設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
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この帖の主な登場人物 | |||
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登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
光る源氏 | ひかるげんじ | 源氏の大臣 |
三十六歳 |
夕霧 | ゆうぎり | 中将 源中将 |
光る源氏の長男 |
玉鬘 | たまかづら | 対の姫君 姫君 女君 女 |
内大臣の娘 |
第二十六帖 常夏 光る源氏の太政大臣時代三十六歳の盛夏の物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
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第一章 玉鬘の物語 養父と養女の禁忌の恋物語 |
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第一段 六条院釣殿の納涼 |
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1.1.1 | いと |
たいそう暑い日、東の釣殿にお出になって涼みなさる。 中将の君も伺候していらっしゃる。 親しい殿上人も大勢伺候して、西川から献上した鮎、近い川のいしぶしのような魚、御前で調理して差し上げる。 いつもの大殿の公達、中将のおいでになる所を尋ねて参上なさった。 |
炎暑の日に源氏は東の |
【いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて】- 源氏三十六歳夏のある日。六条院南の町(春の町)の東の釣殿。 【中将の君もさぶらひたまふ】- 夕霧をいう。 【西川よりたてまつれる】- 桂川をさす。 【近き川の】- 中川(京極川)や鴨川をさす。 【例の大殿の君達】- 内大臣のご子息たち、柏木らをさす。 |
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1.1.2 | 「退屈で眠たかったところだが、ちょうどよい時にいらっしゃったな」 |
「寂しく退屈な気がして眠かった時によくおいでになった」 |
【さうざうしく】- 以下「折よくものしたまへるかな」まで、源氏の詞。 |
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1.1.3 | とて、 |
とおっしゃって、御酒を召し上がり、氷水をお取り寄せになって、水飯などを、それぞれにぎやかに召し上がる。 |
と源氏は言って酒を勧めた。氷の水、 |
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1.1.4 | 風はたいそう気持ちよく吹くが、日は長くて曇りない空が、西日になるころ、蝉の声などもたいそう苦しそうに聞こえるので、 |
風はよく吹き通すのであるが、晴れた空が西日になるころには |
【蝉の声などもいと苦しげに】- かはむしは声も耐へぬに蝉の羽のいとうすき身も苦しげに鳴く(河海抄所引-花山院集)(text26.html 出典1から転載) |
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1.1.5 | 「水のほとりも役に立たない今日の暑さだね。 失礼は許していただけようか」 |
「水の上の価値が少しもわからない暑さだ。私はこんなふうにして失礼する」 |
【水の上無徳なる】- 以下「許されなむや」まで、源氏の詞。「れ」尊敬の助動詞。「な」完了の助動詞、確述の意。推量の助動詞「む」。係助詞「や」疑問の意。 |
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1.1.6 | とて、 |
とおっしゃって、物に寄りかかって横におなりになった。 |
源氏はこう言って |
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1.1.7 | 「とてもこんな暑い時は、管弦の遊びなどもおもしろくなく、とはいえ、何もしないのもつらいことだ。 宮仕えしている若い人々にはつらいことだろうよ。 帯も解かないではね。 せめてここではくつろいで、最近世間に起こったことで、少し珍しく、眠気の覚めるようなことを、話してお聞かせください。 何となく年寄じみた心地がして、世間のことも疎くなったのでね」 |
「こんなころは音楽を聞こうという気にもならないし、さてまた退屈だし、困りますね。お勤めに出る人たちはたまらないでしょうね。帯も |
【いとかかるころは】- 以下「おぼつかなしや」まで、源氏の詞。 【堪へがたからむな。帯も解かぬほどよ】- 大島本は「たへかたからむな越ひもとかぬほとよ」とある。他の青表紙本諸本は「たえかたからむなおひひもとかぬ程は」(横)-「たえかたからんおひゝもとかぬほとよ」(為)-「たえかたからんなおひゝもとかぬほとよ」(池三)-「たへかたからむなをしひもゝとかぬほとよ」(佐)-「たえかたからんなをしひもとかぬ程よ」(肖)とある。『集成』は「堪へがたからむな。帯紐解かぬ程よ」と校訂。「帯・紐」は横山本・為家本・池田本・三条西家本、「帯」は大島本のみ、「直衣・紐」は佐々木本・肖柏本そして書陵部本である。河内本は「たえかたからむかしなをひゝもゝとかぬ」とある。 |
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1.1.8 | などのたまへど、 |
などとおっしゃるが、珍しい事と言って、ちょっと申し上げるような話も思いつかないので、恐縮しているようで、皆たいそう涼しい高欄に、背中を寄り掛けながら座っていらっしゃる。 |
などと源氏は言うが、新しい事実として話し出すような問題もなくて、皆かしこまったふうで、涼しい高欄に背を押しつけたまま黙っていた。 |
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第二段 近江君の噂 |
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1.2.1 | 「どうして聞いたことか、大臣が外腹の娘を捜し出して、大切になさっていると話してくれた人がいたので、本当ですか」 |
「どうしてだれが私に言ったことかも覚えていないのだが、あなたのほうの大臣がこのごろほかでお生まれになったお嬢さんを引き取って大事がっておいでになるということを聞きましたがほんとうですか」 |
【いかで聞きしことぞや】- 以下「ありしかばまことや」まで、源氏の詞。 【まねぶ人ありしかば】- 大島本は「あ(△&あ)りしかハ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「ありしは」と「か」を削除する。 |
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1.2.2 | と、 |
と、弁少将にお尋ねになると、 |
と源氏は |
【弁少将に】- 内大臣の次男、柏木(中将)の弟。 |
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1.2.3 | 「ことことしく、さまで この げに、このころ かやうのことにぞ、 |
「仰々しく、そんなに言うほどのことではございませんでしたが。 今年の春のころ、夢をお話をなさったところ、ちらっと人伝てに聞いた女が、『自分には聞いてもらうべき子細がある』と、名乗り出ましたのを、中将の朝臣が耳にして、『本当にそのように言ってよい証拠があるのか』と、尋ねてやりました。 詳しい事情は、知ることができません。 おっしゃるように、最近珍しい噂話に、世間の人々もしているようでございます。 このようなことは、父にとって、自然と家の不面目となることでございます」 |
「そんなふうに世間でたいそうに申されるようなことでもございません。この春大臣が夢占いをさせましたことが |
【ことことしく、さまで】- 以下「家損なるわざにはべりけれ」まで、弁少将の詞。 【夢語りしたまひけるを】- 内大臣が見た夢の話をしたところの意。 【中将の朝臣なむ聞きつけて】- 弁少将の兄、柏木をいう。源氏の前なので「中将の朝臣」という呼び方をする。 【かやうのことにぞ】- 大島本は「ことにそ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「ことにこそ」と校訂する。下文に「はべりけれ」(已然形)とあるので、係助詞「こそ」が適切。 |
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1.2.4 | と 「まことなりけり」と |
と申し上げる。 「やはり本当だったのだ」とお思いになって、 |
少将の答えがこうであったから、ほんとうのことだったと源氏は思った。 |
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1.2.5 | 「いと いとともしきに、さやうならむもののくさはひ、 さても、もて らうがはしくとかく |
「たいそう大勢の子たちなのに、列から離れたような後れた雁を、無理にお捜しになるのが、欲張りなのだ。 とても子どもが少ないのに、そのようなかしずき種を、見つけ出したいが、名乗り出るのも嫌な所と思っているのでしょう、まったく聞きません。 それにしても、 無関係の娘ではあるまい。やたらあちらこちらと忍び歩きをなさっていたらしいうちに、底が清く澄んでいない水に宿る月は、曇らないようなこ |
「たくさんな |
【いと多かめる列に】- 以下「いかでかあらむ」まで、源氏の詞。「類よりもひとり離れて飛ぶ雁の友に後るる我が身悲しも」(曽丹集、四三一)を踏まえる。 【いとともしきに】- 源氏、自分自身には子の少ないことをいう。 【見出でまほしけれど】- 大島本は「みてまほしけれと」とある。「見出で」の「い」脱字とみて補訂する。 【底清く澄まぬ水にやどる月は、曇りなきやうのいかでかあらむ】- 打消の助動詞「ぬ」は「清し」と「澄む」の両語を打消す。身分の低い女の腹にすぐれた子は生まれないという喩え。 |
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1.2.6 | と、ほほ笑んでおっしゃる。 中将君も、詳しくお聞きになっていることなので、とても真面目な顔はできない。 少将と藤侍従とは、とてもつらいと思っていた。 |
と源氏は微笑しながら言っていた。子息の左中将も真相をくわしく聞いていることであったからこれも笑いを |
【詳しく聞きたまふことなれば】- 大島本は「きゝ給ふこと」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「聞きたまへること」と校訂する。 |
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1.2.7 | 「朝臣よ。せめてそのような落し胤でももらったらどうだね。 体裁の悪い評判を残すよりは、同じ姉妹と結婚して我慢するが、何の悪いことがあろうか」 |
「ねえ |
【朝臣や】- 以下「なでふことかあらむ」まで、源氏の詞。 【さやうの落葉をだに拾へ】- 内大臣の落胤の娘をもらったらどうだ、の意。内大臣家の子息が聞いている前での発言なので、相手方への皮肉となる。 【同じかざしにて】- 「わが宿と頼む吉野に君し入らば同じかざしをさしてこそはせめ」(後撰集恋四、八〇九、伊勢)。 |
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1.2.8 | と、おからかいになるようである。 このようなこととなると、表面はたいそう仲の良いお二方が、やはり昔からそれでもしっくりしないところがあるのであった。 その上、中将をひどく恥ずかしい目にあわせて、嘆かせていらっしゃるつらさを腹に据えかねて、「悔しいとでも、人伝てに聞きなさったらよい」と、お思いになるのだった。 |
子息をからかうような調子で父の源氏は言うのであった。内大臣と源氏は大体は仲のよい親友なのであるが、ずっと以前から性格の相違が原因になったわずかな感情の隔たりはあったし、このごろはまた中将を |
【かやうのことにてぞ】- 『完訳』は「以下、語り手の言辞」と注す。 【なまねたしとも】- 主語は内大臣。 |
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1.2.9 | このようにお聞きになるにつけても、 |
【かく聞きたまふにつけても】- 源氏が内大臣の落胤の噂を聞くにつけても、の意。 |
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1.2.10 | 「 いとものきらきらしく、かひあるところつきたまへる おぼえぬさまにて、この いときびしくもてなしてむ」など |
「対の姫君を見せたような時、また軽々しく扱われるようなことはあるまい。 たいそうはっきりとしていて、けじめをつけるところがある人で、善悪の区別も、はっきりと誉めたり、また貶しめ軽んじたりすることも、人一倍の大臣なので、どんなに腹立たしく思うであろう。 予想もしない形で、この対の姫君を見せたらば、軽く扱うことはできまい。 まこと油断なくお世話しよう」などとお思いになる。 |
新しい娘を迎えて失望している大臣の |
【対の姫君を】- 以下「もてなしてむ」まで、源氏の心中。 【もてなされなむはや】- 連語「はや」反語表現。 【いとものきらきらしく、かひあるところつきたまへる人にて】- 内大臣の性格。『集成』は「万事はっきりしていて打てば響くようなところがおありになる方なので」。『完訳』は「まったく万事にきちんと折目正しく、根性がおありの人で」と訳す。 【え軽くは思さじ】- 『集成』は「(養育の恩を)おろそかにはお考えになれまい、ずいぶんありがたく思うような態度に出てやろう」と訳す。 |
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第三段 源氏、玉鬘を訪う |
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1.3.1 | 夕方らしくなって吹く風、たいそう涼しくて、帰るのももの憂く若い人々は思っていた。 |
夕べに移るころの風が涼しくて、若い公子たちは皆ここを立ち去りがたく思うふうである。 |
