設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 注釈 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 登場人物 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | |
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この帖の主な登場人物 | |||
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登場人物 | 読み | 呼称 | 備考 |
薫 | かおる | 大将殿 殿 |
源氏の子 |
女一の宮 | おんないちのみや | 一品の宮 |
今上帝の第一内親王 |
浮舟 | うきふね | 入道の姫君 姫君 |
八の宮の三女 |
中将の君 | ちゅうじょうのきみ | 親 母 |
浮舟の母 |
小君 | こぎみ | 小君 御弟の童 童 |
浮舟の異父弟 |
母尼 | ははのあま | 朽尼 |
横川僧都の母 |
妹尼 | いもうとのあま | 故衛門督の北の方 尼君 妹 主人 |
横川僧都の妹 |
第五十四帖 夢浮橋 薫君の大納言時代二十八歳の夏の物語 |
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# |
本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
注釈 |
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第一章 薫の物語 横川僧都、薫の依頼を受け浮舟への手紙を書く |
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第一段 薫、横川に出向く |
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1.1.1 | 比叡山においでになって、いつもおさせになるように、お経や仏像などをご供養させになる。 翌日は、横川においでになったので、僧都は恐縮してご挨拶申し上げなさる。 |
【山におはして】- 主語は薫。薫が比叡山に行く。翌日、根本中堂に出向く。前巻「手習」の末尾に続く叙述。 【例せさせたまふやうに】- 「させ」使役助動詞。 |
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1.1.2 | 何年も、ご祈祷などお頼みなさっていたが、特別に親密ということはなかったが、先般、一品の宮のご不快の折に伺候なさっていたときに、「格別すぐれた効験がおありであった」と御覧になってから、この上なく尊敬なさって、もう少し深いご縁をお結びになったので、「重々しくおいでになる殿が、このようにわざわざ訪ねていらしたこと」と、大仰にお持てなし申し上げなさる。 お話など、親密になさっているので、御湯漬などを差し上げなさる。 |
これまでからも |
【御祈りなどつけ語らひ】- 『集成』は「ご祈祷など依頼なさる付合いはおありになった。「つけ」は付託する意」と注す。 【すぐれたまへる験ものしたまひけり】- 薫の心中の思い。僧都に対する評価。 【重々しう】- 以下「おはしましたること」まで、僧都の心中。 |
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1.1.3 | すこし |
少し人びとが静かになったので、 |
あたりのやや静かになったころ、 |
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1.1.4 | 「小野の辺りに、お持ちの家はございませんか」 |
「小野の辺にお知り合いの所がありますか」 |
【小野のわたりに、知りたまへる宿りやはべる】- 薫の詞。 |
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1.1.5 | と、 |
と、お尋ねになると、 |
と薫は尋ねた。 |
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1.1.6 | 「さようでございます。 ひどくみすぼらしい家です。 拙僧の母親の老尼がおりますが、京にしっかりした家もございませんうえに、こうして籠もっております間は、夜中、暁でも、お見舞いしよう、と存じております」 |
「そうです。それは古くなった家なのでございます。私に |
【しかはべる】- 以下「思ひたまへおきてはべる」まで、僧都の詞。 |
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1.1.7 | など |
などと申し上げなさる。 |
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1.1.8 | 「その近辺には、つい最近まで、人が多く住んでおりましたが、今では、たいそうひっそりとなって行くようですね」 |
「あの辺は近年まで住宅も相応にあったそうですが、このごろは家が少なくなったそうですね」 |
【そのわたりには】- 以下「なりゆくめれ」まで、薫の詞。 |
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1.1.9 | などのたまひて、 |
などとおっしゃって、もう少し近寄って、小声で、 |
と言ったあとで、薫は座を進めて低い声になり、 |
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1.1.10 | 「いと まだ |
「まことにとりとめのない気のする話ですが、また一方、お尋ね申し上げるにつけては、どのようなことでかと、合点が行かず思われなさるでしょうが、どちらにしても、遠慮されますが、あの山里に、世話しなければならない人が隠れていますように聞きましたが。 はっきりと確かめてからなら、どのような様子で、などとお漏らし申し上げましょう、などと考えておりますうちに、お弟子になって、戒律などをお授けになった、と聞きましたのは、本当ですか。 まだ年齢も若く、親などもいた人なので、わたしが死なせてしまったように、恨み言を申す人がおりますので」 |
「確かなこととも思われませんし、またあなたへお尋ねしましては、なぜ私がそれを深く知ろうとするのかと不思議にお思いになるであろうしとはばかられるのですが、その山里のお |
【いと浮きたる心地も】- 以下「人なむはべるを」まで、薫の詞。 【知るべき人の】- 浮舟をさす。 【御弟子になりて】- 浮舟が出家したことをさす。 【ここに】- 薫自身をさしていう。 【かことかくる人なむはべるを】- 『集成』は「親などからの苦情もある、とそれとなく圧力をかける」と注す。 |
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1.1.11 | などのたまふ。 |
などとおっしゃる。 |
と薫は言った。 |
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第二段 僧都、薫に宇治での出来事を語る |
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1.2.1 | 僧都は、「やはりそうであったか。 普通の女とは見えなかった様子であった。 このようにまでおっしゃるのは、並々にはお思いでいらっしゃらなかった人なのであろう」と思うと、「法師の役目とは言いながらも、考えもなく、すぐに尼姿いしてしまったことよ」と、胸がどきりとして、お答え申し上げることに思案なさる。 |
僧都は予期のとおりあの人はただの家の娘ではなかった。 |
【さればよ】- 以下「人にこそあめれ」まで、僧都の心中の思い。 【法師といひながら】- 以下「やつしてけること」まで、僧都の心中の思い。浮舟を出家させたことを反省。 |
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1.2.2 | 「確かなことを聞いていらっしゃるのだろう。 これほどご承知で、お尋ねなさるのに、隠しきれるものでない。 なまじ無理に隠そうとするのも、つまらないことであろう」などと、しばらく考えを決めて、 |
事実をもう皆知っておられるらしい、これだけのことがすでにわかっている上で、探りにかかられては何も何も暴露してしまうはずである、隠してはかえって迷惑が起こるであろうという結論を僧都は得て、 |
【確かに聞きたまへるにこそ】- 以下「あひなかるべし」まで、僧都の心中の思い。 |
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1.2.3 | 「どのようなことでございましょうか。 ここ何か月か、内々に不審に存じておりました女のお身の上のことでしょうか」と言って、 |
「どういうことでこんなことが起こりましたかと、昨年来不思議にばかり思われていました方のことかと思われます」と言い、 |
【いかなることにか】- 以下「御ことにや」まで、僧都の詞。 |
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1.2.4 | 「かしこにはべる |
「あちらにおります尼たちが、初瀬に祈願がございまして、参詣して帰って来た道中で、宇治院という所に泊まりましたところ、母親の尼の疲労が急に起こって、ひどく患っているという報せを、人が報告して来たので、下山して出向きましたところに、さっそく不思議なことが」 |
「小野の母と妹の尼が |
【かしこにはべる尼どもの】- 以下「妖しきことなむ」まで、僧都の詞。 【ことなむ】- 係助詞「なむ」の下に「はべりける」などの語句が省略。 |
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1.2.5 | とささめきて、 |
と声をひそめて、 |
