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第三十一帖 真木柱

光る源氏の太政大臣時代三十七歳冬十月から三十八歳十一月までの物語

本文
渋谷栄一訳
与謝野晶子訳

第一章 玉鬘の物語 玉鬘、鬚黒大将と結婚


第一段 鬚黒、玉鬘を得る

1.1.1
内裏(うち)()こし()さむこともかしこし。
しばし(ひと)にあまねく()らさじ」と(いさ)めきこえたまへどさしもえつつみあへたまはず
ほど()れどいささかうちとけたる()けしきもなく(おも)はずに()宿世(すくせ)なりけり」と、(おも)()りたまへるさまのたゆみなきを、いみじうつらし」と(おも)へどおぼろけならぬ(ちぎ)りのほど、あはれにうれしく(おも)ふ。
「帝がお聞きあそばすことも恐れ多い。
少しの間は広く世間には知らせまい」とご注意申し上げなさるが、そう隠してもお隠しきれになれない。
何日かたったが、少しもお心を開くご様子もなく、「思いの他の不運な身の上だわ」と、思い詰めていらっしゃる様子がいつまでも続くので、「ひどく恨めしい」と思うが、浅からぬご縁、しみじみと嬉しく思う。
(みかど)のお耳にはいって、御不快に思召(おぼしめ)すようなことがあってもおそれおおい。当分世間へ知らせないようにしたい」
 と源氏からの注意はあっても、右大将は、恋の勝利者である誇りをいつまでも(かげ)のことにはしておかれないふうであった。時日がたっても新しい夫人には打ち解けたところが見いだせないで、自身の運命はこれほどつまらないものであったかと、気をめいらせてばかりいる玉鬘(たまかずら)を、大将は恨めしく思いながらも、この人と夫婦になれた前生の因縁が非常にありがたかった。
1.1.2
()るままにめでたく(おも)ふさまなる御容貌(おほんかたち)、ありさまを、よそのものに見果(みは)ててやみなましよ」と(おも)ふだに(むね)つぶれて、石山(いしやま)(ほとけ)をも、(べん)御許(おもと)をも、(なら)べて(いただ)かまほしう(おも)へど、女君(おんなぎみ)の、(ふか)くものしと(うと)みにければ()じらはで()もりゐにけり
見れば見るほどにご立派で、理想的なご器量、様子を、「他人のものにしてしまうところであったよ」と思うだけでも胸がどきどきして、石山寺の観音も、弁の御許も並べて拝みたく思うが、女君がほんとうに不愉快だと嫌ったので、出仕もせずに自宅に引き籠もっているのであった。
予想したにも過ぎた佳麗な人を見ては、自分が得なかった場合にはこのすぐれた人は他人の妻になっているのであると、こんなことを想像する瞬間でさえ胸がとどろいた。石山寺の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)も、女房の弁も並べて拝みたいほどに大将は感激していたが、玉鬘からは最初の夜の彼を導き入れた女として憎まれていて、弁は新夫人の居間へ出て行くことを得しないで、部屋に引き込んでいた。
1.1.3 なるほど、たくさんお気の毒な例を、いろいろと見て来たが、思慮の浅い人のために、お寺の霊験が現れたのであった。
仏の御心(みこころ)にもその祈願は取り上げずにいられまいと思われた風流男たちの恋には効験(ききめ)がなくて、荒削りな大将に石山観音の霊験が現われた結果になった。
1.1.4
大臣(おとど)も、「(こころ)ゆかず口惜(くちを)し」と(おぼ)せど、いふかひなきことにて、()れも()れもかく(ゆる)しそめたまへることなれば()(かへ)(ゆる)さぬけしきを()せむも、(ひと)のためいとほしう、あいなし」と(おぼ)して、儀式(ぎしき)いと()なくもてかしづきたまふ。
大臣も「不満足で残念だ」とお思いになるが、今さら言ってもしかたのないことなので、「誰も彼もこのようにご承知なさったことなので、今さら態度を変えるのも、相手のためにたいそうお気の毒であり、筋違いである」とお考えになって、結婚の儀式をたいそうまたとなく立派にお世話なさる。
源氏も快心のこととはこの問題を見られなかったが、もう成立したことであって、当人はもとより実父も許容した婿を自分だけが認めない態度をとることは、自分の愛している玉鬘のためにもかわいそうであると思って、新婦の家としてする儀式を華麗に行なって、婿かしずきも重々しくした。
1.1.5
いつしかとわが殿(との)(わた)いたてまつらむことを(おも)ひいそぎたまへど、軽々(かるがる)しくふとうちとけ(わた)りたまはむに、かしこに()()りて、よくも(おも)ふまじき(ひと)ものしたまふなるがいとほしさにことづけたまひて
一日も早く、自分の邸にお迎え申し上げることをご準備なさるが、軽率にひょいとお移りなさる場合、あちらに待ち受けて、きっと好ましく思うはずのない人がいらっしゃるらしいのが、気の毒なことにかこつけなさって、
早くそのうちに自邸へ新夫人を引き取って行きたいと大将は思っているのであるが、源氏は簡単に良人(おっと)の家へ移るとしても、そこにはうれしく思っては迎えぬはずの第一夫人もいるのが、玉鬘のために気の毒であるということを理由にしてとめていた。
1.1.6
なほ、(こころ)のどかになだらかなるさまにて、(おと)なく、いづ(かた)にも、(ひと)のそしり(うら)みなかるべくをもてなしたまへ」
「やはり、ゆっくりと、波風を立てないようにして、騒がれないで、どこからも人の非難や妬みを受けないよう、お振る舞いなさい」
「何もかも穏やかに行くようにして、双方とも(そし)られたり、恨んだりすることを避けなければならない」
1.1.7
とぞ()こえたまふ。
とお申し上げなさる。
と源氏は言うのである。

第二段 内大臣、源氏に感謝

1.2.1 父内大臣は、
実父の大臣は、
1.2.2
なかなかめやすかめり。
ことにこまかなる後見(うしろみ)なき(ひと)の、なまほの()いたる宮仕(みやづか)へに()()ちて、(くる)しげにやあらむとぞ、うしろめたかりし
(こころ)ざしはありながら、女御(にょうご)かくてものしたまふをおきて、いかがもてなさまし
「かえって無難であろう。
格別親身に世話してくれる後見のない人が、なまじっかの色めいた宮仕えに出ては、辛いことであろうと、不安に思っていた。
大切にしたい気持ちはあるが、女御がこのようにいらっしゃるのを差し置いて、どうして世話できようか」
この結婚がかえってあなたのために幸福だと思う。忠実な支持者がなくて派手(はで)な宮仕えに出ては苦しいことであろうと自分は心配でならなかった。助けたい志は十分にあるが、もう後宮には女御(にょご)が出ているのであるから、私としてはどうしてあげようもないのだから
1.2.3 などと、内々におっしゃっているのであった。
なるほど、帝だと申しても、人より軽くおぼし召し、時たまお目にかかりなさって、堂々としたお扱いをなさらなかったら、軽率な出仕ということになりかねないのであった。
と、こんな意味の手紙を玉鬘へ送った。それは真理である。相手が帝でおありになっても、第一の(ちょう)はなくて、ただ御愛人であるにとめられて、あやふやな後宮の地位を与えられているようなことは、女として幸福なことではないのである。
1.2.4
三日(みか)()御消息(おほんせうそこ)ども、()こえ()はしたまひけるけしきを(つた)()きたまひてなむ、この大臣(おとど)(きみ)御心(みこころ)を、あはれにかたじけなく、ありがたし」とは(おも)ひきこえたまひける。
三日の夜のお手紙を、取り交わしなさった様子を伝え聞きなさって、こちらの大臣のお気持ちを、「ほんとうにもったいなく、ありがたい」と感謝申し上げなさるのであった。
三日の夜の式に源氏が右大将と応酬(おうしゅう)した歌のことなどを聞いた時に、内大臣は非常に源氏の好意を喜んだ。
1.2.5
かう(しの)びたまふ御仲(おほんなか)らひのことなれどおのづから、(ひと)のをかしきことに(かた)(つた)へつつ、次々(つぎつぎ)()()らしつつ、ありがたき世語(よがた)りにぞささめきける。
内裏(うち)にも()こし()してけり。
このように隠れたご関係であるが、自然と、世間の人がおもしろい話として語り伝えては、次から次へと漏れ聞いて、めったにない世間話として言いはやすのであった。
帝におかれてもお聞きあそばしたのであった。
皆ともかくも人に知らすまいとした結婚であったが、まもなくおもしろい新事実として世間はこのことを話題にし出した。帝もお聞きになった。
1.2.6
口惜(くちを)しう宿世異(すくせこと)なりける(ひと)なれど、(おぼ)しし本意(ほい)もあるを。
宮仕(みやづか)へなど、かけかけしき(すぢ)ならばこそは、(おも)()えたまはめ
「残念にも、縁のなかった人であるが、あのように望んでいられた願いもあるのだから。
宮仕えなど、妃の一人としてでは、お諦めになるのもよかろうが」
「残念だが、しかしそうした因縁だった人も、一度自分の決めたことだから後宮にはいることとは違った尚侍(ないしのかみ)の職は()める必要がない」
1.2.7 などと仰せられるのであった。
という仰せを源氏へ下された。

第三段 玉鬘、宮仕えと結婚の新生活

1.3.1
霜月(しもつき)になりぬ
神事(かみわざ)などしげく、内侍所(ないしどころ)にもこと(おほ)かるころにて、女官(にょかん)ども、内侍(ないし)ども(まゐ)りつつ(いま)めかしう人騒(ひとさわ)がしきに、大将殿(だいしゃうどの)(ひる)もいと(かく)ろへたるさまにもてなして、()もりおはするを、いと(こころ)づきなく、尚侍(かん)(きみ)(おぼ)したり。
十一月になった。
神事などが多く、内侍所にも仕事の多いころなので、女官連中、内侍連中が参上しては、はなやかに騒々しいので、大将殿は、昼もたいそう隠れたようにして籠もっていらっしゃるのを、たいそう気にくわなく、尚侍の君はお思いになっていた。
十月になった。神事が多くて内侍所(ないしどころ)が繁忙をきわめる時節で、内侍以下の女官なども長官の尚侍の意見を自邸へ聞きに来たりすることで、派手(はで)に人の出入りの多くなった所に、大将が昼も帰らずに暮らしていたりすることで尚侍は困っていた。
1.3.2
(みや)などはまいていみじう口惜(くちを)しと(おぼ)す。
兵衛督(ひゃうゑのかみ)は、(いもうと)(きた)(かた)(おほん)ことをさへ人笑(ひとわら)へに(おも)(なげ)きて、とり(かさ)ねもの(おも)ほしけれど、「をこがましう、(うら)()りても、(いま)はかひなし」と(おも)(かへ)す。
兵部卿宮などは、それ以上に残念にお思いになる。
兵衛督は、妹の北の方の事までを外聞が悪いと嘆いて、重ね重ね憂鬱であったが、「馬鹿らしく、恨んでみても今はどうにもならない」と考え直す。
失恋の悲しみをした人のたくさんある中にも兵部卿(ひょうぶきょう)の宮などはことに残念がっておいでになる一人であった。左兵衛督(さひょうえのかみ)は姉の大将夫人のこともいっしょにして世間体を悪く思ったが、恨みを言っても今さら何にもならぬのを知って沈黙していた。
1.3.3
大将(だいしゃう)は、()()てるまめ(びと)(とし)ごろいささか(みだ)れたるふるまひなくて()ぐしたまへる、名残(なごり)なく(こころ)ゆきて、あらざりしさまに(この)ましう、宵暁(よひあかつき)のうち(しの)びたまへる()()りも、(えん)にしなしたまへるを、をかしと(ひと)びと()たてまつる。
大将は、有名な堅物で、長年少しも浮気沙汰もなくて過ごしてこられたのが、すっかり変わってご満悦で、別人のようなご様子で、夜や早朝の人目を忍んでいらっしゃる出入りも、恋人らしく振る舞っていらっしゃるのを、おもしろいと女房たちは拝する。
大将は以前からまじめで通った人で、過去においては何らの恋愛問題も起こさずに来たことなどは忘れたように、生まれ変わったような恋の(やっこ)の役に満足して、風流男らしく(よい)(あかつき)に新夫人の六条院へ出入りする様子をおもしろく人々は見ていた。
1.3.4
(をんな)は、わららかににぎははしくもてなしたまふ本性(ほんじゃう)、もて(かく)して、いといたう(おも)(むす)ぼほれ、(こころ)もてあらぬさまはしるきことなれど、大臣(おとど)(おぼ)すらむこと、(みや)御心(みこころ)ざまの、心深(こころふか)う、(なさ)(なさ)けしうおはせし」などを(おも)()でたまふに、()づかしう、口惜(くちを)しう」のみ(おも)ほすに、もの(こころ)づきなき()けしき()えず。
女は、陽気にはなやかにお振る舞いなさるご性分も表に出さず、とてもひどくふさぎ込んで、自分から求めて一緒になったのでないことは誰の目からも明らかであるが、「大臣がどうお思いであろうか、兵部卿宮のお気持ちの深くやさしくいらっしゃったこと」などを思い出しなさると、「恥ずかしく、残念だ」とばかりお思いになると、何かと気に入らないご様子が絶えない。
玉鬘(たまかずら)ははなやかな心も引き込めて思い悩んでいた。自発的にできた結果でないことは第三者にもわかることであるが、源氏がどう思っているであろうということが玉鬘にはやる瀬なく苦しく思われるのであった。兵部卿の宮のお志が最も深く思われたことなどを思い出すと恥ずかしくくやしい気ばかりがされて、大将を愛することがまだできない。

第四段 源氏、玉鬘と和歌を詠み交す

1.4.1
殿(との)いとほしう(ひと)びとも(おも)(うたが)ひける(すぢ)を、(こころ)きよくあらはしたまひて、わが(こころ)ながら、うちつけにねぢけたることは(この)まずかし」と、(むかし)よりのことも(おぼ)()でて、(むらさき)(うへ)にも、
殿も、気の毒だと女房たちも疑っていたことに、潔白であることを証明なさって、「自分の心中でも、その場限りの間違ったことは好まないのだ」と、昔からのこともお思い出しになって、紫の上にも、
源氏は幾十度となく一歩をそこへまで進めようとした自身を引きとめ、世間も疑った関係が美しく清いもので終わったことを思って、自身ながらも正しくないことはできない性質であることを知った。紫夫人にも、
1.4.2
(おぼ)(うたが)ひたりしよ」
「お疑いでしたね」
「あなたは疑ってもいたではありませんか」
1.4.3
など()こえたまふ。
(いま)さらに(ひと)心癖(こころぐせ)もこそ」と(おぼ)しながら、ものの(くる)しう(おぼ)されし(とき)さてもや」と、(おぼ)()りたまひしことなればなほ(おぼ)しも()えず。
などと申し上げなさる。
「今さら、厄介な癖が出ても困る」とお思いになる一方で、何かたまらなくお思いになった時、「いっそ自分の物にしてしまおうか」と、お考えになったこともあるので、やはりご愛情も切れない。
と言ったのであった。しかし常識的には考えられないこともする物好きがあるのであるから、この先はどうなることかと源氏はみずから危うく思いながらも、恋しくてならなかった人であった玉鬘の所へ、
1.4.4
大将(だいしゃう)のおはせぬ(ひる)(かたわた)りたまへり。
女君(をんなぎみ)あやしう(なや)ましげにのみもてないたまひて、すくよかなる(をり)もなくしをれたまへるを、かくて(わた)りたまへればすこし()()がりたまひて、御几帳(みきちゃう)にはた(かく)れておはす。
大将のおいでにならない昼ころ、
お渡りになった。女君は、不思議なほど悩ましそうにばかりお振る舞いになって、さわやかな気分の時もなく萎れていらっしゃったが、このようにしてお越しになると、少し起き上がりなさって、御几帳に隠れ
大将のいない昼ごろに行ってみた。玉鬘はずっと病気のようになっていて、朗らかでいる時間もなくしおれてばかりいるのであったが、源氏が来たので、少し起き上がって、几帳(きちょう)に隠れるようにしてすわった。
1.4.5
殿(との)も、用意(ようい)ことに、すこしけけしきさまにもてないたまひて、おほかたのことどもなど()こえたまふ。
すくよかなる()(つね)(ひと)にならひてはまして()(かた)なき(おほん)けはひありさま見知(みし)りたまふにも(おも)ひのほかなる()の、()きどころなく()づかしきにも、(なみだ)ぞこぼれける。
殿も、改まった態度で、少し他人行儀にお振る舞いになって、世間一般の話などを申し上げなさる。
真面目な普通の人を夫として迎えるようになってからは、今まで以上に言いようのないご様子や有様をお分りになるにつけ、意外な運命の身の、置き所もないような恥ずかしさにも、涙がこぼれるのであった。
源氏も以前と違った父の威厳というようなものを少し見せて、普通の話をいろいろした。平凡な大将の姿ばかりを見ているこのごろの玉鬘の目に、源氏の高雅さがつくづく映るについても、意外な運命に従っている自分がきまり悪く恥ずかしくて涙がこぼれるのであった。
1.4.6
やうやう、こまやかなる御物語(おほんものがたり)になりて、(ちか)御脇息(おほんけふそく)()りかかりて、すこしのぞきつつ、()こえたまふ。
いとをかしげに面痩(おもや)せたまへるさまの、()まほしう、らうたいことの()ひたまへるにつけても、よそに見放(みはな)つも、あまりなる(こころ)のすさびぞかし」と口惜(くちを)
だんだんと、情のこもったお話になって、近くにある御脇息に寄り掛かって、少し覗き見しながら、お話し申し上げになさる。
たいそう美しげに面やつれしておいでの様子が、見飽きず、いじらしさがお加わりになっているにつけても、「他人に手放してしまうのも、あまりな気まぐれだな」と残念である。
繊細な人情の扱われる話になってから、玉鬘は脇息(きょうそく)によりかかりながら、几帳の外の源氏のほうをのぞくようにして返辞を言っていた。少し()せて可憐(かれん)さの添った顔を見ながら源氏は、それを他人に譲るとは、自身ながらもあまりに善人過ぎたことであると残念に思われた。
1.4.7 「あなたと立ち入った深い関係はありませんでしたが、
三途の川を渡る時、他の男に背負われて渡るようにはお約束
()り立ちて()みは見ねども渡り川
人のせとはた契らざりしを
1.4.8 思ってもみなかったことです」
意外なことになりましたね」
1.4.9
とて、(はな)うちかみたまふけはひ、なつかしうあはれなり
と言って、鼻をおかみになる様子、やさしく心を打つ風情である。
涙をのみながらこう言う源氏がなつかしく思われた。
1.4.10
(をんな)(かほ)(かく)して、
女は顔を隠して、
女は顔を隠しながら言う。
1.4.11 「三途の川を渡らない前に何とかしてやはり
涙の流れに浮かぶ泡のように消えてしまいたいものです」
みつせ川渡らぬさきにいかでなほ
涙のみをの(あわ)と消えなん
1.4.12
心幼(こころをさ)なの御消(おほんき)えどころや
さても、かの()()(みち)なかなるを、御手(おほんて)(さき)ばかりは、()(たす)けきこえてむや」と、ほほ()みたまひて、
「幼稚なお考えですね。
それにしても、あの三途の川の瀬は避けることのできない道だそうですから、お手先だけは、引いてお助け申しましょうか」と、ほほ笑みなさって、
源氏は微笑を見せて、
「悪い場所で消えようというのですね。しかし三途(さんず)の川はどうしても渡らなければならないそうですから、その時は手の先だけを私に引かせてくださいますか」
 と言った。
1.4.13
まめやかには(おぼ)()ることもあらむかし。
()になき()()れしさも、またうしろやすさも、この()にたぐひなきほどを、さりともとなむ、(たの)もしき
「真面目な話、お分かりになることもあるでしょう。
世間にまたといない馬鹿さ加減も、また一方で安心できるのも、この世に類のないくらいなのを、いくら何でもと、頼もしく思っています」
また、「あなたはお心の中でわかっていてくださるでしょう。類のないお人よしの、そして信頼のできる者は私で、他の男性のすることはそんなものでないことを経験なすったでしょう。と思うと私はみずから慰めることもできます」
1.4.14
()こえたまふを、いとわりなう、()(ぐる)しと(おぼ)いたれば、いとほしうて、のたまひ(まぎ)らはしつつ、
と申し上げなさるのを、ほんとうにどうすることもできず、聞き苦しいとお思いでいらっしゃるので、お気の毒になって、話をおそらしになりながら、
こんなことも言われて、苦しそうに見える玉鬘(たまかずら)に同情して、源氏は話を言い紛らせてしまった。
1.4.15
内裏(うち)にのたまはすることなむいとほしきを、なほ、あからさまに(まゐ)らせたてまつらむ。
おのがもの(りゃう)()てては、さやうの御交(おほんま)じらひもかたげなめる()なめり。
(おも)ひそめきこえし(こころ)(たが)ふさまなめれど二条(にでう)大臣(おとど)は、(こころ)ゆきたまふなれば、(こころ)やすくなむ」
「帝が仰せになることがお気の毒なので、やはり、ちょっとでも出仕おさせ申しましょう。
自分の物と家の中に閉じ込めてしまってからでは、そのようなお勤めもできにくいお身の上となりましょう。
当初の考えとは違ったかっこうですが、二条の大臣は、ご満足のようなので、安心です」
「陛下は御同情のされるもったいない仰せを下さいましたから、形式的にだけでもあなたを参内させようと思っています。家庭の妻になってしまっては、そうした務めのために御所へ出るようなことは困難らしい。単なる尚侍であることは最初の私の精神とは違っても、三条の大臣はかえって満足しておいでになることですから安心です」
1.4.16
など、こまかに()こえたまふ。
あはれにも()づかしくも()きたまふこと(おほ)かれど、ただ(なみだ)にまつはれておはす。
いとかう(おぼ)したるさまの心苦(こころぐる)しければ、(おぼ)すさまにも(みだ)れたまはず、ただ、あるべきやう御心(みこころ)づかひを(をし)へきこえたまふ。
かしこに(わた)りたまはむことを、とみにも(ゆる)しきこえたまふまじき()けしきなり
などと、こまごまとお話し申し上げなさる。
ありがたくも気恥ずかしくもお聞きになることが多いけれど、ただ涙に濡れていらっしゃる。
たいそうこんなにまで悩んでおいでの様子がお気の毒なので、お思いのままに無体な振る舞いはなさらず、ただ、心得や、ご注意をお教え申し上げなさる。
あちらにお移りになることを、直ぐにはお許し申し上げなさらないご様子である。
などと源氏は情味のこもった話をしていた。身にしむとも思い、恥ずかしいとも聞かれることは多いが、玉鬘はただ涙にとらわれていた。こんなに悲観的になっているのが哀れで、源氏は恋をささやくこともできなかった。ただ今後の大将と、その一家に対する態度などをよく教えていた。ただそのほうへ行ってしまうことは急に許そうとしないふうが見えた。