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1.3.2 | 「気楽にくつろいで涼んではどうか。 だんだんこのような若い人々の中で、嫌われる年になってしまったなあ」 |
「気楽に涼んで行ったらいいでしょう。私もとうとう青年たちからけむたがられる年になった」 |
【心やすくうち休み】- 以下「齢にもなりにけりや」まで、源氏の詞。 【涼まむや】- 推量の助動詞「む」勧誘の意。間投助詞「や」呼び掛けの意。 【なりにけりや】- 過去の助動詞「けり」詠嘆の意。間投助詞「や」詠嘆の意。 |
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1.3.3 | とて、 |
と言って、西の対にお渡りになるので、公達、皆お送りにお供なさる。 |
こう言って、源氏は近い西の対を |
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1.3.4 | 黄昏時の薄暗い時に、同じ直衣姿なので、誰とも区別がつかないので、大臣は姫君に、 |
日の暮れ時のほの暗い光線の中では、同じような |
【何ともわきまへられぬに】- 接続助詞「に」順接の意。 |
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1.3.5 | 「もう少し外へお出になりなさい」 |
「少し外のよく見える所まで来てごらんなさい」 |
【すこし外出でたまへ】- 源氏の詞。 |
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1.3.6 | とて、 |
と言って、こっそりと、 |
と言って、従えて来た青年たちのいる方をのぞかせた。 |
【忍びて】- 玉鬘に向かってこっそりとささやく。 |
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1.3.7 | 「少将や、侍従などを連れて参りました。 ひどく飛んで来たいほどに思っていたのを、中将が、まこと真面目一方の人なので、連れて来なかったのは、思いやりがないようでした。 |
「少将や侍従をつれて来ましたよ。ここへは走り寄りたいほどの好奇心を持つ青年たちなのだが、中将がきまじめ過ぎてつれて来ないのですよ。同情のないことですよ。 |
【少将、侍従など率てまうで来たり】- 以下「心ちしける」まで、源氏の詞。 【中将の、いと実法の人にて】- 夕霧をさす。 |
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1.3.8 | この なほなほしき かたがたものすめれど、さすがに |
この人々は、皆気がないでもない。 つまらない身分の女でさえ、深窓に養われている間は、身分相応に気を引かれるものらしいから、わが家の評判は内幕のくだくだしい割には、たいそう実際以上に、大げさに言ったり思ったりしているようです。 他にも女性方々がいらっしゃるのですが、やはり男性が恋をしかけるには相応しくない。 |
この青年たちはあなたに対して無関心な者が一人もないでしょう。つまらない家の者でも娘でいる間は若い男にとって好奇心の対象になるものだからね。私の家というものを実質以上にだれも買いかぶっているのですからね、しかも若い連中は六条院の夫人たちを恋の対象にして空想に陶酔するようなことはできないことだったのが、あなたという人ができたから皆の注意はあなたに集まることになったのです。 |
【窓の内なるほどは】- 深窓に養われる未婚時代。「養はれて深閨(深窓)に在り人未だ識らず」(白氏文集・長恨歌)。 【この家のおぼえ】- 『完訳』は「「--だに」の文脈を受ける。まして、六条院への世間の思惑は」と注す。 【かたがたものすめれど】- 推量の助動詞「めり」婉曲の意。『集成』は「源氏の夫人たちは、年長けて、若い貴公子の相手にはふさわしくないという」。『完訳』は「六条院の女君たち。秋好は現在の中宮、明石の姫君は将来の后と目され、恋の相手たりえない」と注す。 |
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1.3.9 | こうしていらっしゃるのは、何とかそのような男性の気持ちの、深さ浅さを見たいなどと、退屈のあまり願っていたのだが、望みの叶う気がしました」 |
そうした求婚者の真実の深さ浅さというようなものを、第三者になって観察するのはおもしろいことだろうと、退屈なあまりに以前からそんなことがあればいいと思っていたのがようやく時期が来たわけです」 |
【かくてものしたまふは】- 玉鬘が六条院にいることをさす。 |
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1.3.10 | など、ささめきつつ |
などと、ひそひそと申し上げなさる。 |
などと源氏はささやいていた。 |
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1.3.11 | お庭先には、雑多な前栽などは植えさせなさらず、撫子の花を美しく整えた、唐撫子、大和撫子の、垣をたいそうやさしい感じに造って、その咲き乱れている夕映え、たいそう美しく見える。 皆、立ち寄って、思いのままに手折ることができないのを、残念に思って佇んでいる。 |
この前の庭には各種類の草花を混ぜて植えるようなことはせずに、美しい色をした |
【唐の、大和の、籬いとなつかしく結ひなして、咲き乱れたる夕ばえ】- 『完訳』は「唐の、大和のと、とりどりに垣根をじつに上品に作って咲き乱れているのが夕明りのなかに浮き立って見えるのは」と訳す。 【心のままにも折り取らぬを、飽かず思ひつつやすらふ】- 主語は少将や侍従たち。「折り取らぬ」は不可能の意を表す。『集成』は「撫子を玉鬘に見立て、思うままにわがものとできないのをくやしく思っていることを暗示する」と注す。 |
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1.3.12 | 「教養のある人たちだな。 心づかいなども、それぞれに立派なものだ。 右の中将は、さらにもう少し落ち着いていて、こちらが恥ずかしくなる感じがします。 どうですか、お便り申して来ますか。 体裁悪く、突き放しなさいますな」 |
「りっぱな青年官吏ばかりですよ。様子にもとりなしにも欠点は少ない。今日は見えないが右中将は年かさだけあってまた優雅さが格別ですよ。どうです、あれからのちも手紙を送ってよこしますか。 |
【有職どもなりな】- 以下「なさし放ちたまひそ」まで、源氏の詞。玉鬘に話しかけたもの。 【右の中将は、まして】- 柏木は、弟の少将や侍従らよりもの意。 【いかにぞや】- 大島本は「いかにそ(そ+や<朱>)」とある。すなわち朱筆で「や」を補入する。『新大系』は底本の補訂に従う。『集成』『古典セレクション』は諸本と底本の訂正以前本文に従って「いかにぞ」と校訂する。 【おとづれ聞こゆや】- 柏木が玉鬘に手紙をよこしているか、の意。 |
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1.3.13 | などのたまふ。 |
などとおっしゃる。 |
などとも源氏は言った。 |
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1.3.14 | 中将君は、この優れた人たちの中でも、際立って優美でいらっしゃった。 |
すぐれたこの公子たちの中でも源中将は目だって |
【中将の君は、かくよきなかに】- 夕霧をさす。 |
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1.3.15 | 「中将をお嫌いなさるとは、内大臣は困ったものだ。 ご一族ばかりで繁栄している中で、皇孫の血筋を引くので、見にくいとでもいうのか」 |
「中将をきらうことは内大臣として意を得ないことですよ。御自分が尊貴であればあの子も同じ |
【中将を厭ひたまふこそ】- 以下「かたくななりとにや」まで、源氏の詞。内大臣への皮肉の言。 【かたくななりとにや】- 『集成』は「旧式だとでもお思いなのだろうか」。『完訳』は「みっともないというのでしょうか」と訳す。 |
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1.3.16 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と源氏が言った。 |
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1.3.17 | 「来てくだされば、という人もございましたものを」 |
「来まさば(おほきみ来ませ婿にせん)というような人もあすこにはあるのではございませんか」 |
【来まさば、といふ人もはべりけるを】- 玉鬘の詞。源氏の「大君だつ」を受けて、催馬楽「我家」の「--大君来ませ、婿にせむ--」を踏まえて応える。『集成』「夕霧の方から事を進めれば、内大臣も喜んで婿として迎えるだろうにと、内大臣をとりなしていう」と注す。 |
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1.3.18 | と |
と申し上げなさる。 |
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1.3.19 | 「いや、そんな大事に持てなされることは望んでいません。 ただ、幼い者同士が契り合った胸の思いが晴れないまま、長い年月、仲を裂いていらっしゃった大臣のやりかたがひどいのです。 まだ身分が低い、外聞が悪いとお思いならば、知らない顔で、こちらに任せて下されたとしても、何の心配がありましょうか」 |
「いや、何も婿に取られたいのではありませんがね。若い二人が作った夢をこわしたままにして幾年も置いておかれるのは残酷だと思うのです。まだ官位が低くて世間体がよろしくないと思われるのだったら、公然のことにはしないで私へお嬢さんを託しておかれるという形式だっていいじゃないのですか。私が責任を持てばいいはずだと思うのだが」 |
【いで、その御肴】- 以下「ありなましや」まで、源氏の詞。同じく催馬楽「我家」の「--御肴に、何よけむ--」を踏まえて言う。 【心も解けず、年月、隔てたまふ心むけの】- 「隔て」は年月を隔てる意と仲を隔てる意とが掛けられている。「心むけ」は内大臣の心向け。幼恋の仲がさかれて三年を経過。 【ここに任せたまへらむに】- 「ここ」は源氏をさす。「ら」完了の助動詞、完了の意。「む」推量の助動詞、仮定の意。 【ありなましや】- 「な」完了の助動詞、確述。「まし」推量の助動詞、反実仮想。「や」間投助詞、反語の意。 |
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1.3.20 | などと、不平をおっしゃる。 「では、このようなお心のしっくりいってないお間柄だったのだわ」とお聞きになるにつけても、親に知っていただけるのがいつか分からないのは、しみじみと悲しく胸の塞がる思いがなさる。 |
源氏は |
【さは、かかる御心の隔てある御仲なりけり】- 玉鬘の心中。 |
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第四段 源氏、玉鬘と和琴について語る |
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1.4.1 | 月もないころなので、燈籠に明りを入れた。 |
月がないころであったから |
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1.4.2 | 「やはり、近すぎて暑苦しいな。 篝火がよいなあ」 |
「灯が近すぎて暑苦しい、これよりは |
【なほ、気近くて暑かはしや。篝火こそよけれ】- 源氏の詞。 |
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1.4.3 | とて、 |
とおっしゃって、人を呼んで、 |
と言って、 |
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1.4.4 | 「篝火の台を一つ、こちらに」 |
「篝を一つこの庭で |
【篝火の台一つ、こなたに】- 源氏の詞。 |
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1.4.5 | とお取り寄せになる。 美しい和琴があるのを、引き寄せなさって、掻き鳴らしなさると、律の調子にたいそうよく整えられていた。 音色もとてもよく出るので、少しお弾きになって、 |
と源氏は命じた。よい |
【律にいとよく調べられたり】- 玉鬘が調絃した。 |
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1.4.6 | 「かやうのことは ことことしき |
「このようなことはお好きでない方面かと、今まで大したことはないとお思い申していました。 秋の夜の、月の光が涼しいころ、奥深い所ではなくて、虫の声に合わせて弾いたりするのには、親しみのあるはなやかな感じのする楽器です。 改まった演奏は、役割がしっかりと決まりませんね。 |
「こんなほうのことには趣味を持っていられないのかと、失礼な推測をしてましたよ。秋の涼しい月夜などに、虫の声に合わせるほどの気持ちでこれの弾かれるのははなやかでいいものです。これはもったいらしく弾く性質の楽器ではないのですが、不思議な楽器で、すべての楽器の基調になる音を持っている物はこれなのですよ。 |
【かやうのことは】- 以下「響きのぼれ」まで、源氏の詞。『完訳』は「田舎育ちを見くびったが、調絃から意外な趣味を知った」と注す。源氏の和琴論。 |
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1.4.7 | この楽器は、そのままで多くの楽器の音色や、調子を備えているところが優れた点です。 大和琴と言って一見大したことのないように見えながら、極めて精巧に作られているものです。 広く外国の学芸を習わない女性のための楽器と思われます。 |
簡単にやまと琴という名をつけられながら無限の深味のあるものなのですね。ほかの楽器の扱いにくい女の人のために作られた物の気がします。 |
【このものよ】- 和琴をさす。 【さながら多くの遊び物の音、拍子を調へとりたるなむいとかしこき】- 『集成』は「そっくり多くの楽器の音色や拍子をきちんと演奏できるのが大したものです」と訳す。この物語の「大和魂」の思想に通じる。 【広く異国のことを知らぬ女のためとなむおぼゆる】- 『完訳』は「このあたり、渡来の文物の優秀さを前提にしながらも、日本古来の捨てがたい価値を称揚。和琴をその典型とする」と注す。一般に唐来物を最上、高麗物を次善とし、国産のものは低く見ている。 |
