設定 | 番号 | 本文 | 渋谷栄一訳 | 与謝野晶子訳 | 挿絵 | ルビ | 罫線 | 帖見出し | 章見出し | 段見出し | 列見出し | ||
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第三十九帖 夕霧 光る源氏の准太上天皇時代五十歳秋から冬までの物語 |
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本文 |
渋谷栄一訳 |
与謝野晶子訳 |
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第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問 |
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第一段 一条御息所と落葉宮、小野山荘に移る |
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1.1.1 | まめ |
堅物との評判を取って、こざかしそうにしていらっしゃる大将、この一条宮のご様子を、やはり理想的だと心に止めて、世間の人目には、昔の友情を忘れていない心遣いを見せながら、とても懇切にお見舞い申し上げなさる。 内心では、このままではやめられそうになく、月日を経るに従って思いが募って行かれるのであった。 |
一人の夫人の忠実な |
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1.1.2 | 御息所も、「大変にもったいないご親切であることよ」と、今ではますます寂しく所在ないお暮らしを、絶えず訪れなさるので、お慰めになることがいろいろと多かった。 |
一条の |
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1.1.3 | 初めから色めいたことを申し上げたりなさらなかったのだが、 |
初めから求婚者として現われなかった自分が、 |
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1.1.4 | 「打って変わって色めかしく艶めいた振る舞いをするのも気恥ずかしい。 ただ深い愛情をお見せ申せば、心を許してくれる時がなくはないだろう」 |
急に変わった態度に出るのはきまりが悪い、ただ真心で尽くしているところをお認めになったなら、自然に宮のお心は自分へ向いてくるに違いないから時を待とう |
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1.1.5 | と思いながら、何かの用事にかこつけても、宮のご様子や態度をお伺いなさる。 ご自身がお応え申し上げなさることはまったくない。 |
と、こう大将は思って一日も早く宮と御接近する機会を得たいとうかがい歩いているのである。宮が御自身でお話をあそばすようなことはまだ絶対にない。 |
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1.1.6 | 「どのような機会に、思っていることをまっすぐに申し上げて、相手のご様子を見ようか」 |
いつか好機会をとらえて自分の持つ熱情を直接にお告げすることもし、御様子もよく見たい |
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1.1.7 | と |
と、お考えになっていたところ、御息所が、物の怪にひどくお患いになって、小野という辺りに、山里を持っていらっしゃった所にお移りになった。 早くから御祈祷師として、物の怪などを追い払っていた律師が、山籠もりして里には出まいと誓願を立てていたのを、麓近くなので、下山して頂くためなのであった。 |
と大将は心に願っていた。御息所は |
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1.1.8 | お車をはじめとして、御前駆など、大将殿から差し向けなさったのであるが、かえって故人の親しい弟君たちは、仕事が忙しく自分の事にかまけて、お思い出し申し上げることができなかった。 |
その日の幾つかの車とか前駆の人たちとかは皆大将からよこされた。かえって |
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1.1.9 | 弁の君、彼は彼で、気がないわけでもなくて、素振りを匂わせたのだが、思ってもみない程のおあしらいだったので、無理に参上してお世話なさることもできなくなっていた。 |
左大将は兄の未亡人の宮を得たい心でそれとなく申し込んだ時に、もってのほかであるというような強い拒絶的な態度をとられて以来、 |
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1.1.10 | この君は、とても賢く、何とはない様子で自然と馴れ親しみなさったようである。 修法などをおさせになると聞いて、僧の布施、浄衣などのような、こまごまとした物まで差し上げなさる。 病気でいらっしゃる方は、お書きになるとができない。 |
それに比べて大将は非常に |
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1.1.11 | 「通り一遍の代筆は、けしからぬとお思いでしょう、重々しい身分のお方です」 |
女房から |
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1.1.12 | と、女房たちが申し上げるので、宮がお返事をさし上げなさる。 |
と女房らがお願いしたために、宮が引き受けて礼状をお書きになった。 |
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1.1.13 | とても美しく、ただ一くだりほど、おっとりとした筆づかいに、言葉も優しい感じを書き添えなさっているので、ますます見たく目がとまって、頻繁に手紙を差し上げなさる。 |
美しい字のおおような短いお手紙ではあるが、なつかしい味のあるものであったから、いよいよ大将の心は傾いて、それ以後たびたびお手紙を差し上げるようになった。 |
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1.1.14 | 「やはり、いつかは事の起こるに違いないご関係のようだ」 |
結局自分の疑いは疑いでなくなってゆきそうである |
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1.1.15 | と、北の方は様子を察していられたので、めんどうに思って、訪問したいとはお思いになるが、すぐにはお出かけになることができない。 |
と、 |
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第二段 八月二十日頃、夕霧、小野山荘を訪問 |
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1.2.1 | 八月二十日のころなので、野辺の様子も美しい時期だし、山里の様子もとても気になるので、 |
八月の二十日ごろで、野のながめも面白いころなのであるから、山荘住まいをしておいでになる恋人を大将はお訪ねしたい心がしきりに動いて、 |
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1.2.2 | 「何某律師が珍しく下山していると言うので、是非に相談したいことがある。 御息所が病気でいらっしゃると言うのもお見舞いがてら、お伺いしよう」 |
「珍しく山から下っていられる某律師にぜひ |
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1.2.3 | と、おほかたにぞ ことに |
と、さりげない用件のように申し上げてお出かけになる。 御前駆、大げさにせず、親しい者だけ五、六人ほどが、狩衣姿で従う。 特別深い山道ではないが、松が崎の小山の色なども、それほどの岩山ではないが、秋らしい様子になって、都で又となく善美を尽くした住居より、やはり、情趣も風情も立ち勝って見えることであるよ。 |
と何げなく言って大将は |
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1.2.4 | はかなき |
ちょっとした小柴垣も風流な様に作ってあって、仮のお住まいだが品よくお暮らしになっていらっしゃった。 寝殿と思われる東の放出に、修法の壇を塗り上げて、北の廂の間にいらっしゃるので、西表の間に宮はいらっしゃる。 |
そこは簡単な |
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1.2.5 | 御物の怪が厄介だからと言って、お止め申し上げなさったが、どうしてお側を離れ申そうと、慕ってお移りになったのだが、物の怪が他の人に乗り移るのを恐れて、わずかの隔てを置く程度にして、そちらにはお入れ申し上げなさらない。 |
物怪を恐れて御息所は宮を京の邸へおとどめしておこうとしたのであるが、どうしてもいっしょにいたいとついておいでになった宮を、物怪のほかへ散るのを恐れて少しの隔てではあるが病室へはお近づけ申し上げないのである。 |
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1.2.6 | 客人のお座りになる所がないので、宮の御方の簾の前にお入れ申して、上臈のような女房たちが、ご挨拶をお伝え申し上げる。 |
客を通す座敷がないために、宮のおいでになる室とは |
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1.2.7 | 「まことにもったいなく、こんなにまで遠路はるばるお見舞いにお越し下さいまして。 もしこのままはかなくなってしまいましたならば、このお礼をさえ申し上げることができないのではないかと、存じておりましたが、もう暫く生きていたいという気持ちになりました」 |
「まことにもったいなく存じます。御親切にたびたびお尋ねくださいました上に、御自身でまたお見舞いくださいますあなた様に対して、もう |
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1.2.8 | と、 |
と、奥から申し上げなさった。 |
これが御息所からの |
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1.2.9 | 「 |
「お移りあそばした時のお供を致そうと存じておりましたが、六条院から仰せつけられていた事が中途になっていまして。 このところも、何かと忙しい雑事がございまして、案じておりました気持ちよりも、ずっと誠意がない者のように御覧になられますのが、辛うございます」 |
「こちらへお移りになります日に、私もお送りをさせていただきたかったのですが、あやにく六条院の御用の残ったものがありましたものですから失礼をいたしました。その以後も何かと忙しいことがあったものですから、お案じいたしております心だけのことができておらないのを、不本意に心苦しく存じております」 |
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1.2.10 | など、 |
などと、申し上げなさる。 |
などと大将は取り次がせている。 |
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第三段 夕霧、落葉宮に面談を申し入れる |
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1.3.1 | いとやはらかにうちみじろきなどしたまふ |
宮は、奥の方にとてもひっそりとしていらっしゃるが、おおげさでない仮住まいのお設備で、端近な感じのご座所なので、宮のご様子も自然とはっきり伝わる。 とても物静かに身じろぎなさる時の衣ずれの音、あれがそうなのだろうと、聞いていらっしゃった。 |
奥のほうに静かにして宮はおいでになるのであるが、簡単な山荘のことであるから、奥といっても深いことはないのであって、若い内親王様がそこにおいでになる |
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1.3.2 | 心も上の空になって、あちらへのご挨拶を伝えている間、少し長く手間取っているうちに、例の少将の君などの、伺候している女房たちにお話などなさって、 |
魂はそこへ行ってしまったようなうつろな気になりながら、御息所の病室とここを通う取り次ぎの女房の往復の暇どる間を、これまでから話し相手にする少将とかそのほかの宮の女房とかを相手にして大将は語っているのであった。 |
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1.3.3 | 「かう かかる まだこそならはね。 いかに |
「このように参上して親しくお話を伺うことが、何年という程になったが、まったく他人行儀にお扱いなさる恨めしさよ。 このような御簾の前で、人伝てのご挨拶などを、ほのかにお伝え申し上げるとはね。 いまだ経験したことがないね。 どんなにか古くさい人間かと、宮様方は笑っていらっしゃるだろうと、きまりの悪い思いがする。 |
「宮様のほうへ伺うようになりましてから、もう何年と年で数えなければならないほどになりますが、まだきわめてよそよそしいお取り扱いを受けておりますことで、恨めしい気がしますよ。こうした |
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1.3.4 | 年齢も若く身分も低かったころに、多少とも色めいたことに経験が豊かであったら、こんな恥ずかしい思いはしなかったろうに。 まったく、このように生真面目で、愚かしく年を過ごして来た人は、他にいないだろう」 |
青年で気楽な位置におりましたころから、続いて恋愛を生活の一部にして来ていますれば、こんなに不器用な恋の悩みをしないでも済んだろうと思います。私のように長く心の病気をおさえている人はないでしょう」 |
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1.3.5 | とおっしゃる。 なるほど、まことに軽々しくお扱いできないご様子でいらっしゃるので、やはりそうであったかと、 |
大将はこの言葉のとおりにもう軽々しい多情多感な青年ではない重々しい |
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1.3.6 | 「中途半端なお返事を申し上げるのは、気が引けます」 |
「私が |
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1.3.7 | などつきしろひて、 |
などとつっ突き合って、 |
こんなことを皆ひそかに言い合っていて、 |
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1.3.8 | 「かかる |
「このようなご不満に対し情趣を解さないように思われます」 |
「あんなにもお言いになります方に、あまり無関心らしくあそばさないほうがよろしゅうございましょう。何とかおっしゃってくださいませ」 |
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1.3.9 | と、 |
と、宮に申し上げると、 |
と宮へ申し上げると、 |
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1.3.10 | 「ご自身で直接申し上げなさらないようなご無礼につき、代わって致さねばならないところですが、大変に恐いほどのご病気でいらっしゃったようなのを、看病致しておりましたうちに、ますます生きているのかどうなのか分からない気分になって、お返事申し上げることができません」 |
「病人が自身でお話を申し上げることのできませんような失礼な際に、私でも代わりをいたしましてお逢い申し上げたいのでございますが、病人が一時非常に悪うございましたために、私までも健康を害しまして、それでよんどころなく」 |
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1.3.11 | とあれば、 |
とおっしゃるので、 |
こうお取り次がせになった。 |
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1.3.12 | 「こは、 かたじけなけれど、ものを ただあなたざまに |
「これは、宮のお返事ですか」と居ずまいを正して、「お気の毒なご病気を、わが身に代えてもとご心配申し上げておりましたのも、他ならぬあなたのためです。 恐れ多いことですが、物事のご判断がお出来になるご様子などを、ご快復を御覧になられるまでは、平穏にお過ごしになられるのが、どなたにとっても心強いことでございましょうと、ご推察申し上げるのです。 ただ母上様へのご心配ばかりとお考えになって、積もる思いをご理解下さらないのは、不本意でございます」 |
「それは宮様のお言葉ですか」と大将は居ずまいを正した。「御息所の御容体を、私自身の病などと比較にもなりませんほどお案じいたしておりますのも何の理由からでございましょう。もったいない話ではございますが、御 |
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1.3.13 | と 「げに」と、 |
と申し上げなさる。 「おっしゃる通りだ」と、女房たちも申し上げる。 |
と大将は言う。「ごもっともでございます」と女房らが言う。 |
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第四段 夕霧、山荘に一晩逗留を決意 |
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1.4.1 | 日も入り方になるにつれて、空の様子もしんみりと霧が立ち籠めて、山の蔭は薄暗い感じがするところに、蜩がしきりに鳴いて、垣根に生えている撫子が、風になびいている色も美しく見える。 |
日は落ちて行く刻で、空も身にしむ色に霧が包んでいて、山の |
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1.4.2 | 前の前栽の花々が、思い思いに咲き乱れているところに、水の音がとても涼しそうに聞こえて、山下ろしの風がぞっとするように、松風の響きが奥にこもってそこらじゅう聞こえたりなどして、不断の経を読むのが、交替の時刻になって、鐘を打ち鳴らすと、立つ僧の声も変って座る僧の声も、一緒になって、まことに尊く聞こえる。 |
植え込みの |
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1.4.3 | 場所柄ゆえ、あらゆる事が心細く思われるのも、しみじみと感慨が湧き起こる。 お帰りなる気持ちも起こらない。 律師の加持する声がして、陀羅尼を大変に尊く読んでいる様子である。 |
所が所だけにすべてのことが人に心細さを思わせるのであったから、恋する大将の物思わしさはつのるばかりであった。帰る気などには少しもなれない。律師が加持をする音がして、 |
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1.4.4 | いと しめやかにて、「 |
たいそうお苦しそうでいらっしゃるということで、女房たちもそちらの方に集まって、大体が、このような仮住まいに大勢はお供しなかったので、ますます人少なで、宮は物思いに耽っていらっしゃった。 ひっそりしていて、「思っていることも話し出すによい機会かな」と思って座っていらっしゃると、霧がすぐこの軒の所まで立ち籠めたので、 |
御息所の病苦が加わったふうであると言って、女房たちはおおかたそのほうへ行っていて、もとから療養の場所で全部をつれて来ておいでになるのでない女房が、宮のおそばに侍しているのは少なくて、宮は寂しく物思いをあそばされるふうであった。非常に静かなこんな時に自分の心もお告げすべきであると大将が思っていると、外では霧が軒にまで迫ってきた。 |
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1.4.5 | 「帰って行く方角も分からなくなって行くのは、どうしたらよいでしょうか」と言って、 |
「私の帰る道も見えなくなってゆきますようなこんな時に、どうすればいいのでしょう」と大将は言って、 |
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1.4.6 | 「山里の物寂しい気持ちを添える夕霧のために 帰って行く気持ちにもなれずおります」 |
山里の哀れを添ふる夕霧に 立ち |
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1.4.7 | と |
と申し上げなさると、 |
と申し上げると、 |
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1.4.8 | 「山里の垣根に立ち籠めた霧も 気持ちのない人は引き止めません」 |
山がつの 心空なる人はとどめず |
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1.4.9 | ほのかに |
かすかに申し上げるご様子に慰めながら、ほんとうに帰るのを忘れてしまった。 |
こうほのかにお答えになる優美な宮の御様子がうれしく思われて、大将はいよいよ帰ることを忘れてしまった。 |
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1.4.10 | 「どうしてよいか分からない気持ちです。 家路は見えないし、霧の立ち籠めたこの家には、立ち止まることもできないようにせき立てなさる。 物馴れない男は、こうした目に遭うのですね」 |
「どうすることもできません。道はわからなくなってしまいましたし、こちらはお追い立てになる。だれも経験することを少しも経験せずに始めようとする者は、すぐこうした目にあいます」 |
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1.4.11 | などやすらひて、 |
などとためらって、これ以上堪えられない思いをほのめかして申し上げなさると、今までも全然ご存知でなかったわけではないが、知らない顔でばかり通して来なさったので、このように言葉に出されてお恨み申し上げなさるのを、面倒に思って、ますますお返事もないので、たいそう嘆きながら、心の中で、「再び、このような機会があるだろうか」と、思案をめぐらしなさる。 |
などと言って、もうここに落ち着くふうを見せ、忍び余る心もほのめかしてお話しする大将を、宮は今までからもその気持ちを全然お知りにならないのでもなかったが、気づかぬふうをしておいでになったのを、あらわに言葉にして言うのをお聞きになっては、ただ困ったこととお思われになって、いっそうものを多くお言いにならぬことになったのを、大将は |
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1.4.12 | 「薄情で軽薄な者と思われ申そうとも、どうすることもできない。 せめて思い続けて来たことだけでもお打ち明け申そう」 |
同情のない軽率な人間であるとお思われしてもしかたがない、せめて長く秘めてきた苦しい思いだけでもおささやきしたい |
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1.4.13 | と思って、供人をお呼びになると、近衛府の将監から五位になった、腹心の家来が参った。 人目に立たないように呼び寄せなさって、 |
と思った大将は、従者を呼ぶと、もとは |
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1.4.14 | 「この律師に是非とも話したいことがあるのだが。 護身などに忙しいようだが、ちょうど今は休んでいるだろう。 今夜はこの近辺に泊まって、初夜の時刻が終わるころに、あの控えている所に参ろう。 誰と誰とを、控えさせておけ。 随身などの男たちは、栗栖野の荘園が近いから、秣などを馬に食わせて、ここでは大勢の声を立てるではない。 このような旅寝は、軽率なように人が取り沙汰しようから」 |
「こちらへ来ておられる律師にぜひ |
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1.4.15 | とお命じになる。 何かきっと子細があるのだろうと理解して、仰せを承って立った。 |
と命じた。訳のあることに相違ないと思ってその男は去った。 |
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第五段 夕霧、落葉宮の部屋に忍び込む |
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1.5.1 | さて、 |
そうしてから、 |
それから大将は女房に、 |
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1.5.2 | 「帰り道が霧でまことにはっきりしないので、この近辺に宿をお借りしましょう。 同じことなら、この御簾の側をお許し下さい。 阿闍梨が下がって来るまでは」 |
「道もわからなくなりましたからここでごやっかいになりましょう、かないますならこの |
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1.5.3 | などと、さりげなくおっしゃる。 いつもは、このように長居して、くだけた態度もお見せなさらないのに、「嫌なことだわ」と、宮はお思いになるが、わざとらしくして、さっさとあちらにお移りになるのは、人の体裁の悪い気がなさって、ただ音を立てずにいらっしゃると、何かと申し上げて、お言葉をお伝えに入って行く女房の後ろに付いて、御簾の中に入っておしまいになった。 |
と落ち着いたふうで言うのであった。これまではこんなに長居をしたこともなく、浮薄な言葉も出した人ではなかったのに、困ったことであると宮はお思いになったが、わざとがましく隣室へ行ってしまうことも体裁のよいものでないような気があそばされるので、ただ音をたてぬようにしてそのままおいでになると、思ったことを吐露し始めた大将は、お心の動くまでというように、いろいろと言葉を尽くすのであったが、宮へお取り次ぎにいざり入る人の後ろからそっと御簾をくぐって来た。 |
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1.5.4 | まだ夕暮のころで、霧に閉じ籠められて、家の内は暗くなった時分である。 驚いて振り返ると、宮はとても気味悪くおなりになって、北の御障子の外にいざってお出あそばすが、実によく探し当てて、お引き止め申した。 |
夕霧が盛んに家の中へ流れ込むころで、座敷の中が暗くなっているのである。その女房は驚いて後ろを見返ったが、宮は恐ろしくおなりになって、北側の |
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1.5.5 | お身体はお入りになったが、お召し物の裾が残って、襖障子は、向側から鍵を掛けるすべもなかったので、閉めきれないまま、総身びっしょりに汗を流して震えていらっしゃる。 |
もうお |
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1.5.6 | 女房たちも驚きあきれて、どうしたらよいかとも考えがつかない。 こちら側からは懸金もあるが、困りきって、手荒くは、引き離すことのできるご身分の方ではないので、 |
女房たちも |
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1.5.7 | 「何ともひどいことを。 思いも寄りませんでしたお心ですこと」 |
「御尊敬申し上げておりますあなた様がこんなことをなさいますとは思いもよらぬことでございます」 |
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1.5.8 | と、 |
と、今にも泣き出しそうに申し上げるが、 |
と言って、泣かんばかりに退去を頼むのであるが、 |
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1.5.9 | 「この程度にお側近くに控えているのが、誰にもまして疎ましく、目障りな者とお考えになるのでしょうか。 人数にも入らないわが身ですが、お耳馴れになった年月も長くなったでしょう」 |
「これほどの近さでお話を申し上げようとするのを、なぜあなたがたは不思議になさるのでしょう。つまらぬ私ですが、真心をお見せすることになって長い年月も重なっているはずです」 |
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1.5.10 | とおっしゃって、とても静かに体裁よく落ち着いた態度で、心の中をお話し申し上げなさる。 |
と女房らに答えてから、大将は優美な落ち着きを失わずに、美しいこの恋を成り立たせなければならぬことを宮へお説きするのであった。 |
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第六段 夕霧、落葉宮をかき口説く |
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1.6.1 | お聞き入れになるはずもなく、悔しい、こんな事にまでと、お思いになることばかりが、心を去らないので、返事のお言葉はまったく思い浮かびなさらない。 |
宮は御同意をあそばすべくもない。こんな侮辱までも忍ばねばならぬかというお気持ちばかりが |
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1.6.2 | 「まことに情けなく、子供みたいなお振る舞いですね。 人知れない胸の中に思いあまった色めいた罪ぐらいはございましょうが、これ以上馴れ馴れし過ぎる態度は、まったくお許しがなければ致しません。 どんなにか、千々に乱れて悲しみに堪え兼ねていますことか。 |
「あまりに |
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1.6.3 | さりともおのづから |
いくらなんでも自然とご存知になる事もございましょうに、無理に知らぬふりに、よそよそしくお扱いなさるようなので、申し上げるすべもないので、しかたがない、わきまえもなくけしからぬとお思いなさっても、このままでは朽ちはててしまいかねない訴えを、はっきりと申し上げて置きたいと思っただけです。 言いようもないつれないおあしらいが辛く思われますが、まことに恐れ多いことですから」 |
私が隠しておりましても自然お目にとまっているはずなのですが、しいて冷たくお扱いになるものですから、私としてはこのほかにいたしようがないではございませんか。思いやりのない行動として御反感をお招きしても、片思いの苦しさだけは聞いていただきたいと思います。それだけです。御冷淡な御様子はお恨めしく思いますが、もったいないあなた様なのですから、決して、決して」 |
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1.6.4 | と言って、努めて思いやり深く、気をつかっていらっしゃった。 |
と言って、大将はしいて同情深いふうを見せていた。 |
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1.6.5 | 襖を押さえていらっしゃるのは、頼りにならない守りであるが、あえて引き開けず、 |
