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第三帖 空蝉

本文
渋谷栄一訳
与謝野晶子訳

 光る源氏十七歳夏の物語


第一段 空蝉の物語

1.1.1
()られたまはぬままには(われ)は、かく(ひと)(にく)まれてもならはぬを、今宵(こよひ)なむ(はじ)めて()しと()(おも)()りぬれば、()づかしくて、ながらふまじうこそ、(おも)ひなりぬれ」などのたまへば、(なみだ)をさへこぼして()したり
いとらうたしと(おぼ)
()さぐりの(ほそ)(ちひ)さきほど、(かみ)のいと(なが)からざりしけはひのさまかよひたるも、(おも)ひなしにやあはれなり。
あながちにかかづらひたどり()らむも、人悪(ひとわ)ろかるべく、まめやかにめざましと(おぼ)()かしつつ、(れい)のやうにものたまひまつはさず
夜深(よぶか)()でたまへばこの()は、いといとほしく、さうざうし(おも)ふ。
お寝みになれないままには、「わたしは、このように人に憎まれたことはないのに、今晩、初めて辛いと男女の仲を知ったので、恥ずかしくて、生きて行けないような気持ちになってしまった」などとおっしゃると、涙まで流して臥している。
とてもかわいいとお思いになる。
手触りから、ほっそりした小柄な体つきや、髪のたいして長くはなかった感じが似通っているのも、気のせいか愛しい。
むやみにしつこく探し求めるのも、体裁悪いだろうし、本当に癪に障るとお思いになりながら夜を明かしては、いつものように側につきまとわせおっしゃることもない。
夜の深いうちにお帰りになるので、この子は、たいそうお気の毒で、つまらないと思う。
眠れない源氏は、
 「私はこんなにまで人から冷淡にされたことはこれまでないのだから、今晩はじめて人生は悲しいものだと教えられた。恥ずかしくて生きていられない気がする」
 などと言うのを小君は聞いて涙さえもこぼしていた。非常にかわいく源氏は思った。思いなしか手あたりの小柄なからだ、そう長くは感じなかったあの人の髪もこれに似ているように思われてなつかしい気がした。この上しいて女を動かそうとすることも見苦しいことに思われたし、また真から恨めしくもなっている心から、それきり言づてをすることもやめて、翌朝早く帰って行ったのを、小君は気の毒な物足りないことに思った。
1.1.2
(をんな)並々(なみなみ)ならずかたはらいたしと(おも)ふに、御消息(おほんせうそく)()えてなし
(おぼ)()りにけると(おも)ふにもやがてつれなくて()みたまひなましかば()からまし
しひていとほしき御振(おほんふ)()ひの()えざらむもうたてあるべし
よきほどにかくて()ぢめてむ」と(おも)ふものから、ただならず、ながめがちなり。
女も、大変に気がとがめると思うと、お手紙もまったくない。
お懲りになったのだと思うにつけても、「このまま冷めておやめになってしまったら嫌な思いであろう。
強引に困ったお振る舞いが絶えないのも嫌なことであろう。
適当なところで、こうしてきりをつけたい」と思うものの、平静ではなく、物思いがちである。
女も非常にすまないと思っていたが、それからはもう手紙も来なかった。お憤りになったのだと思うとともに、このまま自分が忘れられてしまうのは悲しいという気がした。それかといって無理な道をしいてあの方が通ろうとなさることの続くのはいやである。それを思うとこれで結末になってもよいのであると思って、理性では是認しながら物思いをしていた。
1.1.3
(きみ)は、(こころ)づきなしと(おぼ)しながら、かくてはえ()むまじう御心(みこころ)にかかり、人悪(ひとわ)ろく(おも)ほしわびて、小君(こぎみ)に、いとつらうもうれたうもおぼゆるに、しひて(おも)(かへ)せど、(こころ)にしも(したが)はず(くる)しきを
さりぬべきをり()て、対面(たいめん)すべくたばかれ」とのたまひわたれば、わづらはしけれどかかる(かた)にても、のたまひまつはすは、うれしうおぼえけり。
源氏の君は、気にくわないとお思いになる一方で、このままではやめられなくお心にかかり、体裁悪くまでお困りになって、小君に、「とても辛く、情けなくも思われるので、無理に忘れようとするが、思いどおりにならず苦しいのだよ。
適当な機会を見つけて、逢えるように手立てせよ」とおっしゃり続けるので、やっかいに思うが、このような事柄でも、お命じになって使ってくださることは、嬉しく思われるのであった。
源氏は、ひどい人であると思いながら、このまま成り行きにまかせておくことはできないような焦慮を覚えた。
 「あんな無情な恨めしい人はないと私は思って、忘れようとしても自分の心が自分の思うようにならないから苦しんでいるのだよ。もう一度逢えるようないい機会をおまえが作ってくれ」
 こんなことを始終小君は言われていた。困りながらこんなことででも自分を源氏が必要な人物にしてくれるのがうれしかった。

第二段 源氏、再度、紀伊守邸へ

1.2.1
(をさな)心地(ここち)に、いかならむ(をり)()ちわたるに、紀伊守国(きのかみくに)(くだ)りなどして(をんな)どちのどやかなる夕闇(ゆふやみ)(みち)たどたどしげなる(まぎ)れにわが(くるま)にて()てたてまつる。
子供心に、どのような機会にと待ち続けていると、紀伊守が任国へ下ったりなどして、女たちがくつろいでいる夕闇頃の道がはっきりしないのに紛れて、自分の車で、お連れ申し上げる。
子供心に機会をねらっていたが、そのうちに紀伊守が任地へ立ったりして、残っているのは女の家族だけになったころのある日、夕方の物の見分けの紛れやすい時間に、自身の車に源氏を同乗させて家へ来た。
1.2.2
この()(をさな)きをいかならむと(おぼ)せど、さのみもえ(おぼ)のどむまじければさりげなき姿(すがた)にて(かど)など()さぬ(さき)にと、(いそ)ぎおはす。