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1.4.8 | 同じ習うなら、気をつけて他の楽器に合わせてお習いなさい。 難しい手と言っても、特にあるわけではありませんが、また本当に弾きこなすことは難しいのでしょうか、現在では、あの内大臣に並ぶ人はいません。 |
おやりになるのならほかの物に合わせて熱心に練習なさい。むずかしいことがないような物で、さてこれに妙技を現わすということはむずかしいといったような楽器です。現在では内大臣が第一の名手です。 |
【深き心とて】- 『集成』は「深遠な奥義といったものは」。『完訳』は「高度の演奏技術といっても」と訳す。 |
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1.4.9 | ただはかなき |
ただちょっとした同じ菅掻き一つの音色に、あらゆる楽器の音色が、含まれていて、何とも形容のしようがないほど、響き渡るのです」 |
ただ |
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1.4.10 | とご説明なさると、多少会得していて、ぜひともさらに上手になりたいとお思いのことなので、もっと聞きたくて、 |
と源氏は言った。玉鬘もそのことはかねてから聞いて知っていた。どうかして父の大臣の |
【いかでと思すことなれば】- 「いかで」の下には「勝らむ」などの語句が省略。 |
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1.4.11 | 「このわたりにて、さりぬべき あやしき さは、すぐれたるは、さまことにやはべらむ」 |
「こちらで、適当な管弦のお遊びがあります折などに、聞くことができましょうか。 賤しい田舎者の中でも、習う者が大勢おりますと言うことですから、総じて気楽に弾けるものかと存じておりました。 では、お上手な方は、まるで違っているのでしょうか」 |
「こちらにおりまして、音楽のお遊びがございます時などに聞くことができますでしょうか。 |
【このわたりにて】- 以下「さまことにやはべらむ」まで、玉鬘の詞。 【さりぬべき御遊びの折など】- 大島本は「おりなと」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「をりなどに」と「に」を補訂する。 【聞きはべりなむや】- 内大臣の演奏をさす。「な」完了の助動詞。「む」推量の助動詞。「や」係助詞、疑問の意。 【さまことにやはべらむ】- 係助詞「や」疑問の意。推量の助動詞「む」、推量の意。軽い疑問の意。 |
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1.4.12 | と、ゆかしげに、 |
と、さも聞きたそうに、熱心に気を入れていらっしゃるので、 |
玉鬘は熱心なふうに尋ねた。 |
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1.4.13 | 「そうです。 東琴と言って名前は低そうに聞こえますが、御前での管弦の御遊にも、まず第一に書司をお召しになるのは、異国はいざ知らず、わが国では和琴を楽器の第一としたのでしょう。 |
「そうですよ。あずま琴などとも言ってね、その名前だけでも |
【さかし】- 以下「聞きたまひてむかし」まで、源氏の詞。 【人の国は知らず、ここには】- 異国と日本を比較。 【ものの親としたるにこそあめれ】- 『集成』は「和琴を一番大切なものとしているからでしょう」。『完訳』は「これを第一番の楽器としているためなのでしょう」と訳す。 |
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1.4.14 | そのなかにも、 ここになども、さるべからむ ものの |
そうした中でも、その第一人者である父親から直接習い取ったら、格別でしょう。 こちらにも、何かの機会にはおいでになるだろうが、和琴に、秘手を惜しまず、隠さず演奏するようなことはめったにないでしょう。 物の名人は、どの道の人でも気安くは手の内を見せないもののようです。 |
つまりあらゆる楽器の親にこれがされているわけです。 |
【親としつべき御手より弾き取りたまへらむは、心ことなりなむかし】- 『集成』は「第一人者というべき内大臣のご演奏からじかに学び取られたら、すばらしいことでしょう」と訳す。 【ことやかたからむ】- 間投助詞「や」詠嘆。 【いづれの道も心やすからずのみぞあめる】- 『集成』「どの道の人もむやみに重々しく振舞うようです」。『完訳』は「どの道の人でもそう気軽に手の内を見せるということはないもののようです」と訳す。 |
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1.4.15 | さりとも、つひには |
とは言っても、いずれはお聞きになれることでしょう」 |
しかしあなたはいつか聞けますよ」 |
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1.4.16 | とて、 ことつひいと 「これにもまされる |
とおっしゃって、楽曲を少しお弾きになる。 和琴を弾く姿はとても素晴らしく、はなやかで趣がある。 「これよりも優れた音色が出るのだろうか」と、親にお会いしたい気持ちが加わって、和琴のことにつけてまでも、「いつになったら、こんなふうにくつろいでお弾きになるところを聞くことができるのだろうか」などと、思っていらっしゃった。 |
こう言いながら源氏は少し弾いた。はなやかな音であった。これ以上な音が父には出るのであろうかと |
【ことつひいと二なく】- 「ことつひ」は語義未詳。『集成』は「和琴を弾く姿とも、琴さき(爪)ともいう」。『完訳』は「弾奏する姿の意か」と注す。 【これにもまされる音や出づらむ】- 玉鬘の心中。係助詞「や」疑問、推量の助動詞「む」連体形、係結び。 【いかならむ世に、さてうちとけ弾きたまはむを聞かむ】- 玉鬘の心中。 |
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1.4.17 | 「貫河の瀬々の柔らかな手枕」と、たいそう優しくお謡いになる。 「親が遠ざける夫」というところは、少しお笑いになりながら、ことさらにでもなくお弾きになる菅掻きの音、何とも言いようがなく美しく聞こえる。 |
「 |
【貫河の瀬々のやはらた】- 催馬楽「貫河」の歌詞の一節。 【親避くるつま】- この語句も催馬楽「貫河」の歌詞の一節。 |
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1.4.18 | 「さあ、お弾きなさい。 芸事は人前を恥ずかしがっていてはいけません。 「想夫恋」だけは、心中に秘めて、弾かない人があったようだが、遠慮なく、誰彼となく合奏したほうがよいのです」 |
「さあ弾いてごらんなさい。芸事は人に恥じていては進歩しないものですよ。『 |
【いで、弾きたまへ】- 以下「合はせつるなむよき」まで、源氏の詞。 |
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1.4.19 | と、しきりにお勧めになるが、あの辺鄙な田舎で、何やら京人と名乗った皇孫筋の老女がお教え申したので、誤りもあろうかと遠慮して、手をお触れにならない。 |
源氏は玉鬘の弾くことを熱心に勧めるのであったが、九州の田舎で、京の人であることを |
【ほのかに京人と名のりける】- 『集成』は「何かにかこつけて都人だと自称していた」。『完訳』は「何やら京生れと名のっていた」と訳す。 【古大君女教へきこえければ】- 大島本は「ふるおほきミ女」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「古大君女の」と「の」を補訂する。 |
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1.4.20 | 「少しの間でもお弾きになってほしい。 覚えることができるかも知れない」と聞きたくてたまらず、この和琴の事のために、お側近くにいざり寄って、 |
源氏が弾くのを少し長く聞いていれば得る所があるであろう、少しでも多く弾いてほしいと思う玉鬘であった。いつとなく源氏のほうへ |
【しばしも弾きたまはなむ。聞き取ることもや】- 玉鬘の心中。終助詞「なむ」願望の意。「もや」連語、下に「あらむ」連体形などの語句が省略。源氏にもう少し和琴を弾いていてほしい、と思う。 【この御琴により】- 「こと」は「事」と「琴」の掛詞。 【近くゐざり寄りて】- 主語は玉鬘。 |
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1.4.21 | 「どのような風が吹き加わって、このような素晴らしい響きが出るのかしら」 |
「不思議な風が出てきて琴の |
【いかなる風の吹き添ひて、かくは響きはべるぞとよ】- 玉鬘の詞。「琴の音に峯の松風かよふらしいづれの緒よりしらべそめけむ」(拾遺集雑上、四五一、斎宮女御)を踏まえる。 |
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1.4.22 | とて、うち |
と言って、耳を傾けていらっしゃる様子、燈の光に映えてたいそうかわいらしげである。 お笑いになって、 |
と首を傾けている玉鬘の様子が |
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1.4.23 | 「耳聰いあなたのためには、身にしむ風も吹き加わるのでしょう」 |
「熱心に聞いていてくれない人には、外から身にしむ風も吹いてくるでしょう」 |
【耳固からぬ人の】- 以下「風も吹き添ふかし」まで、源氏の詞。 【身にしむ風も】- 「秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ」(詞花集秋、一〇九、和泉式部)。琴の音色は聴きわけるのにわたしの言うことは理解してくれない、という皮肉の意をこめる。 |
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1.4.24 | と言って、和琴を押しやりなさる。 何とも迷惑なことである。 |
と言って、源氏は和琴を押しやってしまった。玉鬘は失望に似たようなものを覚えた。 |
【いと心やまし】- 『集成』は「玉鬘の思いがそのまま地の文に重なる書き方」。『完訳』は「玉鬘の心情に即した地の文」と注す。 |
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第五段 源氏、玉鬘と和歌を唱和 |
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1.5.1 | 女房たちが近くに伺候しているので、いつもの冗談も申し上げなさらずに、 |
女房たちが近い所に来ているので、例のような |
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1.5.2 | 「撫子を十分に鑑賞もせずに、あの人たちは立ち去ってしまったな。 何とかして、内大臣にも、この花園をお見せ申したいものだ。 人の命はいつまでも続くものでないと思うと、昔も、何かの時にお話しになったことが、まるで昨日今日のことのように思われます」 |
「 |
【撫子を飽かでも】- 以下「ことぞおぼゆる」まで、源氏の詞。 【語り出でたまへりしも】- 内大臣が玉鬘のことを。「帚木」巻の雨夜の品定めの段をさす。 |
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1.5.3 | とて、すこしのたまひ |
とおっしゃって、少しお口になさったのにつけても、たいそう感慨無量である。 |
源氏はその時の大臣の言葉を思い出して語った。玉鬘は悲しい気持ちになっていた。 |
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1.5.4 | 「撫子の花の色のようにいつ見ても美しいあなたを見ると 母親の行く方を内大臣は尋ねられることだろうな |
「なでしこの もとの |
【撫子のとこなつかしき色を見ば--もとの垣根を人や尋ねむ】- 源氏から玉鬘への贈歌。「とこなつかしき」と「常夏」(撫子の別名)の掛詞。「もとの垣根」は母夕顔をさす。 |
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1.5.5 | このことが厄介に思われるので、引き籠められているのをお気の毒に思い申しています」 |
私にはあなたのお母さんのことで、やましい点があって、それでつい報告してあげることが遅れてしまうのです」 |
【このことのわづらはしさに】- 以下「思ひきこゆる」まで、歌に続けた源氏の詞。「このこと」は内大臣が夕顔の行方を詮索すること。 【繭ごもりも心苦しう】- 「たらちねの親の飼ふ蚕の繭ごもりいぶせくもあるか妹に逢はずて」(拾遺集恋四、八九五、人麿)を踏まえる。 |
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1.5.6 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 姫君は、ちょっと涙を流して、 |
と源氏は言った。玉鬘は泣いて、 |
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1.5.7 | 「山家の賤しい垣根に生えた撫子のような わたしの母親など誰が尋ねたりしましょうか」 |
山がつの もとの根ざしをたれか尋ねん |
【山賤の垣ほに生ひし撫子の--もとの根ざしを誰れか尋ねむ】- 玉鬘の返歌。「撫子」「尋ね」の言葉を引用し、「人や尋ねむ」を「誰か尋ねむ」と返す。「あな恋し今も見てしか山がつの垣ほに咲ける大和撫子」(古今集恋四、六九五、読人しらず)を踏まえる。 |
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1.5.8 | と人数にも入らないように謙遜してお答え申し上げなさった様子は、なるほどたいそう優しく若々しい感じである。 |
とはかないふうに言ってしまう様子が若々しくなつかしいものに思われた。 |
【げにいとなつかしく】- 「げに」は語り手が源氏の「とこなつかしき」と言った言葉を受けたもの。 |