あるところまでよりしまらぬ |
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1.6.6 | 「この程度の隔てをと、無理にお思いになるのがお気の毒です」 |
「これだけで私の熱情が拒めると |
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1.6.7 | と、うち |
と、ついお笑いになって、思いやりのない振る舞いはしない。 宮のご様子の、優しく上品で優美でいらっしゃること、何と言っても格別に思える。 ずっと物思いに沈んでいらっしゃったせいか、痩せてか細い感じがして、普段着のままでいらっしゃるお袖の辺りもしなやかで、親しみやすく焚き込めた香の匂いなども、何もかもがかわいらしく、なよなよとした感じがしていらっしゃった。 |
と笑っていたが、やがておそばへ近づいた。しかも御意志を尊重して無理はあえてできない大将であった。宮はなつかしい、柔らかみのある、 |
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第七段 迫りながらも明け方近くなる |
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1.7.1 | 風がとても心細い感じで、更けて行く夜の様子、虫の音も、鹿の声も、滝の音も、一つに入り乱れて、風情をそそるころなので、まるで情趣など解さない軽薄な人でさえ、寝覚めするに違いない空の様子を、格子もそのまま、入方の月が山の端に近くなったころ、涙を堪え切れないほど、ものあわれである。 |
吹く風が人を心細くさせる山の夜ふけになり、虫の声も |
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1.7.2 | 「なほ、かう かう |
「やはり、このようにお分かりになって頂けないご様子は、かえって浅薄なお心底と思われます。 このような世間知らずなまで愚かしく心配のいらないところなども、他にいないだろうと思われますが、どのようなことでも手軽にできる身分の人は、このような振る舞いを愚か者だと笑って、同情のない心をするものです。 |
「まだ私の心持ちを御理解くださらないのを拝見しますと、私はかえってあなた様に失望いたしますよ。こんなに愚かしいまでに自己を抑制することのできる男はほかにないだろうと思うのですが、御信用くださらないのですか。何をいたしても責任感を持たぬ種類の男には、私のようなのをばかな態度だとして、直ちに同情もなく力で解決をはかってしまうのです。 |
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1.7.3 | あまりにひどくお蔑みなさるので、もう抑えてはいられないような気が致します。 男女の仲というものを全くご存知ないわけではありますまいに」 |
あまりに私の恋の価値を軽く御覧になりますから、知らず知らず私も危険性がはぐくまれてゆく気がいたします。男性とはどんなものかを過去にまだご存じでなかったあなた様でもないでしょう」 |
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1.7.4 | と、いろいろと言い迫られなさって、どのようにお答えしたらよいものかと、困り切って思案なさる。 |
こう責められておいでになる宮は、どう返辞をしてよいかと苦しく思っておいでになる。 |
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1.7.5 | 結婚した経験があるから気安いように、時々口にされるのも、不愉快で、「なるほど、又とない身の不運だわ」と、お思い続けていらっしゃると、死んでしまいそうに思われなさって、 |
もう処女でないからということを言葉にほのめかされるのを残念に宮はお思いになった。薄命とは自分のような女性をいうのであろうともお悲しまれになって、大将のいどんで来るのを死ぬほど苦しく思召された。 |
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1.7.6 | 「情けない我が身の過ちを知ったとしても、とてもこのようなひどい有様を、どのように考えたらよいものでしょうか」 |
「私のこれまでの運命はどんなにまずいものでございましても、それだからといって、これを肯定しなければならないとは思われない」 |
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1.7.7 | と、いとほのかに、あはれげに |
と、とてもかすかに、悲しそうにお泣きになって、 |
と、ほのかに可憐な泣き声をお立てになって、 |
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1.7.8 | 「わたしだけが不幸な結婚をした女の例として さらに涙の袖を濡らして悪い評判を受けなければならないのでしょうか」 |
われのみや浮き世を知れるためしにて |
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1.7.9 | とおっしゃるともないのに、わが気持ちのままに、ひっそりとお口ずさみなさるのも、いたたまれない思いで、どうして歌など詠んだのだろうと、悔やまずいらっしゃれないでいると、 |
ほかへお言いになるともなくお言いになったのを、大将がさらに自身の口にのせて歌うのさえ宮は苦痛にお思いになった。 |
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1.7.10 | 「おっしゃるとおり、悪い事を申しましたね」 |
「誤解をお受けしやすいようなことを私が申したものですから」 |
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1.7.11 | など、ほほ |
などと、微笑んでいらっしゃるご様子で、 |
などと言って、微笑するふうで、 |
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1.7.12 | 「だいたいがわたしがあなたに悲しい思いをさせなくても 既に立ってしまった悪い評判はもう隠れるものではありません |
「おほかたはわが濡れ衣をきせずとも 朽ちにし袖の名やは隠るる |
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1.7.13 | 一途にお心向け下さい」 |
もうしかたがないと思召してくだすったらどうですか」 |
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1.7.14 | と言って、月の明るい方にお誘い申し上げるのも、心外な、とお思いになる。 気強く応対なさるが、たやすくお引き寄せ申して、 |
こう言って、月の光のあるほうへいっしょに出ようと大将はお勧めするのであるが、宮はじっと冷淡にしておいでになるのを、大将はぞうさなくお引き寄せして、 |
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1.7.15 | 「これほど例のない厚い愛情をお分かり下さって、お気を楽になさって下さい。 お許しがなくては、けっして、けっして」 |
「安価な恋愛でなく、最も高い清い恋をする私であることをお認めになって、御安心なすってください。お許しなしに決して、無謀なことはいたしません |
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1.7.16 | と、いとけざやかに |
と、たいそうはっきりと申し上げなさっているうちに、明け方近くなってしまった。 |
こうきっぱりとしたことを大将が言っているうちに明け方に近くもなった。 |
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第八段 夕霧、和歌を詠み交わして帰る |
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1.8.1 | 月は曇りなく澄みわたって、霧にも遮られず光が差し込んでいる。 浅い造りの廂の軒は、奥行きもない感じがするので、月の顔と向かい合っているようで、妙にきまり悪くて、顔を隠していらっしゃる振る舞いなど、言いようもなく優美でいらっしゃった。 |
澄み切った月の、霧にも紛れぬ光がさし込んできた。短い |
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1.8.2 | 亡き君のお話も少し申し上げて、当たり障りのない穏やかな話を申し上げなさる。 それでもやはり、あの故人ほどに思って下さらないのを、恨めしそうにお恨み申し上げなさる。 お心の中でも、 |
故人の話も少ししだして、閑雅な態度で大将は語っているのであった。しかもその中で故人に対してよりも劣ったお取り扱いを恨めしがった。宮のお心の中でも、 |
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1.8.3 | 「かれは、 なべての |
「かの亡き君は、位などもまだ十分ではなかったのに、誰も彼もがお許しになったので、自然と成り行きに従って、結婚なさったのだが、それでさえ冷淡になって行ったお心の有様は、ましてこのようなとんでもないことに、まったくの他人というわけでさえないが、大殿などがお聞きになってどうお思いになることか。 世間一般の非難は言うまでもなく、父の院におかれてもどのようにお聞きあそばしお思いあそばされることだろうか」 |
故人はこの人に比べて低い地位にいた人であるが、院も |
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1.8.4 | などと、ご縁者のあちらこちらの方々のお心をお考えなさると、とても残念で、自分の考え一つに、 |
などと、切り離すことのできぬ関係の所々のことをお考えになると、このことが非常に情けなくお思われになって、 |
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1.8.5 | 「かう |
「このように強く思っても、世間の人の噂はどうだろうか。 母御息所がご存知でないのも、罪深い気がするし、このようにお聞きになって、考えのないことだと、お思いになりおっしゃろうこと」が辛いので、 |
自分はやましいところもなく、大将の情人では断じてなくとも |
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1.8.6 | 「せめて夜を明かさずにお帰り下さい」 |
「せめて朝までおいでにならずにお帰りなさい」 |
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1.8.7 | と、やらひきこえたまふより |
と、せき立て申し上げなさるより他ない。 |
と大将をお促しになるよりほかのことはおできにならないのである。 |
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1.8.8 | 「あさましや。 ことあり なほ、さらば をこがましきさまを |
「驚いたことですね。 意味ありげに踏み分けて帰る朝露が変に思うでしょうよ。 やはり、それならばお考え下さい。 愚かな姿をお見せ申して、うまく言いくるめて帰したとお見限り考えなさるようなら、その時はこの心もおとなしくしていられない、今までに致した事もない、不埒な事どもを仕出かすようなことになりそうに存じられます」 |
「悲しいことですね。恋の成り立った人のように分けて出なければならない草葉の露に対してすら私は恥ずかしいではありませんか。ではお言葉どおりにいたしますから、私の誠意だけはおくみとりください。馬鹿正直に仰せどおりにして帰ります私に、若し、 |
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1.8.9 | とて、いとうしろめたく、なかなかなれど、ゆくりかにあざれたることの、まことにならはぬ |
と言って、とても後が気がかりで、中途半端な逢瀬であったが、いきなり色めいた態度に出ることが、ほんとうに馴れていないお人柄なので、「お気の毒で、ご自身でも見下げたくならないか」などとお思いになって、どちらにとっても、人目につきにくい時分の霧に紛れてお帰りになるのは、心も上の空である。 |
大将は心残りを多く覚えるのであるが、放縦な男のような行為は、言っているごとく過去にも経験したことがなく、またできない人であって、恋人の宮のためにもおかわいそうなことであり、自分自身の思い出にも不快さの残ることであろうなどと思って、自他のために人目を避ける必要を感じ、深い霧に隠れて去って行こうとしたが、魂がもはや |
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1.8.10 | 「荻原の軒葉の荻の露に濡れながら幾重にも 立ち籠めた霧の中を帰って行かねばならないのでしょう |
「 八重立つ霧を分けぞ行くべき |
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1.8.11 | 濡れ衣はやはりお免れになることはできますまい。 このように無理にせき立てなさるあなたのせいですよ」 |
あなたも |
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1.8.12 | と申し上げなさる。 なるほど、ご自分の評判が聞きにくく伝わるに違いないが、「せめて自分の心に問われた時だけでも、潔白だと答えよう」とお思いになると、ひどくよそよそしいお返事をなさる。 |
と大将が言った。そのとおりである。名はどうしても立つであろうが、自分自身をせめてやましくないものにしておきたいと思召す心から、宮は冷ややかな態度をお示しになって、 |
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1.8.13 | 「帰って行かれる草葉の露に濡れるのを言いがかりにして わたしに濡れ衣を着せようとお思いなのですか |
「わけ行かん草葉の露をかごとにて なほ濡衣をかけんとや思ふ |
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1.8.14 | 心外なことですわ」 |
ひどい目に私をおあわせになるのですね」 |
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1.8.15 | と、お咎めになるご様子、とても風情があり気品がある。 長年、人とは違った人情家になって、いろいろと思いやりのあるところをお見せ申していたのに、それとうって変わって、油断させ、好色がましいのが、おいたわしく、気恥ずかしいので、少なからず反省し反省しては、「このように無理をしてお従い申したとしても、後になって馬鹿らしく思われないか」と、あれこれと思い乱れながらお帰りになる。 帰り道の露っぽさも、まことにいっぱいある。 |
と批難をあそばすのが、非常に美しいことにも、貴女らしいふうにもお見えになった。今まで古い |
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第二章 落葉宮の物語 律師の告げ口 |
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第一段 夕霧の後朝の文 |
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2.1.1 | このような出歩き、馴れていらっしゃらないお人柄なので、興をそそられまた気のもめることだとも思われながら、三条殿にお帰りになると、女君が、このような露に濡れているのを変だとお疑いになるに違いないので、六条院の東の御殿に参上なさった。 まだ朝霧も晴れず、それ以上にあちらではどうであろうか、とお思いやりになる。 |
深い山里の朝露は冷たかった。夫人がこの濡れ姿を見とがめることを恐れて大将は家へは帰らずに六条院の東の |
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2.1.2 | 「いつにないお忍び歩きだったのですわ」 |
「珍しくお忍び歩きをなさいましたのですよ」 |
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2.1.3 | と、女房たちはささやき合う。 暫くお休みになってから、お召し物を着替えなさる。 いつでも夏服冬服と大変きれいに用意していらっしゃるので、香を入れた御唐櫃から取り出して差し上げなさる。 お粥など召し上がって、院の御前に参上なさる。 |
と女房たちはささやいていた。夕霧の大将はしばらく休息をしてから衣服を脱ぎかえた。平生からこの人の夏物、冬物を幾 |
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2.1.4 | かしこに にはかにあさましかりしありさま、めざましうも |
あちらにお手紙を差し上げなさったが、御覧になろうともなさらない。 唐突にも心外であった有様、腹だたしくも恥ずかしくもお思いなさると、不愉快で、母御息所がお聞き知りになることもまことに恥ずかしく、また一方、こんなことがあったとは全然御存知でないのに、普段と変わった態度にお気づきになり、人の噂もすぐに広まる世の中だから、自然と聞き合わせて、隠していたとお思いになるのがとても辛いので、 |
夕霧はそこから小野へ手紙をお送りした。山荘の宮は予想もあそばさなかった、にわかな変わった態度を男のとり出した |
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2.1.5 | 「女房たちがありのままに申し上げて欲しい。 困ったことだとお思いになってもしかたがない」とお思いになる。 |
女房がありのままを話すことによって母を悲しませることがあってもやむをえないと宮はおあきらめになるよりほかはなかった。 |
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2.1.6 | 母子の御仲と申す中でも、少しも互いに隠さず打ち明けていらっしゃる。 他人は漏れ聞いても、親には隠している例は、昔の物語にもあるようだが、そのようにはお思いなさらない。 女房たちは、 |
親子と申してもこれほど親しみ合う仲は少ない母と御子なのである。世間に噂の立っていることも親にはなお秘密にしておくことがよく昔の小説などにはあるが、宮にそれはおできになれないことであった。女房たちは |
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2.1.7 | 「何の、少しばかりお聞きになって、子細ありそうに、あれこれと御心配なさることがありましょうか。 まだ何事もないのに、おいたわしい」 |
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2.1.8 | などと言い合わせて、この御仲がどうなるのだろうと思っている女房どうしは、このお手紙が見たいと思うが、すこしも開かせなさらないので、じれったくて、 |
に疑問を持っていて、今来た大将の手紙が真相を説明してくれるであろうと思う好奇心から、宮がお読みになる時に盗み見をしたいと願っているのであるが、宮はお開きになろうともあそばされないのに気を |
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2.1.9 | 「やはり、全然お返事をなさらないのも、不安だし、子供っぽいようでございましょう」 |
「全然御返事をあそばさないことも、たよりない御性質のように想像をなさることでもございましょうし、お若々し過ぎることでもございます」 |
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2.1.10 | など |
などと申し上げて、広げたので、 |
などと言って、大将の手紙を |
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2.1.11 | 「見苦しく、呆然としていて、相手にあの程度でお会いした至らなさを、わが身の過ちと思ってみるが、遠慮のなかったあまりの態度を、情けなく思われるのです。 拝見できませんと言いなさい」 |
「思いがけないことで、たとえあれだけのことにもせよ男の人を接近させたことは、皆私自身の軽率から起こした過失だとは思うがね、思いやりのないことをした人を、私の憎む心がまだ直らないのだから、読まなかったと言ってやるがいい」 |
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2.1.12 | と、ことのほかにて、 |
と、もってのほかだと、横におなりあそばした。 |
と |
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2.1.13 | 実のところは、憎い様子もなく、とても心をこめてお書きになって、 |
夕霧の手紙は宮の御迷惑になるようなことを避けて書かれたものであった。 |
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2.1.14 | 「魂をつれないあなたの所に置いてきて 自分ながらどうしてよいか分かりません |
たましひをつれなき袖にとどめおきて わが心から惑はるるかな |
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2.1.15 | 思うにまかせないものは心であるとか、昔も同じような人があったのだと存じてみますにも、まったくどうしてよいものか分かりません」 |
「ほかなるものは」(身を捨てていにやしにけん思ふよりほかなるものは心なりけり)と歌われておりますから、昔もすでに私ほど苦しんだ人があったと思いまして、みずからを慰めようとはいたすにもかかわらずなお魂は身に添いません。 |
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2.1.16 | などと、とても多く書いてあるようだが、女房はよく見ることができない。 通常の後朝の手紙ではないようであるが、やはりすっきりとしない。 女房たちは、ご様子もお気の毒なので、心を痛めて拝見しながら、 |
こんなことが長く書かれてあるようであったが、女房も細かに読むことは遠慮されてできないのである。事の成り立ったのちに書かれた |
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2.1.17 | 「どのような御事なのでしょう。 どのような事につけても、素晴らしく思いやりのあるお気持ちは長年続いているけれども」 |
「昨晩のことがまだ不可解なことに思われます。非常に御親切だということは長い間に私どももお認めしている方ですけれど、 |
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2.1.18 | 「ご結婚相手としてお頼み申しては、がっかりなさるのではないか、と思うのも不安で」 |
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2.1.19 | など、 |
などと、親しく伺候している者だけは、皆それぞれ心配している。 御息所もまったく御存知でない。 |
などと言い、親しく宮にお仕えしている女房たちもこのことに重い関心をもって宮のためにお案じ申し上げているのであった。御息所はまだこのことを少しも知らずにいた。 |
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第二段 律師、御息所に告げ口 |
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2.2.1 | 物の怪にお悩みになっていらっしゃる方は、重病と見えるが、爽やかな気分になられる合間もあって、正気にお戻りになる。 昼日中のご加持が終わって、阿闍梨一人が残って、なおも陀羅尼を読んでいらっしゃる。 好くおなりあそばしたのを、喜んで、 |
物怪に煩っている病人は重態に見えるかと思うと、またたちまちに軽快らしくなることもあって、平常に近い気分になっていたこの日の昼ごろに、日中の加持が終わり、律師一人だけが病床に近くいて |
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2.2.2 | 「大日如来は嘘をおっしゃいません。 どうして、このような拙僧が心をこめて奉仕するご修法に、験のないことがありましょうか。 悪霊は執念深いようですが、業障につきまとわれた弱いものである」 |
「大日如来が |
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2.2.3 | と、声はしわがれて荒々しくいらっしゃる。 たいそう俗世離れした一本気な律師なので、だしぬけに、 |
と太い枯れ声で言っていた。俗離れのした強い性格の律師で、突然、 |
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2.2.4 | 「そうでした。 あの大将は、いつからここにお通い申すようになられましたか」 |
「あ、左大将はいつごろから宮様の所へ通って来ておいでになりますか」 |
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2.2.5 | と |
とお尋ねになる。 御息所は、 |
と問うた。 |
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2.2.6 | 「さることもはべらず。 |
「そのようなことはございません。 亡くなった大納言と大変仲が好くて、お約束なさったことを裏切るまいと、ここ数年来、何かの機会につけて、不思議なほど親しくお出入りなさっているのですが、このようにわざわざ、患っていますのをお見舞いにと言って、立ち寄って下さったので、もったいないことと聞いておりました」 |
「そんなことはありません、 |
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2.2.7 | と |
と申し上げなさる。 |
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2.2.8 | 「いで、あなかたは。 なにがしに |
「いや、何とおかしい。 拙僧にお隠しになることもありますまい。 今朝、後夜の勤めに参上した時に、あの西の妻戸から、たいそう立派な男性がお出になったのを、霧が深くて、拙僧にはお見分け申すことができませんでしたが、この法師どもが、『大将殿がお出なさるのだ』と、『昨夜もお車を帰してお泊りになったのだ』と、口々に申していた。 |
「とんでもない。私に隠しだてをなさる必要はない。 |
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2.2.9 | なるほど、まことに香ばしい薫りが満ちていて、頭が痛くなるほどであったので、なるほどそうであったのかと、合点がいったのでござった。 いつもまことに香ばしくいらっしゃる君である。 このことは、決して望ましいことではあるまい。 相手はまことに立派な方でいらっしゃる。 |
そうだろうと私もうなずかれました。よい |
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2.2.10 | なにがしらも、 さる、 |
拙僧らも、子供でいらっしゃったころから、あの君の御為の事には、修法を、亡くなられた大宮が仰せつけになったので、もっぱらしかるべき事は、今でも承っているところであるが、まことに無益である。 本妻は勢いが強くていらっしゃる。 ああした、今を時めく一族の方で、まことに重々しい。 若君たちは七、八人におなりになった。 |
子供でいられたころからあの方の御 |
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2.2.11 | 皇女の君とて圧倒できまい。 また、女人という罪障深い身を受け、無明長夜の闇に迷うのは、ただこのような罪によって、そのようなひどい報いを受けるものである。 本妻のお怒りが生じたら、長く成仏の障りとなろう。 全く賛成できぬ」 |
こちらの宮様がそれにお勝ちになることはできないでしょうな。また一方から言えば女という罪障の深いものに生まれて、救いのない長夜の |
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2.2.12 | と、 |
と、頭を振って、ずけずけと思い通りに言うので、 |
律師は頭を振り立てながら、興奮して乱暴なことも言うのである。 |
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2.2.13 | 「いとあやしきことなり。 さらにさるけしきにも よろづ おほかたいとまめやかに、すくよかにものしたまふ |
「何とも妙な話です。 まったくそのようにはお見えにならない方です。 いろいろと気分が悪かったので、一休みしてお目にかかろうとおっしゃって、暫くの間立ち止まっていらっしゃると、ここの女房たちが言っていたが、そのように言ってお泊まりになったのでしょうか。 だいたいが誠実で、実直でいらっしゃる方ですが」 |
「私には |
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2.2.14 | と、おぼめいたまひながら、 |
と、不審がりなさりながら、心の中では、 |
と御息所はなお不審をいだくふうを僧に見せながらも、 |
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2.2.15 | 「さることもやありけむ。 ただならぬ |
「そのような事があったのだろうか。 普通でないご様子は、時々見えたが、お人柄がたいそうしっかりしていて、努めて人の非難を受けるようなことは避けて、真面目に振る舞っていらっしゃったのに、たやすく納得できないことはなさるまいと、安心していたのだ。 人少なでいらっしゃる様子を見て、忍び込みなさったのであろうか」とお思いになる。 |
心のうちではそんなことがあったのかもしれない、宮を恋しくお思いする様子はおりおり見えたが、りっぱな人格のある人は人の批難の種になるようなことは避けて、まじめな友情だけを見せていたために、危険はないものとして自分は油断をしていたが、おそばに人も少ないのを見てお居間へはいるようなこともしたのではないかと思われもした。 |
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第三段 御息所、小少将君に問い質す |
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2.3.1 | 律師が立ち去った後に、小少将の君を呼んで、 |
律師が立って行ったあとで、 |
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2.3.2 | 「これこれの事を聞きました。 どうした事ですか。 どうしてわたしには、これこれ、しかじかの事があったとお聞かせ下さらなかったのですか。 そんな事はあるまいと思いますが」 |
「ほんとうのことはどれほどのことだったのかね。なぜ私にくわしく報告してくれなかったの。人の言うようなことは決してあるまいとは思っていても私の心は不安でならない」 |
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2.3.3 | とのたまへば、いとほしけれど、 |