と言いだしまして、 |
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1.2.6 | 「 この |
「母親が今にも死にそうなのは差し置いて、介抱して心配しておりました。 この人も、お亡くなりになったような様子ながら、やはり息はしていらっしゃいましたので、昔物語に、霊殿に置いておいた人の話を思い出して、そのようなことであろうかと、珍しがりまして、弟子の僧の中で効験のある者どもを呼び寄せては、交替で加持させたりしました。 |
母の |
【親の死に返るを】- 以下「はべりつるになむ」まで、僧都の詞。 【この人も】- 浮舟をさす。 【昔物語に、魂殿に置きたりけむ人の】- 散逸物語に蘇生譚の物語があったらしい。 |
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1.2.7 | なにがしは、 ことの |
拙僧は、惜しむほどの年齢ではないが、母親が旅の途上で病気が重いのを助けて、念仏を一心不乱にしようと、仏にお祈り申しておりましたときなので、その人の様子、詳しくは拝見せずにおりました。 事情を推察しますに、天狗や木霊などのようなものが、誑かしてお連れ申したのか、と理解しておりました。 |
私は、惜しむべき |
【惜しむべき齢ならねど】- 挿入句。母尼の年齢についていう。 |
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1.2.8 | 助けて、京にお連れ申して後も、三か月間は死んだ人のようでいらっしゃいましたが、拙僧の妹で、故衛門督の北の方でございました者が、尼になっておりますのが、一人持っていた女の子を亡くして後、月日はたくさん過ぎましたが、悲しみを忘れず嘆いておりましたところ、同じ年くらいに見える人で、このように器量もとても端整で美しい方を発見申して、観音が授けてくださったと喜んで、この人をお死なせ申すまいと、一生懸命になりまして、泣きながら熱心に救ってほしいと懇願申されたので。 |
助けて京へ伴って来ましたあとも三月くらいは死んだ人と変わらぬようだったのですが、以前の |
【なにがしが妹】- 「この人いたづらに」に続く。「故衛門督の北の方にて」以下「喜び思ひて」まで挿入句。妹尼についての説明。 【観音の賜へる】- 長谷観音。 【申されしかば】- 妹尼が拙僧に。 |
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1.2.9 | 後に、あの坂本に拙僧自身で下山して行きまして、護身などを修法いたしましたところ、だんだんと生き返って普通にお戻りになりましたが、『やはり、このとり憑いた物の怪が、身から離れないような気がする。 この悪霊の妨げから逃れて、来世を祈りたい』などと、悲しそうにおっしゃることがございましたので、法師の勤めとしては、お勧め申すべきことと存じまして、本当に出家させ申し上げてしまったのでございます。 |
私も |
【なほ、この領じたりける】- 以下「後の世を思はむ」まで、浮舟の詞。僧都が引用して言う。 |
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1.2.10 | さらに、しろしめすべきこととは、いかでかそらにさとりはべらむ。 |
まったく、お世話なさるはずの方とは、どうして何もなしに分かりましょう。 珍しい事の様子ですので、世間話の種にもなりそうですが、噂になって、厄介なことになってはいけないと、この老女どもがあれこれ申して、この何か月間は、黙っておりました」 |
あなたに御関係のある方などとは、空では悟りようもありませんでした。不思議な出来事なのですから、人にも話せば捜しておいでになる方の注意を引くことになったかもしれないのでしたが、世間に聞こえては煩わしいことになるであろうと申して、妹の尼はそれをとめましたので、長く秘密にいたしてまいったのでございます」 |
【しろしめすべきこととは】- 主語は薫。あなたがお世話はなさるべき方であるとは、の意。 【この老い人どもの】- 妹尼たち。 |
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1.2.11 | と |
と申し上げなさると、 |
こう物語った。 |
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第三段 薫、僧都に浮舟との面会を依頼 |
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1.3.1 | 「さてこそあなれ」と、ほの |
「そうであったのか」と、ちらっと聞いて、ここまで尋ね出しなさったことではあるが、「てっきり死んだ人として思い諦めていた人だが、それでは、本当は生きていたのだ」とお思いになる、その気持ちは、夢のような気がしてあきれるほどのことなので、抑えることもできずに涙ぐまれなさったのを、僧都が立派な態度なので、「こんな気弱い態度を見せてよいものか」と反省して、さりげなく振る舞いなさるが、「このようにお愛しになっていたのを、この世では死んだ人と同然にしてしまったことよ」と、過ったことをした気がして、罪障深いので、 |
いよいよ事実であったのかと薫は、小宰相から少し聞いた話から山へまで遠く僧都を尋ねて来たのではあるが、全然死んだと思っていた人が、確かにこの世に存在していたのかという驚きをまたも覚えて、夢の中の気持ちがし、心の打たれたことによって涙ぐまれるのを、高僧を前に置いてこんな弱さを見せるものでないと反省され、冷静なふうを作っていたが僧都には、薫の感じていることがわかり、これほどにも愛していた人を、生きていても死んだのと同じような尼の身に自分はしてしまったと過失をした気になり、罪を作ったという自責も覚えて、 |
【さてこそあなれ】- 薫の心中。小宰相君から聞いたことと一致。 【問ひ出でたまへること】- 主語は薫。 【むげに亡き人と】- 以下「まことにあるにこそは」まで、薫の心中の思い。 【かくまで見ゆべきことかは】- 薫の心中の思い。『完訳』は「僧都の立派な態度に対して、自分が取り乱したのを恥じる」と注す。 【かく思しけることを】- 以下「なしたること」まで、僧都の心中の思い。浮舟を出家させたことを後悔。 |
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1.3.2 | 「悪霊にとり憑かれていらしたのも、そうなるはずの前世からの因縁なのです。 思うに、高貴な家柄の姫君でいらしたのでしょうが、どのような過ちによって、このようにまで身を落としなさったのだろうか」 |
「悪いものに |
【悪しきものに】- 以下「ふれたまひけむにか」まで、僧都の詞。 |
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1.3.3 | と、 |
と、お尋ね申し上げなさると、 |
と僧都は問うてみた。 |
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1.3.4 | 「なま ここにも、もとよりわざと ものはかなくて |
「皇族の末裔と申す血筋であったでしょうか。 わたしも、初めから特別に正妻にと考えた人ではございません。 ちょっとしたことでお世話し始めるようになりましたが、また一方で、このようにまで落ちぶれる身分の方とは存じませんでした。 珍しく、跡形もなく消えてしまったので、身を投げたのかなどと、いろいろとはっきりしないことが多くて、確実なことは、聞くことができませんでした。 |
「王族の端とまあいうほどの人です。私も妻として結婚をしたのではありません。あることが動機になって恋愛がそこへまで進んでしまった間柄でした。がしかし、そんなにまで人の好意にすがって養われねばならぬような待遇を私はしていたのではありませんのに、不思議に跡かたもなくなってしまったものですから、身を投げたかなどと、それによってまたいろいろな想像もしていたわけです。 |
【なま王家流など】- 以下「しはべりなむかし」まで、薫の詞。八宮の庶腹の娘であることをぼかして言う。 【ここにも】- 薫自身をさす。 【わざと思ひしことにもはべらず】- 正妻にと考えたのではない、の意。 |
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1.3.5 | 罪障を軽くしていらっしゃるならば、とても良いことだと安心して、わたし自身は存じましたが、その母親に当たる人が、ひどく慕って悲しんでいるというを、このように聞き出したと、知らせてやりたく存じますが、何か月も隠していらっしゃったご趣旨に背くようで、何となく騒々しくなりましょうか。 親子の間の恩愛は絶ち切れず、悲しみを堪えることができずに、きっと尋ねて来ますでしょう」 |
罪の軽くなる御処置をお取りくだすったのですから、安心のできたことと私は思うのですが、母親である人が非常に恋しがり悲しがっておりますから、それだけには知らせてもやりたく思いますものの、その結果長く隠しておいでになりました尼様の御本意に違い、断ち切れぬ親子の情で訪ねて行ったりすることになるかもしれぬと思われます」 |
【罪軽めてものすれば】- 『完訳』は「浮舟の出家の境涯。出家によって在俗時の諸々の罪が軽減する。それを薫自身、結構で安心だと冷静にかまえるが、本音でない」と注す。 【月ごろ隠させたまひける本意】- 主語は僧都や妹尼君。浮舟をかくまってきたこと。 【もの騒がしくやはべらむ】- 『完訳』は「自らの執心を隠蔽し、母の悲嘆にかこつけて事情を追求する」と注す。 |
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1.3.6 | などとおっしゃって、そうして、 |
などと薫は言ったあとで、 |
【さて】- 地の文。『集成』は「その上で。母親には知らせまいと前置きした上で直接の交渉の仲介を僧都に頼む」と注す。 |