第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動


第一段 鬚黒の北の方の嘆き

2.1.1
内裏(うち)(まゐ)りたまはむことを、やすからぬことに大将思(だいしゃうおぼ)せどそのついでにやまかでさせたてまつらむ御心(みこころ)つきたまひて、ただあからさまのほどを(ゆる)しきこえたまふ
かく(しの)(かく)ろへたまふ(おほん)ふるまひも、ならひたまはぬ心地(ここち)(くる)しければ、わが殿(との)のうち修理(すり)ししつらひて、(とし)ごろは()らし(うづ)もれ、うち()てたまへりつる(おほん)しつらひ、よろづの儀式(ぎしき)(あらた)いそぎたまふ。
宮中に参内なさることを、心配なことと大将はお思いになるが、その機会に、そのまま退出おさせ申そうかとのお考えを思いつかれて、ただちょっとの暇のお許しを申し上げなさる。
このように人目を忍んでお通いになることも、お慣れにならない感じで辛いので、ご自分の邸内の修理し整えて、長年荒れさせ埋もれ、放って置かれたお部屋飾り、すべての飾りつけを立派にしてご準備なさる。
御所へ尚侍を出すことで大将は不安をさらに多く感じるのであるが、それを機会に御所から自邸へ尚侍を退出させようと考えるようになってからは、短時日の間だけを宮廷へ出ることを許すようになった。こんなふうに婿として通って来る様式などは()れないことで大将には苦しいことであったから、自邸を修繕させ、いっさいを完全に設けて一日も早く玉鬘を迎えようとばかり思っていた。今日(きょう)までは(やしき)の中も荒れてゆくに任せてあったのである。
2.1.2
(きた)(かた)(おぼ)(なげ)くらむ御心(みこころ)()りたまはず、かなしうしたまひし君達(きみたち)をも、()にもとめたまはず、なよびかに(なさ)(なさ)けしき(こころ)うちまじりたる(ひと)こそ、とざまかうざまにつけても、(ひと)のため(はぢ)がましからむことをば、()(はか)(おも)ふところもありけれ、ひたおもむきにすくみたまへる御心(みこころ)にて、(ひと)御心動(みこころうご)きぬべきこと(おほ)かり。
北の方がお嘆きになろうお気持ちもお考えにならず、かわいがっていらっしゃったお子たちにも、お目もくれなさらず、やさしく情け深い気持ちのある人ならば、何かのことにつけても、女にとって恥になるようなことには、考え及ぶところもあろうが、一徹で融通のきかないご性分なので、人のお気に障るようなことが多いのであった。
夫人の悲しむ心も知らず、愛していた子供たちも大将の眼中にはもうなかった。好色な風流男というものは、ただ一人の人だけを愛するのでなしに、だれのため、彼のためも考えて思いやりのある処置をとるものであるが、生一本な人のこうした場合の態度には一方の夫人としてはたまるまいと(あわれ)まれるものがあった。
2.1.3
女君(をんなぎみ)(ひと)(おと)りたまふべきことなし
(ひと)御本性(おほんほんじゃう)も、さるやむごとなき父親王(ちちみこ)の、いみじうかしづきたてまつりたまへるおぼえ、()(かろ)からず、御容貌(おほんかたち)なども、いとようおはしけるを、あやしう、執念(しふね)(おほん)もののけにわづらひたまひて、この(とし)ごろ、(ひと)にも()たまはず、うつし(ごころ)なき折々多(をりをりおほ)くものしたまひて、御仲(おほんなか)もあくがれてほど()にけれど、やむごとなきものとは、また(なら)(ひと)なく(おも)ひきこえたまへるをめづらしう御心移(みこころうつ)(かた)の、なのめにだにあらず、(ひと)にすぐれたまへる(おほん)ありさまよりもかの(うたが)ひおきて、皆人(みなひと)()(はか)りしことさへ(こころ)きよくて()ぐいたまひけるなどを、ありがたうあはれと(おも)ひましきこえたまふも、ことわりになむ
女君は、人にひけをお取りになるようなところはない。
お人柄も、あのような高貴な父親王がたいそう大切にお育て申された世間の評判、けっして軽々しくなく、ご器量なども、たいそう素晴らしくいらっしゃったが、妙に、しつこい物の怪をお患いになって、ここ数年来、普通の人とはお変わりになって、正気のない時々が多くおありになって、ご夫婦仲も疎遠になって長くなったが、れっきとした本妻としては、また並ぶ人もなくお思い申し上げていらっしゃったが、珍しくお心惹かれる方が、一通りどころの方でなく、人より勝れていらっしゃるご様子よりも、あの疑いを持って皆が想像していたことさえ、潔白の身でお過ごしになっていらしたことなどを、めったにない立派な態度だと、ますます深くお思い申し上げなさるのも、もっともなことである。
夫人は人に劣った女性でもなかった。身分は尊貴な式部卿(しきぶきょう)の宮の最も大切にされた長女であって、世の中から敬われてもいた。美人でもあったが、ひどい物怪(もののけ)がついて、この何年来は尋常人のようでもないのである。狂っている時が多くて、夫婦の中も遠くなっていたが、なお唯一の妻として尊重していた大将に新しい夫人ができ、それがすぐれた美しい人である点ではなくて、世間も疑っていた源氏との関係もないことであった清い処女であった点に大将の愛は強く()かれてしまった。それで第一夫人はそれだけの愛を損しているわけである。
2.1.4
式部卿宮聞(しきぶきゃうのみやき)こし()して、
式部卿宮がお聞きになって、
式部卿の宮はこの事情をお聞きになって、
2.1.5
(いま)は、しか(いま)めかしき(ひと)(わた)して、もてかしづかむ片隅(かたすみ)に、人悪(ひとわ)ろくて()ひものしたまはむも、人聞(ひとぎ)きやさしかるべし。
おのがあらむこなたは、いと人笑(ひとわら)へなるさまに(したが)ひなびかでもものしたまひなむ」
「今は、あのような若い女を迎えて、大切にするだろう片隅で、みっともなく連れ添っていらっしゃるのも、外聞も痩せるほど恥ずかしいだろう。
自分が生きているうちは、まことに世間に恥をさらして言いなりにならなくても、お過ごしになられよう」
「今後そうした若い夫人を入れて派手(はで)に暮らさせようとしている邸の片すみに小さくなって住んでいるようなことをしては、世間体もよろしくない。私の生きている間はそんな屈辱的な待遇を受けて良人(おっと)の家にいる必要はない」
2.1.6
とのたまひて、(みや)(ひんがし)(たい)(はら)ひしつらひて、(わた)したてまつらむ」と(おぼ)しのたまふを、(おや)(おほん)あたりといひながら(いま)(かぎ)りの()にて、たち(かへ)()えたてまつらむこと」と、(おも)(みだ)れたまふに、いとど御心地(みここち)もあやまりて、うちはへ()しわづらひたまふ。
とおっしゃって、宮邸の東の対を掃除し整えて、「お迎え申そう」とお考えになっておっしゃるのを、「親の御家と言っても、夫に捨てられた身の上で、再び実家に戻ってお顔を合わせ申すのも」と、思い悩みなさると、ますますご気分も悪くなって、ずっと病床にお臥せりになる。
と御意見をお言いになった。御自邸の東の対を掃除(そうじ)させて、大将夫人の移って来る場所に決めておいでになるのであった。親の家ではあっても、良人(おっと)の愛を失った女になって帰って行くことは、夫人の決心のできかねることであった。
2.1.7
本性(ほんじゃう)いと(しづ)かに(こころ)よく、()めきたまへる(ひと)の、時々(ときどき)(こころ)あやまりして(ひと)(うと)まれぬべきことなむ、うち()じりたまひける。
生まれつきは、たいそう静かで気立てもよく、おっとりとしていらっしゃる方で、時々、気がおかしくなって、人から嫌われてしまうようなことが、時たまおありなのであった。
性質の静かな善良な人で、子供らしいおおようさもある人でいながら、時々人からうとまれるような病的な発作があるのである。

第二段 鬚黒、北の方を慰める(一)

2.2.1
()まひなどの、あやしうしどけなく、もののきよらもなくやつして、いと(むも)れいたくもてなしたまへるを、(たま)(みが)ける目移(めうつ)しに(こころ)もとまらねど、(とし)ごろの(こころ)ざしひき()ふるものならねば、(こころ)には、いとあはれと(おも)ひきこえたまふ。
お住まいなどが、とんでもなく乱雑で、綺麗さもなく汚れて、たいそう塞ぎ込んでいらっしゃるのを、玉を磨いたような所を見て来た目には、気に入らないが、長年連れ添ってきた愛情が急に変わるものでもないので、心中では、たいそう気の毒にとお思い申し上げる。
住居(すまい)なども始終だらしなくなっていて、きれいなことは何一つ残っていない家にいる夫人を、玉鬘の六条院にいるのとは比べようもないのであるが、青年時代から持ち続けた大将の愛は根を張っていて、一朝一夕に変わるものでも、変えられるものでもないから、今も心では非常に妻を哀れに思っていた。
2.2.2
昨日今日(きのふけふ)いと(あさ)はかなる(ひと)御仲(おほんなか)らひだに、よろしき(きは)になれば、皆思(みなおも)ひのどむる(かた)ありてこそ見果(みは)つなれ
いと()(くる)しげにもてなしたまひつれば、()こゆべきこともうち()()こえにくくなむ。
「昨日今日の、たいそう浅い夫婦仲でさえ、悪くはない身分の人となれば、皆我慢することがあって添い遂げるものだ。
たいそう身体も苦しそうにしていらっしゃったので、申し上げなければならないこともお話し申し上げにくくてね。
「ただ昨日(きのう)今日(きょう)にできた夫婦でも、貴族の人たちは気に入らないことも、気に入らないふうを見せずに済ますものなのだ。全然人を捨ててしまうようなことをわれわれの階級の者はしないものなのだ。あなたには病苦というものがつきまとっていて、それを見るだけでも気の毒で、私の恋愛問題などを話しておこうとしても話す時がなかったのだよ。
2.2.3
(とし)ごろ(ちぎ)りきこゆることにはあらずや。
()(ひと)にも()(おほん)ありさまを、()たてまつり()てむとこそは、ここら(おも)ひしづめつつ()ぐし()るに、えさしもあり()つまじき御心(みこころ)おきてに、(おぼ)(うと)むな。
長年添い遂げ申して来た仲ではありませんか。
世間の人と違ったご様子を、最後までお世話申そうと、ずいぶんと我慢して過ごして来たのに、とてもそうは行かないようなお考えで、お嫌いなさるのですね。
以前からあなたと約束していることでしょう、あなたに病気はあっても私は一生あなたといるつもりだって、私はどんな辛抱(しんぼう)も続けてするつもりなのに、あなたはほかのことを考え出したのですね。別れてしまうようなことは考えずに私を愛してください。
2.2.4
(をさな)(ひと)びともはべればとざまかうざまにつけて、おろかにはあらじと()こえわたるを、(をんな)御心(みこころ)(みだ)りがはしきままに、かく(うら)みわたりたまふ。
ひとわたり見果(みは)てたまはぬほど、さもありぬべきことなれど、まかせてこそ、(いま)しばし御覧(ごらん)()てめ。
幼い子どもたちもいますので、何かにつけて、いいかげんにはしまいとずっと存じ上げてきたのに、女心の考えなさから、このように恨み続けていらっしゃる。
最後まで見届けないうちは、そうかも知れないことですが、信頼してこそ、もう少し御覧になっていてください。
子供もあるのだから、その点から言っても私は一生あなたを大事にすると言っているのに、女の人には困った嫉妬(しっと)というものがあって、私を恨んでばかりあなたはいる。現在だけを見ておれば、あるいはそのほうが道理かもしれないが、私を信用してしばらく冷静に見ていてくれたなら、私のあなたを思う志はどんなものかが理解できる日があるだろうと思う。
2.2.5
(みや)()こし()(うと)みて、さはやかにふと(わた)したてまつりてむと(おぼ)しのたまふなむ、かへりていと軽々(かるがる)しき。
まことに(おぼ)しおきつることにやあらむ、しばし勘事(かうじ)したまふべきにやあらむ」
式部卿宮がお聞きになりお疎みになって、はっきりとすぐにお迎え申そうとお考えになっておっしゃっているのが、かえってたいそう軽率です。
ほんとうに決心なさったことなのか、暫く懲らしめなさろうというのでしょうか」
宮様が不快にお思いになって、今すぐにお(やしき)へあなたをつれて帰ろうとお言いになるのは、かえってそのほうが軽率なことでないだろうか。実際別れさせてしまおうと思っておいでになるのだろうか。しばらく懲らしめてやろうとお思いになるのだろうか」
2.2.6 と、ちょっと笑っておっしゃる、たいそう憎らしくおもしろくない。
と笑いながら言う大将の様子には、だれからも反感を持たれるのに十分な利己主義者らしいところがあった。

第三段 鬚黒、北の方を慰める(二)

2.3.1
御召人(おほんめしうど)だちて(つか)うまつり()れたる木工(もく)(きみ)中将(ちゅうじゃう)御許(おもと)などいふ(ひと)びとだにほどにつけつつ、「やすからずつらし」と(おも)ひきこえたるを、(きた)(かた)は、うつし(ごころ)ものしたまふほどにて、いとなつかしううち()きてゐたまへり。
殿の召人といったふうで、親しく仕えている木工の君、中将の御許などという女房たちでさえ、身分相応につけて、「おもしろくなく辛い」と思い申し上げているのだから、まして北の方は、正気でいらっしゃる時なので、たいそうしおらしく泣いていらっしゃった。
大将の(しょう)のようにもなっていた木工(もく)の君や中将の君なども、それ相応に大将を恨めしく思っていたが、夫人は普通な精神状態になっている時で、なつかしいふうを見せて泣いていた。
2.3.2
みづからをほけたり、ひがひがし、とのたまひ、()ぢしむるは、ことわりなることになむ。
(みや)(おほん)ことをさへ()()ぜのたまふぞ()()きたまはむはいとほしう、()()のゆかり軽々(かるがる)しきやうなる。
耳馴(みみな)にてはべれば、(いま)はじめていかにもものを(おも)ひはべらず」
「わたしを、惚けている、僻んでいる、とおっしゃって、馬鹿にするのは、けっこうなことです。
父宮のことまでを引き合いに出しておっしゃるのは、もし、お耳に入ったらお気の毒だし、つたないわが身の縁から軽々しいようです。
耳馴れていますから、今さら何とも思いません」
「私を老いぼけた、病的な女だと侮辱なさいますのはごもっともなことですが、そんなお言葉の中に宮様のことをお混ぜになるのを聞きますと、私のような者と親子でおありになるばかりにと思われて宮様がお気の毒でなりません。私はあなたのお(うわさ)を聞くことが近ごろ始まったことでも何でもないのですから、悲しみはいたしません」
2.3.3
とて、うち(そむ)きたまへる、らうたげなり
と言って、横を向いていらっしゃる、いじらしい。
と言って横向く顔が可憐(かれん)であった。
2.3.4
いとささやかなる(ひと)の、(つね)御悩(おほんなや)みに()(おとろ)へ、ひはづにて、(かみ)いとけうらにて(なが)かりけるが、わけたるやうに()(ほそ)りて、(けづ)ることもをさをさしたまはず、(なみだ)にまつはれたるはいとあはれなり
たいそう小柄な人で、いつものご病気で痩せ衰え、ひ弱で、髪はとても清らかに長かったが、半分にしたように抜け落ちて細くなって、櫛梳ることもほとんどなさらず、涙で固まっているのは、とてもお気の毒である。
小柄な人が持病のために()せ衰えて、弱々しくなり、きれいに長い髪が分け取られたかと思うほど薄くなって、しかもその髪はよく()くこともされないで、涙に固まっているのが哀れであった。
2.3.5
こまかに(にほ)へるところはなくて、父宮(ちちみや)()たてまつりて、なまめいたる容貌(かたち)したまへるを、もてやつしたまへれば、いづこのはなやかなるけはひかはあらむ
つややかに美しいところはなくて、父宮にお似申して、優美な器量をなさっていたが、身なりを構わないでいられるので、どこに華やかな感じがあろうか。
一つ一つの顔の道具が美しいのではなくて、式部卿の宮によく似て、全体に(えん)なところのある顔を、構わないままにしてあっては、はなやかな、若々しいというような点はこの人に全然見られない。
2.3.6
(みや)(おほん)ことを(かろ)くはいかが()こゆる。
(おそ)ろしう、人聞(ひとぎ)きかたはになのたまひなしそ」とこしらへて、
「宮の御事を、軽んじたりどうして思い申そう。
恐ろしい、人聞きの悪いおっしゃりようをなさいますな」となだめて、
「宮様のことを軽々しくなど私が言うものですか。人に聞かれても恐ろしいようなことを言うものでない」などと大将はなだめて、
2.3.7
かの(かよ)ひはべる(ところ)いとまばゆき(たま)(うてな)に、うひうひしう、きすくなるさまにて()()るほども、かたがたに人目(ひとめ)たつらむと、かたはらいたければ、(こころ)やすく(うつ)ろはしてむ(おも)ひはべるなり。
「あの通っております所の、たいそう眩しい玉の御殿に、もの馴れない、生真面目な恰好で出入りしているのも、あれこれ人目に立つだろうと、気がひけるので、気楽に迎えてしまおうと考えているのです。
「私の通って行く所はいわゆる玉の(うてな)なのだからね。そんな場所へ不風流な私が出入りすることは、よけいに人目を引くことだろうと片腹痛くてね、自分の(やしき)へ早くつれて来ようと私は思うのだ。
2.3.8
太政大臣(おほきおとど)の、さる()にたぐひなき(おほん)おぼえをば、さらにも()こえず、心恥(こころは)づかしう、いたり(ふか)うおはすめる(おほん)あたりに、(にく)げなること()()こえば、いとなむいとほしう、かたじけなかるべき
太政大臣が、ああした世に比べるものもないご声望を、今さら申し上げるまでもなく、恥ずかしくなるほど、行き届いていらっしゃるお邸に、よくない噂が漏れ聞こえては、たいそうお気の毒であるし、恐れ多いことでしょう。
太政大臣が今日の時代にどれだけ勢力のある方だというようなことは今さらなことだが、あのりっぱな人格者の所へ、ここの嫉妬(しっと)騒ぎが聞こえて行くようではあの方に済まない。
2.3.9
なだらかにて、御仲(おほんなか)よくて、(かた)らひてものしたまへ。
(みや)(わた)りたまへりとも、(わす)るることははべらじ。
とてもかうても、(いま)さらに(こころ)ざしの(へだ)たることはあるまじけれど、()()こえ人笑(ひとわら)に、まろがためにも軽々(かろがろ)しうなむはべるべきを、(とし)ごろの(ちぎ)(たが)へず、かたみに後見(うしろみ)むと、(おぼ)せ」
穏やかにして、お二人仲を好くして、親しく付き合ってください。
宮邸にお渡りになっても、忘れることはございませんでしょう。
いずれにせよ、今さらわたしの気持ちが遠ざかることはあるはずはないのですが、世間の噂や物笑いに、わたしにとっても軽々しいことでございましょうから、長年の約束を違えず、お互いに力になり合おうと、お考えください」
穏やかに仲よく暮らすように心がけなければならないよ。宮のお邸へあなたが行ってしまったからといっても、私はやはりあなたを愛するだろう。夫婦の形はどうなっても今さら愛のなくなることはないのだが、世間があなたを軽率なように言うだろうし、私のためにも軽々しいことになる。長い間愛し合ってきた二人なのだから、これからも私のためになることをあなたも考えて、世話をし合おうじゃありませんか」
2.3.10
と、こしらへ()こえたまへば、
と、とりなし申し上げなさると、
とも言った。
2.3.11
(ひと)(おほん)つらさはともかくも()りきこえず。
()(ひと)にも()()()をなむ、(みや)にも(おぼ)(なげ)きて、(いま)さらに人笑(ひとわら)へなることと、御心(みこころ)(みだ)りたまふなればいとほしう、いかでか()えたてまつらむ、となむ。
「あなたのお仕打ちは、どうこうと申しません。
世間の人と違った身の病を、父宮におかれてもお嘆きになって、今さら物笑いになることと、お心を痛めていらっしゃるとのことなので、お気の毒で、どうしてお目にかかれましょう、と思うのです。
「あなたの冷酷なことがいいことか悪いことか私はもう考えません。何とも思いません。ただ私が健全な女でないことを悲しんでいます。宮様がお案じになって、娘の私の名誉などをたいそうにお考えになったり、御煩悶(はんもん)をなすったりするのがお気の毒で、私は邸へ帰りたくないと思っています。
2.3.12
大殿(おほとの)(きた)(かた)()こゆるも、異人(ことびと)にやはものしたまふ
かれは()らぬさまにて()()でたまへる(ひと)の、(すゑ)()に、かく(ひと)(おや)だちもてないたまふつらさをなむ、(おも)ほしのたまふなれどここにはともかくも(おも)はずや。
もてないたまはむさま()るばかり」
大殿の北の方と申し上げる方も、他人でいらっしゃいましょうか。
あの方は、知らない状態で成長なさった方で、後になって、このように人の親のように振る舞っていらっしゃる辛さを考えて、お口になさるようですが、わたしの方では何とも思っていませんわ。
なさりよう見ているばかりです」
六条の大臣の奥様は私のために他人ではありません。よそで育ったその人が大人(おとな)になって、養女のために姉の私の良人(おっと)を婿に取ったりするということで宮様などは恨んでいらっしゃるのですが、私はそんなことも思いませんよ。あちらでしていらっしゃることをながめているだけ」
2.3.13
とのたまへば、
とおっしゃるので、

