
2.3.11 | 『床に積もる塵を払う袖を涙に濡れている常夏に さらに激しい風の吹きつける秋までが来ました』 |
『打ち払ふ袖も露けき常夏に 嵐吹き添ふ秋も来にけり』 |
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2.3.12 | とはかなげに |
とさりげなく言いつくろって、本気で恨んでいるようにも見えません。 涙をもらし落としても、とても恥ずかしそうに遠慮がちに取り繕い隠して、薄情を恨めしく思っているということを知られるのが、とてもたまらないらしいことのように思っていたので、気楽に構えて、再び通わずにいましたうちに、跡形なく姿を晦ましていなくなってしまったのでした。 |
こんな歌をはかなそうに言って、正面から私を恨むふうもありません。うっかり涙をこぼしても恥ずかしそうに紛らしてしまうのです。恨めしい理由をみずから追究して考えていくことが苦痛らしかったから、私は安心して帰って来て、またしばらく途絶えているうちに消えたようにいなくなってしまったのです。 | |||||||||||||||||||
2.3.13 | まだ あはれと こよなきとだえおかず、さるものにしなして かの |
まだ生きていれば、みじめな生活をしていることでしょう。 愛しいと思っていましたころに、うるさいくらいにまつわり付くような様子に見えたならば、こういうふうには行方不明にはさせなかったものを。 こんなにも途絶えはせずに、通い妻の一人として末永く関係を保つこともあったでしょうに。 あの撫子がかわいらしうございましたので、何とか捜し出したいものだと存じておりますが、今でも行方を知ることができません。 |
まだ生きておれば相当に苦労をしているでしょう。私も愛していたのだから、もう少し私をしっかり離さずにつかんでいてくれたなら、そうしたみじめな目に逢いはしなかったのです。長く途絶えて行かないというようなこともせず、妻の一人として待遇のしようもあったのです。撫子の花と母親の言った子もかわいい子でしたから、どうかして捜し出したいと思っていますが、今に手がかりがありません。 | |||||||||||||||||||
2.3.14 | これこそのたまへるはかなき つれなくてつらしと これなむ、え |
これがおっしゃられた頼りない女の例でしょう。 平気をよそおって辛いと思っているのも知らないで、愛し続けていたのも、無益な片思いでした。 今はだんだん忘れかけて行くころになって、あの女は女でまたわたしを忘れられず、時折自分のせいで胸を焦がす夕べもあるであろうと思われます。 この女は、永続きしそうにない頼りない例でしたなあ。 |
これはさっきの話のたよりない性質の女にあたるでしょう。素知らぬ顔をしていて、心で恨めしく思っていたのに気もつかず、私のほうではあくまでも愛していたというのも、いわば一種の片恋と言えますね。もうぼつぼつ今は忘れかけていますが、あちらではまだ忘れられずに、今でも時々はつらい悲しい思いをしているだろうと思われます。これなどは男に永久性の愛を求めようとせぬ態度に出るもので、確かに完全な妻にはなれませんね。 | |||||||||||||||||||
2.3.15 | されば、かのさがな この とりどりに このさまざまのよき |
それだから、あの嫉妬深い女も、思い出される女としては忘れ難いけれども、実際に結婚生活を続けて行くのにはうるさいしね、悪くすると、嫌になることもありましょうよ。 琴が素晴らしい才能だったという女も、浮気な欠点は重大でしょう。 この頼りない女も、疑いが出て来ましょうから、どちらが良いとも結局は決定しがたいのだ。 男女の仲は、ただこのようなものだ。 それぞれに優劣をつけるのは難しいことで。 このそれぞれの良いところばかりを身に備えて、非難される点を持たない女は、どこにいましょうか。 吉祥天女に思いをかけようとすれば、抹香臭くなり、人間離れしているのも、また、おもしろくないでしょう」と言って、皆笑った。 |
だからよく考えれば、左馬頭のお話の嫉妬深い女も、思い出としてはいいでしょうが、今いっしょにいる妻であってはたまらない。どうかすれば断然いやになってしまうでしょう。琴の上手な才女というのも浮気の罪がありますね。私の話した女も、よく本心の見せられない点に欠陥があります。どれがいちばんよいとも言えないことは、人生の何のこともそうですがこれも同じです。何人かの女からよいところを取って、悪いところの省かれたような、そんな女はどこにもあるものですか。吉祥天女を恋人にしようと思うと、それでは仏法くさくなって困るということになるだろうからしかたがない」 中将がこう言ったので皆笑った。 |
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第四段 式部丞の体験談(畏れ多い女の物語) |
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2.4.1 | 「式部のところには、変わった話があろう。 少しずつ、 |
「式部の所にはおもしろい話があるだろう、少しずつでも聞きたいものだね」 と中将が言い出した。 |
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2.4.2 | 「下の下のわたくしめごとき者には、何の、お聞きあそばす話がありましょう」 |
「私どもは下の下の階級なんですよ。おもしろくお思いになるようなことがどうしてございますものですか」 | ||||||||||||||||||||
2.4.3 | と言うけれど、頭中将の君が、真面目に「早く早く」とご催促なさるので、何をお話し申そうかと思案したが、 |
式部丞は話をことわっていたが、頭中将が本気になって、早く早くと話を責めるので、 「どんな話をいたしましてよろしいか考えましたが、こんなことがございます。 |
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2.4.4 | 「まだ かの、 |
「まだ文章生でございました時、畏れ多い女性の例を拝見しました。 先程、左馬頭が申されましたように、公事をも相談し、私生活の面での心がけも考え廻らすこと深く、漢学の才能はなまじっかの博士が恥ずかしくなる程で、万事口出すことは何もございませんでした。 |
まだ文章生時代のことですが、私はある賢女の良人になりました。さっきの左馬頭のお話のように、役所の仕事の相談相手にもなりますし、私の処世の方法なんかについても役だつことを教えていてくれました。学問などはちょっとした博士などは恥ずかしいほどのもので、私なんかは学問のことなどでは、前で口がきけるものじゃありませんでした。 | |||||||||||||||||||
2.4.5 | それは、ある |
それは、ある博士のもとで学問などを致そうと思って、通っておりましたころに、主人の博士には娘が多くいるとお聞き致しまして、ちょっとした折に言い寄りましたところ、父親が聞きつけて、盃を持って出て来て、『わたしが両つの途を歌うのを聴け』と謡いかけてきましたが、少しも結婚してもよいと思って通っていませんで、あの父親の気持ちに気兼ねして、そうは言うもののかかずらっておりましたところ、とても情け深く世話をし、閨房の語らいにも、身に学問がつき、朝廷に仕えるのに役立つ学問的なことを教えてくれて、とても見事に手紙文にも仮名文字というものを書き交ぜず、本格的に漢文で表現しますので、ついつい別れることができずに、その女を先生として、下手な漢詩文を作ることなどを習いましたので、今でもその恩は忘れませんが、慕わしい妻として頼りにするには、無学のわたしは、どことなく劣った振る舞いなど見られましょうから、恥ずかしく思われました。 |
それはある博士の家へ弟子になって通っておりました時分に、先生に娘がおおぜいあることを聞いていたものですから、ちょっとした機会をとらえて接近してしまったのです。親の博士が二人の関係を知るとすぐに杯を持ち出して白楽天の結婚の詩などを歌ってくれましたが、実は私はあまり気が進みませんでした。ただ先生への遠慮でその関係はつながっておりました。先方では私をたいへんに愛して、よく世話をしまして、夜分寝んでいる時にも、私に学問のつくような話をしたり、官吏としての心得方などを言ってくれたりいたすのです。手紙は皆きれいな字の漢文です。仮名なんか一字だって混じっておりません。よい文章などをよこされるものですから別れかねて通っていたのでございます。今でも師匠の恩というようなものをその女に感じますが、そんな細君を持つのは、学問の浅い人間や、まちがいだらけの生活をしている者にはたまらないことだとその当時思っておりました。 |
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2.4.6 | ましてあなた様方の御ためには、しっかりして手ぬかりのない奥方様は、何の必要がおありあそばしましょうか。 つまらない、残念だ、と一方では思いながらも、ただ自分の気に入り、宿縁もあるようでございますので、男という者は、他愛のないもののようでございます」 |
またお二方のようなえらい貴公子方にはそんなずうずうしい先生細君なんかの必要はございません。私どもにしましても、そんなのとは反対に歯がゆいような女でも、気に入っておればそれでいいのですし、前生の縁というものもありますから、男から言えばあるがままの女でいいのでございます」 | ||||||||||||||||||||
2.4.7 | と申し上げるので、続きを言わせようとして、「それにしてもまあ、何と興味ある女だろうか」と、おだてなさるのを、そうとは知りながらも、鼻のあたりをおかしなかっこうさせて語り続ける。 |
これで式部丞が口をつぐもうとしたのを見て、頭中将は今の話の続きをさせようとして、 「とてもおもしろい女じゃないか」 と言うと、その気持ちがわかっていながら式部丞は、自身をばかにしたふうで話す。 |
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2.4.8 | 「さて、いと ふすぶるにやと、をこがましくも、また、よきふしなりとも |
「そうして、ずいぶん長く行きませんでしたが、何かのついでに立ち寄ってみましたところ、いつものくつろいだ部屋にはおりませんで、不愉快な物を隔てて逢のでございます。 嫉妬しているのかと、ばかばかしくもあり、また、別れるのにちょうど良い機会だと存じましたが、この畏れ多い女という者は、軽々しい嫉妬をするはずもなく、男女の仲を心得ていて恨み言を言いませんでした。 |