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1.5.9 | 「 |
「もし来なかったならば」 |
源氏の心はますますこの人へ |
【来ざらましかば】- 源氏の詞。「うち誦じたまひて」とあるので、引歌があるらしいが、未詳。 |
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1.5.10 | とうち |
とお口ずさみになって、ひとしお募るお心は、苦しいまでに、やはり我慢しきれなくお思いになる。 |
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第六段 源氏、玉鬘への恋慕に苦悩 |
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1.6.1 | ただこの |
お渡りになることも、あまり度重なって、女房が不審にお思い申しそうな時は、気が咎め自制なさって、しかるべきご用を作り出して、お手紙の通わない時はない。 ただこのお事だけがいつもお心に掛かっていた。 |
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1.6.2 | 「なぞ、かくあいなきわざをして、やすからぬもの さ 「さて、その わが |
「どうして、このような不相応な恋をして、心の休まらない物思いをするのだろう。 そんな苦しい物思いはするまいとして、心の赴くままにしたら、世間の人の非難を受ける軽々しさを、自分への悪評はそれはそれとして、この姫君のためにもお気の毒なことだろう。 際限もなく愛しているからと言っても、春の上のご寵愛に並ぶほどには、わが心ながらありえまい」と思っていらっしゃった。 「さて、そうしたわけで、それ以下の待遇では、どれほどのことがあろうか。 自分だけは、誰よりも立派だが、世話する女君が大勢いる中で、あくせくするような末席にいたのでは、何の大したことがあろう。 格別大したこともない大納言くらいの身分で、ただ姫君一人を妻とするのには、きっと及ばないことだろう」 |
なぜよけいなことをし始めて物思いを自分はするのであろう、 |
【なぞ、かくあいなきわざをして】- 以下「えあるまじく」まで、源氏の心中。【集成】は「以下、源氏の、あれこれの場合を想定しての心中の悩みを書く」。『完訳』は「以下、「あるまじく」まで、源氏の自制的な心語」と注す。 【さ思はじとて、心のままにもあらば】- 「さ」は苦しい思い、「心のまま」は玉鬘を自分の妻妾の一人にすることをさす。 【春の上の御おぼえに】- 「春の上」は紫の上、源氏の心中文中の呼称に注意。 【えあるまじく】- 連用中止法。心中文から地の文に続く表現。 【さて、その劣りの列にては】- 以下「劣りぬべきことぞ」まで、源氏の心中。花散里や明石御方などの劣った妻妾と同待遇をさす。 【何ばかりかはあらむ】- 「かは--む」反語表現。『集成』は「大した幸福とはいえない」と訳す。 【わが身ひとつこそ、人よりは異なれ】- 源氏は太政大臣の地位にあることをさす。「こそ--なれ」係結び、逆接用法。 |
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1.6.3 | と、ご自身お分りなので、たいそうお気の毒で、「いっそ、兵部卿宮か、大将などに許してしまおうか。 そうして自分も離れ、姫君も連れて行かれたら、諦めもつくだろうか。 言っても始まらないことだが、そうもしてみようか」とお思いになる時もある。 |
平凡な納言級の人の唯一の妻になるよりも決して女のために幸福でないと源氏は知っているのであったから、しいて情人にするのが哀れで、 |
【宮、大将などにや】- 以下「さもしてむ」まで、源氏の心中。 【さてもて離れ、いざなひ取りては】- 『集成』は「結婚してすっかり自分とは無関係に、(宮や大将が)自分の家に連れて行ってしまったなら、執着も絶えようか」。『完訳』は「そして自分とは縁が切れて、その人たちが引き取るというのだったら」と訳す。 |
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1.6.4 | されど、 |
しかし、お渡りになって、ご器量を御覧になり、今ではお琴をお教え申し上げなさることまで口実にして、近くに常に寄り添っていらっしゃる。 |
しかもまた西の対へ行って美しい玉鬘を見たり、このごろは琴を教えてもいたので、以前よりも近々と寄ったりしては決心していたことが |
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1.6.5 | 姫君も、初めのうちこそ気味悪く嫌だとお思いであったが、「このようになさっても、穏やかなので、心配なお気持ちはないのだ」と、だんだん馴れてきて、そうひどくお嫌い申されず、何かの折のお返事も、親し過ぎない程度に取り交わし申し上げなどして、御覧になるにしたがってとても可愛らしさが増し、はなやかな美しさがお加わりになるので、やはり結婚させてすませられないとお思い返しなさる。 |
玉鬘もこうしたふうに源氏が扱い始めたころは、恐ろしい気もし、反感を持ったが、それ以上のことはなくて、やはり信頼のできそうなのに安心して、しいて源氏の |
【姫君も、初めこそ】- 「思ひたまひしか」に係る係結び、逆接用法。 【かくても、なだらかに、うしろめたき御心はあらざりけり】- 玉鬘の心中。「かくてもなだらかに」は『集成』は「こんなにおっしゃりながらも、人目に立つようなことはなさらないで」、『完訳』は「こうしていらっしゃっても、無体なことはなさらずおとなしくしておられるので」と訳す。 【なほさてもえ過ぐしやるまじく】- 『集成』は「やはりおめおめ結婚させられないと」。『完訳』は「やはりそのまではとても過せそうもない」と訳す。 |
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1.6.6 | 「さはまた、さて、ここながらかしづき かくまだ |
「それならばまた、結婚させて、ここに置いたまま大切にお世話して、適当な折々に、こっそりと会い、お話申して心を慰めることにしようか。 このようにまだ結婚していないうちに、口説くことは面倒で、お気の毒であるが、自然と夫が手強くとも、男女の情が分るようになり、こちらがかわいそうだと思う気持ちがなくて、熱心に口説いたならば、いくら人目が多くても差し障りはあるまい」とお考えになる、実にけしからぬ考えである。 |
それでは今のままに自分の手もとへ置いて結婚をさせることにしよう、そして自分の恋人にもしておこう、処女である点が自分に |
【さはまた、さて、ここながら】- 以下「障はらじかし」まで、源氏の心中。 【かくまだ世馴れぬほどの、わづらはしさにこそ、心苦しくはありけれ】- 「こそ--けれ」係結び、逆接用法。『集成』は「今のように、まだ男を知らぬ娘心を靡かせようとあれこれ気を遣って策を弄するのは、(玉鬘に対して)気の毒だけれど」。『完訳』は「こうして姫君がまだ男女の情を知らないうちに手出しするのは面倒だし、またかわいそうに思えるけれども」と訳す。 【関守強くとも】- 「関守」は玉鬘の夫をさす。「人知れぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ」(古今集恋三、六三二、業平朝臣・伊勢物語五段)。 【ものの心知りそめ】- 主語は玉鬘。玉鬘が男女の情を知るようになる。 【いとほしき思ひなくて】- 源氏側の思い。『集成』は「こちら(源氏)も、仮にも娘分をと、ひるむ気持がなくて」。『完訳』は「「心のままにも--いとほしかるべし」に照応。女が夫ある身なら不憫さも感じまい、とする」「こちらでもいたわしく思う気がねがなくなるわけだし」と注す。 【思ひ入りなば、しげくとも障はらじかし】- 「筑波山端山繁山しげけれど思ひ入るには障らざりけり」(新古今集恋一、一〇一三、源重之・重之集)を踏まえる。 【いとけしからぬことなりや】- 『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の源氏への批評」と注す。 |
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1.6.7 | ますます気が気でなくなり、なお恋し続けるというのもつらいことであろう。 ほどほどに思い諦めることが、何かにつけてできそうにないのが、世にも珍しく厄介なお二人の仲なのであった。 |
それを実行した暁にはいよいよ深い |
【いよいよ心やすからず】- 『完訳』は「源氏の心に即した語り手の言辞」と注す。 【思ひわたらむ苦しからむ】- 大島本は「思ひわたらむ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「思ひわたらむも」と「も」を補訂する。 【なのめに思ひ過ぐさむことの】- 玉鬘をほどほどに諦めることの意。 |
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第七段 玉鬘の噂 |
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1.7.1 | 内の大殿は、この新しい姫君のことを、「お邸の人々も姫として認めず、軽んじた批評をし、世間でも馬鹿げたことと非難申している」と、お聞きになると、少将が、何かの機会に、太政大臣が「本当のことか」とお尋ねになったことを、お話し申し上げると、 |
内大臣が娘だと名のって出た女を、直ちに自邸へ引き取った処置について、家族も |
【この今の御女のことを】- 近江君をさす。 【殿の人も許さず】- 以下「誹りきこゆ」まで、内大臣の耳に入ってくる内容。 【さることや」ととぶらひたまひしこと】- 大島本は「さることやとふらひ給し事」とある。『集成』は「さることやと問ひたまひし」と校訂する。『新大系』『古典セレクション』は諸本に従って「さることやととぶらひたまひし」と「と」を補訂する。 |
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1.7.2 | 「さかし。 そこにこそは、 をさをさ これぞ、おぼえある |
「いかにも。 あちらでこそ、長年、噂にも立たなかった賤しい娘を迎え取って、大切にしているのだ。 めったに人の悪口をおっしゃらない大臣が、わたしの家のことは、聞き耳を立てて悪口をおっしゃるよ。 それで、面目を施して晴れがましい気がする」 |
「そうだ、あすこにも今まで |
【さかし。そこにこそは】- 以下「おぼえある心地しける」まで、内大臣の詞。 【これぞ、おぼえある心地しける】- 『集成』は「それで、面目を施した気がする。源氏がとかく関心を持ってくれるので晴れがましい、と言う。源氏に突っかかるようなとげとげしいもの言い」。『完訳』は「負け惜しみからの皮肉である」と注す。 |
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1.7.3 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 少将が、 |
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1.7.4 | 「あの西の対にお置きになっていらっしゃる姫君は、たいそう申し分ない方だそうでございます。 兵部卿宮などが、たいそうご熱心に苦心して求婚なさっていらっしゃるとか。 けっして並大抵の姫君ではあるまいと、世間の人々が推量しているようでございます」 |
「あちらの西の対の姫君はあまり欠点もない人らしゅうございます。 |
【かの西の対に据ゑたまへる人は】- 以下「推し量りはべめる」まで、内大臣の次男の少将の詞。六条院夏の町の玉鬘をさしていう。「据ゑたまへる」の主語は源氏。 |
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1.7.5 | と |
と、お申し上げになると、 |
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1.7.6 | 「さあ、それは、あの大臣の御姫君と思う程度の評判の高さだ。 人の心は、皆そういうもののようだ。 必ずしもそんなに優れてはいないだろう。 人並みの身分であったら、今までに評判になっていよう。 |
「さあそれがね、源氏の大臣の令嬢である点でだけありがたく思われるのだよ。世間の人心というものは皆それなのだ。必ずしも優秀な姫君ではなかろう。相当な母親から生まれた人であれば以前から人が聞いているはずだよ。 |
【いで、それは】- 以下「もてないたまふならむ」まで、内大臣の詞。 【人びとしきほどならば、年ごろ聞こえなまし】- 「ならば--まし」反実仮想の構文。『完訳』は「もしひとかどのお人なのだったら、これまでにも評判が立っていただろうに」と訳す。 |
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1.7.7 | 惜しいことに、大臣が、何一つ欠点もなく、この世では過ぎた方でいらっしゃるご信望やご様子でありながら、れっきとした奥方の腹に、姫君を大切にお世話して、なるほど申し分あるまいと察せられる素晴らしい方がいらっしゃらないとは。 |
円満な幸福を持っていられる方だが、りっぱな夫人から生まれた令嬢が一人もないのを思うと、 |
【おもだたしき腹に】- 正妻の紫の上に実子のないことをいう。 【ものしたまはぬは】- 下に「惜しい」などの語句が省略。余意・余情表現。 |
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1.7.8 | だいたい子供の数が少なくて、きっと心細いことだろうよ。 妾腹であるが、明石の御許が生んだ娘は、あの通りまたとない運命に恵まれて、将来にきっと頼もしかろうと思われる。 |
だいたい子供が少ないたちなんだね。劣り腹といって |
【おほかたの、子の少なくて】- 大島本は「おほかたのこのすくなくて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「おほかた子の少なくて」と「の」を削除する。 【明石の御許の】- 内大臣の詞文中の明石の君の呼称のされ方。 【あるやうあらむとおぼゆかし】- 『完訳』は「きっとこれからさき相当なところに落ち着く人なのだろうと、気にもならずにはいられない」と訳す。源氏の一人娘として、きっと入内するであろう、という予測。 |
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1.7.9 | あの新しい姫君は、ひょっとしたら、実の姫君ではあるまいよ。 何といっても一癖も二癖もある方だから、大事にしていらっしゃるのだろう」 |