2.3.14
いとようのたまふを(れい)御心違(みこころたが)ひにや、(くる)しきことも()()む。
大殿(おほとの)(きた)(かた)()りたまふことにもはべらず
いつき(むすめ)のやうにてものしたまへば、かく(おも)()とされたる(ひと)(うへ)までは()りたまひなむや
(ひと)御親(おほんおや)げなくこそものしたまふべかめれ
かかることの()こえあらば、いとど(くる)しかるべきこと
「たいそう良いことをおっしゃるが、いつものご乱心では、困ったことも起こるでしょう。
大殿の北の方がご存知になることでもございません。
箱入り娘のようでいらっしゃっるので、このように軽蔑された人の身の上まではご存知のはずがありません。
あの人の親らしくなくおいでのようです。
このようなことが耳に入ったら、ますます困ることでしょう」
「こんなにあなたはよく筋道の立つ話ができるのだがね。病気の起こることがあって、取り返しもつかないようなことがこれからも起こるだろうと気の毒だね。この問題に六条院の女王(にょおう)は関係していられないのだよ。今でもたいせつなお嬢様のように大臣から扱われていらっしゃる方などが、よそから来た娘のことなどに関心を持たれるわけもないのだからね。まあまったく親らしくない継母(ままはは)様だともいえるね。それだのに恨んだりしていることがお耳にはいっては済まないよ」
2.3.15
など、日一日(ひひとひい)りゐて(かた)らひ(まう)したまふ。
などと、一日中お側で、お慰め申し上げなさる。
などと、終日夫人のそばにいて大将は語っていた。

第四段 鬚黒、玉鬘のもとへ出かけようとする

2.4.1
()れぬれば、(こころ)(そら)()きたちて、いかで()でなむと(おも)ほすに、(ゆき)かきたれて()
かかる(そら)にふり()でむも人目(ひとめ)いとほしうこの()けしきも、(にく)げにふすべ(うら)みなどしたまはば、なかなかことつけて、われも(むか)()つくりてあるべきを、いとおいらかに、つれなうもてなしたまへるさまの、いと心苦(こころくる)しければ、いかにせむ、(おも)(みだ)れつつ、格子(かうし)などもさながら、端近(はしちか)ううち(なが)めてゐたまへり。
日が暮れたので、気もそぞろになって、何とか出かけたいとお思いになるが、雪がまっくらにして降っている。
このような天候にあえて出かけるのも、人目に立ってお気の毒であるし、このご様子も憎らしく嫉妬して恨みなどなさるならば、かえってそれを口実にして、自分も対抗して出て行くのだが、たいそうおっとりと、気にかけていらっしゃらない様子が、たいそうお気の毒なので、どうしようか、と迷いながら、格子なども上げたまま、端近くに物思いに耽っていらっしゃった。
日が暮れると大将の心はもう静めようもなく浮き立って、どうかして自邸から一刻も早く出たいとばかり願うのであったが、大降りに雪が降っていた。こんな天候の時に家を出て行くことは人目に不人情なことに映ることであろうし、妻が見さかいなしの嫉妬(しっと)でもするのでもあれば自分のほうからも十分に抗争して家を出て行く機会も作れるのであるが、おおように静かにしていられては、ただ気の毒になるばかりであると、大将は煩悶して格子(こうし)()ろさせずに、縁側へ近い所で庭をながめているのを、
2.4.2
(きた)(かた)けしきを()
北の方がその様子を見て、
夫人が見て、
2.4.3
あやにくなめる(ゆき)を、いかで()けたまはむとすらむ。
()()けぬめりや」
「あいにくな雪ですが、どう踏み分けてお出かけなさろうとするのでしょう。
夜も更けたようですわ」
「あやにくな雪はだんだん深くなるようですよ。時間だってもうおそいでしょう」
2.4.4
とそそのかしたまふ。
(いま)(かぎ)り、とどむとも」と(おも)ひめぐらしたまへるけしき、いとあはれなり。
とお促しになる。
「今はもうおしまいだ、引き止めたところで」と思案なさっている様子、まことに不憫である。
と外出を促して、もう自分といることに全然良人は興味を失っているのであるから、とめてもむだであると考えているらしいのが哀れに見られた。
2.4.5 「このような雪では、どうして出かけられようか」
「こんな夜にどうして」
2.4.6
とのたまふものから、
とおっしゃる一方で、
と大将は言ったのであるが、そのあとではまた反対な意味のことを、
2.4.7
なほ、このころばかり
(こころ)のほどを()らで、とかく(ひと)()ひなし、大臣(おとど)たちも、左右(ひだりみぎ)()(おぼ)さむことを(はばか)りてなむ、とだえあらむはいとほしき。
(おも)ひしづめて、なほ見果(みは)てたまへ。
ここになど(わた)しては、(こころ)やすくはべりなむ。
かく()(つね)なる()けしき()えたまふ(とき)は、ほかざまに()くる(こころ)()せてなむ、あはれに(おも)ひきこゆる」
「やはり、ここ当分の間だけは。
わたしの気持ちを知らないで、何かと人が噂し、大臣たちもあれこれとお耳になさろうことを憚って、途絶えを置くのは気の毒です。
落ち着いて、やはりわたしの気持ちをお見届けください。
こちらになど迎えたら、気がねもなくなるでしょう。
このように普通のご様子をしていらっしゃる時は、他の女に心を移すこともなくなって、いとおしくお思い申し上げます」
「当分はこちらの心持ちを知らずに、そばにいる女房などからいろんなことを言われたりして疑ったりすることもあるだろうし、また両方で大臣がこちらの態度を監視していられもするのだから、間を置かないで行く必要がある。あなたは落ち着いて、気長に私を見ていてください。(やしき)へつれて来れば、それからはその人だけを偏愛するように見えることもしないで済むでしょう。今日のように病気が起こらないでいる時には、少し外へ向いているような心もなくなって、あなたばかりが好きになる」
2.4.8
など、(かた)らひたまへば、
などと、お慰めなさると、
こんなに言っていた。
2.4.9
()ちとまりたまひても御心(みこころ)のほかならむは、なかなか(くる)しうこそあるべけれ。
よそにても、(おも)ひだにおこせたまはば、(そで)(こほり)()けなむかし
「お止まりになっても、お心が他に行っているのなら、かえってつらいことでございましょう。
他の所にいても、せめて思い出してくだされば、涙に濡れた袖の氷もきっと解けることでしょう」
「家においでになっても、お心だけは外へ行っていては私も苦しゅうございます。よそにいらっしってもこちらのことを思いやっていてさえくだされば私の(こお)った涙も解けるでしょう」
2.4.10
など、なごやかに()ひゐたまへり。
などと、穏やかにおっしゃっていられる。
夫人は柔らかに言っていた。

第五段 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける

2.5.1
御火取(おほんひと)()して、いよいよ()きしめさせたてまつりたまふ
みづからは、()えたる御衣(おほんぞ)どもうちとけたる御姿(おほんすがた)いとど(ほそ)う、か(よわ)げなり。
しめりておはする、いと心苦(こころぐる)
御目(おほんめ)のいたう()()れたるぞ、すこしものしけれどいとあはれ()(とき)は、(つみ)なう(おぼ)して、
御香炉を取り寄せて、ますます香をたきしめさせてお上げになる。
自分自身は、皺になったお召物類で、身なりを構わないお姿が、ますますほっそりとか弱げである。
沈んでいらっしゃるのは、たいそうお気の毒である。
お目をたいそう泣き腫らしているのは、少し疎ましいが、しみじみといとおしいと見る時は、咎める気もお消えになって、
火入れを持って来させて夫人は良人(おっと)の外出の衣服に香を()きしめさせていた。夫人自身は構わない着ふるした衣服を着て、ほっそりとした弱々しい姿で、気のめいるふうにすわっているのをながめて、大将は心苦しく思った。目の泣きはらされているのだけは醜いのを、愛している良人の心にはそれも悪いとは思えないのである。
2.5.2 「どうして今まで疎遠にしてきたのか」と、「すっかり心変わりした自分が何とも軽薄だ」とは思いながらも、やはり気持ちははやって、溜息をつきながら、やはりお召物を整えなさって、小さい香炉を取り寄せて、袖に入れてたきしめていらっしゃった。
長い年月の間二人だけが愛し合ってきたのであると思うと、新しい妻に傾倒してしまった自分は軽薄な男であると、大将は反省をしながらも、行って()おうとする新しい妻を思う興奮はどうすることもできない。心にもない歎息(たんそく)をしながら、着がえをして、なお小さい火入れを(そで)の中へ入れて(におい)をしめていた。
2.5.3
なつかしきほどに()えたる御装束(おほんさうぞく)に、容貌(かたち)かの(なら)びなき御光(おほんひかり)にこそ()さるれど、いとあざやかに男々(をを)しきさまして、ただ(うど)()えず、心恥(こころは)づかしげなり。
やさしいほどに着馴れたお召物で、器量も、あの並ぶ人のないお方には圧倒されるが、たいそうすっきりした男性らしい感じで、普通の人とは見えず、気おくれするほど立派である。
ちょうどよいほどに着なれた衣服に身を装うた大将は、源氏の美貌(びぼう)の前にこそ光はないが、くっきりとした男性的な顔は、平凡な階級の男の顔ではなかった。貴族らしい風采(ふうさい)である。
2.5.4
(さぶらひ)に、(ひと)びと(こゑ)して、
侍所で、供人たちが声立てて、
侍所(さむらいどころ)に集っている人たちが、
2.5.5 「雪が小止みです。
夜が更けてしまいましょう」
「ちょっと雪もやんだようだ。もうおそかろう」
2.5.6
など、さすがにまほにはあらでそそのかしきこえて、(こわ)づくりあへり。
などと、それでもあらわには言わないで、お促し申して、咳払いをし合っている。
などと言って、さすがに真正面から促すのでなく、主人(あるじ)の注意を引こうとするようなことを言う声が聞こえた。
2.5.7
中将(ちゅうじゃう)木工(もく)などあはれの()」などうち(なげ)きつつ、(かた)らひて()したるに、正身(さうじみ)いみじう(おも)ひしづめて、らうたげに()()したまへりと()るほどに、にはかに()()がりて、(おほ)きなる()(した)なりつる火取(ひと)りを()()せて、殿(との)(うし)ろに()りて、さと()かけたまふほど、(ひと)ややみあふるほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ
中将の君や、木工の君などは、「おいたわしいことだわ」などと嘆きながら、話し合って臥しているが、ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄りかかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる。
中将の君や木工(もく)などは、
「悲しいことになってしまいましたね」
 などと話して、(なげ)きながら皆床にはいっていたが、夫人は静かにしていて、可憐なふうに身体(からだ)を横たえたかと見るうちに、起き上がって、大きな衣服のあぶり(かご)の下に置かれてあった火入れを手につかんで、良人の後ろに寄り、それを投げかけた。人が見とがめる間も何もないほどの瞬間のことであった。大将はこうした目にあってただあきれていた。
2.5.8
さるこまかなる(はひ)の、目鼻(めはな)にも()りて、おぼほれてものもおぼえず。
(はら)()てたまへど、()()ちたれば、御衣(おほんぞ)ども()ぎたまひつ。
あのような細かい灰が、目や鼻にも入って、ぼうっとして何も分からない。
払い除けなさるが、立ちこめているので、お召物をお脱ぎになった。
細かな灰が目にも鼻にもはいって何もわからなくなっていた。やがて払い捨てたが、部屋じゅうにもうもうと灰が立っていたから大将は衣服も脱いでしまった。
2.5.9
うつし(ごころ)にてかくしたまふぞと(おも)はばまたかへりみすべくもあらずあさましけれど、
正気でこのようなことをなさると思ったら、二度と見向く気にもなれず驚くほかないが、
正気でこんなことをする夫人であったら、だれも顧みる者はないであろうが、
2.5.10
(れい)(おほん)もののけの(ひと)(うと)ませむとするわざ」
「例の物の怪が、人から嫌われるようにしようとしていることだ」
いつもの物怪(もののけ)が夫人を憎ませようとしていることであるから、
2.5.11
と、御前(おまへ)なる(ひと)びとも、いとほしう()たてまつる。
と、お側の女房たちもお気の毒に拝し上げる。
夫人は気の毒であると女房らも見ていた。
2.5.12
()(さわ)ぎて、御衣(おほんぞ)どもたてまつり()へなどすれど、そこらの(はひ)の、(びん)のわたりにも()ちのぼり、よろづの(ところ)()ちたる心地(ここち)すれば、きよらを()くしたまふわたりに、さながら()うでたまふべきにもあらず。
大騒ぎになって、お召物をお召し替えなどするが、たくさんの灰が鬢のあたりにも舞い上がり、すべての所にいっぱいの気がするので、善美を尽くしていらっしゃる所に、このまま参上なさることはできない。
皆が大騒ぎをして大将に着がえをさせたりしたが、灰が髪などにもたくさん降りかかって、どこもかしこも灰になった気がするので、きれいな六条院へこのままで行けるわけのものではなかった。
2.5.13
心違(こころたが)ひとはいひながらなほめづらしう、見知(みし)らぬ(ひと)(おほん)ありさまなりや」と爪弾(つまはじ)きせられ(うと)ましうなりて、あはれと(おも)ひつる(こころ)(のこ)らねど、このころ、荒立(あらだ)てては、いみじきこと()()なむ」と(おぼ)ししづめて、夜中(よなか)になりぬれど、(そう)など()して、加持参(かぢまゐ)(さわ)ぐ。
()ばひののしりたまふ(こゑ)など(おも)(うと)みたまはむにことわりなり。
「気が違っているとはいっても、やはり珍しい、見たこともないご様子だ」と愛想も尽き、疎ましくなって、いとしいと思っていた気持ちも消え失せたが、「今、事を荒立てたら、大変なことになるだろう」と心を鎮めて、夜中になったが、僧などを呼んで、加持をさせる騷ぎとなる。
わめき叫んでいらっしゃる声など、お嫌いになるのもごもっともである。
大将は爪弾(つまはじ)きがされて、妻に対する憎悪(ぞうお)の念ばかりが心につのった。先刻愛を感じていた気持ちなどは跡かたもなくなったが、現在は荒だてるのに都合のよろしくない時である。どんな悪い影響が自分の新しい幸福の上に現われてくるかもしれないと、大将は夫人に腹をたてながらも、もう夜中であったが僧などを招いて加持(かじ)をさせたりしていた。夫人が上げるあさましい叫び声などを聞いては、大将がうとむのも道理であると思われた。

第六段 鬚黒、玉鬘に手紙だけを贈る

2.6.1
夜一夜(よひとよ)()たれ()かれ、()きまどひ()かしたまひて、すこしうち(やす)みたまへるほどに、かしこへ御文(おほんふみ)たてまつれたまふ。
一晩中、打たれたり引かれたり、泣きわめいて夜をお明かしになって、少しお静かになっているころに、あちらへお手紙を差し上げなさる。
夜通し夫人は僧から打たれたり、引きずられたりしていたあとで、少し眠ったのを見て、大将はその間に玉鬘(たまかずら)へ手紙を書いた。
2.6.2
昨夜(よべ)にはかに()()(ひと)のはべしにより(ゆき)のけしきもふり()でがたくやすらひはべしに、()さへ()えてなむ。
御心(みこころ)をばさるものにて、(ひと)いかに()りなしはべりけむ」
「昨夜、急に意識を失った人が出まして、雪の降り具合も出掛けにくく、ためらっておりましたところ、身体までが冷えてしまいました。
あなたのお気持ちはもちろんのこと、周囲の人はどのように取り沙汰したことでございましょう」
昨夜から容体のよろしくない病人ができまして、おりから降る雪もひどく、こんな時に出て行くことはどうかと、そちらへ行くのをやむなく断念することにしましたが、外界の雪のためでもなく、私の身の内は凍ってしまうほど寂しく思われました。あなたは信じていてくださるでしょうが、そばの者が何とかいいかげんなことを忖度(そんたく)して申し上げなかったであろうかと心配です。
2.6.3
と、きすくに()きたまへり。
と、生真面目にお書きになっている。
という文学的でない文章であった。
2.6.4 「心までが中空に思い乱れましたこの雪に
独り冷たい片袖を敷いて寝ました
心さへそらに乱れし雪もよに
一人さえつる片敷(かたしき)(そで)
2.6.5 耐えられませんでした」
堪えがたいことです。
2.6.6
と、(しろ)薄様(うすやう)つつやかに()いたまへれど、ことにをかしきところもなし
()はいときよげなり。
(ざえ)かしこくなどぞものしたまひける。
と、白い薄様に、重々しくお書きになっているが、格別風情のあるところもない。
筆跡はたいそうみごとである。
漢学の才能は高くいらっしゃるのであった。
ともあった。白い薄様(うすよう)に重苦しい字で書かれてあった。字は能書であった。大将は学問のある人でもあった。
2.6.7
尚侍(かん)(きみ)()がれを(なに)とも(おぼ)されぬに、かく(こころ)ときめきしたまへるを()()れたまはねば、御返(おほんかへ)りなし。
(をとこ)(むね)つぶれて、(おも)()らしたまふ。
尚侍の君は、夜離れを何ともお思いなさらないので、このように心はやっていらっしゃるのを、御覧にもならないので、お返事もない。
男は、落胆して、一日中物思いをなさる。
尚侍(ないしのかみ)は大将の来ないことで何の痛痒(つうよう)も感じていないのに、一方は一所懸命な言いわけがしてあるこの手紙も、玉鬘(たまかずら)は無関心なふうに見てしまっただけであるから、返事は来なかった。大将は自宅で憂鬱(ゆううつ)な一日を暮らした。
2.6.8
(きた)(かた)は、なほいと(くる)しげにしたまへば、御修法(みしゅほふ)など(はじ)めさせたまふ。
(こころ)のうちにもこのころばかりだにことなく、うつし(ごころ)にあらせたまへ」と(ねん)じたまふ。
まことの(こころ)ばへのあはれなるを()()らずは、かうまで(おも)()ぐすべくもなきけ(うと)さかな」と、(おも)ひゐたまへり。
北の方は、依然としてたいそう苦しそうになさっているので、御修法などを始めさせなさる。
心の中でも、「せめてもう暫くの間だけでも、何事もなく、正気でいらっしゃってください」とお祈りになる。
「ほんとうの気立てが優しいのを知らなかったら、こんなにまで我慢できない気味悪さだ」と、思っていらっしゃった。
夫人はなお今日も苦しんでいたから、大将は修法(しゅほう)などを始めさせた。大将自身の心の中でも、ここしばらくは夫人に発作のないようにと祈っていた。物怪(もののけ)につかれないほんとうの妻は愛すべき性質であるのを自分は知っているから我慢ができるのであるが、そうでもなかったら捨てて惜しくない気もすることであろうと大将は思っていた。