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1.3.7 | 「まことに不都合な案内役とはお思いになりましょうが、あの坂本に下山なさってください。 このように聞いて、いい加減に知らないふりのできるとは存じません人ですので、夢のようなことも、せめて今なりと話し合おう、と存じております」 |
「御迷惑なことと思いますが、その坂本までいっしょにお下りくださいませんでしょうか。細かい事実を承ることができましたあとで、なおそのまま捨てておいてよい人では初めからなかったのですから、夢のようなことを、この話を承った時を機としても話し合いたいと私は思うのです」 |
【いと便なきしるべとは】- 以下「となむ思ひたまふる」まで、薫の詞。 【なのめに思ひ過ぐすべくは思ひはべらざりし人】- 『完訳』は「尼になったらなったで、知らぬ顔のできる相手ではない」と注す。 |
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1.3.8 | とのたまふけしき、いとあはれと |
とおっしゃる様子が、実にしみじみとお思いになっているので、 |
こう言う様子に、その人を深く思うことのうかがわれるため、 |
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1.3.9 | 「尼姿になり、出家をしたと思っていても、髪や鬢を剃った法師でさえ、けしからぬ欲望に消えない者もいるという。 まして、女人の身ではどのようなものであろうか。 お気の毒にも、罪障を作ることになりはしないだろうか」 |
出家 |
【容貌を変へ】- 以下「あるべきかな」まで、僧都の心中の思い。 【おぼえたれど】- 主語は浮舟。 【あやしき心】- 淫欲。 |
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1.3.10 | と、あぢきなく |
と、つまらないことを引き受けたものだと心が乱れた。 |
自分は携わってしまったと僧都は |
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1.3.11 | 「下山することは、今日明日は差し支えがあります。 来月になって、お手紙を差し上げましょう」 |
「下山しますことは今日明日さしつかえます。日が変わりましたらまいりまして、あちらからお手紙をお差し上げになるように計らいましょう」 |
【まかり下りむこと】- 以下「申させはべらむ」まで、僧都の詞。 【月たちて】- 『集成』は「「今日明日は」と言ってこう言うのだから、今は月末らしい。後文に螢が出てくるので、五月末と見ておく」。『完訳』は「今日は九日。来月はほど遠い」と注す。 |
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1.3.12 | と いと |
と申し上げなさる。 まことに頼りないが、「ぜひ、ぜひ」と、急に焦れったく思うのも、みっともないので、「それでは」と言って、お帰りになる。 |
こう答えた。薫はたよりない気もするのであったが、ぜひなどとしいることは、にわかにあせりだしたことに見られて恥ずかしいと思い、それではと言って帰ろうとした。 |
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第四段 僧都、浮舟への手紙を書く |
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1.4.1 | あのご姉弟の童を、お供として連れておいでになっていた。 他の兄弟たちよりは、器量も小ざっぱりとしているのを、呼び出しなさって、 |
姫君の異父弟は供の中にいた。他の兄弟よりも美しいその子を大将は近くへ呼んで、 |
【かの御弟の童】- 浮舟の異父弟の小君。 |
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1.4.2 | 「この子が、あの女人の近親なのですが、この子をとりあえず遣わしましょう。 お手紙をちょっとお書きください。 誰それとはなくて、ただ、お探し申し上げる人がいる、という程度の気持ちをお知らせください」 |
「これがその人と近い身内の者です。この少年をせめて使いに出しましょう、短いお手紙を一つお書きください。私とは初めからお言いにならずに、だれか尋ね求めている人があるということをお書きください」 |
【これなむ】- 以下「心を知らせたまへ」まで、薫の詞。 【その人とはなくて】- 自分薫の名は伏せて。 |
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1.4.3 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と薫が言うと、 |
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1.4.4 | 「拙僧が、この案内役になって、きっと罪障を負いましょう。 事情は、詳しく申し上げました。 今は、ご自身でお立ち寄りあそばして、なさるべきことをなさるのに、何の差し支えがございましょう」 |
「そのお手引きをいたすことで私は必ず罪に |
【なにがし、このしるべにて】- 以下「何の咎かはべらむ」まで、僧都の詞。 【御みづから立ち寄らせたまひて】- 薫ご自身で小野の草庵に。 |
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1.4.5 | と |
と申し上げなさると、にっこりして、 |
僧都はこう言うのであった。薫は笑って、 |
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1.4.6 | 「罪障を負う案内役とお考えになるのは、気恥ずかしいことです。 わたしは、在俗の姿で、今まで過ごして来たのがまことに不思議なくらいです。 |
「あなたの罪になるようなお手引きを願ったと取っておいでになるのは誤解ですよ。私は今日まで俗の姿でおりますだけでも怪しいほど信仰を深く持つ男です。 |
【罪得ぬべきしるべと】- 以下「心やすかるべき」まで、薫の詞。『完訳』は「以下、自分の生来の道心にふれる。浮舟の道心を邪魔だてするなどありえない、との論法を導く」と注す。 |
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1.4.7 | 幼い時から、出家を願う気持ちは強くございましたが、母三条宮が、心細い様子で、頼りがいもないわが身一人を頼りにお思いになっているのが、逃れられない足手まといに思われまして、世俗にかかずらっておりますうちに、自然と官位なども高くなり、身の処置も思うようにならなくなったりして、出家を願いながら過ごして来て、また断れない事も、次々と多く加わって来て、過ごしておりますが、公私ともに、止むを得ない事情によって、こうしていますが、それ以外のところでは、仏がお制止になる方面のことを、少しでもお聞き及びになるようなことは、何とか守り抜こう、身を慎んで、心中では聖に負けません。 |
少年の時代から遁世の志を持っているのですが、三条の宮様がお一人きりで、私のような者一人をたよりに思召すのが断ち切れぬ |
【三条の宮の】- 母女三の宮。 【え避らぬことも、数のみ添ひつつは】- 女二の宮の降嫁など。 |
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1.4.8 | まして、いとはかなきことにつけてしも、 さらにあるまじきことにはべり。 ただ、いとほしき |
ましてや、ちょっとしたことで、重い罪障を負うようなことは、どうして考えましょうか。 まったく有りえないことでございます。 お疑いなさいますな。 ただ、お気の毒な母親の思いなどを、聞いて晴らしてやろうというほどで、きっと嬉しく気が休まりましょう」 |
ましてそれは不善のはなはだしいものですから、どうして道にはいった人を誘惑したりすることをしましょう。お信じください。ただ逢いまして気の毒な母親の話などをよくしてやりますことができれば私の心が楽になることと思うからです」 |
【いとはかなきことにつけてしも】- 浮舟との男女関係。 【重き罪得べきこと】- 『集成』は「出家した浮舟に不淫欲の戒を破らせるようなこと」と注す。 |
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1.4.9 | など、 |
などと、昔から深かった道心をお話しなさる。 |
と、昔から仏の教えを奉じることの深さを |
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1.4.10 | 僧都も、なるほどと、うなずいて、 |
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1.4.11 | 「いとど |
「ますます尊いことだ」 |
尊い心がけである |
【いとど尊きこと】- 僧都の詞。 |
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1.4.12 | など |
などと申し上げなさるうちに、日も暮れてしまったので、 |
ことをほめなどするうちに日も暮れたため、 |
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1.4.13 | 「途中の休憩所としても大変に都合のよいはずだが、考えも決まらないうちに立ち寄るのも、やはり不都合であろう」 |
中宿りに小野へ寄ることはふさわしい道順であると薫は思ったが、突然に行くのはやはりよろしくなかろう |
【中宿りも】- 以下「便なかるべき」まで、薫の心中の思い。横川からの帰途に小野の草庵に宿泊することを考えてみる。 |
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1.4.14 | と、 |
と、思いあぐねてお帰りになるときに、この姉弟の童を、僧都が、目を止めておほめになる。 |
と考え、帰ることにきめた時、この |