とおっしゃると、お気の毒であるが、最初からのいきさつを、詳しく申し上げる。 今朝のお手紙の様子、宮もかすかに仰せになった事などを申し上げ、 |
聞く御息所に気の毒な思いをしながらも、小少将は昨日のことを初めからくわしく話した。今朝の手紙の内容、宮がその時にお |
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2.3.4 | 「長年、秘めていらしたお胸の中を、お耳に入れようというほどでございましたでしょうか。 めったにないお心づかいで、夜も明けきらないうちにお帰りになりましたが、人はどのようなふうに申し上げたのでございましょうか」 |
「ながくおさえ続けておいでになりました心を、お知らせなさろうというだけのことだったかと存じます。宮様への敬意をお失いになるようなことはございませんで、御迷惑とお考えになって朝まではおいでになられませんで早く出てお行きになりましたのを、ほかの人はどんなふうに申し上げたのでしょう」 |
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2.3.5 | 律師とは思いもよらず、こっそりと女房が申し上げたものと思っている。 何もおっしゃらず、とても残念だとお思いになると、涙がぽろぽろとこぼれなさった。 拝見するのも、まことにお気の毒で、「どうして、ありのままを申し上げてしまったのだろう。 苦しいご気分を、ますますお胸を痛めていらっしゃるだろう」と後悔していた。 |
と、律師とは知らずに、ほかに密告した女房があったのだと小少将は思って言った。御息所は何も言わずに、残念そうな表情をしていたが涙がほろほろとこぼれ出した。見ていて小少将は気の毒で、なぜありのままのことを言ったのだろう、病気の上に御息所は |
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2.3.6 | 「襖は懸金が懸けてありました」と、いろいろと適当に言いつくろって申し上げるが、 |
「 |
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2.3.7 | 「とてもかくても、さばかりに、 うちうちの すべて、 |
「どうあったにせよ、そのように近々と、何の用心もなく、軽々しく人とお会いになったことが、とんでもないのです。 内心のお気持ちが潔白でいらっしゃっても、こうまで言った法師たちや、口さがない童などは、まさに言いふらさずには置くまい。 世間の人には、どのように抗弁をし、何もなかった事と言うことができましょうか。 皆、思慮の足りない者ばかりがここにお仕えしていて」 |
そんなことはどうでも、なぜそんなに近くへ男の寄って来るようなことを宮がおさせになったかと思うと悲しい。やましいところはおありにならなくても、さっき聞いたようなことを言って騒いでいる律師の弟子たちは、宮様のためにこれは不利であると思って隠すようなことをするはずもない、どう人に言いわけをすればいいことかわからない、絶対にないことと打ち消すことはしなければなるまい、何にしても心の幼稚な女房ばかりがお付きしていて |
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2.3.8 | と、最後までおっしゃれない。 とても苦しそうなご容態の上に、心を痛めてびっくりなさったので、まことにお気の毒である。 品高くお扱い申そうとお思いになっていたのに、色恋事の、軽々しい浮名がお立ちになるに違いないのを、並々ならずお嘆きにならずにはいられない。 |
とも思う心を御息所は口へ出しては言えなかった。病気が重い上に大きい衝動を受けたのであったからこの人はいたましいほどにも苦しんだ。神聖な方としてお |
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2.3.9 | 「このように少しはっきりしている間に、お越しになるよう申し上げなさい。 あちらへお伺いすべきですが、動けそうにありません。 お会いしないで、長くなってしまった気がしますわ」 |
「今日のような私の気分の少しよい間に、宮様がこちらへおいでくださるように申し上げなさい。あちらへ伺うはずだけれど動けそうではないのだからね。ずいぶんながくお目にかからない気がする」 |
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2.3.10 | と、涙を浮かべておっしゃる。 参上して、 |
御息所は目に涙を浮かべてこう言っているのであった。 |
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2.3.11 | 「しかじかと申されていらっしゃいます」 |
小少将は宮のお居間へ帰って、 |
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2.3.12 | とだけ申し上げる。 |
御息所の最後の言葉だけをお伝えした。 |
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第四段 落葉宮、母御息所のもとに参る |
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2.4.1 | お越しになろうとして、額髪が濡れて固まっている、繕い直し、単重のお召し物が綻びているが、着替えなどなさっても、すぐにはお動きになれない。 |
宮は母君の所へ行こうとあそばされて、額髪の涙でかたまったのをお直しになり、お召し物の |
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2.4.2 | 「この女房たちもどのように思っているだろう。 まだご存知なくて、後に少しでもお聞きになることがあったとき、素知らぬ顔をしていたよ」 |
この女房たちもどう自分を見ているのであろう、御息所も今は何もお知りにならないで、あとで少しでも昨夜のことをお聞きになることがあったなら、素知らぬ顔をしていた |
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2.4.3 | と |
とお思い当たられるのも、ひどく恥ずかしいので、再び臥せっておしまいになった。 |
と今日の自分が思われることであろうとお考えになると、非常に恥ずかしくおなりになり、宮はまた横になっておしまいになって、 |
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2.4.4 | 「気分がひどく悩ましいわ。 このまま治らなくなったら、とてもいい都合だろう。 脚の気が上がった気がする」 |
「私はどうも気分がよくない。このまま病気になって死んでしまうのはいいことだけれどね、 |
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2.4.5 | と、脚を指圧させなさる。 心配事をとてもつらく、あれこれ気にしていらっしゃる時には、気が上がるのであった。 |
とお言いになり、宮は脚をお |
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2.4.6 | 小少将の君は、 |
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2.4.7 | 「 いかなりしことぞ、と もし、さやうにかすめきこえさせたまはば、 |
「母上に、あの御事をそれとなく申し上げた人がいたようでございます。 どのような事であったのかと、お尋ねあそばしたので、ありのままに申し上げて、御襖障子の掛金の点だけを、少し誇張して、はっきりと申し上げました。 もし、そのように何かお尋ねなさいましたら、同じように申し上げなさいまし」 |
「御息所に昨晩のことをほのめかしてお話しした人があったのでございますよ。ほんとうのことが聞きたいとお言いになるものでございますから、正直にお話しいたしましたが、お |
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2.4.8 | と |
と申し上げる。 |
こう小少将が言った。 |
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2.4.9 | お嘆きでいらっしゃる様子は申し上げない。 「やはりそうであったか」と、とても悲しくて、何もおっしゃらない御枕もとから涙の雫がこぼれる。 |
御息所が悲しんでいることは申さない。宮はそれでお呼びになったのであると、いっそう |
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2.4.10 | 「このことだけでない、不本意な結婚をして以来、ひどくご心配をお掛け申していることよ」 |
この問題だけではなく、自分の意志でなくした結婚からこの方、母に物思いばかりをさせる自分である |
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2.4.11 | と、 「まいて、いふかひなく、 |
と、生きている甲斐もなくお思い続けなさって、「この方は、このまま引き下がることはなく、何かと言い寄ってくることも、厄介で聞き苦しいだろう」と、いろいろとお悩みになる。 「まして、言いようもなく、相手の言葉に従ったらどんなに評判を落とすことになるだろう」 |
と、宮は子としてのかいのないことを悲しんでおいでになって、あの大将もこのままで心をひるがえすことはせずに、いろいろと自分を苦しめるであろうことが煩わしい、それについて立つ |
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2.4.12 | などと、多少はお気持ちの慰められる面もあるが、「内親王ほどにもなった高貴な人が、こんなにまでも、うかうかと男と会ってよいものであろうか」と、わが身の不運を悲しんで、夕方に、 |
と、 |
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2.4.13 | 「やはり、お出で下さい」 |
「ぜひおいでなさいますように」 |
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2.4.14 | とあるので、中の塗籠の戸を両方を開けて、お越しになった。 |
と、御息所のほうから言って来たので、間にある座敷倉の戸を、向こうとこちらと両方であけて宮は御息所の東の病室へおいでになった。 |
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第五段 御息所の嘆き |
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2.5.1 | 苦しいご気分ながら、並々ならずかしこまって丁重にご応対申し上げなさる。 いつものご作法と違わず、起き上がりなさって、 |
病苦がありながらも御息所はうやうやしく宮をお取り扱いした。平生の作法どおりに起き上がってもいた。 |
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2.5.2 | 「いと この まためぐり |
「とても見苦しい有様でおりますので、お越し頂くにもお気の毒に存じます。 ここ二、三日ほど、拝見しませんでした期間が、年月がたったような気がし、また一方では心細い気がします。 後の世で、必ずしもお会いできるとも限らないもののようでございます。 再びこの世に生まれて参っても、何にもならないことでございましょう。 |
「だらしなくいたしているのでございますから、お迎えいたしますことも心が引けてなりません。ただ二、三日だけお目にかからなかったのでございますのを、何年もお |
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2.5.3 | 考えてみれば、ただ一瞬一瞬の間に別れ別れにならねばならない世の中を、無理に馴れ親しんでまいりましたのも、悔しい気がします」 |
考えますれば瞬間で永遠の別れになりますわれわれがあまりに愛し過ぎて暮らしましたのが、後悔いたされます」 |
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2.5.4 | など |
などとお泣きになる。 |
などと、御息所は泣くのであった。 |
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2.5.5 | ものづつみをいたうしたまふ |
宮も、物悲しい思いばかりがせられて、申し上げる言葉もなくてただ拝見なさっている。 ひどく内気なご性格で、はきはきと弁明をなさるような方ではないから、恥ずかしいとばかりお思いなので、とてもお気の毒になって、どのような事であったのですかなどと、お尋ね申し上げなさらない。 |
宮もいろいろなことがお心にあってお悲しい時で、何もお言いになることができずに、ただ母君の顔をながめておいでになった。非常にお内気で思うことをはきはきとお告げになることもおできにならずに、恥ずかしいお様子ばかりのお見えになるのがおかわいそうで、御息所は昨日のことをお尋ねすることもできない。 |
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2.5.6 | もの ただ |
大殿油などを急いで灯させて、お膳など、こちらで差し上げなさる。 何も召し上がらないとお聞きになって、あれこれと自分自身で食事を整え直しなさるが、箸もおつけにならない。 ただご気分がよろしくお見えなので、少し胸がほっとなさる。 |
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第三章 一条御息所の物語 行き違いの不幸 |
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第一段 御息所、夕霧に返書 |
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3.1.1 | かしこよりまた |
あちらからまたお手紙がある。 事情を知らない女房が受け取って、 |
夕霧の大将からまた手紙が来た。事情を知らない女房が使いから受け取って、 |
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3.1.2 | 「大将殿から、少将の君にと言って、お使者があります」 |
「大将さんから少将さんにというお手紙がまいりました」 |
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3.1.3 | と言うのが、また辛いことであるよ。 少将の君は、お手紙は受け取った。 母御息所が、 |
と、この座敷で |
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3.1.4 | 「いかなる |
「どのようなお手紙ですか」 |
「どんなお手紙」 |
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3.1.5 | と、やはりお尋ねになる。 人知れず弱気な考えも起こって、内心はお待ち申し上げていらしたのに、いらっしゃらないようだとお思いになると、胸騷ぎがして、 |
と、今までそのことに一言も触れなかった御息所も問うた。反抗的になっていた御息所の心も、何時間かのうちに弱くなり、人知れず大将の今夜の来訪を待っていたのであるから、手紙が来るのは自身で来ぬことであろうと胸が騒いだのである。 |
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3.1.6 | 「いで、その あいなし。 そこに あいなき |
「さあ、そのお手紙には、やはりお返事をなさい。 失礼ですよ。 一度立った噂を良いほうに言い直してくれる人はいないものです。 あなただけ潔白だとお思いになっても、そのまま信用してくれる人は少ないものです。 素直にお手紙のやりとりをなさって、やはり以前と同様なのが良いことでしょう。 いいかげんな馴れ過ぎた態度というものでしょう」 |
「およこしになった手紙のお返事はなさいまし、しかたがございません。一度立てた名を取り消すような評判はだれがしてくれましょう。きれいな御自信はおありになっても、だれがそれを認めてくれましょう。素直にお返事もあそばして、冷淡になさらないほうがよろしゅうございます。わがままな性格だと思われてはなりません」 |
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3.1.7 | とおっしゃって、取り寄せなさる。 辛いけれども差し上げた。 |
宮に申し上げて、 |
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3.1.8 | 「驚くほど冷淡なお心をはっきり拝見しては、かえって気楽になって、一途な気持ちになってしまいそうです。 |
冷ややかなお心を知りましたことによってかえっておさえがたいものに私の恋はなっていきそうです。 |
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3.1.9 | 拒むゆえに浅いお心が見えましょう 山川の流れのように浮名は包みきれませんから」 |
せくからに浅くぞ見えん 流れての名をつつみはてずば |
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3.1.10 | と |
と言葉も多いが、最後まで御覧にならない。 |
まだいろいろに書かれてある手紙であったが、御息所は終わりまでを読まなかった。 |
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3.1.11 | このお手紙も、はっきりした態度でもなく、いかにも癪に障るようないい気な調子で、今夜訪れないのを、とてもひどいとお思いになる。 |
この手紙も宮との関係を |
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3.1.12 | 「 あな、いみじや。 |
「故衛門督君が心外に思われた時、とても情けないと思ったが、表向きの待遇は、またとなく大事に扱われたので、こちらに権威のある気がして慰めていたのでさえ、満足ではなかったのに。 ああ、何ということであろう。 大殿のあたりでどうお思いになりおっしゃっていることだろうか」 |
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3.1.13 | と |
と心をお痛めになる。 |
と御息所は思うのである。 |
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3.1.14 | 「やはり、どのようにおっしゃるかと、せめて様子を窺ってみよう」と、気分がひどく悪く涙でかき曇ったような目、おし開けて、見にくい鳥の足跡のような字でお書きになる。 |
なおどう大将が言ってくるかと見たい心から、非常に苦しい |
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3.1.15 | 「すっかり弱ってしまった、お見舞いにお越しになった折なので、お勧め申したのですが、まことに沈んだような様子でいらっしゃるようなので、見兼ねまして。 |
もう私はなおる見込みもなくなりました。宮様はただ今こちらへ見舞いに来ておいでになるのでございまして、お勧めをしてみましたが、めいったふうになっておいでになりまして、お返事もお書けにならないようでございますから、私が見かねまして、 |
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3.1.16 | 女郎花が萎れている野辺をどういうおつもりで 一夜だけの宿をお借りになったのでしょう」 |
一夜ばかりの宿を借りけん |
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3.1.17 | と、ただ途中まで書いて、捻り文にしてお出しなさって、臥せっておしまいになったまま、とてもお苦しがりなさる。 御物の怪が油断させていたのかと、女房たちは騒ぐ。 |
こう書きさしただけで紙を巻いて出した。そのまままた病床に横たわった御息所ははなはだしく苦しみだした。 |
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3.1.18 | いつもの、効験のある僧すべてが、とても大声を出して祈祷する。 宮に、 |
効験のいちじるしい僧が皆呼び集められて、病室は混雑していた。あちらへお帰りになるように女房たちはお勧めするのであるが、宮は |
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3.1.19 | 「やはり、あちらにお移りあそばせ」 |
御自身をお悲しみになる心から、いっしょに死のう |
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3.1.20 | と、女房たちが申し上げるが、ご自身が辛く思うと同時に、後れ申すまいとお思いなので、ぴったりと付き添っていらっしゃった。 |
と思召して母君からお離れにならないのであった。 |
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第二段 雲居雁、手紙を奪う |
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3.2.1 | 大将殿は、この昼頃に、三条殿にいらっしゃったが、今晩再び小野にお伺いなさるのに、「何かわけがありそうで、まだ何もないのに外聞が悪かろう」などと気持ちをお抑えになって、ほんとにかえって今までの気がかりさよりも、幾重にも物思いを重ねて嘆息していらっしゃる。 |
夕霧はこの日の昼ごろから三条の家にいた。今夜また小野の山荘へ行くことは、まだない事実をあることらしく人に思わせるだけで、自分のためにはよい結果をもたらすことでないと行きたい心をしいておさえることに努力していたが、これまで恋しくお思いしていたことは物の数でもないほどに昨日からにわかに千倍した恋に苦しむ大将であった。 |
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3.2.2 | 北の方は、このようなお忍び歩きの様子をちらっと聞いて、面白くなく思っていらっしゃるので、知らないふりをして、若君たちをあやして気を紛らしながら、ご自分の昼のご座所で臥していらっしゃった。 |
夫人は山荘の昨日の訪問の様子をほかから聞き出して不快がっていたのであるが、知らぬ顔をして子供の相手をしながら自身の昼の居間のほうで横になっていた。 |
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3.2.3 | ちょうど宵過ぎるころに、このお返事を持って参ったが、このようにいつもと違った鳥の足跡のような筆跡なので、直ぐにはご判読できないで、大殿油を近くに取り寄せて御覧になる。 女君、物を隔てていたようであるが、とてもすばやくお見つけになって、這い寄って、殿の後ろから取り上げなさなった。 |
八時過ぎに小野の山荘で書いた御息所の返事は大将の所へ持って来られたのであるが、大病人の書いた鳥の跡は一度見たのではわかりにくい。夕霧が |
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3.2.4 | 「あさましう。 こは、いかにしたまふぞ。 あな、けしからず。 さても、なほなほしの |
「あきれたことを。 これは、何をなさるのですか。 何と、 けしからん。六条の東の上様の お手紙です。今朝、風邪をひいて苦しそうでいらっしゃったが、院の御前におりまして、帰る時に、もう一度伺わないままになってしまったので、お気の毒に思って、ただ今の加減はいかかがですかと、申し上 げたのです。御覧なさい。恋文めいた手紙の 様子ですか。そ れにしても、はしたないなさりようです。年月とともに、ひ どく馬鹿になさるのが情けないことです。どう |
「どうするのですか。けしからんじゃありませんか。六条の東のお母様のお手紙ですよ。今朝から |
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3.2.5 | と慨嘆して、大切そうに無理に取り返そうとなさらないので、それでもやはり、すぐには見ずに持ったままでいらっしゃった。 |
と言って |
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3.2.6 | 「年月につれて馬鹿になさるのは、あなたのほうこそそうでございますわ」 |
「年月に添って侮るなどとは、あなた御自身がそうでいらっしゃるから、私のことまでも |
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3.2.7 | とだけ、このように泰然としていらっしゃる態度に気後れして、若々しくかわいらしい顔つきでおっしゃるので、ふとお笑いになって、 |
夫人は |
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3.2.8 | 「そは、ともかくもあらむ。 またあらじかし、よろしうなりぬる いかに さるかたくなしき |
「それは、どちらでも良いことでしょう。 夫婦とはそのようなものです。 二人といないでしょうね、相当な地位に上った男が、このように気を紛らすことなく、一人の妻を守り続けて、びくびくしている雄鷹のような者はね。 どんなに人が笑っているでしょう。 そのような愚か者に守られていらっしゃるのは、あなたにとっても名誉なことではありますまい。 |
「それはどちらのことでもいい。世間のどこにもあることだからね。けれどもこれだけはほかにないことですよ。相当な身分の男がただ一人の妻を愛して、何かに |
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3.2.9 | あまたが かく いづこの |
大勢の妻妾の中で、それでも一段と際立って、格別に重んじられていることが、世間の見る目も奥ゆかしく、わが気持ちとしてもいつまでも新鮮な感じがして、興をそそることもしみじみとしたことも続くでしょう。 このように翁が何かを守ったように、愚かしく迷っているので、大変に残念なことです。 どこに見栄えがありましょうか」 |
おおぜいの |
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3.2.10 | と、そうはいっても、この手紙を欲しそうな態度を見せずにだまし取ろうとのつもりで、嘘を申し上げると、とても高かにお笑いになって、 |
夕霧は小野の手紙をいざこざなしに取ってしまいたい心から妻を欺くと、夫人は |
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3.2.11 | 「見栄えのある事をお作りになるので、年取ったわたしは辛いのです。 とても若々しくなられたご様子がぞっとしてなりませんことも、今まで経験したことのない事なので、とても辛いのです。 以前から馴れさせてお置きにならないで」 |
「はなやかなことをあなたがしようとしていらっしゃるから、古いじみな女の私が一方で苦しんでいるのですよ。にわかにすっかりまじめでなくおなりになったのですもの、私にはそうした習慣がついていないのですから苦しくてなりません。初めからそうしておいでになればよかったのよ」 |
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3.2.12 | とかこちたまふも、 |
と文句をおっしゃるのも、憎くはない。 |
と恨めしがる妻も憎くはなかった。 |
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3.2.13 | 「にはかにと いとうたてある よからずもの あやしう、もとよりまろをば なほ、かの いろいろ あいなき |
「急にとお考えになる程に、どこが変わって見えるのでしょう。 とても嫌なお心の隔てですね。 良くないことを申し上げる女房がいるのでしょう。 不思議と、昔からわたしのことを良く思っていないのです。 依然として、あの緑の六位の袍の名残で、軽蔑しやすいことにつけて、あなたをうまく操ろうと思っているのではないでしょうか。 いろいろと聞きにくいことをほのめかしているらしい。 関わりのない方にとっても、お気の毒です」 |
「にわかにとあなたが思うようなことが私のどこにあるのですか、あなたは疑い深いのですね。私を中傷する人があるのでしょう。そうした人たちは初めから私に敵意を見せていたものだ。 |
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3.2.14 | などとおっしゃるが、結局はそうなることだとお考えなので、特に言い争いはしない。 大輔の乳母は、とても辛いと聞いて、何も申し上げない。 |
などと言いながらも夕霧は、 |
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第三段 手紙を見ぬまま朝になる |
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3.3.1 | とかく |
あれこれと言い合いをして、このお手紙はお隠しになってしまったので、無理しても探し出さず、さりげない顔してお寝みになったので、胸騷ぎがして、「何とかして奪い返したいものだ」と、「御息所のお手紙のようだ。 何事があったのだろう」と、目も合わず考えながら臥せっていらっしゃった。 |
なお夫人は奪った手紙を返そうとはせずにどこかへ隠してしまった。夕霧は無理に取り返そうとはせずに、冷静に見せて寝についたのであるが、 |
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3.3.2 | 女君が眠っていらっしゃる間に、昨夜のご座所の下などを、何げなくお探しになるが、ない。 お隠しなさる場所もないのに、とても悔しい思いで、夜も明けてしまったが、すぐにはお起きにならない。 |
夫人が寝入ってしまったので、 |
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3.3.3 | 女君は、若君たちに起こされて、いざり出ていらっしゃったので、自分も今お起きになったようにして、あちこちとお探しになるが、見つけることがおできになれない。 妻は、このように探そうとお思いなさらないので、「なるほど、恋文ではないお手紙であったのだ」と、気にもかけていないので、若君たちが騒がしく遊びあって、人形を作って、立て並べて遊んでいらっしゃり、漢籍を読んだり、習字をしたりなど、いろいろと雑然としていて、小さい稚児が這ってきて裾を引っ張るので、奪い取った手紙のこともお思い出しにならない。 |
夫人は子供に起こされて寝所からいざって出る時に、夕霧も今目をさましたふうに半身を起こして、昨夜の手紙をまたも捜そうとするのであったが、見つけることは不可能であった。夫人は |
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3.3.4 | 夫は、他の事もお考えにならず、あちらに早く返事を差し出そうとお思いになると、昨夜の手紙の内容も、よく読まないままになってしまったので、「見ないで書いたというようなのも、なくしたのだとお察しになるだろう」などと、お思い乱れなさる。 |
男は他のことはいっさい思われないほど手紙がほしかった。小野へ今朝早く消息をしたいと思うのであるが、昨夜の手紙に書かれてあったことをよく見なかったのであるから、それに触れずに手紙を書いては、先方のものをそまつに取り扱って散らせてしまったことが知れてまずいことになると煩悶をしていた。 |