この子も子供なので、どうだろうかとご心配になるが、そう悠長にも構えていらっしゃれなかったので、目立たない服装で、門などに鍵がかけられる前にと、急いでいらっしゃる。
なんといっても案内者は子供なのであるからと源氏は不安な気はしたが、慎重になどしてかかれることでもなかった。目だたぬ服装をして紀伊守家の門のしめられないうちにと急いだのである。
1.2.3
人見(ひとみ)(かた)より()()れて()ろしたてまつる。
(わらは)なれば、宿直人(とのゐびと)などもことに見入(みい)追従(ついせう)せず(こころ)やすし。
人目のない方から引き入れて、お降ろし申し上げる。
子供なので、宿直人なども特別に気をつかって機嫌をとらず、安心である。
少年のことであるから家の侍などが追従して出迎えたりはしないのでまずよかった。
1.2.4 東の妻戸の側に、お立たせ申し上げて、自分は南の隅の間から、格子を叩いて声を上げて入った。
御達は、
東側の妻戸の外に源氏を立たせて、小君自身は縁を一回りしてから、南の隅の座敷の外から元気よくたたいて戸を上げさせて中へはいった。女房が、
1.2.5 「丸見えです」と言っているようだ。
「そんなにしては人がお座敷を見ます」
 と小言を言っている。
1.2.6
なぞ、かう(あつ)きにこの格子(かうし)()ろされたる」と()へば、
「どうして、こう暑いのに、この格子を下ろしておられるの」と尋ねると、
「どうしたの、こんなに今日は暑いのに早く格子をおろしたの」
1.2.7 「昼から、西の御方がお渡りあそばして、碁をお打ちあそばしていらっしゃいます」と言う。
「お昼から西の対-寝殿の左右にある対の屋の一つ-のお嬢様が来ていらっしって碁を打っていらっしゃるのです」
 と女房は言った。
1.2.8
さて()かひゐたらむを()ばや(おも)ひて、やをら(あゆ)()でて、(すだれ)はさま()りたまひぬ。
そうして向かい合っているのを見たい、と思って、静かに歩を進めて、簾の隙間にお入りになった。
源氏は恋人とその継娘が碁盤を中にして対い合っているのをのぞいて見ようと思って開いた口からはいって、妻戸と御簾の間へ立った。
1.2.9 先程入った格子はまだ閉めてないので、隙間が見えるので、近寄って西の方を見通しなさると、こちら側の際に立ててある屏風は、端の方が畳まれているうえに、目隠しのはずの几帳なども、暑いからであろうか、うち掛けてあって、とてもよく覗き見ることができる。
小君の上げさせた格子がまだそのままになっていて、外から夕明かりがさしているから、西向きにずっと向こうの座敷までが見えた。こちらの室の御簾のそばに立てた屏風も端のほうが都合よく畳まれているのである。普通ならば目ざわりになるはずの几帳なども今日の暑さのせいで垂れは上げて棹にかけられている。

第三段 空蝉と軒端荻、碁を打つ

1.3.1 灯火が近くに灯してある。
母屋の中柱に横向きになっている人が自分の思いを寄せている人かと、まっさきに目をお留めになると、濃い紫の綾の単重襲のようである。
何であろうか、その上に着て、頭の恰好は小さく小柄な人で、見栄えのしない姿をしているのだ。
顔などは、向かい合っている人などにも、特に見えないように気をつけている。
手つきも痩せ痩せした感じで、ひどく袖の中に引き込めているようだ。
灯が人の座に近く置かれていた。中央の室の中柱に寄り添ってすわったのが恋しい人であろうかと、まずそれに目が行った。紫の濃い綾の単衣襲の上に何かの上着をかけて、頭の恰好のほっそりとした小柄な女である。顔などは正面にすわった人からも全部が見られないように注意をしているふうだった。痩せっぽちの手はほんの少しより袖から出ていない。
1.3.2
いま一人(ひとり)は、東向(ひんがしむ)きにて(のこ)るところなく()ゆ。
(しろ)(うすもの)単衣襲(ひとへがさね)二藍(ふたあゐ)小袿(こうちき)だつものないがしろに()なして、(くれなゐ)(こし)ひき()へる(きは)まで(むね)あらはに、ばうぞくなるもてなしなり
いと(しろ)うをかしげに、つぶつぶと()えて、そぞろかなる(ひと)の、(かしら)つき(ひたひ)つきものあざやかに、まみ(くち)つき、いと愛敬(あいぎゃう)づき、はなやかなる容貌(かたち)なり。
(かみ)はいとふさやかにて、(なが)くはあらねど、(さが)()(かた)のほどきよげに、すべていとねぢけたるところなく、をかしげなる(ひと)()えたり
もう一人は、東向きなので、すっかり見える。
白い羅の単衣に、二藍の小袿のようなものを、しどけなく引っ掛けて、紅の袴の腰紐を結んでいる際まで胸を露わにして、嗜みのない恰好である。
とても色白で美しく、まるまると太って、大柄の背の高い人で、頭の恰好や額の具合は、くっきりとしていて、目もと口もとが、とても愛嬌があり、はなやかな容貌である。
髪はとてもふさふさとして、長くはないが、垂れ具合や、肩のところがすっきりとして、どこをとっても悪いところなく、美しい女だ、と見えた。
もう一人は顔を東向きにしていたからすっかり見えた。白い薄衣の単衣襲に淡藍色の小袿らしいものを引きかけて、紅い袴の紐の結び目の所までも着物の襟がはだけて胸が出ていた。きわめて行儀のよくないふうである。色が白くて、よく肥えていて頭の形と、髪のかかった額つきが美しい。目つきと口もとに愛嬌があって派手な顔である。髪は多くて、長くはないが、二つに分けて顔から肩へかかったあたりがきれいで、全体が朗らかな美人と見えた。
1.3.3
むべこそ(おや)()になくは(おも)ふらめと、をかしく()たまふ。
心地(ここち)ぞ、なほ(しづ)かなる()()へばやとふと()ゆる。
かどなきにはあるまじ
碁打(ごう)()てて、(けち)さすわたり(こころ)とげに()えて、きはぎはとさうどけば、(おく)(ひと)はいと(しづ)かにのどめて、
道理で親がこの上なくかわいがることだろうと、興味をもって御覧になる。
心づかいに、もう少し落ち着いた感じを加えたいものだと、ふと思われる。
才覚がないわけではないらしい。