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1.4.15 | 「この子に託して、とりあえずほのめかしてください」 |
「この少年に持たせてやります手紙に彼女の昔の知人のことをほのめかしておいてください」 |
【これにつけて、まづほのめかしたまへ】- 薫の詞。「これ」は浮舟の弟の小君をさす。 |
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1.4.16 | と |
と申し上げなさると、手紙を書いてお与えなさる。 |
と薫が言ったので、僧都はさっそく手紙を書いた。 |
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1.4.17 | 「 |
「時々は山においでになって遊んで行きなさいね」と「いわれのないことのようには思われないわけもありのです」 |
「ときどきは山へも登って来て遊んで行きなさい。私にあなたは縁がないのでもないからね」 |
【時々は】- 以下「ゆゑもありけり」まで、僧都の詞。途中、地の文「と」が挿入されている。 【すずろなるやうには思すまじきゆゑ】- 僧都と小君との関係。自分は小君の姉の浮舟を出家させた師僧である、という意。 |
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1.4.18 | と、お話しなさる。 この子は理解できないが、手紙を受け取ってお供して出る。 坂本になると、ご前駆の人びとが少し離れ離れになって、「目立たないように」とおっしゃる。 |
などとも言った。少年は縁のあるという理由がわからないのであるが、手紙を受け取ってすぐに供の中へまじった。坂本へ近くなった所で、「前駆の者は列を分かれ分かれにして声も低くして行くように」と大将は注意した。 |
【忍びやかにを】- 薫の詞。小野草庵の人々に気づかれないように配慮。 |
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第五段 浮舟、薫らの帰りを見る |
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1.5.1 | 小野では、たいそう青々と茂っている青葉の山に向かって、気の紛れることなく、遣水の螢だけを、昔が偲ばれる慰めとして眺めていらっしゃると、いつものように、遥か遠くに谷の見やられる軒端から、前駆が格別の先払いして、たいそうたくさん灯している火の、あわただしい光が見えるといって、尼君たちも端に出て座っていた。 |
小野では深く |
【紛るることなく】- 草庵の人々の気持ちが。 【眺めゐたまへるに】- 主語は浮舟。 【谷の軒端より】- 『集成』は「谷のはずれから」。『完訳』は「谷あいに」。『新大系』は「谷が眺められる軒の下から」と注す。以下、地の文が自然と会話文に移っていく。 |
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1.5.2 | 「どなたがおいでになるのだろう。 ご前駆などもとても大勢に見える」 |
「どなたがお通りになるのでしょう。前駆の人がたくさんなように見えますね。 |
【誰がおはするにかあらむ】- 以下「多くこそ見ゆれ」まで、尼の詞。 |
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1.5.3 | 「昼、あちらに引干しを差し上げた返事に、『大将殿がいらして、ご饗応の事が急になったので、ちょうどよい時であった』と、言ったが」 |
昼間 |
【昼、あなたに】- 以下「こそありつれ」まで、妹尼の詞。 【大将殿おはしまして】- 以下「いとよき折なり」まで、僧都の詞を引用。 |
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1.5.4 | 「大将殿とは、今上の女二の宮の夫君のことでいらっしゃろうか」 |
「大将さんというのは今の |
【大将殿とは】- 以下「おはしつらむ」まで、尼の詞。 |
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1.5.5 | などと言うのも、とてもこの世から隔絶して、田舎じみたことよ。 ほんとうにそうであろうか。 時々、このような山路を分けていらしたとき、とてもはっきりしていた随身の声も、ふと中に混じって聞こえる。 |
などと言っているのも、世間に通じない |
【いとこの世遠く、田舎びにたりや】- 以下「近きたよりなりける」まで、語り手の批評とも浮舟の心中とも読める混然とした視点からの叙述。『一葉抄』は「双紙詞也」と指摘。『集成』は「聞いている浮舟の心中を代弁した形の草子地」。『完訳』は「浮舟の心中に即した地の文。京の貴族世界から絶縁した尼たちの物言いに、複雑な感慨を催す」と注す。 【まことにさにやあらむ】- 『集成』は「浮舟の心中を地の文で直叙する」と注す。 |
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1.5.6 | 月日の過ぎ行くままに、昔のことがこのように忘れられないでいるのも、「今さらどうなることでもない」と嫌な気持ちになるので、阿弥陀仏に思いを紛らわして、ますます無口になっていた。 横川に行き来する人だけが、この近辺では身近な人なのであった。 |
月日が過ぎれば過ぎるほど昔を恋しく思ったりすることは何にもならぬむだなことであると情けなく姫君は思い、 |
【近きたよりなりける】- 『集成』「親しく目にする人なのであった」。『完訳』は「俗世を身近に知る頼りなのであった」と注す。 |
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第二章 浮舟の物語 浮舟、小君との面会を拒み、返事も書かない |
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第一段 薫、浮舟のもとに小君を遣わす |
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2.1.1 | かの |
あの殿は、「この子をそのまま遣わそう」とお思いになったが、人目が多くて不都合なので、殿にお帰りになって、翌日、特別に出発させなさる。 親しくお思いになる人で、大した身分でない者を二、三人、付けて、昔もいつも使者としていた随身をお加えになった。 人が聞いていない間にお呼び寄せになって、 |
薫は常陸の子を帰途にすぐ小野の家へやろうと思ったのであるが、従えている人の多いために避けて |
【かの殿は、「この子をやがてやらむ」と】- 薫は小君を帰途の際に草庵に遣わそうと考えてみる。 【睦ましく思す人の、ことことしからぬ二、三人】- 薫の腹心の家来二、三人を小君のお供をさせる。格助詞「の」同格を表す。 【随身】- 「浮舟」巻に登場した随身。かつて薫の手紙を浮舟に届けた人物。 |
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2.1.2 | 「あこが なかなか その |
「そなたの亡くなった姉の顔は、覚えているか。 今はこの世にいない人と諦めていたが、まことに確かに、生きていらっしゃると言うのだ。 他人には聞かせまいと思うので、行って確かめよ。 母にも、まだ言ってはならない。 かえって驚いて大騒ぎするうちに、知ってはならない人まで知ってしまおう。 その母親のお嘆きがおいたわしいので、このようにして確かめるのだ」 |
「おまえの亡くなった姉様の顔は覚えているか、もう死んだ人だとあきらめていたのだが、確かに生きていられるのだよ。ほかの人たちには知らしたくないと思っているのだから、おまえが行って逢って来るがいい。母にはまだ今のうちは言わないほうがいい。驚いて大騒ぎをするだろうから、そんなことはかえって知らない人にまでいろいろなことを知らせてしまうことになるよ。母の悲しみを思って私はあの人を捜し出すのにこんなに骨を折っているのだ。ある時までは口外するな」 |
【あこが亡せにし姉の】- 以下「かくも尋ぬれ」まで、薫の詞。 【知るまじき人も知りなむ】- 『完訳』は「真相を知ってはならぬ人。匂宮を念頭に置いていよう」と注す。 |
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2.1.3 | と、今からもう厳重に口封じなさるのを、子供心にも、姉弟は多いが、この姉君の器量を、他に似る者がないと思い込んでいたので、お亡くなりになったと聞いて、とても悲しいと思い続けていたが、このようにおっしゃるので、嬉しさに涙が落ちるのを、恥ずかしいと思って、 |
といましめるのを聞いて、子供心にも、兄弟は多いが上の姫君の美に及ぶ人はだれもないと思い込んでいたところが、死んでしまったと聞き非常に悲しいことであるといつもいつも思っているのに、こんなうれしい話を知ったのであるから感激して涙もこぼれてくるのを、恥ずかしいと思い、 |
【姉弟は多かれど】- 小君の姉弟。 【この君の容貌をば】- 浮舟の美貌を。 【思ひしみたりしに】- 主語は小君。 |
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2.1.4 | 「を、を」 |
「はい、はい」 |
「はあい」 |
【を、を】- 『集成』は「「唯唯」の字を当てる。目上に対して応諾の旨を応える言葉」。『完訳』は「かしこまった態度での返事」と注す。 |
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2.1.5 | とぶっきらぼうに申し上げた。 |
と荒々しい声を出して紛らした。 |
【荒らかに聞こえゐたり】- 『集成』は「ぶっきらぼうに。涙を隠す気持からわざわざ乱暴に言う」と注す。 |
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2.1.6 | かしこには、まだつとめて、 |
あちらでは、まだ早朝に、僧都の御もとから、 |