第七段 翌日、鬚黒、玉鬘を訪う

2.7.1
()るれば、(れい)(いそ)()でたまふ。
御装束(おほんさうぞく)のことなども、めやすくしなしたまはず()にあやしう、うちあはぬさまにのみむつかりたまふをあざやかなる御直衣(おほんなほし)なども、()りあへたまはで、いと見苦(みぐる)し。
日が暮れると、いつものように急いでお出かけになる。
お召物のことなども、体裁よく整えなさらず、まことに奇妙で身にそぐわないとばかり不機嫌でいらっしゃるが、立派な御直衣などは、間に合わせることがおできになれず、たいそう見苦しい。
大将は日が暮れるとすぐに出かける用意にかかったのである。大将の服装などについても、夫人は行き届いた妻らしい世話の十分できない人なのである。自分の着せられるものは流行おくれの調子のそろわないものだと大将は不足を言っていたが、きれいな直衣(のうし)などがすぐまにあわないで見苦しかった。
2.7.2
昨夜(よべ)のは、()けとほりて、(うと)ましげに(こが)れたるにほひなども、ことやうなり。
御衣(おほんぞ)どもに(うつ)()もしみたり。
ふすべられけるほどあらはに、(ひと)()じたまひぬべければ、()()へて、御湯殿(おほんゆどの)など、いたうつくろひたまふ。
昨夜のは、焼け穴があいて、気味悪く焦げた匂いがするのも異様である。
御下着にまでその匂いが染みていた。
嫉妬された跡がはっきりして、相手もお嫌いになるに違いないので、脱ぎ替えて、御湯殿などで、たいそう身繕いをなさる。
昨夜(ゆうべ)のは焼け通って焦げ臭いにおいがした。小袖(こそで)類にもその臭気は移っていたから、妻の嫉妬(しっと)にあったことを標榜(ひょうぼう)しているようで、先方の反感を買うことになるであろうと思って、一度着た衣服を()いで、風呂(ふろ)を立てさせて入浴したりなどして大将は苦心した。
2.7.3
木工(もく)(きみ)御薫物(おほんたきもの)しつつ、
木工の君、お召物に香をたきしめながら、
木工(もく)の君は主人(あるじ)のために薫物(たきもの)をしながら言う、
2.7.4 「北の方が独り残されて、
思い焦がれる胸の苦しさが思い余って炎と
「一人ゐて(こが)るる胸の苦しきに
思ひ余れる(ほのほ)とぞ見し
2.7.5
名残(なごり)なき(おほん)もてなしは、()たてまつる(ひと)だに、ただにやは」
すっかり変わったお仕打ちは、お側で拝見する者でさえも、平気でいられましょうか」
あまりに露骨な態度をおとりになりますから、拝見する私たちまでもお気の毒になってなりません」
2.7.6
と、(くち)おほひてゐたる、まみ、いといたし。
されど、「いかなる(こころ)にてかやうの(ひと)にものを()ひけむ」などのみぞおぼえたまひける。
(なさ)けなきことよ
と、口もとをおおっている、目もとは、たいそう魅力的である。
けれども、「どのような気持ちからこのような女に情けをかけたのだろう」などとだけ思われなさるのであった。
薄情なことであるよ。
袖で口をおおうて言っている木工の君の目つきは大将を十分にとがめているのであったが、主人(あるじ)のほうでは、どうして自分はこんな女などと情人関係を作ったのであろうとだけ思っていた。情けない話である。
2.7.7 「嫌なことを思って心が騒ぐので、
あれこれと後悔の炎がます
「うきことを思ひ騒げばさまざまに
くゆる煙ぞいとど立ち添ふ
2.7.8
いとことのほかなることどもの、もし()こえあらば、中間(ちゅうげん)になりぬべき()なめり」
まったくとんでもない事が、もし先方の耳に入ったら、宙ぶらりな身の上となるだろう」
ああした醜態が(うわさ)になれば、あちらの人も私を悪く思うようになって、どちらつかずの不幸な私になるだろうよ」
2.7.9
と、うち(なげ)きて()でたまひぬ。
と、溜息ついてお出かけになった。
などと歎息(たんそく)()らしながら大将は出て行った。
2.7.10
一夜(ひとよ)ばかりの(へだ)てだに、まためづらしう、をかしさまさりておぼえたまふありさまに、いとど(こころ)()くべくもあらずおぼえて心憂(こころう)ければ(ひさ)しう()もりゐたまへり
一夜会わなかっただけなのに、改めて珍しいほどに、美しさが増して見えなさるご様子に、ますます心を他の女に分けることもできないように思われて、憂鬱なので、長い間居続けていらっしゃった。
中一夜置いただけで美しさがまた加わったように見える玉鬘であったから、大将の愛はいっそうこの一人に集まる気がして、自邸へ帰ることができずにそのままずっと玉鬘のほうにいた。

第三章 鬚黒大将家の物語 北の方、子供たちを連れて実家に帰る


第一段 式部卿宮、北の方を迎えに来る

3.1.1
修法(しゅほふ)などし(さわ)げど、(おほん)もののけこちたくおこりてののしるを()きたまへば、あるまじき(きず)もつき()ぢがましきこと、かならずありなむ」と、(おそ)ろしうて()りつきたまはず。
修法などを盛んにしたが、物の怪がうるさく起こってわめいているのをお聞きになると、「あってはならない不名誉なことにもなり、外聞の悪いことが、きっと出てこよう」と、恐ろしくて寄りつきなさらない。
大騒ぎして修法などをしていても夫人の病気は相変わらず起こって大声を上げて人をののしるようなことのある報知を得ている大将は、妻のためにもよくない、自分のためにも不名誉なことが必ず近くにいれば起こることを予想して、(おそ)ろしがって近づかないのである。
3.1.2
殿(との)(わた)りたまふ(とき)も、異方(ことかた)(はな)れゐたまひて君達(きみたち)ばかりをぞ()(はな)ちて()たてまつりたまふ。
女一所(をんなひとところ)十二(じふに)(さん)ばかりにてまた次々(つぎつぎ)男二人(をとこふたり)なむおはしける
(ちか)(とし)ごろとなりては、御仲(おほんなか)(へだ)たりがちにてならはしたまへれど、やむごとなう、()(なら)(かた)なくてならひたまへれば、(いま)(かぎ)り」と()たまふにさぶらふ(ひと)びとも、「いみじう(かな)し」と(おも)ふ。
邸にお帰りになる時も、別の部屋に離れていらして、子どもたちだけを呼び出してお会い申しなさる。
女の子が一人、十二、三歳ほどで、またその下に、男の子が二人いらっしゃるのであった。
最近になって、ご夫婦仲も離れがちでいらっしゃるが、れっきとした方として、肩を並べる人もなくて暮らして来られたので、「いよいよ最後だ」とお考えになると、お仕えしている女房たちも「ひどく悲しい」と思う。
(やしき)へ帰る時にもほかの対に離れていて、子供たちを呼び寄せて見るだけを楽しみにしていた。女の子が一人あって、それは十二、三になっていた。そのあとに男の子が二人あった。近年はもう夫婦の間も隔たりがちに暮らしていたが、ただ一人の夫人として尊重することは昔に変わらなかったのが、こんなふうになったのであるから、夫人ももう最後の時が来たのだと思うし、女房たちもそう見て悲しむよりほかはなかった。
3.1.3 父宮が、お聞きになって、
父宮がそのことをお聞きになって、
3.1.4
(いま)しかかけ(はな)れて、もて()でたまふらむに、さて、心強(こころづよ)くものしたまふ、いと(おも)なう人笑(ひとわら)へなることなり。
おのがあらむ()(かぎ)りは、ひたぶるにしも、などか(したが)ひくづほれたまはむ」
「今は、あのように別居して、はっきりした態度をとっておいでだというのに、それにしても、辛抱していらっしゃる、たいそう不面目な物笑いなことだ。
自分が生きている間は、そう一途に、どうして相手の言いなりに従っていらっしゃることがあろうか」
「そんな冷酷な扱いを受けてもまだ辛抱(しんぼう)強くあなたはしているのですか。それは自尊心も名誉心もない女のすることです。私の生きている間はまだあなたはそう奴隷的になっていないでもいいのです」
3.1.5
()こえたまひて、にはかに御迎(おほんむか)へあり。
と申し上げなさって、急にお迎えがある。
と言うお言葉をお伝えさせになって、にわかに迎えをお立てになった。
3.1.6
(きた)(かた)御心地(みここち)すこし(れい)になりて、()(なか)をあさましう(おも)(なげ)きたまふに、かくと()こえたまへれば、
北の方は、ご気分が少し平常になって、夫婦仲を情けなく思い嘆いていらっしゃると、このようにお申し上げになっているので、
夫人はやっと常態になっていて、自身の不幸な境遇を悲しんでいる時に、このお言葉を聞いたのであったから、今になってまだ父宮のお言葉に従わずここにいて、
3.1.7
しひて()ちとまりて(ひと)()()てむさまを見果(みは)てて、(おも)ひとぢめむも、(いま)すこし人笑(ひとわら)へにこそあらめ」
「無理して立ち止まって、すっかり見捨てられるのを見届けて、諦めをつけるのも、さらに物笑いになるだろう」
まったく良人から捨てられてしまう日を待つことは、現在以上の恥になることであろう
3.1.8
など(おぼ)()つ。
などと、ご決心なさる。
などと思って、実家へ行くことにしたのであった。
3.1.9
御兄弟(おほんせうと)君達(きみたち)兵衛督(ひゃうゑのかみ)は、上達部(かんだちめ)におはすればことことしとて、中将(ちゅうじゃう)侍従(じじゅう)民部大輔(みんぶのたいふ)など、御車三(みくるまみ)つばかりしておはしたり。
さこそはあべかめれ」と、かねて(おも)ひつることなれど、さしあたりて今日(けふ)(かぎ)りと(おも)へば、さぶらふ(ひと)びとも、ほろほろと()きあへり。
ご兄弟の公達、兵衛督は、上達部でいらっしゃるので、仰々しいというので、中将、侍従、民部大輔など、お車三台程でいらっしゃった。
「きっとそうなるだろう」と、以前から思っていたことであるが、目の前に、今日がその終わりと思うと、仕えている女房たちも、ぽろぽろと涙をこぼし泣き合っていた。
夫人の弟の公子たちは、左兵衛督(さひょうえのかみ)は高官であるから人目を引くのを遠慮して、そのほかの中将、侍従、民部大輔(みんぶだゆう)などで三つほどの車を用意して夫人を迎えに来たのであった。結局はこうなることを予想していたものの、いよいよ今日限りにこの家を離れなければならぬかと思うと、女房たちは皆悲しくなって泣き合った。
3.1.10
(とし)ごろならひたまはぬ旅住(たびず)に、(せば)くはしたなくては、いかでかあまたはさぶらはむ。
かたへはおのおの(さと)にまかでて、しづまらせたまひなむに
「長年ご経験のないよそでのお住まいで、手狭で気の置ける所では、どうして大勢の女房が仕えられようか。
何人かは、それぞれ実家に下がって、落ち着きになられてから」
「これまでのようでないかかり(びと)におなりになるのだから、お狭いところにおおぜいがお付きしていることはできません。幾人かの人だけはお供してあとは自分たちの家へ下がることにして、とにかくお落ち着きになるのを待ちましょう」
3.1.11
など(さだ)めて、(ひと)びとおのがじし、はかなきものどもなど(さと)(はら)ひやりつつ(みだ)()るべし
御調度(みてうど)どもは、さるべきは(みな)したため()きなどするままに、上下泣(かみしもな)(さわ)ぎたるは、いとゆゆしく()ゆ。
などと決めて、女房たちはそれぞれ、ちょっとした荷物など、実家に運び出したりして、散り散りになるのであろう。
お道具類は、必要な物は皆荷作りなどしながら、上の者や下の者が泣き騒いでいるのは、たいそう不吉に見える。
などと女房たちは言って、それぞれの荷物を自宅へ運ばせ、別れ別れになるものらしい。夫人の道具の運ばれる物は皆それぞれ荷作りされて行く所で、上下の人が皆声を立てて泣いている光景は悲しいものであった。

第二段 母君、子供たちを諭す

3.2.1
(きみ)たちは、何心(なにごころ)もなくてありきたまふを、母君(ははぎみ)皆呼(みなよ)()ゑたまひて、
お子様たちは、無心に歩き回っていられるのを、母君、皆を呼んで座らせなさって、
姫君と二人の男の子が何も知らぬふうに無邪気に家の中を歩きまわっているのを呼んで、夫人は前へすわらせた。
3.2.2
みづからは、かく心憂(こころう)宿世(すくせ)(いま)見果(みは)てつれば、この()(あと)とむべきにもあらず、ともかくもさすらへなむ。
()先遠(さきとほ)うてさすがに、()りぼひたまはむありさまどもの、(かな)しうもあべいかな。
「わたしは、このようにつらい運命を、今は見届けてしまったので、この世に生き続ける気もありません。どうなりとなって行くことでしょう。
将来があるのに、何といっても、散り散りになって行かれる様子が、悲しいことです。
お母様は不幸な運命でお父様から捨てられてしまったのだから、どちらかへ行ってしまわなければならない。あなたがたはまだ小さいのにお母様から離れてしまわなければならないのはかわいそうだね。
3.2.3
姫君(ひめぎみ)となるともかうなるとも、おのれに()ひたまへ。
なかなか、男君(をとこぎみ)たちはえさらず()うで(かよ)()えたてまつらむに、(ひと)(こころ)とどめたまふべくもあらず、はしたなうてこそただよはめ。
姫君は、どうなるにせよ、わたしについていらっしゃい。
かえって、男の子たちは、どうしてもお父様のもとに参上してお会いしなければならないでしょうが、構ってもくださらないでしょうし、どっちつかずの頼りない生活になるでしょう。
姫君はどうなるかしれないお母様だけれど私といっしょにいることになさい。男の子も私について来て、時々ここへ来るようなことだけにしてはお父様がかわいがってくださらないよ。大人になって出世もできないような不幸の原因にそれがなるかもしれないからね。お祖父(じい)様の宮様のいらっしゃる間は、ともかくも役人の端にはしてもらえるにもせよね、
3.2.4
(みや)のおはせむほど(かた)のやうに()じらひをすとも、かの大臣(おとど)たちの御心(みこころ)にかかれる()にてかく(こころ)おくべきわたりぞと、さすがに()られて、(ひと)にもなり()たむこと(かた)し。
さりとて、山林(やまはやし)()(つづ)きまじらむこと(のち)()までいみじきこと」
父宮が生きていらっしゃるうちは、型通りに宮仕えはしても、あの大臣たちのお心のままの世の中ですから、あの気を許せない一族の者よと、やはり目をつけられて、立身することも難しい。
それだからといって、山林に続いて入って出家することも、来世まで大変なこと」
お父様が今度親類におなりになった二人の大臣次第の世の中なのだから、その方たちにきらわれている私についていてはあなたがたは損で、出世などはできませんよ。そうかといってお坊様になって山や林へはいってしまうことは悲しいことだからね。それに不自然な出家をしては死んでからのちまで罪になります」
3.2.5
()きたまふに、(みな)(ふか)(こころ)(おも)()かねど、うちひそみて()きおはさうず。
とお泣きになると、皆、深い事情は分からないが、べそをかいて泣いていらっしゃる。
と言って泣く母を見ては、深い意味はわからないままで子は皆悲しがって泣く。
3.2.6
昔物語(むかしものがたり)などを()るにも、()(つね)(こころ)ざし(ふか)(おや)だに、(とき)(うつ)ろひ、(ひと)(したが)へばおろかにのみこそなりけれ
まして、(かた)のやうにて、()(まへ)にだに名残(なごり)なき(こころ)は、かかりどころありてももてないたまはじ」
「昔物語などを見ても、世間並の愛情深い親でさえ、時勢に流され、人の言うままになって、冷たくなって行くものです。
まして、形だけの親のようで、見ている前でさえすっかり変わってしまったお心では、頼りになるようなお扱いをなさるまい」
「昔の小説の中でも普通にお子様を愛していらっしゃるお父様でも片親ではね、いろんなことの影響を受けてだんだん子供に冷淡になっていくものですよ。そしてこちらの殿様は現在でさえもああしたふうをお見せになるじゃありませんか。お子様の将来を思ってくださるようなことはないと思います」
3.2.7 と、乳母たちも集まって、おっしゃり嘆く。
乳母(めのと)たちは乳母たちでいっしょに集まって、悲しんでいた。

第三段 姫君、柱の隙間に和歌を残す

3.3.1
()()れ、雪降(ゆきふ)りぬべき(そら)のけしきも心細(こころぼそ)()ゆる(ゆふ)べなり。
日も暮れ、雪も降って来そうな空模様も、心細く見える夕方である。
日も落ちたし雪も降り出しそうな空になって来た心細い夕べであった。
3.3.2 「ひどく荒れて来ましょう。
お早く」
「天気がずいぶん悪くなって来たそうです。早くお出かけになりませんか」
3.3.3
と、御迎(おほんむか)への君達(きんだち)そそのかしきこえて、御目(おほんめ)おし(のご)ひつつ(なが)めおはす
姫君(ひめぎみ)は、殿(との)いとかなしうしたてまつりたまふならひに
と、お迎えの公達はお促し申し上げるが、お目を拭いながら物思いに沈んでいらっしゃる。
姫君は、殿がたいそうかわいがって、懐いていらっしゃっるので、
と夫人の弟たちは急がせながらも涙をふいて悲しい肉親たちをながめていた。姫君は大将が非常にかわいがっている子であったから、父に()わないままで行ってしまうことはできない、
3.3.4
()たてまつらではいかでかあらむ。
(いま)』なども()こえで、また()()ぬやうもこそあれ」
「お目にかからないではどうして行けようか。
『これで』などと挨拶しないで、再び会えないことになるかもしれない」
今日父とものを言っておかないでは、もう一度そうした機会はないかもしれない
3.3.5
(おも)ほすに、うつぶし()して、「え(わた)るまじ」と(おも)ほしたるを、
とお思いになると、突っ伏して、「とても出かけられない」とお思いでいるのを、
と思ってうつぶしになって泣きながら行こうとしないふうであるのを夫人は見て、
3.3.6 「そのようなお考えでいらっしゃるとは、とても情けない」
「そんな気にあなたのなっていることはお母様を悲しくさせます」
3.3.7
など、こしらへきこえたまふ。
ただ(いま)(わた)りたまはなむ」と、()ちきこえたまへど、かく()れなむにまさに(うご)きたまひなむや
などと、おなだめ申し上げなさる。
「今すぐにも、お父様がお帰りになってほしい」とお待ち申し上げなさるが、このように日が暮れようとする時、あちらをお動きなさろうか。
などとなだめていた。そのうち父君は帰るかもしれぬと姫君は思っているのであるが、日が暮れて夜になった時間に、どうして逆にこの家へ大将が帰ろう。
3.3.8
(つね)()りゐたまふ東面(ひんがしおもて)(はしら)を、(ひと)(ゆづ)心地(ここち)したまふもあはれにて、姫君(ひめぎみ)桧皮色(ひはだいろ)(かみ)(かさ)ね、ただいささかに()きて、(はしら)干割(ひわ)れたるはさまに、(かうがい)(さき)して()()れたまふ。
いつも寄りかかっていらっしゃる東面の柱を、他人に譲る気がなさるのも悲しくて、姫君、桧皮色の紙を重ねたのに、ほんのちょっと書いて、柱のひび割れた隙間に、笄の先でお差し込みなさる。
姫君は始終自身のよりかかっていた東の座敷の中の柱を、だれかに取られてしまう気のするのも悲しかった。姫君は檜皮(ひわだ)色の紙を重ねて、小さい字で歌を書いたのを、(こうがい)の端で柱の()れ目へ押し込んで置こうと思った。
3.3.9 「今はもうこの家を離れて行きますが、
わたしが馴れ親しんだ真木の柱は
今はとて宿借れぬとも()れ来つる
真木の柱はわれを忘るな
3.3.10
えも()きやらで()きたまふ。
母君(ははぎみ)「いでや」とて、
最後まで書き終わることもできずお泣きになる。
母君、「いえ、なんの」と言って、
この歌を書きかけては泣き泣いては書きしていた。夫人は、「そんなことを」と言いながら、
3.3.11 「長年馴れ親しんで来た真木柱だと思い出しても
どうしてここに止まっていられましょうか」
馴れきとは思ひ()づとも何により
立ちとまるべき真木の柱ぞ
3.3.12
御前(おまへ)なる(ひと)びとも、さまざまに(かな)しく、「さしも(おも)はぬ木草(きくさ)のもとさへ(こひ)しからむこと」と、()とどめて、(はな)すすりあへり。
お側に仕える女房たちも、それぞれに悲しく、「それほどまで思わなかった木や草のことまで、恋しいことでしょう」と、目を止めて、鼻水をすすり合っていた。
と自身も歌ったのであった。女房たちの心もいろいろなことが悲しくした。心のない庭の草や木と別れることも、あとに思い出して悲しいことであろうと心が動いた。
3.3.13
木工(もく)(きみ)は、殿(との)御方(おほんかた)(ひと)にてとどまるに、中将(ちゅうじゃう)御許(おもと)
木工の君は、殿の女房として留まるので、中将の御許は、
木工(もく)の君は初めからこの家の女房であとへ残る人であった。中将の君は夫人といっしょに行くのである。
3.3.14 「浅い関係のあなたが残って、
邸を守るはずの北の方様が出て行かれること
「浅けれど石間(いはま)の水はすみはてて
宿()る君やかげはなるべき
3.3.15 思いもしなかったことです。
こうしてお別れ申すとは」
思いも寄らなかったことですね、こうしてあなたとお別れするようになるなどと」
3.3.16
()へば、木工(もく)
と言うと、木工の君は、
と中将の君が言うと、木工(もく)は、
3.3.17 「どのように言われても、
わたしの心は悲しみに閉ざされて
「ともかくも石間(いはま)の水の結ぼほれ
かげとむべくも思ほえぬ世を
3.3.18
いでや」
いや、そのような」
何が何だかどうなるのだか」
3.3.19
とてうち()く。
と言って泣く。
と言って泣いていた。
3.3.20 お車を引き出して振り返って見るのも、「再び見ることができようか」と、心細い気がする。
梢にも目を止めて、見えなくなるまで振り返って御覧になるのであった。
君が住んでいるからではなく、長年お住まいになった所が、どうして名残惜しくないことがあろうか。
車が引き出されて人々は(やしき)の木立ちのなお見える間は、自分らはまたもここを見る日はないであろうと悲しまれて、隠れてしまうまで顧みられた。住んでいる主人(あるじ)のために家と別れるのが惜しいのではなくて、家そのものに愛着のある心がそうさせるのである。