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3.3.5 | どなたもどなたもお食事などを召し上がったりして、のんびりとなった昼ころに、困りきって、 |
夫婦も子供たちも食事を済ませてのどかになった昼ごろに、大将は思いあまって夫人に言うのであった。 |
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3.3.6 | 「昨夜のお手紙には、何が書いてありましたか。 けしからん事にお見せにならないで。 今日もお見舞い申そう。 気分が悪くて、六条院にも参上することができないようなので、手紙を差し上げたい。 何が書いてあったのだろうか」 |
「昨夜のお手紙には何と書いてあったのですか。ばかなことを言ってあなたが見せてくれないものだから、今日もこれからお見舞いをしなければならないのに困ってしまう。私は気分が悪くて今日は六条へも行きたくないから、手紙で言ってあげなければならないのだが、昨日のことがわからないでは不都合だから」 |
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3.3.7 | とおっしゃるのが、とてもさりげないので、「手紙を、愚かにも奪い取ってしまった」と興醒めがして、そのことはおっしゃらずに、 |
夕霧の様子はきわめてさりげないものであったから、手紙を隠した自身の所作が、むだなことをしたものであると思うと、急に恥ずかしくなったが、それは言わずに、 |
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3.3.8 | 「昨夜の深山風に当たって、具合を悪くされたらしいと、風流気取りで訴えられたらよいでしょう」 |
「先夜の山風に |
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3.3.9 | と |
と申し上げなさる。 |
と言った。 |
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3.3.10 | 「さあ、そんな冗談、いつまでもおっしゃいませんな。 何の風流なことがあろうか。 世間の人と一緒になさるのは、かえって気が引けます。 ここの女房たちも、一方では不思議なほどの堅物を、このようにおっしゃると、笑っていることでしょうよ」 |
「つまらんことばかり言うのですね。何もおもしろくないじゃありませんか。私が世間並みの男のように言われるのを聞くとかえってきまりが悪くなりますよ。女房たちなども不思議な堅い男を疑うあなたを笑うだろうに」 |
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3.3.11 | と、 |
と、冗談に言いなして、 |
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3.3.12 | 「その手紙ですよ。 どこですか」 |
「 |
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3.3.13 | とのたまへど、とみにも |
とお尋ねになるが、すぐにはお出しにならないままに、またお話などを申し上げて、暫く横になっていらっしゃるうちに、日が暮れてしまった。 |
と言ったが、なおすぐに取り出そうとは夫人のしないままで、ほかの話などをしてしばらく寝ていたが、そのうちに日が暮れた。 |
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第四段 夕霧、手紙を見る |
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3.4.1 | 蜩の鳴き声に目が覚めて、「小野の麓ではどんなに霧が立ち籠めているだろう。 何ということか。 せめて今日中にお返事をしよう」と、お気の毒になって、ただ知らない顔をして硯を擦って、「どのように取り繕って書こうか」と、物思いに耽っていらっしゃる。 |
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3.4.2 | ご座所の奥の少し盛り上がった所を、試しにお引き上げなさったところ、「ここに差し挟みなさったのだ」と、嬉しくもまた馬鹿らしくも思えるので、にっこりして御覧になると、あのようなおいたわしいことが書いてあったのであった。 胸がどきりとして、「先夜の出来事を、何かあったようにお聞きになったのだ」とお思いになると、おいたわしくて胸が痛む。 |
一所を見つめていた目に敷き畳の奥のほうの少し上がっている所を発見した。試みにそこを上げてみると、昨日の手紙は下にはさまれてあった。うれしくも思われまたばかばかしくも夕霧は思った。微笑をしながら読んでみると、それは苦しい複雑な心を重態の病人が伝えているものであったから、大将の鼓動は急に高くなって、自分がしいて結合を遂げたものとして書かれてあると思うと気の毒で心苦しくて、 |
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3.4.3 | 「昨夜でさえ、どれほどの思いで夜をお明かしになったことだろう。 今日も、今まで手紙さえ上げずに」 |
第二の夜の昨夜に自分の行かなかったことでどんなに |
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3.4.4 | と、 いと |
と、何とも言いようなく思われる。 とても苦しそうに、言いようもなく、書き紛らしていらっしゃる様子で、 |
新婚の |
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3.4.5 | 「よほど思案にあまって、このようにお書きになったのだろう。 返事のないまま、 |
露骨に言わずに自分の行くのを促してある消息を受けていながら、自分を待ちつけることがしまいまでできずに今朝になったのであったかと思うと、 |
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3.4.6 | と、申し上げる言葉もないので、女君が、まことに辛く恨めしい。 |
大将は妻が恨めしくも憎くも思われた。 |
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3.4.7 | 「いいかげんな、あなようなことをして、悪ふざけに隠すとは。 いやはや、自分がこのようにしつけたのだ」と、あれこれとわが身が情けなくなって、全く泣き出したい気がなさる。 |
無法なことをして大事な手紙を隠させるようなしぐさも皆自分がつけさせたわがままな癖であると思うと、自分自身にすら反感を覚えて泣きたい気がした。 |
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3.4.8 | やがて |
そのままお出かけなさろうとするが、 |
これからすぐに行こうと夕霧は思うのであったが、 |
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3.4.9 | 「気安く対面することもできないだろうから、御息所もあのようにおっしゃっているし、どうであろうか。 坎日でもあったが、もし万が一にお許し下さっても、日が悪かろう。 やはり縁起の良いように」 |
たやすく宮は |
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3.4.10 | と、几帳面な性格から判断なさって、まずは、このお返事を差し上げなさる。 |
と、まじめな性格からは、恋しい方との将来に不安がないように慎重に事をすべきであると考えられて、行くことはおいて、まず御息所への返事を書いた。 |
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3.4.11 | 「とても珍しいお手紙を、何かと嬉しく拝見しましたが、このお叱りは。 どのようにお聞きあそばしたのですか。 |
珍しいお手紙を拝見いたしましたことは、御病気をお案じ申し上げるほうから申しても非常にうれしいことでしたが、おとがめを受けましたことにつきましては何かお聞き違えになったのではないかと思われるのでございます。 |
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3.4.12 | 秋の野の草の茂みを踏み分けてお伺い致しましたが 仮初の夜の枕に契りを結ぶようなことを致しましょうか |
秋の野の草の繁みは分けしかど 仮寝の |
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3.4.13 | 言い訳を申すのも筋違いですが、昨夜の罪は、一方的過ぎませんでしょうか」 |
弁明をいたしますのもおかしゅうございますが、宮様に対して御想像なさいますような無礼を申し上げた私では決してございません。 |
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3.4.14 | とある。 宮には、たいそう多くお書き申し上げなさって、御厩にいる足の速いお馬に移し鞍を置いて、先夜の大夫を差し向けなさる。 |
という |
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3.4.15 | 「昨夜から、六条院に伺候していて、たった今退出してきたところだと言え」 |
「昨夜から六条院に御用があって行っていて、今帰ったばかりだと申してくれ」 |
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3.4.16 | とて、 |
と言って、言うべきさま、ひそひそとお教えになる。 |
大将は山荘へ行ってからのことでなおいろいろに注意を与えた。 |
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第五段 御息所の嘆き |
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3.5.1 | かしこには、 |
あちらでは、昨夜も薄情なとお見えになったご様子を、我慢することができないで、後のちの評判をもはばからず恨み申し上げなさったが、そのお返事さえ来ずに、今日がすっかり暮れてしまったのを、どれ程のお気持ちかと、愛想が尽きて、驚きあきれて、心も千々に乱れて、すこしは好ろしかったご気分も、再びたいそうひどくお苦しみになる。 |
小野の御息所は、昨夜は夕霧の来ないらしいことに気がもまれて、あとの評判になっては不名誉であろうこともはばかられずに、促すような手紙も書いたのに、その返事すら送られなかったことに失望をしていてそのまま次の今日さえも暮れてきたことに煩悶を多く覚えて、やや軽くなったふうであった容体がまた非常に険悪なものになってきた。 |
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3.5.2 | なかなか |
かえってご本人のお気持ちは、このことを特に辛いこととお思いになり、心を動かすほどのことではないので、ただ思いも寄らない方に、気を許した態度で会ったことだけが残念であったが、たいしてお心にかけていなかったのに、このようにひどくお悩みになっているのを、言いようもなく恥ずかしく、弁解申し上げるすべもなくて、いつもよりも恥ずかしがっていらっしゃる様子にお見えになるのを、「とてもお気の毒で、ご心労ばかりがお加わりになって」と拝するにつけても、胸が締めつけられて悲しいので、 |
かえって宮御自身は御息所の思い悩む点を何ともお思いになるわけはなくて、ただ異性の他人をあれほどまでも近づかせたことが残念に思われる自分であって、彼の愛の厚薄は念頭にも置いていないにもかかわらず、それを一大事として母君が煩悶していると、恥ずかしくも苦しくも思召されて、母君ながらそのことはお話しになることもできずに、ただ平生よりも |
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3.5.3 | 「今さら厄介なことは申し上げまいと思いますが、やはり、ご運命とは言いながらも、案外に思慮が甘くて、人から非難されなさることでしょうが。 それを元に戻れるものではありませんが、今からは、やはり慎重になさいませ。 |
「今さらお |
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3.5.4 | 物の数に入るわが身ではありませんが、いろいろとお世話申し上げてきましたが、今ではどのようなことでもお分かりになり、世の中のあれやこれやの有様も、お分かりになるほどに、お世話申してきたことと、そうした方面は安心だと拝見していましたが、やはりとても幼くて、しっかりしたお心構えがなかったことと、思い乱れておりますので、もう暫く長生きしたく思います。 |
つまらぬ私でございますが、今までは御保護の役を勤めましたが、もうあなた様はいろいろな御経験をお積みになりまして、お一人立ちにおなりになりましても充分なように思って、私は安心していたのでございますよ。けれどまだ実際はそうした御幼稚らしいところがあって、 |
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3.5.5 | ただ |
普通の人でさえ、多少とも人並みの身分に育った女性で、二人の男性に嫁ぐ例は、感心しない軽薄なことですのに、ましてこのようなご身分では、そのようないい加減なことで、男性がお近づき申してよいことでもないのに、思ってもいませんでした心外なご結婚と、長年来心を痛めてまいりましたが、そのようなご運命であったのでしょう。 |
普通の女でも貴族階級の人は再婚して二人めの |
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3.5.6 | 院をお始め申して、御賛成なさり、この父大臣にもお許しなさろうとの御内意があったのに、わたし一人が反対を申し上げても、どんなものかと思いよりましたことですが、のちのちまで面白からぬお身の上を、あなたご自身の過ちではないので、天命を恨んでお世話してまいりましたが、とてもこのような相手にとってもあなたにとっても、いろいろと聞きにくい噂が加わって来ましょうが、そうなっても、世間の噂を知らない顔をして、せめて世間並のご夫婦としてお暮らしになれるのでしたら、自然と月日が過ぎて行くうちに、心の安まる時が来ようかと、思う気持ちにもなりましたが、この上ない薄情なお心の方でございますね」 |
院の陛下がお乗り気になりまして許容をあそばす御意志をあちらの大臣へまずもってお示しになったものですから、私一人が御反対をいたし続けるのもいかがかと思いまして、負けてしまいましたのですが、予想してすでに御幸福なように思われませんでしたことは皆そのとおりでお気の毒なあなた様にしてしまいましたことを、私自身の過失ではないのですが、天を仰いで |
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3.5.7 | と、つぶつぶと |
と、ほろほろとお泣きになる。 |
と言い続けて御息所は泣くのであった。 |
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第六段 御息所死去す |
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3.6.1 | ほんとうにどうしようもなく独りぎめにしておっしゃるので、抗弁して申し開きをする言葉もなくて、ただ泣いていらっしゃる様子、おっとりとしていじらしい。 じっと見つめながら、 |
あった事実と独断してこう言うのを、御弁明あそばすこともおできにならない宮が、ただ泣いておいでになる御様子は、おおようで |
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3.6.2 | 「ああ、どこが、人に劣っていらっしゃろうか。 どのようなご運命で、心も安まらず、物思いなさらなければならない因縁が深かったのでしょう」 |
「あなたはどこが人より悪いのでしょう。そんなことは絶対にない。何という運命でこうした御不幸な目にばかりおあいになるのだろう」 |
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3.6.3 | などとおっしゃるうちに、ひどくお苦しみになる。 物の怪などが、このような弱り目につけ込んで勢いづくものだから、急に息も途絶えて、見る見るうちに冷たくなっていかれる。 律師も騷ぎ出しなさって、願などを立てて大声でお祈りなさる。 |
などと言っているうちに御息所の容体は最悪なものになっていった。 |
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3.6.4 | 深い誓いを立てて、命果てるまでと決心した山籠もりを、こんなにまで並々の思いでなく出てきて、壇を壊して退出することが、面目なくて、仏も恨めしく思わずいはいらっしゃれない趣旨を、一心不乱にお祈り申し上げなさる。 宮が泣き取り乱していらっしゃること、まことに無理もないことではある。 |
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3.6.5 | このように騒いでいる最中に、大将殿からお手紙を受け取ったと、かすかにお聞きになって、今夜もいらっしゃらないらしい、とお聞きになる。 |
この騒ぎの中で、大将の消息が来たという者の声を、御息所はほのかに聞いてそれでは今夜も来ないのであろうと思った。 |
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3.6.6 | 「情けない。 世間の話の種にも引かれるに違いない。 どうして自分まであのような和歌を残したのだろう」 |
情けないことである、こうした恥ずかしい名を宮はまたお受けになるのであろう、自分までがなぜ受け入れるふうな手紙などを書いてやったのであろう |
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3.6.7 | と、さまざま あへなくいみじと |
と、あれこれとお思い出しなさると、そのまま息絶えてしまわれた。 あっけなく情けないことだと言っても言い足りない。 昔から、物の怪には時々お患いになさる。 最期と見えた時々もあったので、「いつものように物の怪が取り入ったのだろう」と考えて、加持をして大声で祈ったが、臨終の様子は、明らかであったのだ。 |
と |
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3.6.8 | 宮は、一緒に死にたいとお悲しみに沈んで、ぴったりと添い臥していらっしゃった。 女房たちが参って、 |
宮はともに死にたいと思召す御様子でじっと母君の |
||||||||||||||||||||||
3.6.9 | 「もう、何ともしかたありません。 まことこのようにお悲しみになっても、定められた運命の道は、引き返すことはできるものでありません。 お慕い申されようとも、どうしてお思いどおりになりましょう」 |
「もういたしかたがございません。そんなにお悲しみになりましても、お死にになった方がお帰りになるものでございません。お慕いになりましてもあなた様のお思いが通るものでもございません」 |
||||||||||||||||||||||
3.6.10 | と、さらなることわりを |
と、言うまでもない道理を申し上げて、 |
とわかりきった生死の別れをお説きして、 |
|||||||||||||||||||||
3.6.11 | 「とても不吉です。 亡くなったお方にとっても、罪深いことです。 もうお離れなさいまし」 |
「こうしておいであそばすことは非常によろしくないことでございます。お |
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3.6.12 | と、 |
と、引き動かし申し上げるが、身体もこわばったようで、何もお分かりにならない。 |
お引き立て申して行こうとするのであるが、宮のお |
|||||||||||||||||||||
3.6.13 | 修法の壇を壊して、ばらばらと出て行くので、しかるべき僧たちだけ、一部の者が残ったが、今は全てが終わった様子、まことに悲しく心細い。 |
祈祷の壇をこわして僧たちは立ち去る用意をしていた。少数の者だけはあとへ残るであろうが、そうしたことも心細く思われた。 |
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第七段 朱雀院の弔問の手紙 |
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3.7.1 | あちこちからのご弔問、いつの間に知れたのかと見える。 大将殿も、限りなく驚きなさって、さっそくご弔問申し上げなさった。 六条院からも、致仕の大臣からも、皆々頻繁にご弔問申し上げなさる。 山の帝もお聞きあそばして、まことにしみじみとしたお手紙をお書きなさっていた。 宮は、このお手紙には、おぐしをお上げなさる。 |
ほうぼうから弔問の使いが来た。いつの間に知ったかと思われるほどである。夕霧の大将は非常に驚いてさっそく使いを立てた。六条院からも太政大臣家からも来た。ひっきりなしにそうした使いが来るのである。 |
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3.7.2 | 「 かひなきことをばさるものにて、 なべての |
「長らく重く患っていらっしゃるとずっと聞いていましたが、いつも病気がちとばかり聞き馴れておりましたので、つい油断しておりました。 言ってもしかたのないことはそれとして、お悲しみ嘆いていらっしゃるだろう有様、想像するのがお気の毒でおいたわしい。 すべて世の中の定めとお諦めになって慰めなさい」 |
いつかから病気がだいぶ重いということは聞いていましたが、平生から弱い人だったために、つい怠って尋ねてあげることもしませんでした。故人の死をいたむことはむろんですが、あなたがどんなに悲しんでおられるだろうと、それを最も私は心苦しく思います。死はだれも免れないものであるからという道理を思って心を平静にしなさい。 |
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3.7.3 | とあり。 |
とある。 目もお見えにならないが、お返事は申し上げなさる。 |
とあった。宮は涙でお目もよく見えないのであるが、このお返事だけはお書きになった。 |
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3.7.4 | 普段からそうして欲しいとおっしゃっていたことなので、今日直ちに葬儀を執り行い申すことになって、御甥の大和守であった者が、万事お世話申し上げたのであった。 |
平生からすぐに |
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3.7.5 | せめて亡骸だけでも暫くの間拝していたいと思って、宮は惜しみ申し上げなさったが、いくら別れを惜しんでもきりがないので、皆準備にとりかかって、忌中の最中に、大将がいらっしゃった。 |
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3.7.6 | 「今日から後は、日柄が悪いのだ」 |
「今日弔問に行っておかないでは、あとは皆、そうしたことに私の携われない暦になっているから」 |
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3.7.7 | などと、人前ではおっしゃって、とても悲しくしみじみと、宮がお悲しみであろうことをご推察申し上げなさって、 |
などと、表面は言って、心の中では宮のお悲しみが悲しく想像され、少しでも早く小野へ行きたく思っているのに、 |
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3.7.8 | 「こんなに急いでお出掛けになる必要はありません」 |
「そんなにまですぐにお駆けつけになるほどの御関係でもないではございませんか」 |
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3.7.9 | と、 |
と、女房たちがお引き止め申したが、無理にいらっしゃった。 |
と家従たちが |
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第八段 夕霧の弔問 |
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3.8.1 | ほどさへ ゆゆしげに |
道のりまでも遠くて、山麓にお入りになるころ、じつにぞっとした気がする。 不吉そうに幕を引き廻らした葬儀の方は目につかないようにして、この西面にお入れ申し上げる。 大和守が出て来て、泣きながら挨拶を申し上げる。 妻戸の前の簀子に寄り掛かりなさって、女房をお呼び出しなさるが、伺候する者みな、悲しみも収まらず、何も考えられない状態である。 |
しかも遠距離ですぐにも行き着くことのできない道は夕霧をますます悲しませたのであった。山荘は |
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3.8.2 | かく ややためらひて、 |
このようにお越しになったので、すこし気持ちもほっとして、小少将の君は参った。 何もおっしゃることができない。 涙もろくはいらっしゃらない気丈な方であるが、場所柄、人の様子などをお思いやりになると、ひどく悲しくて、無常の世の有様が、他人事でもないのも、まことに悲しいのであった。 少し気を落ち着けてから、 |
大将が来たことで少し慰められるところがあって少将が応接に出た。夕霧も急にものは言えないのであった。すぐ泣くふうの人ではないのであるが、ここの悲しい空気に人々の様子も想像されて無常の世の道理も自身に近い人の上に実証されたことにひどく心を打たれているのである。ややしばらくして、 |
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3.8.3 | 「好くおなりになったように承っておりましたので、油断しておりました時に。 夢でも醒める時がございますというのに、何とも思いがけないことで」 |
「少しおよろしいように伺ったものですから、安心していたのですが、何たることが起こったのでしょう。どんな悪夢でもさめる時はあるのですが、これはそうした希望も持てませんことを悲しく思います」 |
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3.8.4 | と申し上げなさった。 「ご心痛であったご様子、この方のために多くはお心も乱れになったのだ」とお思いになると、そうなる運命とはいっても、まことに恨めしい人とのご因縁なので、お返事さえなさらない。 |
と宮への御 |
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3.8.5 | 「どのように申し上げあそばしたかと、申し上げましょうか」 |
「どう仰せられますと申し上げればよろしゅうございましょう。 |
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3.8.6 | 「とても重々しいご身分で、このように遠路急いでお越しになったご厚志を、お分かりにならないようなのも、あまりというものでございましょう」 |
重いお身柄をお忘れになってすぐにこの遠い所をお |
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3.8.7 | と、 |
と、口々に申し上げるので、 |
女房が口々に言うと、 |
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3.8.8 | 「ただ、よいように返事せよ。 わたしはどう言ってよいか分かりません」 |
「いいかげんに言っておくがいい。何を何と言っていいか今はそんなこともわからない」 |
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3.8.9 | とて、 |
とおっしゃって、臥せっていらっしゃるのも道理なので、 |
宮がこう言って横になっておしまいになったのももっともなこの場合のことであったから、女房が、 |
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3.8.10 | 「ただ今は、亡き人と同然のご様子でありまして。 お出あそばしました旨は、お耳に入れ申し上げました」 |
「ただ今のところ宮様はお |
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3.8.11 | と この |
と申し上げる。 この女房たちも涙にむせんでいる様子なので、 |
と夕霧へ言った。この人たちは涙にむせかえっているのであるから、 |
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3.8.12 | 「お慰め申し上げようもありませんが。 もう少し、私自身も気が静まって、またお静まりになったころに、参りましょう。 どうしてこのように急にと、そのご様子が知りたい」 |
「何とも申し上げようのないことですから、私の心も少し落ち着き、宮様の御気分もお静まりになったころにまた参りましょう。どうしてそんな急変が来たのか、私はその理由だけを知りたい」 |
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3.8.13 | とのたまへば、まほにはあらねど、かの |
とおっしゃると、すっかりではないが、あのお悩みになり嘆いていた様子を、少しずつお話し申し上げて、 |
と大将は女房に言った。露骨には言わないが少将は御息所の煩悶した一昼夜のことを少し夕霧に知らせて、 |
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3.8.14 | 「かこちきこえさするさまになむ、なりはべりぬべき。 さらば、かく |
「恨み言を申し上げるようなことに、きっとなりましょう。 今日は、いっそう取り乱したみなの気持ちのせいで、間違ったことを申し上げることもございましょう。 それゆえ、このようにお悲しみに暮れていらっしゃるご気分も、きりのあるはずのことで、少しお静まりあそばしたころに、お話を申し上げ承りましょう」 |
「そう申してまいればお恨み言になっていけません。今日は頭が混乱しておりまして間違ってお話し申し上げることがあるかもしれません。それでは宮様のお悲しみもいずれはおあきらめにならなければならないことでございますから、御気分のお落ち着きになりますころにまたおいでくださいまし」 |
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3.8.15 | とて、 |
と言って、正気もない様子なので、おっしゃる言葉も口に出ず、 |
と言った。その人たちも気を |
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3.8.16 | 「なるほど、闇に迷った気がします。 やはり、お慰め申し上げなさって、わずかのお返事でもありましたら」 |
「私の心なども |
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3.8.17 | などと言い残しなさって、ぐずぐずしていらっしゃるのも、身分柄軽々しく思われ、そうはいっても人目が多いので、お帰りになった。 |