碁を打ち終えて、だめを押すあたりは、機敏に見えて、陽気に騷ぎ立てると、奥の人は、とても静かに落ち着いて、
源氏は、だから親が自慢にしているのだと興味がそそられた。静かな性質を少し添えてやりたいとちょっとそんな気がした。才走ったところはあるらしい。碁が終わって駄目石を入れる時など、いかにも利巧に見えて、そして蓮葉に騒ぐのである。奥のほうの人は静かにそれをおさえるようにして、
1.3.4
()ちたまへや
そこは()にこそあらめ。
このわたりの(こふ)をこそ」など()へど、
「お待ちなさいよ。
そこは、持でありましょう。
このあたりの、
「まあお待ちなさい。そこは両方ともいっしょの数でしょう。それからここにもあなたのほうの目がありますよ」
 などと言うが、
1.3.5
いで、このたびは()けにけり。
(すみ)のところいでいで」と(および)をかがめて、(とを)二十(はた)三十(みそ)四十(よそ)」などかぞふるさま、伊予(いよ)湯桁(ゆげた)たどたどしかるまじう()ゆ。
すこし(しな)おくれたり
「いやはや、今度は負けてしまいましたわ。
隅の所は、どれどれ」と指を折って、「十、二十、三十、四十」などと数える様子は、伊予の湯桁もすらすらと数えられそうに見える。
少し下品な感じがする。
「いいえ、今度は負けましたよ。そうそう、この隅の所を勘定しなくては」
 指を折って、十、二十、三十、四十と数えるのを見ていると、無数だという伊予の温泉の湯桁の数もこの人にはすぐわかるだろうと思われる。少し下品である。
1.3.6
たとしへなく(くち)おほひて、さやかにも()せねど()をしつけたまへればおのづから側目(そばめ)()ゆ。
()すこし()れたる心地(ここち)して、(はな)などもあざやかなるところなうねびれて、にほはしきところも()えず。
()()つれば()ろきによれる容貌(かたち)いといたうもてつけて、このまされる(ひと)よりは(こころ)あらむと、()とどめつべきさましたり。
極端に口を覆って、はっきりとも見せないが、目を凝らしていらっしゃると、自然と横顔も見える。
目が少し腫れぼったい感じがして、鼻筋などもすっきり通ってなく老けた感じで、はなやかなところも見えない。
言い立てて行くと、悪いことばかりになる容貌をとてもよく取り繕って、傍らの美しさで勝る人よりは嗜みがあろうと、目が引かれるような態度をしている。
袖で十二分に口のあたりを掩うて隙見男に顔をよく見せないが、その今一人に目をじっとつけていると次第によくわかってきた。少し腫れぼったい目のようで、鼻などもよく筋が通っているとは見えない。はなやかなところはどこもなくて、一つずついえば醜いほうの顔であるが、姿態がいかにもよくて、美しい今一人よりも人の注意を多く引く価値があった。
1.3.7
にぎははしう愛敬(あいぎゃう)づきをかしげなるを、いよいよほこりかにうちとけて、(わら)ひなどそぼるればにほひ(おほ)()えて、さる(かた)いとをかしき(ひと)ざまなり。
あはつけしとは(おぼ)しながら、まめならぬ御心(みこころ)これもえ(おぼ)(はな)つまじかりけり。
朗らかで愛嬌があって美しいそうなのを、ますます得意満面に気を許して、笑い声などを上げてはしゃいでいるので、はなやかさが多く見えて、そうした方面ではそれなりにとても美しい人である。
軽率であるとはお思いになるが、お堅くないお心には、この女も捨てておけないのであった。
派手な愛嬌のある顔を性格からあふれる誇りに輝かせて笑うほうの女は、普通の見方をもってすれば確かに美人である。軽佻だと思いながらも若い源氏はそれにも関心が持てた。
1.3.8
()たまふかぎりの(ひと)うちとけたる()なく、ひきつくろひ(そば)めたるうはべをのみこそ()たまへかくうちとけたる(ひと)のありさまかいま()などは、まだしたまはざりつることなれば、何心(なにごころ)もなうさやかなるはいとほしながら(ひさ)しう()たまはまほしきに小君出(こぎみい)()心地(ここち)すれば、やをら()でたまひぬ。
ご存じの範囲の女性は、くつろいでいる時がなく、取り繕って横顔を向けたよそゆきの態度ばかりを御覧になるだけだが、このように気を許した女の様子ののぞき見などは、まだなさらなかったことなので、気づかずにすっかり見られているのは気の毒だが、しばらく御覧になりたいとは思いながらも、小君が出て来そう気がするので、そっとお出になった。
源氏のこれまで知っていたのは、皆正しく行儀よく、つつましく装った女性だけであった。こうしただらしなくしている女の姿を隙見したりしたことははじめての経験であったから、隙見男のいることを知らない女はかわいそうでも、もう少し立っていたく思った時に、小君が縁側へ出て来そうになったので静かにそこを退いた。
1.3.9 渡殿の戸口に寄り掛かっていらっしゃっる。
とても恐れ多いと思って、
そして妻戸の向かいになった渡殿の入り口のほうに立っていると小君が来た。済まないような表情をしている。
1.3.10 「珍しくお客がおりまして、近くにまいれません」
「平生いない人が来ていまして、姉のそばへ行かれないのです」
1.3.11
さて、今宵(こよひ)もや(かへ)してむとする。
いとあさましう、からうこそあべけれ」とのたまへば、
「それでは、今夜も帰そうとするのか。
まったくあきれて、ひどいではないか」とおっしゃると、
「そして今晩のうちに帰すのだろうか。逢えなくてはつまらない」
1.3.12 「いいえ決して。
あちらに帰りましたら、きっと手立てを致しましょう」と申し上げる。
「そんなことはないでしょう。あの人が行ってしまいましたら私がよくいたします」
 と言った。
1.3.13
さもなびかしつべき気色(けしき)にこそはあらめ。
(わらは)なれど、ものの(こころ)ばへ、(ひと)気色見(けしきみ)つべくしづまれるを」と、(おぼ)すなりけり。
「そのように何とかできそうな様子なのであろう。