小野の家へはまだ早朝に僧都の所から、 |
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2.1.7 | 「昨夜、大将殿のお使いで、小君が参られたでしょうか。 事情をお聞き致しまして、困ったことで、かえって気後れしておりますと、姫君に申し上げてください。 拙僧自身で申し上げなければならないことも多いが、今日明日が過ぎてから伺いましょう」 |
昨夜大将のお使いで |
【昨夜、大将殿の御使にて】- 以下「さぶらふべし」まで、僧都から妹尼君への手紙文。僧都は昨夜の帰途中に小君を遣わしたかと推測して言う。 【ことの心承りしに】- ことの真相。浮舟の失踪から入水。 【あぢきなく、かへりて臆しはべりてなむ】- 『集成』は「浮舟を出家させたことを、功徳になることであるにもかかわらず後悔している趣」と注す。 【姫君に聞こえたまへ】- あなた妹尼君から浮舟へ。 |
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2.1.8 | と 「これは |
と書いていらっしゃった。 「これはどうしたことか」と尼君は驚いて、こちらに持って来てお見せ申し上げなさると、顔が赤くなって、「世間に知られたのではないか」とつらく、「隠し事をしていた」と恨まれることを思い続けると、答えようもなくてじっとしていらっしゃると、 |
こんな手紙が尼君へ来た。驚いて姫君の所へ持って来て見せるとその人は顔を赤くして、自分のことが明らかに知れてしまったのであろうか、物隠しをし続けたと尼君に恨まれてもしかたのない義理の立たぬことであると思うと、返辞のしようもなくそのまま黙っていると、 |
【これは何ごとぞ】- 妹尼君の心中。驚きと疑問。 【こなたへ】- 浮舟のもとへ。ただし、妹尼君と浮舟は同じ対の屋に生活している。 【見せたてまつりたまへば】- 妹尼君が浮舟に。 【面うち赤みて】- 主語は浮舟。 【ものの聞こえのあるにや】- 以下、浮舟の心中に即した叙述。 【恨みられむを】- 「られ」受身の助動詞。浮舟が妹尼君から。 |
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2.1.9 | 「やはり、おっしゃってください。 情けなく他人行儀ですこと」 |
「今でもいいのですから言ってください。恨めしいお心ですね、私に隔てをお持ちになって」 |
【なほ、のたまはせよ。心憂く思し隔つること】- 妹尼君の詞。 |
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2.1.10 | と、いみじく |
と、ひどく恨んで、事情を知らないので、慌てるばかりの騷ぎのところに、 |
と恨めしがるのであるが、何がどうであるかの理解はまだできないで、尼君はただわくわくとしているうちに、 |
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2.1.11 | 「山から、僧都のお手紙といって、参上した人が来ました」 |
「山の僧都のお手紙を持っておいでになった方があります」 |
【山より、僧都の】- 以下「人なむある」まで、小君に同行した従者の、案内を乞う口上。 |
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2.1.12 | と申し入れた。 |
と女房がしらせに来た。 |
【と言ひ入れたり】- と言って差し入れた、の意。訪問者の詞であることがわかる。 |
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第二段 小君、小野山荘の浮舟を訪問 |
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2.2.1 | 不思議に思うが、「これこそは、それでは、確かなお手紙であろう」と思って、 |
怪しく尼君は思うのであるが、今度のがものを分明にしてくれる兄の手紙であろう、使いでもあろうと思い、 |
【あやしけれど】- 『完訳』は「少し前に僧都からの消息が届いたばかりなのにと、不審な気持」と注す。 【これこそは】- 以下「御消息ならめ」まで、妹尼君の心中の思い。 |
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2.2.2 | 「こなたに」 |
「こちらに」 |
「こちらへ」 |
【こなたに】- 妹尼君の詞。小君を中に招じ入れる。 |
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2.2.3 | と |
と言わせなさると、とても小ぎれいでしなやかな童で、何とも言えないような着飾った者が、歩いて来た。 円座を差し出すと、簾の側にちょこんと座って、 |
と言わせると、きれいなきゃしゃな姿で美装した |
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2.2.4 | 「このような形では、お持てなしを受けることはないと、僧都は、おっしゃっていました」 |
「こんなふうなお取り扱いは受けないでいいように僧都はおっしゃったのでしたが」 |
【かやうにては】- 以下「のたまひしか」まで、小君の詞。『集成』は「簀子の座というよそよそしい扱いに不満を述べる趣」と注す。 |
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2.2.5 | と |
と言うので、尼君が、お返事などなさる。 手紙を中に受け取って見ると、 |
その子はこう言った。尼君が自身で応接に出た。持参された僧都の手紙を受け取って見ると、 |
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2.2.6 | 「入道の姫君の御方へ、山から」 |
入道の姫君の御方へ、山より |
【入道の姫君の御方に、山より】- 手紙の上包の宛名と差出人名。 |
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2.2.7 | とあって、 署名なさっていた。人違いだ、などと否定す |
として署名が正しくしてあった。まちがいではないかということもできぬ気がして姫君は奥のほうへ引っ込んで、 |
【名書きたまへり】- 僧都の法名が書かれている。 |
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2.2.8 | いとはしたなくおぼえて、いよいよ |
とても体裁悪く思えて、ますます後ずさりされて、誰にも顔を見せない。 |
人に顔も見合わせない。平生も晴れ晴れしくふるまう人ではないが、こんなふうであるために、 |
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2.2.9 | 「いつも控え目でいらっしゃる人柄だが、とても嫌な、情ない方」 |
「どうしたことでしょう」 |
【常にほこりかならず】- 以下「うたて心憂し」まで、妹尼君の詞。 |
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2.2.10 | など |
などと言って、僧都の手紙を見ると、 |
などと言い、尼君が僧都の手紙を開いて読むと、 |
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2.2.11 | 「 |
「今朝、こちらに大将殿がおいでになって、ご事情をお尋ねになるので、初めからの有様を詳しく申し上げてしまいました。 ご愛情の深いお二方の仲を背きなさって、賤しい山家の中で出家なさったことは、かえって、仏のお叱りを受けるはずのことを、うかがって驚いています。 |
【今朝、ここに大将殿のものしたまひて】- 以下「小君聞こえたまひてむ」まで、僧都の手紙文。「今朝」とは昨日のこと。 【御ありさま】- あなた浮舟の身上について。 【かへりては、仏の責め添ふべきことなる】- 『集成』は「「かへりて」は、仏のおほめにあずかるどころではなく、かえって、の意。薫に愛執の思いの断ちがたいものがあることをいう」。『完訳』は「浮舟が薫の愛執を処理せずに出家したから」と注す。 |
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2.2.12 | いかがはせむ。 もとの ことごとには、みづからさぶらひて かつがつ、この |
しようがありません。 もともとのご宿縁を間違いなさらず、愛執の罪をお晴らし申し上げなさって、一日の出家の功徳は、無量のものですから、やはりご期待なさいませと。 詳細は、拙僧自身お目にかかって申し上げましょう。 とりあえず、この小君が申し上げなさることでしょう」 |
しかたのないことです。もとの夫婦の道へお帰りになって、一方が作る愛執の念を晴らさせておあげになり、なお一日の出家の功徳は無量とされているのですから、もとに帰られたあとも御仏をおたよりになされるがよろしいと私は申し上げます。いろいろのことはまた自身でまいって申し上げましょう。また十分ではなくてもこの小君が今日のことをあなたに通じてくださるかと思います。 |
【もとの御契り過ちたまはで、愛執の罪をはるかしきこえたまひて】- 『集成』は「もともとの(薫との)夫婦のご縁をお損いになることなく、(薫の)愛執の罪をお晴らし申し上げなさって。浮舟の還俗をすすめる趣旨」。『完訳』は「薫と結ばれるご縁をそこなわず、薫が浮舟を思う愛執の罪を晴らし申されて。「もとの御契り」は一説に、浮舟の前世依頼の宿縁」と注す。 【一日の出家の功徳は、はかりなきものなれば】- 『心地観経』他に見える。 【なほ頼ませたまへとなむ】- 『集成』は「(還俗しても)なお安んじて(その功徳に)おすがりなさるようにと存じます」と注す。 【この小君聞こえたまひてむ】- この小君があなたに申し上げましょう、の意。 |
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2.2.13 | と |