などと言いおいて、長い立ち話をしていることもさすがに出入りの人の多い今日の山荘では軽々しく見られることであろうとはばかって大将は帰ることにした。 |
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第九段 御息所の葬儀 |
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3.9.1 | まさか今夜ではあるまいと思っていた葬儀の準備が、実に短時間にてきぱきと整えられたのを、いかにもあっけないとお思いになって、近くの御荘園の人々をお呼びになりお命じになって、しかるべき事どもをお仕えするように、指図してお帰りになった。 事が急なので、簡略になりがちであったのが、盛大になり、人数も多くなった。 大和守も、 |
今夜のうちに済ませるために納棺その他のことを着々進行させている物音にも、盛大ならぬ葬儀の悲哀が感ぜられて、大将はこの近くにある自家の荘園から侍たちを招いて、いろいろな役を分担して助けることを命じていった。急なことであったから自然簡単で済ませることになった葬儀が、これによって外見をきわめてよくすることができるようになった。 |
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3.9.2 | 「有り難い殿のお心づかいだ」 |
「すべて殿様のありがたい御親切のおかげでございます」 |
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3.9.3 | など、 「 |
などと、喜んでお礼申し上げる。 「跡形もなくあっけないこと」と、宮は身をよじってお悲しみになるが、どうすることもできない。 親と申し上げても、まことにこのように仲睦まじくするものではないのだった。 拝見する女房たちも、このご悲嘆を、また不吉だと嘆き申し上げる。 大和守は、後始末をして、 |
と感謝していた。母君を何も残らぬ無にしておしまいになったことで、宮は伏し |
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3.9.4 | 「このように心細い状態では、いらっしゃれまい。 とてもお心の紛れることはありますまい」 |
「こんなふうになさいまして、まだながく寂しい山荘においでになることは御無理です。いっそうお悲しみが紛れないことになりましょう」 |
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3.9.5 | などと申し上げるが、やはり、せめて峰の煙だけでも、側近くお思い出し申そうと、この山里で一生を終わろうとお考えになっていた。 |
などと宮へ申し上げるのであったが、宮は母君の煙におなりになった場所にせめて近くいたいと |
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3.9.6 | 御忌中に籠もっていた僧は、東面や、そちらの渡殿、下屋などに、仮の仕切りを立てて、ひっそりとしていた。 西の廂の間の飾りを取って、宮はお住まいになる。 日の明け暮れもお分かりにならないが、いく月かが過ぎて、九月になった。 |
忌中だけこもっている僧たちは東の座敷からそちらの廊の座敷、 |
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第四章 夕霧の物語 落葉宮に心あくがれる夕霧 |
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第一段 夕霧、返事を得られず |
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4.1.1 | さぶらふ |
山下ろしがたいそう烈しく、木の葉の影もなくなって、何もかもがとても悲しく寂しいころなので、だいたいがもの悲しい秋の空に催されて、涙の乾く間もなくお嘆きになり、「命までが思いどおりにならなかった」と、厭わしくひどくお悲しみになる。 伺候する女房たちも、何かにつけ悲しみに暮れていた。 |
山おろしが |
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4.1.2 | 大将殿は、毎日お見舞いの手紙を差し上げなさる。 心細げな念仏の僧などが、気の紛れるように、いろいろな物をお与えになりお見舞いなさり、宮の御前には、しみじみと心をこめた言葉の限りを尽くしてお恨み申し上げ、一方では、限りなくお慰め申し上げなさるが、手に取って御覧になることさえなく、思いもしなかったあきれた事を、弱っていらしたご病状に、疑う余地なく信じこんで、お亡くなりになったことをお思い出しになると、「ご成仏の妨げになりはしまいか」と、胸が一杯になる心地がして、この方のお噂だけでもお耳になさるのは、ますます恨めしく情けない涙が込み上げてくる思いが自然となさる。 女房たちもお困り申し上げていた。 |
夕霧からは毎日のようにお見舞いの手紙が送られた。寂しい念仏僧を喜ばせるに足るような物もしばしば贈られた。宮へは真心の見える手紙を次々にお送りして、自分の恋に対して御冷淡である恨みを語るほかには、今も御息所の死を悲しむ真情を言い続けた消息であった。しかも宮はそれらを手に取ってながめようともあそばさないのである。あのいまわしかった事件を、衰弱しきった病体で御息所は確かに悲しみもだえて死んだことをお思いになると、そのことが母君の |
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4.1.3 | ほんの一行ほどのお返事もないのを、「暫くの間は気が転倒していらっしゃるのだ」などとお考えになっていたが、あまりに月日も過ぎたので、 |
一行のお返事さえ得られないのを、初めの間は悲しみにおぼれておいでになるからであろうと大将は解釈していたが、今に至るも同じことであるのを見ては、 |
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4.1.4 | 「悲しい事でも限度があるのに。 どうして、こんなに、 あまりにお分かりにならないことがあろうか。言いようもなく子供のようで」と恨めしく、「これとは筋違いに、花や蝶だのと書いたのならともかく、自分の気持ちに同情してくれ、悲しんでいる状態を、いかがですかと尋 |
どんな悲しみにも際限はあるはずであるのに、今になってもまだ自分の |
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4.1.5 | 大宮がお亡くなりになったのを、実に悲しいと思ったが、致仕の大臣がそれほどにもお悲しみにならず、当然の死別として、世間向けの盛大な儀式だけを供養なさったので、恨めしく情けなかったが、六条院が、かえって心をこめて、後のご法事をもお営みになったのが、自分の父親ということを超えて、嬉しく拝見したその時に、故衛門督を、特別に好ましく思うようになったのだった。 |
祖母の大宮がお |
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4.1.6 | 人柄がたいそう冷静で、何事にも心を深く止めていた性格で、悲しみも深くまさって、誰よりも深かったのが、慕わしく思われたのだ」 |
静かな性質で人情のよくわかる彼は、自分と同じように祖母の宮の死を深く悲しんでいたのに心を |
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4.1.7 | など、つれづれとものをのみ |
などと、所在なく物思いに耽るばかりで、毎日をお過ごしになる。 |
この宮は何という感受性の乏しいお心なのであろうと、こんなことを毎日思い続けていた。 |
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第二段 雲居雁の嘆きの歌 |
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4.2.1 | 女君、やはりこのお二人のご様子を、 |
夫人は山荘の宮と大将の関係はどうなっていたのであろう、 |
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4.2.2 | 「どのような関係だったのだろうか。 御息所と、手紙を遣り取りしていたのも、親密なようになさっていたようだが」 |
御息所とは始終手紙の往復をしていたようであるが |
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4.2.3 | などと納得がゆきがたいので、夕暮の空を眺め入って臥せっていらっしゃるところに、若君を使いにして差し上げなさった。 ちょっとした紙の端に、 |
と |
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4.2.4 | 「お悲しみを何が原因と知ってお慰めしたらよいものか 生きている方が恋しいのか、 |
哀れをもいかに知りてか慰めん |
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4.2.5 | はっきりしないのが情けないのです」 |
どちらだか私にはわからないのですから。 |
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4.2.6 | とあれば、ほほ |
とあるので、にっこりとして、 |
夕霧は微笑しながら |
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4.2.7 | 「以前にも、このような想像をしておっしゃる、見当違いな、故人などを持ち出して」 |
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4.2.8 | とお思いになる。 ますます、何気ないふうに、 |
御息所を対象にしていたろうとはあまりにも不似合いな |
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4.2.9 | 「特に何がといって悲しんでいるのではありません 消えてしまう露も草葉の上だけでないこの世ですから |
露も草葉の上と見ぬ世に |
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4.2.10 | 世間一般の無常が悲しいのです」 |
人生のことがことごとく悲しい。 |
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4.2.11 | とお書きになっていた。 「やはり、このように隔て心を持っていらっしゃること」と、露の世の悲しさは二の次のこととして、並々ならず胸を痛めていらっしゃる。 |
まだこんなふうに隠しだてをされるのであるかと、人生の悲しみはさしおいて夫人は |
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4.2.12 | やはり、このように気がかりでたまらなくなって、改めてお越しになった。 「御忌中などが明けてからゆっくり訪ねよう」と、気持ちを抑えていらっしゃったが、そこまでは我慢がおできになれず、 |
恋しさのおさえられない大将はまたも |
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4.2.13 | 「今はもうこのおん浮名を、どうして無理に隠していようか。 ただ世間一般の男性と同様に、目的を遂げるまでのことだ」 |
もう |
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4.2.14 | と、ご計画なさったので、北の方のご想像を、無理に打ち消そうとなさらない。 |
とこんな気になっているのであるから、夫人の |
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4.2.15 | ご本人はきっぱりとお気持ちがなくても、あの「一夜ばかりの宿を」といった恨みのお手紙を理由に訴えて、「潔白を言い張ることは、おできになれまい」と、心強くお思いになるのであった。 |
宮のお心はまだ自分へ傾くことはなくても、「一夜ばかりの」といって長い契りを望んだ |
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第三段 九月十日過ぎ、小野山荘を訪問 |
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4.3.1 | 九月十余日、野山の様子は、十分に分からない人でさえ、何とも思わずにはいられない。 山風に堪えきれない木々の梢も、峰の葛の葉も、気ぜわしく先を争って散り乱れているところに、尊い読経の声がかすかに、念仏などの声ばかりして、人の気配がほとんどせず、木枯らしが吹き払ったところに、鹿は籬のすぐそばにたたずんでは、山田の引板にも驚かず、色の濃くなった稲の中に入って鳴いているのも、もの悲しそうである。 |
九月の十幾日であって、野山の色はあさはかな人間をさえもしみじみと悲しませているころであった。山おろしに木の葉も峰の |
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4.3.2 | 滝の音は、ますます物思いをする人をはっとさせるように、耳にうるさく響く。 叢の虫だけが、頼りなさそうに鳴き弱って、枯れた草の下から、龍胆が、自分だけ茎を長く延ばして、露に濡れて見えるなど、みないつもの時節のことであるが、折柄か場所柄か、実に我慢できないほどの、もの悲しさである。 |
滝の水は物思いをする人に |
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4.3.3 | なつかしきほどの |
いつもの妻戸のもとに立ち寄りなさって、そのまま物思いに耽りながら立っていらっしゃった。 やさしい感じの直衣に、紅の濃い下襲の艶が、とても美しく透けて見えて、光の弱くなった夕日が、それでも遠慮なく差し込んできたので、眩しそうに、さりげなく扇をかざしていらっしゃる手つきは、「女こそこうありたいものだが、それでさえできないものを」と、拝見している。 |
夕霧は例の西の妻戸の前で中へものを言い入れたのであるが、そのまま立って物思わしそうにあたりをながめていた。柔らかな気のする程度に着 |
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4.3.4 | 物思いの時の慰めにしたいほどの、笑顔の美しさで、小少将の君を、特別にお呼びよせになる。 簀子はさほどの広さもないが、奥に人が一緒にいるだろうかと不安で、打ち解けたお話はおできになれない。 |
寂しい人たちにとってはよい慰安になるであろうと思われる美しい様子で、特に名ざして少将を呼び出した。狭い縁側ではあるが、他の女がまたその後ろに聞いているかもしれぬ不安があるために、声高には話しえない大将であった。 |
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4.3.5 | 「もっと近くに。 放っておかないでください。 このように山の奥にやって来た気持ちは、他人行儀でよいものでしょうか。 霧もとても深いのですよ」 |
「もう少し近くへ寄ってください。好意を持ってくれませんか、この遠方へまで御訪問して来る私の誠意を認めてくだすったら、最も親密なお取り扱いがあってしかるべきだと思いますよ。霧がとても深くおりてきますよ」 |
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4.3.6 | とて、わざとも |
と言って、特に見るでもないふりをして、山の方を眺めて、「もっと近く、もっと近く」としきりにおっしゃるので、鈍色の几帳を、簾の端から少し外に押し出して、裾を引き繕って横向きに座わっている。 大和守の妹なので、お近い血縁の上に、幼い時からお育てになったので、着物の色がとても濃い鈍色で、橡の喪服一襲に、小袿を着ていた。 |
と言って、ちょっと山のほうをながめてから大将がぜひもっと近くへ来てくれと言うので、余儀なく |
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4.3.7 | 「このようにいくら悲しんでもきりのない方のことは、それはそれとして、申し上げようもないお気持ちの冷たさをそれに加えて思うと、魂も抜け出てしまって、会う人ごとに怪しまれますので、今はまったく抑えることができません」 |
御息所のお |
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4.3.8 | と、いと かの |
と、とても多く恨み続けなさる。 あの最期の折のお手紙の様子もお口にされて、ひどくお泣きになる。 |
これを初めにして、夕霧はいろいろと恋の苦しみを訴えた。御息所の最後の手紙に書かれてあったことも言って非常に泣く。 |
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第四段 板ばさみの小少将君 |
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4.4.1 | この人も、それ以上にひどく泣き入りながら、 |
少将もまして非常に泣く。 |
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4.4.2 | 「その夜のお返事さえ拝見せずじまいでしたが、もう最期という時のお心に、そのままお思いつめなさって、暗くなってしまいましたころの空模様に、ご気分が悪くなってしまいましたが、そのような弱目に、例の物の怪が取りつき申したのだ、と拝見しました。 |
「その時のことでございますがね、あなた様がおいでにならぬばかりか、御自身のお返事もおもらいになれないままで暗くなってまいりますのに悲観をあそばしましてとうとう意識をお失いになりましたのに |
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4.4.3 | この |
以前の御事でも、ほとんど人心地をお失いになったような時々が多くございましたが、宮が同じように沈んでいらっしゃったのを、お慰め申そうとのお気を強くお持ちになって、だんだんとお気をしっかりなさいました。 このお嘆きを、宮におかれては、まるで正体のないようなご様子で、ぼんやりとしていらっしゃるのでした」 |
以前の御不幸のございました時にも、もうそんなふうにおなりになるのでないかと私どもがお案じいたしましたようなことがおりおりございましたが、宮様がお悲しみになってめいっておいであそばすのをおなだめになりたいとお思いになるお心の強さから、御健康をお持ち直しになったのでございます。あなた様についての御息所のこのお悲しみ方を宮様はただ |
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4.4.4 | など、とめがたげにうち |
などと、涙を止めがたそうに悲しみながら、はきはきとせず申し上げる。 |
あきらめられぬようにこんなことを少将は言っていて、まだ頭はかなり混乱しているふうであった。 |
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4.4.5 | 「そよや。 そもあまりにおぼめかしう、いふかひなき |
「そうですね。 それもあまりに頼りなく、情けないお心です。 今は、恐れ多いことですが、誰を頼りにお思い申し上げなさるのでしょう。 御山暮らしの父院も、たいそう深い山の中で、世の中を思い捨てなさった雲の中のようなので、お手紙のやりとりをなさるにも難しい。 |
「そうではあっても、宮様はもう常態にお復しになってしかるべきだと思う。私に対してあまりな知らず顔をお作りになるのは、思いやりのないことではありませんか。もったいないことですが、孤独におなりになった宮様にだれがお力になるとお思いになるのだろう。法皇様はいっさい |
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4.4.6 | ほんとうにこのような冷たいお心を、あなたからよく申し上げてください。 万事が、前世からの定めなのです。 この世に生きていたくないとお思いになっても、そうはいかない世の中です。 第一、このような死別がお心のままになるなら、この死別もあるはずがありません」 |
あなたがたが熱心になって宮様の私に対する御冷酷さをお改めになるようによくお話し申し上げてください。皆宿命があって、一生孤独でいようとあそばしても、そうなって行かないということもお話し申すといい。人生が望みどおりに皆なるものであれば、この悲しい死別はなされなくてもよかったわけではありませんか」 |
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4.4.7 | などと、いろいろと多くおっしゃるが、お返事申し上げる言葉もなくて、ただ溜息をつきながら座っていた。 鹿がとても悲しそうに鳴くのを、「自分も鹿に劣ろうか」と思って、 |
などと夕霧は多く言うのであるが、少将は返事もできずに |
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4.4.8 | 「人里が遠いので小野の篠原を踏み分けて来たが わたしも鹿のように声も惜しまず泣いています」 |
里遠み小野の われもしかこそ声も惜しまね |
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4.4.9 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
と大将が言うと、 |
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4.4.10 | 「喪服も涙でしめっぽい秋の山里人は 鹿の鳴く音に声を添えて泣いています」 |
ふぢ衣露けき秋の山人は 鹿のなく |
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4.4.11 | 上手な歌ではないが、時が時とて、ひっそりとした声の調子などを、けっこうにお聞きになった。 |
将のこの返歌はよろしくもないが、低く忍んで言う |
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4.4.12 | ご挨拶をあれこれ申し上げなさるが、 |
宮へいろいろとお取り次ぎもさせたが、 |
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4.4.13 | 「今は、このように思いがけない夢のような世の中を、少しでも落ち着きを取り戻す時がございましたら、たびたびのお見舞いにもお礼申し上げましょう」 |
「この悲しみの中から自分を取りもどす日がございましたら、始終お心にかけてお尋ねくださいますお礼も申し上げられるかと思います」 |
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4.4.14 | とだけ、素っ気なく言わせなさる。 「ひどく何とも言いようのないお心だ」と、嘆きながらお帰りになる。 |
と礼儀としてだけのことより宮からはお返辞がない。大将は失望して |
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第五段 夕霧、一条宮邸の側を通って帰宅 |
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4.5.1 | 道すがら、しみじみとした空模様を眺めて、十三日の月がたいそう明るく照り出したので、薄暗い小倉の山も難なく通れそうに思っているうちに、一条の宮邸はその途中であった。 |
途中も車の中から身にしむ秋の終わりがたの空をながめていると、十三日の月が出て暗い気持ちなどにはふさわしくないはなやかな光を地上に投げかけた。それにも誘われて一条の宮の前で車をしばらくとどめさせた。 |
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4.5.2 | 以前にもまして荒れて、南西の方角の築地の崩れている所から覗き込むと、ずっと一面に格子を下ろして、人影も見えない。 月だけが遣水の表面をはっきりと照らしているので、大納言が、ここで管弦の遊びなどをなさった時々のことを、お思い出しになる。 |
以前よりもまた荒れた気のするお |
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4.5.3 | 「あの人がもう住んでいないこの邸の池の水に 独り宿守りしている秋の夜の月よ」 |
見し人の影すみはてぬ池水に ひとり宿 |
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4.5.4 | と独言を言いながら、お邸にお帰りになっても、月を見ながら、心はここにない思いでいらっしゃった。 |
こう口ずさみながら家へ帰って来た大将は、そのまま縁に近い座敷で月にながめ入りながら恋人の冷たさばかりを歎いていた。 |
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4.5.5 | 「何ともみっもない。 今までになかったお振る舞いですこと」 |
「あんなふうにしていらっしゃることは以前になかったことですね。およしになればいいのに」 |
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4.5.6 | と、おもだった女房たちも憎らしがっていた。 北の方は、真実嫌な気がして、 |
と言って女房らは |
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4.5.7 | 「あくがれたちぬる もとよりさる |
「魂が抜け出たお方のようだ。 もともと何人もの夫人たちがいっしょに住んでいらっしゃる六条院の方々を、ともすれば素晴らしい例として引き出し引き出しては、性根の悪い無愛想な女だと思っていらっしゃる、やりきれないわ。 わたしも昔からそのように住むことに馴れていたならば、人目にも無難に、かえってうまくいったでしょうが。 世の男性の模範にしてもよいご性質と、親兄弟をはじめ申して、けっこうなあやかりたい者となさっていたのに、このままいったら、あげくの果ては恥をかくことがあるだろう」 |
これは心がほかへ飛んで行っているという状態なのであろう、そうしたことに |
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4.5.8 | など、いといたう |
などと、とてもひどく嘆いていらっしゃった。 |
と歎いているのである。 |
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4.5.9 | いと いとこまやかに |
夜明け方近く、お互いに口に出すこともなくて、背き合いながら夜を明かして、朝霧の晴れる間も待たず、いつものように、手紙を急いでお書きになる。 とても気にくわないとお思いになるが、以前のようには奪い取りなさらない。 たいそう情愛をこめて書いて、ちょっと下に置いて歌を口ずさみなさる。 声をひそめていらっしゃったが、漏れて聞きつけられる。 |
夜も明けがた近くなるのであるが、夫婦はどちらも離れた気持ちで身をそむけたまま何を言おうともしなかった。起きるとまたすぐに、朝霧の晴れ間も待たれぬようにして大将は山荘への手紙に筆を取っていた。不愉快に思いながらも夫人はもういつかのように奪おうとはしなかった。書いてしばらくそれをながめながら読んで見ているのが、低い声ではあったが、一部だけは夫人の耳にもはいって来た。 |
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4.5.10 | 「いつになったらお訪ねしたらよいのでしょうか 明けない夜の夢が覚めたらとおっしゃったことは |
いつとかは驚かすべきあけぬ夜の 夢さめてとか言ひし一言 |
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4.5.11 | お返事がありません」 |
「上よりおつる」(いかにしていかによからん小野山の上よりおつる音無しの滝) |
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4.5.12 | とでもお書きになったのであろうか、手紙を包んで、その後も、「どうしたらよかろう」などと口ずさんでいらっしゃった。 人を召してお渡しになった。 「せめてお返事だけでも見たいものだわ。 やはり、本当はどうなのかしら」と、様子を窺いたくお思いになっている。 |
と書かれたものらしい。巻いて上包みをしたあとでも「いかによからん」などと夕霧は口にしていた。侍を呼んで手紙の使いはすぐに小野へ出された。内容の全部はよくわからなかったが、返事だけは手に入れて読みたいものである、それによって真相が明らかになるであろうと夫人は思っていた。 |
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第六段 落葉宮の返歌が届く |
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4.6.1 | 日が高くなってから返事を持って参った。 紫の濃い紙が素っ気ない感じで、小少将の君が、いつものようにお返事申し上げた。 いつもと同じで、何の甲斐もないことを書いて、 |
朝おそくなってから小野の返事が来た。濃い紫色の、堅苦しい紙へ例の少将が書いたものであった。今日もまた自分たちの力で宮をお動かしすることのできなかったことが書かれてあって、 |
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4.6.2 | 「お気の毒なので、あの頂戴したお手紙に、手習いをしていらしたのをこっそり盗みました」 |
お気の毒に存じますものですから、あなた様のお手紙へむだ書きをあそばしたのを盗んでまいりました。 |
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4.6.3 | とあって、中に破いて入っていたが、「御覧になったのだ」と、お思いになるだけで嬉しいとは、とても体裁の悪い話である。 とりとめもなくお書きになっているのを、見続けていらっしゃると、 |
と書いて、中へその所だけを破ったのが入れてあった。読んでだけはもらえたのであるということでうれしくなる大将の心もみじめなものである。むだ書きふうにお書きになったお歌は、骨を折って読んでみると、 |
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4.6.4 | 「朝な夕なに声を立てて泣いている小野山では ひっきりなしに流れる涙は音無の滝になるのだろうか」 |
朝夕に泣く たえぬ涙や音無しの滝 |
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4.6.5 | とか、読むのであろうか、古歌などを、悩ましそうに書き乱れていらっしゃる、ご筆跡なども見所がある。 |
と解すべきものらしい。また寂しいお心に合いそうな古歌などの書かれてある宮のお字は美しかった。 |
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4.6.6 | 「他人の事などで、このような浮気沙汰に心焦がれているのは、はがゆくもあり、正気の沙汰でもないように見たり聞いたりしていたが、自分の事となると、なるほどまことに我慢できないものであるなあ。 不思議だ。 どうして、こんなにもいらいらするのだろう」 |
他人のことで、こんなことを夢中になるまでの関心をもって楽しんだり、悲しんだりしているのを、歯がゆく病的なことに思っていたが、自分のことになると恋する心は堪えがたいものである、どうしてこうまでになったのか |