子供であるが、物事の事情や、人の気持ちを読み取れるくらい落ち着いているから」と、お思いになるのであった。
さも成功の自信があるようなことを言う、子供だけれど目はしがよく利くのだからよくいくかもしれないと源氏は思っていた。
1.3.14 碁を打ち終えたのであろうか、衣ずれの音のする感じがして、女房たちが各部屋に下がって行く様子などがするようである。
碁の勝負がいよいよ終わったのか、人が分かれ分かれに立って行くような音がした。
1.3.15 「若君はどこにいらっしゃるのでしょうか。
この御格子は閉めましょう」と言って、物音を立てさせているのが聞こえる。
「若様はどこにいらっしゃいますか。このお格子はしめてしまいますよ」
 と言って格子をことことと中から鳴らした。
1.3.16 「静かになったようだ。
入って、それでは、うまく工夫せよ」とおっしゃる。
「もう皆寝るのだろう、じゃあはいって行って上手にやれ」
 と源氏は言った。
1.3.17 この子も、姉のお気持ちは曲がりそうになく堅物でいるので、話をつけるすべもなくて、人少なになった時にお入れ申し上げようと考えるのであった。
小君もきまじめな姉の心は動かせそうではないのを知って相談はせずに、そばに人の少ない時に寝室へ源氏を導いて行こうと思っているのである。
1.3.18
紀伊守(きのかみ)(いもうと)こなたにあるか。
(われ)にかいま()せさせよ」とのたまへど、
「紀伊守の妹も、
ここにいるのか。わたしにのぞき見させよ」
「紀伊守の妹もこちらにいるのか。私に隙見させてくれ」
1.3.19
いかでかさははべらむ
格子(かうし)には几帳添(きちゃうそ)へてはべり」と()こゆ。
「どうして、そのようなことができましょうか。
格子には几帳が添え立ててあります」と申し上げる。
「そんなこと、格子には几帳が添えて立ててあるのですから」
 と小君が言う。
1.3.20
さかし、されどもをかしく(おぼ)せど、()つとは()らせじ、いとほし」と(おぼ)して、夜更(よふ)くることの(こころ)もとなさをのたまふ。
もっともだ、しかしそれでも興味深くお思いになるが、「見てしまったとは言うまい、気の毒だ」とお思いになって、夜の更けて行くことの遅いことをおっしゃる。
そのとおりだ、しかし、そうだけれどと源氏はおかしく思ったが、見たとは知らすまい、かわいそうだと考えて、ただ夜ふけまで待つ苦痛を言っていた。
1.3.21 今度は、
妻戸を叩いて入って行く。女房たちは
小君は、今度は横の妻戸をあけさせてはいって行った。
 女房たちは皆寝てしまった。
1.3.22
この障子口(さうじぐち)まろは()たらむ
風吹(かぜふ)きとほせ」とて、畳広(たたみひろ)げて()
御達(ごたち)(ひんがし)(ひさし)にいとあまた()たるべし
戸放(とはな)ちつる(わらはべ)もそなたに()りて()しぬれば、とばかり空寝(そらね)して、灯明(ひあ)かき(かた)屏風(びゃうぶ)(ひろ)げて(かげ)ほのかなるにやをら()れたてまつる。
「この障子の口に、僕は寝ていよう。
風よ吹き抜けておくれ」と言って、畳を広げて横になる。
女房たちは、東廂に大勢寝ているのだろう。
妻戸を開けた女童もそちらに入って寝てしまったので、しばらく空寝をして、灯火の明るい方に屏風を広げて、うす暗くなったところに、静かにお入れ申し上げる。
「この敷居の前で私は寝る。よく風が通るから」
 と言って、小君は板間に上敷をひろげて寝た。女房たちは東南の隅の室に皆はいって寝たようである。小君のために妻戸をあげに出て来た童女もそこへはいって寝た。しばらく空寝入りをして見せたあとで、小君はその隅の室からさしている灯の明りのほうを、ひろげた屏風で隔ててこちらは暗くなった妻戸の前の室へ源氏を引き入れた。
1.3.23
いかにぞ、をこがましきこともこそ」と(おぼ)すに、いとつつましけれど、(みちび)くままに母屋(もや)几帳(きちゃう)帷子引(かたびらひ)()げて、いとやをら()りたまふとすれど、皆静(みなしづ)まれる()の、御衣(おほんぞ)のけはひやはらかなるしも、いとしるかりけり
「どうなることか、愚かしいことがあってはならない」とご心配になると、とても気後れするが、手引するのに従って、母屋の几帳の帷子を引き上げて、たいそう静かにお入りになろうとするが、皆寝静まっている夜の、お召物の衣ずれの様子は、柔らかであるのが、かえってはっきりとわかるのであった。
人目について恥をかきそうな不安を覚えながら、源氏は導かれるままに中央の母屋の几帳の垂絹をはねて中へはいろうとした。
 それはきわめて細心に行なっていることであったが、家の中が寝静まった時間には、柔らかな源氏の衣摺れの音も耳立った。

第四段 空蝉逃れ、源氏、軒端荻と契る

1.4.1
(をんな)さこそ(わす)れたまふをうれしきに(おも)ひなせど、あやしく(ゆめ)のやうなることを、(こころ)(はな)るる(をり)なきころにて、(こころ)とけたる()だに()られずなむ、(ひる)はながめ、(よる)寝覚(ねざ)めがちなれば(はる)ならぬ()()も、いとなく(なげ)かしきに碁打(ごう)ちつる(きみ)今宵(こよひ)は、こなたに」と、(いま)めかしくうち(かた)らひて()にけり
女は、あれきりお忘れなのを嬉しいと努めて思おうとはするが、不思議な夢のような出来事を、心から忘れられないころなので、ぐっすりと眠ることさえできず、昼間は物思いに耽り、夜は寝覚めがちなので、春ではないが、「木の芽」ならぬ「この目」も、休まる時なく物思いがちなのに、碁を打っていた君は、「今夜は、こちらに」と言って、今の子らしくおしゃべりして、寝てしまったのだった。
女は近ごろ源氏の手紙の来なくなったのを、安心のできることに思おうとするのであったが、今も夢のようなあの夜の思い出をなつかしがって、毎夜安眠もできなくなっているころであった。
 人知れぬ恋は昼は終日物思いをして、夜は寝ざめがちな女にこの人をしていた。碁の相手の娘は、今夜はこちらで泊まるといって若々しい屈託のない話をしながら寝てしまった。