「そういたしまして、その女の所へずっと長く参らないでいました時分に、その近辺に用のございましたついでに、寄って見ますと、平生の居間の中へは入れないのです。物越しに席を作ってすわらせます。嫌味を言おうと思っているのか、ばかばかしい、そんなことでもすれば別れるのにいい機会がとらえられるというものだと私は思っていましたが、賢女ですもの、軽々しく嫉妬などをするものではありません。人情にもよく通じていて恨んだりなんかもしやしません。 | |||||||||||||||||||
2.4.9 | 声もせかせかと言うことには、 |
しかも高い声で言うのです。 | ||||||||||||||||||||
2.4.10 | 『数月来、風邪が重いのに堪え兼ねて、極熱の薬草を服して、大変に臭いので、面会は御遠慮申し上げます。 直接にでなくても、しかるべき雑用などは承りましょう』 |
『月来、風病重きに堪えかね極熱の草薬を服しました。それで私はくさいのでようお目にかかりません。物越しででも何か御用があれば承りましょう』 | ||||||||||||||||||||
2.4.11 | と、いかにも殊勝にもっともらしく言います。 返事には何と言えようか。 ただ、『承知しました』とだけ言って、立ち去ります時に、物足りなく思ったのでしょうか、 |
ってもっともらしいのです。ばかばかしくて返辞ができるものですか、私はただ『承知いたしました』と言って帰ろうとしました。でも物足らず思ったのですか | ||||||||||||||||||||
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2.4.12 | 『この臭いが消えた時にお立ち寄り下さい』と声高に言うのを、聞き捨てるのも気の毒ですが、しばしの間でもためらっている場合でもありませんので、言うとおり、その臭いまでが、ぷんぷんと漂って来るのも堪りませんので、きょろきょろと逃げ時をうかがって、 |
『このにおいのなくなるころ、お立ち寄りください』とまた大きな声で言いますから、返辞をしないで来るのは気の毒ですが、ぐずぐずもしていられません。なぜかというと草薬の蒜なるものの臭気がいっぱいなんですから、私は逃げて出る方角を考えながら、 | ||||||||||||||||||||
2.4.13 | 『蜘蛛の動きでわたしの来ることがわかっているはずの夕暮に 蒜が臭っている昼間が過ぎるまでまで待てと言うのは訳がわかりません |
『ささがにの振舞ひしるき夕暮れに ひるま過ぐせと言ふがあやなき。 |
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2.4.14 | どのような口実ですか』 |
何の口実なんだか』 | ||||||||||||||||||||
2.4.15 | と、言い終わらず逃げ出しましたところ、追いかけて、 |
と言うか言わないうちに走って来ますと、あとから人を追いかけさせて返歌をくれました。 | ||||||||||||||||||||
2.4.16 | 『逢うことが一夜も置かずに逢っている夫婦仲ならば 蒜の臭っている昼間逢ったからとてどうして恥ずかしいことがありましょうか』 |
『逢ふことの夜をし隔てぬ中ならば ひるまも何か眩ゆからまし』 |
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2.4.17 | さすがに返歌は素早うございました」 |
というのです。歌などは早くできる女なんでございます」 | ||||||||||||||||||||
2.4.18 | と、しづしづと |
と、落ち着いて申し上げるので、公達は興醒めに思って、「嘘だ」と言ってお笑いになる。 |
式部丞の話はしずしずと終わった。貴公子たちはあきれて、 | |||||||||||||||||||
2.4.19 | 「どこにそのような女がいようか。 おとなしく鬼と向かい合っていたほうがましだ。 気持ちが悪い話よ」 |
「うそだろう」 と爪弾きをして見せて、 |
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2.4.20 | と爪弾きして、「何とも評しようがない」と、藤式部丞を軽蔑し非難して、 |
式部をいじめた。 | ||||||||||||||||||||
2.4.21 | 「すこしよろしからむことを |
「もう少しましな話を申せ」とお責めになるが、 |
「もう少しよい話をしたまえ」 | |||||||||||||||||||
2.4.22 | 「これ以上珍しい話がございましょうか」と言って、澄ましている。 |
「これ以上珍しい話があるものですか」 式部丞は退って行った。 |
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2.4.23 | 「すべて男も女も未熟者は、少し知っている方面のことをすっかり見せようと思っているのが、困ったものです。 |
「総体、男でも女でも、生かじりの者はそのわずかな知識を残らず人に見せようとするから困るんですよ。 | ||||||||||||||||||||
2.4.24 | 三史五経といった学問的な方面を、本格的に理解するというのは、好感の持てないことですが、どうして女だからといって、世の中の公私の事々につけて、まったく知りませんできませんと言っていられましょうか。 本格的に勉強しなくても、少しでも才能のあるような人は、耳から目から入って来ることが、自然に多いはずです。 |
三史五経の学問を始終引き出されてはたまりませんよ。女も人間である以上、社会百般のことについてまったくの無知識なものはないわけです。わざわざ学問はしなくても、少し才のある人なら、耳からでも目からでもいろいろなことは覚えられていきます。 | ||||||||||||||||||||
2.4.25 | さるままには、 |
そのようなことから、漢字をさらさらと走り書きして、お互いに書かないはずの女どうしの手紙文にも、半分以上書き交ぜているのは、ああ何と厭味な、この人が女らしかったらいいのになあと思われます。 気持ちの上ではそんなにも思わないでしょうが、自然とごつごつした声に読まれ読まれして、わざとらしく感じられます。 上流の中にも多く見られることです。 |
自然男の知識に近い所へまでいっている女はつい漢字をたくさん書くことになって、女どうしで書く手紙にも半分以上漢宇が混じっているのを見ると、いやなことだ、あの人にこの欠点がなければという気がします。書いた当人はそれほどの気で書いたのではなくても、読む時に音が強くて、言葉の舌ざわりがなめらかでなく嫌味になるものです。これは貴婦人もするまちがった趣味です。 | |||||||||||||||||||
2.4.26 | 和歌を詠むことを鼻にかけている人が、そのまま和歌のとりことなって、趣のある古歌を初句から取り込み取り込みして、相応しからぬ折々に、それを詠みかけて来ますのは、不愉快なことです。 返歌しないと人情がないし、出来ないような人は体裁が悪いでしょう。 |
歌詠みだといわれている人が、あまりに歌にとらわれて、むずかしい故事なんかを歌の中へ入れておいて、そんな相手になっている暇のない時などに詠みかけてよこされるのはいやになってしまうことです、返歌をせねば礼儀でなし、またようしないでいては恥だし困ってしまいますね。 | ||||||||||||||||||||
2.4.27 | しかるべき節会などで、五月の節会に急いで参内する朝に、落ち着いて分別などしていられない時に、素晴らしい根にかこつけてきたり、重陽の節会の宴会のために、何はともあれ難しい漢詩の趣向を思いめぐらしていて暇のない折に、菊の露にかこつけたような、相応しからぬことに付き合わせ、そういう場合ではなくとも自然と、なるほどと後から考えればおもしろくもしみじみともあるはずのものが、その場合には相応しくなく、目にも止まらないのを、察しもせずに詠んで寄こすのは、かえって気がきかないように思われます。 |
宮中の節会の日なんぞ、急いで家を出る時は歌も何もあったものではありません。 そんな時に菖蒲に寄せた歌が贈られる、九月の菊の宴に作詩のことを思って一所懸命になっている時に、菊の歌。こんな思いやりのないことをしないでも場合さえよければ、真価が買ってもらえる歌を、今贈っては目にも留めてくれないということがわからないでよこしたりされると、ついその人が軽蔑されるようになります。 |
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2.4.28 | 万事につけて、どうしてそうするのか、そうしなくとも、と思われる折々に、時々、分別できない程度の思慮では、気取ったり風流めかしたりしないほうが無難でしょう。 |
何にでも時と場合があるのに、それに気がつかないほどの人間は風流ぶらないのが無難ですね。 | ||||||||||||||||||||
2.4.29 | 総じて、心の中では知っているようなことでも、知らない顔をして、言いたいことも、一つ二つは言わないでおくのが良いというものでしょう」 |
知っていることでも知らぬ顔をして、言いたいことがあっても機会を一、二度ははずして、そのあとで言えばよいだろうと思いますね」 | ||||||||||||||||||||
2.4.30 | と言うにつけても、源氏の君は、お一方の御様子を、胸の中に思い続けていらっしゃる。 「この結論に足りないことまた出過ぎたところもない方でいらっしゃるなあ」と、比類ないことにつけても、ますます胸がいっぱいになる。 |
こんなことがまた左馬頭によって言われている間にも、源氏は心の中でただ一人の恋しい方のことを思い続けていた。藤壼の宮は足りない点もなく、才気の見えすぎる方でもないりっぱな貴女であるとうなずきながらも、その人を思うと例のとおりに胸が苦しみでいっぱいになった。 | ||||||||||||||||||||
2.4.31 | どういう結論に達するというでもなく、最後は聞き苦しい話に落ちて、夜をお明かしになった。 |
いずれがよいのか決められずに、ついには筋の立たぬものになって朝まで話し続けた。 | ||||||||||||||||||||
第三章 空蝉の物語 |
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第一段 天気晴れる |
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3.1.1 | やっと今日は天気も好くなった。 こうしてばかり籠っていらっしゃるのも、左大臣殿のお気持ちが気の毒なので、退出なさった。 |
やっと今日は天気が直った。源氏はこんなふうに宮中にばかりいることも左大臣家の人に気の毒になってそこへ行った。 | ||||||||||||||||||||
3.1.2 | おほかたの |