新しい令嬢はどうかすれば、それは実子でないかもしれない。そんな常識で考えられないようなこともあの人はされるのだよ」 |
【今姫君は】- 玉鬘をさす。 【いとけしきあるところつきたまへる人にて】- 源氏をさしていう。 |
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1.7.10 | と、 |
と、悪口をおっしゃる。 |
と内大臣は |
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1.7.11 | 「ところで、どのようにお決めになったのか。 親王がうまく靡かせて自分のものになさるだろう。 もともと格別にお仲がよいし、人物もご立派で婿君に相応しい間柄であろうよ」 |
「それにしても、だれが婿に決まるのだろう。兵部卿の宮の御熱心が結局勝利を占められることになるのだろう。もとから特別にお仲がいいのだし、大臣の趣味とよく一致した風流人だからね」 |
【さて、いかが定めらるなる】- 以下「御あはひともならむかし」まで、内大臣の詞。「らる」受身の助動詞、「なる」伝聞推定の助動詞。 |
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1.7.12 | などとおっしゃっては、やはり、姫君のことが、残念でたまらない。 「あのように、勿体らしく扱って、どういうふうになさる気かなどと、やきもきさせてやりたかったものを」と癪なので、位が相当になったと見えない限りは、結婚を許せないようにお思いになるのであった。 |
と言ったあとに大臣は |
【姫君の御こと】- 雲居雁をさす。 【かやうに、心にくくもてなして】- 以下「いぶかしがらせましものを」まで、内大臣の心中。「かやうに」とは源氏が玉鬘を大事にするように、の意。 【いかにしなさむ】- 世間の人の噂を想定。 【いぶかしがらせましものを】- 「まし」反実仮想の助動詞。 【位さばかりと】- 夕霧の官位をさす。 |
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1.7.13 | 大臣などが、丁重に口添えして覆しなさるなら、それに負けたようにして承認しようと思うが、男君の方は、一向に焦りもなさらないので、おもしろからぬことであった。 |
源氏がその問題の中へはいって来て懇請することがあれば、やむをえず負けた形式で同意をしようという大臣の腹であったが、中将のほうでは少しも |
【大臣なども】- 以下「負くるやうにてもなびかめ」まで、内大臣の心中に即した叙述。「大臣」は源氏をさす。 【男方は】- 夕霧をさす。 【心やましくなむ】- 『集成』は「内大臣の気持をそのまま記したもの」と注す。 |
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第八段 内大臣、雲井雁を訪う |
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1.8.1 | あれこれとご思案なさりながら、前ぶれもなく気軽にお渡りになった。 少将もお供しておいでになる。 |
こんなことをいろいろと考えていた大臣は突然行って見たい気になって雲井の雁の居間を |
【とかく思しめぐらすままに】- 主語は内大臣。 【ゆくりもなく軽らかにはひ渡りたまへり】- 雲居雁の部屋を訪れる。 |
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1.8.2 | 姫君は、お昼寝をなさっているところである。 羅の一重をお召しになって臥せっていらっしゃる様子、暑苦しくは見えず、とてもかわいらしく小柄な身体つきである。 透けて見える肌つきなどは、とてもかわいらしい手つきして、扇をお持ちになったまま、腕を枕にして、投げ出されたお髪の具合、そう大して長く多いというのではないが、たいそう美しい裾の様子である。 |
雲井の雁はちょうど昼寝をしていた。薄物の |
【姫君は、昼寝したまへるほどなり】- 雲居雁は昼寝の最中。 【羅の単衣を着たまひて臥したまへるさま】- 羅の単衣。上半身は透けて見える。国宝源氏物語絵巻「夕霧」の雲居雁の装束がそれである。 |
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1.8.3 | 女房たちは物蔭で横になって休んでいたので、すぐにはお目覚めにならない。 扇をお鳴らしになると、何気なく見上げなさった目つき、かわいらしげで、顔が赤くなっているのも、親の目にはかわいく見えるばかりである。 |
女房たちも |
【人びとものの後に寄り臥しつつ】- 女房たちは屏風や几帳の物陰にいる。 【ふともおどろいたまはず】- 主語は雲居雁。女房たちが起こさないから。 【扇を鳴らしたまへるに】- 主語は内大臣。 |
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1.8.4 | 「うたた寝はいけないと注意申していたのに。 どうして、ひどく無用心な恰好で寝ていらっしゃったのか。 女房たちも近く伺候させないで、どうしたことか。 |
「うたた寝はいけないことだのに、なぜこんなふうな寝方をしてましたか。女房なども近くに付いていないでけしからんことだ。 |
【うたた寝はいさめきこゆるものを】- 以下「いとゆかしけれ」まで、内大臣の詞。「たらちねの親のいさめしうたた寝は物思ふ時のわざにぞありける」(拾遺集恋四、八九七、読人しらず)を踏まえる。 |
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1.8.5 | 女性は、身を常に注意して守っているのがよいのです。 気を許して無造作なふうにしているのは、品のないことです。 |
女というものは始終自身を |
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1.8.6 | さりとて、いとさかしく うつつの |
そうかといって、ひどく利口そうに身を堅くして、不動尊の陀羅尼を読んで、印を結んでいるようなのも憎らしい。 日頃接する人にあまりよそよそしく、遠慮がすぎるのなども、上品なようなこととはいっても、小憎らしくて、かわいらしげのないことです。 |
賢そうに不動の |
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1.8.7 | 太政大臣が、お后候補の姫君にしつけていらっしゃる教育は、何事でも一通りは心得ていて偏らず、特別目立つ特技もつけず、また不案内でうろうろすることもないようにと、余裕あるふうにとお考え置いていらっしゃるという。 |
太政大臣が未来のお |
【太政大臣の、后がねの姫君】- 源氏の明石姫君。将来は皇后にという教育。 【よろづのことに通はしなだらめて、かどかどしきゆゑもつけじ】- 広く一通りの教養を身につけ、かたよった特技というのは身につけない方針。 |
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1.8.8 | なるほど、もっともなことですが、人というものは、考えにも行動にも、特に好き好む方面はどうしてもあるものだから、ご成長なさった後に特徴も現れるでしょう。 あの姫君が一人前になって、入内させなさる時の様子が、とても見たいものだ」 |
それはもっともなことだが、人間にはそれぞれの天分があるし、特に好きなこともあるのだから、何かの特色が自然出てくることだろうと思われる。 |
【この君の人となり】- 明石姫君をさす。「この」は今話題にしているという近称の指示代名詞。内大臣の姫君をさすのではない。 【宮仕へに出だし立てたまはむ世の】- 主語は源氏。 |
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1.8.9 | などのたまひて、 |
などとおっしゃって、 |
などと大臣は娘に言っていたが、 |
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1.8.10 | 「思い通りにお世話申そうと思っていた方面は、難しくなってしまったお身の上だが、何とか世間の物笑いにならないようにして差し上げようと、他人の身の上をあれこれと聞くたびに、心配しております。 |
「あなたをこうしてあげたいといろいろ思っていたことは空想になってしまったが、私はそれでもあなたを世間から笑われる人にはしたくないと、よその人のいろいろの話を聞くごとにあなたのことを思って |
【思ふやうに見たてまつらむと】- 以下「思ふさまはべり」まで、内大臣の詞。内大臣が雲居雁を東宮に入内させようと思っていたことをさす(少女巻)。 【人の上のさまざまなるを】- 世間一般の女性の身の上をさす。 |
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1.8.11 | 試しにとばかり熱心なふりをする男の言葉を、ここしばらくはお聞き入れになってはいけません。 考えていることがございます」 |
ためそうとするだけで、表面的な好意を寄せるような男に動揺させられるようなことがあってはいけませんよ。私は一つの考えがあるのだから」 |
【ねぎごとに】- 「ねぎごとをさのみ聞きけむ社こそ果てはなげきの森となるらめ」(古今集誹諧歌、一〇五五、讃岐)。夕霧の訴えをさす。 |
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1.8.12 | など、いとらうたしと |
などと、たいそうかわいく思いながら申し上げなさる。 |
ともかわいく思いながら |
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1.8.13 | 「昔は、どのようなことも深くも考えないで、かえって、あの当座のつらい思いをした騒動にも、平気な顔をして父君にお会い申していたことよ」と、今になって思い出すと、胸が塞がってひどく、恥ずかしい。 |
昔は何も深く考えることができずに、あの騒ぎのあった時も恥知らずに平気で父に対していたと思い出すだけでも胸がふさがるように雲井の雁は思った。 |
【昔は、何ごとも】- 以下「見えたてまつりけるよ」まで、雲居雁の心中。「昔」は三条宮邸にいたころをさす。 【なかなか】- 「おもなくて」に係る。 【いとほしかりしことの騒ぎにも】- 『集成』は「目も当てられなかった事件の時にも」。『完訳』は「夕霧に不憫なことをした、かつての騷ぎ」と注す。 |
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1.8.14 | 大宮からも、いつも会えないことをお恨み申されるが、このようにおっしゃるのに遠慮されて、お出かけになってお目に掛かることがおできになれない。 |
大宮の所からは始終 |
【かくのたまふるがつつましくて】- 大島本は「の給ふるか」とある。「のたまふ」は四段活用の動詞。連体形「のたまふる」は誤用法だが、今底本のままとする。父内大臣のおっしゃることに雲居雁は遠慮されて、の文意。 【え渡り見たてまつりたまはず】- 雲居雁が三条宮邸に行き大宮にお目にかかることができない。 |
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第二章 近江君の物語 娘の処遇に苦慮する内大臣の物語 |
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第一段 内大臣、近江君の処遇に苦慮 |
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2.1.1 | 大臣は、この北の対の今姫君を、 |
大臣は北の対に住ませてある令嬢を |
【大臣、この北の対の今姫君を】- 大島本は「いま姫君」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「今君」と「姫」を削除する。内大臣、近江の君の処遇に苦慮する。近江の君が「北の対」にいることが注意される。 |
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2.1.2 | 「どうしたものか。 よけいなことをして迎え取って。 世間の人がこのように悪口を言うからといって、送り返したりするのも、まことに軽率で、気違いじみたことのようだ。 こうして置いているので、本当に大切にお世話する気があるのかと、他人が噂するのも癪だ。 女御の御方などに宮仕えさせて、そうした笑い者にしてしまおう。 女房たちがたいそう不細工だとけなしているらしい容貌も、そんなに言われるほどのものではない」 |
どうすればよいか、よけいなことをして引き取ったあとで、また人が |
【いかにせむ】- 以下「さ言ふばかりにやはある」まで、内大臣の心中。 【さかしらに】- 『集成』は「独り合点で」。『完訳』は「あらずもがなのことをして」と訳す。 【籠めおきたれば】- 邸の奥に置いているので。已然形+「ば」順接条件。 【女御の御方などに】- 内大臣の娘弘徽殿女御。 【さるをこのものにしないてむ】- 『完訳』は「内大臣は、自分の不見識を難じられぬよう、近江の君を道化者にすべく迎えたと装う」と注す。 【人の】- 女房をさす。 【言ひおとすなる】- 「なり」伝聞推定の助動詞。 【やはある】- 反語表現。そう大してひどくもない、の意。 |
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2.1.3 | など |
などとお思いになって、女御の君に、 |
と思って、大臣は女御に、 |
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2.1.4 | 「あの人を出仕させましょう。 見ていられないようなことなどは、老いぼれた女房などをして、遠慮なく教えさせなさってお使いなさい。 若い女房たちの噂の種になるような、笑い者にはなさらないでください。 それではあまりに軽率のようだ」 |
「あの娘をあなたの所へよこすことにしよう。悪いことは年のいった女房などに遠慮なく |
【かの人参らせむ】- 以下「あはつけきやうなり」まで、内大臣の詞。 【つつまず言ひ教へさせたまひて御覧ぜよ】- 『集成』は「びしびし叱って教育させなさってお使い下さい」。『完訳』は「遠慮なくお言い聞かせになって面倒を見ていただきたい」と訳す。 【な笑はせさせたまひそ】- 大島本は「なわらはせさせ給ふそ」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「な笑はせさせたまひそ」と校訂する。 |
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2.1.5 | と、 |