1.4.2
(わか)(ひと)は、何心(なにごころ)なくいとようまどろみたるべし
かかるけはひの、いと(かう)ばしくうち(にほ)ふに(かほ)をもたげたるに単衣(ひとへ)うち()けたる几帳(きちゃう)隙間(すきま)(くら)けれど、うち()じろき()るけはひ、いとしるし。
あさましくおぼえてともかくも(おも)()かれず、やをら()()でて、生絹(すずし)なる単衣(ひとへ)(ひと)()て、すべり()でにけり。
若い女は、無心にとてもよく眠っているのであろう。
このような感じが、とても香り高く匂って来るので、顔を上げると、単衣の帷子を打ち掛けてある几帳の隙間に、暗いけれども、にじり寄って来る様子が、はっきりとわかる。
あきれた気持ちで、何とも分別もつかず、そっと起き出して、生絹の単衣を一枚着て、そっと抜け出したのだった。
無邪気に娘はよく睡っていたが、源氏がこの室へ寄って来て、衣服の持つ薫物の香が流れてきた時に気づいて女は顔を上げた。夏の薄い几帳越しに人のみじろぐのが暗い中にもよく感じられるのであった。静かに起きて、薄衣の単衣を一つ着ただけでそっと寝室を抜けて出た。
1.4.3
(きみ)()りたまひて、ただひとり()したるを(こころ)やすく(おぼ)す。
(ゆか)(しも)二人(ふたり)ばかり()したる。
(きぬ)()しやりて()りたまへるに、ありしけはひよりは、ものものしくおぼゆれど、(おも)ほしうも()らずかし
いぎたなきさまなどぞ、あやしく()はりて、やうやう()あらはしたまひて、あさましく(こころ)やましけれど、人違(ひとたが)へとたどりて()えむもをこがましく、あやしと(おも)ふべし、本意(ほい)(ひと)(たづ)()らむも、かばかり(のが)るる(こころ)あめればかひなう、をこにこそ(おも)はめ」と(おぼ)す。
かのをかしかりつる灯影(ほかげ)ならばいかがはせむに(おぼ)しなるも、()ろき御心浅(みこころあさ)さなめりかし
源氏の君はお入りになって、ただ一人で寝ているのを安心にお思いになる。
床の下の方に二人ほど寝ている。
衣を押しやってお寄り添いになると、先夜の様子よりは、大柄な感じに思われるが、お気づきなさらない。
目を覚まさない様子などが、妙に違って、だんだんとおわかりになって、意外なことに癪に思うが、「人違いをしてまごまごしていると見られるのも愚かしく、変だと思うだろう、目当ての女を探し求めるのも、これほど避ける気持ちがあるようなので、甲斐なく、間抜けなと思うだろう」とお思いになる。
あの美しかった灯影の女ならば、何ということはないとお思いになるのも、けしからぬご思慮の浅薄さと言えようよ。
はいって来た源氏は、外にだれもいず一人で女が寝ていたのに安心した。帳台から下の所に二人ほど女房が寝ていた。上に被いた着物をのけて寄って行った時に、あの時の女よりも大きい気がしてもまだ源氏は恋人だとばかり思っていた。あまりによく眠っていることなどに不審が起こってきて、やっと源氏にその人でないことがわかった。あきれるとともにくやしくてならぬ心になったが、人違いであるといってここから出て行くことも怪しがられることで困ったと源氏は思った。その人の隠れた場所へ行っても、これほどに自分から逃げようとするのに一心である人は快く自分に逢うはずもなくて、ただ侮蔑されるだけであろうという気がして、これがあの美人であったら今夜の情人にこれをしておいてもよいという心になった。これでつれない人への源氏の恋も何ほどの深さかと疑われる。
1.4.4
やうやう目覚(めさ)めていとおぼえずあさましきにあきれたる気色(けしき)にて、(なに)心深(こころふか)くいとほしき用意(ようい)もなし。
()(なか)をまだ(おも)()らぬほどよりは、さればみたる(かた)にて、あえかにも(おも)ひまどはず。
(われ)とも()らせじと(おも)ほせどいかにしてかかることぞと(のち)(おも)ひめぐらさむも、わがためには(こと)にもあらねど、あのつらき(ひと)の、あながちに()をつつむも、さすがにいとほしければたびたびの御方違(おほんかたたが)へにことつけたまひしさまをいとよう()ひなしたまふ。
たどらむ(ひと)心得(こころえ)つべけれど、まだいと(わか)心地(ここち)に、さこそさし()ぎたるやうなれど、えしも(おも)()かず。
だんだんと目が覚めて、まことに思いもよらぬあまりのことに、あきれた様子で、特にこれといった思慮があり気の毒に思うような心づかいもない。
男女の仲をまだ知らないわりには、ませたところがある方で、消え入るばかりに思い乱れるでもない。
自分だとは知らせまいとお思いになるが、どうしてこういうことになったのかと、後から考えるだろうことも、自分にとってはどうということはないが、あの薄情な女が、強情に世間体を憚っているのも、やはり気の毒なので、度々の方違えにかこつけてお越しになったことを、うまくとりつくろってお話しになる。
よく気のつく女ならば察しがつくであろうが、まだ経験の浅い分別では、あれほどおませに見えたようでも、そこまでは見抜けない。
やっと目がさめた女はあさましい成り行きにただ驚いているだけで、真から気の毒なような感情が源氏に起こってこない。娘であった割合には蓮葉な生意気なこの人はあわてもしない。源氏は自身でないようにしてしまいたかったが、どうしてこんなことがあったかと、あとで女を考えてみる時に、それは自分のためにはどうでもよいことであるが、自分の恋しい冷ややかな人が、世間をあんなにはばかっていたのであるから、このことで秘密を暴露させることになってはかわいそうであると思った。それでたびたび方違えにこの家を選んだのはあなたに接近したいためだったと告げた。少し考えてみる人には継母との関係がわかるであろうが、若い娘心はこんな生意気な人ではあってもそれに思い至らなかった。
1.4.5
(にく)しとはなけれど御心(みこころ)とまるべきゆゑもなき心地(ここち)して、なほかのうれたき(ひと)(こころ)をいみじく(おぼ)す。