邸内の有様や、姫君の様子も、端麗で気高く、くずれたところがなく、やはり、この女君こそは、あの、人びとが捨て置き難く取り上げた実直な妻としては信頼できるだろう、とお思いになる一方では、度を過ぎて端麗なご様子で、打ち解けにくく気づまりな感じにとり澄ましていらっしゃるのが物足りなくて、中納言の君や中務などといった、人並み優れている若い女房たちに、冗談などをおっしゃりおっしゃりして、暑さにお召し物もくつろげていらっしゃるお姿を、素晴らしく美しい、と思い申し上げている。 |
一糸の乱れも見えぬというような家であるから、こんなのがまじめということを第一の条件にしていた、昨夜の談話者たちには気に入るところだろうと源氏は思いながらも、今も初めどおりに行儀をくずさぬ、打ち解けぬ夫人であるのを物足らず思って、中納言の君、中務などという若いよい女房たちと冗談を言いながら、暑さに部屋着だけになっている源氏を、その人たちは美しいと思い、こうした接触が得られる幸福を覚えていた。 | |||||||||||||||||||
3.1.3 | 左大臣殿もお渡りになって、くつろいでいらっしゃるので、御几帳を間に立ててお座りになって、お話を申し上げなさるのを、「暑いのに」と苦い顔をなさるので、女房たちは笑う。 「お静かに」と制して、脇息に寄り掛かっていらっしゃる。 いかにも大君らしい鷹揚なお振る舞いであるよ。 |
大臣も娘のいるほうへ出かけて来た。部屋着になっているのを知って、几帳を隔てた席について話そうとするのを、 「暑いのに」 と源氏が顔をしかめて見せると、女房たちは笑った。 「静かに」 と言って、脇息に寄りかかった様子にも品のよさが見えた。 |
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3.1.4 | 暗くなるころに、 |
暗くなってきたころに、 | ||||||||||||||||||||
3.1.5 | 「今夜は、天一神が、内裏からこちらの方角へは方塞がりになっております」と申し上げる。 |
「今夜は中神のお通り路になっておりまして、御所からすぐにここへ来てお寝みになってはよろしくございません」 という、源氏の家従たちのしらせがあった。 |
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3.1.6 | 「そうですわ。 |
「そう、いつも中神は避けることになっているのだ。 | ||||||||||||||||||||
3.1.7 | 「二条院も同じ方角であるし、どこに方違えをしようか。 とても気分が悪いのに」 |
しかし二条の院も同じ方角だから、どこへ行ってよいかわからない。私はもう疲れていて寝てしまいたいのに」 | ||||||||||||||||||||
3.1.8 | と言って寝所で横になっていらっしゃる。 「大変に具合悪いことです」と、誰彼となく申し上げる。 |
そして源氏は寝室にはいった。 「このままになすってはよろしくございません」 また家従が言って来る。 |
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3.1.9 | 「紀伊守で親しくお仕えしております者の、中川の辺りにある家が、最近川の水を堰き入れて、涼しい木蔭でございます」と申し上げる。 |
紀伊守で、家従の一人である男の家のことが上申される。 「中川辺でございますがこのごろ新築いたしまして、水などを庭へ引き込んでございまして、そこならばお涼しかろうと思います」 |
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3.1.10 | 「とても良い考えである。 気分が悪いから、牛車のままで入って行かれる所を」 |
「それは非常によい。からだが大儀だから、車のままではいれる所にしたい」 | ||||||||||||||||||||
3.1.11 | とおっしゃる。 内密の方違えのお邸は、たくさんあるに違いないが、長いご無沙汰の後にいらっしゃったのに、方角が悪いからといって、期待を裏切って他へ行ったとお思いになるのは、気の毒だと思われたのであろう。 紀伊守に御用を言い付けなさると、お引き受けは致したものの、引き下がって、 |
と源氏は言っていた。隠れた恋人の家は幾つもあるはずであるが、久しぶりに帰ってきて、方角除けにほかの女の所へ行っては夫人に済まぬと思っているらしい。呼び出して泊まりに行くことを紀伊守に言うと、承知はして行ったが、同輩のいる所へ行って、 | ||||||||||||||||||||
3.1.12 | 「伊予守の朝臣の家に、慎み事がございまして、女房たちが来ている時なので、狭い家でございますので、失礼に当たる事がありはしないか」 |
「父の伊予守-伊予は太守の国で、官名は介になっているが事実上の長官である-の家のほうにこのごろ障りがありまして、家族たちが私の家へ移って来ているのです。もとから狭い家なんですから失礼がないかと心配です」 | ||||||||||||||||||||
3.1.13 | と、陰で嘆息しているのをお聞きになって、 |
と迷惑げに言ったことがまた源氏の耳にはいると、 | ||||||||||||||||||||
3.1.14 | 「そうした人が近くにいるのが、嬉しいのだ。 女気のない旅寝は、何となく不気味な心地がするからね。 ちょうどその几帳の後ろに」とおっしゃるので、 |
「そんなふうに人がたくさんいる家がうれしいのだよ、女の人の居所が遠いような所は夜がこわいよ。伊予守の家族のいる部屋の几帳の後ろでいいのだからね」 冗談混じりにまたこう言わせたものである。 |
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3.1.15 | 「なるほど、適当なご座所で」と言って、使いの者を走らせる。 とてもこっそりと、格別に大げさでない所をと、急いでお出になるので、左大臣殿にもご挨拶なさらず、お供にも親しい者ばかり連れておいでになった。 |
「よいお泊まり所になればよろしいが」 と言って、紀伊守は召使を家へ走らせた。源氏は微行で移りたかったので、まもなく出かけるのに大臣へも告げず、親しい家従だけをつれて行った。 |
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第二段 紀伊守邸への方違へ |
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3.2.1 | 「あまりに急なことで」と迷惑がるが、誰も聞き入れない。 寝殿の東面をきれいに片づけさせて、急拵えのご座所を設けた。 遣水の趣向などは、それなりに趣深く作ってある。 田舎家風の柴垣を廻らして、前栽など気を配って植えてある。 風が涼しく吹いて、どこからともない微かな虫の声々が聞こえ、蛍がたくさん飛び交って、趣のある有様である。 |
あまりに急だと言って紀伊守がこぼすのを他の家従たちは耳に入れないで、寝殿の東向きの座敷を掃除させて主人へ提供させ、そこに宿泊の仕度ができた。庭に通した水の流れなどが地方官級の家としては凝ってできた住宅である。わざと田舎の家らしい柴垣が作ってあったりして、庭の植え込みなどもよくできていた。涼しい風が吹いて、どこでともなく虫が鳴き、蛍がたくさん飛んでいた。 | ||||||||||||||||||||
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3.2.2 | 供人たちは、渡殿の下から湧き出ている泉に臨んで座って、酒を飲む。 主人の紀伊守もご馳走の準備に走り回っている間、源氏の君はゆったりとお眺めになって、あの人たちが、中の品の例に挙げていたのは、きっとこういう程度の家の女性なのだろう、とお思い出しになる。 |
源氏の従者たちは渡殿の下をくぐって出て来る水の流れに臨んで酒を飲んでいた。紀伊守が主人をよりよく待遇するために奔走している時、一人でいた源氏は、家の中をながめて、前夜の人たちが階級を三つに分けたその中の品の列にはいる家であろうと思い、その話を思い出していた。 | ||||||||||||||||||||
3.2.3 | さすがに |
高い望みをもっていたようにお耳になさっていた女性なので、どのような女性かと知りたくて耳を澄ましていらっしゃると、この寝殿の西面に人のいる様子がする。 衣ずれの音がさらさらとして、若い女性の声々が愛らしい。 そうは言っても小声で、笑ったりなどする様子は、わざとらしい。 |
思い上がった娘だという評判の伊予守の娘、すなわち紀伊守の妹であったから、源氏は初めからそれに興味を持っていて、どの辺の座敷にいるのであろうと物音に耳を立てていると、この座敷の西に続いた部屋で女の衣摺れが聞こえ、若々しい、媚めかしい声で、しかもさすがに声をひそめてものを言ったりしているのに気がついた。わざとらしいが悪い感じもしなかった。 |
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3.2.4 | 格子を上げてあったが、紀伊守が、「不用意な」と小言を言って下ろしてしまったので、火を灯している明りが、襖障子の上から漏れているので、そっとお近寄りになって、「見えるだろうか」とお思いになるが、隙間もないので、少しの間お聞きになっていると、自分に近い方の母屋に集っているのであろう、ひそひそ話している内容をお聞きになると、ご自分の噂話のようである。 |
初めその前の縁の格子が上げたままになっていたのを、不用意だといって紀伊守がしかって、今は皆戸がおろされてしまったので、その室の灯影が、襖子の隙間から赤くこちらへさしていた。源氏は静かにそこへ寄って行って中が見えるかと思ったが、それほどの隙間はない。しばらく立って聞いていると、それは襖子の向こうの中央の間に集まってしているらしい低いさざめきは、源氏自身が話題にされているらしい。 | ||||||||||||||||||||
3.2.5 | 「とてもたいそう真面目ぶって。 まだお若いのに、高貴な北の方が定まっていらっしゃるとは、なんとつまらないのでしょう」 |
「まじめらしく早く奥様をお持ちになったのですからお寂しいわけですわね。 | ||||||||||||||||||||
3.2.6 | 「でも、人の知らない所では、うまくもまあ、隠れて通っていらっしゃるということですよ」 |
でもずいぶん隠れてお通いになる所があるんですって」 | ||||||||||||||||||||
3.2.7 | などと噂しているのにつけても、胸の内にあることばかりが気にかかっていらっしゃるので、まっさきにどきりとして、「このような噂話の折にも、人が言い漏らすようなことを、人が聞きつけるような事が起こったら」などとご心配なさる。 |