第四段 式部卿宮家の悲憤慷慨

3.4.1
(みや)には()()り、いみじう(おぼ)したり。
母北(ははきた)(かた)()(さわ)ぎたまひて、
宮邸では待ち受けて、たいそうお悲しみである。
母の北の方、泣き騷ぎなさって、
大将夫人をお迎えになって、宮は非常にお悲しみになった。母の夫人は泣き騒いだ。
3.4.2
太政大臣(おほきおとど)めでたきよすがと(おも)ひきこえたまへれどいかばかりの(むかし)仇敵(あたかたき)にかおはしけむとこそ(おも)ほゆれ。
「太政大臣を、結構なご親戚とお思い申し上げていらっしゃるが、どれほどの昔からの仇敵でいらっしゃったのだろうと思われます。
「太政大臣のことをよい親戚(しんせき)を持ったようにあなたは喜んでいらっしゃいますが、私には前生にどんな仇敵(かたき)だった人かと思われます。
3.4.3
女御(にょうご)をも、ことに()はしたなくもてなしたまひしかど、それは、御仲(おほんなか)(うら)()けざりしほど、(おも)()れとにこそはありけめと(おぼ)しのたまひ、()(ひと)()ひなししだに、なほ、さやはあるべき。
女御にも、何かにつけて、冷淡なお仕打ちをなさったが、それは、お二人の間の恨み事が解けなかったころ、思い知れということであったであろうと、思ったりおっしゃったりもし、世間の人もそう言っていたのでさえ、やはり、そあってよいことでしょうか。
女御(にょご)などにも何かの場合に好意のない態度を露骨にお見せになりましたが、そのころは須磨(すま)時代の恨みが忘られないのだろうとあなたがお言いになり、世間でもそう批評されたのでも私には()に落ちなかったのです。
3.4.4
人一人(ひとひとり)(おも)ひかしづきたまはむゆゑは、ほとりまでもにほふ(ためし)こそあれと、心得(こころえ)ざりしを、まして、かく(すゑ)に、すずろなる継子(ままこ)かしづきをしておのれ(ふる)したまへるいとほしみに実法(じほふ)なる(ひと)ゆるぎどころあるまじきをとて、()()せもてかしづきたまふは、いかがつらからぬ」
一人を大切になさるのであれば、その周辺までもお蔭を蒙るという例はあるものだと、納得行きませんでしたが、まして、このような晩年になって、わけの分からない継子の世話をして、自分が飽きたのを気の毒に思って、律儀者で浮気しそうのない人をと思って、婿に迎えて大切になさるのは、どうして辛くないことでしょうか」
それだのにまた今になって、養女を取ったりなどして、自分が御寵愛(ちょうあい)なすって古くなすった代償にまじめな堅い男を取り寄せて婿にするなどということをなさる。これが恨めしくなくて何ですか」
3.4.5
と、()(つづ)けののしりたまへば、(みや)は、
と、大声で言い続けなさるので、宮は、
こう言い続けるのである。
3.4.6
あな、()きにくや
()(なん)つけられたまはぬ大臣(おとど)を、(くち)にまかせてなおとしめたまひそ。
かしこき(ひと)は、(おも)ひおき、かかる(むく)いもがなと、(おも)ふことこそはものせられけめ。
(おも)はるるわが()不幸(ふかう)なるにこそはあらめ。
「ああ、聞き苦しい。
世間から非難されることのおありでない大臣を、口から出任せに悪くおっしゃるものではありませんよ。
賢明な方は、かねてから考えていて、このような報復をしようと、思うことがおありだったのだろう。
そのように思われるわが身の不幸なのだろう。
「聞き苦しい。世間から何一つ批難をお受けにならない大臣を、出まかせな雑言(ぞうごん)で悪く言うのはおよしなさい。
3.4.7
つれなうて、(みな)かの(しづ)みたまひし()(むく)いは()かべ(しづ)め、いとかしこくこそは(おも)ひわたいたまふめれ。
おのれ一人(ひとり)をば、さるべきゆかりと(おも)ひてこそは、一年(ひととせ)も、さる()(ひび)きに、(いへ)よりあまることどももありしか
それをこの(しゃう)面目(めいぼく)にてやみぬべきなめり」
なにげないふうで、すべてあの苦しみなさった報復は、引き上げたり落としたり、たいそう賢く考えていらっしゃるようだ。
わたし一人は、しかるべき親戚だと思って、先年も、あのような世間の評判になるほどに、わが家には過ぎたお祝賀があった。
そのことを生涯の名誉と思って、
聡明(そうめい)な人はこちらの罪を目前でどうしようとはしないで、自然の罰にあうがいいと考えていられたのだろう。そう思われる私自身が不幸なのだ。冷静にしていられるようで、そしてあの時代の報いとして、ある時はよくしたり、ある時はきびしくしたりしようと考えていられるのだろう。私一人は妻の親だとお思いになって、いつかも驚くべき派手(はで)な賀宴を私のためにしてくだすった。まあそれだけを生きがいのあったこととして、そのほかのことはあきらめなければならないのだろう」
3.4.8
とのたまふに、いよいよ腹立(はらだ)ちて、まがまがしきことなどを()()らしたまふ。
この大北(おほきた)(かた)ぞ、さがな(もの)なりける
とおっしゃると、ますます腹が立って、不吉な言葉を言い散らしなさる。
この大北の方は、性悪な人だったのである。
と宮がお言いになるのを聞いて、夫人はいよいよ(たけ)り立つばかりで、源氏夫婦への(のろ)いの言葉を吐き散らした。この夫人だけは善良なところのない人であった。
3.4.9 大将の君は、このようにお移りになってしまったことを聞いて、
大将は夫人が宮家へ帰ったことを聞いて
3.4.10
いとあやしう若々(わかわか)しき(なか)らひのやうに、ふすべ(がほ)にてものしたまひけるかな。
正身(さうじみ)は、しかひききりに際々(きはぎは)しき(こころ)もなきものを、(みや)のかく軽々(かるがる)しうおはする」
「まことに妙な、年若い夫婦のように、やきもちを焼いたようなことをなさったものだなあ。
ご本人には、そのようなせっかちできっぱりした性分もないのに、宮があのように軽率でいらっしゃる」
ほんとうらしくもなく、若夫婦の中ででもあるような争議を起こすものである、自分の妻はそうした愛情を無視するような態度のとれる性質ではないのであるが、宮が軽率な計らいをされるのである
3.4.11
(おも)ひて、君達(きんだち)もあり、人目(ひとめ)もいとほしきに、(おも)(みだ)れて、尚侍(かん)(きみ)
と思って、御子息もあり、世間体も悪いので、いろいろと思案に困って、尚侍の君に、
と思って、子供もあることであったし、夫人のために世間体も考慮してやらねばならないと煩悶(はんもん)してのちに、こうした奇怪な出来事が家のほうであったと話して、
3.4.12
かくあやしきことなむはべる
なかなか(こころ)やすくは(おも)ひたまへなせどさて片隅(かたすみ)(かく)ろへてもありぬべき(ひと)(こころ)やすさを、おだしう(おも)ひたまへつるに、にはかにかの(みや)ものしたまふならむ
(ひと)()()ることも(なさ)けなきを、うちほのめきて、(まゐ)()なむ」
「こんな妙なことがございましたようです。
かえって気楽に存じられますが、そのまま邸の片隅に引っ込んでいてもよい気楽な人と、安心しておりましたのに、急にあの宮がなさったのでしょう。
世間が見たり聞いたりことも薄情なので、ちょっと顔を出して、すぐに戻ってまいりましょう」
「かえってさっぱりとした気もしないではありませんが、しかしそのままでおとなしく家の一隅(いちぐう)に暮らして行けるはずの善良さを私は妻に認めていたのですよ。にわかに無理解な宮が迎えをおよこしになったのであろうと想像されます。世間へ聞こえても私を誤解させることだから、とにかく一応の交渉をしてみます」
3.4.13
とて()でたまふ。
と言って、お出になる。
とも言って出かけるのであった。
3.4.14
よき(うへ)御衣(おほんぞ)(やなぎ)下襲(したがさね)青鈍(あをにび)()指貫着(さしぬきき)たまひて、()きつくろひたまへる、いとものものし
などかは()げなからむ」と、(ひと)びとは()たてまつるを、尚侍(かん)(きみ)は、かかることども()きたまふにつけても、()(こころ)づきなう(おぼ)()らるれば、()もやりたまはず。
立派な袍のお召物に、柳の下襲、青鈍色の綺の指貫をお召しになって、身なりを整えていらっしゃる、まことに堂々としている。
「どうして不似合いなところがあろうか」と、女房たちは拝見するが、尚侍の君は、このようなことをお聞きになるにつけても、わが身が情けなく思わずにはいらっしゃれないので、見向きもなさらない。
よいできの(ほう)を着て、柳の色の下襲(したがさね)を用い、青鈍(あおにび)色の支那(しな)(にしき)指貫(さしぬき)穿()いて整えた姿は重々しい大官らしかった。決して不似合いな姫君の良人(おっと)でないと女房たちは見ているのであったが、尚侍(ないしのかみ)は家庭の悲劇の伝えられたことでも、自分の立場がつらくなって、大将の好意がうるさく思われて、あとを見送ろうともしなかった。

第五段 鬚黒、式部卿宮家を訪問

3.5.1
(みや)(うら)()こえむとて()うでたまふままに、まづ、殿(との)におはしたれば、木工(もく)(きみ)など()()て、ありしさま(かた)りきこゆ。
姫君(ひめぎみ)(おほん)ありさま()きたまひて、男々(をを)しく(ねん)じたまへど、ほろほろとこぼるる()けしき、いとあはれなり
宮に苦情を申し上げようと思って、参上なさるついでに、先に、自邸にいらっしゃると、木工の君などが出てきて、その時の様子をお話し申し上げる。
姫君のご様子をお聞きになって、男らしく堪えていらっしゃるが、ぽろぽろと涙がこぼれるご様子、たいそうお気の毒である。
宮へ抗議をしに大将は出かけようとしているのであったが、先に邸のほうへ寄って見た。木工(もく)の君などが出て来て、夫人の去った日の光景をいろいろと語った。姫君のことを聞いた時に、どこまでも自制していた大将も堪えられないようにほろほろと涙をこぼすのが哀れであった。
3.5.2
さても、()(ひと)にも()あやしきことどもを見過(みす)ぐすここらの(とし)ごろの(こころ)ざしを、見知(みし)りたまはずありけるかな
いと(おも)ひのままならむ(ひと)は、(いま)までも()ちとまるべくやはある
よし、かの正身(さうじみ)は、とてもかくても、いたづら(びと)()えたまへば、(おな)じことなり
(をさな)(ひと)びとも、いかやうにもてなしたまはむとすらむ
「それにしても、世間の人と違い、おかしな振る舞いの数々を大目に見てきた長年の気持ちを、ご理解なさらなかったのかな。
ひどくわがままな人は、今までも一緒にいただろうか。
まあよい、あの本人は、どうなったところで、廃人にお見えになるから、同じことだ。
子どもたちも、どうなさろうというのだろうか」
「どうしたことだろう。常人でない病気のある人を、長い間どんなにいたわって私が来たかがわかってもらえないのだね。軽薄な男なら今日(きょう)までだって決して連れ添ってはいなかったろう。でもしかたがない、あの人はどこにいても廃人なのだから同じだ。子供たちをどうしようというのだろう」
3.5.3
と、うち(なげ)きつつ、かの真木柱(まきばしら)()たまふに、()(をさな)けれど、(こころ)ばへのあはれに(こひ)しきままに、(みち)すがら(なみだ)おしのごひつつ()うでたまへれば対面(たいめん)したまふべくもあらず
と、嘆息しながら、あの真木の柱を御覧になると、筆跡も幼稚だが、気立てがしみじみといじらしくて、道すがら、涙を押し拭い押し拭い参上なさると、お会いになれるはずもない。
大将は泣きながら真木柱の歌を読んでいた。字はまずいが優しい娘の感情はそのまま受け取れることができて、途中も車の中で涙をふきふき宮邸へ向かった。夫人は()おうとしなかった。
3.5.4
(なに)か。
ただ(とき)(うつ)(こころ)(いま)はじめて()はりたまふにもあらず。
(とし)ごろ(おも)ひうかれたまふさま、()きわたりても(ひさ)しくなりぬるを、いづくをまた(おも)(なほ)るべき(をり)とか()たむ
いとどひがひがしきさまにのみこそ()()てたまはめ」
「何の。
ただ時勢におもねる心が、今初めてお変わりになったのではない。
年来うつつを抜かしていらっしゃる様子を、長いこと聞いてはいたが、いつを再び改心する時かと待てようか。
ますます、奇妙な姿を現すばかりで終わることにおなりになろう」
「逢う必要はない。新しい女に心の移っているという話は、今度始まったことでもない。あの人が若い妻をほしがっている話を聞いてから長い月日もたっている。そんな良人(おっと)の愛があなたへ帰ってくることなどは期待されないことだ。そして健全な女でないという点だけをいよいよ認めさせることになります」
3.5.5 とご意見申される、もっともなことである。
と言う宮の御注意が大将夫人へあったのである。もっともなことである。
3.5.6
いと、若々(わかわか)しき心地(ここち)しはべるかな。
(おも)ほし()つまじき(ひと)びともはべればと、のどかに(おも)ひはべりける(こころ)のおこたりを、かへすがへす()こえてもやるかたなし。
(いま)はただ、なだらかに御覧(ごらん)(ゆる)して、(つみ)さりどころなう世人(よひと)にもことわらせてこそ、かやうにももてないたまはめ」
「まったく、大人げない気がしますな。
お見捨てになるはずもない子供たちもいますのでと、のんきに構えておりましたわたしの不行届を、繰り返しお詫び申しても、お詫びの申しようがありません。
今はただ、穏便に大目に見て下さって、罪は免れがたく、世間の人にも分からせた上で、このようにもなさるのがよい」
「何だか若い夫婦の仲で起こった事件のようで勝手の違った気がします。二人の中には愛すべき子もあるのだからと信頼を持ち過ぎてのんきであった私のあやまちは、どんな言葉ででも許してもらえないだろうと思いますが、それはそれとして穏便にだけはしてくだすって、今後私のほうによくないことがあれば世間も許さないでしょうから、その時に断然としたこういう処置もとられたらいいでしょう」
3.5.7
など、()こえわづらひておはす。
姫君(ひめぎみ)をだに()たてまつらむ」と()こえたまへれど、()だしたてまつるべくもあらず
などと、説得申すのに苦慮していらっしゃる。
「せめて姫君にだけでもお会いしたい」と申し上げなさっているが、お出し申すはずもない。
などと大将は困りながら取り次がせていた。姫君にだけでも逢いたいと言ったのであるが出しそうもない。
3.5.8
男君(をとこぎみ)たち、(とを)なるは、殿上(てんじゃう)したまふ。
いとうつくし。
(ひと)にほめられて、容貌(かたち)などようはあらねど、いとらうらうじう、ものの(こころ)やうやう()りたまへり。
男の子たち、十歳になるのは、童殿上なさっている。
とてもかわいらしい。
人からほめられて、器量など優れてはいないが、たいそう利発で、物の道理をだんだんお分りになっていらした。
男の子の十歳(とお)になっているのは童殿上(わらわでんじょう)をしていて、愛らしい子であった。人にもほめられていて、容貌(ようぼう)などはよくもないが、貴族の子らしいところがあって、その子はもう父母の争いに関心が持てるほどになっていた。
3.5.9
(つぎ)(きみ)は、()つばかりにて、いとらうたげに、姫君(ひめぎみ)にもおぼえたれば、かき()でつつ、
次の君は、八歳ほどで、とても可憐で、姫君にも似ているので、撫でながら、
二男は八つくらいである。かわいい顔で姫君にも似ていたから、大臣は髪をなでてやりながら、
3.5.10
あこをこそは(こひ)しき御形見(おほんかたみ)にも()るべかめれ」
「おまえを恋しい姫君のお形見と思って見ることにしよう」
「おまえだけを恋しい形見にこれからは見て行くのだねお父様は」
3.5.11
など、うち()きて(かた)らひたまふ。
(みや)にも、()けしき(たま)はらせたまへど
などと、涙を流してお話しなさる。
宮にも、ご内意を伺ったが、
などと泣きながら言っていた。大将は宮へ御面会を願ったのであるが、
3.5.12
風邪(かぜ)おこりてためらひはべるほどにて」
「風邪がひどくて、養生しております時なので」
風邪(かぜ)で引きこもっている時ですから」
3.5.13
とあれば、はしたなくて()でたまひぬ。
と言うので、不体裁な思いで退出なさった。
と断わられて、きまりが悪くなって宮邸を出た。

第六段 鬚黒、男子二人を連れ帰る

3.6.1
小君達(こきんだち)をば(くるま)()せて、(かた)らひおはす。
六条殿(ろくでうどの)には、()ておはせねば殿(との)にとどめて、
幼い男の子たちを車に乗せて、親しく話しながらお帰りになる。
六条殿には連れて行くことがおできになれないので、邸に残して、
二人の男の子を車に乗せて話しながら来たのであったが、六条院へつれて行くことはできないので、自邸へ置いて、
3.6.2
なほ、ここにあれ
()()むにも(こころ)やすかるべく」
「やはり、ここにいなさい。
会いに来るのにも安心して来られるであろうから」
「ここにおいで。お父様は始終来て見ることができるから」
3.6.3
とのたまふ。
うち(なが)めていと心細(こころぼそ)げに見送(みおく)たるさまども、いとあはれなるに、もの(おも)(くは)はりぬる心地(ここち)すれど、女君(をんなぎみ)(おほん)さまの、()るかひありてめでたきに、ひがひがしき(おほん)さま(おも)(くら)ぶるにも、こよなくて、よろづを(なぐさ)めたまふ。
とおっしゃる。
悲しみにくれて、たいそう心細そうに見送っていらっしゃる様子、たいそうかわいそうなので、心配の種が増えたような気がするが、女君のご様子が、見がいがあって立派なので、気違いじみたご様子と比べると、格段の相違で、すべてお慰めになる。
と大将は言っていた。悲しそうに心細いふうで父を見送っていたのが哀れに思われて、大将は予期しなかった物思いの加わった気がしたものの、美しい玉鬘(たまかずら)と、廃人同様であった妻を比べて思うと、やはり何があっても今の幸福は大きいと感ぜられた。
3.6.4
うち()えて(おとづ)れもせず、はしたなかりしにことづけ(がほ)なるを、(みや)には、いみじうめざましがり(なげ)きたまふ。
さっぱり途絶えてお便りもせず、体裁の悪かったことを口実にしているふうなのを、宮におかれて、ひどく不愉快にお嘆きになる。
それきり夫人のほうへ大将は何とも言ってやらなかった。侮辱的なあの日の待遇がもたらした反動的な現象のように、冷淡にしていると宮邸の人をくやしがらせていた。
3.6.5
(はる)(うへ)()きたまひて、
春の上もお聞きになって、
紫の女王(にょおう)もその情報を耳にした。
3.6.6
ここにさへ(うら)みらるるゆゑになるが(くる)しきこと」
「わたしまで、恨まれる原因になるのがつらいこと」
「私までも恨まれることになるのがつらい」
3.6.7
(なげ)きたまふを、大臣(おとど)(きみ)いとほしと(おぼ)して、
とお嘆きになるので、大臣の君は、気の毒だとお思いになって、
(なげ)いているのを源氏はかわいそうに思った。
3.6.8
(かた)きことなり
おのが(こころ)ひとつにもあらぬ(ひと)のゆかりに、内裏(うち)にも(こころ)おきたるさまに(おぼ)したなり
兵部卿宮(ひゃうぶきゃうのみや)なども、(えん)じたまふと()きしを、さいへど、(おも)ひやり(ふか)うおはする(ひと)にて、()きあきらめ(うら)()けたまひにたなり。
おのづから(ひと)(なか)らひは、(しの)ぶることと(おも)へど、(かく)れなきものなれば、しか(おも)ふべき(つみ)もなしとなむ(おも)ひはべる」
「難しいことだ。
自分の一存だけではどうすることもできない人の関係で、帝におかせられても、こだわりをお持ちになっていらっしゃるようだ。
兵部卿宮なども、お恨みになっていらっしゃると聞いたが、そうは言っても、思慮深くいらっしゃる方なので、事情を知って、恨みもお解けになったようだ。
自然と、男女の関係は、人目を忍んでいると思っても、隠すことのできないものだから、そんなに苦にするほどの責任もない、と思っております」
「むつかしいものですよ。自分の思いどおりにもできない人なのだから、この問題で陛下も御不快に思召(おぼしめ)すようだし、兵部卿(ひょうぶきょう)の宮も恨んでおいでになると聞いたが、あの方は思いやりがあるから、事情をお聞きになって、もう了解されたようだ。恋愛問題というものは秘密にしていても真相が知れやすいものだから、結局は私が罪を負わないでもいいことになると思っている」
3.6.9
とのたまふ。
とおっしゃる。
とも言っていた。