いづくにはひ(まぎ)れてかたくなしと(おも)ひゐたらむ。
かく執念(しふね)(ひと)ありがたきものを(おぼ)すしもあやにくに(まぎ)れがたう(おも)()でられたまふ
この(ひと)なま(こころ)なく、(わか)やかなるけはひもあはれなれば、さすがに(なさ)(なさ)けしく(ちぎ)りおかせたまふ
憎くはないが、お心惹かれるようなところもない気がして、やはりあのいまいましい女の気持ちを恨めしいとお思いになる。
「どこにはい隠れて、愚か者だと思っているのだろう。
このように強情な女はめったにいないものを」とお思いになるのも、困ったことに、気持ちを紛らすこともできず思い出さずにはいらっしゃれない。
この女の、何も気づかず、初々しい感じもいじらしいので、それでも愛情こまやかに将来をお約束しおかせなさる。
憎くはなくても心の惹かれる点のない気がして、この時でさえ源氏の心は無情な人の恋しさでいっぱいだった。どこの隅にはいって自分の思い詰め方を笑っているのだろう、こんな真実心というものはざらにあるものでもないのにと、あざける気になってみても真底はやはりその人が恋しくてならないのである。
 しかし何の疑いも持たない新しい情人も可憐に思われる点があって、源氏は言葉上手にのちのちの約束をしたりしていた。
1.4.6
人知(ひとし)りたることよりもかやうなるは、あはれも()ふこととなむ、昔人(むかしびと)()ひける。
あひ(おも)ひたまへよ。
つつむことなきにしもあらねば()ながら(こころ)にもえまかすまじくなむありける。
また、さるべき(ひと)びとも(ゆる)されじかしと、かねて(むね)いたくなむ。
(わす)れで()ちたまへよ」など、なほなほしく(かた)らひたまふ。
「世間に認められた仲よりも、このような仲こそ、愛情も勝るものと、昔の人も言っていました。
あなたもわたし同様に愛してくださいよ。
世間を憚る事情がないわけでもないので、わが身ながらも思うにまかすことができなかったのです。
また、あなたのご両親も許されないだろうと、今から胸が痛みます。
忘れないで待っていて下さいよ」などと、いかにもありきたりにお話しなさる。
「公然の関係よりもこうした忍んだ中のほうが恋を深くするものだと昔から皆言ってます。あなたも私を愛してくださいよ。私は世間への遠慮がないでもないのだから、思ったとおりの行為はできないのです。あなたの側でも父や兄がこの関係に好意を持ってくれそうなことを私は今から心配している。忘れずにまた逢いに来る私を待っていてください」
 などと、安っぽい浮気男の口ぶりでものを言っていた。
1.4.7 「人が何と思いますことかと恥ずかしくて、お手紙を差し上げることもできないでしょう」と無邪気に言う。
「人にこの秘密を知らせたくありませんから、私は手紙もようあげません」
 女は素直に言っていた。
1.4.8
なべて、(ひと)()らせばこそあらめこの(ちひ)さき上人(うへびと)(つた)へて()こえむ。
気色(けしき)なくもてなしたまへ」
「誰彼となく、他人に知られては困りますが、この小さい殿上童に託して差し上げましょう。
何げなく振る舞っていて下さい」
「皆に怪しがられるようにしてはいけないが、この家の小さい殿上人ね、あれに託して私も手紙をあげよう。気をつけなくてはいけませんよ、秘密をだれにも知らせないように」
1.4.9
など()ひおきて、かの()ぎすべしたると()ゆる薄衣(うすごろも)()りて()でたまひぬ。
などと言い置いて、あの脱ぎ捨てて行ったと思われる薄衣を手に取ってお出になった。
と言い置いて、源氏は恋人がさっき脱いで行ったらしい一枚の薄衣を手に持って出た。
1.4.10
小君近(こぎみちか)()したるを()こしたまへば、うしろめたう(おも)ひつつ()ければ、ふとおどろきぬ。
()をやをら()()くるに、()いたる御達(ごたち)(こゑ)にて、
小君が近くに寝ていたのをお起こしになると、不安に思いながら寝ていたので、すぐに目を覚ました。
妻戸を静かに押し開けると、年老いた女房の声で、
隣の室に寝ていた小君を起こすと、源氏のことを気がかりに思いながら寝ていたので、すぐに目をさました。小君が妻戸を静かにあけると、年の寄った女の声で、
1.4.11 「そこにいるのは誰ですか」
「だれですか」
1.4.12
とおどろおどろしく()ふ。
わづらはしくて
と仰々しく尋ねる。
厄介に思って、
おおげさに言った。めんどうだと思いながら小君は、
1.4.13
まろぞ」と(いら)ふ。
「僕です」と答える。
「私だ」
 と言う。
1.4.14 「夜中に、これはまた、どうして外をお歩きなさいますか」
「こんな夜中にどこへおいでになるんですか」
1.4.15 と世話焼き顔で、外へ出て来る。
とても腹立たしく、
小賢しい老女がこちらへ歩いて来るふうである。小君は憎らしく思って、
1.4.16 「何でもありません。
ここに出るだけです」
「ちょっと外へ出るだけだよ」
1.4.17
とて、(きみ)()()でたてまつるに、暁近(あかつきちか)(つき)(くま)なくさし()でて、ふと(ひと)影見(かげみ)えければ
と言って、源氏の君をお出し申し上げると、暁方に近い月の光が明るく照っているので、ふと人影が見えたので、
と言いながら源氏を戸口から押し出した。夜明けに近い時刻の明るい月光が外にあって、ふと人影を老女は見た。
1.4.18 「もう一人いらっしゃるのは、誰ですか」と尋ねる。
「もう一人の方はどなた」
 と言った老女が、また、
1.4.19
民部(みんぶ)のおもとなめり
けしうはあらぬおもとの(たけ)だちかな」
「民部のおもとのようですね。
けっこうな背丈ですこと」
「民部さんでしょう。すばらしく背の高い人だね」
1.4.20
()ふ。
丈高(たけたか)(ひと)(つね)(わら)はるるを()ふなりけり
老人(おいびと)これを(つら)ねて(あり)きけると(おも)ひて、
と言う。