と、笑いながら申し上げなさる。 |
と笑いながら言った。 |
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2.1.6 | 「どうして、そんなひどいことがございましょう。 中将などが、たいそうまたとなく素晴らしいと吹聴したらしい前触れに及ばないというだけございましょう。 このようにお騒ぎになるので、きまり悪くお思いになるにつけ、一つには気後れしているのでございましょう」 |
「だれがどう言いましても、そんなつまらない人ではきっとないと思います。中将の兄様などの非常な期待に添わなかったというだけでしょう。こちらへ来ましてからいろんな取り沙汰などをされて、一つはそれでのぼせて |
【などか、いとさことのほかにははべらむ】- 以下「かかやかしきにや」まで、弘徽殿女御の詞。「などか--はべらむ」反語表現。 【中将などの】- 柏木をさす。 【かね言に足らず】- 大島本は「かねことにたらすと」とある。『集成』『新大系』は底本のままとする。『古典セレクション』は諸本に従って「かね言にたへず」と校訂する。 【かくのたまひ騒ぐを、はしたなう思はるるにも】- 「のたまひ騒ぐ」の主語は内大臣。「はしたなう思はるる」の主語は近江の君。「るる」は軽い尊敬の助動詞。 【かたへはかかやかしきにや】- 『集成』は「一つには面映ゆいのではないでしょうか。それで気後れしてつい失敗が多いのではないか、と取りなす」と注す。 |
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2.1.7 | と、いと この |
と、たいそうこちらが気恥ずかしくなるような面持ちで申し上げなさる。 この女御のご様子は、何もかも整っていて美しいというのではなくて、たいそう上品で澄ましていらっしゃるが、やさしさがあって、美しい梅の花が咲き初めた朝のような感じがして、おっしゃりたいことも差し控えて微笑んでいらっしゃるのが、人とは違う、と拝見なさる。 |
と女御は |
【いと恥づかしげにて聞こえさせたまふ】- 『完訳』は「父を圧倒するほどの正論で」と訳す。 【をかしげさはなくて】- 接続助詞「て」弱い逆接の意。 【あてに澄みたるものの】- 接続助詞「ものの」弱い逆接の意。 【おもしろき梅の花の開けさしたる朝ぼらけ】- 弘徽殿女御の美貌の譬喩。「匂はねどほほゑむ梅の花をこそ我もをかしと折りてながむれ」(曽丹集、二六)。 【ほほ笑みたまへるぞ、人に異なりける、と見たてまつりたまふ】- 地の文がいつしか内大臣の心中文となって、引用句「と見たてまつりたまふ」と表現される。 |
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2.1.8 | 「中将が、何といっても、思慮が足りなく調査が不十分だったので」 |
「しかしなんといっても中将の無経験がさせた失敗だ」 |
【中将の、いとさ言へど、心若きたどり少なさに】- 内大臣の詞。『集成』は「一人前だとはいっても、まだ世間知らずでよく考えもせずに」。『完訳』は「賢いとはいえ、思慮が足りず、調査が周到でなかったので。内大臣は柏木に責任を転嫁」と注す。 |
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2.1.9 | などと申し上げなさるが、お気の毒なお扱いであることよ。 |
などとも父に言われている新令嬢は気の毒である。 |
【いとほしげなる人の御おぼえかな】- 『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の、近江の君への同情」と注す。 |
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第二段 内大臣、近江君を訪う |
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2.2.1 | そのまま、この女御の御方を訪ねたついでに、ぶらぶらお歩きになって、お覗きになると、簾を高く押し出して、五節の君といって、気の利いた若い女房がいるのと、双六を打っていらっしゃる。 手をしきりに揉んで、 |
大臣は女房を |
【やがて、この御方のたよりに】- 弘徽殿女御は里下がりして、現在、寝殿にいる。そこから、内大臣は北の対の近江の君のもとを訪れようとする。 【簾高くおし張りて】- 『集成』は「簾を外に大きく張り出して。身体ごと簾を押し出すのであろう。つつしみのない端居のさま」と注す。 |
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2.2.2 | 「小賽、小賽」 |
「しょうさい、しょうさい」 |
【せうさい、せうさい】- 近江の君の詞。『古典セレクション』は「小賽、小賽」と表記する。 |
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2.2.3 | と祈る声は、とても早口であるよ。 「ああ、情ない」とお思いになって、お供の人が先払いするのをも、手で制しなさって、やはり、妻戸の細い隙間から、襖の開いているところをお覗き込みなさる。 |
と両手をすりすり |
【いと舌疾きや。「あな、うたて】- 「いと舌疾きや」は語り手の感想。「あなうたて」は内大臣の心中。また、全体が内大臣の心中とも考えらえる文章表現。 |
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2.2.4 | この従姉妹も、同じく、興奮していて、 |
五節も |
【この従姉妹も】- 五節の君をさす。 |
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2.2.5 | 「お返しよ、お返しよ」 |
「御返報しますよ。御返報しますよ」 |
【御返しや、御返しや】- 五節の君の詞。 |
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2.2.6 | と、筒をひねり回して、なかなか振り出さない。 心中に思っていることはあるのかも知れないが、たいそう軽薄な振舞をしている。 |
賽の筒を手でひねりながらすぐには撒こうとしない。 |
【とみに打ち出でず】- 大島本は「とみに」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「とみにも」と「も」を補訂する。 【中に思ひはありやすらむ】- 語り手の推測、挿入句。「さざれ石の中に思ひはありながらうち出づることのかたくもあるかな」(紫明抄所引、出典未詳)を踏まえる。 |
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2.2.7 | 器量は親しみやすく、かわいらしい様子をしていて、髪は立派で、欠点はあまりなさそうだが、額がひどく狭いのと、声の上っ調子なのとで台なしになっているようである。 取り立てて良いというのではないが、他人だと抗弁することもできず、鏡に映る顔が似ていらっしゃるので、まったく運命が恨めしく思われる。 |
姫君の容貌は、ちょっと人好きのする |
【そこなはれたるなめり】- 連語「なめり」断定の助動詞+推量の助動詞、語り手の主観的推量のニュアンス。 【異人とあらがふべくもあらず】- 『完訳』は「自分(内大臣)と近江の君とが、他人であるとは思われない意」と注す。 【鏡に思ひあはせられたまふに】- 主語は内大臣。 【いと宿世心づきなし】- 『集成』は「内大臣の思いをそのまま地の文にした書き方」と注す。 |
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2.2.8 | 「こうしていらっしゃるのは、落ち着かず馴染めないのではありませんか。 大変に忙しいばかりで、お訪ねできませんが」 |
「こちらで暮らすようになって、あなたに何か気に入らないことがありますか。つい忙しくて |
【かくてものしたまふは】- 以下「訪らひまうでずや」まで、内大臣の詞。 【訪らひまうでずや】- 内大臣が近江の君を。「や」間投助詞、詠嘆。 |
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2.2.9 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、例によって、とても早口で、 |
と大臣が言うと、例の調子で新令嬢は言う。 |
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2.2.10 | 「こうして伺候しておりますのは、何の心配がございましょうか。 長年、どんなお方かとお会いしたいとお思い申し上げておりましたお顔を、常に拝見できないのだけが、よい手を打たぬ時のようなじれったい気が致します」 |
「こうしていられますことに何の不足があるものでございますか。長い間お目にかかりたいと念がけておりましたお顔を、始終拝見できませんことだけは成功したものとは思われませんが」 |
【かくてさぶらふは】- 以下「心地しはべれ」まで、近江の君の詞。 【何のもの思ひかはべらむ】- 反語表現。 【手打たぬ心地しはべれ】- 『集成』は「まるでよい手を打たぬ時のような(焦れったい)気がいたします。「手打つ」は、双六で、巧みな手を打つこと」と注す。 |
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2.2.11 | と |
とお申し上げになさる。 |
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2.2.12 | 「げに、 なべての それだに、その まして」 |
「なるほど、身近に使う人もあまりいないので、側に置いていつも拝見していようと、以前は思っていましたが、そうもできかねることでした。 普通の宮仕人であれば、どうあろうとも、自然と立ち混じって、誰の目にも耳にも、必ずしもつかないものですから、安心していられましょう。 それであってさえ、誰それの娘、何がしの子と知られる身分となると、親兄弟の面目を潰す例が多いようだ。 ましてや」 |
「そうだ、私もそばで手足の代わりに使う者もあまりないのだから、あなたが来たらそんな用でもしてもらおうかと思っていたが、やはりそうはいかないものだからね。ただの女房たちというものは、多少の身分の高下はあっても、皆いっしょに用事をしていては目だたずに済んで気安いものなのだが、それでもだれの娘、だれの子ということが知られているほどの身の上の者は、親兄弟の名誉を傷つけるようなことも自然起こってきておもしろくないものだろうが、まして」 |
【げに、身に近く使ふ人も】- 以下「まして」まで、内大臣の詞。「身に近くさぶらふ人」とは、内大臣の身辺をさしていう。 【さやうにても見ならしたてまつらむと】- 『集成』は「内大臣づきの女房役にするつもりだった、と言う」と注す。 【えさしもあるまじきわざなりけり】- 実の娘ゆえにそのようにもできかねる、という意。 【それだに】- 「それ」は「なべての仕うまつり人」をさす。『集成』は「その場合でも、誰それの娘、何がしの子と、名の通った家の生れとなると、親兄弟の面目を潰すような者が多いようだ。娘が至らぬ場合、名家の出身ほで家門の恥になる。家風を云々されるからである」と注す。 【まして】- 下に、内大臣家の娘とあっては、の意が省略。 |
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2.2.13 | と言いかけてお止めになった、そのご立派さも分からず、 |
言いさして話をやめた父の自尊心などに令嬢は |
【恥づかしきも知らず】- 大島本は「はつかしきもしらす」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「見知らず」と「見」を補訂する。 |
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2.2.14 | 「いえいえ、それは、大層に思いなさって宮仕え致しましたら、窮屈でしょう。 大御大壷の係なりともお仕え致しましょう」 |
「いいえ、かまいませんとも、令嬢だなどと |
【何か、そは】- 以下「仕うまつりなむ」まで、近江の君の詞。 【ことことしく思ひたまひて】- 大島本は「おもひ給ひて」とある。『古典セレクション』は底本のままとする。『集成』『新大系』は諸本に従って「思ひたまへて」と校訂する。本来「思ひたまへて」と謙譲表現であるべきところ。底本のままとする |
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2.2.15 | と |
とお答え申し上げるので、お堪えになることができず、ついお笑いになって、 |
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2.2.16 | 「似つかわしくない役のようだ。 このようにたまに会える親に孝行する気持ちがあるならば、その物をおっしゃる声を、少しゆっくりにしてお聞かせ下さい。 そうすれば、 |
「それはあまりに不似合いな役でしょう。たまたま巡り合った親に孝行をしてくれる心があれば、その物言いを少し静かにして聞かせてください。それができれば私の命も延びるだろう」 |
【似つかはしからぬ役ななり】- 以下「延びなむかし」まで、内大臣の詞。連語「ななり」断定の助動詞+伝聞推定の助動詞。 |
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2.2.17 | と、おどけたところのある大臣なので、苦笑しながらおっしゃる。 |
道化たことを言うのも好きな大臣は笑いながら言っていた。 |
【ほほ笑みてのたまふ】- 大島本は「ほゝゑミてのまふ」とある。大島本は「のたまふ」の「た」脱字とみて「た」を補訂する。 |
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第三段 近江君の性情 |
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2.3.1 | 「舌の生まれつきなのでございましょう。 子供でした時でさえ、亡くなった母君がいつも嫌がって注意しておりました。 妙法寺の別当の大徳が、産屋に詰めておりましたので、それにあやかってしまったと嘆いていらっしゃいました。 何とかしてこの早口は直しましょう」 |
「私の舌の性質がそうなんですね。小さい時にも母が心配しましてよく訓戒されました。妙法寺の別当の坊様が私の生まれる時 |