こんな言葉にも源氏ははっとした。自分の作っているあるまじい恋を人が知って、こうした場合に何とか言われていたらどうだろうと思ったのである。 | ||||||||||||||||||||
3.2.8 | 別段のこともないので、途中まで聞いてお止めになった。 式部卿宮の姫君に、朝顔の花を差し上げなさった時の和歌などを、少し文句を違えて語るのが聞こえる。 「ゆったりと和歌を口にすることよ、やはり見劣りすることだろう」とお思いになる。 |
でも話はただ事ばかりであったから皆を聞こうとするほどの興味が起こらなかった。式部卿の宮の姫君に朝顔を贈った時の歌などを、だれかが得意そうに語ってもいた。行儀がなくて、会話の中に節をつけて歌を入れたがる人たちだ、中の品がおもしろいといっても自分には我慢のできぬこともあるだろうと源氏は思った。 | ||||||||||||||||||||
3.2.9 | 紀伊守が出て来て、灯籠を掛け添え、灯火を明るく掻き立てたりして、お菓子ぐらいのものを差し上げた。 |
紀伊守が出て来て、灯籠の数をふやさせたり、座敷の灯を明るくしたりしてから、主人には遠慮をして菓子だけを献じた。 | ||||||||||||||||||||
3.2.10 | 「帷帳の準備も、いかがなっておるか。 そうした方面の趣向もなくては、興醒めなもてなしであろう」とおっしゃると、 |
「わが家はとばり帳をも掛けたればって歌ね、大君来ませ婿にせんってね、そこへ気がつかないでは主人の手落ちかもしれない」 | ||||||||||||||||||||
3.2.11 | 「はて、何がお気に召しますやら、わかりませんので」と、恐縮して控えている。 端の方のご座所に、うたた寝といったふうに横におなりになると、供人たちも静かになった。 |
「通人でない主人でございまして、どうも」 紀伊守は縁側でかしこまっていた。源氏は縁に近い寝床で、仮臥のように横になっていた。随行者たちももう寝たようである。 |
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3.2.12 | 主人の子供たちが、かわいらしい様子をしている。 その子供で、童殿上している間に見慣れていらっしゃっるのもいる。 伊予介の子もいる。 大勢いる中で、とても感じが上品で、十二、三歳くらいになるのもいる。 |
紀伊守は愛らしい子供を幾人も持っていた。御所の侍童を勤めて源氏の知った顔もある。縁側などを往来する中には伊予守の子もあった。何人かの中に特別に上品な十二、三の子もある。 | ||||||||||||||||||||
3.2.13 | 「いづれかいづれ」など |
「どの子が誰の子か」などと、お尋ねになると、 |
どれが子で、どれが弟かなどと源氏は尋ねていた。 | |||||||||||||||||||
3.2.14 | 「これは、 |
「この子は、故衛門督の末っ子で、大変にかわいがっておりましたが、まだ幼いうちに親に先立たれまして、姉につながる縁で、こうしてここにいるわけでございます。 学問などもできそうで、悪くはございませんが、童殿上なども考えておりますが、すらすらとはできませんようで」と申し上げる。 |
「ただ今通りました子は、亡くなりました衛門督の末の息子で、かわいがられていたのですが、小さいうちに父親に別れまして、姉の縁でこうして私の家にいるのでございます。将来のためにもなりますから、御所の侍童を勤めさせたいようですが、それも姉の手だけでははかばかしく運ばないのでございましょう」 と紀伊守が説明した。 |
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3.2.15 | 「気の毒なことだ。 この子の姉君が、そなたの継母か」 |
「あの子の姉さんが君の継母なんだね」 | ||||||||||||||||||||
3.2.16 | 「さなむはべる」と |
「さようでございます」と申し上げると、 |
「そうでございます」 | |||||||||||||||||||
3.2.17 | 「年に似合わない継母を、持ったことだなあ。 主上におかれてもお耳にお忘れにならず、『宮仕えに差し上げたいと、ちらと奏上したことは、その後どうなったのか』と、いつであったか仰せられた。 人の世とは無常なものだ」と、とても大人びておっしゃる。 |
「似つかわしくないお母さんを持ったものだね。その人のことは陛下もお聞きになっていらっしって、宮仕えに出したいと衛門督が申していたが、その娘はどうなったのだろうって、いつかお言葉があった。人生はだれがどうなるかわからないものだね」 老成者らしい口ぶりである。 |
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3.2.18 | 「思いがけず、こうしているのでございます。 男女の仲と言うものは、所詮、そのようなものばかりで、今も昔も、どうなるか分からないものでございます。 中でも、女の運命は定めないのが、哀れでございます」などと申し上げて途中で止める。 |
「不意にそうなったのでございます。まあ人というものは昔も今も意外なふうにも変わってゆくものですが、その中でも女の運命ほどはかないものはございません」 などと紀伊守は言っていた。 |
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3.2.19 | 「伊予介は、大事にしているか。 主君と思っているだろうな」 |
「伊予介は大事にするだろう。主君のように思うだろうな」 | ||||||||||||||||||||
3.2.20 | 「どう致しまして。 内々の主君として世話しておりますようですが、好色がましいことだと、わたくしめをはじめとして、納得できないほどでございます」などと申し上げる。 |
「さあ。まあ私生活の主君でございますかな。好色すぎると私はじめ兄弟はにがにがしがっております」 | ||||||||||||||||||||
3.2.21 | 「そうは言っても、そなたたちのような年に相応しく当世風の人に、譲るであろうか。 あの伊予介は、なかなか風流心があって、気取っているからな」などと、お話なさって、 |
「だって君などのような当世男に伊予介は譲ってくれないだろう。あれはなかなか年は寄ってもりっぱな風采を持っているのだからね」 などと話しながら、 |
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3.2.22 | 「いづかたにぞ」 |
「で、どこに」 |
「その人どちらにいるの」 | |||||||||||||||||||
3.2.23 | 「皆、下屋に下がらせましたが、まだ下がりきらないで残っているかも知れません」と申し上げる。 |
「皆下屋のほうへやってしまったのですが、間にあいませんで一部分だけは残っているかもしれません」 と紀伊守は言った。 |
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3.2.24 | 酔いが回って、供人は皆は簀子にそれぞれ横になって、寝静まってしまった。 |
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第三段 空蝉の寝所に忍び込む |
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3.3.1 | 源氏の君は、気を落ち着けてお寝みにもなれず、空しい一人寝だと思われるとお目も冴えて、この北の襖障子の向こう側に人のいる様子がするので、「ここが、話に出た女が隠れている所であろうか、かわいそうな」とご関心をもって、静かに起き上がって立ち聞きなさると、先程の子供の声で、 |
深く酔った家従たちは皆夏の夜を板敷で仮寝してしまったのであるが、源氏は眠れない、一人臥をしていると思うと目がさめがちであった。この室の北側の襖子の向こうに人のいるらしい音のする所は紀伊守の話した女のそっとしている室であろうと源氏は思った。かわいそうな女だとその時から思っていたのであったから、静かに起きて行って襖子越しに物声を聞き出そうとした。その弟の声で、 | ||||||||||||||||||||
3.3.2 | 「もしもし。 どこにいらっしゃいますか」 |
「ちょいと、どこにいらっしゃるの」 | ||||||||||||||||||||
3.3.3 | と、かれたる |
と、かすれた声で、かわいらしく言うと、 |
と言う。少し涸れたきれいな声である。 | |||||||||||||||||||
3.3.4 | 「ここに臥せっています。 お客様はお寝みになりましたか。 どんなにお近かろうかと心配していましたが、でも、遠そうだわね」 |
「私はここで寝んでいるの。お客様はお寝みになったの。ここと近くてどんなに困るかと思っていたけれど、まあ安心した」 | ||||||||||||||||||||
3.3.5 | と言う。 寝ていた声で取り繕わないのが、とてもよく似ていたので、その姉だなとお聞きになった。 |
と、寝床から言う声もよく似ているので姉弟であることがわかった。 | ||||||||||||||||||||
3.3.6 | 「廂の間にお寝みになりました。 噂に聞いていたお姿を拝見いたしましたが、噂通りにご立派でしたよ」と、ひそひそ声で言う。 |
「廂の室でお寝みになりましたよ。評判のお顔を見ましたよ。ほんとうにお美しい方だった」 一段声を低くして言っている。 |
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3.3.7 | 「昼間であったら、覗いて拝見できるのにね」 |
「昼だったら私ものぞくのだけれど」 | ||||||||||||||||||||
3.3.8 | と眠そうに言って、顔を衾に引き入れた声がする。 「惜しいな、 |
睡むそうに言って、その顔は蒲団の中へ引き入れたらしい。もう少し熱心に聞けばよいのにと源氏は物足りない。 | ||||||||||||||||||||
3.3.9 | 「わたしは、 端に寝ましょう。 |
「私は縁の近くのほうへ行って寝ます。暗いなあ」 | ||||||||||||||||||||
3.3.10 | と言って、灯心を引き出したりしているのであろう。 女君は、ちょうどこの襖障子口の斜め向こう側に臥しているのであろう。 |
子供は燈心を掻き立てたりするものらしかった。女は襖子の所からすぐ斜いにあたる辺で寝ているらしい。 | ||||||||||||||||||||
3.3.11 | 「中将の君はどこですか。 誰もいないような感じで、何となく恐い」 |