と書いてあった。 |
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第三段 浮舟、小君との面会を拒む |
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2.3.1 | まがふべくもあらず、 |
疑う余地もなく、はっきりお書きになっているが、他の人には事情が分からない。 |
書面を見れば事が |
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2.3.2 | 「この君は、どなたでいらっしゃのだろう。 やはり、とても情けない。 今になってさえ、このようにひたすらお隠しになっている」 |
「あの小君は何にあたる方ですか、恨めしい方、今になってもお隠しなさるのね」 |
【この君は、誰れにか】- 以下「隔てさせたまふ」まで、妹尼君の詞。 |
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2.3.3 | と |
と責められて、少し外の方を向いて御覧になると、この子は、これが最期と思った夕暮れにも、とても恋しいと思った人なのであった。 一緒の所に住んでいたときは、とても意地悪で、妙に生意気で憎らしかったが、母親がとてもかわいがって、宇治にも時々連れておいでになったので、少し大きくなってからは、お互いに仲好くしていた。 |
と尼君に責められて、少し外のほうを向いて見ると、来た小君は自殺の決心をした夕べにも恋しく思われた弟であった。同じ家にいたころはまだわんぱくで、両親の愛におごっていて、憎らしいところもあったが、母が非常に愛していて、宇治へもときどきつれて来たので、そのうち少し大きくもなっていて双方で |
【責められて】- 「られ」受身の助動詞。主語は浮舟。 【今はと世を思ひなりし夕暮れに】- 大島本は「夕暮に」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「夕暮にも」と「も」を補訂する。『新大系』は底本のまま「夕暮に」とする。浮舟が入水を決意した折に。 【同じ所にて見しほどは】- 幼少時を回想。常陸介邸で弟の小君と一緒だったころ。 【かたみに思へり】- 大島本は「かたみにおもへり」とある。『集成』『完本』は諸本に従って「思へりし」と「し」を補訂して文を続ける。『新大系』は底本のまま「思へり」とする。 |
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2.3.4 | まづ、 |
子供心を思い出すにつけても、夢のようである。 真先に、母親の様子を、とても尋ねたく、「その他の人びとについては自然とだんだん聞くが、母親がどうしていらっしゃるかは、少しも聞くことができない」と、なまじこの子を見たばかりに、とても悲しくなって、ぽろぽろと涙がこぼれた。 |
子であると思い出してさえ夢のようにばかり浮舟には思われた。何よりも母がどうしているかと聞きたく思われるのであった。他の人々のことは近ごろになってだれからともなく |
【異人びとの上は】- 以下「え聞かずかし」まで、浮舟の心中を叙述。薫や匂宮については。 |
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2.3.5 | たいそう可憐で、少し似ていらっしゃるところがあるように思われるので、 |
小君は美しくて少し似たところもあるように他人の目には思われるのであったから、 |
【すこしうちおぼえたまへる心地もすれば】- 主語は妹尼君。小君が浮舟に似ている。 |
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2.3.6 | 「ご姉弟でいらっしゃるようだ。 お話し申し上げたくお思いでいることもあろう。 内にお入れ申そう」 |
「御 |
【御兄弟にこそ】- 以下「入れたてまつらむ」まで、妹尼君の詞。 【内に】- 御簾の内側、廂間の中へ。 |
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2.3.7 | と言うのを、「どうして、今はもう生きている者と思っていないのに、尼姿に身を変えて、急に会うのも気がひける」と思うと、しばらくためらって、 |
と尼君が言う。それには及ばぬ、もう自分は死んだものとだれも思ってしまったのであろうのに、今さら尼という変わった姿になって、身内の者に逢うのは恥ずかしいと浮舟は思い、しばらく黙っていたあとで、 |
【何か、今は】- 以下「恥づかし」まで、浮舟の心中の思い。 |
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2.3.8 | 「げに、 あさましかりけむありさまは、 いかにもいかにも、 |
「おっしゃるとおり、隠し事があると、お思いになるのがつらくて、何も申すことができません。 情けなかった姿は、珍しいことだと御覧になったでしょうが、正気も失い、魂などと申すものも、以前とは違ったものになってしまったのでしょうか。 何ともかとも、過ぎ去った昔のことを、自分ながら全然思い出すことができないところに、紀伊守とかいった人が、世間話をした中で、知っていた方のことかと、わずかに思い出される気がしました。 |
「身の上をくらましておきますために、いろいろなことを言うかとお思いになるのが恥ずかしくて、何もこれまでは申されなかったのですよ。想像もできませんような生きた |
【げに、隔てありと】- 以下「もて隠したまへ」まで、浮舟の詞。 【あさましかりけむありさまは】- 宇治院で発見された当時の浮舟の姿。 【紀伊守とかありし人の】- 「手習」巻に登場。妹尼君の甥の紀伊守。小野草庵を訪問して薫の法事に衣装を調達することを依頼する。 【見しあたりのことにやと】- 薫をさす。 |
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2.3.9 | その |
その後は、あれやこれやと考え続けましたが、いっこうにはっきりと思い出されませんが、ただ一人おいでになった方の、何とか幸福にと並々ならず思っていらしたような母親が、まだ生きておいでかと、そのことばかりが脳裏を離れず、悲しい時々がございますので、今日見ると、この童の顔は、小さい時に見たことのある気がするのにつけても、とても堪えがたい気がするが、今さら、このような人に、生きていると知られないで終わりたいと、存じております。 |
それからのちにいろいろと考えてみましても、はかばかしく心によみがえってくる事実はないのですが、私のために一人の親であった母は今どうしておられるだろうとそればかりは始終思われて恋しくも悲しくもなるのでしたが、今日見ますと、この少年は小さい時に見た顔のように思われまして、それによって忍びがたい気持ちはしますが、そんな人たちにも私の生きていることは知られたくないと思いますから、逢わないことにしたいと思います。 |
【ただ一人ものしたまひし人の】- 母親をさす。 【いかでと】- 何とか幸福にしてあげたい、の意。 |
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2.3.10 | あの母親が、もしこの世に生きておいででしたら、その方お一人だけには、お目にかかりたく存じております。 この僧都が、おっしゃっている方などには、まったく知られ申すまいと、存じております。 何とか工夫して、間違いであると申し上げて、隠してくださいませ」 |
もし生きておりましたならば今申しました母にだけは逢いとうございます。 |
【かの人】- 母親をさす。 【この僧都の、のたまへる人】- 薫をさす。 |
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2.3.11 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
と浮舟の姫君は言った。 |
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2.3.12 | 「まことに難しいことですね。 僧都のお考えは、聖と申すなかでも、あまりにに正直一途の方でいらっしゃいますから、まさに何も残さずに申し上げなさったことでしょう。 後で分かってしまいましょう。 いい加減な軽々しいご身分でもいらっしゃらないし」 |
「むずかしいことだと思いますね。僧都さんの性質は僧というものはそんなものであるという以上に公明正大なのですからね、もう何の虚偽もまじらぬお話をお伝えしてしまいなすったでしょうよ。隠そうとしましてもほかからずんずん事実が証明されてゆきますよ。それに御身分が並み並みのお姫様ではいらっしゃらないのだし」 |
【いと難いことかな】- 以下「おはしまさず」まで、妹尼君の詞。 【なのめに軽々しき御ほどにもおはしまさず】- 薫の身分についていう。 |
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2.3.13 | など |
などと言い騒いで、 |
この尼君から聞き、姫君が |
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2.3.14 | 「見たこともないほど強情でいらっしゃること」 |
「ひどく気のお強いことになりますから」 |
【世に知らず心強くおはしますこそ】- 女房たちの詞。浮舟の強情さを非難する。 |
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2.3.15 | と、皆で話し合って、母屋の際に几帳を立てて入れた。 |
皆で言い合わせて浮舟のいる |
【入れたり】- 小君を廂間に。 |
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第四段 小君、薫からの手紙を渡す |