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4.6.7 | と |
と反省なさるが、思うにまかせない。 |
と反省をしようとするのであるが、それもできないことであった。 |
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第五章 落葉宮の物語 夕霧執拗に迫る |
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第一段 源氏や紫の上らの心配 |
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5.1.1 | 六条院にもお聞きあそばして、とても落ち着いていて何につけ冷静で、人の非難もなく、無難に過ごしていらっしゃるのを、誇りに思い、自分の若いころ、少し風流すぎて、好色家だという評判をおとりになった名誉回復に、嬉しくお思い続けていらしたが、 |
六条院も大将の恋愛問題をお聞きになって、この人がなんらの浮いたこともせず、批難のしようもない堅実な人物であることに満足しておいでになって、御自身の青春時代に好色な評判を多少お取りになった不面目をこの人がつぐなってくれるもののように思っておいでになったことが裏切られていくような寂しさをお感じになった。 |
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5.1.2 | 「かわいそうに、どちらにとってもお気の毒なことがきっとあるだろうことよ。 赤の他人の間でさえなく、大臣なども、どのようにお思いになろうか。 それくらいのこと、分からないではないだろう。 宿世というものからは、逃れられないのだ。 とやかく口を出すべきことではない」 |
この事件の気の毒な影響から双方で犠牲を払う結果になるのであろう、全然関係のないところの女性ではなくて、妻の兄の未亡人の宮との問題であるから、 |
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5.1.3 | とお思いになる。 女の身にとっては、どちらに対してもお気の毒だと、困った事にお聞きあそばしてお心をお痛めになる。 |
と院はお考えになった。結局双方とも婦人の損になることで気の毒であると歎いておいでになるのであった。 |
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5.1.4 | 紫の上に対しても、今までのことや将来のことをお考えになりながら、このような噂を聞くにつけても、亡くなった後、不安にお思い申し上げる様子をおっしゃると、お顔をぽっと赤らめて、「情けないこと。そんなに長く後にお残しなさるおつもりか」とお思いになっていた。 |
御自身の経験されたことに照らして見、また大将のこの現状によって、 |
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5.1.5 | 「 もののあはれ、 |
「女ほど、身の処し方も窮屈で、痛ましいものはない。 ものの情趣も、折にふれた興趣深いことも、見知らないふうに身を引いて黙ってなどいては、いったい何によって、この世に生きている晴れがましさを味わい、無常なこの世の所在なさをも慰めることができよう。 |
女ほど窮屈なものはありませんね。心の |
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5.1.6 | だいたい、ものの道理も弁えないで、つまらない者のようになってしまったのでは、育てた親も、とても残念に思うはずではないか。 |
そうかといって感情に乏しい女になっては無価値だし、どうしてこんなふうに育ったのかと親さえも |
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5.1.7 | 心の中にばかり思いをこめて、無言太子とか言って、小法師たちが辛い修行の例とする昔の喩えのように、悪い事良い事を弁えながら、口に出さずにいるのは、つまらない。 自分ながらも、ほど好い身の処し方をするには、どのようにしたらよいものか」 |
ただ心でだけ思って、お坊様が気の毒がる無言太子のようになって、細かな感情も動きながら黙っていなければならない人にするのも無慈悲な親になる。こうであればああであり、それであればこうになる、どうして中庸を得るようにすればいいかと、そんなことを私が考えるのも、他の女性のためではなく |
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5.1.8 | とご思案なさるのも、今はただ女一の宮の御身のためを思ってのことである。 |
と院は言っておいでになった。 |
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第二段 夕霧、源氏に対面 |
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5.2.1 | 大将の君が、参上なさった機会があって、悩んでいらっしゃる様子も知りたいので、 |
夕霧が六条院へ来た時に、実状を知りたく |
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5.2.2 | 「 あはれに、あぢきなしや。 いかでかこの いと |
「御息所の忌中は明けたのだろうね。 昨日今日と思っているうちに、三年以上の昔になる世の中なのだ。 ああ、悲しく味気ないものだ。 夕方の露がかかっている間の寿命を貪っているとは。 何とかこの髪を剃って、何もかも捨て去ろうと思うが、なんといつまでものんびりと過ごしていることか。 まことに悪いことだ」 |
「 |
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5.2.3 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
こんな話をおしかけになった。 |
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5.2.4 | 「まことに はかばかしきよすがなき |
「ほんとうに、惜しくない人でさえ、めいめい離れがたく思っている人の世でございましょう」などと申し上げて、「御息所の四十九日の法事など、大和守某朝臣が、独りでお世話致しますのは、とてもお気の毒なことです。 しっかりした縁者がいない方は、生きている間だけのことで、このような死後は、悲しゅうございます」 |
「不幸ばかりで、もうこの世に未練はなかろうと思われます人でも、さて遁世はなかなかできないものらしいのでございますから、あなた様などは御無理もございません」などと言って、また大将は、「御息所の四十九日の仏事のことなども |
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5.2.5 | と、 |
と、お申し上げになる。 |
とも言った。 |
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5.2.6 | 「 かの はやう おほかたの さてもありぬべき |
「朱雀院からも御弔問があるだろう。 あの内親王、どんなにお嘆きでいらっしゃるだろう。 昔聞いていた時よりは、つい最近、何かにつけ聞いたり見たりするに、この更衣は、しっかりした無難な人の中に入っていた。 世間一般のことにつけて、惜しいことをしたものだ。 生きていてもよいと思う方が、このように亡くなってゆくことよ。 |
「御息所の仏事は院からもお世話をあそばすだろうよ。 |
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5.2.7 | かの |
朱雀院も、ひどく驚きお悲しみになっていた。 あの内親王は、ここにいらっしゃる入道の宮の次には、かわいがっていらっしゃった。 人柄も良くいらっしゃるのだろう」 |
院の後宮の才女には違いなかった。そんな人の |
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5.2.8 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
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5.2.9 | 「お気立てはどのようでいらっしゃいましょう。 御息所は、申し分のない人柄や、気立てでいらっしゃいました。 親しく気をお許して接したわけではありませんでしたが、ちょっとした事の機会に、自然と人の心配りというものがよく分かるものでございます」 |
「さあ宮様はどんな方でございますか。御息所は無難な女性と見受けました。そう親密につきあっていたのではございませんが、しかし、何でもない時に人格の片影は見えるものでございますからね」 |
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5.2.10 | とお申し上げになって、宮の御事は口にかけず、まったく素知らぬふりをしている。 |
などと言って、女二の宮のことを話題にせず大将は素知らぬふうを見せているのである。 |
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5.2.11 | 「これほどの一本気の性格の者が思い染めたことは、忠告しても聞き入れないだろう。 聞き入れもしないだろうことを分かっていながら、自分が分別くさく口を出してもしようがない」 |
これほど強い心でしている恋は、親の言葉くらいで思いとどまらせえられるものでない、用いない忠告を賢げに言うのもおもしろいことではないとお思いになって、 |
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5.2.12 | と |
とお思いになっておやめになった。 |
院は何の勧告をもあそばさなかった。 |
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第三段 父朱雀院、出家希望を諌める |
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5.3.1 | こうしてご法事に、万端を取り仕切っておさせなさる。 その評判は、自然に知れることなので、大殿などにおかれてもお聞きになって、「そんなことがあって良いことか」などと、妻方が思慮が浅いようにお考えになるのは、困ったことである。 あの故人とのご縁もあるので、ご子息たちも、ご法要に参集なさる。 |
大将は御息所の法事をするのにあらゆる尽力をしていた。こんなことはすぐに評判になるもので、太政大臣家へも聞こえていった。不都合な話であると女性の側の悪いようにそこでは言われておいでになる宮がお気の毒である。法事の当日は昔の縁故で大臣家の子息たちも参会した。 |
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5.3.2 | これかれも、さまざま |
読経など、大殿からも盛大におさせになる。 誰も彼も、いろいろ負けず劣らずなさったので、時めく人のこのような法事に負けないほどであった。 |
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5.3.3 | 宮は、このまま小野で一生を送ろうとご決心なさったことがあったが、朱雀院に、誰かがそっとお告げ申し上げたので、 |
宮はこのまま小野の山荘で |
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5.3.4 | 「いとあるまじきことなり。 げに、あまた、とざまかうざまに |
「それはとんでもないことです。 なるほど、何人とも、あれこれと身の関わりをお持ちになることは良いことではないが、後見のない人は、なまじ尼姿になってから、けしからぬ噂がたち、罪を得るような時、現世も来世も、どっちつかずの非難されるというものです。 |
「そんなことはよろしくない。皆がいろいろな変わった境遇にいることも望ましいことではないが、保護者のない者が尼になったために、かえって浮いた名を立てられることがあったり、俗でいる以上に煩悩を作らなければならないことができたりしては、この世の幸福も未来の幸福も共に無にしてしまうことになる。 |
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5.3.5 | 自分がこのように世を捨てているのに、三の宮が同じように出家なさったのを、何ともなす手がないように人が思ったり言ったりするのも、世を捨てた身には、思い悩むべきことではないが、必ずそんなにも、同じように競って出家なさるのも、感心しないことでしょう。 |
自分が僧になっている上に、三の宮が出家をしている。今また二の宮が同じことをしては、子孫の絶えていく一家と見られるのも、世の中を捨てた自分にとってはかまわないことであるが、必ずしもまた今競って出家は実現するに及ばないことだということは自分にもできる。 |
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5.3.6 | 世の辛さに負けて世を厭うのは、かえって体裁の悪いことです。 自分でしっかり考えて、もう少し冷静になって、心を澄ましてから、どうなりとも」 |
不幸な時にこの世を捨てることをするのは見苦しいものである。自然に悟りができてくる時節を待って、冷静に判断をしてしなければならぬことです」 |
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5.3.7 | とたびたび この 「さやうのことの さりとて、また、「 |
と度々申し上げなさった。 この浮いたお噂をお耳にあそばしたのであろう。 「噂のようなことが思うとおりに行かないので世をお厭いになった」と言われなさることを御心配なさったのであった。 そうかといって、また、「公然と再婚なさるのも軽薄で、感心しないこと」と、お思いになりながら、恥ずかしいとお思いになるのもお気の毒なので、「どうして、自分までが噂を聞いて口出ししたりしようか」とお思いになって、このことは、全然一言もお出し申し上げなさらないのだった。 |
こんな意味のことをたびたび御忠告になった。大将との恋愛事件がお耳にはいっていたのである。大将の愛が十分でないために悲観して尼になったと宮がお言われになることを院はおあやぶみになるのであった。そうとはお思いになっても公然大将の夫人になっておしまいになることを姫宮の完全な幸福とお認めになることもおできにならないのであるが、その問題に触れていっては宮が |
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第四段 夕霧、宮の帰邸を差配 |
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5.4.1 | 大将も、 |
大将も |
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5.4.2 | 「とかく かの いかがはせむ。 さらがへりて、 |
「あれこれと言ってみたが、今は無駄なことだ。 宮のお心ではお聞き入れなさることは、難しいことのようだ。 御息所が承知済みであったと、世間の人には知らせよう。 どうしようもない。 亡くなった方に少し思慮が浅かったと罪を思わせて、いつからそうなったということもなく、分からなくさせてしまおう。 年がいもなく若返って、懸想をし、涙を流し尽くして口説いたりするのも、いかにも身にふさわしからぬことだろう」 |
立てられる |
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5.4.3 | と |
と決心なさって、一条邸にお帰りになる予定の日を、何日ほどにと決めて、大和守を呼んで、しかるべき諸式をお命じになり、邸内を掃除し整え、何といっても、女世帯では、草深く住んでいらっしゃったので、磨いたように整備し直して、お気づかいぶりなどは、しかるべきやり方も立派に、壁代、御屏風、御几帳、御座所などまでお気を配りなさり、大和守にお命じになって、あちらの家で急いで準備させなさる。 |
と思って、山荘を引き上げて一条の |
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5.4.4 | その日、自分でいらっしゃって、お車や、御前駆などを差し向けなさる。 宮は、どうしても帰るまいとお思いになりおっしゃるのを、女房たちが熱心に説得申し上げ、大和守も、 |
当日は夕霧自身が一条に来ていて、車や前駆の役を勤める人たちを山荘へ迎えに出した。宮はどうしても帰らぬと言っておいでになるのを、女房たちは百方おなだめしていたし、大和守も意見を申し上げた。 |
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5.4.5 | 「まったくご承知するわけには行きません。 心細く悲しいご様子を拝見し心を痛め、これまでのお世話は、できるだけのことはさせていただきました。 |
「その仰せは承ることができません。お一人きりのお心細い御境遇が悲しく存ぜられまして、御葬送以来ただ今までは、私としてお尽くしいたしうるだけのことはいたしてまいりました。 |
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5.4.6 | いとたいだいしう、いかにと |
今は、任国の公務もございますし、下向しなければなりません。 お邸内のことも任せられる人もございません。 まことに不行届なことで、どうしたものかと心配いたしておりますが、このように万事お世話なさいますのを、なるほど、ご結婚ということを考えてみますと、必ずしも今すぐに移転するのが良いというのではないお身の上ですが、そのように、昔もお心のままにならなかった例は、多くございます。 |
しかし私は地方長官でございますから、お預かりしております国の用がうちやってはおけませんので、近くまた大和へまいらねばならないのでございます。あなた様のただ今からのお世話をだれに頼んでまいってよいという人もございませんから、どうすればよいかと思っております場合に左大将が力を入れてくださるのでございますから、あなた様御一身について考えますれば、御再婚をあそばすことをこれが最上のこととは申されませんのでございますが、しかし昔の内親王様がたにもそうした例は幾つもあったことで、御自分の御意志でもなく、運命に従って皆そうおなりになったのでございますから、 |
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5.4.7 | いと たけう なほ、 |
あなたお一方だけが、世間の非難をお受けになることでしょうか。 とても幼稚なお考えです。 いくら強がっても、女一人のご分別で、ご自分の身の振りをきちんとなさり、お気をつけなさることがどうしてできましょうか。 やはり、男性から大事にお世話なされるのに助けられて、初めて深いお考えによる立派なご方針も、それに依存するものなのです。 |
何もあなた様お一方が世間から批難されるはずもないのでございます。これほどのお方のお志をお退けになりますのは、あまりにも御幼稚なことと申すほかはございません。女性の方でも独立して行けぬことはないと思召すでしょうが、実際問題になりますと、御自身をお |
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5.4.8 | あなた方がよくお教え申し上げなさらないのです。 一方では、けしからぬことをも、ご自分たちの判断でかってにお取り計らい申し上げなさって」 |
「あなたたちが宮様へよく御 |
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5.4.9 | と、言い続けて、左近の君や、小少将の君を責める。 |
と少将や左近を責めた。 |
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第五段 落葉宮、自邸へ向かう |
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5.5.1 | 寄ってたかって説得申し上げるので、とても困りきって、色鮮やかなお召し物を、女房たちがお召し替え申し上げるにも、夢心地で、やはり、とても一途に削き落としたく思われなさる御髪を、掻き出して御覧になると、六尺ほどあって、少し細くなったが、女房たちは不完全だとは拝見せず、ご自身のお気持ちでは、 |
女房が皆集まって来て口々にお促しするのに御反抗がおできにならないで、きれいな色のお召し物などをお着せかえ申したりするままに宮はなっておいでになるのであるが、切り捨ててしまいたく思召すお |
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5.5.2 | 「ひどく衰えたこと。 とても男の人にお見せできなる有様ではない。 いろいろと情けない身の上であるものを」 |
御自身では非常に衰えてしまった、もう結婚などのできる自分ではない、いろいろな不幸にむしばまれた自分なのだから |
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5.5.3 | と |
とお思い続けなさって、また臥せっておしまいになった。 |
とお思い続けになって、お召しかえになった姿をまたそのまま横たえておしまいになった。 |
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5.5.4 | 「時刻に遅れます。 夜も更けてしまいます」 |
「時間が違ってしまう。夜がふけてしまうだろう」 |
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5.5.5 | と、皆が騷ぐ。 時雨がとても心急かせるように風に吹き乱れて、何事にもつけ悲しいので、 |
などと言って、お供をする人たちは騒いでいた。 |
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5.5.6 | 「母君が上っていった峰の煙と一緒になって 思ってもいない方角にはなびかずにいたいものだわ」 |
上りにし峰の煙に立ちまじり 思はぬ方になびかずもがな |
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5.5.7 | ご自分では気強く思っていらっしゃるが、そのころは、お鋏などのような物は、みな取り隠して、女房たちが目をお離し申さずいたので、 |
とお口ずさみになったとおりに宮は思召すのであるが、そのころは |
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5.5.8 | 「このように騒がないでいても、どうして惜しい身の上で、愚かしく、子供っぽくもこっそり髪を下ろしたりしようか。 人聞きも悪いとお思いなさることを」 |
そんなふうにお騒ぎをせずとも、惜しく尊重すべき自分でもないものを、しいて尼になってみずからを清くしようとも思わず、すればかえって人の反感を買うにすぎないことも知っているのであるから、 |
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5.5.9 | と |
とお思いになると、ご希望通り出家もなさらない。 |
と思召して宮は御本意を遂げようともあそばさないのである。 |
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5.5.10 | 女房たちは、全員急ぎ出して、それぞれ、櫛や、手箱や、唐櫃や、いろいろな道具類を、つまらない袋入れのような物であるが、全部前もって運んでしまっていたので、独り居残っているわけにもゆかず、泣く泣くお車にお乗りになるのも、隣の空席ばかりに自然と目が行きなさって、こちらにお移りになった時、ご気分が優れなかったにも関わらず、御髪をかき撫でて繕って、降ろしてくださったことをお思い出しになると、目も涙にむせんでたまらない。 御佩刀といっしょに経箱を持っているが、いつもお側にあるので、 |
女房は皆移転の用意に急いで、お |
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5.5.11 | 「恋しさを慰められない形見の品として 涙に曇る玉の箱ですこと」 |
恋しさの慰めがたき形見にて 涙に曇る玉の箱かな |
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5.5.12 | 黒造りのもまだお調えにならず、あの日頃親しくお使いになっていた螺鈿の箱なのであった。 お布施の料としてお作らせになったのだが、形見として残して置かれたのであった。 浦島の子の気がなさる。 |
とお歌いあそばされた。黒塗りのをまだお作らせになる間がなくて、御息所が始終使っていた |
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第六段 夕霧、主人顔して待ち構える |
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5.6.1 | ご到着なさると、邸内は悲しそうな様子もなく、人の気配が多くて、様子が違っている。 お車を寄せてお降りになるに、全然、以前に住んでいた所とは思われず、よそよそしく嫌な気がなさるので、すぐにはお降りにならない。 とてもおかしな子供っぽいお振る舞いですわと、女房たちも拝見し困っている。 殿は、東の対の南面を、自分のお部屋として、仮に設けて、主人気取りでいらっしゃる。 三条殿では、女房たちが、 |
一条へお着きになると、ここは悲しい色などはどこにもなく、人が多く来ていて他家のようになっていた。車を寄せてお |
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5.6.2 | 「突然あきれたことにおなりになったこと。 いつからのことだったのかしら」 |
「急に別なお |
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5.6.3 | と、 なよらかにをかしばめることを、 されど、 とてもかうても、 |
とあきれるのだった。 色めいた風流事を、お好きでなくお思いになる方は、このように突然な事がおありになるのだった。 けれども、何年も前からあった事を、噂にもならず素振り知られずにお過ごしになって来られたのだ、とばかりに思い込んで、このように、女のお気持ちは不承知であると、気づく人もいない。 いずれにしても宮の御ためにはお気の毒なことである。 |
と言って驚いていた。多情な恋愛生活などをしなかった人は、こうした思いがけぬことを実行してしまうものである。しかしだれも以前からあった関係をはじめて公表したことと解釈していて、まだ宮のお心は結婚に向いていぬことなどを想像する人もない。いずれにもせよ宮の御ために至極お気の毒なことばかりである。 |
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5.6.4 | お調度類なども普段と変わって、新婚としては縁起が悪いが、お食事を差し上げたりした後、皆が寝静まったころにお渡りになって、少将の君をひどくお責めになる。 |
御結婚の最初の日の儀式が精進物のお料理であることは縁起のよろしくなく見えることであったが、お食事などのことが終わって、一段落のついた時に、夕霧はこちらへ来て宮の御寝室への案内を、少将にしいた。 |
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5.6.5 | 「 なかなか、 こしらへきこゆるをも、つらしとのみ いとわづらはしう、 |
「ご愛情が本当に末長くとお思いでしたら、今日明日を過ぎてから申し上げて下さいませ。 お帰りになって、かえって、悲しみに沈み込んで、亡くなった方のようにお臥せりになってしまわれました。 おとりなし申し上げても、辛いとばかりお思いでいらっしゃるので、何事もわが身あってでございますもの。 まことに困って、申し上げにくうございます」 |
「いつまでもお変わりにならぬ長いお志でございますなら、今日明日だけをお待ちくださいませ。もとのお |
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5.6.6 | と |
と言う。 |
と少将は言う。 |
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5.6.7 | 「まことに妙なことです。 ご推量申し上げていたのとは違って、子供っぽく理解しがたいお考えでありますね」 |
「変なことではないか、 |
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5.6.8 | とおっしゃって、考えていらっしゃる処遇は、宮の御ためにも、自分のためにも、世間の非難のないようにおっしゃり続けるので、 |
夕霧が自分の考えを言って、宮のためにも、自分のためにも世間の批議を許さぬ用意の十分あることを説くと、 |
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5.6.9 | 「いえもう、ただ今は、またもお亡くし申し上げてしまうのではないかと、気が気ではなく取り乱しておりますので、万事判断がつきません。 お願いでございます、あれこれと無理押しなさって、乱暴なことはなさいませぬように」 |
「それはそうでございましょうが、ただ今ではお命がこのお悲しみでどうかおなりになるのでないかということだけを私どもは心配いたしておりまして、そのほかのことは何も考えられないのでございます。殿様、お願いでございますから、しいて御無理なことはあそばさないでくださいませ」 |
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5.6.10 | と |
と手を擦って頼む。 |
と少将は手をすり合わせて頼んだ。 |
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5.6.11 | 「これはまだ経験のないことだ。 憎らしく嫌な者だと、人より格段に軽蔑される身の上が情けない。 是非とも誰かにでも判断してもらいたい」 |
「聞いたことも見たこともないお取り扱いだ。過去の一人の男ほどにも愛していただけない自分が哀れになる。世間へも何の面目があると思う」 |
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5.6.12 | と、いはむかたもなしと |
と、言いようもないとお思いになっておっしゃるので、やはりお気の毒でもあり、 |
失望してこう言う夕霧を見てはさすがに同情心も起こった。 |
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5.6.13 | 「まだ知らないとおっしゃるのは、なるほど恋愛経験の少ないお人柄だからでしょうと、道理は、仰せのとおり、どちら様を正しいと申す人がございますでしょうか」 |
「聞いたことも見たこともないと申しますことは、あなた様のあまりにお早まりになった御用意のことでございましょう。道理はどちらにあると世間が申すでございましょうか」 |
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5.6.14 | と、すこしうち |
と、少しほほ笑んだ。 |
と少し少将は笑った。 |
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第七段 落葉宮、塗籠に籠る |