「中将はどこへ行ったの。今夜は人がそばにいてくれないと何だか心細い気がする」 | ||||||||||||||||||||
3.3.12 | と言うらしい、すると、長押の下の方で、女房たちは臥したまま答えているらしい。 |
低い下の室のほうから、女房が、 | ||||||||||||||||||||
3.3.13 | 「下屋に、お湯を使いに下りていますが。 『すぐに参ります』とのことでございます」と言う。 |
「あの人ちょうどお湯にはいりに参りまして、すぐ参ると申しました」 と言っていた。 |
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3.3.14 | なまわづらはしけれど、 |
皆寝静まった様子なので、掛金を試しに開けて御覧になると、向こう側からは鎖してないのであった。 几帳を襖障子口に立てて、灯火はほの暗いが、御覧になると唐櫃のような物どもを置いてあるので、ごたごたした中を、掻き分けて入ってお行きになると、ただ一人だけでとても小柄な感じで臥せっていた。 何となく煩わしく感じるが、上に掛けてある衣を押しのけるまで、呼んでいた女房だと思っていた。 |
源氏はその女房たちも皆寝静まったころに、掛鉄をはずして引いてみると襖子はさっとあいた。向こう側には掛鉄がなかったわけである。そのきわに几帳が立ててあった。ほのかな灯の明りで衣服箱などがごたごたと置かれてあるのが見える。源氏はその中を分けるようにして歩いて行った。 小さな形で女が一人寝ていた。やましく思いながら顔を掩うた着物を源氏が手で引きのけるまで女は、さっき呼んだ女房の中将が来たのだと思っていた。 |
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3.3.15 | 「中将をお呼びでしたので。 人知れずお慕いしておりました、その甲斐があった気がしまして」 |
「あなたが中将を呼んでいらっしゃったから、私の思いが通じたのだと思って」 | ||||||||||||||||||||
3.3.16 | とおっしゃるのを、すぐにはどういうことかも分からず、魔物にでも襲われたような気がして、「きゃっ」と脅えたが、顔に衣が触れて、声にもならない。 |
と源氏の宰相中将は言いかけたが、女は恐ろしがって、夢に襲われているようなふうである。「や」と言うつもりがあるが、顔に夜着がさわって声にはならなかった。 | ||||||||||||||||||||
3.3.17 | 「突然のことで、一時の戯れ心とお思いになるのも、ごもっともですが、長年、恋い慕っていましたわたしの気持ちを、聞いていただきたいと思いまして。 このような機会を待ち受けていたのも、決していい加減な気持ちからではない深い前世からの縁と、お思いになって下さい」 |
「出来心のようにあなたは思うでしょう。もっともだけれど、私はそうじゃないのですよ。ずっと前からあなたを思っていたのです。それを聞いていただきたいのでこんな機会を待っていたのです。だからすべて皆前生の縁が導くのだと思ってください」 | ||||||||||||||||||||
3.3.18 | と、とても優しくおっしゃって、鬼神さえも手荒なことはできないような態度なので、ぶしつけに「ここに、変な人が」とも、大声が出せない。 気分は辛く、あってはならない事だと思うと、情けなくなって、 |
柔らかい調子である。神様だってこの人には寛大であらねばならぬだろうと思われる美しさで近づいているのであるから、露骨に、 「知らぬ人がこんな所へ」 ともののしることができない。 しかも女は情けなくてならないのである。 |
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3.3.19 | 「 |
「お人違いでございましょう」と言うのもやっとである。 |
「人まちがえでいらっしゃるのでしょう」 やっと、息よりも低い声で言った。 |
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3.3.20 | 消え入らんばかりにとり乱した様子は、まことにいたいたしく可憐なので、いい女だと御覧になって、 |
当惑しきった様子が柔らかい感じであり、可憐でもあった。 | ||||||||||||||||||||
3.3.21 | 「間違えるはずもない心の導きを、意外にも理解しても下さらずはぐらかしなさいますね。 好色めいた振る舞いは、決して致しません。 気持ちを少し申し上げたいのです」 |
「違うわけがないじゃありませんか。恋する人の直覚であなただと思って来たのに、あなたは知らぬ顔をなさるのだ。普通の好色者がするような失礼を私はしません。少しだけ私の心を聞いていただけばそれでよいのです」 | ||||||||||||||||||||
3.3.22 | と言って、とても小柄なので、抱き上げて襖障子までお出になるところへ、呼んでいた中将らしい女房が来合わせた。 |
と言って、小柄な人であったから、片手で抱いて以前の襖子の所へ出て来ると、さっき呼ばれていた中将らしい女房が向こうから来た。 | ||||||||||||||||||||
3.3.23 | 「やや」とのたまふに、あやしくて あさましう、こはいかなることぞと |
「これ、これ」とおっしゃると、不審に思って手探りで近づいたところ、大変に薫物の香があたり一面に匂っていて、顔にまで匂いかかって来るような感じがするので、理解がついた。 意外なことで、これはどうしたことかと、おろおろしないではいられないが、何とも申し上げようもない。 普通の男ならば、手荒に引き放すこともしようが、それでさえ大勢の人が知ったらどうであろうか。 胸がどきどきして、後からついて来たが、平然として、奥のご座所にお入りになった。 |
「ちょいと」 と源氏が言ったので、不思議がって探り寄って来る時に、薫き込めた源氏の衣服の香が顔に吹き寄ってきた。中将は、これがだれであるかも、何であるかもわかった。情けなくて、どうなることかと心配でならないが、何とも異論のはさみようがない。並み並みの男であったならできるだけの力の抵抗もしてみるはずであるが、しかもそれだって荒だてて多数の人に知らせることは夫人の不名誉になることであって、しないほうがよいのかもしれない。こう思って胸をとどろかせながら従ってきたが、源氏の中将はこの中将をまったく無視していた。初めの座敷へ抱いて行って女をおろして、 |
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3.3.24 | 襖障子を引き閉てて、「明朝、お迎えに参られよ」とおっしゃるので、女は、この女房がどう思うかまでが、死ぬほど耐えられないので、流れ出るほどの汗びっしょりになって、とても悩ましい様子でいる、それは、気の毒であるが、例によって、どこから出てくる言葉であろうか、愛情がわかるほどに、優しく優しく、言葉を尽くしておっしゃるようだが、やはりまことに情けないので、 |
それから襖子をしめて、 「夜明けにお迎えに来るがいい」 と言った。中将はどう思うであろうと、女はそれを聞いただけでも死ぬほどの苦痛を味わった。流れるほどの汗になって悩ましそうな女に同情は覚えながら、女に対する例の誠実な調子で、女の心が当然動くはずだと思われるほどに言っても、女は人間の掟に許されていない恋に共鳴してこない。 |
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3.3.25 | 「真実のこととは思われません。 しがない身の上ですが、お貶みなさったお気持ちのほどを、どうして浅いお気持ちと存ぜずにいられましょうか。 まことに、このような身分の女には、それなりの生き方がございます」 |
「こんな御無理を承ることが現実のことであろうとは思われません。卑しい私ですが、軽蔑してもよいものだというあなたのお心持ちを私は深くお恨みに思います。私たちの階級とあなた様たちの階級とは、遠く離れて別々のものなのです」 | ||||||||||||||||||||
3.3.26 | と言って、このように無体なことをなさっているのを、深く思いやりがなく嫌なことだと思い込んでいる様子も、なるほど気の毒で、気後れがするほど立派な態度なので、 |
こう言って、強さで自分を征服しようとしている男を憎いと思う様子は、源氏を十分に反省さす力があった。 | ||||||||||||||||||||
3.3.27 | 「おっしゃる身分身分の違いを、まだ知りません、初めての事ですよ。 かえって、わたしを普通の人と同じように思っていらっしゃるのが残念です。 自然とお聞きになっているようなこともありましょう。 むやみな好色心は、まったく持ち合わせておりませんものを。 前世からの因縁でしょうか、おっしゃるように、このように軽蔑されいただくのも、当然なわが惑乱を、自分でも不思議なほどで」 |
「私はまだ女性に階級のあることも何も知らない。はじめての経験なんです。普通の多情な男のようにお取り扱いになるのを恨めしく思います。あなたの耳にも自然はいっているでしょう、むやみな恋の冒険などを私はしたこともありません。それにもかかわらず前生の因縁は大きな力があって、私をあなたに近づけて、そしてあなたからこんなにはずかしめられています。ごもっともだとあなたになって考えれば考えられますが、そんなことをするまでに私はこの恋に盲目になっています」 | ||||||||||||||||||||
3.3.28 | など、まめだちてよろづにのたまへど、いとたぐひなき |
などと、真面目になっていろいろとおっしゃるが、まことに類ないご立派さで、ますます打ち解け申し上げることが辛く思われるので、無愛想な気にくわない女だとお見受け申されようとも、そうしたつまらない女として押し通そうと思って、ただそっけなく身を処していた。 人柄がおとなしい性質なところに、無理に気強く張りつめているので、しなやかな竹のような感じがして、さすがにたやすく手折れそうにもない。 |
まじめになっていろいろと源氏は説くが、女の冷ややかな態度は変わっていくけしきもない。女は、一世の美男であればあるほど、この人の恋人になって安んじている自分にはなれない、冷血的な女だと思われてやむのが望みであると考えて、きわめて弱い人が強さをしいてつけているのは弱竹のようで、さすがに折ることはできなかった。 | |||||||||||||||||||
3.3.29 | 本当に辛く嫌な思いで、無理無体なお気持ちを、何とも言いようがないと思って、泣いている様子など、まことに哀れである。 気の毒ではあるが、逢わなかったら心残りであったろうに、とお思いになる。 気持ちの晴らしようもなく、情けないと思っているので、 |