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2.4.1 | この子も、そうは聞いていたが、子供なので、唐突に言葉かけるのも気がひけるが、 |
この子も姉君は生きているのだと聞かされてきているが、姉弟らしくものを言いかけるのに |
【さは聞きつれど】- 姉の浮舟がここにいると、薫から聞かされていたが。 |
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2.4.2 | 「もう一通ございますお手紙を、ぜひ差し上げたい。 僧都のお導きは、確かなことでしたのに、このようにはっきりしませんとは」 |
「もう一つ別なお手紙も持って来ているのですが、僧都のお言葉によってすべてが明らかになっていますのに、どうしてこんなに白々しくお扱いになりますか」 |
【またはべる御文】- 以下「おぼつかなくはべるこそ」まで、小君の詞。もう一通の手紙。薫から浮舟への手紙。 |
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2.4.3 | と、 |
と、伏目になって言うと、 |
とだけ伏し目になって言った。 |
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2.4.4 | 「それそれ。 まあ、かわいらしい」 |
「まあ御覧なさい、かわいらしい方ね」 |
【そそや。あな、うつくし】- 妹尼の詞。 |
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2.4.5 | など |
などと言って、 |
などと尼君は女房に言い、 |
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2.4.6 | 「お手紙を御覧になるはずの人は、ここにいらっしゃるようです。 はたの者は、どのようなことかと分からずにおりますが、さらにおっしゃってください。 幼いご年齢ですが、このようなお使いをお任せになる理由もあるのでしょう」 |
「お手紙を御覧になる方はここにいらっしゃるとまあ申してよいのですよ。こうしてあつかましく出ていますわれわれはまだ何がどうであったのかも理解できないでおります。だからあなたから私たちに話してください。お小さい方をこうしたお使いにお選びになりましたのにはわけもあることでしょう」 |
【御文御覧ずべき人は】- 以下「やうもあらむ」まで、妹尼君の詞。 |
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2.4.7 | など |
などと言うので、 |
と少年に言った。 |
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2.4.8 | 「よそよそしくなさって、はっきりしないお持てなしをなさるのでは、何を申し上げられましょう。 他人のようにお思いになっていたら、申し上げることもございません。 ただ、このお手紙を、人を介してではなく差し上げなさい、とございましたので、ぜひとも差し上げたい」 |
「知らない者のようにお扱いになる方の所ではお話のしようもありません。お愛しくださらなくなった私からはもう何も申し上げません。ただこのお手紙は人づてでなく差し上げるようにと仰せつけられて来たのですから、ぜひ手ずからお渡しさせてください」 |
【思し隔てて】- 以下「いかでたてまつらむ」まで、小君の詞。 【何事をか聞こえはべらむ】- 反語表現。何も申し上げられない。 【人伝てならで奉れ】- 薫の詞を引用。 |
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2.4.9 | と |
と言うと、 |
こう小君が言うと、 |
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2.4.10 | 「まことにごもっともです。 やはり、とてもこのように情けなくいらっしゃらないで。 いくら何でも気味悪いほどのお方ですこと」 |
「もっともじゃありませんか、そんなに意地をかたく張るものではありませんよ。あなたは優しい方だのに、一方では手のつけられぬ方ですね」 |
【いとことわりなり】- 以下「むくつけき御心にこそ」まで、妹尼君の詞。 |
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2.4.11 | とお促し申して、几帳の側に押し寄せ申したので、人心地もなく座っていらっしゃるその感じは、他人ではない気がするので、すぐそこに近寄って差し上げた。 |
と尼君は言い、いろいろに言葉を変えて勧め、几帳のきわへ押し寄せたのを知らず知らずそのままになってすわっている人の様子が、他人でないことは直感されるために、そこへ手紙を差し入れた。 |
【几帳のもとに押し寄せたてまつりたれば】- 浮舟を母屋と廂間の間の几帳のもとに。 【心地すれば】- 主語は小君。姉の浮舟であることを実感。 |
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2.4.12 | 「お返事を早く頂戴して、帰りましょう」 |
「お返事を早くいただいて帰りたいと思います」 |
【御返り疾く賜はりて、参りなむ】- 小君の詞。 |
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2.4.13 | と、かく |
と、このようにすげない態度を、つらいと思って急ぐ。 |
うといふうを見せられることが恨めしく、少年は急ぐように言う。 |
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2.4.14 | 尼君は、お手紙を開いて、お見せ申し上げる。 以前と同じようなご筆跡で、紙の香なども、いつもの、世にないまで染み込んでいた。 ちらっと見て、例によって、何にでも感心するでしゃばり者は、ほんとめったになく素晴らしいと思うであろう。 |
尼君は大将の手紙を解いて姫君に見せるのであった。昔のままの手跡で、紙のにおいは並みはずれなまでに高い。ほのかにのぞき見をして風流好きな尼君は美しいものと思った。 |
【見せたてまつる】- 薫の手紙を浮舟に。 【ものめでのさし過ぎ人、いとありがたくをかしと思ふべし】- 『細流抄』は「草子地也」。『完訳』は「以下、浮舟の心内とは無縁の妹尼を揶揄する語り手の評言」と注す。 |
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2.4.15 | 「まったく申し上げようもなく、いろいろと罪障の深いお身の上を、僧都に免じてお許し申し上げて、今は何とかして、驚きあきれたような当時の夢のような思い出話なりとも、せめてと、せかれる気持ちが、自分ながらもどかしく思われることです。 まして、傍目にはどんなに見られることでしょうか」 |
尼におなりになったという、なんとも言いようのない、私にとっては罪なお心も、僧都の高潔な心に逢って、私もお許しする気になって、そのことにはもう触れずに、過去のあの時の悲しみがどんなものであったかということだけでも話し合いたいとあせる心はわれながらもあき足らず見えます。まして他人の目にはどんなふうに映るでしょう。 |
【さらに聞こえむ方なく】- 以下「人目はいかに」まで、薫の手紙文。 【さまざまに罪重き御心をば】- 浮舟の、匂宮との密通、失踪入水未遂、無断出家等。 |
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2.4.16 | と、 |
と、お心を書き尽くしきれない。 |
と書きも終わっていないで次の歌がある。 |
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2.4.17 | 「仏法の師と思って尋ねて来た道ですが、それを道標としていたのに 思いがけない山道に迷い込んでしまったことよ |
思はぬ山にふみまどふかな |
【法の師と尋ぬる道をしるべにて--思はぬ山に踏み惑ふかな】- 薫から浮舟への贈歌。「法の師」は横川の僧都、「思はぬ山」は恋の山、をさす。 |
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2.4.18 | この子は、お忘れになったでしょうか。 わたしは、行方不明になったあなたのお形見として見ているのです」 |
この人をお見忘れになったでしょうか。私は行くえを失った方の形見にそば近く置いて慰めにながめている少年です。 |
【この人は】- 以下「見る物にてなむ」まで、薫の手紙文の続き。「この人」は小君をさす。 |
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2.4.19 | など、こまやかなり。 |
などと、とても愛情がこもっている。 |
とも書かれてあった。 |
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第五段 浮舟、薫への返事を拒む |
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2.5.1 | かくつぶつぶと |
このようにこまごまとお書きになっている様子が、紛れようもないので、そうかといって、昔の自分とも違う姿を、意外にも見つけられ申したときの、体裁の悪さなどを思い乱れて、今まで以上に晴れ晴れしくない気持ちは、何ともいいようがない。 |
こう詳細に知って書いてある人に存在の紛らしようもない自分ではないか、そうかといってその人にも、願わぬことにもかかわらず変わった姿を見つけられた時の恥ずかしさはどうであろうと |
【その人にもあらぬさまを】- 昔の自分の姿と変わった出家姿。 |
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2.5.2 | そうはいってもふと涙がこぼれて、臥せりなさったので、「まことに世間知らずのなさりようだ」と、扱いかねた。 |