第四章 玉鬘の物語 宮中出仕から鬚黒邸へ


第一段 玉鬘、新年になって参内

4.1.1
かかることどもの(さわ)ぎに、尚侍(かん)(きみ)()けしき、いよいよ()()なきを、大将(だいしゃう)は、いとほしと(おも)ひあつかひきこえて、
このようなことの騒動に、尚侍の君のご気分は、ますます晴れる間もないでいるのを、大将は、お気の毒にとお気づかい申し上げて、
大将のもとの夫人とのそうしたいきさつはいっそう玉鬘(たまかずら)憂鬱(ゆううつ)にした。大将はそれを哀れに思って慰めようとする心から、
4.1.2
この(まゐ)りたまはむとありしことも、()()れて、(さまた)げきこえつるを内裏(うち)にも、なめく(こころ)あるさまに()こしめし、(ひと)びとも(おぼ)すところあらむ
公人(おほやけびと)(たの)みたる(ひと)はなくやはある」
「あの参内なさる予定であったことも、沙汰止みになって、お妨げ申したのを、帝におかせられても、快からず何か含むところがあるようにお聞きあそばし、方々もお考えになるところがあるだろう。
宮仕えの女性を妻にしている男もいないではないが」
尚侍(ないしのかみ)として宮中へ出ることをこれまでは反対をし続けたのであるが、陛下がこの態度を無礼であると思召すふうもあるし、両大臣もいったん思い立ったことであるから、自分らとしていえば公職を持つ女の良人(おっと)である人も世間にあることであり、構わないことと考えて宮中へ出仕することに賛成する
4.1.3
(おも)(かへ)して、年返(としかへ)りて、(まゐ)らせたてまつりたまふ。
男踏歌(をとこたふか)ありければやがてそのほどに、儀式(ぎしき)いといまめかしく()なくて(まゐ)りたまふ。
と思い返して、年が改まってから、参内させ申し上げなさる。
男踏歌があったので、ちょうどその折に、参内の儀式をたいそう立派に、この上なく整えて参内なさる。
と言い出したので、春になっていよいよ尚侍の出仕のことが実現された。男踏歌(おとことうか)があったので、それを機会として玉鬘は御所へ参ったのである。すべての儀式が派手(はで)に行なわれた。
4.1.4
かたがたの大臣(おとど)たちこの大将(だいしゃう)御勢(おほんいきほ)ひさへさしあひ、宰相中将(さいしゃうのちゅうじゃう)ねむごろに(こころ)しらひきこえたまふ。
兄弟(せうと)君達(きみたち)も、かかる(をり)にと(つど)ひ、追従(ついせう)()りて、かしづきたまふさま、いとめでたし。
お二方の大臣たち、この大将のご威勢までが加わり、宰相中将、熱心に気を配ってお世話申し上げなさる。
兄弟の公達も、このような機会にと集まって、ご機嫌を取りに近づいて、大事になさる様子、たいそう素晴らしい。
二人の大臣の勢力を背景にしている上に大将の勢いが添ったのであるから、はなばなしくなるのが道理である。源宰相中将は忠実に世話をしていた。兄弟たちも玉鬘に接近するよい機会であると、誠意を見せようとして集まって来て、うらやましいほどにぎわしかった。
4.1.5 承香殿の東面にお局を設けてある。
西に宮の女御がいらしたので、馬道だけの間隔であるが、お心の中は、遠く離れていらっしゃったであろう。
御方々は、どの方となく競争なさい合って、宮中では、奥ゆかしくはなやいだ時分である。
格別家柄の劣った更衣たち、多くも伺候なさっていない。
承香殿(じょうこうでん)の東のほう一帯が尚侍の曹司(ぞうし)にあてられてあった。西のほう一帯には式部卿(しきぶきょう)の宮の王女御(おうにょご)がいるのである。一つの中廊下だけが隔てになっていても、二人の女性の気持ちははるかに遠く離れていたことであろうと思われる。後宮の人たちは競い合って、ますます宮廷を洗練されたものにしていくようなはなやかな時代であった。あまりよい身分でない更衣(こうい)などは多くも出ていなかった。
4.1.6
中宮(ちうぐう)弘徽殿女御(こきでんのにょうご)この(みや)女御(にょうご)(ひだり)大殿(おほとの)女御(にょうご)などさぶらひたまふ。
さては、中納言(ちゅうなごん)宰相(さいしゃう)御女二人(おほんむすめふたり)ばかりぞさぶらひたまひける。
中宮、弘徽殿女御、この宮の王女御、左大臣の女御などが伺候していらっしゃる。
その他には、中納言、宰相の御息女が二人ほどが伺候していらっしゃるのであった。
中宮(ちゅうぐう)弘徽殿(こきでん)の女御、この王女御、左大臣の娘の女御などが後宮の女性である。そのほかに中納言の娘と宰相の娘とが二人の更衣で侍していた。

第二段 男踏歌、貴顕の邸を回る

4.2.1
踏歌(たふか)は、方々(かたがた)里人参(さとびとまゐ)り、さまことに、けににぎははしき見物(みもの)なれば、(たれ)(たれ)もきよらを()くし、袖口(そでぐち)(かさ)なり、こちたくめでたくととのへたまふ。
春宮(とうぐう)女御(にょうご)も、いとはなやかにもてなしたまひて、(みや)は、まだ(わか)くおはしませどすべていと(いま)めかし。
踏歌は、局々に実家の人が参内し、ふだんとは違って、ことに賑やかな見物なので、どなたもどなたも綺羅を尽くし、袖口の色の重なり、うるさいほど立派に整えていらっしゃる。
春宮の女御も、たいそう華やかになさって、春宮は、まだお若くいらっしゃるが、すべての面でたいそう風流である。
踏歌(とうか)は女御がたの所へ実家の人がたくさん見物に来ていた。これは御所の行事のうちでもおもしろいにぎやかなものであったから、見物の人たちも服装などに華奢(かしゃ)を競った。東宮の母君の女御も人に負けぬ派手(はで)な方であった。東宮はまだ御幼年であったから、そのほうの中心は母君の女御であった。
4.2.2
御前(おまへ)中宮(ちゅうぐう)御方(おほんかた)朱雀院(しゅざくゐん)とに(まゐ)りて()いたう()けにければ、六条(ろくでう)(ゐん)には、このたびは所狭(ところせ)しとはぶきたまふ
朱雀院(しゅざくゐん)より(かへ)(まゐ)りて、春宮(とうぐう)御方々(おほんかたがた)めぐるほどに、夜明(よあ)けぬ。
帝の御前、中宮の御方、朱雀院と参って、夜がたいそう更けてしまったので、六条院には、今回は仰々しいのでとお取り止めになる。
朱雀院から帰参して、春宮の御方々を回るうちに、夜が明けた。
御前(ごぜん)、中宮、朱雀(すざく)院へまわるのに夜が()けるために、今度は六条院へ寄ることを源氏が辞退してあった。朱雀院から引き返して、東宮の御殿を二か所まわったころに夜が明けた。
4.2.3
ほのぼのとをかしき(あさ)ぼらけに、いたく()(みだ)れたるさまして、竹河(たけかは)(うた)ひけるほどを()れば、(うち)大殿(おほとの)君達(きんだち)は、()五人(ごにん)ばかり、殿上人(てんじゃうびと)のなかに、(こゑ)すぐれ、容貌(かたち)きよげにて、うち(つづ)きたまへる、いとめでたし
ほのぼのと美しい夜明けに、たいそう酔い乱れた恰好をして、「竹河」を謡っているところを見ると、内大臣家の御子息が、四、五人ほど、殿上人の中で、声が優れ、器量も美しくて、うち揃っていらっしゃるのが、たいそう素晴らしい。
ほのぼのと白む朝ぼらけに、酔い乱れて「竹河(たけがわ)」を歌っている中に、内大臣の子息たちが四、五人もいた。それはことに声がよく容貌(ようぼう)がそろってすぐれていた。
4.2.4
(わらは)なる八郎君(はちらうぎみ)は、むかひ(ばら)にて、いみじうかしづきたまふが、いとうつくしうて、大将殿(だいしゃうどの)太郎君(たらうぎみ)()()みたるを尚侍(かん)(きみ)も、よそ(びと)()たまはねば御目(おほんめ)とまりけり。
やむごとなくまじらひ()れたまへる御方々(おほんかたがた)よりも、この御局(みつぼね)袖口(そでぐち)おほかたのけはひ(いま)めかしう、(おな)じものの(いろ)あひ、(かさ)なりなれど、ものよりことにはなやかなり。
殿上童の八郎君は、正妻腹の子で、たいそう大切になさっているのが、とてもかわいらしくて、大将殿の太郎君と立ち並んでいるのを、尚侍の君も、他人とはお思いにならないので、お目が止まった。
高貴な身分で長く宮仕えしていらっしゃる方々よりも、この御局の袖口は、全体の感じが今風で、同じ衣装の色合い、襲なりであるが、他の所より格別華やかである。
童形(どうぎょう)である八郎君(はちろうぎみ)は正妻から生まれた子で、非常に大事がられているのであったが、愛らしかった。大将の長男と並んでいるこの二人を尚侍も他人とは思えないで目がとどめられた。宮中の生活に()れた女御たちの曹司よりも、新しい尚侍の見物する御殿の様子のほうがはなやかで、同じような物ではあるが、女房の袖口(そでぐち)の重ねの色目も、ここのがすぐれたように公達(きんだち)は思った。
4.2.5
正身(さうじみ)女房(にょうばう)たちも、かやうに御心(みこころ)やりて、しばしは()ぐいたまはまし、(おも)ひあへり。
ご本人も女房たちも、このようにご気分を晴らして、暫くの間は宮中でお過ごせになれたら、と思い合っていた。
尚侍自身も女房たちもこうした、悪いことが悪く見え、よいことはことによく見える御所の中の生活をしばらくは続けてみたいと思っていた。
4.2.6
皆同(みなおな)じごと、かづけわたす綿(わた)のさまも、(にほ)()ことにらうらうじうしないたまひて、こなたは水駅(みづむまや)なりけれどけはひにぎははしく、(ひと)びと心懸想(こころげさう)しそして(かぎ)りある御饗(みあるじ)などのことどもも、したるさま、ことに用意(ようい)ありてなむ、大将殿(だいしゃうどの)せさせたまへりける
どこでも同じように、肩にお被けになる綿の様子も、色艶も格別に洗練なさって、こちらは水駅であったが、様子が賑やかで、女房たちが心づかいし過ぎるほどで、一定の作法通りの御饗応など、用意がしてある様子は、特別に気を配って、大将殿がおさせになったのであった。
どちらでも纏頭(てんとう)に出すのは(きま)った真綿であるが、それらなどにも尚侍のほうのはおもしろい意匠が加えられてあった。こちらはちょっと寄るだけの所なのであるが、はなやかな空気のうかがわれる曹司であったから、公達は晴れがましく思い、緊張した踏歌をした。饗応(きょうおう)の法則は越えないようにして、ことに手厚く演者はねぎらわれたのであった。それは大将の計らいであった。

第三段 玉鬘の宮中生活

4.3.1 宿直所にいらっしゃって、一日中、申し上げなさることは、
大将は禁中の詰め所にいて、終日尚侍の所へ、
4.3.2
()さり、まかでさせたてまつりてむ
かかるついでにと(おぼ)(うつ)るらむ御宮仕(おほんみやづか)へなむ、やすからぬ」
「夜になったら、ご退出おさせ申そう。
このような機会にと、急にお考えが変わる宮仕えは安心でない」
退出を今夜のことにしたいと思います。出仕した以上はなおとどまっていたいと、あなたが考えるであろう宮仕えというものは、私にとって苦痛です。
4.3.3
とのみ、(おな)じことを()めきこえたまへど、御返(おほんかへ)りなし。
さぶらふ(ひと)びとぞ、
とばかり、同じことをご催促申し上げなさるが、お返事はない。
伺候している女房たちが、
こんなことばかりを書いて送るのであったが、玉鬘(たまかずら)は何とも返事を書かない。女房たちから、
4.3.4
大臣(おとど)の、(こころ)あわたたしきほどならでまれまれの御参(おほんまゐ)りなれば、御心(みこころ)ゆかせたまふばかり
(ゆる)されありてを、まかでさせたまへ』と、()こえさせたまひしかば、今宵(こよひ)は、あまりすがすがしうや」
「大臣が、『急いで退出することなく、めったにない参内なので、ご満足あそばされるくらいに。
お許しがあってから、退出なさるよう』と、申し上げていらしたので、今夜は、あまりにも急すぎませんか」
源氏の大臣が、あまり短時日でなく、たまたま上がったのであるから、陛下がもう帰ってもよいと仰せになるまで上がっていて帰るようにとおっしゃいましたことですから。それに今晩とはあまり御無愛想なことになりませんかと私たちは存じます。
4.3.5
()こえたるを、いとつらしと(おも)ひて
と申し上げたのを、たいそうつらく思って、
と大将の所へ書いて来た。大将は尚侍(ないしのかみ)を恨めしがって、
4.3.6
さばかり()こえしものを、さも(こころ)にかなはぬ()かな」
「あれほど申し上げたのに、何とも思い通りに行かない夫婦仲だなあ」
「あんなに言っておいたのに、自分の意志などは少しも尊重されない」
4.3.7
とうち(なげ)きてゐたまへり。
とお嘆きになっていらっしゃった。
歎息(たんそく)をしていた。
4.3.8
兵部卿宮(ひゃうぶきゃうのみや)御前(ごぜん)御遊(おほんあそ)びにさぶらひたまひて、静心(しづこころ)なく、この御局(みつぼね)のあたり(おも)ひやられたまへば、(ねん)じあまりて()こえたまへり。
大将(だいしゃう)は、(つかさ)御曹司(みざうし)にぞおはしける
これより」とて()()れたれば、しぶしぶに()たまふ
兵部卿宮、御前の管弦の御遊に伺候していらっしゃっても、気が落ち着かず、このお局あたりを思わずにはいらっしゃれないので、堪えきれずにお便りを申し上げなさった。
大将は、近衛府の御曹司にいらっしゃる時であった。
「そこから」と言って取り次いだので、しぶしぶと御覧になる。
兵部卿の宮は御前の音楽の席に、その一員として列席しておいでになったのであるが、お心持ちは平静でありえなかった。尚侍の曹司ばかりがお思われになってならないのであった。堪えがたくなって宮は手紙をお書きになった。大将は自身の直廬(じきろ)のほうにいたのである。宮の御消息であるといって使いから女房が渡されたものを、尚侍はしぶしぶ読んだ。
4.3.9 「深山木と仲よくしていらっしゃる鳥が
またなく疎ましく思われる春ですねえ
深山木(みやまぎ)(はね)うち()はしゐる鳥の
またなく(ねた)き春にもあるかな
4.3.10 鳥の囀る声が耳に止まりまして」
さえずる声にも耳がとどめられてなりません。
4.3.11
とあり。
いとほしう、面赤(おもてあか)みて、()こえむかたなく(おも)ひゐたまへるに、主上渡(うへわた)らせたまふ
とある。
お気の毒に思って、顔が赤くなって、お返事のしようもなく思っていらっしゃるところに、主上がお越しあそばす。
とあった。気の毒なほど顔を赤めて、何と返事もできないように尚侍が思っている所へ(みかど)がおいでになった。

第四段 帝,玉鬘のもとを訪う

4.4.1 月が明るいので、ご容貌は言いようもなくお美しくて、まるで、あの大臣のご様子に違うところなくいらっしゃる。
「このような方が二人もいらっしゃったのだ」と、拝見なさる。
あの方のお気持ちは浅くはないが、嫌な物思いをしたけれど、こちらは、どうしてそのように思わせなさろう。
たいそうやさしそうに、期待していたことと違ってしまった恨み事を仰せられるので、顔のやり場もないほどにお思いなさるよ。
顔を袖で隠して、お返事も申し上げなさらないので、
明るい月の光にお美しい竜顔(りゅうがん)がよく拝された。源氏の顔をただそのまま写したようで、こうしたお顔がもう一つあったのかというような気が玉鬘にされるのであった。源氏の愛は深かったがこの人が受け入れるのに障害になるものがあまりに多かった。帝との間にはそうしたものはないのである。帝はなつかしい御様子で、お志であったことが違ってしまったという恨みをお告げになるのであったが、尚侍は恥ずかしくて顔の置き場もない気がした。顔を隠して、お返辞もできないでいると、
4.4.2
あやしうおぼつかなきわざかな
よろこびなども、(おも)()りたまはむと(おも)ふことあるを、()()れたまはぬさまにのみあるは、かかる御癖(おほんくせ)なりけり」
「妙に黙っていらっしゃるのですね。
昇進なども、ご存知であろうと思うことがあるのに、何もお聞き入れなさらない様子でばかりいらっしゃるのは、そのようなご性格なのですね」
「たよりない方だね。好意を受けてもらおうと思ったことにも無関心でおいでになるのですね。何にもそうなのですね。あなたの癖なのですね」
4.4.3
とのたまはせて、
と仰せになって、
と仰せになって、
4.4.4 「どうしてこう一緒になりがたいあなたを
深く思い染めてしまったのでしょう
「などてかくはひ合ひがたき紫を
心に深く思ひ()めけん
4.4.5 これ以上深くはなれないのでしょうか」
濃くはなれない運命だろうか」
4.4.6
(おほ)せらるるさま、いと(わか)くきよらに()づかしきを、(たが)ひたまへるところやある」と(おも)(なぐさ)めて、()こえたまふ。
宮仕(みやづか)への(らう)もなくて、今年(ことし)加階(かかい)したまへる(こころ)にや
と仰せになる様子、たいそう若々しく美しくて気恥ずかしいので、「どこが違っていらっしゃろうか」と気を取り直して、お返事申し上げなさる。
宮仕えの年功もなくて、今年、位を賜ったお礼の気持ちなのであろうか。
若々しくておきれいな所は源氏と同じである。源氏と思ってお話を申し上げようと尚侍は思った。陛下が好意と仰せられるのは、去年尚侍になって以来、まだ勤労らしいことも積まずに、三位(さんみ)に玉鬘を陞叙(しょうじょ)されたことである。紫は三位の男子の制服の色であった。
4.4.7 「どのようなお気持ちからとも存じませんでした
この紫の色は、
「いかならん色とも知らぬ紫を
心してこそ人はそめけれ
4.4.8 ただ今からはそのように存じましょう」
ただ今から改めて御恩を思います」
4.4.9
()こえたまへば、うち()みて、
と申し上げなさると、ほほ笑みなさって、
と尚侍が言うと、帝は微笑をあそばして、
4.4.10
その、(いま)より()めたまはむこそかひなかべいことなれ。
(うれ)ふべき(ひと)あらばことわり()かまほしくなむ」
「その、今から思って下さろうとしても、何の役にも立たないことです。
訴えを聞いてくれる人があったら、その判断を聞いてみたいものです」
「その今からということがだめになったのだからね。私に抗議する人があれば理論が聞きたい。私のほうが先にあなたを愛していたのだから」
4.4.11
と、いたう(うら)みさせたまふ()けしきの、まめやかにわづらはしければ、いとうたてもあるかな」とおぼえて、をかしきさまをも()えたてまつらじ、むつかしき()(くせ)なりけり」と(おも)ふに、まめだちてさぶらひたまへば、(おぼ)すさまなる(みだ)れごともうち()でさせたまはで、やうやうこそは目馴(めな)れめ」と(おぼ)しけり
と、たいそうお恨みあそばす御様子が、真面目で厄介なので、「とても嫌だわ」と思われて、「愛想の良い態度をお見せ申すまい、男の方の困った癖だわ」と思うと、真面目になって伺候していらっしゃるので、お思い通りの冗談も仰せになれずに、「だんだんと親しみ馴れて行くことだろう」とお思いあそばすのであった。
と恨みをお告げになる。言葉の遊戯ではなく皆まじめに思召(おぼしめ)すらしいのであったから、尚侍は困ったことであると思った。自分が陛下の愛に感激しているほんとうの気持ちなどはお見せすべきでない。帝といえども男性に共通した弱点は持っておいでになるのであるからと考えて、玉鬘(たまかずら)はただきまじめなふうで黙って侍していた。帝はもう少し突込んだ恋の話もしたく思召してここへおいでになったのであるが、それがお言い出せにならないで、そのうち()れてくるであろうからと見ておいでになった。