【舌の本性にこそははべらめ】- 以下「いかでこの舌疾さやめはべらむ」まで、近江の君の詞。 【妙法寺の別当大徳】- 妙法寺(近江国神崎郡高屋郷にあった寺)の別当大徳。 【あえものとなむ】- 別当大徳のあやかり者という意。その大徳は早口であったらしい。 |
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2.3.2 | と大変だと思っているのも、たいそう孝行心が深く、けなげだとお思いになる。 |
むきになってこう言うのを聞いても孝心はある娘であると大臣は思った。 |
【いと孝養の心深く】- 『集成』は「内大臣の言葉の真意を解せず、素直に応じる近江の君をややからかった言い方」と注す。 |
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2.3.3 | 「その、側近くまで入り込んだ大徳こそ、困ったものです。 ただその人の前世で犯した罪の報いなのでしょう。 唖とどもりは、法華経を悪く言った罪の中にも、数えているよ」 |
「 |
【その、気近く】- 以下「数へたるかし」まで、内大臣の詞。 【報いななり】- 連語「ななり」断定の助動詞+伝聞推定の助動詞。 【唖、言吃とぞ、大乗誹りたる罪】- 「若し人と為ることを得れば、聾盲おんあにして、貧窮諸衰、以自ら荘厳し、(中略)斯の経を謗るが故に、罪を獲ること是くの如し」(法華経、譬喩品)。 |
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2.3.4 | とのたまひて、「 いかに |
とおっしゃって、「わが子ながらも気の引けるほどの御方に、お目に掛けるのは気が引ける。 どのよう考えて、こんな変な人を調べもせずに迎え取ったのだろう」とお思いになって、「女房たちが次々と見ては言い触らすだろう」と、考え直しなさるが、 |
と大臣は言っていたが、子ながらも |
【子ながら恥づかしくおはする御さまに】- 以下「迎へ寄せけむ」まで、内大臣の心中。弘徽殿女御をさしていう。近江の君を引き取ったことを後悔する。 【見えたてまつらむこそ】- 近江の君を弘徽殿女御にお目にかける、の意。 【人びともあまた見つぎ、言ひ散らさむこと】- 内大臣の心中。 【思ひ返したまふものから】- 近江の君を弘徽殿女御に仕えさせることを、考え直させる、の意。 |
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2.3.5 | 「女御が里下りしていらっしゃる時々には、お伺いして、女房たちの行儀作法を見習いなさい。 特に優れたところのない人でも、自然と大勢の中に混じって、その立場に立つと、いつか恰好もつくものです。 そのような心積もりをして、お目通りなさってはいかがですか」 |
「女御が |
【女御里にものしたまふ時々】- 以下「見たてまつりたまひなむや」まで、内大臣の詞。 【さる心して】- 直前の「ことなることなき人もおのづから人に交じらひ、さる方になればさてもありぬかし」をさす。 【見えたてまつりたまひなむや】- 「なむや」、完了の助動詞「な」確述。推量の助動詞「む」勧誘。係助詞「や」疑問の意。~なさいませんか。 |
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2.3.6 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
とも言った。 |
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2.3.7 | 「いとうれしきことにこそはべるなれ。 ただ、いかでもいかでも、 |
「とても嬉しいことでございますわ。 ただただ、何としてでも、皆様方にお認めいただくことばかりを、寝ても覚めても、長年この願い以外のことは思ってもいませんでした。 お許しさえあれば、水を汲んで頭上に乗せて運びましても、お仕え致しましょう」 |
「まあうれしい。私はどうかして皆さんから兄弟だと認めていただきたいと寝ても |
【いとうれしきことにこそはべるなれ】- 以下「仕うまつりなむ」まで、近江の君の詞。「なれ」断定の助動詞。 【御方々に数まへ】- 弘徽殿女御や雲居雁をさす。姉妹の一人としての意。 【水を汲みいただきても、仕うまつりなむ】- 「法華経をわが得しことは薪こり菜摘み水を汲み仕へてぞ得し」(拾遺集哀傷、一三四六、大僧正行基)を踏まえる。 |
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2.3.8 | と、いとよげに、 |
と、たいそういい気になって、一段と早口にしゃべるので、どうしようもないとお思いになって、 |
なお早口にしゃべり続けるのを聞いていて大臣はますます |
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2.3.9 | 「そんなにまで、自分自身で薪をお拾いにならなくても、参上なさればよいでしょう。 ただあのあやかったという法師さえ離れたならばね」 |
「そんな労働などはしないでもいいがお行きなさい。あやかったお坊さんはなるべく遠方のほうへやっておいてね」 |
【いとしか、おりたちて】- 以下「法の師だに遠くは」まで、内大臣の詞。 【薪拾ひたまはずとも】- 前の大僧正行基の和歌を踏まえる。 【参りたまひなむ】- 「なむ」は完了の助動詞「な」確述。推量の助動詞「む」適当。 |
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2.3.10 | と、冗談事に紛らわしておしまいになるのも気づかずに、同じ大臣と申し上げる中でも、たいそう美しく堂々として、きらびやかな感じがして、並々の人では顔を合わせにくい程立派な方とも分からずに、 |
【をこごとにのたまひなすをも知らず】- 「見えにくき御けしきをも見知らず」と並列の構文。 【おぼろけの人見えにくき御けしき】- 普通の人であったら気後れするほど立派な内大臣に対しての意。 |
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2.3.11 | 「それでは、いつ女御殿の許に参上するといたしましょう」 |
「それではいつ女御さんの所へ参りましょう」 |
【さて、いつか女御殿には参りはべらむずる】- 近江の君の詞。枕草子では「むず」を下品な言葉遣いとする。 |
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2.3.12 | と |
とお尋ね申すので、 |
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2.3.13 | 「吉日などと言うのが良いでしょう。 いや何、 大げさにすることはない。そのようにお思 |
「そう、吉日でなければならないかね。なにいいよ、そんなたいそうなふうには考えずに、行こうと思えば今日にでも」 |
【よろしき日などや】- 以下「今日にても」まで、内大臣の詞。 |
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2.3.14 | とのたまひ |
と、お言い捨てになって、 |
言い捨てて大臣は出て行った。 |
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第四段 近江君、血筋を誇りに思う |
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2.4.1 | 立派な四位五位たちが、うやうやしくお供申し上げて、ちょっとどこかへお出ましになるにも、たいそう堂々とした御威勢なのを、お見送り申し上げて、 |
四位五位の官人が多くあとに従った、権勢の強さの思われる父君を見送っていた令嬢は言う。 |
【うち身じろきたまふにも】- 内大臣がちょっとどこかへお出ましになるにも、の意。 |
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2.4.2 | 「何と、まあ、ご立派なお父様ですわ。 このような方の子供でありながら、賤しい小さい家で育ったこととは」 |
「ごりっぱなお父様だこと、あんな方の種なんだのに、ずいぶん小さい家で育ったものだ私は」 |
【いで、あな、めでたのわが親や】- 以下「生ひ出でたること」まで、近江の君の詞。 |
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2.4.3 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 五節は、 |
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2.4.4 | 「あまり立派過ぎて、こちらが恥ずかしくなる方でいらっしゃいますわ。 相応な親で、大切にしてくれる方に、捜し出しされなさったならよかったのに」 |
「でもあまりおいばりになりすぎますわ、もっと御自分はよくなくても、ほんとうに愛してくださるようなお父様に引き取られていらっしゃればよかった」 |
【あまりことことしく】- 以下「尋ね出でられたまはまし」まで、五節君の詞。 【尋ね出でられたまはまし】- 「られ」受身の助動詞。「まし」推量の助動詞、反実仮想の意。『完訳』は「ほどほどの身分の親で、大切に愛育してくれそうな方に引き取ってもらえばよかったのに。素直な感想だが、内大臣の娘としては不相応、の意にも解せる」と注す。 |
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2.4.5 | と言うのも、無理な話である。 |
と言った。真理がありそうである。 |
【わりなし】- 『集成』は「草子地」と注す。語り手の批評の言葉。 |
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2.4.6 | 「いつもの、あなたが、わたしの言うことをぶちこわしなさって、心外だわ。 今は、友達みたいな口をきかないでよ。 将来のある身の上なのようですから」 |
「まああんた、ぶちこわしを言うのね。失礼だわ。私と自分とを同じように言うようなことはよしてくださいよ。私はあなたなどとは違った者なのだから」 |
【例の、君の、人の言ふこと】- 以下「こそあめれ」まで、近江の君の詞。「君」は、あなた五節の君をさしていう。「人の」は、わたしの、の意。『完訳』は「五節の言葉を、自分への言いがかりと解した」と注す。 【今は、ひとつ口に言葉な交ぜられそ】- 『集成』は「友だちみたいに、口出ししないで下さい」。『完訳』は「私が内大臣の娘と分った今は、気やすく口をきかないでくれ」と訳す。「られ」軽い尊敬の助動詞。 【あるやうあるべき身にこそあめれ】- 『集成』は「きっと何か仔細のある身の上なのでしょう。内大臣に見出されたからには、特別の運勢に恵まれているのだろう、の意」と注す。 |
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2.4.7 | と、 |
と、腹をお立てになる顔つきが、親しみがあり、かわいらしくて、ふざけたところは、それなりに美しく大目に見られた。 |
腹をたてて言う令嬢の顔つきに |
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2.4.8 | ただ、いと ことなるゆゑなき |
ただひどい田舎で、賤しい下人の中でお育ちになっていたので、物の言い方も知らない。 大したことのない話でも、声をゆっくりと静かな調子で言い出したのは、ふと聞く耳でも、格別に思われ、おもしろくない歌語りをするのも、声の調子がしっくりしていて、先が聞きたくなり、歌の初めと終わりとをはっきり聞こえないように口ずさむのは、深い内容までは理解しないまでもの、ちょっと聞いたところでは、おもしろそうだと、聞き耳を立てるものである。 |
ただきわめて下層の家で育てられた人であったから、ものの言いようを知らないのである。何でもない言葉もゆるく落ち着いて言えば聞き手はよいことのように聞くであろうし、巧妙でない歌を話に入れて言う時も、 |
【ことなるゆゑなき言葉をも】- 『完訳』は「「耳もとまるかし」まで、近江の君評の前提となる一般論」と注す。 【打ち聞き】- 大島本は「うちきく(く=き<朱>)」とある。すなわち「く」の右傍らに朱筆で「き」と傍記する。『集成』『新大系』は底本の朱筆傍記に従う。『古典セレクション』は訂正以前本文に従う。 【本末惜しみたるさまにてうち誦じたるは】- 『集成』は「歌の上の句、下の句いずれにしろ、皆まで言わないように、ひそかに吟じたのは」と訳す。 |
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2.4.9 | いと |
たとえまことに深い内容の趣向ある話をしたとしても、相当な嗜みがあるとも聞こえるはずもない、うわずった声づかいをしておっしゃる言葉はごつごつして、訛があって、気ままに威張りちらした乳母に今も馴れきっているふうに、態度がたいそう不作法なので、悪く聞こえるのであった。 |
【いと心深くよしあることを言ひゐたりとも】- 『完訳』は「以下、近江の君の場合。たとえ深い内容で趣向のあることを」と注す。 【言葉たみて】- 「東にて養はれたる人の子は舌たみてこそものは言ひけれ」(拾遺集物名、四一三、読人しらず)。 |
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2.4.10 | まったくお話にならないというのではないが、三十一文字の、上句と下句との意味が通じない歌を、早口で続けざまに作ったりなさる。 |
そう頭が悪いのでもなかった。三十一字の初めと終わりの一貫してないような歌を早く作って見せるくらいの才もあるのである。 |
【いといふかひなくはあらず】- 『完訳』は「以下、語り手の揶揄」と注す。 |
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第五段 近江君の手紙 |
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2.5.1 | 「ところで、女御様に参上せよとおっしゃったのを、しぶるように見えたら、不快にお思いになるでしょう。 夜になったら参上しましょう。 大臣の君が、世界一大切に思ってくださっても、ご姉妹の方々が冷たくなさったら、お邸の中には居られましょうか」 |
「女御さんの所へ行けとお言いになったのだから、私がしぶしぶにして気が進まないふうに見えては感情をお害しになるだろう。私は今夜のうちに出かけることにする。大臣がいらっしゃっても女御さんなどから冷淡にされてはこの家で立って行きようがないじゃないか」 |