さすがに泣いてひれ伏したままになっているのを、「あまりに並みをはずれた御様子ね」と言い、尼君は困っていた。 |
【いと世づかぬ御ありさまかな】- 妹尼君の心中。浮舟を見ての感想。 【見わづらひぬ】- 主語は妹尼君。 |
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2.5.3 | 「いかが |
「どのように申し上げましょう」 |
どうお返事を言えばいいのか |
【いかが聞こえむ】- 妹尼君の詞。 |
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2.5.4 | など |
などと責められて、 |
と責められて、 |
【責められて】- 「られ」受身の助動詞。浮舟は妹尼君から返事を催促される。 |
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2.5.5 | 「 すこし |
「気分がとても苦しゅうございますのを、おさまりましてから、やがて差し上げましょう。 昔のことを思い出しても、まったく思い当たることがなく、不思議で、どのような夢であったのかとばかり、分かりません。 少し気分が静まったら、このお手紙なども、分かるようなこともありましょうか。 今日は、やはりお持ち帰りください。 人違いであったら、とても体裁悪いでしょうから」 |
「今は心がかき乱されています。少し冷静になりましてから返事をいたしましょう。昔のことを思い出しましても少しもお話しするようなことは見いだせません。ですから落ち着きましたらこのお手紙の心のわかることがあるかもしれません。今日はこのまま持ってお帰しください。ひょっといただく人が違っていたりしては片腹痛いではございませんか」 |
【心地のかき乱るやうに】- 以下「かたはらいたかるべし」まで、浮舟の詞。 【持て参りたまひね】- 薫の手紙をそのまま持ち帰るように言う。 |
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2.5.6 | と言って、広げたまま、尼君にお渡しになったので、 |
と姫君は言い、手紙は |
【広げながら】- 手紙を広げたまま。 |
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2.5.7 | 「とても見苦しいなさりようですこと。 あまり不作法なのは、世話している者どもも、咎を免れないことでしょう」 |
「それでは困るではありませんか。あまりに失礼な態度をお見せになるのでは、そばにいる人も申しわけがありません」 |
【いと見苦しき御ことかな】- 以下「さりどころなかるべし」まで、妹尼君の詞。 【見たてまつる人も】- 浮舟を世話する人、僧都や自分妹尼君たちをさす。 |
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2.5.8 | など |
などと言って騒ぐのも、嫌で聞いていられなく思われるので、顔を引き入れてお臥せりになった。 |
多くの言葉でこんなことの言われるのも不快で、顔までも上に着た物の中へ引き入れて浮舟は寝ていた。 |
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2.5.9 | 主人の尼が、この君にお話を少し申し上げて、 |
主人の尼君は少年の話し相手に出て、 |
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2.5.10 | 「もののけにやおはすらむ。 |
「物の怪のせいでしょうか。 いつもの様子にお見えになる時もなく、ずっと患っていらっしゃって、お姿も尼姿におなりになったが、お探し申し上げなさる方がいたら、とても厄介なことになりましょうことよと、拝見し嘆いておりましたのも、その通りに、このようにまことにおいたわしく、胸打つご事情がございましたのを、今は、まことに恐れ多く存じております。 |
「 |
【もののけにや】- 以下「さまにてなむ」まで、妹尼君の詞。今までの経緯を小君に語る。 【尋ねきこえたまふ人あらば】- 浮舟を。 【いとわづらはしかるべきこと】- 出家を。『完訳』は「浮舟を捜し求める人々が、浮舟の尼姿に失望するだろうと、妹尼らは懸念したとする。自分たちも出家には反対だった、の気持」と注す。 |
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2.5.11 | 常日頃も、ずっとご病気がちでいらしたようなのを、ますますこのようなお手紙にお思い乱れなさったのか、いつも以上に分別がなくおいでです」 |
ずっと御気分は晴れ晴れしくないのですが、思いがけぬ御消息のございましたことでまたお心も乱れるのでしょう。平生以上に今日はお気むずかしくなっていらっしゃるようですよ」 |
【かかることどもに】- 薫からの手紙をさす。 |
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2.5.12 | と |
と申し上げる。 |
などと語っていた。 |
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第六段 小君、空しく帰り来る |
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2.6.1 | 山里らしい趣のある饗応などをしたが、子供心には、どことなくいたたまれないような気がして、 |
山里相応な |
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2.6.2 | 「わざわざお遣わしあそばされたそのしるしに、何とお返事申し上げたらよいのでしょう。 ただ一言でもおっしゃってください」 |
「私がお使いに選ばれて来ましたことに対しても何かひと言だけは言ってくださいませんか」 |
【わざと奉れさせたまへるしるしに】- 以下「のたまはせよかし」まで、小君の詞。 |
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2.6.3 | など |
などと言うと、 |
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2.6.4 | 「げに」 |
「ほんとうですこと」 |
「ほんとうに」 |
【げに】- 妹尼君の詞。 |
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2.6.5 | など |
などと言って、これこれです、とそのまま伝えるが、何もおっしゃらないので、しかたなくて、 |
と言い、それを伝えたが、姫君はものも言われないふうであるのに、尼君は失望して、 |
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2.6.6 | 「ただ、あのように、はっきりしないご様子を申し上げなさるのがよいのでしょう。 雲が遥かに遠く隔たった場所でもないようでございますので、山の風が吹いても、またきっとお立ち寄りなさいまし」 |
「ただこんなようにたよりないふうでおいでになったと御報告をなさるほかはありますまい。はるかに雲が隔てるというほどの山でもないのですから、山風は吹きましてもまた必ずお立ち寄りくださるでしょう」 |
【ただ、かく】- 以下「立ち寄らせたまひなむかし」まで、妹尼君の詞。 【雲の遥かに隔たらぬほどにも】- 『源氏釈』は「逢ふことは雲居遥かになる神の音に聞きつつ恋ひわたるかな」(古今集恋一、四八二、紀貫之)を指摘。『紹巴抄』は「引歌不及」と否定。 |
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2.6.7 | と言うので、用もないのに日暮れまでいるのも妙な具合なので、帰ろうとする。 心ひそかにお会いしたいご様子なのに、会うこともできずに終わったのを、気がかりで残念で、不満足のまま帰参した。 |
と |
【すずろにゐ暮らさむも】- 主語は小君。『完訳』は「待っていても返事を得られそうにない状態。用もなく日暮れまで長居するのを避けた」と注す。 |
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2.6.8 | いつしかと |
早く早くとお待ちになっていたが、このようにはっきりしないまま帰って来たので、期待が外れて、「かえって遣らないほうがましだった」と、お思いになることがいろいろで、「誰かが隠し置いているのであろうか」と、ご自分の想像の限りを尽くして、放ってお置きになった経験からも、と本にございますようです。 |
大将は少年の帰りを今か今かと思って待っていたのであったが、こうした要領を得ないふうで帰って来たのに失望し、その人のために持つ悲しみはかえって深められた気がして、いろいろなことも想像されるのであった。だれかがひそかに恋人として置いてあるのではあるまいかなどと、あのころ恨めしいあまりに |
【いつしかと待ちおはするに】- 主語は薫。 【なかなかなり】- 薫の心中の思い。なまじ使いなど出さねばよかった。『完訳』は「浮舟との再縁を希求するのではない、薫の本心が透視されよう」と注す。 【人の隠し据ゑたるにやあらむ】- 薫の心中の思い。かつて自分が浮舟を宇治に隠し置いた経験から、今度も誰かが隠しているのではないか、と邪推する。 【とぞ本にはべめる】- 『一葉抄』は「例の記者のわかかゝぬよしのことは也」と指摘。『全書』は「写した人の注記で、鎌倉時代以後古形を示す意図から屡々慣用された」。『大系』は「後人の書入れである。「本に侍る」の如く、地の文に「侍る」を用いたのは、大体は鎌倉に入ってからの用例で、紫式部時代には、このように地の文に、「侍り」は使わない。「とぞ」で終っているのが正しいのである」。『集成』は「写本の筆者が、原本にはこうあった、とする注記であるが、物語の大尾を示す常套句であったと考えられる」と注す。 |
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