第五段 玉鬘、帝と和歌を詠み交す

4.5.1
大将(だいしゃう)かく(わた)らせたまへるを()きたまひて、いとど静心(しづこころ)なければ、(いそ)ぎまどはしたまふ。
みづからも()げなきことも()()ぬべき()なりけり」と心憂(こころう)きに、えのどめたまはず、まかでさせたまふべきさま、つきづきしきことづけども(つく)()でて、父大臣(ちちおとど)など、かしこくたばかりたまひてなむ、御暇許(おほんいとまゆる)されたまひける。
大将は、このようにお越しあそばしたのをお聞きになって、ますます心が落ち着かないので、急いでせき立てなさる。
ご自身も、「身分不相応なことも出て来かねない身の上だなあ」と情けなく思うので、落ち着いていらっしゃれず、退出させなさる段取り、もっともらしい口実を作り出して、父大臣など、うまく取り繕いなさって、御退出を許されなさったのであった。
大将は帝が曹司へおいでになったと聞いて危険がることがいよいよ急になって、退出を早くするようにとしきりに催促をしてきた。もっともらしい口実も作って実父の大臣を上手(じょうず)に賛成させ、いろいろと策動した結果、ようやく今夜退出する勅許を得た。
4.5.2
さらば
物懲(ものご)りしてまた()だし()てぬ(ひと)もぞある
いとこそからけれ。
(ひと)より(さき)(すす)みにし(こころ)ざしの、(ひと)(おく)れて、けしき()(したが)ふよ
(むかし)のなにがしが(ためし)()()でつべき心地(ここち)なむする」
「それでは。
これに懲りて、二度と出仕をさせない人があっては困る。
たいそうつらい。
誰より先に望んだ気持ちが、人に先を越されて、その人の御機嫌を伺うことよ。
昔の誰それの例も、持ち出したい気がします」
「今夜あなたの出て行くのを許さなければ、懲りてしまって、これきりあなたをよこしてくれない人があるからね。だれよりも先にあなたを愛した人が、人に負けて、勝った男の機嫌(きげん)をとるというようなことをしている。昔の何とかいった男(時平に妻を奪われた平貞文(たいらのさだふみ)の歌、昔せしわがかねごとの悲しきはいかに契りし名残(なごり)なるらん)のように、まったく悲観的な気持ちになりますよ」
4.5.3
とて、まことにいと口惜(くちを)しと(おぼ)()したり。
と仰せになって、
と仰せになって、真底(しんそこ)からくやしいふうをお見せになった。
4.5.4
()こし()ししにも、こよなき(ちか)まさりをはじめよりさる御心(みこころ)なからむにてだにも、御覧(ごらん)()ぐすまじきを、まいていとねたう、()かず(おぼ)さる。
お聞きあそばしていた時よりも、格段に実際に素晴らしいのを、初めからそのような気持ちがないにせよ、お見逃しになれないだろうに、なおさらたいそう悔しく、残念にお思いなさる。
聞こし召したのに数倍した美貌(びぼう)の持ち主であったから、初めにそうした思召しはなくっても、この人を御覧になっては公職の尚侍としてだけでお許しにならなかったであろうと思われるが、まして初めの事情がそうでもなかったのであったから、帝は(ねた)ましくてならぬ御感情がおありになって、最初の求婚者の権利を主張あそばしたくなるのを、あさはかな恋と思われたくないと御自制をあそばして、熱情を認めさせようとしてのお言葉だけをいろいろに下された。
4.5.5
されど、ひたぶるに(あさ)(かた)に、(おも)(うと)まれじとて、いみじう心深(こころぶか)きさまにのたまひ(ちぎ)りて、なつけたまふも、かたじけなう、われは、われ、(おも)ふものを」と(おぼ)す。
けれども、まったく出来心からと、疎んじられまいとして、たいそう愛情深い程度にお約束なさって、親しみなさるのも、恐れ多く、「わたしは、わたしだわ、と思っているのに」とお思いになる。
こうしてなつけようとあそばす御好意がかたじけなくて、結婚しても自分の心は自分の物であるのに、良人(おっと)にことごとく与えているものでないのにと玉鬘は思っていた。
4.5.6
御輦車寄(おほんてぐるまよ)せてこなた、かなたの、(おほん)かしづき(びと)ども(こころ)もとながり、大将(だいしゃう)も、いとものむつかしうたち()ひ、(さわ)ぎたまふまで、えおはしまし(はな)れず
御輦車を寄せて、こちら方、あちら方の、お世話役の人々が待ち遠しがって、大将も、たいそううるさいほどお側を離れず、世話をお焼きになる時まで、お離れあそばされない。
輦車(れんしゃ)が寄せられて、内大臣家、大将家のために尚侍の退出に従って行こうとする人たちが、出立ちを待ち遠しがり、大将自身もむつかしい顔をしながら、人々へ指図(さしず)をするふうにしてその辺を歩きまわるまで帝は尚侍の曹司をお離れになることができなかった。
4.5.7 「こんなに厳重な付ききりの警護は不愉快だ」
近衛(ちかきまもり)過ぎるね。これでは監視されているようではないか」
4.5.8
(にく)ませたまふ。
とお憎みあそばす。
と帝はお憎みになった。
4.5.9 「幾重にも霞が隔てたならば、
梅の花の香は宮中まで匂って来な
九重(ここのへ)(かすみ)隔てば梅の花
ただかばかりも(にほ)ひこじとや
4.5.10
(こと)なることなきことなれども(おほん)ありさま、けはひを()たてまつるほどは、をかしくもやありけむ。
格別どうという歌ではないが、ご様子、物腰を拝見している時は、結構に思われたのであろうか。
何でもない御歌であるが、お美しい帝が仰せられたことであったから、特別なもののように尚侍には聞かれた。
4.5.11
()をなつかしみ()かいつべき()を、()しむべかめる(ひと)も、()をつみて心苦(こころぐる)しうなむ。
いかでか()こゆべき」
「野原が懐かしいので、このまま夜明かしをしたいが、そうさせたくないでいる人が、自分の身につまされて気の毒に思う。
どのようにお便りしたらよいものか」
「私は話し続けて夜が明かしたいのだが、惜しんでいる人にも、私の身に引きくらべて同情がされるからお帰りなさい。しかし、どうして手紙などはあげたらいいだろう」
4.5.12 とお悩みあそばすのも、「まことに恐れ多いこと」と、拝する。
と御心配げに仰せられるのがもったいなく思われた。
4.5.13 「香りだけは風におことづけください
美しい花の枝に並ぶべくもないわたしですが」
かばかりは風にもつてよ花の()
立ち並ぶべき(にほ)ひなくとも
4.5.14 やはり冷たく扱われない様子を、しみじみとお思いになりながら、振り返りがちにお帰りあそばした。
と言って、さすがに忘られたくない様子の女に見えるのを哀れに思召しながら、顧みがちに帝はお立ち去りになった。

第六段 玉鬘、鬚黒邸に退出

4.6.1 そのまま今夜、あの邸にとお考えになっていたが、前もってはお許しが出ないだろうから、打ち明け申されずに、
すぐに大将は自邸へ玉鬘(たまかずら)を伴おうと思っているのであるが、初めから言っては源氏の同意が得られないのを知って、この時までは言わずに、突然、
4.6.2
にはかにいと(みだ)風邪(かぜ)(なや)ましきを、(こころ)やすき(ところ)にうち(やす)みはべらむほど、よそよそにてはいとおぼつかなくはべらむを」
「急にたいそう風邪で気分が悪くなったものですから、気楽な所で休ませます間、よそに離れていてはたいそう不安でございますから」
「にわかに風邪(かぜ)気味になりまして、自宅で養生をしたく存じますが、別々になりましては妻も気がかりでございましょうから」
4.6.3 と、穏やかに申し上げなさって、そのままお移し申し上げなさる。
と穏やかに了解を求めて、大将はそのまま尚侍(ないしのかみ)をつれて帰ったのであった。
4.6.4
父大臣(ちちおとど)にはかなるを、儀式(ぎしき)なきやうにや」と(おぼ)せど、「あながちに、さばかりのことを()(さまた)げむも、(ひと)(こころ)おくべし」と(おぼ)せば、
父内大臣は、急なことで、「格式が欠けるようではないか」とお思いになるが、「強引に、そのくらいのことで反対するのも、気を悪くするだろう」とお思いになると、
内大臣は婚家へ娘のにわかな引き取られ方を、形式上不満にも思ったが、小さなことにこだわっていては婿の大将の感情を害することになろうと思って、
4.6.5 「どのようにでも。
もともとわたしの自由にならないお方のことだから」
「どちらでも私のほうの意志でどうすることもできない娘になっているのですから」
4.6.6 と、申し上げなさるのであった。
という返事を内大臣はした。
4.6.7
六条殿(ろくでうどの)「いとゆくりなく本意(ほい)なし」と(おぼ)せど、などかはあらむ
(をんな)も、(しほ)やく(けぶり)のなびきけるかたをあさましと(おぼ)せど、(ぬす)みもて()きたらまし(おぼ)しなずらへて、いとうれしく心地(ここち)おちゐぬ。
六条殿は、「あまりに急で不本意だ」とお思いになるが、どうしようもない。
女も、思ってもみなかった身の上を、情けないとお思いになるが、盗んで来たらと、たいそう嬉しく安心した。
源氏は思いがけないことになったと失望を感じたが、それは無理なことのようである。玉鬘も心にない良人(おっと)を持ったことは苦しいと思いながらも、盗んで行かれたのであればあきらめるほかはないという気になって、大将家へ来たことではじめて心が落ち着いてうれしかった。
4.6.8 あの、お入りあそばしたことを、たいそう嫉妬申し上げなさるのも、不愉快で、やはりつまらない人のような気がして、夫婦仲は疎々しい態度で、ますます機嫌が悪い。
帝が曹司に長くおいでになったことで大将が非常に嫉妬(しっと)していろいろなことを言うのも、凡人らしく思われて、良人を愛することのできない玉鬘の機嫌(きげん)はますます悪かった。
4.6.9
かの(みや)にもさこそたけうのたまひしか、いみじう(おぼ)しわぶれど、()えて(おとづ)れず
ただ(おも)ふことかなひぬる(おほん)かしづきに、()()いとなみて()ぐしたまふ
あの宮家でも、あのようにきつくおっしゃったが、たいそう後悔なさっているが、まったく音沙汰もない。
ただ念願が叶ったお世話で、毎日いそしんでお過ごしになる。
式部卿(しきぶきょう)の宮もあのように強い態度をおとりになったものの、大将がそれきりにしておくことで煩悶(はんもん)をしておいでになった。大将はもう交渉することを断念したふうである。一方では理想が実現された気になって、明け暮れ玉鬘をかしずくことに心をつかっていた。

第七段 二月、源氏、玉鬘へ手紙を贈る

4.7.1
二月(きさらぎ)にもなりぬ
大殿(おほとの)は、
二月になった。
大殿は、
二月になった。源氏は大将を無情な男に思われてならなかった。
4.7.2 「それにしても、
無愛想な仕打ちだ。まったくこのようにきっぱりと自分のものにしようとは思いもかけないで、油断させられたのが悔しい」、と、体裁悪く、何から何までお気にならない時とてなく、恋しく思い出さずには
これほどはっきりと玉鬘を自分から引き放すこととは思わずに油断をさせられていたことが、人聞きも不体裁に思われ、自身のためにも残念で、玉鬘が恋しくばかり思われた。
4.7.3
宿世(すくせ)などいふものおろかならぬことなれど、わがあまりなる(こころ)にてかく(ひと)やりならぬものは(おも)ふぞかし」
「運命などと言うのも、軽く見てはならないものだが、自分のどうすることもできない気持ちから、このように誰のせいでもなく物思いをするのだ」
宿縁は無視できないものであっても、自身の思いやりのあり過ぎたことからこうした苦しみを買うことになったのである
4.7.4
と、()()面影(おもかげ)にぞ()えたまふ。
と、寝ても起きても幻のようにまぶたにお見えになる。
と、日夜面影にその人を見ていた。
4.7.5
大将(だいしゃう)の、をかしやかに、わららかなる()もなき(ひと)()ひゐたらむに、はかなき(たはぶ)れごともつつましう、あいなく(おぼ)されて、(ねん)じたまふを、(あめ)いたう()りていとのどやかなるころ、かやうのつれづれも(まぎ)らはし(どころ)(わた)りたまひて(かた)らひたまひしさまなどの、いみじう(こひ)しければ、御文(おほんふみ)たてまつりたまふ。
大将のような、趣味も、愛想もない人に連れ添っていては、ちょっとした冗談も遠慮されつまらなく思われなさって、我慢していらっしゃるとき、雨がひどく降って、とてものんびりとしたころ、このような所在なさも気の紛らし所にお行きになって、お話しになったことなどが、たいそう恋しいので、お手紙を差し上げなさる。
風流気の少ない大将といることを思っては、手紙で、戯れのようにして今日このごろの気持ちを玉鬘に伝えることも気が置かれて得しなかった。雨がよく降って静かなころ、源氏はこうした退屈な時間も紛らすことが玉鬘の所でできたこと、その時分の様子などが目に浮かんできて、非常に恋しくなって手紙を書いた。
4.7.6
右近(うこん)がもとに(しの)びて(つか)はすも、かつは、(おも)はむことを(おぼ)すに(なに)ごともえ(つづ)けたまはで、ただ(おも)はせたることどもぞありける
右近のもとにこっそりと差し出すのも、一方では、それをどのように思うかとお思いになると、詳しくは書き綴ることがおできになれず、ただ相手の推察に任せた書きぶりなのであった。
右近の所へそっとその手紙は送られたのであるが、そうはしながらも右近が怪しく思わないかということも考えられて、思うことはそのまま皆書き続けられなかった。ただ推察のできそうなことだけを書いたのであった。
4.7.7 「降りこめられてのどやかな春雨のころ
昔馴染みのわたしをどう思っていらっしゃいますか
かきたれてのどけきころの春雨に
ふるさと人をいかに忍ぶや
4.7.8
つれづれに()へてうらめしう(おも)()でらるること(おほ)うはべるを、いかでか()()こゆべからむ
所在なさにつけても、恨めしく思い出されることが多くございますが、どのようにして分かるように申し上げたらよいのでしょうか」
私も退屈なものですから、いろいろ恨めしくなったりすることがあるのですが、どうしてそれをお聞かせしてよいかわかりません。
4.7.9
などあり。
などとある。
などと書かれてあった。
4.7.10
(ひま)(しの)びて()せたてまつればうち()きて、わが(こころ)にもほど()るままに(おも)()でられたまふ(おほん)さまをまほに、「(こひ)しや、いかで()たてまつらむ」などは、えのたまはぬ(おや)にて、げに、いかでかは対面(たいめん)もあらむ」と、あはれなり。
人のいない間にこっそりとお見せ申し上げると、ほろっと泣いて、自分の心でも、月日のたつにつれて、思い出さずにはいらっしゃれないご様子を、正面きって、「恋しい、何とかしてお目にかかりたい」などとは、おっしゃることのできない親なので、「おっしゃるとおり、どうしてお会いすることができようか」と、もの悲しい。
人が玉鬘のそばにいない時を見計らって右近はこの手紙を見せた。玉鬘も泣いた。自身の心にも時がたつままに思い出されることの多い源氏は、感情そのままに、恋しい、どうかして()いたいというのを遠慮しないではならない親であったから、実際問題として考えてもいつ逢えることともわからないので悲しかった。
4.7.11 時々、厄介であったご様子を、気にくわなくお思い申し上げたことなどは、この人にもお知らせになっていないことなので、自分ひとりでお思い続けていらっしゃるが、右近は、うすうす感じ取っていたのであった。
実際、どんな仲であったのだろうと、今でも納得が行かず思っていたのであった。
時々源氏の不純な愛撫(あいぶ)の手が伸ばされようとして困った話などは、だれにも言ってないことであったが、右近は怪しく思っていた。ほんとうのことはまだわからないようにこの人は思っているのである。
4.7.12
御返(おほんかへ)り、()こゆるも()づかしけれど、おぼつかなくやは」とて、()きたまふ。
お返事は、「差し上げるのも気が引けるが、ご不審に思われようか」と思って、お書きになる。
返事を、「書くのが恥ずかしくてならないけれど、あげないでは失望をなさるだろうから」
 と言って、玉鬘(たまかずら)は書いた。
4.7.13 「物思いに耽りながら軒の雫に袖を濡らして
どうしてあなた様のことを思わずにいられましょうか
ながめする軒の(しづく)(そで)ぬれて
うたかた人を忍ばざらめや
4.7.14
ほどふるころはげに、ことなるつれづれもまさりはべりけり。
あなかしこ」
時がたつと、おっしゃるとおり、格別な所在なさも募りますこと。
あなかしこ」
それが長い時間でございますから、憂鬱(ゆううつ)的退屈と申すようなものもつのってまいります。失礼をいたしました。
4.7.15
と、ゐやゐやしく()きなしたまへり
と、恭しくお書きになっていた。
とうやうやしく書かれてあった。

第八段 源氏、玉鬘の返書を読む

4.8.1
()(ひろ)げて玉水(たまみづ)のこぼるるやうに(おぼ)さるるを、(ひと)()ば、うたてあるべし」と、つれなくもてなしたまへど、(むね)()心地(ここち)して、かの(むかし)の、尚侍(かん)(きみ)朱雀院(すざくゐん)(きさき)(せち)()()めたまひし(をり)など(おぼ)()づれど、さしあたりたることなればにやこれは()づかずぞあはれなりける
手紙を広げて、玉水がこぼれるように思わずにはいらっしゃれないが、「人が見たら、体裁悪いことだろう」と、平静を装っていらっしゃるが、胸が一杯になる思いがして、あの昔の、尚侍の君を朱雀院の母后が無理に逢わせまいとなさった時のことなどをお思い出しになるが、目前のことだからであろうか、こちらは普通と変わって、しみじみと心うつのであった。
それを前に(ひろ)げて、源氏はその雨だれが自分からこぼれ落ちる気もするのであったが、人に悪い想像をさせてはならないと思って、しいておさえていた。昔の尚侍を朱雀(すざく)院の母后が厳重な監視をして、源氏に逢わせまいとされた時がちょうどこんなのであったと、その当時の苦しさと今を比較して考えてみたが、これは現在のことであるせいか、その時にもまさってやる瀬ないように思われた。
4.8.2
()いたる(ひと)(こころ)からやすかるまじきわざなりけり。
(いま)(なに)につけてか(こころ)をも(みだ)らまし。
()げなき(こひ)のつまなりや」
「色好みの人は、本心から求めて物思いの絶えない人なのだ。
今は何のために心を悩まそうか。
似つかわしくない恋の相手であるよ」
好色な男はみずから求めて苦しみをするものである、もうこんなことに似合わしくない自分でないか
4.8.3
と、さましわびたまひて、御琴(おほんことか)()らして、なつかしう()きなしたまひし爪音(つまおと)(おも)()でられたまふ。
あづまの調(しら)べを、すが()きて、
と、冷静になるのに困って、お琴を掻き鳴らして、やさしくしいてお弾きになった爪音が、思い出さずにはいらっしゃれない。
和琴の調べを、すが掻きにして、
と源氏は思って、忘れようとする心から琴を()いてみたが、なつかしいふうに弾いた玉鬘の爪音(つまおと)がまた思い出されてならなかった。和琴(わごん)清掻(すがが)きに弾いて、
4.8.4 「玉藻はお刈りにならないで」
玉藻(たまも)はな刈りそ」
4.8.5
と、(うた)ひすさびたまふも、(こひ)しき(ひと)()せたらば、あはれ()ぐすまじき(おほん)さまなり。
と、謡い興じていらっしゃるのも、恋しい人に見せたならば、感動せずにはいられないご様子である。
と歌っているこのふうを、恋しい人に見せることができたなら、どんな心にも動揺の起こらないことはないであろうと思われた。
4.8.6
内裏(うち)にもほのかに御覧(ごらん)ぜし御容貌(おほんかたち)ありさまを、(こころ)にかけたまひて、
帝におかせられても、わずかに御覧あそばしたご器量ご様子を、お忘れにならず、
帝もほのかに御覧になった玉鬘の美貌(びぼう)をお忘れにならずに、
4.8.7 「赤裳を垂れ引いて去っていってしまった姿を」
赤裳垂(あかもた)れ引きいにし姿を」(立ちて思ひゐてもぞ思ふくれなゐの赤裳垂れ引き)
4.8.8
と、(にく)げなる古事(ふること)なれど御言種(おほんことぐさ)になりてなむ、(なが)めさせたまひける
御文(おほんふみ)は、(しの)(しの)びにありけり。
()()きものに(おも)ひしみたまひてかやうのすさびごとをも、あいなく(おぼ)しければ、(こころ)とけたる(おほん)いらへも()こえたまはず。
と、耳馴れない古歌であるが、お口癖になさって、物思いに耽っておいであそばすのであった。
お手紙は、そっと時々あるのであった。
わが身を不運な境遇と思い込みなさって、このような軽い気持ちのお手紙のやりとりも、似合わなくお思いになるので、うち解けたお返事も申し上げなさらない。
という古歌は露骨に感情を言っただけのものであるが、それを終始お口ずさみになって物思いをあそばされた。お手紙がそっと何通も尚侍の手へ来た。玉鬘はもう自身の運命を悲観してしまって、こうした心の遊びも不似合いになったもののように思い、御好意に感激したようなお返事は差し上げないのであった。
4.8.9
なほ、かの、ありがたかりし御心(おほんこころ)おきてを、かたがたにつけて(おも)ひしみたまへる(おほん)ことぞ、(わす)られざりける
やはり、あの、またとないほどであったお心配りを、何かにつけて深くありがたく思い込んでいらっしゃるお気持ちが、忘れられないのであった。
玉鬘は今になって源氏が清い愛で一貫してくれた親切がありがたくてならなかった。