背丈の高い人でいつも笑われている人のことを言うのであった。
老女房は、その人を連れて歩いていたのだと思って、
と言う。朋輩の背高女のことをいうのであろう。老女は小君と民部がいっしょに行くのだと思っていた。
1.4.21 「今そのうちに、同じくらいの背丈におなりになるでしょう」
「今にあなたも負けない背丈になりますよ」
1.4.22
()()ふ、(われ)この()より()でて()
わびしければえはた()(かへ)さで渡殿(わたどの)(くち)にかい()ひて(かく)()ちたまへればこのおもとさし()りて
と言い言い、自分もこの妻戸から出て来る。
困ったが、押し返すこともできず、渡殿の戸口に身を寄せて隠れて立っていらっしゃると、この老女房が近寄って、
と言いながら源氏たちの出た妻戸から老女も外へ出て来た。困りながらも老女を戸口ヘ押し返すこともできずに、向かい側の渡殿の入り口に添って立っていると、源氏のそばへ老女が寄って来た。
1.4.23
おもとは今宵(こよひ)は、(うへ)にやさぶらひたまひつる。
一昨日(をととひ)より(はら)()みていとわりなければ、(しも)にはべりつるを、人少(ひとずく)ななりとて()ししかば昨夜参(よべま)(のぼ)りしかど、なほえ()ふまじくなむ」
「お前様は、今夜は、上に詰めていらっしゃったのですか。
一昨日からお腹の具合が悪くて、我慢できませんでしたので、下におりていましたが、人少なであると言ってお召しがあったので、昨夜参上しましたが、やはり我慢ができないようなので」
「あんた、今夜はお居間に行っていたの。私はお腹の具合が悪くて部屋のほうで休んでいたのですがね。不用心だから来いと言って呼び出されたもんですよ。どうも苦しくて我慢ができませんよ」
1.4.24
と、(うれ)ふ。
(いら)へも()かで、
と苦しがる。
返事も聞かないで、
こぼして聞かせるのである。
1.4.25
あな、腹々(はらはら)
今聞(いまき)こえむ」とて()ぎぬるに、からうして()でたまふ。
なほかかる(あり)きは軽々(かろがろ)しくあやしかりけりと、いよいよ(おぼ)()りぬべし。
「ああ、お腹が、お腹が。
また後で」と言って通り過ぎて行ったので、ようやくのことでお出になる。
やはりこうした忍び歩きは軽率で良くないものだと、ますますお懲りになられたことであろう。
「痛い、ああ痛い。またあとで」
 と言って行ってしまった。やっと源氏はそこを離れることができた。冒険はできないと源氏は懲りた。

第五段 源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る

1.5.1
小君(こぎみ)御車(みくるま)(しり)にて二条院(にでうのゐん)におはしましぬ。
ありさまのたまひて、(をさな)かりけり」とあはめたまひて、かの(ひと)(こころ)爪弾(つまはじ)きをしつつ(うら)みたまふ
いとほしうてものもえ()こえず
小君を、お車の後ろに乗せて、二条院にお帰りになった。
出来事をおっしゃって、「幼稚であった」と軽蔑なさって、あの女の気持ちを爪弾きをしいしいお恨みなさる。
気の毒で、何とも申し上げられない。
小君を車のあとに乗せて、源氏は二条の院へ帰った。その人に逃げられてしまった今夜の始末を源氏は話して、おまえは子供だ、やはりだめだと言い、その姉の態度があくまで恨めしいふうに語った。気の毒で小君は何とも返辞をすることができなかった。
1.5.2
いと(ふか)(にく)みたまふべかめれば()()(おも)()てぬ。
などか、よそにてもなつかしき(いら)へばかりはしたまふまじき。
伊予介(いよのすけ)(おと)りける()こそ」
「とてもひどく嫌っておいでのようなので、わが身もすっかり嫌になってしまった。
どうして、逢って下さらないまでも、親しい返事ぐらいはして下さらないのだろうか。
伊予介にも及ばないわが身だ」
「姉さんは私をよほどきらっているらしいから、そんなにきらわれる自分がいやになった。そうじゃないか、せめて話すことぐらいはしてくれてもよさそうじゃないか。私は伊予介よりつまらない男に違いない」
1.5.3
など、(こころ)づきなしと(おも)ひてのたまふ。
ありつる小袿(こうちき)さすがに、御衣(おほんぞ)(した)()()れて大殿籠(おほとのご)もれり。
小君(こぎみ)御前(おまへ)()せて、よろづに(うら)み、かつは、(かた)らひたまふ。
などと、気にくわないと思っておっしゃる。
先程の小袿を、そうは言うものの、お召物の下に引き入れて、お寝みになった。
小君をお側に寝かせて、いろいろと恨み言をいい、かつまた、優しくお話しなさる。
恨めしい心から、こんなことを言った。そして持って来た薄い着物を寝床の中へ入れて寝た。小君をすぐ前に寝させて、恨めしく思うことも、恋しい心持ちも言っていた。
1.5.4 「おまえは、かわいいけれど、つれない女の弟だと思うと、いつまでもかわいがってやれるともわからない」
「おまえはかわいいけれど、恨めしい人の弟だから、いつまでも私の心がおまえを愛しうるかどうか」
1.5.5
とまめやかにのたまふを、いとわびしと(おも)ひたり
と真面目におっしゃるので、とても辛いと思っている。
まじめそうに源氏がこう言うのを聞いて小君はしおれていた。
1.5.6
しばしうち(やす)みたまへど、()られたまはず。
御硯急(おほんすずりいそ)()して、さしはへたる御文(おほんふみ)にはあらで、畳紙(たたうがみ)手習(てならひ)のやうに()きすさびたまふ。
しばらくの間、横になっていられたが、お眠りになれない。
御硯を急に用意させて、わざわざのお手紙ではなく、畳紙に手習いのように思うままに書き流しなさる。
しばらく目を閉じていたが源氏は寝られなかった。起きるとすぐに硯を取り寄せて手紙らしい手紙でなく無駄書きのようにして書いた。
1.5.7 「蝉が殻を脱ぐように、
衣を脱ぎ捨てて逃げ去っていったあな
空蝉の身をかへてける木のもとに
なほ人がらのなつかしきかな