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5.7.1 | このように強情であるが、今となっては、邪魔立てされなさるおつもりもないので、そのままこの人を引き立てて、当て推量にお入りになる。 |
こんなふうに強く抵抗をしてみても、今はよその人でなく主人と召使の関係になっている相手であるから、拒み続けることはさせないで、少将をつれて、おおよその見当をつけた宮の御寝室へはいって行った。 |
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5.7.2 | 「これもいつまでにかは。 かばかりに |
宮は、「まことに嫌でたまらない、思いやりのない浅薄な心の方だった」と、悔しく辛いので、「大人げないようだと言われようとも」とご決意なさって、塗籠にご座所を一つ敷かせなさって、内側から施錠して、お寝みになってしまった。 「これもいつまで続くことであろうか。 これほどに浮き足立っている女房たちの気持ちは、何と悲しく残念なことか」とお思いなさる。 |
宮はあまりに思いやりのない心であると恨めしく思召されて、若々しいしかただと女房たちが言ってもよいという気におなりになって、 |
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5.7.3 | からうして かくてのみ、ことといへば、 |
男君は、心外なひどい仕打ちとお思い申し上げなさるが、このようなことで、どうして逃れることができようかと、気長にお考えになって、いろいろと思案しながら夜をお明かしなさる。 山鳥の気がなさるのであった。 やっとのことで明け方になった。 こうしてばかり、取り立てて言うと、にらみ合いになりそうなので、お出になろうとして、 |
大将は驚くべき冷酷なお心であると恨めしく思ったが、これほどの抵抗を受けたからといって、自分の恋は一歩もあとへ退くものではない、必ず成功を見る時が来るのであるというこんな自信を持ってこの夜を明かすのであって、 |
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5.7.4 | 「ただ、少しの隙間だけでも」 |
「ただ少しだけ戸をおあけください。お話ししたいことがあるのですから」 |
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5.7.5 | と、いみじう |
と、しきりにお頼み申し上げなさるが、まったくお返事がない。 |
としきりに望んだがなんらの反応も見えない。 |
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5.7.6 | 「怨んでも怨みきれません、 胸の思いを晴らすことのできない冬の夜に |
「うらみわび胸あきがたき冬の夜に またさしまさる関の岩かど |
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5.7.7 | 何とも申し上げようのない冷たいお心です」 |
言いようもない冷たいお心です」 |
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5.7.8 | と、 |
と、泣く泣くお出になる。 |
と言って、それから泣く泣く出て行った。 |
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第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮 |
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第一段 夕霧、花散里へ弁明 |
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6.1.1 | 六条院にいらっしゃって、ご休息なさる。 東の上は、 |
大将は六条院へ来て休息をした。 |
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6.1.2 | 「一条の宮をお移し申し上げなさったと、あの大殿あたりなどでお噂申しているのは、どのようなことなのですか」 |
「一条の宮様と御結婚なすったと太政大臣家あたりではお |
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6.1.3 | と、とてもおっとりとお尋ねになる。 御几帳を添えているが、端からちらちらと、それでも顔をお見せ申し上げなさる。 |
とおおように尋ねた。 |
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6.1.4 | 「さやうにも、なほ さしもあるまじきをも、あやしう |
「そのようにも、やはり世間の人は取り沙汰しそうなことでございます。 故御息所は、とても気強く、とんでもないことときっぱりおっしゃいましたが、最期の様子の時に、お気持ちが弱られた折に、わたし以外に後見を依頼できる人のないのが悲しかったのでしょうか、亡くなった後の後見というようなことがございましたので、もともとの心積もりもございましたことなので、このようにお引き受け致すことになりましたが、あれこれと、どのように世間の人は噂するのでございましょう。 そうでないことをも、不思議と世間の人は、口さがないものです」 |
「そんなふうに |
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6.1.5 | と、ほほ笑みながら、 |
と夕霧は笑って、 |
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6.1.6 | 「かの こなたかなたに |
「あのご本人の宮は、もう普通の暮らしはするまいと深く決心なさって、尼になってしまいたいと思い詰めていらっしゃるようなので、どうしてどうして。 あちら方こちら方に聞きずらいことでもございますが、そのように嫌疑を招かぬことになったとしても、また一方で、あの遺言に背くまいと存じまして、ただこのようにお世話申しているのでございます。 |
「ところが御本人はまだ尼になりたいとばかり考えておいでになるのですから、それもそうおさせして、いろいろに続き合った面倒な人たちから悪く言われることもなくしたほうがよいとは思われますが、私としては御息所の遺言を守らねばならぬ責任感があって、ともかくも形だけは私が |
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6.1.7 | ありありて、 |
院がお渡りあそばしたような時に、よい機会がございましたら、このようにわたしの申したとおりに申し上げてください。 この年になって、感心しない浮気心を起こしたと、お思いになりおっしゃりもするだろうと気にいたしておりますが、なるほど、このようなことには、人の意見にも、自分の心にも従えないものだということが分かりました」 |
院がこちらへおいでになりました時にもお話のついでにそのとおりに申し上げておいてください。堅く通して来ながら、今になって人が批難をするような恋を始めるとはけしからんなどとお言いにならないかと遠慮をしていたのですが、実際恋愛だけは人の忠告にも自身の心にも従えないものなのですからね」 |
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6.1.8 | と、 |
と、声を小さくして申し上げなさる。 |
とも忍びやかに言うのだった。 |
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6.1.9 | 「誰かの間違いではないかと思っておりましたが、本当にそのようなご事情があったのですね。 すべて世間によくある事ですが、三条の姫君がご心配なさるのも、お気の毒です。 平穏無事に馴れていらっしゃって」 |
「私は人の作り事かと思って聞いていましたが、そんなことでもあるのですね。世間にはたくさんあることですが、三条の姫君がどう思っていらっしゃるだろうかとおかわいそうですよ。今まであんなに幸福だったのですから」「 |
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6.1.10 | と |
と申し上げなさると、 |
と言って、また、 |
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6.1.11 | 「かわいらしくおっしゃいますね、姫君とはね。 まるで鬼のようでございます性悪な者を」とおっしゃって、「どうして、その人をいい加減に扱っておりましょうか。 恐れ多いですが、こちらのご夫人方のご様子からご推量ください。 |
「決してそのほうもおろそかになどはいたしませんよ。失礼ですがあなた様御自身の御境遇から御推察なすってください。 |
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6.1.12 | なだらかならむのみこそ、 さがなくことがましきも、しばしはなまむつかしう、わづらはしきやうに |
穏やかである事だけが、女性として結局良いことのようでございます。 口やかましく事を荒立てるのも、暫くの間は煩しく、面倒くさいように遠慮することもありますが、それに必ずしも最後まで従うものではないので、浮気沙汰が出てきた後、自分も相手も、憎らしそうに嫌気のさすものです。 |
穏やかにだれへも好意を持って暮らすのが最後の勝利を得る道ではございませんか。 |
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6.1.13 | やはり、南の殿の上のお心遣いこそが、いろいろとまたとないことで、それに次いではこちらのお気立てなどが、素晴らしいものとして、拝見するようになりました」 |
そうしたことで、こちらの南の女王の態度といい、あなた様の善良さといい、皆手本にすべきものだと私は信じております」 |
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6.1.14 | など、ほめきこえたまへば、 |
などと、お誉め申し上げなさると、お笑いになって、 |
と継母をほめると、夫人は笑って、 |
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6.1.15 | 「そうした女性の例に出したりなさるので、我が身の体裁の悪い評判がはっきりしてしまいそうで。 |
「物の例にお引きになればなるほど、私が愛されていない妻であることが |
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6.1.16 | さて、をかしきことは、 |
ところで、おかしなことは、院が、ご自分の女癖を誰も知らないように、ちょっとした好色めいたお心遣いを、重大事とお思いになって、お諌め申し上げなさる。 陰口をも申し上げなさっているらしいのは、賢ぶっている人が、自分のことは知らないでいるように思われます」 |
それにしましてもおかしいことは、院は御自身の多情なお癖はお忘れになったように、少しの恋愛事件をお起こしになるとたいへんなことのようにお |
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6.1.17 | とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
こう花散里夫人が言った。 |
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6.1.18 | 「さように、 いつも女性の事では厳しくお仰せになります。しかし、恐れ多い教えを戴かなくて |
「そうですよ。始終品行のことで教訓を受けますよ。親の言葉がなくても私は |
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6.1.19 | とて、げにをかしと |
とおっしゃって、なるほどおかしいと思っていらっしゃった。 |
大将は非常におかしいと思うふうであった。 |
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6.1.20 | 御前に参上なさると、あの事件はお聞きあそばしていらしたが、どうして知っている顔をしていられようかとお思いになって、ただじっと顔を窺っていらっしゃると、 |
院のお居間へも来た大将を御覧になって、院は新事実を知っておいでになったが、知った顔を見せる必要はないとしておいでになって、ただ顔をながめておいでになるのであった。 |
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6.1.21 | 「いとめでたくきよらに、このころこそねびまさりたまへる さるさまの |
「実に素晴らしく美しくて、最近特に男盛りになったようだ。 そのような浮気事をなさっても、人が非難すべきご様子もなさっていない。 鬼神も罪を許すに違いなく、鮮やかでどことなく清らかで、若々しく今を盛りに生気溌剌としていらっしゃる。 |
それは非常に美しくて今が男の美の盛りのような夕霧であった。今問題になっているような恋愛事件をこの人が起こしても、だれも当然のことと認めてしまうに違いないと思召された。鬼神でも罪を許すであろうほどな鮮明な |
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6.1.22 | 何の分別もない若い人ではいらっしゃらず、どこからどこまですっかり成人なさっている、無理もないことだ。 女性として、どうして素晴らしいと思わないでいられようか。 鏡を見ても、どうして心奢らずにいられようか」 |
感情にまだ多少の欠陥のある青年者でもなく、どこも皆完全に発達したきれいな貴人であると院は御覧になって、問題の起こるのももっともである。女でいてこの人を愛せずにおられるはずもなく、鏡を見てみずから慢心をせぬわけもなかろう |
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6.1.23 | と、わが |
と、ご自分のお子ながらも、そうお思いになる。 |
とわが子ながらもお思いになる院でおありになった。 |
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第二段 雲居雁、嫉妬に荒れ狂う |
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6.2.1 | 日が高くなって、殿にお帰りになった。 お入りになるや、若君たちが、次々とかわいらしい姿で、纏わりついてお遊びになる。 女君は、御帳台の中に臥せっていらっしゃった。 |
昼近くなって大将は三条の家へ帰ったのであった。家へはいるともうすぐに何人もの同じほどの子供たちがそばへまつわりに来た。夫人は帳台の中に寝ていた。 |
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6.2.2 | お入りになったが、目もお合わせにならない。 ひどいと思っているのであろう、と御覧になるのもごもっともであるが、遠慮した素振りもお見せにならず、お召し物を引きのけなさると、 |
大将がそこへ行っても目も見合わせようとしない。恨めしいのであろう、もっともであると夕霧も知っているのであるが、気にとめぬふうをして夫人の顔の上にかかった夜着の端をのけると、 |
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6.2.3 | 「ここをどこと思っていらっしゃったのですか。 わたしはとっくに死にました。 いつも鬼とおっしゃるので、同じことならすっかりなってしまおうと思って」 |
「ここをどこと思っておいでになったのですか。私はもう死んでしまいましたよ。平生から私のことを鬼だとお言いになりますから、いっそほんとうの鬼になろうと思って」 |
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6.2.4 | とのたまふ。 |
とおっしゃる。 |
と夫人は言った。 |
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6.2.5 | 「お心は、鬼以上でいらっしゃるが、姿形は憎らしくもないので、すっかり嫌いになることはできないな」 |
「あなたの気持ちは鬼以上だけれど、あなたの顔はそうでないから私はきらいになれないだろう」 |
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6.2.6 | と、何くわぬ顔でおっしゃるのも、癪にさわって、 |
何一つやましいこともないようにこんな |
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6.2.7 | 「結構な姿形で優美に振る舞っていらっしゃるお方に、いつまでも連れ添っていられる身でもありませんので、どこへなりとも消え失せようと思うのを、このようにさえお思い出しますな。 いつのまにか過ごした年月さえ、惜しく思われるものを」 |
「美しい恋をする人たちの中に混じって生きていられない私ですから、どんな所でも行ってしまいます、もうあなたの念頭になぞ置かれたくない。長くいっしょにいたことすら後悔しているのですから」 |
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6.2.8 | と言って、起き上がりなさった様子は、たいそう愛嬌があって、つやつやとして赤くなった顔、実に美しい。 |
と言って、起き上がった夫人の |
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6.2.9 | 「このように子供っぽく腹を立てていらっしゃるからでしょうか、見慣れて、この鬼は、今では恐ろしくもなくなってしまったなあ。 神々しい感じを加わえたいものだ」 |
「子供らしく始終腹をたてる鬼だから、もう見なれて |
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6.2.10 | と、 |
と、冗談事におっしゃるが、 |
と良人が |
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6.2.11 | 「何を言うの。 あっさりと死んでおしまいなさい。 わたしも死にたい。 見ていると憎らしい。 聞くも気にくわない。 後に残して死ぬのは気になるし」 |
「何を言っているのですか。おとなしく死んでおしまいなさいよ。私も死にますよ。いろんなことを聞いているとますますあなたがいやになりますよ。置いて死ねばまたどんなことをなさるかと気がかりだから」 |
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6.2.12 | とおっしゃるが、とても愛らしさが増すばかりなので、心からにっこりして、 |
と腹をたてるのであるが、ますます愛嬌の出てくる夫人を夕霧は |
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6.2.13 | 「近くで御覧にならなくても、よそながらどうして噂をお聞きにならないわけには行きますまい。 そうして、夫婦の縁の深いことを分からせようとのおつもりのようですね。 急に続くような冥土への旅立ちは、そのようにお約束申したからね」 |
「近くで見るのがいやになっても、私の噂を無関心には聞かないでしょう。あなたはどんなに二人の宿縁の深いかを知らすために、私を殺して自分も死のうというのですね。二人の葬儀をいっしょにしてもらうというような約束は前にしてあったのだからね」 |
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6.2.14 | と、いとつれなく |
と、まこと素っ気なく言って、何やかやと宥めすかし申し慰めなさると、とても若々しく素直で、かわいらしいお心の持ち主でいらっしゃる方なので、口からの出まかせの言葉とはお思いになりながら、自然と和らいでいらっしゃるのを、とても愛しい人だとお思いになる一方で、心はうわの空で、 |
大将はまだ夫人の |
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6.2.15 | 「あの方も、とても我を張って、強く頑固な人の様子にはお見えではないが、もしやはり不本意なことと思って、尼などになっておしまいになったら、馬鹿らしくもあるな」 |
あちらも意志の強いばかりの女性とはお見えにならぬが、やはり自分との結婚を肯定することはできずに、尼にでもなっておしまいになれば、自分の不名誉である |
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6.2.16 | と思うと、暫くの間は絶え間なく通おうと、落ち着いていられない気がして、日が暮れて行くにつれて、「今日もお返事さえなかったな」とお思いになって、気にかかりながら、ひどく物思いに耽っていらっしゃる。 |
と思うと、当分は毎夜あちらに行っていねばならぬとあわただしい気がして、日の暮れていく空をながめても、まだ今日でさえお返事をくださらないではないかと |
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第三段 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す |
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6.3.1 | 昨日今日と全然お召し上がりにならなかった食事を、少々はお召し上がりになったりなどしていらっしゃる。 |
昨日から今日へかけて何一つ食べなかった夫人が夕食をとったりしていた。 |
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6.3.2 | 「昔から、あなたのために愛情が並大抵でなかった事情は、大臣がひどいお扱いをなさったために、世間から愚かな男だとの評判を受けたが、堪えがたいところを我慢して、あちらこちらが、進んで申し込まれた縁談を、たくさん聞き流して来た態度は、女性でさえそれほどの人はいるまいと、世間の人も皮肉った。 |
「昔から私はあなたのために、どれほどの苦労をしたことだろう。大臣が冷酷な処置をおとりになったから、失恋男とだれにも言われるのを我慢して、あちこちからある縁談を皆断わって、すべて棄権をしてしまっていたようなことは女だってそうはできないことだと皆言いましたよ。どうしてそんなにしていられただろうと、自分ながら若い時の自重心を認めないではいられないのですからね。 |
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6.3.3 | また、よし |
今思うにつけても、どうしてそうであったのかと、自分ながらも、昔でさえ重々しかったと反省されるが、今は、このようにお憎みになっても、お捨てになることのできない子供たちが、とても辺りせましと数増えたようなので、あなたのお気持ち一つで出てお行きになることはできません。 また、まあ見ていてくださいよ。 寿命とは分からないのがこの世の常です」 |
今のあなたは私をあくまで憎んでいても、愛すべき人たちが家の中いっぱいにいるのだから、あなた一人の問題ではなくなったような現在に、軽々しい挙動はできないではありませんか。よく見ていてください。どんなに変わらぬ愛を持っている私であるかを、長い将来に見てください。命だけではあなたとさえ引き離されることがあるでしょうがね」 |
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6.3.4 | と言って、お泣きになったりすることもある。 女も、往時を思い出しなさると、 |
こんな話になって大将は泣き出した。夫人も昔のことを思い出すと、 |
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6.3.5 | 「しみじみとも世に又となく仲睦まじかった二人の仲が、何と言っても前世の約束が深かったのだな」 |
あんなにもして周囲に打ち勝って育ててきた恋から夫婦になっている自分たちではないかと、さすがに宿縁の深さも |
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6.3.6 | と、 なよびたる |
と、お思い出しなさる。 柔らかくなったお召し物をお脱ぎになって、新調の素晴らしいのを重ねて香をたきしめなさり、立派に身繕いし化粧してお出かけになるのを、灯火の光で見送って、堪えがたく涙が込み上げて来るので、脱ぎ置きなさった単衣の袖を引き寄せなさって、 |
思われるのであった。畳み目の消えた衣服を |
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6.3.7 | 「長年連れ添って古びたこの身を恨んだりするよりも いっそ尼衣に着替えてしまおうかしら |
「 あまの衣にたちやかへまし |
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6.3.8 | やはり俗世の人のままでは、生きて行くことができないわ」 |
どうしてもこのままでは |
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6.3.9 | と、 |
と、独言としておっしゃるのを、立ち止まって、 |
と |
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6.3.10 | 「何とも嫌なお心ですね。 |
「ほんとうに困った心ですね。 |
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6.3.11 | いくら長年連れ添ったからといって、 わたしを見限って尼になったという噂が立ってよ |
松島のあまの 脱ぎ変へつてふ名を立ためやは」 |
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6.3.12 | 急いでいて、とても平凡な歌であるよ。 |
と言った。急いだからであろうが平凡な歌である。 |
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第四段 塗籠の落葉宮を口説く |
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6.4.1 | あちらには、やはり籠もっていらっしゃるのを、女房たちが、 |
一条ではまだ前夜のまま宮が |
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6.4.2 | 「こうしてばかりいらしてよいものでしょうか。 子供っぽく良くない噂も立つでございましょうから、いつものご座所に戻って、お考えのほどを申し上げなさいませ」 |
「こんなふうにいつまでもしておいでになりましては、若々しい、もののおわかりにならぬ方だという評判も立ちましょうから、平生のお座敷へお帰りになりまして、そちらでお心持ちを殿様の御了解なさいますようにお話しあそばせばよろしいではございませんか」 |
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6.4.3 | など、よろづに 「 |
などと、いろいろと申し上げたので、もっともなことだとお思いになりながら、今から以後の世間での噂も、自分のどのようなお気持ちで過ごして来たかも、気にくわなく、恨めしかった方のせいだとお考えになって、その夜もお会いなさらない。 「冗談ではなく、変わった方だ」と、言葉を尽くして恨みのたけを申し上げなさる。 女房もお気の毒だと拝す。 |
と言うのを、もっともなことに宮もお思いになるのであるが、世間でこれからの御自身がお受けになる |
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6.4.4 | 「『いささかも この |
「『わずかでも人心地のする時があろうときに、お忘れでなかったら、何なりとお返事申し上げましょう。 この御服喪期間中は、せめて他の事で頭を思い乱すことなく過ごしたい』と、深くお思いになりおっしゃっていますが、このようにまことに都合悪く、知らない人のなくなってしまったようなことを、やはりひどくお辛いことと申し上げておいでです」 |
「少しでも普通の人らしい気分が帰ってくる時まで、忘れずにいてくだすったならとおっしゃるのでございます。母君の喪中だけはほかのことをいっさい思わずに謹慎して暮らしたいという思召しが濃厚でおありあそばす一方では、知らぬ者がないほどにあなた様のことが世間へ知れましたのを残念がっておいでになるのでございます」 |
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6.4.5 | と |
と申し上げる。 |
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6.4.6 | 「愛する気持ちは、また普通の人とは違って安心ですのに。 思いも寄らない目に遭うものですね」と嘆息して、「普通のご気分でいらっしゃったら、物越しなどでも、自分の気持ちだけでも申し上げて、お心を傷つけるようなことはしません。 何年でもきっとお待ちしましょう」 |
「私の愛は と大将は歎息して、「普通にお居間のほうへおいでになれば、物越しで私の心持ちをお話しするだけにとどめて、それ以上のことはまだいつまでも待っていていいのです」 |
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6.4.7 | など、 |
などと、どこまでも申し上げなさるが、 |
同じようなことをまた取り次がせるのであったが、 |
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6.4.8 | 「やはり、このような喪中の心の乱れに加えて、無理をおっしゃるお心がひどく辛い。 他人が聞いて想像することも、すべていい加減なことで済まされないわが身の辛さは、それはそれとして措いても、格別に情けないお心づもりです」 |
「弱いものがこんなに悲しみに疲れております際に、しいていろいろなことをおっしゃるのが非常にお恨めしく思われるのでございます。人が見てどう私が思われることでしょう。その一部は私の不幸なせいでもあるでしょうが、あなた様がお一人ぎめをあそばしたからだとこれを思います」 |
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6.4.9 | と、重ねて拒否してお恨みになりながら、つき放してお相手していらっしゃった。 |
とまた御抗弁になった。 |
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第五段 夕霧、塗籠に入って行く |
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6.5.1 | 「そうかといって、こうしてばかりいられようか。 人が洩れ聞くことも当然だ」と、きまり悪く、こちらの人目も気にかかりなさるので、 |
まだ親しもうとあそばすふうはない。そうは言っても、いつまでも真の夫婦になりえないことは、人の口から世間へも伝わるであろうから恥ずかしいと、この女房たちに対してさえきまり悪く思う大将であった。 |
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6.5.2 | 「うちうちの また、かかりとて、ひき ひとへにものを |