真からあさましいことだと思うふうに泣く様子などが可憐であった。気の毒ではあるがこのままで別れたらのちのちまでも後悔が自分を苦しめるであろうと源氏は思ったのであった。 もうどんなに勝手な考え方をしても救われない過失をしてしまったと、女の悲しんでいるのを見て、 |
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3.3.30 | 「どうして、こうお嫌いになるのですか。 思いがけない逢瀬こそ、前世からの因縁だとお考えなさい。 むやみに男女の仲を知らない者のように、泣いていらっしゃるのが、とても辛い」と、恨み言をいわれて、 |
「なぜそんなに私が憎くばかり思われるのですか。お嬢さんか何かのようにあなたの悲しむのが恨めしい」 と、源氏が言うと、 |
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3.3.31 | 「いとかく よし、 |
「とてもこのような情けない身の運命が定まらない、昔のままのわが身で、このようなお気持ちを頂戴したのならば、とんでもない身勝手な希望ですが、愛していただける時もあろううかと存じて慰めましょうに、とてもこのような、一時の仮寝のことを思いますと、どうしようもなく心惑いされてならないのです。 たとえ、こうとなりましても、 |
「私の運命がまだ私を人妻にしません時、親の家の娘でございました時に、こうしたあなたの熱情で思われましたのなら、それは私の迷いであっても、他日に光明のあるようなことも思ったでございましょうが、もう何もだめでございます。私には恋も何もいりません。ですからせめてなかったことだと思ってしまってください」 | |||||||||||||||||||
3.3.32 | と言って、悲しんでいる様子は、いかにも道理である。 並々ならず行く末を約束し慰めなさる言葉は、 |
と言う。悲しみに沈んでいる女を源氏ももっともだと思った。真心から慰めの言葉を発しているのであった。 | ||||||||||||||||||||
3.3.33 | 鶏も鳴いた。 供びとが起き出して、 |
鶏の声がしてきた。家従たちも起きて、 | ||||||||||||||||||||
3.3.34 | 「いといぎたなかりける |
「ひどく寝過ごしてしまったなあ」 |
「寝坊をしたものだ。 | |||||||||||||||||||
3.3.35 | 「 |
「お車を引き出せよ」 |
早くお車の用意をせい」 | |||||||||||||||||||
3.3.36 | などと言っているようだ。 紀伊守も起き出して来て、 |
そんな命令も下していた。 | ||||||||||||||||||||
3.3.37 | 「女性などの方違えならばともかく。 暗いうちからお急きあそばさずとも」などと言っているのも聞こえる。 |
「女の家へ方違えにおいでになった場合とは違いますよ。早くお帰りになる必要は少しもないじゃありませんか」 と言っているのは紀伊守であった。 |
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3.3.38 | 源氏の君は、再びこのような機会があろうこともとても難しいし、わざわざ訪れることはどうしてできようか、お手紙などもを通わすことはとても無理なことをお思いになると、ひどく胸が痛む。 奥にいた中将の君も出て来て、とても困っているので、お放しになっても、再びお引き留めになっては、 |
源氏はもうまたこんな機会が作り出せそうでないことと、今後どうして文通をすればよいか、どうもそれが不可能らしいことで胸を痛くしていた。女を行かせようとしてもまた引き留める源氏であった。 | ||||||||||||||||||||
3.3.39 | 「どのようにして、お便りを差し上げたらよかろうか。 ほんとうに何とも言いようのない、あなたのお気持ちの冷たさといい、慕わしさといい、深く刻みこまれた思い出は、いろいろとめったにないことであったね」 |
「どうしてあなたと通信をしたらいいでしょう。あくまで冷淡なあなたへの恨みも、恋も、一通りでない私が、今夜のことだけをいつまでも泣いて思っていなければならないのですか」 | ||||||||||||||||||||
3.3.40 | とて、うち |
と言って、お泣きになる様子は、とても優美である。 |
泣いている源氏が非常に艶に見えた。 | |||||||||||||||||||
3.3.41 | 鶏もしきりに鳴くので、気もせかされて、 |
何度も鶏が鳴いた。 | ||||||||||||||||||||
3.3.42 | 「あなたの冷たい態度に恨み言を十分に言わないうちに夜もしらみかけ 鶏までが取るものも取りあえぬまであわただしく鳴いてわたしを起こそうとするのでしょうか」 |
つれなさを恨みもはてぬしののめに とりあへぬまで驚かすらん |
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3.3.43 | 女は、わが身の上を思うと、まことに不似合いで眩しい気持ちがして、源氏の君の素晴らしいお持てなしも、何とも感ぜず、平生はとても生真面目過ぎて嫌な男だと侮っている伊予国の方角が思いやられて、「夢に現われやしないか」と思うと、何となく恐ろしくて気がひける。 |
あわただしい心持ちで源氏はこうささやいた。 女は己を省みると、不似合いという晴がましさを感ぜずにいられない源氏からどんなに熱情的に思われても、これをうれしいこととすることができないのである。それに自分としては愛情の持てない良人のいる伊予の国が思われて、こんな夢を見てはいないだろうかと考えると恐ろしかった。 |
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3.3.44 | 「わが身の辛さを嘆いても嘆き足りないうちに明ける夜は 鶏の鳴く音に取り重ねて、 |
身の憂さを歎くにあかで明くる夜は とり重ねても音ぞ泣かれける |
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3.3.45 | ずんずんと明るくなるので、襖障子口までお送りになる。 家の内も外も騒がしいので、引き閉てて、お別れになる時、心細い気がして、仲を隔てる関のように思われた。 |
と言った。 ずんずん明るくなってゆく。女は襖子の所へまで送って行った。奥のほうの人も、こちらの縁のほうの人も起き出して来たんでざわついた。襖子をしめてもとの席へ帰って行く源氏は、一重の襖子が越えがたい隔ての関のように思われた。 |
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3.3.46 | 御直衣などをお召しになって、南面の高欄の側で少しの間眺めていらっしゃる。 西面の格子を忙しく上げて、女房たちが覗き見しているようである。 簀子の中央に立ててある小障子の上から、わずかにお見えになるお姿を、身に感じ入っている好色な女もいるようである。 |
直衣などを着て、姿を整えた源氏が縁側の高欄によりかかっているのが、隣室の縁低い衝立の上のほうから見えるのをのぞいて、源氏の美の放つ光が身の中へしみ通るように思っている女房もあった。 | ||||||||||||||||||||
3.3.47 | 月は有明で、光は弱くなっているとはいうものの、面ははっきりと見えて、かえって趣のある曙の空である。 無心なはずの空の様子も、ただ見る人によって、美しくも悲しくも見えるのであった。 人に言われぬお心には、とても胸痛く、文を通わす手立てさえないものをと、後ろ髪引かれる思いでお出になった。 |
残月のあるころで落ち着いた空の明かりが物をさわやかに照らしていた。変わったおもしろい夏の曙である。だれも知らぬ物思いを、心に抱いた源氏であるから、主観的にひどく身にしむ夜明けの風景だと思った。言づて一つする便宜がないではないかと思って顧みがちに去った。 | ||||||||||||||||||||
3.3.48 | またあひ 「すぐれたることはなけれど、めやすくもてつけてもありつる |
お邸にお帰りになっても、すぐにもお寝みになれない。 再び逢える手立てのないのが、自分以上に、あの女が悩んでいるであろう心の中は、どんなであろうかと、気の毒にご想像なさる。 「特に優れた所はないが、見苦しくなく身嗜みもとりつくろっていた中の品の女であったな。 何でもよく知っている人の言ったことは、なるほど」とうなずかれるのであった。 |
家へ帰ってからも源氏はすぐに眠ることができなかった。再会の至難である悲しみだけを自分はしているが、自由な男でない人妻のあの人はこのほかにもいろいろな煩悶があるはずであると思いやっていた。すぐれた女ではないが、感じのよさを十分に備えた中の品だ。だから多くの経験を持った男の言うことには敬服される点があると、品定めの夜の話を思い出していた。 | |||||||||||||||||||
3.3.49 | 最近は左大臣邸にばかりいらっしゃる。 やはり、すっかりあれきり途絶えているので、思い悩んでいるであろうことが、気の毒にお心にかかって、心苦しく思い悩みなさって、紀伊守をお召しになった。 |
このごろはずっと左大臣家に源氏はいた。あれきり何とも言ってやらないことは、女の身にとってどんなに苦しいことだろうと中川の女のことがあわれまれて、始終心にかかって苦しいはてに源氏は紀伊守を招いた。 | ||||||||||||||||||||
3.3.50 | 「あの、先日の故中納言の子は、わたしに下さらないか。 かわいらしげに見えたが。 身近に使う者としたい。 主上にも、 |
「自分の手もとへ、この間見た中納言の子供をよこしてくれないか。かわいい子だったからそばで使おうと思う。御所へ出すことも私からしてやろう」 と言うのであった。 |
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3.3.51 | 「とても恐れ多いお言葉でございます。 姉に当たる人に仰せ言を申し聞かせてみましょう」 |
「結構なことでございます。あの子の姉に相談してみましょう」 | ||||||||||||||||||||
3.3.52 | と、申し上げるにつけても、どきりとなさるが、 |
その人が思わず引き合いに出されたことだけででも源氏の胸は鳴った。 | ||||||||||||||||||||
3.3.53 | 「その姉君は、そなたの弟をお持ちか」 |
「その姉さんは君の弟を生んでいるの」 | ||||||||||||||||||||
3.3.54 | 「いえ、ございません。 この二年ほどは、こうして暮らしておりますが、父親の意向と違ったと嘆いて、気も進まないでいるように、聞いております」 |