【さて、女御殿に】- 以下「殿のうちには立てりなむや」まで、近江の君の詞。 【ものしくもこそ思せ】- 主語は内大臣。 【天下に思すとも】- 強調表現、大袈裟な言い方。 |
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2.5.2 | とおっしゃる。 ご声望のほどは、たいそう軽いことであるよ。 |
と令嬢は言っていた。自信のなさが気の毒である。 |
【御おぼえのほど、いと軽らかなりや】- 『集成』は「からかいの草子地」。『完訳』は「語り手のからかい気味の同情」と注す。 |
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2.5.3 | まづ |
さっそくお手紙を差し上げなさる。 |
手紙を先に書いた。 |
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2.5.4 | 「お側近くにおりながら、今までお伺いする幸せを得ませんのは、来るなと関所をお設けになったのでしょうか。 お目にかかってはいませんのに、お血続きの者ですと申し上げるのは、恐れ多いことですが。 まことに失礼ながら、失礼ながら」 |
【葦垣のま近きほどに】- 以下「あなかしこやあなかしこや」まで、近江の君の手紙文。「人知れぬ思ひやなぞと葦垣のま近けれども逢ふよしのなき」(古今集恋一、五〇六、読人しらず)。 【影踏むばかりのしるしもはべらぬは】- 「立ち寄らば影ふむばかり近けれど誰か勿来の関を据ゑけむ」(後撰集恋二、六八二、小八条御息所)。「勿来の関」は陸奥の枕詞。 【知らねども、武蔵野といへば】- 「知らねども武蔵野といへばかこたれぬよしやさこそは紫のゆゑ」(古今六帖五、むらさき、三五〇七)。 |
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2.5.5 | と、点ばかり多い書き方で、その裏には、 |
点の多い書き方で、裏にはまた、 |
【点がちにて】- 字画の点が目立つ書き方かといわれる。 |
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2.5.6 | 「実は、今晩にも参上しようと存じますのは、お厭いになるとかえって思いが募るのでしょうか。 いいえ、いいえ、見苦しい字は大目に見ていただきたく」 |
まことや、暮れにも参りこむと思ひ給へ立つは、 |
【まことや、暮にも】- 以下「水無瀬川にを」まで、近江の君の手紙の裏書き。 【厭ふにはゆるにや】- 「あやしくもいとふにはゆる心かないかにしてかは思ひやむべき」(後撰集恋二、六〇八、読人しらず)。 【あやしきは水無川】- 「悪しき手をなほよきさまにみなせ川底の水屑の数ならずとも」(源氏釈所引、出典未詳)。 |
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2.5.7 | とて、また |
とあって、また端の方に、このように、 |
と書かれ、端のほうに歌もあった。 |
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2.5.8 | 「未熟者ですが、 いかがでしょうかと何とかしてお目 |
草若みひたちの海のいかが いかで相見む田子の浦波 |
【草若み常陸の浦のいかが崎--いかであひ見む田子の浦波】- 近江の君の弘徽殿女御への贈歌。『集成』は「「いかが崎」は、「いかで」を言い出す序。河内の国の枕詞(あるいは近江とも)。「田子の浦」は駿河の国の枕詞。第一句「草若み」は、自分を卑下したつもりか。三箇所の関係のない名所を詠み込み、「本末あはぬ歌」の実例」と注す。 |
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2.5.9 | 並一通りの思いではございません」 |
大川水の(みよし野の大川水のゆほびかに思ふものゆゑ |
【大川水の】- 歌に添えた言葉。「み吉野の大川野辺の藤波の並に思はば我が恋ひめやは」(古今集恋四、六九九、読人しらず)。 |
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2.5.10 | と、 |
と、青い色紙一重ねに、たいそう草仮名がちの、角張った筆跡で、誰の書風を継ぐとも分からない、ふらふらした書き方も下長で、むやみに気取っているようである。 行の具合は、端に行くほど曲がって来て、倒れそうに見えるのを、にっこりしながら見て、それでもたいそう細く小さく巻き結んで、撫子の花に付けてあった。 |
青い色紙一重ねに漢字がちに書かれてあった。肩がいかって、しかも漂って見えるほど力のない字、しという字を長く気どって書いてある。一行一行が曲がって倒れそうな自身の字を、満足そうに令嬢は微笑して読み返したあとで、さすがに細く小さく巻いて |
【下長に】- 文字の下半分が長い書き方。 |
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第六段 女御の返事 |
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2.6.1 | 樋洗童は、たいそうもの馴れた態度できれいな子で、新参者なのであった。 女御の御方の台盤所に寄って、 |
【樋洗童しも】- 大島本は「ひすましわらハゝ(ゝ#<朱>)しも」とある。すなわち底本は踊り字「ゝ」を朱筆で抹消する。『新大系』は底本の朱筆訂正に従う。『集成』『古典セレクション』は諸本及び底本の訂正以前本文に従って「樋洗童はしも」と校訂する。 【女御の御方の台盤所に寄りて】- 弘徽殿女御方の女房の詰所。 |
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2.6.2 | 「これを差し上げてください」 |
「これを差し上げてください」 |
【これ、参らせたまへ】- 使者の詞。 |
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2.6.3 | と言う。 下仕えが顔を知っていて、 |
と言って出した。 |
【下仕へ見知りて】- 女御方の下仕え。 |
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2.6.4 | 「北の対に仕えている童だわ」 |
北の対に使われている女の子だ |
【北の対にさぶらふ童なりけり】- 女御方の下仕えの詞。 |
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2.6.5 | と言って、お手紙を受け取る。 大輔の君というのが、持参して、開いて御覧に入れる。 |
といって、撫子を受け取った。 |
【大輔の君】- 女御方の女房。 【持て参りて】- 大島本は「もてままいりて」とある。「ま」は衍字であろう。 |
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2.6.6 | 女御が、苦笑してお置きあそばしたのを、中納言の君という者が、お近くにいて、横目でちらちらと見た。 |
女御は微笑をしながら下へ置いた手紙を、中納言という女房がそばにいて少し読んだ。 |
【中納言の君】- 女御方の女房。女房名からして上臈の女房。 【近くゐて】- 大島本は「ちかくいて」とある。『新大系』は底本のままとする。『集成』『古典セレクション』は諸本に従って「近くさぶらひて」と校訂する。 |
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2.6.7 | 「いと |
「たいそうしゃれたお手紙のようでございますね」 |
「何でございますか、新しい書き方のお手紙のようでございますね」 |
【いと今めかしき】- 以下「はべめるかな」まで、中納言の君の詞。 |
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2.6.8 | と、ゆかしげに |
と、見たそうにしているので、 |
となお見たそうに言うのを聞いて、女御は、 |
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2.6.9 | 「草仮名の文字は、読めないからかしら、歌の意味が続かないように見えます」 |
「漢字は見つけないせいかしら、前後が一貫してないように私などには思われる手紙よ」 |
【草の文字は】- 以下「見ゆるかな」まで、弘徽殿女御の詞。『集成』は「草仮名の読みにくさにかこつけて、やんわりと批評したもの」と注す。 |
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2.6.10 | とて、 |
とおっしゃって、お下しになった。 |
と言いながら渡した。 |
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2.6.11 | 「お返事は、このように由緒ありげに書かなかったら、なっていないと軽蔑されましょう。 そのままお書きなさい」 |
「返事もそんなふうにたいそうに書かないでは低級だと言って |
【返りこと】- 以下「書きたまへ」まで、弘徽殿女御の詞。 |
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2.6.12 | と、お任せになる。 そう露骨に現しはしないが、若い女房たちは、何ともおかしくて、皆笑ってしまった。 お返事を催促するので、 |
と女御は言うのであった。露骨に笑い声はたてないが若い女房は皆笑っていた。使いが返事を請求していると言ってきた。 |
【もて出でてこそあらね】- 挿入句。『集成』は「(ご姉妹のことゆえ)おおっぴらにではないが」。『完訳』は「そう露骨に示しはしないが」と訳す。 【御返り乞へば】- 主語は使者の樋洗童。 |
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2.6.13 | 「風流な引歌ばかり使ってございますので、お返事が難しゅうございます。 代筆めいては、お気の毒でしょう」 |
「風流なお言葉ばかりでできているお手紙ですから、お返事はむずかしゅうございます。仰せはこうこうと書いて差し上げるのも失礼ですし」 |
【をかしきことの】- 以下「いとほしからむ」まで、中納言の君の詞。 【聞こえさせにくくこそ】- 係助詞「こそ」の下に「侍れ」などの語句が省略。 |
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2.6.14 | とて、ただ、 |
と言って、まるで、 |
と言って、中納言は女御の手紙のようにして書いた。 |
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2.6.15 | 「お近くにいらっしゃるのにその甲斐なく、お目にかかれないのは、恨めしく存じられまして、 |
近きしるしなきおぼつかなさは恨めしく、 |
【近きしるしなき】- 以下、和歌の終わり「筥崎の松」まで、中納言の君が書いた返事。 |
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2.6.16 | 常陸にある駿河の海の須磨の浦に お出かけください、 |
ひたちなる |
【常陸なる駿河の海の須磨の浦に--波立ち出でよ筥崎の松】- 「常陸の浦」「田子の浦波」の語句を受けて、「常陸なる駿河の海」と返し、また「須磨の浦」「筥崎の松」という歌枕を詠んで返す。「松」は「待つ」の掛詞。「波」と「立つ」は縁語。歌意は「立ち出でよ」「待つ」にある。 |
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2.6.17 | と |
と書いて、読んでお聞かせす申すと、 |
中納言が読むのを聞いて女御は、 |
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2.6.18 | 「まあ、困りますわ。 ほんとうにわたしが書いたのだと言ったらどうしましょう」 |
「そんなこと、私が言ったように人が皆思うだろうから」 |
【あな、うたて】- 以下「もこそ言ひなせ」まで、弘徽殿女御の詞。連語「もこそ」は、懸念の意を表す。 |
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2.6.19 | と、かたはらいたげに |
と、迷惑そうに思っていらっしゃったが、 |
と言って困ったような顔をしていると、 |
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2.6.20 | 「それは聞く人がお分かりでございましょう」 |
「大丈夫でございますよ。聞いた人が判断いたしますよ」 |
【それは聞かむ人わきまへはべりなむ】- 中納言の君の詞。 |
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2.6.21 | とて、おし |
と言って、紙に包んで使いにやった。 |
と中納言は言って、そのまま包んで出した。 |
【おし包みて出だしつ】- 『完訳』は「正式な書状の形式の立文にした。女同士の文通には用いない」と注す。 |
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2.6.22 | 御方が見て、 |
新令嬢はそれを見て、 |
【御方見て】- 近江の君をさす。「御方」という敬語表現が皮肉。 |
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2.6.23 | 「しゃれたお歌ですこと。 待っているとおっしゃっているわ」 |
「うまいお歌だこと、まつとお言いになったのだから」 |
【をかしの御口つきや。待つとのたまへるを】- 近江の君の詞。間投助詞「を」詠嘆。 |
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2.6.24 | とて、いとあまえたる |
と言って、たいそう甘ったるい薫物の香を、何度も何度も着物にた焚きしめていらっしゃった。 紅というものを、たいそう赤く付けて、髪を梳いて化粧なさったのは、それなりに派手で愛嬌があった。 ご対面の時、さぞ出過ぎたこともあったであろう。 |
と言って、甘いにおいの |
【御対面のほど、さし過ぐしたることもあらむかし】- 『集成』は「草子地」。『完訳』は「語り手の言辞。この夜の出仕のさまを読者の想像にまかせる」と注す。 |
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