「内々のお気づかいは、このおっしゃることに適っても、暫くの間はお気持ちに逆らわないでいよう。 夫婦らしからぬ様子が、とても嫌である。 また、こうだからといって、まったく参らなくなったら、あなたのご評判がどんなにかおいたわしいことでしょうか。 一方的にお考えになって、大人げないのが困ったことです」 |
「実際のことは宮様の御意志どおりの関係にとどめるにしても、この状態はあまりに変則だ。またそうであるからといって、私が断然来なくなったら、宮様はどういう世評をお取りになるだろう。あまりに人生を悲観なされ過ぎて、御幼稚な態度をお改めにならないのを私は宮様のために惜しむ」 |
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6.5.3 | など、この女房をお責めになるので、なるほどと思って、拝するのも今はお気の毒になって、恐れ多くも思われる様子なので、女房を出入りさせなさる塗籠の北の口から、お入れ申し上げてしまった。 |
などと大将が責めるのに道理があるように少将は思い、また夕霧の様子には気の毒で見ておられぬところがあって、女房たちが通って行く出入り口にしてある内蔵の北の戸から大将を入れた。 |
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6.5.4 | ひどく驚いて情けなくむごいと、伺候している女房も、なるほどこのような世間の人の心だから、これ以上ひどい目に遭わせるに違いないと、頼りにする人もいなくなってしまった我が身を、かえすがえす悲しくお思いになる。 |
ひどいことをする恨めしい人たちであると宮は女房をお思いになり、こうしてだれの心も利己的になるのであるから、これ以上のことを女房たちからされないものでもないとお考えになると、その人ら以外に頼む者のない今の御境遇をかえすがえす悲しくお思いになった。 |
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6.5.5 | 男は、いろいろと納得なさるような条理を尽くしてお説き申し上げ、言葉数多く、しみじみと気を引くようなことをどこまでも申し上げなさるが、辛く気にくわないとばかりお思いになっていた。 |
男は宮のお心の動かねばならぬようにして多くささやくのであるが、宮はただ恨めしくばかりお思いになって、この人に親しみを見いだそうとはあそばさない。 |
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6.5.6 | 「いと、かう、 いふかひなく |
「まったく、このように、何とも言いようもない者に思われなさった身のほどは、例のないくらい恥ずかしいので、あってはならない考えがつき始まったのも、迂闊にも悔しく思われますが、昔に戻ることのできない関係で、何の立派なご評判がございましょうか。 もう仕方のないこととお諦めください。 |
「こんなふうにあらん限りの |
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6.5.7 | 思い通りにならない時、淵に身を投げる例もございますそうですが、ただこのような愛情を深い淵だとお思いになって、飛び込んだ身だとお思いください」 |
ですからもう御自分はどうでもよいという徹底した弱い心におなりなさい。思うことのかなわない時に身を投げる人があるのですから、私のこの愛情を深い水とお思いになって、それへ身を捨てるとお思いになればよいと思います」 |
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6.5.8 | と |
と申し上げなさる。 単衣のお召し物をお髪ごと被って、できることといっては、声を上げてお泣きになる様子が、心底お気の毒なので、 |
と夕霧は言った。 |
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6.5.9 | 「まったく困ったことだ。 どうしてまったくこのようにまでお嫌いになるのだろう。 強情を張っている人でも、これほどになってしまえば、自然と弱くなる様子もあるのだが、石や木よりもほんとうに心を動かさないのは、前世の因縁が薄いために、恨むようなことがあるが、そのようにお思いなのだろうか」 |
なぜこうであろう、こんなにまで自分をお愛しになることが不可能なのであろうか、どんなに許しがたく思う人といっても、これほどの志を見ていては自然に心のゆるんでくるものであるが、岩や木以上に無情なふうをお見せになるのは、前生の約束がそうであるためで、自分に |
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6.5.10 | と |
と思い当たると、あまりひどいので情けなくなって、三条の君がお悲しみであろうことや、昔も何の疑いもなく、お互いに愛情を交わし合った当時のこと、長年にわたり、もう安心と信頼し、打ち解けていらっしゃった様子を思い出すにつけても、自分のせいで、まことにつまらなく思い続けられずにはいられないので、無理にもお慰め申し上げなさらず、嘆息しながら夜をお明かしになった。 |
こんなことを思った時から大将はあまりなお扱いに憤りに似た気持ちが起こって、三条の夫人が今ごろどう思っているかと考えだすと、単純な幼心に思い合った昔のこと、近年になって望みがかない、 |
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第六段 夕霧と落葉宮、遂に契りを結ぶ |
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6.6.1 | かうのみ かくさへひたぶるなるを、あさましと |
こうしてばかり馬鹿らしく出入りするのもみっともないので、今日は泊まって、ゆっくりとしていらっしゃる。 こんなにまで一途なのを、あきれたことと宮はお思いになって、ますます疎んずる態度が増してくるのを、愚かしい意地の張りようだと、思う一方で、情けなくもおいたわしい。 |
こんなみじめなことで来たり出て行ったりすることもきまり悪くこの人は思って、今日はこちらにとどまっていることにして落ち着いているのにも、宮は反感がお持たれになって、いよいようといふうをお見せになることが増してくるのを、幼稚なお心の方であると、恨めしく思いながらも哀れに感じていた。 |
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6.6.2 | うちは |
塗籠も、格別こまごまとした物も多くはなくて、香の御唐櫃や、御厨子などばかりがあるのは、あちらこちらに片づけて、親しみの持てる感じに設えていらっしゃるのだった。 内側は暗い感じがするが、朝日がさし昇った感じが漏れて来たので、被っていた単衣をひき払って、とてもひどく乱れていたお髪、かき上げたりなどして、わずかに拝見なさる。 |
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6.6.3 | まことに気品高く女性的で、優美な感じでいらっしゃった。 夫君のご様子は、凛々しくしていらっしゃる時よりも、くつろいでいらっしゃる時は、限りなく美しい感じである。 |
上品で、あくまで女らしく |
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6.6.4 | 「 |
「亡き夫君が特別すぐれた容貌というわけでなかったが、その彼でさえ、すっかり気位高く持って、ご器量がお美しくないと、何かの折に思っていたらしい様子をお思い出しになると、それ以上に、このようにひどく衰えた様子を、少しの間でも我慢できようか」と思うのも、ひどく恥ずかしく、あれやこれやと思案しながら、自分のお気持ちを納得させなさる。 |
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6.6.5 | ただ外聞が悪く、こちらでもあちらでも、人がお聞きになってどうお思いなさろうかの罪は避けられないうえ、喪中でさえあるのがとても情けないので、気持ちの慰めようがないのであった。 |
ただ複雑な関係になって、あちらへもこちらへも済まぬわけになることを苦しくお思いになるのと、おりが母君の喪中であることによってこうした冷ややかな態度をおとり続けになるのである。 |
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6.6.6 | 御手水や、お粥などを、いつものご座所の方で差し上げる。 色の変わった御調度類も、縁起でもないようなので、東面には屏風を立てて、母屋との境に香染の御几帳など、大げさに見えない物、沈の二階棚などのような物を立てて、気を配って飾ってある。 大和守のしたことであったのだ。 |
大将の |
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6.6.7 | 女房たちも、派手でない色の、山吹襲、掻練襲、濃い紫の衣、青鈍色などを着替えさせ、薄紫色の裳、青朽葉などを、何かと目立たないようにして、お食膳を差し上げる。 女主人の生活で、諸事しまりなくいろいろ習慣になっていた宮邸の中で、有様に気を配って、わずかの下人たちにも声をかけてきちんとさせ、この大和守一人だけで取り仕切っている。 |
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6.6.8 | このように思いがけない高貴な来客がいらっしゃったと聞いて、もとから怠けていた家司なども、急に参上して、政所などという所に控えて仕事をするのだった。 |
こうして思いがけず勢力のある宮の |
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第七章 雲居雁の物語 夕霧の妻たちの物語 |
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第一段 雲居雁、実家へ帰る |
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7.1.1 | このように無理して馴染んだ顔をしていらっしゃるので、三条殿は、 |
実質はともかくも、この家の主人らしい生活を大将が一条で始めている数日間を、三条の夫人はもう捨てられ果てたもののように見て、 |
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7.1.2 | 「これが最後のようだと、まさかそんなことはあるまいと、一方では信頼していたが、実直な人が浮気したら跡形もなくなると聞いていたことは、本当のことであった」 |
これほど愛をことごとく新しい人に移すこともしないであろうと信頼していたのは自分の誤解であった、忠実であった良人がほかに恋人のできた時は、愛の |
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7.1.3 | と、 |
と、夫婦の仲を見届けてしまった感じがして、「どうにしてこの侮辱を味わっていようか」とお思いになったので、大殿邸へ、方違えしようと思って、お移りになったところ、弘徽殿の女御が里にいらっしゃる時でもあり、お会いなさって、少し悩みが晴れることとお思いになって、いつものように急いでお帰りにならない。 |
と人の言うのは |
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7.1.4 | 大将殿もお聞きになって、 |
これはすぐに左大将へも聞こえて行った。 |
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7.1.5 | 「さればよ。 いと この |
「やはりそうであったか。 まことせかっちでいらっしゃる性格だ。 この大殿の方も、また、年輩者らしくゆったりと落ち着いているところが、何といってもなく、実に性急で派手でいらっしゃる方々だから、気にくわない、見るものか、聞くものかなどと、不都合なことをおっしゃり出すかも知れない」 |
そんなことがあるようにも予感されたことである、はげしい性質の人であるからと大将は思った。大臣もまたりっぱな人物でありながら |
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7.1.6 | と、 |
と、驚きなさって、三条殿にお帰りになると、子供たちも、半ばは残っていらっしゃって、姫君たちと、それからとても幼い子は連れていらっしゃっていたのだが、見つけて喜んで纏わりつき、ある者は母上を恋い慕い申して、悲しんで泣いていらっしゃるのを、かわいそうにとお思いになる。 |
と驚いて、三条へ帰って見ると、子供は半分ほどあとに残されているのであった。姫君たちと幼少な子だけを夫人はつれて行ったのである。父を見つけて喜んでまつわりに来る子もあれば、母を恋しがって泣く子もあるのを、大将は心苦しく思った。 |
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7.1.7 | 手紙を頻繁に差し上げて、お迎えに参上なさるが、お返事すらない。 このように頑固で軽率な夫婦仲だと、嫌に思われなさるが、大殿が見たり聞いたりなさる手前もあるので、日が暮れてから、自分自身で参上なさった。 |
手紙をたびたびやって迎えの車を出すが、夫人からは返事もして来なかった。こうして妻に意地を張られるようなことは、自分らの貴族の間にはないことであるがと、うとましく思いながらも、大臣へ対しての義理を思って、日の暮れるのを待って自身で夕霧は迎えに行った。 |
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第二段 夕霧、雲居雁の実家へ行く |
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7.2.1 | 寝殿にいらっしゃると聞いて、いつもお帰りの時に使う部屋は、年配の女房たちだけが控えている。 若君たちは、乳母と一緒にいらっしゃった。 |
「寝殿にいらっしゃいます」ということで、平生行って使っている座敷のほうには女房だけがいた。男の子供たちだけは |
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7.2.2 | 「 かかる など ふさはしからぬ はかなき |
「今になって若々しいお付き合いをなさることだ。 このような子を、あちらやこちらにほって置きなさって。 どうして寝殿でお話に熱中なさっているのですか。 不似合いなご性格とは、長年見知っていたが、前世からの宿縁だろうか、昔から忘れられない人とお思い申し上げて、今ではこのように、手のかかった子供たちも大勢かわいくなっているのを、お互いに見捨ててよいものかと、お頼み申しているのです。 ちょっとしたことで、こんなふうになさってよいものでしょうか」 |
今さら若々しい態度をとるあなたではありませんか。かわいい人たちをあちらこちらへ置きはなしにして、自身は寝殿でお姫様に帰った気でいられるあなたの気持ちは解釈に苦しむ。私への愛情がそんなふうに少ないとは私にもわかっているのですが、昔からあなたにばかり |
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7.2.3 | と、いみじうあはめ |
と、ひどく非難しお恨み申し上げなさると、 |
取り次ぎによって夕霧はこう妻を責めた。 |
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7.2.4 | 「何もかも、もう飽き飽きしたと見限られてしまった身ですので、今さらまた、直るものでないのを、どうして直そうかと思いまして。 見苦しい子供たちは、お忘れにならなければ、嬉しく思いましょう」 |
「もうすべてのことがお気に入らないものになってしまったのですから、お困りになる私の性質は今さら直す必要もないと思います。かわいそうな子供たちだけを愛してくださればうれしく思います」 |
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7.2.5 | と |
とお答え申し上げなさった。 |
と夫人は返事をさせた。 |
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7.2.6 | 「穏やかなお返事ですね。 言い続けていったら、誰が悪く言われるでしょう」 |
「おとなしい御 |
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7.2.7 | とて、しひて |
と言って、無理にお帰りになりなさいとも言わずに、その夜は独りでお寝みになった。 |
と言って、しいて夫人の出て来ることも求めずに、この晩は一人で寝ることにした。 |
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7.2.8 | 「あやしう |
「変に中途半端なこのごろだ」と思いながら、子供たちを前にお寝せになって、あちらではまた、どんなにお悩みになっていらっしゃるだろう様子を、ご想像申し上げ、気の安まらない心地なので、「どのような人が、このようなことを興味もつのだろう」などと、懲り懲りした感じがなさる。 |
どちらつかずの境遇になったと思いながら、子供たちをそばへ寝させて大将は |
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7.2.9 | 夜が明けたので、 |
夜が明けた時に、 |
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7.2.10 | 「 かしこなる |
「誰が見聞きしても大人げないことですから、もう最後だとおっしゃるならば、そのようにしましょう。 あちらにいる子供たちも、かわいらしそうに恋い慕い申しているようでしたが、選び残されたのには、何かわけがあるのかと思いながら、放っておくことができませんから、どうなりともいたしましょう」 |
「こんなことを若夫婦のように言い合っているのも恥ずかしいことですから、だめならだめとあきらめますが、もう一度だけもとどおりになってほしいという私の希望をいれたらどうですか。三条にいる小さい人たちもかわいそうな顔をして母を恋しがっていましたが、 |
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7.2.11 | と、脅し申し上げなさると、いかにもきっぱりしたご性格なので、この子供たちまで、知らない所へお連れなさるのだろうか、と心配になる。 姫君を、 |
とまた多少 |
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7.2.12 | 「さあ、いらっしゃい。 お目にかかるために、このように参上するのも体裁が悪いので、いつも参上できません。 あちらにも子供たちがかわいいので、せめて同じ所でお世話申そう」 |
「姫君を本邸のほうへ帰してください。顔を見に来ることもこうしたきまりの悪い思いを始終しなければならないことですから、たびたびはようしません。あちらに残っている子供たちも寂しくてかわいそうですから、せめていっしょに置いてやりたいと思います」 |
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7.2.13 | と まだいといはけなく、をかしげにておはす、いとあはれと |
と申し上げなさる。 まだとても小さく、かわいらしくいらっしゃるのを、しみじみといとしいと拝見なさって、 |
とまた大将は言ってよこした。そうしてから小さくてきれいな顔をした姫君たちが父のいる座敷へつれられて来た。夕霧はかわいく思って女の子たちを見た。 |
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7.2.14 | 「母君のお言葉にお従いになってはなりませんよ。 とても情けなく、物事の分別がつかないのは、とても良くないことです」 |
「お母様の言うとおりになってはいけませんよ。ものの判断のできない女になっては悪いからね」 |
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7.2.15 | と、 |
と、お教え申し上げなさる。 |
などと教えていた。 |
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第三段 蔵人少将、落葉宮邸へ使者 |
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7.3.1 | 大殿は、このようなことをお聞きになって、物笑いになることとお嘆きになる。 |
大臣は娘と婿のこの事件を聞いて外聞を悪がっていた。 |
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7.3.2 | 「しばしは、さても おのづから よし、かく おのづから |
「もう少しの間、そのまま様子を見ていらっしゃらないで。 自然と反省するところも生じてこようものを。 女がこのように性急であるのも、かえって軽く思われるものだ。 仕方ない、このように言い出したからには、どうして間抜け顔をして、おめおめとお帰りになれよう。 自然と相手の様子や考えが分かるだろう」 |
「しばらく静観をしているべきだった。大将にも考えがあってしていたことだろうからね。婦人が反抗的に家を出て来るようなことは軽率なことに見られて、かえって人の同情を失ってしまう。しかしもうそうした態度を取りかけた以上は、すぐに負けて出てはならない。そのうちに先方の誠意のありなしもわかることだから」 |
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7.3.3 | と仰せになって、この一条宮邸に、蔵人少将の君をお使いとして差し向けなさる。 |
と娘に言って、一条の宮へ |
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7.3.4 | 「前世からの因縁があってか、 あなたのことをお気の |
哀れと思ひ恨めしと聞く |
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7.3.5 | やはり、お忘れにはなれないでしょう」 |
無関心にはなれません因縁があるのでございますね。 |
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7.3.6 | とあるお手紙を、少将が持っていらっしゃって、ただずんずんとお入りになる。 |
この手紙を持って、少将はずんずん宮家へはいって来た。 |
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7.3.7 | 南面の簀子に円座をさし出したが、女房たちは、応対申し上げにくい。 宮は、それ以上に困ったことだとお思いになる。 |
南の縁側に敷き物を出したが、女房たちは応接に出るのを気づらく思った。まして宮はわびしい気持ちになっておいでになった。 |
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7.3.8 | この君は、兄弟の中でとても器量がよく、難のない態度で、ゆったりと見渡して、昔を思い出している様子である。 |
この人は兄弟の中で最も |
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7.3.9 | 「参上し馴れた気がして、久しぶりの感じもしませんが、そのようにはお認めいただけないでしょうか」 |
「始終伺っている所のような気になって私はいるのですが、そちらでは親しい者とお認めくださらないかもしれませんね」 |
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7.3.10 | などばかりぞかすめたまふ。 |
などとだけそれとなくおっしゃる。 お返事はとても申し上げにくくて、 |
などと皮肉を少し言う。大臣への返事をしにくく宮は思召して、 |
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7.3.11 | 「わたしはとても書くことできない」 |
「私にはどうしても書かれない」 |
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7.3.12 | とのたまへば、 |
とおっしゃるので、 |
こうお言いになると、 |
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7.3.13 | 「お気持ちも通じず子供っぽいように思われます。 代筆のお返事は、差し上げるべきではありません」 |
「お返事をなさいませんと、あちらでは礼儀のないようにお思いになるでございましょうし、私どもが代わって御 |
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7.3.14 | と、 |
と寄ってたかって申し上げるので、何より先涙がこぼれて、 |
女房たちが集まって、なおもお書きになることをお促しすると、宮はまずお泣きになって、 |
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7.3.15 | 「亡くなった母上が生きていらっしゃったら、どんなに気にくわない、とお思いになりながらも、罪を庇ってくれたであろうに」 |
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7.3.16 | と |
とお思い出しなさると、涙ばかりが辛さに先走る気がして、お書きになれない。 |
と母君の大きな愛を思い出しながら、お書きになる紙の上には、墨よりも涙のほうが多く伝わって来てお字が続かない。 |
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7.3.17 | 「どういうわけで、 世の中で人数にも入らないわたしのような身を辛 |
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7.3.18 | とだけ、お心にうかんだままに、終わりまで書かなかったような書きぶりで、ざっと包んでお出しになった。 少将は、女房と話して、 |
と実感のままお書きになり、それだけにして包んでお出しになった。少将は女房たちとしばらく話をしていたが、 |
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7.3.19 | 「時々お伺いしますのに、このような御簾の前では、頼りない気がいたしますが、今からは御縁のある気がして、常に参上しましょう。 御簾の中にもお許しいただけそうな、長年の忠勤の結果が現れましたような気がいたします」 |
「時々伺っている私が、こうした |
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7.3.20 | など、けしきばみおきて |
などと、思わせぶりな態度を見せてお帰りになった。 |
などという言葉を残して蔵人少将は帰った。 |
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第四段 藤典侍、雲居雁を慰める |
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7.4.1 | ますますおもしろからぬご気分に、気もそぞろにうろうろなさっているうちに、大殿邸にいる女君は、何日も経るうちに、お悲しみ嘆くことしばしばである。 藤典侍は、このようなことを聞くと、 |
こんなことから宮の御感情はまたまた硬化していくのに対して、夕霧が |
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7.4.2 | 「わたしを長年ずっと許さないとおっしゃっていたと聞いているが、このように馬鹿にできない相手が現れたこと」 |
自分を許しがたい存在として |
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7.4.3 | と思って、手紙などは時々差し上げていたので、お見舞い申し上げた。 |
と思って、手紙などは時々送っているのであったから、見舞いを書いて出した。 |
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7.4.4 | 「わたしが人数にも入る女でしたら夫婦仲の悲しみを思い知られましょうが あなたのために涙で袖をぬらしております」 |
数ならば身に知られまし世の 人のためにも |
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7.4.5 | 何となく出過ぎた手紙だとは御覧になったが、何となくしみじみと物思いに沈んでいる時の所在なさに、「あの人もとても平気ではいられまい」とお思いになる気にも、幾分おなりになった。 |
失敬なというような気も夫人はするのであったが、物の身にしむころで、しかも退屈な中にいてはこれにも哀れは覚えないでもなかった。 |
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7.4.6 | 「他人の夫婦仲の辛さをかわいそうにと思って見てきたが わが身のこととまでは思いませんでした」 |
人の世の憂きを哀れと見しかども 身に代へんとは思はざりしを |
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7.4.7 | とだけあるのを、お思いになったままだと、しみじみと見る。 |
とだけ書かれた返事に、典侍はそのとおりに思うことであろうと同情した。 |
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7.4.8 | あの、昔、二人のお仲が遠ざけられていた期間は、この典侍だけを、密かにお目をかけていらっしゃったのだが、事情が変わってから後は、とてもたまさかに、冷たくおなりになるばかりであったが、そうは言っても、子供たちは大勢になったのであった。 |
夫人と結婚のできた以前の青春時代には、この典侍だけを隠れた愛人にして慰められていた大将であったが、夫人を得てからは来ることもたまさかになってしまった。さすがに子供の数だけはふえていった。 |
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7.4.9 | この すべて |
こちらがお生みになったのは、太郎君、三郎君、五郎君、六郎君、中の君、四の君、五の君といらっしゃる。 藤典侍は、大君、三の君、六の君、二郎君、四郎君といらっしゃった。 全部で十二人の中で、出来の悪い子供はなく、とてもかわいらしく、それぞれに大きくおなりになっていた。 |
夫人の生んだのは、長男、三男、四男、六男と、長女、二女、四女、五女で、典侍は三女、六女、二男、五男を持っていた。大将の子は皆で十二人であるが、皆よい子で、それぞれの特色を持って成長していった。 |
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7.4.10 | 藤典侍のお生みになった子供は、特に器量がよく、才気が見えて、みな立派であった。 三の君と、二郎君は、六条院の東の御殿で、特別に引き取ってお世話申していらっしゃる。 院も日頃御覧になって、とてもかわいがっていらっしゃる。 |
典侍の生んだ男の子は顔もよく、才もあって皆すぐれていた。三女と二男は六条院の |
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7.4.11 | このお二方の話は、いろいろとあって語り尽くせない、とのことである。 |
それはまったく理想的にいっているわけである。 |
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