1.5.8
()きたまへるを、(ふところ)()()れて()たり
かの(ひと)いかに(おも)ふらむと、いとほしけれど、かたがた(おも)ほしかへして、(おほん)ことつけもなし
かの薄衣(うすごろも)小袿(こうちき)のいとなつかしき人香(ひとが)()めるを身近(みちか)くならして()ゐたまへり。
とお書きになったのを、懐に入れて持っていた。
あの女もどう思っているだろうかと、気の毒に思うが、いろいろとお思い返しなさって、お言伝てもない。
あの薄衣は、小袿のとても懐かしい人の香が染み込んでいるので、それをいつもお側近くに置いて見ていらっしゃった。
この歌を渡された小君は懐の中へよくしまった。あの娘へも何か言ってやらねばと源氏は思ったが、いろいろ考えた末に手紙を書いて小君に託することはやめた。
 あの薄衣は小袿だった。なつかしい気のする匂いが深くついているのを源氏は自身のそばから離そうとしなかった。
1.5.9
小君(こぎみ)かしこに()きたれば、姉君待(あねぎみま)ちつけて、いみじくのたまふ
小君が、あちらに行ったところ、姉君が待ち構えていて、厳しくお叱りになる。
小君が姉のところへ行った。空蝉は待っていたようにきびしい小言を言った。
1.5.10
あさましかりしにとかう(まぎ)らはしても、(ひと)(おも)ひけむことさりどころなきに、いとなむわりなき。
いとかう心幼(こころをさな)きを、かつはいかに(おも)ほすらむ
「とんでもないことであったのに、何とか人目はごまかしても、他人の思惑はどうすることもできないので、ほんとうに困ったこと。
まことにこのように幼く浅はかな考えを、また一方でどうお思いになっていらっしゃろうか」
「ほんとうに驚かされてしまった。私は隠れてしまったけれど、だれがどんなことを想像するかもしれないじゃないの。あさはかなことばかりするあなたを、あちらではかえって軽蔑なさらないかと心配する」
1.5.11
とて、()づかしめたまふ。
左右(ひだりみぎ)(くる)しう(おも)へどかの御手習(おほんてならひと)()でたり。
さすがに、()りて()たまふ
かのもぬけを、いかに、伊勢(いせ)をの海人(あま)しほなれてや、など(おも)ふもただならず、いとよろづに(みだ)れて
と言って、お叱りになる。
どちらからも叱られて辛く思うが、あの源氏の君の手すさび書きを取り出した。
お叱りはしたものの、手に取って御覧になる。
あの脱ぎ捨てた小袿を、どのように、「伊勢をの海人」のように汗臭くはなかったろうか、と思うのも気が気でなく、いろいろと思い乱れて。
源氏と姉の中に立って、どちらからも受ける小言の多いことを小君は苦しく思いながらことづかった歌を出した。さすがに中をあけて空蝉は読んだ。抜け殻にして源氏に取られた小袿が、見苦しい着古しになっていなかったろうかなどと思いながらもその人の愛が身に沁んだ。空蝉のしている煩悶は複雑だった。
1.5.12
西(にし)(きみ)もの()づかしき心地(ここち)してわたりたまひにけり
また()(ひと)もなきことなれば、人知(ひとし)れずうちながめてゐたり。
小君(こぎみ)(わた)(あり)くにつけても、(むね)のみ(ふた)がれど、御消息(おほんせうそこ)もなし
あさましと(おも)()(かた)もなくて、されたる(こころ)に、ものあはれなるべし
西の君も、何とはなく恥ずかしい気持ちがしてお帰りになった。
他に知っている人もいない事なので、一人物思いに耽っていた。
小君が行き来するにつけても、胸ばかりが締めつけられるが、お手紙もない。
あまりのことだと気づくすべもなくて、陽気な性格ながら、何となく悲しい思いをしているようである。
西の対の人も今朝は恥ずかしい気持ちで帰って行ったのである。一人の女房すらも気のつかなかった事件であったから、ただ一人で物思いをしていた。小君が家の中を往来する影を見ても胸をおどらせることが多いにもかかわらず手紙はもらえなかった。これを男の冷淡さからとはまだ考えることができないのであるが、蓮葉な心にも愁を覚える日があったであろう。
1.5.13
つれなき(ひと)さこそしづむれいとあさはかにもあらぬ御気色(みけしき)を、ありしながらのわが()ならばと、()(かへ)すものならねど、(しの)びがたければ、この御畳紙(おほんたたうがみ)(かた)(かた)に、
薄情な女も、そのように落ち着いてはいるが、通り一遍とも思えないご様子を、結婚する前のわが身であったらと、昔に返れるものではないが、堪えることができないので、この懐紙の片端の方に、
冷静を装っていながら空蝉も、源氏の真実が感ぜられるにつけて、娘の時代であったならとかえらぬ運命が悲しくばかりなって、源氏から未た歌の紙の端に、
1.5.14 「空蝉の羽に置く露が木に隠れて見えないように
わたしもひそかに、
うつせみの羽に置く露の木隠れて
忍び忍びに濡るる袖かな
著作権
底本 大島本
校訂 Last updated 11/23/2010(ver.2-3)
渋谷栄一校訂(C)
オリジナル  修正版  比較
ローマ字版 Last updated 9/04/2012 (ver.2-2)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
オリジナル  修正版  比較
ルビ抽出
(ローマ字版から)
Powered by 再編集プログラム v4.05
ひらがな版  ルビ抽出
挿絵
(ローマ字版から)
'Eiri Genji Monogatari'
(1650 1st edition)
Last updated 6/25/2003
渋谷栄一訳(C)(ver.1-3-1)
オリジナル  修正版  比較
現代語訳 与謝野晶子
電子化 上田英代(古典総合研究所)
底本 角川文庫 全訳源氏物語
渋谷栄一訳
との突合せ
宮脇文経
2003年8月14日

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