「そうでもございません。この二年ほど前から父の妻になっていますが、死んだ父親が望んでいたことでないような結婚をしたと思うのでしょう。不満らしいということでございます」 | ||||||||||||||||||||
3.3.55 | 「気の毒なことよ。 まあまあの評判であった人だ。 本当に、 |
「かわいそうだね、評判の娘だったが、ほんとうに美しいのか」 | ||||||||||||||||||||
3.3.56 | 「悪くはございませんでしょう。 離れて疎遠に致しておりますので、世間の言い草のとおり、親しくしておりません」と申し上げる。 |
「さあ、悪くもないのでございましょう。年のいった息子と若い継母は親しくせぬものだと申しますから、私はその習慣に従っておりまして何も詳しいことは存じません」 と紀伊守は答えていた。 |
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第四段 それから数日後 |
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3.4.1 | さて、 こまやかにをかしとはなけれど、なまめきたるさまして、あて いもうとの さるべきことは されど、いとよく |
そうして、五、六日が過ぎて、この子を連れて参上した。 きめこまやかに美しいというのではないが、優美な姿をしていて、良家の子弟と見えた。 招き入れて、とても親しくお話をなさる。 子供心に、とても素晴らしく嬉しく思う。 姉君のことも詳しくお尋ねになる。 答えられることはお答え申し上げなどして、こちらが恥ずかしくなるほどきちんとかしこまっているので、ちょっと言い出しにくい。 けれど、とても上手にお話なさる。 |
紀伊守は五、六日してからその子供をつれて来た。整った顔というのではないが、艶な風采を備えていて、貴族の子らしいところがあった。そばへ呼んで源氏は打ち解けて話してやった。子供心に美しい源氏の君の恩顧を受けうる人になれたことを喜んでいた。姉のことも詳しく源氏は聞いた。返辞のできることだけは返辞をして、つつしみ深くしている子供に、源氏は秘密を打ちあけにくかった。けれども上手に嘘まじりに話して聞かせると、 | |||||||||||||||||||
3.4.2 | かかることこそはと、ほの この いと |
このようなことであったかと、ぼんやりと分かるのも、意外なことではあるが、子供心に深くも考えない。 お手紙を持って来たので、女は、あまりのことに涙が出てしまった。 弟がどう思っていることだろうかときまりが悪くて、そうは言っても、お手紙で顔を隠すように広げた。 とてもたくさん書き連ねてあって、 |
そんなことがあったのかと、子供心におぼろげにわかればわかるほど意外であったが、子供は深い穿鑿をしようともしない。 源氏の手紙を弟が持って来た。女はあきれて涙さえもこぼれてきた。弟がどんな想像をするだろうと苦しんだが、さすがに手紙は読むつもりらしくて、きまりの悪いのを隠すように顔の上でひろげた。さっきからからだは横にしていたのである。手紙は長かった。終わりに、 |
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3.4.3 | 「夢が現実となったあの夜以来、 再び逢える夜があろうかと嘆いているうちに目までが合わさら |
見し夢を逢ふ夜ありやと歎く間に 目さへあはでぞ頃も経にける |
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3.4.4 | 眠れる夜がないので」 |
安眠のできる夜がないのですから、夢が見られないわけです。 | ||||||||||||||||||||
3.4.5 | などと、見たこともないほどの、素晴らしいご筆跡も、目も涙に曇って、不本意な運命がさらにつきまとう身の上を思い続けて臥せってしまわれた。 |
とあった。目もくらむほどの美しい字で書かれてある。涙で目が曇って、しまいには何も読めなくなって、苦しい思いの新しく加えられた運命を思い続けた。 | ||||||||||||||||||||
3.4.6 | 翌日、小君をお召しになっていたので、参上しますと言って、お返事を催促する。 |
翌日源氏の所から小君が召された。出かける時に小君は姉に返事をくれと言った。 | ||||||||||||||||||||
3.4.7 | 「このようなお手紙を見るような人はいません、と申し上げなさい」 |
「ああしたお手紙をいただくはずの人がありませんと申し上げればいい」 | ||||||||||||||||||||
3.4.8 | とおっしゃると、にこっと微笑んで、 |
と姉が言った。 | ||||||||||||||||||||
3.4.9 | 「人違いのようにはおっしゃらなかったのに。 どうして、そのように申し上げられましょうか」 |
「まちがわないように言っていらっしったのにそんなお返辞はできない」 | ||||||||||||||||||||
3.4.10 | と言うので、不愉快に思い、すっかりおっしゃられ、知らせてしまったのだ、と思うと、辛く思われること、この上ない。 |
そう言うのから推せば秘密はすっかり弟に打ち明けられたものらしい、こう思うと女は源氏が恨めしくてならない。 | ||||||||||||||||||||
3.4.11 | 「いいえ、ませた口をきくものではありませんよ。 それなら、 |
「そんなことを言うものじゃない。大人の言うようなことを子供が言ってはいげない。お断わりができなければお邸へ行かなければいい」 無理なことを言われて、弟は、 |
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3.4.12 | 「お召しになるのに、どうして」と言って、参上した。 |
「呼びにおよこしになったのですもの、伺わないでは」 と言って、そのまま行った。 |
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3.4.13 | 紀伊守は、好色心をもってこの継母の様子をもったいない人と思って、何かとおもねっているので、この子も大切にして、連れて歩いている。 |
好色な紀伊守はこの継母が父の妻であることを惜しがって、取り入りたい心から小君にも優しくしてつれて歩きもするのだった。 | ||||||||||||||||||||
3.4.14 | 源氏の君は、お召しになって、 |
小君が来たというので源氏は居間へ呼んだ。 | ||||||||||||||||||||
3.4.15 | 「昨日一日中待っていたのに。 やはり、わたしほどには思ってくれないようだね」 |
「昨日も一日おまえを待っていたのに出て来なかったね。私だけがおまえを愛していても、おまえは私に冷淡なんだね」 | ||||||||||||||||||||
3.4.16 | とお恨みになると、顔を赤らめて畏まっている。 |
恨みを言われて、小君は顔を赤くしていた。 | ||||||||||||||||||||
3.4.17 | 「どこに」とおっしゃると、これこれしかじかです、と申し上げるので、 |
「返事はどこ」 小君はありのままに告げるほかに術はなかった。 |
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3.4.18 | 「だめだね。 呆れた」と言って、またもお与えになった。 |
「おまえは姉さんに無カなんだね、返事をくれないなんて」 そう言ったあとで、また源氏から新しい手紙が小君に渡された。 |
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3.4.19 | 「あこは その されど、 さりとも、あこはわが この |
「おまえは知らないのだね。 わたしはあの伊予の老人よりは、先に関係していた人だよ。 けれど、頼りなく弱々しいといって、不恰好な夫をもって、このように馬鹿になさるらしい。 そうであっても、おまえはわたしの子でいてくれよ。 あの頼りにしている人は、どうせ老い先短いでしょう」 |
「おまえは知らないだろうね、伊予の老人よりも私はさきに姉さんの恋人だったのだ。頸の細い貧弱な男だからといって、姉さんはあの不恰好な老人を良人に持って、今だって知らないなどと言って私を軽蔑しているのだ。けれどもおまえは私の子になっておれ。姉さんがたよりにしている人はさきが短いよ」 | |||||||||||||||||||
3.4.20 | とおっしゃると、「そういうこともあったのだろうか、大変なことだな」と思っているのを、「かわいいい」とお思いになる。 |
と源氏がでたらめを言うと、小君はそんなこともあったのか、済まないことをする姉さんだと思う様子をかわいく源氏は思った。 | ||||||||||||||||||||
3.4.21 | この子を連れて歩きなさって、内裏にも連れて参上などなさる。 ご自分の御匣殿にお命じになって、装束なども調達させ、本当に親のように面倒見なさる。 |
小君は始終源氏のそばに置かれて、御所へもいっしょに連れられて行ったりした。源氏は自家の衣裳係に命じて、小君の衣服を新調させたりして、言葉どおり親代わりらしく世話をしていた。 | ||||||||||||||||||||
3.4.22 | されど、この ほのかなりし |
お手紙はいつもある。 けれど、この子もとても幼い、うっかり落としでもしたら、軽々しい浮名まで背負い込む、我が身の風評も相応しくなく思うと、幸せも自分の身分に合ってこそはと思って、心を許したお返事も差し上げない。 ほのかに拝見した感じやご様子は、「本当に、並々の人ではなく素晴らしかった」と、思い出し申さずにはいられないが、「お気持ちにお応え申しても、今さら何になることだろうか」などと、考え直すのであった。 |
女は始終源氏から手紙をもらった。けれども弟は子供であって、不用意に自分の書いた手紙を落とすようなことをしたら、もとから不運な自分がまた正しくもない恋の名を取って泣かねばならないことになるのはあまりに自分がみじめであるという考えが根底になっていて、恋を得るということも、こちらにその人の対象になれる自信のある場合にだけあることで、自分などは光源氏の相手になれる者ではないと思う心から返事をしないのであった。ほのかに見た美しい源氏を思い出さないわけではなかったのである。真実の感情を源氏に知らせてもさて何にもなるものでないと、苦しい反省をみずから強いている女であった。 | |||||||||||||||||||
3.4.23 | 源氏の君は、お忘れになる時の間もなく、心苦しくも恋しくもお思い出しになる。 悩んでいた様子などのいじらしさも、払い除けようもなく思い続けていらっしゃる。 軽々しくひそかに隠れてお立ち寄りなさるのも、人目の多い所で、不都合な振る舞いを見せはしまいかと、相手にも気の毒である、と思案にくれていらっしゃる。 |