第九段 三月、源氏、玉鬘を思う

4.9.1
三月(やよひ)になりて六条殿(ろくでうどの)御前(おまへ)の、(ふぢ)山吹(やまぶき)のおもしろき(ゆふ)ばえを()たまふにつけてもまづ()るかひありてゐたまへりし(おほん)さまのみ(おぼ)()でらるれば、(はる)御前(おまへ)をうち()てて、こなたに(わた)りて御覧(ごらん)ず。
三月になって、六条殿の御前の、藤、山吹が美しい夕映えを御覧になるにつけても、まっさきに見る目にも美しい姿でお座りになっていらしたご様子ばかりが思い出さずにはいらっしゃれないので、春の御前を放って、こちらの殿に渡って御覧になる。
三月になって、六条院の庭の(ふじ)山吹(やまぶき)がきれいに夕映(ゆうば)えの前に咲いているのを見ても、まずすぐれた玉鬘の容姿が忍ばれた。南の春の庭を捨てておいて、源氏は東の町の西の対に来て、さらに玉鬘に似た山吹をながめようとした。
4.9.2 呉竹の籬に、自然と咲きかかっている色艶が、たいそう美しい。
竹のませ(がき)に、自然に咲きかかるようになった山吹が感じよく思われた。
4.9.3 「色に衣を」
「思ふとも恋ふとも言はじ山吹の色に衣を染めてこそ着め」
4.9.4
などのたまひて、
などとおっしゃって、
この歌を源氏は口ずさんでいた。
4.9.5 「思いがけずに二人の仲は隔てられてしまったが
心の中では恋い慕っている山吹の花よ
思はずも井手の中みち隔つとも
言はでぞ恋ふる山吹の花
4.9.6 面影に見え見えして」
とも言っていた。
4.9.7
などのたまふも、()(ひと)なし
かく、さすがにもて(はな)れたることは、このたびぞ(おぼ)しける。
げに、あやしき御心(みこころ)のすさびなりや
などとおっしゃっても、聞く人もいない。
このように、さすがに諦めていることは、今になってお分かりになるのであった。
なるほど、妙なおたわむれの心であるよ。
「夕されば野辺(のべ)に鳴くてふかほ鳥の顔に見えつつ忘られなくに」などとも口にしていたが、ここにはだれも聞く人がいなかった。こんなふうに徹底的に恋人として玉鬘を思うことはこれが初めてであった。風変わりな源氏の君と言わねばならない。
4.9.8
かりの()のいと(おほ)かるを御覧(ごらん)じて、柑子(かうじ)(たちばな)などやうに(まぎ)らはして、わざとならずたてまつれたまふ。
御文(おほんふみ)は、あまり(ひと)もぞ目立(めた)つる」など(おぼ)して、すくよかに、
鴨の卵がたいそうたくさんあるのを御覧になって、柑子や、橘などのように見せて、何気ないふうに差し上げなさる。
お手紙は、「あまり人目に立っては」などとお思いになって、そっけなく、
(がん)の卵がほかからたくさん贈られてあったのを源氏は見て、蜜柑(みかん)(たちばな)の実を贈り物にするようにして卵を(かご)へ入れて玉鬘(たまかずら)へ贈った。手紙もたびたび送っては人目を引くであろうからと思って、内容を唯事(ただごと)風に書いた。
4.9.9
おぼつかなき月日(つきひ)(かさ)なりぬるを、(おも)はずなる(おほん)もてなしなりと(うら)みきこゆるも、御心(みこころ)ひとつにのみはあるまじう()きはべれば、ことなるついでならでは、対面(たいめん)(かた)からむを、口惜(くちを)しう(おも)ひたまふる」
「お目にかからない月日がたちましたが、思いがけないおあしらいだとお恨み申し上げるのも、あなたお一人のお考えからではなく聞いておりますので、特別の場合でなくては、お目にかかることの難しいことを、残念に存じております」
お逢いできない月日が重なりました。あまりに同情がないというように恨んではいますが、しかし御良人の御同意がなければ万事あなたの御意志だけではできないことを承知していますから、何かの場合でなければお許しの出ることはなかろうと残念に思っています。
4.9.10
など、(おや)めき()きたまひて、
などと、親めいてお書きになって、
などと親らしく言ってあるのである。
4.9.11 「せっかくわたしの所でかえった雛が見えませんね
どんな人が手に握っているのでしょう
おなじ巣にかへりしかひの見えぬかな
いかなる人か手ににぎるらん
4.9.12
などか、さしもなど、(こころ)やましうなむ」
どうして、こんなにまでもなどと、おもしろくなくて」
そんなにまでせずともとくやしがったりしています。
4.9.13
などあるを、大将(だいしゃう)()たまひて、うち(わら)ひて、
などとあるのを、大将も御覧になって、ふと笑って、
この手紙を大将も見て笑いながら、
4.9.14
(をんな)まことの(おや)(おほん)あたりにも、たはやすくうち(わた)()えたてまつりたまはむこと、ついでなくてあるべきことにあらず。
まして、なぞ、この大臣(おとど)の、をりをり(おも)(はな)たず、(うら)(ごと)はしたまふ」
「女性は、実の親の所にも、簡単に行ってお会いなさることは、適当な機会がなくてはなさるべきではない。
まして、どうして、この大臣は、度々諦めずに、恨み言をおっしゃるのだろう」
「女というものは実父の所へだって理由がなくては行って逢うことをしないものになっているのに、どうしてこの大臣が始終逢えない逢えないと恨んでばかしおよこしになるだろう」
4.9.15
と、つぶやくも、(にく)しと()きたまふ
と、ぶつぶつ言うのも、憎らしいとお聞きになる。
こんな批評めいたことを言うのも、玉鬘には憎く思われた。返事を、
4.9.16 「お返事は、わたしは差し上げられません」
「私は書けない」
4.9.17
と、()きにくくおぼいたれば、
と、書きにくくお思いになっているので、
と玉鬘が渋っていると、
4.9.18 「わたしがお書き申そう」
「今日は私がお返事をしよう」
4.9.19
()はるも、かたはらいたしや
と代わるのも、はらはらする思いである。
大将が代わろうというのであるから、玉鬘が片腹痛く思ったのはもっともである。
4.9.20 「巣の片隅に隠れて子供の数にも入らない雁の子を
どちらの方に取り隠そうとおっしゃるのでしょうか
巣隠れて数にもあらぬ(かり)の子を
いづ方にかはとりかくすべき
4.9.21
よろしからぬ()けしきにおどろきて。
すきずきしや」
不機嫌なご様子にびっくりしまして。
懸想文めいていましょうか」
御機嫌(ごきげん)をそこねておりますようですからこんなことを申し上げます。風流の真似(まね)をいたし過ぎるかもしれません。
4.9.22
()こえたまへり。
とお返事申し上げた。
大将の書いたものはこうであった。
4.9.23
この大将(だいしゃう)かかるはかなしごと()ひたるも、まだこそ()かざりつれ。
めづらしう
「この大将が、このような風流ぶった歌を詠んだのも、まだ聞いたことがなかった。
珍しくて」
「この人が戯談(じょうだん)風に書いた手紙というものは珍品だ」
4.9.24
とて、(わら)ひたまふ。
(こころ)のうちには、かく(りゃう)じたるを、いとからしと(おぼ)す。
と言って、お笑いになる。
心中では、このように一人占めにしているのを、とても憎いとお思いになる。
と源氏は笑ったが、心の中では玉鬘をわが物顔に言っているのを憎んだ。

第五章 鬚黒大将家と内大臣家の物語 玉鬘と近江の君


第一段 北の方、病状進む

5.1.1
かの、もとの(きた)(かた)は、月日隔(つきひへだ)たるままに、あさましと、ものを(おも)(しづ)み、いよいよ()()れてものしたまふ。
大将殿(だいしゃうどの)のおほかたの(とぶ)らひ、(なに)ごとをも(くは)しう(おぼ)しおきて、君達(きんだち)をば、()はらず(おも)ひかしづきたまへば、えしもかけ(はな)れたまはず、まめやかなる(かた)(たの)みは、(おな)じことにてなむものしたまひける
あの、もとの北の方は、月日のたつにしたがって、あまりな仕打ちだと、物思いに沈んで、ますます気が変になっていらっしゃる。
大将殿の一通りのお世話、どんなことでも細かくご配慮なさって、男の子たちは、変わらずかわいがっていらっしゃるので、すっかり縁を切っておしまいにならず、生活上の頼りだけは、同様にしていらっしゃるのであった。
もとの大将夫人は月日のたつにしたがって憂鬱(ゆううつ)になって、放心状態でいることも多かった。生活費などはこまごまと行き届いた仕送りを大将はしていた。子供たちをも以前と同じように大事がって育てていたから、前夫人の心は良人(おっと)からまったく離れず唯一の頼みにもしていた。
5.1.2
姫君(ひめぎみ)をぞ、()へがたく()ひきこえたまへど、()えて()せたてまつりたまはず
(わか)御心(みこころ)のうちにこの父君(ちちぎみ)を、()れも()れも(ゆる)しなう(うら)みきこえて、いよいよ(へだ)てたまふことのみまされば、心細(こころぼそ)(かな)しきに男君(をとこぎみ)たちは、(つね)(まゐ)()れつつ、尚侍(かん)(きみ)(おほん)ありさまなどをも、おのづからことにふれてうち(かた)りて、
姫君を、たまらなく恋しくお思い申し上げなさるが、全然お会わせ申し上げなさらない。
子供心にも、この父君を、誰もが、みな許すことなくお恨み申し上げて、ますます遠ざけることばかりが増えて行くので、心細く悲しいが、男の子たちは、いつも一緒に行き来しているので、尚侍の君のご様子などを、自然と何かにつけて話し出して、
大将は姫君を非常に恋しがって逢いたく思うのであったが、宮家のほうでは少しもそれを許さない。少女の心には自身の愛する父を祖父も祖母も皆口をそろえて悪く言い、ますます逢わせてもらう可能性がなくなっていくのを心細がっていた。男の子たちは始終(たず)ねて来て、尚侍(ないしのかみ)の様子なども話して、
5.1.3 「わたしたちをも、かわいがってやさしくして下さいます。
毎日おもしろいことばかりして暮らしていらっしゃいます」
「私たちなどもかわいがってくださる。毎日おもしろいことをして暮らしていらっしゃる」
5.1.4 などと言うと、羨ましくなって、このようにして自由に振る舞える男の身に生まれてこなかったことをお嘆きになる。
妙に、男にも女にも物思いをさせる尚侍の君でいらっしゃるのであった。
などと言っているのを夫人は聞いて、うらやましくて、そんなふうな朗らかな心持ちで人生を楽しく見るようなことをすればできたものを、できなかった自身の性格を悲しがっていた。男にも女にも物思いをさせることの多い尚侍である。

第二段 十一月に玉鬘、男子を出産

5.2.1
その(とし)十一月(しもつき)いとをかしき稚児(ちご)をさへ(いだ)()でたまへれば大将(だいしゃう)も、(おも)ふやうにめでたしと、もてかしづきたまふこと、(かぎ)りなし。
そのほどのありさま、()はずとも(おも)ひやりつべきことぞかし
父大臣(ちちおとど)も、おのづから(おも)ふやうなる御宿世(おほんすくせ)(おぼ)したり。
その年の十一月に、たいそうかわいい赤子までお生みになったので、大将も、願っていたようにめでたいと、大切にお世話なさること、この上ない。
その時の様子、言わなくても想像できることであろう。
父大臣も、自然に願っていた通りのご運命だとお思いになっていた。
その十一月には美しい子供さえも玉鬘(たまかずら)は生んだ。大将は何事も順調に行くと喜んで、愛妻から生まれた子供を大事にしていた。産屋(うぶや)の祝いの派手(はで)に行なわれた様子などは書かないでも読者は想像するがよい。内大臣も玉鬘の幸福であることに満足していた。
5.2.2
わざとかしづきたまふ君達(きみたち)にも、御容貌(おほんかたち)などは(おと)りたまはず
頭中将(とうのちゅうじゃう)も、この尚侍(かん)(きみ)を、いとなつかしきはらからにて、(むつ)びきこえたまふものから、さすがなる(おほん)けしきうちまぜつつ、
特別に大切にお世話なさっているお子様たちにも、ご器量などは劣っていらっしゃらない。
頭中将も、この尚侍の君を、たいそう仲の好い姉弟として、お付き合い申し上げていらっしゃるものの、やはりすっきりしない御そぶりを時々は見せながら、
大将の大事にする長男、二男にも今度の幼児の顔は劣っていなかった。(とうの)中将も兄弟としてこの尚侍をことに愛していたが、幸福であると無条件で喜んでいる大臣とは違って、少し尚侍のその境遇を物足りなく考えていた。
5.2.3 「入内なさって、その甲斐あってのご出産であったらよかったのに」
尚侍として君側に侍した場合を想像していて、
5.2.4
と、この若君(わかぎみ)のうつくしきにつけても、
と、この若君のかわいらしさにつけても、
生まれた大将の三男の美しい顔を見ても、
5.2.5
(いま)まで皇子(みこ)たちのおはせぬ(なげ)きを()たてまつるに、いかに面目(めんぼく)あらまし」
「今まで皇子たちがいらっしゃらないお嘆きを拝見しているので、どんなに名誉なことであろう」
「今まで皇子がいらっしゃらない所へ、こんな小皇子をお生み申し上げたら、どんなに家門の名誉になることだろう」
5.2.6
と、あまりのことをぞ(おも)ひてのたまふ。
と、あまりに身勝手なことを思っておっしゃる。
となおこの上のことを言って残念がった。
5.2.7
公事(おほやけごと)は、あるべきさまに()りなどしつつ、(まゐ)りたまふことぞ、やがてかくてやみぬべかめる
さてもありぬべきことなりかし
公務は、しかるべく取り仕切っているが、参内なさることは、このままこうして終わってしまいそうである。
それもやむをえないことである。
尚侍の公務を自宅で不都合なく()ることにして、玉鬘はもう宮中へ出ることはないだろうと見られた。それでもよいことであった。

第三段 近江の君、活発に振る舞う

5.3.1
まことやかの(うち)大殿(おほいどの)御女(おほんむすめ)の、尚侍(ないしのかみ)のぞみし(きみ)さるものの(くせ)なれば(いろ)めかしう、さまよふ(こころ)さへ()ひて、もてわづらひたまふ
女御(にょうご)も、「つひに、あはあはしきこと、この(きみ)()()でむ」と、ともすれば、御胸(おほんむね)つぶしたまへど、大臣(おとど)の、
そうそう、あの内の大殿のご息女で、尚侍を望んでいた女君も、ああした類の人の癖として、色気まで加わって、そわそわし出して、持て余していらっしゃる。
女御も、「今に、軽率なことが、この君はきっとしでかすだろう」と、何かにつけ、はらはらしていらっしゃるが、大臣が、
あの内大臣の令嬢で尚侍になりたがっていた近江(おうみ)の君は、そうした低能な人の常で、恋愛に強い好奇心を持つようになって、周囲を不安がらせた。女御(にょご)も一家の恥になるようなことを近江の君が引き起こさないかと、そのことではっとさせられることが多く、神経を悩ませていたが、大臣から、
5.3.2 「今後は、人前に出てはいけません」
「もう女御の所へ行かないように」
5.3.3
と、(せい)しのたまふをだに()()れず、まじらひ()でてものしたまふ
と、戒めておっしゃるのさえ聞き入れず、人中に出て仕えていらっしゃる。
と止められているのであったが、やはり出て来ることをやめない。
5.3.4
いかなる(をり)にかありけむ殿上人(てんじゃうびと)あまた、おぼえことなる(かぎ)り、この女御(にょうご)御方(おほんかた)(まゐ)りて、(もの)()など調(しら)べ、なつかしきほどの拍子打(ひゃうしう)(くは)へてあそぶ。
(あき)(ゆふ)べのただならぬに宰相中将(さいしゃうのちゅうじゃう)()りおはして、(れい)ならず(みだ)れてものなどのたまふを(ひと)びとめづらしがりて、
どのような時であったろうか、殿上人が大勢、立派な方々ばかりが、この女御の御方に参上して、いろいろな楽器を奏して、くつろいだ感じの拍子を打って遊んでいる。
秋の夕方の、どことなく風情のあるところに、宰相中将もお寄りになって、いつもと違ってふざけて冗談をおっしゃるのを、女房たちは珍しく思って、
どんな時であったか、女御の所へ殿上役人などがおおぜい来ていて()りすぐったような人たちで音楽の遊びをしていたことがあった。源宰相中将(げんさいしょうちゅうじょう)も来ていて、平生と違って気軽に女房などとも話しているのを、ほかの女房たちが、
5.3.5 「やはり、どの人よりも格別だわ」
「やはり出抜けていらっしゃる方」
5.3.6
とめづるに、この近江(あふみ)(きみ)(ひと)びとの(なか)()()けて()でゐたまふ。
と誉めると、この近江の君、女房たちの中を押し分けて出ていらっしゃる。
とも評していた時に、近江の君は女房たちの座の中を押し分けるようにして御簾(みす)の所へ出ようとしていた。女房らは危険に思って、
5.3.7 「あら、嫌だわ。
これはどうなさるおつもり」
「あさはかなことをお言い出しになるのじゃないかしら」
5.3.8
()()るれど、いとさがなげににらみて、()りゐたれば、わづらはしくて、
と引き止めるが、たいそう意地悪そうに睨んで、目を吊り上げているので、厄介になって、
とひそかに(ひじ)で言い合ったが、近江の君はこのまれな品行方正な若公達(きんだち)を指さして、
5.3.9 「軽率なことを、おっしゃらないかしら」
「これでしょう、これでしょう」
5.3.10
と、つき()はすに、この()目馴(めな)れぬまめ(びと)をしも、
と、お互いにつつき合っていると、この世にも珍しい真面目な方を、
と言って源中将のきれいであることをほめて
5.3.11 「この人よ、この人よ」

5.3.12
めでて、ささめき(さわ)(こゑ)いとしるし。
(ひと)びと、いと(くる)しと(おも)ふに、(こゑ)いとさはやかにて
と誉めて、小声で騷ぎ立てる声、まことにはっきり聞こえる。
女房たち、とても困ったと思うが、声はとてもはっきりした調子で、
騒ぐ声が外の男の座へもよく聞こえるのであった。女房たちが困って苦しんでいる時、高く声を張り上げて、近江の君が、
5.3.13 「沖の舟さん。寄る所がなくて波に漂っているなら
わたしが棹さして近づいて行きますから、
「おきつ船よるべ浪路(なみぢ)にただよはば
(さお)さしよらん泊まりをしへよ
5.3.14 棚なし小舟みたいに、いつまでも一人の方ばかり思い続けていらっしゃるのね。
あら、ごめんなさい」
『たななし小舟(をぶね)()ぎかへり』(同じ人にや恋ひやわたらん)いけないわね」
5.3.15
()ふを、いとあやしう、
と言うので、たいそう不審に思って、
と言った。源中将は異様なことであると思った。
5.3.16
この御方(おほんかた)にはかう用意(ようい)なきこと()こえぬものを」と(おも)ひまはすに、「この()(ひと)なりけり」
「こちらの御方には、このようなぶしつけなこと、聞かないのに」と思いめぐらすと、「あの噂の姫君であったのか」
女御の所には洗練された女房たちがそろっているはずで、こうした露骨な戯れを言いかける人はないわけであると思って、考えてみるとそれは(うわさ)に聞いた令嬢であった。
5.3.17
と、をかしうて、
と、おもしろく思って、

5.3.18 「寄る所がなく風がもてあそんでいる舟人でも
思ってもいない所には磯伝いしません」
よるべなみ風の騒がす船人も
思はぬ方に(いそ)づたひせず
5.3.19 とおっしゃったので、引っ込みがつかなかったであろう、とか。
と源中将に言われた。「そんなことをしては恥知らずです」とも。
著作権
底本 大島本
校訂 Last updated 2/6/2010(ver.2-2)
渋谷栄一校訂(C)
オリジナル  修正版  比較
ローマ字版 Last updated 2/18/2010 (ver.2-2)
Written in Japanese roman letters
by Eiichi Shibuya (C)
オリジナル  修正版  比較
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(ローマ字版から)
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ひらがな版  ルビ抽出
挿絵
(ローマ字版から)
'Eiri Genji Monogatari'
(1650 1st edition)
Last updated 9/29/2001
渋谷栄一訳(C)(ver.1-2-2)
オリジナル  修正版  比較
現代語訳 与謝野晶子
電子化 上田英代(古典総合研究所)
底本 角川文庫 全訳源氏物語
校正・
ルビ復活
kompass(青空文庫)
2003年9月3日
渋谷栄一訳
との突合せ
若林貴幸、宮脇文経
2009年12月18日

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