源氏はしばらくの間もその人が忘られなかった。気の毒にも思い恋しくも思った。女が自分とした過失に苦しんでいる様子が目から消えない。本能のおもむくままに忍んであいに行くことも、人目の多い家であるからそのことが知れては困ることになる、自分のためにも、女のためにもと思っては煩悶をしていた。 | ||||||||||||||||||||
3.4.24 | 例によって、内裏に何日もいらっしゃるころ、都合のよい方違えの日をお待ちになる。 急に退出なさるふりをして、途中からお越しになった。 |
例のようにまたずっと御所にいた頃、源氏は方角の障りになる日を選んで、御所から来る途中でにわかに気がついたふうをして紀伊守の家へ来た。 | ||||||||||||||||||||
3.4.25 | 紀伊守は驚いて、先日の遣水を光栄に思い、恐縮し喜ぶ。 小君には、昼から、「こうしようと思っている」とお約束なさっていた。 朝に夕に連れ従えていらっしゃったので、今宵も、まっさきにお召しになっていた。 |
紀伊守は驚きながら、 「前栽の水の名誉でございます」 こんな挨拶をしていた。小君の所へは昼のうちからこんな手はずにすると源氏は言ってやってあって、約束ができていたのである。 始終そばへ置いている小君であったから、源氏はさっそく呼び出した。 |
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3.4.26 | 女も、そのようなお手紙があったので、工夫をこらしなさるお気持ちのほどは、浅いものとは思われないが、そうだからといって、気を許して、みっともない様をお見せ申すのも、つまらなく、夢のようにして過ぎてしまった嘆きを、さらにまた味わおうとするのかと、思い乱れて、やはりこうしてお待ち受け申し上げることが気恥ずかしいので、小君が出て行った間に、 |
女のほうへも手紙は行っていた。自身に逢おうとして払われる苦心は女の身にうれしいことではあったが、そうかといって、源氏の言うままになって、自己が何であるかを知らないように恋人として逢う気にはならないのである。夢であったと思うこともできる過失を、また繰り返すことになってはならぬとも思った。妄想で源氏の恋人気どりになって待っていることは自分にできないと女は決めて、小君が源氏の座敷のほうへ出て行くとすぐに、 | ||||||||||||||||||||
3.4.27 | 「とても近いので、気が引けます。 気分が悪いので、こっそりと肩腰を叩かせたりしたいので、少し離れた所でね」 |
「あまりお客様の座敷に近いから失礼な気がする。私は少しからだが苦しくて、腰でもたたいてほしいのだから、遠い所のほうが都合がよい」 | ||||||||||||||||||||
3.4.28 | と言って、渡殿に、中将の君といった者が部屋を持っていた奥まった処に、移ってしまった。 |
と言って、渡殿に持っている中将という女房の部屋へ移って行った。 | ||||||||||||||||||||
3.4.29 | そのつもりで、供人たちを早く寝静まらせて、お便りなさるが、小君は尋ね当てられない。 すべての場所を探し歩いて、渡殿に入りこんで、やっとのことで探し当てた。 ほんとうにあんまりなひどい、と思って、 |
初めから計画的に来た源氏であるから、家従たちを早く寝させて、女へ都合を聞かせに小君をやった。小君に姉の居所がわからなかった。やっと渡殿の部屋を捜しあてて来て、源氏への冷酷な姉の態度を恨んだ。 | ||||||||||||||||||||
3.4.30 | 「どんなにか、役立たずな者と、お思いになるでしょう」と、泣き出してしまいそうに言うと、 |
「こんなことをして、姉さん。どんなに私が無力な子供だと思われるでしょう」 もう泣き出しそうになっている。 |
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3.4.31 | 「かく、けしからぬ あやしと |
「このような、不埒な考えは、持っていいものですか。 子供がこのような事を取り次ぐのは、ひどく悪いことと言うのに」ときつく言って、「『気分がすぐれないので、女房たちを側に置いて揉ませております』とお伝え申し上げなさい。 変だと皆が見るでしょう」 |
「なぜおまえは子供のくせによくない役なんかするの、子供がそんなことを頼まれてするのはとてもいけないことなのだよ」 としかって、 「気分が悪くて、女房たちをそばへ呼んで介抱をしてもらっていますって申せばいいだろう。皆が怪しがりますよ、こんな所へまで来てそんなことを言っていて」 |
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3.4.32 | とつっぱねたが、心中では、「ほんとうに、このように身分の定まってしまった身の上でなく、亡くなった親の御面影の残っている邸にいたままで、たまさかにでもお待ち申し上げるならば、喜んでそうしたいところであるが。 無理にお気持ちを分からないふうを装って無視したのも、どんなにか身の程知らぬ者のようにお思いになるだろう」と、心に決めたものの、胸が痛くて、そうはいってもやはり心が乱れる。 「どっちみち、今はどうにもならない運命なのだから、非常識な気にくわない女で、押しとおそう」と思い諦めた。 |
取りつくしまもないように姉は言うのであったが、心の中では、こんなふうに運命が決まらないころ、父が生きていたころの自分の家へ、たまさかでも源氏を迎えることができたら自分は幸福だったであろう。しいて作るこの冷淡さを、源氏はどんなにわが身知らずの女だとお思いになることだろうと思って、自身の意志でしていることであるが胸が痛いようにさすがに思われた。どうしてもこうしても人妻という束縛は解かれないのであるから、どこまでも冷ややかな態度を押し通して変えまいという気に女はなっていた。 | ||||||||||||||||||||
3.4.33 | とばかりものものたまはず、いたくうめきて、 |
源氏の君は、どのように手筈を調えるかと、まだ小さいので不安に思いながら横になって待っていらっしゃると、不首尾である旨を申し上げるので、驚くほどにも珍しかった強情さなので、「わが身までがまことに恥ずかしくなってしまった」と、とてもお気の毒なご様子である。 しばらくは何もおっしゃらず、ひどく嘆息なさって、辛いとお思いになっていた。 |
源氏はどんなふうに計らってくるだろうと、頼みにする者が少年であることを気がかりに思いながら寝ているところへ、だめであるという報せを小君が持って来た。女のあさましいほどの冷淡さを知って源氏は言った。 「私はもう自分が恥ずかしくってならなくなった」 気の毒なふうであった。それきりしばらくは何も言わない。そして苦しそうに吐息をしてからまた女を恨んだ。 |
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3.4.34 | 「近づけば消えるという帚木のような、 あなたの心も知 |
帚木の心を知らでその原の 道にあやなくまどひぬるかな |
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3.4.35 | 申し上げるすべもありません」 |
今夜のこの心持ちはどう言っていいかわからない、と小君に言ってやった。 | ||||||||||||||||||||
3.4.36 | と詠んで贈られた。 女も、やはり、まどろむこともできなかったので、 |
女もさすがに眠れないで悶えていたのである。それで、 | ||||||||||||||||||||
3.4.37 | 「しがない境遇に生きるわたしは情けのうございますから 見えても触れられない帚木のようにあなたの前から姿を消すのです」 |
数ならぬ伏屋におふる身のうさに あるにもあらず消ゆる帚木 |
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3.4.38 | と |
とお答え申し上げた。 |
という歌を弟に言わせた。 | |||||||||||||||||||
3.4.39 | 小君が、とてもお気の毒に思って眠けを忘れてうろうろと行き来するのを、女房たちが変だと思うだろう、と心配なさる。 |
小君は源氏に同情して、眠がらずに往ったり来たりしているのを、女は人が怪しまないかと気にしていた。 | ||||||||||||||||||||
3.4.40 | 例によって、供人たちは眠りこけているが、お一方はぼうっと白けた感じで思い続けていらっしゃるが、他の女と違った気の強さが、やはり消えるどころかはっきり現れている、と悔しく、こういう女であったから心惹かれたのだと、一方ではお思いになるものの、癪にさわり情けないので、ええいどうともなれとお思いになるが、そうともお諦めきれず、 |
いつものように酔った従者たちはよく眠っていたが、源氏一人はあさましくて寝入れない。普通の女と変わった意志の強さのますます明確になってくる相手が恨めしくて、もうどうでもよいとちょっとの間は思うがすぐにまた恋しさがかえってくる。 | ||||||||||||||||||||
3.4.41 | 「隠れている所に、それでも連れて行け」とおっしゃるが、 |
「どうだろう、隠れている場所へ私をつれて行ってくれないか」 | ||||||||||||||||||||
3.4.42 | 「とてもむさ苦しい所に籠もっていて、女房が大勢いますようなので、恐れ多いことで」 |
「なかなか開きそうにもなく戸じまりがされていますし、女房もたくさんおります。そんな所へ、もったいないことだと思います」 | ||||||||||||||||||||
3.4.43 | と申し上げる。 気の毒にと思っていた。 |
と小君が言った。源氏が気の毒でたまらないと小君は思っていた。 | ||||||||||||||||||||
3.4.44 | 「それでは、おまえだけは、わたしを裏切るでないぞ」 |
「じゃあもういい。おまえだけでも私を愛してくれ」 | ||||||||||||||||||||
3.4.45 | とおっしゃって、お側に寝かせなさった。 お若く優しいご様子を、嬉しく素晴らしいと思っているので、あの薄情な女よりも、かえってかわいく思われなさったということである。 |
と言って、源氏は小君をそばに寝させた。若い美しい源氏の君の横に寝ていることが子供心に非常にうれしいらしいので、この少年のほうが無情な恋人よりもかわいいと源氏は思った。 | ||||||||||||||||||||
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